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千葉雅也51
宇宙人の哲学
☆☆人生哲学について語ろう その1★☆
シンギュラリティと未来技術の哲学

デイヴィッド・ヒューム


1 :2011/05/22 〜 最終レス :2020/02/24
哲学のみならず経済学や歴史学の分野でも業績を遺した、
スコットランドの啓蒙思想家デイヴィッド・ヒュームについて語ろう。

2 :
全物質主義の元祖なんで、藤原雅彦がろくでもないと批判してましたが、
今の技術至上系のダーウィニズム(国際競争殲滅思想)は彼が原因じゃないでしょうか。
ハイテクがもたらした弊害の殆どは彼の因が大きい。形而上学には。

3 :
どの本のどの部分が国際競争殲滅思想?

4 :
3 というか、結果的にそうみちびかれたという話では?
物質主義とダーウィニズムが結べば当然そうなります。ハイテクが勝つ。
スコットランドの技術志向も彼に一つの源があるのか。

5 :
そもそもヒュームってダーウィニストじゃないよね

6 :
原理主義に対しては一つの解答を示してますね。
「物しかない」と言えば脱構築vs原理主義 の普遍論争も終わる。
にも関わらず語りえないことを語ろうとする第三諸国(英・大陸・その他の意味で)はオリエンタリズムで処理できる。

7 :
ヒュームのせいで人類はお先真っ暗
明日、太陽が東から昇ってくれないなんて!
という理解でよいですかw

8 :
7 聖体論争の時代ですから。
結局ルターとカルヴィンがその辺は宗教学面で奪った。
結局ヒュームが残したのは「物質独立起源説」ではないか?
これをいまだにホーキングも信じてる。

9 :
まあライプニッツやスピノザ、カントのうちの形而上の部分、
ヘーゲル、ハイデガー
このあたりと比べれば、英米思想ってのは現代日本人にもすんなり入っていけるもの
が多くないか?近世から現代まで
最終的に納得できるかどうかは別としても、きり口としてはね

10 :
英米の方が歴史的にしがらみが少なかった分、何かを気にして思想がくねくねまがることなく、ストレートなんだよ

11 :
大物感がないという批判がありますが、小物らしさに利点がある。
この「利点」というのが曲者で、やはり哲学とみれば小さなスケールでしょう。
物質主義はどうすべきか、の問いではない。しかしヘーゲルもハイデガーもべきの問い、
普遍倫理の本質を求めようとしている。物質主義はただの科学補修の説です。
当時あった魂と肉体の論争、デカルト的世界観をしりぞけた、という島国の論理。

12 :
まあほんとは経験論的観念論をおしすすめると
物質主義にはまったくならないけどね。
科学も同様。当方、理系だけど物質主義でもないし唯物論でもないです。

13 :
12 とは?

14 :
まあヘーゲルよりヒューム、もっとくだれば分析哲学のほうが知的営みとしてはまっとうだと思うけどねえ。
そもそも哲学に大物なんてないんじゃないか?フレーゲみたいな斬新な切り口の天才はいても
誇大妄想もいい加減にしろよ、なにが精神の自己展開=現実だよ、
誇大妄想をあげつらって大物扱いするのはおかしいんじゃねえか?と思っちまう
>>11
物質主義で何を意味してるんだ?なんか悪いもんなのか?
それが経験論と何の関係があるんだ?

15 :
経験論は脳の力学です。以上

16 :
>分析哲学のほうが知的営みとしてはまっとう
自作自演のどこがまっとうだよ?
分析哲学は自らの偏狭さで問題を山ほどつくりあげてから、
解決策を議論したり、提示された解決策の批判を繰り返してるだけ。

17 :
具体例をどうぞ

18 :
>>7
ヒュームに対する誤解の代表乙。
ヒュームの主張は、因果関係は論理的な関係でなく自然的な関係であるということ。
この辺、自然の斉一性原理とも関連してる。
因果関係が存在しないと主張してるわけではない。

19 :
>>8
物質独立起源説って何よ?
ぐぐってもこのスレのあんたのレスしかヒットしないぞw

20 :
>>18
自然的な関係というのは因果関係がアプリオリに存在してるということ?
それで人間がその因果関係を見いだす時は恣意的でしかないみたいな感じですかね

21 :
ヒュームはヒューマニスト

22 :
なんか経験論と物質主義?の関係がわからねえ。
経験論的観念論って、
そもそも
つきつめればアプリオリなものなんてのはない
ってことじゃねえのか?
因果関係は自然にあるものではなく、われわれが経験から帰納して勝手に結論づけているだけ。
つまり因果は経験内容を勝手に解釈したアポステリオリな代物ってことにならないか?
世界も物質も科学も懐疑される。
因果関係は論理的な関係でなく自然的な関係ってのはヒューム独自なんだろうけど、なんでそうなっちゃうんだろ?
カントはこの因果律ってのは人間の悟性能力としてアプリオリに備わっていて、
「経験」を悟性の因果律のワクにあてはめていくとした。
つまりヒュームがアポステリオリとした図式にのっとったまま、解釈を変えてアプリオリに読み替えたわけね。
このへん、カントは因果関係は論理的な関係でありかつ経験的な関係ということにできたということか?
しかしカントの悟性概念やカテゴリーってのも、やっぱり独断的な前提にすぎないんだよな。

23 :
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%81%AE%E5%8E%9F%E7%90%86
ヒュームの原理(Hume's Principle、HPと略称される)とは、数Fsと数Gsの間に一対一対応(全単射)
があるとき、FsとGsは等しいとする原理。ジョージ・ブーロス(George Boolos)によって命名された。
ヒュームの原理は二階述語論理の考え方に沿って定式化できる。

ヒュームの原理は、フレーゲの『算術の基礎』において、デイヴィッド・ヒュームの『人間本性論』
第1巻第3部からの引用というかたちで言及されている。この著作でヒュームは観念と観念の基本的
関係には7種類あると述べている。その1つである量や数における比例についてヒュームは、量に関
してわれわれがおこなう推論は幾何学によって表現されるが、それが「完全な厳密さと確実さ」に
達することはありえないと述べている。幾何学の原理は感覚認識に由来しているからである。これ
に対して、ヒュームによれば、数や算術について行われる推論は厳密さと確実さに達しうると述べ
ている。
 それゆえ、われわれが、推論の連鎖をどれほど複雑に続けても、完全な厳密さと確実さを保持する
 ことができる学問としては、代数学と算術だけが残る。われわれは、数の等しさと比を測定するた
 めの正確な基準をもっており、数がこの基準に一致するかどうかによって、誤る可能性なしに数の
 間の関係を決定するのである。われわれは、二つの数が、一方の数が他方の数に含まれるすべての
 単位〔数の一〕をに対応する単位〔数の一〕を含むように構成されているとき、それらの数をたが
 いに等しいと言う。そして、幾何学を完全で誤ることのない学問と見なすことがほとんどできない
 のは、〔空間的〕延長においては、等しさのこのような〔正確な〕基準がないからである[1]

24 :
やはりヒュームは近世では最重要古典だな。
カントからヒュームにたちかえってもう一度立て直す。
ドイツ観念論が日本で中心にあったのは大日本帝国の特殊事情だろ。

25 :
認識論が懐疑主義的であることと政治哲学の業績があることではカントもヒュームも共通している。

26 :
>>22
例えば全ての人間が梧性、感性等で成り立ってると
必ずしもそうではないではないかと言いたいのであろう、その前提に根拠がないと
言いたい事は良く分かる
しかし、そこを批判しちゃったらそもそも人間の前提を批判しちゃって
何にも成り立たなくなっちゃう、カントはそういうものを前提にしているように思える
そしてヒュームとかの懐疑論だと懐疑論の懐疑論になっちゃって話が進まない
一方、近現代の哲学者でカント(プラトンもそうだが)を批判しているのは
批判のピントがずれてるように思える
例えば人間の自然のままの性質、こういうものを批判しないとカントやプラトンを
真に批判した事にならないように思える
カントやプラトンは人間の自然の絶対的な性質を前提として
その上でありのままに生きるのが正しいのではないかという哲学を展開
しているように思える
カントやプラトンの前提というか縄張りみたいなものを批判できるのか?という

27 :
大陸とは別の理念、というのが骨ですよ。それを見越してる。
大陸哲学と同一地平で争ったら負けだからニュートン力学の形而上学解釈に進んだ。
こういう意味で、プラトンからカントへの王道は決して辿らない、というのが英吉利なんですよ。

28 :
>>24おそらく伊藤博文が一人の主犯ですよ。彼がドイツ憲法を輸入した。
そのせいで福沢-ミルのラインから傾いたんです。
 物質主義系譜はその後、京都学派の成立で途絶えました。

29 :
>>27
むしろ経済力や軍事力、自然科学、工学、政治力などの実質面で
近代の英米に太刀打ちできないから
ドイツなんかは形而上学的な哲学思想に引きこもってきた傾向があるとおもったが。
>>28
君、物質主義ていってるけどどういう意味でいってるの?
イギリス経験論的な観念論と、自然科学と、機械論的唯物論と、産業経済とすべていっしょくたにごっちゃになってないか?
物質主義?むしろそういう時代を通り過ぎた第三次産業中心の記号的消費社会だとおもうけど。
>>26
>>例えば全ての人間が梧性、感性等で成り立ってると
必ずしもそうではないではないかと言いたいのであろう
>>人間の自然の絶対的な性質
いえ、そういうことでもない。悟性や感性自体まで疑ってはいませんよ。ヒュームも
そうではないでしょうか。
ただ、絶対的な性質、というと人間のイデア(神のような)やら定言命法やらという形而上
な慣習法や律法主義のニュアンスが出てくる。
私としては現代的にはより広くおおきな意味でのプラグマティズムでこれらも包括し解釈した方がいい気がするんですよ。
(実利だとかいう意味ではないですね。
あなたがいうように、社会的便宜としての形而上学的概念だととらえるということ。
しかし自由な思考はもっと疑い、西欧の伝統的呪縛の外で自由に他の可能性を探ってみてもいいのではないだろうか。)
というより、本来は認識のしくみというのは認知科学や心理学、神経科学などの知見を待たねば何も断定的なこと詳細なことは
いえないはずでは。(これらでもわかりようがないといえばどうしようもないけど。)
一方で、「論理構造」の部分については矛盾がなくうまくいくならそういう独断的前提もあっていいのでは。

30 :
議論の混ぜ返しはルール違反だと思いますね。よみかえせば分ることを。聴けばいいのですよ分らないときは。

31 :
Pragmatismが支配的思想というのは植民地の自虐ですよ。別に其れだけが思想じゃない。
大陸哲学との関係は日本にとっても似た条件であり、国家単位の問いに返ります。
つまりナショナリズムですよ、どれかの思想を他に包括させようとは。
 それと、物質主義自体は確立した用語。実際元祖の一でしょう。

32 :
お前の方がルール違反だろ。
論破されるのが怖いのか?

33 :
経験論と、カント以後の形而上学を接続したのがウィトだった。
 この経験論の胴元がいわばヒューム。「科学」とは何かを最初に定式化している。
当時の物質主義は人間との関係を失っていた(無神論に漸近していた)が、彼が懐疑的認識を肯定した。
その後の産業革命、社会ダーウィニズムな帝国主義時代も実際は科学利用という意味でヒュームが胴元でしょう。
ウィトはこの後にきて、語りえないこと=論証の不能さ、を科学認識へも持ちいれた。
要するに、大陸との関係とみてヒューム胴元とその物質主義的傾向のイギリス哲学は、一貫して形而上学の成立を否定してるんですよ。
机上の空論を全面否定しているとみてもいい。科学認識が物への確信でしかない、といったのはヒューム。その上にウィトが「他は語るな」といった。

34 :
>>物質主義自体は確立した用語
>>聞けばいいのですよ、わからないことは
聞くのは三度目だが、今度こそ説明してもらおうか。君が物質主義という言葉で何を
意味しているのかを。
>>経験論と、カント以後の形而上学を接続したのがウィトだった
たしかに古い経験論とカントの影響を受けている部分もあると思わされるが、彼は認識論や存在論の
問題は(公的には)棚上げにして議論している。私はこの姿勢は正しいと思っている。
カント以降の形而上学?それは関係ないと思うが。
>>Pragmatismが支配的思想というのは植民地の自虐
アメリカ発の思想方法だが、別にアメリカの専売特許でもない。
Pragmatismを法的にアメリカから強制されているわけでもない。
Pragmatismであることがナショナリズム?賛同する奴はここにはひとりもいないだろう。
別に君に強制するつもりも毛頭ないし。
政治的文脈を切り離して、素直なアタマで諸学の概念や社会通念を反省してみればよいという提案だよ。
(数学や論理における公理の選び方から定言命法的とされる律法までね)
批判は論説に内在する論理そのものや経験にもとづいてやるべきであり、君のは単なるぼんやりとした被害妄想。
(話はそれるけど、まあ今の日本やドイツ=植民地でもいいだけどね。はっきりいって長い間日本国民が背負ってきた絶対的貧困は
解消されたし、言論の自由も拡張されたし。プロイセンやドイツ帝国、戦前の大日本帝国の一元論的権威主義(そしてそれに一役買ってきたドイツ観念論)よりはるかにましだよ)

35 :
>>科学認識が物への確信でしかない
ヒュームの経験論的観念論からすれば、科学はモノへの確信ですらないだろう。
知覚や経験に立ち現れる現象の帰納的な規則(とおもわれるもの)、これが科学ということになるだろう。
つまりヒュームは科学の基礎付けなど行っていることにはならずその根本から懐疑的である。
むしろカントの悟性的認識までの議論の方が科学の肯定になってるくらいだと思える。
イギリスの経験論や分析哲学が物質主義?百歩譲って功利主義を挙げるにしても、
ミルのいう功利主義は単純な物質主義などといえる代物ではない。より大きく広い意味での高尚な人間の功利・幸福も視野に入れたものだ。
>>その後の産業革命、社会ダーウィニズムな帝国主義時代も実際は科学利用
産業革命では物理学や化学の成果を応用しているが、工業と純粋な科学とはその精神性も
目的意識も全く違う。分けてかんがえるべきものだ。(確実にあるいは高確率にいえることを見極める)純粋科学のどこが問題なんだ?
科学からはなれていうならば、産業革命からつづく現代ということで批判されるべきことと、生産力拡大による絶対的貧困の撤廃と、余裕ができたことによる庶民の教育・文化・生活水準の向上いう成果
をトータルで考えるべきもの。君はどういう文脈で批判しているのかな?

36 :
さらに付け加えれば、
物質主義とはフェティシズム(モノへの崇拝)のことだと思っていたが。
理科系で自然科学やってきた俺は別に物質主義ではないし(いまの西欧先進国の多くの人間もそうだろう)、
唯物論ですらない。
またヒュームの懐疑的な経験論的観念論と物質主義とは関係ないと思ってきたが。
ヒュームの経験論的観念論とフェティシズム(モノへの崇拝)とどう関係あるのか論理的に示してほしい。

37 :
ウィトゲンシュタインの有名な箴言を換言すれば「わからないことは考えるな」。
これじゃ哲学にはならんでしょ。
ウィトゲンシュタインやその後継は、哲学の主題をすべて言語体系という狭い領域に押し込めて
言語がすべてを表現しうるものとして自明視してしまってる。
それではヒュームの言う「触発」は起こりえない。
ドゥルーズはそこを批判したんだ。
実際、われわれ人間は言語で考えてる(思考してる)わけじゃない。
言語化される以前のイメージ(表象)で考えてるわけで。
ちなみにプラグマティズムの直接の期限は南北戦争にある。
南北間の埋めがたい溝を解決するひとつの思考実験としてプラグマティズムが生まれた。
また明治日本がドイツ憲法を範にとったのにはシュタインの影響が大きい。
彼の憲法学(ある意味ホッブズ的)が伊藤や西園寺に引き継がれ日本に移殖された。

38 :
>ちなみにプラグマティズムの直接の期限は南北戦争にある
ちなみにプラグマティズムの直接の起源は南北戦争にある

39 :
>>わからないことは考えるな
言語がすべてを表現しうるものとして
いやちがうと思うよ。ウィトはわからないことも考えてはいたしそういう領分の尊重を否定してもいなかったよ。
そうではなく現代の学として「語る」という点で、「語りえぬことには沈黙しなければならない」
という自明なことを確認しただけだろう。
また言語ですべてを表現しえないが、学的には言語で表明するしかない以上、
言語で表現しえない領分を学的な対象にするわけにはいかないという姿勢ではないか。分析哲学は。
ある意味、カントの理性批判の方向とも重なるのでは。
その着眼点や手法はちがうが。

40 :
現代人における哲学の主題とは?

41 :
>>36
>理科系で自然科学やってきた俺は
哲学科卒でもないのに哲学を語るな!

42 :
>そうではなく現代の学として「語る」という点で、「語りえぬことには沈黙しなければならない」
>という自明なことを確認しただけだろう。
現代の学を「成り立たせる」ためだけに、分からない事は語るなと言うのなら、
それは魔女狩りをした宗教と大差無い暗愚ですよ。

43 :
>>39
それじゃたとえば映像については説明できないわけだよね?「学的」には。
そこでは「学」というものの範囲が極めて限定されることになる。
そんなものに存在意義はあんの?
ベルクソンは否定的ではありながらも、このことをしっかりと考えていた。
ウィトゲンシュタインやその後継たる分析哲学に足りないのはそこだよ。
これだけ根拠不明なイメージが幅を利かせてる時代に。
少なくともスターリン=ヒトラ−以降の哲学としてはポンコツでしかない。

44 :
>>これじゃ哲学にはならんでしょ
そりゃ伝統的哲学の独善的なアフォリズムやなぐりがき散文、定義や用法の混乱に乗じた煙幕・ごまかし・誤解を一層して
あらたにメタ学問・メタ科学としての現代的な哲学を立て直そうっちゅうとこじゃないか?
存在の神秘だとか神の神秘だとか自我の謎だとかを問題設定にしたければしても良いけど、
それはもはや現代の学となるものではなく伝統的な秘教の延長だよ。それは各自が瞑想でもして究めるべきこと。西欧がこういう領域にまで
理性や言葉(ロゴス)で語りつくそうとしたことが誤り。このあたりに関心のあり、合理化したいものには謙虚で限定的で慎重すぎる分析哲学や諸学では不満があろうがね。

45 :
>>44
現実がよく見えてないようでw
現実の政治や経済は言語化される以前の根拠不明なイメージで回ってる。
政治家や企業経営者がなぜあれほどまで執着的にイメージにこだわるか、
イメージが人間の社会を回してるからであり、戦争も革命も大虐殺も、
こうしたイメージと深く関わってるからだよ。
そうした現実に対して深く切り込まないのならば、哲学はその名を返上して
修辞学にでも道を譲ったほうがいい。
まぁそれこそ中世的な「秘教」への回帰だけどねw

46 :
>>41
話の内容自体を批判・検討してください。
>>43
>>それじゃたとえば映像については説明できないわけだよね?「学的」には
映像については、どういうことなら学的に語れるが、
こういうことは語りえないということはあるだろう。
映像ということであなたが何をさしているのかはわからないが。
>>42
言論封鎖しているわけではない。
私は禅の姿勢は正しいと思っている。
そして経典を著した禅の大家たちも、その境地が本来語りえぬものであり、
書物や文言はその領域の本質をさししめしていない、本来的にできないと自覚している。
それは媒介(触発)の道具である。ハイデガーやヘーゲルをそのような位置づけで読むのはいい。
そういう書物や文言は学といえる代物ではない。
言葉どおりに学としてとってはいけない。「境地」の周りを永遠にめぐるだけでたどりつけないだろう。
カントでもウィトでもいいが、きちんと区別せよ、ということではないか。

47 :
>存在の神秘だとか神の神秘だとか自我の謎だとかを問題設定にしたければしても良いけど、
>それはもはや現代の学となるものではなく伝統的な秘教の延長だよ。
それは、答えが出せないからかな?
ならば問おう。答えを出す為に問題設定をするのか?
それは、救いという答えを求めて、聖書を読み耽るのとどれほど差があるだろう?

48 :
>>45
イメージを否定しているやつなどこの世にはいない。
言語がすべてというやつもいない。ウィトも分析哲学屋もそんなことを考えてはいない。
学として明晰に物事について「語る」という観点から言っている。
学的には「語る」しかないのだ。
もちろん、分析哲学のような言語主義は問題や文脈、語彙のごちゃまぜをふせいでいえることをいう一つの方法。
人間理解には心理主義もくわえるべきだろう。
言語、心理、生命原理、これらが人間の基本であると考える。
言語や論理に比べて、心理や生命原理についてはいえることはまだ限られている。
だが、たんなる言語的論理的関心にとどまることはないだろう。

49 :
正義っ何色なのかな?
愛の血液型って何かな?

50 :
>>47 それは、答えが出せないからかな?
そうとはいいきれない。
道元和尚にとっては答えは出ているであろう。
問題はそこではない。
>>答えを出す為に問題設定をするのか
そうであるといえるし、それだけではないともいえる。
論理学上、物理学上の問題設定、工学上の問題設定は救いという答えを求めて、聖書を読み耽ることとはちがうであろう。

51 :
>>46
映像は映像でしょ。
視覚を使って光学的に受け取るもののことでしょ。
つか
>映像ということであなたが何をさしているのかはわからないが。
こういう物言いこそおまえさんの批判する伝統哲学の常套手段「誤魔化し」じゃないのかい?
スターリンが始めてヒトラーが踏襲した政治的プロパガンダの手法はその後東西の枠組みを越えて
世界中に広まったし、経済においてもマーケティングという手法で映像は強力に利用されてる。
そういう現実に対して「わからないことは言わない」じゃ、現状に為すに任せよ(レッセ・フェール)
と言ってるのと同じだ。
まぁだからこそ大体の論理実証主義者は政治的に西側陣営についてきたのだろうけど、
プロパガンダの普及に見られるように、西も東も関係ないからね、そんなものは。

52 :
>>51
>>映像は映像でしょ。
視覚を使って光学的に受け取るもののことでしょ
それだけの意味であるならば、それは語りうるだろう。
色のクオリアについては語りえないだろう。
もっと意味をもたせているのかと思っただけだ。
別に何もごまかしてはいない。むしろはっきりさせようとしているだけだ。
>>マーケティングという手法で映像は強力に利用されてる そういう現実に対して
そういう商業主義の問題の文脈で話をされているようには見受けなかったが。
であれば、映像は視覚を使って光学的に受け取るもの、とだけいえるものではない。
それは(まだまだ不確かで弱い科学だが)経済学や心理学によって(物理学ほど精度はよくないが)語りうる事象ではないだろうか。
それともこういうことをあえて形而上学や形而上学批判、弁証法、存在論で語りたい欲求を抑えられないということだろうか?
映像を使ったマーケティングは企業の商業的プロパガンダであるということであるが、
大衆が喜んで便益を受けて来ている以上、ただスターリンやヒトラーのそれと同じくくりで並べてしまうのは
単なるルサンチマンや劣等感ではないか?そうではないというなら、問題点について具体的にあげてくれれば一緒に考えよう。

53 :
次は「ヒュームと解離」ってお題で

54 :
>>50
>論理学上、物理学上の問題設定、工学上の問題設定は救いという答えを求めて、聖書を読み耽ることとはちがうであろう。
私は、そこは違わないと思いますね。少なくとも、根本においては。
宗教、論理学、物理学の出す解答とは、どれも不確かな物です。明日も成り立つとは限らない…。
そのいずれもが、明日も成り立つであろうという確信の上に成り立っています。
ですので、それらは極端に、その確信を崩されるのを拒みます。神を、言葉を、疑って語ってはならないなんてね。

55 :
ミルらとの合流はまだしてないと思いますね。違う系譜じゃないですか。
ミルの時点で物質主義的傾向は消えている。それとは違うのが科学ー物質主義系譜じゃないか。
自分はベーコン、ホッブズ、ロック、ヒュームの系譜をまとめて仮に物質主義とよんでいる。経験論は要は物質主義ですよ。
脳を物としてとらえる。生物機械論とかはそうやってでてくる。
 にほんでも水戸学と京都学はやはり系譜がちがうわけです。武家系と公家系として。それと似た状況ではないですか。

56 :
分析哲学・言語学派は、ホーキングに批判されてるわけですが、彼はやはり物質主義ですよ。
唯物論とまではいってなくて心は認めている。人間らしい心を。けどそれはやはりホッブズ経由で彼にとって生物機械の働きです。
 神がいなくていい、ってのは物質主義。宇宙に神がいなくていいと。
こういうわけで、ヒュームの時期に「確信」という意味合いでもう理性と科学の関係は総合されてると思います。
その時点で確信にすぎないが、実証知識だけを語れ、という暗黙の了解ができあがった。カントはそれを古典的形而上学にひきもどした。
 ある意味では、語りえないことは沈黙しなければならない命題(沈黙命題とします)は、定言命法への反命題でしょう。
この形而下学限定派と、大陸的な形而上学の伝統派はいつもやりあっている。ホーキングがその先鋒で、デリダとかを馬鹿にしている。

57 :
ウィト以降は、ヒュームも学問じゃないといえるでしょうよ。沈黙命題の一つなんだから。
「確信」という語も定義というか実証できない。だから黙っておいた方が得策となる。
語り得ることは語ってもよい、という意味で形而下学しか認めない。これが英吉利流じゃないですか今も。
 功利主義はどっちかといえば傍流じゃないか。それは基督教との便宜的調和の為でしょう。あまり信じてないのではないか。

58 :
形而上学は遊びでしかない、ってのが英吉利哲学のかたほうの根っこにあるのではないか。基督教は利用しつつ。
ホーキングは完璧にけなしてますからね、言語学派を。
デリダらはやはり律法の解釈学とかで大陸型の主導権をにぎりたかった。けど遊びである、と。
沈黙命題の前では何も言えてないもしくは定義の錯誤なのだから。

59 :
にほんでは、モギケンさんはもう物質主義でしょう。彼の思想は脳をどう扱うかにしかない。
ホッブズの後継でしょうよ。
唯物論というのはいいづらいですからね。それは神学用語ではないですか。
ヒューム級のゆるい唯物論は物質主義・materialismといえるのではないか。

60 :
みてるとヒュームスレというかイギリス思想スレみたいだが、
功利主義はイギリスの本流のひとつだよ。
古典経済学(スミスからはじまる自由主義経済学)の発想にも影響を与えている 現在もだが。
功利主義を信じていないというのはどういうことか。
それですべて説明できるとは言い切れない問題点はある、が
多くの現代的課題や生活において功利的観点で考えることのないやつはいないと断言してよい。
無意味な道徳的縛りややせがまんはいらん多くの場合で合理的な処方として採用することはある。英米の強さはここにもあったと思う。
あるいはプロテスタンティズムを強く擁護することも可能である。

61 :
>>私は、そこは違わないと思いますね。少なくとも、根本においては。
宗教、論理学、物理学の出す解答とは、どれも不確かな物です
そこはむりやりすぎるだろう。その構造、方法、出自、精神性も全く違う。
また徹底的な懐疑主義をとるにしろ確かさ、不確かさの度合いはある。
明日も成り立つとは限らない。これは帰納法の限界というやつでたしかにそのとおりではある。どこまでいっても暫定的な知識で推測的しかありえない。
だが明日、万有引力の法則が成り立たないかもしれないといって物理学を使わず聖書と同列にする人間はどこにもいないだろう。
確実性の面でいまのベストはそれしかないし、それでうまくいかなかったことはないからだ。うまくいかない事態があればさらに改良(相対論・量子力学)、それを繰り返して近づけばよい。
完全である必要はないし不可能なのだ。その時点でのベストでしかない。だがそれは検証なく受動的に聖書にすがることとは異なる。

62 :
>>経験論は要は物質主義
>>神がいなくていい、ってのは物質主義
ここはかなり論理の飛躍・思い込みによる一般化があるだろう。
それぞれの言葉の意味からいっても即物質主義だということにはならんし無神論ということにもならんだろう。
これだけの理由でヒューム=物質主義、科学者=物質主義、
イギリスの思想=物質主義だと主張しているのか?
論理的帰結によってではなく、ホーキングのような単純な精神を例に出して勝手に一般化しているにすぎない。
伝統より深い意味での神(という言葉が適切かどうかはわからんが)を信じている科学者、分析哲学者、数学者は多い。
シュレーディンガー、ハイゼンベルグ、アインシュタイン・・・
そういえばウィトゲンシュタインも神を信じていた そしてそれぞれ特有の思想をもっていたようだ
だがそれを学的なものとは考えなかったし学術論文として発表もしなかった。
日記にでも殴り書きしておく類のものだ。

63 :
モギケンが物質主義ってことはチャーマーズも物質主義ってことになるのか

64 :
いいえ、チャーマーズが陰謀論者でモギケンがネオコン陰謀の手先です
ところで、いつからウィトなんて呼ぶようになったんだ?
大昔からずっとヴィトがデフォだと思ってたんだが

65 :
Wienと書いてウィーンと読むが、WittgensteinはそのWienで生まれた。

66 :
ヒュームよりロック派

67 :
ものすごく簡単にしてしまうと、ダーウィニストは殲滅思想でしょう。弱肉強食の肯定。
ただゆるい殲滅をそのほかの傾向がゆとり巾として保っている。米資本はダーウィニズムでしょう、原理。
ネオコンサバとかは、ネオリベと同じでどっちにせよ殲滅思想でしょ。中国共産党も、官僚主義なだけで同じでしょう。
 ヒュームはそこまでの路程表を書いたんじゃないですか、今となっては。物しかない、感情も大事、だから信じろってとか言って。

68 :
やっぱり『国家の品格』は売れただけもあって一発屋ではあるが重要書ですね。
あれはナショナリズムでしょう、単に。けど細かなところではするどい指摘がある。
武士道の復興とか、あれ対ダーウィニズムでしょう。けど、イスラム原理主義もあるから、
その辺りはナショナリズム論争という話にすぎないでしょうけどね。精神論だし。
 哲学的に価値は低いでしょうが、いいあててるのはネオナショナリズムで、
反社会ダーウィニズムという第三諸国での流行でしょう。柄谷がこまかくいろいろ言ってるが、
にほんは帝国主義化しそうだししなさそうというのは政治原理がない、ということで、
ネオナショナリズムに国勢を傾かせたいわけですよ、留学した二流学者は。一種の反動形成として。

69 :
『国家の品格』は間違いや思い込みが多すぎるからそのまま真に受けずに
ちゃんと自分の頭でよくよく考えて検証した方がいいよ。科学や思想の勉強・考察もしたほうがいい。
君はよく考えてみもせずに人の言うことを鵜呑みにしたり、すぐに物事を結び付けすぎる。
あとはなんでもかんでもすぐに政治的文脈にもっていく癖。
それといまはネオ・ダーウィニズムだよ。
もはやイデオロギーではなくれっきとした科学
(遺伝学やフィールド実験の検証に耐える)になっている。
ところで、生命や生態系の法と人間社会をそのままイコールにするのはあらっぽすぎるし弁証法並みに問題があるが、
人間も生命であり社会もその生命の生態系である以上、それが妥当に成り立つ要素はある。
ここは感情的に受け入れにくいからといって、すぐ強者の政治的イデオロギーととるのではなく、
ちゃんと科学的に考察・検証しなければならない。
でなければ弱者が難癖つけているだけになってしまう。
(戦後の日本の、虚勢を張らず前向きで裏ではしたたかな姿勢は正しかったと思っている。
だからといって日本人や日本精神が失われたわけではない。そうとらえるのはロマン主義にすぎない。大多数にとってはろくでもなかった。)

70 :
英国経験論と観念論と唯物論の関係を勘違いしてる人がいるので簡単に解説します。
・ホッブスは唯物論です。
・ロックは心身二元論です。
・バークリーは観念論です。
「存在するとは知覚される事」で有名ですが、人が実証的に検証しうるのは、
直接に「経験」可能な知覚のみであるから、観念論に達しました。
・ヒュームは観念論であり、懐疑主義でもあります。
バークリー流の経験論を徹底すれば、自我や因果関係さえも諸観念から帰納的に
想定されたものと懐疑することが出来るからです。

71 :
>>70
だよな。
ヒュームは観念論の極致であるのに、
ヒュームは物質主義だとかいいつづけるやつがいて、しかも政治と結びつけるなどというお粗末。
なんでそうなるのか意味不明だったが結局まともに答えてはくれなかった。
経験主義=科学=物質 みたいな浅はかな思い込みでいってたのだろうか

72 :
>>52
まったくわかってないようだね。
映像が哲学と直接的にかかわるのは、それがまさに形態を扱うものだからだ。
少なくとも、ヒュームにおいてはそうだ。
おまえさんは(伝統的)哲学を形而上学(観念論)と一緒だと捉えて、
それに論理実証主義や分析哲学を対立させたいようだけど、
ことヒュームに関していえば、おまえさんの捉えかたは180度間違ってる。
ヒュームは形態について徹底的に考えた哲学者だ。
その遺産はたとえば日本では大森荘蔵に受け継がれてるし、
大森を観念論だというバカはどこにもいないだろう。
実際、現在の自然科学においては物理学でも生物学でも、
観念論的な「実体」の存在など否定されてる。
形態はわれわれ人間が器官的感覚的(ヒュームの言葉で言えば「情念」)に受け取る
ひとつの像でしかない、ということだ。
それがわれわれの社会を動かしてる、ということの重みを感じたまえ。
ヒュームの言うハビトゥスとは、われわれの認知パターンをも意味してるのだ。

