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1 :2017/12/07 〜 最終レス :2017/12/08
【アフィサイトへの転載・誘導禁止】

富士山は、夏の暑さと冬の寒さを一日で体感する過酷な環境です。
>>2〜のテンプレを参考に「余力を残して登頂・余裕を持って下山」でご安全に。


■ ご覧の皆様へ
登山キャンプ板にはブログ宣伝荒らしや業者が常駐しています。
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1500267844/1
「wi1d28jp」(栗城ハンター)などの悪質スパムは踏まずにNG登録を。
踏んでしまった人は関連cookieを削除し、ネットショッピングは別ブラウザから。

■普段からアフィ対策を!
ブラウザにadblockやuBlock導入+国内フィルタ全部載せが推奨です。
スマホは広告ブロッカーも多いのでお好みのものを(フィルタ追加できるものが効果的)。
勝手な広告やスパイウェアをブロックして安全で快適なネットライフを♪
スマホ通信量の節約、時短にもなります。


※前スレ
127m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1502426392/
128m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1504257381/
129m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1505654412/
130m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1505746304/
131m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1506049117/
132m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1511685239/
133m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1512444556/
134m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1512518697/

2 :
 
開山期間は山梨県側で7/1〜9/10。静岡県側で7/10〜9/10です。
初心者が登れるのは山小屋が営業する期間に限られます。
  
初冠雪(積雪)は例年10月初旬ですが、9月でも降雪の可能性があります。
10月以降、風雪と強風に磨かれカチカチに凍った急斜面は氷の滑り台のようになります。
毎年のように滑落事故があります、十分なご注意を。
 

3 :
 
高度が100m上がるごとに気温は0.6℃下がり、風速1m/sごとに体感温度は1℃下がります。
富士山では台風並みの強風が吹くこともあり、夜明け前の山頂は真冬のような寒さに、体感温度は氷点下になります。
冷えた体を温めるために多くのエネルギーが消耗され、真夏でも低体温症や疲労凍死のリスクがあります。
万全の準備で臨みましょう。  
 

4 :
 
2ちゃんねるの書き込みは、釣りや冗談、初心者以下の知識で語る人や受け売りも多いので気をつけましょう。
また、各種業者のステマやアフィリエイト目的のブログ誘導などにも注意、まずは対策から>>1。  
「自分はこれで大丈夫だった」「他の人もこうしてる」という話は鵜呑みにせず、信頼できる情報源から総合して慎重に判断しましょう。
 

5 :
 
■リンク
(公共性の高いものを抜粋。不適切サイト、推奨サイトお知らせください)

・富士登山オフィシャルサイト
ttp://www.fujisan-climb.jp/
・静岡県「世界遺産 富士山とことんガイド」
ttp://www.fujisan223.com
・環境省「富士箱根伊豆国立公園」
ttp://www.env.go.jp/park/fujihakone/data/index.html
・富士山ガイド.com(富士吉田市)
ttp://www.fujisanguide.com/forms/top/top.aspx
・富士宮市「富士山」
ttp://www.city.fujinomiya.lg.jp/fujisan/index.html
・御殿場市「富士登山」
ttp://www.fujisan-climb.jp/hospitality/resource/link.html
・小山町「富士山」
ttp://www.fuji-oyama.jp/kankoubunka_mtfuji.html
・山梨県警察「富士登山情報」
ttp://www.pref.yamanashi.jp/police/p_tiiki/sangaku/fujitozan.html
・静岡県警察「夏の富士登山情報」
ttp://www.pref.shizuoka.jp/police/kurashi/sangaku/fujitozan/index.html
・富士山五合目観光協会
ttp://www.fujiyama5.jp
・フジヤマNAVI 
ttp://www.fujiyama-navi.jp/fujitozan/
 

6 :
 
■富士山の天気
 
・気象庁HP
ttp://www.jma.go.jp/jp/yoho/
・富士山の天気 - 日本気象協会 tenki.jp
ttp://www.tenki.jp/mountain/famous100/5/25/150.html
・snow-forecast.com
ttp://www.snow-forecast.com/resorts/Mount-Fuji/6day/top
・富士山山頂の天気 - てんきとくらす
ttp://tenkura.n-kishou.co.jp/tk/kanko/kad.html?code=19150004&;amp;amp;amp;amp;;;type=15&;amp;amp;amp;amp;ba=kk
 

7 :
 
■気象について

雨の日に登っても楽しくありません。天気が悪ければ延期する決断を。予報が晴れでも、夏は局地的な夕立や雷雨があります。
雨具や荷物の防水も忘れずに。降水確率と雨量は無関係です。確率が低くても大雨ということも。 
風の強さも確認を。天気概況で「大気の状態が不安定」「急変する恐れ」「雷を伴い」と予報されていたら、登山は中止してください。
冷たい風が吹き降ろしてきたら夕立の合図です。降り出す前に雨具を着用しましょう。
 

8 :
 
■装備 ◎必須○有効△状況しだい×余計な荷物
 
◎ザック....防寒着が嵩張るので、30〜35gが適当
○ザックカバー.雨のとき被せる防水カバー。砂埃除けにも
○スタッフバッグ ..小物をまとめ、パッキングが楽に。電子機器、着替えなどは防水袋へ
◎登山靴....防水のミドルカットが最適。ハイカットは必要ないが、スニーカーはNG
◎雨具.....予報にかかわらず必要。ポンチョ、100円雨合羽はNG。傘は不可。強風で雨が下から
吹き上げるので、上下セパレートタイプが必須。強風時はウィンドブレーカーとして使える
◎ヘッドランプ.日帰りでも下山遅れに備えて必ず必要。予備の電池も忘れずに

◎帽子.....風に飛ばされない対策を。ご来光待ち用にニット帽も
◎サングラス..目も日焼けする。安物はレンズに歪みがあるのでNG
◎手袋.....軍手と防水の手袋を別々に。転倒時に怪我をしないように、下りでは必ず着用
◎防寒着....夜明け前は真冬並みの寒さ。ダウンなど、脱ぎ着しやすいものを
◎長ズボン...伸縮性の物が良い。ジーンズは濡れると動き難くNG。半ズボン、短パンは、風が吹くと寒い
◎化繊の下着..必ず100%のものを。綿は濡れると乾きにくく、体温を奪う
◎中厚手の靴下.長時間歩行のクッションとして。柔らか過ぎず、網目が密でしっかりしたものを

◎日焼け止め..汗で落ちたら塗り直し、首筋、耳も忘れず
◎登山地図...下山時に道を間違う人が多い
◎飲み物....2〜3gが目安だが個人差がある。怪我や目に入った砂埃を洗う真水も必要
◎救急セット..下痢止め、バンドエイド(靴擦れ対策にも)、テーピングテープ、保険証のコピーなど
◎その他....飴や干し梅など行動食を定期的に摂ろう。タオルや日本手ぬぐい。ゴミ袋

×保冷水筒...重く嵩張るのでペットボトルが良い
○保温水筒...ご来光待ち用に。山小屋でお湯を売っていれば出発時に補給
△スパッツ...砂や小石が靴に入るのを防ぐ
○ストック、金剛杖.腕の力を活かし、足(特に下りの膝)の負担軽減に有効
△その他....マスク(下山時の砂埃対策)、ウェットティッシュ、カイロ
△頭痛薬....高山病の頭痛も和らげるが、症状を隠すので却って危険という意見も
×酸素缶....吸っている間しか効果ない
 

9 :
 
■登山の注意点

余計な荷物は体力を消耗するので無駄は省きましょう。
といって必要以上の軽装も本末転倒です。必要品は省かず、背負える体力をつけてから登りましょう。

登り始めは靴一足分の歩幅で、ゆっくりと登りましょう。追い抜かれても慌てずに。
オーバーペースではバテます。また高所は乾燥していますから、水分は少量をこまめに。

グループで登る方は、途中はぐれないように2人以上で組んで行動しましょう。
登山中は最も遅い人のペースに合わせ、また子供には単独行動をさせないようにしましょう。
初心者は列の中央、経験者が前後で目を配りましょう。

全員が地図のコピーを持ち、どのルートで登って来たかを覚えておきましょう。
はぐれた場合の待合せ場所、下山の分岐点についても事前に確認し共有しておきます。

万一の体調不良、ケガの時は全員での下山が原則です。
体調不良は高度障害の可能性もあり、休憩や小屋待機よりもすぐに下山した方が良いケースも。
分かれて登山を続行する場合でも傷病者には必ず誰か付き添い、下山をサポートしましょう。
スケジュールが決められたツアーでは自分のペースで登れず、無理をすると高山病にかかる場合もあります。

トイレは有料のため、100円玉を用意しておきましょう。順番待ちも多いので出来るときにお早めに。

下山時は重心を軽く前へ、歩幅は小さく一足分。滑りやすいところでは足を逆八の字に開きます。
富士宮ルートの平らな岩場では岩の角に靴底の溝を掛けると滑りません。  
爪先で踏ん張らず、力を抜いて足裏全体で接地するか、親指の付け根を意識します。
 

10 :
 
■高山病の予防と対策
 
高山病は体質に起因すると言われ、年齢や性別、体力やスポーツ経験もあまり関係ないようです。
自己の体力を過信せず、登り始めはゆっくりと時間を掛け、身体を慣らしながら登りましょう。

息を吸う事よりも吐く事を特に意識してください。有圧呼吸法も有効とされています。
大きく息を吸い込み、2秒ほど息を止めるとともに、胸に圧力をかけるように力を入れた後、口先を
すぼめてゆっくり吐き出す。これを5〜6回繰り返すと、血中の酸素濃度が上がり、楽になります。

水分を定期的に摂ることも大切です。行程の時間から逆算して必要量を算出し、計画的に摂取し
ましょう。1時間あたり、体重kg×5mlを4回ぐらいに分けて飲むのが良いそうです。(間隔や量は各自
調整してください)

・Yutaka Miura's home page:私の高山病の治療方針
ttp://www.med.nagoya-cu.ac.jp/igakf.dir/chyo_AMS.html

睡眠中は呼吸が浅くなるため、高山病になりやすいです。なるべく低い標高の山小屋を選択し、着い
てからすぐ横にならずに、しばらく身体を動かして高度に慣らしましょう。催眠成分を含有する頭痛薬
なども呼吸を浅くするため、高山病を誘発しやすいようです。

高山病になったら悪化する前に下山させるのが一番の解決策です。無理に動かしたり、引っ張って
登らせてはいけません。重篤な場合には、診療所・救護所へ助けを求めましょう。

初期症状は、頭痛、息切れ、むくみ、不眠症、食欲不振、脱力感、吐き気など。さらに、激しい頭痛、
嘔吐、空咳、 意識障害(支離滅裂なことを言う、問いかけに無反応など)になると、とても危険な状態
です。登山は諦めて付き添いの人と共にすぐに下山してください。高山病は最悪の場合死に至ります。
 

11 :
 
■ご覧の皆様へ

現在、前スレでは埋め立て荒らしが再発しています。
>>1の注意喚起とadblock周知を妨害しようとする者でしょうか。

ここが同様に荒らされた場合、さらに新スレを立て対処していきます。


・荒らしの状況
128m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1504257381/639-n
129m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1505654412/
130m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1505746304/
131m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1506049117/126-n
132m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1511685239/130-n
133m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1512444556/
134m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1512518697/

・異常者による荒らし予告
SN7P4m6n
http://hissi.org/read.php/out/20170917/U043UDRtNm4.html
YmBsHqVJ
http://hissi.org/read.php/out/20170918/WW1Cc0hxVko.html

・連投荒らしの抽出(冒頭にアフィスレへ誘導しています)
55THIflI
http://hissi.org/read.php/out/20170917/NTVUSElmbEk.html
 

12 :
 
ちなみに異常者はIP表示スレは荒らせないようです。
 
こちら。
 ↓
/ ´,_ゝ`\初心者のための富士山登山入門131m
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1505904686/
 

13 :
ヘリ救助者落下、遺族敗訴 富士山で静岡市の対処巡り 京都地裁
http://www.at-s.com/news/article/social/shizuoka/434475.html
 
2013年12月に富士山で起きた滑落事故で、静岡市消防航空隊のヘリコプターによる救助作業中に落下し翌日死亡が確認された京都市の男性=当時(55)=の遺族が、
静岡市を相手取り9170万円の損害賠償を求めた訴訟の判決で、京都地裁(三木昌之裁判長)は7日、原告の請求を棄却した。

14 :
提訴は15年12月。判決によると、男性は計4人のグループで富士山御殿場口登山道を下山中、標高約3500メートル付近で滑落。静岡市消防ヘリは当時静岡県防災ヘリが点検中だったため、応援協定に基づき県からの要請を受けて急きょ出動した。

15 :
しかし、市消防ヘリの救助作業中に「DSV(デラックスサバイバースリング)」と呼ばれる救助器具が外れ、男性は地上約3メートルの高さから落下。
再度救助を試みたが、気流が安定せずに断念した。
男性は翌日、県警ヘリに収容された。

16 :
救助作業中の事故を受け、静岡市は14年11月、標高3200メートルを超える地点では、ヘリを使った救助作業を行わないことを決めた。

17 :
訴訟の主な争点の一つは、救助の際にDSVの股下シートを使用しなかったことが適切だったかどうかだった。
今年7月には、作業に当たった隊員2人が出廷、事故当時の様子を証言し、「未経験の高度3500メートルでの作業で、ベストを尽くした」と証言した。

18 :
無駄な努力をご苦労さんw

じゃあ、おまえが埋めろと言っていたからここも埋めるねw

19 :
発見し、浅間明神を祀った。1673年には富士講道者によって
現船津胎内樹型が発見され、浅間明神が遷宮された。富士登拝の
際に、樹型に入って身を清める風習があり、洞穴内外の地形空間
に宗教的な意義付けが行われるとともに、奥には富士講にとって
の富士山の祭神である木花開耶姫などが祀られている。法的保護
、修理・整備の経緯1929年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下
に天然紀念物に指定された。B13.吉田胎内樹型説明1892
年に富士道者によって整備された「お胎内」である。富士講講徒
は、昼までに御師の家に着き、夕方まで胎内巡りをし、翌朝富士
山に登山した。本穴については、古くから冨士山北口御師団が管
理している。法的保護、修理・整備の経緯1929年に史蹟名勝
天然紀念物保存法の下に天然紀念物に指定された。B14.人穴
富士講遺跡説明富士講の開祖長谷川(藤原)角行が修行したとさ
れる溶岩洞窟の人穴と富士講信者による約230基の碑塔群が残
る遺跡である。「吾妻鏡」では人穴探検の様子が描かれ、「浅間
大菩薩の御在所」とみられていたとされている。この内容は遅く
とも1603年までに、浅間大菩薩の霊験譚として説話化され、
その存在が広く知られていた。富士講関連の文書によれば人穴は
16世紀から17世紀にかけ、長谷川角行が修行により浅間大菩
薩(富士講では仙元大日神とする)の啓示を得た場であり、入滅
した場だとしている。また、角行は人穴を「浄土(浄土門)」と
述べ、これらの結果人穴には熱心な富士講信者が参詣し、修行を
行う者も見られた。また、信者は人穴への分骨埋葬などを望み、
墓碑、供養碑、記念碑などを建立した。1942年付近が軍用地
となり、人穴の浅間神社や周辺の住民は一時移転した。1954
年神社は現在地に復興されたが、冨士講自体が衰退したことで参
詣者はみられるものの1964年以降碑塔の建設は行われていな
い。法的保護、修理・整備の経緯1999年に富士宮市の史跡と
なる。文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として
指定される予定。B15.白糸ノ滝説明富士山の湧水を起源とす
る数百の流れを持つ滝である。滝の名前は湧水(日平均15〜1
6万?)の噴出が数百条の白糸が垂れているように

20 :
が文化財保護法の下に重要文化財に指定された。文化財保護法の下に他の文化財と
ともに史跡富士山として指定される予定。B8.御師住宅説明御師は、道者に宿や
食事を始め登拝のための一切の世話をするとともに、登拝の指導や祈祷を行うこと
を業とした。富士山御師として代表的なのは、吉田口登山道の起点である北口本宮
冨士浅間神社の北西に、北東方向の傾斜面に沿って大規模な集落を形成した吉田の
御師である。御師屋敷の多くは短冊状をなし、表通りに面して引き込み路を設け、
敷地を流れる水路の奥に住宅兼宿坊の建物が建っている。玄関から奥へ客室が続き
、最奥部には神殿が設けられている。1768年に建てられ最古の部類に数えられ
る旧外川家住宅や、格式的な構えが確立した頃に建てられ富士講最盛期の御師住宅
の典型例とされる小佐野家住宅が代表的である。1861年に新築された小佐野家
住宅同様、富士講の流行に伴い増加する宿泊者に対応するため、旧外川家住宅では
1860年代に離座敷が増築された。法的保護、修理・整備の経緯1976年に小
佐野家住宅が文化財保護法の下に重要文化財に指定された。1979年に小佐野家
住宅の屋根の修理等が行われた。1996〜98年に小佐野家住宅の腐敗修理等が
行われた。旧外川家住宅が文化財保護法の下に重要文化財に指定される予定。B9
.山中湖B10.河口湖説明富士山の火山活動によって形成された堰止湖である。
富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが
、長谷川角行の水行からいつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられたのが前
述の3つの湖とこの山中湖及び河口湖である。この巡礼行為について、具体的に湖
沼のどこで修行や巡礼が執り行われたか、またどのルートを辿って各湖を巡ったか
は、定まっていなかった(少なくとも、明らかになっていない)ものの、人々の信
仰心を駆り立てた湖沼の水そのものを核心として、周辺地域も含めた範囲が文化財
とされている。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。法的保
護、修理・整備の経緯文化財保護法の下に名勝として指定される予定

21 :
講最盛期の御師住宅の典型例とされる小佐野家住宅が代表的で
ある。1861年に新築された小佐野家住宅同様、富士講の流
行に伴い増加する宿泊者に対応するため、旧外川家住宅では1
860年代に離座敷が増築された。法的保護、修理・整備の経
緯1976年に小佐野家住宅が文化財保護法の下に重要文化財
に指定された。1979年に小佐野家住宅の屋根の修理等が行
われた。1996〜98年に小佐野家住宅の腐敗修理等が行わ
れた。旧外川家住宅が文化財保護法の下に重要文化財に指定さ
れる予定。B9.山中湖B10.河口湖説明富士山の火山活動
によって形成された堰止湖である。富士山周辺の湖を巡って修
行する内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが、長谷
川角行の水行からいつの時代も変わらず巡拝の対象として数え
られたのが前述の3つの湖とこの山中湖及び河口湖である。こ
の巡礼行為について、具体的に湖沼のどこで修行や巡礼が執り
行われたか、またどのルートを辿って各湖を巡ったかは、定ま
っていなかった(少なくとも、明らかになっていない)ものの
、人々の信仰心を駆り立てた湖沼の水そのものを核心として、
周辺地域も含めた範囲が文化財とされている。また、景勝の地
でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。法的保護、修理・
整備の経緯文化財保護法の下に名勝として指定される予定。B
11.忍野八海説明富士山の伏流水による八つの湧水地で、そ
れぞれに八大竜王を祀る富士信仰に関わる巡拝地であった。富
士登山を目指す行者たちはこの水で穢れを祓った。長谷川角行
が行った富士八海修行になぞらえ「富士御手洗(みてらし)元
八湖」と唱えられた古跡の霊場と伝えられ、1843年に富士
講道者によって再興されたとされる。法的保護、修理・整備の
経緯1934年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に天然紀念物
に指定された。16B12.船津胎内樹型説明1617年長谷
川角行が富士登拝の際、北麓に洞穴(船津胎内樹型指定範囲内
に点在する小規模な溶岩樹型のひとつと考えられる)を発見し
、浅間明神を祀った。1673年には富士講道者によって現船
津胎内樹型が発見され、浅間明神が遷宮された。

22 :
その起源とする。17白糸ノ滝は富士講関連の文書によれば長谷
川角行が人穴での修行と合わせて水行を行った地とされ、富士講
を中心とした人々の巡礼・修行の場となった。また、景勝地とし
ても有名であり、和歌・絵画の題材にもなっている。法的保護、
修理・整備の経緯1936年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に
名勝及び天然紀念物に指定された。C.三保松原説明三保松原は
、万葉集以降和歌の題材となり、謡曲「羽衣」の舞台となった。
15〜16世紀以降富士山を描く際の典型的な構図に含まれる景
勝地として数多く描かれ、歌川広重等の作品をはじめ海外にも広
く知られている(又は海外に影響を与えた)芸術作品の視点場、
又は舞台となった場所のひとつである。法的保護、修理・整備の
経緯1922年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝に指定さ
れた。18b)歴史と発展山容の形成富士山の原型は、40〜1
0万年前、周辺の火山とともに活動をはじめ、先小御岳火山が形
成された。その後これを覆うように標高約2500mの小御岳火
山が形成された。さらに約10万年前、そのふもとに古富士火山
が誕生し、爆発的噴火、火山礫・火山灰の噴出、山体崩壊を繰り
返し、小御岳火山をほぼ山体に納める形で3000mを超える火
山に成長した。約1万年前には大量の溶岩を噴出する形で現在の
富士山(新富士火山)が成長を始め、古富士山を覆いつくし、約
5600〜3500年前に現在の規模となった。繰り返された溶
岩の流出によって何層にもわたる溶岩層が形成され、その先端部
には山体への降水を起源とする湧水が各溶岩層の隙間より湧出す
る形で各所に形成された。富士山北麓においてはこれらの湧水や
降水が北側の山地との間の低地にたまり、湖や湿地が形成された
。また、溶岩層の中には数多くの風穴、溶岩樹型が形成された。
山頂からの噴火は2200年前の噴火を最後に起こっていないが
、歴史時代になっても北西〜南東方向に連なる側火山からの噴火
を続け、1200年前から後には少なくとも800〜802年、
864〜866年、937年、999年、1033年、1083
年、1435〜1436年、1511年、1707年の九つの時
期の噴火が確認されている。神々しい山容と「鎮爆

23 :
野八海説明富士山の伏流水による八つの湧水地で、それぞれに八大竜王を祀る富士
信仰に関わる巡拝地であった。富士登山を目指す行者たちはこの水で穢れを祓った
。長谷川角行が行った富士八海修行になぞらえ「富士御手洗(みてらし)元八湖」
と唱えられた古跡の霊場と伝えられ、1843年に富士講道者によって再興された
とされる。法的保護、修理・整備の経緯1934年に史蹟名勝天然紀念物保存法の
下に天然紀念物に指定された。16B12.船津胎内樹型説明1617年長谷川角
行が富士登拝の際、北麓に洞穴(船津胎内樹型指定範囲内に点在する小規模な溶岩
樹型のひとつと考えられる)を発見し、浅間明神を祀った。1673年には富士講
道者によって現船津胎内樹型が発見され、浅間明神が遷宮された。富士登拝の際に
、樹型に入って身を清める風習があり、洞穴内外の地形空間に宗教的な意義付けが
行われるとともに、奥には富士講にとっての富士山の祭神である木花開耶姫などが
祀られている。法的保護、修理・整備の経緯1929年に史蹟名勝天然紀念物保存
法の下に天然紀念物に指定された。B13.吉田胎内樹型説明1892年に富士道
者によって整備された「お胎内」である。富士講講徒は、昼までに御師の家に着き
、夕方まで胎内巡りをし、翌朝富士山に登山した。本穴については、古くから冨士
山北口御師団が管理している。法的保護、修理・整備の経緯1929年に史蹟名勝
天然紀念物保存法の下に天然紀念物に指定された。B14.人穴富士講遺跡説明富
士講の開祖長谷川(藤原)角行が修行したとされる溶岩洞窟の人穴と富士講信者に
よる約230基の碑塔群が残る遺跡である。「吾妻鏡」では人穴探検の様子が描か
れ、「浅間大菩薩の御在所」とみられていたとされている。この内容は遅くとも1
603年までに、浅間大菩薩の霊験譚として説話化され、その存在が広く知られて
いた。富士講関連の文書によれば人穴は16世紀から17世紀にかけ、長谷川角行
が修行により浅間大菩薩(富士講では仙元大日神とする)の啓示を得た場であり、
入滅した場だとしている。また、角行は人穴を「浄土(浄土門)」と

24 :
に、樹型に入って身を清める風習があり、洞穴内外の地形空間
に宗教的な意義付けが行われるとともに、奥には富士講にとっ
ての富士山の祭神である木花開耶姫などが祀られている。法的
保護、修理・整備の経緯1929年に史蹟名勝天然紀念物保存
法の下に天然紀念物に指定された。B13.吉田胎内樹型説明
1892年に富士道者によって整備された「お胎内」である。
富士講講徒は、昼までに御師の家に着き、夕方まで胎内巡りを
し、翌朝富士山に登山した。本穴については、古くから冨士山
北口御師団が管理している。法的保護、修理・整備の経緯19
29年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に天然紀念物に指定さ
れた。B14.人穴富士講遺跡説明富士講の開祖長谷川(藤原
)角行が修行したとされる溶岩洞窟の人穴と富士講信者による
約230基の碑塔群が残る遺跡である。「吾妻鏡」では人穴探
検の様子が描かれ、「浅間大菩薩の御在所」とみられていたと
されている。この内容は遅くとも1603年までに、浅間大菩
薩の霊験譚として説話化され、その存在が広く知られていた。
富士講関連の文書によれば人穴は16世紀から17世紀にかけ
、長谷川角行が修行により浅間大菩薩(富士講では仙元大日神
とする)の啓示を得た場であり、入滅した場だとしている。ま
た、角行は人穴を「浄土(浄土門)」と述べ、これらの結果人
穴には熱心な富士講信者が参詣し、修行を行う者も見られた。
また、信者は人穴への分骨埋葬などを望み、墓碑、供養碑、記
念碑などを建立した。1942年付近が軍用地となり、人穴の
浅間神社や周辺の住民は一時移転した。1954年神社は現在
地に復興されたが、冨士講自体が衰退したことで参詣者はみら
れるものの1964年以降碑塔の建設は行われていない。法的
保護、修理・整備の経緯1999年に富士宮市の史跡となる。
文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定
される予定。B15.白糸ノ滝説明富士山の湧水を起源とする
数百の流れを持つ滝である。滝の名前は湧水(日平均15〜1
6万?)の噴出が数百条の白糸が垂れているように見えること
をその起源とする。17白糸ノ滝は富士講関連の

25 :
噴火や溶岩の流出を繰り返す富士山は恐ろしくかつ神秘的な山と
考えられたために、古くから遥拝の対象であったが、日本におけ
る古代国家の統治システムがほぼ整った8世紀後半以降は、繰り
返す噴火を鎮めるため、富士山そのものあるいは富士山に鎮座す
る神を浅間神として祀るようにもなり、各地に遥拝所としての浅
間神社が建立され、国家の宗教政策の一端に位置づけられるよう
になった。また、富士山の神々しく秀麗な姿と周辺の自然環境が
芸術の対象とされるようになり、日本最古の歌集で

26 :
の結果人穴には熱心な富士講信者が参詣し、修行を行う者も見られた。また、信者
は人穴への分骨埋葬などを望み、墓碑、供養碑、記念碑などを建立した。1942
年付近が軍用地となり、人穴の浅間神社や周辺の住民は一時移転した。1954年
神社は現在地に復興されたが、冨士講自体が衰退したことで参詣者はみられるもの
の1964年以降碑塔の建設は行われていない。法的保護、修理・整備の経緯19
99年に富士宮市の史跡となる。文化財保護法の下に他の文化財とと

27 :
長谷川角行が人穴での修行と合わせて水行を行った地とされ、
富士講を中心とした人々の巡礼・修行の場となった。また、景
勝地としても有名であり、和歌・絵画の題材にもなっている。
法的保護、修理・整備の経緯1936年に史蹟名勝天然紀念物
保存法の下に名勝及び天然紀念物に指定された。C.三保松原
説明三保松原は、万葉集以降和歌の題材となり、謡曲「羽衣」
の舞台となった。15〜16世紀以降富士山を描く際の典型的
な構図に含まれる景勝地として数多く描かれ、歌

28 :
』(8世紀半ば)や日本最古の物語とされる『竹取物語』(9世
紀後半)をはじめとして、数多くの和歌・物語など文学の題材と
なったほか、現存最古となる『聖徳太子絵伝』(11世紀制作)
をはじめ、数多くの絵画作品の題材として取り上げられるように
なった(表参照)。特に12世紀後半以降、日本の政治的中心が
京都から鎌倉に移動し、この二つの都市を結び富士山南麓を通る
街道の交通量が増加したことで、富士山の情報は多くの人に記録
され、広く知られるようになった。修験道―日本古来の山岳信仰
と外来宗教の習合―また、12世紀頃より噴火活動が沈静化した
ことで富士山は日本古来の山岳信仰と密教・道教(神仙思想)が
習合した「修験道」の道場ともなり、修験者が山中に分け入り、
霊力を獲得するために修行する山へと変化していった。当時一般
的であった神仏習合思想(本地垂迹説)により、山頂部は仏の世
界(又は仏が神の形となって現れる場所)として認識され、山頂
部に至ることが重要な意味を持つようになった。この結果15〜
16世紀には登拝する山として一般に広く知られ、修験者に引率
された武家・庶民等による信仰登山が盛んになった。登山口の設
置はいずれも室町時代のことで、14世紀から15世紀後半に開
かれたとされている。このころには参詣の道者のための宿坊もで
き始め、大勢の登山者が登るための設備が整い始めた。登拝の大
衆化―富士講―17世紀前半、約150年にわたる日本国内での
戦乱状態が終了し、江戸幕府の下で治安が安定し経19済的な発
展もあってより多くの人が富士山を目指すようになった。このよ
うな中で18世紀後半、16世紀に富士山体や周辺の風穴などで
修行し、宗教的覚醒を得た長谷川角行から始まったとされる富士
信仰が江戸(現在の東京)を中心に「富士講」と呼ばれる信仰集
団を形成して大いに盛んになり、より多くの人々が登拝するよう
になった。富士講や他の登拝者(合わせて「道者」という。)は
原則として固定的・継続的関係を持った「御師(宿坊を経営する
神職)」の家や宿坊に宿泊し、祈祷や宗教的指導を受け、湧水で
水垢離をとり、浅間神社に参拝した後、頂上を目指した。登山道
には茶屋や山小屋が建てられ、多くの登拝者の活動

29 :
山として指定される予定。B15.白糸ノ滝説明富士山の湧水を起源とする数百の
流れを持つ滝である。滝の名前は湧水(日平均15〜16万?)の噴出が数百条の
白糸が垂れているように見えることをその起源とする。17白糸ノ滝は富士講関連
の文書によれば長谷川角行が人穴での修行と合わせて水行を行った地とされ、富士
講を中心とした人々の巡礼・修行の場となった。また、景勝地としても有名であり
、和歌・絵画の題材にもなっている。法的保護、修理・整備の経緯1936年に史
蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝及び天然紀念物に指定された。C.三保松原説
明三保松原は、万葉集以降和歌の題材となり、謡曲「羽衣」の舞台となった。15
〜16世紀以降富士山を描く際の典型的な構図に含まれる景勝地として数多く描か
れ、歌川広重等の作品をはじめ海外にも広く知られている(又は海外に影響を与え
た)芸術作品の視点場、又は舞台となった場所のひとつである。法的保護、修理・
整備の経緯1922年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝に指定された。18
b)歴史と発展山容の形成富士山の原型は、40〜10万年前、周辺の火山ととも
に活動をはじめ、先小御岳火山が形成された。その後これを覆うように標高約25
00mの小御岳火山が形成された。さらに約10万年前、そのふもとに古富士火山
が誕生し、爆発的噴火、火山礫・火山灰の噴出、山体崩壊を繰り返し、小御岳火山
をほぼ山体に納める形で3000mを超える火山に成長した。約1万年前には大量
の溶岩を噴出する形で現在の富士山(新富士火山)が成長を始め、古富士山を覆い
つくし、約5600〜3500年前に現在の規模となった。繰り返された溶岩の流
出によって何層にもわたる溶岩層が形成され、その先端部には山体への降水を起源
とする湧水が各溶岩層の隙間より湧出する形で各所に形成された。富士山北麓にお
いてはこれらの湧水や降水が北側の山地との間の低地にたまり、湖や湿地が形成さ
れた。また、溶岩層の中には数多くの風穴、溶岩樹型が形成された。山頂からの噴
火は2200年前の噴火を最後に起こっていないが、歴史時代になっ

30 :
品をはじめ海外にも広く知られている(又は海外に影響を与え
た)芸術作品の視点場、又は舞台となった場所のひとつである
。法的保護、修理・整備の経緯1922年に史蹟名勝天然紀念
物保存法の下に名勝に指定された。18b)歴史と発展山容の
形成富士山の原型は、40〜10万年前、周辺の火山とともに
活動をはじめ、先小御岳火山が形成された。その後これを覆う
ように標高約2500mの小御岳火山が形成された。さらに約
10万年前、そのふもとに古富士火山が誕生し、爆発的噴火、
火山礫・火山灰の噴出、山体崩壊を繰り返し、小御岳火山をほ
ぼ山体に納める形で3000mを超える火山に成長した。約1
万年前には大量の溶岩を噴出する形で現在の富士山(新富士火
山)が成長を始め、古富士山を覆いつくし、約5600〜35
00年前に現在の規模となった。繰り返された溶岩の流出によ
って何層にもわたる溶岩層が形成され、その先端部には山体へ
の降水を起源とする湧水が各溶岩層の隙間より湧出する形で各
所に形成された。富士山北麓においてはこれらの湧水や降水が
北側の山地との間の低地にたまり、湖や湿地が形成された。ま
た、溶岩層の中には数多くの風穴、溶岩樹型が形成された。山
頂からの噴火は2200年前の噴火を最後に起こっていないが
、歴史時代になっても北西〜南東方向に連なる側火山からの噴
火を続け、1200年前から後には少なくとも800〜802
年、864〜866年、937年、999年、1033年、1
083年、1435〜1436年、1511年、1707年の
九つの時期の噴火が確認されている。神々しい山容と「鎮爆」
このような噴火や溶岩の流出を繰り返す富士山は恐ろしくかつ
神秘的な山と考えられたために、古くから遥拝の対象であった
が、日本における古代国家の統治システムがほぼ整った8世紀
後半以降は、繰り返す噴火を鎮めるため、富士山そのものある
いは富士山に鎮座する神を浅間神として祀るようにもなり、各
地に遥拝所としての浅間神社が建立され、国家の宗教政策の一
端に位置づけられるようになった。また、富士山の神々しく秀
麗な姿と周辺の自然環境が芸術の対象とされるよ

31 :
が体系的に整備されたのもこの頃である。また、富士講において
は長谷川角行ら指導者の言動にならって周辺の風穴や湖沼・滝な
ども修行の地とされ、ここにおいて富士山と周辺の宗教施設・霊
地・巡礼地は庶民の信仰の場として定着し、山の結界が開放され
る二ヶ月間に年平均1万〜2万人の人々が信仰を目的とした登山
を行うようになった。芸術作品の多様化とジャポニスム芸術面に
おいても、とりわけ江戸時代(17〜19世紀半ば)には、文学
、絵画、工芸、庭園等のモチーフとして多岐にわたって取り上げ
られ、三保松原と富士山を描いた絵画など多様な表現が追究され
るようになった。(表参照)特に、葛飾北斎の「冨嶽三十六景」
に代表される浮世絵の数々は、西洋の画家たちに文化的衝撃を与
えた。19世紀後半には「ジャポニスム」という芸術上の画期的
な転機を惹き起こし、印象派の作品に影響を与えるとともに、そ
の富士山を含んだ構図は海外において日本のイメージの一つとさ
れてきたのである。日本を訪れた外国人が富士山からインスピレ
ーションを得て記述した紀行文の中でも、富士山のアイコン的側
面を綴ったものが多い。近世以前も富士山は日本一有名な山であ
ったが、19世紀後半の開国によって日本が近代国家としての体
制を整えるにつれて、日本を代表する山から日本を象徴する山へ
と変貌した。廃仏毀釈と登山の利便性向上19世紀半ばより、明
治政府を中心に行われた日本の近代化・西欧化政策は富士山にも
影響を与えた。政府が神仏分離や修験道禁止の方針を打ち出した
ことや、これを契機に発生した廃仏毀釈の運動により、仏教的施
設は神道系の施設に再編されたが、1872年の(信仰の山にお
ける)女人禁制解禁の影響もあり富士山への登拝は継続ないし拡
大した。19世紀末以降の鉄道・自動車道の開通も、登山者の利
便性を格段に向上させた。南麓へは1889年に東海道線が開通
し、北麓へは1900年前後に馬車鉄道と中央線が開通したこと
によって、東京からの登山がさらに活発になった。自動車道とし
ては、1929年に北口本宮冨士浅間神社から馬返(標高145
0m)まで自動車専用道路が開削され、1937年には大型バス
による輸送も始まった。第二次大戦以降、日本の価

32 :
東方向に連なる側火山からの噴火を続け、1200年前から後には少なくとも80
0〜802年、864〜866年、937年、999年、1033年、1083年
、1435〜1436年、1511年、1707年の九つの時期の噴火が確認され
ている。神々しい山容と「鎮爆」このような噴火や溶岩の流出を繰り返す富士山は
恐ろしくかつ神秘的な山と考えられたために、古くから遥拝の対象であったが、日
本における古代国家の統治システムがほぼ整った8世紀後半以降は、繰り返す噴火
を鎮めるため、富士山そのものあるいは富士山に鎮座する神を浅間神として祀るよ
うにもなり、各地に遥拝所としての浅間神社が建立され、国家の宗教政策の一端に
位置づけられるようになった。また、富士山の神々しく秀麗な姿と周辺の自然環境
が芸術の対象とされるようになり、日本最古の歌集である『万葉集』(8世紀半ば
)や日本最古の物語とされる『竹取物語』(9世紀後半)をはじめとして、数多く
の和歌・物語など文学の題材となったほか、現存最古となる『聖徳太子絵伝』(1
1世紀制作)をはじめ、数多くの絵画作品の題材として取り上げられるようになっ
た(表参照)。特に12世紀後半以降、日本の政治的中心が京都から鎌倉に移動し
、この二つの都市を結び富士山南麓を通る街道の交通量が増加したことで、富士山
の情報は多くの人に記録され、広く知られるようになった。修験道―日本古来の山
岳信仰と外来宗教の習合―また、12世紀頃より噴火活動が沈静化したことで富士
山は日本古来の山岳信仰と密教・道教(神仙思想)が習合した「修験道」の道場と
もなり、修験者が山中に分け入り、霊力を獲得するために修行する山へと変化して
いった。当時一般的であった神仏習合思想(本地垂迹説)により、山頂部は仏の世
界(又は仏が神の形となって現れる場所)として認識され、山頂部に至ることが重
要な意味を持つようになった。この結果15〜16世紀には登拝する山として一般
に広く知られ、修験者に引率された武家・庶民等による信仰登山が盛んになった。
登山口の設置はいずれも室町時代のことで、14世紀から15世紀後

33 :
本最古の歌集である『万葉集』(8世紀半ば)や日本最古の物
語とされる『竹取物語』(9世紀後半)をはじめとして、数多
くの和歌・物語など文学の題材となったほか、現存最古となる
『聖徳太子絵伝』(11世紀制作)をはじめ、数多くの絵画作
品の題材として取り上げられるようになった(表参照)。特に
12世紀後半以降、日本の政治的中心が京都から鎌倉に移動し
、この二つの都市を結び富士山南麓を通る街道の交通量が増加
したことで、富士山の情報は多くの人に記録され、広く知られ
るようになった。修験道―日本古来の山岳信仰と外来宗教の習
合―また、12世紀頃より噴火活動が沈静化したことで富士山
は日本古来の山岳信仰と密教・道教(神仙思想)が習合した「
修験道」の道場ともなり、修験者が山中に分け入り、霊力を獲
得するために修行する山へと変化していった。当時一般的であ
った神仏習合思想(本地垂迹説)により、山頂部は仏の世界(
又は仏が神の形となって現れる場所)として認識され、山頂部
に至ることが重要な意味を持つようになった。この結果15〜
16世紀には登拝する山として一般に広く知られ、修験者に引
率された武家・庶民等による信仰登山が盛んになった。登山口
の設置はいずれも室町時代のことで、14世紀から15世紀後
半に開かれたとされている。このころには参詣の道者のための
宿坊もでき始め、大勢の登山者が登るための設備が整い始めた
。登拝の大衆化―富士講―17世紀前半、約150年にわたる
日本国内での戦乱状態が終了し、江戸幕府の下で治安が安定し
経19済的な発展もあってより多くの人が富士山を目指すよう
になった。このような中で18世紀後半、16世紀に富士山体
や周辺の風穴などで修行し、宗教的覚醒を得た長谷川角行から
始まったとされる富士信仰が江戸(現在の東京)を中心に「富
士講」と呼ばれる信仰集団を形成して大いに盛んになり、より
多くの人々が登拝するようになった。富士講や他の登拝者(合
わせて「道者」という。)は原則として固定的・継続的関係を
持った「御師(宿坊を経営する神職)」の家や宿坊に宿泊し、
祈祷や宗教的指導を受け、湧水で水垢離をとり、

34 :
況の変化により、富士山への登山は信仰を中心としたものから、
富士山への憧れを主な動機とするものに変化した。また、196
4年に中腹までの自動車道として、北麓の富士山スバルラインが
、1970年に南麓の富士山スカイラインが開通し、これ以降、
中腹(標高2300〜2400m)を起点とした登山が主流にな
った。この結果富士山への登山者は急増し、年平均20万〜30
万人に達するに至った(2007年からはさらに増加し年間35
万〜43万人)。これらの登山者の行動様式の中には富士山への
信仰の核心が受け継がれており、加えて、現代的な富士山信仰の
形態として、静岡県の柿田川のように、新たに富士山との関わり
が明らかになったことが、環境保護活動の活性化につながった例
などがある。最近の保全の歴史20富士山体は文化財としては、
1924年に史蹟名勝天然紀念物保存法により、山麓の幅広い地
域が名勝に仮指定された。これとほぼ同じ範囲は、1936年に
自然公園法により国立公園の一部として指定され、現在も保全の
対象となっている。さらに、第二次世界大戦後の1952年には
、新たに文化財保護法によって、御中道以下500mより上及び
一部の登山道などが名勝として(同年、特別名勝として)指定さ
れ、1966年には指定区域を拡大した。山梨県は1978年(
のち、1999年及び2006年に改定)、静岡県は2006年
に「特別名勝富士山」の保存管理計画を策定し、適切な保存と活
用を図っている。周辺の浅間神社や御師住宅の近代以前の修理や
保存の状況は2bで述べたところだが、それらを含めた富士山に
関わる記念工作物・建造物群・遺跡は、1907年以降、古社寺
保存法(1897年〜1929年)、(国宝保存法(1929年
〜1950年))、史蹟名勝天然紀念物保存法(1919年〜1
950年)、文化財保護法(1950年〜現在)により、名勝、
特別天然記念物又は天然記念物、重要文化財、史跡等として指定
され、文化財ごとに保存管理計画が策定されており、それぞれの
価値が最もよく表れる時代の状態が保たれるように細心の注意が
払われている。、また、周辺に位置する個々の文化財は、「包括
的保存管理計画」によって、富士山体も含めた統一

35 :
とされている。このころには参詣の道者のための宿坊もでき始め、大勢の登山者が
登るための設備が整い始めた。登拝の大衆化―富士講―17世紀前半、約150年
にわたる日本国内での戦乱状態が終了し、江戸幕府の下で治安が安定し経19済的
な発展もあってより多くの人が富士山を目指すようになった。このような中

36 :
理が行われている。21表富士山の美術(1)日本古来の伝統様
式によるもの(国宝重要文化財)指定所在作品名形式時代(年代
)説明東京国立博物館聖徳太子絵伝屏風1069現在最古の富士
山。聖徳太子が馬で富士山を越える物語の状景。神奈川清浄光寺
外一遍聖絵絵巻1299一遍が全国遍歴の途中、富士川に入水す
る往生者を見送る背後に富士山。兵庫・真光寺遊行

37 :
本一有名な山であったが、19世紀後半の開国によって日本が近代国家としての体
制を整えるにつれて、日本を代表する山から日本を象徴する山へと変貌した。廃仏
毀釈と登山の利便性向上19世紀半ばより、明治政府を中心に行われた日本の近代
化・西欧化政策は富士山にも影響を与えた。政府が神仏分離や修験道禁止の方針を
打ち出したことや、これを契機に発生した廃仏毀釈の運動により、仏教的施設は神
道系の施設に再編されたが、1872年の(信仰の山における)女人

38 :
口本宮冨士浅間神社から馬返(標高1450m)まで自動車専
用道路が開削され、1937年には大型バスによる輸送も始ま
った。第二次大戦以降、日本の価値観や経済状況の変化により
、富士山への登山は信仰を中心としたものから、富士山への憧
れを主な動機とするものに変化した。また、1964年に中腹
までの自動車道として、北麓の富士山スバルラインが、197
0年に南麓の富士山スカイラインが開通し
標高2300〜2400m)を起点とした登山が主流になった

39 :
巻1323他阿上人が全国遍歴の途中、甲斐の御坂峠を越えて河
口に進む背後に富士山。大阪・久保惣記念美術館伊勢物語絵巻絵
巻14世紀伊勢物語現存最古の絵巻。第九段物語の主人が富士山
麓を進む場面。東京国立博物館月次風俗図のうち小屏風15世紀
十二月風俗図の一場面。鎌倉初期に行われた富士山麓の巻狩を題
材とする。富士山本宮浅間大社富士参詣曼荼羅図掛軸16世紀霊
山である富士山に参拝する行者達の登山風景、山頂に三尊あり。
狩野派の祖元信筆。東京国立博物館武蔵野図屏風17世紀武蔵野
の状景を装飾的に描いた名所図屏風の一。ススキ野の奥に富士山
がそびえる。山梨県立博物館曽我物語図屏風17世紀鎌倉将軍源
頼朝が主催した富士の巻狩最中に果された曽我兄弟による仇討ち
を題材。富士山の美術(2)室町時代水墨画によるもの指定所在
作品名形式時代(年代)説明東京・根津美術館富岳図仲安真康筆
掛軸15世紀現存最古の水墨による富士山図。鎌倉建長寺の僧で
、鎌倉画派の祖とされる。東京国立博物館富岳図祥啓筆掛軸14
90仲安真康の弟子、建長寺の書記を勤めた禅僧万里集九や雪舟
とも交友があった。東京永青文庫富士清見寺図雪舟集掛軸15世
紀世界的に著名な日本を代表する水墨画家の作。水墨画による富
士山の一典型作。静岡県立美術館富士八景図式部輝忠筆掛軸15
30東国を中心に活躍した水墨画家。瀟湘八景にあやかって連作
に挑んだ作品。個人(?)富士三保松原図是庵筆掛軸16世紀京
都相国寺の僧で、画をよくした。下辺に三保松原、富士山の左手
に日輪を描く。22富士山の美術(3)江戸時代諸派の作家と富
士山指定流派著名な作家名所在代表作(年代)説明陶芸野々村仁
清東京・鼻山美術館銹絵富士山香炉(17世紀)世界的にも著名
な京焼の第一人者。富士山の朝昼晩の三つの景色を造型化する。
狩野派狩野探幽静岡県立美術館富士山図1670江戸狩野派の祖
、第一人者。富士山連作の緒を開いた。狩野派狩野山雪静岡県立
美術館富士三保松原図屏風(17世紀)山楽の養子として京狩野
派を継ぐ。装飾性と抒情性に富む。琳派尾形光琳奈良・大和文華
館富岳図(扇面貼交手箱内)(18世紀)世界的に著名な代表的
画家。工芸デザイナーとしても卓越する。文人画派

40 :
響もあり富士山への登拝は継続ないし拡大した。19世紀末以降の鉄道・自動車道
の開通も、登山者の利便性を格段に向上させた。南麓へは1889年に東海道線が
開通し、北麓へは1900年前後に馬車鉄道と中央線が開通したことによって、東
京からの登山がさらに活発になった。自動車道としては、1929年に北口本宮冨
士浅間神社から馬返(標高1450m)まで自動車専用道路が開削され、1937
年には大型バスによる輸送も始まった。第二次大戦以降、日本の価値観や経済状況
の変化により、富士山への登山は信仰を中心としたものから、富士山への憧れを主
な動機とするものに変化した。また、1964年に中腹までの自動車道として、北
麓の富士山スバルラインが、1970年に南麓の富士山スカイラインが開通し、こ
れ以降、中腹(標高2300〜2400m)を起点とした登山が主流になった。こ
の結果富士山への登山者は急増し、年平均20万〜30万人に達するに至った(2
007年からはさらに増加し年間35万〜43万人)。これらの登山者の行動様式
の中には富士山への信仰の核心が受け継がれており、加えて、現代的な富士山信仰
の形態として、静岡県の柿田川のように、新たに富士山との関わりが明らかになっ
たことが、環境保護活動の活性化につながった例などがある。最近の保全の歴史2
0富士山体は文化財としては、1924年に史蹟名勝天然紀念物保存法により、山
麓の幅広い地域が名勝に仮指定された。これとほぼ同じ範囲は、1936年に自然
公園法により国立公園の一部として指定され、現在も保全の対象となっている。さ
らに、第二次世界大戦後の1952年には、新たに文化財保護法によって、御中道
以下500mより上及び一部の登山道などが名勝として(同年、特別名勝として)
指定され、1966年には指定区域を拡大した。山梨県は1978年(のち、19
99年及び2006年に改定)、静岡県は2006年に「特別名勝富士山」の保存
管理計画を策定し、適切な保存と活用を図っている。周辺の浅間神社や御師住宅の
近代以前の修理や保存の状況は2bで述べたところだが、それらを含

41 :
。この結果富士山への登山者は急増し、年平均20万〜30万
人に達するに至った(2007年からはさらに増加し年間35
万〜43万人)。これらの登山者の行動様式の中には富士山へ
の信仰の核心が受け継がれており、加えて、現代的な富士山信
仰の形態として、静岡県の柿田川のように、新たに富士山との
関わりが明らかになったことが、環境保護活動の活性化につな
がった例などがある。最近の保全の歴史20富士山体は文化財
としては、1924年に史蹟名勝天然紀念物保存法により、山
麓の幅広い地域が名勝に仮指定された。これとほぼ同じ範囲は
、1936年に自然公園法により国立公園の一部として指定さ
れ、現在も保全の対象となっている。さらに、第二次世界大戦
後の1952年には、新たに文化財保護法によって、御中道以
下500mより上及び一部の登山道などが名勝として(同年、
特別名勝として)指定され、1966年には指定区域を拡大し
た。山梨県は1978年(のち、1999年及び2006年に
改定)、静岡県は2006年に「特別名勝富士山」の保存管理
計画を策定し、適切な保存と活用を図っている。周辺の浅間神
社や御師住宅の近代以前の修理や保存の状況は2bで述べたと
ころだが、それらを含めた富士山に関わる記念工作物・建造物
群・遺跡は、1907年以降、古社寺保存法(1897年〜1
929年)、(国宝保存法(1929年〜1950年))、史
蹟名勝天然紀念物保存法(1919年〜1950年)、文化財
保護法(1950年〜現在)により、名勝、特別天然記念物又
は天然記念物、重要文化財、史跡等として指定され、文化財ご
とに保存管理計画が策定されており、それぞれの価値が最もよ
く表れる時代の状態が保たれるように細心の注意が払われてい
る。、また、周辺に位置する個々の文化財は、「包括的保存管
理計画」によって、富士山体も含めた統一的な保存・管理が行
われている。21表富士山の美術(1)日本古来の伝統様式に
よるもの(国宝重要文化財)指定所在作品名形式時代(年代)
説明東京国立博物館聖徳太子絵伝屏風1069現在最古の富士
山。聖徳太子が馬で富士山を越える物語の状景。

42 :
術大学富士十二景図(18世紀)日本文人図(南画)の大成者、
第一人者。富士・立山・白山を信仰登山し、三岳道者と自称。そ
の体験を描く。文人画派与謝蕪村富山佐藤美術館松林富士図(1
8世紀)大雅と並ぶ日本文人画の第一人者。俳人としても高名で
、俳画を大成した名手。文人画派野呂介石和歌山・田辺市立美術
館(寄託)紅玉芙蓉峰図1821紀州藩の役人で、大雅にも師事
した。早春の明け方の朱に染まった富士、赤富士の魁。文人画派
谷文晁静岡県立美術館富士山図屏風1835江戸文人画の大家。
諸国諸山の風景を写実的に描いた写生派の草分け。円山派円山応
挙兵庫・白鶴美術館富士三保松原図屏風1784装飾性と写実性
とを融合し、独自の画境を開いた、いかにも応挙らしい作品。洋
風画派小田野直武秋田県立近代美術館富岳図1777秋田藩士。
日本で最初に西洋画を学んだ、秋田蘭画の創始者。江戸出府の折
の作。洋風画派司馬江漢静岡県立美術館薩?山富士遠望図180
4平賀源内らと蘭学を研鑚、後に小田野直武の影響を受けて、洋
風写生画の第一人者となる。南蘋派宋紫石東京国立博物館日金山
富岳展望図(18世紀)長崎に渡来した清人画家より写生的花鳥
画を学び、また平賀源内らを通じて蘭学に通じた。禅画白隠慧鶴
大分・自性寺富士見大名行列図日本臨済禅を確立した禅僧。全国
を遍歴、布教した。禅画の大成者としても著名。浮世絵派葛飾北
斎山梨県立博物館版画富岳三十六景1831世界的に著名な浮世
絵師。富岳三十六景に見る象徴主義は欧米文芸に大きく影響した
。23浮世絵派歌川広重山梨県立博物館版画不二三十六景(19
世紀)北斎とともに世界的に著名な浮世絵師。東海道五十三次な
ど風景画に新境地を開き、印象派に与えた影響は大きい。浮世絵
派歌川貞秀神戸市立博物館三国第一山之図1849幕末の浮世絵
師。自ら富士山に登り、その感動を本図や富士絶頂之図など多く
の作品を残した。富士山の美術(4)近現代作家と富士山文化勲
章指定ジャンル著名な作家名所在代表作(年代)説明油画(洋画
)高橋由一金刀比羅宮宝物語館牧の原望岳図1878明治維新以
降、最初に油彩技法を習得した先覚者の作品。明治初期の貴重作
。〃五姓田義松東京都現代美術館清水の富士188

43 :
関わる記念工作物・建造物群・遺跡は、1907年以降、古社寺保存法(1897
年〜1929年)、(国宝保存法(1929年〜1950年))、史蹟名勝天然紀
念物保存法(1919年〜1950年)、文化財保護法(1950年〜現在)によ
り、名勝、特別天然記念物又は天然記念物、重要文化財、史跡等として指定され、
文化財ごとに保存管理計画が策定されており、それぞれの価値が最もよく表れる時
代の状態が保たれるように細心の注意が払われている。、また、周辺に位置する個
々の文化財は、「包括的保存管理計画」によって、富士山体も含めた統一的な保存
・管理が行われている。21表富士山の美術(1)日本古来の伝統様式によるもの
(国宝重要文化財)指定所在作品名形式時代(年代)説明東京国立博物館聖徳太子
絵伝屏風1069現在最古の富士山。聖徳太子が馬で富士山を越える物語の状景。
神奈川清浄光寺外一遍聖絵絵巻1299一遍が全国遍歴の途中、富士川に入水する
往生者を見送る背後に富士山。兵庫・真光寺遊行上人縁起絵絵巻1323他阿上人
が全国遍歴の途中、甲斐の御坂峠を越えて河口に進む背後に富士山。大阪・久保惣
記念美術館伊勢物語絵巻絵巻14世紀伊勢物語現存最古の絵巻。第九段物語の主人
が富士山麓を進む場面。東京国立博物館月次風俗図のうち小屏風15世紀十二月風
俗図の一場面。鎌倉初期に行われた富士山麓の巻狩を題材とする。富士山本宮浅間
大社富士参詣曼荼羅図掛軸16世紀霊山である富士山に参拝する行者達の登山風景
、山頂に三尊あり。狩野派の祖元信筆。東京国立博物館武蔵野図屏風17世紀武蔵
野の状景を装飾的に描いた名所図屏風の一。ススキ野の奥に富士山がそびえる。山
梨県立博物館曽我物語図屏風17世紀鎌倉将軍源頼朝が主催した富士の巻狩最中に
果された曽我兄弟による仇討ちを題材。富士山の美術(2)室町時代水墨画による
もの指定所在作品名形式時代(年代)説明東京・根津美術館富岳図仲安真康筆掛軸
15世紀現存最古の水墨による富士山図。鎌倉建長寺の僧で、鎌倉画派の祖とされ
る。東京国立博物館富岳図祥啓筆掛軸1490仲安真康の弟子、建長

44 :
に早く油彩技法に目覚めた開拓者の一人。明治初期の貴重作。〃
和田英作鹿児島歴史資料センター富士(河口湖)1926日本近
代洋画を技法的に確立した先駆者の一人。写生の確かさを見よ。
〃梅原龍三郎岡山・大原美術館朝陽1945ルノアールに学び、
日本洋画に存在感ある独特の装飾技法を樹立した。その金字塔と
も言うべき作。〃田崎広助長野・田崎美術館箱根朱富士1975
日本独特の平面的装飾に新しい一頁を開いた田崎ならではの自然
景観。〃林武箱根彫刻の森美術館赤富士1967主として第二次
大戦以後洋画壇をリードした。豪快な技法で富士連作に挑んだ。
膠画(日本画)富岡鉄斎兵庫・清荒神清澄寺富士山及び山頂全図
屏風1898最後の文人画家とも言われる思想家。自ら富士山に
登り、その神聖性をダイナミックに表現した。〃横山大観東京国
立近代美術館或る日の太平洋1952フェノロサ、岡倉天心と共
に日本画壇を復興した巨匠。日本の象徴と意識して多くのテーマ
に富士山が描かれた。〃下村観山秋田県立近代美術館三保富士図
屏風1919横山大観とともに明治日本画壇を背負った作家が伝
統的テーマに新風を吹き込む。〃川端龍子東京・大田区立龍子記
念館怒る富士1944強烈な個性で大作に挑んだ激情の画家。激
しい気象現象を示す富士に挑戦した作品。〃松岡映丘宮内庁三の
丸尚蔵館富岳茶園1928昭和天皇即位記念の作品。伝統的日本
画に透明感のある新しい表現技法を示す。〃徳岡神泉京都国立近
代美術館富士1965福田平八郎と共に昭和の日本画壇に独自の
新風を吹き込んだ。茫漠たるモノトーンの中に立する富士。24
〃横山操東京・五島美術館朱富士1966第二次大戦後の日本画
壇をリードした新星。多くの富士を描いたが、赤富士と電光の対
比の妙。〃小松均京都市立美術館白富士1982第二次大戦後の
日本画壇に詩的な大画面で新境地を開いた。郷土山形や大自然に
魅せられて。〃片岡球子神奈川県立近代美術館面構葛飾北斎数年
前に没したが、最も現代日本画界をリードした女流画家。本図は
女史のライフワーク面構シリーズの一つ。写真鹿島清兵衛宮内庁
三の丸尚蔵館富士1894アマチュアながら当時の技術を駆使し
た大版写真を御成婚25年記念に皇室に託した。〃

45 :
めた禅僧万里集九や雪舟とも交友があった。東京永青文庫富士清見寺図雪舟集掛軸
15世紀世界的に著名な日本を代表する水墨画家の作。水墨画による富士山の一典
型作。静岡県立美術館富士八景図式部輝忠筆掛軸1530東国を中心に活躍した水
墨画家。瀟湘八景にあやかって連作に挑んだ作品。個人(?)富士三保松原図是庵
筆掛軸16世紀京都相国寺の僧で、画をよくした。下辺に三保松原、富士山の左手
に日輪を描く。22富士山の美術(3)江戸時代諸派の作家と富士山指定流派著名
な作家名所在代表作(年代)説明陶芸野々村仁清東京・鼻山美術館銹絵富士山香炉
(17世紀)世界的にも著名な京焼の第一人者。富士山の朝昼晩の三つの景色を造
型化する。狩野派狩野探幽静岡県立美術館富士山図1670江戸狩野派の祖、第一
人者。富士山連作の緒を開いた。狩野派狩野山雪静岡県立美術館富士三保松原図屏
風(17世紀)山楽の養子として京狩野派を継ぐ。装飾性と抒情性に富む。琳派尾
形光琳奈良・大和文華館富岳図(扇面貼交手箱内)(18世紀)世界的に著名な代
表的画家。工芸デザイナーとしても卓越する。文人画派池大雅東京芸術大学富士十
二景図(18世紀)日本文人図(南画)の大成者、第一人者。富士・立山・白山を
信仰登山し、三岳道者と自称。その体験を描く。文人画派与謝蕪村富山佐藤美術館
松林富士図(18世紀)大雅と並ぶ日本文人画の第一人者。俳人としても高名で、
俳画を大成した名手。文人画派野呂介石和歌山・田辺市立美術館(寄託)紅玉芙蓉
峰図1821紀州藩の役人で、大雅にも師事した。早春の明け方の朱に染まった富
士、赤富士の魁。文人画派谷文晁静岡県立美術館富士山図屏風1835江戸文人画
の大家。諸国諸山の風景を写実的に描いた写生派の草分け。円山派円山応挙兵庫・
白鶴美術館富士三保松原図屏風1784装飾性と写実性とを融合し、独自の画境を
開いた、いかにも応挙らしい作品。洋風画派小田野直武秋田県立近代美術館富岳図
1777秋田藩士。日本で最初に西洋画を学んだ、秋田蘭画の創始者。江戸出府の
折の作。洋風画派司馬江漢静岡県立美術館薩?山富士遠望図1804

46 :
・岡田紅陽写真美術館忍野赤富士1894文字通り富士山の写真
家。富士山のあらゆる表情を写真に収め、広めた。木版画萩原英
雄山梨県立美術館三十六富士1926本県出身の日本を代表する
木版画家。新しい視点からの富士山シリーズ。富士山の文学歴史
書「六りっ国史こくし」(奈良−平安)菅野すがのの真ま道みち
ら「続日本しょくにほん紀ぎ」(平安)藤原通憲ふじわらのみち
のり「本朝ほんちょう世紀せいき」(平安)伝皇こう円えん「扶
桑ふそう略記りゃっき」(平安)※作者未詳「吾妻

47 :
蘭学を研鑚、後に小田野直武の影響を受けて、洋風写生画の第一人者となる。南蘋
派宋紫石東京国立博物館日金山富岳展望図(18世紀)長崎に渡来した清人画家よ
り写生的花鳥画を学び、また平賀源内らを通じて蘭学に通じた。禅画白隠慧鶴大分
・自性寺富士見大名行列図日本臨済禅を確立した禅僧。全国を遍歴、布教した。禅
画の大成者としても著名。浮世絵派葛飾北斎山梨県立博物館版画富岳三十六景18
31世界的に著名な浮世絵師。富岳三十六景に見る象徴主義は欧米文

48 :
と富士山文化勲章指定ジャンル著名な作家名所在代表作(年代
)説明油画(洋画)高橋由一金刀比羅宮宝物語館牧の原望岳図
1878明治維新以降、最初に油彩技法を習得した先覚者の作
品。明治初期の貴重作。〃五姓田義松東京都現代美術館清水の
富士1881父芳柳と共に早く油彩技法に目覚めた開拓者の一
人。明治初期の貴重作。〃和田英作鹿児島歴史資料センター富
士(河口湖)1926日本近代洋画を技法的に確立した先駆者
の一人。写生の確かさを見よ。〃梅原龍三郎岡山

49 :
み」(鎌倉)斎藤月岑さいとうげっしん「武江ぶこう年表ねんぴ
ょう」(江戸)風土記元明天皇げんめいてんのう詔「常陸ひたち
国のくに風土記」(奈良)談話集景戒きょうかい「日本にほん霊
異記りょういき」(平安)※作者未詳「今昔こんじゃく物語集も
のがたりしゅう」(平安)和歌集大伴家持おおとものやかもち「
万葉集まんようしゅう」(奈良)紀淑望きのよしもち・紀貫之き
のつらゆき「古今和歌集こきんわかしゅう」(平安)村上むらか
み天皇てんのう「後撰和ごせんわ歌集かしゅう」(平安)後鳥羽
ごとば上皇じょうこう「新古今和歌集しんこきんわかしゅう」(
鎌倉)後鳥羽院ごとばいん「最勝さいしょう四天王院してんのう
いん障子しょうじ和歌わか」(鎌倉)藤原長清「夫木和歌抄ふぼ
くわかしょう」(鎌倉)藤原ふじわらの為ため明あきら「新拾遺
和しんしゅういわ歌集かしゅう」(室町)25記録・紀行文都良
香みやこのよしか(平安)「富士山記ふじさんき」※作者不詳(
鎌倉)「海道記かいどうき」※作者不詳(鎌倉)「東関紀行とう
かんきこう」飛鳥井あすかい雅世まさよ(室町)「富士紀行ふじ
きこう」堯孝ぎょうこう(室町)「覧らん富士記ふじき」堯恵ぎ
ょうえ(室町)「北国紀行ほっこくきこう」※作者不詳(室町)
「富士御覧日記ふじごらんにっき」道興どうこう(室町)「廻国
かいこく雑記ざっき」宗牧そうぼく(室町)「東国とうごく紀行
きこう」紹巴じょうは(室町)「富士見ふじみ道記みちのき」小
堀遠州こぼりえんしゅう(江戸)「東海道紀行とうかいどうきこ
う」浅井了意あさいりょうい(江戸)「東海道名所記とうかいど
うめいしょき」岩佐いわさ又兵衛またべえ(江戸)「迴国道の記
」松尾まつお芭蕉ばしょう(江戸)「野ざらし紀行」香川景樹か
がわかげき(江戸)「中空の日記」古川古松こしょう軒けん(江
戸)「東遊とうゆう雑記ざっき」藤とう惺せい梅ばい(江戸)「
東海紀行」日記文学菅原孝標女すがわらのたかすえのむすめ(平
安)「更級さらしな日記」阿仏尼あぶつに(鎌倉)「十六夜日記
いざよいにっき」「うたたね」後ご深ふか草院くさいんの二条に
じょう(鎌倉)「とはずがたり」賀茂真淵かものまぶち(江戸)
「岡部日記おかべにっき」永井ながい荷風かふう(

50 :
響した。23浮世絵派歌川広重山梨県立博物館版画不二三十六景(19世紀)北斎
とともに世界的に著名な浮世絵師。東海道五十三次など風景画に新境地を開き、印
象派に与えた影響は大きい。浮世絵派歌川貞秀神戸市立博物館三国第一山之図18
49幕末の浮世絵師。自ら富士山に登り、その感動を本図や富士絶頂之図など多く
の作品を残した。富士山の美術(4)近現代作家と富士山文化勲章指定ジャンル著
名な作家名所在代表作(年代)説明油画(洋画)高橋由一金刀比羅宮宝物語館牧の
原望岳図1878明治維新以降、最初に油彩技法を習得した先覚者の作品。明治初
期の貴重作。〃五姓田義松東京都現代美術館清水の富士1881父芳柳と共に早く
油彩技法に目覚めた開拓者の一人。明治初期の貴重作。〃和田英作鹿児島歴史資料
センター富士(河口湖)1926日本近代洋画を技法的に確立した先駆者の一人。
写生の確かさを見よ。〃梅原龍三郎岡山・大原美術館朝陽1945ルノアールに学
び、日本洋画に存在感ある独特の装飾技法を樹立した。その金字塔とも言うべき作
。〃田崎広助長野・田崎美術館箱根朱富士1975日本独特の平面的装飾に新しい
一頁を開いた田崎ならではの自然景観。〃林武箱根彫刻の森美術館赤富士1967
主として第二次大戦以後洋画壇をリードした。豪快な技法で富士連作に挑んだ。膠
画(日本画)富岡鉄斎兵庫・清荒神清澄寺富士山及び山頂全図屏風1898最後の
文人画家とも言われる思想家。自ら富士山に登り、その神聖性をダイナミックに表
現した。〃横山大観東京国立近代美術館或る日の太平洋1952フェノロサ、岡倉
天心と共に日本画壇を復興した巨匠。日本の象徴と意識して多くのテーマに富士山
が描かれた。〃下村観山秋田県立近代美術館三保富士図屏風1919横山大観とと
もに明治日本画壇を背負った作家が伝統的テーマに新風を吹き込む。〃川端龍子東
京・大田区立龍子記念館怒る富士1944強烈な個性で大作に挑んだ激情の画家。
激しい気象現象を示す富士に挑戦した作品。〃松岡映丘宮内庁三の丸尚蔵館富岳茶
園1928昭和天皇即位記念の作品。伝統的日本画に透明感のある新

51 :
朝陽1945ルノアールに学び、日本洋画に存在感ある独特の
装飾技法を樹立した。その金字塔とも言うべき作。〃田崎広助
長野・田崎美術館箱根朱富士1975日本独特の平面的装飾に
新しい一頁を開いた田崎ならではの自然景観。〃林武箱根彫刻
の森美術館赤富士1967主として第二次大戦以後洋画壇をリ
ードした。豪快な技法で富士連作に挑んだ。膠画(日本画)富
岡鉄斎兵庫・清荒神清澄寺富士山及び山頂全図屏風1898最
後の文人画家とも言われる思想家。自ら富士山に登り、その神
聖性をダイナミックに表現した。〃横山大観東京国立近代美術
館或る日の太平洋1952フェノロサ、岡倉天心と共に日本画
壇を復興した巨匠。日本の象徴と意識して多くのテーマに富士
山が描かれた。〃下村観山秋田県立近代美術館三保富士図屏風
1919横山大観とともに明治日本画壇を背負った作家が伝統
的テーマに新風を吹き込む。〃川端龍子東京・大田区立龍子記
念館怒る富士1944強烈な個性で大作に挑んだ激情の画家。
激しい気象現象を示す富士に挑戦した作品。〃松岡映丘宮内庁
三の丸尚蔵館富岳茶園1928昭和天皇即位記念の作品。伝統
的日本画に透明感のある新しい表現技法を示す。〃徳岡神泉京
都国立近代美術館富士1965福田平八郎と共に昭和の日本画
壇に独自の新風を吹き込んだ。茫漠たるモノトーンの中に立す
る富士。24〃横山操東京・五島美術館朱富士1966第二次
大戦後の日本画壇をリードした新星。多くの富士を描いたが、
赤富士と電光の対比の妙。〃小松均京都市立美術館白富士19
82第二次大戦後の日本画壇に詩的な大画面で新境地を開いた
。郷土山形や大自然に魅せられて。〃片岡球子神奈川県立近代
美術館面構葛飾北斎数年前に没したが、最も現代日本画界をリ
ードした女流画家。本図は女史のライフワーク面構シリーズの
一つ。写真鹿島清兵衛宮内庁三の丸尚蔵館富士1894アマチ
ュアながら当時の技術を駆使した大版写真を御成婚25年記念
に皇室に託した。〃岡田紅陽山梨・岡田紅陽写真美術館忍野赤
富士1894文字通り富士山の写真家。富士山のあらゆる表情
を写真に収め、広めた。木版画萩原英雄山梨県立

