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西南戦争・薩摩軍勝利の可能性について 2


1 :2010/11/28 〜 最終レス :2016/02/11
前スレ
西南戦争薩摩軍勝利の可能性
http://www.unkar.org/read/academy6.2ch.sc/history2/1171611134

2 :


3 :
山縣有朋だったらあるいは持久戦に持ち込めたかも
知れないが持久戦を説く山縣に、用兵の天才
山田顕義が先制攻撃、速攻を持ち出した事から
西郷隆盛の軍も遂に人吉を守り切れず
結局玉砕よ。。
DFの山縣、速攻FWの山田市。

4 :
4様

5 :
保守

6 :
保守

7 :
保守

8 :
保守

9 :
勝てるわけ無いだろう、武器の差があるのだから
無謀な戦い

10 :
江藤淳によれば
旧幕臣が立たなかったことが一番大きいらしい。
旧幕臣勢力が西郷軍に加わっていれば明治政府崩壊もありえた。

11 :
物量の差が大きすぎるので薩軍勝利の可能性は薄いと思うなぁ。
案外、琉球に立てこもると面白いんじゃないかと思ってる。
琉球は当時はまだ、清との冊封・朝貢関係は完全に切れていなかった。
それを薩軍が勝手に「日本軍」として進駐するのだ。
当然清は明治政府にクレームするだろうし、台湾出兵での摩擦も
記憶に新しく、英米も介入してくる可能性がある。
事態を解決するために、明治政府が薩軍に対して譲歩をするかもしれないし
ゴタゴタが続けば大久保も失脚するかもしれない。
薩軍は大久保を政治的に抹殺出来れば十分だろ?

批判と反論は大歓迎だ。

12 :
保守

13 :
保守

14 :

馬術競技の金メダリストの父は薩摩藩士
http://s1.shard.jp/rabbit1/0202/5/150_1.html
その薩摩藩士は、西南戦争の最中に中央アジアいた。

15 :
保守

16 :
>>1
西郷、もうたいていにせんか

17 :
保守

18 :
他の西国の乱が鎮圧された後に立っても勝てるわけない

19 :
政府軍は装備と実戦経験を充実させながら各個撃破していくんだからな。
鹿児島一国に割拠されたままの方が政府としては対応が難しかっただろう

20 :
保守

21 :
しかし、雨が降ると鉄砲があまり役に立たないのを武器を使って
戦争するとは

22 :
薩兵は、政府の鎮台兵を百姓兵などと言ってバカにしてたんだろうが、
鎮台兵は体格検査とか性格適性などで選り抜かれた連中なはずで、
世襲で戦士ぶってた小さい薩摩男などは、素手で戦ったら瞬殺されかねないぐらい差があったと思う。

23 :
>>22
幕末〜戊辰戦争で実戦経験豊富な薩兵とポテンシャルありそうだけど実戦経験ない徴兵とでは…
大鳥圭介とか幕府歩兵隊の回顧録に銃撃や白兵突撃における実戦経験がいかに重要だったか書いてあるよ。
ベトナム戦争やイラク戦争で屈強な黒人やアングロサクソンがどうなっちゃったかを引き比べてもある程度想像できるのでは?

24 :
結局、奄美から収奪した資金のおかげのバブル劇だったんだな。幕末薩摩は。
皮肉じゃなくて、革命とはそういうもんだという意味で。
奄美からパクれなくなってからの鹿児島は、革新から一番遠い、サムい土地になってしまった。

25 :
敬天愛人が信条の西郷信者のみなさん、
みなさんが大好きな「実行力」が生かせる時が来ましたよ!
今すぐ原発作業員に志願して、この国難を救ってください!
日本の隅っこで、議を言ってる場合じゃありませんよ!

26 :
tes

27 :
これは無理でしょうな・・・・

28 :
いい加減薩摩の乱と呼ぶべき

29 :
31 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/03(金) 02:27:53 ID:1eE6MbuB0
政府の密偵がかなり私学校に入り込んでいた形跡はあるので、難しかっただろうが、
やはり他地域との提携に立った、同時多発的方法しかないだろう。
@大久保暗殺を、腰抜けと思われた金沢士族にやらせる。
A土佐立志社の少なくても一部を抱き込み、私学校より先に決起との情報を散布。
B熊本城焼き討ちと、福岡士族の決起を同時に行う。
C三菱の汽船と新橋横浜間の六郷鉄橋を爆破。
D横浜の居留地を襲撃し、外国の民間人を人質にとる。
E本隊、鹿児島進発。同時に貴島隊、豊後路を目指す。
F熊本鎮台を野戦にもちこみ殲滅。降伏した将兵は部隊に繰り込む。
G鶴岡や弘前の士族による東北陽動作戦開始。
H名古屋や金沢、広島で放火を多発させる。
I小倉、長崎、福岡占拠。
J勝海舟を仲介者にして政府との交渉開始。
K徳川慶喜公に調停を依頼。三条・岩倉・伊藤・山県更迭。

30 :
61 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/26(金) 23:01:26 ID:CcyPZZYbO
『薩摩軍の編成』
総指揮官…西郷隆盛
参謀格…淵辺高照
副官…仁礼景通
1番大隊大隊長…篠原国幹
2番大隊大隊長…村田新八
3番大隊大隊長…永山弥一郎
4番大隊大隊長…桐野利秋
5番大会大隊長…池野四郎
6・7番合大隊…別府晋介 6番隊長…越山休蔵 7番大隊長…児玉強之助
協力諸隊

31 :
政府軍は弾薬・食料が充分補給されていた。
薩軍は田原坂で弾薬・食料が尽きた。
つまり、政府軍=米軍、薩軍=旧日本軍 状態
生産力の差はどうしようもない。
最後に斬り込み・玉砕をやったところまで旧日本軍と同じ。

32 :
田原坂での朝敵の戦力はどのくらいだったの?
全戦力を投入していればもしかしたら。

33 :
西郷が「おたずねしたき宜がござる」と一人で上京してきたら政府は一番困ったりして
在野の世論が西郷に味方、政府分裂、大久保政権瓦解

34 :
32 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/03(金) 11:07:19 ID:nsvshVk2O
おれがしりたいのは、熊本城陥落があれば対局はどうなったのかなんだよ。どうなったの?可能性はあった。あと一週間粘れれば城兵は餓死者が出始めるということ
33 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/05(日) 02:58:22 ID:3mOOpuxI0
>>32
熊本城は、篠原の主張通り、損耗を顧慮することなく全軍の力で攻めきれば、
攻撃翌日の2月23日には落とせたかもしれない。
しかし、消耗した兵力で田原坂を守りきれたかどうか疑問である。
西郷小兵衛が戦死した高瀬の戦い程度の損害で済めば別だが、その程度では済まなかっただろう。
おそらく、数日後には政府軍に逆包囲され、田原坂と違ってかえって薩軍主力を捕捉しやすくなる。
鹿児島からの増援も、海軍で城下を監視、緑川に阻止線を引いて遮断。
弾薬では勝るので昼夜問わず、会津鶴が城を上回る砲撃をかける。
最後は3月末に砲弾下を生き残った薩軍が城門を開けて玉砕しただろう。
また、田原坂が突破される以前に熊本鎮台が降伏した場合も、多少の兵力の増援で攻防を長引かせただろうが、
結局は衝背軍に背後を突かれて熊本城に立てこもるか、やはり人吉に撤収するしかないだろう。
政府軍の脅威になるかたちで別の地方の士族が呼応するとしでも、
結局は数百名程度の決起で、逆に対立派閥や近隣の士族隊に阻止されてしまっただろう。
やはり>>31で書いたように破壊工作やテロしか方策がなく、それでも全体の動きに変化はなかっただろう。
熊本城にこだわらなかったからこそ、9月まで戦えた。
なお、熊本鎮台が反乱を起こし、樺山が谷と児玉を斬って西郷と合流したならば、局面は違ったかもしれないが、
現実には可能性は皆無だっただろう。

35 :
鹿児島土人に原発処理は無理!日本猿に自転車のパンク修理をさせるようなもの(笑)

36 :
寛大なる処置に感謝の鶴岡市は、おかしいですね。
33みたいなことをされたら、困ったでしょう

37 :
>33
永山がそれをしようといいましたが。

38 :
>>37
西郷一人でっつーか桐野と篠原に護衛何人かつけてって言った。
ただ「刺客を差し向ける政府が道中手をこまねいて見てる訳がない」との反論に返せなかった。
で野村忍介が「自分が船(三菱汽船?磯の汽船?)で海路若狭から京都に入って
今ちょうど京都にいる明治天皇に西郷を招集するお墨付きを貰ってくる」
と言ったが野村の口数が多すぎた(実際現実的過ぎて成功しそうだった)ので
篠原に「議を言うな」と一喝されて慎重論は一気に萎んだ。
三番大隊の辺見と四番大隊の野村が逆の配置で、
戊辰戦争の城下小銃四番隊のときみたいに永山の補佐に野村がついてたら
戦局は豊後方面から変わってった・・・かもしんない。
桐野はそれを知ってたから野村を四番大隊に入れて熊本北の山鹿に置き
八代海岸口の永山と会わせないようにしたんじゃないかなと本気で思ってる。

39 :
>>30
>5番大会大隊長…池野四郎
池上(いけのうえ)四郎な。木村秀海センセが見たら泣くぞw

40 :
村田新八は西南戦争が無かったら初代総理大臣になっていただろう。

41 :
西南戦争が無かったら暗殺されずに大久保が間違いなく初代総理だろ
木戸はもう病死してるだろうから次は大隈か伊藤、その次くらいじゃない?
黒田よりは村田の方がよっぽど相応しいね

42 :
は?賞典禄すら貰ってない大隈が3番手とかお前馬鹿だろ。

43 :
論功行賞順で首相が決まるなんて全くもって近代国家じゃないな

44 :
>>42
同じく賞典禄もらってない伊藤や村田はいいのかwww
何で大隈だけ駄目なのん?伊藤と並んで大久保の後継者と目されていたのに。14年政変までは

45 :
42は西郷スレで総スカン食らった西郷マンセーくんだなw
西郷が最強な理由、それは賞典禄一番もらってるから、らしいですw

46 :
立憲に関する建議書、建白書の存在からして、
大隈の総理としての出番は、憲法の発布後だろうなあとは思う。
それまではチャンスがあっても固辞する気がする。
村田は黒田より総理に向いてるという意見には大賛成。
ただ村田の遠慮がちな性格からすると、大久保の命令で後を次いで
内務卿を先にやってから総理の椅子に就いた気がするんだよなあ。
大久保内務方針を順当に引き継げるのが多分村田で、
大隈は会計検査面から睨みを利かしつつ村田の後を引き継ぐのに
向いてるんじゃないかなって思った。お目付け役大隈って感じ。
いずれにせよこの二人よりフットワークが軽くて調整役に徹するのが上手い伊藤が
二人よりも先に総理の椅子に就きそうな気がする。
村田と大隈は性格的に官僚向きな印象がどうしても拭えなかった。

47 :
鹿児島軍 vs 政府軍の戦いは
鹿児島軍の圧勝だったじゃんw
警視庁まんせー

48 :
鹿児島では今だに鹿児島独自の大本営発表的教育やってるから恐ろしくなるわ

49 :
日教組や共産党が絡むくらいなら大本営発表的教育の方が分かりやすくて良いよw
>>47
野村・中島ペアのことか。
確かに野村の奇兵隊だけは政府軍を圧倒したなw

50 :
西南戦争が無かったらなんて前提の妄想が笑える(笑)(^w^)
楯突いた薩摩土人を官軍が征伐した!それは明治政府側にしてみれば当然のこと

51 :
鹿児島人は薩摩鹿児島は常に正義であり日本の近代化は鹿児島の力だけで成し遂げてたと思ってるマ
だから琉球侵略や奄美大島搾取また西南戦争敗北などなかったことにしたいのだろう

52 :
頭悪いよね〜家畜の飼育しかできない
鹿児島土着民(笑)

53 :
そもそも西郷は勝つ可能性はゼロだと思ってただろ。
それでも暴徒化した士族にもう時代遅れだと言う事を思い知らせる意味で挙兵に乗った。

54 :
39 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2010/11/10(水) 09:32:13 ID:uwcUFzi00
Q : 西南戦争は西郷さんと鹿児島士族にとって、
  日本のために自ら滅び、武士の世に幕を引くのが目的だったいうのは本当なの?
A :
敗色が決定的になると西郷は桐野と口をきかなくなり、
桐野のほうでも西郷を避けるような気配を示すようになったといわれる。
むろん、西郷の性格として桐野を責めたりなじったりすることはなかった。
この男に乗せられ、賊として最期を迎えるはめになった自分に対する嫌悪が、
西郷の桐野に対する感情を重くしたのではないかと思える。

55 :
会津や庄内の生き残りも何名か参加したようだな。

56 :
勝つ可能性0ではないだろう
熊本でつっかかってしまって終わった

57 :
負けていい戦争。
戊辰戦争の幕府と一緒。
南無

58 :
陸路では難しかったと思う
熊本スルーとかも出来なかったと思うし、まさに陸の孤島だかごんまは

59 :
よくこんな連中が倒幕できたなあと思うが、
薩摩藩士のまともな層はさっさと鹿児島捨てて新政府で働いてるし、
鹿児島には幕末時の潤沢な資金もほとんど残ってなかったようだな。
最強軍団と言われた薩摩士族も、頭脳と資金を取っちゃえばあんなもんなんだろうな。

60 :
倒幕は念密な戦略と準備計画で行ったものだが
西南戦争は薩摩側からしたら意図せず政府側から起こったもので仕方ない
西郷なども下野してから暴発を抑える為に姿をかくし
完全に中央情勢に暗くなってしまってる

61 :
反政府世論は全国野に満ちていたんだから、熊本なんかは一部の兵を残してさっさと中原に出ればよかった
もともと覆す気があるなら他郷の同志と結び、反乱を大きくすれば政府の兵力では分散孤立せざる得なくなったろうが
そういう連携もなかったから、まったく政府転覆など意図してなかったろう

62 :
? じゃ何のために万を超える兵を出発させたんだよw

63 :
もう暴発したから挙兵せざる得なくなっただけ
最初から意図してないから初めから戦略も何もない
挙兵の名文も政府に尋問の筋これありでとってつけたような理由をつけた

64 :
暴発と挙兵は別物のはず
挙兵は政府から大久保らを追い出し、実権を奪い返すためだろ
政府転覆とどう違うんだ?
他地方の不平士族と連携しなかったのは、連携する以前に南九州でつまずき、
他の不平士族は様子見に回ってしまったというのが実情じゃないのか?
西郷軍の当初の目論見では、各地の政府軍すら西郷軍に同調し反政府に回ると考えていたらしいじゃないか
京都あたりで各地の政府軍と不平士族が大量合流し、大軍でもって東京に進軍するイメージだったんだろう
戦略が無かったんではなくて、デタラメだっただけだな

65 :
政府転覆の意図あったら明治6年の政変で転覆してるわ
板垣や江藤や前原らとも手を結ぶのをハッキリ拒んでるのに
戦略があったのは鹿児島を潰す意図があった政府で
西郷は当初からそんな気さらさらないのはハッキリしてる

66 :
明治6年に政府転覆の意図が無かったから、明治10年の西南でも無かったと言うのはアタマが悪すぎるわ

67 :
じゃあ何で西郷は暴発に激怒してるんだよ
暴発も西郷が猟師してる間に起こってる

68 :
>>59
廃藩納地の後だからね。
>>64
知ではなく、武でカタを付けたい人が
西郷を祭りあげてやったのが西南の役だから。
新政府で武士は不要ですって言われて頭に来て。

69 :
最初から作戦を村田新八にまかせるべきだった。
桐野利明と篠原国幹に作戦を立てる能力はない。
しょせん下士官レベル

70 :
そういえば、戊辰のとき薩摩藩で戦略級の方針決定とかしてたって言えば誰だろ。
伊地知正治なんかはそれに入れてもいいと思うが。

71 :
その伊地知正治だろ?
薩摩では天才参謀みたいな扱いだったようだけど・・
あくまでも薩摩では・・

72 :
伊地知が馬鹿なら、白河で惨敗した西郷頼母や姉歯市之進、
伊地知の白河占領後に背後を襲ったものの大田原を落とせなかった大鳥圭介に山川浩あたりは、
人間と呼ぶに値しない猿未満の無能になってしまうのだが。

73 :
まぁ戦前は国民感情的にも、満州放棄は無理だったと思うけどね。
ただ張作霖爆殺と満州事変ってやり方は……

74 :
戦争と2chに誤爆は付き物ですよね。

75 :
>>72
確か大鳥の後日談では作戦面より装備品の質と物資の不足でどうしようもなかったとか。
まあ負けた側の言い訳という事もあるんだろうが大鳥は勝と違ってそのあたり馬鹿正直なんで事実に近いんじゃないかと思う。
五稜郭にたどり着いて物資が充実してて、土方達ら幹部も大いに士気が上がったという話は旧幕関係者も語ってる。

伊地知の能力云々について旧幕側で言及した資料ってあるのかな?

