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邪馬台国は九州にあった78
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邪馬台国畿内説 Part516
- 1 :
- 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1570646047/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。
- 2 :
- ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
- 3 :
- ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
- 4 :
- ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
- 5 :
- ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
- 6 :
- ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
- 7 :
- ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
- 8 :
- (承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
- 9 :
- ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
(本項 続く)
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
- 10 :
- ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
(本項 続く)
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
- 11 :
- ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
(本項 続く)
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
- 12 :
- ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
(本項 続く)
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
- 13 :
- ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
- 14 :
- ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山
- 15 :
- ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
- 16 :
- ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
- 17 :
- (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
- 18 :
- ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
- 19 :
- ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
- 20 :
- ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
- 21 :
- ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。
- 22 :
- ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、
ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。
北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
- 23 :
- ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
- 24 :
- ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
- 25 :
- ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
- 26 :
- ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、郡県内では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
- 27 :
- ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
- 28 :
- (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛
・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総
・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵
・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬
・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆
・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
- 29 :
- ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
- 30 :
- ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。
- 31 :
- ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀?)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
- 32 :
- ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
- 33 :
- ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
- 34 :
- ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
- 35 :
- ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
- 36 :
- ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
- 37 :
- ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
- 38 :
- ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
- 39 :
- ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
- 40 :
- ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬?は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
- 41 :
- ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
- 42 :
- ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
- 43 :
- ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
- 44 :
- ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
- 45 :
- ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
- 46 :
- ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
- 47 :
- ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
- 48 :
- ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
- 49 :
- ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有?損。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定
- 50 :
- ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
- 51 :
- ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
- 52 :
- ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(漢書西域)
- 53 :
- ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
- 54 :
- ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
- 55 :
- ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
- 56 :
- (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
- 57 :
- ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。
- 58 :
- 梅
- 59 :
- 梅
- 60 :
- ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
- 61 :
- ◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大?・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。
- 62 :
- https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1570871887/80-
- 63 :
- ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
- 64 :
- >>62
- 65 :
- ◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
- 66 :
- ◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
- 67 :
- ◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
- 68 :
- >>62
ありがとう。無駄な表示がなくなりますね。
- 69 :
- ◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝で各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
- 70 :
- ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
- 71 :
- ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
- 72 :
- ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君d高官」「保子d孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君d高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。
- 73 :
- ◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。
- 74 :
- ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
- 75 :
- >>62
もう少し、番号が後の方が良いよ。
- 76 :
- ◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
- 77 :
- ◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰)
- 78 :
- >>75
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1570871887/100-
- 79 :
- 梅
- 80 :
- ◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
- 81 :
- ◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
- 82 :
- 80
- 83 :
- 梅
- 84 :
- ◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
- 85 :
- 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】 なし
- 86 :
- >>78
ありがとう。ブックマークしました。
- 87 :
- 梅
- 88 :
- 梅
- 89 :
- ブックマークの番地
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1570871887/100-
- 90 :
- 90
- 91 :
- 嘘が充満したテンプレートの表示を避けるための、ブックマークの番地
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1570871887/100-
- 92 :
- 嘘が充満したテンプレートの表示を避けるための、ブックマークの番地
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1570871887/100-
- 93 :
- 嘘が充満したテンプレートの表示を避けるための、ブックマークの番地
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1570871887/100-
- 94 :
- 嘘が充満したテンプレートの表示を避けるための、ブックマークの番地
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1570871887/100-
- 95 :
- 嘘が充満したテンプレートの表示を避けるための、ブックマークの番地
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1570871887/100-
- 96 :
- 完全に論破された、嘘が充満したテンプレートの表示を避けるための、ブックマークの番地
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1570871887/100-
- 97 :
- >>985
初期古墳の竪穴式石室も、倭国(阿波)が発祥! @阿波
- 98 :
- 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】 なし
- 99 :
- 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】 なし
- 100 :
- 100
- 101 :
- 邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだから、バンビシャスの敗因について、討論すれば良いな。
- 102 :
- >>985
初期古墳の竪穴式石室も、倭国(阿波)が発祥! @阿波
「西山谷2号墳」
出土した土器から、3世紀中葉の築造と考えられ、徳島県内をはじめ、畿内でも最古段階の竪穴式石室を持つ古墳として、竪穴式石室の出現過程を考える上でも重要な古墳である。
「四隅突出墓」も倭国(阿波)発祥!
萩原1号墳・萩原2号墳・足代東原1号墳・奥谷2号墳 @阿波
- 103 :
- 畿内や九州などの「前方後円墳」は、阿波人のお墓。
畿内地域の古墳の石材調査が進むにつれて、倭国(阿波)の結晶片岩を石室や葺石に用いた前期古墳の事例が増加してきた。
大阪府の「闘鶏山古墳」、「将軍山古墳」、「鍋塚古墳」、「牧野車塚古墳」、神戸市の「西求女塚古墳」などが典型例だ。
そして、そうした結晶片岩を使う事例が、畿内北部の淀川流域から瀬戸内北岸にかけての一帯に多い傾向もより明瞭になってきた。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波
http://www.let.osaka-u.ac.jp/kouko/061018awaitano.htm
- 104 :
- この30年で3大ニュースを挙げれば、
阪神大震災
オウム真理教事件
311東北大震災
でしょうか。
これらは永久に語り継がれていくのでしょう。
昔、女王の死に際して、あるいは何らかの戦いで、奴婢100人以上が殺される大事件があった。
これほどの大事件ならば、当然ながら代々語り継がれ、それを語り継ぐ語り部もいたりして、その大事件は確実に伝承されてきたはず。
この日本のどこかに、そのような奴婢殺戮の伝承があるはず。
それがどこにもないのなら諦めるけれど、ある、しかも日本書紀・神武東征紀にそれが書かれている。
箸墓古墳であれ、平原墳墓であれ、祇園山古墳であれ、そのような奴婢殺戮の伝承はない。
「ない」時点でこれらは卑弥呼の墓ではない。
神武東征紀に書かれた奴婢大量殺戮の場所、それは高天原(御所市高天)である。
- 105 :
- 九州説は証拠の積み重ねと推論によって導き出される真理や真実を
それが真理や真実であるから憎む
いわゆる悪霊や怨念と呼ばれるものの一種
- 106 :
- >>104
レベル低すぎ! @阿波
- 107 :
- >>106
残念だな、阿波には奴婢大量殺戮の伝承がなくてw
まぁせいぜいアワアワアワアワ言っておくがいいwww
- 108 :
- 畿内説の書き込みはなぜ差別意識に満ち溢れているのだろうか。
何かのコンプレックがあるのだろうか。
それとも奈良県民の県民性が表れているのだろうか。
- 109 :
- 後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(倭国のことだが、ここではその王都がある邪馬台国を指すと考えられる)から一万二千里である。
その西北界(倭国の西北の国境)である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の南界を極める。
魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。
魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。
魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国(福岡県)まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
また、帯方郡から投馬国(宮崎県)までは水行20日
邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif
- 110 :
- >>109
九州説が物理的に無理なのが
よくわかるね
- 111 :
- どう無理なのかな?
- 112 :
- >>111
帯方からたった水行10日でどこまで来る気?
藁
- 113 :
- >>107
>残念だな、阿波には奴婢大量殺戮の伝承がなくてw
はずかしくて、聞くに堪えない。 レベル低すぎ! @阿波
- 114 :
- 「蓮華谷古墳群(?)二号墳」
副葬品には銅鏡(四神形鏡)1、鉄製武器工具(鉄刀1、鉄剣1、鉄斧1、鉄?1)、装身具(翡翠勾玉1、碧玉管玉11)、土師器壺1があり、
前期古墳の副葬品出土資料は全国的にみても数少なく、 特に銅鏡は?製鏡の古墳への副葬開始時期を考える上で重要な資料である。
三角縁神獣鏡の?製・古墳への副葬は、これ以降だろう。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波
- 115 :
- 「蓮華谷古墳群(?)二号墳」
副葬品には銅鏡(四神形鏡)1、鉄製武器工具(鉄刀1、鉄剣1、鉄斧1、鉄槍鉋1)、装身具(翡翠勾玉1、碧玉管玉11)、土師器壺1があり、
前期古墳の副葬品出土資料は全国的にみても数少なく、 特に銅鏡はぼう製鏡の古墳への副葬開始時期を考える上で重要な資料である。
三角縁神獣鏡のぼう製・古墳への副葬は、これ以降だろう。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波
- 116 :
- 徳島県鳴門市大麻町萩原の「萩原2号墓」で、板材でつくった墓室・木槨(もっかく)を積石(つみいし)で囲んだ三重構造の埋葬施設が確認された。
県教委と県埋蔵文化財センターによると、築造は弥生時代終末期の2世紀末〜3世紀初頭で、邪馬台国の女王、卑弥呼が活躍した時期に一致する。
石で木槨を囲う例は、他には弥生墳丘墓と前方後円墳の過渡期的存在とされるホケノ山古墳(奈良県桜井市、3世紀前半)だけで、同古墳の構造に影響を与えたのは確実。
前方後円墳の成立に阿波地域が大きな影響を与えたことを示す貴重な資料となる。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波
- 117 :
- >>575
> 倭人伝での渡海の用法は、外洋に出て海を渡ること
九州から本州ではどうやっても渡海にならないww<
渡海後に南へ陸行3000里して(足摺付近の)侏儒國付近にまで行った事になるから、
「九州から本州」ではない。
>そして、魏志倭人伝にも魏略にも「皆」倭種と書いてあるだけ
倭国の列島の中の海峡を渡っても、そこは渡る前も後もみんな倭種で韓人などは
いないという記述だよ
倭種の国が倭国と呼ばれていることを無視してはいけない<
倭国の範囲は、
冒頭の行程説明と其餘旁國と狗奴國で30国が挙げ終わっているから、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」の倭種は、倭国ではない。
- 118 :
- >>109
>邪馬台国時代の遺物の出土状況
纏向よりプレ卑弥呼の遺跡は多いようだね。
纏向にはそれがないからね。
ところが九州には王権の謂れがない。
王権があった伝承がない。
平原など単なるミカン畑だったそうじゃないか。
この日本にプレ卑弥呼、まぁ2世紀くらいまでさかのぼる遺跡があり、
そこは王権の謂れがある場所がある。
それが葛城だ。
遺跡でいえば名柄遺跡。
ここにある長柄神社の祭神は出雲の大国主を父とし、宗像三女神の一人を母とするシタテルヒメ。
そのシタテルヒメのアイデンティティをしめすかのように、
銅鐸と多鋳細文鏡が同時に出ている。国宝である。
2世紀前半の其国の王権があったのはここだ。
- 119 :
- >>118
>それが葛城だ。
>遺跡でいえば名柄遺跡。
はずかしくて、聞くに堪えない。 レベル低すぎ! @阿波
- 120 :
- >>576
>九州説は「方角は正しい」と言い張るためだけに・・・
「東は夜明け方向」夜に北極星を見れば異郷の地でも方角は分かる
みたいな、すぐに否定される戯言を「発見・発明」し続けるww<
普通の成人人類は、人類の常識として、
日の出から日の入りの太陽の位置を知るだけで、東西南北はほぼ間違えないもの。
類スレ主ら大和説人種は、「人類の常識」が分からない・・・・アホであるらしい。
- 121 :
- >>119
アワアワアワアワうるさい、聞くに堪えない。 レベル低すぎ! @葛城
- 122 :
- >>579
>>1尺=4咫 は文字通り読むのではなく、直径1尺の円周を4咫とするっていう定義(理由不明)。
『説文解字』にいう「周」代を「円周」と解釈して、<
>バカですか?よく知らないならでたらめを書くなよw
説文解字に書いてあるのは「中婦人手長八寸,謂之咫。周尺也。」
この「周尺也」を「周を測る尺」と読んだバカが居たんだよ
これが昔、ウィキペディアにも書いてあった<
問題は何故「中婦人手長」が必要であったのか?、という事。
「中男性手長」は何故必要でなかったのか?。
これは、婦人が衣服を造るなどの場合の布を断つ時の、
胴回りなどの概数寸法を知っていて、手を広げた時の何倍か?を知っておれば、
布を断つ場所を簡単に決められるから。
- 123 :
- >>122
何の問題もないだろう
常識だ
- 124 :
- >>582
>光武帝の後漢の時点で、公定尺の体系に移行して何百年も経っているし
身体尺の「咫」は計量単位として使われていない
また、大陸の歴史の全期間を通して「咫」が円形物の周長を示すのに使われた例は
一例たりともない <
説文解字に説明されている、という事は、「存在したから」なのであり、
使われていた。
勿論、その頃の記載をした列島の文献にも「八咫」という文言の使用があるから、
存在した可能性がある事になる。
- 125 :
- >>587
>ただし、日本の「咫・あた」と大陸古代の「咫・シ」は、
「手を使う身体尺」であるという点が一致するだけで、本来別物であり、
日本の「咫・あた」は当て字 <
説文解字の「中婦人手長」は、日本でも古代から使われていた事になる。
- 126 :
- >>589
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説に世界は、いつも、
「都合の悪い史料事実や史料実態」を否定したり、曲解したりの、
妄想詐欺の世界
- 127 :
- >>125
>説文解字の「中婦人手長」は、日本でも古代から使われていた事になる。
つまり平原の八葉鏡は八咫の鏡じゃないってことで
決着したな
- 128 :
- 邪馬台国が大和ならば2世紀前半の其国の男王王権は祭器でいえば銅鐸になる。
卑弥呼の鬼道とは銅鐸であろう。
中国側が中国発祥の鏡祭祀を鬼道などと呼ばないであろうから。
- 129 :
- >>590
>>畿内説は胡散臭い謎理論ばかり。 早く言えば屁理屈。 誰も納得しない。<
>どれだけ説明されても「僕チンは納得しないんだー」と言い張るだけの簡単なお仕事が九州説
しかも「自分が納得しない(ということにする)」という主観を
「誰も」納得しないと言い換えることで、普遍性があるように見せかける姑息な卑怯者ww<
「南→東」などの史料事実の否定や曲解の嘘つき騙しの大和説は、
どれだけ説明されても「僕チンは納得しないんだー」と言い張るだけの簡単なお仕事。
しかも「誰もが納得しない」という客観的発言を
「誰も」にイチャモンを付けて、
普遍性がないように見せかける姑息な卑怯者。
- 130 :
- >>598
それは「南→東」などのような、
史料事実の否定曲解が間違っていることが、
きちんと具体的な根拠をもって論証されたからだよ
具体的な根拠もなしに、訊かれても答えられずにただ「僕チンは信じない」って
言い張っているだけなのが大和説
- 131 :
- >>602
>だから、荷を解かずに確認して、大和に送るんだよw <
「南≠東」などに拠って、×。
- 132 :
- >>606
「南≠東」や、「投馬国は女王国より以南の国」だけでも、
大和説は破綻するのに、ご苦労なことだ
- 133 :
- >>128
>邪馬台国が大和ならば2世紀前半の其国の男王王権は祭器でいえば銅鐸になる。
なると言う理由は?
結論だけ言い張って
理由が言えない九州説は
妄想説だよ
- 134 :
- >>609
>ヤマト、出てきてるだろ? 邪馬台国って明記してある <
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
「ヤマト≠邪馬台国」であるからでも×。
>伊都国でも「三雲」は出てこないだろ?
纏向という王宮所在地の小地名が出てこないのも当たり前<
「伊都国」は「怡土」という地名や「伊氏の都の国」などという意味であるから、
三雲とは直接関係が無く、×。
- 135 :
- >>133
>なると言う理由は?
そりゃ2世紀前半の男王が大和にいたなら時代的には銅鐸だろ。
鏡は名柄の例はあるが、実質ホケノ山あたりからなので。
>結論だけ言い張って
理由が言えない九州説は
妄想説だよ
俺は葛城説だ。
- 136 :
- >>611
>相変わらず具体的な反論、一切なし<
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
史料事実や史料実態などの否定や曲解ばかりで、
具体的な反論は一切なし。
>「めぼしい遺跡がない」←>事実<
3世紀の大和にはめぼしい遺跡はないが、
3世紀の筑紫には、めぼしい遺跡が沢山ある事が事実。
- 137 :
- 畿内説同士の論争
これが畿内説スレのあるべき姿だ
そうは思わないか?
- 138 :
- 葛城市vs桜井市
- 139 :
- >>136
>3世紀の筑紫には、めぼしい遺跡が沢山ある事が事実。
いくら言い張っても、碌な鍛冶炉遺構弥生集落遺跡や資源の無い九州に、「邪馬臺国」など興る訳がない。 なにを考えているんだか。
- 140 :
- >>138
葛城市でもいいけど、ほぼ御所市。
- 141 :
- >>138
目くそ鼻くそ。 わははははは @阿波
- 142 :
- >>135
葛城説も九州説だよ
だって「九州」と書いてクズと読むんだから
で、葛城説も妄想説なのだな
深く納得した
- 143 :
- >>623
>三種の神器セットは、首長層の人気の取合せで、皇統以外の古墳でも普通に見られる
逆にそれが王権のシンボルだというなら、吉武高木でも王は一代だけなのか?という話になる
継続して、三種の神器セットの副葬された墓が一代一つずつあるというならともかく
そんな話はどこにもない<
三種の神器は、天孫族系の部族や部族長のシンボル。
- 144 :
- >>625
>畿内の中で中心となるべき場所は淀川水系の一部だろう。
>それが妄想w
複数の有力者の寄り合い所帯がヤマト国の実態だが、その中心が
一時期は河内が亀井遺跡、ヤマトが唐子鍵遺跡
その後、さらに周辺まで巻き込んだ再編共立劇があり、新しい王都を
纏向に作ったんだよ<
それがインチキ。
河内や摂津は、東征毛人の主力部隊であり、中心地であり
大和に入ったのは別動隊の一つであり、都会の河内と比べて田舎。
- 145 :
- >>139
弥生時代鉄鏃出土数
東北**1 群馬*21 千葉*63 東京*37 長野*27 石川*55 福井*32
滋賀*13 京都112 大阪*40 兵庫*92 奈良**4 和歌山**5
岡山104 広島*79 山口*97 鳥取*46 島根*30 香川*36 愛媛*25 高知*53
福岡398 佐賀*58 長崎*29 熊本339 大分241 宮崎100 鹿児島**3
鉄製鏃の出土は福岡県、熊本県、大分県の順番になっておりそれ以下の地域の出土数は
極端に少ない、邪馬台国と狗奴国は戦争をしていたと記載があるので邪馬台国が福岡県
の南部、狗奴国が熊本県北部となり大分県日田地方は邪馬台国連合国家の1つとなる
ちなみに福岡県は筑紫、熊本県は肥国、大分県は豊国
白日別:筑紫国、豊日別:豊国、建日向日豊久士比泥別:肥国、建日別:熊曾国
しかし肥国と熊襲国は名前が被っている。そして熊襲タケルの墓は肥前河上にある。
おそらく有明海沿岸が筑紫宗家の味方の時は肥国、敵となった時は熊襲と呼んだのだろう。
- 146 :
- >>631
そうそう!
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者の頭の病は、
重篤
- 147 :
- >>145
九州は、倭国(阿波)による、鉄器被供給国。
いくら言い張っても、碌な鍛冶炉遺構弥生集落遺跡や資源の無い九州に、「邪馬臺国」など興る訳がない。 なにを考えているんだか。 @阿波
- 148 :
- わざわざ九州で製鉄するくらいなら
半島の鉄を持ってきた方が早いからな
- 149 :
- >>148
>わざわざ九州で製鉄するくらいなら
碌な鍛冶炉遺構弥生集落遺跡や資源の無い九州に、「邪馬臺国」など興る訳がない。 なにを考えているんだか。 @阿波
- 150 :
- >>634
古田博司というのが、どこの誰なのか?は知らんが、
もしも、この2chのように、大和説側と九州説側との議論があった、とすれば、
大和説者側研究者について、
「民族的感情を満足させるストーリーがまずあって、 それに都合のいい資料を貼り付けてくるだけなので、
それ以外の様々な資料を検討していくと、矛盾、欠落、誤読がいっぱい出てくる」、
「要するに『自分が正しい』というところからすべてが始まっており、
その本質は何かといえば『自己絶対正義』にほかならず、
したがって何をやろうと彼らの『正義』は揺らがない」
等々が、批判的にが浮上する。
「国粋皇国史観」という結論先にありきで、まともな議論を拒絶する大和説者そのもの
- 151 :
- >>145
>おそらく有明海沿岸が筑紫宗家の味方の時は肥国、敵となった時は熊襲と呼んだのだろう。
紳士的な表現だな。
実際には、筑紫宗家より強いときには肥国と尊称し、弱くなると熊襲と蔑称で呼んだのだろう。
- 152 :
- >>148
半島で延べ棒に半加工したものを九州で加工したんだよ。
弥生時代の製鉄遺跡は圧倒的に九州だよ。
- 153 :
- >>152
いくら言い張っても、碌な鍛冶炉遺構弥生集落遺跡や資源の無い九州に、「邪馬臺国」など興る訳がない。 なにを考えているんだか。 @阿波
- 154 :
- >>151
熊襲タケルは自称だったとされている。
小碓尊に倒された時にその名を献上して、自らは川上タケルと改名したとのこと。
その地が肥前川上になる。
熊襲は蔑称ではない。
クマはカミに通じる尊称だろう。
筑紫側にも熊鰐などの人物がいる。
- 155 :
- >>154
熊襲という表現は、
日本書紀やそのもとになった筑前風土記?の編者の筆によるもので八世紀の表現と解せざるを得ない。
実際に4世紀ごろのタケルなる人物が自ら熊襲と名乗ったかどうかはナゾ。
- 156 :
- >>152
>弥生時代の製鉄遺跡は圧倒的に九州だよ。
九州は、倭国(阿波)による、鉄器被供給国。 @阿波
- 157 :
- >>155
それはそうだが、記紀のはじめの方に行けば行くほど、熊とか鰐を特に低く見てはいない。
天孫族だって母方は鰐の一族だしね。
強さの象徴だったのかもしれない。
ちなみに川上神社はなぜか鯰。
- 158 :
- >>636
>それが、継続して伝承されていないという話
単に人気の副葬品がたまたま揃っただけで「王権の所在」は示していない<
天孫族系の中で、部族長や王国として残ったのが、
白村江の後の8世紀まで生き残った大和政権であった、というだけ。
>なんで後世の墓と比べて貧弱だからとか言うのかな?
平原1号墓が貧弱というのは
「同時代の他地域の遺跡(丹波の大風呂南墳丘墓)」や
「一世代前の同じ地域の遺跡(吉野ヶ里遺跡北墳丘墓)」と比べての話だぞww<
検索してみたら、大風呂南墳丘墓も平原よりもはるかに貧弱だったぞ。
- 159 :
- >>145
北部九州は弥生後期の殺傷人骨が2体分くらいしかないから
戦争じゃなくて狩猟だろう
九州は製塩が本州より遅れてるから
生肉から塩分を採っていた可能性がある
それより倭人が使う短下長上の弓がない
- 160 :
- >>638
>もともとは、「八咫鏡」も「八尺瓊勾玉」も普通名詞として、
三種の神器以外にも使われていたことが分かる<
紀小弓は、久留米の東海姫氏國の王家の人。
- 161 :
- >>639
まあ、特定集団墓の中では第一人者だと思うけれどね
甕棺墓
100号 細形銅剣(1)
109号 管玉(10)
110号 銅製腕輪(2)・勾玉(1)・管玉(74)
111号 管玉(92)
115号 細形銅剣(1)
116号 細形銅剣(1)
117号 細形銅剣(1)・勾玉(1)・管玉(42)・ガラス小玉(1)
木棺墓
1号 細形銅剣(1)・管玉(20)
2号 細形銅剣(1)・勾玉(1)・管玉(133)
3号 細形銅剣(2)・細形銅矛(1)・細形銅戈(1)・銅鏡(1)・勾玉(1)・管玉(95)
4号 管玉(10) <
成程。
- 162 :
- >>640
>島巡りで二重帳簿サギしないと論争のスタート地点にも立てないのが
九州説だよ 島巡りで二重帳簿サギしないと論争のスタート地点にも立てないのが
九州説だよ <
島巡りは、倭人伝の史料事実であり、史料実態。
- 163 :
- 無罪と言い張っても詐欺は欺師
- 164 :
- 詐欺は畿内説の得意技
- 165 :
- >>164
通説である畿内説のどこが?
なにが詐欺だか具体的に指摘してみな
出来ないだろ
ウソだから
- 166 :
- <1879年まで琉球(現在の沖縄)は日本の領土ではなかった>
明治政府は1871年(明治4年)に全国一斉に廃藩置県を行い、全国の諸藩は藩から県に変わったが、琉球に対しては廃藩置県ができなかった。
なぜなら当時の琉球は藩どころか日本の領土ですらなかったから。
明治政府は1871年(明治4年)に廃藩置県を行っておきながら、逆に琉球に対してはその翌年の1872年(明治5年)に琉球国から琉球藩に変えている。
当時、全国の各県は大蔵省が管轄していたが、琉球藩だけは外務省の管轄下にあった。
明治政府がなぜ琉球藩だけを外務省の管轄下に置いたかというと、当時の琉球はまだ正式に日本に組み込まれていなかったから。
琉球はその時点でまだ日本の領土ではなかったため、1875年に明治政府の松田道之琉球処分官が琉球に対して清國の年号をやめて日本の和暦を使用すること、あるいは日本の法律を採用することなどを要求している。
もちろん廃藩置県後の全国各県は既に日本の国内法が適用されていたが、その時点で琉球には日本の国内用はまだ適用されていなかった。
この歴史的事実が示すように1879年に日本に統合されるまで琉球には日本の統治権(主権)が及んでいなかったことが分かるし、1879年まで琉球が日本の領土でなかったことは言うまでもなく歴史的事実である。
- 167 :
- >>165
>>1は断言を用いて印象操作してるから、これで何らかの利益を得ているとすれば、詐欺だね。
ネズミ講や霊感商法の論法と一緒だから疑われても仕方がない。
- 168 :
- 九州説の脳はすでにバカアホ言うだけの小学生並みに退化
- 169 :
- >>167
「断言を用いて印象操作」って具体的になにをすること?
それが詐欺だって証拠は?
- 170 :
- >>169
日本語理解できないの?
- 171 :
- >>170
普通の人はお前の日本語を理解できない
- 172 :
- >>167
詐欺だよと断言を用いて印象操作しているのはそちら
- 173 :
- 九州説はいつもブーメランで自己撲殺してるな
- 174 :
- 畿内説って下火ぽいけど、予算切れが原因?
- 175 :
- 下火の九州説にできるのはせいぜいデマと中傷と
ヘタクソなステマ
- 176 :
- >>643
>>不彌國の直ぐ先に邪馬壹國女王之所都がある事になってしまうね <
>すぐ南にあるのに、陸行一月もかかってしまう不思議ww<
「水行十日陸行一月」は、その前の「女王之所都」の数量説明であるから、
出発地の郡からの所要日数説明。
類スレ主は、その事を知らん振りして、また世間の人々を騙そうとしている。
>水行の起点を帯方郡にして、島巡り仮説でごまかしても
水行一万里に十日 物理的に当時の船では不可能<
韓国と對海國と一大國は陸路であり、
だから、韓國までの循海岸水行と3海峡が水行。
>陸行七百里に一月 どんだけのんびり屋さんなんだか
という不合理というか不条理を主張することになるww<
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説の・・・・アホ詐欺師人種は、
どれだけ、史料事実や史料実態の否定曲解の嘘吐き騙しで、
国民を騙そうとし続ける事やら。
・・・・は、京都アニメ犯人のようで、怖い怖い。
- 177 :
- >>644
>>447つまり田舎大名の証明しかできない
その田舎大名が女王の統率下にあるんだから
伊都は遠方にいる女王が御目付を派遣して監視させてる重要地方都市ということだ<
伊都国王は、「世有王、皆統屬女王國」だから、「皆、統治統一して女王國に属している」
という事だ。
- 178 :
- >>177
それ、日本語のつもり?
