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戦国ちょっといい話44


1 :2016/07/28 〜 最終レス :2017/06/07
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話43
http://hanabi.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1447636011/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話43
http://hanabi.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1452933689/

【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1196778610/

2 :
あーあ絶対荒れるねこれ
それも面白いから別に良いけど

3 :
>>1


4 :
四六 自分の知らない芸を嫌うという者が多い。逆に自分の得意な芸能はもてはやす。
   これは道理に合わないことだ。それぞれの好き好きではないか。

四九 総じて、落ち目の人を救うことが大切である。

七二 宿を発つ時、一人を後に残して座敷その他を見まわってから出るべきだ。必ず道具を
   忘れていることがあるからだ。

七六 不用心な道中を通る時は、錐をこしらえ持つべきである。色々と便利だ。錐のこしらえ方に
   心得が有る。

七九 人をしとめる時は、その前に言葉をかけてはならない。刀を打ち付けるのと同時に言葉をかけよ。

八一 負け戦の時は、豆板銀壱歩を飲み込むべし。強盗によって身ぐるみ剥がされてもその後大便と
   ともに出てくるのだ。ただしその飲み方については口伝がある。

一〇〇 人の好む芸能や道具について貶してはならない。それぞれ好き好きなのだから。

一〇一 碁や将棋で人に助言をしてはならない。慎むべし。

一二二 若いうちはどんな芸でも習うべきだ、捨てるのは簡単である。盗人のやり方だって習えば、
    盗まれない用心のためになるのだし。

一二七 得な事ばかりを好んでも、損をすることがある。しかしわけもなく損を好むのは間が抜けているし、
    得をする道があるのなら得をするに越したことはない。だからといって吝いばかりでは世の中
    成り立たない。損することが不可避なときに損を厭ってはならない。その時々の状況による。

一二八 常に運が悪くても我慢すべきだ。…などというが、それも状況による。我慢することばかり
    心得ていてもよくないぞ。

一三〇 人に物を言うのに繰り返しくどくど言ってはならない。聞き苦しい。

一三七 人に喜ぶべきことがあれば、自分で見舞いに行っても人を遣わしても良いので祝福の意を伝えよう。
    人の喜びを喜んで、後悔の有るわけがない。

一七一 もし止むを得ず家来を手討ちにする時は、一刀打ち付けたならば続けて二つ三つと討つべきだ。
    一刀にて様子を見てはならない。切れてない時は逆襲され自分が負傷するからである。
    よく心得ておくように。

(高山公遺訓ニ百ヶ条)

藤堂高虎の遺訓より、現代でも役に立ちそうなものをいくつか

5 :
早速役に立てられてないぞお前さん。
阿呆なのか。

6 :
現代でも使う「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」とかもあるな

7 :
嘉明辺りに自分の好きな芸能でも馬鹿にされたのかな

8 :
>>4
八一下手すりゃしにそうw

9 :
前スレの清正の鎧の記事、河北新報(宮城県)の記事ではもう少し詳しく描いてあったので一応
こちらの記事の写真だと、先の記事ほど目立つ青色でなく、よくある甲冑画像の様なおとなしめの色合いに見えるね

http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201607/20160725_75007.html
よろいは室町末期の形状で、清正が青年期に身に着けていたと伝えられる。熱田さんは
「武将の誇りを示そうと、あえて高価で伝統のあるよろいを選んだのではないか」と述べ、
天沢寺によろいを寄贈した。
再現したよろいは胴部分の高さが約35センチ、重さ6.5キロ。室町末期以降、鉄砲の
威力に対抗するため作られた当世具足(とうせいぐそく)の一種「最上胴丸」で、複数の胴板を
ちょうつがいで止めてある。
よろいをつなぐ糸の色は判別できなかったため、甲冑の色として当時流行したあさぎ色で再現した。
鶴岡市は清正の死後、長男で2代藩主忠広が配流された地で、忠広が天沢寺で清正の遺骨を葬ったとされる。
オリジナルのよろいは1949年、ばらばらになった状態で掘り起こされ、現在も境内に保管されている。
8年前、知人の紹介で訪ねた天沢寺でよろいの存在を知った熱田さんは約3年かけて再現作業に当たった。
欠損部位を同時代の甲冑などから推測し、2領の試作を経て完成に至った。
熱田さんは「作業を通じて清正が胴長体形だったと思われる証拠などの発見があった。よろいは加藤家に
繁栄をもたらした武具として忠広や清正の妻が埋めたのではないか」と語った。

10 :
ぜんぜん発色ちがうねw

11 :
>>4
七九はあまり役立てたくないですねw

高虎さんは死ぬ間際に200条も遺訓を口述したのでしょうかw

12 :
>>11
『高山公遺訓ニ百ヶ条』は、高虎の死後、その側近くに使えていた太神朝臣(佐伯?)惟直という家臣が、
生前高虎が言っていたことを編纂したものだそうです。

13 :
小野次郎右衛門遠流の事附御免にて召し帰られし事

 世に愚かな者がいた。両国の辺りに看板を出し、
「剣術無双の者なり。誰でも真剣で立ち向かってこい。
たとえ切り殺されても厭わない。」
とのことを記した。

 都鄙から夥しい見物人が来て、
彼を切ることができず木刀でやっつけられた者は門弟となり、
もっぱらの評判となった。

 次郎右衛門がこれを聞き及んで、

「かのようないかがわしい者を天下の御膝元に置く事ふがいなし。」

と門弟を引き連れて見物に行った。
桟敷でかのいかがわしい者のなせる業を見て門弟一同は微笑していたのを、
かの者が聞いて大いに怒り、
「どうして笑いなさるか!
すでに看板を出しておるように、誰でもあれ真剣で試合しようと言っている。
笑いなさるのならば、ぜひ立ち合ってくだされ。」

と罵ると、傍輩の者が

「あの桟敷にいるのは、将軍家の御師範次郎右衛門です。」

と押し留めたが、全く聞き入れなかった。

「たとえ御師範であろうとも」

と申し止らなかったので、次郎右衛門も嘲られては武備の恥辱と、やむを得ず下へ降りて

「しかる上は立ち合おう」

と、鉄扇で立ち向かわれた。
かの者は正眼にかまえただ一討ちと切りつけたので、あわやと思われたが
いかがわしき者の眉間は鉄扇で打ち砕かれ、二言なく果てたという。

この話を大猷院様(家光)が御聞きになられ、
「師範たる者の行状ではない。」
と遠流を仰せ付けられたとか。

14 :
 その後のことである。流された先の島では畑の瓜・西瓜を盗み食う曲者がおり、
捕らえようと島中の者が集まっていた。
しかし、盗人は大勢に手を負わせ、瓜小屋に籠り、小屋の周りに西瓜・瓜の皮を並べて、
捕り手の者が込み入っても瓜の皮を踏んでしまい身体が自由にならず、
多人数が死傷を負ってしまった。

次郎右衛門の元へ島の者どもが来て、

「なにとぞ捕らえてください」

と嘆くので、次郎右衛門は粗忽にも軽々しく脇差をおっ取り駆け行った。

「瓜の皮で足場がよろしくありません。」

と傍らから申してきたが、耳にもかけず駆け行き、やはり瓜の皮を踏んで仰向けに倒れてしまった。
待ち受けていた曲者は拝み打ちで打ちかけたが、
小野派の神妙といわれる太刀筋で、滑りながら脇差を抜き払って、上へ払うと
曲者の両腕ははたと落ち、すぐに召し捕らえられたという。

この趣が江戸にも伝わり、召し帰され、即時に元の禄を下されたという。

さて、次郎右衛門が召し出された時、、
「彼は遠流でしばらく剣術の修行を怠っているだろう。
我は日夜修行してきたので、立ち合って成果をみせてやろう」
と、大猷院様の思し召し、毛氈を敷いて、木刀を組み合わせて
「いざ、次郎右衛門、立ち合え」
との上意をされた。

次郎右衛門は謹んで毛氈の端に手をついて居た。
ただ一打ちにしてやろうと御振り上げ御声をかけられた時、
毛氈の端を取り、後ろへ引いたので、後ろへ御転びになられたという。
よって、大猷院様は御信仰なされ、一刀流を御修行なされたという。
(耳袋)

15 :
>「瓜の皮で足場がよろしくありません。」
>と傍らから申してきたが、耳にもかけず駆け行き、やはり瓜の皮を踏んで仰向けに倒れてしまった。



言っちゃ悪いけど次郎衛門ってやっぱバカだよな・・・

16 :
敵の誘いにわざと乗って油断して掛かってきたのを返り討ち
知勇兼備の男だと思うね

17 :
>>9
鎧を埋めるって珍しいような気がする。遺骨と一緒に埋めたんだろうか。

>>13-14
脳筋過ぎないこの人wそれで勝っちゃうのが凄いけど。

18 :
わざと引っかかったのか、そうでないのかはわからん
ただ、咄嗟に脇差しを抜いて払っているあたり、わざとかかったようには見える
まあ、ただの反射神経かもしれんが

19 :
>>17
伊達政宗は墓所の発掘調査で副葬品に甲冑が発見されているし(政宗は例の弦月前立て黒漆の甲冑を同形式でいくつか作ってて、そのうちで一番お気に入りと考えられている)
武田信玄も上杉謙信も甲冑をまとって大甕に遺体を納めたとか、よくある話じゃないですか

20 :
>>15
言っても悪くないぞ。 俺もそう思うから。

21 :
天正三年2月下旬、織田信長は岐阜を立ち、3月2日に上洛して、相国寺に滞在した。
同月16日、今川氏真が駿河より上洛して信長のもとに出仕し、千鳥の香炉、宗祇香炉などを進上した。

その後信長は、氏真が蹴鞠の上手であると聞き、蹴鞠の興行を行ってそれを見物した。
氏真に対し、三条大納言父子、烏丸殿、藤の宰相殿、飛鳥井殿父子、広橋殿、五辻殿、庭田殿といった
蹴鞠において名のある錚々たる人々が入れ替わり立ち変わり挑戦したが、氏真の足さばきは、
どこで区切りがあるのかすらわからないものであった。

(甫庵信長記)

今川氏真、信長の前で想像を絶する蹴鞠の実力を見せつけたらしい、というお話。

22 :
この話読むたび、親の仇の前でよくやるなと思うが

23 :
>>21 甫庵信長記ということは、信長公記にも原文の記載があるはず。ぐぐってみた。

3月16日、信長公のもとへ珍客が出仕した。
それは今川氏真殿であった。氏真殿は百端帆(香炉または何らかの宝物)
を持ってあらわれ、これを信長公へ進上した。なお氏真殿は以前にも
千鳥の香炉と宗祇の香炉を信長公へ進上しており、そのとき信長公は
千鳥の香炉のみ受け取って宗祇の香炉は返却してやっていた。
 会見の中で信長公は氏真殿が蹴鞠をよくすると聞き、見物を望んだ。
かくして3月20日相国寺内において蹴鞠が催され、信長公の見物するなか
氏真殿ほか三条殿父子・藤宰相殿父子・飛鳥井殿父子・広橋殿五辻殿・
庭田殿・烏丸殿が技芸を披露した。

甫庵やっぱり加筆してやがる。

24 :
>>22
働けよ放蕩息子、と苦言を言ってきた親が死んだんだ
むしろ感謝すべきだろう

25 :
>>23の中で、「会見の中で信長公は氏真殿が蹴鞠をよくすると聞き」とあるので、
氏真が自分から蹴鞠のことを宣伝したようだ。
だから、親の仇の前でやらされたのではなく、親の仇の前でパフォーマンスか
「戦では負けたが、信長よ、これがお前にできるか?。できまいて。本当は俺の勝ちだ」
ってか。

26 :
ある時徳川家康公はこう言われた

「人間の中に、天性優れた者などというのは少なく、大方は百万人並なものだ。
それなのに杓子定規に当てて、アレがダメ何がダメと能力が足りないのを嫌い取り去っていては、
人材など大方無いということになる。

人を使う時、二つの目の付け方がある。
一つは大工が木を使う時のように、それぞれの性質形状に合わせて用いること。
もう一つは、大道の中のように、いずれもが片側を通るような、そういうルールをつくる工夫が大切である。」

(松のさかへ)

27 :
>>26 徳川家康は確かに人使いがうまいな。異能の人を使うのがうまいと思う。

28 :
http://www.shimotsuke.co.jp/news/tochigi/top/news/20160607/2348267

戦国時代から江戸時代にかけて活躍した武将と足利学校の関わりを紹介する企画展
「戦国武将と足利学校」が昌平町の同学校旧遺蹟(いせき)図書館で始まり、
同学校が徳川家の吉凶を占い献上した「将軍家年筮(ねんぜい)」など史料約15点を展示している。

武将たちは家臣を軍師に育成する場として、経済面で同学校を保護した。
第9世庠主(しょうしゅ)(学校長)は、徳川家康(とくがわいえやす)に仕えていたという。

同展では、武田信玄(たけだしんげん)の子勝頼(かつより)が
同学校を守るためにしたためた書状「武田勝頼禁制」などを展示している。

企画展は2011年に開かれ、2回目となる今回は真田幸村(さなだゆきむら)に触れた歴史書など4点が新たに加わった。
劣化を防ぐため、史料の一部は期間限定で公開されている。



2ヶ月ほど前の記事ですが、期間は9/1まで、8/17から実資料公開だそうです
http://www.city.ashikaga.tochigi.jp/site/ashikagagakko/senngokubusyoutenn.html

29 :
増上寺の了的、茶臼山御陳へ下向の事

神祖が大坂御陣の時、江戸から観光智国師〔増上寺中興〕の使として了的を差し向けた。
〔これは国師の高弟で、廓山と共に高名な人である。廓山は後に増上寺の法主となった。〕

了的が茶臼山の御陣所に到着し、その由を申し述べると、御次が近かったのだろう
神祖はほのかにその声を聞かれていた。

対陣のとき、
「了的とはいかがであろう。〔的は敵と音が通じている〕」
との御沙汰があると、了的はそのまま御前へ走り出て、言上した。

「了的ただいま降り参りました。」

神祖は笑われなさって、

「よくぞ早く降った」

と御機嫌となったそうだ。

この了的は機活才弁、人に優れた僧であったという。
〔増上寺伝説。南渓の寮主の定竜が話した。〕

(甲子夜話)

30 :
以前、悪い話スレにて内藤正成が三方ヶ原で息子を助けて棄てた話を紹介したが、
(ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10094.html)
寛永諸家系図伝を読んだところ、実はこの話が違っていたことがわかった
以下、寛永諸家系図伝に記述された話を紹介する

……この時息子の甚一郎正貞は敵陣に深入りし、味方が退いたのを知らなかった。

故に正成が息子の生死を知るため馬を返して敵陣に突入すると、正貞は数人の敵と刃を交えていた。

正成は槍で敵を突き、その敵から馬を奪い、正貞を乗せて撤退した。

正貞はこの戦いで敵の首をとり、彼の配下もまた高名した。


つまり、
寛永諸家系図伝では「正貞を乗てひきしりぞく」(原文)だったものが、
寛政重脩諸家譜では「正貞を棄て引退く」(原文)と誤って書かれてしまったようなのである

調べる限り「乗」と「棄」のくずし字は似た形になる場合もあるようなので、
そのために起きた間違いなのかもしれない

なにはともあれ、本当は息子を救っていた内藤正成のいい話である

31 :
>>30
おぉ〜お見事!いくら戦国の世とはいえ惨い…と思ってたから良かったw

32 :
一応言っておくと寛永諸家系図伝(1640年代編纂)を再編纂したのが寛政重脩諸家譜(1790年代編纂)です

33 :
百五十年もたてば崩し字の間違いぐらいしてもしょうがないか

34 :
>>28
軍師って言葉は三国志の軍師将軍って官職から来てるらしいけど
日本における軍師ってやっぱ諸葛亮が元ネタなのかな

35 :
太公望もじゃない?

36 :
長篠の戦いの時、「徳川家の先陣を下知せよ」と言って、織田信長
の使者が徳川方のもとへ来た。すると、内藤四郎左衛門(正成)は、

「我が主君は、先陣の下知を他人に受ける者にはあらず! 内藤が
承って返答仕ったと申されよ!」

と、荒々しく言って、使者を追い返した。信長はこれを聞いて、

「徳川家の良き士は数を知らず」と、言いなさった。

【注釈:内藤を鳥居(忠広)とするものもあるが、鳥居は三方ヶ原で
討死したので、内藤のことであろう】

――『常山紀談』

37 :
佐久間盛政についての良い話あるかた話てください。http://p2.upup.be/f/r/bNPdHhJ45t.png

38 :
>>30 

正「正貞を乗てひきしりぞく」
誤「正貞を棄て引退く」

息子を見捨てて退却した、となっては、ひどい勘違いだな。元が良い話でよかった

39 :
>>36 家康が長篠では先陣をした、というのは事実だ。信長公記にも載ってる。
地元の者が先陣をつとめる、という慣例のとおりだから、織田信長が家康へ先陣の下知をした
というのは不自然なので、常山紀談のまたまた創作だろう。

40 :
数を知らずってどういう意味なんだ?
計算の出来ない脳筋は猛勇ってことかい

41 :
この場合「数知れずいる」ってことだろ

42 :
天守御櫓の事

この頃、大城天守の図として示す者がいた。
御天守は今は無いが、図で見ると、その壮観を知ることができる。
予はある人に尋ねた。
「これは一城郭である。この中に水があればなお堅固を保てるのではないか?」

その人は

「大阪の御天守も以前天火のために焼けて今は無い。
しかしながらこの御天守の中に井戸がある。黄金水と称す。
常にこれを汲むことを禁じて、夏土用の中三日では許していた。
よって御城代の家臣、その他奴僕に至るまでこれを汲むと、
よってその清潔さは氷のような名水であった。
また井戸の深いことは数仭で、俗に伝わるところでは、井中のかわは金で造ってある。
よって水性の美をなし、かつ黄金水と呼ぶ。」

豊公の勢をもってすればこのこともあるだろう。
また天守の内にはかく水が有ることはもっともなことであろう。
しかし地の利は人の和にしかず。格言である。

追記する。
この天守の中の井戸は、すでに石山本願寺の二世顕如上人の時に、上人が掘ってあったという。
この上人も猛勢であったことは人の知るところであるので、太閤の掘ったものにも劣らないだろう。

また江戸城の御天守にも御井戸があったそうだ。かつ清泉だったとか。
今も御天守番の人は、時々汲み帰る者がいるという。


(甲子夜話)

43 :
黄金水と聞くと、ついあっちの方を連想してしまう。

44 :
上方衆の武辺と関東者のそれとは、同程度の人数で、両方の大将の能力も対等であった場合、
運次第とは言いながら、上方衆は5度に4度は敗軍するということ、信玄公の時代より今まで、
数度にわたって見聞きしております。

しかし、関東武士と言っても強勇の者ばかりというわけではなく、また上方侍とて、弱い者ばかりでは
ありません。ですが、上方の軍勢の特徴として、備え立てに吟味が薄く、物見を大切にしない、
という所があります。
専門の物見武者を選定せず、その経験を積ませること無く、誰であっても物見は出来るのだ、
などと心無い者は考えているそうです。

上方衆は物見に出て、遠きを計らず敵を賤しみ、荒事ばかり言って、人を預けても合戦の時は、
彼らは寄騎同心を捨て、一人先に行って抜け駆けをするのを手柄と考えますから、心がけのある者は
預かりの人を捨てて先に行き、一番槍を好みます。

ですから、敵将が名将ですと、1,2の備えを捨てて3,4にて勝つような戦略を立てます。
上方衆は先陣ばかりを切り崩せば敵は敗軍し勝利すると心得攻めてきますが、2,3の備えにて切り崩され、
結局彼らのほうが敗軍します。

信玄の歌にこのようなものがあります

・軍には 者見なければ大将の 石を抱いて淵に入るなり
・戦に 日取時取さしおきて 物見を掛けて兼ねてはからへ

この二首は信玄公より勝頼へ自筆で書かれ、伊那へ入城の折に遣わされました。
物見の衆をよくよくご吟味あって然る可きです。

(松のさかへ)

井伊直政に、三科形幸などの重臣が連署で出した諫言書の一節である。

45 :
関東武士に物見はいらへんで?
見つけた敵を片端から棍棒で殴り潰すから

46 :
そもそも甲斐は関東じゃない件

47 :
甲斐は鎌倉公方の支配地域だったし、三関より東をひとまとめに関東と呼ぶ場合もあるし、必ずしも関東が関八州、現代の行政区分での関東を指す訳では無い

48 :
秀吉が幼少の時に手習いなされたところは尾張萱津の横笛山光明寺である。
その門前に三島の社がある。社の辺りには榎の大木がある。

土俗の伝えによると、秀吉はこの榎の大木でばかり遊んでおられたという
ことである。この理由は、手習いを嫌ってのことである。

成人してその事を思い出されたのであろうか、あるいは、幼年といえども、
大志の人だから、その樹下で何事か将来を思慮されたのだろうか。信長公
に仕えて士に列せられた時に至り、秀吉は“木下”と称号した。

その榎は今も繁茂しているという。これは光明寺の所伝である。

――『明良洪範』

49 :
道三神脈の事

ある医者の語ったことである。
曲直瀬道三が諸国遍歴していた時、ある漁村を廻ったところ一人の漁家の男の血気がはなはな衰えていた。
そこで彼の家に立ち寄り、家内の者を見るといずれも血色枯衰していた。
脈を取って見るといずれも死脈であったので、自分の脈も取って見ると、また死脈であった。
道三は大いに驚いて、

「このように数多くの人が死脈であるはずがない。
漁村ならば津浪などの愁いがあるだろう。
早々にここを立ち去って山方へなりとも引っ越しなさい。」

と漁夫の一家に勧めて連れ退いた。
はたして、その夜に津浪がきて浦の家々が流れ失せ、多くの者が溺死したという。

「病でさえ分かりがたいのに、このような神脈はまことに神仙ともいうべきであろうか。」

とその医者は語った。

(耳袋)

天災と脈って関係あるんですかね

50 :
面相見が国中の人に死相が出ているのに気付いて、
果たして大災害によってその国は滅んだ、という話を見た覚えが

51 :
まんが日本むかしばなしで「夜中のおとむらい」という作品は夏の怪談として
ちょうどいいね。「吉作落とし」でもいいけど。
http://urban-legend.tsuvasa.com/yonakano-otomurai

52 :
なぜかサザエさんで易者が手相を見るとみんな水難の相が出ていて
すぐ雨が降ったという話を思い出した
相を見る能力は同じくらいあってもこっちはただのギャグという

53 :
仙台政宗老後の事

仙台中納言政宗は、御治平後になり年老いて言うに、
「武士は戦場を忘れてはいけない。」
と。また折には水を浴びられたという。

後病が重く床に臥せていたとき、御尋の上使が下された。
政宗は殊に恭しく思われたが、なかなか起き出ることが叶わなかった。
しかし是非ともと、人に助けられてようやく表座敷に出て上使に対面し、
御厚恩を拝謝を申したとか。
この時も礼服を着て出られたが、その大病中にもやはり水を浴びて出たという。
(甲子夜話)

54 :
年寄りの冷や水

55 :
【佐久間盛政、前田利家に戦功を譲る】

清須会議の後、能登では有力寺院の天平寺が織田家に敵対し、越後へ亡命していた国人衆を呼び戻して挙兵した。
天平寺は要害の石動山を本拠地とし能登の国人衆に強い影響力を及ぼした強大な組織であり、北陸で猛威を振るった一向一揆が能登国に浸透しなかったのは、天平寺の存在があったからだった。
織田信長が存命だった頃、織田家は天平寺の寺領の大半を没収した。
また能登国人衆の温井家や三宅家などは織田家に降ったが、彼らに恨みを持つ長連龍に攻撃されて逃亡し、故郷へ戻る機会を窺っていた。
上杉景勝は能登へ戻る国人衆に兵を貸し、さらに後詰の軍勢を派遣する準備を進めた。
反織田家の軍勢は、能登と越中の国境にある石動山と荒山に籠り、荒山では既存の砦の改修工事を始めた。

当時の上杉家は宿敵だった北条家と和睦の交渉を進めて背後を固めていた。
上杉家が越中・能登の反織田勢力を糾合して北陸方面軍と対決するには都合の良い時期だった。
本能寺の変の直後に信長の元馬廻り衆だった前田利家が明智討伐よりも能登に留まることを選んだ事実を考えると、北陸の情勢は深刻で荒山合戦は北陸の勢力図を塗り替える可能性が
あったかもしれない。

天平寺が挙兵すると、前田利家は柴田勝家と
佐久間盛政に応援を要請した。
要請を受けた盛政からも柴田勝家に事態を報告すると共に、情勢が逼迫していたため直ちに出陣した。
盛政と拝郷家嘉は、僅か二日で兵を集めて荒山の近くの高畠という土地に入った。
この時点で荒山の砦の工事はほとんど進んでいなかった。

拝郷家嘉の居城は加賀南部の大聖寺城で、
兵の召集から現地入りまで二日は驚異的
な速さになる。
おそらく盛政たちは天平寺の挙兵に備えて、
予め兵を集めていたのだろう。

盛政と拝郷は現地の人々の協力を取り付け、荒山の砦改修の情報を知ると、直ちに出陣して荒山へ向かった。盛政は斥候を出して状況を把握すると、反乱軍の主力数千人が籠る荒山を猛攻撃した。佐久間勢の猛攻を受けて敵軍の指導者は尽く戦死。
指揮官を失った敵軍は敗走して石動山へ向かったが、退路に回り込んだ拝郷勢に捕捉されて壊滅した。

友軍を失い孤立した石動山は前田利家が
制圧して反乱を鎮圧。
上杉軍が送った援軍は間に合わず撤退した。
合戦の結果、織田家は能登と越中北部から
上杉家の影響力を排除することに成功した。
その後は佐々成政と傘下の越中国人衆が
独力で上杉軍を抑え込み、
北陸の情勢は安定した。

荒山合戦における佐久間盛政の働きは、
350年後に日本陸軍の戦史研究チームから絶賛された。
『第九師団管古戦史』では、参考にした
史料群から佐久間盛政の働きについて、
・事態を想定していた。速やかに出陣した
・現地の住民を味方につけた
・戦機を見逃さなかった
・諸将とよく協力した
・手柄を前田利家に譲った
(佐久間勢が討ち取った敵将たちの首を、
盛政は前田利家に譲った。
能登を安定させるためか)
等々を挙げ、盛政の采配と戦術眼を高く評価した

56 :
>>55
>・手柄を前田利家に譲った
ほんまかいな…?家臣や兵士が反乱起こしそう。

57 :
柴田が諭したんじゃね

58 :
>>56
書いてあるとおり能登を安定させるためじゃないかな〜

59 :
で 350年後の陸軍の連中はこれを手本と出来たのかね

60 :
>>59
どうだろうね。

61 :
春日市右衛門家筋の事

現在、猿楽の家の内百石余りを給わっている春日市右衛門という笛を業としている御役者がいる。
かの先祖は武功の者で、難波夏の御陣での穢多ヶ崎の一番乗を石川家と一同された。
今世俗でいう"川びたり餅"はかれの家から始まったという。

これは穢多ヶ淵の城を攻め落とそうと石川家に属して進んでいたが、
川の水が深く船も無かったので渡り難かった。
春日は前後の瀬を調べて、破損した船を手に入れ修復して漕ぎ渡り、石川と共に一番乗を果たせたという。
そのとき殊の外空腹で石川も難儀していたが、春日は鎧の引き合わせから、
出陣のときにふと持ち出していた小豆餅があったので、上下ともに食って飢えを凌いだという。

これから今も石川家からかの春日の子孫に他事無くお声をかけられているとのことを、
市右衛門は語っていたと人が話された。
(耳袋)

62 :
兄は弟を子の如く憐れみ、弟は兄を親のごとく敬うべきである。
朋友の交わりは、心に叶わぬ事が有れば遠ざかるのが世の中の習いであるが、兄弟のことは、
心に叶わぬことが有るからといって、疎くなるべき道ではない。
不快の事があったとしても、互いに堪忍して誠の志を尽くすべき事である。

(井伊直孝御夜話)

井伊直孝が言うといろいろ意味深ですね。

63 :
戦国ちょっと井伊話?

64 :
どうでも井伊

65 :
直孝が言うから重みがある

66 :
国替えの時は兄貴に親父の遺品渡してるし関係が悪かったわけじゃ無いのかもな
ただ木俣守安が外された時は兄貴に対して色々と思うことがあったようだが

67 :
ひこにゃんは親父ににて無口だが口を開けは重みのある良い事を言う

68 :
さすが幕閣初の大政参与だ

69 :
>>62
頼朝「兄弟は大切にしないといかんぞ」
信長「それな」
政宗「まったくもって」
義光「その通り」
秀忠「せやせや」
天武「えぇ…」

70 :
加藤清正一番鑓の話

加藤清正が子の某〔名は忘れた〕に語ったと聞いた話である。

「我が秀吉公に従って、初めて一番槍をしたとき、
〔何処であったかこれを忘れた。賤ヶ岳であろうか〕
坂を上ると敵がいた。それと行き合って戦が始まった。
その時の胸中は、向こうは暗闇の如くで何か一向に分からない。
そこで目をつぶり念仏を唱えて、その闇の中に飛び込んで槍を入れると、
何か手ごたえがあると覚え、実は敵を突いていた。
それからはようよう敵味方も見分けることができた。
後で聞けば、その時の一番槍であった。」

(甲子夜話)

71 :
念仏なのか
題目じゃないのか

72 :
松平の家がある限り


慶長三年の冬、石田三成が家康を暗殺しようとしているという噂があり、
その警戒のために伏見向嶋の家康の屋敷に諸大名が毎日出入りしていた。
森忠政は細川忠興と示し合わせ、御供には具足と食物を挟箱に入れて持ってくるように言って
家康邸に三日三晩一緒に詰めて(自分の)屋敷には帰らなかった。

夜中に家康公は井伊直政に手燭を持たせ(忠政と忠興を書院に呼び出して)お出ましになると
「両人の懇志は言葉に言い尽くせないほどです。大坂方には詮なきことを企んでいる者がいること
聞き及んでいますが、もし万一そのような者が(本当に)いたときは
大坂方面に信頼できる者を配置しているので大坂勢が出陣することがあればすぐに注進があるでしょう」

「そうなればこの屋敷にいても守るのは難しいので大仏へ閉じこもり防戦をする覚悟です。
両人の衆もそのときは大仏で戦ってもらうことになるので自分の屋敷へ帰って一報を待って下さい。
必ず使者が参ります。いずれの衆(他の諸大名)にもこのことは伝えませんでしたが
両人の深切は他と異なるので内々に申し合わせておこうと思いました」

そうして家康公は御両将(忠政・忠興)の御手を一度にお握りになると
「松平の家がある限り末々まで今回の心遣いを忘れません」と仰せられたと言う。

――『森家先代実録』

73 :
今大路家掛物の事

官医今大路家では、先祖曲直瀬道三の教歌墨跡を掛物として神農会の時に床に掛けるそうだ。
これは道三の自筆で

『長生きは粗食正食ひゆたらり 勝手次第に御屁めされよ』

との歌が書いてある。

当主も門人も、この歌の内の"ひゆたらり"という事は何の事であるのか知らない。
相応の説をつけて申し伝えていたが、ある時信州辺り出生の人が来て、

「これはいかなる事か?」

と尋ねると、今大路の門人たちは答えに当惑し、申し伝えてきた事のみを何となく話した。

かの信州の翁は

「我らがある日山深い田舎に行き着いたときに、百歳余りの者がおった。
長生きの術でもあるのかと尋ねると、
『物知らぬ田舎人なので、その術は知らない。
このような山奥なので明け暮れ食べる物は粗食で、
もとより何の望みもなければ心に労する事もなく、このように長寿をなしている。』
と言った。
『しかしどうして長寿の益が何かあるものであろう』
とひたむきに尋ねると
『熱い湯を用いず飲まず、火の暑さに寄らないことであろうか。』
と言ったが、"ひゆたらり"というのはこの事であろう。
道三先生はこれを知って、かく詠み置かれたのであろう。」

と言ったので、今大路家の者たちは初めてこの歌の心を知ることができたという。
(耳袋)

74 :
白湯は健康にいいのに!

75 :
一、人が隠していることを見聞きしようとしてはならない。人が秘蔵するものを、所望してはならない。

一、不慮の仕損じというのは、能力の有る人でも有る事だ。しかし自分の仕損じを人のせいにするのは
  大いなる恥辱である。逆に人の仕損じを我が身に引き受けるのは、見事というものである。

一、家を治めるとは、金銀米穀の事である。これを知らずに、人の家に意見すべきではない。

一、昔、数度の武功の誉れの有る老武士があった。若き人が彼にその武功を物語って欲しいと望んだ所、
  彼はこう言った
  「私は若い頃から、さしたる武功も無かったが、性格に愛嬌があってな、人からよく思われたのだ。
   だから少しの勤めも良く受け取られ、思いもよらぬ誉れを得たのだよ。人はただ、愛嬌があるのが
   良いのだ。」
  殊勝な物語ではないか。

(井伊直孝御夜話)

井伊直孝御夜話よりいくつか

76 :
結城秀康の三男であり、後に松江藩主となった松平直政。
彼は、初陣となった大坂冬の陣で活躍しました。
この様子を見ていた真田信繁が、敵ながらあっぱれと思い軍扇を直政に投げ渡しました。 この軍扇は現存しています。

77 :
武田勝頼父子の遺体は田野にあったけれども、織田信長を恐れて恵林寺
の僧をはじめとして収める人はいなかった。

しかし、田野の西北4里ほどの中山というところの曹洞宗の禅僧・広厳院が
やって来て、勝頼夫婦や信勝以下の遺体を収め葬った。

その後、徳川家康が甲斐を治め、一寺を建立して“景徳院”と名付け、田地
を寄付した。また、小宮山内膳友信の弟が僧であったのを、家康は同寺の
住職の僧にしたのであった。

――『常山紀談』

78 :
3名が、ここ、恵林寺にかくまわれているという噂を聞きつけて、3度に渡って「その3名を引き渡すように」との交渉を行いましたが、紹喜は、これをすべてはねのけました。

この恵林寺の姿勢に信忠は、
「代々、檀家として親しくしてた勝頼はんが頼って来ても境内に入れようともせんと、その遺骨を取りにもけぇーへんくせに、そんなしょ^もないヤツらはかくまうんか!」
と怒り心頭・・・

まずは、津田次郎信治と長谷川与次郎などに命じて寺を包囲させて、寺の中の探索をさせますが、とっくに3名は逃亡したあと・・・

その頃には、寺の者は皆、山門の楼の上に登って籠城の構え・・・

「そっちが、そう来るならば・・・」
と、兵士たちは槍先をそろえて、逃がさないよう彼らを囲います。

『常山紀談(じょうざんきだん)』(1月9日参照>>)によれば、その時、紹喜は、弟子の一人=南華に
「法が絶える事は悔しいけど、もう逃げる事はできんな…お前は、楼から飛び降りて死になさい」
と・・・

この言葉を聞いた南華は、すかさず飛び降りますが、その瞬間に兵士たちが槍先を伏せたため、助かったのだとか・・・

その後、16名ほどが飛び降りた後、残った紹喜ら84名(114名・150名とも)は、座って合唱をはじめ、兵士らは楼の下に焼草を積んで火をつけたと言います。

79 :
最初から酔ってる訳じゃあるまいしこんなの10ももたんわ

80 :
3名って六角の子息だっけ?

81 :
なんだかよくわからん

82 :
籠城の構えなのに集団で自殺しちゃったのか・・・

83 :
>>78
コピペ
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2011/04/post-fb7c.html

84 :
焼き殺されたんでしょ?

てか、信忠のセリフって関西弁?

85 :
何言ってんだ知恵遅れ

86 :
徳川家康公のある時の御意に

「私は若年の頃駿河にあって、物読み坊主から、三哲という者の著書について聞いたが、
その中に『三要三切』という言葉があった。

この言葉、最初の『三要』とは「衣食住」の事であり、『三切』とは「軍賓旅」の事だ。
衣食住の三要は人々にとって常に必要なものであり、これらの用意がもっとも重要である。

さて、軍賓旅とは、軍道具、客道具、旅道具の事であり、これらは武士にとって肝要なものである。
これらを、分限相応に調えた上ではじめて、外の事を為すべきだと言われた。
この話は私の耳に響き、一言で役に立つ言葉だと思った。幼かった私であったが、肝に銘じて
聴き覚えたのだ。

ただ、私はこれに注釈を加え、『三要三切三行』としたい。『三行』とは「道、芸、倹」である。
先ず、道義を第一に心がけるべきである。しかし道に志し賢人の位にあっても、武芸を知らねば
軍役の役に立たない。また、不勘弁では擦り切れて果ててしまう。」

(本多平八郎聞書)

徳川家康が言った、武士にとって大切な『三要三切三行』について

87 :
>>78にあるのだけど、勝長の生年不明とはいえ子供がいることや武田時代に
上杉への使者そして軍艦として北条との戦に参陣という話もあるから
加味すると三歳というのはあの時代でもちと厳しいものがあると思われ
その垂井のご坊も同名の他の人とみる向きもある
(根拠:信忠の与力で甲州征伐に参陣し当時は既に犬山城主であるため)

88 :
家康って歌を歌わないから駿河では良い待遇じゃなかったって言う人がいるけど、
経は読めるし知識もあるから、ある程度の教育は駿河で受けれてたんだろうなあ。
鷹狩りなんかもしてたみたいだし。

89 :
氏真のお手がついた瀬名姫を押し付けられて産まれたのが信康
これを知った信長がのちに織田に仇なすとみて切腹させた
痴呆の振りをした父親の氏真は殺されず大往生した

90 :
   ∧,,,∧
  (´・ω・`) < 近い将来、欧米で株式市場が破綻すれば、マイト レーヤは直ちに出て来られるでしょう。
  (|   |)
   し--J


最初になくなるのは世界の株式市場でしょう。

差し迫る株式市場の暴落は、他の人々が飢えている間にお金を儲けることの結果です。かれらは自分の財産を隠し、犯罪的雰囲気さえも創出しています。
彼らはただ座って待っているだけです。世界を餌にして生きており、何も還元しません。 来るべき株式市場の崩壊は必然的に多くの失業者を出すでしょう。


日本から始まる世界的株式市場の大暴落

ウォールストリートの大暴落(1997年)につながったプロセスが、いま日本におけるプロセスの中に写し出されており、再び株式市場の暴落につながるでしょう。
終いには政府にも支えることができなくなり、どん底に落ちていきます。日本がアメリカ国債の25%を引き出すと世界経済が破綻し、マイト レーヤは出現するでしょう。
マイト レーヤは何百万の人々に話しかけることのできるようなやり方で、まずアメリカに現れるのです。それから日本です。
彼は日本人ではありませんが、日本語で話すでしょう。彼は、非常に物静かなやり方で話します。彼の最初の控えめな態度に混乱してはなりません。
非常に間もなくマイト レーヤを、テレビで見るでしょう。マイト レーヤは毎日テレビに現れ、質問に答えるでしょう。彼は「匿名」で働いております。
マイト レーヤが公に現れるにつれてUFOが、とてつもない数で姿を表すでしょう。


矢追純一 「宇宙人側からの申し入れは、核の利用と戦争をやめ宇宙人の存在を公表しなさい。ロシアという大国の首相がね、2回も言ってるんだからね。」
竹下雅敏 「どうも日本人のレベルの低さというのは、ドイツはUFOテクノロジーを完成させていたのに、日本は戦艦大和で喜んでいたという感じなのです。」

91 :
 駿府の青島というところに、その地の名を名乗る五郎左衛門という帯刀の豪農がいる。
この祖は愚直な者で、思し召しにかない、折々御側へ出ることができた。
何の褒賞であろうか、小粒金を直接手で贈られたとき、
袖に入れて家に帰るさなか、袖がほころんでいるのを知らず、
途中で所々に小粒金を落としてしまった。
多くの往来の者は拾ったという。
 後に聞かれて、無欲者であるとますます思し召しに叶ったと伝えられている。
(甲子夜話)

92 :
・徳川秀忠の御咄の衆(安西衆)

立花立斎(宗茂)…九州のことを良く知っている。

九鬼大隅守…水軍のことを良く知っている。

脇坂中書(安治)…四国のことを良く知っている。

平野遠江守(長泰)…太閤のことを良く知っている。

佐久間備前守(安政)と同大膳(勝之)
…北国ならびに奥州のことを良く知っている。

細川玄蕃頭(興元)…上方のことを知っている。

――『武功雑記』

93 :
で、どういった話を聴いていたのかな?

94 :
>>92
丹羽長重「あれ、僕は・・・」

95 :
>>94
秀忠<「棚倉で藩主にしてやっただろ。不満?」

96 :
>>92
九鬼大隅守って蘇ったのか?

97 :
総じて、召し使う者が何か仕落ちし不調法ありと報告された時、その者によく心得させ、
今後は改めさせるようにすること、これが主人にとって特に重要な事である。
私(徳川家康)は若年よりこれを専ら心がけてきた。そのため今では異見を加えた者で、
誤りを改めないという者はなくなった。

ここで気をつけるべきは、とにかく何であっても、人が身動きできないような状況にしてはいけないと言うことだ。
先ず誤りをした者に、その事ばかり言って叱りつける、そんな事をするからその家臣は心得違いをし、
主人を恨むようになってしまい、それまでよく勤めていた者であっても、不足の心が出来て勤めなくなり、
主人を疎むようになる。これは全く、主人の異見の仕方が悪いため、人を捨てるというものである。

人に対しての異見の仕方というのは、先ずその者を呼び出し、側に一人、取り成す者をあらかじめ置き、
それ以外の者を下がらせ、いつもより言葉を和らげ、
『以前にもその方は、この時は何々の手柄を致し、あの時は良き勤めをした』
などと、その者の心を悦ばせ、その上で
『かような不調法は、その方には似合わぬことだ。』
そう能く能く申し聞かせ、
『くれぐれも今後は相改め、前々の通りに心がけてほしい。』と伝える。
そうすれば大体は、その理屈に従い、身の過ちを取り分け相改めるものなのだ。

主人たる者は、一人でも能き人材をつくり、どんなに軽い身分の者であっても、科人が出来ないよう心がけ、
身を慎むことが肝要だ。

何であっても、行き届かない事はある。まして並々の者は総じて抜けがちなものだ。
そういった行き届かない所は、主人が行き届くように心がけ、不調法にならないように致して召し使う事、
これが主人の心がけの第一である。

召し使っている者へ、科を申し付ける時、その多くは実際にはその主人自身の科なのだ。

(松のさかへ)


徳川家康の、家臣への「叱り方」について

98 :
>>97
この逸話を思い出した

本多正信、家康が短気をおこして叱る時に・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2238.html

99 :
>>97
正しいと思うけどいちいちやってられないんだよなぁ…
そこが家康と凡人の違いか

100 :
正純「して、その者の名はなんと?」
三成「なんと・・・そうだったのか・・・φ(`д´)メモメモ...」

101 :
能役者喜多が祖の事

能役者喜多七太夫の祖は、右京と称して太閤秀吉の近習士であった。
七太夫の家に伝わっている話に

大坂落城のとき右京も城内に居たが、大野修理が「早く傘を櫓から出して振れ」と言ってきた。
右京はその言葉に従って天守に上り、狭間から日傘を出して振れば、
雲霞の如く集まっていた寄せ手が、見るうちに段々減ったというものがある。

また城中の婦女雑人の類は、皆々落出る体となったので、右京も故郷筑前に落ち帰ったそうだ。

ただしこれは表向きに言うことで、
実は落城の時関東の御内旨で
秀頼が薩摩に落ちられるのを右京が従っていったという話だ。

この櫓から日傘を出したことを矢留の傘とかいって、故実あることだという。
しかしいかなる訳かそのことは不詳である。
これは七太夫の父、湖遊が語ったことと聞く。
(甲子夜話)

102 :
毛利元就と大庭賢兼

大庭賢兼は元々は大内義隆の家臣で源氏物語などの古文に通じた武将であった。年齢も元就に近く、家臣ではあるが元就とは和歌や古文の趣味友でもあった様だ。
そんな大庭賢兼、永禄5年(1562)に石見の小石見在陣中の元就の元へ雪のせいで遅参してしまう。
これに怒った元就、当初は怒りの余り賢兼に会おうとしなかったが、雪が原因と判るや賢兼を許し、一首の和歌を詠み送った。

「石見がた 雪より馴るる友とてや 心のかぎりに打ち解けにけり」
(雪よりも親しく付き合っている友なのだから、 私の怒っていた心も解けたので、また元のように仲良くしよう。)

これに返して賢兼

「石見がた かたき氷も雪もけふ とくる心のめぐみうれしも」
(あなたの怒りが今朝の氷や雪のようにとけた。そのように寛大に許してくれた心遣いが嬉しい。)

こうして2人の仲は元度りになったそうな。
元就の和歌の添削をした三条西実枝もこのやり取りに対して
「此の贈答、一豪のへだても聞こえず、誠に上下に怨なしといふ
 明文にかなへり」
と評している。

春霞集より元就爺ちゃんと家臣の知的?なやり取り

103 :
https://www.youtube.com/watch?v=7SSP1oYkj48

104 :
>>102余話
三条西 実枝は元就の和歌を称賛しており、他にも元就に対して

「大江元就は武王の心を以って心とすとみえたり。しかればただ今の世に比するに成王にあれたり。」
との評価もしている。
この評価は後々名将言行録では法橋恵斉と言う家臣が元就に対しておべっかで言ったことにされており、
元就がそんな昔にそんな事言う奴はいねーしワシゃそんな器じゃねーわ。と返して以後は元就の家臣におべっか使いが居なくなったと言う逸話(既出)に変わっている。

105 :
>>104
面白い変化だね。当時でも三条さんちょっとお世辞が過ぎるのではって認識があったのかな。

106 :
>>105
http://tororoduki.blog92.fc2.com/blog-entry-265.html

此処に三条西実澄さんの元就の和歌に対する評価の現代訳文が載ってるけど、>>104の武王成王の下りは最後の方の抜粋で原文は物凄く長い…
元就の和歌を知ったのは元就死後の事みたいだけど、原文読むと三条西実澄さんは三度の飯より和歌大好き人間だったって事は何となく理解した。
ただ、武王成王の所だけ見たらただのヨイショにしか見えないってのは間違いないね

107 :
>>106
>三条西実澄さんは三度の飯より和歌大好き人間だったって事は何となく理解した

幽斎さんの師匠だよ、この人。

108 :
私(徳川家康)は近頃、毎日念仏六万編を唱えるようにしている。
老人の要らぬ日課であるから、一日の回数を減らすよう、皆々言ってくる。

なるほど、回数を減らせば楽になる。だがな、私は幼少より戦国に生まれ、多くの人を殺してきた。
それへの、せめてもの罪滅ぼしなのだ。
(成程、へらし候はば楽に成候得共、幼少より戦国に生れ、多く人を殺し、責て罪ほろぼしにもなり候。)

それに私は若年から、一日たりとも暇を楽しめるような生活をしてこなかった。
ところがこの頃は静謐にて、暇すぎて困っているのだ。それで、この業をいくらしたところで
一文も要らぬこと故、念仏を日々の稽古代わりにやっているのだよ。
これのおかげで、毎日朝早く起き、夜も早寝をすること無く、怠らぬように心がけ、
それ故に食事もよく食べられ健康であり、これも念仏のおかげだと考えている。

(松のさかへ)

老年の徳川家康が、毎日念仏を唱えた理由

109 :
>>108
シーズンに入ると鷹狩フルコースな家康さんなのに…

110 :
東京国立博物館に家康の日課念仏が所蔵されてるが所々南無阿弥陀仏が南無阿家康になってて面白い

111 :
メモってる最中にうとうとするとつい自分の名前書いちゃってる自分にはよく共感できる

112 :
>>108
一回唱えるのに二秒くらいかかるとして六万回で120000秒・・・
権現様大幅にサバ読んでませんか?

113 :
虚空蔵菩薩の真言
「ノウボウアキャシャキャラバヤオンアリキャマリボリソワカ」
を50日で100万編唱える修行があるが、ほとんど体力の限界に近いらしい
1日に直すと虚空蔵菩薩の真言2万編
虚空蔵菩薩の真言一編が南無阿弥陀仏三編にあたると仮定すると念仏六万編
ほとんど飲まず食わずの修行と同じくらいのことをやってる計算になるな

114 :
十千散起立の事

 東都浜町に、小児科の医をして数世代に聞こえる印牧玄順というものがいる。
その先祖は戦国で主家の御敵であった者の子孫で、
その主人が没落後、浪遊して抱える人がおらず、
ある医師のものに立ち寄って生計をたてていた。

 かの医師は家伝に万病散とかいうものを売薬していたが、
その奇効は著しく戦場でも多くの者が求めていた。
この医師に随身して遂にその薬の製法を伝えられた。

 後に印牧は分かれたというが、師家の秘薬であるので、同銘を遠慮して
十に千を合わせれば万になるという心で、十千散と名づけたという。

 今もかの家ではその薬を出している。
予が子孫もこの薬を用いて、奇効があったという。
(耳袋)

115 :
>>101
>実は落城の時関東の御内旨で
>秀頼が薩摩に落ちられるのを右京が従っていったという話だ。

関東の御内旨ってことは秀頼が生きて薩摩に逃れたのは家康、秀忠も了承してるってこと?

116 :
誠に申し訳ございませんが
この話が誰の逸話なのか教えて頂けないでしょうか。

話の内容
柴田勝家か福島正則の家臣(違うかもしれません)
無頓着な性格でとりあえずの生活を送っていた殿さまです。
ある日大女(しこめ)が来て殿さまはおおらかな人だから
雇ってくださいというが、頭の悪い家臣ほど雇うなという。
でもその殿さまはまず雇えといい、次に力を見せろといい
家臣に相撲を取らせ、仕事に来てくれよといい、大女を喜ばせる
大女いわく”おらを見るだけでぶさいくだとののしり、
見世物をしたいから相撲をとれと言われ全部勝っても
、次にやっぱり雇わね。そればかりなのに
殿さまはおらを初めに”雇う”といって相撲を取らして
そのうえで採用してくれた。すごい殿さまだ!
殿さまはそんな
こた〜ねえよ。明日から仕事がんばれよと…。
大女は殿さまの思いに応え一生懸命に仕事で答えた。
そのうち殿さまの状況が悪化してどんどん家臣が財産を持ち逃げして
逃げだした。殿さまも最後には無一文になって、最後に残った家臣たちと
途方に暮れたが大女が皆をだまして(?)不正金(?)をためて
真の忠臣と後世の人が言わしめた。
お家の再興のため、尽力し、殿さまが有力藩に呼ばれたのと対象に
どこともなく消えてしまったこの大女の正体はたぶんわからない
と思いますが、せめてこの殿さまが誰かだけでも教えて頂けないでしょうか。

117 :
申し訳ありませんsageです
途中話が抜けておりました
【 】の中の話も読んでいただいた上で
教えて頂きましたら幸いです…。

途方に暮れたが大女が皆をだまして(?)不正金(?)をためて

【倹約や工夫してこっそりためた金だ。
殿さま再興のために全部つかってくんろ。
殿様曰く、これはお前がいろいろ頑張って貯めた金だ
お前の退職金として全部もってゆけ
大女はいらぬという、ならば殿さまは半分ずつ持っていこうと
それでお互い納得したという。その後の大女の行方は分からない】

真の忠臣と後世の人が言わしめた。

118 :
「名将言行録」の福島正則家臣、大崎長行のことだろう
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/782779
海音寺潮五郎「史談と史論」の
「仙女伝」では大橋玄蕃とお柳と書かれている

119 :
ついでに「史談と史論」のそのあたりの話(名将言行録もほぼ同じ内容)

庭にあった二抱えほどもある大きな岩を大女のお柳が転がすとその下は穴蔵のようになって奥深い。
お柳は次々に大きなツボを2つ取り出し、座敷で開けるとそれぞれ板銀と小判がつまっていた。
「これは皆殿様のものでございます」
「どうしたのだ、これは?」
「清須からこの国におうつりになりましてから、段々にたくわえておいたものでございます。
殿様はたくわえなどまるでお心掛けのないお方でございますが、何か急なことのある節は、
金銀がなくてはならぬと存じましたので、お家のしおき万事を任せていただいていますのを幸いに、
殿様にかわりまして、ご費用をつつましくしては、投げこんでおいたのが、いつかこんなにたまったのでございます。
されば、これは皆殿様のものでございます」
「さて、その方の心づかい、まことにかたじけない。しかし、これはその方の苦労で出来たものなれば、おれが皆
もろうわけには行かぬ。小判の方なりと、板銀の方なりと、いずれかをその方取れい」
「とんでもないことでございます。これは殿様のものでございます」
「見よ。こうして金銀をひとつにかきまぜた。これを互いに一つかみずつ取っていくことにしようではないか」
こうして、とりわけた。
数日の後、玄蕃は一先ず大阪を志すとて、鞆の港から便船をもとめて去った。お柳はこれを見送った後、
自分も小舟にのって、いずれへか立ち去った。
二三年後、玄蕃は秀忠の命で、紀州家に召し抱えられた。彼は依然として独身であったので家のとりしまりのため、
またお柳を予防としたが、その行くえはまるでわからなかった。

120 :
>>116
文章が分かりにくい
人に読ませるなら推敲してくれ

121 :
こういうことだろう
福島正則か柴田勝家の家臣に金に無頓着な武士がいて、ある時ブサイクな大女が雇ってくれと言ったので、女の怪力に感心し雇うことにした。
時は流れて主君の家が潰れ、その家臣の部下たちは金目のものを取ってみんな逃げてしまった。
そこで大女は常日頃からへそくりしていた武士の金銀を全て女の主である武士に渡そうとしたが
武士は、お前の才覚で貯めた金だ、と受け取るのを拒否。
押し問答のすえ、金銀を山分けにし、武士と女は別れた。
その後、武士が他の主君に仕えることになり、女を呼び戻そうとしたが女の行方はつにわからなかった。

122 :
おいおいw

123 :
116です。この度は読みにくい文であるにもかかわらず
ご回答いただきまして誠にありがとうございました。
これですっきり致しました。
お礼申し上げます。

124 :
真柄のお秀みたいなものかな?

125 :
駿府では町年寄、乙名、名主を全て町頭という。
これは神祖が大坂から御帰陣のとき、
市中のおもだった者たちが御城へ御祝儀に出た。
これを神祖が御矢倉から御覧なされ、御側にいました彦坂九兵衛に、
「向こうから大勢参るは当地の”町頭”共であろうか。」
とお尋ねられた。
九兵衛は上意の通りと申し上げたので、
それからは当地では町頭と称することと九兵衛から達しがあったためという。

この役は六十二人ある。そのうち月々三人ずつ年の行事、月番を受け持ち、
当地の願訴訟あるいは御触事等を、全てこの役が取り計るという。

この町頭達が、町奉行所へ寄り合う日は毎月四日十一日二十一日で、
諸事御用向きを承るという。
町奉行に目通りするときは脇差御免であるそうだ。
これも神祖が大坂の陣のとき、諸町人が安部川まで御見送りに出ましたところ、
上下だけを着て脇差がなく、
町人とて脇差がないのは見苦しいとの上意があったため、
それから公儀へ出るときは脇差御免となったという。

(甲子夜話)

126 :
松永貞徳、友人の木下長嘯子を訪ねて

松永貞徳と木下長嘯子は、細川幽斎の高弟同士であり親交があった。

ある日、貞徳は長嘯子を訪ね、ちまき五把に歌を添えて渡した。
「近き山 紛はぬ住まひ 聞きながら こととひもせず 春ぞ過ごせる」
(近き山の紛れぬ住まいを聞きながら訪ねないまま春が過ぎようとしています)

「千代経とも またなほ飽かで 聞きたきは これや初音や 初ほととぎす」
(千代経てもまたなお飽きずに聞きたいのはこのほととぎすの初音です)
と、長嘯子も返歌し喜んだ。

――『挙白集』

この二句は沓冠折句になっており、五七五七七各句の頭の文字を読んだあと末尾の文字を読むと
貞徳「ちまき五把 まいらする」長嘯子「ちまき五把 もてはやす」という語句が浮かび上がる。
歌人らしい技巧を凝らしたやり取りであった。

127 :
慶長四年閏三月三日に、加賀大納言前田利家が逝去した。
その後、石田三成を討つべしと、加藤清正、細川忠興、浅野幸長、福島正則、黒田長政、
その他大名、小名たちが一体となって蜂起したため、大阪は殊の外の騒ぎと成った。

石田三成は顔を出すことすら出来ず、自分の屋敷に引き籠っていたが、佐竹義宣が伏見より
大阪に参り、人数を森口あたりに残し置いて三成の屋敷を密かに訪ね密談し、三成を女乗物に
乗せ、義宣も同道して、宇喜多秀家の居る備前島へと向かった。そして秀家は家老を差し添え、
三成と義宣を伏見へと向かわせた。

三成襲撃に決起した大名たちは、この情報を聞くと「ならば伏見で討ち取るべし!」と
この事を徳川家康に申し上げた。

この時、家康の重臣である本多正信は言った
「治部少輔の事、各々の望みに任せて討ち果たせば、諸大名は奢り上がるでしょう。」

家康はこれを聞き、
「今回は先ず、扱いにしよう。」

そう決断し、閏三月七日、石田三成を佐和山へと送り届けた。


(玉露叢)

七将襲撃事件で、家康がこの処分を双方の扱いとした理由について。

128 :
古観世大夫の堪能

ある宴の中である人が話した。

猷廟(家光)の御時の事である。
観世大夫は猿楽に堪能であった。
そこで、猷廟は柳生但馬守(宗矩)に仰せられた。

「観世の所作を見よ。もし彼が心に隙間があり、”斬るならここだ”と思ったら申せ」

但州はかしこまって所作を見届けた。上意で

「いかがであったか」

と問われると、但州が答えた。

「始めから心をこめていましたが少しも斬るべき瞬間はありませんでした。
しかし舞の中で、大臣が柱の方で方向を変えましたとき少し隙間がありました。
あの所でなら斬り遂げることができましょう。」


 観世が楽屋に入って

「今日見物の中に一人、我が所作をじっと見ていた男がいた。何者か」

と言う。傍らから、

「あれこそ名高い柳生殿よ、剣術の達人である。」

と言うのを聞いて観世は

「だから我が所作を目を離さずじっと観ておられたのか。
舞の中で方向を変えた所で少し気を抜いていると、にっこりと笑われので、
理解できないことだと思っていたが、やはり剣術の達人であられたか。」

と言った。

後に猷廟がこれを聞かれて、御感悦されたという。

(甲子夜話)

そういえば、宗矩は能が好きだという話でしたね

129 :
>>128
こういう逸話好きだ

130 :
似たような話が江戸時代にもあるな
渋川流柔術二代目の渋川胤親が初代市川團十郎の歌舞伎を見て
「團十郎の立ち回りの動きは素晴らしい、あの動きなら私でも組み伏せることはできないだろう」
と言ったため、市川團十郎の評判がますます高まった。
しかし元禄17年2月19日、市川團十郎は舞台の上で役者の生島半六により刺殺。
「市川團十郎の動きには隙がないのではなかったのか?」
と尋ねられた渋川胤親は
「役者が隙のない動きを見せると言ってもそれは立ち回りの際の一瞬のことにすぎない
われわれ武道家はそれを絶えず行わなければならないからわれわれの価値があるのだ」
と言ったとかなんとか

131 :
元和5年に福島正則が改易されると、
備後には水野勝成が10万石で入封されることとなった。
備後には古くより神辺城が存在していたが、
新たな領国経営のためには北方に過ぎると思われた
幕府より新規築城の許可を得た勝成は、
西国偃武の地としてふさわしい場所を選ぶべく領国内を巡検し、
最終的には陸路・海ともに近接している常興寺山に築城することとなった。

132 :
ただし、常興寺山の北には山が存在しており、そこからの砲撃には防御が脆弱であることが懸念された。
「私ならば一日で城落として御覧に入れましょう」と言う家臣に対し、
勝成はこう答えたという。
「その事を一番分かっているのはわしである。
しかし、今回の築城では幕府の威容を示し、
この勝成が西国の中心で諸大名に睨みを効かせるのが重要である。
天守の北面には鉄板を貼って防御とすればよい。」

133 :
こうして築城された福山城は、幕府の援助もあり10万石としては破格の巨城となった。
そして、天守の北面は鉄板で覆われていた。
かくして、正式名称は鉄覆山朱雀院久松城(てつおうざんすざくいんひさまつじょう)と呼称された。

縄張り図では南面に防御が分厚く、北面は守りが弱かった。
これは、勝成が幕府に遠慮してわざと北面を薄く作り、代わりに寺社を置いて防御の助けとしたため、とする説がある。

時は過ぎて戊辰戦争の際、福山城は長州藩に攻撃を受けた。
その際に城の北面からの砲撃を受けたが、天守の鉄板に弾き返されたという逸話が残っている。

134 :
ちなみに福山城天守は戦前に国宝として指定を受けていたが、
惜しい太平洋戦争時の空襲で焼失してしまった。
現在の再建天守は、原型を留めない残念なものとなってしまっている。

縄張り図を見ると、南に重厚な防御を備えているのに北方は極端に弱い。
上記の幕府に遠慮した説のほかに、予算不足という説もある。

ただし、幕府も積極的に資金援助した江戸時代最後の大規模築城である事を考えると、
予算不足のみならず、技術者不足などもあったかも知れない。

135 :
>>134
「惜しい」→「惜しいことに」と書きたかった。
すいません。

136 :
いや、なんで福山城を長州が攻めるんだ。 第2次長州征伐の時の芸州口は大竹市から東は戦場になってないぞ。 そもそも芸州浅野は長州に同情的で中立だし。

137 :
長州征伐じゃなくて戊辰戦争ね。
福山藩は歴代譜代大名が入ってて、幕末には阿部正弘が老中として活躍してる。
そのせいか幕府方とみなされて攻撃されかかってるし、実際に小規模な戦闘で死傷者も出てる。
恭順姿勢見せたから、全面対決は生じなかったけど、以降は新政府方の先鋒としてコキ使われたみたい。

138 :
 光源院(足利義輝)殿が京都四条の道場に陣をとっておられた時、
番の僧が夜九つの太鼓を寝ぼけて七つの時に打ってしまった。
 後で公方から御使いがあってその番の僧が呼ばれた。
きっと折檻に及ぶに違いないとぶるぶると参上すると
様子をお尋ねになられたので

「そうでございます。深く眠っていて、
目覚めると仰天してしまったためです。」

と、ありのままに申し上げると、思いのほかご機嫌が良く

此の寺の時の太鼓は磯の波 おきしたいにそうつといふなる
(この寺の時の太鼓は磯の波のようだ
押し寄せるので波打つというのだなあ)

と遊ばされ、僧には銭を与えられた。

(醒睡笑)

139 :
挫折組です

140 :
>>128
柳生一族の能好きは宗矩に限ったことではない
柳生一門で武術修業した兄弟弟子に能のプロ金春流宗家金春七郎氏勝がいる
おそらくはこの七郎が、柳生一門の宗矩と同世代の中では、エースだった
柳生兵庫助は、自分の門下で目を惹く才能を感じた逸材に対して「七郎の再来」と期待を寄せたほど

宗矩にとってはかつて身近に能のプロがいて(過去形なのは、七郎は早逝したため)、
なおかつそれが武術の達人であったため、
能の武術的な動きに対する評価は非常に辛いものだと考えられる
そんな宗矩から合格点を出されたと解釈できる

141 :
千利休の生害後のある時、太閤は風炉の形を何かと御好みであったのだが、
「このような時は、利休めを殺して事を欠く」と、仰せになった。

これを権現様(徳川家康)と利家公は、以前から宗易のことを不憫に御思い
であったため、良い機会と思し召し、少庵と道安の御許しの御取り成しを
なされ給い、早速の御許しを蒙った。

その後、太閤は道安を御前へ御呼びになり、4畳半で茶をたてさせて上覧に
なり、「宗易の手前によく似ている」として、道安は御感心を受けた。

――『茶話指月集』

142 :
やもめ女とやもめ男

ある日、上野の国の吉村の男が女に頭を棒で殴られ血を流したと訴えてきた。

男は「それがしは男やもめであり、この女もやもめであります。私達二人は同じ里の近所に住んでいて、
この女の家に夜な夜な通って情を交わしておりましたが、この女は別の男ともつきあい、
それがしを嫌い始めて泥棒呼ばわりして棒で頭を叩いてきました。
しかしそれがしは決して泥棒ではありませんから、無実を訴えに来たのです」と言った

