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【遠州】戦国時代の遠江についてのスレッド【だに】


1 :2007/10/11 〜 最終レス :2017/01/20
ネタがありそうで意外に無い
一般的には浜松城と掛川城ぐらいしか知られてない遠江
合戦も戦国ヲタにしか知られてない遠江
でもいいじゃないか、それが遠江!
だけど2代将軍秀忠が生まれた浜松がある遠江だから
何か語ろうよ・・・

2 :
結城秀康に井伊直政も出身だに
確かに地味だけど全域が武田と徳川の激戦地でもあると言っちゃってもいいら?
天下人家康が飛躍した土地だし

3 :
遠州と駿河の明確な国境ってどこですか?

4 :
大井川でいいんじゃない?

5 :
激戦の三方ヶ原、高天神
なにげにポイントになる二俣、一言坂
家康が信長みたいになった堀川城
えっ、これぐらい?
城跡を見てもいくつかは戦国じゃなくて南北朝期のものだったり分かりづらいね

6 :
将軍家康はなぜか人質時代を送った駿府に隠居したけど
秀忠は浜松に対しては何も無かったのだろうか?
浜松城が出世城と言われるようになった要因である要職登用はなぜ?偶然?

7 :
遠州一国でも狭すぎなような。駿河と尾張の余った部分というか、緩衝地帯で産業もない、イメージだが、石高は、遠州全体でどんくらい?

8 :
徳川…三河
今川…駿河
確かに地味な土地だww
遠江自体は25万石ぐらい 尾張の半分ぐらいだが駿河よりかは高い(尤も、駿河には金山も港もあるが)

9 :
>>5
へぇ〜、堀川城を知っているんだ。住民としてはうれしいよ。800人もの人が斬首されたからね。自分は城主に祀り上げられた新田喜斎(友作)と共に当地へ移り住んだ者の子孫だよ。
当地には、井伊直政の父親の井伊直親の墓とか桶狭間の戦いで今川義元に一番槍をつけ、当地で非業の死を遂げた服部中安次の墓がある。

10 :
>>9
水田地帯に突然の史跡が有れば気になるからかなり前から知ってたよ
もちろん犬くぐりもあの狭い道も上ったり下ったりと歩いた・・・これ江戸期?
関所跡なんてあんなところにあるのかよ!っていう
墓は竜譚寺のところ?井伊谷神社に裏から回っていくところ
服部のは刑部の西の坂のところだっけ
戦国じゃないが井伊氏の始祖だったかの共保の出生井戸も合わせて全部行ったよ
どうも遠江、特に引佐っていうのは戦国よりも南北朝だもんなあ
遠州での戦国となると、天竜とそれ以北、
あと東遠・中遠が武田とやりあった土地になるのかな
今川とは掛川の氏真追い出しぐらいしか思い出せん・・・
浜名湖岸にも地味〜に小さい城跡もあるね、東急の別荘地の中とかその北
湖岸を自転車で回ったついでに見てきた
どれもぐぐれば正確に書けるが面倒でwww
また話が進んだらその気になるかも

11 :
>>8
一向一揆も三河のはよく出るけど遠江はどうかというと、どうだっけ
それでも今川掃討作戦とか、武田との陣地取り合いを細かく見れば、
それなりにあるはずだけどね
どうしても大掛かりな戦いばっかり見ちゃうのはしょうがないけど
つーか、マターリと城跡・戦国史跡巡りの話題とかでもいいよねべつにwww

12 :
三河の人間はいいとして、遠江の人間は、徳川に対してどんな気持ちだったんだろう?
なんだかんだで戦国期ならやっぱりまだ今川の雰囲気に慣れてたはずだからねえ
新参で来たやつに兵として借り出されて、
馴染んでないのにあっちこっち転戦させられて・・・と
あんまりいい感じではなかったりして?

13 :
遠州生まれの武将はいるんでしょうか?駿河とか尾張生まれとかの刷り込みが強いもので。三河と遠州の国境はどこですか?

14 :
有名どころでは井伊直政や北条綱成が遠州生まれ

15 :
>>13
えっと・・・
まず>>1>>2読んだ?
それ以外というならそう書いてほしかったみたいな
>>14
綱成そうなの!?

16 :
あー!wikip見て思い出した、そういえば生まれは北条じゃなくて、婿だったよね
昔ゲームをやってた頃は覚えてたんだが・・・
>永正12年(1515年)、今川氏の家臣・福島正成の子として生まれる。
更に
>福島 正成(くしま まさしげ(まさなり)、明応元年(1492年)? - 大永元年11月23日(1521年12月21日))は、戦国時代の武将。
>北条綱成・福島勝広の父とされる(正成の父は福島基正と伝わる)。
>没年月日は天文5年6月8日(1536年6月26日)ともされるが明確ではない。姓は九島とも書く。遠江土方城城主だったといわれている。
ということなら確かに遠州で生まれてるわけか
でも福島を「くしま」と読むとは・・・ニポーンゴトテーモムツカシネェ

17 :
つーか土方城は高天神城だっていうことに
行ったことあるよ

18 :
高天神城は勝頼が落とした城の一つ。

19 :
↑甲斐に乱入して甲州武田家を滅亡寸前まで追い込んだ猛将だね
伝えられるところでは2万とも号する大軍で笛吹川に陣を張った。
武田信虎の下に集まる甲斐国人の総軍勢は2千どまりだったとか。

20 :
家老福島正成は主君今川氏親と不和になり自らの地盤高天神を捨て駿東に引き篭もる。
折からの武田信虎の南下圧力を快く思わぬ駿東の地元勢力と
今川方の加勢を従えて甲斐に乱入する。
風前の灯火の甲斐武田家は2千に満たぬ寡勢で笛吹川を渡河し決死の夜襲を掛ける。
駿河勢本陣は混乱に陥り福島正成は討死の憂き目となる。

21 :
福島正成は今川家老家の地位を投げ打ってまで
リスクある大規模な戦略行動を敢行した上で
まさに戦国の世を体現した将とも言える。
その進取独立性は正成の子綱成にも見られ
黄八幡の旗を掲げ関東を疾駆する北条綱成の軍勢は無敵と恐れられたと伝わる。

22 :
だったら無敵なら里見や佐竹ぐらいつぶしてほしいわ

23 :
北条綱成が小田原北条氏から与った玉縄城は鎌倉の付け根にあり
長尾砦を出城とし柏尾川を外堀とした難攻不落の山城。
ちなみに長尾砦を築いた辺りは室町時代の長尾氏の居館があったと言われる。
平安時代の土着開発領主たる桓武平氏鎌倉権五郎景政の子孫が
それぞれ梶原氏・大庭氏・長尾氏を名乗り遠祖景政の一字は子孫相伝となった。
房総から里見勢の水軍が幾度も押し寄せ鎌倉を焼き払い柏尾川をさかのぼり
玉縄城下では玉縄勢と里見方の激戦が幾度も行われた。
徳川家康も小田原攻めの際に玉縄城を力攻めにすることを最初から諦め、
専ら降服勧告の手段を用いている。
最終的には玉縄城主の菩提寺の竜宝寺住職が城主を説得し和議が成った。

24 :
福島正成スレみつけたのであげとく

25 :
察するに徳川家康は遠江での武田方の死闘を通じて
嫌というほど遠江衆の強兵ぶりを見せ付けられ辛酸を舐めつくした。
ひょっとすると駿遠・関東に広く鳴り響いた黄八幡綱成とその父正成の剛勇ぶりが
家康の脳裏を横切ったのかもしれない。

26 :
綱成とか信玄に攻められて降伏してるじゃんお
なにが剛勇無敵だお┐ (´ω`) ┌ヤレヤレ

27 :
とりあえず書いておこう
行ったことがある城・城跡、砦は省く
宇津山・佐久・野地・堀川・井伊谷・三岳・堀江・志津・浜松・曳馬・大平・二俣・鳥羽山
犬居・天方・社山・掛川・横須賀・高天神・諏訪原・久能・小山
鴨江も寺には行ったがどうも戦国期には無かった模様?
同様に南北朝期だけの城もあるかも・・・
行こうとして行ったというより、他の目的のついでに寄ったという場所の方が多い
だから所々、近くまで行ってるのに寄らなかったところもあり、
それは明らかに「ついでに寄ってるから」が理由にあるからww
参考ページ
http://www.oumi-castle.net/takoku/sizuoka/totoumi.html

28 :
徳川じゃなくて今川家臣団を調べたらたくさんいそうだけど
どうも今川は・・・

29 :
ちみら戦国史跡めぐりってしないのかね・・・

30 :
>>10
遅レス スマソ
犬くぐり道は江戸時代、農作業で関所外へ出る住民がいちいち関所を通るのに不自由したため、関所側の粋な計らいで出来たものだよ。もちろもちろん復元で自分の幼少期には、こんなものは無かった。
関所だってふるさと創生1億円の使い道。あの場所は江戸時代、川だったw。
南北朝の話では宗良親王の妃、駿河姫が当地で急逝し、家来の一人が姫を祀る神社を建て代々神官として神社を護っている。
話がそれたが、史実では無いものがほとんどだが家康に纏わるいろんな話があるよ。三度栗とか佐鳴湖の主の片身の鯉。有名なのは小豆餅と銭取の地名の由来。布橋の地名や遠州大念仏も三方ヶ原の合戦が元だしね。
もちろん当地にも到底史実とは思えないが、斥候に行って敵兵に追われた家康を匿い後に広大は土地を貰った「目通り八丁」という話もある。
そうそう、うちのご先祖様は、今は無いが新田喜斎を弔う寺を建てていたよ。どうして新田喜斎と共に当地へ来ながら、堀川城の戦いに加わらなかったのは不明だけど。
それと誰かわかる人、教えてほしい。自分は直系ではないが、亡くなった祖父から我が家ご先祖は、苗字帯刀が許されていて二本差でなく一本差って言っていたけどこれってどのような身分だったの?

