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痛快!あだし先生のマニアックなバレー講座


1 :2014/09/04 〜 最終レス :2018/09/23
バレー板は今や危急存亡の秋(とき)に瀕しております。
羽後一族がどうだの、江畑、迫田がどうのと
朝から晩まで同じ書き込みで荒らし回るキチガイのせいで
バレー板は機能不全、滅亡寸前になっております。
そこで、バレー板随一の知識人である“あだし”姐さんから
バレー板復興の願いをこめて、ありがたい懐古談を
拝聴させていただきましょう。

2 :
長く見てる割にバレー論は稚拙だけどな

3 :
あだしさん、別に悪い人じゃないと思うけど?

4 :
では御使命がありましたようなので、
何のお話をいたしましょうか? えっ、今どこからか、ミュンヘンの頃の男子〜
という声が聞こえてきましたので、それをやってみましょうか!まだ一度もやった事のない
あだしの新ネタを。
72ミュンヘンで日本男子は、サーカス団バレー(コンビバレー、アクロバティックなバレー)で優勝しましたが、
あだしはあの大会での日本や世界(ソ連、ブルガリア、チェコスロバキア、ポーランド等々)を見た時、日本はどう見ても
今回はラッキーで優勝しただけで本当の力で云ったら世界ランク4位か5位位の実力だわナ、と思ったのですよ。なぜならこの大会で
4位になったブルガリアとは準決勝で、2-3のフルセで日本が逆転勝利を収めたと云うものの終始、ブルガリアのスパイクに押されっ放しだったし
世界一の平均身長の日本とかマスコミは頻りに云ってたけれどその高さなんてどこにも感じなかったから。なので優勝なんて今回一度きりなんだろうナ
って心の中でシラケた感じでその大会を観ていたのです。そしたらその翌年にあった73WCで日本はいきなり5位になった。ミァュンヘン組のメンバーのそのほとんどが、
残っていた、というのに。けど、5位なんて結果もあだし的に云うたら、そんなの当然よナって感じでしたがね。
あだしはこの時に『バレーの神様』になったのだと今、思うのです。
ちなみにその後の男子ですが、74世では3位、76五でも4位で78世ではなんと11位という不名誉な成績でした。が、もっと不名誉だったのは
80五の出場権を獲れなかった事ですかねぇ〜。w
なのであだしは1980年以降はほとんど男子バレーは観ていないんだわwだってあだしのは勝つバレーだから。
女子も正直なところ5-6年前以前の20年間はほとんど観てなかった。江上(丸山)以来って感じだったか。w
けど08年頃にテレビでたまたま日本の女子の試合を観たら、もしかしたら、これだったら
もう少し頑張れば世界3位だったら成れるかもって思いまた見始めたのでした。そしたらほらっやっぱりーとなり
またそれ以降はしっかりと観ている。あだしが観ている限り女子は期待できますからね、だってあだしはトリビアなんだから
というお話でした。( `ー´)ノ
 

5 :
要約すると
あだしは60代
バレーは好きだけど話はつまらない
ってとこか

6 :
あだしさん、木村・江畑・長岡・石井・大野 各選手
(その他の選手でも)の評価をお願いします

7 :
日本の男子バレーは、一般的には76オでメダル無に終わりその後復活する事ができなかった
ので76オの頃の選手の育成や若手とベテランの交代等に問題があったと云われていたけど、もっと前に
問題があったのだと云う事をあだしは云いたかったのですね。>>4では。
>>6
その各選手がどうしたの?。

8 :
73WCの最終順位が書いてませんでしたね
1ソ連、2ポーランド、3チェコスロバキア、4東独、
5日本、6アメリカ、7ブルガリア、8ブラジルでしたが。
その大会で2位となったポーランドはミュンヘンの時は9位(12チーム中)だったから
その躍進ぶりには本当に驚きました。日本もその大会ではポーランドに負けていたしね。
この時、ポーランドが2位になって世界の男子バレー界の勢力図が大きく変化したのでは
ないかという気もしたのですね、当時はあだしはそう感じたのでした。
しかし日本はこの大会ではそれまでずっと苦手だとしていたソ連には勝った。それも今考えると
良くなかった事だったのではないかとあだしは思っている。この大会が終わった直後に、日本のバレー
関係者は、『今回の日本は5位という成績だったが、1位のソ連には勝ったのだから、まだまだ潜在的な実力はある、
世界トップクラスの実力は持っている』と
こんな能天気な事を云ってたから。w
油断なんかしている場合ではなかったのに
ポーランドはこれで完全に自信がついたんだよね!と思う。
又、一年前のミュンヘンの頃にポーランドとどっこいの試合をやっていた世界ランク10-15位位のチームも
ポーランドが日本に勝った事で自分らももう少し頑張れば、もっとやれるんじゃねぇーか、と思ったのではないか?
んで、その後は日本は世界BCランクのチームに苦戦するようになり78世の頃にはBCランクのチームにも勝てなくなって
11位まで簡単に凋落したのだと思うのです。
これが、日本男子バレーの歴史なのです。一番大切な歴史なのです。
>>6
そこに書かれてある選手って皆、いい選手ですよね!

9 :
あだし氏的に眞鍋監督の戦術や采配についてどう思いますか

10 :
あだしはね、山田重雄先生の存在が大きかったと思うんですよ。
山田先生は教祖のように振る舞い、選手たちに身も心も捧げるよう強要した。
そういうある種カルト的な狂信、肉体的ハンディを乗り越える高い精神性こそが
今の日本に求められているとあだしは思うね。これは間違いない。

今の眞鍋は新戦術を教団の秘儀のごとく駆使して
選手たちやバレーファンの信仰を自身に向けさせようとしてるわけさ。

11 :
さすがバレー未経験者
ここまでバレーの技術的な事は一切なし
素人は所詮素人

12 :
本当にキモい老害ですなw

13 :
痛快でもなんでもない件

14 :
96年アトランタ五輪、山田重雄監督構想では、
日立の大林、吉原、多治見に村田、永富のツーセッター、
福田、ダイエーの山内と平均身長は180に近かった
結局、山田氏追放劇でご破算 村田、福田は外れ、
鳥居、佐伯、中村、中西らユニチカと、NECの大懸、星野
らが選出されたけど、小柄なうえ完成されたチームじゃなかった
そんな日本に中国、韓国、アメリカ、オランダは容赦なかった

15 :
中田久美は日本低迷一直線の90年代〜2002年までは指導者になろうなんて毛頭思ってなかったと思う。
でも2003年から柳本体制が発足して日本女子バレーが底を打って盛り上がって行くうちに、
徐々にバレーへの熱意、指導者への渇望が強くなっていったと思う。
そして2012年ロンドン五輪で全日本女子が28年振りにメダル獲得で監督業を決意したと思う。
かつて現役時代に手も足も出ず、たまに勝ってもまぐれでしかなかったロシアや中国が
かつてほどの勢いを失くしていく中、やるなら今だって思ったんだろうね。

16 :
妄想はいいからバレーについて語れば?
こうだったみたい、こう感じた
こうだったようだ、だからこうなんだろう
そんなふわふわした昔話じゃ意味ねえぞ

17 :
>>9以下に偽あだしが、現れているみたいですが、あだしは>>8でレスをした以降このレスをするまで
一字一句レスはしておりませんからね。>>8の続きを下記にレスいたします。
男子の73WCはチェコのプラハで行われましたが、女子はウルグアイでその大会が行われました。
そしてその女子の73WCが行われている同時期にウルグアイのモンテビデオ市で、FIVB(国際バレーボール連盟)の
総会が行われ、バレーボールのルールについて次のような改正が決まりました。(一字一句正確に記します)
@、オーバーネットのブロック容認 A、アンテナの両サイドを20a狭める B、ブロックのワンタッチ後3回ボールに
さわれる。そしてこのルールは76モントリオール大会が終わるまで行わない、と。この総会には日本からは西川政一氏と
松平康隆氏が出席して日本もこの時はこのルール改正については賛成の立場であったので日本の思惑が通った総会だったと終了
したのです。

18 :
72ミュンヘンで9位だったポーランド男子は73WCでは197のヴォイトヴッチの加入も
あってかソ連には負けたが日本には勝ちその大会で2位になって74世では優勝した。
ソ連は2位だったがこれで男子はまた新たな強豪国がまたひとつ増えたのでした。
76モンでも優勝候補にポーランドが挙げられていましたからね。で、実際にそのポーランドが
優勝したのですが。つまり男子は73WCから76オまではソ連とポーランドの二強であったと云う事です。
その頃も日本はどの大会でも優勝を狙っていたようでしたがこの2つの国の間に分け入って勝って優勝する
という力は当時の日本にはなかったようにあだしは思いました。これは女子の82年から84年までの中国、アメリカ
そして日本の関係に似ているかなっとも思いましたね。日本を除く2つの国で優勝を狙っていて日本は完全に蚊帳の外、という感じが。
しかし日本も調子が良い時はそのうちの1つだけなら勝つ事が出来た、と。
この歴史からも分かる通り、上記のルール改正が行われる前から力と高さのある国が台頭してきていたのですね。なので日本でそのルール改正後に
良く云われた「あのルール改正が日本に不利となった」というのはこれは、完全に間違いなのです。大型の他国がこのルール改正によって台頭する事に
拍車をかけられた事は事実でしたが、その前から日本はその実力に暗雲が立ち込めていましたから。実力なんてのはそもそも最初から日本にはなかったのですから
と云ったら言い過ぎかw けどそんな感じでしたがね。
だってバレーボールって最後の最期は高さだとあだしは思うから!
そのルール改正があろうがなかろうが日本が衰退するのは時間の問題でしたよね、て。
なので、をかまのイトーみたいに受け売りで
あのルール改正で、と云うのは止めましょうw みっともないから。
ルール改正が適用された77WC頃から外国チームは守備に力を入れ出し今まで以上に大きな選手を
加入させて、かつ日本のコンビを取り入れたから強くなったのです。
けど、そのルール改正が行われた総会では日本の松平なんかはそれに賛成だったのだからねw

19 :
>>9
あだしは真鍋監督の事を現役の時から知ってるし年齢もあだしと同じなので
昔から注目していた選手でしたから監督という感じでというより一人の同級生の
人間として見てしまうのでその感想って感じになってしまうのですが、人間性がとても
いい男だ、という印象がありますね。彼はあまり感情的になったりするようなタイプの人間
ではなさそうなので監督には基本的に向いていると思うナ!
バレーに対してもとても研究熱心であるように思うし。
あの朴訥とした感じがいいじゃないですかぁ〜
もさっとしたところが。

20 :
“をかまのイトー”て誰?同サロ板の住民?

21 :
をかまのイトーが今、とってもいらいらしているのはあだしには良く分かります。
けどね、それは今まで何も知らなかったのに粋がって知ってるふりをしたからなのです。
自業自得というやつなのです
いい機械です、ここでしっかりと自分が今までやった事を反省するが良い。
42年前の丁度今頃の季節だったのでしょうか?ミュンヘン五輪で日本の男子が優勝して女子が
準優勝したのは。あだしは当時、小学3年生。真鍋監督もあだしと同じで小学3年生だった筈。
真鍋さんはその頃は野球少年だったと昔、本人が云ってたのをあだしは聞いた覚えがあったけど、
あだしはその頃からバレーボールを観るのが大好きでしたねぇ〜。
なので当然この大会の男子の決勝も女子の決勝も自宅のテレビで観て日本を応援してましたよ。
女子の決勝が行われた日は日曜日だった記憶がある。お天気も今日みたいな感じで一日中、小雨が
降っていたのではなかったか?。
家の中は湿気でベタベタとした感じだったから。たぶんその日は、9月8日か7日た゜ったのではないか?
そのいずれかの日が日曜日だったらその日が女子の決勝戦があった日という事で間違いなし。

22 :
ブロックの後にあと3回ボールにさわれる、
というのをその時に松平が賛成したとすればそれはラリー中でも日本はコンビ攻撃をする事が
出来る、というメリットがあると思ったからだったのだろうか?。
ブロックのオーバーネットをOK、
というのを松平が賛成したというのは日本人のブロックは低い、低いがブロックは手を出来るだけ前に
出すとブロックポイントが増える。日本人はタッチネットをしないで手を前に出す技術が世界一上手いとか
って思っていたからだったのだろうか?。
その時は松平はそんな事を考えてこの2つのルール改正については日本が有利なルール改正になったと思い、モンテビデオから
日本に喜び勇んで帰国したのだろうか?w 
あの頃は外国チームのほとんどが守備が下手だったし女子も男子も今なんかよりも日本と外国選手の身長差が大きくなかったから。
それに松平はキューバやブラジルそしてアメリカチームなんかは一生かかっても日本のコンビバレーを真似する事は出来ないだろう、と
思っていたのかもね?だから今回のそのルール改正は日本の思惑通りだったとその時は思ったのであろうナ、単純に。今日を知らずにw
なのでハイブリット6もそのうち外国のチームに真似される、そしたらまた日本は、大型化、大型化、ときっと騒ぐのではないかw
外国チームには絶対に出来ない事、今まで誰もやった事がない事をやらなかったら新戦法とは云わないですよ。
以上73年から14年までの事をまとめてみました。
ここで何か気の利いた事をひとつでも をかまのイトーがレスをする事が出来れば面白いのにね
結局はこういうのは歴史を良く知っている、バレーを良く知っているというあだしのような人間が最後には勝つという事なんだろうナ。w

