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マインドフルネス Part.24


1 :2019/10/07 〜 最終レス :2020/01/04
マインドフルネス瞑想は、宗教色を抑えて広く活用されやすくしたものですが、その元には宗教があります。
そこで当スレでは、マインドフルネス瞑想を主として、派生的に、あるいは根元的に宗教的な話をしましょう。

当スレで採用するマインドフルネス瞑想の定義については、Wikipediaをご参照ください。

マインドフルネス - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/マインドフルネス

『マインドフルネス(英: mindfulness)は、今現在において起こっている経験に注意を向ける心理的な過程であり、瞑想およびその他の訓練を通じて発達させることができる。
マインドフルネスの語義として、「今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずに、とらわれのない状態で、ただ観ること」といった説明がなされることもある。』

マインドフルネス瞑想は、その源流となった仏教瞑想を越えて、広い範囲でマインドフルネスの名称が冠される状況であり、宗教、健康法、心理学の各分野に今や広い裾野を持っています。
当スレが話題の対象とする「マインドフルネス瞑想」は上記定義のものですが、それ以外のマインドフルネスを冠する技法や、
瞑想一般の話題、呼吸法、マインドフルネス状態を喚起する瞑想以外の方法についても、禁止ではありません。

単発IDであっても過剰な発言量にならないよう程々に情報交換しましょう。
また、感情的なレスのやり取りは周りにも迷惑ですので控えてください。

前スレ
マインドフルネス Part.23
https://rio2016.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1568693253/

2 :
無慈悲なマインドフルネスは魔境

3 :
>>1


4 :
>>1


5 :
>>1
ワンダルマ乙

6 :
いちおつ保守

前スレの慈悲の瞑想関連
https://rio2016.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1568693253/8,12-14,17-18,24

7 :
1乙

どうしてこうなった?

995 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2019/10/07(月) 23:13:28.06 ID:QXjX0j0b [4/4]
宣伝じゃないけど
https://i.imgur.com/0nYaiVP.jpg
https://i.imgur.com/qgQQ5p0.jpg

8 :
麻原彰晃を絶賛していた深見東州 ・
https://rio2016.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1538043132/

9 :
>>2
ワンダルマ乙

10 :
しつこい奴

11 :
ネットで頑張って誹謗中傷してるのに
思いのままにならなくて辛そう

12 :
マインドフルネスは慈悲の瞑想だけやっとけばいいんですよ
……とまで言うと言い過ぎになるかも知れませんが、瞑想のメインにしていいものなんですよ
慈悲の場所がマインドフルネスなんです
瞑想の時間の80%から95%くらいは慈悲の瞑想に費やすようにしましょう

13 :
気づきの心理的スペース=慈悲の心理的スペースとして、
そこをホームポジションにしておけばいいのだと思ってる。

14 :
仏教で言う幸福は 、身体に依存するものではなく 、心に依存するものでさえないのです 。心とか身体のために求めるものではないのです 。

我々がヴィパッサナ ー (観 )瞑想をず ーっと続けていても 、それによって求めているものが 、身体がよくなるのではないか 、健康になるのではないかとか 、そんなことばかりでは 、それは仏教の幸福とは相反する性格ですから 、どうにも進歩はありません 。

瞑想の中で何か安らぎというか 、何も求めない心 、落ち着いた心 、火が消えた心が生まれたら 、それはよいことですが 、それは身体や心の快楽とはまったく別のものと思った方がよいです 。

すべてを捨て去る心が生まれないといけません 。
身体に基づいて幸福を味わおうということでなく 、こんなくだらない身体はどうでもいいやという気持ちにならないといけません 。
心についても 、心をなんとか鍛えて 、智慧を発達させて才能抜群の人になろうということではなく 、瞬間瞬間に変化するこんな心はとんでもないゴミだと気づいて 、心を入れ替えないと 、本当の解脱の世界は見えてきません 。

byスマナサーラ(ブッダの実践心理学 (アビダンマ講義シリーズ―第1巻 物質の分析)

15 :
朝晩1時間ずつ、計2時間くらいは慈悲の瞑想をやりましょう
もっとやってもいいですけど

昔の念仏者がひたすら南無阿弥陀仏を唱えたのと同じです

16 :
>>11
荒らさずにいられない状態がすでに不幸
そしてどんなに荒らしても不幸からは逃れられない
どこまで行ってもエゴの手のひらの上で踊ってるだけだから

17 :
妄想は手放して慈悲の瞑想をやりましょう

18 :
そう、慈悲の場所がマインドフル

19 :
マインドフルネスは魔境

20 :
ワンダルマは魔境

21 :
慈悲の瞑想はヴィパッサナーではなくサマタ瞑想だから
坐る時間あるならやっぱりアナパナサティはしたほうが良いと思う

22 :
(最近比較的落ち着いていたので、このまま荒れませんように。。)

23 :
慈悲の瞑想の前に、右の掌を感じてみましょう。
身体の感覚をみた後に慈悲の瞑想に入っていきます。
慈悲の瞑想が終わったら、いよいよアナパナサティです。
これはテラワダでもなく大乗でもない、あたらしい形の瞑想法です。

24 :
(またはじまったよ…)

25 :
(今のワンダルマって違うしなそれとは…古参のアンチだよな…)

26 :
わたしの嫌いな人も幸せでありますように🙏

27 :
もう飽きたな…

28 :
みんな
何年やって悟るの?

29 :
今日、この一座。

30 :
恩田無境尊師の世界 「非二元の教えを生きる」

https://ameblo.jp/onnchou/entry-12533544104.html

31 :
>>25
ワンダルマまた変わったのか
キャス法話みたいにコロコロと

32 :
どんな体験も淡々とありのままに受け止め、常に呼吸に意識を向ける。ただ、「今」に気づいている。これが、正しいあり方です。

33 :
https://pbs.twimg.com/media/BnSsEebCUAAo72E.png

34 :
瞑想中の体験は、すべて「無常」です。同じところにとどまることは一瞬たりともありません。刻一刻と過ぎ去り、刻一刻と新しい発見があります。
自分が過去に何を体験したか、何を発見したかなど、取るに足らないことです。
それよりも、今体験すること、今発見することのほうが、圧倒的

35 :
台風の被害、大丈夫でしたか?
今週母が入院して、心配な気持ちで居て更に不安な事が重なりました。もっと自分を強く持たなきゃと思うんですが、具体的にどうすれば良いのか分からないので、暫くマインドフルネスはお休みします。
アイカツとプリキュアに専念します。まあ、筋トレや競馬、読書等は続けますが。
自分に合った、心を強くする方法を探していこうと思います。

https://youtu.be/aQALI5eH7OE

36 :
心が強いロリコン

37 :
超次元は口だけだったか…

38 :
彼にとってマインドフルネスとは単なる「話のネタ」に過ぎなくて
自ら実践するものではないようだ

39 :
不安な時こそマインドフルネスだろうに
今まであれだけわかった風な事を言っていてこれだから

40 :
釣り師としては優秀と言える

41 :
何というか…批判を娯楽として楽しむようになったら人としてお仕舞いだと思うよ…

42 :
家族が死に直面する病気で、自分が不安な時にマインドフルネスできますか?

43 :
出来ない理由は?

44 :
>>36
犯罪者予備軍か
マインドフルネスでメンタルを鍛えたロリコン

45 :
なんだか
アニメとかの必殺技みたいですね

46 :
>>35
本当はそういう時こそ役に立つはずなのにねえ

47 :
>>46
役に立ちたくなくない?そんな時に。
大事な大事な子供が病気の時に平然としていたくなんかないよ?

48 :
エモってなければ役に立たないと思うのは何故?

49 :
ひたすら慈悲の瞑想でジャンプですよ

50 :
役に立つ方をきちんと観るのがマインドフルネス
それを放っておいて心配で心配でたまらないを観るのはマインドレス

51 :
心配、不安、恐怖、不満、怒りなどから考えたり行動したりすることが
マインドレスネスなんだけどね…
それは結局の所役に立たない、特に人の生死に関わることになれば尚更だよ

52 :
>>47
その「平然」は「冷淡」とか「他人行儀」という意味に取れてしまうのだが
あなたにとってマインドフルネスとはそういうものなのか?
俺はそういう時に焦って不安で一杯になって判断を誤ることを恐れるけど

53 :
「誰でも気づいてれば今ここ」とかトンデモ言ってればそうなるさ

54 :
マインドフルネスも「世の流れに逆らう」メソッドなのかなあ

55 :
何を「世の流れ」と見るかは人それぞれなので、その独り言にはあなたしか回答できない
そして、回答が出ていないなら考えても無駄

56 :
抗不安薬を使ったマインド緩ネス

ダルくなる
根拠なき楽観
ぶっひひひすいやせん

57 :
>>55 無駄 とか切り捨てるのが好きそうな人

58 :
慈悲の瞑想でジャンプしまくろう

59 :
慈悲の瞑想叩きが好きな人

60 :
妄想を語るのが好きな人

61 :
>>42
それなんだよね
心底不安に陥ると
マインドフルネスが生じにくくなる

62 :
不幸に屈して泣き寝入りするのと
マインドフルネスの境地は
やはり違いますか?

63 :
反応していることに気づいていれば、反応を選べる、ということじゃないかな。

64 :
不安フルネス

65 :
不安なときは不安なまま不安だって気付いているのがマインドフルネスなんじゃないか…

66 :
まずはそれ
むしろ不安だの怖れというのはチャンスですらある

67 :
山下アンチが怒ってイキらないと静かなスレ

68 :
慈悲の瞑想はいい…ジャンプしまくってここではないどこかへ行ける…

69 :
ここではないどこか他所のスレに行けばいい

70 :
慈悲の瞑想は否定はしないがスレチだからな

71 :
ここはオカルトっぽいスレ?

72 :
オカルトの定義による。
唯物論が理性的だと思っている人にとっては、
唯物論こそオカルトだと考えている人の考えの方こそオカルト
だと感じるかも知れない。

オカルトの反対が科学的・理性的だとして、
科学的・理性的であるためには「論理(帰納と演繹)」において飛躍
と矛盾がないことに加え、「観察(または実験観測)」によって確認
する必要がある。

従って、脳みそが精神だと思うなら、そのことが観測事実として確認
されなければならない。
そうでないなら、それは推測に基づく仮説に過ぎず、これを信じるなら
オカルトと言われても文句は言えない。

73 :
ヨガポーズに特別な効能があるわけでなく
筋肉の動き、感覚は集中しやすいってだけらしいぞ
だからウォーキングやふつうのストレッチでもヨガ、瞑想だとおもえば効能大差ないはず

74 :
>>73
なんでヨガの話が出てきたのか知らんけど
ハタヨーガのポーズにはムドラー(印)と言って、ポーズそのものに意味があるものもあるよ
肉体を支配して、最後には心をも支配する
自分の肉体を支配することもできない人間が、心を支配することができるだろうか、というのがハタヨーガの立場
ハタヨーガの達人は随意神経だけではなく、不随意神経すらも支配する
もう知ってるかもしれんけど、パラマハンサヨガナンダの「あるヨギの自叙伝」とか、
ポールブラントンの「秘められたインド」とか読むと面白いと思うよ
ポールブラントンはラマナマハルシを初めて西洋世界に紹介した人

75 :
科学的な見地からみた場合
ヨガの人がポーズに意味があると信じるのは別にいいのだが
たとえば同じポーズを素人と達人がやるのでは差が出るはずだろうし
特別意味がないポーズでも流行らせれば今日以降から特別になる可能性ある、信仰の問題かと

76 :
えっと、どこに科学的見地があるの??

77 :
ちゃんと調べたわけではないが
仏教の瞑想 → マインドフルネスみたいな移行と一緒かと
ヨガから宗教色をなくし、何に意味、価値があるかを考えた場合、
筋肉とかを伸ばすことで集中状態にできること

78 :
ヨガと筋肉の疑問に人気ティーチャーが答える!【筋肉への意識編】
ヨガジャーナル日本版編集部
2019-02-05
健康のため、スポーツのために必要な「筋肉」だけれど、ヨガにはどれほど大切なの?
読者から寄せられたヨガと筋肉にまつわる素朴な疑問を、ふたりの先生にぶつけてみました!
今回のテーマは、「筋肉への意識」。
ヨガのレッスンでよく耳にする、「筋肉を意識して」という言葉。
ヨガのポーズで筋肉を意識すると、どんなメリットがあるのでしょう?
Q1.筋肉を意識するとヨガにいいことはあるの?
ポーズの安定性と快適さが変わります
各ポーズに重点的に意識したい筋肉があります。そこを意識できると正しく体が動き、ポーズの安定性、充実度が高まります。
「今、ここ」に集中できる
筋肉を意識しているときは「今、ここ」に集中。
この「意識する」ことを経てこそ、ヨガが目指す「サマーディ」(精神集中を極めた状態)にたどりつけるのです。
Q4.ヨガで「筋肉を意識する」とはどうすればいいのかわかりません
心の中で筋肉と対話しましょう
自分の筋肉を客観視して、意識したい筋肉に心の中で話しかけてみましょう。「腹筋の上のほう、いくよ〜!」といった感じでOK。
https://yogajournal.jp/2940

79 :
ヨガってそういう経験則が積み重なったものだと思うけれどね
経験則に意味を持たせるためにナンチャラのポーズとか呼んでるだけで

80 :
気功の基本でスワイショウとタントウ功というのがあるけど、これもマインドフルネス瞑想になってるのかもと思った

81 :
死にたいという希死念慮を瞑想で克服しよと40分の瞑想をして、湧き上がる死にたいといつ気持ちに雑念とラベリングしたり、無常苦無我の三相で観たり、
あるいはラベリング三相も捨てて数息観やマハシ式で一点集中で死にたいという思考を相手にしないようにしようとか工夫してみたが、
どんなに呼吸が深くなって平静を取り戻したかに見えても最後まで希死念慮は薄れても消えることはなかった。
挙げ句の果てに瞑想を終えたらまた再び死にたいという気持ちが膨らんで来たので、とうとう酒の力に頼ろうと今冷蔵庫にあった納豆をつまみに日本酒を2号くらい飲んできた。
これで寝れるかもしれない。
今の自分には死にたくなったら瞑想よりも酒の方がいいようだが、これは破滅への道でもあるとは思う。
まあ今日はこの酒の力を利用して寝るとしよう。

82 :
また書きたくなったらおもうこと書けばいい
自分から死ぬよりマシ
誰か読んでる
最低限俺は読んでるから好きなこと書けばいい

83 :
なぜ死にたいの?

84 :
自殺願望は渇愛と聞く

85 :
消そうとしたらそれがストレスになるから逆によくないんじゃ

86 :
病気だったら医者に行った方がいいぞ
瞑想で何とかなると思っちゃ駄目

87 :
>>81
死にたい/死にたくないというのが"有る"のは自我があって二元的な認識観が残っている人間としての最後の一線だから
それが本当に消えたらもう認識感が普通の人間じゃなくなってるよアンタは
死にたいは自我を消したいだし、死にたくないは自我でありたいだからどっちでも普通の人間の視方だ
死にたいやつも死にたくないってやつも窮極の立場からすれば前者は自分に正直で後者はちょっと誤魔化すのが上手いだけ
瞑想で死ぬ気持ちのを抑えるんじゃなく瞑想の中にお前そのものという宇宙を放棄して狂ってR
Rば死にたいを引き起こす"原因そのもの"がなくなるから
解脱者からの忠告でした

88 :
大雑把に言えば死にたいのは受け入れられない物事が何かあって今の自分では持っていない何かを得ないと自分はよくなれないと思ってるからだろうね
死にたい原因が自分自身で本当にきちんとわかったら消えるんじゃないかな

89 :
>>81
常識的な範囲でいえば、
まず病院に行って医師の治療を受けることと、
食事、運動、睡眠において規則正しく健康的な生活を維持すること。
これは前提。

その上で瞑想上のことを言えば、突き抜けるまでやれ。
何を?と思うかもしれないが、それは実践を通して自分でつかむものだと思う。

90 :
マインドフルでいることにおいては、朝起きてから夜眠りにおちるまでずっと。
座る瞑想(坐禅)においては、瞑想の始まりから終わりまで一瞬たりとも途切れることなく集中を維持継続する。
呼吸が対象ならすべての入息の最初から最後まで、すべての出息の最初から最後まで、一瞬たりとも途切れることなく
集中を維持継続する。

そうは言っても妄想雑念は必ず湧いてくるし、度々意識はそれる。
しかしそれる度に集中を対象に引き戻す。
100回外れたら、100引き戻す。
1000回外れるなら、1000回引き戻す。
その覚悟が決まった状態で、1時間ないし1時間半、決死の覚悟、不退転の覚悟で集中し続けるなら、結果がでない
ということはない。

91 :
実践的には、まずは5分程度から始めて、順次15分、30分、45分、1時間と伸ばしていく。

座っている時間が60分でも、集中が連続している時間は5分に満たない、ということでは
筋肉質な瞑想にはならない。
集中の連続時間についても、5分、10分、15分、30分、1時間と順次伸ばしていく。

たまにやって休む、という感じだと、上達はなかなか難しいので、達成するためには、
毎日欠かさず1〜2時間は実習する必要がある。

92 :
どうせ死ぬなら、そのまえに死ぬ気で瞑想しておいた方がいい。
結果は180度違ってくるだろう。

93 :
死を恐れるな
生命が誕生したときからずっと繰り返されてきた事だ
死後は何もない闇と一体になる。

94 :
何かが真実と認められるためには、論理的に矛盾なく説明できて、なおかつ
観測によっても確認される必要がある。

瞑想は生命現象をそのまま観察することを意味している。
また、それが思い込みを抜け出す唯一の道でもある。

95 :
>>94
君は興奮して連投している自分を客観的に観察した方が良い

96 :
うけるw

97 :
「おれはマインドフルなんだぜ」アピールなんか、人にとっては何の役にも立たないよ。

98 :
「死にたい」という気持ちが起きてきたらそれを観察すれば良い
それだけ

ラベリングは観察ではないし、無常苦無我の三相で見るというのも観察ではない
それは「ありのまま」の観察ではないから解消しない

99 :
>>81
希死念慮は瞑想では克服できないと思う
深呼吸して気分を落ち着ける程度
観念を自分から切り離すという行為が困難になるため
死なないように時間を稼ぎながら収まって来るまで何もしない時間を取るべき
落ち着いて来てから回復を早めるのには役立つと思う

100 :
ただ、瞑想自体は辞めないことをお勧めする
希死念慮が弱まって来たら早く離脱するのに役立つから

俺も数日前そうだったので

101 :
ラベリングではシリアスな問題は解決しないね
それは、握りしめながら「辛いの!死にたい!」と言ってるようなものだよ

102 :
何の問題もなくただ死にたくなるの?
理由があるはずだけど。

103 :
>>102
原因はあるはずだけどはっきりと分からない場合もある
そして原因を取り除くより死ぬ方が簡単だと感じる
取り除こうと努力するだけの気力が出ない

希死念慮はいつ終わるか見えなくて辛いが、いつまでも続くものでもない
ずっと同じだけの強さで現れるものでもない(強弱がある)
だから何とかやり過ごして欲しい

104 :
表面的な理由を追いかけたり分析したり避けたりしても駄目だよ
なぜならそれは評価だから
そのレベルの理由を避けたら別の(表面的な)理由が生まれるだけ
「死にたい」という気持ちをそのまんま言葉を挟まずに観られるようにならないと解決しない
それが「あるがまま評価せず」であり手放しだよ
論理的な概念操作やラベリングではどうにもならない
概念を超えなければマインドフルネスにならないよ
そのことをやってるんじゃないか

105 :
ラベリングや論理構築みたいな下らない思量は跡形もなく捨てろ
本当に死ぬつもりなら捨てられるだろ、いますぐ捨てろ

106 :
>>81
言葉を用いてラベリングを行う瞑想は、言葉によりイメージが強化され、感情が増幅されてしまう場合もあります。
そのため、ネガテイブな感情に支配されている場合などは、特に注意が必要だと思います。

瞑想することでかえって苦しむ、いわゆる「瞑想難民」に陥らないことが大切だと思います。

「瞑想難民」については下記書籍で詳しく解説されています。
https://www.gentosha.co.jp/book/b10435.html

上記書籍の著者、プラユキ師が指導する「手動瞑想」は、言葉を用いずに行う瞑想法なので、「瞑想難民」に陥るリスクは比較的低いと思います。

107 :
でもプラユキさん神経症治ってないんじゃないかな
鬱が躁転したみたいな感じだったり、落ち着き無くピリピリしてたり
手で払って誤魔化してるだけみたい

108 :
>>81 への昨日1日のレスを見るだけでも、様々な見解、意見がありますね。。

一言で「マインドフルネス」といっても、多様な選択肢がある一方で、選択の難しさも感じます。

ある程度試行錯誤も必要で、最終的に自分に合った実践方法を選ぶことが大切だと思います。

109 :
マインドフルネス度を15の質問で計ってみた
「日常的なマインドフルネスを測る指標MAASの15つの質問」でググって

計ってみたら4.26だった 評価は普通より良いよって感じらしい
3年ほどほぼ毎日瞑想してるからな 何度か2ヶ月くらい瞑想しない時があったけど
みんなはどうよ

110 :
普通より良いよって感じだよ

111 :
4.73だったよ

112 :
>>111
普通より良いよって感じだな

113 :
>>111 すげーな どれくらい瞑想やってる? 俺は3年やってるって書いたけど
1日平均すると10分くらいなんだよな

114 :
>>113
瞑想としてはやってないけど、生活の中でマインドフルネスになることを意識してるよ。

115 :
>>114 マジか あのテストをしてから日常的にマイフルを意識して生活してるんだけど
なんかアドバイスあったらおせーて 例えばテレビやパソコンを見てる時はどうしてる?

116 :
他人としゃべるとむっちゃ疲れるんだけど、なんとかする方法ない?マインドフルネスに
しゃべる方法って無いかな?ぐだぐたしゃべると、すべての気づきがぶち壊しになるんだけど・・・。

正語ってあるけど、最小限しかしゃべらなくていい僧団の中での話のような気がするけど。
必要なことだけ喋れ、取り繕ったりとかへつらったりとかするなとお釈迦様言ってるけど、
そんなんなしで日常社会生活送れないよ・・・。

117 :
>>115
アドバイスできるような者じゃないからアドバイスも浮かばない…ごめん。
テレビやパソコンは長く観ていないよ。

118 :
>>116
正語って、具体的には嘘偽りを語らない、悪口や陰口を言わない、おべんちゃらや
いい加減な話はしない、ということだから、一般社会の日常生活のなかでもできるはず。

自分自身の言動が常に適切なアウトプットになるようにするためには、反応を選択する
理性が必要で、そのためには気づきを保っている必要がある。
それを言ってるんじゃなかろうか>正語

119 :
他人としゃべっている間、自分の心に生じる思考と感情にずっと気づきを保って
観察していくと、むっちゃ疲れる原因がなんなのか見えてくるんじゃないかな。

120 :
>>117 そうなんだ ありがとう 脳機能が元々高いかもね

121 :
>>118

八正道の正には道徳的な正しいの他に「正確」の意味合いも有るんじゃない?

物事を正確に見て 正確に語り 正確に思唯する としただけでニュアンスが大分違う

122 :
うん。
正確に見るためには、まず刺激に対して反射的に反応している自分
に気づいている必要がある。

その自覚がないと、主観で反応しているだけやのに自分が正しいと
(無意識的に)思っているわけだから、死角から抜け出すのは無理
と思う。

123 :
>>122

つまり感情に流されないで冷静になる必要が有るという事だね?

その為には諦めの感覚が重要になる訳だ?

124 :
感情のコントロールなら、まず心理学の方がいーんじゃないかな
宗教や哲学、自己啓発などはその手法をやったら実際どうなるか?
という事を検証してないからね

フェイクニュースを信じた人を説得するのは、ほぼ無理という心理実験があるし
初めに間違った知識を信じてしまったら、後で面倒になるかも
信じた誤情報を修正する方法も書いてたけど、それも少し面倒な作業だったし

人はだいたい自分の知識は正しいと思いがちだから、初めが大事だと思う
心理学の手法でダメなら、宗教とかを取り入れるといーんじゃないかな

125 :
なんだ諦めの感覚って

126 :
四聖諦

127 :
それ、諦という字は使われてるけど、意味は「真理」ということじゃなかったか

128 :
>@苦諦(くたい)。人生は苦であるという真理。

人生の最後には苦が有るという諦め

>A集諦(じったい)。苦を招き集める原因は煩悩(ぼんのう)であるという真理。

他者に原因が有るのではないという諦め

少なくとも最初の二諦は諦めが無いと受け入れられない

129 :
そんなとこでがんばらなくていい
間違いに気づいたなら諦めて

130 :
仏教が登場する以前の宗教観迄は考慮してないんだね?

さようなら

131 :

仏教が中国に伝わる前、というか仏教が登場する以前に中国には既に四諦があったということ?
釈迦は正という漢字さえ使ってないからね
さようなら、???