女は「男と会ったことは無く、この男が夜中に家の戸を破って入ったので泥棒に間違いありません」と言った。

男はこれを聞いてもさしたる変化も無く、目もすわっていて受け答えもよどみがない。

結局どちらが正しいのかはっきりしないでいた。

そこで奉行の板部岡江雪斎が「やもめの男女を裁くのは珍しい事だ。両人とも証拠を示せ」と言った

すると女が「私は三年前に夫を亡くして、その時から理由の分からない腫れ物が出来ています。
医者曰く、これは「開茸」と呼ぶそうでなかなか治りません。
これを他人に見せるのは恥ずかしいので、それ以来男と付き合うなどと思った事がありません」と答えた

男は「しかし、女に腫れ物があっても寝起きは容易にしています」と返すと女は大笑いして

「私の体には腫れ物なんてありません!わざと嘘を言ったのです」と言った。

そのとたんに男は顔色を変え返答できなくなってしまったので、男を縄にかけて女は家に帰した。

盗人もうまく嘘をついたが、女の知恵には敵わなかった。それにしても
「開茸」の嘘は良く思いついたものだと、ここに訴訟を記しておく。

「北条五代実記」

見た事あったような気がするけど、まとめ探しても無かったので

143 :
>>142
ありがちだけどそれだけに実際あってもおかしくなさそうで好き

144 :
豆泥棒だったのか

145 :
明き盲かお前は

146 :
徳川家康と豊臣秀頼の、二条城会見が終わり、加藤清正は宿舎に戻って寝所に入り、衣服の中に隠した
短刀を抜き出して、暫くこれを眺め、また鞘に収めると、涙を流しながら語った

「私は幸いにも冥加に叶い、秀吉公の厚恩を、聊かでも報ずる事ができた。
もし二条城において不慮の事が起これば、御前であるから私も無刀ゆえ、この短刀を以って
働くべしと考えていたのだ。しかし君も恙無く御帰城され、私もまた今日の安堵を得た。」

そして又語った

「この短刀は、私が未だ虎之助と言っていた頃、賤ヶ岳にて高名を得た時、当座の褒美として
秀吉公より下された物なのだ。その時秀吉公は『後日加恩の上はこの品は返すように』と仰せになった。
それほどの、御秘蔵の名刀であったので、私は常にこれを、肌見離さないのだ。」

この事は寛永年間に、加藤家の牢人にて、庄林隼人の子息である、隼之介と言う者が北条氏長に
語ったものである。

(慶元記)

147 :
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9932.html
既出

148 :
この時、頼宣君の御物語りよると、両御所様の御前へ諸大名が追々
に参られ、(大坂夏の陣の)御勝利の御祝儀を申し上げ、また銘々が
自身の働きを申し上げなされた。

その中で畠山夕庵が参上致すと、権現様(徳川家康)は御覧になって、
「夕庵、これへこれへ」と御呼びになり、夕庵は御前近くへ参ると、

「今日の御勝利が思し召しのままになりました御事、めでたき御儀で
ございます」と、御祝儀を申し上げなされた。すると権現様は夕庵の
籠手を付けた手を御取りになられ、

「また勝ったわ」と、仰せになった。「これは関ヶ原のことを仰せ出し
なさったのであろう」との、頼宣君の御物語りである。

――『南竜言行録』

149 :
昔の縁組、今と相違の事

昔の縁組は今とは心入れがはるかに違ったものである。
阿倍四郎五郎〔二千石〕が先祖(阿部政澄)は、加藤主計頭清正の婿である。
今もその家に当時に物件がある。
大小不釣り合わせの事であるが、
きっと清正から阿倍の武勇を愛でて縁組させたのであろう。

また偃武の後のことであるが、
加州前田家から四辻家納言の子息に縁組があった。
これは加侯が京都で四辻幼息の楽舞を見て、
その立ち居振る舞いが閑雅であったのを賞する余り、婚姻を申し込まれたという。

(甲子夜話)

調べてみたのですが、前田家というのは前田利政のことで、
彼の娘が四辻大納言公理に嫁いだようですね。
彼の領地は能登で、しかも没収されているのですがね

150 :
奥平正信の家人であった鳥居強右衛門といえば、無双の勇士であり、長篠籠城の時、援兵を請おうと
必死を極めて城を出て、敵の捕虜となったが遂に使命を遂げて磔にされた事、世の知る所である。
この強右衛門の子に庄右衛門という者があり、武勇有り、才知もまた人に優れていた。

関ヶ原の戦の後、安国寺恵瓊は逃げ去って行方知れずとなり、徳川家康は奥平信昌、および
松平下総守(忠明。奥平信昌四男)に命じて京都を守護させ、安国寺の行方を捜索させた。
下総守の家人たちは、「かの法師が戦況を辛くも逃れた事ゆえ、どんな賤しき者に身をやつして
隠れているかわからない。」と、雑人たちの集まる場所を探し回った。

一方、奥平信昌より恵瓊探索を任された鳥居庄右衛門は、何を思ったのか、陣屋で寝っ転がり、
酒を飲んで過ごしていた。彼に従う兵たちは訝り

「いかに鳥居殿、下総守の衆は夜を日についで恵瓊を探し求めているのに、どうして空しく
日を送っておられるのか?」

庄右衛門、こしかし
「なあに、お前たちに解るものか。ただ私に任せておけばいい。」
そう言ってただ酒を飲んでいるばかりであった。

ところがある日、突然起き出したかと思うと
「安国寺を今日こそ捕える!何れも早く用意して従え!」

そう言い捨てると馬に打ち乗り駈け出した。兵たちは
「こは如何に!?鳥居殿は物が憑いて狂ったか!?」
そう混乱したが、しかし打ち捨てておくわけにも行かず、それぞれに得物をひっさげ庄右衛門を
追い駆けた。

二条富小路の大通りに至った時、乗り物厳しげに引かせて、若党2,3人を、これも長い太刀を携えて
従えている者があった。鳥居は馬より飛び降りると

「その乗り物に有るは、安国寺であろう!逃さぬぞ!」

そう声をかけると、かの若党たちはものも言わず一斉に抜き懸ってきた。
鳥居の兵たちも大いに驚き、抜き合って戦った。
この時、鳥居はどうしたわけか、石に躓いて転んだ。安国寺の若党は「得たり!」と拝み打ちに
打ちかけた。あわや鳥居討たれんとしたその時、後ろから馳せつけた鳥居の兵がこの男を
後ろから斬り伏せた。

鳥居は起き上がると乗り物に近寄った。しかしそこではかの若党の一人が、安国寺が捕えられぬよう
ここで首を討とうと太刀を振り上げていた。

ここに、松平下総守の家人・山田半兵衛という者が馳せつけて若党を斬り倒し、安国寺も捕らえた。
「しかし安国寺を見つけ出したのは鳥居の働きである。」人々はそう言い合った。

後に鳥居の兵たちは聞いた
「どうしてあの乗り物が安国寺だと知ったのですか?」

「お前たちは知らないのか。安国寺は法師であるが、心剛なる奴である。死んだとしても、
賤しき者と言われるのは口惜しいのだ。彼は去る人の元に匿われていたが、我らの捜索の様子を聞いて、
『とても免れ難し、同じ討たれるなら昔の姿を失わぬ!』
そう思ってあのような出で立ちをしたのだ。

私はこの事を密かに探り出し、その出るのを待ってあのように討ったのだ。」

「しかし、下総守の家人もあそこにやってきたのはどういう事でしょう?」

この問に鳥居は、何も言わずただ笑っていた。
人々はこのように想像した。「家康公より二家に命ぜられて探索したのに、奥平一家の功にしてしまっては、
下総守の面目が無くなってしまうと考えたためではないか、と。
(話園)

151 :
鳥居強右衛門さんは息子もかっこいいわ。向こうの鳥居さんとはえらい違いだ。

152 :
うそくせえ

153 :
加藤遠江守(光泰)はいつの陣のことなのか、銀子10枚を所持
して行きなさり、そのうち3枚を使って7枚をお持ちであった。

それを諸人は羨んで、遠江守のことを“銀持ち”と申したという。

――『武功雑記』

154 :
何に使ったんだろう

155 :
部下への褒美

156 :
名人の芸其練気別段の事

 小野流一刀の始祖で神子上典膳というのは、御当家へ召し出されて小野次郎右衛門と名乗った。
その弟は小野典膳忠也と名乗り、諸国遍歴して芸州広島で没した。
これから芸州では忠也流といって、その忠也の弟子が多く、国主も尊崇して今でもその祭祀が絶えていない。

 十人衆という、忠也流を修行する者の中にはこの祭祀の事等を取り扱う者達がいて、
その十人の内の間宮五郎兵衛というものは、とりわけてその芸に長じていた。
同輩家中の師範もしていて、そのころの国主但馬守(浅野長晟)も彼に武剣を学ばれていた。
しかし五郎兵衛は不幸にも中年で卒去したので、せがれの市左衛門は十六歳で跡式を相続した。
但馬守はすでに五郎兵衛の免許の弟子であったので、そのせがれの市左衛門へ教わったことを段々と伝授された。
市左衛門の業も抜群となり免状を渡されようとした時、市左衛門は退いて断ると述べた。

「どうしてそう思い立ったのか?」
と尋ねられると、

「一体親の義ですが、流儀の心得を五郎兵衛は甚だ未熟でして、いちいちその修行が間違っていました。
そのため五郎兵衛の指導のため、国中の一刀流はいずれも下手でしたので、五郎兵衛が師範としていた御家中の者はいずれも稽古が未練でございます。」

と申すと、但馬守はもってのほかだと憤り、

「汝の父の教え方がよろしくないと申すのも無礼である。殊にその方には予が太刀筋を教えたのだ。
それをよろしくないと申すのは、父を、いや主人を嘲るに相当し、いずれにしても不届きである。
理由があるのか!」

と尋ねられると、

「武芸の事を悪いと思っても、父のなされた事であるので言わないでおくのは不忠である。
それがしが悪いと存じましたので、御疑わますのなら同衆の手前で御立合をされるべし。」

と答えた。
但馬守はいよいよ憤怒されて、そのあまり

「小倅とて容赦は無い。立会いせよ!」

とかの十人の内に勝れたる同流の者を選んで、勝負を申し付けられた。
その十人は申すに及ばず、一家中で心得有る者どもが立ち合ったが、一人も市左衛門に勝ったものはなかった。
但馬守も自身で立ち合われたがこれもまた負けられたので、但州は甚だ尊重された。

「親を誹ったのは当座の当座を申し付ける。忠也流の稽古は万事市左衛門に指図させるように」

と申し付けられ、家中に名誉の者が出てきたと殊の外であるとのことであった。

惜しいかな、市左衛門は三十歳にならずして卒去し、その子が跡を相続したという。
但馬守はひどく惜しんだそうだ。
(耳袋)

157 :
トントン但馬だったか
血は残すべきでないな

158 :
薩隅の戦国お菓子 いこもち

“いこもち”は鹿児島の祝い菓子のひとつ。“いこもち”は漢字では「煎粉餅」と書き、餅米を炒った後、
粉に挽いた物に砂糖湯を加え、お餅状に仕上げた菓子です。
昔は黒糖で作っていましたが、現在は白砂糖を使った白いいこもちが多いです。

“いこもち”にはこんな話があります。
天文十八年(1549年)鹿児島に上陸したフランシスコ・ザビエルは、その翌年に平戸から船で出発し、
京都へのぼった。
その途中、夜盗に襲われ持ち物を奪われてしまい非常に難儀をした。
このとき同行していた鹿児島出身の青年ベルナルドが、腰にさげた袋に入れていた米粉で
いこもちを作って一行の飢えをしのいだといわれています。

穀物を煎った粉は虫がつかず、長く保存がきく。また携帯に便利なことから、焼米や糒などと同様に
携帯食として重宝されていました。
(かごしま文庫 鹿児島の伝統製法食品)

159 :
>>151
元忠死後のあっちの鳥居さんのその後
忠政:元忠次男。父の忠義のおかげで最終的には出羽山形24万石の大名に出世。でも領民からは嫌われてた
忠恒:忠政長男。死後、忠政時代から因縁あった大老・井伊直孝の進言もあって山形から信州高遠へ転封
忠春:忠政三男。転封先の高遠で父兄に輪をかけた暴政&贅沢三昧。特技は茶屋遊び。家臣に斬られた傷が元で死去
忠則:忠春長男。父同様の暴君。特技は借金踏み倒し。家臣が事件を起こして連座閉門中に自殺。妻は森忠政の外ひ孫
忠英:忠則次男。父のせいで能登下村1万石にまで落ちぶれるが最終的には下野壬生3万石。鳥居家初の名君

160 :
>>159
元忠のいい話が…w救いがあるだけましかなぁ。

161 :
いつか見た森家じゃないですかーヤダー

162 :
忠政は鮭様の築城した山形城を使いにくくなるような改造をしたからな。そりゃ嫌われるわ。

163 :
町に流れる川を埋め立てたんだっけ?

164 :
>>159
山形〜高遠時代の鳥居家は大概だけど山形時代の与力大名だった庄内酒井家(忠次の家)もこれまたひどい
酒井忠勝:家次の長男。鳥居忠政の娘婿。宮内。舅もびっくりの酷政を敷く。一説には自ら手打ちした人数120〜140人とも
酒井忠重:家次の三男。白岩領主時代に兄以上の苛政を敷き改易。のち酒井長門守事件を起こして再び改易。最期は暗殺

165 :
>>161
でも磔右近の血が入った忠英の代ででようやくまともになってるんだが

166 :
>>165
マイナスとマイナスをかけあわせるとプラスになるみたいなものかしら

167 :
鳥居忠英が亡くなった年(1716年)は家康が死んで100年目であり暴れん坊将軍の時代なんだよな

168 :
>>163
鮭様が川を外堀にしてたところを田んぼ用の水をひこうとして流れ変えたら、水はけ悪く城の中が湿地になってしまい雨降ったら大変なことになるような魔改造を施した。

169 :
慶長19年、大坂の御陣にて、小栗忠政は御使番・斥候の役目を承り、糧米3千俵を
恩賜され、与力20騎、弓・鉄砲の同心100人を付属された。

11月、後藤又兵衛基次と森豊前守勝永(毛利勝永)は仙波の人家に火をかけて城中
に引き入った。この時、船場の橋をも焼き捨てたのか実否は定かでなかったので、

本多正信を介して、「急ぎ見て参るように」との(徳川家康からの)仰せがあったため、
忠政はすぐさま1人で馬を馳せて行ったところ、

河野権右衛門通重は、御勘気を受けた身であったので忍んでいたのだが、忠政に伴う
ことを乞うた。それから、2人はともども船場の橋際に至り、忠政は馬を止めて静かに
その実否を見届けた。通重も徒歩で橋の向こう方に渡った。

城兵はこぞってその勇気を感心し、「このような者を討ち取るのは士の本意にあらず」
として、矢玉を放つ者はいなかった。

その後、忠政は帰って、敵の様子をつぶさに申したので、(家康から)「敵近く危うき所
に至り、よく見定めて帰った!」との、御感に預かった。

――『寛政重修諸家譜』

170 :
あれ?河野の手柄は?まさか…

171 :
案外、信長って平家滅亡の怨恨で行動してた説を提唱するわw
今川、足利、武田は源氏。比叡山は平家都落ちの原因となった離反行動。

172 :
織田が平氏な訳ねえw
あと平家≠平氏

173 :
長篠合戦の図〔鉄炮片眼打の事〕

 成瀬隼人正の家に長篠御合戦の古図があると、年来聞き及びながら過ごしてきた。
そういったある日にふと幸便があり、借覧を請うてみたら、
彼も部屋住みのときからの知り合いだというので、こころよく貸与してくれた。

 そこで模写させる傍らで絵を視てみると、
長篠城の体から、
勝頼が敗軍して武田の武将のかなりの数が突撃して討ち死にする体、
兵馬旗鼓の状態、
実にその場の真を写すに十分であった。
考えるに、当時の目撃人が描いたのであろう。

 その中の信長の先兵は、神祖の御兵と陣を並べて烏銃を発砲する様を描いたところを
詳しく見ると、信長の兵は十に一か二であるが、神祖の御兵はすべて皆片目で撃っている。
これから思うと、予の藩士が烏銃を撃つときは皆片目である。
 予は初めは田付武衛等の流派では、両目を開いて撃つので、領内のは田舎の旧風であろうと思っていた。
そこで、今は全て田付武衛のに従わせている。
しかし神祖の御時ではもっぱら片目での銃法があることを、これにて知ることができた。

荻野長(八百吉)が言うに
先年系譜修撰の御用を勤めたとき、稲富氏の系譜の中に隻眼烏銃の術を神祖に申し上げるというのを書載していて、
なおかつその時に稲富氏に神祖が下賜された御誓書は、今正しくその子孫に伝わっているという。
この稲富流があるのは世に広く知られていることである。
昔は稲富の法を御当家が採用されたことはこの古画で知ることができよう。

また予の領内で伝えられた隻眼の術は真柳流というとか。
今はその伝は絶えて名のみ残っている。

(甲子夜話)

174 :
東下総守政義(佐竹(東)義久の事か)といえば、佐竹義宣の老臣であった。
戦国の時の武士は先陣に進み一番に敵の首を得るをのみ心として、己の主人のために利害得失を
深く考える者は少なかった。佐竹義久は打物を取っては人に優れるほどの功名は無かったが、常に
謀略を考案し、主のために益有ることが多かった。

慶長の関ヶ原の事が始まる前、徳川家康は会津の上杉景勝を征伐せんと出兵したが、この時
佐竹義宣は、那珂郡に陣して、徳川の背後から攻めようとした。義久はこれを聞くと、義宣に向かって言った

「私がこのところの徳川殿を見るに、彼には今、天の授ける幸運がついています。それはほとんど
人の力ならざる物です。我が君がこの人に従って会津征伐に参加されれば、当家の幸運もこの上ないでしょう。
しかしもし、眼前の利に迷って、戦後になってからその疑いをかけられれば、ゆゆしき御大事に
なりかねません。」

そう諌めたが、義宣はもともと石田三成と親しい仲であり、義久の諫言を用いず、そのままの方針で日を送っていた。

ところが、徳川家康は上方に兵乱が起こったとの情報を得ると、下野より軍勢を引き返した。この時使者を佐竹に送った

『和殿は、先に仙道より会津に攻め入られると約束したが、いま水戸を去ること数里にて軍勢を止めているのはどういう事であろうか。
今の天下の情勢を見るに、御身勢力では、その進退によって天下の軽重を為すのは無理である。
いまこの時に、よく考えられるべきだ。東西の何れにも従わないというのは、先祖より伝来されし所領もどうなるかわからない。

会津を攻められるとも、人質として親族を出されるとも、また子息らを我が軍に従わさせるとも、御身の望む所に任せる。』

この書状に対し義宣は
『私は内府を恨む所はありません。であればどうして背くことがあるでしょう。
ですが義宣の子息どもは、おおかた大阪に参らせていて、今こちらには参らすべき者一人も
おりません。もしそういう者がいれば、どうして仰せを待つような事をするでしょうか。』

そう返書した。この佐竹義宣の態度に徳川家の人々は怒り
「憎き佐竹の申状かな!その義であれば踏み潰して後、西に向かうべし!」との意見が多く出た。
しかし家康はこれを押し留めた
「そうではないぞ。樹木を以ってこれを例えるなら、石田三成は根であり、その他は枝葉にすぎない。
その根を刈り捨てれば、枝葉はどうにもならない。」

そして、皆川下妻の勢を以って佐竹の押さえとし、急ぎ引き返した。この時、佐竹義久は進み出て

「内府、西軍の挙兵を聞いて俄に引き返しました。いま、そこに従軍している者達は合戦の考えはありません。
追撃すれば勝利疑いありません!」

そう進言したが、佐竹義宣は雄々しからざる性格であったので、この案を用いようとしなかった。
義久は歯噛みしながら
「ああ、危うい!我が君既に徳川殿に従わず、もし徳川が勝利すれば必ず我らの災となります!
また西方にしっかりと従わない以上、かの軍もこの情報を得れば、我が君を疑うでしょう。
これは一挙にして両失というものです!」

義宣は尋ねた「ならばどうすれば良いのだ?」
「当面は数百騎を東軍に派遣して、二心無き事を示すべきです。」
義宣はようやくその議に従った。

関ヶ原の合戦が終わり西軍が敗北すると、佐竹義宣は大いに恐れ、徳川家康の前に伺候し
「窮鳥懐に入る時、猟者もこれを許すと承ります。どうか重き罪を許していただきたい。」と訴えた。家康は打笑い

「乱世の時は各々その国によって敵の隙を伺うのは豪傑の為す所であり、誰がその是非を批判すべきだろうか。
佐竹が今回したことは、東西両道をかけた汚き心であり、赦すべきものではない。
であるが、佐竹義久の謀略は世に得難き優れものである。あの男が世にあるかぎりは、今までどおりにおこう。」

そう言って許した。
しかし慶長7年、佐竹義久が病死すると、義宣は常陸から出羽へと移された。
「国の柱石とは義久の事だ。」義宣はそう悔い思ったという。
(話園)

175 :
これでブチ切れて人材という人材(美人含む)を秋田に連れ去ったのか。

176 :
いい話なのかこれ

177 :
文句あんのか

178 :
>>174
>あの男が世にあるかぎりは、今までどおりにおこう
ほんとにその通りにしてんじゃねーよw

179 :
流石は大御所様、信賞必罰有言実行の名君であらせられるw

180 :
安芸国、毛利陸奥守大江朝臣元就という人物、その先祖を尋ねると、鎌倉三代の将軍の執権であった
因幡守廣元であり、彼は太枝の姓を改めて、大江を用いた。以降、元就の家は大江嫡流を称した。

元就の父もまた廣元という(毛利弘元)。兄を興本という。興元の子、幸松丸早世のあと、毛利の家は断絶の
危機にあったが、古老たちが協議して元就を呼び出し、吉田郡山城へ入城させた。

これ以前、元就は多治比三百貫を領する、非常に小さな存在に過ぎなかった。
しかし毛利の家督を得た後、智謀人に優れ、武勇世に類なく、遠近がその徳化に帰伏すること、まるで草が
風になびくようであった。

元就は、『之を用いるときは行い、之を捨てるときは蔵る』という孔子の言葉を思い出させる人物であった。

(甫庵信長記)


甫庵信長記の毛利元就評である。

181 :
京都の江氏嫡流はどう思って読んだだろ。

182 :
〔初清正の邸〕彦根侯邸に棲める雉
同臣脇師、高安某長舎
同侯上邸玄関

前にも彦根侯麹町の邸は、始めは加藤清正の邸であったことを記したよ。
このように清正の後は、かの邸は取り上げられ彦根の祖の井伊直政がここに住んだ。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10067.html

この邸の中に雄雉一羽がすんでいた。
この鳥は直政の時からいて、
直政が帰国のときは雉もまた随い、出府するとまた随ってかの邸に来た。
今もなおいて、時々見かける者がいるという。

侯の脇師高安彦右衛門は彦太郎の弟子であり、かつ彼の臣なので麹町の邸に住んでいる。
なのでこの雉の鳴き声を時々聞くことがあるが未だその顔を見ていないという。
彦右衛門の母は見たといい、その大きさは普通の雉を二羽合わせたようであったという。
邸中の人は皆、御雉子様(オキジサマ)というと。
〔以上彦太郎の話〕

また彦右衛門の住所は十五間ばかりの長屋であるが、それは清正の時に建てたままである。
よって古色があり、柱はどれも柘植の大角材であったが、手斧目のままである。
この長屋は邸内でも谷を隔てて溜池に臨む畔上にあり、
離れ家なので、先年千畳鋪が焼亡した火災でもその厄を逃れたという。
この長屋は邸の門を入って三丁ばかりを行き、谷を下りそれから溜池の端にあると。

彦根侯の上屋敷の玄関は大坂城で淀殿の能舞台であったが、落城の後この方に引き移したという。
そのためか、今も屋根裏の棟木に、道成寺の釣鐘の釣りかぎが存在するという。
面白いことではないだろうか。

(甲子夜話三篇)

183 :
野田城主・菅沼定盈の一族に、菅沼柄漏(えもり)という人物が有ったが、彼は本来「弥太郎」という
名であった。

ある年の正月二日、柄漏は定盈に従って岡崎城に参った。この時の御謡初めの酒宴があり、
ここで徳川家康の前で一曲を奏し、柄漏は立って舞った

『指す傘は、えもりはせまい』

という謡であった。家康はこれを大いに気に入ったか、その後彼をいつも”柄漏”と呼んだ。
これにより、彼は本名弥太郎を改め、柄漏と称した。以後その子孫はこの名を相続している。
元祖柄漏は武田信玄の野田城攻めの時には、既に隠居しており籠城しなかった。
二代目柄漏は武田軍の銃撃により戦死した。

(野田戦記)

まだあった権現様命名シリーズ

184 :
武田信玄による三河野田城攻めの最中、野田城の者達が会合していた時に、
戯れに「敵の陣屋を焼いて、あいつらが慌ててる所を見たいなあ。」という発言が有った。
ここに、城主菅沼定盈の下僕(草履取り)に喜徳という睡蓮の達人が有った。
この話を聞いていた喜徳はある夜、闇に乗じて忍び出て、桑淵の堀をやすやすと泳ぎ越えると
城外に出て、密かに敵の陣小屋に火を投げ掛けた。

この時風激しく、見る見るうちに假屋百軒あまりを焼き払った。
敵は「それ、夜討ちだ!」と上に下に騒動した。

この時、野田城には鉄砲の名人、鳥居半四郎という者があった。彼は徳川家康が
浜松より、籠城前に送られた十三匁の大鉄砲を装備していた。彼は武田の陣が火災にて
おおいに騒動しているのを見ると、城中よりこの鉄砲にて敵陣に向け、誰かは解らぬが
大将分と思しき者を目掛けて撃った。
この語、敵の陣は暫くの間大騒ぎと成った。
後で聞こえた所によると、この時の弾丸が、武田信玄の股に当たったのだという。

(野田戦記)

185 :
旗下の小出氏、家紋の事

小出亀之助という〔二千石〕当時御使番であった人、
予も知り合いで武辺者であった。

この人の家紋は、額の中に二八と文字があった。
予はその理由を問うと

「我が先祖は、某の所〔地名は忘れた〕で首十六を獲って、
その辺にあった祠の額に積んで実検に及んだ。
神祖は功労を褒めなさって、その状況を家紋にせよと命じられたので
このようになった。」

と言った。

(甲子夜話)

186 :
タマヒュン…

187 :
蕎麦じゃねぇんだから

188 :
どこの地のことか、ほど遠き所に徳川家康が鷹狩りをした時、折りしも雪が
降り出して、御供の輩は濡れてびしょびしょになった。

家康はその様子を見て御輿の戸を開け、「とても趣深い景色だな」と言って、
自らも濡れ添って仮の住宅に到着した。

けれども、家康は自身にかかった雪を払おうともせずに、「急いで粥を煮よ」
と言って、粥を煮始め、少し粥を食べると、残りはすべて御供の者に与えて、
「これを食べて温まれ」と、言った。

そのため、いずれの者も家康の親愛の情のもったいなさに恩情を感じて、
寒さを忘れる思いであったという。

――『徳川実紀(天野逸話)』

189 :
お粥よりも所領が欲しいでござる

190 :
板倉伊賀守(勝重)殿は、齢七十余りとなったので、功名がかない遂げたと身を退き、
嫡子周防守(重宗)殿がついで天下の所司代となった。

そのころ、上京のある家主が二十余りの子を残して亡くなった。
母は継母であった。
その母が
「子には家を渡してはならない。私が跡式を取れとの夫の遺言があった。」
と言う。
子は眼前の親子である私を除けて、他に誰が家を執れるだろうかと怒り、所司代へ双方が出頭した。
互いに自分の意向を口上していたが、その中で母が
「後家と書いて何と読みますか。」
と申した。周防守は
「後の家と読む」
と言うと
「そうならば、私が相続することが当然でしょう。」
と申す。そこで、
「まず帰って、重ねて詮索するとしよう。」
とのこととなった。
妻は宿に戻って、
「公事は勝った。ならば尼となろう。」
と親類と言い合せた。
再び裁許を下すとまた裁判の場に出て行くと、周防守は
「そちは髪を剃ったのか。」
母にたずねられた。
「そうでございます。二度夫を持ったり、憂世に望み持つことはありませんので
思いを決めて出家の姿になりました。」
そう言い終ったすぐに周防守殿は
「出家とは家を出ると書くので、この座敷からすぐに家を出よ」
と申し渡された。

(醒睡笑)

191 :
>>189
所領よりも茶器が…

192 :
>>191
美濃・尾張でよろしいか?

193 :
東海沢庵の事蹟

この頃ある僧の話で聞いた。
猷廟(家光)がかわいがって待遇した東海寺の沢庵和尚は、
もとは遠流に処せられていたが、柳生但州(宗矩)の上言で召還されて帰参した。
このときの狂歌で、

上意ゆえ還りたくあん(沢庵)思えども おえど(江戸・穢土)と聞けばむさしきたなし


また沢庵が御茶の御相手に出たとき、御釜の沸湯が蓋の辺りから滴るのを将軍様が御覧になられて

てき(敵・滴)がおつるおつる

との上意があると、応じて

ひつくんで(引く組む・汲む)とれとれ(捕れ)

と言った。その敏捷さはこのようであったと。

林子(述斎)曰く、これは島原陣のときのことであろうかと。
なるほどそうでもあるだろう。

『延宝伝燈録』には

「慶長十四年の春に大徳寺の住持に出世したが、三日だけ山にいて、
退鼓(禅寺で住持が退く時の説法を知らせる鼓)を打って泉南に帰った。
豊臣秀頼公及び一時の侯伯は、招請を重ねてしたが、師は全てに赴かなかった。
寛永六年秋、大徳出世之事により羽州へ貶められた。
謫居(遠方へ流されること)すること四年、欽命(君主の命令)により赦されて還った。
大将軍家光源公東海寺を創って、師に命じて開山祖とした。」

(甲子夜話続編)

194 :
@「藤堂と申します」「もしかして高虎と関係ありますか?」「直系本家ではないですが一応血は引いてます」「お
おー!」みたいなやり取りはよくあるのだけど、昨日出会った映像クリエイターの方が「僕、長曾我部の直系なんですよ、大坂夏の陣ではお世話になりました」とか言われて新鮮だった

195 :
大阪冬の陣のとき、菅沼左近定芳は、本多美濃守忠政の組にあって、備前島に仕寄を附けた。
ここは大阪城の近辺であったため、徳川家康より大砲数十挺が下されていた。
しかしここでの大砲による攻撃は、思ったような戦果を上げなかった。

このような中。定芳は御鉄砲方の井上外記正純、稲富宮内重次、牧野清兵衛正成にこう言った
「この頃放つところの鉄砲は、城の上を越して効果がありません。今後は、
石垣の下、水際の上辺りを狙って放つべきでしょう。」

先の三人は定芳のこの指図を守って大砲を放つと、案のごとく命中し、城の塀、櫓を破壊した。
これに大阪城中にあった女子供は肝を消し、魂を失ったという。
この後、和議が入りついに和平となった。

その後、将軍徳川秀忠は伏見城において菅沼定芳を召し、大阪城攻めにおける大砲の功を大いに賞賛し、
御前において黄金二十枚を下賜されたという。

(菅沼勲功記)

196 :
蛇姫と血洗いの池

毛利元就の初陣にして、西国の桶狭間とも言われる有田中井手の戦い。数で勝る武田元繁の軍を5分の1の寡兵で打ち破り、元就の武名を一躍高めたのがこの戦である。
この戦で敗死した武将の1人に、安芸武田家重臣の熊谷元直が居たのであるが、彼の遺骸は戦場に置き去りにされたままであった。
元直の妻は父親、香川光景が大蛇退治をした(実際に退治したのは弟で家臣の香川勝雄)事などから蛇姫とあだ名される女性であったが
夫の骸を持ち帰らなかった家臣らに腹を立て、その夜馬に乗ると1人戦場跡に赴き首の無い数々の死体の中から元直の腕に有った腫れ物の痕を頼りに夫の遺骸を探した。
やっとの思いで夫の遺骸を見付けた蛇姫であったが、彼女の力では夫の遺骸を馬に乗せ持ち帰ることができず、
彼女は泣く泣く夫の右腕を切り取って持ち帰り、熊谷氏の菩提寺である観音寺に湧く井戸で持ち帰った右腕を洗い清めて亡き夫を弔った。
観音寺は今は史跡として残るのみであるが、その境内には蛇姫が夫の右腕を洗い清めた血洗いの井戸が今も「清泉」と呼ばれ残っている。

http://www.cf.city.hiroshima.jp/kabe-k/kabemap03.pdf
(広島県史他)

197 :
>>196追記
なお、右腕は清められた後に埋葬したとされるが、続武将感状記によると元直の妻こと蛇姫はこの後死ぬまで夫の右腕を大事に持って居たとのことである…

198 :
名前と前半の紹介のせいでてっきり清姫のような半分妖怪か剛力な女性かと思いきや
心はともかく体は普通の女性並であったか

199 :
>>197
いい話が恐いい話になってるじゃねーかw

200 :
一物じゃなくて右腕?よっぽど小さかったんだな

201 :
この女丈夫の娘は絶世の美女、孫娘は後に実家の香川家の一族が書いた陰徳太平記によるとゴニョゴニョ… のあの人

202 :
肥前鴉、高麗雉

 予は年毎に肥筑の間を往来している。
さて佐賀から神埼までの間に不思議な鳥がある。他では稀で見られない。
その形はくちばしが尖り頭が小さく尾と首が長く共に黒い。
羽と背とに白色がある。
鳩よりはよほど大きく、カラスよりは小さく、全体はカラスに似ている。
俗に呼んで”肥前がらす”という。これは他国にいないことからの称である。
あるいは”かちからす”ともいう。これは群行と鳴き声によって称す。
昔佐賀の領主が朝鮮から取ってきて領地に放った後繁殖したという土俗の話がある。
ある人は、これは漢土のカラスであるという。
我が邦の”かささぎ”と名づけたものは、黒白斑があることから”からすさぎ”ということからと聞いた。
百人一首の家持卿の歌にからすのことのことをいうのは講説の秘訓であるとか。

予の領地にも多久島という二里に足らない島の城地に近いところに、これの異種の雉がいる。
土人は”高麗雉”と呼ぶ。
これも祖先の宗静公〔式部卿法印〕(松浦鎮信)が朝鮮からの帰りにかの島に放たれたものという。
よってかの称がある。
この雉も領分の中の余所にはなく、ただかの島のみにある。
他でも稀に飼う者を見かける毎にその大本を聞くが、
皆かの島産のものから伝わったものだという。
(甲子夜話)

203 :
晋州の城を攻める時、黒田長政の士大将・後藤又兵衛基次は“亀の甲”
という車を作り出した。

厚板の箱を拵えて、その中に丈夫な切梁を設けて、石を落とし掛けても
箱が砕けないように対策を講じた。

箱の中へは後藤が入り、棒の棹をさして車輪を箱に仕掛け、進退が自由
に廻るようにして城際へと押し迫り、石垣を崩して、城へと乗り入った。

――『常山紀談』

204 :
なにそのダヴィンチ戦車

205 :
蒲生備中真令(頼郷)は石田三成の家中でも世間に知られた勇将である。関ヶ原の前、軍評定の時、
真令は「明日はひとえに必死と思い定めなさいませ」と、言った。島左近が、「明日は先陣に進んで、
忠義を冑として打ち勝つことであろうに」と言うと、

真令はまた「昔から利を得ることは天の助けに依るものではありますが、軍勢の正しさと法令の厳しさ
との2つがあってこそ、利を得るかは決まります。よく胸の内を省みてくださいませ。ひとえに必死と
思い定めなされなければ、勝ちの半ばでありましょう。そうでなければ、再び御目見えは致しますまい」
と言って、座を立った。

真令はもとより敗軍を悟って、三成に必死を極めた言葉を出したのだ。かくて、関ヶ原において真令は
ただ一騎で三成の陣に行き、何事かを言うと、三成は打ち頷いた。真令は馳せ帰って競いかかる敵に
向かい、散々に戦ったところ、織田長益に出会い、

「昔は蒲生家にて横山喜内、今は石田の家中で蒲生備中として人に知られている者である!」
と、言った。これに長益が、「殊勝である。私に降参せよ」と、言い終わらないうちに、

真令は「これは何事ぞや!」と言い、拝み打ちに斬って長益を馬から打ち落とした。これに長益の
従者・千賀文蔵が槍で真令を突き通すと、真令はその柄を握って文蔵と引っ組んだ。しかしながら、
文蔵の弟・文吉が刀を取り直し、真令を刺してついに打ち取った。

真令の子・大膳は、「戦いの半ばで首1つを提げて父親に見せるようでは、功名も何になるだろうか」
と言うのを聞いて再び東に向かい、押しかかる敵に駆け合おうとしたのだが、父が討たれたと聞くと、

「まてしばし 我ぞ渉りて 三瀬川 あさみ深みも 君にしらせん(少し待っていてください。私は三途川を
渡って、あなたにその浅深を知らせましょう)」という歌を高らかに唱えて、自害した。

大膳は幼い頃から戯れを好まなかった。関ヶ原へ出陣の時、彼の母親は「私は汝が富貴になることを
願わぬわけではないが、武士の家に生まれた身は、昔から名を重んじるのが習いである。およそもの
2つは兼ね難いものだ。身を全うして名を忘れよとは、言えるはずもない」と言ったのだが、彼は父親と
ともに死んで、母親の戒めに違わなかった。

――『常山紀談』

206 :
神祖葡萄の御硯箱の事

世に葡萄を模様につけた物は武家では忌まれている。
かの実が成って下がる形を、音通で"武道成り下がる"といって当てて忌むのである。
これを古い事のようにいう人がいるが、
駿府にある神祖の御遺器の中に、御生前時に常におられました所の右に
置かれていた御かけ硯箱がある。
その御箱の模様は葡萄が実っているものであるという。

またある人の家に拝領された野羽織がある。その模様は全て葡萄で、その中に所々御紋がある。

なので世にいうところは、後の世の物忌める人の言い出したことで、
古い事ではないことは分明である。

(甲子夜話)

207 :
慶長十九年の冬、将軍様は大坂の城へ寄せさせなさった時、日本六十余州の軍兵は一騎も残らず出陣した。
本陣は天王寺の茶臼山にあったので、何者が詠んだのだろう

大将はみなもとうぢ(源氏:宇治)の茶臼山 引まはされぬ(臼を挽く)もののふぞなき


(醒睡笑)

208 :
吉川興経の墓と犬塚

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4213.html
↑1550年、吉川興経が毛利元就の命令で隠居地の布川にて天野、熊谷の手勢に殺害され、吉田にて元就の首実検を受けた後に土中に埋められ石を積み上げ墓が建てられ大勢の僧にねんごろに弔われた。
墓が建って少し後、興経が飼っていた白い犬が興経の墓所に現れると墓の傍で石を枕に眠りだした。
初めの数日は誰も気にしなかったが、4,5日経ってもそのままなので人々は不思議がって犬に餌を与えようとしたが、犬は見向きもせず7日目に飢え死にした。
人々はこの犬の忠義を讃えて主人の墓の傍に犬塚を建てて弔うと共に、興経が襲われる際に彼を裏切って弓の蔓を切ったり青江の刀を刃引きして潰した近臣の村竹宗蔵とこの犬の忠義の魂が入れ替わっていたらと噂したと言う。
(陰徳記)

209 :
>>208にはまた別の話があり、興経が布川(広島市安佐北区深川)で首を切られた瞬間、その愛犬(家臣とも)が飛び出し首を咥えると主人が生前懐かしんでいた郷里(北広島町新庄)へ向けて駆け出して行った。
しかし犬は途中で力尽きてしまい、目前の中山で死んでしまいそこで主人興経の首と共に墓が建てられ、犬塚が建った。
この時興経の首が転がって少し下の位置に落ちた為、犬塚は興経の墓よりやや上に建てられたと言う。

210 :
>>206
刀につける金具なんかにも葡萄の図柄いっぱいあるのにね
とくにリスを一緒に配した図は「武道に立っす」に通じるので好まれた

江戸時代の有職故実家、伊勢貞丈が著作でたびたび
世上で故実家と称する人々が、ありもしない有職故実や作法を創作して広めていることを嘆いているように
次から次へと変なマナーが創作されてくるのは、現代までつながる日本社会の宿命なんだろう

211 :
葡萄柄ってツタとか多くてぱっと見グレープっぽさがないよね

212 :
>>208-209
(U˘ω˘)

213 :
>>209
ちなみに、興経の首塚より犬の塚が上にあるのはどう考えてもおかしいので、「犬の塚」ということにして処刑された興経の子どもの墓を立てたのではないかと、推測している郷土史家もいる。

214 :
吉川興経、化ける。

>>208-209の続き。この白犬が亡くなった後、吉川興経は怨霊となって人々を悩ます事となった。
興経と思しき葦毛の馬に乗った武人の人影に出くわした者は十人中十人が皆気絶して再び起きる事はなかった。
百人に一人、助かり目覚めた者があったとしても心身脳乱して正気のままではいられずに狂ったようになり、恐ろしい言葉ばかり言ったそうだ。
そこで興経の鎮魂の為に一宇の社壇を建立して御崎大明神として崇め、その無念を慰めようとしたのであるが、よほど怨みが強かったのか、
なおも亡霊は人々を悩ませ続けた。
そこで京都の吉田殿(吉田神社の神主または吉田 兼右?)に人をやり、この事を申し上げたところ、社壇の名を御崎大明神から光大明神に名を改める様にと言う事で、その様に名を改めた所、
今度は葦毛の武人の霊の代わりに光る傘状の物が社壇から現れ飛散し近隣を惑わせることになった。
この事を再び吉田殿に相談したところ、
「光と名付けたので光るとは。なかなか柔軟な対応である。今後は柔軟大明神と名を改めると良かろう。」
と答えられたのでその様にした所、怨霊は収まり武人の霊も光る傘状の物も現れなくなったと言う。なお、興経の愛犬もまたその神社に祀られたそうだ。

(陰徳記)

215 :
10人中10人が意識不明になって、助かった人も基地外になってるのに何で葦毛の馬に乗った人の霊とか姿形がしっかり伝わってるんですかね?(名推理)

216 :
だから不思議な話なんだよ(棒

217 :
光る傘状の物・・・UFOですかね

218 :
>>214
恐い話かと思ったら笑い話じゃねーかw

219 :
神の使いとか荒御霊を意味する御崎(ミサキ)はともかく、光る大明神とか柔軟大明神とかけったいな名前つけられたせいでこの世に厭気さして成仏したんやろなあきっと…

>>218
一応人死んでんねんけどな

220 :
柔軟大明神吉川興経「そこでこのエンブリー」

221 :
細川忠利「うつけ者!」

ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3506.html
↑この話で森忠政の跡継ぎになった長継と細川忠利のその後の話

将軍家光公の御上洛の折、森美作守(森忠政)様が京都で亡くなられたのを、
忠利公は代々心安く(森家に)出入りされていたので既に存じられていた。

何某とか名は覚えていないが「最早お亡くなりになられました」と(忠利に)申し上げると
「うつけ者!」とお叱りになられ(忠政が)ご存命のときの如く(森家へ)直に行き
「内々お願いしていた通り、内記(長継)殿ご養子のお願いは妥当だと思われているので
正式に認められるまでの間、少しも気になさらない様に」
と高々と引き受けられ、お帰りの時にご家来共歴々に
「最期のお願いは聞き届けられました、いずれも安心して下さい」とおっしゃられたので
先程叱られていた人も感涙し、その他の歴々ご家来共もまた涙を流しありがたがった。

このような様子だったので、内記様は美作十八万石と津山城を無事拝領された。
内記様という御名も(長継の)御所望にて(忠利の初任官時の官職、内記にちなんで)
おつけになられたと承っている。

――『旦夕覚書』

222 :
おまけ

寛永十四年十月十二日 森長継宛細川忠利書状

「一筆申し入れます。貴方から鹿毛の馬を頂いたとき『よそへやるようなことがあれば
貴方に絶対お返しします』と約束しました。この馬を肥後守(光尚、忠利嫡男)が見る度に
『乗りたい!』と言って借りるので、常時貸すことになってしまいました。
もっとも貸すことはないと言っていましたが、貸したと言っても我らの所にいるのは変わらず
(光尚は他人ではないので)この馬を借りたときのまま約束は破っていません。このことを
お聞きになられて、肥後守に勝手にやったのかと思われたら迷惑なので書きます。恐惶謹言」

――『細川家史料』

223 :
>>221-222
…まあ三斎様の息子らしい、としか言えんw

224 :
できすぎ君忠利

225 :
忠利は優等生なイメージもあるけどやる事はやる

226 :
細川三斎先見〔大坂陣起こらんとする前〕

軍講者宗耕の話である。

 大坂陣起ころうとする前、細川三斎は領国にいた。
宇土から熊本に行く途中、何者かが馬上で深網笠をかぶって行く者に会った。
三斎はその者と間近くで行き過ぎざまに振り返った。

三斎は左右に問うた。
「今の馬上の士、お前たちは何者かを知っているか。」

「知りません。」

「あれは塙団右衛門だ。どうしてこの地に来たのか。
我はあやうく打ち捨てようと思ったが、そのままにしておいた。
もしかすると、遠からず変事が起こるだろう」

 果たして、その後間もなく大坂の乱が起こったという。
後に思うと、塙は薩摩へ行く途中であろう。そうならば大坂の戦の最後で
秀頼も薩摩へ落ちて行ったが、なにか薩州と由縁があるのだろうか。
神君にも御弁えられていることなので、捨て置かれしとのことなのだろうかと。

 またこのことをある席上で細川の留守居へ問うと
「この話にでてくるのは、まさしく三斎である。」
と言ったそうだ。
薩摩の留守居も居たが、
「これはどうしたことであろうか、よく知りません。」
と答えたそうだ。
思うに、薩摩の留守居は憚ったのだろうか、そもそも知らなかったのだろうか。
(甲子夜話三篇)

227 :
細川の肥後入りって大坂の陣より後じゃね?

228 :
一、利家様(前田利家)の仰せによると、

「若き者は、世間で事のある時に意気盛んな言葉を言わせておくのが良い。『その言葉
を違えまい』と思う心のあるものである。早くも2,3度手柄をあげると、意気盛んなことを
言はぬものだ」とのことである。

一、戸田武蔵守殿(勝成)も坪内平太も物語りに御申しになったことであるが、利家様を
近頃取り沙汰して申すことには、

「又左衛門は、この頃意気盛んなことを言わないが、早くも心を引き締めたのだろうか」

とのことだった。ところが、利家様は大坂合戦の時にまた日本無双の槍をなされたので、

「又左衛門は若き時は意気盛んなことを言っても武辺をなしたが、いま心を引き締めても
このように手柄をあげるならば、あれこれとは推し量れぬ人である」

と、上下の身分ともに申したとのことである。

――『亜相公御夜話』

229 :
ある戦陣での戸次道雪と朽網宗暦・宗策のやりとり

豊後朽網山野城主・朽網宗暦(鑑康)は息子の宗策(鎮則)ともどもキリスト教贔屓で知られた人物である
1553年には朽網地方に宣教師や修道士が訪れキリスト教の布教が始まりやがてキリスト教日本八大布教地にまで発展していく
翌1554年には豊後で初の教会を建てルイス・フロイス「日本史」にその教会の美しさを絶賛する様子が書かれている

それはさておき、ある戦陣で朽網宗暦・宗策親子が総指揮官・戸次道雪の元へ訪問する際のこと

宗暦「そなたも知るように道雪殿はキリシタンを好まれぬので(胸にかけた)そのロザリオを御目に触れないように隠しておけ」
宗策「……」

最初は父の言に従ってた宗策だが道雪の前にくるや父の言を翻しこれみよがしにロザリオを取り出しはじめた
宗暦はこれを見て慌てて(ちなみに宗暦は以前耳川の件で志賀道輝(親守)共々戦いぶりを道雪に糾弾されたことがあった)

宗暦「この倅は馬鹿者でござる。ここに罷り出るに先立って貴殿はロザリオをお好み遊ばさぬ故に取り外すように注意しておきましたるに取り外すどころかこのようにわざと出してみせる始末」
道雪「ご懸念無用。何となれば優れた兵士は初志を貫徹すべきで後退してはなりますまい」

こう言って宗策の行為をやり過ごし宗暦を安堵させたという

ちなみにこのやりとりをフロイスは
「このことから言い得るのは日本人がいかに理性的で答弁にあたっていかに分別があるか、ということである」と評した

キリスト教嫌いな人物には基本ミソカス(例:ラスボス・爆弾正・信玄・宗麟正室奈多夫人)なフロイスから珍しく褒められた道雪の分別

230 :
フロイス「戸次鑑連はロザリオおkだから許す」
道雪「武士なら初志貫徹すべき」

価値観が交わってないけど利害は一致してるだけのような

231 :
豪胆な人が好きなだけでしょ
優男なら罵倒してた

232 :
入道し毛利宗瑞となったTERUは祖父に鉄拳制裁を食らうわ叔父たちにガミガミ言われまくってた若き日々のことを回想しこう書き残している

…日頼様(元就)余御折檻候上に隆景元春さし合種々異見達被申、はや此分にては身上続ましき…

――『毛利家文書』より抜粋

233 :
 箱根の関のこなたにしろみず坂というものがある。
小田原城の見える所なのに城不見(しろみず)というのは、
豊臣太閤が北条攻めのとき、ここまで来て城を見ないで止まられた。
近侍の人が何故に城を見られないのかと不審がると、
「いやいや、城を見たら大砲の恐れがあるので見ない。」
と話されたという。
これからその地の字となったとか。
(甲子夜話続編)

北条方も大砲を持ってたんですかね

234 :
総大将を狙撃するための流言かもしれないから用心したんでしょ

235 :
一、子の善悪邪正は、親たる者のしつけによるものである。

3歳以後は言語を教え、5歳以上は起居動静を指南し、7歳からは手習いを
勧め、8歳からは読書を習わせ、10歳に至っては身の行いを第一とし、

主に忠、親に孝、他人であっても老を敬うこと、兄弟の差別はもちろんのこと、
子を慈しんでよく教え、人の応対・送迎・式礼を合点させるのだ。

貴賎ともに教導がしつけの第一だ。年頃になり、生物知りになっては時後れ
(“時すでに遅し”か)である。

――『山本道鬼入道百目録聞書』

236 :
7歳の女城主誕生

立花山城督・戸次道雪には後を継がすべき男子がいないのが老齢の本人のみならず大友家の
悩みの種になっていた。そこで大友宗麟は道雪の猶子・鎮連の子で実の大甥に当たる男子(統連か?)を道雪の養子として
立花山城督を継がせその男子が成長するまで道雪と鎮連に後見させてはどうかと道雪と鎮連に諮った
しかし道雪はこれを断り次女(長女は夭折)のギン千代に立花城の城督・城領・諸道具の一切を譲った
姫が家督を継ぐのは異例だがこれは然るべき婿養子を迎えるという算段が道雪にあったから出来たこと
道雪には誰を迎えるかの算段がすでにあった。それが宝満山城主・高橋鎮種の長男・千熊丸だった
道雪は弥七郎が幼少のころから目を掛け(スパルタ教育を施し)ていた

一例:ある時二人が食事をしていた時、千熊丸が骨を取りつつ鮎を食しているのを見て道雪は怒り

「武士の子にあるまじき軟弱者!武将たるもの魚は骨ごと食べるべし」

と𠮟りつけたとされる

参照:涙をこらえつつ少年宗茂は
URL:http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7089.html

このように厳しい指導を幼少時から道雪から受けていた千熊丸改め高橋統虎は
道雪の婿養子になりのちに「西国無双」と称されるまでの武将に成長する
一方、ギン千代以前の立花山城督になってたかもしれない戸次統連は父が島津への内通を疑われ
義統に誅殺された後に戸次氏の家督を継ぎ名を統常と改め父の汚名を注ぐために島津氏と戦うことを決意する
最後は戸次川の戦いに豊臣勢として参加して長曾我部信親や十河存保らと共に戦死した

ギン千代が立花家を継いだ話を少年期宗茂や戸次統常の話と織り交ぜてアップしてみた

237 :
寛政十二年、作者の松浦清が冬になってから、平戸から江戸に出発したときの紀行から。


 十月二十五日 周防国の呼坂を出発した。
宿の主に、呼坂という名はどうのような由縁があるのか聞いた。
主は、

「豊臣太閤が朝鮮を伐ちなさった時、ここで従軍の兵卒を呼びなされたことから
名づけられたと聞き伝わっています。呼坂とはここの前にある坂を申します。
またここらへんに勝間村という村があります。
そこには勝八幡という祠があります。これは式内の社で、かつの神社とか申すと聞いています。
太閤がこの地を通られた時、この社に詣で、名を問われたので、"かつの社"と答えたら、
喜んで

『発軍に勝をいうのは吉兆である。また八幡の御神は軍神でおわしますので、
かたがた勝利の瑞である。』

と、その地の竹十二本を取って旗竿として、神祠には厚く敬礼されたとか。
またこの道は初めは花岡の駅から高森までで、南のほうを海浜の沿っていました。
太閤が薩摩を征されたときはその道を通られたが、
朝鮮を伐たれるときは新たにこの道を開かれた。」

との話をした。

(甲子夜話続編)

238 :
>>236
統常は母親が烈女だからなあ
母子揃って最期は壮絶すぎる
仮に親父の無謀が義統の謀略だったらやるせない

239 :
あげまた

240 :
>>238
統常は戸次川に赴く前に自分の子を宗茂夫妻に託して戸次本家の血を残している
ちなみに統常の妻の父が吉弘鎮信だから後年石垣原で戦死した統幸とは義兄弟

241 :
昔、江戸大普請の時、人の家居も未だ定まらず、大名高家の屋敷取りがここかしこに
あった。ある大名は屋敷の中にいかにも趣のある小屋掛けなどをしておられたのだが、
夏の時分に狭い所で蝿が多く、払いかねなさり、

13,4歳の小姓に蝿を打たせ、主人も蝿打ちを持って蝿をお打ちになっていた。この時、
主人は、「驚いたか!(おほへたる哉)」と言って、その小姓の背中を強く打った。これに
小姓は驚いて怯えてしまった。

小姓は心の中で、「このような面目なきことはないぞ。今の有様ほど滑稽なことはない。
『未熟な者だなぁ』と思し召されては、恥ずかしきことだ! あぁ、仏神の恵みあって、
いま一度お打ちになって下されよ!」と、思って、

蝿を打ち参っておると、しばらくしてまた初めのように、主人は言葉をかけて仰々しく
お打ちになったが、小姓は少しも騒がずに蝿を打っていた。主人は「汝はさっき打った
時は驚き怯えたのに、いま打ったら少しも驚かないのは何故だ?」と、問いなさった。

小姓が心に思ったことをありのままに申すと、主人は深く感心して、「信長公も秀吉公も
『心掛けた武辺は、おのずからの武辺に優っている』と、仰せになられていた」と、言い、
朋たち(意不詳)の大脇差に時服を添えて、その小姓へお与えになったという。

――『備前老人物語』

242 :
誰なんだろう。あの人っぽいが。

243 :
大友家って家臣はすごい人多いのに主がどうしてああなのか

244 :
宗麟のDNA

245 :
織田信長は、毛利河内守秀頼、佐久間右衛門尉信盛を召して聞いた

「長篠に後詰のため出陣すべきや否や。各々、異見を申し述べよ。」

先ず、毛利秀頼が言った
「御出陣は無用です。何故ならば、味方は大軍ですが新参の集まりであり、武田方は小勢ですが、
信玄以来磨き上げた精錬の兵たちです。また長篠は切所が多く、大軍の駆け引きが自由にならない場所で、
小勢に利があり大軍に不利な地です。

今回の戦いに勝ちを得るためには、敵を広場に誘い出すよりほかありません。ですが武田には、
馬場、内藤、山縣ら武功者の老臣たちがあり、このような計略には乗ってこないでしょう。
そして実際にそのような結果になれば、我らは徒に対陣の日を重ね、その間に武田は、
瀧川あたりの切所に押さえを置いて、長篠城を攻め落としてしまうでしょう。そうなれば、
織田徳川の両旗にて、しかも敵に倍する大軍を率いて後詰しながら、目前に城兵を見殺しにし、
出来ることも出来ずおめおめと御馬を返す事となり、天下の嘲りを受けるでしょう。

無理な合戦をすれば、必ず負けるものです。」

これに対し佐久間信盛は言った
「毛利殿の申される所、至極尤もです。ですが万一御出馬無い時は、かねてから徳川と取り交わしていた
御誓詞は水の泡となり、家康は武田方と合体するでしょう。そうなれば御当家は甚だ手薄な状態となり、
今後の御家運もいかがかと考えます。

ですから、この度は勝っても負けても御出馬あるべきです。」

信長はこの意見に賛同した。
「これはおもしろき右衛門が言葉である。早々に出馬いたそう。」

ここで佐久間は更に申し上げた
「御合戦に御勝ちなされたいのなら、御勝たせ申し上げましょう。この事について、私に一つの才覚が
あります。何とそ信盛に一任してください。但しこれは、私が武田に心を通じてこのような事を
言い出しているわけではありません。後日の証拠に、起請文お手元に差し上げ置き、その上で武田に対する
計策を申し上げます。」

そして誓書を献じた上で述べた
「先ず長坂長閑、跡部大炊助の両人に金を取らせて謀りたいのです。」

「易き事である。何なりと取らせてやる。良いように取り計らえ。」

「では金銀に添えて、光忠の脇差も賜りたく存じます。」

こうして信長は家康家臣の小栗大六重常を召して「近日出陣する」との意向を伝えた。
大六は大いに喜び、御前を下がるとそのまま岐阜を出立して急ぎ浜松に帰り、あった次第を詳細に
家康に伝えた。家康も大喜びし、即座に陣触れをして岡崎まで出陣、信長をここで迎えるとした。

信長は浜松に返事を済ませると直ちに陣触れを行い、5月13日岐阜発陣、熱田に着陣後、桶狭間勝利の
吉例を用いて熱田神宮に参詣し、神官の田島丹後守、惣検校の千秋喜七郎に御目見得を許した。
この時、内陣において轡の音がし、これに信長は歓喜した
「この合戦、神明の加護を以て勝利を得れば、当社は勿論、八剣の破損、及び末社に至るまで残らず造営、
修理いたそう!」

そして翌15日、岡崎城に着陣した。

(長篠軍記)

246 :
駿府では町年寄、乙名、名主を全て町頭という。
これは神祖が大坂から御帰陣のとき、
市中のおもだった者たちが御城へ御祝儀に出たのを
神祖が御矢倉から御覧なされ、御側にいました彦坂九兵衛に、
「向こうから大勢参るは当地の”町頭”共であろうか。」
とお尋ねられた。
九兵衛は上意の通りのことを申し上げたので、
それからは当地では町頭と称することと九兵衛から達しがあったためという。

この役には六十二人ある。そのうち月々三人ずつ年の行事、月番を受け持ち、
当地の願訴訟あるいは御触事等を、全てこの役が取り計るという。

この町頭達が、町奉行所へ寄り合う日は毎月四日十一日二十一日で、
諸事御用向きを承るという。

町奉行に目通りするときは脇差御免であるそうだ。
これも神祖が大坂の陣のとき、諸町人が安部川まで御見送りに出ましたところ、
上下だけを着て脇差がなく、
町人とて脇差がないのは見苦しいとの上意があったため、
それから公儀へ出るときは脇差御免となったという。

(甲子夜話)

247 :
庵原朝昌の帰還

水野勝成が奉公構えを受けて九州を放浪した後、佐々家に1000石で雇われてた頃
勝成が雇った門番が庵原朝昌である。
当初は身分を隠していたが、ある日勝成が彼の荷物から立派な具足を見つけたので
門番に問い詰めたところ、井伊家を出奔した庵原朝昌である事がわかった。
それ以来、勝成は自分の所領である1000石から200石を朝昌に与えた。
その後、佐々家お取り潰しの際に勝成は井伊直政に朝昌を再雇用出来るように手紙を送り
朝昌は無事に井伊家に帰参する事になった。

248 :
井伊話だなー

249 :
葵徳川三代で木村長門討ち取るシーンで出てきたのがきっかけで知ったな〜庵原朝晶

井伊家侍大将、庵原助右衛門朝昌の武功
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2446.html?sp&sp

250 :
この話の出典は「放浪武者水野勝成」からの抜粋です

251 :
観世大夫、神祖拝領御肩衣の事

観世大夫に邂逅したとき聞いた話である。
かの家に正月御謡初のときに拝領した御代々の御肩衣は神祖以来の御物で、
今でも所蔵しているという。

その中でも神祖の御肩衣は荒い麻で、もとから葵の御紋がついており、
浅黄色の無地であったという。

その頃は浅黄の無地でも、御紋さえつけば吉服となった事と思われる。

(甲子夜話)

252 :
徳守神社と森忠政の奉納鉄盾


現在、大阪歴史博物館で行われている特別展『真田丸』に展示されている"鉄盾"は
森忠政が大坂の陣後に徳守神社に奉納したとされ、津山市の重要文化財に指定されている。

ttp://stat.ameba.jp/user_images/20160920/19/tokumorijinjya/7a/b5/j/o2336175213753264122.jpg

盾一つの大きさは縦91cm横44cmで15kgの重さがあり、一対で30kg。
ところどころに深さの異なるくぼみや、銃弾が当たって割れたような跡がある。

森家の記録には直接この鉄盾の記載はないものの、
『駿府記』等には大坂の陣のときに家康が備後から鍛冶を呼んで鉄盾を作らせ
城内からの銃撃を竹束で防いでいた諸大名に10張ずつ配ったという記述があり
そのときに使った物ではないかと推定されている。

徳守神社では津山城完成400周年を記念し、この鉄盾のレプリカを作成する。
10月23日に行われる徳守大祭には忠政が徳守神社を造営したときの時代背景を伝えるため
今年から従来の神事に加え津山城鉄砲隊と備州岡山城鉄砲隊の発砲演武などを行い
鉄盾のレプリカもその際に使用される予定。

253 :
>>252
一応防げたのか

254 :
鬼武蔵の眉間よりは頑丈だったということか

255 :
古田織部のハゲ頭と組み合わせればこうかはばつぐんだ!

256 :
ソーラレイ+重装甲か

257 :
元亀元年、織田信長は摂津国野田・福島に立て籠もる三好勢を退治するため、数万騎を率いて
8月20日に出陣した。29日、野田・福島へ寄せ詰め、今攻めるという所で、大阪の本願寺が心変わりし
信長への反抗を始めた。

この頃木下秀吉は近江国北野郡にて、浅井長政の小谷城の押さえのために横山城に逗留していたが、
摂津国に一揆が蜂起したと聞いて、近江から多くの兵を揃えて急ぎ京へ上ることとなった。
この時、児小姓や若き者は横山城に残し置く、と命じた。

脇坂安治はこの時17歳であったが、召し連れてもらえないことを無念に思い、御供の直訴をしようと
考えていた所、秀吉の船を長浜から直に大津に廻すと聞いて、密かにその船に忍び込み隠れた。
船奉行はそうとも知らず、その日のうちに大津に船が到着すると、安治は船より走り出て松本の
傍まで行き、道脇に伺候して秀吉の馬が来るのを待った。

秀吉は馬上より安治を見ると、以ての外に立腹し
「我が命に背き、隠れ来る事曲事である!しかし若輩なる者の志有ることは感じられる。
今夜は側に召し使うが、夜が明ければまた船にて長浜に返すべし。」

そう命ぜられ、安治はこれに「畏まり候」と答えた。

しかしその夜、また大津を忍び出て京都へ馳せ上がり、三条の橋の傍にて夜を明かし、また道脇に伺候して
御馬を待った。

秀吉は馬上より再び安治の姿を見て言葉も発せず、重ねてここまで来ること、いよいよ曲事だとは思ったが、
その深き志に感じ入り、それより乗り換えの馬を安治に貸し与え、供をさせた。

(脇坂記)

258 :
元亀元年、織田信長は摂津国野田・福島に立て籠もる三好勢を退治するため、数万騎を率いて
8月20日に出陣した。29日、野田・福島へ寄せ詰め、今攻めるという所で、大阪の本願寺が心変わりし
信長への反抗を始めた。

この頃木下秀吉は近江国北野郡にて、浅井長政の小谷城の押さえのために横山城に逗留していたが、
摂津国に一揆が蜂起したと聞いて、近江から多くの兵を揃えて急ぎ京へ上ることとなった。
この時、児小姓や若き者は横山城に残し置く、と命じた。

脇坂安治はこの時17歳であったが、召し連れてもらえないことを無念に思い、御供の直訴をしようと
考えていた所、秀吉の船を長浜から直に大津に廻すと聞いて、密かにその船に忍び込み隠れた。
船奉行はそうとも知らず、その日のうちに大津に船が到着すると、安治は船より走り出て松本の
傍まで行き、道脇に伺候して秀吉の馬が来るのを待った。

秀吉は馬上より安治を見ると、以ての外に立腹し
「我が命に背き、隠れ来る事曲事である!しかし若輩なる者の志有ることは感じられる。
今夜は側に召し使うが、夜が明ければまた船にて長浜に返すべし。」

そう命ぜられ、安治はこれに「畏まり候」と答えた。

しかしその夜、また大津を忍び出て京都へ馳せ上がり、三条の橋の傍にて夜を明かし、また道脇に伺候して
御馬を待った。

秀吉は馬上より再び安治の姿を見て言葉も発せず、重ねてここまで来ること、いよいよ曲事だとは思ったが、
その深き志に感じ入り、それより乗り換えの馬を安治に貸し与え、供をさせた。

(脇坂記)

259 :
二重投稿に成ってしまいました。申し訳ありません。

260 :
【話題】最上義光・義姫兄妹がヒストリアに

ツイッターから

最上義光と義姫が「歴史秘話ヒストリア」に登場!