31 :
浜松城の石垣の一部が破壊されたな

32 :
そこんとこくやしく

33 :
キチガイが破壊したのか
R

34 :
テレビで今やってる

35 :
桶狭間後のことも語ってくれ
徳川が来る前に誰か反乱起こしたんだろ

36 :
>>30
新田喜斎は龍潭寺に墓があるんじゃなかった?
新田喜斎が、家康に降ろうと考えて堀川城城兵と不和になり
家臣石田・竹田・丸井・蒲生らと城を出たとあるから、
ご先祖もいっしょに出たんじゃないの。

37 :
>>36
まさに自分の苗字があった。
あれから気になって地元の図書館に行って資料を見てみた。新田喜斎は、堀川城を去った後宗良親王の妃、駿河姫の墓のある寺で剃髪し、静穏をしていたが地域住民の困窮に地頭、石川半三郎に訴状をしたことにより、
素性がばれて、慶長11年に処刑され、葬儀を龍潭寺の住職(信長の二男との記録あり?)が家康にはばからず行ったことにより墓が、龍潭寺にあるようだ。
うちのご先祖様が開基した寺の名前が新田喜斎の戒名の一部だし、本尊が新田四郎義一(新田喜斎)という記録だったので間違いがないと思う。
現在、この寺は明治時代に近くの寺に廃仏毀釈で近くの寺に吸収されてない。

38 :
駿河ほどではないが領国としては条件はかなりいい場所だろう
・豪雪がない
・気候が温暖で年貢も安定した収入が期待できる
・平地が多く、行軍も統治も楽
・南北に天竜川、東西に東海道が通っており、かなりの通行税が期待できる
駿河にあって遠州にないのは港くらい。
あと家康は遠州の領民からみるとわざわざ三河から引っ越してきてくれた
という意味ではいい殿様だろうね
あと三河は吉良家を筆頭に足利一門の連中や一向一揆があったので
不安定といえば不安定
信長との同盟が堅固なら対武田には遠州に拠点をおいたほうが
有利だしね

39 :
港があるかないかは、経済上も軍事上もかなりの差がある。

40 :
忘れちゃいけない松平信康の切腹は二俣城。
家康の浜松城時代は武田と織田にはさまれた苦難の時代でもある。

41 :
駿河とか遠江って、気候も良いし平野も多いのに
なんで石高低いのかね? それぞれ50万石くらいをイメージしてた。

42 :
条件の近い尾張や美濃にくらべれば石高は低いね。
耕地面積そのものよりも人口がまだ少なかったからでは?

43 :
商業の港はなかったけど漁業のならそこそこあったんでない?
あーでもあの頃はまだ浜名湖は淡水?どうだっけ

44 :
かなーり前にやった戦国ゲームでは石高50万台だったと思ったが・・・正しくは忘れた

45 :
なるほど! 人口か。

46 :
>>43
明応の大地震が1498年だから戦国時代には船で東西を往復してたね。
ただ今切口という海との接点は湖底が浅く、海産物や木材を運べるような大きな船
は現在でも航行できない。あと近海の遠州灘は太平洋の一部で海上航路では難所で、
江戸時代には難破事件も多く起きている。
無理に港を作っても費用対効果が良くなかったんじゃないかな。

47 :
漁港なら福田とか御前崎には昔からもあったと思うけどねえ
さすがに湾になってるところにはかなわないよなあ
でも連絡船は使ってたんじゃないかな

48 :
天竜川河口に掛塚湊があったよ。

49 :
それで思い出したが
明日明後日掛塚で貴船神社の祭りあるよwww
山車が数台出て狭い町の中を引き回してすげー雰囲気がいい
去年行ったが今年はちょっと事情で残念

50 :
高天神城が「遠江を制す」とまで言われたってことは、昔は菊川(地名じゃ無くて河川の方)沿いに
遠州灘へ抜ける南北の往来が盛んだったのだろうか。
掛川については航空写真を見るだけでも容易に東海道の要衝だとわかる。

51 :
相良油田(精製不要で車が走る)を掘り当てて、戦国自衛隊を続行可能な地。

52 :
秀忠が浜松に特に何もなかったのが寂しい
家康は駿府に戻ったのに

53 :
女子高生の間でふんどしがブーム
http://etc6.2ch.sc/test/read.cgi/siberia/1192541147/l50

54 :
>>50
それ、講談の創作だから

55 :
>>52
兄貴が切腹した土地ってかなりイヤだろ
遠州は冬場は雪はないが強風で冷え込むよ

56 :
NHKで家康番組やってる

57 :
三方原合戦での敗北があるせいか、遠州には家康がらみの民話がたくさんある。
ディティールは多少異なるがたいていはいくさに敗れた家康が領民に
「かくまわれた」
「餅を食わせてもらった」
「水を飲ませてもらった」
というようなもの。
家康が後に天下をとった後はほうびをたくさんもらった、という後味のいいオチが多い。

58 :
どんだけ回り道してるんだよw
糞漏らすわりには余裕あるな、家康www

59 :
創作でしょう

60 :
>>57
>「餅を食わせてもらった」
は食い逃げで婆さんに追いかけられたような。

61 :
小豆餅と銭取の話?
結構、距離あるよね。

62 :
そうでもないよ

63 :
>>50
「歴史群像」でもやっていたが、高天神城は遠江を制する城ではなかったと思う。
 もし、仮にそうならば、なぜ徳川家康は長篠の合戦に勝利した後に高天神城城では
なく、二俣城や諏訪原城を攻めたのだろうか?
 

64 :
二俣・諏訪原はそれほど大きな城ではない。
徳川は長篠合戦で勝利後は、まず周辺の小城を攻めて、高天神城を孤立
させてから総攻撃で陥落させるという戦略をとったのだろう。

65 :
高天神が徳川の手に戻ってから後の高天神城の扱われ方が価値を示しているような・・・
二俣や諏訪原はその後も使われていたことがあるけど、高天神はあっさり廃城。
秀吉も山内も掛川は整備しても高天神には見向きもしてない。

66 :
戦術上の要衝ではあっても、
戦略上の要衝ではないからな。
場所が中途半端なんだよ。

67 :
天下泰平になったら戦いのためのものは要らなくなるからね

68 :
実を言うと私自身も東海道から距離があり今は田舎も良いところな
高天神山がなぜそんなにも要地として喧伝されるんだ?講談的な要素が
あるにしても、と疑問に思っていたんだ。
そこで遠州灘に昔はもっと深い入江があって(菊川沿い?)、高天神城攻めの
陣城として築かれた横須賀城が戦後より有利な立地にあるとして整備されて
いったと後に知ったのでなるほど、と思ったわけ。
宝永大地震で大規模な地盤隆起があって入江は干上がってしまったので
今は面影は無い。

69 :
>>65
交通の中継地点としては掛川城を維持しとけば十分だからね。

70 :
高天神は東海道筋じゃないからねえ
今でこそR150が海際にあるけど

71 :
》26
それは深沢城主の時のことでしょ。
有名な深沢矢文のエピソード。

72 :
堀川城は浜名湖の湖北、遠州気賀にある。
今川義元が討たれた後、堀川城が築かれて家康に抵抗を試みたが
男女700人が斬られたという。家康にしては血なまぐさいエピソードである。
一揆と表現している解説もあるが、今川寄りの国人たちが領民を扇動した
というのが実情だろう。

気賀が不安定だと遠州と三河が寸断されてしまうだけに家康も厳しい処分
を余儀なくされた。
城主は名前から察するに南北朝の新田氏の系統だろうか。

73 :
名前似てるけど堀江城は舘山寺ね
ホテル九重の中にある

74 :
))68
安政大地震で遠州のほとんどの港が使えなくなってしまったらしい。
海底地盤が数メートルも隆起したというから凄まじい。
今からすると戦国大名がなぜこれほど田舎の遠州にこだわったか
不思議だが、天然の良港が数多くあった。
信玄の「塩の道」、「硝石の道」、「銀の道」が甲斐と直結されていた
というから、まさに遠州は戦国大名の死活を握った通商の要だったようだ。

75 :
>>74
レスアンカーはこれ
>>

76 :
>>72
城主は、新田氏の一族といわれている新田友作、後に剃髪して喜斎。新田四郎義一。上野の国新田郡岩松の庄より家臣と共に南北朝の宗良親王にゆかりのある気賀に移り住む。
最初は、気賀・油田村松崎に在を構えるが、後に気賀・呉石村に移住。新田友作が最初に住んでいた場所を御所平・移り住んだ場所を御所と呼ばれる位、住民には信頼が厚かった。

