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【蒙古襲来】元寇【文永・弘安の役】8


1 :2016/09/14 〜 最終レス :2020/02/27
モンゴル帝国による元寇を軍事的に考察しましょう。

前スレ
【蒙古襲来】元寇【文永・弘安の役】7
http://peace.2ch.sc/test/read.cgi/army/1413082769/

【蒙古襲来】元寇【文永・弘安の役】6
http://peace.2ch.sc/test/read.cgi/army/1402160978/

【蒙古襲来】元寇【文永・弘安の役】5
http://peace.2ch.sc/test/read.cgi/army/1358050246/

【蒙古襲来】元寇【文永・弘安の役】4
http://toro.2ch.sc/test/read.cgi/army/1353671134/

【蒙古襲来】元寇【文永・弘安の役】3
http://toro.2ch.sc/test/read.cgi/army/1346923005/

2 :
モンゴル軍の馬 VS 日本軍の馬

タブン・トルゴイ遺跡、ツァガーン・チュルト遺跡から出土したモンゴル帝国時代の馬(9例)の推定体高
最小120.2cm 最大134.0cm 平均127.7cm

材木座遺跡から出土した鎌倉時代の馬(38例)の推定体高
最小109cm 最大140cm 平均129.5cm

3 :
age

4 :
元寇スレ復活したんか

5 :
日本征伐だろ、ぱか!

6 :
韓国に賠償金を請求すべきだ

7 :
当時海水温が高くスーパー台風が発生したので木造船などひとたまりもなかった

8 :
元寇に関しては嘘が多いね、これは日本側の鎌倉幕府の記録が嘘八百な誇張表現であり、それに目を付けた戦後日教組が「大陸と孤立している事が悪いことかのように誇張してモンゴルに対する悪口とも取れる必要以上に野蛮な表現」
そして有名な名乗り上げだけど、これは「当時キエフルーシ(モンゴル系キプチャク・ハン国)との現ウクライナ国元祖ルーシ系王座が壊滅し、その後モンゴル帝国臣従偽ルーシ族(ウクライナ人は緑ルーシ)こと黒ルーシモスクワ属国大公国」が
「ルー氏系国家代表を自称」する汚い歴史が始まる。その後ロシア帝国時代も「ウクライナ・キエフこそが本物のルーシ族の古都であり、僭称しているモスクワ首都やペテルブルグのロシア帝国は偽物がそれっぽい格好つけてやがるw
非スラブ語圏から一般認識は中世まで「ウクライナ・キエフ復興とモンゴロイドぼこるべし」だった)
つまり、欧州ですらポーランド・リトアニア二十王国と子分だったプルーセン公国ら諸侯連合軍及び神聖ローマ帝国(ウィーン及びブダペスト首都)を持ってしてようやく止める事ができた
(しかもたまたまチンギスハンの病死によって風のように破壊のがれきの山のみ残して去って行ったモンゴル帝国軍)んだから、問題にすべきは
この時に「撤退を船内で意見するモンゴル系武将に対して、物凄い剣幕で日本を攻めるべきと主張した加害者高麗国の武将」。被害者日本国の立場は1000年変わらない!元寇が1100年代後半やろ?だから最低でも22世紀まで日本が被害者確定な?いいんだよな?
韓国大統領が「1000年恨む」と宣言したからな。俺は朝鮮人と同じになる〜だの同じレベルに降りて〜だのというよくある日本の風潮は国際的に通用しないと知っているから無視する。
「目には目を歯には歯を(現在も続く大国際原則である)」、高木正雄さんこと朴正煕さんの言いつけ守れクネクネババァ。
2180年代までは「高麗国から発展した英語名コリアKOREA【高麗】」の南北朝鮮住民は「加害者の立場確定!」、
「渋谷スクランブル交差点中心で」三跪の儀式をまず、北チョン借り上げ糞デブ野郎にやらせろや!!絶対に許さないのは日本人のほうだ。「世界平和の敵である北チョンカス野郎」!

9 :
鎌倉幕府の記録が嘘八百な誇張表現なんてことは無い。
そもそも鎌倉幕府の記録はそれほど残ってないし、あるのは淡々と事実を記した
事務的な記録がほとんど。
嘘八百な誇張表現なのは朝廷や宗教関係の記録ね。
特に朝廷は承久の乱以降、鎌倉幕府の武力によって押さえられてたから。
建武の新政正当化のために鎌倉幕府の武力を否定した歴史に書き換える必要があった。

10 :
また、5月のポツダム予備会談において、ソ連のスターリンは、極東ソ連軍が8月中に攻勢作戦を発動すること、満州国領域における中国の主権(中華民国とは明言せずに地域名出る中国地方と発言した悪い独裁者)を尊重すること、

朝鮮半島を米ソ英中が信託統治すること(これに対して「日本統治のままで維持される方が良い!!という朝鮮市民による委任統治反対デモが起きている)、などであった、

さらに、この時のスターリンは8月以前の対日参戦の旨と大連港の国際利用(現実は東側中華人民共和国に対して戦後法的根拠を無視してスターリンが譲渡した為現在も中華民国領と主張する政治家が台湾にいる)を表明した。さらに対日処理については、

無条件降伏(結果的には有条件降伏に成功し国体護持に成功して停戦した為にドイツ国と同様の完全直接軍政下に陥る最悪の字体のみは避ける事が出来たのが史実)と徹底的な軍備撤廃(ホワイト次官の内通に気付いたアメリカによる再軍備で冷戦に粘り勝つ西側諸国化)、
ソ連軍による日本占領(実現しなかったが、ポツダム停戦条約で日本の北海道続投として残るはずの北方4島領土を彼らの言うクリル列島内であるとし不法占拠した)を主張し、
アメリカに戦略物資の支援を要求
チャーチルは中国での「国共内戦での英軍被害に報復として反共軍介入」を主張したが、この時に「アルバニア決議」という最低の欺瞞的詐欺決議(はとやまルピ夫・おざわとつづく悪い田中角栄の系譜はわかりやすい売国奴)によって
中華民国が中華人民共和国に対して1970年代に代表権を「盗まれた被害者」となる事は避けられた公算が高い。おそらくチャーチルは一貫して日本反共国家化に貢献。
(途中でアトリー内閣に替わった事で内通していた英国労働党から核技術や貴重なジェットエンジン技術が流出する事を予期していたソビエト共産党は最終的に世界赤化を中国共産党と共に始めた。団塊の世代を自虐史観に洗脳した日教組に資金援助し、日本社会党に繋がる)

11 :
書き込みないね
元寇って魅力あるテーマだと思うけどな
ヨーロッパの騎士からイスラム、中国、朝鮮、東南アジア、日本の武士、おまけにアイヌまで
モンゴル軍って物差しで語ることができる

12 :
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13 :
元寇を書いたブログとか見ると、未だに元軍は台風で勝手に自滅してくれたって書いてるアホがいて辟易する。
なんで勉強も調べもせずドヤ顔で書けるんだろうか

14 :
元寇船研究機関、松浦市長「来春設置へ検討」
ttp://www.yomiuri.co.jp/kyushu/culture/history/20161107-OYS1T50018.html

15 :
>>11
過去ログ見ればわかるけど、軍板や日本史板では既にここ10年くらいで語り尽くされてる感すらあるんだよ元寇は

16 :
これと朝鮮の役や山田長政みてると
日本人戦闘民族説、ってことになるわけだけどなあ

17 :
>>15
ここ10年くらいの議論が一気に無意味化するレベルの史料見つけた。
年内にブログにUPするわ。

18 :
>>16
将軍や参謀は白人様最高で、肉体労働専門の兵隊民族だけどな

19 :
>>18
兵隊じゃなくて奴隷未満の間違いだろう

20 :
時代を下るにしたがって悪化しているがな。
>>16
数百年前のことだし・・・

21 :
ツイッターで今年見た中でなかなか個人的にうけた呟き。

「最近の台風は根性が無い、どれだけ規模が大きくとも会社ひとつ休みにできない」

22 :
>>17
http://blogs.yahoo.co.jp/sa341gazelle/56175927.html

23 :
>>18
当時は将軍から一兵卒に至るまで最強クラスだしな
山田長政が国王側近の領主様までいってるわけだし

24 :
>>22
そのブログより:
>「會夜大風雨」の「會」とは、前後の事情がうまく合致した意であり、「たまたま」と読み
>「おりしも」「ちょうどそのとき」と訳す言葉ですから、本来ならモンゴル艦隊の遭難は
>軍議によって撤退を決めたその夜でなければならないはずでした。

間違い。
「遂引兵還、會夜大風雨」と続く。大風雨に遭う前にすでに「還」すなわち出航している。
だから「撤退を決めたその夜」ではなく「出航したその夜」だ。

正確に言えば大風雨に遭ったのは廿一日の日没以降。

25 :
ついでに言えば同じブログの:
>『八幡大菩薩愚童訓』筑紫本の「然ニ夜明ケレハ二十一日之朝、海ノ面ヲ見ルニ、
>蒙古ノ舟共皆馳テ帰ケリ」という記述は、「夜が明けた二十一日の朝に海面を見たら、
>蒙古の船が皆撤退した後だった」ではなく、「夜が明けた二十一日の朝に海面を見たら、
>蒙古の船が皆撤退して行った」と解釈するべきだったのです。

これも間違い。「馳せて帰けり」の「馳せて」を「走って」と解釈して、「目の前を
走って(つまり航行して)帰って行った」と解釈したのだろうが、「馳す」は「走る」
意味よりも、主として複合動詞として「急いで・・する」の意味を表わすのに用いられる。

因みにこれを「行く」「帰る」などと複合させると、完了のニュアンスを帯びる。
馳せ帰った〜急いで帰った〜さっさと帰った〜さっさと帰ってしまった、という繋がりだ。
だから八幡大菩薩愚童訓の解釈は「夜が明けた二十一日の朝に海面を見たら、蒙古の船が
皆撤退した後だった」で正解なのだ。

26 :
このような完了を表わす「馳せて」は方言に残っている。
九州方言に「はってーた」というのがあって、「行ってしまった」の意味に用い
られるのを知っているだろう。方言辞典にも載っている。

この言葉の語源は「這って行った」「果て行った」などと俗解されるが、どちらも
しっくりしない。
この言葉の語源は「馳せて行った」が最も妥当なのだ。「馳せて」の本来の用い方で、
急いで行った〜さっさと行った〜さっさと行ってしまった、の繋がりで完了を表わして
いる、と考えるわけだ。

音的には、はせていった〜はせてーた〜はすてーた〜はってーた、と転訛したと
考えれば無理が無い。

27 :
>>17
その史料はどこにアップされたの?

28 :
>>17ではないが

http://goshosystem.info/colum_h19_ft.html
に解説がある。

『金綱集』雑録(山梨身延文庫蔵)
坂井法曄「日蓮の対外認識を伝える新出資料」
(『金沢文庫研究』311号)より転載
と断った、文永の役関連の一部原文の写真も載っている。

文永の役関連部分の全文は>>22のURLにある。

29 :
>>24
間違い。
モンゴル軍は21日早朝に博多湾から出てるんだから「遂引兵還」は20日夜だよ。
20日夜に撤退を開始しないと翌朝卯尅までに博多湾から出ることなんて無理だからね。

>>25
『金綱集』にモンゴル軍の撤退時刻が書いてあるんだから日本軍は撤退を目撃してる。
「夜が明けた二十一日の朝に海面を見たら、蒙古の船が 皆撤退した後だった」
わけじゃないのだ。

ところでさ、>>24>>25で平気で矛盾したこと書いてるのはどういうわけなん?
俺は20日夜に上陸部隊の撤収を行い、 21日卯尅までに志賀島に座礁した1艘を除いて
博多湾から脱出したと考えてる。
ところがあんたは、>>25を読む限り20日夜にモンゴル軍は博多湾から出航を終えたと
考えてるわけだよな。
これって>>24に自分が書いたこと全否定じゃん。

30 :
>>6
「元寇」という言葉は教科書から消える予定の使えない言葉
対して「倭寇」という言葉はこれからも未来永劫にわたって使い続けるので
賠償しなければならないのは日本のほうだ

31 :
>>30
>「元寇」という言葉は教科書から消える予定の使えない言葉
ほーん、次はこういう手でくるのか
聖徳太子非実在説で存在抹消が難しくなったから厩戸「王」に名称変更させたり
教科書はてめえらのおもちゃじゃねーぞクソが

32 :
文部科学省批判、ひいては政府を誹謗する非国民の登場ですか

33 :
>>32
それらを批判すると非国民というあなたはどういった立場の方なんですか?

34 :
>>29
>俺は20日夜に上陸部隊の撤収を行い、 21日卯尅までに志賀島に座礁した1艘を除いて
>博多湾から脱出したと考えてる。

全くその通りだ。
博多湾は志賀島の座礁船1艘を除いてもぬけの空だった。
百余艘の漂着船は博多湾にはいなかったのだ。 

議論する必要はなかったな。

35 :
>>34
は?
21日卯尅時点で百余艘が漂着してるんだから遭難はそれ以前、博多湾内しかありないじゃん。

36 :
>>35
>俺は20日夜に上陸部隊の撤収を行い、 21日卯尅までに志賀島に座礁した1艘を除いて
>博多湾から脱出したと考えてる

と、百余艘博多湾内漂着とは、どのように両立するのか?
座礁船も一種の漂着船ではないか。

37 :
>>36
志賀島の1艘は漂着船じゃない。
日本軍の見てる前で座礁し拿捕された船だ。

38 :
>>29
>ところがあんたは、>>25を読む限り20日夜にモンゴル軍は博多湾から出航を終えたと
>考えてるわけだよな。
>これって>>24に自分が書いたこと全否定じゃん。

では>>24を見て見よう。
>「遂引兵還、會夜大風雨」と続く。大風雨に遭う前にすでに「還」すなわち出航している。
>だから「撤退を決めたその夜」ではなく「出航したその夜」だ。
>正確に言えば大風雨に遭ったのは廿一日の日没以降。

これのどこが、「20日夜にモンゴル軍は博多湾から出航を終えたと考えてる」ことになるのか?
いくら考えてもわからない。

私は出航は21日未明、すなわち21日の午前零時から午前6時までの間と考えているよ。
理由は、2万の大軍が20日夕方の軍議が終わった後に乗船を開始して、出航準備が終わるのは
どうしても21日未明に及んでしまうと考えるからだ。
したがってその後の「ちょうどその夜」は21日の夜すなわち21日の日没から深夜までの間。

39 :
<続>
もうひとつのポイント。「遂引兵還」は「遂に撤兵帰国が決まった」ではない。
「遂に撤兵が完了して帰途についた」だ。

理由は「復亨中流矢先登船」だ。ここで全軍の乗船が開始されている。
「遂引兵還」までが軍議の記事と見るならば、軍議の途中で復亨が射られたことになり、
不自然。
軍議はその前の「不如回軍」で終わっているのだ。この言葉はクドゥンの結論であり、
したがって命令なのだ。

こう見てくれば「遂引兵還」は「(復亨も船に乗り)それに続く全軍の乗船もやっと
終わって、本国に向かって帰途に就くことができた」であり、それが「ところが運悪く
ちょうどその夜・・」の「会夜大風雨」に続くわけだ。

40 :
>>38-39
高麗史には「遂引兵還」とかいてあるだけで「博多湾」云々は一切書いてないが。
三郎浦に船を捨てた場面から始まってることを考えれば、「三郎浦」からの撤収が
「遂引兵還」だろ。

>こう見てくれば「遂引兵還」は「(復亨も船に乗り)それに続く全軍の乗船もやっと
終わって、本国に向かって帰途に就くことができた」であり、それが「ところが運悪く
ちょうどその夜・・」の「会夜大風雨」に続くわけだ。

「会夜大風雨」は「遂引兵還」に続く出来事じゃないんだよね。
「遂引兵還」の「ちょうどそのとき」が夜であり大風雨であったと書いてあるわけで。
つまりあんたの書いてることは全部間違いってこと。

41 :
>>40
>「三郎浦」からの撤収が「遂引兵還」だろ。

「遂引兵還」は「遂引兵還」であってそれ以外の何物でもない。
つまり早良郡から撤収して合浦に着くまでが全て「遂引兵還」だ。

>「遂引兵還」の「ちょうどそのとき」が夜であり大風雨であったと書いてあるわけで

上記と併せて言えば、早良郡から撤収して合浦に着くまでの「ちょうどそのとき」だ。
漢和辞典によっては「会」は「「たまたま」と読み、「ちょうどそのとき」と訳する」
と書いてあるように、「ちょうどそのとき」と「たまたま」は同じ意味なのだ。
「何かをしている、ちょうどそのとき」は結局「たまたま」ではないか。

ということで、金方慶伝は大風雨が「引兵還」の過程で、何時、何処で起こったかは
特定していない。

だから状況証拠で考えるしかない。撤退後、博多湾のなかにいたのが確かなのは志賀島の
座礁船一隻だけ。一方、壱岐には100隻ぐらいの漂着船がいた。
状況証拠から言えば、大風雨は湾外だ。

42 :
鎌倉武士強すぎだな
2回も来て2回とも沿岸部で壊滅って根性ないわ蒙古

43 :
>>40
>「遂引兵還」は「遂引兵還」であってそれ以外の何物でもない。

その通り。
そして「遂引兵還」は10月20日だけでしかない。
つまり10月20日以降の博多湾を出てから合浦に着くまでは含まれない。
だから「ちょうどそのとき」も博多湾内しかない。

44 :
>>43
>つまり10月20日以降の博多湾を出てから合浦に着くまでは含まれない。

なんで?
博多湾を出てからも「兵を引いて」「還って」いるではないか。

45 :
http://shimesaba.dyndns.org/?p=25351
・元軍の殆どが高麗人
→金や遼といった河北に陣取った異民族国家の残党が主力、次いで高麗という構成率。モンゴルは人口が少ないため、指揮官や一部の部隊がモンゴル出身の蒙古軍というのが実態。
伝統的な彼らの戦法に則るなら、モンゴル騎射兵が突出して敵を挑発し、突っ込んでくれば攻撃しながら逃げ後方で包囲網を展開している降伏国軍の歩兵の網に誘い込み粉砕、
逃げれば機動力を活かしてアウトレンジからじわじわ狩りR。

こうした騎兵の偽装退却・伏兵の歩兵の攻撃は元寇時の陸戦では
果たして行われたのかだが
伏兵の位置を偵察用の足軽等に把握され
逆に奇襲を受ける等して失敗した可能性も有るのかだが

46 :
https://jp.pinterest.com/pin/335025659752917272/
上の革の馬甲を装備したモンゴル重騎兵は偽装退却には加わらないだろうし
最後歩兵と共同して攻撃する兵力だろうが
こうした兵も何処迄居たのかだが
騎馬武者と騎射戦をしたとしても馬鎧は馬の行動を阻害せぬ程に
日本の矢を止められたのかどうかだが
日本軍に奇襲攻撃を主に山から受け
騎射戦も出来ぬ侭壊滅していた可能性も有るのかだが

47 :
モンゴル軍も偽装退却の為の軽騎兵は数は余り必要は無いだろうが
決戦兵力の重騎兵が数が無いと
歩兵の戦闘力が低い以上は可成り影響したのかだが
日本に来た騎兵は重騎兵主体と言う訳では無いのかだが
http://www.gaopu.com/soudai.html
恐らく当時世界最高クラスの防御力が有る上の歩人甲を大量に装備する
南宋軍の歩兵がそう弱いのかどうかだが
機動性は無く密集しているから包囲されて矢を受け続ければ限度も有るのかだが
可成り細かい小札の鎧であるから
槍や矢には可成り抗し得るかも知れぬが
蒙古襲来絵詞では騎馬武者も一部使用している薙刀や
両手持ち刀を止める程の防御力は無いと言う事なのかだが

48 :
http://photozou.jp/photo/show/1849954/200511501
蒙古襲来絵詞では上の様に恐らく袖の有る鎧を装備する騎馬武者が
薙刀も使用しているのかだが
歩人甲に対抗する為に騎馬武者も此れを多用した可能性は有るのかだが
大太刀迄が大量に投入された可能性は有るのかだが

49 :
文永の役では歩兵も高麗兵以外では南宋兵では無く
旧金・北宋軍の歩兵が多いのかだが
彼等の装甲は南宋軍程では無いと言う事なのかだが

50 :
http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/news/1350897475
まず、元軍は山岳戦云々なんて段階まで攻め込めてこれていない。
文永では、上陸してから百道原などの平地で戦われたし、弘安の役も
海の中道の砂州での陸上戦で敗北して海に逃げていった。
海上戦が行われたから、元軍が不利だったのではなくて
陸上戦で敗北したから海戦をせざるを得なくなった。

浜辺で待ち受ける武士団の矢嵐の中、元軍上陸なんていう
プライベートライアンのような上陸戦は元寇では一度も
なかった。

日本軍の山岳での奇襲攻撃は無く
地上戦では騎射戦で事実上決着が付いていたのかだが
軽騎兵は偽装退却専門としても
槍を持つモンゴル重騎兵は弓の扱いはどうだったのかだが
騎馬武者が弓を放って来たら槍では流石に対抗せず
弓を使用したと言う事なのかだが

51 :
騎射戦主体で正面から戦闘したなら
騎馬武者自身は重装甲で損害は少ないとしても
馬の損耗は可成り多かったのかどうかだが
威力の有る南宋歩兵の弩で騎馬武者がやられていた可能性は有るのかだが
発射速度は高速では無いだろうし
袖と胴を同時に貫通する等出来るのかだが
騎馬武者も馬がやられた後は垣盾を持つ歩兵と合流後
下馬戦闘をしていた可能性も有るのかだが

52 :
http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/news/1350897475
モンゴル帝国の動員力は1229年時点で12万9000人。
実は大したことない。
そこから征服した民族を加えて動員増やしていったんだけど、元寇のモンゴル軍の民族編成は
モンゴル皇帝オゴデイの直属軍と一緒。
つまり元寇で日本に来たのがモンゴル帝国内最強編成で、武士はそれに圧勝したってこと。

騎兵の比率と言うのも通常のモンゴル軍と基本的に
同一と言う事なのだろうか

53 :
http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/news/1350897475
>文永で4万、弘安で12万の大兵力投入して見下してたとかないわ。
>それだけの兵力投入すれば当時地球上のほとんどの国は瞬殺だろ。

元寇のモンゴル兵の比率は他地域の軍と同じと言うが
高麗や北宋・南宋の歩兵は他地域の歩兵より
弱かった可能性は有るのかどうかだが

>あと、情報戦においてはモンゴル帝国より鎌倉幕府の方が一枚上手だったんだよ。
>使者を太宰府以外には立ち寄らせず、十分な情報収集させなかった。
>一方の日本側は元の首都大都まで使節団送ってるし、高麗にも内通者がいて
>モンゴル軍の配備状況も正確に把握してたし。

日本側もモンゴル軍の装備や編成・戦術は
何処迄理解していたのかだが

54 :
http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/news/1350897475
弘安の役の経過は更に一方的なものであり、武士団は20分の1の兵力で正面から元軍と戦い一方的に勝ち続けた
文永の役の後に、再度の侵攻を防ぐために防塁を築いたのは有名な話だが、あれは近隣の村落を守るためのもの(文永の役の際、実際に元軍は無防備な村落を襲い民衆を虐殺している)
事実、最初に元軍が上陸を試みた際に武士団は防塁を背にして正面から交戦している
ここで案の定惨敗した元軍は、志賀島という島に上陸し野戦築城し防戦に入る
このように圧倒的大軍でありながら城まで築き防備を整えた元軍に対して武士団は20分の1の兵力で攻撃を仕掛け、連戦連勝の末に一方的に元軍を船に撤退させる
今度もそのまま逃げ帰ろうとするが、そこに台風が直撃し元軍の船が全て座礁
逃げ場を失った元軍は旧南宋出身者を除き皆殺しにされた(これは、文永の役において元軍が民間人を虐殺したことに対する報復)
元史には「生きて元に帰れたのは3人だけだった」との記述があるほど

つまり、元寇において武士団が敗勢だったというのはそれ自体が真っ赤な嘘
現実には武士団の戦闘能力はモンゴル騎兵を遥かに凌駕しており、事実として武士団は20倍の兵力の敵を一方的に撃破している

55 :
>>54

防塁が村落を守る為の物と有るが
防塁に兵が存在すると思わせて敵の上陸を思い留まらせようしたと言う事なのかだが
モンゴル軍も奇襲でも無い正面からの騎射戦で弩等も有りながら
20倍の兵力でも勝てないと言うのは一体どう言う事なのかだが
偽装退却・包囲攻撃等は何処迄したのかだが

56 :
加えて言うなら、文永の役において高麗軍の兵数は8000人
http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/news/1350897475
加えて言うなら、文永の役において高麗軍の兵数は8000人
元の正規軍は2万5000人であり、「文永の役においては高麗軍が主力だった」「元軍には騎兵がいなかった」というのは左翼歴史家の妄想
文永の役では元軍の本陣にまで攻撃が及ぶほどに一方的に戦況が展開しており、この際に元軍副将の劉復亨が弓で射殺されている
騎馬戦において最も重要なのは弓の性能だが、日本製の弓は元の弓の4倍の射程を誇っていたことが知られている
「武士団は射程外から次々と元軍に射殺された」と主張する歴史家もいるが、これもとんでもない電波説

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87
>蒙古・漢軍 15,000[13]〜25,000人[6][14][15]

と有るから25000には漢軍歩兵も含まれると言う事なのかだが
日本軍の弓の射程はモンゴル軍を下回るが
重い鏃の使用故に威力は上と言う事なのかだが
動く馬に120m等から命中は期待出来ないなら
モンゴル軍の弓の優位な射程は騎射戦では生かせたのかだが

57 :
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87#.E3.80.8E.E5.85.AB.E5.B9.A1.E6.84.9A.E7.AB.A5.E8.A8.93.E3.80.8F.E3.81.AB.E3.82.88.E3.82.8B.E6.88.A6.E6.B3.81
>また、元軍の弓矢は威力が弱かったが、鏃に毒を塗って雨の如く矢を射たため、元軍に立ち向かう術(すべ)がなかったとしている[178]。元軍に突撃を試みた者は、元軍の中に包み込まれ左右より取り囲まれて皆殺された[178]。
>また、武士が名乗りを上げての一騎討ちや少人数での先駆けを試みたため、集団で戦う元軍相手に駆け入った武士で一人として討ち取られない者はなかったとしている[179]。

上の様な八幡愚童訓の記述は誇張だと言う意見も有るし
騎馬武者も日本軍相手にやらない様な無謀な突撃は何処迄したのかだが
偵察等をしていた少数の騎馬武者が
離脱の際に多数の軽騎兵に機動力の差で逃げ切れず包囲射撃され
やられた例等は果たして有るのかだが
そう成ったとしても竹崎秀長の様に主力部隊の援護や
後方に控えていた歩兵の援護で離脱した例と言うのも有るのかだが

>退く時は「てつはう」を用いて、爆発した火焔によって追撃を妨害した[179]。「てつはう」は爆発時、轟音を発したため、肝を潰し討たれる者が多かったとしている[179]。

蒙古襲来絵詞の竹崎季長や白石通泰等の主力部隊も
特段此れで戦意を喪失した風には
書かれていないと言う事なのかだが

>追撃に参加した福田兼重は百道原において大勢の元軍の中に馳せ入り、元軍と矢戦となり、鎧の胸板・草摺などに三本の矢を受けて負傷したという[155]。

此れは騎射戦なら可成り近距離での被弾かも知れぬが
弩では無いなら致命傷とは成らなかったと言う事なのかだが

>海路から東路軍を攻撃した伊予の御家人・河野通有は元兵の石弓によって負傷しながらも太刀を持って元軍船に斬り込み、元軍将校を生け捕るという手柄を立てた

弩を受けた例も有るが
蒙古襲来絵詞を見る限りそう深手は負っていないと言う事なのかだが

58 :
騎馬武者も軽騎兵の偽装退却に誘引され
歩兵の集中射撃で馬がやられても下馬しての歩兵・重騎兵への突入は可能かも知れぬし
突入した数が多ければそれなりには保った可能性も有るのかだが

59 :
>しかし、前衛の騎士たちは後詰めの騎士たちと共に態勢を建て直すと再び攻撃した。するとモンゴル軍は中央の軽装騎兵を偽装撤退させて連合軍の主力である騎士団を誘い込み、
>両翼の軽装騎兵による騎射で混乱に陥れた。そして騎士団の背後に煙幕を焚いて後方の歩兵と分断すると、完全に混乱状態にある敵軍をモンゴルの重装騎兵が打ち破った。

ワールシュタットでは軽騎兵が偽装退却で誘引された騎士に射撃をしていたが
歩兵が居る場合は歩兵が射撃していたと言う事なのかだが
射撃後突入するのは重騎兵では無く
モンゴル軍主力の此れの消耗を避ける為に
被支配地域の歩兵が突入した可能性も有るのかだが

https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-f4-9a/hehualu2000jp/folder/1360647/01/38994101/img_6?1319849952
蒙古襲来絵詞でも騎兵は歩兵の背後に居るし
重騎兵は基本的に歩兵の督戦の為に居る可能性も高いのかだが
歩兵部隊が壊滅したら重騎兵は交戦せず
離脱していたと言う事なのかだが
とは言え劉復亨の様に弓で狙撃された例も有ると居う事だろうか

60 :
https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-b7-50/kuroken3147/folder/1452530/55/55992055/img_1?1230164143
上で前線に居るのはモンゴル軍の軽騎兵では無いだろうが
モンゴル兵らしき者は書かれているが
現実には偽装退却を行う軽騎兵だった可能性も有るのかだが
竹崎秀長等に馬をやられて
下馬戦闘している可能性は無いと言う事なのかだが

61 :
モンゴル軍も軽騎兵さえも前線には投入せず
被支配地域の軽歩兵に偽装退却をやらせていた可能性も有るだろうし
モンゴル人騎兵は歩兵部隊の督戦の為に
基本的に存在していた可能性も有るのかだが

62 :
>>61
だとすれば偵察をしていた騎馬武者が
軽騎兵に追撃包囲されて壊滅と言う様な事は蒙古襲来絵詞同様に
起きなかったと言う事なのかだが

南宋軍歩兵なら弩・歩人甲を装備しているし
歩兵としては当時世界最高クラスの装備だろうが
士気もモンゴル騎兵の督戦が有るならそう低いのかどうかだが
重装備・密集隊形故の弱点等も有ると言う事なのかだが

63 :
南宋歩兵も明歩兵が倭寇にやられた様に
騎馬武者に槍を斬られた後切り込まれ壊滅していたのかだが
円盾兵の様な兵も居たかも知れぬが
盾で防護出来ぬ脚や腕等をやられていた可能性も有るのかだが

http://i.imgur.com/JJBcZZp.jpg
上の赤は騎馬武者 青はモンゴル軍歩兵 緑は日本軍歩兵だが
騎馬武者が突入後歩兵に包囲されても上の様に包囲の背後から
日本軍の残っていた歩兵が奇襲攻撃を掛け敵を壊滅させたり
騎馬武者の脱出路を確保していた可能性も有るのかだが
http://o.8ch.net/uo4z.png

64 :
日本軍も歩兵部隊の薙刀迄槍に対抗出来るのかだが
刀を持つ歩兵も同時期の平治物語絵巻等で書かれているが
彼等が槍を切断した後薙刀を持つ兵も切り込んだ可能性は有るのかだが
其処迄の技量は有るのかだが
薙刀や槍に似た
http://i.imgur.com/d1UJHeR.jpg
上の日本の手鉾に対抗するのは慣れている訳だろうし
薙刀を持つ兵も手鉾には対している訳だろうか
騎馬武者も手鉾に割に対している可能性も有るから
槍に対抗出来ぬと言う事は無いと言う事なのかだが

65 :
http://i.imgur.com/15hEBcU.jpg
上の平治物語絵巻には恐らく刀が主武器の歩兵も居るが
日本の薙刀・手鉾の切断は茎や蛭巻が有る故に困難だろうし
モンゴル歩兵の槍相手でも此れを払って斬り込んでいたのかだが
此れは騎馬武者も同様なのかだが
戦っている間にモンゴル兵の槍に茎・蛭巻が無い事が判明し
槍を斬っていた可能性も有るのかだが

66 :
http://toro.2ch.sc/test/read.cgi/army/1346923005/131
これは本当に疑問。流将公とは本当に劉復亨のことなのか。
八幡ノ蒙古記は「流将公」なる人物は、「十四五騎うちつれ、徒人七八十人」を連れ
「おくひやう神にさそはれて、今は一人も戦はんとおもふ者こそ、たえにけれ」というほど
壊滅状態にあった日本軍を先頭きって追撃してきたとしている。
しかし、劉復亨は元軍の副司令官にして万人を指揮する万戸の身だ。
「十四五騎うちつれ、徒人七八十人」の少人数を連れて、突出するようなことが
あるだろうか。

後方で歩兵を督戦していたモンゴル騎兵部隊の中枢を
日本の一部騎馬武者が背後等から
奇襲攻撃したと言う可能性も有ると言う事なのかだが

67 :
1240年成立かも知れぬ平家物語に有る一の谷合戦の影響で
日本軍がモンゴル軍への背後からの少数戦力での奇襲攻撃を
考えた可能性も有るだろうし
そうした少数戦力での背後からの奇襲攻撃はモンゴル軍の女真族の副司令官
劉復亨には想定出来なかった可能性も有るのかだが

68 :
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E6%B1%A0%E6%AD%A6%E6%88%BF
>ところが、肥後の御家人・菊池武房の軍勢が、赤坂の松林のなかに陣を布いた元軍を襲撃し、上陸地点の早良郡のうちにある麁原(そはら)へと元軍を敗走させた[158]。

此れは日本軍は騎射戦では無く下馬戦闘をしていた可能性は
有るのかどうかだが

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87#.E8.B5.A4.E5.9D.82.E3.81.AE.E6.88.A6.E3.81.84
>『元史』では10万[10]

少数の騎馬武者がゲリラ的に騎射での断続的な攻撃を加えたから
日本軍の兵力が10万等に見えた可能性も有るのかだが
一日中こうした攻撃を受け続ければ
無理に督戦されている様な歩兵は疲弊し続けると言う事なのかだが

69 :
騎馬武者も多勢に斬り込む事は現実には余り無く共
多勢に対し騎射はしていたのかだが
騎馬武者が乗馬し散開して遠距離からモンゴル歩兵の密集隊形に矢を撃ち続ければ
ほぼ一方的に損害を与え続けられるかも知れぬし
モンゴル騎兵は歩兵の督戦に特化していて迎撃も無いなら
夜間も含め一日中こうした攻撃を続けられる可能性も有るのかだが

70 :
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E6%B1%A0%E6%AD%A6%E6%88%BF
>ところが、肥後の御家人・菊池武房の軍勢が、赤坂の松林のなかに陣を布いた元軍を襲撃し、上陸地点の早良郡のうちにある麁原(そはら)へと元軍を敗走させた[158]。

菊池宗房の軍勢も100騎しか居ないと言う可能性も有るだろうが
此れが各24本・2400本の矢を歩兵の密集隊形に遠距離から撃ち込めば
数千の敵の士気を挫くだけの打撃は与えられる可能性も有るのかだが
追撃に備えて各10本程度は残していた可能性も有るのかだが
矢を再度補給して即再攻撃と言う事を繰り返していた可能性も有るかだが

71 :
散開して動く騎兵には
50mでも矢を直撃させる事は難しいだろうし
騎馬武者はこの距離なら密集隊形の歩兵に矢を命中させるのは容易なのかだが
騎馬武者が少数で矢が集中すればその限りでも無いかも知れぬが
一定数纏まった相手で攻められば
矢は分散する訳し
少数でも遠距離から矢を放たれれば
多数の矢で反撃しても直撃は難しく成ると言う事だろうか
モンゴル軍歩兵もそうした大量の矢を用いる反撃を続けた結果
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87#.E5.85.83.E3.83.BB.E9.AB.98.E9.BA.97.E9.80.A3.E5.90.88.E8.BB.8D.E8.BB.8D.E8.AD.B0.E3.81.A8.E6.92.A4.E9.80.80
>『元史』日本伝によると「冬十月、元軍は日本に入り、これを破った。しかし元軍は整わず、また矢が尽きたため、ただ四境を虜掠して帰還した」[187]としている。

上の元史に有る様に矢が尽きて撤退したと言う可能性も有るのかだが

72 :
平治物語絵巻に有る様に歩兵が大鎧を装備している例は
現実には有るのかだが
略奪したとしても25kg等と重い者を果たして使用するのかだが
鉄伊予札の軽量な鎧・兜を装備していたと言うのが
現実なのかだが

73 :
https://www.youtube.com/watch?v=rwO_9kd6MJQ
上では55ポンド(24kg)の張力のロングボウで
50ヤード(45m)先の目標を撃っているが
此れで動く馬に命中するのかだが
弩の張力は150kg等であるなら此れより可成り弾速は高速なのかだが

74 :
某研究者…生きとったんかワレ!

