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今川氏真公とその時代


1 :2014/03/06 〜 最終レス :2017/05/25
今川家の後を継いだ嫡男今川氏真公を語ろう。
とても温かみのあるいい人だと思うがな
一度、蹴鞠の名手今川氏真公と
横浜F・マリノスのエースストライカー
中村俊輔の
リフティング対決を見てみたい。
今川氏真も塚原卜伝に剣術の免許皆伝を戴いているぐらいだから
運動神経は相当良い筈だ。
スポーツ大会で中村俊輔が地面に倒れ伏し
「後もう一回!」とダダを捏ねるところが見てみたい。

2 :
               〜糸冬〜          

3 :
漫画の徳川家康を読んでたら、今川氏真は相当な馬鹿殿に描かれていた
蹴鞠と酒と女にしか興味がないとか・・・
史実はどうか知らんけど

4 :
>>3
でも、家康もなんだかんだと言って、今川氏真の生活を援助
しているのだよな
家康も粘着質なところがあって、人質時代虐めた人は
切腹させたりしているのにも関わらずだ

5 :
家康と今川氏真との関係は超微妙なんだなぁ。
ライバル関係なのか友達なのか家臣なのか
懸川城開城の条件に駿河から武田信玄を追い出したら
又、氏真公を駿府の殿さまにするって
徳川家康さん約束したんだなぁ。
で今川家が滅亡しても家康さん、頭の片隅にこの事があってね
金谷のお城の城主にしたり(1年だけでしたけど)、
織田信長に氏真公を駿府の殿さまにもう一度成って頂こうかと相談したらしい。

6 :
惜しかったのは薩唾峠に一日、北条氏康軍の
援軍が遅れたこと。
今川軍から21人の有力国人が武田方に裏切り(様子見?)
疑心暗鬼の今川氏真勢は今川館を焼き払い
懸川への撤退を余儀なくされた。
見苦しいのは武田信玄で今川家に御見方する息子義信を
自刃に追い込み、私欲から三国同盟を破棄、駿河に乱入した。
今川義元が戦死して以来の今川家の弱みにつけ込んだ卑劣な行為。
息子義信まで殺して、氏真の妹は送り返して最低だんな。
人間の屑、武田信玄。にしても北条軍の
一日遅れが痛かった。

7 :
織田信長
今川の流れの末も絶果てて 千本の桜ちりすぎにけり

8 :
今川の流れの末も絶果てて 千本の桜ちりすぎにけり
と詠んだ織田信長公。
武田勝頼を滅ぼし駿府で生意気言ったものの
僅か2ヶ月後には
本能寺にて惨死。

9 :
今川氏真は文武両道なんでも行ける。
蹴鞠、剣術、歌・・・。
経済だッテ強いよ。清水寺に楽市楽座を開かしてるもん。
でもね欠点が一つだけあってね
血を見るのが大嫌いだった。

  なんでも鑑定団 愛のエメラルド

10 :
田代まさしは氏真の男系子孫。

11 :
378 :日本@名無史さん:05/03/12 18:22:17
今川義元−今川氏真−西尾安信−酒井忠宇(庄内藩士)−酒井忠寧−
石野信政−石野信和−石野信一−石野三和−石野宗孝−田代文兵衛−
田代文也−田代孝明−田代和政−田代政
脈々と受け継がれる今川の血筋。田代政さんは芸名田代まさし、
1980年シャネルズでデビュー。
その後グループ名をRATS&STARに改名、現代に至る。
西尾安信は氏真の三男か四男だったと思う。その子供が庄内藩主の一族の
養子になってる。
その家の五男が石野姓をなのってて家紋は先祖にちなんで二つ引両。
石野家の子供が田代家(剣術師範)に婿養子に入った。

12 :
[P]No Name > 藤枝東は国立での優勝が無い。お寒い限りですね。 (3/7 5:24)
[P]No Name > というか静岡自体がお寒いですね。結果が出てない上に煽り合いとは情けない限りです
[P]No Name > たしかに藤枝東は国立での優勝はできなかったが、聖地「草薙球技場」での優勝と単独優勝がある。
学園は両校優勝しかなく開誠館は草薙球技場での優勝は無い。
[P]なんでも鑑定団 愛のエメラルド > 草薙競技場の芝の剥げ方は凄いね。ピッチが青いと云うより白く見える。最低。
その点、藤枝市の山のサッカー場はいいなぁ。清水寺にノボル途中で見たんだが青々としていて最高でした。
音羽山清水寺に楽市楽座を開いた元祖サッカーとも言える蹴鞠の達人今川氏真公もきっとお喜びの筈。 (3/7 13:16)
[P]No Name > 今川氏がもしいたら喜んだのは、静学の人工芝だよ。あそこ、昔、今川の土地だし。 (3/7 13:31)

>>10,11さん 本当のお話ですかね。田代まさしさんが「バカ殿、バカ殿」ッテ志村けんに
吠えるとなにか実感があったなぁ^ 

13 :
しかし何だな、
今川義元は家康の教育は成功したのに、
どうして息子の教育は失敗したのだろうか?
家康には偉いお坊さんを家庭教師につけたのだろう?
さしずめ戦国のアレキサンダー大王とアリストテレスに匹敵するくらいの
息子にだって付けたらいいと思うのだけど

14 :
今川氏真公は
16歳で元服
17歳で結婚(北条氏康娘早川殿)
20歳で跡目相続を
しています。
今川義元公御自慢の
息子だったようです。

15 :
>>13
よくわからんが、
良い教育すればどんな子供も天才になれると思ってるってこと?

16 :
氏真が家康並みの戦略的・軍事的才能を持っていたらどうなっていただろう?

