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古事記以前の書物について


1 :2017/08/31 〜 最終レス :2020/05/08
ウエツフミ、豊国文字など本当の日本の歴史について
詳しいかたいますか?
時系列が難しすぎて混乱しています。
だれか教えてください。

2 :
豊後の大友能直がサンカの民から無理やり仲間を殺して書物を奪った
と書いていたり、
大友能直が、サンカの民から日本の正当な歴史書を保存するために口碑から書物に保護したなど。言ってること解釈が違ったり
混乱しています。

個人的には大友能直は保護したため、後の権力者たちから、悪者扱いされるようになったと思っています。

今の古事記が元々の日本の正当な歴史からその時の権力者の都合の良いように書き換えたのは
公に出来ない事実と思っています。

3 :
708年、禁書についての詔勅が出されている。
日本書紀の編纂と平行して、それと矛盾する歴史書は全て廃棄された。
その後も、戦国時代と明治維新直後に大量の古文献が失われた。

4 :
>>1
オカルト板でやれ

5 :
>>4
オカルトじゃなくてちゃんとした学問でしょーよ。

6 :
>>3
と言うことは、やっぱりあの頃から正当天皇の系譜が入れ替わってるって事になりますよね。

7 :
>>4
あと反対意見や正当日本史に詳しい人から反論や
ソースが欲しいの。

8 :
http://up2.cache.kouploader.jp/koups19669.jpg
古事記の正体そのものが
本来、古事記よりずっと古いものと思われる

9 :
帝紀や旧辞はどのようなことが記述されていたのか気になるな

10 :
>>8
明らかに何かを改竄して作られたのが古事記だと思う。
それが、ウエツフミだと思う。

11 :
>>9
時の政権の都合の悪いような事が書いてたんじやないのかな。

12 :
大友能直が

何世代も何年も経ったあとから、吉備真備が、漢字を参考にして、もともと「形仮名」と呼ばれていた豊国文字を、「片仮名」としてしまったのは、誠に残念なことである。

漢字のなかに似たカタチがあったので、思いついたのだろうか?
その漢字から取った一部分を豊国文字に移し変えて、18文字を変更してしまった。

これにより、皇祖皇孫の歴史もいつのまにか消え失せ、今は漢字で書かれた古事のはしくれだけが残ることになってしまったのは、それだけでも耐えがたいのに、なんと情けない世の中になったことかと、思わず袖を濡らしてしまうのである。

そのことも知らずに、漢文や仏教を学ぶ人たちが多いことも残念なのだが、
そもそも戦乱の世の中となった根本原因は、漢文を尊重したからである。

殿上人たちが、仏教で人民を教化し、大仏を造り、はては漢文に長けた者たちを博士として、神代からの臣たちの上に置いてしまったのでは、世の中が乱れるのは当然である。

その殿上人が、皇孫であるにもかかわらず、わが国の道理を見失ってしまったことは、まるで、庶民の諺にもあるように「猪の肉を食べればカタワになることを知りながら、味が良いのでついつい食べてしまうこと」と同じではないか。

だから、「神の道に背いて、漢文や仏教ばかりを尊ぶものは、卑しいもののふである!」と、悶々としている頃、


と言ってるらしい。

13 :
肉食禁止は仏教の教えそのものなのに、なんだか捻れている変な文章だな。
言葉は進化するものだし。
ただ、古文書は大切にしないといかんよ。

14 :
>>13
そうだよ、だから大友能直か嘆いてる
どこもみな、漢字や仏教にうつつを抜かして
神代文字(豊国文字?)をカタカナに変えたりと。

15 :
個人的に、思うんだけど
やっぱり古事記は以前の竹内文書やウエツフミ文書と言ったものを改竄して作っていて、
天皇の系譜もいじってる気がするなー。
けどそれは、キリスト教がローマの遺物を徹底的に排除したのとは違って、
裏で朝廷とのやり取りが合って、緩やかに面にださず交代している気がする。
強引に武力で排除したわけではなさそう。
そうじゃないと、代々サンカの民が昭和の20年頃まで目撃されてたり、文化がちらほら一般にこぼれ出たりしないと思うんだよなー。
一種の取り決めがあったような気がする。

16 :
このサンカの民を目撃したりした当時の人達は、
たまに仲間同士で謎の言葉で話したとも言うし、
古代文を大切に継承していたみたいだし。

17 :
長く「記紀」にならぶ歴史書として信じられていた聖徳太子による撰録とされる
「先代旧事本紀」は、平安時代に捏造された偽書であることが江戸時代に明らかにされま
した。それ以外の「記紀」以前の歴史書はふるいません。その多くは、神道の理論書と
して作られた偽書の意味合いが強かったり、時流に乗った信仰宗教の宣伝媒体のようです。
「ホツマツタエ」
1775年(安永四年)に井保勇之進が宮中に献上しようと企てたことが古文書によって知られ
ています。これは、出現の時期が早いものです。これだと称する文書は1990年代に公表されています。
この文書は、明治期に出現した写本(宇和島で発見されたもの)で有名です。
この古文書の支持者である小笠原長武(1851-1922)が歌人の佐佐木信綱を通じて宮中に
献上しようと企てましたが、彼から否定的な評価を受けて果たせませんでした。

18 :
>>17
古史古伝と呼ばれる荒唐無稽な「歴史書」の中には、「記紀」が一代の神名として扱う
「ウガヤフキアエズ」を長く続いた王朝として、その歴史を延々と記述する一群のものが
あります。「ウガヤフキアエズ朝」ですね。この部分の歴史を詳述することによって、
神国日本の有り得るべき理想像を訴えたと思われます。また、真似をして作られた古史古伝
にも、この部分がコピーされて残ることになります。
これら一群のものの初出が、
「上記」幸松葉枝尺が1874年に政府に写本を献上する。ウガヤフキアエズ朝の記述あり。
これが種本となって、その後の古史古伝が作成されたと思われます。
たとえば、
「富士文書」美輪義熈が1921年に公表したもの。ウガヤフキアエズ朝の記述あり。
「竹内文書」竹内清麿および支持者たちが、1928年に公表され、内容が増加させながら
1931年に合資会社として天津教大司庁を設立。ウガヤフキアエズ朝の記述あり。
「九鬼文書」三浦一郎が1941年に公表したもの。ウガヤフキアエズ朝についての言及が
ある。

サンカ文字が「上記」の記述に用いられた豊国文字と類似した文字であるというのは、
昭和初期の小説家三角寛の創作であるとされています。

いずれも学術的な検討に値しないものなのが残念です。「記紀」以前にも歴史書のようなものは
あったが失われた、ということでしょう。

19 :
ホツマツタエは、俺でも読めるくらいに表現が新しい。
明らかに後世の作。
ただ、内容の真偽は不明。

九州北部の倭国王朝は紀元前から長く続いていたが、記紀では神代の巻の王の数が足りない。
伊都国王墓群の年代だけでも、日向三代より多い可能性があり、ウガヤフキアエズ朝がもう少し長かった可能性はなくはない。

20 :
>>18
うーーん、結局は今の政権の系譜に歯向かうような物を出したら偽書扱いは絶対にされるとは思うんだけどな。
それを言ったら、終わりなのもわかるけど。

創建1万5千年以上とされる熊本県阿蘇郡にある「日の宮幣立神宮」の御神体「日文石板」は、
約20〜30万年前のものですが、その表には「豊国文字」で「ひふみよいむなやこともちろら、ねしきるゆいつわぬそを、はたくめかうおえに、さりへてのますあせゑほけれ」と記されています。


この意味は「大量の糸の原料となる真麻欄(まおらん)を採取し、それから取った縷(細い糸)を紡ぎ、衣料を整え、強い兵士を大量に育成せよ。そうすれば交戦してくる悪い部族の敵は彼方に退散する。神様がくださった広大な田畑を心してしっかり耕作せよ」となるといいます。

弊立神宮とかが古代の日本の歴史を残してる証拠だとも思うんだけどな。
ここの5色人祭とかが、竹ノ内文書や、ウエノフミ文書の後押しになるとも思える。

21 :
>>20
>創建1万5千年以上とされる熊本県阿蘇郡にある「日の宮幣立神宮」の御神体「日文石板」は、
>約20〜30万年前のものですが、

20〜30万年前に書かれたわけじゃないだろ?
一気に嘘くさくなった。

22 :
神代文字で書かれてるのは総じて後世の創作だろう
ただごくごく稀に部分的な史実を伝えてるものは存在するかもしれんが
立証するには考古学的な証拠も揃えないと

こんな輝かしい王朝がありました→発掘したら楼すらないただの村落じゃあ

23 :
そもそも3世紀の卑弥呼が盛んに魏と文通していたから、その頃から政権の中心には漢文を解する層があったはず。
後漢だって、まともに言語が通じない相手に金印はやらない。

神代と言うのが実は筑紫に王朝があった時代のことだとすれば、それはもう中国側で倭の歴史が記録される時代な訳で、倭の側にもすでにある程度の漢文が使われていた。
それは伊都国の硯の出土で明らか。

紀元前より遥か前の時代が記録されていたと言う証拠は全くない。

24 :
>>21
まーまー、そうなんだけどね、
ちょっと5色人祭りで調べてみてよ。
面白いから。

25 :
>>23
そらぁだってそれは魏の時代でしょ?
邪馬台国が漢文を使ってて敵対してる国が
縄文人達の国で神代文字を使ってたら、魏からしたら記録を残すまでもないし、
そもそも中国がそこまで昔の書物を正確に
のこしつつ、他国の事を詳細には書いてる保証の方がないんじゃない?
邪馬台国の位置ですら適当な事いってんだから。

26 :
竹内巨麿も、吾郷清彦もうっさんくせー奴らだから基本コイツらの主張したものは信じてはいないけど、金儲け感があるし今で言うフリーターみたいなやつらでしょ。
大友能直や、楢崎皐月なんかは意外としっかりした人物じゃん。

27 :
>>23
秦人の徐福と彼が引率してきた3000人の子孫らが日本の歴史の骨格ですよ?

28 :
>>26
大友能直は、『上記』の序文に出てくるだけで、『上記』は、彼とは関係ない偽書とされていますね。
楢崎皐月は、思いっきり怪しい感じです。「カタカムナ文明」ですからね。
工学系の技術者で、おかしなことを言う人はけっこういますね。
医師(医学者)や心理学者、地質学者にもいました(います)が。

29 :
トンデモ歴史家を引き付けやすい分野だから立証は特に慎重に
仮に立証されても記紀ですら虚飾は認められるんだから内容の検証も慎重に

30 :
>>28
そうそう、偽書扱いにして闇に葬ろうってやつだったのかなーって。
憶測の域を越えないのはわかってるんだけど。

楢崎皐月もたしかに、あれだけどww

31 :
みなさんは、いまの正史とされてる古事記や
日本書紀については、なんの疑いもなく
納得はしてるんですかね。

32 :
納得はしてないけど大筋は考古学的な遺跡や古墳、残存地名、神社などの分布を見てもそんなに的外れじゃない
記紀に基づいて細部がどうあってるかどう違うか検証していってる所でしょ

33 :
国家神道の時代は闇に葬ろうとする動きはあったと思うけど
最近は提示される説自体、研究に値する段階に至ってないという理由で無視されてるにすぎないと思うよ

世に出したければきちんと立証すればいい論理に矛盾なく証拠もそろってれば説として採用されると思うよ

34 :
古事記も長らく偽書扱いだった。
編者の阿倍仲麻呂の墓が見つかって、信用されるようになった。

35 :
>>34 太安万侶でしょ

36 :
太安万侶だろ

37 :
太朝臣安万侶の墓碑が発見されたのは、まだ私が小学生だった頃。
だから、偽書だなんだと言う議論は、必ずしも確定的なものではない。

38 :
>>34
ああ、これは書き間違い。
すまんね。
スマホだと予測変換が効きすぎる。

39 :
現在は、かなり研究が進んでいるので、新しい「古文献」も詳しく検討されます。
研究者は、基本的に新しいこと(従来の説の比定や新しい発見)を目指していますが、
あまりにヘマな新説を出すと「研究者」としての信頼性を下げることになります。
「三郡誌」とか。

