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【名門】庄屋・名主・本陣・郷士【富裕】Part4.1


1 :2016/11/02 〜 最終レス :2017/02/07
金もあり名誉もあり、はたまた苗字帯刀など特権もある。
外見は二本差しに雪駄を履き絹服を着、屋敷は塀はあり門あり
玄関、書院造。傍から見ればどこの殿様か上士か?
 しかし、身分は徒歩より下・・・が、家の歴史、プライドは
下手な侍には負けない。
 語りましょう。

Part1
http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/history/1316232863/

Part2
http://yomogi.2ch.sc/test/read.cgi/history/1324170412/

Part3
http://yomogi.2ch.sc/test/read.cgi/history/1412873391/

Part4
http://yomogi.2ch.sc/test/read.cgi/history/1447174704/

2 :
享和元年(1801)の御触書
領主によって苗字帯刀を許された庶民は
(1)郷士のように由緒あって以前から許されていたもの
(2)奇特な行為によって褒賞として新たに許されたもの
(3)町年寄・庄屋・名主・御用商人・本陣などの役柄によるもの

武士への憧れ

ttp://repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/26217/1/cdats-hub7-6.pdf

郷士の士族編入について

ttp://www.geocities.jp/mimuro0321/syakaiseido.html

浪人扱いの郷士は概ね卒→平民の過程をたどった模様です

3 :
ク士制度の構造と機能
http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10069/27174/1/keieikeizai23_01_05.pdf

苗字帯刀
1059398495
苗字帯刀Part2
1143035977
苗字帯刀Part3
1206605722
苗字帯刀Part4
1220137047

等あるので各自ググるように

4 :
ttp://www.surugadai.ac.jp/gakubu_in/hogaku/news/2016/1-6.html

 >>明治の廃刀令まで、百姓は江戸時代でも脇差しは指していました。
これが当時の1人前の成人男子の指標だったからです。
脇差しに加えて、太刀を指すことを帯刀と言って、
帯刀が武士だけになるのは、戦国時代が終わってから100年後の
17世紀後半のことになります。それまでは百姓も大小2本の刀を指し、
ドラマでも出てきたように、弓・鑓などで武装していました。

5 :
郷士について
 天領・幕領は基本的に郷士という身分は存在しません。・・・が郷士と
呼ばれる人々は存在しています。浪人身分を許された人々です(武田浪人・
壬生郷士等)

 ttp://base3.nijl.ac.jp/infolib/meta_pub/SKYSearch.cgi?DEF_
  XSL=detail&SUM_KIND=MetaSummary&SUM_NUMBER=20&META_KIND=
  NOFRAME&IS_KIND=MetaMeta&IS_SCH=META&IS_STYLE=default&IS
  _TYPE=meta&DB_ID=G0000004SKY&GRP_ID=G0000004&IS_EXTSCH=&
  IS_NUMBER=1&IS_START=1&IS_TAG_S1=InfoD&IS_KEY_S1=ac19600
  19&IS_CND_S1=ALL

 浪人身分(郷士)から士族編入したケース

6 :
また、先祖が武士であった庄屋らが「郷士」と私称するケースが天領等に多々あったようです。

7 :
ttp://kakeizunotobira.denshishosekidaio.com/2016/04/17/post-201/

維新後の郷士の族籍は地域による

8 :
秩父では有力名主が忍藩の命令を農家に伝え、農家からの要望や集めた年貢を忍藩に取り次いだが、彼らはもと北条家旧臣であった

9 :
天領の苗字帯刀が稀という話もあるけど幕末に献金で代官所が結構許可だしてるよ

10 :
『京都壬生八木家の歴史 1』(八木 喜久男/著 角川書店(発売) 2006)

壬生郷士の自称郷士から郷士(浪人)身分獲得を詳しく書いてある。

11 :
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E9%83%B7%E5%A3%AB

12 :
戦国時代 庄屋は自警団みたいな自衛戦力持ってたの?
自分の国が攻められたら総乱取りされる危険があるでしょ?

13 :
家康17,000 vs 秀吉100,000
家康は秀吉軍を『上方の弱い軍勢』であると見下していた。
(「NHK英雄たちの選択/小牧長久手の戦い」磯田道史・岡山県出身の歴史学者)

番組前半と後半で2回言ってたね…磯田先生…

14 :
浅田家文書
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E7%94%B0%E5%AE%B6%E6%96%87%E6%9B%B8

淺田家系図によると、「本国」は摂州浅田(大阪府豊中市蛍池、江戸期は麻田村)で、
板倉周防守家中の浅田孫助の弟・小三郎(上狛村庄屋・九郎右衛門?)が天正年間に山城国上狛に来たという。
天正10年(1582年)に豊臣秀吉による指出徴収がはじまる。
この年の九月に興福寺が秀吉に差し出した二冊の年貢帳があるが、
それは当地である「狛野荘」の差配人二人が提出したものである。
上狛村の「検地」は関白秀吉の時代、長束正家によって天正17年(1589年)に 本格的に施行されるが、
これにより「荘園制」が解体され、上狛村という村域が確定されることになる。
そしてこの検地により新参者の淺田家は上狛村の庄屋に任命されるのである。
当地は「山城国一揆」が発生した地域であり、その主謀者であった「狛氏」一族の本拠であったから、
そこに楔を打ち込もうという秀吉方の思惑の使命を受けたものと推察されている。
のち徳川家康の天下となり、当地は藤堂高虎の津藩の支配下となる。
この辺り一帯の大庄屋として君臨するようになるまでには、さまざまのことが生起するが、
それらを乗り越えて淺田一門が伸びてゆくことになる。
16世紀末から17世紀にかけての当地における浅田家の位置づけは、
天正年間に上狛村に来住した淺田九郎右衛門は豊臣政権の後ろ盾もあって、
新参者ながら御牧勘兵衛代官所時代に庄屋となったが、持ち高も名寄帳の第五位である。
当地は狛氏支配の頃から在所を囲む「環濠」のある集落であった。この囲いの中を「垣内」と称する。

17世紀後半に浅田家は持ち高を急速に伸ばし、他の百姓から突出してゆく。
そのような経済的な発展をもたらしたのは、浅田家の江戸進出による富の蓄積と、それを元にした土地の取得にあった。
この経済的発展により、旧来の在地の年寄衆である松井家を追い落とし、
外の庄屋の追随を許さない大庄屋として、更に地位を向上させていくことになる。

15 :
上にもあったけど天領や大きな藩は兵農分離をゆっくり行ったようで、帯刀人改等の
資料は17世紀後半まである。なので士であった庄屋ら郷士を自称し、また富の蓄積に
伴い身分さえ手に入れるようになるのは近い歴史の連続性があるように思う。
 農に身分を落とされても気持ち的には士なんだろうな。

16 :
大塩平八郎の乱には大阪近隣の富農の類が大塩の門人として多く参加したけど、
けっこう郷士っぽい経歴の家が多い。
与力の家と養子や婚姻でつながっていたりして、乱への参加が士分取り立ての
チャンスと見た門人もいるくらいだ。

17 :
剣客 白井亨
ttps://www.jstage.jst.go.jp/article/budo/44/1/44_25/_article/references/-char/ja/

『兵法遣方』では祖父彦兵衛が出た中野の白井家の家格を「郷士」としているが,
当時の公式文書には白井姓を見ることができないことから,白井家が正式な郷士身分
であったとはやや考えにくい。しかし,白井家は中野でも草分け的な古い家で,
中野の名主や郡中代を代々勤め,天領であったこの土地の支配の末端を担う家柄であった。
近世においてはこのような地域の有力者が,正式な身分ではないものの,
自らを郷士と自称することもあったことから,白井家が郷士を自称していたことは十分に考えられる。

18 :
壬生郷士の子孫の方は士族になったのだろうか?

