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【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)62【ダメ工作員】


1 :2018/02/05 〜 最終レス :2018/02/15
  
板中を荒らしながら病的な自演とスパムを続ける「栗木ハンター(ワイエディ)」。
アフィ目的は明らかですが、その来歴や栗城スレ(まとめwiki)の妨害、当スレでの執拗な埋立てなどから
栗城ネット工作である可能性が濃厚です。
 
ここは、現在もっとも不快な荒らしである「栗木ハンター(通称ワイエディ)」をヲチりつつ
登山キャンプ板の正常化を願い、情報を共有していくためのスレッドです。


【!】異常者にご注意ください【!】
(ワイエディ [123.255.128.*]) 栗木ハンター主回線
(エーイモ [1.114(115).*.*]) 別回線
(ササクッテロ*) 別回線 末尾*ラ〜ロは動的
(ワッチョイ [175.177.5.*]) 埋立荒らし
(JP-* [103.75.118.*]) 埋立荒らし
(アウアウカー [182.251.242.*]) 埋立荒らし
(アウアウウー [106.133.56.*]) 埋立荒らし
 ※他にワントンキン・ラクッペ・スップなど
  自演回線あり


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☆ オリジナルはこちら!
【栗城史多まとめ @ ウィキ】
登山や活動・関係者等の詳細なまとめ。
http://www44.atwiki.jp/kuriki_fan/
http://www44.atwiki.jp/kuriki_fan/m/ [モバイル版]
【知恵袋のベストアンサー】
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1146998496
【オクサマファイル】
的確な指摘です。ご一読を。
http://baby01.net/blog/364
(当板「栗城スレ」や「海彦山彦ブログ/栗城下山劇場」「森山編集所」もおすすめです)


!extend:checked:vvvvv:1000:512
※前スレ
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)61【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1517579772/
VIPQ2_EXTDAT: checked:vvvvv:1000:512:----: EXT was configured

2 :
 
※過去スレ
(専ブラで閲覧できない場合、通常のウェブブラウザから見ることができます)


【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)60【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1517578703/1-
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)59【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1517499198/1-53
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)58【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1517494466/1-53
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)57【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1517416840/1-53
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)56【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1517413333/1-53
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)55【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1517400210/1-53
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)54【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1517322473/1-56
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)53【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1517321341/1-55
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)52【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1517320031/1-54
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)51【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1517147461/1-52
 

3 :
     
つづき
 
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)50【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1517147332/1-52
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)49【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1517133864/1-52
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)48【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1517133610/1-52
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)47【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1517123635/1-57
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)46【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1516975152/1-50
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)45【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1516974674/1-50
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)44【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1516973828/1-50
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)43【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1516965331/1-50
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)42【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1516963554/1-50
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)41【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1516882060/1-49
 

4 :
      
つづき

【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)40【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1516881638/1-49
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)39【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1516881235/1-49
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)38【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1516871927/1-50
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)37【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1516797871/1-47
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)36【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1516784538/1-47
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)35【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1516782584/1-47
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)34【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1516780764/1-47
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)33【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1516777824/1-47
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)32【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1516775635/1-47
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)31【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1516717714/1-47
 

5 :
      
つづき

【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)30【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1516709043/1-47
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)29【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1516706396/1-47
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)28【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1516703689/1-47
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)27【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1516683210/1-47
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)26【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1516621436/1-47
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)25【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1516619311/1-47
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)24【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1516612954/1-47
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)23【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1516544676/1-47
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)22【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1516536219/1-47
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)21【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1516526242/1-46
 

6 :
      
つづき

【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)20【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1516377470/1-46
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)19【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1516344382/1-46
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)18【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1516275590/1-46
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)17【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1516256845/1-46
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)16【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1516117320/1-46
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)15【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1516100468/1-45
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)14【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1515990538/1-47
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)13【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1515987984/1-40
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)12【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1515931435/1-42
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)11【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1515910488/1-42
 

7 :
      
つづき

【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)10【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1515815279/1-41
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)9【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1515767245/1-41
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)8【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1515766583/1-
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)7【ダメ工作員】
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1515724902/1-42
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)6【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1515669648/1-49
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)5【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1515595280/1-42
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1515478893/1-41
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1515419613/l-41
【常駐荒らし】栗城ハンター(ワイエディ)【詐欺スパム】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1514205594/1-45
【常駐荒らし】栗城ハンター(ワイエディ)【自演マルポ】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1500267844/1-216
【エーイモ】栗木ハンター9【おまんまん】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1484826791/1-
 

8 :
もうキチガイ死に掛けやんけw

9 :
荒らしの連投が規制された?

10 :
クソスレ乱立のキチガイは
いつも50ぐらいまで意味不明の文章を書き込んでたのに
もう諦めたらしいなw

さすが手動で必死こいてたバカも息切れかw

11 :
この人なに一生懸命やってんの?
なにかのボランティア?

12 :
スレ100個立てるとか豪語してたのにこのざまかよw

13 :
古文献もある。エムゾネまた、『竹取物語』における伝説もある。
「フジ」という長い山の斜面を表す大和言葉から転じて富士山と
称されたという説もある。近代以降の語源説としては、宣教師・
バチェラーは、名前は「火を噴く山」を意味するアイヌ語の「フ
ンチヌプリ」に由エムゾネ来するとの説を提示した。しかし、これ
は囲炉裏の中に鎮座する火の姥神を表す「アペフチカムイ」から
きた誤解であるとの反論がある。その他の語源説として、

14 :
語説・マオリ語説・原ポリネシア語説等がある。明確に「富士山
」と表記されるに至エムゾネるにおいては駿河国富士郡に由来する
とするものがあり、記録としては都良香の『富士山記』に「山を
富士と名づくるは、郡の名に取れるなり」とある。富士山に因む
命名富士山が日本を代表する名峰であることから、日本の各地に
「富士」の付く地名がエムゾネ多数存在している。富士山の麓とし
て静岡県に富士市・富士宮市、富士郡、山梨県に富士吉田市・富
士河口湖町・富士川町があるほか、よくあるものとして富士山が
見える場所を富士見と名づけたり(例:埼玉県富士見市)、富士
山に似ている山(主に成エムゾネ層火山)に「富士」の名を冠する
例(信濃富士など)がある。日本国外に移住した日本人たちも、
居住地付近の山を「○○富士」と呼ぶことがある。詳細は「富士
見」および「富士街道」を参照また、全国各地には少なくとも、
321座を超える数の富士エムゾネと名の付く山があり、それらを
郷土富士と呼ぶ。詳細は「郷土富士」を参照なお、地名以外にも
「富士」を冠した名称は多く存在する。詳細は「フジ」を参照ま
た、異名として芙蓉峰とも言う。詳細は「芙蓉」を参照地質学上
の富士山富士山周辺の地形図エムゾネ富士山の構造図地質学上の富
士山は典型的な成層火山であり、この種の火山特有の美しい稜線
を持つ。現在の富士山の山体は、大きく分けて下記の4段階の火
山活動によって形成されたものだと考えられている。先小御岳(
せんこみたけ)火山小御岳(こエムゾネみたけ)火山古富士(こふ
じ)火山新富士(しんふじ)火山この中で先小御岳が最古であり
、数十万年前の更新世にできた火山である。東京大学地震研究所
が2004年4月に行ったボーリング調査によって、小御岳の下
にさらに古い山体があることが判エムゾネ明した。安山岩を主体と
するこの第4の山体は「先小御岳」と名付けられた。古富士は8
万年前頃から1万5千年前頃まで噴火を続け、噴出した火

15 :
降り積もることで、標高3,000m弱まで成長した。山頂は宝
永火口の北側1〜2kmのところにエムゾネあったと考えられてい
る。2009年10月に、GPSによる富士山の観測で地殻変動
が確認された。これは1996年4月の観測開始以来初めてのこ
とである。この地殻変動により最大2センチの変化が現れ、富士
宮市−富士吉田市間で約2cm伸びたエムゾネ。これはマグマが蓄
積している(活火山である)現れとされている。プレートの観点
からは、ユーラシアプレート外縁部で、北アメリカプレート又は
オホーツクプレートと接するフォッサマグナ(すぐ西に糸魚川静
岡構造線)に南からフィリピン海プレーエムゾネトが沈み込む位置
であり(ほぼ、相模トラフと駿河トラフ及び伊豆・小笠原・マリ
アナ島弧を陸上に延長した交点)、3個のプレートの境界域(三
重会合点(英語版))となっている。富士山下で沈み込んでいる
フィリピン海プレートのさらに下に太平洋エムゾネプレートが沈み
込んでおり、富士山のマグマは、東日本にある島弧火山と同様に
太平洋プレートに由来するものである。富士山の火山上の特徴は
、日本列島の陸上で他にない均整のとれた山体であること、日本
の火山のほとんどが安山岩マグマを多く噴出エムゾネしているのに
対し、富士山は玄武岩マグマを多く噴出すること、側火山が非常
に多いことがある。富士山頂山頂火口を上空より山頂火口山頂に
は火口(お鉢)がありこれを「大内院」と呼ぶ。これを囲むよう
にして8つの峰がありこれを八神峰と呼ぶ。火エムゾネ口の南西側
に最高点の剣ヶ峰があり二等三角点(点名は、富士山。標高37
75.51m2014年4月1日改算)、火口の北側には二等三
角点(点名は、富士白山。標高3756.23m2014年4月
1日改算)が設置されている。火口の構造は、国エムゾネ土地理院
によると、最深部の標高が3538.7m、火口の深さは約23
7m、山頂火口の直径は780m、火口底の直径は130

16 :
る。登山道を除く8合目より上は、富士宮市にある富士山本宮浅
間大社の私有地であるが、県境と市町村境界は未確エムゾネ定であ
る。2014年1月の富士山世界文化遺産協議会後の記者会見で
も静岡県知事の川勝平太と山梨県知事の横内正明は県境を定めな
いことを明言している。国土地理院がインターネット上で公開し
ている地形図では2013年10月から地図上の地点エムゾネを指
定すると住所、緯度・経度、標高が表示される機能が加わったが
、帰属未確定の地点の場合には近くの帰属が確定している住所が
表示されるという設定になっているため、富士山頂(剣が峰)を
指定すると静岡県富士宮市として表示されることが山梨エムゾネ県
などから指摘され、これを受けて富士山頂の住所表示については
非表示になるよう変更された。宝永山宝永山と宝永噴火口宝永山
(ほうえいざん)は宝永4年(1707年)の宝永大噴火で誕生
した側火山(寄生火山)である。富士山南東斜面に位置しエムゾネ
標高は2,693mである。宝永山の西側には巨大な噴火口が開
いている。これらを間近で見ることができる登山コースも整備さ
れている。詳細は「宝永山」を参照富士山と火山活動富士山の噴
火詳細は「富士山の噴火史」を参照最終氷期が終了した約1エムゾ
ネ万1千年前、古富士の山頂の西側で噴火が始まり、溶岩を大量
に噴出した。この溶岩によって、現在の富士山の山体である新富
士が形成された。その後、古富士の山頂が新富士の山頂の東側に
顔を出しているような状態となっていたと見られるが、約2,エム
ゾネ500〜2,800年前、風化が進んだ古富士の山頂部が大
規模な山体崩壊(「御殿場岩なだれ」)を起こして崩壊した。新
富士の山頂から溶岩が噴出していたのは、約1万1千年前〜約8
,000年前の3,000年間と、約4,500年前〜約3,2
エムゾネ00年前の1,300年間と考えられている。山頂部から
の最後の爆発的噴火は2300年前で、これ以降は山頂部

17 :
噴火は無いが、長尾山や宝永山などの側火山からの噴火が散発的
に発生している。延暦19年−21年(800年−802年)に
延エムゾネ暦噴火、貞観6年(864年)に青木が原溶岩を噴出し
た貞観大噴火。最後に富士山が噴火したのは宝永4年(1707
年)の宝永大噴火で、噴煙は成層圏まで到達し、江戸では約4c
mの火山灰が降り積もった。また、宝永大噴火によって富士山の
山体エムゾネに宝永山が形成された。その後も火山性の地震

18 :
が観測されており、今後も噴火の可能性が残されている。噴火の
年代が考証できる最も古い記録は、『続日本紀』に記述されてい
る、天応元年(781年)に富士山より降灰があったくだりであ
る。平エムゾネ安時代初期に成立した『竹取物語』にも、富士山が
作品成立の頃、活動期であったことを窺わせる記述がある。平安
時代の歴史書『日本三代実録』には貞観大噴火の状況が迫力ある
文体で記載され、平安時代中期の『更級日記』には、富士山の噴
気や火映エムゾネ現象を表した描写がある。宝永大噴火についての
記録は、新井白石による『折りたく柴の記』をはじめとした文書
、絵図等により多数残されている。その後も、噴煙や鳴動の記録
は多く残されているが、記述から見て短期間かつ小規模な活動で
終わったもエムゾネのと推測される。宝永大噴火以来300年にわ
たって噴火を起こしていないこともあり、1990年代まで小学
校などでは富士山は休火山と教えられていた。しかし先述の通り
富士山にはいまだ活発な活動が観測されており、また気象庁が休
火山という区エムゾネ分を廃止したことも重なり、現在は活火山に
区分されている。2013年7月20日、産業技術総合研究所は
、1999年から約15年分の踏査データや地質調査データをま
とめ富士火山地質図第2版(Ver.1)として発表し、201
6年には修正加エムゾネ筆が終了した。同時に、溶岩が流れ出す規
模の噴火は過去2000年間に少なくとも43回あったとしてい
る。山体崩壊の発生地震および噴火活動にともなう山体崩壊(岩
屑がんせつなだれ)が発生年代が不明確なものも含めて南西側に
5回、北東側に3エムゾネ回、東側に4回の計12回起きたとされ
ている。また、直下に存在が示唆されている活断層の活動による
マグニチュード7クラスの地震による崩壊も懸念されている。主
な発生歴約2900年前(御殿場泥流):東斜面で大規模(約1
8億立方メートル)エムゾネな山体崩壊が発生し、泥流が御

19 :
辺から東へは足柄平野へ、南へは三島周辺を通って駿河湾へ流下
、山体崩壊の発生原因は不明。1331年の元弘地震に伴い発生
。1891年濃尾地震に伴い発生。災害対策火山噴火予知連絡会
(気象庁)−富士山のエムゾネみを限定するものではないが、日本
の火山活動についての検討を実施する。状況に応じて見解を発表
するが、噴火の日時を特定して発表することはない。定例会は年
3回実施されるが、噴火時には随時開催される。2000年10
月に富士山の低周波地震エムゾネが増加した際は、ワーキンググル
ープが設置され、富士山に関する基礎データの収集・整理、監視
体制の検討、火山情報発信の方法などが集中的に検討された。富
士山ハザードマップ検討委員会(内閣府防災担当)−噴火時の広
域避難のために必要なハザエムゾネードマップの作成が、検討委員
会を通じて進められている。富士直轄砂防事業(国土交通省)−
大沢崩れを源にして発生する大規模な土石流から、下流の保全対
象を守る砂防事業を実施中。山梨県は2015年6月11日、「
富士山噴火時避難ルートマッエムゾネプ」を作成した。「静岡市市
長の田辺信宏は2016年1月22日の定例記者会見で、市消防
航空隊が2013年、富士山で滑落した登山者を救助中にヘリコ
プターから落下させ、この登山者が死亡した事故を受け、再発防
止策として、市消防局がヘリでエムゾネ救助できる山の高さに32
00メートルと上限を設けたことを明らかにした。」。地殻変動
の観測国の機関(防災科学技術研究所、気象庁、国土地理院、産
業技術総合研究所)及び大学(東京大学地震研究所)などにより
観測が行われている。国土地理院エムゾネ:地磁気観測点が、鹿野
山測地観測所、水沢測地観測所および江刺観測場に設置されてい
る。また、山頂にはGPSの電子基準点。気象庁観測所:地震計
(山頂、御殿場口8合目、吉田口6合目、鳴沢塒塚東、太郎坊)
、傾斜計(太郎坊)、空振計(太郎エムゾネ坊、上井出)、

20 :
(太郎坊)、望遠カメラ(萩原)防災科学技術研究所:火山活動
可視情報化システム(VIsualizationsystem
forVolcanicActivity)噴出物災害などへの
対策国土交通省、富士砂防事務所:静エムゾネ岡県、山梨県と連携
し火砕流、溶岩流などの火山活動に伴う災害を防ぐための調査・
検討を実施しハザードマップが作成されている。しかし、山体崩
壊を想定したハザードマップは2012年現在未作成である。富
士山と気象気候山頂は最暖月の8月でもエムゾネ平均気温が6℃し
かなく、ケッペンの気候区分では最暖月平均気温が0℃以上10
℃未満のツンドラ気候に分類される。太平洋側の気候のため1月
や2月は乾燥し、3月、4月、5月、6月が最深積雪トップ10
を占める。観測史上最低気温は−38.0エムゾネ℃で最高気温が
−30℃未満の日も過去に数回観測されていて−30℃を上回る
ことがない1日というのは北海道でも例がない。富士山での気象
観測かつて気象庁東京管区気象台が富士山頂剣ヶ峯に設置してい
た気象官署が富士山測候所である。現在は富エムゾネ士山特別地域
気象観測所となっており、自動気象観測装置による気象観測を行
っている。詳細は「富士山測候所」を参照気象現象山体に強風が
吹くと砂が巻き上げられ、周辺の自治体に降ることがある。20
10年12月15日には、神奈川県の西部からエムゾネ南部にかけ
て黒い砂が積もり、その状況から富士山の砂が巻き上げられ、西
風に乗り降り積もったと考えられると報道された。富士山北麓の
一部農地(現在の山梨県富士吉田市など)では、富士山の標高2
600m付近に現れる農鳥(鳥の形に見える残雪エムゾネ)の出現
する時期によって、農作物が豊作になる・凶作となるという言い
伝えがある。富士山では山岳波が発生することもあり墜落事故も
起きている(英国海外航空機空中分解事故など)。富士山麓の自
然環境富士山麓の天然記念物として、「富士山原始エムゾネ

21 :
青木ヶ原樹海」(天然記念物:1926年2月24日指定、20
10年3月8日追加指定・名称変更)、「富士風穴」(天然記念
物:1929年12月17日指定)などがある。伏流水白糸の滝
(静岡県)富士山に降った雨や雪は、長い年月をかけエムゾネ伏流
水として地下水脈を流れ湧き出てくる。最も高い地点から湧き出
す湧水として確認されている例は標高1670m(富士宮口二合
目付近)とされ、その他山麓を帯状に分布している。富士