17 :
武田と組んで織田に対抗して、ボコられて尾張って気がする

18 :
>>15
家康の場合は明らかに努力の人だからな
勉強好きだからな
これが信長の家みたいな放任主義だと、今川義元の家来になるか
尾張の小大名で終わったかしたのでないの
もっとも信長もそれなりにお坊さんが付いて勉強した形跡は
あるし、秀吉にしても読み書きの手ほどきは受けて、
まめに勉強をしていたようだけどな

19 :
>>11
大河ドラマで今川氏真はタシロがやればピッタリかもなww
面白そうだwww

20 :
>>13
凡庸な息子を将来サポートする優秀な家来をj一人でも多く育てたかったから。
家康はその家来候補の一人。

21 :
今川の御曹司今川氏真公と
徳川の御曹司徳川家康公の差は
関ヶ原の戦いにあるんじゃないの。
今川家は親方の義元始め重臣の松井(二俣城城主)、由井美濃守(徳一色城主)、
井伊等がことごとく討ち死に。
一方、別の地点で食料運搬係の徳川家康勢はほぼ無傷。
この機をチャンスに、岡崎の御曹司殿は今川家の重しが取れたと云う事で独立しちゃった。
氏真公は父の仇討を希望したんだが、三河の徳川家康の火事場泥棒的動き、遠江の反乱の前に
なかなか事が前に進まなかったようです。
    なんでも鑑定団 愛のエメラルド

22 :
>>21の訂正じゃぁ
今川の御曹司今川氏真公と
徳川の御曹司徳川家康公の差は
桶狭間の戦いにあるんじゃないの。
当時の書簡などで今川氏真殿に仇討の気持ちが
あった事は、ハッキリ分っているんだが
岡崎の御曹司徳川家康は従わないどころか三河を切り崩そうとまで
するのだから始末に負えない。
遠江も独立しようとする動きも出て
さすがの氏真公も家臣団を纏まり切れず地団駄を踏んだようです。
氏真に桶狭間の敗戦の復讐戦の気持ちは
ハッキリとありました。

23 :
三河どころか遠江まで押さえられないのが氏真の器量不足という事だろ。
一方家康はそれで独立するだけの器量があった。

24 :
いやそれがねえ。
今川義元公でさえ遠江がやっと、
三河は抑えるのに苦労していました。
三河も実は安泰では無かった。織田信長は大高城の周りにぐるりと
砦を築き、食料の運搬を閉ざす作戦。
救援に駆け付けた今川義元が大高城に
食料を運びこみ、ホットしたのが運のつき。
なんと織田の若輩者に義元公始め重臣のお歴々等、
3千数百人が首を刈られたと云う。

25 :
今川義元公が泡を食って三河に向かったのは
孤立気味の大高城、鳴海城に兵糧を入れる為。
織田信長本隊との衝突は想定外(出会いがしらの事故)だった可能性がある。
2つの砦を落とし、味方の城に食料を入れた時点で
今川の当初の目的は達成。
今川義元公は田楽狭間で三曲謡を歌い舞ったと云う。
所が織田信長軍は織田家存亡の危機と捉え、
遮二無二に突っ込んだ。
今川さん、戦争は前線部隊がやる物で、本陣はただ見ているだけとの
甘い認識だったと思う。
織田信長さんは義元の首というより、今川部隊の中核部隊を狙っての戦、
要するにヒットアンドランを狙っていたんだと思う。
中枢部分を掻きまわし出来れば破壊したかった。
網を上げてみたらなんと大物の義元公始め今川の重臣が
みんな入っていたと云う事でしょう。

26 :
今川義元さんが馬ではなく輿に乗って出陣と云う事は
足利家の血統だと云う事を広く天下に知らしめるためでしょう。
下剋上の世の中と言っても有難がる住民は山といるからね。
私は戦争とは言ってもデモンストレーションを兼ねていたんだと思う。
名門今川家の良さを、最近靡いてきた三河、遠江の城持ち衆にアピールする
機会だと思っていたんだと思う。接待することで今川支持が増えると
思っていたと思う。
ゆるゆるゆるゆる輿に乗って移動しているからヒットアンドランの
織田勢に捕捉されたんだと思う。
今川公の不覚は、織田信長本隊の動きを把握していないこと。
砦を攻め落とす前に清州城を釘づけにすれば良かった。
織田信長が野戦型で神出鬼没、全天候型で激戦の尾張を
刃で手にした事ぐらい事前に把握しても良かった。
サッサと大高城に入りこんでいれば、織田勢にチャンスはなかった。
今川義元公の不始末で、嫡男の今川氏真公に苦難が襲いかかった。

27 :
親に死なれたぐらいで苦境に陥るなら、それだけの器量ということ。
親に死なれても、人質に取られても、主君に死なれても天下を取れる器量人も居るんだから。

28 :
北条、武田が隣で、駿遠三治めるだけの器量といったらどんだけー

29 :
北条家は、妻が早川殿だから大丈夫。

30 :
家康に独立された上に遠州を攻略されたのが痛かったな。
家康が重臣で雪斎のように補佐してくれたら良かったんだろうが、さすがに無理だったな。

31 :
私の調べでは北条早雲を始祖とする
北条家三代目北条氏康の今川氏真に対する評価は
非常に高く最後の最後まで
北条家は今川家に尽くしています。
残念なのは武田家では嫡男の武田義信が三十歳近くなっても
跡目相続が出来なかった事です。
(今川氏真は二十歳で今川家を跡目相続)
武田義信は大の今川びいきでしたが
今川館の金銀財宝に目が眩んだ欲っさりの親父に自刃させられています。
  
    なんでも鑑定団 愛のエメラルド

32 :
>>30
逆に家康が氏真を>>5の言うとおり、ブレーンだか友達だか
家臣だかしらんが、傍においているよな
普通なら、氏真は絶対に家康に殺意を抱くだろうに
逆に家康も警戒はするだろうに

33 :
家康の正妻である築山御前は氏真とも関係があったのか?
昔読んだ漫画徳川家康にそれっぽい描写はあったが・・

34 :
氏真ねえ、昔やった信長の野望で知力、武力、魅力が一般のザコ武将と比べても
遥かに低い設定に笑った記憶が。
でも氏真って没落後に家康に連れられて信長に拝謁して蹴鞠披露されてるんだよね。
屈辱の様な気もするが、家康としては氏真の為にしたんじゃないかと。
その時の家康と信長とにどのような会話があったのか気になる。

35 :
氏真って、けっこう好人物だったのかね。
家康も信長や秀吉に比べると、人格者なのはまちがいないし。
そういう二人だから、個人的にああいう良好な関係を築けたのかも。

36 :
ふと思ったんだが、家康さんは吉良から系図を譲り受けるんじゃなくて、
氏真さんの養子になって今川元康になればよかったったんじゃないだろうか?
まあ、吉良から系図を譲り受けたときも、吉良の養子になったわけじゃないんだが、
なんでそんな不自然なことになったんだろう?