19 :
ttp://www.md.ccnw.ne.jp/rekishi_tajimi/%E9%A7%BF%E6%B2%B3%E3%81%AE
%E5%B1%B1%E5%A5%A5%E3%80%80%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3%E
5%88%9D%E6%9C%9F%E3%80%80%E5%91%A8%E6%99%BA%E9%83%A1%E9%A0%98%E5%
AE%B6%E6%9D%91%E3%81%AE%E6%9D%91%E8%90%BD%E6%A7%8B%E9%80%A0.html

徐々に兵農分離を進めていった過程

20 :
江戸時代の庄屋は元は西軍の武将が関ヶ原の敗戦で帰農したそこそこの武将達

21 :
そんなことは分かっている

22 :
つまり先を読む能力に欠けるご先祖

23 :
うーむ。うちの先祖は主家の移封に付いていかず新田開発庄屋になったけど
主家取り潰しになったから先見の明があった。

24 :
あーでも付いていった家も石高の割に多くないんで余程問題のある殿様で
取り潰しも近いと思っていたのかも。

25 :
東北の方の庄屋も帰農侍なの?戦自体少なく占領もされていないし伊達や相馬見たく
武士が多いイメージ。

26 :
城持ちから没落して庄屋に成り下がり人生ってどんな気持ちなんだろうな

27 :
現代でいえば自分で経営した会社が潰れたってことだろ。良くあることだ

28 :
ttp://www.ninohenosato.com/%EF%BC%93-%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E8%8D%98%E5%8F%B8/

坂上田村麻呂の四代裔(『地下家伝』だと七代裔) の坂上頼次の山本荘司家の家系なんかもいい例だね
坂上季長、坂上季猛(卜部季武)、坂上頼継と清和源氏の御家人で鎌倉将軍、室町将軍とも関係が深いけど

戦国時代に秀吉の旗本だった坂上頼泰を最後に庄屋、郷士になってるな
坂上党棟梁の家は庄屋に落ちても、坂上党で従えてた田村氏は戦国時代後も大名を保ててる

29 :
>>25
東北の戦は結構あるよ。知られていないだけ。
鉄砲の伝来数は少ないのだろうが、城構えを見ると鉄砲への対策も時代と共に行っているから
確実にあったはず。

>>26
先祖が武士の庄屋は多いぞ。ただの農民になるよりマシ。

先祖が蝦夷の大名もいたし、抗争は結構あるんだよなあ。

30 :
ここかいのう。

31 :
よく天領庄屋の格式の高さ・・・という文章がありますが天領庄屋だと
実態として格式の高さを表す部分ってどういう場面になるのでしょうか?
藩領の庄屋と並ぶとき上座になったり、もしくは家の造りに違いなど現れるの
でしょうか?

32 :
>>26
庄屋になるだけマシ。

むしろ今の時代の方が、横の繋がりが希薄になり、没落しても浮かび上がれない。

33 :
>>29大東亜戦争時の軍部の上層部が奥羽列藩の士族が多くて戦知らずのって
イメージかな

34 :
伊達の片メクラって、やってることは姑息そのものだよな。
ペテンで身代を増やし、幕末はきれいにドン五里。

なんでそんな仙台が東北の中心なんだろう。

ああ、他が論外すぎただけか。久保田とか、会津とか。

35 :
常に薩長に勝ちまくった庄内藩はどうなるんだよw

久保田は薩長の指導を受けて戊辰戦争に突入したらエライ被害を受けた。
そこまで言うなら戦を知っている軍人をよこせw>薩長

で、なんでこの話題になるんだ?

36 :
庄内藩は東北に住んでるだけで中身は三河武士だろ

37 :
>>34
ご謙遜を。仙台藩は、それなりにゃ強かった方じゃろう。
http://www.hodaka-kenich.com/history/2014/05/01133931.php
戊辰戦争で、仙台藩が最大の犠牲者を出したのは、ここよりもひとつ前、浜通りの戦い『駒ヶ岳の
戦い』である。熾烈な激戦となり、仙台藩は数百人の死者を出している。のみならず、官軍側も、
多くの犠牲者を出している。
 広島側の資料を見ると、戦場が「駒ヶ岳山麓」の水田地帯だった。すさまじい仙台の猛攻に
対して遮蔽になるものがない。敵から丸見えの広い田園地帯で行われた。仙台藩が総力をかけた、
猛烈なる防戦で、一兵も進めない状態に陥っている。
 芸州・神機隊が「ここは駒ヶ岳の関門に向って、正面突破を図ろう」と提案した。すると、
「長州藩の隊長はこれには周章(うろたえ)てしまった」と記す。
下関で四か国と戦い、第二次征長でも練磨の、戦い巧者の長州がおびえるほど、仙台藩は強かったのだ。仙台藩は大小砲を激発し「筑前藩も猶予して進まず」。
「この激戦は環視(みているだけ)では解決できず。敵の飛弾を犯し、切り込まざるは利なし。抜刀し突撃するべきだ」
 神機隊はそう主張するが、長州藩、筑前藩の両隊長はついに動かなかった。
『先鋒の神機隊は突貫、突撃した』
 初めのうちは長州・筑前は無謀だと笑っていた。それが驚きになり、やがて賞賛に変わったのだ。
『われらは駒ヶ岳の砲台に登り詰めた。そして、縦横に敵兵を斬殺していく。乱殺に遭った敵は、
兵器や屍を放棄して、仙台藩はことごとく敗走していく』
 …一方で、なんでも薩長で、この戦いに参戦していない薩摩が名を連ねる。文化財専門委員すら、
こうである。取材で現地を歩いてみると、こうした歴史のねつ造が発見できる。

38 :
>>34
702 :白馬青牛 ◆sKm0uQPecU :2013/11/28(木) 01:57:38.57
 実際、相馬方面でも広島の神機隊は最強じゃったよ。緒戦からして、7月23日〜26日に至る、
広野の激戦で神機隊は、 44名の死傷者 (死者十数名)が出とる。8月20日、士官以下軍夫計
193名の派遣となった訳じゃ。緒戦に犠牲が多いんは、戦場の常であるが、 広島神機隊は、
「7月24日、賊の砲台を突貫し、抜刀攻撃で縦横に斬殺し、我兵遂に先登、広野駅を占領。
ただし神機隊の進撃が激しすぎるため、総督府より、「進撃すべからず」の命が伝えられる。
25日朝、 敵兵は広野北西本通から、戦いを挑んで来たが、そのつど撃退。前線の芸州・因州
あわせて六百数十名に対し、同盟軍は十数倍に近く、入れ替わり新手の兵を繰り出し猛烈な反撃を
開始した。26日、因州兵が後退したため、神機隊は孤軍奮闘となった。しかし新たに戦線に
投入された長州、岩国の兵約400名が海上より広野海岸に到着。海岸寄りに対峙した敵に
攻撃をはじめた。その機を失せず、神機隊は左翼に対峙していた米沢藩の部隊に突撃し、敵砲台を
奪取した。奥羽同盟軍は広野を完全に放棄し退いた。」
広島神機隊「駒ヶ峰の激戦」じゃが、寡兵の神機隊が、他の官軍諸藩兵がその無暴を嗤笑する中、
「剣を抜き吶喊して突撃を為し、躍りて駒ヶ峰関門前なる敵の砲台に登り、縦横斬殺し、賊兵は
死屍を捨て 遁走せり。」 四日後は駒ヶ峰奪回をはかる奥羽同盟軍が大挙襲来し、
「賊兵頗る猛烈なりしが、我も亦寡兵を以て奮戦し、遂に旗巻嶺下に撃退し、」
「本通の筑前長州両兵苦戦するを以て応援の命阿り、我兵直に進て奮戦し本通の砲台を奪う。」等
激闘した。
四条総督より特に「芸州(広島)藩は毎戦能く奮戦艱苦して賊軍を挫く。 其の軍事上の好機を
致す、深く大慶に存する所」との沙汰を賜った。

39 :
>>34
続き。
 他の官軍諸藩兵がその無暴を嗤笑する中、 「剣を抜き吶喊して突撃を為し、躍りて駒ヶ峰関門
前なる敵の砲台に登り、縦横斬殺し、賊兵は 死屍を捨て 遁走せり。」 四日後は駒ヶ峰奪回を
はかる奥羽同盟軍が大挙襲来し、
「賊兵頗る猛烈なりしが、我も亦寡兵を以て奮戦し、遂に旗巻嶺下に撃退し、」 と、
無暴な白兵攻撃が得意なんが広島人じゃし、武士たぁ青年団、若者組の喧嘩で日本刀や
他の武器にも扱いに喧嘩実戦で慣れとる広島人からしたら、他藩他地域の武士や兵が
弱過ぎるけぇのう。
日本最強の広島相手じゃけぇ、仙台も不運じゃった。また近代郷土兵団でも、仙台師団は、
日本最強の広島師団に何度も救われとるけぇ縁は深いよ。