- 179 :
- >>649
>常識常識って騒ぐのは、ちゃんと証拠で自説を組み立てられないオチコボレだよ<
「南→東」などの嘘吐き騙しをする大和説者が、「人類の常識」を否定しようとするのは、
内心では、「南→東」は人類の常識に外れた犯罪行為である、ってしっていrからだよ。
- 180 :
- >>652
>>不彌國や邪馬壹國女王之所都付近で、「萬二千余里」がほぼ終わっていて、<
>ということは道里を計っても会稽東治にはるか届かないので、その読み方が間違いだと証明されます<
「計其道里、當在會稽東治之東」は、女王國の位置を計算しており、
女王國は南九州の投馬國も含むので、九州島付近になり、
会稽東治之東にほぼピッタリなの。
- 181 :
- >>655
>吉武高木遺跡は弥生後期に集落が縮小、後期末には一旦断絶する<
卑弥呼の頃は奴國として存続しており、更に須恵器も出土していたから、
3世紀後半頃も存在していた。
- 182 :
- >>669
>>「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者が、
「平原の大量の玉や鏡の事をこっそり隠した」という事実も隠蔽否定して、<
>そんなことした人はいない 九州説による捏造だよ<
柳田が、「21枚の尚方作方格規矩鏡」の事を論じた話は、全く出て来ない。
- 183 :
- >>675
>加古川、淀川桂川木津川と大和川、そして紀ノ川
こういう河川交通ルートを掌握したのが大和政権だ<
ダメだ。
元は出雲の大国主や少彦名らによる「毛人」支配地であったが、
九州倭国の東征に拠って征服された、という事だ。
- 184 :
- >>677
>九州説は自演が大好き<
大和説は、「南→東」などの史料事実の否定や曲解が大好きな・・・・詐欺師。
- 185 :
- >>180
>「計其道里、當在會稽東治之東」は、女王國の位置を計算しており、
>女王國は南九州の投馬國も含むので、九州島付近になり、
つまり陳寿は投馬国までの「道里」も計算したんだよね
だから投馬国の条には「道里」が書かれているので
投馬国は女王国以北にあるんだよ
- 186 :
- 「次有斯馬國次有巳百支國・・・」以下の21カ国は、女王国(粟国=大吉野川流域)に所属する国々の説明である。
「其戸數道里可略載」(女王国より北にある国々は、その戸数や道順、距離をおおよそ記載できる)が、女王国の21カ国のこと。
「其餘旁國遠絶不可得詳」(その他の周辺国は遠く離れていて、戸数や道順、距離がつまびらかでない)は、阿讃山脈を越えた遠く瀬戸内海地域などの国々(吉備など)。
こういう地理的事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波
- 187 :
- >>167
>>>1は断言を用いて印象操作してるから、これで何らかの利益を得ているとすれば、詐欺だね。
そうだね。
学問では使われ得ない独特の表現を多用した、カルト特有の匂いがする。
他人を騙してやろうとする悪意を感じる気持ち悪い文章だよ。
- 188 :
- カキコが少なくなると、釣りコピペが登場するからな。
2ちゃんのAV広告主からなんちゃらかんちゃらが入るのだろうな、たんまり、ニンマリ・・・
- 189 :
- >>157日本@名無史さん2019/10/12(土) 22:42:44.30
>>155 >それはそうだが、記紀のはじめの方に行けば行くほど、熊とか鰐を特に低く見てはいない・・・
詳しいではないか。
つまり、昔は強くて天孫にも近かったが、だんだんに遠ざかってしまい、
今は景行天皇にやっつけられて、熊や鰐や鯰並みになってしまっとる・・、といういいまわしではないのかな。
- 190 :
- >>684
>妄想大好き九州説さん そこに峠がある事実は誰にでも見えますよ<
「南→東」などの嘘付き騙しが大好きの大和説さん、
古代においても、人口が増えた国は、峠を越えて支配居住地を広げる事は幾らでもあり得ますよ。
- 191 :
- >>716
>博多湾沿岸は倭人特有の風習である卜骨が一欠けらも出てない<
「鬼道」の卑弥呼やその一大率がいる博多湾沿岸で「ト骨」の占いをやっていては、
そりゃ、一大率に検察されて、検挙されてしまうもの。
- 192 :
- >>720
>壱岐だけで見て他国ではどこもその風習がなかったら
倭人の風習じゃない<
いや、壱岐も倭人であり、
魏の役人らは、倭地で見た風習は、記録して置くもの。
- 193 :
- >>723
>中継地の壱岐は楽浪生活土器も韓系土器も出るから
倭人だけが住んでるわけじゃない <
大半は倭人。
>倭国本土でどこもやってないなら倭人の風習ではない
九州説は韓濊でも持っている鉄、絹は根拠にするが
東夷伝で倭人伝にしか書かれていない卜骨はなくてもいいと主張する<
本土では、卑弥呼の「鬼道」とは違う「ト骨」をする事は困難。
すれば、一大率に検察され、禁止されてしまいそう。
- 194 :
- >>728
>九州説の欠陥を妄想でカバーできる? 無理だね ww<
投馬國は、南九州。
- 195 :
- >>742
>倭人伝に記された卜骨は
弥生前期の出雲の山陰やヤマト王権誕生の奈良の遺跡に初めて表れ <
おそらく、沿海州との「国引き神話や黒曜石」の関係があった出雲の習俗であり、
海峡の壱岐の天孫族や阿毎氏も使っていたが、
卑弥呼は「姫氏」で鬼道を使ったから、筑紫では衰えた。
>記紀に伊弉諾尊・伊弉冉尊が国土生成のおり,
いかにして良き子を得ることができるか問うたところ,
天神が太占によって占って教えてくれたとみえる
我国の歴史を考察するうえで非常に重要な祭祀文化 <
大和は、出雲銅鐸祭祀部族が来ていたし、
卑弥呼よりもはるかに昔の、天孫族の阿毎氏の神武らも入っていたから、
ト骨はあった。
- 196 :
- >>750
>忌部の後裔斎部広成の編纂した古語拾遺には
殺牛祭祀の形態が見られ半島系の色彩が濃い
新羅で殺牛祭祀をした事を刻んだ古碑が発見されている
奈良県御所市の南郷遺跡から出土した牛骨が日本最古の資料とされる<
ふーん。
ふ^
- 197 :
- >>757
>邪馬台国はヤマト国
他の畿内はまた別の国 <
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
「南≠東」などに拠っても、×。
- 198 :
- 結局、前のスレもキナイコシがろくに反論もできずに終わったな。
考古学も史書も無視した空論を振りかざすだけの畿内説に未来などない。
- 199 :
- >>763
>>おいおい、宝飾品は無視かよ。
逆に卑弥呼なら大きい鏡があれば、その他の鏡はおまけだよ。
それより首飾りや耳飾りだよ。<
>ガラス管玉の類いは、丹波の弥生王墓の方が豪華だと何度教えれば覚えるんだ?<
丹波の弥生王墓と、平原1号の、
「玉」類の発掘の数字を提示してみな。
お前、バカだろ? スレ主君かな?
- 200 :
- >>189
>今は景行天皇にやっつけられて、熊や鰐や鯰並みになってしまっとる・・、といういいまわしではないのかな。
熊鰐はその二代後の仲哀の時の岡の県主、おそらくは筑紫岡田宮の王家の代表なんだよね。
いわゆる豊国王家(志賀島から遠賀川に移動した、元綿津見系?豊玉姫など鰐の一族)の王。
- 201 :
- >>199
前のスレに周回遅れでレスするのは迷惑だからやめてくれないか?
- 202 :
- 前のスレは、キナイコシの負けでいいではないか。
- 203 :
- 前回のスレッド「も」、キナイコシは、ゴキブリが叩き潰されるようにして、無残に敗北したのだったな。
- 204 :
- 優れたザラコク氏は、一つ一つのキナイコシの嘘を、虱を潰すようにして、潰すために、前回のスレッドと今回のスレッドを2元的に進行させているのだったな。。。
- 205 :
- 関東に居住している方の娘一家が、無事に台風をやり過ごすことができたので、良いな。。。
- 206 :
- >>205
奥山氏は、台風が来ても来なくても、独身なので、年中無給、24時間体制で、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝していられるのだったな。。。
- 207 :
- >>766
>八咫鏡は神武から崇神までの間に畿内、唐古鍵周辺で作られたんだよ<
「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言だし、
唐古鍵は、出雲系銅鐸祭祀部族や毛人が中心であったし、
天孫族の阿毎氏は付けたし程度であったし、
いずれにしても、東征毛人五十五國が来た時位なんだろうな。
>面径は一尺弱、八寸という伝えがある これが大体三角縁神獣鏡の大きさとも一致する<
△は、渡来の呉系楽浪鏡師らの関与以外には考えようもないし、
それなら、4世紀だな。
- 208 :
- >>200
熊には熊鰐と熊襲がいるのか、、。
すると、熊鰐は北九州・遠賀川沿い〜中津方面の豊系で、熊襲は佐賀〜熊本方面の肥国系ということでいいのかなあ、、。
- 209 :
- 千曲川という川は、川中島と関係があるのでは、ないのかな。。。
- 210 :
- 剛体という物体中であっても、情報を光速以上で伝達することは、出来ないのだったな。。。
- 211 :
- 千曲川という川は、熊がたくさんいる所を流れていた可能性が高いな。。。
- 212 :
- >>210
架空の世界の、奥山氏という人物の首筋に押し当てられた刃先を一部分とする槍の、柄を握りしめていても、柄に力を加えた同時刻に、架空の奥山氏を殺傷できないのだったね。。。
- 213 :
- >>212
相手方に影響を与えるのような情報も、伝達するためには、時間がかかるのだったな。。。
- 214 :
- >>213
相手方に影響を与えるのような情報も、伝達するためには、時間がかかるのだったな。。。
という発表は、
相手方に影響を与える、どのような情報も、伝達するためには、時間がかかるのだったな。。。
とタイピングしたかったのではないのかな。。。
- 215 :
- 相対性理論で規定される世界にとって、ベクトルの外積には、どのような意味合いがあるのだろうか、、、
- 216 :
- 相手方に影響を与える、どのような情報も、伝達するためには、時間がかかるのだったな。。。
- 217 :
- >>216
邪馬台国畿内説が成立しない理由の一つなのだったな。。。
- 218 :
- >>771
>魏の公里は1里435mとされているね。<
ダメだ。
魏の役人らが計測記録報告し、魏略や魏志の魏代記録は「里」は、
「1里≒76.5m」位であり、それが「魏朝の公里」だ。
>狗邪韓国まで七千里、巨済島〜対馬千里で計八千里。
これに対馬を実測した里数千六百里を加えると九千六百里。<
これ間違い。對海國は方四百余里。
>それから壱岐までの千里も入れると一万六百里。壱岐の方三百里=千二百里を足すと一万一千八百里になる。<
これも間違い。方三百里は千二百里ではない。
この男は、国内見聞移動距離を「海岸沿い?の一周」とする騙しをしている・・・・アホ。
>ほぼ一万二千里だね。
それにまだ末盧まで千里あるし、それに不彌までの七百里を加えると総数一万三千五百里なので、完全にオーバーしてしまう。それから壱岐までの千里も入れると一万六百里。壱岐の方三百里=千二百里を足すと一万一千八百里になる。ほぼ一万二千里だね。
それにまだ末盧まで千里あるし、それに不彌までの七百里を加えると総数一万三千五百里なので、完全にオーバーしてしまう。<
この「・・・・アホの大和説者は、放置しておこうね。
- 219 :
- ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は、「計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。
1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.しかし本当の位置も残さなければならない。
3.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある海南島の大陸側、儋耳朱崖に似ている。
そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪韓国(伽耶)の南から儋耳朱崖(ベトナム国境)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む「南北に」長大な2つの列島であるように思わせるテクニック。
まず、正解の【奴国?】と、「當在会稽【東冶】之東」となる幻の【奴国?】を設定。
「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国?】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」→2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島をベトナムまで引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」、そこに東治⇔東冶間の「陸行(徒歩)一月」を転用して幻の【奴国?】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。
- 220 :
- >>219の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
┏━━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行10日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」
↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行10日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘「陸行1日」(正)‗▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長3〜4尺
【呉】┃〜〜┃♀奴国?【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王4,000里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲▲▲投馬国←┘宮崎平野=南「水行20日」
┃〜〜┗━━女王国島━━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜
会稽┃〜東シナ海〜┌南「水行10日」〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜〜┌─┌←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド)↓
↓ ┃〜〜│〜↓「陸行1月」‗〜│←「自女王國以北其戸数道里可得略載」(北部九州30カ国)
┃〜〜│〜↓▲沖縄〜〜〜│〜〜↓「自郡至女王国 12,000里」
東冶┃〜〜│♀奴国?(幻)〜〜│←『【女王之所都】計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲台湾〜〜〜〜〜│〜〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「其余旁国遠絶(幻)不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(奴国?)東南 船行1年」
- 221 :
- 阿武隈川という川は、危ない印象を人民に与える熊が住んでいる場所を、流れていたのではないのかな。。。
- 222 :
- >>219
>>220
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様、呉の牽制として東の「親魏倭王」号を取得し、帯方郡が管理している「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権の確保(郡宛て書簡封泥用の金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援(後に援軍)要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は狗奴国の位置であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説における狗奴国を検討すると、以下のようになる。
−女王国 東渡「海A」千余里 複有「国B」皆倭種(〇九州説…A関門海峡・B本州、✖畿内説…A鈴鹿山脈・B北海道)
−其南有狗奴國 不属女王(〇九州説…熊本もしくは薩摩、✖畿内説…仲良し東海)
畿内説はいずれも当てはまらない上「複有国(東)」と「狗奴国(南⤴東)」が重複し、矛盾する。
また、軍事力(鉄製武器)も通信手段(文字・駅伝制=早馬)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能。
魏志倭人伝を史料として採用する以上、消去法によって九州説が正しいことになる。
では、狗奴国が熊本平野か鹿児島川内(せんだい)平野かだが、邪馬台国七万戸を統治している女王卑弥呼をして、魏の明帝曹叡に援軍要請させるほど窮地に陥れる(狗奴)国の国力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)と想定。
面積から見て、狗奴国が川内(せんだい)平野でゎ3世紀の開墾能力では限界があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智比狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、吉野ヶ里遺跡を始め弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所・甘木朝倉と確定。
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳(リンク参照)を比定。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3
- 223 :
- >>221
阿武隈川という川は、危ない印象を人民に与える熊が住んでいる場所を、流れていたから名前が付けられたのではなく、虻と熊が多い所を流れていたから名前が付けられた可能性もあるな。。。
- 224 :
- >>222すると、欽明(現皇室の開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家>狗奴国・卑弥弓呼末裔/鯨魚@八代淡海→近江)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を派遣し、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向を征服させ、奥津城(王家の谷)として隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋>【宋>斉>梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」に任官(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
日出処「天子」倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教伝来による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&厩戸…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、近江大津京へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝〜応神朝〜継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名を移植。朝倉&阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)
まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武朝(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京)
- 225 :
- 流されてしまった者が、いるのではないのかな。。。
- 226 :
- >>772
>早良平野は室見川流域がまず一つの治水共同体としてまとまり、その頃の中心が高木遺跡周辺
その後、福岡平野全体が奴国としてまとまり、<
ダメだ。「福岡平野全体が奴国」ではない。
奴國は、前原〜糸島水道付近の伊都国から「東南至奴國百里」であり、
その入り口は日向峠西麓付近であり、
その地域は日向峠を越えて油山山地以西の早良平野に広がるもの。
油山山地で福岡平野と区別されている。
>早良平野の中心が伊都国(三雲)と
奴国中枢(比恵那珂遺跡群)を結ぶ交通路上の野方に移るんだよ<
比恵那珂遺跡群から須玖岡本付近が邪馬壹國の弥生銀座だ。
- 227 :
- >>224
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神朝「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が邪馬台国女王「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。
ここに武内宿彌の正体も明らかになるのである!
崇神朝(伊都国系)の@景行A成務B仲哀、続くC応神(息子)D仁徳(孫)の5人の大王に仕えた彼は、筑紫邪馬台国女王・卑弥呼の男弟の末裔なのである!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0
その応神朝@筑紫(邪馬台国系の♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。
この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。その妹推古が仏教の国教化に成功。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での惨敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、〔倭国独自(九州)元号を創設した継体朝の、「天子」を名乗ってしまったため、記紀に消された〕多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津京に東遷。
ここに倭王権は史上初めて九州島を出て、近江大津京→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の古墳時代の畿内には、継体朝ですら記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治以降設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。
- 228 :
- >>85
ダイワとしか読めない大倭(大和)を「ヤマト」と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、国内外(特に唐)に対し、新益藤原京を新設した畿内に筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆があったと思わせたかったからなのである!
白村江海戦惨敗で九州本家の天智が東遷した後、大和分家の天武が(確実に唐を刺激する、継体創設の倭国独自年号&日出処「天子」多利思比孤を抹消するための)歴史改ざん書である記紀を書かせ、
九州の地名をそっくり移植し、畿内を記紀の歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!
また7世紀の隋・唐までの中国歴代王朝には、倭国は九州島のみと認識されていたことが判る。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だったが、日辺(東)にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭(九州)と言う名前が優雅でないから日本(本州)と改名した」と言い、
また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。
事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が大和分家(近江大津京)に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた記紀の歴史テーマパークにするため、後漢書東夷伝の「大倭」@九州を転(悪)用し、
発音は九州時代の都であった筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を繰り下げて生まれた畿内説(他人の褌)、ならびに教科書に載っている古墳時代にあったとされるヤマト王権(定説)は、
超大国・唐との外交を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として遂行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた電波(幻想)で、
特に前者は、記紀(定説・ヤマト王権)というゴール地点から、考古学と魏志倭人伝という他人の褌で、どこまで史実(スタート地点)歪曲&洗脳を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである。
- 229 :
- >>774
>弥生後期のクニは治水共同体 山は当然に自然国境になる <
国が小さければ山は国境になるが、大きければ支配地は当然「山も越える」もの。
- 230 :
- >>228 >>227
まとめると、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し、https://youtu.be/dTk54jNZtnE?t=3404
その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲し、天智の首都・太宰府を殲滅できた超大国・唐(外交)への忖度で生まれた記紀が消そうとしたのは、
A.倭国史上初めて九州島を出て、近江大津京に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝→応神朝→継体朝)が北部九州(筑紫邪馬台→阿蘇邪靡堆→天智太宰府)にあったこと
→3王朝ともその奥津城(王家の谷)&新益藤原京を新設したばかりの畿内にあったことにした(記紀の歴史テーマパーク「大倭」→「大和」>聖徳太子「以和為貴」より)。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!
@(武寧王の百済を完全属国化した)継体@阿蘇邪靡堆が創設した(時間の支配者=中国皇帝からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号の創設
→天智の【倭京】(太宰府)以前は全て抹消!(下記リンク参照)
A鉄の産出により高句麗&百済に形勢逆転した新羅からの朝貢で調子に乗って、宇宙の支配者「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
→同時期の大和分家・厩戸皇子と合成し、憲法十七条(以和為貴)「聖徳太子」を捏造&抹消!
B白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に恐れ慄いた九州本家・天智@太宰府の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草)
→舒明♂皇極♀の長男&斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極斉明重祚&天智天武兄弟の秘密)
-継体による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居【倭京】仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho122/kai12204.html
- 231 :
- >>776
>そうした共同体同士の談合の結果、卑弥呼が共立されたというのが畿内説の基本的な考え方<
「南≠東」などに拠って、×。
- 232 :
- 九州説って終わってるな
- 233 :
- (箸墓古墳と同じ前方後円墳)今城塚古墳に眠る大王の、ピンクの石は、なぜ遠路はるばる運ばれてきたのだろう。。。
- 234 :
- >>226
古代の国郷境は川、日常的にい橋のない川は渡れず、交流は疎だった。
ウナギの寝床みたいな早良区を見ればわかるだろう。
- 235 :
- >>220
帯方郡
↓↓└伊都国↘【女王国@(正)】
↓東治≒【投馬国】「水行十日」↓奄美大島
↓↓…580q「陸行一月」
東冶(12,000里)=【女王国A(幻)】
中国大陸での道里の、倭国への転用&
女王国が、投馬国の以北@(奴国=福岡空港滑走路地下…真実)と以南A(沖縄と台湾の中間…まぼろし〜!)の2つある、ってことか!!
- 236 :
- 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の奥山氏が出現したが、完全に論破されたことを悟り、反論することを放棄し、敗北宣言の意味にしかならない悪口を呟いたな。。。
232日本@名無史さん2019/10/13(日) 10:24:15.71
九州説って終わってるな
- 237 :
- >>778
>半島や大陸では前王朝のものを全部壊してしまうけれど、
この日本では実際に2000年の伝世鏡が確認されている <
神武はニギハヤヒに対して鏡を提示出来なかったから、
「八咫鏡」を所持していなかったし、
崇神の八咫鏡は、△と同じ位のサイズだし、
大和の鏡作り神社は渡来の呉系楽浪鏡師らが来た4世紀になる。
- 238 :
- >>235
女王国が2つあったのかよ、、、
投馬国の以北(正)にも、以南(呉)にもある、、、道理で不毛な議論が延々と続くわけだな、、、
- 239 :
- 東南陸行して佐賀平野に入った可能性は・・・?
100%だ!
https://i.imgur.com/WRATyrS.png
- 240 :
- 台風によって、恐ろしいことが怒ってしまったな。。。
- 241 :
- >>779
>>大和に七萬餘戸は無理<
>邪馬台国七萬戸の範囲は畿内第V様式土器を使っていた範囲
投馬国五萬戸は丹波以西の四隅突出墓文化圏の範囲<
「南≠東」などに拠って、×。
- 242 :
- どういうことだろうか。。。
女王国は、一つではないのかな、、、
- 243 :
- >>238
生前の宮崎康平氏・森本伊作氏・古田武彦氏に教えてあげたかったな…
- 244 :
- 隠れたふりをしている伊作氏は、熊本城の地下の秘密を知っただろうか。。。
- 245 :
- 女王国は、たしかに2つあった。
一つ目は共立以前の女王国で、卑弥呼を女王にいただいていた邪馬台国。
二つ目は共立後の女王国で倭30国の連合体国家のこと。その倭連合国の王として卑弥呼は親魏倭王の金印紫綬を拝した。
- 246 :
- >>122
>問題は何故「中婦人手長」が必要であったのか?、という事。
>「中男性手長」は何故必要でなかったのか?。
バカだなw
「中男性手長」が尺、「中婦人手長」が咫なんだよ
必要も何も、そのままの単位が尺
- 247 :
- >>138
>葛城市vs桜井市
違うよ
頭のおかしい一人vsまともな常識人大多数
- 248 :
- >>784
>狗奴国を別府や宮崎にするのはいささか躊躇だね。<
狗奴國は、始めから倭種ではなく、女王國の南だから、×。
>それに、宇佐から東に千里(70km)の倭種の国は周防屋代島、あるいは愛媛八幡浜あたりになるから、
倭人伝がそこの人民も倭種だと断るまでもなく宇佐の人には周知のことなので、
わざわざ書き入れることもないのにと不審になるね。<
目的は、淮南子などに書かれた東や南の「極」の国の存在確認であったから、
そこへの「太平洋渡航の出発地」の足摺付近まで行く事が目的。
>それに、周防屋代島付近や愛媛八幡浜あたりの人民が倭種だからと言って、
それがどうしたのかという疑問も生まれる。<
生まれない。
>このように倭人伝の記述と合わないことがあるね。<
倭人伝の記録は、実際の地理的な状況と、よく合う。
- 249 :
- >>222
(隋書東夷伝「阿毎多利思比孤@阿蘇邪靡堆=卑弥呼@筑紫邪馬台」の記述を鵜呑みにした)熊本説(白鳥庫吉→宮崎康平→森本伊作)が誤りである理由も判るな。。。
>>219
邪馬台国七万戸=奴国(福岡平野)二万戸+筑紫平野五万戸 & 投馬国(宮崎平野)五万戸
南狗奴国八万戸=菊地平野(狗故智比狗の本拠)+熊本平野(卑弥弓呼)+八代平野
ってところか。
- 250 :
- 海岸や堤防や崖の近くには、住まない方が良いのではないのかな。。。
- 251 :
- >>152
>弥生時代の製鉄遺跡は圧倒的に九州だよ。
弥生時代最大の製鉄遺跡は、淡路島の五斗長垣内遺跡とか、彦根の稲部遺跡とかだよ
>>152は情報が古い
- 252 :
- 古墳時代の人民は、洪水の特には、古墳の上に避難した可能性が高いな。。。
- 253 :
- >>187
>学問では使われ得ない独特の表現を多用した、カルト特有の匂いがする。
>他人を騙してやろうとする悪意を感じる気持ち悪い文章だよ。
「カルトの匂いがする」
「悪意を感じる」
「気持ち悪い」
個人の感想ですねww
そして感情的な言辞で、印象操作目的なのが丸分かりw
- 254 :
- >>249 名前:日本@名無史さん 2019/10/13(日) 10:51:45.36
>>222
(隋書東夷伝「阿毎多利思比孤@阿蘇邪靡堆=卑弥呼@筑紫邪馬台」の記述を鵜呑みにした)熊本説(白鳥庫吉→宮崎康平→森本伊作)が誤りである理由も判るな。。。
おいモグリ、
宮崎康平は長崎説だったのではないか。それから森本伊作は誤り、森村伊作だ。
- 255 :
- 隠れたふりをしている伊作氏は、熊本城の地下の秘密を知っただろうか。。。
- 256 :
- >>255
優れた伊作氏は、卑弥呼の城が熊本城の下に埋まっていることを知らないまま、隠れたふりをしているのではないのかな。。。
- 257 :
- >>801
>「歴韓国乍南乍東」の読みは「韓国を歴(へ)てたちまち南したちまちち東し」。
この「歴」を「へて」と読む場合は「並んだ点を次々と通る」の意味である。<
ダメだ。
「歴」は「韓国を経て」よりももっと強く「韓国を歴訪をする」するという意味である。
>この「次々に並んださま」は、歴然というように「はっきりと区別されているさま」を表し、
これを水行と合わせると「韓国の港を次々に通って」の意味になる。<
世界に名だたるリアス式の西岸南岸での「歴訪」では、
それぞれの国の首都や王を訪問しなければならず、まともな歴訪は、殆ど無理だ。
>また、「乍南乍東」は韓国南部の多島海を南に進んだかと思うと今度は東に進んで」の意味であるので、
ちょうど韓国の南西部の角にあたる珍島で舵を大きく切って巨済島方面へ進むことを表現している。<
ダメだ。
循海岸水行では、リアス式の細かい海岸沿い航行を全部やらなくてはならず、
魏使らが、そんな行程を許可する筈がない。
>このように、巨済島あたりまでの全行程を水行することになんの支障もない文章である。<
このように、この男(類スレ主?)は、人類の常識知らずの、・・・・アホだ。
- 258 :
- >>234
>古代の国郷境は川、日常的にい橋のない川は渡れず、交流は疎だった。
このスレではあまり見ないけれど、その川を遡るのが水行10日だって言う九州説もいるんだぜww
川の水行はない
- 259 :
- >>801
>倭武王の上奏文は、倭人伝とは逆に倭から魏へ行く航路を前提とした文章である。<
倭人伝でも、倭王武らでも、当然往復しており、同じ道だ。
>この文章は「道遥百済、装治船舫」で、「遥」は南史では「逕」となっている。
「遥」も「逕」もともに「へて」と読んでいるが、南史の「逕」は「通る」の意味。<
東大京大を渡り歩いた(キョクウの)天誅という男の「漢籍の書棚」では、
「道kei[之繞旁右經]百濟、裝治船舫」であり、「遥」でも「逕」でもないようである。
しかし「經」の旁はあったようである。
>問題は「遥」である。この遥は遠い、長いの意味であるが、
動詞として用いる時は「ゆらゆらとゆれる」の意味になる。
このことからすると、船に揺られながらの意味になる。<
後代の 南史の記載の方が、自己解釈に拠る書き換えをした可能性が高く、根拠にはならない。
>この倭の武王の上奏文においても船が用いられていることが分かる。<
「經の旁」は、普通は「経路」のような意味であり、陸路を示す。
拠って、倭人伝でも、倭武王の上奏文でも、陸上を行く意味を表す語彙である。
- 260 :
- >>208
神武が滞在したと記録が残る岡田宮の宮司は熊鰐の子孫。
- 261 :
- >>239
佐賀川上バカも畿内説スレに寄生してないで自分のスレ立てたら?
- 262 :
- 真実の岡田宮は、何処にあったのだろうか、、、
- 263 :
- >>803
>いやいや、当方が想定している渡海の起点は行橋市あたり。
海の終点は河内湖にあった大和川河口あたり。
下関の方には行かないよ。
倭種の国は大和周辺の国々だから、北部九州にあった倭国とは別よ。<
「千余里」は当然、(倭人ではなく)魏の役人たちの計測であり、
郡〜女王之所都の「萬二千余里」の計測と同じであり、
千余里はその十二分の一であるから、精々松山付近であり、
河内湖や大和川付近には行かない。
- 264 :
- >>806
>短里は幻想よ。<
魏の役人らの計測記録であり、皇帝らも見て承認したから記録が残ったのであり、
従って、里の記載は信頼出来る史料事実であり、
それが「長い里」であるなんて、幻想だよ。
- 265 :
- >>807
>お主が言うように、倭種の国があるという情報は、卑弥呼の倭国と冊封関係を結ぼうとしていた魏にとっては、極めて重要な情報だったのよ。
だから、冊封関係を結ぶ実務協議のために倭国を訪れた使節団は、報告書にその情報を特記したわけだね。
千里といえば大和とその周辺までの距離。・・・<
ダメだ。
魏の役人たちは、当然、
郡から女王之所都までの「萬二千余里」と同じ計測道具で、「千余里」を計測しており、
当然海峡の一海峡で計測された「千余里」と同じ距離だろう、という計測であり、
海峡の「一海峡」の距離では、「大和」には全く行けない。
- 266 :
- 其国本亦以男子為王。住七八十年、倭国乱相攻伐歴年。乃共立一女子為王。名曰卑弥呼。事鬼道能惑衆。
(2-3行略)
女王国東渡海千余里、
・復有国、皆倭種。・・・・・・・・・・中国地方
・又有侏儒国在其南、人長三四尺。・・・四国地方
去女王四千余里。
・又有裸国、黒歯国。・・・・・・・・・近畿地方
復在其東南、船行一年可至。・・・・・・・・・・・・・・・・小笠原諸島
参問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連周旋可五千余里。・・・・・九州地方
(概ね西日本を網羅記述できている。帯方郡の役人たちは、良く調査したものだ。)
- 267 :
- やはり日本の王権の萌芽は治水共同体であり
政は治水利水が基本
- 268 :
- >>266
根拠もなく勝手に割り当てても
九州説のためにはならないよ
- 269 :
- 「次有斯馬國次有巳百支國・・・」以下の21カ国は、女王国(粟国=大吉野川流域)に所属する国々の説明である。
「其戸數道里可略載」(女王国より北にある国々は、その戸数や道順、距離をおおよそ記載できる)が、女王国の21カ国のこと。
「其餘旁國遠絶不可得詳」(その他の周辺国は遠く離れていて、戸数や道順、距離がつまびらかでない)は、阿讃山脈を越えた遠く瀬戸内海地域などの国々(吉備など)。
こういう地理的事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波
- 270 :
- >>234
福岡平野は奴国としてすでに一体化していた。
早良区だけ個別に扱うのはバカな話だ。
畿内は地形も無視して丸ごと一つに扱うくせに、畿内説はダブルスタンダードばかり。
- 271 :
- >>208
>すると、熊鰐は北九州・遠賀川沿い〜中津方面の豊系で、熊襲は佐賀〜熊本方面の肥国系ということでいいのかなあ、、。
多分そうだろうね。
豊国は筑紫王家に何人も妃を出しているから友好的なわけだが、肥国は熊襲または狗奴国として筑紫の天孫族(天皇家)に敵対していたわけだ。
- 272 :
- 真実の岡田宮は、何処にあったのだろうか、、、
- 273 :
- なぜ、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだろうか。
- 274 :
- >>272
岡田宮
福岡県北九州市八幡西区岡田町1-1
かつて崗地方(旧遠賀郡)を治めた熊族が洞海菊竹ノ浜(貞元)に祖先神を祀ったのが始まりとされ、そのためにこの地域一帯を『熊手』と号したといわれる。
後、神武天皇が東征(神武東征)の途上に、この地に1年間逗留し八所神を祀ったとされ、神武東征にある岡田宮の候補地の一つである。
仲哀天皇の時代には恭順した崗県主熊鰐の案内によって、神功皇后が岡田宮の八所神を奉祭したとの記事が日本書紀に載る。
wikiより引用
- 275 :
- >>270
>福岡平野は奴国としてすでに一体化していた。
それ、いつの話だ?