「記紀以前の歴史書」というものが検証に耐えるのはますます難しくなるかと。
江戸時代や戦前ではありませんからね。まあ、昔でも「先代旧事本紀」や「先代旧事本紀大成経」は、
偽書として説得力を持って否定されたし、「竹内文書」もあっという間でしたね。

かずかずの戦乱で失われてものもあるでしょうね。ただ、逸文として残っていない、というのも不思議ですが。

40 :
先代旧事本紀はまだ未確定だろ。
一番ありうると思っている。

41 :
おれは古代史は詳しくないからわかんないけど、
ここに書き込んでる人達はロマンはある?
こーだったらいいなとか、持論だけどこうだと思うとか。
そーいうの聞きたいなー。ロマンがないと歴史は改められないしね。
トロイの遺跡発掘した人もロマンだけで見つけたからね。

42 :
>>41
特に邪馬台国とかの話が聞きたいな。
みんなどー言う風にとらえてるのか。
自分が詳しくないから余計に。

43 :
>>42
非常に活気のある邪馬台国関連のスレを覗くといい。
個人的には、魏志倭人伝と、記紀の神代の巻の内容は、矛盾なくすり合わせることができると考えている。

44 :
ロマンは原動力になるけど立証を伴わないと95%の人はただの我田引水、牽強付会になるから
そうなるともう2chで不特定多数との会話が成立しない

邪馬台国スレとか見てたらわかるだろ?
みんな自分の地元であって欲しい→地元であるべき→地元にあったに違いないになってる

45 :
>>44
九州説だと内外の史書も考古学的証拠もすべて一致している。
我田引水は心外。

46 :
まず自説ありきで都合のよい論理を集めて補強してるのは我田引水、牽強付会だよ
仮に結果的に九州説に至るとしてもその過程で畿内説の可能性は本当にないのか?他の可能性は?まで含めて考えて組み立てた論でないと学問じゃない

47 :
>>46
さんざん論議して、畿内の可能性は他の地域(例えば阿波)よりむしろ低い、というか考古学的証拠がケタ違いに九州北部。
そして文献もピンポイントで九州北部。

48 :
>>40
「先代旧事本紀」は、推古朝の成立とされていますが、内容の大部分は、古事記、日本書紀、古語拾遺から
の文章を切り貼りして作られたもので、それら三つの書物の文章が「旧事本紀」に見られるがゆえに、
『これら三つの書が「旧事本紀」をもとにして別々に書かれたに違いない!』と人々は誤解しました。
また、難解な日本書紀の内容をわかりやすくまとめて表現しているので、さすが!聖徳太子!とも誤解した
ようです。
他には、異常に物部の活躍や系譜が詳しく記事として着されていることが注目されていますね。物部が大臣や
大連として歴代天皇に使えたとする記事が多く、また、物部の女が后となって皇子を産むという話もあり
ます(景行条)。物部氏が代々別格の地位にあったということを述べているのですから、物部氏に縁のある
者が作ったのだろうと考えられました。

しかし、物部についての記述一辺倒というわけでもないのが気になります。そうであれば、欠かせない物部
麁鹿火や物部尾輿の功績についての言及などもない。また、継体朝以後の物部氏の活躍も記されていない。
ただ、石上大神の鎮座次第や石上神宮創建の記事、そこに収蔵されている神宝についての記事が詳しい。
石上神宮を顕彰する意図を持った文書であり、石上神宮の関係者が作者では?とも言われています
(本井田菊士の説)。

49 :
先代旧事本紀の方が古いよね。
饒速日が神武より前に東征していて王として君臨していたことがわかる。
それを頼って神武が畿内に落ち延びて来た。
石上は饒速日ゆかりの神社だし。

50 :
結局、古代日本に関しては大陸側の記録もほとんどないから照合して検討するとかできないんだよな
身内で倭國大乱とかやってないで、中国に殴り込みかけて「な、なんだこの蛮族は」とか思わせちゃえば
興味をひかれて詳細な記録が残ってたかもしれんが

51 :
それこそ滅ぼされてしまっただろう。
アホか。

52 :
神功皇后の朝鮮侵攻って当時の中国から見るととるに足らない出来事だったのかな?
白村江でボコられた件についてはちゃんと向こうの記録にも残ってるのに

53 :
>>52
辺境の蛮族が越境してきた程度の感覚じゃない?日本で言ったら、琉球王国が島津家に戦争仕掛けて、鎮圧されたくらいじゃない?

54 :
東夷の国々の争いに過ぎないからね。
唐が大部隊を送り、数々の国が滅びだ白村江とは違うよ。

55 :
白村江の時点だと、日本は高句麗に匹敵するような極東の軍事大国って印象なんだよな
卑弥呼の頃は、東の果てにはこんな国もあるんだよとさらっと紹介する程度だったのに

56 :
(宋史日本伝より、記紀にハブられた神々が沢山いる)
其年代記所記云初主號天御中主
次曰天村雲尊其後皆以尊為號
次天八重雲尊次天彌聞尊
次天忍勝尊次贍波尊次
萬魂尊次利利魂尊次
國狭槌尊次角龔魂尊
次汲津丹尊次面垂尊
次國常立尊次天鑑尊
次天萬尊
次沫名杵尊
次伊弉諾尊
次素戔烏尊
次天照大神尊
次正哉吾勝速日天押穂耳尊
次天彦尊
次炎尊次彦瀲尊
凡二十三世並都於筑紫日向宮

57 :
>>56
「先代旧事本紀」から混入したのでは?

58 :
筑紫日向宮ってどこ?

59 :
というか、朝鮮とか日本より早く漢字が伝わってただろうに、記録残す文化が育ってなかったのは痛かった
百済とか高句麗は滅びちゃったから仕方ないとして、新羅のリアルタイム文献があれば
日本の古代史の解明にも相当な貢献があっただろうに

60 :
>>59
歴史記録はあったが、逸失したのでは?
日本の歴史についての言及したものもあったかもしれないのに、惜しいことです。
中国の歴史書以外に朝鮮のものも使って(史料批判して)、日本史の研究に使えただろうに。

61 :
>>60
何度も王朝が変わってるから歴史書が残りにくかったのかもな
中国みたいに王朝が変わったら旧王朝の遺臣に史書を書かせるというルーチンワークがないと、
旧王朝の記録なんてすぐ散逸しちゃうだろうし

62 :
>>59
あの国は李氏朝鮮時代が酷かったから
あったとしても、その頃に全部だめ押しで消失してるんじゃないかな。

63 :
日本に入り込み変なの多すぎじゃね?

64 :
>>61
勢力の拮抗する国に分かれて、中国の王朝からの介入(軍事的な動きが実際にあった)による戦乱が頻発したので、
「統一された」歴史書がのこされる機会が日本よりも少なかったのかもしれません。

65 :
>>56
記紀以前の歴史書が中国に渡っていた証拠だな

66 :
>>65
恣意的に代を古くしていて、同じ人を名を変えて2順3順〜している雰囲気がプンプンします

67 :
天御中主=国常立=豊受大神=イザナギ/スサノオ/天照皇大神。=ニニギ(ニギハヤヒの事)

68 :
>>65
この文書(日本王年代記)は日本の円融天皇の御代(平安時代)に宋に留学した僧侶のチョウネンが(天皇家と朝廷の意を酌んだ系譜を)携え提出した物である事が早くから判明しています。

69 :
>>56の二十三世の部分が新唐書では三十二世になってるんだよな
いずれにせよ、記紀とは違う歴史書が参照されたのは間違いないし
記紀と内容が違うという事は、それらより古い資料を元にしてるのではないか?

持ち込んだのは、最澄か空海あたりか?

70 :
>>68
そうでしたか!
これが正式な国史だったのですね
記紀は物部氏の系統が排除されたんですね

71 :
>>53
もし日本書紀の記述そのままだとしたら、江戸時代に当てはめると
「琉球が島津を降伏させ、日向肥後を侵略し九州北部に迫るも黒田藩の奮闘によりなんとか撃退」
というレベルの大事件では…

72 :
>>68
偽書とされている「先代旧事本紀」の知識が日本から伝えられたのでは?
まだ、その頃は、信憑性のある「歴史書」とされていましたから

73 :
中国の史書に書かれてる倭国大乱も結局よくわからんままなんだよな

74 :
>>67
何人も同一視して馬鹿馬鹿しい。
上の記事にあるように、それぞれ別の王だよ。

75 :
>>73
倭国大乱の前に男王70〜80年とあり、それが伊都国の王墓群の時代なんだよ。
伊都国の初期の王墓である南小路遺跡が邇邇芸の墓の可能性があり、ならば男王の時代とは日向三代となる。
倭国大乱で天孫族が筑紫を出たのかもしれない。

76 :
>>56
筑紫日向の宮ってどこだよ

77 :
やはり高祖山の周辺だろうね。
日向峠、日向川などの地名が今もある。
筑紫の日向の小戸でイザナギが禊をしたことが祝詞に歌われていて、福岡市西区の小戸ヨットハーバーのあたりらしい。
もともと博多住吉神社はそこにあったのだとか。
高祖山の最高峰をクシフル山と言うそうな。

78 :
【筑紫の日向】

福岡県の高祖山の最高峰は高地山。
いわゆる高千穂と同じであろう。
古くは別名をクシフル山とも言ったとのこと。
クシフルとは、チクシのフル(村落、国邑)の意味だそうだ(九州では国邑の名前としてフル、ハラ、バルなどを用いる)。
麓には室見川の支流である日向(ひなた)川が流れ、この山を越えて福岡市と糸島市を結ぶ峠は日向峠と呼ばれている。

ニニギが降臨した地である高千穂としては今日では宮崎県が比定されることが多いが、古事記において天孫降臨の地は「筑紫の日向(ひむか)の高千穂の峰のクジフル岳」とあり、筑紫(福岡県)のクシフル山とするのが合理的である。
日向三代の伝承を南九州に比定するのは記紀の誤読であり、何の根拠もない。
考古学的には、三種の神器を伴う古代墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。

伊都国の三雲南小路遺跡には王と王妃があわせて葬られており、拝殿である細石神社の祭神は磐長姫と木花開耶姫の姉妹であることから、被葬者はニニギと、その妃である木花開耶姫という説がある。
また、この細石神社は江戸時代まで「漢倭奴国王」の金印を保管していたと伝えられている。
平原遺跡の1号墓からは直径が漢代の二尺(直径46.5cm)であり、円周はちょうど八咫(あた)となる超大型内行花文鏡が出土している。
八咫の鏡(やたのかがみ)はアマテラスが孫のニニギに託した王権の象徴であり、三種の神器の一つである。
ここが倭国の都である筑紫の日向の高千穂宮であったことがわかる。

クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故に、 此地は甚吉き地かな」とある。
韓国の正面に位置することができる立地条件は宮崎県では矛盾するが、福岡県の高祖山ならまさに朝鮮半島への玄関口であり、笠沙岬は博多湾の出口に横たわる半島である志賀島のことであると考えられる。
高祖山からは東に福岡平野の倭奴国、西に糸島平野の伊都国があり、倭国を代表する新旧の王都である。
高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城があった、
怡土城と高祖宮が高千穂宮に比定することが可能である。
ここが天孫降臨の舞台であり、神武東征の出発地である。