73 :
ロックが心身二元論的故に唯物論的ではない、とはいえないと思います。ロックは異端?
彼が心の独立を認めていた記述ってあるんでしょうか。そうは思えないんですが。

74 :
経験が心(というのが心臓以外の何物か、形而上学的事物だとして)から起源する、という観点は、ロックはとってないと思うんです。
デカルトはそうだったかもしれないが。そうでないと以前に確立されたホッブズ時代の思想の批判、にならない。観念についての論究が、
単に心身二元論です、故に唯物論ではないんです、という読み方はできない。
 イギリスは大陸哲学とは系譜がちがうと考えていいと思います。デカルトがいう良識(心のうまれもった性質でしょう)もロックは認めていない。
だから経験論はやはり物質主義ですよ。物の働きにしか神の現れも観ない。そもそも神を疑っている。

75 :
>>69>>71-72この人はいつもいるみたいだから、名乗ってもらった方が分かり易いと思います。
この人は議論をまぜかえす。分っていないことを聴かず、相手の記述を間違っていると言う。
この人への直接の返答は無限大の多さをもってしまうでしょう。だからこの人だけをピックアップできた方がいい。
返答するにせよしないにせよ。そうでないと話が進まないと思います。

76 :
>>74>>75
別に名乗る義務はないね。
ロックは晩年において本質的に心身二元論に回帰した。
それまで、そういった言説を批判していたのにも関わらず、だ。
バークリーもヒュームも、そのことを批判した。
経験論は神を疑ってるんじゃなく、現実を超越したものとしての神(の像)を疑ってるんだ。
そのことを知らずして何が「物質主義」だ。
現在の審級においてしか語ってないだろ、そんなのは。
たとえば、スピノザ。
汎神論と経験論の隔たりは意外に小さい。

77 :
イギリスでそもそもドイツ観念論ってどこまで知られてるのかね。
レインの本でヘーゲルの本を渡したら、
「統失患者の面白い例だった」と一笑に付して終わりみたいなの書いてある。
中島義道なんかも、
大陸合理主義とイギリス経験論をカントが批判哲学で折衷したみたいなのは、
それ自体ドイツ哲学の解釈の仕方でイギリスではヒュームの方が偉いのは当然だし、
カントなんてせいぜい道徳哲学者の扱いだ、と言ってるんだが。

78 :
>>72
>>映像が哲学と直接的にかかわるのは、それがまさに形態を扱うものだからだ
??
>>52の内容へのレスには全くなっていないようだが。
映像を形態として考えるの考えないの、それを哲学として扱うの扱わないの話は全くしていないよ。
それと、ヒュームスレのなかで申し訳ないが文面をみてもらえればわかるようにヒューム的な視点だけでは全く語っていない。
>>形態はわれわれ人間が器官的感覚的(ヒュームの言葉で言えば「情念」)に受け取る
ひとつの像でしかない、ということだ。
それがわれわれの社会を動かしてる、ということの重みを感じたまえ
君はなんだ?広告代理店の人間か?
認識論上のどの立場をとるのもかまわない。ヒュームには余計物が少なく現代的思考につうじる古典としては最良のもの
のひとつだと思っている。
それはともかくとして、
映像について、心理法則への作用、生理機能への作用、経済原理・構造、など
から語れる範囲内のことを現代の学として具体的に語ることについての話。
それからヒュームの否定はまったくしてなくて、そこはむしろ肯定的・発展的に受け取っている。
それから観念論=形而上学だとも考えてなどいない。ヒュームがまさに実例。当たり前。
>>現在の自然科学においては物理学でも生物学でも、
観念論的な「実体」の存在など否定されてる
そこもちがうな。自然科学は認識論を問題にはしていない。
科学自体は観念論的な「実体」の存在を否定も肯定もしない。
観念論か唯物論か、実体をとるかとらないか、
どちらをとっても科学はできる.
科学の本質とはそういうことではない。


79 :
>>75
>>分っていないことを聴かず
一部にだけレスして、
核心的なところのほとんどをスルーしてまぜっかえして逃げてるのはあなたでは。
ほかの人はだいたいちゃんと議論や提示をしてるように見受けられるが。

80 :
>>76
ここはIDが出ない板だから、発言者の同一性を明らかするために名前欄に何か入れろって話だろ。
あんたは、自分のレスがわかるから不自由しないけど、周りにとっては迷惑なんだよな。
まあ、典型的な長文駄文レスだから、まともに読んではいないがねw

81 :
たとえば、こんな感じに自分が書いた最初のレス番号を名前欄に入れておくだけで、
スレの流れがずいぶんわかりやすくなるって話

82 :
>>73
>>ロックが心身二元論的故に唯物論的ではない、とはいえないと
あなたは唯物論という言葉で何を指してるの?
唯物論である時点で二元論ではないはずだけど。
ロックはヒュームとちがって、大陸由来の形而上学の影響を残した経験論だよね。

83 :
名前つけといたほうがよかったかな。
それはいいとして、
>>76氏と議論した方が勉強になりそうだ。

84 :
多分、頭から莫迦にしてるんだと思うんです。遅れていると。直接きいても権威がいないから雰囲気で。
ただ仏蘭西系はちょっと影響力あると思います。彼岸の火事って雰囲気ではあると思います。
それに、今現在イングランド功利主義と、スコットランド物質主義の間にも少しへだたりがある気がする。ミルが王道だと思ってる人は、
どっちかといえばイングランドの側に集積していて、スコットランドは思想の母国ですが、眺めているんだと思います。経済規模とは別に。
多分、オーストラリアの功利主義者らはあまり相手にされていないし、根本的には倫理命題は無視されている。キリスト教でいいと思っている。
 哲学の意味が、大陸とは違うと思います。ニュートンの上にあると。ニュートンは哲学者、と言って疑問にされないと思います。
自然科学者は哲学者です。だから大陸合理論の系譜(プラトン→カント→ハイデガー)は、ニュートンの段階で自然哲学の系譜で打ち消されている。
彼らが感心をもっていないのは、合理論→構造主義→言語学派という大まかな形而上学の流れで、遊んでいるだけだということではないか。
 ふざけ気味に、ケインズが「神が来た」とウィト訪問について言ったのは、そういう知性(≒悟性)重視の雰囲気が言わせている。

85 :
なぜ大陸より数学自体(言語学派としてではなく)への論究が盛んかというと、数学はもう彼らにとっては明白に道具だと思うんです。
大陸は数学とは何かを考えている段階にある。けど「確信」という概念で、ヒュームらによってもうその疑問は解かれているのではないでしょうか。
とりあえず使える、という点で別に数学とは何かなんて相手にしてない、というのは極論ですが、アメリカとのつながりをみているとそうじゃないか。
解釈学派は、地味に仏蘭西デリダの影響下でドイツに主流化してるみたいなんですが、ハイデガーも解釈学派でしょう。
当人のいた時点では成立してなかった用語・語義だけど。けど、イギリス自体は全然今後も関心もたないでしょう。ウィトも、マルクスもそうでしたから。
 ウィト『論考』の解説をラッセルが書いている。それが一番イギリス本国の現代哲学の事情を照らしていると思います。

86 :
>>多分、頭から莫迦にしてるんだと思うんです。遅れていると。直接きいても権威がいないから雰囲気で。
別にあたまからバカにはしてないと思うよ。
ここは匿名だし、権威とかポジションだとかに配慮はいらないし、みんなしてない。
みんな対等な立場で話の中身自体を検討・考察してるんだよ。ケンカの勝ち負けを競ってるわけではないんだから。
各自が自由に相手に疑問点を問い、自分の頭でよく検討して考えてみて答えていけばよい。
きちんと答えているか?考えてみているか?ということだよ。
検討不足のひとりよがりの思い込みだったと気づくかもしれないし、逆に持論をより強化するきっかけにもなりうるし。

87 :
イギリスも19世紀後半にはヘーゲル主義が盛んでヒュームの
全集を編んだトマス・ヒル・グリーン---日本では河合栄治郎の紹介で
新自由主義(ネオリベラリズムではなく、ニューリベラリズム。社会自由主義とも)の思想家として知られる---
もヘーゲル主義者だった。
ムーア、ラッセルら今日分析哲学の祖とみなされる哲学者たちもヘーゲルの影響から出発し
やがてカント、ヘーゲルと決別した。

88 :
プラグマティズムのパースもカントから、
デューイもヘーゲルからはじめて乗り越え、決別、だったな。

89 :

×プラグマティズムのパースもカントから、
◯プラグマティシズムのパースもカントから、

90 :
デリダ自体、大陸の伝統哲学を批判しまくってるからなあ…
批判そのものが彼の哲学だよ。

91 :
ポストモダンを信じちゃいかんでしょ
子供の遊びだよあれは

92 :
>>合理論→構造主義→言語学派という大まかな形而上学の流れで
ていうか、構造主義も現代言語学の応用も現象学も伝統的な形而上学から離脱した
言説の在り方を探る中で出てきたんじゃないか?
カントも少なくとも純粋理性に関する考察では、言説の峻別をはかる苦闘をしていたのでは。
形而上学批判という意味では大陸も一緒だと思う。
ヘーゲルからカント(あるいはもっともどってヒューム)へ、
ハイデガーからフッサールへ、立ち返って組み直すというのはわかる。

93 :
個人的には、カントの哲学は捨ててしまった方が良いと思う。
カント哲学を絡めようとするから、何もかもが台無しになってしまうのだ。

94 :
言説の有り方を探る、というのは、過去の哲学が執着していた点でもありますね。
厳密な言葉を探るのは何故か。それは答えを導くためですが…。
ではここで、そもそも答えを導く必要があるのか、という疑問が湧きます。
哲学とは問う事であると考えます。そこに必ずしも答えは必要では無いのではないか?
逆に言えば、答えを必要とするあまり、『望まない物を見ないよう』にしているのではないか?
それは、疑問を問う事とは対極にある考え、つまり疑問を語らない事へと繋がります。

95 :
>>93
カントの何がいかんというのか。
理由を書かんといかんぞ。

96 :
カントって三回も言ってる

97 :
>>94
言説の有り方を探る、というのは、過去の哲学が執着していた点でもありますね。
厳密な言葉を探るのは何故か。それは答えを導くためですが…。
厳密な言葉を探るのは答えを導くためではない。
きちんと問題点を把握し、明晰に適切に考察していくためだ。
そして双方のコミュニケーションを成立させるためだ。
科学や論理学、法規定ではないのだから、最終的に同意形成できる答えはでない。
ただ考えてしまうというだけだ。
だが考え、対話し、言葉を用いるのなら、上記の点には配慮しておきたいというのも。
というわけで、>>94の後の2段落の文章で言ってることは少なくとも私には関係がない。
>>93
カントだけの問題ではないな。カントには
形而上と現象界の峻別や、悟性認識の図式、カテゴリーなど、
頭の使い方・物の見方という点で学ぶべきところは多いが、
その古い図式はとうていそのまま使えるものではない。
理性(悟性ではない)をめぐる話や形而上学的議論のくだり、形而上学的な倫理学のくだり。
現代においても説得力・必然性があるだろうか?

98 :
日本でヒュームの哲学の再評価を主張した先駆者は、渡部昇一。

渡部昇一『新常識主義のすすめ』が先駆けだった。

99 :
>>97
しかし何が現代に必要かなんて断言できるのであろうか
それこそ独断論であろう、それはヒューム哲学とは違うと思う

100 :
>>97
ヒュームのことはなんにも言ってないんじゃ・・・
カントの話だな あとは分析哲学や論理実証主義での姿勢のようなものか?
どうもヒュームの話からそれるな このスレ

101 :
どうしてヒュームへの批判者は揃いもそろって外面しか見ていないのだろう

102 :
哲学は新鮮な喜びを与えるよねー!?♪。

103 :
>>95
哲学と日常を切り離すために、神を規定した事です。彼の哲学は、そこに終始しているとも言えます。

104 :
カントやヘーゲルと違いヒュームって日本語だと訳が古く読みにくい、高い、入手困難などでなかなか読めないし
英語だって難しい。
ヒュームについて議論しようにもちゃんと読んでる人って少ないでしょう。

105 :
英語で読めばいいだろう。
ヘーゲルよりは読みやすいと思うが。

106 :
中公クラシックスの新しめの訳があるじゃないか
岩波のはなんで四分冊なんだ?

107 :
抄訳と完訳の違い。
人間本性論の木曽訳が復刊してたんだな。
訳者が亡くなって未完なわけだが、続刊を出す予定でもあるのか?
http://www.h-up.com/books/isbn978-4-588-12080-0.html
ヒューム読本も新装版がでるらしいし。
http://www.h-up.com/books/isbn978-4-588-12132-6.html

108 :
中公の抄訳と、英語のペーパーバックに
手ごろな値段のものが出てたんで、
まずはこれらから求めてみようと思う。
認識論自体に興味があるわけではなく、英米思想の古典の確認なので
もっとつっこむかは後でまた判断。
ということでよろしいですか?

109 :
岩波文庫『市民の国について』(1952年)
安倍能成(戦前の文部大臣)の序文より
カントの哲学は日本で最も多く流行した哲学であるが、
殊にその因果論でカントがヒュームの刺激を受けたことは、哲学学徒の誰もが知っている事実である。
しかし我々は哲学史で、ヒュームが因果法を根幹とした認識を、我々の主観域内のものにした、
カントはそれを受けて認識の主観性をみとめつつも、ヒュームと違ってその認識主観内におけるアプリオリを見出したことによって、
人間認識の客観性――必然性、非偶然性――を保証した、というくらいのことを知っているに止まり、
進んでヒュームの書いたものを読み、ヒュームの真意を把み、
カントとの思想関係を文献的にまた実証的に批判することは、あまり試みなかったのである。
ヒュームの哲学的主著である「人性論」、「人間悟性に関する探究」の訳は、世に出はしたけれども、あまり世に行われず、
ヒュームの著作の翻訳もその学問の研究も、まだこれから進められねばならぬと信ずる。

110 :
>>その認識主観内におけるアプリオリを見出した
それがアプリオリであるということがなぜわかるのだろうか。
あるいは論理主義的な意味でアプリオリと設定している部分はともかく、
心理面、認知面、脳機能面に関しては
認知科学や神経科学、発達心理学などの成果を待つべきものではないだろうか。
まちがってる?
とりあえず、カントにすすむにしても、カントとはちがう方向にいくに
しても(分析哲学でも心の哲学でもなんでもいいが)
ヒュームは読んでおくべきだ。
その上で、その先を考えようと思う。
なんで日本ではヒュームをちゃんと読まないひとが多く(出版もあまりされずに)、いきなりカントやヘーゲルにばかり
行く人が多い傾向がある(あった)のだろうか。
西欧独特の形而上学の伝統とのすりあわせというより、純粋に人間の認識作用そのものに向かおうとした古典であるぶん、
今読んでも不自然さは他のものより少ないのかもしれぬ。
ということで>>108

111 :
「よく独断のまどろみを正された」とカントがいうのは、
経験に基づいて認識が成立する、という点についてじゃないですか。
主観的な確信だがその認識は疑いえなければならない。さもないと独断に陥る。
こういう事をカントはヒュームの著述からさとった、といえるはず。
 だからカント哲学そのものが経験論系譜と異なるものではない。
よくいわれてる様、経験論と合理論をうまくまとめたのが三批判書。
数学的厳密性から「学ぶことのできる」唯一の学識=純粋理性として経験論を再構築した、と。
 しかしまた現代ではこの数学的厳密性そのものが疑われている。
実際には自己論証できない不安な体系とみなされ道具視されるにとどまっている。

112 :
>>111
プラトニズムに立つとするならば数学には数学的対象があると言えるけれど、論理には論理的対象があるとは言えない。
論理は諸対象の関係でしかない。
数学も論理学も記号を用いるけれども、似て非なるものってこと?

113 :
「数」をどうとらえるかだな。
数を論理に回収する立場、
数学的プラトニズム、・・・・
おれは前者のつもりで数学を使っている。

114 :
>>112数学基礎論は、論理式に全ての数学手法をかえしていこうとしたもの、と捉えることもできるか。
ラッセルが有名だが、この方針が論理式へ図形操作(幾何学系)も代数系も回収しようとしている。
 そのプラトニズムな数学的対象というのは、「数式」か「代数式」のことですか?
a+b=c
こういったものは、
aたすbはc
と同等、というのが数学基礎論の本質ではないでしょうか。つまり、代数は論理の拡張です。
幾何学は既にデカルトの時代に代数へ統合されていたから、今日の全ての数学の発展は単に論理の拡張とみなせる。
ただし、論理式には自己言及さがあって、正しさを証明できないとすると、ここに「哲学的論理」が必要になる。
感情などの重視は、この哲学的論理に厳密さよりも包括さ、補いとしての意味を見るとき生じる。だから批評も詩さえ哲学的論理は扱える。

115 :
>>114
>>23 のようなヒューム自身の数学観とはズレるが、学問的には解析よりも、グラフ理論つまり
離散数学の方に可能性はあるし、そうした立場に立って初めてヒュームの重要さもわかると思う。
確率論などは、解析と離散の折衷であって、代数で片付けられない問題を表現している。
つまり一対一対応のヒュームの原理はそういった現実に対応し、通分出来ない対象を浮き彫りに
するもので、数式万歳とだけ言っているわけではない。当然カントが描写した様に不可知論とい
うわけでもない。
ゲーデルの不完全定理も、一対一対応が万能な解析を準備するとともに、返す刀でその不完全さを
明らかにしているわけで、これは実は離散的なヒュームの思想の再評価を準備するものでもあった
ろう。
より具体的に言うなら、
東電が出した放射能と将来のガンの因果関係を証明出来るか?
これには11日以降のメモに書かれた自分の居場所と自身の身体の一致(一対一対応)が明らかな
ら、裁判で有効だろう。
つまりヒュームの思想にヒュームの原理で対抗する。そんな時代なのだ。

116 :
>>115
あずまんみたいに、伝聞だけで全体を話すなよ。
うちの管理組合はそんなことしていないよ(w
監視したほうが安全管理としてコストがかからない、そのために
自らの自由を放棄しても良いという考えは否定できないし。
これを否定するには、監視なしに治安を回復する方法を
示さないと。

117 :
>>115貴方は大変に鋭いですね。
>一対一対応が万能な解析を準備するとともに、返す刀でその不完全さを
>明らかにしているわけで、これは実は離散的なヒュームの思想の再評価を準備するものでもあった
離散的とは、読解としては解釈学のことじゃないでしょうか。どちらに転んでもよさ、ということ。
>確率論などは、解析と離散の折衷であって、代数で片付けられない問題を表現している
これがもし真なら、確率論の上にヒュームを超える何かがありそうですね。原理として。

118 :
ヒューム的確信は、いわば確率論的理性のことなんじゃないでしょうか。
解釈学も、この的な理性と合わせられると別のものになる。
 科学の緻密な厳密さは、解釈の確率ではないですか。
だからそれはパーセンテージ、割合でしかない。
学校で教えてるみたいな「正解」は確率のよさ、ではないでしょうか。
究極では全単射というものは数学概念上にしかない。それは抽象概念にとどまっている。
だから自然界への知識、道徳、学識は、確率論のよさ、に返る。感情とはある文脈の確率のよさじゃないですか。
こうしてみなおしてみると、知性・理性・感性といった三分法はあまり意味をなしませんね。
もし確率よさでしかないならどの認識も、ただ確率の割合にもどっていく。事実の一致であれ、当為の設定であれ。

119 :
う〜ん
確率のよさというのは
ある条件におけるその命題の成立の可能性の度合いではないかな。
そしてアポステリオリな現象経験に根拠をもつ命題というのはどこまでいっても確率の良さでしかない。
だから現象の記述(自然現象、感情などの心理現象、社会現象など)については、
その厳密性というのは論理を共有していればあとは確率のよさに帰るだろうけど。
しかし知性・理性についても確率のよさに帰るというのはよくわからない。
どういう意味ですか?

120 :
ウィトゲンシュタインをよんでたんだけど、
彼は確率を条件付き確率としてとらえていたような。
ある条件Pが真となる状況の数を分母として、
その条件の中である命題Qが真となる状況の数を分子として。
P∧Qが真となる状況の数 / Pが真となる状況の数。
こうすると、アプリオリな知性(論理)による判断(現象経験による確証はなし)にも確率の良さというものを設定
できるということでしょうか。

121 :
そして、経験によってさらに絞り込まれていく、と。
確率の精度は一気に上がる。
しかしどこまでいっても確率の精度である、と。
数学と形式論理学だけが確率=1の命題の成立を達成できるんですね。

122 :
ということは、
数学はたんなるトートロジーなのでしょうか。

123 :
トートロジーって意味分かってるか?

124 :
すべての定義域(変項における真と偽の代入の組み合わせ)において真の値域をとる
真理関数となる命題のことでしょ。

125 :
ある公理、ある条件のもとでは、
数学の定理は恒等的に真なのだからトートロジーなのかなと思ったんですが。

126 :
あらかじめ決められた確率空間から外れた事象は排除するということ。
例えば、サイコロを振って、振ったサイコロが割れてしまったとか、
どこかにひっかかって2つの目のどちらが出たとも判別不能な事象とか。

127 :
そもそもがサイコロを振ったらどの目も出る確率が1/6である
というアプリオリな保証はないわけで、サイコロの製造工程で
重心とか人間がコントロールできる要因に偏りが出ないように
して、後は品質管理でどれかの目が明らかに出やすいサイコロ
を不良品として排除する。

128 :
いや、確率の妥当性の話をするなら、
製造工程におけるばらつきのような要因を度外視して、
完全に均等なサイコロを想定したとしても、
確率 1/6 とは言えないってことでしょ。

129 :
とりあえず確率と統計の勉強やりなおそうぜ
経験論について語るのはそれからだ

130 :
イングランド史読んでる人っているの?

131 :
哲学はもう二十代でカタがついたから、
余生は歴史編さんで過ごしたんだろ。
ヒューム哲学とは関係ないと思うけど。どうなの?

132 :
そういう括りでもってイングランド史とか誰も読まないよな、俺もそうだったし。実際、ヒュームの認識論理解に資することはないだろうけど、ヒュームの総体を理解する上では読んでもいいと思うんだが。
そういうわけでamazonでさっき注文してみたが、ただの歴史書なんだろうね。

133 :
政治論集なら読んだことがあるが、普通の政治思想・経済学の本だった。
ロックの社会契約説に対する批判が書いてあった。

134 :
「100名の最も偉大な英国人」には入って無いんだな。
ダイアナとかブレアが入ってるのに。

135 :
一般投票だからな。ロックもアダム・スミスも入ってないし。
ダーウィンとニュートンはベスト10入りしているけど、哲学者はトマス・ペインくらい。

136 :
そもそも一般的にイギリスって哲学の評価があまり高くないんじゃね。伝統的に。
科学ならともかく。

137 :
でも「西洋近代思想家100人」とか選んだら確実に入るよね?
10人、だと入るかどうか微妙だけど。

138 :
10人に入れてもいいだろう。哲学史上ではカントよりは上。
観念論と懐疑主義を極限まで進めて因果関係の論理性と自我の存在を否定したのは、
哲学史上において大きなターニングポイントを作った。

139 :
>>136
そうでもないと思いたいけど。そういや、一般向けに書いたものも多いし、
ノーベル賞までもらっているのに、ラッセルも入ってないんだ。
>>137
西洋近代というくくりじゃ10人の中にかなりの確率で入るんじゃね。

140 :
センスのいい哲学ヲタには評価が高いだろうけど、一般受けしないのは昔も今も同様。

141 :
ヒュームの著作の中で特に大衆的人気を得ることに成功したのはイングランド史だったので
大英図書館やケンブリッジ大図書館では今だにヒュームは歴史家として登録されているそうだ。
当時は文学というものが内包するものが今よりずっと広くて
ヒュームは哲学、思想というより
広く文学での成功を求めてその中に今日の哲学、経済学、歴史学的なものが含まれていた。

142 :
>>136 >>139
社会思想家は多いが「形而上学の大家は?」と言われると困る。
好事家が片手間でやっているイメージ。

143 :
ヒュームが出てきたり、
分析哲学が隆盛を誇ったりする時点でさ・・・。
一般化できることではないが、傾向としてイギリスにはどこか形而上学や、
たんなる知性偏重主義にたいする軽蔑感、警戒感があるんじゃないか。

144 :
観察は信用するが推論は信用しない、というのがイギリスの知識人の価値観だから、思弁的なものは意識的に排除される傾向がある。
代わりに博物学(今の地球科学や人類学)の方面では網羅性と客観性で歴史的に他国を圧倒してきた。

145 :
博物学だけでなく、物理学に代表される精密科学も強いな。
ヒュームや分析哲学はむしろ単に思弁的な哲学の芽をR方向なだけじゃね?
そりゃあ評価されるべきはヒュームではなくニュートン、
ムーアではなくディラックとなるよな。
生産的で威力も大きい。

146 :
ヒュームの価値は、あの結論をどう扱おうとするかで変わってくると思う。
「不可知なんだから、何をやっても無意味だ」と考えるか、
「不可知にもかかわらず、とりあえずうまくやってきたんだから、
 例え分からないことがあっても絶望する必要はない」と考えるか。

147 :
後者はプラグマティ(シ)ズムに通ずるんじゃないか

148 :
            _.. -―――- .._              ヽ    そ  因        /
        , '"           `丶.            i     う   果       /
      /                \          |     考  に      /
    ./                    ヽ         |     え  蓋      /_
   ,'       ∧               `、     |   る  然       /
   |     /   \  |\    |\        |         |    習  性       /
   |      |  \_\|  \  !_,ハ.       |       /   慣  な     /
   |     |         \|  |      |   /      が  ん    /
    .|     |<〇>    <〇>l       |   ` ̄''‐┐   お  て    /
    !   |\|  --‐'    ト|┼H ||/ |   |       /    前  な    〈
   |  |              l│| !   |   |     /     ら   い    \
   /   |     ,.,.,.^ ^、、、    |    |       /     に  ん      \
  _/     !      lエエエエl     !     \     /     あ  だ     | ̄ ̄
/´7      \     |ェェェェェ|     /    ヽ ̄`\  ̄/    る  よ    |
    ̄|/|  /^x,        ,x''^! \ | ̄`     \ /    だ          |
        |,/ l   ´'l┼┼┼l'`  |  ヽ!        /     け         |
            \          /             /                !
    デイヴィッド・ヒューム(1711-1776)

149 :
 l::::::::::::::::::|_!::lヽ:::::::::ハ::::::::::::::::::::::::::::::::i、::! ノ
  !:::::::::::::::::l-‐ェ!;ト ヽ:::::l ´!:::::::::::::::::::::::::::::l ` ヽ   幺ク 亡 月 |  ┼‐ .|] |]
  l:::::::::::::::::「(;;;)ヽ、__、::レ'´l:::::::::/l、:::::::::::::l   /   小巴 三l三. ヽ_ノ / こ o o
  !:::::::::/l:::l__,,,rタ"゙、;!)、__!::::/ノ 〉、::::::::l   \
   l::::/ lヽ!    _ _   l;/´  ! >、::l   /  実験や検証しても
  ノノlヽ、_!    r――‐┐   /_ノ:::|  /     真理に近づけない不可知性に絶望した!!
    l::::::>、   レ,二二ェ!  /i:::::::::::l   ̄ ̄|_     /ヽ、  /\   /\    /
    l:::/ /::ヽ、 `ー-―-' ,ィ'::::!\:::::l    (ヽ、//\/   \/   \/   \/
    レ' ム-''´lヽ、  _,,./! ゙ヾ!__ヽ!    ヽ´ヽ、ヽ
            !   ̄     レ;'´  |  (,ゝ、 \ ヽ l、
        /| _,,.-/´  ;; .,,,-!  ヽ、 ヽ、 | | ! l
       / 斤'"〇 /´    ,;;:''" _,l_   ヽ ヽ/  l | l
      /; l、」_,,/     '' ゙;;/  ヽ、   〉  `ヽ  l/
      /!,r''´!/  /     ';,/"゙''':;,,,,;;'' \ /     ,!
    / l ,;;  |l  /`'';, ,,   /   ,;;''"゙''   l     /

150 :
           /:::.:.:.:/:.:.:.: : : :.:.:.:.:.:.::.:.:.:.:.:.::.:`::....、
          /::::::::: :/:::::.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.`:.....、
        /:: :::::::: :/!::::::::::::::::::.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:._;:: >
          /:::::::::::: / '、:::::::::::::::::::::::::::::::::::ヽ:::::::::::::::::::ヘ           -──
        i:::::::::: ::/   `'  、:::::::::::::::::::::::::::::〉、::::::::::::::::ハ     /
         !::::::::::::i       `' 、:::::__//_:V::: ::::::::::::!    /
       l::::::::::::i            `<::7/ ̄:::l:::::::::::::::::|  /
       l::::::::::::! -−- 、       -‐ヽ::::::::::l:::::: ::::::::l  /    素 う 何
.         l:::::::::::!   _      ´  _  ヽ:::l::::::::::::::,' l      敵 ま の
         l::::::::::! //_)::ヽ、       /_):::::ヽヽ l::::::_::::/  !      じ  く  蓋
        〉"ヽ:l l !:::::::::: !       l :::::::::::! l l/ _ ヽ  l       ゃ い 然
         l lヽ. ! ヽ_,ノ         ヽ_,ノ l´/ l l  !       な く  性
         ヽ ヽ_ l                    r´ .ノ ./  l       い な も
        ヽ._ 入            |/|/|/| /二...イ   l      で ん な
         l:::::/lヽ、            /!\:::::::ヽ  l      す て い
          l/ レへ   ヽ二フ   /\l  `ー-`  〉     か   の
               `i 、   _.  1           ̄ヽ        に
                  _l   ̄    l_              \
               /::::_!        l_:::::\            \
            /::::/ l        l ヽ:::::::ヽ              `ー ─ -
     チャールズ・サンダース・パース(1839-1914)

151 :
次はカントのAAでも貼ってくれ。
そう考える習慣=アプリオリなカテゴリー・悟性形式
と読み替え、保証される。
しかしまあ勝手な前提の措定だがな。

152 :
>>148-150
エクセレンツな説明ですね。乙

153 :
不可知、不可知っていってるけれどな
みんな自分のことだってワカンネーんだからよお
どうでもいいんだよぉそんなことは

154 :
>>148-149
間違ってる。
ヒュームが主張したのは因果には「必然性」がなくて「蓋然性」しかないということ。
因果関係は「論理的関係」でなく「自然的関係」であるということ。

155 :
ヒュームは自然の斉一性原理を提唱している。
この点から実験や検証しても不可知とは結論しない。

156 :
>>155
そこが不徹底ともいえる

157 :
なぜ不徹底なんだ?

158 :
なんで不徹底かって言うと、論理的に無理があるからかじゃないですかね。
論理は疑えるけど、自然は疑えないって、どういう判断ですかね

159 :
ヒュームは論理は疑いうるという大雑把なことは言っていないよ。論理的関係としての必然性を自然に当て嵌めることが妥当性に欠けているということを言っている。その上で自然も疑いうるからこそ自然の斉一性原理で高度な蓋然性を確保しようとしているわけだよ。

160 :
私の思うにはヒュームとは
ヒュームについて語る事が必然性や蓋然性がないという
そういうものだと思う
観察者の存在というものが抜けているのだと思う
例えばフィルムだけがあって、だれもそれをみる事が出来ないという
ヒュームの哲学とはそういうものだと思う
意味はなかろう

161 :
観念の連合であるフィルムの連なりのようなものがあるばかりとして、それが見るものと見られるものの対立、すなわち主客の対立をそもそも廃棄しているところにヒュームの可能性を感じるんだが。


162 :
しかし、観察に関する視覚にせよあらゆる感覚というものは
例えばドーパミンのような何か液が分泌されてるような現象であると思われる
つまり刺激を受けるとかいや、刺激それ自体が何か人間の体内で
何かが分泌されて、それが脳か何かに反応している事なのだと思われる
つまりは観察をする事自体に必然的に人間の例えばイデアなどという何か
不思議な代物が関わってくるのであり
であるとすればヒュームの考えは問題になりようがない

163 :
ここはヒュームを問題にするスレである以上ヒュームを問題にしていない者は他に書くべきだな。如何に思考が成り立つかを知ったとしても如何に軽やかに意地悪く思考するかは他で学ぶしかない。
ということでまずは人性論を読もう。

164 :
観察者の視点が欠けているのではなく、
自然現象そのものについて語ろうとして、
しかし経験主体である観察者の感性・視点がそこに入り込んでくる
ことを指摘しているという点ではカントといっていることは一緒。
記述の仕方、前提を変えただけ。
>>自然の斉一性原理で高度な蓋然性を確保
はっきりいってこれは無理がある前提だと思う。
ヒュームの経験論らしくない。
それこそ自然を見る際の勝手な偏見だろう。
「自然の斉一性原理、高度な蓋然性」があってほしい、あると信じたいという単なる信念表明だろう。

165 :
ヒュームからカントが学んだわけだから類似するのは当然なわけだが。
俺はヒューム哲学は賭博者の哲学だと思っているから、信念表明だとか疑念は重要なものだと思うが。
サイコロを振る人間は冷静に明日、太陽が昇るだろう蓋然性におおかた賭けるのは明らかだ。
それを不徹底と断じてみても賭博に於いて負けるのは一体どちらだろうか?

166 :
自演

167 :
なんて哲板って馬鹿でモノ知らないのに哲学者同士の類比とか大ざっぱな話が好きなやつ多いの?
馬鹿だからなんだろうけど

168 :
で、お前はどんな話が好きなの?

