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箸墓古墳の大規模調査の結果
日本三大古都
士農工商は江戸時代の職業による身分区別だけどさ
縄文人はシベリアからインドまで移動した
現在首都になっていた可能性のある都市(東京、江戸以外)をあげてけ
日本史で最重要の女性は?
沿海州のシニ・ガイ文化は縄文人によって伝えられた
☆★ 邪馬台国は【葛城】である【5】 ★★
邪馬台国近畿説
【応仁の乱】呉座勇一★2【日本中世史】
源頼朝、足利尊氏、徳川家康の中で最も重要なのは
- 1 :2014/01/04 〜 最終レス :2020/05/29
- 誰ですか?
- 2 :
- 北条泰時 足利義満 徳川綱吉
- 3 :
- 参考
日光東照宮
祭神
主 徳川家康
相伴 豊臣秀吉
源頼朝
家康は吾妻鏡を愛読
- 4 :
- 源頼朝は源氏嫡流
足利尊氏は源氏嫡流
徳川家康はなんちゃって源氏嘘流
- 5 :
- 日本の歴史(中世〜近世)
◆鎌倉幕府(1185〜1333年)◆
【勝者】源頼朝:清和源氏、藤姓熱田大宮司一族(本貫地/三河国額田郡乙見)
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮宮司)→由良御前(源義朝の室)→源頼朝
◆室町幕府(1338〜1576年)◆
【勝者】足利尊氏:清和源氏、三河守護
・足利将軍家以外では、足利一門として吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)、今川氏(本貫地/三河国幡豆郡今川)、石橋氏(本貫地/三河国設楽郡石橋)が将軍継承権を有した
・守護職は本貫地を三河国にする者が最大人数
・奉公衆(江戸幕府の旗本に相当)は、本貫地を三河国にする者が最大人数、又三河国の奉公衆も最大人数
◆応仁の乱(1467〜1477年)◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・ ”東博本洛中洛外図”には当時の権力者として細川氏邸、額田氏邸(細川氏被官)が描かれている
◆明応の政変(1493年)◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・半将軍と呼ばれ、幕政を完全に掌握、事実上日本のトップに立つ
◆関ヶ原の戦い(1600年)◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
◆江戸幕府(1603〜1868年)◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
・大名の5割が三河国出身
・附家老の8割が三河国出身
・旗本の4割が三河国出身、高家筆頭は吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)
◆大坂の役(1614〜1615年)◆
【勝者】徳川家康、徳川秀忠:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
- 6 :
- ■日光山
源頼朝がその母方の従兄弟を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた
源頼朝
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→娘(由良御前)→源頼朝
母方の従兄弟
寛伝(寛典・観纒とも、額田僧都、式部僧都と称された、日光山満願寺19世座主)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→寛伝
寛伝年表
・1142年、生まれる
・叔父の三河法橋裕範(源頼朝の母の弟)、粟田口法眼長暹(源頼朝の母の弟)を頼って滝山寺(愛知県岡崎市)で仏門に入る
・仁和寺で修行
・1182年、源頼朝の推挙により日光山満願寺19世座主になる
・宗徒と面会する際、御簾を半分にしか上げず紛紜、2ヶ月で三河国(愛知県岡崎市)に戻る
・菩提寺の滝山寺(愛知県岡崎市)僧侶になり、66郷を領し精舎一区を創建する
・鑁阿寺奥院の法界寺に、宋版の一切経を納める(後に一切経は、足利義氏により鑁阿寺に)
・高野山御影堂に大鐘を施入する
・1201年、頼朝公の3回忌、滝山寺内に惣持禅院を創建し、本尊として頼朝公の御歯と御髪を納めた聖観音菩薩を安置する
・惣持禅院に供僧10人を常置し10町の土地を寄進する
・1205年、死去する
- 7 :
- >>4
頼朝が嫡流というのも後付けだとも言われてるけどな。
- 8 :
- 源頼朝
- 9 :
- 三河の源氏なんちゃって伝承は徳川が源氏に擦り寄るために創作したお花畑物語
よって創作部門第一位は徳川家康
- 10 :
- 平成の世は仮冒平家ばっかりじゃん。
- 11 :
- >>1
「重要」を詳しく定義しろよ
- 12 :
- >>11
甘えとらんで、それくらい自分で定義しろ
- 13 :
- 足利義満(3代目足利将軍、1358〜1404)年表
【1351年】高師泰・高師直他高一族8人が、摂津国武庫川で殺害される
【1351年】仁木義長(兄の仁木頼章は幕府執事(管領の前身))が、三河守護(前任は高師兼(高師直の猶子)になる
