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1 :2016/09/30 〜 最終レス :2016/10/02
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう

前スレ
http://mint.2ch.sc/test/read.cgi/history/1474910081

2世紀末に建設された纏向遺跡が前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている

現・纏向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている
居館域は東西150m、南北100m前後の規模を持ち、方形の柵列に囲繞されている
これに比肩するものは弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない
付近で宗教的行事が行われた痕跡も発見された

この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いことを勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である

箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある 

すなはち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる
その死亡時期は3世紀中葉である

この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化、列島に存在しなかった植物の花粉等、といった中国文化が急速に浸透する時期が、列島が魏晋と通交した時期と重なることも含め、ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここが邪馬台国の所都である

2 :
◆2
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる
したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる

血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場である
そこで各地の葬制を顕示することは、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである
つまり、纏向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントにほかならない
そして次の時代、この古墳の築造企画共有が初期国家の枢軸となる

以上のように、元来は無形である共同体間の政治的力学的関係が具現化・表象化し固定化される時期、すなはち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期を、布留0期とみることが出来よう

そして纏向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し単純な整数比で縮小された首長級古墳が全国に展開しているからである

3 :
◆3
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと位置付けられていることは、紀に築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることを鑑みれば、紀編纂時の読者視点に於いて明らかに不自然である

すなはち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確なかたちで、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来る

因みに女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳は仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など血統的に疑義ある大王に正統性を付与した配偶者のもの、五社神(神功)など本人が大王相当者のものなどで、やはり箸中山の位置付けは異例である
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であり、かつ巫女王墓であるという性格を、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう

4 :
◆4
纏向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに立地する
この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である
すなはち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ

2世紀末の大乱期、中国製威信財の入手ルートが途絶して列島における旧世界の秩序が崩壊した後、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争を回避する目的で、この地に新たな秩序の中枢が構築された
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる

定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は交流圏・通婚圏として纏まりがあったことを示しており、此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう
後段で触れるところの寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた
纏向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の大勢という現実を踏まえたものであろう
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する

5 :
◆5
南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況や河内と吉備の交流の深さ等も鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を纏向の地に擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの連合であろう
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生し、その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている

それが更に個人的カリスマの死去を契機として、機関化した政治システムのフェイズに進むのである

2世紀末にかけては、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている
この寒冷化は漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である
寒冷化による海退は砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編を促した
弥生社会の終焉に向けて変質を強いていた気候変動の総決算である

これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な首長を誕生させつつあったことは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる
換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている

一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる

この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する
宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が予定調和的に働いた可能性がある

このクロスナ層中の遺物の共伴するのが庄内併行期の土器である

6 :
◆6
3世紀初頭から半世紀+αの時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、UB(布留0新相〜布留T古相)期には確認例がない(久住2007)
つまり旧二郡域との交渉はUA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる

庄内併行期は、先行する弥生X期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する
この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、その浸透状況の性格が覗われる
ちなみに、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域である

北部九州の土器編年で言えば、卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、博多は対外交易について最大級の中心地である
そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている
倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである
ことに、土師器TB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開を遂げている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である

7 :
◆7
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である

その最終段階では、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく

第二次高地性集落も後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びる
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、これは文献資料上にある「倭国乱」にほかならない
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである

倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纏向以外にありえない

8 :
◆8 参考
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf

●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収


●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」

●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」



9 :
◆9 本文のサマリー
===========================================
纏向遺跡の発掘状況から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる
その死亡時期は3世紀中葉とみられる
それは畿内に中国文化が急速に浸透する時期でもある

これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者は倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纏向が邪馬台国の宮殿所在地であると同定できる

倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期である
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期は、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている

倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纏向以外にありえない

10 :
◆10
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか

A:九州は倭国の一部なので問題ない

郡使は伊都国で常に駐しているので、九州のことがよく観察されているのは当然
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報である
畿内は朱の生産地を擁しており、これは三世紀の九州に見られないものである

水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、桜井茶臼山出土の水銀朱が近畿産であることは成分分析で判明済み(南,今津ら2013)
これらの状況から、三世紀の宇陀に丹山が有ったことは確実視される

