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伊都国東遷スレ 9


1 :2018/07/30 〜 最終レス :2018/08/07
1、魏志にある邪馬台国は「ヤマト」であり、倭王権の基礎となった。
2、ただし、その女王、「ヒミコ(日巫女)」とは伊都国の関係者である。
3、平原一号墓の巫女王は、東遷前の先代のものであり、銅鏡による太陽祭祀を主宰する「日巫女」の墓として、最もふさわしい。

<ポイント>
・記紀の伝承がおおむね歴史的事実の反映であることが視野に入ってくる
・唐古、鍵と纏向の間にある文化的断絶(銅鐸祭祀断絶と銅鏡祭祀開始)を伊都国勢力の進入から説明できる

柳田康雄先生の考え方(仮説)に基本的に一致しています。
<参考 URL >
歴史秘話ヒストリア 「女王卑弥呼はどこから来た?」
http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/204.html
柳田康雄 「伊都国を掘る」2000年
http://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784479840541
柳田康雄 「 弥生王権論 伊都国からヤマト国へ」 2016年
http://www.city.itoshima.lg.jp/m043/010/040/070/030/kankotosyo.html

通勤中なので、残りは夜にでも

2 :
>柳田康雄先生の考え方(仮説)に基本的に一致しています。
パクってるだけだからな

3 :
根拠一つ上げられず
理路の通った反論一つできず
言葉尻をねちねち言うだけで
伊都国説は「終了」してるのに

4 :
>>3

文献解釈には正解が無いから、解釈の仕方によって様々な説が成り立ってしまう

だから考古学的に考察していくのだが、そのどの説も根拠らしきものはどこにもないよ

伊都説は卑弥呼より前の倭国が説明できるし、考古学的にも、鏡文化の中心地であり、大陸との関連が深い
鉄もあるしな

他の説よりかなりマシ

5 :
どこがマシ?
間違いばかりのゴリ押し説じゃないか

6 :
>>4
>だから考古学的に考察していくのだが、そのどの説も根拠らしきものはどこにもないよ

よく言うよ
自分の気に入らないものを、確定はしていない、確定はできないはずだって言うだけじゃん?

平原1号墓の、二つ並びの杭穴を鳥居と呼ぶのにどれだけの根拠がある?
1号墓と大柱の延長上に異形建物があることを、
吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓、立柱、祀堂の並びと合わせて考察した伊都国説の人間はいるのか?
そうすれば、日向峠がどうこうとかいう寝言は言わずに済んだだろうに

7 :
吉野ヶ里には太陽の女王はいなかったが、伊都国にはいた。
その違いだとも説明できる。

8 :
>>7
>吉野ヶ里には太陽の女王はいなかった

いなかったとする理由は?

>伊都国にはいた

いたとする理由は?

結局、自分でそう決めたから(考えたから)という、循環論法でしかない
いい加減、循環論法以外の根拠を挙げてごらんよ

9 :
>>7さんは、これには意見がないの?

平原1号墓の、二つ並びの杭穴を鳥居と呼ぶのにどれだけの根拠がある?

10 :
>>9
それ以外に妥当な説明ができない。

11 :
>>8
吉野ヶ里よりも平原の方が、より太陽の方向に配慮しているように見えるけど?
そもそも、吉野ヶ里の方は太陽の方向を意識していないように見えるのはなぜかということだろ?

12 :
>>6
>自分の気に入らないものを、確定はしていない、確定はできないはずだって言うだけじゃん?

これって、畿内説のことかと思ったよ。
平原遺跡と日の出の方向とか、鳥居の痕跡とか、自分の気に入らないものを、確定はしていない、確定はできないはずだって言うだけじゃん?

13 :
>>12
だという証拠は?

14 :
>>4
>だから考古学的に考察していくのだが、そのどの説も根拠らしきものはどこにもないよ

あるよ、倭国(阿波)に。 「其山有丹」が考古学的根拠。 他のどこも該当しないでしょ?  @阿波 

15 :
>>11
>吉野ヶ里よりも平原の方が、より太陽の方向に配慮しているように見えるけど?

そもそも、東方向に適当に向けた線上なら、一年のどこかではその方向から日が昇る
それが二至二分でもなければ、特段の太陽信仰との関わりは想定されることはない
10月22日に、特別な意味を付与しようとしている人もいるけれど、まあ、意味がないと見るのが普通

細かく見る人だと、日向峠を向いているかどうか、という点も疑問視している
平原1号墓の発掘平面図を見れば一目瞭然だが、墓溝及び木棺跡は、周溝で囲われた領域の「中心からはっきりとずれている」
墳丘自体が失われているので何とも言えないが、周溝で囲われて領域全体が墳丘だったのではなく、墓溝を中心に一部だけ盛り土が行われていたと考える人もいる
吉野ヶ里の北墳丘墓でも、中央の埋葬主体はきちんと墳丘中央に位置している

その辺も含めて、伊都国説平原1号墓推しの人は、遺跡の実態に詳しくないし無頓着すぎる

>そもそも、吉野ヶ里の方は太陽の方向を意識していないように見えるのはなぜかということだろ?

吉野ヶ里の方は、太陽とは無関係に南墳丘墓とかつて呼ばれたマウンド(今は祭壇とされている)に向けられている
真南でもないし、日の出や日の入りの方角には決してならない方向

平原1号墓の大柱の役割を考える場合は、吉野ヶ里の南墳丘墓に当たる場所がないかを探るのが、実は一番大事なんじゃないか?

それと、大柱の遺溝の前後に、柱を立てるためのスロープに見える横長の穴が複数、検出されている
5号墓の大柱は2本、遺溝が見つかっている
この辺のことに言及する伊都国説の人間を見たことがない

伊都国説をぎゃあぎゃあ言っている人よりも、明らかに私の方が詳しい

この状態で「太陽祭祀がー」「八咫鏡がー」とか言っているのを見ると、
「思い込みだけじゃダメだよ」、という感想が一番に出てくるww

16 :
>>12
>確定はしていない、確定はできないはずだって言うだけじゃん?

違うよ?
「確定はしていない」じゃなくて、「はっきり間違いだろう」って言ってるんだよw

根拠のないものをいくら言い張っても無駄

17 :
>>16

根拠のあるものを言い張っているのは、「倭国(阿波)」だけ。  @阿波

18 :
>>16
何を根拠にはっきり間違い?
柳田説はいつ否定されたの?

19 :
有名人パクラーの岡上w

20 :
>>19
パクリとかどーでもいいし。
で、いつはっきり否定されたの?

21 :
>>15
>10月22日に、特別な意味を付与しようとしている人もいるけれど、まあ、意味がないと見るのが普通

まあ、そこまで細かい角度は意味ないと思うよ。
でも、東を向いていることには意味があると思う。
コテハンの孝霊氏ではないけれど、神仙思想というか、太陽信仰を加えた古代神道の原型としての意味があると思う。

>5号墓の大柱は2本、遺溝が見つかっている

鳥居だろ?
そもそも神道がいつ成立したかということに関わるけれど、記紀ははっきりと太陽神の性格を持ったアマテラスを持ち出しているので、それに相当する上古から太陽信仰はあったはず。
それを示す遺跡として平原遺跡は重要だよ。
そして吉野ヶ里にはそれが見られないなら、神道の中の太陽信仰の要素は伊都国で加わったと推定できる。

22 :
>>16
>「確定はしていない」じゃなくて、「はっきり間違いだろう」って言ってるんだよw

何を根拠に、何が間違いだと言っているの?

23 :
>>21
>>5号墓の大柱は2本、遺溝が見つかっている
>鳥居だろ?

また、無知をさらしている
平原遺跡の平面図を穴が開くまで見つめやがれ!

話はそれからだww

24 :
>>20
>でも、東を向いていることには意味があると思う。

きちんと真東を向いているならともかく、
東は東だけど、適当な東南東方向って、どう思う?

25 :
例えば、平原1号墓出土鏡は「8.63咫」だから、八咫鏡ではない ってのは
はっきり否定しているだろ?

26 :
>>25
珍説乙

27 :
また一言レスでお茶を濁しているw
具体的な根拠を言えない癖に、何かを言い返さないといけないってのも大変だなww

伊都国説なんて、やめればいいのに
そうすれば、そんな惨めな「一言レスに逃げる」なんてことをしなくても済むぞ

28 :
>>27
論証抜きで言い張ってるだけ

29 :
>>28
>論証抜きで言い張ってるだけ

論証抜きだと思うなら、簡単に逆に論破できるだろ?
「具体的に指摘」して、論破してみればいいだろ?

そうしたらこっちは改めて、説文解字注の解釈や
大陸史書原文中の用例、大陸の考古尺の解釈から、
全部もう一回解説してやるよww

舐めるな!

30 :
>>29
切れたもん勝ち?
結局論証はなしと!

31 :
具体的な指摘をしてからにしな!

32 :
史記での「咫」の字の使用全例
矢長尺有咫
長尺有咫
  尺有咫は、尺(10寸)+咫(8寸)で、18寸の長さ
八寸曰咫
咫尺,八寸
  咫は8寸である
徒欲日夜望咫尺之地
舜無咫尺之地
奉咫尺之書
今拘學或抱咫尺之義
言拘學守義之士或抱咫尺纖微之事
  咫尺で、「少しの(ながさ)」程度の意味
  日本語で「ちょっと」を「一寸」と書くのと同じ発想

咫を円周を測るのに使っている例はない

33 :
漢書での「咫」の字の使用全例
長尺有咫
石砮長尺有咫
  尺有咫で、18寸
八寸曰咫
張晏曰:「八寸曰咫。」
  咫は8寸
豈其與水爭咫尺之地哉?
奉咫尺之書
但日夜望咫尺之地
履咫尺之難
臣聞天威不違顏咫尺
且盲不見咫尺
咫尺者,言其簡牘或長咫,或長尺、喻輕率也。
  咫尺は、それ「あるいは長さ咫あるいは長さ尺」を簡単に言うもので、比喩である

咫を円周を測るのに使っている例はない

34 :
三国志での「咫」の字の使用全例
未能進咫尺之地
終日行不離咫尺
加咫尺之書
  咫尺は、一咫か一尺程度の少しの長さの意味

咫を円周を測るのに使っている例はない

35 :
後漢書での「咫」の字の使用全例
其長尺有咫
石砮矢長尺有咫
長尺有咫
  尺有咫で18寸
八寸曰咫
八寸為咫
  咫は8寸
舜無咫尺之地
今拘學或抱咫尺之義
咫尺天儀
咫尺龍沙
咫尺言不以為遠也
夫欲千里而咫尺未發
去營咫尺
今以曲俗咫尺之羞
  咫尺は、一咫か一尺程度の少しの長さの意味

咫を円周を測るのに使っている例はない

36 :
史記、漢書、三国志、後漢書での「咫」の字の使用例を全例検索
史記9件、漢書12件、三国志3件、後漢書13件 の、全37件
うち、咫尺    で使われているのが23件  
   尺有咫   で使われているのが 7件
   八寸曰咫  で使われているのが 6件

「咫尺」は三国志の「未能進咫尺之地」(未だ咫尺の地を進むに能わず)のように、「一咫あるいは一尺程度のわずかな(距離)」程度の意味で、慣用句的に使われている

「尺有咫」は、矢の長さなどを表すのに用いられ、史記では「矢長尺有咫」(矢の長さ、尺あまり咫(=18寸))のような使われ方になる

「八寸曰咫」は、「咫」の長さの説明、つまり 咫=八寸

ここまでで、全37件中36件
残りの1件は「咫尺」の説明中に使われているもので、漢書の「咫尺者,言其簡牘或長咫,或長尺、喩輕率也。」
咫尺は「あるいは長さが咫あるいは長さが尺」を簡単に言うもので、軽率の喩えなり
というものだ

要するに「咫」は、
「尺とあまり変わらないわずかな長さ」 咫尺という熟語として使う
「具体的な八寸という長さ」      長さの単位として使う
という二つの意味での使い方しかない
そして、円形のものの周囲を測るために使われている用例は「一つもない」

咫を丸いものを計る単位に使った例は、邪馬台国前後にはない
咫を使っていたとされる周代を記録した大陸史書は史記しかないが、もちろん、史記にも咫を丸いものを計る単位に使った例はない

これによって、「咫は、円周率を3.2で近似するための便利な単位」という平原出土鏡を「八咫鏡」に『する』ための戯れ言は、完全に否定されたね

つまり、平原出土鏡は「八咫鏡」ではない

37 :
ほれよ>>30

つ 根拠&論証ww

38 :
反論があるなら、論点を「具体的に指摘」してくれ

39 :
親魏倭王卑弥呼の墓は豪奢な墳でなく、
尖がり帽子みたいな質素な「冢」だった。
それがみたけりゃ、阿蘇・高千穂神社の本殿背陣のご神体山をよ〜く拝むこった。ここが卑弥呼さまの大作冢墓。。

40 :
例えば、平原1号墓出土鏡は「8.63咫」だから、八咫鏡ではない ってのは
はっきり否定しているだろ?

これの根拠マダー??

www

41 :
尺が時代により揺らぐから、咫も揺らぐ。
8.63咫の鏡は、十分に八咫鏡と呼べる。

42 :
>>21
>>5号墓の大柱は2本、遺溝が見つかっている
>鳥居だろ?

これが大間違いだってのは、確認できたのか?

43 :
>>41
言い張るだけでスカー?

44 :
>>40
>これの根拠マダー??

ほいよ つ 「根拠」

周歩が身体尺で、135センチ程度とされている

清代の注釈 清代 段玉裁《說文解字注》から引用すると
王制曰。古者以周尺八尺爲步。今以周尺六尺四寸爲步。
となっていて、
周代でも古い時代は、周尺の八尺を歩としてたが、
今は周尺の六尺四分を歩としている
と書かれている

これで、歩=135センチから換算すると
八尺=歩=135センチなら 一尺=16.9センチ
六尺四分=135センチなら 一尺=21.1センチ

どちらにしても、漢尺の23センチとは異なるし、
咫が周尺である以上、平原1号墓出土鏡は、面径二尺にはならない
したがって、円周も八咫にはならないんだよ

>>690で書いたとおり、九州説のいう「咫」の長さが異なっていたってことだ
この数値から計算すると、咫=16.9センチ
八咫=135センチで、平原1号墓の146センチとは合わない
146センチは、「8.63咫」だね


既に論破済みのことを何回でも蒸し返すのが、九州説のたちの悪さだよなww

45 :
>>41
>尺が時代により揺らぐから、咫も揺らぐ。
>8.63咫の鏡は、十分に八咫鏡と呼べる。

はは、またバカなことをww

>>32>>36で示したように、秦の度量衡の統一以降、
「公定尺の体系の中に『咫』は入っていない」ので、
漢代、魏晋代には、「長さの単位として一切使われていない」んだよ

使われていない単位が「揺らぐはずがない」だろ?

46 :
>>21
ほれ、平原遺跡の発掘平面図を貼ってやるから、5号墓の大柱が二本あって
「鳥居ではありえない」のをまず確認しなさい

https://image.space.rakuten.co.jp/d/strg/ctrl/9/2c9cac26ffdc644a177f62ea5a9aabe5202dd80c.78.2.9.2.jpeg

でもまあ、前スレでは「5号墓?なにそれおいしいの?」状態だったんだから、少しは進歩かな?

でも、伊都国説で「平原遺跡が卑弥呼の墓」とか言いながら、この体たらくだからなww
平原遺跡と平原1号墓の区別が付いていないやつもいるしw

47 :
>歩=135センチから換算すると

根拠なし

48 :
根拠のない数字で割り算して、確定とか。まじ詐欺師

49 :
>>47
あるよ
前漢の尺は現物があって、一歩は六尺とハッキリ文献にあるんた

50 :
>>49
歩は六尺4寸だろ。
自分で引用してるのわすれたの?

51 :
>>50
知能低いやつだな
周尺で六尺四寸、漢尺で六尺だ
だから周尺が漢尺より小さいことがわかる

52 :
歩自体が短くなったかもしれないだろ。

やっぱり詐欺だな

53 :
>>45
>>8.63咫の鏡は、十分に八咫鏡と呼べる。

>はは、またバカなことをww

大きいことが大事なのであって、8.63咫は「十分に」八咫なんだよ。
不足していない。

54 :
>>46
>ほれ、平原遺跡の発掘平面図を貼ってやるから、5号墓の大柱が二本あって
>「鳥居ではありえない」のをまず確認しなさい

わかったわかった、で、その穴はなんだというんだ?

55 :
>>46
https://image.space.rakuten.co.jp/d/strg/ctrl/9/2c9cac26ffdc644a177f62ea5a9aabe5202dd80c.78.2.9.2.jpeg

周りにもたくさん「土」があるんだな。
本当に100人近い陪葬があったのかもな。

56 :
>>53
>大きいことが大事なのであって、8.63咫は「十分に」八咫なんだよ。
>不足していない。

最初は「咫は円周を測る尺で、径二尺の鏡の周は8咫ちょうど」って言ってたのにww
「周尺也は周を測る尺度」は誤訳ってのがはっきりしたら、言を左右することこの上ないw

>>53>>45に対する返信として書かれているが、
>>45>>42の「咫の長さは時代によって揺らぐから多少ずれてもOK」を否定している
その部分を無視して、大きければいいんだまで「後退」している

そして、「大きければいいんだ」ならば「咫」を持ち出す必要はないし、
平原1号墓を八咫鏡とする理由は事実上なくなるww

57 :
>>54
>わかったわかった、で、その穴はなんだというんだ?

「わかったわかった」じゃなくて、
>>21の書き込みはもの知らずで知識もないのに適当こいてました」だろ?

平原1号墓推しのくせに、正しい知識に欠けたまま適当な憶測だけで立論してるのをまず認めろ!

58 :
文句は付けるくせに自分では何も説明しない。
誰も気にしない5号墓なんて持ち出して誘導しておいて、詐欺師みたいな奴だな。

59 :
>>58これだけ説明受けても理解できないの?

60 :
>>54
>で、その穴はなんだというんだ?

その穴は「大柱を立てた穴」だろ?
そして、「日向峠の方向を『指していない』」

平原1号墓を太陽の巫女だとする理由の大きな部分が
「日向峠から昇る朝日を意識している」ことに依拠しているのだが、
吉野ヶ里遺跡との比較、さらには同じ平原遺跡の同じ造墓主体の手による5号墓との比較から
日の出の方向は特に意識していないことが見て取れる

伊都国の有力者の墓であるのは間違いないが、太陽祭祀はこじつけレベルだというのが明らかだし、
倭王の墓とするにはいい加減すぎるし、しょぼすぎる

61 :
>>52
>歩自体が短くなったかもしれないだろ。

デタラメ言っても誤魔化せない
「周尺の六尺四寸が今の一歩」という史料をどう読んでも、歩が短くなったという解釈は出てこない

62 :
>>58
>誰も気にしない5号墓なんて持ち出して誘導しておいて、詐欺師みたいな奴だな。

みなさーん、これが伊都国説の正体ですよー!
平原5号墓は平原1号墓に先行する墓で、平原遺跡という家族墓地の位置を決めた墓であり、
平原1号墓のおそらく親の墓だ

それを「誰も気にしない墓」と書ける時点で、伊都国の歴史はどうでもいい、
何も考える気はないって言っている訳だ

伊都国説がトンデモでしかないってのが図らずも明らかになったな
自白してりゃあ世話ないわ

63 :
過去スレです。

Part 1
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1515402057/
Part 2
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1525042172/
Part 3
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1526223134/
Part 4
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1527047330/
Part 5
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1528119763/
Part 6
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1528806114/
Part 7
http://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1529795681/
Part 8
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1531742186/

64 :
>>58はこれからも伊都国説の無能さを代表する広告塔としてがんばれ!w

65 :
>>60
>吉野ヶ里遺跡との比較、さらには同じ平原遺跡の同じ造墓主体の手による5号墓との比較から

どちらも日の巫女の墓ではないからだろ?
平原1号墓は、明確に太陽信仰の要素が加わったという点で画期なんだよ。
そのことを証明しているに過ぎないね。
特に吉野ヶ里は当時の倭国の中では辺境の田舎なんだから、比較する意味もない。

66 :
>>62
>平原1号墓のおそらく親の墓だ

根拠なしの妄想を持ち出されましても、、、

67 :
>>56の最後の行は
「平原1号墓出土鏡を八咫鏡とする理由は事実上なくなるww」
だな

訂正

68 :
アマゾンの電子書籍「継続としての日本古代史」を出しましたので、
岡上説として纏まったものは、そちらを参照いただけると幸甚です。
ちょっとした広告用ポスターも自作しました。
詳細はブログ( http://aroomofwisdom.blogspot.jp/ )の方をどうぞ

また、付論を一部、リバイズしましたので、公開しております。よろしければどうぞ。
http://fast-uploader.com/file/7086948633981/

また、八寸と八咫という小論を作りましたので、どうぞ。
参照元の時点で、話として完結しているので、私のものはどうもちょっと蛇足だったみたいです。
けどまぁ、せっかく書いたのでアップしておきます。
せっかく色々とご指摘いただきましたが、まだ旧バージョンのままです。スミマセン

http://fast-uploader.com/file/7087721936368/

69 :
夏休み特別大企画

伊都国妖怪博物館、開催中!!

