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消えた古代漢民族 羌族を追え
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東夷はどこまでバカなのか
朝鮮半島由来のYDNAを受け継ぐ射精エベンキについて
縄文時代の西日本はほとんど無人(笑)

DNAで追う銅剣・銅鏡文化による古日本建国史2


1 :2015/05/10 〜 最終レス :2015/07/23
海外のYDNA考古学も視野に入れて・・・

2 :
銅剣銅鏡というのは青銅器文化、古日本建国というのも邪馬台国成立あたりのことで、弥生時代と古墳時代が
どう関係しているか、邪馬台国時代と記紀の天皇の時代がどうつながるかということ。

3 :
神獣鏡というのは魔鏡、つまり、日光を鏡面から影の壁面に反射させると鏡背面の凹凸文様が壁面に像として
映るほど微妙な造りであったらしい。この辺が卑弥呼のカリスマの要因かもね。

4 :
「古代の「倭人」は、長江の上流域の雲南、貴州、四川一帯に住んでいたのではないかと思う。『史記』の中に
記述されているテン、夜郎、且蘭、チョン都、昆明、雋、徙、筰、丹、蜀、巴などの国は、いずれも「倭人」によって
建てられたと私は見ている。」張雲方「倭人」
「1979年、大阪教育大学の鳥越憲三郎教授が、日本人の源流は中国の雲南であると発表した。考察と研究に
よると、雲南のイ族とダイ族の赤ちゃんの蒙古斑は、日本人の赤ちゃんとまったく同じである。つまりこれが
日本人の源流の証拠であり、雲南が日本人の源流であることを実証するものだという。彼は同時に信仰や風俗
などの面から、イ族、ダイ族と日本を比較することによって、自分の見方が正しいとしている。わたしの個人的な
考えでは、中国の倭人は古代チャン人と中国西南地域の先住民との末裔であると思っている。チャン人の優秀な
文化を受け継ぎ、発展させた。」張雲方 チャン人

5 :
次に、
「騎馬民族征服王朝説」と「日ユ同祖論」には接点があるのか?
http://inri.client.jp/hexagon/floorA3F_hb/a3fhb204.html
つまり、考古学と記紀の結合上のポイントは倭人・チャン人(騎馬民族・日ユ同祖論)ということになる。

6 :
>>4-5 <-これらの問題を俯瞰すると匈奴、フン、特にその外縁部である南シベリア、新疆ウイグル、内モンゴル、満州、朝鮮の考古学、遺伝子学的考察が鍵を握っていることが見て取れる。
●アムール黒竜江省での弥生土器/高地性集落発生と日本への伝播
●エベンキ・北満・日本における羌・百越YDNA
(1)匈奴外バイカル・アムール錬鉄製鉄、
(2)敬水、水体経由民族移動
(3)匈奴・ダウールでの子安貝流行、
(4)日本における貝輪
(5)雲南・南海/青銅器文様の見える銅鐸への応用、
(6)雲南/円底短頚壺
(7)雲南/棟持柱千木高床神殿
(8)天子躬耕、
(9)百越神体山信仰、百越鳥形祭器鳥神信仰
(10)内行花文鏡、
(11)阿覇羌布依箱式石棺墓

7 :
.











【註】(1)一部中国江南地方から西北九州への渡来を考える研究者もいるが(山口1984)
考古学的にこれを支持する証拠はない。

http://scs.kyushu-u.ac.jp/qtanak/ronbun/91toraijin.pdf











.

8 :
古墳時代渡来人の故郷
http://s7.sinaimg.cn/middle/6fb43ea2gbe54d2b3bbc6&690
野中等2007西日本YDNA分布
列島固有
C1-M8    3.10 %
D2     26.80%
列島半島固有
O2b1 47z 26.80%
56.70%
C3 M217* 4.10% 東胡 蒙古高原

O3a2c1 M134 5.20% 二里頭→呉→雲貴高原
O1a M119 4.10% テン越 雲貴高原
O2a  M95* 1.00% ダイ  雲貴高原
10.30%
南嶺南麓
O3a3  M159 5.20% 畭 東南沿海丘陵

O2b SRY  9.30% 貊 東北平原

O3 002611 2.10% 後漢霊帝等 華北平原
O3a2c1a M117 5.20% 羌/秦 河西回(走)廊
O3a2   P201 6.20% 板楯蛮 四川盆地
13.50%

Hammer他2005日本全国: 追加
C3c-M86 1.2% 靺鞨 東北平原
NO-M214*   2.3% 夜郎 東南沿海丘陵   
N1-LLY22g*   1.2% 凉山彝族 四川盆地
N1c1-M178 0.4% 匈奴 蒙古高原
Q-P36   0.4% 匈奴 蒙古高原
R-M207 0.4% ウイグル 西域盆地
I-P19 0.4% 吐火羅 西域盆地

9 :
●冒頓単于による燕王盧綰の東胡王任命に伴い匈奴に流出した河北製鉄技術がバイカル湖畔において石寨山
文化人の鋳銅技術とsinnergizeした結果、Ivolga錬鉄炉が誕生し、匈奴分裂と共にアムール、三韓へと移動。
●弥生後期から雲貴高原石寨山青銅器文化、泰族慢輪制陶技芸が三韓、日本に出現。
●山戎の山城戦略は東胡/貊により穢貊文化圏に拡大後高地性集落として日本に上陸した。

10 :
●騎馬民族とは何か?
匈奴崩壊後西域盆地から黄土高原に流入した流民
O3a2c1 M134 5.20% 二里頭→呉→雲貴高原→匈奴
O3a2c1a M117 5.20% 羌/秦 河西回(走)廊
N1-LLY22g*   1.2% 凉山彝族 四川盆地
N1c1-M178 0.4% 匈奴 蒙古高原
Q-P36   0.4% 匈奴 蒙古高原
R-M207 0.4% ウイグル 西域盆地
I-P19 0.4% 吐火羅 西域盆地
四川盆地に帰還した原住民
O3a2   P201 6.20% 板楯蛮 四川盆地
●ユダヤ人と同祖関係というのは何人(ジン)か?
R-M207 0.4% ウイグル 西域盆地
I-P19 0.4% 吐火羅 西域盆地

11 :
由此可見,中国古代北方的騎馬民族文化,在推動中原農業民族文化地区的暦史和文化発展、促進中国暦史上両次民族大融合的同時,対海東諸国古
文化的影響,也是非常明顕的。
其影響的過程或伝播的路線,根拠長城内外和東北遼寧、吉林等地出土従多的魏晋時期和朝鮮半島所発現的
公元4-5世紀的馬具情形,明確反映出,是従中国北方為起点,沿東北経朝鮮半島而向日本延伸発展的。
而這一影響的発生或向海東諸国伝播的暦史背景,当与公元4世紀初(公元307年)西晋的“永嘉之乱”,中原
地区的人民向中国東北大流亡等諸因素有着密切的関系。

騎馬民族文化淵源初探 -兼論与日本古墳時代文化的関系
王克林 山西省考古研究所研究館員、吉林大学客座教授

12 :
これからわかることは、中国古代北方の騎馬民族文化が中原農業民族文化地区の暦史、文化を推進し、
発展させたことと、中国歴史上の二度にわたる民族大融合と同時に海東諸国古文化にも影響を与えたという
非常に明白な事実である。その影響の過程乃至は伝播の路線は、長城内外と東北遼寧、吉林等の地点で
出土多数の魏晋時期事物から、及び、朝鮮半島で発現する紀元4‐5世紀の馬具の形状に明確に反映されている
が、中国北方を起点とし、東北に沿うようにして朝鮮半島を経て日本に向けて延伸発展している。このような影響
が発生し、そして海東諸国に伝播した暦史背景には紀元世紀初め(西暦307年)西晋の“永嘉之乱”によって中原
地区の人民が中国東北に大流出するといった諸因素が密切な関系をもっているのであろう。
http://economy.guoxue.com/?p=9240

13 :
.











【註】(1)一部中国江南地方から西北九州への渡来を考える研究者もいるが(山口1984)
考古学的にこれを支持する証拠はない。

http://scs.kyushu-u.ac.jp/qtanak/ronbun/91toraijin.pdf











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14 :
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【註】(1)一部中国江南地方から西北九州への渡来を考える研究者もいるが(山口1984)
考古学的にこれを支持する証拠はない。

http://scs.kyushu-u.ac.jp/qtanak/ronbun/91toraijin.pdf











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15 :
野中等2007西日本YDNA分布
----------------------------
前期古墳以前
O1a   M119  4.10% 越系東地兵百越テン人 
O2a   M95* 1.00% メコン・ダイ人 
O3a3   M159 5.20% 畭
----------------------------
後期古墳以降
O3a2c1 M134 5.20% 東呉(太白裔)東地兵テン人←前期古墳とダブる
O3a2c1a M117 5.20% 秦地羌乃至は過山瑶←前期古墳とダブる
O3a2   P201 6.20% 巴板楯蛮戦闘員
Hammer他2005日本全国: 追加
NO M214* 2.3% 秦五尺道沿線夜郎←前期古墳とダブる   
N1 LLY22g* 1.2% 古ヤク牛道沿線(西越)Qiongdou 凉山彝族祖先

16 :
俯瞰すると、始皇帝が徐福求仙入海に動員召集した百工・千童とは五尺道開削事業を中心とする西南夷制圧に
関わった諸民族であったといえる。山深い盆地の民であった彼らは自らを山区民族と呼び、これが倭国において
ヤマトとなったのであろう。

17 :
>>15





O1a   M119が越系東地兵百越テン人だという証拠は?