79 :
邪馬台国九州説で初期のものといえば、鶴峯戊申の「襲国偽僣考」(1820)ですね。
邪馬台国は襲国であり、大隅半島の囎唹郡にあったという(魏志の記述から)。
後の、邪馬台国九州南部説のもとですね。この襲国が大和朝廷を僭称して魏に使節を
送っていた、という主張です。
邪馬台国を大和民族とは別の熊襲が築いた国であり、九州の筑紫だっという説は、
先に、本居宣長によって唱えられました(1778年)けど。
日本書紀は、邪馬台国=大和、卑弥呼=神功皇后、としていますね。

戊申は、臼杵の神官の子供として生まれて、宣長に心酔して国学と復古神道を学んだ
ということです。

80 :
日本書紀は明言することなく、神功皇后の年代を卑弥呼にぶつけている。
しかし、海外の史書との関係から、神功皇后の記事は120年前倒しされていたことがわかってきた。

現在の九州説は、かつての九州説とは関係なく、弥生文化伝播発祥の地である玄界灘沿岸地域に弥生王墓が多数集中することから、これが倭国王として漢や魏に朝貢していた王たちであるとするものである。
また、記紀の神代の巻の記事も、これら九州北部の歴史の断片であると考えると、考古学的な証拠と矛盾なく読めるのである。

81 :
古代の神、すなわち王家には大きく分けて天つ神(天神)と国つ神(地祇)の分類がある。
天つ神はアマテラス(天照大神)の家系の神であり、海を越えてやってくる渡来人系の人々である。
天つ神のアマは、本来は海人の意味であったという説があり、確かにそのような読み替えは古事記などの記事を、超越的な存在を用いることなく、うまく説明することができる。
国つ神は天つ神以外の神々のことであるが、古来からの縄文系の人々や、アマテラスの直系ではない神々である。
国つ神を代表するのは全国のクニをまとめていた大国主であり、スサノヲの末裔であるといわれる。
稲の収穫を終えた神無月には神々が出雲の大国主のもとに集ったとされており、部族長が集まり祭祀を行っていたことを意味していると考えられる。
マテラスの名前は、天上を照らす太陽神の意味ではなく、本来は海洋を支配する王「海照らす」の意味であり、対馬海峡の漁撈と交易により成立した海洋国である倭国の王にふさわしい諡である。

82 :
倭国は海洋部(アマ)と陸上部(クニ)がしばしば分割統治されていたが、出雲の大国主を倒した後に海上と陸上をあわせた王となったのは、アマテラスから十種の神宝を継承した孫のニギハヤヒである。
ニギハヤヒの末裔である物部氏の伝記である先代旧事本紀における名は天照国照彦天火明櫛玉饒速日(アマテルクニテルヒコ アマノホアカリ クシタマ ニギハヤヒ)とあり、海洋と陸上を統治する王である。
その弟のニニギは古事記では天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命(アメニギシクニニギシ アマツヒコヒコ ホノニニギノミコト)と表記され、やはり倭国の陸海にまたがって君臨する王である。
ニニギの称号はアマテラスから海上部、オオクニヌシまたはヤマツミから陸上部の支配権を継承したことによるものである。
古代においては兄弟相続が一般的であり、ニギハヤヒの後をニニギが継いだが、ニニギの王統が最終的に天皇家につながると考えられたために後世ではニギハヤヒが重要視されなくなったのかもしれない。
サルタヒコは海上と陸上を支配する(照らす)神として紹介されており、博多湾岸を支配者していたが、イザナギとイザナミの子の一人であるヤマツミ(山祇、大山津見神)の下の官であったため、争うこと無く協力関係が成立したのだろう。
高祖山の麓にある高祖神社の祭神はニニギの子であるヒコホホデミである。
ニニギのもう一人の子であるホオリ(火遠理命)はワダツミ(海神、綿津見神)の娘である豊玉姫を后とし、その子のウガヤフキアエズ(鵜草葺不合命)は豊玉姫の妹の玉依姫を后としている。
ヤマツミとワダツミは九州北部の二大勢力であったが、天孫族がその間を取り持つ形で早くから姻戚関係を結び、長らく倭国王家として栄えたと考えられる。
オオヤマツミには和多志大神の別名もあり、海神としての性格も併せ持つため、ニニギより前に海洋と陸上をあわせて支配した王であるが、男系では王位を継承しなかったために歴史上はニギハヤヒやスサノヲと同様に傍系として忘れ去られようとしてしまっている。
海神と山祇の関係は、天神と地祇の関係の類型でもある。

83 :
記紀と異なる歴史を伝える古史古伝としては、秋田県の唐松神社に伝わる「物部文書」がありますね。阿比留草文字で書かれていた、ということです。
戦後に発表されたものですが、偽書である「先代旧事本紀」の影響を受けています。
この文書によると、饒速日命が天神の命をうけて天の鳥船にのって鳥見山に降臨する。
ここから大和を目指して西征を開始、長髄彦と和睦・離反して神武天皇の東征軍に帰順する。
「先代旧事本紀」では、物部氏の祖先とされる天忍穂耳尊が哮峯(交野市)に降臨して、長髄彦と和睦・離反して神武天皇に帰順する、とされています。

両方合わせると、2つの物部が西と東から大和に向かってやってくるという。
東北地方の地位向上を目的として古史古伝なのかもしれません。

84 :
唐松神社の神宝がウソくさいからなあ。
同じ名前のものが籠神社にあり、明らかにそちらが本物だから。

85 :
>>55
卑弥呼は地方の国だったんだろうね
白村江の戦いは連合国家

86 :
>>85
卑弥呼の頃から大国扱いだよ。
金印までもらっているし。

87 :
基本的には口伝で
論理的な整合性が正当性を生むという概念もなかったろうしねぇ

88 :
記紀以前の書といえば、聖徳太子の作と伝えられる予言書(多数)があり
ますね。「日本書紀」に聖徳太子が「未然のことを識る」とされているの
で、彼が予言書を残しているだろう:という考えが、それらの書物(偽書
群)の作成基盤となっているのでしょうけど。
最古のものは、ゆかりの天王寺の「本願縁起」。平安時代の衰退した天王
寺の再興のための文書です。
楠木正成による倒幕のための挙兵のきっかけとなったという「太平記」で
の記述もあります。
その時代における政治状況に正当性を与える目的で作成された、というこ
とでは、他の偽書の作成動機と同じです。

89 :
記紀以前の文字による記録が紙の形で残ってるというのは難しいかもしれないから、
碑文の発掘とかを期待するしかないのかな?

90 :
>>86
それを言うなら委奴国時代からだろ

91 :
>>84
籠神社の鏡って帥升のときに貰ったの?

92 :
一枚は前漢、一枚は後漢。
後漢の方は帥升かもしれないしそうではないかもしれない。

93 :
故 其天之日矛持渡來物者 玉津寶云而
1. 2. 珠二貫
3. 又 振浪比禮
4.   切浪比禮
5.   振風比禮
6.   切風比禮
7. 又 奧津鏡
8.   邊津鏡

伊都國王難升米の直系の御先祖(父と祖父)

94 :
天之日矛は、どうもひっかるなぁ

名称や宝の名前がどうも日本語くさいというか…
意訳して日本語になってると言うより
初めから日本語だったんじゃないかって感じ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%8E%E3%83%92%E3%83%9C%E3%82%B3#.E5.9E.82.E4.BB.81.E5.A4.A9.E7.9A.8788.E5.B9.B4.E6.9D.A1
↑の話も出雲振根の話を下敷きにしてる様に見える
https://kotobank.jp/word/%E5%87%BA%E9%9B%B2%E6%8C%AF%E6%A0%B9-1053819

日本神話をむりやり新羅と関係づけてるんじゃないだろうか?
(もとは常世とかだったりして?)
都怒我阿羅斯等とかにしても

そもそも、大和朝廷に応神天皇以前の記録が
まともにあったのかが怪しい

95 :
>>89
金石文などの「非文書」文字記録の発見はなかなか難しいのではないでしょうかね。
未発掘の古墳を発掘すれば、断片的なものは発見できるかもしれませんが。
ペトログリフなどと同様に、それが彫りつけられた年代の推定が容易ではありません。
法隆寺金堂薬師象光背銘などは、記紀よりも古い記録であると考えられたこともありますが、これは、後の時代に追加されたものであろうと考えられていますね。
「天皇」の号の使用開始はいつか?という点で注目されたものですが。

96 :
ペトログリフって何?ヒエログリフのこと?
ろくに調べずに書いたんだろうけど古代エジプトでは必ず○王の治世〇年目って書くから年代の特定はそんなに難しくない
だからナルメルというすごい昔の王様ですら即位期間がかなりハッキリしてるわけ

97 :
おっとググったらマジであったなペトログリフ
岩絵のことか
でも古墳時代にはすでに年号の使用が見られるのでそれほど年代の特定は難しくないのでは
未盗掘の古墳から見つかったのなら改竄の可能性もないだろうしな

98 :
>>92
古い方は、委奴国王のとき 57年
新しい方は、倭面土国王のとき 107年 
じゃないの?

99 :
>>98
そもそも考古学的に前漢鏡、後漢鏡とされているよ。
7. 奧津鏡
8. 邊津鏡
この二枚なんだけどね。
日矛は便利に使い回されている称号に見える。

>>93
>故 其天之日矛持渡來物者 玉津寶云而
は、饒速日の十種の神宝と被っている。

100 :
倭面土国は何と読むのですか?
ヤマトですねわかります

101 :
[天]  之 日 [矛]
[阿毎]多利思[北孤]

[北孤]が[矛]に文字変換 置き換えされている
[北孤]の[孤]は[孤竹]の[孤]で王の称
[北孤]は華夏の皇帝のシンボルの北極星を踏まえた呼称なのだろう
[矛]は当時の倭語ではおそらく[mo]あたりで発声されていたんだろう
[鉾]の偏省略形の[牟]は[mo]音だと比較的容易に解析可能だろう
[都市牛利]の[牛]も[牟]のさらなる省略形で[mo]音ならむ

天之日矛は『三國遺事』に出てくる[延烏郎]とコモンで
男の太陽神です

102 :
最後の一行で台無しだよ。
モオ〜

103 :
>>100
九州の地名ですね。

104 :
倭面土はイェミェトと読みます
大和ですありがとうございました

105 :
>>99
>7. 奧津鏡
>8. 邊津鏡
これらは、おなじような鏡が多く産出する九州地方から後の時代に入手されて宝としておさめられたの?
国宝の「海部氏系図」の内容は信用できるの?
誰が(学者)がその国宝としての価値を評価したの。

106 :
伝承通りなら、高天原で天照王が孫の饒速日に渡し、それを持って船で関西までやってきた。
系図を否定する意味もないし、記紀などと矛盾はない上に、記紀にない部分を補うことができます。

107 :
>>3
そして鉄剣や仏像の裏面に書かれた文章だけが残ったんだよな

法隆寺の仏像の文章は聖徳太子について書かれてて興味深いぞ

108 :
鉄剣の文字で重要なのは3つ

そのうち2つはワカタケルの鉄剣
熊本と埼玉から出てくる
九州から関東まで出兵し征服
中国の書に出てくる倭王武の記述の通りの覇王である

残りの1つは奈良の石上神宮(物部氏の神社)に残された百済王からの贈り物である七支刀
ここには「倭王旨」の文字が見られる
物部、旨とくればその正体は「ウマシマジ」
記紀で物部の祖先とされるウマシマジは倭王だったことがわかり、それと同時に
古代において大王位は天孫族の独占ではなく、物部など他の豪族が大王となっていた時期があったことがわかる