52 :
「大窪だより」伝説・物語※作者不詳「竹取たけとり物語ものが
たり」(平安)※作者不詳「伊勢いせ物語ものがたり」(平安)
紫式部むらさきしきぶ「源氏げんじ物語ものがたり(若紫わかむ
らさき)」(平安)藤原兼輔ふじわらのかねすけ「聖徳太子伝暦
しょうとくたいしでんりゃく」(平安)※作者不詳(平安)「平
中へいちゅう物語ものがたり」「平家へいけ物語ものがたり」(
鎌倉)※未詳「曽我そがの物語ものがたり」(鎌倉)※作者不詳
「源平げんぺい盛衰記せいすいき」(鎌倉)※未詳「承久記じょ
うきゅうき」(鎌倉)浅井あさい了りょう意い「東海道名所記」
(江戸)能(謡曲)伝世阿弥ぜあみ原作(室町)「富士山ふじさ
ん」※未詳(室町)「羽衣はごろも」御伽草紙「富士の人穴ひと
あな草紙ぞうし」(江戸)仮名草紙※作者不詳(江戸)「竹斎ち
くさい」滑稽本十返舎一九じっぺんしゃいっく(江戸)「東海道
中膝栗毛とうかいどうちゅうひざくりげ」仮名垣魯文かなかきろ
ぶん(江戸−明治)「滑稽富士詣こっけいふじもうで」26浄瑠
璃近松門ちかまつもん左ざ衛門えもん(江戸)「聖徳太子絵伝記
」竹田たけだ出雲いずも・三好松洛みよししょうらく・並木千柳
なみきせんりゅう(江戸)「仮名かな手本でほん忠臣蔵ちゅうし
んぐら」童謡巌谷いわや小波さざなみ(明治−大正)「富士山ふ
じさん」(「ふじの山」)海野うんの厚あつし(明治−昭和)「
背せいくらべ」随想・随筆新井あらい白石はくせき(江戸)「折
おりたく柴しばの記」田山たやま花袋かたい(明治−昭和)「富
士を望む」小島烏水こじまうすい(明治−昭和)「すたれ行く富
士の古道」、「不二山ふじさん」永井ながい荷風かふう(明治−
昭和)「日和ひより下駄げた」太宰だざい治おさむ(明治−昭和
)「富嶽百景ふがくひゃっけい」大町桂月おおまちけいげつ(明
治−大正)「富士の大観」中村星湖なかむらせいこ(明治−昭和
)「少年行しょうねんこう」北村きたむら透谷とうこく(明治)
「富嶽ふがくの詩し神しんを思おもふ」深田ふかだ久弥きゅうや
(明治−昭和)「日本にほん百名山ひゃくめいざん」小説落合直
文おちあいなおぶみ(江戸−明治)「たかねの雪ゆき」夏目漱石
なつめそうせき(明治−大正)「三四郎さんしろう

53 :
を示す。〃徳岡神泉京都国立近代美術館富士1965福田平八郎と共に昭和の日本
画壇に独自の新風を吹き込んだ。茫漠たるモノトーンの中に立する富士。24〃横
山操東京・五島美術館朱富士1966第二次大戦後の日本画壇をリードした新星。
多くの富士を描いたが、赤富士と電光の対比の妙。〃小松均京都市立美術館白富士
1982第二次大戦後の日本画壇に詩的な大画面で新境地を開いた。郷土山形や大
自然に魅せられて。〃片岡球子神奈川県立近代美術館面構葛飾北斎数年前に没した
が、最も現代日本画界をリードした女流画家。本図は女史のライフワーク面構シリ
ーズの一つ。写真鹿島清兵衛宮内庁三の丸尚蔵館富士1894アマチュアながら当
時の技術を駆使した大版写真を御成婚25年記念に皇室に託した。〃岡田紅陽山梨
・岡田紅陽写真美術館忍野赤富士1894文字通り富士山の写真家。富士山のあら
ゆる表情を写真に収め、広めた。木版画萩原英雄山梨県立美術館三十六富士192
6本県出身の日本を代表する木版画家。新しい視点からの富士山シリーズ。富士山
の文学歴史書「六りっ国史こくし」(奈良−平安)菅野すがのの真ま道みちら「続
日本しょくにほん紀ぎ」(平安)藤原通憲ふじわらのみちのり「本朝ほんちょう世
紀せいき」(平安)伝皇こう円えん「扶桑ふそう略記りゃっき」(平安)※作者未
詳「吾妻鏡あづまかがみ」(鎌倉)斎藤月岑さいとうげっしん「武江ぶこう年表ね
んぴょう」(江戸)風土記元明天皇げんめいてんのう詔「常陸ひたち国のくに風土
記」(奈良)談話集景戒きょうかい「日本にほん霊異記りょういき」(平安)※作
者未詳「今昔こんじゃく物語集ものがたりしゅう」(平安)和歌集大伴家持おおと
ものやかもち「万葉集まんようしゅう」(奈良)紀淑望きのよしもち・紀貫之きの
つらゆき「古今和歌集こきんわかしゅう」(平安)村上むらかみ天皇てんのう「後
撰和ごせんわ歌集かしゅう」(平安)後鳥羽ごとば上皇じょうこう「新古今和歌集
しんこきんわかしゅう」(鎌倉)後鳥羽院ごとばいん「最勝さいしょう四天王院し
てんのういん障子しょうじ和歌わか」(鎌倉)藤原長清「夫木和歌抄

54 :
富士1926本県出身の日本を代表する木版画家。新しい視点
からの富士山シリーズ。富士山の文学歴史書「六りっ国史こく
し」(奈良−平安)菅野すがのの真ま道みちら「続日本しょく
にほん紀ぎ」(平安)藤原通憲ふじわらのみちのり「本朝ほん
ちょう世紀せいき」(平安)伝皇こう円えん「扶桑ふそう略記
りゃっき」(平安)※作者未詳「吾妻鏡あづまかがみ」(鎌倉
)斎藤月岑さいとうげっしん「武江ぶこう年表ねんぴょう」(
江戸)風土記元明天皇げんめいてんのう詔「常陸ひたち国のく

55 :
(^o^)/

56 :
ぐびじんそう」泉鏡花(明治−昭和)「婦おんな系図けいず」「
春しゅん昼ちゅう」「春しゅん昼ちゅう後刻ごこく」徳富とくと
み蘆花ろか(明治−昭和)「冨士ふじ」「自然しぜんと人生じん
せい」(随筆)永井ながい荷風かふう(明治−昭和)「新帰朝者
日記」橋本英吉はしもとえいきち(明治−昭和)「富士山頂ふじ
さんちょう」井伏鱒二いぶせますじ(明治−平成)「岳麓点描が
くろくてんびょう」武田泰淳たけだたいじゅん(大正−昭和)「
富士ふじ」武田百合子たけだゆりこ(大正−昭和)「富士日記ふ
じにっき」新田にった次郎じろう(大正−昭和)「強力伝ごうり
きでん」「怒いかる富ふ士じ」「芙蓉ふようの人ひと」「富士ふ
じに死しす」「着氷ちゃくひょう」「冬山ふゆやまの掟おきて」
「富士ふじ山頂さんちょう」川端康成かわばたやすなり(明治−
昭和)「東海道とうかいどう」白井喬二しらいきょうじ(明治−
昭和)「富士ふじに立たつ影かげ」国枝くにえだ史郎しろう(明
治−昭和)「神州纐纈城しんしゅうこうけつじょう」松本まつも
と清せい張ちょう(明治−昭和)「波なみの塔とう」芹沢光せり
ざわこう治じ良ろう(明治−平成)「我が入道にゅうどう」「人
間にんげんの運命うんめい」幸田文こうだあや(明治−平成)「
崩くずれ」27詩歌伝柿本かきのもとの人麻呂ひとまろ(飛鳥−
奈良)「柿本集」山部赤人やまべのあかひと(奈良)「万葉集ま
んようしゅう」高橋たかはしの虫むし麻呂まろ(奈良)「高橋虫
麻呂たかはしのむしまろ歌集」藤原ふじわらの清きよ正ただ(平
安)「清きよ正ただ集」在原業平ありわらのなりひら(平安)「
業平集」藤原ふじわらの公きん任とう(平安)「公きん任とう集
」藤原ふじわらの定家さだいえ(平安−鎌倉)「内裏名所百首」
「名号みょうごう七字十題和歌」飛鳥あすか井い雅まさ経つね(
平安−鎌倉)「明日香あすか井い和歌集」藤原ふじわらの俊とし
成なり(平安−鎌倉)「(藤原兼ふじわらのかね実ざね)右う大
臣家だいじんけ百首ひゃくしゅ」「五社百首」「丹後守為忠朝臣
家百首」慈じ円えん(平安−鎌倉)「拾玉集」西行さいぎょう(
鎌倉)「新古今和歌集しんこきんわかしゅう」源実朝みなもとの
さねとも(鎌倉)「金槐和歌集きんかいわかしゅう

57 :
ょう」(鎌倉)藤原ふじわらの為ため明あきら「新拾遺和しんしゅういわ歌集かし
ゅう」(室町)25記録・紀行文都良香みやこのよしか(平安)「富士山記ふじさ
んき」※作者不詳(鎌倉)「海道記かいどうき」※作者不詳(鎌倉)「東関紀行と
うかんきこう」飛鳥井あすかい雅世まさよ(室町)「富士紀行ふじきこう」堯孝ぎ
ょうこう(室町)「覧らん富士記ふじき」堯恵ぎょうえ(室町)「北国紀行ほっこ
くきこう」※作者不詳(室町)「富士御覧日記ふじごらんにっき」道興どうこう(
室町)「廻国かいこく雑記ざっき」宗牧そうぼく(室町)「東国とうごく紀行きこ
う」紹巴じょうは(室町)「富士見ふじみ道記みちのき」小堀遠州こぼりえんしゅ
う(江戸)「東海道紀行とうかいどうきこう」浅井了意あさいりょうい(江戸)「
東海道名所記とうかいどうめいしょき」岩佐いわさ又兵衛またべえ(江戸)「迴国
道の記」松尾まつお芭蕉ばしょう(江戸)「野ざらし紀行」香川景樹かがわかげき
(江戸)「中空の日記」古川古松こしょう軒けん(江戸)「東遊とうゆう雑記ざっ
き」藤とう惺せい梅ばい(江戸)「東海紀行」日記文学菅原孝標女すがわらのたか
すえのむすめ(平安)「更級さらしな日記」阿仏尼あぶつに(鎌倉)「十六夜日記
いざよいにっき」「うたたね」後ご深ふか草院くさいんの二条にじょう(鎌倉)「
とはずがたり」賀茂真淵かものまぶち(江戸)「岡部日記おかべにっき」永井なが
い荷風かふう(江戸−昭和)「大窪だより」伝説・物語※作者不詳「竹取たけとり
物語ものがたり」(平安)※作者不詳「伊勢いせ物語ものがたり」(平安)紫式部
むらさきしきぶ「源氏げんじ物語ものがたり(若紫わかむらさき)」(平安)藤原
兼輔ふじわらのかねすけ「聖徳太子伝暦しょうとくたいしでんりゃく」(平安)※
作者不詳(平安)「平中へいちゅう物語ものがたり」「平家へいけ物語ものがたり
」(鎌倉)※未詳「曽我そがの物語ものがたり」(鎌倉)※作者不詳「源平げんぺ
い盛衰記せいすいき」(鎌倉)※未詳「承久記じょうきゅうき」(鎌倉)浅井あさ
い了りょう意い「東海道名所記」(江戸)能(謡曲)伝世阿弥ぜあみ

58 :
)「中空の日記」古川古松こしょう軒けん(江戸)「東遊とう
ゆう雑記ざっき」藤とう惺せい梅ばい(江戸)「東海紀行」日
記文学菅原孝標女すがわらのたかすえのむすめ(平安)「更級
さらしな日記」阿仏尼あぶつに(鎌倉)「十六夜日記いざよい
にっき」「うたたね」後ご深ふか草院くさいんの二条にじょう
(鎌倉)「とはずがたり」賀茂真淵かものまぶち(江戸)「岡
部日記おかべにっき」永井ながい荷風かふう(江戸−昭和)「
大窪だより」伝説・物語※作者不詳「竹取たけとり物語ものが
たり」(平安)※作者不詳「伊勢いせ物語ものがたり」(平安
)紫式部むらさきしきぶ「源氏げんじ物語ものがたり(若紫わ
かむらさき)」(平安)藤原兼輔ふじわらのかねすけ「聖徳太
子伝暦しょうとくたいしでんりゃく」(平安)※作者不詳(平
安)「平中へいちゅう物語ものがたり」「平家へいけ物語もの
がたり」(鎌倉)※未詳「曽我そがの物語ものがたり」(鎌倉
)※作者不詳「源平げんぺい盛衰記せいすいき」(鎌倉)※未
詳「承久記じょうきゅうき」(鎌倉)浅井あさい了りょう意い
「東海道名所記」(江戸)能(謡曲)伝世阿弥ぜあみ原作(室
町)「富士山ふじさん」※未詳(室町)「羽衣はごろも」御伽
草紙「富士の人穴ひとあな草紙ぞうし」(江戸)仮名草紙※作
者不詳(江戸)「竹斎ちくさい」滑稽本十返舎一九じっぺんし
ゃいっく(江戸)「東海道中膝栗毛とうかいどうちゅうひざく
りげ」仮名垣魯文かなかきろぶん(江戸−明治)「滑稽富士詣
こっけいふじもうで」26浄瑠璃近松門ちかまつもん左ざ衛門
えもん(江戸)「聖徳太子絵伝記」竹田たけだ出雲いずも・三
好松洛みよししょうらく・並木千柳なみきせんりゅう(江戸)
「仮名かな手本でほん忠臣蔵ちゅうしんぐら」童謡巌谷いわや
小波さざなみ(明治−大正)「富士山ふじさん」(「ふじの山
」)海野うんの厚あつし(明治−昭和)「背せいくらべ」随想
・随筆新井あらい白石はくせき(江戸)「折おりたく柴しばの
記」田山たやま花袋かたい(明治−昭和)「富士を望む」小島
烏水こじまうすい(明治−昭和)「すたれ行く富士の古道」、
「不二山ふじさん」永井ながい荷風かふう(明治

59 :
尼に(鎌倉)「安嘉門院あんかもんいんの四条しじょう五百首ご
ひゃくしゅ」万里ばんり集九しゅうきゅう(室町)「梅香無尽蔵
」堯ぎょう恵え(室町)「下葉和歌集」水無瀬みなせ氏成うじな
り(安土桃山−江戸)「水無瀬殿富士百首」清水浜臣しみずはま
おみ(江戸)田安宗たやすむね武たけ(江戸)「悠然院様御詠草
」林羅山はやしらざん(江戸)「丙辰へいしん紀行

60 :
「富士山ふじさん」※未詳(室町)「羽衣はごろも」御伽草紙「富士の人穴ひとあ
な草紙ぞうし」(江戸)仮名草紙※作者不詳(江戸)「竹斎ちくさい」滑稽本十返
舎一九じっぺんしゃいっく(江戸)「東海道中膝栗毛とうかいどうちゅうひざくり
げ」仮名垣魯文かなかきろぶん(江戸−明治)「滑稽富士詣こっけいふじもうで」
26浄瑠璃近松門ちかまつもん左ざ衛門えもん(江戸)「聖徳太子絵伝記」竹田た
けだ出雲いずも・三好松洛みよししょうらく・並木千柳なみきせんり

61 :
和ひより下駄げた」太宰だざい治おさむ(明治−昭和)「富嶽
百景ふがくひゃっけい」大町桂月おおまちけいげつ(明治−大
正)「富士の大観」中村星湖なかむらせいこ(明治−昭和)「
少年行しょうねんこう」北村きたむら透谷とうこく(明治)「
富嶽ふがくの詩し神しんを思おもふ」深田ふかだ久弥きゅうや
(明治−昭和)「日本にほん百名山ひゃくめいざん」小説落合
直文おちあいなおぶみ(江戸−明治)「たかねの雪ゆき」夏目
漱石なつめそうせき(明治−大正)「三四郎さん

62 :
わ丈山じょうざん(江戸)加藤枝かとうえ直なお(江戸)「うけ
らが花」賀茂真淵かものまぶち(江戸)「賀茂翁家集」本居宣も
とおりのり長なが(江戸)「石いその上稿かみこう」「鈴屋すず
のや集」契沖けいちゅう(江戸)「詠富士山百首和歌」村田むら
た春海はるみ(江戸)琴後ことじり集」島木赤彦しまぎあかひこ
(明治−大正)土井どい晩翠ばんすい(明治−昭和)「大敵迫る
」斉藤さいとう茂吉もきち(明治−昭和)「赤光」「箱根路」前
田まえだ夕暮ゆうぐれ(明治−昭和)「富士を歌ふ」若山わかや
ま牧水ぼくすい(明治−昭和)「海の声」北原きたはら白秋はく
しゅう(明治−昭和)「雲母集」「不尽抄」金子かねこ光晴みつ
はる(明治−昭和)「富士」「五つの湖」草野心平くさのしんぺ
い(明治−昭和)「富士山」小野おの十とお三郎ざぶろう(明治
−平成)「重油富士」「風景詩抄」28俳句松尾まつお芭蕉ばし
ょう(江戸)「奥の細道」与謝蕪村よさぶそん(江戸)小林こば
やし一茶いっさ(江戸)蝶夢ちょうむ(江戸)「宇良うら富士紀
行」正岡まさおか子規しき(明治)高浜虚子たかはまきょし(明
治−昭和)飯田いいだ蛇笏だこつ(明治−昭和)「山りょ集」富
安風生とみやすふうせい(明治−昭和)水原みずはら秋桜子しゅ
うおうし(明治−昭和)「葛飾」永井ながい荷風かふう(明治−
昭和)「名所方角集」西東さいとう三鬼さんき(明治−昭和)「
旗」「変身」渡辺わたなべ水すい巴は(明治−昭和)「富士」加
藤楸邨かとうしゅうそん(明治−平成)「寒雷」「慟哭」「都塵
抄」「雪後の天」293.登録の価値証明a)評価基準への適合
性証明1)条約上の遺産種別「富士山」は、世界遺産条約第1条
及び『世界遺産条約履行のための作業指針』(以下、『作業指針
』という。)第45項に規定にする「記念工作物」、「建造物群
」及び「遺跡」に該当する。2)評価基準への適合性証明以下に
示す理由に基づき、「富士山」には、世界遺産一覧表への記載の
ための評価基準のうち(B)、(C)、(E)が適用できる。評
価基準(B)現存するか消滅しているかにかかわらず、ある文化
的伝統又は文明の存在を伝承する物証として無二の存在(少なく
とも希有な存在)である。評価基準(B)の適用富

63 :
におわない納豆

64 :
「仮名かな手本でほん忠臣蔵ちゅうしんぐら」童謡巌谷いわや小波さざなみ(明治
−大正)「富士山ふじさん」(「ふじの山」)海野うんの厚あつし(明治−昭和)
「背せいくらべ」随想・随筆新井あらい白石はくせき(江戸)「折おりたく柴しば
の記」田山たやま花袋かたい(明治−昭和)「富士を望む」小島烏水こじまうすい
(明治−昭和)「すたれ行く富士の古道」、「不二山ふじさん」永井ながい荷風か
ふう(明治−昭和)「日和ひより下駄げた」太宰だざい治おさむ(明治−昭和)「
富嶽百景ふがくひゃっけい」大町桂月おおまちけいげつ(明治−大正)「富士の大
観」中村星湖なかむらせいこ(明治−昭和)「少年行しょうねんこう」北村きたむ
ら透谷とうこく(明治)「富嶽ふがくの詩し神しんを思おもふ」深田ふかだ久弥き
ゅうや(明治−昭和)「日本にほん百名山ひゃくめいざん」小説落合直文おちあい
なおぶみ(江戸−明治)「たかねの雪ゆき」夏目漱石なつめそうせき(明治−大正
)「三四郎さんしろう」「虞美人草ぐびじんそう」泉鏡花(明治−昭和)「婦おん
な系図けいず」「春しゅん昼ちゅう」「春しゅん昼ちゅう後刻ごこく」徳富とくと
み蘆花ろか(明治−昭和)「冨士ふじ」「自然しぜんと人生じんせい」(随筆)永
井ながい荷風かふう(明治−昭和)「新帰朝者日記」橋本英吉はしもとえいきち(
明治−昭和)「富士山頂ふじさんちょう」井伏鱒二いぶせますじ(明治−平成)「
岳麓点描がくろくてんびょう」武田泰淳たけだたいじゅん(大正−昭和)「富士ふ
じ」武田百合子たけだゆりこ(大正−昭和)「富士日記ふじにっき」新田にった次
郎じろう(大正−昭和)「強力伝ごうりきでん」「怒いかる富ふ士じ」「芙蓉ふよ
うの人ひと」「富士ふじに死しす」「着氷ちゃくひょう」「冬山ふゆやまの掟おき
て」「富士ふじ山頂さんちょう」川端康成かわばたやすなり(明治−昭和)「東海
道とうかいどう」白井喬二しらいきょうじ(明治−昭和)「富士ふじに立たつ影か
げ」国枝くにえだ史郎しろう(明治−昭和)「神州纐纈城しんしゅうこうけつじょ
う」松本まつもと清せい張ちょう(明治−昭和)「波なみの塔とう」

65 :
美人草ぐびじんそう」泉鏡花(明治−昭和)「婦おんな系図け
いず」「春しゅん昼ちゅう」「春しゅん昼ちゅう後刻ごこく」
徳富とくとみ蘆花ろか(明治−昭和)「冨士ふじ」「自然しぜ
んと人生じんせい」(随筆)永井ながい荷風かふう(明治−昭
和)「新帰朝者日記」橋本英吉はしもとえいきち(明治−昭和
)「富士山頂ふじさんちょう」井伏鱒二いぶせますじ(明治−
平成)「岳麓点描がくろくてんびょう」武田泰淳たけだたいじ
ゅん(大正−昭和)「富士ふじ」武田百合子たけだゆりこ(大
正−昭和)「富士日記ふじにっき」新田にった次郎じろう(大
正−昭和)「強力伝ごうりきでん」「怒いかる富ふ士じ」「芙
蓉ふようの人ひと」「富士ふじに死しす」「着氷ちゃくひょう
」「冬山ふゆやまの掟おきて」「富士ふじ山頂さんちょう」川
端康成かわばたやすなり(明治−昭和)「東海道とうかいどう
」白井喬二しらいきょうじ(明治−昭和)「富士ふじに立たつ
影かげ」国枝くにえだ史郎しろう(明治−昭和)「神州纐纈城
しんしゅうこうけつじょう」松本まつもと清せい張ちょう(明
治−昭和)「波なみの塔とう」芹沢光せりざわこう治じ良ろう
(明治−平成)「我が入道にゅうどう」「人間にんげんの運命
うんめい」幸田文こうだあや(明治−平成)「崩くずれ」27
詩歌伝柿本かきのもとの人麻呂ひとまろ(飛鳥−奈良)「柿本
集」山部赤人やまべのあかひと(奈良)「万葉集まんようしゅ
う」高橋たかはしの虫むし麻呂まろ(奈良)「高橋虫麻呂たか
はしのむしまろ歌集」藤原ふじわらの清きよ正ただ(平安)「
清きよ正ただ集」在原業平ありわらのなりひら(平安)「業平
集」藤原ふじわらの公きん任とう(平安)「公きん任とう集」
藤原ふじわらの定家さだいえ(平安−鎌倉)「内裏名所百首」
「名号みょうごう七字十題和歌」飛鳥あすか井い雅まさ経つね
(平安−鎌倉)「明日香あすか井い和歌集」藤原ふじわらの俊
とし成なり(平安−鎌倉)「(藤原兼ふじわらのかね実ざね)
右う大臣家だいじんけ百首ひゃくしゅ」「五社百首」「丹後守
為忠朝臣家百首」慈じ円えん(平安−鎌倉)「拾玉集」西行さ
いぎょう(鎌倉)「新古今和歌集しんこきんわか

66 :
なる気持ちを喚起する自然環境を背景とし、山頂への参詣などの
特徴を持った山に対する宗教的な儀礼・活動が成立し、18〜1
9世紀にかけて大規模な大衆による宗教的登山の代表的存在とな
った。山体とその周辺の地域には、体系化された儀礼・活動の場
となった神社、登山道、及びその沿道に分布する関連遺跡群、霊
地・巡礼地となった風穴・湧水地・湖沼などが残されている。そ
こでの儀礼や活動を通じて、人々の生活の中に富士山に対する信
仰の核心が継承されている。また、今日でも富士山は日本を代表
し象徴する最高峰として老若男女を問わず憧れ親しむ「名山」で
ある。したがって、富士山は山頂への参詣という形態を中心とし
、時代を超えて今日まで継承された山に対する固有の文化的伝統
を顕著に表わす物証として稀有な存在である。・日本における山
に対する固有の文化的伝統を顕著に表わす物証富士山の山頂部一
帯は、山に対する日本の宗教観とその秀麗な姿、及び10世紀頃
まで盛んであった火山活動などに基づき神仏の世界、あるいは他
界(死後世界)とされてきた。このため富士山では富士山の神(
※1)を祀った山麓の浅間神社における遥拝活動とともに、以下
の絵図(類似の登山案内図が数多く作成された)に示されたよう
に、雲上の神仏の世界へ一定の儀礼に従って参詣する「登拝」を
中心に、富士山体・周辺にある富士山の火山活動によって生成さ
れ神聖な意味を持つとされた風穴・溶岩樹型・湖沼・滝・湧水地
などを巡礼し、修行することで治病・除災などの超自然的力を獲
得し、罪や穢れを消して生まれ変わる(擬死再生)と考える「富
士山禅定」(※2)と呼ばれる行為(儀礼・活動)が成立し、1
8〜19世紀にかけて富士山は体系化された登拝のための宗教施
設も含め、大規模な大衆による宗教的登山を代表する存在となっ
ていた。このような自然への畏敬という日本の宗教観の根本を基
盤とし、神仙思想(道教)や仏教(特に密教)なとど融合した日
本独特の山岳信仰を代表する遥拝及び登拝・登山の様式は今日で
も命脈を保ち、特に夏季を中心に訪れる外国人を含む多くの登山
客とともに富士登山の特徴を成している。また、信仰の核心部分
は各地の浅間神社に対する信仰や今日も続く宗教的

67 :
わこう治じ良ろう(明治−平成)「我が入道にゅうどう」「人間にんげんの運命う
んめい」幸田文こうだあや(明治−平成)「崩くずれ」27詩歌伝柿本かきのもと
の人麻呂ひとまろ(飛鳥−奈良)「柿本集」山部赤人やまべのあかひと(奈良)「
万葉集まんようしゅう」高橋たかはしの虫むし麻呂まろ(奈良)「高橋虫麻呂たか
はしのむしまろ歌集」藤原ふじわらの清きよ正ただ(平安)「清きよ正ただ集」在
原業平ありわらのなりひら(平安)「業平集」藤原ふじわらの公きん任とう(平安
)「公きん任とう集」藤原ふじわらの定家さだいえ(平安−鎌倉)「内裏名所百首
」「名号みょうごう七字十題和歌」飛鳥あすか井い雅まさ経つね(平安−鎌倉)「
明日香あすか井い和歌集」藤原ふじわらの俊とし成なり(平安−鎌倉)「(藤原兼
ふじわらのかね実ざね)右う大臣家だいじんけ百首ひゃくしゅ」「五社百首」「丹
後守為忠朝臣家百首」慈じ円えん(平安−鎌倉)「拾玉集」西行さいぎょう(鎌倉
)「新古今和歌集しんこきんわかしゅう」源実朝みなもとのさねとも(鎌倉)「金
槐和歌集きんかいわかしゅう」阿仏あぶつ尼に(鎌倉)「安嘉門院あんかもんいん
の四条しじょう五百首ごひゃくしゅ」万里ばんり集九しゅうきゅう(室町)「梅香
無尽蔵」堯ぎょう恵え(室町)「下葉和歌集」水無瀬みなせ氏成うじなり(安土桃
山−江戸)「水無瀬殿富士百首」清水浜臣しみずはまおみ(江戸)田安宗たやすむ
ね武たけ(江戸)「悠然院様御詠草」林羅山はやしらざん(江戸)「丙辰へいしん
紀行」石川いしかわ丈山じょうざん(江戸)加藤枝かとうえ直なお(江戸)「うけ
らが花」賀茂真淵かものまぶち(江戸)「賀茂翁家集」本居宣もとおりのり長なが
(江戸)「石いその上稿かみこう」「鈴屋すずのや集」契沖けいちゅう(江戸)「
詠富士山百首和歌」村田むらた春海はるみ(江戸)琴後ことじり集」島木赤彦しま
ぎあかひこ(明治−大正)土井どい晩翠ばんすい(明治−昭和)「大敵迫る」斉藤
さいとう茂吉もきち(明治−昭和)「赤光」「箱根路」前田まえだ夕暮ゆうぐれ(
明治−昭和)「富士を歌ふ」若山わかやま牧水ぼくすい(明治−昭和

68 :
朝みなもとのさねとも(鎌倉)「金槐和歌集きんかいわかしゅ
う」阿仏あぶつ尼に(鎌倉)「安嘉門院あんかもんいんの四条
しじょう五百首ごひゃくしゅ」万里ばんり集九しゅうきゅう(
室町)「梅香無尽蔵」堯ぎょう恵え(室町)「下葉和歌集」水
無瀬みなせ氏成うじなり(安土桃山−江戸)「水無瀬殿富士百
首」清水浜臣しみずはまおみ(江戸)田安宗たやすむね武たけ
(江戸)「悠然院様御詠草」林羅山はやしらざん(江戸)「丙
辰へいしん紀行」石川いしかわ丈山じょうざん(江戸)加藤枝
かとうえ直なお(江戸)「うけらが花」賀茂真淵かものまぶち
(江戸)「賀茂翁家集」本居宣もとおりのり長なが(江戸)「
石いその上稿かみこう」「鈴屋すずのや集」契沖けいちゅう(
江戸)「詠富士山百首和歌」村田むらた春海はるみ(江戸)琴
後ことじり集」島木赤彦しまぎあかひこ(明治−大正)土井ど
い晩翠ばんすい(明治−昭和)「大敵迫る」斉藤さいとう茂吉
もきち(明治−昭和)「赤光」「箱根路」前田まえだ夕暮ゆう
ぐれ(明治−昭和)「富士を歌ふ」若山わかやま牧水ぼくすい
(明治−昭和)「海の声」北原きたはら白秋はくしゅう(明治
−昭和)「雲母集」「不尽抄」金子かねこ光晴みつはる(明治
−昭和)「富士」「五つの湖」草野心平くさのしんぺい(明治
−昭和)「富士山」小野おの十とお三郎ざぶろう(明治−平成
)「重油富士」「風景詩抄」28俳句松尾まつお芭蕉ばしょう
(江戸)「奥の細道」与謝蕪村よさぶそん(江戸)小林こばや
し一茶いっさ(江戸)蝶夢ちょうむ(江戸)「宇良うら富士紀
行」正岡まさおか子規しき(明治)高浜虚子たかはまきょし(
明治−昭和)飯田いいだ蛇笏だこつ(明治−昭和)「山りょ集
」富安風生とみやすふうせい(明治−昭和)水原みずはら秋桜
子しゅうおうし(明治−昭和)「葛飾」永井ながい荷風かふう
(明治−昭和)「名所方角集」西東さいとう三鬼さんき(明治
−昭和)「旗」「変身」渡辺わたなべ水すい巴は(明治−昭和
)「富士」加藤楸邨かとうしゅうそん(明治−平成)「寒雷」
「慟哭」「都塵抄」「雪後の天」293.登録の価値証明a)
評価基準への適合性証明1)条約上の遺産種別「

69 :
世界遺産条約第1条及び『世界遺産条約履行のための作業指針
』(以下、『作業指針』という。)第45項に規定にする「記
念工作物」、「建造物群」及び「遺跡」に該当する。2)評価
基準への適合性証明以下に示す理由に基づき、「富士山」には
、世界遺産一覧表への記載のための評価基準のうち(B)、(
C)、(E)が適用できる。評価基準(B)現存するか消滅し
ているかにかかわらず、ある文化的伝統又は文明の存在を伝承
する物証として無二の存在(少なくとも希有な存在)である。
評価基準(B)の適用富士山では神聖なる気持ちを喚起する自
然環境を背景とし、山頂への参詣などの特徴を持った山に対す
る宗教的な儀礼・活動が成立し、18〜19世紀にかけて大規
模な大衆による宗教的登山の代表的存在となった。山体とその
周辺の地域には、体系化された儀礼・活動の場となった神社、
登山道、及びその沿道に分布する関連遺跡群、霊地・巡礼地と
なった風穴・湧水地・湖沼などが残されている。そこでの儀礼
や活動を通じて、人々の生活の中に富士山に対する信仰の核心
が継承されている。また、今日でも富士山は日本を代表し象徴
する最高峰として老若男女を問わず憧れ親しむ「名山」である
。したがって、富士山は山頂への参詣という形態を中心とし、
時代を超えて今日まで継承された山に対する固有の文化的伝統
を顕著に表わす物証として稀有な存在である。・日本における
山に対する固有の文化的伝統を顕著に表わす物証富士山の山頂
部一帯は、山に対する日本の宗教観とその秀麗な姿、及び10
世紀頃まで盛んであった火山活動などに基づき神仏の世界、あ
るいは他界(死後世界)とされてきた。このため富士山では富
士山の神(※1)を祀った山麓の浅間神社における遥拝活動と
ともに、以下の絵図(類似の登山案内図が数多く作成された)
に示されたように、雲上の神仏の世界へ一定の儀礼に従って参
詣する「登拝」を中心に、富士山体・周辺にある富士山の火山
活動によって生成され神聖な意味を持つとされた風穴・溶岩樹
型・湖沼・滝・湧水地などを巡礼し、修行することで治病・除
災などの超自然的力を獲得し、罪や穢れを消して

70 :
北原きたはら白秋はくしゅう(明治−昭和)「雲母集」「不尽抄」金子かねこ光晴
みつはる(明治−昭和)「富士」「五つの湖」草野心平くさのしんぺい(明治−昭
和)「富士山」小野おの十とお三郎ざぶろう(明治−平成)「重油富士」「風景詩
抄」28俳句松尾まつお芭蕉ばしょう(江戸)「奥の細道」与謝蕪村よさぶそん(
江戸)小林こばやし一茶いっさ(江戸)蝶夢ちょうむ(江戸)「宇良うら富士紀

71 :
によって受け継がれ、富士山は日本を代表する神聖な山として知
られている。(※1)この神は、1868年の神仏分離令まで神
仏習合の影響を受け仏の化身と考えられていた。また、この神は
一つの神に限定されず、信仰の種類や時代ごとに異なる性格と名
称を持ついくつかの神または仏が信仰

72 :
礫地帯(「焼山」、「ハゲ山」などと呼ばれた)の神仏の世界あ
るいは他界に至るイメージで認知されるようになり、同時期に絵
画や文学作品において典型的な富士山像が成立したことを背景に
、「絹本著色冨士曼荼羅図」を代表例とする信仰上の景観認識が
成立した。17世紀以降はこれらの典型的な認識を基に、さらに
多様な信仰上の認識(※3)が模索され、「富士講」と呼ばれる
富士山信仰集団の隆盛や交流人口の拡大などにより、18世紀後
半から19世紀にかけてほとんどの日本人に富士山

73 :
れている。また、今日でも富士山は日本を代表し象徴する最高峰として老若男女を
問わず憧れ親しむ「名山」である。したがって、富士山は山頂への参詣という形態
を中心とし、時代を超えて今日まで継承された山に対する固有の文化的伝統を顕著
に表わす物証として稀有な存在である。・日本における山に対する固有の文化的伝
統を顕著に表わす物証富士山の山頂部一帯は、山に対する日本の宗教観とその秀麗
な姿、及び10世紀頃まで盛んであった火山活動などに基づき神仏の

74 :
(擬死再生)と考える「富士山禅定」(※2)と呼ばれる行為
(儀礼・活動)が成立し、18〜19世紀にかけて富士山は体
系化された登拝のための宗教施設も含め、大規模な大衆による
宗教的登山を代表する存在となっていた。このような自然への
畏敬という日本の宗教観の根本を基盤とし、神仙思想(道教)
や仏教(特に密教)なとど融合した日本独特の山岳信仰を代表
する遥拝及び登拝・登山の様式は今日でも命脈を保ち、特に夏
季を中心に訪れる外国人を含む多くの登山客とと

75 :
しての景観認識が定着した(※4)。この認識は近代工業社会の
自然に対する考え方が一般化する以前の山と人間との良好な精神
的関係を示すものであった。、31(※3)富士山は神仙思想に
おける不老不死の象徴である「蓬莱山」や仏教における世界の中
心である「須弥山」に見立てられた。また、主に18世紀後半よ
り富士山の信仰上の景観認識を立体化した「富士塚」が東京を中
心に建設され、女性を含め山頂への登拝ができない人にとっての
代参施設となった。(※4)登拝者には登山口の浅間神社や御師
の発行する富士山の信仰上の景観認識を描いた宗教画が配布され
るとともに、縁起の良いものとして富士山やその図像を拝したり
、眺めることが行われた。右「富士山のゾーニング」左「三尊九
尊図」評価基準(E)顕著な普遍的意義を有する出来事(行事)
、生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と
直接または実質的関連がある(この基準は他の基準とあわせて用
いられることが望ましい)。評価基準(E)の適用富士山と周辺
の特徴的な自然が醸成する優秀な景観美や火山としての活動は、
日本人の山に対する信仰の形成の一翼を担い、今日まで継承され
ている山頂への遥拝と参詣を中心とした文化的伝統は、アジア地
域に顕著である山を神聖視する文化と深い関りを有している。写
真写真焼山(ハゲ山)木山(深山)草山(カヤ原)32また、こ
れらの富士山の特色は古くから様々な芸術活動の母胎ともなり、
「万葉集」や「竹取物語」をはじめとする日本固有の和歌、俳句
、物語文学やこれらを主題とする絵画などの対象として日本人に
良く知られていた。特に富士山を題材にした「浮世絵」などは海
外にも広く知られ、近現代の西洋芸術に様々な影響を与えてきた
。したがって、富士山は、顕著な普遍的意義を持つ生きた伝統、
芸術的作品・文学的作品と直接的・実質的に関連がある景観であ
る。・顕著な普遍的意義を持つ生きた伝統との直接的・実質的関
連アジア地域、特に東アジア地域では特異な形態を持った山岳の
空間を神聖視し、仏教(特に密教)や道教(神仙思想)、儒教と
結びついて修行の場や宗教施設を設置する場とした。これらの伝
統は6世紀〜8世紀を中心に日本に伝えられ、日本

76 :
は他界(死後世界)とされてきた。このため富士山では富士山の神(※1)を祀っ
た山麓の浅間神社における遥拝活動とともに、以下の絵図(類似の登山案内図が数
多く作成された)に示されたように、雲上の神仏の世界へ一定の儀礼に従って参詣
する「登拝」を中心に、富士山体・周辺にある富士山の火山活動によって生成され
神聖な意味を持つとされた風穴・溶岩樹型・湖沼・滝・湧水地などを巡礼し、修行
することで治病・除災などの超自然的力を獲得し、罪や穢れを消して生まれ変わる
(擬死再生)と考える「富士山禅定」(※2)と呼ばれる行為(儀礼・活動)が成
立し、18〜19世紀にかけて富士山は体系化された登拝のための宗教施設も含め
、大規模な大衆による宗教的登山を代表する存在となっていた。このような自然へ
の畏敬という日本の宗教観の根本を基盤とし、神仙思想(道教)や仏教(特に密教
)なとど融合した日本独特の山岳信仰を代表する遥拝及び登拝・登山の様式は今日
でも命脈を保ち、特に夏季を中心に訪れる外国人を含む多くの登山客とともに富士
登山の特徴を成している。また、信仰の核心部分は各地の浅間神社に対する信仰や
今日も続く宗教的な儀礼・活動によって受け継がれ、富士山は日本を代表する神聖
な山として知られている。(※1)この神は、1868年の神仏分離令まで神仏習
合の影響を受け仏の化身と考えられていた。また、この神は一つの神に限定されず
、信仰の種類や時代ごとに異なる性格と名称を持ついくつかの神または仏が信仰さ
れていた。(※2)「禅定」とは本来は心を静めて一つの対象に集中する宗教的瞑
想・状態、あるいはその結果仏と一体化することを示す言葉であり、その後、主に
修験道において富士山などの霊山に登って修行することも意味するようになった。
写真「絹本著色冨士曼荼羅図」(部分:16世紀ごろ)30「絹本著色冨士曼荼羅
図」(16世紀ごろ)評価基準(C)歴史上の重要な段階を物語る建築物、その集
合体、科学技術の集合体、あるいは景観を代表する顕著な見本である。評価基準(
C)の適用富士山では、富士山信仰の形成の中で神社等の建築群・登

77 :
の特徴を成している。また、信仰の核心部分は各地の浅間神社
に対する信仰や今日も続く宗教的な儀礼・活動によって受け継
がれ、富士山は日本を代表する神聖な山として知られている。
(※1)この神は、1868年の神仏分離令まで神仏習合の影
響を受け仏の化身と考えられていた。また、この神は一つの神
に限定されず、信仰の種類や時代ごとに異なる性格と名称を持
ついくつかの神または仏が信仰されていた。(※2)「禅定」
とは本来は心を静めて一つの対象に集中する宗教的瞑想・状態
、あるいはその結果仏と一体化することを示す言葉であり、そ
の後、主に修験道において富士山などの霊山に登って修行する
ことも意味するようになった。写真「絹本著色冨士曼荼羅図」
(部分:16世紀ごろ)30「絹本著色冨士曼荼羅図」(16
世紀ごろ)評価基準(C)歴史上の重要な段階を物語る建築物
、その集合体、科学技術の集合体、あるいは景観を代表する顕
著な見本である。評価基準(C)の適用富士山では、富士山信
仰の形成の中で神社等の建築群・登山道・宗教施設を経て山頂
に参詣する体系化された宗教的儀礼・活動が15〜16世紀に
かけて発達し、18〜19世紀にかけて完成された。この過程
において、日本における山に対する固有の文化的伝統や富士山
により生み出された芸術活動を背景として、富士山の宗教施設
、そこでの儀礼・活動は富士山の自然環境と一体となって宗教
的な意味を持つ景観として認知され、これが宗教的絵画等で表
現されることにより、多くの人々に富士山が神聖な山であると
の認識がより強固に定着し、日本写真上図拡大部分宗教施設水
垢離場における山と人間の良好な関係の形成に影響を与えた。
したがって、富士山への信仰の形成過程を通じて定着した富士
山の景観認識は近代工業社会以前の段階における山と人間との
精神的関係を表す景観の顕著な見本である。・山と人間との精
神的な関係を表す景観の顕著な見本富士山では噴火が沈静化し
た12世紀ごろから山頂への宗教的登山が開始され、15〜1
6世紀には「富士山禅定」と呼ばれた登拝様式が整い、大衆に
も拡大した。この過程で富士山は、矮小な存在で

78 :
仰や神道と結びつき修験道などの信仰を生んだ。現在の富士山に
おいてはこれらの信仰の核心部分が登拝などの形態や儀式に伝え
られている。また、富士山のみならず日本各地の山岳やアジア地
域の山岳においても形態は異なるとはいえ山を神聖視することを
その根本に据えた文化的伝統が数多く行われている。したがって
、富士山は顕著な普遍的価値を持つ生きた伝統と直接的・実質的
に関連がある景観である。・顕著な普遍的意義を持つ芸術作品と
の直接的・実質的関連独立峰である富士山の周囲には湖や海と組
み合わされた富士山の優れた景観を望む展望地があり、今日に至
るまで多くの芸術作品を創造する場となった。これらの富士山を
題材にした芸術作品のうち、最も海外に影響を与えた作品は葛飾
北斎の浮世絵「冨嶽三十六景」である。19世紀前半に作成され
たこの一連の作品は、日本の開国に伴い西洋に輸出され、他の浮
世絵とともにその構図や表現方法がジャポニスムと呼ばれた西洋
における日本芸術の流行を生み、モネ、ゴッホといった印象派の
画家に大きな影響を与え、アールヌーボーが発生する一因となっ
た。そのほか、富士山と三保松原を舞台に富士山に関わる伝説を
モチーフとした能(謡曲)「羽衣」は文学におけるモダニズムに
影響を与えた作品である。また、19世紀後半から20世紀初頭
にかけて、日本が万国博覧会などで意図的に出品した富士山を題
材にした絵画・工芸作品や、富士山を意匠に用いた日本の輸出品
は、富士山を描いた浮世絵や日本を訪れた外国人が富士山からイ
ンスピレーションを得て記述した紀行文の文学的表現などととも
に多くの世界の人々に他の世界の著名な山と明確に区別される富
士山の景観イメージを広めることに貢献した。文学では海外に良
く知られた「万葉集」以来、数多くの和歌や俳句などによってそ
の崇高さや美しさが称えられ、近代以降も海外にも知られた文学
者(※夏目漱石「三四郎」・太宰治「富岳百景」など)によるも
のをはじめ富士山を舞台とした作品が生み出された。写真写真左
「神奈川沖浪裏」右「凱風快晴」葛飾北斎「冨嶽三十六景」より
(1831〜36年)33写真ゴッホ「タンギー爺さん」b)顕
著な普遍的価値の証明a)において証明した評価基

79 :
設を経て山頂に参詣する体系化された宗教的儀礼・活動が15〜16世紀にかけて
発達し、18〜19世紀にかけて完成された。この過程において、日本における山
に対する固有の文化的伝統や富士山により生み出された芸術活動を背景として、富
士山の宗教施設、そこでの儀礼・活動は富士山の自然環境と一体となって宗教的な
意味を持つ景観として認知され、これが宗教的絵画等で表現されることにより、多
くの人々に富士山が神聖な山であるとの認識がより強固に定着し、日本写真上図拡
大部分宗教施設水垢離場における山と人間の良好な関係の形成に影響を与えた。し
たがって、富士山への信仰の形成過程を通じて定着した富士山の景観認識は近代工
業社会以前の段階における山と人間との精神的関係を表す景観の顕著な見本である
。・山と人間との精神的な関係を表す景観の顕著な見本富士山では噴火が沈静化し
た12世紀ごろから山頂への宗教的登山が開始され、15〜16世紀には「富士山
禅定」と呼ばれた登拝様式が整い、大衆にも拡大した。この過程で富士山は、矮小
な存在である人間が山麓の草原地帯(「草山」、「カヤ原」などと呼ばれた)にあ
る神社・水垢離場で身を清め、森林地帯(「木山」、「深山」などと呼ばれた)の
山中の宗教施設等を順に経ながら、砂礫地帯(「焼山」、「ハゲ山」などと呼ばれ
た)の神仏の世界あるいは他界に至るイメージで認知されるようになり、同時期に
絵画や文学作品において典型的な富士山像が成立したことを背景に、「絹本著色冨
士曼荼羅図」を代表例とする信仰上の景観認識が成立した。17世紀以降はこれら
の典型的な認識を基に、さらに多様な信仰上の認識(※3)が模索され、「富士講
」と呼ばれる富士山信仰集団の隆盛や交流人口の拡大などにより、18世紀後半か
ら19世紀にかけてほとんどの日本人に富士山の神聖な山としての景観認識が定着
した(※4)。この認識は近代工業社会の自然に対する考え方が一般化する以前の
山と人間との良好な精神的関係を示すものであった。、31(※3)富士山は神仙
思想における不老不死の象徴である「蓬莱山」や仏教における世界の

80 :
麓の草原地帯(「草山」、「カヤ原」などと呼ばれた)にある
神社・水垢離場で身を清め、森林地帯(「木山」、「深山」な
どと呼ばれた)の山中の宗教施設等を順に経ながら、砂礫地帯
(「焼山」、「ハゲ山」などと呼ばれた)の神仏の世界あるい
は他界に至るイメージで認知されるようになり、同時期に絵画
や文学作品において典型的な富士山像が成立したことを背景に
、「絹本著色冨士曼荼羅図」を代表例とする信仰上の景観認識
が成立した。17世紀以降はこれらの典型的な認識を基に、さ
らに多様な信仰上の認識(※3)が模索され、「富士講」と呼
ばれる富士山信仰集団の隆盛や交流人口の拡大などにより、1
8世紀後半から19世紀にかけてほとんどの日本人に富士山の
神聖な山としての景観認識が定着した(※4)。この認識は近
代工業社会の自然に対する考え方が一般化する以前の山と人間
との良好な精神的関係を示すものであった。、31(※3)富
士山は神仙思想における不老不死の象徴である「蓬莱山」や仏
教における世界の中心である「須弥山」に見立てられた。また
、主に18世紀後半より富士山の信仰上の景観認識を立体化し
た「富士塚」が東京を中心に建設され、女性を含め山頂への登
拝ができない人にとっての代参施設となった。(※4)登拝者
には登山口の浅間神社や御師の発行する富士山の信仰上の景観
認識を描いた宗教画が配布されるとともに、縁起の良いものと
して富士山やその図像を拝したり、眺めることが行われた。右
「富士山のゾーニング」左「三尊九尊図」評価基準(E)顕著
な普遍的意義を有する出来事(行事)、生きた伝統、思想、信
仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直接または実質的関連
がある(この基準は他の基準とあわせて用いられることが望ま
しい)。評価基準(E)の適用富士山と周辺の特徴的な自然が
醸成する優秀な景観美や火山としての活動は、日本人の山に対
する信仰の形成の一翼を担い、今日まで継承されている山頂へ
の遥拝と参詣を中心とした文化的伝統は、アジア地域に顕著で
ある山を神聖視する文化と深い関りを有している。写真写真焼
山(ハゲ山)木山(深山)草山(カヤ原)32ま

81 :
須弥山」に見立てられた。また、主に18世紀後半より富士山の信仰上の景観認識
を立体化した「富士塚」が東京を中心に建設され、女性を含め山頂への登拝ができ
ない人にとっての代参施設となった。(※4)登拝者には登山口の浅間神社や御師
の発行する富士山の信仰上の景観認識を描いた宗教画が配布されるとともに、縁起
の良いものとして富士山やその図像を拝したり、眺めることが行われた。右「富士
山のゾーニング」左「三尊九尊図」評価基準(E)顕著な普遍的意義を有する出来
事(行事)、生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直接ま
たは実質的関連がある(この基準は他の基準とあわせて用いられることが望ましい
)。評価基準(E)の適用富士山と周辺の特徴的な自然が醸成する優秀な景観美や
火山としての活動は、日本人の山に対する信仰の形成の一翼を担い、今日まで継承
されている山頂への遥拝と参詣を中心とした文化的伝統は、アジア地域に顕著であ
る山を神聖視する文化と深い関りを有している。写真写真焼山(ハゲ山)木山(深
山)草山(カヤ原)32また、これらの富士山の特色は古くから様々な芸術活動の
母胎ともなり、「万葉集」や「竹取物語」をはじめとする日本固有の和歌、俳句、
物語文学やこれらを主題とする絵画などの対象として日本人に良く知られていた。
特に富士山を題材にした「浮世絵」などは海外にも広く知られ、近現代の西洋芸術
に様々な影響を与えてきた。したがって、富士山は、顕著な普遍的意義を持つ生き
た伝統、芸術的作品・文学的作品と直接的・実質的に関連がある景観である。・顕
著な普遍的意義を持つ生きた伝統との直接的・実質的関連アジア地域、特に東アジ
ア地域では特異な形態を持った山岳の空間を神聖視し、仏教(特に密教)や道教(
神仙思想)、儒教と結びついて修行の場や宗教施設を設置する場とした。これらの
伝統は6世紀〜8世紀を中心に日本に伝えられ、日本固有の山岳信仰や神道と結び
つき修験道などの信仰を生んだ。現在の富士山においてはこれらの信仰の核心部分
が登拝などの形態や儀式に伝えられている。また、富士山のみならず

82 :
証明1)比較軸の特定富士山の顕著な普遍的価値を表す要素を特
定し、他の同種の遺産がそれらの要素に該当するか否かを検討す
ることによって比較を行う。富士山の顕著な普遍的価値は、以下
の3つの要素に整理できる。(1)山に対する固有の文化的伝統
を顕著に表わす物証として稀有な存在:富士山では山頂への参詣
などの特徴を持った山に対する宗教的な儀礼・活動

83 :
岳やアジア地域の山岳においても形態は異なるとはいえ山を神聖視することをその
根本に据えた文化的伝統が数多く行われている。したがって、富士山は顕著な普遍
的価値を持つ生きた伝統と直接的・実質的に関連がある景観である。・顕著な普遍
的意義を持つ芸術作品との直接的・実質的関連独立峰である富士山の周囲には湖や
海と組み合わされた富士山の優れた景観を望む展望地があり、今日に至るまで多く
の芸術作品を創造する場となった。これらの富士山を題材にした芸術

84 :
にかけて、日本が万国博覧会などで意図的に出品した富士山を
題材にした絵画・工芸作品や、富士山を意匠に用いた日本の輸
出品は、富士山を描いた浮世絵や日本を訪れた外国人が富士山
からインスピレーションを得て記述した紀行文の文学的表現な
どとともに多くの世界の人々に他の世界の著名な山と明確に区
別される富士山の景観イメージを広めることに貢献した。文学
では海外に良く知られた「万葉集」以来、数多くの和歌や俳句
などによってその崇高さや美しさが称えられ、近

85 :
体とその周辺の地域には、神社、登山道、霊地・巡礼地となった
風穴・湧水地・湖沼などが残されている。そこでの儀礼や活動を
通じて、人々の生活の中に富士山に対する信仰の核心が継承され
ている。(2)景観の顕著な見本:富士山体とその周辺の景観は
、類いまれな美しさ、神聖な空間として認知され、日本における
自然美の典型として、多くの人々に世界の山の中でも最も著目な
アイコンとして共有されている。(3)顕著な普遍的意義を持つ
芸術的作品との関連性:富士山の優れた景観美は、近現代の西洋
美術に影響を与えた芸術的作品などに「関連する景観」である。
信仰の山については、2001年9月に和歌山県で開催された国
際会議「アジア・太平洋地域における信仰の山の文化的景観に関
する専門家会議」(以下、「信仰の山会議」という)において、
信仰の山の認定及び保護に関する様々なテーマと問題が討議され
た。ここで、信仰の山の遺産としての価値は、有形的価値、無形
的価値の形態をとって現れるとされた。また、信仰の山の自然的
特性についても評価が可能とされた。信仰の山会議で示された指
標を参考に、富士山の顕著な普遍的価値を表す要素を勘案して、
自然的要素としては、「形状・標高」(独立峰かどうか、富士山
と同程度の標高か)、「岩盤や岩(洞窟を含む)・水域」「火山
」(火山であることに由来する特徴的な風穴・湧水地・湖沼など
があるか)、有形的価値としては、「洞窟」「歴史的な巡礼路又
は参詣道」「神社」「寺院」「眺望・展望地」がそれぞれ存在す
るかどうか、無形的価値としては、「継続性」(崇拝儀礼などが
今も行われているか)、「存在」(山自体が信仰の対象か)、「
慣習」(登拝、遙拝を行っているか)、「アイデンティティ」(
山自体が国、民族の象徴となっているか)、「知名度」(富士山
と同程度(山頂までの登山者が30万人、山麓が4,000万人
)の訪問者があるか)、といった観点から、評価することとする
。同様に、顕著な普遍的意義を持つ芸術的作品との関連性につい
ては、山の景観美が芸術作品を産み出す母胎となったかどうか、
またそれらの作品群が海外にも広く知られ、世界史に大きな影響
を35与えたかどうか、といった観点から、評価す

86 :
最も海外に影響を与えた作品は葛飾北斎の浮世絵「冨嶽三十六景」である。19世
紀前半に作成されたこの一連の作品は、日本の開国に伴い西洋に輸出され、他の浮
世絵とともにその構図や表現方法がジャポニスムと呼ばれた西洋における日本芸術
の流行を生み、モネ、ゴッホといった印象派の画家に大きな影響を与え、アールヌ
ーボーが発生する一因となった。そのほか、富士山と三保松原を舞台に富士山に関
わる伝説をモチーフとした能(謡曲)「羽衣」は文学におけるモダニズムに影響を
与えた作品である。また、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、日本が万国博
覧会などで意図的に出品した富士山を題材にした絵画・工芸作品や、富士山を意匠
に用いた日本の輸出品は、富士山を描いた浮世絵や日本を訪れた外国人が富士山か
らインスピレーションを得て記述した紀行文の文学的表現などとともに多くの世界
の人々に他の世界の著名な山と明確に区別される富士山の景観イメージを広めるこ
とに貢献した。文学では海外に良く知られた「万葉集」以来、数多くの和歌や俳句
などによってその崇高さや美しさが称えられ、近代以降も海外にも知られた文学者
(※夏目漱石「三四郎」・太宰治「富岳百景」など)によるものをはじめ富士山を
舞台とした作品が生み出された。写真写真左「神奈川沖浪裏」右「凱風快晴」葛飾
北斎「冨嶽三十六景」より(1831〜36年)33写真ゴッホ「タンギー爺さん
」b)顕著な普遍的価値の証明a)において証明した評価基準への適合性の証明の
結果として、「富士山」は以下に記す観点から顕著な普遍的価値を持つ。顕著な普
遍的価値の言明富士山は、日本を代表し象徴する日本最高峰(標高3776m)の
秀麗な独立した火山として世界的に著名であり、その自然的美しさと崇高さを基盤
として日本人の自然に対する信仰の在り方や、海外に影響を与えた葛飾北斎や歌川
広重などによる顕著な普遍的価値を持つ「浮世絵」などの日本独特の芸術文化を育
んだ「名山」である。富士山は、山岳に対する信仰の在り方や芸術活動などを通じ
、時代を超えて一国の文化の諸相と極めて深い関連性を示し、生きた

87 :
にも知られた文学者(※夏目漱石「三四郎」・太宰治「富岳百
景」など)によるものをはじめ富士山を舞台とした作品が生み
出された。写真写真左「神奈川沖浪裏」右「凱風快晴」葛飾北
斎「冨嶽三十六景」より(1831〜36年)33写真ゴッホ
「タンギー爺さん」b)顕著な普遍的価値の証明a)において
証明した評価基準への適合性の証明の結果として、「富士山」
は以下に記す観点から顕著な普遍的価値を持つ。顕著な普遍的
価値の言明富士山は、日本を代表し象徴する日本最高峰(標高
3776m)の秀麗な独立した火山として世界的に著名であり
、その自然的美しさと崇高さを基盤として日本人の自然に対す
る信仰の在り方や、海外に影響を与えた葛飾北斎や歌川広重な
どによる顕著な普遍的価値を持つ「浮世絵」などの日本独特の
芸術文化を育んだ「名山」である。富士山は、山岳に対する信
仰の在り方や芸術活動などを通じ、時代を超えて一国の文化の
諸相と極めて深い関連性を示し、生きた文化的伝統の物証であ
るのみならず、人間と自然との良好で継続的な関係を示す景観
の傑出した類型として、世界的にも類例を見ない顕著な普遍的
価値を持つ山である。富士山の山体とその周辺の地域には、宗
教的な儀礼・活動の場となった神社、登山道と関連遺跡群、霊
地・巡礼地となった風穴・湧水地・湖沼などが残され、そこで
の儀礼や活動を通じて、人々の生活の中に富士山に対する信仰
の核心が継承されている。また、富士山信仰の中で山体・樹叢
・湖沼などの自然環境を基盤とし、体系化された神社等の建築
群・登山道・宗教施設を経て山頂に参詣する宗教的な儀礼・活
動が成立した。これが発展し、18〜19世紀にかけて富士山
は大規模な大衆による宗教的登山及びその体系の典型的存在と
なり、この体系の核心は現代の登山に継承されている。現在で
も、富士山は日本を代表し象徴する最高峰として老若男女を問
わず憧れ親しむ「名山」である。加えて、富士山と周辺の特徴
的な自然が醸成する美しさと崇高さは、信仰上の景観として捉
えられただけでなく、古くから様々な芸術活動の母胎となり、
「万葉集」をはじめとする日本固有の和歌や俳句

88 :
。2)海外同種資産の特定同種資産の特定にあたっては、評価基
準に関するものとしては、@「信仰の山会議」で信仰の山と紹介
されている山岳、評価基準に関するものとしては、A世界遺産リ
ストの概要で芸術への明確な関連性が示されている山岳、B海外
の専門家による研究書等で芸術の山として紹介されている山岳等
を抽出した。また、両方の基準に関するものとしては、Cイコモ
スによる研究書「FillingtheGaps」の類型別分析
・テーマ別分析、D文化的景観に関する研究書の分析を行った。
具体的には、Bでは、の三つの文献を対象として資産を抽出した
。Cでは、「文学・芸術への関連性、演劇」、「聖なる山」、「
アジア・太平洋地域の土着信仰」に関する山岳等を抽出した。D
では、ユネスコ世界遺産センターから刊行されたPeterJ.
Fowler氏による研究書の中で、山が特徴として挙げられて
いる資産のうち、「美的資質」、「集団のアイデンティティ」、
「信仰、聖地、神聖性」の特徴を持つ資産を抽出した。以上より
、富士山の比較対象とする海外の同種資産は表1の34件となる
。その中では富士山との共通性のあるものに、共通性の大きいも
のにがしてある。信仰面では、上記の無形的側面での共通性があ
るもの、芸術面では山自体が絵画の題材とされ、画派等を生むな
ど、美術史への影響力があるものを共通性が大きいとしている。
が付された比較対象について、1)で示した比較軸である信仰の
物証(自然的特性、有形的側面、無形的側面)、芸術作品との関
連性により、同種資産を整理すると表2、表3のとおりになる。
36表1:比較対象とした海外の山岳等(34件)番号山名資産
名評価基準国名信仰芸術1ウルル、カタ・ジュタウルル−カタ・
ジュタ国立公園オーストラリア2サバラン山サバラン−イラン3
スライマン−トースライマン−トー聖山キルギス4プーカオ山チ
ャンパサック県の文化的景観にあるワット・プーと関連古代遺産
群ラオス5ボグドハン山、ブルカン・カルドゥン山、オトゴン・
テンゲル山モンゴルの聖なる山:ボグドハン山、ブルカン・カル
ドゥン山、オトゴン・テンゲル山−モンゴル6ヒマラヤ山脈サガ
ルマータ国立公園(F)ネパール7ルアペフ山、ナ

89 :
物証であるのみならず、人間と自然との良好で継続的な関係を示す景観の傑出した
類型として、世界的にも類例を見ない顕著な普遍的価値を持つ山である。富士山の
山体とその周辺の地域には、宗教的な儀礼・活動の場となった神社、登山道と関連
遺跡群、霊地・巡礼地となった風穴・湧水地・湖沼などが残され、そこでの儀礼や
活動を通じて、人々の生活の中に富士山に対する信仰の核心が継承されている。ま
た、富士山信仰の中で山体・樹叢・湖沼などの自然環境を基盤とし、体系化された
神社等の建築群・登山道・宗教施設を経て山頂に参詣する宗教的な儀礼・活動が成
立した。これが発展し、18〜19世紀にかけて富士山は大規模な大衆による宗教
的登山及びその体系の典型的存在となり、この体系の核心は現代の登山に継承され
ている。現在でも、富士山は日本を代表し象徴する最高峰として老若男女を問わず
憧れ親しむ「名山」である。加えて、富士山と周辺の特徴的な自然が醸成する美し
さと崇高さは、信仰上の景観として捉えられただけでなく、古くから様々な芸術活
動の母胎となり、「万葉集」をはじめとする日本固有の和歌や俳句、絵画などの対
象として日本人に良く知られていた。特に富士山を題材にした「浮世絵」などは海
外にも広く知られ、近現代の西洋芸術に様々な影響を与えてきたものである。さら
に、これらの芸術と富士山やその景観美を紹介した外国人の著作を通じて、富士山
が一つの国の文化を代表する「名山」であることは国際的に認知されるに至ってい
る。34写真写真本栖湖からの富士山三保松原からの富士山c)比較検討による証
明1)比較軸の特定富士山の顕著な普遍的価値を表す要素を特定し、他の同種の遺
産がそれらの要素に該当するか否かを検討することによって比較を行う。富士山の
顕著な普遍的価値は、以下の3つの要素に整理できる。(1)山に対する固有の文
化的伝統を顕著に表わす物証として稀有な存在:富士山では山頂への参詣などの特
徴を持った山に対する宗教的な儀礼・活動が成立し、山体とその周辺の地域には、
神社、登山道、霊地・巡礼地となった風穴・湧水地・湖沼などが残さ

90 :
対象として日本人に良く知られていた。特に富士山を題材にし
た「浮世絵」などは海外にも広く知られ、近現代の西洋芸術に
様々な影響を与えてきたものである。さらに、これらの芸術と
富士山やその景観美を紹介した外国人の著作を通じて、富士山
が一つの国の文化を代表する「名山」であることは国際的に認
知されるに至っている。34写真写真本栖湖からの富士山三保
松原からの富士山c)比較検討による証明1)比較軸の特定富
士山の顕著な普遍的価値を表す要素を特定し、他の同種の遺産
がそれらの要素に該当するか否かを検討することによって比較
を行う。富士山の顕著な普遍的価値は、以下の3つの要素に整
理できる。(1)山に対する固有の文化的伝統を顕著に表わす
物証として稀有な存在:富士山では山頂への参詣などの特徴を
持った山に対する宗教的な儀礼・活動が成立し、山体とその周
辺の地域には、神社、登山道、霊地・巡礼地となった風穴・湧
水地・湖沼などが残されている。そこでの儀礼や活動を通じて
、人々の生活の中に富士山に対する信仰の核心が継承されてい
る。(2)景観の顕著な見本:富士山体とその周辺の景観は、
類いまれな美しさ、神聖な空間として認知され、日本における
自然美の典型として、多くの人々に世界の山の中でも最も著目
なアイコンとして共有されている。(3)顕著な普遍的意義を
持つ芸術的作品との関連性:富士山の優れた景観美は、近現代
の西洋美術に影響を与えた芸術的作品などに「関連する景観」
である。信仰の山については、2001年9月に和歌山県で開
催された国際会議「アジア・太平洋地域における信仰の山の文
化的景観に関する専門家会議」(以下、「信仰の山会議」とい
う)において、信仰の山の認定及び保護に関する様々なテーマ
と問題が討議された。ここで、信仰の山の遺産としての価値は
、有形的価値、無形的価値の形態をとって現れるとされた。ま
た、信仰の山の自然的特性についても評価が可能とされた。信
仰の山会議で示された指標を参考に、富士山の顕著な普遍的価
値を表す要素を勘案して、自然的要素としては、「形状・標高
」(独立峰かどうか、富士山と同程度の標高か)

91 :
トンガリロ山トンガリロ国立公園ニュージーランド8泰山泰山中
国9黄山黄山中国10武当山武当山の古代建築物群中国11廬山
廬山国立公園中国12峨眉山峨眉山と楽山大仏中国13武夷山武
夷山中国14青城山青城山と都江堰水利(灌漑)施設中国15三
清山三清山国立公園中国16五台山五台山中国17華山、衡山、
恒山、崇山泰山の登録拡大として四つの聖山−中国18雁蕩山雁
蕩山−中国19南山慶州歴史地区韓国20漢拏山済州火山島と溶
岩洞窟群韓国アジア・太平洋地域21アダムスピークピーク野生
保護区、ホートンプレインズ国立公園、ナックレス山脈−スリラ
ンカ22アパラチア山脈グレート・スモーキー山脈国立公園アメ
リカ23キラウェア山ハワイ火山国立公園アメリカ24ロッキー
山脈カナディアン・ロッキー山脈自然公園群、恐竜州立自然公園
、ウォータートン・グレーシャー国際平和自然公園、イエロース
トーン国立公園カナダ・アメリカ25シナイ山聖カトリーナ修道
院エジプト26サント・ヴィクトワール山サント・ヴィクトワー
ル山とセザンヌに関連する土地−フランス27ペルデュ山ピレネ
ー山脈−ペルデュ山スペイン及びフランス28アトス山アトスギ
リシャ29オリンポス山オリンポス山周辺−ギリシャ30ドロミ
テ山塊ドロミテイタリア31ケニア山ケニア山国立公園/自然林
ケニア32ワスカラン山ワスカラン国立公園ペルー33スイス・
アルプス(ユングフラウ−アレッチュ峰、ビチホルン峰ほか)ス
イス・アルプスユングフラウ−アレッチュスイスアジア・太平洋
地域以外34キリマンジャロ山キリマンジャロ国立公園タンザニ
ア37表2:信仰関連の山岳等番信仰の物証号山名自然的要素、
有形的側面無形的側面1ウルルカタ・ジュタ・ウルルは単一の岩
石・アボリジニにとって、ウルル−カタ・ジュタの岩は伝統的な
信仰の中で不可欠なものである。・山自体が信仰の対象であり、
遙拝といった信仰形態をもつ。3スライマン−トー・参詣道、岩
面陰刻・中央アジア随一の聖なる山とされ、ムスリムの聖地であ
る。前イスラム教とイスラム教を融合した信仰形態が残る。・山
頂を目指すという行為自体に宗教的意義付けがない(登拝といっ
た信仰形態をもたない)。4プーカオ山寺院、山頂

92 :
バ神の象徴)・シバ神の住む山である。・山頂から麓の川に至る
までに建てられた寺院群はヒンズー教の宇宙観を表現する配置で
ある。6ヒマラヤ山脈・同程度以上の標高(エベレスト8848
m)・修道院、寺院・神々の住処として崇拝される空想的な山で
あるメール山(スメール山、須弥山)が地上に顕現・チベット仏
教、ボン教、ヒンズー教、ジャイナ教の聖地・ヒンズー教の聖典
の一つには人間の罪はヒマラヤを見れば消滅する、とある。・登
山許可は下りない。7ルアペフ山ナウルホエ山トン

93 :
の特定同種資産の特定にあたっては、評価基準に関するものとしては、@「信仰の
山会議」で信仰の山と紹介されている山岳、評価基準に関するものとしては、A世
界遺産リストの概要で芸術への明確な関連性が示されている山岳、B海外の専門家
による研究書等で芸術の山として紹介されている山岳等を抽出した。また、両方の
基準に関するものとしては、Cイコモスによる研究書「FillingtheGa
ps」の類型別分析・テーマ別分析、D文化的景観に関する研究書の

94 :
は、上記の無形的側面での共通性があるもの、芸術面では山自
体が絵画の題材とされ、画派等を生むなど、美術史への影響力
があるものを共通性が大きいとしている。が付された比較対象
について、1)で示した比較軸である信仰の物証(自然的特性
、有形的側面、無形的側面)、芸術作品との関連性により、同
種資産を整理すると表2、表3のとおりになる。36表1:比
較対象とした海外の山岳等(34件)番号山名資産名評価基準
国名信仰芸術1ウルル、カタ・ジュタウルル−カ

95 :
山・マオリにとってこれらの山は文化的・宗教的な重要性を持っ
ており、そのコミュニティと環境との間の精神的なつながりを象
徴している。・山自体が信仰の対象であり、遙拝といった信仰形
態をもつ。8泰山・参詣道、寺院・小泰山(山頂まで登れない人
が泰山の代わりに祈る場所)・儒教・仏教・道教の聖地である。
・秦の時代より、皇帝即位の際の儀式である「封禅の儀」を執り
行っていた。・宗教施設が山頂、山中に点在するため、参拝が登
山の形態をとるが、登山行為自体に宗教的な意義を求める登拝と
は異なるものである。11廬山参詣道、寺院・中国の近代政治上
、重要な場所とされている。・山自体ではなく、山に築かれた宗
教施設が信仰の対象である。・仏教、道教、儒教の聖地とされ、
キリスト教、イスラム教の施設も建てられている。12峨眉山・
同程度以上の標高(万仏頂3099m)・参詣道、寺院・中国に
おける仏教の最初の聖地。・山に築かれた宗教施設や日の出・ブ
ロッケン現象といった自然現象が信仰の対象。宗教施設が山頂・
山中に点在するため、参拝が登山の形態をとるが、登山行為自体
に宗教的な意義を求める登拝とは異なる。13武夷山・参詣道、
寺院・南中国での道教と新儒教の源であり、朱子が生涯の大部分
を過ごした地である。・山自体ではなく、山に築かれた宗教施設
が信仰の対象。16五台山・同程度以上の標高(葉頭峰3058
m)・参詣道、寺院、小朝台(朝台を簡略化した祈る場所)・中
国仏教四名山の一つで、文殊菩薩が悟りを開いた地とされる。・
自然景観を神聖なものとしているが、5つの台頂に築かれた寺院
に参詣すること(「朝台」)が最大の願いである。20漢拏山・
独立峰、火山・参詣道・韓国の最高峰の火山で、聖なる儀式の場
としても使用された溶岩洞窟を多く持つ。・山自体よりも山中の
石に対する信仰が強い。21アダムスピークストゥーパ、沐浴場
・釈迦が訪問した地とされる。・山頂に聖なる足跡があり、仏教
、ヒンドゥー教、イスラム教それぞれの聖地とされ、巡礼者が訪
れる。25シナイ山修道院・シナイ山は、旧約聖書において、モ
ーセに神からユダヤ教の聖典と十戒が渡された場である。28ア
トス山寺院、修道院・古代ギリシャの聖なる山であ