22 :
おける湧水の総湧出量は1968年で1日あたり154エムゾネ万
立方メートル以上だという。しかし、近年湧出量の減少が確認さ
れている例がある。地域名称南東麓されてい柿田川(日本三大清
流)、小浜池南麓吉原湧泉群西麓湧がってい玉池(特別天然記念
物)、白糸の滝(国指定の名勝及び天然記念物)、猪之頭エムゾネ
湧泉群北麓忍野八海(国指定の天然記念物)またの、一部で駿河
湾や富士五湖の西湖(水深25m付近)で湧出があるとされてい
る。富士山を源とする伏流水を利用し、周辺地域で製紙業や医薬
関連の製造業などの工業が活発に行われている。また、富士エムゾ
ネ山の伏流水はバナジウムを豊富に含んでいるため、ミネラルウ
ォーターとして瓶詰めされ販売されている。溶岩洞窟西湖コウモ
リ穴入口富士山麓周辺には大小100以上の溶岩洞窟が形成され
ている。その中でも総延長2139mの三ツ池穴(静岡県富士エム
ゾネ宮市)は溶岩洞窟として日本一の長さを誇る。また、山麓周
辺で最大規模の溶岩洞窟として西湖コウモリ穴(山梨県南都留郡
富士河口湖町)があり、国の天然記念物に指定されている。その
他、鳴沢氷穴(山梨県南都留郡鳴沢村)も国の天然記念物に指定
エムゾネされている。植生富士山は標高は高いが、日本の他の高山
に比較すると高山植物などの植生に乏しい。これは富士山が最終
氷期が終了した後に山頂から大規模な噴火が繰り返したために山
の生態系が破壊され、また独立峰であるため、他の山系からの植
物エムゾネの進入も遅れたためである。しかし、宝永山周辺ではい
くらか高山植物が見られる。山の上部ではタデ科オンタデ属のオ
ンタデ(御蓼)、山腹ではキク科アザミ属のフジアザミ(富士薊
)が自生している。中部山岳地帯の高山の森林限界の上にはハイ
マツエムゾネ帯が広がっているのが通例であるが、富士山にはハイ
マツ帯は欠如し、その代替にカラマツ林が広がっている。人間史
富士山本宮浅間大社古代古代より富士山は山岳信仰の対象

23 :
、富士山を神体山として、また信仰の対象として考えることなど
を指しエムゾネて富士信仰と言われるようになった。特に富士山の
神霊として考えられている浅間大神とコノハナノサクヤビメを主
祭神とするのが浅間神社であり全国に存在する。浅間神社の総本
宮が麓の富士宮市にある富士山本宮浅間大社(浅間大社)であり
、富士宮エムゾネ市街にある「本宮」と、富士山頂にある「奥宮」
にて富士山の神を祭っている。詳細は「富士信仰」を参照古代で
は富士山は駿河国のものであるとする考え方が普遍的であった。
これらは「高く貴き駿河なる富士の高嶺を」(山部赤人『万葉集
』)や「富エムゾネ士山は、駿河国に在り。」「富士山は駿河の国
の山で(省略)まっ白な砂の山である」(都良香『富士山記』)
、「駿河の国にあるなる山なむ」(『竹取物語』)など広く見ら
れるものである。しかし「なまよみの甲斐の国うち寄する駿河の
国とこちごちエムゾネの」(「高橋虫麻呂」『万葉集』)のように
駿河国・甲斐国両国を跨ぐ山であるという共有の目線で記された
貴重な例もある。それより後期の時代、イエズス会のジョアン・
ロドリゲスは自著『日本教会史』にて「富士山は駿河国に帰属し
ている」としてエムゾネいるため、帰属は駿河国という関係は継続
されていたと考えられる。登山口は末代上人が開いた登山道を起
源とし、登山道が完成されたそれが最初の登山道と言われる村山
口である。これにより富士修験が成立したとされる。次第に他の
登山道も開削されエムゾネてゆき、大宮・村山口、須山口、須走口
が存在してる。神仏習合は富士山も例外ではなかった。山頂部は
仏の世界と考えられるようになり、特別な意味を持つようになっ
た。遺例としては正嘉3年(1259年)の紀年銘である木造坐
像が古いとされ、こエムゾネれは大日堂(村山)の旧本尊であった
。鎌倉時代の書物である『吾妻鏡』には神仏習合による「富士大
菩薩」や「浅間大菩薩」という呼称が確認されている。富

24 :
の8つの峯(八神峰)を「八葉」と呼ぶことも神仏習合に由来し
、文永年間(1264エムゾネ年−1275年)の『万葉集註釈』
には「いただきに八葉の嶺あり」とある。その他多くの書物で「
八葉」の記述が確認できる。江戸時代江戸時代になると、徳川家
康による庇護の下、本殿などの造営や内院散銭取得における優先
権を得たことを基に江戸エムゾネ幕府より八合目以上を寄進された
経緯で、現在富士山の八合目より上の部分は登山道・富士山測候
所を除き浅間大社の境内となっている。登山の大衆化と共に村山
修験や富士講などの一派が形成され、富士信仰を発展させていっ
た。富士講の隆盛が見られエムゾネた18世紀後半以降、新興宗教
として旧来の登山道では発展できなかったために吉田口を利用す
る道者が目立つようになっていたと考えられ、18世紀後半以降
では、他の登山口の合計と同程度であったという。富士参詣の人
々を「道(導)者」といい、エムゾネ例えば『妙法寺記』の明応9
年(1500年)の記録に「此年六月富士導者参事無限、関東乱
ニヨリ須走へ皆導者付也」とある。また、登山における案内者・
先導者を「先達」といい、先達の名が見える道者帳(『公文富士
氏文書』、文中に「永禄6年」エムゾネとあり)などが確認されて
いる。明治以後慶応4年(1868年)に神仏分離令が出される
と、これら神仏習合の形態は大きく崩されることとなる。富士山
中や村山における仏像の取り壊しなどが進んだ。富士山興法寺は
分離され、大日堂は人穴浅間神社エムゾネとなり大棟梁権現社は廃
されるなど改変が進んだ。北口本宮冨士浅間神社では仁王門や護
摩堂などが取り壊されることとなった。仏教的な名称なども改称
され、「八葉」の呼び名も変更された。1883年(明治16年
)に御殿場口登山道が、1906年エムゾネ(明治39年)に新大
宮口が開削された。富士山は平成23年(2011年)2月7日
に国指定文化財である「史跡」に指定された。史跡として

25 :
山は複数の資産から構成され「史跡富士山」として包括されてい
る。指定範囲は静岡県は富士宮市・裾エムゾネ野市・駿東郡小山町
、山梨県は富士吉田市・南都留郡富士河口湖町・鳴沢村である。
このとき富士山八合目以上の山頂部や各社寺、登拝道(登山道)
が指定された。その後富士山本宮浅間大社社有地の一部、人穴富
士講遺跡、各登山道が追加指定された。エムゾネ登山史富士登山の
伝承においては伝説的な部分が多く入り混じっており、諸

26 :
する。富士山の登山史和暦西暦内容補足推古天皇6年598年平
安時代の甲斐の黒駒伝承には、聖徳太子が神馬に乗り富士山の上
を越えたとする記述がある。諸国からが多エムゾネ献上された数百
匹の中から白い甲斐の烏駒(くろこま)を神馬であると見抜き、
同年9月に太子が試乗すると、馬は天高く飛び上がり東国へ赴き
、富士山を越えて信濃国まで至ると、3日を経て都へ帰還したと
いう。天智天皇2年663年役小角が県は富エムゾネ、流刑したさ
れた伊豆大島から毎晩密かに逃げ出し、富士山へ登ったという伝
説が残る。役小角は「富士山開山の祖」ともいわれる。この役小
角の登山はマルセル・クルツの『世界登頂年代記』に掲載されて
おり、記録は改訂されたものの「世界初の登山エムゾネ」という記
述がされていた。貞観17年875年平安時代の学者である都良
香が『富士山記』の中で山頂火口のさまを記す。山頂には常に沸
き立つ火口湖があり、そのほとりに虎の姿に似た岩があるなど、
実際に見た者でなければ知りえない描写から、実エムゾネ際に登頂
したか、または登頂した者に取材したと考えられる。なおこの約
10年前には山頂噴火ではないが有史最大の貞観大噴火があった
。久安5年1149年『本朝世紀』には末代上人が数百回の登山
を繰りかえしたとある。回数は一致するものかは不エムゾネ明であ
るが、登山を多く行った人物として知られる。江戸時代に入ると
富士講が盛んになり、多くの参拝者が富士登山(富士詣)をした
。特に江戸後期には講社が多数存在し、富士詣は地域社会や村落
共同体の代参講としての性格を持っていた。最盛期にエムゾネは吉
田口だけで百軒近くの宿坊(山小屋)があった。文政11年18
28年気圧計による高度測定の試みシーボルトの弟子である二宮
敬作が登頂し、気圧の変化により高度測定を行った。伊能忠敬の
測量では2603m−3732mとされていたが、このエムゾネ測
定では3794.5mと算出されている。天保3年183

27 :
山たつが女性として初登頂。女人禁制が敷かれていた時代である
。嘉永6年1852年松平宗秀(本庄宗秀)が近世大名として初
登頂。富士宮市の有形文化財となっている、造り酒屋の主エムゾネ
人が記した「袖日記」という古記録に宮津藩主松平宗秀が富士登
山を行った記録がある。袖日記の6番によると、宗秀は江戸と宮
津を参勤交代で往復しているうちに富士山に登ろうと思い始めた
が、参勤交代の道程は幕府に指定されたルートであり、これエムゾ
ネを逸脱したコースを通ったり、たとえ社寺参詣であっても寄り
道することは許されないため、富士に登ることを幕府に願い出る
も中々許可が出ず、3年を経て許可を得るも「馬返し」と呼ばれ
る地点までであった。(馬返しというのは一合目よりも下の場エム
ゾネ所であり、登山客はここで馬を下りて山に登るという所)そ
こで宗秀は嘉永6年(1852)6月21日、幕府に内緒で登山
を決意し、明け方から出発して山を登り始め、昼過ぎには頂上に
着いたという。宗秀の富士山登頂は、近世大名が富士登山を行っ
エムゾネた唯一の記録となった。万延元年1860年英国公使オー
ルコックが外国人として初登頂。『古事類苑』にオールコックの
登山についての記録(富士重本が寺社奉行所に提出した届出)が
あり、「英人富士山ヲ測量スルニ就キ、大宮司ヨリ届書寫…廿二
日エムゾネ大雨にて、廿四日晝立、大宮小休、村山泊に相成り、廿
五日快晴致し、不士山六合目へ泊り、廿六日快晴頂上いたし…」
とある。オールコックは7月24日に大宮から村山に入り登山を
行い、26日に登頂した。明治4年1872年女人禁制が解かれ
る。エムゾネ明治時代になると信仰登山は徐々に衰退してゆき、代
わって娯楽やスポーツとしても登られるようになり、欧米の近代
登山技術が取り入れられることになる。明治25年1892年英
国人のウォルター・ウェストンが登頂。翌年にも登頂した。その
後本をエムゾネ出版し富士山などの日本の山々を世界に紹介

28 :
明治28年1895年野中到が冬季初登頂。2月16日に御殿場
口から単独で登頂。同年10月から12月まで山頂で気象観測を
行った。大正12年1923年皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)
の登山7エムゾネ月26日の事、須走に赴いてから8合目まで乗馬
にて登山後、8合目以上は徒歩にて登山を行なった。奥宮を参拝
し金剛棒に焼印などを行った後、御殿場口より下山された。大正
12年1923年秩父宮雍仁親王の登山8月20日の夜に御殿場
口から登山エムゾネし、翌朝頂上に到着。奥宮を参拝後、下山。昭
和2年1927年中村テルが冬季女性初登頂1月1日に御殿場口
から登頂、男性2人と共に。昭和63年1988年浩宮徳仁親王
(当時)の登山。8月1日−2日の登山で、須走口から八合目を
往復した。天エムゾネ候の悪化で登頂は断念される。平成20年2
008年皇太子徳仁親王が登頂。8月7日に富士宮口を出発後、
御殿場口登山道に入り登頂。富士山を巡る利権争い山役銭と内院
散銭『冨嶽三十六景諸人登山』山麓の各地域には各登山道があり
、特に村山口とエムゾネ大宮口、須走口、須山口が古来の登山道で
あり、その登山道を管理する地域の浅間大社が山役銭を徴収して
いた。これらの地域は互いに山役銭などを巡り、争いを起こして
いる。特に内院散銭は相当額になるため、争いの火種になりやす
かった。例えば須エムゾネ走村への配分だけでも1年で76両を越
えたといい、一戸に約一両が配当される計算になるという。内院
散銭の権利は、大名などに与えられた権利を根拠に主に3地域に
よって争われた。「村山」と「須走」と「大宮」である。村山に
おいては、1533エムゾネ年(天文2年)に村山三坊の「辻之坊
」が今川氏輝により内院散銭の取得権を与えられている。須走は
1577年(天正5年)に武田氏により薬師堂(現在の久須志神
社)の開帳日の内院散銭の取得権が与えられている。大宮は16
09年(慶長14年)エムゾネに徳川家康が内院散銭を浅間

29 :
寄進し、内院散銭の取得の優位権を得ている。浅間大社の大宮司
が村山より登る際は山役銭を取られたので、村山を避け「須走」
から登拝する慣例などもあった。新規に出来た登山道である現富
士吉田口は、登山道を管エムゾネ理している「須走」に許可なく、
浅間大社の大宮司富士信安など富士氏が自分たちに山役銭を支払
えば、「須走」の登山道を利用するにも関わらず勝手に山がけ(
登山道を作り山小屋を建てる)の許可を与えたことで論争

30 :
、「河口」と「吉田」は1エムゾネ810年に登山ルートや山役銭
の徴収方法で論争を起こし、「大宮」と「吉田」では薬師堂にお
ける役銭の配分で争っている過去などがある。元禄の争論元禄1
6年(1703年)に散銭や山小屋経営を巡り須走村が富士浅間
神社本宮(浅間大社)を訴えエムゾネた争論が元禄の争論である。
須走村側は東口本宮冨士浅間神社の神主や御師らが、浅間大社の
大宮司富士信安など富士氏らを相手取り寺社奉行に訴え出た。訴
えは三か条であった。1つは浅間大社が吉田村の者に薬師嶽の小
屋掛けを認めたことへの不服、エムゾネ2つ目は浅間大社側が造営
した薬師堂の棟札に「富士本宮が入仏を勤める」という旨の記述
があることを、須走の既得権を犯すものであるというもの、3つ
目は内院の散銭取得における2番拾いは須走側が得るという慣例
となっているとし、それを浅間大エムゾネ社が取得しているという
訴えである。これに対し訴えられた浅間大社側は江戸に赴き、薬
師嶽は須走村の地内ではないこと、薬師堂の入仏については浅間
大社側が造営したものであるので権利は浅間大社にあること、散
銭の2番拾いの慣例は根拠がないとエムゾネいうことを主張した。
それらは第三者に委ねる内済という扱いとなり、その内済にて「
他の者に小屋掛けさせないこと」「薬師堂の入仏は須走村が行う
こと」「内院散銭は一番拾いを大宮と須走で6:4で分け、2番
拾いは須走が得るものとする」というエムゾネ決定となり、以後こ
れらは遵守された。安永の争論安永元年(1772年)に、須走
村が山頂の支配権は同村の支配にあるとして浅間大社を相手とし
て訴えた争論が安永の争論である。またこれをみた浅間大社側の
富士民済も反論を起こした。さらに吉田エムゾネ村と浅間大社とで
支配地域を確定する争論もあったため、ここに大宮・新規参入で
ある吉田と須走の争いの決着が望まれることとなり、勘定奉行な
ども関わる大論争となった。安永8年(1779年)に持

31 :
れることとなった。結論は徳川家康が富士エムゾネ山本宮浅間大社
を信奉していたという幕府側の配慮があり、勘定奉行・町奉行・
寺社奉行のいわゆる三奉行による裁許で、最終的に富士山の8合
目より上は、富士山本宮浅間大社持ちとすることが決定された。
この2者の争論を起因とする裁判により、こエムゾネれまで曖昧で
あった山頂の支配権やその他権利の所在などが、江戸幕府により
明確に定められることとなった。富士山と眺望特別名勝としての
富士山富士山は昭和27年(1952年)10月7日に「名勝」
に指定され、同年11月22日に「特別名勝」エムゾネに指定され
た。山梨県側は富士吉田市・船津村(現・富士河口湖町)・鳴沢
村・中野村(現・山中湖村)の範囲が指定された。静岡県側は御
中道に囲まれる地域全部および富士宮口登山道(富士宮市)と御
殿場口登山道(御殿場市)を挟む標高1,500エムゾネm以上の
地域、またこれと重複しない一合目以上御中道に至る富士宮口登
山道および須走口登山道(小山町)が範囲となっている。富士山
の眺望ウィキメディア・コモンズには、各地点からの富士山の眺
望に関連するカテゴリがあります。富士山への良好エムゾネな眺望
が得られる128景233地点を、国土交通省関東地方整備局が
関東の富士見百景として、2005年(平成17年)に選定した
。羽田空港から西に向かう国内便などでは富士山の上空を通過す
る。その際、機長が富士山を案内するアナウンスをすエムゾネるこ
とが多い。また、新年のご来光を見るための遊覧飛行便も運行さ
れる。富士山の眺望の最遠は2013年現在、和歌山県那智勝浦
町である。那智勝浦の色川富士見峠(妙法山とは別)は、富士山
頂からの距離は322.9キロで、一番遠く最も西にあエムゾネる
とされる。また、眺望の北限は2017年1月16日に福島県川
俣町と飯舘村にまたがる花塚山(標高919m)と日本地図セン
ターにより認定された(富士山からは308kmの距離に

32 :
。南東方向に約271Km離れた八丈島の三原山からも眺エムゾネ
望される。富士山の見える都道府県は、理論上可能とされていた
京都府から2014年に撮影に成功したことにより、20都道府
県となった。様々な表情の富士山富士山の表情は、見る場所・角
度・季節・時間によって様々に変化する。富士と名が付く、エムゾ
ネいくつかの姿がある。画像富士山の姿解説赤富士夏の朝、露出
した山肌が朝焼けにより赤くなった姿。葛飾北斎をはじめとした
画家が「赤富士」を描いた絵画を残した。紅富士雪化粧した富士
山が朝日や夕日で紅色に染まる姿。「モルゲンロート」(ドイエム
ゾネツ語Morgenrot)が用いられる場合がある。逆さ富
士波立ちが少ない水面に映る逆さの富士山の光景。D五千円券の
裏の図案に、本栖湖の逆さ富士が使用された。竜ヶ岳(山梨県)
から望む日の出時のダイヤモンド富士(2015年12月5日撮
エムゾネ影)ダイヤモンド富士太陽が昇った時又は沈む時、太陽が
富士山の頂上と重なり、富士山の頂上付近がダイヤモンドのよう
に光る現象。富士山が見える西又は東の場所から、年に2回見る
ことができる。影富士朝日や夕日で富士山の山容の影が周囲に映
しエムゾネ出される風景。富士山登山時に山の上部から、雲海の上
に見られる場合がある。笠雲笠雲とレンズ雲を伴う。富士山の頂
上に傘をかぶせた雲がある風景。その際は、次第に麓では曇りま
たは雨になることが多い。「表富士」と「裏富士」『不二三十六
景甲エムゾネ斐夢山裏富士』現在も富士山の山小屋や登山道の道標
として「表口」や「裏口」という表現がみられ、一般的に静岡県
から見た富士山を表富士、山梨県からの姿を裏富士として認知さ
れているが、これには歴史的背景がある。延宝8年(1680年
)に作エムゾネ成された『八葉九尊図』では既に「するが口表」と
いう表記がある。他に『甲斐国志』巻35ではこのような記述が
ある。登山路ハ北ハ吉田口、南ハ須走口・村山口・大宮口