【1357年頃】明阿(父:高師泰、夫:高師冬(高師直の養子))が、三河国額田郡菅生郷(愛知県岡崎市)に、一族を菩提する総持寺を創建する、住持は兄・高師世の娘
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【1358年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)の屋敷で生まれる
【1360年】大島義高(新田氏流)が三河守護になる(新田義重―里見義俊―義成―大島義継―時継―盛義―義員―義昌―義高)
【1367年】足助重宗(足助重範の孫)の子・重政(寛立上人) が、松平郷主・在原信重の支援を得て、三河国加茂郡松平郷に寂静寺(高月院の前身)を開創する
【1368年】管領・細川頼之を烏帽子親として元服する
【1368年】三河国額田郡片寄郷(愛知県岡崎市)に、天恩寺を創建する、足利尊氏遺言の寺、開創は永源寺2世弥天永釈、4代目将軍足利義持の祈願所
【1369年】三河国宝飯郡御馬郷(愛知県豊川市)に御馬城築城を、管領・細川頼之に命ずる、頼之は弟の頼有に命ずる
【1370年】三河国設楽郡(愛知県新城市)に甘泉寺創建か?、天恩寺と同じ永源寺2世弥天永釈開創、御朱印高48石、山林境内20余町歩を寄進する
【1379年】管領・細川頼之失脚、斯波義将が管領になる(康暦の政変)
【1379年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)を政所執事に任ずる
【1379年】一色範光(侍所頭人、若狭守護、、尾張国知多郡・海東郡の分郡守護)を三河守護に任ずる
【1380年代】管領・斯波義将が、斯波氏先祖代々の墓所がある三河国碧海郡(愛知県岡崎市)に、永源寺の創建を申し出る、これを支持し将軍家安泰を併せて祈願
【1380年代】三河国額田郡(愛知県岡崎市)の滝山寺本堂(4度目)を建替える
【1382年】源信氏(細川一族か?)が義満誕生日祈祷の為、三河国額田郡片寄郷(愛知県岡崎市)など4ヶ所を天恩寺に寄進する
【1387年】三河国額田郡下和田郷(愛知県岡崎市)を、京極高詮に還付する
- 14 :
- 【1388年】富士山遊覧、三河国額田郡(愛知県岡崎市)の矢作宿に宿泊する
【1388年】一色詮範(侍所頭人、若狭守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1390年】管領・細川頼之が、三河国額田郡細川郷(愛知県岡崎市)の屋敷跡に、蓮性院を創建する
【1390年代】足助重宗(足助重範の孫)に、尾張国野間荘を還付する、当時の野間荘は、高師直領を将軍家預かりとなっていた模様
【1391年】伊勢貞行(伊勢貞継の孫)を御料所三河国額田郡山中郷(愛知県岡崎市)の代官に任ずる、山中郷の法蔵寺は6代目将軍足利義教の祈願所
【1392年】細川頼之死去、葬儀は義満が主催して相国寺で行われる
【1394年】出家する
【1397年】三河国碧海郡(愛知県岡崎市)の永源寺(創建:斯波義将)に、後に建仁寺61代住持となる玉岡和尚を住持職に補す
【1397年】三河国渥美郡(愛知県田原市)を京極高詮に還付し、守護使不入の地とする
【1399年】三河国額田郡菅生郷(愛知県岡崎市)の乙川六名堤造営を、管領・畠山基国にを命ずる、下和田郷が水不足に陥り、領主・京極高詮から苦情が入る
【1399年】三河国額田郡比志賀(愛知県岡崎市)の深恩院に、高一族の比志賀郷の旧領を寄進する
【1404年】松平和泉守源信光が誕生する
【1406年】一色満範(義満偏諱、侍所頭人、若狭守護、丹後守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1408年】死去する
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【1440年】松平信光(3代目松平氏当主)、三河国額田郡(愛知県岡崎市)の滝山寺寺領内に、神のお告げで万松寺を創建する
- 15 :
- 以後500年間の武家源氏の権力デフォを確立したから尊氏だろ。
- 16 :
- 三河は武篇の国なる故、五千あらば上方の二万にかけあひ申べく候。(中略)三方ヶ原御合戦に、討死の三河武者下々迄、勝負を仕らざるは一人もなく候。
たけき武篇の家、和朝に上杉謙信・徳川家康なり。
(『甲陽軍鑑』)
- 17 :
- 尾張の支配者変遷
尾張氏 熱田大宮司。尾張国造、つまり尾張の古代豪族。
藤原氏 尾張氏の婿となり大宮司職を継承。初代は三河四郎大夫季範(源頼朝の外祖父)。
小野氏 武蔵国多摩郡(東京都)出身、横山党。平氏追討戦で活躍。尾張国守護として3代任じられる。
中条氏 武蔵国北埼玉郡中条発祥の横山党小野氏族。小野氏に代り尾張守護に任じられる。頼平(神奈川県)ら剣の中条流で知られる一族。基本的に鎌倉在住。
名越氏 北条氏族(神奈川県)。鎌倉末期の守護。
中条氏 再び
- 18 :
- 岡崎市民の三河人いい加減にしろ
- 19 :
- 大雑把に
軍人としてなら
家康>尊氏>>頼朝
政治家としてなら
頼朝=家康>>尊氏
こんなもんだろ
- 20 :
- 足利尊氏が最も重要だゼッ!!!
なにしろ京の都に幕府を開いたからナッ!!
- 21 :
- ・武家政権確立
・500年中興の祖
・250年稀な安定
好きなの選べば
- 22 :
- >>17
尾張は関係ないだろ
何でしゃしゃりでてくるのか?