96 :
。具体的には、Bでは、の三つの文献を対象として資産を抽出した。Cでは、「文
学・芸術への関連性、演劇」、「聖なる山」、「アジア・太平洋地域の土着信仰」
に関する山岳等を抽出した。Dでは、ユネスコ世界遺産センターから刊行されたP
eterJ.Fowler氏による研究書の中で、山が特徴として挙げられている
資産のうち、「美的資質」、「集団のアイデンティティ」、「信仰、聖地、神聖性
」の特徴を持つ資産を抽出した。以上より、富士山の比較対象とする海外の同種資
産は表1の34件となる。その中では富士山との共通性のあるものに、共通性の大
きいものにがしてある。信仰面では、上記の無形的側面での共通性があるもの、芸
術面では山自体が絵画の題材とされ、画派等を生むなど、美術史への影響力がある
ものを共通性が大きいとしている。が付された比較対象について、1)で示した比
較軸である信仰の物証(自然的特性、有形的側面、無形的側面)、芸術作品との関
連性により、同種資産を整理すると表2、表3のとおりになる。36表1:比較対
象とした海外の山岳等(34件)番号山名資産名評価基準国名信仰芸術1ウルル、
カタ・ジュタウルル−カタ・ジュタ国立公園オーストラリア2サバラン山サバラン
−イラン3スライマン−トースライマン−トー聖山キルギス4プーカオ山チャンパ
サック県の文化的景観にあるワット・プーと関連古代遺産群ラオス5ボグドハン山
、ブルカン・カルドゥン山、オトゴン・テンゲル山モンゴルの聖なる山:ボグドハ
ン山、ブルカン・カルドゥン山、オトゴン・テンゲル山−モンゴル6ヒマラヤ山脈
サガルマータ国立公園(F)ネパール7ルアペフ山、ナウルホエ山、トンガリロ山
トンガリロ国立公園ニュージーランド8泰山泰山中国9黄山黄山中国10武当山武
当山の古代建築物群中国11廬山廬山国立公園中国12峨眉山峨眉山と楽山大仏中
国13武夷山武夷山中国14青城山青城山と都江堰水利(灌漑)施設中国15三清
山三清山国立公園中国16五台山五台山中国17華山、衡山、恒山、崇山泰山の登
録拡大として四つの聖山−中国18雁蕩山雁蕩山−中国19南山慶州

97 :
立公園オーストラリア2サバラン山サバラン−イラン3スライ
マン−トースライマン−トー聖山キルギス4プーカオ山チャン
パサック県の文化的景観にあるワット・プーと関連古代遺産群
ラオス5ボグドハン山、ブルカン・カルドゥン山、オトゴン・
テンゲル山モンゴルの聖なる山:ボグドハン山、ブルカン・カ
ルドゥン山、オトゴン・テンゲル山−モンゴル6ヒマラヤ山脈
サガルマータ国立公園(F)ネパール7ルアペフ山、ナウルホ
エ山、トンガリロ山トンガリロ国立公園ニュージーランド8泰
山泰山中国9黄山黄山中国10武当山武当山の古代建築物群中
国11廬山廬山国立公園中国12峨眉山峨眉山と楽山大仏中国
13武夷山武夷山中国14青城山青城山と都江堰水利(灌漑)
施設中国15三清山三清山国立公園中国16五台山五台山中国
17華山、衡山、恒山、崇山泰山の登録拡大として四つの聖山
−中国18雁蕩山雁蕩山−中国19南山慶州歴史地区韓国20
漢拏山済州火山島と溶岩洞窟群韓国アジア・太平洋地域21ア
ダムスピークピーク野生保護区、ホートンプレインズ国立公園
、ナックレス山脈−スリランカ22アパラチア山脈グレート・
スモーキー山脈国立公園アメリカ23キラウェア山ハワイ火山
国立公園アメリカ24ロッキー山脈カナディアン・ロッキー山
脈自然公園群、恐竜州立自然公園、ウォータートン・グレーシ
ャー国際平和自然公園、イエローストーン国立公園カナダ・ア
メリカ25シナイ山聖カトリーナ修道院エジプト26サント・
ヴィクトワール山サント・ヴィクトワール山とセザンヌに関連
する土地−フランス27ペルデュ山ピレネー山脈−ペルデュ山
スペイン及びフランス28アトス山アトスギリシャ29オリン
ポス山オリンポス山周辺−ギリシャ30ドロミテ山塊ドロミテ
イタリア31ケニア山ケニア山国立公園/自然林ケニア32ワ
スカラン山ワスカラン国立公園ペルー33スイス・アルプス(
ユングフラウ−アレッチュ峰、ビチホルン峰ほか)スイス・ア
ルプスユングフラウ−アレッチュスイスアジア・太平洋地域以
外34キリマンジャロ山キリマンジャロ国立公園タンザニア3
7表2:信仰関連の山岳等番信仰の物証号山名自

98 :
54年にギリシャ正教の中心地として定められ、現在も修道士た
ちの隠棲の地であり、敬虔な宗教活動が続けられている(女人禁
制)。入場者はごく少数に制限されている。34キリマンジャロ
山・同程度以上の標高(キボ峰5895m)・地域の神が住む場
所と考えられ、東アフリカの人々は死者を埋葬する。・チャガ族
(キリマンジャロ山麓に居住する部族)は、神の住む場所として
おり、彼らの伝承や慣習には、山への高い敬意が表されている。
38表3:芸術関連の山岳等番号山名芸術作品との関連性8泰山
・数多くの詩や文が残る。・山頂の風景が紙幣の図柄になるなど
、中国人の精神的シンボルと捉えられている。9黄山・絵画は数
多く描かれ、黄山画派と呼ばれた。11廬山・山水画、山水詩は
多数作られ、特に「観瀑図」は日本の画家にも大きな影響を与え
た。22アパラチア山脈・フレデリック・チャーチやトーマス・
コールといったアメリカの風景画家に描かれている。24ロッキ
ー山脈・19世紀のアメリカ人画家、アルバート・ビエスタッド
の描く絵画は、ロマン主義運動の理念を最も劇的に具現化してお
り、”ロッキーマウンテン画派”の指導者であった。・富士山と
同程度以上の標高(エルバート山4401m)26サント・ヴィ
クトワール山・20世紀の初頭、フランス人画家、ポール・セザ
ンヌによって、風景画に対して根本的に異なるアプローチが始め
られ、西洋美術作品の中でも最も有名な山となった。27ペルデ
ュ山・この風景は生活の伝統(牧畜との暮らし、国境の文化、ピ
レネー独特の文化)と芸術・文学作品が関連して、顕著な普遍的
価値を構成。(レイモンド・デ・カルボニエ、ヘンリー・ラッセ
ル、ヴィクトル・ユゴー等)。・ヨーロッパ芸術の中でロマン主
義が発展していく上で重要な役割を果たした。・富士山と同程度
以上の標高(3352m)33スイスアルプス(ユングフラウ峰
、ビーチホルン峰、ほか)・印象的な風景はヨーロッパ芸術、文
学等において重要な役割を担った。・レオナルド・ダ・ヴィンチ
はモンテ・ローザのスケッチをモナリザの背景として描いた。・
富士山と同程度以上の標高(フィンスターアールホルン4274
m)3)国内同種資産の特定同様の方法で、日本国

99 :
20漢拏山済州火山島と溶岩洞窟群韓国アジア・太平洋地域21アダムスピークピ
ーク野生保護区、ホートンプレインズ国立公園、ナックレス山脈−スリランカ22
アパラチア山脈グレート・スモーキー山脈国立公園アメリカ23キラウェア山ハワ
イ火山国立公園アメリカ24ロッキー山脈カナディアン・ロッキー山脈自然公園群
、恐竜州立自然公園、ウォータートン・グレーシャー国際平和自然公園、イエロー
ストーン国立公園カナダ・アメリカ25シナイ山聖カトリーナ修道院エジプト26
サント・ヴィクトワール山サント・ヴィクトワール山とセザンヌに関連する土地−
フランス27ペルデュ山ピレネー山脈−ペルデュ山スペイン及びフランス28アト
ス山アトスギリシャ29オリンポス山オリンポス山周辺−ギリシャ30ドロミテ山
塊ドロミテイタリア31ケニア山ケニア山国立公園/自然林ケニア32ワスカラン
山ワスカラン国立公園ペルー33スイス・アルプス(ユングフラウ−アレッチュ峰
、ビチホルン峰ほか)スイス・アルプスユングフラウ−アレッチュスイスアジア・
太平洋地域以外34キリマンジャロ山キリマンジャロ国立公園タンザニア37表2
:信仰関連の山岳等番信仰の物証号山名自然的要素、有形的側面無形的側面1ウル
ルカタ・ジュタ・ウルルは単一の岩石・アボリジニにとって、ウルル−カタ・ジュ
タの岩は伝統的な信仰の中で不可欠なものである。・山自体が信仰の対象であり、
遙拝といった信仰形態をもつ。3スライマン−トー・参詣道、岩面陰刻・中央アジ
ア随一の聖なる山とされ、ムスリムの聖地である。前イスラム教とイスラム教を融
合した信仰形態が残る。・山頂を目指すという行為自体に宗教的意義付けがない(
登拝といった信仰形態をもたない)。4プーカオ山寺院、山頂のリンガ(シバ神の
象徴)・シバ神の住む山である。・山頂から麓の川に至るまでに建てられた寺院群
はヒンズー教の宇宙観を表現する配置である。6ヒマラヤ山脈・同程度以上の標高
(エベレスト8848m)・修道院、寺院・神々の住処として崇拝される空想的な
山であるメール山(スメール山、須弥山)が地上に顕現・チベット仏

100 :
形的側面無形的側面1ウルルカタ・ジュタ・ウルルは単一の岩
石・アボリジニにとって、ウルル−カタ・ジュタの岩は伝統的
な信仰の中で不可欠なものである。・山自体が信仰の対象であ
り、遙拝といった信仰形態をもつ。3スライマン−トー・参詣
道、岩面陰刻・中央アジア随一の聖なる山とされ、ムスリムの
聖地である。前イスラム教とイスラム教を融合した信仰形態が
残る。・山頂を目指すという行為自体に宗教的意義付けがない
(登拝といった信仰形態をもたない)。4プーカオ山寺院、山
頂のリンガ(シバ神の象徴)・シバ神の住む山である。・山頂
から麓の川に至るまでに建てられた寺院群はヒンズー教の宇宙
観を表現する配置である。6ヒマラヤ山脈・同程度以上の標高
(エベレスト8848m)・修道院、寺院・神々の住処として
崇拝される空想的な山であるメール山(スメール山、須弥山)
が地上に顕現・チベット仏教、ボン教、ヒンズー教、ジャイナ
教の聖地・ヒンズー教の聖典の一つには人間の罪はヒマラヤを
見れば消滅する、とある。・登山許可は下りない。7ルアペフ
山ナウルホエ山トンガリロ山・火山・マオリにとってこれらの
山は文化的・宗教的な重要性を持っており、そのコミュニティ
と環境との間の精神的なつながりを象徴している。・山自体が
信仰の対象であり、遙拝といった信仰形態をもつ。8泰山・参
詣道、寺院・小泰山(山頂まで登れない人が泰山の代わりに祈
る場所)・儒教・仏教・道教の聖地である。・秦の時代より、
皇帝即位の際の儀式である「封禅の儀」を執り行っていた。・
宗教施設が山頂、山中に点在するため、参拝が登山の形態をと
るが、登山行為自体に宗教的な意義を求める登拝とは異なるも
のである。11廬山参詣道、寺院・中国の近代政治上、重要な
場所とされている。・山自体ではなく、山に築かれた宗教施設
が信仰の対象である。・仏教、道教、儒教の聖地とされ、キリ
スト教、イスラム教の施設も建てられている。12峨眉山・同
程度以上の標高(万仏頂3099m)・参詣道、寺院・中国に
おける仏教の最初の聖地。・山に築かれた宗教施設や日の出・
ブロッケン現象といった自然現象が信仰の対象。

101 :
いて、世界遺産登録物件または暫定リストから抽出すると、表4
のとおり3つの山が考えられ、特に共通性が認められる2件につ
いて評価を行った(表5)。表4:比較対象とした国内の山岳等
(3件)39表5:信仰、芸術関連の国内の山岳等(2件)信仰
の物証番号山名自然的要素有形的側面無形的側面芸術作品との関
連性1紀伊山地参詣道、神社、寺院、滝・日本古来の自然崇拝の
思想と大陸から伝来した仏教とが融合して形成された修験道など
の行場としても重視され発展した。・山自体が修験の場であり、
山中で廻峰行という宗教行為が行われている。神聖性の高い自然
及び継続的に行われている宗教儀礼は、信仰の山の文化的景観を
構成する要素として優秀かつ多様である。2瀰山神社・古くは彌
山を含む島全体を神聖視し、対岸から遙拝していたのであるが、
やがて水際に社殿が成立し、彌山を含めた背後の山腹が社殿群の
背景的効果をもつ自然景観として重要視された。神道の施設であ
り、仏教との混交と分離の歴史を示す文化遺産として、日本の宗
教的空間の特質を理解する上で重要な根拠である。番号山名資産
名評価基準信芸国名仰術1紀伊山地紀伊山地の霊場と参詣道日本
2瀰山厳島神社日本3御蓋山(春日山)古都奈良の文化財日本4
04)結論以上の比較分析から、他の信仰・芸術に関連する山と
比べて、推薦資産は、以下の3つの点で顕著な普遍的価値を持つ
事例であると言える。(1)海外の信仰関連の山岳との比較富士
山は、8世紀以降、噴火を鎮めるため山麓に浅間神社が建てられ
た。12世紀に修験者の道として登山道が開かれ、15〜16世
紀には修験者に引率され、登拝を中心とした宗教的な活動が盛ん
となった。山体につくられた宗教施設だけでなく、溶岩洞穴・樹
型・湧水地も巡礼・修行の場となった。この結果、登拝の行為を
通じて周辺の神社及び巡礼地、参詣道が形成された。このように
、富士山は、今日まで継承された山に対する固有の文化的伝統を
顕著に表す物証であるとともに、人間と山との精神的な関係を表
す景観であり、18〜19世紀は既に年平均1〜2万人という世
界的にも類例のない大衆による高山への登拝が行われるようにな
った。富士山は、(ケニア山やキリマンジャロ山、

102 :
ウルル等に代表されるような)原始的な山岳信仰のあり方から、
(泰山等の中国の山々やアトス山やシナイ山等に代表されるよう
な)多様な宗教の介入によって生み出された信仰のあり方まで、
そのいずれも失うことなく現在に至るまで継承している。信仰に
関連する山の多くは、山自体ではなく、山麓に点在する宗教施設
や石仏が信仰の対象であり、そうした宗教施設等を

103 :
あり、仏教、ヒンドゥー教、イスラム教それぞれの聖地とされ、巡礼者が訪れる。
25シナイ山修道院・シナイ山は、旧約聖書において、モーセに神からユダヤ教の
聖典と十戒が渡された場である。28アトス山寺院、修道院・古代ギリシャの聖な
る山であった。・1054年にギリシャ正教の中心地として定められ、現在も修道
士たちの隠棲の地であり、敬虔な宗教活動が続けられている(女人禁制)。入場者
はごく少数に制限されている。34キリマンジャロ山・同程度以上の

104 :
24ロッキー山脈・19世紀のアメリカ人画家、アルバート・
ビエスタッドの描く絵画は、ロマン主義運動の理念を最も劇的
に具現化しており、”ロッキーマウンテン画派”の指導者であ
った。・富士山と同程度以上の標高(エルバート山4401m
)26サント・ヴィクトワール山・20世紀の初頭、フランス
人画家、ポール・セザンヌによって、風景画に対して根本的に
異なるアプローチが始められ、西洋美術作品の中でも最も有名
な山となった。27ペルデュ山・この風景は生活

105 :
の道が整備されている。また、一部は山頂にそうした宗教施設が
あるため、参拝が登山の形態をとるが、富士山のように登山行為
自体に宗教的な意義を求める登拝とは異なるものである。アダム
ス・ピークは多くの巡礼者が登山の形態をとるが、頂上の聖なる
足跡とされる岩を目指す点で、宗教施設に参拝する形態と類似す
るものであり、富士山とは異なると考える。また、一部の山岳は
その聖なるがゆえに登山を制限しており、登拝はなく、遙拝とい
う信仰形態しか持たない山もある。信仰の山の自然的要素である
標高については、自然遺産を中心に富士山よりも高い山も存在す
るが、その標高に比した登頂者の多さ(年約30万人)は他に例
がなく、山頂部への道路や軌道によるアクセスがないことから、
登頂者は徒歩6時間以上かけて、山頂部を目指すことになる。こ
うした登山形態は、日本では20世紀前半に開花する近代アルピ
ニズムに起源するものではなく、17世紀以降の江戸(現在の東
京)を中心に数多く組織された富士講の登拝活動を母胎に発展し
たものである。このことは、人々の生活の中に富士山に対する信
仰の核心が継承され、今日でも富士山は日本を代表し象徴する最
高峰として老若男女を問わず憧れ親しむ「名山」であることを示
している。また、富士山への登山は夜明け前の山頂到着を目指す
登山者が多いことにも特徴がある。これは、山頂付近で日の出を
拝むためであるが、17世紀以降、道者が山頂周辺において「御
来迎(仏の来迎と見なされたブロッケン現象)」(のち「御来光
(日の出)」)を拝んだことに由来する。こうした自然現象に宗
教的な意義を見出す傾向は、比較対象の中では峨眉山以外には見
あたらない。IUCNが2009年に行ったテーマ別研究である
「世界遺産の火山」では、世界遺産一覧表には一般の人々が一様
に認めている火山の多くが含まれていないことは興味深いとし、
その例として、イタリアのエトナ火山や富士山などを挙げている
。とくに富士山は、火山とその周辺地域に訪れる年間の観光客が
地球上のどの火山よりも多い点で重要とされている。こうしたギ
ャップを埋めるために、知名度、科学的重要性、文化及び教育的
価値を基準に個々の長所を検討すべきとしている。

106 :
5895m)・地域の神が住む場所と考えられ、東アフリカの人々は死者を埋葬す
る。・チャガ族(キリマンジャロ山麓に居住する部族)は、神の住む場所としてお
り、彼らの伝承や慣習には、山への高い敬意が表されている。38表3:芸術関連
の山岳等番号山名芸術作品との関連性8泰山・数多くの詩や文が残る。・山頂の風
景が紙幣の図柄になるなど、中国人の精神的シンボルと捉えられている。9黄山・
絵画は数多く描かれ、黄山画派と呼ばれた。11廬山・山水画、山水詩は多数作ら
れ、特に「観瀑図」は日本の画家にも大きな影響を与えた。22アパラチア山脈・
フレデリック・チャーチやトーマス・コールといったアメリカの風景画家に描かれ
ている。24ロッキー山脈・19世紀のアメリカ人画家、アルバート・ビエスタッ
ドの描く絵画は、ロマン主義運動の理念を最も劇的に具現化しており、”ロッキー
マウンテン画派”の指導者であった。・富士山と同程度以上の標高(エルバート山
4401m)26サント・ヴィクトワール山・20世紀の初頭、フランス人画家、
ポール・セザンヌによって、風景画に対して根本的に異なるアプローチが始められ
、西洋美術作品の中でも最も有名な山となった。27ペルデュ山・この風景は生活
の伝統(牧畜との暮らし、国境の文化、ピレネー独特の文化)と芸術・文学作品が
関連して、顕著な普遍的価値を構成。(レイモンド・デ・カルボニエ、ヘンリー・
ラッセル、ヴィクトル・ユゴー等)。・ヨーロッパ芸術の中でロマン主義が発展し
ていく上で重要な役割を果たした。・富士山と同程度以上の標高(3352m)3
3スイスアルプス(ユングフラウ峰、ビーチホルン峰、ほか)・印象的な風景はヨ
ーロッパ芸術、文学等において重要な役割を担った。・レオナルド・ダ・ヴィンチ
はモンテ・ローザのスケッチをモナリザの背景として描いた。・富士山と同程度以
上の標高(フィンスターアールホルン4274m)3)国内同種資産の特定同様の
方法で、日本国内の資産について、世界遺産登録物件または暫定リストから抽出す
ると、表4のとおり3つの山が考えられ、特に共通性が認められる2

107 :
との暮らし、国境の文化、ピレネー独特の文化)と芸術・文学
作品が関連して、顕著な普遍的価値を構成。(レイモンド・デ
・カルボニエ、ヘンリー・ラッセル、ヴィクトル・ユゴー等)
。・ヨーロッパ芸術の中でロマン主義が発展していく上で重要
な役割を果たした。・富士山と同程度以上の標高(3352m
)33スイスアルプス(ユングフラウ峰、ビーチホルン峰、ほ
か)・印象的な風景はヨーロッパ芸術、文学等において重要な
役割を担った。・レオナルド・ダ・ヴィンチはモンテ・ローザ
のスケッチをモナリザの背景として描いた。・富士山と同程度
以上の標高(フィンスターアールホルン4274m)3)国内
同種資産の特定同様の方法で、日本国内の資産について、世界
遺産登録物件または暫定リストから抽出すると、表4のとおり
3つの山が考えられ、特に共通性が認められる2件について評
価を行った(表5)。表4:比較対象とした国内の山岳等(3
件)39表5:信仰、芸術関連の国内の山岳等(2件)信仰の
物証番号山名自然的要素有形的側面無形的側面芸術作品との関
連性1紀伊山地参詣道、神社、寺院、滝・日本古来の自然崇拝
の思想と大陸から伝来した仏教とが融合して形成された修験道
などの行場としても重視され発展した。・山自体が修験の場で
あり、山中で廻峰行という宗教行為が行われている。神聖性の
高い自然及び継続的に行われている宗教儀礼は、信仰の山の文
化的景観を構成する要素として優秀かつ多様である。2瀰山神
社・古くは彌山を含む島全体を神聖視し、対岸から遙拝してい
たのであるが、やがて水際に社殿が成立し、彌山を含めた背後
の山腹が社殿群の背景的効果をもつ自然景観として重要視され
た。神道の施設であり、仏教との混交と分離の歴史を示す文化
遺産として、日本の宗教的空間の特質を理解する上で重要な根
拠である。番号山名資産名評価基準信芸国名仰術1紀伊山地紀
伊山地の霊場と参詣道日本2瀰山厳島神社日本3御蓋山(春日
山)古都奈良の文化財日本404)結論以上の比較分析から、
他の信仰・芸術に関連する山と比べて、推薦資産は、以下の3
つの点で顕著な普遍的価値を持つ事例であると言

108 :
外の芸術関連の山岳との比較独立峰であり、高い標高を持つ富士
山の秀麗な姿は、四方の広い範囲から眺めることができ、古くか
ら芸術活動の対象となった。これら富士山を題材にした芸術作品
のうち、最も海外に影響を与えた作品は、葛飾北斎の浮世絵「冨
嶽三十六景」である。この一連の作品は、ジャポニスムと呼ばれ
た西洋における日本芸術の流行を生み、モネ、ドガなどの西欧の
印象派の画家達は浮世絵から、構図、デフォルメ、平面的な表現
技法を学んでいる。また、アールヌーボーが発生する一因ともな
った。芸術的作品との関連性では、比較対象資産の関連する多く
の芸術作品が、周囲の山々や景観を合わせて描いたものである。
また、そうした芸術作品との密接な関連を持ち、アメリカの山々
のように芸術史の上で一つの流派を形成したものもあるが、その
作品の影響は国内に留まる。また、中国の山水画は日本にも大き
な影響を与えたが、近世以降で美術史に影響をもたらす芸術作品
を生み出す母胎となった山は富士山しかない。山と芸術作品との
密接な関連を持つ代表例は、セザンヌが描いたサント・ビクトワ
ール山があり、これはその作品の多さからも西洋美術で最も著名
な山とされるが、富士山を題材とした浮世絵がセザンヌの出自で
ある印象派にも大きな影響を及ぼしたことを考慮すると、そうし
た浮世絵の制作を喚起した富士山の優位性は揺るがない。(3)
国内同種資産との比較信仰との関連性では、比較対象の資産では
、古くは山自体が神聖視されたが、その後は宗教施設が発展し、
山は背景となっていった。紀伊山地では、修験道の道場として山
々をめぐる行為が宗教行為とされており、富士山でもその初期に
おいてはこうした修験者による登山が中心であったが、富士山に
ついては、その後、修験者に導かれた一般人の登拝が増加し、1
8世紀後半より東京を中心に流行した富士講による大衆登山へと
発展していった。現在も夏を中心に30万人が徒歩による富士山
の登山を体験しており、こうした信仰の核心が多くの人々に継承
されている点において富士山の優位性は明らかである。芸術作品
との関連性では、比較対象の資産では、評価基準(E)は信仰の
空間との関連性で用いられており、関連する芸術作

109 :
価を行った(表5)。表4:比較対象とした国内の山岳等(3件)39表5:信仰
、芸術関連の国内の山岳等(2件)信仰の物証番号山名自然的要素有形的側面無形
的側面芸術作品との関連性1紀伊山地参詣道、神社、寺院、滝・日本古来の自然崇
拝の思想と大陸から伝来した仏教とが融合して形成された修験道などの行場として
も重視され発展した。・山自体が修験の場であり、山中で廻峰行という宗教行為が
行われている。神聖性の高い自然及び継続的に行われている宗教儀礼は、信仰の山
の文化的景観を構成する要素として優秀かつ多様である。2瀰山神社・古くは彌山
を含む島全体を神聖視し、対岸から遙拝していたのであるが、やがて水際に社殿が
成立し、彌山を含めた背後の山腹が社殿群の背景的効果をもつ自然景観として重要
視された。神道の施設であり、仏教との混交と分離の歴史を示す文化遺産として、
日本の宗教的空間の特質を理解する上で重要な根拠である。番号山名資産名評価基
準信芸国名仰術1紀伊山地紀伊山地の霊場と参詣道日本2瀰山厳島神社日本3御蓋
山(春日山)古都奈良の文化財日本404)結論以上の比較分析から、他の信仰・
芸術に関連する山と比べて、推薦資産は、以下の3つの点で顕著な普遍的価値を持
つ事例であると言える。(1)海外の信仰関連の山岳との比較富士山は、8世紀以
降、噴火を鎮めるため山麓に浅間神社が建てられた。12世紀に修験者の道として
登山道が開かれ、15〜16世紀には修験者に引率され、登拝を中心とした宗教的
な活動が盛んとなった。山体につくられた宗教施設だけでなく、溶岩洞穴・樹型・
湧水地も巡礼・修行の場となった。この結果、登拝の行為を通じて周辺の神社及び
巡礼地、参詣道が形成された。このように、富士山は、今日まで継承された山に対
する固有の文化的伝統を顕著に表す物証であるとともに、人間と山との精神的な関
係を表す景観であり、18〜19世紀は既に年平均1〜2万人という世界的にも類
例のない大衆による高山への登拝が行われるようになった。富士山は、(ケニア山
やキリマンジャロ山、トンガリロやウルル等に代表されるような)原

110 :
海外の信仰関連の山岳との比較富士山は、8世紀以降、噴火を
鎮めるため山麓に浅間神社が建てられた。12世紀に修験者の
道として登山道が開かれ、15〜16世紀には修験者に引率さ
れ、登拝を中心とした宗教的な活動が盛んとなった。山体につ
くられた宗教施設だけでなく、溶岩洞穴・樹型・湧水地も巡礼
・修行の場となった。この結果、登拝の行為を通じて周辺の神
社及び巡礼地、参詣道が形成された。このように、富士山は、
今日まで継承された山に対する固有の文化的伝統を顕著に表す
物証であるとともに、人間と山との精神的な関係を表す景観で
あり、18〜19世紀は既に年平均1〜2万人という世界的に
も類例のない大衆による高山への登拝が行われるようになった
。富士山は、(ケニア山やキリマンジャロ山、トンガリロやウ
ルル等に代表されるような)原始的な山岳信仰のあり方から、
(泰山等の中国の山々やアトス山やシナイ山等に代表されるよ
うな)多様な宗教の介入によって生み出された信仰のあり方ま
で、そのいずれも失うことなく現在に至るまで継承している。
信仰に関連する山の多くは、山自体ではなく、山麓に点在する
宗教施設や石仏が信仰の対象であり、そうした宗教施設等を参
詣するための道が整備されている。また、一部は山頂にそうし
た宗教施設があるため、参拝が登山の形態をとるが、富士山の
ように登山行為自体に宗教的な意義を求める登拝とは異なるも
のである。アダムス・ピークは多くの巡礼者が登山の形態をと
るが、頂上の聖なる足跡とされる岩を目指す点で、宗教施設に
参拝する形態と類似するものであり、富士山とは異なると考え
る。また、一部の山岳はその聖なるがゆえに登山を制限してお
り、登拝はなく、遙拝という信仰形態しか持たない山もある。
信仰の山の自然的要素である標高については、自然遺産を中心
に富士山よりも高い山も存在するが、その標高に比した登頂者
の多さ(年約30万人)は他に例がなく、山頂部への道路や軌
道によるアクセスがないことから、登頂者は徒歩6時間以上か
けて、山頂部を目指すことになる。こうした登山形態は、日本
では20世紀前半に開花する近代アルピニズムに

111 :
仰のあり方から、(泰山等の中国の山々やアトス山やシナイ山等に代表されるよう
な)多様な宗教の介入によって生み出された信仰のあり方まで、そのいずれも失う
ことなく現在に至るまで継承している。信仰に関連する山の多くは、山自体ではな
く、山麓に点在する宗教施設や石仏が信仰の対象であり、そうした宗教施設等を参
詣するための道が整備されている。また、一部は山頂にそうした宗教施設があるた
め、参拝が登山の形態をとるが、富士山のように登山行為自体に宗教的な意義を求
める登拝とは異なるものである。アダムス・ピークは多くの巡礼者が登山の形態を
とるが、頂上の聖なる足跡とされる岩を目指す点で、宗教施設に参拝する形態と類
似するものであり、富士山とは異なると考える。また、一部の山岳はその聖なるが
ゆえに登山を制限しており、登拝はなく、遙拝という信仰形態しか持たない山もあ
る。信仰の山の自然的要素である標高については、自然遺産を中心に富士山よりも
高い山も存在するが、その標高に比した登頂者の多さ(年約30万人)は他に例が
なく、山頂部への道路や軌道によるアクセスがないことから、登頂者は徒歩6時間
以上かけて、山頂部を目指すことになる。こうした登山形態は、日本では20世紀
前半に開花する近代アルピニズムに起源するものではなく、17世紀以降の江戸(
現在の東京)を中心に数多く組織された富士講の登拝活動を母胎に発展したもので
ある。このことは、人々の生活の中に富士山に対する信仰の核心が継承され、今日
でも富士山は日本を代表し象徴する最高峰として老若男女を問わず憧れ親しむ「名
山」であることを示している。また、富士山への登山は夜明け前の山頂到着を目指
す登山者が多いことにも特徴がある。これは、山頂付近で日の出を拝むためである
が、17世紀以降、道者が山頂周辺において「御来迎(仏の来迎と見なされたブロ
ッケン現象)」(のち「御来光(日の出)」)を拝んだことに由来する。こうした
自然現象に宗教的な意義を見出す傾向は、比較対象の中では峨眉山以外には見あた
らない。IUCNが2009年に行ったテーマ別研究である「世界遺

112 :
保存管理計画の下に保全又は改善のための対策を明示している。
したがって、資産の周辺環境の保全に関する完全性も揺らぎはな
い。2)真実性推薦資産は、所有者をはじめ、国及び地方公共団
体によって適切な維持管理が行われ、文化資産としての価値を失
することなく良好な状態を保っている。以下に、『世界遺産条約
履行のための作業指針』第82項に示された文化遺産の評価に適
用される真実性の属性に基づいた、構成資産の種類ごとの分析を
示す。(1)富士山体(遺跡(site))富士山

113 :
は、世界遺産一覧表には一般の人々が一様に認めている火山の多くが含まれていな
いことは興味深いとし、その例として、イタリアのエトナ火山や富士山などを挙げ
ている。とくに富士山は、火山とその周辺地域に訪れる年間の観光客が地球上のど
の火山よりも多い点で重要とされている。こうしたギャップを埋めるために、知名
度、科学的重要性、文化及び教育的価値を基準に個々の長所を検討すべきとしてい
る。41(2)海外の芸術関連の山岳との比較独立峰であり、高い標

114 :
内に留まる。また、中国の山水画は日本にも大きな影響を与え
たが、近世以降で美術史に影響をもたらす芸術作品を生み出す
母胎となった山は富士山しかない。山と芸術作品との密接な関
連を持つ代表例は、セザンヌが描いたサント・ビクトワール山
があり、これはその作品の多さからも西洋美術で最も著名な山
とされるが、富士山を題材とした浮世絵がセザンヌの出自であ
る印象派にも大きな影響を及ぼしたことを考慮すると、そうし
た浮世絵の制作を喚起した富士山の優位性は揺る

115 :
年を最後に噴火しておらず、以降、形態に変更はない。また、今
後噴火によって形態上の変化が起こったとしても、富士山の荒ぶ
る姿は人々の信仰心を鼓舞し、芸術活動に駆り立てることから、
真実性が損なわれるものではなく、むしろ、有史以来時代を超え
て、精神・機能の観点からみた真実性は確実に維持されている。
神聖性が最も高いとされる、山体中腹以上の核心となる区域には
、文化財保護法により厳格に保護されているほか、その周辺地域
や展望線及び主要な展望地点は、自然公園法などの国内法により
展望・眺望への妨げとなるものの除外や風致景観との調和を図る
景観保全が行われており、景観全体の真実性は確実に保証される
。また、登山道や山小屋、信仰関連遺跡などの諸要素が総体的な
登拝システムを構築し、その機能は良好に遺存している。登山道
は、人為による現状の変更には厳しい規制がかけられており、地
下に埋もれた遺構を含め、価値の真実性の伝達については、将来
にわたり確実に保証されている。また、宗教空間としての用途・
機能を何百年も維持してきた。レクリエーションのために登43
山を行う人々にとっても、脈々と継承してきた富士山に対する信
仰の核心の証左として、それらは機能している。(2)神社・御
師住宅(記念工作物・建造物群・遺跡(site))神社につい
て、建築の歴史的価値を表す平面形式、構造様式、内外の立面意
匠は顕著な普遍的価値を表す時代のままである。近代以降の保存
修理事業においては、建立後に修理又は改変された後補部分につ
いて、後補材の撤去・復原・欠失した部分の復旧を行うなど、高
い真実性が追究されてきた。脆弱な材料・材質から成る木造建築
の修理に関する伝統をはじめ、そこに用いられる技術についても
確実に継承されている。また、富士山の顕著な普遍的価値が最も
よく表現される時代の位置を維持し、境内林などに囲まれた周辺
の環境も良好である。さらに、宗教空間としての用途・機能を何
百年も維持してきた。レクリエーションのために登山を行う人々
にとっても、脈々と継承してきた富士山に対する信仰の核心の証
左として、それらは機能している。(3)その他の信仰関連遺跡
(遺跡(site))富士五湖及び忍野八海におい

116 :
山の秀麗な姿は、四方の広い範囲から眺めることができ、古くから芸術活動の対象
となった。これら富士山を題材にした芸術作品のうち、最も海外に影響を与えた作
品は、葛飾北斎の浮世絵「冨嶽三十六景」である。この一連の作品は、ジャポニス
ムと呼ばれた西洋における日本芸術の流行を生み、モネ、ドガなどの西欧の印象派
の画家達は浮世絵から、構図、デフォルメ、平面的な表現技法を学んでいる。また
、アールヌーボーが発生する一因ともなった。芸術的作品との関連性では、比較対
象資産の関連する多くの芸術作品が、周囲の山々や景観を合わせて描いたものであ
る。また、そうした芸術作品との密接な関連を持ち、アメリカの山々のように芸術
史の上で一つの流派を形成したものもあるが、その作品の影響は国内に留まる。ま
た、中国の山水画は日本にも大きな影響を与えたが、近世以降で美術史に影響をも
たらす芸術作品を生み出す母胎となった山は富士山しかない。山と芸術作品との密
接な関連を持つ代表例は、セザンヌが描いたサント・ビクトワール山があり、これ
はその作品の多さからも西洋美術で最も著名な山とされるが、富士山を題材とした
浮世絵がセザンヌの出自である印象派にも大きな影響を及ぼしたことを考慮すると
、そうした浮世絵の制作を喚起した富士山の優位性は揺るがない。(3)国内同種
資産との比較信仰との関連性では、比較対象の資産では、古くは山自体が神聖視さ
れたが、その後は宗教施設が発展し、山は背景となっていった。紀伊山地では、修
験道の道場として山々をめぐる行為が宗教行為とされており、富士山でもその初期
においてはこうした修験者による登山が中心であったが、富士山については、その
後、修験者に導かれた一般人の登拝が増加し、18世紀後半より東京を中心に流行
した富士講による大衆登山へと発展していった。現在も夏を中心に30万人が徒歩
による富士山の登山を体験しており、こうした信仰の核心が多くの人々に継承され
ている点において富士山の優位性は明らかである。芸術作品との関連性では、比較
対象の資産では、評価基準(E)は信仰の空間との関連性で用いられ

117 :
)国内同種資産との比較信仰との関連性では、比較対象の資産
では、古くは山自体が神聖視されたが、その後は宗教施設が発
展し、山は背景となっていった。紀伊山地では、修験道の道場
として山々をめぐる行為が宗教行為とされており、富士山でも
その初期においてはこうした修験者による登山が中心であった
が、富士山については、その後、修験者に導かれた一般人の登
拝が増加し、18世紀後半より東京を中心に流行した富士講に
よる大衆登山へと発展していった。現在も夏を中心に30万人
が徒歩による富士山の登山を体験しており、こうした信仰の核
心が多くの人々に継承されている点において富士山の優位性は
明らかである。芸術作品との関連性では、比較対象の資産では
、評価基準(E)は信仰の空間との関連性で用いられており、
関連する芸術作品等も宗教的な題材とする作品が多い。富士山
は、和歌や俳句、絵画、文学の多くの分野においても、数多く
の作品を輩出し、その中には葛飾北斎の浮世絵「冨嶽三十六景
」のように西洋の美術史に大きな影響を与えた作品もある。そ
の多様性や生み出した芸術作品の影響の大きさの面でも富士山
の優位性は明らかである。(4)結語このように、富士山にお
いては、登拝等により、信仰の核心が現代の多くの人たちに受
け継がれ、また、浮世絵等により、近代の西欧芸術史に大きな
影響を及ぼした。富士山は、信仰のあり方、芸術の両面で、古
代から現代まで影響を与えている唯一の山であり、世界的にも
類例を見ない顕著な普遍的価値を持つ山岳である。42d)真
実性及び完全性1)完全性推薦資産の範囲は、「ある文化的伝
統の存在を伝承する物証として希有な存在」として神聖視され
、「歴史上の重要な段階を物語る景観を代表する顕著な見本」
として認知された富士山の範囲が適切に確保されているととも
に、「顕著な普遍的意義を有する芸術的作品及び文学的作品と
の直接または実質的な関連性」を示す富士山体の範囲も、数々
の顕著な普遍的意義を有する作品に共通して描かれた最大の範
囲に相当しており、資産の重要性を伝える諸要素・過程を完全
に表す上で適切な範囲が確保されている。(図面

118 :
石碑などの状況証拠から、内八海巡りや富士御手洗元八湖が行わ
れていたことがわかっている。人々の信仰心を駆り立てた湖沼の
水そのものは、顕著な普遍的価値の核心として現在に継承されて
いる。さらに、周辺環境においても、自然公園法や景観法に基づ
く景観計画などにより風致景観との調和を図る景観保全が行われ
ており、景観全体の真実性は確実に保証されている。白糸ノ滝に
おいては、長谷川角行の修行地がどこであったかを明確に示す文
献はないが、富士講講徒が滝壺で修行したことは講徒の記録及び
その挿図で確認できる。船津胎内樹型及び吉田胎内樹型の中には
祠などが祀られ、穴自体を神聖視する精神、宗教空間としての機
能は現在も受け継がれている。入洞者の安全のため、船津胎内樹
型の入り口部分は改変が加えられているが、それ以外の形状・位
置の真実性は、自然崩落の場合を除き、確実に継承されている。
人穴富士講遺跡においては、碑塔のほとんどに建立者、講の名称
や年号(創建年号や関係者の死亡年号)などが記載されており、
真実性に疑いの余地はない。444.保全状況と資産に与える影
響a)現在の保全状況「富士山」の17個の構成資産については
、すでに多くの修理や整備の事業が適切に行われており、自然的
な要因に基づく一部の資産を除き構成資産の保存状況も良好であ
る。特に神社の建造物及び境内については、所有者である宗教法
人により適切な維持的措置が恒常的に行われており、保存状況は
良好である。1)資産全体の保全状況(1)主要な展望主要な展
望としての構成資産は、本栖湖と三保松原であり、展望点及びそ
こから展望した山体の大部分である。展望面に関しては本栖湖の
場合構成資産に含まれており、三保松原の場合は展望点より山体
まで距離の距離が約45qと遠方であり、かつ、その間のかなり
の部分が海面及び人口密集地(富士市市街地)であるため、展望
点より山体までの範囲は構成資産に含めてはいない。現状におい
てこれらの資産範囲及び展望面は三保松原の一部を除き良好な状
態を保っている。これらの資産範囲については、信仰の核心であ
る御中道より上の範囲は文化財保護法(特別名勝及び名勝)及び
自然公園法(特別保護地区及び第1種特別地域)に

119 :
する芸術作品等も宗教的な題材とする作品が多い。富士山は、和歌や俳句、絵画、
文学の多くの分野においても、数多くの作品を輩出し、その中には葛飾北斎の浮世
絵「冨嶽三十六景」のように西洋の美術史に大きな影響を与えた作品もある。その
多様性や生み出した芸術作品の影響の大きさの面でも富士山の優位性は明らかであ
る。(4)結語このように、富士山においては、登拝等により、信仰の核心が現代
の多くの人たちに受け継がれ、また、浮世絵等により、近代の西欧芸術史に大きな
影響を及ぼした。富士山は、信仰のあり方、芸術の両面で、古代から現代まで影響
を与えている唯一の山であり、世界的にも類例を見ない顕著な普遍的価値を持つ山
岳である。42d)真実性及び完全性1)完全性推薦資産の範囲は、「ある文化的
伝統の存在を伝承する物証として希有な存在」として神聖視され、「歴史上の重要
な段階を物語る景観を代表する顕著な見本」として認知された富士山の範囲が適切
に確保されているとともに、「顕著な普遍的意義を有する芸術的作品及び文学的作
品との直接または実質的な関連性」を示す富士山体の範囲も、数々の顕著な普遍的
意義を有する作品に共通して描かれた最大の範囲に相当しており、資産の重要性を
伝える諸要素・過程を完全に表す上で適切な範囲が確保されている。(図面挿入:
主要な展望地点から見た資産範囲を示した正面図)また、登山道、神社並びに富士
五湖などの儀式・修行・巡礼の場や、適切な展望線を確保した主要な展望地点とい
った、顕著な普遍的価値を表すのに必要な全ての要素を包含している。登山道は、
信仰登山が盛んに行われていた18〜19世紀に認識されていた登山道を全て含み
、登山道の起点となる浅間神社も不足なく資産に含まれている。その他、御室浅間
神社や河口浅間神社といった富士山信仰を語る上で欠かすことの出来ない重要な浅
間神社や、富士講を迎えて登拝の世話を行った御師の住宅、富士講がオプショナル
・ツアー的に巡礼・修行を行った地として代表的な湖沼、滝、風穴・溶岩樹型も全
て資産を構成する要素として推薦範囲に含めている。それらは、周辺

120 :
展望地点から見た資産範囲を示した正面図)また、登山道、神
社並びに富士五湖などの儀式・修行・巡礼の場や、適切な展望
線を確保した主要な展望地点といった、顕著な普遍的価値を表
すのに必要な全ての要素を包含している。登山道は、信仰登山
が盛んに行われていた18〜19世紀に認識されていた登山道
を全て含み、登山道の起点となる浅間神社も不足なく資産に含
まれている。その他、御室浅間神社や河口浅間神社といった富
士山信仰を語る上で欠かすことの出来ない重要な浅間神社や、
富士講を迎えて登拝の世話を行った御師の住宅、富士講がオプ
ショナル・ツアー的に巡礼・修行を行った地として代表的な湖
沼、滝、風穴・溶岩樹型も全て資産を構成する要素として推薦
範囲に含めている。それらは、周辺に必要十分な範囲の緩衝地
帯を設定しており、負の影響を与える可能性の行為に対して適
切な法的規制を行うとともに、包括的保存管理計画の下に保全
又は改善のための対策を明示している。したがって、資産の周
辺環境の保全に関する完全性も揺らぎはない。2)真実性推薦
資産は、所有者をはじめ、国及び地方公共団体によって適切な
維持管理が行われ、文化資産としての価値を失することなく良
好な状態を保っている。以下に、『世界遺産条約履行のための
作業指針』第82項に示された文化遺産の評価に適用される真
実性の属性に基づいた、構成資産の種類ごとの分析を示す。(
1)富士山体(遺跡(site))富士山は、1707年を最
後に噴火しておらず、以降、形態に変更はない。また、今後噴
火によって形態上の変化が起こったとしても、富士山の荒ぶる
姿は人々の信仰心を鼓舞し、芸術活動に駆り立てることから、
真実性が損なわれるものではなく、むしろ、有史以来時代を超
えて、精神・機能の観点からみた真実性は確実に維持されてい
る。神聖性が最も高いとされる、山体中腹以上の核心となる区
域には、文化財保護法により厳格に保護されているほか、その
周辺地域や展望線及び主要な展望地点は、自然公園法などの国
内法により展望・眺望への妨げとなるものの除外や風致景観と
の調和を図る景観保全が行われており、景観全体

121 :
な修理として屋根葺替修理や塗装修理などを定期的に実施してき
た。建造物は自然災害等により幾度かの損傷を被ってきたが、そ
のつど旧態に復旧され、その歴史上の価値は確実に継承されてい
る。さらに、指定地内で行われる現状変更等については、文化財
保護法の下に許可制に基づき厳重に規制されている。また、重要
文化財である建造物のみならず、史跡等に指定され

122 :
吉田胎内樹型の中には祠などが祀られ、穴自体を神聖視する精
神、宗教空間としての機能は現在も受け継がれている。入洞者
の安全のため、船津胎内樹型の入り口部分は改変が加えられて
いるが、それ以外の形状・位置の真実性は、自然崩落の場合を
除き、確実に継承されている。人穴富士講遺跡においては、碑
塔のほとんどに建立者、講の名称や年号(創建年号や関係者の
死亡年号)などが記載されており、真実性に疑いの余地はない
。444.保全状況と資産に与える影響a)現在

123 :
降の保存修理事業においては、建立後に修理又は改変された後補部分について、後
補材の撤去・復原・欠失した部分の復旧を行うなど、高い真実性が追究されてきた
。脆弱な材料・材質から成る木造建築の修理に関する伝統をはじめ、そこに用いら
れる技術についても確実に継承されている。また、富士山の顕著な普遍的価値が最
もよく表現される時代の位置を維持し、境内林などに囲まれた周辺の環境も良好で
ある。さらに、宗教空間としての用途・機能を何百年も維持してきた

124 :
存在する個々の歴史的建造物の保存修理事業を行うに当たっては
、文化財保護法の下に、それらの歴史に関する調査、伝統技法に
関する調査、地下遺構に関する発掘調査、破損状況及びその原因
に関する調査など、事前の学術調査を周到に行い、その結果に基
づいて、所有者・学識経験者・行政経験者等から成る修理及び整
備委員会における保存修理や環境整備の方針の決定及び指導に基
づき実施している。また、それらの修理完了後には、修理に係る
記録をまとめた修理工事報告書を刊行している。さらに、重要文
化財である建造物については、火災による焼損防止のために自動
火災報知設備及び各種の消火施設・避雷施設を設置し、防火・消
火に関する組織の運営についても万全を期している。また、建造
物の所有者である宗教法人及び市並びに個人は、県又は各市町村
が策定した保存活用計画に基づいて、それらの確実な保存管理に
当たっている。また、建造物の軽微な補修等の日常管理について
は、所有者の依頼により、専門の建築技術者によって実施されて
いる。(4)その他信仰関連遺跡(遺跡(site))これらの
構成資産は、湖沼、風穴・溶岩樹型、滝・湧水、石造工作物(人
穴の碑塔)である。これらの構成資産については、その自然的価
値から湧玉池が特別天然記念物に、白糸ノ滝が名勝及び天然記念
物に、富士五湖が名勝に、風穴・溶岩樹型及び忍野八海が天然記
念物に指定されているとともに、その一部が史跡に指定されてい
る。これらの構成資産については、県及び市町村が、各史跡等の
規模・形態・性質・立地・環境等に応じて保存管理計画を策定し
、確実な保存管理に当たっている。したがって、各史跡等を構成
する諸要素及びそれらと一体をなす周辺の地域は、良好な状態を
保っている。さらに、指定地内で行われる現状変更等については
、文化財保護法の下に許可制に基づき厳重に規制されている。2
)構成資産の保全状況(A)山体(眺望の対象である富士山、あ
る文化的伝統を伝承する物証である、連続性のある資産としての
富士山)登録範囲における自然的環境については、おおむね良好
な状態である。資産範囲の上部は文化財保護法(特別名勝)及び
自然公園法(特別保護地区及び第1種特別地域、第

125 :
ションのために登山を行う人々にとっても、脈々と継承してきた富士山に対する信
仰の核心の証左として、それらは機能している。(3)その他の信仰関連遺跡(遺
跡(site))富士五湖及び忍野八海においては、文献や石碑などの状況証拠か
ら、内八海巡りや富士御手洗元八湖が行われていたことがわかっている。人々の信
仰心を駆り立てた湖沼の水そのものは、顕著な普遍的価値の核心として現在に継承
されている。さらに、周辺環境においても、自然公園法や景観法に基づく景観計画
などにより風致景観との調和を図る景観保全が行われており、景観全体の真実性は
確実に保証されている。白糸ノ滝においては、長谷川角行の修行地がどこであった
かを明確に示す文献はないが、富士講講徒が滝壺で修行したことは講徒の記録及び
その挿図で確認できる。船津胎内樹型及び吉田胎内樹型の中には祠などが祀られ、
穴自体を神聖視する精神、宗教空間としての機能は現在も受け継がれている。入洞
者の安全のため、船津胎内樹型の入り口部分は改変が加えられているが、それ以外
の形状・位置の真実性は、自然崩落の場合を除き、確実に継承されている。人穴富
士講遺跡においては、碑塔のほとんどに建立者、講の名称や年号(創建年号や関係
者の死亡年号)などが記載されており、真実性に疑いの余地はない。444.保全
状況と資産に与える影響a)現在の保全状況「富士山」の17個の構成資産につい
ては、すでに多くの修理や整備の事業が適切に行われており、自然的な要因に基づ
く一部の資産を除き構成資産の保存状況も良好である。特に神社の建造物及び境内
については、所有者である宗教法人により適切な維持的措置が恒常的に行われてお
り、保存状況は良好である。1)資産全体の保全状況(1)主要な展望主要な展望
としての構成資産は、本栖湖と三保松原であり、展望点及びそこから展望した山体
の大部分である。展望面に関しては本栖湖の場合構成資産に含まれており、三保松
原の場合は展望点より山体まで距離の距離が約45qと遠方であり、かつ、その間
のかなりの部分が海面及び人口密集地(富士市市街地)であるため、

126 :
)により厳密に保全され、下部(標高1500〜2000m以下
、特別名勝範囲外)は自然公園法(特別保護地区、第1〜3種特
別地域、普通地域)及び森林法(保安林)により重層的に保護さ
れているため、景観および文化的価値のどちらの点においても資
産に影響を及ぼす行為は発生しない。た46だし、山体西側には
山頂部付近から標高2200m付近までを源頭部とする土砂崩れ
(以下、「大沢崩れ」という。)が、約1000年前より継続し
て発生している。このため山体西側の一部でかつての信仰に関わ
る道(御中道)の通行等が禁止されている区域がある。山頂及び
登山道周辺では、多くの人々によって行われる登山行為に起因す
る廃棄物・し尿が発生するが、山小屋組合などにより適切に管理
・除去されている。なお、山腹において、山小屋の維持・廃棄物
の撤去のためにブルドーザーが通行する道路があるが、使用は必
要最小限にとどめられている。山頂部周辺の文化的環境について
も、現時点における保全状態は良好である。ただし、降雪・強風
等に常時さらされるため、小規模な変更は常時行われてきた。(
A1)山頂信仰遺跡現時点における保全状態は良好である。(A
2〜5)登山道富士山は脆弱な火山地質であるとともに、雪崩・
強風等に常時さらされるため、登山の開始以降登山道小規模な経
路の変更は常時行われていた。したがって、継続的な観点におけ
る保全状態について明確に述べることはできない。しかし、現在
も登山道として使用されている部分については毎年登山期前に県
、地元保存会(須山口)又は山小屋組合により整備が行われ、適
切な状態に保たれている。(A6)北口本宮冨士浅間神社北口本
宮冨士浅間神社は定期的な維持修理が行われており、現時点にお
ける保全状態は良好である。(A7〜9)西湖・精進湖・本栖湖
すべての湖とも現時点における保全状態は良好である。中でも本
栖湖は、訪問者の体験を損ねないように、展望地点から富士山を
見た展望線と展望地点区域の周辺環境の維持に配慮した良好な保
存管理が行われており、現時点における保全状態は特に良好であ
る。(B1)富士山本宮浅間大社定期的な維持修理が行われてお
り、現時点における保全状態は良好である。湧玉池

127 :
体までの範囲は構成資産に含めてはいない。現状においてこれらの資産範囲及び展
望面は三保松原の一部を除き良好な状態を保っている。これらの資産範囲について
は、信仰の核心である御中道より上の範囲は文化財保護法(特別名勝及び名勝)及
び自然公園法(特別保護地区及び第1種特別地域)により厳密に保全され、下部(
標高1500〜2000m以下、特別名勝範囲外)は自然公園法(特別保護地区、
第1〜3種特別地域、普通地域)及び森林法(保安林)により重層的に保護されて
いる。また、展望面の周辺部については自然公園法(特別保護地区、第1〜3種特
別地域、普通地域)及び森林法(保安林)、景観法に基づく景観条例、景観計画に
より保護されている。これらの法令の許可制に基づく保護により、景観面に関して
資産に影響のある開発は厳重に管理されている。また、資産範囲及び緩衝地帯に含
まれていない三保松原の展望面についても海面において実質的に開発行為は起りえ
ず、市街地においても景観法に基づく景観条例、景観計画により保護されているた
め、特に問題は生じない。(2)登山道(遺跡(site))これらの構成資産は
富士山体及びそこに所在する登山道である。これらの構成資産については、真実性
及び完全性が担保できる部分が史跡に指定されるとともに、その大部分の範囲が特
別名勝に指定されている。これらの構成資産については、県が、各史跡及び特別名
勝としての保存管理計画を策定し、構成資産の所在する市町村とともに確実な保存
管理に当たっている。したがって、各史跡等を構成する諸要素及びそれらと一体を
なす周辺の地域は、良好な状態を保っている。さらに、指定地内で行われる現状変
更及び保存に影響を及ぼす行為(以下、「現状変更等」という。)については、文
化財保護法の下に許可制に基づき厳重に規制されている(富士山体の保護措置につ
いては次項で詳しく述べる。)。(3)神社・御師住宅(記念工作物・建造物群・
遺跡(site))これらの構成資産はいずれも社殿などの木造建造物を中心とし
ている。それら内のいくつかは、富士山本宮浅間大社本殿などのよう

128 :
各史跡及び特別名勝としての保存管理計画を策定し、構成資産
の所在する市町村とともに確実な保存管理に当たっている。し
たがって、各史跡等を構成する諸要素及びそれらと一体をなす
周辺の地域は、良好な状態を保っている。さらに、指定地内で
行われる現状変更及び保存に影響を及ぼす行為(以下、「現状
変更等」という。)については、文化財保護法の下に許可制に
基づき厳重に規制されている(富士山体の保護措置については
次項で詳しく述べる。)。(3)神社・御師住宅(記念工作物
・建造物群・遺跡(site))これらの構成資産はいずれも
社殿などの木造建造物を中心としている。それら内のいくつか
は、富士山本宮浅間大社本殿などのように重要文化財に指定さ
れており(御師住宅は指定予定)、その他の建築物や境内地は
史跡の構成要素として保護されている。これらの木造建築物に
ついては、これまで損傷の程度に応じた適切な修理が行われて
きた。したがって、それらはすべて45良好な状態を保ってい
る。具体的には、建造物の全体を解体して行う全解体修理、軸
組を残したまま壁や屋根などの修理を行う半解体修理を実施し
ているほか、部分的な修理として屋根葺替修理や塗装修理など
を定期的に実施してきた。建造物は自然災害等により幾度かの
損傷を被ってきたが、そのつど旧態に復旧され、その歴史上の
価値は確実に継承されている。さらに、指定地内で行われる現
状変更等については、文化財保護法の下に許可制に基づき厳重
に規制されている。また、重要文化財である建造物のみならず
、史跡等に指定された神社境内に存在する個々の歴史的建造物
の保存修理事業を行うに当たっては、文化財保護法の下に、そ
れらの歴史に関する調査、伝統技法に関する調査、地下遺構に
関する発掘調査、破損状況及びその原因に関する調査など、事
前の学術調査を周到に行い、その結果に基づいて、所有者・学
識経験者・行政経験者等から成る修理及び整備委員会における
保存修理や環境整備の方針の決定及び指導に基づき実施してい
る。また、それらの修理完了後には、修理に係る記録をまとめ
た修理工事報告書を刊行している。さらに、重要

129 :
良好な状態であるが、二つの池のうち「上池」では、湧水量が減
少し、藻類が繁殖しているため、「湧玉池保全再生会議」が設置
され、対策が検討されている。(B2)山宮浅間神社現時点にお
ける保全状態は良好である。(B3)村山浅間神社現時点におけ
る保全状態は良好である。(B4)須山浅間神社現時点における
保全状態は良好である。(B5)富士浅間神社(須走浅間神社)
現時点における保全状態は良好である。(B6)河口浅間神社現
時点における保全状態は良好である。47(B7)冨士御室浅間
神社現時点における保全状態は良好である。ただし、漆塗装の磨
耗退色が著しい部分がある。また、本宮本殿の脇障子版は富士山
二合目所在時に毀損にあっており、今後、修復・修繕の検討が予
想される。(B8)御師住宅旧外川家住宅は2006−2007
年に大規模な修繕工事を行ったため、現時点における保全状態は
良好である。小佐野家住宅は、所有者らによって日常的な維持管
理が行われているほか、補助事業などによって文化財としての保
護に必要な修繕や設備の整備が進められてきた。(B9〜10)
山中湖、河口湖どちらの湖とも現時点における保全状態は良好で
ある。(B11)忍野八海天然記念物として指定されている範囲
は水面に限られており、私有地が隣接しているため、周辺環境を
含めた保全状態に課題がある。しかし、忍野村が景観計画を策定
し、周辺環境を含めた保全を行っている。(B12)船津胎内樹
型現時点における保全状態は良好である。(B13)吉田胎内樹
型内部の溶岩の盗掘や人の侵入による破壊を防ぐために本穴入り
口は施錠されており、現時点における保全状態は良好である。(
B14)人穴富士講遺跡碑塔群はおおむね良好な状態であるが、
一部の碑塔に修理が必要である。(B15)白糸ノ滝現状では滝
壺周辺に売店があるなど景観面において課題がある。このため、
富士宮市が中心となり保存管理計画の改訂および整備計画の策定
を行い、今後適切な整備がなされる予定である。滝の自然崩壊に
ついては特に対策は採られていない。(C)三保松原現状では1
960〜80年代に進行した海岸浸食の影響からの回復を図るた
め、資産内及び周辺にヘッドランドなどが仮設され

130 :
に指定されており(御師住宅は指定予定)、その他の建築物や境内地は史跡の構成
要素として保護されている。これらの木造建築物については、これまで損傷の程度
に応じた適切な修理が行われてきた。したがって、それらはすべて45良好な状態
を保っている。具体的には、建造物の全体を解体して行う全解体修理、軸組を残し
たまま壁や屋根などの修理を行う半解体修理を実施しているほか、部分的な修理と
して屋根葺替修理や塗装修理などを定期的に実施してきた。建造物は自然災害等に
より幾度かの損傷を被ってきたが、そのつど旧態に復旧され、その歴史上の価値は
確実に継承されている。さらに、指定地内で行われる現状変更等については、文化
財保護法の下に許可制に基づき厳重に規制されている。また、重要文化財である建
造物のみならず、史跡等に指定された神社境内に存在する個々の歴史的建造物の保
存修理事業を行うに当たっては、文化財保護法の下に、それらの歴史に関する調査
、伝統技法に関する調査、地下遺構に関する発掘調査、破損状況及びその原因に関
する調査など、事前の学術調査を周到に行い、その結果に基づいて、所有者・学識
経験者・行政経験者等から成る修理及び整備委員会における保存修理や環境整備の
方針の決定及び指導に基づき実施している。また、それらの修理完了後には、修理
に係る記録をまとめた修理工事報告書を刊行している。さらに、重要文化財である
建造物については、火災による焼損防止のために自動火災報知設備及び各種の消火
施設・避雷施設を設置し、防火・消火に関する組織の運営についても万全を期して
いる。また、建造物の所有者である宗教法人及び市並びに個人は、県又は各市町村
が策定した保存活用計画に基づいて、それらの確実な保存管理に当たっている。ま
た、建造物の軽微な補修等の日常管理については、所有者の依頼により、専門の建
築技術者によって実施されている。(4)その他信仰関連遺跡(遺跡(site)
)これらの構成資産は、湖沼、風穴・溶岩樹型、滝・湧水、石造工作物(人穴の碑
塔)である。これらの構成資産については、その自然的価値から湧玉

131 :
建造物については、火災による焼損防止のために自動火災報知
設備及び各種の消火施設・避雷施設を設置し、防火・消火に関
する組織の運営についても万全を期している。また、建造物の
所有者である宗教法人及び市並びに個人は、県又は各市町村が
策定した保存活用計画に基づいて、それらの確実な保存管理に
当たっている。また、建造物の軽微な補修等の日常管理につい
ては、所有者の依頼により、専門の建築技術者によって実施さ
れている。(4)その他信仰関連遺跡(遺跡(site))こ
れらの構成資産は、湖沼、風穴・溶岩樹型、滝・湧水、石造工
作物(人穴の碑塔)である。これらの構成資産については、そ
の自然的価値から湧玉池が特別天然記念物に、白糸ノ滝が名勝
及び天然記念物に、富士五湖が名勝に、風穴・溶岩樹型及び忍
野八海が天然記念物に指定されているとともに、その一部が史
跡に指定されている。これらの構成資産については、県及び市
町村が、各史跡等の規模・形態・性質・立地・環境等に応じ

132 :
を与えている。また、松原においてもマツクイムシ(マツノザイ
センチュウ)による松枯れがみられるため、薬剤注入・散布によ
る予防措置及び植林、枯れた松の除去が実施されている。現在こ
れらの対策により、資産の現状を保ち、将来においてはより良好
な保全状態となることは確実である。なお、三保松原の象徴的存
在である羽衣の松は1707年の宝永噴火とその前後の地震によ
り初代とされる松が失われたため、現在の松(樹齢約650年)
を指定した。しかし、この松も台風による幹の損傷

133 :
生している。このため山体西側の一部でかつての信仰に関わる
道(御中道)の通行等が禁止されている区域がある。山頂及び
登山道周辺では、多くの人々によって行われる登山行為に起因
する廃棄物・し尿が発生するが、山小屋組合などにより適切に
管理・除去されている。なお、山腹において、山小屋の維持・
廃棄物の撤去のためにブルドーザーが通行する道路があるが、
使用は必要最小限にとどめられている。山頂部周辺の文化的環
境についても、現時点における保全状態は良好で

134 :
、2010年10月にその交代が行われる(三代目は樹齢約30
0〜400年と推定されている)。また、現在静岡市が保存管理
計画の改訂を行っている。なお、資産範囲・緩衝地帯範囲には含
まれないが、三保松原の富士山方向の対岸に当たる富士市の工業
地帯においては、現在使用していない高煙突の撤去が静岡県の政
策(富士地域煙突ゼロ作戦)として実施されている。48b)資
産に与える影響の要因1)開発の圧力資産及びその緩衝地帯にお
いて、建築物又は工作物の建設、土地の形質変更、木竹の伐採等
の等の行為を行う場合には、文化財保護法、自然公園法、都市計
画法、森林法、河川法、海岸法及び関係市町村が定める条例(景
観法に基づき策定された景観条例等)の下に、それらの規模、形
態・構造に関する規制(建築物又は工作物に関しては、それらの
高さ・色彩・意匠等の規制を含む)が行われるため、資産の価値
を著しく低下させるような開発は起り得ない。「富士山世界遺産
両県協議会」(設置予定・仮称)では、両県の知事・市町村長を
中心に、許認可・保存に関わる国機関も加わり、開発の状況を把
握し、コントロールのあり方について検討を行う予定である。開
発計画のうち、現在北麓(山梨県)においては都市計画区域用途
地域または都市計画区域外では5ha以上、都市計画内(用途地
域外)では10ha以上の計画については、山梨県内の組織であ
る「山梨県土地利用調整会議」に事前協議書が提出され、知事の
同意が必要とされている。その同意を得た後で、個別法令の許認
可を担当する部署での手続きを行うことになっており、一元化し
た組織かつ統一した基準での開発のコントロールが行われている
。こうした大規模開発を含む緩衝地帯内で行われる一定規模以上
の開発行為については、「富士山世界遺産両県協議会」へ報告が
なされ、必要に応じて個別法令の許認可を担当する部署に対して
助言等がなされる予定である。また、各市町村の景観計画の下に
、各市町村は景観阻害要因の排除に努めることとしているほか、
世界遺産暫定一覧表に記載され、世界遺産一覧表への記載の可能
性のある文化資産に相応しい周辺市街地を創出するために適切な
景観の保全・改善の施策を実施することとしている

135 :
、降雪・強風等に常時さらされるため、小規模な変更は常時行
われてきた。(A1)山頂信仰遺跡現時点における保全状態は
良好である。(A2〜5)登山道富士山は脆弱な火山地質であ
るとともに、雪崩・強風等に常時さらされるため、登山の開始
以降登山道小規模な経路の変更は常時行われていた。したがっ
て、継続的な観点における保全状態について明確に述べること
はできない。しかし、現在も登山道として使用されている部分
については毎年登山期前に県、地元保存会(須山口)又は山小
屋組合により整備が行われ、適切な状態に保たれている。(A
6)北口本宮冨士浅間神社北口本宮冨士浅間神社は定期的な維
持修理が行われており、現時点における保全状態は良好である
。(A7〜9)西湖・精進湖・本栖湖すべての湖とも現時点に
おける保全状態は良好である。中でも本栖湖は、訪問者の体験
を損ねないように、展望地点から富士山を見た展望線と展望地
点区域の周辺環境の維持に配慮した良好な保存管理が行われて
おり、現時点における保全状態は特に良好である。(B1)富
士山本宮浅間大社定期的な維持修理が行われており、現時点に
おける保全状態は良好である。湧玉池は全般的には良好な状態
であるが、二つの池のうち「上池」では、湧水量が減少し、藻
類が繁殖しているため、「湧玉池保全再生会議」が設置され、
対策が検討されている。(B2)山宮浅間神社現時点における
保全状態は良好である。(B3)村山浅間神社現時点における
保全状態は良好である。(B4)須山浅間神社現時点における
保全状態は良好である。(B5)富士浅間神社(須走浅間神社
)現時点における保全状態は良好である。(B6)河口浅間神
社現時点における保全状態は良好である。47(B7)冨士御
室浅間神社現時点における保全状態は良好である。ただし、漆
塗装の磨耗退色が著しい部分がある。また、本宮本殿の脇障子
版は富士山二合目所在時に毀損にあっており、今後、修復・修
繕の検討が予想される。(B8)御師住宅旧外川家住宅は20
06−2007年に大規模な修繕工事を行ったため、現時点に
おける保全状態は良好である。小佐野家住宅は、

136 :
掲げる開発計画等の立案に当たっては、いずれにおいても資産へ
の影響を最小限に留めるよう関係機関・団体と調整を行うことし
、実施する場合にも事前に十分な協議を行うこととしている。(
1)観光開発(ホテル・ゴルフ場・スキー場)緩衝地帯に位置す
るホテル等については、自然公園法に基づき、高さ・色彩・意匠
等の規制が行われており、既存施設の改築についても同様である
。特に山体の五合目以上、本栖湖からの展望線の核心部は自然公
園法の特別保護地区、第1種特別地域となっており、新規の構造
物の建築は禁止されている。また、富士山北麓(山梨県)では新
規の10ha以上のゴルフ場開発については凍結されている。(
2)廃棄物処分場又は清掃工場現時点で計画なし。(※演習場内
の解放地に御殿場市・小山町広域行政組合によるゴミ処理施設の
計画あり。)(3)工場又は工業団地現時点で計画なし。(北口
本宮冨士浅間神社の南600mの地域に、工場進出の計画あり。
)(4)道路整備緩衝地帯においては、北口本宮冨士浅間神社と
御師住宅との間を走る国道138号の拡幅が計画されている。当
該道路計画においては、市、県、国等の関係機関と有識者からな
る「富士北麓地域交通円滑化対策検討会」において、計画案の検
討を行うなど、当該神社の社叢や周囲の景観に調和した道路の意
匠・構造とすることとしており、当該資産の価値の保護に影響は
ない。49県道山中湖忍野富士吉田線の新倉トンネルは、河口湖
畔と富士吉田市中心部をトンネルで結ぶ計画である。河口湖湖畔
の渋滞解消、火山防災のバイパスとすることを目的としており、
当該資産の価値の保護に影響はない。また、道路改良事業として
、線形改良、歩道設置など来訪者の安全性向上を図ることを目的
とした事業が行われ、景観に配慮した内容とするよう調整してい
る。2)環境の圧力資産の価値を著しく低下させるような自然的
環境の変化として、山体の形状を変化させる噴火及びそれに伴う
噴石、火砕流・火砕サージ、溶岩流、融雪型火山泥流、降灰、降
灰後の降雨による土石流などによる登山道及び周辺の資産の損傷
が予測される。「大沢崩れ」が約1000年前より始まり、現在
その幅は年1.6mの割合で拡大している(富士砂

137 :
って日常的な維持管理が行われているほか、補助事業などによ
って文化財としての保護に必要な修繕や設備の整備が進められ
てきた。(B9〜10)山中湖、河口湖どちらの湖とも現時点
における保全状態は良好である。(B11)忍野八海天然記念
物として指定されている範囲は水面に限られており、私有地が
隣接しているため、周辺環境を含めた保全状態に課題がある。
しかし、忍野村が景観計画を策定し、周辺環境を含めた保全を
行っている。(B12)船津胎内樹型現時点における保全状態
は良好である。(B13)吉田胎内樹型内部の溶岩の盗掘や人
の侵入による破壊を防ぐために本穴入り口は施錠されており、
現時点における保全状態は良好である。(B14)人穴富士講
遺跡碑塔群はおおむね良好な状態であるが、一部の碑塔に修理
が必要である。(B15)白糸ノ滝現状では滝壺周辺に売店が
あるなど景観面において課題がある。このため、富士宮市が中
心となり保存管理計画の改訂および整備計画の策定を行い、今
後適切な整備がなされる予定である。滝の自然崩壊については
特に対策は採られていない。(C)三保松原現状では1960
〜80年代に進行した海岸浸食の影響からの回復を図るため、
資産内及び周辺にヘッドランドなどが仮設され、景観に影響を
与えている。また、松原においてもマツクイムシ(マツノザイ
センチュウ)による松枯れがみられるため、薬剤注入・散布に
よる予防措置及び植林、枯れた松の除去が実施されている。現
在これらの対策により、資産の現状を保ち、将来においてはよ
り良好な保全状態となることは確実である。なお、三保松原の
象徴的存在である羽衣の松は1707年の宝永噴火とその前後
の地震により初代とされる松が失われたため、現在の松(樹齢
約650年)を指定した。しかし、この松も台風による幹の損
傷で樹勢が衰え、2010年10月にその交代が行われる(三
代目は樹齢約300〜400年と推定されている)。また、現
在静岡市が保存管理計画の改訂を行っている。なお、資産範囲
・緩衝地帯範囲には含まれないが、三保松原の富士山方向の対
岸に当たる富士市の工業地帯においては、現在使