70 :
>>61
これは真逆ですね。
戦国尺と秦尺は実質的に同じ長さなのですから、始皇26年でしたか、歩が六尺と決められたのだから、
その時に歩が六尺四寸から短くなったと考えるのが合理的かと思いますがね。

だいたい一歩「135cm」と言う数字自体、漢和辞典にある通り、周寸を22.5mmと考えたところからの推測でしょうから、
それを六尺四寸を割り直しても何の意味もないですよ。

71 :
>>70
文献を曲げて読んだらダメだよ

72 :
どこをどう曲げてるんでしょうか?

73 :
>>65
>どちらも日の巫女の墓ではないからだろ?

では5号墓の大柱はなんのためにあるのか説明しておくれw

それに1号墓にも、大柱を立てた「スロープ」と平行した横穴が2本あり、
柱穴自体は残っていないようだが、複数回、柱を立てた可能性がある
実際5号墓では2本の大柱が発掘されている
そして、それぞれの柱の指す「方向は一定していない」
ということは、「結論ありきの循環論法」を持ち出さない限りは、
大柱の指す方向は目標がある訳ではないことになる

大柱の存在をもって太陽信仰の賜物だとするのは、
可能性は「0ではない」以上のものじゃないよw

74 :
>>65
>平原1号墓は、明確に太陽信仰の要素が加わったという点で画期なんだよ。

こういうのを、根拠なし、って言うんだよw

根拠は「大柱が夏至でも冬至でも春分でもない日の出の方角を指しているから」と
「割って墳丘にばらまかれた大きくするだけが目的の鏡の文様が『太陽に見える』(主観)」だっけ?

明確じゃないだろ?ww

75 :
>>72
「周尺の六尺四寸が今の一歩」という史料は
意図的に異常に曲げないと
歩が短くなったという解釈にならないだろ?

76 :
>>65
>特に吉野ヶ里は当時の倭国の中では辺境の田舎なんだから

その辺境の田舎の集落の特定家系墓である北墳丘墓で、
墳丘サイズが南北約40m、東西約27mある

その辺境の田舎の墓よりずっと小さな、12×8メートルの方形周溝墓を倭王の墓と
主張できる神経がすごいわ

自分でも「比較する意味もない」といっているけれど、比較にならないくらい平原1号墓は小さい

77 :
丸くて太陽を反射させる鏡に入っている内行花文の文様について、多くの人とって、それを太陽と連想するのですから、
それを客観と言うんですよ。

むしろ太陽に見えないというのが、あなた一人が言っている主観と思いますけど。

78 :
>>70
>戦国尺と秦尺は実質的に同じ長さ

なんだお鏡さん、そこの所は正しく理解してるんじゃないか
なのに東周銅尺を、周尺だと言い張るのはおかしいと思わないのかい?w

周尺は「王制」、西周初期の聖王の治世の頃の尺だよ
戦国時代の尺を周尺と言い張ってはダメだろう?

79 :
「王制」の時点で六尺四寸が、始皇帝26年に六尺になった。
歩はそのままで、尺度が短くなったのか、尺度がそのままで歩が短くなったのか、
どちらも文脈上は同等程度にあり得ると思いますが。

で、考古学的には、秦尺が戦国尺より短くなっている様子はない。
つまり、後者が正解ということです。

80 :
>>78
戦国尺は、実質的に周尺にほかならないですよ。
小論文読んでくださいね。

81 :
>>77
>丸くて太陽を反射させる鏡

これが太陽の象徴だとするのは構わないよ
けれど、「他の鏡種ではなく内行花文鏡」こそが太陽祭祀の象徴とするのは、
そうしたいと思う人の「主観以外の根拠がない」と言っているだけ

御鎮座伝記の神鏡座事を見ると、丸くて光を反射する鏡は、
「太陽だけではなく月の象徴でもある」という観念も見て取れる

82 :
おてもにある方は、角川の漢和中時点の付録を読んでみてください。
貝塚先生の解釈と、ここの畿内厨、どちらが珍説か、言わずもがなというものです。

83 :
>>80
>戦国尺は、実質的に周尺にほかならないですよ。

これはウソ
これらを読んだって言うのもウソなのかい?
『考工記』の尺度について  新井宏
http://dl.ndl.go.jp/...o:ndljp/pid/10631904

中国人のはかり方 藤堂明保
https://www.jstage.j...38_105/_pdf/-char/ja

中国計量史話(5)関増建* * 著  加島淳一郎* * 訳
http://dl.ndl.go.jp/...1&alternativeNo=

84 :
>>82
また虎の威w

85 :
>>80
>戦国尺は、実質的に周尺にほかならないですよ。

それが自分の今使ってる尺と同じだったら
それを「周尺」と呼ぶ?

常識で考えてね

86 :
>>83
あなたこそ、私の参照論文を読んでみましたか?

87 :
>>82
丸投げ岡上

88 :
>>87
自らの文責で、一文を書きましたよ。

あなた方こそ、匿名の陰に隠れて名無しがここで騒いでるだけにしか思いませんよ。

89 :
>>88
でも内容は丸パクリなんでしょ?

90 :
もちろん、岡上のオリジナル説の部分もありますよ。
なければ書く意味がない。読まずにテキトーに言わないでください。

91 :
>>90
自分でそう言ってなかったか?

92 :
??
私は基本的には定説よりですよ。平原の評価を含めて。
畿内説で、ほぼ全面的に柳田先生の説に賛同していますし。

それとオリジナル部分があるかないかはまた別の話です。

93 :
>>86
>あなたこそ、私の参照論文を読んでみましたか?

それを言って「逃げる」ために、ここに反論を書き込まずに
わざわざ読む方に手間をかけさせるpdfにしたんだろ?

最初と2番目にダウンロードしたのは私だよww

まあ、暇な人はお鏡さんの小論と、>>83の3本の論文を読み比べてもらえばいいんじゃないかな
自ずと明らかだと思うよ

お鏡さんの小論の論点は、「周の身体尺に丈が入っていない」に頼ってるだけだから
尋が入っていて、尋が周尺の丈だって説文解字で確認できるのに

94 :
>>73
>では5号墓の大柱はなんのためにあるのか説明しておくれw

自分で説明しろ、ボケ

95 :
>>73
>可能性は「0ではない」以上のものじゃないよw

しつこく否定することに意味がないと気がつけよ。

96 :
>>74
>「割って墳丘にばらまかれた大きくするだけが目的の鏡の文様が『太陽に見える』(主観)」だっけ?

資材と労力を注ぎ込んで史上最大の銅鏡を作った理由の説明としては不十分なんだよ。

97 :
>>95
もう完全に否定されたってこと?

98 :
>>81
>そうしたいと思う人の「主観以外の根拠がない」と言っているだけ

信仰は主観だから、これは太陽と思えば太陽なんだよ。
鰯の頭よりは太陽に見えるだろう?

99 :
>>97
否定する根拠が不十分だということ。

100 :
>>92岡上
>畿内説で、ほぼ全面的に柳田先生の説に賛同していますし。

柳田先生は、何が良くて奈良盆地を遷都先に選んだんだろう?  他にもいい所いっぱいありそうなもんだが。  @阿波

101 :
>>99
どう不十分なの?

102 :
>>93
ちょっと勘違いされてますね。私が読んでみて言ってるのは、「参照論文」ですよ。

「中国古代の尺度について」関野雄 1953 年 東洋学報 第三十五巻

です。

あと、ここで、オリジナル説をあまり書かないのは、書き込み前の注意書きが気に入らないからです。
それにすぐ流れますしね。どこかのアレな人みたいにテンプレ長くしても意味ないですから。

103 :
>>102
ほら、丸投げじゃないか

104 :
>>92岡上
>畿内説で、ほぼ全面的に柳田先生の説に賛同していますし。

岡上さんは、何が良くて奈良盆地を遷都先に選んだの?  他にもいい所いっぱいありそうなもんだが。  @阿波

105 :
で、お鏡さんが出てくると、>>65が消えるww

平原遺跡のことをよく知りもせずに、適当な思い込みを主張しまくる>>65のことを
「基本的には定説よりで、畿内説」のお鏡さんに諫めて欲しかったんだけどなw

106 :
スレ主に敬意を評して傾聴しているだけだよ。
誰かさんと違って、ちゃんと自分の意見を持っている人だからね。
結論は少し自分とは違うが、それは問題ではない。

107 :
おっと、消えてなかったかww

お鏡さん、お鏡さんの畿内説と相容れない伊都国説の謎主張を言葉汚く何度も書き込んでる人がいますよ?

畿内説と戦ってないで、ぜひお鏡さんの畿内説の立場を>>94に説明して上げてくださいなw

108 :
>>94
>自分で説明しろ、ボケ

つまり、>>94は説明できないんだね?
なのになぜ、1号墓の大柱は説明できると思うんだい?

自分で決めた説明に合うから、かい?

絵に描いたようなダブルスタンダードだねぇww

109 :
>>104
元々は、自身の地元でもあって、漠然とした畿内説でしたからね。
三輪神社の付近とか、歩くとワクワクしますよ。

ただ、平原遺跡を知れば知るほど、畿内自生だけはないと確信した結果です。

110 :
>>106さんは、何が良くて奈良盆地を遷都先に選んだの?  他にもいい所いっぱいありそうなもんだが。  @阿波

111 :
岡ちゃん内容ないよー

112 :
>>109岡上
>三輪神社の付近とか、歩くとワクワクしますよ。

具体的に遷都地に選んだ理由はなに? あなたのワクワク感じゃなくて。  @阿波

113 :
>>112

これは、「伊都国東遷説」の根幹ですよ。  はっきりした答えを持っているのかな?  @阿波

114 :
>>106 さん
基本的には弥生時代の九州の文化が畿内の古墳時代へとそのまま続いている。
それがこのスレの趣旨で、邪馬台国の所在は二の次ですから。

この二つを分断して考える九州王朝説と畿内自生的な考え方が、私の基本的な論敵ということです。

115 :
>>114
畿内自生的な考え方とか、言ってるのは誰?

116 :
>>112
阿波さん、私の思考の順としては、逆ですよ。
私は畿内説論者ですから、畿内が日本の中心であったことは所与の事実です。

畿内のプレ大和王権を遡ると九州北部についた、ということです。

117 :
>>106
>スレ主に敬意を評して傾聴しているだけだよ。

なあんだ

キウス

邪馬台国関連スレに出没する真性の基地外であり、病的なウソつき。
「希薄」を読むことができず、「箕臼(キウス)」と誤変換し続けたことから「キウス」と呼ばれるように。
自演爺、四棟粘着爺、指さし厨とも。

ウソの書き込みや自演、成り済ましを平然と行い、畿内説スレの>>1を騙り偽スレを立てること数度。
>>1のトリと同じ英数字を名前欄に書き込んで成り済まそうとしたこともある、最低のクズである。

「全1病」罹患者にして典型的「62病」発症者。

環境依存の絵文字や、「自論」、「私見」、「勉強してください」、「学がない」、「貴君」、「しかり」など特徴的な言い回しの多用、
2ちゃんでは一般的ではない「スレ主」頻発、名前欄への書き込み多用などの特徴ですぐに判別できる。
1◆UiepmfCeDJqfを奥村と呼ぶ、寺澤薫氏・同志社大学・纒向学研究センターをディスる、草を生やす際に半角で1文字目大文字といった特徴もある。

キウスの書き込みを褒めたり、礼を言ったり、「ワロタ」と応じたりする書き込みは、すべて自演である。
他人を騙す行為も自分ならばすべて許されると信じている節のある、傲慢の塊である。

日本語の読み書きが満足にできないこと、日本史や日本の地理に関する基礎知識がないことなどから、
日本の義務教育を受けていないどころか日本国内に居住していないのではないかと推測されている。

118 :
>>114岡上
>この二つを分断して考える九州王朝説と畿内自生的な考え方が、私の基本的な論敵ということです。

「畿内自生説」の否定は全く同意ですが、かといって「九州王朝説」に乗っかったのが失敗でしたね。  @阿波

119 :
>>114
>畿内自生的な考え方が、私の基本的な論敵ということです。

ここにいる畿内説で、畿内自生的な考えの論者はいないと思うが?
卑弥呼は共立であり、そこは畿内の自生ではなく外部からの介入と協力で
纒向遺跡の建設が始まるというのが基本

いつでも敵対しているけどさw

お鏡さんは何と戦っているんだ?w

120 :
>>116岡上
>私は畿内説論者ですから、畿内が日本の中心であったことは所与の事実です。

だから、「所与の事実」として具体的に遷都地に選んだ理由はなに?  @阿波

121 :
>>119
その「外部から介入と協力」というところで、お茶を濁してるでしょ。
畿内の古墳時代の源流が九州北部だと、記紀が正しいということになって困るんですかね?

122 :
>>120
「継続としての日本古代史」にたっぷり書きましたので、そちらをお読みください。

123 :
>>121
勘繰りがゲスい

124 :
>いつでも敵対しているけどさw
>お鏡さんは何と戦っているんだ?w

平原の価値を素直に認めれない人と戦っている気がしますね。

125 :
>>120

やっぱり「九州王朝説」に乗っかったのが失敗でしたね。  
倭国(阿波)説にするべきだった。 でも、阿波の真実を知らなかったから無理もないが。  @阿波

126 :
ttp://rapt-neo.com/?p=32928

ttp://rapt-neo.com/?p=19273

127 :
阿波さんも何かまとまったものを書いてみては?
勉強になりそうです。

128 :
>>122岡上
>「継続としての日本古代史」にたっぷり書きましたので、そちらをお読みください。

ひとつふたつ簡単に挙げられないの? すぐ出てくるでしょ?  @阿波

129 :
阿波から淡路島、加古川を遡って福知山から日本海に抜けるラインは、
非常に興味深いものがありますね。

130 :
>>124
>平原の価値

平原の価値って何?
5号墓の大柱は、何だと思うんだい?

お鏡さんも>>58と同じように「誰も気にしない5号墓なんて持ち出して」といって切り捨てるのかい?

131 :
>>124
自分が素直だと暗に言っちゃう神経に脱帽

132 :
>>128
あえていうと、日本海と瀬戸内海の交易ルートが三輪の地点で重なる点ですかね。

133 :
>>129
倭国(阿波)の翡翠ルートの可能性はありますね。  @阿波

134 :
いつまでも粘着してないで、あなたなりの「外部から介入と協力」の物語を考えてみては?
きちんとまとまっていれば、拝読させていただきますよ。

135 :
あ、上のレスは、>>130 の方に対してです。

136 :
>>134
あなたなり、なんて必要ないだろ
通説だし

137 :
自分なりの物語を作りたがるのは九州説にありがちな病気だね

138 :
>>136
じゃあ味気ない教科書でも朗読していてくださいね。
私は興味ないですが。

139 :
>>132岡上
>あえていうと、日本海と瀬戸内海の交易ルートが三輪の地点で重なる点ですかね。

はるか遠方の奈良を遷都地として選ぶ理由としては、はなはだ弱いですね。
「日本海と瀬戸内海の交易ルート」の接点として選ぶのであれば、下関や門司が妥当でしょう。  @阿波

140 :
>>139
そこは、阿波って言わないんですね(笑)
冗談はおいといて、古墳時代に畿内が中心だったのは、事実ですから。

141 :
>>132
>「日本海と瀬戸内海の交易ルート」

それに宇陀を越えて東海・東国と繋がるってのも大きいと思うがね?

142 :
>>141
まさにその通りですよ。

東西交易ルートが日本海側から瀬戸内海へ以降していく、
その過程に古墳時代の成立を見るというのが、大きなテーマです。

143 :
>>121
>その「外部から介入と協力」というところで、お茶を濁してるでしょ。
>畿内の古墳時代の源流が九州北部だと、記紀が正しいということになって困るんですかね?

いつも思うんだが、お鏡さんの言い分って常に逆なんだよな

むしろ北部九州要素はマイナーだろ?
どうして、畿内の古墳時代の源流を「九州に限定」しようとするのかが不思議

水行20日+10日、陸行1月の経路を、出雲経由の日本海経路としているのに、
出雲を軽視するのはどうして?
その経路は、出雲と大和の間のだろ?

144 :
>>142
>まさにその通りですよ。

ならば、どうしてそれが最初に出て来ないの?
定説寄りの畿内説なら、それが常識として最初に力点が置かれるものなんだが?

それに平城山越えの近江、越との交通路も加わる

北部九州の寄与は、お鏡さんが思うほど大きくはならないだろうに
伊勢遺跡の評価はお鏡さんの中ではどうなっているんだ?

145 :
>>117
被害意識と妄想の塊なんだな。

146 :
>>119
>ここにいる畿内説で、畿内自生的な考えの論者はいないと思うが?

少なくとも、以前は畿内説のスレのスレ主は自然発生説だと言って憚らなかったようだよ。
今もテンプレはその基調だしね。

147 :
>>130
>5号墓の大柱は、何だと思うんだい?

5号墓にこだわる理由がわからない。
個人的には、卑弥呼は伊都の外から共立されて伊都に入ったと考えているので、5号墓の被葬者とは縁がないと思っている。
関係あるというなら、証拠を出せ。

148 :
>>136
>通説だし

思考停止だね。
畿内説は自分の頭では何も考えないらしい。

149 :
>>143
>どうして、畿内の古墳時代の源流を「九州に限定」しようとするのかが不思議

倭奴国が金印を貰ったなら、少なくとも卑弥呼の少し前まで倭の中心は博多湾沿岸。

>出雲を軽視するのはどうして?

出雲は筑紫に覇権を取られたでしょ。

150 :
>>144
>それに平城山越えの近江、越との交通路も加わる
>北部九州の寄与は、お鏡さんが思うほど大きくはならないだろうに

筑紫を頂点とする日本海ルートの一部でしょ。
そのルートの派遣を巡って出雲と筑紫が争って筑紫が天下を取ったわけだ。

151 :
>>145
>被害意識と妄想の塊なんだな。

否定しないんだなw
普通の神経なら「あんな人格破綻者と一緒にするな」って言いたくなるんだと思うんだが?