37 :
>>33
あれは漫画。作り話。
今川氏真は死の直前まで徳川家康に保護され旧友の中。
大名にはなれなかったけど、息子たちは徳川幕府の高家に列席。
信長時代も、家康は氏真を駿河の国主に返り咲けるように
信長に持ち掛けたんだろう?

38 :
家康は、義元を恩人と言ってたから、息子もそれなりに処遇したんだろうな。
家康の学問好きは、駿府時代に教育してもらったお陰だろうし、義元の姪を妻にするなど、厚遇されてたからな(手なずけるためだろうが)。
駿府の少年時代の思い出が悪いものではなかったから、駿府に隠居したんだろうしね。

39 :
家康って名門マニアで戦国時代に没落した名門やかつての大大名を高家旗本や
小大名で復活させてるしね。

40 :
>>4
氏真に対しては恨みとかないんでしょ
出来の悪くて身を持ち崩した幼馴染の兄ちゃんを世話するような感じだったんじゃないか

41 :
井沢元彦先生に
汚名返上してもらわねば

42 :
今川氏真公は長篠の戦では
客分として
織田信長軍に加わっているんだよなぁ。
今川氏真の見ている前で武田勝頼軍は
かわいそうなぐらいの一方的な敗戦。
柵を巡らしている中を真っ正面に突っ込めば
そりやぁ火縄銃の集中砲火も浴びるわな。
氏真公にその時の感想を聞いてみたいよなぁ。
ザマァ見ろと思ったのかそれともお気の毒に思ったのかどうか
それともよそ事だったかな。。

43 :
>>42
調べたら調べるほど、この人ものすごい数奇な運命を送って
いるのだよなww
本人もこのような生活を望んでいたのかどうか
結構気になるなww

44 :
数奇と言っても、天寿を全うできたし、晩年は天下人となった竹千代の庇護もあったわけで、勝頼のような悲惨な目にはあってないよね。

45 :
武田勝頼の救いは小田原北条家のお嬢さん、19歳の北条殿が
最後の最後まで付いてきてくれた事だなぁ。
  帰る雁(かり)頼むぞかくの言の葉(ことのは)を
  もちて相模のこふ(古府)におとせよ
武田勝頼は親父信玄と違って「敵の意表」を突く戦術が取れなかった。
正直に前に突っ込むばかりでは最後はやられる。
北条家の御嬢さんは立派だよなぁ。今川氏真公の御嬢さん早川殿も
最後の最後まで添い遂げた。
氏真、奥さんが亡くなったらガックリ来て翌年には亡くなったらしい。77歳。

46 :
今川氏真がなんとなく
女っぽく感じるのは
姉妹に囲まれて育ったせいなのかも。
男の子は氏真一人で女の子は三人か。
姉と妹が感染症で亡くなり、看護した母上も病気が
移ったらしく一三歳で亡くなってしまいます。
父義元は一〇年後、倒れ
残った肉親は武田義信に嫁いだ氏真の妹君一人になります。
武田義信と妻(氏真の妹)、今川氏真は仲が良かっただけに
織田家に目移りした武田信玄の今川離れは
大変残念な事でした。

47 :
なんとなんと今川氏真公には弟君もいました。
77歳で死去の際の葬儀には
三男坊が葬儀を執り行っています。
幼少より坊さんとして育てられていたとの事。
一月長得出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内、 検索 凡例一月長得
時代 戦国時代
別名 今川長得
主君 今川義元→今川氏真→徳川家康
氏族 今川氏
父母 父:今川義元、母:定恵院(武田信虎女)
兄弟 今川氏真、嶺松院(武田義信室)、ほか
一月長得(いちげつちょうとく)は、駿河今川氏出身の僧侶。
今川家第9代当主・今川義元の三男であると伝えられる。
生家の苗字を冠して今川長得と記されることもある[1]。

生涯[編集]長子でない為に出家を余儀なくされ、一月長得と名乗って曹洞宗の僧侶となった。
寺伝によれば天正2年(1574年)、仏照円鑑禅師(喚英長応)を招いて江戸に万昌院(現・萬昌院功運寺)を開いた[1]。
今川家の直系としては、父の死後に今川家が滅亡して、後に兄の今川氏真が徳川家康から高家として迎えられるとこれに従った。
慶長19年(1615年)に氏真が亡くなった時に弔いを行ったのは長得と伝えられており、
万昌院は観泉寺に移動するまで江戸時代の今川家にとって墓所となった[2]。
また万昌院は、今川家の本家筋にあたり、当時は極めて近い姻戚関係にあった吉良家の墓所ともなった。

48 :
今川氏真公は1女4男だったらしい。
17歳で北条氏康の長女早川殿と結婚しています。
夫婦仲は大変睦まじかったようです。
娘は今川家と縁の深い吉良家に嫁いでいますが、
幾代か後に、18代当主吉良上野介が赤穂浪士に
討たれています。
今川氏真公長男範以は今川家を・次男高久は品川家を継いでいます。
徳川時代に高家として残りました。若年寄にもなったよし。
三男か四男が田代まさしの御親戚のようですね。>>11参照

