TOP カテ一覧 スレ一覧 100〜終まで 2ch元 削除依頼
お前らが知恵を振り絞って吉作を助けるスレ
〜焚き火総合 Part.33〜
ロープウェイ・ケーブルカー・登山リフトを語ろう
ボルダリング41段
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)55【ダメ工作員】
西武電車でハイキング
スノーピークを語ろう Part74
一人でキャンプに行く人99夜目(ワッチョイ有り)
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)9【ダメ工作員】
北アルプス80

【】/ ´,_ゝ`\初心者のための富士山登山入門130m 【】


1 :2018/04/28 〜 最終レス :2018/04/29
富士山(標高3,776m)は、夏の暑さと冬の寒さを一日で体感する過酷な環境です。

高度が100m上がるごとに気温は0.6℃下がり、風速1m/sごとに体感温度は1℃下がります。富士山では
台風並みの強風が吹くのもざらで、夜明け前の山頂は真冬のような寒さ。体感温度は氷点下となります。
「寒いのはがまんすればよい」というものではなく、体温を維持するためにより多くのエネルギーを消耗します。
つまり寒いとそれだけ疲労するのも早く、低体温症により真夏でも疲労凍死することがあるのです。

初心者が登れるのは、山小屋が営業する開山期間中(山梨県側7/1〜9/10、静岡県側7/10〜9/10)に
限られます。山小屋が閉まるとトイレも使えません。初冠雪(積雪)は例年10月初旬ですが、9月になれば
いつでも雪が降る可能性があります。10月以降はカチカチに凍った雪の急斜面が氷の滑り台になり、一度
足を滑らせれば岩にぶつかるまで止まりません。実際に毎年多くの人が滑落事故で亡くなっています。

このスレでは「安いから」というだけで100円のペラペラ雨合羽を薦めたり、「山の天気は変わりやすい」という
常識も知らずに「天気予報が晴れのときに登れば装備は簡単でいい」などという、初心者以下の知識の
知ったかぶりもいるので騙されないように。また、「自分はこれで大丈夫だった」「みんなこうしてる」という
話も鵜呑みにせず、事前に練習登山などで自分の体力を把握した上で万全な計画を立てましょう。
>>2-以降のテンプレを参考に、「余力を残して登頂、余裕を持って下山」を心がけ、楽しい登山を。

2 :
■リンク集
・富士登山オフィシャルサイト
http://www.fujisan-climb.jp/
・あっぱれ!富士登山
http://www001.upp.so-net.ne.jp/fujisan/
・富士登山をしてみたい!
http://www.tozan.org/fuji/
・富士さんぽ
http://www.fujisanpo.com/

■天気予報
・気象庁HP
http://www.jma.go.jp/jp/yoho/
・富士山の天気(百名山) - 日本気象協会 tenki.jp
http://www.tenki.jp/mountain/famous100/5/25/150.html
・snow-forecast.com
http://www.snow-forecast.com/resorts/Mount-Fuji/6day/top
・富士山山頂の天気 - てんきとくらす [天気と生活情報]
http://tenkura.n-kishou.co.jp/tk/kanko/kad.html?code=19150004&;;type=15&ba=kk

■気象について
雨の日に登っても楽しくありません。天気が悪ければ延期する決断を。予報が晴れでも、夏は局地的な
夕立や雷雨があります。雨具や荷物の防水も忘れずに。降水確率と雨量は無関係です。確率が低くても、
大雨ということも。風の強さも確認を。天気概況(天気の推移を文章で簡潔に示したもの)で「大気の状態が
不安定」「急変する恐れ」「雷を伴い」と予報されていたら、登山は中止してください。冷たい風が吹き降ろし
てきたら夕立の合図です。降り出す前に雨具を着用しましょう。

3 :
■装備 ◎必須○有効△状況しだい×余計な荷物

◎ザック....防寒着が嵩張るので、30〜35gが適当
○ザックカバー.雨のとき被せる防水カバー。砂埃除けにも
○スタッフバッグ ..小物をまとめ、パッキングが楽に。電子機器、着替えなどは防水袋へ
◎登山靴....防水のミドルカットが最適。ハイカットは必要ないが、スニーカーはNG
◎雨具.....予報が晴れでも必ず必要。ポンチョ、100円雨合羽はNG。傘は不可。強風で雨が下から
吹き上げるので、上下セパレートタイプが必須。強風時はウィンドブレーカーとして使える
◎ヘッドランプ.日帰りでも下山遅れに備えて必ず必要。予備の電池も忘れずに

◎帽子.....風に飛ばされない対策を。ご来光待ち用にニット帽も
◎サングラス..目も日焼けする。安物はレンズに歪みがあるのでNG
◎手袋.....軍手と防水の手袋を別々に。転倒時に怪我をしないように、下りでは必ず着用
◎防寒着....夜明け前は真冬並みの寒さ。ダウンなど、脱ぎ着しやすいものを
◎長ズボン...伸縮性の物が良い。ジーンズは濡れると動き難くNG。半ズボン、短パンは、風が吹くと寒い
◎化繊の下着...必ず100%のものを。綿は濡れると乾きにくく、体温を奪う
◎中厚手の靴下.長時間歩行のクッションとして。柔らか過ぎず、網目が密でしっかりしたものを

◎日焼け止め..汗で落ちたら塗り直し、首筋、耳も忘れず
◎登山地図...下山時に道を間違う人が多い
◎飲み物....2〜3gが目安だが個人差がある。怪我や目に入った砂埃を洗う真水も必要
◎救急セット..下痢止め、バンドエイド(靴擦れ対策にも)、テーピングテープ、保険証のコピーなど
◎その他....飴や干し梅など行動食を定期的に摂ろう。タオルや日本手ぬぐい。ゴミ袋

×保冷水筒...重く嵩張るのでペットボトルが良い
○保温水筒...ご来光待ち用に。山小屋でお湯を売っていれば出発時に補給
△スパッツ...砂や小石が靴に入るのを防ぐ
○ストック、金剛杖.腕の力を活かし、足(特に下りの膝)の負担軽減に有効
△その他....マスク(下山時の砂埃対策)、ウェットティッシュ、カイロ
△頭痛薬....高山病の頭痛も和らげるが、症状を隠すので却って危険という意見も
×酸素缶....吸っている間しか効果ない

4 :
■登山の注意点
余計な荷物は体力を消耗するだけ。無駄は省きましょう。但し、必要な装備を重いとかザックに入らない
などといって持たずに登るのは本末転倒。きちんと装備を揃え、背負える体力をつけてから登りましょう。

登り始めは靴一足分の歩幅で、ゆっくりと登りましょう。追い抜かれても慌てずに。オーバーペースの人は
すぐバテるので、いずれ抜き返せます。高所は乾燥しています。水分は少量を定期的に摂るのが最適。

グループで登る方は、途中ではぐれないように必ず2人以上での行動を維持しましょう。何か問題が起きた
ときに対処が遅れると命取りです。登山中は最も遅い人のペースに合わせ、登るのが早いからといって
子供に単独行動をさせないように統率しましょう。初心者は隊列の真ん中に挟み、経験者が前後を固め
て目を配りましょう。

一人にひとつずつ地図のコピーを持たせること。どの登山口から登って来たか、全員が覚えておくこと。
はぐれた場合に落ち合う場所を複数決めておくこと。特に下山時の分岐点について予習しておくこと。

万が一体調不良、怪我人が出た時は全員で下山するのが大原則です。どうしても登山を続行する場合
でも病人などを一人で下山させるのは絶対に避け、必ず付き添いを付けるようにしましょう。 体調不良の
人は高山病も疑われるので、山小屋などで待たせるよりもすぐに下山させた方が良い場合もあります。
トイレは有料なので、100円玉を多く用意しておきましょう。順番待ちになることも多いので限界まで粘らず、
出来るときに早めに済ませましょう。ツアー登山は、スケジュールが決められているために自分のペースが作り
難く、無理について行くと高山病を誘発する場合もあり、あまりお薦めしません。

下山時は重心を軽く前にかける。歩幅も小さく、靴一足分。滑りやすいところでは、足を逆八の字に開く。
富士宮ルートの、岩の平らな所は砂で滑りやすい。岩の角に靴底の溝を引っ掛けると滑らない。爪先で
踏ん張らず、力を抜いて足裏全体で接地するか、親指の付け根を意識する。猫のように下れ。

5 :
>>1
乱立させんなゴミ
削除依頼出しとけ

6 :
■高山病の予防と対策
高山病は体質に起因すると言われ、年齢や性別、体力やスポーツ経験もあまり関係ないようです。
自己の体力を過信せず、登り始めはゆっくりと時間を掛け、身体を慣らしながら登りましょう。

息を吸う事よりも吐く事を特に意識してください。有圧呼吸法も有効とされています。
大きく息を吸い込み、2秒ほど息を止めるとともに、胸に圧力をかけるように力を入れた後、口先を
すぼめてゆっくり吐き出す。これを5〜6回繰り返すと、血中の酸素濃度が上がり、楽になります。

水分を定期的に摂ることも大切です。行程の時間から逆算して必要量を算出し、計画的に摂取し
ましょう。1時間あたり、体重kg×5mlを4回ぐらいに分けて飲むのが良いそうです。(間隔や量は各自
調整してください)

・Yutaka Miura's home page:私の高山病の治療方針
ttp://www.med.nagoya-cu.ac.jp/igakf.dir/chyo_AMS.html

睡眠中は呼吸が浅くなるため、高山病になりやすいです。なるべく低い標高の山小屋を選択し、着い
てからすぐ横にならずに、しばらく身体を動かして高度に慣らしましょう。催眠成分を含有する頭痛薬
なども呼吸を浅くするため、高山病を誘発しやすいようです。

高山病になったら悪化する前に下山させるのが一番の解決策です。無理に動かしたり、引っ張って
登らせてはいけません。重篤な場合には、診療所・救護所へ助けを求めましょう。
初期症状は、頭痛、息切れ、むくみ、不眠症、食欲不振、脱力感、吐き気など。さらに、激しい頭痛、
嘔吐、空咳、 意識障害(支離滅裂なことを言う、問いかけに無反応など)になると、とても危険な状態
です。登山は諦めて付き添いの人と共にすぐに下山してください。高山病は最悪の場合死に至ります。

7 :


8 :
警告

もう1つの方の富士登山スレは個人が特定される恐れがあります。

ワッチョイ表示
IP表示

このようにご使用中のスマホやパソコンのIPまで表示させるスレッドは、

初心者の住所、氏名、年齢、会社名

家族構成、書き込み履歴を芋づる式に調べる罠としても使用されています。

荒らしを特定すると同時に、

気に食わない書き込み者を特定し、悪意のあるものたちで、

ネット初心者を特定し、吊し上げ袋叩きにすることも可能です。

会社から書き込んだりすると、即座に会社名が誰でも調べられ、

会社に匿名で苦情を入れられたり、住所氏名年齢家族を調べ上げられ

永久にネット上で攻撃される者が

過去にも何百人と、たくさんいますのでご注意下さい。

ワッチョイ、IP表示のないスレが立つのを待つか

書き込まないことを推奨します。

9 :
富士山初心者はGWは登るなよ。
事故るだけだぞ

10 :
富士宮も 開通だね!

11 :
富士宮開通したみたいですが夜間通行止めなんですか?
早朝から登りたいので夜のうちに駐車場行きたいんです

12 :
>>
昨年は夜間通行止めはなかったです。
通行止めが実施されていた年も、夜間や早朝に五合目に登ってくる車がありました。
スカイラインのゲートが通行止め時間でも下りレーンのゲートが開いたままになっているので、そこから進入できたからです。

13 :
四駆スタッドレス、チェーン積載以外は危険。
天候急変で急に雪が吹雪くと降りられなるぞ

上の方、道路の両側はまだ雪が積もってるからな。

14 :
電話で確認したら封鎖は余程の事が無い限り、今年はしないってさ

15 :
雪山の初心者以外はやめとけよ

16 :
961です。
みなさん情報ありがとうございます。
夜間走行できるのなら時間に余裕できるのでゆっくり行けます

スタッドレス必要ですかね?チェーンは持ってないし^^;
一応4駆だけど履き替えて行った方がいいのかな?

17 :
こちらは安全な次スレになります。
ワッチョイなし
IPなし


IP表示スレは
個人特定
会社名特定
学校特定
される可能性があるのでご注意を


【】/ ´,_ゝ`\初心者のための富士山登山入門130m 【】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1524841898/

18 :
カツラック!\(^o^)/

19 :
今年は何人のGWチャレンジャーが滑落死、遭難死するのだろう?

20 :
ヤマレコで先週くらいの富士宮口の画像みたら
頂上?の直下あたりに雪の塊がいっぱい写ってるけど
あれが転がってきたら怖いな

21 :
>>19
7月になると雪融けで発見されます(笑)

22 :
2016年 遭難事故

http://www.fujisanpo.com/topics/2016/accident.html

2017年 遭難事故
http://www.fujisanpo.com/topics/2017/accident.html

23 :
>>19
パンパカスレでお待ちしております。(^人^)

24 :
6月中旬でもちょっと風が吹くと指先がしびれるもんなあ
山開きってうまく考えられてるよな

25 :
GWって駐車場が空いてないから、ずらーっとはるか下の方に車を止めなきゃいけなかったってどこかのサイトに書かれてたな

26 :
>>20
古い昔話のブログで、山頂の火口を下までスキーで滑る写真に
お釜の急斜面に何本も亀裂が走ってるのがコワイw

27 :
そろそろワッチョイスレ主が悪魔に豹変して
このスレを埋め立てにくると予想

28 :
どうもあの埋め立て荒らしが一瞬見せるマジレスってワッチョイIPスレを立てたスレ主のキャラと被るんだよな。

29 :
>>1-4
>>6-28

自演キチガイ、発作おさまったのか?
せめてもうちょっと間隔開けろ
見てるこっちが恥ずかしいわw

以下
コロコロコピペと言い訳



30 :
>>29
荒らし乙

31 :
(ワッチョイ bfba-gg6D [126.7.239.231])

このIP表示
126.7.239.231を

下のIPチェックサイトで検索してどんどん個人情報を探ってみよう

IPチェック確認サイト
https://www.cman.jp/network/support/ip.html


他の板、他の掲示板でも
2ch 126.7.239.231

でGoogle検索す
ると

スケベな書き込みも
家族の書き込みも
浮気の書き込みも
住んでる地域の書き込みも

いろいろ出てくるかもよ?

これが2ちゃんねる名物

罠、トラップというやつです

みなさんご注意を!

