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【蒙古襲来】元寇【文永・弘安の役】8


1 :2016/09/14 〜 最終レス :2020/02/27
モンゴル帝国による元寇を軍事的に考察しましょう。

前スレ
【蒙古襲来】元寇【文永・弘安の役】7
http://peace.2ch.sc/test/read.cgi/army/1413082769/

【蒙古襲来】元寇【文永・弘安の役】6
http://peace.2ch.sc/test/read.cgi/army/1402160978/

【蒙古襲来】元寇【文永・弘安の役】5
http://peace.2ch.sc/test/read.cgi/army/1358050246/

【蒙古襲来】元寇【文永・弘安の役】4
http://toro.2ch.sc/test/read.cgi/army/1353671134/

【蒙古襲来】元寇【文永・弘安の役】3
http://toro.2ch.sc/test/read.cgi/army/1346923005/

2 :
モンゴル軍の馬 VS 日本軍の馬

タブン・トルゴイ遺跡、ツァガーン・チュルト遺跡から出土したモンゴル帝国時代の馬(9例)の推定体高
最小120.2cm 最大134.0cm 平均127.7cm

材木座遺跡から出土した鎌倉時代の馬(38例)の推定体高
最小109cm 最大140cm 平均129.5cm

3 :
age

4 :
元寇スレ復活したんか

5 :
日本征伐だろ、ぱか!

6 :
韓国に賠償金を請求すべきだ

7 :
当時海水温が高くスーパー台風が発生したので木造船などひとたまりもなかった

8 :
元寇に関しては嘘が多いね、これは日本側の鎌倉幕府の記録が嘘八百な誇張表現であり、それに目を付けた戦後日教組が「大陸と孤立している事が悪いことかのように誇張してモンゴルに対する悪口とも取れる必要以上に野蛮な表現」
そして有名な名乗り上げだけど、これは「当時キエフルーシ(モンゴル系キプチャク・ハン国)との現ウクライナ国元祖ルーシ系王座が壊滅し、その後モンゴル帝国臣従偽ルーシ族(ウクライナ人は緑ルーシ)こと黒ルーシモスクワ属国大公国」が
「ルー氏系国家代表を自称」する汚い歴史が始まる。その後ロシア帝国時代も「ウクライナ・キエフこそが本物のルーシ族の古都であり、僭称しているモスクワ首都やペテルブルグのロシア帝国は偽物がそれっぽい格好つけてやがるw
非スラブ語圏から一般認識は中世まで「ウクライナ・キエフ復興とモンゴロイドぼこるべし」だった)
つまり、欧州ですらポーランド・リトアニア二十王国と子分だったプルーセン公国ら諸侯連合軍及び神聖ローマ帝国(ウィーン及びブダペスト首都)を持ってしてようやく止める事ができた
(しかもたまたまチンギスハンの病死によって風のように破壊のがれきの山のみ残して去って行ったモンゴル帝国軍)んだから、問題にすべきは
この時に「撤退を船内で意見するモンゴル系武将に対して、物凄い剣幕で日本を攻めるべきと主張した加害者高麗国の武将」。被害者日本国の立場は1000年変わらない!元寇が1100年代後半やろ?だから最低でも22世紀まで日本が被害者確定な?いいんだよな?
韓国大統領が「1000年恨む」と宣言したからな。俺は朝鮮人と同じになる〜だの同じレベルに降りて〜だのというよくある日本の風潮は国際的に通用しないと知っているから無視する。
「目には目を歯には歯を(現在も続く大国際原則である)」、高木正雄さんこと朴正煕さんの言いつけ守れクネクネババァ。
2180年代までは「高麗国から発展した英語名コリアKOREA【高麗】」の南北朝鮮住民は「加害者の立場確定!」、
「渋谷スクランブル交差点中心で」三跪の儀式をまず、北チョン借り上げ糞デブ野郎にやらせろや!!絶対に許さないのは日本人のほうだ。「世界平和の敵である北チョンカス野郎」!

9 :
鎌倉幕府の記録が嘘八百な誇張表現なんてことは無い。
そもそも鎌倉幕府の記録はそれほど残ってないし、あるのは淡々と事実を記した
事務的な記録がほとんど。
嘘八百な誇張表現なのは朝廷や宗教関係の記録ね。
特に朝廷は承久の乱以降、鎌倉幕府の武力によって押さえられてたから。
建武の新政正当化のために鎌倉幕府の武力を否定した歴史に書き換える必要があった。

10 :
また、5月のポツダム予備会談において、ソ連のスターリンは、極東ソ連軍が8月中に攻勢作戦を発動すること、満州国領域における中国の主権(中華民国とは明言せずに地域名出る中国地方と発言した悪い独裁者)を尊重すること、

朝鮮半島を米ソ英中が信託統治すること(これに対して「日本統治のままで維持される方が良い!!という朝鮮市民による委任統治反対デモが起きている)、などであった、

さらに、この時のスターリンは8月以前の対日参戦の旨と大連港の国際利用(現実は東側中華人民共和国に対して戦後法的根拠を無視してスターリンが譲渡した為現在も中華民国領と主張する政治家が台湾にいる)を表明した。さらに対日処理については、

無条件降伏(結果的には有条件降伏に成功し国体護持に成功して停戦した為にドイツ国と同様の完全直接軍政下に陥る最悪の字体のみは避ける事が出来たのが史実)と徹底的な軍備撤廃(ホワイト次官の内通に気付いたアメリカによる再軍備で冷戦に粘り勝つ西側諸国化)、
ソ連軍による日本占領(実現しなかったが、ポツダム停戦条約で日本の北海道続投として残るはずの北方4島領土を彼らの言うクリル列島内であるとし不法占拠した)を主張し、
アメリカに戦略物資の支援を要求
チャーチルは中国での「国共内戦での英軍被害に報復として反共軍介入」を主張したが、この時に「アルバニア決議」という最低の欺瞞的詐欺決議(はとやまルピ夫・おざわとつづく悪い田中角栄の系譜はわかりやすい売国奴)によって
中華民国が中華人民共和国に対して1970年代に代表権を「盗まれた被害者」となる事は避けられた公算が高い。おそらくチャーチルは一貫して日本反共国家化に貢献。
(途中でアトリー内閣に替わった事で内通していた英国労働党から核技術や貴重なジェットエンジン技術が流出する事を予期していたソビエト共産党は最終的に世界赤化を中国共産党と共に始めた。団塊の世代を自虐史観に洗脳した日教組に資金援助し、日本社会党に繋がる)