152 :
>>147
>関係あるというなら、証拠を出せ。

いつも思うんだが、話が逆なんだよな

平原遺跡は、5号墓、1号墓・2号墓、3号墓・4号墓の順で、累代的な造墓が見られる
同一墓所で、累代的な造墓が見られる墓所が、有力家系の家族墓地でなかったら
何を想定するんだい?

平原1号墓が作られるときに、すでに5号墓が存在するんだよ
さらに言えば、5号墓を作るときに平原の地が墓所として選ばれ、そこに追葬されている
墳丘の主軸方向に大柱を立てる葬送文化も共通している
それを軽視するってのが考えられない

>個人的には、卑弥呼は伊都の外から共立されて伊都に入ったと考えているので、
>5号墓の被葬者とは縁がないと思っている。

だったらどうして、新しい墓所を作らないんだ?
すでに小さな5号墓がある平原に作る理由がないだろ?

>>147の個人の感想なんて、どうでもいいんだよ
基本的な知識、情報の足りない人間の憶測なんて何の意味もない

153 :
>>149
>出雲は筑紫に覇権を取られたでしょ。

そんな歴史はどこにある?

154 :
>>142
>その過程に古墳時代の成立を見るというのが、大きなテーマです。

古墳時代の奈良・河内に期待しすぎ。 これといった集落遺跡が皆無。 
古墳時代の奈良・河内は極端に言えば墓地。  @阿波 

155 :
>>146
証拠は?

156 :
>>152
>墳丘の主軸方向に大柱を立てる葬送文化も共通している
>だったらどうして、新しい墓所を作らないんだ?

高祖山を東に見る立地が大事だったんだよ。
そして、現地の墓制や御柱などの習俗を踏襲し、そこに新たに日御子としての太陽信仰の要素を加えたと説明できる。

157 :
>>153

記紀くらい読めよ。
出雲の国譲りだよ。
出雲が筑紫から越までの日本海ルートの中間地点として、筑紫と密接に関係しながらも筑紫をハブとした国際交流の中で下部組織にとどまっていたという考古学的な位置付けに一致する。
政治的な話は土器のような下部構造の証拠だけ見ていてもわからない。
首長層の政治的な交流は史書に頼らざるを得ない。

158 :
>>156
>そして、現地の墓制や御柱などの習俗を踏襲し、そこに新たに日御子としての太陽信仰の要素を加えたと説明できる。

どうでもいい話。 お粗末というか、恥ずかしい。  @阿波

159 :
>>157
>出雲が筑紫から越までの日本海ルートの中間地点として、筑紫と密接に関係しながらも筑紫をハブとした国際交流の中で下部組織にとどまっていたという考古学的な位置付けに一致する。

倭国(阿波)の海人族の活動を、変に勘違いしているだけ。  @阿波

160 :
>>157
>記紀くらい読めよ。

そんなもんが、なんで根拠になるんだ
考古学的な位置づけは「覇権を取られた」なんて抗争の存在を否定してるし

161 :
考古学なんかで分かるわけなかろ

162 :
>>157
>首長層の政治的な交流は史書に頼らざるを得ない

そんなもん、一番頼ったらダメだろ
400年も後の史書だぞ
後世の勝者に都合よく書き直されてるに決まってると見るのが順当だ

163 :
>>161
無知な人が知らないだけ

164 :
バカにするなよ、考古学は神の手があるからな

165 :
>>164
文献の神の手のほうが百倍多いのを知らないのはトーシロ

166 :
>>164
馬鹿は馬鹿にして吉
既に馬鹿だから害のない行為なので

167 :
考古学で分からないことは何もないんだぞ

168 :
>>167
いや、いっぱいある
そして、わかってることから考えるのが学問

169 :
考古学なんかで歴史は語れないわな

170 :
首長層の交流(政治、戦争)は土器だけ見ていてもわからないよ。

171 :
【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。

筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓         ↓
↓     近江三上祝→東濃→纏向

宇佐→瀬戸内海→阿波・吉備→淡路島→摂津


【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入

1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入

2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入

3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入

172 :
>>162
>後世の勝者に都合よく書き直されてるに決まってると見るのが順当だ

筑紫と出雲の覇権争いは、古すぎて大和にとってはどちらでもいい話なので、書き直す余地があまりなかったんだろう。

173 :
考古学は歴史ではない。
その一部分に過ぎない。
土器にこだわるなら考古学板へどうぞ。

174 :
>>172
>筑紫と出雲の覇権争いは

倭国(阿波)の海人族の活動を、変に勘違いしているだけ。  @阿波

175 :
西日本全域や半島の土器の様式が集まり、流通のハブとして機能していたのが筑紫だからね。
その中心が商都博多。
そらを統べる外交政治を担う王都が伊都。
弥生時代の海運による流通では、内陸の大和は場末の辺境にしかならない。

176 :
>>173
ほんと、お前って薄馬鹿だな
歴史の一部分なら歴史だぞ

177 :
>>156
>高祖山を東に見る立地が大事だったんだよ。

糸島平野からなら、どこから見ても高祖山は東に見えるだろ?
平原遺跡の立地は、高祖山の真東でもないし、以前は日向峠が大事って言ってなかったか?
日向峠との関係は、取り消すのかい?

>そして、現地の墓制や御柱などの習俗を踏襲し、

外来の王なら、現地の墓制や習俗を踏襲する必要はないだろ?
王として乗り込むんだから、王の権威を示す意味でも新しい墓制を示すべきじゃないのか?

>そこに新たに日御子としての太陽信仰の要素を加えたと説明できる。

太陽信仰の要素って何だ?
日向峠はもう捨てるなら、割れた鏡の背面の模様が「太陽に見える」という
主観しか残らないぞ

178 :
>>175
>西日本全域や半島の土器の様式が集まり、流通のハブとして機能していたのが筑紫だからね。

と、妄想しながら、その「流通のハブ」としての「弥生後期集落遺跡群」がないというお粗末。 


>そらを統べる外交政治を担う王都が伊都。

と、妄想しながら、その「外交政治を担う王都」としての「弥生後期集落遺跡群」がないというお粗末。  @阿波

179 :
平原5号墓を無視するのはバカだって分かってきたかな?

180 :
だいたい、伊都国伊都国と呪文のように唱えているが、
北部九州で最大の国は奴國だぞ?
考古学的な状況も、魏志倭人伝の記述でも、奴国の方が繁栄している様子を示している

なぜ、そんなに伊都国推しをしなきゃいけないのかが分からん

181 :
平原1号墓の、大量の銅鏡埋納は、王墓よりもむしろ
荒神谷遺跡の銅剣大量埋納や、加茂岩倉遺跡の銅鐸大量埋納と比較すべきなんじゃないかな?

182 :
>>180
それほど九州説は絶望的なのだよ

183 :
>>180
>考古学的な状況も、魏志倭人伝の記述でも、奴国の方が繁栄している様子を示している


その「奴国」は上本町遺跡・、下伊田遺跡・五徳畑ケ田遺跡・真崎遺跡などがある「田川辺り」だね。  @阿波

184 :
>183
>その「奴国」は上本町遺跡・、下伊田遺跡・五徳畑ケ田遺跡・真崎遺跡などがある「田川辺り」だね。

古くは須玖岡本遺跡辺りが中心
弥生終末期にはより海に近い、比恵・那珂遺跡群が奴国の中心

185 :
>>184
>弥生終末期にはより海に近い、比恵・那珂遺跡群が涛z国の中心

では、伊都国の「弥生後期集落遺跡群」はどれ?  @阿波

186 :
>>177
>日向峠との関係は、取り消すのかい?

それは他の人だから。
私は高祖宮が高千穂宮。

>王として乗り込むんだから、王の権威を示す意味でも新しい墓制を示すべきじゃないのか?

それは違う。
倭王としての権威の継承を期待されて共立された。
あくまでも周囲の支持で卑弥呼政権が誕生した。

>日向峠はもう捨てるなら、割れた鏡の背面の模様が「太陽に見える」という

高千穂を東に見上げる神仙思想だから。
それは太陽信仰と紙一重だろ。

187 :
>>180
>考古学的な状況も、魏志倭人伝の記述でも、奴国の方が繁栄している様子を示している

人口は多いが、大率が置かれたり郡使がいるのは伊都国だから、行政機能は伊都国にあるよ。

188 :
>>181
剣や銅鐸は王の権威ではないが、銅鏡は王の権威の象徴だよ。

189 :
>>185
>では、伊都国の「弥生後期集落遺跡群」はどれ?

普通に三雲遺跡群だろ?
福岡県糸島郡前原町三雲にある弥生時代から古墳時代前期の遺跡群
墓だけじゃないよ?

190 :
>>186
訳も分からずに、適当なことを書いてるだろ?
>それは他の人だから。
>私は高祖宮が高千穂宮。
>高千穂を東に見上げる神仙思想だから。
>それは太陽信仰と紙一重だろ。

神仙思想を何だと思ってるんだ?
不老長寿の仙人になることを理想とする思想だぞ?
太陽要素はほぼ0だ

高祖宮を持ち出しても、太陽信仰にはかすりもしない

191 :
>>186
訳も分からずに、適当なことを書いてるだろ?

>倭王としての権威の継承を期待されて共立された。

ならば、もともとの倭王の血筋から選ぶべきじゃないのか?
その倭王が伊都国にいたというなら、伊都国王家の係累から選ぶべきだろう

なぜよそ者を擁立して、しかも伊都国に移さなければならないんだ?
よそに実力者がいたのなら、その地盤から引き剥がしたら権威が保てないぞ

192 :
>>189
>普通に三雲遺跡群だろ?
>福岡県糸島郡前原町三雲にある弥生時代から古墳時代前期の遺跡群

賛成

193 :
>>188
なんで?
なんで王の権威の象徴なの?

194 :
>>190
>神仙思想を何だと思ってるんだ?

東に山があったら神仙思想というのは、畿内説の孝霊厨さんの言葉を借りただけだよ。

195 :
>>191
>その倭王が伊都国にいたというなら、伊都国王家の係累から選ぶべきだろう

係累は係累なんだよ。
ただ、宗家ではない。

196 :
>>187
訳も分からずに、適当なことを書いてるだろ?

>人口は多いが、大率が置かれたり郡使がいるのは伊都国だから、行政機能は伊都国にあるよ。

行政機能って何だよ?ww
一大率が置かれている時点で、監視対象であり王のいる場所じゃない
郡使については「郡使『往來』常所駐」と、往来が付いている
常駐ではなく、倭国に来たときにスキップせずに必ず立ち寄る、程度の意味
逆に末慮国は、寄らない場合もあるということだろう その方が自然だし

197 :
>>191
>なぜよそ者を擁立して、しかも伊都国に移さなければならないんだ?

その王統の乱れが倭国大乱だろ。
伊都が王都だから、卑弥呼が倭王になるためには、伊都に入らなくてはいけない。
どこから来たか?
多分だけど、火の国から。

198 :
>>195
>係累は係累なんだよ。
>ただ、宗家ではない。

適当なことをww

199 :
>>196
>常駐ではなく、倭国に来たときにスキップせずに必ず立ち寄る、程度の意味

あなたの個人的な解釈

200 :
キナイコシの話は不毛だからいかん。未だに用例引っ張りだして来てあーだこーだ無意味なこと喚いてるし。

ところで
昨日、発見して読んでる最中ですが

邪馬台国は朱の王国だった

伊都から伊勢へのとある東遷物語があります
面白いのでおススメです。

201 :
>>197
なんだ? ラノベか?

202 :
>>189
>墓だけじゃないよ?

墓だけでしょ?  @阿波

203 :
>>189
>墓だけじゃないよ?

伊都国は墓だけの「三雲遺跡群」より、「感田上原遺跡」や「帯田遺跡」の直方辺りの方がよっぽど相応しい。
方角も間違っているし。  @阿波 

204 :
>>197
>その王統の乱れが倭国大乱だろ。

いや? 北部九州が倭國代表と認められなくなったからだよ

>伊都が王都だから、卑弥呼が倭王になるためには、伊都に入らなくてはいけない。

そんな訳はない
そもそも一大率を置かれて、監視対象となっているところに王はいない

>どこから来たか?
>多分だけど、火の国から。

根拠なし、ってのはこういうところで使うんだよ

205 :
>>199
>あなたの個人的な解釈

「郡使『往來』常所駐」の、『往来』についての標準的な解釈だよ

206 :
>>200
>キナイコシの話は不毛だからいかん。未だに用例引っ張りだして来てあーだこーだ無意味なこと喚いてるし。

まともな反論一つできないんだねw
キナイコシ連呼厨=連続句読点=伊都クズ=「根拠なし連呼厨の人」

207 :
>>194
>東に山があったら神仙思想

神仙思想では、
西に西王母の司る来世の仙界である崑崙山
東に東王父の司る現世の仙界である、蓬莱・方丈・瀛州の三神山
があるんだよ

東に山があったら神仙思想って、平野の小さな日本では、
東に山がない土地の方が少ないだろ?
東向きの海岸平野以外は全て東に山があるぞ

それに、神仙思想と太陽信仰には関係がないのは確認したな?
あんまりいい加減なことを書くなよ

208 :
>>204
>いや? 北部九州が倭國代表と認められなくなったからだよ

根拠のない妄想

209 :
>>208
漢鏡が輸入できなくなったんだから、そういうことだろう
学問的根拠がハッキリある

210 :
>>204
>そもそも一大率を置かれて、監視対象となっているところに王はいない

そのとおり、伊都国が其の代表事例だな

211 :
>>210
イミフ
他人と会話できない人?

212 :
またコミュ障認定がしたいのかい?ww

213 :
>>55
>周りにもたくさん「土」があるんだな。
>本当に100人近い陪葬があったのかもな。

それ、周溝が埋まってから掘られている土壙墓なんだよ
1号墓などと同時期の埋葬ではない

しかも、1号墓の墳丘内にまで土壙墓が掘られている
1号墓の被葬者への崇敬の念は速やかに失われて、
ただの空き地のように見られていたってことだ

そんな倭王墓なんて、ないだろうが

214 :
葬られたのは、
せいぜい、鏡作り部の親分一党といったところだろう

215 :
そんな馬鹿馬鹿しいことしか書けないなんて、畿内説もレベルが下がりまくりだな。
そもそも平原1号の出土品とか知らないんじゃないか?

216 :
「平原遺跡は卑弥呼の墓」とばかり言っていて、平原遺跡に5号墓があることも、
そこに大柱が立てられていたことも知らなかったやつが何を言ってもむなしいだけww

217 :
5号墓とかどうでもよくない?

218 :
>>217
都合の悪いものは必死で無視するトンデモ伊都説w

219 :
>>215
どこが馬鹿馬鹿しいのかな?

具体的に指摘は出来ないの?
九州説はいつもそう
漠然とした個人的印象だけでモノを言う

220 :
>>217
>5号墓とかどうでもよくない?

これまでに、「平原1号墓」とだけ言っていて、「平原遺跡」と一度も書いたことがないなら
分からないでもないが、平原遺跡には、1号墓から6号墓まであるんだよ

そして、それが累代的に造墓されているから、有力家系の家族墓地だと考えられている

5号墓を考えなかったら、平原遺跡の位置づけは宙に浮くよww

221 :
>>215
>・・・畿内説もレベルが下がりまくりだな。
>そもそも平原1号の出土品とか知らないんじゃないか?

平原1号で「見つかってる」木棺の炭素年代測定にかけろぉと叫んでた伊都厨のことだ出土品も知らないのは

222 :
>>215
>平原1号の出土品

割られた仿製鏡がやたらたくさんあるっていうのが、最大の特徴
大きいから内向花文鏡ばかり、伊都国説の人は言及するけれど、
方格規矩鏡は32面出ている

あと、ガラスの耳璫がお気に入りのようだけれど、ガラス製品なら
丹波の王墓級墳丘墓の方が質量ともに上

厚葬墓なのは間違いないけれど、墳丘も小さいし、王墓級とするのは苦しい

魏鏡はおろか新しい後漢鏡すら1枚も副葬されていない時点で、
卑弥呼の墓の可能性は排除してよい

223 :
>>221
そんなこと言ってるやつもいたねぇ

木棺をを置いた「痕」は確認されているから、割竹形木棺が使われていたことは
分かっているけれど、木棺自体は出土していない

どうして、これだけ「平原遺跡がー」「卑弥呼の墓がー」とか言ってるのに、
いろんなことを知らないままにして置けるのかが不思議でしょうがない

224 :
平原王墓は出土品をまともに評価できないほど、畿内説にとって脅威なんですよね。
分かり易い反応だなぁ

225 :
平原の調査年すら知らなかった伊都クズがなにかほざいてるな

226 :
はぁ?
全然別人だし。バカジャネーノ?

227 :
伊都説信者は皆嘘つき

228 :
いくら言い張っても、平原王墓の出土品の素晴らしさは何も変わらない。
畿内説の盲信者はなにもでない纏向で桃の種でも漁ってろよ。
うまくいけば銅鐸片でも出てくるかも知れないぞ。

229 :
>>224
>出土品をまともに評価できないほど

はぁ
5号墓の評価もまともにできないやつが何を言ってるんだかww

これもある種のチェリーピッキングだよな
都合の悪いものは「あーあー見ない、聞こえない」だからどうしようもないw

230 :
神仙思想が太陽信仰と紙一重って言ってたやつは沈黙したなw

231 :
それはお前だろ。
平原王墓の素晴らしさを直視できないんだよね。
かわいそうに。

232 :
>>228
>いくら言い張っても、平原王墓の出土品の素晴らしさは何も変わらない。

「出土品の素晴らしい」?お墓はあっても、それに見合う素晴らしい弥生集落遺跡がないというお粗末さ。  @阿波

233 :
伊都国妖怪博物館

234 :
>>228
魏鏡はおろか新しい後漢鏡すら1枚も副葬されておらず
墳丘に土壙墓を掘られるような、
径十歩に満たない墓は、
卑弥呼の墓も倭王の墓もない

これから逃げ回って、一切コメント返せないのに、何を言ってるんだかww

魏皇帝からの下賜鏡が一枚もない時点で、卑弥呼の墓の候補にすらならないよ

235 :
桃の種しか出ないしょぼい遺跡を持ち上げる輩が難癖をつけても一切気にならない。

せめてマキムクから銅鏡が出てくればいいね
出るのは銅鐸片と桃の種だけwwww
対抗馬にもならないな

236 :
>>235
>一切気にならない。

おーおー、すごい負け惜しみだな

大墳墓が多数あって、ただし埋葬主体部がまともに発掘されたものがないところと、
径十歩に満たない小さな墓を、ひっくり返して調べても魏からの下賜鏡が一枚も出ない地域とを比べて、
「一切気にならない」だって!ww

平原からも、鬼道を思わせる宗教的な遺物や遺構が出るといいね
でも無理だろうねww

平原では祭祀土壙も見つかってないし

237 :
頼みの纏向のお寒い状況はスルー?

大墳墓がいくらあっても後の時代のものじゃねぇ。
邪馬台国とは関係が全くないし。

238 :
いくら騒いでも、纏向からは銅鐸片と桃の種だけ。
これが事実。

239 :
>>222
ああだこうだとイチャモンばかりだな。
畿内からはロクなものが出ないからしょうがないか。

240 :
>>237
>頼みの纏向のお寒い状況はスルー?

頼みの綱じゃなくて、もう決着がついてるんだよ

まったくお寒い状況じゃないし、
ただ九州説の人が「あーあー見ない聞こえない」ってしてるだけww

241 :
>>234
妄想?

242 :
畿内説はどうして事実と自分の考えを分けることができないのかな?

243 :
>>237>>239
連投しても、結局意味のある「具体的な指摘は0」

もうね、分かりやすすぎてww

244 :
>>240
>まったくお寒い状況じゃないし、

桃の種と銅鐸片以外、なにがでてきたのかなー???



