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司馬遼太郎 Part13


1 :2018/03/17 〜 最終レス :2019/05/15
司馬遼太郎全集を重箱の隅をつつきながら読み進めてまいります。
現在「翔ぶが如く」が進行中です。

前スレ
司馬遼太郎 Part12
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1516287702/

2 :
>>1
スレ立て乙です

3 :
【凡例】
★小説・紀行では物語の場所もしくは旅の場所を示す(余談のときは、項目を示す)。評論文では、項目を示す。
▽作品に出てくる語句・文章
▼作品には出てこないが、背景を理解するために必要だと思われる語句
【注意】
このスレッドでは、司馬作品を忠実かつリアルに画像化しているため、エログロ画像が含まれています。
18才未満の方あるいはご覧になりたくない方は、〈エログロ〉をNGワードに登録なさることを推奨いたします。
また、エログロ画像をレスされる方は、必ず〈エログロ〉の文字を添付してくださるよう、お願い申し上げます。
【注意】
多くのユーザーの方々が、現在進行中の司馬作品一作に集中して、注釈を加えたり、議論をなさっておられます。
他の司馬作品に関して議論ないしおしゃべりをなさりたい方は以下のスレッドへお引越しをお願い申し上げます。

■■司馬遼太郎症候群について語るvol.3
http://mint.2ch.sc/test/read.cgi/history/1365866256/
司馬遼太郎の家康過少評価は異常
http://mint.2ch.sc/test/read.cgi/history/1331922006/

4 :
【1】〔数年後に削除予定〕http://echo.2ch.sc/test/read.cgi/books/1362974282/
【2】〔数年後に改訂予定〕http://echo.2ch.sc/test/read.cgi/books/1471228785/
【3】「街道をゆく」豊後・日田街道/大和丹生川(西吉野)街道/種子島みち/潟のみち/播州揖保川・室津みち/高野山みち
http://echo.2ch.sc/test/read.cgi/books/1474718092/
【4】「街道をゆく」信州佐久平みち/「国盗り物語1」
http://echo.2ch.sc/test/read.cgi/books/1477812018/
【5】「国盗り物語2」http://echo.2ch.sc/test/read.cgi/books/1480533004/
【6】「国盗り物語3」http://mint.2ch.sc/test/read.cgi/history/1483152411/
【7】「国盗り物語4」http://mint.2ch.sc/test/read.cgi/history/1488372192/
【8】「ひとびとの跫音」http://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1494164526/
【9】「木曜島の夜会」「歴史と視点―私の雑記帖―」「評論随筆集−第50巻−1」
http://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1507878222/
【10】「評論随筆集−第50巻−2」「一夜官女」「権平五千石」
http://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1511343401/

5 :
【11】「翔ぶが如く1」http://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1513665828/
【12】「翔ぶが如く2」https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1516287702/

6 :
少しペースを上げないと、筆者が死ぬまでに終了しない。

7 :
最後の作品は、『街道をゆく』の「熊野・古座街道」になる予定。

8 :
まあ、せいぜい頑張れやw

9 :
第19章 退去(つづき)

〔一〕黒田清隆(つづき)
――故郷に帰られますか。
と黒田は問いたかったが、水面の魚をすかし見ることに熱中している西郷に問うことは、なにやら憚られるものがあった。維新第一等の功労者が、官職をすてて栄華の都府をあとにして故郷の山林に隠れようとしているのである。
黒田が何を問い、どう諫めようとも、自分の吐く息が生ぐさすぎるような気がして、物を言う気力も失せてしまったのである。
西郷はこのあと、何度か網を打った。黒田はそれを葦のあいだから眺めていただけで、結局はすべての思いを一礼に籠めて立ち去らざるを得なかった。

10 :
おまえが2ちゃんねるを立ち去れよw

11 :
どうした?おとなしくなったな。木戸が来たのか?