76 :
伊地知って薩摩以外での評価ってゼロに近いんじゃない?
司馬もなにかで、旧弊な人物だったみたいなこと書いてたし。
たしか大村は伊地知をまったく相手にしなかったとか。
大村はそういう正直すぎる対応するんで殺されたが。

77 :
>伊地知
知名度は確かに低い。
でも、知名度の低さと能力の高さは必ず比例するものでなきゃ駄目なのw。
伊地知に関しては、その実績と結果が物語っているでしょうに。

78 :
伊地知に関しては、白河への突出の判断が白眉だと思う。
何も考えずに突っ込んで一度負けてるけどw
ただ、あそこで白河城を確保して守り抜いたことで、後続の板垣や
浜通り攻略軍の仕事が随分とやり易くなったし、同盟軍が
白河から関東へ進出するのを不可能にした。
まぁ指揮権的には方面軍レベルだったけど、やり手じゃないかな。
ところで、会津への突出とかの判断も最終的に採決してたのは大村なわけで、
その辺の戦略級に関わってた薩摩藩士っていないのかなーっと。
白河城攻略については、大村の着任前だかに伊地知へ自由裁量を与えた
結果なので除外。

79 :
伊地知レベルの戦功なら、倒幕や戊辰に従軍した指揮官クラスの人間はみんな持ってるだろうw

80 :
大村の仙台攻めに反対し
会津攻略を達成したのが板垣と伊地知コンビでないかね

81 :
伊地知
安政6年に精忠組に参加。
文久2年、功績により軍奉行となる。
類稀な軍略家であり、薩英戦争や戊辰戦争で大きな功績を挙げた。
白河口の戦いではわずか700の兵で白河城に拠る旧幕府軍2,500を大破。
会津戦争においても薩摩軍を指揮し、土佐藩の板垣退助と共に会津若松城開城に大きく貢献している。
兵法の特徴として、徹底した少数精鋭主義(薩摩藩兵では城下士の部隊、長州藩兵では奇兵隊系の部隊を選抜して率いた)と合伝流の伝統である火力絶対主義にあった。
戦後は薩摩藩の藩政改革に臨んだ。

82 :

wikiに書いてあることが真実だと思っている情弱w

83 :
Wikipediaのその項目周辺での明らかな誤りといえば
・山川浩は板垣退助を戦場で破った[[山川浩]]
正解「藤原の戦いに板垣は参加していないため、山川は板垣には負けたことしかない」
・会津藩は武装恭順を標榜した[[奥羽越列藩同盟]]
正解「当時会津藩は関東各地で転戦しており恭順していない」
・当時仙台藩は日本有数の雄藩にして武力も高く関東から樺太まで続く北部政府・・・
正解「仙台藩は雄藩として周囲の期待を集めたが実際の武力では劣っていた」
   「蝦夷地は幕府領であり東北諸藩は委任されていただけ。幕府降伏後に北海道を領地に加えて考えるのは無理」
   「星亮一が熱心に唱える北部政府なるものの存在は無かった。東北諸藩の協議会があっただけ」
東北至上主義者の書き換えで、誤りが増幅しているようです。

84 :
会津と長州「友情」の歌響く 2高校が共同制作し合唱
http://www.asahi.com/national/update/0805/TKY201108050423.html
第35回全国高校総合文化祭福島大会(ふくしま総文、文化庁など主催、朝日新聞社など特別後援)は3日目の5日、
福島市で合唱部門があり、福島県の会津高と山口県の萩高が、共同制作した曲「友情 時を越えて今」を歌った。
 会津高のバスが渋滞に巻き込まれて到着が遅れ、合同リハーサルを一度もできないまま本番に。それでも、息の合ったハーモニーで大きな拍手を浴びた。
 会津と長州が戦った戊辰戦争以来、両地域の一部には今もわだかまりが残る。「友情」は、そんな歴史を乗り越えようと、
5年前に山口県であった国民文化祭の一環で制作され、会津高が作詞、萩高が作曲。以来、定期演奏会のDVDを交換したり、手紙のやりとりをしたりして、交流を続けてきたという。
 歌は「明日を信じ/優しい未来に向かって/飛び立とう さあ」という歌詞で終わる。会津高の金成昌吾部長(18)は
「過去の歴史はあるけれど、僕たちが新しい歴史を築いていこう、という思いで歌った」。萩高の杉山太紀部長(18)は「震災で大会開催も危ぶまれたが、一緒に歌えて本当に良かった」と話した。
 秋篠宮ご夫妻と次女の佳子さまは午後に来場し、4団体の演奏を鑑賞した。(神庭亮介)
http://www.asahi.com/national/update/0805/TKY201108050423.html

85 :
勝ったところでどうするの?
チェストー幕府つくるの?

86 :
私学校での西郷の言動を考える限り、鹿鳴館及び華族の廃止と農村下牧であったと思われる。
つまり全国が静岡藩になる。

87 :
日本全国総郷中化だろ
つまり日本が北朝鮮になる

88 :
だ薩摩芋侍。明治になっても抜刀突撃w

89 :
>>86
その頃はまだ鹿鳴館は存在しとらんよ

90 :
西郷が勝ってもそれまでの政府主導側が追い出されただけで
諭吉っつぁんの言う通り政体の基本的な枠組は変わらないだろう

91 :
司馬史観だと、半次郎とかが指揮してなかったら勝ててたっぽい。

92 :
>>85
いいかどうかはさておき藩制度維持かと。

93 :
>>92
旧来の藩制度は崩壊させて侍階級の温存だけを図ったんじゃないかな
生き残った若者の侍たちは中共の紅衛兵的な存在になったと思う

94 :
西郷は近代化そのものに反対で、
廃藩置県も最後にようやく説得された。
その上政府方針に反して薩摩藩の人間を知事に置き続け、
新政府と対立し続けた。

95 :
西郷首班の留守政府の時にガンガン近代化しているのだけれども

96 :
西郷の判断基準って、近代化とか士族身分維持とかが日本のためになるかどうかじゃなくて、
そういう話しを持って来る人間が西郷に媚びてくるかどうかが判断の基準になってるからな。

97 :
>>93
西郷は留守政府で山縣に同調して徴兵制を支持。
それまで軍隊は士族の志願兵で構成すると言っていた。

98 :
廃藩置県のときも、山縣の話聞くだけ聞いて一諾したんじゃなかったっけ。
まぁ当の山縣から「えっ?マジで?」みたいな反応されてたけどw

99 :
廃藩置県はそれまでに上層部では散々議論されてきて
後はいつやるかという問題だけだったから
タイミングが合えばそら即断するだろ

100 :
民主党政権には廃藩置県ぐらいの社会的な構造変換を望んで票を入れたんだが
まったくの間違いだったどころか明確に日本人のための政策より在日と朝鮮半島のための政治をやり始めやがった。
せめて日本人の為の政治をやるなら廃藩置県ぐらいの痛みもしょうがないとは思うが

101 :
>>99
木戸の建白書や大久保ならそういう話もあるし、
鳥尾に相談された井上もその両者については心配ないと請け負ってるが、
西郷についてはいまいち分からん……

102 :
西郷は無能だったから負けたんだよ
普通は戦争準備に時間かけるものさ

103 :
そもそも戦争する気がないのに
戦争準備をするはずは無い

104 :
熊本をスルーしなかったのは戦略的に出来なかったよりも戦争して斬り合いしたかったんだと思う
維新から10年、戊辰戦争に参加出来なかった若い衆も血湧き肉躍る先輩の活躍と出世みてるし、熊本は仮想敵国で、鎮台兵は百姓で徹底抗戦とは小癪なりぃでしょw
その前に各地の不平分子の党を潰して組織を強くした政府の勝ち、潰される前に東上してたらオセロ見たいに色が変わる可能性もあったのにね

105 :
尊皇の勢いに任せて行った倒幕だったから、
時期を早めたとしても、どっちに天皇が付くかで勝敗が決したのでは?

106 :
なぜ、西郷は江藤と呼応して同時に決起しなかったのか?

107 :
しかし熊本城の全軍強襲は事実上1日で終わってるよ
官軍の南下が早かったので。薩軍勝利の可能性は皆無

108 :
>>106
慢心ですなw 佐賀の乱の時に呼応してたらどうなったか考えるほうがなんぼか早い

109 :
そもそも西郷に決起のタイミングとか考える能力があったかどうか怪しい。
倒幕時の神がかった指導力も、結局のところブレーンが決めてたことで、
そのまともなブレーンは東京に残ったから、西郷は裸の王様になってた。

110 :
佐賀の乱に呼応したら、佐賀〜薩摩〜土佐のラインが出来、熊本や萩も友好的中立を保てた可能性がある
決起するなら征韓論政変の直後だね
佐賀の乱の段階でなんぼの兵が集まるか知らないが、西南戦争の段階ではもう勝ち目ないよ

111 :
倒幕は西郷の功績
鳥羽伏見江戸開城も西郷
幕末なら提携したろが江藤などと共に立ち上がるきないだろ
江藤より大久保の方を信用してるし

112 :
そういう了見の狭さがあったって事だな

113 :
111みたいに今だに西郷を盲信してる人がいるぐらいだから、
当時の鹿児島士族が西郷の威光を過信していただろうことは想像に難くない。
西郷と私学校軍でいつでも政府は倒せると。

114 :
西郷は勝てると思っておったのかな…思ってたんだろうな

115 :
鹿児島行くと分かるけど、鹿児島市がこの世の中心と思ってる人が多数だよ
市内が中心、市外や島は雑魚の住むところ、県外のことは興味なし、または間違ってるおかしなことやってる世界、
そんな感じ

116 :
西郷が武力を用いて政権奪取する気なら
そもそも明治6年政変の時にやってる

117 :
>>114
思ってなかったんだよ。
でも、周りの勢いとか自分が言い出しちゃったこととかに引きずられて、やめようっていえなかったんだよ。
今の橋下が同じような状況だ、調子に乗って言っちゃったことが自分の予想を超えて周りが盛り上がって、引くに引けなくなっちゃった。
都構想なんてできると思ってもないし、どうせどっかで止められるんで悲劇の先駆者としてその後は口先ばっかりでやってけるんで余生は万々歳と思ってたけど、
話がどんどん進んじゃった。どうしよう・・・ってとこだ。


118 :
西郷は、自分が負けるどころか、中央政府は自分を陸軍大将から解任することもできないと踏んでいた。
陸軍大将の盛装で鹿児島を出発したが、すぐに解任されて赤っ恥掻いてますねw

119 :
薩摩兵
生人肉が
兵糧か〆

120 :
素晴らしい薩摩文化シリーズ
【ひえもん】
薩摩の代表的胃腸薬。
戦死した者や刑死した者の胆嚢を取り出して陰干したもの。
材料が人間であるだけで他地域の「熊の胆」と同様なものである。
病人の治療や健康保全の為に服用された。
薩摩では人の胆が好まれ、近代に入っても戊辰戦争や西南戦争で胆取りが行われた話しが残る。

121 :
素晴らしい薩摩文化シリーズ
【ひえもんとり】
薩摩の代表的娯楽競技。
死刑囚の死体から胆嚢を数人で争って取り出す競技。
参加者は互いを殺傷しないよう刃物の所持を禁じられている。
先を争っては死体に群がり胆嚢などを取り出すのだが
参加者は刃物を所持していないため歯を使う。
死体にかぶりつき死肉を食い破り傷口から手を突っ込み胆を取り出す。
そして胆を取り出した者が栄誉とされる。

122 :
素晴らしい薩摩文化シリーズ
【衆道(ホモ)】
江戸時代末期には既に廃れつつあった衆道だが、薩摩では近代まで盛んであり
とりわけ稚児(少年)を好み、客人に「お茶にしますか?稚児にしますか?」と勧めるほどであった。
薩摩では郷中制度という青少年の集まりがあったが
要するにケツを掘り合って結束を固めるものである
美少年は羨望の的であり常に強姦の危機に曝されていた為
特定の年長者にケツを捧げて保護して貰う必要があった
年長者は美少年を稚児様と呼び、きらびやかな着物を着せ歩くときは傍らで傘を差し掛け
夜は他の者に拉致されないように寝ずの番をした。
薩摩ではこういった風習が常識であり
「父ちゃん、伊東さんちの美少年とホモダチになったよ」
「ほー、おまえもやるねー」
的な話題が家族の食卓で成り立つのである。

123 :
素晴らしい薩摩文化シリーズ
【衆に強くして寡に弱き】
薩摩人は多勢でいると強いが一人になると弱い特徴がある。
例えば一人でいる時に辱めを受けても大人しく帰ってしまう
そして仲間に言って多勢を引き連れて仕返しをすると言う具合である。
他国では卑怯な振る舞いであるが薩摩人にとっては当然の事であるようだ。

124 :
>>120-123
一見2chによくあるネタコピペだが、内容的にはマジなのが薩摩の凄いところ。

125 :
素晴らしい薩摩文化シリーズ
【えのころ飯】
薩摩の代表的郷土料理。
仔犬の腹を裂き内臓と取り出した後に米を詰めて蒸し焼きにした料理。
薩摩藩では犬を好んで食べ江戸でも犬がいなくなると「薩摩藩士に食われた」と言われた。
・赤犬が紛失したと芝でいい  (※芝には薩摩藩邸があった)
・大部屋に赤犬などのあらがあり
・酒盛りにきゃんと言わせる御国柄
↑江戸時代に薩摩藩を題材にした川柳

126 :
素晴らしい薩摩文化シリーズ
【ヤンチュ(黒糖奴隷)】
薩摩藩では奄美の島民を黒糖栽培の為に奴隷化していた。
島民達に人権なく安値で売り買いされ牛馬以下の扱いで酷使され続け
また、サトウキビ以外の生産は厳しく制限され飢餓に喘ぐ悲惨な状態であった。
そして驚く事に明治12年まで続く事になる。
島津は維新を謳いながら自領は江戸時代同様の支配を手放そうとせず
政府からの奴隷解放令や自由売買許可を握り潰し続け告布しなかったのである。
かの西郷隆盛でさえ奄美の人々を蛮族と蔑み奴隷政策に加担していた。