40 :
>>34
 最強の安芸神機隊将兵は、庄屋層や庶民出身も多かった。
平賀系木原一族の神機隊を造った木原秀三郎氏も、維新中央政府出世欲が無う猟官せなんだ。
http://city-higashihiroshima.blogspot.jp/2011/06/blog-post.html
「旧賀茂郡檜山村(現東広島市高屋町)庄屋出身。文久2年(1862)勝海舟の塾に海軍術を学ぶ
ため在塾していたが、請われて広島藩に登用されました。
慶応2年(1866)9月、広島藩の常備軍の状況に危機を感じ、国政の変革と国防を目的として、
藩内の士庶の有志隊を意図した建白書を義弟河合三十郎とともに提出しました。翌年9月に
許されて志和七条椛坂西蓮寺を本陣とする「芸州回天軍第一起神機隊」が結成された。
廃藩後は家財を投じて地方福祉と民権運動に尽くし。明治17年広島英学校を設立し
広島英学校女子部を設立しました。明治20年私塾広島女学会と合併し、私立広島英和女学校と
改称し現在の広島女学院となります。」
平賀系木原氏の系統は、
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/a_hiraga.html
 平賀氏の家紋
「戦国時代、平賀氏の城下町であった東広島市白市地区には、江戸時代、製塩、酒造業を営み
商家として栄えた 平賀氏一族の木原氏が続いている。木原氏は平賀弘保の弟美濃守保成を祖とし」
の系統で、白市、高屋、忠海、安浦の沿岸部に広島城下に分家が移住しとるよ。
平賀姓の分家も同様賀茂郡一体に広がり広島城下にも拡散しとったけど。

41 :
>>34
こっちの史料にも平賀氏のことが出とるよ。
http://www.tt.rim.or.jp/~kuwano/senju/page002.html
 「嘉吉二年(1442)
三月十一日 室町幕府、平賀頼宗の筑前国嘉麻郡千手城における協力を賞す。平賀頼宗が
大内教弘の軍に属して千手城の攻防戦に参加。(「嘉穂地方史古代中世編」)三月十四日 
室町幕府、平賀頼宗被官人の筑前国嘉麻郡馬見における軍忠を賞す。少弐勢と馬見に戦った折、
その被官が疵を受けたので、大内教弘が幕府に注進し、幕府はこれを賞した。
(「嘉穂地方史古代中世編」)」
 まあ、九州は平賀勢にゃガチンコ合戦じゃ手も足も出んよ。
四国の河野氏も、毛利の河野氏が攻められた時の援軍の平賀勢の活躍を 御高名 誠に比類無きと
感謝しとるし。
平賀氏は、本家が萩に移住しても分家、親族、家臣のほとんどは、広島県へ残ったけぇのう。
 http://plaza.rakuten.co.jp/sengokulily/diary/201304070000/
 「すらっと通り過ぎようとして、脇の碑文に目が止まった。
平賀さんの名前がいっぱいある・・・やっぱり、平賀氏の子孫とか一族の方かな。」
と、名井氏自体、平賀家の親族で家老じゃし、名井氏自体は、平賀姓を近代以降名乗っとるんよ。
もう一つの家老の木原氏は、現代でも木原姓じゃけど、江戸期の忠海の学者の平賀晋民先生は、
木原家で昔の平賀一族の姓に戻したけど。木原氏は白市から分かれた多数の子孫が多いいし。
http://matinami.o.oo7.jp/tyugoku2/higasihirosima-takayasiroiti.htm
 「白市村絵図(木原家蔵)によると、瓦葺きの大規模な家は全て南北の主要路に面し、
木原屋・上の屋・新屋・沼田屋・古屋(胡屋)・松屋・大文字屋など9軒の屋号が書かれている。
これらの商人は木原氏(木原屋・大文字屋・沼田屋)や今井氏(胡屋)など、平賀氏旧家臣が多い。」
名井氏は、広島城下の有力商人の名賀屋として有名じゃ。
http://masuda901.web.fc2.com/page5cqx26.html
「名賀屋邸に、」とあるように。

42 :
荒らしに来たのう。

43 :
【怠惰】敗北の広島史【弱兵】
http://mint.2ch.sc/test/read.cgi/history/1326207758/70
「我広島県は・・・・・・不幸にも貧民甚だ多数にして現在調査によれば、・・・・・・我広島県一県の貧民は
九州一円の貧民総数よりも尚三百人の増を示し居り、全国中和歌山県を除けば未だ広島県の如く
多数の貧民を見ざる由」
(『中国』明治三八・一〇・一五)

44 :
>>36
どれだけ遡ぼさせるんだよw

45 :
>>44いやいや家風というのは受け継がれるもんだろ。

46 :
>>41
うちの一族も一名が旗本になった(結局は2,3家になった)。
地方の土豪ぐらいだと一名出仕するぐらいが普通じゃないかね。

残りは庄屋。武士だと分家出しても2,3家程度だけど
庄屋だと江戸期260年で数十軒レベル分家だせるし・・・

47 :
>>1組頭、年寄も入れてちょ。

48 :
庄屋ってどんな仕事してたん?
小作の管理と年貢の取り立てだけ?
酒蔵や金貸しとかも兼業してたん?

49 :
>>45
江戸初期から、江戸末期までだろw
都合よ過ぎるw

50 :
関係ないが、宇和島伊達家とか中身は仙台の伊達家の武士だから
言葉が伊予の領民と違うって話があったな
こういう話は結構ありそう

51 :
ttp://www.geocities.jp/onriedo_gongujodo/nakamurakejutaku.html

徳川家康にも付いて行かないのもいるんだなwww

52 :
>>43
 移民県でもある広島県は山がちな土地柄で平地耕作地が少なぁけんのう。確かに九州なんか
土地が広いし、恵まれて将兵も特に正面激突に弱うて、堕落したもんが多いいんは土地柄から
解るよ(笑)。
広島県は土地が狭いけぇ、隙の無ぁ警戒心が強い反面、度量も狭い欠点も持っとるが、
広島県育ちの将兵は敵さんにも隙を見せんし、強いよのう。
ほいで、われが書いた幕末の文献出典提示せえ云うても出来んで、広島に対する嫉妬心をわしが
登場せん負け犬の集いスレで書きよるわけじゃのう。
ほう云やあ、>>38の広野の戦いで、九州の黒田筑前藩は、相馬藩に負けて砲を奪われたのう。
 764 :白馬青牛:2007/07/12(木) 01:09:52 ID:Im8BqyPD
反仙台厨じゃのう。東北最弱が関東を含めた東日本最弱になるんか? 東北や北陸と関東なら、
東北・北陸の方が強かろう。 仙台第二師団自体に戦功は少ないが、越後の新発田や福島の白虎部隊に
劣った根拠もない。幕末の相馬地方の戦闘で、ドン五里にやられ、 砲弾を奪われた筑前や伊予は、
それ以上に弱いことになる。 仙台も他の東北兵、相馬藩等にに較べ弱かった訳でもないよ。
相馬藩が政府軍に降伏し、奥羽軍に銃を向けたんは、奥羽軍から視たら
裏切りになるが、占領されたら、しょうがないことよ。
親分格の仙台兵も占領されるまで健闘したんじゃし、九州兵や四国兵に打撃を与えとる。よいよ、
ドン五里仙台に負けた九州や四国が笑いもんになるじゃないか。戦闘は命のやりとりで、
始まったら、士気の高低も あったもんじゃないど。本能的なもんで、やるか、やられるかじゃ。
福岡藩は、奥羽同盟軍に負け、 砲を奪われ、広島藩の神機隊が奥羽同盟軍を白兵斬り込み攻撃で
砲台を奪い返した。
福岡藩云うたら、相馬藩の砲台奪取の状況を聞くための名目で、相馬藩の武士を連行して処刑する
行為は武士道にあるまじき行為よのう。

53 :
>>43
 元来山陽道播磨の黒田勢も九州移住子孫らに成ると弱うて残忍に成るのう。
毛利、黒田の山陽勢が九州征伐した頃は薩摩鹿児島勢も手も足も出んかったよ。
せいぜい、薩摩の鹿児島勢は、四国の長宗我部や畿内勢の豊臣秀長らの軍勢相手で勝てるレベルの
分際じゃし、近代郷土兵団でも、ビルマ派遣軍で最初はエース格の久留米菊兵団18Dも、実際の
戦闘の強さから山陽道の姫路54Dにエースの座は奪われる始末じゃし、九州勢が見栄っ張り戦闘で
アピールしても、大して強う無かった事実は変らんわけじゃに、われも憐れなのう(笑)。

54 :
\/\/\/\/\/\/\/\/\/\/\/\/\/\/

こ こ か ら 超 濃 厚 な ホ モ ス レ に な り ま す。

           ご 期 待 く だ さ い ! !