132 :
https://fillz.biz/awakening/akirame/

漢語の「諦」は、梵語のsatya(サトヤ)への訳語であって、真理、道理を意味します。つまり、ものごとの道理をわきまえることによって、自分の願望が達成されない理由が明らかになり、納得して断念する、というプロセスをたどるわけです。

133 :
釈迦は諦という字も使ったことないんすよ

134 :
四諦の「諦める」は「明らめる」と同意で「明らかにする」つまり「真理」のこと

八正道の「正しい」は「道徳的に正しい」とか「正確」という意味ではない
そもそも八正道とは四諦の「これが苦しみである。これが苦しみの原因である。これが苦
しみの消滅である。これが苦しみの消滅の道である。」の「苦しみの消滅の道」のことだ
四諦の文脈で述べているのだから、正しいかどうかの判断基準は「苦しみを生むかどうか、
あるいはなくすかどうか」になる
その考えや行為が苦しみを生み出すものであれば「正しくない」
苦しみを生まない、あるいはなくすものであれば「正しい」ということだ
つまり八正道の「正しい」というのは「自他の苦しみを消滅させるのに正しい」という意
味だ

例えば正見とは四諦のことだが、それは苦しみを生まない、あるいはなくす見方だ
正語とは嘘を言わない、悪口を言わない、無駄口を叩かないことだが、それは苦しみを生
まない、あるいはなくす言葉を話すことだ
道徳的に正しいから、悪口を言わないのではなくて、自他の苦しみを生むから悪口を言わ
ないのだ
もちろん正確に話すということではない

正念とは四念処(身体、感覚、心、法の観察)のことだが、これも当然苦しみをなくすも
のだ
マインドフルネスとは苦しみをなくすものなのだ
カバットジンは難病患者の苦しみをなくすために、マインドフルネスを医療に導入した
そして結果を出したということは、仏陀の説いたことが証明されたということだ





ような考えや行為は

135 :
>>133

だろうね

136 :
>>124
>宗教や哲学、自己啓発などはその手法をやったら実際どうなるか?
>という事を検証してないからね

個々人の頭の中で解釈された宗教概念についてはその通りでしょうけれども
初期仏教でいうところの阿羅漢、禅宗でいうところの証悟は、「実証しました」
という意味ですよね。

修行中は未検証の段階。
検証できた=証悟しましたということは、修行が完成しましたという意味。

137 :
簡単に言ったら
正しさとは悟りに向かうこと、より悟りが深まること
でしょ?

138 :
そういう言い方もできるかも。

四諦と縁起に基づいて苦滅に向かっていることが、仏教的な
「正しい(サンマー)」の意味だろう。

139 :
>>109 これ人気ないな みんなはマインドフルネス度を計ってみようと思わないの?
それかアフィとか思ってるのかな そうなら「マインドフルネス度 MAAS 質問 15」でググれば
いっぱいヒットする

140 :
>>139
自動で計算してくれるサイトがあればやってみようと思ったけど、ぱっと見なかった。

141 :
>>139
そもそものマインドフルネスの定義である、今この瞬間の体験に意図的に意識を向け評価をせずに、ってのを思えば普通やる気起きないでしょ

142 :
>>139
他人が決めた「マインドフルネス度」なんかに自分を当てはめて
一喜一憂するのは馬鹿らしいとは思わないか?
それこそ妄想に耽ることに他ならないと思うが

143 :
マインドフルネスを競技にしたり度合いを測ったり
アメリカ人らしいなと思うけど、そういう価値観に興味がない

144 :
>>143
測るまでは良いとして、
自分の数字を上げようとした瞬間に
「マインドフルネス」でななくなってしまうような気がします。。

145 :
母の入院中にお皿を割ったりしたからかなり共感できるテストではありました。
けど内容としてはマインドフルネスよりも注意深く生きれてるかが大きい気もします。

逆転Vの渋野日向子が“持っている”「マインドフルネス特性」
https://www.news-postseven.com/archives/20190925_1456914.html
この記事みたいな感じしかしません

まあ、1回やって何点だった!よりも複数回(期間を空けて)やって何点上がったか?の方が気になる気もします。
逆に、自分をしっかり見れるようになったら結果が悪くなったって事もありそうで面白いですね。
私は結構そのテストは良いと思います(考え方の違いだと)。まあ、アラン・ウォレスの言葉で「瞑想をする前は期待を持って良いが瞑想中は期待を捨てろ」ってありますよね。
今まで最高記録400点台だったパズルゲームで何故か700点台出せたんで嬉しいけど逆に退屈な。もっとやって人外レベルを目指します(フラッシュ暗算とか凄い人って瞑想凄そうなイメージ)。

>>116

サーチインサイドユアセルフの本にはマインドフルな会話ってのが出てきますよ。2人1組で行う型稽古みたいな感じなんで敬遠してたんですけど別に相手の意思関係なく実践でも出来そうだと気付けました。
要は体のどこかに意識を集中させてーの、相手の話をちゃんと聞きーの、整理しーの、確認しーのって感じでした。相手の賛同を得られなければ不自然な確認は避けたいけど自然に持っていく方法も模索できればいいんでしょうね。


先週の土曜日にイオン行ってガネーシャ像とハンドスピナー買ってきたんですよ。
ハンドスピナーって良いですね。キラキラしてるのを買ったんですけど、そこに意識を集中しやすいんですよ。それに回してる時の感覚が指動瞑想に近い気がします。
前にダイソーで買ったハンドスピナー持ってたんですけど、そんなに面白くないって思ってたんですけど、今回ビレッジヴァンガードで買ったのは良かったです。ちょっと高かったけど、他の趣味はあんまりお金かからないし良い気がします。

146 :
あれから少しずつ記録が伸びてついに800点到達。
皆さん、生きてますか?レスが無いですね。まあね、dアニメに登録してアイカツシリーズを見ているんですかね?
アイカツオンパレードもまだ7話だしまだまだ追い付けますし、そっちも面白いですよ。

これが今までの総集編みたいな感じです
https://youtu.be/zrteISpvpWU

で、こっちが第7話
https://youtu.be/1fkUsNemS4k

147 :
ロリコンスレッドストッパー

148 :
私はこれで覚醒しました。
https://jin625.com/archives/6509

149 :
↑情報商材の広告

150 :
さっき900点代が出ちゃいました。自分でも訳が分からないです。ここ最近の能力のインフレ、ドラゴンボールか?って思いません?フリーザ編か?って。このまま999点越えたらどうなるんでしょう。完ストでしょうか。
そしたらまた新しいパズルゲームを始めますね。なんでそんなにパズルゲーム好きなんだよって思う人も居るかもでしょうが、身体能力に制限と言うかまあ元々病気になる前からスポーツは苦手でしたし。
ゲーム(スポーツ以外の分野)でもゾーン感覚に入れるんじゃないかと言うか、ソレをマスターしてから他の分野でも活かせないかと考えている次第でして。
私はこれで覚醒しました!サーチインサイドユアセルフ!
https://youtu.be/S7QsHpLU1Sw

151 :
私はこれで覚醒しました!

152 :
おめでとう。

153 :
覚醒とかまではいけないけど、やった後は確実に気分が良い

154 :
どこかでヴィパッサナーやマインドフルネス、あるいは座禅を指導してもらえるところはないですかね
みなさんはどこで学びました?
年末年始泊り込みで教えていただけるところがあればいきたい

155 :
どの合宿や接心に参加するにしても、すでに呼吸を三十分くらいは
観られるようになってからにすることをオススメします
そうでないと瞑想難民になってこじらせますよ

156 :
>>154
書き込もうとしたけど、NGワードにひっかかって書き込めなかったので
少し書き換えて書きます。

仏教系ではてらわだ協会、ヴィパ協会(ゴエンカさんのとこ)、ディーパン
カラ法友会。この辺は大丈夫。あとは相性。

禅系だと、ネルケ無方さんや山川宗玄さんとか大丈夫そうなところはある
ようだけど本格的すぎるか、あるいはお手軽過ぎて雰囲気を味わうだけで
終わりそうなところしか目に付かなかった。
(単にわたしが知らないだけ)

157 :
全日程10日ぐらいあれば、最初の3日ぐらいで30分連続いけて、
後半でぐんと伸ばしつつ深めてもいける気はするけど、こればっかりは
個人差があるのでなんとも言えないか。

合宿参加前に基礎練習をしておくのは賛成です。
まずは5分から。

158 :
テクニカルな勝負の場ですね

159 :
俺はスマナサーラとグーグル本読んで実践してるだけだわ

160 :
ありがとうございます。ゴエンカさんの合宿は2年くらい前に行きました。
貴重な体験でした。
教えていただいたほかのところも調べてみようと思います。

161 :
鈴木俊隆は初心の大事さを言うし
カバットジンは前の体験なんか忘れて毎回初めて瞑想するようにしろというし
2ちゃんねるは本番に向けてしっかり練習してから瞑想に行けという

162 :
一つも矛盾しない

163 :
それが2ちゃんねる

164 :
「本番に向けて」ではないし三十分なんてしっかりでもないだろう
何でも指導者におまかせという態度が初心なのか?
そうやって甘えても瞑想が上手くいくわけではない

165 :
自分に厳しいのは良いけど、その態度をそのまま他者に向けるのもどうかな
とは思います。

166 :
偉ぶりたくて仕方ないのでしょう

167 :
30分呼吸を見られるぐらいなら入門者から初級者に入っただけ
それが偉そうとか厳しいとか見えるってw

168 :
こういう態度こそが瞑想難民を生み出す元凶なんですよね。

169 :
気づき

【反応を選択】 → 不善心(欲・怒り) → 不善行為 → 苦・悪果

善心(正見・正思惟)

善行為(正語・正業(行い)・正命)

楽・善果

ぜんぶ自分次第。

170 :
自分にとっても、相手にとっても、第三者にとっても善く、
目的、手段、結果の三つにおいて善い行いを選択していくこと。
これが円満な結果をうむ、円満な行いじゃないかなと。

171 :
そう、自分次第
難民になるのも偉そうと思うのも自分

日常で瞑想と無縁な人にこんな事言わないし、差別したりはしない
おっしゃるとおり、円満になるよう過ごしているが
ここはマインドフルネスを実践したり学んだりしてる人のスレだろう
三十分の呼吸観察程度で厳しいとかいう反応があるのでは
マインドフルネスなんか語れませんw

172 :
>>154
ワンダルマメソッド、おすすめです

173 :
ぶっちゃけ瞑想指導を2ちゃんで受けようとするのは一番の悪手だと思う

174 :
そうだね。

175 :
無明こそ正義みたいな人も居るからね

176 :
最初の質問は指導してもらえるとこを知らないかって話だったのに
何故かこの場でごちゃごちゃ指導めいた事を言い始めるやつが出てくるんだよ

177 :
その話?無視しておけば良くないかい?

178 :
質問者はまたヴィパッサナーセンター行けばいい
あっち行っりこっち行ったりしないほうが良いですよ

179 :
瞑想のやり方や、瞑想から得た洞察等々の内容については、明確に質問でもされない限りは、
基本的に何にもしゃべらない方がいい、ってことなのかな。

180 :
「余計なことに見えた」「余計なことを言う奴が気に入らない」
というのが重大な事実なわけで、それが本当に余計なことだったかどうかは
どうでもいいんだよ
気に障らないように忖度して発言すること

181 :
どんなことであれ言われたことを盲信せずにあくまで参考として淡々と修行していけばいいだけの話

182 :
気づくって難しい〜
ネガティブな気づきを気づこうとするとどんどんそっちに引っ張られちゃう

183 :
何故そんな事をする

184 :
気づきってのはベースラインとしてフラットであることを心掛けなさいということ
それこそが中庸
ネガティブな気づきを志向する時点でマインドフルネスではないよね
仏教にシンパシーを感じる人たちは基本的に内省的な人たちなので心情はとても理解できるけどね

185 :
気付きにネガティヴもポジティブもないんだよ
「気付き」自体は観測行為でネガティヴもポジティブもない
その観測した対象によって心が乱されてる

186 :
みんな誤読して、その自分の思いに引っ張られて頭がいっぱいになりながら鼻息荒く語ってる

187 :
元の文章はたぶん
ネガティブな思いが生じたという気づきをしっかり主観なく気づいてようとするんだけど気づき続けてるうちにどんどんネガティブな主観に引っ張られちゃうって話だよね
たぶんだけど

188 :
ネガティブな感情に反射して、ネガティブに反応するのが当たり前だったけど、
マインドフルであることを意識するように訓練し続けているうちに、徐々にではあるが
反応を選択できることに気づいてきた。
行動もそうだし、思考ループもそう。
ネガティブな反応をスルーして、ポジティブなループを選べる。
そうでなければストップする。

189 :
すんません…
やっぱ酒飲んだらマインドフルネスなんて無理だわ
禁アルコール課したお釈迦様さすがだわ

190 :
>>189
同意。

あと在家への教えで「夜時ならぬ時に食べないこと」というのがあったけど夜食をするのも夜禅にはマイナスだし睡眠の質を下げるので日中もいまいち冴えない。
この教えを説いたお釈迦様さすがだわ。

191 :
欧米版「マインドフルネス」に「搾取」されないために─仏教とは別物
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191201-00000001-courrier-int

192 :
瞑想や断食に金払うとかホント世の中バカばっかりだよな

193 :
>世の中バカばっかりだよな
と考えている自分の思考と感情に気づいているのがマインドフルな状態。

194 :
>>193
その気づきは誰が気づいているの?

195 :
意識

196 :
じゃあ意識は我ならざるのもだからその気づきも我ならざるものであるわけだ

197 :
我だという感じはしているので、我だねぇ。
ぜんぜん悟ってないわ。

198 :
身体が我(の本体)とか、脳みそが意識(の発生源)だとかは思ってないけどね。

199 :
悟ればなんだと思ってるのかね

200 :
一切の生きとし生けるものの幸福を願うのであれば、悟るのが義務だと思ってる。
なぜなら、無我だから自他の区別はないので。

201 :
私はこちらで、覚醒をしました。
https://jin625.com/archives/6509

202 :
>>196
言葉をもてあそんでいるだけでは無我は分からんよ
理屈でいじくり回しても破綻しかない

203 :
(エゴはたちまち、それでは無我を悟った偉大な修行者になろう、有名な瞑想者になろうと決心するのです。)

204 :
慢は、阿羅漢になるまであるらしいので、完全にそういうのを無くしたいなら
もう出家するしかないんじゃないかな。

205 :
解釈を行わずにただ観察すると言うが
「観察」自体が何らかの観点に立たないと成立しないと思う
観点に対する無自覚を自覚する、全ての意識体験にフィルタがかかっていることに気付く
その気付きが必要なのか

206 :
思考と(瞑想の)観察は両立しない

207 :
思考から離れたらフィルタを外せるというのはただの願望

208 :
>>202
仏陀が仏弟子に無我を説く時は必ずと言っていいほど理屈で説明していたのだよ


http://james.3zoku.com/kojintekina.com/agama/agama7051602.html

まず


「比丘たちよ、色(肉体)は無常である。
無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。
無我なるものは、✽わが所有 ものにあらず、✽わが我 がにあらず、また✽わが本体にもあらず。
まことに、かくのごとく、正しき智慧をもって観るがよい。
(以下、受想行識についても同じ説法をしてから)


比丘たちよ、わたしの教えを聞いた聖なる弟子たちは、そのように観て、識を厭い離れる。
厭い離るれば貪欲を離れる。貪欲を離るれば解脱する。
解脱すれば、解脱したとの智が生じ、
<わが迷いの生はすでに尽きた。清浄の行はすでに成った。作すべきことはすでに弁じた。このうえ、もはや迷いの生を繰返すことはないであろう>
と知るのである」

と説かれる。

先に理屈で納得しなければ

>わたしの教えを聞いた聖なる弟子たちは、そのように観て、識を厭い離れる。

の説法ははい。

209 :
しらないが無我、自我はヨーガからで、
原始、仏陀の仏教は諸行無常、涅槃静寂ではないのか
簡単にいうと個にこだわってないやつ
空、色即是空と一緒だが

210 :
無我という文字を使ってる時点で、有我もしくは自我を想定してる気がしたがいいのか?


アートマン - Wikipedia
アートマンは、ヴェーダの宗教で使われる用語で、意識の最も深い内側にある個の根源を意味する。真我とも訳される。

ヒンドゥー教では世俗的な我意識のみを否定してニラートマン(無我)といい、自我意識のない純粋な実体としての真我を否定しないが、
仏教は、永遠に存続し・自主独立して存在し・中心的な所有主として全てを支配するような我の存在を否定して無我説を立てた。

仏教における解釈
釈迦によれば「我」は存在しないとされるため、仏教においてアートマンの用語は一般的ではないと思われる。無我を知ることが悟りの道に含まれる。

211 :
>>207
願望ではなく外れるよ

212 :
>>208
仏教が理屈・言葉だけで構成されてるなんて考えるからそんなおかしなことになる

213 :
>>212
誰もそんなことは言ってない。
早とちりしすぎ。

214 :
>>207
外せるよ。

思考が外れた状態を、思考によって理解しようとしても無理。
しかし、禅などの修養を通して、思考にも感覚にも流されていないが、
明晰な意識があるという状態を体験的に知ることはできます。

思考していない状態は、言葉や概念を超えているので、自分でみて
確認して下さい、という意味で只管打坐とか不立文字が説かれている
のだと思います。
それは釈尊の時代でも、今でも、ずっと変わらないはず。

215 :
https://youtu.be/8P1SzK6GQfQ

216 :
>>214の説明の方がよほど理屈ぽくない?

217 :
でも、何も説明しなかったらしなかったで、納得しないと言うでしょ。
言葉で説明するってことは、そういう弊害がでてくるから、ただ坐って下さい
ということになるんだろうと思う。

218 :
>>214
意識がある、という知覚自体が作られたものに過ぎない
全く偏りのない知覚は不可能だ
知覚ということ自体の本性がそうなってる

219 :
医学も、天文学も、文字で書いた言葉で説明すると理屈っぽいけど、
説明されている現実そのものは全くのリアル。

心のメカニズムも同じ。
話すと主観のフィルターが掛かってしまう。

220 :
>>218
どの深さかによるんじゃないかな。
肉体の五感と、それに縁起する感情や思考であれば、わりと最初の段階で落ちる。
意識と言っても、単一のパーツで構成されているような単純なものではないので、
より深いところからみたら、それも幻かも知れない。

自分の体験として語れる範囲は限られてるので、ブッダなどの先人が遺して
くれたガイドは本当にありがたい。

221 :
>>217
いや、仏陀はただ坐れなどとは言わなかったぞ

222 :
ブッダは無上調御丈夫、天人師と言われるように、人に法を教えて指導することが出来る人だからね。
ブッダ入滅後、日本の戦国時代になる頃には、もう禅僧があれこれ言っても庶民から話を聞いてもら
えなかったんだと思うよ。

223 :
>>220
二項対立的世界観から離れる、ということなら同意できるんだが
こういうことの言葉での表現には限界を感じるな

224 :
>>210
>無我という文字を使ってる時点で、有我もしくは自我を想定してる気がしたがいいのか?

想定したとして

化学でもフロギストンやらエーテルやらが存在すると言われていて当時の化学者はそれらの証拠をつかもうと実験を繰り返したがとうとう掴めずに
最終的にはフロギストンもエーテルも放棄されている。
アートマンとかは化学ではなくスピリチュアルなものだとしたら否定や放棄はされ尽くさないが、その証拠となるものを見つけることが出来ないという点ではフロギストンやエーテルと同じ。
いや、マハリシなど真我実現した聖者もいるので、少なくとも仏陀にとってはアートマンは見つけることができなかったというのがインド哲学的には正しいかもしれない。

225 :
自分も数年前まで瞑想なんてできなかったから、その時の認識を思うと
とても気持ちは分かるんだが、大事なことで、かつ役立つと思うので
ひとつの証言として言わせて頂きました。

226 :
ヒンズーの聖者が言ってる真我は、仏教の修行僧も三昧に入った段階で見てると思う。
釈尊がいったのは、それも変化するし無常だよ、涅槃じゃないよってことだと思ってる。
(現段階における個人的解釈)

227 :
>>208の仏陀はまず理屈、説明、概念を説き
観る事によりそこから離れよと説いていますね
解脱を目指して教えを請う人の殆どに説くのには理屈が必要だった
ということなのだと思います

しかし泣いている弟子に
「あなたの師であるわたしはあなたを破門しましたか?」と問い、
白い布をわたして「垢取り垢取り」といって揉みなさい
とだけ説いた場合もあります

228 :
フィルターがあることに気づいているならば
そのうちにフィルターを対象に観察できるようになります
それは「あ、フィルターだ、フィルター、フィルター」と気づくことではありません
それをやったら観察になりません

229 :
>>227
白布じゃなくて箒

230 :
自我は、自我があると感じる視点からみたらあるのと同様に、
真我も、真我があると感じる視点からみたらあります。
(というか、ありました)

しかし、釈尊の教えた論理を徹底すると、それもまた無常であり無我、
あるいは縁起する空ということになるのだと思います。

231 :
無我も自我も真我もある証拠はないはずだ
縁起や一切皆空のほうが理論、理屈としてはいいかと

232 :
そうですね。
基本的に、三法印と中道以外に言うべきことはないのかな。

ある種の瞑想体験の前と後とでは、自己や世界に対する前提認識が変わって
しまうので、後の話は基本的に表向きには話せません。
あいつ仏教徒のくせに真我があるとか言ってるぜ、みたいな前後の文脈を
無視した話になると非常にやっかいです。

233 :
みんな色々レスしているけどそのレスも無我(非我)であることには当然気付いているよね?

234 :
我 - Wikipedia
我とは、サンスクリット語のアートマン(?tman)に由来する概念。我については、仏教とヒンドゥー教で最も見解の異なる点の一つである。

原始仏教経典
阿含の仏教は、次の4つの有我説を否定した

「五蘊が我である」 - 人間の個体全体が我であるという見解。我見。
「我は五蘊を有す」 - 個体の内にあって、その中心生命となるものが我であるという見解。
「我中に五蘊がある」 - 宇宙原理が我であるという見解。
「五蘊中に我がある」 - 存在要素がそれぞれに固有な性質(自性)をもっているという見解。

大乗仏教
大乗仏教では、個体としての我(人我)だけでなく、存在を構成している要素の実体(法我)をも否定して人法二無我を説き、全てのものが無自性であるとする。

部派仏教における究極的な涅槃は、全てのものが無常・苦・無我で不浄であると悟って煩悩を滅し尽くした境地であるとされたが、
大乗仏教では、全てのものがもともと空であることを悟った涅槃の境地は絶対的な自由の境地であり、常・楽・我・浄の徳をもつとする。

龍樹
龍樹は大智度論にて、
問うて曰く、若し仏法中に一切法は空にして一切に我あること無しといわば、いかんが仏の経に初頭に如是我聞というやと問い、
無我は了解しているが、俗法(言語習慣、言い習わし)に随って我といったので、それは実我ではないと述べている。

235 :
テーラワーダ声聞乗で言うところの有身見が断たれたら無我/非我で良いと思うけどな
ざっくり
なぜならマインドフルネスは大乗、菩薩乗だから

テーラワーダの無我は阿羅漢なので、こんなスレにホイホイ顔出す人が無我な訳がない

236 :
龍樹 - Wikipedia

龍樹の空理論

「空」の理論の大成は龍樹の『中論』などの著作によって果たされた。
龍樹は、存在という現象も含めて、あらゆる現象はそれぞれの因果関係の上に成り立っていることを論証している。
この因果関係を釈迦は「縁起」として説明している。

さらに、因果関係によって現象が現れているのであるから、それ自身で存在するという「独立した不変の実体」(=自性)はないことを明かしている。
これによって、すべての存在は無自性であり、「空」であると論証しているのである。

無我説を固定化してしまった結果として主体の存在概念が捉えられなくなっていた当時の仏教の思潮を、
龍樹は「無」と「有(有我説)」の中道である「空」(妙有)の立場から軌道修正した。

237 :
中観派 - Wikipedia
中観派の教理

中観派の教理は、般若経の影響を受けたものであり、その根幹は、「縁起」「無自性(空)」である。
この世のすべての事象・概念は、「陰と陽」「冷と温」「遅と速」「短と長」「軽と重」「止と動」「無と有」「従と主」「因と果」「客体と主体」「機能・性質と実体・本体」のごとく、
互いに対・差異となる事象・概念に依存し、相互に限定し合う格好で相対的・差異的に成り立っており、どちらか一方が欠けると、もう一方も成り立たなくなる。

このように、あらゆる事象・概念は、それ自体として自立的・実体的・固定的に存在・成立しているわけではなく、全ては「無自性」(無我・空)であり、「仮名」「仮説・仮設」に過ぎない。

こうした事象的・概念的な「相互依存性(相依性)・相互限定性・相対性」に焦点を当てた発想が、ナーガールジュナに始まる中観派が専ら主張するところの「縁起」である。

こうした理解によって初めて、『中論』の冒頭で掲げられる「八不」(不生不滅・不常不断・不一不異・不来不去)の意味も、難解とされる『中論』の内容も 、適切に理解できるようになる。

上記したように、二項対立する現象・概念は、相互に依存・限定し合うことで、支え合うことで、相対的に成立しているだけの、「幻影」のごときものに過ぎず、
自立的なものではないので、そのどちらか一方を信じ込み、それに執着・傾斜してしまうと、必ず誤謬に陥ってしまうことになる。

そのことを示しつつ、上記の「八不」のごとき、両極の偏った見解のいずれか一方に陥らず、
「中」(中道)の立場を獲得・護持することを賞揚するのが、『中論』及び中観派の本義である。
この「無自性(空)」の教えは、これ以後大乗仏教の中心的課題となり、禅宗やチベット仏教などにも大きな影響を与えた。

238 :
>>235
でしょうね。

>声聞乗

ちなみにだが、大乗仏教の最高峰というか、空海によって大乗仏教のさらに上に
位置づけられた密教が、実は小乗扱いされている上座部と同じだという仮説を持っている。
つまり、初期仏教で教えていたことが最高という立場だったのではないかなと。

239 :
戒学までは一般向けに語れるけど、定と慧については語れないでしょう。
解脱にいたってはそもそも想像がつかないので、誤解しか生まれないと思う。

定がない人に定についての内容を語っても、それは迷信やオカルトだとか、夢や幻覚の類だとか見なされかねないし、
慧がない人に慧についての内容を語っても、それは間違った人生哲学だとか見なされかねない。
顕教と密教の違いを、そういう点で区別しているとしたら、それは仏教誕生時点の最初からあったはず。

240 :
>>235
人は誰でも無我ですよ、
ただ凡夫は我ではないものを我であると転倒しているということです。

241 :
その様に見えるのは何時なのか?ということでしょ
思い込んだって無我もまた概念だからね

242 :
「有身見が断たれたら無我」わろたw

243 :
無我が何かなんて議論はどうでもいいよ

244 :
言葉による議論で伝達できることじゃないしな

245 :
>>244
じゃあこのスレに来なければいいんじゃないの?

246 :
>>245
なんで極論しかできないのか
レスバトルしたいだけか?

247 :
ここって全然マインドフルネスの話しないの?