245 :
>>244
バジルの種 すごいだろ?

246 :
>>243
畿内説は、九州説が一人だとでも思っているのかな。
その一纏めにされた投稿のうち、俺のは一つだけだから、いかに畿内説が追い詰められて混乱しているかわかるよ。

247 :
袋叩きにあっても、相手が一人だけだと妄想すれば気が楽になるのかな?

248 :
>>245
種から離れろよ 笑

249 :
田舎だから、それくらいしかないんだよ。

250 :
>>249
目を逸らす必要全くないよな

銅鐸片、桃の種、バジルの種

これで邪馬台国(笑)

251 :
>>246
一人だと思っていないが、全員集計して一人前以下だと思っている

252 :
で、一人前(笑)のマキムクからはなにが出てきたの??
九州説が目をそらしてるっていう発掘物を早く指摘しろよ

253 :
>>200 ここからだな

『丹生神社と丹生氏の研究 』 (一九七七年 )という本です 。
古代において朱の探査 、採掘にかかわった人たちは丹生氏を称し 、全国各地にその子孫がいて 、現代日本にもこの名字はのこっていますが 、この本の著者である丹生廣良氏は 、丹生都比売神社 (和歌山県伊都郡かつらぎ町 )の宮司をなさっていた方です 。
朱の女神 、丹生津姫を祀る各地の丹生神社の総本宮ともいえる神社ですが 、丹生廣良氏は驚くべきことを書いています 。伊都国王の後 (引用者注 :子孫のこと )は白柳秀湖氏も指摘せられたごとく 、
主流は畿内へ東遷して紀伊の丹生氏となり 、その一部隊はそのまま九州に留まり 、 (中略 )更には彼の大分県の 「丹生郷 」の地に進出して 、九州における丹生氏族の第二の根拠地をなしたことであったろう 。
丹生一族のル ーツは伊都国の王族であり 、邪馬台国が消滅したあと 、各地の朱産地に進出したというのです 。

254 :
伊都国は朱の交易都市として栄え
枯渇とともに滅びた。

紀伊の国に伊都があるのはこの丹生氏の所縁

大和や伊勢は水銀鉱脈という共通項がある、など

255 :
伊都に水銀高山なんてあったっけ?

256 :
魏鏡はおろか新しい後漢鏡すら1枚も副葬されておらず
墳丘に土壙墓を掘られるような、
径十歩に満たない墓は、
卑弥呼の墓も倭王の墓もない

バカの相手してもしょうがない

257 :
イチャモンはいいから、九州説が目をそらしてるっていう纏向の発掘物を早く指摘しろよ

258 :
>>255
伊都にはない
伊都は交易都市という説明。
主要取り扱い産品が朱ということ

259 :
>>251
>一人だと思っていないが、全員集計して一人前以下だと思っている

一人なんだよ
キウスの自演とおんなじw

260 :
>>257
>イチャモンはいいから、

イチャモンって言葉でごまかすなよww

魏鏡はおろか新しい後漢鏡すら1枚も副葬されておらず
墳丘に土壙墓を掘られるような、
径十歩に満たない墓は、
卑弥呼の墓も倭王の墓もない

これ、1行たりとも反論一つできないだろ?

261 :
>>258
交易というより、ガンガン輸入してガンガン墓に使って消費していたような。
交易はどちらかというと博多の方だろ。

262 :
>>261
>交易というより、ガンガン輸入してガンガン墓に使って消費していたような。


いや、少なくとも前方後円墳の朱は倭国(阿波)産だろうね。  @阿波

263 :
伊都国妖怪博物館!

264 :
>>260
纒向で桃の種を拾う作業に戻るんだ。

265 :
>>260
前も書いたが、平原周辺の潤地頭給とか三雲井原から蝙蝠鈕座内行花文鏡や位至三公鏡が出てるから、手に入らなかったわけではないのだよ

副葬鏡にはあえて、その鏡の種類を選んだ可能性が高い

266 :
或る時、伊蘇国が訛って怡土に成っただけ

倭人伝の伊都国とは、な〜の関係もありまっしぇん。

267 :
というのが日本書紀の用意した言い訳。
しかし神功皇后の実年代が卑弥呼より120年も後であったことがわかっている今日、それは嘘であることが明白。

268 :
>>265
二世紀前半に手に入ってても意味ないのでw

269 :
>>267
朝鮮王の挿入記事の方がでたらめなら、ヒミコと同年代になるけどね

270 :
或る時、
伊蘇国が訛って怡土→伊都に成っただけ

日本書紀のフェイクニュースに踊らされた伊都クズマンボ

271 :
>>265
>前も書いたが、平原周辺の潤地頭給とか三雲井原から

それ、時代が100年単位で合わない

昔あったのが手に入らなくなってたんだよ
北部九州の凋落は明白

272 :
纏向遺跡では
纏向型前方後円墳から定式化した前方後円墳が生まれた古墳時代最初の地
弥生終末期としては最大級の建物が単独ではなく複数、計画的に建設されている
その軸線を揃えた建物群を囲む柵列がある
大型祭祀土壙が複数あり、多数の意図的に壊された供献土器が出土している
纏向遺跡の外部からの搬入土器はこうした祭祀遺跡で比率が高い
桃の種もこうした祭祀土壙からの出土であり、明らかな宗教祭祀の跡が確認できる遺跡はまれ

ということで、>>250他が一生懸命に貶めようとしている「桃の種」と
「古墳誕生の地」「大型祭祀土壙」だけでも、十分すぎるほどだよ

273 :
弥生終末期にあたる卑弥呼の時代と古墳時代は、「古墳を作るかどうか」以外は
何も違いがない、連続した一続きの時代だ

大きな混乱の痕跡もなく、広い範囲で一斉に古墳を作り始める
この「古墳を作る範囲」が、そのまま「倭国の範囲」

九州説が主張する北部九州も、古墳時代初期から畿内大古墳の2分の1、
3分の1サイズで相似形の古墳を作り始める

その倭国の中心を求めるという命題に答えればいいだけだ

274 :
そうじゃねーぞ

魏使と通行したのはだれか
魏使の証言に合致するのはどこか

だぞ

275 :
>>274
だれに話しかけている?

276 :
>>272,273
邪馬台国と何も関係ないのが理解できないバカども

277 :
>>274
同意

278 :
>>271
凋落、滅亡したのは漢の方なんだよ。
だから平原遺跡は国産の鏡ばかり。
逆に言えば、卑弥呼の墓である証拠。

279 :
>>273
>弥生終末期にあたる卑弥呼の時代と古墳時代は、「古墳を作るかどうか」以外は
>何も違いがない、連続した一続きの時代だ

言い方を変えれば、弥生墳丘墓があって定型化古墳がない時代だから
まさに違いは定型化の意味そのものなんだね

280 :
>>273
つまり古墳時代は卑弥呼の死後でしょ。
邪馬台国は九州でいいよね。

281 :
>>280
なんで?

282 :
>卑弥呼以死、大作冢

倭国の葬送儀礼は「冢」、この文化圏こそ、倭国の中心であった。

この「冢」に続いて流行し、大規模厚葬化したのが「墳=古墳」、
卑弥呼の一統が東征した先のやまとがその例だな。

283 :
>>282
ありえないね

東征なんてものがあるなら、そいつらか出発した土地に古墳の祖先に当たるものがあるよ

284 :
>>275
>>273

285 :
>>281
自分で描いてるだろ。
卑弥呼は弥生時代、大型古墳は作らなかった。

286 :
>>283
その古墳の祖先にあたるものが、「冢」というわけだが、

 そもそも「冢」は、円〜楕円形のような茅葺の住居のことであり、玄関に相当する小さなでっぱりも付属していた。

 これに近い形の墓といえば、和名でいえば帆立貝式古墳がある。
見方によっては、円墳に形ばかりの前方部が付属している前方後円墳の祖先型と言えなくもない。
 代表事例は、宮崎県西都市の都万にあるもので、天孫ニニギノミコトのお墓と伝えられており、九州では最大規模クラスである。

287 :
>>283
三雲や平原などの、三種の神器を副葬された王墓があるよ。

288 :
286続:
この帆立貝式であるが、貴人のお墓であれば、死後も墓前で祭礼が継続実行されたであろう。
とすれば、雨の日もあり、雪のときもあり、猛暑の夏もある。
そこで、「帆立貝式古墳」の玄関に相当する部分に隣接してやしろを建て、祀りの行事を行うようになったのは大いにありうることであろう。
現在、神社社殿のすぐ後ろにご神体山を遥拝できる形式のものは、そのご神体山は「冢」だったのではないか。。。。、

289 :
>>285
>自分で描いてるだろ。
>卑弥呼は弥生時代、大型古墳は作らなかった。

そんなこと、どこで誰がどんな理由で
言い張ったんだ?

290 :
>>287
そんなものが古墳の祖型だと思う理由は?

291 :
>>284
お前、岡上?

292 :
>>274
>魏使と通行したのはだれか

魏使と通行したのは、倭王に決まっているだろ?
倭国としてのまとまりの中の、代表を探せばいい

>魏使の証言に合致するのはどこか

九州説の魏使の証言の多くは単に「倭国の習俗」に過ぎない
大事なのは邪馬台国固有の記述
九州説にとっては致命的なので意図的に除外しているのだろう
・邪馬台国の発音に近い地名
・戸数7万戸
・30近くの国々の盟主
・宮室、楼観、城柵
・卑弥呼の墓径百歩
・徇葬百人

このうち畿内説で説明がつかないのは「徇葬百人」だけ

293 :
>>278
>凋落、滅亡したのは漢の方なんだよ。

だから、漢がつぶれて魏朝が立ったんだろ?
その魏と邪馬台国が通交して、銅鏡100枚もらってるんだが?

>だから平原遺跡は国産の鏡ばかり。
>逆に言えば、卑弥呼の墓である証拠。

いいえww
後漢鏡の新しいもの、または魏晋鏡が
「1枚も出ない」時点で、候補にもならないんだよ

294 :
>>280
>つまり古墳時代は卑弥呼の死後でしょ。

つまり、卑弥呼の治世の間に、古墳時代の準備が整えられたんだよ
つまり、古墳時代の始まりの地=纏向がその舞台ってことになる

>邪馬台国は九州でいいよね。

この件一つで、畿内纏向と決まるんだけどね

295 :
>>292
>このうち畿内説で説明がつかないのは「徇葬百人」だけ

火に油

296 :
>>282
>倭国の葬送儀礼は「冢」、この文化圏こそ、倭国の中心であった。

ただの冢じゃなくて、「大作冢」だよ
貴人の死に際して「大いに冢を作る」文化だというのが明記されている
各地で巨大な弥生墳丘墓が作られていた、弥生終末期の様相そのものだな

でも、北部九州には、大きな首長墓はない

>この「冢」に続いて流行し、大規模厚葬化したのが「墳=古墳」、

三国志では「冢」と「墳」は区別されてないよ

>卑弥呼の一統が東征した先のやまとがその例だな。

そんな時間差はありません
卑弥呼の遣使の時点で、既に纏向遺跡では巨大な纏向型前方後円墳を作ってるよ

297 :
>>286
>そもそも「冢」は、円〜楕円形のような茅葺の住居のことであり、玄関に相当する小さなでっぱりも付属していた。

これははっきり嘘!
ザラコクにだまされてるんじゃないよww

「冢」は「土を盛ったもの」だ

>代表事例は、宮崎県西都市の都万にあるもので、天孫ニニギノミコトのお墓と伝えられており、九州では最大規模クラスである。

これもとことん頭が悪いな
男狭穂塚古墳だろ? それ、仁徳天皇の妃に諸県君牛諸井の娘、髪長姫が入ったから、
畿内王朝の力で5世紀に作られた古墳だぞ

298 :
>>287
>三種の神器を副葬された王墓

剣、勾玉、鏡のセットは大王家の独占物じゃないよ
普通の豪族の古墳でも出ている
山口の赤妻古墳とかね

山梨県の笛吹市平林2号墳でも揃ってるね
自分でもちょっとググってごらんよ
普通の特に目立たない古墳でも、結構揃いで出てるよ

つまり、日本の大王家(皇統)は、倭国・日本の総本家であって、
絶対者としての支配者ではなく、葬送祭祀の副葬品も一般の首長層と共有してるってことだ

平原1号墓を、副葬品だけで王墓と主張するのはピント外れなんだよ

そもそも伊都国に邪馬台国を持ってきたら、邪馬台国七万餘戸も満たせないし
平原1号墓も径百歩に合わない

本当に無理な屁理屈、アクロバティック解釈を重ねないと通らない説は、
正しくないと判断するのが当然

299 :
>>297
>畿内王朝の力で5世紀に作られた古墳だぞ

「畿内王朝」???   それは、ない。
倭国(阿波)を発った忌部一族の力で5世紀に作られた古墳だぞ  @阿波

300 :
>卑弥呼の遣使の時点で、既に纏向遺跡では巨大な纏向型前方後円墳を作ってるよ

巨大な纏向型前方後円墳は、倭人伝に言う「大作冢」だ、といいたいわけか
何でも欲しがる、大和坊主
残念だが、方角と里数と時代が合わぬ

301 :
>>292
倭王が畿内にいた証拠がないよ

それぞれ合致しているとは言い切れないね。
例えば宮室楼蘭。ないね。

302 :
>>295
注いでごらん
どうせ九州説は、またすぐ撃退されて
だんまりになる

303 :
>>301
ないという根拠は?

304 :
>>301
九州にある?

ないよね

305 :
>>294
>つまり、卑弥呼の治世の間に、古墳時代の準備が整えられたんだよ

年代前倒し詐欺

306 :
>>297
>男狭穂塚古墳だろ? それ、仁徳天皇の妃に諸県君牛諸井の娘、髪長姫が入ったから、
>畿内王朝の力で5世紀に作られた古墳だぞ

五世紀に畿内王朝の力で作られたはずの大古墳が、なぜ旧式の帆立貝式なのか???
すでに、定型化したのではなかったのか???

307 :
>>300
>残念だが、方角と里数と時代が合わぬ

方角と里数は「会稽東冶之東」で解決済み
時代はもともと問題なし

308 :
>>297
邇邇芸が降臨したのは筑紫の日向、倭国の王都である伊都国だから。

309 :
>>306
どんな制度にも様式にも
形成期があり、確立期があり
そのあと崩壊が始まるんだよ

310 :
>>308
筑紫の日向は宮崎県だろ

311 :
>>305
詐欺だという証拠は?

なければ中傷なー

312 :
>>306
>五世紀に畿内王朝の力で作られたはずの大古墳が、なぜ旧式の帆立貝式なのか???

帆立貝式が旧式とか言っている時点で、もの知らず
前方後円墳(地域によっては前方後方墳)は、盟主墳の墳形であって、
陪塚などでは、方墳、円墳、帆立貝型は古墳時代中期にも普通に作られているよ

帆立貝式の男狭穂塚古墳と、前方後円墳の女狭穂塚古墳がほぼ同時に作られている
ただ、後円部の大きさを見ると男狭穂塚の方が大きいから、この二つでは
前方後円墳が盟主墳とは言いがたいけれど

313 :
>>301
>例えば宮室楼蘭

楼蘭はないなぁww
タリム盆地まで行かないとw

原文では「樓觀」で、普通は「楼閣」と表現する
柵もちゃんと検出されてるし、九州説の妄想の高祖宮よりもよっぽど
「宮室・樓觀・城柵嚴設」に近いだろ?

唐子鍵遺跡からは、楼閣を描いた線刻土器が多く出ているし、畿内大和の方が
魏志倭人伝の「記載に近づいている状況」だぞ

314 :
>>306
>すでに、定型化したのではなかったのか???

定型化というのは、墳形(円とか方とか帆立貝とか)のことじゃなくて、
段築、葺き石、円筒埴輪列、だよ
円墳でも方墳でも、段築、葺き石、円筒埴輪列を備えているのが、古墳時代の古墳

九州説の一部の人が大好きな祇園山古墳も、二段築成葺き石ありの方墳だから、
はっきり古墳時代のもの
周囲の甕棺墓とは時代が合わないから当然に殉葬ではない

315 :
>>314
>九州説の一部の人が大好きな祇園山古墳も、二段築成葺き石ありの方墳だから、

方墳ならば、忌部一族の蘇我氏系の墓だろうね。  @阿波

316 :
>定型化というのは、墳形(円とか方とか帆立貝とか)のことじゃなくて、
>段築、葺き石、円筒埴輪列、だよ

ほう、そうかい
んなら、男狭穂塚、女狭穂塚にも段築、葺き石、円筒埴輪列、があるんだろうな。。。

317 :
>>312
>帆立貝式の男狭穂塚古墳と、前方後円墳の女狭穂塚古墳がほぼ同時に作られている

宮内庁が部分的に発掘調査をして、
帆立貝が、先に亡くなった主人の墓で、
前方後円墳は、後に亡くなった夫人のものだろう、という見立てだったような記憶がある。
ま、古墳は大和で発生して地方に拡散した、という前提で五世紀の築造とされているようだが、
宮内庁管理下にあるので、確認しがたいわな。

318 :
>>312
>前方後円墳(地域によっては前方後方墳)は、盟主墳の墳形であって、、、、

ならば、帆立貝式と前方後円墳とは、別々の種族の盟主墳ということもありうるわな
この場合、帆立貝の方は天孫族のニニギ
前方後円墳は、オオヤマヅミの娘の木花咲ヤ姫

319 :
>>316
>んなら、男狭穂塚、女狭穂塚にも段築、葺き石、円筒埴輪列、があるんだろうな。。。

あるよ?
何を言ってるんだ?

320 :
>>317
>古墳は大和で発生して地方に拡散した、という前提で五世紀の築造

女狭穂塚古墳が畿内の仲津山古墳と相似形とされていて、渡り堤の位置も同じらしい
なので、仲津山古墳の築造時期と近い時期の築造と推定されている

321 :
>>298
そりゃ全て筑紫の倭国王家の末裔だからだよ。

322 :
>>321
>王家の末裔

平原1号墓の被葬者が、有力家系の人物(おそらく女性)であることは否定しないよ
王家の末裔全員が王じゃないから、3種の神器セットがあるから倭王だとは言えないよね?

323 :
>>310
福岡県だよ。

324 :
>>323
>福岡県だよ。

その根拠が「日向峠」という小さな地名一つだってのがどうにも弱いね
クシフル岳もないし

325 :
>>319
男狭穂塚の巨大帆立貝式は珍しいが、、女狭穂塚と共にの段築、葺き石、円筒埴輪列を、CG画像等で確認した。
ありゃ、確かに新しいわ。

326 :
>>268
2世紀初頭?
何を言っている?
両方共に魏鏡の可能性もある鏡だよ

327 :
>>324
高祖山のやや南側の平らな頂が古くからクシフル山と呼ばれている。
過去スレ読めよ。

328 :
「高祖村、椚 二十四戸。慶長の頃、黒田長政、村の南の、野地を開き、田地とすべしと、手塚水雪に命ぜられし書状、今も、農民、田中が家にあり。
其書に、五郎丸の内、日向山に、新村押立とあれば、椚村は、此時立しなるべし。
民家の後にあるを、くしふる山と云、故に、くしふると、云ひしを訛りて、[木毛]と云とぞ。
田中は、元亀天正の間は、原田家より与へし文書、三通を蔵す」

(福岡県地理全誌抜萃目録、恰土郡之部。大正二年五月発行、『怡土志摩郡地理全誌』東京糸島会発行所収)

「福岡県地理全誌」は明治5年、陸軍省の「全国地理図誌」編集の命を受け、
旧福岡県(筑前15郡)が明治5年から7年にかけて調査し、5年から13年にかけて
編集した郡村地誌である。
第六巻は早良・怡土・志摩の各郡を収めた。

329 :
>>326
>両方共に魏鏡の可能性もある鏡だよ

鏡の形式編年はかなりきっちり行われている
井原鑓溝の方格規矩鏡は王蒙の新より前

九州説の得意技「可能性はある」「可能性は0ではない」
「全否定さえされなければいい」式の論拠は弱い

330 :
これを読むと、高祖山を昔は日向山と呼んでいたことがわかり、その一部がクシフル山になる。
福岡県(筑紫)にあるので、筑紫の日向のクシフル山である。

331 :
>>329
>九州説の得意技「可能性はある」「可能性は0ではない」

それは、畿内説へのブーメランになる。

332 :
>>327
>過去スレ読めよ。

それこそ過去スレで、大正までしか遡れない、根拠の希薄なもので、
結局クシフル岳が、どのピークかさえはっきりしないことがばれてるんだが?

