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もし清盛が、平治の乱後、頼朝の首を切っていたら?
- 1 :2014/07/06 〜 最終レス :2020/02/28
- 日本、平家、源氏はどうなっていたのでしょう。
- 2 :
- 頼朝やその兄弟がその時点で殺されても治承の乱は起きる。
ただし他に挙兵した勢力には頼朝のような政治能力を持つものと義経のような軍事的天才能力を持つものがいないので六年で乱を終結させることはできない。
清盛の死去と養和の飢饉でこの国は百年近く混乱したと思う。
- 3 :
- 残念やけど、平家政権はそれでもダメやったと思う
そもそも平家政権にしても源氏政権にしても、支持された理由は
公家政権に対して不当に差別された武士の利益を代表していたから
であるのに、平家は政権を取ったあとは公家的な方向に進んでいった
よって最終的には支持層である武士は離れて行ったと思う
- 4 :
- 源氏にも足利や武田がいるからな
- 5 :
- 木曾義仲が都に上るあたりまではあまり変わらないんじゃね。乱暴狼藉でひんしゅくを買う
義仲を誰が追い落とすか。
- 6 :
- 何せ僅か五年で壊滅した皇畿近州之嬰児だからなあ。
統一政権が確立されないまま第二、第三の木曽丸が現れたとしても畿内は草刈場だろう。
そんな状況で蒙古が襲来してたら日本終了。
- 7 :
- 平家は一度は木曽に追い出されただろうが、水島以降の木曽の自滅で結局は
京都に戻れたと思う。
あと、平宗盛だが、徳川秀忠に似ていたと思う。戦争は下手だが、内政能力は
そこそこあったと思う。だから、六波羅幕府がしばらく続いたのではないか?
- 8 :
- 頼朝がいなければ、東国政権はあれほど成長はしなかっただろう。
武田信義・安田義定・志太先生義広などでは難しい。
平家は木曽義仲によって、いったんは都を追われるが、その後、都を奪還、
西国を支配下に置いたまま、東国の独立勢力と拮抗した状態が続くだろう。
平家・東国武士・奥州藤原氏による勢力均衡が続くのではないか。
- 9 :
- >>7
都に戻れても各地方の反乱は鎮めきれなかったと思う。
良くてせいぜい室町末期の将軍状態になるのがせいぜいだったのでは?
>>8
たぶんそんなとこだと思う。
ただ、この状態を元寇まで引きずっていたらと思うとぞっとする。
あと意外と力をもっている寺社がどう動くかで意外と展開が変わったりしていたかも。
- 10 :
- 挙兵したのは源氏だけではないのだから均衡状態なんていずれ崩れただろう
摂関家や朝廷もいつか動く
- 11 :
- >>8
その独立状態って東国だけではなくなると思う。
九州の挙兵勢力も独自の政権をつくったかもしれないし
四国も状況によってはどうなったかわからない。
戦国時代に近い状態になってたかも。
信長みたいなのが現れるのは奇跡みたいなもんだから泥沼が続いたんじゃないだろうか?
- 12 :
- >>7
熊手に拾われた大臆病者と秀忠が似てるだと?
寝言は寝て言えw
- 13 :
- 頼朝がいなかった場合、坂東で一番のカリスマ家ってどこ?
- 14 :
- 武田とか佐竹とか上総とか千葉とかじゃねぇの
- 15 :
- 京都落とすのは楽勝だけど維持するのは難しい。
- 16 :
- 洛外って死体だらけじゃなかった?