138 :
H20の38年間で約60m・3400メートル地点・523万
?・年13.8?の土砂が流出)。ただし、噴火・地震等がなけ
れば少なくとも200年後までは富士山の景観に大きな変化はな
いと予測されている(「富士火山」P407〜)。酸性雨を含む
大気汚染が引き起こす被害については、現段階では確認されてい
ない。白糸ノ滝では、滝自体の浸食により年2cmの割合で後退
しており、10年程度の間隔で自然崩壊が発生する。砂嘴である
三保松原では20世紀後半に土砂供給源の川での土砂採取が活発
になり、堆積活動が減少したことで海流による海岸浸食が進んで
いたが、現在は土砂採取の禁止等により、堆積活動が回復してい
る。また、三保松原における松にはマツクイムシ(マツノザイセ
ンチュウ)による被害が見られる。これに対しては、薬剤注入・
散布による予防措置及び植林、枯れた松の除去を資産の所在する
静岡市とNPO法人が行っており、被害の拡大を防止している。
3)自然災害と危機管理資産の所在地域における自然災害として
は、第一に富士山特有のものとして山体及び側火山からの噴火及
びそれに伴う噴石、火砕流・火砕サージ、溶岩流、融雪型火山泥
流、降灰、降灰後の降雨による土石流などが予想されるとともに
、数年単位で発生する山体における雪崩(特に大量の水分を含ん
だ雪が流動する雪泥流)や大沢崩れ及びそれに伴う土石流、強風
、雨水による浸食などが考えられる。また、富士山を含む駿河湾
沿いの地域はM8クラスの海洋プレート内地震の発生が予測され
ている。第二に日本列島の太平洋側における一般的自然災害であ
る台風・大雨・洪水並びに火災等が予測されている。第三に三保
松原に関しては海岸浸食に伴う高潮などの被害がある。これらに
ついてそれぞれ以下のような防災対策を講じている。噴火及びそ
れに伴う災害に対しては、気象庁をはじめとする研究・防災機関
が常時観測を行うと同時に、国の富士山ハザードマップ検討委員
会報告書(2004年)に基づき県及び市町村において火山防災
計画(ハザードマップ・避難計画)などを策定している。雪崩に
ついては、吉田口登山道では馬返より上の登山道に浸透桝を設け
、雨水や雪崩による崩壊を防いでいる。土砂崩れ・

139 :
高煙突の撤去が静岡県の政策(富士地域煙突ゼロ作戦)として
実施されている。48b)資産に与える影響の要因1)開発の
圧力資産及びその緩衝地帯において、建築物又は工作物の建設
、土地の形質変更、木竹の伐採等の等の行為を行う場合には、
文化財保護法、自然公園法、都市計画法、森林法、河川法、海
岸法及び関係市町村が定める条例(景観法に基づき策定された
景観条例等)の下に、それらの規模、形態・構造に関する規制
(建築物又は工作物に関しては、それらの高さ・色彩・意匠等
の規制を含む)が行われるため、資産の価値を著しく低下させ
るような開発は起り得ない。「富士山世界遺産両県協議会」(
設置予定・仮称)では、両県の知事・市町村長を中心に、許認
可・保存に関わる国機関も加わり、開発の状況を把握し、コン
トロールのあり方について検討を行う予定である。開発計画の
うち、現在北麓(山梨県)においては都市計画区域用途地域ま
たは都市計画区域外では5ha以上、都市計画内(用途地域外
)では10ha以上の計画については、山梨県内の組織である
「山梨県土地利用調整会議」に事前協議書が提出され、知事の
同意が必要とされている。その同意を得た後で、個別法令の許
認可を担当する部署での手続きを行うことになっており、一元
化した組織かつ統一した基準での開発のコントロールが行われ
ている。こうした大規模開発を含む緩衝地帯内で行われる一定
規模以上の開発行為については、「富士山世界遺産両県協議会
」へ報告がなされ、必要に応じて個別法令の許認可を担当する
部署に対して助言等がなされる予定である。また、各市町村の
景観計画の下に、各市町村は景観阻害要因の排除に努めること
としているほか、世界遺産暫定一覧表に記載され、世界遺産一
覧表への記載の可能性のある文化資産に相応しい周辺市街地を
創出するために適切な景観の保全・改善の施策を実施すること
としている。なお、次に掲げる開発計画等の立案に当たっては
、いずれにおいても資産への影響を最小限に留めるよう関係機
関・団体と調整を行うことし、実施する場合にも事前に十分な
協議を行うこととしている。(1)観光開発(ホ

140 :
大沢崩れ)については国が中心となり、源頭部における水分と土
砂の分離、山麓における土石流災害防止を目的とした遊砂地の設
置などを行っている。また、登山道を管理する県では導流堤を設
置し、落石の落下先をコントロールしている。これらの災害は発
生自体を防止することは困難であるため、その被害を最小限にと
どめることを対策の骨子としている。50地震に関

141 :
今日は寒いだろさすがに

142 :
場・スキー場)緩衝地帯に位置するホテル等については、自然
公園法に基づき、高さ・色彩・意匠等の規制が行われており、
既存施設の改築についても同様である。特に山体の五合目以上
、本栖湖からの展望線の核心部は自然公園法の特別保護地区、
第1種特別地域となっており、新規の構造物の建築は禁止され
ている。また、富士山北麓(山梨県)では新規の10ha以上
のゴルフ場開発については凍結されている。(2)廃棄物処分
場又は清掃工場現時点で計画なし。(※演習場内

143 :
ては、大規模地震対策特別措置法(1978年)に基づき、予知
を目的とした観測体制、予知を前提とした非難・警戒体制、防災
施設整備が行われるとともに、東海地震対策大綱(2003)に
基づき国・県・市町村の防災計画が策定されている。また、今後
各神社等の耐震化が行われる計画となっている。台風は1996
年9月に富士山南側の人工林地区(ヒノキ)に風倒の被害(標高
1100〜1200m中心、計1125ha、富士山では約93
5haうち国有林620ha)をもたらしたことがあるため、1
997年より静岡県が中心となり、被害地に対して自生種(ブナ
・ミズナラ)の植栽(のべ22・68ha)を実施している。ま
た、風倒による被害を防ぐため人工林における下刈を実施してい
る。大雨・洪水に関しては堤防・遊水地・砂防堰堤の建設や河川
の改修などにより、大雨時の洪水に対する防止策を講じている。
山火事に対しては、国、県、市町村の連絡・協力体制を確立し、
草原地帯においては防火帯を設け、大規模な火災に対して最大限
の対応を可能としている。建造物の火災に対しては自動火災報知
設備・ドレンチャー設備・消火栓、放水銃などを設置しているほ
か、自主防火組織も整備するなど、万全を期しているので問題な
い。万一、上記の災害が発生した場合においても、速やかに現状
復旧の対策を講じるための制度及び体制を完備しており、資産の
価値が減じることはない。三保松原においては、高潮対策事業と
して安倍川(土砂供給源)下流部での砂利採取を1968年より
海岸浸食の原因の一因と考え禁止するとともに、1989年より
34年計画(2034年まで)でヘッドランド・離岸堤の設置や
養浜による海岸保全対策を行い、現在、海岸と平行した方向に年
250mの割合で砂浜の回復が進行している。現在ヘッドランド
の一部が景観に影響を与えているが、砂浜の回復後に撤去する計
画が進んでいる。登山者の安全に関しては、気候の急変に備え、
「富士山登山指導センター(山頂と富士宮口新五合目)」、「富
士山安全指導センター(吉田口六合目)」と「富士山衛生センタ
ー(富士宮口八合目)」が設けられている。また、富士宮口のす
べて、吉田口七合目以上のほとんどの山小屋にはA

144 :
殿場市・小山町広域行政組合によるゴミ処理施設の計画あり。
)(3)工場又は工業団地現時点で計画なし。(北口本宮冨士
浅間神社の南600mの地域に、工場進出の計画あり。)(4
)道路整備緩衝地帯においては、北口本宮冨士浅間神社と御師
住宅との間を走る国道138号の拡幅が計画されている。当該
道路計画においては、市、県、国等の関係機関と有識者からな
る「富士北麓地域交通円滑化対策検討会」において、計画案の
検討を行うなど、当該神社の社叢や周囲の景観に調和した道路
の意匠・構造とすることとしており、当該資産の価値の保護に
影響はない。49県道山中湖忍野富士吉田線の新倉トンネルは
、河口湖畔と富士吉田市中心部をトンネルで結ぶ計画である。
河口湖湖畔の渋滞解消、火山防災のバイパスとすることを目的
としており、当該資産の価値の保護に影響はない。また、道路
改良事業として、線形改良、歩道設置など来訪者の安全性向上
を図ることを目的とした事業が行われ、景観に配慮した内容と
するよう調整している。2)環境の圧力資産の価値を著しく低
下させるような自然的環境の変化として、山体の形状を変化さ
せる噴火及びそれに伴う噴石、火砕流・火砕サージ、溶岩流、
融雪型火山泥流、降灰、降灰後の降雨による土石流などによる
登山道及び周辺の資産の損傷が予測される。「大沢崩れ」が約
1000年前より始まり、現在その幅は年1.6mの割合で拡
大している(富士砂防・S45〜H20の38年間で約60m
・3400メートル地点・523万?・年13.8?の土砂が
流出)。ただし、噴火・地震等がなければ少なくとも200年
後までは富士山の景観に大きな変化はないと予測されている(
「富士火山」P407〜)。酸性雨を含む大気汚染が引き起こ
す被害については、現段階では確認されていない。白糸ノ滝で
は、滝自体の浸食により年2cmの割合で後退しており、10
年程度の間隔で自然崩壊が発生する。砂嘴である三保松原では
20世紀後半に土砂供給源の川での土砂採取が活発になり、堆
積活動が減少したことで海流による海岸浸食が進んでいたが、
現在は土砂採取の禁止等により、堆積活動が回復

145 :
れている。(御殿場口はなし、須走口は1軒・東富士山荘)4)
来訪者及び観光の圧力富士山の構成資産のうち私有財産である小
佐野家住宅(御師住宅)を除いた資産はすべて公開されている。
ただし山体資産範囲については登山道及び山頂部以外は土地所有
者(国、県、富士山本宮浅間大社)の了解が必要であり、安全上
の観点からも県が登山道からの逸脱を好ましくない行為として事
実上立入を制限している。山体以外の資産については、き損・悪
戯・盗難等の被害から建造物等の構成資産を護るために、防犯警
備施設を設置するとともに巡視及び監視の体制を整備し(山宮・
村山・人穴等では防犯システムは採用されていない)、来訪者に
よるゴミの増加等に対しても地域住民や関係市町村が適切な管理
を行っていることから、観光による圧力が資産の価値を著しく低
下させるようなことは起こり得ない。山体に関しては、観光客に
よるごみ及びし尿、並びに自動車で訪れる来訪者(富士山スカイ
ラインでは4月〜11月の合計で年平均127,000台・19
99〜2009年、富士スバルラインで年平均410,000台
・2006〜2008年)による環境への負荷及び混雑の軽減を
目的に以下の対策を行った。ごみに関しては国・県及びNPO法
人(富士山ネットワーク・富士山クラブ)、ボランティアによ5
1る清掃作業が活発に実施されるとともに(平成20年実績・9
2回、約64t、延べ参加人数約7000名)、外国人も含め登
山者に対してマナー向上を呼びかけ、登山道周辺のごみは減少し
ている。山頂部で発生するごみについては山小屋組合(富士山吉
田口旅館組合等)により、山麓に搬出し、適切に管理・処理され
ている。し尿対策に関しては登山道及び山小屋のトイレ48箇所
を2006年までにバイオ処理式等に改良し、環境への負荷を軽
減した。さらに、登山者の増加や設備の老朽化に対応するため、
環境配慮型トイレ適正管理委員会を設けて対策を検討しており、
今後は業者と連携を密にしてメンテナンスをきちんとしていくこ
とが確認された。自動車に関しては、土日・休日を中心に各登山
道の利用者数に応じて自家用車の利用を規制し(利用者の多い富
士スバルラインで最大12日間、利用者の少ない御

146 :
た、三保松原における松にはマツクイムシ(マツノザイセンチ
ュウ)による被害が見られる。これに対しては、薬剤注入・散
布による予防措置及び植林、枯れた松の除去を資産の所在する
静岡市とNPO法人が行っており、被害の拡大を防止している
。3)自然災害と危機管理資産の所在地域における自然災害と
しては、第一に富士山特有のものとして山体及び側火山からの
噴火及びそれに伴う噴石、火砕流・火砕サージ、溶岩流、融雪
型火山泥流、降灰、降灰後の降雨による土石流などが予想され
るとともに、数年単位で発生する山体における雪崩(特に大量
の水分を含んだ雪が流動する雪泥流)や大沢崩れ及びそれに伴
う土石流、強風、雨水による浸食などが考えられる。また、富
士山を含む駿河湾沿いの地域はM8クラスの海洋プレート内地
震の発生が予測されている。第二に日本列島の太平洋側におけ
る一般的自然災害である台風・大雨・洪水並びに火災等が予測
されている。第三に三保松原に関しては海岸浸食に伴う高潮な
どの被害がある。これらについてそれぞれ以下のような防災対
策を講じている。噴火及びそれに伴う災害に対しては、気象庁
をはじめとする研究・防災機関が常時観測を行うと同時に、国
の富士山ハザードマップ検討委員会報告書(2004年)に基
づき県及び市町村において火山防災計画(ハザードマップ・避
難計画)などを策定している。雪崩については、吉田口登山道
では馬返より上の登山道に浸透桝を設け、雨水や雪崩による崩
壊を防いでいる。土砂崩れ・土石流(主に大沢崩れ)について
は国が中心となり、源頭部における水分と土砂の分離、山麓に
おける土石流災害防止を目的とした遊砂地の設置などを行って
いる。また、登山道を管理する県では導流堤を設置し、落石の
落下先をコントロールしている。これらの災害は発生自体を防
止することは困難であるため、その被害を最小限にとどめるこ
とを対策の骨子としている。50地震に関する対策としては、
大規模地震対策特別措置法(1978年)に基づき、予知を目
的とした観測体制、予知を前提とした非難・警戒体制、防災施
設整備が行われるとともに、東海地震対策大綱(

147 :
)、山麓の臨時駐車場と五合目駐車場間のシャトルバスによる輸
送を行っている。吉田口においては2011年夏には富士吉田I
C付近に1400台の駐車場を整備し、自家用車の利用規制を1
5日に拡大する予定である。5)資産と緩衝地帯の居住者人口構
成資産内人口:人緩衝地帯内人口:人合計:人集計年:2010
年No.構成資産の名称構成資産範囲内人口(人)緩衝地帯内人
口(人)合計(人)富士山A1山頂信仰遺跡A2大宮・村山口登
山道A3須山口登山道A4須走口登山道A5吉田口登山道A6北
口本宮冨士浅間神社A7西湖A8精進湖AA9本栖湖B1富士山
本宮浅間大社B2山宮浅間神社B3村山浅間神社B4須山浅間神
社B5冨士浅間神社(須走浅間神社)B6河口浅間神社B7冨士
御室浅間神社B8御師住宅52B9山中湖B10河口湖B11忍
野八海B12船津胎内樹型B13吉田胎内樹型B14人穴冨士講
遺跡B15白糸ノ滝C三保松原535.資産の保護の管理a)所
有関係各構成資産の所在地及び所有者については、以下に記すと
おりである。b)法に基づく指定保護資産を構成する重要文化財
に指定された「記念工作物」「建造物群」、史跡、特別名勝又は
名勝、54特別天然記念物又は天然記念物に指定された「遺跡」
は、古社寺保存法(1897年制定)、史蹟名勝天然紀念物保存
法(1919年制定)、国宝保存法(1929年制定)などの下
に適切な保護が行われてきた。また、1950年には、それらの
諸法を統合・改革して文化財保護法が制定され、それ以後、現在
に至るまで、個々の構成資産はこの法律の下に万全の保護措置が
講じられてきた。富士山の山体及び北側の構成資産の範囲におい
ては、さらに国立公園法(1936年制定)、それを改定した自
然公園法(1957年制定)により、その優れた自然の風景地が
保護されてきた。17個の構成資産の指定保護の状況については
、以下に示すとおりである。(A)富士山1936年2月1日:
富士箱根国立公園の指定(1952年10月7日:名勝富士山の
指定1952年11月22日:特別名勝富士山の指定1966年
10月6日:特別名勝富士山の指定地域の変更(A1)山頂信仰
遺跡(特別名勝範囲内・Aに同じ)史跡富士山の指

148 :
基づき国・県・市町村の防災計画が策定されている。また、今
後各神社等の耐震化が行われる計画となっている。台風は19
96年9月に富士山南側の人工林地区(ヒノキ)に風倒の被害
(標高1100〜1200m中心、計1125ha、富士山で
は約935haうち国有林620ha)をもたらしたことがあ
るため、1997年より静岡県が中心となり、被害地に対して
自生種(ブナ・ミズナラ)の植栽(のべ22・68ha)を実
施している。また、風倒による被害を防ぐため人工林における
下刈を実施している。大雨・洪水に関しては堤防・遊水地・砂
防堰堤の建設や河川の改修などにより、大雨時の洪水に対する
防止策を講じている。山火事に対しては、国、県、市町村の連
絡・協力体制を確立し、草原地帯においては防火帯を設け、大
規模な火災に対して最大限の対応を可能としている。建造物の
火災に対しては自動火災報知設備・ドレンチャー設備・消火栓
、放水銃などを設置しているほか、自主防火組織も整備するな
ど、万全を期しているので問題ない。万一、上記の災害が発生
した場合においても、速やかに現状復旧の対策を講じるための
制度及び体制を完備しており、資産の価値が減じることはない
。三保松原においては、高潮対策事業として安倍川(土砂供給
源)下流部での砂利採取を1968年より海岸浸食の原因の一
因と考え禁止するとともに、1989年より34年計画(20
34年まで)でヘッドランド・離岸堤の設置や養浜による海岸
保全対策を行い、現在、海岸と平行した方向に年250mの割
合で砂浜の回復が進行している。現在ヘッドランドの一部が景
観に影響を与えているが、砂浜の回復後に撤去する計画が進ん
でいる。登山者の安全に関しては、気候の急変に備え、「富士
山登山指導センター(山頂と富士宮口新五合目)」、「富士山
安全指導センター(吉田口六合目)」と「富士山衛生センター
(富士宮口八合目)」が設けられている。また、富士宮口のす
べて、吉田口七合目以上のほとんどの山小屋にはAEDが設置
されている。(御殿場口はなし、須走口は1軒・東富士山荘)
4)来訪者及び観光の圧力富士山の構成資産のう

149 :
)大宮・村山口登山道史跡富士山の指定予定(A3)須山口登山
道(一部のみ特別名勝範囲外・範囲内はAに同じ)史跡富士山の
指定予定(A4)須走口登山道史跡富士山の指定予定(A5)吉
田口登山道(特別名勝範囲内・Aに同じ)史跡富士山の指定予定
(A6)北口本宮冨士浅間神社1907年8月28日:特別保護
建造物(富士嶽神社境内東宮本殿)の指定1953年3月31日
:重要文化財北口本宮冨士浅間神社本殿の指定1953年3月3
1日:重要文化財北口本宮冨士浅間神社西宮本殿の

150 :
国・県及びNPO法人(富士山ネットワーク・富士山クラブ)、ボランティアによ
51る清掃作業が活発に実施されるとともに(平成20年実績・92回、約64t
、延べ参加人数約7000名)、外国人も含め登山者に対してマナー向上を呼びか
け、登山道周辺のごみは減少している。山頂部で発生するごみについては山小屋組
合(富士山吉田口旅館組合等)により、山麓に搬出し、適切に管理・処理されてい
る。し尿対策に関しては登山道及び山小屋のトイレ48箇所を2006年までにバ
イオ処理式等に改良し、環境への負荷を軽減した。さらに、登山者の増加や設備の
老朽化に対応するため、環境配慮型トイレ適正管理委員会を設けて対策を検討して
おり、今後は業者と連携を密にしてメンテナンスをきちんとしていくことが確認さ
れた。自動車に関しては、土日・休日を中心に各登山道の利用者数に応じて自家用
車の利用を規制し(利用者の多い富士スバルラインで最大12日間、利用者の少な
い御殿場口はなし)、山麓の臨時駐車場と五合目駐車場間のシャトルバスによる輸
送を行っている。吉田口においては2011年夏には富士吉田IC付近に1400
台の駐車場を整備し、自家用車の利用規制を15日に拡大する予定である。5)資
産と緩衝地帯の居住者人口構成資産内人口:人緩衝地帯内人口:人合計:人集計年
:2010年No.構成資産の名称構成資産範囲内人口(人)緩衝地帯内人口(人
)合計(人)富士山A1山頂信仰遺跡A2大宮・村山口登山道A3須山口登山道A
4須走口登山道A5吉田口登山道A6北口本宮冨士浅間神社A7西湖A8精進湖A
A9本栖湖B1富士山本宮浅間大社B2山宮浅間神社B3村山浅間神社B4須山浅
間神社B5冨士浅間神社(須走浅間神社)B6河口浅間神社B7冨士御室浅間神社
B8御師住宅52B9山中湖B10河口湖B11忍野八海B12船津胎内樹型B1
3吉田胎内樹型B14人穴冨士講遺跡B15白糸ノ滝C三保松原535.資産の保
護の管理a)所有関係各構成資産の所在地及び所有者については、以下に記すとお
りである。b)法に基づく指定保護資産を構成する重要文化財に指定

151 :
把握し、それらをすべて含む範囲について、価値の中核をなす部
分は文化財保護法の下に指定(特別名勝又は名勝、特別天然記念
物又は天然記念物、重要文化財、史跡)され、また、価値の中核
をなす部分を取り囲む地域の大部分は自然公園法の下に国立公園
(国立公園、県立自然公園)に指定している。これら範囲のうち
、富士山の顕著な普遍的価値を証明するために必要不可欠

152 :
精進湖AA9本栖湖B1富士山本宮浅間大社B2山宮浅間神社
B3村山浅間神社B4須山浅間神社B5冨士浅間神社(須走浅
間神社)B6河口浅間神社B7冨士御室浅間神社B8御師住宅
52B9山中湖B10河口湖B11忍野八海B12船津胎内樹
型B13吉田胎内樹型B14人穴冨士講遺跡B15白糸ノ滝C
三保松原535.資産の保護の管理a)所有関係各構成資産の
所在地及び所有者については、以下に記すとおりである。b)
法に基づく指定保護資産を構成する重要文化財に指定された「
記念工作物」「建造物群」、史跡、特別名勝又は名勝、54特
別天然記念物又は天然記念物に指定された「遺跡」は、古社寺
保存法(1897年制定)、史蹟名勝天然紀念物保存法(19
19年制定)、国宝保存法(1929年制定)などの下にの

153 :
条・第47条・第118条)。国立公園の管理と保護は国が費用
を負担する(法43条)。また、管理団体が管理と保護を行う場
合、国が必要な情報の提供又は指導・助言を行う(法42条)。
資産範囲の国有林については森林施業計画により皆伐は年5ha
にとどめるなど景観への影響を最小限に留めるよう適切に保護・
管理されている。加えて国有林の大部分である保安林は指定施行
要件(保安林の種別ごとに異なる。)に合致しない伐採等には都
道府県知事の許可が必要である(法34条)。2)緩衝地帯緩衝
地帯の全域においては、文化財保護法、自然公園法、景観法(そ
れに基づく景観条例及び景観計画)、森林法、砂防法、海岸法、
又は関係各県・市町村が定める条例等の下に資産の周辺環境につ
いて万全な保全措置が講じられている。緩衝地帯の範囲について
は、資産から眺望できる山の稜線のほか、法律・条例等に基づく
境界、地籍境界、行政界、道路等の明確な境界などを考慮しつつ
、資産の保護に必要不可欠な範囲を定めた。山体の緩衝地帯につ
いては富士山を周辺ないし構成資産から展望した際、資産範囲を
含め良好な景観を形成する範囲を基準としている。この範囲の中
には演習場を挟んで、三保松原以外のすべての構成資産が含まれ
る。緩衝地帯において行われる建築物及び工作物の新築・増築・
改築、土地の形質変更等に係る行為、木竹の伐採については、許
可制や届出制に基づく規制を設けており、これらの行為に関する
重要な事項については、特に関係各市町村の景観審議会等による
調査、審議に基づき、関係市町村が事前に適切な指導や助言を行
うこととしている。なお、緩衝地帯設定の考え方や、行為規制等
の詳細については、本推薦書の付属資料及び別添参考資料を参照
されたい。緩衝地帯は大きく3つの方法により保護措置が講じら
れている。一番目は自然公園法(山梨県のほぼ全域)、二番目は
景観法に基づく各市町村の景観条例及び景観計画(静岡県富士市
・富士宮市ほ58か)、三番目が各市町村独自の景観条例や土地
利用事業指導要綱(山梨県富士吉田市の一部・静岡県裾野市・御
殿場市・小山町)である。三番目の地域に関しては将来的に二番
目の保護措置に移行する予定である。なお、三保松

154 :
工作物」「建造物群」、史跡、特別名勝又は名勝、54特別天然記念物又は天然記
念物に指定された「遺跡」は、古社寺保存法(1897年制定)、史蹟名勝天然紀
念物保存法(1919年制定)、国宝保存法(1929年制定)などの下に適切な
保護が行われてきた。また、1950年には、それらの諸法を統合・改革して文化
財保護法が制定され、それ以後、現在に至るまで、個々の構成資産はこの法律の下
に万全の保護措置が講じられてきた。富士山の山体及び北側の構成資産の範囲にお
いては、さらに国立公園法(1936年制定)、それを改定した自然公園法(19
57年制定)により、その優れた自然の風景地が保護されてきた。17個の構成資
産の指定保護の状況については、以下に示すとおりである。(A)富士山1936
年2月1日:富士箱根国立公園の指定(1952年10月7日:名勝富士山の指定
1952年11月22日:特別名勝富士山の指定1966年10月6日:特別名勝
富士山の指定地域の変更(A1)山頂信仰遺跡(特別名勝範囲内・Aに同じ)史跡
富士山の指定予定(A2)大宮・村山口登山道史跡富士山の指定予定(A3)須山
口登山道(一部のみ特別名勝範囲外・範囲内はAに同じ)史跡富士山の指定予定(
A4)須走口登山道史跡富士山の指定予定(A5)吉田口登山道(特別名勝範囲内
・Aに同じ)史跡富士山の指定予定(A6)北口本宮冨士浅間神社1907年8月
28日:特別保護建造物(富士嶽神社境内東宮本殿)の指定1953年3月31日
:重要文化財北口本宮冨士浅間神社本殿の指定1953年3月31日:重要文化財
北口本宮冨士浅間神社西宮本殿の指定史跡富士山の指定予定(A7)西湖1936
年2月1日:富士箱根国立公園の指定(名勝富士五湖の指定予定55(A8)精進
湖1936年2月1日:富士箱根国立公園の指定(名勝富士五湖の指定予定(A9
)本栖湖※本栖湖からの展望面含む1926年2月24日:天然紀念物富士山原始
林の指定1936年2月1日:富士箱根国立公園の指定(2010年3月8日:天
然記念物富士山原始林及び青木ヶ原樹海の指定名勝富士五湖の指定予

155 :
冨士浅間神社西宮本殿の指定史跡富士山の指定予定(A7)西
湖1936年2月1日:富士箱根国立公園の指定(名勝富士五
湖の指定予定55(A8)精進湖1936年2月1日:富士箱
根国立公園の指定(名勝富士五湖の指定予定(A9)本栖湖※
本栖湖からの展望面含む1926年2月24日:天然紀念物富
士山原始林の指定1936年2月1日:富士箱根国立公園の指
定(2010年3月8日:天然記念物富士山原始林及び青木ヶ
原樹海の指定名勝富士五湖の指定予定(B1)富士山本宮浅間
大社1907年5月27日:特別保護建造物浅間神社本殿の指
定1944年11月7日:天然紀念物湧玉池の指定1952年
3月29日:特別天然記念物湧玉池の指定史跡富士山の指定予
定(B2)山宮浅間神社史跡富士山の指定予定(B3)村山浅
間神社史跡富士山の指定予定(B4)須山浅間神社史跡富士山
の指定予定(B5)冨士浅間神社(須走浅間神社)史跡富士山
の指定予定(B6)河口浅間神社史跡富士山の指定予定(B7
)冨士御室浅間神社1985年5月18日:重要文化財冨士御
室浅間神社本殿の指定史跡富士山の指定予定(B8)御師住宅
1976年5月20日:重要文化財小佐野家住宅の指定重要文
化財旧外川家住宅の指定予定(B9)山中湖561936年2
月1日:富士箱根国立公園の指定(名勝富士五湖の指定予定(
B10)河口湖1936年2月1日:富士箱根国立公園の指定
(名勝富士五湖の指定予定(B11)忍野八海1934年5月
1日:天然紀念物忍野八海の指定(B12)船津胎内樹型19
29年12月17日:天然紀念物船津胎内樹型の指定(B13
)吉田胎内樹型1929年12月17日:天然紀念物吉田胎内
樹型の指定(B14)人穴富士講遺跡史跡富士山の指定予定(
B15)白糸ノ滝1936年2月1日:富士箱根国立公園の指
定(1936年3月6日:名勝及天然紀念物白糸ノ滝の指定(
C)三保松原1922年3月8日名勝三保松原の指定1977
年4月1日名勝三保松原の一部指定解除1990年3月29日
名勝三保松原の追加指定及び一部指定解除c)保護の実施手段
1)資産各構成資産については、遺跡、記念工作

156 :
かの資産においては、資産範囲が文化財としての登録範囲よりも
狭く設定されているため、緩衝地帯の一部は文化財保護法により
保護されている。これらの地域では適用する法令等に違いはある
が、緩衝地帯において行われる建築物・工作物の新築、増築、改
築、土地の形質変更等に係る行為については、許可制ないし承認
制・届出制に基づく規制が定められ、資産の周辺環

157 :
のみならず、それらと密接な関連を持つ展望線など、富士山の
本質的価値を構成する諸要素を厳格かつ的確に把握し、それら
をすべて含む範囲について、価値の中核をなす部分は文化財保
護法の下に指定(特別名勝又は名勝、特別天然記念物又は天然
記念物、重要文化財、史跡)され、また、価値の中核をなす部
分を取り囲む地域の大部分は自然公園法の下に国立公園(国立
公園、県立自然公園)に指定している。これら範囲のうち、富
士山の顕著な普遍的価値を証明するために必要不

158 :
護措置が講じられている。緩衝地帯に適用される諸法令等の概略
法令名対象地区規制内容許認可文化財保護法三保松原(一部)現
状変更文化庁長官の許可自然公園法(国立公園)山体・静岡県・
山梨県工作物の新築等、ごみ捨て又は放置、木竹の採取、土石の
採取、車馬の乗り入れ等環境大臣の許可(特別地域)、届出(普
通地域)自然公園法(県立自然公園)県立自然公園条例三保松原
(一部)工作物の新築等、ごみ捨て又は放置、木竹の採取、土石
の採取、車馬の乗り入れ等県知事の許可(特別地域)、命令景観
条例及び景観計画(景観法に基づく)富士市・富士宮市静岡市・
忍野村・山中湖村・富士河口湖町建築物の新築等、工作物の新設
等、開発行為、土石の採取・堆積等(高さ・色彩・形状を規制)
市町村長への届出勧告、指導・要請(問題があった場合)景観条
例(自主条例)富士吉田市建築の新築等市長への届出勧告、助言
・指導土地利用事業指導要綱裾野市・御殿場市・小山町土地利用
事業市長・町長の承認森林法(保安林指定施業用件)保安林(土
砂流出防備保安林)(保健保安林)(水源涵養保安林)立木の伐
採(原則択抜※水源涵養保安林除く)県知事の許可砂防法(静岡
県砂防指定地管理条例)砂防指定地(富士宮市等)施設又は工作
物の新築等、竹木の伐採等、土地の形状変更、土石の採取・集積
又は投棄等県知事の許可海岸法三保松原(海岸の水際線から50
mの範囲)土石の採取、施設等の新設、土地の掘削等海岸管理者
(静岡県河川砂防管理室)の許可県有林管理計画山梨県県有林な
し(水土保全林)(森林と人との共生林)立木の伐採皆伐〜禁伐
59(資源の循環利用林)なお、緩衝地帯の外側に広がる市街地
のうち富士山の主要な眺望(北側では河口湖・山中湖北部から眺
望した富士山、南側では三保松原から眺望した富士山)に若干の
影響を及ぼす範囲については、日本政府が自主的に保護する範囲
として「保全管理区域」を設定している。F資産に影響する可能
性がある個別の開発計画企業立地促進法に基づく静岡県東部地域
基本計画(静岡県及び14市町)2009年2月策定市町村森林
整備計画(富士宮市・富士市・裾野市・御殿場市・小山町)20
06年4月策定e)資産の保存管理計画又はその他

159 :
資産範囲とした。これらの範囲の大部分においては、国の許可
無くそれらの現状を変更することはできない。文化財保護法、
自然公園法の及ばない地域は国有林であり、開発行為が行われ
ることはない。また、森林法に基づき森林の伐採に関しても適
切な管理が行われている。文化財保護法の定めるところにより
、特別名勝又は名勝、特別天然記念物又は天然記念物、重57
要文化財、史跡の保存管理・修理・公開については、所有者又
は管理団体が適切に行うことを原則としている(法第31条・
第32条の2、第113条・第115条・第119条)。また
、自然公園法が定めるところにより、国立公園の管理と保護に
ついては、国又は管理団体が適切に行うことを原則としている
(法第9条、第37条、第38条、第39条)。重要文化財に
指定されている建造物の修理に関して、部材の痕跡調査などか
ら判明した原型への復元などの現状変更等を行おうとするとき
や、特別名勝又は名勝、特別天然記念物又は天然記念物、史跡
の指定地内において現状変更等を行おうとするときは、あらか
じめ文化庁長官の許可を得なければならない(法第43条・第
125条)。文化庁長官は国が設置し、イコモス国内委員会委
員を多数含む文化審議会文化財分科会に対して当該現状変更等
に関する諮問を行い、その答申を経て許可することとしている
。したがって、資産の現状を変更する場合には、学術的かつ厳
密な審査に基づく許可を必要としている。また、国立公園(特
別保護地区及び特別地域)の現状変更については、あらかじめ
環境大臣の許可を得なければならない(法第13条、第14条
)。特別名勝又は名勝、特別天然記念物又は天然記念物、重要
文化財、史跡の管理と修理に対しては、必要に応じて国が経費
を補助し、技術的指導を行うこととしている(法第35条・第
47条・第118条)。国立公園の管理と保護は国が費用を負
担する(法43条)。また、管理団体が管理と保護を行う場合
、国が必要な情報の提供又は指導・助言を行う(法42条)。
資産範囲の国有林については森林施業計画により皆伐は年5h
aにとどめるなど景観への影響を最小限に留める

160 :
重要文化財冨士御室浅間神社本殿の指定史跡富士山の指定予定(B8)御師住宅1
976年5月20日:重要文化財小佐野家住宅の指定重要文化財旧外川家住宅の指
定予定(B9)山中湖561936年2月1日:富士箱根国立公園の指定(名勝富
士五湖の指定予定(B10)河口湖1936年2月1日:富士箱根国立公園の指定
(名勝富士五湖の指定予定(B11)忍野八海1934年5月1日:天然紀念物忍
野八海の指定(B12)船津胎内樹型1929年12月17日:天然紀念物船津胎
内樹型の指定(B13)吉田胎内樹型1929年12月17日:天然紀念物吉田胎
内樹型の指定(B14)人穴富士講遺跡史跡富士山の指定予定(B15)白糸ノ滝
1936年2月1日:富士箱根国立公園の指定(1936年3月6日:名勝及天然
紀念物白糸ノ滝の指定(C)三保松原1922年3月8日名勝三保松原の指定19
77年4月1日名勝三保松原の一部指定解除1990年3月29日名勝三保松原の
追加指定及び一部指定解除c)保護の実施手段1)資産各構成資産については、遺
跡、記念工作物、建築物群のみならず、それらと密接な関連を持つ展望線など、富
士山の本質的価値を構成する諸要素を厳格かつ的確に把握し、それらをすべて含む
範囲について、価値の中核をなす部分は文化財保護法の下に指定(特別名勝又は名
勝、特別天然記念物又は天然記念物、重要文化財、史跡)され、また、価値の中核
をなす部分を取り囲む地域の大部分は自然公園法の下に国立公園(国立公園、県立
自然公園)に指定している。これら範囲のうち、富士山の顕著な普遍的価値を証明
するために必要不可欠な範囲を資産範囲とした。これらの範囲の大部分においては
、国の許可無くそれらの現状を変更することはできない。文化財保護法、自然公園
法の及ばない地域は国有林であり、開発行為が行われることはない。また、森林法
に基づき森林の伐採に関しても適切な管理が行われている。文化財保護法の定める
ところにより、特別名勝又は名勝、特別天然記念物又は天然記念物、重57要文化
財、史跡の保存管理・修理・公開については、所有者又は管理団体が

161 :
制構成資産のうち、史跡又は特別名勝・名勝、特別天然記念物・
天然記念物に指定されている土地及びその範囲に立つ建造物(重
要文化財含む)については、1919年に制定された史蹟名勝天
然紀念物保存法及び1950年以降においては文化財保護法に基
づく段階的な指定により保護措置がとられ、史跡等の管理団体で
ある各市町村と静岡県・山梨県が個別に保存管理計画を策定して
適正な保存管理に当たっている。さらに、2011年には、資産
を構成する重要文化財、史跡、特別名勝又は名勝、特別天然記念
物又は天然記念物について、静岡県・山梨県が文化庁、所有者で
ある宗教法人・個人、史跡等の管理団体である各市町村との調整
の下に構成資産の全体を対象とする包括的保存管理計画を策定し
、保存管理全体の整合を図る予定である。上記した各構成資産の
保存管理計画の概要と資産全体を対象とする包括的保存管理計画
の全文については、本推薦書付属資料−として添付している。1
)保存管理計画各構成資産の保存計画の策定状況については、本
推薦書の7.資料、e)参考文献、3)保存管理計画書に示すと
おりである。特に静岡県・山梨県教育委員会は、文化庁及び関係
各市町村の教育委員会との十分な調整の下に『世界遺産富士山包
括的保存管理計画』を策定し、資産の全体を視野に入れた総括的
な保存管理を行う予定である。包括的保存管理計画に定める基本
方針は、次の5点である(別添参考資料)。(1)構成資産の適
切な保存管理(2)周辺環境を含めた一体的な保全(3)経過観
察の実施(4)整備・公開・活用推進(5)保存管理体制の整備
と運営包括的保存管理計画に定めた上記の基本方針に基づき、管
理団体である県・市町村が個々の重要文化財、史跡、特別名勝又
は名勝、特別天然記念物又は天然記念物の保存管理計画を利用し
、具体的で適切な保存管理に当たる予定である。これらの保存管
理計画を要約したものについては、付属資料に示すとおりである
(別添参考資料)。「富士山」を総体として保全するためには、
構成資産のみならず緩衝地帯をも含め、資産に影響を及ぼす人工
物などを適切に制御していく必要がある。そのため、構成資産の
本質的な価値に負の影響を与える可能性のある人工

162 :
とを原則としている(法第31条・第32条の2、第113条・第115条・第1
19条)。また、自然公園法が定めるところにより、国立公園の管理と保護につい
ては、国又は管理団体が適切に行うことを原則としている(法第9条、第37条、
第38条、第39条)。重要文化財に指定されている建造物の修理に関して、部材
の痕跡調査などから判明した原型への復元などの現状変更等を行おうとするときや
、特別名勝又は名勝、特別天然記念物又は天然記念物、史跡の指定地内において現
状変更等を行おうとするときは、あらかじめ文化庁長官の許可を得なければならな
い(法第43条・第125条)。文化庁長官は国が設置し、イコモス国内委員会委
員を多数含む文化審議会文化財分科会に対して当該現状変更等に関する諮問を行い
、その答申を経て許可することとしている。したがって、資産の現状を変更する場
合には、学術的かつ厳密な審査に基づく許可を必要としている。また、国立公園(
特別保護地区及び特別地域)の現状変更については、あらかじめ環境大臣の許可を
得なければならない(法第13条、第14条)。特別名勝又は名勝、特別天然記念
物又は天然記念物、重要文化財、史跡の管理と修理に対しては、必要に応じて国が
経費を補助し、技術的指導を行うこととしている(法第35条・第47条・第11
8条)。国立公園の管理と保護は国が費用を負担する(法43条)。また、管理団
体が管理と保護を行う場合、国が必要な情報の提供又は指導・助言を行う(法42
条)。資産範囲の国有林については森林施業計画により皆伐は年5haにとどめる
など景観への影響を最小限に留めるよう適切に保護・管理されている。加えて国有
林の大部分である保安林は指定施行要件(保安林の種別ごとに異なる。)に合致し
ない伐採等には都道府県知事の許可が必要である(法34条)。2)緩衝地帯緩衝
地帯の全域においては、文化財保護法、自然公園法、景観法(それに基づく景観条
例及び景観計画)、森林法、砂防法、海岸法、又は関係各県・市町村が定める条例
等の下に資産の周辺環境について万全な保全措置が講じられている。

163 :
護・管理されている。加えて国有林の大部分である保安林は指
定施行要件(保安林の種別ごとに異なる。)に合致しない伐採
等には都道府県知事の許可が必要である(法34条)。2)緩
衝地帯緩衝地帯の全域においては、文化財保護法、自然公園法
、景観法(それに基づく景観条例及び景観計画)、森林法、砂
防法、海岸法、又は関係各県・市町村が定める条例等の下に資
産の周辺環境について万全な保全措置が講じられている。緩衝
地帯の範囲については、資産から眺望できる山の稜線のほか、
法律・条例等に基づく境界、地籍境界、行政界、道路等の明確
な境界などを考慮しつつ、資産の保護に必要不可欠な範囲を定
めた。山体の緩衝地帯については富士山を周辺ないし構成資産
から展望した際、資産範囲を含め良好な景観を形成する範囲を
基準としている。この範囲の中には演習場を挟んで、三保松原
以外のすべての構成資産が含まれる。緩衝地帯において行われ
る建築物及び工作物の新築・増築・改築、土地の形質変更等に
係る行為、木竹の伐採については、許可制や届出制に基づく規
制を設けており、これらの行為に関する重要な事項については
、特に関係各市町村の景観審議会等による調査、審議に基づき
、関係市町村が事前に適切な指導や助言を行うこととしている
。なお、緩衝地帯設定の考え方や、行為規制等の詳細について
は、本推薦書の付属資料及び別添参考資料を参照されたい。緩
衝地帯は大きく3つの方法により保護措置が講じられている。
一番目は自然公園法(山梨県のほぼ全域)、二番目は景観法に
基づく各市町村の景観条例及び景観計画(静岡県富士市・富士
宮市ほ58か)、三番目が各市町村独自の景観条例や土地利用
事業指導要綱(山梨県富士吉田市の一部・静岡県裾野市・御殿
場市・小山町)である。三番目の地域に関しては将来的に二番
目の保護措置に移行する予定である。なお、三保松原などいく
つかの資産においては、資産範囲が文化財としての登録範囲よ
りも狭く設定されているため、緩衝地帯の一部は文化財保護法
により保護されている。これらの地域では適用する法令等に違
いはあるが、緩衝地帯において行われる建築物・

164 :
いては、たとえそれが緩衝地帯におけるものであってもできる限
り抑制することとし、やむを得ず設置する場合であっても、最小
限の数量・規模とするとともに、色彩等の観点から景観にも十分
配慮するよう関係者への理解と協力を求める予定である。なお、
既存の鉄柱・看板・広告塔など構成資産に影響を及ぼすものにつ
いては、撤去または修景に努め、公益上必要と考えられる施設に
ついては、現状の利用状況を尊重しつつ、将来的に撤去又は移転
等について検討するとともに、当面の間、資産に対する影響の軽
減を図ることとする予定である。図保存管理計画の構造図「富士
山」包括的保存管理計画62各構成資産の都市計画保存管理計画
等観光計画(山梨県・静岡県・各市町村)整備計画等632)保
存管理体制包括的保存管理計画に定めた上記の基本方針に基づき
、静岡県・山梨県と関係市町村は、広範囲にわたる富士山の構成
資産及び緩衝地帯を包括的保存管理計画に基づき統一的に管理す
るため「富士山世界遺産両県協議会」(以下「両県協議会」とい
う。仮称)及びその支部組織である「静岡県世界遺産協議会」・
「山梨県世界遺産協議会」(以下両者をまとめて「各県協議会」
という。仮称)を設置し、各構成資産を成す重要文化財、史跡、
特別名勝又は名勝、特別天然記念物又は天然記念物の保存管理計
画を共通の基準に基づき確実に実行する予定である。両県協議会
及び各県協議会は、資産及びその周辺地域において、国・静岡県
・山梨県・関係市町村等・民間団体等が実施する予定の事業等に
ついての情報を総合的に把握し、それぞれの事業が、資産の保存
管理に負の影響を及ぼすことなく、適切に実施されるように関係
各機関の連絡・調整を行う。両県協議会・各県協議会における調
整結果に基づき、静岡県・山梨県及び関係市町村は、民間事業者
等に対して権限に基づく適切な指導や助言を行うこととする予定
である。また、両県協議会には国関係機関(文化庁・環境省・国
土交通省・防衛省・林野庁)、国内の大学及びイコモス会員等の
研究者・専門家が参加し、学術的な観点からの助言を行う予定で
ある。各県協議会の下には、各県庁内の実務担当者レベルの調整
組織として、静岡県(山梨県)庁内連絡会議を設置

165 :
、増築、改築、土地の形質変更等に係る行為については、許可
制ないし承認制・届出制に基づく規制が定められ、資産の周辺
環境の万全な保護措置が講じられている。緩衝地帯に適用され
る諸法令等の概略法令名対象地区規制内容許認可文化財保護法
三保松原(一部)現状変更文化庁長官の許可自然公園法(国立
公園)山体・静岡県・山梨県工作物の新築等、ごみ捨て又は放
置、木竹の採取、土石の採取、車馬の乗り入れ等環境大臣の許
可(特別地域)、届出(普通地域)自然公園法(県立自然公園
)県立自然公園条例三保松原(一部)工作物の新築等、ごみ捨
て又は放置、木竹の採取、土石の採取、車馬の乗り入れ等県知
事の許可(特別地域)、命令景観条例及び景観計

166 :
、各市町村担当者や民間業者(観光協会、登山組合、神社関係者
)などの代表者との調整組織として静岡県(山梨県)保存管理協
力者会議を設置し、十分な連携を図る予定である。さらに、静岡
県・山梨県文化財保護審議会をはじめ各市町村文化財調査委員会
は指定文化財及び文化財全体に関する事項を審議し、それぞれ、
静岡県・山梨県教育委員会及び直接的な構成資産の管理を行う各
市町村教育委員会に対して建議を行っている。これらの組織の運
営は静岡県・山梨県の世界遺産推進課が行い、専門

167 :
大臣の許可(特別地域)、届出(普通地域)自然公園法(県立自然公園)県立自然
公園条例三保松原(一部)工作物の新築等、ごみ捨て又は放置、木竹の採取、土石
の採取、車馬の乗り入れ等県知事の許可(特別地域)、命令景観条例及び景観計画
(景観法に基づく)富士市・富士宮市静岡市・忍野村・山中湖村・富士河口湖町建
築物の新築等、工作物の新設等、開発行為、土石の採取・堆積等(高さ・色彩・形
状を規制)市町村長への届出勧告、指導・要請(問題があった場合)

168 :
く静岡県東部地域基本計画(静岡県及び14市町)2009年
2月策定市町村森林整備計画(富士宮市・富士市・裾野市・御
殿場市・小山町)2006年4月策定e)資産の保存管理計画
又はその他の保存管理体制構成資産のうち、史跡又は特別名勝
・名勝、特別天然記念物・天然記念物に指定されている土地及
びその範囲に立つ建造物(重要文化財含む)については、19
19年に制定された史蹟名勝天然紀念物保存法及び1950年
以降においては文化財保護法に基づく段階的な指

169 :
り業務が行われる。また、富士山文化課世界遺産推進係を設置し
た富士宮市教育委員会や世界遺産推進室を設置した富士吉田市を
はじめ、各市や市町村教育委員会においても構成資産の保存管理
を担当する専門の職員を定めている。これらの組織体制について
は、さらなる充実化に努める予定である。なお、上記の体制につ
いては現在登録準備のために設置され、実質的に機能している組
織を改変・名称変更・役割変更するものであり、その運営に関し
て問題は生じない。図「富士山」に係る保存管理の組織体制図(
仮案・今後変更の可能性大)64富士山世界遺産両県協議会(構
成)静岡県、山梨県、関係市町村学識経験者等国関係機関(文化
庁、環境省、国土交通省、防衛省、林野庁)f)財源及び財政的
水準各構成資産の管理については、それぞれの所有者又は管理団
体が行っている。特に「記念工作物」、「建造物群」の修理を行
う場合には、小修理その他特別な場合を除いて国が必要に応じて
経費の50開発事業者、地域住民、関係者静岡県世界遺産協議会
山梨県世界遺産協議会(委員)行政:静岡県、関係市町(委員)
行政:山梨県、関係市町村等民間:観光協会、登山組合、神社関
係者等民間:観光協会、山小屋組合、静岡県保存管理協力者会議
(委員)関係市町(企画・都市計画・文化財担当)観光関係者、
登山組合、神社関係者等神社、関係者等静岡県庁内連絡会議山梨
県庁内連絡会議(委員)関係課等(委員)関係課等山梨県保存管
理協力者会議(委員)関係市町村(企画、都市計画、文化財担当
)観光関係者、山小屋組合、神社関係者等65〜85%の補助金
を交付している。「遺跡」である史跡、特別名勝又は名勝、特別
天然記念物又は天然記念物において発掘調査・修理・整備の事業
を行う場合にも、国が必要に応じて経費の50%の補助金を交付
している。これらの国の補助金に併せて、静岡県・山梨県は国の
補助金相当額を控除した額の50%に相当する額以内の補助金を
交付し、構成資産所在の市町村が同内容の補助金を交付する予定
である。また、重要文化財、史跡、特別名勝又は名勝、特別天然
記念物又は天然記念物において、それぞれ防災施設等を設置する
事業についても、同様の比率の下に経費の補助を行

170 :
措置がとられ、史跡等の管理団体である各市町村と静岡県・山
梨県が個別に保存管理計画を策定して適正な保存管理に当たっ
ている。さらに、2011年には、資産を構成する重要文化財
、史跡、特別名勝又は名勝、特別天然記念物又は天然記念物に
ついて、静岡県・山梨県が文化庁、所有者である宗教法人・個
人、史跡等の管理団体である各市町村との調整の下に構成資産
の全体を対象とする包括的保存管理計画を策定し、保存管理全
体の整合を図る予定である。上記した各構成資産の保存管理計
画の概要と資産全体を対象とする包括的保存管理計画の全文に
ついては、本推薦書付属資料−として添付している。1)保存
管理計画各構成資産の保存計画の策定状況については、本推薦
書の7.資料、e)参考文献、3)保存管理計画書に示すとお
りである。特に静岡県・山梨県教育委員会は、文化庁及び関係
各市町村の教育委員会との十分な調整の下に『世界遺産富士山
包括的保存管理計画』を策定し、資産の全体を視野に入れた総
括的な保存管理を行う予定である。包括的保存管理計画に定め
る基本方針は、次の5点である(別添参考資料)。(1)構成
資産の適切な保存管理(2)周辺環境を含めた一体的な保全(
3)経過観察の実施(4)整備・公開・活用推進(5)保存管
理体制の整備と運営包括的保存管理計画に定めた上記の基本方
針に基づき、管理団体である県・市町村が個々の重要文化財、
史跡、特別名勝又は名勝、特別天然記念物又は天然記念物の保
存管理計画を利用し、具体的で適切な保存管理に当たる予定で
ある。これらの保存管理計画を要約したものについては、付属
資料に示すとおりである(別添参考資料)。「富士山」を総体
として保全するためには、構成資産のみならず緩衝地帯をも含
め、資産に影響を及ぼす人工物などを適切に制御していく必要
がある。そのため、構成資産の本質的な価値に負の影響を与え
る可能性のある人工物や開発については、たとえそれが緩衝地
帯におけるものであってもできる限り抑制することとし、やむ
を得ず設置する場合であっても、最小限の数量・規模とすると
ともに、色彩等の観点から景観にも十分配慮する

171 :
主条例)富士吉田市建築の新築等市長への届出勧告、助言・指導土地利用事業指導
要綱裾野市・御殿場市・小山町土地利用事業市長・町長の承認森林法(保安林指定
施業用件)保安林(土砂流出防備保安林)(保健保安林)(水源涵養保安林)立木
の伐採(原則択抜※水源涵養保安林除く)県知事の許可砂防法(静岡県砂防指定地
管理条例)砂防指定地(富士宮市等)施設又は工作物の新築等、竹木の伐採等、土
地の形状変更、土石の採取・集積又は投棄等県知事の許可海岸法三保松原(海岸の
水際線から50mの範囲)土石の採取、施設等の新設、土地の掘削等海岸管理者(
静岡県河川砂防管理室)の許可県有林管理計画山梨県県有林なし(水土保全林)(
森林と人との共生林)立木の伐採皆伐〜禁伐59(資源の循環利用林)なお、緩衝
地帯の外側に広がる市街地のうち富士山の主要な眺望(北側では河口湖・山中湖北
部から眺望した富士山、南側では三保松原から眺望した富士山)に若干の影響を及
ぼす範囲については、日本政府が自主的に保護する範囲として「保全管理区域」を
設定している。F資産に影響する可能性がある個別の開発計画企業立地促進法に基
づく静岡県東部地域基本計画(静岡県及び14市町)2009年2月策定市町村森
林整備計画(富士宮市・富士市・裾野市・御殿場市・小山町)2006年4月策定
e)資産の保存管理計画又はその他の保存管理体制構成資産のうち、史跡又は特別
名勝・名勝、特別天然記念物・天然記念物に指定されている土地及びその範囲に立
つ建造物(重要文化財含む)については、1919年に制定された史蹟名勝天然紀
念物保存法及び1950年以降においては文化財保護法に基づく段階的な指定によ
り保護措置がとられ、史跡等の管理団体である各市町村と静岡県・山梨県が個別に
保存管理計画を策定して適正な保存管理に当たっている。さらに、2011年には
、資産を構成する重要文化財、史跡、特別名勝又は名勝、特別天然記念物又は天然
記念物について、静岡県・山梨県が文化庁、所有者である宗教法人・個人、史跡等
の管理団体である各市町村との調整の下に構成資産の全体を対象とす

172 :
いる。なお、上記の補助金とは別に、2006年より構成資産の
整備活用及び保護に関する教育プログラムのための基金を設けて
おり(「富士山基金」)、基金には国内の経済界を中心に民間か
らの資金提供も行われている。g)保全及び保存管理の技術にお
ける専門的知識及び研修構成資産の保存管理については、所有者
(宗教法人を含む)をはじめ、静岡県・山梨県教育委員会及び各
史跡等の管理団体に指定された各市町村教育委員会が実施してい
る。静岡県・山梨県教育委員会とその関連機関である財団法人静
岡県埋蔵文化財調査研究所及び山梨県埋蔵文化センターでは、そ
れぞれの組織内に文化財の高度な保存・管理技術を持つ専門職員
及び技術者を配置し、管理団体である各市町村が行う保存管理に
対して適切な技術的支援を行っている。また、独立行政法人国立
文化財機構は、全国の史跡等における整備活用事業の円滑な推進
と専門職員及び技術者の技術や能力の向上のために、地方公共団
体の専門職員を対象として定期的に研修を開催しており、静岡県
・山梨県をはじめ関係各市町村の職員も当該研修等に積極的に参
加して、資産の整備活用の技術向上に努める予定である。さらに
、独立行政法人国立文化財機構(201年度より国内の大学の研
究者及びイコモス会員を含む富士山世界遺産両県協議会の助言者
及び両県協議会も含まれる予定である)の助言・指導に基づいて
行われている保存・管理技術は、高い水準を維持する予定である
。重要文化財、史跡、特別名勝又は名勝、特別天然記念物又は天
然記念物を維持するための措置として簡単な修理又は復旧を行う
場合は、事前の届出に基づき、文化庁が適切な技術的指導を行っ
ているため、管理技術の水準はきわめて高く保たれている。資産
の見回りや清掃等の日常的な維持管理については、静岡県・山梨
県教育委員会から嘱託された文化財保護指導員(静岡県3名、山
梨県2名:構成資産の所在地区を担当する人数)のほか、地域住
民・民間団体・管理団体が協働して積極的に行っている。表技術
者の資質向上のために行われているおもな研修h)来訪者の施設
と統計構成資産の大部分は、周囲に展開する景勝地とともに日本
を代表する優れた名所として国内のみならず海外に

173 :
の理解と協力を求める予定である。なお、既存の鉄柱・看板・
広告塔など構成資産に影響を及ぼすものについては、撤去また
は修景に努め、公益上必要と考えられる施設については、現状
の利用状況を尊重しつつ、将来的に撤去又は移転等について検
討するとともに、当面の間、資産に対する影響の軽減を図るこ
ととする予定である。図保存管理計画の構造図「富士山」包括
的保存管理計画62各構成資産の都市計画保存管理計画等観光
計画(山梨県・静岡県・各市町村)整備計画等632)保存管
理体制包括的保存管理計画に定めた上記の基本方針に基づき、
静岡県・山梨県と関係市町村は、広範囲にわたる富士山の構成
資産及び緩衝地帯を包括的保存管理計画に基づき統一的に管理
するため「富士山世界遺産両県協議会」(以下「両県協議会」
という。仮称)及びその支部組織である「静岡県世界遺産協議
会」・「山梨県世界遺産協議会」(以下両者をまとめて「各県
協議会」という。仮称)を設置し、各構成資産を成す重要文化
財、史跡、特別名勝又は名勝、特別天然記念物又は天然記念物
の保存管理計画を共通の基準に基づき確実に実行する予定であ
る。両県協議会及び各県協議会は、資産及びその周辺地域にお
いて、国・静岡県・山梨県・関係市町村等・民間団体等が実施
する予定の事業等についての情報を総合的に把握し、それぞれ
の事業が、資産の保存管理に負の影響を及ぼすことなく、適切
に実施されるように関係各機関の連絡・調整を行う。両県協議
会・各県協議会における調整結果に基づき、静岡県・山梨県及
び関係市町村は、民間事業者等に対して権限に基づく適切な指
導や助言を行うこととする予定である。また、両県協議会には
国関係機関(文化庁・環境省・国土交通省・防衛省・林野庁)
、国内の大学及びイコモス会員等の研究者・専門家が参加し、
学術的な観点からの助言を行う予定である。各県協議会の下に
は、各県庁内の実務担当者レベルの調整組織として、静岡県(
山梨県)庁内連絡会議を設置するとともに、各市町村担当者や
民間業者(観光協会、登山組合、神社関係者)などの代表者と
の調整組織として静岡県(山梨県)保存管理協力

174 :
管理計画を策定し、保存管理全体の整合を図る予定である。上記した各構成資産の
保存管理計画の概要と資産全体を対象とする包括的保存管理計画の全文については
、本推薦書付属資料−として添付している。1)保存管理計画各構成資産の保存計
画の策定状況については、本推薦書の7.資料、e)参考文献、3)保存管理計画
書に示すとおりである。特に静岡県・山梨県教育委員会は、文化庁及び関係各市町
村の教育委員会との十分な調整の下に『世界遺産富士山包括的保存管理計画』を策
定し、資産の全体を視野に入れた総括的な保存管理を行う予定である。包括的保存
管理計画に定める基本方針は、次の5点である(別添参考資料)。(1)構成資産
の適切な保存管理(2)周辺環境を含めた一体的な保全(3)経過観察の実施(4
)整備・公開・活用推進(5)保存管理体制の整備と運営包括的保存管理計画に定
めた上記の基本方針に基づき、管理団体である県・市町村が個々の重要文化財、史
跡、特別名勝又は名勝、特別天然記念物又は天然記念物の保存管理計画を利用し、
具体的で適切な保存管理に当たる予定である。これらの保存管理計画を要約したも
のについては、付属資料に示すとおりである(別添参考資料)。「富士山」を総体
として保全するためには、構成資産のみならず緩衝地帯をも含め、資産に影響を及
ぼす人工物などを適切に制御していく必要がある。そのため、構成資産の本質的な
価値に負の影響を与える可能性のある人工物や開発については、たとえそれが緩衝
地帯におけるものであってもできる限り抑制することとし、やむを得ず設置する場
合であっても、最小限の数量・規模とするとともに、色彩等の観点から景観にも十
分配慮するよう関係者への理解と協力を求める予定である。なお、既存の鉄柱・看
板・広告塔など構成資産に影響を及ぼすものについては、撤去または修景に努め、
公益上必要と考えられる施設については、現状の利用状況を尊重しつつ、将来的に
撤去又は移転等について検討するとともに、当面の間、資産に対する影響の軽減を
図ることとする予定である。図保存管理計画の構造図「富士山」包括

175 :
おり、夏季の登山をはじめとして四季折々の自然の姿を求めて来
訪する観光客でにぎわい、現在も国内有数の観光地となっている
。図富士山への登山者数の推移(各登山口推計登山者数)静岡県
山梨県富士宮口御殿場口須走口県計吉田口合計図富士山への来訪
者数の推移(7・8月における各登山口五合目への入れ込み数推
計)66図主な構成資産の来訪者数の推移(推計等)富士山では
、山頂へ7〜8月の登山期に約29万人(1999〜2009年
平均)が登山し、自動車でアクセス可能な各登山道の「五合目」
(自動車道建設以前の五合目とは一致しないため「新五合目」と
呼ばれる)には、同期間に約250万人(1999〜2009年
平均)が訪れ、近年は外国人がかなりの数を占めるようになって
いる(外国人の数に関する統計は取られていないため、正確な数
値は不明である)。富士山体においては、国内外から来訪する観
光客や登山者等の利用者の安全と利便を確保するとともに、秩序
ある良好な風致景観を維持及び形成することを目的として、「富
士山における標識類静岡県山梨県合計富士宮口御殿場口須走口県
計吉田口(年間)富士吉田・河口本栖湖・精進湖・山中湖・忍野
八三保松原浅間大社白糸ノ滝湖・三つ峠周辺西湖周辺海周辺総合
ガイドライン」作成し、統一されたデザインによる四ヶ国語(英
・中・韓及び日)の道標や解説板を設置しているほか、富士山体
の主として緩衝地帯には駐車場・トイレ・資料館等の便益施設が
整備されている。今後とも、適切な計画の下に順次整備していく
こととしており、「ビジターセンター」などのガイダンス施設の
充実も行われる予定である。自動車による訪問者の管理について
は、土日や休日等登山者が突出して増加する日に、仮設トイレ・
臨時駐車場等を設置するとともに、登山用の自動車道は自家用車
の通行(登山道ごとに異なる、最も利用数の多い吉田口(富士ス
バルラインを利用)で最大12日間)を規制しシャトルバスによ
る代替輸送を行うことで環境への負荷と混雑を軽減するようにし
ている。この日数は山麓の駐車場の整備に従い(2011年に吉
田口に1400台の駐車場を整備)今後拡大(吉田口で15日)
する予定である。登山者の安全管理については、4

176 :
し、十分な連携を図る予定である。さらに、静岡県・山梨県文
化財保護審議会をはじめ各市町村文化財調査委員会は指定文化
財及び文化財全体に関する事項を審議し、それぞれ、静岡県・
山梨県教育委員会及び直接的な構成資産の管理を行う各市町村
教育委員会に対して建議を行っている。これらの組織の運営は
静岡県・山梨県の世界遺産推進課が行い、専門の職員名により
業務が行われる。また、富士山文化課世界遺産推進係を設置し
た富士宮市教育委員会や世界遺産推進室を設置した富士吉田市
をはじめ、各市や市町村教育委員会においても構成資産の保存
管理を担当する専門の職員を定めている。これらの組織体制

177 :
画62各構成資産の都市計画保存管理計画等観光計画(山梨県・静岡県・各市町村
)整備計画等632)保存管理体制包括的保存管理計画に定めた上記の基本方針に
基づき、静岡県・山梨県と関係市町村は、広範囲にわたる富士山の構成資産及び緩
衝地帯を包括的保存管理計画に基づき統一的に管理するため「富士山世界遺産両県
協議会」(以下「両県協議会」という。仮称)及びその支部組織である「静

178 :
設(山頂、富士宮口、吉田口、富士スバルライン終点)と3箇所
の救護センター(富士宮口に1箇所、吉田口に2箇所)が対応を
行っている。南麓では静岡県によって30名の「富士登山ナビゲ
ーター」が登山指導・案内・通訳業務を行っており、北麓では富
士吉田市条例によって、登山下山の案内を行う約230名のガイ
ドが「富士吉田市案内員組合」に登録している。さ

179 :
より業務が行われる。また、富士山文化課世界遺産推進係を設置した富士宮市教育
委員会や世界遺産推進室を設置した富士吉田市をはじめ、各市や市町村教育委員会
においても構成資産の保存管理を担当する専門の職員を定めている。これらの組織
体制については、さらなる充実化に努める予定である。なお、上記の体制について
は現在登録準備のために設置され、実質的に機能している組織を改変・名称変更・
役割変更するものであり、その運営に関して問題は生じない。図「富

180 :
合にも、国が必要に応じて経費の50%の補助金を交付してい
る。これらの国の補助金に併せて、静岡県・山梨県は国の補助
金相当額を控除した額の50%に相当する額以内の補助金を交
付し、構成資産所在の市町村が同内容の補助金を交付する予定
である。また、重要文化財、史跡、特別名勝又は名勝、特別天
然記念物又は天然記念物において、それぞれ防災施設等を設置
する事業についても、同様の比率の下に経費の補助を行うこと
としている。なお、上記の補助金とは別に、20

181 :
山小屋では、民間の気象予報会社と連携し山岳気象情報を共有し
ている。事故に対しては県警察山岳救助隊及び消防本部や市町村
消防署が対応し、場合により自衛隊の出動も要請する。また、気
象条件が一般の登山を行うには危険となる冬季は登山道・山小屋
を閉鎖(山梨県側は10月初旬、静岡県側は11月末より翌年7
月初旬)することにより十分な装備と経験を有する者以外の登山
は不可能である。冬山登山者は各登山口所轄警察署(御殿場署・
富士宮署・富士吉田署)に登山計画書の提出を推奨されている(
また、おおむね11月末〜4月末まで静岡県側の登山用自動車道
は閉鎖され、山梨県側も積雪・凍結等の状況に応じて段階的に閉
鎖される。)山体以外の構成資産については、おおむね来訪者数
に応じた駐車場・トイレ等を整備しており、今後、これらをさら
に整備する予定が立てられている。i)資産の整備・活用に関す
る方針・計画静岡県・山梨県では、構成資産及びその周辺を対象
とした保存管理に関する事業計画を定め、地域住民による活用の
取組をも取り込んで計画的に実施している。こうした諸計画に基
づき、富士山地域の歴史的背景を展示する「富士吉田市歴史民俗
博物館」「裾野市立富士山資料館」「富士市立博物館」の活用や
、富士山に係る包括的な保存・管理や利用者ニーズに適切に対応
する拠点の整備を検討するなど富士山の適切な保全・管理・活用
を図っていく。加えて、富士山についての市民向け講座の開催を
はじめ、児童・生徒を対象とした体験学習などの情報発信施策が
定期的に実施されている。個別の資産については、「遺跡」であ
る特別名勝又は名勝、天然記念物、史跡をはじめ「記念工作物」
・「建造物群」である重要文化財に指定されている建造物につい
ては、一部を除き所有者・管理団体が年間を通じて一般に公開し
ている。なお、登山については、登山期間(基本的に7月1日〜
8月31日)が公開時期に当たる。この時期以外の登山も禁止さ
れてはいないが、道路・山小屋等の閉鎖、および冬季の気象条件
などにより専門家以外の登山は困難である。j)専門分野・技術
・管理に関する人的措置68静岡県・山梨県教育委員会の委嘱を
受けた文化財保護指導員(以下、「指導員」という

182 :
保存管理の組織体制図(仮案・今後変更の可能性大)64富士山世界遺産両県協議
会(構成)静岡県、山梨県、関係市町村学識経験者等国関係機関(文化庁、環境省
、国土交通省、防衛省、林野庁)f)財源及び財政的水準各構成資産の管理につい
ては、それぞれの所有者又は管理団体が行っている。特に「記念工作物」、「建造
物群」の修理を行う場合には、小修理その他特別な場合を除いて国が必要に応じて
経費の50開発事業者、地域住民、関係者静岡県世界遺産協議会山梨県世界遺産協
議会(委員)行政:静岡県、関係市町(委員)行政:山梨県、関係市町村等民間:
観光協会、登山組合、神社関係者等民間:観光協会、山小屋組合、静岡県保存管理
協力者会議(委員)関係市町(企画・都市計画・文化財担当)観光関係者、登山組
合、神社関係者等神社、関係者等静岡県庁内連絡会議山梨県庁内連絡会議(委員)
関係課等(委員)関係課等山梨県保存管理協力者会議(委員)関係市町村(企画、
都市計画、文化財担当)観光関係者、山小屋組合、神社関係者等65〜85%の補
助金を交付している。「遺跡」である史跡、特別名勝又は名勝、特別天然記念物又
は天然記念物において発掘調査・修理・整備の事業を行う場合にも、国が必要に応
じて経費の50%の補助金を交付している。これらの国の補助金に併せて、静岡県
・山梨県は国の補助金相当額を控除した額の50%に相当する額以内の補助金を交
付し、構成資産所在の市町村が同内容の補助金を交付する予定である。また、重要
文化財、史跡、特別名勝又は名勝、特別天然記念物又は天然記念物において、それ
ぞれ防災施設等を設置する事業についても、同様の比率の下に経費の補助を行うこ
ととしている。なお、上記の補助金とは別に、2006年より構成資産の整備活用
及び保護に関する教育プログラムのための基金を設けており(「富士山基金」)、
基金には国内の経済界を中心に民間からの資金提供も行われている。g)保全及び
保存管理の技術における専門的知識及び研修構成資産の保存管理については、所有
者(宗教法人を含む)をはじめ、静岡県・山梨県教育委員会及び各史