169 :
>>165
>>それを不徹底と断じてみても賭博に於いて負けるのは一体どちらだろうか?
なにか勘違いをしているようだが。
純粋な経験論哲学の論調を貫く立場としてどうなのよ、という話で、
プラグマティックな観点からどうよ?という話とは別。
そりゃうまくいってるんだから、ヒュームはいらん。ニュートンでだけでいい、ということに
なるが、それじゃ不満で、根本から問い直すのが哲学だろ。
困った時は、自然の斉一性を勝手に保証する、だなどど、それでは形而上学的な神学者のような論法ではないか。

170 :
論理的、自然的の区別がついてない人がいるんじゃないか。
なぜ「自然科学」という言葉があるか考えてみればいい。
ヒュームからすれば万有引力の法則は論理的には無くてもいい。
しかし自然世界ににその法則があるなら、それには斉一性があるということ。

171 :
>>167
バカはお前。
具体的にどこがまずいor浅いと思われるのか提起してから物を言え。
哲学者や思想同士を比較してみるのは当然。
デカルト―ニュートン―ヒューム―カントのように影響関係があるならなおさら。

172 :
>>自然世界にその法則があるなら、それには斉一性があるということ
そういう仮定つきの命題をなぜ主張できるのか?
経験からとは言わねえよな。
われわれが所有し使用する論理形式の前提(カントなら悟性形式というだろうが)
として、うまくいくようにあるものを設定するというのならわかるが、
自然そのものについてそういう前提を勝手に設定するというのは問題があると思うが。
ヒューム自身の論調とも合わない。


173 :
ヒュームは自然界の法則を「科学的に論証しうる」という人間の傲慢を批判しているのであって、
「自然界に法則はない」などとは一度として述べていない。

174 :
>自然世界にその法則があるなら、それには斉一性があるということ
だからその「法則」と「斉一性」の関係が、論理的でなく自然的だと理解しろよ

175 :
「法則」と「斉一性」の関係が、「自然的」とはどういう意味か?

176 :
経験による帰納からも、確証できるわけでもない。
もちろん演繹できるわけでもない。
だが、ニュートンの成果を本気で信じられないわけじゃない。というか信用してはいる。
ヒュームは経験論的観念論を推進していく中で説明や説得(自己の納得)に困っただけじゃね?
自然的にあらかじめ備わってるなどと例外的な規定を頭ごなしに設けちゃってさ。
だからカントが出てきたり、のちには論理主義や分析哲学なるものがでてきたんでしょ。

177 :
観念連合の法則だって自然の斉一性の例だろ。論理的必然性ではない人性(自然性)に基づくわけだから。

178 :
自然の斉一性ってのも結局人性(自然性)によるものか?
そういう風にどうしもみちゃう、おもっちゃうっていう。
悟性形式とかわらんな。

179 :
台風は人性によらんだろが、human natureも自然の一部だろ。

180 :
自然とはどういう意味で言ってるの?

181 :
>>128
アインシュタイン「神はサイコロを振らない」 これはtautology:同語反復:くりかえし論、への否定でしょう。
確率のよさ、は知識といわれる。Knowledgeのくりかえし論へしか科学らしさはない。
アインシュタイン的主知主義と、ヒューム的確信主義は違う。
 数学は絶対の真理を示すわけではない。その限度も確率よさの元にある。
ラッセルの試み(数学基礎論)よりも、この観点の方がより現代的形而上学の状態だと思います。
脱構築もいわば解釈学的確率への倫理でした。
数字含む記号が真理を示すのは、確率よさ或いは確信度によってでしょう。倫理学式、道徳律はいうまでもないでしょう。

182 :
>>179斉一さは、神の仮定に基づく「知的設計論」の一部として機能してると思われます。
しかしそれは徐々に批判されていってる。神の仮定を外しても機能する形而上学を欲しがっている人々がいる。
キリスト教の桎梏を抜け出したい人はそれをのどから手が出るほど欲しい。日本など仏教圏には、斉一さの悩みははじめからない。
 結局、創造神、クリエイターを認めるかどうか、が焦点になると思います。彼がいた場合、斉一さは保たれねばならない。
 人性と自然をとりちがえることは、「理性」の前ではできません。旧約聖書によれば、それは神の命に背いた人間唯一の特徴だからです。
この理性の仮定もない日本人の(思想、思考、形而上学)多くには、human natereを単に斉一さに含まれるとみなすのが多数派でしょう。もののあはれ論など。
 西洋的理性の桎梏が個人主義をもちこんできて、はじめて日本人の中にも上述の斉一さと宇宙の関係が問われはじめた。科学はその行為です。

183 :
natere→nature

184 :
そうかね? フレーゲや数学基礎論の影響は受けてると思うけど、
古典との関係は薄いと思うな。
まぁその辺見抜くのはド文系クンには難しいかもしれないけどね(笑)

185 :
ヒュームは信念論でデカルトのような基礎づけ主義的アプローチでなしに、知識の外在主義を取っているんだから
human natureを生得的であるという含みをもつ人性という訳語はおかしいのでは?
ヒュームは人性論のなかで社会の発展までを含むhuman natureの解剖を行っているわけだから「人間的自然」という訳語を用いるべきかと。

186 :
ヒューム 道徳・政治・文学論集 [完訳版] [単行本]
デイヴィッド・ヒューム (著), 田中 敏弘 (翻訳)
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単行本: 500ページ
出版社: 名古屋大学出版会 (2011/7/6)
言語 日本語



187 :
おぉ〜

188 :
自然には法則性なんてないし、人間がでっち上げてるだけなんだがな。

189 :
>>185
human natureを人性と訳すのは既に定着しているけどだいたい50年ぐらい前の翻訳センスだよね。
「人間的自然」とか「人的自然」と訳した方が素直でいいと思う。

190 :
ただ「人間本性」がどうやら今のトレンドらしいな

191 :
自然に法則性なんてないし、人間がでっち上げてるだけなんだがな。
傾向性はあるだろうが、人間の視点、都合で決まってるだけ。
人間的自然とか法則性を前提にする本性とか自然主義とか、
誤謬推理なんだけどな。
いくら法則性語ろうが次の瞬間、否定されるかもしれない。
そしたら、人間の都合で解釈し直さないといけない。
自然は本性はそこから仮構されるフィクションであり、
わかってない馬鹿がとらわれる物象にすぎない。
明日、太陽が昇らないかもしれない。
自然の斉一性があるわけじゃない。
人間が尺度であって自然は尺度に合わせて作り出されるものにすぎない。
語るのも愚かだが。人間的自然とかコントだろ?

192 :
>>191
そんなことを言いたくなる気持ちも分かるが、君の主張が明日反転する可能性もあるわけだから、あんまり固執するな。

193 :
「法則性なんてない」とまで言ってしまうとまた違う。
「法則性があるかどうかはわからない」ってだけ。
人間は自然に本当に法則性があるか知りえないが、「誰もが等しく知りえない」のだから、
少なくとも人間の賢愚は、その状況でどう考え行動するかで計るしかないだろ。
例えば、「知りえないから全てはギャグだ」って言って、勉強もなにもせずにホームレスになるのと、
「知りえないけど、とりあえず役に立つから」って勉強して高収入の職に就くのを比べたら、
どっちが愚かか?みたいな。

194 :
>>193
どこまでも経験の演繹であり確率であり、本来論理的必然性のあるものではない。
法則ではなく傾向。
それがどうした?傾向をより精密に把握する努力をすればいいだけだ。
できることをやろう。現代人はもはや真理などと大げさなものを求めてなどいない。
といって懐疑主義にとどまり、なにもせず、
後ろ向きになり、物理学もその他諸学もなにも勉強せず、何も知らず、哲学書をながめるだけ
っていう段階はとっくに乗り越えたっていう人は多いだろ。
やはり、いま人間に(あるいは私に)できるベストのひとつなのだ、精密科学は。

195 :
自然概念を人間に限定するなら人的自然、人間的自然でもいいと思うんだけど。
ヒュームが念頭に置いてるのは、社会なり道徳なり人間が歴史的に作り上げてきた合法則的なものを自然だって言ってる訳じゃない?

196 :
人間らしさ、人らしさというのがhuman natureの真相では? nature born:うまれつき。
人らしさは感情にある、故に傾向論―つまり確率的知識の認識―としての理性(human reason:知恵の実)偏重はおかしい。
これがヒューム的批判では? ならば感情とは何か? これをカントがのちに判断力批判で解説した。

197 :
ヒュームの用語法での「自然」ってかなり問題を含んだ複合観念だよね。
晩年も自然宗教に関する対話とか宗教の自然史とか書いてるくらいだから。宗教の自然史なんてニーチェの系譜学とかに通じるものがあるわけだが、常にキーワードとしてヒュームは晩年まで「自然」を使っている。
ニュートンが世界を研究したように俺は人間を観察と実験で研究するぜってことでのhuman natureの研究だろうけど。人工的・歴史的なものを含んでるのも確か。
ヒュームは論証は緻密な割に概念設定が曖昧というか錯綜としてるというのが俺の昔からの感想。

198 :
自然自体は法則なんかあるわけないだろ?
法則は人間の都合ででっち上げられるもので自然自体は関係ない。
自然には法則があるかないかわかんないじゃなく、無いんだよ。
片腹痛い。
人間離れて法則なんかないし、各人の都合でその法則も違う。
馬鹿じゃないの?

199 :
>自然自体は法則なんかあるわけないだろ?
そう断言できる論理的な根拠は?

200 :
法則性ということの自然の法則はあるかもよ
多様性が法則をもたらすということ
そして多様性は一様性から生じる
互いのランダムは重なり合えば組織化する

201 :
人間が法則作るんであって、自然は法則とは関係ないだろ。
人間の都合で傾向性にラベリングしてるだけ。
明日もそうなるか、常にそうじゃなければならないか、
三次元の局所的な人間や自然から法則なんか確定できるわけない。
人間がラベリングして都合よく、扱うだけ。その都合、
主観離れた客観性なんかない。自然自体は法則はない。
あくまでも人間が作るもの。結論は出てる。

202 :
>>人間離れて法則なんかないし、各人の都合でその法則も違う。
前半は同意だが、後半は良く考えてみるべきだ。
さすがに自然科学の強力さと共通性と信頼性はみとめるだろ。
自然という複合観念には法則性を認めざるをえんだろ。はなしはそれからだ。

203 :
アポステリオリな命題であるかぎり確率的法則。一方で、万有引力のあの式はアプリオリにああでなくてはならぬ。
これは(論理)法則だ。
法則が主観に属するか自然に属するかというより、人間の言語に属する。
現象はただあるがままに起こるだけだ。知らん。
そしてもはや観念論だろうが二元論だろうが我々はこのように法則的に見ることしかできないのだ。

204 :
>>202
だから、強力な傾向性あるにしても、結局人間の選択だし、
その中のより強い意見と言うことでしかないよ。
自然に法則らしきものが実在したとして、人間がそれを並べ順序つけなければ、
法則ではない。
人間の物語、順序づけ、選択離れて法則なんかないし、
同じように語っても一人一人法則に込めてるものは違い、
人間の社会の積み重ねでしか法則はでず、
主導権代われば法則は変わる。
自然自体は無記だよ。
あくまでもその瞬間瞬間の人間の選択、順序づけ、離れて法則はない。

205 :
>>204
ヒュームはもろに観念論でしょ。
人間の観念がすべてで、世界や自然も観念なんだから
法則も人間の所産である観念となるのは当たり前。
だが、こういう観念論自体は当たり前とはいえない問題をはらんでいる。
自然という観念のとらえ方・扱い方からして混乱している。
科学や世界について懐疑的な見地を抱いただけで、なにか哲学をわかった気になるのははやすぎですよ。

206 :
>>201
人間に法則が作れるなら、熱力学の法則とか、
人間にとって不都合な法則をなんでわざわざ作ってるの?

207 :
ヒューム哲学において観念の起源が印象にあるというのがまずもって大前提。

208 :
>>204
中々鋭い意見だと思います

209 :
問題は、法則が持つ必然性の否定ではないでしょうか?
法則が成り立つ確率の大小を問うのは、脇道に逸れている気がします。

210 :
はあ?
科学法則は経験からくるんだから、必然性のないのは当たり前。
必然性があるのは論理の規則だけで導かれるトートロジーだけでしょ。
論理命題とか数学命題とか。
その科学のデキは結局確率の大小でしかない。

211 :
カントの純粋理性は、必然性を保全するのにやっきだったが、現代ではもはやその維持は無理で、ヒュームの必然性を否定した確率論的理性が有効なのは明らか。
自然的関係への適応に限ってだが。

212 :
宇宙開発の妨害に為る相対性理論も不都合な法則じゃねーの!?♪。

213 :
>>211
そうそう。その通り。
それから、都合うんぬんは法学や政治理論、経済学説の対立、工学、には目的から考えてもおおいにありうる
けど、純粋な自然科学ではそれはないだろう。
ルイセンコとダーウィニズムを同列にならべたり、社会主義対資本主義だとか解釈したりする
科学を知らないアホな文系批評家がたまにいたりするけど。

214 :
>>213
資本主義と社会主義を勘違いしているのは理系では?

215 :
基本的に哲学の話からはズレてるみたいですね
ヒュームはそんな立派な事はいってないと思う
懐疑論じゃないって主張してるけど、ヒュームは懐疑論
で、科学を信じるってのは哲学いらないってことでそれはヒュームとは違う話
例えば人はなんで生きるかって事に全然答えてないでしょ
哲学っつうのはそういうもんだから
形而上の事なんだよね

216 :
>例えば人はなんで生きるかって事に全然答えてないでしょ
>哲学っつうのはそういうもんだから
それは人生哲学では?

217 :
>>216
だよね。
イギリス経験論の認識論は人生うんぬんとは関係ない。
そういうのをもとめて近世哲学の古典に向かってるのだとすると、
著作の問題意識とそれこそずれているだろう。
まあキルケゴーかサルトルかニーチェか聖書でもよんだらいいがな。
おれはそういう問題は言語や論理をろうするものではないと思っている。
まじめにヒュームや分析哲学、
そして言語、自然、心理の諸科学に向かいたい。

218 :
確率こそ人間の観測解釈結びつけ次第だろ。
グルーのパラドックス。
帰納も確率も法則などではない。主観都合以外の何物でもない。
いい加減客観主義やめれば?
自然には法則はない。人間が作るもの。
ヒュームはかなり革新的だけどまだ中途半端なんだよな。

219 :
>>218
いや、現代知識人(自然科学者、社会科学者など)はみんなやめてるでしょ。
おれは自然科学畑だけど、法則は主観的な確率だと自覚しているよ。
そもそも数学とちがって完全に経験由来だし。偶然的なものでしかない。
でも、だからどうということもないでしょ。
精密な知的営みとして人間にできる最善はこれだけ。
真理などというのはおこがましい。無限に精密さを増して前に進むが、無限に観察主体の主観である。それでよい。
客観などないからと言って後ろ向きになって、懐疑論振り回して何の生産的なこともせず、寝たようにして生きる理由はどこにもない。

220 :
だからそれが違うだろw
人間の欲望の果てまで食い尽くし他者とのギリギリのせめぎ合いすべきで。
相対的だがその中でぎりぎりとか馬鹿じゃないの?
何だっていいんだから、相対的だからこそ喜ばしいんであって。
宇宙、世界全てが欲望の対象でしかない。

221 :
>>220
お前は自分のことを客観的に見つめるべきだと思う。客観主義を放棄したお前には無理な相談ではあるが。

222 :
俺はヒュームは評価しないんだが
それはそうとして、精密な客観主義などとされてる考えは
どっちかというとデカルトの哲学っぽいと思うけど
歴史とか科学とかは抜きにして純哲学的な問題で、俺の方法序説みたいな
でヒューム哲学を探求するのは有意義だと思うんだが
懐疑論がどう実践されるのか、こういうのは哲学的にはかなりいい話題と思う

223 :
>>懐疑論がどう実践されるのか
まあな。生産的な方向でどう活かせるか。誤謬を正し、前に進めるか。
>>220のように、何だっていいんだから、相対的だからこそ喜ばしいんであって
などといったところで何も始まらない。
なんだっていいわけはない。もちろん思想の自由・表現の自由はあるし各自自由だが、
明らかにその内容の優劣や有効性の差はある。そこを見極める試金石を探らねばならない。
これなくして「相対主義的な多様性の喜び」などは沸いてこない。
内容の評価に絶対的な平等などなくて当然。
苦闘と発展の人類の営みの歴史の結末はそんななんだっていいというような浅はかな相対主義で片づけられるものではない。
だからこそ近世・現代の相対主義者たちも頭をひねって、悩んできたのだ。
おれは間主観的理性を信頼する。科学を信頼する。
それはそれが客観的真理だからではない。

224 :
まあヒュームやポストモダンの言説を
表面的に読んで、わかった気になって真に受けて無気力になってるとしたら残念な子だな。 
自Rるしかないのでは。
おれが高校一年生のころを見ているようだ。
取り返しがつかなくなる前に次の段階に早くすすめてよかったと思う。
懐疑主義や相対主義は一時の休息所にすぎん。

225 :
>>223
しかしそれはやはりデカルトの哲学ということじゃないのか
実験して、確実なものを吟味して、良い物を抽出するというのは
デカルトがどっかの宿屋かなんかで発見した驚くべき原理とかいうやつ
哲学としてはそれは結局自分で決めつける部分がある
それでカントのいう独断のまどろみということになる
一方イギリス経験論というやつはかなり批判しづらい
が、恐らく実践的にはならないんだろうと思う

226 :
>>225
おれがデカルト的な思想の持ち主かどうかはわからない。
二回よんだだけだ。
だが、自然科学畑の人間が哲学問題を考えると、どうしてもその始祖のひとりである
デカルトに似てくるということはあるのかもしれない。
>>実験して、確実なものを吟味して、良い物を抽出するというのは
哲学としてはそれは結局自分で決めつける部分がある
そうか?むしろこの部分はイギリス経験論がデカルトから引き継ぎ、
さらに徹底した部分だと思うが。
たしかにデカルトには余計な論証や、吟味不足の断定的な理性・人間・神への信頼があるから。
経験論自体は大陸の形而上学の伝統の泥沼よりも実践的で有望だと思う。
要はヒューム的な懐疑では終わらない・終われないということ。

227 :
客観主義とか、片腹痛い。
百パーセントの客観なんかあるわけないだろwww
傾向性があっても百パーセントズブズブにそれで従うとか、
決定されてるとか馬鹿も休み休み言えw
百パー恣意で動けるわけもないけど客観なんかあるわけない。
だからこそ喜ばしい。
語るに落ちる馬鹿だな。こんな当たり前もわからないとか。
客観、馬鹿じゃねーの?それはお前の都合押し付け投影した妄想だ。
それも過去のちんけな傾向性から投影した。
そういうの止めようと言う議論してんだが理解できないの?
理解できないの?
理解できないの?

228 :
他の奴も、つまんない尺度で作った自分の主観を、
客観とすり替える嘘は止めようや。
全てはそれからだ。
ヒュームは惜しいところまで行ったが道を間違えたし。
デカルト、カント、皆間違えてる。そういう間違いはもう止めようや。

229 :
物自体至上主義者というわけか
まあ哲学的にもっと完成度が欲しいところだな

230 :
>>227
はは。
いまさら百パーセントの客観とか言う人は
理系も含めていないよ。すりかえてなどいない。主観で一向にかまわない・相対で一向にかまわないのだ。
だが、だからといって何でもいいとかそういうことではない。
間主観性の設定の仕方にも妥当性の優劣はある。
絶対>>相対、そして絶対はないからすべて所詮相対、
ではなくてそのすべてである相対のなかにも間主観上の優劣はどうしようもなくあるということだ。
もはや「相対」という言葉を使う意味もない。
客観>>主観、そして客観はないからすべて所詮主観、
ではなくてそのすべてである主観のなかにも優劣はどうしようもなくあるということだ。

231 :
>>230
その妥当性の根拠にテメェの主観押し付けてるだけだって、
いい加減気づいてんだろ。
客観密輸入して、自分のプライド慰めてるってわかってるのに、
認めらんないだけだろ。馬鹿だね。
馬鹿はめんどくせぇ。

232 :
馬鹿には科学は難しい
でもラディカルな懐疑論なら馬鹿でもわかるし、科学に(口先だけなら)勝てる
哀れ…

233 :
ヒュームは死の直前、アダム・スミスにこんなお話を披露したという
ヒューム「ちょっと待ってください。私が頑張ればあと少しで人類を迷信から開放することができそうなのです」
死神「何を言っているんだ。そんなことはいくら待ったって無駄だ。はやく来いこの怠け者め」

これが懐疑論の実践だ

234 :
すべては主観に過ぎない!(だからどうしたという話だが)等のなげやりな論説(論ですらないか)って
理解に何の努力も要さず、そこから発展のしようもなく(実際、彼は「無駄、諦めろ」としか言えない)、
言ってること自体は正しいから(正しいだけで何ら知的な貢献をしないが)
理解力も思考力もない馬鹿にはウケるんだろうな。

235 :
哲学は理想を追求するよねー!?♪。

236 :
>>その妥当性の根拠にテメェの主観押し付けてるだけだって、
いい加減気づいてんだろ。
それを「だけ」といってしまうところに客観への羨望と主観への
一方的な貶めがあるのでは。
客観なる絶対物が理念上にあらかじめもっていて、そうではない主観そのものがすべて悪(?)、だから(?)なんでもいい(?)、という発想がある。
そうではない。主観しかないのだ。
そして主観には優劣があるのだ(ここでいう優劣はたんなる時の社会権力とかなんとかいう意味ではないことはわかってるな。)
認めざるをえない間主観的命題というものと、質の悪い、とうてい間主観に達しない主観というものがあるのだ。
我々にできるのは、ここの見極めの方法を考えることである(君のいう主観の押し付けにあたるが、すべては主観であるかぎり、
すべての言説は主観の押し付けである。そして、それ自体がすべて即悪いのではない)。
それから、君のいう客観の密輸入とは、「間主観性」のことだろう。
だが、客観とは意味がちがう。もちろん物自体なるものとも関係がない。
納得できる共通ルールの設定と共通確認によって得られる共通了解だ。科学はそのよいモデルだ。

237 :
そして実験と観察による確認、形式論理の使用、という共通ルールによる
共通了解を、
すべて主観による蓋然性(たとえ99.99%であろうと)≠客観、という理由で
拒絶し、好き勝手なことだけ言っていたいのならそれも構わないだろう。
思想の自由・表現の自由は、(内心にとどまる限りは)どんな馬鹿者にも絶対的に無制限に保証される。

238 :
何だか荒れてるがw
馬鹿はみっともなさすぎ。
不安なんだろ、科学とか根拠でもなんでもないのに、馬鹿みたい。
客観なんかあるわけないのに。
「このもの」例えばこのキーボード、この携帯、このディスプレイ。
それだって客観じゃないだろ?
当たり前だよな。欲望、主観がそう配置して、認識し並べたててるだけ。
法則がないように、このもの、この実在だってない。
なのにでっち上げないと科学も客観性も妥当性もない。
逆だろ?そんなもの否定なくて人間が欲望が宇宙を変え作り替える。
そういう営みが根源的で、その配置、過程でディスプレイをでっち上げてるだけ。
あるのは不定形の定まらぬもので人間が変える行いの配置の中でこのものがでっち上げられる。
考えたことなかった?
客観的な物なんかないんだよ。
全ては欲望との関わりで、それを主観を偽って人に押し付けるために、
客観だ妥当性だ科学だウンコを撒き散らして。
いい加減反省しろ、恥ずかしい。
そこまで突き詰めて考えたことなかった?馬鹿すぎ。

239 :
客観だとか、妥当性だとか、実験だとか、科学だとか、
本当にそんなもんで何かを言ったつもりとか、馬鹿じゃないの?
本当にそんなもんで何かを言ったつもりとか、馬鹿じゃないの?

240 :
だから〜
間主観性の設定の問題だっていってんじゃん。
アタマ悪いなあ・・・
あした太陽が昇らないかも〜不安だとか思うわけないじゃん。
間主観的ルールに同意でき、そのもとでの共通了解に達し、生活世界においてその通りの観測がなされ続けるわけだから、
べつに客観的真理だとか言う幻想を保つまでもなく(ていうか不要)、肯定される。
客観だなんだと一人で気にしてるのは、ここでは君だけだよん。全部客観じゃない=全部ダメだなんてことはない。
ここは一応哲学板なんだし、懐疑主義の見方があることはみんな当たり前だとわかってるよ。
その先・その次にいかないと。

241 :
懐疑主義を受容するかどうかってのは、正しさとか妥当性とかの問題というより、
思想というものを全てそのまま額面どおり行動に反映させるべきという行動主義
(疑うということは全否定であって、疑ったものに基づく行動は一切しない)と、
思考は思考、行動は行動、っていう現実主義(?)
(疑いはするが、他に代替案がなければ警戒しつつ使い、問題が無い間は使い続ける)
の違いのような気がしてきた。

242 :
>>241
その通りです。
無為な懐疑主義におぼれる奴は情弱。
上手に使える奴になりましょう。

243 :
何言ってんだか。
人間が万物が欲望が世界を宇宙をこのものを変えていく。
客観とかはその残滓、ウンコなんだよ。一般化平均化したゴミだろ?
科学だ妥当性は。
欲望が論理的に先行すんの。
馬鹿はいい加減黙れ。

始めに動的な主観、宇宙に取り組み何物もそのままにしない、
変化と欲望ありき。
客観なんかない。
何でこんな当たり前のこともわからない幼稚園児しかいないんだwww

244 :
>>243
お前、自分のごみみたいな文章得意になって色々なスレに貼って回るのやめろよ。
頑張ったのを色んな人に読んでもらいたいとか低脳児すぎる。

245 :
>>243
このスレに来てるだれもお前の論理性もない、説得力もない、中味もない意見など聞いていないぞ。
共通了解などない・どうでもいい、好き勝手にやりたい欲望しかないとお前が思ってるのなら、
もう書き込むのもやめたら?無意味だから。

246 :
>>243
「意思と表象としての世界」でも読んで、鵜呑みにしちゃったクチだね。
万有引力の法則の公式のあの形も、熱力学第二法則も、お前の言う欲望から形成されたのかどうかはしらんが
(世界を把握意したい⇒どうしてあの形になるのかは意味不明だが)、
おまえのように根拠薄弱の思い込みを信じ込むのを警戒するための懐疑主義なんだろうがよ、と。

247 :
土屋俊「文学者に出番はない」

248 :
>>243
ニーチェとヘーゲルを貼り合わせたような思想だなw

249 :
ド文系くん御用達だな<ニーチェ・ヒューム

250 :
法則も定理も幻想に過ぎない以上、あらゆる予想が的中することは偶然(こういう表現も嫌うのだろうか)であるわけか。
天気予報を見て傘を持っていこうだとか、何時に出発すれば間に合うだろうとか、今こうしてキー入力して文章を送信しようだとか、
すべての予想は等しく幻想であり差はないと考える人にとっては、さぞかし生きるのは辛いことなんだろうね。
数学で赤点とって叱られたあの頃。みんなママがいけないんだ!

251 :
>>すべての予想は等しく幻想であり差はない
まあすべては人間の観念にすぎないとしても、
その観念の内容には差があるわけだがね。
懐疑論に立って科学や数学を否定しておきながら、賛同者のいない自論は懐疑せずにハマるって
どういうことよ。

252 :
>>250
いやいや、ヒュームの言っていることは、
「合理的根拠は無い」ということであって
必ずしも「幻想に過ぎない」ってことじゃないだろう。
まあ、「幻想に過ぎない」という言葉の意味によるとは思うけど。
仮にそれ(「幻想に過ぎない」の意味)を「行動の指針とできない」と仮定するなら、
「すべての予想は等しく幻想であり差はないと考える人にとっては」確かに、
「さぞかし生きるのは辛いこと」だろうけど、
ヒューム自身を含めて、ヒュームの考えを認めてる大部分の人は、
「合理的根拠は無い」ことが必ずしも「行動の指針とできない」ということになるとは
考えていないと思う。

253 :
客観的じゃなければ全てが幻想かよ。おめでてえな。
そんなこと言ってねーだろ、
客観だ妥当性だなくたって現実とは関われるんだよ。
そっちのが豊かでまず選択ありきだっつーの。
目を覚ませ。
馬鹿じゃねーの。
恥ずかしくないのかよ。カス。

254 :
>>249
また変なのがw
文系というならニーチェ、ショーペンハウアーだろ。
数学に依拠してたヒュームは全然タイプが違う。
>>252
そう。
ヒューム思想の根幹は因果関係が論理的でなく自然的な関係であるということ。
だから自然の斉一性原理を提唱してる。

255 :
「幻想に過ぎない」という言葉が気に入らないのであれば
「妥当性はもちろん、確かさの差もない」と読み替えればよい。

256 :
現実というのは偶然的真理の集合です。
現実的なものは偶然的なものです。常識ですねw

257 :
現象世界が偶然的であっても一向にかまわないだろ。
偶然(経験)と必然(論理、悟性など)のアタマの整理をしたんだよ。ヒュームもカントも。
偶然であることと、たんなる妄想的な思想とは別物。

258 :
>>255
まあ、対象とする問題によると思うけど、「生きるのは辛いこと」云々という話をしようとするなら、
その言い換えは意味が無いんだよ。
現実の生活への影響という意味では何も言ってないに等しいという点では変わらないから。
「幻想に過ぎない」であろうが、「妥当性はもちろん、確かさの差もない」であろうが、
それらの観念レベルの判断を現実の行動をどう反映させるかについては、
人によって考え方が異なるでしょ。
「幻想に過ぎない」し、「妥当性はもちろん、確かさの差もない」と思うけど、
当面この方法しか無いし、それで困らないから、この方法を使うもんねー、
それで人生結構楽しくやってるもんねーという人が大多数だろうから、単に、
「幻想に過ぎない」し、「妥当性はもちろん、確かさの差もない」ということを認めるかどうかということであれば、
認めるからといって、「生きるのは辛いこと」と予想することが一概に妥当とはいえないじゃん

259 :
まあたんなる抽象的で中身のない神学や形而上学の権威を脱して、
経験論に到達したアングロサクソンは勝ち組ってことさ。
結局、そこから功利主義だのプラグマティズムだの分析哲学だの
自然科学・工学・経済学だの、ビジネスだの軍事だのが発達していったけど、
懐疑⇒後ろ向き・無為に解釈して終わった奴はあんまりいなかったってこと。

260 :
ヒュームの言う自然的とは、人間の恣意的な観察と言う意味でしょうか?
大体の人間が同じように思っている(斉一性)ので、ある程度確かであると言うことでしょうか

261 :
あらかじめ自然として備わっていることが保証されるんなら
それはアポステリオリとはいえず、経験論にも差しさわりがあるよな。

262 :
経験論でも経験を通して観念を取得する能力は生得ってことになってるんじゃね?