248 :
「我というものがあると思ってる人は苦しむ
何故なら無我だから(無我のものを我と思っているから)」
これだけ頭に入れておけばいいと思うんだけどね

有身見が断たれたとまでは言えないのかもしれないが、
そうならないとありのまま観察のマインドフルネスにはならないので
あながち無我の話も関係なくはない
関心がある人にとってはマインドフルネスの話だろうね

249 :
無我にふれないほうが望ましいんだって
無我状態、無我になる等が存在するなら、それでなかったら有我だ
そういう一般的な意味とは別に無我があるならべつだが
一般的には無我状態と、無我でない状態が存在するはずだ

250 :
一般に普及していくプロセスにおいては、宗教的と思われる要素は科学的
な言い回しに変えて、その部分だけ話すのが望ましいのだろうと思う。

問題は、一般の方々が、瞑想が進んだ人の語る話、たとえば禅僧などの
洞察について、無知や誤解に基づいて否定したり批判したりしてしまうこと
じゃないかな、と感じてる。

純粋に、損してるからね。

251 :
>>249
な、そうやって他人の話を歪曲して受け取ることしかできないだろ

己自身で体験してないことを字面だけ追っても歪んだ理解しかできない
あえて妥協して話してるのに、妥協部分に突っ込み入れて論破したとか言い出す
己が毒されていることに気づけない

252 :
自我の歪みを他人から指摘されるのって、結局、拒絶や不快感しか生まない場合が多いよね。
だから基本的には、実践を通して自分で掴んでもらうしかないのだと思う。

自分が生きたお手本になるか、せいぜい方向性を提示して励ますぐらいしかできないのかなぁ。

253 :
>>246
極論ではない、伝達を諦めているのなら言葉によるコミュニティである掲示板に何のために参加しているのか聞いてみたってわけ?

ちなみに龍樹


24-10の考察
世間の言葉に頼らなければ究極の真理を説くことができない。
究極の真理に到達しないなら、涅槃を体認することはできない。

上にもいるが言葉は概念だ、概念だからから勝義ではどうでも良いんだ、という態度。
そういう態度はは龍樹はもちろん仏陀も取らなかったよ。
無我だってちゃんと仏陀は言葉で説明しているよ。

254 :
>>248
マインドフルネスの熊野先生だったかがよく引用するバーヒヤ経は、無我を理解してないと仏陀の説いてることが分かりにくいと思うよ。

255 :
>>249
無我になる、ではなくて無我であることを悟る、が正解に近いかな。

ダンマパダ
279 「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

256 :
悟った人が言葉で説明するのは問題ないと思うが、
悟ってない人が無我について議論するとか、無我について自分流の解釈
を試みる(そしてそれを信ずる)というのが、いつも問題になってるのとちゃうかな。

257 :
>>249
阿羅漢未満はそうだろうけど、阿羅漢は無我なんじゃないかと思ってる(解釈)。

258 :
文字、言葉で伝達するのはいいとしても
無我で言いたいことは空や縁起と一緒だろう?
より適切な言葉で伝達したほうが伝わりやすいのでは
中論の問答もそうだが >>237

259 :
>>258
無我の定義は一切の法(事物、存在)は我がものではない、我がアートマンではないということ。
アートマンの存在そのものについては仏陀は無記(一切の法以外の何かにアートマンがあるかどうかなどは問題にしなかった)。

260 :
中論 十八章
もしも我が構成要素そのものであるならば,生と滅とを持つことになるであろう。
もしも蘊から異なるものであるならば,蘊の特質を持たないことになるであろう。

我が存在しないならば,我所は,どうして,存在するであろうか。
我と我がものとが消滅することによって,我がものという観念を離れ,自我意識を離れる。

我がものという観念を離れ,自我意識を離れた,そのようなものもまた,存在していない。
我がものという観念を離れ,自我意識を離れた,そのような〔無い〕ものを見る者,見ることがないのである。

業と煩悩とは,分析的思考から起こる。それらは,戲論から起こる。しかし,戲論は空性において滅せられる。

もろもろの仏は我?が有るとも仮説し,我が無いとも説き,いかなる我も無く,無我も無いとも?説いている。
心の作用領域が止滅するときには,言語の?作用領域は?止滅する。まさに,法性は,不生不滅であり,涅槃のようである。

一切は真実である,一切は真実ではない,一切は真実であって且つ真実ではない,一切は真実であるのではなく且つ真実ではないのでもない。これが,もろもろの仏が説教である。

他に縁って?知るの?ではなく(みずからさとるのであり),寂靜であり,もろもろの戲論によって戲論されることがなく,分析的思考を離れ,多義でないこと,これが,真実の特質である。

〔何ものについても〕,一義でもなく,多義でもなく, 断滅でもなく,常住でもない。
これが,世間の導師であるもろもろの仏の説教?の甘露なるものである。

もろもろの正覚者が生ぜず,またもろもろの声聞が滅したときには,もろもろの独覚(ひとつでさとりを得る人)の智が,不執着より起こる。
http://tubamedou.egoism.jp/SonotaButten/Chuuron/ChuuRon00.htm?v=20190528

261 :
FEB版「中論」日本語訳

個人的な目的でまとめた中論です。翻訳と意味のとりにくい部分での解釈については英訳本に多くを頼っています。

第十八章 自己と実在物の考察

カルマによる苦しみは、概念による思考から生じてくるのであり、概念的思考は心的なプロセスによって作り出され、組み立てられた迷妄である。
そのように作り出され組み上げられたものは、空性の体得によって消滅する。

ブッダは自己が存在するという説法も行ったし、無我の教義も説いた。
また、自己も存在せず、無我でもないという教義をも説いた。

ブッダは対象となる聴衆に合わせてその説法のスタイルを変えたため、仏典の中には相互に矛盾する教えが含まれれている。
自己など存在しないと考える虚無的な考えの者に対しては自己の現象的な存在のあり方について説明したし、
実体的な自己に執着するような者に対しては無我の教義を説いたのである。

しかしより深い見解としては、「自己実在でも無我でもない教義」を説いたのであり、それこそがナーガールジュナが次の詩で主張しようとしていることである。

言語によって表現されているものが、それ単独で存在するような実体存在であるわけはない。
言語を用いる思考の領域は、実体として主張できない世界である。
涅槃と同様、事物の性質もまた、生じたようなものではなく、その反対に虚無であるようなものでもない。

http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/mulama.html

262 :
>>260-261

龍樹もそれらの説明を龍樹のいう世俗諦でしているのだよ。

263 :
>中論

論理が分かるところまで行く人は珍しくないが、
実証までやってる人は極端に少ない感じがする。

264 :
>>263
中論 空観

でググってみよう

265 :
般若の智慧と、人間の思考は違うよ。

266 :
瞑想で般若の智慧まで達してない人が、仮に悟った人のものの見方を
真似するために、中論で語られた理論を自分の解釈で概念化して、
ものを見ている、そういう状態の人がほとんど。

267 :
ところがその般若を智慧一番の仏弟子の舎利子(サーリプッタ)に説いてるのが
菩薩=悟りに向かっている人だからね

268 :
六波羅蜜を智慧波羅蜜まで修めて空観に達した場合と、
本で読んだ中論に関する知識と概念を用いて考えることを通して、
仮に空観とはどんなものか仮想的にシミュレーションしている状態とは
まったく別ですよね。

ググるという言葉に、前提認識が端的に表れていると思うけど、
ググって分かるのは知識でしかない。

269 :
龍樹は、瞑想修行をせずに観念的になっていく同門たちに向かって、
菩薩は三十七菩提分法を修めるようにと、繰り返し念を押していたと聞きますが。

270 :
サーリプッタは、その道の第一と釈迦牟尼が認めたわけなのですが。

271 :
日本仏教形骸化の原因のひとつが、ここにあると思うので
敢えて指摘させて頂きました。

272 :
>>270
> ところがその般若を智慧一番の仏弟子の舎利子(サーリプッタ)に説いてるのが
> 菩薩=悟りに向かっている人だからね

273 :
>>268
なんかごちゃごちゃ書いているが

>>263
>>中論
>論理が分かるところまで行く人は珍しくないが、
>実証までやってる人は極端に少ない感じがする。

という「憶測」に対して
ググって「事実確認」をしなさいと書いただけだよ

>実証までやってる人は極端に少ない

なんてことはありません
大乗仏教、チベット仏教の僧侶は中論を読み空観で実証しているのですから

274 :
>>253
伝達を諦めたなんてどこに書いたっけ?
伝達できることじゃないという言葉を拡大解釈し過ぎでは?

俺が言いたいのは実に簡単で、言葉に頼り過ぎんなってこと
無我のような体験の上にしか意味を求められないことを、体験なく言葉だけで相手に分からせるには無理だ
ブッタだろうと龍樹だろうと、言葉の不完全性から逃れてるわけではない
現に誤解してる奴なんてゴマンといるだろ

字面を追うんじゃない、妥協して省略せざるを得なかったことがあることを想定して読めということ

275 :
>>274
ほう、あなたは誤解せずに無我を正しく理解している自負がある、と?

276 :
>>275
そんなものはない
無我などの精神的なことの中には非言語的な側面があると知っているだけだ

277 :
「悟り」について言葉で説明することは憚られるとは多くの人が知っているのに
「無我」については好きに言えると思ってる人が少なくない
その感覚が分からん

278 :
>>276
ないのなら

>>274
>現に誤解してる奴なんてゴマンといるだろ

なんでこんなことを臆面もなく書けるの?

279 :
>>276
もう一つ

無常→苦→無我

という釈迦の説法を馬鹿にしてるの?

280 :
レスバトルが目的か
付き合いきれん

281 :
無我であれ概念として我の一部にしてしまうと良くないからね
何故なら、無自覚に我と思っているまま「わたしは無我がわかってる」となるから
目指したり、話の中心におくものではないと思うなぁ

全ては「苦を滅しているか」ということが中心におかれるべきだと思う
あらゆる仏説もそこに繋がる話であるはずだし
宗教板のマインドフルネスの話としても有益だと思うので

282 :
>>270
同じこと何度も言うようだけど、悟った人が無我を教えるのと
悟ってない人が無我についての自説に固執するのとは、全然ちがいますよね。

空についても同じでしょう。
わたしは先に、日本仏教の形骸化と指摘したように、外国の大乗仏教について
は言及していません。
机上の空論を得意げに語る人は多いです。

283 :
ガイアがホーリースレイヴを開発しやがった!

284 :
>>277
「悟り」と「無我」は全然別のことだから

285 :
>>281
無我がどういうことか体験すること、それについての知識を集めること自体より
無我を知り、体験したことをどう実生活に活かすか、どう生きて行くかが重要だと思う

完全な理解なんてものを追い求めるより、不完全でも、よい目的に実際に使って行くことを求めるべきだと思う

286 :
>>282
悟ってないのに自説の無我に固執している人なんてこのスレにいる?

287 :
自分は瞑想の境地が高い的なことを言う人はすべて疑ってよいと思う

288 :
自分は最初から言ってるように仏教もマインドフルネスもしらないが
無我は主流の仏教では(なるべく)言わない、使わないのでは? 持ち出すのはヨーガで
無我と言ってる時点で我、自我を想定してるだろ
"自我はない""自我をなくす"でも自我を仮説、仮定しちゃってるだろ

289 :
あるのかしらないが
そもそもマインドフルネスの教義にも無我、自我はでてこないのでは?
マインドフルネスの解説でそこを強調してるのはしらない
根本原理的な

290 :
マインドフルネスのこと知らないなら
マインドフルネスのスレに書き込まなきゃいいのに

291 :
別に知らない奴が書き込んでもいいだろ
興味ない奴が書き込むというのなら意味不明だが

292 :
>>284
悟り如何に関わらず、諸法が最初からその性質として無我であること、
阿羅漢果の悟りの境地を現す意味での無我と、複数の意味で使われる
言葉だと思います。

複数ある言葉の運用の仕方のうちひとつのだけを取り上げて、他はない
ということではないはずです。

293 :
直近の言葉の意味は、主に>>233 以降の文脈を受けての運用です。

294 :
>無我とかいらない

悟ろうと思ってる人には必須だと思いますが、
この世で健康に豊かに幸福に生きたいと思ったら、気づきを保って
常に善心に基づく思考と言動を選択すること、しかも意図的に選択することを通して
人生の主導権を握ることが大事なのかな、と思います。

とはいえ、生老病死は避けられませんから、やっぱり無常・無我が苦を乗り越える
鍵なんでしょうけどね。

295 :
>>288
無我(梵語でアナートマン)は仏教では頻繁に使います。
ヨガでは真我(我・常一主宰とも)(梵語でアートマン)を頻繁に使います。

仏教では無我と言ってる時点でまず真我を想定しているのはその通り。
そして四念処(四念住)と呼ばれる瞑想法などによって身体や心(人間を構成する五蘊と呼ばれるもの)は我ではない、我がものでもない、我がアートマンでもない、と観じ、
やがては世の中の一切の事物も同様であることを観じて本来は無我であるのに我と見ているという転倒から離れます。

>>288
マインドフルネスの教義では自我はエゴとか思考とかいう言葉で登場します(よく知らないですが、エックハルトトールという思想家が好きな人は思考という言葉を好むようです)。
ヨガでは自我のことをマインドなどと言ったりします。もちろん、マインドは真我とは異なります。
仏教では自我は五蘊の受想行識に当たると思います。

296 :
>>294
ヨガの聖者は苦しみを感じる自我に汚染されない真我が核としてあるのでそれに目覚めれば苦を乗り越えられるとしています。
苦を乗り越えるアプローチは無我だけに限定されているのではありません。

一応、補足として念のためにレス。

297 :
「エゴ」というのは思考を自分と思っている有様だと思っています
その意味でのエゴから離れなければ苦からは逃れられない
ブッダの言葉で言うなら、心、心の中身は自分ではない
それを無我と呼ぶのかどうか、私は知りませんが

真我というのも私はよくわかりません
勝手な推測ですが…
エゴと真我を言葉で区別することが難しいと思い
仏陀は真我の有無を無記としたのではないでしょうか?

298 :
>>292
阿羅漢果の悟りの境地を現す意味での無我、とは釈尊が説かれたもの?
もしそうならどの経典でそれを説かれてるのか示していただけますか?

299 :
ここに無我とでてくるが、一般個人が多分ふつうに想像する無我とはべつでは?



諸法無我 - Wikipedia

諸法無我は、全てのものは因縁によって生じたものであって実体性がないという意味の仏教用語。
諸行無常と並べられるが、行は因縁によって起こるこの世の現象を指すのに対し、法は涅槃すらも含むあらゆる事象を指している。

アッギヴェッサナよ、私はこのように弟子たちを戒める。このように頻繁に語る。
「比丘たちよ、色は無常、受は無常、想は無常、行は無常、識は無常である。
 比丘たちよ、色は無我、受は無我、想は無我、行は無我、識は無我である。
 すべての行は無常である、すべての法は無我である。」と。?パーリ仏典, 中部 35

300 :
個人も含むかとはおもうが
>>299の無我だと夢、幻、無自性とおなじようなものだろ
『平家物語』でこうかえるような


祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
・・・
唯春の夜の無我のごとし。

301 :
>>299を書き込んでおもったのが、無常=無我という扱いな訳で
諸行無常

諸法無常
にしとけばましだったような

302 :
>>296
仏教瞑想も同じだと思いますよ。
それを真我とは呼ばないだけで。

303 :
>>297
真我アートマンとは神=宇宙真理であるブラフマン(梵)と本質的には同じものでそれを悟れば梵我一如となります。
外界が変わり心身(名色)が変ろうとも真我は神であり宇宙真理であるので変わることはありません。

仏陀がアートマンについて無記だったのはアーナンダ 経などにその理由が書いてありますが、
その他にももともと仏陀は形而上のことは無記とし、アートマンも形而上のことなので無記とした、
また四諦などと違って確実に確認できるものではないから無記とした、というのがあると思います。


相応部経典 4.六処篇 無記相応 10.アーナンダ経
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=951429&id=28627850

304 :
>>298
阿羅漢果における五上分結の慢が無くなった状態が、いわゆる一般的に想定
されている無我の境地のことだろう、という個人的な理解、解釈です。
典拠は示せません。すみません。

蛇足ですが、一般的に言われる無我は、むしろ無私の奉仕のことを指している
と感じるケースも多々あります。特に日本では。
それって無我とは(直接的には)関係ないよな、と思うこともしばしば。

305 :
>>299
そのWikipediaの解説は釈迦仏教的には正しくはないと思う。
諸法無我はもともとは「一切の法(事物)は我がものに非ず」と言う意味。


>法は涅槃すらも含むあらゆる事象を指している[4]。

これは部派仏教以降の捉え方ですね。

306 :
>>302
真我と呼ばない代わりに何と呼ぶのですか?

307 :
>>306
心の状態で言えば、色界心とか、無色界心がそれのことだと思っていますが
まったくの個人的解釈です。

修道の段階で言えば、正定に達した後ですかね。
正定に達して慧を開発している段階は、目覚めた意識で生きながら、楽や軽安
とともにあると思いますし、おそらくですがヨガの行者とかなり共通しているのでは
ないかと推測しています。

違いは、ゴールとして涅槃を設定しているのか、空性と一体になって菩薩を自認
しているのか、それを真我(梵我一如)と呼び、そこをゴールとしているのかの違い
じゃないかなと。

308 :
お釈迦さまは、衆生を涅槃に導こうとしたはずだと思うんですが、
時代が下ると、だんだんこの世への執着を正当化する傾向が
強くなってきたような気がします。
しかも、非常に巧みな正当化をしますね。

309 :
涅槃をゴールと見るから話がおかしくなる
部派仏教的解釈と大乗的解釈とを混同すると話はどこまでも平行線でしょう

310 :
自分は上では無我を持ち出すと無我 vs 自我の対立になる、それらはそもそもあるのかという指摘をしてたわけだが
それとは別視点の批判、指摘もあるのだが
おそらく一般に考えられてるだろう、無我の境地がそもそも間違ってるのではという
無我=無心で何も考えないのが悟り、解脱への道みたいな発想の事だが
最近の脳科学を調べると、高僧の瞑想や達人などはおそらく脳の働き、とくにデフォルトモードネットワークが活発化してるらしい

311 :
分かりやすいところだと、プロスポーツとか武道とかマラソンとか宮本武蔵とかだが
ゾーン、フローになると強くなる、勝てるってのが何も考えてないわけではないだろ
宮本武蔵の最後の空の巻だったかも、無我みたいなのを語ってたはずだが
脳活動が停止したら、切られて負けるだろ

312 :
顕在意識、潜在意識といえるだろうが
意識上で無心になったつもりでも、実は脳はかなり回転、活動してるのが無我、無心かと
おもいだしたのが漫画家の浦沢直樹の話だが、リンクは探してないが
作曲家や小説家などでもあるだろうが
構想などを練って考えぬいてたら、なかば夢の中で解決してたみたいなやつ、これが瞑想、無我とほとんど一緒だろうと

313 :
物理的な身体現象の範囲内については、だいたいそういう理解で合ってるんだと思う。
ただ、意識って重層的になってるから、それで全部ではないようです。

宗派ごとの解釈も、説明原理のことなる概念ですから、思考で考える限りにおいては矛盾を免れないと思います。
でも、概念的には矛盾するような話も、概念を超えたところからみると矛盾してなかったりしますね。
例えば自力と他力は同じという話は、よく聞かれるのではないでしょうか。

314 :
心の働きを止滅させるのは想受滅定(滅尽定、滅尽三昧)という禅定・瞑想だけど、それと無我とは直接的な関係はありませんよ。
無我の境地となると関係してくるかもしれませんが。

あと、想受滅定の手前の無色界禅定の体験をもって真我があると見做すのは外道の邪見であると梵網経というお経で説かれています。

315 :
>>314
ありがとうございます。
仏教徒としては、その立場に準じたいと思います。
とはいえ、ヒンドゥー系のヨギが信ずる境地を否定するつもりはありません。
おそらく、釈尊が弟子入りした最初の二人の仙人の境地がそれであろうと思っています。

316 :
>>315
釈迦に無所有処や非想非非想処を伝授した2人の仙人は当時のバラモン教から離れた沙門と呼ばれる自由思想家で真我とか梵我一如とかとは関係ないですよ。

317 :
>>316
ご指摘ありがとうございます。

とすると、ヒンドゥーのヨギが言っている真我とは、何のことを言っているのだろうか。
仏教徒はそれを真我とは思わないというのは前提ですが、身体現象に付随する
自我意識から目覚めた意識状態というのはあると思うのだけど。

318 :
心の動きが止まっても心臓は動いてるからね、確実に
正確には煩悩を生む心の働きが止まるんだろう
日本テーラワーダのHPには想受滅に入ると心肺の動きも非常に微細になる
と書いてあったが

319 :
梵網経は

●この瞑想こそが真実でそこで我(アートマン)を見いだせる
とか
●この瞑想こそが真実でその体験こそが涅槃である(間違えた現世涅槃論)

といった瞑想での思い込みによる62の邪見(仏教側から見て)を指摘している経典だと言えると思います。

320 :
言葉は思考の足跡だから、言葉からそれを語った人の人格ってある程度読み取れる
気がするのだが、パーリ梵網経は一見して、明らかに人間の足跡ではないと思った。

321 :
一瞬だけ止まって涅槃とする流派もあるんだった

322 :
>>317
シャンカラ
・アートマンは実に、常に不変である。それ故に、私には心の乱れはない。
したがって、私には精神統一(禅定・三昧)はない。何故なら、心の乱れも精神統一も、変化する心に属するものだから。
私は心を持たず、清浄であり不二であるからどうして、この二つのもの(心の乱れと統一という二元性の対立的概念)が私にありえようか。

他、シャンカラの言葉が書いてあるこのサイトを少しづつ読むとアートマンへの理解が進むかもしれません。


https://gamp.ameblo.jp/zen-is-right-here/entry-12166409915.html

323 :
記憶力や認知力の向上などヨガが脳に与える効果を科学的に分析
2019年12月16日
イリノイ大学ネハ・ゴーテ教授らの研究チームは、過去に行われた11の科学研究を総合的に分析し、ヨガと脳の健康の関係について明らかにしました。
まずヨガの実践によって海馬が大きくなることが示されました。
感情の制御に関係する扁桃体も、ヨガをやらない人に比べてヨガ実践者の方が大きくなる傾向があることを示しました。
加えて、前頭前皮質や前帯状皮質が大きくなり、デフォルトモードネットワークが効率的に行えるようになる傾向があるとも示されています。
https://gigazine.net/news/20191216-yoga-effects-brain/


クリエイティブな仕事のプロは脳の活動が普通の人とは違う
2019年06月22日
作家、デザイナー、アーティスト、俳優、映画監督といった「クリエイティブ」な能力を問われる仕事のプロフェッショナルは、
その能力を発揮しているとき「背内側デフォルトモードネットワーク」という部位が活性化しているという研究が発表されています。

実験の結果、近い未来を想像しているときはプロと対照群の間に脳の活動の差はほとんど見られませんでしたが、
遠い未来のことまで想像しているときには、プロの脳では「背内側デフォルトモードネットワーク」という部分が活性化することが判明したとのこと。

創造的な仕事のプロは休憩に入ってもこの部位を活動させ続けていました。一方、対照群となる被験者はこの部分の活性化がほとんど見られなかったそうです。

ハーバード大学のダニエル・シャクター教授は「背内側デフォルトモードネットワークは自分自身の経験とは異なる視点で物事を考えるときに関わってくる部分であるため、
脳のこの部分を活性化できる人は、他人に対する共感性を持ち、政治的な決断を下すときも未来の子どもたちへの影響を考えられるような思慮深い人である可能性があります」とコメントしています。
https://gigazine.net/news/20190622-creatives-using-specific-brain-part/

324 :
天才は「アイデアの生成・選定・評価」のすべてが得意

脳の中には「デフォルトモードネットワーク」と「サリエンスネットワーク」と「エグゼクティブネットワーク」という、アイデアの生成に必要な3つの領域があることが研究でわかっています。

アイデアを生成している時に活性化している部位があって、これを結んでネットワークにしたのが「デフォルトモードネットワーク」ということですよね。

凡人の脳は、「アイデアの生成」「アイデアの選定」「アイデアの評価」、それぞれで活発になるネットワークの結びつきが弱かった。一方で天才の脳を見てみると、その3つの結びつきが強かった。

「脳の強いつながり」を作ればいいのですが、どうトレーニングしていいかもわからないわけです。
これを誰でもできるようにするにはどうしたらいいのかを、かなり深堀りして考えてみました。

注目したのは脳の動きなんですけれど、このネットワークには少し特徴がありまして、アイデアの生成に必要な「デフォルトモードネットワーク」は、一人の時に活発になりやすい。

一方で「エグゼクティブネットワーク」という、アイデアの評価に使われるようなネットワークの部位は、複数人の時、外に注意が向いている時に働きやすいことが研究でわかっています。

これらを踏まえ、「天才の脳を再現するには、一人の時と複数人の時を行き来すればそれにかなり近いものができるんじゃないか」と私は考えました。

一人で考える時間を大切にすることが、Think Differentする上での第一歩なんじゃないかなと思います。
「シャワーをしていいる時にいいアイデアが思いついた!」とか「歩いている時に思いついた!」ということがあるのは、この「デフォルトモードネットワーク」が関係しているのかなと思います。
https://logmi.jp/business/articles/321081

325 :
>>323-324
そう言ったものは知恵だね。

仏教の智慧は知恵とは違って世の中の真理を知る力や働きのことで生産性とは関係ありません、
というか智慧が育てば育つほど世間を厭う気持ちが大きくなってこの世を捨てる、つまり生産性がなくなっていくようですw

326 :
サピエンス全史のユヴァル・ノア・ハラリ氏も、瞑想を取り入れているらしいね。
人類史を俯瞰して、最終的に瞑想に辿り着いたらしい。

327 :
同じユダヤ人のローゼンバーグは自分のことを知的麻薬の常習者だったとか書いていた
ハラリも瞑想やっていくうちに執筆が止まって世捨て人になるのかもしれないね

328 :
近著 21 Lessons の締めくくりを読んだ印象だと、彼の一連の著作は
これから起きる社会変革を向かえる人類に対する忠告、あるいは警告
なのかなと感じた。

世界中をコンピュータネットワークが多い、AIによってはじき出された
アルゴリズムに支配されるようになってくると、個人が自由意志で生きて
いくことは難しくなるので、そうなる前に自己の内面に自由意志を確立
しておいた方がいいよ、とそんな感じ。

最終的に、瞑想のすすめで終わっていたのが印象的だった。

329 :
仏教の智慧を身につけられないまましんだらどうする
解脱できなかったら
来世なんか信じてる?