127 :
素晴らしい薩摩文化シリーズ
【超高税の農民虐め】
薩摩では百姓の本田畠に対しては79.6%と言う常軌を逸した高税が課されていた。
(自ら田畠を耕す自作郷士も大勢いたが郷士の自作地については僅か18.4%の課税)
更に食料や収入になりそうな樹木にも附籾と言われる課税がされていた。
(例えば、柿や漆は1本あたり籾1升に換算されて課税される)
そして15〜60歳の男子に用夫役や狩夫役などの労役が課せられ
公役は「月三十五日」と言われる過酷なものであった。
薩摩には独特の門割制度と言うものがあり
要するに耕作者の均一を図る為に
人口の少ない所には多い所から人を強制移住させるものである
選抜は「くじ」で行われ家族もばらばらに引き裂かれた。
明治期に至っても士族至上主義の農民虐めは続き
地租改正後も土地は士族が大半を独占し農民は小作になり士族支配の形は変わらなかった。
当初、選挙権・被選挙権共に地租の所有量により与えられた為
薩摩では議員も殆どが士族であり※後述
薩摩は太平洋戦争後まで封建制度が継続する事になった。

128 :
西南戦争って士族だけで戦ったの?
それとも百姓も駆り出されたの?(特に後半)

129 :
百姓は狩り出されてないだろ
郷士が、駆り出された百姓みたいなもんだけど
新政府の鎮台兵はまた別の次元の話しとして

130 :
>>127
会津よりひどい

131 :
>>129
トン。
じゃ俺の先祖は郷士だったのかな。
まぁ薩摩藩は1/4が武士階級だったから珍しくはないだろうが。

132 :
夢を壊すようですが、
鹿児島で先祖が郷士(士族)なら、うちは士族の家系だって威張ります。
先祖があやふやな場合、ご先祖は間違いなくお百姓さんです。
西南戦争に参加したなら、荷役などで徴集されたのかもしれませんね。

133 :
>>131
その可能性はあるでしょう

134 :
鹿児島って恐いね。

135 :
鹿児島って、あんまり農業にむいてない土地なの? 九州最南端だけど。

136 :
おはようございます
>>134
ひえもんは本当?
>>135
シラスですから

137 :
ひえもんも、犬食いもほんとだよ
古代隼人族は、朝鮮からの集団移民らしいから、
そっちのカルチャーを受け継いでいるんだろう

138 :
嘘だと思いたい。

139 :
西郷は幕府に恩をあだで返した張本人
孝明天皇の暗殺説もあるくらい、天皇をないがしろにして
新政府で要職に就くという目論見を企てた天罰だね
そもそも薩長志士の討幕運動は新政府で要職に就く下心によるところに
すぐないわけで、その報いがブーメランのようにかえってきた
公武合体で一介の藩の有力者か、討幕で功績をあげ要職を得る
かの天秤をかけて、結局主君をたぶらかしたんだから

140 :
恩を仇でかえしたというよりか、御用盗はテロ行為の何ものでもない。
鶴岡市もそれを承知で、南州神社を建てたのでしょうか。
久光は主君ではないのですが、たまらなかったでしょう。

141 :
ひえもんとり、くそワロタw

142 :
>>137
あの辺はむしろ南から移住が多かったとこでしょ。
島津は秦氏の係累だけど、鎌倉から来て土着したんだし。

143 :
頼朝の隠し子は嘘だけど、薩摩・大隅・日向の守護職になれたのは、統治するうえで役にたったでしょうね。

144 :
つか、隠居してるのに大久保呼びに来るなって話だよな

145 :
薩摩鹿児島は好きだ。 
花王不買運動
http://ikura.2ch.sc/test/read.cgi/ms/1323563661/403n-

146 :
顔立ち見れば南方系だよな。
体毛も濃い人多いし。
チンポの長さまでは分からん。

147 :
↑平均9センチだよ
隼人族は元々朝鮮半島からきた民族だから。

148 :
現実の鹿児島人の顔立ちはとくに南方系という印象は無いな
手足が短い人が多くて、縄文人って感じだよ

149 :
たしか江戸の町民の日記で、進駐して来た薩摩兵の手足が短く、
小人みたいなのばっかりで、笑われてたってのがあったなw
そんな集団だから、西郷みたいに高身長の藩士や、イケメン藩士(元稚児様?w)は
崇められる空気があって、身分以上の出世ができたらしい

150 :
出世できても
ケツ穴はガバガバ(笑)

151 :
現在でもあったら、だがいやだ

152 :
西南の役で間違って西郷軍が勝っていたら、日本の正月料理は、
ひえもんとか仔犬の蒸し焼きを強制させられていたかも知れないわけだな

153 :
西郷公は「国民皆兵」を唱えていた。
士農工商の身分隔て無く国民全員による国民軍を創設する為には
旧式の士族階級の特権意識排除が必要であった。
で、西郷公は「征韓論」に乗じて、李氏朝鮮征伐へ旧士族を動員しようとした。
真の目的は「勝つ事」では無く「旧士族を出来る限り沢山死なす事」だった。
西南戦争でも「勝つ事」が目的では無く不平不満暴発寸前の旧士族に戦わせる事で
「本懐」を遂げさせ「旧士族絶滅」を彼等旧士族に認識させる事にあった。
つまり、西郷公は自身が「最後の侍のリーダー」と成る事で真の目的とする
「士族意識絶滅」と「国民皆兵実現」を見事に果たした事に成る。

154 :
西郷が国民皆兵論者だとは初耳だ。
じゃあ大村の徴兵制実施案が頓挫したのは何でなんだ?

155 :
釣りだとは思うけど、鹿児島の人はマジでそう信じている人多数だからなw

156 :
>>152
こわーっ
絶対やだ。

157 :
鹿児島は味付けも独特で、とにかく何でも甘い。醤油も甘い。
日本とも南西諸島とも違う、他の地域に無い味付け。
ルーツが日本じゃないことは確かだ。

158 :
江戸時代に日本圏内で
高価だった砂糖を生産加工していた地域はどこだろうかねぇ

159 :
土佐も甘いよ
さわち料理は刺身のはずなのに、なぜか羊羹が乗っているから。

160 :
>>157
鹿児島人のルーツは
ポリネシアっていう説を聞いたけど
なるほどなと思ったよ
えのころ飯はポリネシアの蒸し焼きが
鹿児島で食文化として引き継がれて
きたらしいよ。

161 :
>>154
旧士族階級の猛烈な反発とその突き上げの結果だろう。
彼等は「農民や商人どもが武士と同列に軍事へ参加するとは何事か」と
「軍事は武士階級のみの特権・義務」だとの考えに凝り固まっていた。
まして戊辰戦役勝利に貢献した薩長士族の反発は凄まじいだろう。
自分達が血と汗と涙を流して勝利したのに、逆に「武士を捨てろ」だからな。
近代国家建設と欧米列強へ対抗して行く為には日本が国民国家に成なねばいけない。
でも旧士族の反発が根強い。
ただし彼等は「国民国家樹立」の「障害」以外の何物でも無い。
そこで西南戦役ですよ。
不平不満が溜った旧士族達を「満足」させ、その上で「国民国家」「国民皆兵」を
実現するには最早この手段以外に無かっただろうね。
西郷公はそこが凄かった。

162 :
皆兵論者ってのが本当なら、
西郷は薩摩士族らの非難を受けとめる勇気がなかったってだけなんじゃないの?

163 :

欧米列強の支持は間接支配下請けの明治政府なのだから西郷軍に勝ち目はない
日本国内向けの見方での西郷という維新最高の立役者が簡単に追われたことが
維新の真の遂行者が薩長でないことが解る
黒子として影に隠れている英米列強こそ明治維新の遂行者です

164 :

英米列強の忠実な下請け管理者になれば西郷でも誰でも逆らう者は追放
することができたんだよ
日本の真の支配者が誰か解るだろうに・・・・

165 :

欧米間接支配の管理者を嫌った西郷は幕府の役人と同じ立場に変わった
だけだよ
慶喜だろうが天皇だろうが西郷だろうが真の支配者に刃向えば潰される

166 :
西南戦争でボロ負けしてもなお、鹿児島の士族実質支配は変わらなかったというのは、
それだけ農民層が圧制されていて、民権の萌芽すら無かったということか。

167 :
鹿児島の士族連中がいかに非人道的だったかが解るね。

168 :
西郷軍がまかり間違って勝っていたら、
日本標準語は無理やり薩摩弁にされていたはず。

169 :
>>166
いわゆる四民平等となるような人権観や社会像はなかっただろうな。

土肥が薩長にポスト独占されて政府の中で片身狭くなった時に持ち出したのが民権論。

これも政治的な巻き返しの旗でしかなかったから、与党になった途端、金で人があっちこっち揺れた

170 :
明治20年代の県議会議員
    士族  平民
>>169
神奈川  1   56
埼玉   1   38
千葉   3   50
群馬   4   56
新潟   4   60
栃木   5   32
長野   6   32
岩手   7   60
宮城   8   56
山形   8   23
秋田   9   21
茨城   10   48
福島   10   50
青森   12   18
鹿児島  27   3  ←

この場合、政治的な話しではなくて、民度の問題かと

171 :
鹿児島は今は露骨な出自差別は無いようだけど、
鹿児島市内の出身か市外の出身かに、妙にこだわるね。
市内の人は城下の士族ってことだろうか?

172 :
>>171
おそらく土佐よりひどいんじゃね?
カゴンマの差別。

173 :
土佐の身分差別は、旧藩体制と共に消滅でしょ
鹿児島も郷士は一段低く扱われていたようだけど、
西南の役以降の県下は、郷士王国化したようだ

174 :
薩軍が勝ったら今の日本は無かったなんて言ってるガキは、単に薩摩嫌いなだけだろ?
後世の人間は結果だけで好きな事言いやがるからな

175 :
その勝利とはなんぞや

176 :
>>149
西南戦争でブログぐぐってたら、昔予備校で西南戦争はほもが原因でおこったと教えられたとか
書いてあってプーアル茶吹いた

177 :
ある意味正解

178 :
明治維新の主力勢力して、維新で最も打撃を被ったのが薩摩。
比類なく封建的なお国柄と、島津斉彬に象徴された開明性を併せ持つ薩摩の矛盾は、
異常なまでに急進的な西欧化を推進しながら、強烈な復古主義を主軸においた
明治政府の矛盾と符合している。
幕末の志士たちを革命運動に駆り立てた陽明学のような思想には蓋をして、
表面的になぞるように語ると、>>139のようなホームドラマ的明治維新に堕落するんだろうな。
立身出世が目的に普通の人間なら、危険な橋など渡らず、藩の役人でもしながら平凡な人生を終えてるさ。

179 :
頭の悪そうな文章だな

180 :
483:名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/03/06(火) 13:03:30.44 ID:6ytGU2Dp0
うちの一族総出で西南戦争に参加したらしいんだが
熊本城攻略にかなり手こずったあげく負けてしまったそうだ
それで鹿児島に逃げ帰ってきたんだと
うちは地元の地主だったんだが没落してしまった
うちの先祖は死の間際にも西郷さんに謝ってたらしい
某スレからコピペ
一族総出でつーとあの5兄弟が浮かんだんだが全員戦死したんだよね
地主ということは郷士だったのかな

181 :
市来さぁのとこでごわすな

182 :
俺のご先祖様も、西南戦争で薩摩側についてたそうだ。

鉄砲で足を負傷し、動けなくなり、前線からはずされ、自宅療養中(鹿児島市内)、政府軍に踏み込まれ、処刑される所だったらしいが、たまたま、その政府軍の中に知り合いの元薩摩藩士がいて助けてくれたらしい。
あの戦争は、薩摩藩内において、家族、兄弟、上司と部下、入り乱れての複雑な事情があったと、親父が教えてくれた。
なんか、切ないなあ。

183 :
>>182 kwsk 
城山制圧後の鹿児島って凄惨たる有様だったと聞くけどよく助かったね
やはりその後は裁判→士族剥奪だったのかな

184 :
実は、鹿児島士族軍の大半は勝手に降伏、もしくは戦線から逃亡したんだよ。

185 :
うん、そんなに綺麗なもんじゃないと思う。
現実はもっとかっこ悪いと思うけど戦争みたいな地獄だから当然だろね。

186 :

女にもてない=発達障害者
チビ=発達障害者
ブサイク=発達障害者
パチンコ好き=発達障害者
スロット好き=発達障害者
桜、内子=発達障害者
パチンコ店員、店長=発達障害者
部落やくざ=発達障害者
ヤンキー=発達障害者
デブ=発達障害者
低学歴=発達障害者
乞食=発達障害者


187 :
>>183
ご想像の通りです。
只、まぁ、よく助かったもんだと思う。
でなけゃ、俺の存在さえ無かったのだから…

最近は、御先祖様の歴史を辿る内に、どんな思いで、川路利良(正之進)さん達を京都へ送り出し、そして、眼前で城山が陥落する迄を見ていたのだろうか、と考えている所です。

188 :
川路→外城士
たらいも士族

189 :
東国原宮崎県知事vs南日本新聞前田昭人記者
http://www.youtube.com/watch?v=oLIDkj2tREI
東の肩など持ちたくないのだが、
ここで出てくる南日本新聞の記者が典型的な鹿児島ロジックの持ち主で辟易した。
議を言うばかりで実行しないのはなぜかとしっこく質問してるw
東知事が、今回の規模は国の協力が必要で自分の判断だけでは実行は不可能、と説明してるのに、
記者は、それでも知事であるあなたが何も実行しないのはおかしい、
と意味不明な難癖でしっこく食い下がってるw
何をどう実行すればいいのか自分では何も言えないのに、
相手を実行できない欠陥者のように貶めるのは完全に鹿児島脳でしょ。
西南戦争やらかした鹿児島士族のメンタリティが想像できるというものだ。

190 :
薩軍勝利の可能性はない
薩軍の銃は前装式エンフィールド
政府軍は元込式エンフィールド

191 :
薩軍にエヴァンゲリオンでも無けりゃいずれ負けるのは確実。

192 :
自衛隊一個師団が薩軍に付いたら勝てる?

