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邪馬台国畿内説 Part348

邪馬台国四国説 part3


1 :2019/06/17 〜 最終レス :2019/09/16
part1
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1458389654/

part2
http://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1547615010/l50

関連スレ
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/archeology/1459774021/
邪馬台国阿波説についてのスレッド

2 :
奈良「法隆寺」の本社は、ここ徳島市 救世山峯薬師  「法谷寺」

http://goutara.blogspot.com/2011/10/blog-post_29.html

3 :
魏志倭人伝にある「橘」。  これ一つとっても、北部九州・畿内が該当しないのが分かる。

4 :
「若杉山遺跡(阿南)坑道発見」

「辰砂採掘 弥生後期 日本最古か」

5 :
阿南市と徳島県教委は、弥生時代後期から古墳時代初頭にかけ、赤色顔料「水銀朱」の原料となる辰砂が採掘されていた若杉山遺跡(同市水井町)で、

辰砂を採掘していた坑道が見つかったと発表した。

6 :
これまでは露天掘りなどの手法が取られていたとみられており、 より高い技術が必要な坑道で採掘されていたことは分かっていなかった。

日本最古の坑道の可能性があり、今後、詳しく調べる。

7 :
遺跡は、太龍寺山(標高618m)の標高約140〜250mの地点の斜面にあり、坑道は約250mの地点で見つかった。

奥行きは約14m、高さは約70〜90cmある。

8 :
阿南市が国史跡指定に向けて昨年8月から行った調査では、入り口付近から辰砂の原石が22点、石杵が10点、内部から石杵が12点見つかった。

このため、辰砂の鉱脈を含む岩を横穴式に掘り進んだ坑道だと断定した。

9 :
入り口から約50m離れた斜面では、掘削する際に出たがれきなどが捨てられた「ズリ場」も確認された。

その付近で弥生土器の破片が発見されており、坑道も弥生時代に使われていた可能性があると判断した。

10 :
阿南市などは来年度以降、坑道内部の調査を本格化させ、時代の特定につながる土器などを探す。付近で他の坑道の有無も調べる。

現在、日本最古の坑道は奈良時代に銅を採掘していた長登銅山(山口県美祢市)とされている。

11 :
若杉山遺跡調査検討委員会の大久保徹也・徳島文理大学教授(考古学)は「この時期は、むき出しの岩を石杵で砕くなどして辰砂を採掘していたと考えられていたため、

これまでの考え方を覆すかもしれない」と指摘している。  徳島新聞 平成30年2月1日

12 :
男弟とは「月読尊」

卑弥弓呼とは「素戔嗚尊」

卑弥呼とは「天照大御神=大宜都比売」

の3兄弟。  

これが魏志倭人伝と記紀との整合性。  

13 :
「天照大御神=大宜都比売」と「月読尊」は邪馬台国(北の粟国)側

「素戔嗚尊」は狗奴国(南の長国)側   

14 :
「板野命婦」(いたののみょうぶ)

生年:生没年不詳

奈良時代の女官。  粟凡直国造若子とも。  外従五位下。  藤原房前の7男楓麻呂を出産。

15 :
阿波国板野郡貢上の采女で、光明皇后の御所に仕え、写経事業のための経典貸借などの責任者として活躍し、

造東大寺司との連絡係などを務めた。 出家し、尼となった。  <参考文献>『正倉院文書』、「板野命婦」(『角田文衛著作集』5巻)

16 :
「板野命婦」も奈良遷都に伴い、天皇家に付き従い、阿波国板野郡から奈良の都へ移住したとみられる。

17 :
魏志倭人伝は、倭国(阿波)の自然・風習を記録したもの。  

例えば「橘」も「楠」も、温暖な倭国(阿波)に自生する。

同様に、非常に貴重な「丹」も倭国(阿波)でのみ、採掘していたということ。

18 :
第34代舒明天皇は、四国道後温泉と播磨有馬温泉。  

第35代斉明天皇も、四国道後温泉と紀州白浜温泉の両方に行幸している。

19 :
しかし、それ以前の天皇は、四国道後温泉だけしか行幸していない。

このことから、第34代舒明天皇の御代頃から 、倭国(阿波)から奈良大和への王都進出の関心が高まったとみられる。

20 :
四国の道後温泉への天皇の行幸:第12代景行天皇から。

播磨有馬温泉への天皇の行幸:第34代舒明天皇から。

南紀白浜温泉への天皇の行幸:第35代斉明天皇から。

21 :
道後温泉、有馬温泉、白浜温泉
いつから開業してるのよ?