330 :
21 瞑想――ひたすら観察せよ、か
Lesson21だけ読みたくなった

331 :
「人は死なない−ある臨床医による摂理と霊性をめぐる思索−」

読んでないけど

332 :
>>329
三法に帰依して受戒すれば、その段階で人間より劣る境界に赴く心配はなくなりますよ。

最近になって、ようやく先端科学が同じようなことを言いはじめてますから、細かい説明
はしませんが、業報はあるし、命というのは身体が死んでお終いではない、ということは
証言しておきます。

布教かよ?と思われるかも知れませんが、要するに、絶対大丈夫なところにあらかじめ
命綱のフックをかけておくことが重要なのです。
他宗教でも、どの宗派でも、本質的なところは同じです。

333 :
イタイの来てる?

334 :
常識を基準に判断すると違和感があるだろうけど、常識が正しくない場合、
本当に痛いのは常識から出られないでいることだと思うよ。

フィクションの話ならまだしも、自己という現実からは逃げられないからね。

335 :
現状が理想的であるならそのままで構わないかも知れないが、
現状から抜け出したいなら、平凡な常識から抜け出すことを
怖れてはいけない。

336 :
無我の意味がピンとこない人に向けて
1つの考え方として体の中に光や透明の魂 または脳のネットワーク 体の外にオーラのようなもの 神や大いなる存在の一部など
そういう意識があり思考があり性格がある その本体が 良し 今日も頑張ろう とか 夕食は何を食べよう とか なんだかムカムカする とか
そう考え感じ行動することで私たちの体が動いているのだろうか? もしかすると違うのでは?というテーマです

337 :
古書店に入ったら21レッスンズが2冊も入ってた
話題に乗り遅れるなとばかりに買ったものの、ちょっと読んで売っちゃったんだなw

瞑想の章では、あらゆる事物のフィクション性について子供の頃から感づいていたものの
大学で学んでも何一つ確かな答えが得られなかったこと
そして、友人にしつこく誘われたお陰でゴエンカさんのところでヴィパッサナーに取り組んだ事
呼吸を観察するという、これ以上無く重要なことを教わることが出来たと…

永井均と対談しないかな…

338 :
>>332
>業報はあるし、命というのは身体が死んでお終いではない
近隣の親しい人を亡くしたので、いろいろ考えてしまったんで、救われます。

しかし、輪廻でも、上座部では死後すぐにべつの生き物に変わる(ゴエンカ師)という一方
大乗では中有があるとか、同じ仏教でも違い、
文化圏によっては同じ氏族(人間)に生まれ変わるとか解釈が違うんですよね

あと、転生を繰り返して進歩する、という発想は近代のもので、それまでは退歩観が主流だったとか

解釈が多すぎて・・・

とりあえず功徳をつんで回向したら、亡き人や身近な人に対してなにかよいことになるのだろうか

339 :
こういう関心の持ち方は邪道とかいわれるかもしれないけど、
目に見える現実以外の何か大きなもの、たとえば人間を見守り加護する存在って
外的にあるのだろうか
天人とか菩薩とかキリスト教で言う守護天使とかいう高次の存在が。

ダライ・ラマはあるといっていた気がするし、スマナサーラ師も天人とかに言及してるよね

慈悲の瞑想すると天人に守られるというけど、単なる方便なのか、文字通り受け取っていいのか
あまりにも不確定な時代なので、自分も含めての世の中の人に暗い状況がせまると気がめいる

340 :
善いことをすれば善い果報が有る、これは単なる一般論なのか、それとも目に見えない節理が働くのか

341 :
知らないが法華経が最終奥義みたいな扱いなんだろ?
嘘も方便とあるが、それもここかららしく
手のひら返ししてきて、それまでの教えは方便でしたと、法華経以前のでは救われないと
弟子たちも否定してきて、あなた達では救済は無理だと言い出して
知らないが法華経の教えだと輪廻しないか重視はしてない気はするが

342 :
>>338
功徳廻向はブッダがあると言っている以上、本当でしょう。

>>339
高次の意識はあります。
これに関しては見たので、ありますという断言で、あります。証言です。
これに関しては、心の中に潜っていくとわかります。
自己の外部に天人がいるかとの問いは、ブッダがいると言っている以上、本当でしょう
という立場です。
禅僧も個人的に仲良くなると、色々と体験談を教えてくれます。
しかし、基本的に部外者には口外しないと思います。

343 :
同じ宗教の同じ宗派の人でも違うことを言っているケースをよく見かけますが、
見方が異なる原因のひとつは、おそらく三昧(サマーディ)の体験があるかないか
の違いではないかと思っています。
サマディ体験がない人の判断は、どうしても思考概念、人間理性によらざるを
得ないので、観測事実を確かめて言っているわけではないはずです。

もうひとつの原因は方便、つまり説明原理の違いです。
たとえば、輪廻転生は3次元的の身体現象のなかだけに収まりきらないので
人間の通常的な思考でそれを想像しようとしても、そもそも想像できる範囲に
はありません。
自我が生みだされるメカニズムを、自我は知らないのです。
従って、頭で想像した輪廻転生のことを言っているなら、そんなものはないよ、
と言われてしまいます。
しかし、生命の実相としてそういうものがあるかと問われれば、あります。

344 :
>>338
輪廻も方便、仮設なのですよ
我、無我も
捨てられてこその仮設なのです

すぐに生まれ変わるとか何とかはバラモン教を信じている人に合わせた仮設
実際、ヴィパッサナーをやっていくとあたかもその様に捉えられる現象がある
けれど、それは涅槃ではない、取るに足りない現象を解釈評価している
つまり、見たから輪廻があるという人は悟ってない
「現実は幻想だ」と信じ込んでいるだけとなります

生死のことが問題にならないところに意識がある
みなさんが「観察者」と呼んでるものです
それは既に空、涅槃からの観察なのですよ
そこから色、仮設、現実と呼ばれる虚構を見ている
なので大乗ではみんな悟ってるし物証があるといったりもするが
まあ大体の人は観察者自身の正体を見破っておらんのじゃ

…ってじっちゃが言ってたよ

345 :
物証ではなく仏性
じっちゃんごめん

346 :
>>341
法華経は人は誰でも仏になる資質(仏種)があると説いているが、即身成仏できるわけではない。
未来世で、しかも何度も輪廻した上での輪廻の最終身で仏になれるとする教え。


私の弟子の摩訶迦葉は、未来世において、三百万憶の諸仏世尊に仕え、供養し師事し敬い讃嘆して、広く諸仏の無量の大いなる教えを説くことになろう。
そして、最後の生において仏となるだろう。
その名を、光明如来という。
(妙法蓮華経 授記品 第六)

347 :
この問題は世界はなあるのか という問題なんですよ

348 :
なぜあるのか

349 :
毒矢の喩え

>例えば、ある人が毒矢に射られたとしよう。その人の友人や家族は医者に見せて早く矢を抜き取ろうとする。
>しかしその本人が『矢を射た人はどんな身分か、何という名前か、どういう苗字か、背が高いか低いか中くらいか、肌は何色か、どこに住んでいるのか、それが分からないうちは矢を抜くな』と言ったらどうなるか。
>あるいは、『どんな弓か、弦は何でできているのか、矢はどんなもので付いている羽はどの鳥の羽か、それが分からないうちはこの矢を抜かない』と言ったなら、どうなると思うか。
>その人はそれを知らないうちに死んでしまうだろう。
君が言っているのもそれと同じことだ。その答えを知る前に人は死んでしまう。
>世界が永遠だと知ることで、あるいは永遠でないと知ることで、修行が続けられるのではない。世界が永遠であろうとなかろうと、人は生まれては老い、死んでいくのだ。
>そして悲しみや悩みや苦しみは依然としてなくならない。それらを実際に制圧することを私は教える。
>世界が有限か無限か、その他の質問に関しても同じことだ。マールンキヤプッタ、私が説かないことは説かれるべきではないのだと了解しなさい。
>世界が永遠であると私は説かない。永遠でないとも説かない。有限とも説かず、無限とも説かない。生命と肉体は同じだとも違うとも教えない。如来が死後どうなるとも言わない。
>なぜなら、そうしたことを説いたとしても修行の役に立たないからだ。
>世俗的な欲望を離れ、煩悩を消滅させて心に平安をもたらし、智慧によって悟りを得てニルヴァーナに至る、その目的にかなわないから私はそれらのことについては説かないのだ。
>では私は何を説くのか。この世の一切は、たとえ快楽であったとしてもいつかは失われる??苦しみである。その苦しみの原因は、『私』と『私のもの』にしがみついて放そうとしない煩悩である。
>それを消滅させることが真の平安であり、そのためには普段の生活を調え、身口意を正しく保って、熱心に瞑想しなくてはならない。
この理解こそが修行のために役立つことだ。ニルヴァーナに至るという目的にかなう。

350 :
>この理解こそが修行のために役立つことだ。ニルヴァーナに至るという目的にかなう。
それゆえに私は、苦しみ(苦)とその原因(集)、原因の消滅(滅)とそのための道(道)という四つの真理(四聖諦)を説くのである。
>このように、マールンキヤプッタ、私が説かないことは説かれるべきでないと了解し、説くことは説かれるべき内容をもっているのだと了解しなさい」
>ブッダのこの言葉に、マールンキヤプッタは大いに歓喜した。疑念に捕われていた弟子は疑いの鎖を断ち切り、師の教えを喜んで受け入れた。

351 :
なるほど、面白いなぁ。
思ってる以上に深いのね。

輪廻が仮説という意味が、自我が仮説なのと同じ意味だとしたら
やはり悟らない限りは自我から抜け出せないのと同様、輪廻から
抜け出せたことにはならないと思います。
(思考による解釈です)

だからこそ、ブッダは人々に輪廻から抜け出す方法論を教えたの
ではないかな。

352 :
上記(>>343)と重複しますが、言葉と思考において「輪廻がない」と言う時、
正定(禅定波羅蜜)を経た悟りの智慧において喝破したが故に「ない」と言っているのか、
知識や思考の結果として「ない」と判断しているのか、やはりそこが大きな違いでしょう。

悟った人が出した最終的な結論を、知識として受け取って解釈しているのなら、それは
悟っていない人が語る無我や空と変わりません。

悟り・解脱に至る前、三昧の段階でみる限りにおいては、輪廻転生という現象はある
ようです。
より具体的には、過去世の記憶を思い出します。

353 :
僕も同じことが疑問だったからきいてみたけど…

つまりじゃ、涅槃を涅槃と見破ることを、仏陀は涅槃と呼んでおられるのじゃよ

観察者と対象には本当は主客はない
それを色即是空空即是色と呼んでおる
しかし人は主客があると錯覚してしまうものじゃ
主客あれば苦しみを生むが
主客無く見えた時には対象は滅する

そうして滅し尽くした時に観察者は観察者を、涅槃は涅槃を見ておる
そこには当然主客はなく、もちろん涅槃は対象ではない

じっちゃはそう教えてくれたよ
そこまでいかないと涅槃が涅槃であるとは見破れないんだと思う
僕にもそれが体験出来るかな…

354 :
一般人からすればそこまで信仰心があるのが立派だ
そもそも仏教以前のバラモン教で今世の不幸は前世の悪行のせいと教み
それに反発した仏陀が仏教を打ち立てたことになってたはず
今世で悪行したらミジンコとか虫とかに転生すると本気で信じてるのか

355 :
前世の報いは本当にあるのでしょうか
現在自分の受けている苦しみは、前世の悪の報いだと真剣に悩んでいる方々がいます。

輪廻の思想では人は死ぬと生前の行いに応じて、来世では六つの道(地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間界・天上界)に生まれ変わると考えられています。

この輪廻思想は、元々仏教から出たものではなく、ペルシャ人から伝わったバラモン教の教えであり、被征服民であるインド人たちを最下層の身分に閉じ込めておくために利用されたものでした。

インドの原住民は、四つの階級制度の最下層の賎民として抑圧され、その身分は前世の悪の報いだとあきらめさせられていたのです。

すなわち、その身分の因果は前世の報いであり、現世に受け継がれ、犬畜生になったり、人間界に生まれても賎民という悲惨な定めがあるのだと教えられていました。

当時はバラモン教が全盛を極めており、被征服民であるインド人は、バラモンの神)が定めた輪廻の宿命観で惨めな生活を強いられていました。

釈迦はある日、死んで担がれていく人の姿を見て、「人はあのように死んでいくのだ。あらゆるものが空しいのに、
なぜ人間は生きていくのか、どうして人は老いていくのか、人間が常に苦しみを持つのはなぜか?」と考え、修業者の道を歩んだのです。

そして、バラモンの教えでは、人は救えないと分かった時、菩提樹の下で悟りを求めました。
「この世の中の出来事はすべてが諸行無常であり、いつまでも続くものは一つもなく、全てのものは鐘の音のようにゴォ−・・・ンと消えていく。だから、世の執着心を一切断てばよい」と語ったのです。

釈迦の説教は現世のことであり、死後のことについては、何も語りませんでした。
釈迦は、「自分たちの生きている間に修業し、欲念と 執着心 を捨て、正しい道を歩みなさい。そうすれば、現世の苦しみから解放される」と説いたのです。
http://church-kasugai.org/message2/fukuinn12.htm

356 :
>>353
じっちゃん凄いわ。
それ多分本物だわ。

>>354
シンプルに言うと、心が現実をつくるってことだと思います。
それから、信じるというのは根拠がない盲信のことだと思いますが、
止観は観察で確かめる行為ですから、実は科学実験や観測と本質的に同じです。
盲信している人もいるでしょうが、観測確認の結果として言っている場合もあります。

どちらも言葉(とそれを聞き手か解釈した概念)として伝達されます。
それが混同の原因です。

357 :
>>355
自業自得を差別の根拠として使うのは、人間の勝手な解釈であって、
間違ってますよね。

現実を生みだしているのは自分の心ですが、その現実は、いまこの
瞬間に気づき、反応を選ぶことで変えることができます。
自分で変えられるのだと思います。

358 :
無意識的な反応は、過去から現在までの思考や言動の繰り返しによって
形成された傾向性ですから、自覚的に気づいて、意識的に反応を選択しないと
ずっと過去からの延長線上で生きていくことになるわけです。

そのことを言っているのだと思いますよ>業
それだけじゃないですが。

359 :
初期仏教の経典を読んだことがある人は分かると思うのですが、釈迦牟尼は
断滅論を邪見としていますし、過去世の話も来世の話も当然の前提としてばんばん
してます。
亡くなった弟子がどこに生まれ変わったかと問われて、三十三天に化生したとか
亡くなった母がどこに生まれ変わったかとか、きりがありません。

輪廻転生の否定は、>>343>>352 でも指摘させて頂いたように、人間理性で解釈
した場合に出てくる答えなんですね。

仏教用語で言うと、有身見と断滅論を前提として組み立てたロジックから出てくる
解答です。
正定と智慧を経ると、その前提がひっくり返りますから、結論も変わってしまいます。

360 :
バラモン教と仏教では、輪廻転生に対する態度の違いはありますし、抜け出すべき
ものという意味での否定はあるかも知れませんが、輪廻転生という現象自体がない
という意味で否定したというのは、単純に誤解ではないでしょうか。

でなければ、解脱という概念を成り立たせる前提を否定することになるはずです。

361 :
思考において概念的に、もとから輪廻などなかったのだ、と納得することが
取りも直さず解脱である、という立場もよく見かけます。

その時注意して欲しいのは、三結と苦の感覚です。
その思考の結果である認識が本当に悟り・解脱なら、三結や苦があるのは
おかしいはずです。

362 :
肉体の生命を生きている限り一切皆苦でしょう?
そうではない次元があり、そこからの観察で苦集滅道を知る
苦、集、滅を知るのにはしっかりした定が必要ですが
道には正定、正念がある
正定、正念で苦を見て滅し続けることが道とも言える訳です
一切の苦がなくヒャッハーな悟った人なんて見たことないでしょう?
ゴータマ・ブッダだって入滅の時まで禅定を行じたのだし
サティサティでマインドフルを心がけて暮らされたでしょ
それって一切皆苦を滅し続けて生きていったという事だと思いますよ
三結が断たれたらもう苦は生じないということではないと思いますが

363 :
テーラワーダで言う涅槃とは悟りの瞬間と、阿羅漢が入滅していく間にしかないと言います
つまり、肉体を生きている人間は涅槃ではなく、一切皆苦であるということ
入滅が確定している阿羅漢を解脱というのでしょうが、実際は入滅が解脱だと思うのですが
だから、阿羅漢でも肉体がある間は一切皆苦を生きており、苦はあるはずです
そしてその全てを滅することが出来、滅し続けて生きている
ゴータマ・ブッダだって入滅の前に毒キノコを盛られて苦しんだでしょう
けれどチュンダに布施の礼を伝え、その苦を乗り越え、入滅していったのですから

364 :
元祖、原始仏教のおしえだと無記だとおもうぞ
輪廻はあるともないとも議論せず、考えず修行に励む

365 :
>>362
書いた後で思いました。
苦は苦だな、と。
苦に気づいていながら、それに巻き込まれていないんじゃないかとは思いますが。

366 :
十無記に輪廻は入っていますか?

367 :
> 思考において概念的に、もとから輪廻などなかったのだ、と納得することが
> 取りも直さず解脱である、という立場もよく見かけます。
>
> その時注意して欲しいのは
その場合の話ですね
ズレたレスをしてしまいました

368 :
>>359
涅槃をゴールと捉える見方においての話ですが、
カースト制度のような差別主義は、輪廻という苦しい現状を起点にして、
今とこれからを捉える発想であるのに対して、
ブッダの姿勢は、輪廻という苦しい現状を抜け出して、誰もが平等に理想的な
ゴールに達することができるという、理想的なゴールを起点にした発想といえる
のではないかと思います。

要約すると、バラモン教と仏教における輪廻思想の違いは、
現状維持から出発するなの発想か、ゴール達成を出発点とする発想なのか
の違いであって、輪廻転生という現象そのものがないと言ったわけではない、
という要旨です。

>>367
ご指摘ありがとうございます。

369 :
>>354
>そもそも仏教以前のバラモン教で今世の不幸は前世の悪行のせいと教み
>それに反発した仏陀が仏教を打ち立てたことになってたはず

仏陀も生を跨いだ輪廻業報論なのはバラモン教と変わらないよ。

輪廻業報論に反発したのは六師外道の中でジャイナ教のマハーヴィーラを除く5人だよ。

六師外道
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E5%B8%AB%E5%A4%96%E9%81%93

370 :
成仏、解脱があるから輪廻もあるという発想だろうが
法華経だとそれらは方便で、じつは成仏、解脱もしてなく昔から永遠に生きてたみたいな話なんだろう
キリストが十字架刑のあと三位一体で生きてる、存在してるみたいな
仏陀、キリストに限らず全員いきてて、悟りまでの修行期間に差があるだけなのかと、1万年、一億年など

371 :
>>366

7 修行完成者(如来)は死後存在するのか
8 修行完成者(如来)は死後存在しないのか
9 修行完成者(如来)は死後存在しながらしかも存在しないのか
10 修行完成者(如来)は死後存在するのでもなく存在しないのでもないのか

最後の4つが如来は輪廻するかどうかの問いとなっている

372 :
輪廻転生の実相といっても、自覚がないだけで、今まさに輪廻のまっただ中だからなぁ。
生まれ変わったらまたその時が輪廻のまっただ中になるだけの話だし、結局いまここの
身口意に気づくしかないんだよなぁ。

それから、方便は処方箋のようなものだと思います。
だから自分に一番合った処方箋を飲めばいいのでしょう。

言葉を超えたものに関しての言葉による説明は、その意味では全部方便ですからね。
どれもが最高の方便だし、説明原理の違いは矛盾ではないということかな。

373 :
久遠常住 - Wikipedia

久遠常住とは、法華経や涅槃経において、「仏は、仏滅後も永久に常にこの世にいる」とする考える。
釈迦仏はインドに生れて35歳で悟りを開いたのではなく、五百塵点劫という想像を絶する遠い過去にすでに成仏していたと明かした。これを久遠実成などという。

法華経や涅槃経では、この久遠実成の説をさらに推し進めて、釈迦仏は涅槃して滅度の相をあらわすが、
それは仮の相であって実には滅度せず、つねにこの世に存在(生まれることもなく、また滅することもなく存在)しているのだ、とも説く。これを久遠常住と言う。

すなわち、如来は法身であり、食によって保たれる身ではない。
また仏は方便として涅槃という相を現ずるも、その法身・仏性は常住して常にこの世において法を説くという。

涅槃経ではこれらの常住説をさらに継承発展させて、涅槃の境地から未来における仏や仏性の遍在を説く。
また涅槃の観点から四諦など再び新しい解釈を施しており、法華経で説いた声聞や縁覚といった二乗、また菩薩を加えた三乗も差別はなく、
みな等しく仏と成ることの出来る一乗の教え(会三帰一)の根拠は「三乗同一仏性」であると説き、またその仏性は常住不変易であると明かした。

374 :
>>372
うむ、例えば苦滅の方法論についても仏教とヒンドゥー教では方便は違うが結局は似たようなものになる。

■仏教での無我論での苦滅
身体的(色)苦痛も、名色の苦の感受(受)も、苦のイメージ(想)も、苦を感じさせる力(行)も、苦の意識(識)も無常である。
無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。
無我なるものは、わが所有(もの)にあらず、わが我がにあらず、またわが本体(アートマン)にもあらず。
まことに、かくのごとく、正しき智慧をもって観るがよい。

■ヒンドゥー教の有我論での苦滅
身体・感覚器官から起きる一連の苦痛は、私のものでもなければ、私でもない。
私(アートマン)は不変であるから。
なぜなら。この一連の苦痛は実在しないからである。
これはじつに、夢を見ている人が見る対象のように、実在しないのである。

なぜなら頭脳などのために、自分自身を「私は苦しんでいる」と考えるから、
見者(アートマン)は苦しんでいる対象とは別のものである。
この見者は認識主体であるから、苦しむことはない。

375 :
仏陀はニッバーナを常、楽、無我としたんでしょう

376 :
>>353
ちなみにテーラワーダでは涅槃は
眼・耳・鼻・舌・身・意
の中で意(意識)で知覚するものとなっています。

つまり有為である六根の一つの意で無為の涅槃を知覚します。
ですから涅槃においても主客はあることになります。

377 :
そこで、まさに、マッラの子の尊者ダッバですが(中略)完全なる涅槃に到達したところ、肉体が燃やされつつ、
焼かれつつも、灰が覚知されることもなければ、煤が〔覚知されることも〕ありませんでした。

 そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を知って、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

「身体は朽ち果てた。表象〔作用〕(想:認識対象を表象し概念化する働き)は止滅した。
諸々の感受〔作用〕(受:認識対象を感受し楽苦の価値づけをする働き)は、
一切が冷静と成った(苦と楽と不苦不楽の感受は、その機能を停止した)。
諸々の形成〔作用〕(行:生の輪廻を施設し造作する働き)は寂止した。
識別〔作用〕(識:認識作用一般、自己と他者を識別する働き)は滅却に至った」と。
http://aranavihaara.web.fc2.com/arana-khuddaka-3.html

378 :
>>376
涅槃は意で知覚するってのは何に書いてあるの?アビダルマとか?