193 :
一個中隊が薩軍に付けば勝てる

194 :
そう言う妄想でもしなければ、ダ薩摩に勝ち目は無いと

195 :
反乱の理由の一つに自分が主導権を取れなかった事があると思う。
板垣らは西郷を使節として派遣する事を決定。岩倉らは今朝鮮と争いごとをやる時期ではないと反対し、西郷は下野。
その二年後江華島事件が置き、日朝修好条規が締結された。
折角自分が使節としてきちんと国交交渉にあたる言うとんのに、開戦につながるからと反対して結果が砲艦外交による不平等条約。
この江華島事件に西郷はやり方が西洋みたいだと相当怒ったようだ。
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257Enippon/jogdb_h18/jog429.html
決して朝鮮人差別を正当化してネトウヨとつるむような人間ではないんで誤解ないよう。
西郷ならネトウヨの思考回路を西洋的と見るだろうし、征服して奴隷化なんて考えてなかった。
むしろ岩倉・大久保らの方がよっぽどそれに近い(欧米よりは遥かにましだろうが)。

196 :
事実上の西郷政権だった時が日本政治史上最良の政権だった
大久保他は遊びがてらにその上前を撥ねたにすぎん

197 :
第3回フジテレビ抗議デモ in 福岡
【日時】5月5日 13時30分集合  14時出発
【場所】天神警固公園(福岡市天神2丁目2)
【福岡】第2回フジテレビ・花王抗議デモ★5
http://kohada.2ch.sc/test/read.cgi/offmatrix/1322895559/

198 :
後世の人間が事後にいくら検証したところで、どちらが正しいかなど決められん
当時は皆一生懸命やった結果なのだ
西郷丼も大久保さぁも

199 :
船で一気に東京を目指せば東京落とせたのでは?一時的にでも

200 :
西南戦争は、実行することに意味が全くありません。
暴発以上でも以下でもない、単なる暴挙でしょう。
そして、あなたは西郷をホモと罵ったり明治維新を害悪だと罵っている割に、西南戦争の西郷を支持するとは、
単に騒乱と混乱と破壊だけを望んでいるのではないでしょうか。

201 :
>>200
いや、最後の武士が死ぬことで、明治が成ったと言える

202 :
>>201
いいえ。死者はないに越したことはありません。
無駄使いだったんですよ。

203 :
>>200
西郷さぁがホモと罵ってはごわはん
GOETHEで石原慎太郎が書いてて始めて知ったでごわす

204 :
>>203
>153 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2012/05/01(火) 08:02:45.08 ID:+jXq3UQW0
>西郷さぁと月照がホモだったち噂がありもすなw
>じゃっどん薩摩ん政治に絶望し、愛する2人で身を投げたと
あなたが煽っています。自分の発言には責任を持ちましょう。

205 :
それと石原慎太郎のホモ叩きは、
若き頃の石原を擁護した三島由紀夫(男色で有名)が騒乱自殺したことと、自らを対比させるためのレトリックで、
全く論じるに値しません。
石原は恩人の三島への敬意すらない。

206 :
>>205
ほほう
面白いね
石原都知事は否定派でつか?

207 :
>>206
石原慎太郎に関しては、あれほど卑劣な人間を他に知りません。
石原が九州新幹線に屎尿の臭いがすると触れ回ったのは、何年前のことでしょうか。

208 :
>>207
ほーそんなことが
尖閣購入については?

209 :
そういって、ID:+jXq3UQW0は自説の誤りから話を逸らそうとする。
あなたは西郷をホモと罵ったり明治維新を害悪だと罵っている割に、西南戦争の西郷を支持するとは、
単に騒乱と混乱と破壊だけを望んでいるのではないでしょうか。
あなたは要するに、卑怯な真似を続けたいだけ?

210 :
>>182
現に討伐側の政府や軍部の高官は薩摩人だったしな

211 :
西郷さぁは若者達の暴発を抑えるため、あえて人柱になったんじゃろかい

212 :
そのような美化も時々語られますが、
実際のところ、特に薩摩藩重職者になってからの西郷は、ほとんど語らず、
威圧的な雰囲気を振りまくことで権威として自らを作ってきた傾向があります。

戊辰戦争前は、その様な雰囲気の裏では情報を入手し、各人に指示を飛ばし、
一方では一般兵士と談話したりと、行動に隙がなかったのですが、
明治6年の政変の結果辞任し鹿児島へ帰国した後は、周囲への指示も全くなかったそうです。
西南戦争時の場合、反乱を抑える気があれば若者を説得する権威はあったので、
成功の可能性を考えていたか、単に気力が失せていたということになります。
何も言わずに座っているだけで、周囲が新政府弾薬庫を襲ってしまい、
そのまま流れで反乱軍の首領の地位についてしまったということでしょう。
ところで、ID:+jXq3UQW0は先の設問への解答は?
嘘をついて逃げて質問を質問で返すようでは、とんでもない卑怯者ということですが。

213 :
武豊が西郷さぁの子孫だったとは・・・

214 :
え?周囲の指示がないのに、一万二千の薩軍の首領になれるもんなの?

215 :
>>214
なれます。西南戦争時に西郷隆盛は、薩摩士族の一種の「神」でしたので。
反乱を主導したのは桐野利秋とされていますが、
他にも明治6年政変の際政府を去った薩摩系高級軍人が結構大勢居りますので、
実際の運営は彼らが実行しました。
要するに、彼らを統合する象徴として西郷は首謀者として担ぎ上げられたというわけです。
同様の事例は佐賀の乱でもあります。江藤新平は反乱に反対でしたが不平士族を抑えられず、
沈静化のための説得に行ったのに首謀者として担ぎ上げられ、急派した新政府軍の格好の餌食となりました。

216 :
>>202
でも池田屋事件で維新は10年進んだと言われるし、改革には血が必要なのでは?
当世の政権与党のように「話し合いで」という弱腰だと竹島ですら略奪されたままである
しかもその国の国債購入して多額の経済援助を行うとは売国にも程がある

217 :
>>216
池田屋事件で日本は10年遅れた、という批評ならあります。
新選組の殺害した人間と同輩又は格下とされていた人間が
明治新政府の要人となっている事実を踏まえるべきです。
異論が消えることで改革が前進する、そう言っても人的物質的犠牲は返りません。

218 :
池田屋事件で維新は1年遅れたなら聞いた事あるけど、10年進んだとか遅れたとか初めて聞いた
お前ら本当はロクな知識持ってないんじゃないの?

219 :
>>218
「10年遅れた」が最初にあって、その後で反論で各種の別の話が流布しました。
10年遅れた以外は派生品ですよ。

220 :
いやいや、やはり血で購うことによってその後の改革は進んだと見るべきであろう
池田屋事件がなければ志士たちが奮起しない

221 :
鳥羽伏見もなければ、徳川藩は一大勢力として残り、日本の中央集権化が遅れていた

222 :
>>219
どちらにしても、10年遅れたって言い出した奴はバカ丸出しだろ
いつ言ったのか知らんが、少なくとも当てはまってないからな

223 :
歴史にイフはない
イミフなカキコばかり

224 :
10年遅れたと判断した理由→有能な連中が殺された
10年進んだと判断した理由→無し

225 :
>>224
10年進んだ→志士たちが一致団結

226 :

【日韓関係】反日の報酬?数百億円規模で国債購入[桜H24/5/4]
http://www.youtube.com/watch?v=0J6oOOY1MEY&feature=channel&list=UL
先に報じられていた政府による「韓国国債の購入」であるが、どうやらこれが本決まりになったようである。
友好国の経済を支えると­いう面も在ろうが、果たして現在の韓国が日本にとって友好国と言えるのだろうか?
これまで様々な反日プロパガンダを仕掛けてきた国の国債を、何百億円も費やして購入する。
消費増税って本当に必要なの?
こんなことに使える金があるってどうゆうこと?


227 :
無理でしょ、軍神大村益次郎先生が生前から準備しておいたのだから

228 :
海路で江戸を一気に目指せば勝機あったのでは?
西郷は軍人としては能力がなかったのだろう

229 :
薩摩藩籍の軍艦なんて、とっくにないでしょ
制海権は政府軍が完全に握ってたでしょうし
錦江湾でさえ

230 :
勝機というか、そもそも戦わずして勝てると思っていたんだよ、この隅っこの人たちはw
西郷陸軍大将が盛装で進軍すれば、道々の士族や鎮台兵たちが先を争って合流してくると信じていたw
倒幕の時はやること全部図に当たり、自分たちを神軍か何かと思っちゃったんだろうな

231 :
自分達が新兵器で古い幕府軍を倒した実績があるというのに、何の教訓にもなっていなかったという事か

232 :
いやあれは残り滓だから、物の分かった有能な連中はみんな新政府側に

233 :
桐野利秋や篠原国幹も残り滓?

234 :
>>231
まるで真珠湾で機動攻撃に成功したのに、大艦巨砲に走った日本軍みたいやなw

235 :
西郷さんは坊主と心中したホモであるが、薩摩で衆道は一般的な事なので特に非難にはあたらない


236 :
>>235
その話でっち上げ臭がするがなw
入水自殺って暗殺だろ?

237 :
>>236
kwsk

238 :
橋下徹、無知なMBS女性記者にブチ切れし30分もバトル 「勉強してから質問に来い」(動画あり)
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=3OKlJeer0PQ

606 :名無しさん@3周年 [↓] :2012/05/08(火) 18:28:31.91 ID:fmDIpO1P (3/4)
動画全部見たよ。MBSの女記者は橋下知事の「命令は誰が誰に出したのか」に何も答えられず、言を左右に
只ひたすら自陣営の主張「日の丸、君が代反対」を喚いていた!「ふざけた取材はヤメロ!」はブチ切れでは
なく、当たり前の考え、表現だ!これを見てオレは完全に橋下派になった。MBSは日本国から電波割り当てを
貰いながら反日のTV局である事も改めて認識した。橋下頑張れ!ファンが付いてる!!

239 :
 
戦艦「薩摩」は、訓練用標的艦として撃沈。
http://ichiba.geocities.jp/gbsg0309/02/2/14B.html
http://ichiba.geocities.jp/gbsg0309/C/jre010/0806.html
明治維新は薩長閥の政治と言われるが、とんでもない。
天皇制の歴史が始まって以来、薩摩は、常に徹底的にいじめられている。
問題は、現代でも東京政府は、懲りずに鹿児島を虐待することだ。
このような状況下では、損害賠償、刑事訴訟に「時効」の援用は無理だろう。
つまり、古代にさかのぼって賠償、刑事罰を課さざるを得ない。

240 :
ほんと存在感なくなっちゃったね〜
ほんとに薩摩藩って存在したのかよって感じ

241 :
薩摩士族が活躍したのは各一代のみで、後進が育たなかったのか

242 :
http://www.youtube.com/watch?v=dy7UtIBBoHI&feature=related
平岡法相 国賊は口が裂けても「竹島不法占拠」とは言わない!

243 :
>>240
仕方ないだろうな。
もともと文化や発展度で存在感があったわけではなく、
兵の異様さと、奄美から搾りとった資金で幕末浮上したわけで。
西南で負けて、サツマは地球上から消えた。
カゴシマは似て非なるもの。

244 :
隼人といい戦国といい関ヶ原といい幕末といい死を恐れない異様な強さだったからな。
度々浮上して目立っていた元はそれだろう。
今はもうこの土地の人間の特殊性が失われてるからな。
もう過去の栄光を以ってオクニ自慢する人間だけしかいない。
国を左右するようなことは今後二度とないだろうな。

245 :
>>244
日本中がそうやろw

246 :
シロアリ飼って文明史的に自滅の道だろ。

247 :
薩摩士族の強さってのは藩境を閉じて徹底的に隔離した環境で
洗脳にも似た苛烈な教育で育まれたものだからな。
御一新で鹿児島から人間が自由に出入りできるようになれば失われるのは仕方ない

248 :
鹿児島の小売業界は20年前まで鎖国状態だった

249 :
薩摩が終わって、朝鮮そっくりなメンタリティだけが残った

250 :
>>247
朝鮮族みたいなもんごわす

251 :
朝鮮族とは何でごわすか?
説明して欲しいぜよ。

252 :
朝鮮と薩摩の共通点
洗脳教育によるイビツな愛国心
収容所国家
起源・歴史の捏造
偶像崇拝
などなど

253 :
良くも悪くも鹿児島は風土的なメンタリティを今でも残している
ある意味、その他大衆化した日本人は日本人に似て非なる者ということか…
戦後日本を蹂躙したエコノミック・アニマルは日本の風土を破壊しかしてないからな

254 :
種子島にジャンプして共和国を作ればよかったのだよ。

255 :
沖縄でよかろうが
勢力圏だったんだから

256 :
>>254 255
琉球王国独立に協力したら、よかったですね。

257 :
http://www.47news.jp/CN/201206/CN2012062401001895.html
判事7人が西南戦争解決訴え 明治天皇宛て上奏文を発見
明治初期、政府軍と士族が九州で繰り広げた西南戦争の最中に、
当時の鹿児島県裁判所の判事7人が、停戦するとともに、
士族蜂起のきっかけともいわれる「西郷隆盛暗殺計画」の真相を裁判で明らかにするよう訴えた、
明治天皇宛ての上奏文が見つかった。
入手した西郷南洲顕彰館(鹿児島市)の高柳毅館長は
「政敵の暗殺といった時代の暗部や戦争を、法の力で解決しようとした決意が分かる。
実際に明治天皇に届いていれば、戦争を阻止できた可能性もあった」と話す。
明治維新の立役者の一人だった西郷は、政府内での方針対立が元で官職を辞して鹿児島に帰郷。
不満を持つ士族らと西南戦争を起こした。
2012/06/24 19:36 【共同通信】

258 :
九州の主要な港を占拠する。
熊本鎮台を攻撃しない。
エンフィールド銃を元込めに改造する。


259 :
>>33
それが最良かもしれんwww
戦争は大砲や銃を撃ち合うのは最悪の策
戦わず勝つのが最良

260 :
もう単独行動が許される状況じゃなかったような

261 :
ここには薩摩を親の仇の様に憎んでる人が結構いるようですね

262 :
相手も悪かったな死を恐れない薩摩の大久保川路
他藩士だったら薩軍の思うとおり一撃だったろ

263 :
将軍から直接の命令を受けていた薩摩藩士
http://music.geocities.jp/jphope21/0203/35/238.html
薩摩藩の下級武士であった、「西郷隆盛」がそうだった。

264 :
薩摩人は、自己の知的水準を引き上げ、創造的世界を拡大しようとする努力が
あわれにもないのに、社会的地位を高めようとする激しい欲望だけはある。
                 ホーマー・ハルバート「薩摩亡滅」

265 :
>>256
奄美に薩摩共和国樹立したものの
数年で新政府軍に征伐されていたかもね
函館五稜郭みたいに。

266 :
田原坂って熊本城の北の方なんだよな。
熊本城を攻撃して落とせなかったから南に撤退したのかとおもいきや
その城よりもさらに北に進軍したってこと?