77 :
堀江城って大沢氏の本拠だったか。
家康の配下に入った国人にしては珍しく、秀吉の関東移風命令の対象にならなかったとか、
明治維新の時に石高を水増し申告したとか、なにかと変わった話があるような

78 :
>>77
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E6%B1%9F%E8%97%A9
これね。

79 :
浜名湖岸の宇津山・佐久・野地なんて自転車道を走るついでに行けていい感じ
特に宇津山は春に行くとつつじとか桜も見れる

80 :
ネタ不足気味なので少し話を広げて浜松城が出世城というのは
本当か、というのを検証してみた。
松平忠頼から数えて城主(ここでは浜松藩主)は12家22人、すべて
譜代で4代以上続けて城主になった家はない。
うち老中になったもの7人、京都所司代4人、寺社奉行5人、大阪城代5人、
奏者番9人。(重複あり)
出世しているといえばやはり水野忠邦だが、領地経営が比較的
楽で幕閣としての活動に力を割けたということが大きいのではないだろうか。
他の地方の小藩をみると出世城とは逆に「左遷先といえばこの城」という
藩もあり(凶作が多い、あるいは一揆が多い土地柄)、
領地経営だけで手一杯だった、という大名家もかなりあるようだ。

81 :
>>80
他人事だが
城跡1つ1つ行って感想書いて画像貼るだけでもいいんでねえ?
古戦場もあるわけだからそういう史跡も見て回ったり
スレ違いでなければどう使ったって誰も文句言わんら!

82 :
高天神城は遠州灘がもっと北にあって湊もあった当時は多くの将たちが
東海道から真っ直ぐ海へでる要衝と認識していたってことだよね。
今川時代も福島正成や信濃守護小笠原氏の1人小笠原長忠など重臣が
配されている。
湊から援軍を受け入れ尾根沿いに北へ向い東海道を遮断する、若しくは
逆に街道から湊へ出るなんてことをする、機動的な役割もあったんだろう。
当時の海岸線をどこかで見られないものか。
城の行政府としての機能が重視され時代が来て、城郭技術が進捗するに
つれ全国的に平城、平山城が重視され廃れていったわけだ。
春日山は高田へ、小谷は長浜へ、高天神は掛川・横須賀へ。

83 :
>>76
南北朝のときもそうだが、気賀は反骨精神
みたいな気風が強い。

84 :
>>82
旧浅羽町には湊という地名が残ってるよ。
だから多分その周辺では。

85 :
ttp://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_20/03-Yata.pdf
15世紀末の遠州浜周辺の地形を推察する参考に

86 :
>>83
獄門畷の悲劇以後は、領主の近藤氏の仁政のおかげか現在まで比較的波風が立っていないですね。w
堀川城の代表の3人の城将は、片田舎の一揆にも間違えられそうな戦にも関わらず、ウィキペディアに名前を残しているね。しかも身内が真田昌幸の妻、石田三成の妻とか。
それと新田喜斎には、娘が3人いてそのうちのひとりを娶った子孫が現在も在住している。もっとも住んでいたのは、近くに処刑場があった位の場所だから隠棲していたと思われる。

87 :
井伊氏はもともと遠州の国人だったが、主な領地は浜名湖沿岸部だった。
のちに井伊氏は徳川の功臣の筆頭として彦根藩主となるが、遠州浜名湖が
「遠江」であるのに対し琵琶湖は「近江」である。つまり地形的に似た条件の領地を
もらったことになり、興味深い。

88 :
遠江って言い方とか読み方が何となく昔から好き。
でも、城址は何故か小長谷城しか行ったことないな

89 :
三方が原の合戦は今で言う何町から何町の範囲なのかねえ
北は根洗辺りはほぼ間違いないけど
家康が逃げた範囲とかルートじゃなくて戦場そのものね

90 :
そのへんは浜松の人の推測を待ちたい。
大井川沿いならほぼ地元なんだがなあ。
ところで、武田へいち早く下って道案内に調略にと協力して徳川を危機に
陥れるも、次第に圧迫を受け長篠の合戦後に居城犬居を追われる天野景貫も
歴史のちょっとしたバイプレイヤーとして見逃せないな。

91 :
掛川城主・朝比奈泰朝についてちょっと調べてみたがなかなかの名将
だったようだね。
今川義元が討ち取られた後も最後まで今川家に忠義をつくして
最後まで氏真を奉じて掛川城でがんばった。
しかも粘った成果で主君の助命に成功している。
人間落ち目になってはじめて本当に頼れる人は誰かわかるというが
こういう人ももっと脚光をあびてほしい。

92 :
今川家は良かったんだよ
氏真が・・・

93 :
遠州を代表する戦国武将、井伊直政
・・・の実父は、氏真に疑われて処刑されたようなもん。しかも冤罪。
実行者は朝比奈泰朝だぜ。

94 :
>>93
祖父もだっけ?
家康が重用したのも祖父・実父は非業の死を遂げ、
生みの母は父と離縁という自分とよく似た境遇を憐れんで
ということもあるのかな。

95 :
鷹狩だったかのときに家康の前で知恵働かせたところを・・・じゃなかったっけ
でもそれすらすでに家康の前に出すことは決めてあったとかいう説も
これは別の武将の間違いか
こういうのはネットで調べればすぐに分かるのにやらない俺www

96 :
三方ヶ原の合戦
昨日見た本によると資料的にはしっかりしたものが残ってないらしい
いくつか書かれてるのはあるけどどれも決定的なものが無いとか
意外な話
ただし2000年発行のものだから、それから何か進展があったかは知らない

97 :
>>95
秀吉と三成だったwww
直政については、過去徳川のために戦った家柄だったから
それを感謝して召抱えた、みたいなのがあった
他にも諸説はあるよねたぶん

98 :
今川家も朝比奈家も徳川に属して生き残ってるんだよな
今川は後に宗家断絶したけど
あと長篠で内藤修理を討ち取ったのは泰朝の弟の朝比奈泰勝
掛川からこの時まで氏真に仕えてるんだから大したものだ
この後家康に召し上げられちゃうけど

99 :
ぎゃん、スレ間違えた
スレ違い失礼

100 :
そんなにスレ違いに見えないwwww

101 :
今川遺臣も有名どころは旗本になって残ってたんだっけ?

102 :
武田家と一緒に滅亡した遺臣も多いぞ〜

103 :
ネタをもっとくれ

104 :
浜名氏物語
浜名湖北岸地域・佐久城を拠点とした浜名氏。
今川家当主が氏真であった時代の浜名家当主は頼広であった。
頼広は、今川シンパである掛川朝比奈氏とも姻戚、
今川から離反した飯尾氏とも姻戚関係にあるという、困惑せざるを得ない立場に置かれた。
しかしいよいよ今川氏真の統治体制が崩壊し、古豪の武田家か新興の徳川家か、
どちらかの傘下に入らないと生き残れない状況に立たされる。
一旦は徳川に属すものの、親族が徳川方の者によって粛清されると恐慌を来たし、武田に寝返る。。
徳川軍東進への防波堤になるつもりだったが、徳川軍は予想とは異なる進路を採り、佐久城は包囲されてしまう。
窮まった頼広はまたしても恐慌を来たし、僅かな供を連れて包囲網を脱出。甲斐へと逃亡する。
残された佐久城の城兵は親族が指揮を執り、徳川軍へ抗戦の構えをとる。
そこで徳川方は領地安堵を約束し、佐久城は開城する。
彼等、頼広に置き去りにされた一族郎党は、こうして徳川勢に組み込まれていくことになる。
一方、領地も手勢も置き去りにして逃亡してきた頼広を、武田家は受け入れなかった。
頼広は野に下り、近江でひっそりと息を引き取ったという。

105 :
とりあえず野地城・佐久城跡に行ってみ
浜名湖岸でいい感じだから
城跡というか周辺がね
散策・サイクリングにいいよ
三ヶ日インターから近いし
ついでに湖西の宇津山城跡にも

ただしこれから寒いけどwww

106 :
佐久城開城の時、預かっていた浜名頼広の叔父大屋政頼は自害したみたいだな。

107 :
>>94 祖父は桶狭間で戦死じゃなかったけ?

