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戊辰戦争・旧幕府軍勝利の可能性について 2


1 :2012/09/06 〜 最終レス :2015/12/27
戊辰戦争・旧幕府軍勝利の可能性について
http://logsoku.com/thread/awabi.2ch.sc/history2/1285685960/

2 :
____________________戊辰戦争
http://logsoku.com/thread/hobby7.2ch.sc/army/1135335436/

3 :
855 : 名無し三等兵 : 2007/04/03(火) 07:29:32 ID:???
既に、官軍の先鋒…軍監の岩村が率いる部隊が小千谷に布陣している時点で、
会津をはじめとする列藩同盟軍は長岡周辺で蠢動している。
だから、この時点で恭順の意を示しても、もう遅い。
政府側についても、北から東からやって来る同盟軍部隊との戦闘で、藩領域内で戦闘になった可能性はある。
ただ史実のような市街戦は避けられた可能性も否定はできないけどね。
中立を声高に叫びつつ、官軍が高田まで進出してきた時点で、火急に恭順の意を官軍に伝え、
官軍部隊を領内に引き入れた上で、守備を固め、やっぱり官軍に味方しますと、公式に表明する・・・
これならば、確実に市街が戦場と化すのは避けられるだろう。
長岡藩が転べば、途中で裏切った新発田藩も最初から官軍に転ぶ可能性が高い。
新発田藩が転べば、新発田藩に命じて新潟を接収・占拠させることもできるだろし、
そちらの阻止に列藩同盟が本腰を入れるならば、今度は長岡への圧力が減る。
ある種のクーデタが必要になるだろうが、藩侯は河井に全権委任していたから、
河井個人と周辺の数人を蟄居謹慎に追い込むなり、斬るなり…
処理さえできれば、藩侯も隠居で、恭順に藩論を統一することは難しくない。
お家も安泰だろう。
北越戦争が新潟の接収と長岡周辺からの同盟軍の駆逐で済むわけだから。
会津攻めの先鋒は岩村が要求した通りに長岡藩になる。
新式兵器を持って入る割に、河井という指揮者を失い、弱兵ぶりをさらすことになるだろうけどね。
問題は・・・。人がいないよ、河井を処理できる人間が。クーデタをやる人間が思い浮かばない。
だから、河井が局外中立、ダメなら同盟参加という路線を突っ走れたんだろうけどね。
後は河井が岩村に捕縛されるという外的要因が発動しないと、
長岡が恭順派になる要素がオレなんかには見当たらないんだけどね。

4 :
アーイキソ

5 :
真面目な話そもそも慶喜が逃げずに大阪徹底抗戦してれば幕府側の雄藩と
協調できたんじゃないの?
庄内藩、米沢藩、長岡藩、越前藩、大垣藩、土佐藩辺りは普通に味方になってくれそうだし
上手くやれば水戸藩、宇和島藩も味方になってくれると思う。
薩長は確かに強大だけど彼らの連携しれば勝てたと思うんだがね。

6 :
大阪で籠城して勝てたかが問題で、朝廷は開戦2日目から薩長と一体化し周辺諸藩に旧幕府との開戦を促している。
近畿諸藩は、親藩の淀藩や徳川と近かった津藩が朝廷を支持しただけではなく、徳川慶喜自身の流布した天皇神聖視思想が
広まっており、正面から朝廷と敵対する素地がない。
純粋な軍事力の優劣ではなく、正当性の点で徳川慶喜は完全に敗北してしまっていた。
だから緒戦で朝廷内に突入できたか否かが勝負の分かれ目で、それ以降は蛇足だったと思う。

7 :
やっぱ戦う意志が弱いから幕府は負けたんだよ。
無限の未来が目前に広がってる側と、現状を守ろうとする側では自ずと戦意に差がでる。
あなたならどちらに命をかけて戦いたいですか?

8 :
2が始まっていたのか…で当時の勢力を今の企業に例えると。
幕府→NTT   薩摩→au   長州→ソフトバンク
これを見ると、慶喜が、
大阪城に篭城し徹底抗戦していたら、官軍の方がヤバクなる。

9 :
勅使が来たら紀伊まで信じられぬよ。特に慶喜は南紀派への報復が激しかったから。

10 :
ってか真面目な話薩長の力ってどれくらいだったわけ?
軍事財政的に考えてさ。幕府側や中立の雄藩(土佐や肥前も含む)
と比較しても圧倒してたりしたの?

11 :
鳥羽伏見の戦い以前に勤王藩になっていた畿内とその近辺の藩は、
(近江)
彦根藩、西大路藩、膳所藩
(大和)
郡山藩、柳生藩、高取藩、小泉藩
(河内)
狭山藩
(摂津)
三田藩
(丹波)
園部藩、柏原藩、綾部藩
鳥羽伏見の戦いの最中に朝廷側に寝返った藩は、淀藩、津藩、亀山藩、高槻藩。
大阪城にもっとも近い摂津の尼崎藩や麻田藩などは、慶喜逃亡の報を聞くまで動きを取れなかった。

12 :
薩長が抜き出たのは対幕府強硬策の博打に出て勝って結果を残したからで
いわゆる雄藩の中で軍事財政が特に突出して良かったとか
勝利は必然的だったということはない

13 :
薩長の最大の勝因は、慶喜が尊皇観念に囚われていた、途轍もないチキンだった事だろう。
慶喜が、開き直って大阪城に篭城していたら、薩長の方がオワコン。
西郷は、補給を如何するか、頭を抱えていた。

薩長のそもそもの戦争計画は、鳥羽伏見で幕府軍と対決して、
その時間稼ぎの間に天皇を担いで広島に逃げるというものだった。
まさか鳥羽伏見でああも簡単に薩長が勝てるとは思わなかったのだろう。

14 :
幕府に従うと諸藩にとってなんかいい事あるの?

15 :
慶喜が尊皇観念にとらわれていたのは当たり前の話で、
そうでなければあの時勢、将軍になれてなかっただろ。
錦の御旗を出すなんて、朝廷を握っている薩長にしたら当然な話であって、
それを偽官軍として討つくらいの意気込みが欲しかった。

16 :
>>14
どの道、廃藩置県。武家廃止。
>>15
にしても、あの逃亡は、情けないし、もったいない。
錦の御旗だの朝敵だのは、単なるレッテル張りだわな。

17 :
結局江戸開城まで大奥ひとつ解体できなかった幕府にそんな大胆な改革できるの?

18 :
禁門も薩摩の力が無かったら、10分の1の長州も抑えられなかった。
第二次長州征伐もボッコされてる。
慶喜の負け方が一番上手い負け方、徳川家は残ったし。
鳥羽伏見、戊辰無ければ政府にも入れたし。

19 :
鳥羽伏見の戦いは、慶喜が直接指揮していれば勝てたかもしれない。
負けた後でも、大阪城に篭城すれば、官軍の方が困り、裏切りが出ていた。
土佐藩は裏切る気だったし、土佐藩が裏切れば、広島藩も寝返る可能性大。
越前藩と尾張藩は、そもそも戦闘参加を拒否している。
大阪城篭城でも、幕府軍が有利。
6日の夜の逐電は、一番芸が無い。

20 :
勅使が周辺諸国に回り、数日の間に既に京滋の大名は旧幕府から離れ新政府についたというのに?
更に日が経てば、勅使が諸国に着き旧幕府への戦端を開くよう説得にあたるというのに?
大阪に留まるのは危険なんだよ。

21 :
勅使がまわっているのは事実だけど、
だからと言って畿内の小藩が大阪城を攻撃出来る訳でも無いよw
紀州藩は、幕府側だし、大阪湾には幕府海軍も居るし。
長州藩は陸路があるからともかく、薩摩藩の援軍や物資の補給は、かなり厳しい。

22 :
徳川慶喜の立場を分かっていないな
土佐藩は佐幕派:根拠なし
紀州は絶対佐幕派:徳川慶喜とは関係悪化中
なんだか終戦間際の「ソ連は枢軸国だから日本の味方」論に似た勘違いが見える。

23 :
>>22
知っているよ、そんな事。
紀州藩主の徳川茂承は、15代将軍職を慶喜と争った人物。
特に大奥は茂承を推したが、中堅官僚の支持は慶喜に集まり、幕府は分裂状態になる。
15代将軍が決まるに数ヶ月かかっている。結構もめた。
幕府の内輪揉めを見た岩倉具視が、薩長や討幕派公卿と組んで宮将軍擁立の運動を始めた為に
幕府内の両者は折り合い、また明天皇も慶喜を支持した事もあり、16代将軍に田安亀之助を推す事を条件に慶喜が将軍になる。
紀州藩は、田安亀之助を将軍にしたいので幕府体制断固維持している。
戊辰戦争後の明治時代になっても、東京新政府に対して土佐藩と組んで対抗する姿勢だった。

24 :
公武合体は徳川絶対擁護の立場佐幕ではない
公武合体派も尊王
徳川が尊王にそむくなら公武も敵に回る事になる
公武合体は徳川に同情的ってだけで

25 :
67年の幕府のアームストロング砲35門購入計画が成功していれば、
官軍は、大阪城に近づく事さえ出来なかっただろう。
ジャーディン・マセソンが、断ったんだよな、この話し。
薩長に肩入れしていた形跡濃厚だ。

26 :
アームストロング砲で問題なく運用できたのは前装野戦砲だから、司馬が言うほどの威力ないぞ
佐賀藩が運用してたのも多分これ
もちろん無いよりは全然マシだし、薩長も正面から攻城となれば苦戦しただろうが
まぁ、慶喜が交戦する気になれば

27 :
有れば、慶喜は使っただろうし、篭城したかも知れない。
35門のうち、10数門が大阪城に配備されていれば、薩長は大阪に近づく事さえ出来なかっただろう。
むしろ薩長は、神戸(西宮)に進撃していたかも。
重要な港で援軍や物資も欲しかっただろうし。

28 :
けつでしょ

29 :
大阪城攻城戦になれば、土佐藩が裏切って徳川サイドに付く。
そうなると広島藩も怪しくなる。
広島藩の国元は、親長州だが、在京藩邸は親徳川。


30 :
慶喜=下痢で辞めた安倍

31 :
>>29
鳥羽伏見開戦時なら土佐藩も何の問題もなく裏切ることができてたと思うが、
大坂城まで行って裏切ったら朝敵やで
一気に京を奪い返せる算段が立たないとなかなか踏み切れないと思われ
その頃には既に国許から討幕派の板垣とかが到着してるやろし

32 :
西郷にあって慶喜になかったものはクソ度胸?
やっぱボンボンはいざって時にダメだってことか…

33 :
  ヽ────────-、
  [   ━━━━━━━ )二]
  ノ────‐!i───.r ' ‖
 ̄           .!i、    ! ‖
\       ィ.___))   ,'[[]] TARGET...CAPTURED
 \      _.i'I.._   / BODY SENSOR...EMURATED,EMURATED,EMURATED...
        -´=ェエ=,` /ー―‐-
   \      ̄  /

34 :
幕藩システムの盾と尊攘システムの盾の差だろ
幕府は清朝より優れてるが似てるところも出る
鳥羽伏見も情報力や指揮官の差で、失敗してる戦法を何度も繰り返し撃退された
西郷のよう大賢者は鋭く原理底を見抜いたのでないか

35 :
鳥羽・伏見の戦いが、わけがわからないんだよ。
「旧幕府軍は戦闘隊形も取らず行進隊形のまま銃に弾も込めることもなく京都への入り口、鳥羽・伏見の薩摩軍の関門で停止していた。
これは戦闘もなく通過できることを確信していたからであった」
とか通俗的な本によく書かれているけど、旧幕府軍はその前に大阪薩摩藩邸を炎上血祭りにして意気揚々、
徳川慶喜の親書すら薩摩を断罪する旨はっきり書いてあるのに、その薩摩軍の前で行進隊形で待機なのだから。
竹中も滝川も大河内も自軍全滅希望としか思えない。

36 :
薩長合わせても数千ってのは流石に知ってただろうから、数を考えたら攻撃できねーだろwwwとか思ってたんじゃね?
なんか知らんけど軍配書には前日に二条城に入るとか普通に書いてあるし

37 :
朝廷から旧幕府への通知は、「徳川慶喜が少人数の随行者のみで京都へ入る」
「会津・桑名関係者は入京を認めない」などあり、大軍勢での入京は通知違反とされても仕方がない。
それに鳥羽・伏見の関門を無事通過できるとするなら、いったいどこで戦闘するんだよ、という問題。
旧幕府軍が大軍を仕立てていたからには、どこかで戦闘になることを予期していたはずなのに、
実際に大阪で薩摩藩邸を炎上させ凱歌を上げ、討薩表まで作って行軍しているのに、
肝心の薩摩軍本体と正対して戦闘隊形をとらないのだから。
「御所の関門で戦闘になるのであって鳥羽・伏見などではないと思っていた」、という説も書かれるが、
「御所には尾張藩、越前藩などもいて、これらも旧幕府軍に味方すると思っていた」、とか楽観的に過ぎる。
尾張藩や越前藩が旧幕府軍に同情的とするなら、なおさら薩摩軍は京都市内や御所内では戦わないと思うべきなんだよ。

38 :
>>35
>旧幕府軍はその前に大阪薩摩藩邸を炎上血祭りにして意気揚々
違うね!
鳥羽伏見に進撃する直前に会津藩が、
大阪薩摩藩邸を攻撃予定だったけど、その前に薩摩藩邸サイドが察知して自ら火を付けている。
当時、大阪の薩摩藩邸には最小限の当直の藩士や使用人(現地採用の町人も)しか居らず、
とてもではないが完全武装の会津藩の攻撃を防ぎ切れないので、藩士自ら藩邸に火を付けた。

39 :
>>38
どこが違うのか不明。
「旧幕府軍は薩摩藩大阪屋敷を炎上血祭りにして意気揚々」という記述には違いは無いと思われる。
それなら、第二次長州征伐の時の石見国浜田城は、浜田藩が勝手に火を放って撤退したから
浜田藩に被害はなく、長州軍の意気は全く上がらなかったのだろうか。

40 :
>>37
思うべきとは言っても
旧幕軍の計画や行動はとてもそう思ってるようには見えないからなぁ
あとは戦わずに逃げると思ってたとか?

41 :
江戸城無血開城後でも、長岡藩と白河で守備固めて
榎本艦隊に大阪押さえさせて北陸道進撃して京都入りすれば旧幕府方勝てたよな。
尊皇派押さえるために輪王寺宮の出陣が条件になるけど

42 :
そうだ

43 :
別の天皇(東武帝)を神輿にたてて京都(明治帝)獲りに行くってどういうこと?
自己矛盾じゃね?

44 :
 
「南北戦争」と「西南戦争」はセットだった
http://ichiba.geocities.jp/gbsg0309/0203/36/246.html
南北戦争の余った銃砲は、日本に送られ戊辰戦争・西南戦争に使われた。
全て、計画通りだった。

45 :
秀頼「真田が天王寺で家康の首を取る!そしたら敵陣は崩れ秀忠の首も取れる!もう徳川軍は総崩れ
   浅野は裏切り、相手方は裏切りの連続、福島は江戸を脱出し、島津毛利も動く
   それらを引き連れ江戸へ総攻撃じゃ!阪神優勝や!!」
大野「上様、上様」
秀頼「なんや夢か、競馬行ってこよう」
大野「その前にご切腹を」
江戸城無血開城後でも勝てるというのは、夢でも見んと適えられへんわ

46 :
京都奪還に失敗した時点で何を言ってるやら

47 :
しかし恐ろしい時代だよな
斥候にでた人間を斬首したり…
やってることがアルカイダより凄惨だ

48 :
鳥羽伏見の戦いは、徳川 vs 官軍(長州藩 + 薩摩藩)と言うよりも、
徳川 vs 薩摩藩 の色彩が強い戦い。
現に薩摩藩の兵力が、長州藩のそれよりも倍以上の規模になっている。
徳川も長州藩に対しては、それ程怒ってはいないし。
むしろ途中で立場を変えて、長州藩と手を結んだ薩摩藩に徳川の怒りが集中している。
旧幕府軍の先頭は「討薩表」を掲げていたし、徳川にとっては、対薩摩藩戦争の性格が強い鳥羽伏見の戦い。

49 :
慶喜が将軍になる前の段階で死んでりゃ良かったかもね

50 :
慶喜がヘタレだったのか、何かの計算だったのか分からんが、徹底的に戦う道
を選ばなかったのは日本にとっては良かった。幕府、官軍双方に大損害が出て
背後で応援した英仏の植民地になってたよ。

51 :
孝明天皇が馬鹿じゃなければ内戦自体回避できた
無能なくせに口を挟んで都合が悪くなると知らん顔する孝明天皇が悪い

52 :
西郷と大久保が天才すぎた。
あの二人にとっては徳川のボンボンなど屁でもなかったのだろう。

53 :
幕府歩兵隊と和歌山の歩兵は芸州口で頑張ったけど。ドンナモンダッタノ?
竹中重固や水野忠幹の指揮能力は?