267 :
猪突猛進ばはじめたとです

268 :
薩摩人は歴史の中で二度「薩摩処分」をされた。豊臣政権が成立したとき、秀吉は天下の大軍を九州に集中し、
島津氏を南九州の三州にとじこめた。
関ヶ原で徳川政権が成立したときも、「薩摩処分」がおこなわれた。ただ薩摩人には、豊臣氏や徳川氏に対して
内心優越意識をもっていたために、この二度の苦境を男性的に処理し、耐え、ついぞ子宮的発想をしなかった。
そのことが徳川三百年において、徳川幕府をしてたかが七十余万石の島津氏の存在を恟々として憚らしめるもと
になった。「どうせあたしはいじめられっ子の薩摩よ」などとすねたりしてれば島津氏などはとっくにつぶされ
ていたであろう。幕末、薩摩藩が主導力になって日本を植民地化される危機から救ったということは、どのような
史観に立っていても、こればかりは否定できないとおもうが、その幕末における薩摩藩の討幕行動は、そのつど
そのつどの政治の力学でもって自分の位置を見さだめ、観念よりも現実でもって行動を決するという男性的論理性
という点では終始すじが通っていた。かれらは決して政治的ヒステリーをおこさなかった。その理由の一つとして
薩摩藩には拗ね意識というものが歴史的に存在しなかったということにもよる。

269 :
 地方語というのは元来の倭語で、NHK語で代表される日本語というのは多分に人工的なことばであり、
抽象観念を表現するには適していても、情感や人肌のあぶらのまじったユーモアを表現するのにふさわしい
ものではない。が、他郷出身者に対して意思を通じさせる必要から生まれたものであり、それなりの機能性が高い。
 ――普通後のほうが、東京に出たときに便利だから。
 という受けとりかたで、「普通語を使いましょう」という運動を鹿児島県人はうけとった。その点、ひどく
割りきられていて、家庭では薩摩語をつかっていて、学校では普通語をつかった。土俗的怨念で反発したりは
しなかった。第一、薩摩人のおもしろさは、自分のおよそ普遍性をもたない特殊な方言を、それが鄙語で卑しむ
べきものだという劣等感を在来もっていなかったのである。この点、東北人に共通する方言の上での劣等感に
くらべてひどくちがっている。
 その理由は南方の風土性ということにもよるかもしれない。あるいは薩摩が維新でもって天下をとったからと
いうこともあるだろうが、本来、薩摩人が、薩摩が実際的には地図の上で西南端に所在しているくせにその政治
意識では僻地意識を奇妙なほどにもっていなかったことにもよる。
 その理由を根源的にいえば日本の水稲文化が、九州から発してしだいに東へ東へとすすんだという事実が、まず
考えられる。『古事記』『日本書紀』ではこれを事実として語らず、神話として語った。天孫降臨や神武東征神話
は神話の形式をとっているためにかえってつよい心情を培い、南九州こそ日本国発祥の地であるという自信を強めた。

270 :
 むかしの薩摩では、
「三年に片頬」
 といわれた。武士はげらげら笑ってはいけない。三年に一度くらい、それも片頬だけで笑え、というものだが、
歯をみせて笑わないにせよ、薩摩人はひとに接するときにはたえず微笑していたように見える。西郷という人も
そうであったらしい。元来、薩摩の士族言葉というのは実に優美なもので、音韻的にも母音が多くてやわらかであり、
抑揚も音楽的で、ひとに対する優しさのみを表現しようとして出来上がったものではないかとさえ思えるほどの
ものである。歴史的薩摩人というのは敵人に対して異常にやさしかったということはすでに触れたが、全体に心優しさ
というものが薩摩の気風の特徴であったかとおもえる。私のまがり角にいた薩摩びとたちも心優しさという点では
例外なしに共通しており、とくにひとの性癖上のきずや失敗についてはじつに寛容なのである。それらのひとびとは
いま五十五歳から七十余歳になられているが、薩摩隼人の伝統というのはその時期までのものであったのだろうか。

271 :
 薩摩の島津氏は戦国末期には全九州を席巻する勢いを示したが、豊臣政権の成立とともにもとの薩摩・大隅・日向の
三州に押しこめられた。そのエネルギーがふたたび噴出した場合、熊本城をもって大きな石蓋としておさえこんでしまう
というのが、秀吉の大戦略であった。徳川氏もそれを踏襲した。ところがはるかに降って明治政府が、そのエネルギーを
もろにかぶってしまった。
 明治十(1877)年の西郷の乱で、薩南一万数千のエネルギーが肥薩国境をこえて噴出し、熊本城にぶちあたり、この清正の
城の攻防をめぐって明治政府の存亡が賭せられてしまったのである。

272 :
 われわれは田原坂に来てしまった。雨は降る降る人馬は濡れる 越すに越されぬ田原坂、
というあの唄にある田原坂である。
「田原坂」
 という項目を『広辞苑』(第一版)でみると、簡潔に説明されている。「熊本県鹿本郡田原村にある坂。高瀬街道
木葉駅から植木に通ずる坂路。西南戦争の古戦場」。
 私はこのくだりで明治十年の西南戦争にふれるつもりはないが、この戦闘の特徴をあげると、三月四日から十六日間
にわたるという長期戦闘であったということである。日本の国内戦の歴史で、主力決戦がこれほど長期にわたったという
例はない。関ヶ原合戦という、両軍の兵力の大きさという規模の点で、同時代の世界史に例の少ない事例を考えても
あの戦いはわずか半日でおわっているのである。日露戦争の主力決戦でさえ、遼陽会戦にせよ、奉天会戦にせよ、
日数はみじかかった。
 私の熊本における旧知に、元熊本県立図書館長蒲池正夫氏がおられる。以前、蒲池ご夫妻と熊本の街を歩いていたとき、
ご母堂の話になった。当時、蒲池氏のご母堂は非常な高齢で、しかも頭脳はすこしも衰えていらっしゃらないということであったが、
「大東亜戦争なんか、あーた、小さな戦じゃったよ、西南戦争にくらべれば。――」
 と、折にふれてはおっしゃっていることを、蒲池さんは肥後風のユーモアで語られた。

273 :
 ご母堂は田原坂付近のご出身で、少女のころ、砲煙が天地に満ち、田原坂というせまい空間に大量の銃弾が飛びかい、
家の壁に無数の銃弾がつきささるのを身をもって経験された。太平洋戦争は熊本ではそこまでの状態としてはやって
来なかったのである。現場証人としての主観的比較ではまさしく田原坂の攻防戦のほうが大きかったであろう。
 私が、この話を、蒲池さんのユーモラスな口調にはとても及ばないままに、薩摩の大口郷の郷士の家に生まれた
海音寺潮五郎氏に話すと、「いや、そうかもしれませんよ」と、氏はむしろ蒲池家の刀自の肉感的実感のほうに片寄せて
同意された。当時の田原坂の一少女の実感が、田原坂の險に拠った薩軍の子孫である海音寺氏にはじかな反響として
つたわってくるもののようであった。氏は少年のころ、薩摩大口郷で銃弾が空を切り裂いてゆく音をじかに聴くかの
ような実歴譚をきいて育たれたためであろう。臨場感という言葉が流行ったことがあるが、やはりそういう感覚が、
単に田原坂の空の下に立っている旅行者にすぎない私どもとは質的にちがっているのである。
 田原坂は、熊本旧城下の北西の台上にあって、その一帯の台地の西端は有明海に落ち込んでいる。田原坂という坂
そのものはさほどの傾斜でもないが、そのあたりの地形は複雑で、坂の左右は谷であり、一見、自然の長城をなしている。
その両側の谷々をとりまく山壁はけわしく、樹叢が傾斜をおおって暗く、ここを守った薩摩軍の地形眼はみごとというほかない。
 薩摩軍はすでに熊本城を包囲していたが、北方から政府軍が南下してきて熊本城と連絡することをふせぐべく、
この田原坂を中心に布陣し、南下軍と激突したのである。

274 :
結局、会津の殺人兵器に勝てずに三々五々逃げ盛るわけです

275 :
 それより前、薩摩から出て肥後平野にはいった薩摩軍の若者たちは、三太郎峠にのぼって熊本城を遠望したとき、
「熊本城といっても百姓兵のこもる孤城にすぎん。手に唾してひねりつぶしてみせよう」
 と、古い表現でいえば意気天を衝くものがあった。このころの薩摩隼人の勇ましさというのは胸のすくようなもので、
かれらはいかにして胸のすくような行動をするかということに戦国以来、数百年の薩摩式の士族教育の伝統をうけて
育った連中ばかりなのである。
 しかし熊本城は陥ちなかった。この城にひっかかっているうちに政府は博多湾に増援軍を陸続と上陸させ、戦況は
膠着し、膠着から徐々に政府軍優勢へ転換したために、ついに薩軍は田原坂付近の險をえらんで決戦に持ち込まざるを
えなくなったのである。
 ――西郷隆盛やその麾下の諸将は戦略戦術を知らない。
 とむかしからいわれる点は、このあたりであった。なぜ熊本城などを衝かず、鹿児島湾から海路一挙に東京へ入るなり、
それとも陸路北九州に出て門司や小倉、福岡をおさえて九州をその支配下におくか、あるいは海路大阪湾へ突入して
大阪城を根拠地としておもむろに天下の反政府党を組織するとかいった方法をとれば、あの当時の基盤が脆かった
東京政府の一つや二つはとりひしぐことができたかもしれない、ということである。
 が、それらは結果論である。
 こまかい議論はここでは省くとして、関ケ原以来の薩摩隼人の伝統的目標は、肥後の熊本城だったのである。

276 :
 豊臣秀吉が、薩摩のエネルギーがふたたび噴出して九州全土に及ぶことをおそれ、その噴出口に石蓋をする意味で
加藤清正を肥後におき、熊本城という巨大な城を築かせた。
 このときから薩摩人にとって、
「肥後の加藤」
 というのは仮想的になった。というより、熊本城は中央政権そのものの象徴のようになったのである。
 そのあと、関ヶ原での政府交代戦では、薩摩の島津氏はやぶれた西軍に属した。
 島津勢は関ヶ原から逃げもどると、すぐ三州(薩摩・日向・大隅)の国境をとざし、国境に多くの城塞を築き、外城衆
とよばれる在郷戦闘集団にこれを守らせ、全土に臨戦態勢を布いた。薩摩人がのちに天下をとるにいたる凄味はこのあたり
にある。徳川幕府が領地没収の挙に出てくるのは当然であろう。そのときにはそれをはねかえし、天下の軍勢をひきうけて
三州の国境で戦い、政府軍(幕軍)を一歩も領域に入れまいという態勢をとった。この関ヶ原のあとの敗戦大名群のなかで、
これだけの気概を示した大名は島津氏しかない。
 徳川氏は、おどろいた。徳川氏はすでに島津氏の兵馬の強さを知っていた。これを征討するとなればふたたび天下の大名に
動員令をくださねばならず、その間に大乱が再発せぬともかぎらず、政権樹立早々の徳川氏としてはできるだけ穏やかに
事をおさめたかった。薩摩人がなまなかな集団でないことは、このあたりの呼吸をよく心得ていたことである。国許で血相を
変えて臨戦態勢を持している一方、京都に駐在中の家康に対してぬかりなく微笑外交をほどこし、ついには本領を安堵させてしまった。
 家康が死ぬとき、墓所を久能山にすべく指示し、
「わが屍を西にむけよ。この刃(三池典太の太刀)をもって関東を守るべし」
 と遺言したというその「西」とは、島津氏のことであった。島津氏はすでに降伏外交によって徳川体制の一大名に組み入れ
られている。しかしながら家康の戦略眼からみればそうではなかった。島津氏はあくまでも徳川氏の仮想的であり、徳川氏の
武威がさかんなときはおとなしくしているが、もし武威が衰えればかならず島津氏が西南の地に旗を挙げ、討幕の先鋒になる
であろうと見ていたのである。

277 :
 島津氏のほうでも、関ヶ原直後の臨戦状態のまま、江戸二百七十年のあいだ、国境を鎖してその態勢をつづけ、幕府の密偵が
潜入すれば見つけ次第かならず斬り殺した。大勢に順応しがちな日本人の集団が、これほど一つの精神を二世紀半にわたって
持続したという例はほかに絶無である。日本人が日本人の欠陥を考えるとき、このことは誇るべき特異例であるようにおもえる。
 この関ヶ原敗戦直後の臨戦状態のとき、薩摩ですべての薩摩人が流行歌のようにうたっていた唄に、
「肥後の加藤が来るならば」
 というのがある。あとの歌詞は忘れた。
「?硝でもって鉄砲玉をご馳走しよう」という意味の文句だったような記憶がある。
 肥後の加藤というのは、むろん熊本城の加藤清正のことである。清正は当時なお生きていた。徳川氏が島津攻めの軍勢を催す場合、
先方は薩摩にもっともちかい肥後熊本にいる加藤清正が任命される。その加藤は天下無双の豪傑だから的にとって不足はない、
大いに鉄砲玉のご馳走をしてやろうという意味である。余談だが、この歌意における薩摩人の気持ちの可笑しさは、清正に対する
敵意を謳っているのではなく、敵の清正の勇猛さが好きでたまらぬというふしぎな愛情を裏に秘めていることである。薩摩人は
江戸期を通じて他国人では加藤清正がいちばん好きであり、清正でなくてもよく戦う敵がもっとも好きだという傾向が濃厚であった。
こういう点からみても、かれらは普通の日本人というより、やはり隼人であるというほかない。
「肥後の熊本城」
というのは薩摩人にとって単なる城ではなく、要するにその伝統意識のなかにあっては中央政権の象徴そのものであったという
ことが、わかってもらえればいい。西郷軍にとって、熊本城を攻めつぶすことが、戦略以前の自明の世界に属することであった。

278 :
×「?硝でもって鉄砲玉をご馳走しよう」という意味の文句だったような記憶がある。
○「焔硝でもって鉄砲玉をご馳走しよう」という意味の文句だったような記憶がある。
>>274
>結局、会津の殺人兵器に勝てずに三々五々逃げ盛るわけです
会津厨の特徴―>政府軍に中に微少でも会津出身者が混ざると、全てが会津の手柄であるかのように主張。
全国から徴集した百姓兵と薩長土肥出身の士官で構成された日本軍が、なぜ会津人にすがる必要があるのでしょうか。

279 :
「史蹟・田原坂」
 という標柱のある場所に、天を覆うばかりに大きな樟がある。その樟が枝を張った南側は谷で、その谷の向こうに吉次越の
險が霞み、三ノ岳がそびえ、熊ノ岳がかさなっている。いずれも西郷軍が長大な戦線を張った場所である。
 坂というより小さなこぶのようなこの台上に、家が一軒だけある。
 作田さんという家で、その壁に無数の弾痕がのこっていることで有名である。いまはこの家のあたりは植木町に属していて、
町の教育委員会が保存に力を入れているらしく、遊園地のようになっている。
 作田家の旧屋に入れてもらうと、当時の激戦をしのばせる遺留銃器やら兵士の携行品やらがたくさん保存されて古物商の倉に
入ったような観がある。
 土中から掘り出されたらしい小銃弾が無数にあって、漆喰のような色をしている。当時の小銃弾は鉛であった。
 それらの小銃弾のなかでちょっと凄みを感じたのは、双方の小銃弾が空中で衝突して噛み合ったままになっているのがあった
ことである。こういうのを「行きあい弾」というそうだが、この遺物ひとつをみても、この戦いがいかに凄惨で苛烈なもので
あったかがわかるにちがいない。
 この戦いの戦場はじつにせまい。南北わずか八キロ、前後六キロほどの空間内を、十六日間、両軍が昼夜となく射ちに射った
のである。その空間内を小銃弾が行き交った密度で比較すれば、ひょっとすると蒲池さんの母堂がいわれるように太平洋戦争の
どの戦場よりもひどかったかもしれず、げんに蒲池さんの母堂以外にもそれに似たようなことをいった人がいるのである。
当時、小倉の第十四連帯をひきいて薩摩軍と戦って連戦連敗した乃木希典であった。
 乃木希典は日露戦争のとき、第三軍司令官として旅順要塞の攻撃をうけもち、日露戦争そのものをあやうく失ってしまうかも
しれないほどの死傷を出してしまったが、その戦況下で、ある日、
「しかし、植木・田原坂のほうがもっとひどかった」
 と、幕僚につぶやいたといわれる。

280 :
 それほど薩摩軍の攻防というのは物凄かったのだが、結局は政府軍のぼう大な兵力の前に薩摩軍は退却せざるをえなかった。
西郷は城山で自刃し、そのときをもって薩摩国は戦国以来の独力勢力としてのおそるべき歴史をうしなうにいたるのだが、
失ったのはあるいはそれだけではないかもしれない。当時、日本中に充満していた反政府気分や野党的勢力(国粋主義や自由民権主義)
はことごとく西郷とその麾下一万数千の薩摩人の決起と成功に熱狂的な期待をよせた。それが、西郷とその麾下の意外な敗北に
よって一挙に拠り所をうしない、その敗北は日本国に史上類がないほどに強力な官権政府を成立させるもとになった。あるいは
西郷の敗北は単に田原坂にとどまらず、こんにちにいたるまで日本の政治に健康で強力な批判勢力を成立せしめない原因を
なしているのではないかとさえ思えるのだが、あるいはそうではなく、律令時代も、さらには徳川体制下においてさえ無言の
批判勢力でありつづけた薩摩という独立圏が、明治政府という中央集権権力の出現によってついに消滅せざるをえなくなった、
ただそれだけのことであるとも思えるのである。
 いずれにせよ、日本の政治史にとって西郷とこの事変は永遠の謎でありつづけるにちがいない。