俺が読んだテーラワーダ(マハーシ派)の説明ではたしか、
涅槃は知覚の対象にならないから入定し涅槃に入ってる間の記憶はなく涅槃を出てから今まで涅槃に入定していたとわかるみたいに説明されてたように思ったけど

379 :
想像するに輪廻転生はなく
たとえば石や水や空気や虫やイヌや猫や悪党や悪魔はずっとそのままで
修行と心の持ちようで、石のブッダ、猫のブッダ、悪魔のブッダなどになれるのかと
ドラゴンボールにカリン様、ピッコロ大魔王っているが
修行つづけるとカリン様ブッダ、ピッコロ大魔王ブッダになるのでは

380 :
>>378
こちらを参照↓
http://abhidhammattha-sangaha.blogspot.com/2016/03/blog-post_77.html?m=1

テーラワーダなどの部派仏教では涅槃を無為法として一切法の中に入れているので、何かで認識されないとなりません。
それをテーラワーダでは意で認識するとしているということです。
他の部派仏教の大多数も恐らく同じだと思います。

一切(法)についてはこちらを↓
http://james.3zoku.com/kojintekina.com/agama/agama70521.html

>比丘たちよ、なにをか一切となすのであろうか。
>それは、眼と色(物体)とである。耳と声とである。鼻と香とである。舌と味とである。身と触(感触)とである。意と法(観念)とである。

381 :
ピッコロ (ドラゴンボール) - Wikipedia

幼児期に故郷のナメック星で発生した異常気象から生き残り、宇宙船に乗って流れ着いた地球で頭を打ち、記憶も本当の名前も忘れたまま成長した龍族のナメック星人が、
新たな神に就任するため修行の過程で自身の心の中にあるわずかな悪を分離した結果、その悪の心がピッコロ大魔王となった。

当時、絶対的な力を世界に見せつけ人間たちを恐怖に陥れるが、魔封波を開発した武道家・武泰斗により、彼の命と引き換えに電子ジャーに封印された。
300年後、その存在を知ったピラフ一味が封印を解いたことで、この世に甦った。
神龍を呼び出して若返りを果たし、若い頃の強さを取り戻すと神龍を殺害した。

その後、国王のいるキングキャッスルを陥落させ、テレビカメラの前で世界の国王を名乗り、ピッコロ記念日を制定。
そして年1回のくじ引きで43地区を1つずつ破壊することを決定し、全世界を再び恐怖の闇に陥れた。

悟空を侮ったこともあり苦戦を強いられるが変身して反撃、勝利を確信し、悟空にとどめを刺すべく上空高く舞い上がり急降下しての攻撃を仕掛けるが、
悟空の右腕を残したことが仇となり、悟空の全力を込めた一撃に腹部を貫かれて敗れる。

悟空を「見事というしかない」と称賛しながらも最後の力を振り絞って卵を吐き出し、「わが子よ、いつの日にか父の恨みを晴らしてくれ。悪の根を絶やしてはならん」と言い残して爆死。

この卵が孵化して産まれたのが、マジュニアである。大魔王の息子にして分身で生まれ変わりでもある。

フリーザ編でネイルと同化。さらに神と融合し超戦士に進化を果たす。同時に神の記憶と知識を受け継いだ。

出自は魔族。しかし作中にて悟空たちとの共闘や悟飯との触れ合いを通じて邪心が消えていった。

神との融合後は世界征服を口にすることもなくなり融合の直前に神から「悪の意志は大分薄れている」と評されている。
同化前のネイルも神も人格はピッコロのものと語っているが、両者の持っていた知識や記憶もそのまま受け継いだため、人格も徐々に穏やかなものへと変わっていった。

382 :
結論: 
各自のテキストと実践に戻ろう。

383 :
ドラゴンボールの「カリン様」と化した猫ちゃん 表情がまさに仙人のような穏やかさ

元気を与えてくれる猫神様です。
思わず「仙豆ください!」と言いたくなる、「ドラゴンボール」に登場する猫の仙人「カリン様」にそっくりな猫ちゃんが目撃されTwitterで話題になっています。

https://image.itmedia.co.jp/nl/articles/1711/26/miya_171126karinsamanekosama04.jpg
https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1711/26/news008.html

384 :
どっちでもいいが
タイは輪廻転生を信じ全国民が修行やってる風の感じだとおもってるが
しかし建前で前世利益が目的な気がする
日本の教育ママみたいのがいい大学行かせる感じで、良い寺へ出家させてる感じ



女児Rなど悪行三昧で逮捕・タイ怪僧の俗物すぎる豪遊生活 東スポWeb
2017年7月21日

ぜいたくな「豪遊僧侶」に114年の禁錮言い渡し タイ cnn.co.jp
2018.08.10

横領・資金洗浄容疑で高僧5人逮捕、名刹住職逃亡中 タイ仏教界に激震  newsclip
2018年5月25日

385 :
>>378
それだと涅槃は全身麻酔と変わらなくなるね。

386 :
>>342-343
ありがとうございます。
私にはとうていのぞきみることのできない事柄をそのように教えてくださり
とてもありがたく思います

387 :
>>343
パーリ梵網経で瞑想での体験でも外道の邪見があることがとくとくと説明されている。
そこを忘れてはならない。
瞑想して体験すればとにかく良いというわけではない。

388 :
>>386
どなたにでもできます。
法の六徳の四番目は、そういう意味です。
もしご自分にはできないとお考えなら、それは単なる思い込みです。

>>387
気を付けます。

389 :
何を勘違いしているのかやっと分かった

「第五図」は「観る」という行為の外にあったのか
「観る」という形式では「第五図」は知覚できない
そういうやり方の全く外側に心の本体がある

涅槃も恐らくそうだろう
そうなるとマハーシ師の言う通り、涅槃は意識で知覚することはできない
「観る」という事すら関係ない世界にしかない

認識可能な世界の外、我であると見なすことが有り得ないところに心の本体がある、いやそもそもあるとかないとかがない
そうでないと「不生不滅」ということが成り立たない

390 :
何を勘違いしているのか、ではなかったな
何を勘違いしていたのか、だな

391 :
その通り!
「この世に在って、この世に属さず」

392 :
今日22時からeテレでチベット仏教の転生ラマに選ばれた子供のドキュメントあるみたいですね。遅いけど観ます。明後日は年末の大レース有馬記念だし、ワクワクが止まらないよ〜。
https://youtu.be/2YgJIWJN1Uo

罪を憎んで人を憎まず、ひとまずつまんでアジフライ
ドラゴンボールのかつての敵キャラで改心して仲間になった人だと魔人ブウが好きです。まあ、あれは確かどこだかの界王を取り込んだからああなった感じだったかな。ウーブだかって黒人少年もブウの生まれ代わりだっけ?

393 :
>>379
こうおもう根拠は、石でも草木でもセミでも、それに生まれたら不満なく生活してるんじゃないかと
未来の如来になると言われた菩薩とかも輪廻転生することになってしまうが、本人は本人のまま生まれるのでは
基本は輪廻転生せず、本人が不満で強く願った場合に別物に転生できる可能性があるのでは?
カルマではなく念、意志じゃないかと
悪魔だったけど天使になりたいとか、
人間だったけど馬になりたいなど

394 :
ダライラマとかだと姿形が前と後で違うだろってなるけどあまり大きなことではないとおもうぞ
人間男で地域も限定されてて
金魚とか、サンマとかに転生したら問題だが

395 :
お勉強しても結局自分の妄想に繋げてしまうのでは意味がない
「読んで知ったことの本当の意味、本当の姿を自分はまだ知らない」と思うものだ
仏典というものは

396 :
まだダライ・ラマ生きてるじゃん

397 :
>>392
調子にのって関係ねぇもんはるんじゃねぇよゴミが

398 :
>>392

観たけどドラマチックな演出が変だなと思ったら 韓国の番組じゃん?

時間返して

399 :
文の流れが不明瞭なのだけど観察して説明して

400 :
文の、じゃなくて、論理の流れ、のほうが良かったな

401 :
>>378
>涅槃は知覚の対象にならないから入定し
涅槃か道・果のいずれかが知覚対象になるはず

>入定し涅槃に入ってる間の記憶はなく涅槃を出てから今まで涅槃に入定していたとわかる
それは涅槃じゃなくて滅尽定ですな

402 :
意根の対象は一切の法であり、法所縁は、色(浄色 、細色) 、心 、心所 、涅槃 、施設という 6種類にまとめられる。
但し涅槃は欲界心の所縁とはならない
涅槃を所縁とするのは出世間心である。


所縁=客体
http://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%97%E3%82%87%E3%81%88%E3%82%93

403 :
仏教用語に詳しい俺ドヤっの慢

404 :
慢という言葉も仏教用語

405 :
ゴータマ・ブッダの仏教が「人間の生きる健全な道」を説いているという認識は、近代日本において飽きることなく語られ続けたドグマである。
だが、実際のところ、これは正確な認識とは言い難い。
ゴータマ・ブッダの教説は「人間的」なものでは決してないし、少なくとも多くの現代日本人の価値観からすれば、「健全」なものでも全くないからである。


例えば『スッタニパータ』でも『ダンマパダ』でもよろしい。
ゴータマ・ブッダ自身の教説をよく保存していると言われる「古い」経典を読んでみればすぐにわかる。
彼の教えは、その目的を達成しようとする弟子たちに「異性とは目も合わせないニートになれ」と求めるものであり、ゆえに解脱・涅槃には必ず労働と生殖の放棄が伴う。
したがって、それは多くの現代日本人の価値観からすれば、「人間の生きる健全な道」にはなりようがないものだ。

406 :
あるいは、「ゴータマ・ブッダの教えは、後代の仏教のように教理の煩瑣なものではなく、非常にシンプルなものだ」ということもよく言われる。
これは必ずしも間違いではない。彼が言ったことは、労働と生殖を放棄し、執著から厭離し離貪して、それで渇愛を滅尽すれば「寂滅為楽」の境地に至れるという、きわめて単純なことである。
それが全く「非人間的」な教えであって、口で言うのは易しくても実践は難しいことを度外視すれば、その教理の本筋に、煩瑣なところは少しもない。

そこで以上をまとめると、ゴータマ・ブッダの教説というのは、「非人間的な教えをシンプルに説いたもの」だということになる。
余計な先入見を排してテキストを素直に読めば、そういう結論にならざるを得ない。


https://note.com/neetbuddhist/n/n50dd5cdab64b

407 :
勝手に健全な道と妄想してるだけの話

408 :
>>403
専門用語が分からない人への配慮として、一般的な用語におきかえて話す
のがマナー、というのは一般的にはいえると思うね。
でも、専門用語は、それを知っている人同士なら定義が明確なので話しがし
やすいという利点はあると思いますよ。
おそらく、医師同士の会話と、医師が患者に向けて話しをする時も同様。

用語を知らない側からみたら、意味がとりずらいので、意味が分からない自分を
正当化するために、無意識的な思考プロセスを経て、不快感と共に相手が悪い
と解釈する傾向があるように見受けられる。

409 :
初期仏教は、もっとも純粋に解脱の道を教えていると思う。

一方、一般社会で解脱の道がそのまま社会全般に理解され、支持
されるのを期待することは不可能だと思う。
そこで、一般社会から理解され支持されるかたちで、なおかつ解脱
に導く説明原理と実践形態が考案される必要があった。
それが大乗仏教誕生の理由だろうと思う。

そして、カバットジンのマインドフルネスは、そのひとつだろう。
ゴエンカ師からハーバードを経てユヴァル・ノア・ハラリ氏が伝えた
流れもそうかも知れない。

本流から逸れていないかは、常に初期仏教を指標にすることで
計れると思う。

410 :
つ「維摩経」

411 :
>>408
というより、単にコピペでドヤってて自分の言葉で語らない底の浅さを見透かされてんだと思う

412 :
>>411
>>402はコピペではないよw

413 :
>>411
アビダルマを勉強して瞑想している人同士の場合なら、医学用語で身体
の部位や症状を確かめるのと同じような意味があって、話は通じるんですよ。

しかし、公共性の高い場では、無駄に不快感を煽るようなことになりかねない
ので、専門用語の使用は控える場合もあるとは思います。
このスレには詳しい方もいるようなので、ケースバイケースでしょうかね。

414 :
知識がある人が書き込むのはいいんだが
初心者や道半ばの人が書き込まなくなってマニアックな過疎スレになるんだよな
テーラワーダスレとか死んだも同然だし
スレの所有者なんていないし流れに従うしかないのかも知れんが

415 :
2019年11月21日 08:00
企業は利益のために、マインドフルネスを悪用していないか?──ブームに警鐘を鳴らす専門家に本来の意味を聞いてみた

https://cybozushiki.cybozu.co.jp/articles/m005503.html

416 :
>>402はアンカーは打ってないけど>>378>>389に向けてのレスで、それ以外の人で書いてある内容が分からなかったら興味があるなら質問してもらってけっこうですよ。
興味ない人はスルーしてください。

417 :
>>415
>>405-406の通りもともと初期仏教は瞑想以前に労働と生殖の放棄、つまり出家を基本とするものなので、
企業の従業員が真の苦滅をするのなら退社して出家するしかないという矛盾を孕んでいる。

労働者がマインドフルネスとして仏教を取り入れるのなら「動中の工夫は 静中に勝ること 百千億倍す」と、
日常の労働をも作務として仏道に取り入れている禅が良いと思う。

418 :
>>416
出世間心とは何なんですか?
世間から出た心なのだとしたら、世間でないところで心と涅槃という主客があるのはなんだかおかしな気がするのですが
主客があるから世間であり世間であるから主客があるように見えるのではないのですか?

419 :
主客主客主客主客主客主客主客主客主客主客
主客主客主客主客主客主客主客主客主客主客
主客主客主客主客主客主客主客主客主客主客
主客主客主客主客主客主客主客主客主客主客
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主客主客主客主客主客主客主客主客主客主客
主客主客主客主客主客主客主客主客主客主客

420 :
出家修行は解脱の道。
在家仏教は生天の道。
二つの道を説き分けたのがブッダで、次第説法といわれているのがそれだと思う。
ブッダは最初から大乗だった。初期仏教に大乗要素がなかったわけではない。
出家して解脱しようと思っていない在家の人を排斥したりはしなかった。

無論、解脱が本道であることに変わりはないが、出家と解脱だけが仏教だという
パラダイムは、拡げることは可能だと思う。
最初からブッダは在家も救っていたのだから、出家以外は仏教ではないというこ
とはない。

マインドフルネスは、人間以下の暮らしを、天人のような暮らしに変えることも
自由自在のはずだ。
なぜなら、心が現実をつくるのだし、その心の使い方を教えるのが瞑想だから。

421 :
現世利益や生天は解脱の道じゃない、と言われれば確かにそうだし
現代人は、悟りとか解脱という話そのものがファンタジーの虚構だと
思ってる人が多いだろうから、魚川さんの論説はその人達に向けて
は有効だと思うが、すでにマインドフルネスを実践している在家の
大乗的な趣向の人々に向けては、パラダイムが合致していない気が
する。

422 :
>>410
現世利益を得て、なおかつ悟って解脱もするというパラダイムを提示したのが
維摩経以降の大乗仏教なのかな?

とはいえ、その原型もすでに精舎を寄進した大富豪で預流果の長者たちの
存在は、初期からあったわけですけどね。

423 :
しかし、お釈迦さまご自身は出家ですね。
お釈迦さまご自身が出家されたからこそ、人類全体にとって永年にわたって
道のお手本たり得ているのだと思います。

概念的にパラダイムを提示するだけでは、人間は納得しませんからね。
生き様そのものを証拠として遺して下さったのでしょう。

424 :
維摩居士
https://i.imgur.com/mpcJ08i.jpg
https://i.imgur.com/gZRTyj2.jpg
https://i.imgur.com/6b7xaGJ.jpg
https://i.imgur.com/PkNfEjD.jpg
https://i.imgur.com/jeSppij.jpg
https://i.imgur.com/gSUqZqy.jpg
https://i.imgur.com/Euuwtkf.jpg

425 :
不断煩悩得涅槃
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%B8%8D%E6%96%AD%E7%85%A9%E6%82%A9%E5%BE%97%E6%B6%85%E6%A7%83

426 :
四威儀。
つまり行住坐臥の四つの姿勢で、朝起きてから、夜眠りにつくまで
そのすべてが瞑想というのは、お釈迦さまが出家者に指導した内容
そのままです。

舎利佛はその訓練を無学位まで、つまり未学未習のところがない状態
までやり遂げた阿羅漢と言われています。
ですから、もし舎利佛尊者が生きていたら、瞑想に関して維摩居士と
全く同じ立場と見解を共有していたのではないでしょうか。

そもそも、舎利佛が所属していた初期仏教は釈尊直接の指導下であり
後に大乗仏教が批判した説一切有部ではありません。
説一切有部は現存していませんので、現代に小乗仏教は現存していません。

427 :
解脱(無為)とは、生死輪廻のこの世の善悪、双方から離れることと言われます。

大乗仏教を自認する人々のなかにも、解脱ということを解する人と、解脱という
ことを理解していない人がいます。

解脱が何だか分からないから、この世の価値観における善悪(有為)に囚われて、
善に執着し、解脱の道を理解せず、
この世の善ではないとして批判、糾弾するのだと思います。
その原因は簡単で、瞑想の実践が欠けているためです。

方便が大事といいながら、その実、方便ということを理解できていない。
自分の処方箋だけが最高だと言っている点において、かつての説一切有部と
同様の過ちに陥っている。
それが現代の形骸化した日本仏教でしょう。

428 :
> 善に執着し、解脱の道を理解せず、
> この世の善ではないとして批判、糾弾するのだと思います。
違うと思います

429 :
在家で蓄財している人に布施しようと思う人って、おらんでしょう。
裕福な商人だったりしたら尚更。

修行したい人が人々の布施によって支えられ、身体ひとつで誰でも無料で
道が開ける、そういう社会システムを維持するには、出家システムが必要
だったと思いますよ。

人間心理や社会構造を考慮したうえで仏教を存続させていこうと思ったら、
出家者集団と、在家大衆部と、両方が支え合うかたちになるのは必然じゃ
ないでしょうか。

430 :
>>428
どういうことなのでしょうか。

431 :
日本の仏教が形骸化したのはメソッドが欠けていたからでしょう
マインドフルネスや慈悲の瞑想ですね
そうすると、言葉は仏法と似て非なるものになる
結果的に言葉による教えも間違ってきたということになる
しかし、親鸞も道元も説いていることは仏法ですよ
彼らは例外的な天才だったのでしょう

432 :
確かに、大乗仏教を説いた一部の祖師は、解脱を理解していたと思います。
大乗仏教の立場をとる、一般在家の大多数は理解していないと思いますよ。

433 :
バラモン教の時代の衆生においてはバラモン教の教えも善悪も苦も一体です
だから、輪廻とは具体的に何のことであるか、瞑想の中で観えることを
輪廻になぞらえることで、それがない場所すなわち涅槃を指し示した
輪廻という概念を超えるために仏法を示したのであって
その「輪廻に観えるもの」は捨てられるものであり真理ではありません
つまり仮設であり方便です

現代日本の我々は古代インドの価値観で輪廻前提の死生観を持ってません
「解脱すれば生まれ変わらない」と言われても、それが苦を脱する事には思えない
しかし、真理ではない様々なことを信じ込んで生きている
したがって、お釈迦様が今現在の日本に仏法を説くなら輪廻は説明に入らないでしょう

善悪とは全く関係がありません

434 :
それは、三昧(禅定波羅蜜)を経ていない、思弁によって達する答えだと思います。
>>361 でも指摘させて頂いたように、禅僧でもこの立場をとる人はいます。例えば南直哉氏。
禅定波羅蜜を経ていない段階での智慧とは、仏教用語で言えば、般若の智慧ではなく、
あくまで論理的な推論による仮説にすぎません。
輪廻がないことを観測事実として確かめたわけではないはずです。
ですから、その場合の最も理性的な答えは、「わたしは知らないし、分からない」であるはずです。

一方、禅定波羅蜜を経て現れる智慧においては、概念的に生みだされた妄想上の、空想の
輪廻転生ではなく、身体現象に付随して生起する自我意識を、より深い視座からみた視点で
従って時間・空間の概念のことなる視点から生命の生滅を見ることになります。
この場合の輪廻転生が、ブッダが仏説において前提としている輪廻転生です。
そして、みて確認したのか?と問われれば、見て確認しましたと言えるのが、禅定波羅蜜を経た
人なのです。

435 :
輪廻から解脱したのであれば、心に渇愛はないはずですし、市井に
あっても煩悩に流されないはずなのです。
そうではないのに解脱したというなら、それは頭の中の思考概念でしか
ないはずではないかと思います。

436 :
最初はわけてなく、どちらかと言えば全員、小乗だとおもうぞ
わけてないのでどっちでもいいんだが
修行内容的には、いま出家してない一般人とは別物なので
緩すぎる

437 :
具体的には、出家してなく南妙法蓮華キョーと唱えればいいという教えではなかったはず

438 :
はずだ、思う、だから、、、を並べられても説得力無いですが
あなたがそう思いたければそう思っていれば良いんじゃないでしょうか

439 :
伝わらないのか? 
すぐに伝わるとおもったが
初期、原始仏典とされるやつが生き方とか哲学とか問答だろ?
漢文や外国語のお経を唱えればいいわけがない
内容をしってて暗唱するなら意味あるだろうが
それなら日本語化したほうがいい

440 :
>>439
失礼
君に言ったのではないよ

441 :
現代人が信仰する現代科学は唯物論を前提としているので、物証がないと
証明されたことにはなりませんからね。

精神が物質を生みだしているので、物質を生みだしている精神を物質として
示せというのは、要求自体が無理なのですが、現代人で理解できる人は
まだまだだいぶ限られていると感じます。

442 :
科学を知っている人ならば真理は未知のものであるとします
科学とは常に遠い遠い真理に向けて歩んでいくものであり、信仰の対象ではない
(その方法で真理に到達するかどうかはともかくとして)

一方で、科学を知らないけれど「科学は正しいらしい」ということで
科学をよく知らないまま信仰する人が居るのです
そういう人を利用しようと権威を振りかざす人もいますね

443 :
>>427
説一切有部は自分の処方箋だけが最高などと言ってたのですか?
もし言ってたとすれば、それは説一切有部だけじゃなくて部派仏教の部派全部がそう言っているんじゃないの?
今ではテーラワーダのスマナサーラが自分の処方箋だけ、いや自分の処方箋こそ、だな、自分の処方箋こそ最高と色んな本に書いてますがw

あと日本仏教が自分の処方箋こそが最高と言ってたのは室町時代までで、寺院が抱える僧兵の争いや一向一揆の乱などに手を焼いた戦国時代を経て、
それを鎮めるべく江戸幕府が檀家制度を敷いてからは各宗派は布教に熱心じゃなくなり自分の処方箋こそが最高と喧伝することもなくなりました(日蓮宗系を除く)。
形骸化しなかったら今でも自分の宗派が正しいという論争が絶えなかったかもしれませんよ。

444 :
>>442
悟りにいたる姿勢は中道ですから、基本的に科学的だといえると思います。
しかし、ブッダの悟りは科学ではありません。
真理です。
だから道の人にとっては科学的探求の対象であると同時に、ゴールとしては
信仰の対象となる、だから宗教なのでしょう。

445 :
輪廻についての解釈は、仏教学者の間でも大きく二分されているようですが、
その説を唱えている人が行と学を兼ね備えているのか、学識のみなのかで、
だいたい同じ解釈に分かれているようです。

死んだらお終いというのは、この肉体が自分だという前提、つまり有身見に
基づく思考から導き出される結論であり、断滅論です。
それはブッダによって邪見とされています。

有名大学の名誉教授や教授レベルでも、文献学と思弁のみの方は、はやり
三昧を前提とする認識は丸ごとすっぽり抜け落ちています。

行と学を兼ねている情報源としては、片山一良、渡辺照宏などが挙げられ
ますが、学だけの方は三昧や禅定について言及していても、結局言葉だけ
になっているし、三昧の境地もフィクションの創作物語だと思っているのでは
ないでしょうか。

現実だと思っていない、普遍的な真理だとは理解していないからこそ、時代
によって自由に解釈していいと思えるわけですから。

446 :
自我はもともと生じては滅するものです。
いまこの瞬間も滅しています。

しかしその自我を生みだしているものは、自我が滅したあとも、また
新たに生みだしているわけです。
自我を自分だと思っている視点では、ここが盲点になって見えないので、
自我が輪廻について頭で概念的に考えても、実態がどうなっているのか
分かるわけではないのです。

447 :
>>418
まず五蘊の内、色蘊を除いたものが名色の名で心にあたりますが、テーラワーダではそれを分別すると受想行が心の働きである心所で識が心となります。
識は意と同じですから(意識)、識=意=心です。

ではその識=意=心の対象は何かというと、一切経において釈迦が意と法と言ったように法であり、ここでの法は一切法であるというのがテーラワーダの解釈です(説一切有部なども同様)。
つまり、有為法、無為法全ての法が意の対象です。
ここでテーラワーダのアビダンマを見ると、

法所縁とは 、浄色 、細色 、心 、心所 、涅槃 、施設という 6種類にまとめられます 。

とあります。
所縁とは客体・対象のことで意=心の門の所縁は法(法所縁)であり、その意門の法所縁とは浄色 、細色 、心 、心所 、涅槃 、施設であるということです。

つまり涅槃も意=心の対象ということですが、欲界心の場合は涅槃を対象とする、所縁に取ることはありません。
涅槃を所縁とするのは出世間心です。
https://i.imgur.com/7tCwoLd.jpg
ちなみに世間は人界に止まらず六道の全てを指します。

涅槃では心の作用が働いてないので涅槃は意門の対象にはならないのでは?と思われるかもしれませんが、テーラワーダのアビダンマではそう定義づけられている、と認識してください、、
ちなみに涅槃で心の作用が働いているのかどうかは欲界心しかもたない私には当然のことながら分かりませんw

448 :
>>441
>精神が物質を生みだしているので、物質を生みだしている精神を物質として


>たとえば6つの感官である眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根の六根の所縁は6つの対象である色・声・香・味・触・法の六境である。
>そのような認識対象は部派仏教までは心の外に存在すると考えられた。
http://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%97%E3%82%87%E3%81%88%E3%82%93

精神が物質を生み出すという考えは唯識になって生まれたのではないの?