22 :
>>21

四国の道後温泉:第12代景行天皇から。

播磨有馬温泉:第34代舒明天皇から。

南紀白浜温泉:第35代斉明天皇から。

23 :
なんで四国の道後温泉へ一番最初に景行天皇(12代)が行幸したのだろうか?

なんで畿内に在る有馬温泉や白浜温泉への天皇行幸が、四国よりずっと遅れたのだろうか?

なんで九州に在る温泉への天皇行幸が、近年まで無かったのだろうか?

あとは、推して知るべし。

24 :
『日本書紀』や伊佐爾波神社(八幡宮)の社伝などによると、

厩戸皇子(聖徳太子)だけでなく、景行天皇・仲哀天皇・神功皇后・舒明天皇・斉明天皇(皇極天皇)・中大兄皇子(後の天智天皇)・大海人王子(後の天武天皇)

など多くの皇族方が病気療養のため四国の道後温泉に行幸、来湯している。

それは取りも直さず、道後温泉が倭国王都(阿波)と同じ四国に在り、湯治場として近かったからに他ならない。   @阿波

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E5%BE%8C%E6%B8%A9%E6%B3%89

25 :
四国の道後温泉しか無かったんだろう?
1つしか温泉ないのなら道後へ行くしかないじゃん

26 :
同じ四国といっても車も鉄道もないから
徳島から道後は無茶苦茶遠いよ
船はあったから畿内の方が近場

27 :
>>25
>四国の道後温泉しか無かったんだろう?

日本中で、四国の道後温泉しか源泉が無かったとでも?   後は推して知るべし。   @阿波

28 :
>>26
>徳島から道後は無茶苦茶遠いよ

畿内や九州より、はるかに近くて、安全だよ。  当時の渡海は命がけ。  命をかけて湯治に来るのは本末転倒。


>船はあったから畿内の方が近場

なんでわざわざ畿内から四国の道後へ行くの?  なんで近場の畿内の温泉へ行かないの?   後は推して知るべし。   @阿波

29 :
忌部一族は、海部(あまべ)とともに日本各地に進出して、麻、穀を植え、農業、養蚕、織物、製紙、建築、芸能などを伝えた祭祀族、海民族、産業技術集団。

30 :
東京都伊豆諸島 神津島に「阿波命」が祀られている。  これも、黒潮に乗って阿波から進出した関東忌部が残した痕跡。

31 :
>>26
船って海岸沿いを行く分には相当安全だぞ

32 :
阿波は忌部一族(倭人)の総本山。  今ある天皇家の故郷。  だから今も天皇家と阿波は、大嘗祭で誼を通じている。

33 :
だから、往古より天皇家は倭国(阿波)に「麁布」の調進(朝廷から頼まれて作り納める意味) を求めてきている。 

34 :
先日の退位正殿の儀における三種の神器   その鉄剣も勾玉も倭国(阿波)の特産品。

35 :
「林 博章(はやし ひろあき)」

平安時代972年の延喜式大嘗祭式には,阿波国より麻植郡の忌部氏と那賀郡が由加物すなわちお供え物を調進する事になっていました。

36 :
この事は古代より忌部の山の世界と那賀郡の海の世界との「人・物の交流」があり,拠点が水運を利用した吉野川中流域山崎の津であったと考えられます。

大分すたれてきましたが,吉野川中流域の人達は,南西の方角,剣山(つるぎさん)を中心とした四国山地の方向を指して「ソラ」または「ソラの人」と呼んでいました。

37 :
この場合の「ソラ」とは「山」の事です。 旧麻植郡山地部の大半を占める旧種野山内にある三木山の頂上近くにある三木家周辺は,古くより「空地(そらのち)」と呼ばれ,