12 :
★日本橋小網町

▽10月24日朝
黒田清隆は、西郷が辞表を提出して姿をくらましたということを知ると、西郷の寓居へすっ飛んで行った。
黒田は大久保の有力な働き手として征韓論つぶしに活躍したと書かれているが、この小説では特に何もしていない。

13 :
▽田中与助
前スレ〔930〕で「本章に登場する「田中」という下僕は、与助か市助のいずれかであろうか?」と述べたが、田中与助であった。
伊集院生まれの気のいい青年で、黒田が世話をして西郷の身辺の世話をさせていた。

14 :
黒田の反征韓論は、外征によって北海道開拓の予算が削られることを危惧してのことであった。

15 :
★向島

▽独不適時情  独り時情に適せず
  豈聴歓笑声  豈に観笑の声を聴かんや
  雪羞論戦略  恥をすすぎ戦略を論じ
  忘義唱和平  義を忘れ和平を唱う
  秦檜多遺類  秦檜の遺類多く
  武公難再生  武公再生し難し
  正邪今那定  正邪いずれにか定めん
  後世必知清  後世必ず清きを知らん

16 :
明治維新の功労者・西郷隆盛が、新政府の欧州追随姿勢に不満をもち、明治6年に陸軍大将の身で下野したとき、>>15の詩をつくった。
彼はひそかに岳飛の心境だったらしい。

17 :
▽秦檜 〈1090-1155〉
北宋の官吏であったが靖康の変で金に連行された。金で太宗が死に、熙宗の代となって淮水までの領土を確保し、それ以上の南進はとらないという方針変更があり、捕虜の秦檜も許されて南宋に戻った。
秦檜は金の意図を南宋の高宗に伝え、宰相となって和平論を推し進め、主戦論を採る岳飛を捕らえ、無実の罪でKして獄死させてしまった。そのうえで、1142年に、淮河を国教として北を金、南を南宋が支配する状況を固定化し、金に銀・絹を贈るという条件で和平を実現した(紹興の和)。和平後も長く宋の宰相の地位に留まり、1155年に没した。

18 :
秦檜夫婦は、縛られてひざまずく像を中国・杭州にある岳王廟の中に作られ、棒で殴られたり、常につばを吐きかけられるので、乾く間もなかった。
https://pbs.twimg.com/media/DV3ytx1VQAA_3Bl.jpg
西郷は、>>15の詩で、大久保を秦檜に仮託している。

19 :
▽岳飛 〈1103-1142〉
中国南宋の武将。字は鵬挙。相川湯陰(河南省湯陰県)出身。南宋を攻撃する金に対して幾度となく勝利を収めたが、岳飛らの勢力が拡大することを恐れた宰相・秦檜に謀殺された。
岳飛は後代、救国の英雄として称えられた。現代でも中国の歴史上の英雄といえば、まず岳飛の名前が挙がるほどである。
https://pds.exblog.jp/pds/1/201709/27/31/a0198131_21484832.jpg

20 :
▽熊吉
西郷から日本橋小網町の屋敷の売却を委任されていた。
太政官は旧大名邸や旧旗本邸を、高官たちにタダ同然の値段で払い下げていた。西郷は小網町の屋敷を近畿財務局から250円で譲り受けたので、熊吉にその値段で買い手と交渉させた。
しかし、買い手は何かの間違えであろうと疑い、以後、熊吉を信用しなくなった。

21 :
▽越後屋の女中
女中という言葉は、元来、宮中貴族に使える女性への敬語であった。転じて、家事を手伝う女性の意味になった。

22 :
▽栃の老樹
トチノキ。司馬さんは「橡」と書かれることが多い。フランス語名「マロニエ:marronnier」として知られている。
サルトルの「嘔吐」で、主人公アントワーヌ・ロカンタンは、公園のベンチに座って目の前のマロニエの木の根を見た時、激しい吐き気に襲われ、それが“ものがそこにあるということ”が起こすものだと気づく。つまり、この吐き気は“実存に対する反応”だったのだ。
http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/014/641/63/N000/000/000/P1000384-1.jpg

23 :
▽小舟
自分の原風景のなかにある川舟の情景を検索してみたが、思うようなものがない。
川舟がゆく水路の両岸はコンクリート護岸があってはならない。二艘の川舟がやっと離合できる程度の川幅で、周囲はすべて田圃というのが望ましい。棹を突くたびに、岸の蛙があわただしく水へ落ちこむ。
https://cdn.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/26/79/96/src_26799645.jpg
https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/P/PageTAKA/20100910/20100910183506.jpg

24 :
>>23は倉敷。以下のふたつは、近江八幡。
https://chuco.co.jp/uploads/selection/photo001_0_fd47da427175742f.png
https://img.hldy-cdn.com/images/holiday_spot_images/w=600,h=405,mc=true,wo=44,ho=0,cw=399,ch=269,aw=600/150641.jpg
https://shigatoco.com/photos/2014/04/nishinoko-660x400.jpg
※群馬の水郷・板倉町
https://img.guide.travel.co.jp/article/370/20140704205107/AC9B02742CF8483B8E92EF4798106A51_L.jpg