75 :
>>72
大鎧着て元軍の船に切りこんどったし武士ならできるんでないか
落ちたらクッソ効果な鎧脱ぎ捨てる必要あるかもだけど

日本の鎧って東アジアどころか世界的に見ても重装甲な印象
当世具足採用した台湾のあれの鉄人部隊も最初は重すぎて苦労したみたいだし

76 :
>当世具足採用した台湾のあれの鉄人部隊も最初は重すぎて苦労したみたいだし

それは具体的になんという史料から確認できる情報なんだろうか?

77 :
>>75
>大鎧着て元軍の船に切りこんどったし武士ならできるんでないか
>落ちたらクッソ効果な鎧脱ぎ捨てる必要あるかもだけど

体力が有る者以外は25kgの大鎧で長時間下馬戦闘は出来るのかだろうが
射手ならどうなのかだが

>日本の鎧って東アジアどころか世界的に見ても重装甲な印象

新紀元社 武器甲冑図鑑では
モンゴル親衛兵ケシクテンは10000居たと言うが
此れは皮装甲の重騎兵と同程度の装備なのかだが
https://weaponsandwarfare.files.wordpress.com/2015/08/cd6b7d80089db0fe9c72093647605e0e.jpg
https://i.warosu.org/data/tg/img/0313/41/1396968061070.jpg
https://www.pinterest.jp/pin/322077810832458020/
https://www.pinterest.jp/pin/731131320726031441/
https://www.pinterest.jp/pin/466544842630021701/
上の様な金属甲冑を装備している可能性は無いのかだが
大鎧同様に25kg等の重量が有る物なのかだが
http://www.geocities.jp/zhongdong2009/twmu/Medieval/2.2.html
http://www.gaopu.com/soudai.html
上の宋の歩人甲と同様の物なら29kg程度有るのかだが
何れにせよ板金鎧では無いから刀の衝撃は何処迄止まるのかだろうし
胴に防御が大鎧程には集中しては居ないと言う事なのかだが
手足の鉄板は可成り薄い可能性も有るのかだが

現実のモンゴルの鎧を書いた古い絵で
正確そうな物は見ないし
果たしてオスプレイ等の絵の様な構造なのかだが
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:DiezAlbumsArmedRiders_I.jpg
上の様なイスラム勢力が書いた物は
彼等の甲冑と同様の描写が成されている様に見えるが

78 :
https://www.pinterest.jp/pin/322077810832418582/
上の様な形で槍で騎馬武者は何処迄やられたのかだが
http://i.imgur.com/d1UJHeR.jpg
槍に似たの構造の上の様な手鉾が有るから此れに慣れている者なら
何処迄やられたのかだが
茎や蛭巻が無い物では柄を斬られてやられた例も多いのかだが

79 :
https://www.pinterest.jp/pin/5699937002838167/
https://gr.pinterest.com/pin/445926800587590459/
https://www.pinterest.jp/pin/574490496189966161/
https://www.thoughtco.com/genghis-khan-exhibit-photos-195681
現実のモンゴルの鉄製甲冑は
上位しか無いのかだが
特異な構造はしていない様に見えるが
腕の装甲は有ったが現存していない可能性も有るのかだが

https://www.pinterest.jp/pin/546202261031340585/
上は非精鋭の重騎兵の革鎧と言う事なのかだが

https://www.pinterest.jp/pin/7881368072132402/
上の様な鉄札を仕込んだブーツは
鉄鎧を着る精鋭重騎兵用と言う事なのかだが

80 :
モンゴル等の騎兵・歩兵が小型の盾を持つ場合も有るが
此れは左足を軽い両手持ち武器で打たれれば
対応し難いと言う事は無いのかだが

81 :
モンゴル軍を撃退した、という事は鎌倉武士は世界制覇が可能だったのか?

82 :
ムリムリWWWWWWW
当時みたいな兵站未開の時代にアウェーで戦うとか死ぬほど不利だろWWWWW

ジャップはホームでチョン チャンコロ ドルジに辛勝して喜んでるだけWWWWWW
たかが知れてるWWWWWWW

83 :
兵站の問題は
モンゴル同様に戦奴を使用し
必要なら無制限な略奪・殲滅戦をすればどうなのかだが

84 :
https://www.pinterest.jp/pin/322077810832458020/
この鎧はよく見ると脚の後部に迄装甲が有るが
https://www.pinterest.jp/pin/317433473720634720/
上の宋の鎧と同構造なのかだが
こんな部分迄保護すると重量は何処迄食うのかだが
https://www.pinterest.jp/pin/353954851953667089/
上の歩人甲は腿の後部には装甲は無いし
この様なタイプの鎧もモンゴルには存在した可能性は有るのかだが

胴の重量が同等程度なら
大鎧の様に革・漆が混ざる方が弓には強いと言う事なのかだが

85 :
https://i.warosu.org/data/tg/img/0313/41/1396968061070.jpg
この鎧の胸部装甲は
https://www.pinterest.jp/pin/343610646560880327/
上の宋の胸部装甲に似ているし
イラストは此れと同様の物が
モンゴルにも有ると判断して書いたのかだが
此れは必ずしも装備されているのかだが

86 :
https://www.pinterest.jp/pin/317433473720634684/
上を見ると肩甲は宋の場合は胸甲の下に仕込まれているし
https://i.warosu.org/data/tg/img/0313/41/1396968061070.jpg
上のイラストは間違いなのかどうかだが
https://www.pinterest.jp/pin/353954851953667089/
http://www.gaopu.com/soudai.html
上のイラストも肩甲が胸甲の上に有る様に見えるが
果たして何れが正しいのかだが

https://www.pinterest.jp/pin/7529524348909186/
上の様な宋のライオンの付いた肩甲と言うのも唐の時代当りから良く見るが
此れは指揮官用の物なのかだが
モンゴル兵はこの様な物は使ったのかだが

87 :
https://www.pinterest.jp/pin/7529524348943358/
上のイラストでも宋の歩人甲の肩甲は
胸甲の上に装備されると言う解釈なのかだが

https://www.pinterest.jp/pin/317433473720634684/
https://www.pinterest.jp/pin/317433473720634708/
上の宋の兵が装備している様な首装甲は
http://www.gaopu.com/soudai.html
https://www.pinterest.jp/pin/353954851953667089/
https://www.pinterest.jp/pin/343610646560880575/
上のイラストでは無いが
装備していた兵も居ると言う解釈なのかだが

https://qph.ec.quoracdn.net/main-qimg-cbda623f966ee016a99f6e434e12a0f2-c
モンゴル騎兵も下の兵の様に首装甲は必ずしも
無いと言う事なのかだが
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/31/Takezaki_suenaga_ekotoba_1-2.jpg
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%99%E5%8F%A4%E8%A5%B2%E6%9D%A5%E7%B5%B5%E8%A9%9E
蒙古襲来絵詞のモンゴル・宋・高麗兵等も
首装甲は有る例と無い例が有るだろうか

88 :
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1287476/11
上の鎌倉時代の平治物語絵巻にも佩楯は幾らかは有るが
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B2%BB%E7%89%A9%E8%AA%9E
平治物語絵巻は1255年迄に成立の可能性も有るなら
此れは元寇前の装備なのかだが
https://www.pinterest.jp/pin/353954851953667089/
上の中央が二分割されている様にも見える
宋の佩楯に似た構造だが
一体型も有ったのかだが
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E5%B0%9A#/media/File:Ashikaga_Yoshihisa.jpg
上の足利義尚の肖像画の様に
直垂の内部に佩楯を仕込んでいた例は有るのかだが

89 :
https://www.pinterest.jp/pin/343610646560881874/
平治物語絵巻・六波羅行幸巻だと上しか佩楯は無い様に見えるが
現実の装備率はどうだったのかだが
上だと膝が露出しているが
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1287476/11
上だと露出していない様に見える例も有るから
長短有る可能性も有るのかだが

90 :
https://www.pinterest.jp/pin/343610646560881967/
上の佩楯は膝はほぼ露出していないし
https://www.pinterest.jp/pin/343610646560881972/
上も正面からは露出していないと言う事なのかだが
こうした二分割の構造は南北朝期には打物戦には不利として
廃れたのかだが

91 :
なんで末尾逆接ばっかなの
語尾でキャラ付けする漫画じゃあるまいに

92 :
https://www.pinterest.jp/pin/611363718135648014/
https://www.pinterest.jp/pin/343610646560882169/
上の様な旧金の騎兵もモンゴル軍には居たのかだが
胸部の構造が宋の鎧とはやや異なる訳だろうか

https://www.pinterest.jp/pin/343610646560882265/
一番上の金の鎧の肩甲は板金なのかだが
面頬も何処迄使用されたのかだが

https://www.pinterest.jp/pin/343610646560880861/
上の黒い鎧を着たモンゴル兵は
革甲を装備した非精鋭の重騎兵なのかだが

93 :
http://photozou.jp/photo/photo_only/1849954/242793762?size=1024#content
上に有る様な下着及び夏服の大口に佩楯を縫い付けて
冬はこれの上に直垂を着たと言う例も有るかも知れぬが
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E8%AD%B7%E8%89%AF%E8%A6%AA%E7%8E%8B%E5%87%BA%E9%99%A3%E5%9B%B3.jpg
上の護良親王出陣図では歩兵の袴に佩楯が縫い付けられているし
大口にこうした形で佩楯を縫い付け
上に直垂を装備する例も鎌倉期に有るのかだが

94 :
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%99%E5%88%80#/media/File:Kyujutsu10.jpg
茎式の薙刀の柄に金属で蛭巻迄して有るのは
刀だけでは無く薙刀の斬撃も柄で止めていた故かも知れぬし
此れでモンゴル兵の槍や斧・大刀を切断していた可能性も有るのかだが
http://photozou.jp/photo/show/1849954/200511501
上の蒙古襲来には恐らく騎馬武者が薙刀を装備しているし
1221年迄成立と言う平家物語でも
平教経が大薙刀と大太刀の二刀流をしている場面が有るから
この時点で騎馬武者も下馬時には薙刀を使用していたのかだが
騎馬武者の薙刀なら雑魚歩兵の長柄武器の柄は切断されて
容易にやられていた可能性も有るのかだが
この時点での大太刀はどの程度の長さなのかだが
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A4%AA%E5%88%80#.E8.A8.98.E9.8C.B2.E3.81.A8.E5.AE.9F.E5.9C.A8
1250年成立かも知れぬ源平盛衰記には
140cmの大太刀も有るが
90cm程度の物が主流の可能性も有るのかだが
槍・長柄武器切断を狙って弘安の役では多用された可能性は有るのかだが

95 :
http://www.gaopu.com/xixia.html
http://www.twcenter.net/forums/showthread.php?218032-Faction-Discussion-Xi-Xia
1227年にモンゴルにやられた西夏の兵と言うのは
元寇に果たして来ていたのかどうかだが
この鎧の肩は唐や宋の兵に有る様なライオンが簡略化された物なのかだが

96 :
>>95
西夏の領土だった河西地方の兵は弘安の役に投入されてる。

元史 卷十一 本紀第十一 世祖八 
十八年四月条「賜征日本河西軍等鈔。」

97 :
服部氏の蒙古襲来借りてきた
今から読むけど俺はこの本の内容を信じる予定

98 :
http://www.lykia.pl/en/armours/antiquity?start=1
>Steel lamellar plates 1-1.2mm thick

現実のこうした大陸勢力製の鉄小札鎧の厚みはこんな薄いのかだが
日本の鉄小札の1.5mm程度は有る可能性も有るだろうが
こんな物では弓は止まるのかだが
胴体や草摺の一部は装甲は二重に成っている例も有るから
この部分は可成り弓は止まる訳だろうか

99 :
https://www.pinterest.jp/pin/7529524348909200/
上の宋の鎧の場合は胸部や草摺の一部は二重だが
https://www.pinterest.jp/pin/317433473720634684/
上は部分的には三重にも成っているが
この部分の鉄小札は1.5mm等は有るのかだが

100 :
高麗軍の歩兵は南宋兵程の装甲は
少なく共全員には有るのかだろうし
南宋でさえ装甲が余りない歩兵も確か居るだろうが
https://www.pinterest.jp/pin/611363718135648014/
金の鎧は胸甲は二重構造なのかだが
装甲が二重に成っている様にも見える部分は有るが
現実的に1.5mmしか無いとは考えられぬ訳だろうか
草摺は騎兵戦しか考えていないからか
宋の鎧と比べると軽装である訳だろうか

http://wdykaac.weebly.com/uploads/2/8/9/6/28967125/4571218.jpg
西夏軍の鎧は胸部は二重では無いのかだが
分厚い鉄小札が使われている可能性も有るのかだが
草摺は前後二分割と妙な構造だが
此れは上手く騎乗出来るのかだが
https://s-media-cache-ak0.pinimg.com/originals/80/c3/93/80c39317f9f64e17416eb87147cfbff4.jpg
https://www.pinterest.jp/pin/343610646560882977/
上を見ると草摺は長くは無いから
騎乗には支障は無い訳だろうが
脚の防御は金の鎧と比べ考慮され無いのかだが

https://www.pinterest.jp/pin/343610646560882973/
https://www.pinterest.jp/pin/343610646560882980/
此れは小札の構造が違うが
大型の鉄小札・鉄板札が使われているのかだが

101 :
https://www.pinterest.jp/pin/317433473720170944/
上の唐の明光鎧も胸部は恐らく二重装甲だろうし
金の鎧も同様かも知れぬが
https://www.pinterest.jp/pin/7529524348909200/
https://www.pinterest.jp/pin/343610646560880871/
https://www.pinterest.jp/pin/611363718135648014/
https://www.pinterest.jp/pin/343610646560882169/
腹の綿甲は装甲が二重で無い部分を
弓の攻撃から保護する為の物と言う事なのかだが
どの程度の防御力の上澄みが有るのかだが
此れが無い例も何故か有るだろうか

元軍の左副都元帥劉復亨は胸部の二重装甲では無く
装甲が一重の部分或いは装甲の隙間を撃ち抜かれて重傷を負った可能性も
有るのかどうかだが
劉復亨は漢人であるから金の鎧では無く
北宋軍の鎧を装備していたのかだが

102 :
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87
>文永の役
>蒙古・漢軍 15,000[13]〜25,000人[6][14][15]
>高麗軍 5,300〜8,000人[16]

劉復亨に随伴していた騎兵は北宋系の物と言う事なのかだが
数はどうなのかだが
騎射・騎馬の技術はモンゴルや金の兵より劣り
長柄武器での接近戦指向と言う事なのかだが
接近戦に持ち込む前に弓で可成りやられていたのかだが

103 :
旧北宋軍騎兵の弓もモンゴルの様な張力80kg等は
無い可能性も有るのかだが
旧北宋軍歩兵の弩は発射速度は無く
遠距離では太い矢の空気抵抗で威力・精度は低下すると言う事なのかだが
通常の弓も張力はモンゴルより低いだろうが
相当数は有るのかだが
騎馬武者が散開して動きながら矢を放てば
弩も命中は何処迄したのかだが

104 :
https://www.youtube.com/watch?v=Vx5LLl9ZWc4
小薙刀でも槍の柄程度なら
切断は可能と言う事なのかだが
https://www.youtube.com/watch?v=9erkCAzheeI&t=201s
鎌倉期の柄の短い大薙刀では
上の野太刀に威力は似ているのかだが

105 :
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%82%E7%94%B2
>『日本書紀』の記述として、飛鳥時代、壬申の乱(7世紀末)時、「大分君稚臣(おおきだのきみ わかみ)という勇士が、矛を捨て、鎧を重ね着して、刀を抜いて(以下略)、射られながらも敵陣に突入した」といった記述があり、
>挂甲によって鎧の重ね着が可能となった事が分かる最初の記事である(重ね着をする事によって、余計なものを持たずに突入する戦法の先例でもある)。

南北朝期にも鎧は重ね着されているが
鎌倉期はどうなのかだが

106 :
https://imgsa.baidu.com/forum/pic/item/8b3bf8d3572c11dfa2eda0ad622762d0f603c266.jpg
https://imgsa.baidu.com/forum/pic/item/b8df2c9759ee3d6d4d159b4542166d224d4ade4b.jpg
https://tieba.baidu.com/p/2473581393
此れは北宋の11世紀の騎兵の様だが
13世紀と装備は同様なのかだが
槍を持つ重騎兵には弓は無いし
弩を持つ騎兵も居るが
軽装甲の弓騎兵も居るが
彼等はモンゴル軍にやられていた訳だろうから
日本には何処迄来ていたのかだが

107 :
旧北宋の槍では無く弓と剣を持つ騎兵に関しては
モンゴル兵程では無いが
それなりの弓の腕前は有る可能性は有るだろうが
軽騎兵・重騎兵共に密集陣形で運用されるから
散開してゲリラ的に四方から襲撃する騎馬武者に
弓を当てられる例も多かったのかだが
馬にも鎧が有る旧北宋の重騎兵は此れを追撃するのは無理だろうが
軽騎兵は追撃出来ただろうが士気の問題等で
余り戦果は上げられなかったのかだが

108 :
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90#.E4.B8.AD.E5.A4.AE.E8.BB.8D
>唐軍は、隋末の戦乱において、馬に甲冑をつけない機動力にすぐれた軽騎兵を活用した。軽騎兵は唐の統一戦や突厥との戦いにおける勝利に多大な貢献を果たした。
>そのため、馬に鎧をつけ、防御力や突進力にすぐれるが、馬の持久力や機動力で劣る重騎兵を中心とした隋代に代わり、唐代を通して軽騎兵が騎兵戦力の主力となった。

唐の騎兵も馬鎧は無いだろうし
やられた騎馬民族の騎兵は馬鎧は有ったと言う事なのかだが

>唐の軍隊は、歩兵を主体として、軽騎兵に補助を行わせる形で戦闘を行った。歩兵は50人の「隊」は「隊正」を先頭にする緩やかな「くさび形」に陣形をつくる。
>七軍の一軍ごとに、弓兵・弩兵を前方に、3陣に分かれた歩兵を中央に置き、両脇に騎兵が配置され、後方に奇兵が置かれた。
>まず、弩兵が矢を撃ち、さらに弓兵が撃った後で後方に下がった後で、歩兵の2列目の部隊は下がってきた弓兵を擁したまま動かず、
>1列目の歩兵と騎兵・奇兵が交互に戦う戦法をとった。

日本軍は此れ程歩兵に依存した戦いは
して居ないと言う事なのかだが

109 :
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E9%9D%96
>常勝を誇った李靖の戦術の基本は、騎兵の機動力に依存した長距離奇襲戦法であった。敵の思いもよらない方角から攻め込んで混乱させ、敵が逃げる方向を正確に予測して伏兵を置き、
>挟撃して殲滅するという戦法によって、李靖は味方の兵が敵より少ない場合でも常に勝利を収めた。その鮮やかな勝ち方から、中国では李靖をして史上最高の名将とする書籍が多い。

日本軍の騎兵も唐の騎兵同様に騎兵自身は重装甲で馬に装甲は無いが
此処迄騎兵の機動力は生かしては居るのかだが
騎馬武者を追撃して来た旧北宋軍等の軽騎兵或いは重騎兵迄を
伏兵で倒す様な事はした可能性も有るのかだが

>また同書によると、李靖は「防御力・輸送力に秀でた戦車(偏箱車・鹿角車)は用兵の要である。」としている。

此れは騎馬民族の奇襲や初期の攻撃を撃退する為に
必要と見たのかだが
日本軍も垣盾等でこうした事はしていたのかだが

>この戦法は、馬の運用に長けた遊牧民族との戦いにおいても有効であった。遊牧民族の戦法は、
>機動力に優れた馬上から相手との距離を一定に保ちつつ弓を射掛けるというものであったため(パルティアンショット)、敵陣に切り込めば案外たやすく退却することが多かったからである。
>とはいえ、敵の逃走する方角を正確に予測する李靖の戦略眼は、同時代においては突出していたと言える。

この初期の射撃を防ぐ為に
戦車が必要とされたと言う事なのかだが
日本軍もいきなり騎馬武者が騎兵を迎撃せず
敵の逃走時の追撃に使用された例も多いのかだが

110 :
李靖が751年のタラス河畔の戦いに居れば
アッバース朝の20万の兵に3万或いは10万の兵で
勝てた可能性は有るのかどうかだが

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E5%85%B5
日本の伏兵運用も720年成立の
日本書紀に書かれているから
元寇時も行われたのかどうかだが

111 :
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E5%A4%A9%E6%88%9F
方天戟も北宋時代に有るが
https://tieba.baidu.com/p/2473581393
此れは上の絵には無い様に見えるが
https://imgsa.baidu.com/forum/w%3D580/sign=9ec501c19f2f07085f052a08d925b865/490e02fa513d269740fd1bd354fbb2fb4216d870.jpg
ハルバードの様な斧(恐らく大斧)は有るが
此れは何処迄使われたのかだが
引っ掛けるタイプの武器は日本側も熊手や薙鎌が有るから
それより反応性の悪く短い大斧なら
対応は出来たと言う事なのかだが

https://imgsa.baidu.com/%C3%F7%BB%AA%CC%C0%CB%AE/pic/item/f50a446feac682e480cb4a46.jpg
明時代の絵には方天戟は多数書かれる例も有るが
北宋時代には未だ数が無かった可能性も有るのかだが

http://arms.cybrary.jp/db/impact/flail/duanshaozi.html
上の紀元前から有る短梢子や長梢子の様な武器も書かれている例を見ないが
補助武器として携帯されていた可能性は有るのかだが

112 :
>威力が高い弓でも射手の手首や腕に掛かる衝撃を減らす事が出来る。洋弓にはスタビライザー(反動抑え棒)があるが和弓には要らない。

モンゴル等の軽く高威力の弓では反動が強く成り
制御が難しいと言う意見も有るが 
動画を見る限りどうなのかだが

pinterest.jp/pin/7881368076541634/
トルコ系弓の矢の重量は25g程度なのかだが

>矢は軽い。全体で500g、鏃だけでは25−35gくらいだ。
 
和級の矢は此れは50gと言う事なのかだが 
トルコ系矢の2倍の重量は有るのかどうかだが
トルコ弓も和弓の矢の約1.4倍高速でないと
同じ威力は得られないと言う事なのかだが
同等以上であれ反動・振動・矢の空気抵抗の問題は出得ると言う事なのかだが

113 :
A perfect shot
https://youtu.be/NOpOqgotJZc
モンゴル騎兵は皆此処迄の事が出来るのかだが 
この弓の張力は50−80kg等は無いと言う事だろうか

114 :
https://www.youtube.com/watch?v=i4T7PNbKdU8
11世紀には使用されていた
小型の矢を使用し射程を伸ばすこの種のナーワク等も
モンゴル兵は使用したのかだが
遠距離から馬に当てる事は
密集隊形で無いと困難なのかだが

115 :
http://koukisya.web.fc2.com/kayaku2.htm
>モンゴルに渡った震天雷は元成立後も使用され、1281年の日本侵攻にも使用され「てつはう」の名で日本軍に恐れられた。
>その様子は「蒙古襲来絵詞」によく描写されている。しかし、「蒙古襲来 その軍事史的研究」によると持ち込まれた数は少なかったらしい。

震天雷も散開した騎兵には余り役には立たないかも知れぬが
船舶や城壁に密集した歩兵相手には有効では無いのかだが
実際何処迄使われたのかだが

116 :
某研がコピペしてる酷使様の主張が悲しい
なんだろう 俺も日本の勝ちだとは思ってるけど日本優位を強調されると途端に萎える
あれ?これが酷使様のいうアルファベット四文字の成果なのか?w

117 :
http://nonono7.blog12.fc2.com/?mode=m&no=2395
>和弓は、矢の長さもロングボウより少し長く、矢の重量も少しだけ重い。矢に質量があるから空気抵抗等での減速に強く、重いから命中した時の威力も大きい。
>矢が長いために強力な初速で押し出されても、飛翔中の矢が激しく振動する事無く、緩やかな振動になるために飛行姿勢が安定する。安定した姿勢で撃つなら、弓は長くて大きい方が安定する。

アーチェリーで精度を高める為に矢を大型化している例は
有るのかどうかだが
和弓も実験ではロングボウよりは精度は上の様だが
強化弓に比べるとどうなのかだが

>それを端的に示すポイントとして、矢の番え方がある。基本的にモンゴル弓等の短弓は弓の左側に矢を番える。対して、和弓は右側に矢を番え、そのまま矢を飛ばすと矢が右側に飛ぶため、弓返しをする。
>短弓の騎馬状態での射法としては、弓の左側に番える方が合理的であり、弓の右側に矢を番え弓返しする和弓の射法は独自の歴史を示しているらしい。

等と有るが
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%93%E8%A1%93#.E8.AB.B8.E5.A4.96.E5.9B.BD.E5.BC.93.E8.A1.93.E3.81.A8.E3.81.AE.E6.AF.94.E8.BC.83
>また蒙古式を採る射法では多く矢を弓の右側に番える。これは一説では疾走する馬上で向かい風を受けても矢を取りこぼさないように工夫したためとも言われる。
>ただし、笠懸や犬追物などでは進行方向右側に向かって矢を放つ場合もあり、一様に当てはまる根拠ではない。

等と有るから
右側に番える方が馬上向けの可能性も有るのかだが
弓は左側に向ける方が矢張り多いと言う事は無いのかだが
右側に向ける場合は向かい風を考慮し
矢を弓の左側に番えた可能性は無いのかだが

118 :
http://www.nextarchery.jp/original9.html
>基本的に弓のポンド数が高くなればなるほど、スタビライザーの重量を増やさないと安定しない傾向にあります。
>狙っているときの安定感を求めるなら、前のほうをあまり重くしないほうがいいでしょう。
>弓の飛び出しを求めるならその逆ですね。
>風が強い時には重いほうが安定しますが、突風のときは軽いほうが元に戻しやすいといって軽いセッティングを好む選手もいます。

等と有るが
投影断面積辺りの重量は和弓はトルコ系弓より重いのかだが
風に対する強さの差は有るのかだが

http://www.a-rchery.com/x10pointweight.htm
>非常に高価な「X10」というシャフトを使うと、とんでもなくサイト位置が下がることはご存知のとおりです。「ACE」でも下がりますが、それ以上に下がります。言葉を変えれば、異常に飛ばないシャフトなのです。
>理由はカーボン素材だけでなく、中にアルミニュームという金属を配して、重くなっているせいです。この理由をEASTONは「断面荷重」という投影断面積あたりの重さが大きいことを上げます。それによって風に打ち勝つ力が強く、70mでは有利だというのです。

日本の鏃は長い茎が入るから
投影断面積辺りの重さはトルコ系弓より有ると言う事なのかだが
英の大型鏃ボドキンの方が重いと言う事なのかどうかだが
無風状態での射撃等現実には何処迄有るのかどうかだが

119 :
http://www.a-rchery.com/x10pointweight.htm
>オールカーボンシャフトのアドバンテージは? と問われれば、X10にはない新たなアドバンテージが見つかったのです。
>それが「トップヘビー」です。
>「FOC」という矢のセンターから重心位置がどれだけ前(ポイント側)にあるかの指標があります。X10であれば9.5センチほどで「12.60%」です。
>それに対してオールカーボンで総重量を同じくらいにすれば(実際には少し軽いですが)14センチ「18.80%」前が重くなります。このトップヘビーのアドバンテージが矢を安定させ、なおかつ的中精度を向上させているのでしょう。
X10と同じようにサイトは低くなります。しかし、X10よりトップヘビーでオールカーボンのアドバンテージが得られます。もしX10でFOCを18%くらいに持ってこようとすれば総重量が重くなりすぎて失速してしまいます。

日本の矢もトルコ系矢よりは鏃に長い茎が有る分トップヘビーだろうが
英のボドキンの方がより前に重心が有るのかだが

120 :
英のロングボウも意外に精度は高いのかも知れないが
弾幕射撃だけで狙撃はしていないと言う事なのかだが
騎兵が装備するロングボウは狙撃もしていた可能性も有るのかだが

121 :
>騎兵が装備するロングボウは狙撃もしていた可能性も有るのかだが

此れは馬上でも左側に矢を番えていたなら
左側への射撃が多いとすればこの際に向かい風を受けると
精度は低下していたのかだが

122 :
https://pbs.twimg.com/media/DGrqOW6VYAA5URz.jpg
上のモンゴル精鋭軽騎兵マングダイの鎧は 
実際はどうなのかだが  
https://www.pinterest.jp/pin/343610646560871322/
上の絵の5番の様な物なのかだが 
通常の軽騎兵は士気や訓練度の問題等で偽装退却をやるのは難しい可能性も有るなら
追撃・略奪用なのかだが

モンゴル精鋭軽騎兵マングダイも通常のモンゴル軽騎兵も日本には来たのかだろうし
旧宋・金の軽騎兵では偽装退却は出来なかった可能性も有るのかだが

123 :
http://www.pinterest.jp/pin/343610646561159792/
http://www.pinterest.jp/pin/343610646561159798/
上の宋の騎兵の胸部に有る円盤は護身鏡なのかだが 
http://www.pinterest.jp/pin/343610646560881030/
https://www.pinterest.jp/pin/317433473720634684/
上の絵では無いが 
何処迄装備されていたのかだが

124 :
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B_(%E7%8E%8B%E6%9C%9D)#.E5.85.B5.E7.A8.AE.E3.83.BB.E6.AD.A6.E5.99.A8
>宋は西北の馬産地を常に隣国に押さえられていた為、軍馬に乏しく歩兵が部隊の大半を占めた。(仁宗時、禁軍の約七割が歩兵軍)
>北方の騎馬部隊を相手にする必要上、その歩兵の武器は次第に飛び道具に重点が置かれ、中期以降は大多数が弓弩手で、次に槍兵や刀兵が、
>最後に少数の火器兵から構成された。(初期は三割が弓弩手)

宋も唐の軍同様に戦車・歩兵で騎馬民族の騎兵を撃退し
軽騎兵で追撃・挟撃と言う戦術なのかだが
絵を見ると唐と違い重騎兵も多いが
彼等は何処迄使われたのかだが
歩兵は射撃手が7割等と言うのは日本軍より比率は多いのかだが
故に接近戦には脆かったのかだが
射撃手も発射速度の遅い弩が多かったのかだが