54 :
芸州口の長州藩軍と一進一退の攻防戦で
どちらかというと幕府軍優位だった
戦争は数だよ兄貴!
>>47
気分は戦国時代のまんまだからなあ

55 :
薩摩が強いのは薩英戦争を既に経験していたから
改良に改良を加えて薩英戦争に挑み、更に軍に改良を加えて実践的な軍隊を作っていた
だから禁門の変でも会津や幕府軍を助ける事ができた
反面、幕府はやや暢気で会津にいたっては威張るだけで全然軍に改良を加えずに
まだ槍主体で人数が多ければ勝てると言うわけのわからない戦略を持っていた
慶喜は優れていたが、周りの者がその足を引っ張った
特に誰とは言わないが、会津藩主なんかがそうだ

56 :
会津藩主は孝明天皇に気に入られていて傲慢だった
天狗になっていたが、その実、会津藩では税金が厳しく領民の反発が大きかった
会津領民を人とも思わない会津藩主は京で一会桑政権で江戸幕府さえ怒らせる専制政治を展開しようとした
そのために京の御所から追い出されて存外な扱いにされた京周辺の諸藩は反発した
戊辰戦争でも薩摩の強さを見て、日頃から一会桑体制に腹を立てていた諸藩が砲撃を加えた
その事に気がつき驚き失望して過去を思い出して反省したのが慶喜
その事に全く気がつかずに、裏切りだと文句ばかり言っていたのが会津藩主

57 :
長大な海岸線を持つ西南諸藩は早くから列強の脅威を感じ、国内改革の必要性を論じてきた。
薩摩藩については、幕府よりずっと早くから黒船を目撃してきた。
幕末、薩摩が中央政治において強大な存在感を発揮したのもうなずける。
それにくらべ会津は海を持っていない。しかも奥州の僻地。
危機感を感ずるといえば、幕府の威勢が衰微したことを嘆くくらいであろう。
同じ田舎でも、九州あたりの諸藩とは国力においても政治感覚においても大きな差があった。
海外の情勢にも暗く、とても列強と渡り合いながら日本を牽引する指導力は持ち合わせていなかった。
慶喜も片腕とするには頼りなく思ったに違いない。

58 :
>>54
防衛側の長州に押しまくられて、広島が主戦場になり。
浅野から領内荒らさないでくれと言われて怒られたので、そっちでの進軍を止めただけだがw
長州は炊き出しとかまでして余裕モード。
なお兵力は長州1500、幕府5万。

59 :
最精鋭の赤備えがまさか手も足も出ないなんて完全に計算外だったろうな。

60 :
67年の幕府のアームストロング砲35門購入計画が成功していれば、
大阪城に10数門配備されていたであろう。そうなれば官軍は、大阪城を落とせない。
下手をすると、官軍は、大阪城を包囲する事すら出来なかったかも。
そうなると慶喜は、鳥羽伏見の戦いに負けても大阪城を逃げ出す事は無かった可能性が高い。
大阪城攻防戦で、大阪に釘付けの官軍は、圧倒的に不利だろう。大阪湾には幕府海軍が居るので制海権は幕府側だ。
官軍の補給が続かない可能性も高い。関東から幕府軍本体が西進する可能性もある。土佐藩が官軍を裏切る可能性がある。
そうなると朝廷新政府の皇族議定や公卿議定が、薩摩藩を見捨てて、慶喜を朝廷新政府の副総裁に任命する可能性が出てくる。
元々皇族議定は、身分の低い藩士が、参与に任命されている事に反発して、議定と参与の合同会議を開催する事すら嫌がっていたし。

61 :
>>55
薩英戦争で兵器の劣る薩摩が奮闘したのは伊地知正治の功績大きい
司馬は小説で大村と比べ古臭いとか書いたが嘘だな
薩英戦争、鳥羽伏見、会津戦争と活躍してる
会津にとって不運の一つは板垣、伊地知と当時の名将コンビが攻めてきた所もある
西郷なんかももし外国と戦争になった場合は総司令官は板垣にしろって程だったしw

62 :
偽勅って本当に偽勅だったの?

63 :
「偽勅」ではないという考察もありますね
http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/theme14e.htm

64 :
新政府軍って箱根の関所をどうやって超えたんだろう?
やっぱり関所破り?

65 :
小田原藩が最初恭順で、新政府軍はすんなり通過。
その後一旦「徳川慶喜公の交戦命令があった!」とする一部藩士による関門封鎖蜂起があるが、
新政府が素早く動いた上に、左記の情報はデマとわかって瓦解。小田原藩は新政府からきつく処分された。
ならその一部藩士は最初から徹底抗戦でも良かったのにね。間が悪い。

66 :
>>60
小御所会議でも、王政復古のクーデター直後は、
皇族や公家の議定は、徳川宗家の辞官納地を支持していたが、
次第に下級武士が三職会議を主導している事に不満を示し始め、
三職会議を議定会議(上院)と参与会議(下院)に分ける事を主張し始める。
皇族議定がこの様な発言を行い、身分秩序の崩壊に不満を示した事で
公家議定も同調し、参与から議定に昇格した岩倉もこの動きを見て弱気になり、
結局三職会議は、議定会議と参与会議に分離され、議定会議の決定が、朝廷
新政府の決定とする事になった。
その後、前将軍慶喜率いる幕府軍と佐幕派諸藩は、洛中での討幕藩との武力衝突
を避けるために大阪城に撤退。薩長以外の藩も、土佐藩や越前藩に同調し始め、
薩長による朝廷の占領状態の解除を要求し始めた。
徳川慶喜の大阪城への撤退を評価した皇族議定や公家議定は、慶喜との協調体制
を模索する事を主張し始め、徳川宗家に対する辞官納地を事実上骨抜きにする
決定を行い、さらに慶喜を新政府に迎える意向を示し始める。
この様に鳥羽伏見の戦い直前の朝廷新政府では、対慶喜協調派の方が優勢だった。

67 :
>>66
慶喜が、京から撤退するのが12月12日で13日に大阪城に入る。
仁和寺宮らの皇族議定が、下級武士への不満を表すのが14日だから順番が逆かな。
まあ皇族議定と公家議定が、慶喜の大阪撤退を評価しているのは、間違いないけど。
洛中での軍事的緊張が無くなったから、皇族議定は、下級武士(参与)への不満を
見せ始めたとも解釈できる。

68 :
今日の政局でも3週間程度で形勢が逆転した時は当事者は票読みを間違える
加藤の乱、小泉郵政選挙、小沢−菅政局 
まして大坂と京、上方と江戸に分かれていたら情報の断絶による政局の読み違えは大きかっただろうな

69 :
祖法を変えることは先祖が間違っていたことになる。それは先祖に失礼なので祖法に従う。
という朱子学的な考え方が蔓延していたらしいですね。
時代に合わせて法を柔軟に変えることができなかったことが致命傷になったかと思います。

70 :
まさか第二次加藤高明内閣が政党内閣ではなかったという基地外論理とは思わなかった…

71 :
誤爆

72 :
秀頼でさえ徹底抗戦したのに慶喜ときたら・・・

73 :
秀頼は家康が伏見会見した時に将来性への脅威を感じたくらいの人物だぞ。
家康に自分の死後、秀忠は秀頼に潰されるかも知れないと思わせた訳だし。

74 :
滝川じゃなくて小栗に指揮を執らせれば落馬&逃走などという醜態を晒さずにすんだかも

75 :
>>13
外堀も内堀も徳川家康が埋めちゃってるんだが
徳川家康自身が薩長に味方してたのよ
実際、薩長は、徳川宗家も徳川御三家も、会津松平家でさえ滅ぼさなかったからな

( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \

76 :
家康は外様大名達の前で徳川家が堕落して天下を乱したら遠慮なく倒せと遺言していた

77 :
>>75
長州藩主である毛利敬親は長州征伐で実権がないことを主張して斬首を免れた手前
薩長政権が佐幕要人の斬首を求めることは難しいかと。
そういえば藩主クラスで死んだ人っていましたっけ?

78 :
松平頼徳

79 :
あんまり知られて居ないけど、徳川慶喜は、慶応の改革で幕府軍の近代化と
武器の国産化が可能になったら、李氏朝鮮を攻撃して植民地にする予定だった。
この慶喜政権による朝鮮侵攻は、老中首座の板倉勝静が上申して計画が始まり、
そのまま板倉が担当者だったが、朝鮮へ幕府軍を進出させれば、当然清朝との
軍事的衝突が有るので、板倉勝静と山田方谷は、徳川宗家バージョン日清戦争
を考えていたと思われる。
板倉勝静は、備中松山藩の藩主であり、陽明学者の山田方谷が顧問として藩政
を見ていたが、この山田方谷こそが、幕末時から中国大陸進出を公言しており、
征韓論の祖でもある。
対馬藩士で明治時代の外交官である大島友之允は、藩士時代に山田方谷に感化され
て征韓論を説き始め、この大島の感化を受けたのが友人である桂小五郎(木戸孝允)
であり、後に桂が新政府の高官となるに至って、大島の論は明治新政府の政局に
重大な影響を与える事となる。

80 :
>>79 幕末に征韓論が出てきたのはロシアをモンゴル帝国の再来と見てまた朝鮮が手先になって日本侵攻を始めると警戒したからだろうな。
 これは第二次大戦後のソ連南下(北朝鮮・カラフト・千島)によって現実の脅威になり現在に至る。
 

81 :
大阪城を拠点に圧倒的な軍事力で有利な海軍で海上閉鎖
圧倒的な兵力差をもって陸路閉鎖
京の新政府軍は補給路を絶たれ敗戦必死

82 :
>>81
山口や鹿児島を砲撃で焼き払えば良かったのかねえ?
あっ鹿児島はもう焼けていたか。

83 :
第二次長州征伐のときいくらでもそのチャンスはあったんだが、なぜか出来なかったw

84 :
【高潔】西郷隆盛とは何だったのか【有徳】
http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/history2/1376359027/

85 :
>>81
まさに>>83の言う通り
圧倒的な優勢だった長州征伐で負け、さらに優勢だったはずの鳥羽伏見でも負け
さらに劣勢になるはずの状況で、今まで出来なかった事ができるのか?
鳥羽伏見の際に淀藩や津藩を始め、畿内の多くの藩が次々官軍に寝返って
さらに西国の傍観していた諸藩も官軍に下るのは必定、官軍は日を追うごとに増えるだろう
鳥羽伏見の際に幕府に付いていた、姫路、伊予松山、高松、備中松山、桑名、大垣ら
譜代や親藩の動向も怪しくなるだろう、実際に藩主が東で戦っていても、残された藩士らは降伏したし
江戸から援軍が来る?好戦的な旗本の多くは大阪に来ていたし、どれぐらい期待できるだろうか?
大阪冬の陣みたいに完全に囲まれていた可能性もあったと思う
江戸初期の火縄銃の時代ではなく、もっと遠距離まで飛び破壊力も大いに増した新たな時代
確かに大阪城は江戸初期では難攻不落の城だったかもしれんが、幕末ではほとんど期待もできないはず
そういう事も考えて慶喜は、ちょっと決断早すぎるとは思うが、江戸へ逃げたのではと思う

86 :
長州征伐では事前に香港買い付けや薩摩経由で物資を備蓄されていたので海上封鎖の効果が乏しかった。
戊辰戦争では西から遠征しているので兵站が欠かせないので海軍戦力の活用は致命傷になりうる。
また、圧倒的な戦力差で関門海峡を封鎖していた艦隊が海戦で敗北したのは高杉晋作の奇策があってこそ。
戊辰戦争では心配いらないと思う。

87 :
長州藩の強さは補給の強みでもある。
最近の研究成果でも、芸州戦線で損害を被った小隊を山口政事堂の直接命令
で交代させて休養→補充→前線とさせている。
長州藩は奇兵隊と言えども全て山口政事堂の直接命令がないと動かせなくし
ている。高杉晋作とはいえ、全て一元指揮下に置かれており、独断専行が
出来ないのが特徴である。無論、個々の戦線で指揮官の独断はある程度ゆる
されているが、兵力の少ない長州軍が効率的に戦えたのも司令部と後方のシ
ステムが確立していたから。

88 :
世界の果てまでイッテQ!新春珍獣祭りSP4
http://hayabusa2.2ch.sc/test/read.cgi/liventv/1388918383/

89 :
【樟葉台場(大阪府枚方市)】
2011年(平成23年)2月7日に国の史跡に指定された、幕末戊辰戦争の淀川河川台場。
http://mirai660.net/castle/kuzuhadaiba_model.html

90 :
宗教から歴史、天皇、政治経済まであらゆる情報の宝庫!
本日の講義は『大日本帝国は生きている 特攻隊の精神』です。
桜のように美しく咲き、そして潔く散る… それが日本人の魂!
http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/

91 :
鳥羽伏見での長州藩の藩兵って幾らぐらい出兵してたの?

92 :
幕府方15000
西軍5000
長州 140人中隊 8個総隊
だったような 歴史群像 幕末戦史では

93 :
それじゃあほとんどが薩摩郡だったのか

94 :
フランス軍に支援してもらってれば

95 :
  

96 :
客観的に見れば旧幕軍が国力でも軍事力でも地の利でも圧倒的に有利
尊王って宗教色がなければ負ける事は無かった
宗教色の無い武力勝負なら逆立ちしても旧幕軍には勝てなかった
薩長は幼帝を連れて逃走
これが当初の策略だし

97 :
第二次長州征伐では幕府軍は官軍として戦って、賊軍の長州一国に敗れ去ってるんですが?

98 :
あれで勝ってれば強い幕府の復活が出来てたんだけどなあ
イケイケの江戸の幕府重臣が更にイケイケになるから諸侯会議派とは一悶着ありそうだが

99 :
長州藩はいつの間にか孫子の兵法マスターしてた

100 :
軍事力、経済力、官軍と圧倒的有利な第二次長州征伐や鳥羽伏見でも勝てないんだからな
理由は良く分からんが

101 :
幕府なんて屑のあつまりが薩長に勝てるわけないよな普通に考えて

102 :
薩長が強いのでは無くて、エンフィールド銃・スナイドル銃で武装して居たから、強くて当たり前です。
蛤御門の変で、長州軍を薩摩軍のエンフィールド銃部隊が撃退した。
第二次長州征伐で、幕府軍を長州軍のエンフィールド銃部隊が撃退した。
シャスポー銃は湿度の高い日本では、殆ど役に立たなかった。
徳川慶喜は薩長軍に幕府軍を態と負けさせる為に、エンフィールド銃で武装させなかった。
鳥羽・伏見の戦いで、徳川慶喜は河井繼之助が率いる長岡軍エンフィールド銃部隊63名に玉津橋の警備を命じた。
河井繼之助が率いる長岡軍エンフィールド銃部隊63名が、會津の林権助が率いる大砲部隊・槍隊と共闘すると、
薩長軍に局地戦で勝ってしまうので、玉津橋の警備を命じたのだ。

103 :
長州は国民皆兵の革命軍、幕府は平和ボケした旗本中心の体制維持派で武器性能に大差があるんだから人数の劣勢はあまり問題にならなかったんだろう。

104 :
錦の御旗で総崩れは子供だましの説明、薩長は世界最新兵器に対し
幕府側は火縄銃とか弓矢・刀・槍では勝ち目はないのは当然。

105 :
太平洋戦争も竹槍でB29と戦おうとしたらしいなw

106 :
徳川慶喜が会津・桑名の殿様を連れて海路逃亡していったのが敗因だろう。
 将兵には戦えと命令しておいて自分だけ逃亡したんだからな。敵前逃亡罪に当たる。

107 :
洋式部隊だけでも薩長より幕府のが多いくらいだしな
海軍力は比肩できない位幕府が上
慶喜が逃げたのは鳥羽伏見で負けて勝ち目ないと聞いた後だし
石高も数百万石と上

108 :
薩摩の殿さんは倒幕したあと「それでわしはいつ将軍になるんだ」と寝ぼけていたらしいな。

109 :
>>105
それは薩長政府

110 :
大名家はまだ華族として生活保護されたからいいが、その他は石高10%以下になって貧乏士族は人力車夫になって生活したらしいな。

111 :
幕府の洋式陸軍は、甲冑装備の水戸天狗党にも惨敗してるくらいだから、
士気がかなり低かったんだろ

112 :
>>109
東條小磯鈴木は薩長じゃない

113 :
>>112
でも機能していた憲法は薩長が作ったモノ
それに木戸(幸一)と岸(信介)は長州だよ

114 :
>>113
木戸は総理じゃない
岸が総理の時に竹槍でB29と戦戦おうとしてない

115 :
訂正
>>113
木戸は総理じゃない
岸が総理の時に竹槍でB29と戦おうとしてない

116 :
>>115
でも、内務大臣として東條を首相に指名したのは木戸だし、岸も開戦内閣の時に入閣していたよね。
それに敗戦時にも明治憲法は機能していたよね。そういう背景を見ても薩長が大東亜の敗戦の責任が100%無いなんて言えないじゃないの?。

117 :
>>116
明治憲法の条文に、薩長の権限や責任て書いてあったっけ

118 :
>>

119 :
>>113
帝国議会は統帥部に介入できなかったことで
木戸幸一が東條英機を首相にせざるを得なかったわけで

120 :
>>113
>>116
>>117
明治憲法は欽定憲法
欽定憲法とは君主によって制定された憲法
薩長は君主ではない

121 :
つまり、薩長の責任でも無ければ、東北の責任でも無く、君主である天皇の責任だと言いたいわけなのか。
それにしても、薩長信者の弁解は実に聞き苦しいなぁ・・。天皇を君主に祭り上げて、(大東亜戦争時の)憲法を作ったのは
他ならぬ薩長政権なのにねぇ・・。それでいて、今の政府は薩長が作った政府だなんて胸を張って言う奴もいるんだから
本当に御都合主義の塊だよ・・。

122 :
議会政治辞めた奴のせいじゃね?
維新三傑もそうだが伊藤博文も議会政治止めるなんて思ってなかったもなかったはずだし

123 :
別に憲法で戦争してたわけじゃないだろ

124 :
>>121
ここは戊辰戦争のスレだ
憲法とか大東亜戦争とか話そらすな
誰かへのレスじゃないなら、まず戊辰戦争について書き込めよ

125 :
明治初期に今の近代国家の礎を築いた人達がいつまでも生きているわけがないだろうにね
世代交代するうちに、いろいろな奴が出てくるのは当然のこと
それは時代とともにその時代の人々が選択することなのでしかたがない
今の我々は、そういう過去から学ぶことが重要なのだ

126 :
明治新政府の三分の一は徳川閥

127 :
薩長幹部の補佐役としてな
江戸の人間は器用だから使いやすかったのだろう

128 :
本来なら排除される立場なのに
チャンスを与えてもらっただけでも大したことだがな

129 :
徳川閥の盟主 第十六代徳川家達にいたっては、貴族院議長を三十年以上
首相候補に なるよう 大正天皇や長州から要請もあった
【一族会議で否決されて辞退したが】

そもそも徳川閥と薩長が対立したことはないし
あくまでも幕末で対立したのは 会津桑名と佐幕派連合だけ

130 :
まあ家康の豊臣潰しに比べれば寛容過ぎるけどな

131 :
尾張徳川家当主 徳川義親が大川周名や
橋本欣五郎が率いる桜会を支援、3月10月事件に関与してるのに全くお咎め無し

132 :
韓国で李舜臣の映画が歴代最高らしいな
空前の李舜臣ブーム
唯一日本に勝った(と思ってる)戦なんで日本人ぶっRシーンでマンセーしとるんやろな

133 :
>>132スレと
関係無いけどね

134 :
>>122
軍=悪というのは戦後の史観ですからな。
従来は元老が軍部に睨みを効かせていたものの
1930年4月にロンドン軍縮条約で浜口雄幸首相が強引に調印したところ
当時野党に転落していた政友会が政争の道具として「統帥権干犯問題」を持ちだして右翼と共に政権を攻撃した。
ここから軍部が政治家の手を離れて翌年の満州事変の暴走につながる。
そして五一五事件や二二六事件で軍部が国民の心を掌握した。
貧民を救済せずに政争に明け暮れる政治家よりも
非合法とはいえ貧民を救済するために暴力に訴えた軍人のほうが国民に支持される構図ですな。
軍事政権は生産したものをすべて買い上げてくれて農工商すべて景気が上向いた。
日中戦争開戦の1937年流行歌は「もしも月給が上がったら」(林伊佐緒)という
希望に満ち溢れたもので、戦争=悪という空気は微塵もない。

135 :
幕末に尊攘派がもてはやされたのと軍部が熱烈な支持を獲たのは似ている。
転換期という意味では幕末では井伊直弼の暗殺、
戦前なら国民から不人気だった山縣有朋の死が一つの転換期だったのだろう。
幕政を完全に掌握していた南紀派筆頭の井伊直弼と同列に挙げるのは直弼に失礼だが、
クズで超絶不人気とはいえ山縣は軍部のボスで桂太郎、寺内正毅らとともに長州閥で軍部を完全に掌握していた。
この3匹が死んだことで政治家の箍が緩み、政治家の国民を無視した政争が軍部のコントロールを失わせた。
宇垣一成が首相になることで政治による軍の掣肘が可能だったのだが、軍部によって政治を掌握することを画策した
陸軍将校(石原莞爾)らの横槍が入った。これは石原自身が後に人生最大級の間違いと称した痛恨のミスだった。
木戸幸一が対米開戦阻止のため起死回生の策で東條英機を首班に推挙したがハル・ノートを突きつけられると
頼みの東條ですら軍部の対米開戦圧力を抑制できなくなった。
このあたりは攘夷決行の圧力そっくりだ。

136 :
>>135
逆です。宇垣が軍部に掣肘されました。

137 :
犬養首相と 安政の大獄やった(善悪や必要性の有無は別に) 井伊直弼大老とでは 事情が少し違うような

138 :
軍部が熱烈な支持受けたってほんとかなぁ
なんで議会政治止めたり言論統制必要だったの?