11 :
書き込みないね
元寇って魅力あるテーマだと思うけどな
ヨーロッパの騎士からイスラム、中国、朝鮮、東南アジア、日本の武士、おまけにアイヌまで
モンゴル軍って物差しで語ることができる

12 :
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13 :
元寇を書いたブログとか見ると、未だに元軍は台風で勝手に自滅してくれたって書いてるアホがいて辟易する。
なんで勉強も調べもせずドヤ顔で書けるんだろうか

14 :
元寇船研究機関、松浦市長「来春設置へ検討」
ttp://www.yomiuri.co.jp/kyushu/culture/history/20161107-OYS1T50018.html

15 :
>>11
過去ログ見ればわかるけど、軍板や日本史板では既にここ10年くらいで語り尽くされてる感すらあるんだよ元寇は

16 :
これと朝鮮の役や山田長政みてると
日本人戦闘民族説、ってことになるわけだけどなあ

17 :
>>15
ここ10年くらいの議論が一気に無意味化するレベルの史料見つけた。
年内にブログにUPするわ。

18 :
>>16
将軍や参謀は白人様最高で、肉体労働専門の兵隊民族だけどな

19 :
>>18
兵隊じゃなくて奴隷未満の間違いだろう

20 :
時代を下るにしたがって悪化しているがな。
>>16
数百年前のことだし・・・

21 :
ツイッターで今年見た中でなかなか個人的にうけた呟き。

「最近の台風は根性が無い、どれだけ規模が大きくとも会社ひとつ休みにできない」

22 :
>>17
http://blogs.yahoo.co.jp/sa341gazelle/56175927.html

23 :
>>18
当時は将軍から一兵卒に至るまで最強クラスだしな
山田長政が国王側近の領主様までいってるわけだし

24 :
>>22
そのブログより:
>「會夜大風雨」の「會」とは、前後の事情がうまく合致した意であり、「たまたま」と読み
>「おりしも」「ちょうどそのとき」と訳す言葉ですから、本来ならモンゴル艦隊の遭難は
>軍議によって撤退を決めたその夜でなければならないはずでした。

間違い。
「遂引兵還、會夜大風雨」と続く。大風雨に遭う前にすでに「還」すなわち出航している。
だから「撤退を決めたその夜」ではなく「出航したその夜」だ。

正確に言えば大風雨に遭ったのは廿一日の日没以降。

25 :
ついでに言えば同じブログの:
>『八幡大菩薩愚童訓』筑紫本の「然ニ夜明ケレハ二十一日之朝、海ノ面ヲ見ルニ、
>蒙古ノ舟共皆馳テ帰ケリ」という記述は、「夜が明けた二十一日の朝に海面を見たら、
>蒙古の船が皆撤退した後だった」ではなく、「夜が明けた二十一日の朝に海面を見たら、
>蒙古の船が皆撤退して行った」と解釈するべきだったのです。

これも間違い。「馳せて帰けり」の「馳せて」を「走って」と解釈して、「目の前を
走って(つまり航行して)帰って行った」と解釈したのだろうが、「馳す」は「走る」
意味よりも、主として複合動詞として「急いで・・する」の意味を表わすのに用いられる。

因みにこれを「行く」「帰る」などと複合させると、完了のニュアンスを帯びる。
馳せ帰った〜急いで帰った〜さっさと帰った〜さっさと帰ってしまった、という繋がりだ。
だから八幡大菩薩愚童訓の解釈は「夜が明けた二十一日の朝に海面を見たら、蒙古の船が
皆撤退した後だった」で正解なのだ。

26 :
このような完了を表わす「馳せて」は方言に残っている。
九州方言に「はってーた」というのがあって、「行ってしまった」の意味に用い
られるのを知っているだろう。方言辞典にも載っている。

この言葉の語源は「這って行った」「果て行った」などと俗解されるが、どちらも
しっくりしない。
この言葉の語源は「馳せて行った」が最も妥当なのだ。「馳せて」の本来の用い方で、
急いで行った〜さっさと行った〜さっさと行ってしまった、の繋がりで完了を表わして
いる、と考えるわけだ。

音的には、はせていった〜はせてーた〜はすてーた〜はってーた、と転訛したと
考えれば無理が無い。

27 :
>>17
その史料はどこにアップされたの?

28 :
>>17ではないが

http://goshosystem.info/colum_h19_ft.html
に解説がある。

『金綱集』雑録(山梨身延文庫蔵)
坂井法曄「日蓮の対外認識を伝える新出資料」
(『金沢文庫研究』311号)より転載
と断った、文永の役関連の一部原文の写真も載っている。

文永の役関連部分の全文は>>22のURLにある。

29 :
>>24
間違い。
モンゴル軍は21日早朝に博多湾から出てるんだから「遂引兵還」は20日夜だよ。
20日夜に撤退を開始しないと翌朝卯尅までに博多湾から出ることなんて無理だからね。

>>25
『金綱集』にモンゴル軍の撤退時刻が書いてあるんだから日本軍は撤退を目撃してる。
「夜が明けた二十一日の朝に海面を見たら、蒙古の船が 皆撤退した後だった」
わけじゃないのだ。

ところでさ、>>24>>25で平気で矛盾したこと書いてるのはどういうわけなん?
俺は20日夜に上陸部隊の撤収を行い、 21日卯尅までに志賀島に座礁した1艘を除いて
博多湾から脱出したと考えてる。
ところがあんたは、>>25を読む限り20日夜にモンゴル軍は博多湾から出航を終えたと
考えてるわけだよな。
これって>>24に自分が書いたこと全否定じゃん。

30 :
>>6
「元寇」という言葉は教科書から消える予定の使えない言葉
対して「倭寇」という言葉はこれからも未来永劫にわたって使い続けるので
賠償しなければならないのは日本のほうだ

31 :
>>30
>「元寇」という言葉は教科書から消える予定の使えない言葉
ほーん、次はこういう手でくるのか
聖徳太子非実在説で存在抹消が難しくなったから厩戸「王」に名称変更させたり
教科書はてめえらのおもちゃじゃねーぞクソが

32 :
文部科学省批判、ひいては政府を誹謗する非国民の登場ですか

33 :
>>32
それらを批判すると非国民というあなたはどういった立場の方なんですか?