25 :
なつかしい脱穀機
http://www.city.yamatotakada.nara.jp/city/rekishi/kokodoko/images/rekishi15_old.jpg
区画整理されていない農村の風景
http://www.townnews.co.jp/0602/images/20150326141208_221159.jpg
http://awakin.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2012/11/08/old.jpg
http://www.city.kobe.lg.jp/ward/kuyakusho/tarumi/shoukai/photo/img/photo103.jpg

26 :
>>13
これで姓が不明なのは、市助だけになったな。

27 :
▽津田梅子
元治元年(1864年)- 昭和4年(1929年)
津田仙(旧幕臣・東京府士族)の次女として、江戸の牛込南御徒町(現在の東京都新宿区南町)に生まれた。
明治4年(1871年)、仙は明治政府の事業である北海道開拓使の嘱託となり、津田家は麻布へ移る。
開拓使次官の黒田清隆は女子教育にも関心を持っていた人物で、仙は黒田が企画した女子留学生に梅子を応募させ、同年、岩倉使節団に随行して渡米。5人のうち最年少の満6歳であった。11月に横浜を出港し、サンフランシスコを経て、同年12月にワシントンへ到着。
アメリカではジョージタウンで日本弁務館書記で画家のチャールズ・ランマン夫妻の家に預けられる。
http://pds.exblog.jp/pds/1/201110/14/32/e0253932_2131034.jpg

28 :
▽津田塾大学
日本の英語教育・女子教育の先駆者である津田梅子が設立した女子英学塾を前身とする。東京都小平市津田町2-1-1に本部を置く日本の私立大学である。1948年に設置された。
女子差別撤廃条約批准、男女雇用機会均等法の設立時、津田塾大学卒業生の活躍がめざましく、一流大企業の重役、官公庁の女性職員の出身校が一貫して津田塾大学であり「津田マフィア」という言葉で呼ばれた。
学則に「キリスト教精神に基づく教育」を行うことが記載されており、礼拝が毎週行われ、キリスト教関連の科目が開講されるなどの宗教色が強い、キリスト教主義学校であるが、参加は学生の意思にまかされている。
https://kotobank.jp/image/dictionary/daijisen/media/106320.jpg

29 :
▽内村鑑三
万延2年(1861年)- 昭和5年。前スレ〔80〕で述べた。
福音主義信仰と時事社会批判に基づく日本独自のいわゆる無教会主義を唱えた。
本章では、黒田清隆の追悼文を書いたことが述べられている。
http://jp-word.net/wp-content/uploads/2015/04/%E5%86%85%E6%9D%91%E9%91%91%E4%B8%89.jpg

30 :
▽川漁
「魚が逃ぐっ」
西郷が、下野にあたって黒田にいった言葉というのは、これだけである。
http://www.yakatabune-konjaku.com/page/kon042/toami.jpg

31 :
黒田はさっそく本所小網町の西郷邸をたずねたが留守であったので篠原邸へ出向いた。だが立錐の余地もない来客が内外を埋めつくしており、懇談することができなかった。
隆盛は小牧新次郎という護衛の従者を連れ、政府に辞表を奉呈したのち、編笠で顔をかくし、隅田川から小舟に乗り上流の小梅村にある元庄内藩の米問屋であった越後屋喜左衛門の別荘へ身を隠した。彼はそこで魚釣りと詩をつくる閑居の数日を過ごしたが、越後屋と懇意な黒田が訪ねていったので、二十八日に東京を離れ鹿児島へ帰っていった。

32 :
明治元年9月27日に、北越出征軍の総指揮官として、荘内入りした西郷隆盛は、帰順した荘内藩からの城受領を部下の黒田清隆に任せた。米問屋の越後屋も庄内。西郷、黒田、越後屋のつながりは、このときにできあがったのかもしれない。

33 :
第19章 退去

〔二〕西郷従道
「俺や、帰っど」
と、言ったきり、西郷はしばらく黙った。
従道もいうべき言葉がない。従道が西郷の敵方にまわり、もっとも戦闘的な謀将のひとりとして征韓論を潰してしまった以上、この敗れた兄に対していまさら何をどう言っていいかわからない。
西郷はべつに機嫌を悪くしている様子はなかったが、しかし沈黙し、沈黙は十五分ばかり続いた。
そのあと西郷がいった言葉というのは、意訳すると、
「自分は詐略を用いなかった。いっさい用いなかった」
ということを、ひどく小むずかしい漢文脈の言葉でいった。
別れは、それだけである。