地名も「大字三ツ木字空地」となっていましたが,近年の国の地名編成で大字が削除され「字」が「貢」に変更された為,地名から「空地」が消えたのです。

38 :
この「ソラノチ」への入り口が,吉野川中流域の旧忌部神社がある山崎の地で,山への入り口でもあり,古代より中世まではこのソラ(山)への交通路の起点となっていました。

その為古くからこの山崎は忌部神社の門前市(いち)を通じて吉野川を経由した海の民・平野の民とソラ(山)の民との物産の交易の場として津が形成され,

ソラの世界の発展と共に成長してきております。

船を自由に操り水運にたけた海の民が,交易の場に情報や文化を共に運んで麻植の忌部やソラの民を支えてきたのかもわかりません。

39 :
新天皇の即位後、最初に行う皇室のsteam最重要儀式「大嘗祭」では、阿波の氏族「阿波忌部」が麻で織った反物「麁布(あらたえ)」を調進してきた歴史がある。

阿波忌部の子孫として大嘗祭に関わった旧家の古文書や貴族の日記から、阿波と朝廷祭事のつながりを紹介する。

40 :
阿波忌部の子孫と伝わる旧家は、美馬市木屋平の三木家住宅(国指定重要文化財)当主の三木信夫さんだ。

大嘗祭の祭祀具である麁布との関りを示す古文書(県指定文化財)を所有している。

41 :
古文書からは、三木さんの先祖が13〜14世紀の亀山・後伏見・花園・後醍醐・光厳・光明の各天皇に、麁布を調進(朝廷から頼まれて作り納める意味)したとされる。

どの文書にも、天皇の命を受けた都の役所が、阿波忌部に麁布の制作を頼むため、阿波国司に天皇の使者、勅使を送るという内容が記されているそうだ。

42 :
「大嘗祭の儀式は、平安時代の法令集『延喜式』でわかる。しかし、麁布を調進する際の手順は古文書でしかわからない」と三木さん。

43 :
大嘗祭は、南北朝〜江戸時代の政情不安時は中断したほか、行われた時も阿波の麁布が調進されないことがあっという。

「そうした時は、朝廷の役人が阿波忌部の代行を務めたことを示すため、麻布に『忌部所作代』と表示した」

44 :
また、南北朝時代の光明天皇以来、577年ぶりに阿波忌部の麁布調進を復活させたのが大正天皇の大嘗祭だった。

信夫さんの祖父宗治郎さんが携わり、昭和天皇にも調進。信夫さんも1990年11月、地域住民の協力を得て今上天皇の大嘗祭で奉仕した。

45 :
阿波忌部と麁布を巡る文献では、大和朝廷の初期から51代平城天皇まで麁布を調進したと記している平安時代の「古語拾遺」(807年)もある。

「これら2点が出た後、しばらくは資料が見つからない。  

そして11世紀になると、貴族の日記から分かるようになる」と言うのは、中世史研究者で県埋蔵文化財センターの福家清司理事長。

46 :
後鳥羽天皇に関する「山槐紀」(1184年)には「阿波の荒妙神服(あらたえかむみそ)の事だが、平家が四国に居て交通が途絶。 

期限のあることについてどうするのか」などと書かれているという。

47 :
「加茂宮ノ前遺跡」 朱の生産国内最大・最古

Q 遺跡ではどのようなものがみつかったのですか。

A 水銀朱を生産したとみられる石臼や石きねが約300点。辰砂原石や表面に水銀朱を塗った土器の破片、耳飾りなどの関連遺物も多く、出土数の合計は約1000点になりました。
また、祭祀に使っていたとみられる石を円形に並べた遺構16基と住居跡2基も見つかりました。