125 :
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14103247654
「宗史兵志」の中には「突火槍」という、竹で作られた筒の中に火薬を詰め、点火するとまず火炎が放出され、最後に子窠と呼ぶ小弾が飛んでいくという、竹製の使い捨ての火器が発明されています。
今でいう手持ち花火に似たもので、南宋時代の1259年の記録に現れます。
その後、この突火槍がモンゴルに捕獲され、複製品が制作されるようになります。突火槍を改良して筒に長い木柄を付け、筒を金属製(銅製)に改めたものです。この例は現在1332年および1351年の銘があるものが知られています。

https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/54491492.html
この初期の銃は元寇では
上を見る限り投入されなかったと言う事なのかだが

126 :
https://plaza.rakuten.co.jp/trimoe/diary/201704030000/
>綿襖甲とは、綿(キルト)の裏側に鉄板などを鋲で貼り付けた中世東アジア一帯で見られた鎧、英名はキルティングアーマー。
>綿なので火に強く、鉄板を縫い合わせてあるので斬撃にも耐性があったが、鉄板が薄く、打撃に弱いと言う欠点と、
>当時の東アジアで主流だった連弩に対する騎馬兵用の鎧であった為、連弩よりさらに飛距離、貫通力に秀でた長弓には弱く、蒙古襲来時には当時の鎌倉武士が用いた長堤に定点長弓戦法によりデメリットが浮き彫りとなり、その後、火薬兵器、鉄砲の台頭により廃れていく。

綿襖甲も基本的に雑兵用なので日本の歩兵用伊予札甲冑等の様に
鉄は薄いのかだが
清等の精鋭的な騎兵が此れを着ている様に見える例も有るが
この装甲は厚くなっていると言う事は無いのかだが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646560881009/
上の様な宋等の通常の小札鎧は綿襖甲と異なり
胸部は二重装甲と言う事なのかだが

127 :
http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/whis/1314345476/132
文禄の役から帰国した下瀬七兵衛頼直って人の記録

大明國しゆこしらへの事面には赤きとろめんを仕り候て裏にはくろかねを二寸四方ほとに切り候て
くさり付候ながき道服のやうに候甲もくろかねを白くみかき候て着候小手もくろかねにて矢も不立候
刀共にて候少もきれず候

https://4.bp.blogspot.com/-U89Gcy9-AdE/V0lP8NOa9WI/AAAAAAAACyA/JyVdtWAdNVwvz_OWCpUjV45td4gHO_4LACLcB/s1600/Ming_cavalrymen.jpg
この鎧は上の精鋭騎兵用の綿襖甲の可能性も有るだろうが
此れは胸部の鉄札の厚みは雑兵用の倍以上有るかも知れぬし
小札が6cm四方と通常の小札より大きいから強度が有ったのかだが
同様の厚みの騎兵用桶側胴や最上胴程の防御力は無いと言う事なのかだが
この種の物は西国の下馬戦闘主体の騎馬武者は
何処迄装備していたのかだが

128 :
https://www.pinterest.jp/pin/37858453087527316/
上の細川忠興の胴は横矧二枚胴と言うが
伊予札が入る可能性は有るのかだが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646561217234/
上の鍋島直茂の胴は伊予札の様だが
http://www.nabeshima.or.jp/collection/index.php?mode=display_itemdetail&id=6
上の鍋島勝茂の胴は伊予札では無いと言う事なのかだが

129 :
来襲は事実みたいらしいが
そこで捕虜も出たらしく
それが同和の一つの起源とも言われている

130 :
弘安の役では捕虜のなかで南宋人は生かしたと言われているから、その人数は万単位だろう。
同和の一つの起源はあり得るね。

131 :
https://blogs.yahoo.co.jp/ym191939/22365689.html
鎌倉末期から薙刀の先端の湾曲が小さく成り
突きが入れ易い形状と成ったのは宋の歩人甲等の隙間を
突きで狙う事を考慮した可能性は有るのかだが
単純に宋やモンゴル・高麗の槍の影響も有るのかだが
或いは日本の最上胴・桶側胴的な金胴が普及して来た故の可能性も有るのかだが
槍も此れに対抗する為に増えた可能性も有るのかだが

132 :
南北朝期には有る最上胴或いは桶側胴的な金胴も
https://www.pinterest.jp/pin/343610646561357005/
元のこうした板金的鎧の影響で出て来た可能性も有るのかだが
元寇時に日本には入っていたのかだが
青銅で作られているとすると中国製では無く
モンゴルが考案した物の可能性も有るのかだが
元寇時のモンゴル騎兵が鉄小札鎧等の下に
此れを着ていた可能性も有るのかだが
金胴も上を参考としたなら桶側胴的な物と言う事なのかだが
後で動作性を増した最上胴的な物も作られた可能性は有るのかだが
西欧のコートオブプレートはモンゴルのこうした鎧を
参考とした可能性も有るのかだが
モンゴルが逆に参考としていた可能性も有るのかだが

133 :
https://www.pinterest.jp/pin/343610646561159792/
上の様な宋の明光鎧に有る様な護身鏡を参考として
金胴が作られた可能性は果たして有るのかだが
金胴が鉄小札の大型な綿襖甲と言う可能性は有るのかだが

134 :
http://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_53/view/id/179807/page/892?&sst=wr_datetime&sod=asc
>カリフォルニア大学のサクストン・ポープ(Saxton Pope)教授の実験では、張力21.7kgの日本の弓の飛距離が160.2mだったという。
Japanese…....................48 ” 175 ” 
Tartar…......................98 ” 175 ”
 
張力が98ポンド(44kg)も有り恐らく矢も軽い
タタールの弓が和弓と同程度(168m)しか飛ばないのはどうなのかだが
モンゴルの弓はこの様な事は有るのかどうかだが

135 :
あの反りや矢そのものも
非常に工夫されていて
距離が稼げるらしい

火薬も使い始めている蒙古

136 :
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87#.E5.92.8C.E5.BC.93.E3.81.A8.E8.92.99.E5.8F.A4.E5.BC.93
>矢を同じように発射した場合、使用する矢の重量、重心位置、箆張りなどの規格が均一でなければ、矢の着点や飛行状態は異なってくる。着点は命中と密接な関係があり、
>その飛行状態は矢が命中した際の威力の大小に関係する。これらの理由により、森俊男は日本の矢の方が性能は良かったと指摘している。

>日本の弦は麻を材料とし、それを縒り合わせて松脂(まつやに)を染み込ませ、絹糸を全体に巻き締めて、その上に漆を塗って作られている。現在、通常使用されている弦の重さは二匁(7.5g)くらいである。
>糸を巻いて漆を塗り、重さが3倍になったとしても22.3gである。一方、蒙古弓の弦は動物の皮を使用し、重さは46gと日本の弦の2倍以上の重さがあった。
>したがって、矢が発射され弦が復元する過程では、弦の重さや空気抵抗などから、同じ強さの弓だとしても、矢の速度に差が生じるため、日本の弦の方が性能が優っているとしている。

と有るが
此れはどの程度威力に影響するのかだが

>鏃および矢柄の重量は発射される矢の飛行速度に大きく関係するが、両軍の使用する矢の重量はほとんど差はなかった。

http://www.xn--u9j370humdba539qcybpym.jp/part1/archives/243
>矢は軽い。全体で500g、鏃だけでは25−35gくらいだ。

日本の矢は500gでは無く50g程度なのかだが

https://www.pinterest.jp/pin/301952350005355413/
上のトルコの矢は25gだが
https://www.pinterest.jp/pin/556968678887688080/
上を見ると大型の鏃装備の物も有るし
こちらは可成り重い様に見えるが
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:The_arrow_of_a_Mongolian_army.JPG
上のモンゴルの鏃もそう小さくは無い訳だろうか

137 :
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87#.E9.A8.8E.E9.A6.AC.E5.85.B5
>『蒙古襲来絵詞』絵八の麁原に陣を布く元軍の騎乗率は約17%で『八幡愚童訓』でも元軍の左副都元帥・劉復亨と思われる人物の共廻りの記述に「十四五騎うちつれ、徒人七八十人あひ具して…」[181]とあり、騎乗率を約15〜17%ほどとしている。

>元軍の構成は軍船の総数が240艘で、1艘につき兵300人、水夫70人、軍馬5匹であったとしている

文永の役のモンゴル軍の兵は72000で
軍馬は1200であるなら
騎兵は1200以下なのかだが
集中運用は何処迄されたのかだが
騎兵の比率は17%等は無く
6%以下と言う事なのかだが

138 :
>>137
騎兵の比率は1.6%以下の間違いだが

文永の役で日本に来たモンゴル兵は
72000等は居ないだろうが

>『高麗史』金方慶伝によると、蒙漢・高麗連合軍39,700が女真軍の到着を待ったとあり、蒙漢・高麗連合軍39,700の他に女真軍が存在したとしている。

39700に加え女真兵を入れたら
72000程度には成ったのかだが
日本に来た39700の内騎兵は1.6%以下とすると
最大でも630程度であり
替え馬の存在を考えれば更に小数である訳だろうか
最大630の騎兵に士気の低い歩兵が主体で
騎兵もモンゴルの者は居ないと言うなら
能力の余り高く無い騎兵を偽装退却で
伏兵に誘引する等して壊滅させれば
容易に敗走したのかだが

139 :
モンゴル騎兵の替え馬は2−6頭と言う意見も有るし
船1艘に馬は5匹と言うから
騎兵は1名しか居ない可能性も有るのかだが
此れが正しいなら文永の役では240名しか居ない事に成るだろうし
騎兵は指揮官級の100名程度しか日本に来なかった可能性も
有るのかどうかだが
将軍等の乗る船だけは騎兵の比率が多い可能性は有るのかだが

140 :
モンゴル軍も少なく共弘安の役では
殆ど歩兵だけで日本軍を倒せるとは考えたのかだろうし
騎兵の比率が増えていた可能性は無いのかどうかだが

141 :
内陸国の船というか
接収した船に馬とか大変そうw

142 :
日本軍の弓の上手い騎馬武者が散開して接近し
指揮官に矢をほぼ同時に集中射撃すれば
小数の兵でも可成り厄介と言う事かも知れぬし
こうした方法で劉復亭がやられた可能性も有るのかだが

143 :
劉復亭だけじゃなくモンゴル軍の主力部隊そのものが日本軍に惨敗してる。
文永の役で博多目指して侵攻したモンゴル軍は赤坂以東へは進めず、
日暮れまでに今津へ追い込まれて撤退。
モンゴル軍の人的損害1万3500余人。

144 :
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%96%E5%BA%B7%E3%81%AE%E5%A4%89
>宋は、建国当初から国内の節度使などの武人勢力を抑えるため文治政治をとったこともあって、遼・西夏の侵入に対抗できず、毎年銀や絹(歳幣)を送って和を保とうとした。

元寇のモンゴル軍もこうした者が主体であれば
まともな戦いが出来るのかと言う事は有るだろうが
歩人甲等の装甲は多いだろうが
接近戦には弱かったと言う事なのかだが

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91_(%E7%8E%8B%E6%9C%9D)
>しかし平和が長引き、女真人の気風が形骸化すると、女真族と非女真族(契丹族を含む)との割合は1:6ほどであったので、女真の軍事力の弱体化が問題となった。

女真兵も居ただろうが
こちらも弱体化していたと言う事なのかだが

145 :
>劉復亭だけじゃなくモンゴル軍の主力部隊そのものが日本軍に惨敗してる。

旧宋の兵も歩人甲も全歩兵は装備していないだろうし
騎兵も非常に少なく
先ず装甲の無い兵士が弓の命中し難い遠距離で散開した騎馬武者に
弓でやられて全軍の士気・射撃力が低下した後
(宋の兵は弩も多いし
 此れはクレシーの戦いの様に日本軍の弓に
 一方的にアウトレンジされる可能性も高いのかだが
 弓も散開していれば500ー400m等の遠距離で
 余程狭い範囲に集中せぬ限り馬に当たるのかだが)
近距離で弓を撃たれて装甲も貫通され
やられず共動きが鈍り
白兵戦で止めを刺されたと言う事なのかだが
高麗兵には歩人甲の様な装甲も恐らく無いだろうから
遠距離からの射撃のみでも可成りやられていたと言う事なのかだが

146 :
当時の女真人は弓を持つことすら禁止されていたから兵士としての活躍を期待されてたわけじゃない。
女真人に求められてたのは操船能力。
実際に刀伊の入寇で日本まで攻めてきたこともあるんだから操船能力なら高麗人より上。
女真人を動員した元のサハリン遠征では戦船1000艘も投入してるしね。
文永の役の大船300艘の内、高麗に求められた操船要員の定員は半分以下に過ぎなかった。

147 :
米高官「韓国から資産移動を」 非公式勧告の報道 w

148 :
みんなイベントきたぞ

【水軍】元寇で奮戦した松浦党を称える祭り「松浦水軍まつり」10/28、10/29長崎県松浦市で開催
http://egg.2ch.sc/test/read.cgi/ticketplus/1508157794/
松浦市は元寇(文永の役、弘安の役)終焉の地であり、この元寇に際して
勇んで戦い、郷土を守った松浦党を讃えるまつり。武者行列や山車パレードのほか、
多彩なステージイベントや物産展が催される。近年は「出張!まつうら食堂」と題し、
魚介を中心とする地域の新鮮な食材を活かした「松浦らしい食」を提供する
イベントを盛り込んでいる。

開催場所
松浦市役所周辺
開催期間
2017年10月28日(土)?2017年10月29日(日)

149 :
>>30
竹島返して謝罪と賠償しろ>チョン

150 :
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87
>文永の役
>松浦党 佐志房以下数百人戦死

と有るが此れは海戦でやられたのかだが


http://blog.daruyanagi.jp/entry/2015/08/10/063230
>当時のクロスボウの射程はだいたい200m(有効射程50m)、発射速度は毎分1〜2発程度だったらしい。
それにたいして長弓の射程は250m(射程重視で“空へ”発射する)、発射速度は6〜10発分。

旧宋の兵は弩も多いだろうが
此れの有効射程は50m程度しか無いのかだが
https://www.youtube.com/watch?v=PiCDBHEa6gc
上だと680ヤード(621m)飛ばしているが
中世の軍用クロスボウより矢が可成り細長い様に見えるが
http://abc0120.net/wiki/doc-view-2068.html
中国の弩の場合矢は細長い様に見えるが
射程はどうなのかだが

151 :
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%A3%E5%BC%A9
>連弩の最終的な実戦投入は日清戦争であり、写真では清朝兵士の一般的な装備が連弩であることが示されている。

連弩も装甲の無い兵相手では使えるかも知れぬが
宋の兵には何処迄数は有ったのかだが

152 :
みなのしゅう

元寇がゲーム化だそうだよ?(´・ω・`)

ゴーストオブ対馬wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
http://krsw.2ch.sc/test/read.cgi/ghard/1509379583/

【PS4】ゴーストオブ対馬Ghost of Tsushima 元寇歴史を語り韓国人やサヨクをビビらせるスレ
http://krsw.2ch.sc/test/read.cgi/ghard/1509386931/

153 :
海を越えたモンゴル帝国の快進撃、古代に続き行われた韓半島によるポンニチへの文化伝授の渡来・・・まさに歴史のロマン。

154 :
元寇のおかげでユーラシア大陸のレベルの低さが明確になった。
ユーラシア大陸史上最大帝国のモンゴルが鎌倉武士にフルボッコにされたんだからな。
日本の方がユーラシア大陸より高度な文明を持っていたと断言できるわ。

155 :
ジャップは引きこもり雑魚民族
大韓による征伐を神頼み、すなわち台風頼みで退けたにすぎない

当時のジャップは国をあげて神頼みの儀式をしている
また台風を神風と名付けて第二次世界大戦までありがたがっている
それらが運頼み雑魚ジャップの証拠

156 :
モンゴル中国高麗、東アジアの連中が束になっても日本には橋頭保すら築くことができなかった。
元寇のお陰で日本の軍事力が大陸より遥かに優れてると分かったから、その後は倭寇が大陸沿岸を席捲。
勇躍する日本とは対照的に、中国や高麗は沿岸部に住むことすらできずに引きこもり。

157 :
w

158 :
まあ歴史ロマンだよ
悲劇でもあり壮大な戦いでもあり

朝鮮人が作った元寇船が実は性能良くて戦う気マンマンなのはワロタ

159 :
ジャップは雑魚
台風頼みの土人
そうでなきゃ神風なんて名付けない
はっきりわかんだねwwww

160 :
ジャップが引きこもりなのは明白
現代でもそう
世界に出ていく大韓人は多いがジャップは少ない
引きこもり雑魚ニートがクソジャップの特徴

161 :
出ていって各地でトラブルメーカーにw
日系は名士や起業で大成功に
韓国は棄民や棄国の類w

162 :
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87#.E9.A8.8E.E9.A6.AC.E5.85.B5

>元軍の構成は軍船の総数が240艘で、1艘につき兵300人、水夫70人、軍馬5匹であったとしている

モンゴル人は船の指揮官のみで240名も居ないと言う可能性も有るだろうが
馬に乗らずに下馬戦闘したモンゴル人等は果たして居たのかだが

163 :
南宋軍も適切な指揮官が率いれば
岳飛等の様に金軍程度には抵抗出来たのかも知れぬが
日本に来た宋の軍はこうした戦闘力は無いと言う事なのかだが

164 :
南宋には金を退けた岳飛軍の生き残り等も居るだろうが
100年以上前の12世紀中盤に彼等の軍が解散させられているなら
戦術的影響は無いと言う事なのかだが

165 :
https://www.youtube.com/watch?v=XCJTmJQmGRM
長崎県立対馬高校 寮歌
3番の歌詞

秋山峡に紅葉して
小茂田浜辺の荒磯に
文永の役とむらえば
恨みは長し七百年
若人の血は躍るかな

対馬の人は元寇を忘れていない。
この寮歌は旧制高校の寮歌とは一味違うユニークな節回し、正統派の歌詞で、なかなかだよね。
全国に知られて欲しい。自分は対馬にゃ縁もゆかりも無いけれど。

166 :
対馬の被害は酷かった

167 :
>>165
マジか最高な歌詞だな

・百合若(百合若大臣。幸若舞。元寇を舞台にした復讐物語

これもいい話

168 :
https://mainichi.jp/articles/20171206/k00/00e/020/221000c
韓国にモンゴルもw

169 :
>>1関連スレまとめ

【用日やめろ】元寇の沈没船について下村文科相「モンゴル、中国、韓国で一緒に共同研究したい」 4か国共同研究を提案
http://asahi.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1389852495/

 下村文部科学相は15日、日本記者クラブでの記者会見で、13世紀の元寇(げんこう)で沈んだ元軍の沈没船について、
「モンゴル、中国、韓国で一緒に共同研究したい」と述べ、4か国での共同研究を提案した。

【ネット】 韓国大統領の「1000年経とうと日本は加害者」演説に、「日韓基本条約は?」「元寇から千年経ってないぞ」の声★2
http://daily.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1362473032/

170 :
>>1>>169関連スレまとめ
元寇陶磁器のお宝付きとか

【中国朝鮮等による大虐殺】伊万里湾で琉球大のグループが行っている鎌倉時代の「元寇の船」調査、2隻目の船を確認
http://daily.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1435829607/

長崎県の伊万里湾で続けられている鎌倉時代の「元寇の船」の調査で、2隻目となる船が確認されました。
1隻目よりも保存状態が良いということです。

長崎県松浦市の鷹島沖では先月、琉球大学の池田栄史教授のグループが「元寇の船」の調査を行いました。
調査は10年前から続けられていて、去年、木造の船の一部が見つかった場所で、今回、海底の泥を掘り進めました。

その結果、姿を現した船首部分。船の特徴や出土した陶磁器などから元寇の船であることが確認されました。
元寇の船の発見は今回で2隻目です。

「1隻目は魚でいうと“開き”の状態。今度は船体の下部構造がしっかりと残っている」

今後は、見つかった船の保存方法などについて検討が進められます。

171 :
>>1>>169-171関連スレまとめ
味気になるわ

【朝鮮中国等による侵略】 韓国なのに「蒙古醤油(モンゴ・カンジャン)」? 実は元寇に縁あり
http://yomogi.2ch.sc/test/read.cgi/news4plus/1454162146/

 最近、韓国で“モンゴル醤油(しょうゆ)”が話題だ。マスコミにしきりに登場する。実際は「モンゴ・カンジャン(蒙古醤油)」といって醤油をはじめとする有名な食品メーカーの名前だが、
そこのワンマン経営者によるお抱え運転手に対する日常的な暴行などの横暴ぶりが明るみに出て、社会的糾弾を浴びているからだ。

 事件はともかく、この会社がなぜ「蒙古(モンゴル)」なのかが面白い。会社は南部の馬山にあり戦後(解放後)、日本の醸造会社を引き受け「蒙古醤油」としてスタートした。
日本統治時代を合わせて100年以上になる老舗だが、近くに高麗時代の史跡の「蒙古井戸」があることからそういう会社名になった。

 この井戸というのは実は13世紀に元(モンゴル)が高麗を手先に日本に侵攻した「元寇(げんこう)」と関係がある。元・高麗連合軍は馬山から日本に向け発進したが、
騎馬軍団のモンゴル軍は駐屯地で馬に水を飲ませる井戸を掘った。その時の井戸の名残が「蒙古井戸」になったというわけだ。

 馬山は日本の瀬戸内海を思わせる山あり海ありの風光明媚(めいび)なところである。水がいいので日本時代から醤油や清酒の産地だったが、
戦後に名付けられた「蒙古醤油」のネーミングは、日本人にとっては歴史的にいささかほろ苦い。

172 :
>>1>>169>>171関連スレまとめ
これどうなった

【朝鮮中国等による侵略・長崎】松浦市有志、「元寇を考える会」を発足-モンゴル・ホジルト市と姉妹都市関係強化推進へ
http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/news4plus/1366599502/

松浦市鷹島町の住民有志が21日、
水中遺跡として初めて国史跡に指定された同町沖の
「鷹島神崎(こうざき)遺跡」の維持・保存や観光への活用を図る「元寇(げんこう)を考える会」(宮本正則会長)を発足させた。

 同町沖の海底では2011年10月、構造をほぼとどめたまま海底に埋まっていた元寇船の一部が発見され、12年3月、周辺海域が国史跡に指定された。

 鷹島神崎遺跡の管理については、市が設置した有識者委員会が保存管理計画を協議しているが、
長年調査に関わってきた地元の思いを伝えようと旧鷹島町長だった宮本氏らが結成を呼び掛けた。
 市鷹島支所で開かれた会合には12人が出席。
活動方針として、鷹島神崎遺跡の関連予算増額に向けた国や県、市への働き掛けや
旧町時代から交流のあるモンゴル・ホジルト市との姉妹都市関係の再構築を進めることなどを決めた。
 会合後、宮本会長は「元寇の文化や歴史を生かすため、行政の取り組みを待つだけでなく地元から仕掛けていきたい」

173 :
>>1>>169-172関連スレまとめ

【元寇神社って知ってる?・中国朝鮮地域人】 日本人の赤ん坊を股裂き、子供を拉致、女性は手に穴開け数珠つなぎ… 蒙古・朝鮮人中国軍の残虐行為
http://fox.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1402716108/

元寇・文永の役(中) 赤ん坊を股裂き、子供を奴隷として拉致、女性は手に穴開け数珠つなぎ…博多を血と炎で染めた蒙古・朝鮮軍の残虐・非人道行為

手に穴を開けられる女性の姿が描かれている「蒙古襲来絵図」

九州・博多から侵略する2万人にのぼる元・高麗連合軍は、兵の数の優位と鉄炮(てっぽう)なる新兵器、集団戦法などを駆使し、
日本の武士団を撃破しては町を焼き払い、逃げる民間人をRなどやりたい放題。

また、捕らえた女性をひもで数珠つなぎにし、日本の攻撃から船を守る盾(たて)にしたほか、
拉致した子供を奴隷として高麗国王に献上するなど、残酷で非人道的な行為も数限りなかった。

174 :
>>1>>169-173関連スレまとめ

【元寇・朝鮮中国等による侵略】 モンゴル・朝鮮の日本侵略軍の軍船、粗製乱造ではなくダブルハル構造だった
http://fox.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1349855901/
13世紀の元寇(げんこう)の舞台となった長崎県松浦市の海底遺跡「鷹島神崎(こうざき)遺跡」(国史跡)で、
昨年見つかった元軍の沈没船の再調査をしていた琉球大と同市教委は10日、沈没船の底板が二重構造になっていたと発表した。

韓国・新安沖や中国・泉州沖で引き揚げられた同時代の中国船には見られない特殊な構造になっているという。
一方、陶器やレンガが散乱した場所の土砂を取り除いたところ、二重になった底板が見つかった。

これまで、元軍壊滅の原因については、大量の船を急造したため簡易な構造になり、衝撃に弱かったとの見方もあったが、
調査を主導した琉球大の池田栄史(よしふみ)教授(考古学)は「これまでに見たことがない構造。
丁寧な組み方をしており、粗製乱造ではなかったのでは」と見解を示した。

175 :
>>1>>169-174関連スレまとめ

【歴史】蒙古がせめてきたぞっ!長崎鷹島沖「元寇船遺跡」が国史跡に。水中では全国初
http://fox.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1329493593/
文化審議会(西原鈴子会長)は17日、元寇(げんこう)(弘安の役、1281年)で元の船団が暴風雨により沈んだ地点とされ、
船体の一部など海底から大量の遺物が発見された長崎県松浦市鷹島に面する海域を「鷹島神崎(こうざき)遺跡」と命名し、
文化財保護法に基づく国史跡に指定するよう平野博文文部科学相に答申した。近く答申通りに告示される。

松浦市は文化庁から管理団体に指定され、鷹島神崎遺跡の活用に向けた保存管理計画を策定する見通しで、観光など地域活性化の期待も高まりそうだ。
鷹島南側の伊万里湾では、松浦市や県が旧鷹島町時代の1980年度から海底の発掘調査を継続。これまでに、元寇船の遺物とされる
木製の大碇(いかり)や鉄製かぶと、矢の束、陶磁器に火薬と鉄片を詰め着火して投げつける武器「てつはう」など、約4700点が出土。
昨年10月には琉球大調査チームが、長さ15メートルに達する船底部分の木材の竜骨(キール)など、構造が分かる状態の元軍船とみられる船体を確認した。

今回、鷹島神崎遺跡として指定されるのは特に出土品が密集している海域で、鷹島南東部の神崎港を中心に、海岸線から沖合約200メートル、
幅約1500メートルの約38万4千平方メートル。水深は最大約25メートルで、船体の発見地点も含まれる。

法的に保護された水中遺跡は、海外ではイタリアのバイア海底遺跡などが有名だが、調査が困難なことにより、国内ではこれまで国史跡に指定された例はなかった。

176 :
>>1>>169-175関連スレまとめ
だんつけ餅食いたいよな(´・ω・`)

【元寇(応永の外寇等・中国朝鮮地域等による日本への侵略)】 対馬で元寇の犠牲者を悼む神事 対馬藩武士80騎(全滅)vs元軍3万人 地元には武士を支援する為「だんつけ餅」を作って陣中に届けた逸話 韓国人中国人サヨクさん、謝罪や賠償は?小茂田浜神社
http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/news/1352709837/
対馬市厳原町の小茂田浜は、鎌倉時代の1274年・文永11年に、総勢3万人ともいわれる元の軍勢が攻めてきた海岸と伝わっています。
この「文永の役」では、対馬藩の初代藩主・宗資国が80騎ほどの武士で迎え撃ち、全員が討ち死にしたと伝えられ、地元の小茂田浜神社に犠牲者がまつられています。
11日に行われた秋の古式大祭では、神事が行われて当時の犠牲者を追悼しました。

地元には武士たちを支援するため、つきたてのもちにゆで小豆をまぶした「だんつけ餅」を作って、陣中に届けたという逸話が残っており、
地域の人たちは遠い昔の犠牲者たちを思って静かに手を合わせていました。
神事のあと、氏子たちは古いかぶととよろいを身にまとい、海岸に出て弓を射るしぐさを行う「鳴弦の儀」を行い、沖に向かって勝ちどきを上げ

177 :
>>1>>176関連スレまとめ

この番組見てぇ(´・ω・`)

【元寇=中国朝鮮地域人による日本への侵略】 モンゴルの公共テレビ局、元寇ゆかりの松浦市で番組撮影 「元寇はモンゴルではあまり知られていません」 日本でも空気だよね、反日マスゴミ教師に都合わるいから殆どダンマリw
http://fox.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1429789689/
 モンゴル公共テレビで放映されるドキュメンタリー番組のロケが21日、元寇(げんこう)とゆかりが深い松浦市鷹島で始まった。
22日は元寇の遺物が展示された鷹島歴史民俗資料館や元寇沈没船が見つかった海底遺跡「鷹島神崎遺跡」などを撮影。

福岡県糸島市や京都、東京などでの撮影と合わせ7月9〜11日にモンゴル公共テレビで放送されるという。
 番組名は「フビライと神風 モンゴル襲来の跡を訪ねて」(仮題)。

178 :
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180208-00206264-okinawat-oki
ええ話やあw

179 :
ユニークで個性的なパソコン一台でお金持ちになれるやり方
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EHAUB

180 :
蒙古襲来絵詞と文永の役について考えていることをブログに書いた。興味のある方は
どうぞ。下記URL;
https://ameblo.jp/reydeoro
で最新のページ「元軍はなぜ早期撤退したのか」に行ける。そのページ左側の目次を
クリックして過去の各ページに行けるが、直接行くURLも載せておきます。上から
古い→新しい順に;

竹崎季長の戦闘時間はどのくらいか
https://ameblo.jp/reydeoro/entry-12307724584.html

竹崎季長はどこで兜を交換したか
https://ameblo.jp/reydeoro/entry-12310700155.html

詞書の冒頭部分をどう読むか
https://ameblo.jp/reydeoro/entry-12311490432.html

詞書の冒頭部分をどう読むか その2
https://ameblo.jp/reydeoro/entry-12316356308.html

竹崎季長はどんな戦場を見たのか
https://ameblo.jp/reydeoro/entry-12320158857.html

廿日の朝、元軍はなぜ少数だったのか
https://ameblo.jp/reydeoro/entry-12321323496.html

高麗史・金方慶伝をどう読むか
https://ameblo.jp/reydeoro/entry-12323289521.html

181 :
<続き>
日本側の記録は整合するか
https://ameblo.jp/reydeoro/entry-12324963707.html

日本側の記録は整合するか その2
https://ameblo.jp/reydeoro/entry-12327863100.html

内外の史料に現れる「大宰府」とは何か
https://ameblo.jp/reydeoro/entry-12331877947.html

元軍はどのようにして撤退したか
https://ameblo.jp/reydeoro/entry-12342390730.html

戦闘経過のまとめ
https://ameblo.jp/reydeoro/entry-12348083412.html

元軍はなぜ早期撤退したのか
https://ameblo.jp/reydeoro/entry-12351629410.htm

182 :
ごめん、一つ落ちていた。
最後から4番目に;

高麗史の「軍議」をどう読むか
https://ameblo.jp/reydeoro/entry-12336043493.html

183 :
元軍が早期撤退した理由は史料から解明されてる。
戦闘で日本軍にフルボッコにされたからだよ。

184 :
はて、フルボッコにされたのは日本軍なのだが。
「入其国、敗之」元史
「倭兵大敗、伏屍如麻」金方慶伝
「征日本,与倭兵十万遇,戦敗之」劉復亨伝

「敗之」は「これをやぶる」と読む。念のため。

185 :
>>184
その中にフルボッコにされた百道原の戦闘は無いじゃん。
元史はただ「四境」だけと対馬壱岐に限定してるし、高麗史も今津の話だ。
劉復亨の伝も自身が射られて重傷を負った博多の戦闘については書いてない。
元史、高麗史とも博多の戦闘に一切触れてないこと自体、日本軍にフルボッコにされた証拠だろ。

186 :
>>185
>元史はただ「四境」だけと対馬壱岐に限定してるし

「期以七月征日本、冬十月,入其国,敗之。而官軍不整,又矢尽,惟虜掠四境而帰」
「其国」の先行詞は「日本」だ。
日本を敗った、と大きく出た以上、いちいち戦場名を書く必要はない。

>高麗史も今津の話だ

金方慶伝は三郎浦(=早良郡)だな。今津は早良郡に入らない。

>劉復亨の伝も自身が射られて重傷を負った博多の戦闘については書いてない。

大将が負傷したら負けなのか?
それならネルソンが戦死したトラファルガル海戦は英国海軍の負けということになるな。

187 :
>>186
元史は「日本を敗った」のは「ただ国境だけ」と明確に書いてる。
日本を破ったのは博多ではないと断定してるわけだ。

金方慶伝の三郎浦(=早良郡)は上陸地点じゃん。
史料で金方慶が征したとしてるのは今津。
上陸地点から10キロ近く西へ追い込まれてるんだから明らかに惨敗。

で、元軍は1日の戦闘で日本から撤退に追い込まれ、1万3500余人も犠牲者出してるんだから
日本軍にフルボッコにされたとしか表現しようがない。

188 :
>>187
>元史は「日本を敗った」のは「ただ国境だけ」と明確に書いてる。

「四境」の第二義は「四囲(=周囲)」と同じと漢和辞典にある。
元軍は日本(国)に侵入して日本(軍)を敗ったが、(この戦闘で)矢が尽きたので(後は)
その辺りを略奪しただけで帰った。つまり、勝ったけど更なる戦果拡大はしなかった、
と言っているわけ。

四境が「国境」だから壱岐対馬のことだ、というなら博多では矢無しで戦ったことになるな。

>史料で金方慶が征したとしてるのは今津。

金方慶が今津を征したという「史料」をどうぞ。

189 :
>>184
幕府に服属を強要できず、万単位の兵士が生還せず、主だった将官が戦死したり捕虜
にされたり、あげく帰国した司令官が処刑されたあげくのツイートですね分かります
なお西洋列強に負けたときも皇帝に上奏する時は「わが軍大勝利」だった模様

日本の強弱は置いといて、あれだけの凄まじい人的被害を民衆に押し付けておいて
なおも征服欲がちっとも衰えず、第三次侵攻に意欲満々なフビライの狂気にはgkbr

元寇のクライマックスは、弘安の役における元軍の溺死者数と処刑された捕虜数
10万人が溺死して2万人以上が捕虜になった後はほぼ斬首、生還者3万数千人
おそらく渡海作戦における人的被害では、世界史上でも最悪ではないだろうか?