田舎者は困ったもんだな
- 23 :
- 全部。
それぞれ個性が違うし、時代環境も違う。
それぞれの時代にそれぞれ適応してた。
- 24 :
- 頼朝は尾張出身で地元の尾張熱田神宮に祈願したし
尊氏は尾張熱田神宮を参拝して祈願したし
家康も尾張熱田神宮に祈願した
みんな尾張にゆかりがあるね
- 25 :
- >>24
んなこと言ったらみんな相模にゆかりがあるし、
みんな武蔵にゆかりがあるし、
みんな駿河にゆかりがあるし、
みんな山城にゆかりがある。
- 26 :
- 関東
東人は常に云わく、額に矢は立つとも、背に矢は立たじ(続日本紀)
東男は出で向かひ、返り見せずて勇みたる、猛き軍卒(万葉集)
三河
三方ヶ原御合戦に、討死の三河武者下々迄、勝負を仕らざるは一人もなく候(甲陽軍鑑)
- 27 :
- >>24>>25
頼朝は父親が元下野守で
尊氏は本領が下野にあって
家康は下野国日光東照宮に祀られた。
- 28 :
- >>24
303 :名無しさん@京都板じゃないよ:2012/03/23(金) 09:35:38.83
尾張國造家は、単なる外戚の藤原南家に「天皇の夢」というワケのわからんムチャクチャで大宮司職を奪われるも、神宮寺の愛染院(真言系)とスクラムを組んで対抗し、
藤原季範を締め上げた。季範の息子の代には、館を社僧に取り囲まれて外に出ることもできなくなり、頼朝に泣きつき、頼朝の発案で天台系の神宮寺を作って愛染院に対抗させやがる
>「天皇の夢」というワケのわからんムチャクチャで大宮司職を奪われる(笑)
>頼朝の発案で天台系の神宮寺を作って愛染院に対抗させやがる(笑)
三河(源頼朝、三河の藤姓熱田大宮司一族、天台宗系神宮寺)vs尾張(尾張氏(田島氏、馬場氏)、宗徒、真言宗系神宮寺)
当時、殺伐とした内部対立があった中、源頼朝が尾張で生まれるわけないだろうがw
- 29 :
- >>26
三河ワロタw
>>28
それでも三河ファンタジーを信じる健気さに
三河基地外のお前にまたワロタw
>>27
>頼朝は父親が元下野守で
鋭い
下野すげー
- 30 :
- ■日光山
源頼朝がその母方の従兄弟を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた
源頼朝
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→娘(由良御前)→源頼朝
母方の従兄弟
寛伝(寛典・観纒とも、額田僧都、式部僧都と称された、日光山満願寺19世座主)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→寛伝
万年パシリ乙w
- 31 :
- ■鑁阿寺(足利氏菩提寺)
1234年、大御堂を建立
(大檀那)足利義氏(三代目足利氏当主)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代藤姓熱田大宮司)→娘→足利義兼→足利義氏
(大行事権律師)藤原重弘(鑁阿寺第四世寺務学頭、野田朝氏と兄弟)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→野田清季(野田城主(三河国設楽郡野田))→野田朝季→藤原重弘
万年パシリ乙w
- 32 :
- 足利尊氏の200年ほど前の先祖の母方外祖父の一人の
コピペを繰り返し貼らなければいけないほど
三河は有名人に飢えているって話だな
- 33 :
- 源頼朝の母親と足利義兼の母親が、三河の藤姓熱田大宮司家出身の姉妹だった、中世はこれが全て
足利氏は三河守護になったのではなく、源頼朝と三河の藤姓熱田大宮司家との所縁で三河守護になれたが重要
- 34 :
- 霜月騒動で三河の頼朝譜代はやられたが、尊氏はその敵討ちしただけだろうw
・足利氏←三河守護
・安達氏(三河国八名郡小野田)←泰盛は三河国渥美郡小松原荘地頭
・足助氏(三河国加茂郡足助)←三河国加茂郡足助荘地頭、頼家に室を出し生まれた子供が公暁
・吉良氏(三河国幡豆郡吉良)
斯波氏(三河国額田郡矢作)
・中条氏←三河国加茂郡高橋荘地頭、中条家長は八田知家猶子
・二階堂氏←二階堂行政の母親は三河の藤姓熱田大宮司家出身、三河国碧海郡重原荘地頭
・大江氏←大江広元は、元々、三河の藤姓熱田大宮司家の家来か?広元の4男が藤姓熱田大宮司家に養子入り、尾張国海東郡地頭
これ全部やられちまったんだからよ
- 35 :
- そりゃ〜やっぱり頼朝だろう。幕府政治の原型をつくったのは
頼朝だし。
- 36 :
- >>33
頼朝も尊氏も軍事貴族の清和源氏出身だというのがすべてだろ
熱田神宮家がいつ軍隊出して頼朝や尊氏を将軍にしたんだよw
- 37 :
- >>34
追加
12年後に、吉見義世(範頼流)が処刑されて、頼朝縁者追放は完結した