O2a   M95*がメコン・ダイ人だという証拠は?

O3a3   M159が畭だという証拠は?

O3a2c1 M134が東呉(太白裔)東地兵テン人だという証拠は?

O3a2c1a M117が秦地羌乃至は過山瑶だという証拠は?

O3a2   P201が巴板楯蛮だという証拠は?

NO M214*が秦五尺道沿線夜郎だという証拠は?   

N1 LLY22g*が古ヤク牛道沿線(西越)Qiongdou凉山彝族祖先だという証拠は?




.

18 :
>>17 英文wikiに加え
楚国越人是石寨山型銅鼓的設計鋳造者
http://blog.voc.com.cn/blog.php?do=showone&type=blog&itemid=58598
従幾分父系単倍群数拠看広東部分人群源頭
http://geod.51.net/g98/20100806.htm
瑶族起源有那些人類学根拠?
http://yaozu.baike.com/article-106449.html
夜郎文化
http://baike.baidu.com/view/484490.htm
夜郎 赫章
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9C%E9%83%8E
http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%AB%E7%AB%A0%E5%8E%BF
竹崇拝
http://baike.baidu.com/link?url=5wvPRyqgK2V3FC6Y5U60R6Cm3JOqFWKgp_6mP7HNTTvXCEnyvKaZWuDT5KknciCAn7wVLTKC9qqCwXx_pwarPa
“古西南絲紬之路”的川Dian段有両途:
一条走“古Yak牛道(零関道),従成都出発,経双流、新津、Honglai、名山、雅安、栄経、漢源(窄都)、越西、喜徳、冕寧、西昌、到達会理以后,折向西南行,経攀枝花,渡金沙江至雲南大姚,最后到達大理。
別一途従成都出発,経彭山,沿岷江而下,経楽山、
宜賓(Yibin),再沿秦代開鑿的“五尺道”南行,経高県、Jun連、向西折入横江河穀,経豆沙関、大関、昭通、曲靖、昆明,最后到達大理。
http://en.wikipedia.org/wiki/Yibin
http://en.wikipedia.org/wiki/Dali_City
両条路在大理会合后,経保山(永昌)、騰沖、盈江到達緬甸境内的八莫,従八莫出発又有水陸二途到印度。従印度又可通中亜、欧洲。
http://www.551.cn/UploadFiles/ynlydt/2010/12/2010122519002530360.jpg
http://ditu.551.cn/Item/9006.aspx
在五尺道開通之前,約在戦国年間或更早的時候,西南地区就有一条以成都為起点的商旅之路,
其中一条支線経Bo道(今四川宜賓)、朱提(今雲南昭通)、漢陽(今貴州赫章可楽)、味県(今雲南曲靖)、Dian県(今雲南昆明)、安寧(今雲南楚雄)至葉楡(今雲南大理),
------------------------------------------------------------------------
与別一条走臨Qiong(Qin's Linqiong)(今四川Qiongla)、筰都(今四川漢源)而来的支線相会合,
http://map.baidu.com/?newmap=1&s=s%26wd%3D%E9%82%9B%E5%B4%83%E5%B8%82%26c%3D635&from=alamap&tpl=mapcity
-----------------------------------------------------------------------
一路往西,経永昌(今雲南保山)出瑞麗而抵緬甸八莫,再到印度、阿富汗等国。
Ural Dolmen
http://www.ancient-origins.net/ancient-places-europe/spectacular-ancient-megaliths-ural-mountains-002517
秦郡図 徐福219-210
http://imgsrc.baidu.com/forum/pic/item/609f34d3d539b6006fb2b5e3e850352ac65cb733.jpg
東晋前秦地図
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/6c/%E4%B8%9C%E6%99%8B%2816_Kingdoms%29.jpg/640px-%E4%B8%9C%E6%99%8B%2816_Kingdoms%29.jpg
戦国後期形勢図
http://h.hiphotos.baidu.com/baike/c0%3Dbaike150%2C5%2C5%2C150%2C50/sign=de159972b5fd5266b3263446ca71fc4e/8326cffc1e178a82e6dfea39f503738da877e84c.jpg

19 :
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>15
>前期古墳以前
>O3a3   M159 5.20% 畭
----------------------------
>後期古墳以降
>O3a2c1 M134 5.20% 東呉(太白裔)東地兵テン人←前期古墳とダブる
>O3a2c1a M117 5.20% 秦地羌乃至は過山瑶←前期古墳とダブる


もう数年にわたって何度も指摘しておりますが
このダブりこそが、「秦氏は徐福の孫」と伝承される由縁ですね〜

20 :
↓この地図の右側、宜賓から赫章に向かう道に夜郎、丹後道主がいた。
http://www.551.cn/UploadFiles/ynlydt/2010/12/2010122519002530360.jpg
その先、昆明(テン池)が琵琶湖、その南でベトナムとの国境が邪馬台国、雲南モンラ県。
このモンラ県からメコン河を遡った保山が摂津・三島溝咋。この辺の千童百工が初期大和政権。
後期古墳時代はこの地図の左側、成都-西昌間のQiongdouが大型横穴石室墓と共にキルギスタン
経由、西匈奴末裔として九州に渡来する・・・いわゆる九州王朝だね。
成都-宜賓の東北には紀州人、板楯蛮、の故郷、巴-重慶がある。彼らはキルギスタンから北方
青海・甘粛・関中を経由し、三燕、百済、九州へと渡ったのだ。

21 :
>>19 そう。大和王権の万世一系を担保する唯一の根拠。

22 :
これから終日お買い物に出てるので失礼。

23 :
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>15
>前期古墳以前
>O3a3   M159 5.20% 畭
----------------------------
>後期古墳以降
>O3a2c1 M134 5.20% 東呉(太白裔)東地兵テン人←前期古墳とダブる
>O3a2c1a M117 5.20% 秦地羌乃至は過山瑶←前期古墳とダブる
>NO M214* 2.3% 秦五尺道沿線夜郎←前期古墳とダブる  


もう数年にわたって何度も指摘しておりますが
このダブりこそが、「秦氏は徐福の孫」と伝承される由縁ですね〜

24 :
>>23
>このダブりこそが、「秦氏は徐福の孫」と伝承される由縁ですね〜
キルギスタンにまで走り、日ユ同祖論の基となる連中と徒党を組んだ秦氏を日本に引き寄せた
万有引力のようなエネルギー場は何だったんだろうか?
それは500年も昔、先祖が河北千童城で始皇帝に与えた誓いのようなものではなかろうか・・・
この辺で幾多郎のキャラバンを入れるといいと思うが(w

25 :
>>24
秦氏が建立した松尾大社は鳴鏑神、冒頓単于、稲荷狐・白狄狐突であり、イデオロギー的には
完全に匈奴。始皇帝への義理立ては微塵にも見られない。矢張り、ご先祖は匈奴に亡命したようだ。
Good Day!

26 :
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>22
>>19 そう。大和王権の万世一系を担保する唯一の根拠。

わが列島の大和民族の始祖にあたる邪馬台国と
それを継承発展させた継体朝が万世一系たる由縁ですね〜

http://www.bell.jp/pancho/kasihara_diary/images/h15c/1223-80.jpg

27 :
>>26
継体は騎馬民族が伽耶・ウクライナでよくやる追葬をしてまでも万世一系に拘泥している。
「宮内庁は「手白香皇女衾田陵」として、奈良県天理市中山町に所在する西殿塚古墳を治定している。
西殿塚古墳は、大和古墳群に属する古墳時代前期の前方後円墳であるが、年代的には整合しない。」
「(ホケノヤマ)上記2つとは別に、主体部西側に横穴式石室がある。すでにあった墳丘を利用して6世紀末頃に
営まれたものと考えられる。石室全長14メートル以上。玄室に組合式家形石棺。」

28 :
追伸
旧テン国には周太白裔・呉人が移住して石寨山文化人となっているが、他方この地域には盤瓠を信奉する
苗瑶族も入っていた。ところが、彼らは共にO3a2c1 M134/O3a2c1a M117であり、その同一性を相互に認識
していた。盤瓠は意味的には邇邇藝命-神武と同義で、陶芸を掌る神であった。

29 :
>>18
で、それのどこに、




O1a M119が越系東地兵百越テン人だという証拠、

O2a M95*がメコン・ダイ人だという証拠、

O3a3 M159が畭だという証拠、

O3a2c1 M134が東呉(太白裔)東地兵テン人だという証拠、

O3a2c1a M117が秦地羌乃至は過山瑶だという証拠、

O3a2 P201が巴板楯蛮だという証拠、

NO M214*が秦五尺道沿線夜郎だという証拠、  

N1 LLY22g*が古ヤク牛道沿線(西越)Qiongdou凉山彝族祖先だという証拠、




が書いてあるの?