263 :
超越論的経験論

264 :
それじゃカントではないか
ヒュームよりカントという意味がわかってきた

265 :
私が考えるヒュームの哲学とは
・世の哲学者の言説の前提自体に不確かさ、問題点がある
(それはその通りで間違いはない)
・ただし自らは一歩も進まない
(そりゃ一歩すすんだら同じく前提に不確かさがあるってことになるからな)
これがヒュームの考えで何か結論を出したり、一歩進んだりすると
もうそれはヒュームではない、し、不確かさが出てくる、だから
>>259のような考えは哲学として本人の思索として抽出すれば
デカルト的であると、ヒュームではないと思えるのだが・・・
>>261
私などはそのようの事はロックの経験論にさしさわりは無いと思う
つまり、自然として備わってる完全な保証などはないからだ
馬鹿げた話だけど哲学的な批判がしづらい
それが経験論というものだと思う

266 :
>>265
なにもアングロサクソンの経験論的風潮=ヒュームの思想の延長とはいってないさ。
おれは理系で法学には疎いが、
ドイツなどが成文法主義的なのに比べ、英米が判例主義なところも経験主義な風潮のなせるわざなのか?
という基本的な疑問。


267 :
ロックもデカルトに近いのでは?
より経験を重視し、よけいなものをそぎおとし、再編成した。
形而上は必要最低限だけ残した。
それすら不要だといってすべてのぞくとヒュームになってしまう。

268 :
>>266
歴史がどうだったかは実際には分からん、人類は未来も知りえないが実は過去も知りえない
それはそうとして純粋に哲学的、思索的な観点から考えうることがあるのではないか
とにかくヒューム自体は歴史がどうだからこうだ、という事は(人性論の中では)いってないはず
で、歴史的、科学的事実としてこうなのだから哲学は要らないというのは
又、別の話だと思うのだ
>>267
ロックはかなり適当だからね、人間論、最も影響のあった政治論、宗教論、すべて前提が違う気がする

269 :
>>262
それまさにカントなわけだが。
自我の存在を認めないヒュームの立場からすれば、
「観念を取得する能力」の持ち主もいないから、
諸観念は自然の法則によって生成消滅してるだけ、と考えることができる。

270 :
だから、「居ない」とは言ってないんじゃね?
「居るかどうか確かめようが無い」って言ってるだけでしょ。

271 :
居ること懐疑するということは、居ないことを前提に理論構築するということ。

272 :
自然も観念なんでしょ?
そしてあるのは自然=観念の生滅だけ。
なんだか唯物論と紙一重。
きにいらねえ。カントの方がまだまし。

273 :
唯物論の裏=観念論

274 :
>>271
それは違うと思いますね。二元論でしか物事を考えられないわけでは無いですから

275 :
ヒュームの懐疑論や、観念論的経験論まではそういうモノの見方もあると
理解できるけど、
ヒュームの言う観念論的かつ斉一的かつ自我の不在な「自然」については理解できない私であった。

276 :
例えばさ、国士が積まれてたとしても、
積まれてるってこと知らなかったら、まず上がれないじゃん。

277 :
>>274
わからないの?
つまり、自我の存在がなくても認識作用を説明できるから、自我がないかもしれないと懐疑できる。
自我の存在を認めないと認識作用の説明ができないなら、そんな懐疑はできないでしょ。

278 :
>>273
まさにそう。
だからヒュームの観念論は自然科学が暗黙の前提にしてる素朴実在論と表裏の関係で相性がいい。
ジョン・サールの見解によれば、現代の哲学者のほとんどは自我を否定するヒュームの
考えに同意しているという。
これは現代の哲学者のほとんどが、自然科学の知見を前提とした上で哲学を行っているから。
もし、超越的な自我や魂というものを認めるなら、肉体や精神を超えた「何か」を想定せざるを得ない。
しかしヒュームの立場を取るならばその「何か」を想定する必要が無い。


279 :
カントはヒュームが解体したデカルト的コギトを、物自体を想定した上で、
さらに全ての表象に「我思う」を伴わせる能力として悟性の統覚の能力を
想定して「形式」として復活させたわけだが。
しかしその物自体も厳密に分析すれば、時間や延長さえ必要のないものになり、
最終的には表象をもたらす「能力」にまで還元できる。
そのことを見抜いたショーペンハウアーは物自体を「意志」と置き換えるわけだが、
ヒュームからすれば、その「意志」は自然の法則であり、かつ斉一性があるということになる。
結局、カントの認識論もヒュームの哲学を超えていないと見ることも出来る。

280 :
とはいえ、ヒュームは知覚の重要な原則として、
1、われわれの別個な知覚はすべて別個の存在であること、
2、そしてその別個の存在の真の結合をわれわれは何も知覚しないこと、
という二つを挙げ、その二つの原則は両立しない矛盾したものと考えていたとは重要で、
ヒュームの研究者も頭を抱える部分。
これはおそらくヒュームが自我を「共和国」との類比で理解していたことと関係するのだと思う。
共和国の成員は時代によって変わるが、共和国はそのままであるというが、ならば
そもそも共和国という「枠組み」は何によって成り立つのか、と疑問が生まれるからだ。
そのことからカントは統覚の能力を想定したのだろうが、しかし生成消滅する観念が真に
個別的であるというなら、 数ある観念のうちには「我思う」という個別の観念の紐帯となる反省的な
タイプの観念がある、と考えればいいだけのはずである。
こうしてヒュームの観念論を拡張解釈すれば、自我や魂をイレギュラーなものとして回避する
自然科学と親和的なものになる。

281 :
>共和国の成員は時代によって変わるが、共和国はそのままであるというが、ならば
>そもそも共和国という「枠組み」は何によって成り立つのか、と疑問が生まれるからだ。
ウィトは解にはならないのかな。

282 :
ヒュームは一対一対応を数学の基礎として提出したが(これはカント仮言定理の系列的思考にあたる)、
フレーゲの再評価を待つまでもなくこの原理で最初に体系を作ったのはスピノザだ。
思惟と延長、精神と身体といった一対一対応が無限遡行して実体に到る、スピノザ自身の
記述順はむろん逆だが。
カントはヒュームを自分の体系に閉じ込めたつもりが、矮小化しただけだった。
ただ一人スピノザだけが対ヒュームのあからさまに真逆の思想的ポジションにも関わらず、
ヒュームの先行者でありかつ導師なのだ。
ちなみに一対一対応を、自然数とゲーデル数、素数に対応させたのがゲーデルの不完全性定理であり、
社会学に応用したのがプルードンである。

283 :
>ゲーデル
>プルードン
こういうコジツケすると、なんちゃらカウンセラーや占い師みたいに胡散臭くなるからやめた方がいいと思う。

284 :
現代のヒューム解釈で求められるのは錯綜したヒュームの懐疑論・観念論を脱構築することだろうな。
現代哲学の状況を作り出しているのは紛れもなくヒュームだろう。
言語哲学然り、現象学然り、政治哲学然り、すべてはヒュームに依るところが多いはずだ。

285 :
>>210
自然が完全に無法則なら、人間脳も自然なので法則性がないことになります、故に矛盾ですね。
全ての法則も言葉も人間脳か人類の脳細胞が紡ぎだした一定の記号規則で綴られている。
完全な無法則さも完全な法則さもないのではないですか、この世には。
その両極界は単に理念として止揚されるべきではないでしょうか。
例えば、「酸素原子」は一つとして細部に完全同等のものがないかもしれません。しかし呼吸はできている。

286 :
ヒュームは形式主義の模範を示した点では重要だが、倫理的内容論がない。
しらないというか読んでないだけかもしれないが。
>>266は、上が教える通りだと考える。
形式主義では倫理行動への直接の指針がない。「〜すべき」というものがない。
 成文法系譜は内容主義が引きやすい。
デリダもだから内容主義を脱構築でありえないと批判していると思う。聖書含め。

287 :
>>284買被りではないですかw
一言で、「物」の問いだと思う、ヒュームまでのイギリス的哲学の核心は。
いまだに「物」を問うている。物理学がはやるのもそれ。
人倫が極端に薄いくらい彼らはキリスト教を血肉化した(清教徒革命以来)ので、
他の倫理思想がつまらなく見える気がする。
ただ、神についてだけは解かれていない感じがあの国には残っている。Godとは何か、実在するか。
物理学者の権威の方がイギリスで高いのは、物を創り出した神が何者かについて示唆してくれうる期待だろう。

288 :
キリスト教の文脈の上では、つまり多数の国民がその信者の形式をもっている場では、
内容論が他の宗派のそれとは異なるうえ、Godへの懐疑へ導かれるのは自然。
 キリスト教を教育から切り離す工夫はされてるらしいが、どっちかといえば宗教を科目的に分けている節。
異教徒をキリスト教系の授業には出さない。豚蟹牛は食べなくてもいい。
日本で道徳教育は忌避されるようになったが、
日本の多くの場、特に地域政治的に神道や仏教の強い場にGodの理念がないことから同じ命題を彼らと共有するのは難しい。

289 :
>>285
>自然が完全に無法則なら、人間脳も自然なので法則性がないことになります、故に矛盾ですね。
>全ての法則も言葉も人間脳か人類の脳細胞が紡ぎだした一定の記号規則で綴られている。
いや、ヒュームが言ってるのは、そういう事が法則の存在の証拠にはならない、って事じゃないの?

290 :
正直な感想として、
「論考」のウィトは認識論の問題にはあまり介入していないとはいえ、
その構図はヒュームの経験論的観念論というより、カントの構図におっている
部分が大きいように思われたのであった。
悟性形式を、論理形式として読み替えるのです。
分析哲学の祖として取り上げられることが多いが、やはり彼は根っこのところでゲルマン人なのであった。

291 :
ゲルマン文化の人間、ね。補足。

292 :
自然という観念の斉一性は、経験によっては保証されないのでしょう。
カントが頭ごなしに主体の機能として悟性形式を設定したのと、
頭ごなしにある種の観念の性質を決めつけたのとはまったくおんなじことなのではないでしょうか。
むしろカントの方がいさぎよいと思います。
どこまでも経験論をおしすすめねばならないヒュームの場合は苦しいと思います。
やはり、ヒュームの構図では自然科学者がイレギュラーだとみなしたものを
避けることに成功しているようには思えません・・・
形而上学は殺せないのです・・・。科学にも形而上は必要です。
どのようなものなら認めてもよいか・認めざるを得ないか・どれが不要か、という問題だと思います。

293 :
例えば科学で全てが解明したとして、どう哲学すればよいのかの正解がでて
と、ここまでは形而下だけど実際哲学すると形而上のものになるんじゃなかろうか

294 :
>>292
>自然という観念の斉一性は、経験によっては保証されないのでしょう
経験によって帰納的に法則が見出せるというのがヒュームの論理

295 :
>>294
どこまでも過去の蓋然性であって、それができないから、
ヒュームは自然という観念の斉一性を導入したんでしょう?
科学をマジで信頼してないわけではなかったから。

296 :
信頼というものの意味を変えた、ってことじゃないの。
真理が信頼の絶対要件じゃないってことでしょ。

297 :
いずれにせよ、
経験的には、法則は見出せないはず。
いままでそういう現象傾向があったからといって、次の因果の保証はない。
カントは主体による認識機能(悟性形式)として因果形式のワク組みがあり、
その眼鏡でモノを見るから法則があるようにみえる(法則はアプリオリに内面に存在)
ヒュームは自我・主体を認めず、客観的実在も認めず、
ただずべては観念で、観念=自然の生成消滅はあらかじめ観念=自然に備わっている「法則」にしたがって
起こる、とした。
勝手に前提として法則を保証しちゃった点では同じ。法則の存在の証明はない。公理だ。
でよろしいか?

298 :
>>297
経験的に法則は見出せる。(自然の斉一性)
ただし、いままでそういう法則があったからといって、
これからもその法則があるとは限らない(グルーのパラドックス)

299 :
結局、
「信頼」とは、形而上の架空の絶対の領域にしかない。
それはわかってるが、われわれはそれを設定せざるをえないのだ。
自然の斉一性でも、悟性でも、定言命法でも、なんでもいいがね。
ただし、「自覚」はしておかなくてはならない。

300 :
>>298
観念の「経験」を得たあとの帰納で法則を認めることができるのは、
あらかじめその観念に斉一性を認めているから、でいいんですか?


301 :
これはひどい 恫喝 必見
松本復興相、宮城県知事と会談
http://www.youtube.com/watch?v=VtUqWdbjnTk


302 :
ところで、「自然の斉一性」については、ヒュームの主張って
「自然には斉一性がある」と言ってるわけじゃなくて、
「我々にはそれを(無意識に)前提にして思考する習性がある」
(そして自然の斉一性自体にはそれを正当化できる根拠は無い)
と言ってるんじゃないの?
私の勘違い?

303 :
>>302
「我々には」というところが違うと思う。
それはカント。
われわれの認識機能(悟性形式)として、そういう色メガネでものをみるから、ですね。
ヒュームは独立した主体・自我はみとめず、
ただ自然(ただし実在ではなく観念)の生成消滅の傾向に「私」とは無関係に斉一性がある、と決めつけている

304 :
「決め付けている」というのがどうもピンとこない。
ヒュームは自らの懐疑的立場による反証の対象として、
斉一性だけを埒外に置いているわけではないでしょう?
つまり、(そのようになる論理的根拠は無いにもかかわらず)
経験的には自然には斉一性が見られる
(しかし、将来にわたってそれが必ず現れると考え得る根拠は無い)
ということじゃないの?

305 :
過去の経験についての、主体の決めつけです。
カントはそう読み替えたわけですね。
経験的にも演繹的にも断定できませんから。
主体(カント)あるいは観念的自然(ヒューム)の原理として、
定立しておくしかなかったんですね。
正直、ここは経験論の苦しいところだと思います。

306 :
どうも、あなたのいう「決めつけ」という言葉の意味がよくわかりません。
誰が「決めつけ」ている、という話ですか?
それと、経験論に関してのヒュームの役割って、引導渡しじゃないんですか?

307 :
>>304が正しい理解

308 :
>>306
われわれ科学者が「決めつけている」のです。

309 :
ヒュームのいう自然の斉一性、
素朴実在論とるにせよ、観念論とるにせよ、信じないとやってられません というはなし
カントの悟性形式でもいいですけど。

310 :
つまり経験則でも演繹でもなく、
信念の域を超えないと?

311 :
つうか、「絶対的真理の追究」みたいなものが、
実は「いらん子」だということに、近代のある段階で気づいたわけでしょ?
そのもっとも顕著な例がプラグマティズムなわけだけど、
実際には、そういうパラダイムシフトはプラグマティズム以前から起きてた。
ではそれはどこか、とたどっていくと、ヒュームというものが、
大きな節目として存在してるということじゃないの?
だから、パラダイムシフトが起きる前の「「絶対的真理の追究」至上」のパラダイムで
ヒュームを見ると、単に絶望的なことを言っているように見えるし、わけがわからない。
逆に、プラグマティックな観点から見ると、「絶対的真理の追究」という
不毛な束縛から人類を解放した実に素晴らしい発想の転換に見える。

312 :
>>311
でもそれはヒュームの哲学じゃないし
信憑性ゼロの独断論

313 :
>>312
>>311とは別人だけど、
ヒュームの思想そのものについて忠実に語ることだけがここの趣旨じゃないでしょ?
関連して、他にどんなことが考えられるか。も含む。

314 :
>>313
いや関連してないでしょ
ヒュームは関連なんかしない

315 :
>>311
真理の追究にしか価値を見出せない人は、何時の時代どんな時代もいる。
つまりは「その程度」の人間が、足を引っ張るのは「斉一性のある」現象じゃないかな?

316 :
っていうか、なんで信憑性が問題になるの?
なんか新しい史料でも示されたの?

317 :
東電社員の逃げ足の速さと来たらwww
「福島原発関係者、福島原発職員の避難状況まとめ」
http://matome.naver.jp/odai/2130228530573984301

260 :名無しさん@お腹いっぱい。(埼玉県):2011/07/05(火) 13:50:26.07 ID:GG+hNhRK0
東電社員・福島原発関係者、速攻dズラ。避難先では給食拒否w
http://matome.naver.jp/odai/2130228530573984301

318 :
>>316
でも信憑性のないヒュームなんて何の意味もないじゃん
信憑性を武器に他の哲学者を批判してるだけなんだから

319 :
そりゃヒュームも自分自身を懐疑してるさ
梯子をのぼりきってみれば、
ナンセンスだとわかるということだ


320 :
>>318
ヒューム自身の主張について信憑性なんて言葉が出てきたのは初耳だが。
どういった著作のどの部分で、どのように信憑性の話をしてるの?

321 :
>>320
ヒュームの見解にしたがってヒューム自身の思想や設定も懐疑できる
ってだけの話じゃね?

322 :
>>321
ヒュームが懐疑してるのは、信憑性じゃなくて(論理的)妥当性じゃないの?

323 :
言葉を変えても同じさ
信憑性なんていったのはおれじゃないけどね
経験はそのままでは何物でもない
経験は言語・論理によって編成されるが、その言語による論理的妥当性を
懐疑している以上、自身の見解も懐疑される

324 :
うそつき「僕はうそつきです」←これは真か偽か?

325 :
>>324
そこまで一般化してしまうと、
人の言ったことを一度でも疑ったことのある人の言うことは、
すべて疑わしいことになっちゃうんじゃね?

326 :
というか、うそつきのパラドックスは哲学上の大問題だぞ

327 :
結局哲学的懐疑など
コドモの屁理屈を高級にしたにすぎん

328 :
そして苦しくなって
少数の「原則」を定立するにいたり、
懐疑の火の粉を自らかぶるということだ。
梯子をのぼりきってみれば、
みずからすべてがナンセンスだったとわかるということだ

329 :
あんまりそういう気どりがないのが英米哲学のいいところだと思うのだが

330 :
そうだ
しかしつきつめると困ることが出てくる、
そして大陸系の駄弁がまたもたげてくる、というわけだ。
このくりかえしだ

331 :
>>323
>その言語による論理的妥当性を
>懐疑している以上
誰かが言語でもって主張したことの妥当性を疑うなんて、
ヒューム以前も以後もやってる人間はいくらでもいるわけだから、
それだと、ヒュームに限った話じゃなくね?
というか、あなたのその主張自体がそうだよね?

332 :
>>あなたのその主張自体がそうだよね
そんなん、哲学とか思想とか自体全部そうですやん。
ソクラテスのころから、揶揄されてきたんじゃん。
それでも考えるのを止められないよ、というだけ。
ヒュームも二十代で哲学をやめ、
ウィトゲンシュタインも二十代で哲学を止めた(彼は再開したけど)
からなあ・・・
適度な付き合い方ってのがあるんじゃないか しおどきというか。
若いうちに一度突き詰めてみるのもいいけど、結局は何にも残らない堂々巡りだから。
できることならもっと違う知性の使い道にいった方がいいと思う(別に社会的・経済的意味じゃないよ)。

333 :
適度な付き合い方ってのも下らん話だな。
何も残らないってのは、全ての事物に言える。違いは、何か残ると無邪気に信じている(憶見)だけや。
ソクラテスは最期までやりたかった。ヒュームはそうじゃなかった。それだけ。

334 :
>>332
>そんなん、哲学とか思想とか自体全部そうですやん。
じゃあ、要するにスレ違いじゃね?
哲学全般の話がしたければ、別に相応しいスレがあるっしょ、多分。
無きゃ立てれば?

335 :
ヒュームは司法資格持ってて、
また、余生は歴史編さんをして過ごしたんだったな。たしか。
ニュートンの遺産を学ぶのとヒュームの遺産を学ぶのとで、
残るものの違いってことでっしゃろか?
そら哲学には具体的な知識なんてあれへんがな。
討論にはなっても、講義や教科書にはなりにくいこと自体がそれをあらわしてるんや。
ヒュームの責任やない。
哲学という知的営み自体の虚しさの問題や。

336 :
思いつきだが、ヒュームの自然の斉一性(uniformity)と実存主義の反復の概念を関連づけて論じたら面白いの書けそうだな。

337 :
イギリス哲学と実存主義くらい縁の遠いものもないよな
イギリス哲学の研究論文でニーチェとハイデガーが引用されるのを見たことがない

338 :
四角四面の教科書通りのご回答ありがとうございます

339 :
永井均とか<分析哲学とハイデガー

340 :
永井はヒューム関係ないな。
実存主義って啓蒙思想の主知主義に対する遅ればせながらのカウンターだから、
啓蒙思想自体必要なかった最先進国イギリスじゃ流行りようがないんだよね。

341 :
俺が嫌いなのはヒュームではなく必要以上に熱狂するファンなのだ
結局奴らは学校や仕事先でがんばれてなかったり、勝ててなかったりする奴らの
集まりで、それをひいきのヒュームに託し、ヒュームが頑張れば自分も頑張った気になるし、
それで成功すれば自分も成功したような気になるのだ
俺の様に毎日2chで戦ってる人間なら人を応援する余裕なんてある訳がない

342 :
何言ってんのお前

343 :
>>341
とっくに死んでるヒュームが「頑張れば」とか何言ってるのやらw
どっかのコピペなんだろうけど的外れ。頭わるすぎw

344 :
>>341
それヒュームと全然関係ないな。
「ヒューム」のところに何入れたって(イチローでもAKB48でもw)
同じだろ。

345 :
おまいらスマンwww
西田幾多郎スレで見つけて他にも貼ってある有名なコピペらしいのでまさかこんなにユーモア欠損のマジレスされようとは思わなかったわw
ユーモア欠損団塊乙とか入れたいところだが、まじ俺が悪かった許せww

346 :
ユーモアセンスのない奴に限って他人にユーモアセンスを求めるの典型

347 :
ファイヤーワイヤー野郎「レベル低ww 俺にはまらないじゃんw」

348 :
>>289法則がない、とはいえない。ヒューム式にいえば法則は働くが超越でも絶対でもなく主観な確信。

349 :
>>348
>法則がない、とはいえない。
いや、「法則がない」なんていってないけど。

350 :
ヒュームは主観的な確信とは別に客観的な法則の実在を認めている。
「原因と結果の恒常的な結合」や「自由に対する必然性」という呼称で頻繁に著作に登場する。
自然界に法則が実在するからこそ、人間は主観的な確信をもって自然の法則を認識することができる。
逆ではない。つまり、「法則は人間の主観に過ぎないから、法則なんて実在しない」のではない。
ヒュームによれば、「法則は客観的な実在である」と「法則は主観的な認識である」は両立する。

351 :
それを、「自然界の法則と主観の関係」と解釈すると、「客観的な法則の実在を認めている」
ということになるんだろうけど、「自然界の法則に関する主観の振る舞いの法則」と解釈するなら、
「客観的な法則の実在を認めている」ことにはならないんじゃないの?

352 :
>「自然界の法則に関する主観の振る舞いの法則」と解釈するなら、
そのように解釈することがまず間違い。
ヒュームは、人間の知性さえ分析すれば自然界の現象まで解明できるようになるとは考えない。
「人間の心の中に自然がある」のではなく、「自然の中に人間の心がある」のだから、
「人間」を「自然」から乖離したものとみなすドグマは狂信者と同じ。
だいたい、「法則」が存在しないと言いながら「自然界の法則に関する主観の振る舞いの法則」という発想に至ることが荒唐無稽。
自然には法則がないが人間の心には法則があるという理屈は成り立たないのだから。

353 :
>>352
>ヒュームは、人間の知性さえ分析すれば自然界の現象まで解明できるようになるとは考えない。
自分もそう思ってるんだけど。
>「法則」が存在しないと言いながら
>>349

354 :
>>353
では、客観的な法則は実在するということでいいね?
それを否定するならば、まずあなたの自説をはっきりと示す必要がある。

355 :
>>354
>では、客観的な法則は実在するということでいいね?
違うよ、実在するかどうかを知ることはできないってこと。
つうか、これってヒュームの思想で一番有名なところだと思うんだけど。
ヒュームスレでこんな質問が出てくること自体不思議。

356 :
>>355
違う。
仮に自然の法則が実在しなければ人間が法則を認識することはあり得ないとヒューム自身が断言している。

357 :
>>356
へえー断言してるんだ。
じゃあ、自分の勉強不足ですね。

358 :
法則を神格化・偶像化させるのをやめさせた、なぜなら確信という認識作用の使い道に過ぎないから、といった部分が上5レス程の議論の核心ではないか
「法則」、少なくとも自然法則の有用さ、ある程度使えることは変わらない。地球の通常の大気では酸素が燃えるくらいの法則でも。
しかし、それが神とか自然の創造とかと神秘的にまじわっている、という事を哲学・形而上学として否定している。人間の頭脳の働きからくる確信でしかない。
倫理法則、道徳法則とそれらとは異なる議論ではないか
では自然法則を超えた道徳法則とは何か、はカントに受け継がれた命題になった

359 :
ノルウェーのテロ犯、ヒュームやミルに傾倒
http://www.youtube.com/watch?v=9SeiydA_JZw&feature=channel_video_title

360 :
ヒュームはどうでもいい話しかできなかったんだよ
実は、数学の成績が今一な子供だったの

361 :
「ノルウェー連続テロ事件、背景は」 News i - TBSの動画ニュースサイト
news.tbs.co.jp/20110723/newseye/tbs_newseye4783402.html - キャッシュ1 日前 –
また、容疑者はジョン・スチュワート・ミルやデビッド・ヒュームといった思想家に傾倒していたそうです。そして犯行の数日前にツイッターのアカウントを立ち上げ、
「1人の信念ある人間は10万人の凡人に値する」というような趣旨の ...

362 :
ヒュームからラスコーリニコフに至ったわけだな
しかしあるのは信念ではなく情念だろう
これほどの凶行でもノルウェーじゃ終身刑という…

363 :
終身刑じゃなく、禁固21年。

364 :
ほんとは死刑でも軽いぐらいだよな。
ラスコーリニコフどころではない。
警官の制服着て、整列させて、
マシンガンで90人射殺とか人間じゃねえ。
いくら寛容な北欧政治に不満があったとはいえ。

365 :
>>361
移民問題でテロをやったというのも完全に嘘だろうね
反イスラムを掲げながら、移民ではなく国民の青年を狙ったというのも奇妙
しかも、本人が入れあげていると自分で主張している「Vienna Academy」
のロゴを見てみろw 「Global Oneness」だぜ
これが国際主義反対の愛国主義者の信奉する標語か?!
http://www.experiencefestival.com/wp/videos/bat-yeor-at-the-vienna-forum-may-8-2010/BIumQ2ErwCw

366 :
じゃあなんだったのかと。
米路線シンパ(ただし移民には排他的)か?

367 :
>>366
本人が仲間と考える連中の名前をはっきり書いてるんだが、何でスルーなの?
"I now use these funds to be able to work full time to further
develop / promote the Vienna Academy (Vienna school of thought)
that Fjordman, Bat Yeor, Spencer + many others have already
contributed so much to."
http://www.youtube.com/watch?v=VMx16duLjSw&feature=related


368 :
ヒュームスレで北欧ネタを持ち出す奴も同罪。

369 :
移民政策を推進する労働党の青年キャンプの子供たちを殺したの。
いずれ彼らが労働党のエリートになるから。理屈はあってる。


370 :
最低限の知識
欧州のイスラムフォビア : 内藤正典
http://www.youtube.com/watch?v=2lADDiLBMM0

371 :
おねねすってなんかえろいなーっておもってぐぐったらわんねすだった

372 :
でわんねすって何?

373 :
ノルウェー連続テロ事件の犯人「爆弾は自分で作った。隣の百姓のせいで80日もかかったわ」

374 :
<ノルウェーテロ>動機は「イスラム侵略から守るため」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110725-00000139-mai-int
動機は「イスラム教徒の侵略からノルウェーと西欧を守るため」で、
移民導入を進めた労働党の「将来の党員募集を阻害するため」に、
若者を殺したと説明した。


375 :
ノルウェーテロ容疑者、日本学びたい国
http://www.youtube.com/watch?v=mApwiKfLAQw&feature=channel_video_title

376 :
ころしかぁ いいなぁ 

377 :
日本も他人事じゃないよ。
すでに在日外国人の中では中国人が一番多いのに、
これから中国人を1000万人入れるって言ってる政治家もいるしね。
中国人に土地もどんどん買われてるし、日本人は、中国の土地買えないのに。
そう遠い話ではない。


378 :
ブレイビクはネトウヨの神になるのか。最低だな。

379 :
まあ、日本でも秋葉原の例の事件のとき
2ch で犯人を称賛するレスがたくさんあったし、
スレが立ったりしたからな(確かこの板でも)。

380 :
http://jp.reuters.com/article/worldNews/idJPJAPAN-22352120110725
IHSグローバル・インサイトの欧州専門家リリト・ゲボルギャン氏は、「ノル
ウェーで起きた2つの攻撃が(移民問題に関する)率直な議論のきっかけになら
なければ、過激派を孤立化させ、状況をますます悪化させる可能性があり、回り
まわって、将来的に似たような事件が増える可能性がある」と指摘。さらに「こ
の問題はノルウェーだけのものではない。スカンジナビアや東西欧州でも、開か
れた議論がないことにイライラしている人は大勢いる」と述べた。
 英国のキャメロン首相、ドイツのメルケル首相、フランスのサルコジ大統領は
ともに、過去数カ月の間に口をそろえて多文化主義は失敗だったと語った。


381 :
保守派は早速ブレイビクに便乗かよ。ひでーな。

382 :
ひどいのはろくに保守派の言い分も聞かず
教条主義的に愚痴を垂れて満足している自称革新派でしょ。

383 :
イスラムのテロとは断固戦うが、極右テロにはテロリストの動機を肯定する保守派

384 :
ヒュームの懐疑論を適用するとどうなるの?
本人は国際的ネットワークの一員であると主張し、弁護士は
「精神障害者」との見解
北欧では素人に爆弾の作り方を教えるのは普通のことらしいよ。
http://www.guardian.co.uk/world/2011/jul/26/norway-attacks-anders-behring-breivik
>On Tuesday, a Danish businessman revealed that he had discussed
>methods of creating explosions with Breivik. In an interview
>with the Danish newspaper Ekstra Bladet, Glenn Jensen said he
>had met the gunman several times over the past five or six years.

385 :
なぜ訳と原文が違う

386 :
http://3.bp.blogspot.com/-ro29gCWh_Q4/TjBD9HKYrVI/AAAAAAAATMY/nTJdetdiuus/s1600/Breivik%2B1.JPG
http://2.bp.blogspot.com/-aaO2CHjMD9o/TjBFH51Uu7I/AAAAAAAATMo/aTGBmU2VxUE/s1600/Breivik%2B8.JPG
http://2.bp.blogspot.com/-DQR27ei8xEw/TjBD9LJP9jI/AAAAAAAATMQ/NURMN3b9oWQ/s1600/Breivik%2B2.JPG
http://1.bp.blogspot.com/-hCQlMvjG_2U/TjBD89WbzMI/AAAAAAAATMI/hgKEJ22N8rI/s1600/Breivik%2B5.JPG

387 :
http://www.toyokeizai.net/business/international/detail/AC/b684cedb16ce130bfa842249c50cedcf/
戦後の欧州で国家主義を表現するのはサッカー競技場では許されても、公的な
場所では許されなかった。欧州統一に懐疑を抱くことは偏狭であり、人種差別
主義であると非難されてきた。
 こうした感情が移民に対する憤りと結び付いたのである。1960年代にト
ルコやモロッコからやってきた移民労働者の子供たちが欧州の各都市でイスラ
ム教徒の大きな居住区を形成し始めたことで、近隣に住む労働者との間で緊張
が高まってきた。だが、彼らによる犯罪と習慣の違いに不満を述べることは、
リベラルなエリートによって“人種差別主義”であると批判された。人々は忍
耐することを学ばなければならなかった。

388 :
ガイジンとこういう哲学の議論がしたいんですが、
どういうところにいったらいいんでしょうか?

389 :
韓国における反多文化主義について。朝鮮日報だけどとてもいい記事。
ちょい見直した。
【萬物相】外国人嫌悪
http://www.chosunonline.com/news/20110727000067

390 :
ヒュームは方程式を丸暗記してばっかりのタイプだから意味ない
金属蒸気みたいな名前だね

391 :
http://www.twitlonger.com/show/c1dqum
フジテレビ内部者からのK
フジテレビは内部で戦っています。
ホリエモン買収対応で、ソフトバンク系SBIに助けてもらったので、
朝鮮系グループが 経営側でチカラを出してきましたが、
報道部はサンケイ新聞とともに、朝鮮系グループに喧嘩を売って戦ってます
どうかみなさんの応援で助けて下さい。
朝鮮系グループのしつこさとえげつなさには、正攻法では戦えないです。
テレビ側が言うのはおかしいですが、ネットで話を盛り上げて助けて下さい。
盛り上がれば多くの芸能人の耳にも入り、さらに話が大きくなると思います。
日本のメディアは瀕死状態です。 助けて下さい。行動を起こして下さい。
応援お願いします。


392 :
今イングランド史読んでるが、人性論の六倍近い分量でマジめまいしてきた。
質はともかく量から判断するならヒュームが歴史家と言われる理由がよく分かったわ。

393 :
361 :ほらよ。おまえらの仲間だろ?:2011/07/25(月) 01:23:03.16 0
「ノルウェー連続テロ事件、背景は」 News i - TBSの動画ニュースサイト
news.tbs.co.jp/20110723/newseye/tbs_newseye4783402.html - キャッシュ1 日前 –
また、容疑者はジョン・スチュワート・ミルやデビッド・ヒュームといった思想家に傾倒していたそうです。そして犯行の数日前にツイッターのアカウントを立ち上げ、
「1人の信念ある人間は10万人の凡人に値する」というような趣旨の ...

394 :
>>392
実はヒュームのイングランド史が出るまで、
イギリスに体系的な通史の本は全くなかったらしい。
ソースはヴォルテール。

395 :
ヒュームはイギリスの水戸黄門ということか

396 :
ご協力お願いします。
正義はいかにして成立したか。
また、なぜ人間が正義を必要としたかという問題についてヒュームはどう考えたか。
教えていただけませんか。

397 :
精神鑑定は日本人専門家に 連続テロ容疑者が要求
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2011080201000969.html

398 :
ボダンの七人討論会をヒュームはどう思ってたかな。

399 :
ボダンの七人討論会って何ですか?

400 :
ボダンの書いた対話篇っぽい著作で、
登場人物が自然宗教対話+4ってな感じの作品。
ボダンもキケロあたりを踏襲してるんだろか。
ウィキみたけど貨幣数量説ってヒュームがオリジナルだと思ってたけど、
ボダンのほうが先だったのかな。

401 :
>>400
ありがとうございます。
ボダンって寝耳に水の名前だったが、ウィキだと王権神授説の最初の提唱者で、魔女裁判にも深く関わってとか結構有名なお偉いさんらしいですね。

402 :
岩波思想特集あげ

403 :
そして最も卑小なるスレも永劫に回帰するということ、これが私の嫌悪であった!
ああ、嘔吐、嘔吐、嘔吐!

404 :
保守

405 :
ヒュームは古典としてライプニッツ・ヘーゲル・キルケゴールあたり以上に
重要だとおもうけど本が売ってないのはなぜ?岩波は翻訳売らんのか?
英語の原書を注文するしかないんか?まあ英語なら理系の俺でもなんとかなりそうだが。

406 :
ヒュームの文体は哲学書にしては明晰でわかりやすいと聞く。
そうなのか?
それは英語圏の特徴なんだろうか?