尊氏は三河の代表としてよくリベンジしたわな
- 38 :
- >>37
足利尊氏が200年前の先祖の母方外祖父の母親の血筋の
代表のわけがなかろうがw
- 39 :
- 三河のおもしろさは、有名人がことごとく絡んでくる所だわな
とにかくド派手ですわw
吉見氏
■正法寺(愛知県豊川市赤坂町西裏69)
創建年:弘仁7年(816年)
開基:万巻上人
中興:了信坊(源範円)
・源義朝→源範頼(三河守)→源範円(正法寺(愛知県豊川市)僧侶)→源為頼(初代吉見氏、室は小山朝政の娘)
正法寺の創建は聖徳太子が赤坂の地を訪れた際、太子堂を建立したことが始まりと伝えられている
弘仁7年(816)、万巻上人が病により太子堂で亡くなったことから、上人を開基と定め寺院として開山する
当初は天台宗の寺院でしたが貞永元年(1232)に親鸞が太子堂の参拝に訪れた際、当時の住職範円(源範頼の子息)が親鸞に教化され浄土真宗に改宗する
- 40 :
- 三河を知り尽くしていた男、足利尊氏
マメすぎるwお前は家康とやらかよw
足利尊氏関連史跡
■天恩寺(岡崎市)
足利尊氏遺言の寺、3代将軍足利義満建立、4代将軍足利義持の祈願所
■勝楽寺(西尾市)
創建、お手植えの松あり
■その他
【岡崎市】
・滝山寺/足利宗家の氏寺、寺領寄進
・高隆寺/七堂伽藍造営
・真福寺/持地院建立
・満性寺/太子信仰、足利尊氏弓矢の守護神、伽藍造営
・竜泉寺/日静(尊氏の母の弟)開基、元は上野一族(足利一族)の竜泉寺城
・総持寺/高一族屋敷跡に、高師泰(高師直の兄)の娘が建立、足利尊氏と足利義詮の支援あり
・長瀬八幡宮/社殿(火災による消失)復興、板倉氏(足利一族)を神主に
・糟目犬頭神社/庇護(百貫文寄進)、三河鈴木氏ゆかり、新田義貞の首塚あり
・八剣神社/足利尊氏の墓あり、近くに大門屋敷(足利宗家の屋敷)があった
【豊田市】
・長興寺/三河利生塔、全国66ヶ国2島の利生塔の一つ
【幸田町】
・安国寺/三河安国寺、全国66ヶ国2島の安国寺の一つ
- 41 :
- >>40 続き
【西尾市】
・実相寺/安国寺(全国66ヶ国2島の安国寺)に指定、尾張国の安国寺の代わりらしい(尾張国にあった記録なし)
・金蓮寺/真言宗光福寺の子院を現在の場所に移転、金蓮寺として再興
・饗庭神社/新田開発し、一宮、二宮、三宮を鎮守、その内の二宮、饗庭命鶴丸氏直(花一揆武士団大将)が関係
・幡頭神社/参拝、弓矢奉納
【豊橋市】
・赤岩寺/阿弥陀如来坐像奉納
【新城市】
・冨賀寺/真応上人(尊氏の従兄弟)が住職、祈願寺として寺領を寄進し、本堂・中堂・護摩堂・阿弥陀
- 42 :
- >>40 >>41
伝説が混ざりすぎ
尊氏関連ならこっちのほうがよっぽど凄いんだが
尊氏が200年前の先祖の外戚の母方が三河出身であったことを誇りにしていて
自分の三河の血を自慢してたのならば当然これより凄いのが三河にあるよね?
■等持院(京都市)
足利尊氏創建
尊氏以降、代々の足利将軍の菩提寺
足利歴代将軍の木像・足利尊氏墓あり
■等持寺(京都市)
尊氏が自邸内に建立した寺
後に廃絶したため等持院が法灯を継ぐ
■御所八幡宮(京都市)
足利尊氏が将軍御所内に清和源氏の守り神である八幡宮を勧請したもの
■天龍寺(京都市)
足利尊氏建立
この寺の創建のために尊氏は「天龍寺船」を送った
■鑁阿寺(足利市)
足利義兼創建の足利氏氏寺
本堂は国宝
■足利学校(足利市)
足利義兼が復興
- 43 :
- 知らんわけないだろw舐めてんのか?万年パシリ
すぐ前に鑁阿寺のレスもあるだろが
マイナーな頼之創建の地蔵院や師直創建の真如寺にも行った事があるマニアだ
義兼の母親を菩提寺した法界寺(樺崎八幡宮)はどーした?
三河絡みで隠蔽か?w北関東に足利ゆかりは極めて少ない、一覧にしてあげてみなw
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→娘→足利義兼
- 44 :
- よくみりゃ足利学校が義兼と書いてやがるな、万年パシリの田舎猿
伝承以下だろがw
三河の伝承は嘘、三河以外は正しい伝承か?笑わしよるな、万年パシリ
正しい伝承の例(笑)
・矢田庄、矢田御厨、矢田郡などの呼称の所領は当時足利氏の所領に存在していないと言われており、矢田判官代なる義清の通称は誤りであり、根本所領の梁田判官代とされるのが正しい
・足利荘や梁田御厨の周辺に義清の子孫が定着しなかったことから、義清は早い時期から足利荘を離れて多胡郡矢田郷に拠点を移した
- 45 :
- >>32
南朝鮮人の捏造歴史・パクリ文化を盲信する
ウリナラファンタジー信者にソックリだよな
裏を返せばコンプレックスの塊
何も無いから何でも創れる盗れる
- 46 :
- >・滝山寺/足利宗家の氏寺
>藤原季範(額田冠者(三河国額田郡
虚言妄言のオンパレード王者では
三河の徳川家康と三河岡崎じじぃが一番