333 :

訓読み
1.へる 2.うつぎ
音読み
1.ボウ 2.モウ

「椚(くぬぎ)」にしても「枆」にしても、どう読んだら
「民家の後にあるを、くしふる山と云、故に、くしふると、云ひしを訛りて、[木毛]と云とぞ。 」に
なるのかが分からない

またこの郡誌では、「日向山」となっているし、高祖山、クシフル岳との関係が不詳

334 :
>>330
>高祖山を昔は日向山と呼んでいたことがわかり

つまり、高祖山という地名も古く遡れないってことだな

335 :
>>330
>その一部がクシフル山になる。

一つの山の、双耳峰でもない、ピークの隣に別の山の名前がつくというのが、
普通は既にありえない
しかも、古事記では久士布流多氣となっているが「岳」と呼ばれるような
険しい山でもない

336 :
まあ、もとは高千穂なんだろうからな。
高祖は集落の名前のようだ。

337 :
>>335
>普通は既にありえない

普通はね。
だから高祖山は特別な山だということだよね。
そう呼ばれていたこと自体は確認できるわけだから、そこから考察しなくてはいけない。

338 :
>>270
ブーメラン?

339 :
>>337
>普通はね。
>そう呼ばれていたこと自体は確認できるわけだから、

普通はありえないことが起きていることになっていたら、まず疑うだろ?
高祖山も、その文書では日向山だし、高祖山なんてないことになってる

高祖山なんてなかったこと自体は確認できるわけだ

340 :
そのかわり日向山とクシフル山があったんだな。
むしろ筑紫の日向がただの峠と川だけでなく、伊都国から見上げる東の山全体が日向だったんだ。
まあ、高祖山の北側の小戸も筑紫の日向の小戸と呼ばれていたから、当然の結論ではあるのだけど、資料で確認できたということだ。

341 :
そして、山の名前としては福岡県地理全誌をまとめた時点で
「くしふる山」も「くしふる岳」もないことが確認できる

慶長の頃、黒田長政のときに作った集落が、椚(クヌギ)と見られる、ところまでは
確認ができるが、その時点で「クシフル」という地名があったことは確認できない

黒田長政のときに集落を作ったことは田中家に伝わる書状に書いてあるというが、
その書状があったのは「元亀天正の間」までで、明治までは伝わっていない模様

クシフルがどう訛ると、「枆 うつぎ」や「椚 くぬぎ」になるのかと考えると、
明治のときに、記紀神話を村の箔付けに使おうと考えた知恵者がいた可能性は0ではないな

342 :
>>339
>高祖山の北側の小戸も筑紫の日向の小戸と呼ばれていたから

それを言っているのは、伊都国説のやつだけだろ?
宮崎にちゃんと宮崎市の江田神社の近くに「橘の小門の阿波岐原」の比定地があるよ

343 :
>>341
>慶長の頃、黒田長政のときに作った集落が、椚(クヌギ)と見られる、ところまでは
>確認ができるが、その時点で「クシフル」という地名があったことは確認できない

椚がクシフルの訛りなら、それよりずっと前からクシフルの名前があったことになる。

>その書状があったのは「元亀天正の間」までで、明治までは伝わっていない模様

調べて確認もせずに書くんだね。

344 :
そもそもほかにクシフル山ってあるのか?
しかも筑紫の日向と呼べる場所で。

345 :
どう見ても、高千穂神話のパクリ

346 :
筑紫の日向と地名が明記してあっても、キナイコシはアーアー聞こえないー

347 :
>>345
伊都国が天孫降臨伝説の舞台なんだよ。
だって、天孫は倭国(豊葦原中国)の王として降臨したんだよ。
宮崎に行ってどうするの?
金印がある倭国の王都である福岡に行くでしょ?
宮崎は都万(投馬国)だけど、王都ではない。

348 :
>>343
>調べて確認もせずに書くんだね。

「田中は、元亀天正の間は、原田家より与へし文書、三通を蔵す」以上の情報がないのだから、
調べようがないだろ?
考えて書き込みなよ

349 :
>>343
>椚がクシフルの訛りなら

この「訛りなら」というのが、確認できないという話をしてるんだよ
普通、訛らないだろ? クシフルは「ウツギ」にも「クヌギ」にも?

それに、地名説話はたいていは語呂合わせのデタラメであって、史実ではない
そして、語呂合わせにすらなっていない

350 :
>>348
椚は小さな集落なんだから、その中の田中さんは多くても数戸しかないだろう。
尋ねもしないで「伝わってない」と書いただろ。
(伝わってないといいなあ)が本音だろ?

351 :
筑紫の日向が日向山という地名で確認できれば前進だな。
峠の名前だけとかほざくアホがいたからな。
現代でも日向川もあるからね。
これで山と川と峠が揃った。
伊都国の東側全体が日向だ。

352 :
>>346
何県の「筑紫の日向」なんだ?
福岡県と決めつける情報
あるのか?

353 :
>>344
>そもそもほかにクシフル山ってあるのか?
>しかも筑紫の日向と呼べる場所で。

九州説の人、特に伊都国説の人は、自分のお気に入りの本や情報以外は一切見ないから知らないだけ
基本的に伊都国説の人以外は、日向は宮崎だと思ってるんだから、全ての比定地は一通り宮崎近辺に揃ってるよ

宮崎県西臼杵郡高千穂町の槵触神社のある山が、槵触山とされてるよ
ちょっとぐぐるだけでも調べがつくのに

354 :
>>350
>椚は小さな集落なんだから、その中の田中さんは多くても数戸しかないだろう。

椚の集落に田中さんの家が何軒あるのか、調べて確認もせずに書くんだね。

355 :
さすがみ宮崎は全部後付け

356 :
>>346
>筑紫の日向と地名が明記してあっても、

それ、世間一般では、宮崎県の旧国名の日向だと認識してるんだよ
最初の筑紫は、筑紫島=九州島だ

筑紫を旧国名の筑紫ととる方がマイノリティ

357 :
>>355
>宮崎は全部後付け

それ以上に、糸島の日向の方がよほど後付だろうに

358 :
福岡以外を筑紫と呼んだら、相当な地理音痴だよ。
ああ、奈良の田舎者はしょうがないか。

359 :
お取込み中ですが、「筑紫の日向」じゃないから!

「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」
倭国(阿波)の「竺紫(とくし)」で、倭国(阿波)の「阿波岐原」 
高らかに、倭国(阿波)を讃えていますね。   @阿波

360 :
糸島にしろ、阿波にしろ
どっちにせよ、日向の高千穂神話のパクリ、、、

361 :
>>358
>福岡以外を筑紫と呼んだら、相当な地理音痴だよ。

だから、知識が足りないことを自分でひけらかして、恥をかくのは止めれって何度も言っているのにw

有名な、国産みの日本書紀の本文
及至産時、先以淡路洲爲胞、意所不快、故名之曰淡路洲。廼生大日本(日本、此云耶麻騰。下皆效此)豐秋津洲。
次生伊豫二名洲。次生「筑紫洲」。次雙生億岐洲與佐度洲、世人或有雙生者象此也。次生越洲。
次生大洲。次生吉備子洲。由是、始起大八洲國之號焉、卽對馬嶋壹岐嶋及處處小嶋、皆是潮沫凝成者矣、亦曰水沫凝而成也。

この「筑紫洲」も福岡だと言い張るのかい?ww

362 :
>>357
無知だのう

363 :
おまけで、古事記の国産みもつけておくよ、途中からだけど

次生隱伎之三子嶋、亦名天之忍許呂別。(許呂二字以音。)
次生「筑紫嶋」、此嶋亦、身一而有面四、毎面有名、故、筑紫國謂白日別、豐國謂豐日別、
肥國謂建日向日豐久士比泥別(自久至泥、以音)、熊曾國謂建日別。(曾字以音。)
次生伊伎嶋、亦名謂天比登都柱。(自比至都以音、訓天如天。)次生津嶋、亦名謂天之狹手依比賣。
次生佐度嶋。次生大倭豐秋津嶋、亦名謂天御虛空豐秋津根別。故、因此八嶋先所生、謂大八嶋國。

この「筑紫嶋」も、福岡じゃないのは明らかだよな?
此嶋亦、身一而有面四、毎面有名、故、
筑紫國謂白日別、
豐國謂豐日別、
肥國謂建日向日豐久士比泥別(自久至泥、以音)、
熊曾國謂建日別。(曾字以音。)
と書いてあるんだし

そして、「筑紫嶋」の四面、四つの国のうち、日向だけ別格扱いなのも分かるな?
この状態で、「筑紫といえば福岡に決まってる、知らないやつは田舎者」とか吹いてるやつがいたら、
「あぁ、かわいそうに」と思うだろ?

かわいそうに

364 :
>>362
>無知だのう

はい!出ました!
いつもの「根拠なし」「具体的な指摘なし」の、一言レス!

伊都国説は、一切の説明をしない、できない、なさけないw

365 :
あまり強くは言わないけれど、
肥國謂「建日向日豐久士比泥別」の「くしひねわけ」の「くし」が、
クシフルの「くし」だろう

語源は、奇魂(くしみたま)の「くし」なのだろうけど

366 :
>>360
>糸島にしろ、阿波にしろ
>どっちにせよ、日向の高千穂神話のパクリ、、、

「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」とは、徳島県阿南市橘町周辺を指している。
その証拠に、その沖合に浮かぶ伊島には「当所神社」が鎮座しており、御祭神に奥津三神(下記)が祀られている。
・奧疎神(おきざかる)
・奧津那藝佐毘古神(おきつなぎさびこ)
・奧津甲斐辨羅神(おきつかいひべら)

面白い事に、この奥津三神は、伊邪那岐が黄泉の国から帰還した際、
「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」で禊祓をした時に、最後に産まれた神々である。
しかも、この奥津三神は、日本で唯一、伊島にのみ見られる神で、
日本の他の神社で、他に奥津三神を祀る神社は、何処にもない。
「奥津三神」 なぜ、阿波のみで祀る必要があろうか? 推して知るべし  @阿波

367 :
>>361
>この「筑紫洲」も福岡だと言い張るのかい?ww

九州を筑紫で代表させているわけだが、筑紫洲であって筑紫ではないだろ?
そもそも記紀は大和の田舎者が書いたから、原文の地理感覚が失われているんだよ。

368 :
>>363
>そして、「筑紫嶋」の四面、四つの国のうち、日向だけ別格扱いなのも分かるな?

いよ、よくわからんから詳しく説明して味噌

369 :
>>365
チェリーピッキングでは、筋の通った説明はできないよ

370 :
>>363
>日向だけ別格扱いなのも分かるな?
日向なんて出てこないぞw

371 :
そりゃそうだ。
宮崎県を日向国と命名したのは、実年代が4世紀初めと推定される景行天皇だからな。

>>363
>そして、「筑紫嶋」の四面、四つの国のうち、日向だけ別格扱いなのも分かるな?

は、無知の大恥かいたわけだ。
景行天皇以前の筑紫の日向は、福岡県だよ。

372 :
「竺紫」日向之高千穗之久士布流多氣

373 :
>>371
>宮崎県を日向国と命名したのは、実年代が4世紀初めと推定される景行天皇だからな。

ウソはイカン。
元明天皇の御世、和銅6年(713)5月の、“国名・郡名等として好字2字を選べ”との命からでしょ。  @阿波

374 :
>>313
ごめん、ミスタイプ。

畿内説の 宮室 楼閣 城柵は唐古・鍵遺跡なのね?

唐子鍵は銅鐸人の遺跡なんだから邪馬台国じゃないよ。

ガバガバすぎる。

375 :
>>373
ありゃりゃ
もっと繰り下がったよ
これでもう筑紫の日向は伊都国しかないね

376 :
>>375
>これでもう筑紫の日向は伊都国しかないね

福岡の筑紫も、元明天皇の御世、和銅6年(713)5月の、“国名・郡名等として好字2字を選べ”との命からだよ。  @阿波

377 :
>>341

多分
クシフルと呼んだ言語とクヌギと呼んだ言語が違うということだろう。

クシフルは く し フル で クが語幹、シが連体詞、フルが 名詞

名詞にかかる連体形をつくるのに
シを使う言語とノを使う言語があり
フルとキがそれぞれの意味で同じものを意味する。

378 :
なるほど。
フルもキも集落や柵の意味だね。

379 :
高祖山(日向山、クシフル山)の地理的条件

高祖山の北には弥生文化上陸の地である博多湾、その沿岸にイザナギが禊をした小戸の橘、湾内には国生みの起点である能古島(オノコロ島)
高祖山の東には日向川や、倭国最初の王墓である吉武高木遺跡
高祖山の南は博多奴国と伊都国を結ぶ日向峠、その直上にクシフル山
高祖山の西には王墓である三雲南小路遺跡と女王墓である平原遺跡

高祖山の西側には後世に山頂から山麓までを囲む壮大な山城である怡土城が建設されるが、弥生時代においても奴国と伊都国をつなぐこの一帯は要所であったはず。
そこに王宮を兼ねた山城があったなら、筑紫の日向の高千穂宮と呼ぶにふさわしいだろう。
ニニギは高千穂宮の西に葬られたとされており、三雲南小路遺跡との位置関係も一致する。
後漢から金印を拝領した倭奴国は、考古学的には三雲南小路など伊都国の時代であり、三雲南小路遺跡の拝殿である細石神社(祭神はニニギの妃の木花咲耶姫)には江戸時代まで金印が保管されていたという(能古島から見つかったことにしたらしい)。
そして奴国と伊都国、高祖山をあわせた倭国の王都である筑紫の日向が、楽浪帯方から一万二千里のところにある魏志倭人伝の女王国そのものなのだろう。

380 :
>>378
なんとなく、コの(国の)人たち、
己姓昆吾邑という意味のような気がする。

沖縄方言はオ段がウ段になるらしいから元の語は
コだろう。

381 :
伊都の三雲南小路遺跡が倭王ニニギと木花咲耶姫の墓であるならば、筑紫の日向の日向三代が卑弥呼の前の男王70-80年の王家である。
神武らが筑紫の日向の高千穂宮を出たのは、倭国大乱が原因ということになる。
また、卑弥呼の年代が神武の年代と重なるので、天皇の代が1代11年程度で見積もるとその後の年代観と一致する。
纒向や前方後円墳は神武が居候したニギハヤヒ物部氏のものであり、前方後円墳が全国に広まるのは筑紫の卑弥呼の死後になる。

382 :
>>329
えっと…

方格規矩鏡の事ではないから

383 :
日向高千穂神話のパクリww

384 :
どっちの高千穂w

385 :
宮崎県が福岡県をパクったw

386 :
鹿児島県が福岡の高千穂をパクったw

387 :
>>367
>九州を筑紫で代表させているわけだが、筑紫洲であって筑紫ではないだろ?

筑紫で九州を代表するって自分で認めてるじゃないかww
筑紫の日向歯、宮崎で何も問題ないのが確認できたな!

逆に日本書紀では、福岡を指すときにはたいてい筑紫國が付いているんだよ
あんまりみっともない言い逃れをするなよな

それから、神功皇后紀では
「日向『國』橘小門」之水底所居而水葉稚之出居~
と、国が付いてるぞ
記紀編纂者の認識でも宮崎の方の日向だ

あと、日向の命名が景行天皇代だとか、言明天皇だとか言ってるけど、
記紀が書かれたのはそれより後なんだから、当然に宮崎県でいいんだよ

>>368
>いよ、よくわからんから詳しく説明して味噌

此嶋亦、身一而有面四、毎面有名、故、
筑紫國謂「白日別」、
豐國謂「豐日別」、
肥國謂「建『日向』日豐久士比泥別」(自久至泥、以音)、
熊曾國謂「建日別」。(曾字以音。)

明らかに、肥国の名前だけ長いだろ

388 :
>>374
>畿内説の 宮室 楼閣 城柵は唐古・鍵遺跡なのね?
>唐子鍵は銅鐸人の遺跡なんだから邪馬台国じゃないよ。

銅鐸人とかいう言葉を使っている辺りが頭悪そうだね

唐子鍵は、纏向の新都建設が始まるまでの、大和国の中心となる拠点集落
そこが、楼閣を持っている or 知っているならば、纏向でも作れるだろ

まあ、その前に伊勢遺跡もあるしな
あのあたりの土地では、作ろうと思えばいつでも作れるだろ

トリイノ地区の居館域もまだ一部しか発掘されてないし、九州よりは
近いだろ?

居處宮室・樓觀・城柵嚴設のうち、宮室と城柵は具体的に発掘されてるんだから

>ガバガバすぎる。

ガバガバなのは九州説だよ
「具体論から逃げ続けてる」くせにw

389 :
>>387

福岡の筑紫も、元明天皇の御世、和銅6年(713)5月の、“国名・郡名等として好字2字を選べ”との命からだよ。  @阿波

390 :
>>371
>景行天皇以前の筑紫の日向は、福岡県だよ。

これが根拠なしの妄想!
地名説話ってのは、「既にある地名」に由来を付与するものであって、
何もないところに地名を付けてる訳じゃないんだよ

福岡県の広い範囲を筑紫と呼んだ形跡はない
地名が、人が住んでいる限り受け継がれていくことを考えれば、
福岡の広い範囲が日向と呼ばれたことはないと判断できる

391 :
>>390

宮崎の日向も、元明天皇の御世、和銅6年(713)5月の、“国名・郡名等として好字2字を選べ”との命からだよ。  @阿波

392 :
>>377
>クシフルと呼んだ言語とクヌギと呼んだ言語が違うということだろう。

熱弁がんばっているけれど、日本国内で「言語が違う」っていっても無理がある

それに、椚の集落ができたのは「福岡県地理全誌」を信じるなら、
戦国末期〜江戸初期だ
その時代の違う言語ってなんだよ?
「具体的に論証して」みなよ

393 :
>>387
>筑紫で九州を代表するって自分で認めてるじゃないかww

九州全体を指す時は筑紫洲と書き、福岡県を意味する筑紫とは区別してますね。
言い訳は見苦しいですよ。

394 :
>>387
>肥國謂「建『日向』日豐久士比泥別」(自久至泥、以音)、

アホですね。
そこは
肥國謂「建日」「向日」豐久士比泥別
と分けるんですよ。
熊曾國謂である建日別のさらに分家なんです。
恥さらし。

395 :
>>390
>福岡県の広い範囲を筑紫と呼んだ形跡はない

(・∀・)

396 :
>>390
宮崎県との対比なのでわかりやすく福岡県と書きましたが、福岡県西北部(筑前)なら満足ですか?
筑後は後から追加された領域なので。

397 :
>>392
>それに、椚の集落ができたのは「福岡県地理全誌」を信じるなら、
>戦国末期〜江戸初期だ

遅くても戦国時代ですよね。
ではどこまで遡るかは不明と。

398 :
>>391
>宮崎の日向も、元明天皇の御世、和銅6年(713)5月の、“国名・郡名等として好字2字を選べ”との命からだよ。

何か勘違いしてないか?
元明天皇の諸国郡郷名著好字令は、文字の書き換えを命じたもので、新しい地名を付けた訳じゃないぞ?