12月9日(金)20:00NHK総合テレビ「歴史秘話ヒストリア」で、「(仮題)もう一つの真田丸戦国を生き抜いた兄妹」が放送されるとい情報が!

野望と謀略が渦巻く戦国乱世を力を合わせて生き抜いた兄妹、最上義光・義姫の実像を伝える内容で、最上義光が単独の番組としてフィーチャーされるのは、恐らく史上初めてと思われる

(´・ω・`)NHK…ヒストリアというのに一抹の不安が残る

261 :
見る気もしねぇ

262 :
随分と先の番宣をするんだな

263 :
刀の反りが良い頃合になると、当たりが強くなる。

高麗陣にて、加藤清正の軍兵たちが敵を斬りあぐねていた時、清正が
忠告して、「馬上で何人を斬り倒したのだ? 数えてみよ」と言ったところ、

刀がまっすぐであれば当たりが弱く、敵は倒れなかった。反っていれば、
切れないといえども、倒れない者はいなかった。

(刀の直なるにては。あたりよはくて。敵たをれず。そりたるにては
切れずと。いへども倒れぬはなし)

――『武功雑記』

264 :
それまえ見たぞ

265 :
?松浦肥前入道殿、毛利元就の亭に誘引

 長村内蔵助が生きていたときに茶堂慈斎に語ったというのを、
人が聞き伝えて予に告げた。
さて慈斎もまた没して十余年、予もまた長村が話が耳に残っており、今顧念してみる。
 

 あるとき平戸の隣邑の唐津から商人が来て、その人がもたらした中に、古文書の廃紙が多かった。
長村はその中を取り調べると、
『毛利元就の亭に茶会があったとき、松浦肥前入道(隆信)も参られ同伴致された』
『毛利の一族某の人に、誘引すべし』
といった書簡があった。
そんなものを長村が計らずすも獲たことは、誠に千載の奇遇であったと。

 道可公(松浦隆信)はその頃はわずかに小島の宰で、
元就は十州太守であり彼と比すれば、小大甚だしく異なっている。
それなのにかく大家の衆会に招かれなさたことは、
いかにも御武運高徳、下に伏しなされる輩ではないことを知っていたのだろう。

との話をしたそうだ。
長村の言葉を今思うと、この文書はどこにいったのであろうか。非常に惜しまれることだ。

(甲子夜話三篇)

さすが、元就
抜け目ないですね

266 :
義光は笑った

慶長5(1600)年9月半ば、直江兼続率いる上杉の大軍が山形盆地を臨む菅沢丘へと布陣した

最上軍の将の氏家左近(氏家光氏)は「(富神山奥の)西黒森で上杉の荷駄道を撹乱し、後方を掻き回したい」と軍議で申し出た

この提案に小勢ではすぐに消耗し、あたら兵を失うと諸将の反対はあったが、左近の手勢60人程での作戦が認められた

兵には命知らずで足の早い者が集められた

これを耳にした延沢遠江(延沢光昌)も沼木方面への遠見の役を申し出た

主最上義光は延沢の重臣有路但馬、笹原石見、糟谷延元らに軽挙あるべからずと念を押した

その日の夕刻延沢勢の進出した沼木の西、須川の東岸に大量の最上方の幟旗が立ち気勢が上がり
横目衆から義光に「この様な立て札が至る所に立っております。いかがいたしましょう?」と問い合わせがあった

立て札には「最上は 国の真秀(まほ)ろば 畳(たた)なづく 青垣 山篭れる 最上し 美(うる)はし」と書かれていた

義光は立て札を元に戻す様に命じて声を立てて笑い、非常に嬉しそうであったとされる

「山形合戦」等

267 :
道可公、朝鮮へ御潜行 并商估板屋某所伝道可公恩自書之写

 法印殿(松浦 鎮信)が朝鮮国の軍に従った、七年間の武功は人が皆知るところである。
その七年、道可殿(松浦隆信)は領地に静かに留まられて、
兵具糧食の事をうまく処理なされていたので欠けることが無かった
という話は世人で知る者はいない。
漢の蕭何は治平の後、第一の功で?(サ)侯に封ぜられたというが、
まことに我が家では道可殿を以って比べることできよう。

 この頃、平戸の者の話で、
平戸の商人の板屋某の所伝に道可殿の御自筆があり、
その旨は
『朝鮮国に永く御陣しているので、法印公の御具足が損じている。
よって威を換えるべきだと思われるが、それには金子が御入用であるので借用を申し上げたい。』
との御文であったという。
この文からも、道可殿の仕事の有様と、道可公が遠所で労苦されている様を察することができる。
当時の状を見るがようだ。

 また今先手の鉄砲を預け置いてる頭の山本某の家は、
宇喜多家がまだ貴くなかったときに辞めて浪人して後
道可殿に随い、朝鮮攻めの時でも仕えていた者が先祖である。
今も言い伝わっているものに、
そのころの文と思われる絖(ぬめ、絹の一種)のような絹を引き裂いたものに文を書いたものがある。
その文には

『大御所様にも、御滞りなく今日釜山浦へ御着き遊ばれ、恐悦申し候。
只今御船帰り候故、この旨申進候。』

という趣旨が書いてある。思うに従行した者が遺し置いた家人へ贈る文で、慌しいときにこのようなものを認めたのであろう。
〔軍に赴かれたのは、法印殿なのは論をまたない。
御子肥州殿(松浦久信)も従い行かれたので、大御所と申す者は道可殿でなくて誰であろうか。〕

 しかし道可殿の朝鮮の軍に赴かれたのは、よその人はもとよりわからないとして、
わが邦の人もかつて知る者がいない。ならばこの文を見るに、秘かに渡海があったことを知れる。
ならば戦功のためではなく、完全に軍糧と兵具等の点検のため、潜行して行かれたのであろう。
豊臣公といえども知らないのももっともである。

〔聞く。この絖書の文、今は無くしたと。
その理由は、一旦山本の家が嗣絶し、婦女子ばかりいたとき、
持仏堂の下に大切な旧物を置くべしと、祖先の訓戒があり
婦女のことゆえ戒めは固く守ったが、皆朽腐して今はその痕さえないという。
今の砲頭は義子であるという。〕

(甲子夜話三篇)

日本の蕭何、松浦隆信!

268 :
天正4年、織田信長が近江国安土山に築城する時、この普請を丹羽長秀に仰せ付け、長秀は正月17日に
安土山に入った。諸国の織田家の大名も同じく安土に至り、四方より石垣のための石を採取し夜に日をついで
急ぎ輸送した。

この時、脇坂安治は羽柴秀吉の使いとして、下僕一人を従えただけで書状を持って安土に向かっていたが、
この途中、丹羽家の郎党たちが、秀吉の験の付いた大石を、人足数多に運ばせているのを発見した。
安治は怒鳴りつけた

「その石をどこから取ってきたか!?」

そう押し止めると刀にて石に結ばれた縄を切り石を落とした。怒った石運びの奉行の郎党たちは安治に
襲い掛かってきたが、逆に追い散らし、奉行も人質に捕らえた。

秀吉はこの安治の所業を聴くと激怒した
「かかる目出度い普請の砌に、このような騒動を起こすとは曲事である!安治を折檻せよ!」
ところが丹羽長秀が帰宅の途中、秀吉の屋敷に立ち寄り、安治の忠節を褒め、彼に様々に理があると言った。

これにより安治は許され、その年、知行百五十石を与えられた。

(脇坂記)

269 :
安定の五郎左さんだが、そういや五郎左さんの織田家の序列って
どんなもんなんだっけ?

小説とかでは、佐久間追放後は織田家ナンバー2扱いだけど、
織田家四天王に入っている割には、石高が圧倒的に下で、軍団長にも
任命されずじまい。(好意的な視点では信孝の副将=実質的な総大将だけどさ)

信長末期時での立場とか考えると、光秀・勝家よりは下で、「信長の古参中の古参」
ということで、秀吉や一益よりは上(ただし絶対的な差はない)あたりかねえ。

270 :
大将向きじゃなかったんだろ
補佐役のイメージがある
突出した武功があったわけでもないしね
野心もなさそう

271 :
織田家臣団は一国持ちまでというサラリーキャップ制を取ってて
近江攻めまでに抜群の功績上げて最初に一国持ちになったのが過小評価の元。
織田が巨大勢力になった後なら一国でも大国をポンともらえたが、まだ小国やるのがせいぜいの時だったからね

272 :
五郎左はショウカみたいな存在だったんだろうね。織田幕府ができていれば一番評価されてたんじゃなかろうか。

273 :
自身は信広の娘を(信長の養女として)嫁に貰いその息子の長重は信長の娘を嫁に貰ってるんだから
能力の評価はともかくとして信長からすれば一番信頼してる存在なんじゃないか

274 :
羽柴秀吉による播磨国三木城別所長治攻めの時、同国の神吉城主、神吉民部は別所と心を合わせ、
三木に加勢したため、秀吉は軍勢を割いてこの神吉城を取り巻き、攻めかかった。

この軍勢に加わっていた脇坂安治は、真っ先に大手の木戸口まで攻め寄せたが、壁下にて鉄砲に
兜を撃たれ、立ちどころに目が眩んで地に倒れた。

これを見た同僚の宇野伝十郎(後に因幡守と号す)は倒れた安治を引き起こし、彼を助けて退こうとした。
ところが、安治にわかに起き上がり、叫んだ

「この程度の手傷で退くのはものすごく口惜しい!」(是程の手にてしりそかん事糸口惜かるへし)

そして暫く休んで、一番に大手の口より乗り入った。宇野伝十郎も安治に続いて乗り込んだ。
これを始めとして多勢が一気に押し破り、遂に神吉城も攻め落とされた。(安治二十五歳)

(脇坂記)

275 :
天正12年、織田信長の二男、信雄の家臣である滝川雄利の子を、羽柴秀吉は人質に取り、
脇坂安治に預けた。この後、織田信勝と秀吉は交戦を始めた。滝川雄利は安治を謀って
人質を取り返そうと、偽って『あの子の母が重病に陥りました。どうか対面させてやりたいのです。』と
少しの間、暇を頂くことを願った。

安治はこれを偽りと思わず、親子の愛を憐れみ、私的に暇を許してしまった。
すると滝川雄利父子は伊賀国に逃走し、上野城に籠った。
秀吉は滝川雄利が伊賀上野城に入ったと聞いて、安治に人質のことを尋ねた。
安治は、人質を取られた有様を、ありのままに答えた。

これを聞いて秀吉は激怒した。安治は鬱憤を抱え
「私が伊賀に赴き、瀧画は父子が籠っている上野城を攻めて、そこで討ち死にいたします!」
そう申し上げた。
しかし秀吉はなおも腹を立てて

「お前のような小身が、瀧川父子を攻め取れるものか!さては瀧川に一味し、私に謀反を
するつもりか!?」


これを聞いて安治は涙を流し
「主君の厚恩を忘れ、叛逆した瀧川に与する事などありましょうか!」と、自らの母親を人質として
残し、主従20騎にて笠木より伊賀に入った。そして伊賀国の兵に触れ回った

『羽柴秀吉の使にて瀧川父子を討ち取る。味方を仕り、軍忠ある者には本領を安堵し、城中の人質も
返還しよう。』


こう云って国侍たちを一味させ、夜中、密かに上野城を取り巻き、その夜のうちに攻め立てこれを取った。
瀧川父子は伊勢へと逐電した。

この旨を秀吉に注進すると、秀吉は御機嫌にて、はじめに山岡美濃守を使いとしてその戦功を労り、
後に増田長盛を使いとして、「国の事、堅固に仕るべし」と伝えた。

(脇坂記)

脇坂安治が、伊賀上野城を攻め落としたお話。

276 :
字がめちゃくちゃだけど原文のまま?

277 :
漢字が違うなんて別に珍しくもなかろうに今更何言ってんだ!?

278 :
「滝川」だったり
「瀧川」だったりで統一されてない、てことだろう

279 :
信勝だろ

280 :
 この九月初旬に、真田豆州が訪ねられて四方山話をされた。
その中で、耳底に留まった話のいくつかを記しておく。


一、真田家の幸村は薩摩に行ったと思われる。
かの国の言い方にも時々それと思われることがある。
彼は先ごろかの国に問い合わせた文通がある。近日見せてくれるとのことだ。


 これ世上の説にあるが、諸書で言うところと異なっている。
どうして秀頼の墓が薩州にあるのかというのは、豆州の言葉の通りなのだろう。
そうであっても神祖の御深仁御厚徳を察することができる。




一、大助生害とのことだが、これも大阪で死んだという話の通りだとは思われないそうだ。
高野山の蓮華定院は昔からの家の代々の菩提所であるが、
その過去帳に大助の戒名があり、没年七十いくつかとかある。
ならば老死である。
御旗本衆の中に八木氏がおり、この家は母のつづきゆえ、
彼は猷廟(家光)の御時にこの家で召し出されたと聞いた。
今更ながら子孫の口から八木氏に問うのもいかがと思われ、まだ確かめてないと。


 こうであるなら、幸村が高野山に退去したというのも、この蓮華定院だろう。
八木氏は今の大番頭丹波守〔四千石〕の家か。


(甲子夜話続編)

281 :
ちょっといい話でも何でもないけど見れば明日も生きていけるって思うCMです。

https://www.youtube.com/watch?v=37Fy8w5aNpI

282 :
慶長5年9月朔日、徳川家康は西軍と戦うため、いよいよ江戸城西の丸(当時は隠居曲輪と人々は呼んでいた)
より出発した。この時、石川日向守が「今日は西ふさがりです。大事の合戦の門出としていかがでしょうか?」
と申し上げたが、家康は

「西が塞がっているから、今日、開けに参るのだ。」(西ふさかりてあり今日明ケに参る)

そう答えて出陣した。

(慶長年中卜斎記)

有名な、徳川家康江戸出御のお話。

283 :
伴惟安、妙向尼と森忠政を救い出す


天正十年六月二日、京都に於いて信長・信忠親子と蘭丸、坊丸、力丸
伴氏の伴正林伴太郎左衛門等が討死したことは三日の辰刻には甲賀の伴惟安にも伝わった。

そのとき長可は川中島にいて、母の妙向尼と千丸(忠政)は人質のために安土にいたが
惟安は以前から可成、長可にとりわけ目をかけられていたので
「今お二人はさぞ途方に暮れていられるだろう」と一族で話し合い
四日に野越の間道を越え安土へ行き、妙向尼と千丸をお守りして五日に甲賀へ連れ帰り
二人をすぐに自分の家に移し、伴氏一党で番をした。

十三歳の千丸はどじょうすくいとカエル釣りが好きなので伴家の子供達は日々お供していた。
あるとき「お千殿、いざカエル釣りに行きましょう」と子供達が言うと親どもが来て
「大名のお子様だが、訳あって少しこちらにいらっしゃる間は
お千様とお呼びし、何事も逆らわずお心のままにするのです」
と堅く制したという。

長可が信州を引き払って金山に帰ってくると、九月十一日に甲賀に迎えを送ったが
伴一党は守山武佐筋に朝倉の残党がいる可能性を危惧し、伊勢街道をお供して
勢州坂下で妙向尼と千丸を迎えの金山の者に渡した。

この忠義により天正十二年の暮れ(長可が討死し忠政が家督を継いだ頃)に甲賀に迎えが送られ
十三年の春、伴惟安と惟利の親子は初めて森家へ出仕することになり
他の残った伴党もこの親子の口利きで召し出されることになったという。


――『森家先代実録』

284 :
 宇都谷峠の手前、宇都谷村立場の茶屋は昔はひどく貧者で、
馬の沓などを作って暮らしていた。
そこに神君が大阪御陣のときに、その家で馬の沓を見たので、
神君自ら


「ここの親父、沓一足くれよ」


と仰せられた。茶屋はかしこまりました、と沓を片方差し上げた。


「片方はどうしたのだ」


とお尋ねがあると


「片方は御帰陣のときに差し上げたいと思います。」


と申し上げると、神君は御喜悦で、


「出陣の吉事である。よく申した。何なりとも相応の望みを申せ」


と上意があった。


「あなた様のめされています御羽織を拝領したい」


と願われましたので、すぐに着られていた錦の御陣羽織をその者に下された。
よって今も大切に家の宝物として伝わっている。


 しかし御羽織を大名方が通行のとき拝見したいとのことで持ち出したときに、
望む人には二三寸程ずつ切り取らせているので、
今では御羽織は半分ばかりになったという。
この家名を御羽織屋と称しており、今は善右衛門という。
(甲子夜話)

285 :
http://news.biglobe.ne.jp/domestic/1102/mai_161102_4352371837.html

細川さんちが小倉で国産ワインの製造を命じた文書が見つかったというお話
他にも、「いかにも甘き」ワインを輸入するよう命じた忠利直筆の手紙も見つかったそうです

286 :
>>285
甘いワインってことはシェリーやマデイラみたいな酒精強化ワインだったのかなあ
野ブドウを醸してワインにしても、あんまり甘くはならないだろうし
忠利が理想のワインに巡り合えたのかが気になる

287 :
       |
   \  __  /
   _ (m) _ピコーン
      |ミ|
   /  .`´  \
     ∧_∧  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
    (・∀・∩< 甘き葡萄を栽培しよう!
    (つ徳本丿 \_________
    ⊂_ ノ
      (_)

288 :
ドイツの白ワイン(シュペートレーゼとアウスレーゼ)や貴腐ワインなら、文句なしの甘さ

289 :
そういえば江戸期の茶会では、ワインが「甘味」として出されたとか。

290 :
葡萄酒作りの記録は以前から確認されてたけどもうちょっと詳細に古文書で確定って所なんだろうか

291 :
主君に不意に召された時、慌てて出てはならない。

まずは御召しの御答えをして、次の間で胸からへその下(丹田)へ心気を静めて、
2,3度撫で下ろし、しとやかに罷り出よ。

自分の思いもよらぬことを主君がお尋ねになる時、胸を突かれてうろたえるものだ。

主君の内心に“慌て者”と見限られれば、自身の立身の差し障りとなるものである。

――『山本道鬼入道百目録聞書』

292 :
>>286
甲州ブドウは空海が日本に伝えたんだぞ(逸話的には)

293 :
 駿府城に安倍川の水を御池へ引くようにとの上意があった。
奉行は水道を見立てて、印杭を立て置いていたところ、
御鷹狩に出られたとき御覧なされた。
奉行は寺の境内を通して水道の杭を立てていた。
それが神君の思し召しに叶わず、
「寺を潰して水を取ることはいかがなものか。
慰めのために小寺といっても潰すことはしてはならない。」
と水道を外に移されたという。


(甲子夜話)

294 :
DQN四天王を祭る神社
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3329.htmlでは、
> 島津忠恒…鶴嶺神社(鹿児島県鹿児島市)
と書かれていますが、鶴嶺神社の御祭神は忠恒だけでなく
初代薩摩大隅日向国守護職、島津忠久公はじめ島津氏歴代の当主とその家族、玉里島津家の当主と
その家族で、従神は(忠恒の)家臣五名と殉死者四十五名の大所帯です。
鶴嶺神社は島津氏歴代当主の菩提を弔っていた福昌寺が廃仏毀釈の憂き目にあい、その代わりとして明治2年11月に
29代当主の島津忠義が鹿児島郡坂本村山下鶴峯(現鹿児島市照国町)に祖先を祀る神社を創建しこれを竜尾神社と
号したのに創まります。(大正六年に現在の場所 (鹿児島市吉野町)へ移された)
特に16代当主義久の三女である亀寿姫(持明院様、じめさぁ)を祀る神社として有名で、多くの女性が参拝に訪れます。
(鶴嶺神社で分けていただいた紅でお化粧をすると女児が美しく育つ、またはお参りすれば美しい女性になれると
いう言い伝えがあります)
亀寿姫がが亡くなったのが1630年(寛永7年)十月五日なので、毎年月遅れ命日に当たる11月5日には
女性だけが参加できる神事「持明祭」が行われます。
(以後の文章は2015年に「持明祭」に参加した知人の話と地元テレビのニュースを参考に書いております)

まずは、神社に隣接する尚古集成館で学芸員さんによる、持明院様に関する歴史講座があります。
内容は、「豊臣秀吉に人質として捕えられているとき、亀寿姫が本当に義久の娘か、と疑われた際に、秀吉側の人から
脅されてもなお落着き払った態度を示し、その美しさも相まって、本物に違いないとされた」
「鹿児島市立美術館にある石像は亀寿姫ではない」
(参考 ジメサア http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10253.html
「家久(忠恒)とは仲が良くなく実子には恵まれなかったが、19代当主になる光久の後見となった」などです。

次に日本の伝統文化である(唯一の紅屋の紅ミュージアムの方による)「紅」の講座です。内容は
「原料には、山形県産の最上紅花を使用し、咲いた紅花の花弁を摘み取り、「紅餅」に加工してから紅屋などに卸されます」
「紅匠(紅職人)は、幾工程もかけて紅餅から純度の高い赤色色素を取り出し、長年の経験で培った熟練の勘で、玉虫色の
紅を作り上げます」
「玉虫色の紅を下唇に重ね塗りし、緑色(笹色)にする化粧法「笹紅(ささべに)」が文化文政(1804-1829)の一時期に流行」
「現在紅匠は男性二名のみで、工場は女人禁制です」などです。

次に鶴嶺神社の拝殿に移動し、持明院様の神事に参列して、美と健康を祈願します。
島津家の神事なので、神事には現在の島津家当主の島津修久氏も参加されます。
(女性の為の神事なので拝殿に入る男性は神主さんと島津修久氏だけで、スタッフの方とテレビ局の人は外で待機です)
(拝殿には壁がないので神事の進行やテレビ撮影に不都合はありません)

その後は、隣接する仙巌園に移動し美容と健康をテーマに旬の食材をふんだんに使った限定御膳「美人御膳」を食べて
終了となります。
(「持明祭」に参加した人には紅が入った紅御守と持明院様絵馬が授与されます)

※「紅」の講座が行われているのは、紅屋の人が観光で仙巌園を訪れた時に持明院様の話(持明院様が祭神の鶴嶺神社で
分けていただいた紅でお化粧をすると女児が美しく育つ)を知り仙巌園に企画を持ち込んだそうです。

295 :
>>294
結構新しいんだな

296 :
294の追加
鶴嶺神社は明治以降ですが、江戸時代には島津家の敷地内に持明院様
を祀るお社があり、島津家の女性がよく詣でていたそうです。
また亀寿姫に所縁のあるお寺にも(江戸時代から)多くの女性が
詣でていたそうです。

297 :
 駿府城の外の横内という所に町家が少しある。
その町の端を横内田町と称し、今では家が四、五軒ある。


 神君が御在城のときに七十余の老婆が一人暮らしをしていた。
御通行のときに、
「婆は独居して寒いだろう、何か望みを叶えてやろう」

と御尋ねられた。御答えに

「この年になり何も望みはない」

と申し上げた。

「それでも何か望みがないことはないだろう」

と押して問われたので、

「他に望みはありません。ただ暁七つ頃に牛車が通ってやかましいです。」

と言上した。
それでは望みどおりにしてやろうとの上意でその後から今に至っても横内町の辺りは牛車は通行できないという。
また田町分は、この婆以来無年貢地であるとか。
(甲子夜話)

298 :
老婆「あんたが立つと日陰になるからどいてくれ」
と言えば賢者として後世に名が残ったのに

299 :
なんだそのキュニコス派の婆さんはw

300 :
徳川家康は、若年の頃より軍陣のある前には、いつも佩刀を取り出させて
帯びてみるのが常の事だった。

大坂冬の陣でも家康は例の如く太刀を取り出させて帯びた。この時、家康は、

「わしは、年老いてこのまま席上で朽ち果ててしまうのは、心残りの多いこと
であると思ったものだが、この事が起こったのは、本懐の至りだ。速やかに
馳せ上って敵どもを討ち果たし、老後の思い出にするぞ!」

と言って太刀を抜き、牀(寝台)の上へ躍り上ったので、その様子を見た者は、
英気の老いて盛んであることに感服し、だれもかれも勇気を一層増したという。

――『徳川実紀(慶長見聞書)』

301 :
先日、横浜市の馬の博物館で伊達家甲冑研究の第一人者である竹村雅夫氏の講演がありました
そこから多少つらつらと

・政宗の有名な黒漆塗五枚胴は雪下胴と呼ばれ、北条氏治下の鎌倉雪下の職人が製作したと思われていたが、
蘆名氏が会津入部に伴った雪下出身の鍛冶の子孫が、雪下と名乗って製作したと明らかになった

・雪下胴を当時の記録などで解胴(ほときどう)と呼ぶが、これは蝶つがいを外すと5枚の鉄板になって畳んで
持ち運びできるから

・政宗が雪下胴を初めて入手したのは天正16年(1588年)の岩城氏からの贈り物で、人取橋の戦(1586年)には
まだ持っていない

・政宗は異常に甲冑好きで贈るのも貰うのも大好き、家臣の鎧を召し上げて代りの鎧を渡したり、甲冑商人を
二日間留め置いて見聞したり、敵味方問わず使者へも甲冑を贈った

・天正16-17年の間に贈った甲冑が26領、貰ったのが14領、買ったのが10領

・政宗の甲冑好きは南奥羽諸大名の常識だったので、政宗への贈答品には甲冑がよく用意された

・会津制圧後は政宗が雪下胴を全てかき集めたので、上杉・蒲生家臣でこれを持つものは数えるほど

・雪下家は大阪の陣頃までは会津で甲冑を製作していたが、その後は松平家の普通の下級武士になった

・いわゆる仙台胴は雪下胴をモデルに仙台でつくらせたもので、厳密には違いがある

・雪下胴はその重さと長い草摺もあって、やはり馬上用

・政宗は「上方の連中は騎乗しても槍を手に馬から降りて立ち働くが、奥州武者(奥士)は馬上で槍をとって戦え、
鎧を着たままでは素肌武者(軽装)にも後れをとる、馬から降りるな」「奥武者の我が家は末代までも上方の真似すんなよ」
と言い残している

・井伊直政は雪下胴を小田原戦以降に手に入れ、関ヶ原で着用したのは実は政宗と同タイプのこれである(現存)

302 :
?切団子〔水野家伝。伝通院殿遺事〕

 浜松侯〔水野左近将監忠邦〕の家に「きりだんす」という製菓子が伝わっている。
切団子と書くとのことだ。昔伝通院殿が常に好まれていたので伝わっているという。

 林子(述斎)と侯は師弟なので、ある日侯はこれを作って林子に差し出した。
林子はその古色と故事とを賞し、そのことを予に語った。

 実はこの調理はかの家でも久しく作っていなかったので、これを知る者もなかったが、
今の侯が台所の古書留から捜し獲て再び昔のことを知ることができたとか。

 また同じ年の大晦日に以下の書付を送られた。
「切団子製法

一、小豆 一升四合 一、糯之粉 一升二合
一、粳之粉 八合  一、砂糖 二斤半

この割合で湯で練り合わせます。棹取小判にして小口切六歩くらいに切り、
煮立てました湯に入れ、浮いてよろしい時分に器に入れ差し上げます。
小豆はかねてからこしあんにしておき、乾かし、よくほぐし、ふるいにかけおきます。
または青黄粉などを小豆代わりにすることもございます。
切りだんすはもともと温かいものを賞翫するものですので、
『お出しするのは只今だ』とございましたら、
ずいぶん手回しとく急に仕立てて差し上げますものにございます。
以上

四月」

これは林子が水野氏に所望し、かの料理方から書き出した書付である。
(甲子夜話)

303 :
そういえば昨日の世界ふしぎ発見がオランダ回で
第10代平戸藩主・松浦熈(松浦静山の息子)が後世に伝えるために描かせたと言う
「百菓之図」(和菓子、洋菓子など百種類の図と解説)について紹介していた。
再現されたお菓子が松浦史料博物館で提供されてるとか

親子そろって菓子のレシピに興味があったのかな

304 :
天文元年(1532年)に多田院御家人衆筆頭の塩川伯耆守国満が、織田信長の台頭という時世から荒木村重について多田新田城を攻めた。
この時に山本郷(今の宝塚市周辺)も焼いて、多田院御家人だった34代山本荘司家の坂上頼泰は郷士となる。

しかし塩川国満は豊臣秀吉の九州征伐の間に挙兵して、謀反の疑いで誅されたため山本郷は豊臣家の天領となった。
秀吉が有馬温泉に湯治に行く際に山本郷に立ち寄った関係から、頼泰は秀吉の旗本になり朝鮮出兵へも参戦した。
頼泰は齢を重ねて隠居し、山本郷で農園を営みながら穏やかに過ごしていたところ、接木の技術を発明する。

ある時、天下人秀吉の元に見事な鉢植えが献上され大変気に入り、それが坂上頼泰のものと知り昔を懐かしんだ。
京や大阪での贅沢品の売買を禁止していたが、秀吉は頼泰に木接太夫の称号を与えて山本郷の植木に特別な配慮をしたという。

源満仲が摂津守に任官した際に、坂上田村麻呂七代孫の坂上頼次を摂津介にして多田院を警備させたのが山本荘司家の初代で坂上是則は従兄弟。
三代目の坂上季猛は源頼光に使えて卜部季武のモデルともされる。
仁平年間の坂上尚親の頃に平姓を賜り平尚親とし、その分家は今出川家諸大夫山本家として山本敬勝まで続く。

305 :
>>301
つまり関ヶ原では赤備えじゃなくて黒備えだった・・?

306 :
伊木清兵衛、池田輝政に家督を継がせ


(小牧・長久手の戦いの後)ある人が語ったところによると
参州(三河)への中入りは勝入(池田恒興)が再三願ったから
(やらせたのに)そのせいで秀次は大いに敗軍した。
勝入と嫡子(之助、輝政の兄)などは猛将勇士といえども討ち死にし
秀吉は大いに(勝入が)不覚を取ったことを怒っていたので
勝入の跡目はどうなるだろうと危ぶまれていた。

勝入の家臣伊木清兵衛は元来秀吉と情が厚かったので
(輝政に継がせるように)度々申していた内に
(秀吉の)陣屋に輝政や他の家臣を伴って参上するように
指示があったのでいずれも参上した。

陣屋は秀吉がいる間は八畳、次の間は十二畳あるところで
輝政は敷居の内際、清兵衛は敷居の外際、森寺清右衛門・土倉四郎兵衛・
片桐半右衛門・日置猪右衛門・和田八郎等は清兵衛のあとに並んで俯伏していた。

「勝入の今までの居城、大垣は輝政に与える。
 輝政は年若なので老功の清兵衛を勝入同然に思うように。
 家老どもも清兵衛の差図に背くことなく輝政に忠勤をするように」

と(秀吉が)おっしゃったので、各々拝礼をして退出するときに
清兵衛が喜びの余り臥し転ぶ(体を地に投げ出して、あちこちと転げ回った)のを
秀吉が見て、喜びが身に余って見えるのは忠誠心からなのだなぁと感心して褒めたという。


――『池田軍功記』

307 :
まるで犬

308 :
たそがれはかわいいなあ

309 :
武者は犬ともいへと?

310 :
 駿府の近くで神祖が御鷹狩をされていたとき、
道端に老女が児を連れて泣いていた。
彼女らを御覧になられて、

「何者だ。何故に泣いているのか?」

と御傍に御尋ねさせた。老女が申すに、

「向こうの村の者ですが、夜前に火を出し家を焼いてしまいましたところ、
御代官から火の元の不注意をしたとのことで、所払を仰せ付けられました。
よって家を立ち退かされました。
しかし、どこにも心当てが無いのです。」

とのことであった。そこで、

「火を出した者を所払いにするのか。
近年二度城内から火を出したことがあるにもかかわらず我はどこにも行っていない。
そのことを代官によく言い聞かせよ。
老女は幸せ者だな。
目にかかったので不憫に思ったのだ。

老女には家を作って与えてやれ。」

との仰せがあったという。
(甲子夜話)

311 :
今日は鮭の日なので、鮭様関連の話を一つ

※原文準拠

最上駿河父之遺跡を受て後

駿河守家親(最上家親)父の遺跡を受て後 日々に花車を好み 双六鞠俳諧に日を送り 殿宅に金銀を鏤むを 諸人諌めける
昔時源頼朝公政道正敷諸士に情深かりしが共 御子右衛門督頼家政道宜しからず
終に弟の実朝に殺れ玉ひ 実朝は頼家の子悪禅師公暁に討れ 頼朝父子三代治世纔四十余年にして亡びぬ
是頼朝平家を亡さんと多くの人の命を断し故 其積悪子孫に報ふて断絶せり
去れば義光も頼朝の如く政道正敷 万民に情深く 寺社を敬ひ其領を寄付し 古今に稀なる大将と云へ共
以謀略多くの領主を打亡 栄花身に余ると云へ共 其積悪子孫に報ふて 源五郎(最上家信=最上義俊)殿御代に至て没落せり
彼頼朝父子の古へに不異
家親御行跡宜しからざる由 三浦上総助御諌言申ければ 御腹立有て終に切腹被仰付けり
延沢能登守(遠江守延沢光昌の誤り)楯岡甲斐守(楯岡光直)御一門顔にして御異見無れば 最上家の家の可亡時節至来と見へたり
去れば聖人禍福将に至らんとし善必先知之 不善必先之を知と云り
孔子も国家将に興らんとし必禎祥有 国家将に亡んとし必妖□(けつ=草冠に辟)有と 云り

「信辮手記」等

312 :
>>311
マルチ馬鹿R

313 :
昔の人が残した名言や行動を聞き覚えておくのは、古人の知恵、経験にあやかるためである。
私心を働かせないためである。
我一個の感情、知識だけでなく、昔の人の言葉を参考にし、他人にも相談をするならば、
客観が加わり、間違いということもなく、悪事も起こらないものである。
勝茂さまはよく直茂さまに相談し、お知恵を借りておられた。
これは『御咄聞書』に書いてある。
とても立派なお心掛けであられた。
また、ある方は弟たちを家来として召しかかえ、
江戸や上方に行くとき、いつも彼らを連れていき、
日々起こる公私の出来事すべてを弟たちと相談して決めたので、
其の方の立ち振舞いには間違いの起こることがなかったとのことだ。 【葉隠】

314 :
大阪御帰陣のとき神尾局早く御熨斗鮑を奉りし事

 或る人が言った。
大坂夏御陣御凱旋のとき、御本陣茶臼山から二条の御城へ
遷られるのが神速であったので誰も来ると思っていなかったところ、
神尾の局は早くも御のしあわびを三方に載せて捧げていた。
これに神祖は殊に御感があったという。

 この局は後に東福門院の御母代となり、特別に一位の勅授があった。
雲光院殿と申すは彼女のことである。
(甲子夜話続編)


そんなに凱旋の行進が速かったのですかね

315 :
勝ったとはいえ付近に敗残兵が潜んでいるかもしれないし
万が一のために早急に安全な場所に避難したということだろう

316 :
(ノ∀`)アチャー

317 :
豊臣秀吉が庶人の時、秀吉は坪内玄蕃(利定)に、「其の方は利発者である。
それがしが天下を取ったら、其の方を家人に使うぞ」と、言った。

玄蕃はこれを聞いて、「そちは何事を言うのか。そちをこそ、それがしが使う
ことだろうに」と、言った。すると秀吉は、

「あまりそのように申すな。わからないぞ」と、言ったとのことである。

秀吉が天下を取った後、玄蕃は徳川家康のところに来て隠れており、家康は
玄蕃を関東に匿った。その後、秀吉は家康に向かい、

「昔、坪内と申した者がいたが、この頃は見てないな」と言った。家康はこれに
答えて、「それはどうしたことでしょうか。私は存じません」と、言った。

関ヶ原陣の時、玄蕃はすでに亡くなり、子の惣兵衛(家定)の代になっていた。
家康は惣兵衛に、「其の方は美濃者だ。在所へ行って一揆を起こせ」と命じて、
惣兵衛を美濃へ遣したということである。

――『武功雑記』

318 :
神祖、袋井縄手にて長剣用法の御論


 神祖が遠州袋井縄手で御鹿狩のとき、
御徒士の伏見彦大夫というものが三尺余りの長刀を帯びて居た。

「その刀はいかに使うのか」
と仰せがあったので、

「敵の脚を薙ぎ払います」
と答えた。上意に

「甲冑をする敵にはそのようにしたらよろしくない。
槍にして使え。突くのがよろしい」
とのことであった。
実に尊慮である。
(甲子夜話)

319 :
あれ、実戦では刀は突くけど、槍は叩くのが主流とか言われてなかったっけ
「槍にして使え」ってことは戦国時代でも、槍は突くのが主流だったのか

320 :
持ち槍と長柄は別物

321 :
なるほど人間無骨とは骨が無くなるまで叩くからそう名付けられたのか

322 :
延沢満延あたりなら本当にやりそうだ

323 :
東国太平記巻之十五
「松川合戦 政宗福島城を攻める事」
政宗は度々上杉に打ち負かされていたため無念この上なかった。
前年七月に江戸から中沢主税が(家康によって)遣わされ「この度は景勝と合戦することはならん」
と堅く制止されていたのだが、慶長六年四月十七日、片倉景綱、伊達成実、国分盛重、
伊達阿波守、屋代景頼、茂庭綱元、高野壱岐守、桑折宗長など二万五千を引率し、白石城に到着した。
ふたたび福島城を攻めようと、誰か物見に遣わそうとしたところ
伊達成実が名乗りいで、十騎ばかり鉄砲三十挺ばかり引き連れて、上杉の守る福島城についた。
成実は、城から十三町(140m)手前に味方を残し、自分だけ城の堀端に乗り付け大音声で
「私は政宗の物見の者である。政宗様から城中の将兵の名を尋ねて参れ、と命令を受けた。
名のある者は名乗りいでよ」と呼ばわった。

上杉方の士卒は「なんという剛の者だ」と感心し、矢鉄砲で狙うのをやめた。
すると櫓に上杉の将である本庄繁長、その息子の充長、甘糟景継、杉原親憲、
百川(芋川?)縫殿助、岩井信能、鉄上野が各々名乗りいでたため、伊達成実は静々と帰っていった。

324 :
政宗は二十一日、白石城を立ち、小山というところに出陣。
上杉方は杉原、甘粕、本庄、岩井、鉄上野、岡野左内ら六千騎で福島城を立ったが
途中で商人と高野聖が来て「伊達の軍勢は三万ばかり、これでは小勢すぎます」
と言ってきたため、はたして防戦すべきか、こちらから間の松川を渡るべきか
と論争になったが、伊達軍が川を途中まで渡った時に奇襲しようということになった。
しかし岡野は、杉原や宇佐美が制止したにもかかわらず、四百ばかりで川を渡り、
向こう側の河原にいた伊達軍に大音声で名乗りいでて突入していった。
岡野の奮戦に激怒した政宗はただ一騎で岡野と太刀を交えたが
岡野に太刀を折られ、二、三間(4,5m)後退。
岡野は具足から葉武者だろうと思い、追撃せず戻っていった。
その後上杉勢は伊達勢と交戦するも多勢に無勢で敗色が濃くなり福島城に逃亡。
政宗は後を追ったが、青木新兵衛の十文字槍により兜の三ヶ月を折られてしまい、
政宗はいそいで引き返した。
逃げる伊達軍を、福島城から出撃した本庄繁長が二千余で追い、隈川で散々に打ちすえ
伊達軍二百余を討ち取った。
その頃、会津にいた上杉景勝は、政宗が小山に出陣したという報告を受けたため、
八千騎の軍勢で援軍にかけつけた。
それを知った政宗はわずか十騎で、取るものもとりあえず白石城へ逃げていった。
この際、伊達軍は本庄親子・杉原をはじめとした上杉勢により首級七百余を討ち取られ、
辺り一面、伊達の人馬の死骸や着物や槍や刀で足の踏み場もなくなってしまった。
上杉軍のこのたび得た伊達方の首は千二百九十余で、上杉家の手柄は天下の美譚として語られた。

325 :
・・・と「東国太平記」には書かれているが、この「東国太平記」、
江戸後期の本屋松沢老泉によれば「仙台藩に版木が買い取られ絶版になったと聞いている」そうだ。
また、紀州藩の漢学者、榊原篁洲によれば
「北越太平記、東国太平記は紀州の宇佐美竹隠というのが
宇佐美駿河守(定満)の末裔なので、東国太平記で宇佐美を褒めまくっている」
とのこと

要は宇佐美流軍学を流行させるために上杉家、宇佐美ageのデタラメを軍記に
書いたということらしい。
政宗にとっては子孫や考証家のおかげで恥ずかしい話が広がらずにすんだいい話ってことで。

326 :
訂正
十三町→1.4km
「北越太平記、東国太平記は紀州の宇佐美竹隠というのが

「北越太平記、東国太平記は紀州の宇佐美竹隠というのが名前を隠して書いたものであり、

327 :
(慶長13年、)この夏、関東の者といって、京都に来た者がいた。

その者の腕は末端にいたる程次第に細く、こぶしの形はなおも細かった。

そのこぶしの先には指がただひとつあって、酒などを飲む時は肘を開き、
盃を肘に挟んで飲んだ。

その者は縄を上手にないた。たとえば、手のある者よりも縄を速くないた。

――『当代記』

328 :
 神祖が御鷹狩に宮ヶ崎の町辺りを通られたとき屋根普請をしている町屋があった。
ちょうどその家の前を通られると板切れが四、五枚御笠の上に落ちてしまった。
しかし神祖は笑われるのみでそのまま御通りしたということがあった。

このようなことがあったにもかかわらず御帰城後御咎めもなく、
これからは屋根普請の事があればその家に長い竹二本立て置くように、との上意があった。

 この例から、駿府では今でも屋根普請の所には青竹二本立てて目標としているという。

(甲子夜話)

329 :
・この春(慶長13年2月)、秀頼公が疱瘡をお患いになった時、天神の御使い
によって、色々な吉瑞があったという。

・この頃、大坂の秀頼公は疱瘡をお患いになり、はなはだ危急であった。
西国・中国衆は密々に秀頼公を見舞った。これは家康公の前を憚りなさった
ものか。中でも、福島左衛門太夫(正則)は、急いで大坂に参上したという。

・秀頼公の患いがようやく本復した。北野天神が影向する奇特があったという。

――『当代記』

330 :
東照宮聚樂にて秀吉公に御対面の事


 東照宮が聚楽で秀吉に御対面され饗礼が有った日に、
秀吉は白い紙子を羽織に縫ったものを着られていた。
その頃三十二歳だった蒲生氏郷が狐紙子と名付けそう呼ばれていたという。

浅野弾正長政が東照宮に「その羽織を御所望してください」とささやいた。
東照宮はみだりに人の物をもらう事となるからと断ったが、

「御所望されましたら秀吉様は大いに喜ばれるでしょう。
この羽織はもともと具足の上に着るために仕立てられたものなので、
一旦は断られるかもしれませんが、そこをなんとか羽織を求め手に入れてください。
秀吉様はこれにまさることがないほど喜ばれるでしょう。」

と長政は重ねて申してきたので、
東照宮はやむをえず言葉に従うことになった。

 そして聚楽の城門で毛利宇喜多を始めとした者と居並んで拝謁し、
さて茶を献上された後、東照宮はかの羽織の事を仰せられた。
秀吉は喜んで羽織を自ら着せられ、大名に向かって、
「わたしに具足を着させまいとの事である。
秀吉は誠に天の冥加に叶ったものである。」
と語られた。

 東照宮は帰られた後、長臣達に聚楽の事々を話されたときに、
「私に羽織を贈った後に秀吉は『私に具足を着させまいとの志である』と
諸大名に向かって言われた。
『これからは私が具足を着て出向くことになるのだから、秀吉の鉾先に向かうこと誰ができようか。』
と中国四国に語りつがせるためである。
広く世人の口にされることとなり、筑紫の末まで聞かれることになるだろう。
天下の大名に威を示す謀略である。
その遠大な謀をたやすく計ることはできない。
秀吉のこの計略には力で推し量ろうにも及び難い。
されども私が志すところは別にある。」
との仰せがあったという。
(常山紀談)


秀吉にいいようにつかわれ、プロパガンダに利用される家康....
この年は天正14年(1586年)なので、蒲生さんは三十一歳なのでは?

331 :
>>330
聚楽第だったという設定なら天正15年だから合ってるでしょ。

332 :
?吾中、治五平の天草陣物語


 高崎侯の臣(市川)一学が語るには、昔我が藩の臣に治五平という長寿の人がいたそうだ。
九十余で天草陣のことを覚えていて話したという。
その話の中に我が藩のある者の事もあった。

 天草陣で松浦家で物頭を勤めていた某という者がいた。

「今宵城中から夜討がきっとあるだろう。
そのときは必ず立ち騒ぐべからず。
いずれも我が陣のところの垣ぎわで後ろをむき、敵方を背にして座すべし。
たとえ敵が来てもこれに向かうべからず。
また刀の鋒を三、四寸程を残して、その他を木綿などでよく包み置くべし。
敵が来たらこのようにせよ。」

と言い教えて待って居るとやはり敵が夜討をしてきた。
我らの兵はその体ゆえ後ろへ近寄り、切りかけられても具足なのでかちかちというのみで通らない。
兵卒共は構え持っていた刀を肩に担いで、鋒に敵をひっかけ、負い投げにして前へはねた。
夜のことなので敵はこの事が分からない。幾人も来てはこのようにして、来る毎にはねていた。
敵は寄せ来る、自分は座して動かない。
このようにして数十人を打ち取った。
味方も夜のことなのでその手際が見えず分からないので、
松浦の手の者は人礫を擲ったと沙汰されたという。

 これは伝聞の実説であるが、予は初めて聞いた。
治五平というのは誰の先祖であろうか。
先祖の武功は他人より聞くという俳句は、まさにこのことであろう。

(甲子夜話)

333 :
慶長4年正月19日の夕方、徳川家康の屋敷に、石田三成が大将となって攻めかかってくるとの沙汰があった。
徳川屋敷では俄な事でも有り、屋敷の角々に材木、石、棒などによって縄からけの櫓を掛け、敵が
攻めてくるのは今か今かと待ち構えていた。

この時、本多大和守(政重)と本多三弥(正重)は、こう話し合った
「屋敷のうちでどれだけの働きをしても、家に火をかけられ、煙の下で果てるのは口惜しい事だ。。
敵の軍勢が来て屋敷に火をかけてくれば、我々両名はここを抜け出し、その時治部少輔は城の大手広庭に
腰を掛けて下知をしているだろうから、そこに『家康内の者、降参人』と名乗り出よう。
そうすれば、屋敷の様子を聴くために、呼び出されるであろうから、その時二人のうち一人でも、飛びかかって
治部を刺し殺そう。」

このように言い定めたが、その夜、軍勢が攻めかかってくることもなく、翌日から世の中も、
普段と変わりない様子であった。

(慶長年中卜斎記)

334 :
三原城石垣の紋

 備後の三原城の外郭、石垣にはいろいろな紋が刻みつけてある。
升形、瓢箪、円形、短冊等である。
その故は
織田右府が毛利氏を討たれた時、豊閤がすぐにこの城を築き諸方から普請の助役があり、
その助役に出たものを区別する印であるという。
京の大仏殿前の石垣も、献備した諸大名の紋を刻んだのと同じ事だという話だ。
三原城は今芸侯の臣浅野甲斐が守っている。

〔城の中は至って広大だ、と城内へ入った者が語った。
海手の方に行くと広くなり、山の方に行くと狭くなる。
これから扇城という。
今往来の道は直接城櫓の下を通る。
ここを扇の要という。
以前船で行っており、度々海上からこの城を見たが、成る程、海手からは櫓など数多く見えた。〕
(甲子夜話)


秀吉が築いたことになってる?

335 :
>>333
本多政重はこの時期どの家中よ?

336 :
例のやらかしで徳川家出奔中なんだけど、この時期だと大谷なんだか宇喜多なんだか

337 :
慶長5年8月末、美濃まで進出した東軍の先手は、徳川家康の軍勢が江戸から出立しないことに苛立ち、
特に福島正則は殊の外立腹、池田輝政と口論となり、その場に在った本多忠勝と井伊直政がどうにか
宥める有様であった。

その翌日、村越茂助が家康の使者として参着した。福島正則は茂助に対し「家康公はどうして出立
されないのか!?」と詰問すると、茂助は

「ご出立されないわけではありません。ですがあなた方が敵に対して手出しをなさらないため、
ご出馬が無いのです。手出しさえ有れば、即急に御出馬されるでしょう。」

これを聞いて正則は、扇を広げ茂助の顔を2,3度仰ぎ
「尤もな事だ。すぐに敵を攻撃し、それそ注進していただこう!」
そう答えた。

本多忠勝と井伊直政は、正則と輝政が口論をした翌日であったので、このやり取りに手に汗握り、
茂助の言った事も非常にぶしつけではないかと諸人も思った。

茂助は事前に、忠勝、直政に使いの内容を一言も喋らなかった。家康がこの大事の使いに茂助を遣わしたのは、
茂助が自分の言った内容を有り体に伝えると、よく見知っての事であった。
日本国中の心ある武士たちは、この事について有り難き積りであると語り合った。

9月朔日、家康は出馬した。

(慶長年中卜斎記)

338 :
>>336
宇喜多騒動は何月だっけ?

慶長年中卜斎記もそういうところは研究ってされてるのかね

339 :
旗奉行は武功の者を撰ぶ


 旗奉行は武辺功者の人を選ぶものだという。
昔黒田長政の臣、竹森石見(次貞)という旗奉行が豊前紀伊谷という所の合戦で、
黒田の先手が乱れて逃げ帰るのを、石見自身が旗竿を横に持って士卒をせき留め、
『かかれ!、かかれ!』と言ったので、その軍も盛り返してついに勝利したという。
(甲子夜話)

340 :
28日(慶長19年10月)、大坂の城中から出た者が二条に召し寄され質問された。

かの者が申し上げるには、秀頼の御袋(淀殿)は武具を着けて番所を改めなさり、
これに従う女性3,4人も武具を着けていたという。

また、大坂に籠城の勢は3万余り(但し雑兵共に)という。兵糧・薪・塩・味噌は形式
どおりに蓄えていたという。

――『当代記』

341 :
>>339
実際は負け戦だったろ

342 :
今回の籠城中(大坂冬の陣)、秀頼は毎度、惣構を巡って、小事でも
精を入れる者には、その身分に応じて、褒美を与えた。人々にこれを
美談とせぬ者はいなかった。

――『当代記』

343 :
秀頼はぼんくらだったのかちっとは出来た人間だったのか
顔は秀吉の面影はあったのか似ても似つかなかったのか
実際がさっぱりだなあ

344 :
>>343
あの時代で20過ぎて個性がさっぱり見えないってのは、まあその程度の人物だったのでしょうよ。

345 :
島津兵庫頭(義弘)は関が原の合戦に負け、伊勢路を通り、伊賀国を経て和泉国に出、住吉の浦より
船に乗り、白地に黒十文字の旗を立て尼崎の方へ向かった。

この時、立花左近(宗茂)も西軍敗戦により大阪から船にて国元へと下っていた。すると横より
十文字の旗を立てた船が来るのを見て、宗茂は「加藤左馬介(嘉明)の船か、と思ったが、
その船より、『島津兵庫頭が合戦に負けたため国に下る船であること。同道いたしたい』との
使いが参ったため、同道して筑後国の国境まで同道した。

その先の肥前国は、当時の情勢として通過するのが非常に難しい国であったため、立花左近は兵庫頭に、
薩摩に行くのを諦め、一旦筑後に留まるようにと様々に説得したが、兵庫頭は謝絶し、薩摩へと
向かうことに成った。

しかし肥前と筑後の間には大河があり、しかも船がなく、どうやって船を求め川を越えようかと
思い悩んでいた所、そこに一人の山伏が現れた。

山伏は言った「この河は歩いて渡ることが出来ます。瀬を教えましょう。」
そうして兵庫頭一行を案内したが、その言葉に相違なく、無事大河を歩いて越えることが出来た。

兵庫頭は河を超えた所で山伏を呼んだが、山伏の姿は見えなくなっていた。
そのあたりの住民に山伏について色々と尋ねたが、彼らは一様に「そもそもこのあたりに
山伏はいません。」と答えた。
その後も島津兵庫頭、立花左近は様々に尋ねたが、ついに山伏は見つからなかった。

これは後年、立花殿が語ったことである。

(慶長年中卜斎記)

346 :
パーフェクト伝説がまた増えたか

347 :
薩摩まで船でいけないんだな

348 :
柳川の日吉神社の太郎稲荷大明神由来に似た話があったな

戸次道雪は、稲荷明神の信仰が厚く出陣には、護軍の神として御幣を奉じ毎戦勝利の加護を受けられた。
藩祖立花宗茂公は、慶長五年九月大津城を攻め破り、武勲をたてられたが、
関ヶ原で西軍は敗れ危険な道を切り抜けはるばる西下された。
暗夜、筑後川の岸神代の広い芦原で道に迷われた時、一条幽光が先導したので浅瀬がわかり無事柳川城に入られた。
宗茂公の室ァ干代姫は、父道雪公の志を受けついで稲荷明神を守り神と信奉された。
姫は、肥後腹赤村で明神が「夫君守護の為、しばらく姫のそばから離れるのだ」と告げられる夢を見て宗茂公は
必ず帰国されるを確信された。
果して、宗茂公は二十年振りに奥州棚倉藩主から柳川に帰国された。
入城後、直ちに肥後に居た僧金剛院誉を召し帰国して城濠の中の島に稲荷大明神を勧請しお城の守護神とされた。

349 :
>>345
山伏じゃなくてモーゼだったか

350 :
>>345
なんで筑後方面に行ったんだろ?

豊後水道通って日向から薩摩に行ったほうが良いような?
勝手にそのルートだと思ってたんだが違ったのか。

351 :
黒田や伊東が東軍だからじゃないかな?