- 47 :
- >>43
嘘つき三河狸がほとんど無関係な寺社ばかりあげて
42クラスの寺社をあげられない馬鹿だということは分かったよ
脳なしなので話題そらしているが42がきいているのは
42クラスの寺社が三河にあるのか、ということ
で、ないのが事実
無能なコピペを毎日繰り返すニート三河狸。
- 48 :
- >>40
>滝山寺/足利宗家の氏寺 ×
空気を吐くように嘘ばかりつくなよw
滝山寺は三河土着の足利一門の氏寺 ○
足利宗家の氏寺は鑁阿寺や等持寺
岡崎三河に足利宗家は存在しない
滝山寺は足利宗家じゃねーぞw
足利一門の氏寺だろw
- 49 :
- 滝山寺
・正しい家時の没年を記載
鑁阿寺
・家時の位牌の没年を間違える(笑)
何で間違えたかと言うと、法要を鑁阿寺でやっていないからだろ
間違えを指摘する関係者すらいなかったとか笑いRつもりか?w
- 50 :
- そういえば鑁阿寺って国宝なんだな
地元の高校生の喫煙スポットなんだが火事にはなってないな
てか韓国窃盗団に盗まれた仏像とか、日本て国宝のセキュリティが
世界に例のないくらい甘いな
- 51 :
- 滝山寺(愛知県岡崎市滝町山籠107)
・創建:伝・天武天皇時代(673年 - 686年)
・開基:伝・役小角
1220年代〜1330年代まで
【1222年】足利義氏(3代目足利氏当主)、滝山寺本堂(3度目)を建替える
【1226年】大平惟行(高階惟行)、大谷惟伴(坂上惟伴)と連署で、額田郡阿智波郷名越(愛知県岡崎市阿知波)の田地8反を惣持禅院に寄進する
【1229年】大平惟行(高階惟行)、常行堂の造営にあたり娘と一緒に大檀那となり、足利義氏に相談してこの堂へ料田3町8段を寄進する
【1230年代】藤原俊経(藤原俊継の父)持仏堂を造営、古市場御油畠(愛知県豊田市古市場)を寄進する
【1233年】足利義氏(3代目足利氏当主)、舞童装束などの調進のため150貫文を奉加する
【1238年】藤原俊経(藤原俊継の父)、京都東山一切経の谷で死去する
【1240年代】大谷惟伴(坂上惟伴)、持仏堂(延福寺)を造営する
【1244年】】大谷惟伴(坂上惟伴)、死去する
【1254年】増恵(藤原俊継の従兄弟)、本堂屋根瓦替工事の大勧進を勤め、同年、温室を改造する
【1254年】足利義氏(3代目足利氏当主)、死去する
- 52 :
- 【1255年】藤原俊継、故足利義氏の法華堂(宝幢寺)造営し、藤原俊継は田畠3町3段、足利家氏は壁海郡碧海荘の青野の田2町、宇祢部の畠1町2段を寄進する
【1257年】増恵(藤原俊継の従兄弟)、一切経蔵を造営する、足利頼氏(5代目足利氏当主)、一切経蔵の経会料所として、額田郡阿知波郷(愛知県岡崎市阿知波)を寄進する
【1261年】増恵(藤原俊継の従兄弟)、山王社の宝殿を改築する
【1263年】大平惟行(高階惟行)、死去する
【1274年】藤原俊継、鎌倉で死去する
【1283年】増恵(藤原俊継の従兄弟)、鎌倉滞在中に死去する
【1284年】足利貞氏(7代目足利氏当主)、故足利家時(6代目足利氏当主)追善の如法堂を造営する 14世紀
【1301年】足利貞氏(7代目足利氏当主)、家時17回忌、如法堂に額田郡上村の田3反と正観坊跡大門屋敷を寄進する、同時期、熱田大宮司家ゆかりの蓮華寺へ願文を奉納する
【1335年】足利尊氏(8代目足利氏当主)、中先代の乱で足利直義と三河で合流、滝山寺に千寿王と赤橋登子を預ける
【1330年代】輔阿闍梨貞円(高師泰・高師直の弟)、滝山寺に入山
- 53 :
- 徳川家は新田源氏を祖ですと愛知県三河岡崎市
↓
それを知った群馬県太田市がそれでは徳川家の発祥地は太田市新田ですねと告知
↓
それを知った岡崎市が太田市新田は発祥の地ではありませんと怒り新党
今だに出目がフラつく得体知れずの徳川がすごい
足利氏や源氏は得体が知れていてつまらん
- 54 :
- 源頼朝
- 55 :
- 源頼朝はS体質で恐怖政治で失敗
足利尊氏は乱交プレー体質で幻想政治で失敗
徳川家康はM体質で忍耐政治で成功
よって足利尊氏の圧勝
- 56 :
- 足利氏は三河守護になって所領を持ち、一族が三河に移り住んだ
これは間違い
承久の変で京方についた、三河の藤姓熱田大宮司家の所領が幕府に没収され、縁故者の足利氏に給されて、一族が移り住んだ
三河守護になるならないは関係無し
- 57 :
- >>56
正解
三河バカがコピしている尾張熱田大宮司が三河の藤姓熱田大宮司家に
怠慢や諸問題で職を手放し譲渡したかのように捏造拡散しているが大きな間違い
そもそも藤姓熱田大宮司家は神官職についてからは
神宮という職務がら(武家や公家とは違う)本貫を尾張に変更
当然、氏寺も三河バカが捏造寺伝書を拡散する
滝山寺ではなく尾張にある
- 58 :
- >>53
そりゃそうだ。wikiにすら古事記坊主と書かれてるレベルの出自だからなww