407 :
300年も前の人の文章なのに馬鹿な俺でも原文で読めるんだからヒュームはたいした奴だぁよ

408 :
というか近代英語は300年間あまり変わってないと言うことでは。
日本語だと江戸時代〜明治初期の文章ですら読みにくいし内容もはっきりしないぞw
漢文調であることを差し引いても。
ドイツ語も読みにくいらしいな。哲学もドイツより英米の方が明晰。
だからといって英米が本質を踏み外しているとは思えない。カントももっと要旨をすっきりまとめられたろうにな。

409 :
英米哲学の本なんて図書館行ってもほぼ無い

410 :
ヒュームは語彙が平易なだけでなく思想の内容も現代的だと思う。
導入部や論理構成は当時の読者層に合わせて宗教的な観念を持ち出すこともあるが、
死生観の章で唱えている結論などは、現代の一般的な教養人の意見と大差ない。

411 :

「私の指の掠(かす)り傷よりも、全世界の破滅の方を
   好んだとしても理性に反することにはならない」(ヒューム)
ノルウェーの爆弾テロ犯の“情念について”解説しているかのようだ。

412 :
人種差別主義者の「苦痛」を私達はうまく捉えきれていないかもしれない
ヒュームは理性も感情によって基礎づけられていると言っているが、その
「情念」をああいうテロリズムによって解消しようとしたのではないのか。

413 :
大阪府三島郡島本町の小学校や中学校は、暴力イジメ学校や。
島本町の学校でいじめ・暴力・脅迫・恐喝などを受け続けて、
心も身体も壊されて廃人同様になってしもうた僕が言うんやから、
まちがいないで。精神病院へ行っても、ちっとも良うならへん。
教師も校長も、暴力やいじめがあっても見て見ぬフリ。
そればかりか、イジメに加担する教師もおった。
 誰かがイジメを苦にして自殺しても、「本校にイジメは
なかった」と言うて逃げるんやろうなあ。
 僕をイジメた生徒や教師の名前をここで書きたいけど、
そんなことしたら殺されて、天王山に埋められるか、
どこかの家の床下に埋められるか、ドラム缶に詰められて
大阪湾に沈められるかもしれへん。それで誰にも発見され
へんかったら、永久に行方不明のままや。
島本町の学校の関係者は、僕を捜し出して口封じをするな。
http://www.shimamotocho.jp/ikkrwebBrowse/material/files/shimamoto_iti_map.pdf

414 :
グロいグロいグロいグロいグロいグロいグロいグロいグロいグロいグロいグロいグロい

415 :
>>413
名無しさんの言う通りや
名無しさんも早う島本町から逃げ出す方がええ
島本町なんか陥没して地球上から消滅したらええんや

416 :
ヒュームってカントに批判された人なのにそんなに大事なの?カント読めばいいんじゃないの?

417 :
結局、哲学が意味があったのはヒュームまでだよね。
カントはヒュームの懐疑論だけ抜き取って、
超越論を考え出した。
それはあまりによくできた言葉遊びなので、
その後の哲学はこの言葉遊びから抜けられなくなった。
そしてただのニッチな分野落ちぶれた。
そしてヒュームの本質の慣習論は
ウィトまで埋もれてしまった。

418 :
カントが編み出した超越論をざっくりばっさっといえば、
たとえばビンのワインを一枚の布でラッピングするのを想像するといい。
きれいなラッピングのやり方は、ビンを一枚の布でくるめば当然シワがよる。
なるべく余計なシワがよらないようにつつみ、そのシワをビンの頭の部分に集めてそこをリボンで隠すことだ。
ヒュームはきれいに包むことなどできない。
でも現実に包まれている現実が重要だといった。
それに対して、シワを一ヶ所に集めるて、人の認識を越えた超越的な部分へと集約する。
すると論理的に包まれたように見える。きちんと包まれることに救った。
この新たな方法により哲学は救われた。
ヒュームのように現に包まれてるではないかといってしまえば美しくラッピングする方法を探求する哲学は終わる。

419 :
論理主義の代表フレーゲの主張に「ヒュームの原理」(略称HP)というものがある(命名はジュージ・ブーロス『フレーゲ哲学の最新像』)。
数を認識する時、一対一対応が最も確実で、幾何学等の延長は不確実になるというものだ。
「ヒュームの原理」は、フレーゲの『算術の基礎』(§63、著作集2勁草書房122頁)において、デイヴィッド・ヒュームの『人間本性論』第1巻
第3部第一節からの引用というかたちで言及されている。「例えば、二つの数を集成する各々の単位がそれぞれ常に相応するとき、我々は二つの数が
等しいと宣言する。」(岩波文庫人性論1p123)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%81%AE%E5%8E%9F%E7%90%86
実感を強調したヒュームは数学を分析的なものと考え、あくまでも実体を重視した。カントはそれに対して数学を総合的なものと捉え、様相を擁護した。
ちなみに、フレーゲの立場は、数学体系を準備しうるものだということがわかっており、再評価されている。
ヒュームは、カントが独断的に述べたような不可知論者では断じてない。

420 :
ヒュームって実はかなり弁証法的な思弁を内に孕んでいる
例えば「理性は情念の奴隷である」は有名なテーゼだけど
これは一種のレトリックで
情念=主人,理性=奴隷の関係で考えたとき
ちょうどヘーゲルの主人と奴隷の弁証法が成り立つわけだ
実はヒュームは理性が最終的に情念よりも自由である,ということを言っている

421 :
ttp://live2.ch/jlab-maru/s/maru1373195492598.jpg

422 :
ヒュームは自由貿易論者と見なされがちだけど、中野剛志はそれを否定し、実は経済ナショナリストだと論証してる。
ヒュームに関しては、まだまだ研究の余地があると思う。

423 :
デイヴィッド・ヒューム(David Hume、ユリウス暦1711年4月26日(グレゴリオ暦5月7日)- 1776年8月25日)

424 :
@イマヌエル・カント(Immanuel Kant, 1724年4月22日 - 1804年2月12日)
Aジョン・ロック(John Locke, 1632年8月29日 - 1704年10月28日)
Bルネ・デカルト(仏: René Descartes, 1596年3月31日 - 1650年2月11日)
Cアダム・スミス(Adam Smith、1723年6月5日(洗礼日) - 1790年7月17日)
Dバールーフ・デ・スピノザ(Baruch De Spinoza, 1632年11月24日 - 1677年2月21日)
Eトーマス・ホッブズ(Thomas Hobbes, 1588年4月5日 - 1679年12月4日)
Fジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill, 1806年5月20日 - 1873年5月8日)
Gジョージ・バークリー(George Berkeley, 1685年3月12日 - 1753年1月14日)
Hジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau, 1712年6月28日 - 1778年7月2日)
Iゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz, 1646年7月1日(グレゴリオ暦)/6月21日(ユリウス暦) - 1716年11月14日)
Jゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel、1770年8月27日 - 1831年11月14日)
Kルートヴィヒ・ヨーゼフ・ヨーハン・ウィトゲンシュタイン(独: Ludwig Josef Johann Wittgenstein、1889年4月26日 - 1951年4月29日)
L第3代ラッセル伯爵、バートランド・アーサー・ウィリアム・ラッセル(Bertrand Arthur William Russell, 3rd Earl Russell, OM, FRS、1872年5月18日 - 1970年2月2日)
Mアリストテレス(アリストテレース、古希: Ἀριστοτέλης - Aristotélēs、羅: Aristotelēs、前384年 - 前322年3月7日)
Nプラトン(プラトーン、古代ギリシャ語: Πλάτων、Platon、羅: Plato、紀元前427年 - 紀元前347年)
Oフリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(独: Friedrich Wilhelm Nietzsche、1844年10月15日 - 1900年8月25日)
Pアルトゥル・ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer)1788年2月22日 ダンツィヒ - 1860年9月21日 フランクフルト)
Qカール・ライムント・ポパー(Sir Karl Raimund Popper、1902年7月28日 - 1994年9月17日)
Rトマス・アクィナス(羅: Thomas Aquinas, 1225年頃 - 1274年3月7日)
Sフランシス・ベーコン(Francis Bacon, Baron Verulam and Viscount St. Albans、1561年1月22日 - 1626年4月9日)

425 :
科学的因果法則を観念連合心理学で打ち破るあたりを
仮面という言葉も入れて説明してくれ

426 :
なんすか、試験問題みたいなその問いは

427 :
http://blog.goo.ne.jp/kosei-gooblog/e/6d4c13d0c821f10953cfbeab27eea03a
http://www.japanology.cn/japanese/magazine/02lunji20/02lunwenji03.html
http://w3dnso.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/forum/text/fn045.html

428 :
ヒュームの知性論:
      知覚(perception)=意識
     /    \
印象(impression)__観念(idea)__複合観念
直接         |再現、反省 
複数         |      
          想像      
         /  \    
     比較する原理  連結能力
     /     \/  \
    /      /\   \
  _量_質_反対_類似 因果 接近
 |   同一性_時空_ |
 |          ||
(数学的、確実性)  (蓋然性)
ヒュームは人間の「知覚(perception)」を、「印象(impression)」と「観念(idea)」
に分ける。印象とは直接的に与えられた知覚であり、そうした印象が組み合わされたり、
また後に記憶や想像によって再現されたものが観念である。つまりヒュームは「知覚」と
いう語を「意識」とほぼ同じ意味で用いている。
ヒュームは知覚の重要な原則として、われわれの別個な知覚はすべて別個の存在であること、
そしてその別個の存在の真の結合をわれわれは何も知覚しないこと、という二つを挙げ、
その二つの原則は両立しない矛盾したものと考えていた。
ヒュームは「想像」を、観念どうしを結びつける連想能力として、「類似」「接近」「因果」
の三つの原理に分ける。また、観念を比較する原理として、「類似」「量」「質」「反対」
「同一性」「時空」「因果」の七つを想定した。それらのうち「類似」「量」「質」「反対」
は、比較される観念にのみ依存する数学的性質をもち、確実性があるとした。それに対して
「同一性」「時空」「因果」は、経験に依存し、蓋然性をもつとした。
http://www21.atwiki.jp/p_mind/m/pages/82.html

429 :
http://lh4.googleusercontent.com/-fHvQ9iAaptA/U29Tf12ZadI/AAAAAAAGc_A/hXyLJXKqIwM/s0/11+-+1.jpg

430 :
テスト

431 :
ヒュームは神

432 :
因果性は思い込みである
AがBの原因であることを証明することはできない

433 :
人性論以外にももっと読まれないといけない人

434 :
ヒュームは共同体主義者
サンデルはヒュームのパクり

435 :
ヒュームって渋いよね。

436 :
ヒューム専攻の犬塚元って、業界的にはどうなの?

437 :
一ノ瀬先生の本は面白いある。

438 :
犬塚元、西部スレのながれみれば、何すべきかわかるんじゃね?

439 :
苅部直、犬塚元についての見解は、あるの?
業界的には、杉田敦がキーマンなんでしょうか?
関係者さま。

440 :
なお、川出良枝先生の文章は、
日本近代史上に残るでしょう。
森鴎外、向田邦子レベルですな。

441 :
犬塚、しっかり働け!
川出先生が仕事できないだろ。
明白な他者危害だと思うぞ。

442 :
犬塚、お前、
石井明先生が、岩波から、
ああいう本出したことの意味、
よく考えろ!!!!!

443 :
ヒュームってカントに批判されたんだよね
じゃあダメじゃね?

444 :
>>443
カントがロック、ヒュームにおうているものは、
甚大。

445 :
>>443
批判的継承というやつだろう

446 :
哲学では批判される先行者のほうが偉いというのが常識

447 :
人性論

448 :
ヒューム哲学って現在人には割りと理解し易いと思う。
さほど難しい事言ってねーしw
「精神」を「知覚の束」に例えた部分なんて先進的でイケてるぜ。
とくに科学万能主義となった今の時代にはトレンドだと思う。

449 :
デーヴィ〜〜〜ット ひゅ〜〜〜む〜〜〜♪

450 :
>>11
自分の中ではヒュームは科学万能主義の先駆けというイメージだが違うのん?

451 :
>>450
だいたい、そのイメージで合ってる。
ちなみに、アインシュタインが相対性理論構築の際にヒューム哲学の影響を受けたことは有名。

452 :
>>450はなぜ全く関係のない安価を付けているのかが謎

453 :
すべては主観に過ぎない!(だからどうしたという話だが)等のなげやりな論説(論ですらないか)って
理解に何の努力も要さず、そこから発展のしようもなく(実際、彼は「無駄、諦めろ」としか言えない)、
言ってること自体は正しいから(正しいだけで何ら知的な貢献をしないが)
理解力も思考力もない馬鹿にはウケるんだろうな。

454 :
つーか、ヒュームの主張ってのは、哲学みたいなムダな事はやめて

科学のような実用的で役に立つ事をやれって事だ。

科学者に受けがいいのは当然や。

455 :
スピノザもヒュームも退屈なのは現代思想に近いから

456 :
つまり、先進的って事じゃんw

457 :
クリばかり攻める。

458 :
心理学の先駆けの1人

459 :
age

460 :
ヒュームはすげえ

文庫化してくり

461 :
>>448
残念だけど、知覚の束はヒュームの哲学のなかでも大きな欠陥がある
ヒュームも自分の理論は失敗してることを認めて、自我論に関する考察はやめてしまった

462 :
ヒュームの面白いのは科学もぶっこわしちまうところだけどな。

全てが人間的本性になるところはダサい。読んでらんない。
かといって主体で統合しちまうカントも下らないが。
ヒュームもカントもそこらへんはいくらでも批判していい。

463 :
カント哲学はヒュームを超克できたのかね?

一応、プロレゴメナで宣言してるけどさ

464 :
ヒュームもだめだけど、カントはヒュームが右の穴に落ちたところで、
左の川に流されてるだけだろ。
ヒュームが人間の思い込みだと間違ったことを言ったところを、
カントは格率だとか言って、それじゃ何も言ったことにならない。

465 :
いくら経験集めても、次もまた太陽が東から昇るという判断は出ない。
それは経験を超出している。

ヒュームはそれは人間の思い込みの惰性だと言ったが、
ほかと比べて何故そこに注目してるか言えないから意味がない。
太陽より背景になる山並みとかに注目したり、
次からは逆周りになり西から昇ると対称的に判断しない根拠はないから。
カントは主観的に法則を人間が作る。自然に合わせるのではなく、
自然が人間の心に合わせると言ったがこれも間違い。
ヒュームと変わらないから。何も言ってないのと同じ。
西から昇ると判断しないのか、東から上がって途中で固定しないのか。
そう判断しない根拠がない。
人間が法則を作ると言ってもこれでは何も言ってないのと同じ。

太陽が東から昇るは東から昇るだろうとの他者との対話でしかなく、
仮説でしかなく、そしてそうじゃない仮説よりは人生、
生きる上で役立つ可能性が高いということでしかない。
東からは昇らない可能性もあるが、
そっちの方に賭けて準備する気にはなれないというだけの。
割りにあいそうにないだけと言う。

466 :
この世に法則なんかないからな。
あったとしても全時空が終わってからでないとわからない。

次がどうなるかわからないけど、そう判断し生きるしかないということ。
常に間違っている、何らかの意味で他者にはたどり着け間違っているからこそ、
押しつけることは正しくて、正しくなる可能性がある。
カントみたいに法則を作るとか間違ってるし、
ヒュームも人間の思い込みだというが、違うからこそ正しいのであって。
単純にヒュームも間違い。

467 :
ヒュームは因果の法則を自然(必然)とみなすことに警告しただけよ。
必然だとは論証できないと言った。
467さんのいうプラクティカルな問題とはべつ。
人間は観念に生きる主観的に閉じた(上に思い込みを正当化する)生物だから、法則があってもわからないのは彼もそう思ったと思う。
クラインの壷みたいに、こうも見えますよ。

ここに書くのは二度目だが、ヒューム人気ね。

468 :
ヒュームが人間的本性自体を法則みたいに扱ったのは事実だろ。
カントと変わらん。

469 :
間違ってるからこそ正しい。
他者にとっては間違ってなきゃいけない。
それを背負うから正しくもなれる。
そこらへんのことをヒュームもカントも全くわかっていないからな。

470 :
間違ってなくちゃいけない。少なくとも他者にとっては間違いで。
押しつけでなくちゃいけにい。

なのに、人間はそういう思い込みしますね。とぼけたこと言うヒューム。
人間は法則を創造できる。カント。
そんなものねーよ。

471 :
法則の意味がよく分からない。どこで自然科学の法則みたいにあつかった?
仮説は仮説、作り話は作り話とみとめるだけヒュームは真摯な人。だと思う。

472 :
人間は自然本性から因果性を仮構するとかどうでもいいし、
間違ってる。

人は間違ってるから正しいわけで、人間一般持ち出すヒュームは間違いだよ。
他者に間違いを押しつけることの中にしか正しさはない。
あらゆる知識はそういうものだ。
ヒュームの議論は意味がない。

473 :
人は間違ってなきゃいけないのに、
人間はこういうふうに間違い犯すんですねというヒュームの議論は、
「決定的」に間違っている。

474 :
法政大学出版の人間本性論さすがに高すぎだろ
頭おかしいんじゃねえの

475 :
自然法則なんかない。あってはいけないのに、
自然法則は単なる思い込みなんじゃないかなと、
おずおずと言うヒュームはその点では単なる馬鹿。
でも社会契約批判でも何でもいいところは一杯あるから。

476 :
ヒュームの功績としては、
・因果性や法則に対する態度変更。
・ヒュームの原理
これで一対一対応など数学論理学の重要な一歩が確立した。
・ヒュームの法則
であるからべきは導けない。法則がないんだから当たり前だが、倫理学では大きな一歩。
・社会契約論批判。
天下りの虚構を排して慣習などの現実を重視。

そんなところか。

477 :
心理学への影響

478 :
ヒュームの心理学自体はいろいろ破綻してるからな。
私は知覚の束だというけど、
何故知覚の束が私になるか説明できないと意味ない。
そっちの方がはるかに大事。
記憶でそれをやると言っても、
ああ、あんなことがあったこんなことがあっただけで、
私として統合する原理は別にある。
そっちの方が大切で全てが知覚だということにほとほと意味はない。

479 :
社会契約で全て説明できても、契約を何故守らねばならないかは、
契約自体からは出てこない。
ロックもホッブズもルソーも誤っている。

その点ではヒュームは偉大な社会思想家だ。

でも、それは慣習だからだと説明すると何故それが慣習になったか、
何故人がそれを守るのか説明できないとの、
ヒュームお約束の展開になってしまうのがヒュームの限界。
知覚の束も因果性も原初契約批判も同じ失敗犯していて、
ヒュームはそういうものと思うしかない。

480 :
法則は自然からは出てこない。
約束を守るは社会契約論からは出てこない。

他者に誤っててもいいからそれに従った方が良いと納得させること。

約束は最初贈与だが、同時に贈与してる、
されてるとのとらわれを越えること。


ヒュームに反してそこまでいくこと。

481 :
ヒュームは心理学が一番だめだからな。
私は知覚の束だとして、知覚からは私であることは出てこない。
知覚だけだと、私であって他者の知覚でないことは説明できないから、
何も言っていないのと同じ。

ヒュームの心理学読んで、ワォ、新しいとか思っちゃう奴は反省するように。

482 :
新しいんじゃなくて1つの原点なんだと思うけど。誤謬を大量に含んでるのは当然
現代の心理学者、特に道徳心理学者はめっちゃヒュームに言及する

483 :
このスレで言及する奴等は新しいと勘違いしてる馬鹿ばかりだろ。

484 :
でも道徳心理学とか倫理学と絡むヒュームは魅力的だな。いつまでも。

485 :
道徳心理学だの倫理学だの
チャラチャラした分野に手を出すやつは駄目だ

486 :
なんだそれw

487 :
でもヒュームの心理学がだめなのは事実だからな。
だからこそ言及もされるんだが。

488 :
ドゥルーズで一番いいのは、ヒューム論だよな。

489 :
いよいよ始まったか・・・。

490 :
知覚の束・個々の感覚与件を全体として統握する中心、それがヒューム(いわゆる英米経験論、或いはマッハ等)で抜け落ちてる。
そこを突いて先験的統覚を追覈したのがカント〜ドイツ観念論。
常識の常識だが、上にカントへの無理解レスが多いゆえに書いちゃう。
個別の感覚要素だけなら、そもそも感覚要素の認識すらおぼつかぬ。全体を概観できる中心、いわゆる自我。が、それを実態視せずヒューム的に解体しつつ、しかし中心点
(日常的に自覚される我、もしくは今日も明日も同じと把握される世界の同一性)をいかに権利付けるか、これ、変わらぬ哲学の根本問題。

491 :
>>481が良いことを言ってた。

492 :
知覚する「自分」というものがないからね

493 :
カントへの無理解と言っても、
私の問題を解決していないヒュームは決定的に間違ってるけど、
私を出すからと言って、科学だなんだ、私からは客観性を構成できない、
その問題を見落としているカントもゴミだろ。
ヒュームもカントも頭おかしくて。
だからこそ、我々は考えないといけない。
人は間違ってないといけない。誤っているからこそ時に正しくなれる。
そしてこの問題については他の哲学者も、
ヒュームやカントほど考えてないから。

ニーチェやウィトゲンシュタインは半分は誤っていい哲学やってるけど、
半分は正しさを当然としている。

494 :
↑は?
「私から客観を構成できない」
先験的演繹論をまずは読みなさい。そしてドイツ観念論〜新カント学派まで概観し、その上で、その欠を指摘してみよ。
その上で、現象学を絡めて、そして、客観世界の構成の可能性の根拠を自分の物言いで提示せよ。
ってこった。

495 :
と荒らしてみる

496 :
別にそんなに気張らなくたって。
ヒュームは因果性なんか客観性はない、習慣の思い込みなんじゃないかと言ったけど、そんなこと言ったって真理はあるだろ。
科学はあるだろ。倫理はあるだろ。
ばらばらの個々の現象からは法則は作れない。ただの出来事、事実から当為や法則は導けないと言ったが、人間は当為や法則を作らないといけないものだろ。
そのことにはヒュームは何も言えない。

カントはヒュームが個々の現象からは知覚の束からは、私は導けないことを的確に問題にして、私をだしたが、私があるからって、それが法則を当為を導ける根拠なんかないだろ。
私が物を空間時間の中に配置したからって、それが法則として、真理になるわけがない。
ヒュームから一歩も前進してないで無駄な回転してるだけ。全く何も言ってないに等しい。
主体的な私があるからって倫理的な法則堀あてられる根拠なんか全くない。

カントもヒュームも根本において間違ってるのは疑いえない。

個々の現象からは法則を導けない。当為を導けない。人のやってることは他者から見て、間違いであり、押し付けであり、誤謬である。
だがそれを押し付けてでも人を救わなければならないこと、これが正しいと認めさせなければ好きなあの人が困る。
少なくとも何もしなかったり、他の誤りに従うよりましな、誤りがあるだろ。
それが真理であり、法則であり、科学であり、当為であり、倫理だろ。
誤りの中にしか、科学も当為もない。
間違いであるからこそ、法則も真理もそこから生まれる。

カントやヒュームの誤りの中からしか我々は前進できない。
そのことを認めることが始まりだ。

497 :
哲学は、いっつも始まりばっかりだな

498 :
ま、それは景気づけで。あまり考えんでよろしいw

因果性は根拠ないとか当為は事実から導けないと言っても、
導かなきゃしようがないのだから何の役にも立たないヒューム。

コペルニクス的転回だと言っても、何故因果性が成り立つのか、
当為が導けるのか全く根拠ない断言しかしてない、
哲学からほど遠いカントの先に進まないと。

499 :
進んでるよ 実践理性の妖精

500 :
ヒュームが人間の知識は単なる習慣による思い込みにすぎず、
事実から当為も法則も導けないんじゃないかと言ったのに対抗して、
カントが人間は、世界を空間、時間的に配置して世界を把握する、
限定的視線しか持たないと言ったからって、
それが客観性持つわけないだろw
実践理性も同じで主体が当為を導けるわけがないw
カントがヒュームより頭おかしいのは単なる事実の確認だろ。

人間の知識も全て妄想や間違いで、全ては押し付けで、
だからこそ気高いんだという事実から出発しないと。

501 :
出発はわかったから、展開はよ

502 :
それは、スレの主題を越える。
ヒュームやそれを乗り越えたと言ったカントが、
どういう限界にとらわれてるかを証明すればこのスレでは十分だろ。

スレ違いにならずに面白く書く自信はない。

503 :
でも、ちょっとだけw

一人称とニ人称と三人称。
カントのように主体がその限界内で正しさを創造したからって、
客観的に三人称的に正しいわけではない。
一人一人で正しいと思えることは違うが、そのこと自体は、
真理の不存在や、相対主義の正しさを証明するわけではない。

一人一人にとって絶対に見える正しさもそれは他者にとっては、
間違いでしかない現実を認めた上での、その中でもより多く自分と、
他者をいかしあえるものは必ずある。

504 :
経済学では市場の失敗という言葉がある。
情報には偏りがある場合が多いし、それを補うのを個人の責に求めるのは、
現実的でない場合が多い。
全てを市場に任せるのは現実的ではないし、経済的にも非効率だ。

また、有名なウェーバーの禁欲主義的倫理があるから、
近代資本主義は成立したというような、逆説があるように、
経済を発展させるには、機会主義的行動をいかに抑制させるかが、
重要になる。

だが、だからこそ、自己欺瞞と自己犠牲の決定不可能性があるのだが。
倫理や道徳を求め強制することはしばしば大いなる虚偽、不正を導く。


一人称、ニ人称、三人称を壊すことが重要で。
同じような真理とされることもまわりとの関係、状況の違いで、
意味は全く変わる。
ヒューム的、カント的な真理との接し方とは違う真理へのアプローチを。

505 :
もっと展開しれ

506 :
ボーッとしてりゃ無人称の境地だよ





糸冬 了

507 :
経済学を例に出したが、別に経済学を語りたいわけではなく、
功利主義でも認識論でも何でもいいが、
確定した主観や主体、個人の領域があって、
それらの主観に対する三人称の客観があると言った見方を壊さないと。
そこらへんははっきり、ヒュームやカントに罪がある。

共同主観を持ち出す一派もあるが本当の問題は、そういったものには、
取りこぼされるものだから。
自分とは自分で思っているものとは違うし。
客観は客観だと思っているものとは違う。

自分だと思って局所的に機会主義的に均衡だと思っているものの外に、
自分も他者も超えたところに、本当の均衡があるのかも知れない。
大域的に。非局所的に。

そこにこそ、ヒュームの解けなかった私の問題もあるし、
カントの義務論や功利主義との対立超えた真の倫理学もある。

508 :
んなもん、日常者の無自覚の他者関係(普通の友達・家族のシンプルな思い遣り関係)にすでに実現されてること。
はて、それじゃ哲学の課題は?そのシンプルな愛情間関係を定式化して大きな共同体の原理を示すことかね?

509 :
むしろ、共同体を否定することだろ。
日常の思いやりの中にこそ処置できない瞞着があるのがわからないなら、
仕方がないが。

510 :
この問題は哲学の根本だからなぁ。エチケットの問題とかではなくて。
人が人をRのも、不況や恐慌も、戦争が起こるのも、人が人を愛したり憎んだりするのも、全てはこれが原因だから。

もし、人が裏表全くなしに、欲望を剥き出しにして主張するだけ、主張して生きていられるなら、今よりはるかに貧しいが、よっぽど平和で安全な世界を生きられる。
人間が欲望を、機会主義的刹那的な行動を取るよりかは、そういうことを抑えて自己と他者をもっと生かせる道を探った方が、結局はお互いに得だと気づいた時にあらゆる美徳と悪徳が発生した。
欲望を抑えて信用を作ることで高度な信用経済が、大発展が可能になるし、今日の社会はそれなしに建設不可能だが、
それにただ乗りすることも同時に可能となり、搾取や支配も生まれる。
人に禁欲せよ、未来のために目先の欲望を捨てて他者のために献身すれば、結局は自分のためになると説きながら自分のための欲望を追求できる。
そしてそのことはあながち間違っていないから始末に負えない。
搾取も支配も、正義の戦争も、階級も、愛も憎しみも、ここから生まれてそれは避けられない。
己の欲望だけに忠実であるのではなく、他者との誠実さも必要になった時には、人はその中にふたたひ己の破廉恥な欲望を忍び込ませるし、人は容易く利用されるようになり拒めなくなる。
どこまでが正当な自己犠牲でどこからが破廉恥な自己欺瞞か、誰にも本質はわからない。
自分のやってること、他者に求めていることが、そのどちらかは、自分では決められない。
マルクスの売る立場。

511 :
近視眼的に目先の利益よりも長期的な可能性に向けて訓練努力し、
投資し大きな成果を上げようとして、それが身を結ばない限り、
何もなさない。
先に他社に身を結ぶ仕事をされて競争に敗けたなら何の意味もない。

個の立場からは正しい献身が無意味な自己満足かは予めわからず、
全体の文脈の中で事後的にしかわからない。
本質的にそれ以外ない。
内部では決定できない、内部には本質はない、決定不可能性。

それからは逃れられないから。

それから、無理にでも逃れられるなら、
献身は正しかったと立場を確保してくれるなら、人は人をRし、
生権力による大量虐殺も行われる。
人はできること以上の愛をささやくし、どうしょうもなくなって、
恋人の首を締めるし我が子に手もかける。

512 :
ツマンネ

513 :
しょうがねーだろ。そのツマラナさが人間の置かれた本質なんだから。
誰も逃げらんないからこそ、現実にそうなってるし、
あんたもそうなんだから。
ツマンネのはあんたそのもんなんだよ。

514 :
おRかゆいまで読んだyo

515 :
リクエストに答えたまでだよ。
お馬鹿さん。

516 :
ここらへんは哲学の不治の問題だから、
ヒュームやカントの責任ではないけどね。

義務論だろうが功利主義だろうが同じ土俵で過ちを犯している。
哲学の殆どの土俵がそうだから。

517 :
糸冬                      了

518 :
利他的行動が正当化される余地があるからこそ、
正義によって人はいくらでも人に対して残酷になれる。

当たり前だが、だからこそ、正義は大切に守られ貫かれねばならない。

情報のギャップがあり、それを弱者に補完させることが非現実な時には、
規制をかけるとか規格を守らせてパターナリズムも正当化されるが、
それは不正の温床でもあるが、だからといってやらないわけにはいかない。
そうやって三歩進んで二歩下がる形で汚さも必ずはらみながら、
歩んでいくしかない。

519 :
そろそろヒュームの哲学に戻りましょ♪

520 :
ヒュームは根本的に間違っているが、でも偉大だろ。
それは揺るぎようがない。
間違いにこそ哲学者の本質があり、ヒュームは間違い方で偉大だ。

ヒュームの過ちを克服して、主観や客観が確固としてあるような、
認識論、心理学、倫理学、経済学を壊していかないといけない。
ヒュームがそれら全てに手をつけたことは自分が間違ってることを、
正しく認識していたからにほかならない。
自分が牢獄に囚われていることを正しく認識してたから、
壁に頭を打ち付け続けた。
反対側には壁などなく出ていきゃよかったのに、
それだけはやらなかったけど。

後、ヒュームを論ずるったって、
ヒュームの間違いは殆ど論じっちまったしな。

521 :
以下、ヒュームさんを誉める以外は禁止でつ

522 :
・ヒュームは私を完璧に取り落として偉い。
・ヒュームは因果を心理的な物と完璧に取り違えて偉い。
・観念連合をいくら振り回しても私が生きる意味が出てこないのは偉い。
………

523 :
因果は心の側の形式(決めつけ)だろ
事物そのものに有るのはただ相互作用の総体であって、何をもって原因・結果と成すかは主体の決めつけ(もちろん得手勝手でなくその都度の相応の常識判断)。

また、上で皮肉ってるつもりの諸点、「私」「意味」が真実には無いことを暴いたこと、これこそ偉い!
その自覚を無くして、安易に主体・意味などをあーじこーじゃ言うことこそドグマや抑圧の源泉なのだぞ。

524 :
ヒュームは本当に偉いねw
因果を心の形式にしたりw
主体を抑圧として解体したりw
偉い偉いw
とっくに上で論じ尽くされたこと語って>>523は偉い偉い。

525 :
因果性は心だとか習慣による錯覚と言っても、他者に間違いを押し付け、
その中から真実を見いだす現実には全く意味のない雑音残して、
ヒュームは本当に偉い。
他者との実践を考えず、因果性は物にあるのか心にあるのかと、
どうでもいいこと語ったヒュームは超絶偉い。

526 :
で、結局、利他的行動の意味とか、私と思ってる私は私ではないとか、
そっちに行くしかないんだよ。
ヒュームを論ずるなら。

今さら、因果性だ、知覚の束だ、誤って腐りきった議論しても仕方ない。

527 :
因果性が物にあろうが心にあろうがどうでもいいわけで、
そんなの関係なく世界はこうなってると因果性を他者に押し付け、
説得しながら生きてるわけで、それには根拠はなく、
実際しばしば間違ってるけど、その因果性を認めないで生きる場合よりは、
ましだろうと人が日々、間違いを引き受けながら生きてる現実。

それには他者との実践が問題でヒュームはお呼びではない。

528 :
↑きみなんでヒュームスレにこだわるだ?
むしろカント以降の話題じゃね?

529 :
ヒュームが因果性でどうでもいいこと論じるという間違い犯しているんだから、
ヒュームで論じて正しいんだよ。
ヒュームを崇めたてまつるズレても何でもないんだから。

そして、間違いを犯さざるを得なかったというのは、
そんだけ、核心に近いわけで、延々ヒュームへの賛美を語っているんだが。

ヒュームの間違いが正しいと考えることこそ、ヒュームへの侮辱だろ。
崇め奉らないが一貫してヒューム賛美しているのは事実だけど。

530 :
なんかおかしい、なーんかおかしいyo

531 :
ヒュームやカントは一から十まで間違い犯してるけど、
問題があることには気づいてた。
それ以降は問題自体消去されたんだわ。
だからヒュームは貴重。
社会契約でも科学の根拠でも腐りきったヒュームの、
間違いから論ずるしかない。

だから皆もヒュームに興味持つしこのスレに来るんだろ?