449 :
>>443
ご指摘ありあとうございます。

自分の処方箋が最高と思うのは、各宗派を教導する側より、信徒さん個人
の見取としてよく見かけます。
今も昔もこれからも、ずっとそうでしょう。

スマナサーラさんについては否定するつもりはありませんし、仏説に忠実で
行学兼ね備えた立派な方だと思っていますが、わたし自身はスマナサーラ
さんとは関係ありませんよ。

450 :
>>448
言語化された説明原理として登場したのが唯識以降なだけで、
釈迦仏の時も、過去仏の時も、未来仏の時も、実相が変わる
わけではないと思いますし、観禅をやってる人はテキストに
書いてないことも知ってたりします。

お分かりでしょうが、テキストが先じゃなくて、観察・洞察が先に
あって、それを説明したものがテキストになっていくわけですし。

451 :
>>449
>自分の処方箋が最高と思うのは、各宗派を教導する側より、信徒さん個人
>の見取としてよく見かけます。
>今も昔もこれからも、ずっとそうでしょう。

そこまで熱心なら日本仏教は形骸化はしてないということになりますね。

452 :
>>450
違います、一切法は外界に存在すると部派仏教のアビダルマに記述されているのです。

453 :
>>452
勝義諦の定義の話ですよね。
確言できませんが、彼岸に渡ったところで無効になるものではないのでしょうか。

454 :
>>451
信じられるなら処方箋として効いているじゃないか、という意味においてはそうですね。

455 :
>>453
話が逸れてますよ。
今は彼岸に渡った話をしているわけではないでしょう。


https://j-theravada.net/dhamma/kantouhouwa/kantou005/
↑を読むと序盤から外界は私から離れたところに存在していると、部派仏教の一つのテーラワーダでも定義しているのが分かるかと思います。
外界は存在するもの、つまり法として実在しているというのが部派仏教の考え方です。
これを我空法有と言います。

456 :
スマナサーラは「仏教は分別だ」と言ってしまう人だからねぇ
あの人がテーラワーダ代表みたいな扱いになってるのは問題だと思うわ

457 :
>>455
繰り返しになりますが、
言語的概念を超えた領域に関する言語的説明の違いは、説明の仕方
のバリエーションに過ぎず、観察によって実相を確かめた段階で説明
原理の違いは無意味になるだろうということで、実践上は何の問題も
ない、というのが現段階の理解です。

458 :
>>447
私も一応アビダルマは読んでますし、その説明は前にも聞きましたので、それはそれでわかるのですが、例えばウ・ジョーティカ師の自由への旅(無料版)
http://myanmarbuddhism.info/wp-content/uploads/sites/2/2013/09/amapofthejourney.pdf
p208の第十三の洞察智の項目でも
「涅槃の状態に入った時、あなたはもはやそれを観察していない。観察が可能であるためには、あなたはその外側にいなければなりませんから。
だから瞑想者がこの涅槃の状態にあるときには、その人はもう涅槃を観察することはできません、自信の精神的な状態を観察することすらできないのです。〜後略」
とあります
またマハーシ長老の本でもそのような記述があると思います

その点からいって、意によって涅槃が知覚されるというのは、涅槃の定義による(涅槃を涅槃そのものではなく涅槃によっての静寂の状態を指す涅槃)もの、
あるいは、涅槃を出た状態から意によって涅槃を思うことができるという意味ではないかというのが個人的な見解です
自由の旅の後述の部分ややマハーシ長老の本でも涅槃を出てから涅槃を思い返すという記述があります

ただ別にあなたの記述(テーラワーダのアビダルマ)に問題があると言いたいわけではありません
しかし意によって涅槃が知覚されるというのは言語による記述としても少し定義しすぎ(部分的)な気がします

459 :
一体だから観察もできない、ということなんでしょうかね。
まったく想像がつきません。
面白い。
まさに摩訶不思議。

460 :
横レスですが

>>457
そうです
輪廻もまた言語的概念の領域内ですから、本質的なものではありません

461 :
いまこの瞬間の自我の生滅も輪廻ですが、これは言語的概念でしょうか。

462 :
もちろん

463 :
>>457
それは大乗仏教的理解。
部派仏教では外界に存在するものを分別して分別してこれ以上分別しきれないものを真に実在するものとして勝義諦としています。
その真に実在するものを法と称し、法には自性があるのできっちりと施説であり世俗諦である言語でも説明ができるという性質があります。
繰り返しますが部派仏教は法空ではありません、法には自性があり実在しているという法有です。

物質は精神から生まれるというのは唯識ではその通りですが、少なくとも部派仏教の教えではありません。
精神から離れたところに物質も含む外界は存在しています。
実践でも外界は心が生み出した世界で空と取るか外界は実在するものでそれとの接触で心が動くのを観察するのかでは違ってくるし、出る答えもまた違ってくると思います。
現にスマナサーラは唯識を批判しています。彼は外界を作り出す根本識を認めません。

464 :
>>458
「比丘たちよ、『生じたもの』でなく『成ったもの』でなく『作り為されたもの』でなく『形成されたもの(有為)』でないもの(涅槃)は存在する。
比丘たちよ、もし、その、『生じたもの』でなく『成ったもの』でなく『作り為されたもの』でなく『形成されたもの』でないもの(涅槃)が有ることなくあったなら、
ここに、『生じたもの』『成ったもの』『作り為されたもの』『形成されたもの』からの出離は覚知されないであろう。
比丘たちよ、しかしながら、まさに、『生じたもの』でなく『成ったもの』でなく『作り為されたもの』でなく『形成されたもの』でないもの(涅槃)が存在することから、
それゆえに、『生じたもの』『成ったもの』『作り為されたもの』『形成されたもの』からの出離が覚知される」
(ウダーナ)

さて、何で涅槃は生じたものでも成ったものでも作り出されたものでも形成されたものでもない、とそれまで具体的に語ることができるのでしょう?

465 :
識が物質を作らずとも、物質とおもえる存在ができ区別つかなければ一緒
空などからしても根本的存在はなくていいだろ
認識だけでいいだろ

466 :
やはり単に説明原理の違いでしかないと思うのですが。
初期仏教を説一切有部と混同して、決め打ちで批判のための批判をしている
ように見えてしまいます。

初期仏教は小乗ではありませんし、わたしは大乗批判をするつもりはありません。
形骸化は指摘された方が有益だと思いますけどね。

467 :
>>464
あくまで個人的な見解ですがそれは主客というこれまで知覚形成されていた一切が消えたからでしょう
消えた状態を対象として記述したのではなく、消えたということからそのように記述されるということです
消えたということを言葉で具体的に表すとそのような記述になると思います
仏陀も涅槃を火が吹き消されたという表現をしてると思います

468 :
仏陀はバラモン教を否定しようとしているのではなく
生老病死の苦から逃れる事を探求してバラモン教の世界を肯定しながら超克したのですね

バラモン教でなくとも共産主義でもファシズムやナチズムでも、モダニズムでもポストモダニズムでも
何でも同じことです
みんなが信じ、自分も信じて暮らしてきた世界観、死生観を肯定しつつ、
その概念の世界を飛び出るということですよ

それを解脱と呼ぶのかなんと呼ぶのかは全くどうでもいい
肯定的に外に出てしまい、苦から逃れるということが本質です

日本人で輪廻なんか信じずに生まれ育ってきて、修行だということで
輪廻を信じこんで、その輪廻を超えると言っても
おもちゃの小屋を自分で作って、それを壊して、作り主を見つけたと言ってるようなものです
ママゴトです

469 :
もちろんスマナサーラさんやテーラワーダ国の人にとっては輪廻は信じて生きてきている
だから日本人が修行ということで輪廻を信じ込むのとは事情は異なります

470 :
>>468
つまり、弁証法的な発展のことを解脱と定義しているのですね。
弁証法的に発展した状態は有為でしょうか、無為でしょうか。

471 :
頭で考えて生みだした輪廻転生という妄想イメージのことを言っているなら、
妄想が妄想に過ぎないと言っているだけのことでしかありません。

472 :
そういうわけなので、行学兼ねることが大変重要となります。

473 :
>>470
いいえ

474 :
仏陀は永遠の昔からいて、誰でも仏陀になれるなら、論理的に誰でも永遠の昔からいたことになるが
もし1億年後に仏陀になったら、そこから永遠にさかのぼっても仏陀のままということになるが
もともと仏陀だったが自覚していなかっただけか?

久遠実成 くおんじつじょう

ブリタニカ国際大百科事典
仏教用語。仏教では種々の教えを説くが,それは,歴史上の人物で肉身をそなえた釈尊が説いたものではなく,
時間,空間を超越した絶対的真理の表われにほかならず,釈迦牟尼は,はるかの昔に悟りを開き,人々を教化し続けているのだとする思想。


デジタル大辞泉
仏語。法華経思想の一。釈迦仏がこの世に生まれたのは仮の姿にすぎず、永遠の昔に悟りを開き成仏して限りない時間を人々の教化に尽くしてきたと説くもの。
https://kotobank.jp/word/%E4%B9%85%E9%81%A0%E5%AE%9F%E6%88%90-54994

475 :
現代人は科学的なつもりだけど、物質しか理解していないので、
心についてはかなり勘違いしている。
控えめに言っても、ひどい迷信を信仰している。

476 :
まず、解脱ということを私は説いてません
なんと呼ぼうがどうでも良い
仏陀は「四諦についてのみ語ってる」とおっしゃる
苦が滅するかどうか、全てそこにかかっているのですよ
そこが抜けたら空論、戯論です

「客観的」には弁証法的な解決に見えるでしょうが、有為の思索ではないので等価ではありません
という意味でも「いいえ」です
弁証法においては善悪、正悪などの物差しによって結論の正否を下すと思いますが
そういうことは仮定しないと先程言ったところですね

なので何故そんな問いが出てくるのか非常〜に不思議なのですが?

477 :
>>476
四諦で合ってると思います。

ちなみに、道諦が八正道のことですが、
悟る前と悟った後とでは、正見の中身、見解は変わっているはずだと推測します。
自己や世界に関する見解のことです。

478 :
涅槃経の「草木国土悉皆成仏」を認めると苦からの解脱という教えは間違ってないか
草、木、国も解脱するぞ解脱するぞとおもってるのか

479 :
認識主体が何にでも仏性を見通す状態なら、何を見ても仏性の現れにみえる
ということじゃないかと思ってますけど(推測)。

諸現象=認識主体×認識対象×その関わり方

こういう式に分解すると、認識主体の状態と、関わり方が違うってことじゃないかな。
分かりませんですけど。

仏説じゃないですよね。
禅語?

480 :
>>478
見落としていました。
大乗の涅槃経ですか。

481 :
>>466
>やはり単に説明原理の違いでしかないと思うのですが。

★部派仏教…一切法は外界に実在する

★唯識…一切法は外界に実在せず根本の識に基づいた作用によって表わし出されたものである。

説明原理の違いではなく原理そのものが違います。
言い換えれば外界への根本的な認識が違うのです。

それと私は初期仏教の事はこのやりとりでは語ってないですし、説一切有部も限定しては語っていません。
部派仏教と唯識しか語ってない。
そしてあなたがいう物質は精神から生まれるというのは唯識では正しいでしょうが、仏教はそれだけではありませんよと言っているというわけです。

482 :
教学的には重要な違いですね。
しかし、観察している人にとっては、どこに何が書かれてるかなんて、直接的には
関係ないというか、二次的なことなのでは。

期待する答えにはなってないと思いますが、まず実践で観察して、観測が正しく
行われたかどうか、後からテキストで確認という流れじゃないかと思います。

483 :
感覚の内のいくつかは、「知覚する」という感覚側→意識側への働きかけと
「どこから知覚しているか」「どのように知覚しているか」という意識側→(仮想的な)感覚側への働きかけがあると思う
これを「観る」という言葉で表している
これは双方向的な感覚だと言える

心の中で起こる感覚、「欲望を感じる」「怒りを感じる」などは、瞑想などをやらない人にはどこから知覚がやって来るのか分からない
単方向の感覚と言える
これらは修行することによって、双方向の感覚にすることができる

「渇愛」「涅槃」などについてはどうだろうか?
解脱者は、渇愛については双方向化ができており、それに意識を乱されることはなくなる(と思う)
「どこから」「どのようにして」やって来るのかを理解しているから

しかし、涅槃についてはこのような双方向化がそもそもできるのか?
解脱者はこれを言語化できないだけなのか、それとも双方向化ができない(「観る」ことができるようになれない)のか?

484 :
あると見れば(視点がその視点なら)あるし、
ないと見れば(視点がその視座に移れば)ない、ってじゃないのかな。

485 :
>>467
>消えたということを言葉で具体的に表すとそのような記述になると思います

本当に消えたのなら何も言葉では書けないですよ。
全身麻酔から覚めた時にあるのは全身麻酔で眠る直前の記憶だけです。
あるいは宇宙と一体化すれば主客は消えるのかもしれませんが、それは梵我一如であって涅槃ではありません。

>仏陀も涅槃を火が吹き消されたという表現をしてると思います

火というのは煩悩や三毒のことですよ。

486 :
>>482
その実践で観察した結果が、部派仏教の観行での分析と唯識瑜伽行で見つけたもので違ってるから教学も違ってくると思うのですが。
どちらも頭でこねくり回して立てた教学ではないはずです。
もちろん、事前にそういうものがあると信じてから行ずれば信じるものによって見えてくるものも違ってくるとは思いますが。

487 :
>>485
私も経典も読みますし自分で実践もしておりますのでそれに同意はできないのですが、
あなたの解釈はそうなんでしょうし、私の個人的な解釈は必要十分なだけ述べたつもりですので、堂々巡りしても仕方ないですしこれ以上とくに言うことはありません
ありがとうございました

488 :
三昧未経験の人に説明する場合に適した言い方と、
三昧経験者じゃないと意味不明で、誤解されてかえって危ない説明の仕方とがあると
思っていて、唯識なんかは三昧経験者向けの説明なのではないかと感じたり。

一方、表向きに説明していないからといって、内部で実践している人々、特に三昧
より先の段階に進んでいる人々は、どうやら知っているような印象なんですね。
上座部の出家僧にそんなイメージない人が多いかもしれませんが、唯識で言われ
ているようなことを、普通に観てるのではないかな。

489 :
>>477
これは困ったなw

まず、瞑想して苦が滅するまで八正道という言葉すら知らなかったのと
悟ったという自己認識はないし、認められようとも思わない
あくまで菩薩です、観自在菩薩です

しかし般若心経こそ正見だということは今では確信している
悟らなくとも、あるがままに苦しみ無く苦を観る時に苦は滅する
輪廻など仮説に過ぎないこともよくわかる

なので最初に不断煩悩得涅槃ということでリンクを張ったのですが…
全くそこに書いてあるとおりでしょう

490 :
>>489
うかつに触れないので、仏説に準拠します。

491 :
>>490
菩薩である維摩、観自在菩薩は舎利子に智慧について説いてます

492 :
正見の定義、邪見の定義を確認して頂ければ、自ずと答えは出ると思います。
業自性正見、十事正見と五邪見です。

ところで、輪廻を思考で無効化して解脱に達する聖者の皆様は、維摩経に限らず
大乗経典の記述そのものを恣意的に読み替えて解釈していませんか?
維摩居士自身が輪廻してきたって維摩経に書いてありますよね。

493 :
三昧未経験で、輪廻はオカルト、フィクションだと言うのは、現代人向けに
たとえるなら、量子論を知らない人が、量子力学はオカルトだ、フィクション
だと言ってるのと同じようなものです。

基本的に物証はないわけですから、唯物論信仰が根強い現代においては
表だって明言することを控えるケースが多いものの、真相はそうです。

悟っていない人が、悟った人の話を間違い扱いしてしまっている。
その結果、瞑想と般若の智慧を土台とした精神文化は失われ、形骸化して
きたというのが実状と言えるでしょう。

494 :
>>493
いつ輪廻を間違い扱いしましたか?
妄想強くないですか?

495 :
少なくともテーラワーダ国の凡夫にとっては輪廻は真実としてある
瞑想で見て行った時にそれが輪廻だと言われればそう見える現象がある
そこまでは正しいしそう捉えればいいでしょう
彼らにとっては動かしがたい死生観ですから

しかし、それは真理そのものではないですよ、と言ってる
輪廻に見えるそれを滅し、苦から逃れられる、というのが真理です

496 :
>>494
主に >>433>>468 です。

しかし、これらの意見は本来的には日本の精神文化の現状に対するもの
であって、ID: mDpwJ61f さん個人を責めるつもりはありません。

497 :
輪廻ない派の学者さんの本を読んでいると、
大乗経典に書いてある三昧や輪廻、三界の記述が
ぜんぶ無かったことになってるのが凄いと思います。

印刷された文字としては書かれていても、内容理解的には完全スルー、
ぜんぶフィクション扱いですからね。

空の思想だけがなんとか生き延びた。
知識と思考だけで頭の中に悟りをシミュレーションできるから、そこは
皆さんやるんですよ。
でも、それじゃただの哲学ですから。

498 :
>>496
いいえ、私は日本の大乗なんか知ったこっちゃありません

生きている思考や感情の輪廻はありますよ
そこから抜け出すのがマインドフルネスです
しかし、それが生まれ変わりに関わるというのはバラモン教の世界に生まれた人向けの方便ですね

たとえそれが真実だったとしても、真理とは関係ないですw

499 :
仏陀が説いたことは理論では当然ないので
学者の言うことも知ろうと思いません

非常に、藁人形を打たれてる感じがするので止めますか

500 :
時代や地域、宗教の違いによって異なるものを、普遍的真理と言うでしょうか。

宗教の違いによって異なるのは説明原理と実践形式であって、もし本当に
輪廻転生があるのなら、キリスト教徒も無宗教の人も輪廻転生していないと
おかしい。

そういう証言があらゆる時代の世界中にあるのに、そのすべて無視して
いませんか。

501 :
>>499
わたしが兼ねてからお伝えしたいと思っていたことは充分書けました。
お話を聞いて下さって、どうもありがとうございます。

502 :
以上、昼間から長文を連続してレスするニートの戯論でしたとさ。

503 :
そんなことしている暇があるなら就職して働けよw
そのスマホ代は親に払ってもらってるのか?
だとしたら情けないぞ

504 :
マインドフルネスもいいが
たまに慈悲の瞑想もするといい
愚者や弱者を許していくことで
己の至らなさも受容できるようになり
情緒がより安定化するから

505 :
>>502-503
若い時にビジネスオーナーになりました。
お金に困ったことはありませんし、これからもありません。
仕事と収入に関しても、みなさん常識的に考えすぎだと思います。

506 :
「こうであるに違いない(そうに決まってる)」とか、
「こうでなければいけない」といった先入観よりも、
「こうありたい」、「自分にもできる」という考えの方を
意識的に選択していくと、結果的にそのようになります。

先入観で反射的に反応している自分に気づくことができれば、
反応を選ぶこともできるようになります。

507 :
>>505
ビジネスオーナーとかやってて、なぜマインドフルネスに興味を持ったのか分からないが
預流果になると、嘘がつけなくなるよ。大丈夫なの?

508 :
嘘草w

509 :
マインドフルネスが大乗なら、健康で裕福な暮らしと瞑想が両立する
パラダイム(ものの見方、見通し、思考の枠組み)を持っていないと
それこそ辛いんじゃないですか。

健康で裕福な暮らしをしつつ、マインドフルに生きる。
健康で裕福な暮らしはできないが、マインドフルに生きる。
健康で裕福な暮らしはできるが、マインドフルには生きられない。
健康で裕福な暮らしはできないし、マインドフルには生きられない。

思い込みが自分自身の在り方に制限をかけているだけで、
どのパラダイムを選択するかの違いでしかありませんよね。
本当は自由に選べるわけですから。

510 :
マインドフルネスは全然大乗じゃないと思う。禅から派生したとかいう人もいるけど、
どっちかと言うと、テーラワーダの伝統から抜き出した瞑想方法だと思う。

思い込みでなんとかなる次元ではないものって世の中にたくさんあるよ?

511 :
原因があって結果があるということと、その原因は身口意の三つであるから
三つに気づきを保つ必要があります。
これは思い込みではなく因果律、自然の摂理であり、むしろそれが現実でしょう。

512 :
コントロールできる部分と出来ない部分あるんじゃない?例えば、生まれつき身体障害の人に
自分でパラダイムを選ぶことが出来るよ?といっても、難しいよ。

513 :
できます。

514 :
生きている以上、誰もが身口意を持っています。
それさえあれば、すべてを持っているのと同じです。
誰であれ、すべての人ができます。

515 :
出来るんなら、そのパラダイムを選ぶ方法を身体障害者に人に教えてあげてください。
貧乏で恵まれない人に裕福な暮らしをする術を教えてあげてください。

それを実行してから掲示板に書き込んでください。

516 :
コントロールするってのは自力ってことか

517 :
2ちゃんに朝から晩まで張り付いてレスをする身口意の業はどんなものなんだろう?

518 :
>>510
マインドフルネスをいい出したのはベトナムの禅僧ティク・ナット・ハン
テーラワーダの世界観でのヴィパッサナーやサティならこんなに世界に
広まることはなかったよ

519 :
瞑想を三年続けてて今瞑想5時間続ぶっ続けで悟ったんだけど
http://matometanews.com/archives/1950031.html


瞑想を習慣にしてる奴wwwwww
http://blog.livedoor.jp/diet2channel/archives/55160440.html

520 :
内容ではなく人格攻撃に転じるのも反射的な反応でしょう。

521 :
>>515
人にはみんな役回りがありますから、他人が何をするべきかを指図することはできないんですよ。
「〜べき」を強要できると思っているから、その考え方が自分自身を縛るのではありませんか。

522 :
>>521
方法は、煎じ詰めると信じることです。
何も信じないことが理性的で科学的な態度だ、というような現代社会の風潮は嘘。
世にもっとも蔓延している迷信です。

523 :
目標達成のためのコーチングと言えば受け容れやすかったりするのかも知れないが、
結局それも、自分にはできるのだという確信を持つことなので、本質的に同じだと思います。

理想はあるが、でも自分にはできないと思っているなら、自分にはできないという信念
が実現しているということ。
目標達成の科学とか、成功哲学とか、名前や語り口は違っていても、元ネタは実は宗教
から来てる。

524 :
同じじゃないとおもう
中には成功するのはいるとおもうが
信仰に生きてももともと成功とは関係ないでしょ

仏教の坊さんにしても、本来、釈迦の時代とかは
布教、説法したら、食物とか寺院とかお布施されやっていけたはず
それが仏教的な成功だったらそれでいいが、なんか違ってる気はする

525 :
「自分が何者であるかを自分で信じて人生を決めよ」
というのは一般的にはまあウケる話だろうが

それは家を作ることであり、苦しみを生み出すことでもある
また決して描いた通りには造られない
似ているが違ったものが出来上がる
世間的に成功したとしても満たされることはないよ
それどころか、後悔すら生じる
一巡りしたから知ってる

526 :
自分のケースは全ての人のケース

527 :
転生者あらわる

528 :
>>525は若い頃にビジネスオーナーになり今はその収入で食っていけるらしい

529 :
皆さんはどんな瞑想をどんな頻度でやってますか?
自分は手動瞑想を一日10分、ボディスキャンを15分くらい
セルフコントロールの力はついたけど、できれば神仏が喜ぶ生活をしたいと思います。

530 :
>>529
>できれば神仏が喜ぶ生活をしたいと思います。

1円でも多くお布施してやれ

531 :
>>528
その人じゃないよw

532 :
心がすべてを作っているという話は、ダンマパダの段階で釈尊の言葉として出てくる。
さらっと書いてあるが、実に深い。
唯識が初出というのは、たぶん勘違い。

533 :
自分を信じるというのは、五根五力の信とおそらく矛盾していない。
自我の外部に信じる対象を持とうと、自分はできると信じようと、信
という心の働きは自己の内に生じているはず。

神道のご神体が鏡であることは、おそらく同様の真理を象徴したもの
だと、個人的には思っている。

それから、この世の福徳が解脱ではないということは、最初から
みんな分かっているという前提。
釈尊の次第説法の前半は天への道。後半は解脱の道(八正道)
と同じ。

534 :
>>532
ダンマパダ
1 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につき従う。
──車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。

おそらくこの詩偈のことを言ってるのだと思うが、中村元が心と訳した箇所の原文はmanoつまり意であり心cittaとはちと異なる。
この詩偈は唯識を説いているのではなく身口意の三業の中では意がまず先にくることを述べているもの。


仏教では身口意の三業で意がもっとも優先されることは、仏陀とジャイナ教徒の問答の中でも説かれている(中部 ウパーリ経)

535 :
>>534
なるほど。
ありがとうございます。

ただ、精神が物質を生みだしているというのが事実と認められたとして、
そのことを釈尊が知らなかったはずはないだろう、という部分に関して、
個人的な仮説は変わりません。

536 :
日本は呪われてる
真敵・職人気質が格差の根元である。
ヤンキー、過激思想、サイコパス等の成れの果てが職人・職人気質です
その職人・職人気質が新たなヤンキー、過激思想、サイコパス等の悪種を生み出すのです。
職人、職人気質が格差をつくり、イジメを生み、犯罪を生み、自殺を生み、戦争を生み、地域振興を阻害し、治安が悪化し国力が低下する。
職人・職人気質はブラック企業擁護論である。
職人気質を廃してこそ日本は平和かつ生産的かつクリエイティブな国家になれるのだ
職人気質は存在自体がパワハラです。緊急事態です。

職人気質は悪しき文化
http://mevius.2ch.sc/test/read.cgi/rail/1573270987/755

eae

537 :
最近観察のおっちゃんこないな
もうマインドフルネスに飽きたのかな

538 :
精神が物質を生み出している

というのはヒンドゥー教ヴェーダーンタ学派の中の不二一元論に近い。
精神をブラフマン(=アートマン)、物質をマーヤに名称を変えれば同じと言っても良いかも。

539 :
>>529
呼吸の観察を4時間 それ以外はずーっと実況中継してるよー 昔みたいに超精密には出来ないけど
立っているとか見ているとか歩いているとかね

540 :
経典を解釈してしっかり仕組みを理解してから悟ろうというのは
全く間違ったアプローチだよ
小池龍之介の失敗を教訓にすべきだ

541 :
小池さんはひたすら瞑想やってておかしくなったのでは

542 :
瞑想しても何か思い描いたものを目指してしまっていたと思うよ
過去に見た妄想の過去世に執着してしまっていたし

543 :
> ひたすら瞑想やってておかしくなった
ということがおかしいと思わないのかなぁ…

544 :
>>529
アナパナを朝晩1時間ずつ
個人的な経験では毎日1時間はしないと何の変化もないと思う
手動瞑想でもアナパナでも

545 :
>>543
小池龍之介の教訓とは何か?

546 :
何でも言葉でわかるように答が得られると思い込んでることじゃないかな
仏典や他人に訊くよりも自分の中深くに答えが眠ってると考えるほうが正解

547 :
で、小池龍之介はどのような経典を読み誰を師として修行していたのか?

548 :
今の話と関係ないので答えようがありませんが
つまり、黙れと言われてるのかな?と思ったり

549 :
では>>540に訊こう。
小池龍之介はどのような経典を読みそれに沿ってどのような修行をして失敗したのか?

550 :
天地自然の神の怒りを買ったとか、あのへんの発言はガチなのかな

551 :
妄想

神田の仏だの精霊だの悪霊だの、そんなの自分も見てるが
全部自分が巧妙に作り出した妄想だよ

552 :
鉛玉が入ったみたいになって苦しくて瞑想できなくなったと告白していた
告白するだけ良いけれど
けれどそれは元々瞑想になっていないということだから

それから何が間違っていたかわかったわけでもなさそうなのに
弟子取ってるよね
駄目だろそれは

553 :
間違いをみとめた小池さんえらい、みたいな意見がツイッターにあふれてたな
永井均って哲学者が解脱なんかよりよっぽどえらいとか

えらいえらくないの問題じゃないだろう

554 :
心の状態が良くなっていったように見えたから悟りに向かってると勘違いしてしまったけど
単なる心の状態の変化に過ぎなかったってだけだろう
解脱は心から離れることであって、心の中で状態が変化することじゃない
心から離れて観察することであって、心の中で心を観察してると心によって思うことじゃない

555 :
コイケってはじめてしったけど
仏教に飲み込まれた、かってに自己洗脳やってる印象だぞ
魔境とか言ってるが
まだ麻原を信仰して修行やってた信者のほうが訓練的にはましだったかと

556 :
カルト教団を一人でやってるみたいな
失敗からの解脱というストーリーを描いて
そのための前振りだったら面白いが
意識的、念入りにそういう計画はないにしても
無意識か、未来には解脱しましたとか言ってきそう

557 :
人間は悟れなさを体験しに
わざわざ現世に来たんです
煩悩に縛られて
不自由に生きましょう

558 :
どこから現世に来たの?