30 :
まずグーグルなんかで検索するが↓
https://www.google.co.jp/?gfe_rd=cr&ei=LvFjVfzbAbLD8Af-pYHoBg&gws_rd=ssl
例えば YDNA haplogroup NO と打ち込むと
http://en.wikipedia.org/wiki/Haplogroup_NO これが出てくる。
ここで
NO-M214(xN1-LLY22g, O-M175), which potentially may belong either to Haplogroup NO* or to
Haplogroup N*-M231(xN1-LLY22g), has been found in 5.7% (2/35) of a sample of Buyi[2] and in
2.9% (6/210) of a pool of four samples of Japanese, particularly in Tokushima (4/70 = 5.7%).[3] Y-DNA
Haplogroup NO-M214(xN1-LLY22g, O-M175)also has been found sporadically in samples of Han Chinese,
Yizu,Malays, Mongolians,Daurs, Manchurian Evenks, Hezhes, Huis, Yaos, South Koreans, and So.
断トツは5.7% (2/35) of a sample of Buyi[2] つまり布依。・・・ここで布依を検索。
http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%83%E4%BE%9D%E6%97%8F
布依族人口主要集中于貴州,該省布依族占布依人口的94.11%,布依族人口主要集中于貴州,該省布依族
占布依人口的94.11%,別外雲南的羅平、四川的寧南、会理等地也有布依族聚居区。外雲南的羅平、四川的
寧南、会理等地也有布依族聚居区。
--------------------------------------------------------------
布依族地区大多数房屋仍然保持古老的“干欄”形式,其楼房全系木質結構,一般先起底層,上立屋架,
両頭搭以偏厦,頂上蓋瓦或杉皮,有三間五間不等。楼上住人,底層関養牲畜、家禽,置農具,設春碓、
磨坊等。別外,部分布依族地区則以石頭作為主要的建築材料,有“石頭寨”之称。
===============================================================
他方、http://www.baidu.com/で テン国、夜郎国、地図を中文に変換し、入力検索すると
こうした画像を得る。
http://img1.imgtn.bdimg.com/it/u=961297444,1958190249&fm=21&gp=0.jpg
http://img1.imgtn.bdimg.com/it/u=2337629348,2591728005&fm=21&gp=0.jpg
以て、夜郎国と布依族が合致するから、夜郎を布依とする。
これは一例だが、こうした手順を繰り返すのだ。あらしになるからこの一例まで。

31 :
>>29 あなたの質問には感謝します。俺自身ヤッベ!と思っているのが、
↓これなんだ。
>O3a3 M159が畭だという証拠
コピペできないサイトだが、
「中華源流輯要」
http://geod.51.net/g98/200711yd2.htm
ここでは↓
O-M159 O3a3a 不算多見、分布干与東夷-荊蛮有関的山東漢人、苗瑶族等、亦見干カンボジア人群;
ここで、自分的には「土井が浜人」の原郷ではないかと思う。
ストーリー的には@徐福の琅邪あたりの徐戎では無いかという気がする。
秦郡図 徐福BCE219-210
http://imgsrc.baidu.com/forum/pic/item/609f34d3d539b6006fb2b5e3e850352ac65cb733.jpg
A次に福建省・畭族
Bカンボジアというのは後の世に山田長政だって行くところだから、山東の商人が足を延ばしても
不思議ではない。

32 :
中国人のYDNAと言うのは存在せず、中国人は雑種であるとするのが中国の建前。
しかし、食道がん発症リスクの高いYDNAというのが山西・湖南から福建・潮州へと飛んでいる。
http://europepmc.org/wicket/bookmarkable/uk.bl.ukpmc.web.utilities.redirect.RedirectPage?figure=pone-0011118-g001/&articles=PMC2886054
これは中原族が戦乱を避けて徐々に南方に移住した結果としている。
http://europepmc.org/articles/PMC2886054/
他方でこのO3a2c1 M134/O3a2c1a M117はシノ−チベタンとされている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Haplogroup_O-M175
羌も同じとする情報もある。
で、おそらく日本にあるこれらもシノ−チベタン、しいて言うなれば羌として間違いなかろう。
私はこれを秦氏と見る。・・・甘粛・関中(A)
又、殷末の混乱期、犬戎の乱の影響を受けて江南に移動したものがあり、呉の太白もこれによる
ものと見る。・・・呉・楚・テン(B)
で、私は日本には三輪王朝が(B)、河内・継体王朝が(A)と考える。

33 :
>山西・湖南から
山西・河南から・・・の間違い
Henan Taihang Mountain 河南太行山

34 :
ヤバイ仕訳発見
自分的にO-002611は渡来人東漢氏としてきたがO-002611は苗がトップ、O-P201は土家がトップ。
O-002611 Subsequently, this haplogroup has been found with higher frequency in some samples taken in
and around China, including 12/58 = 20.7% Miao (China), 10/70 = 14.3% Vietnam, 18/165 = 10.9% Han (China
& Taiwan), 4/49 = 8.2% Tujia (China) (Karafet 2010).
O-P201 Outside of Austronesia, O3a2-P201(xO3a2b-M7, O3a2c1-M134) Y-DNA has been observed in
samples of Tujia (7/49 = 14.3%), Han Chinese (14/165 = 8.5%), Japanese (11/263 = 4.2%), Miao (1/58 = 1.7%),
and Vietnam (1/70 = 1.4%) (Karafet 2010 and Nonaka 2007).
http://en.wikipedia.org/wiki/Haplogroup_O-M122
この土家・苗の祖先がいたきそ神社、丹生都比賣神社等紀州人(巴重慶・貴州)の祖である板楯蛮と見たほうが
いいのかも。

35 :
>>31
でもそれは、例えば、山東漢人、苗瑶族、畭が単にO-M159 O3a3aを
持っているというだけの話で、山東漢人、苗瑶族、畭がO-M159 O3a3aの
発祥である証拠にはならないんだが。

土井ヶ浜遺跡には古代中国の文物も、それにインスパイアーした文物も
出土しておりません。

土井ヶ浜遺跡からは古くは刻目突帯文土器から板付式期の土器が、その後も
弥生後期まで時代ごとの九州北部と同じ弥生土器が出土するのみですよ。

36 :
>>35
O-M159 < O3/-LINE1 del %
Asahikawa 0.5 Kanto 1.5 Nagoya 5.1 Western Japan 5.2 Okinawa 4 Korea 6.2 Taiwan 11.7
http://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/j.1469-1809.2006.00343.x/full
O-M159 O3a2a-M159 is a subclade of O3a2-P201. In an early survey of Y-DNA variation in present-day
human populations of the world, O-M159 was detected only in 5.0% (1/20) of a sample from China.
Unlike its phylogenetic siblings, O-M7 and O-M134, O-M159 is very rare, having been found only in 2.9%
(1/35) of a sample of Han males from Meixian, Guangdong in a study of 988 males from East Asia.(Xue 2006)
In a study published in 2011, O-M159 was detected in 1.5% (1/65) of a sample of Han Chinese with origins in
Southern China.
O-M159 was not detected in the same study's samples of Han Chinese with origins in East China (n=167) or
Northern China (n=129).(Yan 2011)
http://en.wikipedia.org/wiki/Haplogroup_O-M122
梅県 Hakka
http://en.wikipedia.org/wiki/Meixian_District
大洋州・台湾では検出されていない。↓
http://www.biomedcentral.com/1471-2156/15/77
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC3164178/
韓国における農耕社会の成立 安在晧(東国大学校人文大学)暦博情報
「農耕社会の形成
 まず注目すべきは、いわゆる「突帯文土器」が出土する遺跡の存在である。現在まで、ソウル▲沙里遺跡、
忠北黄石里遺跡、慶北金陵松竹里遺跡、慶南晋州大坪里遺跡、同召南里遺跡、同泗川本村里遺跡、済州道上
●里遺跡で出土している。」・・・
「▲沙里式住居は無文土器時代には韓半島の西北・東北地域だけにみられる。遺物との関連からみて、鴨緑江
流域の西北地域との関連が深いと考えられる。
 ▲沙里遺跡と大坪里遺跡で見つかった▲沙里式住居と併存するのが、館山里式住居(Fig.2-2)である。これは
平面が細長方形で、炉を2基以上もち、欣岩里類型の土器(Fig.2-5)が出土する住居型である。欣岩里類型の形
成については、異論が提起されているが〔大貫1997〕、館山里式住居は韓半島南部で変容して形成されたもので
ある。しかし、あえて韓半島北部で類例を探せば、無文土器時代に属する大同江流域の丘陵性集落である
石灘里遺跡で見つかった、平面方形で、2基の竪穴式炉をもつ住居をあげることができる。」
土井が浜を縄文後期の刻目突帯文土器と同期とすれば、早くても弥生中期と考えられる銅鐸民の渡来と
合わない。↓
http://livedoor.blogimg.jp/matome02ch-news/imgs/4/2/4264f26e.jpg
O-M159ははやくとも弥生中期にとらいする現在は広東省梅県の客家の祖先と見ておくのが無難だろうか。