また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する


◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くこと
  魏使は九州を出ていないではないか

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い
(例)
 「泝流」が6回
 「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある

11 :
◆FAQ 3
Q:行程論から言って畿内説は無理ではないのか

A:畿内説以外の説も無理である
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できない
このように、行程記事には明らかに誤情報が含まれているので、所在地比定には採用しない
検証にのみ用いる


◆FAQ 4
Q:纏向遺跡は七万戸だという邪馬台国には小さすぎる

A:誰も纏向遺跡が邪馬台国だなどと主張はしていない
纏向遺跡は巫女王の居た王都であり国ではない
邪馬台国の厳密な範囲については材料不足だが、概ね近畿第V様式分布域を想定しておいて大過ない
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纏向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある

12 :
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した
対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す
(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦は対馬の北西端、厳原はそこから東(実際は南)二百六十里と書く
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している

むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない
近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している

13 :
◆FAQ 7
Q:纏向から九州の土器が出ないではないか
  纏向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった
畿内第X様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る
畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系の土器が発見される
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある
  畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない
行程論とは別の方法で纏向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した
つまり、行程論で邪馬台国の位置を否定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である
考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される

14 :
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと思われることは念頭におく必要がある


◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠が発掘され、正式の報告書が出ている
墳頂から周濠に転落した土器も採取されている
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない

15 :
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる
前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」とみられる
使訳通じる30国のうち両者の構成比が不明であるが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である


◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる
よって判断材料とならない
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである

弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、ほとんど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる

当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる

倭人伝に描写された3世紀前半は信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、すなはち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである

なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」ともいう(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)

16 :
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである
よって否定材料にならない

古墳の竪穴式石室は、本来の槨の概念とかけ離れており、中国人に槨と認識される可能性は低い
畿内で一般的な墓は木棺直葬で、適合している
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる
この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される
北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない

17 :
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する

一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い
準構造船をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(三世紀後半)
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている

弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い


◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない

18 :
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である
また倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は未だ提示されてない
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える
このことは白鳥庫吉以来縷々指摘されているが、有効な反論がない

◆FAQ 18
Q:3世紀には目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ

A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する
また、魏代の三角測量技術を示す史料上では、1里=1800尺であることが明瞭であり、多数出土している尺の現物と突合すれば
異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである

19 :
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は
  信頼できる基準ではないか
  これに基づいた里程論で邪馬台国は
  九州島内に求められる

A:1〜2例から帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する
ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである

新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている
江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である
江戸時代に短里があったであろうか? 否、間違った情報があっただけである
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ならが信憑性が無い


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く

A:そのような整合性は認められない
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう

白鳥倉吉が里程に基づいた邪馬台国位置論の放棄を提言してから既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない

20 :
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ

A:箸墓の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている
つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある
箸墓の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後とする実年代観と矛盾しない
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纏向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される

中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない


◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した
  これは信用ならない
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る

A:発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある

つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである

逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つと土器付着炭化物1つは、3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に揃って示している
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう

一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる

一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない

21 :
◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない

A:方形のものの大きさを「径」で表現することはないので、「径百余歩」と形容された卑弥呼の冢は方墳ではありえない
しかし「径」は円形以外のものにも用いられる表現であるので、円墳と特定する根拠はない
また、築造過程で箸墓は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある
基壇部は水平方向から見ると隆起していない
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない

箸墓の築造過程は
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる
  この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
と推定できる
葬送儀礼の最も重要な局面で方丘が存在していない可能性があるといえる

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された
箸墓では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している

方丘築造が後出であるという判断は
 箸墓の後円部と段築が接合しないこと
 箸墓の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で

 前方部盛土に遮られる形で消失していること
 椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で

 前方部に盛土がないこと
等による


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である
黥面土器の分布から見て、弥生時代にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県であり、九州ではない
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである

このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である

22 :
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか

A:日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料に依拠するのは、学問的でない

旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表しているに過ぎない
 ・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること
 ・唐会要より錯誤発生の過程が時系列的に認識できること
 ・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること
等を勘案すると、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる
しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである

遠隔地同士の盟主的首長が、兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である

さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる

古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい

23 :
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い
  卑弥呼の墓があるのは九州だ

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い

参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である

以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い

24 :
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう
  弥生絹があるのは九州のみ

A:献上品に含まれている高密度絹織物「ケン」(糸偏に兼)は弥生絹ではない
弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳が初出であり、技術的系譜から言って九州の弥生絹とは連続しない

九州の弥生絹は粗製品で、弥生中期の発見例が多いが弥生後期には衰退しており、また技術的系譜が古墳時代の絹生産と連続しないなどの点でも、中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示す

九州説にとって不利な条件と言える


◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ
  箸墓の築造と時間差があるだろう

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である
よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である

隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元四(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である
以上から、大作冢の時期と箸墓の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある

なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く
また、已と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える

また、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い

25 :
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている
考古学的に見て三世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、同じく初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆を含む地名が多く分布する瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が整合性の上で有力視されよう
当時の基幹ルートには、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定されている(次山2009)
海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い


◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない
三世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が六世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い
これが部分的利用に留まる所以である

26 :
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある
  海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?

A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない

  「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝) 遼東熊岳付近→山東半島
  「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

27 :
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

28 :
アホが立てたスレwww

29 :
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

30 :
九州の歴史になんで乗っかってきてんの?

31 :
神武東征が史実

32 :
前スレ終了

33 :
畿内説は心の余裕がない

34 :
勘繰りかもしれんがキウス爺はウィキを改竄したやつかもしれない
やたら朝鮮に拘ってるところが共通する
ウィキでも纒向遺跡の他に古代朝鮮に関わるいくつかが同じ人物によって改竄されてた

35 :
邪推はやめなよ、見ていてみっともないよ

36 :
前スレでもカキコミましたが、新スレでは以下やめませんか。
             ☟
歴史板・このスレの常用語ですか?
クズ
アホ
バカ
老人ボケ
キチガイ
ボケ
カ ス
さっさと帰れ ・・・・・・・・・・・・・

爺さんって何歳以上????

37 :
スレ主さん
テンプレで変更や加筆あれば教えてください。
無ければ無いで良いです。

38 :
まぁ別に誰でも良いけどwikiのしょうもない改竄が必死過ぎて笑う
九州なのは明らかであるとか邪馬台国の項をに書いてる奴とかどんだけだよとw
箸墓を4世紀半ばとか書き続けたり

ウソも大声で叫び続けてれば本当になるとか思ってるタイプだろうな

39 :
>>34 わかりましたが、スレタイと關係ない事にこだわってる方もいるのですね。
  もう一つ、ヒロユキ一派ってなんですか。

40 :
>>38
どうしたの?誰に対するレスなの?

ここは畿内説の妥当性を論ずるスレでしょう?
スレ違いの発言はよそうよ

41 :
テンプレおかしい
記紀を都合よく利用してる。

42 :
「鉄が腐りやすい」は流石にねぇわw

43 :
テンプレの、だろうとか違いないとか
考えられる、の文章を削ると
ほとんど空っぽになるね。

44 :
畿内説主流とスレ主関係ないだろ。

45 :
畿内説=鉄が腐りやすいから見つからないのはしょうがないだろ説

極めて強引な説だ。信用出来ない。

46 :
第一土の成分を化学的に分析すれば鉄が溶けたか直ぐに分かる筈だ。溶けた鉄の成分が消滅する筈ない。デタラメだ。

スレ終了。

47 :
鉄溶解ならぬ畿内説溶解だ。

48 :
昼間は東征厨
夕方からはキウスじいさん
二大荒らしの揃い踏みでスレが無駄に消費された

49 :
反論になってない

50 :
スレ主が自分に都合のいい事だけ並べ立て、気に入らない相手は罵倒して追い出そうとする、そんねほのぼのとしたスレです。

51 :
東夷伝は序文に夷狄の国にも祭祀の儀礼が存在しているから
前史の未だ備えていなかった所を補完すると書いてある
原始的でわずかな量の鉄器を持ってるから東夷伝を書いたのではない
3世紀半ばくらいの日本で、北部九州沿岸が影響を受けている
祭祀の中心がどこにあるのかということ

52 :
>>51
日本語が意味不明

53 :
おお!
東遷が東征に直っている。
スレ主も成長するのか。
ちょっと見直した。

54 :
このスレはスレ主の歴史の改竄を披露する醜いスレです。

55 :
問題のひとつは、平原や伊都の状況を現在の畿内説では全く説明できない事だな。
隔離され監視されていたとか、妄想もいいところだ。
そんな状況で郡使を受け入れて外交を行ったり、八咫の鏡を作って派手な祭祀をやっていたかね?