23 :
>>13
ww

24 :
だから73年に新日鉄に入社社した田中幹康なんかはミュンヘンの時のエースの大古
なんかよりも選手としては優秀だったけど74年辺りの時代から世界の壁が益々高くなっていたから
大古よりも活躍できなかった。これはこれでいいのだけれどその当時は田中の事をバレー関係者なんかが
田中は精神的に弱い、とかあれだけの身体能力があるのにガッツがないから世界では今一活躍する事が出来ない
のだとかボロクソ云われていた。あの時(74-77年頃)の田中の本音や心境は、大古さんの時代と今は全然違うのですよ
といった感じだったのではなかろうか?。田中の時代はそれまでそれ程強くなかった韓国や中国までもかなり台頭してきて
いたから日本はそれらに勝つ事が精一杯のチームになっていたからね。
なので田中や岩田は大古よりも完全に上回った実力を持っていた選手だったが当時の世界は本当に強くなって来ていたので、
最後の最期まで大古を超える事が出来なかったというイメージのままで終わったのだろうね。

25 :
このようにあだしが大昔のバレー史書いたらすでに分かる人は分かると思うが、
と云うか賢い人はとっくの昔に分かっていたと思うが、いつの時代も、男も女も
世界の強豪国と呼ばれる国は一定数あるものなんですね。それが昔だから少ないとか
現在は多いとかというものではないのですよ。日本から見て多くなったな、と感じた時は
それは日本が世界を相手に戦ってる時に日本が勝てなくなってる時なのですね。反対に今は
強豪国が少ない、と感じてる時は日本が世界で戦ってる時にまずまずの成績を収めている時なのだ、と。
そういった事なので、いつか、をかまのイトーが云ってた『今は強豪国が世界には15位あるから』との発言は
これ、とっても素人な発言だったもんナ、とあだしは思うのです。76オの時の女子なんて日本がソ連を3-0で叩き
あっさりと優勝しちゃったけれどこの大会では日本は予選から決勝まで全ての試合を3-0で勝ったので日本は無敵であった。
から強豪国らしい強豪国なんて1つもなかったと云っても良かった。敢えて云えばソ連と韓国、位だったか?
という事は世界の強豪国はこの2つと日本を含めた3つだけだったと云う事になるのか?それは違うでしょうがw
この時の大会に出る事が出来なかった中国やアメリカそれに北朝鮮やブラジルから見たら世界の強豪国はやっぱり15-6から20カ国
位はあったのではないのか?。という事になる。w
なので世界のAランクに日本が常に入っていれば、BCランクの国には必ず勝てるという前提で考えれば自ずと強豪国は少なくなると云う事なので
昔は強い国が少なかったので戦い易かった、という理論や理屈はとてもナンセンスな理論だ、小賢しい素人の理論だ、と云えそうだ。w
あだしが2008年頃に日本の女子はもう少し守備と精神力がアップしたなら世界第3位にだったらなれる、と発言したのは、現在は日本にとっての強豪国は
確かに15位はあるとは思ったもののその時点でどうしても勝つ事が出来ない国はブラジルと中国だけだと思ったので世界第3位にならなれると云ったのでした。
なのでいつの時代でも男も女も世界にはいつも強豪国は15前後位はあるという事を今日は覚えて欲しい。

26 :
そもそも世界の上位15カ国の実力差なんて僅かなもので風向きが少し変わっただけで
そんなのはすぐに変動するものだから、てあだし思ってるんだよね。なので15位が3位に
なる、5位が13位になるなんてのは年がら年中すぐに起きる現象であるのだから、今は日本の女子は
折角世界第二位までの順位になったのだから日本よりも少し格下の順位にいる中韓には簡単に負けるなよ、と
口を酸っぱくして云ってるわけ。いつの時代も3位から15位くらいの実力は紙一重の実力差しかないのだから。
けど、3位なら銅メダルを獲得できる、しかし4位以下だとメダルは貰えない、と。この差は大きいから。

27 :
あとあだしは個人的に日本が中国や韓国に負けるというのがどうしても許せないんですよね。
何かむかつく、と云うよりマジにむかつく。
今の若い子なんてこんな事は知らないと思うけど、1976年頃までなんて日本はほとんど韓国と
中国に負けなかった。韓国には一度だけ75プレ五輪で負けた事がそれでもあったのかな?
その時は全日本ではなく日立がプレ五輪に出たのですが。中国にも76オの頃までは日本は絶対に負けなかったのですが
77WCの予選で負けて以降は78年頃からはつい最近まで日本はずっと中国に負け続けていたんだわ。
本当に悔しかったもんナ、あだしさんは。
80年代なんて日本は中国に3回位しか勝てなかったんじゃないか?
なので2年前のロンドンで準々決勝で中国に勝ち、3決で韓国に勝った時はマジに嬉しかったんだよね。

28 :
>>1
アホなスレ立てたな。
お前が全て悪い。

29 :
>>28
ここを隔離スレと思えばいいじゃないですか。
なぜあだしさんアンチの人はわざわざココに来てあだしさんに粘着するのですか?
あだしさんは例のアンチ江畑のキチガイみたいに本スレを朝から晩まで荒らし回る悪人でもないし、
なぜあだしさんが叩かれなければならないのか理解できません。

30 :
ねらーなんてそんなもんだろ
叩くのに理由は必要なくただ気に入らないとか面白いとかで叩く。
バレー板だと長崎とか横文字大山オタとか
他人の粗捜しと揚げ足とりが生き甲斐みたいな連中も居る訳だし。
議論ではなく相手を否定して持論を展開するだけの輩。

31 :
あだし先生と他の常連さんがバトってるとこそんなみない

32 :
日本の女子が世界一を目指すというのであれば、そのためにハイブリット6を
用いるということも結構な事だと思うが最終的には現在世界第一位のブラジル以外の
国にはいつ試合をしても絶対に日本が勝つことが出来る、というチームを2015年のプレ五輪の
時までに作りラストの一年で必死にブラジルに追いついて追い越すという形に持って行くしかないのでは
ないか。78年から80年頃にその時、日本が苦手だったキューバに追いつき追い越したように。けど、あの時は
新たに台頭してきた中国とアメリカに日本は追い越されてしまっていたので結局は日本は80オに参加していても
中国とアメリカも参加していたら2位か3位だったと思うのですがw
でいて実際はその大会では優勝候補の筆頭に挙げられていたそのキューバは5位だったし。これにはあだしは笑ったもんナ。
すげーオチだったナ、と。
けど、何れにしても今は日本はブラジル以外の国と対戦した時は絶対に勝たなければダメって事なんですよ。
で、リオでの本番ではブラジルとの決勝戦ひとつに絞って戦うのだと。日本がリオで優勝するとしたらこの形しかないと思うから。
>>31
あだしが、その常連をコテンパンにやっつけてしまったからもうここにはそいつは来ない。来られないですよ。
あだしが出木杉君だから悔しかったのでしょう、嫉妬心があったのでしょうw

 

33 :
ブラジル以外の国に対してだったらもう少し守備力を向上すれば日本はどこのチーム
にも楽勝出来るようなチームになれるのではないか?。
ブラジルにはそれだけでは試合でイニシアチブを日本が取って楽勝するというところまでは
行かないと思うけど。何れにせよ日本はもう少し守備が良くなったらいいですよね。
5年前とかと比べるとそれでも日本は相当、守備が良くなっていると思うが。

34 :
77CWで日本男子が2位になった事を、をかまのイトーは覚えているだろうか?
あの大会って八百長があったとは云わないけど最初からシナリオがあって各国の
選手はそのシナリオ通りに試合をしていた、という感じでしたよね?
結局、優勝したのは決勝リーグで3連勝したソ連だったのですが。
しかし、最優秀選手賞は4位だったポーランドのヴォイトヴッチで最優秀監督賞も
ソ連のプラトーノフ監督ではなくキューバのエレーラ監督だったからw
あの大会は全体的に変だったんですよね?。

35 :
あだし先生は全日本女子代表スレには参上されないのですか?あちらはくだらない内容が目立つのであだし先生の持論で埋められた方がまだスレッドとして機能しそうです

36 :
あだしは光が差し込まない真っ暗な穴蔵の底で
誰にも気づかれないでひそ〜り新だと思ってたんだが
しぶとく生き返ったのか

37 :
あだしの最後はカワイソだったなあ
真っ暗な穴の底で「あだしは思ったんだなあ」って
ぶつぶつ独り言いいながらお陀仏になったんだよ
誰も聞いとらんのに

38 :
>>34
正確な年は忘れましたが、90年代初頭のトップ4バレー
という大会の日本-中国戦もヤラセだったんですか?
たしか以前にあだしさんがバレー板でそんな風なことをおっしゃってた記憶があるのですが…
日本側のメンツは大林、福田、名取、佐藤(伊知子)、鈴木(晶子)、あと一人思い出せず
中国側のメンツは許新、巫丹、李国君、蘇立群、頼亜文、あと一人思い出せず
てな感じで、解説は荒木田裕子さん、ゲストは山田重雄さんでした。
実況の楠という名のアナウンサーが「東洋の魔女が甦った!!!」とか大興奮してたのを覚えてます。

39 :
>>38
星野賀代の全日本デビューのあの大会か

40 :
また、来週!!

41 :
>>36-37
こいつがあだし大先生に粘着する「をかまのイトー」か??

42 :
「をかまのイトー」はあだし廼占星の脳内に何百人も存在してるけど
現実の世界には、、存在してないんだ
廼占星は脳内バーチャル見えない敵と戦ってるんだな

43 :
77WCの男子はソ連が圧倒的な強さ位で優勝したが、ソ連が優勝したのは68メキシコ五輪
以来だった。つまり9年ぶりの優勝だったわけだがあのソ連が9年間も優勝から遠ざかっていたとは
とても不思議だったのですよね。68メキシコの時もそのソ連は当時それほど強くなかった
アメリカに破れていたのですが、これってあだしは少しトリビアだとも思っているしね。
68メキシコの頃のアメリカなんてかなり弱小国だった筈なのに。
その後の70年代のアメリカはお世辞にも強いチームとは云えなかったですもんね。

44 :
いつから強くなったのでしょうアメリカ

45 :
>>44
あだしの記憶では1981年以降から本当に強くなったなという記憶だったのですが、
つい最近、あだしノートを見ていたら68メキシコ五輪でもその大会で優勝したソ連に
アメリカは勝ってたのですよ。だからと云ってアメリカが68メキシコの頃から強かった
という事でもなかったと思いますが、やはりアメリカは昔から大きく高く力もあったのでしょうから
68の頃からそこそこ強かったのかもしれませんね。しかし77WCの時は日本はアメリカに楽勝していましたけど。
いつ頃からだったのでしょうか???
あだしにもハッキリした事がわからないのです。
男子も女子も60年代から70年代半ば頃までは、欧州と日本のみ即ち、ソ連、チェコスロバキア、東独、ブルガリア、ポーランド、
そして日本と、この辺りの国で金メダルを3大会では競い合ってこれらの国の何れかがそれを獲得していたと思っていたのですがね。
アメリカは68メキシコ五輪では5位にもなれていなかった筈なのですが記録ではソ連に勝っていたのですよ。
もう一度良くあだしノートを近々調べてみます。もしかしたら何かわかる事があるかもしれませんので。
が、68五輪ではソ連は優勝したがアメリカには負けた。日本はその大会では2位だった事
77WCでは日本は予選でアメリカに楽勝した事
69WC、70世、72五輪、74世、76五輪の時のアメリカは世界第三位に入れる実力はなかった事そしてその通りでアメリカは
これらの大会では出場権はなかったり、出場していたとしても5位以下だった事は事実でした。
こんなアメリカチームだったので1970年代の頃はアメリカ人は背が高くパワフルなのに、そしてバレーボールはアメリカ発祥のスポーツなのに
アメリカはなぜか弱いんだよね、と日本人は口々に云ってた。

46 :
>>45
強くなる前に力は付けていたかも、ということですね。
また分かり次第続き宜しくです

47 :
ソ連とか東独とかってバレーの強豪国として長い期間君臨していたから
老獪さのようなものを持っていたのではなかろうかって思うから、いくら
68メキシコ大会当時にアメリカがパワーと高さを備えてたとしてもソ連がアメリカ
なんかに負けるわけがない、という気がすごくするんですよ、あだしは。
けど、ソ連がその大会でアメリカに負けたのは事実だったのです。
77WCの時のアメリカは高さとパワーはあったけど守備がとても下手だったから日本の
フェイントや巧打にやられて0-3であっさりと負けていたしね。そういったプレーをしていた
位だったので、68メキシコの時はもっと守備なんか酷かったのでは、と。
そう考えるとどうして68オでアメリカがソ連に勝てたのかってなるんだわ、やっぱり。

48 :
ソ連とアメリカはそれまでの対戦数がどうだったか当時のことは分かりませんが、戦い慣れておらず等々、様々な要因があったのかもしれませんね、。
あだし先生は男女共に詳しい方ですね

49 :
先生には代表スレのキモ共を一掃して欲しいですよ
ゴミ掃除は嫌ですか?

50 :
68メキシコ五輪の男子の順位
@ソ連 8勝1敗(1敗はアメリカに1-3で負けた)
A日本 7勝2敗 (注)
Bチェコスロバキア 7勝2敗(2敗はソ連と東独に負けた)
C東独 7勝2敗(2敗はソ連と日本に負けた)
Dポーランド 勝敗不明
Eブルガリア 勝敗不明
Fアメリカ  勝敗不明
Gベルギー  勝敗不明
Hブラジル  勝敗不明
Iメキシコ  勝敗不明
(注)日本のその2敗はソ連に1-3、チェコスロバキアに2-3で負けた。尚、この大会での日本のスタメンは
   セッター猫田の対角に木村、センターは森田−小泉でレフトは横田−大古であった。
日本が7勝した試合は全て3-0だったので、セット率で日本が2位となった。
ソ連が7位のアメリカに1-3で敗れた試合はこの大会の初戦の試合であった事もここに付け加えておこう。
各試合のセットカウントや勝敗、また対戦の順番等々について不明な個所が多数ありこれだけのデータしか
ないのでこのデータのみだけで各チームについて云々する事はできないが上位4位までの順位を見る限りアメリカが
当時から強豪国であったとは云えないという気がいたします。ではなぜ、ソ連はそんなアメリカなんかに負けてしまったのだろうか?