34 :
>>29
>俺は20日夜に上陸部隊の撤収を行い、 21日卯尅までに志賀島に座礁した1艘を除いて
>博多湾から脱出したと考えてる。

全くその通りだ。
博多湾は志賀島の座礁船1艘を除いてもぬけの空だった。
百余艘の漂着船は博多湾にはいなかったのだ。 

議論する必要はなかったな。

35 :
>>34
は?
21日卯尅時点で百余艘が漂着してるんだから遭難はそれ以前、博多湾内しかありないじゃん。

36 :
>>35
>俺は20日夜に上陸部隊の撤収を行い、 21日卯尅までに志賀島に座礁した1艘を除いて
>博多湾から脱出したと考えてる

と、百余艘博多湾内漂着とは、どのように両立するのか?
座礁船も一種の漂着船ではないか。

37 :
>>36
志賀島の1艘は漂着船じゃない。
日本軍の見てる前で座礁し拿捕された船だ。

38 :
>>29
>ところがあんたは、>>25を読む限り20日夜にモンゴル軍は博多湾から出航を終えたと
>考えてるわけだよな。
>これって>>24に自分が書いたこと全否定じゃん。

では>>24を見て見よう。
>「遂引兵還、會夜大風雨」と続く。大風雨に遭う前にすでに「還」すなわち出航している。
>だから「撤退を決めたその夜」ではなく「出航したその夜」だ。
>正確に言えば大風雨に遭ったのは廿一日の日没以降。

これのどこが、「20日夜にモンゴル軍は博多湾から出航を終えたと考えてる」ことになるのか?
いくら考えてもわからない。

私は出航は21日未明、すなわち21日の午前零時から午前6時までの間と考えているよ。
理由は、2万の大軍が20日夕方の軍議が終わった後に乗船を開始して、出航準備が終わるのは
どうしても21日未明に及んでしまうと考えるからだ。
したがってその後の「ちょうどその夜」は21日の夜すなわち21日の日没から深夜までの間。

39 :
<続>
もうひとつのポイント。「遂引兵還」は「遂に撤兵帰国が決まった」ではない。
「遂に撤兵が完了して帰途についた」だ。

理由は「復亨中流矢先登船」だ。ここで全軍の乗船が開始されている。
「遂引兵還」までが軍議の記事と見るならば、軍議の途中で復亨が射られたことになり、
不自然。
軍議はその前の「不如回軍」で終わっているのだ。この言葉はクドゥンの結論であり、
したがって命令なのだ。

こう見てくれば「遂引兵還」は「(復亨も船に乗り)それに続く全軍の乗船もやっと
終わって、本国に向かって帰途に就くことができた」であり、それが「ところが運悪く
ちょうどその夜・・」の「会夜大風雨」に続くわけだ。

40 :
>>38-39
高麗史には「遂引兵還」とかいてあるだけで「博多湾」云々は一切書いてないが。
三郎浦に船を捨てた場面から始まってることを考えれば、「三郎浦」からの撤収が
「遂引兵還」だろ。

>こう見てくれば「遂引兵還」は「(復亨も船に乗り)それに続く全軍の乗船もやっと
終わって、本国に向かって帰途に就くことができた」であり、それが「ところが運悪く
ちょうどその夜・・」の「会夜大風雨」に続くわけだ。

「会夜大風雨」は「遂引兵還」に続く出来事じゃないんだよね。
「遂引兵還」の「ちょうどそのとき」が夜であり大風雨であったと書いてあるわけで。
つまりあんたの書いてることは全部間違いってこと。

41 :
>>40
>「三郎浦」からの撤収が「遂引兵還」だろ。

「遂引兵還」は「遂引兵還」であってそれ以外の何物でもない。
つまり早良郡から撤収して合浦に着くまでが全て「遂引兵還」だ。

>「遂引兵還」の「ちょうどそのとき」が夜であり大風雨であったと書いてあるわけで

上記と併せて言えば、早良郡から撤収して合浦に着くまでの「ちょうどそのとき」だ。
漢和辞典によっては「会」は「「たまたま」と読み、「ちょうどそのとき」と訳する」
と書いてあるように、「ちょうどそのとき」と「たまたま」は同じ意味なのだ。
「何かをしている、ちょうどそのとき」は結局「たまたま」ではないか。

ということで、金方慶伝は大風雨が「引兵還」の過程で、何時、何処で起こったかは
特定していない。

だから状況証拠で考えるしかない。撤退後、博多湾のなかにいたのが確かなのは志賀島の
座礁船一隻だけ。一方、壱岐には100隻ぐらいの漂着船がいた。
状況証拠から言えば、大風雨は湾外だ。

42 :
鎌倉武士強すぎだな
2回も来て2回とも沿岸部で壊滅って根性ないわ蒙古

43 :
>>40
>「遂引兵還」は「遂引兵還」であってそれ以外の何物でもない。

その通り。
そして「遂引兵還」は10月20日だけでしかない。
つまり10月20日以降の博多湾を出てから合浦に着くまでは含まれない。
だから「ちょうどそのとき」も博多湾内しかない。

44 :
>>43
>つまり10月20日以降の博多湾を出てから合浦に着くまでは含まれない。

なんで?
博多湾を出てからも「兵を引いて」「還って」いるではないか。

45 :
http://shimesaba.dyndns.org/?p=25351
・元軍の殆どが高麗人
→金や遼といった河北に陣取った異民族国家の残党が主力、次いで高麗という構成率。モンゴルは人口が少ないため、指揮官や一部の部隊がモンゴル出身の蒙古軍というのが実態。
伝統的な彼らの戦法に則るなら、モンゴル騎射兵が突出して敵を挑発し、突っ込んでくれば攻撃しながら逃げ後方で包囲網を展開している降伏国軍の歩兵の網に誘い込み粉砕、
逃げれば機動力を活かしてアウトレンジからじわじわ狩りR。

こうした騎兵の偽装退却・伏兵の歩兵の攻撃は元寇時の陸戦では
果たして行われたのかだが
伏兵の位置を偵察用の足軽等に把握され
逆に奇襲を受ける等して失敗した可能性も有るのかだが

46 :
https://jp.pinterest.com/pin/335025659752917272/
上の革の馬甲を装備したモンゴル重騎兵は偽装退却には加わらないだろうし
最後歩兵と共同して攻撃する兵力だろうが
こうした兵も何処迄居たのかだが
騎馬武者と騎射戦をしたとしても馬鎧は馬の行動を阻害せぬ程に
日本の矢を止められたのかどうかだが
日本軍に奇襲攻撃を主に山から受け
騎射戦も出来ぬ侭壊滅していた可能性も有るのかだが