37 :
>>29
>N1 LLY22g*が古ヤク牛道沿線(西越)Qiongdou凉山彝族祖先だという証拠、
Paragroup N-LLY22g* reaches a frequency of up to 30% (13/43) among the Yizu of Butuo County, Sichuan
Province in southwestern China (Hammer 2005, Karafet 2001, and Wen2004b).
http://en.wikipedia.org/wiki/Haplogroup_N-M231
凉山大石墓群
http://baike.baidu.com/view/4233991.htm
P.P. Azbelev Ancient Kyrgyz (Issyk-Kul Tarasui Culture)
http://kronk.spb.ru/mono/1.00.htm
凉山→西匈奴悦般/康居タラスイ文化→九州/西日本大型横穴石室墓

38 :
>>36
O3a2-P201は基本的に戦国楚民であって重慶、貴州、華中、その中に突然変異のO3a2a-M159があり、これが
華東、華南に分布していた。台湾・インドネシア西部に古層のO3a2-P201であり、O3a2a-M159は楚の崩壊後の
統一秦朝以降に各地に移動した・・・と見るべきか。

39 :
>>17
>O1a M119が越系東地兵百越テン人だという証拠は?
>O2a M95*がメコン・ダイ人だという証拠は?
語族と遺伝子↓参照 Austroasiatic (O-M95) Austro-Tai (O-M119)
http://en.wikipedia.org/wiki/Haplogroup_O-M175#Languages_families_and_genes
日本のO1a M119は呉越移民・薩摩人だろう
http://blog.sina.com.cn/s/blog_7eb83c9601012p37.html
参考
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/71/Taikadai-en.svg
楚国越人是石寨山型銅鼓的設計鋳造者
http://blog.voc.com.cn/blog.php?do=showone&type=blog&itemid=58598 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:a1694171c52d18691058ee628c4f7c04)


40 :
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>38
『晋書』辰韓伝によると、この呉系楚民は秦の統一で万里の長城建設に使役された後、
秦人として朝鮮南部に逃亡し、辰(秦)韓人になったとの伝承がありますね〜

41 :
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>38
http://www.eonet.ne.jp/~temb/5/kika_1.htm
>牛トーテムの楚の姫氏、都怒我阿羅斯等が一族を率い、加羅から始めて日本に渡来した時、
>山口県(穴門)の西海岸に到達しました。
>弁辰人は、「魏志韓伝」に長身と表現されており、渡来して混血する以前は
>そうだったのでしょう。
>これは、山口県、土井ヶ浜遺跡の弥生人が長身であることに結び付きそうです。

42 :
>>39
>日本のO1a M119は呉越移民・薩摩人だろう
これは短絡であり、琉球人がブリャートに繋がる。
Ryukyuans present the smallest distances to Buryats from South Siberia,
followed in short by southern Chinese.
http://genome.cshlp.org/content/14/10a/1832.long
他方、ブリャートはO1a M119の第二の故郷のようなところ。
琉球のO1a M119は西日本と同率で日本最高↓
http://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/j.1469-1809.2006.00343.x/full
これは私が徐福集団が古朝鮮から黒竜江省上遊に移動したとする仮説の有力な
理由。

43 :
>>40 長城云々は 『晋書』辰韓伝ではなく《魏略》載:“及秦併天下,使蒙恬築長城,到遼東。時朝鮮否立,畏秦襲之,
略服属秦,不肯朝会←これでないの?

44 :
>>41
基本的に徐福百工集団の内訳は:
管理・戦闘員 甘粛青海羌戎/山東徐戎
射撃資源探査要員 巴寡婦清私兵板楯蛮
高度冶金鋳造 石寨山型銅鼓的設計鋳造楚国越人
宮大工寺大工等木造建築・営林要員 慢輪制陶技芸 泰族
巨石築城技術 凉山彝族
竹細工 夜郎族
こうした明白な目的を持ったものであったのでは。

45 :
>>41 言われてみれば土井が浜を縄文時代とするのも怪しいような気もするし?

46 :
>>38 >>36
>O3a2-P201は基本的に戦国楚民であって重慶、貴州、華中、その中に突然変異のO3a2a-M159があり、
>これが華東、華南に分布していた。
>台湾・インドネシア西部に古層のO3a2-P201であり、O3a2a-M159は楚の崩壊後の統一秦朝以降に各地に移
>動した・・・と見るべきか。
-------------------------------
O3a2a-M159 華東、華南は徐国、戦国呉国と一致するが、Wagnerは製鉄誕生を戦国呉国とする。
http://donwagner.dk/EARFE/EARFE.html
「古代吉備国は鉄の文化で栄えていました。 高梁川西岸・新本川流域は製鉄関連の遺跡が点在し、神官寺古墳
からは三角縁神獣鏡も出土しており、古代吉備の国発祥の地と考えられます。また、この辺りは渡来系の秦氏が
治めた地で、 秦氏は天日矛や阿加流比売を崇拝していたといいます。」
http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/okayama/soujyasi/himekoso/himekoso.html
秦氏とは秦始皇帝の末裔ではなく、華東、華南に分布した徐・呉の末裔で弁辰鉄を開発したものではなかろうか。

47 :
>>45 土井が浜人骨にかんする宝賀氏意見:
>ここの人骨は箱式石棺に入れられたものもあり、約三百体のなかには、胸の上に鵜を抱く形で鉄製の副葬品を
>もって埋葬された巫女の遺骸(第一号人骨)も見られて、鳥トーテムの関係でも留意される。土井ヶ浜が面する
>響灘に浮かぶ蓋井島には、盆になると鳥形の船で魂を西の海に送る風習があるといわれる。弥生期の遺跡から
>は、鳥形の木製品がしばしば出土しており(朝鮮半島でも同様)、また、鳥の姿をした司祭者が描かれた土器も
>あるという。
> 土井ヶ浜遺跡の南方約三十キロには、弥生中期の梶栗浜遺跡(下関市安岡)があり、箱式石棺のなかに
>多鈕細文鏡・細型銅剣など大陸系の遺物が入って出土したことで有名である。これまで九基の箱式石棺等が
>確認され、副葬品として銅剣・銅鏡・管玉が見られる。その近隣には蒲生野・熊野という地名や、「アヤ・アラ」に
>由来しそうな綾羅木・穴門も見える。この綾羅木川の流域と周辺台地の地域を支配したのが穴門直践立の一族
>であったとみられ*31、そこには長門最大の仁馬山古墳(全長七十四Mの前方後円墳)のほか、多くの古墳群
>がある。住吉三神の託宣により、韓地征討に功績のあったその荒魂を、践立が神主となって当地の山田邑に
>祀ったことが、神功皇后摂政前紀に見える。これが式内の住吉坐荒御魂神社(現住吉神社)であるが、同社
>(長門一の宮)及び近隣の忌宮神社(二の宮)では、特殊神事「スホウテー(数方庭)」があり、竹竿の頭に羽根を
>挿し鈴をつけた道具を用いる風習がある。このような竹竿は、朝鮮半島の「鳥杆」(杆頭に木製の鳥をつけて寺院
>の入口等に立てられ、ソッテーなどと呼ばれた)や「蘇塗」(大木に鈴鼓を懸けて鬼神を祀った)につながる。穴門
>国造の系譜は、「国造本紀」には桜井田部連と同祖と見えるくらいであるが、具体的には鍛冶神天目一箇命の
>後裔で天孫族の三上祝の一族であった*32。なお、鳥杆に似たものが、佐賀県神埼郡千代田町の託田西分
>遺跡で見つかっている。
箱式石棺・鉄器などは甕棺墓時代の終わった後漢初頭の時代背景で、倭奴国の頃であり、縄文とはあまりにも
乖離が大きすぎるが。

48 :
日韓、東胡、匈奴、五胡十六国を生み出した始皇帝の仙薬前払対価:
騎兵軍団 甘粛青海羌戎                  O3a2c1 M134 O3a2c1a M117
製鉄民  徐/呉民         O3a3 M159
山岳射撃戦闘・資源探査要員 巴寡婦清私兵板楯蛮 O3a2 P201 Tujia O3 002611 Miao
高度鋳銅 テン国石寨山文化楚国越人     O1a M119
寺社建築・営林要員 慢輪制陶技芸 泰族     O2a M95
巨石築城技術 凉山彝族       N1 LLY22g
竹細工 夜郎族         NO M214