109 :
古代において大王位は天孫族の独占ではなかった

日本書紀編纂において、天孫族の権威性を高めるために
天孫以外の大王の存在を消す必要があると考えた朝廷は

過去の書物の一切を禁書としたのだろう

しかし、法隆寺の仏像や古神社に残る鉄剣までは燃やすことができなかったと

110 :
一方法隆寺の仏像からも面白い文章が見つかる

それは「大王天皇」という言葉だ

天皇号の成立初期において、

大王 と 天皇 という称号は並立可能なものだった

倭国の最高権力者を大王とするなら

では天皇とはもともとはどういう役割の称号だったのだろう

111 :
>>110
もともと、天皇と敵対する勢力があってそこを制圧して、天皇が唯一の絶対権力にしたんじゃない?
敗れた勢力は、日本書紀や古事記などの天皇の前の系譜を伝えてた勢力。
それを書き換えて、良い感じに天皇が神の系譜と記したんじゃないかと、俺は思ってる。

112 :
>>111
俺も実はそう思うんだよな

神武東征にあたる畿内への外部勢力の侵入は実は7世紀であって
それまではずっと物部と葛城(鴨)の古豪二氏が畿内を仕切ってた

倭の五王に代表される倭王もみな物部か葛城の人間

天孫族の畿内侵入は、定説よりずっと後の7世紀
白村江の敗戦で九州が唐に占領されたときに
九州豪族(天孫族)が畿内に逃れてきて起きた

古代天皇の多くは葛城か三輪に居住した

これはシンプルに、葛城と三輪(物部)の二氏が王権を争っていたということではないか

天孫なんていなかった

113 :
>>112
え?九州って唐に占領されたことあるの?
無知ですまない。

白村江の敗戦で確実に天皇派の敵対していた勢力は衰えたよね。
でも、俺が思うに制圧というより、合併吸収と言うほうが強かったのかなとも思う。
どっちにせよ、色々掘り起こしたり遺跡発掘を宮内庁がしてほしくないんだろな。
彼らは薄々真実を知ってそう。
実は天皇家は乗っ取り政権で、その昔巨大な勢力があって、文化があってってさ。
その旧勢力の一族がサンカの民になったり蝦夷になったりって。
そこで、日本の古代文字とか使われてたとかロマンがある。

114 :
【白村江の戦いと倭国滅亡】

663年に白村江において行われた倭・百済と唐・新羅の決戦で倭国軍は大敗した。
自ら前線に赴いていた筑紫君薩夜麻が捕虜となり8年にわたり唐に抑留された。
筑紫には唐から郭務悰ら2000人の使節団が駐留したが、畿内大和ではなく筑紫を占領したのは、そこが倭国の首都だったからである。

668年、筑紫の使節団は帰国し、中大兄皇子は天智天皇として即位したが、その翌年には筑紫都督府が置かれ、同じ敗戦国の百済に置かれた熊津都督府と同様に唐の統治制度として機能し、倭国は独立国としての権限を喪失した。
旧唐書には倭国と日本国が分けて記載され、「日本は旧小国、倭国の地を併せたり」とある。
三国史記の新羅本紀には「670年、倭国が国号を日本と改めた」、新唐書にも670年に「日本と號す」とあるが、国内にはその記録がない。

671年に天智天皇が死亡、翌年にはその王子である大友皇子を殺した大海人皇子(天武天皇)が実権を握った(壬申の乱)。
天武天皇は対外的な国史としての日本書紀(漢文)を編纂させ、歴史上の天皇への漢風諡号の制定などを行った。
日本書紀の最大のトリックは、神武東征より後の筑紫倭国の歴史を抹消することであった。
日本書紀の編纂と並行して禁書令が出され、8世紀初頭に記紀以外の多くの古代の記録が失われた。
倭国の政治および文化を継承するために、筑紫から多くの文物、人物、建物、地名が平城京に移動された。

筑紫が679年に水縄断層系によるM7.1の筑紫大地震、畿内が684年に南海トラフ地震と推定されているM8.4の白鳳大地震により被災している。
筑紫は震災からの復興もままならなず没落したと考えられる。

701年の大宝律令で行政単位が評から国・郡に改称され、九州から関東までの中央集権国家としての畿内政権が誕生する。
この大倭の表記が大和とあらためられ、以前から筑紫倭国に対して近畿を示すために用いていた日本国が列島全体の統一王朝の国号となり、ヤマトは畿内の地名に変化した。
こうして筑紫倭国は滅亡し、その権益は唐に朝貢(遣唐使)を再開する畿内大和政権が継承した。

115 :
>>114
勉強になった!ありがとう。
ちょうどこの辺の歴史知りたかったんだ。感謝。
やっぱりこの辺の歴史およそ100年分がすっぽり抜けてるあたり、真実が隠されてそうだね。

116 :
>>111
例えば蘇我氏ひとつをとっても、自分の屋敷を宮門 みかど と称し、行き過ぎが見られたので、
って書いてあるけど、普通に天皇家がNo.1とはいいきれない状態だったんじゃないかなと
別に蘇我氏の方が残って天皇家の位置にいたかもしれない、くらいの力関係で
畿内ですら固まってなかったのではと思えたりする そう考えると、崇峻や聖徳太子を誅殺
するくらい、当時まだどの氏族が天皇家か固まりきってないとすれば、
蘇我氏の方にとっては単なる普通の権力争いだったりして、話がぜんぜん違ってくる

117 :
それを言うと物部もそうで、アマテラスの孫の饒速日が神武より先に畿内に権力を確立していたのが物部の祖。
神武は奈良盆地の片隅で居候させてもらっていただけ。
蘇我に滅ぼされるまでは物部が最高権力者だったのではないか。
大君家と大臣家と大連家のどこが優勢かと言う話に過ぎない。

118 :
初心者にも分かりやすく概略教えてくれ

119 :
物部の先代旧事本紀も斎部の古語拾遺も殆ど紀記と同じ神話を伝承してるのやからそないな突飛もない影の歴史なんてあらへんで

空想しすぎやわ

120 :
断片的な情報をつなぐと、以下のような感じ。

高天原(海の国)のアマテラス(海の王)は、親戚の大国主が治める稲穂が豊かに茂る陸上(豊葦原中国)が欲しくなった。
そこで船で軍勢を送り脅し、降伏した大国主を殺して国を取った(出雲の国譲り)。
そして孫のニギハヤヒを関西に、孫のニニギを九州に王として派遣した。
奈良盆地には大国主の一族(三輪山の神、富美の一族)が生き残っていて、ニギハヤヒを王として迎えた(後の物部大連家)。
九州に降ったニニギの末裔であるイワレヒコは、九州倭国の戦乱(倭国大乱)で九州を逃れて、奈良にいた親戚のニギハヤヒ一族を頼って落ち延びてきた(後の天皇家)。
蘇我大臣家がいつ頃奈良盆地に来たのかは分からない。
古代のヤマト王権はこれらの家系により共同で運営されていたが、蘇我大臣家と天皇家は物部大連家を滅ぼした(物部戦争)。
次に天皇家が蘇我氏を滅ぼした(乙巳の変)。
こうして天皇家が畿内の覇者となった。

121 :
九州の歴史では、蘇我氏の祖は武内宿禰ではっきりしているのだけれど、畿内の歴史では蘇我氏は出自不明なのだな。

122 :
魏志倭人伝はゲルマーニアガリア戦記クラスの神書物

123 :
ふむ。

出雲口承によると
出雲族@島根、元インダス文明の担い手
出雲族の嫁による徐福の長子の子孫@石見、丹波、笛吹、後の海部家、尾張家。海幸彦に仮託
宗像家の嫁による徐福の次子の子孫@吉野ヶ里、妻、熊野、後の物部氏。山幸彦に仮託

出雲族と徐福族の諍いがあって、出雲族の王家が
葛城に移住。後の三輪氏、賀茂氏

徐福の長子五十猛の子、海村雲が葛城における大王となる。後の綏靖、安寧の后妃は三輪氏から。

という。

この辺りは、国宝海部氏系図通りの内容で
出雲族と海部家の伝承が一致する、そうな。

それと合わせて徐福の到来は紀元前220年くらい
到来の証拠が、出雲、丹波、綾羅木遺跡などから出た石笛のトウケンだという。

また、丹波地域の弥生時代の開発が
紀元前2世紀、1世紀ということで製鉄遺跡が残っているから、出雲口承が考古遺跡から裏付けられるように思う。

ただ、石見からなぜ丹波に移民する必要があったのかは出雲口承では語られない。不明。

124 :
三輪氏、賀茂氏の次に丹波から村雲が丹波人を
連れてきて葛城首長と認めた。これが第一段階。

次に天日矛が但馬から播磨に攻めてきて
現地の地理がよくわからないから想像だけど
これは西播磨の話のようで

これにより、出雲本国と葛城との関係が寸断されてしまって、日矛族と全面対決して撃退した。
葦原色許男と争った話が播磨風土記にある。ここと整合する。

ここで撃退したのは孝霊天皇の時代だという。
その後、孝霊天皇は出雲本国に(どういうわけか)
戦争状態になったという。

孝霊天皇は瀬戸内吉備に伝承を多く残す。

三輪賀茂と村雲族で日矛族が手に負えないので
九州から物部氏が熊野まで来たので、それを賀茂氏が引き入れて日矛族を追い払った。

日矛族が奈良にいた証拠が近鉄但馬駅の地名という。

その後、物部氏が奈良を制した。これがウマシマジという。それまでの村雲族から出た孝霊天皇は奈良を追い出された、孝霊天皇の後は奈良では開花天皇が継いだ。ただ、開花天皇の兄の大彦は物部嫌いで銅鐸派だったという。

125 :
ウマシマジの物部は后妃を開花天皇に入れる。

物部は道教祭祀として鏡の祭祀を開始し
それまでの三輪山の祭祀の並立状態になるという。

出雲口承は年代がはっきりしないけど
多分銅鐸祭祀がまだ存在していたということだからこれが2世紀後半、唐古・鍵遺跡が生きている頃。

古代氏族の系譜研究をしている宝賀氏によると
神武即位は176年という。つまり、神武東征は二世紀末。神武東征は物部東征だった!という。

その後、物部氏は旧勢力の大彦を奈良から追い払う、伊賀から北陸へ。また東海にも。これが狗奴國という。
村雲族を追い払う、丹波に戻った方が海部家
伊勢尾張に移ったのが尾張氏という。

近江北陸伊勢尾張を繋ぐ交通の要に、伊勢遺跡がある。守山市。考古学的な前後関係は
伊勢遺跡の後で纒向遺跡になるらしい。
また唐古・鍵遺跡の衰退の後に纒向遺跡があらわれるようです。
なので、物部氏が奈良にやって来て銅鐸祭祀が北陸や東海に移り、元奈良勢力がどうも伊勢遺跡の主体だったのではないかというのが私の見立てです。

126 :
>>123
なるほど

127 :
その後、九州は妻にいた
崇神天皇が 宇佐と連合してもう一度東へ
この宇佐の女王が 親魏倭王の卑弥呼だという。

東征半ばに崇神天皇とこの宇佐族の親魏倭王の卑弥呼は病没。崇神天皇の子 垂仁天皇が続行。

崇神天皇と宇佐の親魏倭王の卑弥呼の子
豊来入彦と豊鋤入姫も随伴。

日矛族の末裔、田道間守は出雲本国を攻略
これが神宝検校に仮託。先に奈良入り。
垂仁天皇は三輪山祭祀を認めることにして
出雲と同盟、これが当麻蹴速の相撲エピソードに仮託。

しかし、親魏倭王を継承した豊鋤入姫を擁立することを宗主国から求められたため、沙穂姫の三輪山祭祀を排し、豊鋤入姫に檜原神社で祭祀をさせる。豊来入彦は開花天皇の後の丹波道主を追い詰め垂仁天皇の王権確立に貢献したという。ここで当初村雲族の王権は交代した。

その後、親魏倭王が目障りになって
出雲本国と密かに同盟した垂仁天皇は
出雲本国兵を奈良に引き入れて
豊来入彦らを奈良から追い出す。豊来入彦らは尾張や東海に移る。

さらに追い詰めて
豊来入彦らは上野下野へ
出雲族は東海を経由して武蔵上総あたりに。

その直後の垂仁天皇の治世は何かあったんだ
ろうけど神功皇后まで以下略。

128 :
垂仁天皇の生存年中が親魏倭王の景初年間なのでこれが3世紀半ば。従来の紀年研究では崇神天皇没は318となっており、これはかなり差がある。

ただし、古墳時代の開始年代の議論のある3世紀半ばに土師部の祖、野見宿禰が登場するため
ここは整合している。どちらが妥当か?