281 :
>>266
熊本城を攻めあぐんでたら、北から政府軍の援軍がやってきたので田原坂で迎撃した

282 :
薩摩軍の抜刀斬り込みは効果があったらしいね。土民兵が逃げ惑ったので
政府は士族の抜刀隊を編成した。

283 :
「薩摩の唄に、クマソタケルはよか男、というのがあります」
 と、かれはこの唄がよほど好きらしく私に前後三度もきかせている。この唄の文句も私は忘れてしまったが、「クマソタケルが
十六の少年に討たれてやり、しかもその勇気をほめてやったというのがじつに優しくてよか男である」という意味であるようだ。
 私の子供のころの小学校用の国定教科書の『国語読本』に、この日本武尊の熊襲退治の話が出ていて、タケルを組み敷いている
日本武尊の挿絵も出ていた。その文章を読んだかぎりでは、子供のことだから善玉が日本武尊で悪玉がタケルだとおもっていた。
しかし、この薩摩の里謡では、敵に対して優しいクマソタケルのほうが、よか男としては上だという。いかにも薩摩の人間美学なら
そうあるべきかと思える。
 上代、倭といわれたこの列島にあっては、肥後と薩摩だけが熊襲と隼人というふうに別称され、ともに倭国における南方独立圏を
なしていた。すくなくとも隼人はちがった文化をもっていたらしい。
 薩摩には敵に対する優しさの話が多い。たとえば豊臣秀吉の朝鮮の役のときもっとも武勇のだけだしかったのは薩摩の島津氏である
といわれ、このため明軍のあいだでもとくに薩摩兵のことを「石曼子」といっておそれた。その島津氏が、帰国後、高野山に敵味方の
戦死者の供養塔をたてているのである。敵味方ともにその無名戦士を平等に供養したという例は当時日本にはなく、その後にもない。
同時代の世界にもないことで、むしろ異様なことに類する。戊辰戦争のときも薩摩人の旧幕府方に対するあつかいは、西郷の江戸開城
のあつかいだけでなく、出羽庄内城の降伏の場合も「どちらが勝利者かわからない」といわれたほどに薩摩側は寛大で態度も丁重だったし、
五稜郭の開城で榎本武揚以下全員の命をたすけたのも薩摩の将黒田清隆だった。クマソタケルを優しくていい男だといったふうな
薩摩独特の美意識は、文献や実例としては中世末期から近代初頭まで濃厚につづくのだが、ひょっとすると、上代の倭国における
南方独立圏がつくりあげた独特の気分であったのかもしれない。

284 :
「日本はかつて英雄を出したことのない国ですね」
 と、あるアメリカの日本学者が私にいったことがある。日本における英雄の定義はたとえば源頼朝や西郷隆盛もこの範疇に入るように、
多分に政治学的課題と哲学的要素を含んだ微妙さをもっており、西洋のそれとはちがうように思える。西洋人のいう英雄とは
アレクサンダー大王とかジンギス・カンという大征服者がその典型なのであろう。その意味では、日本は英雄を出したことがない。
 そのくせ、日本も何度か英雄的膨張の経験をもった。日本の場合、天智帝の外征というのは戦略的に愚劣そのもので、天智帝そのひとを
考えても、とてもアレクサンダー大王やジンギス・カンといったタイプではなく、詩人としての才能はあっても政治家としては人に
踊らされやすく、性格の特徴としては派手好きな一面があるかと思えば異常なほどに臆病で、とうてい世界政略の上に立って戦略が
考えられるような英雄的資質のひとではなかった。
 十六世紀末に、豊臣秀吉の晩年、大明国へ討ち入ると呼号して朝鮮半島に大規模な出兵を敢行し、失敗した。秀吉のこの時期、
かれはすでにそれ以前のかれのような英雄的資質なく、単に老人性パラノイアとしての病的典型人であるにすぎなくなっていた。
むろん、この老人性パラノイアの人がやったいわゆる朝鮮の役には世界情勢を分析したあげくに樹立した世界政略などはなく、
自然そこから導き出される戦略というものもなく、ただ勢いにまかせて玄界灘を押しわたっただけの戦争であった。
 三番目は、太平洋戦争である。この英雄的膨張期にも、上の二例と共通した暗い定則が支配している。つまり指導者群がことごとく
庸人であったこと、堅牢な世界政略をもたなかったこと、そして自然、戦略といえるほどのものをついに開発し得なかったこと、
などの点において共通している。要するに日本歴史というものは国内統一をする場合に英雄が出る。源頼朝とか織田信長、前期の
豊臣秀吉、そして徳川家康、あるいは倒幕革命政略における西郷隆盛といったような、他の国の歴史に類型のすくない人物が出るが、
この民族の歴史にまれにあらわれる海外への膨張気運のおこる時期には、その時期の好戦的指導者はかならず凡庸なお調子者に
すぎなかったという実にふしぎな法則をもっている。戦後の日本の社会科教科書はヒトラーやムッソリーニを呪い嘲るが、しかし、
ヒトラーやムッソリーニすら持たずにそれとそっくりの似たまねをした昭和前期の日本というもののふしぎさを解明した教科書があるだろうか。

285 :
 私は長年、肥薩の国境を見たいとおもっていた。
 上代以来、肥後・薩摩がそれぞれ独立のにおいをもち、ともに武を誇り、ともに独特の文化を積みあげ、ともに中央に統一政権が
誕生するごとに反乱をおこしていた。維新後は肥後が熊本城下にあって神風連の乱をおこし、薩摩は西郷隆盛を総帥にして西南戦争をおこした。
 古来、図式まできまっていた。中央政権はまず肥後をたたき、ここを前進基地として薩摩を屈服させるのである。
 西南戦争もそうであった。
「西郷がやぶれたことは、近代日本のあらゆる近代思想の萌芽があそこで折れたのである」
 と説くひとがあるが、あるいはそうもいえるかもしれない。たとえが西郷軍には熊本の不平氏族も参加した。そのなかに宮崎八郎の
ひきいる隊も加わっており、隊長宮崎は戦死した。宮崎八郎が明治初期における自由民権運動の先唱者であり、その人柄や行動からみて
その思想が、後年あらわれるまがいものの民権主義ではなかったようにおもわれる。かれが西郷に期待したのは、自由の社会と人民の
ための議会政治が西郷によって実現されるということであった(宮崎八郎の弟が、孫文とともに中国革命に参加した滔天であることは
いうまでもない)。
 西郷というのは、そういうふしぎな存在であった。
「命も名も要らない。ただ国家と人民を愛している」
 というなら、その愛し方がどういう数式であれ、西郷の高等数学のなかに包摂されてしまうという存在であった。ただどういう
すぐれた政策や思想をもっていても、その政策や思想が不潔な人間に背負わされている場合だけは西郷は仲間になりたがらないようで
あり、その場合でさえ、峻拒はしなかった。「見まちがいでした」というふうに、頭を掻いて出てゆくといった感じだった。
この一種神聖感を帯びた独特の寛容性と、そして官権主義以外のあらゆる在野思想が、西郷のその風姿に期待し、その決起に期待し、
その成功を祈ったということが、西郷をもって、日本の近代の可能性の原点に置いてみるという仮説を成立せしめるのかもしれない。
宮崎八郎でさえ西郷の麾下で奮戦し、斃れたのである。

286 :
政府側の対応は速くて
西郷軍の熊本侵入の前に福岡に鎮台兵を送り込んでいる
熊本城を無視しても佐賀や博多で迎撃されてるよな
結局強兵だが兵力の無い西郷軍vs弱兵だが兵力に勝る政府軍にかわりないので
戦争に訴えるかぎり西郷軍が熊本城を無視しても結果は変わらないだろう

287 :
 西郷論をするつもりではなかった。
 ただし、「肥薩の国境をみたい」という私の気持ちのなかには、西郷もその風景のなかにまじっている。古代隼人もその風景のなかに
群れている。さらには、江戸体制のなかでさえ頑なに国境をとざし、「薩摩飛脚」といわれた幕府の密偵が入っても容赦なくこれを斬った
という薩摩藩のそのおそるべき国境を見たかった。
 肥後人吉の盆地を出るとき、
「どの道をお取りになりますか」
 と、青井神社の境内で、薩摩まで同行してくれる婦人が、道路地図をひろげてきいてくれた。
「道筋ですか」
 と、私はその地図を借りて、思案した。
 肥薩国境を越えるためには、人吉からふたつ道がある、ひとつは、
「加久藤越」
 というのがある。加久藤は日向国(宮崎県)の西のはしになるのだが、むろん日向国旧薩摩藩領である。
 西南の役のとき、西郷は加久藤越の道をたどって肥後人吉に入った。越えたのは明治十(一八七七)年二月二十日で、前日に大雪が降り、
峠はすねを没するほどの雪であった。この道路は薩摩から人吉へ出るについて古来著名な道で、いまでは国道221号になっている。
 この街道にも魅力があったが、しかしそれよりも人吉を出て田野高原の山林の中を通り、久七峠をもって国境を抜け、一路薩摩大口郷へ
降りてゆく道のほうがなにやら好ましそうであった。この街道のほうが肥薩の道として古来、利用度が高かったかもしれない。いまは、
国道267号とよばれる。221号にせよ、この267号にせよ、いずれも舗装されている。
「大口を通りましょう」
 と私は答えた。車は、人吉のタクシーである。地図をみると、途中、三〇キロほどにわたって山林を通るわけで、人煙もまれなようで
あった。タクシーの運転手がしきりに心許ながるのを、Hさんが地図を示しつつなだめていた。

288 :
 道は、ゆるゆると登りになる。
 慶長五(一六〇〇)年、関ヶ原のあと、薩摩島津氏は戦勝者である徳川家にとって戦犯国になった。
「加藤清正をして攻めさせるべきである」
 と、当時、戦勝のあとの戦後処理のために京・大阪にとどまっていた徳川家康の側近たちのあいだでそういう意見が多かった。
肥後熊本の城主は、勇名が内外にとどろいた加藤清正である。清正は関ヶ原では徳川方に属していた。結局、島津氏の外交が功を奏し、
家康が島津征伐を思いとどまった。そのことはすでに触れた。
 家康という、この面白味のない大政治家は、大喜びで島津氏をゆるしたわけではなかった。かれが島津征伐をおもいとどまったのは、
薩摩島津氏の兵の強さというものが、さきの朝鮮の陣と関ヶ原において強烈に知らしめられていたからである。かつて秀吉でさえ島津氏を
討伐するのに天下の兵を動員せねばならなかった。関ヶ原の一戦であやうく天下を得たばかりの家康にとって、当時の言葉でいえば、
「天下はなお初々しく」
 という状態で、諸大名を総動員できるだけの政治的基礎と自信が固まっていなかったのである。もし家康がそれを断行すれば薩摩武士団
が結束し、すでにかれらが着手しつつあったように三州(薩摩・大隅・日向)の天險天險を城塞化し、それに立てこもって、おそらくは
ベトナム戦争のような長期戦の状況を呈したであろうことは想像に難くない。徳川氏は攻めるにてこずる。そのことによって徳川氏は
鼎の軽重を問われ、叛将が続出する。このためせっかく手に入れた天下が家康の指のすきまからずり落ちてしまうという危険性が高かった。
 肥後の加藤が来るならば 焔硝肴に団子会釈
 団子は何だと鉛団子 それでも聞かずに来るならば 首に刀の引出物
さきにこの唄についてすこし触れた。

289 :
 ――肥後の加藤はおそらく大口へ入ってくるだろう。
 という戦略地理的な見通しが、薩摩側にあったらしい。このため、とくに大口の固めを厳重にした。島津家は、この家きっての名将である
新納武蔵野守忠元をわざわざ大口の地頭とし、かれを将として守備させた。右の軍歌は新納忠元の作詞とされている。忠元は士卒にこれを
高唱させることによって士気を揚げた。
 この唄は、あるいは肥後から潜入した密偵の口から熊本の清正の耳に入ったかもしれない。忠元のことだからわざと敵側にきこえさせる
ようにしたかもしれず、清正の報告で上方の家康の耳にまで入ったということも考えられる。いずれにしても島津氏の戦意のさかんなことを
家康は知って、気がくじける思いだったであろう。島津側は家康の弱みを知りぬき、一方では上方で家康の機嫌をとりつつ、硬軟とりあわせての
外交を展開し、ついに家康をして態度を軟化せしめた。この島津氏の外交の巧妙さとその成功は日本史上の圧巻のひとつであるかもしれず、
幕末における島津氏の自信の根源になり、同時に幕末における薩摩藩の革命外交が長州藩よりもはるかに構想が大きく、異質なほどに柔軟で、
結果からふりかえれば壮大なドラマを見るような観があるのは、かつて徳川氏を相手どって演じたこの祖型があったからだともいえそうである。
 道はゆるやかな登りになっている。最初は渓流のふちを通ったり、林間をくぐりぬけたりしていたが、しだいに高くなり、やがて眼下の谷に
杉の梢を見下ろすようになって、天がひらけ、あたりがひろくなった。遠山が道路とおなじ高さにかさなっているあたりが、久七峠であった。
 路傍に、石造の碑のようなものがあった。
 車から降りて近づいてみると、碑というには構造が複雑で、ヨーロッパの国境標のような姿をしていた。目をさらに近づけてみると、
「県境」
 という文字が深く刻まれている。その中心碑に両袖が出ていて、むかって左が「熊本県」とあり、むかって右が「鹿児島県」とあった。
「ホホウ、大げさなもんですなァ」
 と、詩人のTさんが、感嘆の声を放った。その声に和するように、谷間から鶯の声がのぼってきて、その声が転々と移動した。
このあたり四方一里ほどには人家もない。そこにまるで国境であるかのような威厳をもってあたりを払いつつ県境の碑が立っているのである。
こういう大げさな碑を県境に鎮めてあるのは、おそらく日本中でここだけではないだろうか。
 肥後と薩摩というこの国境の歴史の重さは、いまなおこの舗装道路の路傍で生きているのである。
 肥後はつねに官であった。中央政権はつねに肥後まできた。が、この久七峠をさかにして薩摩国は大げさにいえば島津氏七百年の独立圏であり、
とくに島津氏の勢威が確立した戦国以降、明治十年の西南戦争の終了まではこの国境は中央政権に対してさえ閉ざされていたといっていい。

290 :
 われわれは大口にむかって降りた。坂は蛇行し、つねに急で、やがて山と山のあいだに、ひろやかな大口盆地がみえたときは、
人里にようやく出たという感じだった。
 大口の町は、小さい。とくにその中心部は中国の見城の裏町のように狭い道路が入りくみ、車が通りにくかった。商店のならぶ道路を
すこし入ると、寺が二軒あった。その寺のそばに石垣を組あげた五百坪ほどの屋敷地があり、登ると、家屋はすでに取り払われていて、
草だけが茂っていた。
「そこはね、海音寺(潮五郎)先生のお屋敷です」
 と、下の道路を通っていた中年婦人が立ちどまって教えてくれた。作家海音寺潮五郎氏の末富家は、この大口の郷士の家である。
このあたりを管領しつつ、その遠祖は「肥後の加藤」にそなえ、江戸期は幕府の隠密の潜入を警戒し、明治十年の乱には大口を守りつつ、
ついに官軍第三旅団の乱入を迎えざるをえなかった。この第三旅団の大口突破によって、薩摩は大薩摩であることを失い、
ただの鹿児島県になってしまうのである。

291 :
大村益次郎ってすごいよな
あの時点で反乱を予見して手を打ってるなんて

292 :
オレもあの火吹き達磨は嫌いじゃない

293 :
県内の士族が鹿児島の旧城下へ集結するタイミングで西郷が
自決していればあの戦いは起こらなかったろう。

294 :
とっとと韓国に先制攻撃しろや!!