48 :
「加茂宮ノ前遺跡」    朱の生産国内最大・最古

Q どのぐらい珍しいのでしょうか。

A 非常に珍しいものばかりです。 縄文後期の石臼や石きねは三重県度会町の森添遺跡などでも見つかっていますが数十点程度で、1000点規模の発見は他になく、
加茂宮ノ前遺跡が当時国内最大規模の生産拠点だったと考えられます。 過去の発掘調査で、弥生時代中期末〜後期初頭(約2000年前)に水銀朱が精製されていたことは分かっていました。
今回の発見で、生産の起源は1500年ほどさかのぼることになります。
また、円形配石遺構の発見は西日本でほとんどなく、居住域と祭祀の遺構がひとまとめに確認できたのは西日本で初めてです。

49 :
「加茂宮ノ前遺跡」    朱の生産国内最大・最古

Q 阿南市内では他の遺跡でも発見がありました。どのようなものですか。

A 加茂宮ノ前遺跡から約5キロ離れた若杉山遺跡は弥生時代後期から古墳時代初頭にかけての辰砂の採掘遺跡で、坑道は国内最古であることが分かりました。
遺跡の時代は異なりますが、加茂宮ノ前遺跡で見つかった辰砂原石は若杉山遺跡から産出されたと考えられています。
那賀川中流域で辰砂の採掘から水銀朱の精製まで一体的に行っていたのでしょう。

50 :
「矢野遺跡(縄文時代)」の遺物

徳島南環状道路建設に伴い1992〜98年に行われた発掘調査で、縄文時代後期初頭(約4千年前)の遺構面から見つかった。

51 :
このうち、土製仮面は縦15.8センチ、横16.7センチ、厚さ1センチのほぼ円形で、粘土で作られている。穴を開けて目や口を作り、鼻や眉も付けている。

用途は定かではないが、祭祀で使われた可能性がある。土製仮面としては国内最古で、最も西の地域の出土例となっている。

52 :
土器は煮炊き用の深鉢や盛り付けに使われた鉢、つぼなど。 関東の土器に見られる文様だけでなく、近畿から九州北部の広範囲で確認された文様が混じっている。

祭祀で使われた赤色顔料「水銀朱」が付着しているものもあり、国内最古の水銀朱の使用例として注目されている。

53 :
石器にはやじりなどの狩猟道具や食物加工用具がある。 最も多いのは石の重りの石錘で、網にくくりつけて漁労に使ったほか、編む際の重りなどに使われたとみられる。

文化審議会は「縄文時代最古級の土面や、水銀朱の使用例が含まれ、西日本における縄文時代中期末から後期の生活の様子を示す資料として貴重だ」としている。

2019年(平成31年)3月19日 徳島新聞朝刊

54 :
鳴門・板野古墳群について    「徳島県の歴史散歩(山川出版社)」から抜粋

鳴門市大麻町の山地の麓には、弥生時代終末期から古墳時代前期にかけて、前方後円墳を核とした首長墳が集中する。総称して鳴門・板野古墳群と呼んでいる。

55 :
ついに「陸行一月」の謎が解けたyo!

1.西晋司馬懿(秀吉)は明帝曹叡(信長)の後見人指名がなければ皇帝になれなかった(大恩人・明帝が特別厚遇した倭国王卑弥呼)→明帝曹叡の(自分を後見人に選んだ)聡明さを強調したい。
2.魏の帝都・洛陽から見て呉との戦いにおいて最高の牽制となる背後にあるためには、倭国「女王之所都」が
蘇州の「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580q南の福州の「東冶(ン・にすい)」の東の海上にある必要(読み手にそう思わせたい)。
3.しかし本当の位置も残さなければならない。
4.倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある海南島の大陸側、儋耳・朱崖に似ている。