34 :
従道も黒田清隆と同様に10月21日の売茶亭の大久保派の作戦会議に呼ばれたという叙述があるだけで、実際に征韓論つぶしのためにいかなる働きをしたのかが、『翔ぶが如く』には書かれていない。
黒田の場合と同様に、この兄との別れのシーンも、いまひとつピンとこない。

35 :
★岩倉邸

▽幇〈ぱん〉
中国で経済的活動を中心とする互助的な団体。省外や海外などの異郷にあって同業・同郷・同族によって組織される。また秘密結社を指す場合もある。宋代に始まり、厳格な規約のもとに強い団結力と排他的性格をもつ。
黒田が征韓論では味方であった岩倉に、政敵であるはずの西郷の居所を明かさなかったことを指摘して、薩摩人集団が幇に似ていると司馬さんは述べられている。

36 :
★向島

▽小梅村
前スレ〔666〕に現在はない小梅村について書いておいたが、確認のためにもう一度いう。
ざっくり言うと、墨田川を挟んで浅草の東岸のあたりだ。
http://www.sumida.ed.jp/koumesho/shokai/access.images/map.gif

37 :
▽西郷の外政論
ロシア対策を基軸に据えた西郷の日韓清三国同盟に関しては、従道も基本的に同意見だった。
問題は韓国と清国の了解を得て、満州に対ロシア基地を築くべき時期であった。
反征韓論者の多くは、時期尚早論であった。

38 :
▽左宗棠〈1812年 - 1885年〉
士大夫の家系で、曾祖父・祖父・父は地元の教師だった。左宗棠は道光12年(1832年)に科挙で挙人の資格を得たが、進士には合格出来ず3回も落第したため、官僚への道を諦めて湖南で家塾の師となり、歴史や地理の研究に没頭していた。
自らを清末の諸葛亮と称していたため、大抵は変人扱いされていた。太平天国の乱の鎮圧に活躍し、洋務派官僚としても有名。中国では「清代最後の大黒柱」と非常に高い評価を受けている。
http://n.sinaimg.cn/collect/transform/20160219/YoHj-fxpsfak1651635.jpg

39 :
▽曾国藩〈1811年 - 1872年〉
1851年に太平天国の乱が勃発し清の正規軍である八旗が鎮圧にあたったが連戦連敗であった。長年うちに八旗は貴族化し弱体化していたのである。このため清国政府は各地の郷紳たちに郷勇と呼ばれる臨時の軍隊の徴募を命じた。
命を受けた曽国藩は複数の団練(地方有力者が自主的に組織した自衛のための民兵組織)をまとめ郷勇を組織させた。これが後の湘軍であり、湘軍が最終的に太平天国軍を破った。
https://dictionary.goo.ne.jp/img/daijisen/ref/102714.jpg

40 :
▼郷勇
郷勇は兵乱終息とともに解散するのが原則であり、曾国藩は1864年に湘軍を解散したが、淮軍はひきつづき清朝の軍事的支柱として維持され李鴻章の権勢を保障した。湘軍も左宗棠など湘軍出身の大官僚によって実質上継承されていたが、日清戦争においてまず淮軍が壊滅し、ついで湘軍系も馬脚を現したことによって、非正規の郷勇が正規軍を代行する時期は終わった。
しかし袁世凱や段祺瑞が体現するように、淮軍は直接間接にのちの北洋軍閥につながり、湘軍系や各地の郷勇もまた近代中国における大小の地方軍閥の先駆となったのである。

41 :
▼洋務運動
アロー戦争に敗北した1860年から、日清戦争に敗北する1894年までの34年間にわたって行われた清朝の近代化を進めた運動。
アロー戦争の敗北後、列強の侵略と国内の農民反乱を防ぐには、西洋にならった産業の育成や、軍制の改革が必要であると考える漢人官僚が多くなった。漢人官僚の中心は、太平天国鎮圧の主力となった曽国藩とその部下であった左宗棠・李鴻章などであった。

42 :
▽左宗棠の福州船政局
彼らは上海など各地に近代的な造船や武器の製造工場を設立したり、陸海軍学校、外国語学習のための学校などを建設した。
李鴻章(淮軍)による上海の江南製造局(銃砲・弾薬と汽船製造)と南京の金陵機器局(大砲と火薬)、左宗棠(湘軍)による福州船政局(造船所)、崇厚(満州貴族)による天津機器局(火薬と砲弾)の四つが洋務運動での四大工場とされる。