108 :
>>107
桶狭間の戦いで戦死した井伊家当主・直盛は、直政にとって祖父の弟の息子。
徳川家康の祖父にあたる松平清康が存命で、三河の大勢力となっていた時代、井伊家は松平家と親しく交流していた。
今川家は松平家と派手に衝突したわけではないが、警戒はしていた。
そこで今川義元は、松平家と親しかった井伊家をも疑い、松平家と連絡を取り合っていたことを理由に当主・直密へ切腹を命じた。
そいうわけで、井伊直政の祖父も、家康の先祖と関わったことで今川家によって殺されたに等しいという見方ができる。
井伊家当主を粛清した今川家は、後釜に、より従順な弟・直宗を据えるよう強要。
やがて直宗からその息子・直盛へ当主交代があった。
その直盛が思いがけず戦死したことで、その従兄弟・直親(本来なら嫡流だが)のルートへ家督が回るという数奇な事態が起こった。

109 :
× 直密
○ 直満
スマソ orz

110 :
なお
まん
て書けばよかったのにwww

111 :
静岡県ネタに使ってくだちい
http://www6.uploader.jp/home/s_gazou/
城跡画像貼ろうとしたら
先日撮ったのは戦国期の城じゃなかったみたいで・・・

112 :
合戦跡
http://www6.uploader.jp/user/s_gazou/images/s_gazou_uljp00009.jpg

113 :
森町「小國神社」
「家康腰掛け岩」がある。参拝した徳川家康が腰をおろした、という大石。
苦難を耐えて天下統一を果たした家康にあやかりたいと腰をおろす参拝客も
多い。

114 :
>>108
徳川家を創業から支えたのは三河武士というイメージがあるのに
譜代筆頭井伊家と高家筆頭大沢家だけは何故か遠江衆なのが不思議。

115 :
武田信玄の遠州進攻の理由には諸説あるが川にも注目してほしい。
遠州には東に大井川、真ん中に天竜川が流れているがこの川は信濃から流れている。
治水政策は信玄が最も力を入れていた政策だが、治水というのは
上流だけやっても意味がない。一本の川の源流から河口までトータルに
コントロールしてはじめて機能するのだ。

116 :
続く

117 :
付け加えるなら、川中島にも千曲川が流れている。
この川を川沿いにつたっていくと越後→日本海にたどりつく。
つまり川中島も駿河遠州進攻も川の全てを掌握しようとしたから、
ということで説明がつく。
領地や海運以外にも違う角度から他国を攻める理由があったわけだ。

118 :
なるほど

119 :
ほほう

120 :
>>26
降伏していないという説のほうが一般的。
信玄矢文が場内に打ち込まれたが城将綱成は拒否。
徹底抗戦の意思を示した城側と武田方の間でその後激戦が行われた。
直後に北条の2万近い大軍が深沢城後詰に到着し
武田方は引き揚げたというのが通説。
少なくとも歴史的事実としては信玄は甲斐に馬を返している。

121 :
>>120
そんなのは30年前の定説だろ。
氏政が越後宛ての書状で「深沢開城は城主の意思であって、氏政の本意ではない」と弁明しているわけだが。

122 :
でも、この頃には信玄も西に目を向けたいし、北条も東が気になるし
上杉はアテにならんしで、お互いすりよりたかったから、どっちに
せよ「潮時」な雰囲気ではあったんだろうね。

123 :
暇なんで
以前行った城跡
http://www6.uploader.jp/user/s_gazou/images/s_gazou_uljp00017.jpg
http://www6.uploader.jp/user/s_gazou/images/s_gazou_uljp00018.jpg
http://www6.uploader.jp/user/s_gazou/images/s_gazou_uljp00019.jpg
http://www6.uploader.jp/user/s_gazou/images/s_gazou_uljp00020.jpg
周辺は田んぼだけ
堀すら跡なんて分からん

124 :
>>123
なんか熱帯系の木が生えてない?w
ちょっと行ってみたくなった。

125 :
小ネタ程でもないが…、
三方ヶ原古戦場の一つである犀ヶ崖古戦場の資料館(場所は布橋)だけど、
あそこ、昔は幼稚園だった…。
って言う事が、どれだけの人が知ってるんだろう?

126 :
俺は知ってたよ
ていうか、今、幼稚園無いの?

127 :
遠江今川は旗本五百石なんだね。

128 :
>>123
家康にしては血なまぐさいエピソードだね。

129 :
吉良って遠江と関連あるよね?

130 :
三河じゃないの? 

131 :
引間とかに領地持ってたみたい。

132 :
引間に領地持ってます。
40坪ほどですけど。
家来はいません。

133 :
狸とかおらんの?

134 :
狸、おるよ。
昨年、旧引佐町との境近くで見かけた。

135 :
引間って浜松だよね

136 :
中区です

137 :
今川が遠江を実効支配していた時代に、
斯波氏が遠江守護を主張したそうだが。
この斯波氏って、一体何者?
この時、遠州の有力豪族である井伊氏は斯波氏に同調し、
今川氏と対立した。

138 :
本来なら織田家の主君の斯波家だろ?

139 :
普通に遠江守護の斯波家だろ

140 :
今川や家康が来る前の遠州の実力者って誰?守護とかいたの?

141 :
戦国時代しか興味なく・・・

142 :
その斯波氏が、室町からの任命を受けて守護職を主張したのか、
それとも勝手に名乗ったのか、気になる。
今川氏は戦争やって、結局斯波氏を追い出すわけだが、
斯波が室町の後押しを受けていたとしたら、今川が反逆者になってしまう?
それに斯波氏といっても全国あちこちに勢力を持っていて、どこと関係あるのか判然としない。
尾張の斯波氏だとしたら、尾張は遠江にも野心を持っていたということか?

143 :
14世紀以前は今川氏が遠江守護職も兼ねていたと思うが
応永の乱での功によって斯波氏が尾張と遠江の守護職も兼ねるように(1419年?
ただ遠江には今川の支族もいたため統治は揉めていたらしい
その後応仁の乱発生
今川は東軍、遠江などの守護である斯波義廉は西軍に
で今川は東軍の斯波義敏斯波義寛らとともに遠江三河尾張などを攻めるが
ここで所領問題が発生して、今度は遠江で今川と東軍の斯波氏との戦いが発生して
今川氏は東軍と敵対する
そして今川義忠は遠江に侵攻して斯波氏と戦うが1476年に戦死する
遠江守護職は斯波義寛が継ぎ斯波義寛氏は義材派で幕府側で
今川氏は細川氏と親密だったのだが
明応の政変が起こり、斯波氏は孤立して、今度は今川細川側が幕府派となり
今川氏は伊豆や遠江に侵攻
16世紀に入ると三河へ侵攻するようになるからこの時点でほぼ遠江は支配下にしたのだと思う
1507年には細川政元が死に、
1508年には義稙(義材)が将軍に復職するが、今川氏は遠江守護に就任している
その後も斯波義寛の子、斯波義達がしばしば遠江に侵攻しているが撃退していて
最終的には斯波義達を捕らえることに
1521年には今川氏豊を那古屋にいれて、斯波義達の娘と婚姻させる
後に斯波氏の又守護代の奉行の一人が氏豊を追放して城を奪ったりして
今川氏は今度は斯波氏ではなく守護代の家臣の信秀と戦っていくことになると

144 :
ばらばらとまとまりのなさは江戸時代以前からなのな

145 :
戦国時代遠江って石高はどの位あったの?

146 :
適当にぐぐったここだと25.5
http://www.asahi-net.or.jp/~MH6H-ECG/ksn/kssouran.htm

147 :
>>143
詳細ありがとう。
こりゃもう、遠州だけの地域紛争として捉えると本質が見えなかったのね。
全国的な争乱の一環だったと。
井伊家が斯波氏に協力した理由は、今川が嫌いとか斯波が正義とか考えたわけじゃなくて、
それぞれの後ろにある陣営の情勢を見てのことだったんだろうな。

148 :
斯波は全体にだらしないな、やはり応仁での分裂が尾を引いたか

149 :
>今川氏は伊豆や遠江に侵攻
ちなみにこれを指揮したのが早雲だ

150 :
遠江も宗瑞だっけ?

151 :
今川の遠江進攻は義忠戦死の時だよね 長氏も従軍はしていたろうけど。

152 :
このスレあるの忘れてた
コピペ
218 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/05/03(土) 00:53:17 ID:VJ4EAJwX
一言坂行ってきた
実はオカ板静岡スレの関係で
画像貼っただけだけど興味あったら見てみて
関係ないのもあるけどw
坂上から
http://www6.uploader.jp/user/s_gazou/images/s_gazou_uljp00048.jpg
これだけ帰路の撮影だから色がちょっと夕方
http://www6.uploader.jp/user/s_gazou/images/s_gazou_uljp00047.jpg
関連リンク
http://hobby11.2ch.sc/test/read.cgi/occult/1201686897/423

153 :
>>148
斯波は高経と義将までだね

154 :
義将と細川頼之はライバルだけど、細川の子孫の方が活躍したね

155 :
その細川の関係なのか
たった今SBSラジオで細川茂樹が喋ってる

156 :
義廉と義敏の争いで一気に落ちて行ったね 斯波は。

157 :
義将以降は傑出した当主もなく、幕府のマークも厳しいからじわじわと降下
直系が途絶えた後の義廉と義敏との争いで越前とられちゃもうおしまいかな
義統にいたっては暗殺以外はろくな記録も残ってない

158 :
義将は細川頼之と並ぶ室町の傑物なのにな。ちょっと残念。

159 :
遠州だけでなく県単位で武将のことが書いてある本立ち読みしてきたが
家康の息子達が書かれてなかった
かなり残念
戦国以前からのも範囲にあったから、代わりに今川家が多めに取り上げられてたが
これは駿河だしな

160 :
この前浜松からお客が来ていて、静岡は三つの国に分かれてますからと…えっ?(駿河・遠江じゃ?)っとしばし悩み
あっ後一つは伊豆かと思いついたのが約二十秒後

161 :
>>159
県対抗戦国なんたら〜って本な。
>>160
伊豆は昔は東海地方ではなく関東地方。
浜松の人には静岡県の伊豆という意識が日ごろからないんだろうな。

162 :
>>161
俺浜松人だけど、伊豆が静岡県だという意識はあるよ(関東なのも確かですがw)
ただ…日帰りで行くのには正直しんどい場所なのは確かだけどw

163 :
伊豆が静岡県だと初めて知ったのは22歳の春、箱根の温泉に行ったときでしたw

164 :
箱根は神奈川だろw

165 :
>>164
いやそのノリで伊豆も神奈川だろと思ってたら違ってたってことさ

166 :
行楽ガイドブックなんかでは、「箱根・伊豆」と一括りにされることが多いからなぁ

167 :
伊豆は関東には違いないな。

168 :
遠江の人間で
もっと井伊直政を盛り上げようぜ!
出身武将だぜ!

