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因島・中庄在郷の陣貝(石名)松浦氏。


1 :2014/10/23 〜 最終レス :2018/08/23
因島に名門・茶臼山城主松浦家あり。
光明寺の松浦観傳さんの資料を
紐解きながら、謎を解いていきます。
因島で確実に史実で明らかなのは1,500年の合戦。
松浦宗義の妻・妙泰夫人は、主人の
影武者として、男装して一族郎党と共に
奮戦するも土生村の赤牧でついに戦死。
「妙泰神社」に祭られています。

2 :
以下、松浦厨隔離スレ

3 :
現在の松浦家は3つに分かれています。
10代目の松浦太郎左衛門尉 盛光の時に
本家の陣貝(石名)と徳永松浦、釜田松浦に
分家。
「なんでも鑑定団 愛のエメラルド氏」は本家
17代目鶴本屋(たるまん)弥八の系統で24代目に当たります。
「万田発酵」オーナーの松浦新吾郎氏は釜田松浦家の田中屋初代
清助から11代目にあたります。

4 :
結論
馬鹿と煙と松浦は高い所が好き
薄っぺらいかどうかはわかりませんが
私の祖先のことがかなり分ってきました。
昨日まで広島県因島中庄で祖先のことを調査したんだが
私の祖先は山の上の茶臼山城主だったとの事。
歌手ボルノグラフィテイのボーカル岡野昭仁の祖先と
我が松浦家の祖先は約600年前南北朝の時代、
北朝側の大将・副将格として南朝側の村上師清の
水軍勢と戦い破れています。(鶴島・箱崎浦の戦い)
なお因島の松浦家で一番著名なのは万田発酵のオーナーさんです。
ビッグな大根で有名?な会社です。私の遠縁筋にあたります。
   なんでも鑑定団 愛のエメラルド

5 :
松浦家の元祖は城戸(きど)太郎兵衛尉
従五位下 藤原盛義
石名(陣貝)松浦家に祀る位牌及び
過去帳の最古のもの。
石名松浦の元祖。
この当時は松浦の名前は名乗ってはいなかったようです。
建武元年(1,334年)5月1日寂
法名 天真院寶山義永大居士

6 :
ここで興味を引くのは九州の松浦党が出てこない事。
出て来たのはなんと土佐国(今の高知県)でした。

7 :
石名松浦元祖
城戸(きど)太郎兵衛尉
従五位下 藤原盛義
 元弘三年(一三三三年)五月、北条家滅亡の後、
後醍醐天皇は天下泰平の ご祈願のため、備後尾道の浄土寺に、
「因島」を寄進する論旨を下された。
 この時、土佐国但馬守の侍従藤原忠義の家臣であった盛義は、
忠義に属して、尾道浄土寺へ赴き、さらに浄土寺の領地になった
因島へ渡った。
 その後、盛義は、忠義に従属して、伊予近海において戦い、
その功績によって、
従五位下に叙せられた。

8 :
因島松浦家のクライマックスは
石名松浦7代目藤原義康の時代です。
1500年、釣島箱崎浦の戦いに敗れ、茶臼山城は落城。
岡野家の始祖、三津庄の皇室領地頭職・岡野(今岡)対馬守越智四郎通宗と
7代目義康の弟・宗義は田熊村龍ガ迫乗末に於いて、敵将と共に討死。
戦死した宗義の影武者となり男装して奮戦した妙泰夫人も
土生町郷区字赤放でついに戦死。
7代目の義康の娘も茶臼山城の近く、西浦峠で討ち死にを遂げています。

9 :
 1本松山の屋根を通って郷の妙泰神社に出る。
この辺は釣島箱崎浦合戦の古戦場で南朝方村上師清に攻められた
北朝方今岡(岡野)通任勢の中庄茶臼山城主
大鳥少輔(松浦)義康の弟大鳥九郎左衛門尉宗義の妻
妙泰夫人を祀る。
 宗義は田熊の龍ガ迫で戦死し、妙泰は郎党数名と
義康の影武者として奮戦したが、此所土生越で戦死した。
義康の二男盛久と女児一人が土生の三子松で切られて
相果てたと伝えている。
 三子松から宝池谷、空谷、長加谷と越え三庄千守にかけ
古戦場で、墓石や供養塔が数多く残っている。
郷の広畑で通称楠木にある笠塔婆は、
今岡(岡野)四郎通任の墓で
「青影落葉神」と伝えている。

10 :
 妙泰夫人の墓(供養塔)は田熊浄土寺にある
岡野對馬守藤原道宗公(歌手ポルノグラフィテイ ボーカル岡野昭仁の御先祖)
の墓地にある。 
  元禄9年
 妙泰菩提也
  三月二日
と刻銘されている。
戦死から三〇〇年余り後なので供養塔と思われる。
 また妙泰神社の分霊が島内に二〜三か所祀ってあると聞くが、
私の知る範囲では三庄三区の郵便局の奥に一か所ある。
妙泰さんは女性の願いこと一切に効くと云うことで、
かなりの信仰を集めている。
 戦前はお堂の格子に、大小さまざまな乳型や、髪の束が
所せましと願掛けのため奉納してあったのをおぼえている。
また若い人には縁結びの神さんとして人気があった。
 参考「因島史跡散歩」田中稔 村田市郎
  この本は村上水軍城で購買可能です。

11 :
私が腑に落ちないのは
なんで松浦妙泰夫人の供養塔が
岡野家の菩提寺浄土寺にあるのかと云う事です。
村上家の墓が金蓮寺にあるのと同様、
松浦家の供養塔は中庄・長福寺になければおかしい。
逆に言えば岡野家はそれだけ一族挙げて
岡野家に協力した松浦一族に感謝しているのかもしれませんね。
   