43 :
洋務運動の理念は、中国の伝統的な文化や制度を本体とし、西洋の機械文明の技術だけを取り入れようという「中体西用」であったので、根本的な改革には至らず、政権を維持するためだけのうわべの改革に終わった。
その時期はちょうど日本の明治維新の時期と同じであり、近代化運動として両者が対比される。日本は統一国家の形成に成功したが、清では有力漢人官僚の私的な勢力である軍閥の形成が進み、結局崩壊した。軍閥は中華民国成立後も独立政権として各地に残存し、近代中国の統一国家の形成を阻害した。

44 :
また、洋務運動が行われていた1870〜80年代は、清朝が周辺諸国に有していた宗主権を、次々と放棄していった時期であった。
1871年、最初の対等な条約として日清修好条規を締結したものの、琉球帰属問題では74年の日本の台湾出兵により、事実上琉球を放棄した。また翌75年の江華島事件による日本の朝鮮侵出により、朝鮮に対する宗主権を脅かされることとなった。
また、ベトナムでは1858年のナポレオン3世のインドシナ出兵以来フランスが侵出し、1884年にベトナムを保護国化した。清はそれに抗議したが同年の清仏戦争で敗れて、天津条約(1885)を締結してフランスによるベトナム保護国化を認めた。

45 :
それでも清朝は命脈を保っており、ヨーロッパ各国は清朝を「眠れる獅子」と見て、洋務運動の成果を見守っていた。しかし、朝鮮問題から勃発した1894年の日清戦争は、清国の一方的な敗北に終わった。それによって列強は清朝の国力を見限り、98〜99年に一斉に露骨な分割競争を展開する。
その間、戊戌の変法という改革も頓挫し、外国の侵略に対する中国民衆の抵抗として起こった義和団の乱が鎮圧され、その約10年後に清朝は滅亡することとなる(1911年:辛亥革命)。

46 :
          _____
          /ノ      ヽ \
      / /・\  /・\ \   ご冥福をお祈りします
      |    ̄ ̄    ̄ ̄   |
      |    (_人_)、     |
      |     \   |     |
        \     \_|    /

47 :
▽イリ事件
イリ(伊犂)は現在の中国領新疆ウイグル自治区伊寧市。この地のイスラーム教徒が反乱を起こすと、ロシアが介入し出兵、事実上の占領下に置いた。ロシアは中央アジアの南方から勢力を伸ばしてきたイギリスが新疆方面に侵出することに対抗しようとしていた。
清朝はロシアに抗議し撤退を要求したがロシアは動かなかったため、1875年から左宗棠が指揮して作戦を展開し78年までに清領を回復した。1881年にイリ条約が成立、イリ地方は清朝領として確定した。
http://www.tkfd.or.jp/files/img/labnews/1449_1.jpg

48 :
イリ事件は、1870〜80年代の清領の辺境における列強の侵出の一つである。他にチベットや雲南地方にはイギリスが迫り、清朝が宗主権を持っていたベトナムにはフランスが、朝鮮には日本がそれぞれ迫っていた。
左宗棠は、清仏戦争では光緒10年8月から翌11年(1885年)4月まで、欽差大臣として福建省沿岸の防衛を任命された。同年9月、72歳で福州で病死。

49 :
▽対露軟弱方針の朝廷
司馬さんの叙述だと、イリ事件は存在せず、左宗棠による新疆の清領回復もなかったように読めるので、注意してください。
ここでいう「対露軟弱方針」とは、イリ事件の前年(1874年)におきた海防・塞防論争における李鴻章の考えのことです。
ヤクブ・ベクの乱〔>>47のイスラーム教徒の反乱のこと〕を契機に南下したロシアに対して、左宗棠は直ちに新疆遠征の準備に取り掛かりました。しかし李鴻章がこれに反発、同治13年(1874年)に海防・塞防論争が起こりました。

50 :
左宗棠はロシアに対する陸上の備えの重要性を主張する塞防派の代表格であり、イギリスに対するために海軍を重視する海防派の代表格である李鴻章とは政治的に対立関係にありました。
新疆に関しても、弱体化した支配を立てなおそうとする左宗棠と、海軍に集中するために防衛の難しい新疆をロシアに割譲しようとする李鴻章との間では意見の相違があったのです。
論争は翌光緒元年(1875年)、軍機大臣文祥が賛成したため海防・塞防どちらも行う方針で決定され、欽差大臣に任命された左宗棠はヤクブ・ベクの乱により清の支配力が弱体化した新疆の軍務を担当し、新疆東部における清の数少ない拠点ハミで屯田持久策を採り、出兵を整えました。その後の展開は、>>47に書いてあるとおりです。