183 :
成資産の整備活用及び保護に関する教育プログラムのための基
金を設けており(「富士山基金」)、基金には国内の経済界を
中心に民間からの資金提供も行われている。g)保全及び保存
管理の技術における専門的知識及び研修構成資産の保存管理に
ついては、所有者(宗教法人を含む)をはじめ、静岡県・山梨
県教育委員会及び各史跡等の管理団体に指定された各市町村教
育委員会が実施している。静岡県・山梨県教育委員会とその関
連機関である財団法人静岡県埋蔵文化財調査研究所及び山梨県
埋蔵文化センターでは、それぞれの組織内に文化財の高度な保
存・管理技術を持つ専門職員及び技術者を配置し、管理団体で
ある各市町村が行う保存管理に対して適切な技術的支援を行っ
ている。また、独立行政法人国立文化財機構は、全国の史跡等
における整備活用事業の円滑な推進と専門職員及び技術者の技
術や能力の向上のために、地方公共団体の専門職員を対象とし
て定期的に研修を開催しており、静岡県・山梨県をはじめ関係
各市町村の職員も当該研修等に積極的に参加して、資産の整備
活用の技術向上に努める予定である。さらに、独立行政法人国
立文化財機構(201年度より国内の大学の研究者及びイコモ
ス会員を含む富士山世界遺産両県協議会の助言者及び両県協議
会も含まれる予定である)の助言・指導に基づいて行われてい
る保存・管理技術は、高い水準を維持する予定である。重要文
化財、史跡、特別名勝又は名勝、特別天然記念物又は天然記念
物を維持するための措置として簡単な修理又は復旧を行う場合
は、事前の届出に基づき、文化庁が適切な技術的指導を行って
いるため、管理技術の水準はきわめて高く保たれている。資産
の見回りや清掃等の日常的な維持管理については、静岡県・山
梨県教育委員会から嘱託された文化財保護指導員(静岡県3名
、山梨県2名:構成資産の所在地区を担当する人数)のほか、
地域住民・民間団体・管理団体が協働して積極的に行っている
。表技術者の資質向上のために行われているおもな研修h)来
訪者の施設と統計構成資産の大部分は、周囲に展開する景勝地
とともに日本を代表する優れた名所として国内の

184 :
に文化財を巡回・点検し、両県教育委員会に対して保護に関する
助言を行っている。静岡県・山梨県は、指導員の調査報告に基づ
き、所有者や関係市町村に対して文化財の保存管理に関する指導
を行っている。このように、将来的に良好な状態の下に資産を維
持していくための体制についても万全を期している。6.経過観
察(モニタリング)の体制a)保存状況を計測するための主たる
指標構成資産である「遺跡」・「記念工作物」・「建造物群」を
はじめ、それらの緩衝地帯については、顕著な普遍的価値の確実
な保持、修理又は復旧、維持管理、防災及び危機管理に関する体
制の充実及び技術の向上を目的として、4章に掲げた保全状況及
び資産全体に与える影響に対し、次に掲げる主な観点の下に適切
な指標を設定し、定期的かつ体系的な経過観察(モニタリング)
を実施する予定である。@「3.記載のための価値証明」に記さ
れた資産の価値と真実性及び完全性が維持されているか。A「4
.保全状況と資産に与える影響」に記された諸要素(開発・環境
問題・自然災害・観光・その他)が資産とその緩衝地帯にどのよ
うな影響を与えているか/与えたか。B「5.資産の保護と管理
」に関連して、資産とその緩衝地帯及びそれらを取り巻く周辺の
広い地域が、相互に呼応しつつ資産の顕著な普遍的価値に関する
知識を発信する場として適切な発展を遂げているか。設定するお
もな観察指標については、以下の表に示すとおりである(予定)
。表観察指標一覧表※斜字は富士山を守る指標(2010年度改
定予定)から指標周期記録組織(1)資産の視覚的結a)視点場
における景観阻害要因数毎年両県びつきの保護b)電線の地中化
延長毎年両県a)富士山環境教育開催数・参加者数毎年両県b)
パンフレット・HPによる情報提供数毎年両県c)主要地点での
観光客の入込み数毎年両県d)登山者数(5合目以上)毎年市町
村e)登山者数(8合目以上)毎年環境省(2)資産の関連性の
保護f)森林伐採面積(森林の整備形態?)毎年両県a)文化財
保護法における現状変更の数毎年両県b)自然公園法における許
可行為の数毎年両県・環境省c)生活排水クリーン処理数毎年両
県(3)個別資産の保護d)富士山5合目以上のご

185 :
体に指定された各市町村教育委員会が実施している。静岡県・山梨県教育委員会と
その関連機関である財団法人静岡県埋蔵文化財調査研究所及び山梨県埋蔵文化セン
ターでは、それぞれの組織内に文化財の高度な保存・管理技術を持つ専門職員及び
技術者を配置し、管理団体である各市町村が行う保存管理に対して適切な技術的支
援を行っている。また、独立行政法人国立文化財機構は、全国の史跡等における整
備活用事業の円滑な推進と専門職員及び技術者の技術や能力の向上のために、地方
公共団体の専門職員を対象として定期的に研修を開催しており、静岡県・山梨県を
はじめ関係各市町村の職員も当該研修等に積極的に参加して、資産の整備活用の技
術向上に努める予定である。さらに、独立行政法人国立文化財機構(201年度よ
り国内の大学の研究者及びイコモス会員を含む富士山世界遺産両県協議会の助言者
及び両県協議会も含まれる予定である)の助言・指導に基づいて行われている保存
・管理技術は、高い水準を維持する予定である。重要文化財、史跡、特別名勝又は
名勝、特別天然記念物又は天然記念物を維持するための措置として簡単な修理又は
復旧を行う場合は、事前の届出に基づき、文化庁が適切な技術的指導を行っている
ため、管理技術の水準はきわめて高く保たれている。資産の見回りや清掃等の日常
的な維持管理については、静岡県・山梨県教育委員会から嘱託された文化財保護指
導員(静岡県3名、山梨県2名:構成資産の所在地区を担当する人数)のほか、地
域住民・民間団体・管理団体が協働して積極的に行っている。表技術者の資質向上
のために行われているおもな研修h)来訪者の施設と統計構成資産の大部分は、周
囲に展開する景勝地とともに日本を代表する優れた名所として国内のみならず海外
に広く知られており、夏季の登山をはじめとして四季折々の自然の姿を求めて来訪
する観光客でにぎわい、現在も国内有数の観光地となっている。図富士山への登山
者数の推移(各登山口推計登山者数)静岡県山梨県富士宮口御殿場口須走口県計吉
田口合計図富士山への来訪者数の推移(7・8月における各登山口五

186 :
に広く知られており、夏季の登山をはじめとして四季折々の自
然の姿を求めて来訪する観光客でにぎわい、現在も国内有数の
観光地となっている。図富士山への登山者数の推移(各登山口
推計登山者数)静岡県山梨県富士宮口御殿場口須走口県計吉田
口合計図富士山への来訪者数の推移(7・8月における各登山
口五合目への入れ込み数推計)66図主な構成資産の来訪者数
の推移(推計等)富士山では、山頂へ7〜8月の登山期に約2
9万人(1999〜2009年平均)が登山し、自動車でアク
セス可能な各登山道の「五合目」(自動車道建設以前の五合目
とは一致しないため「新五合目」と呼ばれる)には、同期間に
約250万人(1999〜2009年平均)が訪れ、近年は外
国人がかなりの数を占めるようになっている(外国人の数に関
する統計は取られていないため、正確な数値は不明である)。
富士山体においては、国内外から来訪する観光客や登山者等の
利用者の安全と利便を確保するとともに、秩序ある良好な風致
景観を維持及び形成することを目的として、「富士山における
標識類静岡県山梨県合計富士宮口御殿場口須走口県計吉田口(
年間)富士吉田・河口本栖湖・精進湖・山中湖・忍野八三保松
原浅間大社白糸ノ滝湖・三つ峠周辺西湖周辺海周辺総合ガイド
ライン」作成し、統一されたデザインによる四ヶ国語(英・中
・韓及び日)の道標や解説板を設置しているほか、富士山体の
主として緩衝地帯には駐車場・トイレ・資料館等の便益施設が
整備されている。今後とも、適切な計画の下に順次整備してい
くこととしており、「ビジターセンター」などのガイダンス施
設の充実も行われる予定である。自動車による訪問者の管理に
ついては、土日や休日等登山者が突出して増加する日に、仮設
トイレ・臨時駐車場等を設置するとともに、登山用の自動車道
は自家用車の通行(登山道ごとに異なる、最も利用数の多い吉
田口(富士スバルラインを利用)で最大12日間)を規制しシ
ャトルバスによる代替輸送を行うことで環境への負荷と混雑を
軽減するようにしている。この日数は山麓の駐車場の整備に従
い(2011年に吉田口に1400台の駐車場を

187 :
両県a)自然公園法における許可行為の数毎年両県・環境省b)
ゴルフ場面積毎年両県(4)緩衝地帯の保護c)森林伐採面積(
森林の整備形態?)毎年両県69d)廃棄物の不法投棄量毎年両
県なお、上記指標の具体的な設定根拠及び測定方法等に関する内
容の詳細については、本推薦書参考資料である包括的保存管理計
画において具体的に記述している。b)資産の経過観察(モニタ
リング)のための行政上の体制定期的報告を含む経過観察(モニ
タリング)については、以下の表に示すように管理団体である山
梨県及び関係各市町村が、静岡県・山梨県教育委員会を通じて文
化庁の指導の下に行う。『世界遺産条約履行のための作業指針』
(2008年)第5章に基づき、年度ごとに情報収集及び記録作
成を行い、蓄積した成果について6年ごとに保存管理状況の評価
としてまとめ、世界遺産センターを通じて世界遺産委員会に定期
報告書(英文)を提出する。モニタリング体制分担管轄域担当組
織1.担当組織及び担当課名資産及び緩衝地帯2.監督組織資産
及び緩衝地帯組織名称:文化庁組織代表者氏名:文化庁長官担当
課及び担当責任者氏名:記念物課課長3.指導組織資産及び緩衝
地帯組織名称:静岡県教育委員会:山梨県教育委員会組織代表者
氏名:静岡県教育長:山梨県教育長担当課及び担当責任者氏名:
静岡県世界遺産推進課課長:山梨県世界遺産推進課課長c)以前
の保全状況報告の成果経過観察(モニタリング)に必要とされる
諸事項に関し、現時点及び過去における資料・情報については、
静岡県・山梨県・及び資産の所在する市町の下に適切に収集・保
管されている。それらの一覧表については、以下のとおりである
。表(過去に経過観察のために実施した過去の資料・情報)番号
編著者標題対象資産年要約707.資料a)写真・スライド・画
像一覧表Noフォーマット標題撮影年月撮影者・編集者著作権保
持者著作権者連絡先非独占的権利譲渡b)保護のための指定に関
する文書などc)資産関連資料d)資産管理機関住所e)参考文
献8.連絡先a)申請書作成者連絡先b)管理組織・官庁c)そ
の他の組織d)公式ウェブサイト9.署名構成資産の分析(1)
番号構成資産候補名所在市町村文化財指定状況保存

188 :
状況H21.10.30学術委員会評価分析結果備考富士山両県
未着手分析結果A:富士山の価値を証明するのに必須の資産C:
富士山の価値を証明するのに不可欠ではない資産平成21年10
月30日の各県学術委員会(両県合同開催)での評価A:顕著な
普遍的価値を有する資産B:顕著な普遍的価値についてさらに調
査等が必要な資産C:顕著な普遍的価値を有しない可能性がある
資産保留:評価を保留平成22年度第1回静岡県学術委員会・第
2回山梨県学術委員会資料3世界文化遺産富士山包

189 :
訳業務を行っており、北麓では富士吉田市条例によって、登山下山の案内を行う約
230名のガイドが「富士吉田市案内員組合」に登録している。さらに吉田口の山
小屋では、民間の気象予報会社と連携し山岳気象情報を共有している。事故に対し
ては県警察山岳救助隊及び消防本部や市町村消防署が対応し、場合により自衛隊の
出動も要請する。また、気象条件が一般の登山を行うには危険となる冬季は登山道
・山小屋を閉鎖(山梨県側は10月初旬、静岡県側は11月末より翌

190 :
史跡をはじめ「記念工作物」・「建造物群」である重要文化財
に指定されている建造物については、一部を除き所有者・管理
団体が年間を通じて一般に公開している。なお、登山について
は、登山期間(基本的に7月1日〜8月31日)が公開時期に
当たる。この時期以外の登山も禁止されてはいないが、道路・
山小屋等の閉鎖、および冬季の気象条件などにより専門家以外
の登山は困難である。j)専門分野・技術・管理に関する人的
措置68静岡県・山梨県教育委員会の委嘱を受け

191 :
計画原案−1−世界文化遺産富士山包括的保存管理計画原案目次
第1章目的と経緯1目的2計画策定の経緯(1)各県における検
討の経緯(2)学術委員会・保存管理計画検討部会組織3計画の
位置付け(1)行政計画との関連・連携(2)計画の実施第2章
構成資産の概要1構成資産の一覧2資産及び緩衝地帯等の範囲3
構成資産の概要(1)富士山山体及び登山道A富士山A1山頂信
仰遺跡A2大宮・村山口登山道A3須山口登山道A4須走口登山
道A5吉田口登山道A6北口本宮冨士浅間神社A7西湖A8精進
湖A9本栖湖(2)信仰B1富士山本宮浅間大社B2山宮浅間神
社B3村山浅間神社B4須山浅間神社B5冨士浅間神社B6河口
浅間神社B7冨士御室浅間神社B8御師住宅B9山中湖B10河
口湖B11忍野八海B12船津胎内樹型−2−B13吉田胎内樹
型B14人穴富士講遺跡(人穴浅間神社)B15白糸ノ滝(3)
眺望C1三保松原第3章保存管理の基本方針1顕著な普遍的価値
及び周辺環境等を構成する諸要素(1)顕著な普遍的価値を構成
する諸要素@富士山山体及び登山道A信仰B眺望(2)顕著な普
遍的価値を構成する諸要素と密接に関わる諸要素@自然地形A森
林、植栽樹木B社寺の境内に含まれる歴史的な建造物及び工作物
等以外の建築物及び工作物C道路とその関連施設(3)周辺環境
を構成する諸要素@自然的要素A歴史的要素B人文的要素2保存
管理の基本方針(1)構成資産の適切な保存管理(2)周辺環境
を含めた一体的な保全(3)経過観察の実施(4)整備・公開・
活用推進(5)保存管理体制の整備と運営第4章構成資産の保存
管理1現状の把握(1)富士山山体及び登山道(2)信仰(3)
眺望2保存管理の基本的な考え方(1)現状変更の制限について
の考え方(2)地区区分についての考え方(3)指定地に関わる
諸法令について3具体的な施策(1)第1種保護地区(2)第2
種保護地区(3)三保松原−3−第5章緩衝地帯の保存管理1現
状の把握2保存管理の基本的な考え方(1)緩衝地帯の設定と行
為規制(2)都市計画との調整(3)住民生活との調和3具体的
な施策第6章経過観察の実施1顕著な普遍的な価値に負の影響を
与える要素2負の影響を与える要因の観察第7章整

192 :
することにより十分な装備と経験を有する者以外の登山は不可能である。冬山登山
者は各登山口所轄警察署(御殿場署・富士宮署・富士吉田署)に登山計画書の提出
を推奨されている(また、おおむね11月末〜4月末まで静岡県側の登山用自動車
道は閉鎖され、山梨県側も積雪・凍結等の状況に応じて段階的に閉鎖される。)山
体以外の構成資産については、おおむね来訪者数に応じた駐車場・トイレ等を整備
しており、今後、これらをさらに整備する予定が立てられている。i)資産の整備
・活用に関する方針・計画静岡県・山梨県では、構成資産及びその周辺を対象とし
た保存管理に関する事業計画を定め、地域住民による活用の取組をも取り込んで計
画的に実施している。こうした諸計画に基づき、富士山地域の歴史的背景を展示す
る「富士吉田市歴史民俗博物館」「裾野市立富士山資料館」「富士市立博物館」の
活用や、富士山に係る包括的な保存・管理や利用者ニーズに適切に対応する拠点の
整備を検討するなど富士山の適切な保全・管理・活用を図っていく。加えて、富士
山についての市民向け講座の開催をはじめ、児童・生徒を対象とした体験学習など
の情報発信施策が定期的に実施されている。個別の資産については、「遺跡」であ
る特別名勝又は名勝、天然記念物、史跡をはじめ「記念工作物」・「建造物群」で
ある重要文化財に指定されている建造物については、一部を除き所有者・管理団体
が年間を通じて一般に公開している。なお、登山については、登山期間(基本的に
7月1日〜8月31日)が公開時期に当たる。この時期以外の登山も禁止されては
いないが、道路・山小屋等の閉鎖、および冬季の気象条件などにより専門家以外の
登山は困難である。j)専門分野・技術・管理に関する人的措置68静岡県・山梨
県教育委員会の委嘱を受けた文化財保護指導員(以下、「指導員」という。)が定
期的に文化財を巡回・点検し、両県教育委員会に対して保護に関する助言を行って
いる。静岡県・山梨県は、指導員の調査報告に基づき、所有者や関係市町村に対し
て文化財の保存管理に関する指導を行っている。このように、将来的

193 :
指導員(以下、「指導員」という。)が定期的に文化財を巡回
・点検し、両県教育委員会に対して保護に関する助言を行って
いる。静岡県・山梨県は、指導員の調査報告に基づき、所有者
や関係市町村に対して文化財の保存管理に関する指導を行って
いる。このように、将来的に良好な状態の下に資産を維持して
いくための体制についても万全を期している。6.経過観察(
モニタリング)の体制a)保存状況を計測するための主たる指
標構成資産である「遺跡」・「記念工作物」・「建造物群」を
はじめ、それらの緩衝地帯については、顕著な普遍的価値の確
実な保持、修理又は復旧、維持管理、防災及び危機管理に関す
る体制の充実及び技術の向上を目的として、4章に掲げた保全
状況及び資産全体に与える影響に対し、次に掲げる主な観点の
下に適切な指標を設定し、定期的かつ体系的な経過観察(モニ
タリング)を実施する予定である。@「3.記載のための価値
証明」に記された資産の価値と真実性及び完全性が維持されて
いるか。A「4.保全状況と資産に与える影響」に記された諸
要素(開発・環境問題・自然災害・観光・その他)が資産とそ
の緩衝地帯にどのような影響を与えているか/与えたか。B「
5.資産の保護と管理」に関連して、資産とその緩衝地帯及び
それらを取り巻く周辺の広い地域が、相互に呼応しつつ資産の
顕著な普遍的価値に関する知識を発信する場として適切な発展
を遂げているか。設定するおもな観察指標については、以下の
表に示すとおりである(予定)。表観察指標一覧表※斜字は富
士山を守る指標(2010年度改定予定)から指標周期記録組
織(1)資産の視覚的結a)視点場における景観阻害要因数毎
年両県びつきの保護b)電線の地中化延長毎年両県a)富士山
環境教育開催数・参加者数毎年両県b)パンフレット・HPに
よる情報提供数毎年両県c)主要地点での観光客の入込み数毎
年両県d)登山者数(5合目以上)毎年市町村e)登山者数(
8合目以上)毎年環境省(2)資産の関連性の保護f)森林伐
採面積(森林の整備形態?)毎年両県a)文化財保護法におけ
る現状変更の数毎年両県b)自然公園法における

194 :
用1基本方針2整備と公開・活用第8章保存管理体制の整備と運
営1保存管理体制の整備と役割分担2地域住民等との連携・協働
3持続的運営のための定期的確認付章1保存管理に関する事業計
画一覧表−4−第1章目的と経緯1目的富士山は、日本を代表し
象徴する日本最高峰の秀麗な円錐形成層火山として世界的に著名
であり、日本人の自然に対する信仰の在り方や日本に独自の芸術
文化を育んだ「名山」である。山岳に対する信仰の在り方及び芸
術活動などを通じ、時代を超えて、一国の文化の諸相と極めて深
い関連性を示し、生きた文化的伝統の物証であるのみならず、人
間と自然との良好で継続的な関係を示す景観の傑出した類型とし
て、世界的にも比類なき顕著な普遍的価値を持つ山岳であり、世
界文化遺産に値するものである。富士山は、有史以前から噴火活
動を続けてきた標高3776mの円錐形の独立成層火山であり、
その山体は南の駿河湾の海浜にまで及び、海面からの実質的な高
さは世界的にも有数である。その力強く秀麗な姿は人々に神聖な
る気持ちを喚起し、古代から現代に至るまで、時代を超えて信仰
の対象となってきた。山腹及び山嶺には神社・登山道・巡礼地等
が形成され、山体と一体となった比類のない文化的景観を形成し
た。山体のうち、五合目以上の砂礫地は「焼山」と呼ばれて特に
神聖視され、山麓に分布する湖沼・湧水、火山活動により形成さ
れた独自の地形などは、富士信仰の霊地として重要な役割を果た
してきた。日本独自の山岳民衆信仰に基づく登拝・登山の様式は
現在でも命脈を保ち、特に夏季を中心に訪れる多くの登山客とと
もに富士登山の特徴を成している。このように、富士山は日本人
の自然に対する信仰の在り方に関連して、山に対する固有の文化
的伝統を表す物証及び人間の山に対する景観認知の在り方を示す
傑出した類型となっている。また、富士山の秀麗な姿は古くから
芸術活動の対象となり、その結果生み出された「万葉集」の和歌
などの文学作品や「浮世絵」などの秀麗で独自の絵画作品は、日
本国内のみならず海外にも広く知られ、様々な影響を与えてきた
。それらの作品群は、地球上の特定の地域において独自の文化的
伝統が形成・発展するのに当たり、富士山が重要な

195 :
の下に資産を維持していくための体制についても万全を期している。6.経過観察
(モニタリング)の体制a)保存状況を計測するための主たる指標構成資産である
「遺跡」・「記念工作物」・「建造物群」をはじめ、それらの緩衝地帯については
、顕著な普遍的価値の確実な保持、修理又は復旧、維持管理、防災及び危機管理に
関する体制の充実及び技術の向上を目的として、4章に掲げた保全状況及び資産全
体に与える影響に対し、次に掲げる主な観点の下に適切な指標を設定し、定期的か
つ体系的な経過観察(モニタリング)を実施する予定である。@「3.記載のため
の価値証明」に記された資産の価値と真実性及び完全性が維持されているか。A「
4.保全状況と資産に与える影響」に記された諸要素(開発・環境問題・自然災害
・観光・その他)が資産とその緩衝地帯にどのような影響を与えているか/与えた
か。B「5.資産の保護と管理」に関連して、資産とその緩衝地帯及びそれらを取
り巻く周辺の広い地域が、相互に呼応しつつ資産の顕著な普遍的価値に関する知識
を発信する場として適切な発展を遂げているか。設定するおもな観察指標について
は、以下の表に示すとおりである(予定)。表観察指標一覧表※斜字は富士山を守
る指標(2010年度改定予定)から指標周期記録組織(1)資産の視覚的結a)
視点場における景観阻害要因数毎年両県びつきの保護b)電線の地中化延長毎年両
県a)富士山環境教育開催数・参加者数毎年両県b)パンフレット・HPによる情
報提供数毎年両県c)主要地点での観光客の入込み数毎年両県d)登山者数(5合
目以上)毎年市町村e)登山者数(8合目以上)毎年環境省(2)資産の関連性の
保護f)森林伐採面積(森林の整備形態?)毎年両県a)文化財保護法における現
状変更の数毎年両県b)自然公園法における許可行為の数毎年両県・環境省c)生
活排水クリーン処理数毎年両県(3)個別資産の保護d)富士山5合目以上のごみ
収集量毎年両県a)自然公園法における許可行為の数毎年両県・環境省b)ゴルフ
場面積毎年両県(4)緩衝地帯の保護c)森林伐採面積(森林の整備

196 :
毎年両県・環境省c)生活排水クリーン処理数毎年両県(3)
個別資産の保護d)富士山5合目以上のごみ収集量毎年両県a
)自然公園法における許可行為の数毎年両県・環境省b)ゴル
フ場面積毎年両県(4)緩衝地帯の保護c)森林伐採面積(森
林の整備形態?)毎年両県69d)廃棄物の不法投棄量毎年両
県なお、上記指標の具体的な設定根拠及び測定方法等に関する
内容の詳細については、本推薦書参考資料である包括的保存管
理計画において具体的に記述している。b)資産の経過観察(
モニタリング)のための行政上の体制定期的報告を含む経過観
察(モニタリング)については、以下の表に示すように管理団
体である山梨県及び関係各市町村が、静岡県・山梨県教育委員
会を通じて文化庁の指導の下に行う。『世界遺産条約履行のた
めの作業指針』(2008年)第5章に基づき、年度ごとに情
報収集及び記録作成を行い、蓄積した成果について6年ごとに
保存管理状況の評価としてまとめ、世界遺産センターを通じて
世界遺産委員会に定期報告書(英文)を提出する。モニタリン
グ体制分担管轄域担当組織1.担当組織及び担当課名資産及び
緩衝地帯2.監督組織資産及び緩衝地帯組織名称:文化庁組織
代表者氏名:文化庁長官担当課及び担当責任者氏名:記念物課
課長3.指導組織資産及び緩衝地帯組織名称:静岡県教育委員
会:山梨県教育委員会組織代表者氏名:静岡県教育長:山梨県
教育長担当課及び担当責任者氏名:静岡県世界遺産推進課課長
:山梨県世界遺産推進課課長c)以前の保全状況報告の成果経
過観察(モニタリング)に必要とされる諸事項に関し、現時点
及び過去における資料・情報については、静岡県・山梨県・及
び資産の所在する市町の下に適切に収集・保管されている。そ
れらの一覧表については、以下のとおりである。表(過去に経
過観察のために実施した過去の資料・情報)番号編著者標題対
象資産年要約707.資料a)写真・スライド・画像一覧表N
oフォーマット標題撮影年月撮影者・編集者著作権保持者著作
権者連絡先非独占的権利譲渡b)保護のための指定に関する文
書などc)資産関連資料d)資産管理機関住所e

197 :
極めて強力な関連性であることを示している。このような価値を
もつ「富士山」の構成資産は、山梨県と静岡県の二県にまたがっ
て分布している。これら一連の構成資産を世界文化遺産「富士山
」の総体として確実に保存し、確実に次世代へと継承するために
は、両県共通の考え方を基に、各構成資産全体を一つの資産とし
て包括的に保存管理していくための方法を整理していく必要があ
ることから、個別の構成資産についての保存管理計画に加え、構
成資産相互の関係性を保全し全体の価値を継承していくための包
括的な保存管理計画を策定しておくことが必要である。そのため
、山梨県・静岡県は、文化庁・環境省の指導・助言の下に関係市
町村、関係各機関等と調整を図り、本計画を策定した。「富士山
」包括的保存管理計画−5−各構成資産の都市計画保存管理計画
等観光計画(環境省・山梨県・静岡県・各市町村)整備計画等図
包括的保存管理計画の体系2計画策定の経緯富士山包括的保存管
理計画は、構成資産に係る個別の保存管理計画を基礎とし、世界
遺産の推薦に当たって必要とされる保存管理及び整備に係る理念
・基本方針とその具体的内容について明示するため、学術研究者
等により構成される山梨県・静岡県学術委員会及び二県学術委員
による審議を経て策定されたものである。学識経験者等により構
成する各県学術委員会のもとに、保存管理計画の原案を検討する
保存管理計画検討部会を設置した。原案を検討するにあたり、県
庁内の関係部署との連携や共通認識を得るため、それぞれ「山梨
県保存管理計画検討プロジェクトチーム」(表)及び「静岡県保
存管理計画検討庁内連絡会議」(表)を設置し、連携・確認を行
った。また、富士山の効果的かつ確実な保存管理を行うためには
、地元関係者など幅広い方々の協力・助言が不可欠であることか
ら、関係自治体・地域住民・観光関係者・神社関係者などで構成
する「山梨県保存管理計画策定協力者会議」及び「静岡県保存管
理計画協力者部会」を設置し、連携を図った。さらに、二県学術
委員会のもとに設置した「包括的保存管理計画検討部会」におけ
る検討とあわせ、文化庁の指導・助言の下、201■年■月に策
定した。(1)各県における検討の経緯両県の経緯

198 :
管理計画検討部会と学術委員会)2007年11月29日平成1
9年第1回包括的保存管理計画検討部会・包括保存管理計画の必
要性・国内の世界遺産における包括的保存管理計画の事例200
7年12月26日平成19年第2回包括的保存管理計画検討部会
・目的と経緯・構成資産の概要・保存管理の包括的な基本方針2
008年3月17日平成19年度第2回学術委員会

199 :
未着手分析結果A:富士山の価値を証明するのに必須の資産C:富士山の価値を証
明するのに不可欠ではない資産平成21年10月30日の各県学術委員会(両県合
同開催)での評価A:顕著な普遍的価値を有する資産B:顕著な普遍的価値につい
てさらに調査等が必要な資産C:顕著な普遍的価値を有しない可能性がある資産保
留:評価を保留平成22年度第1回静岡県学術委員会・第2回山梨県学術委員会資
料3世界文化遺産富士山包括的保存管理計画原案−1−世界文化遺産

200 :
存管理の基本方針(1)構成資産の適切な保存管理(2)周辺
環境を含めた一体的な保全(3)経過観察の実施(4)整備・
公開・活用推進(5)保存管理体制の整備と運営第4章構成資
産の保存管理1現状の把握(1)富士山山体及び登山道(2)
信仰(3)眺望2保存管理の基本的な考え方(1)現状変更の
制限についての考え方(2)地区区分についての考え方(3)
指定地に関わる諸法令について3具体的な施策(1)第1種保
護地区(2)第2種保護地区(3)三保松原−3

201 :
管理計画検討部会の審議結果2008年6月19日平成20年度
第1回包括的保存管理計画検討部会−6−・包括的保存管理計画
の役割・構成要素と本質的価値の明確化2009年5月20日平
成21年度第1回包括的保存管理計画検討部会・各資産候補の概
要について・構成資産、緩衝地帯、保存管理区域について201
0年3月19日平成21年度第2回学術委員会・保存管理計画の
考え方について山梨県の経緯2007年8月31日平成19年第
1回山梨県保存管理計画検討部会・保存管理計画の事例2007
年12月9日現地調査2008年1月31日平成19年度第2回
山梨県保存管理計画検討部会・包括的保存管理計画検討部会の審
議結果・山梨県保存管理計画の基本方針2008年2月21日平
成19年度第3回山梨県・静岡県学術委員会・各県保存管理計画
検討部会の審議結果2008年4月16、17日現地調査200
8年5月1日平成20年度山梨県保存管理計画策定ワーキング・
山梨県保存管理計画の策定について2008年6月10日現地調
査2008年6月30日現地調査2008年7月22日平成20
年度第1回山梨県保存管理計画検討部会・構成要素と本質的価値
の明確化・保存管理の方法と考え方2009年4月24日平成2
1年度第1回山梨県保存管理計画策定協力者会議・富士山の世界
文化遺産登録の現状について・山梨県保存管理計画策定協力者会
議について2009年6月19日平成21年度第1回山梨県保存
管理計画検討部会・各資産候補の概要について・構成資産、緩衝
地帯、保存管理区域について2009年8月26日平成21年度
山梨県保存管理計画策定ワーキング・富士山世界文化遺産登録へ
の取組状況について・山梨県保存管理計画の策定について201
0年3月16日平成21年度第3回山梨県・静岡県学術委員会・
保存管理計画の考え方について2010年6月30日平成22年
度第1回山梨県保存管理計画検討部会静岡県の経緯2007年7
月5日平成19年度第1回静岡県保存管理計画検討部会・保存管
理計画について−7−2008年1月23日現地調査2008年
1月30日平成19年度第2回静岡県保存管理計画検討部会・包
括的保存管理計画検討部会の審議結果・静岡県保存

202 :
保存管理計画原案目次第1章目的と経緯1目的2計画策定の経緯(1)各県におけ
る検討の経緯(2)学術委員会・保存管理計画検討部会組織3計画の位置付け(1
)行政計画との関連・連携(2)計画の実施第2章構成資産の概要1構成資産の一
覧2資産及び緩衝地帯等の範囲3構成資産の概要(1)富士山山体及び登山道A富
士山A1山頂信仰遺跡A2大宮・村山口登山道A3須山口登山道A4須走口登山道
A5吉田口登山道A6北口本宮冨士浅間神社A7西湖A8精進湖A9本栖湖(2)
信仰B1富士山本宮浅間大社B2山宮浅間神社B3村山浅間神社B4須山浅間神社
B5冨士浅間神社B6河口浅間神社B7冨士御室浅間神社B8御師住宅B9山中湖
B10河口湖B11忍野八海B12船津胎内樹型−2−B13吉田胎内樹型B14
人穴富士講遺跡(人穴浅間神社)B15白糸ノ滝(3)眺望C1三保松原第3章保
存管理の基本方針1顕著な普遍的価値及び周辺環境等を構成する諸要素(1)顕著
な普遍的価値を構成する諸要素@富士山山体及び登山道A信仰B眺望(2)顕著な
普遍的価値を構成する諸要素と密接に関わる諸要素@自然地形A森林、植栽樹木B
社寺の境内に含まれる歴史的な建造物及び工作物等以外の建築物及び工作物C道路
とその関連施設(3)周辺環境を構成する諸要素@自然的要素A歴史的要素B人文
的要素2保存管理の基本方針(1)構成資産の適切な保存管理(2)周辺環境を含
めた一体的な保全(3)経過観察の実施(4)整備・公開・活用推進(5)保存管
理体制の整備と運営第4章構成資産の保存管理1現状の把握(1)富士山山体及び
登山道(2)信仰(3)眺望2保存管理の基本的な考え方(1)現状変更の制限に
ついての考え方(2)地区区分についての考え方(3)指定地に関わる諸法令につ
いて3具体的な施策(1)第1種保護地区(2)第2種保護地区(3)三保松原−
3−第5章緩衝地帯の保存管理1現状の把握2保存管理の基本的な考え方(1)緩
衝地帯の設定と行為規制(2)都市計画との調整(3)住民生活との調和3具体的
な施策第6章経過観察の実施1顕著な普遍的な価値に負の影響を与え

203 :
地帯の保存管理1現状の把握2保存管理の基本的な考え方(1
)緩衝地帯の設定と行為規制(2)都市計画との調整(3)住
民生活との調和3具体的な施策第6章経過観察の実施1顕著な
普遍的な価値に負の影響を与える要素2負の影響を与える要因
の観察第7章整備・公開・活用1基本方針2整備と公開・活用
第8章保存管理体制の整備と運営1保存管理体制の整備と役割
分担2地域住民等との連携・協働3持続的運営のための定期的
確認付章1保存管理に関する事業計画一覧表−4−第1章目的
と経緯1目的富士山は、日本を代表し象徴する日本最高峰の秀
麗な円錐形成層火山として世界的に著名であり、日本人の自然
に対する信仰の在り方や日本に独自の芸術文化を育んだ「名山
」である。山岳に対する信仰の在り方及び芸術活動などを通じ
、時代を超えて、一国の文化の諸相と極めて深い関連性を示し
、生きた文化的伝統の物証であるのみならず、人間と自然との
良好で継続的な関係を示す景観の傑出した類型として、世界的
にも比類なき顕著な普遍的価値を持つ山岳であり、世界文化遺
産に値するものである。富士山は、有史以前から噴火活動を続
けてきた標高3776mの円錐形の独立成層火山であり、その
山体は南の駿河湾の海浜にまで及び、海面からの実質的な高さ
は世界的にも有数である。その力強く秀麗な姿は人々に神聖な
る気持ちを喚起し、古代から現代に至るまで、時代を超えて信
仰の対象となってきた。山腹及び山嶺には神社・登山道・巡礼
地等が形成され、山体と一体となった比類のない文化的景観を
形成した。山体のうち、五合目以上の砂礫地は「焼山」と呼ば
れて特に神聖視され、山麓に分布する湖沼・湧水、火山活動に
より形成された独自の地形などは、富士信仰の霊地として重要
な役割を果たしてきた。日本独自の山岳民衆信仰に基づく登拝
・登山の様式は現在でも命脈を保ち、特に夏季を中心に訪れる
多くの登山客とともに富士登山の特徴を成している。このよう
に、富士山は日本人の自然に対する信仰の在り方に関連して、
山に対する固有の文化的伝統を表す物証及び人間の山に対する
景観認知の在り方を示す傑出した類型となってい

204 :
いて2008年2月21日平成19年度第3回山梨県・静岡県学
術委員会・各県保存管理計画検討部会の審議結果2008年7月
16日平成20年度第1回静岡県保存管理計画検討部会・包括的
保存管理計画検討部会の報告・静岡県保存管理計画について20
08年9月9日平成20年度静岡県保存管理計画検討部会第1回
庁内連絡会議・富士山の世界文化遺産登録推進の取組について・
静岡県保存管理計画の策定について2009年2月12日現地調
査2009年6月1日平成21年度第1回静岡県保存管理計画策
定協力者部会・富士山の世界文化遺産登録推進の取組について・
静岡県保存管理計画の策定について2009年6月17日平成2
1年度第1回静岡県保存管理計画検討部会・静岡県保存管理計画
の策定について・富士山の緩衝地帯に関する考え方2009年7
月13日平成21年度静岡県保存管理計画検討部会第1回庁内連
絡会議2009年10月29日平成21年度静岡県保存管理計画
検討部会第2回庁内連絡会議2009年11月25日平成21年
度第2回静岡県保存管理計画策定協力者部会2010年1月29
日平成21年度第3回静岡県保存管理計画策定協力者部会201
0年3月16日平成21年度第3回山梨県・静岡県学術委員会・
保存管理計画の考え方について2010年6月30日平成22年
度第1回静岡県保存管理計画検討部会(2)学術委員会・保存管
理計画検討部会組織学術委員会及び保存管理計画検討部会の組織
は図に示すとおりである。また、その構成は表〜のとおりである
。(1)行政計画との関連・連携構成資産及び緩衝地帯を有する
山梨県・静岡県及び関係市町村では、まちづくり、観光、防災な
どに関する各種計画を策定し、実施している。これらの計画は、
包括的保存管理計画と密接に関連し、日常的に連携を図りつつ実
施されている。表包括的保存管理計画に関連する計画(山梨県)
計画名称策定年等F資産に影響する可能性がある個別の開発計画
大規模集客施設等の立地に関する方針(山梨県)2010年1月
ゴルフ場造成に事業に関する今後の取扱いについて(山梨県)1
993年10月−17−明神峠自然環境保全地域保全計画昭和5
0年策定静岡県森林共生基本計画平成19年3月策

205 :
影響を与える要因の観察第7章整備・公開・活用1基本方針2整備と公開・活用第
8章保存管理体制の整備と運営1保存管理体制の整備と役割分担2地域住民等との
連携・協働3持続的運営のための定期的確認付章1保存管理に関する事業計画一覧
表−4−第1章目的と経緯1目的富士山は、日本を代表し象徴する日本最高峰の秀
麗な円錐形成層火山として世界的に著名であり、日本人の自然に対する信仰の在り
方や日本に独自の芸術文化を育んだ「名山」である。山岳に対する信仰の在り方及
び芸術活動などを通じ、時代を超えて、一国の文化の諸相と極めて深い関連性を示
し、生きた文化的伝統の物証であるのみならず、人間と自然との良好で継続的な関
係を示す景観の傑出した類型として、世界的にも比類なき顕著な普遍的価値を持つ
山岳であり、世界文化遺産に値するものである。富士山は、有史以前から噴火活動
を続けてきた標高3776mの円錐形の独立成層火山であり、その山体は南の駿河
湾の海浜にまで及び、海面からの実質的な高さは世界的にも有数である。その力強
く秀麗な姿は人々に神聖なる気持ちを喚起し、古代から現代に至るまで、時代を超
えて信仰の対象となってきた。山腹及び山嶺には神社・登山道・巡礼地等が形成さ
れ、山体と一体となった比類のない文化的景観を形成した。山体のうち、五合目以
上の砂礫地は「焼山」と呼ばれて特に神聖視され、山麓に分布する湖沼・湧水、火
山活動により形成された独自の地形などは、富士信仰の霊地として重要な役割を果
たしてきた。日本独自の山岳民衆信仰に基づく登拝・登山の様式は現在でも命脈を
保ち、特に夏季を中心に訪れる多くの登山客とともに富士登山の特徴を成している
。このように、富士山は日本人の自然に対する信仰の在り方に関連して、山に対す
る固有の文化的伝統を表す物証及び人間の山に対する景観認知の在り方を示す傑出
した類型となっている。また、富士山の秀麗な姿は古くから芸術活動の対象となり
、その結果生み出された「万葉集」の和歌などの文学作品や「浮世絵」などの秀麗
で独自の絵画作品は、日本国内のみならず海外にも広く知られ、様々

206 :
士山の秀麗な姿は古くから芸術活動の対象となり、その結果生
み出された「万葉集」の和歌などの文学作品や「浮世絵」など
の秀麗で独自の絵画作品は、日本国内のみならず海外にも広く
知られ、様々な影響を与えてきた。それらの作品群は、地球上
の特定の地域において独自の文化的伝統が形成・発展するのに
当たり、富士山が重要な源泉となった極めて強力な関連性であ
ることを示している。このような価値をもつ「富士山」の構成
資産は、山梨県と静岡県の二県にまたがって分布している。こ
れら一連の構成資産を世界文化遺産「富士山」の総体として確
実に保存し、確実に次世代へと継承するためには、両県共通の
考え方を基に、各構成資産全体を一つの資産として包括的に保
存管理していくための方法を整理していく必要があることから
、個別の構成資産についての保存管理計画に加え、構成資産相
互の関係性を保全し全体の価値を継承していくための包括的な
保存管理計画を策定しておくことが必要である。そのため、山
梨県・静岡県は、文化庁・環境省の指導・助言の下に関係市町
村、関係各機関等と調整を図り、本計画を策定した。「富士山
」包括的保存管理計画−5−各構成資産の都市計画保存管理計
画等観光計画(環境省・山梨県・静岡県・各市町村)整備計画
等図包括的保存管理計画の体系2計画策定の経緯富士山包括的
保存管理計画は、構成資産に係る個別の保存管理計画を基礎と
し、世界遺産の推薦に当たって必要とされる保存管理及び整備
に係る理念・基本方針とその具体的内容について明示するため
、学術研究者等により構成される山梨県・静岡県学術委員会及
び二県学術委員による審議を経て策定されたものである。学識
経験者等により構成する各県学術委員会のもとに、保存管理計
画の原案を検討する保存管理計画検討部会を設置した。原案を
検討するにあたり、県庁内の関係部署との連携や共通認識を得
るため、それぞれ「山梨県保存管理計画検討プロジェクトチー
ム」(表)及び「静岡県保存管理計画検討庁内連絡会議」(表
)を設置し、連携・確認を行った。また、富士山の効果的かつ
確実な保存管理を行うためには、地元関係者など

207 :
林計画書平成18年4月策定F資産に影響する可能性がある個別
の開発計画企業立地促進法に基づく静岡県東部地域基本計画(静
岡県及び14市町)平成21年2月策定市町村森林整備計画平成
18年4月策定−18−(富士宮市・富士市・裾野市・御殿場市
・小山町)(2)計画の実施今回提出する富士山包括的保存管理
計画は、20年月から既に実施され機能されているものである。
−19−第2章構成資産の概要1構成資産の一覧世界遺産「富士
山」の構成資産の種別、位置、面積、緩衝地帯の面積、所在地に
ついては、以下の表に示すとおりである。表構成資産の一覧大種
別分類小分類構成資産世界遺産条約文化財保護法自然公園法所在
地位置資産面積(ha)緩衝地帯面積(ha)A富士山(山体)
(御中道含む)遺跡特別名勝史跡山頂信仰遺跡(奥宮、お鉢巡り
)遺跡特別名勝史跡A2大宮・村山口登山道遺跡特別名勝史跡A
3須山口登山道遺跡特別名勝史跡A4須走口登山道遺跡特別名勝
史跡A5吉田口登山道遺跡特別名勝史跡静岡県(富士宮市、裾野
市、御殿場市、小山町)山梨県(富士吉田市、身延町、鳴沢村、
富士河口湖町)県境未確定地″A6北口本宮冨士浅間神社遺跡建
造物記念工作物特別名勝史跡重要文化財A7西湖遺跡名勝A8精
進湖遺跡名勝A9本栖湖遺跡名勝BB1富士山本宮浅間大社遺跡
建造物記念工作物重文静岡県富士宮市B14人穴富士講遺跡遺跡
市史跡静岡県富士宮市NEB15白糸ノ滝遺跡名勝・天然記念物
静岡県富士宮市NEC三保松原文化的景観遺跡静岡県静岡市NE
2資産及び緩衝地帯等の範囲「富士山」の顕著な普遍的価値を表
す構成資産の保護を確実にし、各構成資産における富士山体への
良好な眺望を保証するために、個々の構成資産の周囲に必要十分
な範囲の緩衝地帯を設定する。さらに、個々の構成資産間の関係
を良好に保ち、富士山の景観の一体性・連続性を保証するために
、緩衝地帯を含め、広く保全管理区域を設定する。構成資産の位
置及びその周辺地域である緩衝地帯、保全管理区域の範囲につい
ては、図に示すとおりである。図「富士山」の範囲(構成資産・
緩衝地帯)富士山山体の範囲については、現在特別名勝富士山に
指定されている区域だけでなく、その周辺部にあた

208 :
500m付近までとした。この範囲において、特別名勝の区域は
文化財保護法で保護され、特別名勝指定地外から標高1,500
mの区域については自然公園法と森林法で保護されている。緩衝
地帯との境については林班により線引きを行い、県道などの人工
物の改修工事等への影響が軽減するよう配慮した。そして本栖湖
、精進湖、西湖までを富士山の山体として考え、範囲付けしたこ
とは、展望地点から山頂までを連続して保護するための措置であ
る。緩衝地帯の範囲については、当初国道469号

209 :
携を図った。さらに、二県学術委員会のもとに設置した「包括的保存管理計画検討
部会」における検討とあわせ、文化庁の指導・助言の下、201■年■月に策定し
た。(1)各県における検討の経緯両県の経緯(包括的保存管理計画検討部会と学
術委員会)2007年11月29日平成19年第1回包括的保存管理計画検討部会
・包括保存管理計画の必要性・国内の世界遺産における包括的保存管理計画の事例
2007年12月26日平成19年第2回包括的保存管理計画検討部

210 :
管理計画策定協力者会議・富士山の世界文化遺産登録の現状に
ついて・山梨県保存管理計画策定協力者会議について2009
年6月19日平成21年度第1回山梨県保存管理計画検討部会
・各資産候補の概要について・構成資産、緩衝地帯、保存管理
区域について2009年8月26日平成21年度山梨県保存管
理計画策定ワーキング・富士山世界文化遺産登録への取組状況
について・山梨県保存管理計画の策定について2010年3月
16日平成21年度第3回山梨県・静岡県学術委

211 :
号にかけての富士山側を計画していたが、国際専門家から飛び地
の資産である、富士山本宮浅間大社や山宮浅間神社を緩衝地帯に
含めるべきだとの指摘があり、市道を境に緩衝地帯を設定した。
その際、富士山本宮浅間大社からの富士山の眺望を確保するため
、富士山に向かって約36度の広がりで設定した。この範囲につ
いては、文化財保護法以外の法律を適用し、自然公園法、森林法
、景観法で保護されている。保全管理区域の範囲については、三
保松原から富士山を眺望する際、その阻害要因を軽減させるため
に、溶岩が流出した範囲を基本として設定した。そのため、静岡
県側においては、裾野市、御殿場市、小山町に流出している溶岩
流の範囲については、保全管理区域とはしていない。なお、保全
管理区域についても、森林法と景観法で保護されている。富士山
山体の東に位置する、演習場(北富士演習場・東富士演習場)に
ついては、従前より大規模開発が予定されていないことから、緩
衝地帯同様に資産を緩衝することが可能な区域であると言える。
3構成資産の概要構成資産及び保存管理状況の概要については、
以下に記すとおりである。構成資産の詳細については、推薦書本
文にて説明を行っている。保存管理状況等の詳細については、構
成資産毎に策定されている個別の保存管理計画等において、それ
ぞれ具体的内容を含めた説明を行っている。なお、p18,19
表のA〜Cは次のように分類し、整理したものである。A富士山
山体及び登山道B信仰に関わるものC富士山の眺望に関わるもの
(1)富士山山体及び登山道A富士山標高3776mを測る富士
山は、日本を代表し、象徴する日本最高峰の秀麗な独立火山であ
る。その自然的な美しさと崇高さを基盤として、日本人の自然に
対する信仰のあり方や、日本独自の芸術文化を育んだ名山でもあ
る。富士山は山岳に対する信仰の在り方や芸術活動などを通じ、
時代を超えて一国の文化の諸相と極めて深い関連性を示し、生き
た文化的伝統の物証であるのみならず、人間と自然との良好で継
続的な関係を示す景観の傑出した類型として、世界的にも類例を
見ない顕著な普遍的価値を持つ山である。世界文化遺産としての
富士山とは、富士山山体の内、標高約1500m以

212 :
緯・構成資産の概要・保存管理の包括的な基本方針2008年3月17日平成19
年度第2回学術委員会・包括的保存管理計画検討部会の審議結果2008年6月1
9日平成20年度第1回包括的保存管理計画検討部会−6−・包括的保存管理計画
の役割・構成要素と本質的価値の明確化2009年5月20日平成21年度第1回
包括的保存管理計画検討部会・各資産候補の概要について・構成資産、緩衝地帯、
保存管理区域について2010年3月19日平成21年度第2回学術委員会・保存
管理計画の考え方について山梨県の経緯2007年8月31日平成19年第1回山
梨県保存管理計画検討部会・保存管理計画の事例2007年12月9日現地調査2
008年1月31日平成19年度第2回山梨県保存管理計画検討部会・包括的保存
管理計画検討部会の審議結果・山梨県保存管理計画の基本方針2008年2月21
日平成19年度第3回山梨県・静岡県学術委員会・各県保存管理計画検討部会の審
議結果2008年4月16、17日現地調査2008年5月1日平成20年度山梨
県保存管理計画策定ワーキング・山梨県保存管理計画の策定について2008年6
月10日現地調査2008年6月30日現地調査2008年7月22日平成20年
度第1回山梨県保存管理計画検討部会・構成要素と本質的価値の明確化・保存管理
の方法と考え方2009年4月24日平成21年度第1回山梨県保存管理計画策定
協力者会議・富士山の世界文化遺産登録の現状について・山梨県保存管理計画策定
協力者会議について2009年6月19日平成21年度第1回山梨県保存管理計画
検討部会・各資産候補の概要について・構成資産、緩衝地帯、保存管理区域につい
て2009年8月26日平成21年度山梨県保存管理計画策定ワーキング・富士山
世界文化遺産登録への取組状況について・山梨県保存管理計画の策定について20
10年3月16日平成21年度第3回山梨県・静岡県学術委員会・保存管理計画の
考え方について2010年6月30日平成22年度第1回山梨県保存管理計画検討
部会静岡県の経緯2007年7月5日平成19年度第1回静岡県保存

213 :
理計画の考え方について2010年6月30日平成22年度第
1回山梨県保存管理計画検討部会静岡県の経緯2007年7月
5日平成19年度第1回静岡県保存管理計画検討部会・保存管
理計画について−7−2008年1月23日現地調査2008
年1月30日平成19年度第2回静岡県保存管理計画検討部会
・包括的保存管理計画検討部会の審議結果・静岡県保存管理計
画について2008年2月21日平成19年度第3回山梨県・
静岡県学術委員会・各県保存管理計画検討部会の審議結果20
08年7月16日平成20年度第1回静岡県保存管理計画検討
部会・包括的保存管理計画検討部会の報告・静岡県保存管理計
画について2008年9月9日平成20年度静岡県保存管理計
画検討部会第1回庁内連絡会議・富士山の世界文化遺産登録推
進の取組について・静岡県保存管理計画の策定について200
9年2月12日現地調査2009年6月1日平成21年度第1
回静岡県保存管理計画策定協力者部会・富士山の世界文化遺産
登録推進の取組について・静岡県保存管理計画の策定について
2009年6月17日平成21年度第1回静岡県保存管理計画
検討部会・静岡県保存管理計画の策定について・富士山の緩衝
地帯に関する考え方2009年7月13日平成21年度静岡県
保存管理計画検討部会第1回庁内連絡会議2009年10月2
9日平成21年度静岡県保存管理計画検討部会第2回庁内連絡
会議2009年11月25日平成21年度第2回静岡県保存管
理計画策定協力者部会2010年1月29日平成21年度第3
回静岡県保存管理計画策定協力者部会2010年3月16日平
成21年度第3回山梨県・静岡県学術委員会・保存管理計画の
考え方について2010年6月30日平成22年度第1回静岡
県保存管理計画検討部会(2)学術委員会・保存管理計画検討
部会組織学術委員会及び保存管理計画検討部会の組織は図に示
すとおりである。また、その構成は表〜のとおりである。(1
)行政計画との関連・連携構成資産及び緩衝地帯を有する山梨
県・静岡県及び関係市町村では、まちづくり、観光、防災など
に関する各種計画を策定し、実施している。これ

214 :
る。この範囲は、富士山周辺の主要な神社や景勝地から見た可視
領域が重なり合う範囲であるとともに、各登山道における山体の
神聖性に関する境界の一つである「馬返」の標高とほぼ一致する
。なお、「馬返」とは、乗馬登山が物理的にも、宗教的観点から
も不可能になる地点を示す。景観的には山体の傾斜角の変化率が
大きくなり「平野部」と「山体」の境界として認識され、稜線が
優美な曲線を描き、絵画などの対象とされることが多い範囲であ
る。写真上空から見た写真に資産範囲を線で示したもの(推薦原
案と同じもの)−21−−22−標高約2500m付近の森林限
界より上方は富士講信者には「焼山」と呼ばれ、神聖な地域ある
いは死後世界である「他界」と考えられていた。また、登山道ご
とに標高は異なるが、1779年以降、浅間大社の境内地とされ
てきた八合目以上はより強い神聖性を持つとされる。理由は八合
目の標高とほぼ一致する噴火口である「内院」の底部に浅間大神
が鎮座するとの信仰に基づく。富士山頂へ向かい、登山の歴史の
中で開鑿された登山道が、現在の4本の登山道の起源となってい
る。また、ほぼ森林限界に沿い、富士山山体を一周する「御中道
」が15〜16世紀ごろ富士講の祖とされる長谷川角行によって
開かれたとされ、その後「大沢崩れ」という危険箇所を通るため
、富士講信者により修行の道として利用された。表法的保護、修
理・整備の経緯1924年史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝
に仮指定1936年国立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指
定1952年文化財保護法の下に名勝、ついで特別名勝に指定1
969年国が大沢崩れに対する砂防事業に着手(継続中)199
6年国・県が台風による森林の風倒被害に対する対策に着手(継
続中)「御中道」は、標高2,300m付近から2,800m付
近の山腹を通り、富士山の中腹部を時計回りに一周する約25k
mの道である。「御中道巡り」は、修験道の祖とされる役行者が
始めたと伝えられ、16世紀後半、富士講の基礎を築いた長谷川
角行が行ったことが記録されている。古くは定まった道もなく巡
ったとされ、富士講が盛んになった江戸時代後期には一定の道が
整備された。富士山信仰の上では、山体西側の大沢

215 :
部会・保存管理計画について−7−2008年1月23日現地調査2008年1月
30日平成19年度第2回静岡県保存管理計画検討部会・包括的保存管理計画検討
部会の審議結果・静岡県保存管理計画について2008年2月21日平成19年度
第3回山梨県・静岡県学術委員会・各県保存管理計画検討部会の審議結果2008
年7月16日平成20年度第1回静岡県保存管理計画検討部会・包括的保存管理計
画検討部会の報告・静岡県保存管理計画について2008年9月9日平成20年度
静岡県保存管理計画検討部会第1回庁内連絡会議・富士山の世界文化遺産登録推進
の取組について・静岡県保存管理計画の策定について2009年2月12日現地調
査2009年6月1日平成21年度第1回静岡県保存管理計画策定協力者部会・富
士山の世界文化遺産登録推進の取組について・静岡県保存管理計画の策定について
2009年6月17日平成21年度第1回静岡県保存管理計画検討部会・静岡県保
存管理計画の策定について・富士山の緩衝地帯に関する考え方2009年7月13
日平成21年度静岡県保存管理計画検討部会第1回庁内連絡会議2009年10月
29日平成21年度静岡県保存管理計画検討部会第2回庁内連絡会議2009年1
1月25日平成21年度第2回静岡県保存管理計画策定協力者部会2010年1月
29日平成21年度第3回静岡県保存管理計画策定協力者部会2010年3月16
日平成21年度第3回山梨県・静岡県学術委員会・保存管理計画の考え方について
2010年6月30日平成22年度第1回静岡県保存管理計画検討部会(2)学術
委員会・保存管理計画検討部会組織学術委員会及び保存管理計画検討部会の組織は
図に示すとおりである。また、その構成は表〜のとおりである。(1)行政計画と
の関連・連携構成資産及び緩衝地帯を有する山梨県・静岡県及び関係市町村では、
まちづくり、観光、防災などに関する各種計画を策定し、実施している。これらの
計画は、包括的保存管理計画と密接に関連し、日常的に連携を図りつつ実施されて
いる。表包括的保存管理計画に関連する計画(山梨県)計画名称策定

216 :
包括的保存管理計画と密接に関連し、日常的に連携を図りつつ
実施されている。表包括的保存管理計画に関連する計画(山梨
県)計画名称策定年等F資産に影響する可能性がある個別の開
発計画大規模集客施設等の立地に関する方針(山梨県)201
0年1月ゴルフ場造成に事業に関する今後の取扱いについて(
山梨県)1993年10月−17−明神峠自然環境保全地域保
全計画昭和50年策定静岡県森林共生基本計画平成19年3月
策定富士地域森林計画書平成18年4月策定F資産に影響する
可能性がある個別の開発計画企業立地促進法に基づく静岡県東
部地域基本計画(静岡県及び14市町)平成21年2月策定市
町村森林整備計画平成18年4月策定−18−(富士宮市・富
士市・裾野市・御殿場市・小山町)(2)計画の実施今回提出
する富士山包括的保存管理計画は、20年月から既に実施され
機能されているものである。−19−第2章構成資産の概要1
構成資産の一覧世界遺産「富士山」の構成資産の種別、位置、
面積、緩衝地帯の面積、所在地については、以下の表に示すと
おりである。表構成資産の一覧大種別分類小分類構成資産世界
遺産条約文化財保護法自然公園法所在地位置資産面積(ha)
緩衝地帯面積(ha)A富士山(山体)(御中道含む)遺跡特
別名勝史跡山頂信仰遺跡(奥宮、お鉢巡り)遺跡特別名勝史跡
A2大宮・村山口登山道遺跡特別名勝史跡A3須山口登山道遺
跡特別名勝史跡A4須走口登山道遺跡特別名勝史跡A5吉田口
登山道遺跡特別名勝史跡静岡県(富士宮市、裾野市、御殿場市
、小山町)山梨県(富士吉田市、身延町、鳴沢村、富士河口湖
町)県境未確定地″A6北口本宮冨士浅間神社遺跡建造物記念
工作物特別名勝史跡重要文化財A7西湖遺跡名勝A8精進湖遺
跡名勝A9本栖湖遺跡名勝BB1富士山本宮浅間大社遺跡建造
物記念工作物重文静岡県富士宮市B14人穴富士講遺跡遺跡市
史跡静岡県富士宮市NEB15白糸ノ滝遺跡名勝・天然記念物
静岡県富士宮市NEC三保松原文化的景観遺跡静岡県静岡市N
E2資産及び緩衝地帯等の範囲「富士山」の顕著な普遍的価値
を表す構成資産の保護を確実にし、各構成資産に

217 :
いう危険を伴う最大級の大行の道とされていた。富士登山3回以
上の経験を持ち、誓約書を御師に提出し、神への伺いをたてた上
でないと許可されないほど厳しいものであった。この御中道の巡
拝を無事終えると、その証である「御許し」を御師から受けるこ
とができた。1816年の資料では年間100人以上が御中道巡
りを行っているが、1977年の転落事故で通行止めとなり、現
在では一周することはできなくなっている。写真御中道の写真A
1山頂信仰遺跡(富士山本宮奥宮)富士山山頂部の火口壁沿いに
、いくつかの神社及び宗教関連施設が所在する。富士山への信仰
登山が開始されると、修験道の影響を受け山頂部において寺院の
造営や仏像等の奉納がおこなわれるとともに、山頂部での宗教行
為が体系化されていった。登拝者は山頂周辺において「御来光」
を拝み、内院と呼称される噴火口に鎮座すると言われる神仏を拝
した。また、火口壁にいくつかあるピークを仏教の曼荼羅におけ
る仏の世界に擬して巡拝する「お鉢めぐり(八葉めぐり)」と呼
ばれる行為を行なうことが一般的であった。山頂の宗教的施設は
、12世紀中ごろ、修行僧末代により建立された大日寺(大日堂
)が最初とされ、その後、経典・懸仏・仏像等の山頂部への奉納
・埋納や内院への散銭が行われた。また、遅くとも17世紀には
、大宮・村山口山頂部に大日堂が、吉田・須走口山頂部に薬師堂
が造営された。この様子は19世紀中ごろの絵図によって確認で
きる。1874年、山頂の仏教的施設及び仏像は廃仏毀釈の影響
によって撤去され、ピークの名称も変更され、寺院は神社に改変
された。しかし、山頂部に対する信仰自体は変化することなく、
上記の行為は現代の−23−登山者の多くが行っており、これら
を通じて富士信仰の核心が現代に受け継がれている。写真奥宮の
写真表法的保護、修理・整備の経緯1924年所在地が史蹟名勝
天然紀念物保存法の下に名勝に仮指定1936年所在地が国立公
園法の下に(富士箱根)国立公園に指定1952年所在地が文化
財保護法の下に名勝、ついで特別名勝に指定2008年財団法人
静岡県埋蔵文化財調査研究所により現地調査が行われ、その成果
に基づき2010年に「史跡富士山保存管理計画」

218 :
2010年文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山と
して指定山頂の噴火口の周囲を一周し、頂上の各峰を巡る行為は
、古くから「お鉢巡り」と呼ばれ、現在も多くの人々に受け継が
れている。13世紀後半の資料には「いたゞきに八葉の嶺あり」
との記載があり、このころには山頂の峰々に信仰的意義を見出し
ていたことが伺える。16世紀前半には地元為政者

219 :
良好に保ち、富士山の景観の一体性・連続性を保証するために、緩衝地帯を含め、
広く保全管理区域を設定する。構成資産の位置及びその周辺地域である緩衝地帯、
保全管理区域の範囲については、図に示すとおりである。図「富士山」の範囲(構
成資産・緩衝地帯)富士山山体の範囲については、現在特別名勝富士山に指定され
ている区域だけでなく、その周辺部にあたる標高約1,500m付近までとした。
この範囲において、特別名勝の区域は文化財保護法で保護され、特別

220 :
ると言える。3構成資産の概要構成資産及び保存管理状況の概
要については、以下に記すとおりである。構成資産の詳細につ
いては、推薦書本文にて説明を行っている。保存管理状況等の
詳細については、構成資産毎に策定されている個別の保存管理
計画等において、それぞれ具体的内容を含めた説明を行ってい
る。なお、p18,19表のA〜Cは次のように分類し、整理
したものである。A富士山山体及び登山道B信仰に関わるもの
C富士山の眺望に関わるもの(1)富士山山体及

221 :
ルヽ也」との記述も見られ、後に盛んになるお鉢巡りの古態と思
われる習俗があったことが知られる。富士講講中の多くは、頂上
に着くと、時計回りに山頂を巡っていった。内院に賽銭を投じ、
御来光を礼拝し、途中にあるいくつかの仏像や石碑を拝みながら
、大日寺(現奥宮)の大日如来、最高峰の剣ヶ峰、釈迦割石、霊
泉とされた金明水などを巡礼した。写真お鉢めぐりの写真A2大
宮・村山口登山道富士山南西麓の浅間大社及び村山浅間神社を起
点とし、山頂大日岳に至る登山道である。12世紀前半、富士山
で修行した末代上人の開削した登山道が起源だとされ、14世紀
初め、僧の頼尊が修験者とその活動を組織化したことで、村山を
基点とする登山が行われていたことが推測できる。15世紀に入
ると村山での宿坊の存在が確認でき、同世紀前半には、地元支配
者である今川氏により発心門等の施設が寄進されたとの記録があ
る。今川氏は1552年、村山を神聖な地と定め、村山三坊には
山役銭の徴収権を与えている。この権利は19世紀後半まで継続
し、浅間大社が登山道の管理に関わることはなかった。一方、1
6世紀ごろ、浅間大社は湧玉池での水垢離を重要な儀式と位置づ
けることによって、浅間大社を経由した登拝を喧伝した。浅間大
社には16世紀前半に30余りの道者坊があったことが伝えられ
、同時期の絵図である「絹本著色富士曼荼羅図」には浅間大社・
湧玉池及び村山浅間神社を経由して登山する人々の姿が描かれて
いる。道者坊はその後統合され、19世紀前半には5坊となった
。また、1600年頃以降、地元支配者により、大宮を経て村山
口登山道を利用することが求められた。登山道中の宗教施設は、
17世紀初頭までに建設され、石室などの施設は主に17世紀後
半、興法寺から許可を受けた先達により建設されたが、1707
年の宝永噴火で登山道と共にことごとく破壊された。これらは再
建されたが、その復興は須走口より遅かった。主要な宗教施設と
しては発心門、中宮八幡堂、室大日などがあった。登拝者は興法
寺の檀所や浅間大社の道者場としていた静岡県西部地方を含む西
日本の人々が多かった。なお、1532年以降不連続であるが、
登拝者の記録が残され、その数は18世紀後半から

222 :
から標高1,500mの区域については自然公園法と森林法で保護されている。緩
衝地帯との境については林班により線引きを行い、県道などの人工物の改修工事等
への影響が軽減するよう配慮した。そして本栖湖、精進湖、西湖までを富士山の山
体として考え、範囲付けしたことは、展望地点から山頂までを連続して保護するた
めの措置である。緩衝地帯の範囲については、当初国道469号から県道72号に
かけての富士山側を計画していたが、国際専門家から飛び地の資産である、富士山
本宮浅間大社や山宮浅間神社を緩衝地帯に含めるべきだとの指摘があり、市道を境
に緩衝地帯を設定した。その際、富士山本宮浅間大社からの富士山の眺望を確保す
るため、富士山に向かって約36度の広がりで設定した。この範囲については、文
化財保護法以外の法律を適用し、自然公園法、森林法、景観法で保護されている。
保全管理区域の範囲については、三保松原から富士山を眺望する際、その阻害要因
を軽減させるために、溶岩が流出した範囲を基本として設定した。そのため、静岡
県側においては、裾野市、御殿場市、小山町に流出している溶岩流の範囲について
は、保全管理区域とはしていない。なお、保全管理区域についても、森林法と景観
法で保護されている。富士山山体の東に位置する、演習場(北富士演習場・東富士
演習場)については、従前より大規模開発が予定されていないことから、緩衝地帯
同様に資産を緩衝することが可能な区域であると言える。3構成資産の概要構成資
産及び保存管理状況の概要については、以下に記すとおりである。構成資産の詳細
については、推薦書本文にて説明を行っている。保存管理状況等の詳細については
、構成資産毎に策定されている個別の保存管理計画等において、それぞれ具体的内
容を含めた説明を行っている。なお、p18,19表のA〜Cは次のように分類し
、整理したものである。A富士山山体及び登山道B信仰に関わるものC富士山の眺
望に関わるもの(1)富士山山体及び登山道A富士山標高3776mを測る富士山
は、日本を代表し、象徴する日本最高峰の秀麗な独立火山である。そ

223 :
士山標高3776mを測る富士山は、日本を代表し、象徴する
日本最高峰の秀麗な独立火山である。その自然的な美しさと崇
高さを基盤として、日本人の自然に対する信仰のあり方や、日
本独自の芸術文化を育んだ名山でもある。富士山は山岳に対す
る信仰の在り方や芸術活動などを通じ、時代を超えて一国の文
化の諸相と極めて深い関連性を示し、生きた文化的伝統の物証
であるのみならず、人間と自然との良好で継続的な関係を示す
景観の傑出した類型として、世界的にも類例を見ない顕著な普
遍的価値を持つ山である。世界文化遺産としての富士山とは、
富士山山体の内、標高約1500m以上の範囲である。この範
囲は、富士山周辺の主要な神社や景勝地から見た可視領域が重
なり合う範囲であるとともに、各登山道における山体の神聖性
に関する境界の一つである「馬返」の標高とほぼ一致する。な
お、「馬返」とは、乗馬登山が物理的にも、宗教的観点からも
不可能になる地点を示す。景観的には山体の傾斜角の変化率が
大きくなり「平野部」と「山体」の境界として認識され、稜線
が優美な曲線を描き、絵画などの対象とされることが多い範囲
である。写真上空から見た写真に資産範囲を線で示したもの(
推薦原案と同じもの)−21−−22−標高約2500m付近
の森林限界より上方は富士講信者には「焼山」と呼ばれ、神聖
な地域あるいは死後世界である「他界」と考えられていた。ま
た、登山道ごとに標高は異なるが、1779年以降、浅間大社
の境内地とされてきた八合目以上はより強い神聖性を持つとさ
れる。理由は八合目の標高とほぼ一致する噴火口である「内院
」の底部に浅間大神が鎮座するとの信仰に基づく。富士山頂へ
向かい、登山の歴史の中で開鑿された登山道が、現在の4本の
登山道の起源となっている。また、ほぼ森林限界に沿い、富士
山山体を一周する「御中道」が15〜16世紀ごろ富士講の祖
とされる長谷川角行によって開かれたとされ、その後「大沢崩
れ」という危険箇所を通るため、富士講信者により修行の道と
して利用された。表法的保護、修理・整備の経緯1924年史
蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝に仮指定19

224 :
の道者坊の記録より、御縁年で2,000人前後、平年で数百名
程度と推測できる。1826年の記録ではその数が減少し、村山
の村落も衰退していたとの記述もあるが、1860年、初の外国
人登山となる英国公使オ−24−ールコックは大宮を経由して村
山に宿泊し、山頂をめざした。彼の記録では大鏡坊、中宮八幡堂
の存在や登山道の様子が確認できる。明治維新以降、女人登山の
解禁もあり、登山者は増加傾向を示すが、1889年、東海道線
の開通による御殿場口利用者の増加により衰退し、これへの対策
として1906年、村山を経由せず4km短縮された大宮新道(
カケスバタ口)が建設されたため、大宮から現六合目までの村山
口登山道は登山道としての機能を失い、その歴史を閉じた。現在
は、林道の建設に雨水による侵食も加わり、一部を除き登山道跡
の推定は困難な状態であり、道標、地蔵・不動明王像、建物跡な
どをある程度たどることができるのみである。写真大宮・村山口
登山道の写真A3須山口登山道富士山南東麓、須山浅間神社を起
点とし、山頂部浅間嶽(駒ケ嶽)に至る登山道である。その起源
は明確ではないが、1200年の資料には大宮・村山口、吉田口
、須山(珠山)口以外には登山道がないことが述べられている。
1486年の京都の僧による資料(廻国雑記)では、「すはま口
」の名が確認できる。登山道および山頂部銀明水は須山浅間神社
及び12軒の御師を中心とした須山村により管理されていた。た
だし、銀明水の管理を巡り、須走村と争いになった際は浅間大社
の裁定を仰いでいる。登山道には宝永噴火前の状況を描いた絵図
で須山御胎内に附属する御胎内神社等の宗教施設と山室がみられ
る。これらの施設及び登山道はその中腹より噴火した宝永噴火に
より壊滅し、御縁年の1740年に復興したが永続せず、178
0年にようやく復興した。また、1880年代の記録では御室浅
間神社、中宮浅間社、御胎内等の宗教施設と4箇所の石室がある
ことが確認できる。中宮浅間社や水呑浅間は村山修験の富士峯修
行の行場としても使用された。登拝者については詳しい研究が進
んでいないが、西日本・東日本両方からの登山者があったことが
、宿帳及び案内立札の立地から確認できる。登拝者