/\/\/\/\/\/\/\/\/\/\/\/\/\/\

55 :
>>43
まあ、正面激突に弱わぁ、薩摩の釣り野伏せり戦法のようなオカマ戦法しか採れん九州勢と
違い、広島が典型じゃが中国地方、山陽道の兵はガチンコ正面激突に強い基本的強さがあるけぇのう。
広島県の安芸の芸南と備後の壮丁の福山連隊も、無謀な正面激突で激戦で勝利したし。
越智春海元陸軍大尉、は福山連隊について、
「シンゴラで、タイ軍連隊夫人の尻を射って、程度を下げていたので、ここでは闘牛のように
暴れ回った。敵前で橋を渡るなどということは、常識はずれだ。せっかく連隊主力が上流で渡河
したのだから、そのコースを利用するのが常道である。が、本道上に待機していた一部隊は、
本隊が対岸で戦闘を始めると、やにわに橋を突っ走って行ったのである。どういう考えだったのか、
それは判らない。 「たいしたこたァ、にゃァ(ない)」と、思ったのだろう。
 しかし、この無謀な突撃で、橋梁付近が一大乱戦場になったのは事実だ。
大戦果には必ず、こういう常識はずれの行動が付随していることが多い。捨て身になって奮戦して
いたグルカ兵が、この緒戦に敗れてからは、日本軍の姿さえ見れば、逃散するか、両手を頭上に
上げてゴム林から出て来たのは、この最初の一撃がいかに痛烈であったかの証明であろう。」
 これが、広島人の戦闘のやり方よ。

56 :
          γ⌒)
           |.|"´    1年後にゃあ広島師団最強説に傾いとるじゃろうのう
           |.|  彡 ⌒ ミ____¶___      楽しみじゃわい
           |.| /(´Д`*)   ¶//|  /|
           U_⊆__⊆_ )_   / ̄|///
          /┌────┐|. /'`) //
       /( / ≡≡≡ .//(__///
       |  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ |/


        ミ⌒彡
        (`Д´) 九州最強のままじゃった
     ≡  ( っ∩っ∩
   ≡  (ニ二二二ニ)

57 :
>>43
 広島師団の正面激突を日露戦から。
奉天会戦で広島五師団は(大阪第四、弘前第八、後に名古屋第三も加わる) と共に第二軍に
属した。第ニ軍は最も激戦したが、中でも広島五師団は 甚だしく敵と接近し常に敵から右側背を
機関砲で掃射される為激闘と なった。
 感状       第五師団
「奉天付近ノ会戦ニ於テ連日連夜最モ猛烈果敢ナル攻撃ヲ続行シ殊ニ沙坨子附近ニ於テハ既ニ
多大ノ損害アルニモ不係強固ナル決心ニ基キ奮テ難局ニ当リ優勢ナル敵ヲ其正面ニ牽制シ
其運動ヲ阻止シ軍ノ目的ヲ達成セシメルハ其功偉大ナリト認ム仍テ感状ヲ附与ス」
明治三十八年三月十二日     第二軍司令官    奥 保鞏
ほいから、大石橋付近の戦闘がある。広島五師団は名古屋第三師団、大阪第四師団、 熊本第六師団と
共に第二軍で闘ったが、敵塁は堅固で各隊は固着し進展せず、 広島五師団の夜襲で勝利を呼び込む。 この戦闘は天聴に達し、第二軍は勅語を拝受した。
「第ニ軍ハ大石橋付近ニ於テ優勢ナル敵ヲ攻撃シ次テ第五師団ヲシテ夜襲ヲナサシメ
遂ニ之ヲ破リ防御堅固ナル陣地ヲ陥レ併セテ営口ヲ占領シ水路ノ利ヲ占ム朕深ク毎戦能ク
其功ヲ奏シタルヲ嘉ス」
奥ニ軍司令官の五師団に対しての賞詞文にも
「明治三十七年七月二十四日五師団ハ(中略)堅固ナル敵陣地ニ対シ攻撃ヲ実施セシニ
敵ノ頑固ナル抵抗ニ由リ日暮一旦戦斗ヲ中止セシモ夜長更ニ全力ヲ挙テ決意敵塁ニ突入シ
以テ其拠点ヲ奪取セリ子此夜襲ノ効果ハ我軍全般ノ作戦ヲ有利ナラシメタルモノニシテ
敵ノ主力カ敗退セシハ蓋シ 此勇敢ナル動作ニヨルモノ多カルヘシ仍テ本職ハ
特ニ五師団ノ功績ヲ 賞賛シ(中略)」
明治天皇も、「第五師団ヲシテ夜襲ヲナサシメ (中略)朕深ク毎戦能ク 其功ヲ奏シタルヲ嘉ス」
九州人の奥司令官も、「仍テ本職ハ 特ニ五師団ノ功績ヲ 賞賛シ」
と明治天皇にも九州人司令官にも名があからん熊本師団は、駄目じゃのう(笑)。

58 :
           \ ヽ                         (火病の結晶)
/  /    ヽ 九  \ ヽ   ヽ
 /   |  ヽ \  州  \  ヽ  ゝ          (昇華)
ノ 丿       \  は  \   ヾ
 ノ  |   |  丶  \  敵. \         (気化)
   /          \  よ  \/|             (液化)
 ノ   |   |      \       |         ↑
      /\        \     |         (  ↑
    /   \      /     |          )  (
   /      \     ̄ ̄ ̄ ̄ ̄         (   )
 /         \                   )  (        悪魔の証明
   ̄|     最  | ̄         ノ⌒ ̄⌒γ⌒ ̄⌒ ゝ             / /
   |  広  強  |        ノ  カルトネット右翼貼り ゝ           / /
   |  島  は  |        丿                ゞ      _/ ∠
   |  よ     |        丿/|/|/|/|\|\|\|\|\ゝ     \  /
   |  の     |               │                V
――.|  う     .|――――――――――┼―――――――――――――――――

59 :
>>43
『マレー戦記』から、
『市川少佐は仰天した。(またか!)と思った。しかし今度だけは無茶だ! とも思った。しかし、
放ってはおけない。「各部隊前へ!」より他になかった…。
 仙台幼年学校の区隊長から、この歩兵十一連隊(広島)の第三大隊に転任して来た市川正は、
しばしば戦理に合わぬ攻撃法をやらかす部下たちを、ほとんどあきれていた。
(これが伝統と言うものだろう!)と、そう思うより他なかった。
 彼らは、ー中、小隊長から一兵まで、平生はまるで平凡だった。
しかし、激戦場にぶつかると、てんで頼もしかった。勝つこと以外には何も考えていないのだった。
「とにかく、こうしましょうや」と提案する中隊長たちの方法は、てんで敵を無視していた。
けれどもそれは百発百中、成功するのだった。』
と、広島師団の戦理に合わぬ攻撃法も戦闘駆け引きの経験の知恵じゃし、>>38-55のような、
無暴、無謀な常識外れもやらかすけど、常に常勝の広島師団の実績伝統から、上層将校も
黙認せざるえんのが広島の伝統時ゃし、>>56の前評判で、鉄帽脱いで立ち撃ち見栄っ張りで、
勇猛なイメージの九州兵は、鉄帽をぬるう被って、敵さんと目を合わせる接近戦に持ち込んで
勝負して連戦連勝の広島師団の実績にゃ敵わんけぇ、九州人は憐れよのう。
広島師団じゃ九州師団のように、距離を詰めんで火力戦は臆病とされるし、白兵戦や
飛び道具の銃撃でもドスを突くように、至近距離で確実に止めを刺す方法じゃけぇ、
狭い広島の土地柄、風土との違いよのう。九州は土地が広い分だけ将兵も戦闘距離も敵さんと離れ
クリンチも出来んけぇ、シンガポール戦で大村聯隊が英軍の反攻にやられたように反攻に弱うて
甘ったるいんよ。