吉武高木の頃は、百余国の頃だし別に数えられているだろ?
九州説は時系列とか歴史の流れとかの認識が希薄すぎる
- 276 :
- >>271
このバカ、誰?
- 277 :
- >>226
>奴國は、前原〜糸島水道付近の伊都国から「東南至奴國百里」であり、
>その入り口は日向峠西麓付近であり、
伊都国は三島付近だろう。
前原はむしろ末盧国にでもすればよい。
>その地域は日向峠を越えて油山山地以西の早良平野に広がるもの。
それはいい。
>油山山地で福岡平野と区別されている。
人口から考えれば、奴国は日向峠以東の福岡平野全域だよ。
そして伊都国と奴国は間にある日向山(高祖山)の山城であった筑紫日向高千穂宮を中心に倭国の中枢であり、卑弥呼が統べる女王国すなわち邪馬台国のことだよ。
- 278 :
- 国の中に国があって、その中にまた国があるとか
九州説の支離滅裂は止めどもない
- 279 :
- 崗県主熊鰐は三種の神器を船の舳先の榊にかけて登場する。
日本書紀の編者が岡田宮の関係者から
「なんでうちの王が王と書かれていないのだ」
とクレームが来た時に、
「ちゃんと王だとわかるように書いてあります」
と言い訳できるようになっているのではないだろうか。
- 280 :
- >>819
>去女王四千余里。
・又有裸国、黒歯国。 ・・・・・・・近畿地方<
「南≠東」などに拠って、×。
- 281 :
- >>278
国邑を意味する場合と、一人の王により政治的に統合された複数の国邑の集合を指す場合がある。
奴国や伊都国が前者で、人口が多くて細かい距離(里程)が書かれていない邪馬台国や投馬国が後者だよ。
- 282 :
- >>281
二万戸もある奴国がなぜ前者?
無茶苦茶だな九州説
- 283 :
- >>823
>倭人伝でも、倭武王の上奏文でも、陸上を行く意味を表す語彙はどこにもみられない。
これは重要な視点だ。
古墳時代においても主要な交通手段は海上交通であったことを考えると、当然ではあるのだが、
文献的に確認できる意味は大きい。<
それは、読み間違い。倭王武の上表文は、
高句麗の邪魔に拠って、宋への交通路が障害されている、
という事を宋の皇帝に訴えているのであり、
海路であれば高句麗の障害は殆どないから、始めから関係が無く、
倭王武は、半島陸行であるから高句麗に障害されているのです、と言いたいのであるから、
やはり、「道kei百濟、裝治船舫」は、韓の陸行を示しているのです。
- 284 :
- >>282
地理的に一つだろ。
里程が明記されている。
邪馬台国と投馬国は領域なので、距離を明示できない。
- 285 :
- >>824
>>5世紀頃からは航海守護神は綿津見神や筒男神ではなくなっていたということか。<
>宗像が主催する沖ノ島の祭祀が国家級になっているし、福岡県内の古墳の分布でも宗像系が最大勢力となっている。
おそらく2世紀までに志賀島系から沖ノ島系に政権交代している。<
倭国王家は、3世紀末頃から4世紀始めは糸島付近にあったが、
大陸での北方民族の南進により、楽浪が滅亡し、西晋が滅んで317年に東晋が建国したのに合わせて、
倭国でも、317年に糸島付近から「筑後〜久留米」付近への遷宮があって、
その後は、(卑弥呼の姫氏系の国として)東海姫氏國と呼ばれたらしく、
その317年は、聖徳太子伝暦に「予言」という奇妙な形で記録されており、
その唐会姫氏國は、倭王武の次の倭国王賢で6世紀前半で終わって、
阿毎氏系の磐井が引き継いだ事になっており、
その磐井を大和の阿毎氏系の継体が倒した事になる。
そして、宗像氏は当然阿毎氏系であるので、宗像氏の勃興も、おそらく6世紀前半。
- 286 :
- >>825
>>天徳4年に内侍所が火災にあったとき無事回収された神鏡と明記されてる <
>そんな後世(960年)のことを持ち出されてもw 意味なし。<
ふーん。
- 287 :
- 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の奥山氏は、集合論という物事を知らないので、僕達とは別の立場の邪馬台国九州説にも、討論の作戦で、負けてしまうのだったな。
- 288 :
- >>841
「畿内」八木「邪馬台国」などの思想宗教文言を連呼し、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しという、
キチガイじみた事を連呼するから、
大和説は宗教活動の一種と言われる
- 289 :
- >>287
奥山氏は、集合論を正しく理解していなかったので、別のキャラクターを出現させてまで、実行した、余事象を例えるための、赤い玉と特定の箱の例え話の作成に失敗したのだったな。
- 290 :
- >>850
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、論理的な説ではなく、
背後にいる政治か宗教団体の圧力か信仰活動の一種
- 291 :
- 「学会」に目をつけられると面倒だぞ。
- 292 :
- >>284
無茶苦茶だな九州説
それでは邪馬台国を女王の都するところと書くはずがない
- 293 :
- >>292
なぜ「はずがない」と言えるのかな?
- 294 :
- >>277
>伊都国は三島付近だろう。
どこの?
- 295 :
- なぜなに魏志倭人伝
- 296 :
- >>293
>なぜ「はずがない」と言えるのかな?
普通の人ならわかるよ
投馬国も邪馬台国もどこにあって、その中に何という国があるのか判らない
女王の都が邪馬台国の中の何という国にあるのかも判らない
それなのに、なんで邪馬台国を女王の都するところと書く?
九州説は無茶苦茶だ
- 297 :
- >>856
>https://www.sankei.com/west/news/140224/wst1402240010-n1.html
難波宮造営期 歴史学に画期的な進展も 地球研・中塚教授の「酸素同位体比法」
中塚教授は、この十数年で酸素同位体の分析装置やセルロース抽出法の開発が進んだことに着目し、
この方法を開発。年代が判明している木材を酸素同位体比で確認したところ、
年輪年代法の結果とも一致したという。<
中塚の酸素同位体の分析に関しては、2ch時代に「邪馬壹國」スレか何かで、議論した事があり、
やはり、年輪法と同じく、
基準年輪と検査対象年輪との「気象変化の同一性の保証があるのか?」で、
論破した記憶がある。
南極氷河の氷層が根拠になるのか?という問題もあった記憶がある。
>纏向石塚が2世紀末、 勝山が3世紀前半、 これはもう確実。<
3世紀中程の卑弥呼の墓が「冢」であるんだから、
石塚や勝山の前方後円墳が、3世紀中頃よりもはるかに後である、
という文献論理には、酸素同位体分析法での推定では、やはり勝てない。
>ただし纏向遺跡が卑弥呼の都かどうか、箸墓古墳が卑弥呼の墓かどうか、
これはまた別の話。 まぁ違うのだけどね。<
同じ話だな。
- 298 :
- 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の奥山氏は、集合論という物事を知らないので、僕達とは別の立場の邪馬台国九州説にも、討論の作戦で、負けてしまうのだったな。
- 299 :
- >>866
>中塚さんの手法と年輪年代が合致してるという話。<
たまたま、気候変化が同一であった検体であった、という事だな。
しかし、例えば南極の氷山での気候変化と、検体木の生育時の気候変化が全く同じであったか?、
なんて、決められる筈がない。
>ただしその木材が伐採されてからすぐ使われたのか、何年か経過して使われたのかは分からない<
当然だな。
- 300 :
- 伊都国が都だろ。
- 301 :
- >>873
こんなふうに
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説の根拠は、
いつも「俺様がそう思うからだ」だけ
史料からの帰納や確率の計算は絶対にやらない
- 302 :
- >>877
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者が
学問をどういうものと考えているのか良くわかるな
もしかして皇国史観儒教大和説の頭には
理論的という概念そのものが存在しないのでは
- 303 :
- >>878
やっぱり前々から怪しいと思ってたけれど、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説者は
現代の普通の人類とは、(京都アニメ犯人などのように)、
脳や精神の構造が違う異星人とか異次元人とか、その類なんでねーの
- 304 :
- >>879
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者にとっては、
学問とは宗教的信仰の一種だった
そりゃあ、理論立てなんて無視して、
強弁だの金だので、言い分をゴリ押そうとするわけだ
- 305 :
- >>896
>いやな
畿内に大きな権威があった事を伺わせる前方後円墳が
副葬品や科学測定から卑弥呼の時代の3世紀中ごろにはあった事は判明してるし<
判明していない。卑弥呼の墓は冢であり、前方後円墳ではないので、
前方後円墳は3世紀中頃よりもずっと後。
>卑弥呼が魏から貰った銅鏡ではないかと思われる三角縁神獣鏡も
銘文や科学分析で魏鏡である事が明白<
△は、魏の敵地の呉系の鏡であり、魏鏡ではなく、明帝が下賜鏡に選択する筈が無い。
>なら邪馬台国は畿内にあって <
邪馬台国も畿内も存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、この男は×男。
>3世紀から宮殿があった事が文献にもある纒向が<
纏向の掘立柱建築の横の土坑の土器が庄内3であったから、纏向は3世紀末。
>政治や祭事の中心だったと考えるのも最もだろ<
卑弥呼よりもずっと後であり、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国とするのが妥当。
>そういう証拠が積み重なって学会では古代史を語るとき畿内説を基準に話がされているのだから<
学会が、「南→東」などの嘘付き騙しの・・・・詐欺師の巣窟。
- 306 :
- >>283
高句麗=陸軍
高句麗=水軍なし。
歴史談義にとって、こういう先入観が怖いのよ。
高句麗には強力な水軍があったそうだし。
- 307 :
- >>300
>伊都国が都だろ
なら12000余里というのは
どこからどこまでの距離なんだ?
九州説は無茶苦茶だ
- 308 :
- >>912
>三角縁神獣鏡には銅出徐州 師出洛陽 魏の銅山があった徐州の銅で洛陽の鏡師が作ったと銘あり<
「師出洛陽」と書いた、という事は、「洛陽出」であった事を誇りたいのであり、
その鏡師はその鏡を造った時には、洛陽にはいなかった、という事の証拠。
また、徐州の銅は、徐州の南北にあって、北の銅山は寂れていて、
南の銅山は呉地付近にあり、呉系の鏡師であった事の証拠。
>蛍光分析器スプリング8で分析した結果素材の銅は魏の鏡と同じものである事が判明
魏鏡である事は明々白々<
呉系楽浪鏡師らは、当然材料銅を持って列島に来ており、
列島での古くなった銅製品との混合で鏡を造ったんだから、
鏡の成分比が魏鏡?と類似して当たり前。
- 309 :
- 領域を表す、魏志倭人伝に登場する全ての要素を、集合論式の表記で纏めて、数学的に討論すると、邪馬台国畿内説は、瞬間で叩き潰されてしまうのだったな。
- 310 :
- >>305
>纏向の掘立柱建築の横の土坑の土器が庄内3であったから、纏向は3世紀末。
素人爺さんが理由もなく年代を決めても
畿内説への反論にはならないぞ
- 311 :
- >>309
領域を表す、魏志倭人伝に登場する全ての要素ではなくても、倭地、倭国、女王国、女王国以北、伊都国、奴国、投馬国、邪馬国、邪馬台国、狗奴国だけでも、集合論式の表記で纏めて、数学的に討論すると、邪馬台国畿内説は、瞬間で叩き潰されてしまうのだったな。
- 312 :
- >>308
>纏向の掘立柱建築の横の土坑の土器が庄内3であったから、纏向は3世紀末。
根拠は?
また妄想?
- 313 :
- >>920
>万葉集巻1の冒頭の歌を、現代人でも日本語で理解できる
日本語は、ずっと日本語だよ <
いや、現在でも東北弁やズーズー弁や大和弁や九州弁などが少し違うし、
大和は、出雲銅鐸部族と毛人と九州倭国王家弁の混合の上に、
半島渡来弁がかぶさった弁であったんだろう。
- 314 :
- >>311
だが、奥山氏は、集合論を理解していないのだったな。
- 315 :
- >>312
詳しくは知らないが、根拠を説明する文章になっているようだ。
- 316 :
- 邪馬台国畿内説には、証拠が見つからなかったのだったな。
- 317 :
- >>316
NHKが、高校生に教えていたね。。
- 318 :
- >>317
またデマか
九州説って芸がないな
- 319 :
- >>265
倭人伝の中で魏晋の1里434mが用いられているのは、東渡海千余里と周旋五千余里。
このほかに魏晋の里数に換算できるものは水行二十日と十日。
いずれも倭国の役人から聞き取ったものだろう。
このほかの1万二千余里は遠い所という意味の慣用句とみなすのがよい。
というのも、魏晋1里434mで換算したkmと実際の地図上の距離とは大きく異なるためである。
- 320 :
- >>926
>神武は1世紀中ごろから後半に奈良盆地にいたと想定すればよい<
二中歴では、神武即位元年は、ほぼ紀元前91年。
- 321 :
- >>926
>国史大系. 第6巻 日本逸史 扶桑略記 コマ番号371
「瓦上在鏡一面。徑八寸許。頭雖有小瑕。専無損。圓規幷帶等甚以分明」<
何故、宮中奥深く置かれていた鏡が、火事の後瓦の上にある事になるんだ?。
>他にも、三つの御神鏡が面径一尺程度という伝承もあるし、<
それは、火事に会わなかったのか?。
また何という種類の鏡で何時のものだったんだい?。
>八咫鏡は1尺程度というのは長く日本で信じられてきた大きさだ <
「長く」って、何時からなんだ?。
>平原1号墓の46センチ鏡を、原田大六氏が昭和の時代に言い出すまで
八咫鏡は1尺程度というのが常識だった<
何時から常識だったんだ?。
- 322 :
- >>321
>何故、宮中奥深く置かれていた鏡が、火事の後瓦の上にある事になるんだ?。
その置かれてた内侍所が炎上倒壊したからに決まってるだろ
>それは、火事に会わなかったのか?。
遭ったと書いてあるだろ
>また何という種類の鏡で何時のものだったんだい?。
神鏡と書いてあるだろ
賢所に保管されてる鏡が2つあるとでも
- 323 :
- >>933
「南≠東」などに具体的な反論ができず、言葉尻に対する曲解誹謗しかでき出来ず、
「妄想だだ」と叫ぶだけの大和説の現状が
いかに彼らが追い詰められているのかを表している
- 324 :
- >>935
またこれか。 年代も明白じゃない、成分分析も明白じゃない.
9回2アウトランナーなし10点リードされてる状況で
「まだ勝負は決まってない」←まあね笑 「つまり同点だ」←は?
「今のはボールだろ!」←わかる 「誤審だからオレの勝ちだ」←は?
大和説はこんなのばっか
- 325 :
- >>936
「南≠東」などの対する罵詈雑言は、
相手に反論できないときに出る感情的反応。
具体的に反論してね。
- 326 :
- >>323
>「南≠東」などに具体的な反論ができず
具体的な反論が聞こえないフリか?
自分が言い訳に、誰も信用してくれない道標読法を言い張ったり東治の位置を捏造したりしたことも
すべて無かったことにすると?
それは詐欺だ
- 327 :
- >>938
しかし「南→東」などの嘘付き騙しの大和説の目的は不可解だよな
学問的に九州で決着がついて
もう成り立たない事がはっきりしているし、
「邪馬台国」とか「畿内」なんて存在もしなかった文言をゴリ押しして、
一体何になるのか
- 328 :
- >>325
>「南≠東」などの対する罵詈雑言は、
おい九州説
日本語崩壊してるぞ
- 329 :
- >>942
>九州説を定説にするには文部科学省乗っ取って畿内説の学者を追放し資料を全て抹Rるぐらいの無茶をしない限り不可能だろ
そこまでして九州説に拘って一体何になるというのかねえ<
あれあれ?。
この男は、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説を「定説」にしたのは、
文科省や、「畿内」なんて存在もしなかった文言を使う大和説者が犯人である事を、
白状してしまっている。
有難うございます。
- 330 :
- >>948
>この頃の古代史講演では、講師が大和邪馬台国をほのめかすと、会場は疑いの目を注ぐ始末だし。
聴衆は大和邪馬台国には冷めてきたね。
かかる状況の中、掲示板で大和邪馬台国を堂々開陳するなんて、かなり頭おかしいんじゃねえの<
ふーん。
- 331 :
- >>291
やつらの戦闘力は優に一国の軍隊に匹敵するからな
- 332 :
- >>949
「南→東」などの史料事実の否定や曲解の嘘つき騙しの大和説は
いよいよ頭が狂い始めた
- 333 :
- >>952
「南→東」などの嘘付き騙しみたいに
全く証拠の出せないことをわめくだけになった大和説は
末期症状だよ
- 334 :
- 「でよい」
「とするのが妥当」
「とみることができよう」
「余地があろう」
「みなしてよい」
「不自然ではない」
などの主観的な判断の表現を疑え。
少なくともそれらは仮説に過ぎず、確認された事実とは区別しなくてはいけない。
それらの仮説を除くと、テンプレも、キナイコシの主張も、畿内説と呼べるものは全く空っぽになってしまう。
畿内説は客観的根拠が不足しており、仮説の上に仮説を積み上げただけの、砂上の楼閣に過ぎない。
- 335 :
- >>308
どちらも間違い
なぜ呉の鏡師が魏の都である洛陽出身と名乗るのか
そして倭の古い銅製品と新しいものを混合したら
当然不純物の銀・アンチモンが混合して増えたという計測地が出るのであり倭の銅製品はそういう数値が出ている
三角縁神獣鏡はそうではなく銀・アンチモン比が一緒と出ている
- 336 :
- >>296
>投馬国も邪馬台国もどこにあって、その中に何という国があるのか判らない
>女王の都が邪馬台国の中の何という国にあるのかも判らない
伊都国だろ。
- 337 :
- >>956
「南→東」などの嘘付き騙しのように、
史料的根拠のないことを
理由も言わずにただ連呼しても
それは
た・わ・ご・と
- 338 :
- >>335
三角縁神獣鏡はそうではなく銀・アンチモン比が一緒と出ている
↓
三角縁神獣鏡はそうではなく銀・アンチモン比が魏晋鏡と一緒と出ている
- 339 :
- 論でも証拠でも勝てない九州説ができる手立ては
一日中狂っている事だけだな
- 340 :
- 魏志倭人伝は、倭国(九州北部)の複雑な入れ子構造の政治体制を詳しく説明しようとしているのだろう。
女王国(九州北部)の中でも王都周辺の邪馬台国、倭国の中で女王に従わない狗奴国(熊本)、邪馬台国に含まれない投馬国(宮崎)、さらに別種の本州や四国。
- 341 :
- 「次有斯馬國次有巳百支國・・・」以下の21カ国は、女王国(粟国=大吉野川流域)に所属する国々の説明である。
「其戸數道里可略載」(女王国より北にある国々は、その戸数や道順、距離をおおよそ記載できる)が、女王国の21カ国のこと。
「其餘旁國遠絶不可得詳」(その他の周辺国は遠く離れていて、戸数や道順、距離がつまびらかでない)は、阿讃山脈を越えた遠く瀬戸内海地域などの国々(吉備など)。
こういう地理的事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波
- 342 :
- >>975
結局「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
京都アニメ放火犯のように、
内面から発生する狂気や、
自分の考えを認めない世の中に対する理不尽な恨みつらみを
対象は何でもよくて、
ただぶつけてるだけではないだろうか
- 343 :
- >>948
あれ?、同じ投稿が4つも出来てしまっている!。
確か、2chに投稿拒否されて、
仕方がないから、あちこちに回り道をして再投稿を試みた記憶があるが、
申し訳ございませんでした。
- 344 :
- 九州説は議論してるような見せかけで荒らしてスレ妨害してるだけだしもう雑にやってるだけだからあっさり矛盾点指摘されて恥かくだけだしし別に九州説でやらなくていいんじゃないの
ピラミッド宇宙人が作った説でも唱えてたほうがよほどマシだから
- 345 :
- >>994
>>田島神社のあるところの磐座に古墳時代には宗像神が祀られていた可能性は大きい。<
>海の神が山の中の磐座にいるのか?ww それ、別の神様だろう?www<
沖ノ島自体が磐座だろ?。
- 346 :
- >>104
>箸墓古墳であれ、平原墳墓であれ、祇園山古墳であれ、そのような奴婢殺戮の伝承はない。
「ない」時点でこれらは卑弥呼の墓ではない。
神武東征紀に書かれた奴婢大量殺戮の場所、それは高天原(御所市高天)である。<
「南≠東」などに拠って、×。
- 347 :
- >>105
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
証拠の積み重ねと推論によって導き出される真理や真実を
それが真理や真実であるから憎む
いわゆる悪霊や怨念と呼ばれるものの一種
- 348 :
- >>110
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘付き騙しの大和説が
物理的に無理なのが
よくわかるね
- 349 :
- 邪馬台国畿内説には、証拠が見つからなかったのだったな。
- 350 :
- >>112
>帯方からたった水行10日でどこまで来る気? 藁<
歴韓國乍南乍東や對海國や一大國など陸行。
女王之所都への水行は、殉海岸水行と三海峡だけ。
この男は、おそらく・・・・。
- 351 :
- 350
- 352 :
- >>349
NHKが、高校生に教えていたね。。
NHKが邪馬台国畿内説に証拠が無い事を発表しました。
そして、同じ放送での発表では、纏向には宮室だけは、有ったのに対し、九州の城には、宮室、楼観、城柵が揃っていたという、頭が普通の者が視聴すれば、
纏向の掘立建物には卑弥呼の城の条件が揃っていないことが理解できる、見事な対比法だったな。。。
https://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/chapter002.html
- 353 :
- >>118
>・・・この日本にプレ卑弥呼、まぁ2世紀くらいまでさかのぼる遺跡があり、
そこは王権の謂れがある場所がある。 それが葛城だ。 遺跡でいえば名柄遺跡。
ここにある長柄神社の祭神は出雲の大国主を父とし、宗像三女神の一人を母とするシタテルヒメ。
そのシタテルヒメのアイデンティティをしめすかのように、
銅鐸と多鋳細文鏡が同時に出ている。国宝である。
2世紀前半の其国の王権があったのはここだ。<
大和を主張しているから、「南≠東」などによって、×。
- 354 :
- 領域を表す、魏志倭人伝に登場する全ての要素ではなくても、倭地、倭国、女王国、女王国以北、伊都国、奴国、投馬国、邪馬国、邪馬台国、狗奴国だけでも、集合論式の表記で纏めて、数学的に討論すると、邪馬台国畿内説は、瞬間で叩き潰されてしまうのだったな。
- 355 :
- だが、奥山氏は、集合論を理解していないのだったな。
- 356 :
- >>127
>>説文解字の「中婦人手長」は、日本でも古代から使われていた事になる。<
>つまり平原の八葉鏡は八咫の鏡じゃないってことで決着したな <
いや、内行花文鏡のどの部分の寸法を測って「八咫鏡」と呼ばれたのか?、
という事が、まだ未確定。
- 357 :
- 今から約4千年前に人の手だけであんな巨大な建物を作れたはずがない
しかも4辺の誤差が20cmで高さと横幅が黄金比になっているという
ピラミッドを作ったのは宇宙人
邪馬台国は九州
- 358 :
- >>300
>伊都国が都だろ。
これを真顔でいえる九州説ってすごいよなww
都支國も好古都國も都なんだよな?wwww
- 359 :
- >>269
>「其戸數道里可略載」(女王国より北にある国々は、その戸数や道順、距離をおおよそ記載できる)が、女王国の21カ国のこと。
いくらエラそうにしてもこういう愚にもつかないことを平気で書くから、トンデモだってバレるんだよなww
- 360 :
- >>277
>筑紫日向高千穂宮を中心に倭国の中枢であり
そんなものはないww
- 361 :
- >>284
>邪馬台国と投馬国は領域なので、距離を明示できない。
で、投馬国はどこなんだい?ww
- 362 :
- >>359
碌な鍛冶炉遺構弥生集落遺跡や資源の無いトンデモ説に、「邪馬臺国」など語る資格など無い! @阿波
- 363 :
- >>359
碌な鍛冶炉遺構弥生集落遺跡や資源の無いトンデモ説に、「邪馬臺国」を語る資格など無い! @阿波
- 364 :
- >>345
>沖ノ島自体が磐座だろ?。
お前、磐座が何だか分かってないだろ?wwwwwwwwwww
磐座って使いたかっただけなんだろ?
本当に九州説ってデタラメww
- 365 :
- ああ>>345はザラゴキかw
最初、田島神社の磐座がって言いだしたやつは逃げたのに、わざわざ横から口を挟んで恥をかくw
- 366 :
- >>356
>いや、内行花文鏡のどの部分の寸法を測って「八咫鏡」と呼ばれたのか?、
>という事が、まだ未確定。
おいおい
お前は ”説文解字の「中婦人手長」は、日本でも古代から使われていた事になる” と言ったのだから
平原の八葉鏡はどこを測っても八咫にならないので
平原の八葉鏡が八咫の鏡じゃないってことで決着したんだよ
- 367 :
- >>366
じゃあ宮中にあるその小さな神鏡はどこを測ったら八咫になるんだよ。
- 368 :
- >>345
>沖ノ島自体がだろ?。
賛成。
それでこそ沖ノ島の祭祀が磐座から始まる理由だろう。
- 369 :
- >>165
>通説である畿内説のどこが?
なにが詐欺だか具体的に指摘してみな 出来ないだろ ウソだから <
「畿内」や「邪馬台国」という文言や、
「南→東」や、「卑弥呼の冢→前方後円墳」や、
「大和の庄内→3世紀前半」や、
「正北抵新羅」や「東征毛人五十五國」や「日本國は倭國の別種の旧小国」の隠蔽や、
「明帝鏡→景初三年以後」の捏造や、「21枚の尚方作鏡」の無視や、「△→魏鏡」のウソや、
「歴韓國乍南乍東→水行」の曲解や、「投馬國→女王之所都の北」という捏造や、
「東治→東冶」の捏造や、「道里→日数」の捏造や、
「纏向→卑弥呼の都」の捏造や、「祇園山→4世紀」の捏造など。
まだあったかしらん。
- 370 :
- >>367
賢所の神鏡は960年に八寸くらいと目撃証言があるんんだから
収納容器が905年時点で1尺6寸くらいあったのは単に
多重容器の一番外側である御樋代が鏡本体よりずっと大きかったというだけであるな
- 371 :
- >>369
まだ言い張ってるの?
それ、とっくに全部アホな難癖として退けられているよな?
世間でぜんぜん受け入れられてないトンデモ説言い張ってる自覚はあるだろ?
- 372 :
- 邪馬台国畿内説は、論破されるために、出現した、、、
- 373 :
- >>372
そしてそれは前人未到の難関である
九州説老人諸君、せいぜい奮起したまへ
- 374 :
- >>372
そしてそれは前人未到の難関である
九州説老人諸君、せいぜい奮起したまへ
- 375 :
- >>168
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者の脳は、
すでに、京都アニメ犯人か、バカアホ言うだけの小学生並みに退化
- 376 :
- >>173
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
いつもブーメランで自己撲殺してるな
- 377 :
- >>175
「南→東」などの嘘付き騙しがバレた大和説は、下火で、
できるのはせいぜいデマと中傷と
ヘタクソなステマ
- 378 :
- Yamataikoku-Kinaisetsu was born to won an argument!
- 379 :
- >>378
Yamataikoku-Kinaisetsu was born to won an argument!
というタイピングは、
Yamataikoku-Kinaisetsu was born to be won an argument!
て、タイピングしたかったのではないのかな。。。
- 380 :
- Yamataikoku-Kinaisetsu was born to be lost an argument!