そこで陳寿が考案した苦肉の策が、九州島(倭国)が海南島(儋耳&朱崖)まで届く、中国大陸の沿海部の沖合をすっぽり包み込む南北に長大な「一つの山島」であるように思わせるテクニック。
まず、帯方郡からの放射描きで、正解の【1.奴国ルート】と、喧伝したい「當在会稽冶之東」に合わせた【2.邪馬台国ルート(幻)】を設定。
次に「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【1.奴国ルート】を暗示しつつ(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」←2回目の念押しがポイント)、
九州島が南北に「陸行半月」であることを倭人から聞き「夷人不知里数、但計以日(7世紀隋書倭国伝)」、
それを南に2倍して東シナ海に浮かぶ幻の九州島(南部)を付け足し、「陸行一月」として、【2.邪馬台国ルート(幻)】を創り、福州「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を延ばし日+Л→「月」)。
ちなみに卑弥呼は奴国王帥升(上皇明仁)の男系女子(孫娘)で、北部九州30カ国から共立された繋ぎの女王(愛子内親王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。

帯方郡→※南「水行十日」(倭国沿岸)+東&南「水行十日」=南「水行二十日」…投馬国ルート
帯方郡→※南「水行十日」(倭国沿岸)+「陸行半月」(実際の九州島)+「陸行半月」(幻の九州島)=南「水行十日陸行一月」…邪馬台国ルート

56 :
>>55の図解(模式図)だyo(スマホ&タブレットのみんな、ズレ杉スマソ!)
【魏志倭人伝の倭国観】
洛陽→帯方郡〜〜〜〜〜〜〜東→✖畿内説TITANIC沈没地点(✝乗客乗員)
〜〜〜↓※南「水行十日」〜↗〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━
〜〜▲対馬〜〜〜〜〜〜↗〜〜〜┃「女王国東渡海千余里 複有国 皆倭種」 §琵琶湖 
〜〜〜↓〜〜〜+南「水行十日」〜┗━━━━━━━━━━┓   淀川↙ ↑木津川
〜〜▲壱岐〜〜〜┌→→→→→→┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃河内湖+大和湖Ω箸墓
〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃紀伊半島 
〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━━━━┛
〜┃▲_↘陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長三四尺(少彦名)」
〜┃▲▲奴国(女王之所都)▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜┃▲狗奴国▲▲▲▲▲投馬国┃┘宮崎平野=南「水行二十日」
〜〜┃▲↓「陸行半月」(正)▲┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
会稽〜┗━━九州島(正)━━┛〜↑実際の九州島 〜〜〜〜〜
東治〜〜│〜東シナ海(正)〜│〜↓幻の九州島南部(陳寿の創作)
〜〜〜〜│△△△△△△△△│〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜│↓「陸行半月」(幻)│〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜沖縄▲│△△△△△△△△│〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
東冶〜〜│女王之所都(幻)△│←「當在会稽東(冶)之東」(魏<西晋のプロパガンダ)
〜台湾▲│狗奴国(幻)△△△│〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
香港〜〜│△△△△△△△△│〜〜「自女王國以北其戸数道里可得略載」
澳門〜〜│△△△△△△△△│〜〜【其余旁国遠絶 不可得詳】
▲海南島〜└九州島(幻)△┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
↖儋耳・朱崖〜〜〜〜〜〜「所有無与儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