33 :
ナリ、(中略)南面ヲ表トシ、北面ヲ裏トスレドモ、…〜〜『甲
斐国志』エムゾネ他の資料にも共通した記述がみられ、このように
南麓を表、北麓を裏とする考え方は一般的な認識であったと言え
る。これとは別に「裏富士」という言葉があり、葛飾北斎の『富
嶽百景裏不二』『冨嶽三十六景身延川裏不二』や歌川広重の『不
二三十六景エムゾネ甲斐夢山裏富士』など、作品名に採用されてい
る例がみられる。富士山の文化美術における富士山三峰型

34 :
例絹本着色富士曼荼羅図狩野元信(伝)峰型富士の例(上図)と
同じ構図の実写富士は、ギャラリーに掲載富士山絵画は平安時代
に歌枕としてエムゾネ詠まれた諸国の名所を描く名所絵の成立とと
もにはじまり、現存する作例はないものの、記録からこの頃には
富士を描いた名所絵屏風の画題として描かれていたと考えられて
いる。現存する最古の富士図は法隆寺献納宝物である延久元年(
1069年)のエムゾネ『聖徳太子絵伝』(東京国立博物館)で、
これは甲斐の黒駒伝承に基づき黒駒に乗った聖徳太子が富士を駆
け上る姿を描いたもので、富士は中国山水画風の山岳図として描
かれている。楽焼白片身変茶碗銘不二山(国宝)鎌倉時代には山
頂が三峰に分かれエムゾネた三峰型富士の描写法が確立し、『伊勢
物語絵巻』『曽我物語富士巻狩図』など物語文学の成立とともに
舞台となる富士が描かれ、富士信仰の成立に伴い礼拝画としての
『富士曼陀羅図』も描かれた。また絵地図などにおいては反弧状
で緑色に着色されたエムゾネ他の山に対して山頂が白く冠雪した状
態で描かれ、特別な存在として認識されていた。室町時代の作と
される『絹本著色富士曼荼羅図』(富士山本宮浅間大社所蔵、重
要文化財)には富士山とその富士山に登る人々や、禊ぎの場であ
った浅間神社や湧玉池エムゾネが描かれており、当時の様子を思わ
せるものである。また、富士山は三峰型富士で描かれている。凱
風快晴、葛飾北斎作江戸時代には明和4年(1767年)に河村
岷雪が絵本『百富士』を出版し、富士図の連作というスタイルを
提示した。浮世絵のジャエムゾネンルとして名所絵が確立すると、
河村岷雪の影響を受けた葛飾北斎は晩年に錦絵(木版多色摺)に
よる富士図の連作版画『冨嶽三十六景』(天保元年1831年頃
)を出版した。多様な絵画技法を持つ北斎は大胆な構図や遠近法
に加え舶来顔料を活かしたエムゾネ藍摺や点描などの技法を駆使し
て中でも富士を描き、夏の赤富士を描いた『凱風快晴』や

35 :
白雨』、荒れ狂う大波と富士を描いた『神奈川沖浪裏』などが知
られる。また、歌川広重も北斎より後の1850年代に『不二三
十六景』『冨士三十六景』をエムゾネ出版した。広重は甲斐国をは
じめ諸国を旅して実地のスケッチを重ね作品に活かしている。『
東海道五十三次』でも、富士山を題材にした絵が多く見られる。
北斎、広重らはこれらの連作により、それまで富士見の好スポッ
トと認識されていなかった地点エムゾネや、甲斐国側からの裏富士
を画題として開拓していった。工芸品としては本阿弥光悦が自ら
制作した楽焼の茶碗に富士山の風情を見出し、「不二山」と銘打
っている。50銭政府紙幣(1938年発行)岡田紅陽が撮影し
た愛鷹山からの富士山がモデル。エムゾネ富士は日本画をはじめ絵
画作品や工芸、写真、デザインなどあらゆる美術のモチーフとし
て扱われている。日本画においては近代に殖産興業などを通じて
富士が日本を象徴する意匠として位置づけられ美術をはじめ商業
デザインなどに幅広く用いられ、絵エムゾネ画においては伝統を引
き継ぎつつ近代的視点で描かれた富士山絵画が制作された。また
、鉄道・道路網など交通機関の発達により数多くの文人・画家が
避暑地や保養地としての富士山麓に滞在し富士を題材とした作品
を製作しているが、富士を描いた風景エムゾネ画などを残している
画家として富岡鉄斎、洋画においては和田英作などがいる。富士
山をモチーフとした美術品は当時のヨーロッパでも多く流通して
おり、このことから富士山もヨーロッパで広く知られていた。1
893年(明治26年)、日本を旅行しエムゾネていたオーストリ
ア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大
公は、日記に次のように書いている。フジサン、フジノヤマ。い
ったい、この日本の象徴――ヨーロッパではふつうフジヤマと呼
ばれる――を知らない者などいるのだろうエムゾネか〜ヨーロッパ
でもっとも好まれる日本工芸のデザインとして漆器、陶磁

36 :
紙、金属などに描かれているから、もう、わたしたちにはお馴染
みだ。〜〜8月15日付戦時下には国家により富士は国体の象徴
として位置づけられ、富士は国家のシンボルエムゾネとして様々に
描かれた。戦後には国体のシンボルとしてのイメージから解放さ
れた「日本のシンボル」として、日本画家の横山大観や片岡球子
らが富士を描いた。また、現代美術の世界ではこれらの伝統的画
題へのアンチテーゼとしてパロディや風刺、アエムゾネイコンとし
て富士を描く傾向も見られる。深田久弥は『日本百名山』の中で
富士山を「小細工を弄しない大きな単純」と評し、「幼童でも富
士の絵は描くが、その真を現わすために画壇の巨匠も手こずって
いる」という。日本画全般の題材として「富士見エムゾネ西行」が
あり、巨大な富士山を豆粒のような人物(僧、西行法師)が見上
げるという構図で、水墨画や彫金でも描かれている。千円札、旧
五千円札のモデルとなった本栖湖からの富士山近代では紙幣や切
手のデザインにも用いられている。富士山が紙幣のエムゾネデザイ
ンに用いられる例は数多くある。古くは1913年発行の50銭
政府紙幣があり、愛鷹山からの富士山でる。その後の1951年
と1969年発行の旧五百円札は大月市の雁ヶ腹摺山からの富士
山を元にしている。1984年発行の旧五千円札と2エムゾネ00
4年発行の千円札は本栖湖の湖畔からの富士山である。富士山を
描写した切手が郵便局から発売された。河口湖、西湖、精進湖、
本栖湖、山中湖(1999年(平成11年))葛飾北斎(199
9年(平成11年))オオマツヨイグサ・山梨県(20エムゾネ0
5年(平成17年))文学における富士山富士山は和歌の歌枕と
してよく取り上げられる。また、『万葉集』の中には、富士山を
詠んだ歌がいくつも収められている。「田子の浦ゆうち出でてみ
れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」(3.318)エムゾネ
は山部赤人による有名な短歌(反歌)である。また、この

37 :
その次には作者不詳の長歌があり、その一節に「…燃ゆる火を雪
もち消ち降る雪を火もち消ちつつ…」(巻3・319・大意「(
噴火の)燃える火を(山頂に降る)雪で消し、(山頂に)降エムゾ
ネる雪を(噴火の)火で消しつつ」)とあり、当時の富士山が火
山活動を行っていたことがうかがえる。『新古今和歌集』から。
富士の煙が歌われている。風になびく富士の煙の空にきえてゆく
へもしらぬ我が心かな西行(#1613)都人にとって富士

38 :
ゾネ遠く神秘的な山として認識され、古典文学では都良香『富士
日記』が富士の様子や伝承を記録している。『竹取物語』は物語
後半で富士が舞台となり、時の天皇がかぐや姫から贈られた不老
不死の薬を、つきの岩笠と大勢の士に命じて天に一番近い山の山
エムゾネ頂で燃やしたことになっている。それからその山は数多の
士に因んでふじ山(富士山)と名付けられたとする命名説話を記
している。なお、富士山麓の静岡県富士市比奈地区には、「竹採
塚」として言い伝えられている場所が現存している。ほか、『源
氏エムゾネ物語』や『伊勢物語』でも富士に言及される箇所がある
ものの、主要な舞台となるケースは少ない。富士は甲駿の国境に
位置することが正確に認識されており、古代においては駿河国に
帰属していたため古典文学においては駿河側の富士が題材となる
ことエムゾネが多いが、『堤中納言物語』では甲斐側の富士につい
て触れられている。また、「八面玲瓏」という言葉は富士山から
生まれたといわれ、どの方角から見ても整った美しい形を表して
いる。中世から近世には富士北麓地域に富士参詣者が往来し、江
戸期にエムゾネは地域文芸として俳諧が盛んであった。近代には鉄
道など交通機関の発達や富士裾野の観光地化の影響を受けて、多
くの文人や民俗学者が避暑目的などで富士へ訪れるようになり、
新田次郎や草野心平、堀口大學らが富士をテーマにした作品を書
き、山岳エムゾネ文学をはじめ多くの紀行文などに描かれた。富士
山麓に滞在した作家は数多くおり、武田泰淳は富士山麓の精神病
院を舞台とした小説『富士』を書いており、妻の武田百合子も泰
淳の死後に富士山荘での生活の記録を『富士日記』として記して
いる。津島エムゾネ佑子は山梨県嘱託の地質学者であった母方の石
原家をモデルに、富士を望みつつ激動の時代を過ごした一族の物
語である『火の山―山猿記』を記した。また、北麓地域出身の文
学者として自然主義文学者の中村星湖や戦後の在日朝鮮人

39 :
の李良枝がおエムゾネり、それぞれ作品の中で富士を描いており、
中村星湖は地域文芸の振興にも務めている。太宰治が昭和14年
(1939年)に執筆した小説『富嶽百景』の一節である「富士
には月見草がよく似合ふ」はよく知られ、山梨県富士河口湖町の
御坂峠にはそのエムゾネ碑文が建っている。直木賞作家である新田
次郎は富士山頂測候所に勤務していた経験をもとに、富士山の強
力(ごうりき)の生き様を描いた直木賞受賞作『強力伝』や『富
士山頂』をはじめ数々の富士にまつわる作品を執筆している。高
浜虚子は静岡県富エムゾネ士宮市の沼久保駅で降りた際、美しい富
士山を見て歌を詠んだ。駅前にはその歌碑が建てられている。「
とある停車場富士の裾野で竹の秋/ぬま久保で降りる子連れ花の
姥」富士山と地域振興富士山一帯の宗教施設や避暑、富士登山を
目的とする観光客相エムゾネ手の観光業も活発に行われている。し
かし、富士山麓には温泉地として成立する規模の湯量は湧出して
いない。富士山の利用について、静岡県側が自然・文化の保護を
重視するのに対し、山梨県側は伝統的に観光開発を重視しており
、山頂所有権問題、山エムゾネ小屋トイレ問題、マイカー規制問題
、世界遺産登録問題等、過去から現在に至るまでの折々で双方の
思惑の相違が表面化している。富士山と観光富士登山富士登山に
は登山の知識や経験、装備が不可欠である。一般的には、毎年7
月1日の山開きから9月エムゾネ上旬の山じまいまでの期間、登山
が可能である。期間外は、万全な準備をしない者の登山は原則禁
止されている。とくに積雪期・残雪期の登山は自殺行為である。
詳細は「富士登山」を参照その他の観光その優美な姿から、富士
山が見える場所は著名な観エムゾネ光地となっていることが多い。
箱根−箱根は富士山が望めるうえに、東京から近く温泉や歴史・
美術館や各種の乗り物が楽しめることもあり、年間を通じて内外
の観光客が絶えない。また、夏は避暑地としても有名であ

40 :
士五湖−富士五湖は富士山周エムゾネ辺の観光地として著名であり
、本栖湖の逆さ富士が日本銀行券に採用されている。白糸の滝−
白糸の滝は上流に川は存在せず、富士山の雪解け水が溶岩断層か
ら湧き出す非常に珍しい形成をしている滝である。また、音止め
の滝と共に日本の滝百選に指定エムゾネされている。朝霧高原−朝
霧高原は富士山を綺麗に臨むスポットとして著名であり、その自
然と広大な土地もあり過去に第13回世界ジャンボリーも開催さ
れている。ダイヤモンド富士−ダイヤモンド富士などがはっきり
と拝める田貫湖や山中湖といったエムゾネスポットも有名で、特に
写真撮影を目的として訪れる観光客もいる。ドライブ−富士スバ
ルラインや富士山スカイラインなどを利用して、5合目までマイ
カーで上がることができる。シーズン中はマイカー規制の期間が
あり、冬期は閉鎖される。富士山のエムゾネ日(2月23日)2月
23日を「2:ふ・2:じ・3:さん」と語呂合わせで読み「富
士山の日」として制定している自治体がある。2001年(平成
13年)山梨県富士河口湖町(当時は河口湖町)にて条例を制定
。2002年(平成14年)山梨県富エムゾネ士吉田市を中心に、
山梨県の富士山麓10市町村、2恩賜林組合が了承。2009年
(平成21年)12月21日静岡県議会にて条例を全会一致で可
決。同年12月25日条例を制定。静岡県、山梨県どちらも、富
士山は普段の生活に溶け込み過ぎておりエムゾネ、「あって当たり
前」の空気のような存在である。そのため「富士山の日」に、各
自治体や県内企業などがさまざまなイベント等を催し、参加する
事など通じて、身近すぎる富士山を改めて、日本のシンボルとし
ても名高い名峰として再認識する機会としエムゾネている。また併
せて富士山の世界遺産登録に向けた動きを地元から活発化したい
との期待も込められている。静岡県教育委員会で、各市町村に対
して2011年(平成23年)より「富士山の日」を学校

41 :
とするよう要望した。休業日として組み込んエムゾネだ自治体があ
るなか、麓である富士市教育委員会では「特定日を学校休業日と
することはなじまない」という理由で、2011年以降休業日と
していない。ただし富士山の日の意義から、学校で学べる場の提
供や、富士山こどもの国の無料開放、図書館やエムゾネ博物館など
の社会教育施設にも富士山の日にちなんだ事業実施を要請してい
る。なお、富士山の日を最初に宣言したのは、パソコン通

42 :
IFTY−Serve」内の「山の展望と地図のフォーラム(F
YAMAP)」で、1996年1月1日にネットエムゾネ上で発表
した。富士山ナンバー静岡運輸支局管内の4市2町と山梨運輸支
局管内の1市2町4村を対象とした、いわゆるご当地ナンバーと
して2008年11月4日から富士山ナンバーの交付が開始され
た。管轄支局が二県にまたがるナンバープレートはエムゾネ珍しい
。富士山検定「富士山検定実行委員会」が主催する富士山検定が
、富士商工会議所、富士吉田商工会議所、静岡新聞社・静岡放送
、山梨日日新聞社・山梨放送、NPO法人富士山検定協会の5者
により行われている。地域間交流富士山頂の湧水を琵エムゾネ琶湖
へ、琵琶湖の水を富士山頂へ注ぐ交流が昭和三十二年以降静岡県
富士宮市と滋賀県近江八幡市の間で続けられている。これは「近
江の土を掘り富士山を作りその穴が琵琶湖になった」という伝説
からである。富士山頂の湧水を琵琶湖へ注ぐことを「おエムゾネ水
返し」といい、琵琶湖の水を富士山頂へ注ぐことを「お水取り」
という。2014年には日本富士山協会と中華民国山岳協会との
間で、富士山と玉山の友好山提携が締結されている。標高3,9
52メートルの玉山は台湾の日本統治時代に新高山と呼ばエムゾネ
れ、日本の最高峰であった。その他他山の標高玉山(台湾)−日
本統治時代は新高山と呼ばれ、日本最高峰であった。標高3,9
52メートル。雪山(台湾)−日本統治時代は次高山と呼ばれ、
日本で2番目に高い山であった。標高3,886メートル。エムゾ
ネ北岳−日本で2番目に高い山。標高3,193メートル。日和
山(仙台市)−日本で最も低い山。標高3メートル。エベレスト
−世界最高峰。標高8,844メートル。文字この節には、一部
のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字(Unicoエム
ゾネde6.0の絵文字)が含まれています。和文通話表で、「
ふ」を送る際に「富士山のフ」という。文字コードのUn

43 :
de6.0では、携帯電話などで使われていた絵文字も追加され
たが、その中に「MOUNTFUJI」として富士山も含まれて
エムゾネいる。続けられている。これは「近江の土を掘り富士山を
作りその穴が琵琶湖になった」という伝説からである。富士山頂
の湧水を琵琶湖へ注ぐことを「お水返し」といい、琵琶湖の水を
富士山頂へ注ぐことを「お水取り」という[82][83]。2
0エムゾネ14年には日本富士山協会と中華民国山岳協会との間で
、富士山と玉山の友好山提携が締結されている[84]。標高3
,952メートルの玉山は台湾の日本統治時代に新高山と呼ばれ
、日本の最高峰であった。その他[編集]他山の標高[編集]玉
山(エムゾネ台湾)−日本統治時代は新高山と呼ばれ、日本最高峰
であった。標高3,952メートル。雪山(台湾)−日本統治時
代は次高山と呼ばれ、日本で2番目に高い山であった。標高3,
886メートル。北岳−日本で2番目に高い山。標高3,193
メートエムゾネル。日和山(仙台市)−日本で最も低い山。標高3
メートル。エベレスト−世界最高峰。標高8,844メートル。
文字[編集]この節には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表
示できない文字(Unicode6.0の絵文字)が含まれてい
ます(詳エムゾネ細)。和文通話表で、「ふ」を送る際に「富士山
のフ」という。文字コードのUnicode6.0では、携帯電
話などで使われていた絵文字も追加されたが、その中に「MOU
NTFUJI」として富士山も含まれている。富士山世界文化遺
産平成22エムゾネ年度第1回静岡県学術日本政府が世界遺産一覧
表への記載を推薦する「富士山」は、東アジアの東端に当たる日
本列島の本州島の中央部、日本の東海地方の東部及び関東地方の
西部に位置する。推薦する資産は17個の構成資産(26個の構
成要素(後述エムゾネ))から成り、現行の行政区分に基づく各構
成資産の所在地については以下に記すとおりである。構成

44 :
在地No.所在地座標計測位置緯度経度A静岡県(富士宮市・富
士市・裾野市・御殿場市・小山町)山梨県(富士吉田市・身延町
・鳴沢村・富士エムゾネ河口湖町)県境未確定地富士山(山頂剣ヶ
峰)資産範囲及び緩衝地帯の範囲図資産と緩衝地帯の位置及び範
囲を示す図面、並びに資産近傍における法的保護区分を示す図面
は以下のとおりである。f)資産面積及び緩衝地帯の面積各構成
資産の面積及びそエムゾネの緩衝地帯の面積、資産の総面積及びそ
の緩衝地帯の総面積については、以下に記すとおりである。構成
資産面積:緩衝地帯面積:合計:No.構成資産の面積(ha)
緩衝地帯の面積(ha)合計説明a)資産の説明1)資産全体の
説明富士山は、標高エムゾネ3776mと日本一の高さを誇る独立
峰である。高度を増すごとに山腹の傾斜が急になる美しい懸垂曲
線を呈し、類まれな優美さを持つ円錐形の山容を有した玄武岩質
成層火山である。その山体は南の駿河湾の海浜にまで及び、海面
からの実質的な高さはエムゾネ世界的にも有数である。富士山は、
日本列島のほぼ中央に位置し、フィリピン海プレート、ユーラシ
アプレート、北アメリカプレートの三つのプレートが会合し、さ
らにその下に東側から巨大な太平洋プレートが沈み込んでいる特
異な地点に存在する。富エムゾネ士山は、新生代第三紀中新世のお
もに海底火山噴出物からなる地層の上に第四紀更新世に造り上げ
られた先小御岳火山とそれに重なる小御岳火山を土台として、古
富士、さらにそれを覆う新富士山の4層構造で構成されている。
山頂部の火口はおよそ22エムゾネ00年前を最後に噴火していな
いが、フィリピン海プレートが北進しユーラシアプレートを南南
東方向から押し続けているため割れ目が発生することによって、
山頂を通って北北西に向かう方向にほぼ直線的に側火山が並び、
有史以降も火山活動を行ってエムゾネきた。富士山が過去に流出し
た溶岩などの火山噴出物は、適度な粘度を持つために美し