49 :
ホスト 縄文 C1 M8 D2 
半島/九州 O2b1 47z
モンゴリア N1c1 M178 
東胡/靺鞨 C3 M217 C3c M86  
内モンゴル・満州  O2b SRY
欧州中近東犬戎系 Q-P36 Catacomb Culture R-M207 Uighur I-P19 Tocharian

50 :
まもなくNHKで放送される。

何十年も前に分っていたのにこれまでスルー。

51 :
>わが国の秦氏は秦始皇の後という所伝・系譜をもつが、その歴代系譜には世代数が少ないなど問題点も
>いくつかあり、実際に秦始皇の近親一族の後とするのは疑問か。おそらく、遥か遠い祖先が秦始皇と同
>じ氏族(部族)であっても、華北沿岸部にあったものの流れか。秦韓王家が秦王室と同族であったとし
>ても、遥かに早い時期に分岐した支族ではなかったろうか、と考えられる。
--------------------------------------------------------------------------------------------
>わが国の秦氏族が河内及び摂津(特に豊島郡*34)・和泉にも多く、なかでも初期段階に分岐した氏が
>多いことは、『百家系図』巻50に所載の「朝原忌寸系図」等から知られる。
>  これまで述べてきた秦氏族の分岐状況についての概略系譜を示して本稿を終えることとしたいが、秦
>氏一族を考えるとき、山城国のみならず、凡河内国の地域の重要性を改めて認識させられたと感じてい
>る次第である。
>鳥トーテムをもつ秦王室とその族裔たち
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/hatareisei/hata1.htm
>>46 >秦氏とは秦始皇帝の末裔ではなく、華東、華南に分布した徐・呉の末裔で弁辰鉄を開発した
>ものではなかろうか。
応神朝渡来陝西省秦族が三輪王朝初期渡来の羸姓徐国(呉)末裔に存在した同系統を秦人としてまとめ上げた
のではなかろうか。

52 :
徐福集団=秦+呉+巴+テン+チョン+夜郎
陝西・秦氏     O3a2c1 M134 O3a2c1a M117
琅邪・会稽 徐/呉民 O3a3 M159
射楯兵主/丹巴人   O3a2 P201 Tujia O3 002611 Miao
テン国銅工人        O1a M119
テン国陶芸・建築工人泰人 O2a M95
チョンドウ人       N1 LLY22g
夜郎国人          NO M214

53 :
【話題】国内最古の「多鈕(たちゅう)鏡」鋳型、福岡で出土…権威の象徴だった多鈕鏡はすべて朝鮮半島製とする定説を覆す[05/29]&#169;2ch.sc
http://yomogi.2ch.sc/test/read.cgi/news4plus/1432842866/

54 :
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>51
>応神朝渡来陝西省秦族が三輪王朝初期渡来の羸姓徐国(呉)末裔に存在した
>同系統を秦人としてまとめ上げたのではなかろうか。

>>15
>前期古墳以前
>O3a3   M159 5.20% 畭
----------------------------
>後期古墳以降
>O3a2c1 M134 5.20% 東呉(太白裔)東地兵テン人←前期古墳とダブる
>O3a2c1a M117 5.20% 秦地羌乃至は過山瑶←前期古墳とダブる
>NO M214* 2.3% 秦五尺道沿線夜郎←前期古墳とダブる


もう数年にわたって何度も指摘しておりますが
「秦氏は徐福の孫」と伝承される由縁ですね〜

55 :
>>54 Update
>O3a3   M159 5.20% 呉人/羸姓徐氏
----------------------------
>後期古墳以降
>O3a2c1 M134 5.20% 秦/羌
>O3a2c1a M117 5.20% 秦/羌
>NO M214* 2.3% 古夜郎国人、これは第9代開化天皇の孫で、第12代景行天皇の外祖父丹波道主命
「ヤオ族は古代羌と古代苗族の融合した民族としています。意味深長です。現在でも古羌族はペイ族とかアカ族
とかとして雲南や貴州や広西に残っています。盤古神話の原郷のようです。」
http://e-asia2.board.coocan.jp/?m=delconfirm&id=14_42
食道がん発症リスクの高いYDNAというのが山西・湖南から福建・潮州へと飛んでいる。
http://europepmc.org/wicket/bookmarkable/uk.bl.ukpmc.web.utilities.redirect.RedirectPage?figure=pone-0011118-g001/&articles=PMC2886054
これは中原族が戦乱を避けて徐々に南方に移住した結果としている。
http://europepmc.org/articles/PMC2886054/

56 :
>>55 従い、↓これは前期古墳時代で、
NO M214* 2.3% 古夜郎国人、これは第9代開化天皇の孫で、第12代景行天皇の外祖父丹波道主命
逆に、後期古墳には↓
チョンドウ人       N1 LLY22g
これが加わる。これと羌は岷江上遊、青衣江上遊、大渡河下遊、川西高原、川西南山地、テン西北高原、
テン中高原、西藏東部に広がる石棺葬文化を共有していた。この羌とチョンドウ(キョウト)が家型石棺、
阿蘇ピンク石をもたらす。

57 :
.
●『まとめ』に「秋篠宮家の姉妹」に関する本当の事を暴露したら公開停止措置にされました●

『まとめ画像のキャプチャ』(画像を拡大し、読んで下さい:PCでの閲覧推薦)

http://imgur.com/a/PW1Ui


14http://imgur.com/J4EyKdQ.jpg
15http://imgur.com/jIVQP5A.jpg
★★17http://imgur.com/JkpbqAi.jpg
★★18http://imgur.com/kVkEtxl.jpg
★★20http://imgur.com/mzrXYnr.jpg
21http://imgur.com/pce64Ql.jpg

●他にも多数の暴露サイトがあるにもかかわらず、このサイトだけが突如として公開停止になりました。
実はこれで3回目の公開停止と削除です。
1回目:2013年3月(秋篠宮眞子.本人と思われるメールが着てまもなく"サイト削除")
2回目:2014年11月(音沙汰無しで"サイト削除")
3回目:2015年5月22日11:00(音沙汰為しで."権利者による申し出により公開停止措置")

これで『実態を知る者』の言っている事は本当の事だと証明されました。

(この様にキャプチャを公開するのは削除される度であって2013年から三度目です)

58 :
於是臣再拜問曰:「宜何資以獻?」
海神曰:「以令名男子若振女與百工之事、即得之矣。」』
秦皇帝大説、遣振男女三千人、資之五穀種種百工而行。
秦始皇三十七年(前210年),秦始皇東巡至琅谺,
徐市(福)推託説出海後並到巨大的鮫魚阻碍,無法遠航,
要求増派射手対付鮫魚。
秦始皇応允,派遣射手射殺了一頭大魚。
後徐福再度率衆出海。
始皇帝・徐福の企図
男子若振女與百工=呉+巴+蜀+テン+夜郎
琅邪・会稽 徐/呉民 O3a3 M159
蜀(秦・羌・Qiong)
川西羌/陝西・秦     O3a2c1 M134 O3a2c1a M117
チョンドウ人(蜀)(巨石・石棺) N1 LLY22g
巴(射楯兵主/丹)(射手対付鮫魚) O3a2 P201 Tujia O3 002611 Miao 
テン国銅工人     O1a M119
テン国陶芸・建築工人泰人 O2a M95
夜郎国人(竹細工)      NO M214

59 :
三輪王朝=百越(呉・テン・夜郎)
@テン国銅工人     O1a M119 銅鐸民
A夜郎国人(竹細工)      NO M214 丹波
B琅邪・会稽 徐/呉民 O3a3 M159 神獣鏡 大和
河内王朝=蜀(秦・羌・Qiong)
C川西羌/陝西・秦     O3a2c1 M134 O3a2c1a M117 山城・秦氏
Dテン国陶芸・建築工人泰人 O2a M95  河内
E巴(射楯兵主/丹)(射手対付鮫魚) O3a2 P201 Tujia O3 002611 Miao 播磨・但馬・紀伊
Fチョンドウ人(蜀)(巨石・石棺) N1 LLY22g 肥後
秦氏は河内、和泉、摂津に初期段階に分岐したものが多い:
>わが国の秦氏族が河内及び摂津(特に豊島郡*34)・和泉にも多く、なかでも初期段階に分岐した氏が
>多いことは、『百家系図』巻50に所載の「朝原忌寸系図」等から知られる。
>  これまで述べてきた秦氏族の分岐状況についての概略系譜を示して本稿を終えることとしたいが、秦>氏一族
を考えるとき、山城国のみならず、凡河内国の地域の重要性を改めて認識させられたと感じてい
>る次第である。
>鳥トーテムをもつ秦王室とその族裔たち
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/hatareisei/hata1.htm
これは九州北部臨海部に箱式石棺墓・内行花文鏡を持って分布する川西羌/陝西・秦氏の第一陣の末裔であろう。

60 :
>>53
結局この話題、お前ら的にどうなの?