- 381 :
- 九州説・・・
かわいそうなくらい芸がない
- 382 :
- >>185
>>「計其道里、當在會稽東治之東」は、女王國の位置を計算しており、
女王國は南九州の投馬國も含むので、九州島付近になり、<
>つまり陳寿は投馬国までの「道里」も計算したんだよね <
いや、投馬國へは、魏使らの倭人からの「日数」の伝聞であり、
「道里」の計測をされていない。
>だから投馬国の条には「道里」が書かれているので<
書かれていない。
>投馬国は女王国以北にあるんだよ<
投馬国は女王之所都以南にある。
- 383 :
- >>382
結論を言い張るだけ
かわいそうなくらいの惨敗ぶりだ
九州説の最期ってやつだな
- 384 :
- >>382
>投馬国は女王之所都以南にある。
ザラコクは自分で自分の口で
南九州にあるという投馬国までも道里を陳寿が計算できると主張しちゃったんだから
投馬国は女王国の北にあると認めなきゃならないな
自滅だよ
- 385 :
- >>200
>熊鰐はその二代後の仲哀の時の岡の県主、おそらくは筑紫岡田宮の王家の代表なんだよね。
いわゆる豊国王家(志賀島から遠賀川に移動した、元綿津見系?豊玉姫など鰐の一族)の王。<
ふーん。
- 386 :
- >>257
歴訪という語彙があるんだから、歴訪するなら歴訪と書くよ。
- 387 :
- >>370
>多重容器の一番外側である御樋代が鏡本体よりずっと大きかったというだけであるな
だから、元々は鏡本体も大きかったが、平安時代までにどこかで燃えたか盗まれたか、別の鏡になっていたということ。
- 388 :
- >>232
大和説って、
「南≠東」などで、終わってるな
- 389 :
- 九州説のオウム返しの連呼
荒らしなのをもう隠そうともしない
- 390 :
- >>387
905年から960年までのわずか半世紀の間に
三種の神器の一つである神鏡が
似ても似つかない別の鏡に入れ替わっていた
と言うスゴい 新説を
九州説が唱え始めたぞ
九州説のトンデモは異世界までもたどり着きそうだな
ww
w
- 391 :
- >>390
曲解が得意技ですか?
- 392 :
- >>283
>女王国が2つあったのかよ、、、
投馬国の以北(正)にも、以南(呉)にもある<
「以南(呉)」にはない。
- 393 :
- >>391
で?
どこが曲解かな?
具体的に指摘してね
できなければ、九州説はまた惨めに論破されたってことだよ
- 394 :
- >>391
で?
どこが曲解かな?
具体的に指摘してね
できなければ、九州説はまた惨めに論破されたってことだよ
- 395 :
- >>251
>>弥生時代の製鉄遺跡は圧倒的に九州だよ。<
>弥生時代最大の製鉄遺跡は、淡路島の五斗長垣内遺跡とか、彦根の稲部遺跡とかだよ<
それで、何故、
大和の鉄鏃が3世紀末以後にしか見つからない、
という事が起きたんだい?。
- 396 :
- >>395
3世紀末以後って
誰がどんな理由で決めたの?
- 397 :
- 【畿内の鉄器】
唐古鍵 板状鉄斧
大竹西遺跡 鉄剣(大阪府八尾市)
<こ れ だ け>
【痕跡】
唐古鍵 鉄斧「柄」
加美遺跡Y1号周溝墓 「伐採痕」(大阪市)
久宝寺南遺跡 準構造船の加工痕(大阪府八尾市)
纒向遺跡 大量の砥石 大型鉄器を研磨したと「推定」
明らかじゃん。
ごくごくわずかな鉄器とその痕跡のうち、
3点が大阪で、八尾市に準構造船を伴っている。
北部九州倭人が鉄器を持って準構造船でやってきたわけだ。
http://www.infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron09.jpg
http://inoues.net/tango/tango_z1.jpg
- 398 :
- で?
3世紀末以後って
誰がどんな理由で決めたの?
- 399 :
- 鉄器も稲作も九州北部から伝わったのは考古学的事実だからもうしょうがない。
キナイコシがなに言っても覆らない。
いつ誰がそれを九州から持ち込んだかの問題に過ぎない。
- 400 :
- 居間に入るほとんどすべての人は
玄関から家に入ってる
それが何か?
- 401 :
- 畿内で見つかっている鉄器
○ホケノ山 畿内 3世紀中葉
鉄鏃 約60本
素環頭大刀 1口
鉄製刀剣類 10口
○椿井大塚山古墳 畿内 3世後葉
鉄刀7本以上、鉄剣十数本以上、鉄矛7本以上、鉄鏃約200本、
銅鏃17本、鉄製甲冑1領、鉄鎌3本、鉄斧10個、鉄刀17本、
鉄製ヤリカンナ7本以上、鉄錐8本以上、鉄ノミ3本以上、
鉄銛十数本、鉄ヤス数本、鉄製釣針1本
その他鉄製冠ではないかと疑われる鉄製品
○黒塚古墳 3世紀後半
刀剣類27口以上、鉄鏃170本以上、小札、U字形鉄製品
- 402 :
- >>259
倭人伝の南行と倭武王の北行のそのルートは同じだとは思うが、しかし同じという保証はないな。
天誅という人は「道経百済 装治船舫」だとしているとのことであるが、宋書では「道遙百済 装治船舫」、南史宋書では「道逕百済 装飾船舫」となっている。
「経」と「逕」はいずれも「通る」意であるものの、「経」の場合は「まっすぐ通る」意となる。
この「経」「逕」と「遙」は意味がまったく異なり、別字である。
南史は自己解釈が強いとの意見であるが、それに同意する。なので、天誅氏の「経」も南史に類するものとみなすことができる。
やはり、「遙」が原文の字であろうと思われる。
「遙」は動詞として用いられると「ゆらゆらとゆれる」意であるので、船路ということになる。
- 403 :
- だいぶ前から教科書に載ってて全国の青少年が勉強して知っている
古墳時代というものを頭から否定しないと成り立たなくなってしまった
九州説というものの棲息できる場所は今はもう
月刊ムーとか、そういう世界だけになっているのだ
九州説の後期高齢者諸兄、自覚するといいよ
お迎えが来る前に
- 404 :
- >>399
九州も畿内も、倭国(阿波)による、鉄器被供給国! @阿波
- 405 :
- >>402
>天誅という人は「道経百済 装治船舫」だとしているとのことであるが、
それはザラコクのニセ情報
- 406 :
- 問題はその古墳を誰が何のために作ったのか。
邪馬台国と関係するのかどうか。
- 407 :
- >>399
九州も畿内も、倭国(阿波)による、「東阿波型土器」(軽量薄型土器)被供給国! @阿波
- 408 :
- >>406
九州も畿内も、倭国(阿波)による、古墳被供給国! @阿波
- 409 :
- >>406
何のためって墓だろ
魏志倭人伝に卑弥呼の墓は径百歩、直径約140mとあり
卑弥呼の時代の3世紀から畿内にある前方後円墳は大きさも合う
- 410 :
- >>409
>卑弥呼の時代の3世紀から畿内にある前方後円墳は大きさも合う
その畿内にある前方後円墳も、倭国(阿波)による「忌部はん」 豪族のお墓! @阿波
- 411 :
- >>409
古墳の構造(葺石・竪穴式石室など)や副葬品(水銀朱・勾玉・鉄器など)を見れば、一目で「忌部はん」 のお墓と判るのに、いつまでも未練たらたらwww @阿波
- 412 :
- 阿波の忌部はんの墓がなぜ畿内にあるのかな
- 413 :
- >>412
阿波の豪族が畿内へ進出していった証拠。 @阿波
- 414 :
- 記紀には九州から神武天皇が畿内に進出したと書いてあるけれど
- 415 :
- >>412
言っとくけど、阿波の豪族進出は、畿内だけじゃないからね! 全国に「忌部はん」 のお墓があるでしょ! @阿波
- 416 :
- Yamataikoku-Kinaisetsu was born to be lost an argument!
- 417 :
- >>414
>記紀には九州から神武天皇が畿内に進出したと書いてあるけれど
まだ、そんなこと言ってるの? それ、最早ガラパゴス説だよ。 @阿波
- 418 :
- 「邪馬台国」の読みが本当に「ヤマタイ国」で正しいかもしれない、
と思っとるやつどれくらいいるの?
>>378-380はそう思ってるらしいが。
普通に「ヤマト国」でしょ。日本語の当て字としてヤマタイ→邪馬台はないだろ。
- 419 :
- >>417
へー最新の説はどんなの?
邪馬台国ガラパゴス説?
- 420 :
- >>409
>魏志倭人伝に卑弥呼の墓は径百歩、直径約140mとあり
>卑弥呼の時代の3世紀から畿内にある前方後円墳は大きさも合う
円墳部分しか合わない、やり直し。
- 421 :
- >>418
ヤマトという読みに異論はないが、それが九州なのか畿内なのかは議論の余地がある。
魏志倭人伝はほぼ九州北部のことしか書いてない。
- 422 :
- >>414
しかもそれまでの代々の倭王は九州(筑紫)にいたことになっている。
- 423 :
- 4世紀後半頃から神は移動するとの神概念が生まれてくる。
神功とともに筒男神は九州から難波へと移動する。
天照大神が伊勢に移動し、また丹後から豊受比売神が伊勢に移動するのも同じ神概念だ。
しかし、この神の移動の初期には、元いた場所ではその神はいなくなるが、それでは困るのが地元である。
そこで、分祀という考え方が生まれる。
神は移動するがそれは神の分身の移動であり、神そのものは元々の地元にいるというものである。
豊受比売神は伊勢に移動したが、元いた丹後の籠神社の奥の宮ではそのまま豊受比売神を祀り続けるのと同じだ。
このように、朝鮮半島に渡海する際の最初の加部島の田島神社で宗像伸を祀っているのは、宗像の田島の神体山から分祀したものだとすることができる。
分祀の神概念が整うのは5世紀後半頃からではないだろうか。
- 424 :
- >>422
>それまでの代々の倭王は九州(筑紫)にいたことになっている。
いない、葛城。
王族のシタテルヒメを祀る神社、遺跡(名柄遺跡9が葛城にある。
だから神武が葛城に来た。
彼は女王の婿。
- 425 :
- >>423
途中までふんふんと呼んでいたが、最後になぜ突然4世紀ではなく5世紀になるのだ。
それがなければ神とそれを祭る為政者が4世紀に九州から畿内に移動した、で決着する話なのに。
- 426 :
- >>420
ホケノ山は全長140mに近いけど
まあ畿内にはそういう古墳が多いという事だ
- 427 :
- >>425
記紀と魏志倭人伝によれば神武東征、倭国大乱は2世紀の西暦160〜180年ごろのこと
- 428 :
- >>424
神武の妃のイスケヨリ姫の祖父である賀茂建角身についてはさんざん紹介して、志賀島から瀬戸内ルートで畿内を開拓した王族だと説明したろう?
イスケヨリ姫本人の出自は塗矢伝説によるが、実質的に父親知らずということなんだよ。
そういう場合に便利に持ち出されるのが三輪山の神なんだ。
- 429 :
- >>427
神武は実権がある倭王ではなかった。
四兄弟の末子だったし、大和での実力者は饒速日(物部氏の祖)だった。
九州で生まれて実権があった倭王というと、応神天皇が4世紀にいるではないか。
- 430 :
- >>426
長じゃだめだね。
- 431 :
- >>428
>説明したろう?
いや、お前の説明など意味はない。
>神武の妃のイスケヨリ姫
逆。
女王ヒメ后の婿が神武。
その神武に先立たれた後の女王の姿が魏志の描写。
- 432 :
- 【邪馬台国の終焉】
八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神橿日姫(神夏磯姫)の時、外部勢力である景行天皇とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清している。
景行天皇の孫の仲哀天皇が息長帯姫(神功皇后)とともに神橿日姫ゆかりの筑紫橿日宮(香椎宮)に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮の王(五十迹手、熊鰐)が出迎えたが、仲哀天皇は筑紫橿日宮で急死してしまう。
景行は神橿日姫と共闘していたが、仲哀の妃の息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神橿日姫の末裔とされる田油津姫を倒し、武内宿禰とともに筑紫の全権を掌握し、朝鮮半島に出兵した。
倒された側の耳垂や田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。
田油津姫の宮は銅を産出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫も八咫の鏡を保有していた神橿日姫の末裔と伝えられており、筑後〜筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国すなわち邪馬台国の末裔による内紛に他ならない。
その中でも、筑後・筑豊・肥前に拠点を持つ肥国邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神橿日姫、田油津姫までで終わりとなる。
仲哀の急死は息長帯姫と武内宿禰による暗殺であり、その夜に息長帯姫と住吉の神(武内宿禰)の間に密事があったと伝えられている。
息長帯姫は、仲哀の本来の皇后(大中津姫、仲哀と同じく景行の孫で息長帯姫より高貴な身分)の皇子二人も殺害し、仲哀の血筋を根絶やしにして、武内宿禰との間の子である応神を天皇にした。
天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは各王朝の祖先神を表しているという説がある。神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。
その宗廟である宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、後世の天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め(宇佐神託事件など)、八幡神社は全国で最多の神社となった。
- 433 :
- >>431
意味はない?
塗矢伝説をどう理解しているんだ?
- 434 :
- >>429
兄達は東征の激しい戦闘のさなか死んだと記紀には書いている
>>430
直径でもダメで全長でもダメなのか?
じゃあ何ならいいのか
まあいずれにしてもそれに適合する古墳は畿内を探せばいくらでもあるんだがな
- 435 :
- >>434
>直径でもダメで全長でもダメなのか?
>じゃあ何ならいいのか
径で百余歩、そして奴婢埋葬痕跡があること。
- 436 :
- >>430
イヤだイヤだとムズカるばかりで理由は言わない九州説
それがもう「説」でないことは明かだな
- 437 :
- >>435
奴婢埋葬痕跡が何で必要なの?
理由は、また無し?
- 438 :
- >>425
4世紀の移動は、まだ神がそっくり移動してしまう状態。
元いた地元はもぬけの殻状態。
そこで、地元に神本体が残って、移動するのは神の分身とされるようになるのは5世紀以降。
アバウト解釈で5世紀後半。
- 439 :
- >>437
奴婢埋葬痕跡が何で不必要なの?
理由は、また無し?
- 440 :
- >>438
応神天皇(4世紀末)からでいいじゃん。
- 441 :
- >>439
オヤオヤ
必要だと主張するが必要であるという理由が答えられないわけだね?
随分と頭のお軽いことだな
必要だという正当な理由が掲げられていないことが
不必要であることの正当な理由だよ
これは疑うべくもないことだ
- 442 :
- >>438
追加
アバウト解釈であるが、実態としては次のことがある。
5世紀代になると、氏族という血族集団が成立する。
そして、氏族の一員が領地などの関連で他所へ移動することが活発になる。
その他所へ移動する氏族の一員は、氏族神を奉じて移動して定着地でその氏族神を祀ることになる。
それが氏族の一員であることの証明なのだ。
この際、氏族の本拠地ではそのままに氏族神が祀られていて、その氏族の一員が奉じて定着地で祀るようになった氏族神も同じ神である。
そこで生まれる神概念が、神は分祀できるとするものなのだ。
そうでなければ、氏族の一員が他所で氏神を祀ることができないので、その人物は何々氏族の一員だと証明できなくなる。
分祀という神概念の誕生と氏族社会の成立は、表裏一体の構造にあるといえる。
その分祀の考え方の成立が、5世紀後半頃だというわけ。
つまり、雄略天皇の頃ということになる。
- 443 :
- >>441
>随分と頭のお軽いことだな
殉葬奴婢に答えられないから、
特殊器台に奴婢の遺体を乗せてたと言ったのはおまえではないか。
ごまかすな。
- 444 :
- >>442
>5世紀代になると、氏族という血族集団が成立する。
どこで聞きかじったのか知らないが、まったく根拠がない。
例えば畿内の二大勢力だった饒速日物部氏や三島溝杭耳鴨一族はいずれも3世紀より前にはすでに畿内にいただろう。
5世紀の変化は主に朝鮮半島から畿内への流入によるものだろう。
それも氏族だが、日本古来の神を祭る氏族の成立はもっと古いと考えてよい。
- 445 :
- >>435
畿内の前期の古墳には両方揃っておるぞよ
- 446 :
- >>445
畿内の何古墳に揃ってるの?
まぁ「墳」と言ってる時点で間違いなのだが。
- 447 :
- >>443
>殉葬奴婢に答えられないから、
>特殊器台に・・・
そう考えた人もいたようだが
そう考えない人もいる
つまり理由にはならない
お脳の鳥より少ないお前さんは
何で「奴婢埋葬痕跡」とやらが必要なのか答えられない
必要である理由がないんなら必要ないだろ?
この程度のことも理解できないのか?
そんなお脳で正常に社会生活できているのか?
これは大いなる疑問だ
- 448 :
- >>444
>例えば畿内の二大勢力だった饒速日物部氏や三島溝杭耳鴨一族はいずれも3世紀より前にはすでに畿内にいただろう。
どこで聞きかじったのか知らないが、まったく根拠がない。
w
- 449 :
- >>447
魏志に書かれてるのだから奴婢埋葬痕跡が有るのならそれでいいではないか。
なんで「ない」ことが卑弥呼墓になるのだ、頭おかしいのかおまえ。
- 450 :
- >>449
>魏志に書かれてるのだから奴婢埋葬痕跡が有るのならそれでいいではないか。
あっていけないなんて誰も言ってないが?
必要な理由を聞いているだけだ
で、答えられないんだろ?
ばかだから
>なんで「ない」ことが卑弥呼墓になるのだ、頭おかしいのかおまえ。
「ない」ことが卑弥呼墓になるなんて
誰か言ったか?
誰も言ってないよな
お前、また自分の頭がおかしいことを証明してしまったな
悲惨なことだ
- 451 :
- >>448
記紀くらい読んでね。
- 452 :
- >>450
>あっていけないなんて誰も言ってないが?
ならばそれでいいじゃないか。
>必要な理由を聞いているだけだ
あったら魏志の記述に合うからだ、ないのに何で合うなんて言えるのか、
頭おかしいのか、おまえ。
- 453 :
- >>452
>ならばそれでいいじゃないか。
何で必要な理由がなくていいんだ?
理由がないなら必要ないだろ?
>あったら魏志の記述に合うからだ、ないのに何で合うなんて言えるのか、
あったら結構だよな
そうそう
ないと合わないという理由はあるか?
ないよな?
つまり、なくて問題がない
- 454 :
- >>451
>記紀くらい読んでね。
読んだら何なんだ?
根拠を出せないんだろ?
ならば、自分の主張の根拠が出せないお前は論破されたのだ
- 455 :
- >>453
>何で必要な理由がなくていいんだ?
>理由がないなら必要ないだろ?
奴婢埋葬痕跡が有れば魏志の記述に合うからだ、なに言ってるんだ。
>ないと合わないという理由はあるか?
>ないよな?
気が狂ったか、「ない=ゼロ」だ。
ゼロが何で「ある」ことになるのだ。
- 456 :
- >>455
>ゼロが何で「ある」ことになるのだ。
誰がいつ「ある」ことになると言った?
誰も言ってないよな?
頭おかしいのだな、おまえ。
- 457 :
- >>436
>誰がいつ「ある」ことになると言った?
>誰も言ってないよな?
じゃ「ない」でいいな。
ないなら証明できない、はいおまえは論破された。
- 458 :
- >>457
ないと証明できないという理由は?
必要だという理由がないんだから
なくても証明できるよな
論理が全く理解できていないのだな
お前、周囲の人から知能が低いといつも言われてないか?
- 459 :
- >>458
>ないと証明できないという理由は?
奴婢埋葬痕跡がないのに奴婢埋葬があったことを証明してみろ。
- 460 :
- >>459
奴婢埋葬があったことを証明する必要があるって
理由は?
- 461 :
- >>460
泣いて寝れないのかいw
魏志の記述に合うからだってこれで3回め。
- 462 :
- >>461
それのどこが
奴婢埋葬があったことを証明する必要があるって
理由なんだ?
理由をいえよ
- 463 :
- >>444
3世紀頃はまだ部族の社会。
卑弥呼は部族連合の総祭祀長。
4世紀頃に部族社会が変質して、5世紀頃には部族社会から氏族(血族)社会へ転換する。
首長層の墓が一般層から離れた高いところに造られるようになるのが5世紀からで、このころに氏族社会がスタートしたと考えられている。
財産なども部族の共有物であったものが、氏族社会になると首長層の財産と一般の財産が切り離されるようになるとされる。
神武や饒速日の時代は部族社会だから、神武や饒速日は中国の学術表現では酋長、そして饒速日の大和は酋邦と呼ばれる。
- 464 :
- >>462
泣いて寝れないのかいw
奴婢埋葬がないと奴婢埋葬が証明できない。
埋葬痕跡があることが魏志の記述に合うからだって、これで4回め。
- 465 :
- >>461は論理的な説明をする能力が絶望的に欠けているようだ
多分対偶命題が理解できない
- 466 :
- >>464
埋葬痕跡があることが魏志の記述に合うと
ど・う・して
- 467 :
- >>464
埋葬痕跡があることが魏志の記述に合うと
ど・う・し・て
奴婢埋葬がないと奴婢埋葬が証明できないことになるんだ?
- 468 :
- >>466
ないのに何であるになるのだ?
- 469 :
- >>465
一つ聞いていいか?
おまえ、中学校でてる?
- 470 :
- >>468
>ないのに何であるになるのだ?
だから、誰か「ある」って言ったか?
誰も言ってないよな?
頭だいじょうぶか?
じゃないよな・・・明かに
- 471 :
- >>470
>だから、誰か「ある」って言ったか?
>誰も言ってないよな?
だから「ない」のだね?
ない状況からあるを証明できないね。
- 472 :
- >>471
>ない状況からあるを証明できないね。
なにが「ない」?
なにが「ある」?
正常な日本語でおながいします
- 473 :
- >>472
奴婢埋葬痕跡がない状況から奴婢埋葬があったことを証明できないね。
日本では証拠がないのに犯罪は証明できないのだよ、おまえの母国と違って。
- 474 :
- 小卒カッツくんは必要条件と十分条件とかも知らないと思われ
- 475 :
- >>473
奴婢埋葬があったとか誰も主張してないので
何の問題もない
- 476 :
- >>475
>奴婢埋葬があったとか誰も主張してないので
え?
それを説明しようと、特殊器台に奴婢の遺体の一部を載せたと言ってたよね。
- 477 :
- >>476
>それを説明しようと、特殊器台に奴婢の遺体の一部を載せたと言ってたよね。
どこの誰が?
- 478 :
- >>477
また逃げた。
- 479 :
- >>478
どこの誰の話か答えられないおまえが
逃げたんだよ
- 480 :
- >>479
特殊器台に遺体載せた説を言ってた馬鹿は君ではないという事だな。
で、君は奴婢埋葬痕跡がない、大きさも合わない箸墓を卑弥呼墓だと思うのか?
- 481 :
- 共産党の選挙公約を守らないから今の内閣は公約違反してるとか
そういうこと言ってる狂人の話かな
- 482 :
- >>480
奴婢埋葬痕跡が必要だという理由は?
大きさが合わなという理由は?
- 483 :
- 奴婢埋葬痕跡がない、大きさも合わない箸墓より、
奴婢埋葬痕跡が有り、大きさも合う高天原こそが卑弥呼墓だということ。
http://bbs10.aimix-z.com/gbbsimg/e_asia/114_23_2.jpg
どちらが正しいかはいずれ時代が決めること
- 484 :
- >>483
理由も言えないのに?
- 485 :
- >>483
葛城がまた逃亡した
- 486 :
- >>484
ほんと負けん気だけは病的に強い男だな。
何の理由?
- 487 :
- >>486
奴婢埋葬痕跡が必要だという理由は?
大きさが合わなという理由は?
- 488 :
- >>487
おれは寝たからいいけど、こいつの寝てなささは異常だなw
>奴婢埋葬痕跡が必要だという理由は?
ある方が卑弥呼の墓を説明できるから。
>大きさが合わなという理由は?
前方後円墳の円墳部だけでは説明にならない。
前方後円墳なら長になる。
- 489 :
- 葛城症候群(老人性健忘症を含む)
- 490 :
- 箸墓症候群(老人性健忘症、学歴至上追随症を含む)
- 491 :
- >>488
>おれは寝たからいいけど、こいつの寝てなささは異常だなw
全1病の発作?
>ある方が卑弥呼の墓を説明できるから。
あればベターってことは、つまり無くてもいいんだよね
語るに落ちたわ
>前方後円墳の円墳部だけでは説明にならない。
>前方後円墳なら長になる。
という根拠は?
- 492 :
- >>490
鸚鵡返ししても自分がばかだで幼稚だって証明にしかならん
- 493 :
- >>491
>全1病の発作?
また他人の振りで逃げた。
キウスもおまえだろ。
>あればベターってことは、つまり無くてもいいんだよね
ないのはゼロ、ゼロは有るにならない。
- 494 :
- >>493
また発作かよ
- 495 :
- >>493
>ないのはゼロ、ゼロは有るにならない。
ないって証拠は?
- 496 :
- >>494
希薄をキウスと書いてしまって、
キウスは自分ではないという多重人格を装うのも大変だなw
- 497 :
- >>493
>>あればベターってことは、つまり無くてもいいんだよね
>ないのはゼロ、ゼロは有るにならない。
でも、無くってもいいんだよね?
- 498 :
- >>496
サイキバも葛城なのかな
- 499 :
- >>495
ゼロが1になることを証明すればいい、できれば人類の歴史上の大発見だw
- 500 :
- まだ続いていたの?
あと全1病というのは
キン肉マンに登場するキャラのことでしょ
ぱーふぇくと超人?
- 501 :
- >>274
>岡田宮 福岡県北九州市八幡西区岡田町1-1
かつて崗地方(旧遠賀郡)を治めた熊族が
洞海菊竹ノ浜(貞元)に祖先神を祀ったのが始まりとされ、
そのためにこの地域一帯を『熊手』と号したといわれる。
後、神武天皇が東征(神武東征)の途上に、この地に1年間逗留し八所神を祀ったとされ、
神武東征にある岡田宮の候補地の一つである。
仲哀天皇の時代には、恭順した崗県主熊鰐の案内によって、
神功皇后が岡田宮の八所神を奉祭したとの記事が日本書紀に載る。
wikiより引用 、<
ふーん、成程。
- 502 :
- ノーベル賞の吉野さんは畿内説らしい
理科だけでなく、若い頃から考古学や地理への関心も高かった。
今でも羽田−伊丹間の飛行機に乗る際は窓側の席を予約し、眼下に広がる奈良盆地の地形や古墳群に目を凝らす。
「邪馬台国(やまたいこく)や卑弥呼(ひみこ)とか、詳しく分かっていない歴史は面白い」
https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201910/CK2019101002000152.html
一方、トンデモ経済評論家の三橋貴明は九州説
実際は、トンデモ古代史作家の長浜浩明が作った話を鵜呑みにしてるだけのようだが
https://38news.jp/default/14713
2人とも畑違いだけど、ノーベル賞の吉野さんが畿内説を唱えるのと
三橋が九州説を唱えるのでは、信憑性が全然違うように思えてしまうw
- 503 :
- >>319
>倭人伝の中で魏晋の1里434mが用いられているのは、東渡海千余里と周旋五千余里。<
「東渡海千余里と周旋五千余里」記録も「里」数であるから、
(倭人からの伝聞ではなく)魏の役人らに拠る計測値であり、
同じ魏の役人らが、郡から倭地までの計測里単位と、
「東渡海千余里と周旋五千余里」の計測の里単位を変更する筈がなく、
同じ里単位計測。
>このほかに魏晋の里数に換算できるものは水行二十日と十日。
いずれも倭国の役人から聞き取ったものだろう。<
魏の役人らは、換算していない、から、類スレ主の妄想であり、×。
>このほかの1万二千余里は遠い所という意味の慣用句とみなすのがよい。
というのも、魏晋1里434mで換算したkmと実際の地図上の距離とは大きく異なるためである。<
都合の悪い記録を「慣用句」などと貶めて否定抹Rるインチキが、
類スレ主や大和説者の詐欺の手口。
- 504 :
- dd
- 505 :
- ほんとーに、
いい加減に気付いているでしょ?
日本の漫画〜アニメ・・・などの話、
創価か何かなんだろうと言っている人がいたり
- 506 :
- 武道、ねぷちゅーんまん、
ヱヴァンゲリヲン、河童の大将、将軍?・・・その他、
なぜか同じような設定だし
- 507 :
- 『河童の大将』〜『河童の将軍』
何度も書いていることなんだけど、実際は家の話のような?
軍人なのかな?何なんだろう
- 508 :
- >>502
>トンデモ経済評論家の三橋貴明は九州説
>実際には、邪馬台国は九州の「旧・山門郡」にあり、
>卑弥呼の時代の三世紀ほど前に、神武東征が実際にあった。
>大阪平野の変遷が、神武東征の時期
(紀元前50年以前)を特定したのですが、
>相変わらず邪馬台国畿内説や東遷説が消えません。
、、、、
三橋センセって、話の歴順が前後するお人だねえ。歴史ものには向かねえな。
- 509 :
- >>502
>「邪馬台国(やまたいこく)や卑弥呼(ひみこ)とか、詳しく分かっていない歴史は面白い」
もう今は、「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」で、決着してしまったけどね。 わははははは @阿波
- 510 :
- >>503
だから、東渡海千里と周旋五千里は同じ単位が用いられているというてるのに。
水行1日が概ね何里というのは当時の中国では一般常識。
魏の役人は倭人から聴取した水行日程をそのまま記録し、頭の中で里数に換算した。
倭人伝は、記録された水行日数をそのまま書いただけ。
漢書でも西域の国までの距離を1万里前後と書いている。それと同じ。倭人伝の1万2千余里もその類。
- 511 :
- 福津上陸の阿波には田川スレが最適だ
安本先生も、さぞやお喜びだろうねえ、、、、
- 512 :
- >>510
>倭人伝の1万2千余里もその類。
帯方郡(平壌)→女王国(阿波)万二千里( 直線距離 900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。 @阿波
- 513 :
- 阿波が畿内説を応援しても絵にはならぬぞえ
福津上陸の阿波には田川スレが最適だ。あっちへどうぞ。安本先生もさぞやお喜びだろうからねえ、、、、
- 514 :
- 1里70mて、侏儒国の単位?