51 :
こないだの女子WGP決勝ラウンドで
ブラジルがトルコにうっかり負けちゃったようなものでは?

52 :
>>51
トルコってそこそこ強いチームだからこないだのブラジルの敗戦試合は
えっ、て感じでもなかったけどね、あだし的には。だからそれとは本質的に
性格を異にするものだと思うのですが。
だからかなり珍しいケースなのではないか、とあだしがピックアップしてみたのです。
82世の女子大会で予選で日本がペルーに負けた事があったけどあれは地元ペルーの観衆の
クレイジーな応援のせいだった。そのペルーは準決勝でも中国を破ったアメリカに勝って、
決勝進出を果たした。結局は決勝では中国に簡単に0-3で敗れて2位だったけどw
まっ、この時は地の利があったという事だったのだろうが。あとこの時はペルーの女子を世界の
強豪国の仲間入りさせた功労者の元監督の加藤明がその大会の直前に亡くなりそんなのもあってなんとか
私たちはベスト4入り(準決勝へ進み)たいというのがあってそうなったのかなって思いましたが。
メキシコ五輪でかなりの実力差があったと思われるアメリカがソ連に勝った理由として考えられるのは、
米ソの対戦という事だけ
アメリカチームはそれだけで意地や執念でソ連に捨て身でぶつかり勝ったのかナ???? と。

53 :
月ばれの丸写しw

54 :
>82世の女子大会で予選で日本がペルーに負けた事があったけどあれは地元ペルーの観衆の
>クレイジーな応援のせいだった
基地外か?
応援だけで勝てるわけないだろうがw

55 :
米ソの対戦となるとどの競技も鬼気迫るものがあり接戦になる事が多いが
そんなのも元々の力の差がほとんどないというケースばかりだ。
なのでこのメキシコ大会の男子バレーのソ連とアメリカの試合のケースはとってもミラクルであり
ミステリーでもあるのだ。81WCの時の女子の米ソの試合を覚えているだろうか?
あの時のソ連は初戦で日本に0-3であっさりと負けた。あの時代のソ連はマスクワで確かに金メダルを獲得
していたが、あの大会は欧州選手権みたいなものだったので世界一といっても重みがない金メダルだったが。
んで、77WCではその日本は終盤にアメリカにぶつかったが、2-3で敗退した。その翌日だったろうか?
アメリカはソ連と戦って0-3で負けた。実力で考えたら圧倒的にアメリカのが上だったのに結果は全く反対になってしまった。
あれは完全に米ソの戦いというやつでしたがね!!
>>54
異様だったんですよ、あの時の日ペ戦のペルー国民の応援は
南米独特のって感じで。
勿論それだけではないと思うけど実力差が6.4位の差だとああいった事になる事もあるんだなぁ、と
あだしはその大会で学んだのでした。
地の利、応援、米ソ、日韓、とバレーは他の競技に比べると番狂わせというものはあまりないスポーツだと
あだしは今でも思って観ている。が、82世の日ペ戦と68メキシコの米ソ戦は不思議な試合であったとも思ってる。
とってもトリビアな試合でした、とね。

56 :
>>55
訂正だわw
5行目のマスクワはモスクワに
7行目の77WCは81WCに

57 :
あんた試合見たのかよ
82年の世界選手権は1秒たりとも日本で放送されなかったけど

58 :
>>57
またまた頭のおかしな人が現れましたね
82世の時の日本の試合は全試合が日本でほぼリアルタイムで放送されてましたけどね
あだしはその全試合のビデオを今でも大事に保管してありますから。
あの大会の頃は国内ではそれまで最強だったユニチカから、杉山や小高三屋中田が加わった
日立の高さのバレーに押され気味になっていた時代だった。中田も82世では代表に選ばれていて
予選では当時あまり強くなかったブラジル戦の時に正セッターの小川と代わりセッターとして試合に
出ていた。
中田はその2年前の80年の日中対抗の時に中3で代表に選ばれてたが、それ以降はそのままで81.4月に
NHK学園に入学したので82世の頃はNHK学園の高2であったが日立バレーボールチームの一員でもあったので、
社会人2年目でもあった。あだしはその頃(81年から83.4年)頃は一番、日立体育館へ足繁く通っていましたので
ここいら辺りの時代の全日本の事や日立の事は一番詳しいんですよ。そうだ、その頃は日立の体育館で山田バレー塾(L.Aエンジェルス)
の生徒の中に大林もいて、日立バレー部の隣のコートでおかっぱ頭の大林さんも毎日練習しておりました。

59 :
82世の事は兎も角、松平は64東京で銅をそしてこの68メキシコで銀を獲得してからは、
次の72ミュンヘンでは必ず世界一になります、とマスコミの前で何度も宣言していた。
金を獲得するために今回のメンバーはそのほとんどに72までやってもらうと思うが幾人かを
入れ替えてやって行きたい、と。つまり基本路線は68メキシコでやったバレーで行くのだと
そんな事を松平は良く云ってたが、現実にその通りの事をやってのけたのだから、松平って男は
やっぱり凄い人間だったのだとあだしは思うんだよね。69WCで銀、70世で銅だったから68から72までの4年間
に行われた世界大会ではいつでも日本男子は金メダルを必ず獲るという執念でバレーをやっていた事を強く感じる。
この時代にこういった事を松平は経験していたから、その後、80モスクワで出場権無しに終わった時も8年後のソウル五輪で再び金!
を、と云っていたのでしょうね。8年間あれば必ず出来る筈だと、そんな気持ちがあったのか?
しかしその結果は散々だったがw
 

60 :
頭おかしい人が頭おかしい人があらわれたって…www

61 :
広瀬が相手のスパイクを回転レシーブで拾って
すっくと起き上がりさっとレフトに走りこんでアタック
忍者攻撃と呼ばれていたの、もちろん知ってるよね?

62 :
腐れ外道
腐れ!外道

63 :
>>50の結果を見てもう一つ着目すべき事があると思う!それはポーランドが5位だったという事だ。
ポーランドは、当時から欧州の強豪国ではあったものの世界大会ではその後もなかなか上位進出は果たせなかった。
日本が優勝した72ミュンヘンの時も9位で世界CDランクのチームでしかなかったので、日本から見たらそれ程手強いチームでは
ないとそんなのが1973年まではあったように思ったが、1974世でポーランドが優勝してからは世界1.2の国として76オでも優勝して
(この大会では日本が準決勝でポーランドに負けた)決勝でもソ連に3-2で勝利して2冠を達成した。77WCの時は日本の女子チームと同様に
3冠達成なるかと大会直前にかなり騒がれていたがその大会では日本には3-2で勝ったものの強敵のソ連に0-3で、またキューバにも0-3で負けて4位で
その大会を終えた。ポーランド男子の時代はここで幕が降りたのではなかろうか?。日本の男子が76オの準決勝でポーランドに2-3で負けて3位決定戦の
キューバ戦で0-3で負けて4位になった時と同じ様に。
上り調子で来ていたチームが世界大会で優勝してもその後にすぐ順位が一つでも下がると坂道を転げ落ちるようになるという見本であったのではないか、と
思ってる、この2例は。
その後の日本の女子もこれと全く同じであったでしょう、72銀→74世金→76金→77WC金→78世銀、と。
なので今、上り調子で来ている全日本女子はこれから始まる世界バレーでは最低でも3位までに入らなかったら
今後はかなりヤバイ状態になる可能性が大いにあると思うのでなんとしても3位以上の結果を獲得して欲しいのです。

64 :
>>38
日本は星野に代わって、東洋紡の坂本清美が入ってた。中国は左利きセッターの毛武楊(もしくは蘇恵絹)が入ってた。
ライト巫丹に代わり、第3セット後半に周紅が入ってたけど、ブスだったわ〜w

65 :
しかし、そのキューバ
76オでは72オのチャンピオンの日本に3-0で、77WCでは74世76オのチャンピオンの
ポーランドに3-0で勝ったのにその後の78世で優勝をする事は出来ずでそれ以降の80オでも
82世でも優勝に絡む(決勝進出)事はなく世界の強豪国ではあったもののその後一度も世界制覇は
出来なかったので今もそのままの状態が続いている。もしもキューバが世界制覇をする事が出来たと
したら80オか81WCだったのではないかと思うのだがあの時はソ連が本当に強かったからそれは無理だったろう。
つまり1970年代から1980年代までの男子の本当の王者はソビエト社会主義共和国連邦だったと云う事になる。
キューバは守備が下手過ぎたからなのか、チャンピオンになれなかった理由は?

66 :
で、80年代からはアメリカやイタリアなんかが本格的に台頭したからね
んでこれでキューバは完全に埋没してしまったという感じだった。
そして80年代はもう一つ見逃してはならない重要な出来事があった。
それは80モスクワ大会の西側諸国のボイコットと84ロス大会のソ連を初めとする
共産主義国のボイコット。
>>61
広瀬のレシーブからスパイクまでの動きって本当に機敏でしたよね
けど、あれだけでは日本は金メダルを獲るということろまでは行かなかったとあだしは思ってた。
現実に、81WCで銀、82世で4位だったのですから。
しかしあの広瀬の守備力に他の5名がひっぱられて日本全体の守備力がどんどんアップして行ったというのは
ありましたよね。80年頃まで現役でやっていた富士の池知やカネボウの清水それに元々守備はあまり得意では
なかった日立の三屋などはかなりレシーブが上達していたから。

67 :
世界バレー2014の男子大会で、ポーランドが40年ぶりの優勝をしましたね!!
やったね、ポーランド男子
つい最近、あだしはこのスレで、ポーランド男子の黄金期の時代(1974-76年)のお話を
やってみましたが、これは偶然だったのか?。
やっぱりバレーボールというスポーツは、高さと力を持っているチームが最後の最期は勝んだという事を証明したのではなかろうか。
???
昨夜の日本の女子の試合は一番最悪なパターンで負けてしまったのではないかとも思いました。
ハイブリット6等、何の役にも立たないとそう感じました
先日のグラチャンでは2位を獲得した日本でしたが
世界ランク37位のアゼルバイジャン等に負けてるのって、これ、どういった事なのだろうかw
これでまたこれがきっかけとなり女子バレーにシャッフルが怒らなければいいのですが。
日本もハイブリット6とか、そんなヘタレな事を云ってたが、結局は苦しくなれば木村か迫田にしかトスは上がらないし
だから全部、ブロックがついて読まれてしまい負けたのですよ、世界ランク37位のアゼルバイジャンに。
ハイブリット6で常に勝ちきる試合をするってのは、まず守備なんですね、日本みたいに低身長で高さがないチームは
この辺の事は監督の真鍋さんも良く分かっている事ではあるのでしょうが、今後、この課題をどうやって克服していくのか、
具体策はあるのか?。
しっかし、ここで40年前のお話をあだしがしていたら、そのお話の主人公だった、ポーランドが40年ぶりに優勝してしまうとは
こういうのって一体なんなのだろうか、とあだし自身が驚いてる!!
今ね 
 

68 :
しっかし日本の女子は荒い試合ばかりしているよナ
これでリズムを掴んだろうナ、と思うと相手に連続得点を許す、セットを獲られる、と。
仕舞いには負けそうになるような試合まで(現実に初戦で日本は負けなくてもいい相手に負けたし)。
4セット目に13-20から25-23?w
ってあれって一体なんだったのだろうか?
中学生の球技大会じゃないのだから。
守備が悪すぎなんですよ、日本は
あと相手ブロックの高さにびびりすぎなんだわ。
びびるからジャンプ力が落ちる、腕が伸びないで打点が下がり益々高いブロックの餌食になっちゃうんですよ。
昨日の試合も一昨日の試合も精神的な弱さから来る事で接戦になってしまっているだけなんで、
もっともっと自信を持ってやれば日本は必ず、圧倒的な強さで勝てる筈なんだわ。
1978-1981年頃の日本の男子があんな感じだったでしょう、で、それで日本はかつての王者の座を復活する事も奪い獲る事もできずに
そのまま埋もれて衰退したのではなかろうか?。
少し嫌な感じのムードになってるのが気になります。

69 :
真鍋監督はやっぱり迫田よりも江畑を信頼しているんだな、と昨日の試合を観て
あだしはそう確信いたしました。
あだしもそうです。
迫田も優秀なプレイヤーだと思いますが、バレーセンスとかで云ったら江畑の方が上なのではないかと
前々から思って観ていましたから。
長岡さんはスパイクの時、打点が高く見える時とそうでない時があるように見える。そして低く見えた時は
そのほとんどが相手ブロックに捕まっている。彼女は今、ひとつの高い壁にぶち当たってしまっているのではないか、と
そんな感じにあだしは見えるのですが、どうなのでしょうか?。
しかし大樹に育つものは必ず風雪に耐えそれを乗り越える!
そうでないものは半ばにして倒れてしまう
この理をあだしは信じてる
長岡が一流選手にこれからなるのだったら今、目の前に立ちはだかっている壁を乗り越えてくれると思っている。

70 :
あだし先生降臨期待あげ

71 :
あげ

72 :
日本は良く3セット目で逆転をする事が出来たと思うけど、あの中国に大差をつけられるというのと
折角3セット目を取ったのにそのまま4セット目を取って3-1で勝てなかったというところに日本の弱さがある
とあだしは思うんだわ。グラチャンで勝ったかもしれないがあれはホームだったから。それだけの事で
実力はまだまだ中国の方が上であるとあだしはずっと思っている。
長岡さんが途中でスタメンから外されてしまったけど何で真鍋はあそこでそのまま長岡を使い続けなかったのだろうかともあだしは思ったんだよナ。
勝負にこだわったから外したとしたら日本は勝たなければ。
なのに負けてるしw
全体的に本当に中途半端な采配だったもんナ、こないだの真鍋は。
宮下と江畑も何か今一タイミングが合っていないように見えるしね。
木村の弱気な巧打?の連発も少し気になるところだった。
やっぱり今の日本は3位が精一杯なチームなのかしらって事なのかね?