61 :
>>59 その他の渡来時期
@ホスト 縄文 C1 M8 D2    弥生以前
A半島/九州 O2b1 47z  弥生早期 突帯文土器  
B東胡/靺鞨 C3 M217 C3c M86 弥生後期 墳丘墓
C内モンゴル・満州  O2b SRY 古墳中期 百済
Dモンゴリア N1c1 M178    古墳後期以降
E欧州中近東犬戎系 Q-P36 Catacomb Culture R-M207 Uighur I-P19 Tocharian
                古墳後期以降

62 :
古墳中期河内王朝は本州に須恵器・巨大古墳の時代をもたらしたが、この頃九州に渡来してきた秦氏等は
吐谷渾と青海の羌戎であった。つまり、河内には後の物部に繋がる勢力が成立し、筑紫、特に豊前には吐谷渾
(豊国)が大陸における秦ブームを意識して対外的に秦王国を名乗ったりしていた。
継体王朝には四川に興った五斗米道から始まる道教集団が北魏分裂と共に九州に上陸、修験道としてやがては
紀伊熊野に入る時代の幕開けであった。古代日本の脈動が始まり、仏教と神道の対立を通じて次第に国家的
宗教が模索されるようになった。

63 :
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>46
>秦氏とは秦始皇帝の末裔ではなく、華東、華南に分布した徐・呉の末裔で
>弁辰鉄を開発したものではなかろうか。

>>59
●三輪王朝=百越(呉・テン・夜郎)
 B琅邪・会稽 徐/呉民 O3a3 M159 大和 → 神獣鏡

●河内王朝=蜀(秦・羌・Qiong)
 C川西羌/陝西・秦  O3a2c1 M134 O3a2c1a M117 山城・秦氏
 E巴(射楯兵主/丹)(射手対付鮫魚) O3a2 P201 Tujia O3 002611 Miao
  播磨・但馬・紀伊 → 内行花文鏡


もう数年にわたって何度も指摘しておりますが
「秦氏は徐福の孫」と伝承される由縁ですね〜

64 :
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>63
しかしこれで時系列的に疑問が沸くのが

内行花文鏡は後漢鏡
神獣鏡は呉鏡

であり、内行花文鏡を奉じた秦氏の方が先立ってわが列島に渡来していることになる

65 :
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>64
>>59
>鳥トーテムをもつ秦王室とその族裔たち
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/hatareisei/hata1.htm
>秦王朝は中国の西疆たる陜西省の地に興起したが、鳥トーテムをもつ東夷の一派が
>西遷したものとみられている。
>秦と同じ姓や同族の偃姓の諸国が春秋時代に山東からその南方にかけて展開した
>という事情も、その辺の傍証となろう。

鳥トーテムで鳥装のプレ秦氏の到来は、秦朝統一以前の春秋時代にまで遡るのではないか?

66 :
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>65
山東半島から東夷(鳥トーテムで鳥装のプレ秦氏)が渡来したと言えば
わかりやすいものを
朝鮮半島から穢人が渡来したとすり替えるから、迷走するのですよ〜

67 :
>>63-65
銅鐸民は “鳥神”を奉じる“羽民”であり、徐福求仙団に入り、匈奴、エベンキの地、烏洛侯から三韓に入り
鳥形祭器、ソッテを残したが、銅鐸圏においても大和盆地では越王の鳥台を飛鳥に置き、尾張朝日遺跡では
“安集鳥田之瑞”に則り尊鳥崇鳥の鳥田儀式を行った。彼らは夏王朝開祖禹の子孫の越民であり、中国最初の
製鉄文化人でもあった。鳥トーテムの大元と言える。ところが中国には羌族も夏の末裔とする伝承と共に秦、
山東の徐も羸姓とする伝承も存在する。おそらく河内の秦姓は三輪王朝以前に渡来した“羽民”であったものが、
秦氏との鳥トーテムの同一性からその姓を採用したものではないかと考える。

68 :
因みに呉の画文帯神獣鏡に固執するのは:
西周王朝的同族原本位于今棗荘地区(山東省南部)的姫姓東呉国在西周王朝的支持下向南拡張,
掠取了淮夷諸国的大片領地; 在春秋中期,姫姓東呉国勢力拡張到長江下遊南岸,成為南呉国的又一箇勁敵。

69 :
【話題】国内最古の「多鈕(たちゅう)鏡」鋳型、福岡で出土…権威の象徴だった多鈕鏡はすべて朝鮮半島製とする定説を覆す[05/29]&#169;2ch.sc
http://yomogi.2ch.sc/test/read.cgi/news4plus/1432842866/

70 :
>>68
画文帯神獣鏡と共に楽浪郡より渡来した積石塚ホケノヤマ族は楚同様に有虞氏“虎方”“南呉国”を嶺南に
?追い込んだ周王朝をバックとした新勢力であり、“南呉国”は分解し、揺族となって最終的にはデン国南方
の盤瑶、山子瑶として残っていた。この盤瑶、山子瑶の盤瓠伝説が瓊瓊杵尊となったものと考える。

71 :
>>70
従い、瓊瓊杵尊神話を奉じた部族は二重口縁丸底土器の口縁「盤口」に拘泥したポリツェ民族中に
あり、神武一族は嶺南経由庄内式土器と共に渡来したものにあり、ピョンヤンから画文帯神獣鏡と共に
渡来したものではなかったのだろう。

72 :
>>71  しかし、飛鳥に越の鳥台・雲梯を築き、鳥神・かやなるみ神を奉じ、金鵄の加護を受けるなどは
銅鐸羽民越人の世界観であり、出雲国造神賀詞等は習合プロセスそのものであった。

73 :
三輪王朝を築いた雲南省を中心とする地域の民族は始皇帝が五尺道プロジェクトに関与した諸民族百工の
子弟であったが、なんと彼らは先秦時代に山東、河南、湖北及河北、安徽、江蘇部分地区から雲南に移住し
たもの、つまり、土井が浜等日本弥生時代人骨に最も多くみられるものであった。

74 :
参考
呉太白裔=西周王朝的同族原本位于今棗荘地区(山東省南部)的姫姓東呉国
--------------------------------------------------------
有虞氏“虎方”“南呉国”→盤瑶
盤古、盤瓠与瑶族、畭族的来源 文/東皇太一 2012-4-19
http://blog.sina.com.cn/s/blog_47827cbb010100vs.html
瑶族的発祥地
因此,可以確定的是,瑶族的発祥地不是在湖南境内,而是
-----------------------------------------------------
在湖南以北的黄河、長江中下遊地区,江淮中上遊地区,範囲包括今
山東、河南、湖北及河北、安徽、江蘇部分地区。
這一地区正是九黎及三苗活動的範囲。
瑶族的発祥地在那裏? 2011-11-05 本文行家:趙明
http://a1.att.hudong.com/48/74/19300001370745132054747082141.jpg
http://yaozu.baike.com/article-95156.html 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:a1694171c52d18691058ee628c4f7c04)


75 :
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>73
>始皇帝が五尺道プロジェクトに関与した諸民族百工
>なんと彼らは先秦時代に山東、河南、湖北及河北、安徽、江蘇部分地区から
雲南に移住したもの、
>つまり、土井が浜等日本弥生時代人骨に最も多くみられるものであった。

ですから、先秦時代にプレ秦氏が、山東半島から直接わが列島に到来したのでは
ないでしょうか??

→ 土井が浜等日本弥生時代人骨

76 :
>>75 >>47 http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/kibaminzoku/kibaminzoku2.htm
>本稿では詳細は記せないが、これら遺跡は天孫族の移遷の経路(筑後川中流域から関門海峡を通じ、日本海
>沿岸を経て出雲方面へ)の上にあり、出土した人骨は天孫族関係集団の構成員のものではなかろうか。ただし、
>同集団内で通婚すれば、形質が変わらないことを考えると、同族内通婚が継続したり集団がかなり大きい場合
>には、日本列島渡来後に数世代を経ている可能性も考えられるので、土井ヶ浜の例はこのケースではなかろう
>か。ここの人骨は箱式石棺に入れられたものもあり、約三百体のなかには、胸の上に鵜を抱く形で鉄製の副葬
>品をもって埋葬された巫女の遺骸(第一号人骨)も見られて、鳥トーテムの関係でも留意される。---
>土井ヶ浜遺跡の南方約三十キロには、弥生中期の梶栗浜遺跡(下関市安岡)があり、箱式石棺のなかに多鈕細
>文鏡・細型銅剣など大陸系の遺物が入って出土したことで有名である。これまで九基の箱式石棺等が確認さ
>れ、副葬品として銅剣・銅鏡・管玉が見られる。---
玄界灘沿岸では甕棺墓の消滅と交替に箱式石棺墓が出現するのは金印倭奴国の時代。

77 :
>>65 >>64 >>59
天孫族原郷 箱式石棺墓原郷・藏彝走廊
http://image2.sina.com.cn/dy/c/2003-12-14/1071373175_GiaihZ.jpg
戦国後期形勢図
http://imgsrc.baidu.com/forum/w%3D580/sign=432f73d879899e51788e3a1c72a6d990/1e5401cb39dbb6fd24b345030b24ab18962b37bd.jpg
>鳥トーテムで鳥装のプレ秦氏の到来は、秦朝統一以前の春秋時代にまで遡るのではないか?
たとえ始皇帝でも、越王勾践でも、たとえ、朝鮮半島であっても、この時代兵を進めることは
不可能。

78 :
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>77
>鳥トーテムで鳥装のプレ秦氏の到来は、秦朝統一以前の春秋時代にまで遡るのではないか?
>>76
>玄界灘沿岸では甕棺墓の消滅と〜

わが列島の甕棺墓が興盛する松菊里文化並行期は、大陸で春秋時代にあたります
この時期に遠賀川式土器が全国に伝播していくわけですね〜
http://www2u.biglobe.ne.jp/~itou/yayoi/nenpyou.jpg

この甕棺墓から大量出土する北方形質の人骨は、いったいどこから渡来したというのでしょう〜??