559 :
>>540の言い分はわかるぞ
経典よんでも実際には完全把握は無理だから実践すべきということだろ
妄想、知識を膨くらませ妄信に陥るという
経典すべて理解しないといけないとなると
宗派いらないし、各宗派では悟りや高僧でてこないだろ

560 :
んで小池はひたすら実践しておかしくなった

561 :
教理と実践は車輪の両輪でどちらか一つが欠けては駄目と密教でも言われているのを知らないのかな?

562 :
実践重視=まともそうな伝統宗派へ入信ってことだ
そしたら知識がつく前からやる事、カリキュラムがあって実践できる
自己流で知識を蓄えた結果、一人カルト教団みたいになったんだろ

563 :
たとえば宗教と無関係に、マインドフルネスやってて、宗教知識がもともと皆無だったら
マインドフルネスやって神仏へ解脱したと盲信はしないだろ

564 :
小池さんて人は
そんなに狂った人なんですか?

565 :
>>553
認めなかったら麻原と同じだからねw
内心「よく踏みとどまったねヨシヨシ」程度の意味で言ってる人も多いだろうと思う
子供だもん、あの子

>>560
野狐禅の実践だな

566 :
小池龍之介は浄土真宗の僧籍でありながら阿弥陀仏の本願を信じきれず自力で修行しようとしたから上手くいかなかった


> 無駄なエネルギーを使わず、逆にためることができるのが、座禅、瞑想だという。
>自分自身を客観的にとらえ、自分の考えから離れると、楽になって相手と争わなくて済む−。

> 「このことがわかったのは、29歳のときでした。
>仏教カフェを閉め、1年半、タイや京都などに座禅、瞑想の修行の旅に出て、自分の愚かさに気づかされた」
https://www.zakzak.co.jp/lif/amp/170330/lif1703300009-a.html

これが余計だった。
最後まで阿弥陀仏の本願を信じて只管に念仏していれば良かったものを、、

567 :
浄土真宗の坊さんがヴィパッサナーやっちゃいけないの?と嘯いていたが
悪人正機しなかったのだから、浄土真宗の理解も出来てなかったということだ
ヴィパッサナーも出来てないよ

568 :
考えない練習
やっかいな人を自分のお城に入れない方法
脳に振り回されない生活
煩悩フリーの働き方
苦しまない練習
解脱寸前 究極の悟りへの道
超訳 ブッダの言葉
偽善入門
もう、怒らない
「自分」を浄化する坐禅入門
自分に気づく仏教の学校
しない生活 煩悩を静める108のお稽古
沈黙入門
坊主失格
「我」を張らない人づきあい仏教対人心理学読本
“ありのまま“の自分に気づく
自然と心が整う法則
いま死んでもいいように執着を手放す36の智慧
平常心のレッスン
「自分」から自由になる沈黙入門
小池龍之介さん、煩悩ってどうすればいいんですか?
貧乏入門
こだわらない練習「それ、どうでもいい」という過ごし方
運命とうまく付き合うレッスン
煩悩リセット稽古帳
お坊さんが教えるイヤな自分とサヨナラする方法
「すべき!」を捨てる:インド瞑想紀行
幸せの波動(僧侶と科学者が探る「愛のエネルギー」の高め方)
さみしさサヨナラ会議
311後の世界の心の守り方「非現実」から「現実」へ
恋愛成就寺
おじさん仏教
脳の決まりの壊し方
『菜根譚』から始める繋がらない関係 世間に染まらず、世間を生き抜く
いま、死んでもいいように
そこには、いないよ
もやもやスッキリ絵巻
読むうちに悩みが空っぽになる「人生相談」


よくもこんなことをw

569 :
自分なら全て絶版にして、誰か先生について一からやり直すなぁ

570 :
全部出版社が悪いのよ
龍之介ちゃんは悪くないのよ、そうよ

571 :
>>569

>>546
>仏典や他人に訊くよりも自分の中深くに答えが眠ってると考えるほうが正解

先生は要らないってさ

572 :
ここで人の悪口を言うのは楽しいねぇ
どんどん悪口を言いましょう
どんどん心を汚しましょう

573 :
「考えない練習」は読んだあと気が楽になった
内容は全く思い出せないけどw

574 :
>>571
他人が善知識の人なら全く別

575 :
>>568
たぶんあたまの良い人にはこれだけの本を出すことができるってことだろう
出版社だって儲かるからね

逆に言うと、一切本を書かない、ネットでも公共の場でも発信せず、世の中に知られても
いない人のなかで、高い境地の人もたくさんいるかも知れないね

知名度と境地は相関関係はあってもイコールではないからね。特にこういう世界では

576 :
自分は小池さんの本はちょっとよんで怖くなって閉じた
エキセントリックさが不自然に感じた
表紙の写真がカメラを意識したポーズが強いと思った

それでもロジック的にはうなづけるところがあるからこれだけ本が売れたんだろう
だけど仏教っていうのは論文能力とは別の基準が軸になっているんだろうし

577 :
著名人のアンチスレを見ると「うわあ」って気持ちになるけど今まさにそんな感じです。
こいつは俺より下手だなと思ったらそいつはお前と大体同じくらい。こいつは俺と同じくらいだなと思ったらそいつはお前よりも上。こいつは俺より上手いなと思ったらそいつはお前の遥か先を行っている。
どうせなんだし今年読んで良かった本とか今年のきづき、来年の抱負とかポジティブな話しません?
私は断然『アイデアの作り方』って本が良かったです。もう30年位前の本なんですけどね、だから近年の発想法みたいな本には大抵そのような内容が書いてあるんですけど、逆に言えばすべての大元になるレベルの名著ですね。
1時間程度で読み終わるし何回も読み返したいです。

578 :
>>574
いや、善知識の人に聞くよりも自分の中深くに答えが眠ってると信じて小池龍之介は瞑想していたんでしょ?
その小池龍之介の考えは間違いだったのか否かという話なんだけどな

579 :
>>575
全くその通りだと思う
世俗的な意味では頭のいい人だと思う

580 :
>>578
瞑想になっていたら出ない質問だな

581 :
喧嘩のためではない
一人でもインチキに引っかからないことを願ってレスをしているよ

582 :
>>580
その瞑想になっているかどうかを誰に訊くの?
仏典や他人でしょうに、違う?

583 :
小池龍之介に訊いてもわからないなw

584 :
小池龍之介に親でも殺されたのかね?

585 :
>>583
だろう

だから
>>546
のレスもインチキな
このレスに引っかかってはダメよ>ALL

586 :
>>584
>>581
悪口のためでもない

587 :
瞑想に合う合わないはある。
月読寺の頃からその内部スタッフからも不調をきたした人が続出しているとのKはあった。
問題はそのフォロー。
やめなさいと指導者として言える度量がない。
別を紹介することも
これを超えれば、そういう苦しい時期は瞑想には必然とか

そういうのが一挙に自分に返って来たというだけ話。

588 :
むしろ、小池くんがこのスレ見て改心してくれたらどんなに嬉しいことか

589 :
>>587
自分のように思慮の足りない愚か者でも、半端者が瞑想指導したら
そうなってしまうことは容易に想像できるんだよなぁ
小池くんは仏教とは全然別の方向を向いて坐ってるとしか思えないね

590 :
>>585
違うね、小池は善知識の人ではないから

591 :
どうでもいいけどそれほど小池龍之介が気になるのなら本人に直接言えばいい
ここは完全にスレ違いではないかもしれないが小池龍之介のスレではない

592 :
>>590
じゃあ小池以外の人はみな善知識なのかよ?
少しは頭使って考えろや

593 :
小池くんの本よりもこのスレの方がはるかにためになるからねw
名乗りではしないが善知識の人は居るし、内心とても感謝してる

594 :
このスレは平日の日中からレスを連投するニートがはびこっていたりするからためにはならんよw

595 :
悟りを『アイデアのつくり方』で言うアイデア(発見・発明)と位置付けるならば、ブンシャカムニムニが瞑想中に悟った事も当たり前じゃないかと。むしろ道元さんや達磨さんも悟ってるのかも。
『アイデアのつくり方』は広告のアイデアについて書かれた本なんですけどね、このプロセスが他のアイデアにも応用できるよねって言われてる名著です。
で、何故それがブンシャカムニムニとか悟りに結び付くのか?って話ですけどね...その『アイデアのつくり方』の主要5ステップを説明しましょう。
まずは情報収集です。兎に角半端ない量の情報を集めるんです。
で、次が咀嚼、吟味して理解する事です。片時も忘れない事。
そして次の段階で手放す事、一旦忘れるんです。まあ、脳が情報を勝手にああだこうだする段階で現代的に言えばデフォルトモードネットワーク?
ここまで来れば後は「カレイいた!」じゃなくて「ヒラメいた!」ですよ。
ただ、実はそのアイデアがそれほど素晴らしい物じゃなかった可能性も高いと著者は書いてますね。
何故この方法を公開したのか?それはどうせ教えてもできる人少ないだろ?って理由らしいです。本当にそうでしょうね。
情報収集・咀嚼も大変ですけどそこまでは専門かはほぼ全員できてるでしょう。つまり難しいのは手放す段階、それを深いレベルでできる人って少ないような。

https://youtu.be/CQwW64upFhc

596 :
マインドフルネス系のスレで一日中連投し続ける人ってかなり前からいるけど、同じ人なのかな

597 :
連投すると何ナノ?

598 :
>>595
ええっと、そんな本読んでないけれどそれで食ってますw

599 :
同じ人なのかなと疑問を呈してるだけですよ

600 :
連投する人はまず1レスで話をまとめられない人物と他の人から思われるようになる(同じ理由で長文をダラダラ書く人も話をまとめられない人と見做される)。

次に2ちゃんねる時代から連投する人はスレの空気が読めない人物と見做されてウザがられる。

以上は会議や式典の挨拶などでも話が長い人が嫌われるのとまあ同じようなもん。

第三に平日の真昼間から一日中連投するような人は社会の底辺のニートと見做される。
2ちゃんねらーは基本暇人の集まりではあるがしかしニートには厳しいカス扱いされるぞw

そんな輩のレスが真剣に読んでもらえるはずがなかろう、時間の無駄だからね。

但し、そんな輩も暇だから連投するのであって勝手にすれば良い、嫌われるのも相手にされないのも気にしてないだろうし。

601 :
そう思われるのが嫌なわけだね
顔も見えない文字列同士なのに恥ずかしがり屋さんなんだなw

602 :
連投がどうのこそすれ違いってきがするけどな
あと>>596
おまえ前からくだらない動画貼ってるけどそれ何の関係アルノ?

603 :
脳に主導権を渡すとロクな事ない
https://higs.ti-da.net/e11383491.html

604 :
>>600
ということは、ID:QTSd8JUC さんですか?

605 :
>>600
おそらく、社会通念に従って行動すると、その成果は平均的なものになる。

606 :
こんなスレでアホみたいに連投してる奴って実際には瞑想してないなんちゃって瞑想評論家みたいなもんだろ?

607 :
>>606
だろうね。
体験談とから一切書かないもんな。

608 :
瞑想して特殊な精神状態を経験して、それを誰かしら高僧の話と一致させて
すっかり瞑想マスターな気分でいるんす

609 :
それは変な人だね
みんな仏なのに

610 :
経典をお勉強しすぎてしまうと
「正しい見解はこうなんだ」という自分の思い込みを強化して
そこに執着生むからね
自分の解釈した経典の姿に執着してしまうと、元の経典が間違ってても正しくても
瞑想は進まなくなる
日本仏教の形骸化がーといってる人がそれに陥ってしまったら同じ穴のムジナだ
そうなってはいけないから知識は全部捨てて座らないと
むしろ知識を捨てるために座る

レス読んでないから誰がそうだという話ではないよ
自分自身はそう考えるし気をつけてるということ

611 :
頭の中の知識はどんな知識であれただの観察の対象に過ぎないからな

612 :
山折さんの本に日本の仏教は無心を重視しすぎているって書かれていた。
特に知識がないので、ふーん、そうかと思った。
無心というのもいろいろで難しい。

613 :
無心、嘘臭い
むしろ、無心がマインドフルネスとしてアップルの創業者とかの影響で逆輸入されてきた感じでは

614 :
マインドフルネスが流行るまで、坊さんも、素人も無心ってアニメや漫画の世界の話だと認識してた感じだったかと
無心になろうと日本人が修行しようとしてた感じではなかったとおもうぞ

615 :
日本の仏教のいうところの無心と神道の清らかな心というのが結びついて、無心の状態が清らかさと通じて、とかなんとか。

616 :
>>610
そこまで説明が必要な瞑想の仕方も
もはや知識ではないのか

617 :
重視は葬式仏教で、瞑想、無心、マインドフルネスが儲けになると坊さんも参入してきたのは最近かと

618 :
瞑想を通して「無心」になるというのとは違って
日本人の思考回路に、なにかこう「何も考えないこと」をよしとするような。そういった無心感というかな。

619 :
むかし日本で禅や座禅ブームがあったでしょう
宮本武蔵のような剣豪の禅的境地も流行ってた
それから禅師が海外に派遣され海外でもzenブームが起きた
そのころの本には無心的なことはよく書いてある

620 :
文字でのやりとりだから「無心」とかなんとか概念化しないと話は通じないから
そうするのはわかるけど…そこに囚われたら話は空転する

無心、無我、自我、ふくめて何かの概念について頭に浮かべながら
呼吸が見られますか?
実際のところ見られないでしょう

621 :
「禅(ZEN)」に対するイメージ 外国人と日本人ではこんなに違う

最近は企業研修や坐禅会でも外国人の参加者が増えてきました。

「禅(ZEN)に対する皆さんのイメージを聞かせてください」

外国人のZENに対するイメージはこうです。
「calm(穏やか)」「relax(リラックス)」「Harmony(調和)」


一方、日本人の禅に対するイメージはこんな感じです。
「修行」「足が痛い」「無」「バシッ→警策で肩を叩かれるイメージ(笑)」

まあ完全に真逆と言ってもいいですよね。
影響もあって心を調える、というイメージが浸透しているようです。
さてさて、それではこの全く違うイメージ。
いったいどちらが正しいのでしょうか?
http://www.shimars.co.jp/blog/201611_zen.html

622 :
体験がないと分からないことを書いてあるのに、体験談を書けというのは
やはり内容が読めていないからじゃないのか。
気にくわないところに、自分が超えるべき盲点がある。
自我というのは、とかく他人からとやかく言われるのを嫌がるものだから、
自分で気づかないといけない。
だから大抵の場合、人は黙っている。

623 :
自分が体験しないと分からない事があるのも事実だけど
言ってる内容が単なる知識の受け売りや経典・書籍のコピペ、説得力のない信念の開示になってて、
現実に対峙した自分の言葉で表現できるギリギリの言葉ではない、己がどうだったのかさっぱり語らない
そういう発言も多いですよね
まあそういうとこじゃないかと

624 :
具体的にレス番号を指定してくれないと判断しかねる。

625 :
経典の引用を読んで、「これを言った人は悟ってない」って言うような人もいるので
“審判”をしている人自身の判断自体からしてそもそも疑わしい。

626 :
ニートが連投して暇つぶしするスレ

627 :
自己投影でしょう。

628 :
2ちゃんなんか信じなくてよい

629 :
人は自らが思い描くものになる。
2ちゃんなんぞに関わらないでいられる人は、正統なお手本と自分の
思い描く理想だけに専念した方がずっといい。

630 :
>>625
それは同感だけど

>>629
マインドフルネスが本当にわかったならそうなるのは事実だが
完璧にはならないし苦を生むよ
キリスト教が散々横暴を尽くした挙げ句に贖罪意識でしおれてるのは
まさにそれ
(それはキリスト教であれ間違った理解だったから)

じゃあどう生きればいいの?という答えが菩薩行

631 :
ん?ちょっと喩えが変だったかな
間違ってるのにマインドフルネスが本当にわかってる
という論理になっちゃってるから

632 :
マインドフルネス前提でなければ
「一部のクリスチャンたちは神への理解が不十分なまま侵略略奪を行った
そうして思い描いたように征服者になったものの、思うがままにならない苦が生じた」
でいいんじゃないの

633 :
古いキリスト教なんか語って意味あるの?
クリスチャンというのは我を捨ててイエスに従う人たち。

634 :
>>633
キリスト教語ってるわけじゃなくて人間語ってるでしょ

>>632
それだw

635 :
善知識がないまま瞑想すると野狐禅に陥る可能性が高いとされています。
そうならないためにも独学で瞑想するなら経典はしっかり読んでおきましょう。

論書は読まなくてもいいですが、読むのなら阿含経にまあまあ忠実な龍樹の中論がお勧め。
テーラワーダの論書アビダンマッタサンガハはドグマが多く余計な知識を学んで混乱する元になるので、阿含経を読んでれば読む必要はないと思います。
世親が書いた有部の教義をまとめた阿毘達磨倶舎論は、多分相当の気合いがないと読めないでしょう。
唯識ではその世親による唯識三十頌を読むだけでも良いと思います。

曹洞宗の身心脱落で座禅をするなら、道元の正法眼蔵はやはり読んでおいたほうが間違いがない座禅ができると思います。

あと釈迦時代の瞑想での体験の邪見をまとめた梵網経も指針として一通り読むと良いかもしれません。
瞑想での境地で真我や涅槃について得たつもりになってしまうのを釈迦の立場からそれは邪見であると説いている経典です。

「梵網経」(ぼんもうきょう)間違った62の見解 ブッダの教え
https://buddha.pink/buddhism/49/
※このページの最後は「「我・が」のアートマンを否定したブッダの教えだから、無我は正解だね!(笑)」でまとめられていますが、
そうではなく〜〜の境地での我は我ではないと釈迦は説いているだけというのが正解だと思います(我の有無については例の如く言及していない)。

宗教板では昔から瞑想をしてちょっと体験をすると「僕が見つけた真の仏教」を嬉々として書き込む人が絶えません。
で、そういう人は大体は明後日の方向に行くようなので、そうならないためにも月(真理)を指す指(経典等)はおさえておきましょうね。

636 :
ビジネス書を読み漁って仕事が出来る気分に浸っている大学生はとりあえず寝なさい
いや、読書を否定しているのではなく知識との向き合い方を言っているのであり要するに落語でもなんでもいきなり難しいのをやるのは馬鹿げていると、段階を踏むんだ団塊の世代
もう一度言うが読書を否定しているのではなく知識と向き合う知恵がなければ知識に溺れるんでないかい?と言いたい。とりあえず明けましておめでとうございます。

https://youtu.be/IZsXMoq1UnM

637 :
今年もよろしくお願いします

初心者の方向けの話なんですが
瞑想、マインドフルネスの基本として
「観察とラベリングは両立しない」
まずこれをしっかりと確かめて下さい
対象は呼吸、歩行、手動、なんでも良いです
これはどんなメソッドであろうと同じです
苦手とか得意とか好き嫌いの話ではなくこれがマインドフルネスの基本なんです

シンプルなことですが初めてすぐには出来ません
ここをしっかり出来ずに飛ばしてラベリングを始めてしまうと
観察、マインドフルネスがなんなのかよくわからなくなっていきます
高度な観智を得ながらも、苦しみが抜けないという方もいらっしゃいました
本末転倒です
「何らかの真理を得るのだから頑張って頑張って頑張って、
あ、ほらこんなに知覚が歪んだ、凄い!」
それは瞑想ではないです

ラベリングは観察ではありません
ラベリングは主客であり
ラベリングは思い描き、妄想製造作業
だからです
仏陀であれば古代インドで信じられていた文化的に刷り込まれた
死生観と結び付けられた妄想などに沿って法を説かれました
仏陀は相手のどこに執着があるかを見抜かれて、それを説かれたことが多いでしょう
執着の代表的なものが輪廻ということになる

その対機説法を集成し、浅い妄想から順に並べ、その順に「分析、分別」を作り
ラベリングしていくのが分別説部派=いまの自称テーラワーダですね
それは、経典をなるべくつぶさに確かめていこうということではあっても
仏陀が説かれたこととイコールではない
それらからゴテゴテ理論化しても、似て非なるものになる
己の執着から逃れることが出来ればそれで良いのです
比丘になる人以外にとっては遠回りなだけです
目的を間違えてはいけません

要するに、仏陀が説かれたことは
「それらを見た後に捨てなさい」
ということですよ単純なことです
これに尽きます
基本的にはこれを中心線として、そこからどう生きていくかということが
いわゆる「仏教の教え」として伝わるものになります

続きます

638 :
続き

その捨てるということはラベリングをすることではなく
自己の中に起きたことを主客なく観察することです
般若心経から始まり、およそ大乗経典でこのことを説いてないものはないでしょう
ラベリングは主客ですから捨は起きません

言葉で書いている時点でこの文を書いてる私も主客ですからw
言葉で「捨てる」と言う言葉を書いても理解されないことはわかってます
そこで、瞑想が必要になるのです
観察を避ける坐禅ですと、生じることをあえて観察しない
しかし、色即是空空即是色であって色は空の一部です
触らないという態度ではやはりこれも主客なのです
空から色を見る時に現れる作用が慈悲喜捨の四無量心、四梵柱ということになります
これは我々凡夫も持っていますからたまたま偶然作用することもあります

ラベリングが観察であるという誤解を解かなかったなら
捨てられないんですね
この誤解は非常に根強くはびこってると見ています
マインドフルネスの指導書籍でも
「ラベリング=観察」と書いてるものは多いのではないでしょうか
これは本当に悪知識です

「観察とラベリングは両立しない」
瞑想の事実としてしっかりわかっているならば
ある時に、全ての苦の滅を見ますし、家の造り手もみます
つまり、世間を捨てて阿羅漢を目指して煩悩を滅尽する生活はしません

ですから、般若心経が書かれたわけです
煩悩を滅尽し最高の知恵を持つという阿羅漢のサーリプッタに対して
不断煩悩得涅槃の観自在菩薩は最高の般若(智慧)について説いています

観察が出来る方ならこの意味はおわかりになるでしょう
経典を読み始めるのはこれを確かめられるようになってからが良いと思います

そうでないと全く違うものを頭の中に作り上げることになります
それはかなり後まで尾を引きます
不毛な議論をすることになるでしょう

観察とラベリングは両立しません
なによりまずこの事実を確かめて下さい
お願いします

639 :
以上です
要約すれば

「観察とラベリングは両立しない」
という事実だけ確かめて下さい

そうでないと初心者のままどこまでも迷い続けます
何十年やっても迷い続けます

ここでの不毛な議論を避けるためにも
よろしくお願いします

640 :
まあ誰を 何をターゲットにして開発されたかで方法は変わるからね
思考が自走してしまう人向け 集中力が弱い人向けとしてはとても有効だと思うよ
それにラベリングに拘って続けていても 最初の無我の体験ぐらいは起きるから
ちなみに俺は 見ている 見ている 見て... 見... てな感じでいきなり起こりましたから

641 :
結局何で悟るかは人によるからなあ
坐禅で悟る人もいれば公案で悟る人もいる
止観で悟る人は当然いるだろうし念仏や観想で悟る人もいるかもしれん

642 :
公案は主客が消えた時に解けるもの。
南無阿弥陀仏は口をついて出た時にお念仏。

643 :
>>637-638
>>492 でも書きましたが、各自で正見の定義、邪見の定義を確認することが大事でしょうね。
>>635 も梵網経を引き合いに指摘されている通り、何が邪見かは仏説において明示されて
いるので理論としての正解はそこで確認できます。
観測事実の確認については、仏典の通りであれば宿命智の段階で知ることになるでしょう。
それ未満の段階で出した答えは推測であり、証明されていない限り妄想ではないでしょうか。

644 :
時代や場所、話す相手によって変わる部分、つまり方便と、
時代や場所、話す相手が変っても変わらない普遍的な部分、
つまり真理との区別も大事でしょう。

普遍的な部分を、時代によって変わる部分と混同している
としたら、まだ本質が分かっていないということです。

645 :
有身見に基づく断滅論は、輪廻なんてないと思う、という断定以外の何物でもないので
シンプルに論理的に考えただけでも、少なくとも中道とは言えません。
多くの人が信仰していることなので、ほとんどの人はその話に賛同はするでしょうけども。
仏説でもないですし。

646 :
輪廻とは何?
前世は韓国の王族でしたとか、フランスの孤児で早死にした、とか具体的に特定的に思い出したというの?

647 :
それって、この自我が死んで、あの自我になりましたという発想から出てくるものでしょ。
それが有身見が前提にある場合の発想ということなんです。
それは頭で考えた答えでしかないんですよ。

この自我が死んで、あの自我になりましたという考えも
この自我が死んで、あの自我になるわけないでしょ。死んだら消えるだけなんだから、という考えも
肯定側に転んだか、否定側に転んだかの違いこそあれ、同じ土俵の上で考えてるだけですから。

648 :
「オレが無我に悟った」ですか?