352 :
義弘と宗茂は9月26日に周防国の大島で対面するまでは同行してたようだけど
その翌日に豊後水道を北と南に別れて、義弘は日向の佐土原に行ってから薩摩に帰ったみたい

353 :
まぁ実際は義弘の船は筑後方面には行ってないよね

だから黒田勢と別府湾あたりで海戦に及んでるし、日向の細島湊から上陸した際は、
島津方の村尾重侯らが伊東勢と合戦に及びながら義弘を迎えに来ている

354 :
 安部川の向府中より一里、内巻村というところに亀ヶ谷山結成寺がある。
工藤左衛門祐経の開基で、その村に工藤屋敷というものもあるという。

 神君が御在世のとき、大岩臨済寺の弟子智岳観公という人が、時々お召しがあり仕えていた。
殊にお気に入りで、度々御狩等の時もその寺にお越しになられた。
あるとき

「其の方が死んだら墓所を建ててやる。もし我が先に死んだら、其の方が我を葬れ」

との上意があった。
その時和尚は

「それがしが生きている間に墓所を建てたい」

と申し上げ、願いの通り建てられた。
その墓は三尺で四方に石で棟を建て祠のようであり、前には石の唐戸がある。
その中に塔があり、銘には従一位源朝臣とあるという。
脇には五輪の塔がある。工藤左衛門の墓であるという。

 また寺の中には古の狩の槍という六尺ばかりの柄の槍が一本、外にも同じく一本ある。
その村の農夫に、昔池で投網をしていた人がいた。
御狩の時に御預かりした槍を私宅に置くことを憚って、かの寺に納めたという。
寺門の脇に、工藤の胸当八幡というものがある。
長さ四寸、幅六七寸ばかり、厚さ二三分ばかりの板金である。
この地は工藤祐経が、富士の巻狩の前に、しばらくこの村に閉居した所と言い伝えられている。

(甲子夜話)

355 :
>>310
当代記巻五
(慶長十四年)六月小朔日(辛亥)
駿府城本丸の女房が局に火を付け、炎上してしまったが鎮火させた。
この女の仕業として、下女を二人火あぶりにした、
また局の女房衆二人を遠島に処した。

「駿府城本丸女房局に火をつたるの間、焼上処、
されとももみけしける、是女人の態成とて、下女を二人あぶり被害、
局女房衆二人可被遠流と也」

たしかに「我(家康)はどこにも行っていない」けど

356 :
暗殺未遂か

357 :
石田三成と、徳川家康の屋敷は、道を隔てて隣に面していた。
徳川屋敷で垣築地を築いた時、石田屋敷との境目の普請をしていると、三成の下々の者4,50人ほど
出てきて、徳川方の垣築地を築く者達と諍いを起こし、治部少の下々の者は叩き出され逃げた。
この時、築地の普請をしている者たちは500人だったという。

その後、三成方より徳川家の阿部善右衛門(正勝)の所に、『迷惑を仕ったので、今回の想像に
関わった者を処分してほしい。』と要請された。
阿部善右衛門は徳川家康にこの事を申し上げた所、家康は「如何様にもそなた次第に申し付けよ」
と言ったため、善右衛門はそれを三成方に伝えた。

すると三成方より「普請奉行に対して処分を行ってほしい」と要求された。しかし善右衛門は
これに「普請奉行は十余人おります。何れの者を処分するのか、指示して下さい」と返事をした。

善右衛門は、石田三成の要求をハッキリと拒否するのは難しいと判断し、当時騒動のあった場の
責任者の奉行は普請場に出さず宿に居させて、その他の者に普請奉行を命じ現場に出させた。

このため石田家の者たちは、普請場で当時の普請奉行を見つけることが出来ず、またその奉行の名も
知らなかったため、以降何も言ってこなかった。

(慶長年中卜斎記)

358 :
>>357
申し訳ない2段落目一行目、×想像 ◯騒動
チェックで見逃した

359 :
六間堀神明、雁披の事

 或る人が言うには、六間堀の神明はその鎮座の初めは詳しくわかっていない。
文禄元年九月十五日、その辺に台廟(秀忠)が御鷹狩りでの御成りがあった。
その日は「オビシヤ」といって、新米をウブスナへ供え村長やその他の者どもがうち寄って酒などを飲む日だった。
うち寄った者どもが筵上で肴も無く酒を飲んでいるのを、台廟が御覧になられて
御拳の雁を『肴にせよ』と下された。
また領国繁盛のめでたい祝いであると、
社に昇られ、御懐から三条院御宸筆の天照大神とある紙片を取り出されて、
御自らほこらの中に納められた。
今も神体としてあがめ奉っているという。


 『江戸砂子補』に云う。
「葛飾郡西葛西領、深川六間堀。
大川のすこし東、川幅およそ六間ばかり。
神明宮が六間堀にある。別当は猿江の泉養寺が兼帯している。
慶長年中、泉養寺開山の秀順法印があらたなる神異があって鎮座させた。」
『砂子補』では慶長を鎮座の年としている。
しかし既に文禄の始めにこの祠があることと見てきた。
ならば『砂子』の説は再び神異があったのをこのようにいったのか。

 「オビシヤ」は宴のようなことである。
今も蝦夷では、このように集まって飲むことを「オムシヤ」というとか。
きっと同じ言葉であろう。

 『武家事紀』及び『豊臣譜』を案ずると、この頃は朝鮮の役が既に起こり、
秀吉は東照神君と共に肥前名護屋に着いていた。
後に大政所の病により秀吉はすぐに京へ帰り、神君は秀吉の命に従って肥州に在留された。
また『武事紀』には、台廟はこのとき、大政所逝去の弔問として八月に上洛になった。
秀吉は喜び権中納言に昇らせた。
これから十月〔文禄元年〕上旬に江戸に帰られたと見える。
なので台廟の御帰りは九月より後になるので、この事はどうであろうか。
しかし『武事紀』の伝本は誤写が多い。
この十月というは、もしくは九月の誤りだろうというのも知ることができない。


(甲子夜話続編)

360 :
豊臣関白北條征伐出陣の事

 秀吉が北条を討たれに行った時、諸将は浮島が原で並び居て秀吉を待っていた。
秀吉は糸緋威の物具を着て、唐冠の胄をかぶり黄金をちりばめた太刀を帯び、
大きな土俵空穂に征矢を一筋指し、仙石権兵衛が持ってきた朱の滋藤の弓を持って、
七寸ある馬に金の瓔珞の馬甲をかけ、静かに歩かせて打通られた。
東照宮が信雄と共に出迎えられたのを見て馬から降り、

「いかに、二心あると聞いたぞ。いざ一太刀で参らん」

と太刀の柄に手を懸けられた。東照宮は左右の人に目を向けられて、

「戦始めに太刀に手を懸けられとは、めでたいことですな。」

と高らかに仰せられると、秀吉は何も言わずにまた馬に打ち乗って通られた。
(常山紀談)

361 :
権兵衛、許された直後なのに出張ってるな

362 :
いや、時系列おかしいだろ。

363 :
下旬(慶長15年5月)に、建部内匠(光重)が死去した。当月18日から患って
いたという。

この内匠は大坂の秀頼公の近習である。刀や脇差すべての金物の目利き
だった。江戸や駿河の若き衆に、弟子が8百人余りいたという。

この内匠の小姓・長吉は、内匠が死去して8日目に追腹を切った。当時の人に
これを誉めない者はいなかった。

去る3月に内匠が駿府に逗留していた時、長吉は傍輩とともに逐電し、三河国
吉田で押し止められた。傍輩の侍2人は成敗となるも、この長吉は別状なく前々
のように使われたが、「この度、奇特の死をした」として人々はこれを誉めた。

――『当代記』

364 :
一乱の前年に逝去したのは


池田輝政の妹は秀次の御台所だったので、そのことから
秀次が持っていた薬師院肩衝を輝政が所望したことがあった。
太閤はそれを聞いて
「その茶入は三左衛門(輝政)に与えなさい、その代わりに投頭巾の茶入をあげよう」
と言って秀次に投頭巾の茶入をやったが、秀次は薬師院の茶入を輝政に与えなかった。

その後秀次は生害し、聚楽の御殿は破却され宝物は悉く伏見の御城へ上り
薬師院の茶入も伏見へ上っていた。諸大名の内で秀次へ一味した者がいないかと
ご吟味があり(輝政は)誓詞を仰せ付けられた。

ある人が
「三左衛門は秀次の縁者なので一番にご吟味されるべきだ!」
と言うと、太閤は
「三左衛門が一味ではないのは明らかである。
 その訳は(輝政が)所望の茶入の代わりを(秀次が)受け取りながら
 三左衛門に与えなかったというこの恨みは深いので疑う所はない」
とし、その後太閤は薬師院の茶入を三左衛門に与えられたという。

以上のことは真田将監(池田家臣)が物語したことだが、池田家譜で
秀次から拝領したとしているのは誤りだろうか。
秀次の御台所は一乱(秀次事件)の前年に聚楽で逝去していたので、
そのことを池田家の吉事と言ったという。


――『古老物語聞書』

365 :
島津家久(忠恒)時代の国老島津下野守は知行一萬三千石、権威並ぶものなし、
而も長大肥満の人なりしか。かつて徳田大兵衛(侏儒どん)に向かい
「徳田めが 大兵衛とは 名のれども 名には似合はぬ 小さき人かな」
大兵衛これに応して曰く
「下野(しもつけ)の野州(痩せう)野州(痩せう)と申せども
名には變(かは)りて肥えた人かな」
(日当山侏儒戯言)

※侏儒どんの名前の由来の一般的な方の説では、生まれたときから
小さかったので大きくなるよう願いをこめて両親が大兵衛と名付けたとあります。

※別な本には、侏儒どんと島津下野守は同じ連歌の会に出ていたりするので、
こんなことが言い合えるほど仲が良いのかもしれない。

366 :
駿河台化物屋鋪の事

 或る人が語った。
 駿河台は元は土居際から鈴木町というあたりまで竹が多く生い茂り、
人家は無く宅地がただ一つあった。
その宅は妖怪がいると住む者は屋敷を差し上げて退去した。
 台廟(徳川秀忠)はこれを聞かれて、

「松下嘉兵衛はかつて戦場を経て落ち着いた能者である。そこでその宅に住ませよ。」

と仰せられた。
 そこで嘉兵衛は住んでみると、ある夜に宅の後ろの竹林がサッサッと鳴り出し、
背丈の高い入道で、眼が三つあるものが竹林中から出てきた。
松下は怪しいと思い目を開いてよく見ると、かの入道は空を歩いているようである。
その下に小さな狸が歩いてきている。
松下は思った。
『これは狸の妖であろう』
すぐにその狸を生け捕りにすると、入道はたちまち消えうせた。
松下は狸に向かって、

「お前はこのような変化をしたのには必ず理由があるのだろう。私はお前に対し考えがある。
お前は昔からここに住んでいるので、素より地主である。
私は新たに来たが、官から賜った所なのでまた地主である。
ならばこれからはお前を扶持しよう。よって米をいくばくか分かち与えよう。
これを元手として三年経ったら、ここを立ち去れ。」

と言い聞かせれば、狸はうなずいて逃げ失せた。これから妖怪は絶った。
このことを台廟は聞かれ、

「やはり松下の振る舞いは、我が注文にかなったか。流石武士よ。」

と御賞美あったが、年を経て狸は遂に居なくなったと。

 今も松下の屋敷は駿河台にある。鈴木町から南である。
予が若年の頃は松下隠岐守と称して、御先手頭であった。その子孫であろう。
しかしこの家は享保中紀州から陪従した人であるという。
今松下の家は三軒ある。嘉兵衛と称するは三千石で築地に居宅している。
駿河台は千石と聞く。
先祖の松下が賜った化物屋敷は別所で、その家も隠岐守とは別である。
築地の方が本家であるか、また同族かは未詳である。


(甲子夜話続編)

この松下嘉兵衛って松下之綱のことかな?
だとすると、遠江にいるはずなのでおかしくなる

367 :
戦場を経て
駿河台で
化物つかまえて
千石とり

なんか某小説を思い出した

368 :
>>323
この当時の伊達成実は石川昭光の預かりだったはず
国分盛重は既に佐竹氏に出奔している

理由としては、成実が伊達氏の分家で一番の家柄で石高も一番高かったのだが
外様大名だった叔父の昭光が、奥州仕置で改易されて、伊達家中に入ることになって
成実の伊達分家が、二番目の家柄になった。また、伊達領が秀吉によって3分の1に
減らされたのに昭光の石川家を抱えることになって家臣団が困窮した。
会津討伐で一番手柄をかけた伊達分家と、
政宗からすれば、人取橋で、敵側にいたとはいえ調停役を引き受けて伊達家を救った
昭光の石川家が対立。
伊達分家が伊達宗家に謀反を起こして、成実の配下は撃ち取られるも
成実は政宗も昭光も一族なので、謀反を起こさず出奔した。
政宗とは歳も近く兄弟のように育った国分盛重は、伊達宗家から国分氏に養子に行くも
大崎合戦の後、家中がまとまらず、政宗が会津を秀吉から取り上げられると
国分領のすぐ近くの北目に軍事拠点を置いたことから、国分家の家臣団は
危機感を覚え反抗する。政宗は、苦肉の策として、盛重に忠節を誓う面々と
ライバルではあるが、盛重の妹正室の佐竹氏に行くことをすすめ
盛重に反抗する国分一族を討ち果たし、国分氏の城であった千代に城を移す。
もちろん、盛重の長男は手厚く保護して、古内氏の養子となり
後の仙台藩の名家老古内主膳になる。

369 :
申し訳ないけど読みにくい

370 :
侍妾等宗旨の話次、太閤の宗旨の尋に当惑せし事

 一笑のことを記す。
ある夜、予の書机の傍らで待妾等が居て話しているのを聞いた。
「私は何宗です。」、「私は何宗ですよ」...等と言っていた。
やがて予に向かって、

「公儀の御宗旨は何ですか?」

と質問してきた。

「御先祖の頃から浄土宗である。
上野の寛永寺は天台宗だが別に理由がある。」

と答えた。そして、こうも質問してきた。

「ならば太閤様の御宗旨は何ですか?」

予は返答に当惑した。
思ってみると、足利は尊氏以来禅宗だというのは世の知るところで、
信長も総見寺のことをみれば同宗である。しかし太閤に至ってはまだ知らない。
よって「全く知らない」とその場では笑って過ぎた。

 それから明日天祥寺に詣でたときに、和尚二人に出逢ったのでこのことに及ぶと、
両和尚の答えもあれやこれやで的を射たものでなかった。
また林氏(述斎)へも便りにこのことを問うと

「御宗旨は大仏殿などのものと同じかもしれない。
しかし私は元来儒家で、釈子のことには関わっていない。
なので審査しないので答辞に及ばない。」

そこで隣宅の荻野長に問うた。

「高野山行人方の木食高山上人のことについて、黒田如水の覚書に記した文に、
『御所様はまだ御小身の御時から、高野山行人の衆を御信仰と云々』というものがあります。
また高山上人の取り成しにより豊太閤の助勢を得て、高野山は再興しました。
ゆえに今も高野山奥院大師の廟は行人方で管理しています。
行人方は秀吉の取り立てで高山寺を頭頂としましたので、
学侶は青厳寺を本寺としたようです。
阿弥陀が峰も高山寺の持ちであります。
今は妙法院でお持ちになられていて、慶長十二・十三年の頃から天台座主のお持ちとされたそうです。」

ならば秀吉は真言宗である。

『秀吉譜』で云う
「十八日、前ノ関白秀吉伏見の城に薨ズ。洛東ノ南辺阿弥陀ガ峰ニ葬る。
木食興山上人経始之事ヲ監ス。墓を其巓ニ築キ、祠ヲ其麓ニ構フ。
廟社既築、後妙法院ニ於テ、秀吉之月忌毎ニ必ズ諸宗ノ僧徒ヲ聚メ、斎ヲ設ク。
聖護院門跡道澄ヲ以ッテ大仏殿ノ住持ト為ス。
〔院号ヲ改テ照高ト曰フ〕」

(甲子夜話続編)

確か、方広寺の大仏殿で秀吉の先祖の供養ために
不受不施派以外に宗派を呼んだたしいので、
秀吉は不受不施派以外全てであるでも正解かもしれません。

371 :
元就と隆元の近習頭の友情


坂新五左衛門と粟屋弥七郎は、具足祝の座敷で座配のことについて口論に及んで以来、
戦場では度々先を争うようになっていた。
あるとき、坂がたった一人でとある城の搦手へ回り、
敵と遭ったら一騎打ちするしかないような細道をすらすらと上って、
言葉戦から鑓戦にもつれ込もうとしたことがあった。
そのとき粟屋弥七郎は「なんてことだ。坂に出し抜かれた」と思ってすぐに追いかけて行き、
坂の鑓の石突を捉えて六・七間ほど引き摺り下ろし、自分はさっさと上っていく。
そこに坂がまた粟屋の鑓の石突をつかんで引き摺り下ろし、刺し違えようとしたのだが、
そばにいた者たちがしがみついて仲裁したので、どうにか事なきを得た。

それからというもの、いよいよ互いに憤りが収まらずに、負けじ劣らじと争っていたが、
槌山攻めの際、粟屋は吉川元春配下の新庄勢に紛れて共に抜け駆けし、鑓を合わせて坂にはそれができなかったのには理由があった。
坂は隆元の近習頭だったので、隆元の旗本を離れることができず、
また隆元より全軍に抜け駆け禁止の制法が固く出されていたので、
その軍法を諸士に対して触れ回る身として、坂がその掟を破ることはできなかった。
粟屋は元就の近習頭だったので、隆元の本陣から少し離れたところにいたこともあって、
槌山の切岸まで忍んで近づくことができた。

さて、坂新五左衛門は大樽を家臣たちに担がせると粟屋の陣所へと向かい、
抜け駆けの際に手負いとなり、療養のため寝込んでいる粟屋のところへと案内も通さずに乗り込んでいった。そして
「これまでは戦場において先を争ってまいりましたが、私は今回、
ご下知を守っていたのであなたに負けてしまいました。
これまでも、若い粟屋殿に対して、私の方が年長なのに争っていたのは情けなかったと思います。
今後はこれまでの遺恨を捨て、刎頚の交わりをしたく思います」と言って、
坂は自分の陣にも帰らず、粟屋の看病をした。
坂はこれまで何度も武名を上げてきたつわものなのだから、
たとえ今回は粟屋に遅れたといっても、その武名が傷つくことなどありえない。
坂の振る舞いに、「自分もこのように立派にありたいものだ」と感心しない者はいなかった。

372 :
と言って傷口に塩を塗り込む強かさも兼ね備えていた

373 :
この坂新五左衛門は父親が元就の弟の相合元綱の謀反に加担した坂広秀なんだね
後には雷神立花さんとも戦ったりしてるのな

374 :
徳川家康は、豊臣秀吉全盛の頃、家臣に小袖を与える場合、その品を呉服屋栄仁、茶屋四郎次郎と
いった者たちに「小袖一つに羽織を添えて作るよう」と申し付けた。

呉服屋の方から「小袖はどのような仕立てをすべきでしょうか?袖の裄丈はどれほど、綿をいかほど
入れるべきでしょうか?」と問われると、家康は好みを指定したが、そうやって造られたものは
通常の小袖より、五割から倍も高価な物となった。

家康は年間に小袖を、少ないときでも九つ、多い年では十四、五も下し渡した。
小身の者の中には「小袖はいりません。小袖にかかる金額をいただきたい。」と呉服屋に申し請い、
その場合呉服屋の方は家康に回す勘定の時、小袖と書いて、金が渡ったとは言わなかった。
小袖を下すのは毎年のことであったので、このような場合、呉服屋は完成した小袖も取り、その代金も
取ったわけである。

ところで今のように小袖が世に広まったのは、天正の末から文禄年中にかけてのことである。
実は日本国の衣装が結構な物になったのは、家康公より始まったのであるが、こういった事は
世間では知られていない。『家康公は吝い人』と世上申しているが、そもそも気の大きな人であった。

衣装の中でも小袖が結構になったのは、豊臣秀頼より始まる。それは関ヶ原の合戦で徳川家康が
勝利した後、その年の暮、諸大名が秀頼に、小袖を進上したのである。その年から翌年までには、
非常に結構な物となった。そして年を経るほどに尚善くなり、諸士の下々、町人まで小袖を
着るようになった。これも御代長久の故であろう。

(慶長年中卜斎記)

375 :
わしがやった小袖はどうしたのだ?って聞かれなかったのかな

376 :
現代でも嫌われる上司の言動だよ。それ。

377 :
石川丈山年老て勇気の事

 石川丈山は、隠棲の翁となっても雄武の姿はあったという。
彼が隠棲していたあたりは山水幽閑の所であった。
翁は常に小流に出て自ら米を研いでいたが、
そのあたりの少年がそれを窺い上流に小便をしてしまった。
翁はかの少年に
「小便したかったら、米を研いでいるので下流でやれ」
と三回も同じ事を言ったが、少年は聞き入れなかった。
また研いだときにわざと上流で小便をした。
そのとき翁は手に槍を持って来て、かの少年を一刺しにした。
人はこれを見て、「あっぱれ勇士の末よ」と
その後は里人はますます賞嘆して畏敬したという。

(甲子夜話続編)

378 :
>>375
子孫は小袖をもらっておけば、神君からご拝領の品、って言えたのにって愚痴ったか、
小袖を偽造して「これがあの時拝領した小袖です」と言い張ったか、どちらかだな

379 :
>>377
近所でも嫌われ者の悪童だったのだろうか。
丈山晩年ってとっぷり江戸時代だけど、時代的におとがめは
大丈夫だったのかな。1600年代中ごろ、詩仙堂辺りの出来事だよね。
Rまでは至らなかったとか、すばしっこいのに一刺しが見事で、とかもあり得るか。

380 :
無礼討ちの範疇やろ

381 :
丈山みたいな大物ならそれで十分済んだか。

382 :
野間左馬之進田螺を以て勝負占物語の事


 野間左馬之進の物語に、 
「タニシを折敷の片隅に三つ、もう一方の片隅に三つよせて、
両方へ分けて一夜置くと、
合戦の負けの方を追いこみながら、勝ちの方は進み出る。
 大坂陣の城中として秀頼、木村、大野と称して盆の一方に三つ、
もう一方に関東方として家康公、井伊、藤堂と称して三つタニシを置いて、
一夜経つと必ず関東方の三つのタニシが、城内方のタニシを追い込んだという。
勝負の吉凶を占うことでこれより良いものは無い。」
とのことだ。『武備志』にもこの占いが出てきた。
興味深い。


(常山紀談)

383 :
熊野別当湛増「赤と白で闘鶏させたら全部白が勝った。源氏につこう」

384 :
ゲンジバンザイ

385 :
藤堂を伊達にしてみると....。

386 :
>>382
面白い占いだな

387 :
ジャンボタニシは
気立ての良い子だよ

388 :
南蛮宗御禁制前、於御当地彼仏像画きの事


 いつの頃か、未だ南蛮宗御制禁より前のことであるが、
御当地に画工山田恵茂作と称する者がいて、南蛮宗の本尊を画くのみを職としていたという。
よって御制禁のとき呼び出されて吟味があったが、
その答えに「これを画くのみで他に業は無い」という。
官裁には、「ならば今後他の画をすべし。この像を画くべからず。」
というまでで御構いなかったという。
昔の有様はおおまかなるものである。

傍に仕えている人が、この恵茂作は二代続いて、ともに画を業としていると言った。
どちらの御代のことであろうか。
(甲子夜話続編)


ゆるゆるジャッジ

389 :
井伊兵部(直政)、本多中書(忠勝)、榊原式部(康政)のことなどを、

(徳川家康の)御前などでも「小姓ども」と、酒井左衛門尉(忠次)は
申されたということである。

――『武功雑記』

酒井忠次は別格だったという話だろうか。

390 :
 ある日林述斎と昔の話をしていた中で、台廟(徳川秀忠)の英知をかきたてる御気質を見ることができる話を聞いた。

 台廟が大御所になられた後、毛利右馬頭元就の第五男の毛利宰相秀元は、
故中納言輝元の養子となって家を継いだ。
 昔豊臣太閤が朝鮮を伐したとき、わずか十四歳で大将を承り、
異域に押し渡り武勇を振るったと、かねてから台廟は聞かれていたので、

「秀元は常人ではない。文武の名誉、世にも人にも認められている。
門地といい官品といい、家光の益友にこの右に出る者はいないだろう。」

と常に仰られていた。
日々のように猷廟(家光)の御前に召され、今昔の物語などを聞かれるのを、飽きない御楽しみとなされていたので、
人は皆秀元を御咄衆と呼び、名を言う者はなかったという。

(甲子夜話)

何かいろいろと誤伝が混じっているようですが、秀元と家光の仲がちょっといい話

391 :
>>389
そりゃ年齢も一回り以上違うし家格もダンチでしょ

392 :
酒井は徳川と同族なんだっけか

393 :
>>392
それもそうだけど、忠次自体がダブルで義叔父らしいから。

394 :
>>390の続き

 寛永中、細川三斎入道忠興は、帰国の際に別辞を述べるため猷廟(家光)と対面し
そこで御馬を贈られた。
それから西の丸に登り、台廟(徳川秀忠)の御前に召された。
旅中に服用するようにと御薬を与えられ、直接清水藤四郎の御脇差を下された。
その時の仰せで

「我が前にお前たちと共に太閤の前にいて談話していたときから、お前はこの脇差を見て、
『ああ、この清水の作の脇差を帯び、利休の尻膨れ茶入がある茶事を催せたら、
生涯の至楽に足れるのに』
と申していたな。
その言葉は今も耳底に残っていたのでお前にこの脇差を授けたのだ。」

とあり、忠興は感謝して退いたという。
〔この頃には尻膨れの茶入が既に細川家の物となっていたという〕。


(甲子夜話)

395 :
 比叡山では、北谷の稚児は雪よりも色白だと愛され、南谷の稚児は花に勝るほど趣があるともてはやされた。
このようなことが続いていると、後に者どもはああだこうだと心無いようになっていった。
ついには諍いになり、花を悪く言い散らしたり雪を妙なものと非難したりした。
雪の方からは「花を褒めるような狼藉の類は攻めよ」と言い、
花の方からは「雪を褒めるうつけ者をひたすらはたいて除けよ」と言い
互いに怒れる心は激しくなり山の騒ぎがはなはだしくなった。

 西三条逍遥院(三条西実隆)殿はこれを伝え聞かれ、わざわざ山にお登りになられた。

雪にも愛でられる理がある。
花ならばさかぬ梢もあるべきに 何にたとえん雪のあけぼの

花に心を染められるのも、もっともな由縁がある。
雪ならば幾たび袖をはらはまし はなのふぶきの志賀の山越え

今後は優劣を争わず仲直りをし、円入和合の床で勤学せよ
と鎮めてお帰りになられた。

(醒睡笑)

396 :
こんなんじゃ俺が清盛や信長でも焼くわな。

397 :
雪とか花っていうのがボーイの呼称かと思ったら
文字通りの雪や花だったのな・・・

398 :
(鍋島直茂は)また曰く、

「北条氏康は、『常に老若ともに武士道を立てる者は、もし途次などでも
気違い酒狂いの人に行き会った際、自分の勇気を表して睨み鎮めた時、

その人がそのまま正気に戻って平伏し、よく調べる者を側に置きたい』
と、言いなさった。まことに面白き分別である。

しかしながら私は、酔狂人などに行き会った時は少しも怒らず、平静に
打ち笑って見せて、その理性の無き者も、自然と威に恐れて痛み入る、
そのような徳の者が欲しい」

とのことであった。

――『名将言行録』

399 :
市松の事か

400 :
>>394
これ忠興は利休に散々「茶室に脇差差して入るな」って注意されてたのに
その教えをガン無視して、利休の茶入れで脇差差して茶会やるっていう悪い話でもある

401 :
小浜の八幡祭の人形

 若狭の小浜侯〔空印居士(酒井忠勝)か〕が初めて封を賜った年(寛永十一年、1634年)、
城下の大津町に八幡祠では城内外の鎮守として、例年八月十五日に祭礼がある。
 そのときに練り物が多く出る中に、太刀脇にはさんでいる武将の体をした物があった。
侯はその人形は何の将を模しているのか問われた。
地元の者が頼朝卿であると答えると、侯はすぐに桟敷を降りて拝まれたという。
 今では古例として、祭礼にはその侯は必ず旧に従われるという。
〔たいしたことではないが、聞くままこれを記した。〕


(甲子夜話続編)


これは放生祭のことですかね

402 :
名和顕忠は後醍醐天皇に使えた忠臣、名和長年の末裔であり、あれやこれやあって
今では肥後国の宇土城を領していた。

さて永正十四年(1516年)のこと、顕忠はひとりお忍びで城下へ出た。
民の暮らしぶりをつぶさに視察し、これを今後の政へどう反映していくか頭をひねりつつ、
それはそれとしてお腹が減ったので、顕忠はとある茶店に寄った。

老いた母と若い娘が切り盛りする小さな店だったが、そこで出されたお餅が存外うまい。
顕忠は大いに気に入り、何皿もペロリとたいらげた。
お腹もくちくなった顕忠、「美味かったぞ、ではな」と出て行こうとしたが、娘に袖を引っ張られる。
「お代を…」

顕忠、いくら私が領主でも無銭飲食はいかんよなと懐をさぐってみたが、財布を持ってきてないことに気づく。
冷や汗が額をつたい、こちらをうかがう娘の表情もどんどん険しくなっていく…
とはいえ、これから逃げても途中で追いつかれて銭取とかイヤな地名が生まれてしまうに違いない。
ほとほと困った顕忠は着物の小袖を切って渡し、これと引き替えにお城まで取りに来なさいと言って帰った。

小袖を置いてかれた茶店の娘も困ったが、よくよく見るとそれには名和家の紋が入っていることに気づいた。
領主様を食い逃げ犯と疑うとは、無礼どころの騒ぎではない…
娘は覚悟を決めると、夜ひとりお城へと向かった。

娘は顕忠の前で平伏し、自分は処刑していただいても構いません、その代わり母の命はお助けくださいと懇願。
その孝心にうたれた顕忠は(別に怒ってもいなかったので)お代に加えたくさんのご褒美をさずけたという。
今に伝わる「小袖餅」の由来である。
http://www.howdy.co.jp/dining-express/archives/2005/12/images/1134356598.jpg

403 :
普通にいい人でほっこりした

404 :
サラッと権現様をディスるのはやめたまへ!

405 :
権現様だったら味噌の臭いも付いてきますがな

406 :
>>402
>銭取とかイヤな地名が生まれてしまうに違いない。
コラw

407 :
すいません、逸話では「名和伯耆左衛門尉」という名前になっており、
永正十四年の城主ということで顕忠にしたのですが、
いま調べたら顕忠ではなくひ孫の顕孝だという話があるらしいんですよ。
でもそれだとだいぶ時代が合わないんですよね…(生まれてない

408 :
逸話ではよくあること

409 :
老武士たちの語る所によれば、相馬顕胤は相馬三郡の武士を総動員して戦ったのは三度であった。
小戦での働きは度々に及んだ。しかし近郡を尺地も犯すことはなかった。実に良将の器であった。
その封土を今見てみれば、東は一里あまり。南は行程十三里あまり、西は六里に近く北は二里に足らず。
漁樵は便を得てその利多し。地雄人傑にして東方の険地である。
魚鳥禽獣尽く集まり、木竹は豊かで、漁樵五穀の利は挙げても尽くしがたいほどであった。
そして相馬顕胤が愛憐深く、義理を重んじる人であったので、人々はみなこれに懐いた。

しかし、牛渡兄弟だけは違った。
牛渡治部とその舎弟、近江は、所領のことで恨みを含む事があり、岩城へと亡命した。

相馬顕胤が富岡に在城していた時、牛渡兄弟は岩城氏に「野伏を三百人ほどお預けいただきたい。
富岡を取って参りましょう。」と申し上げると、了承され望むに任せ富岡へと差し越された。

ところがそこで兄弟は、幾千ともしれぬ大量の人魂が、まるで蛍火のように乱れ飛ぶのを目撃した。

近江は思わず、兄に言った
「この奇怪の甚だしさよ。夜討ちは止めるべきではないでしょうか?」
しかし兄の治部は答えた
「日限を定めてここまで来たと言うのに、帰れば人の嘲りを受けるだろう。しかしお前は帰れ。」
そう言われ、近江は岩城へと帰っていった。

そうして牛渡治部は富岡城に夜討ちを仕掛けたが、彼の襲撃は城中において既に察知されており、
待ち構えていた所に寄せてきたのを、追い散らし、ここで治部は討ち取られた。

牛渡近江はその後伊達へと行き、そしてまた標葉に戻った。
その事を知った相馬顕胤は、江井河内、岡田摂津に、岡田宅に近江を呼び寄せ討ち取るように仰せ付けた。
江井、岡田の両人は相談し、牛渡近江を呼び、酒肴を勧めた後、江井はこう言った

「牛渡殿の御刀は達磨正宗にて、名誉の切物と承っている。どうか見せてくれないだろうか?」

この望みに牛渡近江は
「貴殿も大原真盛の太刀にて、度々の功名隠れなし。それを、私にも見せてほしい。」

こうして互いに抜いて、左右の手に取り替えて見て、その後また返し、互いに鞘に収めた。
近江は退出する間際に
「この牛渡を謀って討とうなど、思いもよらぬことだ!」
と言って帰っていった。

その後、牛渡近江は小高に来て、宿老を通じて相馬顕胤に面会し、言った
「私は流浪の身となるよりは、死して御屋形様の憎しみを晴らして差し上げましょう!」
そう申し上げると自分の太刀、刀を投げ捨てた。

これを見て相馬顕胤は言った
「虎狼も牙がなければ、誰がその威を恐れるだろうか。」
そして近江の帰参を認め、扶持を与えた。

相馬顕胤は質素純朴で、普段から近習外様を集め古今の政治について議論し、賢愚得失を評した。
彼は常にこう言っていた
「私が人を捨てなければ、人もまた、私を捨てないだろう。」

(奧相茶話記)

410 :
>>405
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8378.html

411 :
>>409
そんな豊かな土地だったのに今じゃ

412 :
>>409
人魂はなんだったんだ…?

413 :
羽柴秀吉朱傘


織田信長は中国攻のとき、羽柴秀吉を大将として行かせた。
朱傘を与えてこう言った。

「陣中にこれをささせて我がように武威を張ること、
この傘の開くようにしろ。」

秀吉はかしこまって退去し、直ちにその傘をささせて出て行った。
信長は櫓上から望み見て、

「彼に陣中で武威を示せと命じたが、早くもここから人目を輝かせた」

と喜び賞したという。


(甲子夜話)

414 :
>>402
まんが日本昔話しにありそう

415 :
福島正則と人柱 八振りの剣と雨夜踊り

関ヶ原の戦の後、防長へ改易となった毛利家の代わりに福島正則が芸備へ入封。
福島正則は国境の支城築城、国内の再検地や治水などの内政事業を次々と進めていく。
その中で困難を極めた事業の一つが本拠地である広島城下の治水であった。
毛利輝元が太田川下流の三角州を埋め立て作った広島城の周辺は新造の埋め立て地であるが為地盤が弱く当時度々洪水に悩まされており、
その中でも城の北東側に位置する猿猴川は何度工事しても堤防が決壊していた。
土地の者はこの上は川の神様を宥め、強い堤防を造る為には堤防に人柱を入れるしかないと決め、堤防には人柱を埋める事となった。
しかし、それを聞いた福島正則は
「それは大変不憫な事である。人柱の代わりに我が持つ八振りの剣を堤に埋めよ」
と、秘蔵の名剣八本を箱に納めて堤に埋めて工事させ、堤防を修復した。
この時埋められた八本の剣の剣霊を祀って、当地には小さな祠が建てられ、今も八剣神社(広島市中区の牛田大橋南詰付近)として福島正則の治世を後世に伝えている。
またこの牛田周辺では7月15,16日の夜に雨夜踊りが行われていた。これは度々堤防の修復が行われ、その堤防を踏み固めて強固にする為、地元の人々を集めて堤の上で躍らせたのが起源であると言う。

(知新集)

416 :
>>412
治部兄貴たち襲撃者の魂が飛散するさま

417 :
>>414
昔話なら
そのまま走って逃げたあげくに掴まって叩きのめされてる


大仏さまが

418 :
お正月も近いので、門松関係の逸話を

江戸時代、諸大名のなかで、
唯一将軍家から門松を拝領していた藩があります。

奥州磐城平藩安藤家です。

安藤家の先祖、安藤重信は、家康の囲碁の相手をよくしていました。

ある年末の夜のこと、いつものように家康と囲碁をしていたところ、家康が勝たないので退出時間を過ぎても帰城させてくれませんでした。

そこで、重信が「屋敷に帰宅し、門松の準備を致したいのですが。」と言うと、
家康は「門松をやる。」と言いました。

家康が勝ったので重信が屋敷に帰りますと、将軍家と同じ門松が届いていました。以来、毎年門松の拝領がありました。

419 :
>>415
猿猴「市松っつあん、剣やなあてアンタの好物の酒にしちゃりんさいや」

420 :
 蜂須賀阿波守(至鎮)の臣中村右近(重勝)は夜討の時に討死した。
十五歳であった稲田九郎兵衛(植次)が右近の首を取り返した。
右近の子は(後には美作守と号し)そのとき十一歳で、幼少だったので在国していたが、
組子守りの為在所から呼び迎えられた。
阿波守と対面すると右近の討死の事を申し立てた。
かねて阿波守は右近と懇意にしていたから事情を話すと、

「首を晒される事は、武士の本意です。
どうしてその首がここにあるのですか!!
犬死をしてしまったということですか!!!!」

と弁舌明らかに申した。
阿波守は聞いて、

「誠に虎の子は乳を飲む時より百獣をのむ気があるものだ。
心配しなくともよい。
右近の首は稲田が取り返してきたからここにあるのだ。
右近の働きは比類なかったぞ。」

と重ねて言うと、そのときにやっと合点した顔つきとなったそうだ。

(武士としては)

首を晒される事って本意と言われる程素晴らしい事だったんですね。
負けたら隠れて切腹して、首をとられないよう部下に運ばせる話をよく聞くので
首を晒されるのは恥だとばかり思ってました

421 :
首実検されずに捨て置かれたと勘違いしたのであろうな。

422 :
勝茂さまの病気の回復の見込みがなくなったとき、
光茂さまへ、志波喜左衛門が、

「私は、以前から殿のお供をいたす約束をしております。
ご回復の見込みがないよう思いますゆえ、
殿のお命の代わりとして私が腹を切ったならば、
もしかすると御回復することがあるかもしれません。
いずれ冥途へお供する身体ですから、切腹を御許しください」

と申し上げた。
光茂さまが、増上寺の和尚に、

「命の代わりとして切腹をするということは許されますか」

とお尋ねしたところ、

「そのようなことは絶対に許されていない。
剛の者であるから、大切に召抱えておかれるように」

との答えであった。
光茂さまは腹を切ることは許さず、
しかし、その忠義の心にすっかりと感心され、
子孫を疎かにするようなことがあってはならぬと、
自ら筆をとり、そのことを記された。
いまだに子孫はその書付を持っているということだ 【葉隠】

423 :
 安部川の下前浜辺りに萩原というところがある。ここにはある古百姓がいる。
その先祖に大力を持つものがいた。神君が御在城のとき、外出の途中で荷を抱えた牛を両手に抱えて道脇にどけたので、何者か尋ねてみよとの上意があった。
「何村の某」と申し上げると、
「珍しい力だ。何か望みがあらば取らせよう。」との仰せがあった。
その頃はかの家が豊かだったので、
「望む物はありません。
ただなにとぞ四つ柱の門を建てたい」
と願いをしたら、お許しが下りた。
またその他に望みはあるかと上意があると、
「苗字を称して、家紋に日の丸をつけたい」
と申し上げると、それもお許しが出た。
そのうちに四足門を建てたという。
しかし昔から門は開け放っており、戸は無いという。
今はこの家は貧窮しているとか。

 また昔その所に土手を築いた。それを今は萩原土手と称し、その家も萩原と呼ぶという。

(甲子夜話)

424 :
鏡石神社


岡山県備前市八木山にある鏡石神社の御祭神は日乃星照の命(池田輝政)で
その縁起は以下のようになっている。

八木山村に住んでいた八木浄慶は、この地方の蝋石を発見したといわれ
蝋石で仏像を造ることをなりわいとしていた。
備前市三石光明寺・西片上真光寺・蕃山正楽寺などに伝来する大日如来坐像
大滝山実相院の虚空蔵菩薩像などが浄慶作として知られる。

『備前孝子伝』によると、慶長7(1602)年に岡山藩主だった池田忠継の父輝政が
浄慶の親孝行の志が篤いことを聞き浄慶を褒め称え、永代扶持の高六石を与えた。
感激した浄慶は、その後慶長18年(1613)年に輝政が没したことを聞くと
蝋石で輝政の像を刻み、朝夕これを拝礼して輝政の恩に報いた。
また死に臨み、その子八木左衛門に僧となって輝政の像を祭祀するよう遺言した。

八木左衛門は父の遺言に従い出家して輝政像を祭祀することにしたが
母への孝心が厚いことを聞いたその時の岡山藩主池田光政が
「お前が出家して子孫が断たれるのは親への不孝のはじまりで
 輝政像を祀る者も絶えることになろう」
と諭したところ悔い改めたので、還俗させて八木左衛門復善と名乗らせ
十三石余を加増して二十石の土地を与え、八木山山中に祠を建てて
輝政の像を納めさせたので、左衛門の子孫が代々お祀りするようになったという。

池田輝政の像は今も同社の御神体として祭祀されており
万治三(1660)年に光政が与えた感状などが鏡石神社の神主の八木家に伝来している。


――『岡山県総合文化センターニュース No.412』

425 :
>>424
MTMS「†悔い改めて†」
八木左衛門 彡(゚)(゚)「おかのした」

426 :
そういや管理人氏がツイッターで書いてたネタでサムライっぽいっていうと
大戦時イタリアのサムライマガジンベストが有名だよね

http://www.e-sarcoinc.com/italian-ww2-samurai-vest.aspx
http://www.e-sarcoinc.com/images/jason%20vest.png

427 :
父の遺言に従ったら親不孝の始まりといわれて悔い改めるとかいろいろ大変だ

428 :
天正13年、二本松義継による伊達輝宗謀殺事件(粟之巣の変事)を受けて、伊達政宗による
二本松攻めが行われると、わずか11歳であった義継嫡男国王丸(二本松義綱)は、伊達の大軍に対し、
義継の伯父である新庄弾正正、新庄尾張、新庄左衛門、箕輪玄蕃の補佐を受け籠城した。

10月15日、伊達政宗の軍は押し寄せてきた。先鋒の片倉小十郎は栗刀迫より池ノ入、亀ヶ谷を取り巻いた。
田村清顕は西谷口に廻り龍泉寺の前まで攻め入り、伊達成実は城の艮の口に攻めかかった。

ここで不思議な事が起こった。

二本松家には祖先より代々相伝の旗があった。これは天子より賜った錦の旗であった。
二本松家が難儀に遭った時、この旗を開いて再拝すると、いつも祥瑞があった。

新庄尾張はこのことを思い出し、本丸に上り、杉の枝にかけてこれを再拝した。
すると、雪がちらちらと降り始めた。これは卯の刻(午前6時頃)の事であった。

伊達政宗の軍は片倉小十郎を先手に揉み立て攻めてきたが、二本松城は大木を切り倒して
逆茂木とし、普段から気心の知れた朋輩たちばかりで籠城していたため、互いに恥はかけぬと
手を砕いて防いだため、伊達軍の上下士卒は攻めあぐねた。
新庄尾張は卯の刻の初めから伊達の攻勢が終わるまでの間に、敵が逆茂木際まで寄せ来て水の手を
取ろうとするのを17度まで追い払った。

そしてその夜、亥の刻(午後10時頃)より大風大雪起こり、18日まで降り続いた。
このため政宗は21日、小濱へと帰陣した。

(奧相茶話記)

伊達政宗による二本松城攻めについてのお話。

429 :
南無八幡大菩薩

430 :
 蜂須賀蓬庵(家政)の代に、土佐の国で土佐紙を漉くという弥右衛門が土佐の国を立ち去って阿波の国へ来た。
諸役人はこのことを聞き及んだ。
「重宝な者が来たものだ。
阿波でも紙を漉かせて商売させたら、ここもにぎやかになって太守の為にも良いだろう。」
以上の次第を奉行人に訴えて居所等もしつらえて、「今にも土佐紙などを漉かせよう」と言い合った。
 この事を蓬庵へ申し上げると
「この国へ来た者を養育するのはもっともである。
しかし紙を漉かせる事は堅く無用である。
理由は古くから土佐紙として土佐の国で漉いていた物を、
ここへ奪い取り、ただ自分の利のために養育するのも不本意である。
だからといって、彼に居心地が悪い思いをさせるのはいかがなことか。
ずいぶんと労ってやれ。ただ紙を漉かせる事はいらざることである。」
と制止されたという。
ありがたい心ばえで、利を見て義を思うことは殊勝であった。
(武士といえば)

431 :
>>430
×(武士といえば)
〇(武士としては)

432 :
なんでも鑑定団に、4つ目かもしれない曜変天目茶碗が出るそうだな

433 :
           |
            |  彡⌒ミ
           \ (´・ω・`) 
             (|   |)::::
              (γ /:::::::
               し \:::
                  \

434 :
マジでけ?と思ってググったらニュースでてた
三好家に伝わる曜変天目らしいね
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161220-00010002-bfj-ent

435 :
実休さんあたりがもってたのかな?

436 :
冬康かもしれん

437 :
2500万円でした

438 :
4つ目で、しかも三好の子孫が持っていたという事だけでも十分以上の価値がある
国は、変な所に売り飛ばされる前に保護するべきだな

439 :
某国から返還請求が来ます

440 :
前田家に伝わった曜変ぽいものを含めたら五点目だよね
三好に伝わってるなら宗二とか堺の連中が記録してそうなものだけどないのかな

441 :
>>437
やっす、曜変としては大したもんじゃなかったのか

442 :
2500万円から競りスタートだよ

443 :
曜変天目の中でも最高峰の稲葉天目は春日局に家光があげたのが
伝わったので稲葉天目

444 :
番組中に三好氏がさらりとディスられました

445 :
 小田原の陣の時、秀吉は近習の侍十四、五騎で宿泊された。
この時に有馬兵部法印則頼が家康公へ進言した。

「これは天が与えた幸事です。押し寄せて討ちましょう。」

「このたびの秀吉の行進は私を頼っての事だ。
とりわけ秀吉の妹は私の室だ。もっとも三年以前(三か月の誤記?)に亡くなったが。
また北条氏直は私の妹婿であるのに、秀吉は私に心を許されている。
そんなところに、飼鳥の首を絞めるようなむごい事を武士はしないものだ。
武辺はその身の生まれつきだが、天下を知る事は果報次第である。
とにかく武士は意地を第一に綺麗にするものである。
本意に背く事はしないほうがいい。」

則頼も恥じ入ったとのことだ。
(武士としては)

446 :
川通り餅の由来

12月1日、広島城下の人は餅を食べる習慣があった。
 それは城下の人だけでなく、郡部もであり、このことを「川通り餅」と言ったり「膝塗餅」とも言ったそうだ。
 この餅を食べたら、川を渡っても転ぶことがないと言い伝えられている。」

この由来は正平五年(観応元年,1350年)十二月一日、毛利師親が石見の国の佐波善四郎との戦いで江の川を渡ろうとした際、川の水面に浮かび上がった石が鐙に引っ掛かった。
師親はそのまま戦に臨み合戦に勝利し、この時鐙に引っ掛かった石は神の助けに違いないと持ち帰り、宮崎八幡宮に奉納した。
師親が治める安芸国吉田庄ではこれを祝って十二月一日に餅をこの小石に見立てて食べるのが習慣となり、その後子孫の毛利元就にも引き継がれ、
元就の孫の毛利輝元が吉田郡山城から広島城へ本拠地を移した際に川通り餅は広島城下から安芸国全体へと広まったのである。

今では広島の銘菓として、親しまれている。

(知新集、高田群史、亀屋のホームページより)
http://i.imgur.com/FOegWlI.jpg

447 :
>>446
広島住みだけど、子供の頃やってたCMが怖かった思い出
能?の鬼が出てくる

448 :
>>447
あれは文楽だよ
https://youtu.be/ZhvuwRwmYmg

449 :
すまん、こっちも有った
https://youtu.be/6qT6wJz7J3s

450 :
最近(でもないか?)武将の逸話が出尽くしたのか
風俗ネタが多いね

451 :
>>449
まさにこれです!
夕方のアニメの時間帯によく流れていた記憶があります。

452 :
>>446
666年も前から未だに伝わるとは…

453 :
京都総検校の蔵、神祖拝領壺の事

 豊川勾当の話に、京の総検校の所に、かつて神祖から賜った御物が有るとのことである。

一つは色付きの大壺で〔色は忘れた〕葵の御紋がついている
この壺の由縁は、そのはじめ三宅検校〔称は忘れた、正さなければならない(※栄一とのこと)〕が賜ったものである。
そのとき検校は

「この壺の名は何と申すのでしょうか?」

と申し上げると、

「名は無い。今はこのように治平の世となったので、泰平の壺とでもいえばよい。」

とお答えになられた。

検校はかたじけなく拝領したそうである。それから今にその御名が伝わって、年首の行事には検校勾当の盲人が皆この御物は拝み、中に入っている酒を頂戴して礼飲するという。

 また鳴戸と名付けられた御琵琶も同じ検校が賜って今に伝わっている。
これも上意として

「戦争の際にはこのようなものは役に立たない。今治安となったので、平曲〔平家のことである〕のようなものも心安く聴けるだろう。」

と下されたという。今に至って総録所の伝宝となった。
盲人の坐までにも御手の届くこと、不思議なばかりである。
(甲子夜話)

454 :
徳川家康と豊臣秀頼の二条城会見が終わって後日のこと。

家康は近臣と雑談している時、こんな事を言った
「去る三月、加藤清正は秀頼に供奉して上洛したが、彼は退出の時、西天の方に目を注いだ。
これについてお前達は何故だと思うか?」

しかしこの問に、答えられるものは一人も居なかった。

暫くして家康は言った
「秀頼の上洛に供奉するのは非常に大切な役目であった。だから清正は、二条城の西方にある愛宕山に
大願を掛けたのだろう。そして、恙無く帰城に及んだ。故に心の中で、愛宕の方を拝したのであろう。」

後に清正の家臣であった中井氏の著述した爲人妙という書にも、愛宕の勝軍地蔵において、この時清正が当山の
大善院で護摩を執行し、秀頼の武運を祈ったと書かれている。

(慶元記)

455 :
 ?小日向の竜興寺は、高所で富嶽遠眺の勝地である。
寺に桜樹がある。神祖が御詠み短冊に書かれたのを収蔵しているという。
この地は初め桜野といって、桜樹が多くあった広い地である。
神祖が御遊覧のときの御詠を桜樹につけ置かれていて、
その辺に釈迦文院という真言の小院があって、御帰りのあとにその御詠を取り収めていた。
寺の開山玄門和尚が創建のときにここを見立てて暫く釈迦院に寓していて、
そこで御詠を請い受け、竜興営造のとき寺の鎮守として小祠をたてて御短冊を神体として祭ったという。
御詠は

終に往く道をば誰も知りながら 去年の桜に風を待ちつつ

〔竜興寺で聞いて記した〕

 このときの御成りに従った左右の中で、杉浦吉右衛門はこの御詠の御書き損じを拝領して伝襲している。この孫が、今杉浦備後守と称して御小姓である。竜興寺の檀家という。

〔近頃、日向国の拙堂和尚という者がこの寺に宿して賦した詩がある。
地の勝趣を知ることができるので、ここに記す、

下界人家天上雲、芙蓉八朶望中分、
尾侯第隔青松見、護国鐘蔵緑蔭聞、
万里清秋霽漂渺、一輪紅日暁氤?
結句は今忘れた。〕

(甲子夜話)

456 :
米子城の伝説

吉川広家と中村一忠の築城で米子城の本丸が飯山から湊山へと移り変わった頃の事。
米子城に夜な夜な化け物が出ると噂が立った。
ある時村河与一衛門と言う勇気有る侍が化け物の正体を暴いてやろうと、夜の城を見回っていると、
本丸付近の鉄(くろがね)御門をくぐって石段を上に上がろうとしたその時、暗闇の中に突如灯りが立った。
よく見ると、白衣に緋袴を履いた女が灯りを持ち立っているのが見えた。与一衛門が
「怪しい奴、何者か!?」
と強く誰何すると女は
「私はこの城の主人である。我が城の見回り中じゃ」
と言って与一衛門を見向きもせず去ろうとした。
与一衛門は「この城の主人は殿様じゃ」
と刀を抜いて斬りかかり、女と暫し攻防が続いた。暫くして女は
「私の負けだ。私は飯山の主の大蛇でこの湊山に城が移って飯山は廃れてしまい、それを恨みに思って化けて出たのだ。
そなたは強い、今夜限りにもう姿を現わすのはやめにする。これはその証じゃ」
と言うと、与一衛門に二枚の皿を渡して大きな音と共に姿を消した。
明るくなって与一衛門が二枚の皿を確認すると、それは大きな蛇の鱗であったという。
村河家では代々その鱗を大事にした。

457 :
本日、ドアのすき間から二やついて届け先に相手を上から下まで見まくる佐川の低身長※ はいたついん

ストーカーはストーカー相手を観察しまくって ねつ造して嫌がらせで付きまとう

慇懃無礼な不要不快接客(お触り痴漢 ジロ身盗み見覗き)さんざんいやがらせしまくtって かわいそうなんですあぴーるをしつこくするキショイレジ

https://twiccer.com/bainz__metazon

http://www.wanpug.com/illust/illust1382.png  ずるがしこい?陰険粘着の人格障害が最後に勝つんだ うっししし

https://t19.pimg.jp/012/398/559/1/12398559.jpg えたえない  んだい ばく  *ん
各集団ストーカーの騒音でいらいらせよう
 嫌がらせ騒音工事会社 株 クラフト (:樺太といわせたい) 声騒音 のぞき 日光利用してストーカー相手の窓に影絵での要領でいやがらせ 二度も ドアバッタん騒音・・・・ 苦情に「・・ああそうだよw」と答える時事
 布団たたきババア(ぺんぺん草も生えないといいたい)
 365d24h公団の声騒音まだくる 昨日 歩道がほぼな移動をに演じ歩かせサワガせ※保育園の保母の意図的騒音

ネットの荷物の状況二日後の威光のはず ストーカー相手がネットに書き込んでいるうちに 到着予定を二日はやめてしまおう

http://askul.c.yimg.jp/ais/img/product/3L1/3437697_3L1.jpg 異臭

親切なていでキショイアピール 手を触れよう じろじろみよう きもい声を聞かせよう 時間をなるべく徒労

 集団ストーカーはあからさまに 不快を与えることで警察に捕まらないだろうで いやがらせしまくり

けーさつもこうがいと110はすとーか0だらけ どこでもきちがい いやしいきちがいうじゃうじゃ

こびこびのもぐらにんげんのなドドうでもイい   

すとーかーだけ「が」しね!!!

458 :
今川氏領地の事

 今川太郎〔刑部大輔の子、名を義順〕が来られたとき、彼の領地はどこかと尋ねてみた。
「王子村の近所です。」
「おお、それは近いですね。」
「この他にも近江に五百石の領地があります。」

『ではその地をなぜ所領しているのだろうか』と不審が晴れていなかったところ、
先年彼が古い書付を捜してくれて、その一通を見ることができた。

 その書付によると、義元が次男を若王寺という方へ遣わしていたが、
義元の家が衰微した後にかの若王寺の方から見かねてかの祖先の方に帰し与えた地が
近江の地の理由であるという。

 この事は彼の旧記で分かっていたので、
今では江州の采地から少しばかりの物をかの若王寺の末へ分け与え、
余りを今川氏に収めたという。
太郎の先祖は義元で、氏真の嫡流である。

(甲子夜話続編)

459 :
松永貞徳が見た幽斎、物の上手と名人


関白秀次の時代聚楽第で能があったとき《朝長》の懺法太鼓を
其の頃の"上手"である金春又右衛門という者が勤めた。

[金春又右衛門は織豊期の太鼓の名手で、細川幽斎とは兄弟弟子であった。]

日が暮れてから(又右衛門は)幽法公(細川幽斎)のところへ参り
「今日は(幽法公の)ご見物ゆえ胸が躍り手は震え、前後を忘れてしまう程でした。
どうだったでしょうか」
とおそれかしこまって申した。
幽法公は休まれていたが、対面すると今日の所作を褒められて一献下された。

宴もたけなわの頃に(幽法公は)
「くたびれているだろうが、一番太鼓を打ってくれないか」
と仰せられて、自分で小鼓をお打ちになられた。
大鼓は平野忠五郎、笛は小笛亦三郎、諷は勘七など
みな普段からの(幽法公の)御近習で《杜若》を囃した。
(又右衛門の)太鼓は能を聞きなれぬ者の耳にも変幻自在で
(聚楽第より)こちらで打った太鼓の方がひときわすぐれて聞こえた。

又右衛門は忠五郎に向かい両の手をついて
「もう一番。今生の思い出に(幽法公の)太鼓をお聞きしたい」
と申したので、(幽法公は)久しく打っておらず忘れてしまっているとしながらも
「夜更けに聞き手もいないだろうし、興に乗ってきたところなので」
と言ったので、《遊行柳》をクセから謡わせたが、太鼓に差し向かう様子や
御掛け声、御撥音なども並の者のしわざとは到底思われなかった。

屋敷中が神妙になり、皆息も継げない様子で(聞いていたので)
我らが易々と感嘆してしまったので不思議に思われたのだろうかと
又右衛門の顔をじっと見ていると、いつにない様子で
額を畳に擦り付けるようにして、声も漏らすことが出来ないようであった。
喉が塞がったような気持ちがして、(幽法公が)打ち終わりになられた。
(又右衛門は)ついていた手を膝に上げ、うつむいていた頭を振り仰いだので
その顔を見ると、両目から感涙が雨のようにこぼれていました。

物の上手と名人の変わり目はあるものだと、心に思い知ったものです。


――『戴恩記』

460 :
松永霜台(久秀)曰く、

「人が談合分別をする時、夜に致すと合わずして悪しき
ものである。大事の談合は昼に行うべし」

と、言ったということである。予(山鹿素行)が案ずるに、
談合の事柄にもよるであろう。

――『山鹿素行先生精神訓』

461 :
名古屋城普請の時、諸大名が福島(正則)のところに集まって
饗応があったのだが、

ことのほか暴雨暴風で、小屋の屋根は持ちこたえられないほど
であったのに、少しの別儀もなかった。

さて、相仕が退去の時に屋根を見なさると、諸侍がことごとく
かっぱを着て、屋根の上に伏していた。人で葺いたのである。

小屋の上であるのに上がる音もせず、咳払いの音もしなかった
ということである。

浅野紀伊守(幸長)はこれを見て、家来の供の者に「これを見よ」
と、申されたということである。

――『山鹿素行先生精神訓』

462 :
人間屋根って、男塾に有りそうなエピソードやな

463 :
 小田原陣の仲立ちとして、北条新九郎氏直から伊豆韮山の城主北条美濃守氏規へ自筆の書状を送った。
そこには『しかたがないが城を渡すべし』との事が書いてあった。
「しかしながらただ今まで、城に向かって矢玉を打ってきた人へはっきりとした理由無く
城を渡すのは本意ではない。家康公の家人を遣わされましたら渡しましょう。」
との趣旨を申された。
秀吉もその志が強く意地が爽やかなのを感じて、家康公から内藤三左衛門(信成)を遣わされて韮山の城を受取られた。
 とにかく士は終わる所に強い意地がありたいことである。
(武士としては)

464 :
淡路国をしてやったり

慶長15年2月、池田輝政は駿府で家康に謁し、淡路国六万六千石を加増された。
これは三男の忠雄殿(このとき9歳)が賜ったところである。
この時に浅野幸長も登城していたので、世上の風聞では
「今日、池田浅野両家のうちどちらかに淡路を賜うだろう」
と言われていたので、両家の伴人は皆耳をそばだてて待っていた。
輝政が玄関から出てこられ、お供の士の安藤牟三郎をお呼びになり
「お前はどこそこに行って『今日御前において淡路を我にお預けになった』
 と言ってくれ」
と仰せられたので安藤は承り走り出たので、呼び返しになられて
「お預かりと申せ、拝領とは申すな」
と命じられたが、其の頃の天下諸士は闊達であるのが流行っていたので
安藤が下馬の橋を走り出たのを、傍輩が立ちふさがって
「安藤いかにいかに」
と言葉をかけると、牟三郎は扇を開いて頭より上に高くあげ大音声で
「淡路国をしてやったり、してやったり」
と叫ぶと、池田の士が不覚にも一度にあっと声を出したので
下馬中の一同はどよめき声は静まらなかった。

――『池田家履歴略記』

465 :
同姓酒之丞が家例〔正月六日〕内称豆打之事

 予(松浦静山)と同姓の松浦酒之丞の家は同家伊勢守の分家であるが、
実の先祖は信辰といって、法印公(松浦鎮信)の御孫にして久信公の第三子である。

 今も酒之丞の家例には世でいう節分の夜には流俗のように鬼打豆を投擲し、
それからまた別の礼では、正月六日の夜に内称(内緒)豆といって家先から別に豆打ちをする。
されども世俗に憚り暗所で小投する。
人はその由縁を知らない。かの家もまたその由縁が伝わっていない。

 臣の某が考えるには、この事は久信公が朝鮮におわしたときの佳例を伝えたものであろうとのことだ。内称豆とは、もしかすると今では他を憚っての言い分であろうと。
曰く、平戸在住の者の中で中山氏や立石氏等は公の韓役に随った者の子孫である。
これらの家には、今も世で節分というのに拘らず年々正月六日の夜に節分と称して鬼打豆の事をする。
この始まりを聞くと
朝鮮在陣の年、年が暮れて春が来たが暦を知る者がいなかったので春冬の境を決めることができなかった。
上下は図って、しばらくその六日を節分とし各々が本国の佳儀を調えた。
よって酒之丞の家でも久信公在陣の佳例を用いた。
 わが臣の両氏のように、他の韓行きの子孫にはなおこのことがある。
佐賀公にも、正月六日には節分の儀式があるという。
これらもまたかの祖先勝茂の征韓在陣の故事によるのであろう。


(甲子夜話三篇)

466 :
???「ダレニモ ナイショダヨ」

467 :
同月28日(慶長20年6月)、秀頼所持の薬研藤四郎〈吉光〉の太刀
は“骨食”と号して、長さは1尺9寸5分である。
これを河内の農民が拾い得て、本阿弥又三郎に見せた。これにより、
本阿弥は即座にこれを大神君(徳川家康)に献上した。
御覧の後に、これを又三郎に返し下された。後日に秀忠公へ進上し、
御受納あって黄金5百両、白銀2千枚を本阿弥に賜った。
――『関難間記』

468 :
 成田下総守藤原顕泰入道は清岳成安と名乗った時代に武州成田郷に来て居住した。
その子の親泰入道宗蓮の代に武州忍の大極氏国という者を討ち取って忍に来て住んだ。
その子の太郎五郎長泰は後に中務大輔と号した。
旗下に酒巻・中条・別府・玉井・渡柳・箱田・小河原・上中条がおり、
須賀入道も成田の旗下であった。
 成田親泰は公方足利成氏に軍配団扇を献上することがあった。
その団扇は上州利根川の辺りに張良の社というところの宝殿に張良の唐団扇といわれるものがあり、
明応四年乙卯(1495年)に親泰はかの団扇を模したものであった。
成氏公も同六年(1497年)九月に遺物として京都将軍足利義澄公へ献上された。
 成田は上杉輝虎に初め属していた。
しかし鶴岡で「成田は頭が高い!!」と輝虎は咎められたが、
成田は「私の家は将軍にも下馬の礼が無くてもよい家である。
これは嘉例なのでその礼に任すところを、故実を聞かずにいかつい仕方である!!」
と輝虎の属を離れて北条と入魂になった。
 輝虎方の木戸源介は忍の近所の皿尾に籠った。そこを成田長泰と子の下総守氏長は父子で攻めた。
その時、氏長は臣の豊島美作に父の長泰を駆り出した。これは永禄九年(1566年)八月十五日のことで、父を押し込んで隠居させた。
氏長の弟に長繁という者がいた。
彼は太田道灌の婿となっていて、小田氏を継いでいた長泰の弟(つまり氏長・長繁の叔父)を継いで介三郎、後に伊賀守と号した。
武州山の根の城(私市という)に住んでいて、そこは忍からは二里余りあった。
 忍の城は成田氏長が天正十八年(1590年)に没して後、文禄元年に松平下野守忠吉が領した。
元禄十二卯年(1699年)まで九十八年の慶長七寅年(1602年)に尾州へ下野守は所替となった。
慶長五年以後に御番城となっていて、高木筑後守(広正)が与力同心勤が守備についていた。
元禄十二年まで六十年程の寛永十年(1633年)に松平伊豆守信綱が領して、
同十六年(1639年)に阿部豊後守(忠秋)が領した。この年は元禄十二年まで六十一年である。
 下野烏山は成田左衛門尉(泰親)が領していた。
元和九年(1623年)から松平(松下?)石見守(重綱)が領した。

『武士としては』

469 :
※まとめで話題になっていたので『武士としては』の説明
 『武士としては』は武士としての修身を記した未刊の随筆です。
題名は序文が「武士としては…」の書き出しによるものです。
序文の末に"如山堂定シュウ(輯・揖の旁+戈)子"と記していて、かつ冒頭に傍書で「妬ト旧名ヲ改ル」とも記してあるので、
"妬山堂定シュウ子"と号した人が作者と推測できます。
また、末文に"盛正"とも載せているので、その名から『盛正記』ともいわれているそうです。
作者は上記のように成田氏や忍にやたら詳しいので、その関係者と思われます。
末文には作者が著作時に六十六歳だという記述もあります。
 また同様に元禄十二年を基準としているため、その年に書かれたように見えます。
しかし、他の条に徳川綱吉を諡号の常憲院と呼んでいたり、
『備前老人物語』『武備目睫』『東照宮御遺訓』を転用していたりするので、
もっと遅くのものだとも指摘されています。
以上の説明と『武士としては』の本文は
http://www.yuzankaku.co.jp/products/detail.php?product_id=7314

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/946209
を参考にしました。

470 :
これ何の話なんだ?