73 :
引き続きアダシ先生の見解を待ちです

74 :
ここのスレ主が をかまのイトーである件
あだし以外のレスはみんな をかまのイトーのレスである件
あだしと会話をしたくて こんなスレを をかまのイトーが立てた件。
 

75 :
あだし先生 にお聞きします。
昨夜の試合にしろ、今回の世界選手権はなぜ真鍋はあんなにもクソ采配(特に迫田にこだわるところ)なんでしょうか?
先生はどのようにお感じになられましたか?

76 :
木村さんのスパイクって相手の選手にわざと楽に取れるように打っているとしか
思えないんですよね。人がいる処いる処に木村さんはスパイクしていますよね。
ハイブリット6って日本がこの前、中国に負けてからは云わなくなりましたね、解説で。
昨日は勝ったから良かったけどあれで昨日も日本が5セット目を落とし負けたら日本は
フルセットになると勝てないというジンクスが出来てしまうな、と思ったあだしだったのでした。
日本が勝っている時は大野もいる山口も、江畑もいる迫田も石井も高田も、と云うが
日本の負けが続くと結局は絶対的な力のある選手がいないためにスタメンが決まらないだけなのではないの、日本は、と感じてしまう。
メキシコ五輪の時の全日本女子も最後までスタメンの6人が決まらずに日本はソ連に決勝で負けた、と云われた。
で、その時に監督をやっていた山田さんはモントリオール大会では不動の6名を用意してソ連に勝って優勝したのだったが。
試合で勝ってるチームが次々にメンバーチェンジをすると選手層が厚いチームに見えるがもたもたした試合をしているチームがそれをやっても、
スタメンが決まらない完成度が低いチームにしか見えないんだわ。
76年の頃、白井に代えて横山、松田に代えて金坂、とやっても日本は他国に楽勝していたから日本は本当に
強いなという印象だつたけど今はそういったメンバーチェンジではないからね。
あの今の日本のメンバーチェンジは迫田が少し調子が悪いな→江畑
大野が少し調子が出ないな→山口
になってるだけですからね。
更にこれをもう少し厳しく云えば、その調子が悪い、出ないと云うのは本当は実力が元からないだけ
でしかないのでは、とあだしは思うのです。
そういうことだろ w

77 :
全日本女子が74世、76オ、77WCで3冠を獲った時のエーススパイカーだった白井貴子は現役の時に
どうやったらそんなにスパイクを決める事が出来るのですか、と誰かに訊かれた時には、
人のいない処に打てばいいのよ、と。どうやったらそんなに試合に勝てるのですかと訊かれた時は
相手のチームより早く15点を獲る事ね、と答えてましたけどね。
又、山田監督から他のメンバーにもお前の得意技の光攻撃をやるコツを教えてあげる事は出来ないか、と
云われた時は、そんなのは無理よ、だってサーブレシーブが松ちゃんの処に入ってトスが上がるまでに光攻撃をやるための
コツが幾つもあるんだからと云ってました。
やっぱり大選手のいう事は違いますよねってお話でした。

78 :
あだし先生、今回の世界バレーの総括(日本惨敗について)をお願い致します。
まだ世界バレー自体は終わってはおりませんが。。。

79 :
>>76
たしかに選手層が厚いんじゃねーな
落ち着かないだけ
またそれを監督が煽ってるんだから、まとまるはずがないわな
チームスポーツなのにデータによる個人主義だから、数字取れなきゃ糞ってことで捉えられるし
同じ一点でもタイミングや状況で重みが違うのは素人でもわかること

80 :
日本が今回7位という成績に終わった事、アゼルなんかに負けた事、中国に負けたのは
サーブレシーブが下手だった(悪すぎ)だったからなのでしょうナ。
真鍋が本気でリオで金メダルを獲りたいと云うならこれから日本がやらなければならない事は
あだしが柳本の時代から云ってた、守備の強化なのではないか!
今回の日本の敗戦の原因?
高さも力も他国に比して劣っていたからなんかじゃなくってよ
守備が酷く悪かったから。

81 :
あああと今回の木村さんについて
1984ロス五輪の時に日本のエースをやっていた選手に大谷佐知代ってのがいたけど
今回の木村さんはその大谷みたいだったね。
スパイクの時、へんちくりんな腕の振り方をして軟打を連発していて結局はそれも決まらず
相手に拾われて相手の強打でやられてしまうという。w
大谷もその前年の1983年頃までは天才だとか白井二世だとかってマスコミや山田監督がかなりリスペクトをしていたのだけど
結局はその大会が彼女の全日本での引退大会だった。その大会での準決勝の相手国は中国でその中国のその時のエースはあの郎平
だったけど、中国の郎平監督もきっと日本に勝った時は木村さんの事を見て
大谷さんと良く似てる、と日本は相変わらずだわ、あれから30年も経っているのにって思ったのではないか。
そう思った筈。
私等中国チームもあの時のような絶対的な力があるチームではないけど、と。
柳本は今回の7位という成績に終わった事について、真鍋は2010年2012年で銅メダルを獲得したけど今まで上手く行きすぎて
いただけなんだよ、本来の力はこんなもんなんじゃねぇーかって思ってるんじゃないの?
と云う気がした。
サーブは悪いそしてブロックもスパイクも、守備がまともならまだしも守備は最悪〜
バレーになってなかったもんナ、今回の日本の女子は。
あんな守備じゃぁ、ハイブリット6も何もあったもんじゃなかったさッ
アジア大会で日本の男子が韓国に勝って決勝に進んだという事の方がまだ評価できたわナ???

82 :
あだしが今書いている事は、かつてユニチカの監督をやっていた小島さんの
バレー理念に近いのかもしれないね。
小島さんは72ミュンヘン五輪頃と80年前後に全日本の監督をやってた人だったのだけど。
小島さんはチームの守備力が向上すれば、高さのあるキューバ、中国、アメリカにだって
日本は必ず勝てるんだと、それで世界一になるんだと、そんな信念でバレーをやっていたような
気がしたけど、で、小島さんは結局は一度も世界一にはなれなかった不運な監督だと云われたのですが。
あだしは72ミュンの頃は兎も角も79-82年頃って一番、女子バレーに嵌ってた頃だからそれで今はあだしは守備、守備と云うようになってしまったのかしら?
でも当時のあだしは、日本はもっと大型化しなければ今後は勝てなくなると思っていたから小島バレーをあまり好きになれなかったんだけどね。
いくら守備が上手くなっても平均身長173、最高到達点平均が300以下のチームでは限界があるんじゃないのか、と。山田バレーは大型選手を集めて高さのあるバレー
であったからそちらの方が昔は好きだった。協会も85WCの時に山田バレーと小島バレーの良いところをそれぞれ取ったチームとか云ってメンバーを集めて闘った事があったけど
これって大失敗に終わった。w
こんな色々なケースを見て来てあだしは変わったのだろうか?
今の日本の選手って割かしそれでも高さもあるからこの2-3年くらいは外国チームに打ち負けていない感じがする。昔は完全に打ち負けて試合で完敗するってのが多かったのですが。
特に小島ジャパンのチームはそうだった。スパイクだけを見ていたら日本は良くあのキューバやアメリカチームに試合で勝てたな、なんてのが本当に多かったんですね。
つまりそれだけ日本チームにはミスが少なく良く拾っていたと云う事だったのだろう。
なので今の日本はそこそこな力や高さを持っているのだから(スパイク力もあるのだから)もう少し守備力が向上したなら
アゼルや中国には少なくても負けなかったのではないかって思うのです。今回2-3で負けた試合全ては勿体ない試合だった、と。
1982世の頃のチームだったら今回2-3で負けた試合なら全て3-0で簡単に勝ってましたよ、きっと。
強打を打たれても打たれても日本は腐らずにそされを拾って攻め返してポイントを獲っていましたからね。

83 :
>>80
レセプションも酷かったけどサーブも弱かったと思います。
ここ最近で日本が強い時は、
この二つが世界一レベルにある時ですから。

84 :
今回の最後の試合でドミニカ共和国とやってる時に『この試合で日本が負けたら11位』と云っていたが、それを聞いてあだしは
78世の日本の男子チームの事を思い出したんだよね。あの時は日本の男子は金メダルを獲るためにレニングラードへ行くとか云ってたのに、
試合はまさか、まさかの連続で自分たちよりも弱いと思ってた相手に次々に負けてしまい、最終順位は、11位で史上最低の結果!男子バレーとか
新聞に書かれていた。当時はまだそれ程強くなかった格下のイタリアに負けたのも印象的な事だったのだが。でもそのイタリアは決勝まで進み、そこでは
やっぱり当時の王者のソ連に負けたけど、堂々の2位だった。
今回の女子もアゼルに負けてしまったが、これもまさか負けるとは思っていなかったのではないか?
と、こんな大会だったので日本の女子も最後のドミニカに負けてしまうのではないか? もしそうなったらかつての男子と一緒の道を辿る事になるんではなかろうか、と
少しよぎったあだしだったのでした。>>63
サーブは昔から日本は良くない!今回は特に良くなかったけど。
あと、相手のフェイントが拾えずにあれで何度も日本はやられていた。
木村さんもやっぱり天才なんかじゃない事がハッキリとしたし、メッキが完全に剥がれたね。
真鍋は10世や12オで日本が銅メダルを獲得した時は、木村は天才だとかって云ってたけど。
五輪と五輪の間にある、丁度真ん中にある世界バレー大会ってどこも新チームで参加するのでいつも、波乱含みの大会になる傾向があるが今回も、そうだったのではなかろうか?。
でもここで日本はメダルをこの大会で獲る事が出来なかったのは日本にとっては良かったのかもよ、案外。これからの課題がハッキリとしたという点ではね。

85 :
男子も時代遡るとそういうことがあったんですね

86 :
82世の時も女子大会で日本がペルーに負けたでしょ、あれもまさかだったじゃないか?
とすれば2010世で日本の女子が3位になったのも客観的に第三者的に見たら
まさか!だったのかもしれないがw
でも82世であのペルーが日本に勝って2位になってからは、84オでもペルーは4位で
88オでも2位になっているからねぇ〜。
こういうのがあるから、そしてそれがきっかけとなって今までマイナーチームでしかなかったチームが
その後7-8年も君臨する事があるから日本のチームも格下相手とやる時も要注意だって事なんですよ。
んで、逆に強いチームと当たる時は隙あらば、てやって勝利して下剋上シャッフルを日本が巻き起こす。

87 :
そうだよね。木村のなんか怖い顔とヤバイほど暗い長岡の顔を見ていると、これから
化けるのかもという期待をしてしまうのです・・・

88 :
だからあだしは1990年以降の女子は世界ランク20位までに入っているチームは
何かのきっかけがあれば、又は少し頑張ればいつでも3位になるチャンスはあるのだと
思ってる、そう確信している。昔のように日ソに強だったりした時はそういうのはなかったけど。
アジアも最近はそういうのがあるでしょう、1980年代頃までなんてタイやチャイニーズ台北チームなんて
日本の高校生でも簡単に勝てたが最近なんてあの中国でさえも負けてしまう時もあるのだから。
なので日本も世界の場で2.3位を獲得できるチャンスはいつでもあるとあだしは思うのです。
しかし今回の日本の実力ではリオで優勝出来るという感じではないですね。
けどこの傾向はもしかすると80年代初頭の頃にその余波があってもうその時点で始まっていた事だったのかもしれませんね。
それが、82世でのペルーの準優勝だったのだ、と。
悪いけど82世の時は実力で云ったらペルーはあの時は予選リーグで敗退するだろうと、その程度の実力しかないとあだしは思っていたから。
けど、こういうのも2位まではあるが優勝するとなるとそれは絶対に無い
優勝するとなるとラッキーだけでは−。
無理なんですね
とこの前提で考えると今の日本の実力は4-8位くらいで
ラッキーがあったとしたら2-3位という感じになるのかナ。
>>87
長岡さんの表情が暗い、とそれはその通りですが、暗いとなぜ、これから化けるのかが
あだしには不明なのですが。
暗い顔→不気味な子→只者ではない→これから何かやってくれそうだ
という事なのか。

89 :
あだしさん長いっす

90 :
長岡さんにはかつての全日本の水原江上がやっていた、ライトからのセンターへの
回り込みの時間差攻撃(オーロラ攻撃のライト版)をこれからマスターして試合でやって
もらいたいとあだしは思ってる。今のチームで長岡さんがそれをやるとなると大野さんと絡む
って感じになるのかしら?
長岡さんは179しかない、この身長と彼女のジャンプ力だと国内では高いと云われるかもしれないが、
世界の舞台で試合をするとなると今は195-200なんてのがざらにいるから相手のブロックをそうそう簡単に
打ち破る事は出来ない。なのでライト側からの逆オーロラをマスターしてそれを武器に日本の攻撃に貢献してもらいたいのです。
これをやるためにはそれの囮で跳ぶ、MVの選手がかなりの得点力がある選手である事がこれを成功させるためには必要条件になるのだから。
大野囮のライトの長岡のセンターへの回り込みの逆オーロラ、これが完成したなら60%位のスパイク決定率になる事は間違いないだろう。
宮下がBの位置へトスを上げると見せかけて大野が空ジャンプをする、ライトにいた長岡がセンターに回り込み宮下の真横でスパイクする。
不安定なハイブリット6を練習するよりもこれの方が努力が少なくて済むしこれが完成した暁にはこれの決定率は相当な物になる筈だから
これを日本の武器にしてリオでやったらいいのではないか。
そのために、守備に日本は力を入れる
このプレーは80年代初頭の頃の全日本でやっていたがその時はサーブレシーブからのみならずにラリー中でもバンバンやっていたんだから。
MVがやる、BからAの一人時間差なんてのもこれから日本が多用しても面白いかも。
これらのどちらも日本はこの25年間ほとんどやっていなかったのだからやったら決まるぜ。
 