- 515 :
- >>463
>神武や饒速日の時代は部族社会だから、神武や饒速日は中国の学術表現では酋長、そして饒速日の大和は酋邦と呼ばれる。
なんだか勝手定義を振り回しているだけで、机上の空論だ。
- 516 :
- >>514
帯方郡以下の東夷全体
- 517 :
- >>513
畿内説を批判してるんだけど? 鈍感?
>福津上陸の阿波には田川スレが最適だ。あっちへどうぞ。
トンデモを見つけたら、どこへでも出没するよ、お構いなく! わははははは @阿波
- 518 :
- >>322
>その置かれてた内侍所が炎上倒壊したからに決まってるだろ
>遭ったと書いてあるだろ
>神鏡と書いてあるだろ 賢所に保管されてる鏡が2つあるとでも<
こりゃ、類スレ主に特有の、都合の悪い質問に対しての論点逸らしばかりであり、
質問への返答にならないな。
- 519 :
- >>326
>>「南≠東」などに具体的な反論ができず<
>具体的な反論が聞こえないフリか?<
史料事実や史料実態からの具体的な反論ではなく、
口先での、言葉尻へのイチャモンや論点のすり替えでの反論の、匂わせばかりだな。
>自分が言い訳に、誰も信用してくれない道標読法を言い張ったり東治の位置を捏造したりしたことも
すべて無かったことにすると?<
これが論点のすり替えであり、既に回答してある事への口先でのイチャモンだ。
それは詐欺だ
- 520 :
- >>331
>(学会)やつらの戦闘力は優に一国の軍隊に匹敵するからな <
そうだねえ。
安部自民や文科省や右翼マスコミやキョクウテロ組織が付いているからねえ。
- 521 :
- >>335
>どちらも間違い
なぜ呉の鏡師が魏の都である洛陽出身と名乗るのか<
その呉の鏡師は楽浪を経て倭地に来て、
「倭地では洛陽出身である」と言った方が箔が付くし、
造った鏡の価値も上がる、と思ったから。
>そして倭の古い銅製品と新しいものを混合したら
当然不純物の銀・アンチモンが混合して増えたという計測地が出るのであり
倭の銅製品はそういう数値が出ている
三角縁神獣鏡はそうではなく銀・アンチモン比が一緒と出ている <
当然の「全くの一緒」という訳ではなく、「ある程度の範囲内で同じだ」という結果。
- 522 :
- >>235 >>238
女王国が2つあったとゎ…orz
- 523 :
- 【邪馬台国と周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県伊万里市)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊佐早国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は長崎県長崎市(または長崎県西彼杵郡)または嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は高来郡(長崎県雲仙市)
7番 不呼国は須古(佐賀県杵島郡白石町)
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の広川か高良台、室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市(旧怡土郡)、奴国 福岡市(那の津)→あわせて邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/lo1K3BJ.jpg
- 524 :
- >>339(また投稿拒否されたから書き直し)
「南→東」などの史料事実の否定や曲解の嘘つき騙しの大和説者は、
論論でも証拠でも勝てないから、
できる手立ては、一日中クルっている事だけだな
- 525 :
- >>519
>>自分が言い訳に、誰も信用してくれない道標読法を言い張ったり東治の位置を捏造したりしたことも
すべて無かったことにすると?<
>これが論点のすり替えであり、既に回答してある事への口先でのイチャモンだ。
悪口言っても
指摘された道標読法の欠陥や東治の位置捏造に問題に
有効な反論ができなければ
無駄
- 526 :
- >>235
福岡空港の滑走路、アスファルト剥がして今すぐ発掘調査しろ〜っ!!!
- 527 :
- >>344
「南≠東」などで議論に負けた大和説者は、
議論してるような見せかけで、荒らしてスレ妨害してるだけだし、
もう雑にやってるだけだから、「あっさり矛盾点指摘されて恥かくだけだし、
別に大和説でやらなくていいんじゃないの?。
ピラミッドは宇宙人が作った説でも唱えてたほうがよほどマシだから。
- 528 :
- >>515
不満なら中国の学者に言ってちょ。
- 529 :
- >>526
福岡空港につきましては、現在、民家企業による運営となっており、また皇室の沽券に関わる重要機密でございますので、あしからずご了承いただきますようお願いいたします。
また、邪馬台国の所在地につきましては、現在のところ、奈良県にございます纏向遺跡が最有力候補となっているようでございますので、そちらの方向で議論を深めていただければと存じます(宮内庁)。
- 530 :
- 大和説が急にげんなりしてしまった。
魏略が効いたか。
- 531 :
- 邪馬台国七万戸=福岡平野・奴国二万戸+筑紫平野五万戸
- 532 :
- >>228 なるほど
- 533 :
- >>361
>で、投馬国はどこなんだい?ww<
不彌國や邪馬壹國女王之所都から、「南」方向の、
「水行二十日」の位置にある事になるから、
南九州。
- 534 :
- >>220 なるほど
- 535 :
- >>365
>お前、磐座が何だか分かってないだろ?wwwwwwwwwww
磐座って使いたかっただけなんだろ? 本当に九州説ってデタラメww
>ああ>>345はザラゴキかw
最初、田島神社の磐座がって言いだしたやつは逃げたのに、
わざわざ横から口を挟んで恥をかくw<
当然、古田第1書の「沖ノ島=磐座」説を知っている。
- 536 :
- つまり古田説はものを知らない素人の出たらめ
- 537 :
- >>526
福岡空港につきましては、現在、民間企業による運営となっており、また皇室の正統性に関わる重要機密でございますので、あしからずご了承ください。
また、邪馬台国の所在地につきましては、現在のところ、奈良県にございます纏向遺跡が最有力候補となっているようでございますので、そちらの方向で議論を深めていただければと存じます(宮内庁)。
- 538 :
- それとも、阿波を除く短里論者もげんなりいったか。
これは歴と遙の字義が船路を意味することに衝撃をうけたためだろう。
いずれにしろ、邪悪は破れ、正義が勝つ。
- 539 :
- 金関先生の発見した国宝・中平銘鉄刀(東大寺山古墳出土)。その鉄刀の主、和邇氏とヒミコは繋がるのか。
繋がります。
和邇氏はトヨから始まります。
事代主
┣━━━━━━━━━━━━┓
天日方奇日方(鴨王) ヒメ(踏鞴五十鈴)媛━━神武
┣━━━━━━━━┓
建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津媛━━ 懿徳
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命
※ 神武の時代が女王国だった。
白村江敗戦後の新生「日本」
魏志倭人伝に書かれた女王とその婿の関係を編集し直す必要があった。
そのためには新称号が必要であった。
その新称号が「天皇・皇后」である。
魏志倭人伝に書かれた3世紀前半の女王は新称号の「初代皇后」にされた。
- 540 :
- >>526
画面左端に見えますのが能古島、その右奥が玄海島、その右隣が国王金印「漢委奴国王」でおなじみ志賀島、でございま〜す!
https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcSPPmruLQ4Qm0WKvimNLXkRC4cBn71AT3IhgSdnFVHdJaRwZUll
- 541 :
- >>366
>>いや、内行花文鏡のどの部分の寸法を測って「八咫鏡」と呼ばれたのか?、
という事が、まだ未確定。<
>おいおい
お前は ”説文解字の「中婦人手長」は、日本でも古代から使われていた事になる”
と言ったのだから 平原の八葉鏡はどこを測っても八咫にならないので
平原の八葉鏡が八咫の鏡じゃないってことで決着したんだよ<
もうとっくに何度か、
「八咫鏡」の「八咫」という寸法は、どの部分の寸法なのか?もう、
という問題提起はして来てあるよ。
「八咫鏡」と呼ばれるのは内行花文鏡だけであるようであり、
内行花文鏡には花文が普通は8つあり、
そうすると、「八咫鏡」とは一つの花文部分が「1咫」の寸法を示していた可能性があり、
だから、内行花文鏡の「花文」部分のいろんな寸法を計測してみろ?、
と言って来たんだよ。
平原の巨大花文鏡も、8つの花文部分と外縁との間に広い空白様の部分が有り、
相対的に花文部分が小さいし、
外縁部分の寸法も、「咫」の何倍か?で決めて造られた可能性は十分にある。
- 542 :
- >>518
>>>何故、宮中奥深く置かれていた鏡が、火事の後瓦の上にある事になるんだ?。
>>>それは、火事に会わなかったのか?。
>>>また何という種類の鏡で何時のものだったんだい?。
>>その置かれてた内侍所が炎上倒壊したからに決まってるだろ
>>遭ったと書いてあるだろ
>>神鏡と書いてあるだろ 賢所に保管されてる鏡が2つあるとでも<
>こりゃ、類スレ主に特有の、都合の悪い質問に対しての論点逸らしばかりであり、
>質問への返答にならないな。
都合の悪い回答が来ると理由もなく罵って
解等そのものが無かったことにする
九州説の捏造体質が
また出た
- 543 :
- >>541
つまり平原の八葉鏡の大きさが八咫である
という根拠はなにも出せないのだね
それでいい
平原の八葉鏡が八咫の鏡じゃないってことで決着した
- 544 :
- >>227 なるほどね
- 545 :
- >>512
しかし、自分ところへ邪馬台国引っ張り込むのに必死だな。
- 546 :
- >>373
>そしてそれは前人未到の難関である
九州説老人諸君、せいぜい奮起したまへ<
奮起なんて、関心がない。
掲示板に投稿しているのは、
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説や文科省や右翼マスコミに、
国民がこれ以上騙されないように、少しでも大和説支持者が減るように、
と願っているだけ。
- 547 :
- >>545
箸墓古墳の築造年代を、魏志倭人伝の記述に合わせて繰り下げて生まれた説と、本質的には同じだね。
- 548 :
- >>381
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説・・・
かわいそうなくらい芸がない
- 549 :
- >>547
>箸墓古墳の築造年代を、魏志倭人伝の記述に合わせて繰り下げて生まれた説と、本質的には同じだね。
そんな説は実在しないな
箸墓の築造年代は繰り上がってる
- 550 :
- >>383
「南→東」などの史料事実の否定や曲解の嘘つき騙しの大和説者が、
これまでに散々説明されつくして来た事を隠して、
知らん振りして、「口先での誹謗」を言い張るだけ
かわいそうなくらいの惨敗ぶりだ
大和説の最期ってやつだな
- 551 :
- >>546
しかしその結果、九州説は
陰湿なイヤガラセしたり
中高生が見ても呆れるようなおバカな九州説を本気で言い張ったり
平気で嘘をついたり誹謗中傷したりして良識ある人々の顰蹙買って
自分たちの評判を地に落としてるんだから
畿内説の普及に大いに貢献しちゃってるよね
- 552 :
- >>545
>しかし、自分ところへ邪馬台国引っ張り込むのに必死だな。
帯方郡(平壌)
↓【南】海岸水行7000里( 直線距離 500km)1里=71m
狗邪韓国(順天)
↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(対馬上対馬か)
↓海渡1000里 (50キロ)(50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(壱岐郷ノ浦か)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦)
↓【東南】陸行500里 (25キロ)1里50m 福津市→八木山峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15キロ)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25キロ)1里250m
不弥国(千戸)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(宿毛)
↓【南】水行10日又は陸行1月(旧土佐街道)
《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)
↓【東】海渡(紀伊水道)1000里(50km)1里=50m
女王国東渡海千余里復有国皆倭種 (阿波から東へ1000里渡海→奈良周辺)
帯方郡(平壌)→女王国(阿波)万二千里( 直線距離 900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。
狗邪韓国(順天)は、豊臣秀吉の死後、小西行長らが朝鮮脱出の出航地でもある。
因みに、釜山は対馬海流を利用して渡った、対馬からの着岸地である。 @阿波
- 553 :
- どっちもどっち!!
- 554 :
- どっちもどっちの兄弟げんかの間に、異母兄弟の阿波が割り込んどるようだなww
- 555 :
- >>547
だから5世紀の鉄製輪鐙が入ってくる直前の、4世紀末の木製輪鐙さえ(築造時の周濠の底に溜まった30年分の落葉の上から)見つからなければ、3世紀中頃の築造というトンデモ説も、大手を振って歩けたんだよ。
- 556 :
- >>554
そして、その異母兄弟の阿波が、完全掌握したようだなww わははははは @阿波
- 557 :
- トンデモに生まれたものは、トンデモに死すだ。
- 558 :
- >>557
それ、どっちもどっちの兄弟だろ? わははははは @阿波
- 559 :
- >>555の図解
4世紀末と思しき木製輪鐙(>5世紀になって本格使用される鉄製輪鐙とほぼ同じデザイン)
↑↑↑↑↑↑↑↑↑
(20〜30年分の腐葉土)
↑↑↑↑↑↑↑↑↑
箸墓古墳、築造当時の周濠底_
- 560 :
- >>384
>>投馬国は女王之所都以南にある。<
>ザラコクは自分で自分の口で
南九州にあるという投馬国までも道里を陳寿が計算できると主張しちゃったんだから<
違うね。
陳寿の「計其道里當在會稽東治之東」という位置推定対象は「女王國」である、
と何度も何度も言って来てある。
また、投馬國は不彌國や邪馬壹國女王之所都の地から、「南」の方の、
「水行二十日」の位置にある、とも何度も何度も言って来てある。
そして、陳寿の「道里」記載は、女王之所都までであり、
女王国の範囲が、投馬國のある南九州まで、と言って来てある。
>投馬國は女王国の北にあると認めなきゃならないな 自滅だよ<
それを、類スレ主が、言葉尻を曲解して批判しようとしている事になり、詐欺師。
- 561 :
- >>555
それ、出所不明の怪情報だから
箸墓三世紀中葉築造説は
歴史学界の主流説として
今日も大手を振って歩いてるわけだ
- 562 :
- >>561
古墳の構造(葺石・竪穴式石室など)や副葬品(水銀朱・勾玉・鉄器など)を見れば、一目で「忌部はん」 のお墓と判るのに、いつまでも未練たらたらwww @阿波
- 563 :
- >>559
つまり4世紀第4四半期(西暦375-400)の木製輪鐙は、箸墓周辺で乗馬していた皇族が先端を踏み抜き、使えなくなって投棄された20〜30年前の築造ということだから、
箸墓古墳の築造年代は西暦350年前後と見ていいの???
- 564 :
- >>386
>歴訪という語彙があるんだから、歴訪するなら歴訪と書くよ。<
問題は「歴」と「経」とは全く違う文字であり、意味も違うから、
それを置き換える(大和説者の)解釈はインチキである、という事であり、
「歴訪」は(経とは違って)「歴韓國」として使用された「歴」そのものの意味説明であり、
インチキにならない。
- 565 :
- >>560
>陳寿の「計其道里當在會稽東治之東」という位置推定対象は「女王國」である、
>と何度も何度も言って来てある。
つまりそれで短里説が崩壊するから九州説死亡ね
自分の口で
「女王国の範囲が、投馬國のある南九州まで」
と言っちゃったろ?
陳寿はそこまで道里を測ったから会稽東治の東と書いたのだと
そう主張しちゃったろ?
つまり、投馬国までの道里が測られてると主張しちゃったろ?
したがって投馬国までの道里は判明してるから、投馬国は女王国以北にあるんだよ
九州説、破綻したろ?
- 566 :
- >>389
大和説は、「南→東」などの嘘付き騙しになる説明の連呼。
荒らしになる事をもう隠そうともしない
だからオウム返しされる
- 567 :
- >>555の図解
4世紀末と思しき木製輪鐙(>5世紀初頭の鉄製輪鐙とほぼ同じデザイン)
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
(20〜30年分の腐葉土)
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
_箸墓古墳、築造時の周濠底_
- 568 :
- >>563
どうでも、お好きなように! どのみち、阿波の豪族墓だからw @阿波
- 569 :
- >>563
>箸墓古墳の築造年代は西暦350年前後と見ていいの???
ダメだね
「4世紀第4四半期(西暦375-400)の木製輪鐙」
ってのが素人さん謹製のデマだから
- 570 :
- >>567
跡形もなく崩壊する畿内説www
- 571 :
- >>569
どうでも、お好きなように! どのみち、阿波の豪族墓だからw @阿波
- 572 :
- >>570
素人爺さんのデマと妄想で教科書にも載ってるような通説は崩壊しないよ
- 573 :
- >>567
>4世紀末と思しき木製輪鐙(>5世紀初頭の鉄製輪鐙とほぼ同じデザイン)
ちょっ!おまっ!マジ?!畿内説、消滅してもうてるやん!(;_;)今晩お通夜やん!
- 574 :
- >>569
確かに。
5世紀初頭の鉄製輪鐙とデザインがほぼ同じってことは、箸墓周濠から見つかった木製輪鐙は、5世紀に下る可能性があるからな。
そうなると420-30年として箸墓の築造年代自体が西暦390年頃(4世紀末)の可能性すらある。
- 575 :
- >>574
どうでも、お好きなように! どのみち、阿波の豪族墓だからw @阿波
- 576 :
- >>397
>【畿内の鉄器】 唐古鍵 板状鉄斧
大竹西遺跡 鉄剣(大阪府八尾市) <こ れ だ け>
【痕跡】
唐古鍵 鉄斧「柄」
加美遺跡Y1号周溝墓 「伐採痕」(大阪市)
久宝寺南遺跡 準構造船の加工痕(大阪府八尾市)
纒向遺跡 大量の砥石 大型鉄器を研磨したと「推定」
明らかじゃん。
ごくごくわずかな鉄器とその痕跡のうち、
3点が大阪で、八尾市に準構造船を伴っている。
北部九州倭人が鉄器を持って準構造船でやってきたわけだ。<
成程。
- 577 :
- >>397
>北部九州倭人が鉄器を持って準構造船でやってきたわけだ。
鉄器被供給国の九州くんだりから、わざわざお越しいただかなくとも、すぐ近くの倭国(阿波)に任せとき給え! わははははは @阿波
- 578 :
- >>574
そんなことを言ってる考古学者は一人もいないのだよ
デマで歴史は変わらない
- 579 :
- >>401
>畿内で見つかっている鉄器・・・<
「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
ホケノは3世紀末〜4世紀、
椿井大塚山と黒塚は4世紀。
- 580 :
- >>578
>そんなことを言ってる考古学者は一人もいないのだよ
どうでも、お好きなように! どのみち、阿波の豪族墓だからw @阿波
- 581 :
- >>574
つまり箸墓古墳の築造時期は、4世紀第3半期(西暦350-375年)と見るのが妥当だね。
>>567
まかり間違っても、3世紀には遡らないことがこれで確定!w
- 582 :
- >>397
>北部九州倭人が鉄器を持って準構造船でやってきたわけだ。
鉄器被供給国の九州くんだりから、わざわざお越しいただかなくとも、すぐ近くの鉄器王国・倭国(阿波)に任せとき給え! わははははは @阿波
- 583 :
- >>581
いくらガセネタ流しても死んだ九州説は蘇らないよ
- 584 :
- 元気を出して行こう! トンデモ諸君よ! わははははは @阿波
- 585 :
- >>567
この図解、次スレでも貼り付けよろw
- 586 :
- >>402
>倭人伝の南行と倭武王の北行のそのルートは同じだとは思うが、しかし同じという保証はないな。
天誅という人は「道経百済 装治船舫」だとしているとのことであるが、宋書では「道遙百済 装治船舫」、南史宋書では「道逕百済 装飾船舫」となっている。
「経」と「逕」はいずれも「通る」意であるものの、「経」の場合は「まっすぐ通る」意となる。
この「経」「逕」と「遙」は意味がまったく異なり、別字である。
南史は自己解釈が強いとの意見であるが、それに同意する。なので、天誅氏の「経」も南史に類するものとみなすことができる。
やはり、「遙」が原文の字であろうと思われる。
「遙」は動詞として用いられると「ゆらゆらとゆれる」意であるので、船路ということになる。<
別投稿でも説明したように、
倭王武は「高句麗に拠って宋への交通路が妨げられ続けている」という訴えをしており、
高句麗は、半島陸路を妨げる事は常にあっても、海路は妨げる事は殆ど起こっていない。
好太王碑の記載も、「極めて稀な渡海作戦」であった。
また「道」とは、一般的には「陸路」を意味し、
海路は(明確な道ではなく)比喩的であり、
つまり、普段の「道」は陸の経路であった、という事。
また「ゆらゆら」問題も、半島の陸路は「乍南乍東」道であり、
倭王武も、その事を知って「遙」を選択した可能性が十分にある。
- 587 :
- >>403
>だいぶ前から教科書に載ってて全国の青少年が勉強して知っている<
山川や清水や東京の、「南→東」などの嘘付き騙し大和説の教科書を、
読まされ騙される青少年が可哀想だ。
>古墳時代というものを頭から否定しないと成り立たなくなってしまった
九州説というものの棲息できる場所は今はもう
月刊ムーとか、そういう世界だけになっているのだ<
古墳時代なんて否定もせん。要は、前方後円墳は、筑紫で3世紀後半に起こり、
大和では「東征毛人五十五國」将軍らに拠って、3世紀末以後に起こった、というだけだ。
>九州説の後期高齢者諸兄、自覚するといいよ
お迎えが来る前に <
「キョクウ国粋殺戮戦争狂の皇国史観大和説」の子供さんんらよ。
気を付けましょうね。
パパは、キミたちを「戦争に行って死んで来い」と、命令しようとしているんだから。
- 588 :
- デマで日本の歴史を改竄する畿内説
- 589 :
- >>567
畿内説が上手〜くボカして誤魔化そうとしていた木製輪鐙を、白日の下に晒してるよ(お見事!)www
- 590 :
- >>409
>何のためって墓だろ
魏志倭人伝に卑弥呼の墓は径百歩、直径約140mとあり <
「直径約140m」というのがインチキ。
魏使らは、行程移動の里記載からは、「1里≒60〜90mで記録」しており、
1里=300歩であるから、
「径百余歩≒20余〜30余m」だ、という事になる。
>卑弥呼の時代の3世紀から畿内にある前方後円墳は大きさも合う<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
大和の前方後円墳は、3世紀末以後であって、
卑弥呼の死の248年過ぎとは全く合わず、
大きさも、殉葬奴婢百余人とも全く合わず、
列島で可能性があるのは、筑紫の祇園山のみ。
- 591 :
- >>589
デマ流しても無駄
- 592 :
- >>591
デマと決めつける根拠は?
- 593 :
- >>592
それ、畿内説にとってはブーメラン。
- 594 :
- >>593
それ、畿内説にとっても九州説にとっても、ブーメラン。 @阿波
- 595 :
- >>587
>「キョクウ国粋殺戮戦争狂の皇国史観大和説」の子供さんんらよ。
>気を付けましょうね。
>パパは、キミたちを「戦争に行って死んで来い」と、命令しようとしているんだから。
ザラコクはこうやって定期的に自分がおかしい人だと自己紹介してくれるから
うっかり彼の言うことを信じちゃうひとが出る恐れがなくて、安心だよね
- 596 :
- >>585日本@名無史さん2019/10/14(月) 11:29:45.41
>>567 >この図解、次スレでも貼り付けよろw
そのとおりだ、ここは畿内説を張り付けて痛ぶる十字架スレになりました。
- 597 :
- >>592
情報の出所を出そうとしないだろ
デマの証拠だよ
- 598 :
- >>567
箸墓古墳の築造=3世紀中頃(魏志倭人伝)ありきで、5世紀初頭の鉄製輪鐙と同じデザインの木製輪鐙の年代まで4世紀初めに100年遡らせるゴットハンド、桜井市www
http://29.pro.tok2.com/~kyokutan/public/next/c06kinaisetu_takashima/wakazakurea.html
もはや学問ではない。連呼&洗脳www
- 599 :
- 木製輪鐙は出るわ、小枝は出るわ、纒向は弱り目に祟り目じゃのう。
崇神天皇の墓をおちょくった祟りぞえ、、、、。
- 600 :
- 畿内説は一度箸墓の中身調べてみろ。
畿内説が崩壊するのを恐れているのか?
- 601 :
- >>598 リンク飛べないからコピペしとく。
>纒向遺跡出土の木製輪鐙(わあぶみ)
>ここに紹介します木製輪鐙は平成10年度に行われた箸墓古墳後円部裾の調査で周濠の上層から出土したものです。
>柾目(まさめ)に木取りしたアカガシを用いて加工されており、足を掛ける輪の部分は欠けてしまっていますが、
>復元すると、長さは23cm程度になるものと思われます。
>柄の上部には縦1.5cm、横1cmの縦長の鐙靼孔(みずおあな:鐙を吊り下げるために革紐を通す孔)があけられていますが、
>孔の上部には鐙靼によって摩耗したと考えられる幅1cm程度の摩耗痕が認められ、この鐙が実際に使用されていたものであることを証明しています。
>現在までに国内における木製輪鐙の出土は宮城県仙台市で1点(5世紀代)、滋賀県長浜市で1点(5世紀末〜6世紀後半)、
>大阪府四條畷市で2点(5世紀後半)の4点しか確認されておらず、今回の輪鐙は全国でも5例目となる非常に珍しい遺物であるうえに、
↑ここまではいい。でもこれら4点木製輪鐙はすべて5後半〜6世紀末の出土であることに注目!!!www
↓↓↓そして、ここから桜井市教育委員会のゴッドハンド(デマ)www
>"時期についても、4世紀初めに遡る日本最古の鐙といえるでしょう。"
>これまでに発掘された資料からは当時(4世紀初め)の日本には馬が数多くいたとは考えられませんが、今回の輪鐙の出土によって一部の階層の間には馬が受け入れられ、乗馬の習俗も存在していた事が明らかになってきました。
>鐙を見ていると馬に乗って纒向遺跡を闊歩する人の姿が目に浮かんでくるようです。
ww
- 602 :
- 中身を改めるまでもなく、
2013年の立ち入り外形チェックで、専門家にはすべてわかったようだ。あれ以来まったくの無言・・・、
- 603 :
- >>602
>2013年の立ち入り外形チェックで、専門家にはすべてわかったようだ。
阿波のお墓だとね! わははははは @阿波
- 604 :
- あれほど熱を入れ、箸墓上空にヘリコプターまで飛ばして大騒ぎしてみせたマスコミ各社も、
以後、距離を置き始め、今では九州説に肩入れする始末・・・、
畿内で講演会を開いても、会場に集まるのはシ〜ラケ鳥が二羽、三羽。
- 605 :
- >>604
>以後、距離を置き始め、今では九州説に肩入れする始末・・・、
それは、ないわ! @阿波
- 606 :
- >>510
>水行1日が概ね何里というのは当時の中国では一般常識。
>魏の役人は倭人から聴取した水行日程をそのまま記録し、頭の中で里数に換算した。
>倭人伝は、記録された水行日数をそのまま書いただけ。
これはない
中華王朝は内陸国家で、水行の経験がほぼ無い
三国志以前の史書で、水行を地誌、旅程の記述に使ったものはない
水行1日と里の換算は知識、経験が足りないのでできない
水行、陸行部分は魏使の記録が「旬」で書かれていたのを、10日単位に直したものだろう
- 607 :
- >>517
>トンデモを見つけたら、どこへでも出没するよ
誰よりも泡がトンデモなんだから、家から一歩たりとも出るな!ww
- 608 :
- >>607
>誰よりも泡がトンデモなんだから、家から一歩たりとも出るな!ww
倭国(阿波)は、逆立ち・し・て・い・て・ も、どの説にも負けない。 まともに反論・で・き・る・人・は、 はい、どうぞ。
まともに反論・で・き・な・い・人・は、 罵詈雑言はい、どうぞ。 @阿波
- 609 :
- >>606
三国時代にはすでに呉が台湾あたりへ軍船を派遣しているし、呉越の沿岸を軍船が航行し、また山東半島から遼東半島への航路があった。河北の沿岸も当然船が行き来した。
古代中国の沿岸国が海運国でもあったことの認識が低すぎる。
1日あたりの水行距離を里に換算できなければ、船を使った軍事作戦そのものが立てられない。
こうしたことを頭に入れておくように。
- 610 :
- >>552
>末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦)
「万津浦」なんて何の由緒もない地元でも怪しい扱いの年毛神社の
出所不明の怪文書である「永島文書」にしか書かれていないニセ地名で、
地元の人が誰も知らないトンデモ
>伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
海のないところで臨津捜露するデタラメ
↓【東南】100里 (15キロ)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25キロ)1里250m
主張する70メートルから2〜4倍の数値を平気で並べるインチキ
泡はその場しのぎのデタラメばかり
- 611 :
- >>563
>つまり4世紀第4四半期(西暦375-400)の木製輪鐙は
これが根拠なしなんだ
木製輪鐙の出土例はほとんどなく、木製馬具の編年は存在しない
金属製馬具の編年から勝手に推定しているだけ
見つからない木製馬具がいつからあったかは分からない
- 612 :
- >>565に便乗
>>560
>陳寿の「計其道里當在會稽東治之東」という位置推定対象は「女王國」である、
>と何度も何度も言って来てある。
つまりそれで短里説が崩壊するから九州説死亡ね
自分の口で
「女王国の範囲が、投馬國のある南九州まで」
と言っちゃったろ?
陳寿はそこまで道里を測ったから会稽東治の東と書いたのだと
そう主張しちゃったろ?