169 :
現代の遠江は豊かだよね。

170 :
石高では駿河に勝るんだよね 三河には劣るが。

171 :
横地と勝間田と朝比奈忘れてねえっすか?

172 :
かわいいかわいいおともだち?

173 :
蔭山と浜名は資料がほとんど無いな。
前者に至っては幕府奉公衆の浅羽庄代官職だったのに浅羽町史にすら書かれてない。
鎌倉以来の家柄だし影山姓は静岡県に特に多い名字なんだから国人の中では需要がある方だと思うんだがなぁ。

174 :
蔭山は持氏の子孫なんだね
ってそれは伊豆の蔭山か・・・

175 :
朝比奈って駿河じゃないの?

176 :
朝比奈泰煕とか。

177 :
著名なのは井伊かな。

178 :
直親ってあまり知られてないよね。

179 :
直満・直親と2代続けて今川に殺られてるのか。

180 :
直政が家康とめぐり合えてよかった。

181 :
ウホッ

182 :
静岡県は現存している古文書が少ない気がする。ずっと
続いている旧家が少ないのだろうか。

183 :
>>173
田中藩士名簿に影山と浜名がいたよ。
>>182
移封が多いから他所に移動したのが多いんじゃないかな?
移封の都度、地元に残って新領主に仕えてたのはどうしても小禄になるから文書も残りにくいだろうし。
例の影山と浜名も小禄だしね。

184 :
昨年静岡県中世関連の書籍が続けて出てましたね。
@戦国史料の世界(有光友学)
A戦国期今川氏の領域と支配(大久保俊昭)
B今川氏と遠江・駿河の中世(大塚勲)
いずれも「岩田書院」からの発刊です。

185 :
地元での刊行ですか。

186 :
>>185
岩田書院さんは東京の歴史・民俗系を中心に出版されているところです。
少々値段が高いのが多いです。Bについては、その中で買いやすい値段
でした。なおBの大塚勲さんは静岡県の人ですね。

187 :
>>185
連投すみません。静岡の出版社で地元の歴史系を積極的に出版
されているところがなくて非常に寂しい限りです。だいぶ前に
谷島屋書店さんが「今川氏の研究」だったか全10巻出された後
ないんじゃないかな。海馬出版さんが「ふるさと古城の旅」の
増刷または著者の水野茂さんが続編出してくれたらいいのだが。
「戦国期静岡の研究」および「小和田哲男・全集」は大阪の
清文堂出版さん。

188 :
出版社なんかどこでもいいじゃん。

189 :
>>188
でもね静岡県が文化後進県と言われている現実が悲しいんです。
県立の歴史博物館は無いし、県史の刊行は全国でビリから2番目。
全国で一番遅かったのは奈良県ですが、ボリュームが大きかった。

190 :
出版産業が最も発展している、東京・神奈川と中部で発達している名古屋に挟まれてちゃしょうがない。
わざわざ近隣に既に発達したライバルがいる産業で競合するのは愚行ッス。
出版は集積してこそって側面強いし。

歴史博物館なんかは住民運動なんかで要望を高めると、動くんだろうけど。
俺の故郷は銅鏡が出土した後に、県では無く市に持っていて欲しいって運動が起こって市立の歴史資料館が出来た。
博物館ほどでは無いけど、古代(縄文〜弥生)に関しては博物館並みと言って遜色無いレベルになってるよ。

191 :
>>189
文化レベル低いのは仕方無い。史学科が一つも無いんだから。
静大の人文なんて専攻で申し訳程度にやるくらいだし。
もしかしたら常葉にはあるかも知らんが金儲け第一で文化の振興とは無縁なとこだからな。
戦前の旧制高校、専門学校なんて静高と浜工だけで人口が四分の一以下の山梨県と同じ扱いだし、
師範も小県と同等、優遇されてるのは軍の学校だけで徳川の本拠地だったのが仇になってる気がするよ。

192 :
>>190
住民運動も今は動いていないみたい。
http://ryusozan.cocolog-nifty.com/rekihaku/
http://www2.tokai.or.jp/marco/topics/siryokan.htm

193 :
小和田哲男さん、昨日で退官お疲れ様でした。
あとはじっくり腰を据えてもうひと花咲かせてください。

194 :
県立歴史博物館?といっても、いまの静岡では
静岡県=静岡市中心=駿河=今川、次にせいぜい徳川
ってなことで室町期中期から現代だろうな。
それ以前や遠江、伊豆、東部なんか植民地あつかい
か付け足しでなければいいが。


195 :
通史で見てもやっぱり駿河重視になるよ。
なんだかんだで歴史ネタが豊富。
伊豆は両北条が絶対に外せないし、遠州はカオスっぷりが外せないな。

196 :
浜松藩や掛川藩ってどうなの?

197 :
>>196
浜松藩は次郎長が十手持ちしてたような

198 :
鎌倉時代の遠州ってどんな感じでした?

199 :
その頃生まれてないからなあ・・・すまん!

200 :
>>199
そうか、なら仕方ないな。

201 :
そんなこと知っても無駄だから
死んだ人たちのことなんかどうだっていいじゃん

202 :
この板で全否定かよw

203 :
この板で扱うのは戦国だしなあ
くそ真面目に広く見ても応仁の乱までだとか

204 :
あんまり詳しくても
うっざいよ?

205 :
>>198
鎌倉幕府成立前後の頃は甲州の勢力が強くて、遠駿はその格好の進出地だった。
頼朝も時政も手を焼いてたようで、しばらくは守護も地頭も甲州系が多かったけど、
次第に駿河を中心に北条が勢力を伸ばしてかなり駆逐された。
んで遠駿の地頭が西に飛ばされて奥羽の地頭や北条系が遷任されるようになった。

206 :
>>205
甲州勢というと甲斐源氏とその庶流かな?
鎌倉時代初期の守護として安田義定という人物がいたそうだけど
頼朝系の源氏とはまた違う勢力で家柄もプライドも高そうだね。

207 :
だから頼朝に成敗された

208 :
甲斐源氏もか

209 :
そういう時代(鎌倉初期)があったことを考えると、武田信玄が駿河遠州に
進出したのも先祖のいきさつをふまえてある意味必然ということだね。


210 :
忠頼が頼朝に謀殺されたり 波乱万丈だね。

211 :
遠江にもどそうか。

212 :
http://mikatahara.jp/
歌が流れますので音量に注意

213 :
三方原合戦といえば運動会の締め

214 :
戦国時代じゃないけど頼朝の弟の源範頼って人が浜松出身だね
母親が遊女なのが微妙だけど

215 :
池田宿の遊女なのか。義朝は三河とは縁が深いからね。

216 :
常盤御前も遊女だから問題なし。

217 :
駿河ですまんが清水には義朝が願掛けして奉納したとかいう神社があるな

218 :
高天神の小笠原と信濃松本の小笠原は伊那の小笠原と通商ルートにそって
小笠原は勢力伸ばしたのかな?

219 :
国を逐われて今川に頼ってきたそうだな

220 :
>>218
>>217の補足。
初めは三河吉良氏を頼り、吉良氏を通じ今川氏の庇護を求めて駿河に行ったらしい。
小笠原氏が遠江に進出するのは花倉の乱で高天神城の福島氏が没落して以降。
根拠が怪しいところもあると思うが、参考までに。

221 :
最初は尾張織田を頼ったとか。

222 :
尾張織田を頼るなら当時まだ権力のあった斯波のほうじゃね?
信秀登場前の話だし、斯波と今川は対立してるから尾張→駿河は首を傾げてしまう。

223 :
一応所伝としては、
初代長高は腹違いの弟である長棟を寵愛していた父親と対立し、家を出る
織田家を頼ろうと尾張に行くが、親と対立していることを理由に断られる
ただ、尾張国内に済むことは許されく、その後しばらく尾張に居住していたようだが、
父親が死ぬと、家督を得ようと再度信濃へ赴くも長棟が守りを固めていたためあえなく失敗
そこで家督を諦め、三河吉良家を頼り三河へ、そしてその後今川家に仕える
という流れだったはず

224 :
>>223
信長で織田家が有名になったから
>織田家を頼ろうと尾張に行くが
になっているが、実際は斯波家を頼ろうとだろう
1510年頃までは尾張斯波氏は守護としての機能と権力を有していた
斯波義寛が今川氏に対抗して小笠原氏と親交を持ったから
1505-1510前後に義寛を頼って尾張に赴いたんだろう
だが次の義達が今川氏に敗れて頼みにならないと踏んで
三河吉良氏を通じて斯波氏より強い今川氏を頼ったんじゃないかな?