60 :
>>56-58
九州兵が強かった云う戦闘実積も実際無ぁのに、九州人は根拠出典提示も出来んで火病起こして
どうすんない(笑)。辺境強兵説の評判に神頼みしても、弱かった事実が変るわきゃ無あのに
憐れよのう(笑)。
>>46
>>40-41の木原系の子孫は多いいし、平賀晋民氏も分家忠海の九男じゃけぇ、お役人武士たぁ
子孫繁殖率が高いよ。
https://sites.google.com/site/tadanoumis/009
 平賀晋民は頼山陽の父春水の師でした。
平賀晋民は、享保7年(1722年)忠海木原家に9男として生まれました。
その後、京都にのぼり、病気と闘 いながら著作に没頭し、『春秋集箋』 『世説新語補索解』
などを著すとと もに、平賀図書と称して朝廷に仕え、 大阪でも門弟をもち講義をおこないました。
さらに幕府の老中松平信明に迎えられたが固辞し、のち客分として江戸に上りました。
 江戸では丁度、寛政異学の禁(徂徠学派の発展に対抗して、官学振興のため朱子学以外の
儒学の異説を取り締まったもの)の頃で、荻生徂徠を尊敬する晋民には居心地の悪いもので
わずか1年で大阪に帰っています。」と、平賀、木原一族は誇り高いゆえ、幕府の出世じゃの
打算的な猟官出世欲も無ぁし、幕府異学の禁にも反発心を持っておられたろう。
平賀系木原一族の神機隊を造った木原秀三郎氏も、維新中央政府出世欲が無う猟官せなんだ。
中央出世を「ゲスの極み」と軽蔑する誇りは、広島の庄屋層、特に武闘派の平賀系一族にゃ
あるけぇのう。

61 :
>>46
平賀勢は室町、戦国と、>>40のように、「応仁元年(1467)、 応仁の乱が勃発した。乱に際して
平賀弘宗は西軍山名氏に属して出陣、応仁二年八月の京都相国寺の合戦における働きは目覚しく、
戦後「鬼平賀」の異名をとった」とか、「永正五年(1508)、京に入った義興は細川高国と
結んで幕政を牛耳った。その間、細川澄元の反撃によって 丹波に奔るという一幕もあったが、
船岡山合戦の勝利によって大内・細川高国政権は京を支配下においた。 船岡山合戦における
平賀弘保の奮戦はすさまじいもので、祖父と同じく「鬼平賀」の異名をとり尾張守に任じられた。 」
と武勲を発揮しとるけど、対尼子戦においては、小勢ゆえながら引く時も隙を見せんよ。
「陰徳記」からも、`{尼子勢の血気はやる者どもが、「平賀とて何ほどのことがあろうか。
突き崩そうぞ」に、立原備前守は、「味方多勢とはいえども、平賀が決死の覚悟をしとる所に
かかって行っては、勝てるはずがない。平賀勢もやがて勢を引くであろう。その時後を追って
戦えば、勝利の疑いあるまい。いましばらく待たれよ」と、これを制した。
平賀勢も勢引いたが、そのやり方は、まず自分の旗本を、備えを乱さぬように引かせ、小高い所に
登って守備を堅めさせる。その間は二陣を備え踏み留まらせ、敵が後を付けて来たらそれを
防ぐよう待ちかけさせ、旗本の態勢が整ったのち、今度は二陣を隊を乱せぬように引かせる。
こうして替わるがわるたがいに守備を堅める細心さであったので、さすがの富田勢も、後を付ける
ことを出来ずに、みな城中に入ってしまった。平賀のこの日の合戦に耳目を驚かせ、人々が
誉め称えることしきりであった。}と、無暴な攻撃出来る者らは、防禦に細心で将兵も阿吽の
呼吸で出来るゆえ平賀勢強兵の名を欲しいままにした例じゃし、広島師団の他に類例も無ぁ
防禦実績でも日本最強じゃったんも、その伝統ゆえよのう。

62 :
>>>40-41の木原系の子孫は多いいし、平賀晋民氏も分家忠海の九男じゃけぇ、お役人武士たぁ
>子孫繁殖率が高いよ。

妻子もおらん痔持ちのホモが何言ってんだか

63 :
     ミ ⌒ 彡
     ( ,_`ゝ′)
      (====)
   ______( ⌒) )
 /\   ̄`J ̄ ̄ ̄\
  ̄ ̄ ̄ ̄| | ̄ ̄ ̄ ̄
         | |
       / \

64 :
>>62
 痔持ち? わしゃ痔持ちじゃ無あで。

65 :
>>29
 東北勢は鉄砲の使い方自体が、近代においても無駄使いに酔っ払い乱射する集団主義じゃけぇ
のう。
仙台師団云うと、宜昌じゃ、命令違反の乱射で全滅寸前に追い込まれ、広島師団に救われたのう。
当時仙台第13師団内山師団長の回想から。
「夜間攻撃が激しくなると、これに不慣れな兵たちが不安にかられ発射し、それが口火となって、
敵影を確認もしないのに、夜通しの乱射となった。 第三十九師団(広島)から、空輸で増援に来た
福島小隊の一個分隊を、 両勤務隊の中間に配置して、この部隊が射撃しない限り、一切の
夜間射撃を 禁止する、という非常手段に出て、さしもの乱射もピタリを止んだ。」
 仙台師団の敵さんを確認せずに集団乱射たぁ、最強広島師団にゃ考えられんわ。
梶浦銀次郎元広島231i長の、「攻撃戦闘なら、一人の勇者がおれば、他の兵がこれに続くことが
出来るが、陣地では兵一人一人の、 悲惨な状況下にも孤独にもめげず、判断の正常性を失わない、
高度な能力が 要求されるが、これはどこの師団の兵にも出来るというようなものでない。」
失態を繰り返す、集団主義である前任の仙台師団にゃ無理じゃが、個々判断力や戦闘力が強く、
個人主義の自己克服が出来る広島師団でこそ可能になる。
指揮官の命令に忠実で死守せよと云われたら、命令解除が出るまで死守する仙台師団の
忠誠心じゃ、自己の意思を持たんゆえ、追い込まれると、精神パニックになり、防衛本能から、
命令違反で乱射し、隣接の者にも波及連鎖で墓穴を掘るけぇのう。
広島連隊なら、孤立した陣地ですらも個々の一人一人が判断するけぇのう。地獄の一丁目の
激戦なれば尚更そうじゃ。自身の判断力を持った将兵じゃけぇ、正常な判断力を失わぬゆえよ。

66 :
>>29
広島師団ほど、指揮官の顔色を伺わず勝手放題した師団は他師団に例が無いんじゃないか。
個々の将兵が上官より自分の頭と度胸で考えるけぇのう。
184 :白馬青牛 ◆sKm0uQPecU :2014/08/13(水) 00:30:58.04 ID:uz2cSrIC0
まあ、広島人の個人主義こそが、先の昭和の郷土兵団で、比類なき防禦実績を生んだんよ。
広島師団史にある、「守備する将兵の素質、特に防禦戦に必須の、各個人の士気の旺盛・
独立独歩の自立心・断固たる戦闘遂行の気概・白兵および火戦の自信(大規模な反攻では、隣接した
陣地から見ると、その陣地周辺には敵兵が充満していて、あたかも敵に奪取されたような 錯覚に
陥いり、奮戦しているのは、自分の陣地だけの感を抱く。これは"孤立妄想"という戦場心理の
一現象で、士気を失する原因となった。)」
「陣地の防御は苦しい。敵の猛撃に二、三名ずつ孤立してしまう。 孤立感はやがて焦慮感になり、
いたたまれないような不安感に襲われ、 爆撃で耳は聞こえず、幻覚(幻影)にさいなまれてしまう。 
血みどろの死闘をやるのは、所詮人間である。防者には自主性がない。
だから精神的に大きな負担がかかる。つまり勝利に対する信念と、 自分の情緒不安定に対する
自己克服の精神力がないと、まず内面から崩れ 去ってしまう。」 
 元広島第231聯隊長の梶浦銀次郎氏は、「攻撃戦闘なら、一人の勇者がおれば、他の兵が
これに続くことが出来るが、陣地では兵一人一人の、 悲惨な状況下にも孤独にもめげず、判断の
正常性を失わない、高度な能力が 要求されるが、これはどこの師団の兵にも出来るというような
ものでない。
 当時の宜昌地区の状況は、濡れた障子紙、いっぱいにふくらませたゴム風船のようなもので、
若し百に近い陣地の中で、一つでも敵に抜かれたら 、連鎖反応で忽ち前線総崩れとなっていた
だろう。  味方が苦しいときは敵もまた苦しい。聯隊の将兵が、中国兵よりも、 常に一歩、
一段だけ苦難に耐え抜く精神力があったことが、最後の勝利に 直結する最大の要因であった」と。