平安時代も
守るなら奈良の方が楽なのにな
- 17 :
- 問題は頼朝ではなく後白河にあるからな
あのおじさんが意味不明なことやってるうちは何をやっても駄目
- 18 :
- 案外崇徳天皇が院政したら変わったかもな
- 19 :
- 藤原秀衡はどう動くようになるんだろな
- 20 :
- 義経を保護するのは変わりないけど、義経が誰の所に参陣するのかが謎。
- 21 :
- 頼朝が富士川の合戦で官軍を破っていなければ清盛が過労で倒れなかった可能性はある
- 22 :
- 富士川はほんの赤恥かいた所
立つ鳥が末世平家の名を濁し
白旗と思い羽白に平家逃げ
- 23 :
- 富士川の合戦はスパイの斎藤実盛の手柄だよな。
- 24 :
- >>20>>23
富士川は今は頼朝vs平家ではなく武田vs平家という見方が有力になってきてるぞ。
実盛の逸話は平家物語の創作とも言われてる。
- 25 :
- 武田に軽くボコられたあと水鳥にボコられた
W凹
- 26 :
- 奥州藤原氏はもう少し長続きしたと思う。
平家としては、納めるもの納めてしおらしくしてれば
どうこうする気はなかったみたいだし。
奥州が義経を祭りあげて挙兵したかも。
- 27 :
- 長田忠致が源義朝を殺さなければ平家ももう少し早く滅んだだろうな
- 28 :
- 義朝は逃げ切れないだろ
平家の追討軍に追いつかれて京都で処刑されるのが山
- 29 :
- >>26
頼朝挙兵から義経受け入れの間、
奥州藤原はあまり動いていない。
ただし、会津に勢力を保持している城氏(越後)をボコッたり
佐竹(常陸)をこっそり受け入れたり
「毛越寺」は毛の国(=上野下野)と越の国(越後など)への勢力伸長を願って建てた説があるなど
どさくさ紛れに隣接地域に勢力を伸ばす可能性は無かったとは言えない。
- 30 :
- それで木曽勢と貢金貢馬なんてやってたのかな
- 31 :
- >>20
義経がどこかに転がり込んだとしても受け入れる方に使い道が無かったと思う。
義経が宇治川、一の谷で活躍できたのも「頼朝の弟」というブランドで頼朝の代官で指揮官になって実力が発揮できたわけで。
頼朝以外のとこへいっても謀叛で死んだ男の息子という価値しかない。
(頼朝の家系が源氏の嫡流というのは後づけの価値観)
- 32 :
- >>31
源氏一門は嫡庶の出自に関わらず強い者が嫡流になっていた経緯がある
義経に才能が有れば他の源氏一門のところでも挙兵はできたんじゃないか
父親を殺されている木曽義仲でも挙兵できたくらいだ
- 33 :
- 関東は誰も動かなかっただろうね
関東をまとめられる器の持ち主がいないし
多くの豪族をまとめ得る独立勢力というと
やっぱり奥州藤原氏しかいない
- 34 :
- >>32
義経が独自に挙兵するとしたらどこだろ?
他の源氏のとこ行くとしても数多くいる源氏の中の一人に過ぎないから頼朝以上に取り立ててくれるとこないだろうしなあ。(戦に出してもらわないと軍才発揮できない)
>>33
坂東には義仲、武田が乱入。新田中立。源姓足利はどこかに吸収。
常陸は佐竹と志田が対立。
目代を追い出したい&佐竹をぶっ潰したい千葉と上総がどこかに入る。
上野から義仲が入り込むが新田がどう動くだろうか?
伊豆駿河遠江は地理的に武田安田。
周りから色々な勢力がくるが頼朝の基礎地盤となった武蔵相模がどうなるかわからない。
- 35 :
- >>34
木曾義仲が挙兵した時点での軍勢は育ててくれた中原氏が中核。
義経が独自に挙兵するには藤原秀衡の後援が必要だけど秀衡にはその気が無かったので無理。
- 36 :
- 後白河さんが、頼朝がいない状況であればどこの誰を平家および義仲への牽制として
登用していたか、にかかってるよな。
- 37 :
- 平家が続いてたとして、平家で元寇に対応できたのかな。
むしろ元に与力して平家、朝廷を転覆しようとする輩が
出てきてたかも。
- 38 :
- 後白河の発想は落とし所をまったく考えてないがゆえに結果が分からない
頼朝がいなかったらその辺の適当なのを捕まえてきた可能性もある
でも清盛さえ生きてれば清盛の対後白河姿勢は一貫してたから、
東国勢力が結集しない限りそのまま押し切ったかも知れない
- 39 :
- >>37
それは全然大丈夫
- 40 :
- 当時精強な軍事力持ってたのはやっぱり奥州か甲斐源氏ぐらいしかないよな
でも両方共自分が矢面に立って血を流すタイプではないよね
- 41 :
- >>40
精強で、必ずしも平家に従順ではない、に訂正。
家格から見ても院の直属軍たりうるのでは。
- 42 :
- 秀衡ならともかく、泰衡はヘタレでは?