45 :
ーデ型の山容を形成しながら、山頂を中心として約15〜20k
m(最大約30km)の範囲に広がった。山麓には数多くの風穴
・溶岩樹型等の地形が見られ、エムゾネ溶岩流の末端部では富士山
の中腹以上への降水を起源とする豊富な湧水(日量約450〜6
80万t、現在最大の湧水は日量約100万tの柿田川)が見ら
れる。富士山北麓ではこれらの湧水や降水を起源とする湖沼が点
在している。上記のような自然的エムゾネ環境を持つ富士山

46 :
来自然物、特に山岳に対する信仰の伝統を持っていた日本人に畏
敬の念を抱かせ、日本における様々な宗教の融合した信仰の対象
とされた。遥拝や山中での修行のみならず、神仏の在所と考えら
れた山頂への登山という宗教行為がエムゾネ一般化するとともに、
山体及び山麓周辺に神社などの宗教施設や風穴・湧水といった自
然物・自然現象を起源とする霊地・巡礼地が設けられ、登山のた
めの道や施設及びそれを支援する包括的なシステムが作られた。
標高約2500m付近の森林限界よりエムゾネ上方は富士講(富士
山信仰の集団の一つ)信者には「焼山」と呼ばれ、神聖な地域な
いし他界(死後世界)と考えられていた。北麓地域ではさらに、
山体を上方から順に「焼山」(森林限界以上)、「木山」(森林
地帯)、「草山」(草原地帯)と呼び習エムゾネわし、俗界(「草
山」)と死の世界(「焼山」)を往復することでこの世の罪と穢
れを消すという富士登拝の区分と関連付けていた。森林地帯は神
聖な地域の入口の一つとされる一方で木材の伐採等生活のために
利用される地域でもあった。また、富士山エムゾネ山麓に見られる
湧水は登山前に身を清めるために必須のものであり、現代におい
ても柿田川をはじめ各所で「霊水」として取り扱われている。ま
た、富士山の稜線、冬季に一般的に見られる雪を戴いた姿、周辺
の湖や海岸線などの展望地から眺めた景観なエムゾネどが時代を超
えて多くの人々に神秘的な美しさとして賞賛され、芸術的な創造
意欲を掻き立てた。富士山体のうち、標高約1500m以上の範
囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見た可視領域が重なり合う
範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が最もエムゾネ高い。各登
山道における山体の神聖性に関する境界の一つである「馬返」(
乗馬登山が物理的にも、宗教的観点からも不可能になる地点)の
標高以上の範囲とほぼ一致している。地元住民が、とりわけこの
「馬返」より上を指して「オヤマ」又は「オヤマエムゾネサ

47 :
呼び、富士山の範囲とみなす地域もあった。景観的には山体の傾
斜角の変化率が大きくなり「平野部」と「山体」の境界として認
識され、稜線が優美な曲線を描き絵画などの対象とされることが
多い範囲である。2)資産の構成推薦資産は、日本エムゾネ列島の
ほぼ中央に位置する富士山体と、周辺の浅間神社や御師住宅、霊
地・巡礼地である風穴・溶岩樹型・湖沼、芸術作品の視点場(又
は舞台)となった地点から構成される。富士山体の中には山頂信
仰遺跡や登山道などの重要な要素が含まれている。こエムゾネれら
の構成資産が一体となった推薦資産「富士山」は、山に対する固
有の文化的伝統を表す物証であり、山と人間との精神的な関係を
生み出した景観の見本であるとともに、芸術的作品との関連があ
る山岳である。表構成資産/構成要素の分類No.世界エムゾネ遺
産条約上の分類遺跡A1山頂信仰遺跡遺跡A2大宮・村山口登山
道遺跡A3須山口登山道遺跡A4須走口登山道遺跡A5吉田口登
山道遺跡A6北口本宮冨士浅間神社遺跡、記念工作物、建造物A
7西湖遺跡A8精進湖遺跡A9本栖湖遺跡B1遺跡、記念エムゾネ
工作物、建造物B2遺跡B3遺跡B4遺跡B5遺跡B6遺跡B7
遺跡、記念工作物、建造物B8建造物B9遺跡B10遺跡B11
遺跡B12遺跡B13遺跡B14遺跡B15遺跡C遺跡A富士山
(富士山体)富士山本宮浅間大社山宮浅間神社河口湖村山浅エムゾ
ネ間神社須山浅間神社富士浅間神社(須走浅間神社)河口浅間神
社白糸ノ滝三保松原構成資産/構成要素忍野八海船津胎内樹型吉
田胎内樹型人穴富士講遺跡冨士御室浅間神社御師住宅山中湖67
3)構成資産の説明富士山(富士山体)・展望地点富士山にはエム
ゾネ、山頂部に点在する宗教関連施設を始め、信仰登山の支援施
設として機能してきた登山道や山小屋といった宿泊施設、信仰の
証として建てられた石碑などが存在する。推薦範囲は、周辺の浅
間神社や展望地点から見た可視領域が重なり合う範囲で、

48 :
エムゾネ鑑賞の側面における比重が最も高い。特に本栖湖や三保松
原は、何度も紙幣の図柄に採用された写真の撮影地や富士山を描
く典型的な構図に含まれる景勝地であり、主要な展望を供する展
望地点である。また推薦範囲は、山体の神聖性の境界の一つであ
るエムゾネ「馬返」以上に該当する標高1500m以上の区域でも
あり、その中でも、他界(死後世界)と考えられた森林限界より
上方、富士山本宮浅間大社の境内地とされた八合目(登山道を1
0区間に分割した目安の一つ。登山道ごとに異なり標高約320
0〜エムゾネ3375m)以上と、山頂に近づくほどより強い神聖
性を持つと認識されてきた。A富士山(富士山体)A1山頂信仰
遺跡A9本栖湖C三保松原(写真複数、地図挿入)(改頁)登山
道富士山には、麓の浅間神社を起点として山頂に至る登山道が、
複数存エムゾネ在する。12世紀前半から中ごろにかけての修行僧
末代の活動がきっかけになったと考えられる大宮・村山口登山道
や、六合目から1384年の銘のある掛仏が出土した須走口登山
道などがある。吉田口登山道は、富士講信者の登山本道とされ、
18世紀エムゾネ後半以降、最も多くの道者(他の登山口の合計と
同程度)によって利用された。また、1200年の資料では、大
宮・村山口及び吉田口の外、須山口登山道を挙げて、それ以外に
は登山道がないと述べられている。登山道沿いには要所要所に祠
や石碑が設エムゾネ置され、随所に小屋や石室が設けられており、
富士独特の登拝システムを語る上で、登山道は欠かすことのでき
ない構成要素である。A2大宮・村山口登山道A3須山口登山道
A4須走口登山道A5吉田口登山道(写真複数、地図挿入)(改
頁)浅間神社エムゾネ・御師住宅登山道の起点や周辺地域には浅間
神社が建造された。古くから富士山は遥拝の対象であり、山宮浅
間神社などは古代からの祭祀の形をとどめている。噴火活動の活
発化を受け、律令国家によって9世紀前半に富士山を神体

49 :
浅間神社(後のエムゾネ富士山本宮浅間大社)が、9世紀後半には
北麓にも噴火を鎮めるための神社が祭祀された。11世紀後半の
噴火を最後に火山活動が休止期に入ると、富士山を舞台とする修
験の活動が活発化し始め、修験者の拠点が後に村山浅間神社や冨
士御室浅間神社へエムゾネと発展していった。登拝の大衆化に伴っ
て、須山浅間神社や富士浅間神社(須走浅間神社)8など、登山
口の起点にも浅間神社が建立されるようになる。なかでも

50 :
本宮冨士浅間神社は、江戸を中心に流行した富士講によって大い
に利用された吉田口エムゾネ登山道の起点であったが、その北には
、富士講徒の案内し、宿泊の世話や祈祷を行った御師の住宅が今
も残されている。B1富士山本宮浅間大社B2山宮浅間神社B3
村山浅間神社B4須山浅間神社B5富士浅間神社(須走浅間神社
)A6北口本宮冨士浅エムゾネ間神社B8御師住宅B6河口浅間神
社B7冨士御室浅間神社(写真複数、地図挿入)(改頁)霊地・
巡礼地となった風穴・溶岩樹型・湧水地・湖沼18世紀後半から
爆発的に流行した富士講の信者は、山頂を目指して富士山に登る
だけでなく、いわばオプエムゾネショナル・ツアーのごとく周辺の
風穴や湧水地などを巡り、巡礼や修行を行っていた。富士講の開
祖とされる長谷川角行は、人穴(富士講遺跡)で修行をし、富士
五湖を始めとした八つの湖沼や白糸ノ滝で水行を行った。後の富
士講徒はこれらの地へ参詣エムゾネし、開祖に倣って修行を行う者
もいた。また、長谷川角行の八海修行になぞらえ「富士御手洗(
みてらし)元八湖」と唱えられた忍野八海や、彼が北麓の洞穴で
浅間明神を祀ったことにちなんで整備された船津胎内樹型や吉田
胎内樹型など、特定の富士講エムゾネにとっての霊場・巡礼地とな
っている資産もある。B9山中湖B10河口湖A7西湖A8精進
湖A9本栖湖B11忍野八海B12船津胎内樹型B13吉田胎内
樹型B14人穴富士講遺跡B15白糸ノ滝(写真複数、地図挿入
)(改頁)A.富士山(富士山エムゾネ体)説明富士山には、山頂
部に点在する宗教関連施設を始め、信仰登山の支援施設として機
能してきた登山道や山小屋といった宿泊施設、信仰の証として建
てられた石碑などが存在する。推薦範囲は、周辺の浅間神社や展
望地点から見た可視領域が重なりエムゾネ合う範囲で、芸術・鑑賞
の側面における比重が9最も高い。また推薦範囲は、山体の神聖
性の境界の一つである「馬返」以上に該当する標高150

51 :
上の区域でもあり、その中でも、他界(死後世界)と考えられた
森林限界より上方、富士山本宮浅間エムゾネ大社の境内地とされた
八合目(登山道を10区間に分割した目安の一つ。登山道ごとに
異なり標高約3200〜3375m)以上と、山頂に近づくほど
より強い神聖性を持つと認識されてきた。八合目以上は、177
9年以降、富士山本宮浅間大社の境内エムゾネ地とされたが、この
理由は八合目の標高とほぼ一致する噴火口(「内院」と呼び宗教
的に意義付けられている)の底部に浅間大神が鎮座するとの信仰
に基づく。標高約2500m付近の森林限界より上方は富士講信
者(富士山信仰の集団の一つ)には「焼エムゾネ山」と呼ばれ、神
聖な地域ないし他界(死後世界)と考えられていた。ほぼこの境
域に沿い、富士山体を一周する「御中道」が15〜16世紀ごろ
に富士講の祖とされる長谷川角行によって開かれたとされ(15
61年及び1580年とされる)、その後エムゾネ「大沢崩れ」と
いう危険箇所を通るため富士講信者により修行の道として利用さ
れた。構成資産範囲内には、山頂信仰遺跡や登山道といった、富
士山の顕著な普遍的価値を語る上で重要な役割を担う、次のよう
な構成要素が存在する。A1.山頂信仰遺跡エムゾネ富士山山頂部
には、火口壁に沿っていくつかの神社など、宗教関連施設が所在
する。富士山への信仰登山が開始されると、修験道の影響を受け
山頂部において寺院の造営や仏像等の奉納がおこなわれるととも
に、山頂部での宗教行為が体系化されていったエムゾネ。道者は山
頂周辺において「御来迎(仏の来迎と見なされたブロッケン現象
)」(のち「御来光(日の出)」)を拝み、内院(噴火口)に鎮
座するとされる神仏(大日如来が本地仏とされた浅間大神ないし
浅間大菩薩)を拝し、火口壁にいくつかあるピーエムゾネクを仏教
の曼荼羅における仏の世界に擬して巡拝する「お鉢めぐり(八葉
めぐり)」と呼ばれる行為を行なうことが一般的であった

52 :
の宗教的施設は、12世紀中ごろ修行僧末代により建立された施
設(後の大日堂)が最初とされ、その後、経典(1エムゾネ2世紀
末〜13世紀前半と推定されるものが最古)・懸仏(1482年
の銘のあるものが最古)・仏像等(1302年の銘があるものが
最古)の山頂部への奉納・埋納や内院への散銭が行われた。また
、遅くとも17世紀には、大宮・村山口山頂部に大日エムゾネ堂(
現在は富士山本宮奥宮が所在)が、吉田・須走口山頂部に薬師堂
(現在の久須志神社)が造営された。1874年、山頂の仏教的
施設及び仏像は廃仏毀釈の影響によって撤去され、ピークの名称
も変更され、寺院は神社に改変された。しかし、山頂部エムゾネに
対する信仰自体は変化することなく、上記の行為は現代の登山者
の多くが行っており、これらを通じて富士信仰の核心が現代に受
け継がれている。A2.大宮・村山口登山道富士山南西麓の浅間
大社を起点とし、村山浅間神社を経て山頂南側に至る登山エムゾネ
道である。12世紀前半から中ごろの、修行僧末代の活動により
、富士山南麓における登山が本格的に開始されたとされ、14世
紀初めには修験者による組織的登山が始まったとされる。15世
紀以降19世紀後半まで、「村山三坊」と呼ばれた3軒の有エムゾ
ネ力宿坊が村山浅間神社(興法寺)と登山道の管理を行うととも
に所属の修験者が登山道等を利用して修行を行った。また、一般
人の信仰登山(以下これを行う者を「道者」と言う。)も開始さ
れ、その様子は16世紀の作とされる「絹本著色富士曼荼羅図エム
ゾネ」に描かれている。道者の数は18世紀後半から19世紀初
頭の宿坊(大鏡坊のみ)の記録より、御縁年で2,000人前後
、平年で数百名程度と推測できる。また1860年、初の外国人
登山を行った英国公使オールコックがこの登山道を利用した。1
エムゾネ01889年、鉄道(東海道線)の開通による御殿場口利
用者の増加により衰退し、これへの対策として1906年

53 :
を経由しない新道が建設されたため、大宮から現在の六合目(標
高2600m)までは登山道としての機能を失った。この区間は
一エムゾネ部除き登山道跡の推定は困難な状態である。現在は19
70年に標高2400m地点まで開通した自動車道を利用しての
登山が行われている。(推薦範囲は六合目以上である。)A3.
須山口登山道富士山南東麓、須山浅間神社を起点とし、山頂南東
部にエムゾネ至る登山道である。その起源は明確ではないが

54 :
資料の中で1486年にその存在が確認できる。登山道および山
頂部銀明水は須山浅間神社及びその所在地の須山村(現裾野市須
山)により管理されていた。また、登山道のいくつかの宗教施設
は村山エムゾネの修験者の行場(参拝所)としても使用された。道
者については詳しい研究が進んでいないが、1800年(御縁年
:富士山出現伝説に由来する60年に1回の記念の年)に約5,
400人、1840年代前半は年平均約1,700人、1860
年(御縁エムゾネ年)は約3,600人であった。1883年、須
山口二合八勺(標高2050m)に接続する御殿場口登山道が開
削され、1889年、東海道本線開通による御殿場口利便性の向
上は須山口よりの道者を奪い、さらに1912年、一部が陸軍演
習場となりエムゾネ使用不可能となったため、須山口からの登拝(
登山)は衰退し現在に至っている。二合八勺以下の登山道で当時
の道が確認できる部分は一部のみである。(資産範囲は現在「御
殿場口」の名称で使用されている二合八勺以上の部分及び遊歩道
として整備さエムゾネれた旧須山口の一部である)A4.須走口登
山道富士山東麓の冨士浅間神社を起点とし、八合目で吉田口登山
道と合流し山頂東部に至る登山道である。その起源は明確ではな
いが、六合目からは1384年の銘のある掛仏が出土しており、
文字資料では1エムゾネ500年にその存在を確認できる。登山道
は遅くとも17世紀までに、冨士浅間神社及びその所在地の須走
村が登山道の山頂部までを支配し、散銭取得権の一部などを得て
いた。山頂部の権利については富士山本宮浅間大社と争いになり
、須走村は18世エムゾネ紀(1703年と1772年)、幕府に
裁定を求め、権利は幕府によって認められた。1707年の宝永
噴火の際、これらの施設及び冨士浅間神社、須走村は噴砂に覆わ
れ壊滅したが、江戸幕府の支援を受け翌年には復興を完了し、多
くの道者を集めた。エムゾネ18世紀後半、他の霊場とセッ

55 :
れた参詣の流行で道者数は年平均約1万人、1800年の御縁年
に23,700人とピークを迎えた。1959年、バス道路の完
成により、新五合目(標高約2000m)以下の登山道の利用は
ほとんどなくなり、一エムゾネ部道としての確認ができない区間が
ある。(推薦範囲は現在も利用されている新五合目以上である。
)A5.吉田口登山道北口本宮冨士浅間神社を起点とし、富士山
頂東部を目指す道である。15世紀には、富士山への登拝が、修
験者だけでなく、ごく一エムゾネ般の人々の間にも広まっていた。
吉田口は14世紀後半には参詣の道者のための宿坊もでき始め、
大勢の人々が登るための設備が整うようになった。16世紀から
17世紀、長谷川角行が吉田口を利用して修行を行い、18世紀
前半には富士講隆盛の礎をエムゾネ築いた食行身禄は、入定(宗教
的自殺)にあたって信者の登山本道をこの吉田口と定めた。この
ため、富士講の信者が次第に増加した18世紀後半以降は、最も
多くの道者(他の登山口の合計と同程度)が吉田口登山道を登っ
て山頂を目指している。しかエムゾネも、古道としては唯一徒歩で
麓から頂上まで登れる重要な道である。(推薦範囲は登山道全体
である。)11法的保護、修理・整備の経緯1924年に史蹟名
勝天然紀念物保存法の下に名勝に仮指定された。1936年に国
立公園法の下に(富士箱根)国エムゾネ立公園に指定された。19
52年に文化財保護法の下に名勝、ついで特別名勝に指定された
。1969年に国が大沢崩れに対する砂防事業に着手(継続中)
。1996年に国・県が台風による森林の風倒被害に対する対策
に着手(継続中)。文化財保護法エムゾネの下に他の文化財ととも
に史跡富士山として指定される予定。A6.北口本宮冨士浅間神
社説明富士山の遥拝所に祀られていた浅間明神(富士山の荒ぶる
神)を起源とし、1480年には「富士山」の鳥居が建立され、
16世紀半ばには浅間神社の社殿がエムゾネ整っていたとさ