つまりそこまでが萬二千里ってことになるよな?ww
つまり北部九州で萬二千里がほぼ終わりという古田説は破綻してるんだよwwwww
- 613 :
- >>610
>出所不明の怪文書である「永島文書」
福津市勝浦の年毛神社に伝わる古文書です。現在は、原本は痛みが酷いとのことで非公開で、写しを福岡県が保管していると聞いていたのですが、
旧津屋崎町役場にて福津市教育委員会が保管されているそうです。 だってさ。 わははははは @阿波
- 614 :
- >>610
>海のないところで臨津捜露するデタラメ
海のないところ(直方)から、万津浦へ出向いて臨津捜露する、いわば出入国管理局。 わははははは @阿波
- 615 :
- >>586
広開土王碑文では、396年に「王みずから水軍を率い、科残国を討てり…」とあり、王が水軍に直接参加して指揮したとある。
高句麗は百済を攻めるのには水軍を主に使ったようだ。
北の内陸では陸軍を放射状に進めたらしい。
遙は「へて」と読むよりも「遙かにし」と読むのがよさそうだ。
「(海)道は百済を遙かにし、(王都はとても遠いために)船舫を装治(しっかりと整え)した」
これで何の不都合もない。
しかるに高句麗はその海道を得意の水軍で塞いで通行できなくした…ということだな。
- 616 :
- 伊都国は田川だなどと、阿波は安本大先生に秋波を送っているのさ。
良くある、アレだよ。
- 617 :
- >>586
「乍」を「〜しながら」と読む国釧は誤りとされている。
なので、「南しながら、また東しながら」とは読めない。
「乍」は「たちまち」がよいとされる。
- 618 :
- 乍:
? 体言・副詞、動詞の連用形などに付いて、ある状態のままである意を表す。…のまま。…のとおり。
・「立ち−握り飯をほおばる」 「いつも−の事だ」 「旅の御姿−おはしたり/竹取」
・「かく−ともかくもならむを御覧じはてむと思し召すに/源氏 桐壺」
(南の方向へ)道なりに進む・・、のような訳が良いのではないか。
つまり、多少凸凹はあるものの、とにかく南への航路に従って進み、そして今度は東への航路に従って進む・・・。、
- 619 :
- >>418
>「邪馬台国」の読みが本当に「ヤマタイ国」で正しいかもしれない、
と思っとるやつどれくらいいるの? >>378-380はそう思ってるらしいが。
普通に「ヤマト国」でしょ。日本語の当て字としてヤマタイ→邪馬台はないだろ。
「邪馬台国」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であったし、
「邪馬台国≠大和(=ヤマト)」であるから、×。
- 620 :
- >>426
>ホケノ山は全長140mに近いけど
まあ畿内にはそういう古墳が多いという事だ <
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
ホケノも前方後円墳であるから、卑弥呼の冢ではない、という、
まあ、そういう事だ。
- 621 :
- 広開土王と戦ったのは、全国へ進出できる航行術を持つ、「阿波の海人族」である。
一方、今日まで、各地に伝承・痕跡を数多く残した「忌部一族」のように、畿内や九州から全国へ進出した「忌部一族」に代わるような部族は認められない。
古代、朝鮮半島まで進出できる航海術を持っていたのは、「忌部一族(海人族)」だけなのである。 @阿波
- 622 :
- >>616
ここによく出てくる安本大先生って何者? まじ、よく知らないんだけどw @阿波
- 623 :
- >>601
九州説の狂った論理に従ったら大変だ
いかなる新発見も従来のものより古いと認められなくなるんだよ
「今まで新しい時代のものしか見つかってないから、それが古いはずがない」ってね
それは考古学の常識「層位は型式に優先」に反するんだ
- 624 :
- >>427
>記紀と魏志倭人伝によれば神武東征、倭国大乱は2世紀の西暦160〜180年ごろのこと<
記紀は、倭国を否定盗用造作した半分×書であり、
二中歴に拠れば、神武東征の即位元年は紀元前91年頃であり、
倭国大乱なんて後漢書の「自己解釈に拠る書き換え」であって×であり、
倭人伝の「年已長大」によれば、卑弥呼共立は225年過ぎ頃だ。
まあ、そういう事だ。
- 625 :
- >>622
心理学者
人の騙し方を研究してる
- 626 :
- >>431
>女王ヒメ后の婿が神武。
その神武に先立たれた後の女王の姿が魏志の描写。<
二中歴に拠れば、神武即位元年は紀元前91年頃になり、
卑弥呼とは300年以上違う事になり、
ダメだ。
- 627 :
- >>434
>直径でもダメで全長でもダメなのか?
じゃあ何ならいいのか<
卑弥呼の墓は、当然3世紀半ば頃の筑紫でなければならず、
当然有棺無槨であり、
「大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」を満たさなければダメだ。
- 628 :
- >>436
イヤだイヤだとムズカるばかりで、
「南→東」などの嘘付き騙しの理由は言わない大和説
それがもう「説」でないことは明かだな
- 629 :
- >>437
>奴婢埋葬痕跡が何で必要なの?
理由は、また無し?<
この大和説男も、・・・・詐欺師なの?。
- 630 :
- >>439
>奴婢埋葬痕跡が何で不必要なの?
理由は、また無し?<
勿論「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」と書かれているから。
しかし、こんな大和説者のような・・・・詐欺男が、京都アニメを放火するんでしょうねえ。
- 631 :
- >>441
>必要だと主張するが必要であるという理由が答えられないわけだね?
随分と頭のお軽いことだな
必要だという正当な理由が掲げられていないことが
不必要であることの正当な理由だよ これは疑うべくもないことだ <
おや?。この言い方の感じ感じが、類スレ主に似ている。
という事は、
「奴婢埋葬痕跡が何で不必要なの?
理由は、また無し?」
という投稿をしたのは、類スレ主であったのか?。
- 632 :
- >>631
脳が混乱しているな?
- 633 :
- >>450
>>魏志に書かれてるのだから奴婢埋葬痕跡が有るのならそれでいいではないか。
>あっていけないなんて誰も言ってないが?
必要な理由を聞いているだけだ で、答えられないんだろ? ばかだから<
>>なんで「ない」ことが卑弥呼墓になるのだ、頭おかしいのかおまえ。<
>「ない」ことが卑弥呼墓になるなんて 誰か言ったか? 誰も言ってないよな
お前、また自分の頭がおかしいことを証明してしまったな 悲惨なことだ <
おや?、この言い方は、この返答者も、類スレ主のようだな。
- 634 :
- >>627
>卑弥呼の墓は、当然3世紀半ば頃の筑紫でなければならず、
九州説は結論争先にありき
だからダメなんだ
学問ではない
- 635 :
- >>457
>誰がいつ「ある」ことになると言った?
誰も言ってないよな? 頭おかしいのだな、おまえ。
>>誰がいつ「ある」ことになると言った? 誰も言ってないよな?<
>じゃ「ない」でいいな。 ないなら証明できない、はいおまえは論破された。<
類スレ主との議論では、いつも皆、
「根拠は?」
「 ないなら証明できない、はいおまえは論破された」、
という全く無意味で不毛な、無限に続く議論にされてしまう。
・・・・には気を付けましょうね。
・・・・は一回まともな返事をして、後は返事をせずに放置しておけばよいのです。
そうすれば、世間は、ああ東大理系博士だと威張っても・・・・がいるんだな?、
と判ってくれますよ。
- 636 :
- >>621
物部氏や南方系海人系など変幻自在の忌部氏だな。
麻植えた栽培人も同じ種族か。
- 637 :
- >>635
>類スレ主との議論では、いつも皆、
>「根拠は?」
>「 ないなら証明できない、はいおまえは論破された」、
>という全く無意味で不毛な、無限に続く議論にされてしまう。
なに現実逃避してんの?
それでお前さんの主張に根拠がないことが証明されるんだ
お前、論破されたに決まってるだろ
- 638 :
- >>636
もちろん! @阿波
- 639 :
- >>636
全国へ散らばって、開拓しまくったのは忌部一族だけ。 朝鮮半島もね。 @阿波
- 640 :
- もちろん、邪馬台国畿内説が、破綻したのだね。
- 641 :
- 邪馬台国畿内説が、論破されたに決まってしまったな。
- 642 :
- 今日の奥山氏は、どのような物事で、論破されてしまったのだろうか、、、
- 643 :
- 箸墓上空にヘリコプターまで飛ばしたが、邪馬台国畿内説は、宣伝に失敗したのだな、、、
- 644 :
- >>635
つまり九州説は最初から
根拠ある主張をする気が
さらさら無い
そう言っているんだな
まともじゃねーよ
- 645 :
- ////// ヽ \ !
{|///// \ \ |
r、r.r 、 ,!|//' 彡ミヾ ノ {、,,,_ ヽ ; r r.r、
r |_,|_,|_,| ハV| ≧=イ{ jK二 ≦ ∨/ |,_|,_|,_|.r,
|_,|_,|_,|/⌒ヾ〈'i! ,ノ ( ` ̄ `´ |/ ⌒゙i|,_|,_|,_| |
|_,|_,|_人そ(^iし!:: /(r 、_,、)、 iノi^) 人_|,_|,_| |
| ) ヽノ | {:: / _,,,..、_,、 ヽ ::: | (,,r' ( |
| `".`´ ノ | 《_` ' -'-'=ヽ | :/ (, `´.゛` |
人 入_ノ´ >. ヾ` ミエエiソ // / `!、_入 人 は〜〜〜? 聞こえん!
/ \_/_,, /∧、 ,. ─-、 //! \_/ \
- 646 :
- ヘリコプターから、落下した者が、亡くなってしまったな。
- 647 :
- >>646
舟で助けてあげた方が、良かったな、
- 648 :
- >>502
>ノーベル賞の吉野さんは畿内説らしい・・・<
吉野は、哲学的な自然科学者というよりは、経済性を求める工学部的な工夫学者。
ノーベル賞も、以前はどうであったのか?は知らんが、
現在は、公的機関などの推薦や承認が必要であり、だから、
公的機関に逆らうような学者は、幾ら人類のためになる新研究結果などであろうと、
上司や公的機関の起源を損ねると、推薦が無く、永久に貰えなくなってしまっている。
そして、吉野が大和説なのは、殆ど当然。
公的機関に好かれた人物であれば、九州説を唱える筈もなく、
「南→東」などの嘘付き騙しをしてでも、嘘つき騙しの大和説が好きになってしまうんだろう。
>一方、トンデモ経済評論家の三橋貴明は九州説<
いや、三橋は、極端な「倭人の大陸渡来」説を人種差別的に否定する論者。
そして、戦後の学界の「記紀は半分×書」論を否定して、
結局は「神武東征」での「大和朝廷の列島一元支配の皇国史観」肯定者であり、
キョクウの人種差別的殺戮戦争肯定の・・・・アホ詐欺師。
まともな人間ではない。
- 649 :
- 奥山氏も類奥山氏も頭が悪いので、からかって笑いリラックスするために利用すれば良いな。
- 650 :
- >>510
>だから、東渡海千里と周旋五千里は同じ単位が用いられているというてるのに。<
類スレ主の「同じ単位」というのは、
「始皇帝の1歩=6尺」の単位系と同じだ、という所謂「長里」だ、という意味だから、×だ。
>水行1日が概ね何里というのは当時の中国では一般常識。<
いや、古田さんが探された範囲内では、「水行日数を里数」に換算された例は、
「萬二千余里」が「水行十日陸行一月」しかない。
>魏の役人は倭人から聴取した水行日程をそのまま記録し、頭の中で里数に換算した<
魏の役人たちは、そんなインチキをしないし、
「循海岸水行+四千里+四千里+千余里×3」を「水行十日」と出来る筈もない。
>倭人伝は、記録された水行日数をそのまま書いただけ。<
不彌國から投馬國への「水行二十日」は、倭人からの伝聞情報であり、
「郡〜女王之所都」の「水行十日陸行一月」は、魏の役人たちの記録日数。
>漢書でも西域の国までの距離を1万里前後と書いている。それと同じ。
倭人伝の1万2千余里もその類<
どちらも、漢や郡の出口から目的地の入り口までの里数の計測の記録。
- 651 :
- >>636
全国へ散らばって、開拓しまくったのは忌部一族だけ。 朝鮮半島もね。 @阿波
- 652 :
- >>528の訂正
>>どちらも間違い なぜ呉の鏡師が魏の都である洛陽出身と名乗るのか<
その呉の鏡師は、楽浪を経て倭地に来て、 倭地では、
「洛陽出身である」と言った方が箔が付くし、造った鏡の価値も上がる、
と思ったから。
>そして倭の古い銅製品と新しいものを混合したら
当然不純物の銀・アンチモンが混合して増えたという計測地が出るのであり
倭の銅製品はそういう数値が出ている
三角縁神獣鏡はそうではなく銀・アンチモン比が一緒と出ている <
当然の「全くの一緒」という訳ではなく、「ある程度の範囲内で同じだ」という結果。
- 653 :
- 三角縁神獣鏡は倭国(阿波)で作られたぼう製鏡で、全国へ配られている可能性が高い。
根拠:気延山古墳群の宮谷古墳から特異な異種3面もの「三角縁神獣鏡」が出土しているが、その異種3面の「三角縁神獣鏡」と同笵鏡が、
それぞれ大分(赤塚古墳)・岡山(鶴山丸山古墳)・京都(内里古墳・椿井大塚山古墳)・奈良(黒塚古墳)・群馬(前橋天神山古墳)・富山(富雄丸山古墳)で出土している。 @阿波
- 654 :
- >>538
それとも、阿波を含む大和説論者もげんなりいったか。
これは「歴訪」と「高句麗の邪魔が入る道径」を意味することに
衝撃をうけたためだろう。
いずれにしろ、邪悪は破れ、正義が勝つ。
- 655 :
- >>539
>※ 神武の時代が女王国だった。
>魏志倭人伝に書かれた3世紀前半の女王は新称号の「初代皇后」にされた。<
「南≠東」などに拠って、×。
- 656 :
- 三角縁神獣鏡 は、「魏の水銀朱」が使われた「天河別神社古墳群」出土の「斜縁二神二獣鏡」を倭国(阿波)でぼう製したものだろう。 @阿波
三角縁神獣鏡 は、「魏の水銀朱」が使われた「萩原古墳群」出土の「画文帯神獣鏡 」を倭国(阿波)でぼう製したものだろう。 わははははは @阿波
- 657 :
- >>646
残酷な結末ですね。。
邪馬台国畿内説も、持ち上げるだけ、持ち上げられたが、最後に、落下してしまったな、、、
- 658 :
- >>543
>つまり平原の八葉鏡の大きさが八咫である という根拠はなにも出せないのだね
それでいい 平原の八葉鏡が八咫の鏡じゃないってことで決着した<
平原の巨大鏡の外縁長も「咫」長で計測され、4倍長であった、
という可能性も当然ある。
という事で、類スレ主がまたここでも、論争が不利になったので、
こっそり逃亡を図った、という事で決着した。
- 659 :
- >>551
しかし「南→東」などの嘘付き騙しの結果、大和説は
陰湿なイヤガラセしたり
中高生が見ても呆れるようなおバカな大和説を、本気で言い張ったり
平気で嘘をついたり誹謗中傷したりして、良識ある人々の顰蹙買って
自分たちの評判を地に落としてるんだから
九州説の普及に大いに貢献しちゃってるよね
- 660 :
- 朝鮮半島出土の同向式神獣鏡(伝楽浪大同江面)と萩原1号墳の画文帯神獣鏡も同笵鏡。 @阿波
- 661 :
- 洛陽近郊の畑から発見された「三角縁神獣鏡」 と徳島・宮谷古墳の「三角縁神獣鏡」 とは、神像表現が同じであり、同じ工人作。 @阿波
- 662 :
- また、群馬・川井稲荷山古墳の「三角縁神獣鏡」 と同じく徳島・宮谷古墳の「三角縁神獣鏡」 とは、神像表現が同じであり、同じ工人作。 @阿波
- 663 :
- 魏の水銀朱が使われた萩原古墳群出土の「画文帯神獣鏡」
同じく魏の水銀朱が使われた天河別神社古墳群出土の「斜縁二神二獣鏡」
この画文帯神獣鏡か斜縁二神二獣鏡 このどちらかだろうね 魏から下賜された鏡は。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波
- 664 :
- >>561
>それ、出所不明の怪情報だから 箸墓三世紀中葉築造説は
歴史学界の主流説として今日も大手を振って歩いてるわけだ<
箸墓三世紀中葉築造説は、
卑弥呼の墓が(前方後円墳ではなく)冢であり、
箸墓は布留であって、ホケノの庄内3〜布留よりも後であるから、4世紀になるから、
×だ。
- 665 :
- >>565
>>陳寿の「計其道里當在會稽東治之東」という位置推定対象は「女王國」である、
と何度も何度も言って来てある。
つまりそれで長里説が崩壊するから大和説死亡ね
>「女王国の範囲が、投馬國のある南九州まで」
陳寿はそこまで道里を測ったから会稽東治の東と書いたのだと そう主張しちゃったろ?<
前から、「萬二千余里」は郡から「女王國の入り口までの道里」であり、
女王国全体は、九州島付近であり、「水行二十日」は「道里」ではない、
と繰り返し言って来てあるよ。
>つまり、投馬国までの道里が測られてると主張しちゃったろ?<
そりゃ、・・・・類スレ主に特有の、
言葉尻のチェリーピッキングに拠るイチャモンだ。
その「道里」は、女王國の入り口までの道里だ。
>したがって投馬国までの道里は判明してるから、投馬国は女王国以北にあるんだよ <
したがって、女王國までの道里が判明しているから、
女王國に含まれる投馬國への道里になるだけ。
類スレ主のイチャモンも大和説も、破綻したろ?
- 666 :
- >>665
>したがって、女王國までの道里が判明しているから、
>女王國に含まれる投馬國への道里になるだけ。
なら投馬国への道里も判明してるわけだな
ということは投馬国は女王国以北にあるわけだ
- 667 :
- >>569
>>箸墓古墳の築造年代は西暦350年前後と見ていいの<
>ダメだね 「4世紀第4四半期(西暦375-400)の木製輪鐙」
ってのが素人さん謹製のデマだから <
ダメだ。箸墓は、
3世紀末の庄内1の前方後円墳の石塚の後の、
有棺有槨のの庄内3〜布留の前方後円墳のホケノの後の、
布留1の更に進化型の巨大前方後円墳になるから、4世紀であり、
築造年数を入れれば、4世紀中頃までに新しくなる可能性が十分にある。
- 668 :
- >>578
>そんなことを言ってる考古学者は一人もいないのだよ デマで歴史は変わらない <
「南→東」などの嘘付き騙しをする大和説考古学者では、
信頼性が全くない・・・・デマ詐欺師であり、
何を言っても、国民や人類は納得出来ず、
九州説の歴史は揺るぎもない。
- 669 :
- >>583
いくらガセネタ流しても、「南→東」などの嘘付き騙しで死んだで大和説は、
蘇らないよ
- 670 :
- 「自女王國以北其戸數道里可略載」(女王国より北にある国々は、その戸数や道順、距離をおおよそ記載できる)が、女王国の21カ国のこと。
「次有斯馬國次有巳百支國・・・」以下の21カ国は、女王国(粟国=大吉野川流域)に所属する国々の説明である。
「其餘旁國遠絶不可得詳」(その他の周辺国は遠く離れていて、戸数や道順、距離がつまびらかでない)は、阿讃山脈を越えた遠く瀬戸内海地域などの国々(吉備など)。
こういう地理的事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波
- 671 :
- >>586
また「道」とは、一般的には「陸路」を意味し、
「道」を「明確な道ではない海路」だとする事が、確率の低く、
つまり、倭王武の遣使の普段の「道」は陸の経路であった、という事。
- 672 :
- 「自女王國以北其戸數道里可略載」(女王国より北にある国々は、その戸数や道順、距離をおおよそ記載できる)が、女王国の21カ国のこと。
「次有斯馬國次有巳百支國・・・」以下の21カ国は、女王国(粟国=大吉野川流域)に所属する国々の説明である。
「其餘旁國遠絶不可得詳」(その他の周辺国は遠く離れていて、戸数や道順、距離がつまびらかでない)は、阿讃山脈を越えた遠く瀬戸内海地域などの国々(吉備など)。
こういう地理的事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波
- 673 :
- >>595
「南→東」などの嘘付き騙しの、キョクウ戦争皇国史観の大和説者は、
こうやって定期的に自分が、おかしい怖い人だ、と自己紹介してくれるから
うっかり彼らの言うことを信じちゃう子供らが出る恐れがなくて、
安心だよね
- 674 :
- >>597
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、
その情報の出所を出そうとしないだろ
デマの証拠だよ
- 675 :
- >>567 アッチャー(> <)畿内説、死んでもうたやん!
- 676 :
- >>675
ニセ情報流しても
畿内説に傷一つつけられないよ
- 677 :
- >>601
アッチャー!!!(≧ ≦) デマ流してるの、畿内説の方やん!!!
- 678 :
- それにしても・・・・・・・・・・・・、
他のスレにも書いたことがあるんだけど、
ガンダムの話なのかな?何やら家再興とか
- 679 :
- >>609
>三国時代にはすでに呉が台湾あたりへ軍船を派遣しているし、呉越の沿岸を軍船が航行し、また山東半島から遼東半島への航路があった。河北の沿岸も当然船が行き来した。
古代中国の沿岸国が海運国でもあったことの認識が低すぎる。
1日あたりの水行距離を里に換算できなければ、船を使った軍事作戦そのものが立てられない。
こうしたことを頭に入れておくように。<
いや、魏志倭人伝を見ても、魏使らは「水行」に関しては、
里数計測出来れば里数で記載し、計測出来なければ、所要日数を記して補う、
という記載。
だから、投馬國と裸國と黒歯國は、伝聞情報の日数だけで記載している。
梁書の東南アジア航行でも同じ。
(郡から女王之所都の水行十日陸行一月の水行十日は、おそらく日誌から数えた)
- 680 :
- ほとんど合致している?
歌舞伎や芝居が好きで・・・、伊達郡(三日月)というところの話とか、
カッパなのか何なのか、わからないけどwあの写真
『姥清水』?
- 681 :
- >>612
>>陳寿の「計其道里當在會稽東治之東」という位置推定対象は「女王國」である、
と何度も何度も言って来てある。<
>つまりそれで短里説が崩壊するから九州説死亡ね ・・・<
>>665で説明してある。
- 682 :
- 家の近所の寺院に通っていたと言っていたりw
- 683 :
- 芸能関係・・・筋肉少女帯、
ほとんど同じだしな、写っている植物も?
どういうことなんだろう
- 684 :
- 今日は、最後の体育の日なのだったな。
- 685 :
- それにしても謎の映画(カッパ〜)の台詞。
「勝とうと思えば、いつでも勝てる」
勝?マケマケ様?うらしまん?
- 686 :
- 僕達は、貧困と闘っていた学校時代には、いつも、お腹が空いていたので、体育でお腹が減らないように、激しく動かないようにしていたのだったな。
- 687 :
- とあるスレの書き込み、かなーり前()のw
誰々って川崎に住んでいるんじゃない?
川崎に住んでいるんでしょ?
とか
- 688 :
- 体育という物事を、税金で学んでいる日本の学生達が、思う存分、実行できるようにするためにも、邪馬台国畿内説という税金の無駄遣いは、叩き潰した方が良いな。
- 689 :
- >>620
魏志倭人伝に卑弥呼の墓は前方後円墳ではないなんて書いてあるかな?
前方後円墳の古くの呼び名は塚
さらに円墳でも直径100mほどのものが畿内にあるし
そして墳だから冢じゃないという頭の足りないピントのズレた主張は
古墳は円墳、方墳、前方後円墳と全て墳の分類であるから
卑弥呼の墓は墳じゃなくて冢というなら国内に卑弥呼の墓は存在しない事になる
>>624
倭国大乱は魏志倭人伝にも書いているぞ
魏志倭人伝無視の九州説
>>627
畿内の前方後円墳は十分に大きいし径百歩に相当するのも複数あり
特殊器台と特殊壷は記紀の記述から推察して奴婢の殉死などの儀式が行われた
殉葬跡と見る事もできる
- 690 :
- 九州説ザラコクへの嫌がらせに今度から前方後円墳を冢と読み替えてやろう
- 691 :
- >>689
>畿内の前方後円墳は十分に大きいし径百歩に相当するのも複数あり
卑弥呼の時代の径百歩に相当するのはないね。
>特殊器台と特殊壷は記紀の記述から推察して奴婢の殉死などの儀式が行われた
殉葬跡と見る事もできる
箸墓は無理でも赤穂や吉備の特殊器台からリン酸反応を調べればいい。
まぁ無理だ、あきらめろ。
- 692 :
- ホケノ山は小枝で4世紀後半
箸墓は馬具で500前後
冢でも墳でもお好きにどうぞ
- 693 :
- カムイとは、どのような物事なのだろうか、、、
- 694 :
- カムイとは、神なのだろうか。
- 695 :
- 2ちゃんねるという、頭が悪い者達が作成した物事は、笑いリラックスするために、利用すれば良いな。
- 696 :
- 墓参りには、行けるときに、行けば良いな。
- 697 :
- 纏向がなぜ卑弥呼の都などとなるのか。
神武が実在したとしてもBC660年即位などとなるわけでなく、せいぜいAD2世紀から3世紀。
その神武に屈服したニギハヤヒのいた場所がの桜井市外山(とび)。
そして10代崇神を産んだイカガノシコメがいた場所も纏向。
そして物部守屋が尼さん3人を素っ裸にして鞭打った場所もツバイチ、つまり纏向。
また2世紀末から6世紀末という大和での前方後円墳の存在時期と物部の興亡時期が合う。
纏向とは物部の遺跡だ、バカなのか>>1は。
- 698 :
- お墓参りというと・・・家の、お墓?
四代ほど前の名前しかないし、どういう事なんだろう
たしか、むかーし住んでいたというところは、
ここ(川崎)ではないし・・・伊達郡?〜〜〜〜〜大陸のほう?
- 699 :
- 奥山氏が、可哀想になってしまったな。
- 700 :
- >>615
>広開土王碑文では、396年に「王みずから水軍を率い、科残国を討てり…」とあり、王が水軍に直接参加して指揮したとある。
高句麗は百済を攻めるのには水軍を主に使ったようだ。
北の内陸では陸軍を放射状に進めたらしい。<
当然、魏の公孫氏討伐においての「魏の渡海楽浪帯方征服戦」を知っているからだろう。
>遙は「へて」と読むよりも「遙かにし」と読むのがよさそうだ。<
「遙」の文字である証拠を提示してくれ。
>「(海)道は百済を遙かにし、(王都はとても遠いために)船舫を装治(しっかりと整え)した」
これで何の不都合もない。<
「(陸)道は百済を遙かにし、(王都はとても遠いために)船舫を装治(しっかりと整え)した」
これで何の不都合もない。
>しかるに高句麗はその海道を得意の水軍で塞いで通行できなくした…ということだな。<
好太王の時には水軍が半島西岸を塞いだ事があっても、
南岸からの倭人を渡海して破ったのはそれ一回きりだ。
だから、70〜80年位後の倭王武の頃は、高句麗が邪魔をしたのは、
(海上ではなく)陸路だ。
- 701 :
- >>691
箸墓は円墳部が径百歩の140mに相当
ホケノ山など全長が140mに相当するものも複数
1900年近く雨曝しだった特殊器台から
すぐ分解が始まる有機化合物の反応が出る可能性はほぼ無いと誰か書いてたが
まあ奴婢の殉死の代わりに人物埴輪を埋めるようになったと記紀にあって
人物埴輪の出るより前の古墳に特殊器台が見つかるから
それが奴婢殉死の儀式に使われていたのだろうとは推察できるけど
詳しい記録が残ってないので実際のところ人身御供的な儀式が行われていた可能性は未知数
酒などを捧げるようなもっと穏当なものだった可能性もある
- 702 :
- >>618
>乍:
B 体言・副詞、動詞の連用形などに付いて、ある状態のままである意を表す。…のまま。…のとおり。
・「立ち−握り飯をほおばる」 「いつも−の事だ」 「旅の御姿−おはしたり/竹取」
・「かく−ともかくもならむを御覧じはてむと思し召すに/源氏 桐壺」
(南の方向へ)道なりに進む・・、のような訳が良いのではないか。
つまり、多少凸凹はあるものの、とにかく南への航路に従って進み、そして今度は東への航路に従って進む・・・。<
Yahooでのhyena no papa(略名ハイエナ)という大和説者の、
https://hyenanopapa.obunko.com/nagara.html
の「乍A作B」の例文を見れば、
「Aがあったかと思えば急にBが起こり、その事を反復する」という事を示す構文である事が判る。
- 703 :
- >>702
もっとちゃんと例文を調べると
必ずしも繰り返すとは限らないことがわかる
もちろん繰り返す場合が多いが
- 704 :
- >>623
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説の、クルった論理に従ったら大変だ
いかなる新発見も史料事実に従った解釈も、正しいと認められなくなるんだよ
「今までの定説と違っているから、それが正しい筈がない」ってね
それは、「大和説に反する」って言うんだ
- 705 :
- 『ムー帝国 一万二千歳』
なぜか、うらしま(神仙?)と同じ設定でしょ
- 706 :
- >>704
こいつ毎日ウソついてるな
九州説の典型だ
- 707 :
- >>634
>>卑弥呼の墓は、当然3世紀半ば頃の筑紫でなければならず、<
>九州説は結論争先にありき だからダメなんだ 学問ではない<
史料事実であり、史料実態だ。
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、結論先にありきの嘘つき騙しなんだ。
だからダメなんだ。
学問ではない。
- 708 :
- 『神仙 河童』同じようなキャラがいたり、
山の上のほうに住んでいたと言っているのに、なぜ(詳しい)知っているんだろう。
- 709 :
- >>644
つまり
「南→東」などの史料事実や史料実態を否定し曲解する嘘つき騙しの大和説者は、
最初から根拠ある主張をする気が さらさら無い
そう言っているんだな まともじゃねーよ
- 710 :
- >>709
九州説ってウソをつく病気なのか
- 711 :
- 『ラー ムーの王女』
ムー帝国の王、王子・・・確実に同じ人物(家〜、親戚?)の話
『姥清水』
- 712 :
- 『ラー ムーの王女』
ムー帝国の王、王子・・・確実に同じ人物(家〜、親戚?)の話
『姥清水』
- 713 :
- >>666
>>したがって、女王國までの道里が判明しているから、
女王國に含まれる投馬國への道里になるだけ。<
>なら投馬国への道里も判明してるわけだな
ということは投馬国は女王国以北にあるわけだ <
ならん。
投馬國は女王國に含まれているから、
女王國までの道程が投馬國への道程にもなっている、と言う意味であるだけだ。
- 714 :
- セイントセイヤ〜母親〜冷凍封印?