56 :
東征厨は愉快犯
道義や倫理を問うても意味がない
自演、成り済ましに連投、煽り
真人間に必要なものはすべて捨て去っている

57 :
機内説・・・キチガイ

58 :
このスレでキチガイといえばキウス爺をあげないでとうする

59 :
「俺の意見に反対する奴はキウス爺!!」


病気だろw

つかキウス爺ってなんだよwそこからわけわかんねーよw

60 :
八咫の鏡は作ってないし派手な祭祀もやってないからそれは心配しなくていい

61 :
久々に覗いたw
畿内説の人居なくなった?
アラシのせいで畿内説のまともな人は 他へ移ったのかな?
まともでないのだけが残ったようだ

62 :
縦目仮面ってこういうキャラだったっけ

63 :
>>59
キウスを知らないとはニワカだな

64 :
お、なついコテハンだな

65 :
九州説の知能がよく分かるレス。たったこれだけの中に濃縮された知能の低さ

304 返信:日本@名無史さん[] 投稿日:2016/09/24(土) 00:22:35.85
>>271
径2尺、周8咫の銅鏡は世界に他にありません。
『伊勢と伊都にあるだけです。』←伊勢の物など分からないのに同じだと言い張ってる
『伊勢のものは現物を確認できませんが』←伊勢の物など分からないと自分で言ってる上でさらに同じだと言い張ってる
『伊都のものは太陽信仰の象徴である八咫烏が描かれています。』←は?(下記参照)
『伊勢も伊都も、鏡と御柱と鳥居を日の出の方向に配置します。』←伊都の祭祀の詳細など不明
『祭祀跡は伊都にあり、伊勢では今でもそのように祭祀を行います。』←伊都の祭祀の詳細など不明

↓そしてバカが勘違いしてたレプリカ

374 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2016/09/24(土) 01:39:50.34
http://next-international.com/school/%E5%85%AB%E5%92%AB%E9%8F%A1-three-sacred-treasures-mirror/
この八咫烏が描かれた内行花文鏡は東大阪市の上田合金工房の上田富雄社長が製作し、堺市美原区役所に寄贈されたものだな
http://ameblo.jp/town-watch/entry-10546235870.html

66 :
これが伊都国歴史博物館玄関に展示されている内行花文鏡の複製

http://tabi.chunichi.co.jp/blog/kyushu/2015/01/post-188.html

67 :
ブログではなく、あのPDFの方を貼れよ。
あれはいい資料だ。

68 :
いや普通なら教えて貰わないでも当然知ってる話だから
鏡鏡連呼してた奴がまさかの本物を知らなかったという超ド級のバカぶりを晒しただけの話

69 :
図録の本物の写真は錆があるから八咫烏の絵の有無はちとわかりづらいな
博物館で見た人はわかるけど

70 :
>>61 変態仮面
>まともでないのだけが残ったようだ

ようこそ同士よ

71 :
まああの平原の特大鏡を銅鐸や銅矛と同じように
青銅品の大型化の流れの一つと見るむきがあるが

銅鐸にしろ銅矛にしろ”編年”がされるが
あの銅鏡には前後がない

また古墳時代国内の古墳が国産の水銀朱に移行していく中で
糸島は中国製のものだったりやはり舶載に対する志向を見せてる

要するに弥生中期のように舶載鏡が欲しかったが
入手できなかったので面径を大きくすることで誤魔化した感があるwww

72 :
平原1号墓の頭付近にあったのって素環頭大刀だよな

73 :
九州九州叫んでるけど実は全部想像で話してるだけだからな
実は何一つ九州の事なんて知りませんでしたと
こんな妄想癖の異常者が粘着してるんだから迷惑でしかないわな