225 :
しさと崇高さを基盤として、日本人の自然に対する信仰のあり方や、日本独自の芸
術文化を育んだ名山でもある。富士山は山岳に対する信仰の在り方や芸術活動など
を通じ、時代を超えて一国の文化の諸相と極めて深い関連性を示し、生きた文化的
伝統の物証であるのみならず、人間と自然との良好で継続的な関係を示す景観の傑
出した類型として、世界的にも類例を見ない顕著な普遍的価値を持つ山である。世
界文化遺産としての富士山とは、富士山山体の内、標高約1500m以上の範囲で
ある。この範囲は、富士山周辺の主要な神社や景勝地から見た可視領域が重なり合
う範囲であるとともに、各登山道における山体の神聖性に関する境界の一つである
「馬返」の標高とほぼ一致する。なお、「馬返」とは、乗馬登山が物理的にも、宗
教的観点からも不可能になる地点を示す。景観的には山体の傾斜角の変化率が大き
くなり「平野部」と「山体」の境界として認識され、稜線が優美な曲線を描き、絵
画などの対象とされることが多い範囲である。写真上空から見た写真に資産範囲を
線で示したもの(推薦原案と同じもの)−21−−22−標高約2500m付近の
森林限界より上方は富士講信者には「焼山」と呼ばれ、神聖な地域あるいは死後世
界である「他界」と考えられていた。また、登山道ごとに標高は異なるが、177
9年以降、浅間大社の境内地とされてきた八合目以上はより強い神聖性を持つとさ
れる。理由は八合目の標高とほぼ一致する噴火口である「内院」の底部に浅間大神
が鎮座するとの信仰に基づく。富士山頂へ向かい、登山の歴史の中で開鑿された登
山道が、現在の4本の登山道の起源となっている。また、ほぼ森林限界に沿い、富
士山山体を一周する「御中道」が15〜16世紀ごろ富士講の祖とされる長谷川角
行によって開かれたとされ、その後「大沢崩れ」という危険箇所を通るため、富士
講信者により修行の道として利用された。表法的保護、修理・整備の経緯1924
年史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝に仮指定1936年国立公園法の下に(富
士箱根)国立公園に指定1952年文化財保護法の下に名勝、ついで

226 :
園法の下に(富士箱根)国立公園に指定1952年文化財保護
法の下に名勝、ついで特別名勝に指定1969年国が大沢崩れ
に対する砂防事業に着手(継続中)1996年国・県が台風に
よる森林の風倒被害に対する対策に着手(継続中)「御中道」
は、標高2,300m付近から2,800m付近の山腹を通り
、富士山の中腹部を時計回りに一周する約25kmの道である
。「御中道巡り」は、修験道の祖とされる役行者が始めたと伝
えられ、16世紀後半、富士講の基礎を築いた長谷川角行が行
ったことが記録されている。古くは定まった道もなく巡ったと
され、富士講が盛んになった江戸時代後期には一定の道が整備
された。富士山信仰の上では、山体西側の大沢崩れを渡るとい
う危険を伴う最大級の大行の道とされていた。富士登山3回以
上の経験を持ち、誓約書を御師に提出し、神への伺いをたてた
上でないと許可されないほど厳しいものであった。この御中道
の巡拝を無事終えると、その証である「御許し」を御師から受
けることができた。1816年の資料では年間100人以上が
御中道巡りを行っているが、1977年の転落事故で通行止め
となり、現在では一周することはできなくなっている。写真御
中道の写真A1山頂信仰遺跡(富士山本宮奥宮)富士山山頂部
の火口壁沿いに、いくつかの神社及び宗教関連施設が所在する
。富士山への信仰登山が開始されると、修験道の影響を受け山
頂部において寺院の造営や仏像等の奉納がおこなわれるととも
に、山頂部での宗教行為が体系化されていった。登拝者は山頂
周辺において「御来光」を拝み、内院と呼称される噴火口に鎮
座すると言われる神仏を拝した。また、火口壁にいくつかある
ピークを仏教の曼荼羅における仏の世界に擬して巡拝する「お
鉢めぐり(八葉めぐり)」と呼ばれる行為を行なうことが一般
的であった。山頂の宗教的施設は、12世紀中ごろ、修行僧末
代により建立された大日寺(大日堂)が最初とされ、その後、
経典・懸仏・仏像等の山頂部への奉納・埋納や内院への散銭が
行われた。また、遅くとも17世紀には、大宮・村山口山頂部
に大日堂が、吉田・須走口山頂部に薬師堂が造営

227 :
当たる1800年に約5,400人、1840年代前半は年平均
約1,700人、続く1860年の御縁年には約3,600人で
あった。登拝者は神仏分離令後も継続していたが、1883年、
須山口二合八勺に接続する御殿場口登山道が開鑿された。また、
1889年に東海道本線が開通し、御殿場口の利便性の向上によ
り須山口からの登拝者や登山者が減少することとなった。191
2年には、登山道の一部が陸軍演習場となり使用不可能となった
ため、須山口からの登拝(登山)は衰退し現在に至っている。二
合八勺以下の登山道で当時の道が確認できる部分は一部のみであ
る。また、1999年、地元住民により須山口下山歩道の名でか
つての登山道の一部が復興された。写真須山口登山道の写真A4
須走口登山道富士山東麓の冨士浅間神社を起点とし、八合目で吉
田口登山道と合流して山頂久須志岳に至る登山道である。その起
源は明確ではないが、六合目からは1384年の銘のある掛仏が
出土している。文献からは「勝山記」の1500年6月の項に、
関東地方での戦乱を避け、吉田口を利用すべき登拝者が須走口に
集中したことが確認できる。遅くとも17世紀までに、冨士浅間
神社及び須走村が登山道山頂部までを支配し、薬師嶽(現久須志
岳)における石室建設の独占、薬師堂の開帳・入仏などを行った
。また、内院および薬師堂の散銭取得権も浅間大社に次ぐ権利を
有していた。冨士浅間神社及び須走村は、1703年と1772
年の2回幕府に訴え、これらの権利について八合目以上の支配権
を主張する浅間大社と争い、正式に権利を認められた。−25−
登山道の施設は1683年の資料等で詳細が確認でき、大日堂、
御室浅間神社、古御岳神社等の宗教施設と共に、小屋・石室が山
頂部まで設置されている。1707年の宝永噴火では、これらの
施設及び麓の浅間神社、須走村は約3mの降砂に覆われ壊滅した
が、江戸幕府の支援を受け、翌年の登拝期までには復興を完了し
、多くの登拝者を集めた。18世紀半ばには800名前後に減少
したとの資料があるが、18世紀後半、相模の大山石尊や関本の
道了尊とセットにされた参詣の流行で登拝者数は増加し、年平均
約1万人、1800年の御縁年に23,700人と

228 :
た。登拝者は関東地方の富士講関係者が多く、東北地方からの登
拝者も見られる。講によっては吉田口から登山し、砂道で下山に
適した須走口へ下山する形をとった。また、1831年、須走口
山頂部に宝経塔が作られたことにより、日蓮宗の信徒による登拝
も増加した。1889年の東海道線開通による御殿場口、および
1903年の中央線開通による吉田口の利便性の向上で、距離が
長い須走口は敬遠されるが、御殿場口の下山道として利用され続
けた。1909年より登山道の周囲に石垣を築き、

229 :
設及び仏像は廃仏毀釈の影響によって撤去され、ピークの名称も変更され、寺院は
神社に改変された。しかし、山頂部に対する信仰自体は変化することなく、上記の
行為は現代の−23−登山者の多くが行っており、これらを通じて富士信仰の核心
が現代に受け継がれている。写真奥宮の写真表法的保護、修理・整備の経緯192
4年所在地が史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝に仮指定1936年所在地が国
立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指定1952年所在地が文化

230 :
1552年、村山を神聖な地と定め、村山三坊には山役銭の徴
収権を与えている。この権利は19世紀後半まで継続し、浅間
大社が登山道の管理に関わることはなかった。一方、16世紀
ごろ、浅間大社は湧玉池での水垢離を重要な儀式と位置づける
ことによって、浅間大社を経由した登拝を喧伝した。浅間大社
には16世紀前半に30余りの道者坊があったことが伝えられ
、同時期の絵図である「絹本著色富士曼荼羅図」には浅間大社
・湧玉池及び村山浅間神社を経由して登山する人

231 :
は、八合目まで馬による登山が可能になった。八合目以上は浅間
大社境内地という理由で馬の利用は行われなかった。また、19
23年に皇太子(昭和天皇)の登山に利用されている。1959
年、バス道路(現ふじあざみライン)の完成により、五合目以下
の登山道の利用は減少し、一部登山道としての確認ができない区
間がある。写真須走口登山道の写真A5吉田口登山道北口本宮冨
士浅間神社を起点とし、富士山頂を目指す道である。15世紀に
は、富士山への登拝が、修験者だけでなく、ごく一般の人々の間
にも広まっていた。吉田口は14世紀後半には参詣の道者のため
の宿坊もでき始め、大勢の人々が登るための設備が整うようにな
った。16世紀から17世紀、長谷川角行が吉田口を利用して修
行を行い、18世紀前半には富士講隆盛の礎を築いた食行身禄は
、入定(宗教的自殺)にあたって信者の登山本道をこの吉田口と
定めた。このため、富士講の信者が次第に増加した18世紀後半
以降は、年間数万人を数える富士講の道者が登拝したとされる。
1964年に富士山有料道路が開通した後は、ほとんどの登山者
が新五合目(小御岳)を起点として登るようになったため、五合
目以下の道を利用する登山者は激減したが、六合目以上について
は、現在残る登山道の中で最も多くの道者(外の登山口の合計と
同程度)が吉田口登山道を上って山頂を目指している。しかも、
古道としては唯一徒歩で麓から頂上まで登れる重要な道である。
写真吉田口登山道の写真表法的保護、修理・整備の経緯1924
年所在地が史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝に仮指定193
6年所在地が国立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指定19
52年所在地が文化財保護法の下に名勝、ついで特別名勝に指定
1978年「特別名勝富士山保存管理計画」策定(1999年、
2006年改訂)1996年歴史の道整備活用事業により馬返〜
1合目区間を発掘調査・整備1999年「特別名勝富士山保存管
理計画」を改訂2006年「特別名勝富士山保存管理計画」を改
訂2011年文化財保護法の下に他の文化財とともに登山道の一
部を史跡富士山として指定−26−2011年「史跡富士山保存
管理計画」を策定(予定)A6北口本宮冨士浅間神

232 :
に名勝、ついで特別名勝に指定2008年財団法人静岡県埋蔵文化財調査研究所に
より現地調査が行われ、その成果に基づき2010年に「史跡富士山保存管理計画
」が策定された2010年文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山とし
て指定山頂の噴火口の周囲を一周し、頂上の各峰を巡る行為は、古くから「お鉢巡
り」と呼ばれ、現在も多くの人々に受け継がれている。13世紀後半の資料には「
いたゞきに八葉の嶺あり」との記載があり、このころには山頂の峰々に信仰的意義
を見出していたことが伺える。16世紀前半には地元為政者が「八要メサルヽ也」
との記述も見られ、後に盛んになるお鉢巡りの古態と思われる習俗があったことが
知られる。富士講講中の多くは、頂上に着くと、時計回りに山頂を巡っていった。
内院に賽銭を投じ、御来光を礼拝し、途中にあるいくつかの仏像や石碑を拝みなが
ら、大日寺(現奥宮)の大日如来、最高峰の剣ヶ峰、釈迦割石、霊泉とされた金明
水などを巡礼した。写真お鉢めぐりの写真A2大宮・村山口登山道富士山南西麓の
浅間大社及び村山浅間神社を起点とし、山頂大日岳に至る登山道である。12世紀
前半、富士山で修行した末代上人の開削した登山道が起源だとされ、14世紀初め
、僧の頼尊が修験者とその活動を組織化したことで、村山を基点とする登山が行わ
れていたことが推測できる。15世紀に入ると村山での宿坊の存在が確認でき、同
世紀前半には、地元支配者である今川氏により発心門等の施設が寄進されたとの記
録がある。今川氏は1552年、村山を神聖な地と定め、村山三坊には山役銭の徴
収権を与えている。この権利は19世紀後半まで継続し、浅間大社が登山道の管理
に関わることはなかった。一方、16世紀ごろ、浅間大社は湧玉池での水垢離を重
要な儀式と位置づけることによって、浅間大社を経由した登拝を喧伝した。浅間大
社には16世紀前半に30余りの道者坊があったことが伝えられ、同時期の絵図で
ある「絹本著色富士曼荼羅図」には浅間大社・湧玉池及び村山浅間神社を経由して
登山する人々の姿が描かれている。道者坊はその後統合され、19世

233 :
れている。道者坊はその後統合され、19世紀前半には5坊と
なった。また、1600年頃以降、地元支配者により、大宮を
経て村山口登山道を利用することが求められた。登山道中の宗
教施設は、17世紀初頭までに建設され、石室などの施設は主
に17世紀後半、興法寺から許可を受けた先達により建設され
たが、1707年の宝永噴火で登山道と共にことごとく破壊さ
れた。これらは再建されたが、その復興は須走口より遅かった
。主要な宗教施設としては発心門、中宮八幡堂、室大日などが
あった。登拝者は興法寺の檀所や浅間大社の道者場としていた
静岡県西部地方を含む西日本の人々が多かった。なお、153
2年以降不連続であるが、登拝者の記録が残され、その数は1
8世紀後半から19世紀初頭の道者坊の記録より、御縁年で2
,000人前後、平年で数百名程度と推測できる。1826年
の記録ではその数が減少し、村山の村落も衰退していたとの記
述もあるが、1860年、初の外国人登山となる英国公使オ−
24−ールコックは大宮を経由して村山に宿泊し、山頂をめざ
した。彼の記録では大鏡坊、中宮八幡堂の存在や登山道の様子
が確認できる。明治維新以降、女人登山の解禁もあり、登山者
は増加傾向を示すが、1889年、東海道線の開通による御殿
場口利用者の増加により衰退し、これへの対策として1906
年、村山を経由せず4km短縮された大宮新道(カケスバタ口
)が建設されたため、大宮から現六合目までの村山口登山道は
登山道としての機能を失い、その歴史を閉じた。現在は、林道
の建設に雨水による侵食も加わり、一部を除き登山道跡の推定
は困難な状態であり、道標、地蔵・不動明王像、建物跡などを
ある程度たどることができるのみである。写真大宮・村山口登
山道の写真A3須山口登山道富士山南東麓、須山浅間神社を起
点とし、山頂部浅間嶽(駒ケ嶽)に至る登山道である。その起
源は明確ではないが、1200年の資料には大宮・村山口、吉
田口、須山(珠山)口以外には登山道がないことが述べられて
いる。1486年の京都の僧による資料(廻国雑記)では、「
すはま口」の名が確認できる。登山道および山頂

234 :
、吉田口登山道の起点に位置し、祭神として木花開花姫命、天津
彦彦火瓊瓊杵命、大山祇命を祀る神社である。富士山の遙拝所に
祀られていた浅間明神(富士山の荒ぶる神)を起源とし、148
0年には「富士山」の鳥居が建立され、16世紀半ばには浅間神
社の社殿が整っていたとされる。当神社は領主からの崇敬が厚く
、境内に現存する3つの社殿は、1561年、1594年、16
15年にそれぞれ当時の領主が寄進したものである。富士講との
つながりが強く、1730年には富士講の指導者である村上光清
の寄進によって境内の建造物群の修復工事が行われ、現在にみる
境内の景観の礎が形成された。北口本宮冨士浅間神社の支配権は
外川家、小佐野家などの吉田の御師に所属しており、神社の管理
も御師団の中から選ばれた者に委ねられていた。社殿の背後に登
山門があり、この神社を起点として富士山頂まで吉田口登山道が
伸びている。富士講や吉田御師と密接な関係を持ちながら発展し
た神社である。写真北口本宮冨士浅間神社の写真(本殿、西宮本
殿、東宮本殿)表法的保護、修理・整備の経緯1907年古社寺
保存法の下に東宮本殿が特別保護建造物の指定1952年所在地
が文化財保護法の下に名勝、ついで特別名勝に指定1952年東
宮本殿・解体修理工事を行う1953年文化財保護法の下に本殿
、西宮本殿が重要文化財の指定1962年西宮本殿・解体修理工
事を行う(〜64年)1978年「特別名勝富士山保存管理計画
」を策定1973年本殿・部分解体修理工事を行う(〜74年)
1981年東宮本殿・部分修理工事を行う(〜82年)1997
年東宮本殿・部分修理工事を行う2008年本殿・屋根の葺替え
修理工事を行う(〜09年)2010年「重要文化財北口本宮冨
士浅間神社保存活用計画」を策定2011年文化財保護法の下に
他の文化財とともに史跡富士山として指定(予定)2011年「
史跡富士山保存管理計画」を策定(予定)A7西湖富士山の火山
活動により形成された堰止湖で、富士山の北北西に位置する。富
士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが行われたが、この西
湖にも多くの富士講徒が訪れた。西湖と精進湖はかつて「?の海
(せのうみ)」と呼ばれる一つの湖だったが、日本

235 :
坊となった。また、1600年頃以降、地元支配者により、大宮を経て村山口登山
道を利用することが求められた。登山道中の宗教施設は、17世紀初頭までに建設
され、石室などの施設は主に17世紀後半、興法寺から許可を受けた先達により建
設されたが、1707年の宝永噴火で登山道と共にことごとく破壊された。これら
は再建されたが、その復興は須走口より遅かった。主要な宗教施設としては発心門
、中宮八幡堂、室大日などがあった。登拝者は興法寺の檀所や浅間大社の道者場と
していた静岡県西部地方を含む西日本の人々が多かった。なお、1532年以降不
連続であるが、登拝者の記録が残され、その数は18世紀後半から19世紀初頭の
道者坊の記録より、御縁年で2,000人前後、平年で数百名程度と推測できる。
1826年の記録ではその数が減少し、村山の村落も衰退していたとの記述もある
が、1860年、初の外国人登山となる英国公使オ−24−ールコックは大宮を経
由して村山に宿泊し、山頂をめざした。彼の記録では大鏡坊、中宮八幡堂の存在や
登山道の様子が確認できる。明治維新以降、女人登山の解禁もあり、登山者は増加
傾向を示すが、1889年、東海道線の開通による御殿場口利用者の増加により衰
退し、これへの対策として1906年、村山を経由せず4km短縮された大宮新道
(カケスバタ口)が建設されたため、大宮から現六合目までの村山口登山道は登山
道としての機能を失い、その歴史を閉じた。現在は、林道の建設に雨水による侵食
も加わり、一部を除き登山道跡の推定は困難な状態であり、道標、地蔵・不動明王
像、建物跡などをある程度たどることができるのみである。写真大宮・村山口登山
道の写真A3須山口登山道富士山南東麓、須山浅間神社を起点とし、山頂部浅間嶽
(駒ケ嶽)に至る登山道である。その起源は明確ではないが、1200年の資料に
は大宮・村山口、吉田口、須山(珠山)口以外には登山道がないことが述べられて
いる。1486年の京都の僧による資料(廻国雑記)では、「すはま口」の名が確
認できる。登山道および山頂部銀明水は須山浅間神社及び12軒の御

236 :
山浅間神社及び12軒の御師を中心とした須山村により管理さ
れていた。ただし、銀明水の管理を巡り、須走村と争いになっ
た際は浅間大社の裁定を仰いでいる。登山道には宝永噴火前の
状況を描いた絵図で須山御胎内に附属する御胎内神社等の宗教
施設と山室がみられる。これらの施設及び登山道はその中腹よ
り噴火した宝永噴火により壊滅し、御縁年の1740年に復興
したが永続せず、1780年にようやく復興した。また、18
80年代の記録では御室浅間神社、中宮浅間社、御胎内等の宗
教施設と4箇所の石室があることが確認できる。中宮浅間社や
水呑浅間は村山修験の富士峯修行の行場としても使用された。
登拝者については詳しい研究が進んでいないが、西日本・東日
本両方からの登山者があったことが、宿帳及び案内立札の立地
から確認できる。登拝者数は御縁年に当たる1800年に約5
,400人、1840年代前半は年平均約1,700人、続く
1860年の御縁年には約3,600人であった。登拝者は神
仏分離令後も継続していたが、1883年、須山口二合八勺に
接続する御殿場口登山道が開鑿された。また、1889年に東
海道本線が開通し、御殿場口の利便性の向上により須山口から
の登拝者や登山者が減少することとなった。1912年には、
登山道の一部が陸軍演習場となり使用不可能となったため、須
山口からの登拝(登山)は衰退し現在に至っている。二合八勺
以下の登山道で当時の道が確認できる部分は一部のみである。
また、1999年、地元住民により須山口下山歩道の名でかつ
ての登山道の一部が復興された。写真須山口登山道の写真A4
須走口登山道富士山東麓の冨士浅間神社を起点とし、八合目で
吉田口登山道と合流して山頂久須志岳に至る登山道である。そ
の起源は明確ではないが、六合目からは1384年の銘のある
掛仏が出土している。文献からは「勝山記」の1500年6月
の項に、関東地方での戦乱を避け、吉田口を利用すべき登拝者
が須走口に集中したことが確認できる。遅くとも17世紀まで
に、冨士浅間神社及び須走村が登山道山頂部までを支配し、薬
師嶽(現久須志岳)における石室建設の独占、薬

237 :
万葉集で?の海が詠われたほか、いくつかの文学作品ともゆかり
がある。写真西湖の写真A8精進湖富士山の火山活動により形成
された堰止湖で、富士山の北西に位置する。富士山周辺の湖を巡
って修−27−行する内八海巡りが行われたが、この精進湖にも
多くの富士講徒が訪れた。富士山北麓で最初の洋風ホテルはこの
精進湖畔に建てられ、多くの西洋人が訪れた。20世紀初頭には
、絵葉書に使われた富士山の写真はこの精進湖からのものがほと
んどだった。写真精進湖の写真A9本栖湖富士山の火山活動によ
り形成された堰止湖で、富士山の北西に位置する。富士山周辺の
湖を巡って修行する内八海巡りが行われたが、この精進湖にも多
くの富士講徒が訪れた。本栖湖は、日本の紙幣の図柄として何度
も使用された写真の撮影地点であり、重要な展望地点(view
point)である。富士山は、プロ・アマを問わず多くの写真
家に愛され、撮影されてきた。なかでも、生涯にわたり富士山を
追い続けた岡田紅陽によって、1935年に本栖湖北西岸の峠道
から撮影された「湖畔の春」という写真は有名である。この写真
は、1984年に採用された5千円札及び2004年に採用され
た千円札の図柄として使用された。山体の裾野が湖まで広がり一
体の景観を構成している本栖湖からの展望は、「湖畔の春」に撮
影された富士山とほぼ同じ姿のまま現在も残している。写真本栖
湖の写真表法的保護、修理・整備の経緯(A7・A8・A9)1
936年所在地が国立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指定
1988年「山梨県富士五湖の静穏の保全に関する条例」を制定
2006年自然公園法の下に本栖湖の湖面全域での動力船の使用
が規制される2011年文化財保護法の下に名勝に指定(予定)
2011年「名勝富士五湖保存管理計画」を策定(予定)(2)
信仰B1富士山本宮浅間大社富士山の南西麓に位置する神社であ
り、この神社とともに発展してきた富士宮市の中央部に所在する
。富士山の神とされる木花之佐久夜毘売命を主祭神とし、現在全
国に約1300社ある浅間神社の総本宮とされている。境内には
登拝の際に水垢離場として使用された湧玉池がある。浅間大社は
7世紀ごろ、富士山により近い遥拝所であった山宮

238 :
現在の地に移転されたとされる。創建当時は富士山の噴火が盛ん
であり、これを畏れ鎮めることを信仰の目的としていた。朝廷も
浅間大神に他の山よりも高い神階を与えることで崇敬の念を示し
た。12世紀後半ごろには、浅間大神は本地垂迹説の影響を受け
大日如来の垂迹である「浅間大菩薩」と見なされるようになり、
12世紀頃より政治の実権を掌握した武士階級に戦

239 :
た、内院および薬師堂の散銭取得権も浅間大社に次ぐ権利を有していた。冨士浅間
神社及び須走村は、1703年と1772年の2回幕府に訴え、これらの権利につ
いて八合目以上の支配権を主張する浅間大社と争い、正式に権利を認められた。−
25−登山道の施設は1683年の資料等で詳細が確認でき、大日堂、御室浅間神
社、古御岳神社等の宗教施設と共に、小屋・石室が山頂部まで設置されている。1
707年の宝永噴火では、これらの施設及び麓の浅間神社、須走村は

240 :
めの設備が整うようになった。16世紀から17世紀、長谷川
角行が吉田口を利用して修行を行い、18世紀前半には富士講
隆盛の礎を築いた食行身禄は、入定(宗教的自殺)にあたって
信者の登山本道をこの吉田口と定めた。このため、富士講の信
者が次第に増加した18世紀後半以降は、年間数万人を数える
富士講の道者が登拝したとされる。1964年に富士山有料道
路が開通した後は、ほとんどの登山者が新五合目(小御岳)を
起点として登るようになったため、五合目以下の

241 :
信仰された。15世紀ごろ、登拝が盛んになるにつれて、浅間大
社は村山浅間神社とともに大宮・村山口登山道の起点となり、宿
坊が周辺に建設された。16世紀ごろ、浅間大社は湧玉池での水
垢離を重要な儀式と位置づけることによって、浅間大社を経由し
た登拝を喧伝した。同時期の絵図である絹本著色富士曼荼羅図に
は、浅間大社・湧玉池及び村山浅間神社を経由して登山する人々
の姿が描かれている。登拝の拡大に伴い、富士山中での諸権利が
構築されていく中で、浅間大社は徳川家康の庇護の下、1604
年現在の社殿が造営されるとともに、1609年山頂部の散銭取
得における優先権を得た。これを基に浅間大社は山頂部の管理・
支配を行うようになった。ただし、大宮・村山口登山道と頂上部
の大日堂周辺は−28−村山浅間神社が支配し、廃仏毀釈以降、
村山浅間神社の衰退と1906年の村山浅間神社を経由しない登
山道の開削などにより、浅間大社には多くの参拝者が訪れた。ま
た、明治政府の政策により、一時国有地とされていた八合目以上
の土地は1974年の最高裁判決に基づき、2004年浅間大社
に譲渡(返還)された。写真本殿・拝殿+富士山表法的保護、修
理・整備の経緯1907年本殿が古社寺保存法の下に特別保護建
造物に指定1925年本殿・拝殿・楼門等の補修1929年本殿
は国宝保存法制定に伴い国宝に名称変更1934年楼門の修理1
936年袖廊・廻廊を附した1950年本殿は文化財保護法制定
に伴い重要文化財に名称変更1952年本殿の屋根の修理等が行
われた1970年本殿の屋根の修理等が行われた1988年本殿
の屋根の修理等が行われた1996年富士宮市教育委員会が調査
を行った2002年富士宮市教育委員会が調査を行った2005
年本殿の屋根の修理等が行われた2008年財団法人静岡県埋蔵
文化財調査研究所により境内の発掘調査が行われ、その成果に基
づき2010年に「史跡富士山保存管理計画」を策定2010年
文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定湧
玉池は富士山本宮浅間神社境内に所在する面積約2,500uの
池である。池は約1万年前に噴出した万野溶岩流の末端から湧き
出す一日平均14万?(2008年)の水を源とし

242 :
に覆われ壊滅したが、江戸幕府の支援を受け、翌年の登拝期までには復興を完了し
、多くの登拝者を集めた。18世紀半ばには800名前後に減少したとの資料があ
るが、18世紀後半、相模の大山石尊や関本の道了尊とセットにされた参詣の流行
で登拝者数は増加し、年平均約1万人、1800年の御縁年に23,700人とピ
ークを迎えた。登拝者は関東地方の富士講関係者が多く、東北地方からの登拝者も
見られる。講によっては吉田口から登山し、砂道で下山に適した須走口へ下山する
形をとった。また、1831年、須走口山頂部に宝経塔が作られたことにより、日
蓮宗の信徒による登拝も増加した。1889年の東海道線開通による御殿場口、お
よび1903年の中央線開通による吉田口の利便性の向上で、距離が長い須走口は
敬遠されるが、御殿場口の下山道として利用され続けた。1909年より登山道の
周囲に石垣を築き、1916年には、八合目まで馬による登山が可能になった。八
合目以上は浅間大社境内地という理由で馬の利用は行われなかった。また、192
3年に皇太子(昭和天皇)の登山に利用されている。1959年、バス道路(現ふ
じあざみライン)の完成により、五合目以下の登山道の利用は減少し、一部登山道
としての確認ができない区間がある。写真須走口登山道の写真A5吉田口登山道北
口本宮冨士浅間神社を起点とし、富士山頂を目指す道である。15世紀には、富士
山への登拝が、修験者だけでなく、ごく一般の人々の間にも広まっていた。吉田口
は14世紀後半には参詣の道者のための宿坊もでき始め、大勢の人々が登るための
設備が整うようになった。16世紀から17世紀、長谷川角行が吉田口を利用して
修行を行い、18世紀前半には富士講隆盛の礎を築いた食行身禄は、入定(宗教的
自殺)にあたって信者の登山本道をこの吉田口と定めた。このため、富士講の信者
が次第に増加した18世紀後半以降は、年間数万人を数える富士講の道者が登拝し
たとされる。1964年に富士山有料道路が開通した後は、ほとんどの登山者が新
五合目(小御岳)を起点として登るようになったため、五合目以下の

243 :
登山者は激減したが、六合目以上については、現在残る登山道
の中で最も多くの道者(外の登山口の合計と同程度)が吉田口
登山道を上って山頂を目指している。しかも、古道としては唯
一徒歩で麓から頂上まで登れる重要な道である。写真吉田口登
山道の写真表法的保護、修理・整備の経緯1924年所在地が
史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝に仮指定1936年所在
地が国立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指定1952年
所在地が文化財保護法の下に名勝、ついで特別名勝に指定19
78年「特別名勝富士山保存管理計画」策定(1999年、2
006年改訂)1996年歴史の道整備活用事業により馬返〜
1合目区間を発掘調査・整備1999年「特別名勝富士山保存
管理計画」を改訂2006年「特別名勝富士山保存管理計画」
を改訂2011年文化財保護法の下に他の文化財とともに登山
道の一部を史跡富士山として指定−26−2011年「史跡富
士山保存管理計画」を策定(予定)A6北口本宮冨士浅間神社
富士山北麓、吉田口登山道の起点に位置し、祭神として木花開
花姫命、天津彦彦火瓊瓊杵命、大山祇命を祀る神社である。富
士山の遙拝所に祀られていた浅間明神(富士山の荒ぶる神)を
起源とし、1480年には「富士山」の鳥居が建立され、16
世紀半ばには浅間神社の社殿が整っていたとされる。当神社は
領主からの崇敬が厚く、境内に現存する3つの社殿は、156
1年、1594年、1615年にそれぞれ当時の領主が寄進し
たものである。富士講とのつながりが強く、1730年には富
士講の指導者である村上光清の寄進によって境内の建造物群の
修復工事が行われ、現在にみる境内の景観の礎が形成された。
北口本宮冨士浅間神社の支配権は外川家、小佐野家などの吉田
の御師に所属しており、神社の管理も御師団の中から選ばれた
者に委ねられていた。社殿の背後に登山門があり、この神社を
起点として富士山頂まで吉田口登山道が伸びている。富士講や
吉田御師と密接な関係を持ちながら発展した神社である。写真
北口本宮冨士浅間神社の写真(本殿、西宮本殿、東宮本殿)表
法的保護、修理・整備の経緯1907年古社寺保

244 :
のメカニズムは、富士山の標高1000m前後ないしそれ以上の
高所の降水が地下にしみ込み、何層もある溶岩層の間にはさまれ
て充満し、それが押し出されるようにして末端から湧出したもの
である。浅間大社の位置は、富士山の噴火を湧水によって鎮める
考えや、富士山を聖なる水源の山として崇める考え方から、豊富
な湧水量を持つ湧玉池のほとりに置かれたとされる。この湧水に
は灌漑用水としての役割もあり、浅間大社境内の神田の宮では水
徳の神・農業神としての浅間大神に感謝する祭礼が行われている
。池の名前の由来には、地底から玉が湧き出るように湧水してい
るためという説や湧く霊たま(神霊)との説等があり、わく玉の
名は10世紀後半の地元支配者による和歌に見られ、湧玉池の名
称は1670年作成の「社頭古絵図」に見られる。湧玉池は浅間
大社に参拝し、富士山をめざす登拝者が身を清める場として使用
された。その様子は「絹本著色富士曼荼羅図」や「富士浅間曼荼
羅図」、17世紀初頭の登山記で確認できる。この絵図では現在
の形状に近い湧玉池が描かれ、水垢離する人々やそのための施設
が見られる。登拝者の水垢離は1920〜30年代まで行われ、
現在では山開きの恒例行事に形を変えて継承されている。また、
湧水は聖なる水として現在でも利用する人が多い。湧玉池および
周辺には様々な宗教に係わる施設があるが、特に池の南端にある
「神幸橋」は、御神幸道の基点であり、現在でも1691年に作
られた石碑がたもとに残されている。−29−写真沸玉池の写真
B2山宮浅間神社浅間大社の北北東約5kmに位置し、木花之佐
久夜毘売命を主祭神とする神社である。その起源は「富士本宮社
記」によれば、山足の地に祀られていた浅間大神を、神話上の英
雄である日本武尊が大神の神威により難を逃れた謝礼に山宮に祀
ったこととされ、これが802年に再び遷され浅間大社となった
とする。具体的な創建年代は不詳だが、文献上での初見は155
1年である。神社は神事の際に使用する籠屋以外の建物施設を持
たず、拝殿・本殿等が位置すべき場所には石列でいくつかに区分
された遥拝所が設置されるのみという特異な形態を示している。
この形態は古代からの富士山祭祀の形を止めている

245 :
登山者は激減したが、六合目以上については、現在残る登山道の中で最も多くの道
者(外の登山口の合計と同程度)が吉田口登山道を上って山頂を目指している。し
かも、古道としては唯一徒歩で麓から頂上まで登れる重要な道である。写真吉田口
登山道の写真表法的保護、修理・整備の経緯1924年所在地が史蹟名勝天然紀念
物保存法の下に名勝に仮指定1936年所在地が国立公園法の下に(富士箱根)国
立公園に指定1952年所在地が文化財保護法の下に名勝、ついで特別名勝に指定
1978年「特別名勝富士山保存管理計画」策定(1999年、2006年改訂)
1996年歴史の道整備活用事業により馬返〜1合目区間を発掘調査・整備199
9年「特別名勝富士山保存管理計画」を改訂2006年「特別名勝富士山保存管理
計画」を改訂2011年文化財保護法の下に他の文化財とともに登山道の一部を史
跡富士山として指定−26−2011年「史跡富士山保存管理計画」を策定(予定
)A6北口本宮冨士浅間神社富士山北麓、吉田口登山道の起点に位置し、祭神とし
て木花開花姫命、天津彦彦火瓊瓊杵命、大山祇命を祀る神社である。富士山の遙拝
所に祀られていた浅間明神(富士山の荒ぶる神)を起源とし、1480年には「富
士山」の鳥居が建立され、16世紀半ばには浅間神社の社殿が整っていたとされる
。当神社は領主からの崇敬が厚く、境内に現存する3つの社殿は、1561年、1
594年、1615年にそれぞれ当時の領主が寄進したものである。富士講とのつ
ながりが強く、1730年には富士講の指導者である村上光清の寄進によって境内
の建造物群の修復工事が行われ、現在にみる境内の景観の礎が形成された。北口本
宮冨士浅間神社の支配権は外川家、小佐野家などの吉田の御師に所属しており、神
社の管理も御師団の中から選ばれた者に委ねられていた。社殿の背後に登山門があ
り、この神社を起点として富士山頂まで吉田口登山道が伸びている。富士講や吉田
御師と密接な関係を持ちながら発展した神社である。写真北口本宮冨士浅間神社の
写真(本殿、西宮本殿、東宮本殿)表法的保護、修理・整備の経緯1

246 :
宮本殿が特別保護建造物の指定1952年所在地が文化財保護
法の下に名勝、ついで特別名勝に指定1952年東宮本殿・解
体修理工事を行う1953年文化財保護法の下に本殿、西宮本
殿が重要文化財の指定1962年西宮本殿・解体修理工事を行
う(〜64年)1978年「特別名勝富士山保存管理計画」を
策定1973年本殿・部分解体修理工事を行う(〜74年)1
981年東宮本殿・部分修理工事を行う(〜82年)1997
年東宮本殿・部分修理工事を行う2008年本殿・屋根の葺替
え修理工事を行う(〜09年)2010年「重要文化財北口本
宮冨士浅間神社保存活用計画」を策定2011年文化財保護法
の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定(予定)20
11年「史跡富士山保存管理計画」を策定(予定)A7西湖富
士山の火山活動により形成された堰止湖で、富士山の北北西に
位置する。富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが行わ
れたが、この西湖にも多くの富士講徒が訪れた。西湖と精進湖
はかつて「?の海(せのうみ)」と呼ばれる一つの湖だったが
、日本最古の歌集・万葉集で?の海が詠われたほか、いくつか
の文学作品ともゆかりがある。写真西湖の写真A8精進湖富士
山の火山活動により形成された堰止湖で、富士山の北西に位置
する。富士山周辺の湖を巡って修−27−行する内八海巡りが
行われたが、この精進湖にも多くの富士講徒が訪れた。富士山
北麓で最初の洋風ホテルはこの精進湖畔に建てられ、多くの西
洋人が訪れた。20世紀初頭には、絵葉書に使われた富士山の
写真はこの精進湖からのものがほとんどだった。写真精進湖の
写真A9本栖湖富士山の火山活動により形成された堰止湖で、
富士山の北西に位置する。富士山周辺の湖を巡って修行する内
八海巡りが行われたが、この精進湖にも多くの富士講徒が訪れ
た。本栖湖は、日本の紙幣の図柄として何度も使用された写真
の撮影地点であり、重要な展望地点(viewpoint)で
ある。富士山は、プロ・アマを問わず多くの写真家に愛され、
撮影されてきた。なかでも、生涯にわたり富士山を追い続けた
岡田紅陽によって、1935年に本栖湖北西岸の

247 :
おり、遥拝所の主軸は富士山方向を向いている。発掘調査では1
2〜15世紀にかけての神事に使用されたと推定される破砕され
た土器が遥拝所北側から多数出土し、当神社での宗教活動を裏付
けている。また、遅くとも1577年までには浅間大社との間で
「山宮御神幸」といわれる儀式が開始された。これは4月と11
月に神の宿った鉾を持ち、浅間大社から山宮浅間神社へ行き、神
事を行った後、翌日未明に浅間大社へ戻る行事である。行事の意
味として、現時点では神が4月に旧跡に戻るという解釈と、山に
いる神が4月に田の神として里へ降りるという解釈がある。この
行事は1874年まで行われていた。なお、「山宮御神幸」に使
用される経路を御神幸道と称し、浅間大社湧玉池横より発し、約
600m東へ向かった後、ほぼ直角に曲がり直線状に北上して山
宮浅間神社に至る。道の出発点及び途中には1691年に置かれ
た距離を示す石碑が少なくとも四箇所残っている。写真山宮浅間
神社の写真B3村山浅間神社山宮浅間神社の南東約4km、富士
山南麓に張り出した標高約500mのバルコニー状地形に位置し
、木花開花姫命を主祭神とする神社である。神社と一体化した範
囲には、現在別の宗教法人となった大日堂・水垢離場・護摩壇な
どが存在している。これらは1868年の神仏分離令までは一体
のものであり、富士山興法寺(村山興法寺)と呼ばれていた。な
お、周辺には興法寺の維持・運営にあたっていた道者坊の村山三
坊(池西坊・大鏡坊・辻之坊の三箇所)の跡が発掘調査によって
確認されている。その起源は、1149年の記録に見える修行僧
末代上人による富士山頂への大日寺の建立にあるとされる。末代
上人が富士山中又は村山の地に興法寺を建立したとの記録も残さ
れている。これらの記録等から、12世紀中ごろに村山周辺にお
いて修験道または密教系の宗教活動が行われていたと推測できる
。1259年には、現存する大日如来が寄進されたことを仏像の
銘で確認できる。末代以後、その流れを汲み富士山で修行する人
々が現れ、村山が富士山修験道(富士行)の拠点となったと考え
られる。14世紀初めには僧の頼尊が修験者とその活動を組織化
し、興法寺を再興したとされる。15世紀に入ると

248 :
を支える宿坊の存在が現存する大日如来の銘(1478)で確認
できる。1482年には修験道本山派の本寺である聖護院と関係
を持ち、その権威を高めた。16世紀中には十数軒あった道者坊
が村山三坊に統合され、その活動を資料で確認できる。坊に所属
する山伏は夏に「富士峯修行」を山中及び山頂で行った。また、
富士山への一般の登拝者も増加し、夜間に白装束をまとい、仏が
いるとされた山頂を目指す多くの人々の様子が「絹本著色富士曼
荼羅図」に描かれている。村山の山伏は、富士峰修

249 :
5年に本栖湖北西岸の峠道から撮影された「湖畔の春」という写真は有名である。
この写真は、1984年に採用された5千円札及び2004年に採用された千円札
の図柄として使用された。山体の裾野が湖まで広がり一体の景観を構成している本
栖湖からの展望は、「湖畔の春」に撮影された富士山とほぼ同じ姿のまま現在も残
している。写真本栖湖の写真表法的保護、修理・整備の経緯(A7・A8・A9)
1936年所在地が国立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指定1

250 :
現在の社殿が造営されるとともに、1609年山頂部の散銭取
得における優先権を得た。これを基に浅間大社は山頂部の管理
・支配を行うようになった。ただし、大宮・村山口登山道と頂
上部の大日堂周辺は−28−村山浅間神社が支配し、廃仏毀釈
以降、村山浅間神社の衰退と1906年の村山浅間神社を経由
しない登山道の開削などにより、浅間大社には多くの参拝者が
訪れた。また、明治政府の政策により、一時国有地とされてい
た八合目以上の土地は1974年の最高裁判決に

251 :
、南麓の村を年一回巡回し加持祈祷等を行った。また18世紀、
富士講の隆盛に対抗し西日本の一般登拝者中の有力者に対して「
先達」の免許を発行し組織化を図ると−30−ともに、登拝が困
難な人々に対しては川辺で垢離を取り、祈ることで登拝と同等の
利益があるとする「富士垢離」の手法を広めている。加えて富士
山を航海の目印とする伊豆半島の漁業者に対しては航海安全と大
漁の祈願を行った。興法寺の勢力は地元支配者である今川氏の支
援を受けていた16世紀前半が最も強かったが、それ以降衰退し
つつも聖護院の力を背景に一定の権威をもち、登山道及びその頂
上部の大日堂周辺を支配した。社殿については、1697年徳川
幕府により修復され、現在の大日堂は建築様式や部材の状況から
19世紀半ばに建立されたと推定される。また、浅間神社は19
13年改築されたものを基本としている。1868年、神仏分離
令により浅間神社と興法寺(大日堂)は分離され、山伏は還俗し
、1906年の登山道の変化にも伴い両者とも衰微した。ただし
、富士峰修行と加持祈祷は1940年代まで継続された。現在は
1970年代より活発になった地域住民による伝統復活のための
活動が見られ、水垢離等の行事が行われている。また、村山浅間
神社の影響を受けた地域のうち、滋賀県甲賀市、三重県南伊勢町
等では現在でも富士垢離の行事が継続されている。写真村山浅間
神社の写真B−4須山浅間神社富士山の南東麓、須山口登山道の
入り口に位置し、木花開花姫命を主祭神とする神社である。その
起源は1598年作の社伝旧記によると110年、日本武尊が蝦
夷征伐の際、この地を訪れ浅間神社を創起し、さらに552年有
力豪族の蘇我稲目が再興したとある。記録上神社の存在が確認で
きるのは1524年で修築時の棟札による。また、市天然記念物
である境内の杉は、樹齢500年以上と推定されており、遅くと
もこの時期までに須山浅間神社が現在の地に存在したと推測でき
る。現在の社殿は1823年の再建である。1707年の宝永噴
火により登山道も含め大きな被害を受けたが、1780年に登山
道が再興され、1800年の御縁年には約5,400人の登拝者
があった。須山浅間神社は12軒の御師とともに当

252 :
梨県富士五湖の静穏の保全に関する条例」を制定2006年自然公園法の下に本栖
湖の湖面全域での動力船の使用が規制される2011年文化財保護法の下に名勝に
指定(予定)2011年「名勝富士五湖保存管理計画」を策定(予定)(2)信仰
B1富士山本宮浅間大社富士山の南西麓に位置する神社であり、この神社とともに
発展してきた富士宮市の中央部に所在する。富士山の神とされる木花之佐久夜毘売
命を主祭神とし、現在全国に約1300社ある浅間神社の総本宮とされている。境
内には登拝の際に水垢離場として使用された湧玉池がある。浅間大社は7世紀ごろ
、富士山により近い遥拝所であった山宮浅間神社から現在の地に移転されたとされ
る。創建当時は富士山の噴火が盛んであり、これを畏れ鎮めることを信仰の目的と
していた。朝廷も浅間大神に他の山よりも高い神階を与えることで崇敬の念を示し
た。12世紀後半ごろには、浅間大神は本地垂迹説の影響を受け大日如来の垂迹で
ある「浅間大菩薩」と見なされるようになり、12世紀頃より政治の実権を掌握し
た武士階級に戦勝の神として信仰された。15世紀ごろ、登拝が盛んになるにつれ
て、浅間大社は村山浅間神社とともに大宮・村山口登山道の起点となり、宿坊が周
辺に建設された。16世紀ごろ、浅間大社は湧玉池での水垢離を重要な儀式と位置
づけることによって、浅間大社を経由した登拝を喧伝した。同時期の絵図である絹
本著色富士曼荼羅図には、浅間大社・湧玉池及び村山浅間神社を経由して登山する
人々の姿が描かれている。登拝の拡大に伴い、富士山中での諸権利が構築されてい
く中で、浅間大社は徳川家康の庇護の下、1604年現在の社殿が造営されるとと
もに、1609年山頂部の散銭取得における優先権を得た。これを基に浅間大社は
山頂部の管理・支配を行うようになった。ただし、大宮・村山口登山道と頂上部の
大日堂周辺は−28−村山浅間神社が支配し、廃仏毀釈以降、村山浅間神社の衰退
と1906年の村山浅間神社を経由しない登山道の開削などにより、浅間大社には
多くの参拝者が訪れた。また、明治政府の政策により、一時国有地と

253 :
04年浅間大社に譲渡(返還)された。写真本殿・拝殿+富士
山表法的保護、修理・整備の経緯1907年本殿が古社寺保存
法の下に特別保護建造物に指定1925年本殿・拝殿・楼門等
の補修1929年本殿は国宝保存法制定に伴い国宝に名称変更
1934年楼門の修理1936年袖廊・廻廊を附した1950
年本殿は文化財保護法制定に伴い重要文化財に名称変更195
2年本殿の屋根の修理等が行われた1970年本殿の屋根の修
理等が行われた1988年本殿の屋根の修理等が行われた19
96年富士宮市教育委員会が調査を行った2002年富士宮市
教育委員会が調査を行った2005年本殿の屋根の修理等が行
われた2008年財団法人静岡県埋蔵文化財調査研究所により
境内の発掘調査が行われ、その成果に基づき2010年に「史
跡富士山保存管理計画」を策定2010年文化財保護法の下に
他の文化財とともに史跡富士山として指定湧玉池は富士山本宮
浅間神社境内に所在する面積約2,500uの池である。池は
約1万年前に噴出した万野溶岩流の末端から湧き出す一日平均
14万?(2008年)の水を源としている。湧水のメカニズ
ムは、富士山の標高1000m前後ないしそれ以上の高所の降
水が地下にしみ込み、何層もある溶岩層の間にはさまれて充満
し、それが押し出されるようにして末端から湧出したものであ
る。浅間大社の位置は、富士山の噴火を湧水によって鎮める考
えや、富士山を聖なる水源の山として崇める考え方から、豊富
な湧水量を持つ湧玉池のほとりに置かれたとされる。この湧水
には灌漑用水としての役割もあり、浅間大社境内の神田の宮で
は水徳の神・農業神としての浅間大神に感謝する祭礼が行われ
ている。池の名前の由来には、地底から玉が湧き出るように湧
水しているためという説や湧く霊たま(神霊)との説等があり
、わく玉の名は10世紀後半の地元支配者による和歌に見られ
、湧玉池の名称は1670年作成の「社頭古絵図」に見られる
。湧玉池は浅間大社に参拝し、富士山をめざす登拝者が身を清
める場として使用された。その様子は「絹本著色富士曼荼羅図
」や「富士浅間曼荼羅図」、17世紀初頭の登山

254 :
中心的存在であり、村全体で須山口登山道と山頂部銀明水を管理
した。また、京都吉田家より神道裁許状を得たり、朝廷・公家に
銀明水を献上したりする等して権威を高めているが、山頂部で発
生した問題については、浅間大社の判断を仰いでいる。須山浅間
神社は村山三坊とも関わりを持ち、1940年頃まで境内で富士
峯修行の一環としての祈祷が行われていた。1883年、御殿場
口登山道が開設され、1899年の東海道本線開通による御殿場
口利便性の向上は須山口からの登拝者や登山者を奪い、加えて1
912年登山道の一部が陸軍演習場となり使用不可能となったた
め、須山口は衰退した。しかし、その後都市化の影響を余り受け
なかったため、須山浅間神社周辺は日本的伝統に基づく村落景観
を保っている部分が多い。写真須山浅間神社の写真B5冨士浅間
神社富士山東麓、須走口登山道の起点に位置し、木花開花姫命を
主祭神とする神社である。境内西側には鎌倉往還が通り、神社周
辺は古来、交通の要衝であった。社伝では802年、噴火の鎮火
祈願のために祭事を行い、翌年噴火が収まったことから、807
年に祭事の跡地であるとされる現在の地にお礼のために社殿を造
営したとされる。その他の文書で確実に存在が確認できるのは、
1571年のものである。16世紀には地元支配者である武田氏
の保護を受け、山頂部の散銭取得権の一部を得ている。17世紀
以降、須走浅間神社は当時の須走村の御師などと共に須走口登山
道を支配し、山頂部薬師嶽(現−31−久須志岳)の薬師堂開帳
の権利及び山頂部の散銭取得権の一部を得ていた。これら山頂部
の権利については八合目以上の支配権を主張する富士山本宮浅間
大社と争いになり、須走村は1703年と1772年の2回、幕
府に裁定を求めている。この結果、これらの権利は幕府によって
認められた。また、冨士浅間神社神主や御師は須山の場合と同じ
く、京都吉田家より神道裁許状を得て権威を高めている。社殿は
、記録の残っている範囲では1662年、地元領主である沼津城
主大久保氏や小田原藩主稲葉氏などの援助によって修造が行われ
た。しかし1707年の宝永噴火では3m以上の降砂に埋もれ崩
壊したため、1718年に再建された。この後もこ

255 :
合目以上の土地は1974年の最高裁判決に基づき、2004年浅間大社に譲渡(
返還)された。写真本殿・拝殿+富士山表法的保護、修理・整備の経緯1907年
本殿が古社寺保存法の下に特別保護建造物に指定1925年本殿・拝殿・楼門等の
補修1929年本殿は国宝保存法制定に伴い国宝に名称変更1934年楼門の修理
1936年袖廊・廻廊を附した1950年本殿は文化財保護法制定に伴い重要文化
財に名称変更1952年本殿の屋根の修理等が行われた1970年本殿の屋根の修
理等が行われた1988年本殿の屋根の修理等が行われた1996年富士宮市教育
委員会が調査を行った2002年富士宮市教育委員会が調査を行った2005年本
殿の屋根の修理等が行われた2008年財団法人静岡県埋蔵文化財調査研究所によ
り境内の発掘調査が行われ、その成果に基づき2010年に「史跡富士山保存管理
計画」を策定2010年文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として
指定湧玉池は富士山本宮浅間神社境内に所在する面積約2,500uの池である。
池は約1万年前に噴出した万野溶岩流の末端から湧き出す一日平均14万?(20
08年)の水を源としている。湧水のメカニズムは、富士山の標高1000m前後
ないしそれ以上の高所の降水が地下にしみ込み、何層もある溶岩層の間にはさまれ
て充満し、それが押し出されるようにして末端から湧出したものである。浅間大社
の位置は、富士山の噴火を湧水によって鎮める考えや、富士山を聖なる水源の山と
して崇める考え方から、豊富な湧水量を持つ湧玉池のほとりに置かれたとされる。
この湧水には灌漑用水としての役割もあり、浅間大社境内の神田の宮では水徳の神
・農業神としての浅間大神に感謝する祭礼が行われている。池の名前の由来には、
地底から玉が湧き出るように湧水しているためという説や湧く霊たま(神霊)との
説等があり、わく玉の名は10世紀後半の地元支配者による和歌に見られ、湧玉池
の名称は1670年作成の「社頭古絵図」に見られる。湧玉池は浅間大社に参拝し
、富士山をめざす登拝者が身を清める場として使用された。その様子

256 :
る。この絵図では現在の形状に近い湧玉池が描かれ、水垢離す
る人々やそのための施設が見られる。登拝者の水垢離は192
0〜30年代まで行われ、現在では山開きの恒例行事に形を変
えて継承されている。また、湧水は聖なる水として現在でも利
用する人が多い。湧玉池および周辺には様々な宗教に係わる施
設があるが、特に池の南端にある「神幸橋」は、御神幸道の基
点であり、現在でも1691年に作られた石碑がたもとに残さ
れている。−29−写真沸玉池の写真B2山宮浅間神社浅間大
社の北北東約5kmに位置し、木花之佐久夜毘売命を主祭神と
する神社である。その起源は「富士本宮社記」によれば、山足
の地に祀られていた浅間大神を、神話上の英雄である日本武尊
が大神の神威により難を逃れた謝礼に山宮に祀ったこととされ
、これが802年に再び遷され浅間大社となったとする。具体
的な創建年代は不詳だが、文献上での初見は1551年である
。神社は神事の際に使用する籠屋以外の建物施設を持たず、拝
殿・本殿等が位置すべき場所には石列でいくつかに区分された
遥拝所が設置されるのみという特異な形態を示している。この
形態は古代からの富士山祭祀の形を止めていると推定されてお
り、遥拝所の主軸は富士山方向を向いている。発掘調査では1
2〜15世紀にかけての神事に使用されたと推定される破砕さ
れた土器が遥拝所北側から多数出土し、当神社での宗教活動を
裏付けている。また、遅くとも1577年までには浅間大社と
の間で「山宮御神幸」といわれる儀式が開始された。これは4
月と11月に神の宿った鉾を持ち、浅間大社から山宮浅間神社
へ行き、神事を行った後、翌日未明に浅間大社へ戻る行事であ
る。行事の意味として、現時点では神が4月に旧跡に戻るとい
う解釈と、山にいる神が4月に田の神として里へ降りるという
解釈がある。この行事は1874年まで行われていた。なお、
「山宮御神幸」に使用される経路を御神幸道と称し、浅間大社
湧玉池横より発し、約600m東へ向かった後、ほぼ直角に曲
がり直線状に北上して山宮浅間神社に至る。道の出発点及び途
中には1691年に置かれた距離を示す石碑が少

257 :
富士曼荼羅図」や「富士浅間曼荼羅図」、17世紀初頭の登山記で確認できる。こ
の絵図では現在の形状に近い湧玉池が描かれ、水垢離する人々やそのための施設が
見られる。登拝者の水垢離は1920〜30年代まで行われ、現在では山開きの恒
例行事に形を変えて継承されている。また、湧水は聖なる水として現在でも利用す
る人が多い。湧玉池および周辺には様々な宗教に係わる施設があるが、特に池の南
端にある「神幸橋」は、御神幸道の基点であり、現在でも1691年に作られた石
碑がたもとに残されている。−29−写真沸玉池の写真B2山宮浅間神社浅間大社
の北北東約5kmに位置し、木花之佐久夜毘売命を主祭神とする神社である。その
起源は「富士本宮社記」によれば、山足の地に祀られていた浅間大神を、神話上の
英雄である日本武尊が大神の神威により難を逃れた謝礼に山宮に祀ったこととされ
、これが802年に再び遷され浅間大社となったとする。具体的な創建年代は不詳
だが、文献上での初見は1551年である。神社は神事の際に使用する籠屋以外の
建物施設を持たず、拝殿・本殿等が位置すべき場所には石列でいくつかに区分され
た遥拝所が設置されるのみという特異な形態を示している。この形態は古代からの
富士山祭祀の形を止めていると推定されており、遥拝所の主軸は富士山方向を向い
ている。発掘調査では12〜15世紀にかけての神事に使用されたと推定される破
砕された土器が遥拝所北側から多数出土し、当神社での宗教活動を裏付けている。
また、遅くとも1577年までには浅間大社との間で「山宮御神幸」といわれる儀
式が開始された。これは4月と11月に神の宿った鉾を持ち、浅間大社から山宮浅
間神社へ行き、神事を行った後、翌日未明に浅間大社へ戻る行事である。行事の意
味として、現時点では神が4月に旧跡に戻るという解釈と、山にいる神が4月に田
の神として里へ降りるという解釈がある。この行事は1874年まで行われていた
。なお、「山宮御神幸」に使用される経路を御神幸道と称し、浅間大社湧玉池横よ
り発し、約600m東へ向かった後、ほぼ直角に曲がり直線状に北上

258 :
吉田口登山道の信仰拠点の一つとしてこの二合目の役割はさらに
増すことになる。しかし、昭和に入ると富士信仰のありかたの変
化や、富士スバルラインの開通等もあって吉田口登山道は衰退す
る。それに伴い二合目を通過する登拝者も激減する。また、富士
御室浅間神社本宮を支えてきた氏子にとっても、その維持管理が
困難となって、1973年から74年にかけて、−

259 :
神社に至る。道の出発点及び途中には1691年に置かれた距離を示す石碑が少な
くとも四箇所残っている。写真山宮浅間神社の写真B3村山浅間神社山宮浅間神社
の南東約4km、富士山南麓に張り出した標高約500mのバルコニー状地形に位
置し、木花開花姫命を主祭神とする神社である。神社と一体化した範囲には、現在
別の宗教法人となった大日堂・水垢離場・護摩壇などが存在している。これらは1
868年の神仏分離令までは一体のものであり、富士山興法寺(村山

260 :
」の手法を広めている。加えて富士山を航海の目印とする伊豆
半島の漁業者に対しては航海安全と大漁の祈願を行った。興法
寺の勢力は地元支配者である今川氏の支援を受けていた16世
紀前半が最も強かったが、それ以降衰退しつつも聖護院の力を
背景に一定の権威をもち、登山道及びその頂上部の大日堂周辺
を支配した。社殿については、1697年徳川幕府により修復
され、現在の大日堂は建築様式や部材の状況から19世紀半ば
に建立されたと推定される。また、浅間神社は1

261 :
里宮地内に移転することとなる。修験や登拝といった様々な富士
信仰の拠点として位置づけられる二合目の本宮と、土地の産土神
としての里宮が一体となって機能してきた神社である。写真冨士
御室浅間神社の写真表法的保護、修理・整備の経緯1973年本
宮本殿・二合目から里宮境内地に移築、整備された(〜74年)
1985年本宮本殿・文化財保護法の下に重要文化財として指定
1983年回廊修理工事を行う1995年外部の漆塗の塗り直し
ほか一部補修を行う2010年「重要文化財冨士御室浅間神社本
殿保存活用計画」を策定2011年文化財保護法の下に他の文化
財とともに史跡富士山として指定(予定)2011年「史跡富士
山保存管理計画」を策定(予定)B8御師住宅御師は、道者に宿
や食事を始め登拝のための一切の世話をするとともに、登拝の指
導や祈祷を行うことを業とした。富士山御師として代表的なのは
、吉田口登山道の起点である北口本宮冨士浅間神社の北西に、北
東方向の傾斜面に沿って大規模な集落を形成した吉田の御師であ
る。御師屋敷の多くは短冊状をなし、表通りに面して引き込み路
を設け、敷地を流れる水路の奥に住宅兼宿坊の建物が建っている
。玄関から奥へ客室が続き、最奥部には神殿が設けられている。
最古の部類に入る旧外川家住宅や、格式的な構えが確立した頃に
建てられ富士講最盛期の典型例とされる小佐野家住宅が代表的で
ある。旧外川家住宅は、富士北麓の信仰登山口集落である富士吉
田市上吉田・下宿の東側南端に位置する。1572年の町割によ
って成立した東西方向の奥行きが150mほどの長大な短冊形の
屋敷地に建てられている。外川家は、屋号を塩屋ないし大外川、
塩廼屋(しおのや)と号し、富士信仰における上吉田に居住し、
下総地域を檀家とした富士山御師である。1572年の「吉田宿
屋敷割帳写」には、外川家の位置に「仁科六郎ゑもん」の屋敷が
記されており、外川家ではこの人物を中興の初代としている。ま
た、1669年の「検地帳」では、塩屋多兵衛の屋敷として確認
される。御師としての活動は江戸末期頃隆盛期を迎えるが、19
62年に御師を廃業している。建物の老朽化に伴い、所有者が取
り壊す意向であったが、富士吉田市が寄贈を受け、

262 :
ばれていた。なお、周辺には興法寺の維持・運営にあたっていた道者坊の村山三坊
(池西坊・大鏡坊・辻之坊の三箇所)の跡が発掘調査によって確認されている。そ
の起源は、1149年の記録に見える修行僧末代上人による富士山頂への大日寺の
建立にあるとされる。末代上人が富士山中又は村山の地に興法寺を建立したとの記
録も残されている。これらの記録等から、12世紀中ごろに村山周辺において修験
道または密教系の宗教活動が行われていたと推測できる。1259年には、現存す
る大日如来が寄進されたことを仏像の銘で確認できる。末代以後、その流れを汲み
富士山で修行する人々が現れ、村山が富士山修験道(富士行)の拠点となったと考
えられる。14世紀初めには僧の頼尊が修験者とその活動を組織化し、興法寺を再
興したとされる。15世紀に入ると興法寺とそれを支える宿坊の存在が現存する大
日如来の銘(1478)で確認できる。1482年には修験道本山派の本寺である
聖護院と関係を持ち、その権威を高めた。16世紀中には十数軒あった道者坊が村
山三坊に統合され、その活動を資料で確認できる。坊に所属する山伏は夏に「富士
峯修行」を山中及び山頂で行った。また、富士山への一般の登拝者も増加し、夜間
に白装束をまとい、仏がいるとされた山頂を目指す多くの人々の様子が「絹本著色
富士曼荼羅図」に描かれている。村山の山伏は、富士峰修行の際に東麓、南麓の村
を年一回巡回し加持祈祷等を行った。また18世紀、富士講の隆盛に対抗し西日本
の一般登拝者中の有力者に対して「先達」の免許を発行し組織化を図ると−30−
ともに、登拝が困難な人々に対しては川辺で垢離を取り、祈ることで登拝と同等の
利益があるとする「富士垢離」の手法を広めている。加えて富士山を航海の目印と
する伊豆半島の漁業者に対しては航海安全と大漁の祈願を行った。興法寺の勢力は
地元支配者である今川氏の支援を受けていた16世紀前半が最も強かったが、それ
以降衰退しつつも聖護院の力を背景に一定の権威をもち、登山道及びその頂上部の
大日堂周辺を支配した。社殿については、1697年徳川幕府により

263 :
されたものを基本としている。1868年、神仏分離令により
浅間神社と興法寺(大日堂)は分離され、山伏は還俗し、19
06年の登山道の変化にも伴い両者とも衰微した。ただし、富
士峰修行と加持祈祷は1940年代まで継続された。現在は1
970年代より活発になった地域住民による伝統復活のための
活動が見られ、水垢離等の行事が行われている。また、村山浅
間神社の影響を受けた地域のうち、滋賀県甲賀市、三重県南伊
勢町等では現在でも富士垢離の行事が継続されている。写真村
山浅間神社の写真B−4須山浅間神社富士山の南東麓、須山口
登山道の入り口に位置し、木花開花姫命を主祭神とする神社で
ある。その起源は1598年作の社伝旧記によると110年、
日本武尊が蝦夷征伐の際、この地を訪れ浅間神社を創起し、さ
らに552年有力豪族の蘇我稲目が再興したとある。記録上神
社の存在が確認できるのは1524年で修築時の棟札による。
また、市天然記念物である境内の杉は、樹齢500年以上と推
定されており、遅くともこの時期までに須山浅間神社が現在の
地に存在したと推測できる。現在の社殿は1823年の再建で
ある。1707年の宝永噴火により登山道も含め大きな被害を
受けたが、1780年に登山道が再興され、1800年の御縁
年には約5,400人の登拝者があった。須山浅間神社は12
軒の御師とともに当時の須山村の中心的存在であり、村全体で
須山口登山道と山頂部銀明水を管理した。また、京都吉田家よ
り神道裁許状を得たり、朝廷・公家に銀明水を献上したりする
等して権威を高めているが、山頂部で発生した問題については
、浅間大社の判断を仰いでいる。須山浅間神社は村山三坊とも
関わりを持ち、1940年頃まで境内で富士峯修行の一環とし
ての祈祷が行われていた。1883年、御殿場口登山道が開設
され、1899年の東海道本線開通による御殿場口利便性の向
上は須山口からの登拝者や登山者を奪い、加えて1912年登
山道の一部が陸軍演習場となり使用不可能となったため、須山
口は衰退した。しかし、その後都市化の影響を余り受けなかっ
たため、須山浅間神社周辺は日本的伝統に基づく

264 :
ら2007年にかけ大規模保存修理事業を行った上で、2008
年4月から富士吉田市歴史民俗博物館の附属施設として一般公開
されている。写真旧外川家住宅の写真表法的保護、修理・整備の
経緯2006年大規模保全修理を行う2008年富士吉田市歴史
民俗博物館の附属施設として一般公開を行う2010年「山梨県
指定有形文化財旧外川家住宅保存活用計画」を策定2011年文
化財保護法の下に重要文化財として指定小佐野家住宅は、富士講
によって大きく発展した御師集落である富士吉田市上吉田地区に
あって、富−33−士山に登拝する人々を宿泊させた宿坊として
、代表的な御師住宅である。上吉田地区は、富士の雪代の被害を
避けるため、1572年に旧地である古吉田地区から集落ごと移
転し、北口本宮冨士浅間神社の北西隅から北東方向の傾斜面に沿
って短冊状に町割が行われたと伝えられている。小佐野家住宅は
、南北の間口が16m、東西方向の奥行きが150mほどの長大
な屋敷地に建てられている。小佐野家は、元亀の集落移転に合わ
せて現在地に移転してきたと伝えられる。代々御師を勤め、屋号
を堀端屋と号し、江戸時代には当主は小佐野壱岐あるいは小佐野
大隈と名乗っていた。当家に宿泊する参詣者は年間1,000人
に達したとされる。現在、屋敷地の東側には所有者が住む住居が
建築されており、小佐野家住宅には所有者の親族が居住している
。写真小佐野家住宅の写真表法的保護、修理・整備の経緯197
6年文化財保護法の下に重要文化財として指定1977年消防設
備設置を行う1979年屋根の葺替えを行う1996年雨樋いの
補修を行う1997年主屋、蔵の修理を行う1998年主屋、蔵
の修理を行い2010年「重要文化財小佐野家住宅保存活用計画
」を策定B9山中湖富士山の火山活動によって形成された堰止湖
で、富士山の北東に位置する。富士山周辺の湖を巡って修行する
内八海巡りが行われたが、この山中湖にも多くの富士講徒が訪れ
た。古くから景勝地として有名で、20世紀前半には湖畔に洋式
ホテルが建てられたほか、別荘地としても整備された。ゆかりの
ある芸術家も多く、山中湖を描いた文学や絵画が散見する。富士
山の頂上付近に日の入りが重なる様子はダイアモン

265 :
在の大日堂は建築様式や部材の状況から19世紀半ばに建立されたと推定される。
また、浅間神社は1913年改築されたものを基本としている。1868年、神仏
分離令により浅間神社と興法寺(大日堂)は分離され、山伏は還俗し、1906年
の登山道の変化にも伴い両者とも衰微した。ただし、富士峰修行と加持祈祷は19
40年代まで継続された。現在は1970年代より活発になった地域住民による伝
統復活のための活動が見られ、水垢離等の行事が行われている。また、村山浅間神
社の影響を受けた地域のうち、滋賀県甲賀市、三重県南伊勢町等では現在でも富士
垢離の行事が継続されている。写真村山浅間神社の写真B−4須山浅間神社富士山
の南東麓、須山口登山道の入り口に位置し、木花開花姫命を主祭神とする神社であ
る。その起源は1598年作の社伝旧記によると110年、日本武尊が蝦夷征伐の
際、この地を訪れ浅間神社を創起し、さらに552年有力豪族の蘇我稲目が再興し
たとある。記録上神社の存在が確認できるのは1524年で修築時の棟札による。
また、市天然記念物である境内の杉は、樹齢500年以上と推定されており、遅く
ともこの時期までに須山浅間神社が現在の地に存在したと推測できる。現在の社殿
は1823年の再建である。1707年の宝永噴火により登山道も含め大きな被害
を受けたが、1780年に登山道が再興され、1800年の御縁年には約5,40
0人の登拝者があった。須山浅間神社は12軒の御師とともに当時の須山村の中心
的存在であり、村全体で須山口登山道と山頂部銀明水を管理した。また、京都吉田
家より神道裁許状を得たり、朝廷・公家に銀明水を献上したりする等して権威を高
めているが、山頂部で発生した問題については、浅間大社の判断を仰いでいる。須
山浅間神社は村山三坊とも関わりを持ち、1940年頃まで境内で富士峯修行の一
環としての祈祷が行われていた。1883年、御殿場口登山道が開設され、189
9年の東海道本線開通による御殿場口利便性の向上は須山口からの登拝者や登山者
を奪い、加えて1912年登山道の一部が陸軍演習場となり使用不可

266 :
っている部分が多い。写真須山浅間神社の写真B5冨士浅間神
社富士山東麓、須走口登山道の起点に位置し、木花開花姫命を
主祭神とする神社である。境内西側には鎌倉往還が通り、神社
周辺は古来、交通の要衝であった。社伝では802年、噴火の
鎮火祈願のために祭事を行い、翌年噴火が収まったことから、
807年に祭事の跡地であるとされる現在の地にお礼のために
社殿を造営したとされる。その他の文書で確実に存在が確認で
きるのは、1571年のものである。16世紀には地元支配者
である武田氏の保護を受け、山頂部の散銭取得権の一部を得て
いる。17世紀以降、須走浅間神社は当時の須走村の御師など
と共に須走口登山道を支配し、山頂部薬師嶽(現−31−久須
志岳)の薬師堂開帳の権利及び山頂部の散銭取得権の一部を得
ていた。これら山頂部の権利については八合目以上の支配権を
主張する富士山本宮浅間大社と争いになり、須走村は1703
年と1772年の2回、幕府に裁定を求めている。この結果、
これらの権利は幕府によって認められた。また、冨士浅間神社
神主や御師は須山の場合と同じく、京都吉田家より神道裁許状
を得て権威を高めている。社殿は、記録の残っている範囲では
1662年、地元領主である沼津城主大久保氏や小田原藩主稲
葉氏などの援助によって修造が行われた。しかし1707年の
宝永噴火では3m以上の降砂に埋もれ崩壊したため、1718
年に再建された。この後もこの際の部材を使用し、2009年
の修理も含め何回かの修理がおこなわれている。境内には水路
があり、水垢離に利用された。18世紀末から19世紀初頭に
かけて富士講が隆盛を迎えると須走口にも関東からの登拝者が
登山又は下山の際立ち寄った。その数は1800年の御縁年の
際に約27,300名であった。同時期から20世紀前半まで
富士講信者は境内に登山回数等の記念碑を約80基造営した。
また、神社には神社神官や御師が発行した木版印刷による神影
や神符の版木が保管されている。写真冨士浅間神社の写真B6
河口浅間神社古くから富士山に関わる祭祀は南麓の浅間神社(
山宮浅間神社か?)が執り行っていたが、864