   なんでも鑑定団 愛のエメラルド

12 :
 岡野(今岡)氏の因島進出に少し遅れて
南朝方の村上氏の勢力が伸びて来ます。
この辺の事情は水軍城で購入した「因島の歴史」森本繁著作に詳しいので
引用させて頂きます。
 海の武士団村上氏が因島へ勢力を伸ばしてくるのは十四世紀の終わり頃である。
因島本主の上原佑信が死に、それを継承した広沢五郎基実が因島から追放されると、
今度は今岡(岡野)四郎左衛門尉道任という武将が因島へ
進出してきた。
 (岡野)道任は伊予の守護河野氏の一族で
、大三島の甘崎城を根城に伯方島の枝越城を支配していた。(中略)
 道任は文中三年(1,374)頃伊予村上氏七代目村上義弘(越智郡大島)が
亡くなると、
伊予の能島を支配下に置き、小早川氏と対抗しながら北上して
因島に進出し、土生の島前城に本拠を置いた。目前の亀島には
竹島城がある。通任は中庄に本拠を構える小早川氏に備えて、
茶臼山に大島義康(松浦石名7代目)という
武将を配置した。

13 :
天授三年(1,377)11月15日、この因島島前城へ
海上から(伊予村上氏8代目)村上師清の軍勢が
押し寄せて合戦が行われた。
霜月合戦とも呼ばれる鶴島・箱崎浦の戦いである。
村上師清は(伊予村上7代目)村上義弘と祖先を
同じくする清和源氏の一族で、
信濃村山氏の末裔(八代目)である。

14 :
 清和源氏村上氏の始祖は源頼義の弟頼清であり、
頼清の養子仲宗が村上氏を名乗った。この仲宗の孫為国が
信濃村上氏の祖となり、為国の弟定国が瀬戸内に下向して
伊予村上氏の祖となったのである。
村上義弘はそこから数えて7代目の人物であった。
 村上師清は信濃国(長野県)埴科郡坂城の村上郷にいたが、
同族の村上義弘が死去したことを聞き、
手勢を率いて大和の吉野朝廷(南朝)へ参上して、
長慶天皇から義弘の名跡を継いで瀬戸内の南朝勢力を
盛り立てよと命じられた。
 そこで師清は、瀬戸内の海賊衆を心服させるために、
名門北畠顕家の猶子を名乗って天授三年三月、
兵船三十艘に分乗して紀州雑賀港から出港した。
南朝方熊野水軍や雑賀衆の支援を受けたのである。

15 :
 先ず讃岐の塩飽島へ渡り、塩飽三郎光盛を降した。
次いで備中神島を征服して稲住氏を味方に加えた。
 そのあと、伊予の越智郡大島に乗りこんで、
長慶天皇の思召しを伝えた。村上義弘の部下であった
侍大将や各奉行・船頭たちが能島に集まって
協議した結果、
師清を頭領に仰ぐことに決定し、
これを不服とする今岡(岡野)通任を因島の島前城に
攻めたのが、この天授三年の霜月合戦というわけだ。

16 :
 合戦の結果、今岡軍(歌手ポルノグラフィテイ岡野クンの先祖)
は残念無念にも敗北した。
 先ず、鶴島・箱崎浦の海戦で今岡(岡野)通任率いる
河野水軍が破れ、陸上の戦闘では通任の長子道宗(対馬守)と
茶臼山城主大鳥(松浦)義康の弟宗義が戦死した。
 
 また宗義の妻妙泰夫人も城主大鳥義康の影武者となって戦い、
土生越(妙泰越)というところで戦死した。
義康の次男盛久と女子も土生の三子松まで逃れて、
討手に斬られたと伝えられている。

17 :
白石一郎と和田竜が読みたくなってくるな

18 :
話が初代から七代目に飛んでしまったので
二代目に戻そう。二代目から大鳥の姓を使うようになります。
初代は城戸(きど)の姓を称しています。
石名松浦二代
 城戸賜大鳥二郎兵衛尉 藤原光景
 文和三年(1,354年)三月二日寂
 法名 瑞龍院徳岩永澤大居士

19 :
  戦功により叙位され、「大鳥姓」を賜る。

 歴應元年(1,338年)足利尊氏(後に正二位征夷大将軍)と
新田義貞との合戦の時、光景は尊氏に従属し、のちに
備後玉の浦浄土寺へ逃げ込み、さらに観応元年に
尊氏の九州討伐に参加して功績を挙げた。
 この功績によって、従五位に叙せられ、
「大鳥姓」を賜る。
 即ち、これまでの城戸を
 大鳥姓に改めた。

20 :
石名松浦三代目は割に地味な人だったのかなぁ。
病気がちだったのかな。
特記すべき項目がありません。
2代目よりも約4ヶ月半早く
亡くなっています。

21 :
  大鳥式部民之尉 権大学
  修理権太夫   藤原盛長
文和二年(1,353年)十一月十六日寂
法名 長生院大真義孝大居士
 ○ 法名の長生と云う言葉が涙を誘いますね。
   親孝行を3代目、したかった筈です。

22 :
馬鹿と煙と松浦は高いところが好きッテ
南北朝時代も言われていたかも知んない。
陣貝(石名)四代目は官位が松浦家としては
最高の従四位下にまで昇進します。
官位を貰うと言う事は並大抵な事ではありません。
徳川家康を例にあげれば、名実ともに三河の支配者として
従五位下に相当する「三河守」の受領名が
欲しくなった時点でどうしようもない壁にぶち当たっています。
官位が与えられるには源氏か平家か藤原氏か橘氏でなければならず、
苦慮した松平家康はそれまでの松平姓を捨て、
清和源氏新田流の世良田の系列だと名乗り始めます。