とりあえず、古事記の成立は和銅5年で、好字令より前の成立ということになっていて
播磨は針間だし、美濃は三野とされているけれど、日向はそのまま日向と記載してる

日向が好字令で作られた地名、というのは成り立たないよ

399 :
せっかくなので地名の考察。

此嶋亦、身一而有面四、毎面有名、故、
筑紫國謂「白日別」、
豐國謂「豐日別」、
肥國謂「建日向日豐久士比泥別」(自久至泥、以音)、
熊曾國謂「建日別」。(曾字以音。)

肥国は熊襲のさらに分家。
卑弥呼の出身地の筑後、壹與の出身地の肥前は、いずれも有明海沿岸の肥国または熊襲国から分かれ、本家は熊本。
肥後狗奴国の王が卑弥呼と元より不仲なのは、肥国の王位争いがあったため。
そして熊襲は地名というよりは肥国の王家の名前。
熊襲タケルの墓は実は肥前佐賀にある。

400 :
>>397
>遅くても戦国時代ですよね。
>ではどこまで遡るかは不明と。

「慶長の頃、黒田長政、村の南の、野地を開き、田地とすべし」とあるのだから、
黒田長政が福岡藩初代藩主になってからだろ?

椚の集落は「それ以前には遡れない」よ

401 :
>>394
>肥國謂「建日」「向日」豐久士比泥別

そう読む人がいるのも知っているけれど、垂仁天皇紀に上毛野君遠祖八綱田という人物が
出てくるが、のちに倭日向武日向彥八綱田という号をもらっている
これは明らかに倭・日向・武・日向・彥八綱田が、言葉の素となっている
「タケ」は日本書紀では「武」、古事記では「建」の字が使われるから、
日本書紀式の表記にすれば、「倭日向」「建日向」彦八綱田となる

建日向という音素はありうる

402 :
>>399
>肥国は熊襲のさらに分家。

根拠ないね
分家の方に、特別な名前「豐久士比泥別」が付いているってどういう説明をするんだい?

先代旧事本紀では
次,筑紫島謂.身一而有面四,每面有名.
 筑紫國謂-白日別,
 豐國謂-豐日別,
 肥國謂-速日別,
 日向國謂-豐久士比泥別.
となっていて、熊曾國はない

古事記との対応を示すと
古事記:筑紫國謂「白日別」、
旧事記:筑紫國謂「白日別」
古事記:豐國謂「豐日別」
旧事記:豐國謂「豐日別」
古事記:肥國謂「建日向日豐久士比泥別」、
旧事記:肥國謂「速日別」
古事記:熊曾國謂「建日別」
旧事記:日向國謂「豐久士比泥別」

もともとは、筑豊肥の3国があって、肥国から日向、熊襲が別れたのだろう
熊襲を「熊」メインで見るなら、肥後国球磨郡、
「襲」をメインで見るなら、大隅国曽於郡となるが、
球磨郡と曽於郡は一帯の地域ではない

また、令制国としての大隅国は713年に日向国より分立されており、
ある意味こちらが分家

403 :
>>382
>方格規矩鏡の事ではないから

井原鑓溝遺跡からは方格規矩四神鏡しか出ていないよ
http://www001.upp.so-net.ne.jp/wi12000/forGmap/html/mikumo_iwara_minamisyouzi_et_yarimizo.html

404 :
>>388
時代錯誤で言を左右にして
全く明瞭でないからあなたが何を主張してるのか全く理解できない。
もっと日本語の勉強して推敲してくれ。

405 :
>>401
>建日向という音素はありうる

あり得るという言い方だとどうにでもあるからどうこうと言っていたのは君じゃないかな?
あり得る、ではなく、そうだという証明は?
まあそんな読み方に何の合理性も見出せないけどね。
傷口を広げるだけだよ。

406 :
>>402
阿蘇山一帯を西側メインで熊襲国と呼ぶか、東側メインで日向国と呼ぶかだけど、畿内説は先代旧事本紀は偽書扱いするんじゃないのかい?
先代旧事本紀を信用するなら、箸墓など前方後円墳は物部の墓制であり、邪馬台国は関係ないということで決着するよ?
チェリーピッキングにならないのかなあ?

407 :
>>398
>播磨は針間だし、美濃は三野とされているけれど、日向はそのまま日向と記載してる

それら古事記に書かれた「針間」「三野」「日向」がそれぞれ現在地の「播磨」「美濃」「日向」である根拠はあるのかね?
宮崎の「日向」も、福岡の「筑紫」も、島根の「出雲」も、「好字令」によって勝手気ままにつけた地名だよ。 
何か勘違いしてないか?  @阿波

408 :
【肥国】

倭国は筑紫を中心に、肥国、豊国、海を渡り出雲、越などから構成される連合国家である。
古くは出雲がその盟主であったが、国譲り以降は博多湾玄界灘勢力である天津神が支配する筑紫(天津国) が盟主となり、対馬海峡の交易と中国との外交は一貫して筑紫(天津国)が独占していた。
筑紫の王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
国津神には豊国王家、肥国王家、出雲王家などが想定される。
免田式土器に代表される阿蘇の東西にまたがる倭人の勢力が、狗奴国や熊襲、肥国であり、年代や立場により呼称が変化する。

筑紫が博多湾沿岸国家なら、肥国は有明海沿岸国家である。
もともとは有明海沿岸はすべて肥国だったが、筑紫が筑後川流域を吸収して有明海に進出すると、肥国は肥前(佐賀県)と肥後(熊本県)に分割される。
おそらくその過程には、本来は肥国の中心の一つであったであろう筑後山門の出身の卑弥呼が筑紫も含めた倭国女王になったことが関係しているだろう。

卑弥呼は倭国王を継承するために都である伊都に行き、倭国全体を統治した。
特に敵対的だった伊都より北の天津国は一大卒を任命して監視した。
卑弥呼は死後に倭国の都である伊都の平原遺跡に葬られた。

肥国王家の別称が熊襲であり、本貫地は熊本が想定される。
ただし肥前も肥後も筑紫とはやや縁が遠く、その王家は記紀にあまり名前を残していない。
ヤマトタケルに殺された熊襲梟師(くまそたける)の墓は肥前河上にあるという。
ここにある肥前国一宮の河上神社の祭神は、壹與に比定できる淀姫である。
卑弥呼、壹與、熊襲梟師、田油津姫らはいずれも肥国王家であり、倭国王となる資格を持っていたが、最終的に天皇家につながる筑紫日向の天孫族である伊都国王家との関係は必ずしも良好ではなかったため、記紀には卑弥呼の名が記載されていないのかもしれない。
熊襲征伐、田油津姫征伐は、筑紫倭国の内乱を天孫族から見た呼称であったと考えることができる。

409 :
【豊国】

考古学は九州北岸のうち、宗像や遠賀川流域には甕棺墓がなく、さらに別の文化的勢力を想定する必要があることを示唆している。
博多湾沿岸の勢力を筑紫、遠賀川流域の勢力を豊国と呼ぶことができる。
この二つの国は、姻戚関係を通じて早くから倭国の権力の中枢として栄えた。
豊玉姫は大綿津見神(海神)の娘であり海を塞き止める力を持っていたが、大綿津見神の竜宮城のモデルが関門海峡にあった豊浦宮であるといわれていて、博多の天孫族から見た隣国である豊国の姿と考えられる。
博多湾岸の天神族が北方の朝鮮半島に向かう対馬海峡に航路を持っていたのに対して、豊国は関門海峡を中心に日本海側に航路を持っていて、
その支配域は邇藝速日命や天香山命など船に乗って日本海を攻略したアマテラスの直系ではない倭人の到達域とほぼ一致する。
ただしその起源は博多湾の志賀島であると言われており、筑紫の天孫族に追われて東に移動した様子が伺われる。
豊国は遠賀川流域文化の担い手であり、もともとは博多湾の志賀島まで勢力範囲だったが、次第に筑紫に取り込まれていく。
ここで制作された遠賀式土器は日本海沿岸を中心に広範囲に分布している。

後に仲哀が筑紫入りしたときは、筑紫日向の伊都高千穂宮(怡土の県主、現在の糸島市)と筑紫岡田宮(崗の県主、現在の北九州市)がそろって出迎え、仲哀は筑紫香椎宮に迎えられた。
仲哀自身も穴門豊浦宮(門司)の王であり、関門海峡を掘削して日本海側と瀬戸内海側の海運を可能とした豊国の外戚である。
現在では北九州市も筑紫すなわち福岡県に組み込まれ、豊前は大分県として東に圧迫されている。

410 :
【倭国】

紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸から九州北岸までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。

記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。

博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。

九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。

2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。

411 :
【葛城鴨王家の系譜】
大和国葛城にいた古代氏族の系譜。三輪高宮家系譜などに資料が残されている。

その祖は博多湾沿岸の倭王である大山祇の子であり、摂津に鎮座する三島溝杙耳(陶津耳、賀茂建角身)である。
大山祇の娘の木花咲夜姫は天孫ニニギに嫁入りしていて、その実家は志賀島の綿津見神社とされるが、遠賀川沿岸に広がる豊国が支配地域であり、後世の筑紫岡田宮の一族である。
三島溝杙耳は瀬戸内海を通じて大阪湾から畿内に鎮座し、後に神武の東征を助けたとされている。
この一族を祭るのが、伊予国大三島の大山祇神社、土佐の溝咋神社、摂津の三島神社、京都の賀茂神社などである。
神武と戦った長髄彦は三島溝杙耳の息子とされていて、娘は活玉依姫(勢夜陀多良比売、玉櫛媛)である。
出雲の国譲りの後に大和に移住していた事代主は三輪山の神となっていたが、活玉依姫に娘と息子を生ませる(丹塗矢説話)。
この娘は後に神武の妃となるイスケヨリ姫(媛蹈鞴五十鈴姫)であり、息子は天日方奇日方(櫛御方)である。天日方奇日方はまたの名を鴨主という。
天日方奇日方の曾孫が太田多根子である。

この登美の鴨王家には別の伝承がある。
飛鳥大神の娘である登美夜姫が、高天原からやってきた天照の孫であるニギハヤヒとの間に生んだ子が、物部氏の祖であるウマシマジである。
登美の長髄彦は、神武との戦いの中で「自分は天神の子であるニギハヤヒに仕えて妹をニギハヤヒに娶らせたが、どうしてまた天神の子と称するものが来て土地を取ろうとするのか」と言っている。
とすると、登美夜姫と活玉依姫はともに長髄彦の妹ということになり、異同が論じられるところである。

古事記では大物主は大国主や事代主と別神であり、勢夜陀多良比売と活玉依姫も別神としているが、勢夜陀多良比売と活玉依姫はいずれも丹塗矢説話が共通している。
いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。

http://tokyox.matrix.jp/wordpress/三輪氏、大神神社、大物主/

412 :
>>405
賛成
畿内説はとにかくイチャモンだけしかないみたいだね。お疲れ様です。

413 :
>>404
>時代錯誤で言を左右にして

ことの本質は、「邪馬台国は古墳時代(の始まりの時期)」ということから、
九州説の人は、何がなんでも逃げようとする、その惨めさを嗤ってるんだよ

時代錯誤でもなんでもない
全ての編年を「そんなはずはない」「捏造だ」「信じない」といい続けたところで、
土器編年も舶載鏡の編年も、14C年代法の測定値も、矛盾なく一貫してるんだから
もうすぐいろんなことが「確定」するよ

14C年代法に関しては、三日月湖年縞という一年単位の絶対のゴールドスタンダードが
あるから、それを使ったJ-CAL以上の信頼度のある較正曲線が確立すれば、年輪年代法との
クロスチェックができるようになるし、さらに精度の高い推定値が得られるようになるだろう

まあ、古代のことだから、それでも不明なことは不明なままに残るだろうけれど、
「平原1号墓は卑弥呼の墓」に1点賭けの伊都国説は、最初から脱落してる

414 :
>>405
>あり得るという言い方だとどうにでもあるからどうこうと言っていたのは君じゃないかな?

それを言い出すということは、伊都国説の「ありうる」「可能性は0ではない」は
不当だというのをやっと理解できたということだね!
おめでとう

>あり得る、ではなく、そうだという証明は?

別に、証明する気もないよ?
畿内説にとって、重要性は特にないから

でも、伊都国説にとって
「平原1号墓は卑弥呼の墓」というのは、絶対に必要な要件だし、そのためには
「平原1号墓の被葬者は太陽信仰の巫女」と言わなきゃいけないし、そのためには
「大型内行花文鏡は太陽に見える」と言い張らないといけない

でも、「ありうる」「可能性は0ではない」は不当なんだよね!
がんばれ!ww

415 :
きょうも妄想花火がきれいに咲いた

416 :
>>415
>きょうも妄想花火がきれいに咲いた

そうかぁ、伊都国説で書き込みをしている人が、
「少しは論理というものが分かったかな?」と思ったのは妄想だったのか

まあ、しゃーない

現実は
魏鏡はおろか新しい後漢鏡すら1枚も副葬されておらず
墳丘に土壙墓を掘られるような、
径十歩に満たない墓は、
卑弥呼の墓も倭王の墓もない

417 :
>>413
長い

2行で

418 :
>>417
>長い

この程度のものも読めないから、九州説は専門家の論文も読んでないんだな!
そりゃあ、時代遅れの珍説からいつまでも離れない訳だわ

低脳!

419 :
>>417
>2行で

おいおい、2ちゃんの標準は「3行で」だぞww

420 :
>>417
>2行で

親切に2行で書いてやると

「邪馬台国は古墳時代(の始まりの時期)」
「認められない九州説が無能」でもその前に「伊都国説は始まってもいない」

421 :
>>420
勝手な定義と、意味不明な中傷

422 :
>>414は、
>>401 で自分で主張したことことどう思ってるわけ?
「あり得る」ということについて。

423 :
>>420
イミフ

邪馬台国が畿内である証拠は何か?
て聞いてるのに
古墳時代
てどういうこと?

424 :
吠えまくるバカ犬がいないとスレが進まないな

425 :
りゃんとんへの軍事外交的な反応速度考慮するに卑弥呼さんの都は伊都やね ?(つうか表意してるやん
壱与ちゃんの都たるヤマイ帝国は何処やろ?山根君名字の多い県かも!
やまね〜〜 やまい






鳥取県やん!

426 :
山根君はなぜに奈良押ししたんやろ?

427 :
長岡はなびは弥彦ちかく(ダックもテレビつけや
やひこはオオヒコかウマシマジか?

428 :
たまや〜〜〜
かぎや〜〜〜〜

429 :
ひらばるあやかちゃん!

430 :
あらしてもた(ごめんなさいm(_ _)m

431 :
越国もはると読むところあるな(原
越乃寒梅吞みたくなった

432 :
>>418

倭王が畿内にいた証拠はなんですか?

Xxxです。

1行で答えるところ 何十行も使うのはただのアホだよ。私が低脳ならあなたは無脳だよ。よかったね。

433 :
畿内説は循環論法ばかり

434 :
もともと九州説っていうのは、

古い時代の王墓(三雲南小路、須玖岡本)は九州にある
 ↓
「邪馬台国の時代」
 ↓
古墳時代以降は畿内の大和王権が中心

という編年観で、邪馬台国はまだ九州に中心があるっていう論立てだったんだよ

でも、古墳時代になると大和王権が中心なのだ明らかだから
1.東遷した 邪馬台国の会・安本美典系
2.無関係だ 古田史学の会・古田武彦系
と以降の歴史との接続を、憶測で補っていた

それが、編年研究が進んで、

古い時代の王墓(三雲南小路、須玖岡本)は九州にある
 ↓
「邪馬台国の時代=古墳時代」以降は畿内の大和王権が中心

になったってだけの話
本質は、編年なんだよ
だから、九州説は編年研究を認められずに、でも反論の根拠すらなくてディスるだけ

435 :
>>432
>1行で答えるところ 何十行も使うのはただのアホだよ。私が低脳

自分で能無しだと認めたかww

論拠なしにすれば短いんだよ
でも、損なのは論証じゃない

まあ、九州説は具体的な論拠も典拠もないのがデフォだし
反論ですら、どこに反論するのか具体的に指摘できないから、短いだけ

436 :
>>435
無脳の自己紹介はレスの無駄だよ

437 :
>>436
>無脳の自己紹介はレスの無駄だよ

「自己」紹介じゃないだろ?w
九州説の「>>436他」の無能さを説いてるんだよww

レスの無駄っていっても、お鏡さん自身、結局アマゾンでの書籍販売の
広告がしたいだけで、議論には参加しようとしないし、このスレの存在意義
なんて皆無に等しいだろ?

438 :
まあ、私が御鎮座伝記を紹介して、

八咫。古語八頭也。
八咫。古語でいう八頭なり。

が分かったから、
「円周長が八咫だから八咫鏡なんですぅ」が無意味だってのがはっきりしたな

439 :
>>437
いや生きてる価値ないから死んでもいいよ直ちに。

440 :
>>439
>生きてる価値ないから死んでもいいよ

学問的な根拠を示した反論ができないから、人格否定形のレスに逃げる九州説(1行でも具体的な根拠入りw)

441 :
>>440
学問以前にあなた自身の能力がなさすぎてコミュニケーションとれないからね。単なるスピーカーであって、人工無脳レベルだから。

442 :
反論できなくて侮辱する

カコワルイ

443 :
伊都クズは学問のやり方を理解してないからな

444 :
どこ?と聞かれて
時代と答えるくらい、無脳だからしゃーない。

445 :
>>441は、>>439と同じ人?

446 :
>>433
>畿内説は循環論法ばかり

どうして九州説は、自分の言われたことのオウム返しばかりするんだろう?
よほど口惜しかったのかな?w

447 :
>>406
>先代旧事本紀は偽書扱いするんじゃないのかい?

先代旧事本紀大成経は、偽書だよ
先代旧事本紀十巻本は、国造本紀など史料価値が高い部分がある

ただ、天皇系譜が欠史八代も含め、記紀の内容を踏襲しており、記紀を越える部分はあまりない
成立も記紀より遅く、記紀の世界観を下敷きにした上で、物部氏を顕彰する目的の書、くらいの評価が相当だろう

448 :
匿名掲示板だからいろんな人がいるのは仕方がないけれど、
学問板で論破されて、「お前なんてRばいいんだ」って言って逃げるっていうのは
なかなかいないレベルの香ばしさw

449 :
典型的62病患者だな

450 :
>>447
根拠のないあなたの「〜くらいが相当だろう」という主観は聞き飽きた。

451 :
伊都クズは主観だけだけどなw

452 :
>>448
流れ的に何も論破されてないと思うよ

453 :
>>452
そうだね、無意味なことをかきつらねて論破したつもりになってるだけだね。
Rばいいとか捏造するなよ
死んでいいっていう許可を与えてるんだよ。

454 :
>>452
そうやって、なんも証拠のないことを言うって時点でもうダメぽ

455 :
>>453
そういう負け惜しみはいいからさ、反論があるなら具体的にどうぞ

神道五部書の御鎮座伝記にあるとおり
八咫鏡の八咫は、古語の八頭の意味で大きさは関係ない

古い時代の王墓(三雲南小路、須玖岡本)は九州にある
 ↓
「邪馬台国の時代=古墳時代」以降は畿内の大和王権が中心

魏鏡はおろか新しい後漢鏡すら1枚も副葬されておらず
墳丘に土壙墓を掘られるような、
径十歩に満たない墓は、
卑弥呼の墓も倭王の墓もない

一度も反論してないじゃないか?