139 :
>>138
議員が萌えキャラみたいになって役立たずだったから。

140 :
官民併せて中国に深入りしすぎたよなあ

141 :
>>121
東北が原因だよ。
薩長の人間は明治憲法で日清日露で勝ち、第一次大戦でも勝ち組ついて、
世界の列強の一つになった。
東北の人間は薩長の人間を追放して日本を滅ぼした。

142 :
東條は劣化手代木か

143 :
幕末で鳥羽伏見だけ何で負けたのかわからない戦争だよな
幕府軍が武器が劣ってたってわけでもないらしいし
薩長の日記かなんかに「幕府軍から新式銃分捕ったり」って書いてたりするらしいし

144 :
>>143
徳川慶喜
「徳川はもう駄目だから、新政府に行こうか」
尾張慶勝
松平春嶽
「賛成」

松平容保
「えっ!僕はどうなるの」

手代木直右衛門勝任 「まず弟に坂本龍馬を抹殺さして、よし薩摩藩邸も焼こう」
土佐 山内家
「やっべー!坂本が死んでもうた!会津につこう」

彦根井伊家
「やった!政界復帰だ!」

鳥羽伏見の戦い

土佐
彦根


「お暇を頂きます」
手代木
「ビキビキセ」

145 :
>>143
長州征伐なんて10万対3千だぞ
これで勝てないんだからな

146 :
もし、幕府が勝っていてもその後の展望が全く見えない。
貿易はどうする?身分制度は?
第二の清になるところだたな。

147 :
>>141
東條を首相にした内務相の木戸幸一って、東北出身だったっけ?

148 :
>>147
東條内閣で大臣から次官に降格された岸って東北出身だっけ?

149 :
>>147
スゲー狂ったレスだよなあ

150 :
>>148
このレスも狂っているし

151 :
>>150すまん
放置すれば良かったか

152 :
>>149
>>147より
俺は狂っていない、山口の人間は自分達の痛いところを突かれると相手を狂人呼ばわりするのかね?。

153 :
>>152
内府と内相や馬と鹿の区別がつかない人間の事をなんと呼ぼうか?

154 :
>>153
それが大東亜戦争には長州閥がノータッチだったという言い訳なのか?
だったら何故木戸は戦後A級戦犯として裁かれたのかね?

155 :
>>154他がみんな自決したから

156 :
>>155
ほう、長州閥の連中全員自決か・・。では、安倍首相のじいさんはゾンビ状態のまま首相をやったのかね?
面白い返答だわww。全く、いくら長州閥を弁護する為とはいえ、こんな荒唐無稽な答えを出すとは(笑)。

157 :
>>156誰が長州閥が自決したといった馬鹿
阿南陸相が、十五日早朝自決した直後、海軍軍令部次長で神風特攻隊の生みの親、大西滝治郎中将が自決した
八月から秋と冬にかけて、軍と民間の高官があいついで自殺したが、それは次の人たちである。
 八月二十四日:東部軍管区司令官・田中静壱大将 △九月十二日:杉山元・元帥夫妻 △十一月二十日:本庄繁・元関東軍司令官 △十二月十六日:近衛文麿公爵。
東条元首相は、九月十一日、米国憲兵が逮捕にきたとき、拳銃自殺をはかったが失敗した。
日本側の推計によれば、一〇〇〇人以上の将兵が、夏の終りまでに自決している。
岸の爺さんは東條と満鉄めぐって対立しとったろうが

158 :
>>156戊辰戦争の話しろ

159 :
>>157
お前が木戸幸一の件に対する答えとして出したのだろう。だからなんで長州閥が自決したの?と言ったのだ。
>>158
俺ばかりに言うな、長州信者の>>157にも言え

160 :
>>159日本で起きたこと全て長州の陰謀とか 逆に長州信者の言い分だぞ?
東條内閣が設立出来たのは徳川や東北出身が過激な将校を支援したからだし
衰退期に入った長州の木戸に反対できるわけもない
翻って戊辰戦争の原因って思いっきり
どこぞの東北藩公用方の暗躍が元凶だし

161 :
長州閥を倒した結果東北が閥作って日本滅亡。

162 :
内大臣の木戸幸一もひどかったが南方軍司令官の寺内寿一もひどかったな。どう見ても元帥の器じゃない。
戊辰戦争の原因は大山格之助や、便所に首を捨てられた世良修三だろう。
総督府の参謀が黒田清隆や江藤新平なら戦争にならなかったかもな。

163 :
>>162
仙台藩に東武皇帝が手代木一派に伴われて入国したのは世良達 鎮撫使が来る
ずっと前だぜ?
しかも世良暗殺の翌日に会津軍は白河に侵攻してるし
開戦の口実を欲しがってた連中からしたら世良も江藤も黒田も大山も殺害対象だよ
近江屋や薩摩藩邸焼きからの常套手段だろ

164 :
軍部大臣現役武官制を復活させた寺内寿一。
ゴーストップ事件を拡大させた張本人、寺内寿一。
湯浅倉平内大臣にウソをつき、宇垣内閣を潰した寺内寿一。
腹切り問答の後に広田内閣を潰した寺内寿一。
インパール作戦にGOを出した寺内寿一。
山下奉文の反対を無視してレイテ決戦を強行した寺内寿一。
全くどうしようもないな。

165 :
>>164
そんな愚痴はそいつを南冥に追いやった当時の首相兼陸相に言え
しかも戊辰戦争と何の関係がある

166 :
武官制度って陸軍大臣が総理になれた時点で意味なくなってるよな
インパールの失敗を嘆くくらいならボースたちに粗末な装備ばかり与えなさんな東條さん

167 :
>>158さんよ、>>166にも文句を言ってやれよ。戊辰の話をしろと・・。

168 :
もし大山格之助が秋田でさっさと死んでいれば、久保田藩は同盟も裏切ることもなかっただろう。
そうなると精強の庄内藩、盛岡藩は秋田に侵攻する必要もない。
庄内藩が南下して米沢藩・長岡藩・桑名藩を支援し、新潟港を完全制圧していたら戦況も大分変る。
盛岡藩・弘前藩も南下して、仙台藩を支援する。
幕府海軍は日本海側に回航して、庄内藩の南下を支援する。
スネルやファーブルを使って箱館や新潟でライフル銃を緊急輸入する。
戦場では薩摩長州を優先的に攻撃し、殲滅する。

169 :
史実を見ても、立見尚文の桑名藩兵は長州の奇兵隊を敗走させ、
酒井玄蕃の庄内藩兵は花館で薩摩兵を一方的に殲滅している。
楢山佐渡の盛岡藩兵は佐賀藩と一進一退の激戦を繰り広げている。
仙台藩も額兵隊の編成が完了すれば、多少戦力はマシになる。

170 :
佐賀兵や土佐兵その他には会津や庄内に対する遺恨は特にない。
薩摩長州の戦力が激減すれば、休戦交渉に応じる余地もあるだろう。

171 :
会津は残念ながらもはや手遅れということで見捨てるしかないが、
秋田が同盟側についたままであれば、庄内・米沢・盛岡にはまだ余力がある。
仙台が退却した福島は放棄するしかないとしても、旗巻峠は盛岡・弘前の支援があればまだ持ちこたえる。

172 :
会津処分で揉めたのだから、会津を見捨てるならそもそも戦う必要なくないか?

173 :
>>172会津処分すら 只の建前だよ
首謀者が会津藩士ってだけで、官軍の目当ては東武皇帝輪王寺宮とそれを擁する佐幕派残党とそれを支援するフランス プロイセンの軍事顧問達なんだから
9GXayfXq0さんの言うとおり その作戦なら勝てたはずだが 一つ問題なのは 奥羽列藩同盟自体 例によってどこぞの公用人がごり押しで作った軍隊だったと
当然 親薩長寄りの藩士もいたから崩壊は時間の問題だったよ
ただ戦が終わるまで保たなかっただけで

174 :
>>173
この時代建前は大事だよ。
長期戦になると東北の国力的に勝てないから、内部崩壊以前にやっていけなくなると思われ。
せいぜい西南戦争よりも官軍に死者がでたかなーくらいかなと。

175 :
>>174
勝ち組負け組関係なく東北諸藩は財政破綻したしな〜
余裕があったの庄内くらいか
会津なんか、怒り狂った民衆と過激士族の残党同士で内戦したしな

176 :
結局兵の強さで決着ついたな
会津兵は金門の時も長州兵に蹴散らされてるし
他がやる気なかったのは長州征伐のときも同じだし

177 :
まあ戦争になれば大坂の商人から借りてた金なんか踏み倒せるし、
久保田藩や盛岡藩は銅鉱山や鉄鉱山が多いから、現金収入はわりと多い。
釜石鉱山もすでに稼動していた。
北海道は水産資源が豊富だ。木材資源もある。
プロシア・フランスから技師を呼べば炭鉱の開発や、製糸工場も作れるだろう。
スコットランドに南部杜氏を派遣して蝦夷地でウヰスキーをつくることも可能だ。

178 :
兵の強さというか練度。
会津は近代戦の訓練を受けてない。

179 :
兵の強さだよ
薩摩は薩英戦争の時から強かった
長州も禁門の変の時から強かった
兵の強さは薩摩>長州=土佐>幕府=会津だろう
長州征伐の時の主力長州>幕府=会津の戦い
戊辰戦争の主力は薩摩>長州=土佐>幕府=会津の戦い

180 :
>>179
幕府や諸藩を一括りにしている時点でアレ

181 :
>>180
そもそも会津が守護職してたのも佐幕派だからじゃないしな
トップが井伊直弼の御稚児だったから
新しい政権に睨まれたからだし

182 :
と言っても諸藩も幕府も、
長州の奇兵隊はおろか、比較的後になって新設されて無名の指揮官に率いられている隊以下なんだけどね。

183 :
会津・仙台は実際弱かったが、
庄内は薩摩より強く、桑名の雷神隊は長州の奇兵隊より強い。
秋田戦線も薩摩は庄内の前に敗退したが、佐賀に阻止された。

184 :
戊辰戦争で活躍したのは薩摩や長州よりもむしろ佐賀や土佐。
江藤新平や、大隈重信、板垣退助らが薩長を弱兵と見下すのも無理はない。
それが明治の政変につながる。

185 :
佐賀藩が秋田に上陸するのが遅れていたら、
薩摩は南から酒井玄蕃の指揮する庄内兵に、北から楢山佐渡の指揮する盛岡兵に挟まれて包囲され、完全に殲滅されていただろう。

186 :
人種が違いますんでね。人種が。

日本人←日本人種
韓国人←中央蒙古人種

北方蒙古人種・・・・・モンゴル人、満州人、北方アジアの少数民族
中央蒙古人種・・・・・華北人、華中人、朝鮮人
南方蒙古人種・・・・・福建省以南の華南人、台湾人、タイ人、ミャンマー人
インドネシア人種・・・・・ベトナム人、ラオス人、カンボジア人
日本人種・・・・・日本人
アイヌ人種・・・・・アイヌ人

187 :
>>183
12万対4000くらいで勝つ長州とは戦力が違いすぎる。

188 :
薩摩の正規軍があまりにも強いので、決死隊による夜襲戦術で局地的に撹乱させるしかなかった庄内軍

189 :
>>188
+本間様の財力

190 :
刀抜いてチェストチェスト騒ぎ出すとうるさいので、寝込みを襲えば無問題。

191 :
薩摩軍は装備がいい上に、洋式軍として訓練を受けてて実戦も多く経験してる。
長州軍はそれに次ぐ。
こういった新型軍に対抗できるのは幕府歩兵隊だけ。
理想を言えば歩兵隊の平隊士に10人くらい部下を付けて
歩兵隊中心に軍を再編すれば勝機もあった。
まあ農民傭兵の下に武士が従うなんてプライドが許さんのだろうけど。

192 :
主力から言えば薩長土対幕府会津だから
他の藩はやる気なし
幕府会津軍が薩摩長州を打ち破らないと
他の藩はやる気ないからね

193 :
頼みとする江戸の旗本がヤル気ないんだからな

194 :
旗本八万騎は名前だけの役たたずですもん。
武州の百姓の方がよく戦ったわ

195 :
散兵戦術がとれず、戦列歩兵でしかない幕府軍では基本的に勝てない。
銃の質では互角でも戦術で勝てないんだから。
そして散兵戦術は明日からいきなりできる白物ではない。
兵士個人が指揮官の指示もなしで、個人で判断して戦わないといけない。
そしてなにより指揮官から遠くても逃げず死を恐れずに戦わないとね。
これが出来る兵士を育成するのは簡単ではない。
長州は散兵戦術を行ううえで邪魔になるから、奇兵隊になったんだし。

196 :
蛤御門の時から長州のが強かったぜ
幕府&会津軍は蹴散らされ薩摩の到着で倒したが

197 :
余りの長州軍の猛攻に松平容保は熱を出して倒れた位だしな
起き上がっても天皇に隣で弁当を食うしか出来ない程だし

198 :
薩長出身の将軍たちは、戊辰戦争時の苦い経験から立見尚文の前では頭が上がらないことが多く、
特に山縣有朋は北越戦争の際、何度も煮え湯を飲まされていることから、生涯避けていたという話もある。

199 :
長州再征に、会津・桑名・一橋・は参戦したの?

200 :
>>199
会津自体は本国で反対が会って無かったが松平容保は一旦守護職を辞任(更迭)された後陸軍総裁として第二次長州征討軍を指揮してる

201 :
>>200
会津藩としてじゃなく松平容保だけで参戦したってことになるのかな?

202 :
>>201そうなる
ちょうど、この時は 将軍家茂と一会桑が和解して長州征討を行ってるから幕府軍として出撃したかったんだろな

203 :
気になって検索したが、
第二次長州征討が慶応年間の1866年で、
陸軍総裁やめて守護職にもどったのが、元治年間の1864年になってるけど、
どうなんだろう?
松平容保て単身で最前線にいって大軍を指揮できるタイプとは思えんのだが

204 :
>>203
元治って年号は5月に改元したから慶応元年までの二年しか使用されてなかったみたい

その元治二年2月には
一会桑と対立する将軍家茂の命で老中の阿部と本庄が挙兵上洛して会津軍と睨み合いになったりと
一会桑と幕府は一発触発だったが家茂の上洛と孝明天皇の仲介で関係改善になったが 要は共通の敵 長州がいたからなんとか和解にこぎ着けたんだろな
容保が守護職から陸軍総裁になったのも幕府との関係改善の為に自ら長州を打ちたかったんでない

205 :
出る杭は打たれるって言うけど、長州という杭を討とうとしてドジっちゃったのね
薩摩さんの動きを見誤ったことが会津さんにとっては誤算だったかしら
その後にどんでん返しがあるんだから世の中ってわからないもんだわぁ

206 :
しかし戊辰戦争の後はさらにどんでん返しで佐賀も鹿児島も焦土になり、
板垣大隈も追放され、岩手県民が政界を牛耳ると。

207 :
鳥羽.伏見で幕軍が負けたのは尊王思想が全てで軍事力ではない
数的・地力的…あらゆる面で幕軍が圧倒的に有利で負ける理由は皆無
錦の美旗を本物と信じてしまい逆賊の汚名を恐れた大将の敵前逃亡がなければ幕軍圧勝
歴史は変わってた

208 :
結果論からしか語れない輩はアニメヲタか無学のアポ
第二次長州征伐然り、鳥羽伏見然り
普通に考えれば万が一にも幕軍が負ける戦ではない
第二次長州征伐に限定して例えるなら、真珠湾攻撃や南方方面での敗退だけでアメリカが日本に降伏するぐらいありえないレベル

209 :
>>207たとえが悪いが、張作霖爆殺や真珠湾が近江屋や薩摩藩邸焼き討ちか
しかも敵への挑発というより、味方を黙らされるのが主眼な辺りは良く似てる
後、上層部が無数の派閥だらけなのも

210 :
>>209追伸
但し、それらを皇軍ではなくアメリカ軍がやっちまった挙げ句 同盟軍が一斉に寝返ったようなくらい有り得ない戦力差と結果だわな

211 :
>>205
会津藩は元々「自分達は田舎者で、京の訳の判らない政争に関わりたくない」
という気持ちが強かったし、京で「勤王」という時代の風を十分に感じて、
幕府に義理立てして京都守護職の役目も果たしつつ、
勤王勢力にも余り憎まれないように気を使っていたんだよ
ところが配下の新撰組が空気が読めなくて暴走、池田屋で勤王の志士を
メッタ斬りにしてしまったから、否応なく戦の最前線に引き出されてしまった。
新撰組のようなヤクザ者を雇ってしまったのが最大の間違い