74 :
本来三種の神器って刀(片刃)じゃなくて剣(両刃)なんだが
「三種の神器」とかに取り憑かれたやつにはお構いなしになるw

75 :
あんだけ強弁してた原田大六でさえも「そうかもしれない」程度だったのにな
全く知りもしない物を絶対だ!と言い張る奴と会話なんて成り立つわけもなかった

76 :
素環頭大刀って片手用で、下級兵士がすっぽ抜けないように
手首と縛ったんじゃなかったっけ

77 :
これはうろ覚えとか十分確認できてないもので言うので
神話に詳しい人がいたら是非斧正を請うものだが・・・

八咫烏や鳳のように太陽の中に巨大な鳥がいるというタイプの神話は
日食という現象がその鳥が横切る時に起きるという話だったりするが

方やアマテラスの岩戸隠れ神話は太陽神が岩屋に篭って世界が暗くなり
神々や人がなんとか太陽を外に引っ張り出そうとする話

要するにこの二つの神話は日食に対して違う解釈をしてて本来別系統の神話だと思う
それを一つにまとめちゃったのが記紀神話で

もし海外の神話で太陽神に関し
「岩戸隠れ」と太陽神の使いあるいは太陽の中に住む「霊鳥」がセットになってる物があれば教えて欲しい

記紀が成立するはるか以前
200年頃の銅鏡に既にアマテラスと八咫烏の融合がなされたなんて言うのは
神話学的な方面から考えても成り立たないんじゃないかと思うw

78 :
コジツケにしても後世の認識で無理やりあてはめたりするのが多いからな珍説は
それを根拠とするなら当時にその意識があった事を証明しないといけないわけで
でもそれを全部想像の上に想像を重ねてこれが結論だとか言い出すからな

もうなんていうか妄想を喚いてるだけの病人だよな

79 :
なんか地点を結ぶと図形になる!とかも好きだよな
メルカトル図法でw

80 :
カラスは射日神話だな
隠れた太陽の呼び出しは招日神話で
ミャオ族をはじめ、ワ族、ラフ族、ハニ族、プーラン族、リー族、ヤオ族、イ族、チベット族、
チワン族、トン族など中国南部の各少数民族の射日・招日神話は必ずセットになっていて、
まれに射日神話が単独にあっても、招日神話に前段としての射日神話を欠く例はない。『稲と鳥と太陽の道』
らしい

http://www.mekong.ne.jp/directory/culture/legend05.htm

81 :
カラスと太陽はギリシャ神話が一番古いかな
中国にもあるし
何で黒い鳥と太陽を併せたのか古代人の発想は不思議だな
焦げたのかね
黒点とか言うけど観測されたのは1600年代だしな

82 :
まぁなんにせよ太陽だのカラスだのの話を古代史に持ち込むような根拠はないからな
与太話としては面白い程度

83 :
>>80
おおサンクス

ここでまともにレスが返ってくるとは正直思ってなかったw

その太陽を射落とすタイプの神話は知ってたが
その残った鳥が鳳だの堂々たる存在に格上げされていくんかね?

じゃあ一応神話の系統的には有り得る話なんだ・・・

重ねて謝意をば

84 :
◆石井吉徳東京大学名誉教授「メタンハイドレートは資源ではありません」

「メタンハイドレートにダマされるな」 週刊文春2013年4月4日号
http://oilpeak.exblog.jp/20216160/
http://oilpeak.exblog.jp/20280892/

メタンハイドレートの実用化は科学的に不可能です

メタンハイドレートは毎年100億円(過去20年間)の予算が落ちるおいしい利権です

毎年100億円×過去20年=2000億円以上の税金の無駄使い

「ユダヤ人がメタンハイドレートの実用化を邪魔してるーーー」とか言ってる人は無知な人

青山繁晴は夫婦でメタンハイドレート詐欺師をしています

青山繁晴は武士ではなく詐欺師です

85 :
>>80
>招日神話に前段としての射日神話を欠く例はない。

じゃあ日本神話は特殊な例なのかな?

あるいは何処かの時代でオミットされちゃったんだろうか?