49 :
私は徳川家康は掛川城での約束は
果たそうとしたんだと思うね。
お約束の今川氏真公のお殿さま復帰。
家康は今川家の人質とは言っても家康の親父が
同盟軍に加わりたいと自ら言いだして人質に差し出しただからね。
今川義元公は家康を岡崎家の御曹司として優遇したんだと思う。
私は家康が金谷の城主に氏真公を持って来た事を評価するよ。
ただ氏真公、殿さまに膿んできたんだと思うな、1年半で辞退して
僧侶になっちまった。
希望があれば氏真公、江戸時代には10万国ぐらいの大名に
なったんじゃぁないのかな。でも氏真公は自由人として生きてみたかった。
血を見るのが嫌いだし、いろいろな才能があったからね。

50 :
長篠の合戦後、氏真も残敵掃討に従事したのち、5月末からは数日間
旧領駿河国にも進入し、各地に放火している[14]。
7月中旬には諏訪原城(現在の静岡県島田市)攻撃に従った。
諏訪原城は8月に落城して牧野城と改名する。
天正4年(1576年)3月17日、家康は牧野城主に氏真を置き、松平家忠・松平康親に補佐させた[10]。
しかし、天正5年(1577年)3月1日に氏真は浜松に召還されている。1年足らずでの城主解任であった。
また、城主時代に剃髪したらしく、牧野城主解任時に家臣・海老江弥三郎に
暇を与えた文書では宗ァ(そうぎん)と号している[10]。
この文書が、今川家当主として氏真が発給した現存最後の文書となる。
 
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

51 :
武田信玄ほどのへタレはいないと思うぞ。年に7回いやそれ以上か
織田信長からのプレゼント攻撃が続くうちに武田信玄公舞い上がっちゃった。
エスメス、シャネル、ブラダ、ルイヴィトン、グッチ、藤枝東高サッカー部のユニなどのプレゼントの山に
目が眩み、今川氏真、北条氏康との三国同盟を破棄、あろうことか今川贔屓の長男の武田義信を自陣に追いやり
織田家との縁組に力を入れた。

織田信長を甘く見た結果が武田家滅亡。今川義元公がやられた時点で
手ごわい相手だと気がつかない武田信玄はへタレ。
他が忙しいから信長公は武田勢との戦を遅らすための戦略としての
プレゼント作戦なの。
実は武田信玄の後を継いだ武田勝頼も駄目なの。
北条家に強くお願いされた上杉景虎ではなく
差し出された黄金五百枚に 目がくらんで
上杉景勝を支援すんだもん。
金銀財宝、欲に目がくらんだ武田家は北条家も最後は頼れず
自滅しましたとさ。 
    なんでも鑑定団 愛のエメラルド

52 :
秀吉は今川氏真を御伽衆に招かなかったのかなぁ

53 :
>>52  太閤秀吉と今川氏真との逸話は今のところ、
    発見されていません。若いころ秀吉は今川の領地遠江の浜松にもいたし
    桶狭間の戦いにも加わっています。
    織田信長と徳川家康、氏真の逸話は残っています。
逸話[編集]氏真に関しては、以下のような逸話が伝えられている。
『続武家閑談』は、天正10年(1582年)に武田氏が滅ぼされた際、家康が信長に「駿河を氏真に与えたらどうか」と
言ったと記す。信長は「役にも立たない氏真に駿河を与えられようか、不要な人を生かすよりは腹を切らせたらいい」と答えた。
これを伝え聞いて氏真は驚き、いずれかへ逃げ去っていたが、そのうちに本能寺の変が発生したという。
『及聞秘録』には、晩年家康を頼った氏真が江戸城をたびたび訪れては長話をしたために家康が辟易し、
江戸城から離れた品川に屋敷を与えたと記されている。
『故老諸談』には、氏真と家康が和歌について談じたことが記される。氏真が和歌の道の奥深さや言葉選びの難しさを語るのに対して、
家康は技法にこだわるよりも思いのままに詠むのがよいと返している。
    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

54 :
掛川城内に、7間半四方の鞠場ができあがると。今川氏真は七人の家来の中にまじって
蹴鞠を始めた。氏真の番になると蹴った鞠を足で受け止め、
それをけっして落とさなかった。体も敏捷に動き、
鋭い掛け声が動作をきりっ、きりっと引き締めた。

(朝比奈)泰朝は驚いた。それは鍛錬した兵法者の武技に通じるものであった。
ああ、この人は生まれた家がちがった。公家の家に生まれて、
蹴鞠で一生をすごすと、古今の名人になるのだろうに・・・・・・。
泰朝はそう感じた。
  参考 武田信玄 土橋治重著 成美堂出版

55 :
>>54
泰朝は驚いた。それは鍛錬した蹴球の技に通じるものであった。
ああ、この人は生まれた時代がちがった。平成の世に生まれて、
蹴球で一生をすごすと、古今の名人になるのだろうに・・・・・・。

56 :
>>53
家康さんと氏真さんの人柄・性格が伝わる面白いエピソードだw

57 :
犬も歩けば棒にあたる
この格言の通り
ひとつ面白いものを発見。
17歳の弟・今川義元が兄貴の軍勢を
討ち破った家督争いを花倉の乱と言うんだが
今までは今川館、方上城(実際は石脇城。戦国時代までは高草山の麓一帯は方上と言われる事が多かった。北条早雲が最初に城主になった城)、
花倉城で戦闘が行われたと言われる事が多かった。
新たにひとつ戦闘場所が加わりました。久能山の戦いです。
今日私は4人でイチゴ狩りと久能山東照宮見学に行ったんだが
ロープウエイの乗り場付近で面白い案内板を発見。今川家の出てくる部分を
先ず紹介。
「室町時代の今川家の内紛
花倉の乱(1536)などに際しては
兵が立て籠ることがあり
次第に寺院城郭としての一面をもつに至った」。
   なんでも鑑定団 愛のエメラルド

58 :
今川氏真なんて徳川と武田で今川領を分割したときに死んだとばっかり思ってた
しかも、家康が氏真を援助していたなんて全然知らなかった
絶対に家康は氏真に良い印象持ってないと思ってたから・・
漫画徳川家康を子供の頃に愛読していた自分の感想です