57 :
「若杉山遺跡 国史跡に」                 令和元年 6月22日(土) 徳島新聞朝刊
「辰砂採掘法の解明評価」

弥生時代後期から古墳時代前期に赤色顔料「水銀朱」の原料となった辰砂の採掘が行われた阿南市水井町の若杉山辰砂採掘遺跡が、国史跡に指定される。
国の文化審議会が21日、柴山昌彦文部科学相に答申した。
水銀朱は葬送儀礼などに用いられ、古代の西日本地域で重用された。
文化審は、原料の採掘方法が判明した全国唯一の遺跡として、歴史的価値が高いと評価している。
県内の国史跡は12か所になる。
指定されるのは、那賀川支流の若杉谷川の西側山腹斜面約1.2ヘクタール。
横穴状に岩盤を掘り進めた採掘抗跡と露天掘り跡の2か所の採掘場所が確認されている。
採掘抗跡は弥生時代後期に採掘が始まり、国内最古とされている。
採掘時に出た排石のほか、原石を砕いた石杵などの石器も見つかり、遺跡内で不要鉱物を取り除いて粉末にしていたことが分かっている。
また、石杵に香川県東部で産出する硬質の石が含まれることなどから、広範囲から辰砂を求めて人々が来ていた可能性が指摘されている。
遺跡は第2次世界大戦中に行われた水銀探索の最中に発見され、1969年に市史跡に指定。
市と県教委が2017〜18年度に行った発掘調査で2か所の採掘場所跡などを確認し、古代の採掘方法を解明した。
国史跡指定に当たり、遺跡の名称は従来の若杉山遺跡から若杉山辰砂採掘遺跡に変更される。

58 :
後漢の一大率は監察官(秘密諜報機関米CIA・旧ソ連KGB・英MI6長官)、次の魏の一大率は行政官(総理大臣)。
しかし魏の次の西晋で編集された魏志倭人伝では、なぜか前の前の王朝・後漢代の監察官(秘密諜報機関長官)の意味合いで使われている。
ここに邪馬台国の所在地を謎を解くカギがある。

中国本土と違い、辺境の倭国では、一大率が後漢代の監察官と魏代の行政官を兼ねていたのである。
これを説明するのが面倒と感じた陳寿は、一大率(魏代の行政官)を(漢代の)監察官の意味合いで補足したわけである。
すなわち、実質的な政治を司っていた総理大臣+衆議院議長である男弟(佐治国)が伊都国王で、諜報機関CIA長官も兼務していたのである。

畿内(四国)説だと、CIA長官&総理大臣+衆議院議長が女王之所都・纏向(阿波)から遠く離れた一大率・伊都国にいることになり、当然一大率からの使者も頻繁に往来したであろうから、
纏向(阿波)には専用の居館を設けなければならないし、北部九州の文物(文書や硯、土器)も持ち込まれたはずである。逆もしかりである。
ところが伊都国には布留式土器の普及もなく、纏向(阿波)でも硯・北部九州の土器は出ていない。

卑弥呼は北部九州奴国(博多)にいた>>55とするのが至当である。
伊都国と奴国の緊密な交流からも、考古学的にそれは裏付けられる。

59 :
>>58
>卑弥呼は北部九州奴国(博多)にいた>>55とするのが至当である。

「丹」の採れない北部九州奴国(博多)に、卑弥呼がいる訳がない。  以上。   @阿波

60 :
>>54

主な古墳は、西山谷2号墳  池谷宝幢寺古墳(県史跡)  天河別神社古墳群(6基・県史跡)  萩原1号墓(消滅)・2号墓  大代古墳(県史跡)  板野の愛宕山古墳(県史跡)

61 :
発掘調査で埋葬施設が判明した西山谷2号墳、天河別神社1・2号墳、愛宕山古墳、大代古墳は、いずれも結晶片岩板石積みの竪穴式石室を構築しており、

鮎喰川産の土器を供献するなど、気延山古墳群との親縁性を示している。

62 :
西山谷2号墳は全国最古級の竪穴式石室で、石室外周に萩原1・2号墓に類似した一種の囲み壁をつくっている。 

積石木槨から竪穴式石室の成立を考える上で興味深い。

63 :
近年、東阿波型土器が大和・河内地域の遺跡から相当量出土することをふまえ、 大阪府茨木市の将軍山古墳や 紫金山古墳、 高槻市の闘鶏山古墳 を始めとする

摂津 ・北河内地域に点在する結晶片岩石積みの竪穴式石室について、 その用材石室構築技術が、阿波地域から提供されたとみる説が定着しつつある。

64 :
鳴門板野古墳群には、中国製の銅鏡の副葬がみられるのも特徴である。

「板野・鳴門古墳群」
http://ktmrj15.webcrow.jp/p36ts/tpx14042619maibun.htm

65 :
「阿波 鍛冶工房から砂鉄が出土した弥生の大集落「矢野遺跡」を訪ねる 」

http://www.infokkkna.com/ironroad/2010htm/iron6/1003awa00.htm

66 :
阿波国 国名の成り立ち

@ 北の粟国(邪馬台国) と 南の長国(狗奴国)