212 :
>>207
いや幕軍の危機感の欠如が致命傷だろ。
道なりに行進して薩軍に門を開けろと交渉するとか戦端が開かれる可能性を欠片も考えてない。
それに竹中が指揮官だったのも敗因。
近代戦を理解してる松平乗謨か大鳥あたりが指揮してれば違ったかも。

213 :
>>211
会津が長州に憎まれたのは八月一八日の政変と、それに伴う禁門の変で逆賊の汚名を着せられたから
志士同士の斬り合いなどお互い様
新撰組の存在が大局に影響を及ぼす訳も無く、池田屋事件が無くても禁門の変は起きていた
因みに佐幕派の新撰組も勤王の志士だからなね
勤王vs佐幕 なんて図式は存在しません

214 :
>>212
危機感云々 戦略云々
どれをとっても幕軍が負ける理由に成るには材料不足なぐらいに、客観的にみれば圧倒的に幕府有利
結果を知らない人間が見れば100人が100人とも幕府が勝つって予想する

215 :
あと幕府軍は部隊ごとに実戦力がでこぼこで統一指揮できなかったのも問題だな。
新撰組を弾除けにして状況が許せば斬り込みに使って歩兵隊を主戦力にするとかね。
駄目な戦力も使いようなんだけど漫然とぶつかるだけだからな。

216 :
>>213
ただ 佐幕派の巨頭 手代木が会津軍の実権を握るきっかけが正に8月の政変と池田屋事件だしな
古高の情報は色々と役に立ったろう
更に親薩摩派の秋月まで追放しちまって 一挙に強硬路線だし

217 :
まあ薩長も仙台に大山格之助や世良修蔵みたいなのしか送れないくらいだから、
指揮官レベルの人材は相当に不足してたんだけどな。
山県有朋は立見尚文に蹴散らされるレベルだし。大鳥と板垣はどっこいどっこいのレベル。

218 :
>>213
違うな、禁門の変のきっかけは池田屋事件だよ
八月十八日の政変で長州は京都政界の権力の座から追い落とされただけだよ、
血も流れていない。禁門の変のような大規模な戦争が、八月十八日の政変で
起きた訳じゃない

219 :
禁門の変は新撰組が池田屋襲撃をしたことによってトリガーを引いてしまったのね
それは天地をひっくり返すという名のパンドラの箱を開けてしまったようなものよ
一方で長州は何かしらの形で京へカムバックしようと考えていたことも否めないわ
池田屋で同志が殺され長州がまんまと釣りに乗ってしまったのか、それとも大局的に見ると新撰組が地雷を踏んでしまったのか?
それは皆さんのとらえ方次第ですわ
芝さんは池田屋襲撃がなければ明治維新は永久になかったと言っているわぁ
あたしは禁門の変があろうとなかろうと、薩摩さんは長州と組んで幕府に決戦を挑んでいたと思うけど、みなさんはどう思うかしら?

220 :
人種が違いますんでね。人種が。

日本人←日本人種
韓国人←中央蒙古人種

北方蒙古人種・・・・・モンゴル人、満州人、北方アジアの少数民族
中央蒙古人種・・・・・華北人、華中人、朝鮮人
南方蒙古人種・・・・・福建省以南の華南人、台湾人、タイ人、ミャンマー人
インドネシア人種・・・・・ベトナム人、ラオス人、カンボジア人、フィリピン人
日本人種・・・・・日本人
アイヌ人種・・・・・アイヌ人

221 :
>>219
会津軍の当時の威勢を考えたら 長州が勝ったり薩摩が寝返ると想像できた人は果たして何人いたかな

222 :
>>208
そりゃ数十分の一以下の軍に完膚なきまでに負けているのをみれば、
幕府はもう終わったと思って見限り連中も出てくる。
アメリカも同盟国が全部手のひら返して日本について対米で宣戦布告してくれば、
うわこりゃ勝てないと判断するのは普通。
日本の場合は途中で負けたからな。44年くらいまで快勝してたら話は違っただろうがね。

223 :
>>218
藩士数名が斬られただけで藩の存亡を掛けた行動などするわけ無い
現に池田屋事件の時も長州藩邸は門を閉ざしてる
そもそも長州が何故上洛したか?目的は戦では無いからね
池田屋事件で一部の長州過激派の感情を逆撫でしたとしても、それが理由で動いた訳ではありません
池田屋事件があろうが無かろが嘆願書を持って上洛はしてた

224 :
>>218
そもそも京都を追い出されただけ?
それがどんな意味を持つか?そこから考えた方がいいと思います。

225 :
>>219
アニメか小説の話しですね
長州が武装して上洛しましたが、長州の大義名分は何か?そこから履き違えてます

226 :
>>222
時系列が不明の文なので答えにくいですが…
鳥羽伏見での寝返りや中立的な立場を選び幕軍に手を貸さなかった藩がいたのは、朝廷が新政府側の手の内にあったから
錦の美旗により新政府軍が皇軍であり、されに逆らえば逆賊なのです
「天皇は現人神であり絶対的な存在」
幕末に限らず日本史を語る上で、この宗教的な通念を無視してはいけない

227 :
改めて書きます
第二次長州征伐.鳥羽伏見
結果を知らない100人の人が見れば100人全員が幕軍圧勝って言うレベル
敗因を論理立てて完璧に説明する事など不可能
では何故幕軍は敗れ、薩長が勝ったか?
その後の日本に悪影響しか与えなかった非論理的な流行語を借りて言うならば
「神風が吹いた」
この一言だと思います

228 :
彦根や土佐の佐幕派なんて
会津の手代木と非公式に会談までしたのに旗一本で寝返ったしな

229 :
錦旗が上がったのは4日間の戦いの3日目なんだけど、その間負け続けだったのは実力以外の何なんですかね?

230 :
>>229
第二次長州征伐同様に局地戦で敗けただけで戦局自体に何ら影響は与えていない
既出だろうが大阪城を拠点に海路と陸路閉鎖で京都の新政府軍は補給路を断たれて孤立する
地の利も兵力も軍事力も全てが旧幕軍が圧倒的に有利
新政府軍は幼帝を連れて陸路逃走しか術は無かった
そもそも実力だけで勝てるなら偽の錦の美旗なんて手段は使う必要は皆無
大将が敵前逃亡など敵も味方も誰一人想像出来るわけも無く青天の霹靂である

231 :
>>230
まあ慶喜にしたら例え勝てても、待っているのは佐幕派政権の傀儡君主しかないからな

232 :
>>223
>池田屋事件があろうが無かろが嘆願書を持って上洛はしてた
兵を伴って上京したら戦争になるのは分かり切った事で
圧倒的に過小な兵力で戦争すれば、負ける可能性もきわめて高い
負ければ朝敵となり、天下のお尋ね者になる事も分かり切っている
それなのに無謀にも京へ武力上京したのは、
池田屋事件で長州過激派の頭に血が上ってしまったからだよ
池田屋事件がなければ、禁門の変はあり得ない

233 :
>>230
畿内の諸藩がもう幕府見限って、新政府軍についているから陸路と海路封鎖とか無理。
そして地の利も兵力も軍事力も圧倒していたのに、長州一藩に大敗した幕府にこれ以上付いていく奴はいない。
鳥羽伏見が最後のチャンスだった。あれで汚名を返上できていればよかったのに、
そこでも負けたらもう誰からも相手にされない。
尾張や越前も確実に官軍に付くのでもうそこで終了。
畿内に孤立した慶喜一党が全滅するだけの話。

234 :
>>227ガダルカナル島総攻撃も同じですな。 誰が考えても
日本が勝つはずだった。 武器の選択は大きい。

235 :
人種が違いますんでね。人種が。

日本人←日本人種
韓国人←中央蒙古人種

北方蒙古人種・・・・・モンゴル人、満州人、北方アジアの少数民族
中央蒙古人種・・・・・華北人、華中人、朝鮮人
南方蒙古人種・・・・・福建省以南の華南人、台湾人、タイ人、ミャンマー人
インドネシア人種・・・・・ベトナム人、ラオス人、カンボジア人、フィリピン人
日本人種・・・・・日本人
アイヌ人種・・・・・アイヌ人

236 :
>>232
もっと明確な根拠書かなきゃ駄々っ子みたいだよ
池田屋事件で長州藩邸は門を閉ざして仲間を見殺しにしてます
それは何故ですか?
数名の同士が斬られただけで藩の存亡を掛けてたら幕末は戦国時代になってます
池田屋事変ではなく事件
これが答え
池田屋事件が後の戦争に繋がってないって事

237 :
>>233
陸路閉鎖の意味がわかってないようで
全街道を通行止めなんか非現実的
目的は補給路の遮断
拠点のある大阪で閉鎖すれば目的は達成されます
尚、それ意向の文は尊王思想って宗教色が強い時代であった事を考慮してなく「敗けたから付いてかない」って浅はかな根拠なのでスルーします
悪しからず

238 :
>>236
>池田屋事件で長州藩邸は門を閉ざして仲間を見殺しにしてます
長州過激派の巣窟は国元で、京都藩邸はそこまでバカじゃなかった
>数名の同士が斬られただけで藩の存亡を掛けてたら
凄まじい歴史オンチだな
数名どころか、1人が殺されても国家間の戦争になる事もある
池田屋事件にブチ切れた長州過激派が国元で暴発して藩論を圧倒して
京に上ったんだよ

239 :
>>237
長州の部隊は山陰のほうから上洛したんですが・・・

240 :
>>238
バカじゃない…
こともある…
これが貴方の論拠ですか?
池田屋事件の時に長州藩邸は同士を救出したとでも?
本来なら例え幕臣であっても他藩の藩士を取り締まる事も道を遮る事も不可能
しかし吉田松陰は幕府に裁かれ、京都は反幕系テロリズムvs佐幕系テロリズムが対立した無法地帯
その時代背景をわかってますか?
少なからず数名を殺されただけで幕府に逆らった藩は歴史上皆無です
先にも書きましたが、長州は吉田松陰を引き渡してますよね

241 :
>>240
>池田屋事件の時に長州藩邸は同士を救出したとでも?
歴史オンチに聞きたいが、どうやって救出するの?????
>少なからず数名を殺されただけで幕府に逆らった藩は歴史上皆無です
意味不明だが、幕府に逆らった藩は長州が初めてなんだが、
そんな事すら歴史オンチは知らないのか?????
どこまでバカなんだ????
>長州は吉田松陰を引き渡してますよね
リアルバカなのか?
まだ長州が幕府にビビりまくっていた時代だよ、なんで逆らえるんだ???

242 :
>>241
なんか相変わらず論拠無き返しに「歴史オンチ」って煽り…
池田屋事件の際に長州藩邸まで逃げてきた同士を長州藩邸は門を閉ざして中に入れてません
つまり長州藩邸の決断は「池田屋に居た人物と長州藩は関わりがありません」って立場をとった
それと幕府に逆らった藩は長州が初めて?
幕末に限って言えば尊王攘夷の総本山は元々は水戸藩であり、大老井伊直助を暗殺した際に長州藩士は関わってません
って事で先にも書きましたが、君とやり取りは論拠無き返しや煽りばかりなので以後はスルーします
スレタイともずれてれ話題だし
何れにしろここは2ちゃんねる
歴史オンチ?大いに結構ではないのかね
2ちゃんねるで知識を自慢したいだけの輩なら痛すぎます

243 :
>>242
>長州藩邸は門を閉ざして中に入れてません
匿う訳ないだろ、お前は本物のバカなのか??????
匿えば新撰組や会津藩・桑名藩と長州藩邸は一戦交える事になるが
そんな兵力や戦争準備がその時の長州藩邸にあると思っているのか???
藩邸の判断で、藩が取り潰しになりかねない事を
なんで長州藩邸がするんだ??????
>大老井伊直助を暗殺した際に長州藩士は関わってません
さすが歴史オンチだな、無知にも程がある
水戸藩士も関わっていないよ、関わったのは浪人
で、長州藩以前に藩として幕府に逆らったのはどの藩??????

244 :
正確に言えば、元水戸(薩摩)藩士だった浪人だっけ?

245 :
兵の強さは薩摩>長州=土佐>幕府=会津
幕府、会津では真正面から勝ち目がなかった
薩摩は元より強兵だし、土佐も戊辰負けなし

246 :
藩と藩邸が戦になるとか…
そうなれば長州藩は挙兵して上洛する大義名分が出来るね
桜田門の変も天狗党の乱も水戸藩による反幕運動です
ではよいお年を

247 :
そもそも会津が強兵だという風潮はどこから出てきたんだろうな?
幕末通じて勝ったことないだろ
いちおう禁門の変のときは勝ち陣営に組してたけど、会津自体は薩摩に助けられなきゃ突破されてたし

248 :
>>244
水戸浪士十数名と常陸神官数名に薩摩藩士一名。
井伊直弼の首をとったのが薩摩藩士の有村次左衛門。その兄は有村俊斎(海江田信義)。

249 :
>>247
会津藩首脳陣はみんな武田の遺臣の末裔だから無敵 とかそんな理由でない

250 :
>>247
京都守護職のせいで藩財政が火の車となり軍備予算がなかったからね
最新のチート装備と戦って勝てというのが無茶

251 :
禁門の変の前夜、幕府は、長州の主力を伏見の福原隊(上士隊)と見て、
会津藩は主力の神保隊と新撰組を京の南の九条に置いていた。
しかし福原隊は弱くて大垣藩だけで鎮圧、神保隊・新撰組に出番はナシ
御所の蛤御門を守っていた会津兵は年輩者の多い内藤隊で、武装も槍が中心。
ゲベール銃を装備した長州最強の来島隊にあっというまに破られた。
そこへ乾門から薩摩隊がやってきて、激しい銃撃を浴びせて長州隊を撃退
逃げた長州兵が鷹司邸に立て篭もってから、会津藩の内藤隊が
ようやく息を吹き返して鷹司邸を攻撃し、ここで久坂玄瑞や寺島忠三郎など
長州兵の多くが戦死、あるいは捕縛された

252 :
>>248
そうそう、みんな、藩に迷惑が掛からぬ様、あえて脱藩したんだよね

253 :
>>145
長州征伐は武器の性能が差がありすぎたんだろ
あとやる気がほとんどなかった

254 :
>>247
梶原はあの梶原景時の子孫らしいし
足利三代将軍の木像の首を切った事件で、なんでかしらんが会津藩士もその犯行に加わっていた
大庭も源平時代の大庭氏らしいし
肥後の菊池氏から分かれた、西郷隆盛とは南北朝から分かれた遠縁でもある西郷頼母
2代将軍秀忠と松平忠吉の母である西郷局の時代、ちょっとした権勢あった西郷氏
山本八重は山本勘助の子孫らしいし
神保修理は越中の神保氏なんだろうか?
秋月悌次郎や林権助も苗字だけみたら、九州の秋月や林羅山と関係してんのか?
田中や山川も由緒ある名門なんだろうか?名門揃いの中で家老だし
なんか会津藩って名門多いな
大坂の陣の秀頼の回りにも、やたら落ちぶれた名門や戦国の生き残りが集まっていたが
落ちぶれた名門が集まるような組織は、ちょっと近づいたら危険なんかもしれんね

255 :
>>254
元々、蟠踞しとった 直右衛門や只三郎の手代木家が家老になれないと言う

256 :
鳥羽伏見で最後に藤堂の津藩が裏切った!って言ってるが
元々津藩は鳥羽伏見以前から、徳川か天皇かどっちから山崎を守るように言われており
薩摩の挑発で大阪城から攻めた軍では無いんだな
本当に味方なら伏見奉行所あたりで戦ってる時に、がら空きの西から攻めてるはずだし
側面から付かれたら薩長軍も負けていただろう
なんかじっとしていたら、いつのまにか自分近くが戦場になってしまった
これって関ヶ原の小早川に似てるね
元々大垣城での攻防の時、小早川は遥か西の松尾山に陣取り
戦になっても間に合うのか?やる気あんのか!の位置だったが
両軍が移動し、いつのまにやら自分近くの関ヶ原が戦場になってしまった
関ヶ原西軍、旧幕府軍ともに小早川藤堂は味方だと思い込んでいたが
しかし彼らの心は??

257 :
滅びゆく組織ってのは、なんか勝手にあいつは俺の味方だ気分があるね
大坂の冬の陣の前、豊臣方は
福島加藤は当然大阪城に入城してくる、浅野は紀州から前田は北陸から徳川を追撃
池田蜂須賀には西の徳川方を攻めさす、伊達上杉は北から江戸攻撃じゃ!
こんな気分だったらしいが
鳥羽伏見の頃の参陣しなかった他の大名は
空気の読めない前田は、徳川方として参陣しようとしていたが徳川が負けて
さっそく朝廷に江戸攻めは先鋒をまかせてくだされ!といきなり兇変
しかし王政復古の時、勝手に京都から金沢へ帰り
それも含めて新政府軍から信用されておらず、先鋒要請を拒否
武器や食糧を調達するように言われる
後に出兵要請を受け人数だけは多かったみたいだが
戊辰戦争で前田軍は何やってたかあんまり聞かない
長岡戦争のような負け戦に出陣していたようだが
紀州藩は徳川に付くかどうか激論の結果、鳥羽伏見が終わる頃、ようやく徳川に付く事が決定
しかし鳥羽伏見の結果を聞き態度を改める
大阪城から江戸へ逃げる際に、大阪湾からだけでは船が足りず
紀州へも逃げてきた人もいたが、追い返すように拒絶
何人かは紀州から江戸へ逃げた人もいたようだが
こんな調子だから、もしも慶喜が大阪城に立て篭っていたら、どういう態度をみせたか?
鳥羽伏見に参加した旧幕府軍だけは戦意高かったが、他はこんな感じで
しかしこんな彼らを朝敵になった旧幕府軍は、援軍が来ると信じていたであろう

258 :
>>257
紀州は結構幕兵の帰国を助けてんぞ。
新政府の目を盗んで密かに船まで出している。

259 :
一時期事実上天下人の一人といわれた大内氏と、中国地方を征服した毛利家の末裔の長州藩。
九州統一寸前だった薩摩藩。
仙台にあっさり征服された弱兵の会津じゃねー。
その後上杉が入植したけど、あの地域の兵士が雑魚すぎて、勝てなかったし。

260 :
江戸後期に東北で飢饉が連発し、さらに東と西で差が広がったのに
そんな時に西に対抗しようとしたのが間違い
東北が畿内で武威を示したのは、南北朝の北畠顕家と会津ぐらいしか無いが
会津は無理してやった事だが、北畠顕家はちょっと凄いんじゃないの?
鎌倉の足利方を叩き都へ、それ2回やってるし
東北人はもっと北畠顕家を称えたらいいと思う
顕家が都人だから、って理由があると推測するが
高校野球で関西人主導で甲子園で活躍しても!!!と似てるな

261 :
会津藩の財政破綻はぶっちゃけ遡ると保科さんの所為だよな

262 :
結局兵の士気とか強さが一番重要なんだよな

263 :
弱兵で天下を取った信長

264 :
東北が関西で武威を示したのは源義経もそうだろう。手兵の佐藤兄弟は奥州武士だった。
大坂の陣では伊達軍が後藤又兵衛を討ち取ったり、味方を故意に全滅させたりして恐れられた。
北畠顕家も、実際の主力は南部師行や伊達の率いる奥州武士だった。
江戸後期は大坂も大塩平八郎が反乱起こすほど困窮していた。
京都で小野組転籍事件を起こした小野組も盛岡商人だった。

265 :
洋式高炉で近代製鉄を始めたのは南部領にある釜石。技術者も盛岡藩士の大島高任。
製鉄技術は佐賀藩より進んでいた。種痘も江戸より早く始めている。
また大村益次郎が教科書にした「三兵タクチキ」を訳したのは仙台藩の高野長英。

266 :
なんか幕末の紀州って土佐とか会津みたいなかっこよさがないよなー
なんかある?