47 :
モンゴル軍も偽装退却の為の軽騎兵は数は余り必要は無いだろうが
決戦兵力の重騎兵が数が無いと
歩兵の戦闘力が低い以上は可成り影響したのかだが
日本に来た騎兵は重騎兵主体と言う訳では無いのかだが
http://www.gaopu.com/soudai.html
恐らく当時世界最高クラスの防御力が有る上の歩人甲を大量に装備する
南宋軍の歩兵がそう弱いのかどうかだが
機動性は無く密集しているから包囲されて矢を受け続ければ限度も有るのかだが
可成り細かい小札の鎧であるから
槍や矢には可成り抗し得るかも知れぬが
蒙古襲来絵詞では騎馬武者も一部使用している薙刀や
両手持ち刀を止める程の防御力は無いと言う事なのかだが

48 :
http://photozou.jp/photo/show/1849954/200511501
蒙古襲来絵詞では上の様に恐らく袖の有る鎧を装備する騎馬武者が
薙刀も使用しているのかだが
歩人甲に対抗する為に騎馬武者も此れを多用した可能性は有るのかだが
大太刀迄が大量に投入された可能性は有るのかだが

49 :
文永の役では歩兵も高麗兵以外では南宋兵では無く
旧金・北宋軍の歩兵が多いのかだが
彼等の装甲は南宋軍程では無いと言う事なのかだが

50 :
http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/news/1350897475
まず、元軍は山岳戦云々なんて段階まで攻め込めてこれていない。
文永では、上陸してから百道原などの平地で戦われたし、弘安の役も
海の中道の砂州での陸上戦で敗北して海に逃げていった。
海上戦が行われたから、元軍が不利だったのではなくて
陸上戦で敗北したから海戦をせざるを得なくなった。

浜辺で待ち受ける武士団の矢嵐の中、元軍上陸なんていう
プライベートライアンのような上陸戦は元寇では一度も
なかった。

日本軍の山岳での奇襲攻撃は無く
地上戦では騎射戦で事実上決着が付いていたのかだが
軽騎兵は偽装退却専門としても
槍を持つモンゴル重騎兵は弓の扱いはどうだったのかだが
騎馬武者が弓を放って来たら槍では流石に対抗せず
弓を使用したと言う事なのかだが

51 :
騎射戦主体で正面から戦闘したなら
騎馬武者自身は重装甲で損害は少ないとしても
馬の損耗は可成り多かったのかどうかだが
威力の有る南宋歩兵の弩で騎馬武者がやられていた可能性は有るのかだが
発射速度は高速では無いだろうし
袖と胴を同時に貫通する等出来るのかだが
騎馬武者も馬がやられた後は垣盾を持つ歩兵と合流後
下馬戦闘をしていた可能性も有るのかだが

52 :
http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/news/1350897475
モンゴル帝国の動員力は1229年時点で12万9000人。
実は大したことない。
そこから征服した民族を加えて動員増やしていったんだけど、元寇のモンゴル軍の民族編成は
モンゴル皇帝オゴデイの直属軍と一緒。
つまり元寇で日本に来たのがモンゴル帝国内最強編成で、武士はそれに圧勝したってこと。

騎兵の比率と言うのも通常のモンゴル軍と基本的に
同一と言う事なのだろうか

53 :
http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/news/1350897475
>文永で4万、弘安で12万の大兵力投入して見下してたとかないわ。
>それだけの兵力投入すれば当時地球上のほとんどの国は瞬殺だろ。

元寇のモンゴル兵の比率は他地域の軍と同じと言うが
高麗や北宋・南宋の歩兵は他地域の歩兵より
弱かった可能性は有るのかどうかだが

>あと、情報戦においてはモンゴル帝国より鎌倉幕府の方が一枚上手だったんだよ。
>使者を太宰府以外には立ち寄らせず、十分な情報収集させなかった。
>一方の日本側は元の首都大都まで使節団送ってるし、高麗にも内通者がいて
>モンゴル軍の配備状況も正確に把握してたし。

日本側もモンゴル軍の装備や編成・戦術は
何処迄理解していたのかだが

54 :
http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/news/1350897475
弘安の役の経過は更に一方的なものであり、武士団は20分の1の兵力で正面から元軍と戦い一方的に勝ち続けた
文永の役の後に、再度の侵攻を防ぐために防塁を築いたのは有名な話だが、あれは近隣の村落を守るためのもの(文永の役の際、実際に元軍は無防備な村落を襲い民衆を虐殺している)
事実、最初に元軍が上陸を試みた際に武士団は防塁を背にして正面から交戦している
ここで案の定惨敗した元軍は、志賀島という島に上陸し野戦築城し防戦に入る
このように圧倒的大軍でありながら城まで築き防備を整えた元軍に対して武士団は20分の1の兵力で攻撃を仕掛け、連戦連勝の末に一方的に元軍を船に撤退させる
今度もそのまま逃げ帰ろうとするが、そこに台風が直撃し元軍の船が全て座礁
逃げ場を失った元軍は旧南宋出身者を除き皆殺しにされた(これは、文永の役において元軍が民間人を虐殺したことに対する報復)
元史には「生きて元に帰れたのは3人だけだった」との記述があるほど

つまり、元寇において武士団が敗勢だったというのはそれ自体が真っ赤な嘘
現実には武士団の戦闘能力はモンゴル騎兵を遥かに凌駕しており、事実として武士団は20倍の兵力の敵を一方的に撃破している

55 :
>>54

防塁が村落を守る為の物と有るが
防塁に兵が存在すると思わせて敵の上陸を思い留まらせようしたと言う事なのかだが
モンゴル軍も奇襲でも無い正面からの騎射戦で弩等も有りながら
20倍の兵力でも勝てないと言うのは一体どう言う事なのかだが
偽装退却・包囲攻撃等は何処迄したのかだが

56 :
加えて言うなら、文永の役において高麗軍の兵数は8000人
http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/news/1350897475
加えて言うなら、文永の役において高麗軍の兵数は8000人
元の正規軍は2万5000人であり、「文永の役においては高麗軍が主力だった」「元軍には騎兵がいなかった」というのは左翼歴史家の妄想
文永の役では元軍の本陣にまで攻撃が及ぶほどに一方的に戦況が展開しており、この際に元軍副将の劉復亨が弓で射殺されている
騎馬戦において最も重要なのは弓の性能だが、日本製の弓は元の弓の4倍の射程を誇っていたことが知られている
「武士団は射程外から次々と元軍に射殺された」と主張する歴史家もいるが、これもとんでもない電波説