ラベリングは「オレ(色)→オレ(色)」という事です
オレは観察し続けられないので一瞬
「空→色」の状態になる
これが自分の言ってる観察の状態で
「色→色」とは当然両立しません

実は「オレ(色)=自分」と思いこんでるのがいわゆる「自我」です
ですから、観察状態になったときに「無我」と感じます
これは正しく練習すれば誰でも二ヶ月程度で得られる状態ですね
色は空の中に浮かんでは消えるもので、自己の状態は空です

そして「空→色」という観察が成り立った時に、慈悲喜捨が作用します

649 :
なのでラベリングで「無我」にいたったわけではないです

これは
「観察とラベリングは両立しない」
という瞑想の事実を確かめていけばわかると思います

650 :
訂正
自己の状態は空です

自己の正体は空です

誰でもです

651 :
この観察の基本が出来ていなければ、どれだけ頭が良くても
どうしても分別の構造として経典を解釈しまうことになります
どれだけ立派な単語を並べても解釈は戯論にしかなりません

652 :
>>640
それで正しいと思います。


サティパッターナ・スッタ (Satipatthana Sutta) 大念住経 又は 大念処経
一 身体のサティパッターナ
http://www.ne.jp/asahi/fogbound/journal/satitextbreath.html

ここでは仏陀もそのように説いています。

653 :
ラベリングが自然に外れるのは構わないのですが、指導者と実践者の実状を
みないまま、単に一律にはずせというのは指導の仕方として賛同し兼ねますね。

患者を診療しないで処方箋を出す医者がいるでしょうか。
もしいたら逃げるのが賢明でしょう。

654 :
>>647-648
輪廻がないという断定は、輪廻があるという断定と論理的には同じということです。
業の相続としての輪廻については、中道の立場から論理的にと観測的にの両方で
証明されなければなりません。

655 :
仏教の悟りは四向四果ですが、輪廻自体は悟らなくても分かりますよ。
輪廻について知っている人みんなが(仏教の)悟りに達しているわけではありません。
それは歴史上の聖典をみても、世界中の行者の証言をみても分かるはずです。

656 :
悟ってない人が此処で輪廻を語ってるんですから
悟らなくても語れるんでしょうな

657 :
ふと思ったけど歩行瞑想や手動瞑想ってあるけど、ゆっくり動く太極拳てやつ、あれも瞑想効果があるのでは

658 :
本人がそうおもってやればなんでも効果あるとおもうぞ
集中できる、持続できるか次第
効果あるやつも人によっては効果ない
ゲーム瞑想、読書瞑想、カラオケ瞑想も人によっては効果あるだろう
効果でる割合には差がある

659 :
太極拳よさそうだよね

660 :
経典読み込んで概念で正見、邪見の定義を妄想するよりかは
善友、善知識、正師=悟ってる師匠に付くことの方が何万倍も重要だよ
そもそも善知識というのは経典のコトバじゃなくて人のことだよ??

661 :
>>656
輪廻がなくなるのは阿羅漢果の段階。
輪廻が問題ではなくなるのはサンサーラから目覚めた状態の菩薩。

阿羅漢未満は、自我が無我だと分かっても輪廻が終焉するわけではないはず。
自我の生滅をみて無我だと分かったその段階で、輪廻がないと言い出すのは
預流果にも達していない段階で、我が輪廻は終わったというのに近い。
実際は断見なので、単に勘違い。
そして邪見。

662 :
無我なのだから輪廻がない、はよく見かける勘違い。
実際は無我だから輪廻が成り立つ。

663 :
>>660
大パリニッバーナ経(大般涅槃経)〜ブッダ最後の旅〜 より

【ボーガ市において】
仏陀と弟子達、修業僧達は、ボーガ市に至る。
そこで、仏陀は四つの大きな教示を行う。
もし、修業僧の誰かが、次の四つのいずれかを語ったとしても、それを正しいとしてはならない。
それらの文句をひとつずつ経典に引き合わせ、戒律に照らして吟味し、経典に合致し、戒律に一致するなら、それが師の説いたことばであり、その修業僧が正しく理解したことであるとしなさいと。

■ これは、仏陀から直接聞いた理法であり、戒律であり、師の教えである。
■ これは、修業僧の集から直接聞いた理法であり、戒律であり、師の教えである。
■ これは、博学で、聖典を伝え、法と戒律を保つ長老達、修業僧達から直接聞いた理法であり、戒律であり、師の教えである。
■ これは、博学で、聖典を伝え、法と戒律を保つ一人の長老、または修業僧から直接聞いた理法であり、戒律であり、師の教えである。
http://panna.mydns.jp/bukkyo/bukkyo_bk01.html

要するにその師匠であれ修行僧が果たして本当に善知識の持ち主なのかどうかは、
私の死後に残る経典にひき合わせて、戒律に一致するならば、師の教えである(仏法である)と判断してよろしい、
と入滅前に仏陀は仏弟子に直接教示しています。
判断基準は師匠の言葉よりも経典であるとしているということです。

664 :
ひたすはルール説明みたいの続けんの好きだのう

665 :
それはほらルールを頭に描いて正邪をジャッジしてる間は今から目を離していられるからw

666 :
間違った地図と狂ったコンパスで、ひたすら歩き続けるのか
まず地図とコンパスを正すのかの違い。

667 :
地図とコンパスを正すことばかりに終始して、一向に歩き始めないのもなあ
完全に正しい地図とコンパスがあるはずだとか考えかねない

668 :
僕の主張は「観察とラベリングは両立しない」です
お間違えないようにお願いします

サマタとしてラベリングを選ぶということを肯定したとしても
雑念が落ちて観察出来つつある状態にあってなお
まだラベリングをするならばそれは矛盾する努力です
よく観察して下さい
「吸ってるーーーーーー」
とラベリングすれば、非常に早く観察とラベリングで観察主体が変わってるのがわかるでしょう

スマナサーラ長老もおっしゃってます
「人は二つのことは同時に出来ません」と
マハシ式を指導されてる長老ですらそう言ってますよ

>>655
僕は文化的に刷り込まれた死生観としての輪廻と言ってます
それと苦が密接に関連している
古代インドに於いてはそうでしょう

生じては滅する輪廻はありますよ
そしてそれらはどちらも捨てられるものです
過去に作った思い描きの姿です
輪廻が真理かどうかという問題設定がおかしいんです

669 :
人間が空想した想像上の輪廻がないという指摘は、
想像したものは想像したものに過ぎないという指摘でしかなく、
当たり前のことを言ってるだけです。

釈尊が言っている輪廻は、そいういうレベルの話ではありませんよ。
率直に言って、浅すぎます。

670 :
これで三度目ですが、輪廻については仏説を直接確かめて頂ければ分かることです。
正見と邪見も明確に定義されています。
悪気はないのでしょうから、敢えて指摘しますが、
ブッダの名を借りて個人の仏教解釈を正当化する行いは見過ごせません。

671 :
>>656
悟らなくても、煩悩残ってても観察すれば見えますよ
ラベリングならそれが次の色を掴みますが
観察するなら次の色を掴みませんね

観察とラベリングが両立しないのに、ラベリングを執念でやるから
輪廻が止まらないー!ということになる、それをみる
ということだと思います

672 :
>>670
世俗諦も正見でしょう

673 :
そうなんですか

674 :
あと、マインドフルネスは大乗ですが
般若心経には観自在菩薩の語る般若は阿羅漢の智慧とは違うものだ
と書いてあるでしょう?

経典にこう書いてある、というのこそ
> ブッダの名を借りて個人の仏教解釈を正当化する行い
でしょうね
あなた仰ってることが自己矛盾してますよ

僕は「観察とラベリングが両立しない事が確認できますか?」
と質問してます
あるいは確認するようお願いしています
信じろという話はしていません

大上段に大鉈振りかざして「オレの経典解釈が正しいんだぞ」っておっしゃられても
あなた善知識=本読んで得られる知識と勘違いしてたでしょう?
あなたの知識は本当に正しいのか疑問です

もちろんこのスレには善知識の人は時々来てると思いますよ

675 :
>>668
誰か指導者についていますか?

676 :
こうして論点をずらしていくということですと、
経典も相当誤読なされてるのかもしれませんね

677 :
>>674
阿耨多羅三藐三菩提は、アヌッタロー・サンマーサンブッドー
無上の悟りの智慧という意味ですよね。
ちなみに、お釈迦様は阿羅漢です。

678 :
>>674
ラベリングしなくても集中できるようになったんですね。
おめでとうございます。
信頼する指導者の指導に従ってください。
説法はまだやめてください。

679 :
わからないことについては、分かりませんというのが一番理性的な態度です。
推測の段階で断定し、その断定に基づいて解釈を拡げ、その解釈に固執する
という態度は、中道とは言いません。

少なくとも、自説が正しいかどうか、人に“教え”として話す前にテキストに
照らして検証してください。
外でやったら、一発で信頼を無くしてアウトですよ。

680 :
輪廻は世俗諦に過ぎず、真理そのものではない
と言ったらいけない、邪見だと言うなら無宗教的なマインドフルネスは
邪見にしかなりようがありません

元々こういう方なのかもしれないけれど
いささか冷静さを欠いているようにお見受けされます

仏陀の指し示すものを見るようになされては?

681 :
>>677
般若心経の事を話しているのだから舎利子のことですね
仏陀の智慧と舎利子の智慧は違うということで、俎上に挙げられているのでしょう
あなた、分別分別であら捜し揚げ足取りで、論点ずらしばかりですね

682 :
世俗諦とか勝義諦というのは部派仏教になってから誕生した言葉で、
例えば説一切有部では勝義諦とは過去現在未来の三世に実在するとされる五位七十五法を指します(三世実有・法体恒有)。
テーラワーダでは実在は現在の瞬間のみとしそこで実在する色、心、心所、涅槃の4つが勝義諦です。
大乗仏教では一切の実在を否定しますので空が勝義諦です。

仏陀の時代は、在家向きの教えと出世間の教えがありました。
その教えの違いは聖道経の正見に書いてありますので、道を究めたいと思われた方は一読して損はないと思います。

聖道経
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=951429&id=29096929
ここでは
「この世やあの世のことをみずからはっきりと知り、じかに見て開示できるような、
正しく道を行ない、正しく道を修めた沙門やバラモンは世間に存在しない」
という見方は誤った見方(正見ではない)とされています。これが釈迦仏教のスタンスです。
その経典での正見の説法でのその後は在家向けの正しい見方と、出家者向けの正しい見方が語られています。

683 :
>>663
善知識(ぜんちしき、梵: ???????????、kaly??a-mitra)は、「善き友」「真の友人」、仏教の正しい道理を教え、
利益を与えて導いてくれる人を指していう。「善友」とも漢訳される。原語の kaly??a は、「善い」、
「徳のある」という意味の形容詞、中性名詞として「善」「徳」の意味。mitraは「友人」。

この意味から、禅宗では参禅の者が師家をこう呼ぶ。

浄土真宗では念仏の教えを勧める人、特に門徒が正しい法の継承者として門主をこう呼ぶ。

日蓮宗系では「善知識」「悪知識」と呼び習わし、同じ知識でも捉え方によって善くも悪くもなるため、
何ごとも「善知識」に捉えるようにと教えている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E7%9F%A5%E8%AD%98

善知識とは人のことであって「持ち主」ではないです
大乗経典では普通に人物のことを指して善知識と呼びます

684 :
違った、「善知識の持ち主」とは言わないと思いますよ

685 :
>>657

慢練は動作の確認が目的だから 瞑想なら立禅の方が効果有ると思う

686 :
>>683
用語の間違いをご指摘頂きまして有難うございます。

687 :
>>681
初心者の感想ですが、

ラベリングをやめて観察を心掛けると
あなたのように2chでマウンティングレスバトルを繰り返す人になってしまうのですね

688 :
>>674
わたしのメッセージは、経典は解釈しないで下さいという主旨です。
解説は、悟った人が書いた注釈書がありますから、それを読めば
いいだけのことです。
仏説はそのまま素直に読めば、それが最終解答です。

>>680
マインドフルネスが提唱するスタンスに徹するのであれば、
輪廻についての断定は必要ないはずです。
そもそも仏説の改竄は真に受ける人にとって悪影響になりますし、
邪見を吹聴する本人にとってもまったく善いことはありません。

689 :
その善知識がドグマを発する例としては、自灯明法灯明もあります。

もともとの大パーリニッバーナ経では自灯明法灯明とはどのようなことかとアーナンダから聞かれた仏陀は四念処のこととはっきりと答えています。

でも例えば
<今月の禅語>     〜朝日カルチャー「禅語教室」より〜
   自灯明・法灯明 <涅槃経>
http://www.jyofukuji.com/10zengo/2011/01.htm
では、

「自己の内奥に潜む仏性を認識し、そしてその自我本性である仏性と、ダルマ(真理・理法)という、自己の内なる仏性と同質の‘絶対真理’のみを頼りとせよ」ということなのである。

という風に意味が変えられています。
まあこの禅語バージョンの自灯明・法灯明でもそれで悟れれば、苦滅に至れば良いのかもしれませんが、
でも本来の意味を変えてしまうのはどうなのかと思いますね。
自灯明法灯明は仏陀の遺言なのに弄られてしまうのは敬意がないのではないかと思ってしまいますね。

トップページ > 仏教の瞑想 > 四念住
http://www.horakuji.com/dhyana/sikan/smrtyupasthana.htm

690 :
正確に訳出された仏典が共有されていないと、テキスト準拠の法灯明は
難しかったのかも知れませんね。

一部の大学教授や専業僧侶の自己流解釈がまかり通っていた時代を思うと、
現代は奇跡のような時代なのかも知れない。

691 :
信仰は人の勝手です
輪廻が死生観として真理であると信じているから悪いなんて話はしてませんからね?
マインドフルネスは自ら確かめてから信じるものでしょう

四念処であれ、観察とラベリングが別のことだとわからなければ出来ないでしょう

僕は歴史的な解釈については仮説にとどめてるつもりですからね
動かぬ信念で固まってるわけでもないし
躍起になって否定されても別にそこを否定されてもなんとも思いません
信仰について語ってらっしゃるのだから否定できない
参考にさせて頂きますよ

観察とラベリングが両立しないことを確かめてみて下さい
と最初から書いてますが、それが主旨です
その話、つまり一人ひとりがどんなマインドフルネス、瞑想をやってるのか
という話ですよ

そしてそもそもここはマインドフルネススレであって
信仰のスレでも仏陀の教えに厳密に沿って修行しようというスレではないですから

ティク・ナット・ハン師がユダヤ、クリスチャン、ムスリムなんかにマインドフルネスを指導してますが
そんな仏教の正確な解釈なんか押し付けてませんよ

692 :
躍起になって自分の解釈を押しつけてて草

693 :
観察とラベリングは両立しないという信仰をしてるんだよなこの人は

694 :
>>693
蓮舫「つまらない反応です」

695 :
いや、横からだが>>693の言う通りだと思います。

観察とラベリングは両立しない

という観点も手放したほうが良いのではないでしょうか。

ちなみに大念処経では身、受、心、法の全てを言葉にして観察しています。
https://buddha.pink/buddhism/72/

696 :
>>695
観察できるからラベリングも出来る
とも言ってますよ
スマナサーラさん「同時に2つは出来ない」

697 :
マハーサティパーナスッタも、アナパナサティスッタも読んでます

698 :
>>697
読んだことがあるなら話は早いですね。
それらに従って修行していけば良いだけと思います。
スマナサーラは別にいらんでしょ。

699 :
アナパナだと試してみてほしいですが
「吸って吸って吸って」とかラベリングすると
観察、ラベリング、観察、ラベリング、観察、ラベリング、、、、、
とすばやく観察主体が変わります

サティパーナスッタだと
「吸って吸って」とか「膨らみ膨らみ」ではなく
「長い呼吸」などとやりますね
見たから、長いと言えるんです

700 :
>>698
いやいや、ラベリング代表と言えばマハシですよね
日本でマハシと言ったらまずスマナサーラさんでしょう
そのスマさんですら二つはいっぺんに出来ないと書いてる

ラベリングが観察なんだ!と素直に信じ込まされてしまったら
後でこの癖を修正するのは難儀しますよ

701 :
>>699
難しく考えすぎて変なところで躓いているように思えます。

身体全身で感受しながら、「わたしは息を吸っている」(入息)と知り、
身体全身で感受しながら、「わたしは息を吐いている」(出息)と知るのです。
身体の活動の「行」を鎮めながら、「わたしは息を吸っている」(入息)と知り、
身体の活動の「行」を鎮めながら、「わたしは息を吐いている」(出息)と知るのです。
(大念処経)

↑は進行形で語ってますよね。

702 :
>>700
マハシとかスマナサーラとかどうでもいいんですが。

703 :
>>701
その場合にでも両立しませんよと書きましたね

704 :
>>703
私には両立できません、じゃないでか?
正確には。

705 :
観察という言葉を狭義と広義でごっちゃにしてるでしょ
狭義で言えば観察主体が変わるなんてことはない
主体は対象じゃないし変りようがないんだから
修行が進んだ段階の人にとっての観察がこれ
広義で言えばラベリングと交代交代にしたって別に悪くない
その場合の観察は変化する自我による知覚にすぎないのだから生滅繰り返す交代交代になって当然
一般人にとっての観察という言葉はこれ
どちらも日本語の観察という言葉で表されていることであっておかしくない

706 :
考えてるのではないから、確かめてみて下さいと言ってるんですけどね…

何のための瞑想ですか?
抜苦ですね

両立しない観察では観察対象と主客がなく、苦が抜ける
観察が出来るからラベリングが出来る
四念処ができる

ドアの人があれだけ真剣に坐って、ラベリングやってきてて苦が抜けないなんて
僕には全然笑えない
まあ、経典読まないから野狐だ魔境だで片付けられるかもしれません
半分はあるかな??とは思いますがね

他にも、やってもやってもモヤモヤが取れないとか
職場のストレスでマインドフルネス挫折したとか
観察したからって苦が消えるわけじゃない、、、
そんな書き込みがあるといたたまれなくなりますよ

けれど、そこにはいつも違和感があるんです
根本的なところでマインドフルネスに誤解があるとしか思えません
恐らく同じような人が続出してくることが予想できる

観察が出来るからラベリングが出来るんです

707 :
>>704
だから確かめて下さいとお願いしましたよね?
けれど一人を除いて誰もご自分のことは明言されない

708 :
なんで名無し同士でそこまで自分の瞑想の状態を隠したがるのかよくわかりませんがw

レス乞食渇愛にまみれた僕は決して阿羅漢ではありませんw
しかし、家の造り手は見てますからね?
ラベリングしたら阿羅漢に悟るまでみられないのでしょう

仏陀は暗中模索で独覚ですからそれは仕方がないんですよ
煩悩滅尽しか無いと言う方向ですから
それを隅々まで尽くしたからこそ対機説法がおできになったのかと推測します
それは偉大なことですけど、仏陀に成りたいんですか?
僕は成りたいとも思いません

仏陀が生前高く認めておられた維摩や盤若以降の大乗は
不断煩悩得涅槃ですよ

そして、主客ない観察ということが大乗の中では大きなトピックになった
己の内に主客なく見よということです

ラベリング 色→色
観察 空→色
という関係については初めの方で説明しました
あの説明見て、自分の現象としてピンとこなかったなら
観察できてないということでしょう

709 :
>>707
簡単に確かめられますよ。
息を吸ってる時は息を吸っている感受しながら鼻腔や腹の膨らみを観察して吸い終わったら今は長く(短く)息を吸ったという心の感受、意識を観察すれば良い。

710 :
>>709
で、その観察で何がわかりますか?

711 :
>>708
>レス乞食渇愛にまみれた僕は決して阿羅漢ではありませんw

そうですか、ではレスしない方が貴方のためなのでこれからはスルーしますよ。
レス乞食愛という貴方の煩悩を増長させないために。

712 :
簡単なんですよ
粗い感覚を粗いラベリングでやるのはw

それは主客ない観察ではないですと言ってます
これが通じないのなら、やっぱり初心者だ

713 :
粗い感覚を粗いラベリングしてそれが観察
それが「ありのままの観察」だというなら
そんなの百人が百人今知って今できるでしょう

仏陀がそんな浅い瞑想を教えてると思います???

714 :
主客ない観察だけがマインドフルネスという瞑想法の全てじゃないでしょ
それは到達すべき目標としてはいいけど、そうできない観察から始めることだってなんら問題ない
最初はみんな主客ない観察なんてできるわけないところから始めないといけないのに、到達地点の話ばかりしてるから、そんなの信仰だって言ってるのに…

715 :
>>714
率直なレス、素のレスありがとう

「主客ない」というのがビッグワードに見えるのかもしれないけど
全然そんなことない
やってみて「あ、両立しないな」というところがあればソコですよ
それがアバウトでも、やっていったらはっきりわかりますよ

716 :
>>715
あのね
そういうこと言ってるんじゃないの
誰もビッグワードなんて思ってないし誰もが既に主客なく観察できてることくらいもう知ってるから
それが事実や真理であっても他人にそのことばかり主張してるのはただの信仰なの
あなた教主でここ見てる人達はあなたの弟子?そうじゃないでしょ?ここがそういう場所ならいくらでもあなたは主張すればいいけどね
まああなたにはわかんないだろうね

717 :
>>716
は?基本の話してるって言ってるよね

718 :
主客なく観察できてるけど、観察とラベリングと両立してるんだ??w

いやそれは嘘だw
そこで嘘吐いたらマインドフルネスの話は出来ないな

ごめん、悪いけどギブアップ

719 :
誰も両立してるなんて言ってないしあなたはいつも自分の想像で相手を判断してるよね
相手の書き込みに対してもへんな解釈をしてレスするし
だからみんなあなたに個人的な話もしなければあなたの質問に答えもしないんでしょうよ

720 :
>>700
否定ばっかりですね

721 :
>>718
なんで覚者のフリして説教はじめちゃったんですか?

722 :
>>719
そう、ならやっぱり君は自分がどうなのかということを隠してコソコソ叩きに来たわけだ
どっちにしても駄目じゃん

723 :
とりあえずその次々と湧いてくるレス乞食煩悩愛を入出息の瞑想で集中しながら観察していって、
その消そうと思っても消えないレス乞食煩悩愛、瞑想しながら呼吸を観察しながらもレスが気になって仕方がないという気持ち(雑念)を観察でもしたらいいさ。

入出息をする時は念を添えるのを忘れずに。
でないと、ただレス乞食煩悩愛に飲み込まれて終わるからね。

念を添える時のラベリングはとりあえずは好きにすれば良いさ。
ラベリングありでもなしでもやりやすい方ですれば良いでしょう。

724 :
>>722
あなたのそのレス自体があなたの主観まみれでなんでそう受け取るのか意味がさかりませんよ本当に
あなたもなんでもみんなが自分のことを理解してくれないのか不思議でしょうがないでしょう
叩かれてるとすら錯覚してるようですしね

725 :
>>722
どんどん口調変わって周りを敵扱いしているけど大丈夫ですか?

あなたのような人はまずサマタ瞑想がおすすめですよ
あなたが知恵が現れますように
あなたに調和が訪れますように

726 :
>>723
もちろん見えてるからそう書いてるし
元々どうせこうなるとは思ってた

まあ、確認してみてよ
あなたは瞑想初心者卒業できるよ

727 :
>>725
さすがにここまでレベル低いとがっかりするからね

728 :
>>637
ここからか…
新年早々一日中レスバするよりは、しばらくスマホから離れてマインドフルネスした方がいいと思いますよ

729 :
>>728
バトルになってない
一レスが二レス以外、誰も本当のこと言わないんだもん

いや、言ってるつもりかもしれないけど

730 :
>>729
日常生活で苦しんでいる人の助けになろうとしたんだよね。
分かってるよ。
気を取り直して元気だしてね。

731 :
レス乞食煩悩愛の人は少し放っておいたほうが良いですね。
彼を瞑想よりもスマホに夢中にさせて修行の妨げをすることは彼のためにもならないと思います。

732 :
>>730
サンキュー
単純にこれだけレスしてると疲れる
お腹すいたし

733 :
ちゅーかね、本題に答えてねと言いつつ、超勝手な解釈で歴史的な仮説を書いたのも
経典持ち出して分別マンを釣るためだったのよねw

それも飽きちゃってw本題に戻りたかったんだけど
まあ流れがそんな状態じゃまっさらな気持ちで料理なんて確認してくれないわな
低レベルとか言ってゴメン

734 :
料理なんて→両立なんて

少し食べて寝ますわ(≧∇≦)b

735 :
いまだに観察とラベリングが両立できないことに拘っていたんだww

そもそもヴィパッサナーというのは主客が別れるものだというのも分かってんのかなこの人

736 :
開いてあまりにひどい状況
みなさん他人見下すのがプラスか毒か、仏教的にどうか考えてみましょう
答えはわかっていてもやめられないとしたら中毒

737 :
>>735
そう
だから大乗だよと言ってますよ
マインドフルネスはヴィパッサナーではないということ
最初の方のレス見たらわかりますよね

738 :
主客未分が正しいハズ

739 :
荒れてる時はだいたい山下信者が一枚噛んでる

740 :
山下信者というか、いつものアスペさんだった

741 :
他者評価は自己イメージの投影。

742 :
仏教の瞑想法と修行体系

観(ヴィパッサナー)
https://ameblo.jp/morfo/entry-10820378088.html

743 :
マインドフルネスということで取り組んでいたら
「これは仏教のヴィパッサナーなんだ」と言われるけれど
その時のヴィパッサナーはテーラワーダのヴィパッサナーのことだね

744 :
アスペさん去年の今頃はまだ良道さんもティクナットハンもテーラワーダの人としてしか見てなくて、大乗の立場から発言してるなんて思ってなかった
俺が教えてやったばっかりにこんなことになってしまった

745 :
およよ
ナンマンダー
おだぶつアスペさん

746 :
言ってることが良道さんの言ってることそのまんまで受け売りなんだよな
しかも聞き間違えてちょっと違うことまで言ってる

747 :
>>739
そうそう。第四図とか第五図とかいいだす。

748 :
なんかイメージが違うな 俺は主客が曖昧になりそうになったらはっと我に帰って完全に主の状態で観察しなさいって散々言われた
それを限界を超えてやりなさいと 今から思えば主が張り詰めて限界を何度か超えた時に主を維持出来なくなってそれが起こる
それは狙ってはできないから余計なことは考えずにとにかくやれってことなんだと後から納得したよ

749 :
真面目に学び、経験してきた人は自分の言葉を持っているよな
言葉にならないことに対しても

750 :
上座部とミックスメソッド:主体の問題
https://ameblo.jp/morfo/entry-12146537418.html

751 :
すごくよくまとまってるね
次以降のページも興味深い

752 :
>>743
テーラワーダのヴィパッサナーも、天台摩訶止観も、正法眼蔵も
本質的には同じだと思ってるけどね。

753 :2020/01/04


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