225 :
>>224
そもそも所伝のどこが正しくないかとかの客観的に評価可能な判断材料がない以上、
その説には『そういう考え方もあるよね』以外コメントのしようがない
まあ、資料が乏しい以上どうしようもないが
群書類従内の高天神小笠原家譜以外に信頼できる資料があればいいんだけどね…
さらに細かいこと言い出せば、長高の子が春茂(儀)だから、
遠江に移って直接今川家に仕えたのではなく、
最初は福島氏に仕え、花倉の乱のおりに今川家に直接仕えるようになったとも言えちゃうし
(春は福島氏の通字で春茂の子の氏興以降は今川家の通字の氏が入っている)

226 :
>>225
正解を求める類のものじゃないと思うが?
可能性をいろいろ考えるのも歴史を楽しむことだと思うぞ。
質問者だって唯一無二の正解を求めてここに来てるわけじゃあるまい。
所詮2chだしなー。
福島氏に最初仕えたんじゃないかって話も、
個人的には「なるほどそーかもしれないなー」と思うし、
そういう考えを史料がないからという理由で完全否定とかはしたくないな。
もちろん正解があるなら知りたいし、知るための努力をするべきだろうけども、
わからないものに関しては、可能性のあることについていろいろ考察をしたいもんだ。

227 :
まあ普通は斯波を頼るのが妥当だろう。つての関係で守護代の織田かもしれないが。

228 :
当時斯波は在国じゃないかもよ。

229 :
>>228
16世紀になってからは在国だろ
越前を喪失し京都もダメとなったら尾張在国のほか道がないし
まぁ斯波が在国でなくてもまずは守護代の織田氏を通すだろうけど

230 :
昨日街歩きしてきたが
浜松広沢の宗源院にある成瀬正義の墓も見てきた
あと軽く流した浜松城に外国人一行がいた
それとスーツ着た年配の数人も
部長クラス以上のようにも見えた
資料館は他に作って
天主台には本物チックな建物を建ててほしい

231 :
昨日、浜松城に行ったけど、相も変わらず家康偏重の展示に興ざめ。
もうちょっと地元出身の井伊直正をプッシュすれば面白いのになあ・・。

232 :
合併前までの長い歴史では井伊家は引佐が責任を持つべきものだった
合併したばかりの旧浜松領分を責めるのはちょっと違う
それに井伊家はすっかり彦根に持ってかれてるから
引佐も手を出しかねてたと思う
うちがやっていいのだろうかと

233 :
>>231
井伊スレから
310 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/08/09(日) 14:43:36 ID:DJ0G06kz
中日新聞でちょっといい話
http://dl5.getuploader.com/g/shizuoka_2ch/3/shizuoka_2ch_3.jpg

234 :
ちょw
御前崎市新野って、俺の住んでる所じゃん!
でも、新野左馬助って初めて聞く名前だ。左馬武神社ってのもどこか分からんし。
今度探してみるかな。

235 :
>>233
イイ話ダナー

236 :
>>233
読めないんだが、新野左馬ってことは新野親矩の話か?
幼少の直政を養育し、直政も元服してさあこれからってときに戦死したんだっけ?
生きてりゃ直政の家老に抜擢されたろうし、
直政の果断過ぎるところを直諌できる人物になりえたろうになぁ。

237 :
助けてから2年後に曳馬城攻めで戦死とある

238 :
なんと良スレ。
さきほど発見しましたよろしくお願いします。
さっそくブックマークしました。
自分の先祖を調べていたら、今川義忠に滅ぼされたらしいです。
でも、帰っていく所を残党が待ち伏せて射殺したとのこと。
それで今川家では家督争いが発生してうんたらかんたら→後の早雲台頭のきっかけ。
とかなんとか。
遠州カオスっぷりの中で、御先祖様グッジョブw
というわけですので、この地域の歴史にはライフワーク的に興味あります。
スレの充実を祈念いたしております。

239 :
>>143
>そして今川義忠は遠江に侵攻して斯波氏と戦うが1476年に戦死する
この件です。
塩買坂という場所だったらしい。
というか、この時代段階のことは複雑でカオスw
ってか今川って面白い

240 :
井伊直平暗殺から始まる、遠州錯乱時の状況は興味深いな。
ものすごいカオスな有様だったらしいが。

241 :
家康派と今川派に分裂しての、互いの侵食・通謀・謀殺が凄いよな。
戦死や謀殺が多いこと多いことw

242 :
遠江は了俊系の今川がいたんだよね。

243 :
袋井の堀越氏だっけ。

244 :
築山殿の瀬名もだね。

245 :
堀越も瀬名もだね。

246 :
遠江守護ではないんでしょ。

247 :
斯波が多いのかな。

248 :
昨日の「のろし」のイベント(兵越峠〜ニ俣城〜本坂峠)はどうでしたか?
高根城などの戦国の山城を結ぶという壮大なものだと思いますが。

249 :
>>248
家から試しに見てみようとしたけど今朝新聞見るまですっかり忘れてた_| ̄|○
国文祭始まってこんなにすぐとは油断してたよ・・・
浜松城には先日行ってきたけどね

250 :
駿河と三河の間にあって、いまいち存在感が無いのが悲しい。
日本の歴史上の重大な事件はたくさん起こってるのに。

251 :
・家康の本拠
・三方が原の戦い
・信康自害
・戦国今川氏事実上滅亡
・2代将軍秀忠生誕
それに次ぐものとしては
・高天神の戦い
・二俣の戦い
・築山殿殺害
・井伊直政エピソード
ついでに
・木下籐吉郎出仕の地
これだけでも話題としては十分だと思うが
他の土地だってそうそう話題は無いよ
でっかいイベント1つでいかにもすごい土地に見えてるだけだろう

252 :
浜松は豊かなんだから 家康関連もっとPRすればいいよ。

253 :
家康が名実共に戦国大名となったのは、遠江を領有してからだな。

254 :
浜松に居た頃はその浜松周辺での戦いが負け戦の三方ヶ原以外地味なんだよな
長篠・姉川は出張しちゃってる
比較して高天神・掛川は本来重要な戦いだけど戦国ネタ的に地味

255 :
漏は今、遠州弁のHPを構想中なんだが、
信州から来た武田と三河から来た徳川がぶつかり合った遠州の地理的特性をクローズアップして語ろうと思ってる。
出来上がったらヨロシク!

256 :
それとこことの関係性は

257 :
>>252
絶対「隠居所」からクレームや誹謗中傷が入るぞ。
浜松には家康はいなかった説を唱えるのは目に見えてる。

258 :
駿府恐るべし。つかそんなに仲が悪いんだ。

259 :
三河岡崎の身無し子が脱糞した町 猿州浜松
            , '´  ̄ ̄ ` 、
          i r-ー-┬-‐、i
           | |,,_   _,{|   よう!浜マッチョ 
          N| "゚'` {"゚`lリ     や ら ま い か
             ト.i   ,__''_  !              ウホッ
          /i/ l\ ー .イ|、
    ,.、-  ̄/  | l   ̄ / | |` ┬-、
    /  ヽ. /    ト-` 、ノ- |  l  l  ヽ.
  /    ∨     l   |!  |   `> |  i
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  }/ -= ヽ__ - 'ヽ   -‐ ,r'゙   l                  |
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260 :
>>254
営業で掛川から大須賀方面に下ってくると、あのあたりに手頃な小山が結構あるじゃん。
高天神とかの有名どころではないにしろ、山の斜面が削平地、つまり曲輪になってたりして。
名もなき古城がたくさんありそうだよね?

261 :
高天神近辺は包囲のために家康が砦をいくつか作ってる
その戦略の要点が横須賀城だと思った
間違ってたら直して

262 :
茶畑で隠れてるけど、
案外曲輪で段々になってる
かも知れませんね。
出城(攻撃の性格が強い城)は
特に本丸から攻め下り易いように
段々が小刻み(要するに階段状)に
作られてる場合が多いですよね。

263 :
>>261
大須賀方面行くと目の前通るけど、仕事中ということもあって
なかなか寄れないよ。今度じっくり散策してみたいものだな。
あの周辺は名も無き城塞群が他にもありそうだからね。

264 :
横須賀について産総研の活断層・地震研究所の報告書
http://unit.aist.go.jp/actfault-eq/seika/h18seika/pdf/fujiwara_yokosuka.pdf
によると入江が城の南まである。旧浅羽町の湊地区も入江がある。

265 :
pdf重いから見てないけど
城のところまで水路を引くって言うのは結構あったことじゃないかね
城跡の立て看板に説明なかったかな
もう10年とか行ってないや、風景変わってるかな

266 :
>>264
うは、すげぇ。
探してた資料と内容かぶってるからありがたくチェックさせて貰うよ! ありがとう!
海岸線がこれだけ違うなら、浜名湖も今と全然形違うんだろうなー。

267 :
浜名湖って入江っていうか湾なの?