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87
>蒙古・漢軍 15,000[13]〜25,000人[6][14][15]

と有るから25000には漢軍歩兵も含まれると言う事なのかだが
日本軍の弓の射程はモンゴル軍を下回るが
重い鏃の使用故に威力は上と言う事なのかだが
動く馬に120m等から命中は期待出来ないなら
モンゴル軍の弓の優位な射程は騎射戦では生かせたのかだが

57 :
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87#.E3.80.8E.E5.85.AB.E5.B9.A1.E6.84.9A.E7.AB.A5.E8.A8.93.E3.80.8F.E3.81.AB.E3.82.88.E3.82.8B.E6.88.A6.E6.B3.81
>また、元軍の弓矢は威力が弱かったが、鏃に毒を塗って雨の如く矢を射たため、元軍に立ち向かう術(すべ)がなかったとしている[178]。元軍に突撃を試みた者は、元軍の中に包み込まれ左右より取り囲まれて皆殺された[178]。
>また、武士が名乗りを上げての一騎討ちや少人数での先駆けを試みたため、集団で戦う元軍相手に駆け入った武士で一人として討ち取られない者はなかったとしている[179]。

上の様な八幡愚童訓の記述は誇張だと言う意見も有るし
騎馬武者も日本軍相手にやらない様な無謀な突撃は何処迄したのかだが
偵察等をしていた少数の騎馬武者が
離脱の際に多数の軽騎兵に機動力の差で逃げ切れず包囲射撃され
やられた例等は果たして有るのかだが
そう成ったとしても竹崎秀長の様に主力部隊の援護や
後方に控えていた歩兵の援護で離脱した例と言うのも有るのかだが

>退く時は「てつはう」を用いて、爆発した火焔によって追撃を妨害した[179]。「てつはう」は爆発時、轟音を発したため、肝を潰し討たれる者が多かったとしている[179]。

蒙古襲来絵詞の竹崎季長や白石通泰等の主力部隊も
特段此れで戦意を喪失した風には
書かれていないと言う事なのかだが

>追撃に参加した福田兼重は百道原において大勢の元軍の中に馳せ入り、元軍と矢戦となり、鎧の胸板・草摺などに三本の矢を受けて負傷したという[155]。

此れは騎射戦なら可成り近距離での被弾かも知れぬが
弩では無いなら致命傷とは成らなかったと言う事なのかだが

>海路から東路軍を攻撃した伊予の御家人・河野通有は元兵の石弓によって負傷しながらも太刀を持って元軍船に斬り込み、元軍将校を生け捕るという手柄を立てた

弩を受けた例も有るが
蒙古襲来絵詞を見る限りそう深手は負っていないと言う事なのかだが

58 :
騎馬武者も軽騎兵の偽装退却に誘引され
歩兵の集中射撃で馬がやられても下馬しての歩兵・重騎兵への突入は可能かも知れぬし
突入した数が多ければそれなりには保った可能性も有るのかだが

59 :
>しかし、前衛の騎士たちは後詰めの騎士たちと共に態勢を建て直すと再び攻撃した。するとモンゴル軍は中央の軽装騎兵を偽装撤退させて連合軍の主力である騎士団を誘い込み、
>両翼の軽装騎兵による騎射で混乱に陥れた。そして騎士団の背後に煙幕を焚いて後方の歩兵と分断すると、完全に混乱状態にある敵軍をモンゴルの重装騎兵が打ち破った。

ワールシュタットでは軽騎兵が偽装退却で誘引された騎士に射撃をしていたが
歩兵が居る場合は歩兵が射撃していたと言う事なのかだが
射撃後突入するのは重騎兵では無く
モンゴル軍主力の此れの消耗を避ける為に
被支配地域の歩兵が突入した可能性も有るのかだが

https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-f4-9a/hehualu2000jp/folder/1360647/01/38994101/img_6?1319849952
蒙古襲来絵詞でも騎兵は歩兵の背後に居るし
重騎兵は基本的に歩兵の督戦の為に居る可能性も高いのかだが
歩兵部隊が壊滅したら重騎兵は交戦せず
離脱していたと言う事なのかだが
とは言え劉復亨の様に弓で狙撃された例も有ると居う事だろうか

60 :
https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-b7-50/kuroken3147/folder/1452530/55/55992055/img_1?1230164143
上で前線に居るのはモンゴル軍の軽騎兵では無いだろうが
モンゴル兵らしき者は書かれているが
現実には偽装退却を行う軽騎兵だった可能性も有るのかだが
竹崎秀長等に馬をやられて
下馬戦闘している可能性は無いと言う事なのかだが

61 :
モンゴル軍も軽騎兵さえも前線には投入せず
被支配地域の軽歩兵に偽装退却をやらせていた可能性も有るだろうし
モンゴル人騎兵は歩兵部隊の督戦の為に
基本的に存在していた可能性も有るのかだが

62 :
>>61
だとすれば偵察をしていた騎馬武者が
軽騎兵に追撃包囲されて壊滅と言う様な事は蒙古襲来絵詞同様に
起きなかったと言う事なのかだが

南宋軍歩兵なら弩・歩人甲を装備しているし
歩兵としては当時世界最高クラスの装備だろうが
士気もモンゴル騎兵の督戦が有るならそう低いのかどうかだが
重装備・密集隊形故の弱点等も有ると言う事なのかだが

63 :
南宋歩兵も明歩兵が倭寇にやられた様に
騎馬武者に槍を斬られた後切り込まれ壊滅していたのかだが
円盾兵の様な兵も居たかも知れぬが
盾で防護出来ぬ脚や腕等をやられていた可能性も有るのかだが

http://i.imgur.com/JJBcZZp.jpg
上の赤は騎馬武者 青はモンゴル軍歩兵 緑は日本軍歩兵だが
騎馬武者が突入後歩兵に包囲されても上の様に包囲の背後から
日本軍の残っていた歩兵が奇襲攻撃を掛け敵を壊滅させたり
騎馬武者の脱出路を確保していた可能性も有るのかだが
http://o.8ch.net/uo4z.png