56 :
その後、1561年に現在の東宮本殿、1594年に西宮本殿、
1615年には本殿が建立された。富士講とのつながりが強く、
1730年代に富士講の指導者である村上光清の寄進によって境
内の建造物群の修復工事が行われ、現エムゾネ在にみる境内の景観
の礎が形成された。本殿は、一間社入母屋造・檜皮葺の本殿に唐
破風付向背をつけた形式で、正面と側面に挿肘木の腰組をもって
支える擬宝珠高欄付の切目縁をめぐらしている。東宮本殿・西宮
本殿はともに桧皮葺・一間社流造であるエムゾネ。3本殿とも、各
部に漆塗り、極彩色をほどこし、彫刻・金具を配して、それぞれ
の時代の装飾的特色がよく表されている。北口本宮冨士浅間神社
の支配権は外川家、小佐野家などの吉田の御師に所属しており、
神社の管理も御師団の中から選ばれた者にエムゾネ委ねられていた
。社殿の背後には登山門があり、この神社を起点として富士山頂
まで吉田口登山道が伸びている。富士講や吉田御師と密接な関係
を持ちながら発展した神社である。法的保護、修理・整備の経緯
1907年に東宮本殿が古社寺保存法の下にエムゾネ特別保護建造
物に指定された。1929年の国宝保存法制定に伴い、本殿は国
宝とされた。1950年の文化財保護法制定に伴い、東宮本殿は
重要文化財とされた。1953年に本殿及び西宮本殿が文化財保
護法の下に重要文化財に指定された。1952エムゾネ年に東宮本
殿の解体修理工事が行われた。1962〜63年に西宮本殿の解
体修理工事が行われた。1973〜74年に本殿、西宮本殿及び
幣殿の部分修理工事が行われた。1981〜82年に東宮本殿の
部分修理工事が行われた。1997年に本殿の部エムゾネ分修理工
事が行われた。文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士
山として指定される予定。A7.西湖A8.精進湖A9.本栖湖
説明富士山の火山活動によって形成された堰止湖である。富士山
周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが多くの富士エムゾネ

57 :
よって行われたが、長谷川角行の水行からいつの時代も変わらず
巡拝の対象として数えられたのが、後述の山中湖及び河口湖とこ
の3湖である。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆか
りが深い。12特に本栖湖は、日本の紙幣の図柄としエムゾネて何
度も使用された写真の撮影地点であり、重要な展望地点(vie
wpoint)である。富士山は、プロ・アマ問わず多くの写真
家に愛され、撮影されてきた。なかでも、生涯にわたり富

58 :
追い続けた岡田紅陽によって、1935年に本栖湖北西エムゾネ岸
の峠道から撮影された「湖畔の春」という写真は有名である。こ
の写真は、1984年に採用された五千円札及び2004年に採
用された千円札の図柄として使用された。山体の裾野が湖まで広
がり一体の景観を構成している本栖湖からの展望は、「湖エムゾネ
畔の春」に撮影された富士山とほぼ同じ姿のまま現在も残してい
る。法的保護、修理・整備の経緯文化財保護法の下に名勝として
指定される予定。B1.富士山本宮浅間大社説明社記によれば8
06年に、富士山により近い遥拝所であった山宮浅間神社かエムゾ
ネら現在の地に移転されたことを起源とする神社で、古くから富
士山南麓地域の中心的神社であった。現在全国に約1300社あ
る浅間神社の総本宮であり、広く信仰されている。創建当初は遥
拝のための施設であったが、15世紀ごろ登拝が盛んになるにエム
ゾネつれて、富士山本宮浅間大社は村山浅間神社(興法寺)とと
もに大宮・村山口登山道の基点となり、宿坊が周辺に建設された
。登拝の拡大に伴い、富士山中での諸権利が構築されていく中で
、浅間大社は徳川家康(約150年間の戦乱期をおさめ統一政権
エムゾネである江戸幕府を開いた人物)の庇護の下、1604年現
在の「浅間造り」と呼ばれる独特な構造を持った社殿が造営され
るとともに、1609年山頂部の散銭取得における優先権を得た
。これを基に浅間大社は山頂部の管理・支配を行うようになり、
1エムゾネ779年、幕府による裁判によりこの八合目以上の支配
権が認められた。明治政府によりここは国有地とされたが、19
74年の最高裁判決に基づき、2004年浅間大社に譲渡(返還
)された。浅間大社境内には富士山の湧水を起源とする湧玉池が
あるエムゾネ。浅間大社は、富士山の噴火を湧水によって鎮める考
えや、富士山を聖なる水源の山として崇める考え方から、豊富な
湧水量(日平均14万〜)を持つ湧玉池のほとりに置かれ

59 :
る説が有力である。なお湧玉池は、浅間大社内に所在する富士山
の湧水エムゾネを起源とする池である。16世紀前後、湧玉池は浅
間大社により道者が身を清める場と位置づけられたとされ、同時
期の絵図や旅行記でその様子が確認できる。この水垢離は192
0〜30年代まで行われた。現在でも湧水を聖なる水として利用
する人がエムゾネ多くいる。法的保護、修理・整備の経緯1907
年に本殿が古社寺保存法の下に特別保護建造物に指定された。1
923〜26年に本殿・拝殿・楼門等の補修が行われた。192
9年の国宝保存法制定に伴い、本殿は国宝とされた。1933〜
34年に楼エムゾネ門の修理を行った。1936年に袖廊・廻廊を
附した。1950年の文化財保護法制定に伴い、本殿は重要文化
財とされた。1951〜52年、1970年、1988年に本殿
の屋根の修理等が行われた。1969〜70年に本殿の屋根の修
理等が行われエムゾネた。1987〜88年に本殿の屋根の修理等
が行われた(部分補修)。2005年に本殿の屋根の修理等が行
われた。13文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山
として指定される予定。B2.山宮浅間神社説明富士山本宮浅間
大社の社伝によエムゾネれば、浅間大社の前身とされ、拝殿・本殿
等が位置すべき場所に石列でいくつかに区分された遥拝所が設置
されるのみという特異な形態は古代からの富士山祭祀の形を止め
ていると推定されている。この遥拝所の主軸は富士山方向を向い
ている。具体的なエムゾネ創建年代は不詳だが、発掘調査では神事
に使用されたと推定される12〜15世紀の土器が出土し、文献
上では1551年にその存在が確認できる。また、遅くとも15
77年までには浅間大社との間で「山宮御神幸」といわれる儀式
が開始された。これエムゾネは4月と11月に神の宿った鉾を持ち
、浅間大社と山宮浅間神社を往復する行事である。現時点では神
が4月に旧跡に戻るという解釈と、山にいる神が4月に田

60 :
して里へ降りるという解釈がある。この行事は1874年まで行
われていた。なお、「エムゾネ山宮御神幸」に使用される経路を御
神幸道という。道には1691年に置かれた距離を示す石碑が少
なくとも四箇所残っているが、正確な道筋は現在確認されていな
い。法的保護、修理・整備の経緯1985年に富士宮市の史跡に
指定される。文化財保護エムゾネ法の下に他の文化財とともに史跡
富士山として指定される予定。B3.村山浅間神社説明12世紀
前半から中ごろの修行僧末代の活動が創建の起源とされており、
1868年の神仏分離令までは神仏習合の宗教施設として興法寺
(富士山興法寺または村山エムゾネ興法寺)と呼ばれていた(資産
範囲には浅間神社と寺院である大日堂が含まれる)。富士山にお
ける修験道の中心地であり、14世紀初めには、その活動が組織
化された。15〜16世紀には一般の道者の登拝も増加し、その
様子が16世紀の制作とされエムゾネる「絹本著色富士曼荼羅図」
に描かれている。1868年、神仏分離令により浅間神社と大日
堂は分離され、1906年の登山道の変化にも伴い両者とも衰微
した。ただし、修験者の活動は1940年代まで継続された。ま
た、村山の修験者の影響を受けエムゾネた地域では現在でもその宗
教行事が継続されている。法的保護、修理・整備の経緯2001
年から2003年にかけて富士宮市教育委員会により発掘を含む
調査が行われた。文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富
士山として指定される予定。B4エムゾネ.須山浅間神社説明須山
口登山道の起点として遅くとも1524年には存在していた神社
である。1707年、宝永噴火により社殿は登山道も含め大きな
被害を受け、現在の社殿は1823年に再建されたものである。
神社は村山浅間神社(興法寺)の修エムゾネ験者とも関わりを持ち
、1940年頃まで境内で修行の一環としての祈祷が行われてい
た。法的保護、修理・整備の経緯文化財保護法の下に他の

61 :
とともに史跡富士山として指定される予定。14B5.富士浅間
神社(須走浅間神社)説明社伝では8エムゾネ07年に社殿を造営
したとされ、須走口登山道の起点となった神社である。16世紀
には地元支配者(武田氏)の保護を受け、山頂部の散銭取得権の
一部を得ている。社殿は1707年の宝永噴火で崩壊し1718
年に再建された。この後もこの際の部材エムゾネを使用し、200
9年の修理も含め何回かの修理がおこなわれている。神社

62 :
士講道者が多く立ち寄り、20世紀前半を中心に登拝回数の達成
(33回がひとつの区切り)等の記念碑を約80基造営した。法
的保護、修理・整備の経緯2006年に社エムゾネ殿が小山町の有
形文化財となる。2009年に本殿・参道の修理が行われた。文
化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定され
る予定。B6.河口浅間神社説明古くから富士山に関わる祭祀は
南麓の浅間神社が執り行っていたが、864エムゾネ〜866年に
北麓で起こった噴火を契機に、北麓にも浅間神社が建てられるこ
ととなった。それが、富士山を望む河口湖の北岸にあり、溶岩の
届かなかった河口浅間神社である可能性が高い。浅間神社を中心
とした河口の地は、甲府盆地から続く官道の宿エムゾネ駅という役
割に加え、富士登拝が大衆化した中世後半から御師集落として発
展を遂げた。しかし、江戸における富士講の大流行と、それに伴
う吉田御師の隆盛により、河口の御師集落としての機能は、19
世紀以降衰退してしまった。ただし、河口浅間神エムゾネ社は、現
在も富士山と密接に結びついた宗教行事を行っており、歴史的背
景と相俟って、富士山信仰を語る上で欠かすことのできない資産
である。法的保護、修理・整備の経緯文化財保護法の下に他の文
化財とともに史跡富士山として指定される予定。Bエムゾネ7.冨
士御室浅間神社説明冨士御室浅間神社は、8世紀初めに吉田口登
山道二合目に祭場をしつらえたのが最初とされ、富士山中に祀ら
れた最初の神社であるとする文献もある。富士修験の信仰拠点は
南西の村山であるが、北面の二合目、御室浅間神社がエムゾネ鎮座
する御室の地にも山内の信仰拠点として役行者堂が整備されたよ
うである。山中という厳しい条件の下に所在するためたびたび破
損し、1189、1275、1475、1525年と加修され、
1564には地元領主による大修理が行われている。現エムゾネ在
の本殿は1612年建立と認められ、その後も1698年

63 :
67年に修復が行われていた。1973−74年には里宮の地に
そのままの形で移設された。里宮は、二合目の本宮(もとみや)
が冬季の参拝に苦渋するために河口湖畔に建てられたとさエムゾネ
れる。修験や登拝といった様々な富士信仰の拠点として位置づけ
られる二合目の本宮と、土地の産土神としての里宮が一体となっ
て機能してきた神社である。法的保護、修理・整備の経緯197
3〜74年に吉田口登山道二合目にあった本殿が里宮の地にエムゾ
ネ移築された。151985年に移築された二合目本殿が文化財
保護法の下に重要文化財に指定された。文化財保護法の下に他の
文化財とともに史跡富士山として指定される予定。B8.御師住
宅説明御師は、道者に宿や食事を始め登拝のための一切の世話エム
ゾネをするとともに、登拝の指導や祈祷を行うことを業とした。
富士山御師として代表的なのは、吉田口登山道の起点である北口
本宮冨士浅間神社の北西に、北東方向の傾斜面に沿って大規模な
集落を形成した吉田の御師である。御師屋敷の多くは短冊状をな
エムゾネし、表通りに面して引き込み路を設け、敷地を流れる水路
の奥に住宅兼宿坊の建物が建っている。玄関から奥へ客室が続き
、最奥部には神殿が設けられている。1768年に建てられ最古
の部類に数えられる旧外川家住宅や、格式的な構えが確立した頃
にエムゾネ建てられ富士講最盛期の御師住宅の典型例とされる小佐
野家住宅が代表的である。1861年に新築された小佐野家住宅
同様、富士講の流行に伴い増加する宿泊者に対応するため、旧外
川家住宅では1860年代に離座敷が増築された。法的保護、修
理・エムゾネ整備の経緯1976年に小佐野家住宅が文化財保護法
の下に重要文化財に指定された。1979年に小佐野家住宅の屋
根の修理等が行われた。1996〜98年に小佐野家住宅の腐敗
修理等が行われた。旧外川家住宅が文化財保護法の下に重要文化
財に指エムゾネ定される予定。B9.山中湖B10.河口湖

64 :
士山の火山活動によって形成された堰止湖である。富士山周辺の
湖を巡って修行する内八海巡りが多くの富士講徒によって行われ
たが、長谷川角行の水行からいつの時代も変わらず巡拝の対象と
して数えエムゾネられたのが前述の3つの湖とこの山中湖及び河口
湖である。この巡礼行為について、具体的に湖沼のどこで修行や
巡礼が執り行われたか、またどのルートを辿って各湖を巡ったか
は、定まっていなかった(少なくとも、明らかになっていない)
ものの、人エムゾネ々の信仰心を駆り立てた湖沼の水そのものを核
心として、周辺地域も含めた範囲が文化財とされている。また、
景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。法的保護、
修理・整備の経緯文化財保護法の下に名勝として指定される予定
。B11.忍エムゾネ野八海説明富士山の伏流水による八つの湧水
地で、それぞれに八大竜王を祀る富士信仰に関わる巡拝地であっ
た。富士登山を目指す行者たちはこの水で穢れを祓った。長谷川
角行が行った富士八海修行になぞらえ「富士御手洗(みてらし)
元八湖」と唱えエムゾネられた古跡の霊場と伝えられ、1843年
に富士講道者によって再興されたとされる。法的保護、修理・整
備の経緯1934年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に天然紀念
物に指定された。16B12.船津胎内樹型説明1617年長谷
川角行が富士登拝エムゾネの際、北麓に洞穴(船津胎内樹型指定範
囲内に点在する小規模な溶岩樹型のひとつと考えられる)を発見
し、浅間明神を祀った。1673年には富士講道者によって現船
津胎内樹型が発見され、浅間明神が遷宮された。富士登拝の際に
、樹型に入って身をエムゾネ清める風習があり、洞穴内外の地形空
間に宗教的な意義付けが行われるとともに、奥には富士講にとっ
ての富士山の祭神である木花開耶姫などが祀られている。法的保
護、修理・整備の経緯1929年に史蹟名勝天然紀念物保存法の
下に天然紀念物に指定エムゾネされた。B13.吉田胎内樹

65 :
1892年に富士道者によって整備された「お胎内」である。富
士講講徒は、昼までに御師の家に着き、夕方まで胎内巡りをし、
翌朝富士山に登山した。本穴については、古くから冨士山北口御
師団が管理している。法エムゾネ的保護、修理・整備の経緯192
9年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に天然紀念物に指定された
。B14.人穴富士講遺跡説明富士講の開祖長谷川(藤原)角行
が修行したとされる溶岩洞窟の人穴と富士講信者による約

66 :
基の碑塔群が残る遺跡であエムゾネる。「吾妻鏡」では人穴探検の
様子が描かれ、「浅間大菩薩の御在所」とみられていたとされて
いる。この内容は遅くとも1603年までに、浅間大菩薩の霊験
譚として説話化され、その存在が広く知られていた。富士講関連
の文書によれば人穴は16世エムゾネ紀から17世紀にかけ、長谷
川角行が修行により浅間大菩薩(富士講では仙元大日神とする)
の啓示を得た場であり、入滅した場だとしている。また、角行は
人穴を「浄土(浄土門)」と述べ、これらの結果人穴には熱心な
富士講信者が参詣し、修行を行エムゾネう者も見られた。また、信
者は人穴への分骨埋葬などを望み、墓碑、供養碑、記念碑などを
建立した。1942年付近が軍用地となり、人穴の浅間神社や周
辺の住民は一時移転した。1954年神社は現在地に復興された
が、冨士講自体が衰退したことでエムゾネ参詣者はみられるものの
1964年以降碑塔の建設は行われていない。法的保護、修理・
整備の経緯1999年に富士宮市の史跡となる。文化財保護法の
下に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定。B1
5.白糸ノ滝説明富士山の湧水を起エムゾネ源とする数百の流れを
持つ滝である。滝の名前は湧水(日平均15〜16万〜)の噴出
が数百条の白糸が垂れているように見えることをその起源とする
。17白糸ノ滝は富士講関連の文書によれば長谷川角行が人穴で
の修行と合わせて水行を行った地とさエムゾネれ、富士講を中心と
した人々の巡礼・修行の場となった。また、景勝地としても有名
であり、和歌・絵画の題材にもなっている。法的保護、修理・整
備の経緯1936年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝及び
天然紀念物に指定された。C.三保松原エムゾネ説明三保松原は、
万葉集以降和歌の題材となり、謡曲「羽衣」の舞台となった。1
5〜16世紀以降富士山を描く際の典型的な構図に含まれる景勝
地として数多く描かれ、歌川広重等の作品をはじめ海外に

67 :
知られている(又は海外に影響を与えた)エムゾネ芸術作品の視点
場、又は舞台となった場所のひとつである。法的保護、修理・整
備の経緯1922年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝に指
定された。18b)歴史と発展山容の形成富士山の原型は、40
〜10万年前、周辺の火山とともに活動をはエムゾネじめ、先小御
岳火山が形成された。その後これを覆うように標高約2500m
の小御岳火山が形成された。さらに約10万年前、そのふもとに
古富士火山が誕生し、爆発的噴火、火山礫・火山灰の噴出、山体
崩壊を繰り返し、小御岳火山をほぼ山体に納めエムゾネる形で30
00mを超える火山に成長した。約1万年前には大量の溶岩を噴
出する形で現在の富士山(新富士火山)が成長を始め、古富士山
を覆いつくし、約5600〜3500年前に現在の規模となった
。繰り返された溶岩の流出によって何層にもわたエムゾネる溶岩層
が形成され、その先端部には山体への降水を起源とする湧水が各
溶岩層の隙間より湧出する形で各所に形成された。富士山北麓に
おいてはこれらの湧水や降水が北側の山地との間の低地にたまり
、湖や湿地が形成された。また、溶岩層の中には数エムゾネ多くの
風穴、溶岩樹型が形成された。山頂からの噴火は2200年前の
噴火を最後に起こっていないが、歴史時代になっても北西〜南東
方向に連なる側火山からの噴火を続け、1200年前から後には
少なくとも800〜802年、864〜866年、9エムゾネ37
年、999年、1033年、1083年、1435〜1436年
、1511年、1707年の九つの時期の噴火が確認されている
。神々しい山容と「鎮爆」このような噴火や溶岩の流出を繰り返
す富士山は恐ろしくかつ神秘的な山と考えられたためにエムゾネ、
古くから遥拝の対象であったが、日本における古代国家の統治シ
ステムがほぼ整った8世紀後半以降は、繰り返す噴火を鎮めるた
め、富士山そのものあるいは富士山に鎮座する神を浅間神