32 :
好きな方にかきゃいいだろ www

33 :
>>31
スケベな書き込みが発見される?

困ります!
やめてくださいそういうの

34 :
前スレで埋め立て荒らしはIPスレに引っ掛からないって、すでにわかってただろ。
自演や連投なんてスレ保守には必要悪だ。

35 :
必要悪キターーーーーー!
(゚∀゚≡゚∀゚)

36 :
うんこしたくなったらどこでするの?

37 :
高山病には水が重要

http://www.soranoshita.net/blog/post-3036/#i-3

38 :
>>36
パンツの中にします

39 :
シーズンオフの富士山はウンコ出来ないのがなあ
世界遺産はウンコ禁止だし

40 :
http://imgc.appbank.net/c/wp-content/uploads/2009/11/kuriki01.jpg .. 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:6303213169c40ef413ad992a60a479a3)


41 :
トカナでも度々報じてきた“未来人”が、またもネット上に登場し、大きな注目を集めている。
今度は、2150年の未来からや
って来たと主張する「XU」という人物だ。今月17日に突如としてツイッターにアカウントを開設すると、「来月23日に南海
トラフ巨大地震が発生する」「6月15日に富士山が噴火する」などの物騒な予言をツイートし、ネット上で大き
な話題となっている。これがもし当たってしまえば日本の存亡にもかかわる大惨事になることは言うまでもない。
となれば
時間に余裕はない。今はXUの正体について思いを巡らせるよりも、その予言にあるような巨大地震や大噴火が立
て続けに起こり得るのか、しっかり検討することが先決だろう。

■未来人が語った戦慄の近未来とは!?
 まず、本題に入る前に一点付け加えておこう。
実は今年1月3日、2075年の未来からやって来たという「YJ」なる人物も
ツイッターに登場し、「2031年に第三次世界大戦が勃発する」という予言で注目を集めたが、両者のツイートは文体が似
ており、XUとYJが同一人物ではないかという指摘があった。
この点についてXUは4月18日、「私とあの方(YJ)は知り合い同士」と語っているようだ。

42 :
 2150年から来た未来人XU「5月23日に南海トラフ巨大地震発生、6月には富士山噴火」
http://hayabusa9.2ch.sc/test/read.cgi/news/1524918690/

さて、問題のXUは最初のツイートで、以下のように予言している。

XU
@XU17297714
皆様はじめまして、僕は皆様にこれをお伝えしに参りました。

2018.5.23.
3:45
南海トラフ巨大地震が発生

2018.6.15.
12:32
富士山噴火、
その2日後
2018.6.17.
1:25
四国方面で震度9を観測する巨大地震発生、行方不明者21万5639人.死者30万7690人

15:49 - 2018年4月17日


XU
@XU17297714
2020.
東京オリンピック開催されるが
次の首都が岡山となった
何故東京から岡山へと首都が変更されるか
詳しくは言えないが、言えることは1つ
2020.
PM3.53.
何者かが東京を攻撃
攻撃され東京スカイツリーは崩壊
とても住めない状態となり首都が岡山へと変更された

2:28 - 2018年4月18日

このように、これから2年のうち、南海トラフ巨大地震、富士山噴火、四国の巨大地震、東京への攻撃などが立て続けに起こるという。
では、XUの予言を筆者独自に検討した結果を、肯定的・否定的の両要素に分けて挙げてみよう。

http://tocana.jp/2018/04/post_16694_entry.html

43 :
夜中、強風が凄かった
ジェット機がずっと飛んでるような音
https://imgur.com/a/KcZDuEf

44 :
な影響を与えている。懸垂曲線の山容を有した玄武岩質成層火
山で構成され、その山体は駿河湾の海岸まで及ぶ。古来霊峰と
され、特に山頂部は浅間大神が鎮座するとされたため、神聖視
されエムゾネた。噴火を沈静化するため律令国家により浅間神社が
祭祀され、浅間信仰が確立された。また、富士山修験道の開祖
とされる富士上人により修験道の霊場としても認識されるよう
になり、登拝が行われるようになった。これら富士信仰は時代
により多様化エムゾネし、村山修験や富士講といった一派を形成す
るに至る。現在、富士山麓周辺には観光名所が多くある他、夏
季シーズンには富士登山が盛んである。日本三名山(三霊山)
、日本百名山、日本の地質百選に選定されている。また、19
36年(昭和11年)エムゾネには富士箱根伊豆国立公園に指定さ
れている。その後、1952年(昭和27年)に特別名勝、2
011年(平成23年)に史跡、さらに2013年(平成25
年)6月22日には関連する文化財群とともに「富士山−信仰
の対象と芸術の源泉」の名で世エムゾネ界文化遺産に登録された。
日本の文化遺産としては13件目である。富士の山とは詠んだ
としても、「ふじやま」という呼称は誤りであり、愛媛県大洲
市柚木にある冨士山(とみすやま)とは字も呼び方も異なる。
富士山についての最も古い記録は『常陸エムゾネ国風土記』におけ
る「福慈岳」という語であると言われている。他にも多くの呼
称が存在し、不二山もしくは不尽山と表記する古文献もある。
また、『竹取物語』における伝説もある。「フジ」という長い
山の斜面を表す大和言葉から転じて富士山と称さエムゾネれたとい
う説もある。近代以降の語源説としては、宣教師・バチェラー
は、名前は「火を噴く山」を意味するアイヌ語の「フンチヌプ
リ」に由来するとの説を提示した。しかし、これは囲炉裏の中
に鎮座する火の姥神を表す「アペフチカムイ」からきた誤エムゾネ侯棺

45 :
解であるとの反論がある。その他の語源説として、マレー語説
・マオリ語説・原ポリネシア語説等がある。明確に「富士山」
と表記されるに至るにおいては駿河国富士郡に由来するとする
ものがあり、記録としては都良香の『富士山記』に「山を富士
と名エムゾネづくるは、郡の名に取れるなり」とある。富士山に因
む命名富士山が日本を代表する名峰であることから、日本の各
地に「富士」の付く地名が多数存在している。富士山の麓とし
て静岡県に富士市・富士宮市、富士郡、山梨県に富士吉田市・
富士河口湖町エムゾネ・富士川町があるほか、よくあるものとして
富士山が見える場所を富士見と名づけたり(例:埼玉県富士見
市)、富士山に似ている山(主に成層火山)に「富士」の名を
冠する例(信濃富士など)がある。日本国外に移住した日本人
たちも、居住地付近のエムゾネ山を「○○富士」と呼ぶことがある
。詳細は「富士見」および「富士街道」を参照また、全国各地
には少なくとも、321座を超える数の富士と名の付く山があ
り、それらを郷土富士と呼ぶ。詳細は「郷土富士」を参照なお
、地名以外にも「富士」を冠しエムゾネた名称は多く存在する。詳
細は「フジ」を参照また、異名として芙蓉峰とも言う。詳細は
「芙蓉」を参照地質学上の富士山富士山周辺の地形図富士山の
構造図地質学上の富士山は典型的な成層火山であり、この種の
火山特有の美しい稜線を持つ。現在の富エムゾネ士山の山体は、大
きく分けて下記の4段階の火山活動によって形成されたものだ
と考えられている。先小御岳(せんこみたけ)火山小御岳(こ
みたけ)火山古富士(こふじ)火山新富士(しんふじ)火山こ
の中で先小御岳が最古であり、数十万年前の更新エムゾネ世にでき
た火山である。東京大学地震研究所が2004年4月に行った
ボーリング調査によって、小御岳の下にさらに古い山体がある
ことが判明した。安山岩を主体とするこの第4の山体は「先小折含

46 :
御岳」と名付けられた。古富士は8万年前頃から1万5千エムゾネ
年前頃まで噴火を続け、噴出した火山灰が降り積もることで、
標高3,000m弱まで成長した。山頂は宝永火口の北側1〜
2kmのところにあったと考えられている。2009年10月
に、GPSによる富士山の観測で地殻変動が確認された。これ
は1エムゾネ996年4月の観測開始以来初めてのことである。こ
の地殻変動により最大2センチの変化が現れ、富士宮市−富士
吉田市間で約2cm伸びた。これはマグマが蓄積している(活
火山である)現れとされている。プレートの観点からは、ユー
ラシアプレーエムゾネト外縁部で、北アメリカプレート又はオホー
ツクプレートと接するフォッサマグナ(すぐ西に糸魚川静岡構
造線)に南からフィリピン海プレートが沈み込む位置であり(
ほぼ、相模トラフと駿河トラフ及び伊豆・小笠原・マリアナ島
弧を陸上に延長した交エムゾネ点)、3個のプレートの境界域(三
重会合点(英語版))となっている。富士山下で沈み込んでい
るフィリピン海プレートのさらに下に太平洋プレートが沈み込
んでおり、富士山のマグマは、東日本にある島弧火山と同様に
太平洋プレートに由来するものエムゾネである。富士山の火山上の
特徴は、日本列島の陸上で他にない均整のとれた山体であるこ
と、日本の火山のほとんどが安山岩マグマを多く噴出している
のに対し、富士山は玄武岩マグマを多く噴出すること、側火山
が非常に多いことがある。富士山頂山頂エムゾネ火口を上空より山
頂火口山頂には火口(お鉢)がありこれを「大内院」と呼ぶ。
これを囲むようにして8つの峰がありこれを八神峰と呼ぶ。火
口の南西側に最高点の剣ヶ峰があり二等三角点(点名は、富士
山。標高3775.51m2014年4月1日改エムゾネ算)、火
口の北側には二等三角点(点名は、富士白山。標高3756.
23m2014年4月1日改算)が設置されている。火口の構享筒

47 :
造は、国土地理院によると、最深部の標高が3538.7m、
火口の深さは約237m、山頂火口の直径は780m、火エムゾネ
口底の直径は130mとある。登山道を除く8合目より上は、
富士宮市にある富士山本宮浅間大社の私有地であるが、県境と
市町村境界は未確定である。2014年1月の富士山世界文化
遺産協議会後の記者会見でも静岡県知事の川勝平太と山梨県知
事のエムゾネ横内正明は県境を定めないことを明言している。国土植酔

48 :
地理院がインターネット上で公開している地形図では2013
年10月から地図上の地点を指定すると住所、緯度・経度、標
高が表示される機能が加わったが、帰属未確定の地点の場合に
は近くの帰属エムゾネが確定している住所が表示されるという設定
になっているため、富士山頂(剣が峰)を指定すると静岡県富
士宮市として表示されることが山梨県などから指摘され、これ
を受けて富士山頂の住所表示については非表示になるよう変更
された。宝永山宝永山エムゾネと宝永噴火口宝永山(ほうえいざん
)は宝永4年(1707年)の宝永大噴火で誕生した側火山(
寄生火山)である。富士山南東斜面に位置し標高は2,693
mである。宝永山の西側には巨大な噴火口が開いている。これ
らを間近で見ることができる登エムゾネ山コースも整備されている
。詳細は「宝永山」を参照富士山と火山活動富士山の噴火詳細
は「富士山の噴火史」を参照最終氷期が終了した約1万1千年
前、古富士の山頂の西側で噴火が始まり、溶岩を大量に噴出し
た。この溶岩によって、現在の富士山のエムゾネ山体である新富士
が形成された。その後、古富士の山頂が新富士の山頂の東側に
顔を出しているような状態となっていたと見られるが、約2,
500〜2,800年前、風化が進んだ古富士の山頂部が大規
模な山体崩壊(「御殿場岩なだれ」)を起こしてエムゾネ崩壊した
。新富士の山頂から溶岩が噴出していたのは、約1万1千年前
〜約8,000年前の3,000年間と、約4,500年前〜
約3,200年前の1,300年間と考えられている。山頂部
からの最後の爆発的噴火は2300年前で、これ以降は山エムゾネ
頂部からの噴火は無いが、長尾山や宝永山などの側火山からの
噴火が散発的に発生している。延暦19年−21年(800年
−802年)に延暦噴火、貞観6年(864年)に青木が原溶
岩を噴出した貞観大噴火。最後に富士山が噴火したのは宝永4折遺

49 :
名称変更)、エムゾネ「富士風穴」(天然記念物:1929年12
月17日指定)などがある。伏流水白糸の滝(静岡県)富士山
に降った雨や雪は、長い年月をかけ伏流水として地下水脈を流
れ湧き出てくる。最も高い地点から湧き出す湧水として確認さ
れている例は標高16エムゾネ70m(富士宮口二合目付近)とさ
れ、その他山麓を帯状に分布している。富士山麓における湧水
の総湧出量は1968年で1日あたり154万立方メートル以
上だという。しかし、近年湧出量の減少が確認されている例が
ある。地域名称南東麓されていエムゾネ柿田川(日本三大清流)、
小浜池南麓吉原湧泉群西麓湧がってい玉池(特別天然記念物)
、白糸の滝(国指定の名勝及び天然記念物)、猪之頭湧泉群北
麓忍野八海(国指定の天然記念物)またの、一部で駿河湾や富
士五湖の西湖(水深25m付近)で湧出エムゾネがあるとされてい
る。富士山を源とする伏流水を利用し、周辺地域で製紙業や医
薬関連の製造業などの工業が活発に行われている。また、富士
山の伏流水はバナジウムを豊富に含んでいるため、ミネラルウ
ォーターとして瓶詰めされ販売されている。溶岩エムゾネ洞窟西湖
コウモリ穴入口富士山麓周辺には大小100以上の溶岩洞窟が
形成されている。その中でも総延長2139mの三ツ池穴(静
岡県富士宮市)は溶岩洞窟として日本一の長さを誇る。また、
山麓周辺で最大規模の溶岩洞窟として西湖コウモリ穴(山エムゾネ
梨県南都留郡富士河口湖町)があり、国の天然記念物に指定さ
れている。その他、鳴沢氷穴(山梨県南都留郡鳴沢村)も国の
天然記念物に指定されている。植生富士山は標高は高いが、日
本の他の高山に比較すると高山植物などの植生に乏しい。これ
は富エムゾネ士山が最終氷期が終了した後に山頂から大規模な噴火
が繰り返したために山の生態系が破壊され、また独立峰である
ため、他の山系からの植物の進入も遅れたためである。しかし鉛郊