59 :
漫画徳川家康というかその原作の山岡荘八は、創作で氏真を敵役にしすぎてるからな。
築山殿と関係があったとかなんとか。
氏真は、女性関係がなかったとは言わんが、早川殿を愛してたし、あれはないわ。

60 :
史実は小説、マンガ、映画、ドラマとかから学んだら駄目

61 :
調べれば調べるほど今川氏真公の
出来の良さに驚くわ。
剣は塚原卜伝から免許皆伝の腕前、
蹴鞠は織田信長が所望するほどの腕前。
和歌は詠んだ作品が2000首も今に伝わっています。。
書も達筆だョ。繊細で鋭い。
おさるさんと書道名人大会を開けば
おさるさんに負けるはずはない。
おさるさんが地面にひれ伏し
「後もう一回!」とダダを捏ねるところが見てみたい。
   なんでも鑑定団 愛のエメラルド

62 :
江戸時代のような平和な時代の殿様だったら、文化的な名君として名を残したのに、
生まれてくる時代とタイミングが悪すぎた。

63 :
調べれば調べるほど今川氏真公の
意外な事実に驚くわ。
なんと今川氏真公について書かれた本は只の1冊も出ていないのね。
自称小説家も学者も歴史ファンも多々いると思うのに
ただのお一人も書かれた人がいないとわ驚くと云うより
魂消たわ。
流転の人と云うより路傍の石としての扱いか。
でも私、北条早雲も今川義元も今川氏真も徳川家康公も
尻尾を掴んだ気がします。
ヤッパ駿府。特に今川のメッカ藤枝市に住んでいる事は大きい。
今日、私は東京品川にある、息子の大学の卒業式に行って来たんだが
綺麗な大学で華やかな雰囲気。春の到来を感じたわ。
タクシーの運転手さんに「今川氏真公の品川屋敷跡は分りますか」と
聞いたところ「品川だけでは分りません」とのお答えでした。
帰ってきて調べたところ、品川屋敷跡は
路傍の石と言うより、線路の下になっているみたいね。

64 :
残念ながら今川氏真公品川屋敷は跡かたもなく無くなっています。
線路の下?
今川氏館
http://www.geocities.jp/y_ujoh/kojousi.imagawashi.htm

65 :
>>63
天下を汝に―戦国外交の雄・今川氏真 (新潮書下ろし時代小説)[単行本]
赤木 駿介(著)
内容(「BOOK」データベースより)
公家や連歌師たちによって全国に張り巡らされた文化を仲立ちとする緊密な情報網。
天下を窺う戦国大名と公家ネットワークの結節点に、名家今川の嫡男・氏真はいた。
徳川家康を政権の座に導き、その武力を知力で支えた知られざるフィクサーの50年。戦国の時代観を180度覆す力作長編。
氏真主人公の本は1冊出てる。新刊で読んだことがある。
アマゾンで中古が買えるぞ。

66 :
>>65
お知らせありがとうございます。
出てたんですね。単行本。
これから先、今川氏真公は
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康並みに
注目される人物に成る気がします。
なんか今の時代のトレンドに合ってる。
明るく爽やかスポーツマン。くよくよしない。
血を見るのが嫌い。前向きじゃね。

67 :
焼津市で有名と云うより日本武尊で有名な焼津神社の
本殿修理に関する今川氏真公の朱印状で、焼津市で一番古い古文書である。
桶狭間の戦いの翌年出された物。
焼津市 今川氏真朱印状
http://www.city.yaizu.lg.jp/rekimin/bunkazai/a41.html
今川氏真が、永禄4年(1561)に焼津郷の入江大明神社(焼津神社)の神主次郎左衛門に与えた文書で、
現存する焼津市内の古文書で最も古く、大変貴重なものである。
本社(本殿)の修理費用を、神田を抱える百姓から徴収すべき旨や
神領については神主の計らいとするべき事が記されている。
印文「如律令」の氏真朱印状である

68 :
桶狭間の戦いの数ヵ月後出された判物もあります。
桶狭間の戦いが永禄3年5月19日(千五百六十年六月十二日)。
判物とは将軍・大名が花押を以て所領に当てた文書の事。
駿河国稲葉郷瀬戸高山寺の事
 右の寺領である田畑・山・屋敷。去る天文五(1536)年八月二十五日の判形
(今川文書)これありと言えども、近年領主の乱れ(桶狭間の敗戦の事か)により
知行至らずと聞く。
前の証文の内差し上げた二貫四百文を除けば、前の証文通りである。
百姓等は無沙汰であってはならず、並びに門前の棟別・夫役以下これを
停止する。寺領は寄進通り領有を認める。
 天沢寺殿(義元)御判形の通り寺に任すので、寺の修復・勧行等
怠慢あるべからずのこと件の如し
  
 永禄三年十月□日
          (普門寺文書)
 この高山寺に発給した氏真の判物は、天文五年の義元が
発給した判物とおなじであると認めたうえで、寺の荒廃を嘆き、
二貫四百文を寄付し、その上で寺殿の修造を勧めている。
これは今川氏の「花倉の乱」への巻き添えに対する
償いの配慮であろうか。

69 :
天文五(1536)年六月、今川義元軍の兵火によって
焼かれた道場山高山寺はその後、三十有余年、廃寺同然に放置され
礎石を残すのみになっていた。
平安初期、弘法大師(空海)により真言宗の寺院として開基されやがて
七堂伽藍を構え、荘厳荘大なる寺院として栄えた高山寺も
戦火には勝てず跡形もなく全焼した。
家督を継いだ今川氏真公はこれを大変遺憾・残念に思い
一五六〇年、寺の荒廃を嘆き、
二貫四百文を寄付し、その上で寺殿の修造を勧めています。
惜しむらくは今川氏真公が駿河の城主であった時代(〜一五六九年)までに
藤枝市瀬戸谷字紺屋にあった道場山高山寺の再建が成らなかった事。
寺院の再興は元亀二(1,571)年、村人の発願により、
谷稲葉村の曹洞宗心岳寺四代目、勅特賜光心大満禅師・蒲山孝順大和尚に援助を
依頼し、その弟子白石舜太首座の手によって堂宇を再建された。
同時に、心岳寺の再建の援助から、高山寺は宗門を真言宗から曹洞宗に改宗しています。

70 :
>>61
出来が良ければ今川家は没落してないだろ?
暴君では無いが名君であるはずは無い。
気のいいおぼっちゃんで戦国大名としては落第だったんだろう。
逆に大名として無能だったから生き延びられたのかもしれない。

71 :
現代に生きてたらもっと評価されたろうね

72 :
徳川家康からしたら
信長よりも氏真のほうが交流深かっただろう?