ヒュームが間違いだらけと言うのがわからないとか、
いくらなんでも馬鹿すぎるし。
だからこそヤバいことに気づかないならこんなとこに来るわけない。

532 :
がんばれよ☆

533 :
リクエストに答えてちょこっと展開してみただけだよ。

534 :
糸冬 了

535 :
ヒュームだと、知覚の束があるとして、
こういうこがあったと経験したと言えても、
物事はこうだ、こうなるという判断は説明できない。
カントは判断することができることは説明できても、
それに何の意味があるか、何で従う必要があるかは全く説明できない。


結局、最後は他者との交通、何を他者となし得て、どっちの方がマシで、
どうすれば互いに相手を生かし合える道があるか。

なぜ望むようにはうまくいかずに、ただ乗りされたり、
機会主義的行動を取られたり、自分が望まずに人を苦しめていたり。
そういった現実と向き合わなければ答えはでない。

カントにしても、ヒュームにしても、
他者とどうやった方が生かし合えるか。
それ抜きには無意味でしかない。

536 :
ヒュームからどう展開すべきか、聞きたかった人はこれでいいのかな?

537 :
誰も聞いてないよ

538 :
糸冬 了

539 :
>>537-538
www

540 :
>>537
聞いてんのはお前じゃん。馬鹿だ。

541 :
このスレ、レベル高いと思うよ。是非、続けて欲しい。

542 :
おまーらバークリーをまずは嫁よまずわ

543 :
>>542
で?

ヒュームの駄目なところ凝縮させただけだろ。
全てが知覚であって、実体がないとしても、他者との間で、
それでも正しい実在があるかに答えないといけないんだから、
何も全く意味していない不条理。

544 :
糸冬 了

545 :
バークリーは物があるんじゃなく、感覚があるだけと言ったが、
他者を説得して、これが正しいと言語ゲームしていかなければいけないわけで、
物か感覚かなどは死ぬほどどうでもいい。
ゲップの出るほど論じたことだけど。

その意味でロックのタブララサもデカルトの方法論的懐疑もバークリーもヒュームもカントも同じ。
他者がいかに根拠のないでも信じてもらわなきゃいけない、
勝手な押し付けという真実に対して、納得するか否かだけで、
その中身は関係ない。

546 :
結局、537に言い負かされた負け犬が、ぶつぶつけちつけてるだけだな。

547 :
しかし、>>545はそもそも誰にたいして闘ってるのかな?
このスレで個別にケチつけてるの相手にするのが本望じゃあるまいじゃろうて、何か具体的に脱近代哲学な仕事をしてるのかな?
学者さんだったり。

548 :
何回言っても、馬鹿が同じ話で蒸し返してくるから、
惰性で付き合ってるだけだし。
全く同じ理屈なのにそれがわからないんだから馬鹿は馬鹿だから仕方ない。

馬鹿は罵倒するしかないし。恥かかせてやる気なくさせるしかないし。

頭も使わないから、何でもない。全く同じ理屈しか使ってないし。
ただ呆れてるだけ。

549 :
糸冬 了

550 :
全てを知覚の束に還元するヒュームは偉い。
→それだと何々はこうであるの判断も科学も、こうであるべきであるの、
倫理も成立しないだろ。

私を導入したカントは偉い。
→独りよがりなカントの判断が客観的に正しい根拠も、
従わなきゃいけない根拠もないだろ。

じゃどうすりゃいいんだ?
→間違っていても、だからこそ他者に、
従ってもらわなきゃならないことがあるから、
科学も倫理もあるだろ。
個人の欲望抑えることから正義も生まれるがそこから悪も生まれるから注意。

ヒュームと関係ないだろ。
→ヒュームが間違ってんだから、間違いを認めたうえで、
そこから出発しないといけないだろ。
ヒュームやカントぐらいしかこういう問題に取り組んでないし。

ヒュームは全てをバラバラにして偉い。
→前に説明したろ。以下略。

バークリーが。
→同じことだろ。
他者が間違う可能性受け入れて納得して従うのに、
それが知覚だろうが実体だろうが全く関係ないだろ。

何回ループすんだ。

551 :
わかったから先へ進めよ、楽しみに待ってっからよう

552 :
>>549みたいな奴は相手にならないから悔しくて嫌がらせしてるだけ。
一個も建設的なことは書けない鼻くそ。

553 :
まあ落ち着けよwww

554 :
 
量子論を知らんようだね?

555 :
量子論?スゲーよな!

556 :
アイデアはそれぞれの思想家でそれぞれ一発アイデアで同じなんだよな。
ヒュームもカントもロックも。
ヘーゲルもスピノザも。一つ見つけたら後は金太郎飴で生涯同じ。
一曲のヒットで一生くいつづける演歌歌手みたい。

ヒュームは認識論も心理学も倫理学も社会理論も経済学も皆、同じ。

557 :
結局、人は間違うから。全てを知り得ない。
だからこそ、倫理は存在する。
全てに正しい価値はつけられず、見あわない対価の中でも、
やらなきゃならない正義はあるし、人が不当に追われてるなら、
その不当さを是正するために声をあげなきゃいけないし、
社会として不当さや不合理さが少ないように設計していかなきゃいけない。

でも、人間は愚かで凡庸で、でも豊かなんだから。
過激に突き詰めて正義で大事な何かを切り捨てることもないように、
しないといけない。

正当な対価を求めること自体がわりにあわないこから、
元々そうなるわけで。

汚い取引、妥協、卑劣な計算に満ちてるがそれでも我々の世界は豊かだ。
無理はせず、成果をあげていくしかない。


ヒュームから導かれることもこんなことだ。

558 :
ヒュームって読んだことないけどWikipedia見たらなんか好きになった
大学ドロップアウトして自宅で哲学やって
精神を病んで、一生独身で数学が出来なくて
肖像画もダサい
なんか親近感持てる

559 :
スコットランド人だよ

560 :
ヒュームとシェリングって俺のなかでイメージがダブってる
なんかえらく天才肌な

561 :
>>559
ロックはイングランド人で、バークリはアイルランド人ですが

562 :
ヒュームとシェリングって俺のなかでイメージがダブってる
なんかえらく天才肌な

563 :
な肌才天くらえかんな
るてっブダがジーメイでかなの俺てっグンリェシとムーュヒ

564 :
社会契約論を「慣習」だけでぶっ壊した現実主義者

あと、歴史も好きだったみたいね

565 :
このオッサン

心理学に相当影響与えているんだよな

566 :
時間があったらイングランド史は読んでみたい
歴史学としては資料的価値だろうけど、ヒュームの歴史観・人間観はおもしろそう

567 :
クリばかり攻める。

568 :
クリばかり攻める。

569 :


570 :
ヒューム読みたいんだけど訳が見当たらない。英文の奴が倉庫から
出てきたけど、昔少しかじったんだけどどこ行ったんだろう?
連休中に読もうと思っているのだが。

571 :
依田高典
Robert Sugden教授の"Regret Theory" Economic Journal (1982)は大学院生時代に読んで大変感銘を受けたものだが
今はむしろヒューム研究者としても有名なのかと隔世の感。
2016年5月17日

572 :
訳は一部が林先生のHPにある

573 :
明日の朝は太陽が西から上るかもしれないと同じことを主張した人だよね
そりゃ、それまでの人類の知識の蓄積全否定だし、認められることは無いだろうし、精神ぐらいは病むよね

574 :
中本裕之(なかもと ひろゆき)元弁護士(新62期)=長文=奈良県について(2016年2月)

性別: 男、未婚
年齢: 36歳以下(昭和54年4月2日以降生れ)
国籍: 日本人?(本人談: 2012/03/26 パスポート取得)
住所: 奈良県生駒郡平群町(へぐりちょう)?
最寄駅: 近鉄・生駒線 竜田川駅?
実家: 不動産を所有する資産家の分家
家族: 実家で母親と同居、兄、弟、妹?、父親と確執?
母親: 世界真光(まひかり)文明教団の信者
宗教: 聖書は半分くらいしか読んでいない ←←←←←←←←New!
既往症: ノイローゼ(2013/1/15)
常用薬: リスペリドン(2013/1/7)
禁忌: 奈良駅には行けない事情がある
職歴: 元弁護士(新62期、大阪弁護士会、登録番号 41908)、LECでの答案添削、家庭教師
資格: TOEICスコア 680 (2011/10/01現在)
高校: 奈良県 私立帝塚山中学・高等学校卒?
大学: 京都大学法学部 大石眞ゼミ?
大学院: 関西地方の法科大学院修了
受験: 旧司法試験の東京での申込み状況を知っている
勉強: 合格まで10年かかった。『事例本』シリーズ(辰巳1997年〜絶版)を使用
ゼミ: 憲法のゼミに所属(本人談: 右寄りといえば右寄りの方)
奨学金: 毎月1万円返済、返済期間10年以上(2013/10/22現在)
体重: 63.6キロ(2011/12/20現在)
好物: 水炊き、うどん
好きなアニメ:  ザンボット3(1977年)、太陽の牙ダグラム(1981年)、聖戦士ダンバイン(1983年)
偏愛: 伊藤かな恵(声優)、明坂聡美(声優)、高倉陽毬(アニメキャラ) 、小・中学生のホモ
憧れ: 大学教授、公務員
常駐先: 緊急自然災害板(原発情報)、哲学板(千葉雅也、東浩紀)、模型板、声優板ほか
2012/09/01 小・中学生の時にホモってRするのが最も良い
2012/09/05 わたしはとにかく、奈良駅にはいけないのです。
2013/10/22 中途半端に頭がよかったのが不幸の始まるなのであろう。

575 :
ヒュームについて質問が無いのですが、よろしいでしょうか

576 :
ダメ、絶対

577 :
地に足をつけ、観念より具体的で個々の事象を重要視するはずのイギリス経験論は、
ロック以後それを突き詰めれば突き詰めるほど観念的・抽象的になり、
ヒュームに至って観念論として完成した。
そして、優生学や社会進化論などの現代をなお混沌に陥れている
最悪の思想を生み出していった。そういう理解で良い。

578 :
そもそも経験からは何も説明できない
できてはならない

だから経験論が地に足をついているというのは妄想だ

579 :
であるからべきや法則は出てこないし、両者は全く別の概念だ

全ては個人の世界に対するこうあるべきだの押しつけでしかないし、
そうすべきだし、それが正しい
それを引き受けることが正しいし、それが倫理だ

580 :
お前の言う「観念論」はピント外れ
イギリス経験論は「観念idea」の哲学だろう

581 :
たとえ表向きは個別主義であったとしても、ロックのように常に足元を見ているか
優生思想や新自由主義のようにその向こうがわを見ているかで
経験論は袂を分かったんだよ。

582 :
ロック≒ぼったくりタクシー説か、なんかだか分らんが新しい発想だな

583 :
これでわからないか。
自由や個人主義という概念を生み出した経験論がなぜ
ヒュームにいたり弱者淘汰や優生思想のような全体主義的な思想に陥ったのか、
もともとは私有財産や個人の自由を主張するため、権力や全体意志などのように
抽象化されない個々の事象の重要性を訴えていたのが
経験論が理性的側面を次第に喪失し理論として純粋化していくにつれ、
帰納され抽象化された結果を想定し
それが帰結であり本質なのだと訴えるようになったからではないかと思うのだけど
全体を正当化するために
個から論じようとする方法論的個人主義などという考え方が典型

584 :
頭の中だけでは弱者は助からない。優生にもなれない。
正確なバイアスを全身に抱えて生きないと。けん引して。

585 :
ピケティーじゃ無理だ。

586 :
ヒトラーでも。

587 :
ヒュームで語るよりはベンサムかホッブズで語ったほうがふさわしそう

588 :
中本裕之(なかもと ひろゆき)元弁護士(新62期)=長文=奈良県について(2016年2月)

性別: 男、未婚
年齢: 36歳以下(昭和54年4月2日以降生れ)
国籍: 日本人?(本人談: 2012/03/26 パスポート取得)
住所: 奈良県生駒郡平群町(へぐりちょう)?
最寄駅: 近鉄・生駒線 竜田川駅?
実家: 不動産を所有する資産家の分家
家族: 実家で母親と同居、兄、弟、妹?、父親と確執?
母親: 世界真光(まひかり)文明教団の信者
宗教: 聖書は半分くらいしか読んでいない ←←←←←←←←New!
既往症: ノイローゼ(2013/1/15)
常用薬: リスペリドン(2013/1/7)
禁忌: 奈良駅には行けない事情がある
職歴: 元弁護士(新62期、大阪弁護士会、登録番号 41908)、LECでの答案添削、家庭教師
資格: TOEICスコア 680 (2011/10/01現在)
高校: 奈良県 私立帝塚山中学・高等学校卒?
大学: 京都大学法学部 大石眞ゼミ?
大学院: 関西地方の法科大学院修了
受験: 旧司法試験の東京での申込み状況を知っている
勉強: 合格まで10年かかった。『事例本』シリーズ(辰巳1997年〜絶版)を使用
ゼミ: 憲法のゼミに所属(本人談: 右寄りといえば右寄りの方)
奨学金: 毎月1万円返済、返済期間10年以上(2013/10/22現在)
体重: 63.6キロ(2011/12/20現在)
好物: 水炊き、うどん
好きなアニメ:  ザンボット3(1977年)、太陽の牙ダグラム(1981年)、聖戦士ダンバイン(1983年)
偏愛: 伊藤かな恵(声優)、明坂聡美(声優)、高倉陽毬(アニメキャラ) 、小・中学生のホモ
憧れ: 大学教授、公務員
常駐先: 緊急自然災害板(原発情報)、哲学板(千葉雅也、東浩紀)、模型板、声優板ほか
2012/09/01 小・中学生の時にホモってRするのが最も良い
2012/09/05 わたしはとにかく、奈良駅にはいけないのです。
2013/10/22 中途半端に頭がよかったのが不幸の始まるなのであろう。

589 :
違法タクシーは、外国人相手だと特に足元を見る連中が多いよ

590 :
トゥクトゥクなんてもうのらんけど。日本のはダメだよ。
暑いレースじゃない。

591 :
>>587
ホッブズは異端だと思うが、
ロック以前の理論として純粋化する前の経験論は実存さえ含んでいた、
経験論は実存主義と親和性が高く、バークでさえ若い頃は自然社会の擁護という
個人主義的無政府主義を主張した本を書いたりした。
風向きがおかしくなったのは明らかにヒューム以降。

592 :
>>591
っていうけどヒュームに右翼要素皆無っしょ

593 :
カントあたりによるヒュームの通俗化が原因というのならわかる

594 :
経験からは「べき」も「法則」も「ねばならない」も出てこない

595 :
経験からは経験を説明するものは決して出てこないし、出てきてはいけない
経験はこうなるべきだと勝手に人間が裁断して当為や法則を他の人間に押しつけるべきだし
迷惑であってもそうでなければならない
ヒュームのように法則はない人間の気のせいと言うのは間違いで、
でたらめに作った、それこそが正しい、立派な真理であり妥当する
カントのように法則が普遍妥当するかに語るのも完全に間違いで
偏っている間違いだからこそ人を救える
普遍ではなく何の根拠もないことを自覚してこそ真性の真理になる

596 :
イギリス哲学が経験論だというのはカントと大陸側の哲学史観であって、
イギリス人は経験を重視する側面は否定はしないが
それより中庸やバランス感覚を重視するのが本来のイギリス哲学だと考える

例えば、明らかに演繹的な概念である、
憲法という法が存在しない国のはずのイギリスで
マグナカルタというあらゆる国々の憲法のもとになった法が作られたり
ロックが経験から導かれるべき
実定法ではなく自然法を主張するのも
イギリス哲学は折衷論だと考えれば納得がいく

597 :
そら、経験論は論理的誤謬だから
経験からはべきもねばならないも法則も出て来ない
やるだけ無駄の論理的誤謬

598 :
スマン、覚えたばかりの誤謬という単語を書きたかっただけだ

599 :
経験論が誤謬ってありえないんすけど

600 :
単なる生の裸の経験からは何も出て来ないだろ?
それを評価する観点、視点からの意味付けが全て
無垢な経験だけから知識なんか一つも出てくるわけがない
一つの経験から別の経験に何でも結びつけられる無限に関係を引き出せる、
それ自体には制限ないから何も言ってないのと同じ
ここはヒュームのスレ何だからそれくらいの初歩はわきまえて欲しい

601 :
>>599
経験からは何の因果性も法則も導けない
因果性は心理的錯覚だと言ったヒュームのスレで
お前は何を言ってるんだ?

602 :
>>601
その理論を経験論と言うんですけど

603 :
スマン、ほんとに誤謬って言う言葉を二日前に2chで覚えて言ってみたかっただけなんだ
そういうことって良くあるだろ

604 :
経験論を自然主義や物理主義的な意味ではなく使っているのな
そいつは悪かった
それなら誤謬じゃないにせよ、殆ど何の意味もないだろ
ヒューム自体がそうだが
間違ってさえいない

605 :
間違ってさえいない理論でドヤ顔してるんなら
603は本当に馬鹿だな

606 :
こんな程度のことでしか威張れない可哀想な人

607 :
ぷっ、間違いを訂正するのは早い方がいいよね
>>602みたいな下らない言いがかりをつけるより正しい知識を持った方がいい

608 :
ただ誤謬って言ってみたかっただけなのにおまえらいい加減ひつこいぞ
知性はまるで感じられないが皮肉だけは間違いななくナンバーワンだな

609 :
経験論が間違ってるのは事実だし

610 :
間違ってさえいないタイプも含めて経験論は間違い
意味がない

611 :
>>602>>606
恥ずかしくなって死んだの?
馬鹿はこれだから
謝りもしない

612 :
ヒュームの、そして経験論の駄目なところは間違ってさえいないところ

あれでは何だって言えてしまい何も言ってないのと同じ

カントの駄目なところは間違えかたを間違っているところ

ヒュームは間違うべきだと言うのは正しいが間違えかたがおかしいから
ヒュームの劣化版にしかなっていない

613 :
すっかりすねちゃって
馬鹿は可愛いな

614 :
経験からは因果も因果の否定も出てくるわけがない
因果性とはそう考えた方が生きやすいという選択でしかなく
ヒュームは頭がおかしい経験と因果は何の関係もなく
はじめから因果はメタ概念

カントのアンチノミー
世界が有限だとして経験から世界が有限でしかないことは証明できない、
確信は得られない
世界が無限だとして経験から世界が無限だと言うことは証明できない
確信は得られない
これも頭おかしい
世界が有限か無限かはどっちであるべきか可能性が高いかは、
人間が決める選択することで経験とは何の関係もない
カントも頭おかしい

カントのアンチノミー概念も全て経験では説明されてはならない
経験から切り離されたメタ概念

615 :
因果性にしろ有限無限も必然性も人間が経験とは全く関係なしに
孤独に決断するべきことであって経験論とか全く関係ないもの
持ち出す振りかざすヒュームもカントも脳が湧いている

616 :
全ての思考が経験とは無関係なんてありえないだろう
経験だけで成立する思考もなければ合理性だけで成立するそれもまたない
意識してないだけでどこがで関連性があるに決まってる

617 :
経験だけならAがあった、Bがあった、Cがあったってだけだろ
AからBが生じたから次はCが起きるとか、AよりBが望ましいからCをするとかの思考は
経験とは全く独立に生ずる
その際、ABCという要素は同じでも両者には関係ない
何故CではなくAに戻ったりBに留まったりDに行かないのかは、
経験からは選択する根拠、説明する根拠はないから

618 :
だからと言って経験から思考が生じないと言うこともないだろう
なんでどちらか一方に絞ろうとするんだ

619 :
経験からはべきだは出てこない
経験からは独立だ
法則もねばならないも倫理も
あらゆる判断は経験からは独立しているよ
ABCDEFという事象から次は何が生ずる
どういう法則がある
AよりはBが望ましいからCを行う
それは経験からは独立した判断で経験には決して還元できない
わかるよな

経験はABCDEFという事象に過ぎずあらゆる判断は経験からは分離している

620 :
現実的には判断と経験は分離できないが故に経験の影響を受けて
結論が左右されることになる

例えば、大きな火が迫って来るのを見て咄嗟に走って逃げようとなるのは、経験的に火は
危ないと知っているからで熱を伴うもの、焼き尽くすものという火の性質を
知らずして逃げるという判断は生じ難い

判断には独立性があると言っても実質的にその大部分が経験則に委ねられる結果となるなら
単独で成立していると言ってもそれは虚像に等しい
それは事象の根拠を求める外的要因と内的要因、の対立でしかなく
双方は連関しているとしか言いようがない

621 :
赤子の心をもつと言われた学習型人工知能「Tay」は
ツイッターからのメッセージを受けて人種差別など暴力的な発言を繰り返し
物議を醸す結果となった

人間の意識や精神が機械運動などではなく主体的で独自の知覚であるとする見方は
人間が、無生物である機械や下等生物とは決定的に異なる
特別な要素であると近代以降信じられてきた
しかし、外的要因に依ってタブラ・ラサである精神が次第に形作られるという見解も
同時に受け入れなければ主体的に起きた物事の結果について
その批判に終始するだけである

近代西洋哲学とは逆に、東洋哲学が辿り着いたのは人間の意志とは無関係に
物事は起きているということ
主体的な「私」がそれを確認する為に目の前の人をいきなりぶん殴ったとしても
殴ろうとする彼がちょうと目の前にいたこと、殴ろうとする手にたまたま負傷していなかったこと
私が何かに過不足を感じていたこと
様々な要因が絡んで初めて殴るという行為が成立している

人のすることは予測することはできないが、人が何かをする動機は
決して内的動機によってのみ定められるのではない

622 :
奇形グック女子wwwwwwwwwwwwwww


http://livedoor.blogimg.jp/netasaka/imgs/b/c/bc738f01.jpg


奇形グック男子wwwwwwwwwwwwwww


http://livedoor.blogimg.jp/sdtnk55-2ch/imgs/c/b/cbb9aba4.jpg

623 :
自然主義、物理主義、経験論の過ち
経験において別々の物に対して、
それは同じ物でも全く同じ色でもないのに、
それが赤なら赤だと人はわかる
見たことのない物も判断つく
個々の局所的な経験しか人は知らない、知識を組み立てられない
経験からしか人は知識を得られない、知識を持てないなら
そんなことは有り得ない
純粋な局所的な経験論、唯名論は成り立たない

局所的な経験越えた認識がなく普遍が単なる取り決めなら
赤に対しても広い幅の人間が共通で認識できる、そんなことはありえない
共通な認識ができる時点で局所的な経験論、唯名論は間違い

624 :
タブララサで白紙の何もないところから体験して経験が刻印され
知識が蓄積して形成されるとかありえない
ただの孤立した体験同士、何かと何かを関係づける物がないと
何かを知ることなどそもそもできない
経験を越えた物がない限り経験を関係づけ意味を与えることなどできない
生の全体の中で世界をどうしたい、どう変えたいとの繋がりの中にしか
何かを知ることは存在しない
タブララサで直接体験したものしか認識できないというなら
見たことないものもについてそれが赤だとはじめからわかることもないし
経験からは無限を尽くせないから論理や数学を認識することもない
直接体験したものを越えて、さまざまなまだ体験したことのないものも
含めて知識できる認識しているからこそ、
あるものとあるものがどういう関係なのか
個々の経験では説明できないものについて、
関係づける能力を人は持っているからこそ、人は認識できる

625 :
物理主義、経験論、唯名論、タブララサは基本的に誤謬
実在論や生得観念、観念論もおかしいが
それらの対立を越えたところに行かないと

626 :
>>618>>620はほんとに馬鹿だな

627 :
薔薇や郵便ポストを見て共に赤だと理解する
見たことがそれまでなかった物を赤だと認識できる
経験とは関係なしに "
経験とは別に認識があるのは明らかだし、
また、薔薇と郵便ポストからは赤以外にも無数の関係性をカテゴライズできるのに
赤が出てくるのは経験からは説明できない
痛いという経験からそれを避けると知識を経験から説明できるように語るのは
過度な単純化でありドアホウである

628 :
人生論の2と3好き
アホだから
正しいかはよくわからないけど
なんだかホッとするのです

629 :
ヒュームは掛け値なしの偉大な思想家だからね
経験論の死に水をとった
ただ彼が埋葬したことに気づかないで
とっくに終わったものについて何かを語った気になる馬鹿が多すぎ

630 :
単独の局所的な経験の刻印をいくら集めても認識は発生しない。目の前にあるサイコロの一面しか認識できないなら六面あって確率1/6でなど認識できない
1の目と郵便ポストを結びつけていいから
1の目と郵便ポストの関係は1の目と他の目と同じくらい重要であり他の目を重要視する理由は全くないから
サイコロをサイコロとして今鳴っている音を他の連続して鳴らされている音と繋げて音楽として
薔薇と郵便ポストを赤として認識する関係づけることは経験の刻印からは説明できない
経験からは説明できない個々の経験の刻印を越えたそれらの関係づけを現象学は志向性と言い、唯名論と実在論は普遍と言い、タブララサと生得観念とか事実から当為は導けないとか
事実からべきもねばならないもいかなる法則も導けないと言われていたことに他ならない
昔から問題視されていたことをあからさまにすることでしかない

631 :
>>616>>620は本当に馬鹿だな

632 :
一般的観点

633 :
でも間違っているしな
経験からはであるだけしか出てこないし
abcdef
それぞれの経験からは次に何が起こるとは出てこない
アルファベットの何でもいいから意味はない
何を次にするべきかは経験からは独立に判断されること

634 :
>>626
あんたには、ヒュームは早すぎたんだよ
哲学に関わろうとするより、四則計算からやり直したほうがいい

635 :
俺は経験論者ではないから、生まれつき四則計算ができるよ。君出来なかったの?

636 :
>>627
赤が、赤と認識されても、それがどういう性質をもち何と関連付けられるのかは
経験に依るしか無い
こんな知恵遅れの下等生物が哲学とかギャグの領域

637 :
認識の連続が経験なんだから分離できないでしょ

638 :
哲学者というものは極端な前提でしかモノが言えないから猛反撃にあうことになる
こうやって議論のための議論にしかならないのが哲学のくだらなさ

639 :
>>635-636
何を言ってんだこの馬鹿ども
薔薇と郵便ポスト見てからそれらの共通な物を抽出して
これは赤だなとか思うわけないだろ
それだとはじめて見るものについて、それが赤だとわからない
いちいち、共通の物を抽出してなんてやっていない

薔薇や郵便ポストの個物の体験とは全く関係なしに赤についての認識が先にあって後から、
経験は関連づけられるにすぎない
経験前から本質に関する認識があるから経験したとき、関連づけられる
因果関係が全く逆だ
馬鹿じゃなねーの

阿呆すぎ
生まれる前からやり直せ

640 :
そうやって次元の低い煽りを入れないとモノが言えないのは頭の悪い証拠ですよ

641 :
経験とは関係ない認識が先にあるから、
やっとこさ経験が意味を持つことは可能なんだよ

642 :
>>640
636とかほんとに馬鹿だよなw

643 :
経験論と合理主義の対立は、生まれながらに人がもつ理性的主体としての本質的傾向を
主に論じてたもので認識論的なことじゃないだろ

644 :
でも経験論が不合理なのは明らかだろ
個々の個物の経験から知識を組み立てようとする唯名論は、
見たことのない物について普遍を判断できないというアポリアに陥る
薔薇と郵便ポストとは別に赤の認識があるとして、
経験とは関係なしにそんなものがあるならそれは既に経験論じゃない
個物からは個物の関係は説明できない
個物の関係を説明できるのは個物を超えたものだけだ

経験とは独立なアプリオリなもの
経験論の立場などどこにもない

645 :
威勢良かった馬鹿どもも消えたか
経験論とかゴミだから
経験論は個々の経験については語れてもその経験同士の関係は語れない
語るなら既に経験論ではない、経験論の枠を超え出てる
タブララサ、白紙のところから経験の刻印だけで知識が出来るとか妄想
同じ理由で経験だけの知識は出来ても経験同士の関係について何も語れない、
経験と経験の関係は経験を超えたものであり、経験超えたものについて
何も語れない、何の知識もできない意味のない白痴の理論

646 :
>>644->>645
こいつは経験論の何が問題で批判が起きていたのか
根本的に分かってない池沼だな(笑)

647 :
>>646
馬鹿は悲しいね
結局タブララサは間違ってるのになに言ってんだか

648 :
>>646みたいな馬鹿は論理的に経験論が否定されていることも
わかんない理解できないんだろうな

649 :
個物の経験からしか知識が得られない経験論では個物同士が同じ赤だとか
見たこともない物も赤か赤でないか判断つくなどあり得ない
個物を超えた個物同士の関係などは個物に対する経験では説明できない
個物としての薔薇や郵便ポストが赤だと判断できるのは
その個物の経験とは別に赤とは何かの普遍的知識がないと無理
個物とは別に赤とは何か普遍的知識があることを前提するなら
既にそれは経験論でも何でもない
経験論は過ちである
否定しようもない単なる事実

650 :
http://plaza.rakuten.co.jp/thisman/

651 :
経験論が、クオリア問題のようなことだと解釈しているクソ馬鹿

652 :
>>651
なら個別的な経験からどうやって知識作るんだ
個別的な経験同士をつなぐ知識は既に個別的な経験を超えてる
既にそれを認める時点で経験論を超越してる
経験論は破綻している
そんなこともわからず文句つけて馬鹿じゃね

653 :
知識は既に個別的な経験を超えてる
真性の馬鹿発見wwwwwwwwwwwww

654 :
>>653
薔薇についての知覚と郵便ポストについての知覚があったとして
それらが共に赤だという知識は既に個別的知覚からは出てこないだろ
何を言ってるんだこの馬鹿は?
普遍は経験からは出てこない
経験とは独立だ
Rよ、ゴミ

655 :
まあ待て。
経験を、知覚・認識と読み替えればあながち間違いとも言えない。

656 :
薔薇の経験、郵便ポストの経験、個別的な経験から得られる知識ではそれらが共に赤だという知識は得られない
また、見たこともないものも赤いものなら赤いと判断できる
それは薔薇の個別的な経験とは関係なく赤の本質を把握して赤か赤じゃないか判断しているということ
薔薇を見て赤いものとはこういうものと判断してたとしても薔薇とは全く同じではない重ならない物を見たときそれをなぜ赤と判断できるか
薔薇とは関係ない赤なら赤の本質に関する認識があるということ
個別的なものとは別に赤とは何か把握していないと薔薇と郵便ポストが共に赤だなとか
見たこともない物もこれは赤だなと判断できない
普遍的な、経験によらないアプリオリな知識があるから個別的な物について当てはまるかどうか判断できるのであって逆ではない
個別的な経験、知覚、認識をいくら集めても個別を超えた知識、別な物に対する認識など成立しない

この道理もわからずいかなる反論も無意味

馬鹿がいくら喚いても何にもならない

657 :
馬鹿は長文を使っても、やっぱり馬鹿だなw

658 :
>>657
馬鹿は死ぬしかないな
何で生きてるの?

659 :
個別的な経験で得られる知識は個別的な経験の知識にすぎない
個別的な経験同士の関係についての知識は
既に個別的な経験からは得られない
何でこの当たり前なことがわからないんだ?

660 :
神が知性の明かりを灯した等という神話的な理解から、経験が観念を生み理性的主体としての
人間精神が成ったという機械論的な解釈こそが経験論に於いては革新的だったのであって
そんな、脳に映る赤だ青だと言う脳科学みたいなことなんぞ、中心的な議論の対象になっちゃいないよ
知覚からくるイメージは、単純認識とか悟性と呼ばれるもんで、複合認識や理性とは
明白に区別されている

661 :
>>660
脳科学とか馬鹿じゃね
何の知識だろうが個別的経験によるものは個別的なものにとどまるだろ
個別的にとどまらない知識が与えられるなら、それは
既に経験論でも何でもない
個別的でない知識が得られるなら既に個別的経験じゃないから
経験論を飛び出しているから
赤ん坊にもわかること

Rよ、馬鹿

662 :
aという物を見る
aについて知識を得る
でもbという物を見たときこれはaと同じような色だ、しかしこっちの性質は違うと思うとき
aと全く同じということはあり得ずちがっているのにそれでも同じ色だと思う
それはaやbに関する知識とは別にしかあり得ない
aを見る経験とは独立にこれは同じ色という認識がないと無理
あらゆる認識についてこれは同じだ似ている全く違う
それは普遍についての認識があるからで経験とは関係なく経験とは独立だ
経験を超えた認識が存在しないならあらゆる経験はばらばらで関係づけられることはあり得ない

663 :
オウムみたいに的外れなことを何辺も書き込んで
自分は阿呆ですと宣伝したいのか?そこまでしなくても十分分かるよ

664 :
>>663
論拠もあげないでRば
馬鹿は悔しいの?

665 :
>>663
生きてる意味がないな
お前みたいなゴミは

666 :
馬鹿だのゴミだのこの知的水準で哲学を語ろうとは
体を張ったギャグなのか

667 :
事実からべきだは導けないのにごちゃごちゃ言ってる馬鹿は何がしたいんだ?