50 :
、宝永山周辺ではいくらか高山植物が見られる。山の上部では
タデ科オンタエムゾネデ属のオンタデ(御蓼)、山腹ではキク科ア
ザミ属のフジアザミ(富士薊)が自生している。中部山岳地帯
の高山の森林限界の上にはハイマツ帯が広がっているのが通例
であるが、富士山にはハイマツ帯は欠如し、その代替にカラマ
ツ林が広がっている。エムゾネ人間史富士山本宮浅間大社古代古代
より富士山は山岳信仰の対象とされ、富士山を神体山として、
また信仰の対象として考えることなどを指して富士信仰と言わ
れるようになった。特に富士山の神霊として考えられている浅
間大神とコノハナノサクヤビメエムゾネを主祭神とするのが浅間神
社であり全国に存在する。浅間神社の総本宮が麓の富士宮市に
ある富士山本宮浅間大社(浅間大社)であり、富士宮市街にあ
る「本宮」と、富士山頂にある「奥宮」にて富士山の神を祭っ
ている。詳細は「富士信仰」を参照古代エムゾネでは富士山は駿河
国のものであるとする考え方が普遍的であった。これらは「高
く貴き駿河なる富士の高嶺を」(山部赤人『万葉集』)や「富
士山は、駿河国に在り。」「富士山は駿河の国の山で(省略)
まっ白な砂の山である」(都良香『富士山記』)エムゾネ、「駿河
の国にあるなる山なむ」(『竹取物語』)など広く見られるも
のである。しかし「なまよみの甲斐の国うち寄する駿河の国と
こちごちの」(「高橋虫麻呂」『万葉集』)のように駿河国・
甲斐国両国を跨ぐ山であるという共有の目線で記された貴エムゾネ
重な例もある。それより後期の時代、イエズス会のジョアン・
ロドリゲスは自著『日本教会史』にて「富士山は駿河国に帰属
している」としているため、帰属は駿河国という関係は継続さ
れていたと考えられる。登山口は末代上人が開いた登山道を起
源とエムゾネし、登山道が完成されたそれが最初の登山道と言われ
る村山口である。これにより富士修験が成立したとされる。次像美

51 :
第に他の登山道も開削されてゆき、大宮・村山口、須山口、須
走口が存在してる。神仏習合は富士山も例外ではなかった。山
頂部は仏の世エムゾネ界と考えられるようになり、特別な意味を持
つようになった。遺例としては正嘉3年(1259年)の紀年
銘である木造坐像が古いとされ、これは大日堂(村山)の旧本
尊であった。鎌倉時代の書物である『吾妻鏡』には神仏習合に
よる「富士大菩薩」やエムゾネ「浅間大菩薩」という呼称が確認さ円研

52 :
れている。富士山頂の8つの峯(八神峰)を「八葉」と呼ぶこ
とも神仏習合に由来し、文永年間(1264年−1275年)
の『万葉集註釈』には「いただきに八葉の嶺あり」とある。そ
の他多くの書物で「八葉」の記エムゾネ述が確認できる。江戸時代
江戸時代になると、徳川家康による庇護の下、本殿などの造営
や内院散銭取得における優先権を得たことを基に江戸幕府より
八合目以上を寄進された経緯で、現在富士山の八合目より上の
部分は登山道・富士山測候所を除き浅間エムゾネ大社の境内となっ
ている。登山の大衆化と共に村山修験や富士講などの一派が形
成され、富士信仰を発展させていった。富士講の隆盛が見られ
た18世紀後半以降、新興宗教として旧来の登山道では発展で
きなかったために吉田口を利用する道者が目立つエムゾネようにな
っていたと考えられ、18世紀後半以降では、他の登山口の合
計と同程度であったという。富士参詣の人々を「道(導)者」
といい、例えば『妙法寺記』の明応9年(1500年)の記録
に「此年六月富士導者参事無限、関東乱ニヨリ須走へ皆導エムゾネ
者付也」とある。また、登山における案内者・先導者を「先達
」といい、先達の名が見える道者帳(『公文富士氏文書』、文
中に「永禄6年」とあり)などが確認されている。明治以後慶
応4年(1868年)に神仏分離令が出されると、これら神仏
習合エムゾネの形態は大きく崩されることとなる。富士山中や村山
における仏像の取り壊しなどが進んだ。富士山興法寺は分離さ
れ、大日堂は人穴浅間神社となり大棟梁権現社は廃されるなど
改変が進んだ。北口本宮冨士浅間神社では仁王門や護摩堂など
が取り壊されエムゾネることとなった。仏教的な名称なども改称さ
れ、「八葉」の呼び名も変更された。1883年(明治16年
)に御殿場口登山道が、1906年(明治39年)に新大宮口
が開削された。富士山は平成23年(2011年)2月7日に偏触

53 :
国指定文化財である「エムゾネ史跡」に指定された。史跡としての
富士山は複数の資産から構成され「史跡富士山」として包括さ
れている。指定範囲は静岡県は富士宮市・裾野市・駿東郡小山
町、山梨県は富士吉田市・南都留郡富士河口湖町・鳴沢村であ
る。このとき富士山八合目以上エムゾネの山頂部や各社寺、登拝道
(登山道)が指定された。その後富士山本宮浅間大社社有地の
一部、人穴富士講遺跡、各登山道が追加指定された。登山史富
士登山の伝承においては伝説的な部分が多く入り混じっており
、諸説存在する。富士山の登山史和暦西エムゾネ暦内容補足推古天
皇6年598年平安時代の甲斐の黒駒伝承には、聖徳太子が神
馬に乗り富士山の上を越えたとする記述がある。諸国からが多
献上された数百匹の中から白い甲斐の烏駒(くろこま)を神馬
であると見抜き、同年9月に太子が試乗すると、エムゾネ馬は天高
く飛び上がり東国へ赴き、富士山を越えて信濃国まで至ると、
3日を経て都へ帰還したという。天智天皇2年663年役小角
が県は富、流刑したされた伊豆大島から毎晩密かに逃げ出し、
富士山へ登ったという伝説が残る。役小角は「富士山開山エムゾネ
の祖」ともいわれる。この役小角の登山はマルセル・クルツの
『世界登頂年代記』に掲載されており、記録は改訂されたもの
の「世界初の登山」という記述がされていた。貞観17年87
5年平安時代の学者である都良香が『富士山記』の中で山頂火
口のエムゾネさまを記す。山頂には常に沸き立つ火口湖があり、そ
のほとりに虎の姿に似た岩があるなど、実際に見た者でなけれ
ば知りえない描写から、実際に登頂したか、または登頂した者
に取材したと考えられる。なおこの約10年前には山頂噴火で
はないが有史エムゾネ最大の貞観大噴火があった。久安5年114
9年『本朝世紀』には末代上人が数百回の登山を繰りかえした
とある。回数は一致するものかは不明であるが、登山を多く行慢忘

54 :
った人物として知られる。江戸時代に入ると富士講が盛んにな
り、多くの参拝者が富エムゾネ士登山(富士詣)をした。特に江戸
後期には講社が多数存在し、富士詣は地域社会や村落共同体の
代参講としての性格を持っていた。最盛期には吉田口だけで百
軒近くの宿坊(山小屋)があった。文政11年1828年気圧
計による高度測定の試みシーボエムゾネルトの弟子である二宮敬作
が登頂し、気圧の変化により高度測定を行った。伊能忠敬の測
量では2603m−3732mとされていたが、この測定では
3794.5mと算出されている。天保3年1832年高山た
つが女性として初登頂。女人禁制が敷かエムゾネれていた時代であ
る。嘉永6年1852年松平宗秀(本庄宗秀)が近世大名とし
て初登頂。富士宮市の有形文化財となっている、造り酒屋の主
人が記した「袖日記」という古記録に宮津藩主松平宗秀が富士
登山を行った記録がある。袖日記の6番によるとエムゾネ、宗秀は
江戸と宮津を参勤交代で往復しているうちに富士山に登ろうと
思い始めたが、参勤交代の道程は幕府に指定されたルートであ
り、これを逸脱したコースを通ったり、たとえ社寺参詣であっ
ても寄り道することは許されないため、富士に登ることをエムゾネ
幕府に願い出るも中々許可が出ず、3年を経て許可を得るも「
馬返し」と呼ばれる地点までであった。(馬返しというのは一
合目よりも下の場所であり、登山客はここで馬を下りて山に登
るという所)そこで宗秀は嘉永6年(1852)6月21日、
幕府エムゾネに内緒で登山を決意し、明け方から出発して山を登り
始め、昼過ぎには頂上に着いたという。宗秀の富士山登頂は、
近世大名が富士登山を行った唯一の記録となった。万延元年1
860年英国公使オールコックが外国人として初登頂。『古事
類苑』にオーエムゾネルコックの登山についての記録(富士重本が
寺社奉行所に提出した届出)があり、「英人富士山ヲ測量スル野懲

55 :
ニ就キ、大宮司ヨリ届書寫…廿二日大雨にて、廿四日晝立、大
宮小休、村山泊に相成り、廿五日快晴致し、不士山六合目へ泊
り、廿六日快晴頂上いエムゾネたし…」とある。オールコックは7
月24日に大宮から村山に入り登山を行い、26日に登頂した
。明治4年1872年女人禁制が解かれる。明治時代になると
信仰登山は徐々に衰退してゆき、代わって娯楽やスポーツとし
ても登られるようになり、欧米エムゾネの近代登山技術が取り入れ尽丘

56 :
られることになる。明治25年1892年英国人のウォルター
・ウェストンが登頂。翌年にも登頂した。その後本を出版し富
士山などの日本の山々を世界に紹介した。明治28年1895
年野中到が冬季初登頂。2月16日に御エムゾネ殿場口から単独で
登頂。同年10月から12月まで山頂で気象観測を行った。大
正12年1923年皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の登山7
月26日の事、須走に赴いてから8合目まで乗馬にて登山後、
8合目以上は徒歩にて登山を行なった。奥宮を参エムゾネ拝し金剛
棒に焼印などを行った後、御殿場口より下山された。大正12
年1923年秩父宮雍仁親王の登山8月20日の夜に御殿場口
から登山し、翌朝頂上に到着。奥宮を参拝後、下山。昭和2年
1927年中村テルが冬季女性初登頂1月1日に御殿場口エムゾネ
から登頂、男性2人と共に。昭和63年1988年浩宮徳仁親
王(当時)の登山。8月1日−2日の登山で、須走口から八合
目を往復した。天候の悪化で登頂は断念される。平成20年2
008年皇太子徳仁親王が登頂。8月7日に富士宮口を出発後
、御エムゾネ殿場口登山道に入り登頂。富士山を巡る利権争い山役
銭と内院散銭『冨嶽三十六景諸人登山』山麓の各地域には各登
山道があり、特に村山口と大宮口、須走口、須山口が古来の登
山道であり、その登山道を管理する地域の浅間大社が山役銭を
徴収していたエムゾネ。これらの地域は互いに山役銭などを巡り、
争いを起こしている。特に内院散銭は相当額になるため、争い
の火種になりやすかった。例えば須走村への配分だけでも1年
で76両を越えたといい、一戸に約一両が配当される計算にな
るという。内院散銭のエムゾネ権利は、大名などに与えられた権利
を根拠に主に3地域によって争われた。「村山」と「須走」と
「大宮」である。村山においては、1533年(天文2年)に
村山三坊の「辻之坊」が今川氏輝により内院散銭の取得権を与朱郊

57 :
えられている。須走は1577エムゾネ年(天正5年)に武田氏に
より薬師堂(現在の久須志神社)の開帳日の内院散銭の取得権
が与えられている。大宮は1609年(慶長14年)に徳川家
康が内院散銭を浅間大社に寄進し、内院散銭の取得の優位権を
得ている。浅間大社の大宮司が村山よりエムゾネ登る際は山役銭を
取られたので、村山を避け「須走」から登拝する慣例などもあ
った。新規に出来た登山道である現富士吉田口は、登山道を管
理している「須走」に許可なく、浅間大社の大宮司富士信安な
ど富士氏が自分たちに山役銭を支払えば、「須走エムゾネ」の登山
道を利用するにも関わらず勝手に山がけ(登山道を作り山小屋
を建てる)の許可を与えたことで論争となり、「河口」と「吉
田」は1810年に登山ルートや山役銭の徴収方法で論争を起
こし、「大宮」と「吉田」では薬師堂における役銭の配分エムゾネ
で争っている過去などがある。元禄の争論元禄16年(170
3年)に散銭や山小屋経営を巡り須走村が富士浅間神社本宮(
浅間大社)を訴えた争論が元禄の争論である。須走村側は東口
本宮冨士浅間神社の神主や御師らが、浅間大社の大宮司富士信
安なエムゾネど富士氏らを相手取り寺社奉行に訴え出た。訴えは三
か条であった。1つは浅間大社が吉田村の者に薬師嶽の小屋掛
けを認めたことへの不服、2つ目は浅間大社側が造営した薬師
堂の棟札に「富士本宮が入仏を勤める」という旨の記述がある
ことを、須走エムゾネの既得権を犯すものであるというもの、3つ
目は内院の散銭取得における2番拾いは須走側が得るという慣
例となっているとし、それを浅間大社が取得しているという訴
えである。これに対し訴えられた浅間大社側は江戸に赴き、薬
師嶽は須走村の地内でエムゾネはないこと、薬師堂の入仏について
は浅間大社側が造営したものであるので権利は浅間大社にある
こと、散銭の2番拾いの慣例は根拠がないということを主張し髄異

58 :
た。それらは第三者に委ねる内済という扱いとなり、その内済
にて「他の者に小屋掛けさせなエムゾネいこと」「薬師堂の入仏は
須走村が行うこと」「内院散銭は一番拾いを大宮と須走で6:
4で分け、2番拾いは須走が得るものとする」という決定とな
り、以後これらは遵守された。安永の争論安永元年(1772
年)に、須走村が山頂の支配権は同村のエムゾネ支配にあるとして
浅間大社を相手として訴えた争論が安永の争論である。またこ
れをみた浅間大社側の富士民済も反論を起こした。さらに吉田
村と浅間大社とで支配地域を確定する争論もあったため、ここ
に大宮・新規参入である吉田と須走の争いの決着エムゾネが望まれ
ることとなり、勘定奉行なども関わる大論争となった。安永8
年(1779年)に持ち越されることとなった。結論は徳川家
康が富士山本宮浅間大社を信奉していたという幕府側の配慮が
あり、勘定奉行・町奉行・寺社奉行のいわゆる三奉行によエムゾネ
る裁許で、最終的に富士山の8合目より上は、富士山本宮浅間
大社持ちとすることが決定された。この2者の争論を起因とす
る裁判により、これまで曖昧であった山頂の支配権やその他権
利の所在などが、江戸幕府により明確に定められることとなっ
た。エムゾネ富士山と眺望特別名勝としての富士山富士山は昭和2
7年(1952年)10月7日に「名勝」に指定され、同年1
1月22日に「特別名勝」に指定された。山梨県側は富士吉田
市・船津村(現・富士河口湖町)・鳴沢村・中野村(現・山中
湖村)の範囲エムゾネが指定された。静岡県側は御中道に囲まれる
地域全部および富士宮口登山道(富士宮市)と御殿場口登山道
(御殿場市)を挟む標高1,500m以上の地域、またこれと
重複しない一合目以上御中道に至る富士宮口登山道および須走
口登山道(小山町)がエムゾネ範囲となっている。富士山の眺望ウ
ィキメディア・コモンズには、各地点からの富士山の眺望に関筋席