- 43 :
- >>42
相続後一発目の相手が政治超人の頼朝では相手が悪すぎるだろうw
- 44 :
- >>38
後白河はあれでそれなりに天皇家にとっての最善の策を考えてはいる
あと無駄な殺生は嫌いで意外に穏健派
平家に対してだって安徳天皇と三種の神器を返しさえすれば
無駄な追及をするつもりはなかった
平家を滅亡させたのは完全に源氏の都合
- 45 :
- >>44
頼朝も今度の朝廷との交渉を考え「神器、安徳天皇、建礼門院、二位殿」の保護を範頼に命じ、長期戦覚悟で平氏包囲網を作ろうとしていた。
しかし短期決戦をとった義経の作戦が平氏を追い詰めた。
二位殿のあの無茶苦茶な行動は義経に非があるのか二位殿に非があるのかはわからない。
壇ノ浦以前に平氏が降伏してたら、平氏の男子も助かったかも知れないね。(清盛直系は厳しいけど)
頑なだった平氏にも滅亡の原因があったと思う。
- 46 :
- >>40
当時東北屈指の猛将として都でも評判だった父太郎こと国衡は畠山重忠(あるいは和田義盛)に追い回された挙句射殺されてる。
歴戦の坂東武者と比較したら平和ボケした東北武士などひよっ子同然だよ。
武田は・・・毛並みの良さだけだろう。
- 47 :
- 頼朝の統治の基本って、
要は恐怖政治でしょ。
- 48 :
- >>45
いやそれはどう考えても一の谷で和睦姿勢を見せつつ急襲した後白河が悪い
後白河は神器と安徳の返還を望んでたとは思うんだけど、
同時に平家の都帰りによる報復を恐れてたから結局相手の不信を買うような行動を取ってしまう
頼朝はわりときっちり和議に持ち込む筋道を描いてたが
- 49 :
- >>48
あの時点では平氏はほとんど兵力を失っておらず
都へ帰還して復権し後白河に再び幽閉の恐怖があったためだろう
一の谷で頼朝が和睦をする気でいたという証拠は?
一の谷合戦では義経だけでなく範頼もこの奇襲に加わっており
けして義経一人の暴走ではなく後白河と頼朝も了承していたと思うんだが
- 50 :
- しかし都に帰還されたら報復されるというのは後白河個人の問題であって、
和議を方便と思っていなかった平家方にとっては以後の和平交渉が極度に困難になる
屋島に引いた段階で平家が後白河提案を蹴ったのは当たり前
頼朝が一の谷の段階で騙し討ちに賛同していたという証拠もないし、
義経・範頼が後白河の意図の全貌を把握できず督戦されて行動していたという可能性もあるからな
- 51 :
- 平家が三種の神器持ちだして朝敵になった時点で
和睦という選択肢は無くなってたと思うけど
- 52 :
- >>50
頼朝だってせっかく後白河から平家追討令を出してもらったのに
平氏に兵力そのままで都に帰還されたら今までの苦労も水の泡
「頼朝はわりときっちり和議に持ち込む筋道を描いてた」 証拠のほうがない
頼朝は平家の末裔六代を斬ったり
都に帰還した建礼門院を洛外追放するよう後白河に求めたり平家に対してかなりの強硬派
頼朝が騙し討ちに賛同していなかったいうのならば
後白河の和議交渉そのものを知らなかっただけだろう
- 53 :
- >>49
横レスすまん。
頼朝が和睦も視野に入れてたのは一の谷以降の話だろう。(包囲網云々とかも)
まず、頼朝が出陣させた当初の敵は義仲。
義仲を倒してから一の谷への出陣は10日位しかたってない。
戦力的には平家の圧倒的優勢が伝えられ
公卿の中には和戦双方の意見があった。
あくまでも官軍でいたい頼朝(畿内の武士も味方につけたい)は
朝廷の決定を無視してまで戦争ふっかける気は無かったと思うが
戦う支度は十分調えていたと思う。
- 54 :
- 途中送信したので続き
義仲滅亡から10日でせめこまれた平家も戸惑っていたと思う。
義仲から和平の申し込みがあって
兵力差的に義仲ぶっつぶしても都に入れると思ってた矢先
いきなり義仲潰れて義仲に封じ込められていた法皇が復活して