73 :
 ピクニック気分で出かけた桶狭間の戦いで、当主の今川義元を始め松井ら重臣が尽く全滅した事で
徳川家康に独立のチャンスが訪れた。そりゃぁ家康にしてみれば「僕は静岡市市民でも名古屋市民でも
ありません。岡崎市市民です」って名乗りたいわな。
 ただ大混乱の中で独立宣言しただけに、今川家は詰むし正妻の築山殿にも大きな災難が襲いかかった。
両親は責任を取らざるを得ず痛恨の切腹。最終的には築山殿も息子も悲惨な最期を遂げた。
築山殿(つきやまどの、天文11年(1542年)? - 天正7年8月29日(1579年9月19日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。
徳川家康(松平元康)の正室。通称は瀬名(せな)。別称に鶴がある。
築山御前(つきやまごぜん)、または駿河御前(するがごぜん)とも呼ばれる[1]。
築山殿・築山御前という呼称は、長く岡崎城郊外の築山に幽閉されていたことによる。
今川家一門である瀬名家の関口親永(または氏広)の娘。母は今川義元の妹で、つまり義元の姪にあたる。また、室町幕府の重鎮・今川貞世の血を引く。
結婚・出産[編集]弘治3年(1557年)、今川義元の養女となり、今川家の人質として駿府にいた
三河岡崎城主の松平元信(元康、後の徳川家康)と結婚する[1]。
永禄2年(1559年)に松平信康を、同3年(1560年)に亀姫(奥平信昌室)を産む。
転機・幽閉[編集]永禄3年(1560年)5月19日の桶狭間の戦いにて伯父の今川義元が討たれ、
元康(元信から改名。のちの家康)は岡崎に帰還することとなった。
永禄5年(1562年)3月、実父の関口親永は娘婿である家康(元康から改名)が信長と同盟を結んだ事で
今川氏真の怒りを買い、正室と共に自害した。

74 :
転機・幽閉[編集]
永禄3年(1560年)5月19日の桶狭間の戦いにて伯父の今川義元が討たれ、元康(元信から改名。のちの家康)は岡崎に帰還することとなった。
永禄5年(1562年)3月、実父の関口親永は娘婿である家康(元康から改名)が
信長と同盟を結んだ事で今川氏真の怒りを買い、正室と共に自害した。
築山殿は、今川義元の妹の夫である上ノ郷城城主・鵜殿長照の2人の遺児との人質交換によって、
駿府の今川館から子供達と共に家康の根拠地である岡崎に移った。
しかし、岡崎城に入ることは許されず、岡崎城の外れにある菅生川のほとりの惣持尼寺で、
幽閉同然の生活を強いられたという。
永禄10年(1567年)、信康と織田信長の長女徳姫が結婚する。
しかし、築山殿は依然として城外に住まわされたままであった。
対立・終焉[編集]
元亀元年(1570年)4月下旬、ようやく築山殿は岡崎城に移った。
同年、家康は遠江浜松に移ったが、世継ぎの信康とともに岡崎にとどまった[2]。
徳姫は天正4年(1576年)には登久姫を、天正5年(1577年)には熊姫を産んだ。しかし、徳姫がいつまでたっても
信康の息子を産まないため、心配した築山殿は、
元武田家の家臣で後に徳川家の家臣となっていた浅原昌時の娘で部屋子をしていた女性を、
信康の側室に迎えさせた。
天正7年(1579年)、徳姫は、築山殿が徳姫に関する讒言を信康にしたこと、
築山殿と唐人医師減敬との密通があったこと、武田家との内通があったことなど、
12ヶ条からなる訴状を信長に送り、これにより信長が家康に信康の処刑を命じたとされる。
家康の命令により、築山殿は8月29日に小藪村で野中重政らによって殺害され、
信康は9月15日に二俣城で切腹した。だが、この通説には疑問点も多く、
近年では築山殿の殺害と信康の切腹は、家康・信康父子の対立が原因とする説も出されている[3][4][5]
(松平信康#信康自刃事件についての項を参照)。
墓所は浜松市天竜区二俣町二俣の清流寺[2]。首塚が岡崎市の祐傳寺、後に天保年間の頃八柱神社に移された。
法名は清池院殿潭月秋天大禅定法尼。築山御前霊廟、月窟廟(静岡県浜松市中区西来院)
    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

75 :
父と息子では全然違うなぁ。徳川家康の親父は織田信長の親父率いる大軍に
岡崎城を包囲された時、救援に駆け付けた今川義元軍に心底感謝しているなぁ。
「今川家に背く訳にはいかん」。
今川義元公も徳川家康を人質になんか貰わなければよかった。
親切を仇で返す、とんだ食わせもんだった?
静岡県駿府編「悲運の地・駿府城」深い因縁物語
http://www.s-b.biz/tokugawa-ieyasu/shizuoka1/

76 :
さすがの今川氏真公も徳川家康の謀反だけは
読めなかったんじゃァないのかなぁ
豊臣秀吉公だって家康のたぬきに騙されているもん。

城とshizuoka戦国浪漫
http://www.sengoku-shizuoka.com/stage/history/03/0002.php

77 :
義元は、徳川家康元服の時、「家康は、年まだ若いと言えども、其の分別が明なのは
全く天より得たもののようだ。成年になれば、如何なる大人物となるか知れない。
広忠が今生きていたら、どれほど喜んだろう」
と、涙を浮べて喜んだそうです。