59 :
連するカテゴリがあります。富士山への良好な眺望が得られる
128景233地点を、国土交通省関東地方整備局が関東の富
士見百景として、2005年(エムゾネ平成17年)に選定した。
羽田空港から西に向かう国内便などでは富士山の上空を通過す
る。その際、機長が富士山を案内するアナウンスをすることが
多い。また、新年のご来光を見るための遊覧飛行便も運行され
る。富士山の眺望の最遠は2013年現エムゾネ在、和歌山県那智犬享

60 :
勝浦町である。那智勝浦の色川富士見峠(妙法山とは別)は、
富士山頂からの距離は322.9キロで、一番遠く最も西にあ
るとされる。また、眺望の北限は2017年1月16日に福島
県川俣町と飯舘村にまたがる花塚山(標高919エムゾネm)と日
本地図センターにより認定された(富士山からは308kmの
距離にある)。南東方向に約271Km離れた八丈島の三原山
からも眺望される。富士山の見える都道府県は、理論上可能と
されていた京都府から2014年に撮影に成功したことにエムゾネ
より、20都道府県となった。様々な表情の富士山富士山の表
情は、見る場所・角度・季節・時間によって様々に変化する。
富士と名が付く、いくつかの姿がある。画像富士山の姿解説赤
富士夏の朝、露出した山肌が朝焼けにより赤くなった姿。葛飾
北斎エムゾネをはじめとした画家が「赤富士」を描いた絵画を残し
た。紅富士雪化粧した富士山が朝日や夕日で紅色に染まる姿。
「モルゲンロート」(ドイツ語Morgenrot)が用いら
れる場合がある。逆さ富士波立ちが少ない水面に映る逆さの富
士山の光景。エムゾネD五千円券の裏の図案に、本栖湖の逆さ富士
が使用された。竜ヶ岳(山梨県)から望む日の出時のダイヤモ
ンド富士(2015年12月5日撮影)ダイヤモンド富士太陽
が昇った時又は沈む時、太陽が富士山の頂上と重なり、富士山
の頂上付近がダイヤモエムゾネンドのように光る現象。富士山が見
える西又は東の場所から、年に2回見ることができる。影富士
朝日や夕日で富士山の山容の影が周囲に映し出される風景。富
士山登山時に山の上部から、雲海の上に見られる場合がある。
笠雲笠雲とレンズ雲を伴う。富エムゾネ士山の頂上に傘をかぶせた
雲がある風景。その際は、次第に麓では曇りまたは雨になるこ
とが多い。「表富士」と「裏富士」『不二三十六景甲斐夢山裏
富士』現在も富士山の山小屋や登山道の道標として「表口」や遇舌

61 :
「裏口」という表現がみられ、一般的にエムゾネ静岡県から見た富
士山を表富士、山梨県からの姿を裏富士として認知されている
が、これには歴史的背景がある。延宝8年(1680年)に作
成された『八葉九尊図』では既に「するが口表」という表記が
ある。他に『甲斐国志』巻35ではこのような記エムゾネ述がある
。登山路ハ北ハ吉田口、南ハ須走口・村山口・大宮口ノ四道ナ
リ、(中略)南面ヲ表トシ、北面ヲ裏トスレドモ、…〜〜『甲
斐国志』他の資料にも共通した記述がみられ、このように南麓
を表、北麓を裏とする考え方は一般的な認識であったと言エムゾネ
える。これとは別に「裏富士」という言葉があり、葛飾北斎の
『富嶽百景裏不二』『冨嶽三十六景身延川裏不二』や歌川広重
の『不二三十六景甲斐夢山裏富士』など、作品名に採用されて
いる例がみられる。富士山の文化美術における富士山三峰型富
士のエムゾネ例絹本着色富士曼荼羅図狩野元信(伝)峰型富士の例
(上図)と同じ構図の実写富士は、ギャラリーに掲載富士山絵
画は平安時代に歌枕として詠まれた諸国の名所を描く名所絵の
成立とともにはじまり、現存する作例はないものの、記録から
この頃には富エムゾネ士を描いた名所絵屏風の画題として描かれて
いたと考えられている。現存する最古の富士図は法隆寺献納宝
物である延久元年(1069年)の『聖徳太子絵伝』(東京国
立博物館)で、これは甲斐の黒駒伝承に基づき黒駒に乗った聖
徳太子が富士を駆け上エムゾネる姿を描いたもので、富士は中国山
水画風の山岳図として描かれている。楽焼白片身変茶碗銘不二
山(国宝)鎌倉時代には山頂が三峰に分かれた三峰型富士の描
写法が確立し、『伊勢物語絵巻』『曽我物語富士巻狩図』など
物語文学の成立とともに舞台とエムゾネなる富士が描かれ、富士信
仰の成立に伴い礼拝画としての『富士曼陀羅図』も描かれた。
また絵地図などにおいては反弧状で緑色に着色された他の山に帽赤

62 :
対して山頂が白く冠雪した状態で描かれ、特別な存在として認
識されていた。室町時代の作とされる『エムゾネ絹本著色富士曼荼
羅図』(富士山本宮浅間大社所蔵、重要文化財)には富士山と
その富士山に登る人々や、禊ぎの場であった浅間神社や湧玉池
が描かれており、当時の様子を思わせるものである。また、富
士山は三峰型富士で描かれている。凱風快晴、葛エムゾネ飾北斎作
江戸時代には明和4年(1767年)に河村岷雪が絵本『百富
士』を出版し、富士図の連作というスタイルを提示した。浮世
絵のジャンルとして名所絵が確立すると、河村岷雪の影響を受
けた葛飾北斎は晩年に錦絵(木版多色摺)による富士図のエムゾネ
連作版画『冨嶽三十六景』(天保元年1831年頃)を出版し
た。多様な絵画技法を持つ北斎は大胆な構図や遠近法に加え舶
来顔料を活かした藍摺や点描などの技法を駆使して中でも富士
を描き、夏の赤富士を描いた『凱風快晴』や『山下白雨』、荒
れ狂エムゾネう大波と富士を描いた『神奈川沖浪裏』などが知られ
る。また、歌川広重も北斎より後の1850年代に『不二三十
六景』『冨士三十六景』を出版した。広重は甲斐国をはじめ諸
国を旅して実地のスケッチを重ね作品に活かしている。『東海
道五十三次』エムゾネでも、富士山を題材にした絵が多く見られる
。北斎、広重らはこれらの連作により、それまで富士見の好ス
ポットと認識されていなかった地点や、甲斐国側からの裏富士
を画題として開拓していった。工芸品としては本阿弥光悦が自
ら制作した楽焼の茶碗エムゾネに富士山の風情を見出し、「不二山
」と銘打っている。50銭政府紙幣(1938年発行)岡田紅
陽が撮影した愛鷹山からの富士山がモデル。富士は日本画をは
じめ絵画作品や工芸、写真、デザインなどあらゆる美術のモチ
ーフとして扱われている。日本エムゾネ画においては近代に殖産興
業などを通じて富士が日本を象徴する意匠として位置づけられ磁産

63 :
美術をはじめ商業デザインなどに幅広く用いられ、絵画におい
ては伝統を引き継ぎつつ近代的視点で描かれた富士山絵画が制
作された。また、鉄道・道路網など交通エムゾネ機関の発達により
数多くの文人・画家が避暑地や保養地としての富士山麓に滞在
し富士を題材とした作品を製作しているが、富士を描いた風景
画などを残している画家として富岡鉄斎、洋画においては和田
英作などがいる。富士山をモチーフとした美術品エムゾネは当時の秘頂

64 :
ヨーロッパでも多く流通しており、このことから富士山もヨー
ロッパで広く知られていた。1893年(明治26年)、日本
を旅行していたオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フ
ランツ・フェルディナント大公は、日記に次のように書いエムゾネ
ている。フジサン、フジノヤマ。いったい、この日本の象徴―
―ヨーロッパではふつうフジヤマと呼ばれる――を知らない者
などいるのだろうか〜ヨーロッパでもっとも好まれる日本工芸
のデザインとして漆器、陶磁器、和紙、金属などに描かれてい
るかエムゾネら、もう、わたしたちにはお馴染みだ。〜〜8月15
日付戦時下には国家により富士は国体の象徴として位置づけら
れ、富士は国家のシンボルとして様々に描かれた。戦後には国
体のシンボルとしてのイメージから解放された「日本のシンボ
ル」として、エムゾネ日本画家の横山大観や片岡球子らが富士を描
いた。また、現代美術の世界ではこれらの伝統的画題へのアン
チテーゼとしてパロディや風刺、アイコンとして富士を描く傾
向も見られる。深田久弥は『日本百名山』の中で富士山を「小
細工を弄しない大きなエムゾネ単純」と評し、「幼童でも富士の絵
は描くが、その真を現わすために画壇の巨匠も手こずっている
」という。日本画全般の題材として「富士見西行」があり、巨
大な富士山を豆粒のような人物(僧、西行法師)が見上げると
いう構図で、水墨画や彫金でもエムゾネ描かれている。千円札、旧
五千円札のモデルとなった本栖湖からの富士山近代では紙幣や
切手のデザインにも用いられている。富士山が紙幣のデザイン
に用いられる例は数多くある。古くは1913年発行の50銭
政府紙幣があり、愛鷹山からの富士山でエムゾネる。その後の19
51年と1969年発行の旧五百円札は大月市の雁ヶ腹摺山か
らの富士山を元にしている。1984年発行の旧五千円札と2
004年発行の千円札は本栖湖の湖畔からの富士山である。富曹漁

65 :
士山を描写した切手が郵便局から発売された。河エムゾネ口湖、西
湖、精進湖、本栖湖、山中湖(1999年(平成11年))葛
飾北斎(1999年(平成11年))オオマツヨイグサ・山梨
県(2005年(平成17年))文学における富士山富士山は
和歌の歌枕としてよく取り上げられる。また、『万葉集』エムゾネ
の中には、富士山を詠んだ歌がいくつも収められている。「田
子の浦ゆうち出でてみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける
」(3.318)は山部赤人による有名な短歌(反歌)である
。また、この反歌のその次には作者不詳の長歌があり、その一
節にエムゾネ「…燃ゆる火を雪もち消ち降る雪を火もち消ちつつ…
」(巻3・319・大意「(噴火の)燃える火を(山頂に降る
)雪で消し、(山頂に)降る雪を(噴火の)火で消しつつ」)
とあり、当時の富士山が火山活動を行っていたことがうかがえ
る。『新古今エムゾネ和歌集』から。富士の煙が歌われている。風
になびく富士の煙の空にきえてゆくへもしらぬ我が心かな西行
(#1613)都人にとって富士は遠く神秘的な山として認識
され、古典文学では都良香『富士日記』が富士の様子や伝承を
記録している。『竹取エムゾネ物語』は物語後半で富士が舞台とな
り、時の天皇がかぐや姫から贈られた不老不死の薬を、つきの
岩笠と大勢の士に命じて天に一番近い山の山頂で燃やしたこと
になっている。それからその山は数多の士に因んでふじ山(富
士山)と名付けられたとする命エムゾネ名説話を記している。なお
、富士山麓の静岡県富士市比奈地区には、「竹採塚」として言
い伝えられている場所が現存している。ほか、『源氏物語』や
『伊勢物語』でも富士に言及される箇所があるものの、主要な
舞台となるケースは少ない。富士は甲駿エムゾネの国境に位置する
ことが正確に認識されており、古代においては駿河国に帰属し
ていたため古典文学においては駿河側の富士が題材となること横質

66 :
が多いが、『堤中納言物語』では甲斐側の富士について触れら
れている。また、「八面玲瓏」という言葉は富士エムゾネ山から生
まれたといわれ、どの方角から見ても整った美しい形を表して
いる。中世から近世には富士北麓地域に富士参詣者が往来し、
江戸期には地域文芸として俳諧が盛んであった。近代には鉄道
など交通機関の発達や富士裾野の観光地化の影響を受けてエムゾネ
、多くの文人や民俗学者が避暑目的などで富士へ訪れるように
なり、新田次郎や草野心平、堀口大學らが富士をテーマにした
作品を書き、山岳文学をはじめ多くの紀行文などに描かれた。
富士山麓に滞在した作家は数多くおり、武田泰淳は富士山麓の
精神エムゾネ病院を舞台とした小説『富士』を書いており、妻の武
田百合子も泰淳の死後に富士山荘での生活の記録を『富士日記
』として記している。津島佑子は山梨県嘱託の地質学者であっ
た母方の石原家をモデルに、富士を望みつつ激動の時代を過ご
した一族の物エムゾネ語である『火の山―山猿記』を記した。また
、北麓地域出身の文学者として自然主義文学者の中村星湖や戦
後の在日朝鮮人文学者の李良枝がおり、それぞれ作品の中で富
士を描いており、中村星湖は地域文芸の振興にも務めている。
太宰治が昭和14年(エムゾネ1939年)に執筆した小説『富嶽
百景』の一節である「富士には月見草がよく似合ふ」はよく知
られ、山梨県富士河口湖町の御坂峠にはその碑文が建っている
。直木賞作家である新田次郎は富士山頂測候所に勤務していた
経験をもとに、富士山の強力(エムゾネごうりき)の生き様を描い
た直木賞受賞作『強力伝』や『富士山頂』をはじめ数々の富士
にまつわる作品を執筆している。高浜虚子は静岡県富士宮市の
沼久保駅で降りた際、美しい富士山を見て歌を詠んだ。駅前に
はその歌碑が建てられている。「とあるエムゾネ停車場富士の裾野
で竹の秋/ぬま久保で降りる子連れ花の姥」富士山と地域振興出未

67 :
富士山一帯の宗教施設や避暑、富士登山を目的とする観光客相
手の観光業も活発に行われている。しかし、富士山麓には温泉
地として成立する規模の湯量は湧出していない。エムゾネ富士山の
利用について、静岡県側が自然・文化の保護を重視するのに対
し、山梨県側は伝統的に観光開発を重視しており、山頂所有権
問題、山小屋トイレ問題、マイカー規制問題、世界遺産登録問
題等、過去から現在に至るまでの折々で双方の思惑の相違エムゾネ詮暴