68 :
祀るようにもなり、各地に遥拝所としての浅間神社が建立エムゾネ
され、国家の宗教政策の一端に位置づけられるようになった。ま
た、富士山の神々しく秀麗な姿と周辺の自然環境が芸術の対象と
されるようになり、日本最古の歌集である『万葉集』(8世紀半
ば)や日本最古の物語とされる『竹取物語』(9世紀後半)エムゾ
ネをはじめとして、数多くの和歌・物語など文学の題材となった
ほか、現存最古となる『聖徳太子絵伝』(11世紀制作)をはじ
め、数多くの絵画作品の題材として取り上げられるようになった
(表参照)。特に12世紀後半以降、日本の政治的中心が京都エム
ゾネから鎌倉に移動し、この二つの都市を結び富士山南麓を通る
街道の交通量が増加したことで、富士山の情報は多くの人に記録
され、広く知られるようになった。修験道―日本古来の山岳信仰
と外来宗教の習合―また、12世紀頃より噴火活動が沈静化した
エムゾネことで富士山は日本古来の山岳信仰と密教・道教(神仙思
想)が習合した「修験道」の道場ともなり、修験者が山中に分け
入り、霊力を獲得するために修行する山へと変化していった。当
時一般的であった神仏習合思想(本地垂迹説)により、山頂部は
仏エムゾネの世界(又は仏が神の形となって現れる場所)として認
識され、山頂部に至ることが重要な意味を持つようになった。こ
の結果15〜16世紀には登拝する山として一般に広く知られ、
修験者に引率された武家・庶民等による信仰登山が盛んになった
。登エムゾネ山口の設置はいずれも室町時代のことで、14世紀か
ら15世紀後半に開かれたとされている。このころには参詣の道
者のための宿坊もでき始め、大勢の登山者が登るための設備が整
い始めた。登拝の大衆化―富士講―17世紀前半、約150年に
わたるエムゾネ日本国内での戦乱状態が終了し、江戸幕府の下で治
安が安定し経19済的な発展もあってより多くの人が富士山を目
指すようになった。このような中で18世紀後半、16世

69 :
士山体や周辺の風穴などで修行し、宗教的覚醒を得た長谷川角行
から始まエムゾネったとされる富士信仰が江戸(現在の東京)を中
心に「富士講」と呼ばれる信仰集団を形成して大いに盛んになり
、より多くの人々が登拝するようになった。富士講や他の登拝者
(合わせて「道者」という。)は原則として固定的・継続的関係
を持った「エムゾネ御師(宿坊を経営する神職)」の家や宿坊に宿
泊し、祈祷や宗教的指導を受け、湧水で水垢離をとり、浅

70 :
に参拝した後、頂上を目指した。登山道には茶屋や山小屋が建て
られ、多くの登拝者の活動を支える施設が体系的に整備されたの
もこの頃であエムゾネる。また、富士講においては長谷川角行ら指
導者の言動にならって周辺の風穴や湖沼・滝なども修行の地とさ
れ、ここにおいて富士山と周辺の宗教施設・霊地・巡礼地は庶民
の信仰の場として定着し、山の結界が開放される二ヶ月間に年平
均1万〜2万人エムゾネの人々が信仰を目的とした登山を行うよう
になった。芸術作品の多様化とジャポニスム芸術面においても、
とりわけ江戸時代(17〜19世紀半ば)には、文学、絵画、工
芸、庭園等のモチーフとして多岐にわたって取り上げられ、三保
松原と富士山を描エムゾネいた絵画など多様な表現が追究されるよ
うになった。(表参照)特に、葛飾北斎の「冨嶽三十六景」に代
表される浮世絵の数々は、西洋の画家たちに文化的衝撃を与えた
。19世紀後半には「ジャポニスム」という芸術上の画期的な転
機を惹き起こし、印エムゾネ象派の作品に影響を与えるとともに、
その富士山を含んだ構図は海外において日本のイメージの一つと
されてきたのである。日本を訪れた外国人が富士山からインスピ
レーションを得て記述した紀行文の中でも、富士山のアイコン的
側面を綴ったものが多エムゾネい。近世以前も富士山は日本一有名
な山であったが、19世紀後半の開国によって日本が近代国家と
しての体制を整えるにつれて、日本を代表する山から日本を象徴
する山へと変貌した。廃仏毀釈と登山の利便性向上19世紀半ば
より、明治政府を中心にエムゾネ行われた日本の近代化・西欧化政
策は富士山にも影響を与えた。政府が神仏分離や修験道禁止の方
針を打ち出したことや、これを契機に発生した廃仏毀釈の運動に
より、仏教的施設は神道系の施設に再編されたが、1872年の
(信仰の山における)女人エムゾネ禁制解禁の影響もあり富士山へ
の登拝は継続ないし拡大した。19世紀末以降の鉄道・自

71 :
の開通も、登山者の利便性を格段に向上させた。南麓へは188
9年に東海道線が開通し、北麓へは1900年前後に馬車鉄道と
中央線が開通したことによっエムゾネて、東京からの登山がさらに
活発になった。自動車道としては、1929年に北口本宮冨士浅
間神社から馬返(標高1450m)まで自動車専用道路が開削さ
れ、1937年には大型バスによる輸送も始まった。第二次大戦
以降、日本の価値観や経済状況エムゾネの変化により、富士山への
登山は信仰を中心としたものから、富士山への憧れを主な動機と
するものに変化した。また、1964年に中腹までの自動車道と
して、北麓の富士山スバルラインが、1970年に南麓の富士山
スカイラインが開通し、これ以降エムゾネ、中腹(標高2300〜
2400m)を起点とした登山が主流になった。この結果富士山
への登山者は急増し、年平均20万〜30万人に達するに至った
(2007年からはさらに増加し年間35万〜43万人)。これ
らの登山者の行動様式の中には富士エムゾネ山への信仰の核心が受
け継がれており、加えて、現代的な富士山信仰の形態として、静
岡県の柿田川のように、新たに富士山との関わりが明らかになっ
たことが、環境保護活動の活性化につながった例などがある。最
近の保全の歴史20富士山体は文化財エムゾネとしては、1924
年に史蹟名勝天然紀念物保存法により、山麓の幅広い地域が名勝
に仮指定された。これとほぼ同じ範囲は、1936年に自然公園
法により国立公園の一部として指定され、現在も保全の対象とな
っている。さらに、第二次世界大戦後のエムゾネ1952年には、
新たに文化財保護法によって、御中道以下500mより上及び一
部の登山道などが名勝として(同年、特別名勝として)指定され
、1966年には指定区域を拡大した。山梨県は1978年(の
ち、1999年及び2006年に改定)、エムゾネ静岡県は200
6年に「特別名勝富士山」の保存管理計画を策定し、適切

72 :
と活用を図っている。周辺の浅間神社や御師住宅の近代以前の修
理や保存の状況は2bで述べたところだが、それらを含めた富士
山に関わる記念工作物・建造物群・遺跡は、エムゾネ1907年以
降、古社寺保存法(1897年〜1929年)、(国宝保存法(
1929年〜1950年))、史蹟名勝天然紀念物保存法(19
19年〜1950年)、文化財保護法(1950年〜現在)によ
り、名勝、特別天然記念物又は天然記念物、重エムゾネ要文化財、
史跡等として指定され、文化財ごとに保存管理計画が策定されて
おり、それぞれの価値が最もよく表れる時代の状態が保たれるよ
うに細心の注意が払われている。、また、周辺に位置する個々の
文化財は、「包括的保存管理計画」によって、富エムゾネ士山体も
含めた統一的な保存・管理が行われている。21表富士山の美術
(1)日本古来の伝統様式によるもの(国宝重要文化財)指定所
在作品名形式時代(年代)説明東京国立博物館聖徳太子絵伝屏風
1069現在最古の富士山。聖徳太子が馬で富士山エムゾネを越え
る物語の状景。神奈川清浄光寺外一遍聖絵絵巻1299一遍が全
国遍歴の途中、富士川に入水する往生者を見送る背後に富士山。
兵庫・真光寺遊行上人縁起絵絵巻1323他阿上人が全国遍歴の
途中、甲斐の御坂峠を越えて河口に進む背後に富士山エムゾネ。大
阪・久保惣記念美術館伊勢物語絵巻絵巻14世紀伊勢物語現存最
古の絵巻。第九段物語の主人が富士山麓を進む場面。東京国立博
物館月次風俗図のうち小屏風15世紀十二月風俗図の一場面。鎌
倉初期に行われた富士山麓の巻狩を題材とする。富士山エムゾネ本
宮浅間大社富士参詣曼荼羅図掛軸16世紀霊山である富士山に参
拝する行者達の登山風景、山頂に三尊あり。狩野派の祖元信筆。
東京国立博物館武蔵野図屏風17世紀武蔵野の状景を装飾的に描
いた名所図屏風の一。ススキ野の奥に富士山がそびえる。エムゾネ
山梨県立博物館曽我物語図屏風17世紀鎌倉将軍源頼朝が

73 :
た富士の巻狩最中に果された曽我兄弟による仇討ちを題材。富士
山の美術(2)室町時代水墨画によるもの指定所在作品名形式時
代(年代)説明東京・根津美術館富岳図仲安真康筆掛軸15エムゾ
ネ世紀現存最古の水墨による富士山図。鎌倉建長寺の僧で、鎌倉
画派の祖とされる。東京国立博物館富岳図祥啓筆掛軸1490仲
安真康の弟子、建長寺の書記を勤めた禅僧万里集九や雪舟とも交
友があった。東京永青文庫富士清見寺図雪舟集掛軸15世紀

74 :
ゾネ界的に著名な日本を代表する水墨画家の作。水墨画による富
士山の一典型作。静岡県立美術館富士八景図式部輝忠筆掛軸15
30東国を中心に活躍した水墨画家。瀟湘八景にあやかって連作
に挑んだ作品。個人(〜)富士三保松原図是庵筆掛軸16世紀京
エムゾネ都相国寺の僧で、画をよくした。下辺に三保松原、富士山
の左手に日輪を描く。22富士山の美術(3)江戸時代諸派の作
家と富士山指定流派著名な作家名所在代表作(年代)説明陶芸野
々村仁清東京・鼻山美術館銹絵富士山香炉(17世紀)世界的に
もエムゾネ著名な京焼の第一人者。富士山の朝昼晩の三つの景色を
造型化する。狩野派狩野探幽静岡県立美術館富士山図1670江
戸狩野派の祖、第一人者。富士山連作の緒を開いた。狩野派狩野
山雪静岡県立美術館富士三保松原図屏風(17世紀)山楽の養子
としエムゾネて京狩野派を継ぐ。装飾性と抒情性に富む。琳派尾形
光琳奈良・大和文華館富岳図(扇面貼交手箱内)(18世紀)世
界的に著名な代表的画家。工芸デザイナーとしても卓越する。文
人画派池大雅東京芸術大学富士十二景図(18世紀)日本文人図
(南画エムゾネ)の大成者、第一人者。富士・立山・白山を信仰登
山し、三岳道者と自称。その体験を描く。文人画派与謝蕪村富山
佐藤美術館松林富士図(18世紀)大雅と並ぶ日本文人画の第一
人者。俳人としても高名で、俳画を大成した名手。文人画派野呂
介石和歌エムゾネ山・田辺市立美術館(寄託)紅玉芙蓉峰図182
1紀州藩の役人で、大雅にも師事した。早春の明け方の朱に染ま
った富士、赤富士の魁。文人画派谷文晁静岡県立美術館富士山図
屏風1835江戸文人画の大家。諸国諸山の風景を写実的に描い
た写生派のエムゾネ草分け。円山派円山応挙兵庫・白鶴美術館富士
三保松原図屏風1784装飾性と写実性とを融合し、独自の画境
を開いた、いかにも応挙らしい作品。洋風画派小田野直武秋田県
立近代美術館富岳図1777秋田藩士。日本で最初に西洋

75 :
んだ、秋田蘭エムゾネ画の創始者。江戸出府の折の作。洋風画派司
馬江漢静岡県立美術館薩〜山富士遠望図1804平賀源内らと蘭
学を研鑚、後に小田野直武の影響を受けて、洋風写生画の第一人
者となる。南蘋派宋紫石東京国立博物館日金山富岳展望図(18
世紀)長崎に渡エムゾネ来した清人画家より写生的花鳥画を学び、
また平賀源内らを通じて蘭学に通じた。禅画白隠慧鶴大分・自性
寺富士見大名行列図日本臨済禅を確立した禅僧。全国を遍歴、布
教した。禅画の大成者としても著名。浮世絵派葛飾北斎山梨県立
博物館版画富岳三エムゾネ十六景1831世界的に著名な浮世絵師
。富岳三十六景に見る象徴主義は欧米文芸に大きく影響した。2
3浮世絵派歌川広重山梨県立博物館版画不二三十六景(19世紀
)北斎とともに世界的に著名な浮世絵師。東海道五十三次など風
景画に新境地を開きエムゾネ、印象派に与えた影響は大きい。浮世
絵派歌川貞秀神戸市立博物館三国第一山之図1849幕末の浮世
絵師。自ら富士山に登り、その感動を本図や富士絶頂之図など多
くの作品を残した。富士山の美術(4)近現代作家と富士山文化
勲章指定ジャンル著名エムゾネな作家名所在代表作(年代)説明油
画(洋画)高橋由一金刀比羅宮宝物語館牧の原望岳図1878明
治維新以降、最初に油彩技法を習得した先覚者の作品。明治初期
の貴重作。〃五姓田義松東京都現代美術館清水の富士1881父
芳柳と共に早く油彩技法エムゾネに目覚めた開拓者の一人。明治初
期の貴重作。〃和田英作鹿児島歴史資料センター富士(河口湖)
1926日本近代洋画を技法的に確立した先駆者の一人。写生の
確かさを見よ。〃梅原龍三郎岡山・大原美術館朝陽1945ルノ
アールに学び、日本洋画にエムゾネ存在感ある独特の装飾技法を樹
立した。その金字塔とも言うべき作。〃田崎広助長野・田崎美術
館箱根朱富士1975日本独特の平面的装飾に新しい一頁を開い
た田崎ならではの自然景観。〃林武箱根彫刻の森美術館赤

76 :
967主として第二次大戦以エムゾネ後洋画壇をリードした。豪快
な技法で富士連作に挑んだ。膠画(日本画)富岡鉄斎兵庫・清荒
神清澄寺富士山及び山頂全図屏風1898最後の文人画家とも言
われる思想家。自ら富士山に登り、その神聖性をダイナミックに
表現した。〃横山大観東京国立エムゾネ近代美術館或る日の太平洋
1952フェノロサ、岡倉天心と共に日本画壇を復興した巨匠。
日本の象徴と意識して多くのテーマに富士山が描かれた。〃下村
観山秋田県立近代美術館三保富士図屏風1919横山大観ととも
に明治日本画壇を背負った作家がエムゾネ伝統的テーマに新風を吹
き込む。〃川端龍子東京・大田区立龍子記念館怒る富士1944
強烈な個性で大作に挑んだ激情の画家。激しい気象現象を示す富
士に挑戦した作品。〃松岡映丘宮内庁三の丸尚蔵館富岳茶園19
28昭和天皇即位記念の作品。伝統エムゾネ的日本画に透明感のあ
る新しい表現技法を示す。〃徳岡神泉京都国立近代美術館富士1
965福田平八郎と共に昭和の日本画壇に独自の新風を吹き込ん
だ。茫漠たるモノトーンの中に立する富士。24〃横山操東京・
五島美術館朱富士1966第二次大戦エムゾネ後の日本画壇をリー
ドした新星。多くの富士を描いたが、赤富士と電光の対比の妙。
〃小松均京都市立美術館白富士1982第二次大戦後の日本画壇
に詩的な大画面で新境地を開いた。郷土山形や大自然に魅せられ
て。〃片岡球子神奈川県立近代美術館面エムゾネ構葛飾北斎数年前
に没したが、最も現代日本画界をリードした女流画家。本図は女
史のライフワーク面構シリーズの一つ。写真鹿島清兵衛宮内庁三
の丸尚蔵館富士1894アマチュアながら当時の技術を駆使した
大版写真を御成婚25年記念に皇室に託しエムゾネた。〃岡田紅陽
山梨・岡田紅陽写真美術館忍野赤富士1894文字通り富士山の
写真家。富士山のあらゆる表情を写真に収め、広めた。木版画萩
原英雄山梨県立美術館三十六富士1926本県出身の日本

77 :
する木版画家。新しい視点からの富士山シリエムゾネーズ。富士山
の文学歴史書「六りっ国史こくし」(奈良−平安)菅野すがのの
真ま道みちら「続日本しょくにほん紀ぎ」(平安)藤原通憲ふじ
わらのみちのり「本朝ほんちょう世紀せいき」(平安)伝皇こう
円えん「扶桑ふそう略記りゃっき」(平安)※エムゾネ作者未詳「
吾妻鏡あづまかがみ」(鎌倉)斎藤月岑さいとうげっしん「武江
ぶこう年表ねんぴょう」(江戸)風土記元明天皇げんめい

78 :
う詔「常陸ひたち国のくに風土記」(奈良)談話集景戒きょうか
い「日本にほん霊異記りょういき」(平安)※作エムゾネ者未詳「
今昔こんじゃく物語集ものがたりしゅう」(平安)和歌集大伴家
持おおとものやかもち「万葉集まんようしゅう」(奈良)紀淑望
きのよしもち・紀貫之きのつらゆき「古今和歌集こきんわかしゅ
う」(平安)村上むらかみ天皇てんのう「後撰和ごエムゾネせんわ
歌集かしゅう」(平安)後鳥羽ごとば上皇じょうこう「新古今和
歌集しんこきんわかしゅう」(鎌倉)後鳥羽院ごとばいん「最勝
さいしょう四天王院してんのういん障子しょうじ和歌わか」(鎌
倉)藤原長清「夫木和歌抄ふぼくわかしょう」(鎌倉エムゾネ)藤
原ふじわらの為ため明あきら「新拾遺和しんしゅういわ歌集かし
ゅう」(室町)25記録・紀行文都良香みやこのよしか(平安)
「富士山記ふじさんき」※作者不詳(鎌倉)「海道記かいどうき
」※作者不詳(鎌倉)「東関紀行とうかんきこう」飛鳥エムゾネ井
あすかい雅世まさよ(室町)「富士紀行ふじきこう」堯孝ぎょう
こう(室町)「覧らん富士記ふじき」堯恵ぎょうえ(室町)「北
国紀行ほっこくきこう」※作者不詳(室町)「富士御覧日記ふじ
ごらんにっき」道興どうこう(室町)「廻国かいこく雑記エムゾネ
ざっき」宗牧そうぼく(室町)「東国とうごく紀行きこう」紹巴
じょうは(室町)「富士見ふじみ道記みちのき」小堀遠州こぼり
えんしゅう(江戸)「東海道紀行とうかいどうきこう」浅井了意
あさいりょうい(江戸)「東海道名所記とうかいどうめいしエムゾ
ネょき」岩佐いわさ又兵衛またべえ(江戸)「迴国道の記」松尾
まつお芭蕉ばしょう(江戸)「野ざらし紀行」香川景樹かがわか
げき(江戸)「中空の日記」古川古松こしょう軒けん(江戸)「
東遊とうゆう雑記ざっき」藤とう惺せい梅ばい(江戸)「東海エム
ゾネ紀行」日記文学菅原孝標女すがわらのたかすえのむすめ(平
安)「更級さらしな日記」阿仏尼あぶつに(鎌倉)「十六