A その後、「粟国」に統一

B 和銅6年(713)5月の「好字令」により 「阿波国」となる。 

67 :
阿波国 国名の成り立ち

@ 北の粟国(かつての邪馬台国) と 南の長国(かつての狗奴国)

A その後、「粟国」に統一

B 和銅6年(713)5月の「好字令」により 「阿波国」となる。 

68 :
大和朝廷は、よっぽど四国が恥ずかしかったんだろうな。

69 :
>>68
>大和朝廷は、よっぽど四国が恥ずかしかったんだろうな。

違うだろう。  白村江の戦で惨敗して、奈良盆地へ逃げ込んだ(遷都)ことを恥じたんだよ。

70 :
弥生人にとって、「阿波」はまさに理想の土地。

温暖な気候・多数の大河の恵み・大河流域の土地の恵み・黒潮流れる大海の恵み・山深い森林の恵み・多種類の希少鉱物の恵み。

71 :
県北部(邪馬台国)では、銅、泥質片岩、緑色片岩、翡翠、蛇紋岩、紅蓮石が採れる。 技術的には、緑色片岩などの積み石技術、石棒・石斧・勾玉製作。

県南部(狗奴国)では、魚介類・辰砂が採れる。  技術的には、造船・航海術。

72 :
>>71

阿波に人が集まり、独自文化が発祥・全国展開したのは、当然といえば当然。

73 :
「倭国(阿波)の最先端文化・技術」  

九州や畿内などと比べ物にならない圧倒的な差。

@勾玉
A軽量薄型丸底土器
B葺石・竪穴石室墓(前方後円墳等)
C水銀朱
D緑色片岩製柱状片刃石斧
E泥質片岩製石棒
FT類鉄鍛冶炉
G航海術
H農耕術
I漁労術
その他

74 :
「日本最古のお寺か」

阿波國美馬郡 郡里廃寺跡 (白鳳寺院)

75 :
逃げた事情が恥ずかしかったからって元居た四国を抹殺してるのはおかしいな。
やっぱり四国は大和朝廷にとって黒歴史だったんだろう。

76 :
>>75
>やっぱり四国は大和朝廷にとって黒歴史だったんだろう。

たとえば、どういう黒歴史?