雑兵レベルでさえ助命せず片っ端から無差別処刑したのは、異民族戦争の特性だろう

190 :
>>189
要点は、第一次東征では彼らが「戦勝意識」を持ち、それを記録に残した
ということ。
このことは、第二次東征では全くないから際立っている。
台風が来る前でも、「累戦して利あらず」だからね。

191 :
警察と在日マフィア、創価による集団ストーカーの証拠動画
(車両ナンバー付き)
https://www.youtube.com/watch?v=gTOBN1AkSz0
https://www.youtube.com/watch?v=bbPcpPwO3ug
https://www.youtube.com/watch?v=de1jeSPGGNo

^恐ろしくてお漏らししそう。

192 :
>>190の続き
第二次東征で、金方慶が忠烈王に、次のように帰還報告している。
「諸軍、大宰府に至りて累戦し、交綏して退く。蛮船五十艘従い来たり、再び
その城に向かう」
大宰府とは例によって博多のことで、ここでは志賀島を指している。
交綏とは戦いの決着がつかず、物別れになることである。「退く」とは全軍が壱岐に
移動したことだろう(志賀島を占領し続けたというある学者の説は、金方慶がみずから
否定している)。蛮船とは江南軍の船のことである。

志賀島戦は日本軍も損害が大きかったから、「勝った」と誇張することもできただろうに、
正直に交綏と言っている。
だから第一次東征の「倭兵大敗、伏屍如麻」は信用できる。

193 :
まあ、志賀島から壱岐に後退したら勝利の主張は無理だな。

194 :
>>193
その通り。第二次東征では勝利を主張していないことが重要だ。

このことが、彼らが勝利を主張しているとき(「入其国敗之」「倭兵大敗伏屍如麻」)は
本当に戦勝意識を持ったのだ、という証拠になる。

195 :
>>188
>「四境」の第二義は「四囲(=周囲)」と同じと漢和辞典にある。

つまり対馬壱岐じゃん。
元史日本伝には、日本軍からフルボッコにされた博多戦の記述はない。

>金方慶が今津を征したという「史料」をどうぞ。

『益斎乱藁』 九上、忠憲王世家
「元帥忽篤浮海討日本破其一岐対馬伊蠻等島以糧尽還」

第一次東征の「倭兵大敗、伏屍如麻」は今津のできごとだったと判明したわけだ。

196 :
>>195
>元史日本伝には、日本軍からフルボッコにされた博多戦の記述はない。

博多とは言ってないが日本と言っている。(そもそも元史は博多という地名を用いて
いないんじゃないか? 大宰府は用いても)
日本国に入って日本軍をフルボッコにした。
その戦いで矢を射尽くしたから「四境」を略奪して帰った。
この「四境」が壱岐対馬だと言うのならそれでもいいよ。

>元帥忽篤浮海討日本破其一岐対馬伊蠻等島以糧尽還

この文章は金方慶や高麗軍のことは何も言っていない。
金方慶が都元帥になったのは忠烈王六年のことだ。文永の役ではまだ都督使だ。

察するに「元帥忽篤」とは都元帥忽敦のことだな。
この文章は元史洪茶丘伝のへたな書き換えだ。伊蛮を島と間違えているのも
同じだし。

197 :
>>195
>つまり対馬壱岐じゃん。
>元史日本伝には、日本軍からフルボッコにされた博多戦の記述はない。

なるほど、君は「其国(日本)=四境=壱岐、対馬」と言っているのだな。
それなら、たった100人か200人の守備隊を相手に軍の一部が戦った壱岐・対馬戦で
矢を射尽くした、ということになるな。

198 :
>>196
>この「四境」が壱岐対馬だと言うのならそれでもいいよ。

元史日本伝には博多戦の記述がないということで決着だな。

>この文章は元史洪茶丘伝のへたな書き換えだ。伊蛮を島と間違えているのも
同じだし。

益斎乱藁の著者の李斉賢は高麗王朝の高官で、元史編纂よりも古い史料なんだが。
もうちょっと長く引用するわ。

『益斎乱藁』 九上、忠憲王世家
「帝以金方慶討珍島耽羅其方略威信可嘱大事召至闕庭命修戦艦與元帥忽篤浮海討日本
破其一岐対馬伊蛮等島以糧尽還」

文永の役で高麗軍が博多湾上陸後に今津で戦ったことは史料上確定。
>>192のいう通り高麗史金方慶は信用できる史料だ。
その記述によると博多戦の実態はこうなる。

早良上陸後、モンゴル軍と高麗軍は道を分ちて進み、主力のモンゴル軍は博多方面へ、
高麗軍は今津方面へ侵攻。
今津で高麗軍は住民を大虐殺。
一方、モンゴル軍は百道原で日本軍に惨敗し、主将の忽敦は「蒙人、戦いに習うと雖も、
何を以てか此れに加えん」と諸軍を率いて今津へ逃げ込む。
副将の劉復亨も少弐景資に射られて重傷を負い今津へ担ぎ込まれる。
モンゴル軍を赤坂・百道原・早良から駆逐した日本軍はさらに今津を攻め立てたが、
日没のため兵を引く。
残されたモンゴル高麗軍は今津で軍議を行い、忽敦が「小敵の堅は、大敵の擒なり」と
日本から撤退を決定。

199 :


200 :
:::::::::::::::::::::``ヽ
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::::::::::::::::::::::::::::::::::::ヽ
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:::::::::::::::::::::::::|ソノ`ヽ::::::ヽ
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201 :
>>198
>元史日本伝には博多戦の記述がないということで決着だな。

もういちど聞くが、元軍はどこで矢を射尽くしたのか?

>益斎乱藁の著者の李斉賢は高麗王朝の高官で、元史編纂よりも古い史料なんだが

当たり前だ。元史は元代に書かれた原史料を明代に編纂したものだ。
李斉賢は1287年生まれだから元寇より一世代後の人、元寇の原史料はすでにできていた。
李は元に何回も行ったからそれを目にする機会もあった。
益斎乱藁を洪茶丘伝と較べて見よう。

益斎乱藁:與元帥忽篤、浮海討日本、破其一岐対馬伊蛮等島、以糧尽還。

洪茶丘伝:與都元帥忽敦等、領舟帥二万、渡海征日本、拔対馬一岐宜蛮等島。

都元帥忽敦→元帥忽篤 渡海→浮海 征日本→討日本 抜→破 宜蛮→伊蛮
と、わざわざ似た意味、音の漢字に置き換えているだけで、構文はいっしょ、
そのくせ「伊蛮等島」という同じ間違いを冒している。

現代なら盗用と言われるレベルだ。君はこんなものを唯一の根拠にしているのだ。

202 :
>>201
>もういちど聞くが、元軍はどこで矢を射尽くしたのか?

今津だな。

>李斉賢は1287年生まれだから元寇より一世代後の人、元寇の原史料はすでにできていた。
>李は元に何回も行ったからそれを目にする機会もあった。

自分が書いてることの意味を理解してる?
元に何回も行って

203 :
途中で投稿しちゃった。
>>202の続き。

>李斉賢は1287年生まれだから元寇より一世代後の人、元寇の原史料はすでにできていた。
>李は元に何回も行ったからそれを目にする機会もあった。

自分が書いてることの意味を理解してる?
元に何回も行って元寇の原史料をもとに書いたのなら、それは信用できる史料ってことでしょ。

>そのくせ「伊蛮等島」という同じ間違いを冒している。

大陸と陸続きの朝鮮半島から見れば日本は全部島だから、高麗朝鮮の史料が日本の地名を
「島」と表現することは珍しくないぞ。
例えば、対馬壱岐博多もしくは松浦で「三島倭寇」と呼ぶだろ。

204 :
例えば、朝鮮半島だって大陸から見れば半島だし、琵琶湖の烏丸半島だって、日本の扱いではれきとした半島なんだよな。

205 :
>>203
>元に何回も行って元寇の原史料をもとに書いたのなら、それは信用できる史料ってことでしょ。

信用できる原史料をもとに改竄したから、改竄文も信用できるというのは、物凄い論理だな。
私が示したのは改竄の手口だから、似たような部分を抽出しているのは当たり前。
全体を見れば、主人公が入れ替わっているではないか。洪茶丘が金方慶に。

金方慶のことを書くのに、洪茶丘の史料を借りてきたわけだ。
君はこのような「首すげ替え文」を唯一の根拠にしているのだ。

>(矢を射尽くしたのは)今津だな。

冬十月,入其国,敗之。而官軍不整,又矢尽,惟虜掠四境而帰。

君の解釈によれば、上記の漢文の「其国に入りて之を敗」ったのは壱岐、対馬。
「矢尽」きたのは今津。
「虜掠」した「四境」は再び壱岐、対馬。

これを恣意的解釈と呼ばずしてなんと呼ぶ。
文章が対象とする明代中国の読者は、どうやってこの読み方が分かったのか?

206 :
>>205
どちらの史料が改竄したかという話なら、当然「益斎乱藁」を「洪茶丘伝」が改竄したと
考えるべきだろうな。
「益斎乱藁」の方が「洪茶丘伝」より成立時期が早いんだから。
そもそも洪茶丘も金方慶も一緒に戦っているわけで、最終的には20日の日暮れまでに
遠征軍全軍が今津に追い込まれていたんだから、共通する内容になるのは当然。

あと、「四境」については史料を読み直してるうちに考えが変わった。
史料がちゃんと対馬・壱岐・今津の地名を挙げてるんだから、「四境」についても
そのまま史料通り「ただ対馬・壱岐・今津のみ」と考えるべきなんだ。

207 :
ここで燃料を1つ投下すると、博多筥崎の武士たちは本当に水城へ撤退したのか問題がある。
博多筥崎の日本軍が水城へ撤退したというのは八幡大菩薩愚童訓系統の史料だけが根拠の上、
もともとの記述も武士たちが「水木之城」へ向かおうと囁き合ってるのを筥崎宮関係者が
聞き耳立てて横から溢れ聞いたという超曖昧情報。
「水城」という言葉の中に城という字が含まれてるから「水城の城」なんて言い方しないしね。
もしかして武士たちが向かった「水木之城」とは水城じゃなく、今津の水崎城なのではないか?
それを筥崎宮関係者が勝手に水城と勘違いしただけなのではないか?

208 :
箱崎から水城まで遠いです

209 :
今津説の決定的な問題点は、今津で大きな戦闘をやったという日本側の記録が皆無なことだ。
早良郡/鳥飼潟には戦闘記録が多くあり、箱崎にもちらほらとあるが、今津だけはない。

210 :
私も最近、必ずしも水城まで退却しなくてもよいのではないか、と考えるようになった。
武士たちは勝手に退却したのであり、水城を守れと命令を受けたわけではない。
それならば、元軍の届かない安全圏に逃れて、一夜の宿があればそれでいいわけだ。
二、三日分の口糧なら干飯を携帯しているわけだし。

大友ハ 子共打ツレ 落行テ 方々ニコソ 頼康(よりやす)ミケレ

この歌の「方々こそよりやすみけれ」も、
「方々にこそ寄り休みけれ」すなわち「所々に立ち寄って休息した」ではなくて、
「方々にこそ拠り寝みけれ」すなわち「あちこちの民家を占めて寝た」でもいいわけだ。

で、その辺に泊まったから翌朝早く元軍の撤退に気が付いた、と。

211 :
>>209
皆無じゃないよ。

八幡大菩薩愚童訓筑紫本
「此外大名高家我モゝゝ卜責ケレ共、物トモセス、蒙古ヒタ破リニ責入テ、
今津早良百路原赤坂ニ及ヒ乱入ケリ」

今津に侵攻した部隊があったことは日本側の史料にも記載されてる。

212 :
>今津早良百路原赤坂ニ及ヒ乱入ケリ

「乱れ入る」は無法に入って来ることであって、別に日本軍の抵抗が無くてもよい。

>今津に侵攻した部隊があったことは日本側の史料にも記載されてる。

あるのならまずその「史料」を載せてからね。

213 :
鳥飼まで海だったんだあ!

214 :





215 :
>>211
今気が付いた。
>今津に侵攻した部隊があったことは日本側の史料にも記載されてる。
というのは、筑紫本そのものことを言ってるのね。
それなら、金綱集だって言っている。
「同十九日、蒙古人筑前国博多・箱ア・今津・佐原賊来」

金綱集は19日に今津に「上陸」した部隊があった、と言っているわけだが、これと
筑紫本の「今津乱入」は区別できない。「乱入」だから戦闘だと言うのはいかにも弱い。
むしろ筑紫本は地名を並べた順序で元軍の進撃方向を示していると見た方がよい。
どちらも、今津で大きな戦闘があったことの証拠にはならない。

必要なのは、早良郡や箱崎と同じように、今津で戦った武士の「名前入り」の記録だ。
それがあるのか?と言っているのだが。

216 :
>>212
今津に侵攻した部隊があったことは、八幡大菩薩愚童訓筑紫本に「今津早良百路原赤坂ニ
及ヒ乱入ケリ」と書いてあることで史料的に裏付けられてる。
日本軍の抵抗とか関係ない。
モンゴル軍の侵攻した今津早良百路原赤坂の内、早良百路原赤坂には武士の戦闘記録があり、
唯一戦闘記録の無い今津をモンゴル軍は「征した」としてる。
要するにモンゴル軍は武士との戦闘に全部負けたということ。
早良百路原赤坂で武士にフルボッコにされたモンゴル軍が最後に逃げ込んだのが今津なんだから、
今津で大規模な戦闘なんかあったらそれこそモンゴル軍は全滅してるだろ。

217 :
>>216
>早良百路原赤坂には武士の戦闘記録があり、 唯一戦闘記録の無い今津を
>今津で大規模な戦闘なんかあったらそれこそモンゴル軍は全滅してるだろ

なんだ、今度は今津では戦闘がなかったことにしたのか。
君は以前はこう言っているぞ。

>モンゴル軍を赤坂・百道原・早良から駆逐した日本軍はさらに今津を攻め立てたが、 >>198

日本軍が今津を「攻め立てた」と言うのだから、以前は今津で戦闘があったと主張していたのだ。
まあいい。今津で戦闘がなかったと認めたのは殊勝なことだ。

しかし、そうなると元・高麗側の記録が今津を「破った」とか「抜いた」とか言っているのは、
19日深夜に先遣隊が上陸したことを指すことになるな。
深夜に無血上陸して住民を殺戮したことをこのように表した、と。

218 :
>>217
そうはならないよ。
八幡大菩薩愚童訓筑紫本によればモンゴル軍が今津に侵攻したのは20日上陸後。
そもそも今津攻略は九州におけるモンゴル軍の唯一の戦果だ。
元の史料にも高麗の史料にも今津を破ったとしか書いてないからね。
モンゴル軍は最終的に今津に追い込まれて撤退した。

219 :
>>218
>八幡大菩薩愚童訓筑紫本によればモンゴル軍が今津に侵攻したのは20日上陸後。

そんなことは書いてない。まず、今津は下記のように出て来る。

「同十一年九月之比、異賊四百五十艘之大船、二三万人乗テ寄来ル。
対馬壹岐二之嶋ヲ打落テ、筑前国今津二着ニケル、 」

今津には「九月」に「着いた」と言っているだけ。九月は変だがそれはひとまず置くとしても、
普通、船が「着く」とは錨を下ろして停泊することだ。その後、上陸したのか、それとも
さらに移動したのかは、なにも言っていない。途中を飛ばして;

「十一月二十日、蒙古舟ヨリ下リ、馬ニ打乗リ、旗ヲ揚テソ責(せめ)懸ル。」

ここで初めて上陸している。
上陸の日が十一月二十日というのも変だが、上陸した場所はまったく書いてない。
以上から「十月二十日に今津に上陸した」とは言えないし、ましてや最終的に今津から撤退した
などとは全く言えない。

それにしても「筑紫本」もいい加減な本だな。

220 :
>>219
八幡大菩薩愚童訓筑紫本
「此外大名高家我モゝゝ卜責ケレ共、物トモセス、蒙古ヒタ破リニ責入テ、
今津早良百路原赤坂ニ及ヒ乱入ケリ」

八幡大菩薩愚童訓筑紫本でモンゴル軍が今津に侵攻したのは20日。
第一、高麗史金方慶伝に「舟を三郎浦に捨て、道を分ちて進み」と書いてあるんだから
元側史料でも上陸地点は今津なんかじゃなく早良だ。
早良に上陸したモンゴル軍が唯一の戦果と記録してるのが今津攻略。

221 :
お寺の古文書も探せよw馬鹿w
大体太宰府が有るのに変だろw

222 :
>>220
>>221の言う通りだ。
せっかく早良に上陸しているのに、博多、大宰府に背を向けて今津を攻める
必然性は全くない。
補給のための港を確保するためと言うだろうが、高麗から補給や増援を送る
あてが全くないのに、全軍で港なんか確保してどうする。

223 :
>八幡大菩薩愚童訓筑紫本でモンゴル軍が今津に侵攻したのは20日。

そのように主張するのなら、その根拠となる原文をまず示せ。
私がやっているようにね。

224 :
言い伝えだと水城どころか
筑後まで来たと言うぞw

古文書の一次史料を丹念に捜せ!w

225 :
>>222
必要性云々なんて全く問題じゃない。
早良から上陸したモンゴル軍が今津を破っただけで撤退したのは史料によって明白だからね。
早良から博多、大宰府を目指していながら最終的に全軍が今津に追い詰められていたってことは、
要するにモンゴル軍は日本軍に惨敗して今津まで敗走したってこと。

>>223
「此外大名高家我モゝゝ卜責ケレ共、物トモセス、蒙古ヒタ破リニ責入テ、
今津早良百路原赤坂ニ及ヒ乱入ケリ」

そもそも、こんなことに拘っても意味ないぞ。
今津攻略は九州におけるモンゴル軍の唯一の戦果なんだから。
仮に>>217 のように先遣隊が今津に上陸しようが、モンゴル軍が今津以外で全部負けたという
事実は動かない。

226 :
>>225
数百隻の船団だから、ある程度の幅がないと上陸が難しいだろう。
10m間隔でも100隻で1km必要になる。
小型船はともかく、大型船にそんな間隔は無理があるから、数kmは必要になるんじゃないかな。


あるいは、主力の元軍は早良付近に上陸し、高麗軍は今津付近に上陸したかもしれない。
金方慶伝にあるように高麗軍は今津で勝利したうえで、元軍主力に合流した。
軍議の席で、勝ってる金方慶は継戦を主張するけど、苦戦した元軍の忽敦は撤退を決断した。
というシナリオはどうだろう。

227 :
>>226
高麗史金方慶伝に「舟を早良に捨てて道を分けて進んだ」と書いてあるんだから高麗軍の
上陸地点は早良だよ。
その前提から違ってるじゃん。
その上で、益斎乱藁は金方慶が「元帥の忽敦と今津を破った」とし、元史でも洪茶丘が
「元帥の忽敦と今津を抜いた」としてるんだから、忽敦、金方慶、洪茶丘の3人によって
軍議が行われた場所は今津だろ。
つまり忽敦は主力のモンゴル軍を率いて博多や大宰府を目指したものの日本軍に敗れて
今津まで敗走したってこと。
忽敦は「モンゴル兵が戦い慣れてると言ってもこれが限界だ」と言いながら金方慶と
合流してるんだしね。
だから軍議でも強硬に撤退を主張した。
日本軍に大敗して今津に追い込まれたモンゴル軍の状況は忽敦のセリフ通り
「兵法に、「小敵の堅は、大敵の擒なり」と。疲乏の兵を策して、日ごと滋すの衆に敵するは、
完計に非ざるなり。軍を回すに若かず」そのものなわけで、史料的整合性も完璧。

228 :
>>227
今津は撤退のための単なる通過点というわけだな。戦いも無かったということだし。
しかしそれだと金綱集と整合しないな。

金綱集「同十九日、蒙古人筑前国博多・箱ア・今津・佐原賊来、
同廿日辰尅(中略)九国御家人等馳集令合戦」

金綱集によれば蒙古は「十九日」に「今津」に「賊来」している。「賊」の動詞は「損なう」
ことだから「賊来」は「乱入」と同じような意味だ。つまり暴力的に押し入った。
これのほうがよほど「破」とか「抜」にふさわしい。

繰り返すが、今津上陸は十九日だ。
金綱集を信じるのはやめたのか?

229 :
>>228
もし今津侵攻が19日ならモンゴル軍は19日に日本軍に敗れて日本から撤退したってことだね。
何しろ今津攻略がモンゴル軍にとって九州における唯一の戦果で、最終的に今津に追い詰められて
撤退したことは史料的に確定してるんだから。

230 :
>>227
高麗史金方慶伝で船を捨てたのは三郎浦だと思ってたが、三郎浦=早良ってことなの?
何かではっきりしてるのだろうか。

また、今津の制圧を金方慶の当初の任務とするなら、何で今津から離れたところに上陸するのだろうか。
金方慶が率いる高麗軍は今津に近いところに上陸して制圧するものではないか。
どうせ、上陸にはある程度の幅(数km程度)が必要なんだから。

>>227の情報をもとに修正すると、
西から、金方慶、忽敦、その他の順に上陸して、金方慶を先鋒にして忽敦とともに今津を攻撃する。
今津が制圧できたら、反転して忽敦、金方慶の順で東に向かう。
というシナリオかな。

231 :
>>230
三郎浦が早良の音に漢字を当てはめたものってのは長年の定説だよ。
特に否定する根拠もないだろ。
早良に上陸して今津を攻略し、また引き返して忽敦に合流するには戦闘しながら1日で
20キロ近い機動をしなくちゃいけない。
高麗軍にそんな機動力があるとは思えない。
それに今津攻略は元側史料、高麗側史料が挙げている九州における唯一の戦果だ。
今津から東に向かっても結局日本軍に負けて引き返したとしか考えられないね。

232 :
>>230
>今津の制圧を金方慶の当初の任務とするなら、何で今津から離れたところに上陸するのだろうか。

一か所と考えるからそうなる。高麗軍の三っつの翼軍と、洪茶丘の高麗人部隊とが、金綱集が
示すような数か所にそれぞれ上陸した、と考えればよい。このことが「分道而進」だと思う。
任務は、邪魔になる住民や地侍を抹Rるとともに、翌日の蒙漢軍の上陸を側面援護することだ。
このような働きを今津で行ったならば、十分に「破伊蛮」「抜伊蛮」に値すると思うよ。

これらの部隊は、翌廿日には鳥飼潟戦線に加わった。これが「諸軍與戦」だ。
このような考え方を、以下の二つのページにくわしく書いた。

https://ameblo.jp/reydeoro/entry-12321323496.html
廿日の朝、元軍はなぜ少数だったのか

https://ameblo.jp/reydeoro/entry-12323289521.html
高麗史・金方慶伝をどう読むか

233 :
>>231
なるほど、三郎浦=早良なのね。

ただ、上陸にはある程度の幅が必要だと思うんだが、そのへんはどうだろうか。
上陸したのが東西数kmの範囲となれば、西の端に上陸すれば往復20kmじゃなくて10kmやそれ以下になるんじゃないかな。
具体的地名で言えば、百道、姪浜、生の松原、今宿あたりを想定している。

>>232
ホームページ見たけど、ツッコミどころが多すぎて困るよ。
先遣隊が本隊の上陸を援護せずに突出する?
何のための先遣隊だよ。
満潮時しか上陸できない?
当時の船はそんなに吃水が深いわけじゃない。
満潮時は干潮時よりも海岸線は陸寄りになるから小型船が濃く距離はそう変わらない。

234 :
>>229
>もし今津侵攻が19日ならモンゴル軍は19日に日本軍に敗れて日本から撤退したってことだね。

なるほど、金綱集も信じてるってことね。
で、その同じ金綱集が、朝8時ごろから夕方6時ごろまでに及んだ戦いが20日だったと言っている。

「同廿日辰の刻(中略)九国の御家人等馳せ集まりて合戦せしむる之間、両方死輩其の数を知らず、
酉の刻に及びて九国の軍兵引き退く」

19日に撤退したら20日の戦いはできない。さてどうする?

235 :
>>226
>小型船はともかく、大型船にそんな間隔は無理があるから、数kmは必要になるんじゃないかな。

>>233
>上陸にはある程度の幅が必要だと思うんだが、そのへんはどうだろうか。
>上陸したのが東西数kmの範囲となれば、

大船が横一線に並ぶ必要はない。実際に着岸するのはバートルだから、大型船は
何列にもなって団子になっていたって構わない。
またたとえ大船が横長に並んだとしても、バートルが狭い幅の海岸に集中すれば
それでいいわけだ。
そのバートルも、必ずしも全軍が一斉に着岸するとは限らない。
現在でも、上陸用舟艇群がいくつかの梯団に分かれて波状に押し寄せるのが普通だ。
以上から、一万五千、約百隻の蒙漢軍に対して百道浜の幅があれば十分だろう。

236 :
>>234
>19日に撤退したら20日の戦いはできない。さてどうする?

なら史料的根拠皆無の今津前哨戦など無かったってことだ。
モンゴル軍は20日に早良から上陸し戦い、日本軍に敗れ、今津に追い込まれて撤退した。

237 :
>>236
>なら史料的根拠皆無の今津前哨戦など無かったってことだ。

これは驚いた。
「19日今津上陸、20日合戦」と書いている金綱集は「史料的根拠」ではないのか?

238 :
>>235
>以上から、一万五千、約百隻の蒙漢軍に対して百道浜の幅があれば十分だろう。

また嘘を書いてる。
蒙漢軍の兵数は2万5000人。
艦艇の数は大船300艘含む総数900艘で諸史料が一致してる。

>>237
>これは驚いた。
>「19日今津上陸、20日合戦」と書いている金綱集は「史料的根拠」ではないのか?

これも嘘。
金綱集には「19日今津上陸」などという記述はない。
そもそも高麗軍の上陸は高麗史によって早良だったことが確定してる。

239 :
>>238
>また嘘を書いてる。蒙漢軍の兵数は2万5000人。

元史の、例の「其の国に入りて之を敗る」の前に「士卒一万五千を載せ」とある。

>艦艇の数は大船300艘含む総数900艘で諸史料が一致してる。

忠烈王六年記事に大船126隻と明記。この隻数は金方慶伝の梢工引海水主6700人と合致する。
(一隻あたり船員50~60人は他の史料からわかる)
また一万五千(高麗軍と併せて約二万)に対する126隻は弘安の役の四万に対する300隻と
較べて妥当。

>これも嘘。金綱集には「19日今津上陸」などという記述はない。

金綱集には「同十九日、蒙古人筑前国博多・箱ア・今津・佐原賊来」と書いてあることは
君も知っているはずだ。
「上陸」でなく「賊来」だと言うかもしれないが、「上陸」しなければ「賊来」はできない。

>そもそも高麗軍の上陸は高麗史によって早良だったことが確定してる。

だから、高麗軍は19日に早良に上陸して20日に今津から撤退すればそれでいいではないか。
今津上陸は洪茶丘伝に「抜伊蛮」と書いてあるのだから、洪茶丘の高麗人部隊にまかせて
置けばいいのだし。

別に今津からの撤退に賛成しているわけではないが、君の今津説にせめて他の史料との
整合性を持たせて上げようと思って、言っているのだよ。

240 :
>>239
>元史の、例の「其の国に入りて之を敗る」の前に「士卒一万五千を載せ」とある。

そんなもの史料的根拠にならないぞ。
元史・日本伝は元代の経世大典序録・征伐・日本を基に編纂された史料だが、その原文は

「十年、命鳳州經略使忻都高麗軍民總管洪茶丘、以千料舟、拔都魯輕疾舟、汲水小舟、各三百、共九百艘、載士卒二萬五千伐之」

つまり根本史料で2万5000人だったものが明代に元史が編纂された際1万5000人に改変されたわけで、
史料的には蒙漢軍の兵数2万5000人が正しい。

で、艦艇の数は経世大典序録が「千料舟、拔都魯輕疾舟、汲水小舟、各三百、共九百艘」、
元史・列傳第三十九・劉復亨が「戰船九百」、高麗史が「戰艦九百餘艘」で一致。
これだけ諸史料が一致するのは、それが実数ってこと。
忠烈王六年の記事は、高麗の負担した梢工引海水手の定員が大船126艘分だったと言うだけ。
つまり残りの大船174艘分の梢工引海水手は高麗以外が負担したってわけだ。
高麗は元宗15年4月に郭汝弼を元へ派遣し、梢工引海水手について「豈に止に小邦の人のみを
用ちて足るべきか」と訴えてるから、それが認められて負担が軽減されたんだろ。
残りの梢工引海水手を負担は、具体的には女真軍な。

高麗史・金方慶伝
「蒙漢軍は二萬五千、我が軍は八千、梢工引海水手六千七百と、戰艦九百餘艘を以て合浦に留め、
以て女真軍を待つ」

この時点で蒙漢軍は定員の2万5000人が揃ってるわけだから、女真軍は戦闘要員じゃない。
足りてないのは定員1万5000人の梢工引海水手なわけで、女真軍に求められてる役割はそれだ。

241 :
>>239
>金綱集には「同十九日、蒙古人筑前国博多・箱ア・今津・佐原賊来」と書いてあることは
君も知っているはずだ。

それ、明らかにモンゴル軍の艦隊が19日に博多湾内へ侵入したって記事じゃん。
そんなもの根拠に、19日今津上陸があったと言うなら、博多や筥崎にも19日にモンゴル軍が
上陸してたことになるだろ。
博多や筥崎には20日に日本軍が布陣してたと蒙古襲来絵詞で確認できるわけで、モンゴル軍が
上陸してたわけない。

242 :
>>240
>足りてないのは定員1万5000人の梢工引海水手なわけで、女真軍に求められてる役割はそれだ。

なるほど。で、その女真軍は「女真、期に後る」で、出発に間に合わなかった。
だから船の隻数を、6,700人の梢工引海水手で動かせる126隻に減らして、出発したわけね。
とても分かりやすい。

243 :
>>242
いや、高麗史・世家・元宗15年10月3日条
「蒙漢軍二萬五千と、我が軍八千と、梢工引海水手六千七百と、戰艦九百餘艘を以て、日本を征す」
だからそのまま出発してる。
金方慶率いる高麗軍8000人を梢工水手と兼任させれば合計1万4700人で操船に必要な
頭数は取り合えず揃うからね。
もちろん非常手段で弊害も大きいから、金方慶は遠征後に得儒から敗因の一つとして
「又た、東征の時、水戦を習わざる者をして梢工水手と為し、戦いを不利に致さしむ」
と非難されることになった。

244 :
>>243
女真軍がだめなら今度は高麗軍か。お手軽なもんだな。
韋得儒が言っているのは高麗兵を水夫に使ったというのでなく、無理に集めた水夫の中に
海に不慣れな素人がいた、と言っているのだろう。

また、韋得儒の、水夫に関する非難は金方慶をおとしめる讒言の一部だ。
忠烈王が疑って、讒言状に署名した十四人の者を調べたところ、「韋得儒に言われて署名
しましたが、本心ではありません」と言ったので王は方慶の無実と信じた、という曰くつきだ。

君は当時の高麗王さえ信じなかったことを根拠にするのかな?