反論一つできずに、相手に悪態を連呼して、いなくなってくれと願う

論破されてるよな?ww

456 :
>>453
>死んでいいっていう許可を与えてるんだよ。

小学生ぐらいまでならともかく、ネットで書き込みをするような年齢で、
しかも学問板で、「死んでもいいっていう許可を与え」るとか、よく恥ずかしくならないなw

まあ、そういう脳内環境を育ててきたってことだな
お里が知れるってやつだ

あ、「お里が知れる」って言葉の意味は分かるかい?w

457 :
>>455
重箱の隅をつついて「論破」とは片腹痛い。
論破されているのは自分だろ。

458 :
>>457
>重箱の隅をつついて「論破」とは片腹痛い。

論破されていないというなら、「具体的に反論」しておくれよ
そうすれば、さらに丁寧に3行以内で解説してあげるよ

反論一つできずに、相手に「死んでもいい」とか言ってるやつが何を言ってるんだかw
この>>457一人のおかげでこのスレもレベルが地に落ちたな

「お里が知れる」の意味は分かったのかい?

459 :
>>456
いやあなたスレの主旨を理解してない日本語能力幼稚園児並なので、死んでいいよ。なんで生きてるのか疑問視されるレベル。

460 :
なんかちょっと荒れ気味ですけど、
このスレの趣旨は、基本的には、伊都国文化(銅鏡文化)の継続性、つまり「伊都から伊勢へ」ですからね。
邪馬台国がどこにあったかは、付録みたいなものですよ。

古墳時代が魏志の時代で確定だから、邪馬台国は畿内だ、九州説はカスだ、
みたいな話は、そういった趣旨のスレに行ってくださいね。

私個人としては、畿内説支持ですけど、それはあくまで可能性としての所在地論を楽しむというスタンスですので。
何度か言っていますが、畿内でも九州でも、競馬のオッズのようなものだと思いますよ。
倍率が高いからと言って、来ないわけでもないし、高い方が妙味があるとも言えますから。
鉄板レースほどつまらないものはないですし。

461 :
お鏡さんもそんな甘いこといってないで、
学問板レベルの書き込みができない人はきちんと諫めないと

462 :
もちろん、不穏当な発言は控えてもらいたいですけど、そこはあくまで2chですから。
鉄板すぎる馬券は、返金率が1倍になってしまって、馬券とはいえなくなりますから。
私からすれば、万馬券とはいいませんが、馬券妙味のある方が好きです。

教科書的な内容が好きなら、教科書でも読んでてね、というところです。

463 :
>>457
>重箱の隅をつついて「論破」とは片腹痛い。

例えば、編年研究の成果からの
「邪馬台国の時代=古墳時代」以降は畿内の大和王権が中心
っていうのは、重箱の隅どころからど真ん中だよ

こういうのから逃げるために「死んでもいいよ」とか言ってて惨めにならないかい?
8/3以降、古代史や伊都国に関することを一切書いてないだろ?w

反論一つできずに、論破されてないって言い張ってるのって恥ずかしくないのかい?

464 :
>「邪馬台国の時代=古墳時代」

ここが前提なのがおかしいだろ。

465 :
魏使は古墳を見てないようだからねえ

466 :
>>464
>ここが前提なのがおかしいだろ。

相変わらず「具体的な根拠」が言えないねぇ

「そうじゃない、ちがうんだー」って泣き喚くだけなら、3歳児くらいからできるぞ
いい加減に、自分の無能を理解して、「具体的な論拠」をつけて反論しな

467 :
>>465
>魏使は古墳を見てないようだからねえ

「卑彌呼以死大作冢徑百餘歩」
そこらの方形周溝墓を見ても、こうは書かないだろ?
副葬品が立派なら、多くの鏡を壊すとか書くんじゃないのか?
「大作冢」と書くだけの、「冢」を見てるんだよ

468 :
>>462
>鉄板すぎる馬券は、返金率が1倍になってしまって、馬券とはいえなくなりますから。
>私からすれば、万馬券とはいいませんが、馬券妙味のある方が好きです。

つまり、お鏡さんにとっては、学問的な追及はどうでもよくて、
ギャンブルや金儲けと同じ目線でしか見られないってことだね?

>教科書的な内容が好きなら、教科書でも読んでてね、というところです。

真理や真実ががつまらないならどうでもいい
そう言いたい訳だ、お鏡さんは

なら、学問(文系)板にスレ立てしなくていいんじゃないの?
雑談系とか?

469 :
>>467
「作大冢」じゃないよ

470 :
>>469
そうですね。大いにつくったのだから、大きいとは限らない。
もちろん、大きくないとも限りませんが。
解釈が分かれるからこそ、議論の余地があるわけで、その議論そのものが、
大げさにいうなら「真理の追求」ですね。

>>真理や真実ががつまらないならどうでもいい
「真理や真実がどうでもいい」とまでは書いてませんし、変な言いがかりはやめてください。
わかり切ったことなど、議論する余地もないですから、面白みはないと思いますね。

471 :
>>462の「馬券妙味のある方が好き」というのと
「教科書的な内容が好きなら、教科書でも読んでてね」というのを合わせると
教科書的な、きちんと分かっていることは、どうでもいいってことじゃないの?

472 :
>>469
>「作大冢」じゃないよ

>>470
>そうですね。大いにつくったのだから、大きいとは限らない。
>もちろん、大きくないとも限りませんが。

「卑彌呼以死大作冢徑百餘歩」

『徑百餘歩』の冢を大いに作ったんでしょ?
すぐ後ろに書いてある文字をどうして無視するかなぁ?

平原1号墓は径十歩に満たない 
故に卑弥呼の墓ではないってことだ

お鏡さんにとっても、これは「議論する余地もない」「分かりきったこと」でいいんだろ?

473 :
>>463
>「邪馬台国の時代=古墳時代」以降は畿内の大和王権が中心

勝手マイ定義を元に論を進めているようだ。

474 :
>>467
>「卑彌呼以死大作冢徑百餘歩」
>そこらの方形周溝墓を見ても、こうは書かないだろ?

前方後円墳を見たらこうは書かない。
墳長とかを書くだろう。

475 :
東夷伝は各国の墓制の比較とかは結構重大なテーマだったんだろうから、
前方後円墳なんかの報告があれば、喜んで特徴を書いたはずだね

476 :
書かないって理由は?

477 :
>>473
いや、教科書にも載ってる定説だから

478 :
>>470
>そうですね。大いにつくったのだから、大きいとは限らない。

大いにつくったのだから、小さいわけがない。


大いに作ったんだから、大きいか多いかの二択だよ
しかも「徑百餘歩」 とあるね

つまり、大きい
倭人伝を無視しないと九州説は立ち行かない
これは確定事項だな

479 :
>>472
いえ、東夷伝にある里程が中原での用法に比べて過大である以上は、
議論の余地がないほどとはとても思いませんよ。

この件について言えば、伊都国説の主張まぁ少々穴馬寄りの解釈というところでしょう。
万馬券ともおもいません。

480 :
>>478
>大いに作ったんだから、大きいか多いかの二択だよ

これはひどいw

481 :
ないよ

482 :
>>480
常に理由がない

それが九州説

483 :
>>479
この人が機内説って、アリエナイ

484 :
>>477
それは学問的根拠ではない。

485 :
>>487
「勝手マイ定義」ってウソだっていう確たる証拠だよ

486 :
>>484
現実的証拠だな

487 :
>>486
学問板にいる資格がないな。

488 :
>>479
>議論の余地がないほどとはとても思いませんよ。

「歩が複歩であること」は、議論の余地がないと、お鏡さんでも認めるよね?

489 :
>>474
>墳長とかを書くだろう。

径って、墳長って意味だよ?

490 :
>>473
>勝手マイ定義を元に論を進めているようだ。

マイブームの次は、マイ定義かい?
相変わらず、理由も何も具体的なことは書かないんだね?

書けない、の方が正しいのかな?

491 :
>>475
>前方後円墳なんかの報告があれば、喜んで特徴を書いたはずだね

書いてあるだろ?
「大作冢徑百餘歩」って?
東夷の他の国にはない表現だよな?

492 :
>>487
お前、本当に知能がないな

「勝手マイ定義」ってウソだっていう証拠は
学問的である必要がないんだよ
人口に膾炙してるという証拠があればいいんだ

493 :
九州説信者の特徴
・一般教養がない
・論理的思考ができない
・裏付けのないプライドだけ高い

494 :
>>489
その根拠は?

495 :
>>491
前方後円墳だという証拠はない。

496 :
出た!ww
キナイコシ連呼厨=連続句読点=伊都クズ=「根拠なし連呼厨の人」

497 :
常に、相手側に質問を投げることで、自らは何も論証せずに
何か言っているような気になる手法ww

498 :
キナイコシの常套手段だよね。

499 :
>>496
畿内説の真似をしているだけだと思うよ?

500 :
>>499
真似できてないので愚かさだけが目立つ逆効果

501 :
>>495
径100余歩もあるのが
前方後円墳しかないというのが
動かぬ証拠だよ

502 :
畿内説がわの質問の仕方は
その質問に答えられないなら相手の説が崩壊するようなポイントを突く

人真似猿九州説は
関係ないことを聞く

人と猿の違いだな

503 :
>>494
>その根拠は?

径は直径という語で分かるように「差し渡し」という意味があり、さらに太祖行酒,韋持大斧立後,「刃徑尺」,太祖所至之前,韋輒舉斧目之。の斧の刃のように、円形物以外でも使う
三國志/ 魏書 凡三十卷/ 卷十八 魏書十八 二李臧文呂許典二龐閻傳第十八/ 典韋

前方後円墳に対して径と言えばそれは墳長にあたる

504 :
>>495
>前方後円墳だという証拠はない。

前方後円墳じゃなくてもいいんだよ
出雲あたりでは、四隅突出墓で数十メートル規模の首長墓を作っている
西谷9号墓で60×50メートル、西桂見墳丘墓で長辺65メートルある

このあたりは、誇張込みなら径百歩(キリのよいところにしただろうし)と言い得る
問題は、九州には弥生終末期の径百歩と言い得る巨大墳墓がないことだよ

505 :
>>503
後円部径じゃないの?

506 :
>>503
普通は径と言えば横幅だよ。

507 :
>>501
>前方後円墳しかないというのが
>動かぬ証拠だよ

「前方後円墳」云々以前に、平地にある時点でアウト!  @阿波

508 :
畿内説の論拠(だと勝手に思っているもの)が崩壊したようだ。

509 :
>>508
何か妄想してるようだが
コミュ障の発言なので
他人に意味が伝わらない

w

510 :
>>504

古代大王(おおきみ)の陵墓が平地に在るとは、なんとも滑稽。  @阿波

511 :
>>506
径は、差し渡し
もともとの意味は小道、歩道
転じて、丸いものなら直径を、四角いものなら一辺を、長細いものなら横幅を言う
前方後円墳なら後円部径

512 :
>>510
箸墓は山裾

513 :
>>512
>箸墓は山裾


だから、「平地」   @阿波

514 :
径なんだから円墳か方墳だろうな

515 :
>>514
>径なんだから円墳か方墳だろうな


直径約60mの山頂にある円墳ですよ。  平地に置くなど以ての外。  @阿波

516 :
>>514
根拠なし

ex,
典韋の斧の刃

517 :
典韋の斧の刃 は前方後円だったんだ

518 :
畿内説は、前方後円墳を径で測ったというのなら、その文献的な証拠を出すべきなだな。立証責任には畿内説側にあるぞ。がんばれ。

519 :
まあいずれにしろ、前方後円墳みたいな奇妙なモノを見たんなら、「径」で済ますわけないね

520 :
キナイコシ唯一の根拠が瓦解した

521 :
>>506
>普通は径と言えば横幅だよ。

運河の径とか言えば、横幅になるけどね
車輪の径、木の径、水道管の径、運河の径、と並べれば、径の意味範囲が分かるんじゃないかな?
楕円でも、長径と短径っていう使い方をするでしょ?
前方後円墳で径といえば、大きさを表すために使うのだから、墳長になるよ

522 :
円墳長でしょ

523 :
まあ前方後円墳を「径」だとか強弁しても通らんわな

524 :
>>510
>古代大王(おおきみ)の陵墓が平地に在るとは、なんとも滑稽。

キウスじゃないけど、勉強不足だねw
須玖岡本D地点も、三雲南小路も、弥生時代の墓は庶民の墓も首長層の墓も、
集落遺跡と同じ水準(高さ)で作られている
吉野ヶ里遺跡では、集落と墓域が一つの環濠で囲まれてることからも確認できるだろ?

纏向古墳群も、この弥生時代の伝統に沿った立地に作られている
それが、箸中山古墳で限界になって、その次から地山整形で盛り土量を節約しながら
大墳丘を作るようになった様子が分かるんだよ

525 :
>>523
>まあ前方後円墳を「径」だとか強弁しても通らんわな

どうして通らないの?

それから、小道が百歩はもう言わなくなったの?
あれ、面白かったのに

526 :
>>525
>>518

527 :
>>524
>須玖岡本D地点も、三雲南小路も、弥生時代の墓は庶民の墓も首長層の墓も、
>集落遺跡と同じ水準(高さ)で作られている

須玖岡本D地点も、三雲南小路も「古代大王(おおきみ)の陵墓」じゃない証拠。


>吉野ヶ里遺跡では、集落と墓域が一つの環濠で囲まれてることからも確認できるだろ?

吉野ヶ里遺跡も「古代大王(おおきみ)の陵墓」じゃない証拠。  @阿波

528 :
漢代から中国には天円地方思想があったからね
倭国で前方後円墳を見たら、いろいろ解説しそうだわな

529 :
>>518
>畿内説は、前方後円墳を径で測ったというのなら、その文献的な証拠を出すべきなだな。

つ 三國志卷三十/魏書三十/烏丸鮮卑東夷傳第三十
 「卑彌呼以死大作冢『徑』百餘歩」

530 :
>>528
>漢代から中国には天円地方思想があったからね

それをいい感じにこじらせた結果、天神を祖神とする集団は前方後円墳を作り、
地祇を祖神とする集団が前方後方墳を作ったように見えるんだよな

前方後円墳を、首長継承の祭祀の場とする説があって、
死んだ首長が天に上るから後円部に葬り、地にあって首長を引き継ぐ跡継ぎが
前方部で祭祀を行ったという説明をしている

ただ、前方部、後円部にそれぞれ埋葬主体を持つ島の山古墳や西殿塚古墳みたいな
古墳もあるから、そう単純に仕切れるものでもない

531 :
根拠

日本列島に径百余歩というスケールに該当する墳墓は前方後円墳しかない
前方後円型を径で表さないという証拠が出ない限り、卑弥呼冢は前方後円墳と考えることができる

532 :
>>531
>日本列島に径百余歩というスケールに該当する墳墓は前方後円墳しかない


それは、ない。  @阿波

533 :
>>529
例示がわからない池沼

534 :
>>526
岡上が思考停止中

535 :
>>531
考えることはできるかも知れないが、考えなければいけない理由は何もないね

536 :
>>533
他人に通じる言葉が書けないコミュ障

537 :
>>535
それでいいんだよ
否定できないなら反論不能ということだから

538 :
結局人としてのレベルが低いんだよ
池沼とか、死んでいいとか、ののしき言葉を使わないと学問板でレスできない時点でさ

539 :
>>535
>考えなければいけない理由は何もないね

考えられないとする理由はさらにない
というか、一切ないなw

540 :
>>532
>それは、ない。  @阿波

具体的に例示して見せて!

541 :
>>539
あるよ
脳が停止してるという

542 :
>>521
>前方後円墳で径といえば、大きさを表すために使うのだから、墳長になるよ

径の定義を無視した勝手理論が炸裂しています。

543 :
>>529
卑弥呼以外の例を出さなければ意味がないよ。
卑弥呼の部分が前方後円墳である証拠を求めているのだら。

論理がわからないアホ?
わざととぼけているなら悪質だな。

544 :
>>543
なんで意味ないの?

545 :
>>542
>径の定義を無視した勝手理論が炸裂しています。

では、径の定義を「文献等を適宜引用して具体的に示し」た上で、
どのように無視しているのか、
どの部分が勝手理論なのか
「具体的に指摘」してくれ

546 :
>>543
お前の主張にどういう論理がある?

547 :
>>543
>卑弥呼以外の例を出さなければ意味がないよ。

おや?
その昔、「平原1号墓出土鏡が八咫鏡なのは、
円周長八咫の鏡が実在してるんだからそれでいいんだ」って
言ってた人がいるような気がするんだが?

円形物の大きさを円周で示す例があるのかって、散々聞いても
同じことしか言わなかった人がいるような気がするな

548 :
勝手理論とかマイルールとか
妙な言葉を連発してるやつは同一人物だな

549 :
>>543
>論理がわからないアホ?

>>518
「前方後円墳を径で測ったというのなら、その文献的な証拠を出すべき」というから、
文献(三國志卷三十/魏書三十/烏丸鮮卑東夷傳第三十)で、前方後円墳を
径で大きさを表している例を根拠として示しただけだろ?

要求どおりに示したのに、まだ文句を言うのかい?w

550 :
>>540
>具体的に例示して見せて!


「天石門別八倉比売神社」裏手の円墳。  @阿波 

https://bqspot.com/shikoku/tokushima/569

551 :
>>549
斧は前方後円墳なのか

www

552 :
>>551は論破されて発狂したのかな?

553 :
>>551
その、他人が全く言っていないことに文句をつけて何か反論したような妙な自己満足に浸る奇矯な癖のある人を、一人知っている

554 :
キナイコシは反論不能状態のようだな

555 :
>>554
反論って、なにに?

556 :
>>554
おまえが発狂してるという話なら反論はないぞ

557 :
とうとうゴタクしか言えないようになった

558 :
>>557
たとえば>>554

559 :
>>550
>「天石門別八倉比売神社」裏手の円墳。  @阿波 

読んできたけど、阿波はこれ、納得してるの?
「天照大神、大国主、少彦名、埴安媛、宇迦之御魂」の五神で五角形っていうやつ

それに、円墳じゃなさそうなんだけど?

560 :
キナイコシ連呼厨=連続句読点=伊都クズ=「根拠なし連呼厨の人」をいじっても
何の生産性もないよ?

561 :
神道五部書の御鎮座伝記、電子ファイルを上げてくれてる人見つけた
https://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/sintou_gobusyo/denki01.htm

562 :
八咫鏡のウィキペディアのページに以下のように書いてある

原田によれば「御鎮座伝記を読み解いてみると、約三回ほど内宮の火災があり、
このいずれかに焼失してしまい(一度だけとは限らないかも、とも)、その時に
新たに作り直された八咫鏡は、現在に残る桶代(御神体の入れ物)の大きさから
推定して、直径46.5cmの大きさではなくなっている」

でも、御鎮座伝記には、内宮の火災の話などない
原田氏はちょっといい加減

563 :
>>559
>読んできたけど、阿波はこれ、納得してるの?

なにを納得と???

>「天照大神、大国主、少彦名、埴安媛、宇迦之御魂」の五神で五角形っていうやつ

地神塔だね。  倭国(阿波)には各地、至る所に在るよ。  @阿波 

564 :
>>559
>それに、円墳じゃなさそうなんだけど?

「天石門別八倉比売神社」裏手の円墳のこと?  
一度、現地へ行ってみる(本貫地帰り)ことをお勧めします。  一目瞭然ですよ。  @阿波 

565 :
>>563
埴安媛が、このメンバーに入ってるのって違和感ないの?