91 :
日本の女子はかつて74世、76オ、77WCで3冠を獲得したが78世ではその3冠時の時の若手のメンバーでその大会に臨んだのだったが、
キューバの高い打点からの強烈なスパイクにやられて負けて2位でその大会を終えた。あだしもその試合をテレビで観ていたのですが
あの時のキューバは本当に強かった。
日本がこれからどんなに頑張っても二度とキューバに勝つ事はないのではないか、と暗い気持ちになったのを今でも覚えているのです。
その時監督をやっていた日立の山田さんもその大会が終わった直後に、
日本はもうこれから25年間はあのキューバには勝つことが出来ない、と手記で発表し
80モスクワ大会まで全日本の監督をやる事が決まっていたのに突然自ら辞めましたよね。けどそんくらいあの時のキューバは強かった。
んで、それで全日本女子の監督に抜擢されたのが、ユニチカの小島さんだった。この小島さんも78世大会には日本のバレー関係者として
レニングラードへ行っていたみたいですが、小島さんのその大会での感想は山田さんとは大きく違ったのですね、小島さんは
『日本の負けは、日本がキューバに負けたんわ、日本のレシーブがキューバのスパイクを全然拾えんかったからだ、あんなもんは拾える。拾って
繋いで攻め返せば日本はあのキュナーバに必ず勝てるようになれる』と云っていた。あだしはこの時、小島さんに対して自分は監督じゃないからそんな
無責任な事を云えるんだよ、あのキューバの猛打を日本が拾えるわけがなかろうが、どんなに頑張っても、と思ったんだよナ。けど、小島さんに監督が代わってから
1年後にあった日本とキューバの試合で日本はそのキューバから第一セット目を獲得したんだわ。結局はその試合も1-3で日本は負けたのですが、それを観てあだしはもしかしたら
あと一年もしたら日本はキューバに勝てるようになれるかも、と光明を感じたのでした。これは79年の6月の事だったのですが、その二か月後に行われたプレオリで日本はキューバに3-2で勝って
見事、優勝したのでした。この時のキューバのメンバーは1.5軍から2軍だったのでこれで日本はキューバに追いついて追い越したという事ではなかったですが、これでもしかしたら来年のモスクワ五輪では
日本はキューバとソ連に勝って優勝する事が出来るかもって思いましたよね、あだしは。
つづく

92 :
1980年のオリンピックイヤーのこの年も毎年恒例の南米遠征が春にあったのですね、この年は五輪が行われるためだったのか、いつもの年より2か月早く3月に全日本チームは南米遠征をしたのですが。
日本はこの遠征でキューバと4試合を行ったのだが、結果は4連敗だったが全ての試合が2-3負けだったので日本はもう少しでキューバに勝てるというところまで来ているなって感じに仕上がっていたのですが、
その年の6月にソ連がアフガニスタンへ侵攻したためにアメリカのカーター大統領がモスクワ五輪の不参加を決めて日本もそれに追随する形でモスクワ五輪には参加できなかったのでしたね。ですが、その後は
日本はそのキューバには84ロス五輪の頃までは一度も負けた事がなかったんじゃないか?。
たぶん負けなかったと思う。という事は日本は78世でキューバに完敗してから約2年後にはキューバを凌駕したという事になる。25年勝てないと云った山田説も嘘だったという事になった。w
小島さんの云った通りになったんですね。w
あのまま山田監督が全日本女子の監督を続けていたらこうはならなかったのではないかとあだしは思ったもんナ、この時は。
負け犬だったのだから、この頃の山田監督はw
山田さんは子の頃にも小島監督の事を楽天家であるとか云っていたんだわ、能天気な奴だと暗に云っていたのか、そんな風にあだしには聴こえましたが。

93 :
なんじゃらかんじゃら書きましたがここであだしが云いたかった事は、バレーボールというスポーツにおいては
守備の力というものはとても大きい物である、と。そんな事が一番云いたかったのですね。あと絶対に勝てる、いつか勝てる、との信念を
持つことの重要性ですね。間違っても山田監督のような思考になってはだめですぞ、真鍋監督も選手らも。
そうなったら向上は絶対にないのですから、衰退はあっても。
山田さんは78世の時には金メダルを3つ持っていたが小島さんは0だったから少し上から目線で小島さんを揶揄するような
事を云いたかったのかもね?。 でしょう。が、小島さんのが78-80年頃は全日本の監督としては相応しかったのではないか、とあだしは今でも
そう思っているんですよね。山田思考は死の道、小島思考は幸福の道!
先を明るく見よ、何があっても。

94 :
キューバは昔から強かったんですね
ペルーに替わって上がってきたという感じなのか

95 :
>>94
キューバが本格的に強くなったのは1970年代後半頃からだったが、世界一になったのは
その時代では78世の時、一度だけだった。80オの時も優勝候補の筆頭だったがなぜかその大会では
5位に終わった。それ以前の5年間は日本ソ連韓国に阻まれ、それ以後の5年間も日本ソ連中国アメリカに
阻まれて3大会では優勝も準優勝も出来なかった。
スパイクやサーブなんかは生沼や松村が現役でやっていた時から驚異的な力はあったのですが守備がとてつもなく下手だったし
試合でも集中力がなかったのですぐにキレてしまうところがあったので70年代から84ロスの頃までは万年、3-5位のところにいるチームでした。
だけどその頃もサーブだけは相当凄い得点力があったから日本はサーブで崩されないようにって試合をしていたのではないか?
日本が拾ってつないで速い攻撃で仕掛けて行くとブロックの横の動きは悪かったので意外と抜けられた。
江上がやる一人時間差なんかにも反応が遅いので江上の空ジャンプにひっかからずに江上の二度目に跳んだマジジャンプにやっとこさ跳んでそれでグットタイミングのブロックになりシャットアウトされてしまうという
面白いバレーもw80年前後には良く観られたし。
三屋が本来前衛なのに江上がライトへ移動してもそれにつられてブロックに跳んだりw
きっと当時のキューバの選手って馬鹿だったんだろうね。

96 :
そう云えば昔、バレーボールで勝つためにはどうしたらいいのかと問われた時に
山田監督は、バレーはボールが相手チームの床に落ちたら得点がこちらに入るのだから攻撃(スパイク)力があるチームが勝つ事になるのだから攻撃に力を入れたチームを作れば良いのではないか、と
小島監督は、バレーはボールが自分のチームの床に落ちたら得点が相手に入るのだから守備が上手いチームが勝つことになるのだから守備が上手いチームを作れば良いのではないか、と
云ってましたね。
そうすると最強のチームは攻撃力があり守備が上手いチームだという事になりそうですが。w
今の全日本の女子チームは攻撃も今一で守備も今一になっていますが。
どちらも今一
攻撃力がないのならせめて守備だけでももっと上手くなったらどうか?
守備は身長が低くても頑張れば上手になれるプレーなんだから。
事実、日本が勝った試合では守備が良かったという結果になっているんだから

97 :
先生に質問です
今の時代に江上 広 大林がやっていた1人時間差、フェイク入れてのクイック等の個人技についてですが
今や190以上がザラにいるブロックに通用するのでしょうか?
昔はそんはプレーを見るのが楽しみだったのに、最近はお目にかかりませんね
ソウルからしか見ていない初心者ですが

98 :
>>97
一人時間差って相手の心理の裏をかくというプレーですから、今でも昔と同じように
セッターのトス回しが良くてスパイカーの動きも良ければ充分決まるのではないでしょうか?
あだしは通用すると思いますよ。
2012ロンドンの時だって大友さんがAに一度突っ込んでそのままライト側へ流れてDで打つというのを
やってたがこれだって決定率はかなり良かったですし。今はこれの事をワイドとかブロードとかって云いますが昔は
この攻撃の事をAからDへの一人時間差、と云っていた。
江上が現役の時に良くやっていた一人時間差はBからAの一人時間差で、これがまた良く決まったんだわ。
Bで江上が空ジャンプをしてAで打つゼロコンマ何秒かの間にAの処に相手ブロックが誰もいなかったりするとコートにいるチームメイトから
『由美さん、ノーブロックですッ』と声がかかるんですよね
で、江上が打ってそれを決めると
このシーンがあだしは大好きだったんだわ。
昔の全日本選手がやってたプレーが今も通用するのか?
大概のプレーは通用するのではないか。
しかしそれらのプレーでの決定率を上げようとするなら今以上の守備力をって事になるのです。
セッターの宮下中道を一歩も動かせないサーブレシーブを100発100中ですることが出来たなら日本は
ブラジルやアメリカにも楽勝出来るだろう、いつでも。

99 :
先生ありがとう
コートエンドからみたヨウシャクランのトス。静から動って感じのブレないトスを見て日本は勝てないって思ったわ。
ブロッカーがワンテンポ置き去りにされるようなリズム。
先生の好きなセッターは誰です?

100 :
それってビデオのコマ送りを見ているようなって表現したらいいのかしら?
テレビや観客席で観ていてもそうなんだからコートでやってる選手は
あれっとまさかの連続なんではなかろうか?
それもトス→スパイクの僅か数秒間の間にだからね。
相手チームの選手にしたらレフトもライトもそしてバックアタックも来るかもしれないと
警戒しながらブロックやレシーブをするのだから本当に疲れてしまいますよ。疲れる事だろう。
76モンの時にセッターをやっていた松田は監督の山田さんから『今日は松田のトスさばきに疲れさせられた試合だった』と主審に云わせる
ようなトスを試合で上げろ、と試合前に云われてていたらしいですよ。74年から77年頃には。
当時の松田や猫田のトスさばきってスポーツの芸術って感じに見えたけど裏ではこういうのが沢山あったんだろうなと今は思いますね。
猫田もそうだったけど松田のトスなんて額の上でボールをとらえた時に一旦そこで時間が止まっているという風に見えたもの
セッターの一人時間差ってあだしはこの松田のプレーの事を呼んでましたがw
当時の解説者は『松田のトスには間があるんですよね、あのトスの間はスパイカーにとってはとても打ち易く感じる筈です』と良く云っていたもんだった。
そんな事を振り返ってみると最近のセッターにはこういう人はいないなとあだしは思うんだよナ。
なんとなくトスを上げている、メリハリがないなと、そう思うのです。
松田スタイルはあったが中道スタイルはないと!!
なので松田が少し調子が悪くいつもと違ったりするとすぐに分かったし
使い込んだ精密機械って感じだったのかも? w
楊錫蘭もスポーツの芸術を感じさせられるプレースタイルを持っていた選手だったかもね
玄人が好みそうな選手だったから

101 :
ありがとう 松田のトスも見たかったわ 読んでると見た事ないけど、頭が勝手に映像化してるわ。 中田って結局、さあこれからキャリア積んで上手くなる時期ねって時に怪我して伸びなかった選手って認識なんですけど。私の中では

102 :
>>95
そうだったんですね
キューバも本格的台頭する前は守備が粗かったとは知らなかったです

103 :
>>102
台頭し世界一になった78世の頃やその後だってキューバの守備はお世辞にも上手いとは云えなかった。
78世でキューバが優勝出来たのは、豪快なスパイクとサーブ力があったから。

104 :
>>101
中田の場合は怪我をしてもしてなくても20歳前後の頃に伸びは止まっていた気がするから
あのソウル前の怪我があってもなくても結局は同じようなプレーをしていた気がする。
中田ってバレー塾に入り中3で全日本に選ばれるまでの期間に急激に進歩して伸びて後は少しづつは
成長していたかもしれないがそれ程の伸びはなかったように思った。
中田が全日本入りした時は江上や三屋なんかがいたから伸び伸びとプレー出来た、自分個人の事だけを考えていればいいだけ
だったからね。なので本当に恵まれた新人時代を過ごす事が出来たのではないのか。中田にしたらあの怪我、ブランクが無かったら
もっともっとあたしは成長できたのにって思っているのかもしれないが。
あだしはそう思う、思ってたんだわ。
ずっと。

105 :
だなぁ
あるものの中に入っていった感じで
自分が作っていったという感じとはまた違うかもね

106 :
確かに新人(1981年)の頃はまだ15.16歳なのに良くやるなぁ〜とあだしも思ったものだったけど
ロス五輪以降はそれ程凄いって選手でもなかった。ソウル五輪以降も中田の事をやたらリスペクトしていた
バレー関係者やバレーファンもかなりいたけどあんなのは本当はバレーの事を良く知らない紋切型の素人バレーファン
なんじゃないのかってあだしは思っていたからね。
あの山田重雄が、『松田が富士なら中田はエベレスト』と云ったのだから中田はきっと優秀なバレー選手に違いない、とそんなので
中田をリスペクトしていただけに見えたんだよね。 w
あだしから云わせれば、山田の前宣伝の割には大した事はなかった選手だったとなる
中田もある意味では一緒に中学生の時に全日本に抜擢された、大谷と同じだったのかもよ。
女子選手ってピークを何歳で迎えるかってのが人によって大きく異なるように感じる。それが早い人だと、15.6である、と。それに中田も大谷も該当しただけである
という事だけだったのではないのかなぁ〜???
んでこの二人がそのピークを迎えた1980年代初頭の頃の全日本にとっては大型セッターそして大砲が不在だった、そんなところへ中田大谷が現れたから
馬鹿騒ぎになってしまったのだと思う。