267 :
>>266
将軍の地元と坂本龍馬の海援隊に当て逃げされて金を巻き上げられた挙げ句、近江屋事件後に犯人と間違われ藩邸を襲われたりとかしかない

268 :
>>266
将軍の地元と坂本龍馬の海援隊に当て逃げされて金を巻き上げられた挙げ句、近江屋事件後に犯人と間違われ藩邸を襲われたりとかしかない

269 :
>>264
>小野組も盛岡商人だった
小野組ももちろん近江商人
出店の一つである盛岡近江屋と京都本店とのノコギリ商売で
財を成したから、盛岡と縁が深いが本拠地はあくまで上方
>>265
>洋式高炉で近代製鉄を始めたのは南部領にある釜石
反射炉も火原が木炭と言うだけで近代的な溶解炉の一つだけどね
佐賀藩が反射炉により銑出に成功したのは嘉永5年(1952年)
薩摩藩が集成館でコークスを使った洋式高炉による銑出に成功したのは
安政元年(1954年)、ただし1963年の薩英戦争で破壊される。
南部藩の大島高任が洋式高炉で銑出に成功したのが安政4年(1957年)
>>266
ペリー来航翌年の1854年に南海津波があって、復興で攘夷どころじゃなかった
全国でも藩庁の収奪のきつい藩として知られ、長州藩や土佐藩のような
民間資本が育たなかった。
8代将軍以降は紀州系将軍であり、14代将軍継承問題では紀州から家茂を
出した為に、佐幕で反論を統一するしかなかった

270 :
紀州藩も幕末目立たなかったが
前田、池田、浅野、黒田、細川、蜂須賀
これらの旧豊臣系の生き残り大大名は、何してたんだ?
【前田】
なんか水戸から過激派の行進がたまたま加賀にやってきので処刑した
王政復古で情勢がよう分からんので、京都から加賀に帰った
鳥羽伏見で戦いがあると聞いて、旧幕府軍に参陣しようとしたが旧幕府軍が負け
途端に江戸攻撃には先鋒しまっせ!と言ったら政府軍に断られる
お前は武器や食糧を調達しろ!と言われる
しばらくして出兵するよう命じられるが、長岡とか負け戦に前田軍あり、役に立たず
西郷と大久保の友情と確執による運命の西南の役後
どういうわけか加賀藩士が大久保を暗Rる
【池田】
長州に同情的な態度を取ってたが、特に目立つ行動もせず
鳥羽伏見には最後のほうに参陣するも、その後も目立たず
鳥取と岡山って似ているのか?似てないのか?よく分からず
【浅野】
幕長戦争では戦場になるも、参加せずという何かよくわからん態度
早くから倒幕への同盟を結ぶも、その後中途半端な態度で土佐や肥前に抜かれる
最後の藩主が長生きした事が一番目立った
【黒田】
平野国臣が最初というべき倒幕の乱をおこす
尼が高杉晋作を匿う
個人では少し歴史の名を残すが、藩としては何やっていたか謎
【細川】
初期に有名な尊王攘夷志士がいたが、早くに死んでしまう
幕長戦争でちょっとだけ大活躍、しかしすぐ撤退
【蜂須賀】
明治になり藩主が明治天皇の所有物を盗み、それが見つかり
やっぱりお前は盗賊の末裔じゃ!とバカにされる
「俺、小六とは血が繋がっていないんだけどね」

271 :
>>266
鳥羽伏見の戦いの時点で土佐は「薩長と会桑の私闘」として中立だったが
渋谷伝之助が独断で薩長側に味方して前線に配備されている
この時渋谷は対峙した会津の白井五郎太夫隊に「背面への迂回攻撃を黙認する約束」をしたという
これを利用して白井隊が迂回攻撃していれば勝機があったと思う

272 :
紀州藩主は第二次長州征伐の幕府軍総督じゃん。
芸州口では紀州藩と幕府歩兵隊が中心になって戦線を支えてる。
幕府軍が互角に戦ってたのはこの方面のみ。

273 :
佐賀の反射炉は砂鉄を使ったために失敗だった。
集成館の熔鉱炉も失敗だった。だから次に反射炉をつくった。
だが実際は反射炉自体がもう時代遅れだった。

274 :
>>272
第一次征長総督は尾張だが、やる気なしどこらか長州擁護に動くとは偉い違い

275 :
>>274
長州と互角以上に戦った紀州新宮の水野忠幹の銃隊はどういう経緯で整備されていたんだ?

276 :
>>273
逆、佐賀以外の反射炉が砂鉄で佐賀は鉄鉱石使用だった調査結果がでてる
あと幕末期に製造された反射炉は製鉄用ではなく大砲の鋳造用だ

277 :
>>275
水野大炊頭の独断で600挺揃えたと聞いた

278 :
南紀派時代は紀州彦根会津は同盟だったのに
たった一振りで離散とはね

279 :
>>270
黒田は関ヶ原以降の経緯を考えると、豊臣系とは呼べないでしょ。

280 :
そもそも広義では徳川も豊臣系大名だしな

281 :
黒田が「旧豊臣系の生き残り大大名」じゃないと言われれば
幕末旧豊臣系なんて存在しないわな
くだらん事を細かく指摘するような事だわ

282 :
人種が違いますんでね。人種が。

日本人 ← 日本人種
韓国人 ← 中央蒙古人種

北方蒙古人種・・・・・モンゴル人、満州人、北方アジアの少数民族
中央蒙古人種・・・・・華北人、華中人、朝鮮人
南方蒙古人種・・・・・福建省以南の華南人、台湾人、タイ人、ミャンマー人
インドネシア人種・・・・・ベトナム人、ラオス人、カンボジア人、フィリピン人
日本人種・・・・・日本人
アイヌ人種・・・・・アイヌ人

283 :
そもそも豊臣と関係無い大名なんて存在したのか

284 :
このスレタイ自体に違和感がある
幕府軍が勝つ可能性というならいくらでもあるだろ
薩長が勝ったことが奇跡的であって、だからこそ革命なのだが
当時の人で薩長が勝つ事を予想できた人ってどれだけいるのか?

285 :
確かに奇跡だからな
優秀な指導者となった人材が集中して
あの時代、あの地に出現したのが大きい

286 :
薩長じたいは徳川に負けることを折り込んでたんかな?
そのわりには、薩長は開戦を望んでたっぽいし、士気も高いようなかんじもするけど。
だとしたらどうゆう負け方を想定してたんだろな?
南北朝みたいな長期戦につなげようとしてたんかな?

287 :
>>286
開戦を望んでたってことはないだろ
結果的に戦わなくてはならなくなったというだけで
圧倒的に不利な戦いであるけど、やるからには精一杯の備えをし
慎重に全力で戦いにのぞむというだけだったと思う
数では不利でも、武器や戦い方から勝つ糸口を見つけられる指導者がいて
結束も高かったというのが勝利へつながったのだろう

288 :
むしろ薩長に優秀な人材が足りなかったから戊辰戦争が拡大したともいえるな。
世良修三や大山格之助は明らかに三流だった。奇兵隊の山県は桑名雷神隊の立見より弱かった。
しかしむしろ中立だった佐賀や土佐の兵力がそれをカバーしたした。

289 :
>>288
むしろ幕末版ゲシュタポ 公用方の元メンバーが中核の会津藩は 何をどうしたら あんな負け方するんだ

290 :
会津の中心は要するに長州の正義派と同じタイプと思えばいい。
長州のエリート層が強かったわけではなく、むしろ長州のエリート層が弱かったからこそ、
力士とか奇兵に一蹴された。会津でも山川大蔵や柴五郎のような奴はすでに実力を発揮していたし、
その後も実力を発揮した。しかし彼等は高杉や桂にはなれなかった。

291 :
鳥羽伏見の時点では、旧幕府軍が圧倒的に有利だったと当時の人も思ったでしょ
長州の地では負けたが、それはアウェーでの負けで
ベトナム戦争で例えれば、ベトナムの地では米は負けたが、今度は準本拠地ハワイでの戦い
畿内は幕府の直轄地も多く大阪城などの要塞も備え、その周辺にも譜代親藩も多々あったが
薩長は京大阪に大名屋敷という大使館のようなのがある程度、長州はそれさえ没収されている
京を攻める側と守る側との戦いは、これまで攻める側が勝ってきた歴史もある
薩長も今回は負けで仕方ないが、山陰へ逃げてそこから長期戦での戦いに備えていたわけで
鳥羽伏見では薩長の強さを見せつけ、ここで旧幕府軍を足止め時間稼ぎをし
その間に長州本隊が西から山陽道を、京から若き西園寺公望の山陰道鎮撫で
中国地方を固める数ヶ月の攻防を計画していたのだろう
それが鳥羽伏見の完敗大阪城逃亡で、2ヶ月後の江戸城攻防前夜では江戸より西はほとんど官軍
幕末を豊臣から徳川の時代に例えて考えると
幕長戦争が朝鮮の役、大政奉還が秀吉の死、鳥羽伏見が関ヶ原、江戸城攻防が大阪冬の陣、それ以降の東北戦争は大阪夏の陣
朝鮮の役(幕長戦争)によって旧政権が大いに揺らぎ
秀吉の死(大政奉還)によって東西という大きな対立構造ができた
関ヶ原(鳥羽伏見)によって東西どちらが勝つか?の大決戦
大阪冬の陣(江戸城攻防)ではまだ旧政権が勝つ可能性も少しはあった
大阪夏の陣(東北戦争)は旧政権絶望の戦い、しかし後の無い人達の奮起で最大の激戦になった
鳥羽伏見(旧幕府軍有利)と関ヶ原(互角)では東西の力の拮抗に差はあるが
戦力的には鳥羽伏見で負け、慶喜大阪城逃亡前ぐらいが東西互角ぐらいか?
だいたいこんな感じで東西の力の逆転していったと思う
豊臣の最後はどんくさい事ばかりして滅んでいった印象が強いが
慶喜は大阪冬の陣前に逃亡し生きながらえ、その家来が夏の陣をを起こしたが
秀頼は最後まで戦い死をもって散って行った
幕末徳川と比べたら豊臣も結構がんばってる印象を持ってしまう
秀頼が命乞いし小大名として子孫を残していたのなら
百姓から天下人になりその子によって全てが灰になった豊臣秀吉の英雄伝説に影を残していたかもしれんね
信長も本能寺で灰になった、秀吉の大阪城も灰になった、家康だけはなんか残ってる

292 :
江戸城総攻撃があったら面白かったかもな

293 :
>>287
討幕の密勅を引き出させて、国許から出兵してるんだから
開戦を望んでたと思うけどな

294 :
>>293
でも慶応3年9月の薩摩、長州、安芸三藩の挙兵は根強い薩摩藩内部の反対論の前に出兵が延期されていたし
10月8日、翌9日の挙兵もやっぱり延期されたし
岩倉自身 慶喜から 二万両近い献金を受け取ってたりしてたしな
そもそも大政奉還で幕府が無くなったら討幕って表現は使わなさそうだが

295 :
>>294
討幕って表現は学校で習った通りで教科書っぽかったな。
実際は慶喜殄戮の詔書だね
ただ、会津桑名誅戮を命ずる勅書については
「幕府の暴を助く、其罪軽からず候」とあるから
幕府って表現は使っている。勅書が出来たのは奉還の前か後かもあるが
薩摩藩内部の反対論を説き伏せるためにも、
慶喜殄戮、会津桑名誅戮を命ずる勅書が必要であり、
それが聞き入れられたんで出兵が認められたんじゃないの?

296 :
>>290
会津の中心は、どちらかといえば保守的で俗論派だろう
考え方が保守的で、結果的に強い大志を持った正義派に倒されている
困難な戦いを乗り切ったのも正義派が強い志を持っていたというのが大きい

297 :
正直に言おう。間違えました。

298 :
オー!アイシー!

299 :
>>294
徳川慶喜なんかは、感情的にも長州藩には、それほど頭に来てないんだよ。
むしろブ千切れているのは、急に手のひらを返して薩長同盟を結んだ
薩摩藩に対してで、鳥羽伏見の戦いでは、幕府軍の戦闘に『討薩表』をかかげて進軍していたぐらい。
徳川慶喜は、鳥羽伏見の戦いに当たっては、
対薩摩藩だけの限定的な戦闘を目論んでいたらしい。
その薩摩藩ですら国元の家老クラスや島津一門には、出兵反対論が強く、
討幕挙兵に前向きなのは大久保や西郷などの在京薩摩藩士だけだったと言われる。
天皇からの命令と言う事でようやく薩摩藩内部を説得した。だから出兵時期も遅れに遅れた。
岩倉が慶喜から2万両もらった話だが、信じられないが、討幕派は、政権を徳川宗家から
奪う事ばかりを考えて、肝心の新政府の財源をどうするか全く考えていなかった。だから
王政復古のクーデター直後に朝廷職員の給料を支払いに困ってしまった。薩長の兵隊への
食費にも事欠いたと言われる。そこで岩倉は慌てて徳川慶喜に頭を下げて緊急の新政府への
献金と言う事で2万両渡してもらった。それもあって岩倉は、慶喜の議定任命に断固反対の
姿勢が揺らぎ始める。三職会議でも特に議定会議では、皇族議定を中心に慶喜の軽武装入京
と議定や副総裁などへの任命が俎上に上がり始める。
焦った大久保と西郷は、江戸の薩摩藩邸に居る
尊攘派の志士に江戸市内や関東一円で騒乱状態を起こさせるテロ支援活動を活発化させる。

300 :
>>286
薩長や倒幕派公卿たちは、徳川サイドに負ける前提で作戦を建てていた。
むしろ鳥羽伏見の戦いで勝てると思わなかったし、正月早々に戦争になる
とも思って無かった。西郷は、4〜5月に戦争になると思っていたらしい。
倒幕派は、当初は、負け戦になりそうだから京で旧幕軍と戦闘になったら
幼帝を擁して山陰街道を下り、広島に行幸という名目で広島城に移す計画
だった。安芸藩を倒幕挙兵の計画に引き入れたのは、その為だった。
また空の輿を比叡山に移して、幼帝がそこに移動したと見せかける陽動作戦も考えていた。
最終的には幼帝を広島城に入城させて
薩長らの倒幕派諸藩の軍勢は、旧幕軍と決戦するつもりだった。

301 :
大政奉還時の薩長最大の味方が徳川ファミリーで、
最大の敵が公用方になっちまったから皮肉だな。

302 :
薩長は幕府軍との内戦が長期化して消耗戦になった時に、外国勢力の
日本介入の怖れに対してはどうするつもりだったのだろう
当時でも容易に想定できた事態だと思うけど

303 :
>>302
と言うより、内戦の長期化の前に幕府軍と薩長では戦力差がありすぎだったからな。
だからこそ大政奉還で徳川と幕府を離間さした訳だわな。

304 :
長州からすれば第二次長州征討からずっと戦争状態だから、
すでにもう長期戦になってるといえるだろう。

305 :
>>300
西郷が4〜5月に戦争になると思ってた
ってのは普通に考えたら薩長首脳もそう思うやろね
江戸でちょっと挑発されたからって、すぐに計画らしい計画も無くすぐに進軍するか?
大軍なのに南からしか攻めず、一応東からも攻める予定だったみたいだが
小藩の大村藩が大津でわづか50人ぐらいだが、すぐに対応し守って
それ聞いて大軍や!あかん!って東からの攻めを止めたとの事
それで西からの物資は止められても東から確保でき、鳥羽伏見が長期戦になったとしても安心になった
大村藩ってそれだけで戦後、薩長土の次ぐらいの賞典禄を得る事となった
加賀前田や上杉も旧幕府軍に味方するため進軍始めていたみたいだし
紀州も色々揉めたが鳥羽伏見が終わる頃に旧幕府軍に味方する事に決着
4〜5月ぐらいだったら旧幕府軍も、もっと大軍になり色んな方面から攻めてたはず
もちろん薩長も大村益次郎率いる長州本軍が、山陽の諸大名を引き連れ
西国の外様からも参戦が増えてるはずで、どっちが有利になったかは分からぬが
第二次幕長戦争幕府軍15万の多くが傍観して
大島方面は伊予松山、山陰は浜田、九州は小倉ぐらいしか本気で戦わず
関ヶ原の西軍みたいな感じだったが、鳥羽伏見においても色々援軍増えても戦意の低いのしか集まらず
大阪城に集まった1万5千は、関ヶ原における石田大谷宇喜田のような存在だったかもしれんね
本来なら西軍も毛利や長宗我部やらがまだ到着せず、東軍も徳川や池田やら全然集まっていない状態で
石田大谷宇喜田が準備ができていない東軍の福島相手に戦いを望み、逆手に返り討ちにあい小規模な関ヶ原になってしまったのが鳥羽伏見

306 :
>>299 政治や戦争も商売の一変形ちゅうこっちゃな。

307 :
■■■
通名の方々:
テレビ局・新聞社・ラジオ局・出版社・
芸能人・テレビに出てる人・本を出している人・雑誌の表紙・芸術家・
スポーツ選手・アダルトビデオ・性風俗・ヤクザ・暴力団・部落(同和)・
教員・大学教授・ノーベル賞受賞者・医師・弁護士、検察官、裁判官・政治家・公務員・
経団連・経済同友会・公益法人・旧軍人・巣鴨プリズン・明治政府〜・
塾・予備校・専門学校・ 自動車教習所・ 商店街・飲食店・寺・2ちゃんねる・
■■■