245 :
>>240
ついでに言えば:
>高麗は元宗15年4月に郭汝弼を元へ派遣し、梢工引海水手について「豈に止に小邦の人のみを
>用ちて足るべきか」と訴えてるから、それが認められて負担が軽減されたんだろ。
>残りの梢工引海水手を負担は、具体的には女真軍な。

引用は肝心のところをはしよってはいけない。元宗は梢工・引海・水手を徴発すべき地域を
「済州、東寧府、北界」と指定して上申している。これらはみな、もと高麗の領域であって
今は元の直轄領となっている地域だ。つまりこれらの地域にいる高麗人を出してくれと言って
いるのであって、女真人を出してくれなどと大それたことは言っていない。

私は、「女真軍」というのは女真人の軍隊が自前の船で、沿海州地域のどこかの港から、
朝鮮半島の東岸づたいにやってくるのだと思う。女真は刀伊の乱や渤海使の伝統があるから
ある程度の造船・航海の技術がある。「女真軍」はそれを基にした自己完結型の水軍というわけ。
そうであってこそ、高麗に新たな造船の負担を強いることなく兵力を増強できるという意味がある。

246 :
>>241
>それ、明らかにモンゴル軍の艦隊が19日に博多湾内へ侵入したって記事じゃん。

博多湾への侵入なら、亥の刻(午後十時ごろ)と時間まで指定するのはおかしい。
また「博多湾内」を示すのに、なぜ広く隔たった四つの地名で表すのか。
また「賊」はなにかを損なう、害をなすことだから停泊だけでは「賊」にならない。

>19日今津上陸があったと言うなら、博多や筥崎にも19日にモンゴル軍が上陸してたことになるだろ。

今津、早良という正しい地名も含んでいるのだから、問題のある地名を含んでいるからと言って
19日夜複数地点の上陸、破壊活動という全体像を否定することはできない。
また箱崎は箱崎半島北部に上陸した可能性がある。博多については上陸後進出した赤坂も博多地区である。

>博多や筥崎には20日に日本軍が布陣してたと蒙古襲来絵詞で確認できるわけで

蒙古襲来絵詞を持ち出すのなら、竹崎、菊池らが朝方戦った時、すでに祖原山、赤坂にいた元軍は
前夜上陸していたのでなければ無理がある。

247 :
>>243
>もちろん非常手段で弊害も大きいから、金方慶は遠征後に得儒から敗因の一つとして
>「又た、東征の時、水戦を習わざる者をして梢工水手と為し、戦いを不利に致さしむ」
>と非難されることになった。

これにはもう一つの要素がある。
第一次東征軍の船隊は、帰国の際に大風雨に遭った。この際、高麗軍の左軍の司令官である
金&#20353;が海に落ちたが、同船した韋

248 :
途中で投稿してしまった。以下続き。

得儒は彼を救わなかった。帰国後、金方慶応は韋得儒が金&#20353;を救わなかったことを責めて、韋を
免職してしまい、韋はこれを深く恨んだ。
上記した讒言状の一節は、「金方慶がまともな水夫をつけなかったために(操船ミスで船が傾くか
ぶつかるかして)金&#20353;が海に落ちて死ぬという、軍に対する不利益をもたらしたのだ」という、
責任転嫁であろう。

249 :
>>247, 248
訂正:
金方慶応 → 金方慶
&#20353 → [イ先]

250 :
元側の史料の戦果で本土の戦果に今津の地名しかないのは元軍にとって致命的だよ。

高麗史では、壱岐や倭兵大敗のような小戦は詳細に
記載しながら、最終戦の大規模な戦闘を「諸軍與戰、及暮乃解」の僅かな文章で流している。

更に忽敦ですら、孫子の兵法を引用して日本軍を大敵、自軍を小敵に例える始末。

とても戦況を優位に進めた軍勢とは思えない。

251 :
>>250
>元側の史料の戦果で本土の戦果に今津の地名しかないのは元軍にとって致命的だよ。

それは洪茶丘伝のことを言っているのだろう。
「與都元帥忽敦等、領舟帥二万、渡海征日本、拔対馬一岐宜蛮等島。」

洪茶丘伝は個人史だから、手柄話は洪茶丘じしん、あるいは彼が指揮する高麗人部隊の
ものだ。決して全軍に関するものではない。
つまりこの文章は今津を抜いた(上陸して虐殺など行った)のが洪茶丘の高麗人部隊
であったことを示している。

そう言うと「領舟師二万」だから全軍だ、と言うだろうが、これは東征軍における
洪茶丘の立場、地位を表したものだ。
つまり彼は副都元帥だから、形式的には都元帥の忽敦を補佐して全軍を領している。
そのことを言っているだけ。
あくまで個人史であることを忘れてはいけない。

252 :
副将として全軍を領しているといっているのだから
個人史として切り捨てるのは都合が良すぎる。

立場的に全軍の指揮を担っている洪茶丘の本土に
おける戦果が今津のみであるなら、元軍全軍の戦果
とみなされても仕方がない。

肝心の都元帥すら、洪茶丘らとの軍議の際、たった一日の戦いで今後の戦いに自信を喪失している。
次に高麗軍の戦果の記述をみても壱岐や倭兵大敗の
ような取るに足らない小戦に紙面を割く始末。

本土の戦果が元軍にとってほとんど無かったと
みられても仕方がない元側の史料の状況だ。

253 :
>>252
>立場的に全軍の指揮を担っている洪茶丘の

その通り。「領舟師二万」は彼の形式的な「立場」、「地位」に過ぎない。
都元帥の忽敦が健全でいる限り、実際に舟師二万を領しているのは忽敦だ。
その場合の洪茶丘の責務は:
1)高麗人部隊を直率すること
2)軍議のメンバーとして意見を述べること
3)都元帥の忽敦も左副都元帥の劉復亨も死亡または重傷したときに全軍の指揮をとること
である。
3)の状況にはなっていないから実際は1),2)しかない。つまり実際には彼は舟師二万を領して
はいないのである。指揮しているのは高麗人部隊の数千だけ。

>洪茶丘の本土に おける戦果が今津のみであるなら、元軍全軍の戦果 とみなされても
>仕方がない。

個人史の記述を全軍に拡大するのは都合が良すぎる。

>高麗軍の戦果の記述をみても壱岐や倭兵大敗の ような取るに足らない小戦に紙面を

これも同じ。倭兵大敗は三郎浦という本土の戦場における高麗軍中軍の戦果である。
金方慶伝もまた個人史であることを忘れてはいけない。

254 :
>>254
全軍2万を領す「立場」と「地位」なら
一部隊の話ではないじゃないか。
忽敦は都元帥いわば総司令官、洪茶丘は右都元帥で
福司令官、忽敦とともに全軍を指揮する立場。
そのことを元史の洪茶丘伝は述べているに
過ぎない。
都合の悪い史料は個人史で片付けようと
してもそうはいかない。

それに高麗史の金方慶伝は壱岐での
蒙漢軍の洪茶丘や弘安の役でも
蒙漢軍の動向に触れており、個人史
のみでは決してない。

また、仮に今津を占領したのが洪茶丘軍のみだったとした場合、その夜に忽敦・金方慶と同じ場所で同席しているということも致命的。

今津以東を忽敦らが占領していた場合、後方に後退し
今津で洪茶丘らと合流するのも不自然。

また、仮に今津にいた洪茶丘を忽敦が
今津以東に呼び出したとしたら
洪茶丘の進軍をあらわし、最終的に
進撃できた地名までを元史に記すはず。
結果は今津までだった。

元軍の進軍限界地点は今津までだった。
そう考えれば不自然なところは全くなくなる。

255 :
>>254
「領舟師二万」の意味は置いといて、高麗人部隊を率いる洪茶丘が、忽敦らの本隊と分かれて
別行動(例えば今津上陸)が可能であったことを君が認めるなら、特に言うことはないよ。

>今津を占領したのが洪茶丘軍のみだったとした場合、その夜に忽敦・金方慶と同じ場所で同席
>しているということも致命的。

致命的でもなんでもない。19日夜に今津に上陸した洪茶丘軍が、翌20日朝から夕方までの間の
十余時間のうちに鳥飼潟周辺まで移動して、戦闘に参加したと考えればよい。金方慶から見れば、
それもまた「諸軍與戦」の一つだ。
あるいはまた、今津に上陸した部隊が洪茶丘軍の全部ではなく、その一部であったと考えてもよい。
今津制圧など、1000人もいれば十分だからね。
その場合、今津上陸軍の指揮官は洪茶丘の部下だということになるが、部下の功績は上官の功績だから、
洪茶丘伝に載ってもなんの問題もない。

>それに高麗史の金方慶伝は壱岐での蒙漢軍の洪茶丘や弘安の役でも蒙漢軍の動向に触れており、
>個人史のみでは決してない。

当たり前だ。私が言っているのは、個人史の中に全軍の戦闘記録を「必ず、かつ全て」書くことは
あり得ない、ということだ。

256 :
追加
今津から鳥飼潟まで移動するのは、陸上移動したとすると、地形的になかなか大変だ。
十余時間という時間のうちでは十分可能だけどね。

ところで最近気が付いた。元軍は「舟師」というように水陸両用部隊なのだ。
バートルを使って百道浜まで海上移動したと考えればなんでもない。

257 :
>>244
知兵馬事の韋得儒は上官である左軍使の金&#20353;が航海中に溺死した事で軍規違反に問われ、
金方慶を恨んだ。
つまり操船作業も高麗軍の軍務だったということだ。
高麗兵を水夫に使わなければ、そもそも韋得儒が金方慶を恨むこともなかった。

>>245
済州、東寧府、北界の能く水に習れた人は実際に文永の役に投入されてるだろ。
忠烈王六年記事によれば高麗は求められた梢工引海水手の定数である大船126艘分、
つまり、50人×126艘で6300人に満たない人数しか動員できなかった。
ところが女真軍を待つ段階で梢工引海水手は定数より多い6700人。
あきらかに高麗が動員してない梢工引海水手も含まれてるわけで、それが済州、東寧府、
北界で動員された分だな。
で、残り174艘の担当だった女真軍が到着しなかったことで高麗軍8000人も操船に従事し
大船300艘含む900艘の艦隊で遠征した。
これで諸史料に一切の矛盾なし。
完璧だろ。

258 :
>>246
>博多湾への侵入なら、亥の刻(午後十時ごろ)と時間まで指定するのはおかしい。
>また「博多湾内」を示すのに、なぜ広く隔たった四つの地名で表すのか。

金綱集はモンゴル軍が博多湾から出て行った時間を「同廿一日卯尅」と書いてるんだから、
侵入の時間も書くだろ。
博多・箱ア・今津・佐原と博多湾内の代表的な地名を挙げてるのも明らかに「博多湾内」を
示してる。
そもそも時刻が書いてあるということは、その時に日本軍がその場所にいたということ。
つまり、上陸時刻と戦闘開始時刻は一緒だ。
金綱集によれば上陸時刻は「同廿日辰尅」。

259 :
>>254
いや、その夜に忽敦・金方慶と同じ場所で同席しているということは致命的だよ。
金方慶も洪茶丘も忽敦と共に今津を破ったと書いてるからね。
そして元史や益斎乱藁が九州において今津の地名しか書いてない以上、金方慶や洪茶丘は
鳥飼潟周辺まで移動していない。
「諸軍與戦」が行われた場所は今津しかない。

260 :
>>259
金方慶や洪茶丘が鳥飼潟に参加していないなら、元軍の相当部分が参戦していないことになる。
つまり、全兵力の半分とか2/3とかの兵力で戦ったということになる。

その場合、戦闘継続すれば翌日には5割増しとか倍の兵力で戦える。
それでも、少敵の堅と言って元軍は即日撤退している。
これは、その程度では勝てないぐらいボロ負けするぐらいしか理由はない。
実際には、解というぐらいでそこまでの完敗ではなさそうだ。

つまり、初日に日本軍主力と戦った元軍を少なく見積もった場合には、
翌日に戦闘を継続できない理由がないと納得できない。

261 :
>>260
君は壱岐軍議くん改め今津軍議くんの説を誤解している。
今津軍議説の骨子はこうだ。

●戦闘は20日の一日だけだった。19日の上陸は無かった。
●20日に洪茶丘軍、金方慶軍を含む全軍が百道原に上陸した。
●同日の日本軍との戦闘で上記全軍が今津に退却した。
●同日夕刻、今津で軍議を行い、翌日午前6時に博多湾から退去した。
 (午前6時までに、ではない。きっかり午前6時に退去)
●今津における日本軍との戦闘の有無については両説を唱えており、
 いまのところどちらかは判然としない。

今津軍議くん、これでいいかな?

262 :
>>97
ちょうど文藝春秋に服部氏の記事 > 服部氏の蒙古襲来借りてきた

 元寇の真実「神風」は吹かなかった 服部英雄
http://bunshun.jp/articles/-/7210

263 :
今津軍議くんと議論していちばん困るのは、言うことが一定しないで、コロコロ
変わることだ。

>>227
>高麗史金方慶伝に「舟を早良に捨てて道を分けて進んだ」と書いてあるんだから高麗軍の
上陸地点は早良だよ。

>>259
>そして元史や益斎乱藁が九州において今津の地名しか書いてない以上、金方慶や洪茶丘は
鳥飼潟周辺まで移動していない。

この二つですでに金方慶の上陸地点が食い違っている。

264 :
>>260
金方慶や洪茶丘が率いていた2万人はあくまで「舟師」、つまり水軍だからね。
その内1万5000人は操船に必要で、日本軍主力にぶつけて大きな損害を受けた場合、
帰りの航海に支障をきたす。
元軍にとっての主戦力は忽敦と劉復亨に率いられた部隊で、それが日本軍に大敗すれば
挽回不可能を判断するのは当然。
忽敦・金方慶・洪茶丘の戦闘が解で終わったのは、そこが主戦場の鳥飼潟周辺から離れた
今津だったからだろ。
殿軍を務めた劉復亨が重症を負ってるのを見ても、戦闘が元軍の完敗だったのは確実。

265 :
>>263
読み直したら>>259はアンカーミスだった。
>>254ではなく>>255が正しい。

自分の主張は一貫してるよ。
金方慶・洪茶丘が上陸したのは早良で、破ったのは今津。
自分で>>261にまとめてるじゃん。

日蓮とかいくつかの史料から19日に上陸前の元艦隊に松浦党が海戦仕掛けた可能性も
あると考えてるけど、現時点ではまだ立証するには十分じゃない。

266 :
>>264
>金方慶や洪茶丘が率いていた2万人はあくまで「舟師」、つまり水軍だからね。

「舟師」とか「水軍」とか言うのは「舟に乗った軍隊」、つまり渡海遠征軍のことだ。
その証拠に、洪茶丘伝の第二次東征記事は次のようになっている。

(至元)十八年,與右丞欣都將舟師四萬,由高麗金州合浦以進,時右丞範文虎等將兵十萬,
由慶元、定海等處渡海,期至日本一岐、平&#25142;等島合兵登岸。兵未交,秋八月,風壞舟而還。

「右丞欣都と與(とも)に舟師四萬を将す」だから東路軍ぜんたいが舟師であることが分かる。
したがって第一次東征の蒙漢軍もまた「舟師」だ。

267 :
アンゴルモア元寇合戦記

ゴーストオブ対馬

スレ民なら注目してるよな?(´・ω・`)

268 :
北からの蒙古襲来も有名になってくれ

269 :
266の続き:
もうひとつ。洪茶丘伝のなかの、第一次と第二次東征の軍勢を較べて見よう。

第一次:與都元帥忽敦等領舟師二萬
第二次:與右丞欣都將舟師四萬

二つの文章の構文は全く同じ。したがって、第二次東征の四万が定説通りに東路軍の
全兵力であるのならば、第一次東征の二万もまた全兵力である。

また、第一次東征の四万は高麗軍一万を含むことは知られている。そうであれば、
第一次東征の二万もまた高麗軍五千三百を含む数字である。

270 :
>>266
「舟師」が渡海遠征軍という意味なら範文虎率いる江南軍も「舟師」のはずだろ。
洪茶丘伝の第二次東征記事では渡海遠征軍でも東路軍の「舟師」と江南軍の「兵」が
使い分けられていて、逆に「舟師」が渡海遠征軍のことじゃない証拠になってる。

271 :
江南軍は南宋の降兵だから正規軍とは扱いが違って当然だろ。

272 :
元寇で好きなフレーズ

凡自天照皇大神耀天統

273 :
>>270
>洪茶丘伝の第二次東征記事では渡海遠征軍でも東路軍の「舟師」と江南軍の「兵」が
 使い分けられていて

なるほど、東路軍四万のぜんたいを「舟師」と呼んでいることは認めるわけだな。
それならば第一次東征の舟師二万も、それが東征軍の全兵力だということになるではないか。
同じ伝のなかの同じ構文で、東路軍四万に対応しているのだから。

274 :








275 :
>>274
敵国降伏

響きはいいよなwww

276 :
筥崎宮もいいが
県庁横の東公園も行ってみ
上皇像と日蓮像は圧巻!特に日蓮像!!デカい

277 :
ハリウッドクラスの元寇映画を見てえ!!

278 :
日中韓蒙の合作でな!w
米仏も当然出資!

279 :
壱岐軍議くん改め今津軍議くんが「舟師」にこだわるわけがわかった。

ブログから引用:
「恐らく高麗軍は征東右副都元帥・洪茶丘の指揮下「舟師」に編成されて今津方面へ侵攻し、
残りの主力部隊が征東左副都元帥・劉復亨に率いられて百路原赤坂方面へ侵攻したのでしょう。」

金方慶軍と洪茶丘軍は「舟師」という特別な部隊であり、その他に劉復亨ひきいる「主力部隊」が
いたというのだ。
これだと第一次東征軍の兵力は、舟師二万プラス主力部隊で合計数万人だったということになる。

しかしこの説は洪茶丘伝の第二次東征記事に見える「舟師四万」という文字で崩れる。
第二次東征の東路軍は第一次と同じような構成で、その兵力は約四万だったことは定説だ。
「舟師四万」の文字は、「舟師」が特別の部隊ではなく、単に「舟に乗った軍隊」の意味
であることを示している。

ブログの書き直しが必要だな。

280 :
>>273>>279
文永の役の「舟師二万」が遠征軍の総数じゃないことは史料により確定してる。

元史 卷一百五十二 列傳第三十九 劉復亨
「十年,遷征東左副都元帥,統軍四萬、戰船九百,征日本」

高麗史 巻二十八 世家二十八 忠烈王一
「與元都元帥忽敦右副元帥洪茶丘左副元帥劉復亨、以蒙漢軍二萬五千、我軍八千、梢工引海水手六千七百、戰艦九百餘艘、征日本」

高麗史の蒙漢軍、高麗軍、梢工引海水手の合計は3万9700人で約4万人。
元側史料、高麗史料とも文永の役の遠征軍の総数が4万人だったことで一致してる。
だからこれが実数。
その4万人の内の2万人が「舟師」だ。

281 :
>>280
では聞くが、第二次東征・東路軍の「舟師四万」は何を意味するのか?
この場合も舟師四万の他に「主力部隊」がいたのか?

282 :
「主力第二次東征・東路軍の「舟師四万」は何を意味するのか?」
壱岐軍議くん改め今津軍議君はこの質問に答えない。

それならこちらから教えてあげよう。
高麗史世家・忠烈王六年八月記事によると、この月、忠烈王は洪茶丘らとともにフビライに拝謁した。
このとき洪茶丘がフビライに奏上した言葉を、高麗史は次のように記録している。
「茶丘・忻都は蒙・麗・漢四万の軍を率いて合浦を発し、范文虎は蛮軍十万を率いて江南を発し、倶に
日本の一岐島に会し、両軍集まり畢(おわ)りて直ちに日本に抵(あた)らば、之を破ること必せり」

わかるかな? 第二次東征の蒙古軍、漢軍、高麗軍の合計が四万なのだ。
一方、元史・洪茶丘伝は次のように述べる。
「十八年,(茶丘)與右丞欣都將舟師四萬,由高麗金州合浦以進,時右丞範文虎等將兵十萬,由慶元、
定海等處渡海,期至日本一岐、平&#25142;等島合兵登岸。兵未交,秋八月,風壞舟而還。」
この文章の内容・すじがきは上記、忠烈王世家の文章とぴったり同じだ。
そうであれば「舟師四万」=「蒙・麗・漢四万」=東路軍の全兵力、ということになる。

舟師はなにも、壱岐軍議くん改め今津軍議くんが考えるような、特別編成の軍隊ではない。
普通の軍隊が、たまたま船に乗って出かけるのが「舟師」なのだ。

そうであれば元史・洪茶丘伝の「舟師二万」の舟師もまた「舟に乗った軍隊」であり、
二万は第一次東征軍の全兵力、ということになる。
同じ洪茶丘伝で二、三行離れた二つの「舟師」が、異なる意味であるはずがないからね。

283 :
>>282
訂正;
誤「主力第二次東征・東路軍の・・」
正「第二次東征・東路軍の・・」

284 :
>>281
>では聞くが、第二次東征・東路軍の「舟師四万」は何を意味するのか?
>この場合も舟師四万の他に「主力部隊」がいたのか?

「主力部隊」は範文虎率いる江南軍10万人だろ。

元史・洪茶丘伝
「十八年,(茶丘)與右丞欣都將舟師四萬,由高麗金州合浦以進,時右丞範文虎等將兵十萬,由慶元」

東路軍4万は「舟師」、江南軍10万は「兵」で明確に役割が区別されてるじゃん。
文永の役では遠征軍4万が洪茶丘の水軍2万と忽敦劉復亨の主力軍2万で編成されてたのに対し、
弘安の役では東路軍4万全体を水軍に特化させ、主力軍はそれとは別に大幅な兵力増強の上で
慶元から10万人を出発させることになったということ。

285 :
ゴーストオブ対馬新映像きたぜ

隻狼 vs 仁王2 vs 対馬
http://krsw.2ch.sc/test/read.cgi/ghard/1528778485/

286 :
>>282
忠烈王六年八月記事にある洪茶丘が奏上した言葉は結局実現しなかった。
忠烈王七年三月記事によれば、高麗へ派遣されたのは蒙古漢人からなる軍3万人ではなく
「帰附せる1万5千」だからね。
一方、高麗は忠烈王六年十一月に「梢工水手1万5千、正軍1万」の動員を報告。
梢工水手の人数は遠征時には1万7千29人に増えてるから「帰附せる1万5千」の内、
2000人は梢工水手だったということ。
つまり高麗軍(軍1万、水夫1万5千)と帰附軍(軍1万3千、水夫2千)の合計4万が「舟師」。
東路軍は陸戦の戦闘力を犠牲にして水軍として海戦能力を大幅に増強させた編成だ。
「舟師四万」≠「蒙・麗・漢四万」なのね。

287 :
Ghost of Tsushimaが楽しみ過ぎる
https://www.youtube.com/watch?v=FhqTNAlErQc&t=567s

これ相当調査して再現してるみたいだから、ただ散策するだけでも楽しめそう

288 :
中世の軍隊を近代的な分業で考えるからおかしくなる

289 :
>>284
>東路軍4万は「舟師」、江南軍10万は「兵」で明確に役割が区別されてるじゃん。

舟師はあくまで特殊部隊だと言いたいらしいが、残念ながら漢字の本場、中国人の
語感はそれとは違うようだ。
明史・日本伝は次のように述べている。

乃命忻都、範文虎等帥舟師十萬征之,至五龍山遭暴風,軍盡沒。
乃(すなは)ち忻都、範文虎等に命じて舟師十万を師して之を征せしむ。五龍山に
至りて暴風に遭い、軍盡く没す。

総兵力十四万を十万と間違えているが、忻都の東路軍も、範文虎の江南軍も、いずれも
「舟師」と見なしていることは明らかだな。

290 :
>>289
これに対する、壱岐軍議くん改め今津軍議くんの反論はもうわかった。

東路軍四万と、江南軍のうち範文虎軍六万、合わせて十万が「舟師」、江南軍の残り四万
が「本隊」だ!

違うか?

291 :
>>289
史料は後から編纂されるほど改編されて間違った内容になる。
その典型だな。

>>290
いや、東路軍四万が「舟師」、江南軍10万が「軍」だから全て「本体」だ。
元史にそう書いてある。

元史・洪茶丘伝
「十八年,(茶丘)與右丞欣都將舟師四萬,由高麗金州合浦以進,時右丞範文虎等將兵十萬,由慶元」

292 :
東路軍の編成について根本的な間違いは抜都魯輕疾舟300艘を揚陸艇としてること。
だから汲水小舟300艘の意味がわからない。
外洋航海用の大船は陸地で真水を調達する必要があるが、接岸できる地形が限られるため
上陸して水を汲むための小舟が必要。
つまり汲水小舟とはもともと上陸用の船なわけで、上陸作戦も当然汲水小舟で行う。

では抜都魯輕疾舟は何かというと、「勇者」という意味なんだから水上戦闘艦だ。
高麗の水上戦闘艦については、日本の史料「内蔵石女等申文」に詳しい記述がある。
刀伊の入寇で女真に拉致され、高麗水軍に救出された女の報告ね。
それによると二重構造で櫓や櫂を使って操船し、投石器を備えていたという。

実はその高麗の水上戦闘艦の特徴に合致する船が蒙古襲来絵詞に描かれてるという指摘が
以前よりあった。
クビライは元寇に高麗水軍を投入したということだ。
当然そのための人員が要る。
抜都魯輕疾舟300艘で水上戦闘を主目的とした部隊が「舟師」なんだよ。

293 :
>>291
>史料は後から編纂されるほど改編されて間違った内容になる。 その典型だな。

なるほど。明史が江南軍を舟師と呼んだのは「間違い」というわけだな?
それでは同時代の舟師を示そう。
元は弘安の役の十年後の至元二十八年に琉球に対して国書を送った。その国書の
末尾に次の文章がある。
「若不效順、自恃險阻、舟師奄及、恐貽後悔、爾其慎擇之」
「若し順を効(いた)さず、自ら険阻を恃むならば、舟師奄(おお)いて及び、後悔を
貽(のこ)すことを恐る。爾其れ慎みて之を撰べ」

属国の務めを果たさず、海を隔てているから安心と思っているならば、舟師が海を覆って
やって来て後悔するぞ、身の程をわきまえてどちらかを選べ、というのだ。
どこかで聞いたような文句だが、このなかの「舟師」は何を意味するのか?

>つまり汲水小舟とはもともと上陸用の船なわけで、上陸作戦も当然汲水小舟で行う。
>抜都魯輕疾舟300艘で水上戦闘を主目的とした部隊が「舟師」なんだよ。

確認するが、舟師は抜都魯輕疾舟で渡海して、汲水小舟で上陸するのか?

294 :
>>293
琉球じゃなく瑠求ね。
沖縄じゃなく台湾。
目と鼻の先だから沿岸水軍がそのまま小舟で侵攻できる。
弘安の役の江南軍とは全く別物。

>確認するが、舟師は抜都魯輕疾舟で渡海して、汲水小舟で上陸するのか?

抜都魯輕疾舟は帆走能力がないから、そのまま日本まで渡海することができない。
千料舟に繋いで曳航したと考えられてる。

295 :
>>294
>琉球じゃなく瑠求ね。 沖縄じゃなく台湾。

瑠求が沖縄か台湾かは両説ある。

>目と鼻の先だから沿岸水軍がそのまま小舟で侵攻できる。

また小舟か。フビライにすれば「小舟で押し寄せるぞ」では恫喝にならないではないか。
また国書を受け取った瑠求王は、古典しか知らず、もちろん今津軍議君のブログも読んだこと
ないのに、なんで「舟師=小舟」と解釈できたのか?

その古典を見れば、舟師はむかしから普通に使われている言葉だ。
例えば三国志に名高い赤壁の戦いを、後漢書は次のように述べている。
「曹操以舟師伐孫權,權將周瑜敗之於烏林、赤壁.」
「曹操、舟師を以て孫権を伐つも、(孫)権の将・周瑜、烏林、赤壁に於いて之を敗る」

数十万と言われる曹操の軍は小舟に乗って赤壁に押し寄せたのか?
また君によれば舟師は補助部隊であって本隊は別にいるらしいから、曹操軍よりもっと大きな
本隊が別にいたのか?

296 :
>>294
古典の舟師はまだまだあるぞ。兵典から:
「武コ中,李靖隨河濶、孝恭討輔公&#31055;。賊一軍舟師三萬頓於當塗,柵斷江口,傍江築城,
又遣陸軍二萬據當塗南路,亦造柵自固,並蓄力養鋭,」

武徳年代に、李靖は河濶、孝恭に随って輔公&#31055;を討った。賊の一軍の舟師三万は當塗に
頓(とど)まり、柵で江口を絶ち、江岸に築城した。また他に陸軍二万を派遣して當塗南路
に據り、これ亦柵を造って自らを固め、同様に力を蓄え、鋭を養った.

「舟師」と「陸軍」が対語として用いられている。いずれも目的地に着いたら築城して立て
籠もった。舟師と言い、陸軍と言えども最終的にやることは同じで、違いは舟で行くか、歩いて
行くかと言う移動手段の差に過ぎない。

「舟師」とは舟に乗った軍隊の事であり、普通の軍隊がたまたま舟で移動するものだ、と私が言う
所以である。以前に「渡海遠征軍」と書いたが、大河なども含むから「水上遠征軍」と言った方が
よい。もちろん江南軍も舟師だ。この語を用いず「兵」と書いたのは一文の中で重複を避けた
からだ。だから分かるようにわざわざ「渡海」の語を添えている。

付け加えれば上記の例で、舟師三万と陸軍二万だから、数から言えば舟師のほうが主力だ。
舟師が補助部隊とは限らないことがわかるだろう。

297 :
>>296
&#31055;は[示石」

298 :
壱岐軍議君改め今津軍議君が「舟師は小舟で水上戦闘」に粘着しているのは、
ひょっとして「舟=小舟」「船=大船」と思っているからではないか?

新漢語林を見れば「舟も船も同じ。昔、中国では函谷関以西では舟、函谷関以東では
船と言った」とある。つまり古典の時代は舟と船は方言の差に過ぎなかったのだ。

もちろん後世には「舟=小舟、船=大船」という慣用が生じた。高麗史、元史などの
「抜都魯輕疾舟、大船」という用語もこのような慣用を写している。
しかし「舟師」という言葉は古典から来ているから、上記の慣用に囚われないのだ。
だから舟師は「大船に乗った軍隊」でも良いのである。

299 :
>>295
>また小舟か。フビライにすれば「小舟で押し寄せるぞ」では恫喝にならないではないか。

元史瑠求伝
「祥乗小舟至低山下,以其人衆,不親上,令軍官劉閏等二百餘人以小舟十一艘,載軍器,領三嶼人陳W者登岸」

瑠求へは小舟に乗って攻め込んだと元史に明記してあるじゃん。
クビライが「舟師が押し寄せるぞ」と恫喝し、その結果小舟による侵攻が行われたんだから
「舟師=小舟」であることは史料によって証明されてる。

>また君によれば舟師は補助部隊であって本隊は別にいるらしいから、曹操軍よりもっと大きな
本隊が別にいたのか?

舟師が補助部隊なんて書いてないぞ。
一貫して舟師は水上戦闘を主目的とした水軍だと書いてる。

>>298
>だから舟師は「大船に乗った軍隊」でも良いのである。

良くない。
舟師とは水上戦闘艦に乗った水軍のことであって、単に「大船に乗った軍隊」は「兵」。
元史は舟師とそれ以外を明確に区別してる。

元史・洪茶丘伝
「十八年,與右丞欣都將舟師四萬,由高麗金州合浦以進,時右丞範文虎等將兵十萬,由慶元」

水軍である東路軍は「舟師四萬」、「大船に乗った軍隊」である江南軍は「兵十萬」だ。

300 :
>>299
>水軍である東路軍は「舟師四萬」、「大船に乗った軍隊」である江南軍は「兵十萬」だ。
>元史は舟師とそれ以外を明確に区別してる。

では「元史張禧伝」はどうするのか?
「時朝廷議&#24501;日本,(張)禧請行,即日拜行中書省平章政事,與右丞範文虎、左丞李庭同率舟師,
泛海東征。至日本,禧即舍舟,築壘平湖島,約束戰艦,各相去五十&#27493;止泊,以避風濤觸&#25802;。」

張禧・・右丞範文虎、左丞李庭同と與に舟師を率い、海に泛びて東征す。

元史は江南軍を舟師と呼んでいるではないか。

301 :
>>300
&#24501;は「&#24501;」の字ね。
辞書にないが「懲」の異字だろう、

302 :
>>300
ごめん、
&#24501;は[懲ー心]の字ね。
ついでに、
&#25802;は「撃」の異字だ。

303 :
こんなの見つけました
源氏=ゲン=元(モンゴル) 源平合戦=元平合戦 神風とか全部ウソ [無断転載禁止]&#169;2ch.sc
http://rio2016.2ch.sc/test/read.cgi/kokusai/1505816832/

304 :
武家はみんな農民から発生だしなあ

305 :
軍事貴族説知らない方を発見した

306 :
貴族も農民なんだぜそれがトップに上り詰めた
その過程で上り切れなかったのが武士
ただ武力強しお公家さんなんて無力だったw

無知って素敵 特にコメが来てから顕著に!

307 :
>>306
えっ
貴族の先祖は臣籍降下した皇族だったり昔の貴族だったりだけど……

308 :
堂上家なんて藤原摂関家ばかりだしな

309 :
皇別氏族や神別氏族は有名やと思うんやがなあ

310 :
それも九州勢の子孫だしなw

311 :
>>306
農民上がりの貴族って例えば?

312 :
農民からいきなり貴族とか無理だぜ
農民から徐々に財を成しだし

渡来系は別ねその渡来系も農民だしなw

313 :
>>300
四年、改水軍総管、益其軍二千五百、令習水戦。
十年、帝遣使&#37636;諸将功、授宣武將軍、水軍萬戸、佩金虎符、丞相伯顔因命禧為水軍先鋒。
十四年、加懷遠大将軍、江陰路達魯花赤、水軍萬戸。

張禧のキャリアはまさに生粋の水軍将軍だな。
率いた兵も水戦の訓練を受けていて、ただ軍を船に乗せただけではない。
「舟師」とは水上戦闘を主目的とした水軍だと完璧に裏付けてる。

「兵十萬」を率いた範文虎は五龍山で台風に遭い、士卒十餘萬を棄てて帰還。
一方、「舟師」を率いた張禧は平湖島で台風に遭い、兵四千を連れて帰還。
やはり範文虎の「兵十萬」と張禧の「舟師」は明確に別物として区別されてるし。

314 :
>>306
具体的にどの家?
トップに上り詰めたような家ってまさか藤原?
藤原は中臣がルーツで古代からの家なんだけど

315 :
>>306
てか平安中期だと貴族が入寇と戦ってたりするよ
元寇ほどの規模ではないけど

316 :
>>313
>一方、「舟師」を率いた張禧は平湖島で台風に遭い、兵四千を連れて帰還。
>やはり範文虎の「兵十萬」と張禧の「舟師」は明確に別物として区別されてるし。

なるほど、君は元史張禧伝の次の文章:

(張禧)與右丞範文虎、左丞李庭同率舟師、泛海東征、至日本・・

は、張禧が範文虎らと「與に」すなわち共同で率いた江南軍十万のうち、
張禧の部隊四千だけが「舟師」だったことを表している、というのだな。

しかしそれはおかしいではないか。君は元史洪茶丘伝の次の文章;

(洪茶丘)與右丞欣都將舟師四萬,由高麗金州合浦以進、・・

については、

>水軍である東路軍は「舟師四萬」、「大船に乗った軍隊」である江南軍は「兵十萬」だ。

と言っていて、東路軍四万はその全軍が舟師であったと言っている。
全く同じ、『主人公「與」総司令官「将or率」舟師』という構文において、
なぜ一方は全軍が舟師、一方は全軍のうち一部が舟師、と解釈されるのか?

