TOP カテ一覧 スレ一覧 100〜終まで 2ch元 削除依頼
【自炊】一ヶ月食費1万円に抑えたい 146【栄養】
札幌市北区での一人暮らし!
【吉祥寺】武蔵野・三鷹で一人暮らし【井の頭公園】
【糞】汚い煙草喫煙者は引っ越せ!!【R!!】
品川区大田区での一人暮らし
実家暮らしの友人との温度差に悩む人
【DQN】埼玉県でここだけは住むな!
墨田区でひとり暮らし5
ゴキブリでました 助けてください
【至福の】一人暮らしのこたつ 13台目【牢獄】

わい高校3年生、春から専門学生福岡で1人暮らし


1 :2018/02/12 〜 最終レス :2018/12/15
春から一人暮らしするんだが
田舎から大都会福岡に行くんで楽しみもあるが不安も多い
そこで、一人暮らしするならこれだけは気をつけろ とか
一人暮らしで大切なことだとか
福岡でのおすすめの場所?バイト先?とか
色々教えてくれ

2 :
oやりすぎ防犯パトロール、特定人物を尾行監視 2009年3月19日19時7分配信 ツカサネット新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090319-00000026-tsuka-soci

この記事で問題になった通称やりすぎ防パトは、創価学会と警察署が引き起こしていたようです

掻い摘んで説明すると

・創価学会は、町内会や老人会、PTA、商店会等の住民組織に関し、学会員が役員になるよう積極的に働きかける運動を
 90年代末から開始し、結果、多くの住民組織で役員が学会員という状況が生まれた

・防犯パトロールの担い手は地域の住民と住民組織で、防犯活動に関する会議や協議会には、住民組織の代表に役員が出席する為
 防犯活動や防パトに、創価学会が間接的に影響力を行使可能となった

・防パトは住民が行う為、住民が不審者や要注意人物にでっち上げられるトラブルが起きていたが
 創価学会はその緩さに目をつけ、住民組織を握っている状況を利用し、嫌がらせ対象者を不審者や要注意人物にでっち上げ
 防パトに尾行や監視、付き纏いをさせるようになった

・防パトは地元警察署との緊密な連携により行われる為、創価学会は警察署幹部を懐柔して取り込んでしまい
 不審者にでっち上げた住民への嫌がらせに署幹部を経由して警察署を加担させるようになった

・主に当該警察署勤務と考えられる創価学会員警察官を動かし、恐らく非番の日に、職権自体ないにもかかわらず
 私服警官を偽装させて管轄内を歩いて回らせ、防犯協力をお願いしますと住民に協力を求めて回り
 防犯とは名ばかりの、単なる嫌がらせを住民らに行わせた(防犯協力と称し依頼して回っていた警察官らの正体は恐らく所轄勤務の学会員警察官)
 ※これに加えて防犯要員が同様のお願いをして回る

・こうして防犯パトロールを悪用し、住民を欺いて嫌がらせをさせつつ、創価学会自体も会員らを動員し、組織的な嫌がらせを連動して行った

つまり警察署に勤務する学会員警察官、警察署幹部、創価学会が通称やりすぎ防犯パトロールの黒幕

詳細は下記スレをご覧下さい
やりすぎ防犯パトロールは創価学会と警察署の仕業だった
https://rio2016.2ch.sc/test/read.cgi/bouhan/1516500769/