79 :
いざよいにっき」「うたたね」後ご深ふか草院くさいんの二条に
じょう(鎌倉)「とはずがたり」賀茂真淵かものまぶち(江戸)
エムゾネ「岡部日記おかべにっき」永井ながい荷風かふう(江戸−
昭和)「大窪だより」伝説・物語※作者不詳「竹取たけとり物語
ものがたり」(平安)※作者不詳「伊勢いせ物語ものがたり」(
平安)紫式部むらさきしきぶ「源氏げんじ物語ものがたり(若紫
わエムゾネかむらさき)」(平安)藤原兼輔ふじわらのかねすけ「
聖徳太子伝暦しょうとくたいしでんりゃく」(平安)※作者不詳
(平安)「平中へいちゅう物語ものがたり」「平家へいけ物語も
のがたり」(鎌倉)※未詳「曽我そがの物語ものがたり」(鎌倉
)※エムゾネ作者不詳「源平げんぺい盛衰記せいすいき」(鎌倉)
※未詳「承久記じょうきゅうき」(鎌倉)浅井あさい了りょう意
い「東海道名所記」(江戸)能(謡曲)伝世阿弥ぜあみ原作(室
町)「富士山ふじさん」※未詳(室町)「羽衣はごろも」御伽草
紙「富エムゾネ士の人穴ひとあな草紙ぞうし」(江戸)仮名草紙※
作者不詳(江戸)「竹斎ちくさい」滑稽本十返舎一九じっぺんし
ゃいっく(江戸)「東海道中膝栗毛とうかいどうちゅうひざくり
げ」仮名垣魯文かなかきろぶん(江戸−明治)「滑稽富士詣こっ
けいふじエムゾネもうで」26浄瑠璃近松門ちかまつもん左ざ衛門
えもん(江戸)「聖徳太子絵伝記」竹田たけだ出雲いずも・三好
松洛みよししょうらく・並木千柳なみきせんりゅう(江戸)「仮
名かな手本でほん忠臣蔵ちゅうしんぐら」童謡巌谷いわや小波さ
ざなみ(明エムゾネ治−大正)「富士山ふじさん」(「ふじの山」
)海野うんの厚あつし(明治−昭和)「背せいくらべ」随想・随
筆新井あらい白石はくせき(江戸)「折おりたく柴しばの記」田
山たやま花袋かたい(明治−昭和)「富士を望む」小島烏水こじ
まうすい(明エムゾネ治−昭和)「すたれ行く富士の古道」、「不
二山ふじさん」永井ながい荷風かふう(明治−昭和)「日

80 :
り下駄げた」太宰だざい治おさむ(明治−昭和)「富嶽百景ふが
くひゃっけい」大町桂月おおまちけいげつ(明治−大正)「富士
の大観」中村星エムゾネ湖なかむらせいこ(明治−昭和)「少年行
しょうねんこう」北村きたむら透谷とうこく(明治)「富嶽ふが
くの詩し神しんを思おもふ」深田ふかだ久弥きゅうや(明治−昭
和)「日本にほん百名山ひゃくめいざん」小説落合直文おちあい
なおぶみ(江戸−エムゾネ明治)「たかねの雪ゆき」夏目漱石なつ
めそうせき(明治−大正)「三四郎さんしろう」「虞美人草ぐび
じんそう」泉鏡花(明治−昭和)「婦おんな系図けいず」「春し
ゅん昼ちゅう」「春しゅん昼ちゅう後刻ごこく」徳富とくとみ蘆
花ろか(明治−昭和エムゾネ)「冨士ふじ」「自然しぜんと人生じ
んせい」(随筆)永井ながい荷風かふう(明治−昭和)「新帰朝
者日記」橋本英吉はしもとえいきち(明治−昭和)「富士山頂ふ
じさんちょう」井伏鱒二いぶせますじ(明治−平成)「岳麓点描
がくろくてんびょう」エムゾネ武田泰淳たけだたいじゅん(大正−
昭和)「富士ふじ」武田百合子たけだゆりこ(大正−昭和)「富
士日記ふじにっき」新田にった次郎じろう(大正−昭和)「強力
伝ごうりきでん」「怒いかる富ふ士じ」「芙蓉ふようの人ひと」
「富士ふじに死しす」「エムゾネ着氷ちゃくひょう」「冬山ふゆや
まの掟おきて」「富士ふじ山頂さんちょう」川端康成かわばたや
すなり(明治−昭和)「東海道とうかいどう」白井喬二しらいき
ょうじ(明治−昭和)「富士ふじに立たつ影かげ」国枝くにえだ
史郎しろう(明治−昭和)エムゾネ「神州纐纈城しんしゅうこうけ
つじょう」松本まつもと清せい張ちょう(明治−昭和)「波なみ
の塔とう」芹沢光せりざわこう治じ良ろう(明治−平成)「我が
入道にゅうどう」「人間にんげんの運命うんめい」幸田文こうだ
あや(明治−平成)「崩くずエムゾネれ」27詩歌伝柿本かきのも
との人麻呂ひとまろ(飛鳥−奈良)「柿本集」山部赤人や

81 :
あかひと(奈良)「万葉集まんようしゅう」高橋たかはしの虫む
し麻呂まろ(奈良)「高橋虫麻呂たかはしのむしまろ歌集」藤原
ふじわらの清きよ正ただ(平安エムゾネ)「清きよ正ただ集」在原
業平ありわらのなりひら(平安)「業平集」藤原ふじわらの公き
ん任とう(平安)「公きん任とう集」藤原ふじわらの定家さだい
え(平安−鎌倉)「内裏名所百首」「名号みょうごう七字十題和
歌」飛鳥あすか井い雅まさ経つねエムゾネ(平安−鎌倉)「

82 :
あすか井い和歌集」藤原ふじわらの俊とし成なり(平安−鎌倉)
「(藤原兼ふじわらのかね実ざね)右う大臣家だいじんけ百首ひ
ゃくしゅ」「五社百首」「丹後守為忠朝臣家百首」慈じ円えん(
平安−鎌倉)「拾玉集」西行さいぎエムゾネょう(鎌倉)「新古今
和歌集しんこきんわかしゅう」源実朝みなもとのさねとも(鎌倉
)「金槐和歌集きんかいわかしゅう」阿仏あぶつ尼に(鎌倉)「
安嘉門院あんかもんいんの四条しじょう五百首ごひゃくしゅ」万
里ばんり集九しゅうきゅう(室町)「エムゾネ梅香無尽蔵」堯ぎょ
う恵え(室町)「下葉和歌集」水無瀬みなせ氏成うじなり(安土
桃山−江戸)「水無瀬殿富士百首」清水浜臣しみずはまおみ(江
戸)田安宗たやすむね武たけ(江戸)「悠然院様御詠草」林羅山
はやしらざん(江戸)「丙辰へいしん紀エムゾネ行」石川いしかわ
丈山じょうざん(江戸)加藤枝かとうえ直なお(江戸)「うけら
が花」賀茂真淵かものまぶち(江戸)「賀茂翁家集」本居宣もと
おりのり長なが(江戸)「石いその上稿かみこう」「鈴屋すずの
や集」契沖けいちゅう(江戸)「詠富士山エムゾネ百首和歌」村田
むらた春海はるみ(江戸)琴後ことじり集」島木赤彦しまぎあか
ひこ(明治−大正)土井どい晩翠ばんすい(明治−昭和)「大敵
迫る」斉藤さいとう茂吉もきち(明治−昭和)「赤光」「箱根路
」前田まえだ夕暮ゆうぐれ(明治−昭和)「エムゾネ富士を歌ふ」
若山わかやま牧水ぼくすい(明治−昭和)「海の声」北原きたは
ら白秋はくしゅう(明治−昭和)「雲母集」「不尽抄」金子かね
こ光晴みつはる(明治−昭和)「富士」「五つの湖」草野心平く
さのしんぺい(明治−昭和)「富士山」小野おエムゾネの十とお三
郎ざぶろう(明治−平成)「重油富士」「風景詩抄」28俳句松
尾まつお芭蕉ばしょう(江戸)「奥の細道」与謝蕪村よさぶそん
(江戸)小林こばやし一茶いっさ(江戸)蝶夢ちょうむ(江戸)
「宇良うら富士紀行」正岡まさおか子規しき(明エムゾネ治

83 :
虚子たかはまきょし(明治−昭和)飯田いいだ蛇笏だこつ(明治
−昭和)「山りょ集」富安風生とみやすふうせい(明治−昭和)
水原みずはら秋桜子しゅうおうし(明治−昭和)「葛飾」永井な
がい荷風かふう(明治−昭和)「名所方角集」西東エムゾネさいと
う三鬼さんき(明治−昭和)「旗」「変身」渡辺わたなべ水すい
巴は(明治−昭和)「富士」加藤楸邨かとうしゅうそん(明治−
平成)「寒雷」「慟哭」「都塵抄」「雪後の天」293.登録の
価値証明a)評価基準への適合性証明1)条約上の遺エムゾネ産種
別「富士山」は、世界遺産条約第1条及び『世界遺産条約履行の
ための作業指針』(以下、『作業指針』という。)第45項に規
定にする「記念工作物」、「建造物群」及び「遺跡」に該当する
。2)評価基準への適合性証明以下に示す理由に基づきエムゾネ、
「富士山」には、世界遺産一覧表への記載のための評価基準のう
ち(B)、(C)、(E)が適用できる。評価基準(B)現存す
るか消滅しているかにかかわらず、ある文化的伝統又は文明の存
在を伝承する物証として無二の存在(少なくとも希有な存エムゾネ
在)である。評価基準(B)の適用富士山では神聖なる気持ちを
喚起する自然環境を背景とし、山頂への参詣などの特徴を持った
山に対する宗教的な儀礼・活動が成立し、18〜19世紀にかけ
て大規模な大衆による宗教的登山の代表的存在となった。山エムゾ
ネ体とその周辺の地域には、体系化された儀礼・活動の場となっ
た神社、登山道、及びその沿道に分布する関連遺跡群、霊地・巡
礼地となった風穴・湧水地・湖沼などが残されている。そこでの
儀礼や活動を通じて、人々の生活の中に富士山に対する信仰のエム
ゾネ核心が継承されている。また、今日でも富士山は日本を代表
し象徴する最高峰として老若男女を問わず憧れ親しむ「名山」で
ある。したがって、富士山は山頂への参詣という形態を中心とし
、時代を超えて今日まで継承された山に対する固有の文化

84 :
エムゾネを顕著に表わす物証として稀有な存在である。・日本にお
ける山に対する固有の文化的伝統を顕著に表わす物証富士山の山
頂部一帯は、山に対する日本の宗教観とその秀麗な姿、及び10
世紀頃まで盛んであった火山活動などに基づき神仏の世界、ある
いエムゾネは他界(死後世界)とされてきた。このため富士山では
富士山の神(※1)を祀った山麓の浅間神社における遥拝活動と
ともに、以下の絵図(類似の登山案内図が数多く作成された)に
示されたように、雲上の神仏の世界へ一定の儀礼に従って参詣す
る「エムゾネ登拝」を中心に、富士山体・周辺にある富士山の火山
活動によって生成され神聖な意味を持つとされた風穴・溶岩樹型
・湖沼・滝・湧水地などを巡礼し、修行することで治病・除災な
どの超自然的力を獲得し、罪や穢れを消して生まれ変わる(擬死
再生)エムゾネと考える「富士山禅定」(※2)と呼ばれる行為(
儀礼・活動)が成立し、18〜19世紀にかけて富士山は体系化
された登拝のための宗教施設も含め、大規模な大衆による宗教的
登山を代表する存在となっていた。このような自然への畏敬とい
う日本のエムゾネ宗教観の根本を基盤とし、神仙思想(道教)や仏
教(特に密教)なとど融合した日本独特の山岳信仰を代表する遥
拝及び登拝・登山の様式は今日でも命脈を保ち、特に夏季を中心
に訪れる外国人を含む多くの登山客とともに富士登山の特徴を成
している。エムゾネまた、信仰の核心部分は各地の浅間神社に対す
る信仰や今日も続く宗教的な儀礼・活動によって受け継がれ、富
士山は日本を代表する神聖な山として知られている。(※1)こ
の神は、1868年の神仏分離令まで神仏習合の影響を受け仏の
化身と考えらエムゾネれていた。また、この神は一つの神に限定さ
れず、信仰の種類や時代ごとに異なる性格と名称を持ついくつか
の神または仏が信仰されていた。(※2)「禅定」とは本来は心
を静めて一つの対象に集中する宗教的瞑想・状態、あるい

85 :
結果仏と一体化エムゾネすることを示す言葉であり、その後、主に
修験道において富士山などの霊山に登って修行することも意味す
るようになった。写真「絹本著色冨士曼荼羅図」(部分:16世
紀ごろ)30「絹本著色冨士曼荼羅図」(16世紀ごろ)評価基
準(C)歴史上のエムゾネ重要な段階を物語る建築物、その集合体
、科学技術の集合体、あるいは景観を代表する顕著な見本である
。評価基準(C)の適用富士山では、富士山信仰の形成の

86 :
社等の建築群・登山道・宗教施設を経て山頂に参詣する体系化さ
れた宗教的儀礼・活エムゾネ動が15〜16世紀にかけて発達し、
18〜19世紀にかけて完成された。この過程において、日本に
おける山に対する固有の文化的伝統や富士山により生み出された
芸術活動を背景として、富士山の宗教施設、そこでの儀礼・活動
は富士山の自然環境とエムゾネ一体となって宗教的な意味を持つ景
観として認知され、これが宗教的絵画等で表現されることにより
、多くの人々に富士山が神聖な山であるとの認識がより強固に定
着し、日本写真上図拡大部分宗教施設水垢離場における山と人間
の良好な関係の形成に影エムゾネ響を与えた。したがって、富士山
への信仰の形成過程を通じて定着した富士山の景観認識は近代工
業社会以前の段階における山と人間との精神的関係を表す景観の
顕著な見本である。・山と人間との精神的な関係を表す景観の顕
著な見本富士山では噴火がエムゾネ沈静化した12世紀ごろから山
頂への宗教的登山が開始され、15〜16世紀には「富士山禅定
」と呼ばれた登拝様式が整い、大衆にも拡大した。この過程で富
士山は、矮小な存在である人間が山麓の草原地帯(「草山」、「
カヤ原」などと呼ばれた)にエムゾネある神社・水垢離場で身を清
め、森林地帯(「木山」、「深山」などと呼ばれた)の山中の宗
教施設等を順に経ながら、砂礫地帯(「焼山」、「ハゲ山」など
と呼ばれた)の神仏の世界あるいは他界に至るイメージで認知さ
れるようになり、同時期に絵画エムゾネや文学作品において典型的
な富士山像が成立したことを背景に、「絹本著色冨士曼荼羅図」
を代表例とする信仰上の景観認識が成立した。17世紀以降はこ
れらの典型的な認識を基に、さらに多様な信仰上の認識(※3)
が模索され、「富士講」と呼ばれエムゾネる富士山信仰集団の隆盛
や交流人口の拡大などにより、18世紀後半から19世紀にかけ
てほとんどの日本人に富士山の神聖な山としての景観認識

87 :
した(※4)。この認識は近代工業社会の自然に対する考え方が
一般化する以前の山と人間との良好エムゾネな精神的関係を示すも
のであった。、31(※3)富士山は神仙思想における不老不死
の象徴である「蓬莱山」や仏教における世界の中心である「須弥
山」に見立てられた。また、主に18世紀後半より富士山の信仰
上の景観認識を立体化した「富士塚」エムゾネが東京を中心に建設
され、女性を含め山頂への登拝ができない人にとっての代参施設
となった。(※4)登拝者には登山口の浅間神社や御師の発行す
る富士山の信仰上の景観認識を描いた宗教画が配布されるととも
に、縁起の良いものとして富士山やそのエムゾネ図像を拝したり、
眺めることが行われた。右「富士山のゾーニング」左「三尊九尊
図」評価基準(E)顕著な普遍的意義を有する出来事(行事)、
生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直
接または実質的関連がある(この基準は他エムゾネの基準とあわせ
て用いられることが望ましい)。評価基準(E)の適用富士山と
周辺の特徴的な自然が醸成する優秀な景観美や火山としての活動
は、日本人の山に対する信仰の形成の一翼を担い、今日まで継承
されている山頂への遥拝と参詣を中心としたエムゾネ文化的伝統は
、アジア地域に顕著である山を神聖視する文化と深い関りを有し
ている。写真写真焼山(ハゲ山)木山(深山)草山(カヤ原)3
2また、これらの富士山の特色は古くから様々な芸術活動の母胎
ともなり、「万葉集」や「竹取物語」をはじめエムゾネとする日本
固有の和歌、俳句、物語文学やこれらを主題とする絵画などの対
象として日本人に良く知られていた。特に富士山を題材にした「
浮世絵」などは海外にも広く知られ、近現代の西洋芸術に様々な
影響を与えてきた。したがって、富士山は、顕著エムゾネな普遍的
意義を持つ生きた伝統、芸術的作品・文学的作品と直接的・実質
的に関連がある景観である。・顕著な普遍的意義を持つ生

88 :
統との直接的・実質的関連アジア地域、特に東アジア地域では特
異な形態を持った山岳の空間を神聖視し、仏教(特エムゾネに密教
)や道教(神仙思想)、儒教と結びついて修行の場や宗教施設を
設置する場とした。これらの伝統は6世紀〜8世紀を中心に日本
に伝えられ、日本固有の山岳信仰や神道と結びつき修験道などの
信仰を生んだ。現在の富士山においてはこれらの信仰エムゾネの核
心部分が登拝などの形態や儀式に伝えられている。また、富士山
のみならず日本各地の山岳やアジア地域の山岳においても形態は
異なるとはいえ山を神聖視することをその根本に据えた文化的伝
統が数多く行われている。したがって、富士山は顕著なエムゾネ普
遍的価値を持つ生きた伝統と直接的・実質的に関連がある景観で
ある。・顕著な普遍的意義を持つ芸術作品との直接的・実質的関
連独立峰である富士山の周囲には湖や海と組み合わされた富士山
の優れた景観を望む展望地があり、今日に至るまで多くのエムゾネ
芸術作品を創造する場となった。これらの富士山を題材にした芸
術作品のうち、最も海外に影響を与えた作品は葛飾北斎の浮世絵
「冨嶽三十六景」である。19世紀前半に作成されたこの一連の
作品は、日本の開国に伴い西洋に輸出され、他の浮世絵ととエムゾ
ネもにその構図や表現方法がジャポニスムと呼ばれた西洋におけ
る日本芸術の流行を生み、モネ、ゴッホといった印象派の画家に
大きな影響を与え、アールヌーボーが発生する一因となった。そ
のほか、富士山と三保松原を舞台に富士山に関わる伝説をモチエム
ゾネーフとした能(謡曲)「羽衣」は文学におけるモダニズムに
影響を与えた作品である。また、19世紀後半から20世紀初頭
にかけて、日本が万国博覧会などで意図的に出品した富士山を題
材にした絵画・工芸作品や、富士山を意匠に用いた日本の輸出品
エムゾネは、富士山を描いた浮世絵や日本を訪れた外国人が富士山
からインスピレーションを得て記述した紀行文の文学的表