317 :
>>299
>クビライが「舟師が押し寄せるぞ」と恫喝し、その結果小舟による侵攻が行われたんだから
「舟師=小舟」であることは史料によって証明されてる。

なるほど、舟師=小舟なんだからフビライは「小舟が押し寄せるぞ」と恫喝したわけだな。

しかし「善隣国宝記」によれば、至元二十年(弘安六年)に日本に対して出された、未着の
国書があり、そのなかでクビライは次のように書いている。
「頃因信使執而不返、我是以有舟師進問之役」
「さき頃は信使を執って返さないことに因り、我は舟師を以て之を進問(咎め)させた。」

これは弘安の役のことを全体的に述べていることは明らかだが、この「舟師」も「小舟」か?

318 :
舟師にふた通りの意味があるとかでないの?
 船に乗った軍隊
 水上戦闘をする部隊
とか。

ただ、バートルって10人乗りぐらいの船らしいよね。
300隻で3000人ぐらい。20人乗りでも6000人ぐらい。
万単位の兵員数の舟師だと、船に乗った軍隊の意味になるんじゃないかな。

319 :
>>316
>なぜ一方は全軍が舟師、一方は全軍のうち一部が舟師、と解釈されるのか?

解釈も何もないだろ。
洪茶丘伝に書いてあるままを指摘してるだけ。

「十八年,與右丞欣都將舟師四萬,由高麗金州合浦以進,時右丞範文虎等將兵十萬,由慶元」

洪茶丘が率いていたのは「舟師四萬」で範文虎が率いていたのは「兵十萬」。
で、範文虎が率いていたのは「兵十萬」は日本に捨てられた。
それは元史日本伝に書いてある。

「五日,文虎等諸將各自擇堅好船乘之,棄士卒十餘萬于山下」

「舟師」を率いて日本へ遠征し、兵四千を連れて帰還した張禧については洪茶丘伝に
何も書かれていない。
洪茶丘伝の記述は弘安の役の全てを網羅する性質のものじゃないからね。

>>317
クビライは範文虎から「諸將未見敵,喪全師以還」と報告されてるからな。
外交上、問題になるのは2ヶ月近く日本軍と実際に交戦した東路軍を中心とする
「舟師」だけじゃん。

320 :
>>304 >>306って源氏も平家も知らないの?

321 :
それ後付けなんで
とんでも日本史 が流行る軍板w

322 :
>>319
>「十八年,與右丞欣都將舟師四萬,由高麗金州合浦以進,」
>洪茶丘が率いていたのは「舟師四萬」

総司令官を無視しては困るな。
総司令官である右丞・欣都は何を将(ひき)いたのか?

323 :
>>320
武士の起源は農民というのは人間の起源は微生物というてんのと変わらない

324 :
生まれながらの武士w

325 :
おまいらにずっと質問したかったんだが

北条時宗ってやっぱり右派は無条件礼賛、左派は極悪人扱いなの?
そこのところ是非聞きたい

326 :
時宗についてはそういう認識だと思うが何で?

327 :
時宗といえば八王子のケミカル和尚w
それと箱根駅伝の本山横

つかトンデモ系だが面白いサイトを見付けた!
やっぱ日本人は選ばれたミンジョクなんだよなあw
自分の浅くて広い知識を更に掘り下げてくれている!!

328 :
>>326
いやさ、正直な所 時宗公 ってそこまで目くじら立てるような存在なのかな? と思うわけよ
彼の態度はまさしく立派だったと自称愛国者である俺も思うけど、その内実ってかなり酷いでしょ
とても「正一位」を追贈されるような人間だったのかな? と思うわけよ

『太平記』を読むと、大塔宮様 や 大楠公 が挙兵した時、彼等を滅ぼすためにかなりの軍勢が集まった
それは何故か? と言えば、高時 が脅威に感じたからだ

ところが元寇についてはどう? 時宗公 は明らかに事態を過小評価していたとしか思えない応対ですよね?
文永の時なんかはほぼほったらかし、偉大な 少弐資能公 や 竹崎季長公 がほぼ独力で国家を守護してる
日本国内でも日頃「大元」と大をつけて置きながら、後醍醐天皇様 の乱の時の本気度の欠片も感じられない

そして弘安の時には慌てて鎭西大将軍という身内を送ったけど、それでもやたらとハッパをかけるだけの
ブラック体質だった事は概略を読んでいるだけでも理解できる
つまり初期対応の失敗、国家の為に戦っている者への労わりの無さ、それがちらほら見られる
どう考えても、右派が礼賛し、左派が憎むようなスゴイ人物とは言えないでしょ

329 :
>>328です

それと>>299さん? IDが一定になっているわけでないから、直近で>>299さん にしておきますね

別に

>>301さん こと、「壱岐軍議君改め今津軍議君と論議をしている人」に味方をする気はないんだけど
横レスは失礼と思いますが一つよろしいですかね?

私はある意味>>289の『明史』日本伝を取り上げた事に対するあなたの意見には賛成します
やはり一級資料とはいえ『明史』は乾隆四年完成のものですから

ですがその他のあなたの議論について疑問に思ったので是非お聞きしたいのですが、あなたは>>316の反論については
「解釈も何もないだろ。」と具体的に反論をせず、「俺は洪茶丘伝の記述を指摘しているだけ」と仰ってますが、これに
ついての具体的な考えという物はないのでしょうか?

それと「舟」と「師」の意味というのをどの様にお考えなのでしょうか? まさか「師」というのは小さいという意味だ
なんて事は言わないですよね? (続く)

330 :
(続き)
それから>>301さんにもほぼ同じ内容の見解をお聞きしたい。あなたの結論としては「舟師に意味なんて無い。海軍というだけだ」
って事ですよね? であるなら、わざわざ「舟師」と「兵卒」と分けてる事についてどの様にお考えになっておられるの
でしょうか? 確かに『正史』と言っても完璧ではありません。とくに『元史』は正史上最も劣悪で最低な部類に入る
と言われていますが、それでもたまたま気分で分けたという事なんでしょうか?

それとこの質問は>>299>>301お二人にしたいのですが、『宋史』太祖本紀の一文「冬十月壬辰,曹彬等將舟師、歩騎發江陵,水陸並進。
丁酉,命呉越王錢俶為昇州東南行營招撫制置使。」を読んでどの様な印象をお持ちになるでしょうか? それと
江南軍の
范文虎は賈似道の娘婿で姦臣伝の中の一部にしか出ていない人材、李庭は明らかに監軍的な立場だと思われること、旧南宋軍人
が江南軍の主力という事実と東路軍に明確な違いがあるが、その事実が記述に及ぼす影響についてどの様にお考えでしょうか?

>>318
その事実は当たらずと言えど遠からず、中々鋭い指摘であると私は思います。正史ではないですが、例えば『籌海図編』では
「倭人至福建、乃福人買舟、至海外貼造重底・・・・・舟師皆犯重罪之人也」という記述があります。ですからそんなに的外れ
な意見ではありませんね。

331 :
>>330
>あなたの結論としては「舟師に意味なんて無い。海軍というだけだ」って事ですよね?

私がそんなことを言いましたか?
私は「舟師」とは「舟に乗った軍隊」の意味であり、元寇に関して言えば「渡海遠征軍」のことである、
ち言っています。
河も含めて「水上遠征軍」と言えば、史書に出て来る全ての「舟師」に当てはまります。

>であるなら、わざわざ「舟師」と「兵卒」と分けてる事についてどの様にお考えになっておられるの
でしょうか?

洪茶丘伝のことなら「兵卒」ではなく「兵」ですね。江南軍については舟師でなく兵と書いたのは、
漢文の常道として、一つの文章の中での「舟師」の重複を避けただけです。
その証拠に、張禧伝は江南軍のことを「舟師」と呼んでいます。

(張禧)與右丞範文虎、左丞李庭同率舟師、泛海東征、至日本・・

張禧が江南軍総司令官の範文虎と與(とも)に率いる「舟師」とは、即ち江南軍のことに
他なりません。

332 :
>>325
極悪人扱いってなんで?
>>328のように元寇への対応について批判は結構見るけど、
普通そういうのは極悪人とは言わないし

まさか元寇を撃退したのが極悪人ってこと?
攻めてきたのあっちなのに?

333 :
>>321 >>304 >>306
歴史版でソースも出さずに新説とな

334 :
>>325
モンゴルを平和的とか言ってて時宗を悪人扱いしているレスは
たまに見るけど根拠は分からない
まず国書送ってきたからかなあ?

335 :
時宗は真宗以上に
被差別者を擁護しているからかと

336 :
>>335
よくわからんけど、被差別者擁護すると悪人扱いされんの?

337 :
他宗教では差別されたしなあ

338 :
>>331
>であるなら、わざわざ「舟師」と「兵卒」と分けてる事についてどの様にお考えに

追加。
頼山陽の「日本外史」に次の文章があるそうです。
「元主、我が再び使者を誅するを聞き、則ち憤恚して、大に舟師を発し、漢・胡・韓の兵凡そ十余万人を
合して、范文虎を以てこれに将とし、入寇せしむ」

頼山陽の漢学センスからすれば、東路軍と江南軍を併せた弘安の役の元軍は、ひっくるめて「舟師」と
見なされることがわかります。
この場合の「舟師」の、最も適当な訳語は「渡海遠征軍」でしょう。

339 :
>>330
>例えば『籌海図編』では
>「倭人至福建、乃福人買舟、至海外貼造重底・・・・・舟師皆犯重罪之人也」という記述があります。

百度百科かなにか(https://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%88%9F%E5%B8%88)に次のような
記述があります。
「中国自宋代称掌握海上船只航行的管理、技術人員為舟師。」
中国の宋代より、海上の船隻の航行を掌握する管理・技術人員を舟師と称する。

この場合の舟師は明らかに「船員」の意味です。
「倭人が来たら福建人が倭船を買って、二重底に改造し・・舟師はみな重罪犯人である」
という『籌海図編』の文章の舟師も船員の意味でしょう。

「師」の意味は軍隊、教師、技術者と分れており、「軍隊」の意味から「水上遠征軍」の意味の
舟師が、「技術者」の意味から「船員」の意味の舟師が生じます。

340 :
>>322
欣都が将(ひき)いたのは洪茶丘と同じ「舟師四萬」だよ。

341 :
>>340
なるほど、
>欣都が将(ひき)いたのは洪茶丘と同じ「舟師四萬」
なのだね。

それならば張禧伝:
「(張)禧請行,即日拜行中書省平章政事,與右丞範文虎、左丞李庭同率舟師, 泛海東征。」
「張禧、行くことを請い、即日に行中書省平章政事を拝し、右丞範文虎、左丞李庭同と與に舟師を率い、
海に泛(うか)びて東征す。」

の場合も、範文虎、李庭同が率いたのは張禧と同じ「舟師」でOKね。
なおこの場合、江南軍総司令官の範文虎が率いたのだから「舟師十万」ということでOKね。

342 :
>>329 >>330 >>339
「舟師」は熟語で意味は辞書をひけば簡単に見つかる。

1、舟で戦う軍隊。水軍。
2、船頭。

この時点で「舟師」が「水上遠征軍」の意味なんてのは完全な間違いなんだよ。

『宋史』太祖本紀の一文にある「舟師」も典型的な水軍だろ。
「舟師」は敵の水軍と舟で戦って制水権を獲得するために乗船してるんであって、
普通の軍隊がたまたま舟で移動するものなんかじゃないの。
だから「舟師」には舟で戦うため水戦の技術が必要。
弘安の役で「舟師」を率いた張禧も至元四年に「令習水戦」って水戦の訓練してる。

渡海遠征になると「水上遠征軍」と「舟師」の違いは、より明確になる。
何より船が違う。
「水上遠征軍」のための船は積載量が必要なため大型の帆船となる。
ところが、水戦において風頼みでは話にならないから「舟師」は櫓こぎの船が主力。
「舟師」の船が小舟というのは大型の外洋船との比較であって、漕ぎ手も含めれば
乗員は100人前後になるけどね。

「舟師」を「水上遠征軍」などと主張するのは、何もわかってないということ。

343 :
>>342

344 :
>>342
誰も舟談義などやっていない。漢文の解釈の話をしているのだ。
もう一度聞く。

君の言う、
>欣都が将(ひき)いたのは洪茶丘と同じ「舟師四萬」>>340
が、洪茶丘伝;「(洪茶丘)與右丞欣都將舟師四萬,由高麗金州合浦以進」の解釈であるのならば、

張禧伝: 「(張)禧請行,即日拜行中書省平章政事,與右丞範文虎、左丞李庭同率舟師, 泛海東征。」
「張禧、行くことを請い、即日に行中書省平章政事を拝し、右丞範文虎、左丞李庭同と與に舟師を率い、
海に泛(うか)びて東征す。」

の場合も、範文虎、李庭同が率いたのは張禧と同じ「舟師」である、ということにならないのか?
またこの場合、江南軍総司令官の範文虎が舟師を率いたのだから「舟師十万」ということにならないのか?

漢文の同じ構文だから同じ解釈でなければおかしい、という話だ。念のため。

345 :
>>344
同じ構文じゃないだろ。
李庭同って誰だよ?
弘安の役に左丞として参加したのは李庭だ。

漢文の構文では「A與B同」は「AとBは同じ」。
つまり、行中書省平章政事を拝したことが右丞範文虎、左丞李庭と同じだと言ってる。

「張禧、行くことを請い、即日に行中書省平章政事を拝して右丞範文虎、左丞李庭と同じくし、舟師を率い、
海に泛びて東征す。」

舟師を率いていたのは張禧だけだよ。

346 :
>>325
そこまで極端な評価だっけ?
評価する所としない所をわけてることの方が多いような
昔は知らないけど

347 :
>>345
「同」は私も人名と間違えたが、君の漢文解釈も怪しい。「同じくする」なら「〜を同じくする」
と、必ず次に目的語が来る。

「同率」の文例が百度百科の「範文虎」にある。
https://baike.baidu.com/item/%E8%8C%83%E6%96%87%E8%99%8E/63104
「(範文虎)次年6月,与左丞李庭同率江南軍10万、戦船3500艘従慶元(今寧波)入海征日。」

(範文虎)次年6月、左丞李庭と(与)江南軍10萬、戦船3500艘をともに(同)率い、
慶元(今の寧波)より(従)入海して征日す。

「同」は動詞の前について、「ともに〜する」を表す副詞的な働きがあるのだ。
考えて見れば「同行」「同乗」「同慶」などは「ともに行く」「ともに乗る」「ともに慶ぶ」
だったのだ。「同率」も「ともに率いる」だ。

従って張禧伝の文章の読み下しは:
「張禧、行くことを請い、即日に行中書省平章政事を拝し、右丞範文虎、左丞李庭と(與)
舟師をともに(同)率い、 海に泛(うか)びて東征す。」

張禧、範文虎、李庭が「ともに率いた」のは舟師であり、取りも直さず江南軍10萬である。

348 :
おまんら!
アンゴルモア元寇合戦記のアニメ始まったぞ!

1話のクオリティたけえwww

349 :
ども、お二方とも質問にくわしく御解答いただきありがとうございます
色々ぐちゃぐちゃなので自分は便宜上コテハンでやります

まず>>331さん(ややこしいので>>331さんにします)、>>339 では特に詳しい解答ありがとうございます。
同じ漢字で様々な意味が含まれているというのが、さらに話をややこしくしていますね。

さて少し疑問があるので再度質問します。>>331さんは>>251で簡単に言えば
「列伝は手柄話」と仰っていますね。ですが私が抱いた印象では、>>331さんは
「張禧伝」の記述を重んじているように思いますが。基本的スタンスとして
>>331さんが「張禧伝」を引用するのはどういった理由からでしょうか?
「洪茶丘は所詮洪福源伝の付録」だからでしょうか? それとも
「両者の記述を示し合わせて矛盾の無いような説明を考えて」そういう結果になったからでしょうか?
後者ならすでにそれは列伝を信用している、という事になると思うのですが?

350 :
さて>>340さん(同じく便宜上>>340さんにします)

話は少しそれますが、「文永の役」での見込みについては、兵数もバラバラ、軍船の数もバラバラみたいですね。
元・高麗軍が二万か? 万五千か?議論になってるみたいだけど、自分的には『元史』でも「世祖本紀」の方の記述、
万五千を信用します。まあどちらにしろ、「文永の役」最大四万に船九百艘だとしても、一艘当たりに乗り込む人数は平均44.4人です。
当然文永の時には「蒙漢高」連合です。

で、面白いことに「弘安の役」でも議論されている「東路軍」は差異はあれどほぼ同じ兵数船数なんですよね。
そして新しい、いわば捨駒である「江南軍」は大体兵十万の船三千五百艘、一艘当たり平均28.57人の計算です。

これからすると、>>299の説明とは真逆にむしろ江南軍の方が小船の集合体となりますね。
ただ単に「舟師は水軍専門職だ」だけならそれなりの説得力もありますが、それに加えて「舟師」は
「バートル船団」「小舟の集団」とまで言うと果たしてどうなの? という事になるとは思いませんか?

それとここは是非確認しておきたいところがあります。漢文の意味です。

>>行中書省平章政事を拝したことが右丞範文虎、左丞李庭と同じだと言ってる。

確認したいのですが、右丞左丞なのに行中書省平章政事を拝命したという事を言っているという認識でよろしいでしょうか?
元寇というと右派左派イデオロギー本が結構多いのであれですが、圧倒的に数が少ない大陸側から見た元寇の論文でも
範文虎や李庭が行中書省平章政事に任命されたというふうに仰ってる方はおられないのですが?

351 :
すみません>>350の漢文云々の質問ですが、これは>>345に対する質問です。

さて、文永の役の記述について『元史』巻八「世祖本紀」ではこのように書かれています

「庚寅,敕鳳州經略使忻都、高麗軍民總管洪茶丘等將屯田軍及女直軍,並水軍,合萬五千人,
戰船大小合九百艘,征日本。」

「弘安の役」の時の巻十一「世祖本紀」は、それらしい記述というか水軍や舟師に関する記述がありません。
ただほぼ同じと思われる「文永の役」でキチント屯田兵・女直・水軍の三軍編成の記述があるというのは
興味深いと思います。

まあ、元寇の議論以前に、元寇の総大将の ヒンドゥ と クドゥン が同一人物かどうか?
それ自体あやふやな状況ですから、他もあやふやになるのも仕方ないのかなと思います。

352 :
>>349
>331さんは>>251で簡単に言えば 「列伝は手柄話」と仰っていますね。

私が言ったのは、「列伝が述べる功績は列伝の主人公個人の功績である」ということです。
だから洪茶丘伝が述べる、今津に関する功績は(全軍ではなく)洪茶丘個人の功績なのです。

>331さんが「張禧伝」を引用するのはどういった理由からでしょうか?

張禧伝を重視するのは、舟師論争にとって最も重要な資料だからです。
張禧伝中の「舟師」は明らかに江南軍そのもの、あるいは江南軍ぜんたいを指しています。
であれば、「舟師」は「水上戦闘専門部隊」ではなく、単に「渡海遠征軍」の意味であることに
なります。

>後者ならすでにそれは列伝を信用している、という事になると思うのですが?

私は列伝を、本紀その他と同じ程度に信用していますよ。もちろん疑うのも同じ程度です。

353 :
張禧伝の解釈は「同率」がキモのようだ。百度百科の「範文虎」で、「ともに率いる」であることを
一応説明したが、他の例も当たって見よう。
明代に書かれたという「晋史通俗演義」に次の文章がある。

「温急檄北中郎将&#24254;希、及竟陵太守ケ遐、同率水師、援救洛陽。」
「温(人名)は、北中郎将・&#24254;希、及び竟陵太守・ケ遐に急ぎ檄して、ともに(同)水師を率い、洛陽を
援救せしむ。」

温という人が、敵が洛陽に迫っていることを聞いて、「及び」でつながれた二人の将軍に急ぎ檄を送った、
その檄の内容が、水師を「ともに(同)率いて」洛陽を救援せよ、というものだった。

ここでも二人の将軍が協力して一つの軍を指揮することを「同率」で表している。

354 :
もう一つ例を挙げよう。
清代、または民国時代に書かれたと思われる「洪秀全演義」に次の文章がある。

「楊戴福信以為真、約以二更時分、與彭玉麟同率水師、直搗西濠。」
「楊戴福は真と(以為)信じて、二更時分に、彭玉麟と(與)ともに(同)水師を率いて、直に
西濠を搗くことを約す」

太平天国軍の策士が清国軍の司令官・楊戴福に偽の内通をしたところ、楊はそれを本当と信じて、
もう一人の将軍・彭玉麟とともに水師を率いて、深夜十時ごろに西濠を直接に攻撃することを
約束した、というのである。
主語「與」人名「同率」軍隊、という構文は張禧伝と全く同じである。

このように、百度百科と併せて三つの文章で、「同率」は複数の将軍が一つの軍隊を協力して指揮する
ときのお約束のような表現であることが示された。

改めて張禧伝を見れば、
「(張)禧請行,即日拜行中書省平章政事,與右丞範文虎、左丞李庭同率舟師,泛海東征。」

張禧が、範文虎、李庭という二人の将軍と(與)ともに(同)舟師を率いて、海に浮かんで東征した。
主語である張禧が舟師を率いることは当然だが、江南軍総司令官の範文虎もまた、同じ一つの舟師を
「ともに率いて」いるのである。
この場合の舟師とは取りも直さず江南軍であり、舟師の意味は「渡海遠征軍」であることがわかる。

355 :
このスレまだあったのか
パフォーマンスコンクールとか言ってた人ってまだいる?

356 :
>>355
>パフォーマンスコンクールとか言ってた人ってまだいる?

近いところでは>>352 >>353 >>354がそうだよ。
amebloにreydeoroという名前でブログも書いている。
「蒙古襲来絵詞と文永の役」で検索してね。

357 :
>>22
こんな史料あったんだね。
金方慶伝の「倭兵を破ったのに撤退」という経過がいまいち呑み込めなかったけど
>>262
服部英雄本が朝日天声人語でも取り上げられてたけど、少し違う気がする。

358 :
壱岐軍議くん改め今津軍議くんは反論してこなくなったが、
舟師=渡海遠征軍にもとづいて今津撤退説を再構築して欲しい。
がんばれ!

359 :
人名や時期とかあくまでだろう止まりの話半分に思っといた方がいいな

360 :
ブログ「蒙古襲来絵詞と文永の役」に、新ページ「神軍の正体は何か」を追加した。

361 :
歴史秘話ヒストリア 蒙古襲来の真実
鎌倉武士最強の秘密
NHK総合 22:25-23:10 9/19(水) 今夜!!

362 :
>>361
で、どんな話だった?

363 :
絵巻の新解釈
そっちの方が自然だった
神風は吹いたが撤退中だろう
それが松浦の沈没船など

それと流鏑馬みたいに馬上から射る戦術が後に有効に
それに糞尿を使った戦術も戦意喪失に!w
博多湾には入らず志賀島でも膠着長期化を打開する
動きなど新解釈していた
多分再放送が本放送の前日に有ると思う

上陸して陣地まであったとは
それでも支那朝鮮みたく占領は無く跳ね返した
鎌倉時代の西国の武士群!!

364 :
一応貼っておきます

歴史秘話ヒストリア 再放送予定

『蒙古襲来の真実 鎌倉武士 最強の秘密』
10月6日土曜日 NHK総合1 午前10時05分〜 午前10時50分

365 :
>>363
糞尿云々ってどういう史料に出てくるんだろ

366 :
ケチらずNHKオンデマンドを見よう

367 :
絵画史料を見て一部の学者がそう解釈してるだけってのはナシでお願いします

368 :
特別展『蒙古襲来絵詞と竹崎季長』が始まるらしいね

369 :
てつはうの場面の全体図見てこうなっていたのかと驚くって人もまだまだいるだろうな

370 :
絵詞の特別展をやるのはいいけど、服部某の
元軍船に糞尿を投げつけたとか志賀島で元軍のすぐ下の海で日本兵が泳いでるとか妄想を垂れ流すのは止めて頂きたい。

371 :
>>370
あれ妄想なんだ?
ヒストリアだったかの歴史番組でもいってたっけ

372 :
両方ともヒストリアでがっつりやってたね

373 :
>>370
ハットリ某の、廿日夜に日本軍が兵船二艘で夜襲したと言うのも幻想だよ。
一代要記の原文を一字抜いて引用してる。一字で意味がガラッと変わる。

374 :
http://m.pandora.tv/?c=view&ch_userid=msb0727&prgid=55773432

この元寇番組の12分50秒のところの
服部が出した文永の役について、
かなり詳しく書いている
中国の史料って何の史料かわかる人いますか?

375 :
>>374
あれは「張成墓碑銘」の拓本だよ。
服部某の「蒙古襲来」の399ページに写真があるから動画と較べて見ると、
白いキズの形から同じものだと分かる。
「張成墓碑銘」は確かに日付を含んで具体的だが、文永の役ではなく弘安の役の
記録だ。

376 :
あ、そうなの?

服部が拓本出してきた時の内容は
思いっきり文永の役が1日で終わっていない
根拠みたいな扱いだったけど。

377 :
>>376
だから、そのように見せかけているのだと思う。
自分の本でバレバレなのにね。

378 :
動画で服部氏が、「別の史料」によれば二十四日にも合戦があった、と言っているのは
「関東評定伝」のことだろう。
「文永十一年十月五日、蒙古異賊寄来、着対馬島、討少弐入道覚恵代官藤馬充、
同廿四日、寄来大宰府、与官軍合戦、異賊敗北」

しかしこの史料はいかにもおかしい。
対馬での代官・藤馬充の討ち死にを述べた後、最も重要な廿日の博多周辺の戦いが無くて、
いきなり廿四日の「大宰府」の戦いになっている。

そんな記録はあり得ない。この「大宰府」は「博多」の意味だろう。
鎌倉から見れば大宰府も博多もいっしょ。大宰府と書いて博多を意味している史料は
たくさんある。

「大宰府」を「博多」と見るならば日付の「廿四日」だけが誤りと考えればよい。

379 :
>大宰府と書いて博多を意味している史料は
>たくさんある。

そのたくさんの具体例を出してくれると説得力が増すかな

380 :
>>379
https://ameblo.jp/reydeoro/entry-12331877947.html

内外の史料に現れる「大宰府」とは何か

381 :
318 : 頭突き(東京都):2013/10/22(火) 21:56:45.59 ID:5ZlZq+W50
>>284
当時の胸形地方(宗像市〜福津市〜古賀市のあたり)の捕虜処刑場の鎮守の杜の伝承には
元兵・南宋兵・朝鮮兵の不連携は鎌倉の計略だったってある

朝鮮高麗は元に先に屈服したから南宋より偉いとかつての宗主国南宋を見下し元寇に参加したが
元々南宋と通商のあった鎌倉は南宋兵は生かして捉え、元兵は処刑するとした
この法を元劣勢時に敵兵に流したら元兵として威張っていた朝鮮兵が元を裏切って「自分は南宋兵だ」と保護を求めてきた

しかし南宋を騙って自軍裏切った朝鮮兵を一部の鎌倉兵は許さなかったのでその一部をそこで処刑したとさ
「計略だった」は当時の幕府の後付け設定である可能性が高いけど、その捕虜待遇が戦績に影響したのは明らかだった

この話は本当でしょうか?具体的に宗像のどこの鎮守の杜の伝承ですか?
詳しい人教えて!

382 :
わざわざ>>284となっているのは
「舟師」論議を蒸し返したいのかな&#8263;

383 :
ダンパー問題ソノ他急速ヴェノム物件・銀行問題業界ゴト潰レル?利凍ル公害重イル?
虐待死刑スタッフ以外ニグループマイナス経常ケタチガイ災熱湯強烈薬害毒死多繋ガル看後死
1000件以上介護保険税金ムダ泥棒マダゴーン今環境殺ッテマス100オツムオムツ借金漬ケ棺桶型国家
森友ノロウイルス焼肉嘔吐虐待スイッチ押死耶手ゲローン戦争ソンポ部死テルン盗難
郡大老害山林焚書死テa麻薬王振戦違反重々ヤットストレス足ダシ若竹口爆発害ヤンキーノ種死ネ世
https://anago.2ch.sc/test/read.cgi/welfare/1443184621/

384 :
>>382
元スレのままコピペしただけですが。
ここの>>284と一切関係なしですよ。

385 :
>>384
元スレはどこですか?
面白そうなので教えて下さい。

386 :
>>385
元寇って大げさに書いてるけど本当は博多の局地戦だろ?
https://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/news/1382438017/
ここです。

387 :
>>386
有難う。
面白かったけど、残念ながら過去のスレッドでした。

388 :
鎌倉武士と、プレートアーマー着込んで槍持った西洋騎士が戦ったら
たぶん弓のアウトレンジ攻撃で一方的な展開になるだろうな。

389 :
なんで時代が違う相手と戦わされてるの?

390 :
プレートアーマーって戦場で使用された期間めっちゃ短いよね
15,6世紀の200年余り
ロリカセグメンタタやキュラッサみたいな一部板金は古代から近世まで作られてるけど

391 :
プレートアーマーと大鎧は同じ鋼鉄製。
んでプレートアーマーは鉄板の厚さが1ミリで全体防御。
大鎧は1〜1.5ミリの鉄板が二枚重ね、バイタルエリアだけを堅く守る集中防御。

392 :
大鎧の鉄板は積層構造で表面が硬くて内側になると徐々に柔らかい鉄になってる。
戦艦や戦車の装甲みたいでちょっと面白い。

393 :
>プレートアーマーと大鎧は同じ鋼鉄製。

大鎧は鉄小札の割合が多いものでも半分程度で基本は板目革の小札だと何かで見た気がしたが
たとえば全部が鉄小札の現存大鎧って具体的にどれだろう

394 :
>>393
胴回りと頭は鉄で、草摺(太もものあたりに4つあるやつ)と大袖は革だったような。

この前、大鎧を見に神社に行ってきたが、
草摺の上から1列目と2列目の小札の列は、
革の小札と鉄の小札が交互になっいて、
3列目以下は全て革の小札になってるとの説明があった。

正直実物を見てもどこまで鉄でどこまで革なのかはっきり判らない。

395 :
刀と鎧は高性能かつ軽量を狙った繊細な作りである一方、
馬具は作りが雑だと思う。
鐙とか両足合わせて2キロぐらいある。もうちょい軽くできるだろ。

396 :
軽量化すると簡単に鐙切り取られて落馬するからじゃね

397 :
>刀と鎧は高性能かつ軽量を狙った繊細な作りである一方、

大鎧は兜と胴だけのセットで25キロ程度だけど軽いかな

398 :
蒙古襲来ってなんで3回めがないの?

399 :
>>396
鐙切り取られるってどんな風にだよ。
とはいえ、調べたらモンゴルの鐙も2キロだった。
重いのには何か理由があるのだろう。

400 :
wniの鈴木里奈の脇くっさ
      (6 lゝ、●.ノ ヽ、●_ノ |!/
         |     ,.'  i、     |}
       ',     ,`ー'゙、_    l
       \ 、'、v三ツ   /
        |\ ´  ` , イト、
       /ハ ` `二 二´ ´ / |:::ヽ
     /::::/ ',   : . . :  /  |:::::::ハヽ
https://twitter.com/ibuki_air
(deleted an unsolicited ad)

401 :
>>398
秋田んだろw

402 :
>鐙とか両足合わせて2キロぐらいある。もうちょい軽くできるだろ。

当時の日本人はアルミとかカーボンとか扱える技術がなかったのかも
外国の優れた技術を見習うべき

403 :
>>398
おおまかにいうと

朝鮮半島から動員したら何とかなるやろ。→どうにもなりませんでした。
朝鮮半島に加えて南朝から動員したら何とかなるやろ。→どうにもなりませんでした。
元全体で動員す・・・・るのはやめておこう。

というところ。

404 :
>>403
南朝ってなに?
朝鮮プラス中国人みたいな感じ?
対馬の人はかわいそうだよな

405 :
>>404
南宋の間違いでしょ

406 :
>>402
鉄のまんまでも断面形状を工夫すれば軽くできる。
昔の人だってそんな事は分かってただろうけどね。

407 :
>>398
むしろ弘安の役の後に、
何故日本は中国、朝鮮に向かって進撃しなかったのかと思うよ。
スペインみたいに朝鮮や中国沿岸を荒らしまわって、
金銀財宝奴隷などなど根こそぎ奪い取って御家人に分け与えれば
鎌倉幕府は潰れなかったんじゃないか。

408 :
船がなかった
朝鮮側の情報が少なすぎて橋頭保作れる見込みがなかった
(実際は可能だったとは思うがそれを知るすべが鎌倉幕府側にない)

409 :
自分たちが福岡や鷹島でやったほうな水際撃滅を元軍がやらないという保証がなく

410 :
>>407
まさか今時そんな恩賞問題で鎌倉幕府がつぶれたとか信じてる人がいるのに驚いた

411 :
後醍醐天皇や足利・新田は元寇での働きがあったにも関わらず恩賞を得ることができず
それを不満に思っていたので元寇の直後に反乱を起こし幕府を倒した

これは歴史の常識

412 :
>>398
絶対的にはフビライが死んだからだろ。
弘安の役の13年後に死んだ。

413 :
>>411
チンポ以下の知識だな

414 :
>>397
べらぼうに重いね。プレートアーマーよりまだ重いね。
軽量化の工夫は随所に見られるけどね。
和弓の貫通力を想定するとどうしても重くなるんだろう。

415 :
大鎧を着て馬に乗って弓射はともかく、大鎧を来て小舟から大船に乗り移って
切り込むのはすごい。
そのときの足ごしらえは、と言えばなんと裸足。
ーー蒙古襲来絵詞より。

416 :
>>417
15世紀のプレートと重さ変わらんぞ。むしろ、プレートの方が重い。
マクシミリアン式になってからは、軽くなったが。

417 :
414でした。

418 :
>>416
15世紀の板金鎧って胴と兜だけのセットで25キロあるの?