51 :
北方水滸伝では、本賽の養生所の三人の医者のひとりにすぎなかった文祥が、清朝の軍機大臣にまで出世したのか。

52 :
司馬遼太郎には「イリ十日記」という紀行があるが、このときまでにはイリ事件の勉強はしたんだろうな。

53 :
左宗棠を中心に、洋務運動時代=列強の侵略が露骨になった時代(1870〜80年代)の清国について長々と書いておりますが、眼目は、左宗棠が西郷隆盛を称賛する言葉を述べたというところです。
この挿話は、西南戦争のずっと後に、西郷従道が耳にします。ずっと後のことなのに、西郷従道が向島から小梅村に向かう途次で、司馬さんが勝手に考えています。明治6年の従道は、左宗棠の言葉を知るはずがないのです。

54 :
小梅村に向かう道中で、従道が考えたことだったら、まだ許せるのにな。
無理やり感が強い。

55 :
「街道をゆく」を書き始めてからの司馬さんは、時空を超越する技を覚えた。
マルセル・プルーストの技よりも、すごい技かもしれない。

56 :
しかし、“人間発電所”ブルーノ・サンマルチノの技には勝てない。

57 :
そんなブルーノ・サンマルチノも、電気ウナギには勝てない。

58 :
ブルーノ・マーズの“ブルーノ”は、ブルーノ・サンマルチノに似ていたことから幼少時代に付けられたあだ名だと言われているが、
ブルーノ・サンマルチノの顔とブルーノ・マーズの顔のどこが似ているのかサッパリわからない。

59 :
以上、余談である。

60 :
>>49
いちおう左宗棠は「新疆省を鎮定した」とは書いてあるよ。
その直後に、「武力解決を主張したが朝廷に容れられなかった」と書かれているから、わけがわかんなくなるわけで。

61 :
>>49
李鴻章が対露軟弱方針というわけではなく、四方を列強の軍に囲まれて、対ロシアを優先するか、対英国を優先するかの争いだよね。

62 :
春先、ドアノブに触れると、電気が飛んで指先が痛い。
俺もついに“人間発電所”。

63 :
それ、もういいからc(`・ω´・ c)っ≡つ ババババ

64 :
▽池上四郎
明治6年の征韓論は、おもにロシア対策であり、西郷隆盛は清国、韓国と連携してロシアに対抗しようとしたと考えられる。その証拠として、池上四郎を通して鈞差大臣の左宗棠に連絡をつけていた。
後日、弟の西郷従道は左宗棠から「惜しいかな、日本は西郷を容れることなく、その壮図を空しくさせ、しかも彼を殺してしまった。その損耗は清国におけるアヘンの害どころではない」といわれたという話は有名である。

65 :
西郷が旧庄内藩士酒井玄蕃〔前スレ934〕に語ったという内容を紹介する。
西郷は、米国公使レジェンドルから、ロシアと英国の戦争が近いと知らされていた。明治8年のイリ事件のことである〔>>47〕。
「英・魯の際に近く事起こり申すべきと、此の頃亜国(アメリカ)公使の極内の心付けもこれにあり」

66 :
西郷は、英国とロシアの対立を利用して、ロシアと戦争することを考えていたのである。英国と同盟するためには、英仏に北海道を貸し与えるくらいの策略を持っていた。これらの流れで、朝鮮との戦争を考えていた節がある。

67 :
この章では、左宗棠の談話を引用して、西郷隆盛が先覚者であったように書かれている。
筆者には、西郷の外政論は、失業した士族50万人の名誉と収入を守るための苦肉の策であったようにしか思えないのだが。

68 :
▽しかぶっ
薩摩弁で、オシッコを漏らすことである。

69 :
▽框〈かまち〉
床の端に渡す横木。
https://weblio.hs.llnwd.net/e7/img/dict/fkkck/fcmweb/daijiten/dimg/202.gif