67 :
>>29
 まあ、広島の将兵は攻撃でも接近戦に持ち込むけぇ、弾の無駄使いはせんし、接近戦の
一撃必殺を心がけ、兵一人一人が敵兵と確認せにゃあ撃たんよ。しかも、戦闘は基本的に個であり、
個の集まりが軍隊云う、個人主義が根底にあるし。
逆に東北の兵隊は忠誠心が強い分だけ個の概念に乏しいよのう。
「防禦戦闘となると、一人ひとりが、いちいち細かい命令指示をまたずに、自信をもって
戦闘行動のできる能力が要求 される。」わけじゃに。
 東北人の今村均大将も『広島の青年たちは、純朴さと文化度の平衡がとれ、つまり、
「気がきいていてズルくさい」といえよう。南寧のように一個師団で二十四個師を相手にしたのは
始めてのことです。今更ながら広島人のねばり強さと闘志に感じ入った。」と回想された。
「気がきいていて」は、命令指示なしに大胆に行動出来る能力じゃし、
「ズルくさい」は、戦闘駆け引きの老獪さで、敵さんの嫌がる戦闘方法を理解し、
悪戯心も含め執拗にやって、敵さんの精神的ダメージすら与えてあげる、性格が底意地の悪りい
広島人らしいやり方よ。真面目で純朴度が突出して高い東北兵にゃ出来んじゃろう。
もう、東北兵は追い込まれたら必死の思いで戦うだけで、戦闘駆け引きを愉しむこと、敵さんが
どうやったら嫌がるか云う遊び心の余裕も思考力も放棄しとんじゃけぇ、戦闘に勝つ目は
無うなるよ。

68 :
>>29
 ほいじゃが、南寧戦でも明るい広島人の性格自体が勝利に貢献するのう。
{皆の心を動揺させないため、腰を下ろさせて、自分の決心と攻撃計画を納得させるつもりで
いたが、その必要は全く無かった。皆んな中隊長を裏切ったのである。必死の顔をする者は
一人もいない。熱心に聞いてはいるが、笑い話が混じるので中隊長の方が戸惑う。大した連中が
揃ったものである。これなら戦える、勝てる。
今ここで、「あと四十時間余りしかない」といったら、「あと四十時間余りもあります」と笑われる
であろう。…堅いことばも、この連中には必要ないのだ。と、この場で悟った。
「よーし、見ていろ! 大隊長がいう半数どころか、戦死者は一割以下に食い止めて見せるぞ」}
逆に、だいたい皇国青年で国を憂う根が真面目なカルト脳連中は、深刻な必死な顔じゃけぇ、
機転の利いた敵さんとの戦闘駆け引きを愉しむ遊び心も無ぁし、その分だけ思考回路が狭い
し、自らの独創性を放棄しとる連中に勝利の目は無ぁけんのう。
真面目に深刻ななるほど精神の無駄な浪費自慰に過ぎんのに。
広島人は無邪気な子供の悪戯心が大人の将兵に成っても「気がきいてズルくさい」
戦闘駆け引きを愉しむ性格に結びつくし、深刻な真面目さは無ぁし。

69 :
>>29
南寧で及川少将は今村均氏に「第一線を視て廻るたびに、広島師団の兵の健闘には頭がさがるほど
有難いと思います。腹ぺこで、ごろっと塹壕に横たわりながら、敵襲ときいて立ち上がると、
まるで別人のように動きだします。精神力によるものでしょう。」
まあ、人間空腹の方が神経が研ぎすまされるけぇのう。しかも普段から機敏な広島の将兵じゃし。
敵さんが、音も立てず忍び来る俊敏で剽悍な広西軍でも対応出来るけぇのう。
http://www.yurindo.co.jp/static/yurin/back/417_1.html
「戦記も一般の日本史の中に繰り入れられそうに 」
「「南寧作戦」の中の「崑崙関の戦い」は、第五師団中の約四千の部隊が、南寧から柳州方面へ
向かう途中の関所、崑崙関の山中に布陣した時、広西軍閥の白崇禧、李宗仁軍は、実に十万の
軍兵を集めてこれを包囲し、日本軍はいかに善戦しても及ばず、年末に山を棄てて撤退する。…
師団は態勢を整えて、報復作戦を発起し、中国軍を駆逐している。
つまり、崑崙関戦は、長篠戦に似た興味で、第三者には読まれるのである。
第五師団は、報復戦で、中国軍を叩くことができたが、勝頼軍は、この戦いが大きく原因して、
やがてほろぶ。主立った武将もこの戦いで多く死んだ。第五師団にしても旅団長が戦死し、
兵員の死傷も多い。いわば、戦記も、一般の日本史の中に繰り入れられそうになっている。}
英軍が広西軍に敗退した崑崙関じゃ、広島師団の浜田、山口の21旅団も一度は負けたけど
(山口聯隊の兵隊は、広島聯隊の兵士到着すると、「しっかり頼むぞ!」「頑張れよ!」
「かたきを討って下さい!」と口々に叫び、くやし涙をぶっつけて来る、)特に島根県の浜田聯隊は、
粘り強さを発揮し、最悪の壊滅は防ぎ、その後、 福山聯隊の奇襲で敵さんが同士討ちに成って、
戦いの流れが広島師団側に好転し崑崙関を耐えたけぇのう。
日本軍じゃ、夜襲の喚声は禁じられとったが、広島や福山の芸備もんは、敵さん動揺するけぇ
やりよったよ。実際南寧でも敵さん同士討ちじゃし。

70 :
>>60-69
呉のわきゃぁ衆は、坂東武士の子孫の多いけぇ、皆戦闘の仕方を知っとるよ。
道楽の格闘技や武道やっとるもんたぁ、呉の一般人の方が強いけぇのう。
わしら広島人に喧嘩売って来たら、「堪忍してつかい」云うてこうべを垂れるまでぶちのめしちゃるで。
昔やり合うた、口だけホラッチョの九州兵は弱すぎて話にならなんだのう(笑)。
ほいから、わしん一族は平安期からスムージーと青汁で健康管理しとるけぇ実年齢たぁ若う見られるし、
わしが痔持ちのわきゃ、あるみゃぁが。

71 :
>>64
肝心の妻子おらんホモってところは否定せんのか。
そんな奴が子孫繁栄を誇るとか、完全にアタマおかしいだろ。

72 :
ホモ爺さんが完全にアタマがおかしいのは分かりきってる

73 :
他所行ってやれよホモ牛。
突然やってきてスレの内容にかすりもしてない長文連投するなボケ。

74 :
>>70
 また、ニセもん君か。わりゃ、わしん云うとらんことまで名騙って嘘こきよん、
風が悪う(恥ずかしゅう)なあや。
坂東武士の子孫が安芸や備後に多いいんは事実じゃが、関東と違い横社会の西日本風土、土地柄の
中から武闘派の芸州広島人が産まれ育まれたんよ。
道楽同士でも、格闘屋や武道屋たぁ強いんは当然じゃが「勘弁しつかい」くらいで、攻撃をやめる
広島や呉のもんは少数派で。相手が喋れる自体元気がええ証拠で攻撃留めるお人好し
なんかおらんよ。
子供の頃でもそうじゃろう。相手がうなって戦意喪失の証拠の動けん、泣き声もあげんで
苦しいがっとる姿で抵抗出来んゆえ、勝負が決まるわけじゃし、かばち垂れよるもんは
攻撃続行で相手の体の表現で判断するわけじゃし。
相手の体が動かんようなるまで背中見せるんは恥じゃ云う教育はわりゃ受けなんだんかいのう。
元来子供同士でも殺し合いの世界ど。
わしん一族が平安時代からスムージーかどうかじゃの知るかいや。まあ、わしゃ実年齢たぁ、
若う見られるよ。われん「あるみゃぁが。」は、備後弁調じゃのう。>>55の福山聯隊の
「たいしたこたァ、にゃァ(ない)」と同様よのう。