308 :
幕府や会津、新撰組シンパの夢想か(笑)

309 :
むしろ、幕府や会津はあんだけ有利な状況で何をどうしたら負けられるんだってレベル。

310 :
慶喜が逃げたからだろ

311 :
鳥羽方面では、旧幕軍の一部は、折角の後装式の最新式の銃を
持っていたのに、弾を込めずにボーっと野原のど真ん中で突っ立っていたらしい。
そこを薩摩に一斉砲撃&射撃されて、バタバタ倒れて旧幕軍は、総崩れ。
指揮官の馬が大砲の炸裂音に驚いて、指揮官を乗せたまま突っ走って逃げ出した。
伏見では、市街地で、鳥羽方面からの砲声を期に
伏見奉行所から切り込んだ。しかし会津や新撰組や見廻組、
それに新遊撃隊(京都町奉行所と伏見奉行所の与力と同心)が
長州征伐の過程で市街戦を習得した長州兵に狙い撃ちにされた。
それで伏見奉行所から一歩も外に出られなかった。
また桃山に砲台を作った薩摩が、住宅地越しに大砲を伏見奉行所に打ち込んだ。
それで火薬庫に引火するなどして奉行所が
炎上し旧幕軍は、伏見奉行所から撤退を開始した。
指揮官の不在と緒戦の作戦ミス。
徳川慶喜は、鳥羽伏見で直接の指揮は執っていなかった。
風邪と称して、大阪城の本丸御殿で寝ていた。

312 :
>>310
>>311慶喜にしたら薩長と組んだ方がメリットあったのに会津の手代木の工作で御破算だったからな。
ぶっちゃけ逃げなきゃ逆賊の前に味方に殺されるわ。

313 :
それはない
逃げた時点裏切り者の大失態を犯したのに慶喜をRどころか寧ろ慶喜助命活動が高まった
裏切っても幕府にとって将軍は特別なんだよ
お前のような薩チョンには理解できないだろうがな

314 :
慶喜の暗殺は、無かったけど、慶喜の側近は、立て続けに暗殺されている。
中根長十郎、平岡円四郎、原市之進などの最側近は、みな暗殺されている。
特に原市之進の暗殺は、慶喜にとって打撃が大きく、
原市之進が居なくなった事で、将軍である慶喜と幕閣の意思疎通に
隔たりが出来る様になったと言われる。
見事なタイミングで討幕派の先手を取り、大政奉還を決断した鮮やかさに
比べて、その後の慶喜の行動は、何となく尻すぼみの体たらくな印象はぬぐえない。
実は、この慶喜の行動の格差に、
大きく影響していたのが、原市之進の暗殺ではないか?と言われている。
つまり、大政奉還までのシナリオまでは、すでに市之進と慶喜が
相談して段取りをつけており、その根回しも市之進がしていた。
しかしその先を決めないまま市之進が亡くなってしまったため、
その後は、まるで空中分解するがのごとく慶喜の態度がフラフラ
するようになった・・・という説がある。
第14代将軍の徳川家茂(いえもち)が大坂城で亡くなった事を受けて、
翌月には、慶喜が徳川宗家当主を継ぐのですが、これまでの例なら、
徳川宗家を継ぐと同時に、そのまま将軍職につくのが一般的でした。
ところが、慶喜が将軍に就任するのは、それから半年後の12月5日
・・・この動乱の時期に、実は半年間も将軍が空白になっていたのです。
実は、これも市之進のアイデアだったと言われます。

315 :
人種が違いますんでね。人種が。

日本人 ← 日本人種
韓国人 ← 中央蒙古人種

北方蒙古人種・・・・・モンゴル人、満州人、北方アジアの少数民族
中央蒙古人種・・・・・華北人、華中人、朝鮮人
南方蒙古人種・・・・・福建省以南の華南人、台湾人、タイ人、ミャンマー人
インドネシア人種・・・・・ベトナム人、ラオス人、カンボジア人、フィリピン人
日本人種・・・・・日本人
アイヌ人種・・・・・アイヌ人

316 :
>>313
慶喜を助命嘆願したのは勝を始め大政奉還派ばかりで後の
佐幕派の老中や勘定奉行は解任されたが。
しかも更に過激な佐幕派が上野戦争を起こした訳だが。

317 :
>>316
新政府にも慶喜切腹論と助命論があった。
薩摩の西郷と大久保は、慶喜切腹論。
長州の木戸と広沢真臣は、慶喜助命論。
山内容堂・松平春嶽・伊達宗城らも慶喜助命論。
薩摩による徳川家への敵対心だけが露骨に出ている感じ。

318 :
>>317
禁門の変直前までは 慶喜と長州は友好関係だったのに対して 突如、会津と同盟してきた薩摩に慶喜は不振たらたらだったと言うしな。
まあその会津と薩摩が険悪化して今度は薩会同盟から薩長同盟になるんだから。

319 :
元々攘夷論って破約攘夷が中心だったのになんで長州藩は開戦の即攘夷に持ってったのか

320 :
>>319破約攘夷を唱えたはずの幕府が大獄っちまったからな。
大獄の被害にあった志士や開国インフレの生活苦に近所の学者が目の前で訳の分からない罪で連行されるの見た一般人にしたら
ゴーホーム異人!
リメンバー徳川!になっちまう。

321 :
慶喜だって攘夷派になったり開国派になったりかなり忙しい。
その所為で、側近が殺されてもいる。
中根長十郎の暗殺は、慶喜の攘夷派から開国派への
転向を彼の所為だと誤解した幕臣によるモノだ。
しかも大政奉還前後の兵庫開港問題では、欧米諸国と神戸開港を
交渉しつつ、一方では横浜鎖港も交渉しており幕府は部分的には
鎖国に戻る姿勢も見せている。

322 :
イギリスが、横浜鎖港に批判的だったのは、聞いた事がある。
大消費地であり、生産地でもあった江戸の
すぐ近くだし、実際に横浜経由の輸出入双方とも活発だった。
横浜は、幕末には既にアジア有数の生糸取引センターになっていたと思う。
アーネスト・サトウが、薩長に接近した理由には、この幕府による横浜鎖港が
あったかも知れない。しかし江戸でも異人切りや尊攘派の活動が活発化して
しまったし、横浜鎖港をしないと江戸の治安が守れないと言う幕府の判断もあると思う。
また、オールコックは日本国内の攘夷的傾向(前年の長州藩による外国船砲撃や
幕府による横浜鎖港の要求など)を軍事力を用いてでも押さえ込もうと考えていた。
英国大使のパークスは大阪城で慶喜と対面し、非常に肯定的な評価を持った。
このため、薩長に近いサトウは不安を持った。後に西郷隆盛の来訪を
出迎えた際には「幕府とフランスが提携しつつあり、これに対抗する為に
イギリスは薩摩を援助する用意がある」とまで発言している。

323 :
一橋家が領地を与えられ、藩兵を持っていたら…

324 :
ユダヤ・フリーメーソンが全面的にバックアップした
薩長が負ける訳あらへんがな。

325 :
フリーメーソンに入会したのは幕臣だろうが

326 :
フランス系はダメよ。
フリーメーソンの本丸はイギリスだから。

327 :
>>323
一橋家の家臣団は、居るには居るけどね。
田安家や清水家の家臣団とは、結構張り合っていたらしいよ。
領地もアッチコッチに点在していて、一箇所に固まった領地ではないからね。

328 :
>>322
横浜鎖港は、兵庫開港の代替処置だよ。
更に、時期を少しずらして、新潟開港も行っている。
その為に外交担当だった若年寄の永井尚志は、王政復古のクーデターが
迫っているのに大阪や神戸(西宮)方面への出張となり、兵庫開港の対応に
追われていた。
それが王政復古のクーデターをやり易くさせた一因でもある。

329 :
>>324
>>326
グラバー、スネルは破綻。
フルベッキは帰国してますがな。
フリーメーソン連呼の前に具体的な名前を出さないと陰謀論自体が衰退してまうぞ[
加治や副島なんか
本が売れなくて赤字なんだから。

330 :
>>326
おまえ無知なやつだな
幕臣はフランスで入会したんじゃないんだよ

331 :
どうでもええ。
末端の幕臣がフリーメーソンに入会しようが
単にエージェント候補になっただけだし。
封建君主を打倒して自らに都合の良い新政府を
樹立するのがフリーメーソンの目的だから。
アメリカ独立戦争もフランス革命もフリーメーソン
による革命。
もちろん明治維新もだ。

332 :
>>324
戊辰戦争前にフリーメーソンに入会した薩長藩士って誰?具体名だしてよ
>>331
お前アホ丸出しやのう
末端じゃないんだよ、将軍の側近がフリーメーソンに入会してんだよ
おまえ馬鹿だから知らなかったんだろ

333 :
新政府のトップに君臨できる才覚のある慶喜が干されたのは何故だ?
旧幕臣は登用されたりしてるのに

334 :
フリーメイソンがどうとかギャグで言ってるんだよな?

335 :
>>332
極東のフリーメーソン、グラバー自体が末端だからな。
アメリカ独立戦争とフランス革命がフリーメーソンに
よる革命ってのは常識レベルだぞw
で、その側近って誰よ。
どうせ利用されただけだし。

336 :
フリーメーソンガーってのと大室ガーってのは、同類のキチガイみたいだね

337 :
アメリカ大統領のほとんどがメーソンだぞ。
横浜にも幕末からロッジがあるしなw
東久邇宮やらメーソン皇族や鳩山一郎・吉田茂みたいな
メーソン政治家もゴロゴロいるのに何が妄想だよw

338 :
こいつ必死すぎてキモい
ID:0We54EdU0

339 :
言い返せなくなったらキモいとかw

340 :
そもそもグラバーがフリーメーソン()自体 風聞なのに他のがメーソンって証拠あんのかな。

341 :
>>332
戊辰戦争前にフリーメーソンに入会した薩長の藩士なんていないよ
フリーメーソンに入会した幕臣はAとMの2人以外で誰がいるの?

342 :
ねんどくさいのでこの辺でも読んでね。
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/seito_palesutina_yudayaginmondai_freemeisonco_nihon.htm

343 :
>>322
サトウの援助発言に対して西郷は何て答えたんだ?
サトウって当時20代前半の唯の通訳官なんじゃないの?

344 :
>>333
王政復古のクーデターで朝廷新政府(三職会議)が成立し
辞官納地が決議されたけど、その後は、親徳川派が巻き返して、
慶喜の軽武装上京と議定任官が決まった。
さらには、山内容堂や松平春嶽、徳川慶勝らは、皇族議定と組んで、
慶喜を副総裁に任命すべく、新政府(三職会議)内部で工作していた。
それを阻止すべく、薩摩は、関東でテロ活動を行い徳川家を挑発していた。
新政府首班(総裁)は、皇族で事実上名目的な存在であり、慶喜が400万石の
徳川家天領と強大な陸軍(二万五千〜三万)や海軍を保持したまま副総裁に
任官されれば、徳川家の勢力は温存される。
幕府は廃止されても、慶喜が新政府のトップに就けば、
徳川宗家が引き続き政治を行う体制は温存されるからだ。
しかも慶喜は、郡県制の施行(廃藩置県)のや工業化(富国強兵)の
の施策を開始(慶応の改革)していた。これが西南諸藩の外様大名から警戒されていた。

345 :
慶喜が力を付けても薩長を潰しにきただろうし、激突は避けられなかったんだろうな。
でも幕府内での慶喜の足場って、将軍にしては弱くて不安定だよね。
慶喜がずっと京にいたとはいえ、江戸の幕閣の非協力的なこと。
全てがいろいろと遅すぎた。

346 :
西郷や尊攘派は慶喜を推してた時期があっただろ
尊攘派の中でも慶喜への信頼はあったはず

347 :
西郷は天狗党を助けなかったことで、反一橋に転向
慶喜将軍就任後は兵庫開港に反発して討幕決意

348 :
安政の大獄や斉彬死去の時点では討幕を叫ぶ者などほとんどいなかった
なのに何処で流れが変わったのか
慶喜の影響が強いのか

349 :
薩摩が慶喜を見限った最大の原因は、慶喜が将軍に近づくにつれ薩摩を目の敵のように扱い始めたことだな。
島津久光との敵対による四侯会議の決裂から兵庫開港問題にかけて、薩摩は慶喜との政争でずいぶんと煮え湯を飲まされ続けた。
この頃から薩摩は本気で倒幕を考え始め、長州に急接近していった。
正直、慶喜という人間もよくわからん。

350 :
慶喜は将軍にあたっては、薩摩の大久保一蔵すら期待していたが、徳川の系譜だけで周辺を固めようとしたことがまずかった。
薩摩も基本的には徳川の専制でなく、有志大名を集めて広く国政に参加させるべきとの立ち位置だからね。
もちろん久光の真意は実力者として国政に影響力を持ちたいわけだけど、慶喜の久光に対する反撃は露骨すぎた。
また、軍事力的にも慶喜が信頼できる手持ちの駒は会津と桑名くらいだったことも、薩摩には分析済みだったと思われ

351 :
×慶喜は将軍にあたっては、
○慶喜が将軍に就くにあたっては、

352 :
>>343
一応、西郷は、イギリスの援助を断っている事になっている。
しかし薩英戦争後は、イギリスと友好関係を築いて、武器を売ってもらっている。
サトウは若手だけど、薩長シンパだよ。パークスは、実は慶喜に近い。
もっともイギリスはズルイから、薩長と徳川家に二股かけていた可能性もあるけど。
>>345-351
原市之進(目付、大監察とも)が暗殺されて、幕府内部で水戸系の将軍で
ある慶喜の相談にのったり、代わって根回しする人材が居なくなってしまった。
その為に、水戸系の将軍慶喜と紀州系の幕閣の間に隙間ができてしまった。
大政奉還や鳥羽伏見の戦い直前でも、幕府内部での紀州系の反発が
ものすごくて、それを抑え込むのに手間を取られ、薩長の王政復古の
クーデター対策が取れなかった面もある。

353 :
英国はどちらかに肩入れって感じではなく、単に貿易を滞りなく行えればいいという考え だからそれを阻害する勢力は許さない

354 :
>>353
それなんてTPP?

355 :
>>353
>>322の「イギリスが、横浜鎖港に批判的だった」ってのは事実だったんだな。
でも兵庫開港と新潟開港は、横浜鎖港の代替処置だったんだけどな。
これではイギリスは、納得しなかったって事なのか?

356 :
なにせ麻薬の貿易自由化を清にせまってジャンク船撃沈しまくった国だからな。
逆ギレする危険ドラッグの売人のような連中だ。

357 :
>>355
>兵庫開港と新潟開港は、横浜鎖港の代替処置だった
これのソース教えて。
いつ?誰が?どこで?何を?決めたのかが知りたい。
新潟よりも兵庫のほうね。

358 :
>>357
これらの文章から、兵庫開港は、横浜鎖港の代替処置だと思う。
兵庫開港要求事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B5%E5%BA%AB%E9%96%8B%E6%B8%AF%E8%A6%81%E6%B1%82%E4%BA%8B%E4%BB%B6
異人嫌いで知られた孝明天皇が京都に近い兵庫の開港に断固反対していた。
このため、幕府は文久遣欧使節(開市開港延期交渉使節)を派遣し、
英国とロンドン覚書を交換し、兵庫開港を5年間延長して1868年1月1日と
することとなった。
両都両港開市開港延期問題
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%A1%E9%83%BD%E4%B8%A1%E6%B8%AF%E9%96%8B%E5%B8%82%E9%96%8B%E6%B8%AF%E5%BB%B6%E6%9C%9F%E5%95%8F%E9%A1%8C
江戸幕府は、安政五カ国条約によって、江戸・大阪(両都)の開市と
新潟・兵庫(両港)の開港を約束していたが、国内問題によって、
それを遅延せざるをえなくなった問題である。

359 :
横浜の替りは下田だった気が

360 :
>>358
返事ありがとう、ざっと読んだだけなんだけど、
横浜鎖港の代替ってのがそのソースでは確認できないんだが。
そのソースにあるロンドン覚書ってのは、
兵庫開港実施期日を5年遅らせる合意であって、
横浜鎖港の代替じゃないと思ってたんたけど、違うの?