419 :
伊達政宗の有名な黒漆五枚胴具足は小具足含むフルセットで22キロみたいだな

それに比べると春日大社蔵赤糸威大鎧の兜と胴だけで26.2キロなんてのは
随分重かったんだなとわかる

大鎧と同時代のヨーロッパなんかは鎖帷子だったというから随分違うだろうし

420 :
わざわざ大鎧と呼ぶくらいだから

421 :
>>416
知ってるよ。
15世紀のプレートアーマーは軟鉄製、
16世紀になると鋼鉄製になり防御力はそのまま重量が半分になる。
大鎧は鋼鉄製だから、
比較するなら16世紀以降のプレートアーマーがいいと思った。

ちなみに大鎧に使われた鋼鉄は表面付近の炭素濃度がより高くなる合わせ鍛造(表面硬化装甲)だが、
西洋だと19世紀後半のクルップ鋼まで、そういった技術は無かったのだろうか。

422 :
俺のチンチンは、プレートアーマー

423 :
>>421
15世紀の板金鎧が軟鉄というソースを教えてもらいたい

424 :
カミカゼの話は嘘らしいけど
誰がいつなんのためにそんな嘘をついたの?

425 :
文永の役の高速撤退や弘安の役で延々上陸を阻止していたら台風シーズンが来たということに関しては事実だが
そういった現象が神仏の働きのためということになれば寺社は利益を得られるよね

関幸彦『神風の武士像』(吉川弘文館)
・真夜中に箱崎宮から八幡大菩薩の使である白装束の者三千人が突如立ち現れ、おびただしい
矢を蒙古軍に放ったという。その光景は「身ノ毛モ竪テ怖シク」なるほどで、「波ノ中ヨリ猛火」が
あって、これがために蒙古軍は肝を潰し敗走したという(『八幡愚童訓』)。まさしく「神軍ノ威勢」だった。
 同様の報告は各地から届けられた。紀伊国高野山金剛峯寺の鎮守丹生明神の場合もそうだった。
弘安合戦に際し、日本国の神々も蒙古に発向することになった。天野明神(丹生明神)は第一陣として
四月二十八日丑刻(午前二時)と決し、それにむけて不動火界呪を修して神の威光を増すべし、
そうすれば、六・七月中には本朝安全なるべし、との霊托の旨が報ぜられた(『紀伊興山寺文書』
正応六年三月二十八日「太政官牒」)。

・この異国との戦争で神慮なり神威なりが、いやがうえにも高められた。日本国中の神仏を総動員しての
異国撃退の祈願、それはあたかも武士達の警護番役に対応するかのようであった。春日・住吉・日吉・
祇園の各社が、各月を分担し異国降伏の祈祷をした。
 神や仏も動員され、加持祈祷という世界で戦った。当然ながら、諸国でのこうした神々の
軍忠状に対し、武士と同様に恩賞の要求も激しかった。

・肥前国武雄社の場合もそうであった。(中略)文永合戦のときには神殿から発せられた鏑矢が賊船を射ぬき、
これがために敵は撤退したこと、弘安合戦では紫の幟が異国の船の方向に飛び去り、大風を起こしたこと、
などが述べられていた。こうした神の軍忠にもかかわらず行賞に漏れたことは、堪え難しとするものであった。

・異国合戦での神々の参陣は神の戦争を演出することで、神威を高めることにつながった。
 すでにふれた弘安七年(一二八四)の神領興行令を含め、以後の三度にわたる神領の復興運動は、神の戦争と
その軍忠に対しての当然の恩賞だった。

426 :
神風でモンゴルの船が沈没したらしいけど
日本の船は沈没していないの?

427 :
「汎海小録」や「高麗史」によると小型堅牢な高麗船の被害も少なく東路軍の生還率も高かった
台風では江南軍の大型の南宋船が一番被害を受けたようだ

428 :
>>424
>カミカゼの話は嘘らしいけど誰がいつなんのためにそんな嘘をついたの?

文永の役で神風によって元軍が撤退したと言っているのは現代も含めて後世の
人だ。同時代史料でそんなことを言っているのは無い。
>>425を見ても、文永の役では神風以外の何かの奇跡によって元軍が撤退した
ことになっている。

ただし全く大風が無かったかと言えば、高麗史も言っているように、元軍は博多を
撤退した後に大風に遭遇した。

ではこのことに言及した日本側の史料は無いのかと言えば、ちらほらとある。
特に日蓮宗関係の史料によって、その場所は恐らく壱岐であったことがわかる。
またそのなかに「神風に蒙古・・・底のもくずとなるぞうれしき」という和歌が
あるから、当時から神風という言葉はあった。

当時の人たちは、元軍が去った後に、壱岐などの調査によって元軍の遭難を知り、
これを神の恩寵と考えて神風と呼んだのだろう。
そしてその言葉は弘安の役でさらに定着した。

一言で言えば、「カミカゼの話は嘘ではない」

429 :
あの辺で6月から11月くらいまで
台風がくることはわかるだろ
元軍の戦略のミスなんだから元っていう国はただのアホってことだよな
台風に備えて船の増強もしてないんだからアホアホ
日本の船は沈没してないんだから元軍の船を作った連中がアホ無能
台風が来て上陸してないんだから元軍はアホアホアホ
ってことでしょ?
日本は元軍の上陸を阻んだから強いよね

430 :
つまり、セックス大好きってことかな

431 :
神風は吹いたが船泊で避難も大量に難破w
その名残りが唐津の鷹島などで蒙古船が原型をとどめる

そもそも内政が可笑しくなって
もう元寇どころでは無くなったw
朝鮮はよく残りましたなあw
また消えそうだがw

432 :
秀吉は中継基地や領土的に済州島には興味がなかったの?
倭寇の基地として日本武士や日本農民や漁民が入植しやすそうだけど

433 :
鎌倉武士は集団戦法で戦ってたと言うけど、
そりゃあ一騎打ちではないにせよ、せいぜい数人の「家」単位で各個バラバラに動いてただけだよね。
よくモンゴルに勝てたね。

434 :
>>433
家単位と言っても親類縁者で集まるから百人程度にはなる。
蒙古襲来絵詞でも白石勢、菊池勢を「百騎ばかり」と言っている。
竹崎勢が5騎だったのは例外的。

435 :
>>433
「蒙古襲来絵詞」によると赤坂の戦闘に参加する武士たちに少弐景資から出た命令が
「一同に駆けて追い物射にせよ」という集団騎射なので言うほど各個バラバラではなく
まとまった数の武士に同じ戦法取ってもらうことが想定されてそうだな

436 :
一説には水城どころか
筑紫野や小郡まで侵攻したと言われる蒙古!

437 :
>>435
>赤坂の戦闘に参加する武士たちに少弐景資から出た命令が「一同に駆けて追い物射にせよ」
>という集団騎射なので

「赤坂の戦闘に参加する武士たち」に出た命令ではなくて、実際は
「赤坂には行くな。ここ(息の浜)で待っていればそのうちに敵はやって来るから、
その時は一同に駆けて追物射にしよう」という待機命令だ。

そのように触れ回っている口の下から、先駆けに出るという竹崎の申し出を
一も二もなく許可するし、(恐らくは)その後詰として白石勢を出しているのだから、
いい加減なものだ。

438 :
騎兵は歩兵10人分の働きをするみたいだから
100人の騎兵中隊で突っ込みゃ雑兵1000人程度は蹴散らせたんじゃないか

439 :
今ならではの考えだね

440 :
指揮系統とか軍規とか在ったか怪しいよね。
部下が上官の制止を振り切ってスタンドプレーに走るし。
そもそも竹崎と少弐景資は部下と上官の関係だったのか?
同業者とか有志の者同士といった感じか?

441 :
>>440
竹崎以外にもここでスタンドプレーに走った連中はいるの?

442 :
>>440
竹崎季長の「蒙古襲来絵詞」にはわざわざ「日のたいしやう(大将)たさい(太宰)のせうに三らうさゑもんかけすけ」の文字があるが
鎌倉時代は有志の者同士や単なる同業者と見る人間をこのように書いたんだな
勉強になるわ

443 :
>>441
全員だな。
日本の勝利の為に貢献、、、
ではなく自らの領地や恩賞の為に戦ってただけ。

444 :
まぁ、当然やな。古今東西どこでも同じ。

445 :
そこまで言うなら朝鮮や南朝から連れてきた百姓どもにモンゴルの為になんて使命感があったとは到底思えないんだが
当時の武士団が近代的な国民軍の意識を持ってたかと言えば無かったろそりゃ
ただハッキリと俘虜の朝鮮人と南朝人を区別して処断するくらいの民族意識はあったようだけどね

446 :
>>445 使命感

よく朝鮮系の連中が糞みたいな本を書いて

「日本のためではなくてXXのために戦ったニダ!」

と主張している糞本は多い。今まで何冊も読んだ┐(´д`)┌ヤレヤレ

447 :
>>434
俺が読んだ本だと、家とは郎党含めて数人程度の零細集団が多数だったと書いてあったけど、
実際の所、元寇に参戦した家とはどの程度の規模が一般的だったんだろうか。
パーセンテージで分かる資料とかあるといいんだが。

448 :
竹崎神社の復興を祈念

449 :
津屋崎のゴン太人形はいいねw

450 :
>>440
>そもそも竹崎と少弐景資は部下と上官の関係だったのか?
>同業者とか有志の者同士といった感じか?

竹崎が景資を大将と認識していたことが史料から確認できるのに
なんでそんなイメージを勝手に持ってるの?自分が決めた結論ありきで
史料もろくに見ない人なの?

451 :
>>440ではないが、横から。

少なくとも竹崎が景資を軽く見ていることは確かだね。
景資の家来が「(御前です)馬を降りて下さい」と言っているのを無視して
景資に馬上からものを言い、話が終わってから「馬上から失礼しました」と
言っている。それに対して景資は「どうぞそのまま」と言うだけ。

ちなみに竹崎と景資は同年の29歳だ。

452 :
日本は家ごとに戦っているわけだけど、騎兵もいれば歩兵も居る。
それぞれの家の騎兵と歩兵を一度バラバラにして、
重騎兵の部隊、軽騎兵の部隊、歩兵の部隊を作ろうとはしなかったのだろうか。

453 :
今どきの考えだなー

454 :
ローマやマケドニアの時代から普通にあっただろ。

455 :
武士の成り立ちとか、知らんのかな。

456 :
日本とモンゴル、
軍隊の編制や運用に大きな差があったとするならば、
日本側の勝因とは何だったのか?

457 :
勝因というか、神風は抜きとして、当時の日本勢になにか際立ったものがあるとは思えない。

@海に向かっての防衛戦で大きな後背地を持つ防衛側が基本的に有利で、当時の貧弱な航海輸送能力で
長距離の海を渡って増援・補給しないといけない攻め方は不利。

A鎌倉幕府という中央集権的国家があって、比較的短期間に多くの動員兵力をで侵略軍に対応させられた。

の2点で、島国という点を除けば、上の条件を満たせば他の国でもモンゴル撃退は可能と思う。

実際、島国インドネシアや陸でも移動が困難な密林の東南アジアや砂漠のエジプトはモンゴルを退けてるし。

458 :
武士は農民が武装したものだが
もう埴輪に兵士が居るんだよなw

459 :
志賀島に想定外の陣地でゲリラ戦に
屎尿を使った攻撃で連合軍の戦意喪失w
挙句神風を避ける為 船泊もほぼ転覆だとさ
が最新の学説w

460 :
元軍は鏃に附子毒塗ってたそうなので対抗して鏃に屎尿付けて戦ったんなら分かるが
屎尿そのままブッカケるのは即効性がないんじゃないかな・・・

461 :
武士は軍団制度が無くなってから、自発的に生れたものだからなぁ…。
軍団制度がそのままあったら、もっと組織的に動けたかもね…。
防人いたし。

462 :
武士の起源は職能論もあるよね。
朝廷が武芸を家芸とする家に軍事を委託すると。
縄文蝦夷が武士の起源とする説もこちらになるね。

俺はこっちの方が真実味があると思うね。
だって馬に乗って弓を射るなんて狩猟民族の行動だもん。
農耕民族がやるわけないでしょ。

463 :
ちなみに騎射戦術、日本刀、大鎧は東北が起源。

464 :
>>459
おまけに文永の役で廿日の夜に海上ゲリラ戦をやったというのは原典から一字落として
引用した文章にもとづいているらしい。
https://ameblo.jp/reydeoro/entry-12394249230.html
終わりの方。

465 :
 
刀、弓、槍、馬。どれも何年も練習しないと身に付かないもの。

「民間人の徴兵よりも、世襲制にして子供の頃から専門的に鍛えた方が役に立つ」。

こう思ったのが西暦730年代の判断です。゜゜゜゜゜-y(^。^)。o0○プハー
============
★★我が国徴兵の歴史★★
0701年 大宝律令 1年〜3年の選抜兵役義務。分裂してた支那に隋唐による統一政権ができたため
0734年 健児の制 兵役義務を緩和 ※以後戦闘専門家集団(武士)が主流
1889年 兵役法  2〜3年の兵役義務。清,露,英仏による脅威に対抗するため
1945年 帝国軍解体により失効
1950年 志願制による警察予備隊。以後今日まで続く

466 :
>>465
弓馬はともかく槍は訓練要らないけど?

467 :
個々の戦闘力なら、大鎧を着込み騎射戦術をとる武士が圧倒的に強いだろう。
が、しかし個々の戦闘力は低くてもシステムとして強ければそれでいいというのが軍ではないのか?

468 :
>>464
文書じゃなくて絵巻なw
これまで意味不明な行動がゲリラ戦の様相と
解読され巻物の流れからも辻褄が合う
(まあ諸説有りw)

武士は略奪の守りで武装が専業化
更にその雇い主を支配し始めたのが鎌倉の時代に

都並びに邪馬台国の候補が
近畿以東に無い件w哀れっすw

自説は鹿児島宮崎あたりに強力な一族が発生(渡来系かもw)
それが徐々に北上して北部九州に拠点
時代も移りコメや鉄が来る頃
その実質弥生系を征服だが今でも台風大雨洪水の常襲だし
辟易して近畿に移動しつつ平定
以降全国の豪族を屈服させて東北も鎮圧
その名残りが俘囚などと地名に留める!
日本最大の戦は福岡南部の磐井の乱とか
東北もそれなりにだろうね

469 :
>弓馬はともかく槍は訓練要らないけど?

原田左之助(新撰組。宝蔵院流槍術免許皆伝) 「・・・・・・」

470 :
>>467
それはそうなんだけど、人数が増えれば必要な物資も比例して必要な訳で、
兵站が貧弱な昔の軍隊にとっては維持するのも大変になるんだろう。

471 :
鎌倉武士、モンゴル騎兵、マムルーク、カタクラフト…
最強の騎兵はどれだ。

472 :
象さんに乗ってた人

473 :
象は卑怯すぎる
砂漠のラクダも卑怯

474 :
森林やジャングルの徒歩も卑怯と言っておく

475 :
卑怯ってなんやねん。アホか。

476 :
蒙古軍の強さは、何と言っても軽騎兵にのみで固められた
部隊の統一性と速力にあっただろうが
しかし渡洋作戦ではそれが充分に生かせなかった
それだけに対日戦争相手では充分に力を発揮できなかったのは間違いない

477 :
平原と海岸じゃあ
途方に暮れただろうw

属国の兵士の士気も低かっただろうしw

秀吉が占領してたら面白かったかもw

478 :
さすが超時空太閤ヒデヨシ

479 :
>何と言っても軽騎兵にのみで固められた

普通に重騎兵いるから…

480 :
元軍は、多民族構成も弱点だから…。互いに仲良くないし。

481 :
バトゥ軍とかだったらヤバかったかもな

482 :
フビライの時代ともなればモンゴル軍と言っても実態はシナ軍・・・

483 :
>>481
日本の武士は弓持ってるし射程も長いから、
ドイツポーランドみたいに射程圏外から一方的にやられはしないと思うけど。
問題は組織力だな。
本当にピンチになったら当時の日本は画一的な軍を編成して、トップダウンで動かす事ができただろうか。

484 :
いやそれが上手く行かないから
ゲリラ戦と屎尿に切り替え
天も味方した(。+・`ω・´)キリッw

因みに弓はモンゴルが上だと思うが
連合軍wだとw

485 :
その画一的な軍が実際に蒙古相手に有効なのかどうか

486 :
そもそも日本には大軍団が合戦する地形が無いと思う
それに適応して武士が生まれたんだと思うがな

487 :
(´-ω-)ウム 古戦場は全部と言っていいほど
平野だぞw それを記念して武道大会が開催されたり
奇襲とかは別ね それと籠城が多いがw

大和朝廷w(最近はヤマト王権らしいw)あたりのもみんな平野やw

488 :
>>466
長槍なんて訓練しなきゃ戦闘以前に行軍や布陣すらできない
スイスだってパイク戦術への転換のときにそれで苦労してるのになんでこんな誤解がまかり通るんだか

489 :
>>483
>本当にピンチになったら当時の日本は画一的な軍を編成して、トップダウンで動かす事ができただろうか。

ちなみに蒙古に敗れ去った金や南宋の軍隊ってのはその画一的でもなくトップダウンで動かない軍だったんだろうか
やはり組織力の低さで敗れたの?

490 :
>>483
日本が画一的な軍を編成してたかという意味では
中国地方まで来てた鎌倉幕府軍ならそこそこ統制は取れてたかも
史実はほぼ九州の御家人で撃退したんで分からんけど

491 :
>>489
組織力ないよ。互いの長が反目しあってたから。モンゴル族同士でもね。

492 :
なんで金や南宋の軍隊の話なのに「モンゴル族同士」でも反目し合っていたなんて話が?
それにその「長」同士が反目しあっていたというのは軍隊の組織化と関係あるのか?
戦闘参加者の長同士が敵対していなければ組織化されているというのであれば
戦闘に支障をきたすような対立関係のなかった日本側も組織化されていることになるが
そういう話がしたいのか?

493 :
>>492
すまん。話を間違えた。元寇だと。
でも、そこまでぐちゃぐちゃ書かなくてもええやろ。

494 :
>>488
弓騎兵と長槍では育成にかかる時間と手間が全然違う。

495 :
それだと「訓練要らない」という話まったく変わってますね

496 :
>>484
弓の射程と貫通力は日本の方が上だけど?

でも大きいから、太刀を持って突撃する時に弓どうすんのって話しになるけど。
従者に持たせたんだろう。無駄だね。
突撃の時は弓袋に収納できる、モンゴルの短弓の方が合理的。

497 :
盾1枚有ればええがなw
数でも優る蒙古の弓w

498 :
和弓の貫通を防ぐには厚さ5センチの盾が要るぞw
ちなみに和弓はクロスボウより貫通力があるらしい。
その理由は弓の威力は張力と引き尺をかけた量だからとの事。
もっと言えば張力と引き尺の積分値。
この論から言えば、
引き始めは張力が高くいけど引ききると張力が弱くなる、
そのような弓は威力と扱いやすさと精度を合わせ持つ理想的な弓という事になる。

499 :
ウェールズのロングボウと同じってことかな?

500 :
鉄も有るだろうしw
それも豊富にw

501 :
5センチも厚みのある盾は手で持てない。
結果、手盾は廃れ置き盾になると。
大鎧がべらぼうに重いのも和弓の貫通力に耐えるためだろう。

502 :
それ拳銃より強力でつねw
実験してみてくれ
竹で編んだものとか
(・∀・)ニヤニヤw

503 :
和弓の威力なら
30メートルで水を満杯入れたブリキ?のバケツを余裕で撃ち抜いてたな
鉄のフライパンも穿孔を作ってた
貫通力なら誇張じゃねえよ

504 :
意外と思うかもしれないが、
槍より弓の方が貫通力がある。

505 :
ランボーも愛用してるしね!

506 :
乱暴者w
今の炭素繊維みたく竹を編むだけで
あら不思議!無敵にw

弓屋さんと矢屋さんは全く別な件w

507 :
和弓がクロスボウよりも威力が高いっていう妄想が最近流行っているのかね?

508 :
どういう訳かボウガンは鳥に撃っても
和矢?は聞かないw

509 :
>>507
クロスボウのほうが威力が高いという根拠は?

510 :
>>509
その逆の根拠をまず示してみてはいかが?

511 :
クロスボウの弓の重さと、引き尺がどのくらいなんだろうか。
それが分かればエネルギーの量が分かる。
後は矢の性能もあるけど。

512 :
弩と言っても据え置き式のものもあれば手で持ち運べるものもあるし
船に備え付けてあるようなのは和弓より威力は高かっただろうけど

513 :
>>504
でっかい弩に槍を装填するとあら不思議・・訳わかんなくなりますw

514 :
>>472
そういえば金の人ってどれくらいいたんだろう
確か元寇の何十年か前にモンゴルが金を滅ぼしたんだよね
何度目かの使者にも金の人いたっけ

515 :
>>503
軟鉄を貫通できるのがそんなに凄いのか
他の弓だとどうなんだろう?

516 :
>>513
ローマのバリスタ?

517 :
ウインチ使うような強力なのは発射速度に問題がある
当然榴弾も発明されてないので撃って外したらそれでおしまい

518 :
そんなに和弓を疑うならナショジオの例の動画でも見ろよ
ロングボウと和弓を比較してるから

519 :
>>518
モンゴルの弓と比較したデータはないの?

520 :
スーパースポーツゼビオ渋谷公園通り店 期間限定NEW ERA POPUPオープン

521 :
>>518
実際比べてどうだったの?
双方実戦に使われたものの平均的な張力とかで比較してる?
それを無視して同じ張力で比較しても仕方ないと思うよ

522 :
なんでも人に聞く前に最低wikiくらい見たらどうなの?

523 :
その実験ってロングボウと和弓を「同じ張力」で比較した実験のことなんじゃないのかな
それとは違った比較実験がそのウィキに書いてあるなら案内してほしいものだが

524 :
>>522
現存する和弓でドローウェイトが最高のものはだいたい何キロなんだろうな
君の好きなwikiには何か書いてあるかな?

525 :
同じ張力じゃなく同じ重量だろ
ロングボウのが絶対スゴいんだって言いたい人が必死だねえ

526 :
>>515
フライパンはステンレスかアルミ合金だぞ。
軟鉄って、スプーンやフォークじゃないんだから。
んで画像見たら、色が黒いからステンレスだね。

ステンレスの引張り強さは500〜700MPaだから
SS400(最も一般的な鋼鉄)の400MPaより強度が高い。

つまりプレートアーマーくらいなら余裕で貫通できる。

527 :
地中海の海戦はロマンあるね。
バリスタ、衝角、三段櫂船、ギリシア火薬とか。
日本ではなぜ使われなかったのだろうか。

528 :
そもそもギリシャ火は、今でも配合が良く分かってない。

その他は、日本まで伝わるかどうかの問題じゃない。伝わってたら、使うかもしれないし。

529 :
ここの人の大好きなwikipediaによるとドローウェイト23キロなんてのは実戦用のロングボウじゃ下の方みたいだな

530 :
頭悪い

531 :
>>481
バトゥ軍と鎌倉武士の対決という仮定はそそるものがあるね。
もし戦わばどうなるだろうか。

532 :
和弓のほうがブリテンのロングボウより効率はいいんだろう
でも絶対的な威力だとどうだろうね

533 :
いい加減認めろ

534 :
ロックンロール

535 :
他にも元寇の後の「汎海小録」に遠くまで届かないと書かれていたり
和弓が元軍に対してどこまで威力を発揮したか疑問もあるな

536 :
八幡愚童訓にも元軍の矢について同じこと言ってるぞ

537 :
三十三間堂の通し矢知らんのか

538 :
可愛い女の子が出てたら注目する儀式

539 :
拳銃よりつおいしなw

540 :
武士の和弓は50キロくらい重さがあったそうだ。
ロングボウが45キロだから大体同じ。

541 :
ところでクロスボウの重さと引き尺分かる人おらんのか?
弓の重さは引き始めから引ききった所まで二次曲線のグラフで分かると、
積分値でエネルギー量が分かるんだけどなー。

542 :
ロングボウ→シンプルな構造で量産容易、徒歩使用限定
コンポジットボウ→コンパクトな作りで馬上での使用に特化
和弓→上下非対称な形状で馬上、徒歩兼用

弓の種類の違いはこのような用途の違いで威力に優劣はない
威力は張力=使用者の腕力で決まるものだからね

543 :
>>541
現代のクロスボウは規格毎に運動エネルギー決まってて重たい弓使う奴なら120Jとかある
手で引く弓は15-20Jなので桁違いの威力

544 :
>>542
>>威力は張力

重さと引き尺の積で決まる。
弓の重さが倍あっても引き尺が半分なら威力は変わらない。

545 :
>>543
俺が知りたいのはクロスボウの重さと引き尺なんだが。

546 :
調べたら、ロングボウとクロスボウの重さ、引き尺、
さらに矢の重さ速さエネルギー量まで出てきたw
クロスボウ引き尺11センチだったんだ・・・

https://www.rekishiwales.com/entry/longbow

  ロングボウ クロスボウ
張力 約422N 約2000N
弾くストローク 約64cm 約11cm
矢の重さ 45グラム 60グラム
矢のスピード 44.5m/s 42.4m/s
矢のエネルギー 45ジュール 54ジュール

547 :
>>537
当時から見世物の類と批判されたあの通し矢のこと?
実戦用の弓矢使ってやったなら凄いけど信頼性の高い記録に残ってる限りではどうでしたっけ?

548 :
>>542
ロングボウが徒歩使用限定?

Mounted Longbow Archer
https://www.youtube.com/watch?v=gcpHB-flwJQ

549 :
せやかて工藤

550 :
「矢雖長、不能遠(矢は長しといえども、遠く能わず)」

鎌倉時代当時のものは長く重さのある矢で威力重視だったから射程は短かったってことかな?

551 :
見世物って当たり前じゃん
実戦みたいに動く人間に撃つわけじゃないんだから
遠矢用の矢は軽くて空気抵抗に弱いから的から外れるぞ
軒下なんで仰角も取れないから征矢じゃないと無理

552 :
>>550
それ誤解で矢の長さ重さは一緒なんだよね
武士は手柄を立てるのが第一だったんで盲滅法矢の雨を降らす事を嫌ったのは確か
流鏑馬のように出来るだけ近付いて撃つ事を好んだ

553 :
まだ弓談義wが続くんだw

554 :
想像だが武士たちが使ったのは普通の征矢より更に鏃が重い燕尾や長根を使ってたんじゃないかな

555 :
>遠矢用の矢は軽くて空気抵抗に弱いから的から外れるぞ

ああやっぱり通し矢に使うのは実戦用とは違う軽くて飛ぶ矢だって知ってて書いてるんだな
元側の認識は日本側の実戦用の矢が遠距離まで飛ばないって話なのに論点ずらしかな?

556 :
馬鹿だな
だから遠矢用の矢と違うと言ってるだろ

557 :
通し矢は120m先の的に「射当てる」競技だぞw

558 :
細かいこと言うようだけど元軍は自分達の弓矢と比較してと言ってない事に注意
遠くがどれくらいの距離かも言わないし
それに愚童訓にも元軍の矢についてみしかしと言えども毒を塗りたるは全く当たらざればと言っている
みしかしとと言うのは古文で劣ってる、劣位なという意味。

559 :
火薬にちびっちゃう。

560 :
屎尿で応戦撃退した!(。+・`ω・´)キリッw

561 :
>>553
当然だ。鉄砲が普及するまで弓が主な武器なんだから。
槍や刀剣はおまけ。

562 :
>>527
源為朝は強弓で舟底を打ち抜いて、大船を沈めたそうだよ。
保元物語に「昔は矢一つにて、鎧武者2人を射通しけり。今は舟を射て(沈没させて)、多く人をぞ殺しける」
「舟底に鎧を重ねて置くべきか、盾を重ねて打ちつけるべきか」と書いてある。
なるほどこれならバリスタは必要無いね。
3センチくらいの板なら余裕で貫通する和弓なら、できんこともなさそうだ。

563 :
>>561
接近戦になったら槍は主だったんじゃ?
それとも接近戦自体が主ではなかったってこと?

564 :
>>562
嘘くせえ話を信じてるの?

565 :
>>561
生存者が合戦後に自己申告した傷の種類では矢が多いってだけ

566 :
>>565
白兵にまで持ち込まれる戦況だと、
軍忠状発給以前に死ぬか再起不能になってる可能性ががが

567 :
槍は弓と比べて覚えるのに時間がかからないからな。
弓が使えないポンコツに槍を持たせて戦わせたんだろう。

568 :
ほとんどが士気の低い属国の兵士で
突貫工事で仕上げたボロ舟に乗って荒れた海を渡って 
軍事国家の島国に攻めこむとか
元寇って完全にムリゲーだよね

569 :
>>566
勘違いしてる人多いけど死因の統計じゃないしね

570 :
>>568
台風で大被害を受けたのは主に旧南宋船で堅牢な高麗船の被害は少なく
東路軍の生還率は高かったってのは皮肉だな

571 :
高麗がわざと手抜き工事して〜ってのは近年よくみるけど、
昔は南宋がわざと手抜き工事して〜って書かれてたような

572 :
南宋海軍からの接収されたものも多いわけだから南宋はわざと船の作りを手抜きして
自国を滅亡させたことになるなw

573 :
手抜き云々はいい加減なウソで
江南からの長旅で船体が痛みまくってたからに他ならないだろ
南洋と違って玄界灘は波が高く船の消耗も早い

574 :
そもそも台風シーズン真っただ中に渡海する第二回元寇の謎判断

575 :
漁民とか船乗りをまず供用だしなw
如何にも大陸嗜好で馬鹿っぽいw
季節無視w

昨今の相模然りw
台風で沈まない舟はねえよw

576 :
>>564
嘘くさいと断じるなら、当時の船底の厚みがどの程度か知ってるのか?

通常の和弓で3センチを優に貫通するから、強弓ならどの程度まで貫通するだろうか。
これ、トリビアの種で実験してほしいな。

577 :
>>563
元寇の頃なら武士の近接武器は刀か薙刀やろ
槍が普及するのは南北朝時代以降だから時代が違う
向こうの資料にも杖矛無しとある

578 :
>>575
東路軍が全く橋頭堡築けなかったから仕方ないだろ
東路軍は逆に追い回されて平戸あたりで合流になった

579 :
>>577
>>杖矛 兵杖には弓刀甲あり、しかれども戈矛なし でした

580 :
>台風で沈まない舟はねえよw

高麗船の被害が少なかったことは「汎海小録」や「高麗史」からわかるけどね

581 :
神風避けで全部沈んでるしw
ワロタw

582 :
>>566
でも槍で刺されても浅いから助かりそうだけど、
弓矢だと内蔵まで貫通するから助からなそうだなー。

583 :
名のある武将の討死・負傷例でも弓矢や銃ばかりだよね
まあ長島の戦いみたいな例外もあるけどさ

584 :
名のある武将の最期だと自害が一番多いイメージある
実際の同時代史料などに基づいたデータではどうなのかは知らん

585 :
いや信長とかの大名クラスじゃなくて現場の武将とかも含んだ話か
勝手に勘違いしてた

586 :
>>580
でも製作の過程でモンゴルの司令が早く作れたくさん作れと急かすから、安くて早い南宋式にして数合わせたとか、台風後に一番マシな船選んで幹部クラスだけ逃げてきたとかじゃなかったっけ?

587 :
台風では今のどんな船でも沈むおw
台風が近づき荒れて来たから船泊だが
まあコースが悪かったのか
全滅です!!

588 :
セウォル号も船長だけは真っ先に逃げてお札乾かしてたし。

589 :
>>586
高麗船より南宋船のほうが安いの?

590 :
日本の置盾は和弓の改良とともに徐々に厚くなり、
元々3センチだった物が5センチまで厚くなっている。
ここで疑問なんだが、モンゴル軍の置盾は厚みがどの程度あり、
また日本の和弓を防ぐ事ができたのだろうか。
蒙古襲来絵詞を見ると軍船に供えつけられてる置盾は和弓の貫通を防いでるが、
上陸部隊が持ってる置盾は貫通して人が血を流して倒れてるように見える。

591 :
>元々3センチだった物が5センチまで厚くなっている。

これ初めて聞いたな
平安〜戦国あたりの時代の違う置き楯の遺物なんかがどこかに残ってるの?