75 :
>>71
 わしも、庄屋系の子孫繁栄ゆえ、産まれて育って来たけぇのう(笑)。
>>73
 わしが、安芸国人武士系の庄屋系ゆえのスレ自体、わしが広島県の土地柄云う風土特徴からの
武士系庄屋を云わにゃあいけまあが。東日本的な主従縦社会の庄屋たぁ、違う地域的土地柄も
についてのもう。 そがぁなこたぁ、西日本同士のこっちでも云うとるよ。
http://mint.2ch.sc/test/read.cgi/history/1406984771/

76 :
>>73
295 : 白馬青牛 ◆sKm0uQPecU 2016/11/20(日) 01:43:49.34
武田が守護でも、地域の地頭は不服従じゃし、大内も尼子も同様よ。
山名、大内と細川のどっち側かで安芸国人衆は親族同士でも争うたし、大内と尼子のどっちかでも
そうじゃが、毛利が担がれてから、身近な反目が薄れたけぇ、元来戦上手で強い安芸国人衆が
まとまったら、中国地方を統一出来るが、毛利も安芸国人ゆえ、大内のような室町政権への
中央介入主義は、採らんし中国地方モンロー主義が毛利を含めむ安芸国人衆が作り上げた
気風じゃし、毛利輝元さんが、強制的に国人衆を城下に集められん為、秀吉から家臣の言いなりに
成っとる怒られるわけじゃが、安芸国人衆らは、まとめ役として毛利をリーダーに担いだだけで、
元来家臣じゃ無ぁ同格じゃし、領地経営に忙しい中に、城下に出仕じゃの小役人の真似じゃの
出来るかいや。
毛利家は大内風土の山口県へ移住して、始めて封建的領主に成れた云うべきじゃろう。
元来安芸国人衆の毛利の家風じゃの山口県にゃ無ぁわけじゃし。
被差別民上がりの可能性が極めて強い浅野家の家風も無ぁし、浅野家は紀伊、和歌山を治めた
影響で広島県の尾張系の浅野士族は和歌山現地採用系が多いいし、庶民層でも紀伊漁民の
移住漁村もあるけぇのう。ほいじゃが浅野の紀伊的要素も広島県は全体的に薄いし、移住した
連中も現地に同化するけぇのう。安芸の気風は紀伊浅野じゃ無ぁし、山口県で大内化した毛利でも
無ぁわ。広島の風土土地柄が作ったもんよ。
296 : 白馬青牛 ◆sKm0uQPecU 2016/11/20(日) 01:56:49.32
ほいじゃが、近世以降安芸武田光和系は造り酒屋が多いいのう。
佐東の安佐郡から広島城下の街の造り酒屋に成っとるし、広島旧市内の某寺にも武田家の
墓があって、わしも子供の頃、連れられて行ったことがあるよ。安芸国人衆同士は婚姻関係で
親戚筋に成るけぇ、そういう経緯でのう。

77 :
>>73
わしが気に入らんのなら、庄屋系はろくな人間を産まんアンチ書き込みすりゃあええじゃなあか。
広島の庄屋系は隣の山口の庄屋系を先祖がどこの骨か解らんと蔑視する云うて。
まあ、諂い顔の首相の安倍ちゃんの先祖の骨は奥州の蝦夷の安倍氏云う証拠が東北の鯨の骨らしい
けど(笑)。
{安倍家の元家政婦???は東北地方に飛び、安倍一族の関係地と言われた地域の市町村役場などを
丹念に回りながら、各地に古くから伝わる家系図を調べ歩いた。その結果、油谷町に住み着いた
一族が宗任の流れをくむ者たちであること、青森県五所川原の石搭山荒覇吐(あらはばき)神社に
始祖である宗任が眠っているらしいことを調べ上げたという。…
だが、この石搭山荒覇吐神社は偽書『東日流外三郡誌』に基づいて、同書の「発見者」・
和田喜八郎が昭和55年(1980年)に創建した神社であり、同社所蔵の安倍頼時の遺骨と称する
物は後に鑑定の結果、クジラの骨の化石と判明した。…
平成元年(1989年)に発刊された『安倍一族』(盛岡タイムス社編纂)という一冊に晋太郎は
『わが祖は「宗任」』と題する、次の序文を寄せている。}
トンデモのホラッチョ偽書の『東日流外三郡誌』の大嘘神社根拠じゃ学術的に成り立たんこたあ
われでも解るや?
安倍晋太郎さんも、向きに成って、俘囚の安倍氏を無理矢理ルーツにしたい意図も不可解じゃのう
(笑)。
しかも、九州の松浦党に安倍氏がおったじゃの、源氏を仮冒した松浦党で。松浦党が源氏の
子孫云う自体学術的に成り立たんのじゃし。

78 :
>>74
>相手の体が動かんようなるまで背中見せるんは恥じゃ云う教育はわりゃ受けなんだんかいのう。
>元来子供同士でも殺し合いの世界ど。

熊かよww

白馬青牛は福山から書きよんじゃけぇ、備後弁にもなろう(笑)。

ほいじゃが、相変わらず長文連投で荒らしてじゃのう。

79 :
関係ありそうで関係ない長文で荒らすからアタマおかしいって
云われるんだよ(笑)

80 :
>>75
牛の代で堕落して子孫が絶えるわけか。でっけえブーメラン投げるもんだな。

81 :
   彡 ⌒ ミ
   ( ´Д`) 文字レス続くと
   /||ヽy||丶、 疲れるのう
  〈`ρ∽|| ,ρ、
   |_||TT||_[__]
   ノ_/| ||__|
    U ̄´U

82 :
【怠惰】敗北の広島史【弱兵】
http://mint.2ch.sc/test/read.cgi/history/1326207758/

83 :
なぜ広島の武士は弱かったか
http://hanabi.2ch.sc/test/read.cgi/nanminhis/1306345309/

84 :
軍隊や武士が強いことなんて、今どき自慢にならん。

85 :
>>78
何回も云うが、わしゃ福山住んじょらんで。広島市内からよのう。
>>79
 全て関係あるじゃなぁか。歴史学の基礎たぁ風土考察じゃけぇのう。>>36の土地柄を考慮せん
トンデモ歴史修正主義カルトの戯言と較べてみいや。まあ三河武士伝説自体、後世江戸期じゃし、
三河武士も大して強うは無ぁけんのう。寡兵の信濃の真田勢にボロ負け(笑)。
>>80
隠し子が今ん処おらんようじゃけぇ、人口抑制にゃ貢献しとるのう(笑)。まあ日本自体、
列島に人が多過ぎるけぇ、これから人口減少がええかも知れん。
人口が多いいと、それだけ人間が毎年大量生産の消耗品扱いされ、先の大戦の南方戦線で
日本軍が自国の将兵を大量餓死させる、世界の軍隊に類例が無ぁほどのワーストで恥晒した
けぇのう。
>>82-83
わしを誘致させて、他スレに書く機会を少のうしょうと乱立させたスレに乗るほど、
わしゃお人好しじゃ無ぁよ。
>>84
 軍隊や武士云うたぁ地域の強弱よのう。東北同様、鈍重な北陸の金沢師団の将兵が
関東地方の東京師団の弱兵ぶりを馬鹿にして、酒の肴にするんも自負心じゃし、
全国の将兵が宇品港から出征する広島じゃ、地域強弱の品評会しよったけぇのう。
平成の今どきのなら自慢かどうか知らんよ。

86 :
何回もいうが負け犬根性のしみついた恥ずかしい言い訳じゃのう

87 :
保元平治の乱→安芸の東条は瞬殺されたうえに首を放置されるという悲劇 ミ ⌒ 彡
治承寿永の内乱→安芸は長期空気。安芸の沼田が空前絶後の卑怯な振る舞いを見せ敵前降伏 彡 ⌒ ミ
壇ノ浦後→安芸の佐伯が旧主を捨て鎌倉に媚びるも許されず身分や特権をはく奪される ミ ⌒ 彡
承久の乱→安芸は空気 彡 ⌒ ミ
元寇→安芸は空気 ミ ⌒ 彡
南北朝→安芸は長期空気。北関東の土豪に周辺各国を蹂躙される 彡 ⌒ ミ
鬼平賀→出典不明のブログの中では活躍した(らしい) ミ ⌒ 彡
安芸勢→九州兵の支援を受けた盛見に蹴散らされる 彡 ⌒ ミ
平賀→少弐氏に完全敗北 ミ ⌒ 彡
守護→大内に敗退 彡 ⌒ ミ
尼子→草刈り場と化す ミ ⌒ 彡
毛利→周囲の弱小国を陰謀で弱体化させ乗っ取るも、九州には凹られる 彡 ⌒ ミ