64 :
日本軍も歩兵部隊の薙刀迄槍に対抗出来るのかだが
刀を持つ歩兵も同時期の平治物語絵巻等で書かれているが
彼等が槍を切断した後薙刀を持つ兵も切り込んだ可能性は有るのかだが
其処迄の技量は有るのかだが
薙刀や槍に似た
http://i.imgur.com/d1UJHeR.jpg
上の日本の手鉾に対抗するのは慣れている訳だろうし
薙刀を持つ兵も手鉾には対している訳だろうか
騎馬武者も手鉾に割に対している可能性も有るから
槍に対抗出来ぬと言う事は無いと言う事なのかだが

65 :
http://i.imgur.com/15hEBcU.jpg
上の平治物語絵巻には恐らく刀が主武器の歩兵も居るが
日本の薙刀・手鉾の切断は茎や蛭巻が有る故に困難だろうし
モンゴル歩兵の槍相手でも此れを払って斬り込んでいたのかだが
此れは騎馬武者も同様なのかだが
戦っている間にモンゴル兵の槍に茎・蛭巻が無い事が判明し
槍を斬っていた可能性も有るのかだが

66 :
http://toro.2ch.sc/test/read.cgi/army/1346923005/131
これは本当に疑問。流将公とは本当に劉復亨のことなのか。
八幡ノ蒙古記は「流将公」なる人物は、「十四五騎うちつれ、徒人七八十人」を連れ
「おくひやう神にさそはれて、今は一人も戦はんとおもふ者こそ、たえにけれ」というほど
壊滅状態にあった日本軍を先頭きって追撃してきたとしている。
しかし、劉復亨は元軍の副司令官にして万人を指揮する万戸の身だ。
「十四五騎うちつれ、徒人七八十人」の少人数を連れて、突出するようなことが
あるだろうか。

後方で歩兵を督戦していたモンゴル騎兵部隊の中枢を
日本の一部騎馬武者が背後等から
奇襲攻撃したと言う可能性も有ると言う事なのかだが

67 :
1240年成立かも知れぬ平家物語に有る一の谷合戦の影響で
日本軍がモンゴル軍への背後からの少数戦力での奇襲攻撃を
考えた可能性も有るだろうし
そうした少数戦力での背後からの奇襲攻撃はモンゴル軍の女真族の副司令官
劉復亨には想定出来なかった可能性も有るのかだが

68 :
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E6%B1%A0%E6%AD%A6%E6%88%BF
>ところが、肥後の御家人・菊池武房の軍勢が、赤坂の松林のなかに陣を布いた元軍を襲撃し、上陸地点の早良郡のうちにある麁原(そはら)へと元軍を敗走させた[158]。

此れは日本軍は騎射戦では無く下馬戦闘をしていた可能性は
有るのかどうかだが

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87#.E8.B5.A4.E5.9D.82.E3.81.AE.E6.88.A6.E3.81.84
>『元史』では10万[10]

少数の騎馬武者がゲリラ的に騎射での断続的な攻撃を加えたから
日本軍の兵力が10万等に見えた可能性も有るのかだが
一日中こうした攻撃を受け続ければ
無理に督戦されている様な歩兵は疲弊し続けると言う事なのかだが

69 :
騎馬武者も多勢に斬り込む事は現実には余り無く共
多勢に対し騎射はしていたのかだが
騎馬武者が乗馬し散開して遠距離からモンゴル歩兵の密集隊形に矢を撃ち続ければ
ほぼ一方的に損害を与え続けられるかも知れぬし
モンゴル騎兵は歩兵の督戦に特化していて迎撃も無いなら
夜間も含め一日中こうした攻撃を続けられる可能性も有るのかだが

70 :
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E6%B1%A0%E6%AD%A6%E6%88%BF
>ところが、肥後の御家人・菊池武房の軍勢が、赤坂の松林のなかに陣を布いた元軍を襲撃し、上陸地点の早良郡のうちにある麁原(そはら)へと元軍を敗走させた[158]。

菊池宗房の軍勢も100騎しか居ないと言う可能性も有るだろうが
此れが各24本・2400本の矢を歩兵の密集隊形に遠距離から撃ち込めば
数千の敵の士気を挫くだけの打撃は与えられる可能性も有るのかだが
追撃に備えて各10本程度は残していた可能性も有るのかだが
矢を再度補給して即再攻撃と言う事を繰り返していた可能性も有るかだが

71 :
散開して動く騎兵には
50mでも矢を直撃させる事は難しいだろうし
騎馬武者はこの距離なら密集隊形の歩兵に矢を命中させるのは容易なのかだが
騎馬武者が少数で矢が集中すればその限りでも無いかも知れぬが
一定数纏まった相手で攻められば
矢は分散する訳し
少数でも遠距離から矢を放たれれば
多数の矢で反撃しても直撃は難しく成ると言う事だろうか
モンゴル軍歩兵もそうした大量の矢を用いる反撃を続けた結果
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87#.E5.85.83.E3.83.BB.E9.AB.98.E9.BA.97.E9.80.A3.E5.90.88.E8.BB.8D.E8.BB.8D.E8.AD.B0.E3.81.A8.E6.92.A4.E9.80.80
>『元史』日本伝によると「冬十月、元軍は日本に入り、これを破った。しかし元軍は整わず、また矢が尽きたため、ただ四境を虜掠して帰還した」[187]としている。

上の元史に有る様に矢が尽きて撤退したと言う可能性も有るのかだが

72 :
平治物語絵巻に有る様に歩兵が大鎧を装備している例は
現実には有るのかだが
略奪したとしても25kg等と重い者を果たして使用するのかだが
鉄伊予札の軽量な鎧・兜を装備していたと言うのが
現実なのかだが

73 :
https://www.youtube.com/watch?v=rwO_9kd6MJQ
上では55ポンド(24kg)の張力のロングボウで
50ヤード(45m)先の目標を撃っているが
此れで動く馬に命中するのかだが
弩の張力は150kg等であるなら此れより可成り弾速は高速なのかだが

74 :
某研究者…生きとったんかワレ!

75 :
>>72
大鎧着て元軍の船に切りこんどったし武士ならできるんでないか
落ちたらクッソ効果な鎧脱ぎ捨てる必要あるかもだけど

日本の鎧って東アジアどころか世界的に見ても重装甲な印象
当世具足採用した台湾のあれの鉄人部隊も最初は重すぎて苦労したみたいだし

76 :
>当世具足採用した台湾のあれの鉄人部隊も最初は重すぎて苦労したみたいだし

それは具体的になんという史料から確認できる情報なんだろうか?