チカウジなんて出生地すらわからん人間やからなあ
- 59 :
- ただ、新田庄世良田得川なんて単に自称しただけで円もゆかりもないだろ
- 60 :
- 義国流の三河と下野への関わりはタイムラグは無い
しっかり下野に土着していないから、三河と下野を比べた場合、三河を選ぶわな
鎌倉殿にも繋がる三河の人脈は華やかだからw
・藤原範忠(後白河院北面、大宮司、三河国滝山寺大檀那、室は美福門院女房上総)
・藤原範信(式部丞、上野介、大宮司(星野大宮司)、三河国神谷御厨給司、三河国星野荘荘司、初代星野氏(三河国宝飯郡星野))
・藤原範雅(後白河院上北面、大宮司)→
・藤原範綱(大学助大夫)
・藤原範智 (法眼、園城寺)→三位局(源実朝御所縫殿別当)
・三河祐範(法橋、三河国滝山寺、園城寺、頼朝伊豆配流時代の支援者)
・粟田口長暹(法眼、三河国滝山寺、仁和寺、守覚法親王近習)
・千秋尼(上西門院女房)
・大進局(待賢門院女房)
☆由良御前(上西門院女房か?)→源頼朝(上西門院皇后宮権少進、征夷大将軍)
★女子(養女(実父は藤原範忠)→足利義兼(八条院蔵人、上総介)→足利義氏(足利氏として初めて三河守護)
・女子(源師経室、師経の伯母は待賢門院女房、姉妹は待賢門院官女、上西門院乳母一条
- 61 :
- 義氏が三河守護になって、三河にやってきた時、範頼の息子も坊さんで三河にいたんだよな
吉見氏が、室町幕府の幹部として優遇されたのも、全部三河繋がり
これが中世〜近世、日本を支配した三河ネットワークですわ
吉見氏
■正法寺(愛知県豊川市赤坂町西裏69)
創建年:弘仁7年(816年)
開基:万巻上人
中興:了信坊(源範円)
・源義朝→源範頼(三河守)→源範円(正法寺(愛知県豊川市)僧侶)→源為頼(初代吉見氏、室は小山朝政の娘)
正法寺の創建は聖徳太子が赤坂の地を訪れた際、太子堂を建立したことが始まりと伝えられている
弘仁7年(816)、万巻上人が病により太子堂で亡くなったことから、上人を開基と定め寺院として開山する
当初は天台宗の寺院でしたが貞永元年(1232)に親鸞が太子堂の参拝に訪れた際、当時の住職範円(源範頼の子息)が親鸞に教化され浄土真宗に改宗する
- 62 :
- >>53
徳川家の前身の松平家の発祥地は、三河国の松平。
- 63 :
- >>62
松平という家は三川の糞山奥にあるが、
初代親氏は別に三河出身でないどころか出自も出身地すら得たいしれないから世良田得川を称したんだろ
松平時自体が問題じゃなく、その松平家を婿養子とは名ばかりの乗っ取りした親氏自体が徳川家の祖なんだから、
現実的にいや遺伝的発祥はどっちもかんけいない
- 64 :
- 徳川家康って最初は藤原氏の末裔を名乗っていたんじゃねえ?
ってことはハイブリット家系???
凄いじゃんwwww
- 65 :
- 途中から本姓を変えるなんて当時はよくあることで、
正直別にすごくない。
- 66 :
- 影響力から言えば
当然古いほうが影響力がでかい
- 67 :
- 少なくとも指導者の資質としては尊氏は後の二人より明らかに落ちるな。
「いい人」であることは幕府の指導者としての資質としては必ずしもプラスではない。
やはり、最初に確固とした武家政権を築くのに力のあった頼朝が歴史気的影響としては大だろう。
- 68 :
- 成り上がり度とプラスアルファ
一位 頼朝 (流人しかも譜代の郎党は実は皆無→武士トップ&公卿、
実は存在しない清和源氏嫡流捏造成功
利害関係がドライな主従関係の時代に御恩と奉公確立)
二位 家康 (一応譜代がいる小土豪→武士のトップ&大臣&孫娘が皇室に嫁ぐ&死後に神格化
奇跡の260年の泰平の基礎)
三位 尊氏 (有力御家人&一門多数&譜代多数&頼朝によってageられた源氏の血筋→将軍
大混乱の時代を勝ち残れたことは評価できるが足利時代は混乱の連続)
- 69 :
- >>68
譜代は土豪じゃなく山の名かにすんでた山賊崩れじゃん
土豪とは言わない
結局秀吉一門見れば成り上がりは蜂須賀みたいなリアル荒くれ集団従えて力による統治でしょ
松平も山奥の、譜代とかほざく山賊集団従えて平野に降りてきたでしょ
そもそも山奥の山中住みが土豪とか、・・・
秀吉は川並衆みたいな川賊を従えて物流や職人技で他を圧倒し
松平は生粋の山賊上がりを従えて東海を圧倒した
土豪なんて後ずけの正当化だよ
- 70 :
- >>68
清和源氏嫡流は当時決まっていなかったとはいえ
頼朝の父・祖父は保元の乱に勝利して嫡流の座を武力で奪い取ってきたのだし
頼朝はその嫡子なのだから捏造といえるほどでもないよ
家康の捏造のほうが酷いだろ
そもそも清和源氏の血を引いていないのだから
- 71 :
- >>69
家康の先祖の出身には色々ありそうだけど
家康の頃には先祖の代からの家臣というかお仲間がいたでしょ?