88 :
安芸に人物なし
東条五郎 ザコ
佐伯景弘 ゴミ
沼田次郎 クズ
毛利輝元 ロリ
白馬青牛 ホモ

89 :
吉田松陰「柔弱日本の柔弱中国」
日本は昔より柔弱国なり。大は兵戦少く、小は殺伐少きを以て知るべし。
殊に中国最も柔弱と称す。

幕末の長州は確かに強かったけど、早死にした松陰はそれを知らなかったわけで、
松陰が存命していた安政6年1月時点での世間評は「柔弱日本の柔弱中国(山陽、山陰)」
だったのだよ

    ____.ミ ⌒ 彡   
  〜/ ▼▲<;`Д´>  
   .| ▲▼▲  |   
   .|_|_| ̄ ̄|_|_|. 

90 :
>>74
ガクシュウシマシタ。

91 :
★無名の大大名 大内氏について語るスレ★
http://mint.2ch.sc/test/read.cgi/history/1406984771/290-292

ホモ牛は戦前生まれだろ

92 :
>>85
>隠し子が今ん処おらんようじゃけぇ、人口抑制にゃ貢献しとるのう(笑)。

むしろお前さんの劣等な遺伝子が後世に残らないことこそが最大の意義だ。
多産を称賛したかと思えば、突っ込まれたとたんに真逆のことを言い始める。
浅ましいにもほどがあるわな。

93 :
子供も作れん、弱い男だったから、ネットで熱弁を振るうわけですよね… わしも、こう、荒々しく勇ましくありたかった…と…。悲しき爺さんですね。

94 :
. .        .彡⌒ミ
         (´・ω・`)   <正代直也よ、早うわしと勝負せにゃ。
       /       \
     ./          \,
     /   ,     .    、 'i
    ./   r´    人.    ヽi
    i   人_,、__ノ  ヽ、_,,_ノ.|
    |   /  ゚        ゚ .|.|
    |  /(       .з   .iノ
   _.しゝ ヽ_______,ノ
  _ノ_.ノ__.\.i,___,    ∞   _ノ
 |ヽ /_.__\ 'ヽ、     ./ |

95 :
>>87
>>41でも、平賀→少弐氏に完全敗北 云う大嘘がバレとるんじゃに、往生際が悪りい
嘘こき九州人よのう(笑)。
平治の乱でも、治承・寿永の乱でも、各豪族が分かれて行動しよったし、
瞬殺された事件じゃの無ぁわ。役職追放された豪族でも多くは土着したし、東国武士が
地頭として移住してきても、初期の婚姻相手は地元豪族じゃし、地元豪族系を抱える
ことで武力、兵力が成り立つんよ。
平賀勢自体、九州で攻略武勲を立てても一度も合戦で負けたことも無ぁし、
家臣を闇討ちにしたら、勝ったと喧伝する九州人は姑息で哀れじゃのう。
大友にも毛利は負けたことが無ぁし、大内輝広が大友に尻掻かれて(そそのかされて)、山口で
反乱したけぇ、毛利勢は立花城も落としたのに、退却し大内輝広征伐に向かうて、
殿の浦宗勝さんらを立花道雪らは闇討ちしようと麻生隆実さんに実行せえと命じたが、
麻生さんは、小早川隆景さんに、闇討ち計画に加担せん手紙を送り、護送したよ。
関ヶ原でも、広島勢は戦闘しとらんよ。引き蘢り云うたぁ、徳川派の吉川広家さんが
家康の真裏の最先頭で動けるわけ無ぁし、背後が敵を襲うじゃの、正面激突に強い
広島勢は恥じゃけぇ出来るわけも無ぁわ。正面激突に弱い、側面攻撃しか特技が無ぁ
九州人の価値観を投影してもつまらんわ。
 まあ、九州は広島以外でも、山陽道にゃ弱いけぇのう。播磨の黒田勢に制圧される。
幕末じゃ長州に北九州は制圧されるわで、憐れもんよ(笑)。

96 :
>>89
その吉田松陰が記した出典元提示を何年経ってもやらんのう。さすがは嘘こき九州立花虚言物語の
土地柄よのう。
ほいから、辻政信参謀殿も、「九州兵団の「菊」「龍」の戦況報告は、美辞麗句を並べ立て、
仙台兵団の「勇」の報告誇張もなく形容詞もない。と。
九州人は強がり、見栄っ張り虚勢だけで生きとるようなもんじゃけぇのう。

97 :
>>92
>劣等な遺伝子が後世に残らない」じゃの、トンデモのナチ優生学信奉者のカルト歴史修正主義者や
それらに扇情されたネット右翼くらいしかおらんで。
中世まで遡れる家系を持つもんも、乱交で種がどこの馬の骨か知れん連中も人間のポテンシャルと
して、能力の差は無ぁし、中世まで遡れる家系でも大名貴族に成ると文明的堕落で品性自体も
卑しゅうなるけぇのう。権力側におる家柄のある政治屋みてみんさい。食事の所作すら
元来の庄屋層と違い下品さは庶民以下じゃし、人間を作るんは血統云う遺伝子じゃ無ぁんで。
躾を受ける家筋の環境要因の育ちじゃし。
歴史学、民族学等の人文科学の基礎としての心得。
「すべての人は能力的(ポテンシャル)に同じであることを知れ。ギリシャ人であろうとユダヤ人
であろうと、白人であろうと有色人種であろうと。
学問を俗悪化させるな。出世主義によって冒涜するな。学問にたいして献身的に接し、人類と
人間にたいする愛情を持つ人だけが真の学者になることができる。
自分が研究している民族に自らの文化を強制するな。その民族がいかなる文化水準にあろうとも、
愛情と注意をこめて、用心深く接せよ。」
ポテンシャルじゃ日本人も英国人も中国人も朝鮮人も、何ら優劣も無ぁし同等な能力を持った
人間で、日本内でも広島人も、山口人も、九州人も東北人も同様じゃ。
土地柄によって、平地の少ない広島は戦闘が巧い云う土地柄環境的差異が出て来るだけの
ことじゃし。
人文科学において非学術的な宗教カルトの優劣血統論たるトンデモ優生学を肯定する自体、
わりゃ狂うとるよ。一応ここの板は文系学術板じゃけぇ、そんこたぁ、指摘しとくよ。

98 :
>>93
子供を作る行為は好きじゃけどのう(笑)。男同士じゃと、女の臭いがせんけぇ疑似行為の域を
出んし。男の種としては、わしゃ弱いかも知れんのう。
じゃが、荒々しゅうて勇ましい蛮勇は望んだことじゃの無ぁよ。
少年時代の喧嘩にも勝ち方云うもんがあるようにのう。相手の主導権の渦中に飛び込んで実力で
勝っても後味が今一つ悪りいようなもんじゃ。
相手の呼び出しに応じた時点で主導権は相手にあるわけで、それを正攻法で投打して勝っても芸が
無ぁし、自分が部下を預かる立場なぁ、貴重な兵士の命を蛮勇で死傷者にさせる戦法に相当する
わけで、場所に一歩先に進む喧嘩相手に「おい! あれ見てみい」とふり返させ攻撃してこっちが
主導権を取った喧嘩の方が戦術的に勝利ゆえ、御先祖様の名を辱めんゆえ、後に後悔を残さん
争いが出来た時の勝ち方は気分が違うもんよ。同じ勝ち戦さでも、戦闘主導権と損傷が無ぁ勝ち方は
後悔を残さんけぇのう。まず勝たにゃいけんが、勝ち方内容は大切なもんよ。
荒々しゅう勇ましゅう勝つたぁ、駆け引きで巧み勝つ方がええに決まっちょろうが。
何か、わりゃ勘違いしとるのう。

99 :
口じゃどうのこうの言えるが、強がりが見え隠れするのう

100 :
>>97
お前は基地外だ。そして基地外は遺伝する。そんなことも知らんのかドマヌケ。


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