23 :
欲しかったのは国司名としての官位な
なにしろ国司あがりの武家が多かったからな
官位自体には意味はあらん

24 :
権威としての官位は決してないがしろに
出来るようなものではありませんでした。
従五位下の位の人物では清少納言が有名です。
神祇官では大副、太政官では少納言、中務官では侍従・大監物。
省では少輔の位が従五位下の官位です。
上国の「守」の官位を三河の徳川家康は姓を改名することによって
手に入れる事が出来ました。

25 :
┃因島中庄町茶臼山城跡
┃ 標高126.2メートルの茶臼山にあり、
本丸の南西側に二の丸南に三の丸、北と東側に
段状地があり、山麓に屋敷跡がある。大鳥伊予守義直の居城という。

┃  頂上に茶臼山城主の碑がある。東側中腹に茶臼神社と
松浦家祖先之碑があつたが、
のち茶臼神社は室神の松浦家の敷地内に移された。

26 :
石名松浦4代目
 豊後守修理大夫 藤原光貞

 画所預職という官職と
従四位下という官位を有し、
もと京都に居住していたが、後に備後因島へ渡り、
仮城居を築く。

 ただし、どこに
築いたのか、まだ不詳。

27 :
   仮城居を築く
石名松浦4代目
 豊後守修理大夫 藤原光貞
 画所預職という官職と
従四位下という官位を有し、
もと京都に居住していたが、後に備後因島へ渡り、
仮城居を築く。
 ただし、どこに
築いたのか、まだ不詳。

28 :
大鳥豊後守修理大夫画所預職 
従四位下 藤原光貞
※ その後、土佐官に任ぜられたという記録もあるが、
  仮城居を次の世代義直に譲り土佐国へ赴任したか、
  あるいは京都へ隠棲したか
  詳かではない。

29 :
画(絵)所預職
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E7%94%BB%E6%89%80%E9%A0%90%E8%81%B7&aq=-1&oq=&ei=UTF-8&fr=slv1-snvaio&x=wrt

30 :
土佐光起 ウイキぺデイア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E4%BD%90%E5%85%89%E8%B5%B7

31 :
土佐派 ウイキぺデイア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E4%BD%90%E6%B4%BE
巨勢派の巨勢公望の門人春日基光を遠祖とし、数々の名手を世に送り出した流派。
本画派は、純日本的ないわゆる大和絵の伝法を樹立し、
14世紀南北朝時代の藤原行光を祖とし、
室町時代のおよそ200年の長きにわたって朝廷の絵所を世襲し、
伝統と権勢を誇った。特に土佐光信の時代には、
宮廷や将軍家と密接な関係をもち、最盛期といえる。
しかし、室町時代末期、光信直系の孫土佐光元が但馬攻めで
戦死したことにより絵所領職を失ってしまう。
桃山時代に門人土佐光吉が堺に拠点を移し、
江戸時代光吉の後継者土佐光則がその子土佐光起と共に京都に戻る。
承応3年(1654年)光起が絵所領に就任し流派は再興され、
以後幕末までその地位を維持した。
また、光吉、光則の門人である住吉如慶は江戸に行き住吉派をたて、
子の住吉具慶の時に幕府の御用絵師となり、
土佐派と同様に幕末まで続いた。
しかし、光起や具慶以後は、新規の画題や表現に取り組むことはあまりなかった。

丁寧で繊細な作風が特徴である。
土佐派は朝廷の御用絵師という立場上、浮世絵に対し否定的だったが、
浮世絵師にとって土佐派が描く日本の伝統的なモチーフは
、画題や様式の基盤であり、浮世絵を正統たらしめる大義、
拠り所であった。岩佐又兵衛は土佐光信末流と記しており、
菱川師宣も他の流派にならんで土佐派を学んだことに言及している。

32 :
14世紀南北朝時代の藤原行光を祖とし、
室町時代のおよそ200年の長きにわたって朝廷の絵所を世襲し、
伝統と権勢を誇った。特に土佐光信の時代には、
宮廷や将軍家と密接な関係をもち、最盛期といえる。
☆14世紀南北朝時代の藤原行光を祖とし
 と云う部分は気になりますねぇ。行光と光貞は
 「光」と云う共通の名前を使っています。
 因の島松浦家に光が射してきたかな。。

33 :
因島辞典
因島と云えば はっさくん
村上家と云えば 金蓮寺
松浦家と云えば 長福寺
井川と云えば 熊固原神社
岡野と云えば 浄土寺
中庄と云えば 海抜1、1b
大根と云えば 万田発酵
女将軍と云えば 妙泰神社

34 :
 五代目は茶臼山へ城を築きます。元祖城主の誕生です。
併せて社殿を建て、藤原の祖神を祀ります。
「馬鹿と煙と松浦は高いところが好き」と
この頃から揶揄されるようになります。?

35 :
どうしても登んなきゃぁなんない。
そんな使命感(?)を抱いて
茶臼山に登ってきました。
とても雑草が茂ってて登れたもんじゃァないよと云う人もいましたが
松浦家の御先祖が精魂込めて造ったお城。登ってきましたよ。
嬉しかったですね。僕にも(先祖の造った)お城があったんだ。

36 :
 お城を築いたのは
大鳥伊予守 茶臼山城主
従五位 藤原義直
 応永三年(1,396年)、義直は一族郎党を率いて、
土佐から領地である因島へ移り、
茶臼山へ城を築く。
 いわゆる茶臼山城主の元祖になった。
 同時に、茶臼山へ社殿を創立し、
祭神として、藤原の祖神である天津児屋根命を
勧請した。