3 :
>>1
クソガキR

4 :
VIPでやれ

5 :
>>1
Rゴミ

6 :
がんばれ

7 :
僕の知り合いの知り合いができた稼ぐことができるホームページ
関心がある人だけ見てください。
ネットで検索するといいかも『蒲原のロロムムセ』

UCPEU

8 :
いろいろと役に立つ自宅で稼げる方法
一応書いておきます
グーグルで検索するといいかも『ネットで稼ぐ方法 モニアレフヌノ』

6JWQC

9 :
OKK

10 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#10

11 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#11

12 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
12

13 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#13

14 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
14

15 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#15

16 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
16

17 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#17

18 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
18

19 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#19

20 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#20

21 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#21

22 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
22

23 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#23

24 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
24

25 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#25

26 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
26

27 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#27

28 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
28

29 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#29

30 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#30

31 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#31

32 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
32

33 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#33

34 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
34

35 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#35

36 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
36

37 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#37

38 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
38

39 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#39

40 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#40

41 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#41

42 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
42

43 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
43

44 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#44

45 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
45

46 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#46

47 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
47

48 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#48

49 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#49

50 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#50

51 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
51

52 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#52

53 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
53

54 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#54

55 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
55

56 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
56

57 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#57

58 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
58

59 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#59

60 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#60

61 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#61

62 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
62

63 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#63

64 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
64

65 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#65

66 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
66

67 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#67

68 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
68

69 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#69

70 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
70

71 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
71

72 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#72

73 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
73

74 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#74

75 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
75

76 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#76

77 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
77

78 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#78

79 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#79

80 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#80

81 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
81

82 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#82

83 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
83

84 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#84

85 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
85

86 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
86b

87 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#87

88 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
88

89 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#89

90 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#90

91 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#91

92 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
92

93 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#93

94 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
94

95 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#95

96 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
96

97 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#97

98 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
98

99 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#99

100 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#100

101 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#101

102 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
102

103 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
103

104 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#104

105 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
105

106 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#106

107 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
107

108 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#108

109 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#109

110 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#a

111 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
b

112 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#b

113 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
c

114 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#c

115 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
d

116 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#d

117 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
e

118 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#e

119 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#f

120 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
120

121 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#121

122 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
1a2

123 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#123

124 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
124

125 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#125

126 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
126

127 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#127

128 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
128

129 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#129

130 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#130

131 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#131

132 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
132

133 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#1a3

134 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
134

135 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#135

136 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
136

137 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
137

138 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#138

139 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#139

140 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#140

141 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
141

142 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
142

143 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#143

144 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
1a4

145 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
145

146 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#146

147 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
147

148 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#148

149 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#149

150 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#150

151 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
151

152 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#152

153 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
153

154 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#154

155 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
1a5

156 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#156

157 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
157

158 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#158

159 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
159

160 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#160

161 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#161

162 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#162

163 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
163

164 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#164

165 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
165

166 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#1a6

167 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
167

168 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#168

169 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#169

170 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#170

171 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
171

172 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#172

173 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
173

174 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#174

175 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
175

176 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#176

177 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
1a7

178 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#178

179 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#179

180 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
180

181 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#181

182 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
182

183 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#183

184 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
184

185 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#185

186 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
186

187 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#187

188 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
1a8

189 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#189

190 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#190

191 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#191

192 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
192

193 :
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)二塁手で使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田陽太とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋周平が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。リーダーの決断に注目だ。
#193

194 :2018/12/15
大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛新監督だった。
よく言われる「残り福」ではなく、まさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った、金の卵との交渉権。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「遊撃手1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
194

【賃貸】物件選び、こんなことで失敗した(-_-)こんなことで成功したv(^-^)v 60
【賃貸】物件選び、こんなことで失敗した成功した 38
何日に一回くらい実家に帰ってる?
【寂しい】無職で貧乏な1人暮らし集まれ【雑談】
【名古屋】一人暮らし★36丁目
[スメハラ]隣人が臭い
西武線沿線での一人暮らし
札幌で一人暮らし その230
玄関先に変なマークが書かれてたんだが
【ダサ】東京の下町や千葉の人間の特徴2【田舎】
--------------------
【社会】JASRAC「失われた10年」乗り越え、史上2番目の徴収・分配額に 2019/05/22
スターチルドレン
ロード オブ ヴァーミリオン 紅蓮の王 2
【豚】深谷はもうダメなのか【車大好き】
【GR】不良道JOKER【ジョーカー】その60 もういい加減終焉でいいよね?
【輸入】どのメーカーのパスタが好き? 9【限定】
ボレー・スライス世界一決定戦
【化物語・傷物語】忍野忍はぱないの!可愛い16【キスショット】
【漫画】荒川弘「銀の匙 Silver Spoon」:再び休載へ 10カ月ぶり復活し、サンデー26号から29号まで4号連続で掲載
国立西が丘サッカー場
公認会計士を目指した理由について語るスレ
【パンツ軍団】マジカルパンチラインアンチスレ
【佐賀】男子高校生にみだらな行為、容疑で39歳の男を逮捕 同性愛専門の会員制交流サイト(SNS)で知り合う
LINE ディズニーツムツム ハート交換雑談スレ13
トータリースパイズ!Totally Spies!
【汚声】増田俊樹アンチスレ5【イベント声優】
【MLB 2019】 LAAvs専 0004
【MVNO】DMM mobile 6枚目【さようなら】
【人気スレ】西成・あいりん・釜ヶ崎 ドヤ16日目 【禿よ来い】
なんで死体蹴りしちゃいけないの?★10
TOP カテ一覧 スレ一覧 100〜終まで 2ch元 削除依頼