頼朝軍がきたんだからな。
- 55 :
- >>52
六代が死んだのは頼朝の死後で「三左衛門事件」ので庇護者の文覚の失脚のどさくさ紛れで殺されたんだが。(「平家物語」の逸話はフィクションらしい)
頼朝の建礼門院の洛外追放要請て初耳なんだが、その記事の乗ってる文献教えてくれない?興味がある。
『吾妻鏡』記載の記事、荘園を建礼門院に寄進したりして一応援助(もしくは罪滅ぼし)しているイメージが濃いもんで。
- 56 :
- >>52
頼朝は早く反乱軍と言う立場から抜け出すことに気を砕いてたよ
だから初期には宗盛に対して和議の斡旋を働きかけている
一の谷時点でどの程度作戦に関与していたかは分明じゃないが
少なくとも後白河のように都落ち直前に平氏を裏切ったために
和睦による帰還によって直接的な報復を恐れなくてはならない立場ではないよ
後白河の意思には忠実だっただろうけどさ
- 57 :
- 後白河が悪意を持って、報復を恐れて騙したというより、和睦と追討を適当に両方とも進めてしまい、
結果的に騙し討ちになってしまった可能性はあるな。
- 58 :
- >>55
>頼朝の建礼門院の洛外追放要請
九条兼実の「玉葉」にある
>荘園を建礼門院に寄進
平家が所有していた荘園は平家没官領として平家滅亡後源頼朝の所有になった
その中から2つ程度を平家出身の建礼門院領としただけ
残りは大部分が頼朝で、頼朝は平頼盛・坊門姫・義経らにも分け与えている
- 59 :
- >>58
立場がなくなった建礼門院に、二つだけ返しただけでも優しい気がするぞ。
(下手に経済力持たすとミニ八条院になるから大量には返せないだろう)
義経なんぞ全没収されてるw
頼盛の領地は後白河法皇との政治折衝の仲介役への慰労の面もあるだろう。
頼盛の荘園は本所が八条院のものが多いから八条院に対する配慮も大きいだろう。
ところで、頼朝が建礼門院に寄進した荘園って
建礼門院が本所になるのか、本所が誰か他にいるのかわかる人いる?
平家の荘園って平家が本所じゃなくて平家が領家のものばかりで頼朝もその立場を継承したはずだけど
建礼門院は女院だから本所になれる立場。
だから建礼門院本所、頼朝領家というのもありかも知れないと思って。
- 60 :
- >>59
>立場がなくなった建礼門院
女院号を剥奪されたわけでなく建礼門院は立場がなくなったわけではない
後白河と建礼門院の仲も良好であったとみられ
頼朝が荘園2つ建礼門院に返したのは後白河に対するアピールもあったと思う
>義経なんぞ全没収されてる
そら義経は朝敵になったからw
>頼盛の領地は後白河法皇との政治折衝の仲介役への慰労の面もあるだろう
もともと平家の土地だからな
- 61 :
- >>60
レスありがとう。
立場がなくなったというのは平家という後ろ楯を無くしたという意味で書いたんだ。
後白河法皇との仲が良好というのは少しだけ救われた気がする。
ところで女院号って剥奪可能なものなのか?
- 62 :
- 連投スマソ。
建礼門院って一の谷以降の一連の平家攻めでも
頼朝の保護対象の一人になってるよね。(安徳天皇、建礼門院、二位殿、神器)
建礼門院は一般の平家一門からは、扱いが違う存在じゃないかな?
平家一門じゃなくて平家同行貴人扱い。
- 63 :
- 広島市安芸区から愛媛県今治市まで、のろしによる伝達を約7分で行うことを目指す
http://peace.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1405543300/
広島、愛媛、山口の3県の島々や山で19日、かつて瀬戸内海の水軍が
通信手段で使った「のろし」のリレーがある。各地の交流を図るのが狙いだ。
まず広島市安芸区の絵下山(えげさん)でのろしを上げ、
それを見た各地の市民らが次々と木の枝などに着火し、煙をたく。
愛媛県今治市まで約7分で到達を目指す。
- 64 :