37 :
   (一説に、松浦家の元祖ともいう。)
 もと、土佐国左武太夫光忠の家臣として、土佐に居住していた。
この頃因島は「隠島」と呼び、土佐の国の配下に属していた。
 永徳二年(1,382年)伊予越智郡三津海浜において合戦があり、
この時、海屯陣(水軍)の一方の幡大将として、よく戦い、
遂に敵軍を鎮圧した。
 その功績により、従五位に叙せられ、因島の領主(代官の役)を
賜った。
応永三年(1,396年)、義直は一族郎党を率いて、
土佐から領地である因島へ移り、
茶臼山へ城を築く。
 いわゆる茶臼山城主の元祖になった。
○ これまでのお殿様は因島と土佐、京都を行ったり来たりする
  年月だったかもしれないですね。
  因島の土佐出張所から因島本店へ
  なったようなもんかな。
  自前のお城を持ったと言う事は大したもんです。
    なんでも鑑定団 愛のエメラルド

38 :
 この頃、中国地方の沿岸の様衝には、すでに、
かなり堅固な要塞が各地に構築されていた。
 応永三年(1,396年)、義直は一族郎党を率いて、
土佐から領地である因島へ移り、
茶臼山へ堅固な城を築く。
永亨六年(1,434年)8月1日寂。
法名 藤原院臼山自然大居士
 ※ 西浦松屋の過去帳には「永亨六甲寅年八月朔日
   小田薬師に葬る云々」という記録があります。
   臼山自然大居士という法名に
   お殿様のお気持ちが
   よく
   滲み出ていますね。
   私、なんでも鑑定団 愛のエメラルドは
   お殿様の子孫です。
   今後ともなにとぞ、宜しくお願い致します。

39 :
「臼山自然大居士」と云う言葉には惹かれますね。
私は茶臼山には岩本いんのしま養蜂場の所から
登り始めたんだが、ここで戴いた純粋蜂蜜の^美味い^事。
 ^やっぱ自然食品に限るわぁ〜
万田発酵さんにも惹かれますねぇ。
混ざりッ気なしの自然食品だもんねえ
 松浦新吾郎さんのお話にも感心したなぁ。
「種の良し悪しは遺伝が大きく作用します。
親の性格を60%ぐらい受け継ぎ、
残りの40パーセントは環境に左右されます。不思議な事に
良い環境を与えてやると、親のいい面が出る。
 祖先のいい所を受け継ぎ、因島の自然環境が
美味しい自然食品を育んでいると言えそうです。
蜂蜜の岩本さんも松浦家の血が入っているそうです。
「万田発酵採用サイト」
http://www.manda.co.jp/recruit/about/index.html

40 :
  大鳥左京尉 藤原直盛  
 瀬戸内海銀座、海上交通のパイロット役
 中庄、茶臼山城に居城する傍ら、因島(重井)馬上山に
出張し、献貢船の監視役を務め、
また時々には長井浦において通船を検査する等、
海上交通の取り締まり役を務めた。
この当時、伊予と備後の間で、
しばしば、海峡の争いが起こっていた。

41 :
文明元年(1,469年)9月30日寂
法名 瑞仙院南山徳崇居士
この6代目の後、大事件が勃発、
妙泰夫人の無念の戦死、茶臼山城の落城
などクライマックスが始まります。
今までは村上水軍に関する小説しか見当たりませんでしたが
これからは陣貝(石名)松浦七代目、今岡(岡野)水軍衆にも
大いに光が当たるんではないのかな。

42 :
ついに松浦家の主役ともいえる七代目(茶臼山城三代目)が登場します。
 大鳥勝祐尉 義康
 茶臼山陥落後、光康へ跡を托す。
長男、孫を連れて長門(山口県)豊浦へ移る。

43 :
  大鳥勝祐尉 藤原義康
 明応九年(1,500年)備中守興元によって戦端が開かれ、
茶臼山城主義康は、敵将と戦い、ついに敗戦。
茶臼山城は陥落した。
 義康は、養嗣子右衛門祐光康に、茶臼山の土地及び家財の
一切を譲って、子息太郎兵衛康盛、孫の安麻呂ら
家族と共に毛利氏所領の長門豊浦へ移った。

44 :
チェキチェキチェキと
やっぱり名前がでてくるのは源平藤橘だけだな
つまりそういうこったな

45 :
  大鳥勝祐尉 藤原義康
明応九年(1,500年)6月9日寂
法名 文照院本光善性居士
 ※墓碑は、長門にあるとの由 

46 :
 大鳥九郎左衛門 藤原宗義
  石名松浦七代義康の弟
 明応九年(1,500年)の合戦で、三津庄(因南全域)の地頭職であった、
今岡(岡野)対馬守通宗とともに戦い、田熊村龍ケ迫乗末において、
敵将と共に討ち死にした。
 

47 :
大鳥九郎左衛門 藤原宗義
 この合戦で、大鳥宗義の妻明体(妙体、妙泰)夫人は、
主人宗義の影武者となり、男装して、一族郎党と共に土生越(妙泰)で
奮戦の後、土生村の赤放において遂に戦死した。
 この明体夫人の霊を祀ったのが、現在、土生町郷区赤放に在る
「妙泰神社」である。
※妙泰夫人の墓は田熊の浄土寺にある岡野の元祖、岡野對馬守藤原道宗
 の墓前に在るのだが、これは妙泰夫人が大鳥宗義に嫁ぐ前は
 岡野對馬守道宗の娘(あるいは岡野一族の娘)だったことを
 表しているのではなかろうか。

48 :
ここで疑問なのは
一五〇〇年、明応九年と云う年号です。
鶴島・箱崎浦の戦い(霜月合戦)は一三七七年、天授三年と云う
史実と一致しません。
一致しないから歴史なんだョと言われればそれまでですが。