471 :
了解

472 :
吉川広家の姫様が城の近くで遊んでいると、一匹の白蛇が姿を現した。
白蛇の澄んだ瞳に惹かれた姫様は白蛇を大層可愛がっていたが、父広家の岩国転封の為共に米子を去って行った。
この時、姫様が可愛がっていた白蛇も引っ越して行く吉川様の一行に見え隠れしながら岩国へついて行き、錦川のほとりに住みついた。
その子孫は今も岩国の地に生きており、現在では国の天然記念物となっている。
(米子の伝説)
ただし、岩国の白蛇の最も古い文献記録は岩邑年代記によると1738年のことであると言う。

473 :
ちなみに、岩国の伝説では、
吉川藩の米蔵の米を食べたネズミを食べた蛇が、米の白さで白くなったのが白蛇です。

474 :
>>473
補足ありがとうございます

475 :
池田輝政「もし槍先ならば」
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-226.html
↑の話の詳しい版
輝政卿の親しい同輩の大名福島正則など二、三人が集まって物語りをしていたとき
輝政へ出入りする盲人がその場にいたので、輝政に申し上げさせるようにわざと
「三左衛門(輝政)は今大国を領しているといっても、畢竟は大御所の婿だからだろう
 我らは槍先で取った国だが、陰茎の先で取ったのは格別だ」
と言ったので、盲人が果たしてこのように告げると、輝政は笑われて
「『輝政が領する国は陰茎にて取ったが、もし槍先ならば天下を取ってしまうので
 槍を用いなかったのだ』と各々にこう申せ」
と仰せられたので、同輩の衆はその滑稽を笑われたのだという。
実際は岐阜城攻めのときに、(輝政は)正則と先を争い共に大功を立てたが
輝政は五十万石を賜ったのに対し、正則には四十九万石だったため
正則がかねがね不満に思っていたのを、輝政は知っておられ
当たらず触らず戯れ言を以って返事なされたのだとか。

――『藩鑑』

476 :
酒井六郎左衛門は松平下総守(忠明か)に仕えて、2百石を領知した。
彼は前の主君に仕えていた大坂陣の時に功が多かった。故にその事を
申し出す人がいたが、六郎左衛門は、
「今の主君のもとで何の功もないのに、前の主君のもとでの働きを取り
出して自慢するのはおかしき事ぞ、と存ずる」
と、言ったという。
――『武功雑記』

477 :
うーむ男らしい人だ

478 :
 阿部伊代守(正次?でも彼は備中守)の家中の下宮理右衛門という者が、
大坂陣の時に敵を組み伏せ、ついに首を取ろうという時に理右衛門の朋輩が来て
敵の足を刀で一度切りつけてから、
「理右衛門、相打ちだぞ」
と念のために言った。
理右衛門は
「心得た、この敵はお前に取らせよう」
と言って、そのまま敵中にかけ入ってかせぎ敵一人を突っ伏して首を取ったという。
智有り勇有り義が備わる理右衛門かな、と多くの人は感じたそうだ。

 高麗陣の時、小西摂津守(行長)がとりわけ乱取を制したのいうのももっともな事である。
乱取は討ち捨てだと定めた事もある。郡中の乱取りは互いに功名を争い、無益な働きも出てくるものだ。人が功を争おうとするのは悪いことだ。


『武士としては』

479 :
一、往来はなおさらのこと、在宿であっても、咎人が行き過ぎる時に
目を見合わせてはならない。
罪人は死刑に迷って正気転変するので、「あれこそ、知り合いの人だ!
罪科の次第を知っている!」などと、妄語することがある。
その時は、役人も捨て置かずに糾明する。もちろん言い逃れたとしても、
見聞人の口は塞ぎ難い。
主人のいる者は、これによって疑いを蒙るのである。これは妻子や下人
にも、よく言い含めておくべきことである。
およそ災難に遭うのを“時節到来”とは、はなはだ僻事である。予め慎む
心得のある人は、不慮の災難を受けることはない。
――『山本道鬼入道百目録聞書』

480 :
>>479
>、役人も捨て置かずに糾明する。
いい迷惑だけど偉いなw

481 :
慶長19年正月朔日、江戸にて両御所(家康・秀忠)が越年なさった。
朔日、例年の如く将軍(秀忠)に皆々が礼を遂げた。なかれを皆々が
頂戴したうえに、御服一重があまねく宛てられて拝領した。
これは近年に大御所家康公の時からこのようにしていた。今の大御所
(秀忠)にはこの慣例はない。今日、大御所に将軍が勤行なさった。
2日、在江戸の上方の大名・小名が将軍に出仕した。昨日のように、
なかれと御服を拝領した。元日に将軍に出仕した衆は2日に大御所へ
出仕し、2日に将軍へ出仕した衆は3日に大御所へ出仕した。
2日夜、毎年の如く将軍が謡初をなされた。
――『当代記』

482 :
先に秀忠へ出仕さゼると言うのは、家康が一歩引いて秀忠を立ててる感じなのだろうか

483 :
 権現様はとにかく心が届いていて念の入った生まれ付きを御賞美されたとか。
安藤帯刀は生れ付き無口、成瀬隼人は生れ付き軽口、
大工の大和は生れ付き大酒飲みでわがままであったが、
心底から確実に届き、どの物事にも念を入れる者どもであったので、
権現様と互いに話の合う間柄であったという。

『武士としては』

484 :
豊臣秀吉公は天正10年、明智日向守光秀を討ち取った後、天下を順次掌握した。
天正18年、秀吉公は諸国において私の争論そしてはならぬと、固く禁制としたことを触れられた。
そのため伊達と相馬の間の調略は、互いに停止した。

同年、秀吉公は相州小田原に発向され、北条の門族を征伐されるということが、この国までも確かに
聞こえ来た。そのため「将軍(秀吉)の御支配に預かるなら本望である。ともかく小田原に参陣然るべし」
と、相馬義胤は相州へ参上し、浅野弾正少弼長政を頼りこれを言上した。

秀吉公は相馬に対し、少々悪印象を持っていた。しかし石田治部少輔三成が殊更に懇意があり、
浅野長政以上に頼りと成り、これによって相馬の言い分は疎意なく巨細に上聞に達し、故に秀吉公は

「相馬は小身ではあるが武勇の士将にて、大身の敵に向かって度々の戦功有りと聞いた。」

と仰せになり、義胤の謁見を許した。

その後、義胤は妻子とともに上洛し、北野の千本に屋敷を給わりそこに居住した。
この年、後の相馬大膳亮利胤は11歳であった。
またやがて佐竹修理太夫義隆の御母堂となる桂雲院殿は、天正19年にこの千本の屋敷にて
誕生されたのである。

(奧相茶話記)

相馬義胤の秀吉への臣従について。石田三成に世話になったことをこれだけハッキリ書いているのも珍しい。

485 :
なるほど
おかげで、世界史上でも有数の長期に渡って領土を治めた名家が存続できたのか

486 :
そりゃ利胤も初名は三成から偏諱を貰って三胤ですからな。

487 :
浅野を頼るか石田を頼るかで命運が別れる東北の大名たちw

488 :
知恩院の霊厳和尚和歌、公卿色を正ふする事
昔知恩院にいた霊厳大和尚は高徳の聞こえがあって、人は皆崇尊していた。
ある日禁中で公卿が寄せ合いながら和尚へ和歌を乞おうと、
短冊を二つとり出して歌を求めた。
和尚は辞する様子もなく、にわかに筆を染めて、
南無阿弥陀南無阿弥陀仏南無阿弥陀
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏
名号の六字の外をしらぬ身は
南無阿弥陀仏を歌によむなり
公卿は皆色を正しくしたという。
『浄土伝燈譜』には
「霊厳、檀蓮社雄誉は、松風と号す。
総州天羽郡佐貫の人〔一説に駿州府中の人、姓は今川氏〕である。
慶長十年に生実大厳寺に住む。一旦武命に逆らうことが有って、
房州に流罪となりそこに住んだ。
道風(修行でえた、人を導く教化のはたらき)が四方に靡いて
徳光は大いに輝いた。
武府は遥かにこれを聞いて、即召して東照神君に謁した。
敬信が他と異なり、遂に道本山霊厳寺を開いた。
後に公命により知恩院に住んだ〔第三十二世〕。
寛永十八年九月に寂した。」
(甲子夜話続編)

489 :
 最上の侍の野口(もしくは野上)七郎右衛門という人は、
首供養までしたほど働き軍功を稼いだ侍であったが、一生具足を着なかった。
いつでも羽織ばかり着て功名を得た。
 とかく命は天に在り。死のうと思っても、時節が来なかったら生き延び、
どれだけ用心して逃げ隠れても、命の極ならば逃れる事はない。

『武士としては』
本多忠勝みたいな人だ…

490 :
石川日向守家政殿(家成)は、神君(徳川家康)の三方ヶ原御戦の折は、
掛川城にいたのだが、敗軍を聞いて、兵を率いてやって来た。
神君はこれを御喜びになった。そして家政は曰く、
「戦に先達て、私は夢を見ました。その夢で一人の老翁が一句の和歌を
詠じました。その詞に、“嶺の松雪に圧さるる”という意がありました。
翁は続けて、その意味を解しました。
『雪は信玄である。松は家康である。一旦、松を圧するとしても他日には
必ず雪は消えることだろう』と、言いました。
夢が覚めてその事を語ると、衆人は皆、不思議に思いました。しかし今、
我が軍が敗れて衆人はこれを信じました。その上、老翁の告げによって、
他日に主君は、必ず利を得なさることでしょう」
と言い、頼もしく思いなさった。
――『責而者草(君臣言行録)』

491 :
督姫、池田家への入輿/伊庭惣兵衛の弓術

神君(家康)の次女督姫君(諱は風子)は、母は参州西郡の鵜殿善介長忠の娘で
神君の侍女であった。
督姫君ははじめ北条相模守氏直に嫁がれたが、小田原没落の後
太閤のお仲立ちによって国清公(池田輝政)に再嫁された。
文禄3年8月15日(一説には9月とも)、参州吉田の城で婚儀をあげられた。
このとき諸士はお迎えとして今切(浜名湖今切の渡し)に出ていたが
伊庭惣兵衛という者がただひとり弓を持っていた。
御輿副の人が使いをよこして
「人が多い所にひとり弓を持っているということは、聞いていた伊庭殿だろうか」
と問うと
「どうして尋ねられたのですか、私が伊庭です」
と答えたので、(御輿副の人が)また使いをやり
「それならば、この洲崎にハジロがひとつがい浮かんでいるので
 どうか一矢遊んでくれないだろうか、見物しましょう」
とされたので伊庭は心中で
(難儀なご所望だなぁ、両家の諸士の前で気兼ねするのに……)
と思いながらもしょうがないと矢をつがえて進み寄った。
間は30丈ほどだったが、彼の鳥はしだいに沖に出て遠ざかっていった。
伊庭は弓を十分に引き絞って余りにも長く保っていたので
どうしたのだろうと思って見ていたところに、忘れていたかのような矢が放たれ
ハジロの雄の胴を貫き雌の尻を射切ったので、両家の一同の声が洲崎に響いた。
所望した人がその鳥と矢を欲しいと言ったので持ち帰った。
伊庭の友が
「どうしてずっと放たなかったのか」
と問うと、伊庭は
「今日はご祝儀なので、いっそのこと"つがい"を射ようと思って
 鳥が並ぶのを待っていたが雌鳥を捕えられず残念だ」
と語ったという。
(督姫君は)御子がたくさんいらっしゃり、左衛門尉忠継殿
宮内少輔忠雄殿、石見守輝澄殿、右京太夫政綱殿、右近大夫輝興殿
伊達忠宗殿の御内室(振姫)、京極丹後守高広殿の御内室(茶々姫)など
みなお生みになられた。

――『池田家履歴略記』

492 :
そして継子に毒まんじゅうを食わせて実子に池田家を相続させようとしたら
実子が継子をかばって毒まんじゅうを食らって死亡し、発狂したという噂話ができると
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3869.html
「風子」なんて「狂人」の意味を持つ名前なんてつけるからそんなことに

493 :
婚儀なのに番射るって縁起悪くないのかよw

494 :
森忠政の水理

森忠政は美濃国可児郡金山城に生まれ、慶長5年に信濃国川中島城に移ったが
どちらの場所も川に近いところだったので、水理には細心の注意を払っていた。
美作に初めて入ったとき、津山川(現:吉井川)の水の勢いを見て
日照りの年でも涸れないだろうと喜ぶと共に、排水にも大いに配慮した。
津山への築城に決まってからは、市街に三十六の町を置く計画で区画を定め
市街の南方、津山川の沿岸には悉く石垣を設けて十箇所余りに水刎を築いた。
ttp://www.civil.pref.okayama.jp/img/hyakusen/spot/059-03.jpg
(画像手前の構造物が今も現役の吉井川の水刎)
洪水に備え津山川の川幅は、水上の村落や山野の広狭を考えて
上流一里に対し、幅員を六間以上八間までに定めた。
津山川の水源、西々條郡上齋原村までは七里十一町の行程だったが
伯耆国の境までの川路が屈曲しているので十里余りあるものとみなし
津山町においては、岸に達する川幅が最も狭い八出村覗山下までの
距離を八十二間とした。
(津山)市中を南北に横断する宮川の源流の上横野村までは
二里九町余りだったが、川路屈曲から三里余りとし宮川大橋を二十六間とした。
翁川は水源まで一里以内だったが、市の西北部を取り囲むように流れているので
翁橋を八間一尺に定めた。
森氏入封後この排水の施策が行われない内は、慶長12年と17年の二度の洪水で
市中が浸水し、いくらか人家も流出したことは先代実録にも記載があるが
その後市内の備えが全て出来た後は、天明5年までの170年あまりにわたり
しばしば洪水があって、この施策のない沿岸で堤防が決壊したり浸水しても
津山市中では水災がなかったのは忠政の余沢である。

――『美作中古紀事』

495 :
豊臣秀吉公の時代、台所の衆は朝の日の出に参った。台所の詰め所の前に鐘があり、
この鐘を突いて、料理人や遣いの荒子などを集め、その人数を帳に付けた。
その後七つ半(午後4時頃)で業務を終え、朝の鐘の場所に再び集まり、それぞれが人数帳に
記載されていることを確認すると、台所の扉を外から閉じ、鎖の掛かった鍵を下ろして宿へと帰った。
この中に男は一人もなかった。
(慶長年中卜斎記)
秀吉の時代の城内の台所の様子、である。

496 :
上杉謙信自画併辞世詩
ある人が語った。
先年越後総持寺の僧が、謙信自筆自像という一幅を持ち出していた。
これは上杉侯〔米沢〕の請願があったためだという。
この像は謙信が没しようとする二三日前に自ら図を描き、人に示しゆだねて
「これは我が遺像である。これで我が身を後に見るようにせよ」
と言ったそうだ。
 幅上に黒雲がある。中には金色の五鈷竪(五鈷杵?)が四方に黄耀霊光を放っていた。
雲下に一つの大朱杯があって酒が満ちている。
また辞世の語としたものが添えていた。
『四十余年一夢裡 一用事業一杯酒』
この句は謙信卒去の後に病床の下から出た物だという。
謙信は不犯の人で嗣子がなく、一生の間素食していたという。
しかしこの語を見れば一人の酒徒ではあったのだろう。
 白石の『藩翰譜』には、
この年二月の半ばから何となく体の具合が悪くなり、
同じく三月十三日、年四十九歳にして卒したという。
 註の『夏目か記』に葬送のことを執り行おうと枕の下を見れば、
辞世の詞とみえる
『我一期栄一杯酒、四十九年一酔間、生不知死亦不死、歳月只是如夢中』
ということを自ら書いて押し入れて置かれていたという。
(甲子夜話)
この絵、見たいですね

497 :
獅子踊祭
最上義光の御世、7月の盆辺りになると方々から300人もの獅子踊りの集団が集まってきて、山形城下の三寺を打ち揃えるでもなく太鼓を叩いて練り歩いたという
今は廃れてどの様な祭事であったかは定かではない
「新庄古老覚書」

498 :
ちょっちゅねが上手い事言って駿馬2頭GETする
http://i.imgur.com/SXF4eyC.jpg
http://i.imgur.com/3dDl9OC.jpg

499 :
沖縄の土人が豚げっとしたんか?よかったな

500 :
英語:Lord Kiyomasa
日本語、中国語:清正公
ハングルの翻字:キヨマサ
ハングルだけ呼び捨てなんだな

501 :
朝鮮攻の節、香蘇散の験
 朝鮮攻のとき、渡海のうえ軍人達はかの国の水土に慣れていないためか多くが病を得た。
従軍の医師は正気散を用いたものの治らなかった。
時に清正の医が香蘇散を用いると、その陣は皆験を得た。
よって他の陣もこれを聞いて、その法を用いて治癒できた。
 その清正の医にその理由を問うと、
「軍中では病は鬱気から生じる。なのでこの方法を用いた」
人は皆その意見に服したという。
(甲子夜話続編)

502 :
えっと、香蘇散の効能はというと
・体力があまりなく、胃腸が弱い人の風邪の初期
・胃腸虚弱で神経質な人への風邪の初期
                   なんやらよくわからん.....。

503 :
 徳川三代将軍家光が、臣下の者たちと雑談した折、「最高の快事といえるのは、どんなことだろうか」と尋ねた。
 それぞれ思うところをさまざまに申し上げる中、一人が、
「道の途中で大便をもよおして難儀し、やっと雪隠を見つけて便を出したときには、ほんとうにいい気持ちでした。あれほどの快事はありません」と話した。
 なんと無礼なことを言う奴だとお咎めがあって、篭居を命じられた。
 その後、将軍は御狩りのとき、田んぼの真ん中で便意をもよおした。
 しかるべき雪隠を探させたが、そこらにはなくて、ようやく寺を見つけて入って用を足した。
 雪隠から出ると、かつて篭居させた臣下を呼び出し、
「そのほうの申したことを思い出した。あのときは、よくぞ率直に語ってくれた」
と、お褒めの言葉があった。
松崎堯臣『窓のすさみ』追加・巻之上
某サイトからの転載だけどまとめになかったので

504 :
>>503
誉めるだけで、蟄居の解除は無し?

505 :
将軍との情事のときに便意とはな
切腹ものだろ

506 :
尾籠なの?

507 :
 日光一文字刀之拵注文
一、はゝき(鎺)上下 印字   むく(無垢)上はゝき(鎺)柏のすか(透)し
一、せつは(切羽) 印字   こきさ(小刻)ミ
一、しととめ(下留) 印字
一、ふち(縁) 赤銅二めんふち(面縁)
一、さや(鞘) ちい(小)さめ
一、目貫 かうかい(笄)  小刀のつか(柄)・つは(鍔) 此方より遣ス
一、くりかた(栗形)かへ(返)り  つか(柄)頭 角
一、こしり(鐺)  しんちう(真鍮)  くさら(腐)かし
        以上
 右ハへし(圧)切之刀ニ少もちか(違)ひ不申様ニ可被仕候、以上、
   閏八月八日(元和九年)      忠之(黒印)
                      埋忠明寿(重吉)老
(黒田家文書)
黒田忠之が父である長政の死後(元和九年八月四日(1623年8月29日))すぐ、日光一文字の拵えを圧切長谷部と
瓜二つに作って欲しいと埋忠明寿に依頼した話。
(なぜ、そろいの拵えにしようとしたのかは不明)
・日光一文字は忠之誕生時に、如水から忠之に贈られている。
・圧切長谷部は長政の遺言で四男高政へ贈られている。
・日光一文字の拵えは19世紀頃には行方不明となり、圧切長谷部の現在の拵えは江戸末期の物
(安宅切とお揃いで、安宅切の拵えの方が先に出来ている。このため福岡市博物館のTwitterに「へし切長谷部と
ペアルック」と安宅切展示公開時に書かれる)
黒田家の刀の拵えはお揃いにしないといけないのだろうか・・・
国宝圧切長谷部一月五日から二月五日まで福岡市博物館で展示中なので
書いてみた。連日沢山の人がきているそうな。

508 :
小笠原越中に罪あって、大久保七郎右衛門(忠世)に御預けになった時、
また女子に罪あって同所に御預けの者がおり、女子と越中は密通した。
この件が権現様(徳川家康)の御耳に達したところ、御意に、
「一段の事である。そのまま夫婦にせよ。越中もすぐに呼び出して、召し
使うとしよう」と、仰せられたという。
――『武功雑記』

○ 安藤帯刀物語
御意に違えた女を家康公は大久保七郎右衛門に御預けになられ、二俣
の城へ遣し置いた。
その後、小笠原権之丞<後に越中と云ひしなり>が御意に違えたのをも、
七郎右衛門に御預けなさったところ、この者は二俣で以前の女と一所に
なり、夫婦となった。
「とりわけて御咎めなさるべきです」と、申しあげたところ、家康公は御機嫌
にて、「そういうこともあろう。権之丞も召し帰すとしよう」とのことで、
すぐに召し帰しなさり、御使いなさったということだ。寛仁大度なり。
――『山鹿素行先生精神訓』

追放された権之丞の父親の話か。

509 :
御意に違えた
つまり身籠ってしまったのがいけなかったんだな

510 :
女のほうは朝日姫の侍女だな、孕んでたんで越中にお下げになったのだろう

511 :
高家今川氏先祖祝ひ之事付表高家品川氏之事
 十月二十四日は高家今川氏の先祖祝いとして、今川の親戚が寄り合う祝儀がある。
予も招かれて会いに行った。
(注:当時の今川家の当主義用の嫡男・義順の正室は甲子夜話の作者の松浦静山の娘の機)
 その祝儀でとある話をした。
松浦静山「その先祖とは義元君ですか?」、
今川関係者「いやそうではありません。中頃の祖の某〔その名は忘れた〕です。」
 以下にその中興の祖の話として聞いたことを記す。
その祖は刑部大輔と称していたとか。
日光山の神号が初めは東照社と宣下あったので、
すぐに御使を奉じて上京し、朝廷と争議して遂に宮号を申し下したことがあった。
これに付き添いの林春斎〔林氏二代〕と一緒に遣わされていったという。
典故を引いた廷議は彼にとってはなはだ難しいことであったとか。
その勲賞として三河数ヶ所の地を賜り、春斎も禄が加えられたという。
これからこの人を今も中興の祖として祝うこととなった。
いずれにしても、今川衰微の時に労が有った祖先なので、
このように親族を招くのも理である。
 また今の表高家の中に品川氏がある。
〔この家は、元禄の頃は歴々たる高家であり、豊前守四位侍従であった。〕
かの日にも予は彼らと面会した。
この家は元々今川氏次男の家であった。
今川の祖は上の逸話のように寵遇があり、芝品川御殿山の地一円はかの屋敷であった。
その頃に品川氏の先祖がかの屋敷で出生したので上意で品川と称したのだとか。
ならば本氏は全くもって今川である。
よって家紋は、円の内に今川の家紋五七の花桐をつく。これも上意によるとか。
品川氏は先日も、この紋の小袖に肩衣は今川氏の紋である円に二引両をつけていた。

(甲子夜話続編)
これ、氏真の話ですよね。
中興の祖として子孫から敬われていたのですね。
しかし、ものすごく博学なのに氏真の名をしらない静山さん…

512 :
と、思ったら>>458でちゃんと名前を知っているね。ごめんなさい。

513 :
武将としては下の下だからな。偉大な義元の名を出すのが礼儀。

514 :
この一両年中(慶長19年)、諸大名は江戸の屋敷という屋敷の
家屋に美を尽くした。
門は、上総主(松平忠輝)が江戸一番であった。家は、加賀国の
松平筑前守(前田利常)が一番であった。
――『当代記』

515 :
忠輝は見栄っ張りだったか

516 :
堀久太郎秀政、後に左衛門督という。武士から下僕に至るまでこれを扱うとき、下の者達に
情を尽くすことを第一に心がけていたため、配下に彼を恨むものは居なかった。
ある時、奉行の従者と、荷物持ちの者達が言い争っているのを聞いた。荷物持ちの者達が
このような荷は重すぎて持てないと抗議をしていたのだ。
秀政はその荷物を自分で持ち上げると、そのままあたりを往来してきた。そして
「私はあの荷物持ちの者達より力がある。なのに一里ばかりこれを背負って疲れ果てた。
彼らがこれを持つこと出来ないというのは当然である。」
そう結論した。
またある時の合戦の折、秀政自らの武者押しに旗指が遅れた事を周りは咎めたが、秀政は自らこの旗を負って
馬を駆けてみた。
「これは武者押しの時の私の乗馬が、肝が強い物だったために旗指が遅れたのであろう。」
そう考え、肝の弱い馬に乗ったところ、以後旗指が遅れることはなくなった。
彼は世に名人久太郎と呼ばれるが、このように配下の者達を使うに心を用いた故に、そう人は言ったのである。
小田原陣中に卒した。享年三十八であったとか。
(芳譚)

517 :
謎の手紙
伊達政宗は、権力者に取り入るのが上手である
それは天下人だけではなく、天下人の取り巻きにも媚びを売るのが上手だからだ
ということで、政宗は、家康の取り巻きである水野勝成にも、いろいろと媚びを売っていたらしい。政宗から勝成へのお手紙が三通残っているとのこと。
・冬の陣の陣立てのときに、政宗が勝成に「そっちはいまどこですか、うちは枚方に明日つくかなってかんじです」という書状とか。
・平和な江戸時代にも、政宗は勝成に「鷹狩りいかない? だれか一緒つれてきてもいいし」というメールを送っている。
まぁ、これはいいのだが、不思議すぎるメールが一通ある
政宗文書番号1598
 慶長19年12月21日付
 ちなみに大坂冬の陣の和睦が、慶長19年12月20日。つまり、翌日、政宗から勝成に出されたお手紙。
かの牢人にお手紙を書いてくれてありがとう。なお重ねて様子を教えて。
いま岡山にいく途中なんだ。
意訳するとこんな感じらしい
かの牢人ってだれ?
勝成は大坂城内の牢人と連絡する手段を持っていたってこと?
空想が広がるお手紙である

518 :
又兵衛じゃないの?

519 :
宮本武蔵じゃね?

520 :
岡山つながりで明石とか

521 :
池田輝政"せいひく舞"を舞う
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7820.html
↑の話の微妙に違うバージョン
輝政卿と同輩の大名が宴会の座にいるとき
輝政が矮人であることを笑うものがいたので、(輝政は)
「それならば自分は矮舞という新曲をやろうではないか」
と急に立ち上がって、自らせいひく舞を見さいなと打ち返し囃して
「播磨備前淡路の三カ国の主なので"せいひくし"とは思わない」
とうたいながら舞ったので、座中が興に入ったと言い伝わっている。

――『思ひ出草』

522 :
>>517
今回の、第11話『この想い届け☆八丈島にっ!』はお楽しみ頂けましたでしょうか?
次週最終話『ひどくない?江戸幕府って修羅の道なんだよ?』もお楽しみに!!

523 :
>>522
まーくんは八丈島のあの人にも手紙書いてたのかw

524 :
今大路道三養生訣ならびに狂歌
林氏(述斎)の話であえう。
猷廟(家光)の御時、名人と呼ばれた今大路道三に養生の訳を御尋ねになられた。
道三は即座に一首の狂歌を吟じた。
養生は無欲正直火湯(ヒユ)だらり 心のままに御屁めされよ
なるほど、飲食や男女の欲をはじめ、人身を損なうものは皆自分の欲から起こることが多い。
意を正直にすれば心労することはまったくない。
譎詐謀計は様々のことから自ずから思慮を悩ますものだ。
火は火に当ること、湯は入浴のことで、
強い火に当ってはならない、熱い湯に入浴してはならないということだそうだ。
だらりはその時の俗言であろう。
人々はよくこの歌を守ったら、養生の術は足りるはずである。
(甲子夜話続編)

525 :
蔵人殿(前田利久)の御知行は右の如く、信長公の御意で利家様へ下され、荒子を
御受け取りになった故、御兄弟ではあるが、すぐに御敵対のように御仲は悪くなった。
それにつき、柴田修理殿(勝家)、佐久間右衛門殿(信盛)、森三左衛門殿(可成)、
佐々内蔵助殿(成政)、利家様などが御参会し、色々の御話しのなかで、
「又左殿は御手柄度々のこと故、前田の惣領を御継ぎになったのはもっとものことと
存ずる」とのことで、御続けに御舎兄の蔵人殿のことを、皆々謗り口に御話しした。
その時、利家様は、「まことにかたじけない」と、御挨拶した。そのうえに、「蔵人殿は
武道もぬるい」とのように、とりどりに言葉の端から出ていたので、
利家様は押し跪きなされ、「蔵人は聞こえぬ分別を仕る故、跡目は私に下されました。
かたじけなく拝領仕り、前田の惣領は私が持ち申しております。ただし、蔵人の武道
のことは、私めの前で御申しになることは御免頂きたい」と、けわしく御申しになり、
皆々は、「もっともである」と御申しになって、物申す人はいなかった。これも柴田殿や
森殿だけであれば、御知音なので苦しからぬことであったが、右衛門殿や内蔵助殿、
その他2,3人が御越しであったので、
右の通り仰せになったと、利家様は御物語りになられた。この事はまたひとしお、
「又左衛門は、まったく只者にあらず」と言い習わされ、信長公の御耳にも入り、
信長公は御感心であったとのことである。
その後に、柴田殿と三左衛門殿も利家様へ御謝罪になり、また、大納言様(利家)も
御両人に御謝罪し、ますます御間柄は良くなりなさったと利家様は御物語りなさった。
――『亜相公御夜話』

526 :
天正10(1582)年、伊豆方面で武田氏に対していた北条方では、戸倉城主・笠原政堯の寝返りや
笠原平左衛門(照重)の討ち死にもあって士気の低下が著しく
小田原での評定により、最前線である大平城の守備を玉縄城主・北条氏勝と交替させる事になった。

氏勝の軍勢が箱根を越えた頃、大平城から使者が来て
「おのおの方が城番としてやってくる事を敵が聞きつけ、三島の辺りに伏兵を潜ませたとの風聞があります
ここは軍勢を迂回させて城に入るのがよろしいでしょう。このまま進んでもし不意の合戦になっては交替もできなくなってしまいます」
と伝えた。
それを聞いた氏勝は
「もっともではあるが、敵をも見ずに迂回して城に入るようでは、戦う前からすでに相手は弱いと敵に知らせるようなものだ。
たとえ武田方が軍勢を配して待ち伏せしていたとしても、蹴散らして通るまでだ」
と答えて、”八幡大菩薩”と書いた大旗を差しかざしてまっすぐ大平城に向かい、やすやすと城兵の交替を済ませてしまった。
(小田原北条記)より

実際に伏兵がいたのかはさておき、兵書に言うところの
「正々の旗は邀(むか)うることなく、堂々の陣を撃つことなし」という感じの話

527 :
脇坂氏之先、裏切叛逆に非ざる事
 予は若年の頃は脇坂氏〔竜野侯〕の先祖が関ヶ原で裏切ったことは反逆ではないかと思っていた。
しかし中年の時にかの侯の画工外内(トノウチ)某と懇意になったおりに、
彼の口から
「侯の家には、関ヶ原の陣のときに予め神祖から裏切りを仰せられた御自筆の御書がありまして、
かの家では至重の物として、年々虫干しには出して主人から諸役人までもそれお拝見しておられます。」
との話がでた。
若年の頃に心得たことは違っていたのだとと、老後になって思い出した。
そこで諸書を引いてなお証拠とする。
 『藩翰譜』によると、
「安元〔淡路守〕の父〔中務少輔安治〕が代わりに軍勢を引率し奥州へ向かった。
上方に軍がまた起こり道路を塞いでいたので近江路から引き返し、
東国〔神祖の御坐所の小山〕に使いを送らせ、山岡道阿弥入道に取り次いでもらった。
父子共に西におり、そこで裏切りましょうと申したので、
神祖は御消息を与えてその志を感じられた。
関ヶ原の合戦の時父子共に敵を破って御陣に参り、また佐和山の城を攻め落とした。」
 『武家事紀〔山鹿素行著〕』によると
「安治は、朝鮮征伐のときも船手運送の自由を司り、後には加羅嶋の番船を乗っ取り、
秀吉から感書を貰った。
関ヶ原役に逆徒に与したが、後に藤堂高虎に取り次いでもらって裏切りのことを告げた。
これから本領を安堵した。」
この書の『戦略』の項には
「藤堂高虎は脇坂や朽木等の裏切る気持ちがあるとかねて知っていたので、北国勢の方へ出向かった。〔中略〕
秀秋は〔これも裏切りである〕が大軍なのでこれを相手にはせず、
北国勢の軍と入れ替えながら戦い、京極高政以下の彼らと手向かっている味方を妨げていたところに、
脇坂小川赤座朽木が一同に裏切ったので北国勢は立足もできず敗北した。」
 『国史〔渋井孝徳著〕』には
「安治は会津の役では子の安元に軍を従わせたが、三成の謀反に出会い道が通れなかった。
大津侯に従って敦賀に行った。山岡景仲、藤堂高虎に書を遣わし、全く背叛するつもりはないと言った。
大谷吉継は秀秋が変を起こさないか疑い、
安治、朽木元綱、小川祐忠を松尾の東に移して秀秋に備えた。
しかし安治等の謀は知らなかったので秀秋は吉継に打って出た。
二戦二敗し安治等のためにすきをつかれ吉継は死んだ。
その勢いのまま大勢の軍を攻めた。それはまるで河口を絶つ板のようであった。
十年後に大洲に封を移した。明年、家を江戸に移した。」
これらの文によれば、今の鴻臚中書(寺社奉行・中務大輔/脇坂安董のこと)の
国家に媚びる体の寺政も、祖先の志を継ぐものであろう。
(甲子夜話三篇)

528 :
水野勝成宛消息
http://gallery-so.co.jp/artistwork/%E3%80%8C%E6%B0%B4%E9%87%8E%E5%8B%9D%E6%88%90%E5%AE%9B%E6%B6%88%E6%81%AF%E3%80%8D
伊達政宗から勝成への手紙といえば、こんなのもあるらしいが
俺には読めない
だれか偉い人翻訳してくださいな

529 :
仙石氏の家紋
 仙石氏の家紋に桜の落花を九曜の如くつけたものがある。
 仙石氏の祖先に猷廟(徳川家光)が御幼稚のときに勤めていた者がいた。
ある日、猷廟が花筏の紋の御襖障子を御戯れに引き破られなさり、
直接その紋をその祖先の者が賜ったことから、この家紋が始まったという。
(甲子夜話)
あれ、センゴクの家紋って「無」と「永楽通宝」しか知らないぞ…

530 :
>>529
新訂寛政重修諸家譜によると「丸に無の字」「永楽銭」「五三桐」「九曜桜」があるそうな。

531 :
センゴク権兵衛よりあとだし問題ない

532 :
石田治部少輔が七将襲撃事件の結果、佐和山に引退した後、徳川家康は
伏見城より柴田左近を三成への使いとして出した。
柴田左近が佐和山に到着すると、三成は柴田と格の合う家臣の屋敷に彼を
案内させた。柴田が休息を取り行水も済ませた頃、三成が自身でこの屋敷に参り
「大儀であった。」
と、持参した弁当で彼をもてなした。これは佐和山城より持ってきたものだという。
後刻、城に上がり家康よりの遣いの内容を伝えた。その後
「風呂を焚かせたので入浴するように」との使いが来た。三成は客人を迎える
亭主として、欠けるところ無い振る舞いであった。
翌日、柴田左近は日の出の頃、佐和山を出立しようとしたが、そこに何と、三成自身が
見送りに来た。居室でしばらく雑談をし、出立するときは表に出て、門まで彼を見送った。
この別れのとき、三成は「これは葛籠ですが、馬に付けてお帰りなされ」と、
渋紙で包細引きで念入りに結ばれた物を柴田に渡した。
宿に着いた後それを開けてみると、そこには念の入った造りの小袖が5つ、良き拵えの
脇差しが一腰あり、それには『百貫』との折紙が付いていた。
この頃、百貫の脇差しなどというものは希少で、また小袖5つの土産なども聞いたこともない
時代であった。
この時代の百貫というのは、現代の千貫よりも価値が高かった。
また本阿弥の折紙が添えられているのも、殊の外稀なことだったのである。
現代のように上使というような事も、奉書などというものも無かった。
慶長4,5年の頃を覚えている者は、『ここに言われている通りだ』と答えるだろう。
現代ではこういった重々しいもてなしは多く有るだろうが、当時は沙汰もなかったのである。
(慶長年中卜斎記)
石田三成が家康からの使者を心を尽くしてもてなしたお話。
一般的な三成のイメージとはだいぶ違いますね。

533 :
細かいくらいに気を利かせるけど、それがうまく嵌まることが極々稀な印象がある

534 :
>>532
>「風呂を焚かせたので入浴するように」
慶次「三成は気が利くな〜」
義朝「…」

535 :
義朝さん、お土産には木刀入れときますね

536 :
伏見城にて豊臣秀吉が諸大名と雑談するとき、料理の出る時間と成ると、
ここには茶の湯坊主が10人ばかり居たのであるが、そのうちの3人から5人くらいが
給仕をした。
この時、秀吉の膳は掛盤であった。そして徳川家康も同じ掛盤。飯の鉢も秀吉のものと
全く同じであった。その他の相伴衆は普通の鉢と平膳。前田利家も家康と同じ組の
咄の衆であったのに、平膳であった。
徳川家康の膳は秀吉のものと少しも違わず、雑談のときも「家康公」と呼んでいた。
(慶長年中卜斎記)
秀吉の、家康に対する待遇についてのお話。

537 :
これはかなり興味深い話だね
秀頼の件を考えると、「ちょっといい話」とは言いがたい気がするけど

538 :
妹を家康の嫁にやって秀康を養子にして江を養女にして秀忠の嫁にして秀忠の娘と秀頼が婚約して、
遺言の事とかも考えると秀吉は家康というか徳川を自分の一門と思ってたんじゃないだろうか。

539 :
>>538
忘れられがちだが信吉は木下勝俊の娘を娶ってる。

540 :
隈本、佐嘉、清正之縄と云伝る事
 予の臣で佐賀の領の武雄の温泉に行った者がいる。
そこで武雄氏(武雄氏、本氏は後藤。佐賀侯の属臣)の臣の某と会って以下の話を聞いた。
 佐賀侯の先祖が朝鮮に渡って戦をした際、武雄氏の祖先も従軍していた。
そこで加藤清正から特に知遇を得て、
互いに帰国できたら自ら佐賀の地で城の縄張りをしようと清正は約束したとか。
結局、お互い無事に帰れたので言葉通りに清正の指揮でかの城を築いたという。
肥後の熊本は平山城、佐賀は平城。
この両城は、清正が全て縄張りしたといい伝わっているとか。

(甲子夜話続編)

541 :
武雄なら家信のことなんだろうけどそれで佐賀城?

542 :
謀反起こす気なの?ねえバカなの?

543 :
 三条三光院(三条西実枝)殿が十六歳の御時、
禁中の歌会で”懐旧”という題が出たことがあった。
「何とも詠みにくい」
と言われると、
『歌の達人である彼でも苦手なものがあるのか』
と一同は皆おもしろい顔をするだけで、
若い彼のために題を取り替えようと提案する人は誰もいなかった。
そこで、
程近きわが昔さへこひしきに 老いはいかなる涙なるらん
「年若い私さえ昔を恋しく思うのに老人には昔はどのような涙になるのであろうか」

(醒睡笑)
若者いじめにも屈せず、見事やりかえしたちょっといい話

544 :
鳥居金次郎は不調法者で、御鷹狩りの御供をも勤めかねるということで、
権現様(徳川家康)は度々御叱りになられた。
その金次郎が長久手で首を取り黙っていた時、権現様は「そちは如何か、
仕合せは?」と、仰せになった。
その時、彼は、「私のことは御尋ねには及びません。鷹野こそ不調法で
ございますが、武道については、これ、御覧なされよ」
と言って、首を上覧に入れた。
――『武功雑記』

545 :
一、一備の将たる者は、並の武士の作法に準ずるべきではありません。能く柔と剛を兼ねなければ、
  将たる道には至りません。
  一鑓合いの武士は強勇を表として、主のために命を惜しまないことを名誉とします。
  しかし一備の将たる者は、命を全うし、諸卒を懐かせ、駆け引きの作法を示し、勝つべきを
  見て進み、勝てないのを見れば引き取って後の勝ちを得ることに専念する。これは将にとっての
  法です。この心を忘れず、老功の者達とも評議し、尤も妥当な判断に従うようすべきです。
一、其方は若輩ではありますが、甲信両国の武士を与力として預かる上は、どんな剛敵と言えども
  防戦を致し、越度を避けねばなりません。心に及ばぬ所は、石原、孕石、廣瀬といった老臣たちと
  相談し、進退に道理を以て、諸卒をそれぞれに差し遣わさねばなりません。
一、どんな諸芸も習わなくては知らぬものです。それが戦の道であればなおさらな事です。
  その作法、方便、謀、進退、そういった事を知らずに行う合戦は、危ういものです。
  私は国を争う戦を度々行いましたが、その一度一度の勝負についての経験から、知らねば
  持つことの出来ない道理を獲得しました。そういう思いもあって、其方には三人の武功の者、
  そして合戦の場数を踏んだ武士たちを与力として預けたのです。
  この者達に二六時中(当時は一日を十二支で分けている)戦の道を尋ね、極め、武の事を
  心から忘れないようにして下さい。
右の条々について、油断があっては成りません。如件。
 徳川家康在判
    井伊万千代(直政)殿
(松のさかへ)
「赤備え」を井伊直政に預ける事に関して、徳川家康が直政に送った書状。
ほとんど守ってないような気がするが。

546 :
福岡侯の軍鐘を銅鑼に代る起り
 黒田長政が朝鮮で明兵の銅鑼を分捕った。
銅鑼の音が行軍にはちょうどよく、
従来の鐘はわざわざ一人に持たせていたが銅鑼はその人自らが持つもののため、
持つ人、打つ人の二人を兼ね便利というので、
これから長政の軍はみな二器〔鐘鼓〕を鐘に代えた。
よって今でも福岡侯は軍用の二器にはすべて銅鑼を用いるという。
市川一学の話である。
(甲子夜話)
逆になぜ他では銅鑼が流行らなかったのだろう?

547 :
>>544
三河者のテンプレみたいな話w

548 :
>>546
ジャーンジャーンジャーン
三成「げぇっ内府!」

549 :
銅鑼と言えば朝鮮戦争で義勇軍という名の共産党軍は、
銅鑼鳴らしながら攻撃してきてアメリカ軍を恐れさせたとかw
三国志かよw

550 :
阿片戦争で女性用のおまる使って
砲弾の軌道をそらせようとした清軍よりはマシだな

551 :
>>549
銅鑼に加えて死兵なら恐れるのは当然だな、天皇万歳w突撃を想起させる

552 :
しかし義勇軍とは、よく名乗ったものだ

553 :
>>524
今大路道三といえば秀忠の信頼厚い名医だけど、上洛中の秀忠、家光に従っていたところ、崇源院(江)の重篤の一報で
急遽江戸へ帰還するも、自分が病気になって到着前に死んじゃったんだよね。
死去した日は崇源院の数日後だから、元気でも間にあったかどうかわからないが。
状況的に、医者の不養生とはちょっと違うかな。

554 :
「三好」と人の言い伝えているのは、三好修理太夫(長慶)の事である。
元々は細川の家臣であったが、細川を滅ぼして一家繁栄した。
修理太夫は光源院殿乱(永禄の変:足利義輝暗殺)以前に病死した。
この修理太夫の元に三人衆と言って、主だった3人の家臣があった。三好日向守というのも
その一人である。永禄8年に義輝を殺したのはこの三人衆である。
(老人雑話)
永禄の変は信長公記なんかでも「三好長慶が義輝を殺した」なんて書いていますが、成立年代は近いわりに、
老人雑話のほうが事件について正確に把握していますね。

555 :
船頭が多すぎて誰が主犯かわからないから長慶の名前で広まったとか?

556 :
???「計画通り(ニヤリ」

557 :
武功のある人に軍法のことを問うたところ、「私にも分からない。ただその時の
運によって、勝ち負けは決まることであろう。
第一にその主君と将の心にある。主君と家臣が心をひとつにして、士卒の志が
一致したとすれば、勝つことは疑いない」と、言った。
また、「匹夫の志はどうだろうか?」と、問えば、「人並みと思えば、おくれること
であろう。念入りに身動きを決めて、ただ我が身ひとつの一大事と思い定めて、
進退するようにせよ」と、言った。
――『備前老人物語』

558 :
朝鮮飴〔細川氏家製〕之事
 細川氏の家で作られているものに、朝鮮飴と呼ぶものがある。
予は時々彼の家の知り合いの者からもらっている。
 ある日思った。
これはきっと彼の祖が朝鮮討のときに、渡海してかの国から伝えてきたものである、と。
 そこで肥州(松浦熈※松浦静山の息子)に細川氏の者に尋ねさせた。
支家の細川能州(利用)が答えられるに、
「本家の二代越中守忠興が、文禄元年〔壬辰〕に、秀吉の命により朝鮮へ渡り、翌年冬に帰国しました。
そのときから製法が家伝したと思われます。」
とのことであった。
ならばやっぱりかの俘囚から得たものか。
 予の家の陶器(平戸焼)と同類である。
(甲子夜話三篇)

559 :
ウィキみると清正由来だな

560 :
本多佐渡守(正信)は、息女<三浦監物(重成)内室>が死去して、悲嘆の最中から
評定場へ出て、御用を心得なさったため、
「佐州は未だ御愁傷のうちに御出になられるのですか?」と、挨拶致された方がいた。
佐渡守はこれに、「どうして娘が1人死去致し申したからといって、御用を欠くべきこと
でしょうか」と、申されたという。
大久保相模守(忠隣)は息男・加賀守(忠常)が死去した時、強く悲嘆し、それからは
御奉公も勤め得ないように、思いなさったという。佐渡守と気持ちが異なっている。
――『武功雑記』

561 :
>>524
こちらでも同じ狂歌の話をしてるね。
まあ今大路道三はその子孫で、三代目曲直瀬道三なわけだから。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10171.html
太閤立志伝5では何度お世話になったことか・・・

562 :
徳川家康が最期の時、将軍秀忠にこう語りかけた
「私の最期も今日に極まったようだ。天下はどうなると心得られるか?」
秀忠「天下は乱れるであろうと思います。」
「それならば、ざっと済みたり。」
家康は心地よさげに笑い、「安堵した。」とつぶやいた。
そして次に、竹千代(家光)を側に召した
「其方は天下の主となる人ぞ。能く心得られよ、天下は慈悲が第一なるぞ!」
そう言うと、間もなく他界したのだという。
(武野燭談)

563 :
家光、ぜんぜん守ってないな

564 :
兄より優れた弟など存在せぬのに、父母から可愛がられている
という思い上がりから、将軍の地位を狙う不届き者の駿河大納言
本来なら斬首のところだが切腹で許してしんぜる

565 :
>>564
原哲夫の絵が浮かんだやないか

566 :
家光「もう一人の弟は可愛がってやったからそれでチャラな」

567 :
ミスター改易

568 :
綱吉「ワシのほうが多くないか?」

569 :
>>567
そりゃ秀忠だろう

570 :
親子揃って改易が趣味です

571 :
>>562
既出だね
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6951.html

572 :
徳川秀忠は、江戸へ大名が参勤してきたとの注進を聞くと、必ず品川、千住口、
それぞれの筋道に遣いを送った。これらは皆重臣たちの役割で、大名より下の位の
者には、段々に軽い役人を上使としていた。
特に越前黄門秀康が江戸に参向してきた知らせを聞くと、必ず即座に自身で迎えに出て、
同道して江戸城に入った。
総じて将軍家においては、諸家が重んじている諸侯参勤については、いつごろ江戸に入ると聞かれると、
自然を装って鷹狩に出かけられ、その道筋であり江戸に近い千住、品川あたりで待ち、その場で大名に、
直に参勤を労り、それは作法の一つのように考えられていたが、いつの頃からか、それぞれの家まで上使が
向かうようになった。
(武野燭談)

573 :
あの兄弟は仲良かったのか
ちょっといい話

574 :
内裏の修理を完了
内裏はいまや朽廃し、元の姿をとどめぬほどだったので、
信長は御恩に報いるため修理して差し上げようと考え、
先年(永禄12年)日乗朝山と村井貞勝を担当の奉公に任命した。
それから3年かかって紫宸殿、清涼殿、内侍所、昭陽舎、
そのほか諸々の建物などすべての工事を完了した。
さらに宮中の収入面において後々まで困ることがないようにと、
信長は思案を廻らし、京都市中の町人に米を貸付け、
毎月その利息を宮中に献上するよう命じた。
また零落した公家たちの領地と相続のことに関しても、復興のための諸施策を実施した。
天下万民の満足、これに過ぎるものはなかった。
信長の功績と名誉、および織田家の威勢は我が国において他に並ぶ者がいないものである。
また信長は領国中の関所を撤廃した。
点火の安泰を図り、往還の旅人の便を思いやる施策は、
慈悲深い信長の心から発したものであって、
このことにより神仏の加護も果報も誰にも増して恵まれ、
織田家がますます栄える基礎を築いたのである。
これもひとえに信長が
「道を学び、身を立てて、後世に名を残そう」
と望んだことだからである。めでたいことである。

575 :
いい話だけど、その数年後に本能寺の変か・・
諸行無常、盛者必衰

576 :
信長より父親の信秀が尾張守護代家臣の地位で内裏修繕費に4000貫寄進している事に驚く
津島支配だけでそれだけの経済力があるなら、子供の信長が上洛後、堺を支配したがるのも分かる

577 :
利家様が鶴の汁を召し上がりなさったところ、すぐに御蟲にあたり(腹痛)申した。
それを契機に御物語りになられたことであるが、
信長公が安土山の御城に御成りの折、いずれの人にも御振舞を下され、鶴や色々
の珍物のうえに、信長公は御引出物を、御自身で御引きになられた。
柴田(勝家)の前で仰せになったことには、「貴殿を初めとして度々手柄を致された
ゆえ、このように天下を静めて万事成就し、満足し申しておる」とのことだった。
またその他それぞれに御言葉をかけた。さて7,8人が末座にいて利家様もおられた
のだが、信長公は御引出物をなされ申す時、
利家様は若き時は信長公の御側に御寝伏しなされ、御秘蔵であったと御戯言を
仰せになり、利家様はその頃までは大髭でおられたのだが、その髭を御手で掴み、
(利家様若き時は信長公御傍に御ねふし被成候。御秘蔵にて候と御ざれ言御意候
而、利家様其比までは大ひげにて御座候鬚を御取候而、)
「其の方が稲生合戦の時に16,7歳の頃、武蔵守(織田信勝)家中の宮井勘兵衛
という者の首を取った時、私は21歳になって初めての合戦だった。
私がその首を、『なるほど小倅ではあるが、この手柄を見よ!』と言って、馬上で
采振り致すと味方は気を得て、ただ7,8百ばかりで3,4千人の人数を押し崩した。
その如く各々が手柄を致したゆえ、このように私は天下を静めて万事成就致した」
との旨を仰せになった。「なんとまあ、かたじけなき御言葉!」と存ずるところに、
御近習衆の給仕を仕る衆までも「はてさて、冥加なる又左殿かな!」と、あやかり物
とばひやひ候(肖り物を奪ひ合ひ候?)ように給仕の者が誉めるので、
利家様は得意がりなさり、「かたじけなき御言葉!」とひたすら物を食べ過ぎ、鶴汁
を止む無く飲み過ぎて、その後鶴の汁にあたり申したと仰せになり、御笑いになった。
前述の通りを、太閤様も度々仰せられたとのことを、金森法印(長近)や羽柴下総殿
(滝川雄利)なども、利家様のもとへ御出でになられた折に御申しになられ、それを
承り書き付け申すものである。前述の御合戦の時、柴田殿は武蔵殿の衆でおられた。
色々の物語りがある。
――『亜相公御夜話』

578 :
信長はその話をする度に、「勝家の野郎、そのうち用済みにしたるー」と腹の中で思ってそう
それはさておき、織田家や羽柴家の雰囲気が伝わってくるちょっといい話だね

579 :
>>575
数年後(笑)

580 :
うわぁなんか恥ずかしい奴がいるな 小学生か?

581 :
>>579
公家や宮中支援は、天正の頃じゃないの?

582 :
>>574
信長公記 巻4 元亀2年(1571)です

583 :
>>582
本能寺の変の約10年前だったんですね
御貸米制度や内裏修理完成はもう少し後の話だと思い込んでました(汗)
ご指摘ありがとうございます

584 :
脇、高安彦太郎が遠祖。彦太郎、少年のとき武術を以て高名の事。付沢庵和尚目撃の賞状
 予は時々能見物に行き、金剛座の脇師の高安彦太郎と会っている。
ある日のこと、彼は語った。
「私の家祖は大和に居住していました。〔高安とはすなわち和州の地名である。〕
その後、私の先祖の太左衛門という者の子の彦太郎が十、四五の頃、
大和の山越えを行ったときに賊が出て取り囲まれてしまいました。
しかし彦太郎はこれをことともせず、刀を抜いて四方に切り払えば多くの賊は死に、
賊は敵わないと逃げ去りましたとか。
折節沢庵和尚が現場に行きかかっていまして、父の太左衛門へその書状を書き記して褒賞しました。
その書は今も家に伝わっています。」
 予は請うてその書を見ると正しく沢庵の書であった。
その文を読むと、沢庵は傍観されてはいなかった。
傍観していた者が沢庵に報告して沢庵が褒賞されたのであった。
なんにせよ彦太郎の手技は乱世近い人の骨柄で、猿楽少年といえどもこうである。
また沢庵の賞辞も今時の出家の言に比すると真に活言というべし。
その書がこれである。
「〆 高安太左衛門殿 御宿所  芳林庵
この一両日にお客様が来られましたので面会できませんでした。
なのでただ今承りました彦太殿が、路次で不思議の子細に驚き入りました。
彼の手柄は申すべき様もありません。さてさて奇特千万で、承りまして感涙を催しています。
御心中御満足のほど推量されます。
誠に比類無い次第だと存じます。
無事珍重でこれに過ぎたるものはありません。
ただ今承りましたので、即刻書状で申しました。
出家の事(空白)別でかようの事承り、奇特千万と存じます。
後日に会いましょう。恐々謹言。
孟夏十八日    宗彭 」

(甲子夜話続編)

585 :
土呑み裁判
戦国時代から少し時代は下った寛永15(1638)年、真田信之治世の信州にて村の間で山境の争いが生じた。
役人が双方に事情を聞いたが、双方明確な証拠を出すことができず、水掛け論になった。
そこ真田家では、争いとなっている山境の土を呑み、起請文を書いて自らが正しいといった方に山を与えることとした。
そうしたところ、片方の村の百姓が本当に山境の土を呑んだため、その山や山中の切り開かれた田畠はその村のものとされたとか。
鉄火起請についてはよく知られるところであるが、土を呑んで判決を下すのは珍しいこととか。
太平の世になっても、百姓は大変というお話。

平山優「真田信之」

勝者の百姓のガッツのいい話ということで、こちらに。

586 :
紀伊は山国であり、深山には色々と怪しい事ども多かったが、徳川頼宣はまるで気にしていなかった。
ある時、友島に猟に出かけ、臥木(倒れている木)に腰を掛けると、その臥木にわかに動き出し
龍の形となった。
しかし頼宣は少しも驚かず、志津の長刀をその蛇頭と思わしきところに差し当て
「山神であるのなら、どうして腰掛けただろうか!臥木の姿であったからこそ、臥木であると思ったのだ。
なんと見苦しき振る舞いだろうか!動いて見給え。忽ち刺し申すぞ!」
そう怒って叫ぶと、本の臥木へ戻ったという。
(武野燭談)

587 :
〔壱岐〕朝鮮鴉之事
 予の小臣に壱岐の人がいる。
話に、かの国には「朝鮮鴉」と呼ぶ、
大きさは鳩のようで黒色鴉に似て白毛の混じった鳥が、夥しく群飛して来て野菜に害をなし、
四、五日を経てまた群飛して去るという。
これは前に記した(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10250.html
カササギである。
 ならば鍋島勝茂が韓征から持ち帰ってその里に繁盛しているという事とは別に、
この鳥が韓土からわが地に渡来する事は今に始まらぬのであろう。
しかし『本草綱目』にも『本草綱目啓蒙』にもこのような無数群行ことは書いてない。
ただ『本草綱目啓蒙』に、筑前筑後では朝鮮がらす、高麗がらすというと載っているので、
かの国などにも飛び渡ることは壱岐と同じであろうか。
ならばいずれにしても勝茂が持ち帰ったというのは珍しくはないことである。
(甲子夜話三篇)

588 :
一人の弟を捨て殺さば

天正十年冬、未だ天下の主が定まらないなか森長可の弟
お千(忠政)は岐阜城で神戸信孝の人質になっていたが
秀吉は(長可に)尾藤甚右衛門を遣わして、自分に一味するならば
遠江駿河両国を約するという誓詞を送ってきた。
森家の家老衆を悉く集めた評議の時に、一同それぞれが
秀吉公に一味するのが尤もだと長可様に申し上げたが
長可様がお千のことはどうしようと言われたので、その時
長田又左衛門(長可の姉婿)がお捨てしましょうと申し上げた。
長可様は
「先年三左衛門殿(父可成)が討死になり、蘭丸を始め三人が本能寺で
 生害した。御母公はこのことで日々お目が乾くことはないという。
 その上予の骨肉にはお千を除いて外はいない。秀吉公に一味して
 たとえどれほど立身しようとも、一人の弟を捨て殺さば母公への
 不孝となるので心得がたい」
と仰せられご同心されなかったので、林長兵衛為忠が進み出て
「私がお千様を盗み出してみせます」
と申し上げたので、ならばその方が取り計らうようにと仰せられた。
長兵衛が岐阜城へ行くとお千様は近江櫓にいたので
長兵衛は機転を利かせ櫓の窓子を引き剥がしお千様を跳躍させて
下には大布団を広げ待ち受けたので怪我などはなかったという。

――『森家系譜』
ちなみにこの長田は忠政が家督を継いだ後、居づらくなって出ていったとか。

589 :
>>588
森家らしくない(偏見

590 :
遺言状とこの話だけで鬼武蔵を知った人は
情に厚い家族思いの武人だったと感動するなきっと

591 :
徳川の領土の遠江駿河を宛がうだなんて、いくら武蔵がアホの子だからって舐めすぎだろ

592 :
三州柏崎の百姓が、公事の不正を言い立てて訴訟に及んだが、終に負けとなった。
この時の町奉行は本多作左衛門重次であったが、この百姓「判決は依怙贔屓である」と、
方々にて悪口を吐き、あまつさえ落書などして誹謗した。
本多作左衛門はこれを聞いて、重ねてその公事人を呼び出し再審査を行ったが、
それでも判決は変わらず、今度は不正を言い立てたこの百姓を斬って捨てた。
その後、酒井河内守重忠が同じような公事を沙汰した。
公事の不正を言い立てて負けた百姓が散々悪口しているということを酒井は聞くと、
彼は地下人達を呼びつけ、どうしてそういう判決に至ったかを順々に説明し、敗訴した側にも
どこに非があったのかを言い聞かせ、得心するように理を解いた上で、悪口した百姓も
そのまま差し許した。
徳川家康はこの二つの裁判について、両人にその道理を尋ねた。
本多作左衛門は
「上を侵す者をそのまま差し置いては締まり無く、悪事も募りますから、毅然として申し付けました。」
と答えた。
一方酒井重忠は
「こんな事で人を殺していたら、今後の奉行は必ず威を振るい、驕りが出てしまうでしょう。」
と答えた。
両人それぞれの政道であり、家康はこの事について、物を知る者に尋ねた。彼が申し上げるに
「上に逆らう者を刑罰するのは、定まった決まりですが、殺さずに治まることであれば、
Rべきではありません。人をRというのは、やむを得ぬ上に行うものです。
尚書にも『徳は善政に在り。善政は民を養うに在り』と見えます。」
これを聞いて家康は、酒井重忠を一層大切に思ったとのことである。
(武野燭談)

593 :
永禄六年〔足利氏の末〕諸役人附鈔書付考註
 塙(保己一)の『群書類従』の中に、『永禄六年諸役人附』というものがある。
これは足利氏の時代末期のものである。今その所載を抄書する。
「〔上略〕
外様衆 大名在国衆〔号国人〕
    山名次郎義祐改名左京大夫
御相伴 北条相模守氏康        御相伴 今川上総介氏実(真)  駿河
    上杉弾正弼輝虎  越後長尾      武田大膳大夫入道晴信 甲斐
    畠山修理大夫義継 能登之守護     織田尾張守信長    尾張
    嶋津(島津)陸奥守貴久         同修理大夫義久
相伴  伊東三位入道義祐 日向  
    毛利陸奥守元就            同少輔太郎輝元    安芸
    吉川駿河守              松浦肥前守隆信    肥前
    河野左京大夫通宜 伊予        有馬修理大夫義真 
    同太郎義純    肥前        嶋津(島津)薩摩守義俊
    宗刑部大輔    対馬        伊達次郎晴宗     奥州
    松平蔵人元康   三河        水野下野守      三河
関東衆〔以下略〕」
私、松浦清が説明を加える。
・山名義祐は、今交代寄合の山名靭負義問の祖先であろう。義問は六千七百石である。
・北条氏康は、今の相模守氏喬の先祖であろう。氏喬は狭山領主一万石。
・今川氏実は今の高家、侍従刑部大輔義用〔千石〕の祖先である。
・上杉輝虎は、米沢侯斉定の先祖、今十五万石。
・武田晴信は、今の高家、侍従大膳大夫信典〔五百石〕の先祖であろう。
・畠山義継もまた、高家で、侍従飛騨守義宜〔三千百石余り〕の先祖であろう。
・織田信長は、右大臣、今の羽州村山領主、若狭守信美の祖で、今二万石。
・嶋津貴久、義久は、薩摩侯隅州斉興の先祖で、今七十七万八百石。
・伊東義祐は、飫肥侯修理大夫祐相の先祖であろう。今の五万千八百石余り。
・毛利元就、輝元は、長州侯大膳大夫斉元の祖先で、今三十六万九千石余り。
・吉川駿州は、今の長州の属臣、吉川監物の祖であろう。防州岩国の城に居り、六万石を領している。
・松浦隆信は、わたくし清の十世の祖で、道可殿であられる。
・河野通宜は、今の久留島侯、予州の通嘉の祖先であろう。通嘉は今、豊後森領主で一万二千五百石である。
・有馬義真、義純は、今の丸岡侯徳純の祖先で、今越前で五万石。
・嶋津義俊は、誰か未詳だが、きっと今の薩摩侯の先祖であろう。
・宗は、今の対馬侯の先祖であろう。祖先の中に刑部大輔の称を見たことがある。
・伊達晴宗は、今の仙台侯の祖先で、元祖政宗の先祖であろう。今、斉邦は六十二万五千六百石余りを領している。
・松平元康は、かたじけなくも神君であられます。元康は始めの御諱であられる。
・水野下野守は、今水野越州、羽州、日州の先祖であろう。三氏は今それぞれ六万石、五万石、一万八千石。

594 :
 以上のことを見よ。世の興廃はかくの如しだ。これは足利が公方と称したときの外様衆である。
しかし、かえって今は主君であった足利がわずかに御旗本の輩に入っているだけで、
大名在国衆なる者も、あるいは旗本または外藩護衛の身分となっている。
 予の先祖の公や有馬伊東の輩が、恐れ多くも神君の上にあれども、
今となっては皆、御当家を敬拝尊従することに至っている。
これというも、神君の御高徳は仁義知勇を備えられておられる御大勲で、
いわゆる立身行道し、名を後世に揚げて父母を顕す者であられるからだ。
上杉武田の両雄、織田の威顕もいつのまにか跡形もなく、
毛利嶋津伊達の強大も、今はわずかにその旧を保つも結局臣伏し、
ただ水野氏は御当家に新属し、かえって古より富めるに至ったのであろう。
 これというも、日光権宮の御深仁である。
明智は論ずるに足らず。
豊太閤は、まだこの時匹夫で名も無い。しかし、たちまち広大になって、
ついには外国を掠奪するに至っても、その道半ばにして身を喪った。
天がなしたのであろうか。
 我が隆信君の子の法印公(鎮信)君は、豊閤遠伐の役に随われ、
出色の勇武であったが、ついに外国で賊徒の名を負われた。
いまこのように太平の時に随従できて内外で非義不仁の名を負う事が無いのも、
まことに神祖の大恩・大恵に違いない。

(甲子夜話三篇)

595 :
>>592
>それでも判決は変わらず、今度は不正を言い立てたこの百姓を斬って捨てた。
さくざがしかる(物理)

596 :
>>591
過去に二回ほど出た逸話だと
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5948.html
鬼武蔵「駿河遠江に加え甲斐もよこせ」
秀吉の使者「さすがにそれはならぬ」
(使者が帰った後)
鬼武蔵(家来に)「さっきの条件でもわしに不自由はないのだ。だが駿遠甲の三ヶ国を手に入れれば、次節が来れば
其の方達にも小城の一つでも持たせることが出来たのに、お前たちにとっても運がなかった。」
やはり鬼武蔵さんは情に厚いお方だ

597 :
逸話スレが広まる以前に戦国関係の個人サイトでは、
森長可の遺言書の件で情にも厚い武人だったというと紹介されてた思い出

598 :
情に厚い人ではあるんだよ。戦になるとやりすぎちゃうだけで。

599 :
酒呑むと人格変わるキチガイと一緒やな

600 :
ああ嫁が絡まなければの人と一緒だな

601 :
>>593
山名義祐って赤松義祐のこと?

602 :
>>597
敵に厳しく家族に甘い…そういえばプーチンやトランプも家族には凄く優しいそうな

603 :
DQNの家と一緒ですね

604 :
そりゃ敵には強面で当たらないといけないんだから
その分身内には優しくしないとまずいだろう

605 :
その割には家族で殺し合いする家が多いような…

606 :
おっと河内源氏の悪口はそこまでだ

607 :
本多佐渡守正信がある時、子息上総介正純に言った
「逆心は天命に背くと知りながら、北条義時が主君の後を断絶し、己が威を逞しくし、
天子を改めるなど、無双の悪逆を行いながら、時の勢いにてこれに与するもの多く、九代天下を
保った。
その後も北条の業績を真似る者はあったが、北条ほど事を謀るものは無かった。
細川勝元が先祖頼之の業績を学ばず、遠き北条の後を追い、応仁の乱を引き起こした。
これは細川、山名が威を振るったためである。であれば彼らが志を立てて名を揚げたかと言えば、
そうではない。共に死亡して、あまつさえ将軍家の武威を失落させた。
上総介、これを思え。
勝元がたとえ逆意を振るっても、その子政元に忠義が有れば世は治まったはずだ。
しかし政元はますます驕りを極め、将軍義材を退けた。
この君が悪主であったのなら替える例もあるだろう。しかし義材には武道尊氏の風格あり、
六角高頼を退けた時は、足利家は昔に帰るかと言われたとか。
それなのに政元はこれを廃して、幼主義澄を伊豆国より申し上らせ、己が威を恣にした。
彼も父に劣らぬ不忠至極の者である。よってその身も終に滅びた。
上野介、良く聞け。
武家は軍法、武備を諸道の根本としている。軍法と言っても戦をする事ばかりではない。
軍法とは常の備えである。善政は勝ち、悪政は負ける。勝ち負けの根本は国を治めることにある。
例えば、樹木の根が深く入り能く栄えているためには、まず根本を培う事が大切である。
それから段々と成長するに従い、養いを能くすれば、枝葉栄え、花咲き実も多く成る。
少々枝を刈り取ったところでその樹の本体が痛むことはない。
このように、天下国家の基本となる大法を取り失わない事が肝要である。
士農工商は天下の四民であり、そのうち士において、家の老職を仕る者は、農工商を以て
木の根を培うように、これを慈しむべきなのだ。
諸士は木と同じであり、合戦の仕方は枝葉と同じである。そして勝ち負けは花や実に等しい。
基本を失ってはならない。基本というのは忠信を成すことであり、そこから諸事は出るのだ。
おおよそ、忠を成すにも色々とある、身を以て忠を致すもあり、心を以て忠を尽くすもあり。
家老、侍大将などの忠は、主人の前には一月に一度も出なくても、一筋に忠を以て君を守護し、
政道順行を以て君の英名を高くするのを、良き家司と言うのだ。
また、忠ににた不忠がある。
例えば石田三成は、非常に上慢な人物であり、大風雨の夜など、御城廻りの破損の状況を逐一
見て回り、明けて卯の刻(午前6時頃)には報告した。御普請奉行からの報告は巳の刻(午前10時頃)
であった。
これは一見、その職の責任感より生じた、分別ある行動に見えるが、実際にはその家、その家中のために
成っていない。
人は心入こそ大切である。一言の情に一命を惜しまないのは、士が義を知るが故なのだ。
とりわけ老臣は、心入一つの者であり、忠義を心にかけて思う時は、自分の位階、職分、身代より
心を引き下げるべきである。
私は佐渡守にして頂き、重用していただいているが、元来愚痴暗鈍の者であり、多くの御慈悲により
今日までつつがなくご奉公することが出来たのだ。
その方もお側でお言葉を伝える役目を務めているのだから、後々重用されるだろう。しかし驕る心が
少しでもあれば、それは不忠、不孝の至りであるぞ。」
(武野燭談)

608 :
なんか混ざってるぞ

609 :
主君に仕えるには忠心一番でいいかもしんないけど問題は家臣同士の争いだよねー
隙を見せると足下すくわれるからなあ

610 :
榊原康政は尾州小牧山の陣の折、秀吉の不義を誹謗し、所々に札を立て、
『秀吉は織田家取り立ての臣であるのに、その主君の公達に敵し、神戸三七信孝を滅ぼし、
今度は北畠殿(信雄)に敵した。八逆罪の者である。これに与する者には、どうして天罰を
被らないことがあるだろうか。』
そう書いて人々に見せた。
これに秀吉は激怒し、
「榊原小平太を生け捕りしてきた者は、卑賤凡下を問わず、千戸候を以てこれを称する!」
そう諸将に触れた。
その後、秀吉が関白に任官し京都に滞在していた頃、織田信雄を通じて、徳川家康と
秀吉は和睦をした。秀吉は妹を送って縁を結ぶとの事に成り、その事相調い三河より結納を
遣わすことに成ったが、このとき秀吉は、「その使者として榊原小平太を遣わすように」と
所望した。家康がこれを康政に伝えると、彼は畏まり、早速上京した。
康政が京に到着したその夜、秀吉が突然、康政の旅宿へ現れた。
「今回の使節に汝を名指しして呼んだのは、他でもない、先年小牧山対陣の時、この秀吉を誹謗して
高札をたてた憎さよ!汝が首となった姿をひと目実たいとずっと思っていた。
しかし今、徳川家と縁を結ぶに至り、あらためて其方の忠誠を一入感じ入った。まことに汝には
武臣としての実義がある。
私はこの事だけを言いたくて汝を呼び寄せた。但し、だ。我が妹を遣わす結納持参の使者が、
無官というのはいかがであろうか?」
そう言うと即座に奏達し、康政は従五位下式部大輔に叙任された。総じて徳川家の諸将の官名は、
この頃まではその殆どが僭称であった。しかし榊原はこの時初めて、式部大輔の位、口宣等を
受領したのである。
その後、秀吉よりの饗応も善美を尽くしたものであり、そこには相伴として、先に三河を出奔し、
十二万石の大名となっていた石川伯耆守数正が、あえて馳走に出されていた。
しかし康政は終始、数正と一言も口をきかなかった。
その後、秀吉に御暇申し上げ、三河へと帰った。
人々は康政に、節操を感じた。
(武野燭談)

611 :
吾が高麗町、土佐秋月氏併唐人街、今薩摩鮮俘、陶器を鬻(すきわい)とする事
 前編五十七に、朝鮮の役で法印公(松浦鎮信)がかの地の人を虜として帰陣された後、
その者達を一ヶ所に住ませて、諸臣が在城しているときの食事を調えさせた。
それを人呼んで高麗町ということを記した。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10527.html
 この頃『征韓偉略』を見ると、
「此の役で、慶州の将朴好仁が来援して城に入て勇戦す。
城陥るに及んで囲を潰て走る。
(長宗我部)元親の兵、吉田政重が彼を捕らえ獲た。
翌年に及んで元親は土佐に帰る。
その良将たるを以て、これを遇るに賓客の礼を以てす。
その身を終ふ。子孫秋月氏と改称す。
その余俘を獲る所八十余人。元親はこれを憐れみ宅地を賜って居らしむ。
皆販売を業と為す。時に唐人街と称す。」
 これらは法印公のことと同じである。
ならばさぞ渡鮮の諸家には、これに類似したことがあるのだろう。
 後にまた聞いた。
今薩摩には
島津氏が朝鮮での戦からの帰陣のときの俘虜を住ませたという村がある。
よって今も鮮国の風を存じていて、
その村の者が皆有髪で陶器を造るのを生業としているとか。
きっと世で薩摩焼と称するものは、この朝鮮の子孫が作っているのだろう。
(甲子夜話三篇)
なぜ、秋月と名乗らせたのだろうか?