79 :
「北方モンゴロイド」
弥生系は長江越族(O2)と中原漢族(O3)/北方モンゴロイドなので、
胴長短足・薄い体毛・奥二重か一重・大きな歯・粉耳垢・薄顔・下戸
http://okwave.jp/qa/q4916957.html
北部九州弥生中期城の越/須玖
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/doki/yanagida.png
II 金海 城の越 汲田
分散所有型 
漢以前の朝鮮産青銅器  
南筑後 熊本 大村
甕棺独自の焼成制作技法の確立 器高50cm
III 須玖 立岩古 
朝鮮・前漢・九州産青銅器・鉄器 
嘉穂
焼成法の進歩 調整パターンの確立
器高 1m
IV 立岩新 桜馬場 三津永田 
集中所有型 
王莽 後漢 
九州産青銅器  熊本福岡佐賀で衰退
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/fujio/kyushu/kamekan9.jpg
徐福出航は前210年であり、吉野ヶ里、須玖、三津永田は徐福ミッション以外には考えられない。
前期弥生以前の突帯文、板付遠賀川は主としてO2b1であったと見られる。

80 :
徐福ミッションの内、吉野ヶ里に上陸した百越銅鐸民は、青銅原料を持たない段階であっても概念的に銅鐸の
イメージを持ち、土製品を製造していたが、やがて鋳型を作り、青銅製銅鐸の青蔵を開始した。
彼らが後に出雲に入り、更には近畿、東海へと進出、銅鐸を創造した。
http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-0a-2d/kawakatu_1205/folder/1583928/55/53255455/img_1?1293679754

81 :
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>79
>徐福出航は前210年であり、吉野ヶ里、須玖、三津永田は徐福ミッション以外には
考えられない。

弥生前・中期の吉野ヶ里は、まだ甕棺墓の時代ですよ〜
http://www.yoshinogari.jp/contents3/?categoryId=13

http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/doki/yanagida.png

http://www2u.biglobe.ne.jp/~itou/yayoi/nenpyou.jpg
上図のとおり、弥生開始年が大幅に繰り上がっているわけです〜

82 :
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>81
http://www.yoshinogari.jp/contents3/thumbs_files/1205824377_1.gif

しかし改めてこの吉野ヶ里歴史公園のHPに載っている絵を見ると
細かい箇所までなかなか秀逸に描かれていますね〜

つまり、すでに弥生前・中期の甕棺墓列が形成される時代には、千木・鰹木を有する
高床式太陽神殿が設営されており、おまけにその傍らには、神籬(ひもろぎ)となる
立柱祭祀まで施されてます
高床式太陽神殿は弥生期になってから付加されたが、立柱祭祀は縄文由来のものでしょう

このように高床式太陽神殿(弥生文化)や立柱祭祀(縄文文化)が、わが大和民族の
基層にある祭祀体系の基本的な組合せとなり
古墳時代の幕開けとなった王都の纒向遺跡にもきちんと引き継がれて、その後の
継体朝でも発展していきます〜
http://www.eonet.ne.jp/~yamataikoku/images/seioubo_saisi.jpg

そしてそれが、現代なお手厚く保護される神社とご神木・ご神域の関係に
受け継がれているわけですね〜

83 :
>>82
http://www.yoshinogari.jp/contents3/thumbs_files/1205824377_1.gif

>しかし改めてこの吉野ヶ里歴史公園のHPに載っている絵を見ると
>細かい箇所までなかなか秀逸に描かれていますね〜

この「うてな」墳丘墓は、主として出雲・尾張において紀元2世紀東バイカルから南下した東胡・烏桓の四隅突出型
墳丘墓・前方後方墳の二次平面的図形を、その「基礎完成,也就確定了敦子的範囲,即確定了墓地的範囲」
プロセスに習合して取り込み、弥生墳丘墓に成長した。
更にそれは三世紀後半に入り箸墓に象徴される前方後円墳に成長する。
江蘇句容、金壇土敦墓考古獲重大突破 “土敦墓是西周時期江南地区的一種特殊的埋葬方式,主要分布在
蘇南、皖南和浙江上海等長江下遊一帯。

従発掘的情況看,土敦的営造大致経暦這様一箇過程:
首先平整土地;再在其上舗dian(mat/bed)1-3層土,形成土敦的基礎,現有資料顕示「基礎完成,也就確定了
敦子的範囲,即確定了墓地的範囲」;
在基礎的中心部位建造中心墓葬及相関建築,封土形成最早的墳丘。
也有在土敦中部生土面或基礎面上建造祭祀性建築,后在建築基礎上堆土再建造中心墓葬;
以后不同的時期在墳丘上堆土埋墓,或進行祭祀活動;
在一定時期后再進行一次封土,停止埋墓和祭祀活動,
完成該土敦即墓地的経営過程。
http://www.kepu365.com/history/ZRKG/200701/48556_2.html
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku267.htm
臺(うてな) 眺望をよくするために、土を積んで高くした所。〈和名抄〉
七城町うてな遺跡
http://kyouiku.higo.ed.jp/page/pub/default.phtml?p_id=1236
http://kyouiku.higo.ed.jp/page/pub/default.phtml?p_id=1264
七城町の弥生時代の環濠集落であるうてな遺跡は、部分的な発掘しか行われておらず、話題にはなっていない
が、環濠の大きさや集落の規模は、佐賀県の吉野ケ里遺跡に匹敵するのではないかと言われることがある。
http://www7.ocn.ne.jp/~sui-yama/kumamoto.htm
http://yumeko2.otemo-yan.net/e322658.html

84 :
>>83 吉野ヶ里土敦墓は東胡石板墓の影響を受けない最早期つまり第一波の純粋の徐福求仙団の遺跡だった。
他方、「土敦墓は、中国のきわめて限られた地域(春秋戦国時代の呉、越の地域付近)で行われた埋葬形態で
あった。越が楚に滅ぼされ、江南一帯が楚の領土となってからは、土敦墓は消滅し、楚の木槨墓が行われるよう
になった。吉野ヶ里などの弥生時代の墳丘墓が、中国江南地方で呉・越の限られた時代に行われた土敦墓の
影響を受けた可能性を示しており、この時代の人々が、日本列島に渡来したことと整合する。」
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku267.htm
ところがこの「越が楚に滅ぼされ、江南一帯が楚の領土となってから」
「古代中国曾誕生過被称為“春秋五覇”的両箇国家--句呉和于越。拠《史記・越王勾践世家》,公元前473年,
越王“勾践已乎平越,乃以兵北渡淮,与斉、晋諸侯会于徐州,致貢于周。周元王使人賜勾践胙,命為伯,
勾践已去,渡淮南,与淮上地与楚,帰呉所侵宋地于宋,与魯泗東方百裏。当是時,越兵横行于江、淮東,
諸侯賀畢,号称覇王”。勾践滅呉之后,統領故呉之地,到了公元前334年,越国被“楚威王興兵而伐之,
大敗越,殺王無彊。尽取故呉地至浙江”。于是,故呉越之地皆併入楚之版図,越国軍隊亦併入楚国軍隊建制,
因呉越地処楚国之東,併入楚国之越人軍隊,被称之為“東地兵”。楚国的越人東地兵,追随首領荘
Zhuang Qiao西進Dian池域建立古Dian王国,他們是石寨山型銅鼓的設計鋳造者。」
http://blog.voc.com.cn/blog.php?do=showone&type=blog&itemid=58598
吉野ヶ里から出雲、近畿、東海へと進んだ渡来徐福銅鐸民はこのテン国、楚国之越人軍隊,“東地兵”
であったのだ。

85 :
●徐福の匈奴・三韓経由渡来説はキルギスタン、アルタイ、トゥーヴァ、バイカル考古学を加味することにより、
鳥越、諏訪、江上、暦博藤尾甕棺、新宮徐福協会の論述する考古学古代史仮説を万遍なく、齟齬なく説明する。
●しかし、この過程で明確になる前二千年紀前半のボルガ・ウラルにおける犬戎の形成と、これによるエジプト
第二中間期ヒクソス、中国周王朝の形成は日本古代史解明が世界史にとって要の位置を占めることは、
今後日本の次の世代による考古学の研究発展の重要性を物語る。