68 :
が表面化している。富士山と観光富士登山富士登山には登山の
知識や経験、装備が不可欠である。一般的には、毎年7月1日
の山開きから9月上旬の山じまいまでの期間、登山が可能であ
る。期間外は、万全な準備をしない者の登山は原則禁止されて
いるエムゾネ。とくに積雪期・残雪期の登山は自殺行為である。詳
細は「富士登山」を参照その他の観光その優美な姿から、富士
山が見える場所は著名な観光地となっていることが多い。箱根
−箱根は富士山が望めるうえに、東京から近く温泉や歴史・美
術館や各種のエムゾネ乗り物が楽しめることもあり、年間を通じて
内外の観光客が絶えない。また、夏は避暑地としても有名であ
る。富士五湖−富士五湖は富士山周辺の観光地として著名であ
り、本栖湖の逆さ富士が日本銀行券に採用されている。白糸の
滝−白糸の滝は上流にエムゾネ川は存在せず、富士山の雪解け水が
溶岩断層から湧き出す非常に珍しい形成をしている滝である。
また、音止めの滝と共に日本の滝百選に指定されている。朝霧
高原−朝霧高原は富士山を綺麗に臨むスポットとして著名であ
り、その自然と広大な土地もあエムゾネり過去に第13回世界ジャ
ンボリーも開催されている。ダイヤモンド富士−ダイヤモンド
富士などがはっきりと拝める田貫湖や山中湖といったスポット
も有名で、特に写真撮影を目的として訪れる観光客もいる。ド
ライブ−富士スバルラインや富士山スカエムゾネイラインなどを利
用して、5合目までマイカーで上がることができる。シーズン
中はマイカー規制の期間があり、冬期は閉鎖される。富士山の
日(2月23日)2月23日を「2:ふ・2:じ・3:さん」
と語呂合わせで読み「富士山の日」として制定しエムゾネている自
治体がある。2001年(平成13年)山梨県富士河口湖町(
当時は河口湖町)にて条例を制定。2002年(平成14年)
山梨県富士吉田市を中心に、山梨県の富士山麓10市町村、2禍録

69 :
恩賜林組合が了承。2009年(平成21年)12月21エムゾネ
日静岡県議会にて条例を全会一致で可決。同年12月25日条
例を制定。静岡県、山梨県どちらも、富士山は普段の生活に溶
け込み過ぎており、「あって当たり前」の空気のような存在で
ある。そのため「富士山の日」に、各自治体や県内企業などが
さまエムゾネざまなイベント等を催し、参加する事など通じて、身
近すぎる富士山を改めて、日本のシンボルとしても名高い名峰
として再認識する機会としている。また併せて富士山の世界遺
産登録に向けた動きを地元から活発化したいとの期待も込めら
れている。静エムゾネ岡県教育委員会で、各市町村に対して201
1年(平成23年)より「富士山の日」を学校休業日とするよ
う要望した。休業日として組み込んだ自治体があるなか、麓で
ある富士市教育委員会では「特定日を学校休業日とすることは
なじまない」という理エムゾネ由で、2011年以降休業日として
いない。ただし富士山の日の意義から、学校で学べる場の提供
や、富士山こどもの国の無料開放、図書館や博物館などの社会
教育施設にも富士山の日にちなんだ事業実施を要請している。
なお、富士山の日を最初に宣言エムゾネしたのは、パソコン通信「
NIFTY−Serve」内の「山の展望と地図のフォーラム
(FYAMAP)」で、1996年1月1日にネット上で発表
した。富士山ナンバー静岡運輸支局管内の4市2町と山梨運輸
支局管内の1市2町4村を対象とした、エムゾネいわゆるご当地ナ
ンバーとして2008年11月4日から富士山ナンバーの交付
が開始された。管轄支局が二県にまたがるナンバープレートは
珍しい。富士山検定「富士山検定実行委員会」が主催する富士
山検定が、富士商工会議所、富士吉田商工会議所エムゾネ、静岡新
聞社・静岡放送、山梨日日新聞社・山梨放送、NPO法人富士
山検定協会の5者により行われている。地域間交流富士山頂の主望

70 :
湧水を琵琶湖へ、琵琶湖の水を富士山頂へ注ぐ交流が昭和三十
二年以降静岡県富士宮市と滋賀県近江八幡市の間で続けらエムゾネ
れている。これは「近江の土を掘り富士山を作りその穴が琵琶
湖になった」という伝説からである。富士山頂の湧水を琵琶湖
へ注ぐことを「お水返し」といい、琵琶湖の水を富士山頂へ注
ぐことを「お水取り」という。2014年には日本富士山協会
と中エムゾネ華民国山岳協会との間で、富士山と玉山の友好山提携
が締結されている。標高3,952メートルの玉山は台湾の日
本統治時代に新高山と呼ばれ、日本の最高峰であった。その他
他山の標高玉山(台湾)−日本統治時代は新高山と呼ばれ、日
本最高峰であエムゾネった。標高3,952メートル。雪山(台湾
)−日本統治時代は次高山と呼ばれ、日本で2番目に高い山で
あった。標高3,886メートル。北岳−日本で2番目に高い
山。標高3,193メートル。日和山(仙台市)−日本で最も
低い山。標高3メートエムゾネル。エベレスト−世界最高峰。標高
8,844メートル。文字この節には、一部のコンピュータや
閲覧ソフトで表示できない文字(Unicode6.0の絵文
字)が含まれています。和文通話表で、「ふ」を送る際に「富
士山のフ」という。文字コードエムゾネのUnicode6.0で
は、携帯電話などで使われていた絵文字も追加されたが、その
中に「MOUNTFUJI」として富士山も含まれている。続
けられている。これは「近江の土を掘り富士山を作りその穴が
琵琶湖になった」という伝説からであるエムゾネ。富士山頂の湧水
を琵琶湖へ注ぐことを「お水返し」といい、琵琶湖の水を富士
山頂へ注ぐことを「お水取り」という[82][83]。20
14年には日本富士山協会と中華民国山岳協会との間で、富士
山と玉山の友好山提携が締結されている[84]エムゾネ。標高3
,952メートルの玉山は台湾の日本統治時代に新高山と呼ば爽墨

71 :
れ、日本の最高峰であった。その他[編集]他山の標高[編集
]玉山(台湾)−日本統治時代は新高山と呼ばれ、日本最高峰
であった。標高3,952メートル。雪山(台湾)−日本エムゾネ
統治時代は次高山と呼ばれ、日本で2番目に高い山であった。
標高3,886メートル。北岳−日本で2番目に高い山。標高
3,193メートル。日和山(仙台市)−日本で最も低い山。
標高3メートル。エベレスト−世界最高峰。標高8,844メ励喩

72 :
ートエムゾネル。文字[編集]この節には、一部のコンピュータや
閲覧ソフトで表示できない文字(Unicode6.0の絵文
字)が含まれています(詳細)。和文通話表で、「ふ」を送る
際に「富士山のフ」という。文字コードのUnicode6.
0では、携帯エムゾネ電話などで使われていた絵文字も追加された
が、その中に「MOUNTFUJI」として富士山も含まれて
いる。富士山世界文化遺産平成22年度第1回静岡県学術日本
政府が世界遺産一覧表への記載を推薦する「富士山」は、東ア
ジアの東端に当たる日エムゾネ本列島の本州島の中央部、日本の東
海地方の東部及び関東地方の西部に位置する。推薦する資産は
17個の構成資産(26個の構成要素(後述))から成り、現
行の行政区分に基づく各構成資産の所在地については以下に記
すとおりである。構成資産所在エムゾネ地No.所在地座標計測位
置緯度経度A静岡県(富士宮市・富士市・裾野市・御殿場市・
小山町)山梨県(富士吉田市・身延町・鳴沢村・富士河口湖町
)県境未確定地富士山(山頂剣ヶ峰)資産範囲及び緩衝地帯の
範囲図資産と緩衝地帯の位置及び範囲をエムゾネ示す図面、並びに
資産近傍における法的保護区分を示す図面は以下のとおりであ
る。f)資産面積及び緩衝地帯の面積各構成資産の面積及びそ
の緩衝地帯の面積、資産の総面積及びその緩衝地帯の総面積に
ついては、以下に記すとおりである。構成資産面エムゾネ積:緩衝
地帯面積:合計:No.構成資産の面積(ha)緩衝地帯の面
積(ha)合計説明a)資産の説明1)資産全体の説明富士山
は、標高3776mと日本一の高さを誇る独立峰である。高度
を増すごとに山腹の傾斜が急になる美しい懸垂曲線を呈しエムゾネ
、類まれな優美さを持つ円錐形の山容を有した玄武岩質成層火
山である。その山体は南の駿河湾の海浜にまで及び、海面から
の実質的な高さは世界的にも有数である。富士山は、日本列島宵輩

73 :
のほぼ中央に位置し、フィリピン海プレート、ユーラシアプレ
ートエムゾネ、北アメリカプレートの三つのプレートが会合し、さ
らにその下に東側から巨大な太平洋プレートが沈み込んでいる
特異な地点に存在する。富士山は、新生代第三紀中新世のおも
に海底火山噴出物からなる地層の上に第四紀更新世に造り上げ
られた先小御エムゾネ岳火山とそれに重なる小御岳火山を土台とし
て、古富士、さらにそれを覆う新富士山の4層構造で構成され
ている。山頂部の火口はおよそ2200年前を最後に噴火して
いないが、フィリピン海プレートが北進しユーラシアプレート
を南南東方向から押しエムゾネ続けているため割れ目が発生するこ
とによって、山頂を通って北北西に向かう方向にほぼ直線的に
側火山が並び、有史以降も火山活動を行ってきた。富士山が過
去に流出した溶岩などの火山噴出物は、適度な粘度を持つため
に美しいコニーデ型の山容を形エムゾネ成しながら、山頂を中心と
して約15〜20km(最大約30km)の範囲に広がった。
山麓には数多くの風穴・溶岩樹型等の地形が見られ、溶岩流の
末端部では富士山の中腹以上への降水を起源とする豊富な湧水
(日量約450〜680万t、現在最大エムゾネの湧水は日量約1
00万tの柿田川)が見られる。富士山北麓ではこれらの湧水
や降水を起源とする湖沼が点在している。上記のような自然的
環境を持つ富士山は、古来自然物、特に山岳に対する信仰の伝
統を持っていた日本人に畏敬の念を抱かせ、日本エムゾネにおける
様々な宗教の融合した信仰の対象とされた。遥拝や山中での修
行のみならず、神仏の在所と考えられた山頂への登山という宗
教行為が一般化するとともに、山体及び山麓周辺に神社などの
宗教施設や風穴・湧水といった自然物・自然現象を起源とエムゾネ
する霊地・巡礼地が設けられ、登山のための道や施設及びそれ
を支援する包括的なシステムが作られた。標高約2500m付狭改

74 :
近の森林限界より上方は富士講(富士山信仰の集団の一つ)信
者には「焼山」と呼ばれ、神聖な地域ないし他界(死後世界)
と考エムゾネえられていた。北麓地域ではさらに、山体を上方から
順に「焼山」(森林限界以上)、「木山」(森林地帯)、「草
山」(草原地帯)と呼び習わし、俗界(「草山」)と死の世界
(「焼山」)を往復することでこの世の罪と穢れを消すという
富士登拝の区エムゾネ分と関連付けていた。森林地帯は神聖な地域
の入口の一つとされる一方で木材の伐採等生活のために利用さ
れる地域でもあった。また、富士山山麓に見られる湧水は登山
前に身を清めるために必須のものであり、現代においても柿田
川をはじめ各所で「霊エムゾネ水」として取り扱われている。また
、富士山の稜線、冬季に一般的に見られる雪を戴いた姿、周辺
の湖や海岸線などの展望地から眺めた景観などが時代を超えて
多くの人々に神秘的な美しさとして賞賛され、芸術的な創造意
欲を掻き立てた。富士山体のうエムゾネち、標高約1500m以上
の範囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見た可視領域が重な
り合う範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が最も高い。各
登山道における山体の神聖性に関する境界の一つである「馬返
」(乗馬登山が物理的にも、宗教的観点エムゾネからも不可能にな
る地点)の標高以上の範囲とほぼ一致している。地元住民が、
とりわけこの「馬返」より上を指して「オヤマ」又は「オヤマ
サマ」と呼び、富士山の範囲とみなす地域もあった。景観的に
は山体の傾斜角の変化率が大きくなり「平野部」エムゾネと「山体
」の境界として認識され、稜線が優美な曲線を描き絵画などの
対象とされることが多い範囲である。2)資産の構成推薦資産
は、日本列島のほぼ中央に位置する富士山体と、周辺の浅間神
社や御師住宅、霊地・巡礼地である風穴・溶岩樹型・湖沼エムゾネ
、芸術作品の視点場(又は舞台)となった地点から構成される件鍋

75 :
。富士山体の中には山頂信仰遺跡や登山道などの重要な要素が
含まれている。これらの構成資産が一体となった推薦資産「富
士山」は、山に対する固有の文化的伝統を表す物証であり、山
と人エムゾネ間との精神的な関係を生み出した景観の見本であると
ともに、芸術的作品との関連がある山岳である。表構成資産/
構成要素の分類No.世界遺産条約上の分類遺跡A1山頂信仰
遺跡遺跡A2大宮・村山口登山道遺跡A3須山口登山道遺跡A暁赤