295 :
そうか、西郷どんや桐野なんかがさっさと李氏朝鮮の実権を握ってれば
「王さま、それはなりもさん」とかやってたわけだw

296 :
西郷隆盛ってひきこもりだったんだろ。

297 :
元気ですか

298 :
>>296
読めもはん。
>>297
わかりもはん。

299 :
以前、抜刀隊について書き込んだら反響があったので少し書く。
ソースは「飛ぶが如く」。以下、うろ覚え
薩軍は弾薬不足に悩んだ。このため、よく斬り込みをかけ、
しかもよく成功した。これに政府軍の現地司令官の山県は
対抗すべく、現地に派遣されていた警察官(当時は士族出身
で占められた)から剣術自慢を選抜し、切り込み部隊を編成、
これを「抜刀隊」と名づけた。
この抜刀隊、投入された初日に全滅。
しばらくたって、また抜刀隊を編成、投入。この時は
生還できたのは数人だった。そのなかには斉藤一の姿があった。
記述はこれだけだったと想う。

300 :
Q : 西南戦争は西郷さんと鹿児島士族にとって、
  日本のため自ら滅び、武士の世に幕を引くのが目的だったいうのは事実ですか?
A :
敗色が決定的になると西郷は桐野と口をきかなくなり、
桐野のほうでも西郷を避けるような気配を示すようになったといわれる。
むろん、西郷の性格として桐野を責めたりなじったりすることはなかった。
この男に乗せられ、賊として最期を迎えるはめになった自分に対する嫌悪が、
西郷の桐野に対する感情を重くしたのではないかと思える。

301 :
>>299
斉藤一が抜刀隊にいたという話しがあるとすれば、後世の作り物。
彼は戦争の帰趨がほぼ決した西南戦争末期に、新撰旅団の兵卒として宮崎に送り込まれましたのが史実。
この頃の政府軍は圧倒的な物量で薩軍を追討しており、斉藤はおそらく実戦に出ていない。

302 :
訂正
×新撰旅団の兵卒として宮崎に送り込まれましたのが史実。
○新撰旅団の兵卒として宮崎に送り込まれたのが史実。

303 :
翔ぶが如くも、所詮小説だから

304 :
wiki見ると
>斬り込みの際に敵弾で負傷するも、大砲2門を奪取するなど奮戦して、東京日日新聞に報道される。
とあるぞ。少なくとも実戦には出てるんじゃないか?

305 :
報道された記事を見てみないことには何ともいえないな
所詮wikiだしな

306 :
はるばる神戸から田原坂行ってきたよ
加藤清正公が熊本城への敵の侵入を防ぐために作ったらしいね
正直あの坂を突破されたのは信じ難いくらい、よくできた守備要塞だった。
物量の差があるのに、田原坂の戦死者が双方似たような数字だったので、
改めて加藤清正の偉大さを感じた旅だった

307 :
>>299
「翔ぶが如く」には斎藤一の描写は一切出てこないぞ
タイトルも誤字ってるし

308 :
抜刀隊の話だが、軍の高官が現地に派遣されていた警官を戦地へ投入
するなんて現代の縦割り行政では考えられない。
近代国家が固まる以前だったということに加え、官僚であるまえに
士族としての意識の方がまだ強かったため誰も違和感を感じなかっ
たのだろう。
西南戦争は日本刀が実戦で活躍した最後の戦いでもあった。

309 :
ふくいちの注水に自衛隊がてこずって東京消防庁が投入されたみたいなもんか

310 :
阪神大震災の時に災害対策本部の設置は戒厳令の布告だと反対した連中が再び政権中枢に食い込んだときに起きたのが
東日本大震災

注水にてこずった消防に替わって自衛隊が消化した事例なら評価に値するが
消化が専門の消防が国防が専門の自衛隊に替わることの何に不思議があるんだ?

311 :
敬天愛人シリーズ
《 西郷隆盛 その人となり》
明治10年9月24日、7か月あまり続いた西南の役は幕を閉じました。
被弾した西郷が「晋どん、もうここらでよか」と別府晋介に首を刎ねさせたとされる日です。
一般には、西郷は潔く自決した。薩摩士族を道連れに自らサムライの世に幕を引いた、
などと語られています。
しかしその数日前の西郷の行動についてはほとんど知られていません。
・・・なんとこの人、命乞いしてたんです。
政府軍側に使者を遣わし、西郷本人の助命嘆願をしている。
従軍をしぶる者をタタキ斬り、強制徴募や軍資金強奪を行ったあげく、
1万数千人にのぼる戦死者を出した総大将が命乞い、などというのは、
薩摩戦史上はもちろん日本戦史上も例を見ません。
しかも政府軍の山県有朋に助命を断られ、武士であるなら潔く自決するよう諭されるという情けなさでした。

312 :
仮に田原坂が陥落したとしたら次に戦場になるのはやっぱり久留米?
大牟田・柳川・瀬高・八女あたりはどんな感じだろうか

313 :
西南での薩軍の作戦は無準備と行き当たりバッタリで、兵站補給の重要さを全然考慮しない全行動、
しかもその編成は1個小隊約200名、10個小隊で1大隊編成の約2000名足らず。
六、七大隊は人員少なく、約1500名程度で総計約13000名といわれるが、
この外に援軍の熊本協同隊2500名の外、高鍋、延岡、佐土原、中津などの諸隊や、
戦争中強制的に徴募した約1万人をいれると延べ3万名にもなる。
3万名といえば太平洋戦争下の戦時編成1個師団にも相当するのに、
司令部は置かず参謀部はなく、当然作戦参謀、情報参謀、兵站参謀を専任とすべきで、
さらに小隊長から大隊長はとも角、その上を統括する連隊長、旅団長などの責任を負う軍団長は置かれず、
ただ大隊長数名の統率では作戦の統一指揮命令の系統すらてんでバラバラになるはずで、
正に負けるべくして負けただけのこと。

314 :
斉藤一(藤田五郎)は、田原坂戦には参戦していない。
佐川官兵衛の部下として、豊後戦線で鎌田雄一や佐藤三二の小隊と戦ったはず。
ただし、司馬さんはこのことには一切触れていない。

315 :
薩摩人として迷惑かけた藩と日本の方々申し訳ありませんでした。
琉球侵略戊辰戦争会津戦争西南戦争とか、恨まれても仕方ない事あったしすいませんでした。

316 :

■パチンコと東電と生R口内射精売春の「日本うんこ地獄」で生活する発達障害者(チビ、ブサ、異性にもてない)♪♪♪
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317 :
>>311
それは桐野など幹部連の嘆願だろ。
西郷自身によるものとの根拠はある訳?

318 :
佐賀に呼応していれば確実に勝ったと思われ

319 :
そいはなか。
九州抑えきらんろうもん?

320 :
大久保・岩倉一派への弾劾で協調出来てるならそもそも西南の役が起こらない

321 :
佐賀の時に呼応してれば楽勝だったのに、後手後手に回って手遅れになった状態で戦争起こすとか初めから勝つ気無しだろ

322 :
勝つ気満々だったんだよ、軍事的にか政治的にかは知らないが
西郷が単身上京を決断すれば済む話だったんだが・・・

323 :
西郷軍出兵に先立ち、鹿児島県令大山綱良が西郷隆盛に忠告した
大山
「多くの兵隊を率いての上京は事が重大であり、
 途中の安全を保つのは困難ではなかろうか 」
大西郷
「自分は陸軍大将である。たとえ全国の兵を率いても
 陛下の許されるところであり心配無用 」(「新編西南戦史」)
桐野利秋は六尺ばかりの青竹を携え、
「徴兵(鎮台軍)を挫くにはこの竹にて事足れり、この竹のまだ折れざるうちに東京に達すべし! 」
(「鹿児島討征録」)
↓ 半年後
城山で、西郷は死ぬのが怖くて山中を逃げ回り、
桐野利秋に「西郷どんもうよかじゃろう 」
と言われて背後からピストルで撃たれ死亡 (「肚乃西郷」)

324 :
大軍に食わす飯は?

325 :
>>324
各地で役人や民衆が「西郷さんありがたや〜」と御馳走を持ってくる、という構想。

誰も来なかったんで、略奪した。

326 :
「『西南戦争・福島県人の奮戦』によれば、警視隊に参加した福島県出身者は1177名、警視隊全体の約10%弱、」 西南戦争  小川原正道(中公新書)

327 :
西郷さんの最期
エピソード1《 まさかの命乞い 》
明治10年9月24日、鹿児島県城山。7か月あまり続いた西南の役は幕を閉じました。
被弾した西郷が「晋どん、もうここらでよか」と別府晋介に首を刎ねさせたとされる日です。
一般には、西郷は潔く切腹した。薩摩士族を道連れに自らサムライの世に幕を引いた、
などと美談のごとく語られています。
しかしその数日前の西郷の行動についてはほとんど知られていません。
・・・・なんとこの人、助命嘆願してたんです。
政府軍側に使者を遣わし、西郷本人の助命嘆願をしている。
西郷軍への従軍をしぶる者をタタキ斬り、強制徴募や軍資金強奪を行ったあげく、
1万数千人にのぼる戦死者を出した総大将が助命嘆願、などというのは、
薩摩戦史上はもちろん日本戦史上も例を見ません。
しかも政府軍に助命を断られ、山県有朋に、武士であるなら潔く自決するよう諭されるという始末でした。

328 :
西郷さんの最期
エピソード2《 西郷さんは桐野利秋に銃撃されていた 》
西南の役の最後の日、西郷は足を撃たれたあと自決したことになっていますが、
その西郷の足を撃ったのは、西郷の部下である桐野利秋であったという説をご存知ですか?
西郷さん、玉砕することにどうにも納得いかなかったらしく、洞窟を出て投降しようとした。
しかし玉砕派の桐野がこれを発見、激怒して後ろから銃撃したというのが真相のようなのです。
目撃者の証言もあります。

329 :
西郷さんの最期
エピソード3≪創られた西郷自決 ≫
ちなみに広く信じられている西郷の最期、「晋どん、もうここらでよか」と言って
地面に”正座”し、東の皇居の方角に深々と頭を下げて切腹、
別府晋介に介錯させたという話し、出典はご存知ですか?
西南の役から30年以上たってから出版された「西南記傳」という本。
編纂者と出版元は右翼団体。まるで見てきたように書いていますが、
西南の生き残りが書いたわけでもないし、誰それの証言であるなどのソースの提示は一切無し。
はっきり言って資料価値ゼロの与太本なんです。
だいたい極度の肥満なうえに、寄生虫で睾丸が人の頭ほどの大きさもあった西郷が”正座”できるわけがありません。
東大図書館に保存されている西郷遺体の検死報告書を見ても腹部に刀創はありませんでした。
切腹はしていないのです。
「右大腿より左骨部貫通銃創、頭(頸)体離断」
つまり太腿を銃で撃たれたあと、首を切断されたということです。

330 :
西郷さんの最期
エピソード4≪目撃者≫
桐野による西郷銃撃を目撃したのは、別府晋介の従卒、城川市二。
城川の証言によると、西郷が洞窟を出て城山をくだってゆくために、
桐野は西郷が敵方に降伏するつもりかと思い、西郷を敵方に渡してなるものかと、
銃で撃った、というものです(出典「肚乃西郷」)
城川氏は鹿児島県人であり、反薩摩でも何でもなく、嘘をつく動機は皆無
前述の右翼団体の与太本よりよほど信憑性があります。
ところが「跳ぶが如く」の著者司馬遼太郎は城川なる人物の実在が証明されていないとし、
この説を奇説として退けた。
また昭和52年に南日本新聞で村野守治氏(西郷研究の第一人者)が、
「別府晋介の従者に城川なる人物は、自分の持っている資料には無いから実在しない、
 だから実在しない人物の証言は成り立たない」という記事が載り、桐野銃撃説はいったん否定されました。

331 :
西郷さんの最期
エピソード5≪わが眼で見た話し≫
ところが、その数日後に同じ南日本新聞で入江俊興氏が昭和十年発行の「葛城彦一伝」の中に
加治木編成の六番大隊編成表として別府晋介附従卒城川市二、との記述を示し、
あっさり実在の人物と証明されたのです。
さらに城川市二氏の孫嫁が健在で
「御祖父さんは83歳で亡くなった。口数の少ないきびしい人で、西南のことはほとんど話さなかったが、
 昭和三、四年ごろ東大の先生が二、三度春になると訪ねてきて、襖を閉めきり朝から遅くまで
 何事か話しをしていた。
 城川の家は製造業で、職人たちが噂話などをはずませていると、御祖父さんが現れて、
 ”今ン話しはおはんナ自分で見た話しか、人から聞いた話しか”と詰問されて、
 ”わが眼で見た話しでなかのなら、ここでは語いやんナ” とピシャリといって引っ込んだ 」と述懐しています。

332 :
>>327〜331
西郷が神格化されたら困る新政府という図式かも?
勝者が敗者を貶める。
良くある話じゃん(笑)。
ましてや新政府も出来たばかりで磐石なものじゃなかったし。
西郷が死んだあとで口裏合わせたり薩摩の連中に圧力をかけるのも造作無いことだったろう。
死人に口無し。
西郷どんは偉大だよ。
と、西南戦争に従軍した長州士族の先祖を持つ俺が言ってみる。

333 :
城川の話しは識者の間ではほとんど信用に値しない、珍説として扱われている。
他のスレでもちょっと話題になったが、客観的に論破されている。

334 :
「肚乃西郷」?  西南戦争関連の研究家達の間では、相手にされて
いない資料ではないのか?

335 :
西南戦争の戦地を示した地図をいくつか見ますが、阿蘇や大分は書かれていない事が多く、
阿蘇の戦闘や豊後竹田市での戦闘はどういった経緯で発生したものなのかよくわかりません。

336 :
西南戦争の薩軍は兵員や武器をどこから調達してたんだろ?