592 :
>>591
それwikiからそのまま引っ張ってないか、そこ信憑性低いと思うぞ?
例えば火縄銃やマスケットの運動エネルギーはロングボウどころか
クロスボウに対してすら5〜10倍もあったのに短距離なら銃に劣らないとか書いてるし
そもそもロングボウ/長弓は腕力によって引ける弓の強さは違うから威力は一定じゃないし

593 :
和弓馬鹿が頑張るスレ

594 :
その置盾ってのは当時でいう「掻楯」のこと?
&#25620;楯の伝世品とか出土品とかってそんな豊富にあるのかな?

595 :
「掻楯の伝世品とか」と書いたつもりが謎の文字化けしてるな

596 :
>>592
ロングボウも変なよいしょが多いってことか

597 :
和弓よいしょよりマシだろ

598 :
なんで和弓がここまで持ち上げられてるんだ
クロスボウより貫通力が上みたいな話は逆に笑っちゃうレベルだぞ
中国南部の狩猟用の弩とかと比べてるのかな?

599 :
和弓はよいしょというより過度に貶す奴が現れたからだろ
そんなに糞なら志賀島の合戦で弩兵配備してた元軍に撃退されてるでしょ

600 :
60 YO
2 か月前
私の先祖は瀬戸内の海賊で伝説が残っているのですが、明日嵐が来そうなので、
夜のうちに海に潜って元の船の底に錐で穴をあけておいたそうな。
この戦法は海賊としても最も卑怯な戦法とされていたようなのですが、
この際仕方がない、てなことでやっちゃったそうな。&#65279;
     
わろた。
こんなことやられたらそりゃ沈むわな。

601 :
で屎尿を使ったw

602 :
ゲリラ戦てそういうもんだろw
国が無くなる事態にw
とマジレスw

603 :
誰か和弓で、船底に穴開けれるとか言ってなかった?

604 :
鉄砲よりつおいおw

605 :
>>603
これ本当にできるか実験してみる価値あると思うんだよな。
どっかのテレビ番組でやってくれないかな。
当時の軍船の図面が残ってて、さらに鎌倉時代の強弓を扱える人が現代に居ればの話だけど。

606 :
https://www.youtube.com/watch?v=7iiL_8wSnUU

17キロの軽い弓でこの威力。

607 :
フライパンの話大好きだけどそれって和弓以外でも普通にできるってオチだったりしない?

608 :
17kgは大人でも重いと思うのw

609 :
トルコ弓だと実戦用の矢を使用して射程400メートルだそうだけど
「遠く能ず」と元の人間に言われた和弓だと実戦用の矢でどのくらいなんだろうな?

610 :
トルコ弓も言い伝えだけどな
言い伝えなら和弓も6町飛んだなんて話もある

611 :
>>610
どこの言い伝えなの?

612 :
先日の映画でも500mが限界とか
狙撃手がいうてはったw

弓厨wはまず実証再現しないとw

613 :
>>611
すまん今調べたら8町だったわw

614 :
で、どこの言い伝えなの?

615 :
お前も自分の書き込みの出典出さないから言わん

616 :
なんやコイツは
ハゲ野郎

617 :
ドヤ顔で400mとか書いたのお前だろ
出してみろよ

618 :
俺じゃないからね。
>>610に聞けよ、童貞ハゲ。

619 :
逃げの一手かよwチンチンちっさ

620 :
トルコ弓が実戦用の征矢だと400メートル以上、遠矢用だと600メートルって測定したのは
1910年代まで生きたとあるイギリス人だな。20世紀まで生きた人間が言い伝えを残したのかな?

621 :
そのイギリス人なら昔ネットで見たな
なんたら卿って人だろ
確かロングボウや中国やモンゴルの弓も勿論和弓も測ってた人

622 :
>>621
弓やクロスボウの有名研究者で洋書なら今でも本買えるくらいの人だからね。
それが廻り巡って言い伝えにされてるのはちょっと笑った。

623 :
その人の記録ではモンゴルの弓は和弓に比べ射程では若干劣ってたな
うる覚えだが蒙古弓が109mで和弓が120m
中国の弓は90mだった、ロングボウは忘れた
トルコ弓の飛距離400mもその中の記録に書かれてたやつだ

624 :
出典無き記録は妄想幻聴扱いになるので
wiki wでもいいから挙げましょうねw
終わり だんだん w

625 :
具体例示せてやったじゃん
和弓最弱伝説信じてるお前よりはマシだし

626 :
結局どいつもこいつも証拠出せてないな

627 :
>>589
南宋の船は調達を急がせたあまり航洋船として建造したものではなく
有り物の長江の大型川船に外航用の艤装をする改造ででっち上げたのが
多かったという話を聞くな

錨とか帆だけが外航用で、船体は長江の川船に過ぎないから
喫水が浅く嵐で簡単に転覆するとか。

628 :
妄想幻聴w自慢w

最新学説は武器でさっぱりなので
夜間のゲリラ戦や屎尿で反撃
神風は避難中襲来で全滅

弓の話wとか皆無w

629 :
屎尿とかマジで信じてる奴いるの

630 :
弓やクロスボウを研究し1910年代まで生きたイギリス人で卿(sir)の称号を持つ。
ここまでヒントが出てるのにまだ誰だかわからないってよっぽどこの分野に関心ないんだな。
情報源は日本語版wikipediaだけなのかな。

631 :
>>608
戦国時代の足軽の弓でも50キロあるで。
鎌倉時代の武士はもっと重かったらしい。

632 :
みんなあんまり読んでないようだから、もう一回貼っとく。



https://www.rekishiwales.com/entry/longbow

  ロングボウ クロスボウ
張力 約422N 約2000N
弾くストローク 約64cm 約11cm
矢の重さ 45グラム 60グラム
矢のスピード 44.5m/s 42.4m/s
矢のエネルギー 45ジュール 54ジュール

633 :
肝心の和弓の射程が載ってないな
英語当たってもない

634 :
所謂最大射程を活かした曲射での距離の情報が乏しい

635 :
うんこやおしっこの臭いが付いて臭いので退散てwwww

636 :
最新学説の夜間ゲリラ屎尿説wに憤慨!!w

637 :
服部さんが苦し紛れに出した珍説だろそれ

638 :
屎尿をどうやって投げたの?
何らかの方法で弓矢より遠くに飛ばせたなら別に屎尿じゃなくてもいいじゃん

639 :
>>630
探しても見つからん
ソース持ってるならよろしく

640 :
苦しいも何も絵巻の分析で分かった事だし
これまで意味不な展開が解読された!(。+・`ω・´)キリッw

長崎から山口まで攻められたのに
よく頑張りました日本!!w ほんと神風やあw
あの日蓮像を拝んどこ
南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経

641 :
>>639
日本語だけで検索してるからわからないんだろうなw

642 :
>>641
見つけたGallwey卿だろ
俺が以前見た数値もこの人のソースだわ

643 :
出処の原典は多分The History of Archery Seriesだろう

644 :
鴨長明「方丈記」は北条記のシャレ。
一遍上人の「時宗」は、北条時宗を暗示している。
元寇でモンゴルが襲来したため、北条時宗が忍術をはじめとする秘術を開いて、秘密結社を組織したのではないか。

1251年:北条時宗誕生。
1274年:モンゴル軍来襲。一遍上人遊行開始。
まちがいなく、一遍上人の時宗は北条時宗の秘密結社。一遍は、この年に九州に布教にいっている。
一遍の時宗は、日本軍人だ。
1275年:鴨長明が賀茂家の継承者争いに負ける。
鴨長明が「方丈記(北条記)」をいつ書いたかは謎。
日本の貴族でもかなり深いゆかりのある賀茂氏が北条氏を支持していることを示しているのだろう。
そして刹那主義の「方丈記」は、日本の行く末を川の流れの泡に例えて書いているのだ、おそらく。
1281年:モンゴル軍再来襲。
1284年:北条時宗死す。

645 :
同じ自治体内に時宗のお寺が有るお
今度行こうっと
近所の自治体には日蓮宗のお寺が有る
そこは行った
南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経

時宗いうたら箱根駅伝に
八王子のケミカル和尚w

真宗や浄土宗から分派とも

646 :
>>598
なんでストロークが11センチしかない、クロスボウだけが強力って話になるの?
弓の中でもクロスボウだけが殺傷力があって危険な兵器とか言ってる人が必ず現れるんだよね。

てこを使って常人では引けない、重い重い重〜〜〜〜〜〜い!!弓を引いても、
ストロークが短ければエネルギーは増えない。

もう一度言うで?

てこを使って常人では引けない、重い重い重〜〜〜〜〜〜い!!弓を引いても、
ストロークが短ければエネルギーは増えない。

647 :
てこを使ってもエネルギー量は増えない。
学校で物理の時間にやっただろ?

648 :
そういう嘲りは要らない。
批判するにしても普通に書こう。荒れる原因になるから。

649 :
最近水中調査があついとか聞くけど、元寇で何か発見あったりしないかな
まだ海の中に沈んでるんだよね?

650 :
>>646
引き尺無視してる人多いよね

651 :
>>649
唐津の鷹島で舟が見付かってるだろ??w
実は兵站の失敗だと思うのw
日本もそうだがw

652 :
>>591
隼人の楯は出土してる。
http://saito-muse.pref.miyazaki.jp/web/collumn/054.pdf#search=%27%E7%BD%AE%E7%9B%BE+%E9%9A%BC%E4%BA%BA+%E5%BB%B6%E5%96%9C%E5%BC%8F%27

653 :
アハーン

654 :
室町時代の楯もあるやん。
こちらは厚さ6センチだとさ。

http://www.kawagoe-rekishi.com/exhibit/shiro.html

655 :
>>651
陸ならともかく、あんな大海を隔ててるのに
戦争が長期になったら補給どうする予定だったんだろう
まあどうしても落とさないといけない国じゃないし
補給できなくなったら帰るつもりだったのかもしれないけど

656 :
補給は現地調達が基本、軍隊が自弁で賄うのなんてWW2の米軍から現代軍くらいだろう
だから緒戦で快進撃して、出来るだけ敵地を確保しないと後が続かない
海上だと飲料水が圧倒的に足らなくなるので、2ヶ月も海を漂ってたのはキツかったろう。

657 :
船を使う段階で兵力は船腹で制限される。
朝鮮半島から出せる兵力はそう変わらないだろうから、弘安の役以上の兵力を中国大陸から出す必要がある。
ほとんど無理ゲーと言っていいんじゃないの?

658 :
だなw幾ら近いとはいえ大半は
所詮小舟サイズw

逆に秀吉は効率が良かったのね
もう一息だった!!w

ダナン会談が楽しみだ!

659 :
>>657
クビライ何考えて攻めてきたんだろう
日本を見た使者が一応忠告してるのに

660 :
朝鮮出兵は渡航計画を策定した石田三成が非常に優秀だった

661 :
三成以前に、朝鮮がアレで容易に橋頭堡を確保できた事の方が大きいだろ

662 :
「弓の威力」=「弓の重さ」と勘違いしている人が居るね。

違うぞ?

「弓の威力」=「弓の重さ」×「引き尺」

これが正解。

分らない人にどう説明したらいいか考えたけど、
高校物理の弾性エネルギーの話がわかりやすいと思う。

引く力の重さ  F = kx        バネのエネルギー量  W=1/2Fx

弾性力による位置エネルギー
http://w3e.kanazawa-it.ac.jp/math/physics/high-school_index/mechanics/energy/henkan-tex.cgi?target=/math/physics/high-school_index/mechanics/energy/elastic_potential_energy.html

663 :
その後朝鮮が反撃することは無かった
支那もだがw

664 :
槍は馬に乗って速度をつけようが体重を乗せようが、それを支える瞬間的な腕の力でしかないのに対し、
弓は積分値でエネルギーを蓄積して放出できる。
つまり弓は槍や刀剣とは比較にならないほど殺傷力のある武器で、最強の矛である。

日本の武士、特に鎌倉時代以前の武士が弓をメインウェポンにしたのは、
リーチの点で有利だったからではなく、より大威力の武器を求めた結果だろう。

665 :
また和弓に対応して作られた大鎧はべらぼうに重くなり、
頭と胴体を重点的に守るわりきった設計となった。
(この辺は、プレートアーマーが鉄砲の発達に対抗する為、
厚みを増す一方で手足の防御を諦め徐々に面積を減らしていった経緯に似ている)

また和弓の進歩により盾は無力化され使われなくなり、より厚みを増した置盾のみが残る。

666 :
>>664
ちょっと変。
貫通力において、弓が槍を上回ることはないかと。
槍の貫通力はその積分の時間が無限大にできるので。

667 :
>>664
積分って何だよ、矢が放たれた瞬間以上のエネルギーは持ちようがないぞ

668 :
和弓最強電波

669 :
クロスボウとか弓を満足に扱えないポンコツ農耕民族の道具だろ?
鉄砲の時代になるまで狩猟民族の優位は揺るがないね。

670 :
スゲー電波が来ました

671 :
まだ弓の話やってるぅw

672 :
クロスボウがそんなに優れてるなら
クレシーも志賀島も弓装備の島国はチンチンに負けてただろう
朝鮮出兵における鉄砲を前にした朝鮮軍のように手も足も出ない事態に陥ってたね

673 :
>>671
当然だ。
鉄砲以前は弓と馬が最強の兵器だから。
モンゴルは弓と馬で世界を制した。

674 :
ハンガリーまでだったかなあ
蒙古斑(赤ちゃんのお尻が青い時期が有る)出るの

チェコスロバキアはチェコがゲルマン?系??で
スロバキアはスラブ系だったかな?

謎が多い白いユダヤ教徒!w
(ユダヤ教徒はアラブ人だしw キリストもw)

そもそも聖書が原典の3大宗教w
(当然人間が考えたw)

675 :
ハンガリー人の元であるマジャール族がモンゴロイドだからだよね。
混血してコーカソイド化したけど。

676 :
>>419
大鎧の実物見てきたんだが、
小札をよく見ると2枚の板を貼り合わせて(紐で繋いでると言ったほうがいいかも)1枚の小札になってる。
2枚の内、外側は厚さ1〜1.5ミリほど、内側は3ミリほどの厚み。
漆が塗ってあるからよく分からないけど、外側が鉄で内側が革で作られているのだろうか。
そうだとすれば小札は半分ずつ露出するように綴られているから、
鉄板の厚みが2〜3ミリ、革の厚みが6ミリという事になる。

草摺と大袖の部分は革主体と考える、
その上で鉄の比重が7.85(1 立方センチメートルあたり約 7.85g)、
革の比重が0.7と、、、考えれば合計30キロ弱になる。
どうよ?

677 :
ラメラーアーマーだよね、古墳時代からの流れの。

678 :
>>小札をよく見ると2枚の板を貼り合わせて1枚の小札になってる

これ分かるかなー?
ネットの画像とか見ても出てこないし。実物見ないと分からないんだよな。
実物の写真を撮れれば良かったんだけど・・・
1枚となった小札がそれぞれ綴られてる感じなんだよ。

679 :
>>677
身体にフィットするように作られている当世具足と比べると全体的に箱型の大鎧は
まだまだ古代からの流れを感じさせるね

680 :
つまりモンゴル人や朝鮮人の弓は日本の武士様の鎧にはさしたる効果がなかったって事だな。

681 :
それは日本の弓も大差ないんじゃないか
騎射でも顔とか防備の薄いところを狙うのが基本だし

682 :
昔読んだ本に日本の弓は蒙古の鎧を貫通するが、蒙古の弓は日本の鎧を貫通しなかったと書いてあった。
あれ何だったかな。

683 :
と言って、毒矢被害が史書に記述されてる以上、撃たれて平気なワケじゃないのは明確だけどね

684 :
>>682
その根拠となる史料でもわかればいいんだけど

685 :
>>683
そりゃ顔とか首とか手足とか防備の薄いところを狙われればね。

686 :
内冑とか狙うのは武士の騎射も一緒だしな

687 :
顔射…

688 :
狙うことは狙うんだろうが、狙って当たるとは限らないんで貫通力も大事かと。

なんで読んだか忘れたが、
戦闘用の和弓の矢は弓道の矢をイメージしたら間違える。
鑿(のみ)が飛んでくると思ったほうがいい。
っていうのがあった。

689 :
昔読んだ本だけどあれなんだったかなとかなんで読んだか忘れたがとか
うろ覚えが多いな…

690 :
つ 妄想幻聴 w

691 :
和弓でフライパンを貫通する実験では、固定されたフライパンは容易く貫通できるが、
紐で宙に吊るしたフライパンは貫通させるのが難しいという実験結果がでている。

という事は同じ厚みなら板金鎧よりラメラーアーマーの方がタフなんだろうか。
当世具足の板札も小札に近い効果があるだろうね。
南蛮胴、これは駄目だな。

692 :
>>688
大山祇神社に元寇の時に使われた矢の実物が残っているね。
下がその写真だが、かなりえぐい形をしている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87#/media/File:The_arrow_of_the_Kamakura_period.JPG
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87#/media/File:The_arrow_of_the_Kamakura_period_(2).JPG

693 :
間違えた。これがその写真。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/0a/The_arrow_of_the_Kamakura_period.JPG
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/ee/The_arrow_of_the_Kamakura_period_%282%29.JPG

694 :
これが元側から長しといえども遠く能ずと言われた武士の矢か
確かに射程は短そう

695 :
紐で宙に吊るしたフライパンは貫通させるのが難しいという事は、
矢が着弾する瞬間にフライパンが後退し、単位時間あたりのエネルギー量が下がったという事なんだろうか。

だとすれば弓が槍より貫通力に勝るのは単位時間あたりのエネルギー量の違いからくるのだろう。

696 :
むしろ極力鏃の重量を抑えてアーマーピアッシングを高めた形状じゃないか
俺らが考える通常の征矢とは形状が異なる、ボヴォドキンアローそっくり。
>>693

697 :
長根のような巨大な鏃を使ってたなかったとしたら
短距離しか飛ばなかったって事はない

698 :
>>697
元側の認識だからね
元の弓に比べてってことかもしれない

699 :
>>676の見立てが正しければ、
外側の鉄板で鏃の先端を破砕し、内側の革板で勢いをRという事だろうか。
ちなみに鉄板だけを見ても、合わせ鍛造で外側は硬く内側は粘り強い、日本刀と同じ構造になっている。

700 :
 こんな調子で武士たちは次第に押されはじめ、モンゴル軍が赤坂の松原に陣を張ったころには、
誰も敵に向かう者がいないありさまとなっていた。
そんななかで目立ったのは、肥後の菊地武房130騎、詫磨別当太郎100騎である。
かれらは激烈な戦闘をまじえ、家子カ党のほとんどをうしない、しかもなお敵の「首ども数多」を取った。
また、「屈強の馬乗り、弓の上手」小弐景資が、追撃してくる敵の軍将を疾駆する馬上から、
振り返りざまに射殺したのも人の目を引いた。
景資がみせた射方はパルティアンショットとよばれ、世界の他地域でもおこなわれ、
特に古代メソポタニアでさかんであった。
(近藤好和、1997)


日本の武士がパルティアンショットで敵将を射落としたとの記述が興味深いね。

701 :
>>698
歴史群像では推測としながらも逆の見解を述べてるよ

702 :
>>679
これどうなんだろ。
箱形で鞍輪に重量を載せる大鎧は日本の甲冑の中では異端だと思う。世界中見ても異端だし。
この頃の鎧が一番装甲が分厚い。
日本刀は鎌倉時代に名刀が多いように、鎧もまた鎌倉時代が最も優れていたのではないかと思う。

当世具足も機能的でカッコいいと思うけどね。
何より実物が大量に残っているから、ガラス越しではなく直に見ることができるのがいい。

703 :
ラメラーアーマーの一種には違いない。芸術性の高さまで求めた辺り、イスラム圏の鎧に近似している。

704 :
イスラムの騎兵の武装は弓、槍、剣の3点セット

705 :
イスラム騎兵のカイトシールドとか、西洋に影響受けてるとこはあるけどね。

706 :
>>703
イスラムの芸術ってこんな感じか?
鎧だと、どんな風になるんだろう。

https://mphot.exblog.jp/iv/view/?i=200707%2F23%2F90%2Fc0067690_23151835.jpg
http://img.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/34/14/82/src_34148248.jpg?1404524690
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/38/Seljuq_Ewer.jpg
http://www.world-stirrup-collection.com/up_ir324.html

707 :
こちらは日本の漆細工
https://www.touken-sato.com/event/katana/2012/08/W-teruhiro_2nd-01.html
https://image.tnm.jp/image/1024/C0001727.jpg
https://www.tnm.jp/uploads/r_collection/LL_C0015774.jpg

708 :
とっても間違ったこと書くな
秘密に時々アクセスするのですか?
私は時々考えます侵略することを

709 :
( T_T)\(^-^ )

710 :
>>701
都合の悪い史料は無視する推測がアテになるのかな?

711 :
モンゴルの弓は小さいけどストロークをしっかりとるからな。
耳のあたりまで引き絞るから。
ストローク11センチのクロスボウなんかとは物が違うんだよ。

712 :
射方は日本とモンゴル一緒なんだけどね
>>710
無視してる訳じゃないだろうけど
正確に測った訳でもなく所詮は印象だからね
歴史群像のは現実的な理屈を積み上げてる真面目な記事だったよ。

713 :
>>712
>無視してる訳じゃないだろうけど

え?まさかその面白おかしいライトオタ向け歴史雑誌の記事中に
元寇と同時代の元の人間が記した「汎海小録」が引用されてなかったの?

714 :
>>713
だから何度もいうけど
実測で測ったんですかね?それ
面白おかしいと言えるくらいちゃんと読んだの?
中世の人間が印象で語った一節で全て決めつけるあなたも一方的だよ

715 :
当時の日本の射法は直射が多かったからその印象もあるかもね

716 :
運用の違いが大きいと思う。
日本の射手は個々が標的を狙って射るのに対して、大陸の軍は弾幕を張るからな。
家ごとに功を争う武士と、組織化された軍の違いだね。

717 :
関門海峡幅500メートル水深10メートル長さ10キロ
大小河川に舟艇水軍を潜ませる帆掛け船では負ける

718 :
水深10mはねえよw
浚渫してるし

719 :
水深10メートル図
http://o.8ch.net/1eflq.png

720 :
100年前の博多湾水深
http://o.8ch.net/1ei2d.png

721 :
和弓と引き尺を同じにしたクロスボウ作ったら最強なんじゃないかな。
なんで作らなかったのかな。

722 :
普通に持ち運びに困るだろ

723 :
弘安の役沈船27メートルキール
http://o.8ch.net/1ej8v.png

724 :
鷹島周辺は大変だな

725 :
かつて騎士たちは弩を”あまりに無慈悲な武器”であるとして
教皇に訴え禁止令を出させたことがあった
弩は鍛錬を積まずども引き金を引きさえすれば誰にでも矢を射ることができる武器!
すなわちそれは…

たとえ平民であっても騎士の命を奪うことができるということ…!
特権的な騎士が平民などに敗れることがあってはならぬ…

特権的な騎士が平民などに敗れることがあってはならぬ…
禁止令を出させたのは弩が騎士の優位を脅かすものであると真に恐れていたことの証左でもある!

この光景を見るがいい騎士たちよ
騎馬が最強との思い込みはすでに幻想に過ぎぬ!

https://twitter.com/gryphonjapan/status/677116497089531904
(deleted an unsolicited ad)

726 :
ラテラノ公会議で本当に弩がピンポイントで禁止になったのかどうか調べてみたら?

727 :
異教徒には積極的に使ってるよね。
っていうか、教会から禁止されても無視してるよ。トーナメントも禁止されても無視してたし。

728 :
で、騎士が殺されると

729 :
だから、何?

730 :
中国の史書『宋史』(1345年成立)では、永観元年(983年)に宋へ渡った日本僧「然が皇帝太宗へ日本の国情を説明した上奏文に、「東奥州産黄金 西別島出白銀 以為貢賦(東の奥州は黄金を産出し、西の対馬は白銀を産出して租税とする)」とあることが知られる

731 :
4年ぶりくらいに元寇スレ見たけど
スレ名物のパフォ君はまだ生きてたどころか自説を展開するブログまで開設してたのか。
俺が始めてパフォ君を見かけてからもう12年くらい経つしスゴイ執念だな。
その内論文書くなり自費出版で本出すなりしそう。

732 :
永暦元年(1160年)4月28日に、「対馬島司言上、高麗国金海府禁錮採進房並貢銀採丁事、令諸道勘申。」とあり、対馬側と高麗金海府の間に何らかの諍いがあった事が見えるが、「採進房」

733 :
モンゴルの支配下に下りたから、断交するって意味じゃない?
そもそも対馬と朝鮮はずっと戦争だから。

734 :
まあ、そんな細かい事はどうでも良くて、モンゴルの方法だと、降伏すれば奴隷。
降伏しなければ皆殺しという方針。
特にこれを中央アジア諸国の諸都市で行なった。

だから、彼らは悪質で、鎌倉武士はよくやったと思うよ。

735 :
日本人皆殺しになるかもしれなかったんだぞ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%B0%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%89%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

736 :
>>181
「元軍はなぜ早期撤退したのか」のURLが間違っていた。なぜか、末尾の"l"が落ちていた。
正しくは:
https://ameblo.jp/reydeoro/entry-12351629410.html

737 :
新しいページ「勘仲記をどう読むか」を追加した。
https://ameblo.jp/reydeoro/entry-12450451866.html
「一週間後撤退説」を正面から批判してはいないが、廿日撤退とも読める
ことを説明している。

738 :
上記ページで:
博多合戦の一週間後に撤退したと言う例の学者の説を「一週間説」、
通説の通り博多合戦の当夜に撤退したという説(私の説)を「当夜説」と呼ぶならば、
その違いは下記の通り。

1)「一週間説」は十月十八日付の「賊徒来着対馬」の記事を無視するが、「当夜説」は
無視しない。(十月五日の対馬来着と見なす)
2)「一週間説」は十月廿二日付の「去十三日於対馬・・合戦」の「十三日」を飛脚の博多
出発日と見るが、「当夜説」は文章の通り合戦の日と見なし、原文の「対馬」は「壱岐」の
誤りと見る。(他に壱岐合戦の報告はない)
3)「一週間説」は十一月六日付の「俄逆風吹来、吹帰本国、少々船又馳上陸上」を
十月廿七日ごろに元軍が博多湾で遭難して撤退したことの報告と見なすが、
「当夜説」は壱岐の状況(安国論私抄では130艘漂着)の偵察結果の報告と見る。
(一週間遅れは偵察に要した期間)

「当夜説」を簡単に言えば「廿日夜に博多撤退、廿一日夜に壱岐付近で遭難」である。

739 :
もう元寇来てるから。
北朝鮮から工作船来てた。
日本は負けまくってた。
今こそ挽回!
https://www.youtube.com/watch?v=_u5Pvl2_Hos

740 :
服部説などこのスレを覗いている者なら誰も信じていないだろう。

当夜説もなにもどの史料も20日夜撤退で統一されている。
モンゴル軍が大敗したことを記した鎌倉年代記裏書の
「二十四日、大宰少弐入道覚恵代藤馬允、大宰府に於いて合戦し、異賊敗北」
これだけが根拠なんだから。24日が誤記で20日とすれば、他の史料とも整合性がとれる。

741 :
不審船は止まらないから。
https://www.youtube.com/watch?v=CxU_FtAjQx0

742 :
>>740
>これだけが根拠なんだから

いや、服部説の主な根拠は勘仲記だ。

>24日が誤記で20日とすれば、他の史料とも整合性がとれる

それについては「内外の史料に現れる大宰府とは何か」のページで書いた。
日付の誤記だけでなく、「大宰府=博多」を認めなければ、そのことは
言えない。

743 :
北朝鮮ミサイル危機は第二の元寇。

744 :
鎌倉武士って西洋のピストル騎兵に似てると思う。
武器の有効射程も威力も同じくらいだし、防具の厚さや面積も同じくらい。

745 :
 
「アンゴルモア」面白い(・∀・)

746 :
>>744
別に似てないよ

747 :
新しいページ「五檀法日記は何を語るか」を追加した。
https://ameblo.jp/reydeoro/entry-12495487618.html

ウィキペディアなどに引用されているサワリだけでなく、その日の全文を読むことが
大事だと、よく分かった。
「五檀法日記」と「勘仲記」は互いに裏付け合っている。

748 :
秀吉は済州島に興味はなかったのかな?
恩賞としてすぐに大名を配置できそうな場所だろあれ

749 :
馬の放牧地にしか使えないような絶海の孤島は、どの大名もいらんだろ。

日明貿易が盛んならば避難港くらいにはなったろうけど。

750 :
国民は皆

「アンゴルモア」

読め。

アンゴルモア。

「戦に負ける」

ということはどういうことか、しっかり描写されている

(*ΦωΦ)

#アンゴルモア

751 :
北方領土は余りだ。

まず、朝鮮半島を制圧せよ、その後、日本海海戦でワンサイドゲームで勝て!!!
然るべき後(制海権確保後)、一個連隊で北方領土と千島列島、樺太を全て占領せよ!!!!!!!

知的障害者のキムジョンウンを処分して、本勝負へ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

752 :
香港デモのワンシーン。
引き尺の重要さがよく分かる動画。
ひ弱な学生でも、引き尺をうまく利用すれば、
重いレンガを遠くに見える警察署まで投擲できる。
この子は理系の学生だろうか。
https://mobile.twitter.com/RebeccaRambar/status/1157697657609117702
(deleted an unsolicited ad)

753 :
あの時、日蓮の首をはねていたら神風は吹かなかったろう

754 :
>>749
馬の放牧地って武家にとっては超重要だけどね。
まあ、鎌倉時代までだけど。
関東あたりは馬の放牧地に適した土地があり、それが板東武者のルーツなんだとか。
秀吉の時代になると、鉄砲持った歩兵が主力の時代になるから、馬の放牧地なんて意味無いけど。

755 :
>>752の動画に映ってる男すごいと思うんだよね。
1.2キロの石を80m飛ばす投石機を動かすのに41人の人手が要るらしい。
それを考えれば、この動画の男は1人だし、恐ろしく効率が良い。
やっぱり飛び道具は引き尺なんだよ。

756 :
この動画は #シリア でアサド政府軍ロシア軍による空爆直後の状況を語る。
アサドとプーチンは、市民の住宅でしかなかった建物、そしてインフラ、医療機関などを周到に狙って攻撃する。
町をまるごと殺し、市民を追い出すつもりなのだ・・・。

757 :
白村江の戦いの後は山城を築いて備え。

元寇の時は鎌倉武士が大暴れ。

日清日露は無敵皇軍が居た。

2019年の日本には手足を縛られ訓練も弾薬も足りず定員充足すらできていない自衛隊があるのみ。

やっばーい☆

_(:3」∠)_

758 :
安田純平さんに取材して欲しいところ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/ce/Ruins_of_Donetsk_International_airport_%2816%29.jpg

759 :
https://image.tnm.jp/image/1024/C0064504.jpg
これは後三年合戦絵巻の一部だが、
下の中央やや左の置盾に和弓から放たれた矢が深々と刺さってる。
この時代は伏竹弓の時代で、後の元寇の時代になると三枚打弓が使われるようになり、
和弓の性能が向上している。
元寇時のモンゴル軍は手盾を持って戦ってるが、
おそらく和弓から放たれた矢は、モンゴル軍の鎧や兜を盾ごとぶち抜いただろう。
それにしても後三年合戦絵巻や前九年合戦絵巻は和弓の貫通力を感じさせて面白い。

760 :
 【歴史】ロシアの共同墓地から発見されたモンゴル軍に虐殺された痕跡が残る13世紀の家族の遺骨
http://asahi.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1569852404/

761 :
>>428
鎌倉幕府(上層に貴族出身が意外と多い)は、かつて対立した西国の監視もする立場

幕府は、元朝相手に強気
→ だが、実際に元軍を撃退したのは、西国武士(幕府軍が議論で遅れる間、現地だけで圧勝)

→ 幕府としては、西国武士(幕府軍抜きの武士団)の手柄にしたくない
→ 幕府は、「神風思想」(寺社・貴族の創作)に協力し、前は対立してた西国武士に恩賞渋る
→ 武士の不満
→ 世は乱れ、幕府崩壊へ

文永では奇襲の受け止め役となり大被害受けた、松浦党への恩賞もお粗末なもの

要は、幕府軍が活躍できなかったので
もと対立勢力である西国武士の功績を讃えるより、貴族・寺社勢力の機嫌とり「神風思想」に乗った幕府

762 :
・89式5.56mm小銃
口径 : 5.56mm

763 :
モンゴル帝国による元寇を軍事的に考察しましょう。

764 :
モンゴル帝国は、遊牧民として交易やるから情報戦にも優れてた

【モンゴル帝国】
「恐怖の大魔王」チンギス・ハンの戦わない戦略 プロパガンダを徹底して使い倒した
https://asahi.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1578092905/l50

765 :
>>759
>この時代は伏竹弓の時代で、
後三年絵巻の成立年代は南北朝時代だが絵師は題材となった時代当時の弓に関する考証知識なんて持ってないでしょ
雰囲気で描いてるだけだからそこから後三年合戦当時の武器の威力を読み取ろうなんて無意味すぎるよ

766 :
ようつべでマニアと思しき弓矢の解説動画見たけど
和弓だけエビデンスがナショジオの例の番組のみという今ひとつ要領を得ない内容だった
和弓って科学的に分析された事が一度もないんだろうか

767 :
ぶっちゃけ形状と素材の反発力ぐらいしか考慮する要素ないだろうし

768 :2020/02/27
北条時宗

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