歌手ボルノグラフィテイのボーカル岡野昭仁の祖先と
我が松浦家の祖先は637年前、南北朝の時代(1,377年)、
北朝側の大将・副将格として南朝側の村上師清の
水軍勢と戦い破れています。(鶴島・箱崎浦の戦い)

49 :
単に後世にでっち上げた偽系図だからだろ

50 :
因島市中庄町在郷の松浦氏
 本家と分家のつながりを求めて −調査のための資料ー
調査の趣旨及びお願い
 近年、松浦家一族に連なる若い世代の間では、しだいに、本家、分家の
かかわりが、わからなくなりつつあります。また、それ尋ね語ってもらうべき
古老の数も、だんだん淋しくなりました。
 今のうちに、私達、松浦家一族ゆかりの「系譜」を作成しておきたいと
念願し、極めて乏しい資料をもとに、目下、調査の途中ですが、
取り敢えずタテ系列の簡素な素稿を取りまとめました。
 この資料は、申すまでもなく、調査のための資料、いわゆるタタキ台で
あります。
 随分、多くの誤りや脱落などがあると思います。その点、どうぞ
お許しください。
 今後、松浦家ゆかりの皆さま方より、ご指摘およびご教示を頂戴して、
より正確な系譜に仕上げたいと存じます。
 なにとぞ、この趣旨をご賢察のうえ、積極的なご助言、情報の
ご提供等を賜りますよう、
ご協力をお願い申し上げます。
※この資料は私が一週間前、因島に滞在中、松浦観傳氏から
 戴いた資料の一ページ目に書かれていた文章です。
 観傳氏がいなければ因島松浦家の
 再脚光はありえません。
 

51 :
  大鳥太郎兵衛尉 藤原康盛
父義康から一時、家督を相続したが、明応九年の合戦で
茶臼山城が落城したので、
跡地及び家財の一切を父の養嗣子、右衛門祐光康に譲り、
子息康麻呂を連れて、父義康と共に長門豊浦へ移る。

52 :
    八代目大鳥康盛
  父と共に長門(山口県)豊浦に移る。
 亨禄元年(1,528年)3月14日寂
 法名 寿光院清山浄機居士
 ※ 墓碑は長門に在ります(健在)

53 :
戦は厳しいですね。。この霜月合戦(鶴島・箱崎浦の戦い)において
4人兄弟の内、七代目当主大鳥義康のみが生き残り
次男、三男、末っ子が無念にも
戦死すると言う厳しさです。
平成の今の世に生きていくのも大変ですが
南北朝のこの時代で、生き抜く事は
とてつもなく厳しい。

54 :
大鳥佐武郎 藤原盛久
陣貝(石名)七代目義康三男
霜月合戦で、田熊金山の麓の海浜に
おいて戦死した。

55 :
陣貝(石名)七代目義康の娘
 太郎兵衛尉康盛、佐武郎盛久の妹。
霜月合戦で、茶臼山城(西浦峠)あたりで
討ち死した。
妙泰(みようたい)夫人と同様
この末っ子娘、鎧兜に身を固め
戦場で戦ったのです。

56 :
私は現在、静岡在住ですが、寡黙にして今川義元家や北条早雲の
軍勢の中に女性兵士が加わっていたなんて聞いたことはありません。
桶狭間の戦いで女性が出て来たかなぁ。
因島松浦家だけが女性の戦闘を許したのかなぁ。それとも
瀬戸内海の戦では当たり前?
因島出身では「お嫁さんにしたい女性N01」に以前、
東ちづるさんが選ばれていると思ったけど
東サン似の美人武者が薙刀を振りまわしていたのかなぁ。

   なんでも鑑定団 愛のエメラルド

57 :
私は聞いたことが無いんだよなぁ。
今、私は静岡県在住なんだが、今川義元軍や
北条早雲の部隊に女性兵士がいたなんて聞いたことはありません。
桶狭間の戦いに女性はいたっけか。まぁ昨日見た織田信長が主役のテレビでは
桶狭間に花火が挙がって女性がウジャウジャいたけどね。
戦国時代でも、鳥羽伏見の戦いでも女性の戦闘シーンは
見たことないなぁ。
まぁ 巴御前は知ってます。
でもこの霜月の戦いでは女性が薙刀や刀を華麗に振りまわすんだなぁ。
瀬戸内海、因島松浦家恐るべし。
   なんでも鑑定団 愛のエメラルド

58 :
日本では女将軍と言える活躍だけど
フランスではオルレアンの少女
ジャンヌ・ダルクが有名だよね。
あの風光明媚な瀬戸内海にジャンヌダルクがいたんだね。
瀬戸内海、茶臼山城・因島松浦家恐るべし。

59 :
長男義康 茶臼山城落城の後、長門豊浦に退去
次男宗義 霜月合戦(鶴島・箱崎浦の戦い)において田熊龍ケ迫乗末にて戦死。
     宗義夫人妙泰も土生郷区字赤放にて戦死。

三男盛久 霜月合戦(鶴島・箱崎浦の戦い)で田熊金山の海浜において
     戦死。(一説に八代目 康盛の弟)
長女(末子) 
     日本のジャンヌ・ダルク 茶臼山城の傍(西浦峠)あたりで
     討ち死。名前残念ながら不詳。

60 :
天授三年十一月十五日(1,377年11月15日)
霜月合戦=釣島箱崎浦合戦=鶴島・箱崎浦の戦い
南朝方村上師清(信濃村上家八代目)