77 :
>>75
>大鎧着て元軍の船に切りこんどったし武士ならできるんでないか
>落ちたらクッソ効果な鎧脱ぎ捨てる必要あるかもだけど

体力が有る者以外は25kgの大鎧で長時間下馬戦闘は出来るのかだろうが
射手ならどうなのかだが

>日本の鎧って東アジアどころか世界的に見ても重装甲な印象

新紀元社 武器甲冑図鑑では
モンゴル親衛兵ケシクテンは10000居たと言うが
此れは皮装甲の重騎兵と同程度の装備なのかだが
https://weaponsandwarfare.files.wordpress.com/2015/08/cd6b7d80089db0fe9c72093647605e0e.jpg
https://i.warosu.org/data/tg/img/0313/41/1396968061070.jpg
https://www.pinterest.jp/pin/322077810832458020/
https://www.pinterest.jp/pin/731131320726031441/
https://www.pinterest.jp/pin/466544842630021701/
上の様な金属甲冑を装備している可能性は無いのかだが
大鎧同様に25kg等の重量が有る物なのかだが
http://www.geocities.jp/zhongdong2009/twmu/Medieval/2.2.html
http://www.gaopu.com/soudai.html
上の宋の歩人甲と同様の物なら29kg程度有るのかだが
何れにせよ板金鎧では無いから刀の衝撃は何処迄止まるのかだろうし
胴に防御が大鎧程には集中しては居ないと言う事なのかだが
手足の鉄板は可成り薄い可能性も有るのかだが

現実のモンゴルの鎧を書いた古い絵で
正確そうな物は見ないし
果たしてオスプレイ等の絵の様な構造なのかだが
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:DiezAlbumsArmedRiders_I.jpg
上の様なイスラム勢力が書いた物は
彼等の甲冑と同様の描写が成されている様に見えるが

78 :
https://www.pinterest.jp/pin/322077810832418582/
上の様な形で槍で騎馬武者は何処迄やられたのかだが
http://i.imgur.com/d1UJHeR.jpg
槍に似たの構造の上の様な手鉾が有るから此れに慣れている者なら
何処迄やられたのかだが
茎や蛭巻が無い物では柄を斬られてやられた例も多いのかだが

79 :
https://www.pinterest.jp/pin/5699937002838167/
https://gr.pinterest.com/pin/445926800587590459/
https://www.pinterest.jp/pin/574490496189966161/
https://www.thoughtco.com/genghis-khan-exhibit-photos-195681
現実のモンゴルの鉄製甲冑は
上位しか無いのかだが
特異な構造はしていない様に見えるが
腕の装甲は有ったが現存していない可能性も有るのかだが

https://www.pinterest.jp/pin/546202261031340585/
上は非精鋭の重騎兵の革鎧と言う事なのかだが

https://www.pinterest.jp/pin/7881368072132402/
上の様な鉄札を仕込んだブーツは
鉄鎧を着る精鋭重騎兵用と言う事なのかだが

80 :
モンゴル等の騎兵・歩兵が小型の盾を持つ場合も有るが
此れは左足を軽い両手持ち武器で打たれれば
対応し難いと言う事は無いのかだが

81 :
モンゴル軍を撃退した、という事は鎌倉武士は世界制覇が可能だったのか?

82 :
ムリムリWWWWWWW
当時みたいな兵站未開の時代にアウェーで戦うとか死ぬほど不利だろWWWWW

ジャップはホームでチョン チャンコロ ドルジに辛勝して喜んでるだけWWWWWW
たかが知れてるWWWWWWW

83 :
兵站の問題は
モンゴル同様に戦奴を使用し
必要なら無制限な略奪・殲滅戦をすればどうなのかだが

84 :
https://www.pinterest.jp/pin/322077810832458020/
この鎧はよく見ると脚の後部に迄装甲が有るが
https://www.pinterest.jp/pin/317433473720634720/
上の宋の鎧と同構造なのかだが
こんな部分迄保護すると重量は何処迄食うのかだが
https://www.pinterest.jp/pin/353954851953667089/
上の歩人甲は腿の後部には装甲は無いし
この様なタイプの鎧もモンゴルには存在した可能性は有るのかだが

胴の重量が同等程度なら
大鎧の様に革・漆が混ざる方が弓には強いと言う事なのかだが

85 :
https://i.warosu.org/data/tg/img/0313/41/1396968061070.jpg
この鎧の胸部装甲は
https://www.pinterest.jp/pin/343610646560880327/
上の宋の胸部装甲に似ているし
イラストは此れと同様の物が
モンゴルにも有ると判断して書いたのかだが
此れは必ずしも装備されているのかだが

86 :
https://www.pinterest.jp/pin/317433473720634684/
上を見ると肩甲は宋の場合は胸甲の下に仕込まれているし
https://i.warosu.org/data/tg/img/0313/41/1396968061070.jpg
上のイラストは間違いなのかどうかだが
https://www.pinterest.jp/pin/353954851953667089/
http://www.gaopu.com/soudai.html
上のイラストも肩甲が胸甲の上に有る様に見えるが
果たして何れが正しいのかだが

https://www.pinterest.jp/pin/7529524348909186/
上の様な宋のライオンの付いた肩甲と言うのも唐の時代当りから良く見るが
此れは指揮官用の物なのかだが
モンゴル兵はこの様な物は使ったのかだが

87 :
https://www.pinterest.jp/pin/7529524348943358/
上のイラストでも宋の歩人甲の肩甲は
胸甲の上に装備されると言う解釈なのかだが

https://www.pinterest.jp/pin/317433473720634684/
https://www.pinterest.jp/pin/317433473720634708/
上の宋の兵が装備している様な首装甲は
http://www.gaopu.com/soudai.html
https://www.pinterest.jp/pin/353954851953667089/
https://www.pinterest.jp/pin/343610646560880575/
上のイラストでは無いが
装備していた兵も居ると言う解釈なのかだが

https://qph.ec.quoracdn.net/main-qimg-cbda623f966ee016a99f6e434e12a0f2-c
モンゴル騎兵も下の兵の様に首装甲は必ずしも
無いと言う事なのかだが
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/31/Takezaki_suenaga_ekotoba_1-2.jpg
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%99%E5%8F%A4%E8%A5%B2%E6%9D%A5%E7%B5%B5%E8%A9%9E
蒙古襲来絵詞のモンゴル・宋・高麗兵等も
首装甲は有る例と無い例が有るだろうか