612 :
秋の月が故郷の月と同じだった

613 :
中筋村の飢饉 〜妙玄寺縁起〜

『宝塚の民話』より
慶長7(1602)年の秋は大変な不作でした。
旗本の渡辺氏が治めていた中筋村も納める年貢に困っていました。
代官からは毎日のように
「あわ、ひえでも良いから納めなさい」と矢のような催促が来ます。
「あわやひえまでも納めたら我々は一体何を食べたらいいんだ。
 全員が餓死してしまうではないか」
村人たちは代官所へ行き、何とか一年待ってもらいたいと願い出ましたが
聞き入れられません。
困り果てていたその時たまたま村人のひとりが
米俵を積んだ舟が淀川筋を登っていくのを見かけました。
聞くところによるとその米は、姫路藩主・池田輝政の幼い息女が亡くなり
その百か日の法事の御供養米として、京都の法華宗・本禅寺へ
お届けする品だということでした。
そのことを知ると村民の代表達が本禅寺へ馳せ参じ事の次第を話し
「村民をお救い下さい」と嘆願しました。
話を聴いた寺の日邵上人は
「お困りなのはよく分かったが、法華宗の宗義として他宗のものには
 米一粒、銭を一銭たりとも援助することはできないのです。
 たとえ何人かの法華宗のものがいたとしても、村全体のために
 米を分けてやる訳にはいきません」
との返答です。
その返事を聞いて急いで村へ戻ると、村人すべてを集めて訳を話しました。
「食べるものがなくなり、子どもたちまで死なせるくらいなら」
と今度は村民全員で本禅寺へ行き
「村に住む者は皆、法華宗に帰依します。
 これは子々孫々まで変わることはありません。
 このたびの願い、どうぞかなえてください」
と申しあげ、お願いしました。
そして気持ちの変わらない証(あかし)として
一 中筋村に暮らすものは全員、法華宗を守り、子々孫々まで法灯をかかげます。
一 他の宗派から宗旨がえを求められても応じません。
一 前の宗派へ隠れて詣でることもしません。
という証文をお寺に差し出しました。
ようやくのことお米を融通してもらい年貢を納めることができた中筋村は
全員あげて法華宗の陣門流に帰依しました。
それからしばらくして京都に詣でるには道のりが遠いことから
古くからあった村の寺を建て直しました。
その寺の名は、亡くなった池田輝政の息女の法名
"縁了院殿妙幻叔霊"の妙幻に因み"妙玄寺"としました。
その上村の角には"南無妙法蓮華経 法界"と刻まれた法界石を建て
村の宗派が法華宗であることを明らかにしたということです。

以上の話は宝塚市の妙玄寺に実際に伝わる話だが、ここで出て来る輝政の娘は
どうも督姫の連れ子で池田利隆と婚約していた万姫のことらしい。
近年になって鳥取市の正栄山妙要寺に肖像画が発見されたとか。

614 :
藤堂和泉守(高虎)一代の事を書いた巻物を大献院様(徳川家光)の御前で誰に
読ませなさるべきかとのことになった時、
酒井讃州(忠勝)は「ここに道春(林羅山)がおります」との事だったが、和泉守は、
「私めの一代の大事のことを書いた物ですから、道春などは如何なものでしょうか。
始終を存じている者に、読ませたく存じます。私の家来の八十島助左衛門を召し
連れておりますが、如何でしょうか?」
とのことであった。そこで阿部豊州(忠秋)が挨拶して、八十島を御前へ召し出し、
巻物を読ませなさったのであった。
この八十島は石田治部少輔(三成)の右筆だった。太閤逝去のことを石田方から
源君(徳川家康)へ申し上げた時、そのために遣わした者である。
後に和泉守の家来となり、法体の後に道壽と願い申した。その子もまた助左衛門
と称した。
――『武功雑記』

615 :
関ヶ原であの鬼島津を激怒させた人物だな

616 :
伊達政宗、豊臣秀吉公へ初見之とき謡ひし歌付政宗豊公へみへし考
何かの時ある人と雑談した折に出た話である。
「伊達政宗が豊臣秀吉公と初めて見えたとき、
その後には酒宴でもあったのだろうか、
政宗が謡った歌として今も仙台の領地では士庶ともに歌うという。
四海波風治る御世は、さざれいはほに亀遊ぶ
秀吉が「もうひとつも」と請われたので、政宗はすぐに
さんさしぐれかかや野の雨か、おともせできてぬれかかる
と歌われた。
 『秀吉記』と『武功雑記』の二書によると、
この二謡は政宗が豊公に見えた後、もしかしたら宴席があり、
その席上のことであろうか。
(甲子夜話三篇)

617 :
四海波…サボテン?┌|∵|┘

618 :
>>614
俺が家光だったら、三成に身近に仕えた奴が来たら
僅か佐和山19万石の身分で西軍を取り仕切ってた
石田三成はどのような人物だったか直接聞きたいわ
高虎の出世自慢話なんかよりもな

619 :
>>618
真面目な話、当時は正軍首脳部に参画していた人間もまだ生きていたのだから、石田三成が
どういう立場だったかなんて、自明の理だったと思うぞ。

620 :
七将に狙われて家康に匿ってもらったヘタレです

621 :
それデマだってな

622 :
伏見の徳川屋敷に逃げ込んだ話の出典がわかれば、このスレに収録してもいいかもね

623 :
結果的には圧勝で終わったように思われてる関ケ原だが
秀忠遅参で内心かなり焦ってたろ糞漏らし

624 :
>>623
昨今は関ヶ原の決戦に関しては、もう何がどうなっても東軍の勝ち、といった感じだな。

625 :
関ヶ原って、小松山に立てこもった小早川秀秋救援のための後詰決戦だったんじゃないの?

626 :
いくらなんでも楽勝って事はないという感じで改めて研究した結果
以前よりも西軍がどうしようもなかった事が判明してより可能性がなくなるというオチ
悲しいなぁ

627 :
本多忠勝の嫡子・美濃守忠政がまだ平八郎と名乗っていた時、弟の内記忠朝と共に
鑓の稽古をしていた所、これを見た忠勝が言った
「私が若かった頃は小身であったがために、鑓の働き第一と心がけていた。
しかし今は御厚恩を以て大身となった以上、人数を取り廻す采配の取り様や備立てなど、
総じて大将が知らなくてはならない道こそ、專一に学ぶべきである。
かといって、鑓の稽古を止めろと言っているんのではない。時節相応に主とする所を、
専らに励むべきなのだ。」
そう戒めたという。
(武野燭談)

628 :
>>626
吉川の位置が悪い

629 :
>>627
父には遠く及ばないので新たな才能を開花せよ、と言ってます

630 :
金剛大夫の祖、朝鮮攻のとき彼地に渡りし話
 おかしいことだが、その情合いを記す。
二月の半ば、金剛大夫の方から能初めをすると言って来たので観に行った。
大夫は暇になると、桟敷に来ていっしょに物語をした。
そのとき金剛大夫に尋ねてみた。
「その方の祖先は、朝鮮攻めのとき彼の地へ渡ったと聞いた。真であろうか。」
「確かにそのお言葉通りです。」
「ならば、誰の手に付いて行ったのか」
「どちらさまに付いて行ったがわかりません。
ただ慰めを越えるようなことはしていないでしょう。
従卒なども少しはいたと聞き伝わっています。
ところで、君公の御祖も御渡りになられたと聞いております。
御慰めはいかがされていたのでしょうか。」
「なかなか慰みどころではなく、太閤の先手を申し付けられたので、
七年の間は大合戦よ。」
「それは大事でございましょう。」
等と言って笑い話となった。
 今の大夫は愚かな男ではなく質直な者で、年若だが家業をよく修伝している。
されども家業とはいいながら、彼の国に渡ったことを、
慰めなど心得ているのは優長ではないのでなかろうか。
 まあこれはしばらく置いておいて、大夫の祖先が朝鮮に赴いたのは、
どこの氏が連れて行ったためであろうか。
そもそも遊覧の為に渡ったのか、もしくは戦功の加勢として越えたのか。
いかにも古談の逸事として、ここに記す。

(甲子夜話三篇)

631 :
朝鮮の戦争遊覧たーのしー

632 :
略奪、強姦、人拐い。
やってることってそう変わらんな。
日本人やめたくなるわw

633 :
やめればいいじゃん
七大夫は大坂に籠ったりしたけど、養父も戦地に出向いていたのかもしれんのか
誰が連れていったんだ?

634 :
>>630
>慰め
どういう意味か解らん…売春?

635 :
>>628
今では毛利の東軍への寝返りは、毛利輝元自身の指示だったという
説まで出ている。

636 :
岐阜城陥落の時点で負けを見越して生き残る為に動いてるしな

637 :
>>634
芸人さんが戦地を慰問してたりするでしょ?

638 :
天正の初めの頃、甲斐武田家の部将、山県昌景が大軍を以て天龍川近くに進行してきた時、
この方面の徳川軍は少数であったので、天龍川を越えて退却した。
この時、本多平八郎忠勝が殿をし、ただ一騎、後から川に乗り入れ退却していた。
しかしここに、後ろより山県勢の先鋒百騎ばかりが追撃してきた。
忠勝はこれを確認すると同時に、河中より取って返し、これを攻撃した。
その勢い、まるで龍神が波を蹴り立てるような激しさであったという。
これに甲州兵たちは「すわ、例の本多よ!平八郎よ!」と叫び、尽く逃げ去った。
追う者がいなくなったので、忠勝はまた河に入り、心静かに向こう岸へと渡った。
河の中流から引き返すというのは、成し難いことだと言われている。それを安々と
行った本多忠勝の働きというのは、筆舌の及ぶところではない。
(武野燭談)

639 :
尼ヶ崎侯家紋九曜を用る由来
 大阪の乱のとき、塩賊は尼崎侯の葵紋がついた兵器や提燈を観て驚愕落胆した。
この尼崎の祖先は御当家松平の御同族で信定といい、三河国桜井城に住んでいた。
よってその子孫を桜井の松平家と称す。このためであろうか桜花を家紋としている。
しかし松平の族なので葵が元来の家紋である。
 しかし桜花の家紋には違う理由があるのだとか。
あるとき彼の祖先の誰かが、細川三斎〔忠興〕の宅に行って碁をしていたが、
その時に神君に招かれるということがあった。
すぐに赴こうとして、その者が三斎に
「今、それがしが今着ている服は殊に汚れている。
よろしかったら君の衣を借りて着たいのだが。」
と言うと三斎は喜んで彼の家の服を与えた。
よって今桜井の家は九曜星の紋を用いるのはこれから始まったという。
〔細川氏の家紋は、今も九曜星である〕
 また桜井の家は今はもっぱら九曜を用いているが、もとは葵葉が正式の家紋なので、
この家の者は皆は正式の時には葵紋を用いている。
葵紋を用いるのは変事に限らないという。

(甲子夜話三篇)

640 :
塩賊がわからん

641 :
塩の密売人

642 :
それとこれがどう関係するん?

643 :
大塩平八郎の一党の事じゃないの>塩賊

644 :
超時空関羽のことだよ

645 :
塩派とタレ派で騒動があったんだよきっと

646 :
俺塩派

647 :
豊臣秀吉が朝鮮を征せんとして都を出発した時、ある人が秀吉に、
「かの国に渡るのに、漢文を得意とする者がいなくては、日本の恥辱
ともなりかねませんから、宜しく漢文を得意とする者を従えなさることが、
しかるべきでありましょう」
と言ったところ、秀吉が笑って言ったことには、
「我の此度の行動は、かの国の難渋な鳥跡の愚文を学ばんとするに
非ず。まさに、かの国に我が軽便なる仮名文を用いさせることにある」
とのことであった。その勇気、もっとも称えるべし。
――『常山紀談(異本に拠る)』

648 :
 高井助十郎が尾州長久手の戦場で首を取れなく口惜しがっていることを、
権現様が聞かれました。そこで彼を召して
「助十郎は旧主の(今川)氏真をよく見届けたではないか。
このたびは首を取れなくても苦しくない。
すでに意地の者であるぞ。」
との上意があったそうです。
しかし助十郎は
「時に大将からこのような言葉を頂き、恐れながら至極の上意です。
ですが、新しく主を替えた身となっては、
昨日の働きを思わず、今日の稼ぎを行うことが本意です。
前の武辺に緩んで後の働きがないことは、
武であるのに嗜みをしないことです。」
と答えたとか。

『武士としては』
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7152.htmlの別バージョン。
地味に意地っ張りになっている。

649 :
きっと前の話は駿河ver.で、これは三河ver.なんだよ

650 :
>>647
漢文ができるやつは儒教に染まってたから明の都合のいいように動いたことを思うと
あながち間違ってはなかったのか
どっちにしろ交渉するとなると漢文に長けてないとダメだけど

651 :
ある日(島津)忠恒公が徳田大兵衛(侏儒どん)の宅へ御出でになるという仰せがあった、
そこで大兵衛は屋敷を清めるやら庭の掃除の下知をするやら忙しかった、
さて自分も湯に入って潔斎したのち、今か今かとご来駕を待っていた、けれども
仰せでになった時間までにいかなる御都合かして、御出でが無いので、
待ちくたびれて大兵衛は縁側へ寝入ってしまった。
その後程経てから殿様の乗り物がやっと徳田の屋敷に着いた。
すると大兵衛は心地よさげにすやすやと良く寝入っている始末であるから、
近侍の者共が大兵衛を起こそうとする、殿様は「しばらく待て」と制しながら
硯を取り出させ、筆にタップリ墨を含ませて、大兵衛の鼻へ一杯塗り付けさせられた
然る後ち近侍の者をして大兵衛を揺り起こさせられた、大兵衛が不覚の眠りを
詫びるのには耳を貸さずに殿様は
「大兵衛鏡を見ろ」との仰せである。何かは知らねどご上意のまま
自分の顔を鏡に映すと、鼻が真っ黒く塗られている。
殿様は笑いながら、「大兵衛どうじゃ、即座に一首仕れ」と言われると、
例の侏儒のことであるから、言下に次の歌を詠んだ。
鼻の色はかはりにけりな異な面に わが身湯に入り長寝せし間に
これは言うまでも無く、百人一首の中にある小野小町の和歌を詠みかえたのである。
(日当山侏儒戯言)

652 :
家蔵、山科弓
 予(松浦静山)の家蔵に山科の弓と称するものがある。
祖先からの旧物である。
金泥七所藤にして弭(はず:弓の両端)の裏に平仮名で『やましな』と銘がある。
伝来の故は記文で知ることができる。
「山科弓   一張
村(弓を削って仕上げること)は吉田六左衛門入道雪荷がなしたという。
庚子の役では唐津城主寺沢志摩守(広高)は関東にいた。
敵徒が唐津を襲おうとしたので、城兵は松浦式部卿法印(鎮信)に援を乞うた。
法印は兵を率いて唐津に到った。敵徒はこれを聞いて退散した。
志摩守感謝の余りこの弓を贈った。」
「雪荷斎が村をした弓はしばしば人々は珍重されていますが、
このように銘を出したものは稀であります。
雪荷は得意ではなかったので銘は記さないと伝わっております。
官の御物である、迦陵賓と銘がある御弓も自銘だと聞き及んでいますが、
見ることができません。
ですので、この家蔵の雪荷村の弓は最上ともいうべきでしょうか。」
とその十一代の孫吉田元謙は評した。
 これについて思うと古人が大事に当たって、弓一張の謝礼では余りに粗末ではある。
しかしこのように贈ったということは、雪荷自銘の弓は世の宝物である故なのであろう。
「庚子の役とは慶長五年の関が原の御陣のことです。
『やましな』というのは、雪荷が前に故あって山科に退居したことがあるので、
その時の作なのであろうと思われます。
官物の迦陵賓とともに、天下二張の弓といえるでしょう。」
と元謙は言った。

(甲子夜話)

653 :
吉田雪荷って親父さんたちのように誰かに仕えたりはしなかったのね
しかし達人が手ずから弓を仕上げていたのか
山科が居住地からなら迦陵賓は迦陵頻伽を射落とせるような一張りってことなのかな?

654 :
>>651
何が起きるかドキドキした

655 :
彦左衛門(久松彦左衛門)は、大献院様(徳川家光)の時代に、奥の御門番を
仰せつけられた。寿林尼が下人を、夜中に急用があって御出しになったところ、
彦左衛門は、下人を出さなかった。下人が寿林尼のことをかう<かうハ頭カ>
に担いで言うと、彦左衛門は、「俺は寿林という奴を知らぬ」と、言った。
寿林尼はこの事を聞いて、御前で詳細を申し上げ、「あのような者が御番を
致しては、奥方に召し仕える者が急用の時に通路を通れません。近頃、
迷惑なことです」と、言った。
大献院様はこれに、「その方は久松に会ったか?」と、仰せられた。「いいえ」と
寿林尼が申し上げると、「それは仕合せだな。その方が会ったならば危うき目に
会ったことであろうよ」と、仰せになった。
寿林尼が、「左様な片意地者に、御門番を仰せ付けなさるのは、いかがなもの
でしょうか」と申し上げると、大献院様は「あれは、あのようでも良きことがある」
と、仰せになられたという。
――『武功雑記』

同じ名前のせいで、後年には大久保彦左の話になってしまったっぽい。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6626.html

656 :
黒田長政が言った。
「立物、指物でも海老はねにして指すだけでは、
働く時や馬に乗り立てる時には抜け落ちる者である。
立物には穴をあけ、受筒にも穴をあけ、皮で結びつけるべきである。」
 したがって自身の大水牛の立物にも、ふすべ革で結びつけていたという。
(甲子夜話)

657 :
寛文年中の事。紀伊大納言・徳川頼宣の乗る船が、遠江沖にて荒天に出会い、海上は
茶臼を回すごとく荒れた。
しかし頼宣は顔色も平生に変わらず、船に酔った近習の者達を自身で救うなどした。
この時常の心持ちなど、ふと口ずさまれていた。題知らず
 思う事 一つ叶えば又二つ 三つ四つ五つ 六つかしの世や
人生の願い、絶え間のない実情を詠まれていた、頼宣公は高貴公達の御身であったが、かくの如き
方であった。
(武野燭談)

658 :
>>653
立花宗茂が所持していたという金溜地塗籠弓には吉田左近作って名が書かれてたな
吉田太蔵から宗茂に贈られたらしいが

659 :
>>655
三河武士なら誰が門番でも同じように通してくれない説

660 :
産湯八幡付産湯の井併井辺の大楠
あるとき田安殿の臣、山口某なる者が語った。
 神祖の御母の里で、松平太郎左衛門の祖が御男子が無いのを憂られ〔広忠公であろう〕、
三河峯の薬師へ祈願として籠られると、
その庭前で光明を発しその地を穿つこと五寸余り、そこに金像を獲た。
これから後、神祖が御生長されるとこの金像を産湯の八幡と称しその社を構えられたという。
また地を掘った穴かた清泉が湧出したので、すぐに御産湯に用いられた。
その処を指して産湯の井と呼び、いまなお在るとか。
 この井戸の辺りに楠の大木があった。
後に神祖がこれを伐られて、その材を用いて御船を造られた。
これが安宅丸(あたけまる)であると。
 
 この楠材の残片が有ったので、山口某が伝蔵していた。
それを黒羽侯〔きっと大関老侯(大関増業)であろう。老侯は殊に茶事を好んでいる。〕
が求めて茶器の棗とされた。
この器を制作されるときの切屑が存在して、
瘧を患った者に服させると瘧はたちどころに落ちたという。
以上、前後そろってない話だが、聞くままに記した。
(甲子夜話三篇)

661 :
 尾州大高の城に権現様がございました時に、
水野下野守方から、
「今川義元が殺されましたので、早々に大高の城を御引取りください。」
と報告しに来ました。
しかし家康公は
「きっと義元の御生害が誠であるのだろうが、
敵方の下野守からの知らせで城を空けて退くのは、不行届で慌てた様である。
この城でこのまま難に遭うことになっても、それは是非ないことだ。
ここで踏み止まり確かな報を聞き届けて、
証が正しいと分かった時に引き退くべし。」
と仰せられ落ち着かれていました。
そのところに、岡崎の山田新右衛門方から、
書状で申し上げられたので、じっくりとお調べまして大高をお引き退きました。
これが武道の眼つよみ第一である。

『武士としては』

662 :
鳴海の岡部元信は奮戦して義元の首を持ち帰ったけど
うんこ権現は最前線に取り残されてもうだめぽとか言って悲観に暮れてたろ

663 :
煙草というものは、我朝には文禄の末頃渡ってきたという。これは火を使ってこれを吸うので、
火を玩ぶこと常である。煙草を好む者は火の元をも忘れがちなことを嫌われ、営中においては
これを禁じられ、その法度を犯す者は必ず罰せられる事となった。
さて、幕府老中であった堀田加賀守正盛が殿中を通る時、その後には彼の妹婿であり、当時目付けであった
喜多見久太夫(重勝)も同じように廊下を渡っていた。
ところが途中、御茶部屋において煙草を吸っている様子があった。
御茶部屋の者達は二人が近づくのに感づくと、慌てて戸を閉めたが、非常に煙らせた匂い、疑いなく
煙草の香りである。
喜多見久太夫は匂いをかいで、「これは正しく煙草である!」とつぶやき、それから堀田に聞かせるように、
繰り返し繰り返し「御法度の煙草の香り、心得がたし!」と言った。
御茶部屋をしばらく行き過ぎてから、堀田は振り返ると
「喜多見殿はいつから鼻付を仰せ付けられたのか?御目付とは、目を用いる御役ではないのですか?」
そう言って先に進んだという。
(武野燭談)

664 :
>>662
>権現様「もうだめぽ」
登誉天室、夏目吉信、本多忠勝、大久保忠教「まーたはじまった」

665 :
堀田正盛もsmokerだったか?

666 :
>>664
本多平八「ガッ!」

667 :
ぬる、じゃないぞ

668 :
当家(伊東家)が(西軍についた高橋家の飛び地の)宮崎城を攻めるという内容が島津家に届いた為、(島津領の)穆佐、倉岡、綾、木脇の諸将は会合して「もし本当であれば佐土原と申し合わせて宮崎城に援軍を出し、その勢いのまま(伊東家の)清武城を攻め取ろう」と佐土原に伝えた。
佐土原もまた同様に評議して軍を準備しているところに宮崎城が落城したという内容が届いたので途方に暮れる限りであった。
縣(延岡城)の高橋家でも家老の花田備後守が宮崎城での急を聞いて不安に思ったので加勢として士卒雑兵合わせて300人余りを向かわせた。
しかし穂北村に到着した夜、宮崎城が落城して城代の権藤父子を始め城兵が残らず討ち死にしたという報告を聞いたので肩をおとして空しく引き上げた。

669 :
掃部助(稲津重政、伊東家の家臣)が考えたように、陣立てに時間がかかり宮崎城が一日持ちこたえるようなことがあれば、敵の援軍が次々と競い集まり容易に攻め落とすことは難しかったはずである。
掃部助の用兵は雷風の速さのようで、神速で攻め寄せた為に狙い通り僅か子の上刻から卯の上刻(23時から5時)までの間に城を攻め落とす大功を成した。
特に夜襲であれば必ず同士討ちがおこるものなのに雑兵に至るまでその誤りが無かったのは、朝鮮の陣以来伊東祐兵公が士卒と辛苦を共にし、家中の士もまた今一度主君を一国の主にしようと各々勇を奮い立たせ一致団結した為に巧みな駆引をしてこのようになったのだ。
黒田如水の検使、宮川伴左衛門も
「掃部助の軍略は言うに及ばず家中の諸士の勇敢なる振る舞いは筑紫の立花家の家風によく似ている」
「島津は大敵といえども恐れるに足らず。この旨を帰国して如水様に申し上げなくてはならない」
と褒め称えること限りないこととなった。
(日向纂記)
関ヶ原の裏で起きた伊東家による宮崎城攻めとそれを如水の検使が評して

670 :
今は昔、豊島郡田畑村の興楽寺へ盗賊多く入り、僧侶数多を惨殺し、霊宝、金銀等が盗まれた。
ここは江戸城家から遠くない、王子村御鷹場往還の前でもあったので、特段の捜査が行われたが、
証言をしてくる者もなく、賞金を以てこれを尋ねたものの、盗賊の同類、一人も出頭してこなかった。

その頃、京都より板倉周防守重宗が江戸に参向しており、老臣の内より、
「この悪党どもを捜し出すべき手立てはないだろうか」
と問われた。
重宗は以前からの捜査の状況を詳細に聞くと「私が一つ、手立てをしてみましょう。」と、
板を一枚取り寄せ
『賞金の黄金が過小なので、これでは申し出ることが出来ません。この倍ならば仲間の居場所を
お知らせいたします。』
こう言った内容を、いまにも読みやすいよう平仮名にて筆太に書き、あの賞金のことを知らせた
高札の側に立て置いた。
これを盗賊の張本人が見た。
「さては仲間のうちの誰かが、この板を立てたのだろう。ならば人に先を越されてはならない!」
その日の内に役所に出頭し、仲間を訴えた。これによって盗賊たちは一人残らず召し捕られ、
忽ち法が執行された。

それから後。
大老・酒井讃岐守忠勝の邸宅において物の紛失したことがあった。
色々と詮議した上で、賞金をかけて訴え出る者を待ったが、誰も名乗り出る事はなかった。
この時、ある者が気付いて密かに書付を以って忠勝に申し上げた
「先年の興楽寺における盗人御詮議の時、板倉周防守はこれこれの手立てを以って盗賊を尽く
召し捕えました。ですのでこの件も、そのようにしては如何でしょうか?」
これに、しかし忠勝は
「よく気がついたものだ。しかし周防守などは如何様にしても盗賊を捜し出すことが職分である。
私は今、大老職にある。それが仮初めにも人を陥れて利を得るというのは、職の盗というものであろう。
尋ねて解らないからと言って、どうして偽りをせねばならないだろうか。
その賞金自体を撤回しよう。」
そう申された。
(武野燭談)

671 :
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7008.html
既出

672 :
 駿府城の東北横内町御目付巡見場所、
御朱印二十一石余りの浄土宗来光寺(来迎院英長寺?)の庭には、
神祖自ら接ぎ換えた桃が有る。
 また宝物として神祖から拝領した屏風が有る。
絵は唐児遊、極採色は土佐の筆という。
これは昔神祖が御入のときに、碁を打たれていたが、
折りしも寒気が甚だしかったので、屏風を立てよとの御意見された。
しかし屏風が無いとのことを聞かれると、
すぐに御居間に有る屏風を取り寄せよと仰せられたという。
それから今でも待ち伝わっているのだとか。
(甲子夜話)

673 :
このスレ、森忠政を筆頭に忠政率高過ぎ。

674 :
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5754.html
雑談・”忠政”について
昔も同じことを言ってた人がいた

675 :
長政も見た記憶あるな

676 :
こいつの言うことがいちいちシャクにさわるのは何でだろう

677 :
鏡を見ているような気になるからじゃない?

678 :
 家康公と秀吉の御合戦の時のことです。
秀吉方から天正十二年四月に三河へ攻め込もううとしていたので、
家康公は急いで小幡へ赴かれました。
この時松平紀伊守家忠もお供されていて、
彼の嫡子の七郎家信(後に紀伊守と号す)も、父に従って出陣したいと言った。
しかし、
「今、お前は若輩である。
三河が空くので、留守をよくせよ。」
と言ってお供は許さなかった。
「若輩とは十二、三歳の事です。
勇士の子が十六歳になっても軍役を勤めないのは古法に遅れています。
是非お供させてください。」
と願うが父は許さず留守に置きました。
 しかし家信は家来を二人を召し連れて後から出て家康公の御陣所へ行き、
本多弥八郎正信(後に佐渡守と号す)を頼って始終の事を言い上げました。
その話に正信は感じられてすぐに御前へ召し出されることなりました。
「武具を持っているか?」
と御尋ねがあると、
「ようやっと家来二人を召し連れまして体で、
その上父の家忠が深く制されましたので、
所領の形原を逃げ出しましたが武具は持っていません。」
と申し上げ、朱塗りの御鎧を下されたそうです。
 その後、既に先陣にいた大須賀康高の陣脇から家信が抜け駆けして名乗り、
秀次の物頭野呂孫太夫の大剛の兵に槍で突いて首を取り、
采配に添えて、家康公へ実検に入れました。
家康公はこの武勲に甚だ厚くて感じられ、家信は御感状をもらったそうです。

『武士としては』

679 :
三好長慶には不義無道の名のみ有りて、風流のことを人は言わない。
たしかに、公方光源院殿(足利義輝)を弑し天下を奪おうという逆罪は論に及ばぬものであるが、
その当時の風俗として、君父を害して国を奪う輩は、挙げて数えがたいほどあった。
戦国に人道を喪うこと、日本に限らず、中華五代の頃の風俗も皆そのようなもので、独り三好松永を
憎む事ではない。
三好長慶は敷島の道に心を寄せ、殊に連歌に高じていた事は、諸書に顕然である。
居城において連歌興行あった時、『薄にまじる 芦の一むら』という句に連座上の句を付けあぐねていた。
やや時移った頃、河内より飛脚が到着し、急を告げた。長慶は書状を見ると、くるくるともとに戻し、
なんでもない体にて
『古沼の 浅き方より 野と成りて』
と付け、その場の者達はこれに感賞した。すると長慶は
「河州に於いて舎弟実休討ち死にの知らせがあった。今日の連歌は是迄である。
弔軍に、今打ち立たん」
そう即座に命じて出陣したという。
変を知りて騒がず、連座が付けあぐねた上の句を果たした後に、変を披露し、しかも即座に
出馬したこと、流石長慶とも言える武将としての優美さではないか。これらは賞すべき事である。
最近、なにげに怪談の双紙を読んだ所、この連歌の付け合いを、宗祇に付け言わせていた。
宗祇が旅行の最中、何れの国の某村に妖しい屋敷が有り、妖しきものが出て
『薄にまじる 芦の一むら』と言う句を吟じ、泣き叫んで止まず、と所の人が語るのを宗祇が聞いて
「私がその屋敷に泊まり、これを止めよう」と、かの屋敷に泊まって様子をうかがっていると、
案の如く丑三つ頃に幽霊が出て件の句を吟じた。この時宗祇、『古沼の 浅き方より 野と成りて』
と一句をつけると、幽霊は感服して消え失せ、その後出ることは無くなった、と書かれていた。
これは浮説である。長慶の事こそ事実である。
その他、高師直なども、太平記には無骨な東夷のように描かれているがそうではない。師直は歌人である。
撰集にも彼の詠んだ歌が入れられている。
伝説というのはこのような御聞が多い。
箱根にある「曾我時致の文」というのも、実際には曾我時致の物ではない。あれは北条時宗の
書いたものである。
(翁草)

680 :
諸人之を仰ぐこと北斗泰山
と長慶は敬われていたらしいが

681 :
道灌公と猿
http://i.imgur.com/h8LjG3u.jpg
折檻された例のイタズラ猿かと思ったら、
熱川温泉は猿が温泉に入っているのを道灌公が見つけて開湯されたとの事。

682 :
信長と若き日のラスボスでも通用しそうだな

.....なわけない

683 :
山下金之助
 幕府旗本の人々はいずれも旗本となった由縁がある
広く聞いたらさぞ名家が多いのだろう。
 林子(林述斎)は近頃、山下金之助と女子の結婚を仰せつけられた。
その家を林子に問うと、
その家の家紋は三頭の左巴、または井桁を用いる。
井桁の家紋は神祖から拝領して、殊に重用しているという。
 そのわけは、神祖が駿府にございました時、
御狩の御供をしていると、大猪が出てきて皆狼狽した。
そこへ山下は刀を持って猪に対面し、井桁に押し付けて仕留めた。
その後継を間近でご覧になられて、
御感賞のあまり着られていた紫縮緬御紋付の御陣羽織を脱がれて手ずから贈られ、
かつこの後に井桁を家紋とせよとの上意があったのでこれを用いたという。
その御陣羽織は今も家に秘蔵しているという。
元祖は綱義。弥蔵、または文十郎と称し、広忠公に奉仕し、安城で討ち死。
二代は義勝。弥蔵、または庄大夫と称し、神祖に奉仕し、関ケ原、大阪両陣をお供した。
三大は周勝。弥蔵と称し、父とともに両陣をお供した。
その後、駿府の御狩にお供した人である。
このひとから金之助は七世の孫という。
(甲子夜話)

684 :
井桁の家紋か
いいかもん

685 :
今じゃ!
>>684の頭上に熱々の糞尿をぶっ掛けるのじゃ!

686 :
 大阪御帰陣の時に、御道筋を船場までと仰せられました。
その後、玉造口までと仰せ出され、また船場口へと仰せ出されました。
小荷駄などはこの道筋をつかうようにと御下知があったので、
見物の群衆があちこちにできたところを、
入れ替わりに堀際をお通りになられたという。
御深意の程ありがたいことです。
『武士としては』

687 :
心省よりこの方、(今川家は)代々公方家の族臣として、武功の将種であるが故に世々
公方の御懇志を受け、戦国の最中にも世を奪われず威勢は甚だ盛んなので、
武恩に誇るのみならず、弓馬の道は言うに及ばず、和歌、連歌、蹴鞠、茶湯の事までも
この家には名人が多く、その家風は他より優れて、代々器量の臣下は少なくない。古き
高家であればこそである。
それ故、世俗の諺にも、“公方絶ゆれば吉良継ぎ、吉良絶ゆれば今川継ぐ”と言われて
いるのである。もっとも、さもあらんことではなかろうか。
心省入道より七代の後胤・今川五郎氏親、後には上総介と号す。氏親は先祖に劣らぬ
名将であって、戦国の時代に巡り逢い、駿河・遠江2ヵ国を領知して、
三河国をも大半は切り従え、あまつさえ戦国の世の一統を志し、公方家を再興せんが
ために、上洛の望みを持っていた。尾張の守護代・織田一党は主君・武衛(斯波義達。
左兵衛佐)の命を受けて今川に敵対し、三河を争い、合戦に年月を送るところで、
氏親はいつしか病死した。増善寺というのがこれである。その子・氏輝は早世した。
臨済寺がこれである。氏輝は実子がいなかったので、その弟の禅僧で、善徳寺に
いたのを還俗させて家督を継がせ、これを今川治部大輔義元と号す。
義元はよく父の志を継ぎ、よく父のことを述べ、文武に達した名将なので、なんとしても
三河・尾張の両国を切り従え、上洛せんと心掛けていたところ、三河岡崎の城主・松平
三郎清康は、幸い今川の味方となって尾張へ向かって敵対し、たびたび合戦に及ぶ
ことがあった。
ついに天文4年乙未12月、清康は大軍を率いなさり、織田筑前守が籠る尾張森山の
城を攻めなさった時、清康はにわかに卒去なされたので、たちまち三河の諸勢は森山
を退陣して、分国へ引き返した。その折、尾張の将・織田備後守信秀は、
筑前守の急を救い、かつまた、先君・武衛を助けて三河を治めようと自身で8千の人数
を率い、三河伊田の郷まで相働き一戦を遂げ、青山、植村、林、高力父子を討ち取った。
――『織田軍記(総見記)』

688 :
当時の織田家に8000も動員できたんか

689 :
出雲少将・京極若狭守忠高が死去した時、実子がなければ領国を改易するのがその当時の決まりで
あったため、忠高の領地は召し上げられるという事となったが、かの京極家は数代の名家であったため、
将軍家光も惜しく思われ、忠高の甥である刑部大輔高知にかの家を相続させ、京極家の本領である
大津六万石を所領させるように、との沙汰があった。
これについての評議の場で、幕府重臣たる井伊掃部頭直孝は反対した
「京極家と鳥居家は、双方慶長五年の関ヶ原にて籠城した人々です。その上で一人は城を守って
討ち死にし、一人は城を開いて立ち退きました。
そして、京極家は百年を重ねた名家であるからと、その子孫には出雲・隠岐二十四万石を与えられました。
鳥居家は当家御譜代であり、その節死もあり、それら忠義を思し召し、元和八年羽州最上にて、
二十四万石を与えられました。
ところが、鳥居伊賀守忠恒が早世して子無き故に、去る寛永十三年でしたか、その苗字ばかりを残され、
忠恒の弟である主膳正忠春に三万二千石を下されました。
それなのに、京極刑部に六万石は多すぎるのではありませんか!?」
人々、直孝の理に納得したが、これを聞いた酒井讃岐守忠勝は
「掃部頭の申される通り、大津・伏見の籠城の功、鳥居が討ち死にしたのも、京極が城を開き
渡したのも、その功に勝劣はない。何故ならば、京極が大津城に立て籠もったために、上方勢2万余りが
関ヶ原に向かうことが出来なかった。すなわち二万の敵を京極高次一人が支えていたのだ。
また、それぞれの家について吟味するなら、鳥居は三河侍譜代、京極は御当家同列の大名であった。
我々のような譜代は、子孫が如何様に召し使われ、領地残らず召し上げられ、御扶持米で
召し使われることと成っても、どうして不満を申し上げるであろうか?
そのような異議を申し上げない所が、御譜代の第一の慎みである。
また将軍家も、父祖の功を思し召されたが故に、鳥居彦右衛門(元忠)の本領(下総国矢作領)と
同程度の石高を与えられたのだ。
京極家も一旦御味方申して、終始志を翻さなかった。
これらから考えれば、大津の禄六万石はかの家の本領であり、御当家の御恩ではない。
しかし本領と同程度の石高を以って京極家を存立させるのは、御当家からの御恩賞となる。
御譜代と諸侯との違いを、誰が批判するであろうか。」
これに、人々はまた尤もであると評議一同して、上達の上にて讃岐守が言ったように
京極高知には六万石が与えられ、大津ではなく播州龍野の領主に仰せ付けられた。
その後彼は、萬治年中に讃州丸亀に転封した。
(武野燭談)

690 :
>>689
名裁き!

691 :
可児才蔵、宝蔵院に槍法を学しこと 付宝蔵院槍を持せ 併十文字を月剣と呼ぶこと

 宗耕の話である。
ある時、可児才蔵が宝蔵院に言った。
「我は元来槍法を知らない。槍はいかにして勝を得るのだろうか」
院は答えた。
「上段、下段、相、かぶり、の外になし。」
しかし才蔵は解らなかった。
主人の福島左衛門大夫(正則)へこの術を習おうと報告した。
福島は許し、可児はすぐに奈良に行き数日院からこの術を習った。
帰って戦場へ赴いたが、かえって怯心が起きて進むのが難しくなった。
よってまた奈良へ行き、このことを嘘偽りなく告げた。
院は言った。
「まだ半分しか知っていないな。」
可児はさらに数ヶ月学んで、術を得て帰った。
これより後では敵の槍道を観ること明らかとなり、まさしく我が勝路を得たとか。
 この宝蔵院は今、代替わりのときには関東に下って拝礼をする。
この時僧の供に槍を持たせるとか。
 宝蔵院は退隠したら観音院と号す。
この院では、十文字と称さず、月剣と呼ぶ。
これは元祖宝蔵院は、もとは直槍であったが、あるとき、
八日の月影が水面に映るのを視て、
「あわれ、直槍にこのように横手を加えたいものだ」
と思ったとか。そこで十文字の形を作って、月剣の名があるという。
(甲子夜話三篇)
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2528.html
これの別varかな?

692 :
加賀爪忠澄の名裁き
伊達政宗との拳と拳の語り合い(?)でも知られる旗本・加賀爪忠澄が南町奉行を務めていたときのこと。
一人の男が、キリシタンの存在を訴え出た。
被告は男の兄であった。名は梶原伝九郎といい、甲斐の浪人であった。
当時はキリシタンを訴え出ると、賞金をもらうことができた。
一見すると、兄弟仲が悪く、また賞金目当てのように見える。
さて、忠澄が評定所で二人を対決させると、伝九郎は罪を認めたため入牢させられることになった。
賞金をもらえることになった弟はさぞ大喜びかと思いきや、なんと涙を流しているではないか。
不審に思った忠澄が調査したところ、梶原家は甲斐武田家に仕えていたが、その滅亡後は貧窮に陥り、伝九郎兄弟は父母を養うことができなくなり、ついに自分を訴え出て、その賞金によって父母を養うことを図ったことがわかった。
その孝心に心を打たれた忠澄は将軍・家光に報告。家光もまた感心し、伝九郎に金を与えることとなった。
そして家光の弟であり、武田家と縁もある会津藩主・保科正之もまたその心がけを高く評価し、伝九郎は会津藩士として召し抱えられることとなった(家世実記)。

孝心がしかるべき人に評価されて報われたお話でした。

中村明彦「乱世の名称 治世の名臣」

693 :
伝九郎は棄教したってことだよね?

694 :
 沼田の御方勇力の事
中務太輔忠勝の男女の子共皆武勇のほまれ有
まつ第一の娘おますと号するは、
家康公御養女として後に真田伊豆守信幸に嫁す
これを沼田の御かたといふ
此沼田の御方勇力無双にて、父のゆつりを得て剛騒なり
尤賢女の道を正しうして、貞女の操をうしなわす、
家康公ふかく是を感心し給ひて、御寵幸を蒙り奉る

ある時、沼田の方、信州まつ代の城下にて花見の返るさ、
とある松の木の元に立ちやすらひけるに、
八寸まわり計の下枝、地をする計はゐさかりて、
其さまおもしろかりけるに、皆人申しけるは、
此枝を手折て立花にさゝは然るへからなんとたはむれるに、
沼田の方聞て、いと安き事なり手折て家つとにせんとて、
打かけのすそいさゝかからけつゝ彼木の元に立より、
なんの苦もなくくたんのえたをふつ、とねち切れれは
有合女中はいふにおよはす付々のさふらい迄、
大きに其力量を感しけり
(後略)
(九六騒動記 第六)
本多家には、小松姫が怪力だったって伝えられてたんだね

695 :
てっきり根っこごと引っこ抜くのかと

696 :
>>689
そういえば関ヶ原は近江勢vs尾張勢の戦いとかいう話があるけど
近江守護だった京極氏の京極高次籠る大津城の戦いと、
尾張守護代だった織田氏の織田秀信籠る岐阜城の戦いが
大勢を決した、と言ってもいいかも
問題はそれぞれどっち側で戦ったか、だけど

697 :
(桶狭間の戦いの時、)さて、信長公が「今日の合戦は首を取るべからず! 打ち捨て
にするべし! この戦場へ出た者は家の面目、末代の高名であるぞ!」と、諸勢を
勇めて攻め掛かりなさると、
先駆けの前田犬千代(利家)生年18歳、毛利河内(秀頼)、森十助、木下雅楽助、
中川金右衛門、佐久間弥太郎、森小介、安食弥太郎、魚住隼人などが高名をなし、
手に手に首を持って来た。
信長公は御感あって、「皆々旗を巻き、忍びやかに山際まで押し付け、敵勢の後ろの
山を押し廻り、義元の本陣に打って掛かれ」と下知しなさった。この時、簗田出羽守
が申し上げるには、
「敵は今朝鷲津・丸根の両城を攻めてから未だ備えを変えていないはず。この分にて
攻め掛かりなされば、敵の後陣は先陣となりましょう。只今、この口より突き掛かって、
差し向かいなされば、必ず大将・義元を討ち取ることでしょう!」
とのことで、これは甚だ御心に叶うと信長公は御満足なされた。さて、忍んで山際を
御廻りなさると、にわかに急雨が降り、石などを投げる如く敵の顔へ風が吹きかけた。
敵にとっては逆風、味方には後ろから吹く風である。余りに強い雨風で、沓掛の山の
上に生えている、二峡三峡の松の木や楠の木なども吹き倒すほどである。
「これは只事ではない。熱田大明神の神戦、神風か」などと、言うほどであったので、
味方の大勢が廻り来る物音は、少しも敵には聞こえなかった。

698 :
かくて雨の晴れ間を御覧になり、晴天になると等しく、信長公は槍を押っ取り真っ先に
御進みになり、「掛かれ掛かれ!」と大声をあげて下知しなさるところを、森三左衛門
(可成)が申し上げて、
「味方が下り立ち攻め掛かれば、敵はきっと備えるでしょう。ただこのまま馬を入れて
乗り崩しなされ!」と言い、信長公はもっともであるとして、
毛利新助(良勝)、林佐渡守(秀貞)、織田造酒丞(信房)、簗田出羽守、中条小一郎
(家忠)、遠山甚太郎、同河内守等が、大将に打ち続いて一度に馬をどっと入れ、
その勢いは勇みに勇んで黒煙を立てて駆け破れば、敵陣は思いも寄らぬところへ、
にわかに攻め掛かられ、心ならずも後ろへさっと崩れてしまった。敵どもはあまりに
慌て騒ぎ、喧嘩かと言う人もあれば、謀反人や裏切りかと思う人もいた。
取り捨てられた弓や槍、鉄砲、旗指物は算を乱すに他ならない。なかでも、義元の乗り
なさっていた塗り輿を捨て置いた。信長公はこれを御覧になり、「敵の本陣に疑いなし!
ますます追い詰めよ!」と、同未の刻、東へ向けて追い掛けなさった。
初めは3百ばかりの敵が義元を囲んで退いたのだが、繰り返し繰り返し追い付かれて
2,3度、4,5度取って返しては討死し、次第に次第に薄くなった。後にはようやく50騎
だけが取って返して戦っていたところへ、
信長公を初めとして皆々が馬から下り立ち、若武者は互いに先を争い、しのぎを削って
鍔を破り、切っ先からは火炎を出して散々に戦う内に、手負いや死人は数知れず。
今川義元は無双の勇者であり、なおここまでも騒がずに諸勢を下知しておられたところ、
織田方の服部小平太(一忠)が槍で義元を突き通した。義元は太刀を抜いて小平太の
膝の口を一刀で切り割きなさった。
小平太は尻もちをついて切り付けられ、起き上がることが難しいところを、毛利新助が
やって来て隙間なく切って掛かり、義元の首を取ろうとした。義元は組み伏せられ、
すでに、刀で切ることも叶いなさらず、新助の人差し指に、がばと噛み付き、ついにその
指を食い切りなさった。新助はもとより強かな者なので指を食い切られながらも押し付け、
義元の首を取った。義元はこの年、42歳であった。
――『織田軍記(総見記)』

699 :
今日の大河のネタバレされた…
まさか先週あんなに勝ち誇っていた今川義元が
桶狭間で殺されるなんて…

700 :
確か首とられて脱糞するんだっけか

701 :
桶狭間の再現をしようとして、
糞漏らしの称号を得た権現様の悪口はそこまでだ

702 :
豊臣秀吉の死後、徳川家康伏見在住のとき、或る夜密かに、徳川屋敷にこのような情報が流れた
「今夜大阪より、我が君に御生害を進めに来るようだ。」
家康もこの情報に接し、井伊直政を呼んだが居らず、一時(約2時間)ばかり過ぎて、外より
馬を駆けて帰ってきた。すぐさま御前へとでたが
「汝はこの夜中にどこに行っていた」
と尋ねられると、直政
「されば、今日の暮方より、屋敷内にて、なんとも怪しい風聞を聞きました。それ故不審に思い、
外の状況を確認しに出かけたのです。
流石に殿ほどの御弓取りに対し、大阪より御生害を進められるというのは只事ではありません。
万一にもこれが事実であれば、京・伏見に参勤の大名・小名が、この御館廻り、その他の辻々、所々に
押し寄せるでありましょうから、御館の近辺は申すに及ばず、近郷まで偵察し、少しでも心もとない
場所を見廻りましたが、どこの道も静かで、怪しいことはありませんでした。」
こう申し上げると、徳川屋敷での騒動は忽ち静まったという。
この風聞は江戸でも取り沙汰され、「内府公は御生害された」と言うものまであり、
これを聞いて江戸より、我先にと京へと馳せ登った。
さればその人々は、その日の未の刻(午後2時)から申の刻(午後4時頃)までの間に追々出立したが、
伏見に到着するのは遅速あって、早い者では3日、遅い者は5日で到着した。
瀬田の橋では昼夜3日の間、内府の人数が途切れなかったそうである。
こうして到着した人々が家康に御目見得した所、「お前たちはどうしてこちらに上がってきたのか」と
尋ねられ、しかじかの理由を申し上げると、
「何者がそういう事を言いふらしたのか知らないが、心やすく思うように。ゆるゆると休息し、
上方が初めての者達は、京伏見も見物して帰るように。」
そう仰せ下した。
これだけではなく、秀吉薨去が発表に成ってから、巡礼に出かける関東の百姓や御領分の民たちまで
聞伝えに、我も我もと伏見の御館に馳せ参ったそうである。これは領民たちも、大神君の神恩に
起伏した故なのだろう。
(武野燭談)

703 :
    ___________
   /|:: ┌──────┐ ::|
  /.  |:: |  今川義元  | ::|   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  |…. |:: |2万5千で上洛| ::|   | よし、決まったな!風呂にでも入るか
  |…. |:: |          | ::|   \_ ______
  |…. |:: └──────┘ ::|      ∨
  \_|    ┌────┐   .|     ∧∧
      ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ∬  (  _)
             / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄旦 ̄(_,   )
           /             \
           | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|、_)
             ̄| ̄| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| ̄
   〜30分後〜
     ___________
   /|:: ┌──────┐ ::|
  /.  |:: |  桶狭間で  | ::|   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  |…. |:: |義元討ち死に| ::|   | ふう、いい湯だった…アレ?
  |…. |:: |          | ::|   \_ ______
  |…. |:: └──────┘ ::|      ∨
  \_|    ┌────┐   .|     ∧∧
      ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄     (  _)
             / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄旦 ̄(_,   )
           /             \
           | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|、_)
             ̄| ̄| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| ̄ 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f)


704 :
真田幸村の遺跡付秀頼
 続編の五巻に、松代侯の物語を記した中に、幸村が薩摩にいたことを言った。
その後薩州の者との文通を見せてきた。
「熊本藩の斎藤孝寿(孝寿は、権之助と称す。細川侯の町奉行。犬追物に精通す。)が甲寅(1794年)に南の方薩摩へ遊行した。
官工の伊正良に刀剣を造らせるためであり、ここに三十日程いた。
かつて私は『豊公秀頼は大坂城を逃れて、西の方薩摩に逃れた。』というのを聞いた。
もしその事があるのなら、必ず墳墓や子孫があるはずだ。
この地で北や南、西から東へ行き広く尋ねたり相談したりして求めたが、
邦の人々は皆知らないと言う。
ところがある人が言った。
『遠く府の南三十里に谿山市という市が有る。
その西隣に一村落が有る。名を木下という。』
たぶんその所だ。私は一日ここへ遊びにいき、近くの諸村老に『豊公の家の跡はあるか』と問うた。
その広さは一段ばかりで、中に二松有る。その大きさは両手で三回抱えるほどであった。
枝葉は霞の中に生い茂り、花の香りは遠近にたちこめている。
ここがまさしく豊公の居た所だ。
その距離東に百歩ばかりに一小堂があり、仏が安置されている。
その側に多くの墳墓がある。そのなかで抜きん出て偉大なものが豊公の墳であろう。
その後ろに墳が有り、すなわち臣僕の墓だという。銘が皆明らかではない。
その廃墟に家にしているものがおり、脇木下という。(本木下は本家で、脇木下は別家という。)
その北へ五・六十歩ぐらいのところの家に住んでいる者が本木下という。
私は秘かに聞いた。
元和の役で、豊臣公は秘かにその臣の真田幸村等と謀り、大坂城で死んだと偽って薩摩に逃げたのだと。
豊臣公は谿山に在り、真田君は頴娃に在ったという。
しかし世人はこれを知られるのを恐れ、よってその名を悔い改めて木下としたと。
これから後世の人は遂に邑の名を木下と言った。
公の人となりは甚だしく肥大で、身長は殆ど六尺。
公は常に都下に往来し、酔えば必ず道路に縦横した。
真田君のなりは役小角の遺風のようだった。これらから今に至っても諺で
谿山(タニヤマ)ノ酔人(エクロ)、頴娃(エノフ)ノ山伏と也云々
(エクロは薩摩の方言で酒酔人を言う。秀頼、薩摩で大酒であったことは前編四巻にも見える。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9987.html
河村宗澹曰く今の番頭役谿山孫右衛門は秀頼の末葉だそうだ。但し、谿山の苗字は多くあるが統は右孫衛門だと話した。)」
 これに拠れば、幸村は大坂で戦死してはいない。大助もまた、第五巻松代侯の話を証拠とすべきだ。
これも生害ではない。また秀頼の容貌もここで知れる。またすでに前編六十一巻にもこのことを記した。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10006.html
通観すべきだ。
(甲子夜話続編)

705 :
>>704
>木下
改名がガバガバすぎて草

706 :
しかも都下(繁華街?)の路上で泥酔とか目立ちすぎw

707 :
或る本によると、豊臣秀頼は大阪落城の後薩州に下向されて島津家を頼み蟄居、
種子島蔵人と改名されたという。
寛永の頃、京都の具足師何某の所に、薩摩より鎧の修復が依頼された。
具足師はそれを見るや
「この鎧は常人の所持するようなものではない。かつて太閤秀吉公がお召になったという
鎧についての言い伝えと全く同じだ!」
そう思っていたが、その後再び具足の修復を依頼され、その具足には『先年秀頼公御召の具足』
と有り、先の修復の時の疑問が解決したと言ったそうだ。
また伊勢奉幣の目録に、『豊臣某』と書かれているものもあるとか。
(翁草)

708 :
さて、吉法師殿(織田信長)を名古野(那古野)の城に差し置きなさり、備後守殿
(織田信秀)より、林新五郎(秀貞)、平手中務(政秀)、青山与三右衛門(信昌)、
内藤勝介、この4人が家老に付けられ、もっぱら傳り立て奉った。台所(財政)の
賄いは平手中務が奉行したということである。吉法師殿は内外共に、ことのほか
困窮しておられた。
成長に従い天王坊という寺へ毎日登山して、手習いをなされたが、すでにその頃
から気性は異相にして世の常人とは違っていた。信秀は古渡の新城におられた。
台所賄は山田弥右衛門がこれを勤めた。
かくて天文15年に吉日良辰を選び、吉法師殿は四家老を召し連れ、古渡の城へ
参上なされて、その城内で元服なさった。御歳積もって、13歳ということである。
備後守殿は怡悦なさり、上下の身分とも御祝いの酒宴をなさった。すなわち御名を
織田三郎信長と付けなさる。
翌天文16年、信長公は武者初めとして三河へと御出陣となった。この時、信長公
は紅筋の頭巾と羽織、馬鎧の出で立ちだった。これは、平手中務が計らい申した
ということである。
さて三河へ至り、今川家から人数を籠め置いていた吉良大浜という場所で信長公
は民屋を焼き払い、その日は野陣を張って一宿され、翌日に名古野へ帰陣された。
これが信長公の陣初めである。
――『織田軍記(総見記)』

709 :
宿舎を焼いて寒空の下で泊まるなんてバカな奴だな

710 :
家康「というわけで信長公にあやかるため、秀忠の傅役には青山と内藤をつける」

711 :
慶長十七年(1612年)八月、島津忠恒は駿府の大御所徳川家康の歓心を買おうとしたのか、
琉球の草花を献上した。献上された草花のリストは
・仏桑花(ハイビスカス)一本
・山丹花(三段花、イクソラ)四本
・千年草(ドラセナ、幸福の木)一もと
・アダンの木二本
・からすの花三もと
・しろゆり根三十
・よなふ木(ガジュマル?)一本
(『鹿児島県史料 旧記雑録後編四』九四三号)
初めて見る亜熱帯植物に、家康はとても喜んだようで、
側近の山口直友から忠恒に礼状が届いた。
(『鹿児島県史料 旧記雑録後編四』九六九号)
「先度お上せいただいた三丹花(山丹花)や仏桑花を(伏見から)駿府に送ったところ
(家康が)一段とご機嫌」だったとあった。
家康も大いに満足し、来春もさらに気に入った草花数種を送って欲しいと所望している。
面白いのは、続けて「お上せの間に(草花が)枯れかかったので、私の手もとに置いてよく育てました」
とあることです。
ハイビスカスや山丹花が一時枯れかかったのを、山口直友が懸命に手当てして回復させたらしい。
(その時の時期は初冬の頃)
山口さんお疲れ様です。
※山口さんがどんな手当てをしたかというと、部屋に置いたハイビスカスや山丹花の周りに火鉢を
いっぱい周りに囲んで暖めたそうです。
(参考 さつま人国誌、全国都市緑化かごしまフェア 花かごしま2011での展示史料より)

712 :
さて、信長公は17,8の御歳まで、特別の御遊びをなさらず、朝暮武芸を御好みになり、
日夜合戦の御嗜みであった。
弓の師は市川大介、鉄砲の師は橋本一巴、剣術の師は平田三位で、この者どもを
毎日召し寄せて稽古しなさった。朝夕、馬に乗りなさったが馬も優れた上手であった。
3月から9月までは、河水の遊びを御好みになり、たいそうな、水練の達者であった。
その頃、若侍どもを呼びなさり、竹で叩き合わせたのを見なさると、
「とにかく、槍は短き柄は良くないであろう。長柄に優ることはあるまい」と、仰せになり、
三間柄、あるいは三間半の柄で槍を拵えさせなさった。
その頃、信長の御行儀は甚だもって異相であった。日頃着なさる帷子の両袖をほどき
なさり、半袴や燧袋など、色々数多のものを身に付けなされた。
御髪は茶筅頭に紅糸、あるいは萌黄糸などで巻き立て結いなさり、太刀は朱鞘で皆
ことごとく赤武者の出で立ちにするよう仰せ付けなさった。
さてまた、鷹狩りを御好みになり、鷹野に出なさる時に毎度町を通りなさると、人目を
少しも憚らず、栗や柿、梨を馬上でかぶり食い、町中では立ちながら餅などを食い食い
通りなさった。
あるいは人に寄り掛かり、または人の肩に取り付き、連なりぶら下がって通りなさった。
その頃、世間は古風を慕って人は皆公方家の礼義を忘れず、儀式を好む世であった故、
このような異相であったから、近国や他国は押し並べて「織田信長は類なき大うつけ者」
と、申し合った。
――『織田軍記(総見記)』

713 :
三男坊だしええやん

714 :
順序は関係ない
嫡男やし

715 :
寛永年中、島原表での一揆の折、諸手へ旗本より軍場御目付を遣わされるにおいて、人々は
大阪にて戦功あるものが仰せ付けられると思っていた所、思いの外、脇の人々の中より選考された。
これに居並ぶ老功の勇士たちが嘲笑っている中、何某とか言う若輩の人物も、御目付として選ばれた。
その人物には、幕府重臣・酒井備後守忠朝よりその旨申し渡され、彼も面目を施し、
お請け申しているその半ばに、控えの間より大久保彦左衛門が声高に言った
「世も末になったものだ!若輩の者共が軍奉行だ御目付だと言って戦場に向かう。
どれほどの功が立てられるものか!
座敷の上の軍場とは違い、料理を食うようにはいかないのだぞ!」
その嘲りの声殊の外高く、かの何某はこれを聞いて、控えの間に戻るとそのまま彦左衛門の居る
席に向かい、彼と言い合いを初めた。
この一座の者達も、みな痴れ者ばかりであったので(一座の輩、何もしれものの集りなれば)、
口論を止めようともせず、あわや事に及ぼうとする時、酒井備後守忠朝が聞きつけ
この部屋の障子を押し開くと、この何某を呼びつけ
「其方が左様な不覚悟とは誰も知らなかった。だから今度の選考に推薦したのだ!
大事の御使を承りながら、彦左衛門などと口論するなど、甚だ以て不届きである。
早々に支度して、罷り立てられよ!」
そう荒々しく言いつけると、何某もすぐに退出し、島原へと向かった。
その後酒井は彦左衛門に向かい
「其方はその老功や御役柄で、人が許すからと言いたいばかりを申される。
若き者は、何の功で武辺を得たかなど、誰のことであっても耳にかけようとするが、
貴殿からは鳶ヶ巣城の一番乗りの自賛を、毎度承っている。
その頃は16歳の初陣の高名と申されたのを、私も覚えている。
であるのに、その貴殿が今の若者に、彼らが若年にて高名できないなどという批判は心得がたい。」
そう、言葉穏やかに言うと、さすがの彦左衛門も閉口し。酒井は奥に戻っていった。
この後彦左衛門は同僚に向かって
「讃岐守(酒井忠勝 )の子(忠朝)は油断できないな。若いが理屈をする。恐ろしい恐ろしい。」
そう、賞美したとか。
(武野燭談)

716 :
?三州山中八幡の事
 三河国額田郡に山中八幡宮という社がある。
御朱印高百五十石である〔この社は文武天皇三年秋九月九日影向したという〕。
親氏君、広忠君が信仰されて宮を造立された。その時の神職を竹尾二郎左衛門尉という。
神君御誕生のときには御代参として本多平八郎が詣でられたという。
〔本多系図に、忠勝の父、祖父も皆平八郎と称す。この二人のどちらであろう〕
 本願寺一揆のとき白鳩二羽舞い上がった。
これから舞木というのを改められ舞上八幡と称し、
その山を御身隠山と称することという上意があった。
 神主数代は三河州の所々で御戦に随従し、代々に武功戦死の者も出し、今も御感状数通を持ち伝えている。
関東御入国の後は専ら神職を勤めるよう命ぜられ、当代は竹尾但馬と称している。
ただし任官はせず代々無位で武士であるという。
このことを癸未(1823年)の春に、隣宅の但馬が来て語ったのを記した。
(甲子夜話)

717 :
慶長19年、大阪冬の陣和睦の際、大阪城からは木村長門守重成を以て、神盟の御判元拝見に
さし寄越された。木村は家康の御座近くに参るための支度はしていたが、彼の気色が怪しいため、
家康側近くの者達は、彼を遠ざけ置いた。
この時、大阪城へも豊臣秀頼の判元を確認するため、幕府より使者が遣わされたが、人々は
「きっと侍大将の中から選ばれるだろう」と噂していた所、『若者のうちより、分別があって
事がもし破れたときに一己の働きのできる忠士』として、板倉内膳正重昌が選ばれた。
家康は重昌を召すと「和睦の誓紙を見て参れ」と命じた。
板倉重昌はこの時18歳。近習として召し使われ、心やすく思っている者であったので遣わされる、
との事であった。
大阪においては「関東勇功の老臣が派遣されるであろう」り心支度していたものの、それは相違した。
さて、板倉重昌は秀頼の御前に出て、御判をされる時、座を立ってその膝元に寄り、左右を顧みて
申し上げた
「右丞相(秀頼)の御器量、関東にて承り及ぶよりも、ことに勇々しく見奉りました。
関東にては秀頼功の御膝が、扇子丈ほどもあると承り伝えられているばかりであります。
このような機会に拝し奉り、関東への土産としたいと思います。」
そう言うと腰の扇子を抜いて座を立ち、膝を計ろうとするふりをして、御判元をしっかりと確認した。
その後秀頼より、「宛名は何処にすべきか」と尋ねられた。重昌は
「その事について特別に仰せ付けられてはおりませんが、関東・大阪御和睦の儀にて候へば、
現代の将軍である秀忠公に宛てるべきでしょう。」と申し上げた。このため宛名は
『江戸将軍へ』と書かれた。
この頃徳川家康は「内膳正に第一に言っておくべきことを忘れていた!」と、大変気にしている様子だったので、
人々は「一体何事だろう」と心配していた所、重昌は程なく帰ってきた。この報告を受けると
家康は御次の間まで出てきて
「どうであった内膳、判元を見て参ったか。
実は第一に申し付けるべきことを忘れていた。此の方の宛名は何と書いた?」
重昌畏まって
「その段、仰せ付けは承りませんでしたが、関東・大阪御和睦でありますから、新将軍家へと
望みました。」
そう申し上げると、家康は甚だ御機嫌にて「でかしたり!でかしたり!」と、大いに喜び、
また全体の首尾が報告されると、一入感じ入ったとか。
(武野燭談)

718 :
 秀頼公の乳母子木村長門守(重成)は忠義の士で、二十三歳で忠死をとげた。
かねて討死を心掛けていたので、髪に伽羅をとめていた。
安藤長三郎がその首を挙げまして、家康公が御覧になられました。
空焼きの匂いをかがれて、
「いつの間にかような心付きをしたのか。殊勝な若造だ。」
と上意があったとのことだ。
『武士としては』

719 :
平手中務丞政秀は思案を廻らし、何とかして清洲勢(織田大和守家)を味方にし、
一国の乱を静めようとして、様々に和睦のことを取り扱ったが、
清洲の家老・坂井大膳、同甚介、河尻(与一)らの同意なくして、年内<天文17年>
は打ち過ぎた。ようやく翌年の春の末に、互いに同意して差し障りなく和睦させた。
政秀はそもそも優美な男であったため、その頃、大膳、甚介方へ和睦珍重の旨の
書札を遣わした。その端に一首の古歌を書き付けたという。
「袖漬ぢて 結びし水の 凍れるを 春立つ今日の 風や解くらん(紀貫之の歌)」
――『織田軍記(総見記)』

720 :
徳川家康がある時仰せに成った
「右兵衛督(徳川義直)、常陸介(徳川頼宣)の両人に、近日武具着初めをさせるので、
あらかじめ準備しておくように。」
御武具方はこれを承り。黒糸縅の甲冑、ならびに弓矢、陣太刀、鞭、采配、軍配扇など、
注文通りに揃えた。
その頃、この武具着初めについて下々からは
「現在、右兵衛督殿の御爺などと称せられている平岩主計頭親吉は、それほど高名は聞こえないが、
上の御覚え他に異なり、また常陸介殿に付けられている安藤帯刀は、武勇冥加の侍であるから、
きっと両殿の御武具は、この両人が召させるのであろう。
尤も平岩は戦場に勇ある人物ではあるが、安藤と比べては、なかなか同日に論ずることができる者ではない。
そもそも公達などの御武具御召初めは、勇功あって武の冥加ある侍にあやからせ給うようにと、
専らそういう人を選ぶものだ。安藤は一日の内に二人の大将の首を獲た武勇の人であるから、言うに及ばず。
一方の平岩は、上意ではあったが、かつて一家の主親たる水野下野らを討ち、また三郎信康殿の
御母堂築山殿御生害の事を取り計らうなど、あまり吉兆のある人ではない。そういう人に若君などの
御武具召させ初めるというのは、いかがなものか。」
そのように言い合っていたが、当日に至ると、義直、頼宣の武具を、父である徳川家康が自ら
召させるとの上意にて、兄弟は同日御前にて召させられた。下々の予想は全く間違えていたのである。
しかし岡崎三郎殿以降の公達は数多居たと言うのに、家康自ら武具を召させる事は無かった。
それが今度このように計られた神慮は計り難い。兎にも角にも、優れて御愛子ということだろうか。
何れにしても、明主の賢慮を下々は推量し難いということだ。
(武野燭談)

721 :
勝頼滅んで後、東照宮(徳川家康)は甲斐を治めなさると、
「法度は信玄より用いるところを改め変える事なかれ。年貢は少なく取ろう」
と、仰せ出しなさったので、百姓は大いに喜びあった。小田原(後北条氏)
滅んで後、その地を治めなさる時も、また同じであった。
諸民は大いに喜び、数百年の恩義が相結ばれるに同じであった。
――『常山紀談』

722 :
百年にわたり善政を行い民百姓との結びつきが強いと言われた後北条氏だが民は年貢を多少割り引いて貰っただけで敵側だった徳川わっしょいになるなんて、所詮はその程度のものだった
穿った見方をすると悪い話し

723 :
>>722
真面目に言うと、家康は関東に入ってすぐに、水路の整備など、農村の改良事業といった、
戦乱のため北条が「やりたくても出来なかったこと」を大々的に行ってる。

724 :
>>722
ついでに言うと北条家の家臣はほぼ登用しておりあまり法律とかやり方を変えてないしな。住む方にとってはありがたい。

725 :
盗賊にまで落ちた風魔がいたね

726 :
>>724
実はあまり登用していなかったんじゃなかったっけ。
ただ農工商いずれに渡っても領民と徳川の中に入っていって
色々スムーズにしていったとか聞いたことある。

727 :
家康は小牧長久手の戦役で15歳から60歳までの男子を総動員している。
農繁期にこれをやっちゃったので、秋の収穫は酷い事になってるんだけどね。
甲斐では家康が統治してからも検地反対の一揆などが頻発してて、民が喜んだなんて嘘っぱちなんだけどなあ。

728 :
>>727
いつどの辺りで起きたの?
首謀者は百姓なの?
それとも武田の旧臣?