77 :
>>74

吉野川の北岸、扇状地上に営まれた白鳳時代創立の寺院跡である。

早くから立光寺跡として知られていたものであり、調査の結果「法起寺」式伽藍配置をとるものであることが判明した。

78 :
塔跡基壇は各辺12メートルをはかり、塔軸部初重の1辺は中の間が2.3メートル、両脇間はそれぞれ2.08メートルと復原することができる。

塔心礎は旧地表下に据えたものであり、中央に径13センチ、深さ6.5センチの舎利孔が穿たれている。

79 :
心礎上に据えた心柱は、南北径1.06メートル、 東西径1.08メートルをはかる不整八角形を呈し、 心柱四周を根巻板で囲むことが知られた。

80 :
金堂跡は東西18メートル、 南北15メートル前後と復原される。  塔、金堂間の心を東西に47メートルへだてた位置に石敷列が走り、

その下方に土塁を発見しており、 また塔、金堂心より南北に60メートルをへだてた位置で同様な遺構を発見し、 寺域をほぼ知ることができる。

81 :
日本最古の寺院の一つ

「石井廃寺跡」

82 :
石井廃寺は、南に緩く傾斜する段丘面上にある古代寺院である。

古くから瓦の出土などにより寺院の存在が推定されていた。

83 :
1957年(昭和32年)〜1959年(昭和34年)発掘調査が行われ、 東に塔、西に金堂が並ぶ法起寺式の伽藍配置であることが分かった。

また、 明瞭な遺構は確認されないものの、 二つの伽藍の北に講堂、南に中門が存在したと推定されている。

84 :
出土遺物には 瓦・土師器・須恵器の他に瓦塔などがある。

瓦の文様などから 奈良時代前半に建立されたと考えられる。  

85 :
「入田瓦窯跡」 

http://goutara.blogspot.jp/2011/06/blog-post_25.html

86 :
内御田窯跡群の中のひとつであり、 気延山南の東斜面にある。  奈良時代に屋根瓦を焼いた窯跡で、 外に須恵器も焼かれている。

18段の小さい段状の燃焼部と煙出し部分が確認されているが、 燃料を燃やす焚き口部分は残っていない。  全長10m、幅1.3m、勾配45度の瓦窯様式である。

87 :
軒丸瓦と軒平瓦が出土しており、阿波国分寺跡 ・ 阿波国分尼寺跡 ・ 石井廃寺跡などで見つかっていることから、瓦を供給されるために作られたことが分かる。

奈良時代から平安時代初頭と案内の看板には記されているが、 石井廃寺跡出土瓦と同形式であるならば白鳳文化と呼ばれる頃と推測される。

88 :
「郡里廃寺跡 (白鳳寺院)」

瓦は同じ美馬市内にある坊僧窯跡群で焼かれたものと考えられている。この坊僧窯跡群の存続は白鳳時代から平安時代にかけてである。

http://awakouko.info/modules/xpwiki/?%C8%FE%C7%CF%BB%D4%2F%B7%B4%CE%A4%C7%D1%BB%FB%C0%D7
https://sueyasumas.exblog.jp/13240604/
https://sueyasumas.exblog.jp/13230836/

89 :
千葉県成田市台方の式内社「麻賀多神社」は、「麻」が社紋。

90 :
千葉県印旛(いんば)郡栄町の「大鷲神社」   天乃日鷲尊を祀り、社殿天井に「金の鷲」が取り付けられている。

91 :
社伝によると 「天乃日鷲尊はその子孫代々麻植の神として神功があり, 麻に係りのある当地においても祭神となっております」 という。

92 :
『安房志』によると「天日鷲尊の神霊が,天下に異変がある時は,金色の鷲となって現れるので, その霊験を畏敬して小鷹の神と称した」とあり、

印旛沼の由来は「忌部沼」が訛ったもの。

93 :
千葉県勝浦市浜勝浦の遠見岬神社   宮司歴代の墓碑には「勝占忌部」と書かれている。   

阿波忌部の後裔である。

94 :
宮司の安房忌部系図には、 天富命の娘の飯長媛(イイナガヒメ) と 天日鷲命の孫である由布津主命(ユフツヌシノミコト)とが結婚して、 

堅田主命(訶多多主命)を生んで安房忌部の祖としている。

95 :
>>75>>76
高天原の神の委任による天皇統治と
奴国〜倭の五王、中国の属国だった歴史は矛盾する為
後者(つまり四国)は消された

さらに嵯峨天皇の命令で空海が痕跡(王宮など)の残る地域に寺を建て細工
掘り起こされないように封印した

96 :
乙巳の変の場所は18番札所の恩山寺ではないか

97 :
恩山寺が宮跡?  そうであれば、そうかも。  小松島市は飛鳥の地だから。   

98 :
>>>94

神社境内には「忌部塚」と呼ばれる弥生以前の洞窟遺跡もあり, 阿波忌部の先遣隊の塚であろう。

99 :
千葉県館山市相浜にある「楫取(かんどり)神社」の祭神は 宇豆彦命(ウズヒコノミコト)で、 天富命に従ってこの地に渡り, 漁業を主として指導したといわれる。

100 :
この「楫取(かんどり)」という名は、 今も徳島県の吉野川で使用されている川舟である、 楫取舟と関係すると思われる。


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