北朝方今岡(岡野)通任、大鳥(松浦)少輔義康

61 :
陣貝(石名)松浦八代目
大鳥太郎兵衛尉 藤原康盛 の子が
康麻呂。
茶臼山城が落城。康麻呂は父康盛に連れられ
、長門(山口県)豊浦へ移った。
その後の八代目康盛、康麻呂の消息は不明?
墓は現存している模様です。
※その後の消息は、山口県豊浦在所の歴史好きの古老に
 この掲示板に書き込んでくれるのを
 日夜、祈るほかにありません。

62 :
南北朝時代、釣島箱崎浦合戦(1,377年)の後、
今岡家子孫は
岡野姓を名乗り始めたようです。
(因島市教育委員会によると岡野氏は
今岡氏の流れで今岡と河野の一字を取って岡野に改めたと言う)
※ 河野はもっと以前は、神と書いてこうのと読んでいたようです。
  河野(神)水軍は今岡軍にお味方したんですけどね
  負けちゃいました。

63 :
  大鳥右衛門祐 藤原光康
父は、桓武天皇の皇子葛原親王の末裔、平姓、松浦氏、忠頼。
母は、石名五代、大鳥伊予守、茶臼山城主、藤原義直の曽孫娘。
  光康は石名(陣貝)7代目大鳥勝祐藤原義康の嗣子となる。

64 :
7代目義康の養子となり、後を承け、
実の父松浦忠頼、母(5代目義直の曽孫)
と共に、
石名(陣貝)から茶臼山へ移る。
義康が霜月合戦に敗れ、茶臼山城の陥落により、子息康盛、孫の康麻呂等
郎党を連れて毛利家の所領長門豊浦へ移った後、
光康は、茶臼山城跡の土地及び藤原姓大鳥氏の
名跡を譲り受け、石名松浦家九代目を相続した。

65 :
大鳥光康は、実父松浦忠頼が老恙に罹っていたため、
義康らと一緒に長門に移ることが出来なかったので、
実父母と共に因島へ留らざるを得なかったという
記録がある。

66 :
 この当時、石名松浦家は、郷内西部にあたる茶臼山を
中心に、その西海岸に到るまでの山林、耕地の
殆どを所有し、これからの産物によって
家計を経営していたという記録もある。
 のちに、光康は、父母と共に、
それまで居住していた石名郷から茶臼山へ
移った。
 永禄九年(1,566年)12月10日寂
 法名 光厳院徹性日通居士

67 :
明応9年に長門豊浦が毛利領だとか
史料がトンデモなのか書き込み者がアホなのか

68 :
松浦と名乗ってからの世代 一代目
松浦太郎左衛門尉 盛光
これまでの大鳥姓を「松浦姓」に改める。
松浦姓の元祖。石名(陣貝に居住)
分家の徳永家、釜田家誕生。

69 :
※ 66さん、この最初の原書(古文書)がいつ書かれたのか
  今となっては謎です。
  間違っているからと、直ぐ直したんでは
  史料にならないし。
  
  でもこれほど詳しい資料はそうは出てこない。
  年代等はあっていませんが
  松浦一族に関してはべらぼうに
  詳しい。一級資料です。

70 :
自分の先祖をより良く見せるための偽物だな
信じるに足りないものを有り難がるのは頭が足りない輩

71 :
マァ桶狭間の戦いより、ウンと古い
南北朝の時代のお話だからなぁ
何が本当か、何が嘘かさえ分からないのも事実。
桶狭間の戦いが永禄三年(一五六〇年。)。
霜月合戦(釣島箱崎浦)の戦いは天授三年(一三七七。)年。
なんと霜月合戦は桶狭間の戦いの183年も
前のお話だ。
桶狭間の戦いでさえ最近の研究で、織田信長軍の奇襲攻撃が
正攻法の戦いに訂正され
山の上からの攻撃が下からの攻撃だったに
訂正されるぐらいだからね。
私自身半信半疑なんだが、またいつの時代に書かれた物かさえ
判明しませんが、
後世に残して戴けただけでも
有難い。
    なんでも鑑定団 愛のエメラルド

72 :
9月、10月と2回、父母の育った因島中庄(なかのしょう)に
帰って見て驚いたのは、昔と変わらぬ「丸池」辺りの自然風景ではなくて
「先祖祭り」と云う言葉。私の住む静岡県では
全然、聞かないお言葉です。
それも松浦家では陣貝、徳永、釜田と地区別に三ヵ所に分かれて
「先祖祭り」を行うと聞いてオッ魂消てしまった。
私は迂闊にも石名松浦家の24代目だとも知らなかったし
まさか先祖様がお城持ちだったなんてねぇ。
女武将・妙泰(みょうたい)サンの事も全然〜知りませんでした。
またなぜか気になって、大阪の柏原タイル屋さんに確認の電話を入れたら
白滝山の山頂にある五百羅漢の柏原伝六さんは私の御親戚であることも判明。
まぁ仰天の里帰りとなりました。
私は因の島の一粒の種から生まれたんだと言う事が
判明した旅でした。
    なんでも鑑定団 愛のエメラルド

73 :
松浦と名乗ってからの世代 一代目
松浦太郎左衛門尉 盛光
この一〇代目盛光から今岡(岡野)殿を離れ
村上家殿に従属することになります。村上水軍配下に所属替え。

74 :
松浦と名乗ってからの世代 一代目
松浦太郎左衛門尉 盛光
盛光は、いままで、「藤原姓、大鳥氏」を名乗っていたが、
祖父(平姓、松浦忠頼)の姓氏に因んで、「大鳥」を
「松浦」に改称した。
しかし、長い間の高恩を謝して、姓は、これまで通り
「藤原」姓を名乗る。
すなわち盛光が、「藤原姓、松浦氏」を名乗った始祖である。
天正一九年(1,591年)5月23日寂
法名 自得院天髄道仙居士