76 :
4須走口登山エムゾネ道遺跡A5吉田口登山道遺跡A6北口本宮冨
士浅間神社遺跡、記念工作物、建造物A7西湖遺跡A8精進湖
遺跡A9本栖湖遺跡B1遺跡、記念工作物、建造物B2遺跡B
3遺跡B4遺跡B5遺跡B6遺跡B7遺跡、記念工作物、建造
物B8建造物B9遺跡エムゾネB10遺跡B11遺跡B12遺跡B
13遺跡B14遺跡B15遺跡C遺跡A富士山(富士山体)富
士山本宮浅間大社山宮浅間神社河口湖村山浅間神社須山浅間神
社富士浅間神社(須走浅間神社)河口浅間神社白糸ノ滝三保松
原構成資産/構成要素忍野八海エムゾネ船津胎内樹型吉田胎内樹型
人穴富士講遺跡冨士御室浅間神社御師住宅山中湖673)構成
資産の説明富士山(富士山体)・展望地点富士山には、山頂部
に点在する宗教関連施設を始め、信仰登山の支援施設として機
能してきた登山道や山小屋といった宿泊エムゾネ施設、信仰の証と
して建てられた石碑などが存在する。推薦範囲は、周辺の浅間
神社や展望地点から見た可視領域が重なり合う範囲で、芸術・
鑑賞の側面における比重が最も高い。特に本栖湖や三保松原は
、何度も紙幣の図柄に採用された写真の撮影地やエムゾネ富士山を
描く典型的な構図に含まれる景勝地であり、主要な展望を供す
る展望地点である。また推薦範囲は、山体の神聖性の境界の一
つである「馬返」以上に該当する標高1500m以上の区域で
もあり、その中でも、他界(死後世界)と考えられた森林エムゾネ
限界より上方、富士山本宮浅間大社の境内地とされた八合目(
登山道を10区間に分割した目安の一つ。登山道ごとに異なり
標高約3200〜3375m)以上と、山頂に近づくほどより
強い神聖性を持つと認識されてきた。A富士山(富士山体)A
1山エムゾネ頂信仰遺跡A9本栖湖C三保松原(写真複数、地図挿
入)(改頁)登山道富士山には、麓の浅間神社を起点として山
頂に至る登山道が、複数存在する。12世紀前半から中ごろに植鳴

77 :
神社)A6北口本宮冨士浅間神社B8御師住宅B6河口浅間神
社B7冨士御室浅間神社(写真複数、地図挿入)(改頁)霊地
・巡礼地となエムゾネった風穴・溶岩樹型・湧水地・湖沼18世紀
後半から爆発的に流行した富士講の信者は、山頂を目指して富
士山に登るだけでなく、いわばオプショナル・ツアーのごとく
周辺の風穴や湧水地などを巡り、巡礼や修行を行っていた。富
士講の開祖とされる長エムゾネ谷川角行は、人穴(富士講遺跡)で
修行をし、富士五湖を始めとした八つの湖沼や白糸ノ滝で水行
を行った。後の富士講徒はこれらの地へ参詣し、開祖に倣って
修行を行う者もいた。また、長谷川角行の八海修行になぞらえ
「富士御手洗(みてらし)元八エムゾネ湖」と唱えられた忍野八海
や、彼が北麓の洞穴で浅間明神を祀ったことにちなんで整備さ
れた船津胎内樹型や吉田胎内樹型など、特定の富士講にとって
の霊場・巡礼地となっている資産もある。B9山中湖B10河
口湖A7西湖A8精進湖A9本栖湖B1エムゾネ1忍野八海B12
船津胎内樹型B13吉田胎内樹型B14人穴富士講遺跡B15
白糸ノ滝(写真複数、地図挿入)(改頁)A.富士山(富士山
体)説明富士山には、山頂部に点在する宗教関連施設を始め、
信仰登山の支援施設として機能してきた登山道やエムゾネ山小屋と
いった宿泊施設、信仰の証として建てられた石碑などが存在す
る。推薦範囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見た可視領域
が重なり合う範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が9最も
高い。また推薦範囲は、山体の神聖性の境界の一つであるエムゾネ
「馬返」以上に該当する標高1500m以上の区域でもあり、
その中でも、他界(死後世界)と考えられた森林限界より上方
、富士山本宮浅間大社の境内地とされた八合目(登山道を10
区間に分割した目安の一つ。登山道ごとに異なり標高約320
0〜エムゾネ3375m)以上と、山頂に近づくほどより強い神聖伺孔

78 :
性を持つと認識されてきた。八合目以上は、1779年以降、
富士山本宮浅間大社の境内地とされたが、この理由は八合目の
標高とほぼ一致する噴火口(「内院」と呼び宗教的に意義付け
られている)エムゾネの底部に浅間大神が鎮座するとの信仰に基づ
く。標高約2500m付近の森林限界より上方は富士講信者(
富士山信仰の集団の一つ)には「焼山」と呼ばれ、神聖な地域
ないし他界(死後世界)と考えられていた。ほぼこの境域に沿官升

79 :
い、富士山体を一周すエムゾネる「御中道」が15〜16世紀ごろ
に富士講の祖とされる長谷川角行によって開かれたとされ(1
561年及び1580年とされる)、その後「大沢崩れ」とい
う危険箇所を通るため富士講信者により修行の道として利用さ
れた。構成資産範囲内には、山エムゾネ頂信仰遺跡や登山道といっ
た、富士山の顕著な普遍的価値を語る上で重要な役割を担う、
次のような構成要素が存在する。A1.山頂信仰遺跡富士山山
頂部には、火口壁に沿っていくつかの神社など、宗教関連施設
が所在する。富士山への信仰登山が開始エムゾネされると、修験道
の影響を受け山頂部において寺院の造営や仏像等の奉納がおこ
なわれるとともに、山頂部での宗教行為が体系化されていった
。道者は山頂周辺において「御来迎(仏の来迎と見なされたブ
ロッケン現象)」(のち「御来光(日の出)」)エムゾネを拝み、
内院(噴火口)に鎮座するとされる神仏(大日如来が本地仏と
された浅間大神ないし浅間大菩薩)を拝し、火口壁にいくつか
あるピークを仏教の曼荼羅における仏の世界に擬して巡拝する
「お鉢めぐり(八葉めぐり)」と呼ばれる行為を行なうこエムゾネ
とが一般的であった。山頂の宗教的施設は、12世紀中ごろ修
行僧末代により建立された施設(後の大日堂)が最初とされ、
その後、経典(12世紀末〜13世紀前半と推定されるものが
最古)・懸仏(1482年の銘のあるものが最古)・仏像等(
13エムゾネ02年の銘があるものが最古)の山頂部への奉納・埋
納や内院への散銭が行われた。また、遅くとも17世紀には、
大宮・村山口山頂部に大日堂(現在は富士山本宮奥宮が所在)
が、吉田・須走口山頂部に薬師堂(現在の久須志神社)が造営
された。18エムゾネ74年、山頂の仏教的施設及び仏像は廃仏毀
釈の影響によって撤去され、ピークの名称も変更され、寺院は
神社に改変された。しかし、山頂部に対する信仰自体は変化す蛇据

80 :
ることなく、上記の行為は現代の登山者の多くが行っており、
これらを通じて富士信エムゾネ仰の核心が現代に受け継がれている
。A2.大宮・村山口登山道富士山南西麓の浅間大社を起点と
し、村山浅間神社を経て山頂南側に至る登山道である。12世
紀前半から中ごろの、修行僧末代の活動により、富士山南麓に
おける登山が本格的に開始されエムゾネたとされ、14世紀初めに
は修験者による組織的登山が始まったとされる。15世紀以降
19世紀後半まで、「村山三坊」と呼ばれた3軒の有力宿坊が
村山浅間神社(興法寺)と登山道の管理を行うとともに所属の
修験者が登山道等を利用して修行を行っエムゾネた。また、一般人
の信仰登山(以下これを行う者を「道者」と言う。)も開始さ
れ、その様子は16世紀の作とされる「絹本著色富士曼荼羅図
」に描かれている。道者の数は18世紀後半から19世紀初頭
の宿坊(大鏡坊のみ)の記録より、御縁年で2,エムゾネ000人
前後、平年で数百名程度と推測できる。また1860年、初の
外国人登山を行った英国公使オールコックがこの登山道を利用
した。101889年、鉄道(東海道線)の開通による御殿場
口利用者の増加により衰退し、これへの対策として190エムゾネ
6年、村山を経由しない新道が建設されたため、大宮から現在
の六合目(標高2600m)までは登山道としての機能を失っ
た。この区間は一部除き登山道跡の推定は困難な状態である。
現在は1970年に標高2400m地点まで開通した自動車道
を利エムゾネ用しての登山が行われている。(推薦範囲は六合目以
上である。)A3.須山口登山道富士山南東麓、須山浅間神社
を起点とし、山頂南東部に至る登山道である。その起源は明確
ではないが、文字資料の中で1486年にその存在が確認でき
る。登山道おエムゾネよび山頂部銀明水は須山浅間神社及びその所
在地の須山村(現裾野市須山)により管理されていた。また、第陶

81 :
登山道のいくつかの宗教施設は村山の修験者の行場(参拝所)
としても使用された。道者については詳しい研究が進んでいな
いが、1800年(御エムゾネ縁年:富士山出現伝説に由来する6
0年に1回の記念の年)に約5,400人、1840年代前半
は年平均約1,700人、1860年(御縁年)は約3,60
0人であった。1883年、須山口二合八勺(標高2050m
)に接続する御殿場口登山道がエムゾネ開削され、1889年、東
海道本線開通による御殿場口利便性の向上は須山口よりの道者
を奪い、さらに1912年、一部が陸軍演習場となり使用不可
能となったため、須山口からの登拝(登山)は衰退し現在に至
っている。二合八勺以下の登山道で当時エムゾネの道が確認できる
部分は一部のみである。(資産範囲は現在「御殿場口」の名称
で使用されている二合八勺以上の部分及び遊歩道として整備さ
れた旧須山口の一部である)A4.須走口登山道富士山東麓の
冨士浅間神社を起点とし、八合目で吉田口登山道エムゾネと合流し
山頂東部に至る登山道である。その起源は明確ではないが、六
合目からは1384年の銘のある掛仏が出土しており、文字資
料では1500年にその存在を確認できる。登山道は遅くとも
17世紀までに、冨士浅間神社及びその所在地の須走村がエムゾネ
登山道の山頂部までを支配し、散銭取得権の一部などを得てい
た。山頂部の権利については富士山本宮浅間大社と争いになり
、須走村は18世紀(1703年と1772年)、幕府に裁定
を求め、権利は幕府によって認められた。1707年の宝永噴
火のエムゾネ際、これらの施設及び冨士浅間神社、須走村は噴砂に
覆われ壊滅したが、江戸幕府の支援を受け翌年には復興を完了
し、多くの道者を集めた。18世紀後半、他の霊場とセットに
された参詣の流行で道者数は年平均約1万人、1800年の御
縁年に23,エムゾネ700人とピークを迎えた。1959年、バ廊軟

82 :
ス道路の完成により、新五合目(標高約2000m)以下の登
山道の利用はほとんどなくなり、一部道としての確認ができな
い区間がある。(推薦範囲は現在も利用されている新五合目以
上である。)A5.吉エムゾネ田口登山道北口本宮冨士浅間神社を
起点とし、富士山頂東部を目指す道である。15世紀には、富
士山への登拝が、修験者だけでなく、ごく一般の人々の間にも
広まっていた。吉田口は14世紀後半には参詣の道者のための刹陪

83 :
宿坊もでき始め、大勢の人々がエムゾネ登るための設備が整うよう
になった。16世紀から17世紀、長谷川角行が吉田口を利用
して修行を行い、18世紀前半には富士講隆盛の礎を築いた食
行身禄は、入定(宗教的自殺)にあたって信者の登山本道をこ
の吉田口と定めた。このため、富士講のエムゾネ信者が次第に増加
した18世紀後半以降は、最も多くの道者(他の登山口の合計
と同程度)が吉田口登山道を登って山頂を目指している。しか
も、古道としては唯一徒歩で麓から頂上まで登れる重要な道で
ある。(推薦範囲は登山道全体である。)11法エムゾネ的保護、
修理・整備の経緯1924年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下
に名勝に仮指定された。1936年に国立公園法の下に(富士
箱根)国立公園に指定された。1952年に文化財保護法の下
に名勝、ついで特別名勝に指定された。1969年に国がエムゾネ
大沢崩れに対する砂防事業に着手(継続中)。1996年に国
・県が台風による森林の風倒被害に対する対策に着手(継続中
)。文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として
指定される予定。A6.北口本宮冨士浅間神社説明富士山の遥
拝所エムゾネに祀られていた浅間明神(富士山の荒ぶる神)を起源
とし、1480年には「富士山」の鳥居が建立され、16世紀
半ばには浅間神社の社殿が整っていたとされる。その後、15
61年に現在の東宮本殿、1594年に西宮本殿、1615年
には本殿が建エムゾネ立された。富士講とのつながりが強く、17
30年代に富士講の指導者である村上光清の寄進によって境内
の建造物群の修復工事が行われ、現在にみる境内の景観の礎が
形成された。本殿は、一間社入母屋造・檜皮葺の本殿に唐破風
付向背をつけた形式でエムゾネ、正面と側面に挿肘木の腰組をもっ
て支える擬宝珠高欄付の切目縁をめぐらしている。東宮本殿・
西宮本殿はともに桧皮葺・一間社流造である。3本殿とも、各釜尿

84 :
部に漆塗り、極彩色をほどこし、彫刻・金具を配して、それぞ
れの時代の装飾的特色がよく表エムゾネされている。北口本宮冨士
浅間神社の支配権は外川家、小佐野家などの吉田の御師に所属
しており、神社の管理も御師団の中から選ばれた者に委ねられ
ていた。社殿の背後には登山門があり、この神社を起点として
富士山頂まで吉田口登山道が伸びているエムゾネ。富士講や吉田御
師と密接な関係を持ちながら発展した神社である。法的保護、
修理・整備の経緯1907年に東宮本殿が古社寺保存法の下に
特別保護建造物に指定された。1929年の国宝保存法制定に
伴い、本殿は国宝とされた。1950年の文化財エムゾネ保護法制
定に伴い、東宮本殿は重要文化財とされた。1953年に本殿
及び西宮本殿が文化財保護法の下に重要文化財に指定された。
1952年に東宮本殿の解体修理工事が行われた。1962〜
63年に西宮本殿の解体修理工事が行われた。1973〜エムゾネ
74年に本殿、西宮本殿及び幣殿の部分修理工事が行われた。
1981〜82年に東宮本殿の部分修理工事が行われた。19
97年に本殿の部分修理工事が行われた。文化財保護法の下に
他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定。A7.
西湖エムゾネA8.精進湖A9.本栖湖説明富士山の火山活動によ
って形成された堰止湖である。富士山周辺の湖を巡って修行す
る内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが、長谷川角
行の水行からいつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられ
たのが、後述エムゾネの山中湖及び河口湖とこの3湖である。また
、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。12特
に本栖湖は、日本の紙幣の図柄として何度も使用された写真の
撮影地点であり、重要な展望地点(viewpoint)であ
る。富士山は、プロ・エムゾネアマ問わず多くの写真家に愛され、
撮影されてきた。なかでも、生涯にわたり富士山を追い続けた止午

85 :
持つ湧玉池のほとりに置かれたとする説が有力である。なお湧
玉池は、浅間大社内に所在する富士山の湧水を起源とする池で
ある。16世紀前後、湧玉池は浅間大社により道者が身を清め
る場と位置づけられたとされ、エムゾネ同時期の絵図や旅行記でそ
の様子が確認できる。この水垢離は1920〜30年代まで行
われた。現在でも湧水を聖なる水として利用する人が多くいる
。法的保護、修理・整備の経緯1907年に本殿が古社寺保存礁語