729 :
当時においては百姓と武士の違いなどあいまいだ。区別はできないな。
そもそも当時の百姓は甲冑槍弓で武装し、場合によっては火縄などまでもってる。
時期は家康が五か国総検地をやった時。
その前も小牧長久手の後遺症で領内が大飢饉に陥っていたけどね。

730 :
妄想?それとも何か文献あるんだろうか。

731 :
龍門寺拠実記によると小牧長久手の戦いで男でがとられて、領内は荒廃して飢饉になり、
老人は口減らしで死んでいた事が記されているよ。

732 :
東照宮の上意に
「天下国家を治めるのに、用来の用、不用の用、明勝の用といって、3つの用事がある。
用来の用というのは、我が家は姓は源にて、氏は新田、別名は徳川である。
従臣には、酒井、大久保、井伊、本多、榊原、安部、奥平、大須賀、水野、平岩、鳥居、菅沼、石川、
安藤、内藤、大井、土井、青山、高力、天野、板倉、阿部、牧野、西尾、久松、
その他一統一統の氏があり、この氏人の子孫、従類は、皆当家の譜代随一である。
そこで、彼らの子孫の内、親たちより生まれつき優れているのは言うまでもなく、親に等しくその用を
勤めるのを、用来の用と言う。
また、その家、その子が、親たちの器量からは殊の外劣っていても、家督を相違なく立て置くのを、
不用の用と言う。
これについて、その家の太郎(嫡男)は用いるに足らずといえども、その家名は捨て難いものであり、
賢くない者の子に、能き者の生まれるのは、和漢ともにその例多い。
我が家の得失というものは、自分自身では計り難いものであるから、賢臣と事を取り計らなければならない。
また明勝(時来の意)の用というのは、来用の用の内にあり、その職責を任せられる人物の無い時は、
埋もれている小身の内なりとも、抽り出して、その者の器量の備わっているのを見て、大身に取り立て、
これを用いることを言う。
ただし、自己を高ぶらず、人を侮らず、一人で威を振るわず、能き事を同役へ譲り、末を考えて、
偽り飾ることをせず、諸人をむらなく愛してこそ、誠に天下・国家の家老というべきである。
家の惣領の子に付けるような者は、別してこの心得第一に選ぶべきである。
惣領の子であっても、その家の風紀に無理に当てはめようとしては、なかなか育てられるものではない。
慈仁を第一にして、それ以外は時に応じ、その器に従って教育していけば、自ずから根の強い、
能き人になるものだ。」
そう仰ったという。
(武野燭談)

733 :
長安事件がなければ
酒井、榊原、井伊、本多、大久保
で徳川四天王だったのかな

734 :
>>733
森武蔵が呼んどるで

735 :
>>730
調べもしねえで妄想よばわりかw

736 :
糞瓶の運上まで取っていく

石丸令歸とその弟の雲徹は播州にて召し出され[兄弟ともに御噺の衆という]
国清公(池田輝政)の御在国のときは姫路に居て
関東に下られるときには京都に住んでいた。
雲徹は五百石を賜わり、とりわけ気に入られていた。
ある年、雲徹が京より下り御前に伺候していたとき国清公が
我のことを京では何といっているかと尋ねられたことがあった。
雲徹が承って
「『三左殿、大して取るものがないので糞瓶の運上まで取っていく』と
 沙汰しているそうですよ」
と申すと、国清公は予想外に目をいからせ、座を立って奥に入っていかれた。
雲徹は萎縮して宿所に帰った。
明くる日(輝政は)雲徹を呼び出されたので、死を賜うか放逐されるか
いずれにせよ何もないことはないだろうと思いながら行くと
意外にも(輝政の)怒りは晴れていて
「昨日はよく我が知らないことを申したので(後から確認したところ)
 確かに薄田左馬が申し付けて運上を取っていたと聞いた。
 この先は必ず止めよと命ずる。幾度でもためになることは申すのだぞ」
と仰せられた。

――『池田家履歴略記』

737 :
権現様「糞瓶の運上が払えないなら焼き味噌を払えば良いじゃない」

738 :
小早川隆景の学校、太田道灌釈菜の和歌
 公鑑(林述斎)が語った。
 我が国に幕府が開く以前は天下で兵乱が打ち続き、
儒教文籍が地を払って絶えていた。
この時に小早川隆景は筑前の名島で学校を設立したという。
珍しいことである。
 また太田道灌の『慕景集』には釈菜の歌がある。
二月の釈菜を金沢文庫で行うと三好日向守勝之のもとから申しこしてきたので、
「隣家梅花」という題を、聖人への供物に添えて送るとて
はな(る)なれやよよ友垣の近きには 遠きもなるる梅の下風
と詠ったという。
これは『論語』の首章である、
「学びて時に之を習ふ。亦説ばしからずや。
朋有り、遠方より来たる。亦楽しからずや。
人知らずして慍みず、亦君子ならずや。」
の意をいっているのだろう。
(甲子夜話)

739 :
同じ頃(甲斐領地直後)、東照宮(徳川家康)が武田家の士・横田甚右衛門(尹松)らを
召して、信玄の事を物語りさせて聞きなさった時、
「御坊の時は火縄はどのようにしたのか」と、御尋ねになった。
すると、「柿の渋に石灰を入れて火縄を染めますと、年を経ても使えます」と答え申した。
東照宮は横田、または城意庵などに信玄のことを“御坊”と仰せになったという。
また、武田家において鏃をゆるく詰めたのは、敵の肉の中に鏃を残すためであると申す
のを聞きなさり、東照宮は、
「士がいくさに臨むのは皆その主君のためであるのだよ。敵を射伏せば自軍の利となる
であろう。けれども、後まで人を苦しめるのは不仁の業である。今日から我が家の士は
鏃を堅く詰めよ」
と、仰せ出したのであった。
――『常山紀談』

740 :
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1963.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5892.html
前にも出てたけど出典はなかったか

741 :
猿楽の日の論争

三河での話だろうか、(池田輝政が)あるとき御祝の猿楽を設けられた。
そのとき、今日は誰でも大きな音を出して踏み歩くのは構わないが
もし論争などする者があれば弁明させずに処罰するべしと命じられた。
自らも猿楽をなさっていたとき、拝見している者の中で口論が起こり
既につかみ合いになっていたため八田八蔵、梶浦太郎兵衛などが
走っていって取り鎮め双方を預け置いた。
御前に戻ると(輝政が)
「さっきは騒がしかったが何事だ?」
と尋ねられたので太郎兵衛は
「あれは山椒にむせていた者を傍に居た者が介抱していたのです。
 遠くから見ると誠に喧嘩のように見えました」
と申したので、国清公(池田輝政)は承知なさって
「それではもうよくなったか、汝が見て帰れ」
と仰せられたので、太郎兵衛は参り
「もうよくなりました」
と申した。
晩に件の両人が御前に伺候すると
「今日の山椒は"出来事"だったな」
と仰せられたという。

――『池田家履歴略記』

742 :
山椒でむせるのが戦国なのか
七味でむせるのが江戸
コショーでむせるのが昭和

743 :
後の山椒大夫である

744 :
江戸時代、うどんの薬味として七味が発明される以前は、
胡椒をうどんにかけていたそうな。
この胡椒がいわゆるブラックペッパーの事かどうかは知らん。

745 :
山椒大夫というか安寿と厨子王は江戸時代より前だろう

746 :
九州の方じゃ唐辛子を胡椒と呼ぶらしいが

747 :
「胡椒」は唐辛子を意味する古語[1]。九州一部では方言として残り、ここでは一般的な「コショウ」ではなく「唐辛子」の事を指している。なお、「コショウ」は「洋胡椒」と呼んで区別する。

748 :
胡椒が日本に伝わったのは唐辛子よりはるかに前

749 :
落語の「くっしゃみ講釈」
(ある講釈師に恨みを持つ男がその講釈をくしゃみでめちゃくちゃにしてやろうと
最前列で胡椒を燻べようとするが、八百屋で売り切れていたため唐辛子を燻べる、て話)
のオチが九州ではできないな
男「この講釈師、いかさま師、おたまじゃくし
お前のくしゃみを聴きに来たわけじゃないわい」
講釈師「はっくしょん、あんた、私になにか故障(不満)がおありか?」
男「胡椒がないから唐辛子を燻べたんじゃ」

750 :
山椒にむせてたとか信じている馬鹿はいないよねコレ(´・ω・`)

751 :
〔領内志佐〕秀頼藪之事
 大坂落城のとき、秀頼は薩州へ逃れ行きその蹟があることを前に言った。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9987.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9991.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10320.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10623.html
実事だとみえる。
 そういったところこの頃ある話を聞いた。
領内の志佐地方というところに、秀頼藪と呼ぶ所が在ると。
もしかしたら薩州への道にしばらくここに隠れ居たのか。
訝しい。
(甲子夜話三篇)

752 :
慶長2年(1597年)、豊臣秀吉よりフィリピン諸島長官に贈りし書簡
『卿が遠方より派遣した大使は、多くの艱難を経て予を訪問した。卿はこれに託し。卿の肖像を
予に贈り、卿に代わって予に敬意を表したため、陸雲海および波が我らの間にあり、我らは実際に
数千レグワを隔てているにも拘らず、予にとっては眼前にあり、予は親しく卿の言葉を聞いているようである。
天と地と分かれて世界が始まって以来、この日本国は神、また君としてシントー(Xinto 神道)を崇敬
している。これはシン(Xin 神)の徳により、太陽及び月はその運行をなし、また1年四季の差別も、この
神より生ずる。これと同じく風および雲が発生し散布し、雨および霧が生じ、地球が回転し、鳥が飛行し、
動物が運動し、草木その他一切のものが成長して賛美すべきものと成るのも、またこの神より出る。
人間も又、これによって君臣の別を生じ、老人と少年の別および夫婦の結合も同一の原因により生ずる。
一切のものはこれより始まり、結局これに終わり、また分解する。
かくの如くであるというのに、数年前パードレ数人が当国に来て、外国の悪魔の教えを説き、当国の
賤しき人民、男子並びに女子の宗旨を乱し、その国の風俗を輸入して人民の心を惑わし、当諸国の
政治を破壊した。これによって予は厳しくこの教を禁じ、完全に防止することを命じた。
これだけではない。その国より来た宣教師たちはその地に帰らず、町および村を巡って密かに賤しき人民、
従僕、および奴隷に外国の教を説いた。予はこれを聞いて忍ぶこと能わず、すぐに彼らをRことを命じた。
何故ならその国においては、不況は外国を征服する策略、または欺瞞であることを聞いたからだ。
もし、日本の国より日本人の宗教者もしくは俗人が、卿の国に渡って神道の教を説き、人民を惑わし
道を惑わせたならば、その国の領主である卿はこれを喜ぶだろうか?絶対にそうではない。
之を以て、予が為した所を批判せよ。
予は思うに、卿がこの方法を用いてその国(ルソン)の古来の君主を追い出し、ついに自ら新しき君主と
なったように、卿はまた貴国の教を以て我が教を破壊し、日本の国を占領せんと企画したのだろう。
これ故に予は、前に述べた所に対して憤り、怒りを抑えていた時、海城において破壊された船が
土佐国に現れ、波上に漂った。
予はその船に積まれた財貨を集め、これを散ぜずまた分配すること無く、これを卿に還付せんと
決心していたが、卿の部下が我が法律に背いた故に、この財貨を悉く没収した。
卿は今、予がこれを還付する義務があると思っているだろう。
ならば、古来の交流を継続するため、卿は甚だ遠くより、防風および激浪の艱難を経て予が許に大使を
派遣し、日本と結合し、交誼を政道に導くためにも、今後人を遣わして外国の虚偽の教を説かしむことなかれ。
このようにすれば永久にこの日本国と商品を貿易することを得、その地より来る商船が、予が印を押した
免許状を持参すれば、海においても陸においても少しも害を加えられることはない。
当国よりその地に往来する日本人等が、もし貴国の人民を擾乱せしめ、その地の法律を守らない時は、
これを捕えて獄に下し、事件を審理して刑に処すことを得るだろう。
昨年船数隻を出してかの船の乗組員をその地に帰らせた。船中の水夫その他の人を殺さなかったのは、
我等の間の古来の交誼に背かないためである。
卿が予に贈ったものは目録に掲げてあった通り。悉く受領した。特に黒象は予にとって珍奇であった。
昨年の秋の末、支那の大使数人が当国に来たが、彼らは白象一頭を予に贈ることを約束した。
であるが、予がこの象を予に贈ったのを大いに喜ぶのは、遠方より来た新奇の品を珍重するのが、
昔から今に至るまでの習慣だからである。
予が卿に贈る品は別紙に記した。その品はわずかでは有るが、好意の証としてこれを卿に贈る。
昨冬、当地に来た水夫等の家族に悲嘆に同情し、また卿は彼らの領主であるので、彼らを
憐れんでいると考えたことにより、悉く貴国に帰らせた。
之を以て終わる。』
(異国叢書)
秀吉が、キリシタン追放令やサン=フェリペ号事件について述べた書簡である。

753 :
戦国クラスタが作る!永禄3年(1560年)の全国戦国大名戦力図
https://togetter.com/li/1094236
https://pbs.twimg.com/media/C72fznIVsAALp0U.jpg

これすごいなあ頑張ったなあと思うんだけど、山形県の部分の山形氏や山上氏っていうのは最上氏のこと?

754 :
>>753
誤植
指摘を受けてその後上げてる高解像度版では直ってたはず

755 :
ああ最上は当時山形と名乗ってたという事らしいよ。
まとめの…どの辺に書いてあったか忘れたけど

756 :
庄内や由利を手に入れてから最上を名乗ったらしい
史料上では慶長6年8月以降に最上という表記が現れていて、それ以前は山形殿と呼ばれていたようだね
だから最上表記の関ヶ原のの降伏文書はおかしいんじゃないかという話もないわけじゃない

757 :
上杉がでっち上げしたってことか

758 :
>>756
あの書状は「上杉家御年譜」にしかないし、史実と整合性のない記載もあるので偽作説の方が優位ですね。
元になる書状があったとしても、そうとうな改竄が加わってる可能性があるでしょう。

759 :
ああ、例の鉄棒も山形出羽守だもんな

760 :
小手森合戦後に政宗が義光に宛てた女・童や犬までも撫で斬りにしたって自慢気に書いてるあの有名な書状も宛名は山形殿になってるよね

761 :
山形県だけじゃなくて東北地方はそれぞれ問題あるな

762 :
>>761
そう思うなら突っ込んだら?

763 :
一度議論されてるポイントかもしれないので確認したらいいかも

764 :
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8907.html
ついでに前に出ていた疑惑の降伏文書ネタ

765 :
木原屋鋪の事
 木原屋敷とは木原氏が神祖御入国の時に賜った屋敷地のことである。
屋敷の外の田地は木原氏の領地である。
神祖が未だ三河におられました時この木原氏の祖は代々大工の棟梁であった。
鎌倉足利の屋形造り式法を家に伝えて探求していたが、その頃の大工は堀櫓等の普請ばかりを大事にし、
屋形造りのことなどに執着する人もない時節であったので、誰も彼を用いる者がなく諸国を流浪していた。
 ふと三河に着たとき神祖はそのことをお聴きに入れられ、度々召されてお尋ねなどもされた。
そして直に召し抱えられ、段々と御贔屓を被り岡崎城外に大きな屋敷地を下された。
御入国のときには、その代わりとして新井宿の地を賜った。
 江戸の御城を建設するときや御殿向かいを建て増す時になったときに、
武将の故実にかなうように御間取などをできたのは皆この木原の功であると聞く。
それを三河に御座いましたときから、早くに召し抱えられ置いた御深慮遠識申すにも恐れ多いことですが敬感せねばならない。
 猷廟(家光)の日光山御創立の時も、木原が御作事奉行となって木工頭と叙爵し司った。
今の日光御宮の雛形はその屋敷の林木の中に安置してある。
扉を開放しておりその中には神体は無い。心ある設け方である。
(甲子夜話)

766 :
この当時(1560年)の南出羽の白鳥長久はまだ台頭中で、寒河江大江氏の影響下。
最上義光も1546年生まれだから天正最上の乱で義守と争う前。
延沢満延も天童八楯の一翼で天童氏の影響下。
鮭延氏も仙北の小野寺氏の客将扱いだったり。(この後大宝寺氏に攻められ幼子の鮭延秀綱は庄内に連れ去られる)
上山氏は上山を束ねる里見党の総領が地域名を名乗ったもの。

767 :
勝茂さまが御家老たちに、
「訴訟事を裁くときには、どうか死罪にならぬようにと思いながら、
話を聞くようにせよと、つねづね直茂さまは仰せになっていた。
この言葉は今でも忘れることがないので、皆にも伝えておきたい。
また、大切なことのある場合には酒を飲んではならない。
だいたいにおいて、酒は好ましくないものである。
これも直茂さまが御注意されたことだ」
と仰せられたとのこと 【葉隠】

768 :
本多忠朝「酒に呑まれるやつが悪いのだ」

769 :
12月(永禄11年)、武田信玄は駿河に出張し、当国の主・氏真の近親(瀬名信輝)や葛山(氏元)、
ならびに朝比奈右兵衛大夫(信置)が信玄に属した。氏真は一戦及ばず、遠江掛川へ退きなさった。
掛川城主・朝比奈備中守(泰朝)は氏真の臣下で遠江国の郡代であり、氏真を本城に引き入れて
籠城した。翌年春まで上下の人数に酒肴以下までも怠りなくもてなし、奇特であると言われたという。
その後、小田原に氏真が退きなさった時に連れ立った。氏康・氏政が言ったことには、「臣下として
主人の氏真を相抱えて籠城したこと、人臣の名誉である」との由で、懇志に致しなさったという。
遠江へも信玄より秋山伯耆守(虎繁)に伊那郡(信濃国)の人数を相添え遠江へ出軍させた。すると
山家三方衆(奥平・田峯菅沼・長篠菅沼氏)は信玄に属し、秋山に伴って遠江に出張したのであった。
引間の人数は三方ヶ原へ出て合戦し、三河の山家三方衆と合戦に及んで引間衆は敗北し、数多討ち
取られた。そうして引間衆は懇望して秋山に一味し、氏真は掛川へ籠城しなさった。その勢3千余。
家康はこの冬、遠江へ出張しなさった。同月、三浦右衛門大夫という人は氏真の取り分けての寵人
であったのだが、掛川へ籠ろうとしたところ、日頃から城主の朝比奈備中守と間柄が悪かったため、
城へ入らず馬伏塚を頼って行った。
ところが、かの地の主・小笠原美作守(氏興)は日頃の契盟を違えて右衛門大夫の首を切り家康公
へ献上した。翌年の春、小笠原は病死した。時の人口はもっぱらこれを憎んだ。
さてまた、駿府の氏真の居城には岡部次郎右衛門(正綱)が相籠ったので、残党はこれに従った。
――『当代記』

770 :
朝比奈泰朝は小田原で死んだのかな

771 :
>>755-756
最上氏が実は山形氏だったなんて、いつから定説になってしまったのか
言い出した保角氏は山形県内でフルぼっこにされて自粛中だぞ
山形領主(城主)として山形(殿)を自称他称してても、あくまでも名乗ったのは最上氏って結論
このスレ他で定説化したとすれば、いつから誰なのか?

772 :
最上関係の逸話はホントいつも都合よく捏造されすぎ
Evaluation: Average.

773 :
>>771
いきなりエキサイトしてるけど、話の内容は義光の署名や宛名だろ?
書状に書かれるのは在地名か苗字か分かりにくいものが多いが、
そもそも○○氏なんて名称はそんなに安定したもんじゃないからなぁ
土着して在地名を名乗ってるうちにすり替わってるなんて事も良くあるし。

774 :
最上関連は面倒くさい人が多いなw
つかスレとまとめは常に見てるわけじゃないんだが、最上は山形でした説っていつから?
地図作ったクラスタとやらもそれが前提なんでしょ。

775 :
ここで議論してもしゃあ無し
まとめ見てやり取り確認して直訴すればええんじゃね

776 :
新入社員に向けてのメッセージをひとつ
永禄三年(1560)の就職ランキング改訂版

SS 朝廷
------------------------------神
S 足利 今川 本願寺(内勤) 高野山
------------------------------公家
AA 武田 三好(畿内) 上杉 毛利 比叡山
------------------------------名門
A 大友 北条 朝倉 六角 三好(四国)  
------------------------------準名門
B 織田 島津 幕臣 武田家臣団
------------------------------有力
C 浅井 斎藤 龍造寺 長宗我部
  伊達 葦名 佐竹 南部 根来・雑賀集 
------------------------------高学歴はここまでには入りたい
D 最上 里見 姉小路 伊東 北畠
  結城 浦上(備前) 尼子 織田家臣団 
------------------------------地元有力
E 蠣崎 松平 若狭武田 波多野 神保 赤松 畠山 三好(松永)
------------------------------親戚にはあまり言えない
F 本願寺(末端ソルジャー) 切支丹(外資) 島津(前線配属) 古河公方
------------------------------殉職必至

777 :
藤堂氏蔦の紋の事
津侯藤堂氏の先祖は多賀氏に縁があるので、家紋にほおずきを用いるという。
今用いているものは蔦の紋だ。
豊臣太閤から桐の紋を賜ったが、憚って花をとり葉ばかりをつけたので、
蔦のようになったものである。
実は藤堂氏の紋は蔦ではないとのことだ。
(甲子夜話)

778 :
>>776
堺の町衆はどの辺なんだろな

779 :
>>776
古河公方はすごいよ
関東平野にあれだけ有力大名が群雄割拠していながら古河公方に引っかき回されてまとまらず
北条陥落後はなにも出来ずに秀吉に踏みつぶされてしまったんだから
最後は中身の無い権威だけの存在になってんのにそれでも支持されて戦国末期まで生き延びてんだから不思議なもんだ

780 :
戦で散々負けまくったのに最後まで生き延びた堀越公方の孫もいたな

781 :
常陸の不死鳥さんか

782 :
一輝さん?

783 :
我と等しき芹好き

(池田輝政は)常に芹を嗜まれて、備前国御野郡に生えるものを上品として
この芹を取ることを禁じられた。
ある士がこれを盗んだので、百姓達はそのことを萩田庄助に訴えた。
庄助がそれを(輝政に)伝えると
「さてさて憎きことかな、それはただ取ったのか、あるいは盗んだのか」
と仰せられたので、庄助は盗んだのですと申した。
「我が留め置いた芹を、強引に取ったのならひとしお憎いことだが
 盗んだということは、きっと我と等しき芹好きではないだろうか
 そのままにしておくべし」
と仰せられた。

――『池田家履歴略記』

784 :
〔脇師〕高安家、豊閤より賜し陣羽織之旧談併家紋巴之由来
 脇師高安彦太郎の家は古く奈良以来の旧談も多い。
その中に豊臣太閤から贈られた陣羽織を、
年が経ったので今はかの装束の角帽子として家蔵としているという話がある。
 ある日その角帽子を持って来て予に見せてくれた。
外包に『秀吉公拝領金襴大内桐角帽子』と記してある。
彦太郎が言うには、”大内桐”とはかつて防州の大内氏全盛のとき貯えて置いた物であり、
漢から渡ってきた物であったのを後に太閤が獲って陣羽織とされたとのことだそうだ。
これは大御所公が御在位のときに贈って御覧になられたとか。
 またかの家は神祖から頂いた能の狩衣がある。
紺地金紋に巴がついている。よって彦太郎の家紋は今は巴を用いるという。
(甲子夜話三篇)

785 :
足利義政の弟である足利義視は、義政の後継者とされていたものの応仁の乱で義政と対立し、
乱後、美濃にて逼塞。後に鈎の陣で9代将軍義尚が没した後、息子義材と共に都へ戻ったが、
義政はその死の直前まで義視に対面を許さなかった。
義政の没後、その葬儀が等持院にて行われた際、義視は参列した高僧たちに嘆いた
「人の世において仲のいい兄弟といえば、私と東山殿(義政)であった。だが我々の間に様々な人が
介在し色々なことを言ったため、近年では相隔たる関係に成ってしまったのだ。」
これを聞いた高僧の一人が語った
「かつて義視様が美濃国におられた頃、京都五山に、美濃に住むある禅僧を、建仁寺と南禅寺の
住持に任ずるよう要請されたことがありました。
しかし五山の僧たちは、この禅僧が未だ住持に就任するために必要な修行を済ませていないと、
この要請を断ったのです。
ところが、これを知った東山殿がこう命ぜられたのです
『義視がせっかく要請してきたのだから、彼の面目が失われないよう、特別にこの禅僧を住持に
任ずるように。』
この命を五山あついに承服し、かの僧は住持と成ったのです。」
この事を初めて聞いた義視はうなずき、そしてほのかに笑ったという。
(蔭涼軒日録)

786 :
家康、結城秀康を上杉景勝の押さえに

いわゆる小山評定の後(家康は)本多佐渡守(正信)一人を側に置き
結城秀康公を召し寄せて
「会津への進発はしばらくやめることにする。
 近いうちに(自分は)上方へ進発することになるので
 上杉の押さえとして差し置かれるべきなのは
 そこもとよりほかにはいないからだ。左様に心得ておくように」
と仰せられた。
秀康公は佐渡守の方へ向かって
「これは思ってもみない仰せで困惑しています。
 今度の上方においての御一戦は大事なことなので、御味方諸大名衆と
 申し合わせ、御先手で軍忠に励む覚悟でおりましたのに。
 上杉家の押さえとして御留守に差し置かれるべしとの仰せには
 たとえお気持ちに背くことになっても何度でもお断り申し上げる覚悟です。
 どうか御免下さりますように」
と申し上げられると、内府公(家康)は
「総じて今度のような大事の合戦に思い立って
 他国へ向かうことがあるとき、留守居の将を選んで残し置くのは
 弓矢の古法である。その上今度我らへ味方する諸大名からは
 証人などを出させてその人質を請け取ることになるのだから
 江戸、小田原の両城の内に差し置くほかなかろう。されば
 皆の安堵のため、確かな留守居でなくてはいけないと思ったから
 その方に申し付けるのだぞ」
と仰せられた。
秀康公が重ねて
「皆の安堵のため確かな留守居を差し置かれたいと思われるのでしたら
 幸い松平下野守(忠吉、秀忠同母弟)がいるのですから
 あの者を差し置かれればいいではないですか。
 私の方を上方へお供仕りますように」
と申し上げられると、内府公はいささか機嫌を悪くして
「皆の安堵のためだけなら、その方が申すごとく下野守でも済むが
 我らが出陣の後に何かが起こらないとは言い切れず
 しかも上杉景勝は我らの留守を見合わせて
 大軍を率いてくることさえあるかもしれないのに
 若輩の下野守で事は済むと思うのか。
 昨夜佐渡守も聞いていたが、その方は
 『今度上方の退治で上る時は、会津の上杉は手強き相手なので
  確かな押さえを差し置くのがもっともです』
 と申したのに、その手強き景勝の押さえをするのを嫌がるのか」
と仰せられた。

787 :
秀康公はお困りになられ
「今度の上方の御一戦にまみえることができないのは残念に思いますが
 ただいまの仰せの上は何も申し上げようもなく、畏れながら斯様に
 お請け申し上げるからには、出陣の後も御安心めされますように。
 白河の関よりこちらへ景勝などに顔出しさせることはありません」
と申し上げられたので
佐渡守は承って秀康公のお側へ這い寄り、お膝を叩いて
「さてもさても殿はよくもお申し上げになられた」
と申し、涙を流し泣いていると内府公も涙ぐまれた。
(家康は)御納戸衆を召し寄せ、御具足一領を取り寄せて
御前に置き、秀康公に
「この具足は我の若き時より何度も陣場へ着ていったのだが
 一度も敵に押付(鎧の背の上部)を見せることもなく、秘蔵の具足であるが
 今度大事な留守を申し付けるのでその方へ譲り渡す」
と言って秀康公へ下賜されたという。
 
――『落穂集』

788 :
永享12年(1440年)の結城合戦に敗れ、一時は滅んだかに思えた結城氏であったが、
赤松満祐が開いた祝勝のための宴において足利義教が赤松に討たれ犬死(嘉吉の乱)。
このため結城氏が忠節を尽くしていた鎌倉公方が復活、それに応じて結城家も、
家臣の多賀谷氏家によって救い出されていた結城成朝によって再興された。
その後、結城成朝は鎌倉公方足利成氏の名により関東管領上杉憲忠を殺害した(享徳の乱)。
しかし足利義政が鎌倉公方に代わる公方として、異母兄の足利政知を関東に下向させたため、
足利成氏方の中心の一人であった岩松持国を初めとした関東衆は次々と政知側についてしまった。
結城成朝も同様に政知側につこうとしたようだが、なぜか寛正3年(1462年)もしくは享徳11年
(足利成氏は享徳の乱の間、享徳の年号を使い続けた)、24歳で突然死してしまう。
「結城系図」「結城家之記」などによれば多賀谷氏家の弟、高経(享徳の乱で上杉憲忠を討ち取っている)が、
結城氏が幕府側に転向すると自分の身が危ういと考えたため、
大雪が降った時に雪打ち(雪合戦)と称して成朝を暗殺したという。
こうして結城合戦の際に救われた成朝は雪合戦(雪打ち)で結城討ちされたのであった。

789 :
悪い話に書こうと思ったけど、結城つながりでこっちにうっかり書いてしまった、申し訳ない。

790 :
狂言、鷺仁右衛門、五徳の紋所。鷺と称する苗字の事
狂言師の鷺仁右衛門の紋所は五徳〔鉄三脚子〕の形である。
予はあるとき、その紋にはどのような由緒があるのかと問うた。
「これは某の祖が神君の側につかえていたときのことです。
神君は御戯れにハサミで色々な切り紙を遊ばれていた中で、
五徳の御きり形が有りました。
それを某の祖が賜り、続けて
ただちに家紋にせよとの命があったので、今に伝わっているのでございます。」
と言った。ならば御当家の古い賜物であった。
また鷺という苗字のことはどうなのだと問うと、
「これは昔"鷺"という狂言があり、某の祖先がその狂言を披露すると、
仰せで
『後で人に譲るのも口惜しいことだ。
以来はこの狂言は止めてしてはならない。
よって家名を鷺と称すべし』
とのことがありまして、これよりこのように称しています。
故にかの鷺という狂言の一巻は皆封じて今は家宝とし、
それからその狂言は今は演じないことに成りました。」
との答えがあった。
その仰せというのは神君か若しくは太閤であったか、今は忘れた。
『猿楽伝』という書には、
「鷺の家の本名は長命権之丞で、狂言の上手である。
太閤の御意に入れられている。九州名護屋で御宿泊の時、
水辺へ御成りがあって御遊興の時、権之丞は川へ飛び入り、
鷺のドジョウを踏むまねをして、御入興から鷺々と召され、
それから鷺と改めさせなさった。その子は鷺仁右衛門云々」
と記してあった。仁右衛門の言と等しくない。
しかし仁右衛門の言葉はその家の伝えなので、これに従うべきだ。

予はまた、祖先は朝鮮攻めのときには名護屋へ随従したのかと問うと
もちろん随ったとの答えがあった。
ならば名護屋御遊興云々のことも棄却してはならないだろう。
(甲子夜話続編)

791 :
1616年(元和2年)、イスパニヤ国王より伊達政宗に贈りし書簡
『神の恩寵によりイスパニヤ、ナポリ、シシリヤ、エルサレム、東西インド、太平洋中の諸島及び大陸の王、
アウストリャの大公爵、ブルゴーニュ、ブラバント及びミラン公爵、ハプスブルク、フランデル及び
チロル伯爵を兼ねたるドン・フェリペ(フェリペ3世)
支倉六右衛門、サン・フランシスコ洗足派のフラル、ルイス、ソテロとともに当宮廷に来たりしにより、
喜んでこれを引見し、貴国において、我等の主、イエス・キリストの神聖なる真の教えを善とし、これを
奉ぜんとする賀すべき考えであることを聞きて、特に喜び、また国王(政宗)がその国を平和に治め、
その幸福を増進せんと欲するがゆえに、双方にとって好き結果があることを認め、彼らに対して善き待遇を
与え、イスパニヤ滞在中、並びにローマの庁への旅行中、必要なるものを支給し、帰国の際、乗船を
与えることを命じた。
朕はこの旅行の結果として、キリスト教が弘布され、貴国の住民の霊魂が救われるに至るべきことを信じて、
大いに悦んでいる。
朕が宣教師、その他キリスト教徒を厚遇されることを切望する事は、親しく大使(支倉常長)に語り、
日本全国の君に書簡を以って伝えた、
神が奥州の王を護り、その正しき意図に大いなる成功を与え給わんことを祈る。
 1616年7月12日(元和2年5月29日) マドリッドに於いて。
                            朕国王(親署)』
(異国叢書)
スペイン国王来日記念に

792 :
 大坂全盛の頃、織田有楽が茶の湯として三人を招待した。
亭主が老人でかつ貴人であるので、遅く参るのもいかがと客同士で申し合わせて夜深くに参った。
宅に着くと中からおとなしそうな人が出てきた。
「早々に三人方が来臨されて、有楽も非常に忝く存じています。
早速罷り出て謝礼があるべきですが、歳ゆえに今は病気で床に伏しているところです。
確かに無礼ではありますが、今は罪を謝ることが難しい状態です。
老人のことなのでどうかお許しください。」
と言って、「ここに入っててください」と外露地への戸を開いて入ってもらった。
客も会釈して内露地の辺りで休んで、周りを見てみると、
石灯籠の火がほのかについていて、庭の遣り水、軒の松が風に響いている。
静かな装いから浮世の外に出たのかと三人は心を澄ました。
折から、障子の向こうでつくろった声と共に琵琶が鳴り出した。
これはと思っていたところに、
平家物語の『大原御幸』を、非常におもしろく語りだした。
客の面々は感に堪え、ただ茫然と聞いていた。
さるほどに、夜もようよう明けようとしたところに、
平家物語も終わると、内露地のくぐりが開ける音がして有楽翁がよろよろと出て来られて礼式の事が終わった。
 茶の湯も殊勝で、そのときの有様を思い出しても今の事のように感じられたそうである。
このように作法に心はあるべきである。
平家物語は高山検校が語られたとか。

『武士としては』

793 :
>>785
頼朝「やはり兄弟は仲良くしないとな」
信長「まことに」
家光「せやせや」
(´・ω・`)「弟が居たような…」

794 :
山内経俊:頼朝の乳兄弟、文字通り頼朝に弓を引いたにも関わらず赦免
織田信興:長島一向一揆で一揆勢に殺されたため信長は報復に一揆勢皆殺し
保科正之:秀忠存命中は姿を隠していたにも関わらず、存在を知った家光に会津藩主に引き立てられる
みんな兄弟仲いいね

795 :
近頃、良将と言い慣わしているのは3人である。
明智日向守(光秀)、柴田修理亮(勝家)、石田治部少輔(三成)である。
この3人は天下分け目の合戦をしたからだろうか。
――『武功雑記』

796 :
光秀は統率力はあるが人望がなく
勝家は人望はあるが統率力がなく
三成はどちらも足りなかった

797 :
三陪臣の知恵、勇気、大志になぞらえると
光秀:知恵と勇気はあるが大志が欠けている堀直政タイプ
勝家:勇気と大志はあるが知恵が欠けている直江兼続タイプ
三成:知恵と大志はあるが勇気が欠けている小早川隆景タイプ
それぞれ一度は敵対したことのある相手のような

798 :
天下三陪臣は直政版は言行録だけど、成立した時代の早い葉隠の直茂版の方が正確そう
堀直政って隆景や兼続とならぶくらいの功績を挙げてるの?

799 :
名将言行録につっ込み入れるのは野暮

800 :
>>792
>遅く参るのもいかがと客同士で申し合わせて夜深くに参った。
いくらなんでも早すぎでは…

801 :
織田信長公は時々京に団子を求められた。
よく参りに来るというので京童どもは上様団子と申し合っていた。
ある時一段と粗忽な御小姓が御前近くの所で、うっかり雑談の中で申してしまったのを
信長公は聞かれ御立腹なされた。
御勘気を蒙られるすんでのところで(曲直瀬)一渓道三が御登城されて、
「ごもっとものことではありますが、
世上にそのように申す事はかえって御誉れでございます。
昔天子様がちまきを御覧になられ一段面白いものとの勅定を出されたことがありました。
それから京童どもは内裏粽と今でも申し慣わしております。」
と申し上げました。
この言葉で信長公はご機嫌が治りその御小姓も御赦免なされた。
総じて上の御側にある人は万事に気遣いを致す事じゃ。
(昨日は今日の物語)

802 :
勝茂さまの時代には、毎年の正月に自ら御願文をお書きになり、神社に納められた。
年の暮れには願ほどきをされたものである。
その内容は、
「家中によい人物が出るように」
「家中から浪人が出ないように」
「家中に病人が出ないように」
の三ヶ条であった。
一鼎の話である 【葉隠】

803 :
小幡勘兵衛景憲が言うには
士は常に武道に錆を付けない様に心がけるべきだという。
刀脇差もさび付いたら、必ずそこから折りが入って、どんな名作でも用に立てなくなる。
武士もたとえ筋目がよかったり、あるいは用に立つ事があっても、
打ち捨てておいたら心底に錆ができ次第に折り目が入って、
自ずから意地汚くなって用に立つ事がなくなる。
一日中武士は心気に錆が付かない様に嗜むべし。

『武士としては』

804 :
>>803
他人を試すと言って嫌なことをしたりさせたりする人がいるけど、相手次第では錆びちまうよね

805 :
長谷川甚兵衛、初名は宗二郎と言った、非常な勇士であり、斎藤道三に仕え、後の父子対決の時は
義龍に属した。
斎藤義龍が父に反逆した時、美濃の諸侍は慌てて悉く屋敷を立ち退き、その振る舞い非常に見苦しい
ものであったが、甚兵衛一人屋敷を立ち退かなかった。
そこで義龍は様々に説得し、甚兵衛は遂に義龍に従った。
美濃において度々の国取合に、功を顕すこと、一々挙げて言うことも出来ないほどであった。
ある時甚兵衛は、美濃における小競り合いの時に、敵が引くであろう小路に、在々より石臼などといった物を
提出させこれを置いたが、人々はこんなものに意味があるのかと思った。
ところが、敵は急に引き立ち、この石臼などに躓き倒れて、多く討たれたという。
これは在所の者が今も語り伝えている。
時に応じての才覚とはこういうものだと思われる。
(士談)

806 :
北条家の馬屋の預かりにであった諏訪部という者は、度々善き働きがあった。
豊臣秀頼の小田原陣の時、諏訪部と勝田八左衛門という両人が物見に出た所、急に敵に接近され、
二人は早々に引き取った。
この時、諏訪部は馬屋の別当であったために善き馬を持っており、この敵の急追を振り切って
帰ることが出来た。
しかし勝田は良馬を持っていなかったため、敵を振り切ることが出来ず、立ち止まってこれと戦った。
勝田が後に残ったと聞いて、北条軍の人々はこれを救出するため馳せ参る間に、勝田は敵に討ち伏せられ
頸を半ば過ぎまで切られていた。
敵は勝田の救援が来たのを見て引き取った。しかし助けに来た味方も
「勝田は深手を負っているから連れ帰っても死ぬだろう」とこれを棄て帰ろうとした。
ところが、勝田もさすがの勇者であった。彼は自分の手で頸をもたげ、
「未だ生きているのに、各々は棄てて帰るか!?」
と喚いた。
味方はこれを聞きつけ、彼を連れて帰った。
この時、諏訪部は良馬を持っていたが故に却って遅れを取り、勝田は危うい命助かり、勇を表した。
そう、その頃の人々は沙汰したという。
勝田八左衛門は吊り鏡の指物を差していた。後に漂泊し、松平右衛門太夫(正綱)の所で身罷ったそうである。
(士談)
なんというか色々凄まじいお話

807 :
デュラハンかよ....

808 :
関東武士はいろいろとオカシイ

809 :
>>806
助かったのかよw!

810 :
岐阜城攻めのくじ取り

岐阜城攻めのとき、(福島)正則と(池田)輝政とで大手搦手の争論があり
井伊直政、本多忠勝が輝政に異見を申したので収まったという様に
旧記等には見られるが、左様ではなかった。
なぜなら大身小身に係わらず敵地へ近いところの領主を
先手と致すのが日本の古来からの武家の定法であるので
尾州清須の城主である正則を一の先手、それに続いて
三州吉田の城主である輝政を二の先手ということにしたのだ。
格別なことなので両人には小山の御陣所で、内府公が
直に仰せ渡したので両人の争論などはなかったのだが
その他の大身小身共には大手七曲り口に向かうことを好み
搦手の寄せ手を嫌うものがいた。
大手、搦手と犬山城の押さえは必要だというのは各々の相談で
決まったのだが、人数割りをどうするかは埒が明かなかったので
井伊本多両人の衆は御列座の衆を二つに分けてくじ取りをさせ
誰は大手、誰は搦手、誰々は犬山の押さえと決めたので
人数割りが差し障りなく済んだという。
この説は旧記とは違うのだが大猷院様(徳川家光)の御代に旗本へ
召し出された大道寺内蔵助[若い時は遠山長右衛門と名乗っていた]は
岐阜城攻めの時は福島正則方にいて大手口で働きなどしていて
老後になってこのくじ取りの物語をしたので書留めた。

――『落穂集』

811 :
苦労してるな

812 :
宗祇が宗長と連れ立って浦を夕方に出かけられたとき、
漁師の網に藻が引き上げられた。
「これはなんという名であるか」
と問われると
「『め』とも申し、『も』とも申します」
と答えがきた。
そのとき祇公は「やれ、これはよい前句だ」と
めともいうなりもともいうなり
と詠んだ。
宗長に「これに付けられよ」と命じると、
宗長は
引連れて野飼の牛の帰るさに
と詠んだ。
牝牛は『うんめ』と鳴き、牡牛は『うんも』と鳴く。
祇公はこの句に感心された。
宗長も「一句沙汰あれ」と求めてきたので、
よむいろは教ゆる指の下を見よ
と詠んだ。
『ゆ』の下は『め』である、『ひ』の下は『も』である。
(醒睡笑)

813 :
金森長近の質素

金森法印(長近)は在所から東照宮(家康)に鮭を献じるときは
藁の苞に包んでいた。
ある時息子の出雲守(可重)があまりにも質素だとして
竹簀で包み替えて捧げられた。
東照宮がご覧になって
「これは父が元々このように包んできたのか
 それとも包み替えたのか」
とお尋ねになると、出雲守はかしこまって
「父が元々藁苞で差し上げようとしたのを
 あまりに見苦しかったので包み替えたのです」
と申したが、公(家康)の仰せに
「汝が父の遅れを取らされるものではないのだから
 一切親のすることは咎めないものだぞ」
とあったのに、上世の淳風を見ることが出来る。

――『野翁物語』

814 :
(´・ω・`)「重要なのは包みが質素かどうかでなく鮭の良し悪しでしょ」

815 :
岐阜城攻めと城受け取りの時の争論

岐阜城攻めの日にあたり、大手の主将(福島)左衛門大夫正則を初め
細川越中守忠興、加藤左馬助嘉明、生駒讃岐守一正、寺沢志摩守広高
蜂須賀長門守至鎮、京極侍従高知、井伊兵部直政が萩原の渡りを越え
敵地の家屋に放火して太郎堤に陣した。
搦手の主将は池田輝政で浅野幸長、山内対馬守一豊、有馬豊氏
一柳監物直盛などは河田川岸を臨む所にいたのだが
岐阜城からは百々越前守(綱家)が三千ばかりの人数で新加納に出張して
川端へ備えを出して持ちこたえようとしてきた。
一柳直盛は(尾張国)黒田城主なので、川口の渡り瀬を心得ており一番に
川へ乗り入れ、その配下が瀬を渡っていくのを見てから、輝政は先手に
伊木清兵衛を初め家中一同を上の瀬に渡らせた。
したがって浅野、堀尾などその他の軍勢も各々川を渡り向こう岸へ馳せ上る。
(岐阜方の)兵が弓鉄炮を持って防ぐのだが、大軍が一度に押しかければ
悉く崩れてしまい引き返していった。
また飯沼小勘平(長資)を池田備中守長吉(輝政弟)自身がこれを討ち取った。
城方の主力は新加納に控えて防戦しようとしたが叶わず城中へ引いた。
搦手へ向かう途中新加納での競り合いでは敵の首級を七百余り討ち取り
そのことを輝政が江戸と太郎堤(大手側)にも知らせた。
すると正則は大手の諸将達に向かって
「各々はどう思われるか、搦手へ向かった面々は新加納で首尾よく
 逢えたそうだが、こちらは敵勢が出てこなかったので逢えなかった。
 ただそれだけのことではあるが、明朝の城攻めのとき千万に一つも
 搦手の面々に先を越されてはどうにもならないのだから
 今夜中に岐阜の城下まで人数を押し詰めるのがよいと思う」
と申されたので、みなこれに同意して急ぎ支度を調えて、酉の下刻から
戌の上刻までに繰り出して、岐阜の町はずれ近くまで押し詰めた。
夜が明けるのを待って段々と攻め上っていくところに、搦手も主将輝政を
初めとして着陣し攻め上ってきた。
そこに正則は大手方の諸勢を押し上げるため、大橋茂右衛門、吉村又右衛門に
申し付けてそのまま左右にある家に火をつけて焼いてしまった。
それで煙が山下へと吹きかかるので、池田を初め搦手の軍勢はここから
攻めることが出来なくなったので、輝政は大いに怒って軍勢を引き返させ
長良川のあたりにまわって水の手より攻め上った。
大手口では木造百々津田などが突いて出て坂中で防戦するので
寄せ手は大軍だったが直ちに攻めることはできなかった。
搦手からは城兵が出てこなかったので瑞龍寺の砦まで進んだ。
この砦には石田方から加勢として樫原彦右衛門、川瀬左馬助を主将として
二千人余りで守っていたが、浅野左京太夫幸長の家中の者共が一番に
攻めかけたのを見て、搦手の軍勢は一同に攻め寄せ急に乗り入った。
城兵がこれを防ぎかねている所、さらに大手勢が次々に攻め入ったので程なく
出丸は落ちて、樫原彦右衛門を浅野幸長の家人の岸九兵衛尉が討ち取った。
川瀬左馬助は二の丸に行った後本丸にこもったという。
(中略)
さて大手搦手の軍勢が悉く攻め上り、城兵が余りにも多く
討ち取られてしまったので敵は二三の曲輪を捨て本丸へとこもったが
池田家の旗奉行は武功の者だったので城内へ手早く旗を入れた。
したがって岐阜城は輝政が一番乗りしたように見えた。

816 :
(織田)秀信の家老の木造左衛門が正則方に降参し、主人の秀信の助命があれば
本丸を明け渡すことを伝えると、正則は差し支えないと返答した。
家人の可児才蔵に使番の侍共を添えて味方に矢留めのことを触れ回らせた。
その後寄せ手の諸将が集まったとき、秀信を助命するのはどうかという話になり
左衛門太夫が
「秀信は自身の不了簡で内府(家康)へ敵対されたが、信長公の嫡孫であることは
 間違いなく、味方の中には信長の厚恩に預かった筋目の方もいるので
 この正則の計らいをよもや悪くは思わないだろう。我は織田を贔屓する
 筋目ではないが助命を承り、左様に心得て返答に及んだことなので
 今更変えようとは思わない。秀信の助命のことが内府卿の心に
 叶わなかったら、我の今度の骨折りを無にしてもらうまでのことだ」
と申されたので、その後あれこれと申す人はいなかった。
秀信は正則の世話で芋洗という所に逗留された後
関ヶ原御合戦後は紀州高野に登山して程なく病死したという。
秀信が出城した後、城受け取りのことについて正則と輝政とで争論があった。
正則は城主秀信から助命があれば城を明け渡すと申してきたので、願いの通り
助命するから城を空けるようにと返答した上は我らが受け取るほかないという。
輝政はそのことはもっともだが、我らの旗を一番に城内に入れたのは間違いなく
弓矢の古法に照らして、城を我らが受け取れないことがあるだろうかという。
大手搦手の諸将はみな並んでおられたが、面々には関係のないことである上
難しき争論の話なので、みな口を閉じ仲裁する人もいなかった。
井伊直政と本多忠勝が二人の間へと入られ、正則に向かって
「先程よりここで聞いていましたが、御双方ともに根拠があることですから
 御両人の御家来を立ち会わせて受け取るのはどうでしょうか」
と申されたが、正則は
「それは普段、人がいる城などを受け渡しする時のことで
 攻め落とした敵の城を受け取るときは、左様にはしない」
と申されて埒が明かなかった。
そのとき本多中務(忠勝)は一柳監物の側に寄り、何事か小声で申した。
輝政は近い所にいたので監物に
「中務はそこもとに何を申されたのか」
と尋ねられたので、監物は
「『今度の逆徒追討で各々命を投げ打たれ
  内府へ合力して下さる以上は、少々の不足があっても
  内府の為によきようにしたいと思って下さるのだと考えていた』
 と申されました。もっともだと拙者なども思います」
輝政はそれを聞かれて
「本当に中務の申されることはもっともだ。内府の為に
 不足を取るべきなのはそれがしより他にはいないのだから
 正則が城を受け取るのがもっともだ」
と言われ事が済んだという。
そのとき正則は
「最初に両人の衆(井伊・本多)が申された通り、両家の立ち会いで
 受け取るので輝政の家人も出されるように」
と申されたが、輝政は
「我らの家来を出すには及ばない。時が過ぎてしまったので
 早々に城受け取りの片をつけた方がよい」
と申されたという。
岐阜城攻めのときの正則と輝政の争論と世に知られているのはこのことだと
一柳助之進(直良)が語ったのを聞いて書き留めた。
きっと親父の監物殿が雑談されたことがあったのではないかと思う。

――『落穂集』

817 :
岐阜城は見た目は堅城そうなのに
あっさり陥落し過ぎだよな
http://i.imgur.com/4PTFNsx.jpg

818 :
常真さんでも落とせる岐阜城

819 :
後詰めなけりゃ落ちるわ

820 :
岐阜城は水源が少なくて大勢で籠城するとあっという間に干上がる、と聞いたことがある。

821 :
なんか可愛いなと思ったので
我らが五州二島の太守、隆信公が弟長信に宛てた二通の書状をご紹介
─御書面被見せしめ、其心を得候、随って塚崎の湯の儀申し入れ候、一日成り共、早々しく参り候様御用意寛容たるべく候、恐々謹言
─先日塚崎湯の儀申し入れ候処、整え給い候、祝着候、何様是を持って快気たるべく候
前者は天正三─五年頃隆信が長信に武雄温泉の入湯の世話を督促した物で、後者は同じ頃と推定される書状の中に記された一節
隆信さんの湯船に浸かってちょっと気持ちのいい話

822 :
慶次「なんと風呂に入りたいとな?」

823 :
家定「同姓の誼で是非それがしに馳走くだされ」

824 :
>>817
山全体を要塞化したら2万人位守備兵が必要だな
長篠城とか上田城みたいに小さくても守る場所が限定
出来て少人数で大軍を撃退出来る城こそ名城といえる

825 :
山名豊国の話
「豊国大坂御陣の供奉にありしとき、旗の紋三引なりしを、三浦とわかたんがため、
山の字をくはふ。
 東照宮これを台覧あり、三引の下に山の字を加ふときは、さんざんの唱あれば旗の紋
をあらたむべきむね仰により、二引両に山の字を用ふ。
これよりして家紋も二引両にあらたむ。」
「出典 寛政重修諸家譜」

826 :
>>823
どこかの地域では、飲食店と同じように銭湯でも「ご馳走様でした」っていう習慣があったって聞いたことあるな

827 :
風呂は馳走になるもんじゃないんか?

828 :
>>827

829 :
田中筑前守(吉政)の家臣の内、関ヶ原の役、合渡川合戦において石田三成の家臣で武勇を知られた
杉江勘兵衛と鑓を合わせ討止めたという者が3名あった。
西脇五右衛門、松原五右衛門尉、辻勘兵衛の3人である。
実際には、西脇が杉江と鑓を合わせて突き合いをしていたが負傷した所へ、田中吉政自身も駆けつけ
声をかけ、西脇がさらに奮戦していた所、松原が来て突き倒し頸を挙げたのだ。
辻勘兵衛は通りざまに鑓を合わせただけであった。
しかしてその後、西脇と松原はこの時の功を争って止まなかった。
吉政が筑後拝領した初め、磯野伯耆守の所で吉政は、両人が未だに絶交状態であると聴き、
両人を呼び遣わし、その間に、杉江を討ち取った事についての、全く同じ文章の感状を二通したためた。
両人へこれを渡して、仲直りをさせたのである。
辻勘兵衛はこの合戦の時、他の敵と組み討ちの功があり、別途その功についての感状を与えられた。
田中家改易の後、松原五右衛門尉は三千石あまりにて越前へ、西脇は七百石にて肥後へ、辻は肥前と称し、
浅野但馬守の所へ参った。
(士談)

830 :
ジョアン・ロドリゲスは過去にも何度かスレに出てきたポルトガル出身のイエズス会宣教師で
10代後半を日本で過ごし耳川の戦いにも参戦し、日本語に関する「日本大文典」「日本小文典」を書き、
明の軍事顧問をした人物だが
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8123.html
集英社のシリーズ<本と日本史>C「宣教師と『太平記』」の日埜博司編訳ジョアン・ロドリゲス『日本小文典』から孫引き
まさしく日本語でものされているというふさわしい書物で、生徒たちに講じてやってもよいものを、
クラス別に分けてみるとつぎのようになる。
第一のもっとも低いクラスには「舞」および「草子」がくる。
第二のクラスには「撰集抄」「発心集」というものがはいる。
第三のクラスには、歴史物語を意味する「物語」という名の書物がはいる。
たとえば「平家物語」「保元平治物語」がそれ。これらはこのジャンルに属するもののうちでは
ひときわ優れたものであり、いちだんと優雅な文体からなるものである。
第四のクラスには、「太平記」とよばれる歴史物語がはいる。
これは日本にあるもののうちもっとも荘重で高尚な文体のものである。
「宣教師と『太平記』」では、太平記を平家物語の上位に置くという考えをロドリゲス特異のものでなく
戦国日本の評価をある程度反映したもの、と論じているが、興味深かったのでロドリゲスに関する話として

831 :
人間無骨の槍
かの武州(森長可)が戦で持っていた人間無骨という槍のことは、
今でも町の中にいる軍書よみという者どもの口からも普く出ている。
先年美濃守(森忠賛)と同席した時に話し合ったなかで、
濃州が話してくれた。
「正しく今でも伝わっています。すなわち出入に見られる玄関に掛けてあるものがそうですよ。」
と答えたので注意して見ると、成程殊に大きな十文字槍である。
立ち寄って見たけれど、さすがに勤番士が並み居る前なので憚って、
濃州に頼んでその図を写してもらった。
今思い出して図を出して見ると、直刃がけら首から鋒までは一尺二寸二分、
横手刃端の見渡しが一尺一寸であった。
直刃のところに血漕が一筋あった。横刃には二筋で表裏で違っていた。
四分の所に、表に人間と彫り、裏に無骨と彫ってある。
茎には和泉守兼定と銘じてある。
また濃州の話か、もしや馬谷〔軍書よみの名〕の話か、今は分明でないが、
武州が戦争のとき首を獲って、この槍鋒に貫き槍を立てて一突きすれば、
首が槍柄を貫いて槍の下に至ったという。
剛者の所為といえども、これはこの刃が鋭いためであると聞いたことがある。
(甲子夜話)
蜻蛉ではなく生首とは…

832 :
和泉守兼定
あまりに切れ味がいいので手にすると無性に人が斬りたくなるのである。

833 :
三斎様「うん、しょうがないよね」

834 :
信長公が伊賀へ御働きの時、伊賀者の平岡道一兵衛は、
『長野を討った者はこれ程の褒美を、新藤を討った者はこれ程の褒美を、
その他誰々を討った者には褒美幾つ』
との書付を見ると、一番の長野を平岡は討つとして点をかけた。人は皆、
「何事を申したるぞ」と疑い申したので、道一兵衛は、
「道理がなければ、斯様のことは申されぬものぞ。それがしの達者は人に
優っておろう。鉄砲の腕は人に負けまい。然れば良きところに待ち受けて
長野を撃てば、真っ甲を2つに打ち破ることだろう。すぐさま首を取って
帰ろう。敵が馬上で追ってきたら、馬足の叶い難い山へ向かって退こう」
と言って案の定、長野を討ち取り申した。のち、道一兵衛は松平下総守
(忠明)のところに有り付いた。道一兵衛は首を17取ったという。
――『武功雑記』

835 :
長野、進藤というのは北畠と六角の旧臣かの

836 :
長野ってあんまり北畠傘下ってイメージがしない

837 :
長野貝藤も知らんのか

838 :
具藤やったわw

839 :
具勝

840 :
知っとるけど、たかだか20年くらいじゃん?
それまでの手を組んだり戦ったりしてたイメージのほうが強いってことだよ?

841 :
それは全て信長が悪い

842 :
豊臣秀次の家臣であった岡本加介は、長久手合戦でも功のあった人物で、
後に松倉豊後守(重政)に属した。
大阪冬の陣の折、大阪城中より鉄砲をつるべ撃ちすることがあり、幕府軍の先手が騒ぐ時、
岡本は一番に進んで城際まで付くと、さらに先に人が居たので追いかけてみると、
それは同じ家中の奥田三郎右衛門であった。
このつるべ撃ちは、敵の攻勢などにつながるものではないと判断し、両人連れ立って帰ったが、
松倉隊は備えを丸く立て臨戦態勢を取っていた。そこで両名が帰って報告し、備えを立てるまでもない
状況だと解った。
この奥田と岡本は、夏の陣では松平下総守(忠明)の陣を借り前線に出て、6日の早朝にそろって討ち死にした。
岡本加介は、後藤又兵衛を必ず討ち取ると言っていた。その故を人から尋ねられた時
「後藤はいつも一番に先に出る者であるから、私は魁してこれと打ち合うのだ。」
と答えたという。
果たして岡本は、後藤が討ち死にした場所から6,7間(約10〜12メートル)ほどの近接した場所で、
鉄砲にあたり討ち死にを遂げた。
(士談)

843 :
霧夜…

844 :
.