88 :
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1287476/11
上の鎌倉時代の平治物語絵巻にも佩楯は幾らかは有るが
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B2%BB%E7%89%A9%E8%AA%9E
平治物語絵巻は1255年迄に成立の可能性も有るなら
此れは元寇前の装備なのかだが
https://www.pinterest.jp/pin/353954851953667089/
上の中央が二分割されている様にも見える
宋の佩楯に似た構造だが
一体型も有ったのかだが
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E5%B0%9A#/media/File:Ashikaga_Yoshihisa.jpg
上の足利義尚の肖像画の様に
直垂の内部に佩楯を仕込んでいた例は有るのかだが

89 :
https://www.pinterest.jp/pin/343610646560881874/
平治物語絵巻・六波羅行幸巻だと上しか佩楯は無い様に見えるが
現実の装備率はどうだったのかだが
上だと膝が露出しているが
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1287476/11
上だと露出していない様に見える例も有るから
長短有る可能性も有るのかだが

90 :
https://www.pinterest.jp/pin/343610646560881967/
上の佩楯は膝はほぼ露出していないし
https://www.pinterest.jp/pin/343610646560881972/
上も正面からは露出していないと言う事なのかだが
こうした二分割の構造は南北朝期には打物戦には不利として
廃れたのかだが

91 :
なんで末尾逆接ばっかなの
語尾でキャラ付けする漫画じゃあるまいに

92 :
https://www.pinterest.jp/pin/611363718135648014/
https://www.pinterest.jp/pin/343610646560882169/
上の様な旧金の騎兵もモンゴル軍には居たのかだが
胸部の構造が宋の鎧とはやや異なる訳だろうか

https://www.pinterest.jp/pin/343610646560882265/
一番上の金の鎧の肩甲は板金なのかだが
面頬も何処迄使用されたのかだが

https://www.pinterest.jp/pin/343610646560880861/
上の黒い鎧を着たモンゴル兵は
革甲を装備した非精鋭の重騎兵なのかだが

93 :
http://photozou.jp/photo/photo_only/1849954/242793762?size=1024#content
上に有る様な下着及び夏服の大口に佩楯を縫い付けて
冬はこれの上に直垂を着たと言う例も有るかも知れぬが
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E8%AD%B7%E8%89%AF%E8%A6%AA%E7%8E%8B%E5%87%BA%E9%99%A3%E5%9B%B3.jpg
上の護良親王出陣図では歩兵の袴に佩楯が縫い付けられているし
大口にこうした形で佩楯を縫い付け
上に直垂を装備する例も鎌倉期に有るのかだが

94 :
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%99%E5%88%80#/media/File:Kyujutsu10.jpg
茎式の薙刀の柄に金属で蛭巻迄して有るのは
刀だけでは無く薙刀の斬撃も柄で止めていた故かも知れぬし
此れでモンゴル兵の槍や斧・大刀を切断していた可能性も有るのかだが
http://photozou.jp/photo/show/1849954/200511501
上の蒙古襲来には恐らく騎馬武者が薙刀を装備しているし
1221年迄成立と言う平家物語でも
平教経が大薙刀と大太刀の二刀流をしている場面が有るから
この時点で騎馬武者も下馬時には薙刀を使用していたのかだが
騎馬武者の薙刀なら雑魚歩兵の長柄武器の柄は切断されて
容易にやられていた可能性も有るのかだが
この時点での大太刀はどの程度の長さなのかだが
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A4%AA%E5%88%80#.E8.A8.98.E9.8C.B2.E3.81.A8.E5.AE.9F.E5.9C.A8
1250年成立かも知れぬ源平盛衰記には
140cmの大太刀も有るが
90cm程度の物が主流の可能性も有るのかだが
槍・長柄武器切断を狙って弘安の役では多用された可能性は有るのかだが

95 :
http://www.gaopu.com/xixia.html
http://www.twcenter.net/forums/showthread.php?218032-Faction-Discussion-Xi-Xia
1227年にモンゴルにやられた西夏の兵と言うのは
元寇に果たして来ていたのかどうかだが
この鎧の肩は唐や宋の兵に有る様なライオンが簡略化された物なのかだが

96 :
>>95
西夏の領土だった河西地方の兵は弘安の役に投入されてる。

元史 卷十一 本紀第十一 世祖八 
十八年四月条「賜征日本河西軍等鈔。」

97 :
服部氏の蒙古襲来借りてきた
今から読むけど俺はこの本の内容を信じる予定

98 :
http://www.lykia.pl/en/armours/antiquity?start=1
>Steel lamellar plates 1-1.2mm thick

現実のこうした大陸勢力製の鉄小札鎧の厚みはこんな薄いのかだが
日本の鉄小札の1.5mm程度は有る可能性も有るだろうが
こんな物では弓は止まるのかだが
胴体や草摺の一部は装甲は二重に成っている例も有るから
この部分は可成り弓は止まる訳だろうか

99 :
https://www.pinterest.jp/pin/7529524348909200/
上の宋の鎧の場合は胸部や草摺の一部は二重だが
https://www.pinterest.jp/pin/317433473720634684/
上は部分的には三重にも成っているが
この部分の鉄小札は1.5mm等は有るのかだが

100 :
高麗軍の歩兵は南宋兵程の装甲は
少なく共全員には有るのかだろうし
南宋でさえ装甲が余りない歩兵も確か居るだろうが
https://www.pinterest.jp/pin/611363718135648014/
金の鎧は胸甲は二重構造なのかだが
装甲が二重に成っている様にも見える部分は有るが
現実的に1.5mmしか無いとは考えられぬ訳だろうか
草摺は騎兵戦しか考えていないからか
宋の鎧と比べると軽装である訳だろうか

http://wdykaac.weebly.com/uploads/2/8/9/6/28967125/4571218.jpg
西夏軍の鎧は胸部は二重では無いのかだが
分厚い鉄小札が使われている可能性も有るのかだが
草摺は前後二分割と妙な構造だが
此れは上手く騎乗出来るのかだが
https://s-media-cache-ak0.pinimg.com/originals/80/c3/93/80c39317f9f64e17416eb87147cfbff4.jpg
https://www.pinterest.jp/pin/343610646560882977/
上を見ると草摺は長くは無いから
騎乗には支障は無い訳だろうが
脚の防御は金の鎧と比べ考慮され無いのかだが

https://www.pinterest.jp/pin/343610646560882973/
https://www.pinterest.jp/pin/343610646560882980/
此れは小札の構造が違うが
大型の鉄小札・鉄板札が使われているのかだが


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