107 :
日立の山田監督は74世、76オ、77WCで連続で金メダルを3連続で獲得したので
世界初の3冠監督なんて云われてそれ以降国内ではかなりリスペクトされて来たが
ソ連のギビは山田の3冠前に、66世、68オ、70世、72オ、73WCで5冠を達成していたんだよナ。
男子は69年にすでにWCが開催されていたが女子はまだ69年の時はWCはなかった。もしも69年に
女子もWCが開催されていたらソ連のギビはそれにも勝って優勝して6冠だった筈。
なので山田の3冠なんてそれ程騒ぐ事もなかった記録だった。

             ト〜リ〜ビ〜ア〜

108 :
あれ? その前にそのソ連女子の監督のギビは64東京大会の時はソ連の男子の
監督をやっていてその大会で優勝していたのではないか?
としたらギビは監督として考えたら日本の山田なんかとは格が全然ちがうという気もするしね。
ギビは60年代後半から70年代半ばまでずっとソ連の女子の監督をやっていたが、76モンで日本に敗れたら
それ以降は国際舞台には一切登場しなかった。その引き際の潔さは本当に見事であったともあだしは感じたもんナ。
どこかの国の、監督のY田さんなんかとは全然ちがった。
Y田さんなんて74-77年の間に3冠監督に一度だけなった事を良いことにそれをずっと引っ張っていて1980年のモスクワの頃になっても
 『私なら4年あれば世界一のチームを作る事が出来る』と云ってたが、結局はその後の84年ロスでも88年ソウルでも金メダルは日本の
山田ジャパンでは獲る事は出来ずにそれぞれ3位と4位で終わったのだから。w
なのでY田さんも78世でキァューバにコテンパンに叩かれて2位になった時に、ここが自分の引き際であると自覚してあの時に潔く身を引くべきだった。
そうやっていたらあそこまでその最期が惨めな形にはならなかったのではないか。中国の袁監督なんか、81WC、82世、84オ、85WC、86世で5冠に輝いたら
あっさりと勇退してその引き際がとても潔かった。あれだってまだまだやろうと思えばやれたのに。そこがY田なんかとは完全にちがったよナ。

 

109 :
こうして見るとY田監督はソ連のギビに勝って世界一の監督になったが、最後の最期は中国の袁に負けて
バレー界を去った、という感じだったのかもナ。
ギビは76モンで日本に負けてリスカルと共に去った、袁は最期まで負けなかったが郎平と共に去った、という感じだったのか?
としたらY田は白井と共に去ったという事になりそうなのだが、白井は78世には出場したわけでもなく77WCの時は日本は優勝したから
Y田はギビとも袁とも違った形だったのではないかと思う。因みに白井は78世の直前に引退したがその時もY田監督から引退をするのは78世が
終わってからにして欲しいと強く云われていたんだってね。白井はその時山田に対しては、そんなに欲張って金メダルを獲らなくてもいいじゃない
もうすでに3つも持っているんだから。それに私が仮に78世に出場したとしてもあのキューバに勝って優勝する事は出来ないと思うし、と思っていたそうだ。
Y田は78世の直前は本当に辛い気持ちでその大会に臨んだという事だったのだろうね。で、その大会終了直後に自ら監督を辞めたという事だったのだろう。
あの時のY田の全日本構想は78世では白井松田を残したまま戦って金メダルを獲得して、80モスクワでは日立の矢野吉田金坂高柳江上そして若手の金子やもうすぐ
日立に入社する事となる吉野をレフトに(これが無理なら横山須藤をそこに入れて)できるだけ日立の選手を主体にして戦って行こうと思ってたのではなかろうか?
なぜならY田は77WC終了時に80モスクワまで監督をやる事が教会で決定していたのだから。

110 :
あの頃のY田って自分が全日本の監督をやってる限り、他所のチームの選手に
レフトエースやセッターをやってもらいたくなかった、とそんなのが強くあったから
78世でセッターがユニチカの小川でエースもユニチカの横山と富士の須藤だった事は、Y田に
したらば、相当屈辱的な事だったのではないか?
だから78世の直前の日中対抗や日ソ対抗の時に日立の矢野をセッターにしたチームで日本は試合を
していたんでしょうナ。しかしそれも上手く行かなかったから、『矢野の攻撃力を活かすチームに切り替えてセッターは小川に
する』とか云い出したんだよね、Y田は。w
あんなのは最初からセッターは小川にしようと思っていた癖に。小川や横山はユニチカの選手だったから特に厭だったのではないか?
だってこの二人はY田とは犬猿の仲だったユニチカの小島のところの選手だったのだから。小島に頭を下げなければ全日本チームを組めない
という事になるのだから、Y田は。
そんなのもあり、78世では予選リーグからアメリカやチェコとフルセットをしたりペルーや韓国とも日本は苦戦をしたりでそして決勝ではキューバに
0-3であっさりやられたからどれもこれもがあれれれれで大会帰国後にY田は監督を降りたのでしょうナ。Y田にとったらこの事は68メキシコでソ連に負けて
2位になった時以上に屈辱的な出来事だったのだろう。それでもまだ、矢野吉田高柳が80モスクワまで選手生活を続けますと云ってくれたなら救われたのかも
知れないが、もう辞めます、とこの3人が云ったもんだからY田は狂ってしまったのだろう。
けど上記に記した吉野にしてもこの3人がその後続けようが辞めようが結果としては何も関係なかったよね?
だって吉野さんはその後も国内でも活躍する事はなかったし、キューバも強かったのは78世の大会だけでモスクワでは5位だったし。それに日本はマスクワ大会は
ソ連のアフガニスタン侵攻というのがあって政治が介入して不参加になってしまったのだから。なのでY田ももう少し頑張って全日本の監督を続けていれば良かった
という事だった。辞める事はなかった、あの時に全日本の監督を。

111 :
つまりその78世終了直後に日本の女子バレーは終わった、という事だったのだろうナ
実業団(会社)依存型でやっていたシステムも
松平が開発した速攻やコンビという戦法、そしてそれを女子にも取り入れた山田の戦法も
大松の回転レシーブも(こんなのはとっくの昔に終わってましたが念の為)
山田の攻撃型のチームと小島の守備型チームの争いも(国内でそれで争って勝った方が世界の舞台へというやり方)
これが本当だったという事なのであろう。

なのにいつまでもその古い体質を引っ張ってやっていた、それでやれば日本は必ずまた、世界一になれると思っていた
それが間違いだった。w
78世以降にやる気のある若い優秀な指導者が誰か出てくれば違ったのかも知れないがそんなのは誰もいなかったからね。
いたかも知れないが山田や小島を凌駕する事は出来なかった。なのでそれからも10年以上もこの二人が女子バレー界に君臨し続ける事となったのだろう。

112 :
飯田高子選手の事について来週からやってあげようかナ?

をかまのイトーがあだしの為に立てたスレですもの、折角。勿体ないですよね
このままこのスレが消滅しちゃったらばw。

イトーも少し飯田貴子さんの事を予習しておいたら良いのではないか。!!

    あだしのレスについて来る事が出来るように

113 :
飯田さんは飯田高子でしたね。貴子というのは白井貴子さんでした。

114 :
飯田さんて76年モントリオール五輪の時は全日本のキャプテンとして皆を良くまとめていたお姉さん
選手だったと云われたけど飯田さんがこの大会の代表に選ばれる時は本当にすったもんだがありましたよね。
あの時は飯田は75年の5月に行われた都市対抗にヤシカの選手として出場してその大会を最後に現役を引退していて
その後は会社では働いていたもののバレー部にはいなかった。飯田さんはあの時はしばらく会社で仕事をして結婚を
と考えていたらしいが、引退から5か月経った頃に日立の山田監督からまた全日本へ復帰をしてくれないか、と要請があって
復帰したのだったが、この時はヤシカバレー部でも練習を飯田はしていなかったし復帰をしたとしても飯田はどこのバレー部にも所属を
していなかった。そしてそんなブランクがある30歳の選手が過去の実績だけで全日本の選手が務まるのかと色々と問題になっていた。
けどこういうのも当時は本当に日本が強かったから皆が飯田や山田監督に注目してこの飯田問題が起きたのだろうと今は思うのですが。
五輪に出場するために必死で努力している選手は他にも沢山いるのに飯田だけ特別扱いをして山田のやり方は酷いとかってあの時は山田監督も
他の実業団チームの監督らから集中攻撃をこれでもかってくらいに受けてましたよね、あの時は。
あだしなんかは、必死に練習をしているとか五輪を本気で目指しているとかそんなのはスポーツの場では一切関係の無い事なのではないの?
実力がある選手が代表に選ばれるべきなのだからって感じでしたがね。

115 :
で、飯田はヤシカからバレー協会へ出向という形にしてひとまずは決着がついて全日本のコーチ兼選手として
その後にあった日ソ対抗なんかにも選手として出ていたがここでひとつ、あだしが思うのは、山田監督はなぜ
あんなにも飯田の起用にこだわったのかという事である。飯田がソウル五輪の頃の丸山(江上)のように元日立にいた
というのであれば、まだ解るのだが飯田はヤシカの選手だった。飯田は確かに国際大会で経験豊富な選手であったとは思うが、
年齢も30歳になっていて72ミュンヘンの直後にも引退をほのめかしていたくらいだったし、74世の直後も飯田は金メダルを獲得したので
もう今回で全日本もバレーも引退します、と引退した選手だったのだから。
山田監督が魅力的な人間だったから? 復帰を決めたのだろうか。
ヤシカバレー部内もあの頃はゴタゴタしていたのでそれで嫌気がさして飯田はバレーを引退しただけだったのだろうか?
本当はもう少し現役を続けてみても良いという気はあったのだろうかって気も少ししたのですが、どうか?
あの時は飯田は婚約相手と結婚する筈だったが何らかの理由でそれが叶わずに破局して傷心の身だったとも一部のマスコミが
週刊誌に書いていたようだったのだが。
山田監督は飯田とは74世の頃からの付き合いだったと思うが、それから僅か一年足らずのうちに飯田の心を完全に掴んでいたって感じでしたよね。
あだしは山田監督があれだけあの時、飯田を全日本へと拘って入れた理由は松田と白井の相談相手に飯田はもって来いの人間だと思ったからではないかって
ずっと思っていたんですよね。あの二人ってとても個性が強くて山田監督には手におえないというところがあったように見えたからそこへ他チームの経験豊富な
大人の飯田を入れれば松田と白井について何かあった時は飯田がなんとかしてくれると、そんなのを山田監督は期待して入れたのではなかったか?
もうこんなのは40年近く前のお話で山田監督も今は他界していて何も解らない事なのですが。

116 :
だがしかし現実的にも松田や白井そして他チームの前田なんかも飯田さんの事を頼りにしていたのではないかナ、かなり。
日立の体育館での当時の練習風景を観ているとそんな空気があるのを感じましたからね。山田監督は飯田さんに対して『イーチョン』『イーチョン』と
呼んで本当にご機嫌だ、といった感じでしたし。w
山田監督ってこういうのが本当に大好きでしたよね。
自分でもわかってて一人の選手をえこ贔屓して楽しむところがあるんですよね、山田監督という人は。
そして必ずその選手に対しては苗字では呼ばずに選手が呼んでいるあだ名で呼ぶんですよ。
その後も84ロスの頃は江上がそうだった、この時はユミ、ユミと江上の事を呼んでいた。ああその少し前にも中田がそうだった。あれは中田が中3で全日本に選ばれた頃
だったから1980年の秋頃だったろうか? これはクミではなくてクンチャンだったけど。w
山田監督はチームに一人女王様を作るんだね、あえて。わざとでもいいけど。
そうすると女の子は上手く行くのだ、と山田監督自身も以前、何かの書籍に書いてたから飯田さんも中田も江上も全部これは山田監督のチームの人間関係を上手く行くようにするための
参戦だったのであろう。
飯田を全日本に入れる時にバレー協会の会議でその理由を山田監督は、
メキシコ五輪の時に女子の選手村には監督の私でさえも男であるという事で入れなかったからと、
そんな時に飯田のような選手がチームをまとめてくれたら本当に助かる。また72ミァュンヘンの時に
中村と南のベテランがピンチの時に活躍して優勝する事が出来たので飯田もそんな選手として是非全日本へ
お願いしたいと思ったのです、と云っていたのだが。

117 :
参戦ではなく作戦だった。
山田にしたらその選手を全日本に入れる理由なんて本当は何でも良かったんだよナ
なぜならその時も最初はセンターの吉田が故障したからとかって云ってたくらいだったから。
確かに吉田は一時はセンターの練習をしていたが本番ではレフトの控え要員だった。なのにセンターの吉田の故障とか云うしw
江上がソウルの時に復帰した時もそうだったじゃないか!!
セッターの中田が怪我をしたからそこへ丸山(江上)をとかw
結局はソウルでもその前も丸山はセンターしかやらなかった。
セッターだったら高橋もいたのにw
まっ、山田監督は飯田や丸山の事が大好きだったのだろうね!!
しかし76モンの時は日本は金メダルだったからあの時代表候補になっていたのに代表から漏れた永木と会田は飯田さんさえいなければ自分もチャンスがあったのに悔しかったわ、と思ったのではなかったか?
でも会田さんはまだ良かったかもよ。会田さんは74世の時の代表には入っていたのだから。


久しぶりに今日はいっぱい書いてしまいましたね
をかまのイトーはあだしがこうしていっぱい書くと興味をそそがれるのか、以前はなんやかんやと噛みついてきたけれどその度に素人丸出しである事をさらけ出してあだしに恥をかかされていたのでもうこの二年以上前からは
あだしの前には姿を現さなくなってるしw
あだしに今の日本は3位になんてなれっこありませんとか云っちゃったのが命取りでしたよねw
あれが痛かった、本当に。他にも失言は沢山あったけど。
こうなるんだったら最初から出てこなければ良かったのにねwww