義元は、竹千代の屋敷の隣に、祖母(源応尼)を住まわせた。
織田家での扱い(寺に軟禁)と比べて、思いやりに満ちていたといえるのではないか。
家康は織田家に100貫文で売られたのを見ればなおさらね。

78 :
元信は、今川家による三河統治の重要な手駒。だからこそ雪斎が織田信広を捕虜にして捕虜交換で奪還してきた。
今川家にとって利用価値が大きいから、厚遇は当然。
しかも義元は、三河に代官を置いて年貢を取り立てているから、元信処遇の経費は十分に賄ってお釣りが来る。

79 :
>>77
家康があのまま織田家にいたら、
マジな話、日本人の気質すら代わっていたと思う。
信長の家の教育方針は「男は読み書きさえ出来たら、放置プレイで
かまわない」だから
信長、秀吉と続いて家康が最終的に天下を取ったから
日本人の気質が今のように定まったの対して、
信長、秀吉と続いて、劣化信長的な人格の家康が天下を統治していたかと思うと

80 :
今川焼きと何か関係あるの?

81 :
またまたヒット
犬も歩けば棒にあたる。
私は先日、案内板から久能山に兵が籠っていたのを
発見?したんだが(57参照されたし)
またまた大発見だぞ。
静岡市丸子の二軒家下車徒歩10分のところにある「誓願寺」で
面白い物を発見。
案内板のさわりを紹介します。

82 :
 誓願寺は、建久年間(1190〜99年)に
 源頼朝の両親追善のため建立されたが、
 天文年間(1532〜55年)の
 丸子城の戦火で類焼した。
あれれ 天文年間か ええっとなんだったっけ
思い出したぞ天文五年に「花倉の乱」があったじゃん。
福島殿、斎藤殿率いる軍勢と雪斎率いる義元軍が
このあたりで激突したんだ。
☆ すぐそばの丸子城に登ってみましたが
  掲示板によると山上では
  戦闘はなかったよし。山の麓で
  戦闘があったと思われます。
    なんでも鑑定団 愛のエメラルド

83 :
藤枝市音羽山清水寺には有名な
今川氏真公の楽市楽座朱印状が出されています。
桶狭間の戦いの1年後出されたものです。
稲葉郷の内清水寺に於いては、毎年正月17日、
7月17日の両日、新町相立つべき事
一、商人の諸商売に役(税)あるべからざる事
一、押し買い・狼藉の事
一、喧嘩・口論の事
右の条々、違犯の輩(やから)に於いては、きっと
成敗加えるべきもの也。よって件の如し。
永禄四年6月 (今川の朱印あり)
清水衆徒中
 これは清水寺の門前で毎年二回、新町(市場)を立てるが、
これには税をかけないことや、治安をよくすることを
規定したもので、いわゆる楽市、楽座という政策に
相当するものである。
  
   参考 瀬戸谷村史「瀬戸谷の歴史」2,012年発行 井沼一執筆 

84 :
義元亡き後、後を継いだ今川氏真公も
重臣の多くが戦死し詰んだようです。
接待上手、外交上手の人も多かったからね
桶狭間から戦わず逃げ帰って来た幹部に
氏真公が怒る。そうすると幹部が根に持つ。
薩唾峠で裏切る。
(今川家元幹部は)
武田信玄にお約束の駿河半国を貰いに行く。
「馬鹿かお前は、今川の裏切り者」と信玄に揶揄される。

85 :
岡部元信も怒られたの?

86 :
>>85 岡部元信も怒られたの?
岡部元信は実に立派な武将だョ。
男の中の男だョ。
織田信長と交渉し義元の首をとり戻し、
刈谷城を攻め落とすなんてなかなか出来ない。
もっと知られて欲しい人物です。
最後は高天神城の城主として
玉砕するんだが織田信長に最後まで戦った勇者だョ。
岡部元信
http://search.yahoo.co.jp/search?ei=euc-jp&fr=slv1-snvaio&p=%b2%ac%c9%f4%b8%b5%bf%ae
84の裏切り者とは今川一門瀬名家の三代目
瀬名氏俊です。最後は武田信玄にも追放され
口のきけない病気になり相模で放浪し
北条家にも仕官を希望したが
「今川家の裏切り者」と罵られたよし。

87 :
元信さんを怒るようじゃ蛆ザネさんも落ちぶれても仕方がない

88 :
>>87元信さんを怒るようじゃ蛆ザネさんも落ちぶれても仕方がない
怒られたのは元信さんじゃァないよ。瀬名家の三代目
瀬名氏俊なの。
瀬名氏俊は今川軍の先鋒隊として出陣し、本陣の安全、見張り、設営、まわりの
監視などをやる役なの。しかるに織田軍本隊の突入に気が付くのが遅れたばかりか
本陣周りに居ながら義元を守れず逃げ帰った。
いけないのは瀬名氏俊・氏栓親子は今川氏真公に叱られたのを根に持ち葛山備中守氏元や
朝比奈信置らと共に共に薩唾峠で武田信玄に寝返ります。
「駿河を半国与える」という甘い罠に引っ掛かり今川家を裏切るのです。
勿論、信玄の甘言は実行されず反古になりました。

89 :
桶狭間の時の今川軍では総(惣)先手侍大将は歴戦の重臣・近習の
松井兵部宗信です。
次いで先中侍大将の瀬戸伊予氏俊が先鋒隊の要です。
先手旗本侍大将は朝比奈備中守泰能です。
後、前備侍大将藤枝伊賀守氏秋、後備侍大将葛山播磨守長、左備侍大将
岡部甲斐守長定と続きます。
松井宗信(心)が主君を守り一族郎党討ち死にするのに
今川家一門筆頭、瀬名家の3代目瀬名氏俊は逃げ帰ります。瀬名は薩唾峠でも裏切るのです。
 今川義元近習・松井五郎八朗宗信
http://plaza.across.or.jp/~ai-kankyo/hatiromunenobu.htm