また、宇佐族を母系とする豊来入彦が関東に来たことは、新撰姓氏録の各氏族系譜に残っておりここも整合する。

129 :
出雲口承は当然現代的な意味での
解釈が入っているので
また当事者の視点での「証言」なので
どこまでが「真実」なのか
見極める必要があります。

130 :
宇佐古伝によると

神武天皇と景行天皇は兄弟だという。

131 :
>>130
神功皇后が卑弥呼より120年後なので、その祖父の代の景行は4世紀初めくらいだろう。
神武と兄弟は無理がある。

132 :
神武天皇が宮崎から北上する際、
宇佐族の海人である佐伯氏と争った。

宇佐族は服属することにし神武天皇族に
宇佐の地を屯田地として与えた。

宇佐族は古くから大陸との交流し
大陸王朝の制度に明るかったからだという。

宇佐津姫と神武天皇には
宇佐稚屋そして安芸に移ってミモロワケが生まれた。宇佐津姫も神武天皇も安芸で没し
景行天皇が後見したという。

ミモロワケは大陸王朝の文化取得に励み
本邦の卜占を定め
現在の宮中祭祀の八神を定める英邁英傑だったという。

宇佐稚屋は二十代で亡くなり一子 押人の後見をしたミモロワケは景行天皇の指示により
東遷を続行し、押人を王朝創始の大王になしたという。

133 :
>>131
その通りです。

ここは宇佐古伝を記述する際
宇佐家の伝承に現代的な解釈が入ったせいで
帰ってよくわからなくなっているのです。

したがって

貴重な古伝といってもそのまま鵜呑みにするのはダメで、
当事者の視点だけでなくいろんな資料との
付き合わせが必須なのだと思います。

134 :
宇佐古伝の一面の正しさというのは
宮中祭祀と
卜占についてです。

後に宇佐八幡宮神託事件があるように
宇佐と天皇家との繋がりがどこかであったはずだか記紀ではいっさい宇佐との関わりが記されないという状態です。

そして卜占については
神武と同世代の天種子の後が中臣氏に繋がるのですが、
宇佐古俗の服属儀礼で、自分の妻を差し出した事実を
後代の自家系譜の上申時に憚って架空の人物名に仕立てて朝廷に提出したことによるという。

つまり天種子は後の天皇家につながる人で
その子が宇佐家に残り、宇佐家で洗練された卜占の技術を宮中に持ち込んだ。

それまでの畿内の祭祀は神奈備の三輪山祭祀
物部の道教起源の鏡の祭祀。
いつどのように「現在の宮中祭祀」が始まったのか?

亀卜鹿卜など卜占を中臣が独占したのはなぜか?
皇族だったから。
天皇家の母系の宇佐族の祭祀が引き継がれたから。

135 :
宇佐古伝の神武天皇といっている部分は
出雲口承でいう崇神天皇とかんがえると
ある程度矛盾がなくなります。

出雲口承では崇神は東征途上で亡くなっている
崇神と宇佐の姫は婚姻した
東征中に宇佐の姫出雲口承では親魏倭王の卑弥呼のも東征中に亡くなっている。

出雲口承でいう豊来入彦が
宇佐古伝にいうミモロワケなら
どちらも東国関東に向かって子孫が土着したことが共通している。

つまり、古伝はやはり一定の事実を残してはいる、ただし、その原伝承の本意が失われて
記述者の現代的な解釈が入っている。こういうことです。

ただ宇佐古伝では親魏倭王、大陸に朝貢したとは全く言及がない。原伝承にはあったかもしれないが、意味がわからなすぎで現代には失伝されたかもしれないことが惜しまれます。

136 :
>>121
葛城の鴨族(出雲王国の分家。神=王族をカモと発音していたので、後に鴨の文字が当てられた。(鴨は、甲+鳥。甲は神に同じ、鳥(トリ)は十霊(トリ)最高神。また、葛城のトビ家を暗示))の末裔。

137 :
そういう氏族はあちこちにいて、例えば肥国の隈クマ=カミとかもそう。
葛城が特別というわけではない。
三種の神器を持っていたわけでも、漢や魏から倭王として冊封されていたわけでもない。

138 :
>>52
「神功皇后の朝鮮侵攻」そのものがでっちあげの可能性もあるってことだよね

139 :
朝鮮側にも倭国が繰り返し侵攻してきたことは記録されているよ。

140 :
>>138
うん、そこは古事記の表記からして神話で
まず事実で無かったと見ていい

141 :
朝鮮側の首都を包囲しているからねえ
倭寇レベルじゃなくて、それなりの軍隊が出動してるよね
朝鮮半島の倭領に軍隊が常駐してたんだろうな

142 :
>>140
三国史記との比較で、4世紀末のことであったと考えられていたはず。
国軍による侵攻でも寇の字を使うことができる(元寇など)ので、倭国による組織的な侵攻も倭寇と呼ぶ。

143 :
そりゃ朝鮮側からみりゃそうだろ

144 :
>>142
いや、最近おもったけど神功皇后は完全に神話
わずかの事実性もない

で、三国史記は日本書紀よりずっと後に出来たもんだから

むしろソースんも一部がそもそも日本書紀の可能性がある
つまり、さしてあてにならないとみてる

百済も新羅も滅んでしまってたので
三国史記があらわされた当時からして資料が散逸してしまってたろう

で、滅びなかった日本の日本書紀などの資料は残ってたけど
それ自体が、まあさして信用できないだろうって話

こう書くと朝鮮びいきと思われるだろうけど…・・
むしろ、自分は最近まで
朝鮮・韓国がらみの話は、あまり興味もなく調べてなかったんだよね。
それが最近、ちょっと思う事あって、
朝鮮の資料を調べだしてる所。
で、このあたりの事は日本書紀のが
ぜんぜん信用できないんじゃないかと思い出してる所。

145 :
いや、正確にはどこの資料も…と書くべきだったか

146 :
日本書紀が嘘だらけなのは同意するが、三国史記と日本書紀では、神功皇后の侵攻に対応する記事が120年ずれているんだよね。
だから、三国史記が日本書紀を参考にしたというよりも、別個の資料をもとに日本書紀ご年代を前倒ししたんだろう。

147 :
>>145
それは元側の資料でも元寇と呼んでいるということ?

148 :
>>146
三国史記の神功皇后の侵攻に対応する記事ってどれ?

149 :
>>144
>いや、最近おもったけど神功皇后は完全に神話
>わずかの事実性もない

で、日本書紀でも創作が目立つのが神功皇后の下りだけど、完全な嘘でもないと思う。
仲哀が死んでから応神が生まれるまでの日数について細かく記し、臨月を遅らせるために石を抱いていたという話まで加えている。
これは、応神が仲哀の子供ではないのではないかという疑いがその当時からあったということだろう。
それはベースとなる事実があったということだよ。
そして、石を抱いたら生まれるのが遅くなるなんてことはないから、実際には応神は仲哀の子供ではなく、武内の子供なんだよ。

150 :
日本側の記事は三韓征伐、朝鮮側の記事は倭寇だろう。

151 :
>>150
具体的に、120年ずれてる三韓征伐に対応する三国史記の記事はどれ?

152 :
とりあえず、好太王碑で最近、思ったこと
http://up2.cache.kouploader.jp/koups22274.png

153 :
一時的にしろ百済も新羅も倭に取られたことを書いているのだから、正直じゃないか。
百済は倭と高句麗の両天秤をかけていたんだよ。
最近、韓ドラで見ていたからよくわかる。
三国のバランスは非常に危うい。
倭国の支援を百済はよく使っていたらしいよ。
記紀にも、百済王が七支刀を贈ってきたことが記載され、実物も存在している。
半島情勢に倭が介入していたことは間違いない。

半島側の記録も国内の記録も信用できないと言い始めたら、歴史を研究する意味はなくなるね。

154 :
実在しない人物だと書いてない?

155 :
『遅れてやってきた倭種』

それと系統の違う家がない?本物の家?

156 :
まあ、神功皇后は福岡あたりの豪族で
それを記紀に組み込んだだけだろうな。
おそらくは聖徳太子のアメタリシヒコも
そのたぐいだろう。

157 :
畿内にいたのが豪族だよ。
福岡にいたのは倭国王。

158 :
もうちょっとだけ
http://up2.cache.kouploader.jp/koups22282.png

159 :
漢文なら分からんけど万葉仮名表記なら上代特殊仮名遣でググれ

160 :
上宮記ってどんな書物だったんだろう?
応神から継体までの系譜は失われた日本書紀の系図以外はここにしか残ってなかったんだよね?

161 :
天皇記というのがあったよ。
乙巳の変で焼失した。

162 :
天皇という号は701年以前にはなかったはずだが

163 :
大王記だったとの説あり

164 :
大王が元首であったという根拠すらない。
天皇記を所有していたのが蘇我家なら、大臣記だったかもしれない。
物部氏に先代旧事本紀があったように、蘇我氏を中心とした歴史書があったのだろう。

165 :
>>164
稲荷山古墳出土鉄剣、、江田船山鉄刀銘、隅田八幡神社人物画像鏡は、いずれも「大王」
まあ元首であったことも間違いなかろう

166 :
オオキミか

キミとかが筑紫のキミの号なんだろうな

167 :
部分的に適当な訳をいれてみた。
怪しい所もあるんで、せいぜい参考ていどに。
http://up2.cache.kouploader.jp/koups22423.png

168 :
城を数えてみた。
http://up2.cache.kouploader.jp/koups22454.png

169 :
>>160

一部分を引用されて書物や、書名だけ伝わってる書物って気になるよね

どっかの寺社に写本でもあればいいのになぁ

170 :
>>169
そもそも、文字が伝わって日本国内で長文が書かれるようになったのがいつ頃かだよなあ…
ワカタケルの剣の頃には国内でも文字による記録があるから、同時代の記録が発掘される可能性も無いとは言えんけど、
出てくるとしたら寺社よりも古墳だろうな

171 :
主な寺社の記録は、明治維新の廃仏毀釈でほとんど消滅していますね。
戦国時代の下克上でも多くの旧家が消えて、蔵書が散逸しています。
あとは、8世紀初頭に日本書紀以外の歴史書を禁止扱いして焚書を行なっています。

172 :
>>169
>一部分を引用されて書物や、書名だけ伝わってる書物って気になるよね

これって、たとえ国選正史でも、その内容に、その文書に「信憑性を
持たせるための選出としての架空の文書」が記されている、という可能性
はないですかね?
偽書の中に、「⚫⚫に曰く」というかたちで、⚫⚫という架空文書
が出されてくるそうですが。

173 :
>>170
おそらく、応神天皇からだろう。
記紀では、応神天皇のころ、千字文が伝ったとされる。

千字文そのものエピソードは、事実でないんだろうけど、
おそらく、記紀のあらわされた当時からして、
畿内でまともな文字情報がたどれたのが、
応神時代までだったと思われる。
(そういう背景から造られた故事なんだろう)

で、応神天皇の名称から存在してそうな点を考えてみても、
まともな記録があったのも応神天皇までで。
それ以前は(創作)神話だと思われる。
(さらに、現代の天皇家は継体天皇からで)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E7%A5%9E%E5%A4%A9%E7%9A%87#.E8.AB.A1.E5.8F.B7.E3.81.8B.E5.AE.9F.E5.90.8D.E3.81.8B
>応神天皇の名とされる「ホムダワケ」(『日本書紀』では誉田別、
>『古事記』では品陀和気と表記)は、実は生前に使われた実名だった、
>とする説がある。
>とくに応神天皇から継体天皇にかけての名は概して素朴であり、
>ワカタケルのように明らかに生前の実名と証明されたものもある。

>王仁が伝えたとされる千字文が、王仁の時代には成立していないことなど
>史料解釈上実在を疑問視する説も多数存在する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E4%BB%81#.E8.A8.98.E9.8C.B2

174 :
素朴だからとか、それ以前は創作だとか、なんの根拠もない。
くだらない。

175 :
写本じゃなくて、原本で残ってる日本最古の書物ってなんでしょう?