70 :
西郷の小梅村の隠れ家を訪ねてきたもうひとりの人物、高島鞆之助のことが蛇足的に述べられている。

71 :
▽高島鞆之助
前スレ〔890〕で述べた。天皇の側近団のひとりとして山岡鉄太郎、島義勇、吉井友実とともに紹介されていたあたりを思い出してみてくれたまえ。

72 :
高島は大久保の命で、従道が小梅村を訪ねた翌朝、西郷の動静を探りにきた。

73 :
第19章 退去

〔三〕西郷隆盛
西郷は、十月二十八日、東京を発つ。ついにかれは生涯かれの詩にいう「京華名利」の都府に帰ることはなかった。
西郷が同時代人にも後代のひとびとにも形容しがたいほどの詩的感情をもって敬愛されたのは、新政府における最高の栄爵につつまれつつ、それを捨てて孤影東京を去るというこのあたりの情景にあるであろう。
征韓論はこの時期の日本の現実からいっても、端的にいって愚論でしかない。しかしその論において、かれはこの時期の全国五十万の士族の不満と動揺というものを集約し、その解決を兼ねて既に樺太まできているロシアの東漸運動を、最終ぎりぎりの時期において未然に防ごうとした。
そのことが、かれにおける先王であり先師でもあった島津斉彬の遺志でもあり、かつ、幕末において路傍に斃れた無数の志士の怨念を果たす道であるとも考えていた。

74 :
▽我家松籟洗塵縁  我が家の松籟塵縁を洗い
  満耳清風身欲僊  満耳の清風に身僊ならむと欲す
  謬作京華名利客  誤って京華名利の客となり
  斯已声不聴三年  この声聴かざることすでに三年

75 :
自分の家の松風の音が塵の浮世の縁を洗い去り 
清らかな風が耳いっぱい吹き入って すがすがしい気持ちになり
何時の間にか仙人になってしまいそうな気がする。
思えば、自分はあやまって都の出て 名誉利益を追う旅の客となり
この松風の声を耳傾けて聞かなくなって早3年になる。

76 :
徳澤園の階段の上のい壁に架かる揮毫は西郷隆盛のものである。
この揮毫は明治6年西郷47歳のとき、征韓論に破れ10月28日帰郷の途につき、11月10日鹿児島に着いた。まさにその日に作られた田園生活吟詠の第一声である。
http://homer.pro.tok2.com/20091011tokusawaennsaigou1.jpg

77 :
▽清潔の徒
西郷は救いがたいほどの清潔の徒であり、濁流を見て水の濁りを嘆くという詩人気質があった。
この点で、西郷の先師である島津斉彬と異なっていた。

78 :
筆者も幼少期に勧善懲悪ドラマを見過ぎたせいで、西郷と同じです。
悪いことをすると、悪い宇宙人と戦っていたゴジラに申し訳ないという気持ちになります。

79 :
「例の性分」
といったふうに西郷の年少のころからの同志である大久保が、愛憎の血を泡だたせつつ罵るのはそのあたりであろう。
詩的行動者が大衆の喝采をうけ、踏みとどまって実務という泥をかぶらざるをえない職人的現実主義者が奸物という汚名を蒙らざるを得ないことを、大久保はよく知っていた。

80 :
★日本橋小網町

▽小梅村
西郷は向島小梅村に5日間いて、10月27日の午後、越後屋の寮を出た。

81 :
▽10月24日付太政官文書
陸軍大将以外の辞表を受理した。

82 :
▽10月28日朝
品川から船に乗るために日本橋小網町の家敷を出た。
従者は竹内矢太郎ひとりであった。
竹内矢太郎は、市助と同じ薩摩谷山出身。Part11〔267〕Part12〔340〕

83 :
▽種子田定一
西郷の近所に住む老婆から、西郷の風貌を質問された薩摩人。
どのような人物かは、わからない。
架空の人物かもしれないが、鹿児島県薩摩郡さつま町に「柏原種子田」という地名はあるし、神風連の乱で殺害された熊本鎮台司令長官種田政明は「種子田」政明と表記されることがあるので、実在した人物かもしれない。
ただし、「種子田」政明が定一を名乗ったことはない。

84 :
司馬遼太郎の本名が福田定一なので、オリキャラくさいな。

85 :
第19章 退去

〔四〕桐野利秋
「おきよ、おきよ」
と、鞍の上から大声で呼ばわった。門内に入らないどころか、馬から降りようともしない。
「いるか、おきよ」
と呼ばわるうち、女が何事かと思って転ぶようにして出てきた。
桐野は馬上から、
「俺はゆえあってこのたび官を辞めて帰国する。あるいは今生では再び会えぬかもしれぬが、身のふり方は勝手にせよ。これは形見と有金である」
というなり、短刀一口と財布を投げ、投げるや馬首をめぐらして颯々と去ってしまった。