668 :
薔薇を見て郵便ポストを見てこれは赤と言うと教わる
でも別な物を見たときそれが赤なら赤となぜわかる
郵便ポストと全く同じ色の物とかあり得ない、それを赤なら赤と判断つく
緑でも黄色でもないと
それは普遍的な赤についての理解があるからで個々の経験からは出てこない
一事が万事、個々の経験からは知識は作れず何をするべきかはわからず
法則は導けない
経験論や自然主義は妄想なんだよ
反論できない奴は来るなよ

669 :
>>663
馬鹿はさすがに死んだかな
間違った自然主義とか経験から知識を得るとかの妄想から解放されたかな?

670 :
馬鹿どもはある薔薇を見るという個別的な体験をしたら
別な物を見たときそれが赤いか赤くないか薔薇の体験から
判断できるとかいうの?
それは狂ってるだろ?頭がおかしいだろ?
個別的な体験からは個別的体験を越える別な物の判断なんかできるわけない
薔薇については語れても薔薇以外の物は何も語れないし語っちゃおかしい
経験論や自然主義、物理主義は純粋に間違い
意味のない誤謬
こんな簡単な事実を認められない馬鹿どもは今すぐ首を吊って欲しい

671 :
まったくナンセンスな書き込みを延々と繰り返す馬鹿w

672 :
>>671
じゃ、薔薇を見た後に別な物を見たとき
それが赤いか赤くないかどう判断するんだ
キチガイ
その判断は薔薇に関する知覚、経験と直接関係ないだろ
個別的経験は個別的な物で別な物への経験に適応するのは
全く別な原理がいるだろ
Rよ、白痴

673 :
672みたいな馬鹿は生きている価値がないよな
みっともない
早よ死んでくれ

674 :
そんなレスアンカーの有無だけで赤の他人を装えると考える
君自身が馬鹿だと思われてるよ

675 :
>>674
なに言ってんだ、この馬鹿w

676 :
「自我は感覚の束である」byデイビッド・ヒューム

仏教哲学の「五蘊仮和合」に通じる、究極の無我思想だ

677 :
バカに、実体は無い

バカとは、バカげた思考の束にすぎないからだ

678 :
>>478
> ヒュームの心理学自体はいろいろ破綻してるからな。
> 私は知覚の束だというけど、
> 何故知覚の束が私になるか説明できないと意味ない。
> そっちの方がはるかに大事。
> 記憶でそれをやると言っても、
> ああ、あんなことがあったこんなことがあっただけで、
> 私として統合する原理は別にある。
> そっちの方が大切で全てが知覚だということにほとほと意味はない。

679 :
>>479
> 社会契約で全て説明できても、契約を何故守らねばならないかは、
> 契約自体からは出てこない。
> ロックもホッブズもルソーも誤っている。
>
> その点ではヒュームは偉大な社会思想家だ。
>
> でも、それは慣習だからだと説明すると何故それが慣習になったか、
> 何故人がそれを守るのか説明できないとの、
> ヒュームお約束の展開になってしまうのがヒュームの限界。
> 知覚の束も因果性も原初契約批判も同じ失敗犯していて、
> ヒュームはそういうものと思うしかない。

680 :
社会契約論のキモはそんなところにはないね
ホッブズは、自然状態から市民社会への移行を事実として描いたわけではない

681 :
>>680
で約束を守るは約束からは出てこないでしょ?

682 :
約束は果たすべき将来の行為の予告として定義されるから
約束を守るべきという規範は約束という概念から分析的に引き出せる

683 :
>>682
いや約束は自分のために取り交わすなら自分が得するなら
約束は破ったっていいわけじゃん
分析だ定義だは関係ない
自分の為に約束を取り交わすのに、もっと自分の為になるなら
約束を破っていいわけだし
約束自体からは約束は守らねばならないは出てこないよ

684 :
自分の心の中では、自分が得するなら約束を破ってもいいと思うことはできるけど、
これから約束をする相手に対して、自分が得する場合は約束をやぶるつもりだと
言うのは変だろう。「守るつもりはないけど約束する」と言うのは約束をしないのと同じ。

685 :
皆が約束は守らなくてもいいと思うなら約束は誰もできなくなるだろ
一度約束したなら損だとしても破れない
これは約束自体からは出てこないという話だよ

686 :
家族間で行われるような日常的で些細な約束すら成立することが信じられないというなら別だが
そうした小さな約束事の成立可能性に僅かでも信憑があるなら約束が守られる根拠が全くないことにはならないな

687 :
>>686
詐欺師とは違い家族では約束を守るというなら、
その家族と詐欺師の違いは約束自体からは区別つかないだろ
約束の文面としては家族も詐欺師も同じ
約束を守るということは約束自体とは関係ない
外在的なものだと言う話だよ
約束の内在的なものからは約束の拘束力は説明つかない
誰も約束は守られてないとも約束の拘束力がないとも言っていない
その拘束力のよってたつところは約束自体の外にあると言う話
約束からは内在的に説明できないという話

688 :
拘束力に関して内在的と外在的の区別にどういう意味があるのか

689 :
「約束」自体は空証文で中身はないよ

690 :
約束を自分にとっては都合の良いことは守るが都合の悪いことは守らない
自分のことだけ考えれば皆がそうしたいが皆がそう思えば
約束自体が成立しない
誰も約束を取り交わすことが出来ず皆は不幸になる
約束を守る守らないは個人の損得を越える
ライアーゲームという漫画は誰も儲けようとしなければ全体としては最大の利益になるが
皆が利益を得ようとすると確かに儲ける奴は出るが
必ず全体としての利益は小さくなる、一人一人の利益の総和は痩せ細り
主催者の方がもうかる
そういう状況が描かれる
個人にとっては得なはずのことが全体にあっては得だとは限らない

691 :
馬鹿な社会契約論者は消えたかな
約束自体は約束の履行を保証できない
事実や経験からは法則や倫理を説明できない
ヒュームのイロハのイ

692 :
こいつは現象学の方にも的はずれなこと書き込んで誰にも相手にされないアホ

693 :
>>692
馬鹿はいいから

694 :
経験論が示す経験の意味を個人的な思い出だと勘違いしてるアホタレではお話にならんわな

695 :
>>694
何言ってんだお前
では聞くが個別的な経験で得たものからどうして他の経験との関係を説明つけられるんだ?
既に個別的な経験から得られる知識以外の物を前提にしているだろ

696 :
経験論、経験だけから知識を組み立てられるは妄想なんだよ
知識を組み立てる時、既に経験以外の物を前提にしている

697 :
経験だけから知識は組み立てられるわけはないんで
それらの経験を評価し規範つけ何を為すべきか見つける
それは経験とは全く関係ない別のもの

698 :
経験だけから知識が組み立てられるとか頭のおかしい馬鹿そのもの

699 :
http://twilog.org/nachi_ibuki
http://blog.livedoor.jp/nachi_ibuki/

700 :
そろそろ、自分が馬鹿だと宣伝してるのがわからないのかな
経験の意味を、人生経験のような個人的体験だと思いこんでるとかアホの極み
お子様はソフィーの世界でも読んでろ

701 :
何を言ってるんだこの馬鹿は

702 :
現象学スレでも、的はずれな長文を連投して総スカンされてるゴミ

703 :
>>702
カスは出てくんなよ
頭悪すぎ

704 :
経験だけから知識は組み立てられる筈はないのにな
自然主義者とかクワインみたいなゴミは消えて欲しい

705 :
経験論者なんてゴミは恥ずかしくて生きている甲斐がないからな
尻尾を巻いて逃げやがった

706 :
経験論者なんていないよ、あんたの認識が的外れだから馬鹿にされてるだけ

707 :
>>697
それなによ?www

708 :
>>706
経験論の間違いを認めるんだなw

709 :
経験論というか、慣習論だよね。
経験だと主体的な匂いが強い。
数学も慣習から生まれた。

710 :
「自我は感覚の束である」
自我は存在しない。
感覚がものすごい速さで連続しているから、自我が存在するように錯覚しているだけ。
こんな、古代インド人に驚くほど似た思想が、北極の近くの近代人から出てきたとは驚異。

711 :
現代でも我発見せりって古代インドの結論を自分の発見として本にする人もいるぐらいだしなあ

712 :
そこはたいして意味のない議論だし
感覚の束から主体性が出ることの方が問題だから
慣習に言い換えるのも同じ
何で慣習ならある経験とある経験から次はこうなると判断するのか
別な判断を無限にできるのに
議論するだけのレベルに達していないね
abcdefという経験から何で次はこうなるという判断が出るのか
個々の経験からでも慣習からでも感覚の束からでも説明はつかない
できない
abcdefから法則や次はgであるという判断は何故導けるか
慣習とかではaやdやfやZでないということは説明できない
経験からでも
平等だから
個々の経験からはabcdefから次は何か判断できない

713 :
この程度のこともわからず因縁つけるとか笑かす
馬鹿しかいない

714 :
>>712
判断した結果を結果としてるだけ
abcdefgなんでもよかった
gを判断した主観の結果の世界にいるだけ

715 :
>>714
だから既に客観なんかない
自然も慣習もない

716 :
>>712
>何で慣習ならある経験とある経験から次はこうなると判断するのか
>別な判断を無限にできるのに
根本的なことがわかってないんだな。
>abcdefから法則や次はgであるという判断は何故導けるか
これは、すでに合理論が想定されてる問い。
>慣習とかではaやdやfやZでないということは説明できない
慣習論とは、合理的に説明できない説なんだよ(笑)
何故であるか、合理的な説明は不可能で、
経験の積み重ね、慣習に従うからとしか言えないということ。

717 :
wiki
懐疑論
ヒュームが疑うのは、経験的事実ではなく、そこに設定される因果関係と帰納によるその正当化である。
ヒュームによれば、「初めて存在するものには、すべて存在の原因がなければならぬということは、
哲学で一般的な基本原則となっている」が、「よく調べてみれば、原因の必然性を証明するために
これまで提出されてきた論証はどれも誤っており、こじつけである」[46]。
>>
このように、新しい生成にはすべて原因が必要だという考えは知識から引き出されるのではなく、
またいかなる学問的推論からも引き出されないのだから、どうしても観察と経験とから生じるもの
でなければならない。
そこで、当然、次に問題となるのは、いかにして経験はそのような原理を生じさせるのか、ということである。
しかし、私はこの問題を次のような問題にはめ込むほうがもっと都合がよいと思うので、それをこれから研究の主題にしよう。
それは、われわれはなぜ、しかじかの特定の原因は必然的にしかじかの特定の結果を伴わねばならないと断定するのか、
また、なぜ、一方から他方へ推理を行うのか、という問題である。
??ヒューム『人性論』第1編3部3節、大槻春彦訳『世界の名著27 ロック ヒューム〔第3版〕』中央公論社、昭和45年、p.433
<<.

718 :
慣習だけしかないなら
そもそも太陽は東から毎日昇るなんて判断は出てこない
太陽が同じものという判断ができないから
同じものと思う東から毎日と思う
その時点で太陽の同一性、日時の同一性の判断が生じている
全く新しい太陽が発生していると何故判断しないか説明できない
朝がその度ごとに違う全然別なものと判断しないか説明できない
同じ太陽が同じ時刻に東から昇る
そのアプリオリな判断は経験や自然のアポステリオリに先行する
経験や慣習からは太陽や朝が「同じもの」という判断は出てこない
落第
失格

719 :
>>717
馬鹿は死んでいいから

720 :
>>718
同じものと判断した結果の世界にいるだけ
可能性は無数にあった
結果はなんでもよかっった
太陽がそれぞれ別にのぼる結果の世界を判断したら主観にとってはそういうせかいになる

721 :
>>718
なんだよ、ネタ?からかってるだろう(笑)
慣習論の有名な言葉、
明日も太陽が東から昇ることは証明できない。
知ってて言ってるだろう。
慣習だから、
太陽は東から毎日昇るという判断ができ、
太陽が同じものという判断ができ
太陽の同一性、日時の同一性の判断が生じて
全く新しい太陽が発生していると何故判断しないか説明できて
朝がその度ごとに違う全然別なものと判断しないか説明できて
同じ太陽が同じ時刻に東から昇る
経験や慣習からしか太陽や朝が「同じもの」という判断は出てこない

722 :
明日も太陽が東から昇ることを合理的に証明できない。
慣習に従ってそう判断しているということだかが説明を可能にする。

723 :
カントの「アプリオリな総合判断」とか、空想だから。
ヒュームが合理主義を懐疑論で解体し、慣習論を唱えた。
しかし西洋哲学は合理主義派が主流だから延命のために、
カントが苦肉の策として、アプリオリな総合判断なる、謎の考えをひねり出した。
カントは合理主義の救い出した救世主だが、
西洋哲学を、哲学者の遊びとして犯罪者。

724 :
カントが「アプリオリな総合判断」とした数学は、単なる慣習。
数学を覚えることと、自転車の乗り方を覚えることに違いは無い。

725 :
1+1=2は、どこにも基礎づけられていない。
だから小学校で教えるのは、箸の持ち方を教えるように、算数を教える。
身体で覚えていく。

726 :
「数学は単なる慣習」なとどいう言いぐさは、結果論を原理と取り違えた心理的混乱だろうな

727 :
>>710
古代インドの場合は、解脱を目指す神秘思想。
ヒュームの自我否定は、「我思う、故に我あり」というデカルト哲学を否定するための詭弁。

728 :
>>726
数学が、建築術や天体学など、算出という実用的な技術から、
神学(イデア論)的に派生した単なる慣習である。
数学という発明を発見と考えるのは、形而上学的な転倒。

729 :
様々な犬を「犬」と呼ぶとき、先にあるのは様々な犬であって
めんどくさいから適当に「犬」とひとまとめで呼んだだけなのに、
形而上学的転倒では、先に犬というイデアがあり、そこから様々な犬が生まれると転倒する。
数学しかり、様々な実用的な算術的な試みがあり、数学という体系が発明されるのに、
最初に数学という神の言葉があり、人がそれを発見したという。

730 :
慣習によって1+1=3が可能なら
その慣習によって2つのリンゴが3つになったりわけか
変わるのはリンゴなのか呼び方なのか

731 :
>>730
1+1=2と1+1=3は、実用的にどっちが使いやすいと思う?

732 :
計算の習得が慣習に依るとしても
それは「単なる慣習」ではない

「驚くべきは慣習」

733 :
ほう
「単なる慣習」を根拠付けるのは、「実用的かどうか」ってわけだ

734 :
>>732
単なる慣習こそが、もっとも知的である。

735 :
「1+1=2はどこにも基礎づけられていない。」>>725、のではなかったわけだ

736 :
>>733
算術は、ピラミッドなどの高度な建築術を見れば、実用性が重視された可能性は高いだろう。
しかし歴史的に慣習は偶然的に作られたとしかいえない。

737 :
>>735
しゃべるの下手?
ぼそぼそいって、よく聞き取れないんだけど(笑)

738 :
そもそも、慣習が成立する世界は自明ではない

それは「慣習が可能である世界」である必要があり
どこまでいってもアプリオリは消去できない

739 :
>様々な犬を「犬」と呼ぶとき、先にあるのは様々な犬であって
めんどくさいから適当に「犬」とひとまとめで呼んだだけなのに、
形而上学的転倒では、先に犬というイデアがあり、そこから様々な犬が生まれると転倒する。

唯名論ですな!
中世の普遍論争みたい。

740 :
>>738
独我論?

741 :
>>738
慣習が成立する世界は自明ではない。
慣習が成立しない世界ってなに??
人間が生まれる前、的なこと?

742 :
慣習が無ければ、「見る」こともできない。
目があれば、見えるわけではない。
盲者が目が見えるようになって先ずやることが、正しく見るための訓練が必要だ。
そこには言語という慣習が重要になる。

743 :
犬の普遍性は微妙なところだが
「犬は犬と(だけ)交配可能である」という事実が犬の根拠として存在しているわけだ
それは生物化学的な理由があるわけだが、生物がそのようである、あるいは
そうなるしかなかった理由は謎だな
「単なる慣習」などというのは、まあ、「そう思ってるのが楽」な人がいるってことなのかな

744 :
「慣習が成立しない世界」というのはな、
たとえば、「太陽は東から昇る」という記号が
明日になったら「太陽は西から昇る」という意味になるような世界もそうだな
慣習などというのは、世界に支えられてやっと成立しているだけの陽炎のようなものだ

745 :
>>743
>「犬は犬と(だけ)交配可能である」という事実が犬の根拠として存在しているわけだ
>それは生物化学的な理由があるわけだが、生物がそのようである、あるいは
>そうなるしかなかった理由は謎だな
話しがもとに戻ったな。(笑)
合理主義者というは、基礎付けをゴールになるから、
経験論者も経験で基礎づけると勘違いする。
経験論者は基礎づけられないから経験だと言っている。
「犬は犬と(だけ)交配可能である」という事実が犬の根拠として存在している。
それは生物化学的な理由がある、という慣習。
それはどこに基礎づけられていない。
太陽は明日西から昇るかも知れないし、
犬は明日犬以外と交配可能になるかも知れない。

746 :
>>744
>慣習などというのは、世界に支えられてやっと成立しているだけの陽炎のようなものだ。
ウィトゲンシュタイントは岩盤と呼んだが、それは人好き好きだろう。(笑)
>>
「如何にして私は規則に従う事ができるのか?」−もしこの問いが、原因についての問いではないならば、
この問いは、私が規則に従ってそのような行為する事についての、[事前の]正当化への問いである。
もし私が[事前の]正当化をし尽くしてしまえば、そのとき私は、硬い岩盤に到達したのである。
そしてそのとき、私の鋤は反り返っている。そのとき私は、こう言いたい:
「私は当にそのように行為するのである」 ウィトゲンシュタイン
<<)

747 :
「単なる慣習」が「驚くべきは慣習」だと理解できたようだから
いいんじゃないの

748 :
>>747
ぼそぼそしゃべる慣習は治した方がよいよ。
よく聞き取れない。

749 :
「規則」ってのも怪しいもんだな
その根拠を慣習で片づけておしまいか
おまじないのような力があるのだろうな、「慣習」には

750 :
>>749
声が大きくなった思ったら、口悪し(笑)

751 :
言語によってにしろ何にしろ
自転車の乗り方でも計算の仕方でも
与えられる世界状況から「それ」を選択することの理由から
アプリオリな要素はは消去できないわな
「慣習」とは、その事実に名前を付けただけだわ

752 :
「慣習が成立しない世界」の意味は分かったか?
「世界」は波平くんが思うほど、もろもろ甘くない

753 :
>>751
慣習には、「それ」を選択することの理由などない。
その考えが、合理論の形而上学。

754 :
ある精神的肉体的状況を「経験」とすることができるのは自明ではない

755 :
>>752
ぼそぼそ言ってるから独り言かと思った

756 :
>>754
たとえば?

757 :
>>753
貴方、「どちらが実用的か」って言ったでしょ
理由はあるのじゃないの

758 :
慣習には、デリダ的にいって、理由も、起源もない。
ウィトゲンシュタイン的にいって、ただいまそうしているとしか言えない。

759 :
>>757
想像だよ。

760 :
もっと言いたいことを明確に1レスにまとめれば済むものを、
うさきのフンみたいに、ぼどぼど、しゃばるから、時間の無駄だよ。
変なプライドの高さがあるんじゃないの?

761 :
>>754
「経験」というのは感覚の混沌ではなく
既に、「(いつどこで)なにがどうだ」という高度なパッケージなわけだ
故に世界は経験に先立ち、それが可能であるような世界なわけだ

762 :
>>760
波平くん
わたしがそれと同じことを言ったら、君は「勝った!」とか言うのじゃないかね

763 :
>>761
それで?
ウサギのフン(笑)

764 :
>>762
余計なことはいいから、どんどんウサギのフンをしなさい!
待ってるんだから

765 :
ある精神的肉体的状況を「経験」とすることができるのは自明ではない
「経験」というのは感覚の混沌ではなく
既に、「(いつどこで)なにがどうだ」という高度なパッケージなわけだ
故に世界は経験に先立ち、それが可能であるような世界なわけだ
それから・・・

766 :
>太陽は明日西から昇るかも知れないし、
犬は明日犬以外と交配可能になるかも知れない。
太陽を西から昇らせるためには、地球の自転を止めて逆回転させなきゃいけないが、
そんな巨大な回転力が地球の近辺に一晩で発生する可能性はゼロだから、
太陽が明日も東から昇るのは確実(笑)

767 :
>>763
慣習が慣習となるためには、経験が与えられる必要がある
そして経験が可能であるのには、アプリオリな作用がある
よって慣習はアプリオリを消去しない

768 :
>>766
>そんな巨大な回転力が地球の近辺に一晩で発生する可能性はゼロだから、
ゼロではない。
人間がまだ発見していない宇宙の法則があり、
その1億年に一度の周期が明日訪れ、
太陽を西から昇らせる可能性はゼロではない。

769 :
>>767
だから???

770 :
確かに経験が可能な生物は人間だけではない
経験する方式を人は進化の過程で身につけた
アプリオリ

771 :
>>769
結論としては「>>724は甘すぎる、とてつもなく」ってところか

772 :
「進化の過程」とか
それこそ(特殊)形而上学ですわな

773 :
>>771
ぼそぼそ言って聞き取れないって

774 :
>>772
科学的事実として、進化の過程を否定することが難しいと思うが

775 :
>>771
カントに関していえば、
アプリオリな総合判断とアポステリオリな総合判断と分けて
合理主義を救済したことが間違い。
確かに、慣習に「アプリオリな作用」があるとしても、
それを分けること自体がナンセンス。形而上学的。
慣習に起源はない。

776 :
科学的事実?
進化を科学的事実とまでするのは
かなりの精神的な荒技が必要だな
「進化」というのは仮説であり、且つ進化論に於ける前提のようなもの
ひとつの「分かりやすいお話」ですよ

777 :
ヒュームの慣習論で話しは終わっている。

778 :
>>776
キリスト教徒?

779 :
>>775
間違いかどうか、検証のしようがない
たしかに形而上学的
しかし科学はすべて形而上学の中で成立する
「慣習に起源が無い」と信じるのも結構
わたしには「慣習」など、ぼんやりしたお経でしかない

780 :
私は無宗教だな

781 :
>>779
哲学好きは一種の神経症とも言えるので、
慣習が基盤であるということが不安なんだろう。
それをアプリオリ作用があると、いったところで、たいした不安解消にならない。
哲学好き以外は、ただ現実を受けいれて生きている。
哲学好きは潔癖症みたいなもので、レストランの食器が
ほんとにちゃんと洗われているか気になって不安になる。
普通の人は考えせず、ただレストランで食事をしている。
しかし見ること、しゃべること、歩くこと、すべて訓練で身につけた慣習だ。
なぜ次の一歩を踏み出す地面が陥没し、落ちないと言えるのか
陥没しないことが慣習だから

782 :
慣習は信じるものではない。
当にそのように行為しているものだ。
>>
「如何にして私は規則に従う事ができるのか?」−もしこの問いが、原因についての問いではないならば、
この問いは、私が規則に従ってそのような行為する事についての、[事前の]正当化への問いである。
もし私が[事前の]正当化をし尽くしてしまえば、そのとき私は、硬い岩盤に到達したのである。
そしてそのとき、私の鋤は反り返っている。そのとき私は、こう言いたい:
「私は当にそのように行為するのである」 ウィトゲンシュタイン
<<)

783 :
波平くん
わたしごときは、理屈で圧倒したまえ

784 :
>>783
なら、もう少しハキハキしゃべる訓練をしてくれたまえ

785 :
不安?
ちょっとちがうな
「慣習」という言葉が便利すぎるので、それを上下左右から眺めているわけだ
人が日常に平気で地面を歩くのは
陥没の心配をする必要を感じないからだ
慣習というなら、いつも心配しながら歩くのが慣習だろう

786 :
2chでボソボソ喋るのもハキハキ喋るのも難しいよな
どうやってやるん?
まあ受け取る側の問題なんだろうな

787 :
>>785
本質的に慣習論を理解するためには、考え方を変えないといけない。
合理主義者は、じゃあ経験が理屈を説明できるのかという。
そうではなく、慣習とは「当にそのように行為しているもの」で、
そのことを受けいれること、
説明することそのものを忘れることかも知れない。
人が日常に平気で地面を歩くのは
陥没の心配をする必要を感じない、ことさえもない。
当に歩いているからだ。
慣習論を少しは理解できたかな?
それが右翼の本質だ。
理解できないが成立する秩序があることを、ただ受けいれる。

788 :
>>786
キミの場合は、ぼそぼそを治すために、
1レスは、最低でも10行以上しなさい。

789 :
>>787
「そのことを受け入れる」というのはつまり、
君の慣習論とは宗教のようなものだ、って意味だな
その場合に問題は、君に教祖としての資質があるかどうか
ってことになるわけだが
なかなか前途多難だな

790 :
>>789
先は長そうだな(笑)

791 :
長文を書いたら書いたで、三行で書けとか言われるしな
まあこんなもんだろ

792 :
>>785
>人が日常に平気で地面を歩くのは
>陥没の心配をする必要を感じないからだ
これはいいと思う。
人が日常に平気で地面を歩くのは、陥没しないことを祈り信じているわけではないだろ。

793 :
>>790
一生無理だと思うが
わたしは人を見る目が無いから希望はある

794 :
>「そのことを受け入れる」というのはつまり、
>君の慣習論とは宗教のようなものだ、って意味だな
人が日常に平気で地面を歩くのは、陥没しないことを祈り信じているわけではないだろ。

795 :
考え方の慣習を変えるには時間がかかる。
まあ、ぼちぼちとやれば。

796 :
>>792
心配することは他にいっぱいあるからな
空から隕石が頭に墜ちてくるかもしれないし
謎のウイルスに感染するかもしれないし
足の骨が疲労骨折するかもしれないし
なんでもかんでも慣習で片づくと便利でいいな

797 :
>>796
そう、成立しているこの世界がいかに素晴らしいか。
これが慣習論の本質。
簡単には右翼思想。

798 :
蛙やヘビや昆虫なんかも特に心配もせず生きているのだろうけど
これって慣習ってことになるわけだよな

799 :
世界の合理性を考えるのは、
いかに無駄で、病か

800 :
>>798
環世界

801 :
波平くん得意の、相手に乗っかりシステムか

802 :
ユクスキュルか
まあ、この話の的からは遠いわな

803 :
人間以外の生物にとっては慣習というよりも環境。
自らの一部そのもの。

804 :
波平くん
慣習をラストワードにしているうちは、ここにいる誰の心も動かさないだろう
ウィトゲンシュタインは絶対ではない
越えて行きたまえ

805 :
>>803
それは君の都合だよ

806 :
>>804
勝った!

807 :
その説明を放棄した生活内容について
人間と人間以外に決定的な違いなどあるのかね

808 :
>>806
忠告ですよ
素直に受け入れるもよし、このままでもよし

809 :
>>807
人間以外の生物は環境と生存が強く結びつき変えられない。
しかし人は環境を管理することで、環境を慣習とした。
慣習は変えられる。

810 :
荒しがひどいが
個々の経験からではその経験した物が同じ物か判断なんかできない
慣習にしても同じこと
慣習として同じものだという判断、
何で太陽だけ切り取ってそれは同じ太陽と判断するのかわからない
個々の経験を越えて経験と経験がどういう関係にあるか
判断する経験を越えたアプリオリな物がなければ個々の経験自体が
意味を為さない
この点は揺るぎなく経験論も慣習論も経験同士の関係を説明できないから
下らない
ウィトゲンシュタインにしても真価はそんなところにない

811 :
>>810
君は「生物は環境の一部である」と言っただろ
だからすべて生物の営みは環境を変えるわけだよ
人間以外の生物は外部環境に従属しているわけではない
ふつう人間は「主体的に自然に働きかけている」と思っているわけだが
その「主体的」の内容は自慢するほどのものではないだろう?
所詮は「なるようになっている」だけだ
慣習に対して説明を放棄するなら、全てそういうことだ
それが君の本意なのだろう?

812 :
だからなにもの選択してないってば
選択した結果という結果世界に主観がいるだけ
自転は止まっててもかまわなかった
太陽はずっと照り続けててもかまわなかった
馬を犬としててもかまわなかった
ただ今を選択したという錯覚ともいえる結果世界にいるだけ

813 :
経験だけからだと自転しているとかの判断がそもそもできないよ
黄色い点は太陽だと何故思える?
同じ場所の青空こそが太陽だと何故思わない
一日立ってまた黄色い点は太陽だと思う
そういう一連の連なりが太陽で困らない
既にアプリオリな判断が駄々漏れで入っていて
経験も慣習もくそもない
太陽とは黄色い天体の半分とそこの猫の半分のことでもいい
太陽は黄色い天体で一日一周している
既にそれは慣習でも何でもない
こんな馬鹿とは議論する意味がないな

814 :
空に浮かぶ黄色い天体が太陽だと思う
その時点で個々の経験から離れている
経験や慣習からは黄色い天体が同一性持ってるとの判断が出てこない
空を見上げると黄色い天体が視野に入る
しかしその天体が常に同じものだとの判断は全く視野に入る経験とは
独立だ
関係ない

815 :
>>812
1+1=3でもかまわなかた、ということか

816 :
>>812-814
こちらはさらに強烈に馬鹿だな。
面倒見切れないよ。
キミは黄色い点な太陽だとどうして知ってる?