176 :
白村江の戦いで敗戦して
半島領土を失ったので
新たに国境を確立するために記紀が編纂されたので
それ以前の歴史=半島も日本の一部だった歴史を抹消せざるを得なかった
蘇我氏は半島における総督府長官みたいなものだったので
蘇我氏の歴史はある程度削除された
記紀に改竄の痕跡が見受けられるのはこれが原因

177 :
>>175
「法華義疏」らしい

178 :
>>176
>それ以前の歴史=半島も日本の一部だった歴史を抹消せざるを得なかった
どうしてでしょう
歴史をあるがままに記述するのにどんな不都合があったのでしょう

179 :
レコンキスタが興って半島奪還戦争に進展する可能性があるから

大陸への領土的野心は日本列島統治が揺らぐ可能性があるから

戦勝国である唐・新羅に、日本書紀の歴史観でいいかお伺いを立てる必要があったから

あれ、これって第二次世界大戦後の日本と同じで笑えないね

180 :
>>176
だったら神功皇后が半島をボコった記述も白村江でボコられた記述も抹消するんじゃね?
神功皇后なんて実在が疑問視されてたりするんだし

181 :
むしろ7世紀後半の記紀の編纂直前の政変こそ、隠したかったのではないかな。
唐の後ろ盾によって筑紫倭国から政権を畿内が奪ったことを隠したかったのだろう。

182 :
>>176>>178
理屈で考えると、むしろそれは逆なんじゃないかと

183 :
>>182
逆とは?

184 :
>>177

聖徳太子の直筆なんですね。

185 :
逆と言うか、そもそも無かったんじゃないかと
http://up2.cache.kouploader.jp/koups22811.png
http://up2.cache.kouploader.jp/koups22812.png
http://up2.cache.kouploader.jp/koups22824.png

186 :
>>185
何が言いたいのかさっぱり分からん

187 :
>>185
技術や文化が遅れている北方騎馬民族に中華民族がなんども征服されてるという東アジア史の常識も知らないのか

188 :
そりゃ、馬があったからって事になる

189 :
乗馬技術を技術ととらえるならば、中原が技術に秀でているというのは主観に過ぎなくなる。
だが、3世紀の奈良と筑紫の技術水準の差はそれ以上に著しい。

190 :
>>164
出雲の伝承(不文)では葛城の出雲神(カモ)族〜磯城王朝。その末が蘇我氏(王家)

「臣/オミ」の称号は元々は出雲の王族である証だったそうです。

191 :
>>142
日本(倭国)側の国、組織が関与しない海賊団も倭寇。
更に、中国沿岸〜朝鮮半島の海賊団が素性を隠蔽して倭寇に偽装して(騙って)荒らし回ったから悪質。

192 :
>>191
でも、史書に載るような大規模な軍事行動は筑紫倭国の兵だよ。
もともと天津神(海の神)と呼ばれるだけあって、対馬海峡を拠点とした水軍が政権を取ったようなものだからね。

193 :
>>190
蘇我氏は筑紫の覇者となった武内宿禰の末裔。

194 :
そんなの後付けだろ

195 :
>>194
根拠は?

196 :
後付けでない根拠がないから

197 :
>>196
そんな根拠ならなんでも否定できるな。
ああ、実際に畿内説は魏志倭人伝を含めて全ての記録を否定しているのか。
いっそ、邪馬台国や卑弥呼の名前を使うのもやめてくれ。

198 :
盲信か全否定しかないのか

199 :
古事記の入門者向け解説本を一冊だけ読みました
スサノオが「髭を切られ手足の爪を抜かれて追放」されたとあって、あれ?ヒゲと爪がなくて困るのって猫じゃんと思ったんですがスサノオ=猫説っていうのはないんですか?w

200 :
髭や神は霊力の源と考えられていた。
長い方がエラかった。

201 :
エラも張ってた

202 :
『根子』

ググってみて

203 :
>>198
判断中止があるよ

204 :
話をぶった切るようで恐縮ですが
古事記を読むならどこの本がいいですか?
図書館で一通りさらっと読んでみたところ
個人的には解説が豊富な講談社が良さそうだと思いました
次田さんの史学的な評価はどれほどですか

205 :
ちなみに講談社の次田本は比較文化論を嫌う神職や右翼の方々からの評価が芳しくないようです

確かに角川ソフィアの中村本に比べれば読み仮名のルビが余りにも省かれているので流石に30余年の研究差を感じましたが、中村本の解説は巻末に纏めて書かれている程度で、時代考証や古典文献学的仮説を多分に含む次田本の解説の豊富さには遠く及ばないと思いました
また小学館の神野志本も同様にテキスト主義の体をとっており、時代考証に深く踏み込むことを避けているように思いました

このように講談社全三巻は氏の多弁が仇となって、ややトンデモ扱いされている感がありますね
次田本の現代における評価はいかほどでしょうか?

(というのも次田本に書かれていることを何処から何処まで信じていいのか不安ですし、何より私は門外漢ですので最近の研究事情について全く知りません...)

そこら辺の出版事情に詳しい方、最近の研究事情について何か知っている方がいましたら詳細を教えてくださいm(_ _)m

206 :
嘘くさいこじつけや結論ありきの解説なんて、害悪だよ。
逐語訳程度ならネットで十分じゃないかな。

207 :
古事記で売れてんのは竹田のやつかな
読んだことないけど

208 :
>>206
具体的にどの本の何処がそうだと思われますか?
私は逐語訳をその通りに理解できるほどの知識も教養もないので、先達による注釈と解説が欲しいと考えますが、まあ、そうなればある程度には専門家個人の偏見が入り込んでしまうことを許容しなければなくなる訳です
ですので現在の学界での評価がその偏見を何処まで許容し得るかの指標になると思います
しかし歴史に絶対はないので、現代の学説ばかりを盲信するのではなく、素人なりにテキストを読み込むことが第一でしょうね
>>207
竹田本はカジュアルなことに現代訳オンリーなのでちょっと原文、書き下し文と参照しづらいと思いました
史実というものがあるとすればですが、竹田先生ご自身の特異なお立場も含めて、学術的にシビアな解釈を求めるならば避けるべき図書だと思いましたが、穿ち過ぎでしょうか
それなくしても、訳がややフランクすぎるのでわたしの肌には合いそうにありません(汗

209 :
神々の名前の読みが外国というかインドっぽいことについて、古事記が書かれたのが仏教伝来の後であり
仏教はインド由来なので…という説があるようですが、皆さんはどのような背景があるとお考えでしょうか?

210 :
アメノミナカヌシ天御中主が
ミチュウヌシ
ビシュヌ神

とかそういうこと?>インド由来

211 :
>>207
あとは三浦のやつだな
読んだこと無いけど

212 :
空耳アワー

213 :
天智と天武って漫画はどうですか?

214 :
日本書紀をなぞっただけじゃない?
真実とは遠いような気がする。

215 :
鎌足百済人説だったかな

216 :
>>210
じゃなくてそのままでインドっぽくないですか?ということです

217 :
>>216
公式の仏教伝来は6世紀だけど
実際はもっと早かった可能性がある。
中国朝鮮経由ではなく、インド直輸入の可能性。

日本じゃないけど、三国遺事だったか
インドのアユダ國から新羅にやってきた女性のことがかかれてるけど
インドから半島にこれたなら日本にもこれたんじゃないかと思うけどね。

日本語にはパーリ語の痕跡があると指摘する人の
本を最近読んだわ。パーリ語は印欧語だけども。

218 :
>>216
どの辺がインドっぽい?

219 :
国記、天皇記は確実に存在したのだろうけど、それ以前の歴史書はあったのかな。継体、欽明天皇の頃に歴史書を編纂しても良いような気がするが。

220 :
ばっかじゃねーの
断片的なサンスクリット語の知識を以って神の名が似てるだの似てないだの
日ユ同祖論者並みに低レベルな陰謀論を説いてるという自覚ある?

221 :
エビデンスが弱すぎ
神話の内容が類似してるとかそういうエビデンス無しに神の名がインドぽいって(笑)
統合失調症かよ
こういう病人に歴史書を読む資格はなし

222 :
>>217
興味深いです。インドと繋がりがあった可能性は十分あるということですね。

>>218
なんとなくのイメージでしかないのですが、当て字っぽい漢字や音を含んだ名前はそういう感じがします。

223 :
「敵を刺す」から「テキサス」
日本語が北米の地名にある!だから北米はもともと日本だった!

という話は昔からあるのですw

224 :
>>222
ねーよカス
病院行け

225 :
あんまり排斥するような言葉をかけるのはひどいけど、
あんまり思いつきだけで出鱈目なファンタジーっぽい説を堂々と展開するのも感心しない。

根拠ありそうな理由を付けて説明しなきゃ、だれも納得しない。
馬鹿にされるだけだよ。

発想は奇想天外でも、納得する理由があれば、一目は置かれるよ。

226 :
4世紀あたりに裸形上人というインドから漂着した人物が、熊野那智山を開いたというし、頭から否定は出来ないと思う。

227 :
そのインド人は何故熊野だったんだろう

228 :
複数の人が関連する事柄を紹介しているのに出鱈目なファンタジーと決めつけることこそ出鱈目でファンタジックなんじゃないの?
根拠を示せという自分が何の根拠も示していない。
俺はそういう人のことも馬鹿にはしないけどね

229 :
よく読んでみろよ
ただただ神様の名前がインドっぽいとしか言っておらずどこがどうインドっぽいのかとかも無い意見だぞ

230 :
日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』

1HZYE

231 :
http://www.youtube.com/watch?v=oyzJ7yo2aTg

232 :
古事記以前の書物以外(石碑等)で、天皇家や大和朝廷について残ってるものありますか?

233 :
千年以上かけて廃棄し尽くしたから、ない。

234 :
稲荷山鉄剣銘文

235 :
稲荷山の鉄剣級の発見が今あったら、ネットは盛り上がりそうだ

236 :
あなたの知らない長野
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%AC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E5%B7%9E
https://www.bing.com/images/search?q=nagaland+india&qpvt=nagaland+india&FORM=IGRE

237 :
アカイェ! アカイェ!
https://www.bing.com/images/search?q=%e3%83%a4%e3%83%8e%e3%83%9e%e3%83%9f%e6%97%8f

238 :
記紀は徹頭徹尾上級国民のためのものだからなあ
ギリシャみたいに文学に神話が語られてればよかったんだけど古代日本だとせいぜい虫麻呂くらいか
みっともない民族ですよはっきり言って

239 :
https://youtu.be/7FFlT32G5cI
潜象界と現象界
左目から天照大神
右目から月読尊
鼻から素盞嗚命が生れた理由

240 :
http://www.youtube.com/watch?v=SwbN0jRm314          

http://www.youtube.com/watch?v=Jy6NCbnezE0         


                        

241 :
http://www.beach.jp/circleboard/ad28005/topic/1100101613802         

                        

242 :
https://rr.img.naver.jp/mig?src=http%3A%2F%2Fimgcc.naver.jp%2Fkaze%2Fmission%2FUSER%2F20140605%2F83%2F876703%2F43%2F187x256x9dcbb0b89457bdf44f81cfde.jpg%2F300%2F600&twidth=300&theight=600&qlt=80&res_format=jpg&op=r         

http://stock-stock1010.com/wp-content/uploads/2017/02/117e0dbff2c04861468f306fe84abfe6.jpg         

https://blog.qetic.jp/wp-content/uploads/2014/12/mamorutakuma.jpg        
                        

243 :
http://www.youtube.com/watch?v=Y8xgwjBH4yg                         

244 :
https://i.imgur.com/5uiyCy7.gif

245 :


246 :
このスレの人めっちゃ詳しいね
古事記に出てくるスサノオの和歌
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に
八重垣立てた その八重垣を

これの意味ってさ
妻籠って神様の妻として一生籠る巫女の家の事じゃない?