(麗しの主従関係は後付けの話で実際は裏切りでもなんでもありのドロドロしたもんだと思うけど
)
- 72 :
- >>70
義朝敗北、頼朝流刑の時点で勝ち取ったものは全てチャラ。
- 73 :
- ちなみに頼朝挙兵の少し前の時点では
八条院側近で公卿の頼政の立場や地位のほうが上だし
保元平治の頃の各源氏も義朝やその所属勢力の同盟者であって
義朝の支配下にはいない。
- 74 :
- >>68
頼朝の兄弟皆殺し見れば納得するわ
嘘で塗り固めて成り上がった張りぼてが見事に行動と心境に写し出されてるからな
まあ頼朝自体も担ぎ上げられただけのそこらの馬の骨だから暗殺されたわけだ
- 75 :
- 三河の源頼朝がつき、三河の足利尊氏がこね、三河の徳川家康とやらが食った天下餅か?w
家康とやらは、源氏が構築した三河ネットワークに、ただ乗りしただけだな
三河の王以外が、天下を取れた可能性はゼロだわな
- 76 :
- 天皇家だろうが公家だろうが家格の高い武家だろうが
正当な嫡流がスンナリ収まるってことは平安末期〜戦国の中世では寧ろ希
けど家康の場合は捏造して三河と近辺に源氏捏造古文書や寺伝書やら創作して
吾妻鏡やら中世文献を都合よく箇所箇所、編纂させ
近江や相模・武蔵・伊豆から源氏ゆかりの仏像やら武具やらを三河に奪取させて
三河源氏ファンタジーを造った努力の人
だから三河岡崎の縁起・由緒が分かる重要な手がかりである古文書で
国宝級重要文化財級はもとより
愛知県指定の重要文化財級の古文書は一切ないのは当然www
- 77 :
- >>72
チャラになってないよ。
その証拠に、平家打倒を呼びかけた以仁王は諸国源氏に放棄を呼びかけ、
頼朝にも挙兵を命じる令旨を送っている。
チャラになっていたなら、挙兵できるはずもない流人の頼朝にそんなの送らないよね。
武家源氏の嫡流として平家さえ弱ればいつでも挙兵できると思っているからそんなものを送るわけで。
平家と不和をきたした後白河法皇自体、頼朝の流刑を解いて平家追討の院宣を与えている。
勿論、頼朝がすべてチャラになった庶民以下の罪人ならこんな院宣与えない。
- 78 :
- >>77
まず令旨は頼朝にだけ出されたものではない。
近江、美濃、尾張、甲斐、義仲などの諸源氏(ちなみに義仲な倶利伽羅峠まで都では無名な存在)、八条院支配下にある藤原系武士(小山氏)などにも出されている。
頼朝はその中の一人に過ぎない。(伊豆知行主頼政に近い伊豆国人からの推挙か)
数打ちゃ当たるの中のどさくさで出されたうちの一人で、差ほど期待されていたかも不明。
ちなみ後白河院が令旨と同時に赦免したとか院宣出したというのは後の結果を知ってるフィクション「平家物語」だけの内容。
頼朝が赦免されたのは挙兵から三年後の1183年に出された「十月宣旨」の時でそれまでは都では罪人扱い。
- 79 :
- 75
足利の植民地がなんかいってんの?
三河幻想っていつからかね〜
- 80 :
- その藤原ってのがいつから定着したかが謎なんだよな〜
- 81 :
- 源頼朝と三河の藤姓熱田大宮司家の親戚として三河に拠点を設けましたが?
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→由良御前→源頼朝
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→娘→足利義兼→足利義氏(足利氏として初めて三河守護)
・藤原範忠(後白河院北面、大宮司、三河国滝山寺大檀那、室は美福門院女房上総)
・藤原範信(式部丞、上野介、大宮司(星野大宮司)、三河国神谷御厨給司、三河国星野荘荘司、初代星野氏(三河国宝飯郡星野))
・藤原範雅(後白河院上北面、大宮司)→
・藤原範綱(大学助大夫)
・藤原範智 (法眼、園城寺)→三位局(源実朝御所縫殿別当)
・三河祐範(法橋、三河国滝山寺、園城寺、頼朝伊豆配流時代の支援者)
・粟田口長暹(法眼、三河国滝山寺、仁和寺、守覚法親王近習)
・千秋尼(上西門院女房)
・大進局(待賢門院女房)
☆由良御前(上西門院女房か?)→源頼朝(上西門院皇后宮権少進、征夷大将軍)
★女子(養女(実父は藤原範忠)→足利義兼(八条院蔵人、上総介)→足利義氏(足利氏として初めて三河守護)
・女子(源師経室、師経の伯母は待賢門院女房、姉妹は待賢門院官女、上西門院乳母一条
- 82 :
- 何回言っても理解できないクルクルパーだなw
足利氏は三河守護になって所領を持ち、一族が三河に移り住んだ
これは間違い
承久の変で京方についた、三河の藤姓熱田大宮司家の所領が幕府に没収され、その所領が縁故者である足利氏に給されて、一族が移り住んだ
- 83 :
- >>78
だから、完全チャラになっていたならそもそも頼朝に令旨が届かないでしょ
絶対に挙兵できない相手になんで手間もお金もかかるのに
使者使ってそんなもん送るんだよ
送った以上は挙兵を期待していたはずなのに
それに源氏の多くは平治の乱で敗れて流人や乳母に隠されて養育されていた
そんな状態からでも挙兵できたのは
やはり清和源氏が平家に並ぶ武の血筋だったからに他ならない
- 84 :
- >>83
憶測激しいわ
仮に源氏の血筋が根拠と言うなら、その血筋を流用して使用したのが後の頼朝だろうな
だから兄弟に情どころかいつタマとられるか気が気でなく、暴挙に出たあげく自分も消されたんだろう
- 85 :
- >>83
頼朝挙兵成功の理由の要因は東国武士同士の対立に上手く乗ったことなんだよな。
東国武士の平家方豪族に圧迫されていた非平家方豪族をやっつけたい、
その為には反平家の旗頭が欲しい。そこにたまたま頼朝がいただけ。
反平家方豪族は旗頭はそれなりの血筋があって前歴でもいいから官位をもっていて都に人脈があれば
別に源氏でなくても誰でも良かった。
たまたま坂東で令旨をもらっためぼしいのが頼朝しかいなかったのと
頼朝と坂東武士がうまく時流にのっただけ。
ちなみに伊豆の豪族は当初頼政の孫の有綱をかつごうとしたけど
有綱が坂東から逃亡したからピンチヒッターで頼朝を担いだという説がある。
お金と手間に関しては挙兵のスポンサー八条院は大富豪だから問題なし。
味方は多いほどいいからね。
- 86 :
- ついでに書くと最終的に勝利したのが頼朝と坂東武士団だから彼らが
反平家の中心勢力だと思われるけど
決してそうだとは言い切れない。
近江や美濃、寺社勢力のほうがむしろ期待されていたと思われる。
事実富士川直後に彼らは挙兵し平家の当初の交戦相手は畿内の勢力だった。
- 87 :
- >>83
逆に考えようか。
全盛を誇る平氏と戦うということは
当時の人から見れば狂気の沙汰でしかない。
地位や財産のある人は失いたくないものがあるから挙兵しない。
少なくとも先陣は切れない。
しかし失うものが何もない流人は
自棄を起こせばなんでもできる。
しかも伊豆は頼政の支配下にある。
脅しつけてでも頼朝を挙兵させることができる。
そしてそれを導火線にして反乱の火の手を拡大させる。
成功すれば御の字で成功の果実は頼政が頂く。
失敗したら流人の反乱で処理して口を拭う。
頼朝は導火線の着火点位位の役割で
令旨を出されたじゃないのかな?