267 :
れ、多くの写真家を集める。写真山中湖の写真B10河口湖富士
山の火山活動により形成された堰止湖で、富士山の北に位置する
。富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが行われたが、こ
の河口湖にも多くの富士講徒が訪れた。古くから景勝地として有
名で、20世紀前半には湖畔に洋式ホテルが建てられた。ゆかり
のある芸術家も多く、湖を題材にした文学や絵画は、富士五湖中
この河口湖が最も多い。葛飾北斎や歌川広重といった浮世絵師も
、河口湖越しに見える富士山を描いている。写真河口湖の写真表
法的保護、修理・整備の経緯(B9・B10)1936年所在地
が国立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指定1988年「山
梨県富士五湖の静穏の保全に関する条例」を制定2006年自然
公園法の下に本栖湖の湖面全域での動力船の使用が規制される−
34−2011年文化財保護法の下に名勝に指定(予定)201
1年「名勝富士五湖保存管理計画」を策定(予定)B11忍野八
海富士山の北東、忍野村忍草にある、富士山の伏流水による八つ
の湧水地(出口池、御釜池、底抜池、銚子池、湧池、濁池、鏡池
、菖蒲池)の愛称である。それぞれに八大竜王を祀る富士信仰に
関わる巡拝地であった。富士登山を目指す行者たちはこの水で穢
れを祓った。長谷川角行が行った富士八海修行になぞられ「富士
御手洗(みてらし)元八湖」と唱えられた古跡の霊場と伝えられ
、1843年に富士講道者によって再興されたとされる。写真忍
野八海の写真(どれか1つ)図忍野八海周辺図表法的保護、修理
・整備の経緯1934年史蹟名勝天然紀念物保存法の下に天然紀
念物に指定2010年忍野村景観計画を策定、忍野八海周辺を景
観形成重点区域に指定2010年街なみ環境整備事業により忍野
八海周辺環境の整備を行う(〜14年)2011年「天然記念物
忍野八海保存管理計画」を策定(予定)B12船津胎内樹型16
17年、富士講の祖とされる長谷川角行が富士登拝の際、現船津
胎内樹型の南方に焼入(船津胎内樹型指定範囲内に点在する小規
模な溶岩樹型のひとつと考えられる)を発見し、浅間明神を祀っ
た。1673年、富士講道者村上光清により現船津胎内樹型が発
見され、開祖が祀った焼入の地の浅間明神が遷宮さ

268 :
神誕生の地ともいわれ、無戸室(むつむろ)に火を放ち、無事に
御子を出産したという故事に倣い社号を無戸室浅間神社と名付け
た。富士道者は、富士登拝の際に、樹型を入って身を清める風習
があり、洞穴内外の地形空間に宗教的な意義付けが行われるとと
もに、奥には富士講にとっての富士山の祭神である木花開耶姫な
どが祀られている。写真船津胎内樹型の写真表法的保護、修理・
整備の経緯1929年史跡名勝天然記念物法の下に天然紀念物と
して指定2010年「山梨県南都留郡富士河口湖町

269 :
真冨士浅間神社の写真B6河口浅間神社古くから富士山に関わる祭祀は南麓の浅間
神社(山宮浅間神社か?)が執り行っていたが、864年〜866年に北麓で起こ
った噴火を契機に、北麓にも浅間神社が建てられることとなった。それが、富士山
を望む河口湖の北岸にあり、溶岩の届かなかった河口浅間神社であるとされる。浅
間神社を中心とした河口の地は、甲府盆地から続く官道の宿駅という役割に加え、
富士登拝が大衆化した中世後半から御師集落として発展を遂げた。し

270 :
写真冨士御室浅間神社の写真表法的保護、修理・整備の経緯1
973年本宮本殿・二合目から里宮境内地に移築、整備された
(〜74年)1985年本宮本殿・文化財保護法の下に重要文
化財として指定1983年回廊修理工事を行う1995年外部
の漆塗の塗り直しほか一部補修を行う2010年「重要文化財
冨士御室浅間神社本殿保存活用計画」を策定2011年文化財
保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定(予定
)2011年「史跡富士山保存管理計画」を策定

271 :
然記念物溶岩洞穴等保存管理・整備活用計画書」を策定B13吉
田胎内樹型吉田胎内本穴は、1892年に富士道者により整備さ
れた「御胎内」である。吉田胎内本穴の奥には、石祠があって富
士講にとっての富士山の祭神である木花開耶姫が祀られている。
樹型内に入ると横穴の正面には、食行身禄を祀る石祠があり、そ
の下段には、さらに横穴があり左右に分かれている。右の穴が天
津彦彦火瓊瓊杵命を祀る父の胎内で、左の穴が木花開耶姫を祀る
母の胎内である。富士講講徒は、昼までに御師の家に着き、夕方
まで胎内巡りをし、翌朝富士山に登山した。−35−本穴につい
ては、古くから冨士山北口御師団が管理している。写真吉田胎内
樹型の写真表法的保護、修理・整備の経緯1929年史跡名勝天
然紀念物法の下に天然紀念物として指定2010年「天然記念物
吉田胎内樹型保存管理計画」を策定B14人穴富士講遺跡富士山
西麓、静岡県側と山梨県側を結ぶ街道沿いに位置する。木花開花
姫命・角行祖霊・徳川家康を主祭神とする浅間神社と富士講の人
々による約230基の碑塔群及び溶岩洞窟である人穴がある。長
さ約83mの人穴は約11,000〜8,000年前に流出した
犬涼山溶岩流中に生成したものである。1300年前後に成立し
た文書である吾妻鏡によれば人穴は霊的な場所であり、地元では
「浅間大菩薩の御在所」とみられていたことが記述されている。
この内容は遅くとも1603年までに説話化され、多くの人にそ
の存在が知られていた。富士講関連の文書では1558年、開祖
とされる長谷川角行が役行者のお告げにより人穴に至り、洞窟内
で立行等を達成し、浅間大菩薩よりお告げを得たとしている。角
行は人穴を浄土への入り口とし、「西の浄土」と呼んだため、主
に19世紀以降、人穴は富士講の人々より聖地として信仰を集め
、参詣だけでなく修行を行う者も見られた。その大部分は吉田口
登山道の利用者と推定される。また、塔頭の碑文から村山三坊と
の関係もあったと推定されている。人穴浅間神社の創建は明確で
はないが、1648年及び1665年、その前身である光?寺が
富士講二世日珀(正しくは王へんに日)、三世珀心(同)により
再興された記述があり、19世紀前半に同寺の大日

272 :
おける富士講の大流行と、それに伴う吉田御師の隆盛により、河口の御師集落とし
ての機能は、19世紀以降衰退してしまった。ただし、河口浅間神社は、現在も富
士山と密接に結びついた宗教行事を行っており、歴史的背景と相俟って、富士山信
仰を語る上で欠かすことができない資産である。写真河口浅間神社の写真表法的保
護、修理・整備の経緯2011年文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士
山として指定(予定)2011年「史跡富士山保存管理計画」を策定(予定)B7
冨士御室浅間神社冨士御室浅間神社は吉田口二合目に鎮座した本宮(もとみや)と
、河口湖畔に建立された里宮から構成されている。8世紀初めに吉田口登山道二合
目に祭場をしつらえたのが最初とされ、富士山中に祀られた最初の神社であるとす
る文献もある。富士修験の信仰拠点は南西の村山であるが、北面の二合目、御室浅
間神社が鎮座する御室の地にも山内の信仰拠点として役行者堂が整備されたようで
ある。また、社記によると958年、二合目は冬季における参詣が難儀であること
から河口湖畔の現在地に里宮が建立されたという。江戸時代以降富士講の隆盛にと
もない、吉田口登山道の信仰拠点の一つとしてこの二合目の役割はさらに増すこと
になる。しかし、昭和に入ると富士信仰のありかたの変化や、富士スバルラインの
開通等もあって吉田口登山道は衰退する。それに伴い二合目を通過する登拝者も激
減する。また、富士御室浅間神社本宮を支えてきた氏子にとっても、その維持管理
が困難となって、1973年から74年にかけて、−32−本殿を里宮地内に移転
することとなる。修験や登拝といった様々な富士信仰の拠点として位置づけられる
二合目の本宮と、土地の産土神としての里宮が一体となって機能してきた神社であ
る。写真冨士御室浅間神社の写真表法的保護、修理・整備の経緯1973年本宮本
殿・二合目から里宮境内地に移築、整備された(〜74年)1985年本宮本殿・
文化財保護法の下に重要文化財として指定1983年回廊修理工事を行う1995
年外部の漆塗の塗り直しほか一部補修を行う2010年「重要文化財

273 :
御師住宅御師は、道者に宿や食事を始め登拝のための一切の世
話をするとともに、登拝の指導や祈祷を行うことを業とした。
富士山御師として代表的なのは、吉田口登山道の起点である北
口本宮冨士浅間神社の北西に、北東方向の傾斜面に沿って大規
模な集落を形成した吉田の御師である。御師屋敷の多くは短冊
状をなし、表通りに面して引き込み路を設け、敷地を流れる水
路の奥に住宅兼宿坊の建物が建っている。玄関から奥へ客室が
続き、最奥部には神殿が設けられている。最古の部類に入る旧
外川家住宅や、格式的な構えが確立した頃に建てられ富士講最
盛期の典型例とされる小佐野家住宅が代表的である。旧外川家
住宅は、富士北麓の信仰登山口集落である富士吉田市上吉田・
下宿の東側南端に位置する。1572年の町割によって成立し
た東西方向の奥行きが150mほどの長大な短冊形の屋敷地に
建てられている。外川家は、屋号を塩屋ないし大外川、塩廼屋
(しおのや)と号し、富士信仰における上吉田に居住し、下総
地域を檀家とした富士山御師である。1572年の「吉田宿屋
敷割帳写」には、外川家の位置に「仁科六郎ゑもん」の屋敷が
記されており、外川家ではこの人物を中興の初代としている。
また、1669年の「検地帳」では、塩屋多兵衛の屋敷として
確認される。御師としての活動は江戸末期頃隆盛期を迎えるが
、1962年に御師を廃業している。建物の老朽化に伴い、所
有者が取り壊す意向であったが、富士吉田市が寄贈を受け、2
006年から2007年にかけ大規模保存修理事業を行った上
で、2008年4月から富士吉田市歴史民俗博物館の附属施設
として一般公開されている。写真旧外川家住宅の写真表法的保
護、修理・整備の経緯2006年大規模保全修理を行う200
8年富士吉田市歴史民俗博物館の附属施設として一般公開を行
う2010年「山梨県指定有形文化財旧外川家住宅保存活用計
画」を策定2011年文化財保護法の下に重要文化財として指
定小佐野家住宅は、富士講によって大きく発展した御師集落で
ある富士吉田市上吉田地区にあって、富−33−士山に登拝す
る人々を宿泊させた宿坊として、代表的な御師住

274 :
より再興された。1868年の神仏分離令により20世紀までに
は大日堂が人穴村の氏神としての浅間神社となった。1942年
、付近が軍用地となったため一時移転したが、1954年に現在
地に復興された。境内の碑塔は、その4分の3(194基)が墓
碑ないし供養碑で人穴への分骨埋葬を望んだ富士講の信仰による
ものである。そのほかに富士山に何回も登ったという登拝記念や
大願成就の碑塔や角行二百年忌の宝篋印塔などがある。碑塔は富
士講の講毎に群を成した所があり、その目的は講の勢力を誇るた
めと推定されている。碑塔で建立年代のわかる89基の内、富士
講が隆盛した18世紀末から19世紀前半(1781から185
0年)に建立されたものが半数(44基)、19世紀末より20
世紀前半(1871から1940年)のものが3分の1(29基
)を占める。写真B14の写真B15白糸ノ滝人穴の北方約5k
mにある落差約20〜25m・幅約120〜210mの数百の流
れを持つ滝である。滝は約1万年前に噴出した白糸溶岩流の末端
から湧き出す一日平均13万?の水を源としている。滝の名前は
湧水の噴出が数百条の白糸が垂れているように見えるため名づけ
られた。湧水のメカニズムは、湧玉池と同様であり、透水性の白
糸溶岩流と不透水性の古富士泥流の境界に降水・雪解け水が滞水
し、三層の溶岩の隙間、及び溶岩流と泥流層の間より湧き出して
いるものである。このメカニズムが解明される前の19世紀半ば
の資料「不二山道知留邊」ではその起源を富士五湖の伏流水とし
ていた。白糸ノ滝は富士講関連の文書では、開祖とされる長谷川
角行が人穴での立行と合わせて水行を行った地と記されている。
−36−その後、白糸の滝は富士講を中心とした人々の巡礼の場
となった。その様子は1845年と1854年にこの地を訪れた
富士講先達の記録で確認でき、滝つぼの中で垢離をとる信者の周
囲に虹が出来る現象を「御来光」としている。また、周辺にある
食行身禄の碑や不動尊が同書の挿画に描かれている。そのほかの
19世紀の登山記でも人穴と共にその存在が長谷川角行との関わ
りを通して紹介されている。また、白糸ノ滝は景勝地としても有
名であり、多くの和歌・絵画の題材となっている。

275 :
神社本殿保存活用計画」を策定2011年文化財保護法の下に他の文化財とともに
史跡富士山として指定(予定)2011年「史跡富士山保存管理計画」を策定(予
定)B8御師住宅御師は、道者に宿や食事を始め登拝のための一切の世話をすると
ともに、登拝の指導や祈祷を行うことを業とした。富士山御師として代表的なのは
、吉田口登山道の起点である北口本宮冨士浅間神社の北西に、北東方向の傾斜面に
沿って大規模な集落を形成した吉田の御師である。御師屋敷の多くは短冊状をなし
、表通りに面して引き込み路を設け、敷地を流れる水路の奥に住宅兼宿坊の建物が
建っている。玄関から奥へ客室が続き、最奥部には神殿が設けられている。最古の
部類に入る旧外川家住宅や、格式的な構えが確立した頃に建てられ富士講最盛期の
典型例とされる小佐野家住宅が代表的である。旧外川家住宅は、富士北麓の信仰登
山口集落である富士吉田市上吉田・下宿の東側南端に位置する。1572年の町割
によって成立した東西方向の奥行きが150mほどの長大な短冊形の屋敷地に建て
られている。外川家は、屋号を塩屋ないし大外川、塩廼屋(しおのや)と号し、富
士信仰における上吉田に居住し、下総地域を檀家とした富士山御師である。157
2年の「吉田宿屋敷割帳写」には、外川家の位置に「仁科六郎ゑもん」の屋敷が記
されており、外川家ではこの人物を中興の初代としている。また、1669年の「
検地帳」では、塩屋多兵衛の屋敷として確認される。御師としての活動は江戸末期
頃隆盛期を迎えるが、1962年に御師を廃業している。建物の老朽化に伴い、所
有者が取り壊す意向であったが、富士吉田市が寄贈を受け、2006年から200
7年にかけ大規模保存修理事業を行った上で、2008年4月から富士吉田市歴史
民俗博物館の附属施設として一般公開されている。写真旧外川家住宅の写真表法的
保護、修理・整備の経緯2006年大規模保全修理を行う2008年富士吉田市歴
史民俗博物館の附属施設として一般公開を行う2010年「山梨県指定有形文化財
旧外川家住宅保存活用計画」を策定2011年文化財保護法の下に重

276 :
写真表法的保護、修理・整備の経緯1936年所在地が国立公園
法の下に(富士箱根)国立公園に指定1936年史蹟名勝天然紀
念物保存法の下に名勝及び天然紀念物に指定1987年富士宮市
により「白糸ノ滝」保存管理計画が策定2010年富士宮市によ
り保存管理計画が改定され、これにともなった整備計画に基づき
、滝周辺の景観整備が行われた(3)眺望C三保松原富士山頂の
南西約45kmに位置する駿河湾に突き出した長さ約7kmの砂
嘴をなす三保半島上の松原である。現在、5万4千本の黒松が外
海側海岸線4kmを中心に繁茂し、その中でも樹齢約650年と
いわれる「羽衣の松」付近は、富士山と砂浜の松という日本で好
まれた景観を組み合わせて望むことができる景勝地として知られ
ている。三保松原のある三保半島は約6000年前に現在の形と
なったと考えられ、三保の名前は内海側の三つの岬を稲穂にたと
えたという説が有力である。かつては半島一帯に松が繁茂し、8
世紀初頭には松原自体を景勝地として捉えた和歌が詠まれ、「万
葉集」に掲載された。その後遅くとも13世紀初頭までに三保松
原は後鳥羽上皇など中央の権力者に富士山と組み合わされた景勝
地として認識され、14〜15世紀には室町幕府将軍足利義満と
足利義教が三保半島と対岸(現静岡市清水区興津)との間を船で
渡り富士山を眺める行事を行い、16世紀には徳川家康が三保半
島内海側に富士見櫓を建設した。文学では「万葉集」以降も和歌
等の詩の題材となると共に、地元の伝説を基にし、羽衣の松を舞
台とした謡曲(能)「羽衣」が遅くとも16世紀までに成立した
。降臨した天女と漁師との出会いと別れを描いたこの話の最終場
面ではヒロインの天女が富士山方向へ飛び去っていく描写が見ら
れる。これはすでに成立していた「竹取物語」で示された富士山
の噴煙が天上と地上とを結んでいるとする考えとの関係が指摘さ
れている。この作品は、19世紀後半、海外へ伝えられ、イェー
ツ、パウンドといったモダニズムの作家に影響を与えるとともに
、伝統芸能である「能」が世界に広まるきっかけを作った作品で
ある。また、絵画でも15〜16世紀には三保松原を右に富士山
を左に配する構図が描かれ、この構図は狩野探幽に

277 :
て指定小佐野家住宅は、富士講によって大きく発展した御師集落である富士吉田市
上吉田地区にあって、富−33−士山に登拝する人々を宿泊させた宿坊として、代
表的な御師住宅である。上吉田地区は、富士の雪代の被害を避けるため、1572
年に旧地である古吉田地区から集落ごと移転し、北口本宮冨士浅間神社の北西隅か
ら北東方向の傾斜面に沿って短冊状に町割が行われたと伝えられている。小佐野家
住宅は、南北の間口が16m、東西方向の奥行きが150mほどの長大な屋敷地に
建てられている。小佐野家は、元亀の集落移転に合わせて現在地に移転してきたと
伝えられる。代々御師を勤め、屋号を堀端屋と号し、江戸時代には当主は小佐野壱
岐あるいは小佐野大隈と名乗っていた。当家に宿泊する参詣者は年間1,000人
に達したとされる。現在、屋敷地の東側には所有者が住む住居が建築されており、
小佐野家住宅には所有者の親族が居住している。写真小佐野家住宅の写真表法的保
護、修理・整備の経緯1976年文化財保護法の下に重要文化財として指定197
7年消防設備設置を行う1979年屋根の葺替えを行う1996年雨樋いの補修を
行う1997年主屋、蔵の修理を行う1998年主屋、蔵の修理を行い2010年
「重要文化財小佐野家住宅保存活用計画」を策定B9山中湖富士山の火山活動によ
って形成された堰止湖で、富士山の北東に位置する。富士山周辺の湖を巡って修行
する内八海巡りが行われたが、この山中湖にも多くの富士講徒が訪れた。古くから
景勝地として有名で、20世紀前半には湖畔に洋式ホテルが建てられたほか、別荘
地としても整備された。ゆかりのある芸術家も多く、山中湖を描いた文学や絵画が
散見する。富士山の頂上付近に日の入りが重なる様子はダイアモンド富士と呼ばれ
、多くの写真家を集める。写真山中湖の写真B10河口湖富士山の火山活動により
形成された堰止湖で、富士山の北に位置する。富士山周辺の湖を巡って修行する内
八海巡りが行われたが、この河口湖にも多くの富士講徒が訪れた。古くから景勝地
として有名で、20世紀前半には湖畔に洋式ホテルが建てられた。ゆ

278 :
、19世紀に至るまで日本画・浮世絵において富士山を描く際の
典型的構図とされた。また、20世紀には和田英作が「羽衣の松
」付近から見た富士山を数多く描いた。三保松原は16世紀以降
、江戸幕府の直轄地となり松が守られてきた。江戸幕府滅亡後は
内海側の開発が進んだが、外海側の景観は保たれ、1922年、
国内初の名勝として国文化財に指定された。現在、

279 :
術家も多く、湖を題材にした文学や絵画は、富士五湖中この河口湖が最も多い。葛
飾北斎や歌川広重といった浮世絵師も、河口湖越しに見える富士山を描いている。
写真河口湖の写真表法的保護、修理・整備の経緯(B9・B10)1936年所在
地が国立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指定1988年「山梨県富士五湖の
静穏の保全に関する条例」を制定2006年自然公園法の下に本栖湖の湖面全域で
の動力船の使用が規制される−34−2011年文化財保護法の下に

280 :
年「山梨県南都留郡富士河口湖町町内国指定天然記念物溶岩洞
穴等保存管理・整備活用計画書」を策定B13吉田胎内樹型吉
田胎内本穴は、1892年に富士道者により整備された「御胎
内」である。吉田胎内本穴の奥には、石祠があって富士講にと
っての富士山の祭神である木花開耶姫が祀られている。樹型内
に入ると横穴の正面には、食行身禄を祀る石祠があり、その下
段には、さらに横穴があり左右に分かれている。右の穴が天津
彦彦火瓊瓊杵命を祀る父の胎内で、左の穴が木花

281 :
による海岸侵食とマツクイムシによる松の枯死が進んでいるため
、静岡市及び地元民間団体による保護活動が行われている。写真
三保松原(現在の写真・静岡市)写真歌川広重の浮世絵−37−
写真三保松原の写真表法的保護、修理・整備の経緯1922年史
蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝に指定1976年名勝「三保
松原」管理計画書を策定1977年名勝地内の一部が指定解除1
989年名勝「三保松原」保存管理計画書を改定1990年名勝
地内の一部が追加指定及び指定解除2011年名勝「三保松原」
保存管理計画書を改定第3章保存管理の基本方針1顕著な普遍的
価値及び周辺環境を構成する諸要素世界文化遺産「富士山」の顕
著な普遍的価値は以下に示すとおりである。「富士山」の顕著な
普遍的価値富士山は、日本を代表し象徴する日本最高峰(標高3
776m)の秀麗な独立した火山として世界的に著名であり、そ
の自然的美しさと崇高さを基盤として日本人の自然に対する信仰
の在り方や、海外に影響を与えた葛飾北斎や歌川広重などによる
顕著な普遍的価値を持つ「浮世絵」などの日本独自の芸術文化を
育んだ「名山」である。富士山は山岳に対する信仰の在り方や芸
術活動などを通じ、時代を超えて一国の文化の諸相と極めて深い
関連性を示し、生きた文化的伝統の物証であるのみならず、人間
と自然との良好で継続的な関係を示す景観の傑出した類型として
、世界的にも類例を見ない顕著な普遍的価値を持つ山である。本
計画では、顕著な普遍的価値に対し、資産に含まれる要素を「顕
著な普遍的価値を構成する諸要素」と「顕著な普遍的価値を構成
する諸要素と密接に関わる諸要素」に分類し、さらに緩衝地帯に
おける「周辺環境を構成する諸要素」を加え、表に示すとおり整
理を行った。A富士山山体及び登山道B信仰に関わる周辺のもの
C富士山から離れた眺望に関わるもの表富士山の構成要素A富士
山(富士山体)A1山頂信仰遺跡・富士山本宮奥宮・東北奥宮(
久須志神社)・金明水・銀明水・八葉(剣ヶ峰、白山岳、久須志
岳、成就岳、伊豆岳、朝日岳、浅間岳、駒ヶ岳、三島岳)・大内
院・小内院・馬の背・東安河原・西安河原・虎岩(獅子岩)・割
石・雷岩・このしろが池・荒巻・吉田須走拝所跡・

282 :
母の胎内である。富士講講徒は、昼までに御師の家に着き、夕
方まで胎内巡りをし、翌朝富士山に登山した。−35−本穴に
ついては、古くから冨士山北口御師団が管理している。写真吉
田胎内樹型の写真表法的保護、修理・整備の経緯1929年史
跡名勝天然紀念物法の下に天然紀念物として指定2010年「
天然記念物吉田胎内樹型保存管理計画」を策定B14人穴富士
講遺跡富士山西麓、静岡県側と山梨県側を結ぶ街道沿いに位置
する。木花開花姫命・角行祖霊・徳川家康を主祭神とする浅間
神社と富士講の人々による約230基の碑塔群及び溶岩洞窟で
ある人穴がある。長さ約83mの人穴は約11,000〜8,
000年前に流出した犬涼山溶岩流中に生成したものである。
1300年前後に成立した文書である吾妻鏡によれば人穴は霊
的な場所であり、地元では「浅間大菩薩の御在所」とみられて
いたことが記述されている。この内容は遅くとも1603年ま
でに説話化され、多くの人にその存在が知られていた。富士講
関連の文書では1558年、開祖とされる長谷川角行が役行者
のお告げにより人穴に至り、洞窟内で立行等を達成し、浅間大
菩薩よりお告げを得たとしている。角行は人穴を浄土への入り
口とし、「西の浄土」と呼んだため、主に19世紀以降、人穴
は富士講の人々より聖地として信仰を集め、参詣だけでなく修
行を行う者も見られた。その大部分は吉田口登山道の利用者と
推定される。また、塔頭の碑文から村山三坊との関係もあった
と推定されている。人穴浅間神社の創建は明確ではないが、1
648年及び1665年、その前身である光?寺が富士講二世
日珀(正しくは王へんに日)、三世珀心(同)により再興され
た記述があり、19世紀前半に同寺の大日堂が僧空胎により再
興された。1868年の神仏分離令により20世紀までには大
日堂が人穴村の氏神としての浅間神社となった。1942年、
付近が軍用地となったため一時移転したが、1954年に現在
地に復興された。境内の碑塔は、その4分の3(194基)が
墓碑ないし供養碑で人穴への分骨埋葬を望んだ富士講の信仰に
よるものである。そのほかに富士山に何回も登っ

283 :
村山大宮拝所跡・三島ヶ岳経塚・外浜道・内浜道A2大宮・村山
口登山道・札打場・中宮八幡堂跡(1号建物跡)・八大龍王・5
号建物跡・8号建物跡・12号建物跡・鳥居A3須山口登山道・
須山御胎内(溶岩洞穴)・石像・石燈篭・鳥居・標柱・祠A4須
走口登山道・古御岳神社・迎久須志之神社・鳥居・狛犬・石碑A
5吉田口登山道・現登山道・旧登山道・馬返・五合目・烏帽子岩
A6北口本宮冨士浅間神社−38−−39−・本殿・東宮本殿・
西宮本殿・大塚山・御鞍石A7西湖・湖水A8精進湖・湖水A9
本栖湖・湖水・中ノ倉峠からの展望B1富士山本宮浅間大社・神
立山・湧玉池(上池、下池)・社叢・社殿(本殿・拝殿・幣殿)
・透塀・楼門・手水舎・廻廊・灯籠・石鳥居・東鳥居・西鳥居・
桜の馬場・禊所・神幸橋(湧玉橋)・輪橋(太鼓橋)・護摩堂跡
(推定)・随身像・狛犬・御神幸道首標の碑・三之宮・七之宮・
鉾立石・欄干橋(神路橋、神路枚橋)B2山宮浅間神社・溶岩流
地形・社叢・籠屋(参籠所)・鉾立石・石段(参道)・石塁・玉
垣・遥拝所・石鳥居・参道B3村山浅間神社・元村山溶岩流・水
源地「竜頭ヶ池」・御神木(イチョウ、大スギ)・社叢・浅間神
社社殿・大日堂(興法寺)・水垢離場・護摩壇・氏神社(高嶺総
鎮守社)・石鳥居・氏神社鳥居・手水舎(手水鉢)・石段(参道
)・狛犬B4須山浅間神社・社叢・社殿・神輿殿・狛犬・灯籠・
手水舎・参道・鳥居・石碑・古宮神社B5冨士浅間神社(須走浅
間神社)・社叢(浅間の杜)・ハルニレ・エゾヤマザクラ・根上
がりモミ・社殿・楼門・参道大鳥居・裏参道鳥居・富士塚狛犬・
富士講講碑群B6河口浅間神社・社殿、鳥居B7冨士御室浅間神
社・吉田口二合目(拝殿の一部、行者堂跡、定善院跡、建物礎石
)・移築された二合目本殿B8御師住宅(旧外川家住宅、小佐野
家住宅)・主屋・離座敷・中門・屋敷地(タツミチ)B9山中湖
・湖水B10河口湖・湖水B11忍野八海・八つの池(出口池、
御釜池、底抜池、銚子池、湧池、濁池、鏡池、菖蒲池)・湧水B
12船津胎内樹型・溶岩樹型・無戸室浅間神社、石造物群B13
吉田胎内樹型・溶岩樹型・洞内の石祠、石造物群−40−B14
人穴富士講遺跡(人穴浅間神社)・犬涼み溶岩流・

284 :
神である木花開耶姫が祀られている。樹型内に入ると横穴の正面には、食行身禄を
祀る石祠があり、その下段には、さらに横穴があり左右に分かれている。右の穴が
天津彦彦火瓊瓊杵命を祀る父の胎内で、左の穴が木花開耶姫を祀る母の胎内である
。富士講講徒は、昼までに御師の家に着き、夕方まで胎内巡りをし、翌朝富士山に
登山した。−35−本穴については、古くから冨士山北口御師団が管理している。
写真吉田胎内樹型の写真表法的保護、修理・整備の経緯1929年史跡名勝天然紀
念物法の下に天然紀念物として指定2010年「天然記念物吉田胎内樹型保存管理
計画」を策定B14人穴富士講遺跡富士山西麓、静岡県側と山梨県側を結ぶ街道沿
いに位置する。木花開花姫命・角行祖霊・徳川家康を主祭神とする浅間神社と富士
講の人々による約230基の碑塔群及び溶岩洞窟である人穴がある。長さ約83m
の人穴は約11,000〜8,000年前に流出した犬涼山溶岩流中に生成したも
のである。1300年前後に成立した文書である吾妻鏡によれば人穴は霊的な場所
であり、地元では「浅間大菩薩の御在所」とみられていたことが記述されている。
この内容は遅くとも1603年までに説話化され、多くの人にその存在が知られて
いた。富士講関連の文書では1558年、開祖とされる長谷川角行が役行者のお告
げにより人穴に至り、洞窟内で立行等を達成し、浅間大菩薩よりお告げを得たとし
ている。角行は人穴を浄土への入り口とし、「西の浄土」と呼んだため、主に19
世紀以降、人穴は富士講の人々より聖地として信仰を集め、参詣だけでなく修行を
行う者も見られた。その大部分は吉田口登山道の利用者と推定される。また、塔頭
の碑文から村山三坊との関係もあったと推定されている。人穴浅間神社の創建は明
確ではないが、1648年及び1665年、その前身である光?寺が富士講二世日
珀(正しくは王へんに日)、三世珀心(同)により再興された記述があり、19世
紀前半に同寺の大日堂が僧空胎により再興された。1868年の神仏分離令により
20世紀までには大日堂が人穴村の氏神としての浅間神社となった。

285 :
記念や大願成就の碑塔や角行二百年忌の宝篋印塔などがある。
碑塔は富士講の講毎に群を成した所があり、その目的は講の勢
力を誇るためと推定されている。碑塔で建立年代のわかる89
基の内、富士講が隆盛した18世紀末から19世紀前半(17
81から1850年)に建立されたものが半数(44基)、1
9世紀末より20世紀前半(1871から1940年)のもの
が3分の1(29基)を占める。写真B14の写真B15白糸
ノ滝人穴の北方約5kmにある落差約20〜25m・幅約12
0〜210mの数百の流れを持つ滝である。滝は約1万年前に
噴出した白糸溶岩流の末端から湧き出す一日平均13万?の水
を源としている。滝の名前は湧水の噴出が数百条の白糸が垂れ
ているように見えるため名づけられた。湧水のメカニズムは、
湧玉池と同様であり、透水性の白糸溶岩流と不透水性の古富士
泥流の境界に降水・雪解け水が滞水し、三層の溶岩の隙間、及
び溶岩流と泥流層の間より湧き出しているものである。このメ
カニズムが解明される前の19世紀半ばの資料「不二山道知留
邊」ではその起源を富士五湖の伏流水としていた。白糸ノ滝は
富士講関連の文書では、開祖とされる長谷川角行が人穴での立
行と合わせて水行を行った地と記されている。−36−その後
、白糸の滝は富士講を中心とした人々の巡礼の場となった。そ
の様子は1845年と1854年にこの地を訪れた富士講先達
の記録で確認でき、滝つぼの中で垢離をとる信者の周囲に虹が
出来る現象を「御来光」としている。また、周辺にある食行身
禄の碑や不動尊が同書の挿画に描かれている。そのほかの19
世紀の登山記でも人穴と共にその存在が長谷川角行との関わり
を通して紹介されている。また、白糸ノ滝は景勝地としても有
名であり、多くの和歌・絵画の題材となっている。写真B15
の写真表法的保護、修理・整備の経緯1936年所在地が国立
公園法の下に(富士箱根)国立公園に指定1936年史蹟名勝
天然紀念物保存法の下に名勝及び天然紀念物に指定1987年
富士宮市により「白糸ノ滝」保存管理計画が策定2010年富
士宮市により保存管理計画が改定され、これにと

286 :
叢(周辺の植生)・碑塔群・参道・建物跡・参道跡・道跡・炭焼
窯跡・井戸跡B15白糸ノ滝・古富士泥流堆積物・白糸溶岩流・
白糸の滝・音止の滝・鬢撫水・植物・富士講・白糸の滝の勝景・
音止の勝景・富士山の展望・富士の巻狩の伝承・歌碑・標識C三
保松原・特別規制A地区・特別規制B地区・第1種規制地区・第
2種規制地区・第3種規制地区@自然地形(山林、河川など)・
宝永山(宝永火口)・溶岩洞穴、樹型等富士山体・側火山からの
噴出物による地形・富士山原始林及び青木ヶ原樹海・国指定天然
記念物(鳴沢溶岩樹型、鳴沢氷穴、本栖風穴等)A森林、植栽樹
木(山林を構成する森林、寺社・遺跡等の植栽樹木など)・自然
林、森林施業地、人工林・社叢林、境内林・富士山特定地理等保
護林・富士箱根伊豆国立公園富士山管理計画区B保存管理又は公
開活用を目的とした建造物(展示館、管理棟、解説板など)・総
合案内標識、解説板C道路とその他の人工物(生活用道路、電柱
、看板など)顕著な普遍的価値を構成する諸要素と密接に関わる
諸要素・富士山測候所・NTT富士山頂分室・便益施設@自然的
要素(山並み、河川など)A歴史的要素(埋蔵文化財、社寺境内
、伝承地など)成する諸要素周辺環境を構B人文的要素(農耕地
、市街地、道路、その他人工物)上表において分類した諸要素に
ついて、以下に提示する。(1)顕著な普遍的価値を構成する諸
要素@富士山山体及び登山道A富士山富士山体のうち、標高約1
500m以上の範囲である。この範囲は、周辺の浅間神社や展望
地点から見た可視領域が重なり合う範囲で、芸術・鑑賞の側面に
おける比重が最も高い。各登山道における山体の神聖性に関する
境界の一つである「馬返」(乗馬登山が物理的にも、宗教的観点
からも不可能になる地点)の標高以上の範囲とほぼ一致している
。地元住民が、とりわけこの「馬返」より上を目指して「オヤマ
」又は「オヤマサマ」と呼び、富士山の範囲と見なす地域もあっ
た。景観的には山体の傾斜角の変化率が大きくなり「平野部」と
「山体」の境界として認識され、稜線が優美な曲線を描き絵画な
どの対象となることが多い範囲である。御中道巡りのルートには
、現在も石碑が一部残存している。ルートはほぼ森

287 :
計画に基づき、滝周辺の景観整備が行われた(3)眺望C三保
松原富士山頂の南西約45kmに位置する駿河湾に突き出した
長さ約7kmの砂嘴をなす三保半島上の松原である。現在、5
万4千本の黒松が外海側海岸線4kmを中心に繁茂し、その中
でも樹齢約650年といわれる「羽衣の松」付近は、富士山と
砂浜の松という日本で好まれた景観を組み合わせて望むことが
できる景勝地として知られている。三保松原のある三保半島は
約6000年前に現在の形となったと考えられ、三保の名前は
内海側の三つの岬を稲穂にたとえたという説が有力である。か
つては半島一帯に松が繁茂し、8世紀初頭には松原自体を景勝
地として捉えた和歌が詠まれ、「万葉集」に掲載された。その
後遅くとも13世紀初頭までに三保松原は後鳥羽上皇など中央
の権力者に富士山と組み合わされた景勝地として認識され、1
4〜15世紀には室町幕府将軍足利義満と足利義教が三保半島
と対岸(現静岡市清水区興津)との間を船で渡り富士山を眺め
る行事を行い、16世紀には徳川家康が三保半島内海側に富士
見櫓を建設した。文学では「万葉集」以降も和歌等の詩の題材
となると共に、地元の伝説を基にし、羽衣の松を舞台とした謡
曲(能)「羽衣」が遅くとも16世紀までに成立した。降臨し
た天女と漁師との出会いと別れを描いたこの話の最終場面では
ヒロインの天女が富士山方向へ飛び去っていく描写が見られる
。これはすでに成立していた「竹取物語」で示された富士山の
噴煙が天上と地上とを結んでいるとする考えとの関係が指摘さ
れている。この作品は、19世紀後半、海外へ伝えられ、イェ
ーツ、パウンドといったモダニズムの作家に影響を与えるとと
もに、伝統芸能である「能」が世界に広まるきっかけを作った
作品である。また、絵画でも15〜16世紀には三保松原を右
に富士山を左に配する構図が描かれ、この構図は狩野探幽によ
り完成され、19世紀に至るまで日本画・浮世絵において富士
山を描く際の典型的構図とされた。また、20世紀には和田英
作が「羽衣の松」付近から見た富士山を数多く描いた。三保松
原は16世紀以降、江戸幕府の直轄地となり松が

288 :
て、富士山体を一周する。15〜16世紀ごろ富士講の祖とされ
る長谷川角行によって開かれたとされその後大沢崩れ−41−を
通るため富士講信者により修行の道として利用された。写真標高
約1500m以上の写真A1山頂信仰遺跡図山頂信仰遺跡の分布
図・富士山本宮奥宮富士宮口登山道頂上に位置し、7、8月の開
山期にのみ開かれる。祭神は木花之佐久夜毘売命である。『本朝
世紀』には、久安5年(1149)「富士上人末代は、富士山に
数百度登り、山頂に仏閣を構え、大日寺と称し、写

289 :
6年所在地が国立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指定1936年史蹟名勝天
然紀念物保存法の下に名勝及び天然紀念物に指定1987年富士宮市により「白糸
ノ滝」保存管理計画が策定2010年富士宮市により保存管理計画が改定され、こ
れにともなった整備計画に基づき、滝周辺の景観整備が行われた(3)眺望C三保
松原富士山頂の南西約45kmに位置する駿河湾に突き出した長さ約7kmの砂嘴
をなす三保半島上の松原である。現在、5万4千本の黒松が外海側海

290 :
。江戸幕府滅亡後は内海側の開発が進んだが、外海側の景観は
保たれ、1922年、国内初の名勝として国文化財に指定され
た。現在、砂礫の供給減による海岸侵食とマツクイムシによる
松の枯死が進んでいるため、静岡市及び地元民間団体による保
護活動が行われている。写真三保松原(現在の写真・静岡市)
写真歌川広重の浮世絵−37−写真三保松原の写真表法的保護
、修理・整備の経緯1922年史蹟名勝天然紀念物保存法の下
に名勝に指定1976年名勝「三保松原」管理計

291 :
た」とある。江戸時代には、村山三坊所有の大日堂があったが、
明治7年(1874)、廃仏毀釈により山中の仏像を取り除き、
大日堂跡へ奥宮を建立し、浅間大神を祭った。写真奥宮の写真[
奥宮周辺の石碑群](a)蹲虎の碑(高さ139×幅64×厚さ
18p)奥宮の裏手、浅間岳の麓に所在する。一方の面に漢文が
、もう一方には虎の絵が彫られている。天保年間(1830−3
4)に、岸岱が作ったとされる。(b)鎮國之山(高さ146×
幅61×厚さ31p)奥宮の前に所在する。碑面に「鎮國之山」
と彫られている。明治31年(1898)に書家の中林梧竹によ
り建碑された。後年、落雷により破壊されたが、昭和42年(1
967)に再建された。・東北奥宮(久須志神社)浅間大社奥宮
の末社で、大名牟遅命、少彦名命を祀る。須走口登山道、吉田口
登山道の終点にある。室町時代以降、頂上の一つである久須志岳
(旧薬師ヶ嶽)に薬師堂があり、道者の登山切手を改めた。古く
は山役銭の徴収場であった。薬師堂は奥宮の場合と同様に廃仏毀
釈により破却され、久須志神社と改称した。写真東北奥宮の写真
・金明水雪解け水が湧く泉で、その湧き水は霊験あらたかな「御
霊水」として珍重された。大正期の写真をみると、井戸は石組み
や木製の柵で囲われ、旗や幟などもみられる。・銀明水金明水と
おなじく、富士山頂の霊験あらたかな湧き水として珍重された。
『富士の歴史』によれば、「如何なる旱にも水の涸れることはな
い」と記している。写真銀明水の写真[銀明水の石碑群](a)
石碑@(高さ112×幅62p)銘文には「明治三拾九年」と「
大正五年」の2つの年代が確認できる。富士講の人々が建碑した
ものと考えられる。(b)石碑A(高さ162×下幅76×上幅
63p)表面に龍が、裏面には文字が刻まれている。(c)石碑
B(未計測)「大正十三年八月」と刻してある。写真銀明水の石
碑群の写真−42−・八葉(剣ヶ峰、白山岳、久須志岳、成就岳
、伊豆岳、朝日岳、浅間岳、駒ヶ岳、三島岳)山頂部の直径約8
00mの火口を囲む峰々の総称で、それぞれの峰に仏が住むとさ
れた。文永年中(1264〜1275)の作である『万葉集註釈
』には「いたゞきに八葉の嶺あり」とあることから

292 :
中心に繁茂し、その中でも樹齢約650年といわれる「羽衣の松」付近は、富士山
と砂浜の松という日本で好まれた景観を組み合わせて望むことができる景勝地とし
て知られている。三保松原のある三保半島は約6000年前に現在の形となったと
考えられ、三保の名前は内海側の三つの岬を稲穂にたとえたという説が有力である
。かつては半島一帯に松が繁茂し、8世紀初頭には松原自体を景勝地として捉えた
和歌が詠まれ、「万葉集」に掲載された。その後遅くとも13世紀初頭までに三保
松原は後鳥羽上皇など中央の権力者に富士山と組み合わされた景勝地として認識さ
れ、14〜15世紀には室町幕府将軍足利義満と足利義教が三保半島と対岸(現静
岡市清水区興津)との間を船で渡り富士山を眺める行事を行い、16世紀には徳川
家康が三保半島内海側に富士見櫓を建設した。文学では「万葉集」以降も和歌等の
詩の題材となると共に、地元の伝説を基にし、羽衣の松を舞台とした謡曲(能)「
羽衣」が遅くとも16世紀までに成立した。降臨した天女と漁師との出会いと別れ
を描いたこの話の最終場面ではヒロインの天女が富士山方向へ飛び去っていく描写
が見られる。これはすでに成立していた「竹取物語」で示された富士山の噴煙が天
上と地上とを結んでいるとする考えとの関係が指摘されている。この作品は、19
世紀後半、海外へ伝えられ、イェーツ、パウンドといったモダニズムの作家に影響
を与えるとともに、伝統芸能である「能」が世界に広まるきっかけを作った作品で
ある。また、絵画でも15〜16世紀には三保松原を右に富士山を左に配する構図
が描かれ、この構図は狩野探幽により完成され、19世紀に至るまで日本画・浮世
絵において富士山を描く際の典型的構図とされた。また、20世紀には和田英作が
「羽衣の松」付近から見た富士山を数多く描いた。三保松原は16世紀以降、江戸
幕府の直轄地となり松が守られてきた。江戸幕府滅亡後は内海側の開発が進んだが
、外海側の景観は保たれ、1922年、国内初の名勝として国文化財に指定された
。現在、砂礫の供給減による海岸侵食とマツクイムシによる松の枯死

293 :
977年名勝地内の一部が指定解除1989年名勝「三保松原
」保存管理計画書を改定1990年名勝地内の一部が追加指定
及び指定解除2011年名勝「三保松原」保存管理計画書を改
定第3章保存管理の基本方針1顕著な普遍的価値及び周辺環境
を構成する諸要素世界文化遺産「富士山」の顕著な普遍的価値
は以下に示すとおりである。「富士山」の顕著な普遍的価値富
士山は、日本を代表し象徴する日本最高峰(標高3776m)
の秀麗な独立した火山として世界的に著名であり、その自然的
美しさと崇高さを基盤として日本人の自然に対する信仰の在り
方や、海外に影響を与えた葛飾北斎や歌川広重などによる顕著
な普遍的価値を持つ「浮世絵」などの日本独自の芸術文化を育
んだ「名山」である。富士山は山岳に対する信仰の在り方や芸
術活動などを通じ、時代を超えて一国の文化の諸相と極めて深
い関連性を示し、生きた文化的伝統の物証であるのみならず、
人間と自然との良好で継続的な関係を示す景観の傑出した類型
として、世界的にも類例を見ない顕著な普遍的価値を持つ山で
ある。本計画では、顕著な普遍的価値に対し、資産に含まれる
要素を「顕著な普遍的価値を構成する諸要素」と「顕著な普遍
的価値を構成する諸要素と密接に関わる諸要素」に分類し、さ
らに緩衝地帯における「周辺環境を構成する諸要素」を加え、
表に示すとおり整理を行った。A富士山山体及び登山道B信仰
に関わる周辺のものC富士山から離れた眺望に関わるもの表富
士山の構成要素A富士山(富士山体)A1山頂信仰遺跡・富士
山本宮奥宮・東北奥宮(久須志神社)・金明水・銀明水・八葉
(剣ヶ峰、白山岳、久須志岳、成就岳、伊豆岳、朝日岳、浅間
岳、駒ヶ岳、三島岳)・大内院・小内院・馬の背・東安河原・
西安河原・虎岩(獅子岩)・割石・雷岩・このしろが池・荒巻
・吉田須走拝所跡・須山拝所跡・村山大宮拝所跡・三島ヶ岳経
塚・外浜道・内浜道A2大宮・村山口登山道・札打場・中宮八
幡堂跡(1号建物跡)・八大龍王・5号建物跡・8号建物跡・
12号建物跡・鳥居A3須山口登山道・須山御胎内(溶岩洞穴
)・石像・石燈篭・鳥居・標柱・祠A4須走口登

294 :
(=^ェ^=)

295 :
期には山頂の峰々を蓮の「八葉」に見立てていたと考えられる。
江戸時代後期の地誌である『駿河国新風土記』には「ソノ名一定
ノ説ナク、又峰ノ数八ツアルニアラズ。コマカニカゾヘバ、十二
バカリナリト言フ。」とあり、八葉を構成する峰も、またその名
称も一定でないことがわかる。峰の名称は、明治8年に廃仏毀釈
により仏教色を払拭したものに変更された。以下、平成20年度
の静岡県埋蔵文化財調査研究所による発掘調査報告書で示された
9つの峰について、最高峰の剣ヶ峰からお鉢巡りの回り方である
時計回りの順に、記述する。なお、浅間大社では、伊豆岳以外の
8つをもって「八神峰」としている。図八葉の配置図[剣ヶ峰(
標高約3,776m)]かつては剣ノ峰、阿弥陀岳とも呼ばれた
。遠くから見ると剣を立てたようにそびえ立っているためにこの
名があるという。道者たちはあまりに険しいこの峰を恐れて多く
は登らなかったという。この峰の石は「神の惜ミ給ふ」とされ、
採取を禁じられたが、麓からの石と取り替えるということが行わ
れていた。写真剣ヶ峰の写真図気象庁測候所跡周辺の平面図[白
山岳(標高約3,756m)]かつては釈迦ヶ岳とも呼ばれた。
現在は一般の立入は禁止されている。頂上には鳥居が立ち、また
二等三角点が存在する。[久須志岳(標高約3,725m)]か
つては薬師岳とも呼ばれた。現在の久須志神社の裏手にあたる。
他の峰々と比べ傾斜はなだらかである。頂上には鳥居が火口の方
向に向けて建てられている。頂上付近には石造物が残存し、首か
ら上と手首から先が欠損している。台座正面に「食行」「身禄」
の文字が確認できる。写真久須志岳の石造物の写真[成就岳(標
高約3,734m)]かつては大日岳とも呼ばれ、大小2つの鳥
居が、噴火口の方角を向いて建てられている。[伊豆岳(標高約
3,748m)]かつては勢至ヶ嶽、観音嶽とも呼ばれた。『浅
間神社の歴史』には、「中腹より地中に熱気を感じ、下りて荒巻
の険を越え、成就岳にいたるまで、至る所に蒸気を噴出する」と
ある。頂上には鳥居は見られない。[朝日岳(標高約3,733
m)]伊豆岳と同様、かつては地中から蒸気を発していたとされ
る。頂上に鳥居は存在しない。石積みがあるが時期

296 :
神社・迎久須志之神社・鳥居・狛犬・石碑A5吉田口登山道・
現登山道・旧登山道・馬返・五合目・烏帽子岩A6北口本宮冨
士浅間神社−38−−39−・本殿・東宮本殿・西宮本殿・大
塚山・御鞍石A7西湖・湖水A8精進湖・湖水A9本栖湖・湖
水・中ノ倉峠からの展望B1富士山本宮浅間大社・神立山・湧
玉池(上池、下池)・社叢・社殿(本殿・拝殿・幣殿)・透塀
・楼門・手水舎・廻廊・灯籠・石鳥居・東鳥居・西鳥居・桜の
馬場・禊所・神幸橋(湧玉橋)・輪橋(太鼓橋)・護摩堂跡(
推定)・随身像・狛犬・御神幸道首標の碑・三之宮・七之宮・
鉾立石・欄干橋(神路橋、神路枚橋)B2山宮浅間神社・溶岩
流地形・社叢・籠屋(参籠所)・鉾立石・石段(参道)・石塁
・玉垣・遥拝所・石鳥居・参道B3村山浅間神社・元村山溶岩
流・水源地「竜頭ヶ池」・御神木(イチョウ、大スギ)・社叢
・浅間神社社殿・大日堂(興法寺)・水垢離場・護摩壇・氏神
社(高嶺総鎮守社)・石鳥居・氏神社鳥居・手水舎(手水鉢)
・石段(参道)・狛犬B4須山浅間神社・社叢・社殿・神輿殿
・狛犬・灯籠・手水舎・参道・鳥居・石碑・古宮神社B5冨士
浅間神社(須走浅間神社)・社叢(浅間の杜)・ハルニレ・エ
ゾヤマザクラ・根上がりモミ・社殿・楼門・参道大鳥居・裏参
道鳥居・富士塚狛犬・富士講講碑群B6河口浅間神社・社殿、
鳥居B7冨士御室浅間神社・吉田口二合目(拝殿の一部、行者
堂跡、定善院跡、建物礎石)・移築された二合目本殿B8御師
住宅(旧外川家住宅、小佐野家住宅)・主屋・離座敷・中門・
屋敷地(タツミチ)B9山中湖・湖水B10河口湖・湖水B1
1忍野八海・八つの池(出口池、御釜池、底抜池、銚子池、湧
池、濁池、鏡池、菖蒲池)・湧水B12船津胎内樹型・溶岩樹
型・無戸室浅間神社、石造物群B13吉田胎内樹型・溶岩樹型
・洞内の石祠、石造物群−40−B14人穴富士講遺跡(人穴
浅間神社)・犬涼み溶岩流・溶岩洞穴・社叢(周辺の植生)・
碑塔群・参道・建物跡・参道跡・道跡・炭焼窯跡・井戸跡B1
5白糸ノ滝・古富士泥流堆積物・白糸溶岩流・白糸の滝・音止
の滝・鬢撫水・植物・富士講・白糸の滝の勝景・

297 :
。他の峰々と比べ、文献の言及が乏しい。[浅間岳(標高約3,
722m)]浅間大社奥宮の裏手にあり、頂上に鳥居がある。現
在は一般の立入が制限されている。[駒ヶ岳(標高約3,718
m)]聖徳太子が黒駒に乗って登山した際に、ここで休息をとっ
たという伝説のある峰である。山頂に鳥居が存在する。峰全体が
岩石からできている。[三島岳(標高約3,734m)]−43
−かつては文殊岳とも呼ばれた。頂上に木製の鳥居と、「三島岳
」と刻まれた白い角材の木杭が立っている。三島岳の石仏群とし
て、三島岳のふもと、かつて経塚が発見された付近に、10体の
石像が安置されている。これらは原位置を留めておらず、周辺に
あったものが集められたと考えられる。いずれも頭部を欠損して
いる。・大内院山頂の火口中央に存在する穴で、ここより雲が生
じ、風が起きるとされた。大内院(噴火口)は中央にある大きな
火口、小内院(阿弥陀ヶ窪)は雷岩の下の小さな火口を指す。神
や仏の居る所であると信じられ、登山者は各登山口に設けられた
拝所あるいは初穂打場から、噴火口に向けて賽銭を投げ入れた。
現在、噴火口への立入は禁止されている。写真大内院の写真・小
内院西安河原から白山岳に向かう途中にある大きな窪地で、大内
院との対比で小内院と呼ばれる。かつては噴火口だったと考えら
れる。写真小内院の写真・馬の背剣ヶ峰に通じる坂道で、火山礫
と砂の急斜面である。お鉢巡りの道中で最大の難所である。現在
はブルドーザーが通れるよう整地されている。火口に向けて傾斜
しており、その険しさから道者たちの多くは剣ヶ峰に登らなかっ
たといわれる。・東安河原須山口拝所東側にあり、山頂部では稀
な広い平坦部である。かつては現世と来世の境である「賽の河原
」になぞらえて、道者たちが溶岩礫を積み上げ石塔を作った。ま
た「初穂打場」とも呼ばれ、火口に向けて賽銭が投げ込まれた場
所とされる。・西安河原東安河原と対をなす、剣ヶ峰から北側に
下りた付近の平坦部である。火口の外壁を行く外浜道と内壁を行
く内浜道との分岐点に位置する。・虎岩(獅子岩)大内院の南岸
に突き出た大岩で、形状が虎(獅子)のうずくまる姿に似ている
ことから名付けられた。・割石かつては「釈迦の割

298 :
田須走拝所跡・須山拝所跡・村山大宮拝所跡・三島ヶ岳経塚・外浜道・内浜道A2
大宮・村山口登山道・札打場・中宮八幡堂跡(1号建物跡)・八大龍王・5号建物
跡・8号建物跡・12号建物跡・鳥居A3須山口登山道・須山御胎内(溶岩洞穴)
・石像・石燈篭・鳥居・標柱・祠A4須走口登山道・古御岳神社・迎久須志之神社
・鳥居・狛犬・石碑A5吉田口登山道・現登山道・旧登山道・馬返・五合目・烏帽
子岩A6北口本宮冨士浅間神社−38−−39−・本殿・東宮本殿・西宮本殿・大
塚山・御鞍石A7西湖・湖水A8精進湖・湖水A9本栖湖・湖水・中ノ倉峠からの
展望B1富士山本宮浅間大社・神立山・湧玉池(上池、下池)・社叢・社殿(本殿
・拝殿・幣殿)・透塀・楼門・手水舎・廻廊・灯籠・石鳥居・東鳥居・西鳥居・桜
の馬場・禊所・神幸橋(湧玉橋)・輪橋(太鼓橋)・護摩堂跡(推定)・随身像・
狛犬・御神幸道首標の碑・三之宮・七之宮・鉾立石・欄干橋(神路橋、神路枚橋)
B2山宮浅間神社・溶岩流地形・社叢・籠屋(参籠所)・鉾立石・石段(参道)・
石塁・玉垣・遥拝所・石鳥居・参道B3村山浅間神社・元村山溶岩流・水源地「竜
頭ヶ池」・御神木(イチョウ、大スギ)・社叢・浅間神社社殿・大日堂(興法寺)
・水垢離場・護摩壇・氏神社(高嶺総鎮守社)・石鳥居・氏神社鳥居・手水舎(手
水鉢)・石段(参道)・狛犬B4須山浅間神社・社叢・社殿・神輿殿・狛犬・灯籠
・手水舎・参道・鳥居・石碑・古宮神社B5冨士浅間神社(須走浅間神社)・社叢
(浅間の杜)・ハルニレ・エゾヤマザクラ・根上がりモミ・社殿・楼門・参道大鳥
居・裏参道鳥居・富士塚狛犬・富士講講碑群B6河口浅間神社・社殿、鳥居B7冨
士御室浅間神社・吉田口二合目(拝殿の一部、行者堂跡、定善院跡、建物礎石)・
移築された二合目本殿B8御師住宅(旧外川家住宅、小佐野家住宅)・主屋・離座
敷・中門・屋敷地(タツミチ)B9山中湖・湖水B10河口湖・湖水B11忍野八
海・八つの池(出口池、御釜池、底抜池、銚子池、湧池、濁池、鏡池、菖蒲池)・
湧水B12船津胎内樹型・溶岩樹型・無戸室浅間神社、石造物群B1

299 :
富士山の展望・富士の巻狩の伝承・歌碑・標識C三保松原・特
別規制A地区・特別規制B地区・第1種規制地区・第2種規制
地区・第3種規制地区@自然地形(山林、河川など)・宝永山
(宝永火口)・溶岩洞穴、樹型等富士山体・側火山からの噴出
物による地形・富士山原始林及び青木ヶ原樹海・国指定天然記
念物(鳴沢溶岩樹型、鳴沢氷穴、本栖風穴等)A森林、植栽樹
木(山林を構成する森林、寺社・遺跡等の植栽樹木など)・自
然林、森林施業地、人工林・社叢林、境内林・富士山特定地理
等保護林・富士箱根伊豆国立公園富士山管理計画区B保存管理
又は公開活用を目的とした建造物(展示館、管理棟、解説板な
ど)・総合案内標識、解説板C道路とその他の人工物(生活用
道路、電柱、看板など)顕著な普遍的価値を構成する諸要素と
密接に関わる諸要素・富士山測候所・NTT富士山頂分室・便
益施設@自然的要素(山並み、河川など)A歴史的要素(埋蔵
文化財、社寺境内、伝承地など)成する諸要素周辺環境を構B
人文的要素(農耕地、市街地、道路、その他人工物)上表にお
いて分類した諸要素について、以下に提示する。(1)顕著な
普遍的価値を構成する諸要素@富士山山体及び登山道A富士山
富士山体のうち、標高約1500m以上の範囲である。この範
囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見た可視領域が重なり合
う範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が最も高い。各登山
道における山体の神聖性に関する境界の一つである「馬返」(
乗馬登山が物理的にも、宗教的観点からも不可能になる地点)
の標高以上の範囲とほぼ一致している。地元住民が、とりわけ
この「馬返」より上を目指して「オヤマ」又は「オヤマサマ」
と呼び、富士山の範囲と見なす地域もあった。景観的には山体
の傾斜角の変化率が大きくなり「平野部」と「山体」の境界と
して認識され、稜線が優美な曲線を描き絵画などの対象となる
ことが多い範囲である。御中道巡りのルートには、現在も石碑
が一部残存している。ルートはほぼ森林限界に沿って、富士山
体を一周する。15〜16世紀ごろ富士講の祖とされる長谷川
角行によって開かれたとされその後大沢崩れ−4

300 :
た溶岩で、溶岩が急速に冷えて固まったため割れていた。高さが
15m程あったが、現在は崩壊してしまっている。古くから行者
の修行場として知られ、食行身禄がここで入定しようとしたが、
大宮浅間の社人からの許可が得られず、吉田口七合五勺の烏帽子
岩で入定したとされる。写真割石の写真・雷岩白山岳の西側にあ
る岩で、この方角から強い雷雲がくる事からこう呼

301 :
型・溶岩樹型・洞内の石祠、石造物群−40−B14人穴富士講遺跡(人穴浅間神
社)・犬涼み溶岩流・溶岩洞穴・社叢(周辺の植生)・碑塔群・参道・建物跡・参
道跡・道跡・炭焼窯跡・井戸跡B15白糸ノ滝・古富士泥流堆積物・白糸溶岩流・
白糸の滝・音止の滝・鬢撫水・植物・富士講・白糸の滝の勝景・音止の勝景・富士
山の展望・富士の巻狩の伝承・歌碑・標識C三保松原・特別規制A地区・特別規制
B地区・第1種規制地区・第2種規制地区・第3種規制地区@自然地

302 :
め富士講信者により修行の道として利用された。写真標高約1
500m以上の写真A1山頂信仰遺跡図山頂信仰遺跡の分布図
・富士山本宮奥宮富士宮口登山道頂上に位置し、7、8月の開
山期にのみ開かれる。祭神は木花之佐久夜毘売命である。『本
朝世紀』には、久安5年(1149)「富士上人末代は、富士
山に数百度登り、山頂に仏閣を構え、大日寺と称し、写経を埋
納下した」とある。江戸時代には、村山三坊所有の大日堂があ
ったが、明治7年(1874)、廃仏毀釈により

303 :
る。また、文化年間の初め、岩より雷鳴がとどろいて雷獣が出現
し、8合目の石室に走り入った。これを石室に居合わせた人々が
生け捕りにしたとも伝えられる。・このしろが池三島岳の雪解け
水が窪地に溜まってできる季節的な池で、6月から7月に姿を現
し、雪解け水の供給が無くなると消えてしまう。・荒巻−44−
かつては勢至ヶ窪と呼ばれ、強い風が吹き付ける富士山頂の難所
として知られた。道の火口側には、火山礫を積み上げた石組みが
ある。・吉田須走拝所跡須走口登山道を登りきったところにあっ
たとされる。拝所は初穂打場とも呼ばれ、登山者たちが賽銭を噴
火口の大内院に投げ入れる、そこに鎮座する浅間大菩薩を拝む場
所であった。また、御来光を拝む場所でもあった。現在は、付近
に鳥居がなく痕跡も残っていないため、場所を特定することはで
きない。写真吉田須走拝所跡の写真・須山拝所跡銀明水の裏手の
火口を臨む位置にあったとされる。大正2年(1913)の登山
スタンプが押された写真では、銀明水裏手の火口の縁に立ってい
る鳥居が確認できる。現在その地点には、2つの目印の石が存在
している。写真須山拝所跡の写真・村山大宮拝所跡『隔掻録』は
、大日堂の裏手に建つ鳥居を「大宮拝所」としている。『富士山
明細図』は、このしろが池の裏手の鳥居を影拝所としている。こ
のしろが池から剣ヶ峰の登山道に沿って3体の大日如来があり、
それぞれ延徳2年(1490)、天文12年(1543)、寛永
元年(1624)の銘があったとされる。昭和初期の絵葉書にも
、剣ヶ峰の手前の火口を臨む位置に鳥居が建っている。写真村山
・大宮拝所跡の写真・三島ヶ岳経塚昭和4年(1929)、頂上
の神官が銅仏の破片と一石経を採集して下山、それを受けて昭和
5年に三島岳のふもとを調査したところ、経巻が詰まった経筒や
木槨、土器片などの遺物が出土した。富士山本宮浅間大社には、
現在10巻分の経巻が残っており、うち5巻は開かれていて内容
を確認できる。経巻のスタイルや計測値から平安時代後期までさ
かのぼる可能性が考えられる。写真出土遺物の写真・外浜道・内
浜道山頂を周回し八葉を巡る「お鉢巡り」を行う道である。剣ヶ
峰を下り西安河原の北側で道が二手に分かれるが、

304 :
川など)・宝永山(宝永火口)・溶岩洞穴、樹型等富士山体・側火山からの噴出物
による地形・富士山原始林及び青木ヶ原樹海・国指定天然記念物(鳴沢溶岩樹型、
鳴沢氷穴、本栖風穴等)A森林、植栽樹木(山林を構成する森林、寺社・遺跡等の
植栽樹木など)・自然林、森林施業地、人工林・社叢林、境内林・富士山特定地理
等保護林・富士箱根伊豆国立公園富士山管理計画区B保存管理又は公開活用を目的
とした建造物(展示館、管理棟、解説板など)・総合案内標識、解説板C道路とそ
の他の人工物(生活用道路、電柱、看板など)顕著な普遍的価値を構成する諸要素
と密接に関わる諸要素・富士山測候所・NTT富士山頂分室・便益施設@自然的要
素(山並み、河川など)A歴史的要素(埋蔵文化財、社寺境内、伝承地など)成す
る諸要素周辺環境を構B人文的要素(農耕地、市街地、道路、その他人工物)上表
において分類した諸要素について、以下に提示する。(1)顕著な普遍的価値を構
成する諸要素@富士山山体及び登山道A富士山富士山体のうち、標高約1500m
以上の範囲である。この範囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見た可視領域が重
なり合う範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が最も高い。各登山道における山
体の神聖性に関する境界の一つである「馬返」(乗馬登山が物理的にも、宗教的観
点からも不可能になる地点)の標高以上の範囲とほぼ一致している。地元住民が、
とりわけこの「馬返」より上を目指して「オヤマ」又は「オヤマサマ」と呼び、富
士山の範囲と見なす地域もあった。景観的には山体の傾斜角の変化率が大きくなり
「平野部」と「山体」の境界として認識され、稜線が優美な曲線を描き絵画などの
対象となることが多い範囲である。御中道巡りのルートには、現在も石碑が一部残
存している。ルートはほぼ森林限界に沿って、富士山体を一周する。15〜16世
紀ごろ富士講の祖とされる長谷川角行によって開かれたとされその後大沢崩れ−4
1−を通るため富士講信者により修行の道として利用された。写真標高約1500
m以上の写真A1山頂信仰遺跡図山頂信仰遺跡の分布図・富士山本宮

305 :
取り除き、大日堂跡へ奥宮を建立し、浅間大神を祭った。写真
奥宮の写真[奥宮周辺の石碑群](a)蹲虎の碑(高さ139
×幅64×厚さ18p)奥宮の裏手、浅間岳の麓に所在する。
一方の面に漢文が、もう一方には虎の絵が彫られている。天保
年間(1830−34)に、岸岱が作ったとされる。(b)鎮
國之山(高さ146×幅61×厚さ31p)奥宮の前に所在す
る。碑面に「鎮國之山」と彫られている。明治31年(189
8)に書家の中林梧竹により建碑された。後年、落雷により破
壊されたが、昭和42年(1967)に再建された。・東北奥
宮(久須志神社)浅間大社奥宮の末社で、大名牟遅命、少彦名
命を祀る。須走口登山道、吉田口登山道の終点にある。室町時
代以降、頂上の一つである久須志岳(旧薬師ヶ嶽)に薬師堂が
あり、道者の登山切手を改めた。古くは山役銭の徴収場であっ
た。薬師堂は奥宮の場合と同様に廃仏毀釈により破却され、久
須志神社と改称した。写真東北奥宮の写真・金明水雪解け水が
湧く泉で、その湧き水は霊験あらたかな「御霊水」として珍重
された。大正期の写真をみると、井戸は石組みや木製の柵で囲
われ、旗や幟などもみられる。・銀明水金明水とおなじく、富
士山頂の霊験あらたかな湧き水として珍重された。『富士の歴
史』によれば、「如何なる旱にも水の涸れることはない」と記
している。写真銀明水の写真[銀明水の石碑群](a)石碑@
(高さ112×幅62p)銘文には「明治三拾九年」と「大正
五年」の2つの年代が確認できる。富士講の人々が建碑したも
のと考えられる。(b)石碑A(高さ162×下幅76×上幅
63p)表面に龍が、裏面には文字が刻まれている。(c)石
碑B(未計測)「大正十三年八月」と刻してある。写真銀明水
の石碑群の写真−42−・八葉(剣ヶ峰、白山岳、久須志岳、
成就岳、伊豆岳、朝日岳、浅間岳、駒ヶ岳、三島岳)山頂部の
直径約800mの火口を囲む峰々の総称で、それぞれの峰に仏
が住むとされた。文永年中(1264〜1275)の作である
『万葉集註釈』には「いたゞきに八葉の嶺あり」とあることか
ら、鎌倉時代中期には山頂の峰々を蓮の「八葉」

306 :
雷岩、割石を経て白山岳に至る道が外浜道で、峰の内側を大内院
に沿って回り金明水に至る道が内浜道である。沿道には信仰に関
わる工作物や自然物が数多く存在する。外浜道は近年崩落が著し
く、現在は立入禁止となっている。A2大宮・村山口登山道図登
山道に要素が点在している平面図・札打場村山浅間神社の北東約
3.5q、天照教社の西南西約1qの地点(標高約830m)に
、東西約7m、南北約10mの平場がある。南側に1本の大きな
ケヤキの巨木があり、ここが札打場であった。札打とは、自分の
院号を記した札を打ちつけることである。村山で修験道が盛んで
あった頃、山伏が峰入修行に先立ち札打を行った。昭和30年(
1955)頃までは、木に打ちつけた札が見られたという写真札
打場の写真・中宮八幡堂跡(1号建物跡)村山口登山道跡と富士
山スカイラインが交差する地点から南西方向に約500mの地点
に位置する。標高は約1,280mである。東側を走る沢から一
段上がった平坦面に所在している。平坦面は2段あり、上−45
−段には小さな祠が建てられている。また下段には、南東から北
西方向に石列が伸びている。江戸時代には馬返しと呼ばれ、駒立
小屋があったとされる。また、ここからは女人は登山道を登るこ
とを許されず、駒立小屋は女人堂として使われた時期もあったと
考えられる。下段平坦面の南側には溝が東西方向に延び、西側の
森林に突き当たって痕跡をたどれなくなる。木馬道である可能性
が指摘される。写真中宮八幡堂の写真・八大龍王中宮八幡堂跡よ
り北東に約100mの地点に「八大龍王」と刻まれた石碑と水神
の祠が並んで建てられている。水神祠には「文化十三年寅年六月
日」、八大龍王には「文化七年七月十七日」との銘が刻まれてい
る。駿河国大宮町神田の横関家の主人が、天保14年(1843
)から文久3年(1863)にかけて記録した『袖日記』には、
安政7年(1860)5月11日の条に「中宮八幡堂の井戸を掘
ったので山が荒れた」との記述がある。この「中宮八幡堂の井戸
」とは、八大龍王前にある井戸跡を指すものと考えられている。
井戸跡は幅80p、深さ50pほどである。・5号建物跡4号建
物跡から登山道跡を登りしばらくすると一面の倒木

307 :
登山道頂上に位置し、7、8月の開山期にのみ開かれる。祭神は木花之佐久夜毘売
命である。『本朝世紀』には、久安5年(1149)「富士上人末代は、富士山に
数百度登り、山頂に仏閣を構え、大日寺と称し、写経を埋納下した」とある。江戸
時代には、村山三坊所有の大日堂があったが、明治7年(1874)、廃仏毀釈に
より山中の仏像を取り除き、大日堂跡へ奥宮を建立し、浅間大神を祭った。写真奥
宮の写真[奥宮周辺の石碑群](a)蹲虎の碑(高さ139×幅64×厚さ18p
)奥宮の裏手、浅間岳の麓に所在する。一方の面に漢文が、もう一方には虎の絵が
彫られている。天保年間(1830−34)に、岸岱が作ったとされる。(b)鎮
國之山(高さ146×幅61×厚さ31p)奥宮の前に所在する。碑面に「鎮國之
山」と彫られている。明治31年(1898)に書家の中林梧竹により建碑された
。後年、落雷により破壊されたが、昭和42年(1967)に再建された。・東北
奥宮(久須志神社)浅間大社奥宮の末社で、大名牟遅命、少彦名命を祀る。須走口
登山道、吉田口登山道の終点にある。室町時代以降、頂上の一つである久須志岳(
旧薬師ヶ嶽)に薬師堂があり、道者の登山切手を改めた。古くは山役銭の徴収場で
あった。薬師堂は奥宮の場合と同様に廃仏毀釈により破却され、久須志神社と改称
した。写真東北奥宮の写真・金明水雪解け水が湧く泉で、その湧き水は霊験あらた
かな「御霊水」として珍重された。大正期の写真をみると、井戸は石組みや木製の
柵で囲われ、旗や幟などもみられる。・銀明水金明水とおなじく、富士山頂の霊験
あらたかな湧き水として珍重された。『富士の歴史』によれば、「如何なる旱にも
水の涸れることはない」と記している。写真銀明水の写真[銀明水の石碑群](a
)石碑@(高さ112×幅62p)銘文には「明治三拾九年」と「大正五年」の2
つの年代が確認できる。富士講の人々が建碑したものと考えられる。(b)石碑A
(高さ162×下幅76×上幅63p)表面に龍が、裏面には文字が刻まれている
。(c)石碑B(未計測)「大正十三年八月」と刻してある。写真銀