八重垣は大事な物守る垣や、近衛兵の事じゃない?

妻籠めの材料は女と家だから、やろうと思えば貧困村でもできる
しかし八重垣はそれなりに金ないと出来ない立派な物なのでは?

つまり妻籠め用意したとは、国を立てたという意味では
そして、立派な国を立てたと強調したくて、八重垣を連合してるのでは?

意味としては、
出雲に立派な立派な国を建てました
スサノオ

と解釈してるのは、今は俺だけのようです

247 :
>>205
少し違った回答で大変申し訳ないが

古事記の流れに目を通す程度なら
ホツマツタエ の現代語役がネットにあるから、それ見れば十分だと思う
古事記もホツマツタエもほとんど同じだから

つまり古事記の大元の本があって、それぞれ自分の都合のいいように編集した本がたくさんあるのよ
どれもある程度真実が書いてるが、都合よく嘘も書いてる
ネットにある、ホツマツタエの現代語役が一番手軽でさらっと読みやすい

いろいろ解説ありすぎると、逆に最後まで読めない、あきるし、うざい
研究する時やマニアなら、いろいろ解説あった方が楽しいだろうけど、最初の一読に解説はいらんわ

248 :
偽書でしょ?

249 :
神代文字が出てくる時点で偽書確定

250 :
秀真伝は読むとすぐ理解できる程度には現代語に近く、とても上古文ではない。

251 :
偽書です

252 :
とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』

RX3

253 :
広開土王碑みたいの日本にないの?

254 :
多胡碑でどうよ

255 :
ツクヨミやスサノオ というと食事や酒にも重要な記述があってうましくには
いいものだとおもえる、記録と、歌の交差に発展していっていることが
更にいい時代を創出していってほしい。

256 :
飛鳥時代に書かれた上宮記は鎌倉時代後期まで存在したそうだが、もしかすると写本が発見される可能性もあるのかな。

257 :
>>254

結構いくつも古い石碑が残ってるんですね・・・

古事記以前の石碑はあまりないのね

258 :
応仁の乱が無ければ残ってた、古い時代の書物ってあるのかな?

259 :
いくらでもあるだろ

260 :
奈良遷都と戦国時代と明治維新の方が文化の断絶が大きい。

261 :
奈良遷都の時はひどかったの?

262 :
708年に禁書詔勅があり、日本書紀以外の文献は破棄された。

263 :
秀真伝は、自分が読んでもわかるくらいに現代語に近い。
江戸時代以降の文献だろうね。
自分には平安以前の文献は読むのが辛い。

264 :
禁書の詔勅か・・・知らなかった

古事記日本書紀に都合が悪かったんかな?

265 :
671年に天智天皇は病死し、672年にその王子である大友皇子を殺した大海人皇子(天武天皇)が実権を握った(壬申の乱)。

天武天皇は対外的な国史としての日本書紀(漢文)を編纂させ、歴史上の天皇への漢風諡号の制定などを行った。

日本書紀の最大のトリックは、神武東征より後の筑紫倭国の歴史を抹消することであった。

ただし新たな創作をするのではなく、九州における歴史の一部を抹消し、一部の事実は組み込んで細かいつじつま合わせをして、本来は傍流であったはずの畿内大和がおよそ三世紀頃と推定される神武の時代まで遡って列島の支配者であるかのように見せかけた。

日本書紀の編纂と並行してそれ以外の歴史書の焚書が行われ、8世紀初頭に記紀以外の多くの古代の記録が失われたと考えられる。

日本書紀は多くの書からの引用を含んでおり、編纂が行われていた頃までは邪馬壹国を含む倭国王朝の記録もあったに違いないが、倭国の名を消すために慎重に歴史の改竄を行っている。

文書上の改変だけでなく、倭国の政治および文化を継承するために、筑紫から多くの文物、人物、建物が平城京に移動される。

九州北部と畿内で多くの地名が配置も含めて一致していることが知られており、歴史や地名も含めた文化のすべての移植をはかったのである。

その一方で、天武朝のときに外交使節として筑紫館が建てられたとされており、後の鴻臚館として朝鮮半島との通商の拠点として福岡の経済的再興の礎となった。

701年の大宝律令の制定により、正式に日本が国号として用いられるようになり、行政単位が唐の評から郡に改称され、畿内大和政権は独立国として国郡制による全国支配を確立したと考えられる。

710年には奈良盆地に平城京が建設され、九州から畿内、関東まで勢力下に置いた中央集権国家としての畿内大和政権が誕生する。

この統一王朝の名称としては大倭が用いられ、表記が大和とあらためられた後に、以前から筑紫倭国に対して近畿の政権を示すために用いていた呼称である日本国が列島全体の統一王朝の国号となり、大和は政権中枢の位置する畿内の地名に変化した。

中国に対しては筑紫から畿内へ連続する王朝であると主張したが、それを神代という抽象概念に押し込めたため、現代においては筑紫に王朝があったことすら忘れ去られようとしているのである。

266 :
https://nihonsinwa.com/page/2440.html

この時の墓記って、現在もどっかに残ってたら面白いのにな

267 :
>>265
歴史書の焚書やそれまで使われていた神代文字を禁止してまで
神武東征より後の筑紫倭国の歴史を抹消することが重要なのかね。

268 :
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と単粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は単粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

269 :
>>265
日本の名称の由来は、現在につづく?大和朝廷や天皇家に大和を追い出され、追撃につぐ追撃を受けたプレ大和王朝勢力(端的に、長脛彦=大彦ら)が行く先々で一時的な定住化して国を立てて、
日立国(鹿島神宮や香取神宮は出雲神族らが建てたのを大和朝廷側が横領)、アラハバキの国、日ノ本の国、、、
と場所を変え名を変えて次第に東北地方に退却、、、(最終的には津軽(日ノ本の国)に落ち着いたとか?津軽を日ノ本中央と言ったのは日ノ本国の首都だったから。後々に伊達政宗を日ノ本将軍と言ったのも東北が日ノ本国だった名残から。)

270 :
>>269
説得力アリ

271 :
>>269
日ノ本(ヒのもと)国(東北地方/蝦夷(大和朝廷側が蔑んで蝦夷エミシと呼んだ。(元々は親戚、同族なのに)))を大和朝廷側が横領して
国の名にしたのが日本。


ヒの元。、、、少しひねって考えると、ホアカリ/火明命(ニギハヤヒ)の長男、カゴヤマの直系子孫、、、本家の矜持を「ヒ(火/日)の本」に込めたのではなかったか?

272 :
>>271
大和朝廷(大倭国)と日ノ本国(蝦夷)が多賀の関のラインを国境に長らく安定安定していたところに、
聖武天皇が奈良に大仏(ビルシャナ仏)を建立するにあたり
莫大な銅や金などの鉱物資源が大倭国領域に不足します。
宇佐族(旧出雲王国時代から重要な勢力。宗像家も多分、宇佐族)が八幡神の神託の形を借りて(交易の有った東北地方/日ノ本国の情報を元に)東北に金ほかが有る!と(いわば仲間(日ノ本国は元の大和王朝(磯城王朝))の敵に情報を売った)
宇佐族(九州の豊国勢力。豊媛(トヨ)と豊彦(卑弥呼=豊玉媛命と物部イニエ王(崇神)の御子。大和入りして後は、豊来入媛(三輪山麓の檜原神社で宇佐族の月読神信仰を広めて稚日女命と称えられた。)。豊来入彦)。)もいわゆる神武東征に帯同して参画。
大和入りをするも大王家(異母兄)に疎まれ排斥されて東に逃避。東海地域に定住化。東海地域に「豊」の地名が多くある理由がそれ。

排斥され大和から逃避なさった豊来入媛は丹波に後には伊勢の椿大神社(猿田彦大神)の宇治土公家(大和の登美家(出雲神(カモ)族)の分家で出雲神族の信仰、幸之神の内、特に猿田彦大神を信奉して後にはサルメ家とよばれた)に助けを求めて匿われる。
豊来(城)入媛命(=豊鋤入媛/稚日女命(高天ヶ原で陰部をヒで突いて死亡した織日女神))は宇佐女(宇佐族出身の女)とよばれたていたところ、
それでは正体がわかってしまう恐れがあるため
ウズメと改名させた上、祭神の后神である等のお伽噺まで創作して庇護に努めていたところ
異母兄の大和の新大王、イクメ大王が放った刺客に憐れ暗殺されてしまいました。
その場所は境内の椿岸神社であるという。
遺体は月読神の信奉者らによって大和に運ばれ、ホノケ山陵(古墳)が築かれそこに葬られたという。

いわゆる、、、、
卑弥呼の後継、トヨ媛女王=豊媛命=豊来(城)入媛命=豊鋤入媛命(キキ神話)=稚日女命/稚日霎貴命(月読神を奉じて檜原神社で祭祀を行う)=ウサメ=ウズメ=天ウズメ命

273 :
アラハバキが謎だよなー

274 :
アラハバキ国は日高見国(北東北・北海道)の北にある国だから樺太。
アラハバキー荒覇吐ーアララトーカラフト

275 :
そっちまで追われたんだろう。

276 :
まず一枚岩ではなかったんだと思うよ
ヤマト勢力=卑弥呼の後継者

神武天皇=いろんな知識技術とともに渡来したユダヤ人勢力

日ノ本の国=ナガスネヒコ

国が出始め台頭したのが卑弥呼の勢力、その後神武天皇の勢力が台頭してきて、まとめるために卑弥呼の後継者を正妻として貰い、卑弥呼勢力と神武勢力が合体した
しかし古事記に書いてある通り神武天皇の九州での子供は殺された
卑弥呼の後継者の子が二代目天皇になった
この時点でヤマト勢力が神武天皇勢力を逆に食った形になる

日ノ本の勢力とも最終的には似た感じでタベテしまおうとしたんだろう、しかし天武天皇が国号を日本と定めたのは、日ノ本の勢力が食い勝ったからだろう
その後暗殺も行われ天武天皇の勢力は消え去る
天智天皇の勢力に戻る
天智天皇の勢力はケイタイ天皇の勢力
ケイタイ天皇の勢力は神武天皇の九州での子孫
宇佐神宮の本当にお祭りさらていた神様は、八幡様ではなく、宗像三女神だよ
ユダヤ人が崇拝する海の女神様
ユダヤ人が崇拝する海の神様(住吉三神)の嫁
八幡神社は勢力ある神社を乗っ取って作った神社、八幡様を崇めろと押し付けられた神社

277 :
なんだか痛いのが湧いてきたな。

278 :
ユダヤ一神教がなんだって?
多神教とは相いれない

279 :
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨は朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、ギリヤークなどの沿海州の
北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

280 :
古いといえば、「東大寺山鉄剣」があるね。金象嵌の。
中平○年
184年から189年の後漢の年号。
もしもこれが今発掘されたら大騒ぎだろうに、何故か無視されてるという。

281 :
鉄剣タロー

282 :
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。



「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html


.