361 :
幕府は、兵庫開港の交渉をやりながら、横浜鎖港の交渉もしている。
幕府には、徳川の本営である江戸から異人を遠ざけて、
関西方面に行ってもらおうと言うホンネが見えるのだが。
もちろん薩摩の開国論に対する反発もあるだろうが、
異人がいると、攘夷運動や異人切りが激しくなるばかり
なので、できるだけ江戸から遠のいて欲しいと思っている。

362 :
幕府は
「兵庫を開港するからその代替えに横浜鎖港させて」なんて交渉してないと思う。
幕府は「朝廷と一橋会津がうるさいから横浜鎖港させて」
と要求して外国から却下されたはず。
京都に近い兵庫開港を優先なんてしたら朝幕の間の亀裂が
もっと大きくなると思う。違ってる?>>361

363 :
>>362
まあ〜外交交渉だから、どこまで本音が出るのか?
それに兵庫開港は、現実に実行されている。もちろん横浜鎖港もだけど。
幕府の本音は、長崎・箱館・横浜の三港全部の閉鎖だ。
でも、それだと西洋列強が認めないので、横浜鎖港の一本に絞った。
横浜鎖港だけでも実現できれば、攘夷を実行したと良い訳出来るからね。
また、横浜鎖港を行う事で 「摂海を初各国沿海之武備」充実 の良い口実にもなる。
慶応の改革で幕府軍の強化の口実も完成する。

364 :
(>>363を一部修正)
良い訳 → 良い言い訳

365 :
>>363
兵庫開港は孝明天皇崩御後に勅許され実行された。
孝明天皇ご存命中に兵庫開港は勅許されてない。
横浜鎖港は実行されてない。
横浜開港は安政条約勅許の前に実行されてからずっと鎖港してない
慶応改革は外国の支援で神奈川の軍港を強化することのはず。
横浜鎖港なんて条約違反やらかしたら外国支援がなくなって
幕軍強化なんて出来なくなってしまう。

366 :
人種が違いますんでね。人種が。

日本人 ← 日本人種
韓国人 ← 中央蒙古人種

北方蒙古人種・・・・・モンゴル人、満州人、北方アジアの少数民族
中央蒙古人種・・・・・華北人、華中人、朝鮮人
南方蒙古人種・・・・・福建省以南の華南人、台湾人、タイ人、ミャンマー人
インドネシア人種・・・・・ベトナム人、ラオス人、カンボジア人、フィリピン人
日本人種・・・・・日本人
アイヌ人種・・・・・アイヌ人

367 :
>>365
>慶応改革は外国の支援で神奈川の軍港を強化することのはず。
それが、薩摩の妨害工作でパリでの起債が大失敗。
結局、幕府が、旗本領を半分収公して、それを元手に慶応の改革を開始した。

368 :
>>367
国内でなんぼ収公しようが
外国支援なければ当時の日本国内だけでは軍事強化できない。
それと最新の質問に戻るけど、
「兵庫開港は、横浜鎖港の代替処置だった」
とゆうソース教えて。
いつ?誰が?どこで?何を?決めたのか。

369 :
>>368
やったんだから、仕方が無い。

370 :
>>369
横浜鎖港やってないよ
条約守ってずっと開港してる。
兵庫は条約通りに開港してない。
期日を遅らせてる。

371 :
>>368
訂正
「最新の質問」じゃなくて「最初の質問」だったわ

372 :
横浜鎖港については薩摩は反対などしていない
元治・慶応年間では徳川を叩くためにも、薩摩は開国論を前面には出してはいなかった。
鎖港にあたって薩摩の突き上げをくらって四苦八苦したのは幕府だけであろう。
その間にも薩英戦争後の薩摩は横浜港を拠点に、弱腰な幕府役人の目などお構いなしに、英国から堂々と武器を輸入していた。
それほど幕府は薩摩になめられていたし、静止する力もないほど弱体化していた。
なお、横浜鎖港への幕府の対応がまずかった点が筑波の天狗党挙兵の直接の起因ともなっている。

373 :
幕末の薩摩のしたたかな二枚舌は政治力学的にはお手本といえる。
幕府に対しては横浜を鎖港しろ!兵庫を開港するな!
しかし実際には江戸のお膝元の横浜では、薩摩は幕府との戦争準備のためにがんがん英国と貿易している。
幕府は組織が巨大すぎて変化に迅速に対応するには硬直化しすぎていた。
こういう国際政治経済的な面も幕末大河で描かれれば、単純な薩長に対する妙なプロパガンダも減ると思われ

374 :
>>372-373
島津久光は、横浜鎖港には、大反対なんだが。
参預会議でも四侯会議でも、それで大モメ。

375 :
参預会議四侯会議潰したことが慶喜の功績のように語られるけど、
結果的にこれが不味かったんじゃ?
長州を潰すまでは薩摩を味方にしておけば幕府存続してたよな多分

376 :
第二次長州征伐に失敗してからは、
もう徳川家は、長州との関係改善を模索している。
勝海舟を使って、講和交渉をしている。

377 :
困った時にはいつも勝をあてにするよな、幕府って
腐っとるから潰れてよかった

378 :
慶喜も幕府を廃止したが?

幕府廃止=徳川宗家の滅亡 では無いから。

鳥羽伏見での戦いも、慶喜の戦争計画では、幕府軍が入京し、
その後に薩摩限定の戦闘を行い、王政復古のクーデター以前の
体制を復活させる心算だった。

鳥羽伏見と言う京郊外での野戦ではなく、
禁門の変の様な洛中での市街戦を想定していたと思う。

379 :
斉彬は過大評価されすぎ
偉そうに幕政改革に着手しようとするも藩内の穏健派を纏める事が出来なかった挙句強引に兵を率いて上京を企むという暴挙に出た
要するに大した策も行動力も無かったわけですな

380 :
島津斉彬がなぜここで出てくるのか?
狙いが幼稚すぎる

381 :
>>378
慶喜が二条城にいた状態の時だったら市街戦が想定されるが
大阪城に移っての戦いは、やっぱり京都郊外での戦でしょ
南北朝や戦国で大阪から京への攻めは、京都盆地と大阪平野の間の山と山に流れる淀川の
北に位置する山崎か、南に位置する男山が戦場多かったが
鳥羽伏見は淀川の南に進軍し男山を超え、淀城を拠点に鳥羽街道と伏見街道に分かれ
男山と京は10kmほどの距離だが、最初の交戦はその間の伏見が戦場、京からは5kmほど
薩長側からすれば伏見なんて、山や川での防御できる地の利はなく
時間的に余裕あれば男山で防御し戦場にしたはず
男山は、木津川宇治川桂川の3つの川が合流し淀川になる所の近くに位置し
大阪平野と京都盆地の間は、山と山に囲まれ狭い広さでその中に淀川が流れる
京阪沿線では枚方駅から八幡駅まで、距離にして10kmほど
軍を進めると長細い進軍せねばならず、その終わりの男山で待ち構えられると攻めあぐむはず
回りが山なので迂回し攻めるのも困難で、古来から京軍が大阪軍の防御に男山が多かったのも分かる

慶喜が二条城から大阪城へ移った理由は、暴発寸前だった戦を避けるためで
京を離れた天皇を手放し、相手に朝敵カードを握られたこの時点で戦をする事態間違ってるわけで
この時慶喜が会戦に曖昧な態度を示したが、基本はNOであるが
今なら確実に勝てる!ところがYESな部分であったのであろう
この絶対勝利条件で完敗した幕府軍のダメっぷりは、慶喜の予想をはるかに超えていた

382 :
旧幕軍の作戦立案の杜撰さは、確かにある。

鳥羽伏見の戦いで、旧幕軍が負けたのは、
兵器の優劣ではなくて、作戦内容の優劣だろう。 

コレは、定説化し始めているんじゃないのかな?

もっとも慶喜は、薩摩藩との限定的な戦争は、考えていただろうが、
朝廷新政府全体と戦争する心算はなかった。しかも土佐藩は、旧幕府軍に
内応の約束までしており、竹田街道に配備した土佐藩兵は、旧幕軍が、
北上してきた際には、抵抗する事無く、道を空ける予定だった。

旧幕軍の一部でも竹田街道を進撃していれば、抵抗無く、下京に入れたと思う。

383 :
旧幕府軍は南からの攻めだけでなく、伊勢からの別働隊が東の大津方面からの進軍もしていて
京への物資の流れは西は淀川、東は琵琶湖という大きなルートがあったが
西は旧幕府軍が抑えていて、東も抑えると京は外部からのルートが遮断される
官軍は東の大津に複数の藩へ出兵を命じたけど、どの藩も躊躇するがすぐに応じたのは大村藩のみ
ここは3万石にも満たない小藩なので、40〜50人ぐらいの出兵だったが
旧幕東方面軍の偵察がこれを大軍だと勘違いし、東の大津ルートからの攻撃を断念、大阪へ帰ってしまった
翌日か翌々日かには岡山藩とかが参加し、さらに最大の懸念であった彦根藩までもが参加して千近くの軍になるが
この東の大津からの進軍を止めなかった方が勝算は高かったと思う
特に彦根藩が早々に官軍に寝返る可能性が低くなると思われ、中立か旧幕府軍と共に東から攻めた可能性が高い
京へ突破できたかどうかは分からぬが、京は淀川に琵琶湖からの物資も途絶え
朝廷内や伏見方面で戦う薩長にも影響を与えていたはず

40〜50人を大軍と勘違いするようなのを偵察に使ったり
攻めるだけでも大きな効果があるはずなのに、わざわざ伊勢から来て伏見の軍と連携もせず大阪に帰ってしまう
伏見方面での逃げ足だけ早い竹中重固らの、軍略を全く理解していない人の司令官抜擢とか
適材適所という概念が全く無く、家柄とかが優先された古い体質だったのだろう
竹中重固は竹中半兵衛の子孫ってだけで選ばれたのかな?数々の擬態を見るとそう思ってしまう

384 :
>>383
>彦根藩が早々に官軍に寝返る可能性が低くなると思われ
>中立か旧幕府軍と共に東から攻めた可能性が高い

それは無い! 

桜田門の変で井伊大老を水戸浪士に討ち取られた恨みがあるから、
そもそも彦根藩は、水戸系の慶喜の徳川宗家相続や将軍任官に反対している。

彦根藩は、大政奉還の段階でかなり幕府から離れ始めている。
その所為で、同じ近江の膳所藩や西大路藩までもが、勤王藩として行動し始めている。

彦根藩は、元旦元日の段階で薩摩藩に「勤王藩として行動する」と申し入れている。

大津ルートを諦めたのは、大村藩だけじゃなくて、
彦根、膳所、西大路などの近江系諸藩が、旧幕サイドから離反している事もある。

385 :
>>384
会彦同盟とは何だったのやら。

手代木さん 骨折り損。

386 :
藤堂津藩、井伊彦根藩の寝返りは良くて
小早川秀秋公の寝返りは卑怯、不忠とされる。

錦旗の有無はあったとしてもだ
寝返り→味方戦線崩壊→敗走
ならば、何も違わない。

藤堂が許されて、小早川が忌み嫌われるのは余りに酷い

387 :
王政復古によって長州が罪を許され、12月には薩摩の手引きで堂々と神戸に千人近くの長州兵を上陸させて、京に入っているのに、
薩摩だけとの戦争になるとは徳川も思っていなかったと思うどな。
大義名分的には薩摩を討つ名目ではあるが、それを馬鹿正直に信じるって。。

388 :
でも彦根藩主にしたら親父の子分だった奴に守護職面して命令されたらカチンと来るわな。

389 :
>>386
小早川は若造だったし、実質稲葉の考えで裏切っただろうに
春日局のコネで譜代にまでさせてもらって、当時老中のくせに淀城閉鎖で裏切り
稲葉淀藩こそ天下一の裏切り野郎だろ!
東北はなんで、佐竹秋田藩や秋田三春藩を裏切り野郎と恨むんだ?
関ヶ原での減俸を考えたら徳川と敵対して当然なのに
東北は淀の競馬場で開催されるレースは買わない!関西馬は絶対買わない!
で稲葉淀藩を恨んだらいい

390 :
秋田は国学運動が盛んなので尊王側につくのは仕方がないだろう

391 :
東北諸藩が手を組んだ中で秋田や弘前は裏切ったからな
いまだに東北では嫌われ者というか孤立してる

392 :
>>391
新政府の使者を切った仙台藩の使者を切った訳だがな。

それに主戦派の二本松藩は藩主が真っ先に逃げ出したしな。

393 :
彦根藩は裏切ってないんじゃね?
あそこは鳥羽伏見の段階ではっきり薩長側に付くって意思を持ってたでしょ。
津藩は藤堂の犬侍ってボロクソ言われてるよ。

394 :
津藩も裏切りか?というと判断難しいところあって
大阪城から京へ進軍していた中に津藩もいたわけでなく
以前から京を外国から守るため朝廷か幕府かに命令され、天王山に陣取っていたのであって
天王山は淀川の北に位置し、淀川の南を旧幕府軍が進軍し
天王山近くを通過、さらに3kmほど先の淀城を拠点に、さらに北の伏見街道と鳥羽街道で激突
しかし敗退し淀城へ撤退するが、淀城閉鎖され、またさらに後退
淀川の南に位置する男山から橋本で、旧幕府軍は陣取った
もしも津藩が味方なら、伏見で戦っていた時に淀川の北から京へ攻めていたはずで
その場合は旧幕府軍の勝つ確率がかなり高くなると思う
しかし津藩は傍観していた

新たに得た淀城から攻めてくる薩長軍に対し、男山から橋本は
木津川や男山で守るには絶好の場所
しかし淀川のすぐ北には傍観していた津藩がいた
開戦してから外様からは無視され、譜代や親藩でさえも中立もしくは、彦根のように敵対してくる藩が続出
前日にも淀藩の裏切りがあり
さらに連敗続きで、当時としてはかなりの伝家の宝刀になる錦の御旗まで
こんな状況でもしも津藩が裏切ったら?と考えずに男山で陣を構えるところが旧幕府軍の愚かさ

関ヶ原の際、大垣城で両軍睨み合う状況時は、小早川秀秋の松尾山はそこから遠い地域にあり
そこで両軍が戦っていても小早川は遠くて参戦すらできんかったろうが
石田らが陣を関ヶ原に移動し、色々噂あった小早川のすぐ近くで戦った状況に似とるなって思う

395 :
>彦根のように敵対してくる藩が続出

続出は流石に言いすぎ。

譜代は、基本的には佐幕派だよ。

ただ畿内諸藩は、公家との婚姻関係が
多くて、その関係で勤王藩になったケースが多い。

彦根藩と同じぐらいの領地を持つ大和郡山藩も譜代だけど、
鳥羽伏見の戦いが始まった時点で既に朝廷よりになっている。

柳沢吉保の系譜が、藩主なんだけど。

領地が大きい藩が、勤王藩になると、その周辺の藩も右へナラエになる。

396 :
尾張藩の動向もインパクト大きかったよなあ。
東海道が一気にがら空きになっちまった。

397 :
あいつらは幕府を倒させても徳川家は存続させたいと願ってたはずじゃないのか

398 :
>>391
東北特有のこういう思考ホント気持ち悪い
藩は独立採算だろ

399 :
お前がどう思おうと西軍に東北の地を荒らされたくないという気概が各藩にあったのは間違いないの

400 :
東北人は朝鮮人をどう思ってるの?

「一体何年恨んだらいいんだ?本当に気持ち悪い!」
というお前が言うな!人間か?
「同胞だ!一緒に仲良くしようぜ!」
という仲間なのか?

401 :
>>393
会彦土同盟とはなんだったのか…。
正に骨折り損。

402 :
>>399
でもあっさり降参したよな
気概なんてクソの役にも立たなかったってこった
東北諸藩は領民から嫌われてたからなんだろな

403 :
慶喜「あかん!自主再建無理や!大政奉還して会社更生法適用しよ!」
家臣「何しまんねん若旦那!わてらどないなりますねん!」
慶喜「何言うてんねん!ワイが再建計画やっても、お前らが暗殺したり邪魔ばっかりしたからやないか!」
家臣「そない言いますけど、若旦那の長州征伐プロジェクト大失敗でしたやん」
慶喜「あれはな。。。ワイも悪いんやけど、そやけどお前ら弱すぎやないか!」
家臣「まあそない言わんと、ええ話ありますねん、鳥羽伏見プロジェクト言いますねんけど」
慶喜「またアホなこと考えとるわ!前より会社小そうなるけど、ワイの言う通りしたら会社残るんや」
家臣「今度の計画は絶対ですわ!15代続いた老舗の復活でっせ!」
慶喜「まあ計画表見てたら成功しそうやけど、これもし失敗したらワイ犯罪者やないか?」
家臣「そんな事あるわけおまへんやないですか、わてら信用して若旦那は大阪城で見といて下さい」
慶喜「ほんまにこいつら信用してええんやろうか?」

家臣「若旦那!若旦那!若旦那!!!」
慶喜「おーどないやった?」
家臣「あきまへん!大失敗でしたわ!!若旦那に逮捕状出ましたわ!」
慶喜「何やて???あんな計画でさえ失敗すんのか?こいつらどんだけ弱いねん!!」
家臣「あわてんと!次の計画がありますねん!大阪城篭城プロジェクト言いますねん!」
慶喜「あかん!こいつらと付き合うとったら死刑になるわ!」
家臣「さあ若旦那元気出して下さい!わてらの未来は明るいでっせ!!」
慶喜「今自首したら執行猶予で済みそうや、こいつらから逃げなしゃあないわ」

慶喜と家臣との間に考え方に差があったのも事実で
慶喜は小さな徳川家として存続させる考えと、以前の徳川家復活目指す家臣達
双方の視点から見た「慶喜」の評価は大きな隔たりができてしまうのも事実
片方だけの視点だけで見てしまうと「慶喜」の実像は曇って見えてしまう
「評価の難しい存在」というのが「慶喜」の実像じゃないだろうか?

404 :
会津なんかと組まずに薩摩と組んでたら、
慶喜は勝利できたんかな?

405 :
遠い崖って本読んでるんだけど(3巻まで)、やたらと外国は条約上の
権利を主張して幕府を追い詰めてるんだよな
偉い人を頻繁に呼び出して叱責とかしてるし
なんか舐められてる感じがした
逆に薩摩と長州の方が一目置かれてる
幕府も一戦交えた方がよかったんじゃないか

406 :
>>405
薩長→まず一戦交えてみる→辛勝もしくは敗北しても相手の砲弾や鹵獲兵器から実力を分析→停戦後は開戦前とは比べ物にならない低姿勢で賠償金も領土割譲しないなら満額回答。



幕府→なかなか開港出来ない→でもすぐ賠償金を払う→それでいて武力は日本一→不信感増大だしな〜。

407 :
>>396
青松葉事件で尾張藩の佐幕派が壊滅しましたモンね。

これで、佐幕派傾向が強かった東海地方の諸藩も
一気に中立か、勤王藩にドミノ倒し状態になっています。

>>405-406
1980年代の日米経済摩擦と同じ。

プラザ合意とか日米構造協議とか日米自動車摩擦とか。

日米自動車摩擦では、流石の日本もブ千切れて、
通産省ターゲティング派(対米強硬派)が、アメリカとTWOに提訴したり、
逆に経済制裁しようとしたり、米国債の大量売却を考えたりした。

TPP交渉でも、コレに通じるね。

408 :
>>407を一部修正)

アメリカと → アメリカを

409 :
>>399西軍とか言ってる時点で会津プロパガンダ洗脳者だね。
東にも官軍はいるんですけど?東北や北越を荒らした元凶は会津だよ。
新政府と戦争したくてドイツに北海道と新潟売り飛ばそうとして
失敗したら東北や北越で同盟募って、これも失敗して
新政府が和平案出してるのにノラリクラリかわして
終いには新政府の九条総督拉致して会津から攻めてきたんじゃん。
しかも北越じゃ味方の地で蛮行三昧。
会津じゃ領民に見放されて一揆まで起こされ
腹いせに郡山は襲うわ、道南じゃ民家に放火するわ
チンカスレベルのゴミだぞ、会津は。
それを大正から会津プロパガンダで隠してるだけ。
今も昔も会津はチンカス以上チンカス未満だよ!
日本全国に謝罪しろ!!!!