- >>37
モンゴルにそれだけ有能な人材がいれば日本どころか中国が亡びますがなw
- 65 :
- 侶布を代表する脳筋ばっかりだけでもまともにやれば日本にはには荷が重い。
さらに孔明なみの知略とかマジ中国亡びるww
- 66 :
- 兵卒船員がチョンでは日本は誰が統治者でも安泰かもしれんwwwwww
- 67 :
- 当時のモンゴルじゃ清のように深く根を下ろした中国支配は無理だろう
地形や人口から考えてホラズムに対して行ったような皆殺しによる征服も無理
モンゴル人自体は海戦はド素人なのでまっとうな人員を選んで海戦の準備や指揮をやらせるのも困難
モンゴルによる東アジア支配はモトから無理があったんじゃないかな
- 68 :
- 鎌倉幕府はないな。
武士の世には、なっていくが。
- 69 :
- 武田幕府ができてたとか
- 70 :
- >>68
いや、寺社勢力が拡大してやりたい放題やってたかも。
武士軍団の親玉不在の場合寺社の抑え手なくなって。
清盛頼朝並に武士まとめられるのこの時代他にいないでしょ。
北条も頼朝政子抜きじゃ伊豆の豪族止まりだし。
- 71 :
- それか、貨幣経済発展の波に乗って元寇以前に中華経済圏に飲み込まれてたかも。
博多にかなり宋商人が住み着いてたし。
武士の中には交通の要衝を押さえて、経済と流通を押さえてた連中がいた。
彼らがいたから日本独自の流通経済を持つ一面があったと思う。
鎌倉幕府は東国東北武士の元締め。
- 72 :
- 源平合戦で平氏が勝っていたとしても、いずれ幕府は出来たような気がする。
いずれ伊勢平氏に対する反感が募っていって、下克上という形になって・・・
武家政権は出来たのではないかな。
しかし、幕府の中心は西国という事になるし、何処が将軍家になったのかは分からないが。
- 73 :
- 頼朝がいなければ、甲斐源氏も木曽義仲につき、源義広も義仲に
ついて、平家を破れば、源義仲が長野辺りにに幕府を開くんじゃね。
- 74 :
- 木曽義仲に朝廷と別の国家を築く発想は無いのでは無いかな。
多分平家の延長線上だろう。
斜め上で禅譲させて新王朝とか言い出すかもしれないが。
- 75 :
- 幕府を開く、というのも歴史をあとから見た人間だから語れることで、
頼朝が鎌倉に独立政権を樹立するまではそういう発想って出てないんじゃない?
平将門や奥州藤原氏の地方政権が広い意味では幕府みたいなものかもしれないけど。
- 76 :
- まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
- 77 :
- まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
- 78 :
- 義仲が上洛時に要求したこと
1.北陸宮の即位要求
2.伊予守任官要求
頼朝が上洛要請に対して要求したこと
1.東海、東山、北陸の支配権を要求
義仲と頼朝の要求のベクトルは違う。
東国に独自の権力基盤を作り上げようとする方向性を当時もっていたのは
奥州藤原氏と頼朝だけだろう。
- 79 :
- 単なる平家化か。
武士の権利を保証する方向に向かってれば、分からなかったのにな。
- 80 :
- 関東には、平将門→源義家→源義朝の流れがあって、
武士の独立心は、ある程度確立していたと思う。
あとは、武士の権利を保証し、束ねる能力のある人物
さえ、いればという状態で、頼朝はうってつけだったな。
- 81 :
- 幕府は千葉・上総の思想が反映されているのでは。
平将門、平忠常、は関東の独立を志向していた。千葉氏は忠常の嫡流だから。
- 82 :
- >>81
嫡流は上総介でしょ。
上総介没落の後、千葉がその利権をぶんどった感じ。
ちなみに常胤の息子の中には都に出仕して従五位をゲットしたのもいた。
地元を大切にしつつ、都との繋がりももつ強かな一族ってとこかな?