同じ人物(家、親戚〜など)
- 715 :
- >>710
病気じゃなさそうな所がさらに薄気味悪い
- 716 :
- 『セイントセイヤ 母親 氷河』キャラクター名w
- 717 :
- >>713
>>713
>投馬國は女王國に含まれているから、
>女王國までの道程が投馬國への道程にもなっている、と言う意味であるだけだ。
九州説さん、まだウソつくの?
あなたは投馬国が南九州にあって、そこが会稽東治の東に当たるんだと主張してるんでしょ?
で、陳寿は道里を計算して会稽東治の東にあたると言っている
ということは投馬国までの道里が判明してることになる
したがって投馬国は女王国以北というのが論理的帰結だ
- 718 :
- >>701
>箸墓は円墳部が径百歩の140mに相当
>ホケノ山など全長が140mに相当するものも複数
円墳部分だけではだめだし、全長は径ではないし全然ダメじゃん。w
>1900年近く雨曝しだった特殊器台から
>すぐ分解が始まる有機化合物の反応が出る可能性はほぼ無いと誰か書いてたが
とんでもない、縄文時代のストーンサークルからリン酸反応がでて、
それでストーンサークルが墓だと分かった例などもある。
- 719 :
- >>718
理由もなくダメだとだけ言い張るのは異常
- 720 :
- >>689
>魏志倭人伝に卑弥呼の墓は前方後円墳ではないなんて書いてあるかな?<
魏の役人らは、冢の形状として、馬韓伝で「居處作草屋土室、形如冢」として、
「錐体台」的な形状を示す文言とする記録をしている。
>前方後円墳の古くの呼び名は塚<
錐体台状ではないから、×。
>さらに円墳でも直径100mほどのものが畿内にあるし<
畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるし、
大和説者が「畿内にある」と誤魔化せば、
それは「大和にはないらしい」という事を示す事にまで判ってしまう。
また「直径100mほど」では、「径百余歩」にもならないし、
「円墳」では錐体ではないから、冢にもならない。
>そして墳だから冢じゃないという頭の足りないピントのズレた主張は
古墳は円墳、方墳、前方後円墳と全て墳の分類であるから
卑弥呼の墓は墳じゃなくて冢というなら国内に卑弥呼の墓は存在しない事になる<
「冢」形の墓は、祇園山がある。
- 721 :
- >>689
>倭国大乱は魏志倭人伝にも書いているぞ 魏志倭人伝無視の九州説<
書いてない。
>畿内の前方後円墳は十分に大きいし径百歩に相当するのも複数あり ><
畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるし、
大和の例を挙げるべし。
>特殊器台と特殊壷は記紀の記述から推察して奴婢の殉死などの儀式が行われた
殉葬跡と見る事もできる<
張政らが見たのは、(殉死の場面ではなく)殉葬の場面であるから、関係なく、×。
- 722 :
- 理由ナシ
言い張るだけの九州説
- 723 :
- >>701
>箸墓は円墳部が径百歩の140mに相当
ホケノ山など全長が140mに相当するものも複数<
どちらも前方後円墳であって冢ではないし、時代も合わないから、始めから、×。
>1900年近く雨曝しだった特殊器台から
すぐ分解が始まる有機化合物の反応が出る可能性はほぼ無いと誰か書いてたが
まあ奴婢の殉死の代わりに人物埴輪を埋めるようになったと記紀にあって
人物埴輪の出るより前の古墳に特殊器台が見つかるから
それが奴婢殉死の儀式に使われていたのだろうとは推察できるけど
詳しい記録が残ってないので実際のところ人身御供的な儀式が行われていた可能性は未知数
酒などを捧げるようなもっと穏当なものだった可能性もある<
張政が見たのは、(殉死ではなく)「殉葬」であるから、×。
- 724 :
- >>706
この大和説者も毎日、「南→東」などのようなウソをついてるようだな
大和説の典型だ
- 725 :
- 【古代】ノーベル化学賞・吉野氏の隠れ専門「邪馬台国」 部下も考古学の専門用語覚えないと
https://asahi.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1571036306/98
携帯番号晒したり殺害予告したり…
- 726 :
- >>710
「南→東」などの史料事実の否定曲解の大和説者って、
ウソをつく病気なのか
- 727 :
- >>718
>>1900年近く雨曝しだった特殊器台から
すぐ分解が始まる有機化合物の反応が出る可能性はほぼ無いと誰か書いてたが <
>とんでもない、縄文時代のストーンサークルからリン酸反応がでて、
それでストーンサークルが墓だと分かった例などもある。<
ふーん、成程。
- 728 :
- もう纒向は古墳建築工事の現場事務所。
これで決まりだ。
- 729 :
- 理由もなく連呼するばか
それが九州説
- 730 :
- 纒向が土木事務所では無いことを証明するのも大変だw
- 731 :
- >>730
簡単だよ
古墳と関係ない祭祀遺構がゴロゴロ出てるから
土木事務所だと思い込む人間などいない
- 732 :
- だから言っているだろうw
家は土木〜そういう家ではないと
当時の川俣町の周辺
稲、米、(あと養蚕、機織り)を作っていたような話も出てくるし、
なぜか家も保存されていたり、もしかして祭(斎)祀関係?
むかーしから稲などを作っていたのかな、
それとも何かの家だったけど、後に農家になったりした家とか?
でも・・・当時住んでいた家に凄い刀が飾ってあったと言っていたり
何なんだろう
- 733 :
- 『旧広瀬座』
寒いな〜、傾いた松・・・、
同じ家だしな、当時住んでいたというところ、
あと上の名前の読み方が何やら〜とか
- 734 :
- たしか山の上のほうに住んでいて、
町、村のほうまで下りて行き・・・と老婆は言っていたり
歌舞伎や芝居を観に行っていた、
なぜか馬に乗っていたとか、あと謎の刀?
- 735 :
- 偶然なのかな何なんだろう、
きゅうりの葉、葱の華・・・子供がいて、なぜか男の子と女の子(兄妹)
- 736 :
- >>1
お前はアホか
- 737 :
- 伊達郡(川俣町)という掲示板
>飯野の隣に立子山というところがあるんですよ
>あそこにラドンの湯なるものを発見したんですが・・・
ゴジラとか〜という話でしょ?
- 738 :
- それにしても老婆談、
ほとんど家の話なんだよな・・・w
どういう事なんだろう
- 739 :
- 畿内説は
前方後円墳と三角にしがみつくしか無いのかねーーー
畿内に国々(豪族たちの集合体)あったのは間違いないと思うけど、邪馬台国じゃないよ
倭人伝とそぐわないよ
3世紀
東海・北陸・関東・東北はどのような状態にあったのか、畿内説の学者の意見は?
- 740 :
- >>73だが
畿内説では四国地方はどのような国と論じてるの\\\\\\\\\\\\\\\\\\
南紀でもいいや
- 741 :
- >>700
宋書倭国伝(百衲本)は遥の字を用いている。
この遥は遙に同じであり、したがって遥字の語義も遙の語義に同じ。
遙は動詞として用いられたときには「ゆらゆらとゆれる」の意を表す。
「遥」は、あとに続く「船舫」を目的語とするので、(ゆらゆらとゆれる)の意に齟齬はない。
陸路の場合は、みちの曲折をもって(ゆらゆらとゆれる)意としない。
またあとに続く「船舫」との関係に齟齬を生じる。
なので、冒頭の「道」は「海の道=海路」の意とするのがよく、「陸の道=陸路」は意味しないとするのがよい。
広開土王が乗船して指揮したのは一回でも、その一回で百済との戦いが終わったのではないから、水軍が百済戦に出陣したのは一回に止まらない。
高句麗が水軍を運用していたのは事実。
高句麗が水軍を持たなかったとするお主の先入観は誤りだ。
- 742 :
- >>739
>畿内に国々(豪族たちの集合体)あったのは間違いないと思うけど、邪馬台国じゃないよ
>倭人伝とそぐわないよ
理由は?
相変わらず九州説は
理由も言わずに言い張るだけ?
そんなの「説」じゃない
今後は九州節とでも名乗るがいい
田舎の民謡か何かだろ
- 743 :
- >>618
乍は副詞の「たちまち」の意であり、「先王之道、乍存乍亡」(史記)の文の場合は「先王の道もたちまち存したちまち亡ぶ」と訓読みし、(急に、さっと)の意とされる。
国訓の「〜しつつ」は万葉仮名で誤解した結果であり、のちに「〜ながら」の訓が生じたとされる。
例文にあげてある「立ちー握り飯をほおばる」などは、この「乍」の誤りの国訓だということになる。
古代中国語としての「乍」は(たちまち)の意味ということである。
- 744 :
- >>743
「サクッと」と訳しゃイイんだよ
- 745 :
- なぜか仏教?そういう話をしていたり、軍人でもないとか、
あの写真の子供w何かの制服を着ているでしょ
『河童 仏教』神仙?何の話なんだろう
- 746 :
- むかーし、伊達郡の山の上のほうに住んでいて?
戦争(近代)にも行こう、参加しようとしたと言っていたのかな
でも駄目だと言われたとか、もしかして?異常者だった?
- 747 :
- そういう話など、
何か知っている人がいる?ような気がするんだけど
- 748 :
- あの当時の写真(キュウリの葉、葱の華)
子供がいるんだけど、兄と妹・・・、
何か知っている人がいるのかな?
- 749 :
- 戦争にも行っていないし、疎開(避難?)したところも
立子山を通って・・・五十沢というとこがあって、
そこに?と言っていたような
- 750 :
- >五十沢村 (福島県)
霊山というところが出てくるし
- 751 :
- >>744
しゃれかよ。
それをいうなら「サッと」。
乍の音は「サ」。
- 752 :
- >>751
中古音は入声が残るんだよ
サクッの方が歯切れがいいだろ
炸醤麺は肉味噌ソースを強火でヂャヂャッと作る
状態変化が急激なのが乍の本義よ
- 753 :
- 739 740
- 754 :
- >>743日本@名無史さん2019/10/15(火) 04:42:57.
>乍は副詞の「たちまち」の意であり、「先王之道、乍存乍亡」(史記)
「乍存乍亡」と「南乍東乍」では、乍らの語順が違う、同一と見做しての解釈はおかしい。
- 755 :
- >>754
>「乍存乍亡」と「南乍東乍」では、乍らの語順が違う、同一と見做しての解釈はおかしい。
で?
どう語順が違うって?
w
- 756 :
- 畿内スレも落ちぶれたようだな
史記に曰く「乍亡」、、。
- 757 :
- >>567
箸墓古墳の築造=3世紀中頃(魏志倭人伝)ありきで、5世紀初頭の鉄製輪鐙と同じデザインの木製輪鐙の年代まで4世紀初めに100年遡らせるゴットハンド、桜井市w
ttp://29.pro.tok2.com/~kyokutan/public/next/c06kinaisetu_takashima/wakazakurea.html
>纒向遺跡出土の木製輪鐙(わあぶみ)
>ここに紹介します木製輪鐙は平成10年度に行われた箸墓古墳後円部裾の調査で周濠の上層から出土したものです(中略)。
>現在までに国内における木製輪鐙の出土は宮城県仙台市で1点(5世紀代)、滋賀県長浜市で1点(5世紀末〜6世紀後半)、
>大阪府四條畷市で2点(5世紀後半)の4点しか確認されておらず、今回の輪鐙は全国でも5例目となる非常に珍しい遺物であるうえに、
↑↑↑ここまではいい。でもこれら4点の「木製」輪鐙は、すべて5世紀後半〜6世紀後半(西暦450年〜550年)のものであることに要注目!!!www
↓↓↓そして、ここからが、桜井市教育委員会のゴッドハンド(客観的な考古学的事実を、嘘で締めくくる巧妙なデマ)www
>時期についても、4世紀初めに遡る日本最古の鐙といえるでしょう。
↑↑↑どうしてそう言えるのか根拠不明w おそらく、「箸墓築造=3世紀中頃」という結論ありき!w↑↑↑
>これまでに発掘された資料からは当時(4世紀初め)の日本には馬が数多くいたとは考えられませんが、今回の輪鐙の出土によって一部の階層の間には馬が受け入れられ、乗馬の習俗も存在していた事が明らかになってきました。
4世紀(西暦300年代)【初頭】の倭にはもう馬がいた?!たった一つの木製輪鐙で、定説を100年遡らせてしまうゴッドハンドw
>鐙を見ていると馬に乗って纒向遺跡を闊歩する人の姿が目に浮かんでくるようです。
ヒドすぎるwww もはや学問ではない。ただの連呼&洗脳www
- 758 :
- 「4世紀(西暦300年代)【初頭】の倭にはもう馬がいた・・」は、纒向教学会の定説になっています。
- 759 :
- >>729
理由もなく、
「南→東」などの史料事実や史料実態の否定や曲解の嘘つき騙しを、
連呼するばか
それが大和説者
- 760 :
- >>757
仮に魏志倭人伝の記述に合わせて248年に遡らせるゴッドハンドがなければ、箸墓の築造年代は、
4世紀末(西暦390年頃)〜6世紀後半(西暦550年頃)の木製輪鐙の下にあった、築造時の周濠底に溜まった腐葉土層(20〜30年分)を差し引いて、
西暦360年〜西暦520年の間ということになるな。
- 761 :
- ゴッドハンド考古学、畿内説!w
- 762 :
- 隣りの天理市天理教と張り合って、纒向の神様を信仰する桜井市纒向教団
- 763 :
- ゴッドハンド考古学界(教団のみなさま)のおかげで、今日も飯が食えております(畿内説!)w
- 764 :
- 寺院、仏教関係の話なのかな、
橋が完成したので来てくださいという招待状が届いたこともあるんだよ
という話とか、何なんだろう
- 765 :
- >>718
ストーンサークルが墓なら人骨や副葬品などからもっと前に判明してた筈
そして有機化合物は早く分解するから見つかったリン酸反応は
最近の動物などに由来するものと考えるのが普通
>>720
祇園山古「墳」だから墳であって冢じゃないので
祇園山は卑弥呼の墓じゃあなし
>>721
魏志倭人伝
「其國本亦以男子爲王住七八十年 倭國亂
相攻伐歴年 乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼」
其の国もまた元々男子を王として70 - 80年を経ていた。
倭国は乱れ、何年も攻め合った。そこで、一人の女子を共に王に立てた。
邪馬台国畿内説だから大和の例には限らない
殉死した奴婢百人の葬儀の場面を見たというなら
古墳の周りに奴婢を埋めるのが殉葬ではなかったという事になる
- 766 :
- >>757
ご好評いただけたみたいなのでw 改めて!
4世紀末と思しき木製오輪鐙(>5世紀初頭の鉄製오輪鐙とほぼ同じデザイン)
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
(20〜30年分の腐葉土φφφ)
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
_箸墓古墳、築造時の周濠底_
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
- 767 :
- 畿内説は年代詐欺の積み重ねによって維持されている。
彼らは日本の歴史を黒く塗りつぶそうとしている。
- 768 :
- まあ、「初期の古墳」と銘打っていながら巨大古墳という時点で、矛盾だらけなんだよ。
- 769 :
- >>766
九州説って
ニセ情報流して
九州説の信用落として
なんか楽しいの?
- 770 :
- >>763
存在してない九州説脳内単位の短里が使われていた証拠を発見した発見したと
毎日のように騒ぐ九州説がゴッドハンド
- 771 :
- 九州説エブリディゴッドハンド
- 772 :
- >>757
>鐙を見ていると馬に乗って纒向遺跡を闊歩する人の姿が目に浮かんでくるようです。
>>760
>仮に魏志倭人伝の記述に合わせて248年に遡らせるゴッドハンドがなければ
ゴッドハンド考古学が妄想と詭弁の無限地獄。人類の負の世界遺産、畿内説!w
- 773 :
- >>768
>まあ、「初期の古墳」と銘打っていながら巨大古墳という時点で、矛盾だらけなんだよ。
何と何が矛盾するのかね?
具体的なことが何も言えない九州説って
ゴミそのものだね
- 774 :
- >>772
九州説って中傷しかしてないな・・・
- 775 :
- 4世紀末と思しき木製오輪鐙(>5世紀初頭の鉄製오輪鐙とほぼ同じデザイン)
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
(20〜30年分の腐葉土φφφ)
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
_箸墓古墳、築造時の周濠底_
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
- 776 :
- 九州説 バッドヘッド
- 777 :
- >>763
オウム真理教のヘッドギア、畿内説!w
- 778 :
- >>741
>宋書倭国伝(百衲本)は遥の字を用いている。
この遥は遙に同じであり、したがって遥字の語義も遙の語義に同じ。<
はるか近代の百衲本が「遥」」の字を用いている、という事は、
「遥」の文字の写本もあった、という事であり、
唐代の南史が「逕」の文字を書いた、という事は、
「逕」と読める写本もあった可能性がある、という事であり、
いずれであったのか?の断定がし難く、
だから「道」という文言との組み合わせ使用、という事が採否基準になり、
そうすると、「道」は原則として陸路に使われ、
渡海の場合は「固定した道」である事が困難であり、比喩的な使用にしか使われないから、
「遥」であったか「逕」であったか?は、
陸の道径を示す「逕」であった確率の方が高いな。
- 779 :
- >>766
>4世紀末と思しき木製오輪鐙(>5世紀初頭の鉄製오輪鐙とほぼ同じデザイン)
これが?
http://www.makimukugaku.jp/hp/039.jpg
これが、どこの遺跡から出た
「5世紀初頭の鉄製오輪鐙とほぼ同じデザイン」なんだ?
デマも大概にしろよ九州説の嘘つきインチキ男
- 780 :
- >>775
九州説はニセ情報が大好き
- 781 :
- >>757
4世紀初頭に倭国にもう馬がいたって本当?
- 782 :
- >>780
ってか、ニセ情報がすべてだろ九州説
- 783 :
- >>782
どっちもどっち。 目くそ鼻くそ。 @阿波
- 784 :
- デマ流しスト>>775が
何故かハングルを使って投稿してる件について
↓
「木製오輪鐙」
why?
- 785 :
- >>779
5世紀中〜後期の蔀屋北遺跡出土の木製輪鐙
http://www.pref.osaka.lg.jp/bunkazaihogo/maibun/shutsudoshiryo20-1.html
- 786 :
- >>784
それがハングル?とすぐに判った君の母国は、一体どこなの?w
- 787 :
- >>785
それ
「「5世紀初頭の鉄製오輪鐙とほぼ同じデザイン」」
と何か関係ある?
ないよね
- 788 :
- 結局のところ、纒向遺跡は古墳造営サービス業者の跡地だったわけだが、畿内説の根拠って他にあったっけ?
- 789 :
- >>786
コピーしてネット検索するとすぐわかる
- 790 :
- >>785 >>786 畿内説に、またブーメラン返ってきた、、、
- 791 :
- >>786
あんたがハングルで投稿した人かね?
- 792 :
- >>790
ブーメランに見えたら発狂してる証拠
お気をつけて
- 793 :
- >>789
それに瞬時に気付いてしまう、君の出身国はどこなのw
- 794 :
- >>793
わけのわからん文字が投稿されてたら普通調べるだろ
- 795 :
- 九州説簡単に論破されすぎです
- 796 :
- >>793
それより九州説君のPCでハングルが打てる理由を教えてくれないか
- 797 :
- >>781
箸墓周濠出土の木製輪鐙だけ4世紀初頭に繰り下げると、5世紀以降の木製輪鐙しか出土していないので、馬に関しては空白の4世紀になってしまう。
4世紀中なら末、5世紀初頭と見るのが妥当。
- 798 :
- >>741
>遙は動詞として用いられたときには「ゆらゆらとゆれる」の意を表す。<
問題は「逕」であったか?、「遥」であったか?であり、「遙」の文字は議論価値なし。
>「遥」は、あとに続く「船舫」を目的語とするので、(ゆらゆらとゆれる)の意に齟齬はない。<
「道kei百濟、裝治船舫」の文では、
「kei」は「道と百済との関係」や「百濟へ至る道」を説明する文言であり、
「裝治船舫」は百済から後の航海の準備文言であり、
だから、船舫と結び付ける解釈は、×。
>陸路の場合は、みちの曲折をもって(ゆらゆらとゆれる)意としない。<
倭王武は当然魏志の「作南乍東」を知っており、経路の曲折の多さも知っているから。
>またあとに続く「船舫」との関係に齟齬を生じる。<
百濟に至る「道」の話であるから、百済から船出の「船舫」は関係がない。
>なので、冒頭の「道」は「海の道=海路」の意とするのがよく、
「陸の道=陸路」は意味しないとするのがよい。<
百濟で「裝治船舫」をした、という事は、
倭地から南宋へ、倭地で裝治船舫をして全渡海をする事をせず。
百濟まで陸路を採った、ということであり、
「道」の文字は陸路が原則であり、だから、「百済まで海路」は、×。
- 799 :
- >>797
>箸墓周濠出土の木製輪鐙だけ4世紀初頭に繰り下げると、5世紀以降の木製輪鐙しか出土していないので、馬に関しては空白の4世紀になってしまう。
馬に限らず「空白の4世紀」って世間で広く言われてるんだが
何が疑問なんだ?
- 800 :
- 短里は魏志倭人伝と実際の地理を比較すれば確実に使われていた。
畿内説は何かあれば魏志倭人伝は信用ならないというが、それならいっそ卑弥呼や邪馬台国の存在そのものを信用ならないことにすればよいのではないか。
- 801 :
- >>797
そんなこと言ってる学者が一人でもいるかね?
- 802 :
- >>779
ではそれは何世紀の様式の馬具なんだ?
文句ばかりで何も言えないだろ?
- 803 :
- >>800
>短里は魏志倭人伝と実際の地理を比較すれば確実に使われていた。
そんなこと断定する根拠は?
- 804 :
- >>799
3世紀4世紀は九州が圧倒的に優位だが、5世紀にはヤマト王権が成立していないと日本史が矛盾だらけになってしまうということだよ。
- 805 :
- >>760 なるほど
- 806 :
- >>803
自分で地図と睨めっこして計算してみなよ。
- 807 :
- >>804
惜しい!
正確に言うと、日本史が矛盾だらけになるのではなく、ゴッドハンド考古学が矛盾だらけになってしまうということだよw
- 808 :
- 纒向編年が50年以上ズレてるから馬具に関する辻褄が合わないんだな。
4世紀初頭の奈良盆地に馬が1頭だけ居たのか?
- 809 :
- >>808
まさにそれ。
その1頭が死んでしまって、次に畿内にまで馬が入ってくるのは5世紀なんだけど、
その馬の木製輪鐙は、なぜか5世紀の木製輪鐙>>785とほとんど同じということだよw
- 810 :
- >>802
>ではそれは何世紀の様式の馬具なんだ?
>文句ばかりで何も言えないだろ?
言えるが?
既に>>611で正しく指摘されてる
- 811 :
- >>809
ほとんど同じって根拠は?
- 812 :
- >>806
>>>短里は魏志倭人伝と実際の地理を比較すれば確実に使われていた。
>>そんなこと断定する根拠は?
>自分で地図と睨めっこして計算してみなよ。
九州説がまったく根拠なく断定していたことが
また明らかになった
- 813 :
- >>811
箸墓馬具の写真見たことないの?
- 814 :
- >>757
桜井市教育委員会は、ほとんど国内出土例がなく、編年が存在しないにもかかわらず、
なぜか、箸墓築造時の周濠底から20〜30年分の腐葉土の上層から出土した木製輪鐙に関してだけは、4世紀「初頭」と推定w
- 815 :
- で?
結局
「5世紀初頭の鉄製오輪鐙とほぼ同じデザイン」
はデマということで
いいのね?
- 816 :
- >>814
4世紀の布留1式土器の下に埋まっていたからだそうだ。
これは土器編年自体がズレてる証拠とも言える。
- 817 :
- >>814
何故かって?
布留1の土器と共伴したからって発表されてるのに
九州説はまた朝からなに発狂してんだ?
いや、毎朝恒例か・・・
- 818 :
- >>816
庄内→布留移行期を(箸墓築造=248年に合わせて)極端に短く見積もるようになった、最近の土器編年を見直すべきだろうな。
- 819 :
- >>817
鐙が5世紀物だとしたら、4世紀の土器が後世で廃棄されたという事例だぞ?
土器編年の盲点だ。
下手すりゃ100年はズレてるだろう。
- 820 :
- >>819
それは畿内説にとっては、またブーメラン。。。
- 821 :
- >>741
>広開土王が乗船して指揮したのは一回でも、その一回で百済との戦いが終わったのではないから、
水軍が百済戦に出陣したのは一回に止まらない。<
直接関係がない。
好太王が渡海して倭と戦ったのは1回であり、それも倭王武の上表の80年以上位前。
>高句麗が水軍を運用していたのは事実。
高句麗が水軍を持たなかったとするお主の先入観は誤りだ。<
高句麗が半島の南の海にまで回って?、倭軍に大勝したのは、
好太王碑に書かれた一回切りだ。
- 822 :
- >>816
>これは土器編年自体がズレてる証拠とも言える。
編年のある土器で出した年代を
編年のない鐙で否定するって
論理が破綻してます
- 823 :
- >>814はデマってことでよろしいね?
九州説はデマばかりだな
- 824 :
- >>819
うゎ、コーヒー葺いた(ヤメレw)!それ次スレでも貼ってちょ!
- 825 :
- >>820
奈良の古墳が50年以上古く編年されてるのは有名な話だよ。
- 826 :
- >>820
いや、九州説の妄言
毎度のことだ
- 827 :
- >>818そのものがデマだし
- 828 :
- >>818
新旧関係に過ぎない土器編年を、根拠なしに絶対年代248年と結び付けて喧伝しているわけだから、編年ではなく操作だな。
- 829 :
- >>828
そんなことしてるって証拠は?
また中傷?
- 830 :
- >>825
どこの世界で有名なんだ?
鬼籍に赴いた九州説老人の間でか?
- 831 :
- >>825
すると本当の築造時期は、ホケノ山275年前後、箸墓300年前後ということでよろしいか?
- 832 :
- >>831
九州説のニセ編年はそうなのか
ww
w
- 833 :
- 本日も九州説のデタラメさが遺憾なく発揮されたのであった
- 834 :
- 畿内説…土器編年操作祭り
九州説…史実
ということでよろしいか?
- 835 :
- >>834
いや、九州説のインチキな年代操作の企みが
無残にも水泡に帰して
さらに信用を落とした
- 836 :
- >>834
はい。
その通りです。
- 837 :
- >>831
ざっくりと、ホケノは300年、箸墓は350年。
- 838 :
- >>828
庄内式土器の期間を異常に短く見積もることで、布留0(箸墓出土)=248年(>魏志倭人伝)に合わせてるなんて暴露、やめろよ。
- 839 :
- 九州説がデマ専門と立証されました
- 840 :
- >>809
結論
纏向の輪鐙が
「5世紀初頭の鉄製오輪鐙とほぼ同じデザイン」
はデマということで確定し
蔀屋北遺跡出土の木製輪鐙と同じという話も破綻して
九州説は今日も朝から惨敗した
おきのどくだな
- 841 :
- 史実をデマ呼ばわりする畿内説のバックはムン政権。
- 842 :
- いつもの九州説のあの人のパソコンは何故かハングルが打てるのだったな
- 843 :
- >>838
土器編年操作祭り、畿内説!w
- 844 :
- >>841
史実って、何?
- 845 :
- >>843
鎧袖一触
簡単に惨敗して
また中傷一辺倒になる
九州説の悲惨
- 846 :
- >>843
土器編年操作陰謀に失敗した上身バレまで、九州説!w
- 847 :
- >>838
もともと布留0式は300年前後だったのに、福永氏あたりが急に庄内式を圧縮して248年、だから卑弥呼の冢と言いだした。
それに関西考古学界とマスコミが乗っかり、喧伝したというのが実情。
- 848 :
- >>841
史実だって証拠は?
- 849 :
- 漢字変換に特徴ありすぎる日本国内で生産されてないPC を使ってると
かねてから噂されていた九州説のあの人なのかな
- 850 :
- >>847
阪大は京大に対するコンプレックスがスゴイからな。福永氏もつい悪魔に魂を売ってしまったのだろう。。。
同じ京大で山中教授に対抗しようとして、STAP細胞を開発した故・笹井教授のように。。。
- 851 :
- >>847
それも捏造だって証拠を
ほかでもない邪馬台国の会が発表してるよ
http://yamatai.cside.com/katudou/image/294-6.gif
- 852 :
- >>731
>古墳と関係ない祭祀遺構がゴロゴロ出てるから <
それって、葬儀だよ
マキムクに人が多く住んでたと言う大集落跡が見つかっいてないのは定説だ
- 853 :
- >>850
畿内説の牙城京大に反抗して阪大が年代を操作したとかいう発想そのものが
確実にアタマ狂ってます
- 854 :
- >>852
>それって、葬儀だよ
また九州説が何の根拠もなく断定している
- 855 :
- >>852
1>それって、葬儀だよ
2>マキムクに人が多く住んでたと言う大集落跡が見つかっいてないのは定説だ
1と2に、なんの論理的つながりもない件について
- 856 :
- >>850
京大に代わって畿内説をリードしようとした阪大・福永編年がなければ、畿内説は子供の語呂合わせ(ヤマト=邪馬台国)に過ぎない
- 857 :
- >>856
それがウソだって安本が証明してるよ
さっさと>>851を確認しろ
- 858 :
- >>768
>まあ、「初期の古墳」と銘打っていながら巨大古墳という時点で、矛盾だらけなんだよ。
それ以前の赤坂今井墳丘墓や西谷墳墓群9号墓、西桂見墳丘墓、楯築墳丘墓などのあと、
纏向古墳群で100メートル級の初期古墳が作られる
初期の古墳も、それ以前のローカル王権の伸長⇒権力誇示の巨大墳丘墓の造営、という
歴史の流れの中で現れて来るんだよ
北部九州でも、吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓は立派な大墳丘墓だが、その後あとが続かず
地域首長の成長というわ国内の流れから取り残された地域であることが分かる
九州説一押し(というか他に候補すら存在しない)の平原一号墓は、明確に
吉野ヶ里の首長よりも小物で倭王なんてとんでもないww
https://i.imgur.com/TV2qJ6M.jpg
- 859 :
- 『仏教 橋』
それとも神仙の話なのかな?