86 :
法の下に特別保護建造物に指定された。エムゾネ1923〜26年
に本殿・拝殿・楼門等の補修が行われた。1929年の国宝保
存法制定に伴い、本殿は国宝とされた。1933〜34年に楼
門の修理を行った。1936年に袖廊・廻廊を附した。195
0年の文化財保護法制定に伴い、本殿は重要文化エムゾネ財とされ
た。1951〜52年、1970年、1988年に本殿の屋根
の修理等が行われた。1969〜70年に本殿の屋根の修理等
が行われた。1987〜88年に本殿の屋根の修理等が行われ
た(部分補修)。2005年に本殿の屋根の修理等が行わエムゾネ
れた。13文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山
として指定される予定。B2.山宮浅間神社説明富士山本宮浅
間大社の社伝によれば、浅間大社の前身とされ、拝殿・本殿等
が位置すべき場所に石列でいくつかに区分された遥拝所が設置
されエムゾネるのみという特異な形態は古代からの富士山祭祀の形
を止めていると推定されている。この遥拝所の主軸は富士山方
向を向いている。具体的な創建年代は不詳だが、発掘調査では
神事に使用されたと推定される12〜15世紀の土器が出土し
、文献上ではエムゾネ1551年にその存在が確認できる。また、
遅くとも1577年までには浅間大社との間で「山宮御神幸」
といわれる儀式が開始された。これは4月と11月に神の宿っ
た鉾を持ち、浅間大社と山宮浅間神社を往復する行事である。
現時点では神が4月にエムゾネ旧跡に戻るという解釈と、山にいる
神が4月に田の神として里へ降りるという解釈がある。この行
事は1874年まで行われていた。なお、「山宮御神幸」に使
用される経路を御神幸道という。道には1691年に置かれた
距離を示す石碑が少なくとも四エムゾネ箇所残っているが、正確な
道筋は現在確認されていない。法的保護、修理・整備の経緯1
985年に富士宮市の史跡に指定される。文化財保護法の下に婚枠

87 :
は神立山に信仰関連の様々な建築物が描かれ、発掘調査で石畳
や護摩堂跡が確認されている。写真神立山の写真・湧玉池(上
池、下池)本殿東側の「湧玉池」は、国指定特別エムゾネ天然記念
物となっている。湧玉池は、富士山に降った雨や雪が地下水と
なり、被圧によって富士宮溶岩流の溶岩層間を流れ、溶岩流末
端で湧出して池になったものである。禊所付近を境に上池と下
池に分かれ、以前は上池のみを湧玉池、下池から下流を御エムゾネ
手洗川と呼んだ。登山者や道者が湧玉池の水で心身を清めた後
山中へ向かうという、富士山信仰と関連の深い池であった。現
在も富士山山開きの7月1日には、湧玉池で禊神事が行われる
。写真湧玉池の写真図詳細平面図・社叢神立山表層部は約3万
8千エムゾネuにわたってスダジイ、ケヤキ等の樹木が生育してお
り、富士宮市保存樹林に指定されている。また、野鳥の生息に
適した環境でもあり、「野鳥の森」碑が建てられている。・社
殿(本殿・拝殿・幣殿・透塀・楼門)浅間大社は、社伝によれ
ば大同元年(エムゾネ806)に造営されたという。かつての駿河
国の一宮で、現在は全国1300余の浅間神社の総本社として
崇められている。現在の社殿は、慶長9〜11年(1604〜
06)に徳川家康が造営したものである。写真社殿全体の写真
図社殿平面図[本殿]エムゾネ本殿は国指定重要文化財である。「
浅間造」と称する棟高45尺の二重の楼閣造構造で他に例を見
ない。1階下層は桁行5間・梁間4間の寄棟造、2階上層は桁
行3間・梁間2間の三間社流造で共に桧皮葺である。明治40
年(1907)5月27日古社エムゾネ寺保存法により特別保護建
造物に指定され、以後、国指定重要文化財として保護されてい
る。写真本殿全体の写真(幣殿・拝殿含む)図本殿平面図(幣
殿・拝殿含む)[幣殿]本殿と拝殿をつなぐ部分で、桁行3間
・梁間3間の両下造、屋根は檜皮葺、寛エムゾネ文年間の古絵図に辱謎

88 :
は幣殿は描かれていないが、現在幣殿として使われている部分
に「作合三間四間ひはだぶき」と書き込まれており、本殿の全
景がよく見えるように描かれたと推測される。県指定文化財と
して保護されている。[拝殿]桁行5間・梁間3エムゾネ間で、床
は幣殿より2段高くなっている。正面が入母屋造、背面が切妻
造で、屋根は檜皮葺、正面に1間の向拝が付いている。三方に
縁を巡らせ、背面は幣殿に接続している。県指定文化財として
保護されている。[透塀]本殿周囲を囲む1棟と、その外エムゾネ
側、本殿横に並ぶ三之宮及び七之宮を含めたより広い範囲を囲
む1棟−51−の計2棟で、総延長は36間に及ぶ。県指定文
化財として保護されている。[楼門]三間一戸、重層入母屋造
で、屋根は檜皮葺、正面・左右脇に扉がついている。楼門の左
右にエムゾネは随身像が安置してある。静岡県指定文化財として保
護されている。写真楼門全体の写真図楼門平面図・廻廊楼門か
ら東西に伸びる回廊は、昭和9年(1934)に付加されたも
のである。・手水舎楼門の南西側に、参拝者が参拝前に身を清
めるために手エムゾネや口をすすぐ、手水舎がある。・灯籠大小そ
れぞれの灯籠が境内各所に設置されている。・石鳥居本殿へ続
く参道に石造りの鳥居が建てられている。昭和33年3月に寄
進されたものである。・東鳥居・西鳥居桜の馬場の東端と西端
にそれぞれ朱塗りの鳥エムゾネ居が建てられている。・桜の馬場浅
間大社流鏑馬式が執り行われる馬場が約200mに渡って東西
に伸びている。源頼朝が富士の裾野で巻狩を行った際、流鏑馬
を奉納したことに始まると言われ、室町時代の初期にはすでに
神事が行われていたとの記録がエムゾネ残っている。馬場に沿って
両側に御神木の桜が植えられている。・禊所湧玉池の上池と下
池の境部分が禊所とされ、池に下りるための石段が組まれてい
る。・神幸橋(湧玉橋)湧玉池南側の神田川への流出口に石造応川

89 :
りの橋が架けられている。春秋の大祭にエムゾネはこの橋を通って
山宮御神幸が出発したとされる。寛文10年(1671)の絵
図では橋に屋根が葺かれている。・輪橋(太鼓橋)本殿へと向
かう参道に、鏡池を渡る輪橋が架けられている。寛文10年の
絵図には既に描かれているが、大正4年(191エムゾネ5)に石
造りに改められた。写真輪橋の写真図輪橋の平面図絵図寛文1
0年の絵図・護摩堂跡(推定)平成20年の発掘調査により、素干

90 :
護摩堂跡と考えられる溶岩礫で構成された石垣と建物跡が検出
された。石垣は樵石積みで組まれ、平面形は正方形となっエムゾネ
ている。また、石垣で正方形に囲繞された敷地内で建物跡の礎
石が確認された。桁行3間・梁間4間で、南側に入口を有して
いたと考えられる。発掘調査後に、江戸時代終わり頃の地誌で
この建物跡を「本地堂」とする記載が確認されており、最終的
に護エムゾネ摩堂から本地堂へ造作し直された可能性がある。写真
護摩堂の発掘調査時の完掘写真(平面写真)図平面図・随身像
慶長19年(1614)2月に建立された。背銘には、左側の
像は「甲州河内下山住番匠石川清助作」、右−52−側の像は
「大工山城國エムゾネ上原住櫻井三蔵作」と記され、市指定有形文
化財として保護されている。写真随身像全体の写真・狛犬参道
の石鳥居両側に、狛犬が建てられている。大正7年5月に奉献
されたものである。・御神幸道首標の碑明治以前に行われてい
た「山宮御神幸」におエムゾネける、御神幸道の首標が、池畔に立
てられている。造立年は元禄年(1691)未年十一月とされ
、「自当社山宮御神幸道五十丁証碑首也」と刻まれている。昭
和59年(1984)に浅間大社境内の土中から発見され、現
在地に再建された。・三之宮本エムゾネ殿横西側に、淺間第三御子
神を祀る境内社「三之宮浅間神社」が建てられている。・七之
宮本殿横東側に、淺間第七御子神を祀る境内社「七之宮浅間神
社」が建てられている。・鉾立石楼門前の石段には、鉾立石が
置かれている。明治の初めまで行われてエムゾネいた山宮御神幸の
際、神の宿った鉾を立てて休めた自然石である。・欄干橋(神
路橋、神路枚橋)池畔と川中島を結ぶ橋が2本架けられている
。島の西側が神路橋、東側が神路枚橋であるが、寛文10年(
1670)の絵図では西側にのみ架けられているエムゾネ。写真橋
全体の写真絵図寛文10年の絵図B2山宮浅間神社図以下に示妄童

91 :
す要素が点在している平面図・溶岩流地形山宮浅間神社の石鳥
居から参道を経て参籠所に至るまでの区域は北山溶岩流上に展
開している。また、遥拝所が位置する小高い丘陵は青沢溶エムゾネ
岩流の先端部である。さらに、涸れ沢の西岸には、天母山(二
子山)溶岩流、万野風穴溶岩流で構成される丘陵地が展開する
。よって、山宮浅間神社周辺には、籠屋付近の北山溶岩流を含
め、4つの異なる溶岩流地形が広がっていることになる。遥拝
所のエムゾネ基盤となっている青沢溶岩流は、約2,000年前の
噴火によって流出した比較的新しい溶岩流であるため、この部
分は他の区域と比べて植生の回復は遅れていたと考えられる。
そのために、樹木等に遮られることなく富士山の山頂まで見渡
せていたためエムゾネ、この場所で山を遥拝する行為が行われたと
考えられる。写真溶岩流地形の写真図溶岩流の拡散している模
式図・社叢目通りの幹周が3mを超える巨木4本を含むスギ林
が、約9,780uの社叢を形成しており、富士宮市の保存樹
林に指定されている。エムゾネ・籠屋(参籠所)遥拝所へ登る手前
の平坦な土地に籠屋が建てられている。籠屋は、神の宿った御
鉾が浅間大社と山宮浅間神社を往復する祭儀「山宮御神幸」に
おいて、これに同行した大宮司以下の諸職が一夜参籠した場所
である。−53−・鉾立石籠屋エムゾネをくぐり遥拝所へ続く参道
に、「山宮御神幸」で神の宿った鉾を休めるための「鉾立石」
が置かれている。石は火山弾であり、籠屋をくぐってすぐの位
置に1つ、石段の手前に1つの計2つが置かれている。・石段
(参道)遥拝所が位置する丘陵へ登るたエムゾネめの石段が組まれ
ている。現在あるものは戦中もしくは戦後に改築されたものと
考えられる。・石塁遥拝所の周辺約45m四方が石塁により方
形に区切られている。青沢溶岩流の溶岩塊上に溶岩礫を積み上
げて構築され、部分的に遺物を含む土層上に構築エムゾネされてい顎直

92 :
る。石塁下から祭祀に用いられたと思われる土師器が出土して
いるため、それらが用いられた12世紀から15世紀、もしく
は後の時代に築造されたものと推定される。写真石塁の写真図
石塁の平面図・断面図・玉垣遥拝所の周囲にはコンクリーエムゾネ
ト製の玉垣が設置されている。戦中もしくは戦後に設けられた
ものと考えられる。また、遥拝所入口には鉄製の門扉が取り付
けられている。・遥拝所富士山を直接拝礼し、祭儀を行うこと
を目的として築造されたと推定される施設である。南北約15
.2エムゾネm、東西約7.6mの長方形で、30〜40p程度の
溶岩を用いて石列等によって組まれている。富士山を拝む方向
に祭壇が位置し、祭壇に向かって左側に祭儀を行う際の大宮司
席、公文・案主席、献饌所が、向かって右側に別当・供僧席が
設けられていエムゾネる。写真遥拝所の写真図遥拝所の平面図・石
鳥居境内地の南端に、石鳥居が建てられている。昭和6年(1
931)に建立されたものである。・参道石鳥居から籠屋まで
参道が続いている。B3村山浅間神社図以下に示す要素が点在
している平面図・元村エムゾネ山溶岩流村山浅間神社は、新富士旧
期溶岩の元村山溶岩流末端部付近にあたる。見付の間は平地で
、両見付から先は急傾斜地となっている。村山地区は標高が高
く、他の集落と急傾斜地で隔絶された一段高い場所に位置する
。・水源地(竜頭ヶ池)社叢東エムゾネ側に「竜頭ヶ池」と呼ばれ
る湧水池があり、水垢離や生活用水として利用されてきた。ま
たこの湧水を水源とする村山沢は南流して渓谷を刻み神社西側
から大沢川となる。これらの水源は、村山の集落を成立させた
要因の一つである。・御神木(イチョウエムゾネ、大スギ)[イチ
ョウ]−54−昭和43年(1968)7月2日に県天然記念
物に指定された。目通り8m、根回り9.15m、樹高26m
、枝張り東西19m南北14mで、樹勢よく乳状下垂気根の発謁嘱

93 :
達も著しい。気根が数多く垂下する。気根の先端エムゾネに針を刺
して祈願すると妊産婦の乳の出がよくなると伝えられ、女性の
信仰を集めていた。また以前はウロの中に大日如来が祀られて
いたといわれ、現在でも祭祀でしめ縄を張る。[大スギ]昭和
31年5月24日に県天然記念物に指定された。村山浅間エムゾネ
神社の御神木と称される巨木である。境内の多くのスギの中で
最大のもので目通り9.9m、枝張り東西17.5m、南北3弐自