86 :
ハヤヒワケとは肥前、肥後の火の国、であるが、弥生末に渡来するニニギ(陶芸の神)族の代表神武にとって、
ニギハヤヒとは出雲に代表される弥生中期火の国由来の部族の祖神であったのではなかろうか。
そして天孫とはテン国ゆらい由来の徐福求仙団(秦亡民)のことではなかっただろうか。

87 :
BC3C末、徐福一行の故郷、江蘇省北部では三足土器で炊飯していました。

粗製灰陶で出来ている鬲や鼎です。

灰陶も鬲も鼎もさっぱり伝わっておりません。

秦王朝のシンボルであり、祭器であり、死後、墓に埋葬されるはずの鼎も
土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。

古代中国の主力の農耕具だった石鋤などの石刃の農耕具もさっぱり伝わっておりません。

縦笛の簫、磬、鐘、鐃、ロ于、鉦など、様々な楽器もさっぱり伝わっておりません。

中国青銅器は飲食器が中心のはずですが、鬲や鼎のみならず、様々な器形の酒器も
さっぱり伝わっておりません。

中国青銅器の表面を飾る文様である龍文はもちろん、龍信仰さえ伝わっておりません。

様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。

漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物なども全く出土しません。

徐福なんて来ておりません。

ただ無知で馬鹿で頭の弱い知恵遅れだけがダマされる創作です。

88 :
「旧呉越の地は一切楚国の版図に編入された。越国軍隊はそのまま楚国軍隊となった。旧呉越の地は楚国東部
に位置したことから、楚国軍隊に編入された越人軍隊を“東地兵”と呼んだ。楚国の越人である東地兵は首領
Zhuang Qiaoに従って西進しDianchiで古Dian王国を設立し、彼らが石寨山型銅鼓を設計する。」
これが吉野ヶ里人↑

89 :
旧呉越の地では漢代に後の青磁越州窯の原型が芽生えるが、古テン王国でも「泰族慢輪制陶技芸」があり、
http://www.baike.com/wiki/%E5%82%A3%E6%97%8F%E6%85%A2%E8%BD%AE%E5%88%B6%E9%99%B6%E6%8A%80%E8%89%BA
これらは匈奴回転台陶器、東京都大田区久が原出土弥生土器等を生んだ
Xiongnu potter's wheel ceramic
http://kronk.spb.ru/library/hudyakov-yus-1989.htm

90 :
>>88
じゃあ、何で吉野ヶ里に銅鼓が伝わってないんだ?


>>89
旧呉越の地ではな、日本が弥生時代に入ってウホウホ言っていたその数百年も
前のBC14C頃には既に原始青磁の時代に入ってるんだよ。

日本に大陸のどこかから弥生土器が伝わったその数世紀も前から既に旧呉越の
地は土器じゃないんだよ。



「 陶 磁 器 」なんだよ。



何で渡来人は陶磁器じゃなくて弥生土器なんか伝えてるんだ?

しかも旧呉越の地に独特の器種も何一つ無い。

91 :
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>84
>吉野ヶ里土敦墓は東胡石板墓の影響を受けない最早期つまり
>第一波の純粋の徐福求仙団の遺跡だった。

ですから吉野ヶ里土敦墓のわが列島への到来は、秦統一以前の春秋戦国時代に
なるようではないでしょうか??
http://www.yoshinogari.jp/contents3/thumbs_files/1205824377_1.gif

92 :
>>91 >>84
>ですから吉野ヶ里土敦墓のわが列島への到来は、秦統一以前の春秋戦国時代に
>なるようではないでしょうか??
暦博藤尾氏サイト↓
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/fujio/kyushu/kamekan9.jpg
ここでいう通り甕棺は刻目突帯文、板付から始まる。しかし、甕棺独自の焼成制作技法の確立は
徐福出航の前210年からに合致する金海・城の越・汲田に始まり、焼成法の進歩、調整パターンの確立は
須玖・立岩/古に起こる。そしてその後、立岩/新・桜馬場・三津永田の時代に消滅する。甕棺は本来刻目突帯文
土器人と共に入ってきた文化であり、銅鐸人はその文化に順応した。彼らは立岩/新方面にまで箱式石棺墓文化
が到来するとそれらと共に東方に移動した。

93 :
徐福集団はなぜ絹織物技術は持ち込んだのに、極東b器等とも称される須恵器を吉野ヶ里に持ち込めなかっ
たのか。
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page137.html
なぜ匈奴には回転台土器技術が渡ったのか。
こうしたばらつきは百工が均質的なものではなく、原郷における集団単位にある程度別れていたことを示唆する。

94 :
>>93
弥生開始以前から古代中国のファッションは帯の付いたローブだよ。

ボタンが付いたものも既に登場していたし、今で言うベルトのバックルみたいに
帯を絞める時に使う帯玉が必須アイテムで、中でも龍を彫った帯玉が一番人気の
ファッションアイテムだった。

帯もローブもボタンも帯玉も龍も、何一つ伝わってないけど、
何でこれら中国のファッションが何一つ伝わってないの?

それに極東b器以前に、何で中国土器に独特な器種や穴窯の一つも
伝わってないの?

95 :
呉、越、楚、秦、テン、匈奴と絶えず追われながら、南蛮の地から、西戎、化外、北狄、東夷の地を経て列島に
たどり着いた民族には、華夏文化が何一つ伝わってないのが自然だが、逆に南蛮、西戎、化外、北狄、東夷の
文化、イデオロギーは極めて良く伝わっている。Core, Periphery, Marginと同心円を三分層した場合のMarginの
部分を回遊したことはそれだけユーラシアの多くの文化に触れたことになる。ユーラシアにとって中華は特殊な
ケースであり、その文化が全面的に他の文化に卓越しているというのではない。逆にMargin民族は遠くナイル、
ドナウの彼方の文化の恩恵を受けることとなった。

96 :
南蛮-庄喬、西戎-始皇帝、東夷-徐福、北狄-冒頓・・・大和族は主にテン王国を中心とする西南夷だが、
日本建国の原因はこうした沿辺の英雄達のそれを意図しない行動にあった。

97 :
テン王国なんて日本に何も関係ありません。

おかしな詐欺はやめなさい。

98 :
>>6 参照
テン王国の領域というのは「弥生時代の銅鐸の文様の源流について 末房由美子」の添付地図において
Wanjiaba、石寨山銅鼓出土領域と図示されたところであって、更にこの地図で越族青銅器分布とされた広西省
横峯、福建省南安は「楚国越人是石寨山型銅鼓的設計鋳造者 黄懿陸」で楚国越人とされたものの原郷であり、
呉太白裔を含み、日本に神体山信仰、鳥形祭器、土敦墓、製鉄、鋳銅、銅鐸、絹織物等をもたらしたもの。
それは紅河となってハノイにくだる元江の右岸であり、広州珠江デルタに向かう北盤江に沿うように展開する。
unnang Map
http://www.bnxgx.com/uploads/allimg/131026/2-131026132235632.jpg
旅游略図
http://i1.okmk.com/map/2004961204678.gif
雲南旅游案内
http://guides.okmk.com/travel_intro_25.html
雲南省河流水系分布図
http://img.ph.126.net/-deS0kVTbUW390QqiwOoIg==/2758736246758090725.jpg
美哉云南(21)雄峻的地勢地貌
http://baijizhou19520101.blog.163.com/blog/static/6938892920118167127709/
http://en.wikipedia.org/wiki/Jinsha_River 上海
http://en.wikipedia.org/wiki/Nanpan_River 香港
http://en.wikipedia.org/wiki/Red_River_(Asia) ハノイ
http://en.wikipedia.org/wiki/Mekong ホーチーミン
http://en.wikipedia.org/wiki/Salween_River ミャンマー東部
http://en.wikipedia.org/wiki/Irrawaddy_River ミャンマー中央

99 :
↑元江の左岸だね、ごめん。さて、元江西側にはカンボジア、ベトナムで河口に達するメコンが南流するが、ここ
が水神信仰、棟持柱千木高床神社、慢輪土師器・須恵器、子安貝通貨のダイ族の原郷。
メコンの西側にはミャンマー東部、中部を下りアンダマン海に南流するサルウィーン、イラワジがあり、雲南はま
さに東南アジアの高天原。この高天原から秦-匈奴経由オビ、エニセイ、レナ、アムールの高天原、サヤン・アル
タイ、興安嶺に降臨したのち、大和に降臨するのが大和族だから詐欺臭いんだよね。

100 :
↑メコン上流のダイ族については↓この2つは必読。
「Dai族的水文化伝統与可持続発展 鄭暁雲」
「朝鮮半島における土器の技術革新と生産体制 : 民族事例の比較研究 長友朋子」


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