86 :
むかしの任侠映画が追及していた男の美学だな。

87 :
しかし鶴田浩二や高倉健が桐野利秋を演じることは絶対にありえない。
幕末の暗殺者のイメージと西郷を自害へ追いやった人物として、いまいち人気がない桐野。

88 :
「翔ぶが如く」で司馬さんは颯爽とした桐野の一面を強調されるが、俺は桐野が登場するたびに早く消えろと思ってしまう。
無学な桐野に親近感はもてないな。

89 :
>>85
>「おきよ、おきよ」

「おきよ」の名前を二度呼んでいるのか、寝ていたおきよを起こしているのか、前に読んだときも悩んだ。

90 :
★有馬藤太

▽有馬純雄
第4章「情念」の中村楼騒動で中心人物として登場した。Part11〔385-387〕で述べた。
有馬純雄は、明治政府に出仕して弾正台や司法省官吏を務めた。明治六年の政変で西郷隆盛が下野したときに辞職し、銀座煉瓦街で代言人の看板を立てる。
明治10年の西南戦争に際しては、大阪で有志を募り挙兵して、その功で西郷軍に加わろうとしたが、警察に仲間が摘発されて失敗し、有馬も1年ほど拘束された。

91 :
▽畷〈なわて〉
1.田の中の細道。あぜ道。
2.まっすぐな長い道。
京の四条の店先で有馬の喧嘩を中村半次郎が見ていたというのであるから、ここでは2の意味である。
※酒呑畷古戦場跡(本章とは無関係であるが、畷のイメージにぴったりなので掲げた)
http://tikugo.com/blog/wp-content/uploads/blog_import_55fce41ce5558.jpg

92 :
有馬藤太と近藤勇の関係については、短編集『余話として』の「有馬藤太のこと」で詳しくやる。

93 :
有馬純雄(藤太)は司法省出仕の時に、西郷の辞職に遭遇した。
有馬も辞職し鹿児島へ帰ろうとしたが、西郷の意向もあり東京に残って代言人となった〔>>90〕。

94 :
西郷の辞職を契機として、近衛軍士官他の大量の辞職者が続発する。結果的に、当時の政府首脳である参議の半数と軍人・官僚約600人が職を辞した。
その一人めとして有馬純雄が取り上げられている。

95 :
★湯島切通坂

▽切通坂
桐野は湯島切通坂にあった元大名屋敷に住んでいた。その大名とは家康の四天王の一人榊原康政の榊原家である。明治維新で桐野利秋の所有となり、後に西郷隆盛とともに利秋が鹿児島に帰るとき、岩崎弥太郎の所有となった。
戦後、最高裁判所の司法研修所となった(昭和46年)。ただし現在の司法研修所は埼玉県和光市にある。
http://www.uchiyama.info/oriori/image/insho/saka/bunkyo/kiri/kiri1.jpg

96 :
▽榊原家
榊原家が越後高田藩15万石を治めたのは、寛保元年(1741年)からである。
姫路藩主榊原政岑は、吉原での乱行を咎められ、将軍徳川吉宗から隠居を命じられたため、長男の政純が家督を継ぎ、姫路藩から高田藩に国替えを命じられた。父に対する懲罰と、幼少の藩主では西国の要である姫路藩主は務まらないとしての転封である。

97 :
▽死生命有り、富貴天に在り。
桐野が好んだ名言。出典は『論語』。
生きるも死ぬも天命で決まったことだから人の力ではどうにもならない。 また、富を得られるかどうかも運次第である。だから上手く行かなくても悩んでも仕方ない。ただし、どうせ天が決めるのだからといって努力を怠っていいわけではない。天は努力を怠る者に成功を与えない。...

98 :
▽綾小路貞利
桐野のサーベル拵えの軍刀を打った山城鍛冶。
司馬さんは刀工の名前を根気よく引用されるが、覚えきれないし、実物の日本刀を見たこともないので、どうでもいいといやあどうでもいい。

99 :
うちには錆びた道中脇差ならあったぞ。どうせ鈍らだろうが。

100 :
★太政官正院

▽10月24日朝
西郷は辞表を提出するについて桐野に相談したわけではないので、桐野がその事実を知ったのは翌24日であった。
桐野も誰にも相談することなく、太政官正院に赴いて辞表を書いた。


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