86 :
つかそれ中国の9個の太陽とほとんど同じだし
「欠かすことはない」とか言うけど原型同じ話だろそれ

もっと早いと思われる太陽とカラスの組み合わせのギリシャ神話だと別にそういう話はないし

87 :
北欧神話の太陽神バルドルは盲目の弟に誤って射殺されてから復活するな

88 :
じゃあ、稲作とともにやってきたのか?

89 :
太陽が沈んでから登るってのは生きてれば必ず目にする光景だし
特段珍しく感じるような話でもないんじゃねぇの
ラーも生と死を繰り返して出たり消えたりするわけだし

90 :
これと言った根拠もなく古代史につなげるのはどの道むりがあるな

91 :
面白いけど民俗学スレでする話だな

92 :
ネタがないんだよ。

93 :
考古学的に分かってる弥生時代〜卑弥呼の頃の祭祀は

桃を供物として大量に使ったらしい
祭祀の建物はそのたびに作って壊すらしい(常設ではなかった)
骨を焼いて占いをしてたらしい
水に入って潔斎をしてたらしい
門のような祭りの境界を作ったらしい
柱を建てる事があったらしい
葬儀の際に墓で遺体を前に布を敷いて何かしてたらしい
木の仮面を使ったらしい

とかこんなか
現代の神道を想像させるものが結構多いな

94 :
縄文や弥生初期の頃の死者を怖れてる風の呪術的祭祀から、特定の死者を権威として祭る傾向に移行してるのが見えるな

やはり弥生後期になると強力な権力者が生まれる流れが分かるな

95 :
>>85

自己レス

かなり強引だがw
「鳥を射る」ということであれば・・・

天孫降臨に先駆けての出雲の国譲りに代表される全国平定に
経津主神や武甕槌が派遣される前に

天穂日命やその子の武三熊之大人、天稚彦を派遣してるが
こいつら3名とも大己貴命側に寝返ってて

その様子を見に行かせた「名無雉」を天稚彦が高皇産霊からもらってた弓矢で射殺して
その矢を高皇産霊に投げ返されて死んじゃう話があるな

ひょっとしてその射日神話が変形して変形した可能性もあるかな?

・・・と思ってググったらありましたよw

http://www.nagasaki-u.ac.jp/ja/gakusai/summary/h23/1206seisan_gaku/file/seisan_gaku278sinsa.pdf

>従来、「天若日子神話」との比較が乏しかった中国の神話との比較を行い、日中の神話研究者の中で初めて、
>日本の「天若日子神話」と中国の「?の神話」との類似性を「射日神話」という形で見出したこと。
>これは、賀南氏の最もオリジナルな部分であり、本論文の中の中枢を占める論点でもある。
>即ち、「天若日子神話」で、天若日子が射殺した樹上の雉は、太陽象徴の意味があることを指摘し、
>?が太陽象徴たる扶桑樹上の烏を射Rる行為に対応するとしたのが、氏の論点の重要な部分であり、その指摘の的確さ・新しさが高く評価できる。
>さらに、「天若日子神話」で、天若日子が射た矢が高天原の天照大神・高木神に届いたのは、太陽に向かって矢が射られた「射日神話」に当たるとしたのも、賀南氏の発明であって、
>今まで全く指摘されてこなかった点を指摘

チッ、俺が最初かと思ったのにwwwwwwww

96 :
コジツケくさいわぁw

97 :
そりゃそんだけ無理のある説なら誰も言わんだろうw

98 :
三星堆の神樹のはトサカがあるからニワトリかな
カラスが穀物食うから射落としてるうちに話がごっちゃになっちまったのかなw

http://www.antiques-oota.com/file/doki/0001-0500/372.html

99 :
>>93
加えて考古学者に人気なのが
道教とかw
共食儀礼
首長霊信仰
大嘗祭に繋がるような五穀豊穣祈願穀霊信仰
んで太陽信仰とかw

自分としては「水の祭祀」に注目したいところ
纏向の大溝やその後に現れる豪族居館の導水施設とか
それを彷彿刺さるものがあるし

強引だろうが実は記紀の因幡の白兎が大国主のアドバイスで
真水で傷を癒やすのは清らかな水が治癒に資することを示してるという解釈もあるwww

100 :
高皇産霊「元斗二指真空把!」

天稚彦「ひでぶっ!」


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