- 88 :
- >>84
>>85
頼朝が源氏の血筋を引いて無くても令旨が届いたのかい?
それをまず考えてみるといいよ
- 89 :
- >>88
源氏の血をひいてない小山氏(藤原氏)も令旨をもらってますが。
- 90 :
- 面積最大の八条院領、三河国加茂郡高橋荘・高橋新荘
・立券:藤原季兼(三河四郎大夫)か?
・寄進:藤原季範(額田冠者)か?
・荘司(治承年代):足助重長、長田忠致
藤原季兼(三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子→源頼朝
- 91 :
- 中央集権に近い政権別
江戸幕府>>>>>>>>鎌倉幕府>>>>>>>>室町幕府
政権樹立後安定させた機関
江戸>>>>>>>>>>鎌倉>>>>>>>>>>>>>>>室町
長きにわたる平和が
各藩の士族の世襲による増加により財政疲弊をおこして
廃藩置県の時に、スムーズに中央集権化がなされたところを
評価するならば 家康が最強
豊臣政権があのまま続いてたら、欧米勢力に植民地化されていたであろう
- 92 :
- >>87
以仁王の挙兵から探ろうぜ
>>90
徳川の創作物語を平成の世にしつこく語り継ぐお前は悲惨
痴呆板愛知県岡崎スレにRw
- 93 :
- >>89
小山氏は藤原秀郷流の武門の家だろ
もともと兵を揃えた家だよ
頼朝は平治の乱で全くゼロの状態になったというのだから
つまり、百姓以下
百姓もしくはそれ以下に令旨を与えた例を挙げろ
- 94 :
- >>93
チャラになった=百姓以下とは極端な解釈。
チャラというのは
・義朝以前から積み上げた都の武者としての地位
(といっても武家源氏のトップに立つ棟梁を意味しない)
・義朝が入り込んだ人脈
・それらを背景に従えた利害関係むき出しの東国武士との主従関係
がチャラになったという意味だよ。
- 95 :
- >>97
以仁王の挙兵自体が、計画の最中に情報漏れて
バタバタした想定外の出来事だけどね。
- 96 :
- >>91
といっても江戸幕府も直轄地以外は各藩が自分たちのやり方で政治していた連邦政府に近いモンだったんじゃない?
鎌倉期は武士は土地を支配する権利だけもってただけ。しかも御家人じゃない武士も多数いたし
朝廷も武士も手出しできない寺社という厄介な存在もいたよね。
室町が一番グダグタという点には異論はない。
- 97 :
- >>94
史実で挙兵後、あれだけ多くの家来が従ったってだけで、
「チャラになってない」ってことがわかりそうなもんだが・・・
頼朝は決して唯一の「清和源氏嫡流」でなく、鎌倉幕府を開いたからこそ嫡流になった、
っていう程度なら、それは正しいけど、
「チャラになった」ってのはどう考えても言いすぎ。
- 98 :
- >>97
言いたいことはわかったけど
あなたの書き込みは頼朝の下に東国武士が従った理由を
頼朝の血筋のみに求めようとする見方のようにも読み取れたんだよね。
頼朝の先祖と東国武士との間には累代の主従関係があったという見方は最近は否定傾向。
源氏と東国武士との間に利害関係があるうちは主従であるけど
利害関係がなくなると主従関係は抹消される。
都での地位を失い、無力となった1160年時点の頼朝と東国武士との主従関係は完全に消滅(=チャラ)
ただし、東国武士同士の対立が深まり1179年の治承三年の政変で東国での知行国主の交代で
緊張が高まったらかつて都の武者だった頼朝の利用価値が急激に高まった。
この事態は1160年時点では誰も予想できなかった事。
つまり、血筋+時代状況+頼朝の人脈と過去の履歴+頼朝の能力
で頼朝の成功をみるべきで頼朝の血筋のみに成功の要因を見いだすべきではないと言いたい。
(血筋のみに求めようとしていると読み取ったのが誤解ならばお詫びします)
- 99 :
- なによりでかいのが鎌倉氏(平氏)の娘を嫁にしたことだろ
じゃねえと平氏筋が従う理由がないからな、あとは将門あたりの
失敗が大きいかも
同族で纏まる機会をこいつが潰してるもん|( ̄3 ̄)|
- 100 :
- あ〜頼朝じゃなくて義家かな?
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