90 :
面白いのは昔の武将たちにも忌む名って考えがあったとこなんだよなw
これは日本は馴染みがないけど東アジア全般でみるとむしろそういう考え
の方が多い
江戸時代には廃れた痕跡がある

91 :
>>90
忌み名は幕末まであったよ
坂本竜馬とか勝海舟とかの名前も本名じゃないから

92 :
次いで先中侍大将の瀬名伊予氏俊が今川軍先鋒隊の要です。
☆ 瀬名家3代目は情けないなぁ。
一門筆頭ともいえる瀬名家ですョ。
今川あっての瀬名家だと云う事がどうしてわからないのかなぁ。
スレッカラシの武田信玄が「駿河半国」なんかくれるわけがないでしょうが。
「・・・・瀬名は此時に、大病を請け、信玄より追放せられ、相州の山野に
引き籠りて、出家して有ける、かれら急に主人(今川氏真公)の
御罰あたりて、かように、牢浪しけるかと、諸人もてあつかいけり、」
「今川記伝記下」

93 :
91
本居宣長のときに学問として異説が唱えられて調べた痕跡があるの

94 :
葛山備中守氏元等と共に今川氏真公を薩唾峠で
裏切った瀬名家3代目瀬名氏俊には悲劇が襲う。
武田信玄が甘い男だと思ったら大間違い。狡いよ。
信玄に内通した氏俊であったが、すぐに武田家を出奔してしまう。
氏俊は病気になったため(精神分裂か)、信玄から追い出され、
神奈川県でニートの様な困窮した生活を送った模様。
「嶽南史」第三巻に依ると口がきけない病気になったと云うから
お笑いだ。裏切りは病の元、いや口は災いのもとかな。
さらに、代々領していた瀬名の家も武田家に取り上げられて
仕舞ったと云う。
親子で北条家に仕官の道を願うも「今川家の裏切り者」と
嘲笑われたと言う事です。
  
  参考 瀬名氏三代の考察 長谷川清一

95 :
>>90
スレ違いだが
世界中に会ったのではないの?
ヘブライの神様なんか、神の名をみだりに唱えるなと言って
結局呼び方がわからなくなって、YHWHだけしか伝わっていないのだから
日本の戦国時代でも、武将の名前はとにかく、そのカミさん
妾の名はたいていは伝わっていないだろう?
氏真のカミさんも本名はわからないのではないかな?
その点どういうわけか、信長系統のほうはカミさんの名前がワリと伝わって
いるのだよな
信長はそういう意味で革新的だったのかなww
で、家康の方も妾の名前はワリと伝わっているだろうww
そこだけは今川家の風習よりも、信長の家の伝統をとったのかな?

96 :
孕石は許せんな、やっぱ

97 :
お家断絶かと思われた今川の名門瀬名家。
進退きわまった瀬名家にお助けマンが
現れます。徳川家康です。
そうだよなぁゆっくり考えると徳川家康は
今川家に繋がる一門だもんなぁ。
徳川家康は瀬名氏(養子に入り関口氏)の娘・瀬名姫(鶴、築山殿とも言う)を正室に貰っています。
『ウィキペディア(Wikipedia)』
検索 関口 親永(せきぐち ちかなが、永正15年(1518年) - 永禄5年(1562年))は、戦国時代の武将。
今川刑部少輔家(今川関口家)の当主で駿河今川氏の有力家臣。諱は氏興、義広、氏広とも。
主君今川氏親から偏諱を受けて親永に改める。官位は刑部少輔。駿河持船城主。
今川義元の妹婿であり、徳川家康の正室・築山殿の父に当たる。
今川一門の☆瀬名氏貞の次男☆で、関口氏縁の養子となって関口家の家督を相続した。
駿河今川家の重臣かつ室町幕府の奉公衆でもある。
永禄3年(1560年)、義元が織田信長によって桶狭間の戦いで討たれた後も衰退する今川氏を支えた。
しかし娘婿の家康が今川氏から独立したため、義元の嫡男・氏真からその去就を疑われた結果、
永禄5年(1562年)、駿府尾形町の屋敷にて切腹を命じられて果てた。

98 :
瀬名姐さんは気の毒だねぇ。
悪く書かれることが多いが、普通のお嬢さんだったろうに。

99 :
お話にならない瀬名家3代目だけど
1代目と2代目は今川家に大きく貢献しているんだなぁ。
特に花倉の乱の最大の功労者は二代目瀬名氏貞。
一七歳の今川義元を「東海一の弓取り」に押し上げた功労者だ。
それが三代目は右往左往するんだなぁ。義元と
折り合いが悪くなり一時期出奔したりもするんだなぁ。
桶狭間の戦いの時には、御身大切、戦もせずに一目さんに逃げ帰った。
それにしても甘い男だなぁ。あのこすっからい武田信玄ですョ、
金銀財宝には目の眩む武田信玄ですョ。女子供を戦利品として
売り払う冷酷武田信玄ですョ。駿河半国などくれるはずはない。
こうゆう世間知らずの甘ったれバカ殿・瀬名家三代目瀬名氏俊に付ける薬はありません。
瀬名氏俊に戦う気力があれば北条氏康軍四五〇〇〇人の軍勢が薩唾峠に一日遅れとはいえ
接近していたから今川家は亡びずに済んだ。

100 :
みんな誤解しているけど
北条家三代目北条氏康の今川氏真公に
対する評価は非常に高いよ。
また武田信玄の嫡男武田義信は
自刃するまで
最後の最後まで
今川氏真公にお味方しているよ。
信玄は四〇歳近くなった義信に家督を譲らず
織田信長の年七回にも及ぶプレゼント攻勢に
舞い上がって今川家にお味方する
嫡男武田義信を殺しちまった。
敵の織田信長を味方と間違えた武田信玄も悪いが
金にはみんな弱いと云う事か。


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