308 :
たと考えられる。江戸時代後期の地誌である『駿河国新風土記
』には「ソノ名一定ノ説ナク、又峰ノ数八ツアルニアラズ。コ
マカニカゾヘバ、十二バカリナリト言フ。」とあり、八葉を構
成する峰も、またその名称も一定でないことがわかる。峰の名
称は、明治8年に廃仏毀釈により仏教色を払拭したものに変更
された。以下、平成20年度の静岡県埋蔵文化財調査研究所に
よる発掘調査報告書で示された9つの峰について、最高峰の剣
ヶ峰からお鉢巡りの回り方である時計回りの順に、記述する。
なお、浅間大社では、伊豆岳以外の8つをもって「八神峰」と
している。図八葉の配置図[剣ヶ峰(標高約3,776m)]
かつては剣ノ峰、阿弥陀岳とも呼ばれた。遠くから見ると剣を
立てたようにそびえ立っているためにこの名があるという。道
者たちはあまりに険しいこの峰を恐れて多くは登らなかったと
いう。この峰の石は「神の惜ミ給ふ」とされ、採取を禁じられ
たが、麓からの石と取り替えるということが行われていた。写
真剣ヶ峰の写真図気象庁測候所跡周辺の平面図[白山岳(標高
約3,756m)]かつては釈迦ヶ岳とも呼ばれた。現在は一
般の立入は禁止されている。頂上には鳥居が立ち、また二等三
角点が存在する。[久須志岳(標高約3,725m)]かつて
は薬師岳とも呼ばれた。現在の久須志神社の裏手にあたる。他
の峰々と比べ傾斜はなだらかである。頂上には鳥居が火口の方
向に向けて建てられている。頂上付近には石造物が残存し、首
から上と手首から先が欠損している。台座正面に「食行」「身
禄」の文字が確認できる。写真久須志岳の石造物の写真[成就
岳(標高約3,734m)]かつては大日岳とも呼ばれ、大小
2つの鳥居が、噴火口の方角を向いて建てられている。[伊豆
岳(標高約3,748m)]かつては勢至ヶ嶽、観音嶽とも呼
ばれた。『浅間神社の歴史』には、「中腹より地中に熱気を感
じ、下りて荒巻の険を越え、成就岳にいたるまで、至る所に蒸
気を噴出する」とある。頂上には鳥居は見られない。[朝日岳
(標高約3,733m)]伊豆岳と同様、かつては地中から蒸
気を発していたとされる。頂上に鳥居は存在しな

309 :
L(・o・)」

310 :
の中に5号建物跡がある。標高は約1,865mである。平成5
年の富士宮市による調査では、平場の北側の斜面の縁に3体の石
像が発見されていたが、平成20年の静岡県埋蔵文化財調査研究
所による調査では石像が4体見つかっている。木が倒れた際に地
面が掘り起こされ、地中にあった石像が地上に現われたと考えら
れる。うち1体の不動明王像には、文化7年(1810)の銘が
ある。背面には「瀧本前」と刻まれており、ここが「富士山表口
南面路次社堂室有来之次第絵図」でいう「瀧本・笹垢離」跡であ
ると推測できる。4体の石像には破壊された痕跡が確認できる。
廃仏毀釈によるものと考えられる。なお、明治末の登山案内では
5号建物跡に該当する施設の記載がなくなっている。・8号建物
跡7号建物跡から北西に約220m(標高約2,170m)の位
置にある。中宮八幡堂跡より標高の高い位置に所在する建物跡の
中で最も大規模なものである。2つの平場により構成され、南西
部の平場は東西約25m、南北約10mである。入口に石段が残
存しており、石段の東西には石垣が組まれている。また平場中央
部よりやや西に護摩壇と思われる石組も残存している。もう一つ
の北東部の平場は北西から南東に傾斜する斜面上に、長軸約15
m、短軸約6mの三角形で、北西側斜面の縁と南側斜面の縁に石
組が確認できる。昭和時代の地図には「一ノ木戸」として載って
おり、「富士山表口南面路次社堂室有来之次第絵図」に描かれた
「室大日堂・木戸堂・茶屋堂」にあたると考えられる。室大日堂
は大日如来と役行者像が祀られていたとの記述が『駿河国新風土
記』にあり、また末代上人が建てた往生寺があったところだとも
いわれている。写真8号建物跡の写真・12号建物跡村山口登山
道跡に残る遺構のうちで、一番標高の高い位置(約2,390m
)にある。11号建物跡から北に50mの地点に所在する。東西
約8m、南北約5mの方形の区画が石組によって作られている。
東側には直径約90pの丸い穴が二つある。(同様の穴は他の建
物跡でも見られ、)便所跡と考えられる。−46−・鳥居登山道
跡の8合目上に、自然木により構築された鳥居が設置されている
。「昭和五十二年七月吉日」と刻まれており、個人

311 :
あるが時期は不明である。他の峰々と比べ、文献の言及が乏し
い。[浅間岳(標高約3,722m)]浅間大社奥宮の裏手に
あり、頂上に鳥居がある。現在は一般の立入が制限されている
。[駒ヶ岳(標高約3,718m)]聖徳太子が黒駒に乗って
登山した際に、ここで休息をとったという伝説のある峰である
。山頂に鳥居が存在する。峰全体が岩石からできている。[三
島岳(標高約3,734m)]−43−かつては文殊岳とも呼
ばれた。頂上に木製の鳥居と、「三島岳」と刻まれた白い角材
の木杭が立っている。三島岳の石仏群として、三島岳のふもと
、かつて経塚が発見された付近に、10体の石像が安置されて
いる。これらは原位置を留めておらず、周辺にあったものが集
められたと考えられる。いずれも頭部を欠損している。・大内
院山頂の火口中央に存在する穴で、ここより雲が生じ、風が起
きるとされた。大内院(噴火口)は中央にある大きな火口、小
内院(阿弥陀ヶ窪)は雷岩の下の小さな火口を指す。神や仏の
居る所であると信じられ、登山者は各登山口に設けられた拝所
あるいは初穂打場から、噴火口に向けて賽銭を投げ入れた。現
在、噴火口への立入は禁止されている。写真大内院の写真・小
内院西安河原から白山岳に向かう途中にある大きな窪地で、大
内院との対比で小内院と呼ばれる。かつては噴火口だったと考
えられる。写真小内院の写真・馬の背剣ヶ峰に通じる坂道で、
火山礫と砂の急斜面である。お鉢巡りの道中で最大の難所であ
る。現在はブルドーザーが通れるよう整地されている。火口に
向けて傾斜しており、その険しさから道者たちの多くは剣ヶ峰
に登らなかったといわれる。・東安河原須山口拝所東側にあり
、山頂部では稀な広い平坦部である。かつては現世と来世の境
である「賽の河原」になぞらえて、道者たちが溶岩礫を積み上
げ石塔を作った。また「初穂打場」とも呼ばれ、火口に向けて
賽銭が投げ込まれた場所とされる。・西安河原東安河原と対を
なす、剣ヶ峰から北側に下りた付近の平坦部である。火口の外
壁を行く外浜道と内壁を行く内浜道との分岐点に位置する。・
虎岩(獅子岩)大内院の南岸に突き出た大岩で、

312 :
のである。A3須山口登山道図登山道に要素が点在している平面
図・須山御胎内(溶岩洞穴)旧須山口登山道1合目(標高1,4
40m付近)にある全長10m余の溶岩洞穴である。洞穴の直径
は約1mで南東側と北西側に入口があり、内部を通り抜けること
ができる。登山者は、この洞穴を通って登山するのがならわしで
あった。かつて洞穴の延長は数10mあったが、関東大震災によ
り天井部分が崩落し、現在の長さになった。崩落した部分は、長
さ約30mのU字型の溝状の溶岩地形として須山御

313 :
。[伊豆岳(標高約3,748m)]かつては勢至ヶ嶽、観音嶽とも呼ばれた。『
浅間神社の歴史』には、「中腹より地中に熱気を感じ、下りて荒巻の険を越え、成
就岳にいたるまで、至る所に蒸気を噴出する」とある。頂上には鳥居は見られない
。[朝日岳(標高約3,733m)]伊豆岳と同様、かつては地中から蒸気を発し
ていたとされる。頂上に鳥居は存在しない。石積みがあるが時期は不明である。他
の峰々と比べ、文献の言及が乏しい。[浅間岳(標高約3,722m

314 :
子)のうずくまる姿に似ていることから名付けられた。・割石
かつては「釈迦の割石」と呼ばれた溶岩で、溶岩が急速に冷え
て固まったため割れていた。高さが15m程あったが、現在は
崩壊してしまっている。古くから行者の修行場として知られ、
食行身禄がここで入定しようとしたが、大宮浅間の社人からの
許可が得られず、吉田口七合五勺の烏帽子岩で入定したとされ
る。写真割石の写真・雷岩白山岳の西側にある岩で、この方角
から強い雷雲がくる事からこう呼ばれたとされる

315 :
に残っている。この付近の溶岩は須山胎内溶岩と呼ばれている。
年代測定では1030〜1230年という結果が出ており、永保
3年(1083)の噴火時に噴出した可能性がある。平成21年
に実施した測量調査では、須山胎内溶岩は須山口登山道脇の標高
1,485m付近から認められており、須山口登山道がこの溶岩
流に沿って形成されていることが判明した。写真須山御胎内の写
真・石像須山御胎内の洞穴内部に、「木花咲耶姫」の石像が安置
されている。地元在住の彫刻家、杉山拓氏の作品。須山口登山道
復興後の平成12年に作られたものである。・石燈篭須山御胎内
の南東側入口の両脇に、石燈篭が設置されている。・鳥居須山御
胎内の南東側入口前に高さ3m前後の木製の鳥居が建てられてい
る。・標柱鳥居脇に、「旧須山口登山道一合目(須山御胎内)」
と記された標柱が、富士山須山口登山道保存会によって設置され
ている。・祠須山御胎内から南東に続くU字状の溶岩地形脇に、
石造りの祠が設置されている。写真祠の写真A4須走口登山道図
登山道に要素が点在している平面図・古御岳神社冨士浅間神社の
境外末社で、5合目の登山道登り口にある。現在の社殿は、昭和
54年(1979)に建立され、間口九尺、奥行九尺の規模であ
る。その際、御室浅間神社を合祀した。神社の前には鳥居がある
。かつては3000坪の境内地を持ち、本殿、拝殿、庁舎を備え
ていたという。写真古御岳神社の写真・迎久須志之神社冨士浅間
神社の境外末社で、9合目(3,570m付近)に建てられてい
る。かつては向薬師、向ヒ薬師、手引薬師と呼ばれ、石室の中に
薬師如来が祀られ冨士浅間神社の神主が管理していた。元禄16
年(1703)−47−の文書「大宮司富士信安等返答下書」に
「前薬師之小屋」の記述があることから、江戸時代初期以降には
すでに祀られていたものと考えられる。道者はここで薬師に線香
を手向けたという。廃仏毀釈によって仏像は山を降ろされ迎久須
志神社と改められた。祭神は大己貴命と少彦名命である。以前は
登山道が建物の西側を通るルートであったが、現在は建物の東側
を通るようになっている。迎久須志神社の直下には、「日ノ見御
前」「日ノ御子」と呼ばれる日の出を遥拝する場所

316 :
奥宮の裏手にあり、頂上に鳥居がある。現在は一般の立入が制限されている。[駒
ヶ岳(標高約3,718m)]聖徳太子が黒駒に乗って登山した際に、ここで休息
をとったという伝説のある峰である。山頂に鳥居が存在する。峰全体が岩石からで
きている。[三島岳(標高約3,734m)]−43−かつては文殊岳とも呼ばれ
た。頂上に木製の鳥居と、「三島岳」と刻まれた白い角材の木杭が立っている。三
島岳の石仏群として、三島岳のふもと、かつて経塚が発見された付近に、10体の
石像が安置されている。これらは原位置を留めておらず、周辺にあったものが集め
られたと考えられる。いずれも頭部を欠損している。・大内院山頂の火口中央に存
在する穴で、ここより雲が生じ、風が起きるとされた。大内院(噴火口)は中央に
ある大きな火口、小内院(阿弥陀ヶ窪)は雷岩の下の小さな火口を指す。神や仏の
居る所であると信じられ、登山者は各登山口に設けられた拝所あるいは初穂打場か
ら、噴火口に向けて賽銭を投げ入れた。現在、噴火口への立入は禁止されている。
写真大内院の写真・小内院西安河原から白山岳に向かう途中にある大きな窪地で、
大内院との対比で小内院と呼ばれる。かつては噴火口だったと考えられる。写真小
内院の写真・馬の背剣ヶ峰に通じる坂道で、火山礫と砂の急斜面である。お鉢巡り
の道中で最大の難所である。現在はブルドーザーが通れるよう整地されている。火
口に向けて傾斜しており、その険しさから道者たちの多くは剣ヶ峰に登らなかった
といわれる。・東安河原須山口拝所東側にあり、山頂部では稀な広い平坦部である
。かつては現世と来世の境である「賽の河原」になぞらえて、道者たちが溶岩礫を
積み上げ石塔を作った。また「初穂打場」とも呼ばれ、火口に向けて賽銭が投げ込
まれた場所とされる。・西安河原東安河原と対をなす、剣ヶ峰から北側に下りた付
近の平坦部である。火口の外壁を行く外浜道と内壁を行く内浜道との分岐点に位置
する。・虎岩(獅子岩)大内院の南岸に突き出た大岩で、形状が虎(獅子)のうず
くまる姿に似ていることから名付けられた。・割石かつては「釈迦の

317 :
年間の初め、岩より雷鳴がとどろいて雷獣が出現し、8合目の
石室に走り入った。これを石室に居合わせた人々が生け捕りに
したとも伝えられる。・このしろが池三島岳の雪解け水が窪地
に溜まってできる季節的な池で、6月から7月に姿を現し、雪
解け水の供給が無くなると消えてしまう。・荒巻−44−かつ
ては勢至ヶ窪と呼ばれ、強い風が吹き付ける富士山頂の難所と
して知られた。道の火口側には、火山礫を積み上げた石組みが
ある。・吉田須走拝所跡須走口登山道を登りきったところにあ
ったとされる。拝所は初穂打場とも呼ばれ、登山者たちが賽銭
を噴火口の大内院に投げ入れる、そこに鎮座する浅間大菩薩を
拝む場所であった。また、御来光を拝む場所でもあった。現在
は、付近に鳥居がなく痕跡も残っていないため、場所を特定す
ることはできない。写真吉田須走拝所跡の写真・須山拝所跡銀
明水の裏手の火口を臨む位置にあったとされる。大正2年(1
913)の登山スタンプが押された写真では、銀明水裏手の火
口の縁に立っている鳥居が確認できる。現在その地点には、2
つの目印の石が存在している。写真須山拝所跡の写真・村山大
宮拝所跡『隔掻録』は、大日堂の裏手に建つ鳥居を「大宮拝所
」としている。『富士山明細図』は、このしろが池の裏手の鳥
居を影拝所としている。このしろが池から剣ヶ峰の登山道に沿
って3体の大日如来があり、それぞれ延徳2年(1490)、
天文12年(1543)、寛永元年(1624)の銘があった
とされる。昭和初期の絵葉書にも、剣ヶ峰の手前の火口を臨む
位置に鳥居が建っている。写真村山・大宮拝所跡の写真・三島
ヶ岳経塚昭和4年(1929)、頂上の神官が銅仏の破片と一
石経を採集して下山、それを受けて昭和5年に三島岳のふもと
を調査したところ、経巻が詰まった経筒や木槨、土器片などの
遺物が出土した。富士山本宮浅間大社には、現在10巻分の経
巻が残っており、うち5巻は開かれていて内容を確認できる。
経巻のスタイルや計測値から平安時代後期までさかのぼる可能
性が考えられる。写真出土遺物の写真・外浜道・内浜道山頂を
周回し八葉を巡る「お鉢巡り」を行う道である。

318 :
時代には「日ノ御子石」という富士山型の石が置かれていた。富
士講の講中が大きな平石の上で朝日を拝したという。現在「日ノ
御子石」はないが、祠と鳥居が建てられている。写真迎久須志之
神社の写真・鳥居登山道の浅間大社東北奥宮(久須志神社)前(
登山道終点)、9合目、本8合目、本7合目、7合目、本5合目
、古御嶽神社前に自然木などにより構築された鳥居が設置されて
いる。・狛犬登山道終点の鳥居前に狛犬2体が設置されている。
この場所は「鳥居御橋」(とりいおはし)と呼ばれていた。・石
碑7合目付近の登山道脇に富士講関連の石碑がある。以前はもっ
と標高の高い場所にあったが、雪崩によって流されて別の場所に
転がっていたものを山小屋関係者で運び、現在の場所に設置した
という。日付は「七月吉日」とあるのみで、上部が欠損している
。A5吉田口登山道図登山道に要素が点在している平面図・登山
道吉田口登山道は、北口本宮冨士浅間神社を起点とし、富士山頂
を目指す道である。18世紀後半以降は、最も多くの道者が吉田
口登山道を目指している。しかも、古道としては唯一徒歩で麓か
ら頂上まで登れる重要な道である。顕著な普遍的価値を構成する
要素として、現存する吉田口登山道や沿道の宗教施設や山小屋等
信仰の拠点などがある。・旧登山道・馬返ここから急坂となり馬
が使えなくなることからこの名がついた。この一体は草山から木
山への境でもあり、ここからが御山の聖地ということにもなる。
富士山有料道路が開通する以前の馬返の周辺は、本格的な登り勾
配の坂道が始まる直前の平地であり、登拝者たちがいったん休憩
を取る場所として賑わった。登山期間には4軒の茶屋が営業され
、登拝者の便に供された。写真馬返周辺の写真・五合目ここは木
山と焼山の境界でもあるこの地は天地境(てんちのさかい)とも
言われる場所である。役場、中宮の社、小屋等がおかれていた。
ここの役場は、古くは中宮三社の神供料として役銭を納めた場所
である。後年は登山切手改め所となった。小屋については、江戸
後期には4軒があったが、すでに武田信玄の1566年の文書に
「中宮之室」という名称があり、戦国時代からこの地に小屋が設
けられ−48−ていたことがわかる。最盛期には1

319 :
れた溶岩で、溶岩が急速に冷えて固まったため割れていた。高さが15m程あった
が、現在は崩壊してしまっている。古くから行者の修行場として知られ、食行身禄
がここで入定しようとしたが、大宮浅間の社人からの許可が得られず、吉田口七合
五勺の烏帽子岩で入定したとされる。写真割石の写真・雷岩白山岳の西側にある岩
で、この方角から強い雷雲がくる事からこう呼ばれたとされる。また、文化年間の
初め、岩より雷鳴がとどろいて雷獣が出現し、8合目の石室に走り入った。これを
石室に居合わせた人々が生け捕りにしたとも伝えられる。・このしろが池三島岳の
雪解け水が窪地に溜まってできる季節的な池で、6月から7月に姿を現し、雪解け
水の供給が無くなると消えてしまう。・荒巻−44−かつては勢至ヶ窪と呼ばれ、
強い風が吹き付ける富士山頂の難所として知られた。道の火口側には、火山礫を積
み上げた石組みがある。・吉田須走拝所跡須走口登山道を登りきったところにあっ
たとされる。拝所は初穂打場とも呼ばれ、登山者たちが賽銭を噴火口の大内院に投
げ入れる、そこに鎮座する浅間大菩薩を拝む場所であった。また、御来光を拝む場
所でもあった。現在は、付近に鳥居がなく痕跡も残っていないため、場所を特定す
ることはできない。写真吉田須走拝所跡の写真・須山拝所跡銀明水の裏手の火口を
臨む位置にあったとされる。大正2年(1913)の登山スタンプが押された写真
では、銀明水裏手の火口の縁に立っている鳥居が確認できる。現在その地点には、
2つの目印の石が存在している。写真須山拝所跡の写真・村山大宮拝所跡『隔掻録
』は、大日堂の裏手に建つ鳥居を「大宮拝所」としている。『富士山明細図』は、
このしろが池の裏手の鳥居を影拝所としている。このしろが池から剣ヶ峰の登山道
に沿って3体の大日如来があり、それぞれ延徳2年(1490)、天文12年(1
543)、寛永元年(1624)の銘があったとされる。昭和初期の絵葉書にも、
剣ヶ峰の手前の火口を臨む位置に鳥居が建っている。写真村山・大宮拝所跡の写真
・三島ヶ岳経塚昭和4年(1929)、頂上の神官が銅仏の破片と一

320 :
西安河原の北側で道が二手に分かれるが、峰の外を回り雷岩、
割石を経て白山岳に至る道が外浜道で、峰の内側を大内院に沿
って回り金明水に至る道が内浜道である。沿道には信仰に関わ
る工作物や自然物が数多く存在する。外浜道は近年崩落が著し
く、現在は立入禁止となっている。A2大宮・村山口登山道図
登山道に要素が点在している平面図・札打場村山浅間神社の北
東約3.5q、天照教社の西南西約1qの地点(標高約830
m)に、東西約7m、南北約10mの平場がある。南側に1本
の大きなケヤキの巨木があり、ここが札打場であった。札打と
は、自分の院号を記した札を打ちつけることである。村山で修
験道が盛んであった頃、山伏が峰入修行に先立ち札打を行った
。昭和30年(1955)頃までは、木に打ちつけた札が見ら
れたという写真札打場の写真・中宮八幡堂跡(1号建物跡)村
山口登山道跡と富士山スカイラインが交差する地点から南西方
向に約500mの地点に位置する。標高は約1,280mであ
る。東側を走る沢から一段上がった平坦面に所在している。平
坦面は2段あり、上−45−段には小さな祠が建てられている
。また下段には、南東から北西方向に石列が伸びている。江戸
時代には馬返しと呼ばれ、駒立小屋があったとされる。また、
ここからは女人は登山道を登ることを許されず、駒立小屋は女
人堂として使われた時期もあったと考えられる。下段平坦面の
南側には溝が東西方向に延び、西側の森林に突き当たって痕跡
をたどれなくなる。木馬道である可能性が指摘される。写真中
宮八幡堂の写真・八大龍王中宮八幡堂跡より北東に約100m
の地点に「八大龍王」と刻まれた石碑と水神の祠が並んで建て
られている。水神祠には「文化十三年寅年六月日」、八大龍王
には「文化七年七月十七日」との銘が刻まれている。駿河国大
宮町神田の横関家の主人が、天保14年(1843)から文久
3年(1863)にかけて記録した『袖日記』には、安政7年
(1860)5月11日の条に「中宮八幡堂の井戸を掘ったの
で山が荒れた」との記述がある。この「中宮八幡堂の井戸」と
は、八大龍王前にある井戸跡を指すものと考えら

321 :
たと伝えられている。写真五合目周辺の写真・烏帽子岩七合五勺
に烏帽子の形をした岩があり、これを烏帽子岩という。ここにて
富士講中興の祖と称される食行身禄が、1733年に31日間の
断食修行を経て入定した。「甲斐国志」にも「享保十八六月十三
日富士行者身禄ガ入定ノ地ナリ小屋アリ身禄ノ木像ヲ安置ス流レ
ヲ汲者年々此に登拝ス」とあり、江戸後期にはすでに身禄の聖地
として信者が登拝していたことがわかる。現在も富士講の聖地と
して重要な地である。写真烏帽子岩の写真A6北口本宮冨士浅間
神社図以下に示す要素が点在している平面図北口本宮冨士浅間神
社は、富士講とのつながりが強く1730年代に富士講の指導者
である村上光清の寄進によって境内の建造物群の修復工事が行わ
れ、現在にみる境内の景観の礎が形成された。社殿の背後には登
山門があり、この神社を起点として富士山頂まで吉田口登山道が
延びている。富士講や吉田御師と密接な関係を持ちながら発展し
た神社である。顕著な普遍的価値を構成する諸要素として、富士
信仰の拠点でもある本殿などの建造物群や境内地、吉田口登山道
の起点などがある。・本殿本殿は、1615年、都留郡の領主鳥
居土佐守成次によって建立された。桁行一間・梁間二間の規模で
、入母屋造の建物を身舎としてその前面に唐破風造の向拝一間を
つけた形式をとり、独自な本殿形式が採用されている。各部に漆
塗り、極彩色をほどこし、彫刻・金具を配して豪華絢爛な装飾を
展開し、桃山式建築の装飾的技法の多様性を示すとともに、すぐ
れた意匠をみせる顕著な建物である。写真本殿の写真図本殿の図
・東宮本殿東宮本殿は、1223年北条義時の創建とも伝えられ
るが、現社殿は1561年武田信玄が浅間本社として造営したも
のである。本殿は身舎梁間一間、桁行一間で正面に一間の向拝を
つける一間社流造の形式である。東宮本殿は、本社本殿はもとよ
り西宮本殿に比較してやや小規模であるが、構造形式や蟇股に挿
入した彫刻などに室町時代の手法を示しており、三殿中最も古い
建物である。写真東宮本殿の写真図東宮本殿の図・西宮本殿西宮
本殿は、1594年谷村城主浅野左右衛門佐氏重により東宮に替
わる本殿として建立されたが、1615年、鳥居成

322 :
により現在地に移され西宮となった。本殿の形式は東宮と同じ一
間社流造であるが、両側面と背面は二間で一間の向拝をつける。
西宮本殿は、桃山時代の装飾的要素を多分に取り入れていて、や
がて豪華な本社本殿建築へと発展する過程を、両者並べて鑑賞で
きる貴重な建物である。−49−写真西宮本殿の写真図西宮本殿
の図・大塚山社誌では、日本武尊が富士山を遙拝し

323 :
建てられている。水神祠には「文化十三年寅年六月日」、八大龍王には「文化七年
七月十七日」との銘が刻まれている。駿河国大宮町神田の横関家の主人が、天保1
4年(1843)から文久3年(1863)にかけて記録した『袖日記』には、安
政7年(1860)5月11日の条に「中宮八幡堂の井戸を掘ったので山が荒れた
」との記述がある。この「中宮八幡堂の井戸」とは、八大龍王前にある井戸跡を指
すものと考えられている。井戸跡は幅80p、深さ50pほどである

324 :
の建物跡でも見られ、)便所跡と考えられる。−46−・鳥居
登山道跡の8合目上に、自然木により構築された鳥居が設置さ
れている。「昭和五十二年七月吉日」と刻まれており、個人が
設置したものである。A3須山口登山道図登山道に要素が点在
している平面図・須山御胎内(溶岩洞穴)旧須山口登山道1合
目(標高1,440m付近)にある全長10m余の溶岩洞穴で
ある。洞穴の直径は約1mで南東側と北西側に入口があり、内
部を通り抜けることができる。登山者は、この洞

325 :
ここを浅間明神の創建にかかわる場所と位置づけている。さらに
、788年には新たに浅間明神を建て、この大塚山には、大塚社
として日本武尊を分祀したと伝えられる。現在この地は、流山状
の小高い丘をなしており、日本武尊を祀る祠が建てられている。
写真大塚山の写真図大塚山の図・御鞍石吉田火祭(鎮火祭)の際
の御輿行在所。吉田火祭の本日にこの御鞍石上に御輿が安置され
、神事が行われる。ここで読まれる祝詞の一節から、この地が諏
訪明神旧鎮座地とされる。写真御鞍石の写真図御鞍石の図A7西
湖図以下に示す要素が点在している平面図富士山周辺の湖を巡っ
て修行する内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが、い
つの時代も変わらず巡拝の対象として数えられている。また、景
勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。顕著な普遍的
価値を構成する諸要素として、自然地形(湖水)などがある。写
真西湖の写真A8精進湖図以下に示す要素が点在している平面図
富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが多くの富士講徒に
よって行われたが、いつの時代も変わらず巡拝の対象として数え
られている。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかり
が深い。顕著な普遍的価値を構成する諸要素として、自然地形(
湖水)などがある。写真精進湖の写真A9本栖湖図以下に示す要
素が点在している平面図富士山周辺の湖を巡って修行する内八海
巡りが多くの富士講徒によって行われたが、いつの時代も変わら
ず巡拝の対象として数えられている。また、景勝の地でもあり、
多くの芸術作品とゆかりが深い。顕著な普遍的価値を構成する諸
要素として、自然地形(湖水)や中ノ倉峠からの展望などがある
。写真本栖湖の写真A信仰に関わる周辺のものB1富士山本宮浅
間大社図以下に示す要素が点在している平面図・神立山本殿の北
側にある丘陵地一帯は神立山と称される。神立山及び富士山本宮
浅間大社の基盤を構成する地形は、新富士火山旧期溶岩流に分類
される富士宮溶岩流と、溶岩流直上に広がる扇状地堆積物の層で
−50−構成され、溶岩流の末端部にあたる。そのため指定地内
の一部では溶岩礫が露出し、縄状溶岩も散見される。また、当該
地区は風致地区・保安林にも指定され、渋沢堀沿い

326 :
跡4号建物跡から登山道跡を登りしばらくすると一面の倒木帯となり、その中に5
号建物跡がある。標高は約1,865mである。平成5年の富士宮市による調査で
は、平場の北側の斜面の縁に3体の石像が発見されていたが、平成20年の静岡県
埋蔵文化財調査研究所による調査では石像が4体見つかっている。木が倒れた際に
地面が掘り起こされ、地中にあった石像が地上に現われたと考えられる。うち1体
の不動明王像には、文化7年(1810)の銘がある。背面には「瀧本前」と刻ま
れており、ここが「富士山表口南面路次社堂室有来之次第絵図」でいう「瀧本・笹
垢離」跡であると推測できる。4体の石像には破壊された痕跡が確認できる。廃仏
毀釈によるものと考えられる。なお、明治末の登山案内では5号建物跡に該当する
施設の記載がなくなっている。・8号建物跡7号建物跡から北西に約220m(標
高約2,170m)の位置にある。中宮八幡堂跡より標高の高い位置に所在する建
物跡の中で最も大規模なものである。2つの平場により構成され、南西部の平場は
東西約25m、南北約10mである。入口に石段が残存しており、石段の東西には
石垣が組まれている。また平場中央部よりやや西に護摩壇と思われる石組も残存し
ている。もう一つの北東部の平場は北西から南東に傾斜する斜面上に、長軸約15
m、短軸約6mの三角形で、北西側斜面の縁と南側斜面の縁に石組が確認できる。
昭和時代の地図には「一ノ木戸」として載っており、「富士山表口南面路次社堂室
有来之次第絵図」に描かれた「室大日堂・木戸堂・茶屋堂」にあたると考えられる
。室大日堂は大日如来と役行者像が祀られていたとの記述が『駿河国新風土記』に
あり、また末代上人が建てた往生寺があったところだともいわれている。写真8号
建物跡の写真・12号建物跡村山口登山道跡に残る遺構のうちで、一番標高の高い
位置(約2,390m)にある。11号建物跡から北に50mの地点に所在する。
東西約8m、南北約5mの方形の区画が石組によって作られている。東側には直径
約90pの丸い穴が二つある。(同様の穴は他の建物跡でも見られ、

327 :
山するのがならわしであった。かつて洞穴の延長は数10mあ
ったが、関東大震災により天井部分が崩落し、現在の長さにな
った。崩落した部分は、長さ約30mのU字型の溝状の溶岩地
形として須山御胎内の南東側に残っている。この付近の溶岩は
須山胎内溶岩と呼ばれている。年代測定では1030〜123
0年という結果が出ており、永保3年(1083)の噴火時に
噴出した可能性がある。平成21年に実施した測量調査では、
須山胎内溶岩は須山口登山道脇の標高1,485m付近から認
められており、須山口登山道がこの溶岩流に沿って形成されて
いることが判明した。写真須山御胎内の写真・石像須山御胎内
の洞穴内部に、「木花咲耶姫」の石像が安置されている。地元
在住の彫刻家、杉山拓氏の作品。須山口登山道復興後の平成1
2年に作られたものである。・石燈篭須山御胎内の南東側入口
の両脇に、石燈篭が設置されている。・鳥居須山御胎内の南東
側入口前に高さ3m前後の木製の鳥居が建てられている。・標
柱鳥居脇に、「旧須山口登山道一合目(須山御胎内)」と記さ
れた標柱が、富士山須山口登山道保存会によって設置されてい
る。・祠須山御胎内から南東に続くU字状の溶岩地形脇に、石
造りの祠が設置されている。写真祠の写真A4須走口登山道図
登山道に要素が点在している平面図・古御岳神社冨士浅間神社
の境外末社で、5合目の登山道登り口にある。現在の社殿は、
昭和54年(1979)に建立され、間口九尺、奥行九尺の規
模である。その際、御室浅間神社を合祀した。神社の前には鳥
居がある。かつては3000坪の境内地を持ち、本殿、拝殿、
庁舎を備えていたという。写真古御岳神社の写真・迎久須志之
神社冨士浅間神社の境外末社で、9合目(3,570m付近)
に建てられている。かつては向薬師、向ヒ薬師、手引薬師と呼
ばれ、石室の中に薬師如来が祀られ冨士浅間神社の神主が管理
していた。元禄16年(1703)−47−の文書「大宮司富
士信安等返答下書」に「前薬師之小屋」の記述があることから
、江戸時代初期以降にはすでに祀られていたものと考えられる
。道者はここで薬師に線香を手向けたという。廃

328 :
は立ち入りが禁止されている。寛文10年(1670)の浅間大
社境内絵図では神立山に信仰関連の様々な建築物が描かれ、発掘
調査で石畳や護摩堂跡が確認されている。写真神立山の写真・湧
玉池(上池、下池)本殿東側の「湧玉池」は、国指定特別天然記
念物となっている。湧玉池は、富士山に降った雨や雪が地下水と
なり、被圧によって富士宮溶岩流の溶岩層間を流れ、溶岩流末端
で湧出して池になったものである。禊所付近を境に上池と下池に
分かれ、以前は上池のみを湧玉池、下池から下流を御手洗川と呼
んだ。登山者や道者が湧玉池の水で心身を清めた後山中へ向かう
という、富士山信仰と関連の深い池であった。現在も富士山山開
きの7月1日には、湧玉池で禊神事が行われる。写真湧玉池の写
真図詳細平面図・社叢神立山表層部は約3万8千uにわたってス
ダジイ、ケヤキ等の樹木が生育しており、富士宮市保存樹林に指
定されている。また、野鳥の生息に適した環境でもあり、「野鳥
の森」碑が建てられている。・社殿(本殿・拝殿・幣殿・透塀・
楼門)浅間大社は、社伝によれば大同元年(806)に造営され
たという。かつての駿河国の一宮で、現在は全国1300余の浅
間神社の総本社として崇められている。現在の社殿は、慶長9〜
11年(1604〜06)に徳川家康が造営したものである。写
真社殿全体の写真図社殿平面図[本殿]本殿は国指定重要文化財
である。「浅間造」と称する棟高45尺の二重の楼閣造構造で他
に例を見ない。1階下層は桁行5間・梁間4間の寄棟造、2階上
層は桁行3間・梁間2間の三間社流造で共に桧皮葺である。明治
40年(1907)5月27日古社寺保存法により特別保護建造
物に指定され、以後、国指定重要文化財として保護されている。
写真本殿全体の写真(幣殿・拝殿含む)図本殿平面図(幣殿・拝
殿含む)[幣殿]本殿と拝殿をつなぐ部分で、桁行3間・梁間3
間の両下造、屋根は檜皮葺、寛文年間の古絵図には幣殿は描かれ
ていないが、現在幣殿として使われている部分に「作合三間四間
ひはだぶき」と書き込まれており、本殿の全景がよく見えるよう
に描かれたと推測される。県指定文化財として保護されている。
[拝殿]桁行5間・梁間3間で、床は幣殿より2段

329 :
えられる。−46−・鳥居登山道跡の8合目上に、自然木により構築された鳥居が
設置されている。「昭和五十二年七月吉日」と刻まれており、個人が設置したもの
である。A3須山口登山道図登山道に要素が点在している平面図・須山御胎内(溶
岩洞穴)旧須山口登山道1合目(標高1,440m付近)にある全長10m余の溶
岩洞穴である。洞穴の直径は約1mで南東側と北西側に入口があり、内部を通り抜
けることができる。登山者は、この洞穴を通って登山するのがならわしであった。
かつて洞穴の延長は数10mあったが、関東大震災により天井部分が崩落し、現在
の長さになった。崩落した部分は、長さ約30mのU字型の溝状の溶岩地形として
須山御胎内の南東側に残っている。この付近の溶岩は須山胎内溶岩と呼ばれている
。年代測定では1030〜1230年という結果が出ており、永保3年(1083
)の噴火時に噴出した可能性がある。平成21年に実施した測量調査では、須山胎
内溶岩は須山口登山道脇の標高1,485m付近から認められており、須山口登山
道がこの溶岩流に沿って形成されていることが判明した。写真須山御胎内の写真・
石像須山御胎内の洞穴内部に、「木花咲耶姫」の石像が安置されている。地元在住
の彫刻家、杉山拓氏の作品。須山口登山道復興後の平成12年に作られたものであ
る。・石燈篭須山御胎内の南東側入口の両脇に、石燈篭が設置されている。・鳥居
須山御胎内の南東側入口前に高さ3m前後の木製の鳥居が建てられている。・標柱
鳥居脇に、「旧須山口登山道一合目(須山御胎内)」と記された標柱が、富士山須
山口登山道保存会によって設置されている。・祠須山御胎内から南東に続くU字状
の溶岩地形脇に、石造りの祠が設置されている。写真祠の写真A4須走口登山道図
登山道に要素が点在している平面図・古御岳神社冨士浅間神社の境外末社で、5合
目の登山道登り口にある。現在の社殿は、昭和54年(1979)に建立され、間
口九尺、奥行九尺の規模である。その際、御室浅間神社を合祀した。神社の前には
鳥居がある。かつては3000坪の境内地を持ち、本殿、拝殿、庁舎

330 :
て仏像は山を降ろされ迎久須志神社と改められた。祭神は大己
貴命と少彦名命である。以前は登山道が建物の西側を通るルー
トであったが、現在は建物の東側を通るようになっている。迎
久須志神社の直下には、「日ノ見御前」「日ノ御子」と呼ばれ
る日の出を遥拝する場所があり、江戸時代には「日ノ御子石」
という富士山型の石が置かれていた。富士講の講中が大きな平
石の上で朝日を拝したという。現在「日ノ御子石」はないが、
祠と鳥居が建てられている。写真迎久須志之神社の写真・鳥居
登山道の浅間大社東北奥宮(久須志神社)前(登山道終点)、
9合目、本8合目、本7合目、7合目、本5合目、古御嶽神社
前に自然木などにより構築された鳥居が設置されている。・狛
犬登山道終点の鳥居前に狛犬2体が設置されている。この場所
は「鳥居御橋」(とりいおはし)と呼ばれていた。・石碑7合
目付近の登山道脇に富士講関連の石碑がある。以前はもっと標
高の高い場所にあったが、雪崩によって流されて別の場所に転
がっていたものを山小屋関係者で運び、現在の場所に設置した
という。日付は「七月吉日」とあるのみで、上部が欠損してい
る。A5吉田口登山道図登山道に要素が点在している平面図・
登山道吉田口登山道は、北口本宮冨士浅間神社を起点とし、富
士山頂を目指す道である。18世紀後半以降は、最も多くの道
者が吉田口登山道を目指している。しかも、古道としては唯一
徒歩で麓から頂上まで登れる重要な道である。顕著な普遍的価
値を構成する要素として、現存する吉田口登山道や沿道の宗教
施設や山小屋等信仰の拠点などがある。・旧登山道・馬返ここ
から急坂となり馬が使えなくなることからこの名がついた。こ
の一体は草山から木山への境でもあり、ここからが御山の聖地
ということにもなる。富士山有料道路が開通する以前の馬返の
周辺は、本格的な登り勾配の坂道が始まる直前の平地であり、
登拝者たちがいったん休憩を取る場所として賑わった。登山期
間には4軒の茶屋が営業され、登拝者の便に供された。写真馬
返周辺の写真・五合目ここは木山と焼山の境界でもあるこの地
は天地境(てんちのさかい)とも言われる場所で

331 :
る。正面が入母屋造、背面が切妻造で、屋根は檜皮葺、正面に1
間の向拝が付いている。三方に縁を巡らせ、背面は幣殿に接続し
ている。県指定文化財として保護されている。[透塀]本殿周囲
を囲む1棟と、その外側、本殿横に並ぶ三之宮及び七之宮を含め
たより広い範囲を囲む1棟−51−の計2棟で、総延長は36間
に及ぶ。県指定文化財として保護されている。[楼門]三間一戸
、重層入母屋造で、屋根は檜皮葺、正面・左右脇に扉がついてい
る。楼門の左右には随身像が安置してある。静岡県指定文化財と
して保護されている。写真楼門全体の写真図楼門平面図・廻廊楼
門から東西に伸びる回廊は、昭和9年(1934)に付加された
ものである。・手水舎楼門の南西側に、参拝者が参拝前に身を清
めるために手や口をすすぐ、手水舎がある。・灯籠大小それぞれ
の灯籠が境内各所に設置されている。・石鳥居本殿へ続く参道に
石造りの鳥居が建てられている。昭和33年3月に寄進されたも
のである。・東鳥居・西鳥居桜の馬場の東端と西端にそれぞれ朱
塗りの鳥居が建てられている。・桜の馬場浅間大社流鏑馬式が執
り行われる馬場が約200mに渡って東西に伸びている。源頼朝
が富士の裾野で巻狩を行った際、流鏑馬を奉納したことに始まる
と言われ、室町時代の初期にはすでに神事が行われていたとの記
録が残っている。馬場に沿って両側に御神木の桜が植えられてい
る。・禊所湧玉池の上池と下池の境部分が禊所とされ、池に下り
るための石段が組まれている。・神幸橋(湧玉橋)湧玉池南側の
神田川への流出口に石造りの橋が架けられている。春秋の大祭に
はこの橋を通って山宮御神幸が出発したとされる。寛文10年(
1671)の絵図では橋に屋根が葺かれている。・輪橋(太鼓橋
)本殿へと向かう参道に、鏡池を渡る輪橋が架けられている。寛
文10年の絵図には既に描かれているが、大正4年(1915)
に石造りに改められた。写真輪橋の写真図輪橋の平面図絵図寛文
10年の絵図・護摩堂跡(推定)平成20年の発掘調査により、
護摩堂跡と考えられる溶岩礫で構成された石垣と建物跡が検出さ
れた。石垣は樵石積みで組まれ、平面形は正方形となっている。
また、石垣で正方形に囲繞された敷地内で建物跡の

332 :
れた。桁行3間・梁間4間で、南側に入口を有していたと考えら
れる。発掘調査後に、江戸時代終わり頃の地誌でこの建物跡を「
本地堂」とする記載が確認されており、最終的に護摩堂から本地
堂へ造作し直された可能性がある。写真護摩堂の発掘調査時の完
掘写真(平面写真)図平面図・随身像慶長19年(1614)2
月に建立された。背銘には、左側の像は「甲州河内下山住番匠石
川清助作」、右−52−側の像は「大工山城國上原住櫻井三蔵作
」と記され、市指定有形文化財として保護されてい

333 :
から急坂となり馬が使えなくなることからこの名がついた。この一体は草山から木
山への境でもあり、ここからが御山の聖地ということにもなる。富士山有料道路が
開通する以前の馬返の周辺は、本格的な登り勾配の坂道が始まる直前の平地であり
、登拝者たちがいったん休憩を取る場所として賑わった。登山期間には4軒の茶屋
が営業され、登拝者の便に供された。写真馬返周辺の写真・五合目ここは木山と焼
山の境界でもあるこの地は天地境(てんちのさかい)とも言われる場

334 :
梁間一間、桁行一間で正面に一間の向拝をつける一間社流造の
形式である。東宮本殿は、本社本殿はもとより西宮本殿に比較
してやや小規模であるが、構造形式や蟇股に挿入した彫刻など
に室町時代の手法を示しており、三殿中最も古い建物である。
写真東宮本殿の写真図東宮本殿の図・西宮本殿西宮本殿は、1
594年谷村城主浅野左右衛門佐氏重により東宮に替わる本殿
として建立されたが、1615年、鳥居成次の本殿建立により
現在地に移され西宮となった。本殿の形式は東宮

335 :
像全体の写真・狛犬参道の石鳥居両側に、狛犬が建てられている
。大正7年5月に奉献されたものである。・御神幸道首標の碑明
治以前に行われていた「山宮御神幸」における、御神幸道の首標
が、池畔に立てられている。造立年は元禄年(1691)未年十
一月とされ、「自当社山宮御神幸道五十丁証碑首也」と刻まれて
いる。昭和59年(1984)に浅間大社境内の土中から発見さ
れ、現在地に再建された。・三之宮本殿横西側に、淺間第三御子
神を祀る境内社「三之宮浅間神社」が建てられている。・七之宮
本殿横東側に、淺間第七御子神を祀る境内社「七之宮浅間神社」
が建てられている。・鉾立石楼門前の石段には、鉾立石が置かれ
ている。明治の初めまで行われていた山宮御神幸の際、神の宿っ
た鉾を立てて休めた自然石である。・欄干橋(神路橋、神路枚橋
)池畔と川中島を結ぶ橋が2本架けられている。島の西側が神路
橋、東側が神路枚橋であるが、寛文10年(1670)の絵図で
は西側にのみ架けられている。写真橋全体の写真絵図寛文10年
の絵図B2山宮浅間神社図以下に示す要素が点在している平面図
・溶岩流地形山宮浅間神社の石鳥居から参道を経て参籠所に至る
までの区域は北山溶岩流上に展開している。また、遥拝所が位置
する小高い丘陵は青沢溶岩流の先端部である。さらに、涸れ沢の
西岸には、天母山(二子山)溶岩流、万野風穴溶岩流で構成され
る丘陵地が展開する。よって、山宮浅間神社周辺には、籠屋付近
の北山溶岩流を含め、4つの異なる溶岩流地形が広がっているこ
とになる。遥拝所の基盤となっている青沢溶岩流は、約2,00
0年前の噴火によって流出した比較的新しい溶岩流であるため、
この部分は他の区域と比べて植生の回復は遅れていたと考えられ
る。そのために、樹木等に遮られることなく富士山の山頂まで見
渡せていたため、この場所で山を遥拝する行為が行われたと考え
られる。写真溶岩流地形の写真図溶岩流の拡散している模式図・
社叢目通りの幹周が3mを超える巨木4本を含むスギ林が、約9
,780uの社叢を形成しており、富士宮市の保存樹林に指定さ
れている。・籠屋(参籠所)遥拝所へ登る手前の平坦な土地に籠
屋が建てられている。籠屋は、神の宿った御鉾が浅

336 :
場、中宮の社、小屋等がおかれていた。ここの役場は、古くは中宮三社の神供料と
して役銭を納めた場所である。後年は登山切手改め所となった。小屋については、
江戸後期には4軒があったが、すでに武田信玄の1566年の文書に「中宮之室」
という名称があり、戦国時代からこの地に小屋が設けられ−48−ていたことがわ
かる。最盛期には18軒が所在したと伝えられている。写真五合目周辺の写真・烏
帽子岩七合五勺に烏帽子の形をした岩があり、これを烏帽子岩という。ここにて富
士講中興の祖と称される食行身禄が、1733年に31日間の断食修行を経て入定
した。「甲斐国志」にも「享保十八六月十三日富士行者身禄ガ入定ノ地ナリ小屋ア
リ身禄ノ木像ヲ安置ス流レヲ汲者年々此に登拝ス」とあり、江戸後期にはすでに身
禄の聖地として信者が登拝していたことがわかる。現在も富士講の聖地として重要
な地である。写真烏帽子岩の写真A6北口本宮冨士浅間神社図以下に示す要素が点
在している平面図北口本宮冨士浅間神社は、富士講とのつながりが強く1730年
代に富士講の指導者である村上光清の寄進によって境内の建造物群の修復工事が行
われ、現在にみる境内の景観の礎が形成された。社殿の背後には登山門があり、こ
の神社を起点として富士山頂まで吉田口登山道が延びている。富士講や吉田御師と
密接な関係を持ちながら発展した神社である。顕著な普遍的価値を構成する諸要素
として、富士信仰の拠点でもある本殿などの建造物群や境内地、吉田口登山道の起
点などがある。・本殿本殿は、1615年、都留郡の領主鳥居土佐守成次によって
建立された。桁行一間・梁間二間の規模で、入母屋造の建物を身舎としてその前面
に唐破風造の向拝一間をつけた形式をとり、独自な本殿形式が採用されている。各
部に漆塗り、極彩色をほどこし、彫刻・金具を配して豪華絢爛な装飾を展開し、桃
山式建築の装飾的技法の多様性を示すとともに、すぐれた意匠をみせる顕著な建物
である。写真本殿の写真図本殿の図・東宮本殿東宮本殿は、1223年北条義時の
創建とも伝えられるが、現社殿は1561年武田信玄が浅間本社とし

337 :
流造であるが、両側面と背面は二間で一間の向拝をつける。西
宮本殿は、桃山時代の装飾的要素を多分に取り入れていて、や
がて豪華な本社本殿建築へと発展する過程を、両者並べて鑑賞
できる貴重な建物である。−49−写真西宮本殿の写真図西宮
本殿の図・大塚山社誌では、日本武尊が富士山を遙拝した地で
あり、ここを浅間明神の創建にかかわる場所と位置づけている
。さらに、788年には新たに浅間明神を建て、この大塚山に
は、大塚社として日本武尊を分祀したと伝えられる。現在この
地は、流山状の小高い丘をなしており、日本武尊を祀る祠が建
てられている。写真大塚山の写真図大塚山の図・御鞍石吉田火
祭(鎮火祭)の際の御輿行在所。吉田火祭の本日にこの御鞍石
上に御輿が安置され、神事が行われる。ここで読まれる祝詞の
一節から、この地が諏訪明神旧鎮座地とされる。写真御鞍石の
写真図御鞍石の図A7西湖図以下に示す要素が点在している平
面図富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが多くの富士
講徒によって行われたが、いつの時代も変わらず巡拝の対象と
して数えられている。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作
品とゆかりが深い。顕著な普遍的価値を構成する諸要素として
、自然地形(湖水)などがある。写真西湖の写真A8精進湖図
以下に示す要素が点在している平面図富士山周辺の湖を巡って
修行する内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが、い
つの時代も変わらず巡拝の対象として数えられている。また、
景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。顕著な普
遍的価値を構成する諸要素として、自然地形(湖水)などがあ
る。写真精進湖の写真A9本栖湖図以下に示す要素が点在して
いる平面図富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが多く
の富士講徒によって行われたが、いつの時代も変わらず巡拝の
対象として数えられている。また、景勝の地でもあり、多くの
芸術作品とゆかりが深い。顕著な普遍的価値を構成する諸要素
として、自然地形(湖水)や中ノ倉峠からの展望などがある。
写真本栖湖の写真A信仰に関わる周辺のものB1富士山本宮浅
間大社図以下に示す要素が点在している平面図・

338 :
浅間神社を往復する祭儀「山宮御神幸」において、これに同行し
た大宮司以下の諸職が一夜参籠した場所である。−53−・鉾立
石籠屋をくぐり遥拝所へ続く参道に、「山宮御神幸」で神の宿っ
た鉾を休めるための「鉾立石」が置かれている。石は火山弾であ
り、籠屋をくぐってすぐの位置に1つ、石段の手前に1つの計2
つが置かれている。・石段(参道)遥拝所が位置する丘陵へ登る
ための石段が組まれている。現在あるものは戦中もしくは戦後に
改築されたものと考えられる。・石塁遥拝所の周辺約45m四方
が石塁により方形に区切られている。青沢溶岩流の溶岩塊上に溶
岩礫を積み上げて構築され、部分的に遺物を含む土層上に構築さ
れている。石塁下から祭祀に用いられたと思われる土師器が出土
しているため、それらが用いられた12世紀から15世紀、もし
くは後の時代に築造されたものと推定される。写真石塁の写真図
石塁の平面図・断面図・玉垣遥拝所の周囲にはコンクリート製の
玉垣が設置されている。戦中もしくは戦後に設けられたものと考
えられる。また、遥拝所入口には鉄製の門扉が取り付けられてい
る。・遥拝所富士山を直接拝礼し、祭儀を行うことを目的として
築造されたと推定される施設である。南北約15.2m、東西約
7.6mの長方形で、30〜40p程度の溶岩を用いて石列等に
よって組まれている。富士山を拝む方向に祭壇が位置し、祭壇に
向かって左側に祭儀を行う際の大宮司席、公文・案主席、献饌所
が、向かって右側に別当・供僧席が設けられている。写真遥拝所
の写真図遥拝所の平面図・石鳥居境内地の南端に、石鳥居が建て
られている。昭和6年(1931)に建立されたものである。・
参道石鳥居から籠屋まで参道が続いている。B3村山浅間神社図
以下に示す要素が点在している平面図・元村山溶岩流村山浅間神
社は、新富士旧期溶岩の元村山溶岩流末端部付近にあたる。見付
の間は平地で、両見付から先は急傾斜地となっている。村山地区
は標高が高く、他の集落と急傾斜地で隔絶された一段高い場所に
位置する。・水源地(竜頭ヶ池)社叢東側に「竜頭ヶ池」と呼ば
れる湧水池があり、水垢離や生活用水として利用されてきた。ま
たこの湧水を水源とする村山沢は南流して渓谷を刻

339 :
北側にある丘陵地一帯は神立山と称される。神立山及び富士山
本宮浅間大社の基盤を構成する地形は、新富士火山旧期溶岩流
に分類される富士宮溶岩流と、溶岩流直上に広がる扇状地堆積
物の層で−50−構成され、溶岩流の末端部にあたる。そのた
め指定地内の一部では溶岩礫が露出し、縄状溶岩も散見される
。また、当該地区は風致地区・保安林にも指定され、渋沢堀沿
いの散策路以外は立ち入りが禁止されている。寛文10年(1
670)の浅間大社境内絵図では神立山に信仰関連の様々な建
築物が描かれ、発掘調査で石畳や護摩堂跡が確認されている。
写真神立山の写真・湧玉池(上池、下池)本殿東側の「湧玉池
」は、国指定特別天然記念物となっている。湧玉池は、富士山
に降った雨や雪が地下水となり、被圧によって富士宮溶岩流の
溶岩層間を流れ、溶岩流末端で湧出して池になったものである
。禊所付近を境に上池と下池に分かれ、以前は上池のみを湧玉
池、下池から下流を御手洗川と呼んだ。登山者や道者が湧玉池
の水で心身を清めた後山中へ向かうという、富士山信仰と関連
の深い池であった。現在も富士山山開きの7月1日には、湧玉
池で禊神事が行われる。写真湧玉池の写真図詳細平面図・社叢
神立山表層部は約3万8千uにわたってスダジイ、ケヤキ等の
樹木が生育しており、富士宮市保存樹林に指定されている。ま
た、野鳥の生息に適した環境でもあり、「野鳥の森」碑が建て
られている。・社殿(本殿・拝殿・幣殿・透塀・楼門)浅間大
社は、社伝によれば大同元年(806)に造営されたという。
かつての駿河国の一宮で、現在は全国1300余の浅間神社の
総本社として崇められている。現在の社殿は、慶長9〜11年
(1604〜06)に徳川家康が造営したものである。写真社
殿全体の写真図社殿平面図[本殿]本殿は国指定重要文化財で
ある。「浅間造」と称する棟高45尺の二重の楼閣造構造で他
に例を見ない。1階下層は桁行5間・梁間4間の寄棟造、2階
上層は桁行3間・梁間2間の三間社流造で共に桧皮葺である。
明治40年(1907)5月27日古社寺保存法により特別保
護建造物に指定され、以後、国指定重要文化財と

340 :
ら大沢川となる。これらの水源は、村山の集落を成立させた要因
の一つである。・御神木(イチョウ、大スギ)[イチョウ]−5
4−昭和43年(1968)7月2日に県天然記念物に指定され
た。目通り8m、根回り9.15m、樹高26m、枝張り東西1
9m南北14mで、樹勢よく乳状下垂気根の発達も著しい。気根
が数多く垂下する。気根の先端に針を刺して祈願すると妊産婦の
乳の出がよくなると伝えられ、女性の信仰を集めていた。また以
前はウロの中に大日如来が祀られていたといわれ、現在でも祭祀
でしめ縄を張る。[大スギ]昭和31年5月24日に県天然記念
物に指定された。村山浅間神社の御神木と称される巨木である。
境内の多くのスギの中で最大のもので目通り9.9m、枝張り東
西17.5m、南北31m、樹高47mもある。中心部には高さ
8mに及ぶ空洞がある。案内板では約1,000年の樹齢とされ
るが、実際にはおよそ400〜600年と推定される。・社叢境
内には胸高直径0.7m以上のスギが39本ある。アカガシ3本
、スダジイ1本などの大樹も見られるが、裏山の大半は戦後植樹
されたヒノキやスギである。富士宮市の保存樹林に指定されてい
る。・浅間神社社殿村山浅間神社社殿は、神仏分離令によって境
内社富士浅間七社を相殿として造られ、中座に木花開耶姫命、左
座に大山祗命、彦火々出見命、瓊々杵命、右座に大日霊貴(天照
大神)・伊弉諾尊・伊弉冉尊を祀っている。現在の社殿は大正2
年(1913)に改築されたものだが、幣殿と拝殿は老朽化した
ため、その後さらに鉄筋コンクリート一部木造に建替えられてい
る。写真社殿の写真図社殿の図面・大日堂(興法寺)鎌倉時代の
文保年間(1317〜1318)に、末代上人の流れをくむ頼尊
が村山に興法寺を開いたと伝えられている。その興法寺の建物と
して現存する唯一の堂で、富士山の本尊である大日如来を主尊と
する。現在の建物は、部材の状況や絵様彫刻の特徴などから江戸
時代末期の建造と考えられるが、外壁は波鉄板板張りに変えられ
ている。桁行5間・梁間7間、入母屋造、鉄板葺きで、南面に出
入り口を開き、前面と両側面に幅一間の回り縁を巡らしている。
写真社殿の写真図社殿の図面・水垢離場山伏修行者

341 :
ている。写真本殿全体の写真(幣殿・拝殿含む)図本殿平面図
(幣殿・拝殿含む)[幣殿]本殿と拝殿をつなぐ部分で、桁行
3間・梁間3間の両下造、屋根は檜皮葺、寛文年間の古絵図に
は幣殿は描かれていないが、現在幣殿として使われている部分
に「作合三間四間ひはだぶき」と書き込まれており、本殿の全
景がよく見えるように描かれたと推測される。県指定文化財と
して保護されている。[拝殿]桁行5間・梁間3間で、床は幣
殿より2段高くなっている。正面が入母屋造、背面が切妻造で
、屋根は檜皮葺、正面に1間の向拝が付いている。三方に縁を
巡らせ、背面は幣殿に接続している。県指定文化財として保護
されている。[透塀]本殿周囲を囲む1棟と、その外側、本殿
横に並ぶ三之宮及び七之宮を含めたより広い範囲を囲む1棟−
51−の計2棟で、総延長は36間に及ぶ。県指定文化財とし
て保護されている。[楼門]三間一戸、重層入母屋造で、屋根
は檜皮葺、正面・左右脇に扉がついている。楼門の左右には随
身像が安置してある。静岡県指定文化財として保護されている
。写真楼門全体の写真図楼門平面図・廻廊楼門から東西に伸び
る回廊は、昭和9年(1934)に付加されたものである。・
手水舎楼門の南西側に、参拝者が参拝前に身を清めるために手
や口をすすぐ、手水舎がある。・灯籠大小それぞれの灯籠が境
内各所に設置されている。・石鳥居本殿へ続く参道に石造りの
鳥居が建てられている。昭和33年3月に寄進されたものであ
る。・東鳥居・西鳥居桜の馬場の東端と西端にそれぞれ朱塗り
の鳥居が建てられている。・桜の馬場浅間大社流鏑馬式が執り
行われる馬場が約200mに渡って東西に伸びている。源頼朝
が富士の裾野で巻狩を行った際、流鏑馬を奉納したことに始ま
ると言われ、室町時代の初期にはすでに神事が行われていたと
の記録が残っている。馬場に沿って両側に御神木の桜が植えら
れている。・禊所湧玉池の上池と下池の境部分が禊所とされ、
池に下りるための石段が組まれている。・神幸橋(湧玉橋)湧
玉池南側の神田川への流出口に石造りの橋が架けられている。
春秋の大祭にはこの橋を通って山宮御神幸が出発

342 :
、富士登拝の道者が垢離をとって身を浄めた場所で、間口約6.
5m、奥行き約4mの長方形で、深さ約0.6mに掘り込み、底
に石を敷きつめ周囲は石積みとなっている。造成年代は不明。水
垢離場へは社叢裏手の沢に湧く龍頭池湧水を引き、上の段から樋
で落とし垢離を取るようにしてある。水の落ち口には山伏修行の
ときの主尊とされる不動明王の石像が安置されてい

343 :
ての駿河国の一宮で、現在は全国1300余の浅間神社の総本社として崇められて
いる。現在の社殿は、慶長9〜11年(1604〜06)に徳川家康が造営したも
のである。写真社殿全体の写真図社殿平面図[本殿]本殿は国指定重要文化財であ
る。「浅間造」と称する棟高45尺の二重の楼閣造構造で他に例を見ない。1階下
層は桁行5間・梁間4間の寄棟造、2階上層は桁行3間・梁間2間の三間社流造で
共に桧皮葺である。明治40年(1907)5月27日古社寺保存法

344 :
。寛文10年(1671)の絵図では橋に屋根が葺かれている
。・輪橋(太鼓橋)本殿へと向かう参道に、鏡池を渡る輪橋が
架けられている。寛文10年の絵図には既に描かれているが、
大正4年(1915)に石造りに改められた。写真輪橋の写真
図輪橋の平面図絵図寛文10年の絵図・護摩堂跡(推定)平成
20年の発掘調査により、護摩堂跡と考えられる溶岩礫で構成
された石垣と建物跡が検出された。石垣は樵石積みで組まれ、
平面形は正方形となっている。また、石垣で正方

345 :
離場の写真・護摩壇大日堂東側にあり、正面には不動明王の石像
が祀られている。護摩壇は、四囲を石で囲んだ一辺5.3mの丸
い石組となっている。丸い石組の前に置かれた葛石には、「干時
安政四年九月」と刻まれ、安政4年(1857)造立と考えられ
る。周囲の正方形の石組みと中央の丸い石組みは石材に違いが見
られ、造成時期が異なっているものと思われる。写真護摩壇の写
真・氏神社(高嶺総鎮守社)−55−護摩壇裏手の一段高くなっ
たところに末代上人を祀る大棟梁権現社があったとされる。しか
し、神仏分離令により廃され、代わりに村山浅間神社社殿と大日
堂の間から裏山に登ったところに大棟梁権現社を遷し「富士大神
社(祭神大己貴命)」として祀られた。現在は「高根総鎮守」と
呼ばれ、元村山集落の氏神社となっている。「明治十八年五月十
七日奉再建冨士大神社」と記された棟札が残されている。現在の
社殿は、平成15年に再建された。・石鳥居村山浅間神社へと登
る石段の途中に、石鳥居が建てられている。昭和28年(195
3)に建立されたものである。・氏神社鳥居氏神社(高嶺総鎮守
社)へと登る参道の入口に、鳥居が建てられている。平成15年
の再建に合わせて建てられたものである。・手水舎(手水鉢)村
山浅間神社へと続く参道入口の左側に、手水舎が設置されている
。明治16年(1883)に設置されたものである。・石段(参
道)段の入り口が、村山浅間神社へ続くものと、大日堂へ続くも
のの2本が平行して造られている。・狛犬昭和5年に奉納された
狛犬2体が、参道脇に設置されている。B4須山浅間神社図以下
に示す要素が点在している平面図・社叢樹齢500年を超えるス
ギの巨木が22本あり、中には樹高37m、目通りの太さが7m
を超えるものも見られる。社叢全体が市指定天然記念物として保
護されている。・社殿大禰宜・渡邊対馬守安吉の社伝旧記によれ
ば、天元4年(961)に駿河国司・平兼盛が社殿を修理したと
の記録がある。その後の記録として社殿の存在が確認できるのは
、大永4年(1524)と記された修築時の棟札による。現在の
社殿は、文政6年(1823)に再建されたとされている。写真
社殿の写真図社殿の図面・神輿殿須山浅間神社の例

346 :
護建造物に指定され、以後、国指定重要文化財として保護されている。写真本殿全
体の写真(幣殿・拝殿含む)図本殿平面図(幣殿・拝殿含む)[幣殿]本殿と拝殿
をつなぐ部分で、桁行3間・梁間3間の両下造、屋根は檜皮葺、寛文年間の古絵図
には幣殿は描かれていないが、現在幣殿として使われている部分に「作合三間四間
ひはだぶき」と書き込まれており、本殿の全景がよく見えるように描かれたと推測
される。県指定文化財として保護されている。[拝殿]桁行5間・梁間3間で、床
は幣殿より2段高くなっている。正面が入母屋造、背面が切妻造で、屋根は檜皮葺
、正面に1間の向拝が付いている。三方に縁を巡らせ、背面は幣殿に接続している
。県指定文化財として保護されている。[透塀]本殿周囲を囲む1棟と、その外側
、本殿横に並ぶ三之宮及び七之宮を含めたより広い範囲を囲む1棟−51−の計2
棟で、総延長は36間に及ぶ。県指定文化財として保護されている。[楼門]三間
一戸、重層入母屋造で、屋根は檜皮葺、正面・左右脇に扉がついている。楼門の左
右には随身像が安置してある。静岡県指定文化財として保護されている。写真楼門
全体の写真図楼門平面図・廻廊楼門から東西に伸びる回廊は、昭和9年(1934
)に付加されたものである。・手水舎楼門の南西側に、参拝者が参拝前に身を清め
るために手や口をすすぐ、手水舎がある。・灯籠大小それぞれの灯籠が境内各所に
設置されている。・石鳥居本殿へ続く参道に石造りの鳥居が建てられている。昭和
33年3月に寄進されたものである。・東鳥居・西鳥居桜の馬場の東端と西端にそ
れぞれ朱塗りの鳥居が建てられている。・桜の馬場浅間大社流鏑馬式が執り行われ
る馬場が約200mに渡って東西に伸びている。源頼朝が富士の裾野で巻狩を行っ
た際、流鏑馬を奉納したことに始まると言われ、室町時代の初期にはすでに神事が
行われていたとの記録が残っている。馬場に沿って両側に御神木の桜が植えられて
いる。・禊所湧玉池の上池と下池の境部分が禊所とされ、池に下りるための石段が
組まれている。・神幸橋(湧玉橋)湧玉池南側の神田川への流出口に

347 :
た敷地内で建物跡の礎石が確認された。桁行3間・梁間4間で
、南側に入口を有していたと考えられる。発掘調査後に、江戸
時代終わり頃の地誌でこの建物跡を「本地堂」とする記載が確
認されており、最終的に護摩堂から本地堂へ造作し直された可
能性がある。写真護摩堂の発掘調査時の完掘写真(平面写真)
図平面図・随身像慶長19年(1614)2月に建立された。
背銘には、左側の像は「甲州河内下山住番匠石川清助作」、右
−52−側の像は「大工山城國上原住櫻井三蔵作」と記され、
市指定有形文化財として保護されている。写真随身像全体の写
真・狛犬参道の石鳥居両側に、狛犬が建てられている。大正7
年5月に奉献されたものである。・御神幸道首標の碑明治以前
に行われていた「山宮御神幸」における、御神幸道の首標が、
池畔に立てられている。造立年は元禄年(1691)未年十一
月とされ、「自当社山宮御神幸道五十丁証碑首也」と刻まれて
いる。昭和59年(1984)に浅間大社境内の土中から発見
され、現在地に再建された。・三之宮本殿横西側に、淺間第三
御子神を祀る境内社「三之宮浅間神社」が建てられている。・
七之宮本殿横東側に、淺間第七御子神を祀る境内社「七之宮浅
間神社」が建てられている。・鉾立石楼門前の石段には、鉾立
石が置かれている。明治の初めまで行われていた山宮御神幸の
際、神の宿った鉾を立てて休めた自然石である。・欄干橋(神
路橋、神路枚橋)池畔と川中島を結ぶ橋が2本架けられている
。島の西側が神路橋、東側が神路枚橋であるが、寛文10年(
1670)の絵図では西側にのみ架けられている。写真橋全体
の写真絵図寛文10年の絵図B2山宮浅間神社図以下に示す要
素が点在している平面図・溶岩流地形山宮浅間神社の石鳥居か
ら参道を経て参籠所に至るまでの区域は北山溶岩流上に展開し
ている。また、遥拝所が位置する小高い丘陵は青沢溶岩流の先
端部である。さらに、涸れ沢の西岸には、天母山(二子山)溶
岩流、万野風穴溶岩流で構成される丘陵地が展開する。よって
、山宮浅間神社周辺には、籠屋付近の北山溶岩流を含め、4つ
の異なる溶岩流地形が広がっていることになる。

348 :2017/12/08
れる神輿を納めた神輿殿が、境内地西側に建てられている。・狛
犬境内には、社殿前と石段手前の参道脇に計二対の狛犬が設置さ
れている。社殿前の一対は平成12年に、参道脇の一対は平成1
3年に奉納されたものである。・灯籠参道の両脇に灯籠が建てら
れている。登り口のものは平成13年に、階段を登ったところに
あるものは、それぞれ寛保2年(1742)、文政6年に奉納さ
れたものである。・手水舎石段に至る参道の脇と、社務所西側の
2箇所に、手水舎が建てられている。社務所そばには、文政7−
56−年と刻まれた水盤も置かれている。・参道鳥居から10m
ほどは石畳が敷かれ、その後社殿の位置する高台へ登るためにコ
ンクリート製の階段が続いている。・鳥居参道入口には、朱塗り
のコンクリート製の鳥居が建てられている。昭和41年(196
6)に奉納されたものである。・石碑鳥居の東側に、郷社として
奉幣を受けていたことを示す碑が建てられている。・古宮神社八
坂大神、八幡大神、愛鷹大神、子安大神、疱瘡守護神を祀る境内
社である。覆屋の中にあり、旧本殿と推測される建物である。B
5冨士浅間神社図以下に示す要素が点在している平面図・社叢(
浅間の杜)社殿周囲と、参道の南側に社叢が広がっている。特に
参道南側の部分を浅間の杜と呼び、静岡県や小山町の天然記念物
である大樹が生育している。・ハルニレ昭和38年(1963)
2月19日に静岡県の天然記念物に指定された。根回り約6m、
目通り4m、樹高24.50m、枝張東西28.10m、南北2
3.50m、樹齢約500年。北日本の山地に多い落葉高木で、
静岡県では極めて少なく当社以外の小山町内では数本しか見当た
らないが、境内には10本が生育している。・エゾヤマザクラ昭
和58年5月1日に小山町の天然記念物に指定された。樹齢約1
30年で、根回り2.08m、目通り1.75m、樹高約10m
、枝張東西13.8m、南北9.5m。別名をオオヤマザクラと
称するヤマザクラの北方型で、静岡県が南限である。県内ではま
れな樹種である。・根上がりモミ平成3年5月1日に小山町の天
然記念物に指定された。樹齢約300年で、根回り4.61m、
目通り3.07m、樹高27m。この根上り群は約

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