単純な独立志向とは言い切れない複雑な一族だ。
- 83 :
- >>80
義家は結局は都に地盤をもち、主要な郎等は畿内の武士。その畿内の武士が逆に東国に所領を持つようになったりした。
義朝も都の権門の力をちらつせて東国に力を伸ばしてたんだが。
- 84 :
- 高倉上皇さえ生きていたら平家は滅びなかっただろう
- 85 :
- >>84
同意。
でも泥沼の内乱が長期化してたかも。
- 86 :
- >>1
希義が代わりになるだけ
- 87 :
- 大乗の五逆罪(無間地獄に落ちる罪)
一. 仏塔を壊し、経典を焼き、三宝を盗む
二.声聞・縁覚・菩薩の教えを謗って仏教でないといい、仏教の布教を妨げ、危難を加え、仏法の光を覆い隠し弘まらないようにする
三.持戒・無戒・破戒にかかわらず、すべての出家した人に対して、罵り打って苦しめ、過失を並べ立てて閉じ込め、還俗させて、かりたてて使い、重税を課して命を絶つところまで追い込む
四.父を殺し、母を害し、仏のからだを傷つけて血を流し、教団の和を乱し、阿羅漢をR
五.因果の道理を否定して、常に十悪の罪を犯す
『大薩遮尼乾子所説経』
http://shinrankaiuso.blog76.fc2.com/blog-entry-13.html
- 88 :
- あげ
- 89 :
- 源経基 京都生まれ。皇孫として関東に下るも将門に恐れをなし都に逃げ帰った。「未だ兵の道に練れず」と関東諸士に笑われた清和源氏の祖。
源満仲 経基の子。密告により出世。藤原北家の腰巾着として地歩を固めていった。多田に居住し多田源氏の祖となる。
源頼光 満仲の子。自身は合戦の経験に乏しかったが、関東出身の勇猛な兵を身辺に置いた。頼光四天王の原型である。
源頼信 頼光の弟。上総の忠常追討に向うも戦闘には及ばず。
源頼義 頼信の子。上記の人物たちとは違い戦闘経験も豊富だが、将としての能力は平凡であった。
源義家 頼義の子。相模国で出生、京で育つ。陸奥との戦闘を通して騎馬戦術を学び、武勇の士と恐れられた。
源為義 義家の孫。京の人。生涯を通して合戦らしい合戦を経験せず齢六十を迎えた無能な大将。
源義朝 為義の子。上総曹司。幼少年期より関東で暮らし、弓馬の道は奥義を窮めた。
源義賢 義朝の弟。悪左府藤原頼長とはTDNの仲。嫡男であったが関東に左遷、甥義平に攻め殺される。
源為朝 義朝の弟。鎮西八郎。少年時代九州に追放され、彼の地で戦闘を重ね成長。本朝無双の弓の達人と称されたが馬術はイマイチ。
源義平 義朝の子。鎌倉悪源太。三浦氏の庇護の下、相模鎌倉で生まれ育つ。勇猛無慈悲な弓射騎兵。
源頼朝 伊豆の流刑地で狩猟に明け暮れ武芸を磨いた。戦上手とは言えないが、膂力は強かった。
源義経 鞍馬を出てから関東武士に弓馬を習い、のち陸奥周辺を流浪した。身ごなしは俊敏だが非力で弓は弱い。
源義仲 義賢の子。武蔵生まれ、信濃木曽育ちの粗野な田舎者。山岳戦の天才。
義頼家 鎌倉の人。狩猟の名人。
源実朝 鎌倉の人。東夷の天才歌人。
- 90 :
- ・世界の一切は空とみる。
・一切の現象・事象・物事はすべて縁起による
・人間の頭(思考・記憶)はガウスみたいな天才のそれでもたいしたことない。
・人間のやることに価値などこれっぽっちもない。
こうおもってると大分楽になる。
出典は法華経な。
- 91 :
- にっぽん歴史鑑定とかいう超マイナーな似非歴史番組、なに足利直義の肖像画を頼朝の肖像画にして捏造してんだ??
もう直義に比定されてるのを知らないのか無能スタッフ
イラつくからすぐ切って録画消したわ
- 92 :
- 頼朝の子も孫もみんな悲しい生涯送ってるんだな
頼家、実朝、公暁は有名だけど、その他の
千鶴丸、大姫、三幡、貞暁、頼家の子の一幡、栄実、禅暁
竹御所も含めて誰一人幸せな一生とは言えない
なんか悲しくなるわ
- 93 :
- 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
JOU8N
- 94 :
- 平氏の長期政権が見たかったな。
- 95 :
- 武士の世が200年遅れるな
- 96 :
- 京に覇府を置くと朝廷に呑み込まれてしまうな、足利幕府しかり。やはり武家政権は東国
- 97 :
- 一方東国では南北朝からほぼノータイムで戦国時代に突入していた
- 98 :
- とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
ZOK
- 99 :
- >>89
なんで、源頼政や源行家がいないんだよw
- 100 :
- 609名無しさん@お腹いっぱい。2018/11/03(土) 22:35:25.83ID:6T8bUG3b>>611>>659
ああ、もしかして、いまだに大乗非仏説を盲信していたの?
いわゆる原始仏典(パーリ仏典)をありがたがって勉強していたの?
それね、5世紀前半に大乗仏教嫌いだったブッダゴーサというスリランカの高僧が、当時のスリランカ国王の権力を背景にして、スリランカ仏教から無理やり大乗仏教色を排除した結果のパチモンなんですよw
むしろ、それ以前に漢訳された法華経等の大乗経典の方が、ブッダゴーサ以前のインド仏教の原形を留めているんですよ
偉そうに説教かましてくれてたけど、知らなかったんだろw
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