337 :
政府軍にシンパを作れば、薩摩にも勝機はあったよ
ていうか薩摩に帰っちゃったからいけないんだよ

338 :
西郷、大久保コンビで明治をつくったらすばらしい国家が出来てた予感

339 :
大久保にとって素晴らしい国家とは、西郷のような親方司令官のいない軍隊を持った国家なんだから、
この二人がコンビとかブラックジョークにもならない

340 :
大久保、木戸コンビの方が良いな。

341 :
交流深める薩英文化祭ttp://www.nhk.or.jp/lnews/kagoshima/5055505091.html?t=1382920891783
今年で薩英戦争から150年を迎えるのにあわせて、双方の交流をさらに深めようという「薩英文化祭」が鹿児島市で
開かれました。ttp://www.nhk.or.jp/lnews/kagoshima/5055505091_m.jpg
この「薩英文化祭」は鹿児島市などが企画し、鹿児島市の中央公園には特設のステージが設けられました。
そして鹿児島の女子大学生2人が英語で、かつて鹿児島で英語を指導していたイギリス人の男性が日本語で、
それぞれ「次の世代を担う若者としてイギリスと鹿児島の友好親善をはかることを宣言します」と述べました。
このあとステージでは音楽の交流が行われ、イギリス出身の女性たちでつくり関西を中心に活動しているバグパイプの
音楽隊がスコットランド民謡を披露したほか、鹿児島市の消防音楽隊は大河ドラマ「篤姫」のテーマソングなどを演奏しました。
会場には薩英戦争のパネルの展示のほか鹿児島産の紅茶を振る舞うコーナーも設けられ、訪れた人たちがその味を
楽しんでいました。42歳の女性は、「鹿児島とイギリスのさまざまな歴史的なつながりを学ぶことができました。
鹿児島でこんなにおいしい紅茶がいただけるのも新たな発見です」と話していました。
また、イギリスとの交流に務めている鹿児島日英協会の酒瀬川純行会長は「これを機にさらに多くの人にイギリスとの
つながりを知ってもらいたい」と話していました。

342 :
木戸がもう少し長生きしていたらな

343 :
西南戦争における政府軍の陣容
熊本城に籠城中の熊本鎮台
 司令官:谷干城少将(高知)
 参謀長:樺山資紀中佐(鹿児島)
 第13師団長:川上操六少佐(鹿児島)
 他:児玉源太郎少佐(山口)、奥保鞏少佐(福岡)
熊本城救援の為に派遣された2個旅団 
 総司令官:有栖川宮熾仁親王(皇族)
 副司令官:山県有朋中将(山口)・川村純義中将(鹿児島)
 第1旅団:野津鎮雄少将(
鹿児島)
 第2旅団:三好重臣少将(山口)
 第3旅団:三浦梧楼少将(山口)
 第4旅団:曽我祐準少将(鹿児島)
 別働第1旅団:高島鞆之介大佐(鹿児島)
 別働第2旅団:山田顕義大佐(山口)
 別働第3旅団:川路利良少将兼大警視(鹿児島)
 新選旅団:東伏見宮彰仁親王(皇族)
総兵数58558人 圭室諦成『西南戦争』より

344 :
東京で政府要人にテロ攻撃するしかないな。
薩摩ならできただろう。

345 :
>>327ー331
ぶっちゃけありえる話しだ。
西南戦争は西郷自身は
担がれただけで
やる気はなく、桐野ら
若衆の血気による暴走
というのは定説だからな。

346 :
やる気がないのになぜ無謀な挙兵をしたのか?
いくら弟子を見殺しに出来ないとはいえ、挙兵しなければ殆どの弟子は死なずに済んだだろ
そんなことが計算できない西郷とは思えんが

347 :
西南戦争って無駄だよね
日清戦争できっと薩摩の士族はシナ人の首を狩りまくってくれただろうに

348 :
西南戦争で薩摩軍の敗色が決定的になると西郷は、この反乱を主導した桐野利秋と口をきかなくなり、
桐野のほうでも西郷を避けるような気配を示すようになったといわれる。
「征西従軍日誌」の捕虜の証言に重要なものがある。
「 9月20日、城山の洞窟で桐野が「もはや再興の機を失せり」と嘆いた。
洞窟に潜んでいるあいだ、将校みな激沸喧騒、議論していた。
(玉砕するか降伏するか西郷助命嘆願の返事を待つか、などの議論であろう)
西郷は席に肘を付いて、もたれたまま何も言わなかった。
突然大笑を発したかと思えば、うつろに天井を見上げるのみ。
(心神喪失状態の西郷さんの姿が窺えます)
そのような西郷のあり様を見て、辺見十郎太などはキレそうになり、西郷を睨みつけていた。」

349 :
城山籠城時の薩軍諸将とその存意は以下の通りである
○・・投降論を主張または同意
×・・玉砕論を主張または同意
?・・記録が無く不明または存意を語らず
本営幹部
?西郷隆盛
×桐野利秋
?桂久武
○村田新八
○池上四郎
?別府晋介
○辺見十郎太
○坂田諸潔
○野村忍介
前線隊長クラス
○讃良清蔵(砲隊)
?蒲生彦四郎 (狙撃隊)
?藤井直次郎(城山方面)
○河野主一郎(岩崎本道方面)
○佐藤三二(私学校・角矢倉方面)
○山野田一輔(県庁・二ノ丸・照国神社方面)
?高城七之丞(大手・本田屋敷方面)
?堀新次郎(大手・本田屋敷方面)
○河野四郎左衛門(上の平・広谷・三間松方面)
○別府九郎(夏蔭方面 別府晋介の兄)
○中島健彦(新照院・夏陰下方面)
?岩切喜次郎(夏陰)
?園田武一(後廻)
?市来矢之助(後廻・城山間 )

350 :
■西郷隆盛に関する典型的な勘違い例■
バカ 「西南戦争で、西郷隆盛の助命嘆願は部下が勝手にやったことで、西郷本人は知らなかった」 ↓
西南戦争が最終局面に入った明治10年9月19日、西郷軍から政府軍に使者が赴き、
西郷隆盛の助命嘆願をしています。
通説(wikipediaなど)では、助命嘆願について西郷本人は知らなかったとされています。
事実はどうだったのでしょうか?
西郷軍の軍議で最初に西郷助命が議題に上がった際、
西郷は助命について是とも非とも言わず「開戦以来何人が死んだのか」と言ったと伝わる。
桐野利秋は猛然と反対し、助命論はいったん潰れた。
しかし再び、助命論が起こり、9月18日、河野主一郎が村田新八、池上四郎、ほかの諸隊長らの同意を得た。
この時の西郷軍内での様子を記した史料が二つある。
「薩南血涙史」では、このことは桐野には黙っていたとある。
「西南記伝」では、桐野は合議の席上で「投降は後世に対する侮辱だ」とあくまで反対したとある。
西郷本人はただ莞爾(にっこり)して「よしよし」と言っただけだったので、河野らが嘆願に赴いたとある。
つまり、西郷は助命嘆願を知らなかったなどという記録は史料のどこにも無いのです。
史料から分かるのは、西郷は助命嘆願を知っており、これを許可したと
思われる様子さえ記されているということです。
西郷は助命嘆願を知らなかったという説は、
西郷自身は命を惜しんだわけではない、ということにしておきたい人々
(西郷軍の生き残り、反政府主義者、鹿児島県人など)の願望が作りだした俗説です。
それがいつのまにか通説化してしまったものと思われます。

351 :
あげ

352 :
不器用な人だ 官軍のトップだったのに山縣にもガリバルディにもなれずに死んだ

353 :
星になったんだ
西郷星に

354 :
往生際が悪すぎる・・・

355 :
       真珠湾もミッドウェーも、東京大空襲も広島長崎も、すべて海軍の八百長! アメリカの内通組織、日本海軍!



「1532」

明治10年(1877年、西南の役で、西郷隆盛たちが新政府に嵌められて、不満分子として殺された)には全ての仏(フランス)技術者が帰され、それからの帝国海軍は、一気に英国式になりました。
米英は、日本海軍にどういう内通者を置いたか?海軍のフリーメーソン人脈は?

米内、山本、井上の“海軍反戦トリオ”は、戦争開始前からのアメリカへの内通者で、日本を負けるように仕組んで、今の日米安保体制に持って行った私もと思います。

「今日は出撃はないだろう」と艦上の攻撃隊だった飛行士たちが証言している、ということは、その後の海軍が言い続けた大嘘の「運命の5分 」 はなかったと言うことです(沢地久枝さんが暴露しました)。
山本五十六(やまもといそろく)聯合艦隊司令長官、は、始めから負けるように仕組まれて、そえでミッドウエーで4隻の主力空母を失わせられたのだ、と推測されます。

そうでなければ戦(いくさ)が余りにも稚拙(ちせつ)です。アメリカの力を舐(な)めきっていた、だけでは説明がつきません。

海軍の“海軍反戦トリオ(米内、井上、山本)”は、戦後の創作(でっちあげ、虚構)であり、彼らは始めから敵と内通していた英米派だった。
海軍は、陸軍とは断固協調しないで、日本を始めから戦争に負けるように仕向けたのだ。
あの“海軍善玉、陸軍悪玉(陸軍が戦争の元凶を作った)“論 を書き続けた言論人、評論家たち は、どう反論するのかと、私はずっと疑問に思っています。

彼らは、これから、真実の炎で、焼き殺されなければいけない。
今からでも大きな真実を語ろうとする者たちの声を、集めなければいけない。
そしてどんどん表に出さなければいけない。

米内(光政、よないみつまさ。開戦時もずっと海軍大臣だった。副島隆彦注記。こいつが軍人では最大のアメリカの手先。
極東軍事裁判でも、絞首刑になったのは、東條英機以下6人陸軍ばかりで、あと一人は外交官の広田弘毅=ひろたこうき=だ。
海軍は、ひとりも死刑になっていない。起訴さえされていない。
このことのおかしさを、日本国民は、真剣に考えなければいけない。

356 :
戦後作られた「海軍善玉論」神話(海軍は、ずっと平和主義者だった。悪いのは陸軍だった、という歴史の捏造。文藝春秋と新潮社から、戦後、沢山の本が出た)。

ミッドウエー海戦という決定的な敗北を喫した。これで日本の太平洋戦争での敗北は、早くも決まった。
山本は、ずっと呉(広島)の戦艦大和の艦橋に居て、無線で指令を出していた。
無線封止(むせんふうし)さえしていなかった。これらはすべて露見している。
本当は、ミッドウエーには、戦艦大和 が先導して、空母艦隊を守りながら、戦闘(海戦)をするべきだったのだ。

今もなおアメリカの手先を自認している者ども、おのれらの恥多き人生を深く、真の英霊たちに向かって恥ぢよ。

この時の、「飛龍」艦長、山口多聞(やまぐちたもん)少将(第2航空戦隊司令官)
の戦い方と死に方こそは、帝国海軍の軍人の鑑(かがみ)である。
敗戦後も、おめおめと生き延びて、「私たち海軍は、平和主義だった」などと、よくも、あの恥知らずの、アメリカの奴隷になった軍人どもは、言えるものだ。
文藝春秋、新潮社よ、産経バカ右翼は論外)お前たちの歴史の偽造を、私、副島隆彦は絶対に許さないからな。
山口多聞は、艦長として残り、飛龍沈没と運命を共にした。

南雲忠一(まぐもちゅういち)、栗田健男(くりたたけお)(聯合艦隊司令長官)ども!!!許さん。
それから、航空隊の司令官の、源田実(げんだみのる。戦後もずっと自衛隊代表で、参議院議員をやっていた)。
お前たちも、心底、怪しいのだ。始めからアメリカとつながっていた、スパイ軍人どもだ。
お前たちを、これから、日本国の真実の歴史の法廷に、引き釣り出す。

ミットウエー海戦で敗退したあとも、山本を連合艦隊長官から罷免せず、単に海軍内の庇(かば)い合いだけをした。

私が言いたいのは、海軍首脳は始めから負けるように作戦を立て、陸軍を太平洋に引きずり込んで、海軍も陸戦隊(りくせんたい)や基地の設営部隊は見捨てられました。

メディアも“海軍反戦トリオ”“海軍3提督”とかの虚構は作るものの、真の敗戦責任を問うた事がありません。

357 :
            従軍慰安婦は、皇室公認だった!!



そこで福沢諭吉は、「賤業婦人の海外に出稼ぎするを公然許可すべき」という指示を天皇に与えました。
賤業婦人つまり売春婦として日本人女性を海外に「輸出、 売却」し、兵器購入資金を作るというプランであり、天皇一族はこのプランに飛び付き実行しました。(福沢諭吉全集 第15巻)
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=304490



     自民党ポスター「戦争に巻き込まれることも徴兵制も、決してありません」



山本太郎

「このポスター見覚えありますか、みなさん? はーいそうです!

    『ブレない。TPP、断固反対。ウソつかない。』(自民党)

 2012年の冬に政権を握った連中が、みなさんへの裏切りを続けている。」
https://www.youtube.com/watch?v=O10MD8fALTs

ファッシズム政権の終わりは、いつでも残酷な結末しかない
ムソリーニは愛人とともに逆さ吊りされてリンチの末、死んだ
ヒトラーは焼死
安倍晋三はどんな殺され方をするんだろう?
https://twitter.com/tokaia mada/status/605899171313246209

マイトレーヤは次のように勧告される。
「国民の意志を裏切ることは危険な過程を始動させる−−誰かを裏切ると、精神的な過労や、極端な場合、自殺や殺人にまでつながる。」
magazines/si5n7k/04zpzf/bf1tqd

マイトレーヤはまた次のように勧告された。
「株式暴落の後における政府の第一の義務は、人々を正しい食物で養うことである。
 第二の義務は、適切な住宅。健康と教育が、その次の優先事である。そして最後に防衛である。」
magazines/si5n7k/04zpzf/bf1tqd

358 :
この国(日本)は黙っています。アメリカの同盟国だからです。
しかし世界のすべての国家は、このアメリカによる他の国々への虐待に反対の声を上げなければなりません。
magazines/lutefl/t1vhdg/j7i52q

Q アメリカ政府は民衆の力を恐れているのですか。
A はい、彼らはあらゆる方法を使ってそれを塞ぎ止めようとするでしょう。
magazines/33116k/ndshrf/xchu67

Q 世界平和にとって最大の脅威である国はどれですか。
A イスラエル、イラン、アメリカです。
magazines/qifgf8/kxz1kf/xchu67

Q 新しい世界秩序におけるイスラエルの役割は何ですか。
A 跪いて、パレスチナでの行為に対する許しを請うことです。
magazines/swl9d8/fkmww5/nu99he

Q 2015年の第四 四半期に国際経済制度の際だった崩壊が起こるという予測があります。これはどのくらい正確ですか。
A 大体正確です。
magazines/j540f8/pzytyf/locys5

日本はアメリカの国債の25%を所有していますが、それを引き出すとアメリカ経済も駄目になり、世界経済全体が破綻します。
maitreya/mai_03_02.html

株式市場の暴落が起きるとき、それが最終的な暴落であることがはっきりするや否や、マイトレーヤは出現するでしょう。
magazines/ahjzfl-1/pzytyf/u4t847

マイトレーヤはテレビやラジオを通して何百万もの大勢の人々に語りかけるでしょう。
magazines/ahjzfl-1/pzytyf/u4t847

マイトレーヤと名乗らずに、彼は声なき人々、スポークスマンをもたない人々すべてのために語るでしょう。
magazines/swl9d8/pzytyf/tbjlzj

マイトレーヤの唇からますます厳しい警告と重みが発せられることを覚悟しなさい。
magazines/ahjzfl-1/pzytyf/u4t847

359 :
最近の日本史近代史板は会津・南京・慰安婦ばかり
もううんざり

360 :
あなたは40代ロサンゼルス新聞作りですか?ドーハの悲劇「中国衝撃イヤフォン」「中国悪夢イヤフォン」ですか?

それともいくつですか?

それともいくつですか?

それともいくつですか?

361 :2016/02/11
可能性と確率は全然違うからからね
しかし薩軍が勝つ可能性も確率も0%だったよ
しかししかし!! 引き分けに持ち込んで
西郷党の政府や軍への復帰は ありえた

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●●●靖国神社の英霊はロリコン性犯罪者●●●
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