410 :
>>404
蛤御門は薩摩が味方で
無ければ敗けていたな

411 :
第一次長州征伐の時に、長州藩を改易するか、斗南へ転封していれば問題無かった。

畏こくも帝が居られる御所へ発砲するという大逆賊が
藩主家謹慎、責任者処罰で済むというのが異常だろう。

幕府270年の歴史の中で、大した理由も無く改易に成った大名は多々有った訳で。
それに比べて長州への処置は寛大を通り越して異常だろう。

412 :
処罰を実行するにも実力と人望が要るってことだろ
幕府にはもうそれがなかった

参勤交代の復活もほとんどの藩に無視されたしな

413 :
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414 :
>>411
恐れ多くも今まで帝が勅を乱発しすぎて禁門時は諸大名はおろか 幕府まで 参戦をためらう始末。
逆に長州の中立要請には諸藩はあっさり従うくらいだしな。

415 :
>>396>>406
むしろ鳥羽伏見の戦いを始める以前に、
旧幕府側で 逆青松葉事件 を起こせなかったのですかね?

つまり、旧幕サイドが、尾張藩の佐幕派(ふいご党)をバックアップして、
徳川慶勝を排して徳川義宜を擁立するとか、尊皇派の(金鉄組)を弾圧する
とか、色々手はありそうだけどね。

鳥羽伏見の戦い以前なら津藩も佐幕派だしね。

慶勝は、ずーっと京に出ずっぱりだし、名古屋近くの佐幕派の藩である
津藩や桑名藩、大垣藩などの支援があれば、何か出来そうだと思うけど。

江戸での薩摩藩藩邸攻撃と同時にやればインパクトも大きかったはず。

416 :
>>415
それが出来なかったのが佐幕派の敗因かもな。

417 :
>>415
8.18政変から蛤御紋の頃に、多くの藩の尊王志士が弾圧され、土佐藩とか有名だが
長州征伐失敗から雲行きが変わり、大政奉還へとなった頃には
尊王志士が復権し、さらに多くの藩士が尊王倒幕へ転向していった時期なので
この時期に逆青松葉事件は難しかったでしょ、尾張藩も蛤御紋の頃には尊王派は弾圧されたりとかしたのかな?
尾張藩も他の藩と同様、倒幕派の勢いが増していたはず

鳥羽伏見の時期は旧幕府に対し、譜代親藩であっても中立が多く、彦根とか敵対したとこも出てきた
会津桑名以外でも、大垣姫路高松伊予松山備前松山とか旧幕府軍に付いたが
これらはまだ幕府に対し忠誠的な態度であったけど
戦闘には消極的な行動が多く、戦後はすぐに恭順
佐幕藩と言われている藩においても、倒幕派の勢いが増しており
絶対に徳川幕府を守り抜くという急先鋒な佐幕が多数なのは、幕臣会津桑名とか少数派であったでしょ
関ヶ原の西軍は、石田宇喜田大谷以外は態度が曖昧なのが多かったが
状況が似てるなって思ってしまう

長州征伐では幕府に対し、招集拒否や戦闘拒否、勝手に帰ってしまうとか
幕府の命令など聞かない藩が多々あったけど
官軍に付いた後は、献金しろ!借金してまで金集め、戦闘でも積極的に参加したり
幕府と朝廷の威光には大いに差があるなって感じてしまう

418 :
孝明天皇は攘夷主義者だったが佐幕派だった。
尊皇派は尊皇を名乗っているくせに孝明天皇の御意志を完全無視したのは何故?

419 :
>>418
ここは戊辰戦争について語るスレなんよ。
そうゆう質問はよそでやったほうがいい

420 :
それってなんで会津が孝明天皇の宿願である攘夷を行わなかったのか?って話?

421 :
>>418
孝明天皇の御意志に従って不平等条約を平等に改正したのが明治政府。
孝明天皇の御意志に背いて不平等条約を調印したのが徳川幕府。

422 :
>>417
実際幕府の威信が低下した原因はなんだったんだろうね
黒船の軍艦外交によってあっさり条約結んだことなのかな
大老や老中が襲われたり、外様が率兵上京して勅使連れて幕府
に改革迫ったりするなど、それ以前を考えると有り得ないこと
が起こってる
第一次長州征伐でも処置が甘いし
水戸薩摩長州改易してたら、戊辰戦争自体起こらなかったのに

423 :
>>422
西郷隆盛が西南戦争を起こさない代わりに松平容保が戊辰戦争しそうだが。

424 :
>>422
長期的な理由としては大大名に対する改易が江戸中期以降ほとんどなされず緊張感がなくなった。
家斉時代に大量に養子を出したせいで幕府と藩の上下関係が緩んだ。
短期的には家定が廃人同然で幕府が老中を中心にした単なる譜代大名による意思決定機関になって権威が落ちた。
あげく黒船来航で広く万民から意見を募るという愚行をやらかして統治能力の欠如を露呈した。

425 :
幕府威信低下の原因は、幕府直轄地や譜代領土は東日本に偏っており
江戸時代中期から後半にかけての、東日本中心の飢饉により
西高東低の差が広がったのも原因の1つではないかと
それと>>424が書いた内容も含め、他にも色んな要素が膿となり膨らんでおり
黒船は膿を破裂させる起爆剤だったのではないか?

黒船が100年早く来航していたら、明治維新は100年早く起こっていた
黒船が100年遅く来航していたら、明治維新は100年遅く起こっていた
という事を書いていたのを見た記憶があるが
もしも徳川幕府全盛期の5代将軍ぐらいまでに黒船来航していたら?どうなっていたか
黒船のように超大国が日本に進出に似た歴史は、元寇が挙げられると思う
徳川幕府終わりの始まりは黒船来航であろう、鎌倉幕府終わりの始まりは元寇であろう
元寇当時は鎌倉北条氏全盛期の頃で、もしも徳川幕府全盛期に黒船来航していたら?
に参考になる例ではなかろうか?
黒船来航後20年ぐらい後に徳川幕府滅亡、元寇後50〜60年後に鎌倉幕府滅亡

426 :
>>417
これは自分が書いたレスへの自己レスだが
逆青松葉事件は困難に対する、原因が希薄なような気がして

大政奉還前後の頃の各藩は、藩士も【@倒幕派A佐幕派B中立派】
この3派が藩によって入り交じって対立していた
幕長戦争後の長州は@会津はA、この2つだけは例外でほぼ独占していたはず

幕末史って、やたら名が出る有名な藩(A)(薩摩長州会津水戸土佐とか)
  あんたら何やってたの?無名な藩(B)(加賀前田蜂須賀黒田とかその他大勢)
に分かれ一部の藩だけで歴史を作った感があるが
(A)のような有名な藩は@かAが鮮明な藩で、藩士の割合も@かAに偏っていたはず
(B)のような無名は藩はBの中立派が多かったはず
藩士の割合とか@かAに偏っていても、小藩であるが故に影響力少なく無名藩になった藩もあったが

@倒幕派A佐幕派これらの人は、時勢が劣勢になっても自分の主張を変えないが
B中立派は時勢によって@やAにすぐ靡く傾向にある
蛤御紋の頃はAが@を弾圧し、それにB中立派も黙認または追随したりする
鳥羽伏見では@がAを弾圧し、それにB中立派も黙認または追随したりしたはず

尾張藩はB中立派が多かった藩だと思う、少数派であった@とAの争いはあったが
@倒幕派が優勢になった時期に、B中立派も@に靡き
数字で例えると<@10人A10人B80人>が<@B90人A10人>
@にBまで加わり大多数になり、A佐幕派はかなり少数派になってしまった
このような情勢であったから青松葉事件は自然に成り行き、逆青松葉事件は無理と考えた

427 :
もし、毛利長州藩を下北半島へ転封していたら…

428 :
>>427
そして仙台伊達や米沢上杉と連携させて 毛利版奥羽列藩同盟を作らせるか。

西には薩摩島津家や 佐賀鍋島家が台頭

徳川を東西から方位するとか。

429 :
江戸幕府は京と江戸に分裂した時点で終わってたんだよ。
軍事力はぜんぶ関東で育成して持ってくるしかないんだから。

慶喜は情勢認識は的確で有能なんだけど、それを徹底できないというか、
ちょっとずつズレてるんだよな。直属の家臣と軍事力がないから、
周囲に伝わらないというのもあるけど。

430 :
勝が西郷を嗾けなけりゃこんなゴテゴテにはならなかったよ
そのくせ自分は江戸を助けた英雄気取りだからな

431 :
>>415
青松葉事件のwiki見たら
「名古屋の名は県名に採用されなかった」
って宮武外骨のデマが欠かれててワロタ
左翼ってすぐにファンタジーを鵜呑みにするよな

432 :
>>430
勝には小栗上野介ってライバルがいたしな。
向こうに手代木直右衛門って用心棒がいたら、自分も西郷隆盛を頼るのは仕方なかんべ。

433 :
慶喜の暗殺は、無かったけど、慶喜の側近は、立て続けに暗殺されている。

中根長十郎、平岡円四郎、原市之進などの最側近は、みな暗殺されている。

特に原市之進の暗殺は、慶喜にとって打撃が大きく、
原市之進が居なくなった事で、将軍である慶喜と幕閣の意思疎通に
隔たりが出来る様になったと言われる。

見事なタイミングで討幕派の先手を取り、大政奉還を決断した鮮やかさに
比べて、その後の慶喜の行動は、何となく尻すぼみの体たらくな印象はぬぐえない。

実は、この慶喜の行動の格差に、
大きく影響していたのが、原市之進の暗殺ではないか?と言われている。

つまり、大政奉還までのシナリオまでは、すでに市之進と慶喜が
相談して段取りをつけており、その根回しも市之進がしていた。

しかしその先を決めないまま市之進が亡くなってしまったため、
その後は、まるで空中分解するがのごとく慶喜の態度がフラフラ
するようになった・・・という説がある。

原市之進を暗殺したのは、山岡鉄舟と言われ、
勝海舟も原市之進の頭の良さは認めていたけど、非常に対立し嫌っていたと言う

434 :
原市之進を暗殺したのは、山岡鉄舟と言われ

      ↓

原市之進の暗殺を企てて促したのは、山岡鉄舟と言われ

435 :
原市之進の暗殺はもっと重要視されていい
慶喜は家臣団や直属の軍事力がないことが終始ネックになっていた
これを補うのが幕臣や他藩との折衝なのにそこを壊されたのは痛い
連立政権で官房長官なしで超少数派閥出身の総理大臣をやるようなもんだし

ただそれとは別に、大坂に引き下がった時点で戦争しても勝てなさそうな気がするけど

>>432
小栗忠順は手代木直右衛門とは接点ないよ
というか幕府の吏僚層は尊攘派に属さないので、在京の会津藩とあまり接点がない。

436 :
>>435
あくまでも清河八郎暗殺の時だけの関係…と思ったらあん時の依頼人は老中の板倉か。

437 :
薩長両藩は四候会議の後ではもう戦争しか考えてないんだよ
慶喜の政治的辣腕が逆に薩長両藩に絶望感を与えて武力による政局転換以外ないと思わせてる
どんな形であれ、遅かれ早かれ戦争の回避なんて不可能だった
慶喜や幕府軍にはその認識が最後まで欠けていた、だから負けた
おそらく函館戦争が開始されるまで、幕府側には「戦争はウェルカム」
というのが理解できなかったんじゃないだろうか

はっきり言ってこいつら基地外だわ
戦争って1回歯車が回り出したら止まらないんだという恐ろしさを実感する

438 :
彰義隊も奥羽諸藩も、いや榎本武揚軍も、最後まで「武力をカードにして交渉する」
という発想が抜けなかっただろ。しかし西郷以下薩長両藩の幹部にとって交渉なんてあり得ないんだよ
個々の局面で慎重論を取った者(上野戦争の西郷、奥羽戦争の広沢など)はいるけど絶対に採用されない
新政府は血を吸って育つ子なんだよ。戦争がなくなったら崩壊してしまうの。

439 :
>>437
>>438
薩摩はともかく長州や岩倉は開戦の折りには慶喜達に協力してもらう気だったろう。
それに薩長以上に
手代木率いる佐幕派連中の方が交渉する気があったら近江屋事件も薩摩藩邸焼き討ちも上野戦争もその他の破壊工作なんてしないだろ。

440 :
長州は薩摩以上に開戦に積極的
四候会議で慶喜が他を圧倒したことで相当な衝撃を受けてる
吉野での挙兵が検討されてるくらい

薩摩はむしろ薩土盟約で全面挙兵を望む長州を失望させてる側

441 :
>>440
長州の開戦はあくまでも、慶喜達 徳川閥の新政府参加を前提にしてるし むしろ薩摩がそれに反対してるんだが?

442 :
>>441
?何言ってるのか分からない
四候会議のあと長州藩が薩摩藩以上に挙兵に積極的だったのは知ってるんだよね?
長州藩の一部は吉野での挙兵計画も検討してたんだけど。

443 :
>長州の開戦はあくまでも、慶喜達 徳川閥の新政府参加を前提にしてるし

慶喜が新政府に参加したら戦争起きないじゃん。馬鹿なの?

444 :
>>442
>>443
徳川の参加無しには討幕は不可能なのは分かるだろ?

結局尾張公が代わりに諸大名糾合の役割を果たしたが。


生野の変の事なら
長州の数多ある討幕挙兵計画の一つに過ぎない。

445 :
長州征伐時に慶喜傘下の水戸、因幡、備前の志士は長州を支援してたし、8.18政変の最中に慶喜は江戸にいて、長州追放にはいっさい関わっていなかったばかりか大政奉還の際には 岩倉に二万両ちかい 献金もしている。

446 :
長州藩の一部は吉野での挙兵計画

っていつの事なんや?第二次長州征伐から大政奉還の間か?
初めて聞いた

447 :
たぶん高野山挙兵のことと違うか? 鷲尾隆聚のやつ。
長州てゆうより、十津川郷士と陸援隊が主だったメンバーみたい。
十津川が吉野ってことなんかな?

448 :
>>444
>徳川の参加なしに討幕は不可能

徳川家が倒幕に参加してどうすんだよ。文意がまったく分からない。どういうこと?

長州が慶応3年の薩土盟約前に検討してた挙兵は生野の変じゃないよ。生野の変は文久3年だろ。
もちろん高野山挙兵でもない。高野山挙兵は慶応3年の暮れだけど、その前に土佐系と挙兵計画を練ってた模様。

449 :
>>445
何を言いたいのか分からないけど、慶喜が長州藩追討に消極的だったから長州も討幕に消極的だったに違いないとかそういう類の主張?
第2次幕長戦争や四候会議を主導したのは明らかに慶喜だけど。

450 :
>>448
高野山挙兵じゃないのか。
445は将軍いがいの徳川御三家が結果として官軍についたことを強調してるんじゃないのかな?


>>449
じっさい慶喜を名指しした討幕密勅に長州の品川と広沢が関与してるもんな
長州が前提にした「慶喜達 徳川閥の新政府参加」
とやらが何のことなのか教えて欲しい
長州の誰が?いつ?どこで?その前提を決めたのかってことを

451 :
鷲尾隆聚って調べてみたら、あんまり詳しい情報は無かったけど
12月に挙兵って書いてあったが
小御所会議が12月9日で、そのあたりから翌年始めの鳥羽伏見前までに挙兵してたんやね
鷲尾隆聚という貴族が、陸援隊残党の田中光顕らと共に高野山を占拠
慶喜のいる大阪城には、関東からの義勇兵や西国の譜代らも集まってきたが
やはり近くで大藩である紀州藩の去就は、倒幕派にも気になるところ
紀州藩を威圧する目的の挙兵だったのかな?
紀州藩は倒幕か佐幕かで揉めて、鳥羽伏見が終わる頃に佐幕と決まったが
結局は戦には間に合わず、結果的には中立
そういう意味では挙兵は成功だと言えるが

田中光顕の経歴を考えると、中岡慎太郎の暗殺後に動いてるみたいなので
鳥羽伏見の開戦数日前の挙兵だったのかな?
という事は、鳥羽伏見で旧幕府軍を迎え撃つ薩長軍以外にも
 ● 琵琶湖からの物資ルート確保を目的とした大津への大村藩らを派兵
 ● 西園寺公望が任命された山陰道鎮撫
これらと同じく単独の挙兵ではなく、大阪城と紀州藩を威圧や分断作戦
を目的とした派兵に近いものなのかな?

452 :
>>449
第2次幕長戦争を中止したのも、慶喜だがな。
長州が見方って意味じゃなく、慶喜が大政奉還して新政府よりの姿勢を取らねば 戦力的に開戦は無理だろう

453 :
>>450


454 :
なんか話ズレてないか?
鳥羽伏見と戊辰戦争ごっちゃになってるっていうか

あんまり詳しくないけど、鳥羽伏見前だと、長州は主戦派だし
木戸上京後だと、硬柔両路線って感じじゃなかったっけ

455 :
>>453
木戸って大政奉還に批判的じゃなかったっけ?

それと長州が「慶喜達 徳川閥の新政府参加」を決めたのが、
「いつの時点か?」ってことが肝心なんじゃないの?

456 :
ID: pWg4S9YtO は昨日の>>441と同じ人かな?

文章に欠落してる部分があったり、知識を丸暗記してるだけで理解してなかったり
この人は中学生ぐらいなのかな?
● 例えば>>453のレスで、>>450は「長州の誰が?いつ?どこで?」と書いてるのに
  『誰が」しか返してない
● それ以前のレスは読むのが難解で、時系列などの理解と、相手の質問に対する理解とか
  理解力が乏しい人だいう事だけが分かる

何が言いたいのかよく分からんので、ここまで書いた事を整理し
自分の言いたい事を時系列で@ABのように並べ、説明し直したらいいじゃない

457 :
>>455
> 木戸って大政奉還に批判的じゃなかったっけ?

別に批判的なことは言ってなかったかと。
ちょっと木戸文書確認してみたけど、大政奉還直後の書簡だと「とにかく薩摩と足並みそろえてくれ」
程度のことしか書いてない。

この辺、符牒めいた言い回しになってるから、読み違えてるかもしれないけど

458 :
>>456
AU+Buere0は挙兵計画ってのはいつ、誰が 計画してたのか説明出来るようになれ。

459 :
いまでも譜代筆頭の彦根藩が敵側についた事が信じられない
直弼の死後、失政扱いにして理不尽に10万石の減封を受けても
禁門の変や長州征伐でも忠義を尽くして3万石を回復させている
なのになぜ鳥羽伏見で転向したのだろう?

460 :
直弼の後始末や長野主繕からの反動じゃないの?
赤備えは気紛れだしな
味方にいれば心強いけど一度改心して敵側に付くとタチが悪いぐらい容赦無い

461 :
>>459
会津とは容保と直弼が仲良しコンビ程度の関係でしかないしな…
手代木と石黒の会談も大政奉還阻止後の政権運営の相談で
所詮は利用しあう関係でしかないし…

462 :2015/12/27
反撃が組織的じゃなかったよね。

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