94 :
1m、樹高47mもある。中心部には高さ8mに及ぶ空洞があ
る。案内板では約1,000年の樹齢とされるが、実際にはお
よそエムゾネ400〜600年と推定される。・社叢境内には胸高
直径0.7m以上のスギが39本ある。アカガシ3本、スダジ
イ1本などの大樹も見られるが、裏山の大半は戦後植樹された
ヒノキやスギである。富士宮市の保存樹林に指定されている。
・浅間神社社エムゾネ殿村山浅間神社社殿は、神仏分離令によって
境内社富士浅間七社を相殿として造られ、中座に木花開耶姫命
、左座に大山祗命、彦火々出見命、瓊々杵命、右座に大日霊貴
(天照大神)・伊弉諾尊・伊弉冉尊を祀っている。現在の社殿
は大正2年(1913エムゾネ)に改築されたものだが、幣殿と拝
殿は老朽化したため、その後さらに鉄筋コンクリート一部木造
に建替えられている。写真社殿の写真図社殿の図面・大日堂(
興法寺)鎌倉時代の文保年間(1317〜1318)に、末代
上人の流れをくむ頼尊が村山にエムゾネ興法寺を開いたと伝えられ
ている。その興法寺の建物として現存する唯一の堂で、富士山
の本尊である大日如来を主尊とする。現在の建物は、部材の状
況や絵様彫刻の特徴などから江戸時代末期の建造と考えられる
が、外壁は波鉄板板張りに変えられていエムゾネる。桁行5間・梁
間7間、入母屋造、鉄板葺きで、南面に出入り口を開き、前面
と両側面に幅一間の回り縁を巡らしている。写真社殿の写真図
社殿の図面・水垢離場山伏修行者及び修験者が、富士登拝の道
者が垢離をとって身を浄めた場所で、間口約6.エムゾネ5m、奥
行き約4mの長方形で、深さ約0.6mに掘り込み、底に石を
敷きつめ周囲は石積みとなっている。造成年代は不明。水垢離
場へは社叢裏手の沢に湧く龍頭池湧水を引き、上の段から樋で
落とし垢離を取るようにしてある。水の落ち口には山伏修エムゾネ
行のときの主尊とされる不動明王の石像が安置されている。写承蔽

95 :
真水垢離場の写真・護摩壇大日堂東側にあり、正面には不動明
王の石像が祀られている。護摩壇は、四囲を石で囲んだ一辺5
.3mの丸い石組となっている。丸い石組の前に置かれた葛石
にはエムゾネ、「干時安政四年九月」と刻まれ、安政4年(185
7)造立と考えられる。周囲の正方形の石組みと中央の丸い石
組みは石材に違いが見られ、造成時期が異なっているものと思
われる。写真護摩壇の写真・氏神社(高嶺総鎮守社)−55−
護摩壇裏手のエムゾネ一段高くなったところに末代上人を祀る大棟
梁権現社があったとされる。しかし、神仏分離令により廃され
、代わりに村山浅間神社社殿と大日堂の間から裏山に登ったと
ころに大棟梁権現社を遷し「富士大神社(祭神大己貴命)」と
して祀られた。現在はエムゾネ「高根総鎮守」と呼ばれ、元村山集
落の氏神社となっている。「明治十八年五月十七日奉再建冨士
大神社」と記された棟札が残されている。現在の社殿は、平成
15年に再建された。・石鳥居村山浅間神社へと登る石段の途
中に、石鳥居が建てられているエムゾネ。昭和28年(1953)
に建立されたものである。・氏神社鳥居氏神社(高嶺総鎮守社
)へと登る参道の入口に、鳥居が建てられている。平成15年
の再建に合わせて建てられたものである。・手水舎(手水鉢)
村山浅間神社へと続く参道入口の左側にエムゾネ、手水舎が設置さ
れている。明治16年(1883)に設置されたものである。
・石段(参道)段の入り口が、村山浅間神社へ続くものと、大
日堂へ続くものの2本が平行して造られている。・狛犬昭和5
年に奉納された狛犬2体が、参道脇に設置されてエムゾネいる。B
4須山浅間神社図以下に示す要素が点在している平面図・社叢
樹齢500年を超えるスギの巨木が22本あり、中には樹高3
7m、目通りの太さが7mを超えるものも見られる。社叢全体
が市指定天然記念物として保護されている。・社殿大禰宜エムゾネ今蓄

96 :
・渡邊対馬守安吉の社伝旧記によれば、天元4年(961)に
駿河国司・平兼盛が社殿を修理したとの記録がある。その後の
記録として社殿の存在が確認できるのは、大永4年(1524
)と記された修築時の棟札による。現在の社殿は、文政6年(
18エムゾネ23)に再建されたとされている。写真社殿の写真図
社殿の図面・神輿殿須山浅間神社の例大祭で使用される神輿を
納めた神輿殿が、境内地西側に建てられている。・狛犬境内に
は、社殿前と石段手前の参道脇に計二対の狛犬が設置されてい
る。社殿前のエムゾネ一対は平成12年に、参道脇の一対は平成1
3年に奉納されたものである。・灯籠参道の両脇に灯籠が建て
られている。登り口のものは平成13年に、階段を登ったとこ
ろにあるものは、それぞれ寛保2年(1742)、文政6年に
奉納されたものであるエムゾネ。・手水舎石段に至る参道の脇と、
社務所西側の2箇所に、手水舎が建てられている。社務所そば
には、文政7−56−年と刻まれた水盤も置かれている。・参
道鳥居から10mほどは石畳が敷かれ、その後社殿の位置する
高台へ登るためにコンクリートエムゾネ製の階段が続いている。・
鳥居参道入口には、朱塗りのコンクリート製の鳥居が建てられ
ている。昭和41年(1966)に奉納されたものである。・
石碑鳥居の東側に、郷社として奉幣を受けていたことを示す碑
が建てられている。・古宮神社八坂大神エムゾネ、八幡大神、愛鷹
大神、子安大神、疱瘡守護神を祀る境内社である。覆屋の中に
あり、旧本殿と推測される建物である。B5冨士浅間神社図以
下に示す要素が点在している平面図・社叢(浅間の杜)社殿周
囲と、参道の南側に社叢が広がっている。特に参エムゾネ道南側の
部分を浅間の杜と呼び、静岡県や小山町の天然記念物である大
樹が生育している。・ハルニレ昭和38年(1963)2月1
9日に静岡県の天然記念物に指定された。根回り約6m、目通帥枚

97 :
り4m、樹高24.50m、枝張東西28.10m、南北エムゾネ
23.50m、樹齢約500年。北日本の山地に多い落葉高木
で、静岡県では極めて少なく当社以外の小山町内では数本しか
見当たらないが、境内には10本が生育している。・エゾヤマ
ザクラ昭和58年5月1日に小山町の天然記念物に指定された
。樹エムゾネ齢約130年で、根回り2.08m、目通り1.75
m、樹高約10m、枝張東西13.8m、南北9.5m。別名咲摂

98 :
をオオヤマザクラと称するヤマザクラの北方型で、静岡県が南
限である。県内ではまれな樹種である。・根上がりモミ平成3
年5月1日にエムゾネ小山町の天然記念物に指定された。樹齢約3
00年で、根回り4.61m、目通り3.07m、樹高27m
。この根上り群は約150年生のモミの根本にブナ、イヌシデ
の種子が生え、宝永噴火の火山灰土が、降雨により流亡しなが
らモミが成長したためエムゾネ、根が爪を立てた状態で生育し、根
上がりになったと考えられる。縁結びの木とも呼ばれている。
・社殿平成18年8月24日に小山町の文化財(建造物)に指
定された。宝永噴火により大きな損害を受けたが、享保3年(
1718)に再建された。そのエムゾネ後蟻害や老朽化により改修
したものの、部材は享保年間(1716〜36)のものが今な
お使用されている。社殿は本殿・幣殿・拝殿が連結した権現造
である。拝殿は入母屋造で千鳥破風を据え、本殿は享保年間の
遺構を残した流造りとなっている。−5エムゾネ7−構造は、拝殿
が桁行5間・梁間2間の入母屋造で、向拝1間、正面千鳥破風
付。幣殿が桁行3間・梁間2間の両下造。本殿が三間社流造、
向拝1間、屋根は全て銅板葺きとなっている。写真社殿の写真
図社殿の図面・楼門二階建ての随神門で、上層のエムゾネ周囲に高
欄付きの縁を巡らしている。北の櫛岩窓神、南の豊岩窓神が随
神として配神されている。宝永噴火により社殿とともに大破し
ており、現在のものは明和4年(1767)随神が寄贈された
当時に再建されたものと考えられる。楼門の構造は、三間エムゾネ
一戸楼門、茅葺型入母屋造、銅板葺き。軒廻りは二軒繁垂木に
組物は出組で、腰組も二手先としている。・参道大鳥居参道入
口には、花崗岩の石鳥居が建てられている。春日造で、額束に
は「不二山」と刻まれている。明治33年(1900)に奉納
されエムゾネた。・裏参道鳥居西側駐車場から本殿へ至る裏参道の皮衛

99 :
入口に石鳥居が建てられている。・富士塚狛犬楼門前参道の両
側に、富士塚が築かれ、その上に狛犬が置かれている。・富士
講講碑群明治より昭和にかけて、各地の富士講より寄進された
記念碑が多くエムゾネ残されている。多くは、数多く富士登山が成
就されたことを感謝し、先達や講名を高く掲げ信仰の証とした
もので、境内地の西側部分裏参道周辺に、多くの碑塔が建てら
れている。写真富士講講碑群の写真図富士講講碑群の配置図B
6河口浅間神社図以下エムゾネに示す要素が点在している平面図河
口浅間神社は、864〜866年に北麓で起こった噴火を契機
に、北麓でも浅間神社が建てられることになったが、その神社
である可能性が高い。現在も富士山と密接に結びついた宗教行
事を行っており、歴史的背景とエムゾネ相俟って、富士山信仰を語
る上で欠かすことのできない資産である。顕著な普遍的価値を
構成する諸要素として、富士信仰の拠点でもある本殿などの建
造物群や境内地などがある。・社殿、鳥居河口浅間神社創建は
、平安時代の865年に遡る可能性があエムゾネる。建立目的は富
士山の噴火を鎮めるためであり、当時の富士山及び噴火という
ことに対する当時の考え方を理解することができる。鳥居は1
697年に谷村藩主秋本喬知の再建。銅製の扁額に記された「
三国第一山」の書は輪王寺宮公弁親王の筆とされエムゾネる。写真
社殿の写真図社殿の図面B7冨士御室浅間神社図以下に示す要
素が点在している平面図−58−冨士御室浅間神社は、8世紀
初めに吉田口登山道二合目に祭場をしつらえたのが最初とされ
、富士山中に祀られた最初の神社であるとする文献もあるエムゾネ
。二合目本宮(もとみや)へは冬季の参拝に苦渋するため、9
58年、河口湖畔に現在の里宮が建立されたという。現在は二
合目にあった社殿も里宮の広い境内に敷地内に移設されている
。修行や登拝といった様々な富士信仰の拠点として位置づけら朝塩

100 :
れるエムゾネ二合目の本宮と、土地の産土神としての里宮が一体と
なって機能してきた。顕著な普遍的価値を構成する諸要素とし
ては、信仰拠点である二合目や本殿などがある。・吉田口二合
目吉田口登山道二合目に御室浅間名字(本宮)が鎮座した。御
室浅間神社はエムゾネ木花開耶姫を祭神とし、創立年代は詳らかで
ないが、社殿には和銅元年(708)に祭場をしつらえたのが
最初とされる。冨士山中最初の社という。なお、平安末期には
浅間神の信仰に修験道が習合して、富士山が霊験所の一として
広く知られていた。冨エムゾネ士修験の信仰拠点は南口の村山であ
るが、北口の二合目、御室の地にも山内の信仰拠点として行者
堂が設置されていた。・本殿本殿は、1612年に当時の甲斐
国都留郡領主であった鳥居土佐守成次によって桃山時代建築様
式の神社建物に再建されたことエムゾネが棟札から明らかにされて
いる。大規模な入母屋造りの一間社で棟の高さは9.3m、屋
根は檜皮葺形の銅板葺である。蟇股や軒唐破風妻などにも彫刻
を飾るなど、桃山建築様式の特色が見られる。内部の色彩も当
初のものを良く残しており、建築年代のエムゾネ確実なこの時期の
遺構としては大変貴重な建造物である。写真本殿の写真図本殿
の図面B8御師住宅図御師住宅の位置図御師住宅は、富士講徒
の案内をし、宿泊の世話や祈祷を行った御師の住宅兼宿坊であ
る。御師屋敷の多くは短冊状をなし、表通りに面エムゾネして引き
込み路を設け、敷地を流れる水路の奥に建物がある。顕著な普
遍的価値を構成する諸要素として、最古の部類に入る旧外川家
住宅などがある。・旧外川家主屋、離座敷、中門主屋は妻入り
形式の典型的な御師住宅であり、棟札から1768年に建エムゾネ
設されたものであることが判明している。また、主屋は「平面
座敷型」をとっており、近世になって御師住宅の様式が確立さ
れる以前の御師住宅として最古の部類の建築物である。離座敷硝色


100〜のスレッドの続きを読む
神奈川県のキャンプ場 1張り目
【TJAR】トランス・ジャパン・アルプスレース3【TJAR】
/ ´,_ゝ`\登山未経験者のための富士山登山入門 #3
【ネットで見付けた(ryなキャンプ動画】パート36
キャンプ用テント 13張り目
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)62【ダメ工作員】
【山城・丹波】京都:愛宕山13丁目【の狭間で】
/ ´,_ゝ`\登山未経験者のための富士山登山入門 #2
俺の登山用デジカメはこれだ!17台目
キャンプ用テント 13張り目
--------------------
イージードゥダンス イージードゥダンス(ポゥ!)
【UFOロボ】グレンダイザー5【UFOロボ】
アホ左翼の3人は人炭になって詫びろ
【水泳】プールで痩せる!第100のコース
郵政に殺したい人はいますか?
初心者歓迎 スレ立てる前に此処で質問を 918
受験は環境35 才能 30 努力30 運5で決まる
南雲忠一中将を再評価するスレ(散)
ほっしゃんこと星田英利さん俳優を志す
【吾峠呼世晴】鬼滅の刃ネタバレスレ89
林道仲間のいないオフ乗りの為のオフ会 その39線
【韓国】 与党、成長率の解釈もご都合主義〜政権の意向に合わないと「フェイクニュース」扱い[05/03]
昔のパソコンはCDコピー機として大活躍していたよな
最底辺薬学部はどこだ!?薬学部ランキング
☆☆富山サンダーバーズ応援スレ☆★part15
弓道こそ最強の武道だよな
曲のフレーズしりとり邦楽〜116th Melody〜
【酔わないTheCHOYA】チョーヤで乾杯★96【ネトウメ】
イナ妖VSポケモンVS東方なりきり44
農業で儲けましたよ自慢
TOP カテ一覧 スレ一覧 100〜終まで 2ch元 削除依頼