566 :
沖縄琉球弧から太平洋黒潮ルートの後の忌部氏族の遺跡だわ。卑弥呼じゃなくてオオヒルメの系だろう。

567 :
埴安媛は「土の神、田畑の土壌の神、陶器の神」だよ。
皇祖天照大御神、葦原中つ国の盟主神 大己貴命、薬学の神 少彦名命、稲米(五穀)の神 稲倉魂命、埴土(はに: 土器や祭祀にかかわる)の神の五神で、
記紀神話の中でも国土創生に欠かせない、いわば主役級の神々であり、阿波国内では神蹟の明らかな「土着の神」。  @阿波

568 :
>>566
>卑弥呼じゃなくてオオヒルメの系だろう。


「天石門別八倉比売神社」

御祭神は大日孁女命(おおひるめむちのみこと)こと天照大神。

大宜都比売命の別名を天石門別八倉比売命(あまのいわとわけやくらひめのみこと)と言われている。

※「大宜都比売命」=「天石門別八倉比売命」=「大日孁女命」=「天照大神」   @阿波

569 :
大宜都比売命は、スサノオに斬り殺されるんだが?
大宜都比売命=天照大神じゃダメじゃね?

570 :
>>569
大宜都比売神(オオゲツヒメ)は、『古事記』に云う粟国(阿波国)の国神となる女神であり、日本の養蚕・五穀の起源神、日本の偉大なる食物の女神、かつ日本最古の農業神である。

また、焼畑農業神、稲作・畑作農業神としての顔をもつ。『古事記』にあるオオゲツヒメの死は、死と再生という自然循環思想を表す。

穀物名を国名とするのも、農業神が国神となるのも日本で阿波国のみである。  @阿波

571 :
阿波国一宮の「天石門別八倉比売神社」の論社の1つ[「上一ノ宮大粟神社」の御祀神は「オオゲツヒメ」という神様だが、

オオゲツヒメ=御食津神=豊受大神

豊受大神というと伊勢神宮の外宮の神様だが、じつは外宮の神官「度会氏」は「忌部氏」の末裔。

元々は内宮、外宮とも、神官は忌部氏だった。  @阿波

572 :
結局、「大宜都比売命=天照大神にはならない」ってことを延々と書いてるだけだな

>>568の最後の行は適当に書いた間違いってことでFA?

573 :
オオヒルメが
後代 天照大神にされてしまった、ということだな。

574 :
大日孁女命も農業神じゃないだろう

大宜都比売命=大日孁女命が既に成り立たない

575 :
>>572
>結局、「大宜都比売命=天照大神にはならない」ってことを延々と書いてるだけだな

別に「大宜都比売命=御食津神=豊受大神」でも構わないんだよ。 倭国(阿波)にとっては。  @阿波

「阿波の神様 大宜都比売」
大宜都比売(大気都比売神、大宜津比売神、大気津比売神)は、日本神話に登場する女神。
名前の「オオ」は「多」の意味、「ゲ」は「ケ」の食物の意味で、穀物・食物・蚕の女神である。
『古事記』においては、「大宜都比売」は国産みにおいて伊予之二名島(四国)の中の「阿波国の名前」として初めて表れる。
阿波忌部は、海部(あまべ)とともに日本各地に進出して、麻、穀を植え、農業、養蚕、織物、製紙、建築、芸能などを伝えた祭祀族、海民族、産業技術集団。  @阿波

576 :
1日で考えが変わるとは、阿波はやはり全く信用できない

577 :
>>576

「信じる者は救われる」とかw  @阿波

578 :
そう言えば、福岡から珍しく完鏡が出てきたみたいですね。

https://www.sankei.com/west/news/171209/wst1712090051-n1.html

蝙蝠座ですが、虚飾を排した点は平原大鏡を思わせますね。

579 :
>>578岡上
>そう言えば、福岡から珍しく完鏡が出てきたみたいですね。

もう、鏡はいいんじゃないの?  @阿波

580 :
つか、旧聞 
今更なに?

581 :
>>578
>福岡から珍しく完鏡が出てきたみたいですね。

それでお鏡さんは、この「直径11・3センチの「内行花文鏡」」のような小さな鏡も、
内行花文鏡であるからには、太陽信仰の象徴で大陸から下賜された王位の証である鏡だって
主張するのかな?

582 :
王から下賜された鏡でしょ。

583 :
九州説は脳がお気楽

584 :
>>582
>王から下賜された鏡でしょ。

その王ってのはどこの王だい?
倭王だとしたら、その鏡は舶載鏡? それとも倭王の手元で作った仿製鏡?

しばらく前に、日本にある舶載鏡は全部大陸王朝から下賜された鏡っていう
トンデモを唱えてたのがいたなぁ

同じ人かな?

585 :
畿内説は脳死状態

586 :
>>585は、>>583の真似っこ?
もう少し、オリジナリティのある書き込みはできないのかな?

587 :
古墳から出土した最大の銅鏡は鼉竜鏡らしいよ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E4%BA%95%E8%8C%B6%E8%87%BC%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3#/media/File:%E6%9F%B3%E4%BA%95%E8%8C%B6%E8%87%BC%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E5%87%BA%E5%9C%9F_%E3%81%A0%E9%BE%8D%E9%8F%A1.JPG

内行花文鏡が最上位でそれこそが筑紫の文化が広まっていった証であり、
内行花文鏡が最上位だから大きなものが作られたって話は何だったんだろう?

588 :
柳井茶臼山古墳の44.5cm龜龍鏡かな?
ギリギリで平原遺跡の方が大きいよ。
確かにその意義は検討の余地がありますね。
もっとそれぞれの鏡の意義は検討されるべきだと思う。

589 :
今更なにいってるの?一枚混じってるだけじゃん。
最大なのが内行花文であり、大型鏡に内行花文が多いことは変わらないだろ。
ほんとイチャモンつけるだけのクズだな

590 :
まあまあ、キナイセツに迷える子羊にとっては、三角縁神獣鏡以外の鏡に目が向くようになっただけでも前進だよ。

591 :
どっちにせよ
「キリスト教国はみんなユダヤ王国が征服したんだ」
みたいな馬鹿は
いらない

592 :
>>588
>ギリギリで平原遺跡の方が大きいよ。

>>587で「古墳から出土した鏡で」って書いてあるだろ?
平原1号墓は古墳なのかい?

それから、平原遺跡と平原1号墓を区別しろと何度言えばw

古墳から出土した大型鏡としては、
1位 「鼉龍鏡」44.5センチ >>587で紹介したもの
2位 「内行花文鏡」39.8センチ 柳本大塚古墳出土
3位 「鼉龍鏡」38.8センチ 出土地不明だが1位と同じ「鼉龍鏡」
http://www.emuseum.jp/detail/100584/000/000%3Fmode%3Ddetail%26d_lang%3Dja%26s_lang%3Dja%26class%3D%26title%3D%26c_e%3D%26region%3D%26era%3D%26century%3D%26cptype%3D%26owner%3D%26pos%3D825%26num%3D2
4位 「内行花文鏡」39.6センチ 下池山古墳出土
5位 「勾玉文鏡」35.7センチ 大阪紫金山古墳出土
https://lh6.googleusercontent.com/-wXRTdJSy-nk/VLPb5HnPYRI/AAAAAAAABc8/pCaHbl_7i9I/s2560/sikin359f.jpg

内行花文鏡だけが特に大きく作られる鏡種という訳ではないのがはっきり分かるな

いつものごとく、九州説は九州の情報しか見ていないから、偏った論説にしかならないんだよ

593 :
>>589
>最大なのが内行花文であり、大型鏡に内行花文が多いことは変わらないだろ。

>>592を参照

>ほんとイチャモンつけるだけのクズだな

クズはどっちだ?
よく調べもせずに適当なことをわめいてるだけなのが伊都国説ww

594 :
>>590
>まあまあ、キナイセツに迷える子羊にとっては、三角縁神獣鏡以外の鏡に目が向くようになっただけでも前進だよ。

キナイコシじゃなくていいのか?ww
伊都国説の人こそ、いろんな鏡を見たほうがいいと思うよww

595 :
>>592の続きは
佐紀陵山古墳出土(石膏模型)の3面だな
変形方格規矩四神鏡 32.7センチ
https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Ryobo/Viewer/7001000670000/13fd29465df845d1a1d1953cf8a64290
変形方格規矩四神鏡 34.9センチ
https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Ryobo/Viewer/7001000680000/c1f396e370674f8ca9253bba0298bae6
直弧文帯縁内行花文鏡 34.3センチ
https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Ryobo/Viewer/7001000690000/afe97a03a9d2456899e83ea787ce89f2

変形方格規矩鏡が2面に直弧文帯縁内行花文鏡だけれど、この直弧文帯縁内行花文鏡を見て
平原1号墓出土の大型内行花文鏡の後継だと考える人はいないと思うよ
内行花文鏡であること以外は共通点がない

さらにその次が千葉の祇園大塚山古墳出土の四仏四獣鏡 30.4センチ
https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Ryobo/Viewer/7001001000000/1e1c67f63291436080316c0bd8086302

やはり、内行花文鏡だけが大きくなったわけじゃないのが確認できるな

596 :
もうそろそろ、平原1号墓出土鏡が八咫鏡ってのは、否定されたって認めたらどうだ?

円周を測って鏡の大きさを表す例はない
鏡に限らず円形物を円周長で大きさを表す例はない
咫は周尺で16.9センチ程度 平原1号墓出土鏡の円周は8.63咫になる
神道五部書の御鎮座傳記では、八咫は大きさではなく八頭の古語であると説明されている
内行花文鏡以外にも、巨大化した鏡種は多くある
平原や三雲、伊都国に八咫鏡があったとする説話も伝承も一切ない

597 :
古墳時代より前に銅鏡が副葬されたのが九州の墳墓だけであるから、畿内を含めた銅鏡を副葬された古墳全てが九州の文化の波及であることは明らかだよ。
だから何だ?
まして、畿内大和が倭国大乱で筑紫から分かれた分家だとしたら、畿内の鏡が平原の鏡の直系でないことは、むしろ説の通りなんだよ。
伊都国説の強化をしてくれてありがとう。
畿内は、独自の銅鐸文化を放棄して、筑紫からの文化に塗りつぶされたようだね。

598 :
>>597
>古墳時代より前に銅鏡が副葬されたのが九州の墳墓だけであるから


うそはイカンぜよ。  @阿波

599 :
うそと言うより、極度の無知なんだろうな

無知が九州説を作った

600 :
>>597
>畿内の鏡が平原の鏡の直系でないことは、むしろ説の通りなんだよ。

つまり、平原遺跡の辺りは、周囲に影響を与えられない袋小路の小首長ってことだ

確かに「説の通り」だな

601 :
九州説は、内輪の文書だけを読んで、自己洗脳を続けているだけで、
外部のことをびっくりするほど知らないからなぁ

602 :
>>597
で、どうして九州は、独自の銅矛文化を放棄して、中国からの文化に塗りつぶされんだ?

603 :
うん?
銅矛はその後も祭祀用に進化して使われ続けたよ?
京都祇園祭りの山鉾巡行でも、てっぺんに鉾や長刀が立ててあるよ。
まあ、そもそも銅矛そのものが銅鏡とともに中国から入ってきたわけで、九州北部の文化は今でも畿内をはじめ各地に息づいてるよ。

604 :
>>603
>九州北部の文化は今でも畿内をはじめ各地に息づいてるよ。

>>598の「うそはイカンぜよ。」に対する返事は?

605 :
>>603
同時って、またウソついてるな

606 :
よくまあ平然として次から次へ真っ赤な嘘を思いつくもんだな九州説

607 :
>>603
> 銅矛はその後も祭祀用に進化して使われ続けたよ?

銅矛が何にどう変して、古墳時代に祭祀につかわれたんだ?

w

608 :
wiki 矛より引用

矛は金属器の伝来と共に中国から伝わってきたと考えられている。
材質は青銅製の銅矛で後に鉄で生産されるようになると、銅矛は大型化し祭器として用いられるようになった。
鎌倉時代では従来の矛や手鉾(てぼこ)が用いられていたものの、戦闘は馬上合戦の一騎討ちが主で、刀の作成技術の発達と流行から、太刀、長巻、薙刀が主力であった。
しかし鎌倉時代後期の元寇において元軍が用いた集団戦への対応や、足軽の台頭により、日本でも戦闘形態が徒歩の集団戦へと変化した。
それに適した武器として長柄の刺突武器が見直された結果、槍の誕生へと繋がった。

祭礼に用いる祭具として祭矛がある。
なお、祭具用矛は「儀矛」とも呼ばれ、神宝、神宝、威儀物などとして使用される。
それらは手矛であり、鍔は円形で金、柄は黒漆、鍔下柄に鰭をつけるが、赤地錦で先を三山に切り、金色の巴紋または神紋を取り付けることになっている[1]。

609 :
869年東北の大地震の後に行われた御霊会では、当時の国の数66本の矛(ほこ)を諸国の悪霊たちを宿らせる依代(よりしろ)としました。
「矛」は先が丸みをおびた槍。祭礼に使われました。
この66本の矛が今の山鉾の由来です。
初めは矛(鉾)だけでしたが、鎌倉時代には鉾のまわりで歌ったり舞う人たちが出て、室町時代には、この鉾と踊りと稚児さんがのる屋台が一体となって山鉾になりました。
こうして、もともとは八坂神社(当時は祇園社)での怨霊を鎮める神事である祇園祭ですが、次第に京の人々、町衆にとって大事な祭りとなりました。

https://hanasjoho.com/archives/10639

610 :
祇園祭は日本の祭りの中でもかなり長い伝統を持つ祭りだと思うのだけれどね。
その中心は祭器としての矛なんだよ。
祇園社は矛を祭器として用いたけれど、他の多くの神社では鏡を神宝としている。
九州北部を起源とする矛と鏡を祭器とする信仰は、現在でも全国で広く祭られている。

611 :
まぁ銅矛は廃れたといえ、一部神社では今でも神事に用いられるし、記紀にもやはり特別な存在として記載が残っている。

で、銅鐸は?
纏向土人の祭祀は、新勢力に廃止され、駆逐され、まったく日本人の記憶から消えてしまった(笑)

612 :
>>608
一生懸命調べたんだろうけれどw

>祭礼に用いる祭具として祭矛がある。
>なお、祭具用矛は「儀矛」とも呼ばれ、神宝、神宝、威儀物などとして使用される。
>それらは手矛であり、

手矛と、北部九州の大型化した銅矛は、「矛」と呼ばれること以外に共通点はほぼないぞ

九州で発掘された小型銅鐸と畿内中心の大型の見る銅鐸が別物なのと同じ

613 :
矛だろw

614 :
祇園祭の山鉾はめちゃくちゃ大きいぞ。
でもちゃんと九州の矛からの進化をたどることができる。

615 :
じゃ古墳時代から奈良時代の祭礼用矛を例示してみて

616 :
勝手にしてろ。
平安、鎌倉、室町から現代まで、祇園祭を例にしておさらいしたろ。
大事なのは、現在までその矛は祭器として用いられていることだろ。

617 :
>>616

>>614
>九州の矛からの進化をたどることができる
っていってるじゃん

それともできないの?

618 :
wiki 矛より引用

矛は金属器の伝来と共に中国から伝わってきたと考えられている。
材質は青銅製の銅矛で後に鉄で生産されるようになると、銅矛は大型化し祭器として用いられるようになった。
鎌倉時代では従来の矛や手鉾(てぼこ)が用いられていたものの、戦闘は馬上合戦の一騎討ちが主で、刀の作成技術の発達と流行から、太刀、長巻、薙刀が主力であった。
しかし鎌倉時代後期の元寇において元軍が用いた集団戦への対応や、足軽の台頭により、日本でも戦闘形態が徒歩の集団戦へと変化した。
それに適した武器として長柄の刺突武器が見直された結果、槍の誕生へと繋がった。

祭礼に用いる祭具として祭矛がある。
なお、祭具用矛は「儀矛」とも呼ばれ、神宝、神宝、威儀物などとして使用される。
それらは手矛であり、鍔は円形で金、柄は黒漆、鍔下柄に鰭をつけるが、赤地錦で先を三山に切り、金色の巴紋または神紋を取り付けることになっている[1]。

619 :
869年東北の大地震の後に行われた御霊会では、当時の国の数66本の矛(ほこ)を諸国の悪霊たちを宿らせる依代(よりしろ)としました。
「矛」は先が丸みをおびた槍。祭礼に使われました。
この66本の矛が今の山鉾の由来です。
初めは矛(鉾)だけでしたが、鎌倉時代には鉾のまわりで歌ったり舞う人たちが出て、室町時代には、この鉾と踊りと稚児さんがのる屋台が一体となって山鉾になりました。
こうして、もともとは八坂神社(当時は祇園社)での怨霊を鎮める神事である祇園祭ですが、次第に京の人々、町衆にとって大事な祭りとなりました。

https://hanasjoho.com/archives/10639

620 :
矛という武器およびその形状をした祭器の歴史は書いてあるけど
弥生から平安までの進化をたどってるとはいえないね

日本語に不自由なの?

621 :
ちなみに祇園祭の神様はスサノヲだそうだ。
スサノヲのシンボルが矛で、アマテラスのシンボルが鏡なのかな。
古代の二大勢力であった筑紫と出雲の神様だな。
それが日本の祭りの基本なわけだ。

622 :
>>608
>材質は青銅製の銅矛で後に鉄で生産されるようになると、銅矛は大型化し祭器として用いられるようになった。

623 :
出雲の大国主が国譲りで倭王の位を高天原に譲って、天孫が降臨して成立したのが筑紫の王権だ。
出雲と筑紫の象徴としての矛と鏡を祭るのは、大変に理にかなっているように思われる。
この文化がやがて畿内を含む日本全国の祭りとなった。

624 :
>>620
今日まで辿ったから十分だよ。
あとは夏休みの宿題として調べておきなさいw

625 :
>>622
それ弥生時代のことだね
で、そこから大型の銅矛が平安時代までの進化の過程はどこに書いている?

日本語読めないの?

626 :
>>624
逃亡www

627 :
伊都クズは嘘つきだからな

628 :
伊都厨さんはおおかた八咫鏡や三種の神器といっしょでイメージだけで語ってるんだろ

629 :
>>621
>スサノヲのシンボルが矛で、アマテラスのシンボルが鏡なのかな。
>古代の二大勢力であった筑紫と出雲の神様だな。

出雲風土記を読む限り、出雲の主神は大国主であって、
スサノオは大国主神の父祖神であるというだけで影が薄く、特に活躍もしない
ヤマトの三輪山の大物主神も、大国主神の同体神とされるがスサノオは関係ない

やはり知識が足りないな

630 :
記紀がどれだけスサノヲに行数を割いていると思っているんだ?

631 :
纏向銅鐸土民アワレwww

632 :2018/08/07
>>630
>記紀がどれだけスサノヲに行数を割いていると思っているんだ?

記紀、特に古事記の神話体系を理解していないだろう?

古事記では、
皇統の父系を天神・天孫・大和系とし、
   母系を地祇・出雲系としている
だから、神武につながる系と、神武皇后のイスケヨリヒメにつながる系に
紙数を割いてるんだよ

        大和系     出雲系
天地初發  高御産巣日神   神産巣日神
国産み   伊邪那岐命    伊邪那美命
三貴子   天照大御~    建速須佐之男命
葦原中國  日向三代     大國主~〜事代主~
皇統の開始 ~倭伊波禮毘古命 伊須氣余理比賣

日本書紀では、出雲神話は大幅に割愛されてる
正史はあくまで日本書紀だから、正史では出雲はそれほど重視されていない  

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