118 :
で、モントリオール大会の決勝のソ連戦では日本は3-0であっさり勝ってしまった。
あだしはあの時はあんなに無理して飯田を全日本に加入させなくても日本はソ連には
圧倒的な強さで勝てただろうから飯田を入れなくても良かったんではなかろうか?と思ったんだよナ。
あの決勝戦をテレビで観ていた日本の国民のほとんどの人がそう思ったのではないか、とも思ったし。

119 :
こうして女子は簡単にソ連に勝って優勝したのでしたがあの時は山田監督は
『今までの五輪では日本が優勝したのは1回(東京)のみで、ソ連が2回(メキシコとミュンヘン)だったので
でしたから今回日本が勝てば2勝2敗になるので本当の勝負は次のモスクワだ』
とかって自信たっぷりに云っていたのが印象的だった。
日本はモンでもソ連には勝つだろうし、次のモスクワでもソ連なんかには勝つだろうという感じの発言が。
山田はこれから中国、キューバそれにアメリカ等がとてつもない勢いで台頭して来る事も知らずに
でそんなのもあって日ソの時代も終わりソ連なんてそれ程リスペクトするチームではなくなるという事も知らずに
更に78世では日本はキューバにコテンパンに叩かれて2位になってしまいそれで山田は自ら協会に辞表を提出して監督を
辞めるという事も知らずに。そして更に日本はソ連のアフガニスタン侵攻という政治的な問題に遭いそのモスクワはボイコット
しなければならない事になる事も知らずに w

120 :
モンの時はその代表を決まるまで当時のバレーファンはハラハラドキドキだったのではないか?
最終的には、白井、松田、岡本、加藤、飯田、前田、横山、金坂、荒木田、高柳、吉田、そして矢野で
永木と会田が代表入りできなかった。
このときはバレー関係者の間では他チームから14名に選ばれている飯田と前田と横山は代表入りは堅いだろうと
日立の松田白井岡本加藤の4人も当確だろう。という事は残りの日立の選手の荒木田、高柳、吉田、矢野、金坂そして
永木と会田の7名のうちから2名が落とされるという事になるのではないかって囁かれていた。
で、矢野と吉田は時期戦力として山田監督は考えてるから残る筈だと、荒木田は日立に入る時に山田監督が
日立に入社してくれたら必ず五輪に出場させてやる、と荒木田と約束したから荒木田も当確だろう、と。
それに荒木田はバレー引退後にソ連にバレー留学をしたいらしくそれも山田と日立入社時に約束していたので、荒木田は堅い。
この考えで行くと山田監督は高柳と金坂と永木と会田のうち誰を2名落とすか?
という感じになっていたって事になりそうですが。

121 :
でも時期戦力と考えていた矢野や吉田は78世の大会終了直後に引退した、金坂なんかは78世の直前に東レの田中選手と
結婚するから、とそれを理由に引退した。荒木田も金坂と同じ頃に引退をしたので78世には出なかった。
高柳は一応、78世には出ていたようでしたが、結局は高柳も矢野や吉田らと一緒の頃にバレーを辞めたから
全日本選手としては78世の大会が最後だったのではなかろうか?
山田にしたら荒木田と高柳に辞められた事は想定内でこの二人が辞めてもそれ程、痛いとは思っていなかったろうが。
しかし金坂、吉田、矢野の3人に辞められた事は山田にとってかなり痛かったのではなかろうか?
山田は80モスクワでは金坂、吉田、江上、金子、と他チームの横山須藤辺りで全日本を組もうと考えていた節があったので。

122 :
しかしその須藤も80モスクワの大会直前に辞めてたもんナ。
んで、そみこへ日電の吉永が入り吉永もモスクワのボイコットが決まったらすぐに
引退をして吉永のところに広瀬が入った。センターのポジションには79アジア選手権の頃から
当時、筑波大の3年生だった三屋が入っていてその頃にはカネボウの清水やユニチカの石川や富士の
池知とかがいたものの三屋が全日本に抜擢されたらずっとそのまま三屋が84ロスまで全日本のセンターを
やっていたし。あああとセンターには東洋紡の佐藤という選手もいましたね。けどこの人も81年頃に少しだけ
小島全日本に選ばれてその後の3大会には一切出てなかったのでそれ程の実力はなかったのだろう。
78世の時に、日電の滑川が山田ジャパンに選ばれていたが、この人も小島ジャパンになった後に数回全日本入りしたが
レギュラーを勝ち取る事までは出来なかったね。あだしは密かにこの滑川の事を応援していたのでしたが。

123 :
まぁけどあの時はライトにはユニチカの水原がいて滑川180よりも水原の方が身長は6aも
低い174だったが水原の方が守備も上手かったし滑川よりも国内でも国際大会でも活躍が見込まれたから
滑川を全日本から外したのは納得が出来たけど、あの時に全日本のライトに滑川を抜擢していたら全日本の
平均身長も高くなっていただろうからそういうのも観たかったんだよナ、あだしなんかは。
あの頃って大型化、大型化と云っておきながら結局は代表入りする選手もスタメンも
175あるかないかの選手でやっていたから。
小島監督なんか175もあったら大きいのを選びました、て顔をしていたしね。w
山田監督は反対に、180あったら少々下手糞でも試合でその選手を使う事が多かった。
この二人のどちらが良かったかと問われると、甲乙つかないんだけれどw
どちらも酷過ぎて!

124 :
白井松田前田飯田らがいて女子が本当に強かった頃の73-77年頃は若手には須藤に江上や金子いて中堅には
矢野や吉田そして横山なんかがいて日本はこれからも安泰ですね、とか云って浮かれていたけど、矢野吉田は
78世の直後に須藤は80モスクワ直前に引退していたし。金子は結局は芽が出ないままだった。
男子も72ミュンヘンで金74世で銅を獲得した頃に田中や小田そして丸山その後は岩田や小牧らがいて
これからの日本の男子は本格的に大型化する事が出来るだろう、と云ってたが結局はそれも絵に描いた餅で終わった。
丸山と島岡のツーセッターにセンターは小田と西本でレフトは田中と花輪とか云ってたんだけどねw
で、現実は80年まで猫田がセッターをやっていたし大古も80モスクワの切符が獲れない事になるかも?
ピンチッ!!なんてなったらそれまで全日本には選ばれていなかったのにまた、駆り出されてやってたし。
ベテランの味wだったっけ?
大古のプレーは。
どんな味がしたのだろうか、ベテランの味って
甘い味だったのだろうか、辛かったのだろうか、それとも酸っぱい味がしたのだろうか???
 
あだしは76年頃から男子はあまり興味がなくなっていたからこの頃はもうどうでも良くなっていたから馬鹿らしい
って感じでひたすら冷めた目で見ていたんだけれど女子も男子とどんどん同じ感じになっていっている様に見えたんですよね、80年頃は。
でも江上がいたからかろうじて女子も観ていたという感じだったのかしら?
江上がいなかったら、84ロスそして88ソウルまでは観ていなかっただろうね。
そういえば、あだしの中学のバレー部の時の同級生の女の子につい最近町であったから少しだけお話したら彼女って高校生の頃にはバレー部に
ソウル五輪の代表だったT沢さんがいたんだ、と。ひとつ上の学年だったんだってさ T沢さんは。
T沢さんの事を色々聞いたけどここには流石のあだしも書く事が出来ないのが少し残念なんだわ。
T沢さんとあだしは昔は隣同志の市に住んでいたんだわ
もしかしたらあだしも電車の中とかでT沢さんを観ていたのかもしれませんね、高校生の頃に???

125 :
あだしの古いバレー史、滅茶苦茶なバレー史、デタラメなバレー史を読んで
あっさりと釣られて恥をかいて何も云えなくなり退散するような
をかまのイトー
そんな素人にはあだしは最初から相手にしてなかったから。
イトーって本当に何もバレーの事を知らない窯だったんだよナw
あだしはそれをとっくの昔に解っていたから釣りを楽しむためにここで
をかまのイトーを度々からかったりもしたが、をかまのイトーって愕くほど素人である
という事が解ったのでもう、そんなのも止めにしようかなって今は思ってる。
しかしあの上滑り感があるイトーのレスをもう一度読みたくなったんだよナw
また、やってくれないかナ
上滑りの文章と中身が全くない、内容のないレスと文体が全く同じで何の工夫もない自演活動をw

さよおなら

126 :
もう無理でしょ
をかまのイトーは。
あれだけの恥をあだしさんにかかせられて再びここに登場できるとは
とても思えない。

127 :
本当に本当にかわいそうな人。あだし。

128 :
をかまのイトーって1972年の時の全日本男子の身長のデータをそのまま鵜呑みにして
日本チームの平均身長は190オウバーだったから世界一高さのあるチームだったとかw
そんな恥ずかしい事をこの板のスレに披瀝するようなど素人さんだったんですってね。
それではあだしさんじゃなくたって相手にしませんよ。
誰も。
更にその大会でのキューバ男子のレシーブが上手かった、と。これはあの斎藤も云ってた事だったとか
て大嘘を書いていた。をかまのイトーって前からミュンヘンミュンヘンて五月蠅いくらいにレスをしていたけど、
実はその大会の試合を一試合も観ていなかったのではないか?
観ていたら普通のまともな人は恥ずかしくてこんな事は書けないもんナ w


 

129 :
ねぇ、をかまのイトーさん!!
72ミュンの時もその前もその後も日本の男子チームは本当に低いチームだったとあだしがレスした時、あなたは
そんな事はない、なぜならミュンの時の日本男子チームの平均身長は190オーバーで世界一平均身長が高いチームだったのだから、と
こんな馬鹿な事をすかさずにレスして来た事があったけど、これって本気でそう思って書き込んだのかい?
また、これを書いたら自分は勝てる、あだしを論破する事が出来ると思ったのか?
女子のソ連のサリホワや北朝鮮の金増福の話題をあだしからふられた時、ヤバイその二人は全然知らない、こりゃまいったわ!
と思った?
この3つの質問は全てイトーの答えは、yesなのか?  やっぱりw

このあだしと対等なレスをしてバレーの事を語りたいと思ったらこのくらいの事は全て研究して置かなければあだしとはタメ口はきけないから。
お前はあだしから見ているとマイナーネタの宝庫でしかなく本当に面白いバレーの事や時代そしてネタは全く知らないからあだしからも常に馬鹿に
されてしまう事になったのさ。w
鍋谷がどうしたとかそういうのはいらないんだよ、あと中村高校の吉川さんは、1978年度の時はまだ中村高校の3年生で日立には入社をしていなかったから。
そうだ、吉川さんは妹背牛の吉野(村田)や薫英の石田と同期だったのですから。

 

130 :
あああと、こんなのもあったもんナ
あだしがわざと自慢ぽくたらたらといつもの長文で、日本男子は70年の世界選手権の時に銀メダルを獲得した、とレスを
したら、ゲイのイトーさんたらそんな誰もが知っているような事を今更書かれても、とかって書いた。がしかし本当は、日本男子が
銀メダルを獲得した大会はその70世大会の前年に行われた69WC大会だったんだよナ。これには、このあだしも本当に笑えた。
腹を抱えて笑ったぜ!
日本男子は64東京五輪から現在まででは三回銀メダルを獲得しているのですね、本当は。
一度目は68メキシコ五輪で、そして二度目は69WCで、そして三回目が77WCですからここいら辺りの事はゲイのイトーもあだしさんからこんな事を
書かれる前に良く勉強して置いて頂きたいなと思います。
因みに70世と74世では日本の男子は3位の銅メダルでしたからw
この程度の事なら、読売新聞のデータベースや国立図書館へ行かなくてもネットで調べたらすぐに分かる事だと思いますよ。
ねぇ、ゲイのイトーさん!
あの時は、あだしがあまりに自慢臭く長文で偉そうに(でも楽しそうに)レスをしていたので本当の記録かと思ってしまったのかナ?
で、悔しくなっちゃったのかい? で、ヒスこいて思わず『誰もが知ってる事を書いて』とレスをしてしまったのだろうか???
あだしは釣りを楽しんでいたのね、そんときは。



131 :
でもね、あだしは何もここでサリホワや金増福の事を知っているという事を自慢するために
それを書いたわけではなかったんだよナ。あだしがサリホワの事を書いたのは力のバレーで世界一に
なったソ連であったのに両利きでセッターもやるというサリホワが出現した事によりあの山田がその事に
恐れ戦き、日本選手にもそれを無理やり真似させたという事を書きたかったからサリホワのお話をしたわけなのです。
なのにゲイのイトーったら
あだしから突然に古いお話をされたらマジにびびってしまいメロメロになってしまったw
あだしはね山田が75.6年から83.4年頃までそんな無駄な(馬鹿な)事を選手にやらせていたからその頃から中国アメリカ、そして
キューバに日本は勝てなくなって行ったんだと今も強く思ってるんですよ。
これが云いたくてサリホワの名前を出しただけだったのだが、ゲイのイトーはお話にならん奴だから、このあだしに『サリホワの髪の毛は何色だったのか』とか
『70-72年頃の北朝鮮チームのスタメンを書いてみろ』とか云って来た。あだしが正解を書いてもそれが正解であるのかどうか何てイトーには分からないのにw
でもあだしってこの年齢の割には本当に昔の事を良く知ってるからね。
だからゲイのイトーもあだしっから色々な昔話を聞きたくて教えて欲しくってあだしの尻を追っかけて来たのだろう。
でも金やサリホワなんて生沼さんの時代の選手だったからあだし世代にそれらの選手を知っているなんて奴はそうはいないのかもね?
けどあだしは知ってたけど。w
あだしは本当は968年辺りの時代の事から1978年頃までのお話で盛り上がりたかったんですよね
けどここにはそんなお話で盛り上がれる人は誰もいないようですね、残念ですが。

132 :
 ゲイのイトーさんて一体誰の事なんですか?