845 :
上田主水(宗箇)は初め丹羽長秀に仕え、小姓奉公などしていたが、本能寺の変後、明智光秀への関与を
疑われた織田七兵衛尉信澄が大阪城(石山城)の本丸に居たのを、長秀の軍勢で取り巻き、信澄が自害に
及ぶ時、上田主水(当時16,7ほどであった)が城内に飛び入ると、信澄は既に自害しており、
そこでその頸を受け取って退出したという。あくまで剛勇の生まれ付きの者であった。
後に太閤秀吉に1万石で仕えたが、関ヶ原の時三成に属した科を以て、本領を没収された。
ここで、浅野紀伊守(幸長)はかねてより彼を知る好であったので、徳川家康に対し「茶友達」との事で
身柄を引き受けたいと要望した。
上田は三成に属しただけで、事の顕れた悪事もなかったため、家康は免許した。
以後、浅野家に属し1万石を領した。
実は上田は、その頃までさして名を得た功は無かったのだが、浅野の屋敷の近隣にあった
中村式部少輔(一氏)の屋敷に火事が出た時、破風口に一人出て延焼を防ぎ止めた振る舞いは、
只者とは見えず、当時の人達はこれを大いに賞賛した。
また、大阪の陣において柏の井で一番に鑓を合わせた。
以上の人に知られた働き2度のうち、一度は火事の覚悟であったといえる。
大阪冬の陣の時、浅野但馬守(長晟)の仕寄の場所に大筒を設置したが、但馬守の足軽が竹束の間から
外を覗いたところを、大阪城内より鉄砲にて難なく撃ち殺された。
その直後、上田宗箇は大筒に乗り掛かり、顔を出して四方を見回した。
彼をめがけて城中より鉄砲が雨のごとく降り注いだが、彼はまじろぎもしなかった。
類まれな勇者であったといえる。
(士談)

846 :
戦が少なくなると武士が名を上げるには火事の対応とか無意味に躰を危険に晒すとかぐらいしか無いって、淡く切ないお話しですね

847 :
へうげものの武闘派上田宗箇を思い出したけど
大坂冬の陣でこの場面あったっけ

848 :
敵がくれの茶杓作った位しか出てない

849 :
戦国時代の御馳走って戦勝で振舞われた汁講だってな
現代の闇鍋みたく地虫が一番のアタリだったとか

850 :
地虫?
地虫って何!?
食っていい物なの!!?

851 :
カミキリムシの幼虫あたりじゃね?
コガネムシはあんまり美味そうじゃないしな

852 :
カメムシはパクチーみたいで香り付けにはもってこいだな

853 :
みみず変換地虫

854 :
蒲生氏郷が伊勢国松島在城の時、蒲生主計と栗生美濃との間に口論があった。
ふと気づくと、蒲生主計の後ろには山中大運が、栗生美濃の後ろには倅の東が小脇差を持って
つめかけ、この二人が刀を抜けば、即座に突き掛かろうとの風情であった。
これに主計も美濃も、冬であるというのに大汗を流したという。
この時の評に、主計も美濃も大汗を流すほどに思っていたが、両人ともに相手を討ち果たせば
この場で多くの人が損ずると思って、そのようにならなかったのだ、という。
どちらも特別な勇士どもであり、いずれにも越度という物はない。
「両人ともに後ろ詰めに迷惑して汗を流した」と言うべきだが、その頃の評も殊勝である。
加藤清正、加藤嘉明、福島正則といった人々も、1年に2,3度づつは口論問答があったが、
それによって争いごとに成るということは聊かも無かった。
名ある有志である上は、そうあるべき事である。
(士談)

855 :
 京都五条松原の東洞院にある角屋敷で境界をめぐる争いが起きた。
 京都所司代の板倉勝重はその境界争いをしていた者の一方と知り合いであり、
その者は4月初めに見事な白瓜を勝重のところへ贈った。それに対し、板倉勝重は
「近日中に境界の様子を見に行く」と答え、しばらく日が経ってから争いの現場へ
おもむいてじっくりと調査した。
 町中の人たちは境界争いの判決がどうなるか固唾をのんで見守っていると、勝重は
白瓜を贈ってきた男に対して丁重にお礼を述べた後で、「さて、よく調べてみたところ、
この土地は隣家のものであるのは明らかなので、いただいた瓜は後でお返ししよう」と
言い渡して帰っていった。見物していた町の人々は「実に明快な裁きだ」と感嘆しあった。

856 :
一度は賄賂を受け取ったってことになるんじゃないの

857 :
賄賂に左右されなかったいい話ってことじゃないの

858 :
グレーゾーンなら貰っていただろうな

859 :
島津豊久が関ヶ原にて討ち死にしたのは、彼が討ち死にせねば島津の総勢が撤退すること困難だったためで、
彼とその配下500ばかりが一ヶ所において討たれた。忠死というべきであろう。これによって島津の兵は
事故無く引き取れたのである。
ただし大勢が、豊久が討たれたその場で腹を切って死んだ、と云うのは嘘である(大勢その場にて腹を切て
死せしと云は?也)。
(士談)
豊久が死んだその場で薩摩軍集団割腹、という話も当時あったらしい。

860 :
そら豊久は異世界のエルフのとこ行っちゃったからな

861 :
>>859
足止め役なのに全員切腹したら意味ないしなw

862 :
明治になるまで薩摩ってこんな顔の奴ばかりだったんだろ
http://i.imgur.com/S4Y3T.jpg
間宮林蔵は良く潜入出来たな

863 :
肥後(細川家)の志水伯耆は島原で攻め口の先頭から、にわかに指物を取り
に人を小屋へ遣した。この際、留守に居た料理人がその理由を尋ねた。
使いに来た者はこうこうだからと言い、指物を取って行った。すると料理人は
その使いを追い掛けて、やむなく指物を奪って帰った。
その仔細は、いま急に攻め口に臨んで乗り入ろうという時に、これから指物を
持って行けば、「伯耆は遅れたのだろうか」と、人々に言われるであろうとの
深い配慮であった。そのため、料理人は「功者の料理人」と、言われたという。
この者は老人であったという。
――『武功雑記』

864 :
荒木村重は俵藤太秀郷の末葉・宇治次郎義定の9代の後胤である。曽祖父・安芸守は、
大永7年の桂川合戦(桂川原の戦い)で道永(細川高国)の陣に従って戦死した。
その子・荒木大蔵大輔は丹波国に住んだが、摂津へと越えて豊島郡坂根というところに
居住した。その子は信濃守義村と称し、その頃、当国の六人衆の中で随一の人だった。
ところが信濃守は中年に及んでも子がいないので、これをいたく憂いて夫婦一緒に同国
中山の観音へ参籠して、12の灯火を掲げて28品の経を転読し、
「哀れ願わくは1人の男子を授けなさり、その子が成人の後には、天下に威名を振るう
弓取りとなしてください!」と肝胆を砕き、心根を投げて祈祷した。
すると不思議なことに、7日に満ずる暁(七日参籠)に至って、義村は12の灯火の光の
中から明珠が飛んで来て、彼の女房の懐中に入るという夢を見て目を覚ました。
夫婦は大願成就したと喜びの眉を開いて帰ったところ、女房はやがて妊娠し、それから
15ヶ月目というのに子が出生した。その子は世に優れて大きく逞しい赤子であった。
夫婦はたいへん喜んで、12の灯火の光から出た玉の男子であるからとして“十二郎”
と名付けた。後に弥介と称し、また信濃守と改め、しまいには攝津守と称した。
十二郎は幼少の時、その身長は年齢よりもはるかに伸びて力強く、常に弓馬の芸術を
好み、槍や太刀の勝負を試みていた。しかし、この子は世にも優る大食であったので、
父・義村は彼に向かい、「汝は食を費やすことについては、甚だ余人以上だ。その益は
何かあるのだろうか?」と、問うた。村重はこれを聞き、「武将たる者は筋力無くては
叶いますまい! 槍を突いたり、太刀を打つにしても、余人以上の兵具を持てばどうして
勝てないということがありましょう!」と言い、その場をズンと立ち、
側の碁盤を掻い掴んで引き寄せると、義村をその上に乗せて盤の小角を取り、座敷の
隅の柱どもを3遍数えて廻りつつ、もとの座に置いたので、父は大いに感心し、
「汝は中山の観音に祈ってもうけた子なれば、ひとえに千手の力を受けたのである。
『好堅地底に萌し、芽百囲を生ず』と言われている。今年12歳でこのような大力で
あれば、これからは項羽の山を抜き、樊カイが門を押す力をも得ることであろう。大食
するのも道理であるな」と、微笑して喜んだ。すると村重は、
「大食多力だけで、どうして益ありと申せましょう。“貞松は巌嶺に産す”と言われています。
いま乱世に生まれたことこそ幸いです。悪逆の国賊を誅し、数カ国を領してのちにこそ、
我が大力の益を現すでしょう。生きて五鼎に食まずんば、死して即ち五鼎に烹られん!」
と言ったので、父はますます歓喜し、寵愛は日頃に増益した。
――『陰徳太平記』

865 :
後に道糞となるとは思いもしない頃の話である

866 :
一瞬、荒木大輔がなにゆえ戦国時代に?と思ってしまったのは内緒

867 :
嘆きの中の喜びとはこのことです

一部既出だが(ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5244.html)
秀吉が小牧長久手で池田恒興・元助親子が討死した後に
天正12年4月11日付けで恒興母の養徳院にあてた手紙
 今度の勝入(池田恒興)親子のことは、簡単に申せることではありませんが
 其れ様が御力を落とし御愁嘆されているのは推量申し上げます。
 我々もこちらに出向き、敵にあって十町、十五町とやりあっていたところに
 親子の人の不慮があり私も力を落としたこと、数限りもございません。
一三左衛門殿(輝政)、藤三郎(長吉)殿、両人が何事もなかったことは私の
 嘆きの中の喜びとはこのことです。両人はせめて取り立ててこそ
 勝入の御奉仕に報いることになり、心に叶うことだと思います。
 
一其れ様が途方に暮れておられるだろうと存じていましたので、こればかり
 案じていましたが、ぜひとも賀を御致しになって御嘆きを止められ
 両人のことをお世話されれば、勝入親子の弔いにもなることですから
 是非とも頼みますので、御女房衆(恒興妻)にも力をおつけなさって下さい。
一そのほか残った宿老衆は、三左衛門殿につけるように致したいので
 その御覚悟をなされ御愁嘆を止めるようになさって下さい。
一勝入を見るように、筑前(秀吉)をご覧になって下さい。何様にでも
 馳走申し上げます。物参りもなされるように致します。
 心のままに物などを召し上がり、身を完調になさって下さい。
一浅野彌兵衛(長政)に申し含め御見舞いに行かせます。私もそちらへ
 参りたいのですが、只今は手前のことで参上することが出来ません。
 ここもとの暇が空いたら御見舞いに参り、そのとき勝入親子と
 親しくしていた話でもせめて物語り致したいと思います。
 何かにつけて其れ様の御心の内を推量し、御気の毒に思います。
 返す返す御女房衆にもこのことを申したく思います。
 孫七郎(三好信吉、のちの秀次)ですが、そこもとの配下が動揺していると知り
 (行きたいと言ったので)御城(大垣城)の留守居に遣わして参らせます。
 孫七郎めも命を助かったのですが、せめて三左弟兄[兄弟のこと]の為にと
 声を上げて騒いでいるのだと嬉しく思いました。
 詳しくは彌兵衛に申して下さい。

――『侯爵池田宣政氏文書』 

868 :
武将なのに1人で突っ込んじゃうのは
組織の力発揮できなくてイクナイ的な
すぐ自分でやっちゃう上司に言いやすい金言ってありませんか?
徳川四天王のだと、文字数多い気がする。

869 :
>>867
今の軍隊の上司も部下が死んだら手紙書くんだろうか、書くとしてもここまでかけなさそう。

870 :
ぺリリューて漫画では死んだ部下の家族宛の手紙を書くのも上官の仕事だって書いてたな

871 :
ある人が語ったことだが、大阪の陣の折、大野主馬の部隊が夜討ちをして戦功のあった時、
主馬は自身の首尾よろしき段を、秀頼に木村長門守(重成)に取りなしをしてもらい、自身に
感状が頂けるようにと要望した。
長門守はその時は良いように会釈したが、後で主馬を密かに呼んで言った
「先程の御感状ご所望の事、言われるまでもなく今回の武功は上様もよくご存じですから、
下されること相違ないでしょう。
ただし、私が思うに、あなたの御身分の上に感状を頂いて、一体誰にそれを披露するおつもりなのでしょうか?
匹夫独身の者は、重ねてまた、他の主人に仕える時、自らの名誉としてこれを差出します。
しかしあなたは、現在上様の為に、あなたご自身もご兄弟も、股肱羽翼の補佐をされています。
そのような人が功成り名を遂げられる事について、一体誰がそれを争うというのでしょうか。
あなたについては、御感状お望みのことは、ご遠慮すべきだと思います。」
この言葉を聞くと主馬は大いに恥じ、重ねて云うべき言葉もなかったという。
これが実際にあった話なのかどうかは解らないが、その考え方自体は尤もというべきであろう。
(士談)

872 :
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8076.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2962.html
出典は違うのが何度か出てたようだ

873 :
天正18年に、蒲生氏郷は豊臣秀吉より奥州会津を賜り、木村伊勢守(吉清)が葛西大崎を賜った。
その冬、木村の領分にて一揆が蜂起したとの知らせが氏郷の元に入った。
氏郷は雪中にも拘わらず、急ぎ妙佐沼へと救援に向かった。
この時、この一揆は伊達政宗が起こしたものだという風聞があった。
氏郷は速やかに出陣して所々の一揆を追い落としたが、ここに新国上総という者、彼は永沼の城主であり、
元は蘆名に属し、その後伊達政宗に従った人物であったのだが、彼が氏郷に面謁して言った
「この度の一揆は、悉く伊達政宗が扇動したものです。しかし現在雪中であり、分国の通路すら
自由にならず、また蒲生様は未だこの土地の案内も詳しくご存知ありません。であればこのような
救援の軍はうまくいかないでしょう。」
これを聞いて氏郷は答えた
「汝の言うことも尤もである。しかし、太閤殿下が奥州の背炙山まで御動座あって、奥州の仕置を
仰せ付けられたとき、木村伊勢守と私を左右に置いて立たれ、二人の肩をつかみ
『伊勢守は氏郷を兄と存じ、氏郷は伊勢守を弟と存じて、奥州のこと、互いに相談して仕置をするように。』
そう命ぜられたのである。であれば、たとえ途中においてこの氏郷が一命を失ったとしても、伊勢守を
見捨てては君命を蔑ろにし、義理を失ってしまう。
私は確かに昨今この土地に至り、地利を知らず、また雪中の時期であり、人馬の苦しみは言葉にならないほどだ。
しかし、だからといって伊勢守を棄てるというのは、義において欠ける行為である。
伊勢守が討たれて私の命が残っても、一体何の面目があって太閤殿下にお目通りできるだろうか。
これが、私が兵を起こして救援に向かう由縁である。」
そして氏郷は遂に勝利を得て、思いのままに一揆を退治し奥州を平均せしめた。
その勇功といい義を守ることといい、共に武士の本意に当たると言えるだろう。

874 :
>>873
すいませんソース抜けました。「士談」です。

875 :
大久保相模守(忠隣)の家来に、天野金太夫という者があった。
忠隣の親類であり、度々の戦功あって、その身の勤め、行跡、残る所無く、志ある義士であった。
大久保長安事件をきっかけに忠隣が身代没落すると、家中の諸侍は閉口し逼塞していた時分に、
下々は逃げ欠け落ちを致し、結果小田原の侍町では盗賊が多くなった。
この時、天野は断固詮索を遂げて、下人の徒者十余人を追補して一々に成敗し、その頸を町の出入り口に掛け
札を立てた
『主人の落ち目を見て不届きに付き、かくの如くせしむる。』
天野金太夫はその後、忠隣の身が終わるまで彼を見届けたという。
彼のような行動は、内に正しさを持っていなければ成り難い事である。
(士談)

876 :
ビビるほど可愛い。しかしさすが、カープユニ似合うなw
http://pbs.twimg.com/media/C-48lpdW0AEVpil.jpg

877 :
曲直瀬玄由
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B2%E7%9B%B4%E7%80%AC%E7%8E%84%E7%94%B1
>元和5年(1619年)には幕府の命で、島津義弘の診療のため鹿児島へ下向している。

これ知らなかったんだけど、義弘の死の直前に幕府が医師派遣してんのね。
こういう例は多かったのかな?

878 :
 家康の元で京都所司代を務めた板倉勝重は若い頃に僧侶として葬儀の場で
多くの死体を見る機会があったので、自然と死体について詳しくなった。
 その彼が還俗して武士になった後のことである。宿で首吊り死体が見つかった
ので、板倉勝重はその検視をおこなったところ、彼はその死体を見て、
「これは生きているうちに自分で首を吊ったのではない」と看破し、ただちに
よく調べさせると、宿の主人が寝ている被害者を襲って命を奪った後で、
首吊り自殺したように偽装していたことが判明した。
 また、あるとき、男が被害者の死体に切り傷をつけて自分の犯行をごまかそう
と試み、勝重の前で言い訳していたが、勝重は一見して、「この切り傷は生きて
いる時についたものではない」と見抜き、偽りを言ってた犯人の男を捕らえた。
 これらの事件について、なぜ真相がわかったのかと人から問われた勝重は
「死んだ人間の首をくくった時には縄目に血が寄ることはなく、生きた人間が
くくった時には縄目に血が寄ってしまうものだ。また死亡した後、刀で傷を
つけた場合、皮膚は内側にまくれ、生きている時の傷であれば皮膚が外側に
開くものだ」と説明した。
 これを聞いた人々はみな「なるほど」と感心した。

879 :
>>878
独学(経験?)でわかるようになったのかな、すげえ。

880 :
>>878
これは名探偵所司代

881 :
>>879
実は室町期にすでに、この手の犯罪捜査のノウハウは相当蓄積されてたらしい。
筆跡鑑定まであったそうな。

882 :
「生活反応」って言葉が一般に知れ渡ったのが、戦後すぐの下山事件(国鉄総裁が轢死体で見つかった事件)だもんな。この人すげーな

883 :
板倉勝重の逸話は中国の名裁判集、棠陰比事の焼き直しが多いというが、
(焼死した人の口の周りには灰を吸い込んだ跡があるから
殺した後に焼いたかどうかがわかる、という話とか)
これも板倉勝重以前の出典があるかも

884 :
宋に成立した洗冤集録の検死についての記事見たら
こと細かに死体現象や偽装の見分け方について書いてあった
法医学の勉強になる
ttps://zh.m.wikisource.org/wiki/洗冤集錄

885 :
灰がどうこうって千字文のあれだろ

886 :
だから京都に科捜研の有名な女がいるのか

887 :
古より、城より突いて出た後には、門役を務めることを以って城中の大切と致し、能く事に成れた
侍を以ってこれに当てた。六条合戦の門役は明智十兵衛(光秀)が務めたこと、人の知るところである。
秀吉が信長の命を受けて金ケ崎に殿として残り、朝倉中書(景恒)と戦を決した時、朝倉中書は
金ケ崎の城より出て秀吉と戦ったが、この時毛屋七左衛門を以って門役とした。
中書敗軍して兵士ら我先にと城を指して引いていたが、秀吉はその機を失わず追い打ちを仕掛け、
門際まで押し入った。しかし毛屋が素早く門を打ったため、城中つつがなかった。この事は当時
朝倉の家にて沙汰されたという。
後に秀吉は横山城に居たが、彼が信長への報告のため岐阜に赴いた時、浅井長政が兵を出して
横山城を囲んだ。
この時城中は以ての外に無勢であったが、竹中半兵衛が居留まり下知したため、危ういこと無く、
むしろ城より突き出て、大いに戦ってまた城に入った。竹中半兵衛は状況をよく見て、
門役に下知し、早く門を打たせたため、城をよく持ち固めたのだという。
こういった事を詳細に極めない輩には、このような大切の役儀は命じにくいことである。
(士談)

888 :
天下の干城

ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9934.html
↑の話の別バージョン
国清公(池田輝政)は烈祖(家康)の愛婿である。
播備淡三国を領し、恐れ多くも時の人はさかんに西国将軍と呼んだ。
人となりは剛毅にして沈静で、上には恭順に勤める。
倹素で珍玩を嗜まず、婦女を近づけない。
かつて亡命していた材武の士を招いて
米穀・金帛をもって撫養し、危急のときの備えとした。
常に人に語っていたことは
「人主は多くの士を養い、厳しく武備して
 天下の干城の材にするべきで、財を繋ぐべきではない」

――『池田志』
材武:「史記」から、才能と勇武があること。
干城:〔「干」は楯の意〕「詩経」から、楯となり城となって国を守る武人のこと。

889 :
また信玄(武田信玄)は、後には10年に及んで精進潔斎し、叡山より
袈裟衣を下され申し、“法性院阿闍梨”と号して常に看経三昧だった。
それ故であろうか、その頃所々の陣中において不思議な瑞兆もあった
とかいうことである。
――『当代記』

890 :
竹中半兵衛が語ったことによると
「人はみな合戦の話を尋ねるが、聞くべき要を問わず、要らざることを多く聴き覚える。
故にその聞いた事が功に繋がらないのである。
聞かれ答える者もまた然りで、善き物語も役に立たないことが多い。
どこどこで誰が手柄を成し功を立てたなどという、一本槍匹夫の手柄話にて事終わるのは、
人の習いになること無し。
その事の始末を探求し、心の付け所を肝要とすることこそ、あるべき形である。」
そう云ったという。
(士談)

891 :
>>856-858
そんなもの受け取れるか‼って直ぐに返したら賄賂送ったから沙汰に影響と思われるからじゃない?
>「近日中に境界の様子を見に行く」と答え、しばらく日が経ってから争いの現場へ
>おもむいてじっくりと調査した。
この間に密かに信用できる者に下見させ、結果を知った上で見に行き
周りに人がいる前で賄賂渡したから怒った訳でもなく真に公平で裁きましたと

892 :
蜂須賀阿波守至鎮は古戦の事跡を尋ねて、古物の名のある物を求めなさった。
そんな折のこと、屋島の戦いで義経の身代わりに立った佐藤継信の葬式の時、
義経は秘蔵なさった“大夫黒”という馬を引き連れなさったのだが、
その鞍が志渡の寺(志度寺)にあった。かの寺が大破していたのを至鎮は補修
してその鞍を乞い求めなさった。
それから後年に至って、その鞍を知る者もいないために他の鞍と一所に交えて
しまい置かれた。
ところが、無頼の悪馬がいて誰も乗る者がいないという時、上田半平という者は
馬術の達人であったのだが、この人が言ったことには、
「かようの馬には、古作の良き鞍を置いて乗れば良いであろう」とのことで、鞍を
たくさん出して見ると、その中に極めて古き鞍があった。
上田はよく見て、「これこそ!」と言い、かの悪馬に置いた。この時、上田を嫉む
者がいて、「馬の善し悪しがどうして鞍に寄るだろうか」と、言ったのだが、
三浦次郎右衛門という鉄砲頭の老人も見物しており、かの鞍を見て、「判官殿の
鞍を久々に見たぞ」と、言った。
人々はその故を聞き一同に驚いたが、かの悪馬もかの鞍で快く乗る事ができた
ので、上田の馬術はますます名高くなったということである。
――『明良洪範』

893 :
肥前有馬のうち、島原において、龍造寺隆信と有馬修理太夫(晴信)が争っていた。
有馬は最初、大友に属していたが、大友の弓矢次第に弱り、ややもすれば龍造寺に攻め詰められ、
度々危ういことばかり多かったので、この時は島津に属して加勢を得て、島原において無二の一戦を決心した。
この時、島津龍伯(義久)は、家臣である新納武蔵守(忠元)を呼んで尋ねた
「今回の有馬への加勢は、当家興廃のかかるものである。いかがあるべき、大将を誰に定めるべきだろうか。」
新納は申し上げた
「同じ御兄弟ですが、兵庫頭(義弘)殿は、耳よりも目の大胆な人物です。
中書(家久)殿は、耳よりは、目で見て物を侮らない人です。
この度、龍造寺隆信な2万の着到にて出馬と聞きます。それに対し有馬はわずかに4千の人数です。
そして此の方よりの加勢も4千。ですから、戦を慎重に致す人でなければ大事に成ると思われます。
中書殿は聞いては大胆に物事を押し、あなどる人物です。しかし実際に見ると慎重に懸ります。
彼を以て、遣わされるべきと考えます。」
龍伯もこれに同意し、島津中無大輔家久を大将として加勢を発したが、新納が申した如く大利を得て、
隆信を討ち取ったという。
新納の終始の言い分、尤もその理を得ている。
(士談)

894 :
男色佳話を記して呉れぬかのう。
戦国時代に盛行せし衆道に関しては多くの美談が残っている筈ぢゃて。
方々、よろしうに頼み申すぞよ。

895 :
ツイッターからの拾いもの
おおかみ石
山形県上山市のおおかみ石を訪れた。ぶどう畑の丘の隅に位置する。
むかし付近を通りがかった最上義光公が、丘の大岩を城の庭石にと所望された。
家来達が岩に近づくと岩上に父狼、岩の洞に子狼が出てきて家来達を睨む。そのことを義光公に報告すると、狼の巣穴を奪うことはできないと断念された。
巣穴を奪わないくだりは、善政を敷き最上家を再興し仁君と呼ばれた義光公こそであろう。
一方その後のおおかみ石の巣穴の狼一家は、他地区の狼のように家畜を襲ったりせず、住民と良好な関係が後世まで続いた。
仔が産まれた時などは住民が御馳走を巣穴まで運んでお祝いをしたそうな。終

896 :
太閤が岐阜を御攻めになった時のことだろうか。滝川左近(一益)は7寸ほど
の黒の馬に乗り、斥候に出馬した。
太閤は御覧になり、「滝川自身が物見に出るのは夜討ち致す心積もりなのだ。
容易には打たれまいぞ」と仰せになり、太閤の御備に柵を御付けなさった。
滝川はこれを見ると、「秀吉はこちらへ夜討ちする心積もりのようだ」と言って、
その場所から3里引き取った。
太閤はその時に仰せられて、「滝川の備へ夜討ち致そうと存じたが、滝川は
よく察したようだ」との御事であったという。
両方の大将の思慮は、符節を合するが如し。
――『武功雑記』

897 :
7寸の馬に乗るって何者?

898 :
>>895
たしか前にSNSからの引用で引用元が嫌がっていたけど許可は貰ってるの?

899 :
>>897
人間の身長と同じで尺を省略してるだけじゃないのかな

900 :
普通のサイズ+7寸 じゃなかったっけ?

901 :
標準体高が四尺でそれを超える分を寸で数える

902 :
織田信長の運用ビジネス

足利義昭を擁して上洛した織田信長は、皇室の窮状を憂い、元亀2年(1971年)に財政支援を行うこととした。

そのために洛中洛外の全田畑に税を課し、米を徴収したが、信長はそれをそのまま皇室に献上するのではなく、いったん町衆に預託し、町衆が運用した成果である「利米」を献上することとした。

こうすることによって、皇室は継続的に利米を得ることができ、安定的な財政基盤とすることができるため、信長はあえてこの形をとったといわれる。

信託制度は受託者に対する信頼がベースになるが、委託者である信長を裏切ればどうなるかは自明であったので、その点では信託に必要な要素がうまく揃っていたといえる信長の構想であった。

余談であるが、日本における信託の活用のさらに古い事例としては綜芸種智院の設立・運営が挙げられる。


橋本卓典「捨てられる銀行2 非産運用」

903 :
武田信玄が北条と、駿河国薩?山で対陣した。
正月18日より4月20日までの、93日間の対陣であり、その間日夜競り合いがあった。
武田軍は一番より十番まで、一手切りに足軽を配備していたが、跡部大炊介(勝資)がこの番に
当たっていた日、北条軍の松田の兵に押し立てられ、二町ばかり敗北し、さらにその場に押し留まった。
このため武田信玄は馬場美濃(信春)に対処を命じた。
しかしこの時、馬場の兵は僅かに百騎あまりであり、跡部の三百ばかりの救援には如何かとあって、
彼はこの役割を内藤修理亮(昌豊)に譲ろうとした。しかし内藤は
「あのように気負った敵に対するのは、馬場ならではである」
そう言って辞退したため、結局馬場がこれを請けて現場へと向かった。
現場に向かうに先立って、馬場は「大炊介は早々に引き取るように命じてください」と望み、
信玄は百足の指物の衆を出して、その通りに申し渡した。
馬場は己の兵を3つに分けると、一手は敵に向かい、足早に撤退する跡部の軍に付いてくる敵軍を、
跡部と交代して引き受けた。
一手は脇より横筋から弓鉄砲にて懸った。これにて松田の軍2500は悉く崩れた。
最後の一手は後備えにて、この場所の武田の備えを回復し、さらに敵の二の木戸まで押し込み、
引き上げた。馬場一大の深入りであった。
「面白さに我を忘れてしまったよ。」
これは合戦の後、馬場が内藤に語った言葉である。
信玄は馬場の戦いを、「武田の弓矢は今、頂上に登った」と評した。
(士談)

904 :
頂上に達したら下るだけ、と突っ込みたくなった

905 :
養徳院、孫の池田輝政に宛てた遺言状

織田信長の乳母だった養徳院は、慶長13年10月16日に94歳で死去した。
非常に長寿だったために、実子と共に義娘である善応院(輝政母)にも
先立たれた養徳院は、慶長4年には輝政に遺言状をしたためている。
時期ごとに計四通あるが、以下は慶長8年に書いた最後の遺言状。
__________________________________
一筆書き置きます。私は八十九になり時間がありませんので申します。
私が果てましたら、長良の真福寺・鵜飼のあたりの知行八百石は
太閤様(秀吉)の御朱印通り相違ありません。
桃巌様(信秀)、総見院様(信長)より長らく知行されていることを
太閤様が御改めになり、そのまま長良八百石を賜ったのですから
妙心寺の桂昌院と護国院に、私が果てましたら寄付して下さい。
もし不届き者が何か申しましても、堅く仰せ付けて下さいませ。
私が果てましたときには、人の知らない内にすぐに焼いてしまって
志の事はあり次第で茶湯料にもすること
宙外(桂昌院の住持)へ申し置きます。
儀式よろずのこと御無用と、宙外へは堅く申し置きますので
後々の二寺のこと御油断なく御心懸けなさって下さいませ。
総見院様の御為に桂昌院は建てました。
護国院は勝入(恒興)の為、六親(親族全体のこと)の為に建てました。
ですから御油断なく御肝煎りして下さいませ。
其れ様皆々が御繁盛されているのを拝見してから
仏になることに満足しています。
返す返す二寺のことを頼みますので、詳しく申し上げておきます。
慶長八年三月廿一日の天赦日に書き置きます。めでたくめでたくかしく。
なお、今の大府様(家康)も、私に御目を懸けて下さいますので
(このことを)詳しく御申し上げになって下さいませ。
__________________________________
同年の2月12日、家康の将軍宣下の同日に輝政は少将に昇進している。

906 :
加藤清正石垣の上手なる事
 加藤清正は石垣の上手であったという。
今肥後熊本城の石垣はもとから高かったが、
その下から走り上ると二・三間は自由に上れるが、
それから上の所では頭の上に
石垣がのぞきかかって、空は見えないという。
伝わるところでは、清正が自ら築いたそうだ。
 これは熊本に住んでいる者の話である。
(甲子夜話)
加藤清正石垣の上手なりしこと
 加藤清正は石垣の上手であった。
ある人が言うに、
「私が肥後に言ったとき、熊本城の石垣を見ると
高いが勾配がなだらかで上れるように見えたので駆け上った。
四・五間は上れたが、石垣の上の方が頭上に覆って空が見えない。
そのためそのまま駆け下った。」
とのことである。
 この頃ある人が語るに
「大阪城西丸大手、御橋内御曲輪の石垣も清正が築いた。
それは御城御建築のとき、清正は石垣の上手なので台命があって、
清正自身の指図で築いたのだ。」
という。
よって今も、北は西丸大手の角から西は三角矢来までを清正石垣または加藤土居と呼ぶ。
 またこの云々は『白石随筆』、『岩淵夜話拾遺』にも出てくると。
予の物が類焼後、身近な書が焚亡したので、引用することはできない。
(甲子夜話三篇)

907 :
石垣がカーブしてるのって建築上の理由もあってのことだからね

908 :
ちゃんと設計図ものこってるんだよね。

909 :
この前の地震でも、後年に建てられたり
改修されたとこは壊れて当時のは無事だったらしいな
戦国建築オーパーツ?職人すげー

910 :
蜂須賀修理大夫正勝は、日頃愛宕山を信仰し、その頃は播磨龍野におられた
ので愛宕山へ参詣なさり、祈念なさっていたところに、どこともなく老人の山伏が
法螺貝を持って来た。山伏は、「宿坊より献上いたします」と言い、法螺貝を差し
置いて帰った。正勝は不思議に思って宿坊に入り一礼を申されたところ、宿院の
僧はこれを聞いて、「左様のことは、こちらは一向に存じ申さず」と言った。
このため僧は、「きっと権現より奉りなさったのでしょう。戦場で貝を吹く事は獅子
の吼えるが如く、この一声には悪魔は降伏して怨敵は退散し、子孫は御繁栄と
なりましょう」と祝した。その夜、正勝の夢の中で山伏と童子が歌を吟じ、
"香をとめよ 蜂須賀もとに 澄水の 濁らぬ世々の 末が末まで" と吟じていた。
これより以後、出身なさって阿波守となられた。
――『明良洪範』

911 :
黒田如水の大名論
 今時の若い大名たちに、笑止千万な欠陥がある。
 それは、礼儀をやかましく法令を厳重に守らせようとするあまり猜疑心が強くなり、家臣たちにだまされまいなめられまいとして年寄りどもの言う事を聞かず、やたらに改革を好み新参の迎合者を近づける。
 老臣の功を忘れて遠ざける一方、新参の家老や奉行をつくるので、諸臣一般は納得しない。
 新参の迎合者は、邪欲が深いので、先輩を陥れようとする。
 徳の高い者が陥れられるので、諸臣の憎しみは主君の一身に集まる。
 大身の大名も小身の大名も、家の仇となるのはこのような新参者である。
 かつての功臣で部下の信望を集めている者を近づけその意見を尊重してやれば、家中は睦まじく諸士は安心して出仕する事ができる。
 このことは大名の心得として最も大切なことなので、いくら強調しても足りるということはない。
(古郷物語)
 なおこういう話を残した家で発生したお家騒動が三大御家騒動の一つに数えられる黒田騒動である。

912 :
栗山大膳に同情的だったのかな

913 :
日根野法印(弘就)が、弟の弥二右衛門と、同じ陣屋にて寝ていた所、外で騒がしい物音がした。
弥二右衛門はすぐに起き上がり甲冑に身を固めた。この時寝ていた法印が「外にて物音の高いのは何か?」と
尋ねた。
「夜討ちでありましょう」
「私もそのように聞こえる」
法印がそう言っている内に、弥二右衛門槍を取って出ていった。
そして法印は起き上がり槍を取って、「弥二右衛門は?」と近習に問うと、「すでに御出です。」と答えた。
「要らざることをやったものだ。おそらく負傷するだろう。」
そうつぶやいている所に弥二右衛門が帰ってきた。彼に法印が聞いた
「変わったことは無かったか?」
「この先で夜討ちがありましたが、早くも事すみました、」
「要らぬことをしたものだ。負傷しなかったか?」
「少し手傷を負いました。」
そう答えたという。
日根野法印は度々の功多く、物事に慣れており、自然とその言葉は戦の法則にかなっていたという。
後に法印はこの時のことを問われて
「物音の響に、天に答えると地に答えるの差別が有る。地に響くのは皆実事であり、
天に響くのは皆虚事である。あの夜の物音は空に響いていた。であるので事必ず実では無いと考えたのだ。」
そう言ったそうだ。
(士談)

914 :
就いた側の多くが滅んじゃった日根野さんだけど
斎藤→今川→浅井→長島一向一揆→織田信長→(豊臣秀吉)→秀次→関ヶ原で西軍に内通?
そもそも優秀じゃないと就職できないよね

915 :
>>911
秀吉を隠喩したのかもしれないw

916 :
いや愚息のことだろう

917 :
林家〔大学頭〕の古き家紋に、杏葉牡丹を用ゆること〔嘗て近衛公より賜る所〕
林子(述斎)に会った日に、彼が着ていた継肩衣の紋に見馴れない牡丹をつけていた。
その故を問うと話してくれた。
「我が家の祖先の道春は初めは浪人儒者で、京に住んでいました。
その頃に近衛公に召されて特別に目をかけられ、遂にかの家の牡丹紋を賜ったといいます。」
予は悪口に
「これまで長年に渡り交友してきた中でその紋を見かけたことがなかったので、
あなたの新作ではないかと思いましたよ。
そもそも今の御台所(広大院)に媚びてことではないのですか?」
などと言って戯れ笑った。
実にその賜紋は古き伝えがあり、
今も林家の古器には杏葉牡丹を蒔絵を施したものが往々あるとか。
(甲子夜話続編)

918 :
上杉家が30万石に減封させられた時、老臣の中には、「この際、30万石の丈に
見合った家臣の数に減らすべき」とのことを提案した者もいたが、
直江兼続は断じて反対し、「この如き際には、人ほど大切なものはない。一同が
協力して復興を計るべきである」として、
新季奉公の牢人たちで去る者は追わなかったが、旧来の家臣は1人も去ることを
許さなかったということである。
――『直江兼続伝(天雷子続)』

919 :
>>414
かなり亀だが先月か先々月頃に時代劇専門chでやってたまんが日本昔話で見たぞこの話

920 :
>>919
すでにほんとにやってたのかよw。
まあ元々いい話だし不思議でもないか。

921 :
>>919
これかDVDに収録されてるからみてみる
http://nihon.syoukoukai.com/modules/stories/index.php?lid=449

922 :
カス殿バカ殿ばかりでもなかったんだね

923 :
直江兼続の衣食住は非常に倹素であり、食事の如きも山椒3粒で済ませた。
中条越前守が蓼漬と蛮椒(唐辛子)を用いたのを兼続は見咎めて、「どれか
一品になさるのが良いであろう」と、忠告したとある(『愛日漫録』)が、実際、
余程粗末のものであったと見える。
また色部修理のところへであろうか、招かれた時に雁の吸い物を差し出した
として亭主に断り、「奢りである」と言って、その汁を食べなかった。かつその
用人を追放させたとのことである。(『鶴城叢書』)
衣服も頗る質素で、今上杉家に保存されている兼続が着用した浅黄綾子の
羽織を照らし合わせると、これは彼の衣服でも最上等のものであるが、裏は
黄金色の練らない絹で、細かい継ぎ切れを縫い合わせたものである。
(『我郷の先哲』)
――『直江兼続伝』

924 :
山椒って高いよね

925 :
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1419.html?sp&sp
こっちでは「おかずに蓼は贅沢!塩だけで十分!」

蓼か唐辛子かどちらかにしていても文句言ったようだ

926 :
倹約して貯めた金はどこに消えたんだ?

927 :
誰のせいでこうなった!

928 :
大酒呑みの基地外だろうね

929 :
戦国時代は香辛料をおかずにご飯を食べるのが普通だったのか?

930 :
>>929
まあ遠回しに「そのくらい美食を遠ざけ倹約してたんだよ!」って言っているんだよ

931 :
「肥後のからしれんこん」
肥後国熊本、細川藩初代藩主、細川忠利公は名君で武術の腕も確かだったが、生まれつき食が細く病弱であった。
細川幽斎公・三斎公のように個性的な存在ではなく、どちらかというと律儀で真面目な人柄だった。
少食であることを心配した水前寺の玄沢和尚は、滋養のある食べ物がないかと考えていた。
そこで、加藤清正公が非常食にとお城の外堀で栽培していた蓮根に目をつけた。
賄い方の平五郎というものに煮物にさせ、忠利公に差し出した。
忠利「蓮根か・・・泥の中にあったと考えると、どうも食う気が起きんのう」
玄沢「仏教には、泥中の花という言葉がございます。例え根は泥中でも、そこから美しい花が咲くのでございます!」
忠利「ほう」
玄沢「殿にもここから一花咲いて頂きたいのでございます!!」
忠利「でも無理。こんなの食えん」
続く

932 :
蓮根の煮物を食べてもらえなかった玄沢和尚は、平五郎と相談し、今度は蓮根に衣をつけて揚げてみた。
これは忠利公も多少箸をつけたが、3日で飽きてしまった。
そこで平五郎は毎日飽きずに食べられる、見た目の美しい蓮根料理を考えることになった。
(蓮根の穴に何か詰めたらどうだろう?見た目が美しく、食欲増進効果があるもの・・・)
(そうだ!辛子を使ってみよう。辛子には食欲を増す効果があると言うからな)
辛子を麦味噌と合わせて蓮根の穴に詰め、麦粉・そら豆粉・卵の衣をつけ、菜種油で揚げてみた。
これを忠利公にお出しすると、
忠利「美しい見た目じゃな。どれ、味は・・・」
忠利「ツーンと来て辛いけど・・・うまーい!!!」
忠利「これは誰が作ったのか?」
玄沢「賄い方の平五郎というものでございます」
忠利「すぐにその者を呼べ!」
ごめんもうちょっと続く

933 :
忠利「その方が平五郎か。この料理を考えたのはそちじゃな?」
平五郎「へい。その通りにございます」
忠利「ツンと来る辛さで食欲がわき、非常に美味じゃ。しかもこの断面を見よ」
玄沢「は?断面が何か・・・?」
忠利「わが細川家の家紋、九曜紋にそっくりじゃ。これは縁起が良い。これ平五郎よ」
平五郎「はっ」
忠利「わが細川藩門外不出の料理として、これからもこの辛子蓮根を大事に作り続けてくれ」
平五郎「ありがたき幸せにございます」
その後、忠利公は毎日辛子蓮根を食べて元気になり、辛子蓮根は藩の重要な料理として、明治維新まで庶民は食べられなかったという。
出典はテレ東日曜朝9時〜放送のふるさとめぐり日本の昔ばなし「肥後のからしれんこん」より。
今朝、子供とテレビで見て、
「たしかに幽斎や三斎は個性的だなw」
「あの2人と比べたら誰でも地味だろw」
「坊主が上手いこと言ってるんだから、我慢して食えよw」
「いやいや庶民にも食わせてやれよw」
的になかなか楽しい話だったので思わず書いてみた。
庶民は食えなかったが、忠利公の体が良くなったので、いい話スレの方に。

934 :
子供とそんな話できるのかw

935 :
「この人のじーちゃんは握撃の使い手」
「とーちゃんは手討ちが趣味のヤンデレ」
等は解説したよ。
小学校低学年の娘相手なので、ヤンデレの詳しい解説は控えたけど。

936 :
>>935
いやそもそもヤンデレって言葉を使うなよw

937 :
街中で手を繋いだカップル見かけたら、「爆発しろ」と呟く程度の基本教練は済んでるので、ヤンデレくらい教えてもいいんだけどね。

938 :
>今度は蓮根に衣をつけて揚げてみた。
>これは忠利公も多少箸をつけたが、3日で飽きてしまった。

一度食べたからって同じもの3日も出すなよ・・・

939 :
ケンミンショーで紹介されてた熊本名物のちくわサラダ。
ちくわにポテトサラダを詰めて天ぷらにしてあるんだが、熊本人はアレか?
穴の空いた食材を見ると、何かを詰め込みたくなる習性があるのか?

940 :
ポテサラの天婦羅ってのもかなり珍しいな

941 :
肥後ずいきも突っ込むためのものだしな

942 :
直江兼続の最愛の一子・平八景明が、本多正信の媒酌で近江国膳所城主・戸田氏鉄
<今の戸田伯爵家>の娘と江戸で婚儀を挙げる時、
戸田家より朱塗の膳椀に金蒔絵の道具が着いたので、直江家の役人たちが、「これに
相応する道具を準備するべきでしょうか?」と、兼続に尋ねたところ、
兼続は、「それはもってのほかである。もし、対等の膳椀でなければ婚礼させられぬと
あらば早速破約する。武士の魂である刀や槍に錆がなければ、何の恥ずべきところが
あろうか。朱塗の膳椀が何だというのか」と、言ったという。(『我郷の先哲』)
兼続はこの如く倹約であったが、社会に有益な事業には多額の私財を投じて惜しまな
かった。慶長11年には文選60巻を刊行して文化に貢献し、その他にも論語などをも
出版したとのことである。
また元和4年には禅林寺<後の法泉寺>を建立して、学僧・九山を招き開祖となしたが、
これは寺子屋式に子弟を教育し、また藩学の興隆を図ったのである。
この如くして、上杉家の大元老の遺物は武具と書籍のみであったといわれている。
――『直江兼続伝』

943 :
こういうの見ても直江兼続に対するバショクや趙括的なイメージが拭いきれないんだよね

944 :
大河や漫画やらでそんなイメージはないなw

945 :
>>940
だがちょっと待ってほしい、それはほぼコロッケの中身ではないだろうか

946 :
>>945
ほう君のところのコロッケはマヨネーズで会えたり胡瓜やら玉葱やら入ってるのか
とても変わってるね興味深い

947 :
>>946
いやいや、ポテサラを素であげてみてw
かなりコロッケの中身だからw

948 :
穴に詰めたくなるのは男の性

949 :
石子詰めですねわかります

950 :
秋田県にはポテトサラダの寒天があるそうだが率直に言うといたく不味そうである…

951 :
蒲生氏郷は陣屋においては、諸侍に博打をすることを許していた。
これは陣屋にて番を勤める輩は、ややもすれば眠ってしまうもので、
ために博打を以て気をいさめ、夜寝ないように戒めるためであったという。
博打というのは人が生きる中で戒めるべきことである。だが、時に取ってこれを用いるのも、
また人君の究理より出た心得と言うべきだろう。
(士談)

952 :
博打に集中して監視がおろそかになりそうだが。寝ちゃうよりましか

953 :
敵襲がきたらこっそり賽の目に細工してやるんだ

954 :
博打をした家臣を咎めなかったエピソードといえば、やっぱり官兵衛さんかな。

955 :
今年は信長が岐阜と命名して450年。
本日は伊達政宗生誕、450年でもある。

956 :
加藤清正が高麗より帰国し、ある夜の物語に、森本儀太夫(一久)、飯田覚兵衛(直景)、庄林隼人(一心)といった
者たちに
「高麗在陣数年の間、何事につけても武功に成るべき筋道を見覚えただろうか?」
そう尋ねた。いずれもこう答えた
「別に珍しいと存ずるような事もありません。ただし、三ヶ条ほどは珍しいことを、高麗において心得ました。」
清正これを聞いて
「私も三ヶ条の心得を得た!であれば各々に入り札を書いて、その実否を糺そうではないか!」
清正は自分の心得を書いて他の面々のものと見合わせた所、その内容は皆、一致していたという。
ある事を詳細に究める時は、自然に同じ理屈に至るものなのだと知るべきだろう。
ただしこの時の三ヶ条が一体どういう内容だったのか知られていない。
ある人が言うには、
『2つの山の間の谷間に蘆の茂った所があった。その山に上がって押し通っていると、唐人3人、
向かい側の山上にいて馬をキリキリと輪乗りにいたし、一人づつ段々に乗り回しているのを見て、
「さてはこれは何かの合図だ」と、下の葦の茂みを探索すると、はたして伏兵を発見した。
馬の乗りようにて合図を致すというのは珍しいことである。』
という内容が、三ヶ条のうちの一つだという。その他は知らぬと、その人は語った。

957 :
>>956
肝心なとこ覚えとけよw

958 :
そういうところは他人に教えないんじゃない?

959 :
鹿児島県曽於市財部町にある溝ノ口洞穴は、宮崎県都城市と接する台地の末端部にあり、入り口が広さ13.8m、
高さ8.6mで全長が224mの大規模な洞穴です。内部の一番広い部分は幅が約40mで,天井部はアーチ型になっています。
洞穴は、約25,000年前に姶良カルデラから噴出した大隅降下軽石層と、シラス(入戸火砕流堆積物)の溶結した
溶結凝灰岩の中に形成されており、雨水がシラスや軽石を外に運びに姶良カルデラから噴出した大隅降下軽石層と、
シラス(入戸火砕流堆積物)の溶結した溶結凝灰岩の中に形成されており、雨水がシラスや軽石を外に運び去って
徐々に空洞が拡大されてできたものです。
また、洞穴内には縄文時代の人の生活跡もあり、当時の生活を知る上でも重要です。
(昭和30年に、鹿児島県の天然記念物に指定される)
伝承では犬を洞穴に入れたところ高千穂峰に出てきた(距離にして7〜8キロほど)話もあります。

毎年4月8日(釈迦誕生の日)に近い日曜日には洞穴で溝ノ口岩穴祭りが行われます。
(場所を示す時には“洞穴”、祭りを示す時には“岩穴”となります)
このお祭りでは、奴踊りや棒踊り、刀踊り(棒踊りと刀踊りは隔年奉納で2017年は刀踊り)が洞穴と洞穴の入口に
祀られている岩穴観音へ奉納される。
これらの踊りの中でも奴踊りの歴史は古く、三つの説があり、
「島津義久が島原の龍造寺隆信を攻めた時の戦勝祝いに踊られたもの」
(大隅建国千三百年記念祭ではこの説が紹介される)
「豊臣秀吉が島津征伐の時に、新納武蔵守が城を守り通した祝いのために踊られたもの」
「島津義弘が朝鮮征伐した戦勝の祝いとして始められたもの」などと伝えられています。
このようにして、戦勝を祝うとともに、士気を鼓舞するために始められた奴踊りは、鼻筋を真っ白に塗り、
頭に白鉢巻、服装は紫の着物に赤い帯、刀を黄色と水色の長布で背負い両手に扇を持ちます。
楽器は、太鼓と三味線・拍子木で、歌詞は釈迦誕生日と関連しています。
現在は郷土教育の一環として財部の中谷小学校の全児童と卒業したばかりの中学一年生によって継承されている。
(2017年は11名の参加)
祭りの進行は、
岩穴観音の前で奴踊り
岩穴観音の前で刀踊り
洞穴の中で刀踊り
地域の連絡事項(小学校の新任の先生の挨拶、先任の先生からの手紙の紹介、転入してきた人たちの紹介など)
昼休み
洞穴の上の山にある馬頭観音が祀ってあるところまで(車で)移動
馬頭観音の前で奴踊り
馬頭観音の前で刀踊りです
この祭りは、プログラム表も立て看板も大々的な宣伝もなく地元の人たちが永いこと守ってきたお祭りでした。
(参考 財部町郷土史、曽於市観光協会の方の話など)
※刀踊りは日本武尊が川上梟帥を討った逸話からきており、鉢巻に襷がけ袴に着物は女物を着用(花柄)
 四人で一組となり三組で踊る。棒踊りの由来は不明。
溝ノ口洞穴の写真など
http://kagoshimayokamon.com/2016/05/27/izonokuchi/
観光協会の方や洞穴の看板の注意
・携帯は圏外です。危ないので一人では来ないでください、二人でもキツイので三人以上で来てください。
・照明はありません、自前で懐中電灯をお持ちください。
・流水がありますが、柵などはありません。数年前に落ちてしまって近くにお店どころか民家も無いので
 遠くまで移動した上に洋服一式お買い上げになった方がいるそうなのでご注意を。
・落書きは洞穴の強度の関係で消すことは出来ません。絶対にしないでください。
(2015年にももいろクローバーZのライブ映像として使われてから、来る人が増えたら不届き者も
増えてしまったようで落書きも増えてしまったと)

960 :
・洞穴の中は蝙蝠やゲジゲジがいます。蝙蝠は人の気配がすると姿を
 見せませんが、ゲジゲジは結構いますので虫が苦手な方はご注意ください。
刀踊りは、地元の青年団の方たちが踊っていますが、昨今は人口が少なくなり
結構年配の方も参加されています。奴踊りの生徒さんたちも今年は新入生や
転入生がいましたが、昨年はどちらもいなかったそうで祭りを維持していくのは
大変なようです。
三味線の方も高齢の人が多く今年は都合がつかずあらかじめ録音したものを使用
する状況でしたので、祭りの関係者の方が見物人に向かって「三味線弾ける方募集
いたします」といってました。

961 :
三好修理大夫(長慶)殿に玄理という者が仕えていた。
さる事があって、ある年の春頃に勘気を蒙り、年の暮れまで許しがなかったことがあった。
玄理は三好修理大夫に

参るべき御礼なれども今年より かほのしはすをのべて参らん

と歌を作って捧げた。
この歌を御前の人々へ伝えたらすぐに召し返されて、二人は再び御懇ろとなった。

(戯言養気集)

962 :
島原の乱の時、小笠原某(忠真か)の家士某は、「今宵は敵方から夜討ちが出るかも
計り難い。その用意をせよ!」と言って、陣中を触れ廻った。
諸士は、「堅固に構えているのに果たして夜討ちがあるのか?」と思ったが、果たして
夜討ちがあり、この小笠原の陣だけは少しも乱れず、
他の陣々は大いに乱れ打ち破られた。後に「どうやって夜討ちがあると知ったのか?」
とその家士に問うと、
その家士は答えて、「夕刻になって敵城に飯を炊く煙が立ち上った故、夜討ちの支度と
察したのだ」と言った。
翌年の2月にも前述の小笠原の家士・高田九兵衛は「明日は鍋島肥前守殿(勝茂)の
手から城攻めに一番に掛かると見た。私は抜け駆けして肥前殿の先を越えよう!」と、
夜中に支度して手勢を率い、未明に攻め掛かって敵方の不意を打ち、大いに功名を
遂げた。肥前の家では小笠原に先を越されて大いに残念がったということである。
この時も「肥前殿の家が一番に攻め掛かると、どうやって知ったのだ?」と諸人が問い、
九兵衛は答えて「肥前殿の陣は毎朝旗の手(旗印か)を直されていたが、昨夜に限って
夜更けに旗の手を直されていた故、今朝一番に進む支度と察し、私めは夜明けに城際
へ密かに押し寄せており、肥前殿の旗の手が動くのを見て、すぐに攻め掛かったのだ」
と言ったということである。
――『明良洪範』

963 :
よく見てんなー

964 :
〔若州〕小浜城の旧地、泣珠明神之こと

 天祥寺の僧によると、今の酒井修理大夫の若狭小浜城は以前は別の所にあり山城であったが、猷廟(徳川家光)の御時になにか訳があって今の地に移された。
今は平城であるという。
ところでその山城の中腹に古墳があり今は神を祀っている。泣珠(ナキタマ)明神と号している。
祠も大きいとおもわれその額は後水尾帝の宸翰であるという。
(小浜の山城は昔は名を白雲城といったそうだ。今の城地はなんというのだろうか。
また古城は白雲というのだからその山はさぞ高いのであろう。
山腹の古墳という言葉と合点がゆく。その地を見たいものだ。)

この神は、昔神功皇后の御時三韓退治の御軍に従った臣であったが、
何か策謀を漏らした罪により韓土からそのまま今の地へ配流され、小浜が墓所となったとか。
〔この神功皇后の韓征の従臣というのはこの神に限らない。
予(松浦静山)の城下(平戸城)で崇拝されている神社に『せ郎権現』と号すものがある。
小さい神社であるが、同じく韓軍従行から帰った臣の葬地であるとか。
きっと、諸所にこの類の遺跡があるのであろう。〕

神を泣珠と号すことは土俗に伝わっている。
往古の干珠満珠と称す軍略があり、これを言い漏らしたため流された事が碑文に見えるそうだ。
〔この碑は、祠の前に在るとか。僧が語ったまま記した。〕

泣珠神は俗体となった後の子孫が十家あり、今も連綿として能入(ヲニフ)村という所に居住している。
しかし言い伝えのみで、系譜等は有らずとか。

 この能入村にもまた泣珠の祠が在って、毎年六月十五日に祭礼がある。神功皇后も祭っている。
神官がかの神前につき、泣珠の神の御許しを申し湯立を行う。
そうして、湯が沸き昇ってほとばしり飛ぶときは神功皇后が御怒であるといい、
神官が御許しがないと唱えるとか。

こういことがあったが、近頃京都所司代となった若狭守〔小浜侯〕(酒井忠進?)が幸い領分のことなので、
この神のことを禁裏へ告げて御赦免を乞い願った。
罪を赦す勅定が下ったので、今は神の怒りのことは止んだとか。
あやしいことどもである。

(甲子夜話三篇)

965 :
天下は御前に参るでしょう

萬治四年の二月三日、備前において(池田光政が)焚き火をされているとき
五郎八様(池田政種)、信濃殿、八之丞殿、猪右衛門殿に御咄された。
「関ヶ原御陣に大坂の諸大名衆が人質を出したときのこと
 話に出る津田左京は大坂での留守居を首尾よく務めたので
 輝政様は殊の外御機嫌であった」
「その左京は左源太にとってはなんだったか……父か祖父か」
と言って重次郎(左源太の息子)を召され御問いになると
「祖父です」
と(重次郎は)申し上げた。
「父は何と云ったか」
と(光政が)仰せられたので
「彌次右衛門と申します」
と申し上げた。
そこにいて聞くようにとの御意だったので(重次郎は)御前に伺候した。
(光政の)仰せに曰く
その左京は粗忽者だったので輝政様へ
「斯様に御前が御全盛であれば、追付天下は御前に参るでしょう」
と申し上げると、輝政様は殊の外御機嫌を損ねられ
「常の者(無役)ではないので、成敗を申し付けるところだが
 左京は若く子細があるので免じる。
 再び免じることはないので、つつしむように」
と仰せられた。
「子細と仰せられたのは大坂の留守居のことだろう」
「このことについてよく覚えていたので咄したが、その時分は
 輝政様は御威勢が夥しく、姫路はもちろん備前にも諸大名が
 上り下りに寄られた。また輝政様が駿河に御越しのときには
 尾張様(義直)、紀州様(頼宣)などが阿部川まで御出迎えになられたという」

――『有斐録』

966 :
秀頼公の乳母子木村長門守(重成)は忠義の士で、二十三歳で忠死をとげた。
かねて討死を心掛けていたので、髪に伽羅をとめていた。
首は安藤長三郎が挙げられまして、
その首を家康公が御覧になられた時、髪の空焼きの匂いをかがれて、
「いつの間にかような心付きをしたのか。殊勝な若造だ」
との上意があったとのことだ。

『武士としては』

967 :
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10637.html?sp&sp
既出というかコピペ?

968 :
細部見たらコピペじゃなかった、スマソ

969 :
羽柴下総守(滝川雄利)の家臣に、二蔵三蔵という弓矢にかしこき者があった。
下総守が居城において、城より出て働きがあったが、引き取る所を敵が追尾した。
この時二蔵三蔵は門役をしており、敵が城内に入った所で戸を下ろして、城内に閉じ込めた。
こうして敵は引き取ることもできなくなったが、そこで下総守は下知して門を開けさせ、その敵を引かせ、
討ち取ること無く終わった。
その頃、徳川家康より近藤石見守が下総守の所に加勢として派遣されていた。
石見守は下総守に、何故敵を逃したのかを尋ねると
「あの敵は閉じ込めにあって、死地の兵となっていた。これを討とうとすれば城中の人数も多く損じただろう。
また彼らを討ち取ったとしても戦全体の勝敗に関わらない。それ故である。」
そう答えた。
近藤石見守も武功の勇士であり、下総守の判断に感じ入ったという。
(士談)

970 :
弓矢で打ち取れよ、何のための伏線なんだい?

971 :
どの戦いのことなんだろうな

972 :
小牧長久手の時かその前後じゃね

973 :
牧野右馬允(康成)の所に、伊賀甲賀のあぶれ者たちが武者修行と号して高國寺に滞在していたが、
織田信長生害の沙汰(本能寺の変)の事聞こえ、この者たちもこれを囁き色めく体であった。
これを稲垣平左衛門見て、右馬允に申した
「彼らの残らず、暇を与えるべきです。」
「現在の情勢は、一人でも人が多いことが求められるのに、どうしてそうするのか?」
「先んずれば人を制す、という事です。彼らの風情には見届けがたいものがあります。
こちらから先に暇を与え、『妻子たちも心もとないであろうから、早々に在所に帰るように』と言えば、
彼らも快く受け入れるでしょう。」
これを聞いて牧野は暇をとらせ、帰りの路銀まで与えた。そしていずれにも
『今度の儀であるから、本来なら先途をも見届けるべきであるが、たって暇を取らせる。
その上で家康公の御帰国に遭遇した時は、一層の忠節を仕るべし』
との誓詞をさせて帰した。
まことに要らぬ者を留めては、却って諸人の機をもうしない、惑いも産んでしまう。
この処置は早く機を知る故と言うべきであろう。
(士談)

974 :
絶対戻ってこなさそうだが大丈夫か

975 :
>>974
戻ってきたら困るだろ

976 :
家康公のご帰国に遭遇したのかな
伊賀越え成功した以上、こいつらは手出ししなかったんだろな

977 :
東照宮物具の御物語 附小野木笠の事

東照宮の仰せに、

「物具が美麗なのは無益な事である。また重くするのも無益である。
井伊兵部(直政)は力もあって重い物具を着ているが度々手負いしている。
本多中務(忠勝)はそうではないが、手負いになった事がない。
ただ戦いやすいようにと心がけるべきである。
下級には薄い鉄の笠を着せるのが良い。急な時は飯も炊ける。」

とのものがあったそうだ。
 鉄の笠は甲州でも下級が着ていたという。
畿内の方ではそうではなかったが、丹州亀山の小野木縫殿助(重勝)が
足軽以下の者に鉄の笠を被せたので、その頃は小野木笠と言ったそうだ。

(常山紀談)

978 :
家康の着てた鎧がどんなのかって江戸時代はあまり知られてなかったのかな

979 :
本多忠勝
「わが本多の家人は志からではなく、見た目の形から武士の正道にはいるべし」
武具も実用より見た目重視だから

980 :
>>979
それは「まず形から」って話かと

981 :
そう言う忠勝が練習だとヘタだけど実戦ではめちゃくちゃ強いタイプだったりする

982 :
平八は本気を出すと人を殺しちゃいそう

983 :
テラフォーマーかよ

984 :
羽柴秀吉による中国退治の時、村上彦右衛門(通清)は船手の案内を命ぜられ、浅野長政に付けられた。

長政は備前児島を攻めるべしと、児島に上がり様子を窺った。村上も手船一艘にて同道し、塩飽より下津井の
浦まで行き、山に上り児島の様子を見て回っていた所、敵が大勢出てきた。
村上は申し上げた
「船は陸と違い、急に乗ることが難しいものです。先に船に乗ってください。後は某におまかせあれ。」
そして長政を引き立て船に乗せると、自身は後を取り鎮めて居た所、敵2,3百が打ちかかってきた。
しかし村上が山影にわずかの手勢を待ち伏せにしているのを見て、敵も警戒しかかってこず、
少々の近づいてくる敵も皆追い払って船に乗り込んだ。
そこに敵も追々襲来したが、船と陸のことであれば、別状無く引き取ることが出来た。
秀吉はこのことを聞いて、「船手のあしらい神妙なり」と、感状並びに陣羽織が与えられたという。
(士談)

985 :
トーハクの茶の湯に最終日に行ってきたが
実物の伊賀焼き花入れの生爪見た。
松井康之が利休最後の手紙を受け取ったというのも初耳だった

986 :
松井康之は利休←→忠興の身分差が大きいから形式上は間に居て取り次いでた
その一方で個人的にも利休と親しかった様子

987 :
天皇から号もらってもダメなもんはダメか

988 :2017/06/07
牧野成里、池田輝政の仲介により帰参

牧野伝蔵成里は十六歳で父の仇を討って当家(徳川家)を立ち退き
久留米侍従(長谷川)秀一や関白秀次に仕えた。
関白の事があってからは、石田三成に仕え関ヶ原の戦でも石田方にいたが
大敗したので兵十余人ばかりを引き連れ、大敵の中を切り抜けて
池田輝政の所に来たので、輝政は播州に(伝蔵を)伴って帰った。
そのまま輝政の所に身を寄せ、剃髪し一楽斎と名乗った。
(伝蔵が)播州で輝政に(徳川家への)帰参の事を乞うたが、年月を経ても
その沙汰がなかったので、ある時播州から伏見に参り輝政に向かって
「させもが露も年ふりし」*
などとほのめかせば、輝政は
「まだそのような折ではない。成里は先に帰国するように
 我もまた見はからうとしよう」
と言って慰めた。
その後(家康の)御夜話に侍する者に、(輝政は)この後折を見て
成里の事を言い出してくれと頼んだ。
ある夜(家康が)三遠にいらっしゃったときの話だが、いつもより機嫌よく
伺候している者の膝近くまで御座を進められ、近づかれて来られたので
牧野伝蔵と板倉四郎左衛門が縁故のあることに話が及んだときに
「伝蔵は今も永らえているようですよ」
と一人が申し上げた。
君(家康)はどうとも思っていないような様子だったので、みな固唾を呑んだ。

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