283 :
近デジPDFダウンローダー
https://signal9.exblog.jp/19119897/

(旧・近代デジタルライブラリ―)国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/

284 :
[平田篤胤] 神字日文伝
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2562730
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2562731
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2562732

[落合直澄] 日本古代文字考
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992105
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992106

285 :
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

286 :
山形明郷先生講演会 (邪馬台国は日本になかった)
https://www.youtube.com/watch?v=l4swAYIl7lc&list=PLhHaAGez8wyjHeZpC6k4a3V2j2EtWvO-k

287 :
推古天皇の頃につくられた天皇記は、完成当時は大王記という名称だったことが有力だな

288 :
最古級に古いのはなんなの?

289 :
山海経

290 :
>>287

天皇記は完成時は大王記で、国記は完成時は国記だったのかな


帝紀や帝皇日嗣、旧辞は同じような内容だったのか




各豪族がまとめた書物も発見されると面白いのにな

291 :
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

292 :
というか天皇記の本来の名称が帝紀で
国記が、おそらく旧辞の事だったんだろう

それらは失ったオリジナルとは別に
写本で流布されてきて
両者を合わして古事記が作られた

帝紀と旧辞が推古朝の時代に書かれたものだから、
古事記も推古朝の時代で終わる

そして、蘇我家の文書だから、(当時の)近代は
蘇我家の輝かしい歴史を中心に描かれてた

乙巳の変以後は
蘇我馬子や蝦夷のシーンごと
蘇我家がらみの話をカットしたから
終盤の記述がほとんど無くなってしまった

藤原氏ににらまれない様に
こっそり写本してきたから
古事記が表舞台で語られる事も無かった

……全部、つじつま合うよ

293 :
ようは、「まったくの謎とされてきた文書が
実は自分らがよく知ってるアレでした」ってパターンだよ

294 :
>>292

古事記は当時の人たちには認知されてなかったのか?
写本を引継いでたのは反藤原氏の人かい?

295 :
というか、旧辞も古事も当て字で「くに」と読ませてたのかもね
で、国記の読みも「くに(のしるし)」で

「在らず」と「在らぬ」みたいに、「じ」を「に」の発音にして

帝紀も天皇記もあるいは大王記でも
「すめらみこと」か「すめらき」とするなら
読みそのものは同じになる

そうすると、タイトルの違いは
あくまで表記方法の違いになる

>>294
そこはちょっとわからない

知ってたけど藤原氏のRぼしだったのか
あるいは、本当に完全に隠れてたのか

296 :
https://kanji.jitenon.jp/kanjie/2479.html
この「爾」は音読みが「じ」と「に」なんで
「じ」と「に」は比較的、近い音と見ていいかも

297 :
>>295
>知ってたけど藤原氏のRぼしだったのか

そんなもん干したらあかん

298 :
日本書紀は宮中で勉強会とかやっていたけど、古事記は顧みられていなかった。
偽書との疑いもあった。
晴れて古文献と認められたのは、作者の太安万侶の墓が見つかって実在の人物であることが確認された昭和の末期だ。
新聞にデカデカと報道されていた。

299 :
クニツフミには何が書かれていたか気になる

300 :
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

301 :
>>298
へーへーへー

302 :
寺や神社に未発見の古い書物無いかねぇ

303 :
明治維新の焚書はすごかったらしい。
高良宮では一週間も古書を焼き続けたとか。

304 :
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

305 :
>>303

そんなことあったの?

306 :
旧体制を封じ込めるついでに、日本の古代史も封じ込めた。
神仏分離の後、全国の神社の祭神はアマテラスなど限られた神に宗旨替えされ、もとの伝承は多くが失われた。
廃仏毀釈で、仏教美術も破壊した。
今日残っているのは、わずかな残りカス。
そうしてできたのが明治以降の国家体制だよ。

307 :
江戸時代より古い神社の由緒書きの祭神はほとんどが後世の押し付けだもんな
式内社のほとんどは国津神が御祭神

308 :
新選組が降臨してるのか?w

309 :
維新とは、日本の歴史を棄却して新たな歴史を創作することだよ。
そして皇紀2600年とかいう、考古学的にあり得ない万世一系大和説が誕生する。
邪馬台国畿内説はその亡霊。

310 :
>>309

>歴史を棄却

何語だよwww

311 :
古事記以前には聖徳太子が編纂させていた先代くじほんぎってのがある
ネットで現代語訳が簡単に読めるよ

先代くじほんぎの情報元は、6氏族(天皇家、物部氏、蘇我氏、大伴氏、あとわからん)には氏族専用の文字と古事記のようなものを持っていた
これを全てヤマト朝廷に無理やり提出させた
どうせ読めないだろうと思って、しぶしぶ提出したら、聖徳太子の部下のハタノカワカツという者が全ての文字が読めたので、先代くじほんぎにまとめた

古事記はこの先代くじほんぎをさらに簡潔に、分かりやすくまとめた直した物だよ

あまりに神話がややこしくて、無駄な部分はガンガン省略されてる
神武天皇が男4兄弟でプラス姉もしくは妹がいたのをお前らは知ってるか?
知らないだろ?
そうやって無駄に話が長くなる部分はガンガンカットされて、より分かりやすくなった最終版が古事記だよ

参考資料として、先代くじほんぎやら、コシコデンを読むのはいいが、真に重要なのは古事記の方だって事を知っておかなければならないよ

312 :
>>306
古事記や世界の神話を読み解くと同じ神様を崇めているのがわかるよ
名前が違うだけで同じ神様ってのはとても多い
国津神といっても、結局は名前違うだけの同じ神様だよ
統合されたとしても、さほどの問題は無い
大きな流れを知らないから、重大な問題に見えるだけ
名前が違うのは、国が違うため言葉が違うからだったり、派閥が違うけらだったりするだけ
そもそも神様は人間に名を名乗らない

エクソシストで退治されてる悪魔も神様だよ
エクソシストがやたら名を明かせとしつこくいってるでしょ?
神様は名乗らないからだよ
エクソシストは八幡さまのオリジナルの女神のいなんな

313 :
エクソシストは女神イナンナ(八幡様のオリジナルの女神)の派閥
その他のキリスト教、ユダヤ教、イスラム教、仏教、神道の最高神はスサノオノミコトだよ
この2つの派閥しかないし、対立してる
だからエクソシストは対立派閥の神様を悪魔と呼ぶんだよ

神話ってのは全て繋がっている
縄文神話(簡単に解読できる文字として残ってない、メソポタミア神話の特徴持った像が残ってる)
→メソポタミア神話(粘土盤に文字が残っているので大量の読める資料がある)
→エジプト神話(パピルスに記録したが、パピルスが腐ってほとんど読めない)とギリシア神話→ゾロアスター教(拝火教)→ミトラ教

ミトラ教からキリスト教、ユダヤ教、イスラム教が発生した
ミトラ教はローマカトリックに迫害されて、チベットで密教となった
そして仏教になった

314 :
神道はゾロアスター教やユダヤ教を理解している人が定めていったんだよ
縄文神話から始まり、弥生時代に逆輸入した形だ

315 :
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

316 :
>>298
>晴れて古文献と認められたのは、作者の太安万侶の墓が見つかって
>実在の人物であることが確認された昭和の末期
これは違うでしょ
太安万侶は続日本紀にも記載されていて
そもそも存在に対する疑いはなかった

317 :
書物だけに的を張るより、民族伝承、考古学の発掘品など、
生活空間や存在立体が思い描けるのもよいでしょう

318 :
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

319 :
的を張る?

320 :
波太郎の本姓は竹之内という
だが このあたりの農民たちは熊の若宮と呼んでいる

波太郎の語るところによればこの熊の若宮一家こそ
南朝の正統が再び世に出る時のため
得難い古文書の数々と秘宝を預かる竹之内宿禰の末裔なのだという

応仁の大乱以来 世の紊に面をそむけ
祭壇を設けて しきりに なにか祀っているが
彼らが各所の 野武士 乱波 船頭 漁師の脈をおさえ
海と陸に隠然たる一勢力をなしている



徳川家康読んでたらこんなん出てきました。
関係あるの?

321 :
薬師如来像光背銘、釈迦三尊像光背銘は古事記以前?

322 :
古事記は8世紀に成立した創作
例えば雄略の和風名称でしられてる「長谷(はつせ)」ひとつとってみても嘘で塗り固められてるということがわかる
畿内を流れる大和川の上流に初瀬川というのがある
瀬の初めだから初瀬とついたであろうことは想像に固くない
その初瀬川というのは長い谷という地形をしており、そのことから7世紀の末期にその川の近くに創建された長谷寺(ちょうこくじ)と名付けられた寺がある
その寺は初瀬川にあったので「はつせでら」になり転訛して「はせでら」といつしか呼ばれるようになった
そこから取ってきたものを前出の天皇の名前に使用してるというお粗末さ

323 :
古事記の上代の神話を眺めているとどこかで見た風景がデジャヴュのように見えてくる
例えば須佐之男についてだ
日本人なら須佐之男についてよく鬼神として想起されるであろう
それは神仏習合した牛頭天王の姿から来たのかもしれないし
或いは、須佐之男と非常に縁(ゆかり)がある鬼神(おにがみ)神社のような存在のせいなのかもしれない
須佐之男の神話にはオオゲツヒメの神という女神を殺してその体が五穀に分かるという、いわゆる五穀豊穣の話が登場する
実は、同じような話が高句麗の風習にも見られる
「祭鬼神。又祠靈星・社稷」
鬼神を祭る また靈星・社稷を祠る
靈(霊)星とは天田星ともいい、稼穡(農事)をつかさどる
社稷(しゃしょく)とは、社(土地神を祭る祭壇)と稷(穀物の神を祭る祭壇)の総称のこと
馬韓にも同じような風習があったとされている
つまり、古事記はこのように他所から神話をパクってできている

324 :
ヤマト朝廷が統一政権として発足後に、それまでのローカル政権(出雲、吉
備など)に残っていた歴史記録をまとめたんだろうと思うが、それは焚書坑
儒のような強権的なやり方で廃棄したというよりも、各ローカル政権の固有
文字(いわば「方言」的な文字)で書かれた記録が、時間を経るにつれて無
用の長物化したため、解読者もいなくなり廃棄されたんじゃないかと思う。
これは、俺の持論である「言語や文字は民族国家にとっての『基幹インフラ』
の一つ」という考えから必然的に生み出されたものだ。

325 :
>>322
  >古事記は8世紀に成立した創作

  自分で長文を書いたことがないヤツの発想だなw 何のテキストもなしに
 想像力だけで長い物語を書くのは、精神病者でもない限り難しいんだぜw
 だから、古事記には何らかのテキストがあったと考える方が自然だ。想像力
 や政治的な都合で脚色を行った部分はもちろんあるだろうけど。そのテキス
 トとは、おそらく大和はもちろんのこと、出雲や吉備などのローカル政権に
 もあった史書だろうね。

326 :
故吾郷清彦先生から神代文字の書をもらったことがあるが、
なつかしいなぁ。

秀真伝なんか偽書だと観て可だが、貴重な記述もあるのでその全部が
偽書だというわけにはいかんぁ。

327 :
>>322>>323
順番が逆

328 :2020/05/08
あまり古くは無さそうなのですが、福岡の高良大社に伝わる高良玉垂宮神秘書は面白いです
高良の神が住吉三神の底筒男神であり、神功皇后と夫婦となっています
高良の神は物部の祖神の饒速日命です
フィクションのような場面も(名前も込みで)あるのですが、真実に繋がる事柄を伝えているとも思われます
またこちらの神社には、饒速日命を天照とし、神功皇后を200年代とする考え方があります
ならば3世紀、卑弥呼の時代
少なくとも魏志倭人伝が語る卑弥呼の時代より前に「天皇」がいたとは思えません
ならば、初めの天皇より前(または初めの天皇)の饒速日命はその時代辺りなのでは?と思うのです

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