- 860 :
- >>775
>(20〜30年分の腐葉土φφφ)
ここがインチキ
腐葉土がたまって20〜30センチの堆積土となるのに20〜30年では足りない
平原一号墓の周溝が埋まるのも1週間でいいとか言ってたバカがいるけれど、
周溝の土坑墓と同時期に平原1号墓の墳丘内にも土坑墓が作られている
本体を作ってすぐにその墳丘を掘って庶民の墓を作るとか、
どれだけ尊敬の薄い首長なんだよww
のちに、3,4号墓が同じ敷地に作られていることから考えても、周溝の土坑墓が
1世代以上後なのは当たり前だろうに、九州説はデタラメしか考えないw
- 861 :
- >>788
>纒向遺跡は古墳造営サービス業者の跡地だったわけだが
権力誇示の巨大モニュメントは、
王都周辺
王都へのメインルート沿い
の2択だから、巨大古墳がある時点でその近辺が王都であることは動かない
これから逃げ続けるだけなのが、九州説
ひと頃はピラミッドは首都から離れてるとか嘘吐いていたけれど、
ピラミッド築造時の首都はピラミッドから程近いところにあった
- 862 :
- >>796
>それより九州説君のPCでハングルが打てる理由を教えてくれないか
それ!
普通出ないよなww
- 863 :
- >>861
>巨大古墳がある時点でその近辺が王都であることは動かない
で、その近辺が王都であったと言う考古学的根拠は?
- 864 :
- >>1=偽九州説=チョン
- 865 :
- >>861
>巨大古墳がある時点でその近辺が王都であることは動かない
で、その近辺が王都であったと言う考古学的根拠は? @阿波
- 866 :
- >>800
>短里は魏志倭人伝と実際の地理を比較すれば確実に使われていた。
確実に嘘ww
https://i.imgur.com/ihiyGSO.jpg
渡海距離を測る手段は3世紀にはない
一寸千里とかいう寝言は、もし本当に影長を測っていたら、
北部九州だろうが畿内だろうが、洛陽とほぼ同緯度であることが確認できる訳で
会稽東冶之東と明確に矛盾する
三角測量という寝言は十分な長さの基線が取れないから否定される
見えるからそれで見積もったというのは、結局は測っていないことの
言い換えでしかない
- 867 :
- 肥人種は8世紀でも異人
九州説=異人史
- 868 :
- >>800
>短里は魏志倭人伝と実際の地理を比較すれば確実に使われていた。
その通り。 @阿波
- 869 :
- >>742
>>畿内に国々(豪族たちの集合体)あったのは間違いないと思うけど、邪馬台国じゃないよ
倭人伝とそぐわないよ <
>理由は?<
そりゃ、根本的には、九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」があったから、だよ。
- 870 :
- >>804
>3世紀4世紀は九州が圧倒的に優位だが、5世紀にはヤマト王権が成立していないと日本史が矛盾だらけになってしまうということだよ。
紀元前〜1世紀までは九州が優位だが、2世紀末から3世紀には既に畿内中心の秩序・祭祀連合が
日本列島の西部をまだらながら覆っている
https://i.imgur.com/pOB095u.jpg
年代詐欺をしているのが九州説
- 871 :
- >>807
そうだね。
畿内説をはじめ、うそを積み重ねてきたことによる矛盾が吹き出しているようだ。
- 872 :
- >>810
何世紀のものなのか言えてないだろ。
- 873 :
- >>861
巫女千人と兵はどこに住んでたのか?
- 874 :
- >>817
>布留1の土器と共伴したからって発表されてるのに
>九州説はまた朝からなに発狂してんだ?
つまり、その馬具は何世紀のものなんだ?
相変わらず畿内説はグダグダ言い訳ばかりではっきりしないな。
- 875 :
- >>822
>編年のある土器で出した年代を
>編年のない鐙で否定するって
だから、その馬具は何年代のものなんだ?
さっさと答えろよ。
- 876 :
- 輪鐙と決めてかからない方がいいと思うがね
これが輪鐙
https://i.imgur.com/gHaAJj5.jpg
箸墓周濠出土の木製品がこれ
https://i.imgur.com/cAwYHZQ.jpg
銜でも一緒に出ていれば馬具だと断定できるが、
ひも付きでぶら下げる木製品以上のことは、これだけでは言えない
- 877 :
- >>828
>新旧関係に過ぎない土器編年を、根拠なしに絶対年代248年と結び付けて喧伝しているわけだから、編年ではなく操作だな。
まさにこれ。
畿内から出たものは、なんでもかんでもなぜか3世紀中頃になる。
その一方で、九州のものはなぜか2世紀か4世紀にしてしまう。
平原遺跡がいい例で、畿内説によれば2世紀か4世紀らしい。
おいおい、間の3世紀はどうした?
- 878 :
- >>861
>巨大古墳がある時点でその近辺が王都であることは動かない
で、その近辺が王都であったと言う考古学的根拠は? @阿波
- 879 :
- >>870
それ、九州から本州に降臨したニギハヤヒによるもの。
- 880 :
- 『西王母 鏡』
カッパ(河伯?)・・・関係の話にも出てくるし、
- 881 :
- >>861
いくら言い張っても、碌な鍛冶遺構弥生集落遺跡や資源の無い纏向に、「王都」など興る訳がない。 なにを考えているんだか。 @阿波
- 882 :
- >>877
大和の模倣筑前型庄内土器は3世紀
- 883 :
- >>860
>腐葉土がたまって20〜30センチの堆積土となるのに20〜30年では足りない
しかもその下に砂の層があるから濠の底だというのは二重のインチキだよな
- 884 :
- >>863
>で、その近辺が王都であったと言う考古学的根拠は?
誰も人が見ないような僻地に、巨大なモニュメントを作る理由を教えてくれww
巨大モニュメントは、剣極の大きさを誇示するためにできるだけ多くの人が
目にする場所に作るんだよ
そうでなければ作る意味がない
そして、現代社会の政経分離の首都(ワシントンとニューヨーク)が成立するような
進歩した社会様式が発達していない時代には、最大の人口を擁するのが
首都であり王都であるのは当たり前
巨大モニュメントは、その近辺もしくはそこに至る街道沿いに作られる
- 885 :
- >>879
>それ、九州から本州に降臨したニギハヤヒによるもの。
ニギハヤヒはいいけれど、その後九州にまったく繁栄が見られないのはどうして?
九州を含め西日本全体で大量に出土する三角縁神獣鏡も、九州では少数しか出ない
本家があるとはみなせないだろ?ww
- 886 :
- >>877
>その一方で、九州のものはなぜか2世紀か4世紀にしてしまう。
>平原遺跡がいい例で、畿内説によれば2世紀か4世紀らしい。
「らしい」って、またイイカゲンな情報?
九州説って信用したら絶対損するよね
- 887 :
- >>882
>大和の模倣筑前型庄内土器は3世紀
年代詐欺は、結局こういうひと目見てインチキと分かるデマを
言い張るところまで行くしかなくなるww
「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf
- 888 :
- 倭人伝を無視する畿内説はなんじゃもんじゃ
巻向が邪馬台国の王都と言う証拠を倭人伝に基づき述べろよ
おバカさん
- 889 :
- >>884
>誰も人が見ないような僻地に、巨大なモニュメントを作る理由を教えてくれww
倭国(阿波)を発って地方へ渡った「忌部はん」 豪族たちの、本国倭国(阿波)に対する、成功誇示・見栄だよ。 @阿波
- 890 :
- >>875
>>編年のない鐙で否定するって
>だから、その馬具は何年代のものなんだ?
>さっさと答えろよ。
編年がないと書いてあるのに、まだ発狂してんの?
九州説もう終わりだな
- 891 :
- >>863
>で、その近辺が王都であったと言う考古学的根拠は?
- 892 :
- >>874
>>布留1の土器と共伴したからって発表されてるのに
>つまり、その馬具は何世紀のものなんだ?
>相変わらず畿内説はグダグダ言い訳ばかりではっきりしないな。
布留1の土器と共伴したからって発表されてるのに
九州説はまた朝からなに発狂してんだ?
- 893 :
- >>884
>で、その近辺が王都であったと言う考古学的根拠は? @阿波
- 894 :
- >>872
>何世紀のものなのか言えてないだろ。
布留1だと書いてあるな
そして布留1の年代ならテンプレにある
- 895 :
- >>873
テンプレ嫁
- 896 :
- >>821
いずれにしろ、高句麗が水軍を保持していたのは事実。
だから、倭武王が高句麗の水軍に阻まれて入朝できないと書いたのは、何も変なことではない。
百済領内を歩いてさらに高句麗領内を通過し、渤海沿岸を歩いて北魏の領内を進み、それから南下して南京まで行くといったい何日かかるのよ。途中病気になって死ぬ可能性のほうが高い。
船だと仁川の先の甕津あたりから山東半島へ短期間で渡海できるのだから、わざわざ高句麗領内を歩いてぐるっと皇帝のいる南京まではるばると歩かなくてよいのよ。
倭武王の上表文は、高句麗が百済の国境付近を侵犯するので阻まれて山東半島へ渡海できないと訴えているわけ。
現実無視の陸路主張は無理。
- 897 :
- >>888
>倭人伝を無視する畿内説はなんじゃもんじゃ
倭人伝の何を?
問い詰めるとまた「南」しか言わないアホ九州説かな?
- 898 :
- >>887
無知なくせに2chで他人が貼ったものを読みもしない
知ったかぶり異人種
- 899 :
- 輪の部分がほとんど欠けてる纒向の輪鐙を
同じスタイル同じスタイルと言い張った
九州説の詐欺師さんはどこですか
- 900 :
- 日本の学者の編年を拒絶するなら
九州の全ての出土物は【年代不明】
- 901 :
- >>899
学者がそれ見て木製の輪鐙だと判断して報告しているのに、君は異論でもあるの?
- 902 :
- >>884
>巨大モニュメントは、剣極の大きさを誇示するためにできるだけ多くの人が
>目にする場所に作るんだよ
その割には全国各地に分布しているが?
>進歩した社会様式が発達していない時代には、最大の人口を擁するのが
>首都であり王都であるのは当たり前
魏志倭人伝から、奴国と伊都国はニューヨークのワシントンのような役割の分化があったことが窺えるが、畿内はまだ未発達であったようだけど?
そのような未発達な地域が王都になるのか?
- 903 :
- >>885
>ニギハヤヒはいいけれど、その後九州にまったく繁栄が見られないのはどうして?
発達が見られないというのは何が根拠?
思い込み?
- 904 :
- >>886
>「らしい」って、またイイカゲンな情報?
畿内説の書き込みが根拠だから、あやふやで信用に足らないんだよ!
- 905 :
- >>892
>布留1の土器と共伴したからって発表されてるのに
>九州説はまた朝からなに発狂してんだ?
ならばさっさと年代を答えろよ。
- 906 :
- のらりくらり
ああ言えばこう言うキナイコシ
- 907 :
- >>902
伊都国王は女王国に従属してるからワシントンDCの存在じゃない
- 908 :
- 魏志倭人伝が記す帯方郡から邪馬台国まで1万2千余里の1万2千余里は遠いところの慣用句だとみられる。
しかし、そんなことはないと、1里75mなどの単位でもって1万2千余里を理解しようとする向きがいる。
間違いである。
宋書倭国伝の冒頭に次の文がある。
「高祖永初二年 詔曰 倭讃萬里修貢遠誠宜甄可賜除援…」
この文章の中の「萬里」は(遠いところ)の意である。
短里者は、これも1里75mで計算するのだろうか。
大和から仁川〜山東半島経由で南京に着く距離は2500km。
一方、1万里を1里75mで計算すると750kmに過ぎない。
また、1万里を仮に魏晋の1里434mで計算すると4340kmになる。
こちらは地図上の2500kmの1.7倍になる。
とにかく、宋書の「萬里」は実距離を表していず、遠いところの慣用句であるのはごく当たり前。
これと同じ倭人伝の1万2千余里も遠いところの慣用句。
1里75mは無理。
- 909 :
- >>907
九州北部の諸国が伊都を恐れ憚っていた。
- 910 :
- >>908
>魏志倭人伝が記す帯方郡から邪馬台国まで1万2千余里の1万2千余里は遠いところの慣用句だとみられる。
それはお題目?
- 911 :
- >>909
>九州北部の諸国が伊都を恐れ憚っていた
捏造はいかんよ九州説
- 912 :
- >>905
>ならばさっさと年代を答えろよ。
テンプレに書いてあることは答える必要がないな
テンプレに俺の異論があるときだけ言うよ
- 913 :
- >>909
諸國が畏憚していたのは
女王國が特に置いた諸國を檢察していた一大率
伊都國王は名前も記されない倭の女王とは別の従属している王
郡使が必ず滞在するから通訳や接待役だろう
- 914 :
- >>899
シカトされたのでもう一度。
学者がそれ見て木製の輪鐙だと判断して報告しているのに、君は異論でもあるの?
- 915 :
- >>912
まともに議論もできないなら黙っていたら?
- 916 :
- 頭の悪い奥山氏が、畿内説の学者とは異なる見解を示し、テンプレが奥山氏の妄想の産物であることを、カミングアウトしてしまったのでは、ないのかな。。。
- 917 :
- >>913
つまり伊都に九州北部最大の権力機構があったんだよ。
周辺国はそらを恐れ憚った。
- 918 :
- >>914
輪鐙と書いてる俺に何で異論あると思うの?
白痴の人?
- 919 :
- >>917
でもそれは伊都国ではない
- 920 :
- >>916
それが妄想だから九州説にはつける薬がない
- 921 :
- >>918
5世紀の輪鐙と同じものだと言う事は認めるんだな?
- 922 :
- >>915
まともに議論できないという根拠は?
- 923 :
- >>765
>祇園山古「墳」だから墳であって冢じゃないので
祇園山は卑弥呼の墓じゃあなし <
「南→東」などの嘘付き騙しのある大和説の発掘担当者の付けた呼称は、
始めから、信頼性が全くなく、根拠にもならない。
- 924 :
- >>921
>5世紀の輪鐙と同じものだと言う事は認めるんだな?
誰が認めると言った?
妄想しすぎ
- 925 :
- >>888
>倭人伝を無視する畿内説はなんじゃもんじゃ
>巻向が邪馬台国の王都と言う証拠を倭人伝に基づき述べろよ
纏向遺跡がこの範囲の秩序の中心なのは考古学的に明白
https://i.imgur.com/pOB095u.jpg
纏向遺跡が2世紀末から存在すること=魏志倭人伝に記載の時代の中心であることが確実
https://i.imgur.com/qOswdpR.jpg
宮室(これは年代が異なる)
https://i.imgur.com/dg1h5jS.jpg
城柵(これは年代ばっちり)
https://i.imgur.com/DoW0DbB.jpg
鉄族
・ホケノ山 畿内 3世紀中葉
鉄鏃 約60本
素環頭大刀 1口
鉄製刀剣類 10口
・椿井大塚山古墳 畿内 3世後葉
鉄刀7本以上、鉄剣十数本以上、鉄矛7本以上、鉄鏃約200本、
銅鏃17本、鉄製甲冑1領、鉄鎌3本、鉄斧10個、鉄刀17本、
鉄製ヤリカンナ7本以上、鉄錐8本以上、鉄ノミ3本以上、
鉄銛十数本、鉄ヤス数本、鉄製釣針1本
その他鉄製冠ではないかと疑われる鉄製品
・黒塚古墳 3世紀後半
刀剣類27口以上、鉄鏃170本以上、小札、U字形鉄製品
十分だろ?
- 926 :
- >>917
楽浪土器は在地の土器が漢の影響を受けた土器
糸島の漢代から楽浪炊飯土器が出る特定の地点は楽浪系の非倭人
女王はここに一大率の治所を置いて諸國を檢察させた
- 927 :
- >>910
短里者の誤りを指摘しているだけだよ。
- 928 :
- >>902
>その割には全国各地に分布しているが?
だから、全国各地でそれぞれの首長・豪族が権力誇示をしているんだよ
つまり、同じ文化の中にあることを示している
九州だけが倭国であるという九州説の主張が死亡しているってこと
そして、その中で最大の墳丘墓=最大権力を誇示しているのがその同じ文化の中の
最大の権力者=倭王ってことだよ
おバカさんww
九州説で今まともに反論しているふりをしているのはこのバカだけだが、
いかんせん、バカすぎるww
>奴国と伊都国はニューヨークのワシントンのような役割の分化があったことが窺えるが
はい、大嘘
ただの思い付きですねww
どちらにしても、奴国にも伊都国にも大してでかい墳丘墓がない時点で
倭王の都の資格なしだよ
那珂八幡古墳が奴国首長墓でそれが精一杯
現実を見ろよw
- 929 :
- >>924
学者がそう認めたから輪鐙だと判断され、報告されたわけだが?
そして年代は4世紀初頭と発表し、現存する世界最古の馬具になっている。
しかしその当時の中国がまだ馬を導入した段階であった。
4世紀初頭に奈良に馬が居てしかも乗馬文化があったというのは無理がある。
- 930 :
- >>903
>発達が見られないというのは何が根拠?
>思い込み?
「発達」が見られない、ではなく「繁栄」が見られない、だ
これだけで、北部九州が田舎だって分かるだろ?
墳丘長200メートル以上の大古墳は、全国に40基ある
奈良県 20基
大阪府 15基
岡山県 造山古墳
作山古墳
両宮山古墳
群馬県 太田天神山古墳
京都府 神明山古墳
トップ101で数えると墳丘長137メートルまで数えることになるが、
奈良県 34基
大阪府 27基
岡山県 9基
群馬県 5基
京都府 5基
兵庫県 茨城県 宮崎県 3基
三重県 2基
宮城県 山梨県 愛知県 鹿児島県 福岡県 千葉県
岐阜県 福井県 石川県 香川県 埼玉県
が1基ずつだね
ちなみに福岡県は岩戸山古墳で80位 筑紫君磐井の墓
これが北部九州の最高到達点
弥生末期に繁栄しているところは古墳時代前期に大古墳を作っている
- 931 :
- >>909
>九州北部の諸国が伊都を恐れ憚っていた。
これが、九州説の大好きな捏造ネタの一つww
伊都国を含む北部九州諸国が畏れ憚っていたのは、「一大率」であって伊都国ではない
そして「一大率」が畏れ憚られたのは、背後に邪馬台国の権威があるから
- 932 :
- 八女などの筑後は5世紀後半〜6世紀前半の短い期間に九州では大きな前方後円墳が造られる
この時期に朝鮮半島西南部の栄山江流域に前方後円墳が造られる(10基確認)
同時期には筑前の沿岸部には大きな古墳は造られなくなる
「日本列島の須恵器の祖型と考えられる陶質土器が
初期の加耶のものから5世紀前半を境に全羅南道地域のものに変化する」(白石)
- 933 :
- >>908
帯方郡(平壌)→女王国(阿波)万二千里( 直線距離 900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。
- 934 :
- >>929
それのどこが
5世紀の輪鐙と同じものだと
認めなきゃいけない理由?
しかも、これ
↓
>しかしその当時の中国がまだ馬を導入した段階であった。
明らかにウソでしょ
- 935 :
- >>913
>郡使が必ず滞在するから通訳や接待役だろう
いわゆる、伊都国(直方あたり)は、出入国管理局。 @阿波
- 936 :
- >>925
それら全部、「忌部はん」の持ち物! ごめんね。 @阿波
- 937 :
- >>928
>だから、全国各地でそれぞれの首長・豪族が権力誇示をしているんだよ
>つまり、同じ文化の中にあることを示している
つまり、「忌部はん」 の文化をしめしている! @阿波
- 938 :
- >>934
5世紀の木製輪鐙を見て、箸墓出土の木片は輪鐙だと判断されたんだぞ?
何いってんだ?
馬の歴史は専門的にやってるからそこに確認しろよ。
ちなみにそこは部落開放同盟だったけどな。
- 939 :
- 日本で世界一古いものが見つかるのは別におかしいことではない
むしろ自然だ
放っておくと土地開発でどんどん遺跡が失われるから、日本は破壊前に調査を入れることを法的に義務付けている
中国では濫りに発掘すると現在の技術ではかえって破壊してしまう恐れがあるから破壊されないようにして埋めておく
文化政策のスタンスに大きな違いがある
- 940 :
- >>939
日本では自分で埋めて掘り出す奴もいるけどなw
- 941 :
- >>938
おいおい
また発狂したのか?
どこの誰が輪鐙でないと言った?
いや・・・
もしかしてお前、日本語がよくわからないのか?
- 942 :
- >>863
で、その近辺が王都であったと言う考古学的根拠は? @阿波
- 943 :
- >>923
なら卑弥呼の墓が箸墓前方後円墳でもいい事になるなあ
学者の命名がアテにならないというならこっちは前方後円墳を改めて前方後円「冢」とか呼んでもいいだろ?
- 944 :
- 箸墓古墳の濠の底から、20年分の土が埋まって固まった部分に、5世紀の畿内馬具が埋まっていたのだったな。。。
- 945 :
- >>944
貴方は、知識が豊富ですね。。。
- 946 :
- 箸墓は前方後円墳改め前方後円冢なので卑弥呼の墓
- 947 :
- >>941
だから何を参照して輪鐙と判断したのか?という話だろ?
5世紀の輪鐙と形状が同じだから輪鐙と判断された。
なのに4世紀と編年された。
それだけの事だが?
- 948 :
- >>944
つまり、箸墓古墳が完成したのは、4世紀の後半なのだな。。。
- 949 :
- 負けキウスが自演を開始した
- 950 :
- >>948
はい、学部では、常識です。
- 951 :
- 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の奥山氏は、卑劣な自作自演をするのだったな。
- 952 :
- バンビシャスは、次は、愛媛に闘いに行くのではないのかな。。。
- 953 :
- 箸墓古墳の濠の底から、20年分の土が埋まって固まった部分に、5世紀の畿内馬具が埋まっていたのだったな。。。
- 954 :
- 今まで九州説は前方後円墳は墳であって冢じゃないから卑弥呼の墓じゃなしと言っときながら
じゃ九州説が卑弥呼の墓に推す祇園山古墳も墳であって冢じゃないから卑弥呼の墓じゃねーなと言われれば学者の命名だからアテにならないと言い出す
こういうのをバカという
- 955 :
- 箸墓は確かに槨有りなので卑弥呼どころか倭人の墓で有る事も証明出来ない。
- 956 :
- >>952
北方ゲルマン一族が、愛媛で蜜柑を栽培している可能性が高いな。。。
- 957 :
- >>954
>こういうのをバカという
目糞鼻糞を笑う。 わははははは @阿波
- 958 :
- >>956
蜜柑の色々な種類を、食べ放題で提供する商業が実行されている可能性も、あるのではないのかな。。。
- 959 :
- バンビシャスは、オレンジバイキングスを叩き潰すことができるだろうか。。。
- 960 :
- 960
- 961 :
- 箸墓古墳は、銅鐸王家の最後の王の妻を、怨恨の魂が暴れない様に、封印した古墳だったな。。。
- 962 :
- >>947
>5世紀の輪鐙と形状が同じだから輪鐙と判断された。
知能が低いな・・・
長いこと用途不明品とされてきて、先刻ようやく輪鐙と判断できた程度の類似でしかなかった
鎧自体による編年など夢の夢
当然ながら層位により4世紀初頭のものとされた
これには、もう1点手がかりがある
鐙靼孔が縦長で5世紀以降のものとは明瞭に形式が違うことだ
同じ形などではないんだよ
ましてや欠損してる部分の形さえ分かってないじゃないか
考古学者が誰一人認めてない考古学の新説を何も知らない素人が作って、それで畿内説を論破しようなんて
夢なんだよ
- 963 :
- 纒向の古墳は、銅鐸王家の都だった奈良盆地の無人の片隅に、銅鐸王家の者達の怨恨の魂が暴れない様に、封印するために、作製されたのだったな。。。
- 964 :
- 5世紀代の倭王の宋王朝への使節団派遣のルートは、次のような経路だっただろう。
対馬海峡を渡って半島南岸の固城に着き、それから珍島より百済西岸を北上して仁川、そして石浦里あたりから山東半島へ渡り、沿岸を南下して青島、連運港に到着し、それから都の南京へ陸路を歩いたのではないか。
当時、百済の中心地は仁川の近くの漢江流域の京畿道あたりにあった。
倭武王の頃には高句麗がこの京畿道あたりに侵攻してきて、百済は遷都することになる。
倭武王が上表文で、朝貢のために船舶を準備したものの高句麗が百済に侵攻しているため宋の都へなかなか朝貢できない、と述べているのはこの高句麗の侵攻のことを指しているのだろう。
こうした状況をみると、倭王武の使節団が陸路を南京まで歩いたとする短里者の考えは、相当に無理がある。
- 965 :
- >>963
つまり、纏向は、邪馬台国とは、完全に無関係なのですね。。。
- 966 :
- >>965
はい、学部では、常識です。
そして、纏向に古墳が最初に出現したのは、4世紀です。
- 967 :
- >>966
九州説はウソをつく
- 968 :
- >>963
纒向の古墳は、銅鐸王家の都だった奈良盆地の無人の片隅に、銅鐸王家の者達の怨恨の魂が暴れない様に、封印するために、作製されたのだから、同じ時代の人民の住居が無いのは当たり前のことなのだね。。
- 969 :
- >>919
伊都国だよ。
- 970 :
- >>962
>考古学者が誰一人認めてない
君は考古学者かね?
考古学者が輪鐙だと判断したんだけど?
- 971 :
- >>926
>糸島の漢代から楽浪炊飯土器が出る特定の地点は楽浪系の非倭人
駐在した郡使を饗応するために使ったのだろうね。
卑弥呼もそこから遠くないところにいたはず。
- 972 :
- >>928
>だから、全国各地でそれぞれの首長・豪族が権力誇示をしているんだよ
王都がたくさんあったのか?
大古墳=王都がもう崩れたぞ。
- 973 :
- >>968
畿内説は銅鐸との繋がりも説明しなきゃな。
史書や記紀のどこにも銅鐸の話は出てこないし。
邪馬台国どころか倭国だった事も怪しいな。
- 974 :
- 魏志倭人伝時代には、畿内には、まだ滅ぼされていない銅鐸王国があった可能性が高いな。。。
- 975 :
- >>939
>放っておくと土地開発でどんどん遺跡が失われるから、日本は破壊前に調査を入れることを法的に義務付けている
そのため、報告せずにこっそり破壊することも多いらしい。
- 976 :
- >>968
はい、纒向の古墳は、銅鐸王家の都だった奈良盆地の無人の片隅に、銅鐸王家の者達の怨恨の魂が暴れない様に、封印するために、作製されたのだから、都ではないのは当たり前のことです。
そして、後の時代に天皇の称号が与えられた、銅鐸王国の王家の怨恨の魂が暴れないように祭祀を実行した崇神天皇の一家が住んでいました。
- 977 :
- >>975
発掘調査にかかる高額費用が施主持ちだからね。
一部補助金ぐらいは出るだろうけど。
- 978 :
- 纒向の古墳は、銅鐸王家の都だった奈良盆地の無人の片隅に、銅鐸王家の者達の怨恨の魂が暴れない様に、封印するために、作製されたのだったな。。。
- 979 :
- >>971
非倭人が住んでる国が遠いから一大率を置いた
- 980 :
- 次回のスレッドが作製されたので、紹介します。。。
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1571113691/1
- 981 :
- 次回のスレッドが作製されたので、紹介します。。。
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1571113691/1
- 982 :
- >>979
根拠のない妄想
- 983 :
- 次回のスレッドが作製されたので、紹介します。。。
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1571113691/1
- 984 :
- 次回のスレッドが作製されたので、紹介します。。。
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1571113691/1
- 985 :
- >>982
お前のが異人種の根拠のない妄想
- 986 :
- 次回のスレッドが作製されたので、紹介します。。。
http://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1571113691/1
- 987 :
- 次回のスレッドが作製されたので、紹介します。。。
http://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1571113691/1
- 988 :
- 次回のスレッドが作製されたので、紹介します。。。
http://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1571113691/1
- 989 :
- 次回のスレッドが作製されたので、紹介します。。。
http://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1571113691/1
- 990 :
- 990
- 991 :
- なぜ、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだろうか。。。
- 992 :
- 992
- 993 :
- 993
- 994 :
- 994
- 995 :
- 995
- 996 :
- 996
- 997 :
- 997
- 998 :
- 998
- 999 :
- 999
- 1000 :
- 今回も、邪馬台国畿内説が、完全に叩き潰されてしまった。。。
- 1001 :
- 2ch.scからのレス数が1000に到達しました。
- 1002 :
- 2ch.scからのレス数が1000に到達しました。
邪馬台国畿内説 Part415
邪馬台国畿内説 Part373
◆◆渤海国について語ろう2◆◆
★卑弥呼が満鮮にいたとの話しは嘘だとうが。
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【盗作赤腹】日本史公募スレ【下半身人事】 其12
邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part15
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