75 :
松浦党の話なら知ってるよ

76 :
因島の松浦さんの中には
「我々は九州海賊で活躍した松浦党の血を
受け継いでいる」と
思われている人も
少なくないようです。
  松浦党  ウイキベデァ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E5%85%9A

77 :
 平戸松浦家の至宝 遥かなる千年の歴史
   松浦史料博物館
http://www.matsura.or.jp/mov02/index.html

78 :
松浦(まつら)党 発祥の地
  長崎県松浦市今福町
http://hamadayori.com/hass-col/history/MaturaSuigun.htm

※ 陣貝(石名)九代目を継いだ嗣子大鳥光康は実の父忠頼が
平姓、松浦氏を名乗っていました。
10代目が松浦姓を名乗り始めるのを見ると、
祖先は九州松浦党の出自である可能性が多分にあります。
大鳥姓を捨て松浦姓に変えたのは
松浦の名前に誇りを持っていたからだと思います。

79 :
長男、松浦盛光   陣貝
次男、松浦藤二郎  徳永
三男、松浦平之進  釜田

80 :
次男 松浦藤二郎 光敬
亨禄年間(1,528年ー1531年)
分家し、住居を日和谷(徳永)へ移す。
盛義の二男盛久を嗣子とする。

81 :
三男、松浦平之進 盛行
天文年間(1,532年ー1554年)
分家し、住所を宮脇(釜田)に移す。
3兄弟には女子も一人いて
村上蔵人吉時の室になっています。

※分家と言ってもメッチャあ古い時代のお話です。
桶狭間の戦い(1,560年)より古いんです。
今川義元、武田信玄、上杉謙信らが「やぁやぁ我こそは」
と名乗っていたころのお話です。
柴田勝家、齊藤道三、明智光秀らが躍動した戦国時代に
石名松浦家は本家と分家に分かれました。

82 :
 音楽紹介 ムード歌謡曲
岩本善行 愛のエメラルド
https://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4ADRA_jaJP362JP366&q=%E5%B2%A9%E6%9C%AC%E5%96%84%E8%A1%8C%E3%80%80%E6%84%9B%E3%81%AE%E3%82%A8%E3%83%A1%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%83%89&gws_rd=ssl

83 :
音楽の話がしたいなら相応の板へいけ
自分語りがしたいならブログを始めろ

84 :
正九郎 盛久
石名松浦十一代民部少輔 盛義の二男
松浦藤二郎光敬の嗣子となり、亨禄年間(1,528−1531年)頃に
、養父光敬と共に、住居を日和谷(徳永)へ移す。
浅野藩の山守役を勤める。
因島日和谷に耕地及び山林三十有余町歩を所有する。
寛永九年(1,633年)8月2日寂。
法名 徳寿院日和自照居士

85 :
因みに、
養父藤二郎光敬は、
文禄四年(1,595年)4月5日寂
法名 松翠院盛敬自○居士

86 :
徳永家の元祖は山守治部正九郎尉 盛久
二代目は平四郎 盛兼
三代目は清兵衛門 盛道
四代目は善十郎 興道
五代目は徳八郎 時道
六代目は清吉郎 吉時
七代目は徳八 吉輝
八代目は清吉 正直
以下略

87 :
釜田松浦家は三男松浦平之進 盛行が分家し
住居を宮脇(釜田)へ移したことが始まり。
釜田家元祖 弥三兵衛
二代目は弥三兵衛(市三郎)
三代目は弥三兵衛(善造)
四代目は甚七
五代目は弥平
六代目は甚七
七代目は保平
※3代目の善造さんの時に分家します。
(徳永丸三家初代)釜田善兵衛
(山口勝一家初代)釜田甚六
(陣貝ソーメン屋家初代)天神源七 

88 :
八代目は佐平
九代目は要次郎
10代目は要次郎(富三郎)
11代目は源松
12代目は要次郎(惣次郎)
13代目は査炳
14代目は繁夫
15代目は基之(神奈川県在住)

89 :
デッカイ大根で有名な
万田発酵のオーナーの松浦新吾郎さんは
田中屋の初代清助から数えて11代目です。
田中屋初代  清助
田中屋2代目 清助
田中屋3代目 藤十郎
田中屋4代目 新五郎
田中屋5代目 林五郎
田中屋6代目 岩右衛門
田中屋7代目 友之助
田中屋8代目 林五郎
田中屋9代目 龍太郎
田中屋十代目 繁治
田中屋11代目 新吾郎
田中屋12代目 良紀(よしのり)

90 :
 松浦民部少輔 藤原盛義
 天文年間(1,532年ー1554年)青影城主、
村上三郎左衛門源義弘の後を継いだ
山城守村上義顕の子息に従事する。
※安芸厳島合戦は天文二四年(1,555年)。桶狭間の戦いの5年前。
因島村上水軍は村上家第六代当主、村上又三郎吉充が毛利軍に加わり、
提督に磯兼(末永)左近太夫がいて采配を振るった。
 ※因島水軍は、小早川隆景の指揮下にあって、前夜のうちに厳島神社大鳥居前に迂回し、
折からの暴風雨に乗じて敵船中に割り込み、厳島神社の社壇から陸戦隊を上陸させた。
その後海上にとどまって、十月1日卯の刻(午前六時)に陸上で
合戦が始まると、浦宗勝の率いる小早川水軍と一体となり、
陶晴賢(従五位下)の水軍に合戦を挑んだ。