268 :
名前の通りのもの

269 :
浜名湖は国名の由来になった湖だよ
遠つ淡海=とおつおうみ=とおとうみ=遠江
昔は海と繋がってなかったんだけど、500年くらいまえの地震で
陸地が崩れて繋がっちゃったらしい

270 :
昔は海と繋がってたんでしょ。

271 :
広い意味で直親も戦国期か
335 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/01/08(金) 20:17:34 ID:hRBmhL/p
井伊直親の墓(-人-)
http://8502.teacup.com/photo/img/bbs/0000024.jpg
井伊谷はここから更に北の山を1つ越えたところ

272 :
>>261
確か、横須賀城を中心に6個くらい砦があって、子供の頃に遠足とかで行った事があるよ。
で、「あやうし高天神」って本(静岡新聞刊?)にその辺の話も含めて書かれてた・・・気がする。
市の図書館に行けば置いてあるかも。

273 :
>>261
確か、横須賀城を中心に6個くらい砦があって、子供の頃に遠足とかで行った事があるよ。
で、「あやうし高天神」って本(静岡新聞刊?)にその辺の話も含めて書かれてた・・・気がする。
市の図書館に行けば置いてあるかも。

274 :
遠足か、いいね

275 :
規制時用のラウンジクラシック板避難所スレ
静岡県民専用規制避難所
http://sports2.2ch.sc/test/read.cgi/entrance2/1270276217/
ラウンジクラシック板は規制中でも書けるので何か書きたい人はどうぞ
静岡県ネタならなんでも可
他の静岡県関連スレにも教えてあげてね

276 :
今日辺り、浜北市だったかで徳川軍と武田軍の合戦を再現したお祭りがあったらしいな。
めっちゃ行きたくなったw
あと浜松駅前で「井伊」て苗字の小学生の女の子の絵を展示しててビックリした。
井伊家の子孫が今でも浜松市にいたんだなあ。

277 :
そりゃ鎌倉から有る遠江の大族だからなあ>井伊

278 :
現在、彦根の井伊家は男子がおらず養子を迎えたね。

279 :
連龍が成敗された後の曳馬城の指揮を執った話がある武将って誰だっけ?
お田鶴の方が仕切った話はフィクションぽいんで

280 :
>>220
亀レス
小笠原氏の遠江進出の時点というなら、花倉の乱よりも前になる
今川氏親の時代に遠江に領地を与えられ、浅名の馬伏塚城を拠点として開拓にあたった
今で言うと、袋井市役所浅羽支所の辺りに相当する
花倉の乱では小笠原家が加担した勢力が勝ち、近隣の福島家が加担した方が負けたことで、
福島の遺臣(嫡流は逃亡)と領地は小笠原家に吸収され、
このときに高天神城は小笠原氏の管轄に入った

281 :
井伊谷神社と井伊家の関係ってどうなんだっけ・・・
竜潭寺が菩提寺というのは知ってるけど

282 :
松平信綱と引馬大河内貞綱って関係あるの?

283 :
遠江って静岡だよね。「だに」って使うの?(名古屋というイメージが)

284 :
使うだに〜

285 :
遠江が地味なのはここを本拠地とした戦国大名がいないからでは?

286 :
家康じゃダメなん?

287 :
出身地として伸びていったという意味じゃないからなのかね
そういう意味では浜松は徳川秀忠と井伊直政はもっと前に出していいはず
なんで井伊を彦根にもってかれて黙ってるのか意味が分からん
秀忠も知る人は家康以上の政治家だって知ってるし

288 :
やっぱ静岡県=今川家のイメージが強過ぎる

289 :
ひこにゃんの人遠州に関係ないし

290 :
「井伊家」=彦根固定がダメってこと
浜松ももっと主張するべき
そもそも井伊谷が本拠だったし肝心の直政までの代の菩提寺もある
下手すると井伊は代々彦根だと勘違いしてる人間は絶対に多いはず
それもたぶんあっちの地元の人も
将軍家康そのものにしてからエピソードを小出しにする程度で
大々的に「出世城!」とかって全国に打ち出してないもん
歴史ヲタの薀蓄レベルだよ
過去現実にアンケートとったこともあって市民の関心の薄さは・・・
終焉の地・駿府と違って結果通過地点となった浜松だからその違いかもしれんが
薀蓄レベルといったら二俣・高天神・掛川などいい城もあっても
それを売りにできるかといったら厳しいのが現状
だってあの掛川城ですらものすごく賑わってるなんて聞いたことない
それも県外から人を呼んでこその本格的な人気と言えるわけだからね
宣伝するにも金がかかる、個人が頑張っても高が知れてる
やはり自治体が観光起点で何かしようと思わないと難しい
つーかこれなんの話?

291 :
松田信綱も遠州人

292 :
>>286
確かに家康公は一時期本拠地にしてたけどこうなんというか脱糞のイメージしかないような……
 
それに家康公は三河から天下、今川家は駿河から蹴鞠というイメージだし
遠江はどうしても本拠地という感じじゃないのよねえ。

293 :
>>292
先ずお前の武将イメージの歪みっぷりを本気で心配した方がいい

294 :
いやマジレスされても困る。

295 :
浜松へ観光に行った時、地元民には「歴史の通り道だから何も無い」って
言われたけど、浜松とその周辺の徳川、家臣団の関係の土地巡り好きなんだよなー。
長い時間ここにいたから、いろんな人の逸話がひょっこり出てくるし
知れば知るほど面白いし好きになるよ、遠州。
浜松は今年の市政百周年イベントも楽しみだな。
山城サミット是非行きたい!

296 :
百周年イベントは自粛しまくりの悪寒だがどうなんだ
「自粛やらまいか!」って感じだ・・・

297 :
「歴史の通り道」というフレーズは逆に良いかも。
色んな人が個々を通り過ぎていってこんな話があるよみたいなのをまとめた本とかだせばいいと思う。
というかもう既にあったりする?

298 :
おいら関東民だからわからんのだけど、浜松の被害大きい?
もし運営に差し支えないなら、規模縮小でもいいからやってほしいな。>百周年イベント
そっち行くのを励みに働いてるんで、自粛されたらさみしいわ。

299 :
とりあえず市でやるイベントはこれだけ影響がある。
http://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/lifeindex/enjoy/event/yotei.htm

300 :
歴史関係のと百周年は直接関係ないと思うけど
歴史巡りなら自力でもできるからそこは自粛しなくてもいいし
つーか100年なにやるのwww
一番の目玉イベントのはずの浜松祭りIN百周年(←逆?)を簡単に潰しちゃったから
他のがどうなってももう驚かん

301 :
書いてるうちにリンク貼られてた
目玉イベント軒並み死亡じゃん
あとはたぶん市が主導でない地域イベントはやるかもしれんね
佐鳴湖とか中野町の花火はどうなんだか
>>298
地震被害は0だよ

302 :
あーそうだ
二次被害的にはただでさえ不況で財政が厳しかったところに
地震で更に工業関係がどうなるか分からんから税収も怪しくて
このスレ的には浜松城の門だか櫓の再建は・・・ダメかも
こっちはインチキ天守閣と違って資料はあるっぽいから期待できたが

303 :
マジか、すごい事になってんだな。
でも、静岡被災してるから、同じ県としてはおおっぴらにお祭りできないか……
なんか、のほほんと書き込んでてすまん。
早く落ち着くといいな。
地震も自粛も。

304 :
静岡市では戦国関係のイベントは潰れたけど
こっちにはそういうイベント無いからなあ

305 :
浜松藩

306 :
Shizuoka城と戦国浪漫
http://www.sengoku-shizuoka.com/

307 :
http://www.cybozu.net/news/national/20110501k0000m040122000c.html
最悪_| ̄|○
井伊直政をたいして縁も無い岡崎に持っていかれた・・・

308 :
いやそれあくまでも家康メインじゃない?

309 :
井伊谷も彦根市とかと連携して井伊氏をもっと盛り上げようぜ

310 :
家康ですらたいして盛り上げてない浜松が
井伊家を持ち上げるとは思えない・・・
歴女から始まったブームがじわじわと勝手に浜松に広がってきたから
なんとか対処しよう的にしか見えないからなあ
そんな中でも櫓だか御門の復元計画は珍しくGJだが
時期的に予算がなあ

311 :
井伊谷も「井の国千年物語」とかいう絵本を出したり、
井伊氏発祥の井戸を整備して頑張ってはいるが、
井伊直政に関連する場所が少ないうえに
龍潭寺(小堀遠州)&井伊谷宮(宗良親王)というビッグネームのおかげで
霞んでいるのが現実。
静岡と被ってる家康で売り出すよりも、直政・二郎法師のがインパクトあるとと思うんだけどねー

312 :
問題は世間にアピールをどれだけしているか
専門家とか郷土史家とかがローカルで懸命にやってても
それが周りに浸透してないとただまとめただけの資料としての意味しかない
それでいいならいいんだけど、そうでないと考えてる人がいたなら
それをどうにかするなり、また別の視点から切り込んでいって
世間にアピールするべきだと思う
ただそれも現実には民間、それも個人とかごく少数ではなかなか難しく
やはり公的な部分にも関係性を求めないと厳しいと思う

313 :
家康の遠州侵攻の経路を教えてください。
宇津山城や白須賀城を滅ぼしたのは、妙立寺に陣取った洒井隊で、
徳川本隊は湖北を通って引間城入りってことでOK?