817 :
まとめると、
数学は世界の絶対的な法則で、それを人間が発見したわけではない。
人が文明の中で発明したもので、後世はその使い方を訓練して学び、また後世に慣習として伝承している。
太陽が毎日東から昇るという知識も同じ。
世界の絶対的な法則ではなく、
後世は慣習として伝承されて知っているだけ。
明日、太陽が東から昇るという証明はできない。

818 :
たとえば今視界に見えてる世界も同様。
見るとは目というレンズに光が入って見えるわけではない。
見るとは自らの中で作り出すもの。
見方には影響するのは言語と言われる。
言語のように見る。言語は慣習そのもの。
今見ている世界は、人が文明の中で発明したもので、後世はその使い方を訓練して学び、また後世に慣習として伝承している。

819 :
たとえば歩くことも同様。
歩くとはただ足を前後に動かすわけではないだろ。
歩き方は学び訓練して獲得する。
歩き方は学ぶ文化、個人の経験によってそれぞれ違う、
歩くことは、人が文明の中で発明したもので、後世はその使い方を訓練して学び、また後世に慣習として伝承している。

820 :
発明と発見は、状況に応じて使い分ける、程度のことであるので
「○○は人間の発明であり発見ではない」というような言いぐさは
「発見」とされているたいていのことに当てはまってしまう
万有引力の発見、原子の発見、
これら発見を発明と言ってしまうことは、まあできるわけだ
こうして世界には「発明できること」がある、ことになるわけだが、
その発明を可能としているのはしかし自然であって
人間がゼロから作り上げることなど不可能なわけだね
その意味では、純粋な発明など世界には存在しない

821 :
>>820
もごもご(笑)
一人言かな
あそ、としかいえない。

822 :
1+1=3という慣習がどうして成立しないのか
それは「役に立たないから」
そうすると、「ある慣習が成立するのは無条件にそうであるのではない」
ということになる
その可能な選択の幅は分かるのか、それとも結果論でしかないのか
なかなか佳境だな

823 :
1 なぜそのような慣習になったのか。
当時の偉い人が決めたのかもしてないし、その当時それが便利だったのかもしれない。
慣習は歴史学的に考察はできても、起源はわからない。
道は一つではなく、無数の経路でいまにたどり着いて、そして今も変わり続けているからだ。
2 アプリオリの問題
赤ちゃんが何らかの知をもって生まれてくることは確かだろう。
そして慣習を訓練する。
なにが遺伝子かと問うことは、同様に起源の問題であり、歴史学的に、生物学的に考察はできても、起源はわからない。
道は一つではなく、無数の経路でいまにたどり着いて、そして今も変わり続けているからだ。

824 :
慣習論の講義は、だいたいこんな感じかな

825 :
慣習論を理解するためには、合理論思考を変えないといけないか。
よく間違えているのが、経験で合理的に説明するのが経験論と考えている合理論者が多い。
そうではなく、慣習とは「当にそのように行為しているもの」で、
そのことを受けいれること、
西洋哲学の伝統の思考である客観主義、世界を神の視点から分析することをやめて、
疑似問題への逃避をやめて、
現実を生きること、
慣習は信じるものではない。
当にそのように行為しているものだ。
>>
「如何にして私は規則に従う事ができるのか?」−もしこの問いが、原因についての問いではないならば、
この問いは、私が規則に従ってそのような行為する事についての、[事前の]正当化への問いである。
もし私が[事前の]正当化をし尽くしてしまえば、そのとき私は、硬い岩盤に到達したのである。
そしてそのとき、私の鋤は反り返っている。そのとき私は、こう言いたい:
「私は当にそのように行為するのである」 ウィトゲンシュタイン
<<
おわり

826 :
「ヒュームが本当に伝えたかったこと」は、私にはよく分からないのだが
「因果関係に於ける必然性は繰り返しによる心理的なものでしかない」
ぐらいのことだとするなら、ちょっと乱暴すぎるわな
なぜならそこには、当の人間の心理が自然物であることの認識が欠落している
なぜ繰り返されるのか、繰り返されることとして理解されるのはどういうわけなのか
「明日は太陽が西から昇るかも知れない」といういいぐさは
その記号が明日も同じ意味だとは限らない可能性までを考えて言っているのか
まあたいてい、そこまで考えちゃいない

827 :
合理論的に問うことが、ゼノンのパラドクスと同じ疑似問題であると言うこと。
まんまと西洋哲学の客観主義の罠にはまっているということ。

828 :
合理論は快楽であり、一つの病だから
なかなかはまると抜けだけないだろうけど

829 :
ゼノンのパラドクスは合理的に解消されているのではなかったかな
アリストテレスによって

830 :
■合理論という病、慣習論というカウンセリング
日本人は慣習民族だから、日常生活は慣習を生きてるんだろうけど、
哲学スイッチが入ると、豹変する。
まあ、日本人にはマリオと同じなんだろうな。

831 :
たとえば時間を止めることできる人がいたとする。
彼を神と呼ぶ。
時間を止まられる人を人間と呼ぶ。
神は時間を止めて、人間の動きをとめて、自分だけ動き回る。
神が時間を動かさないと、人間は永遠に動けなくなる。
というのは、おかしくて、
人間の時間は進んでないから、人間は動けなくなっていない。
神が時間を動かしたときに、人間は時間が止められたことを知らない。
ゼノンのパラドクスも同じ。
アキレスと亀はただの競走し、アキレスは亀をあっさり抜き去る。
ただの神が時間を操り、数学的に無限に動かしたり止めたりして遊んでるだけのこと。
このときの神がボクたちなわけ。
これが客観主義と言われる西洋哲学の独特な伝統的慣習。

832 :
慣習論とは、この伝統的な西洋哲学の慣習、合理論をくじくもの。

833 :
世界を神の視線から客観的にみるのは気持ちいいだろうが、
しょせん人間は地に足を着けて、泥にまみれて、慣習を当にそのように行為して、生きるしかないんだよ。

834 :
さて、今日もお仕事ですよ。

835 :
哲学上のアポリアに対して、合理的あるいは論理的な説明から逃げても
それは「逃げた」という事実以上のものは何も生み出さないだろう
なんといいますかね・・
ボクシングの試合で、勝てないからといって寝技を使ったら負け
分かりにくいですか

836 :
>>835
ボクシングで負けてもいいやん
人生で勝てばさ
慣習論的には

837 :
日本人なんか日常は慣習論的世界でお気楽に生きてるのに、
この板で急に合理論になって慣習論批判とか
おかしくないか?(笑)

838 :
波平くんが「仕事」をしているので、「飛ぶ矢」のパラドクスについて私が説明しましょう
・矢が飛んでいるとしよう. この矢は,いつの時点でもその瞬間は止まっている。
いつの時点でもその瞬間は止まっているならば, いつも止まっているわけで, したがって,矢は止まっていて動かない。
これが飛ぶ矢のパラドクス
アリストテレスがどのような説明をしているかまでは調べていないのだが、
極めて簡単に以下のように論駁が可能だ
『空間上のある有限な距離の間の無限の点を通過するのには無限の時間が必要だ、とする根拠はない。』
つまり我々は、「点を通過する静止した矢」を思いがちなのだが、“論理的に考えれば”
点を通過する場合の時間の「経過」を考慮する必要は無い、ってことなのだ
合理性の困難は、合理によって解消されることでのみそれは知性となる

839 :
慣習論とか言っても太陽が黄色い天体の半分と隣の猫なら
太陽が回っているなんて慣習はできない
太陽が何か黄色い天体が同じ太陽なのか
慣習では説明できない
慣習で法則や規範を説明するのは無理なのにね
きちがいには何を言っても議論にならないが
きちがいが複数いるからどうにもならんが
ヒュームにしろウィトゲンシュタインにしろ
慣習論もそんなところに意義はないのに

840 :
>>839
もはや日本語かどうかも判別不明(笑)

841 :
>>838
>無限の時間が必要だ
そんなアホなこと誰もいとりゃせんですよ(笑)

842 :
波平くん
君に理解できるとは思っていないが
やっぱりかね

843 :
>>840
馬鹿は生きている意味がないね
太陽が毎日回っる天体だって判断はどこで成立するんだ
視角の一部を占める光りの点が別な時間に別なところにいるけど
それが同じ太陽だとの判断は光りの点の知覚自体からは
出てこない
個々の経験からは出てこない
馬鹿は生きている意味がない

844 :
>>843
何周遅れ?(笑)

845 :
>>781
>なぜ次の一歩を踏み出す地面が陥没し、落ちないと言えるのか
陥没しないことが慣習だから
地面の耐久力は、計算すれば数値で出てくる。
それを人間の体重程度の荷重と比較すればよい。

846 :
どこかの半島国家の手抜き工事じゃあるまいし、
いつ床が抜けるか分からないような構造物になど、
誰も住んどりゃあせん。
きっちり、構造計算されとる。
どれくらいの負荷に耐えられるかは、やってみなけりゃ分からないというようなものではない。
「自分が上を歩いたくらいの荷重では、この床は抜けません」と断言できる。

847 :
>>844
馬鹿は生きている意味がない

848 :
>>845
調べながら歩く訳か
なかなかたどりつかなさそう(笑)

849 :
>>846
日本人の慣習を信じとると。
さすが慣習民族日本人!
みなおした!

850 :
■合理論という病、慣習論というカウンセリング
数学は世界の絶対的な法則で、それを人間が発見したわけではない。
人が文明の中で発明したもので、後世はその使い方を訓練して学び、また後世に慣習として伝承している。
太陽が毎日東から昇るという知識も同じ。
世界の絶対的な法則ではなく、
後世は慣習として伝承されて知っているだけ。
明日、太陽が東から昇るという証明はできない。
たとえば今視界に見えてる世界も同様。
見るとは目というレンズに光が入って見えるわけではない。
見るとは自らの中で作り出すもの。
見方には影響するのは言語と言われる。
言語のように見る。言語は慣習そのもの。
今見ている世界は、人が文明の中で発明したもので、後世はその使い方を訓練して学び、また後世に慣習として伝承している。
たとえば歩くことも同様。
歩くとはただ足を前後に動かすわけではないだろ。
歩き方は学び訓練して獲得する。
歩き方は学ぶ文化、個人の経験によってそれぞれ違う、
歩くことは、人が文明の中で発明したもので、後世はその使い方を訓練して学び、また後世に慣習として伝承している。

851 :
1 なぜそのような慣習になったのか。
当時の偉い人が決めたのかもしてないし、その当時それが便利だったのかもしれない。
慣習は歴史学的に考察はできても、起源はわからない。
道は一つではなく、無数の経路でいまにたどり着いて、そして今も変わり続けているからだ。
2 アプリオリの問題
赤ちゃんが何らかの知をもって生まれてくることは確かだろう。
そして慣習を訓練する。
なにが遺伝子かと問うことは、同様に起源の問題であり、歴史学的に、生物学的に考察はできても、起源はわからない。
道は一つではなく、無数の経路でいまにたどり着いて、そして今も変わり続けているからだ。

852 :
合理論的に問うことが、ゼノンのパラドクスと同じ疑似問題であると言うこと。
たとえば時間を止めることできる人がいたとする。
彼を神と呼ぶ。
時間を止まられる人を人間と呼ぶ。
神は時間を止めて、人間の動きをとめて、自分だけ動き回る。
神が時間を動かさないと、人間は永遠に動けなくなる。
というのは、おかしくて、
人間の時間は進んでないから、人間は動けなくなっていない。
神が時間を動かしたときに、人間は時間が止められたことを知らない。
ゼノンのパラドクスも同じ。
アキレスと亀はただの競走し、アキレスは亀をあっさり抜き去る。
ただの神が時間を操り、数学的に無限に動かしたり止めたりして遊んでるだけのこと。
このときの神がボクたちなわけ。
これが客観主義と言われる西洋哲学の独特な伝統的慣習。

853 :
まんまと西洋哲学の客観主義の罠にはまっているということ。
合理論は快楽であり、一つの病だから
なかなかはまると抜けだけないだろうけど
日本人は慣習民族だから、日常生活は慣習を生きてるんだろうけど、
哲学スイッチが入ると、豹変する。
まあ、日本人にはマリオと同じなんだろうな。
日本人なんか日常は慣習論的世界でお気楽に生きてるのに、
この板で急に合理論になって慣習論批判とか
おかしくないか?(笑)
世界を神の視線から客観的にみるのは気持ちいいだろうが、
しょせん人間は地に足を着けて、泥にまみれて、慣習を当にそのように行為して、生きるしかないんだよ。
右翼になろうよ♪

854 :
慣習論を理解するためには、合理論思考を変えないといけないか。
よく間違えているのが、経験で合理的に説明するのが経験論と考えている合理論者が多い。
そうではなく、慣習とは「当にそのように行為しているもの」で、
そのことを受けいれること、
西洋哲学の伝統の思考である客観主義、世界を神の視点から分析することをやめて、
疑似問題への逃避をやめて、
現実を生きること、
慣習は信じるものではない。
当にそのように行為しているものだ。
>>
「如何にして私は規則に従う事ができるのか?」−もしこの問いが、原因についての問いではないならば、
この問いは、私が規則に従ってそのような行為する事についての、[事前の]正当化への問いである。
もし私が[事前の]正当化をし尽くしてしまえば、そのとき私は、硬い岩盤に到達したのである。
そしてそのとき、私の鋤は反り返っている。そのとき私は、こう言いたい:
「私は当にそのように行為するのである」 ウィトゲンシュタイン
<<
おわり

855 :
波平みたいなゴミはR

856 :
>>854
馬鹿は消えろ

857 :
>>853
波平wwww
恥ずかしいwwww

858 :
罵倒するだけではなぁ

859 :
1 なぜそのような慣習になったのか。
当時の偉い人が決めたのかもしてないし、その当時それが便利だったのかもしれない。
慣習は歴史学的に考察はできても、起源はわからない。
道は一つではなく、無数の経路でいまにたどり着いて、そして今も変わり続けているからだ。
2 アプリオリの問題
赤ちゃんが何らかの知をもって生まれてくることは確かだろう。
そして慣習を訓練する。
なにが遺伝子かと問うことは、同様に起源の問題であり、歴史学的に、生物学的に考察はできても、起源はわからない。
道は一つではなく、無数の経路でいまにたどり着いて、そして今も変わり続けているからだ。

860 :
まあしかし、1+1=2は単なる慣習、というのは違うわ

861 :
>>860
たとえば?

862 :
そこで「たとえば?」なのかね

863 :
「1+1=3」に相当する慣習を持ち得る文化文明なんて
はたして可能だろうかね?

864 :
クワス算の話なんかでもそうだが、「計算は規則である」という思いが
そもそもの躓き、ってことだろうな
計算は規則ではなく事実の表現だからだ

865 :
>>863
もはや慣習の心配か(笑)

866 :
冴えてきたわ
ずいぶん昔になるけど、「論理とは結局、文法だ。」とかほざいてた人がいて
それに対して私は非常に違和感を感じたのだが、その違和感が正当なものかどうか
自信が無かった
ようやく分かったが、論理は事実の表現なのだ
そして“表現の仕方”には規則、即ち「決まり」がある
だがこの「決まり」も区別しなければならない
それは、状況とその表現の間の決まり、そして表現の内部に於ける決まり
・・いやこれは区別できそうで、しかしできない
つまり交錯している
これは大変だ

867 :
>太陽が毎日東から昇るという知識も同じ。
世界の絶対的な法則ではなく、
後世は慣習として伝承されて知っているだけ。明日、太陽が東から昇るという証明はできない。
未開人にとってはそうかもしれないが、現代人は、
太陽が東から昇るのは地球の自転が我々に見せる視覚効果だと知っている。
摩擦も何も無い空間で地球の自転を止めるためには、何らかの巨大な外力が必要だ。
そんなの、とっくの昔に証明されている物理法則だよ。

868 :
でもって、何らかの巨大な外力には、「超巨大隕石の激突」とかが考えられるが、
今夜のうちに地球に到達できるような範囲に、そんなものは存在しない。
だから、明日も太陽が東から昇るのは確実。

869 :
三角形の内角の和が二直角に等しいということは、補助線を一本引けば証明できる。
「いや、そんなものは証明ではない。俺は認めんぞ」
とかなんとか言い張るのは勝手だけど、それは反証になり得ない・・・。

870 :
>>868
科学という慣習は優秀だな。

871 :
以前、「もうすぐ地球はテレポーテーションして、銀河の中心に移動します」
と預言する霊能者がいた。
たしかに、地球のテレポーテーションというような超自然現象が起きれば、
太陽が西から昇ることもあり得る。
しかし、だからといって、「力学の法則は、証明されたものではなく、
慣習として受け入れられているにすぎない」という結論に持っていけるだろうか?(笑)

872 :
>>868
科学が正しいという前提によってそう言われるわけだけど、
科学が絶対的に正しいことは証明されない。
科学もあくまで慣習でしかない。

873 :
つまり、とっくに証明されている力学の法則に対して、
「地球がテレポーテーションした場合には成り立たない」
ということが、反証として意味を持ち得るのかどうか・・・?

874 :
>>871
>>868のように、科学は確かだと思った。
しかし確かだといえない。
なぜ確かだと錯覚したのか。
そう学んだからだ。

875 :
>>868
>でもって、何らかの巨大な外力には、「超巨大隕石の激突」とかが考えられるが、
>今夜のうちに地球に到達できるような範囲に、そんなものは存在しない。
と、学んだ。

876 :
カントが主張する、アプリオリな認識というものは経験だけでは推論し得ない表象のことであって
色を認識するのに経験はいらないハズだ、と言うような子供じみた話ではない

877 :
数字の1や2なんて単なる命名の規則だろう
それは単に、1がもう1つあるとき2と定めただけのルールにすぎんので
1がふたつで3と呼称しても良かった訳だから
1+1=3の文明は成り立つ

878 :
ヒュームの懐疑は直列化すると
スイッチングというよりチャタリングになる
そんなどさくさななか平然と太陽は東から昇ったりする

879 :
>1がふたつで3と呼称しても良かった訳だから
それは「に」でも「さん」でも「スリー」でも「ウンコ」でも
何と呼んでも良いわけです
その場合に、記号とその内容との対応規則が変化するわけですが
計算の本質、つまり事実の本質は変わらない
ベタに言えば計算機械の動作は変わる必要がないのです

880 :
IT社会は慣習論社会
人智を超えて成立する現実に感謝すること。
だから慣習は変化できないわけではない。
むしろ合理論のいう絶対の法則がなく、諸行無常であるということだ。
そして慣習は変えることもできる。
現代は、慣習操作の時代だと言える。ローレンス・レッシグは、人を動かす方法を四つに分類しています。

法にはならないが規範のようなもの、
市場(経済的な利害によって人は動く)、
アーキティクチャ(環境のほうを人を動かすように作りかえる)
啓蒙主義など合理論が目指したのが、合理的な法やそれに基づく制度です。言葉により設計し実現する。
しかし現代、社会秩序を維持するために重視されているのは、言葉を必要としないアーキテクチャ(環境、慣習)の操作です。
IT技術の発展が慣習、環境を変化させることを可能にしている。
ポジティブには、情報社会であり、最新にはIOT。
ネガティブには、フーコーやドゥルーズがいう環境管理社会。
気がつかないうちに管理されている。
良くも悪くも、社会の基盤が、当にそのように行為している慣習により成立していることを、知ることが大切です。
言葉の次元は無力化されている。
環境操作を否定しているわけではない。
左翼、合理論者は、法と制度設計に固執しすぎる。
始皇帝の法家重視からそれは融通の利かない悲劇を生んできた。
右翼は、慣習という言語化できない基盤を知っているので、4つの方法のバランスを重視する。
法も市場も大切だし、献身的道徳も重要であり、
さらにこれからはアーキテクチャも重要です。

881 :
特に日本人の慣習として、重要なものが、世間という献身的道徳です。

882 :
ヒュームは フロイトの 無意識 より、面白い 意識 
を持ってるわけだから、それを超えるにはな。

883 :
>>880
日本語を学べないのは何故なの?

884 :
頭のおかしなキチガイは去ったかな
経験論は論外としても慣習論も同じで論外なんだけどな
何が慣習なんだか判定しようがない
太陽が毎朝東から昇る
朝とは何だ、東とは何だ、太陽とは何だ、昇るって何だ
既にそこから了解が成立しない
天動説地動説ニュートン力学相対論とか成立する余地がない
経験論や慣習論だと

885 :
波平みたいなキチガイは迷惑だから

886 :
慣習論者の馬鹿は何を考えているんだろうな
九時に太陽を見る経験をする
十時に太陽を見る経験をする
それはいい
九時に見た太陽が十時に見た太陽とおなじであるなんて全くわからない
九時に見た太陽は今そこでひなたぼっこしている猫に変化したかもしれない
十時の太陽は九時の太陽と別なものであっていっこうに構わない
九時の太陽が十時の太陽かひなたぼっこしている猫か
どっちも慣習で正当化できる
慣習論ではどちらを正当化するべきか全く説明できない
あるいは九時に太陽があった位置の空間が
太陽で空に輝く天体は太陽じゃないでもいい
慣習として空の一角を占める空間が太陽で誰も困らない
慣習論ではある経験と別の経験をいかようにも慣習付けられるから
どう関連づけるのが正しいか全く説明できない
慣習論は純粋に間違っている
慣習論者は狂っている
慣習論者は頭がおかしい

887 :
これがまさに頭のおかしい精神病患者の書き込み

888 :
これがまさに頭のおかしい精神病患者の書き込み

889 :
波平の場合は、頭がおかしいと言うよりも単純に人としての知性が低すぎる

890 :
>>889
プラトン主義者(笑)

891 :
波平は知性が低い

892 :
波平に聞いても無意味だから仕方ないが
九時に見た黄色い天体と十時に見た黄色い天体が同じものだと思う根拠はないよな
九時に見た黄色い天体は十時には慣習的にはひなたぼっこしている猫かもしれない
黄色い天体が常に同一だと関係づける「慣習」なんかない
それを認めるなら同じくらいひなたぼっこした猫である
あるいは郵便ポストであるという慣習も認めないといけない
慣習では天体か猫か説明つかない
慣習で説明つけようとするのは狂ってる
ウィトゲンシュタインやヒュームはこんな馬鹿とは無関係だから

893 :
>>892
>九時に見た黄色い天体と十時に見た黄色い天体が同じものだと思う根拠はないよな
ママにこれを言ってみな
病院連れて行かれるぞ(笑)
なんでかわかるか?

894 :
波平の頭では哲学は不可能

895 :
なぜならママは慣習を岩盤として疑うことなく生きてるから

>>
「如何にして私は規則に従う事ができるのか?」−もしこの問いが、原因についての問いではないならば、
この問いは、私が規則に従ってそのような行為する事についての、[事前の]正当化への問いである。
もし私が[事前の]正当化をし尽くしてしまえば、そのとき私は、硬い岩盤に到達したのである。
そしてそのとき、私の鋤は反り返っている。そのとき私は、こう言いたい:
「私は当にそのように行為するのである」 ウィトゲンシュタイン
<<)

896 :
コピペしかできないようじゃ向いてないと言われてもしょうがない

897 :
>>896
たとえば?

898 :
質問返ししかできないバカなら向いてないと言われてもしょうがない

899 :
>>898
この子壊れたな

900 :
知性のない馬鹿が馬鹿なことを並べてるのを印象のまま馬鹿だと言っただけで切れるのか
こいつはそのうち被害妄想に陥って犯罪でも引き起こしそうだな、馬鹿

901 :
この子、独り言しか言わなくなった(笑)

902 :
>>901
荒らしは出ていけよ
馬鹿

903 :
波平みたいなゴミはR
死んでくれ
今すぐR

904 :
頭のおかしい慣習論者はRばいい

905 :
そんなのいないよ
経験を「人生経験」のように勘違いしているドアホがたったひとりで騒いでるだけ

906 :
人生経験より、宇宙を飛ぶ知覚の束のオカルト体験談だよね。宇宙霊的な。

そういう人生論ていうのは外人にやらせてみないとつまらない。
アードラーとかの読者で、臨床にも貢献だが、そちらメインじゃない、心理(士)系とか。
天上三分の一軒家ヒ―リストみたいな。職場も卒業した。

907 :
>>905
Rばいいのに
こういうゴミは
経験にしろ慣習にしろ何で9時の空に浮かぶ黄色い天体と
10時に空に浮かぶ黄色い天体が同じ物か、説明できない
9時の天体が猫やそのままの空間上の虚空でないと説明する根拠がない
9時の天体と10時の天体を関連づける時に常に既に経験論にも
慣習論にも還元できない経験越えたアプリオリな判断が出てくる
9時の天体の知覚と10時の天体の知覚は互いに関係ないから

908 :
まだ、馬鹿が馬鹿なこといってる
そんなデタラメな前提から経験論なんて語ろうとすんな
五万年早いんだよ池沼

909 :
うちのお店は最近は赤字ギリギリ🍀
どうしましょう🍀

910 :
>>907
>9時の天体と10時の天体を関連づける時に常に既に経験論にも
>慣習論にも還元できない経験越えたアプリオリな判断が出てくる
でてこねぇよ(笑)
教えてもらうに決まってるだろう。
そこまでに認識するのは、その前に言語を習わないとな。
そして言語とともに、習う。
言語も、関連づけも慣習。
民族によっては違う慣習があるかもしれない。

911 :
>>910
でたらめこくな、おまえがどう思うのは自由だがいいかげんなこと並べるな

912 :
>>911
たとえば?

913 :
はじめは経験が先か、認識が先かという意味不明な二項対立を展開していたのに
いつの間にか悟性認識の話になってしまった(笑)

914 :
認知メタファー。悟性よりより、五恒星線のいくつかの惑星に。
一なしか。

915 :
ヒュームは真理は存在しないという。⭐

916 :
真理とは何か?(by ラピト)

917 :
ヒューム哲学の方法論: 印象と人間本性をめぐる問題系
豊川 祥隆 (著)
出版社: ナカニシヤ出版 (2017/3/28)

918 :
>>917
中古で7500円って高すぎない?

919 :
同意

920 :
>>916
真理が何かがわかることである

921 :
しかし安倍首相ってヒューム主義者なん?
政策がヒュームまんまなんだが

922 :
イノベーション論とか
勤労主義とか
自由主義経済とか

923 :
要するにヒュームの経済成長は単にアダムスミスの分業や金の流れに還元されない。
そこには社会基盤としての生活様式の成熟が必要となる。
人が勤勉に働くことで、社会の知識レベルが上がり、自由が求められて、放題だものな法が整備され、
産業インフラが育っていく。
いまでは当たり前になったイノベーション論を18世紀に発見するとか

924 :
資本主義が行き詰まった時にイノベーションに活路を得るのはむしろシュンペーター的だろう。

925 :
シュンペーターなんて最近やン
ヒュームは産業革命前やから

926 :
お前が勝手に後付してるだけよ
ノストラダムスと一緒

927 :
まあしかしアベノミクスに中身など無いわけだが

928 :
                      ,-― 、
                 // /   ` i
                  _...,,_ |_-=・=-i |
                〈-=・=-. \   ,|
                 \   // ヽ .丿
        バコタン!||l    >====||l==
                    /|l  ◎  / .:|"   発狂さん
               ノ /、      //.:|   上げ荒らし止めましょう
     ベコタン!  )  ヽ、__i||,./ ::|
                |:: | ト‐=‐ァ' |:|     .∩2z、
                |:: | ` `二´' |:|    ./  /
                \:|___//   /`/
      ,  '    _   l´   '⌒ヽ-‐  /  /  } }  +
    / /     /       リ     |  |   /  ノ
 C、/ /        ╋  /      |  |/  /  //
&  \____/     (     ノ/ _/―''
 ⌒ヽ-、__/   ̄ ̄ ̄`ヽ   '´   /   十
      /  ̄ ̄`ー- ...,,_災__,/| /        +
              /   ノ {=   | |
 +            ∠ム-'    ノ,ィi、ヽ、

929 :
デカルトの次にいきなりカントにいってしまったのだけれど
一歩戻ってイギリス経験論の代表者ヒュームを学ぼうと本を探したけど
手頃なのが、ドゥールズのヒュームしかなかった
ヒューム入門にもっといい本ある?それとも他の哲学者読んだほうがいい?

930 :
中公クラシックスか「世界の名著」でいいだろ。中身は同じ。

931 :
あと法政の「ヒューム読本」とか

932 :
>>930
中公クラシックって、人性論 ですか?
https://www.amazon.co.jp/人性論-中公クラシックス-ヒューム/dp/412160119X/ref=tmm_hrd_swatch_0?_encoding=UTF8&qid=&sr=

933 :
そう。抄訳だけど入門には適している。

934 :
>>933
レスありがとう
ドゥールズ本読んだら、挑戦してみるわ

935 :
ルソー+イギリス経験論=カント??

936 :
N.H
この本、英語の課題エッセイのために読みました。共感や、感情の働きについて。先生に脳科学とかの知見からも、と言われたので。
ところが、このレスタックという脳科学者、結局ヒュームとか引用すんのかよ...
2014年7月28日

937 :
感情や意識の働きはヒュームが全て指摘した通り、例えば虹やオーロラなど自然が生じさせるスペクトルを
我々は不思議に思う、ただ不思議ではあるがそこに特別な意味を求めようとはしない
意味を求めるから不可解と感じるにすぎない

938 :
ヒュームも哲学史ネタぐらいしか交換体験ないけど、
ま、壮絶ですわな。コギトにしても。

939 :
>例えば虹やオーロラなど自然が生じさせるスペクトルを我々は不思議に思う

あたかも何らかの意図が働いているかのように見えるから不思議に思うのでしょう。
しかし、その意図を求めても分らない。現象の原理が理解でき、自分の思いどおり
に現象を再現できるようになれば不思議さは消える。

940 :
全ての物事が数学的に解明できたなら意識に対する不思議さもまた消え去る
分からないことや存在そのものに対する驚きに意味を求めるということは神を前提するということに繋がるが
いくら原因を求めたとしても、そこに人格的な意志の働きなど発見し得ない

941 :
宥めすかすという方法

942 :
「リベラル」が保守勢力に負け続ける理由(プレジデントオンライン) - Yahoo!ニュース
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180124-00024246-president-bus_all

943 :
とても簡単な嘘みたいに金の生る木を作れる方法
役に立つかもしれません
グーグル検索『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』

5JWQC

944 :
5JWQC

945 :
ヒュームの懐疑論最強だよな
誰も反駁できない...ヒューム自身すら

946 :
しかも性格いいってのがな

947 :
ヒューム 因果と自然
萬屋 博喜 (著)
出版社: 勁草書房 (2018/3/16)

948 :
太陽が何万回昇ったのを見たからって次も太陽が昇ると言えるわけはない
そんなの当たり前だし
社会契約から約束の遵守を導きだせるわけがない
そんなの当たり前

自然科学も社会科学も人間が捏造した出鱈目に過ぎない
基礎づけられるわけのない願いでしかない
ヒュームは人間本性から因果を説明したり慣習から社会の形成を論じるがそれは出鱈目で
ヒュームは嘘ばっかししか言っていない馬鹿だけど
だからこそヒュームは不滅だ

カント含めて間違ってさえいない哲学者が多すぎ

949 :
自然科学は現象の観測から理論を導き出す統計的学問だから絶対的確実性なんてものは端から
求める必要がないんだよ、これはあなたがしている自然科学に対しての誤解ね

ヒュームはそうした観測的手段によって因果性を解明すること、所謂、現象の客観性を求めることは
原理的に不可能であるとしたうえで、事実の解明を放棄し人間本性から因果を説明する認知心理学的試みに
回答を求めたのであって何処がデタラメなのか分からない

あなたは、世界について何も知ることはできから何も考える意味がないと言ってるのに等しいな

950 :
参考:
フレーゲの主張に「ヒュームの原理」(略称HP)というものがある(命名はジュージ・ブーロス
『フレーゲ哲学の最新像』)。
数を認識する時、一対一対応が最も確実で、幾何学等の延長は不確実になるというものだ。

「ヒュームの原理」は、フレーゲの『算術の基礎』(§63、著作集2勁草書房122頁)において、
デイヴィッド・ヒュームの『人間本性論』第1巻第3部第一節からの引用というかたちで言及されている。

「例えば、二つの数を集成する各々の単位がそれぞれ常に相応するとき、我々は二つの数
が等しいと宣言する。」(岩波文庫人性論 第1巻123頁)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%81%AE%E5%8E%9F%E7%90%86

別訳
「たとえば、二つの数を並べてみて、その一方を構成する単位が他方の単位と一つ一つつねに対応
すれば、二つの数は等しいとわれわれは言う。」
(ヒューム『人性論』中公クラシックス41頁)

https://en.wikipedia.org/wiki/Hume%27s_principle

When two numbers are so combined, as that the one has always a unit answering to every
unit of the other, we pronounce them equal; and it is for want of such a standard of equality
in [spatial] extension, that geometry can scarce be esteemed a perfect and infallible science. (I. III. I.)

ヒュームは単なる不可知論者ではない。

951 :
参考:
ヒュームとアインシュタイン

http://blogs.yahoo.co.jp/azurite_2727/27883344.html
 アインシュタインは回顧録の中でヒュームについて触れている。それによれば、特殊相対性
理論誕生の直前、かれは、「ヒュームの『人性論』を熱心にまた、畏敬の念を持って読み」、
「核心部分の推論は、ヒュームの理論によって促進された」という。
 19世紀末、アインシュタインや他の物理学者を悩ませていた問題があった。
それは、光の速度と同時性に関するものである。
 窓を閉めて一定の速度で走る列車を考えてみる。この列車の中で、野球の二人の投手二人が
列車の両端から中央にある的に向かってまったく同じように、かつ同時にボールを投げるとする。
このとき、どちらのボールが先に的に当たるだろうか。答えは同時である。
 しかも列車の中の観察者にとってボールの速度は同じに見える。
 線路の脇でこれを観察する人を考えてみよう。進行方向に向かって投げたボールは目にも止ま
らぬ速度で進むのに対し、逆方向に投げたボールはのろのろと動くように見える。ボールの速度
は観察者によって異なって見えるのである。
 次にボールを光に置き換えてみる…

 ヒュームならこのことを矛盾と考えなかったであろう。立場が異なれば、観察観察事実も異
なり得る。
観察は光が目に飛び込んできたときに生じるからである。
アインシュタインは、観察事実の相対性をヒュームから学び、車内の人間が、「二つの光が同時
に放たれ、同時に的に当たる」ことを観察するとき、車外の人間は、「進行方向への光が先に放
たれ、同時に的に当たる」ことを観察すると考えることで矛盾を解決した。
人間の科学が物質の科学にフィードバックされた瞬間であった。

952 :
>>947
この本の書評が。
https://sites.google.com/site/humeforumjapan/archives

953 :
知覚の束というところが面白かった。

954 :
慣習と秩序の経済学 : 進化ゲーム理論アプローチ / ロバート・サグデン著 ; 友野典男訳

目次だけ見ると退屈なゲーム理論の本だが
パットナムが触れたようにヒュームの引用が多く(特に5章、もしくは6章6.2-131ページ)
ヒュームの研究者は必携だ

「自分の知的ヒーローはデヴィッド・ヒュームだと思う。」vii

カントの言う懐疑論はゲーム理論のことだった
それがアインシュタインまで繋がる…

ただ一対一対応をヒュームは重視したので不可知論ではない
ここをサグデンは見ていない

サグデンはヒュームの入門書を書くべきだった
もしくは本書の題名をヒューム人性論入門(洗練された『人間知性研究』ではない)にすればよかった

旧約聖書を例にとったブラムスの本より出来がいい

955 :
事実からは法則は導けないし蓋然性も導けない
蓋然性が成り立っているというのは
それは解釈に過ぎず次はそうなるかわからない
自然科学や社会科学が蓋然性だから正しいと言うのは
蓋然性が次も成り立つという信仰に過ぎない
蓋然性が次も成り立つということには根拠がないから
自然の斉一性が成り立つということが信仰に過ぎないから
950はそこら辺がわかっていない馬鹿だから
ヒュームもそこらへん勘違いした馬鹿だから仕方ないが

自然科学も社会科学も信仰に過ぎないし信仰こそが大切
客観性はない、全てはそうであれとの願い

956 :
全てが嘘っぱちで成り立つ宗教と自然科学をごっちゃにするクソバカ

957 :
>>955
なぜ箇条書きなんだ?内容も含めて無知をさらけ出すような駄文だな

958 :
宇宙の接着剤

959 :
客観性が完全であり完全を志向するが主観は不確かで不確実なものである。

960 :2020/02/24
ある郷紳からエディンバラにいる彼の友人に宛てた一通の書簡 最近出版された『人間本性論云々』と題されたある書籍で主張されていると 言われる宗教と道徳に関する諸原理の実例についてのいくつかの所見を含む
デイヴィッド ヒューム , (翻訳)竹中 久留美
https://ci.nii.ac.jp/naid/120006241700

古典資料の翻訳 デイヴィッド・ヒューム「迷信と熱狂について」
Hume David , 田中 敏弘 [訳]
https://ci.nii.ac.jp/naid/40017075838

古典資料の翻訳 デイヴィッド・ヒューム「政治的自由について」
Hume David , 田中 敏弘[訳]
https://ci.nii.ac.jp/naid/40016859283

古典資料の翻訳 デイヴィッド・ヒューム「芸術と学問の生成・発展について」(1)
Hume David , 田中 敏弘[訳]
https://ci.nii.ac.jp/naid/110007153145

古典資料の翻訳 デイヴィッド・ヒューム「芸術と学問の生成・発展について」(2)
Hume David , 田中 敏弘 [訳]
https://ci.nii.ac.jp/naid/110007153153

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