91 :
 先ず敵船団の舳(みよし)の直ぐ前を横一文字に
押し切って敵船の碇綱をことごとく切り取って混乱させる。
 ついで火矢船をもって敵船に火矢を浴びせかけて
敵船に焼き討ちをかけ、さらに接近して焙烙(ほうろく)船から
手投げ爆弾(ほうろく)を投げ込む。
そのあと、残った敵船団に武者船を漕ぎ寄せて、
武者たちが白刃を振るって敵船中に乗りこみ、
敵兵を海に追い落とすのである。
 このとき末永(磯兼)左近太夫は陶水軍の提督
伊賀某を討ち取り、配下の
因島村上衆は大島衆を切り崩した。
かくして厳島合戦は因島衆の活躍もあり
毛利軍の大勝利に終わった。
 ※この記事は水軍城で購入した「因島の歴史」森本繁著を
引用しました。

92 :
松浦民部少輔 藤原盛義
 永禄年間(1,558年ー1569年)に、
茶臼山北部山林を東氏正時に譲った。
ただし、茶臼山の東、南、西の三方の耕地及び
山林はそのまま所有した。
 慶長19年(1614年)3月12日寂。
 法名 天祐院功山道忠居士
※ 法名の「功山」に心を惹かれますね。
  合戦での功績が山の如しとも取れますね。

93 :
四国88ヶ所巡りならぬ因島八十八ヶ所札所巡りと云う
祈りの旅が人気なんだそうです。
それにしても因島の寺社、神社の多さには驚いてしまうな。
それ以上に驚いてしまったのはお城(跡)の多さ。
一体いくつあるのョ。それも南北朝の時代に遡る
歴史の恐るべし古さ。たまげてしまう。
茶臼山城主大鳥5代目の自然大居士の法名を生かさない手はないな。
全国で唯一の因島海賊城八十八ヶ所巡りを提唱したい。
※戦死した今岡(岡野)通宗さんの場合だと、岡野さんの本拠地土生の島前城、
目前にある亀島の竹島城跡、菩提寺の田熊浄土寺の岡野家墓所と通任の実の娘と思われる
妙泰夫人の供養塔。岡野明神それに郷の広畑にある岡野道任の供養塔の
「青葉落葉神」はぜひ見てみたい。
※戦死した松浦妙泰(みょうたい)夫人の場合だと旦那(宗義)の戦死した田熊龍ヶ迫乗末の
古戦場跡や土生越の妙泰神社に行ってみたい。中庄(なかのしょう)の茶臼山城跡や
松浦家の先祖の眠る長福寺にも行ってみたい。
※ 因島の人は良いな。自然から生まれた万田酵素、八朔ハチミツ、はっさくの風味を生かした
だいふく。なんにもしなくても自然を生かした因島水軍城八十八ヶ所お城巡りで
造船が縮小したって、イノシシと共に逞しく生きていけそう。
    なんでも鑑定団 愛のエメラルド

94 :
松浦蔵人治太夫 藤原義友
石名松浦十一代盛義の弟か
はじめに、天正年間(1,573年ー1592年)頃、安芸国の大守毛利元就卿に
属し、海軍に従事した。
後に、慶長五年(1,600年)毛利元就が長州に去ったあと、
これに変わって、安芸、備後両国の大守になった
福島正則卿に仕えた。
 ※福島正則はそれまで、尾張清州の城主であった。
 慶長十年(1,605年)正月八日寂
 法名 慶章院智山安徳居士

95 :
因島の人口は平成12年の段階で2万5673人。
減ったよなぁ。聞くところでは中庄の平地部分は人口が増え、
坂道の多い造船業の衰退した土生は人口が激減したらしい。
それにしては寺社仏閣が多いなぁ。それ以上にお城(跡)が
異様に多い。後で数を数えてみよう。
因島はお城としまなみ海道、イノシシと八朔ゼリーが売りの町と云う事か。

96 :
私の住む静岡県藤枝市は人口15万人なんだが
お城跡は5つしかないよ。南北朝の時代に造られたのが
葉梨花倉にある花倉城。今川義元が兄弟対決を制し
17歳で華麗にデビューしました。後、岡部氏の築いた朝日山城と潮城。朝比奈城。
有名なのは東海道筋にあり、堀が幾重にも張り巡らされた平城の田中城。
徳川家康が晩年、興津の鯛を天麩羅で揚げて、食中毒を
おこし倒れた城として知られています。
お隣の焼津市(人口15万人)はお城が3つ。
石脇の城(別名は片上城、北条早雲が初めて城持ちになったお城です)。
花沢城は今川氏真家臣・小原鎮実と武田信玄が戦をしたところです。
小川城は海と繋がった水に囲まれた平城です。
子孫に鬼平犯科帳に出てくる長谷川平蔵がいます。
※ こちらの城は戦国時代の初めに築かれた
  お城が多いかな。
  因島の様に南北朝の時代に築かれたお城は少ない。
  それだけ因島は海運交通の要所として
  早めに開発が進み、次々と
  お城が築かれました。

97 :
松浦治良兵衛尉 藤原直義
元和五年(1,619年)福島正則に代って、芸備両国の
大守となった浅野但馬守長晟が、
紀州和歌山から広島城に入り、この時から
因島は、浅野長晟の所領となった。
 直義は、この新しい領主浅野家に仕え、
代領職として、因島一円を管理した。

98 :
 この当時、松浦直義は、石名郷の
家に居住していた。
武士としての生活は、直義の代で終わりを迎える。
寛政十八年(1,641年)7月7日寂
法名 鶴松院智嶽安徳居士

99 :
元和六年(1,620年)頃の自治体構成
 村政機関として
  大庄屋(割庄屋)、村役人、村寄り合い
  
 村役人としては、村方三役
  庄屋(関東では名主という)。
  組頭(年寄り)
  百姓代(長百姓)

100 :
 松浦治良太夫 義光
元和三年(1,617年)名主(庄屋)として、因島を管理した。
寛永二年(1,625年)八月一日茶臼山の城址に社殿を
再建して、祖神を祭祀した。


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