314 :
あと、岡城(新所砦)の位置が分からない。
1.湖西市新所岡にある「城の山」にあって、城主は岡氏。
2.湖西市新所中村にある「城山」にあって、朝比奈氏の居館があった。
の2説がある。
この2人の墓は1つしかないというのも不思議。

315 :
例の天竜川転覆事故現場の崖の上が二俣城跡らしい
川の流れが常に渦巻いている地点だって話
見た目川幅狭いし対岸に広い河原があって一見攻め易そうだけど
実際渡って攻撃するのは難しい場所なんだな

316 :
>313
湖西方面は吉田から出た酒井隊の攻略、調略担当だったみたい。
家康の遠州入りルートは、仏坂、陣座峠、宇利峠、本坂峠、多米峠と
いくつかあるけど、宇利城の近藤石見が徳川方についていたから、
陣座峠越えが有力視されてるぽい。
>315
船頭さんへのインタビュー読んだけど、水嵩ある方が扱いやすい
流れの複雑な場所らしいね。
人間の場合、膝下の水位でも水圧で体持っていかれるから、
当時は川渡るのに、鎖みたいに数珠繋ぎになって渡ったのかしらん?
そういや、秋の山城サミット関連の情報出てきたね。
楽しみだよ。

317 :
>>315
らしいというより天浜ともう1つの鉄橋があった空撮で確定だよ
ただどっちかつーと映像的には鳥羽山城跡の方が地形的にはっきり見えてたけど

318 :
あらそんなことが……

319 :
23日の城イベント
雨だな
俺は自衛隊に行くけど

320 :
田鶴姫と井伊直虎

321 :
萌え路線で

322 :
図書館で見た本によれば
土台からの計算や全国の例による推測が正しかったら
浜松城の天守閣は全国でもトップ5に入るぐらい巨大だったとか
つくづく設計図があればなあと

323 :
江戸時代の城下町は浜松、掛川、横須賀

324 :
NHKで諏訪原のことやってるけど
俺が見に行ったときより開けてる希ガスる
放送は去年5月の再放送だが
俺は更に前に行ったんで

325 :
浜松のうなぎは家康の大好物だったらしいな

326 :
今こんなことやってる
浜松市/浜松市博物館/特別展 「浜松城主 堀尾吉晴」
http://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/hamahaku/02tenji/tokubetu/horioyosiharu/horioyosiharu.htm

327 :
地震津波史資料の発掘検証が進むついでに遠州灘において
かつてあった入江とかの認知度も上がったりするといいな

328 :
>>326
面白そうだな

329 :
浜松の歴女
http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/rekijyo.htm

330 :
新田喜斎=二俣城主・松井宗信とする古文書もあるが、
実際には宗信の子を養子にしたので、その親と間違えられたらしい。
この養子の松井氏が瀬戸に住み、「瀬戸氏」と名乗り、現在も瀬戸に瀬戸家はある。
瀬戸にある新田喜斎の墓は、瀬戸氏が江戸時代に建てたものである。
新田喜斎は、徳川氏に寝返り、堀川城の戦いを避けるよう呼びかけたが、
逆に裏切り者として殺されそうになったので、城を出た。
堀川城の戦いの時は、松崎の自宅にいたと思われる。
堀川城の戦い後は、方久と名前を変え、親戚である雄踏の中村家と組み、武士よりも商人に近いことをしていた。
気賀の住民に頼まれて訴状を書いたところ、「身分不相応な要求である」と捕えられて処刑された。
塩の統制に苦しんだ住民を助けるために、塩を安く仕入れて売っていたのが役人には気に食わなかったらしく、処刑の機会を探していたらしい。
墓は知足院の跡地にあり、供養碑も建てられている。
井伊氏との関係も深く、龍潭寺に位牌がある。
参考:井村修著『新田喜斎』
http://pontyan1997.blog59.fc2.com/blog-entry-330.html

331 :
新田喜斎のお墓に案内板が建てられるそうです。
http://pontyan1997.blog59.fc2.com/blog-entry-359.html

332 :
新田喜斎の墓は、松崎、呉石、瀬戸の3ヶ所のようです。

333 :
正直、遠州人からすれば彦根の在日民がやってるようなことは
馬鹿だなとしか思ってない。ひこにゃんだか何だか知らんが。
それを元に馬鹿や汚ったない観光客が来てゴミだらけにして欲しくない。
なんで黙っているのかって言われても、正直、ほっといてくれという
気概が確かにある。あんまりああやって在日彦根民のように自分は馬鹿
ですよってわざわざ自分から主張するのを良しとしない雰囲気。
自分が、自分がっていう人間はあまりいないのがこの地域の特色
じゃないのかね。

334 :
>>334
地元の市役所に聞くのが一番早い

335 :
あれ丘じゃなくて単なる台地の先端じゃん
だからルート選べばあそこから浜北まで微妙な傾斜だけの坂無しで行けちゃうよ
台地で続いてるから

336 :
イラストレーターで収入が少ないからと30代後半で漫画家になろうとする、ひきこもりのバカ発見。
足立区に住んでいるそうだ
http://inumenken.blog.jp/archives/6609090.html

337 :
>>326の広報、出だしからデッチアゲかよ
浜松城の天守を建てたのは?
正解…昭和時代の浜松市政

338 :
>>337
ソレ以前、天守は無かったのですか?

339 :
ありません

340 :
そうですか。一応、こんなニュースもありました。
ttp://www.at-s.com/news/detail/853622065.html

341 :
人は信じたいものを信じるという良い例だな
他所から運び込まれた可能性があるパーツの破片をもって
あってほしい建築物があった証拠だと夢を見れるのだから

342 :
武田の将・信州飯田城城主秋山伯耆守信友、兵二千を引き連れ天龍川沿いに攻め下って参りました。

343 :
大河が
浜松に

クル━━━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━━━!!!

344 :
直虎主役だけど実質直政との2代記だろうな多分

345 :
遠州錯乱をどう描くのか興味があるな
氏真タンが陰湿な策謀家として・・・ってそれはないかw

346 :
大河age

347 :
>>343
しかし曳間城主は井伊ではなく飯尾

348 :
>>347
いまいち何が言いたいのか分からんが、そうだな。

349 :
引佐は浜松になったんだから間違いではない
それももうずいぶん前に

350 :
今の浜松市内から一歩も出たことのない人物が主人公だからな。
浜松市民が浮かれるのも無理はない。

351 :
浜松から一歩も出ない大河か

352 :
来年の真田が大作だろうから、こっちは相当な低予算の予感

353 :
低予算大河age

354 :
犬居城の天野氏も登場するかなワクテク

355 :
犬居城の天野氏も登場するかなワクテク

356 :
直虎が女性だということで、思い出すのが同じ戦国時代の浜名頼広の姫君の話をおもいだした。

357 :
https://www.youtube.com/watch?v=O1HRbHpBK9k(マイナスタクシーサービス不足)(沖縄空港バイト)

https://www.youtube.com/watch?v=O1HRbHpBK9k

https://www.youtube.com/watch?v=O1HRbHpBK9k

https://www.youtube.com/watch?v=O1HRbHpBK9k(大阪人福祉バンクビジネス)

358 :
大河の真田丸の真田昌幸の高畑淳子演じる妻が遠州の旧引佐郡の出身説あり、
この説が真実なら石田三成と真田昌幸は義兄弟になる。

359 :
さっき愛之助の番組で
三方原合戦の武田のルートは掛川方面からだ
という説を出してた・・・のはいいけど
これを説明してたのが静大の本多名誉教授と
小和田教授も同じじゃなかったっけ?
関係はなんだろう?
顔が似てるww

360 :
今川了俊!
斯波武衛の治めた土地ってイメージ。国人も曲者が結構いるイメージ

361 :
ケンミンショーていう番組で、横須賀地区発祥の「パンの郷」を紹介する際、
掛川城など、別の文化歴史を持つ街を垂れ流していた

番組制作者は、横須賀と掛川はそれぞれ異なる藩の城下町として歴史を積み重ね、
独自に発展してきた別の街だとは知らなかったに違いない
断定する

362 :
>>361
さっきちょうどブラタモ見たから
横須賀はここと関係ねーじゃん
て思った

ただそんな今日
横須賀城跡近くまで行ってた自分がいた
ややこしいわ

363 :
日テレの実績
 横須賀と掛川を混同

NHKの実績
 井伊谷と気賀を混同

井伊谷を避けては通れない来年の大河ドラマが心配される

364 :
NHK大河ドラマで
遠江と駿河を取り違えたという、
桁外れのミスは挙げないの?

365 :
age

366 :2017/01/20
上がっとるから記念に書き込み
大河直虎始まったのに盛り上がっとらんなw
前回、ムロツヨシが遠州弁らしきものをしゃべっていて笑ったぞん

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