89 :
とともに多くの世界の人々に他の世界の著名な山と明確に区別さ
れる富士山の景観イメージを広めることに貢献した。文学では海
外エムゾネに良く知られた「万葉集」以来、数多くの和歌や俳句な
どによってその崇高さや美しさが称えられ、近代以降も海外にも
知られた文学者(※夏目漱石「三四郎」・太宰治「富岳百景」な
ど)によるものをはじめ富士山を舞台とした作品が生み出された
。写エムゾネ真写真左「神奈川沖浪裏」右「凱風快晴」葛飾

90 :
冨嶽三十六景」より(1831〜36年)33写真ゴッホ「タン
ギー爺さん」b)顕著な普遍的価値の証明a)において証明した
評価基準への適合性の証明の結果として、「富士山」は以下に記
す観点エムゾネから顕著な普遍的価値を持つ。顕著な普遍的価値の
言明富士山は、日本を代表し象徴する日本最高峰(標高3776
m)の秀麗な独立した火山として世界的に著名であり、その自然
的美しさと崇高さを基盤として日本人の自然に対する信仰の在り
方や、海エムゾネ外に影響を与えた葛飾北斎や歌川広重などによる
顕著な普遍的価値を持つ「浮世絵」などの日本独特の芸術文化を
育んだ「名山」である。富士山は、山岳に対する信仰の在り方や
芸術活動などを通じ、時代を超えて一国の文化の諸相と極めて深
い関連性をエムゾネ示し、生きた文化的伝統の物証であるのみなら
ず、人間と自然との良好で継続的な関係を示す景観の傑出した類
型として、世界的にも類例を見ない顕著な普遍的価値を持つ山で
ある。富士山の山体とその周辺の地域には、宗教的な儀礼・活動
の場となったエムゾネ神社、登山道と関連遺跡群、霊地・巡礼地と
なった風穴・湧水地・湖沼などが残され、そこでの儀礼や活動を
通じて、人々の生活の中に富士山に対する信仰の核心が継承され
ている。また、富士山信仰の中で山体・樹叢・湖沼などの自然環
境を基盤とし、エムゾネ体系化された神社等の建築群・登山道・宗
教施設を経て山頂に参詣する宗教的な儀礼・活動が成立した。こ
れが発展し、18〜19世紀にかけて富士山は大規模な大衆によ
る宗教的登山及びその体系の典型的存在となり、この体系の核心
は現代の登山に継エムゾネ承されている。現在でも、富士山は日本
を代表し象徴する最高峰として老若男女を問わず憧れ親しむ「名
山」である。加えて、富士山と周辺の特徴的な自然が醸成する美
しさと崇高さは、信仰上の景観として捉えられただけでなく、古
くから様々な芸術活エムゾネ動の母胎となり、「万葉集」を

91 :
とする日本固有の和歌や俳句、絵画などの対象として日本人に良
く知られていた。特に富士山を題材にした「浮世絵」などは海外
にも広く知られ、近現代の西洋芸術に様々な影響を与えてきたも
のである。さらに、こエムゾネれらの芸術と富士山やその景観美を
紹介した外国人の著作を通じて、富士山が一つの国の文化を代表
する「名山」であることは国際的に認知されるに至っている。3
4写真写真本栖湖からの富士山三保松原からの富士山c)比較検
討による証明1)比較軸エムゾネの特定富士山の顕著な普遍的価値
を表す要素を特定し、他の同種の遺産がそれらの要素に該当する
か否かを検討することによって比較を行う。富士山の顕著な普遍
的価値は、以下の3つの要素に整理できる。(1)山に対する固
有の文化的伝統を顕著に表エムゾネわす物証として稀有な存在:富
士山では山頂への参詣などの特徴を持った山に対する宗教的な儀
礼・活動が成立し、山体とその周辺の地域には、神社、登山道、
霊地・巡礼地となった風穴・湧水地・湖沼などが残されている。
そこでの儀礼や活動を通じてエムゾネ、人々の生活の中に富士山に
対する信仰の核心が継承されている。(2)景観の顕著な見本:
富士山体とその周辺の景観は、類いまれな美しさ、神聖な空間と
して認知され、日本における自然美の典型として、多くの人々に
世界の山の中でも最も著目なアエムゾネイコンとして共有されてい
る。(3)顕著な普遍的意義を持つ芸術的作品との関連性:富士
山の優れた景観美は、近現代の西洋美術に影響を与えた芸術的作
品などに「関連する景観」である。信仰の山については、200
1年9月に和歌山県で開催されたエムゾネ国際会議「アジア・太平
洋地域における信仰の山の文化的景観に関する専門家会議」(以
下、「信仰の山会議」という)において、信仰の山の認定及び保
護に関する様々なテーマと問題が討議された。ここで、信仰の山
の遺産としての価値は、有形的価値エムゾネ、無形的価値の

92 :
性、演劇」、「聖なる山」、「アジア・太平洋地域の土着信仰」
に関する山岳等を抽出した。Dでは、ユネスコ世界遺産センター
から刊行されたPeterJ.Fowler氏による研究書の中
で、山が特徴として挙げられている資産のうち、「美エムゾネ的資
質」、「集団のアイデンティティ」、「信仰、聖地、神聖性」の
特徴を持つ資産を抽出した。以上より、富士山の比較対象とする
海外の同種資産は表1の34件となる。その中では富士山

93 :
通性のあるものに、共通性の大きいものにがしてある。エムゾネ信
仰面では、上記の無形的側面での共通性があるもの、芸術面では
山自体が絵画の題材とされ、画派等を生むなど、美術史への影響
力があるものを共通性が大きいとしている。が付された比較対象
について、1)で示した比較軸である信仰の物証(自然的エムゾネ
特性、有形的側面、無形的側面)、芸術作品との関連性により、
同種資産を整理すると表2、表3のとおりになる。36表1:比
較対象とした海外の山岳等(34件)番号山名資産名評価基準国
名信仰芸術1ウルル、カタ・ジュタウルル−カタ・ジュタ国エムゾ
ネ立公園オーストラリア2サバラン山サバラン−イラン3スライ
マン−トースライマン−トー聖山キルギス4プーカオ山チャンパ
サック県の文化的景観にあるワット・プーと関連古代遺産群ラオ
ス5ボグドハン山、ブルカン・カルドゥン山、オトゴン・テンエム
ゾネゲル山モンゴルの聖なる山:ボグドハン山、ブルカン・カル
ドゥン山、オトゴン・テンゲル山−モンゴル6ヒマラヤ山脈サガ
ルマータ国立公園(F)ネパール7ルアペフ山、ナウルホエ山、
トンガリロ山トンガリロ国立公園ニュージーランド8泰山泰山中
エムゾネ国9黄山黄山中国10武当山武当山の古代建築物群中国1
1廬山廬山国立公園中国12峨眉山峨眉山と楽山大仏中国13武
夷山武夷山中国14青城山青城山と都江堰水利(灌漑)施設中国
15三清山三清山国立公園中国16五台山五台山中国17華山、
衡エムゾネ山、恒山、崇山泰山の登録拡大として四つの聖山−中国
18雁蕩山雁蕩山−中国19南山慶州歴史地区韓国20漢拏山済
州火山島と溶岩洞窟群韓国アジア・太平洋地域21アダムスピー
クピーク野生保護区、ホートンプレインズ国立公園、ナックレス
山脈エムゾネ−スリランカ22アパラチア山脈グレート・スモーキ
ー山脈国立公園アメリカ23キラウェア山ハワイ火山国立公園ア
メリカ24ロッキー山脈カナディアン・ロッキー山脈自然

94 :
、恐竜州立自然公園、ウォータートン・グレーシャー国際平和自
然公園エムゾネ、イエローストーン国立公園カナダ・アメリカ25
シナイ山聖カトリーナ修道院エジプト26サント・ヴィクトワー
ル山サント・ヴィクトワール山とセザンヌに関連する土地−フラ
ンス27ペルデュ山ピレネー山脈−ペルデュ山スペイン及びフラ
ンス28エムゾネアトス山アトスギリシャ29オリンポス山オリン
ポス山周辺−ギリシャ30ドロミテ山塊ドロミテイタリア31ケ
ニア山ケニア山国立公園/自然林ケニア32ワスカラン山ワスカ
ラン国立公園ペルー33スイス・アルプス(ユングフラウ−アレ
ッチュ峰、エムゾネビチホルン峰ほか)スイス・アルプスユングフ
ラウ−アレッチュスイスアジア・太平洋地域以外34キリマンジ
ャロ山キリマンジャロ国立公園タンザニア37表2:信仰関連の
山岳等番信仰の物証号山名自然的要素、有形的側面無形的側面1
ウルルカタ・エムゾネジュタ・ウルルは単一の岩石・アボリジニに
とって、ウルル−カタ・ジュタの岩は伝統的な信仰の中で不可欠
なものである。・山自体が信仰の対象であり、遙拝といった信仰
形態をもつ。3スライマン−トー・参詣道、岩面陰刻・中央アジ
ア随一の聖なるエムゾネ山とされ、ムスリムの聖地である。前イス
ラム教とイスラム教を融合した信仰形態が残る。・山頂を目指す
という行為自体に宗教的意義付けがない(登拝といった信仰形態
をもたない)。4プーカオ山寺院、山頂のリンガ(シバ神の象徴
)・シバ神の住むエムゾネ山である。・山頂から麓の川に至るまで
に建てられた寺院群はヒンズー教の宇宙観を表現する配置である
。6ヒマラヤ山脈・同程度以上の標高(エベレスト8848m)
・修道院、寺院・神々の住処として崇拝される空想的な山である
メール山(スメールエムゾネ山、須弥山)が地上に顕現・チベット
仏教、ボン教、ヒンズー教、ジャイナ教の聖地・ヒンズー教の聖
典の一つには人間の罪はヒマラヤを見れば消滅する、とあ

95 :
登山許可は下りない。7ルアペフ山ナウルホエ山トンガリロ山・
火山・マオリにとってエムゾネこれらの山は文化的・宗教的な重要
性を持っており、そのコミュニティと環境との間の精神的なつな
がりを象徴している。・山自体が信仰の対象であり、遙拝といっ
た信仰形態をもつ。8泰山・参詣道、寺院・小泰山(山頂まで登
れない人が泰山の代わりエムゾネに祈る場所)・儒教・仏教・道教
の聖地である。・秦の時代より、皇帝即位の際の儀式である「封
禅の儀」を執り行っていた。・宗教施設が山頂、山中に点在する
ため、参拝が登山の形態をとるが、登山行為自体に宗教的な意義
を求める登拝とは異なるもエムゾネのである。11廬山参詣道、寺
院・中国の近代政治上、重要な場所とされている。・山自体では
なく、山に築かれた宗教施設が信仰の対象である。・仏教、道教
、儒教の聖地とされ、キリスト教、イスラム教の施設も建てられ
ている。12峨眉山・同程度エムゾネ以上の標高(万仏頂3099
m)・参詣道、寺院・中国における仏教の最初の聖地。・山に築
かれた宗教施設や日の出・ブロッケン現象といった自然現象が信
仰の対象。宗教施設が山頂・山中に点在するため、参拝が登山の
形態をとるが、登山行為自体にエムゾネ宗教的な意義を求める登拝
とは異なる。13武夷山・参詣道、寺院・南中国での道教と新儒
教の源であり、朱子が生涯の大部分を過ごした地である。・山自
体ではなく、山に築かれた宗教施設が信仰の対象。16五台山・
同程度以上の標高(葉頭峰305エムゾネ8m)・参詣道、寺院、
小朝台(朝台を簡略化した祈る場所)・中国仏教四名山の一つで
、文殊菩薩が悟りを開いた地とされる。・自然景観を神聖なもの
としているが、5つの台頂に築かれた寺院に参詣すること(「朝
台」)が最大の願いである。20漢エムゾネ拏山・独立峰、火山・
参詣道・韓国の最高峰の火山で、聖なる儀式の場としても使用さ
れた溶岩洞窟を多く持つ。・山自体よりも山中の石に対す

96 :
が強い。21アダムスピークストゥーパ、沐浴場・釈迦が訪問し
た地とされる。・山頂に聖なる足跡がエムゾネあり、仏教、ヒンド
ゥー教、イスラム教それぞれの聖地とされ、巡礼者が訪れる。2
5シナイ山修道院・シナイ山は、旧約聖書において、モーセに神
からユダヤ教の聖典と十戒が渡された場である。28アトス山寺
院、修道院・古代ギリシャの聖なる山でエムゾネあった。・105
4年にギリシャ正教の中心地として定められ、現在も修道

97 :
の隠棲の地であり、敬虔な宗教活動が続けられている(女人禁制
)。入場者はごく少数に制限されている。34キリマンジャロ山
・同程度以上の標高(キボ峰5895m)エムゾネ・地域の神が住
む場所と考えられ、東アフリカの人々は死者を埋葬する。・チャ
ガ族(キリマンジャロ山麓に居住する部族)は、神の住む場所と
しており、彼らの伝承や慣習には、山への高い敬意が表されてい
る。38表3:芸術関連の山岳等番号山名芸エムゾネ術作品との関
連性8泰山・数多くの詩や文が残る。・山頂の風景が紙幣の図柄
になるなど、中国人の精神的シンボルと捉えられている。9黄山
・絵画は数多く描かれ、黄山画派と呼ばれた。11廬山・山水画
、山水詩は多数作られ、特に「観瀑図」は日本エムゾネの画家にも
大きな影響を与えた。22アパラチア山脈・フレデリック・チャ
ーチやトーマス・コールといったアメリカの風景画家に描かれて
いる。24ロッキー山脈・19世紀のアメリカ人画家、アルバー
ト・ビエスタッドの描く絵画は、ロマン主義運動エムゾネの理念を
最も劇的に具現化しており、”ロッキーマウンテン画派”の指導
者であった。・富士山と同程度以上の標高(エルバート山440
1m)26サント・ヴィクトワール山・20世紀の初頭、フラン
ス人画家、ポール・セザンヌによって、風景画に対エムゾネして根
本的に異なるアプローチが始められ、西洋美術作品の中でも最も
有名な山となった。27ペルデュ山・この風景は生活の伝統(牧
畜との暮らし、国境の文化、ピレネー独特の文化)と芸術・文学
作品が関連して、顕著な普遍的価値を構成。(レイモエムゾネンド
・デ・カルボニエ、ヘンリー・ラッセル、ヴィクトル・ユゴー等
)。・ヨーロッパ芸術の中でロマン主義が発展していく上で重要
な役割を果たした。・富士山と同程度以上の標高(3352m)
33スイスアルプス(ユングフラウ峰、ビーチホルン峰エムゾネ、
ほか)・印象的な風景はヨーロッパ芸術、文学等において

98 :
役割を担った。・レオナルド・ダ・ヴィンチはモンテ・ローザの
スケッチをモナリザの背景として描いた。・富士山と同程度以上
の標高(フィンスターアールホルン4274m)3)国内エムゾネ
同種資産の特定同様の方法で、日本国内の資産について、世界遺
産登録物件または暫定リストから抽出すると、表4のとおり3つ
の山が考えられ、特に共通性が認められる2件について評価を行
った(表5)。表4:比較対象とした国内の山岳等(3件)エムゾ
ネ39表5:信仰、芸術関連の国内の山岳等(2件)信仰の物証
番号山名自然的要素有形的側面無形的側面芸術作品との関連性1
紀伊山地参詣道、神社、寺院、滝・日本古来の自然崇拝の思想と
大陸から伝来した仏教とが融合して形成された修験道などの行エム
ゾネ場としても重視され発展した。・山自体が修験の場であり、
山中で廻峰行という宗教行為が行われている。神聖性の高い自然
及び継続的に行われている宗教儀礼は、信仰の山の文化的景観を
構成する要素として優秀かつ多様である。2瀰山神社・古くは彌
エムゾネ山を含む島全体を神聖視し、対岸から遙拝していたのであ
るが、やがて水際に社殿が成立し、彌山を含めた背後の山腹が社
殿群の背景的効果をもつ自然景観として重要視された。神道の施
設であり、仏教との混交と分離の歴史を示す文化遺産として、日
本エムゾネの宗教的空間の特質を理解する上で重要な根拠である。
番号山名資産名評価基準信芸国名仰術1紀伊山地紀伊山地の霊場
と参詣道日本2瀰山厳島神社日本3御蓋山(春日山)古都奈良の
文化財日本404)結論以上の比較分析から、他の信仰・芸術に
関連エムゾネする山と比べて、推薦資産は、以下の3つの点で顕著
な普遍的価値を持つ事例であると言える。(1)海外の信仰関連
の山岳との比較富士山は、8世紀以降、噴火を鎮めるため山麓に
浅間神社が建てられた。12世紀に修験者の道として登山道が開
かれ、エムゾネ15〜16世紀には修験者に引率され、登拝

99 :
とした宗教的な活動が盛んとなった。山体につくられた宗教施設
だけでなく、溶岩洞穴・樹型・湧水地も巡礼・修行の場となった
。この結果、登拝の行為を通じて周辺の神社及び巡礼地、参詣道
が形成さエムゾネれた。このように、富士山は、今日まで継承され
た山に対する固有の文化的伝統を顕著に表す物証であるとともに
、人間と山との精神的な関係を表す景観であり、18〜19世紀
は既に年平均1〜2万人という世界的にも類例のない大衆による
高山への登エムゾネ拝が行われるようになった。富士山は、(ケニ
ア山やキリマンジャロ山、トンガリロやウルル等に代表されるよ
うな)原始的な山岳信仰のあり方から、(泰山等の中国の山々や
アトス山やシナイ山等に代表されるような)多様な宗教の介入に
よって生み出エムゾネされた信仰のあり方まで、そのいずれも失う
ことなく現在に至るまで継承している。信仰に関連する山の多く
は、山自体ではなく、山麓に点在する宗教施設や石仏が信仰の対
象であり、そうした宗教施設等を参詣するための道が整備されて
いる。また、一エムゾネ部は山頂にそうした宗教施設があるため、
参拝が登山の形態をとるが、富士山のように登山行為自体に宗教
的な意義を求める登拝とは異なるものである。アダムス・ピーク
は多くの巡礼者が登山の形態をとるが、頂上の聖なる足跡とされ
る岩を目指す点でエムゾネ、宗教施設に参拝する形態と類似するも
のであり、富士山とは異なると考える。また、一部の山岳はその
聖なるがゆえに登山を制限しており、登拝はなく、遙拝という信
仰形態しか持たない山もある。信仰の山の自然的要素である標高
については、自然遺エムゾネ産を中心に富士山よりも高い山も存在
するが、その標高に比した登頂者の多さ(年約30万人)は他に
例がなく、山頂部への道路や軌道によるアクセスがないことから
、登頂者は徒歩6時間以上かけて、山頂部を目指すことになる。
こうした登山形態は、エムゾネ日本では20世紀前半に開花

100 :
代アルピニズムに起源するものではなく、17世紀以降の江戸(
現在の東京)を中心に数多く組織された富士講の登拝活動を母胎
に発展したものである。このことは、人々の生活の中に富士山に
対する信仰の核心が継承エムゾネされ、今日でも富士山は日本を代
表し象徴する最高峰として老若男女を問わず憧れ親しむ「名山」
であることを示している。また、富士山への登山は夜明け前の山
頂到着を目指す登山者が多いことにも特徴がある。これは


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