133 :
ソ連の女子は確かに五輪では68と72で二連覇をしたが、73年頃には
もうソ連はそれ程強くもなかったようにあだしには見えたのだが山田は68でソ連に
完敗していた事がトラウマになっていたのかそれをその後もずっと引きずっていたところがあった
と思う。で、68以降は兎に角、ソ連打倒だと。
76年でも77年もずっとそれだったのだが、その頃はソ連なんかよりも重要視しなければならない国が
続々と現れていた。それがキューバと中国とアメリカだった。しかしキューバについて云えば78世でチャンピオンに
なったものの80年頃からはどんどん衰退してきていたので80年以降の日本のライバルは中国とアメリカだけだった。この時代(78-80年)も
山田の読みは著しく鈍いものであったと思う。山田監督って三冠監督ではあったけど本当は無能監督だったのではないか?w
それがあだしは本当は云いたくてソ連のサリホワを登場させたのですよ。
でも最後の最期までなぜ、あだしがサリホワなんて選手を知ってたのか、ゲイのイトーには分からなかったもんナ ?
あだしファイルは本当に存在するのか
あだしは本当に現在、真鍋監督と同じ年齢、即ち51歳なのか
あだしのバックには元日立の全日本選手の知り合いがいるのか
ここいら辺りの疑問が解ければあだしの本当の正体が分かる筈だ!!



                            ナゾ〜

134 :
あだしとゲイのイトーの回顧録
バレー2chに取り組んで四半世紀
今明かされる真実

135 :
山田が三冠を獲得した頃の国内では山田をリスペクトする風潮が強くあったが、あだしはこの時、
それでは日本はどんどん衰退していくのではないのか、と思っていたのですよね。もう山田のやり方
では世界で勝てないと思ったのです。
あの時に山田を凌駕する事が出来る新しい若い指導者が現れないかとそんなのを期待していたのですが
そんな指導者は1980年まで一人も出て来なかった。そこにバレー界の衰退があったのではないか。
あだしはヨーカドーの前田健辺りに期待をしていたのだが彼はカナダの男子チームの監督をするためにカナダへ
行ってしまってたしね。あれは本当に残念だった。
山田も個人でバレー塾を立ち上げたりもしたけど結局はバレー塾出身者で有名選手になったのは中田と大林の2人だけに
終りその後はバレー塾は運営自体がなくなっていたようだったし。w
で、その頃は中国が強くてその選手らは皆、長身で細身の選手ばかりだった(郎平、陳亜涼、周暁蘭・・・)からか
日立にもそんな選手を今まで以上に沢山集めてみたものの(菊池久美子、川瀬ゆかり、武藤美佐江・・・)どれもこれも育たず
だったではないかw
日立では78世でキューバが強い、そしてその秘密は強靭な筋肉にあると見るや否や高額なトレーニングマシンを
購入したりしてたみたいですがそれを使っていたのも購入後半年だけで後は体育館2Fにあった大会議室に眠らせて置いてただけだった。
山田は無能でしたよ。
>>134
ゲイのイトー! はしゃぐんじゃないよ 軟弱女子バレー喫茶はまだやってるのか?一人でw
それとも山田バレー塾と一緒で開店休業状態がずっと続いているのか?

 

136 :
白井松田金坂なんかが相次いで日立を引退した頃の1978年の春頃に日立に鈴木春美178という若い選手が
いてその頃、日立と全日本の監督をやっていた無能の山田はこの鈴木にかなり期待していたようでその年の
日ソ対抗などでは鈴木をレフトエースで何度か起用していたけどあれは完全にミス采配だったと思うんだわ。
あの頃は日立はレフトの白井、荒木田、吉田が次々に引退していたから鈴木を使ったのだろうけど
あれは本当に酷い抜擢だった。全日本で鈴木を使ったのだからw
あの時は流石の山田も日立に横山か須藤がいてくれたなら、と思ったのではなかろうか?
山田は78年の春の南米遠征でキューバに4連敗して白井と松田が引退してその後、荒木田や矢野そして吉田に高柳まで
引退して国内ではユニチカやカネボウにも勝てなくなり世界ではキューバや中国に勝てなくなってしまい少し頭がいかれて
しまったという感じになっちゃったのかねw
山田はあの時、完全にノイローゼだったと思ったもんナ。

 

137 :
けどあの時は日立には江上がいた。これが大きかったんですよね
江上はその頃はまだ20歳になったばかりで当時は日立中心の全日本から
ユニチカ中心の全日本だったから江上は小平にある日立の体育館にはほとんどおらず
貝塚のユニチカ体育館ばかりいたのに、なんとかこのピンチを凌いだ。
あの時は江上自身もどうなるかと思ったのに全日本選手としても日立のキャプテンとしても
自分自身の事も全て江上はパーフェクトにやり抜いたのではなかったか。

138 :
あの時は日立の山田監督も江上にはとても感謝をしていたのではないのか?
江上様様だったのではないか!!
あの時はセッターの松田も金坂も辞めてしまいチーム柱を完全に失っていた日立だったから。
そのセッターだが山田監督は初めはチームの平均身長を高くしようと練習では江上−金子のツーセッターで
やったりオールラウンドの川原172をセッターで使ってみたりもしたが結局は江上と同じ高校で同期入社(松陰高校卒)の
本島164でチームを固めてそれでまとまったという事だったのか。
それに辿りつくまでに日立は江上−金子の二枚セッターでエースには森田−早坂(青木)そこへ新人の吉野と石田を入れたチームで
大型のチームを作ったりもしたが結局はセッターは専門の本島チィーさんになったんだよナ。あだしはこの大型チームも時間をかければ
いいチームに仕上がるような気がしたのでもう少し江上−金子の二枚セッターのチーム日立を見続けたいなと思ったのですが。
でもそれから二年経過した1981年の春に日立には三屋と小高そして中田の三人が入った事によって、セッターは本島から中田になりセンターも
金子から三屋になりライトには179の小高が入り、エースには1980年入社の杉山と江上の同期の森田170で新生日立が誕生する事となるんだよナ。
この時は何もかもが日立は上手く運んでいたのではなかったか?
国内のライバルのユニチカには勝つ事が多くなっていたし、毎年春に行われていたソ連のクラブチームの代表国との交流試合(ドゥルージュバカップ)では
ほぼ全ソ連と云って良いウラロチカにも勝ち越す試合をするようになっていたから。
この頃の日立を見ていると本当に勢いを感じたので日本の将来は明るいなって感じが本当にしましたもんね。

139 :
江上が1976年以降に日立にいたって事は日立のみを救ったという事だけでもないのですが、
あの時は1976年にモントリオール五輪があってその後には77WCがあり78世もあった。で、
77WC直後には3冠を獲得した全日本の大半のメンバーが引退して残った中堅の矢野や吉田、高柳も
78世の直後に引退したので当時はまだ新人と云ってもいいような江上が一人残されてしまったのに
良く頑張っていた、という事になったのではないか? そしてこれは全日本でもそうだった。
もしもあの時代(78-84)に江上由美というプレイヤーが日本にいなかったら、その時点で日本は
世界ではBCクラスまで落っこちていたのではなかろうか?
結局は86世で日本は7位となってしまったのですが。
86世の頃に日立の杉山なんかがもう少し成長してくれていたならあそこまで日本は沈む事もなかったんだけども。

140 :
ミュンヘン五輪の時のソ連男子の監督だったチェスノコフはその頃日本のエースアタッカーだった
大古を見て、『ソ連チームに大古が欲しい』と云ったらしいが、あだしはこれは、チェスノコフのお世辞や
社交辞令だと思ってる。チェスノコフはそんな事を本気で思っていたわけがないと。だってあの頃のソ連だったら
大古を遥かに越える選手が代表以外にも大勢いたと思うから。
それにあの頃は日本はソ連と戦うと負ける事が多かったのだから、そんな日本チームのエースをチェスノコフ監督が欲しがるわけがないと。
83.4年頃の江上って円熟味が増して本当に完成された選手だという感じだった。あだしはその頃いつもそう思って江上のプレーを観ていたんだわ
その頃の江上だったら中国の袁監督もアメリカのセリンジャーやソ連のカルポリも『是非、家に来て欲しい』と思ったのではないか。
そんな事を云ったとかってのはあだしは聞いた事は一度もなかったけど。
聞いた事がなかったからあだしはこの三人の監督さんらはそんな風に思いながら江上の事を見ていたのではないかって思うのです。 ???
チェスノコフが大古を欲しがっていたってかぁ〜???
これってゲイのイトーのいつもの妄想作り話だったんではないのwって思うんですね。
だってゲイのイトーってミュンヘン大会の試合を一試合も観ずに、キューバ男子のレシーブは上手だったとか、なぜ、白井をバックから出したんだとかって云ってるような素人ですからね。

141 :
その白井のお話はミュンヘン五輪の決勝戦での事でそれはバレー界ではとても有名なお話なのですが、今なんかだと知らない人も
沢山いそうなのであだしが下記にそのお話を少し書いてみたいと思います。
ミュンヘン五輪での女子の決勝は日本対ソ連だったのですがその試合はフルセットにもつれ込むという熱戦でその5セット目では
3.4セットで活躍した白井を監督の小島さんがミスして(もしかしたらミスではなかったのかもしれませんが)白井をバックレフトのポジションから
登場させた。あの時の試合の流れから云えば白井は当然前衛のレフトで入れて来ると思ったのに。
なぜなら当時の白井はスパイクは得意であったがレシーブは本当に下手糞だったから。
なので白井を前衛からスタートさせて前でバカスカ打たせて日本が主導権を獲り先行逃げ切りで、5セット目を獲り優勝するという形にしたかったので。
んで日本は5セット目をソ連に獲られ負けてしまったという。
これはあの時の監督の小島さんのミスだったもんナ
白井を前からスタートさせていたなら日本はソ連に勝っていましたよ。
小島さんて1978年暮れからも4年間、全日本の監督をやってましたが割とこんなミスを良くやる監督さんでしたけど。
でももしかするとあの時はあれはあれで児島さんにも計算があったのかとも少し思うのですがね。

142 :
小島監督も少し前に他界してしまったようでしたが、亡くなる前にあだしは是非
ミュンヘンでのあの時の事を訊いてみたかったですね。
小島さんはきっと
あの時は頭の中が真っ白になってもうてもう何がなんだか、わけがわからんようになってしまったんですわ
とか云いそうですが。
あの時の試合はあだしもテレビで観てましたよ。日本ではお昼すぎにやっていたのではないか?
東京はその日は雨の日曜日でまだ9月の上旬だというのにとても肌寒かった。
あだしはその日は友達の誕生会に招かれていて友人の家でそれを見せてもらっていたんだわ。

143 :
長身選手を起用したのは日本が世界で初めてだよ
ただ日本が後継者育成を失敗しなければの話。

 遺伝の重要性は昔から言ったもんだが優性交配まではダイブ遅れたんだよ。

第一自分を育てた支障を無能だってほざく弟子がいるチームなんかで
なんで後継者が育つものか

さっぱり理解できません。

ユニチカや日立は日本人育てることを忘れて帰化人を日本代表にすること
で上位を狙おうとたくらんだが結論はいま出ているだろ。

そのうち日本はどうでもよくなる
ユニチカはすでに亡くなった。
それが自然の法則の解答じゃないのかね。

144 :
白井さんは日立に入る前にクラボウ倉敷に所属していた時に、日立の山田監督に
『君には妹さんはいないのかな?』(いたらその妹にバレーをやらせて日立へスカウトしようと思ったのか)
白井がそれについて山田監督に『いない』と答えたら、山田監督は白井に
『君から、お母さんにもう一人子供を産んでくれないか頼んでもらえないかな』
と云ったそうだ。w
山田監督は女の子が生まれたら山田バレー塾に入れたいとでも思っていたのだろうね。
白井はこんな事を質問してくる山田監督に対して心の中で何を考えているんだ、このオッサンは、と思ったらしいがw

尹正順、といったんだよね、白井が帰化する前の韓国名は。
白井は片山女子高校を中退してクラボウ倉敷に入りそこの監督さんだった白井監督の養女になったんだよね
16.7歳の時に。

145 :
けど白井さんて本格的にバレーを始めたのは高校を中退してクラボウに入社した時からだった
のですよね。中学の時は卓球部に入りたかったがその学校に卓球部がなかったのでテニス部に入った。
がしかし1年が経過してもなかなかボールを打たせてもらえず球拾いやコートのローラー引きばかりさせられていて
そんな時当時すでに165aあった白井に目をつけたのがバレー部の監督で、その監督に誘われるまま中2の時からバレー部に
入り高校進学後もバレー部に入ったがすぐにクラボウに引き抜かれて高1で中退のだというから。
だから白井はミュンヘンのソ連との決勝戦で途中からその試合に出て大活躍をしたのだが、その時はバレーを本格的に始めてから
まだ3.4年しか経っていなかったという事だったのである。
あの時の白井を見てライバルチームのソ連の監督のギビは、日本の秘密大砲、と云ったらしいが。

146 :
けどこうして白井のバレーの経歴などを振り返り見てみるとかなりのアウトローであったなと
思わせる。時代が今とは全然違っていたとしてもこんな選手は日本には当時も絶対にいなかったですよ。
で、世界の大砲だの和製リスカルと呼ばれたのだから。
普通だと全日本に選ばれるような選手は遅くとも地元の中学でバレーを始め高校でもバレーを真剣にやり、
バレーの強豪校へ入り全国大会に出て実業団チームの監督からスカウトされてそこで3.4年やって全日本−五輪選手となるのですが
白井なんかはなんとなく誘われてテニスからバレー部に入り、また実業団の監督からスカウトされたからそこで真剣にバレーをやっていた、と。
で、気づいたら五輪に出ていてそこで大活躍をしてしまったといった感じなんですよね。だから白井はミュンヘン五輪が終わった直後にまだ20歳だったのに
もうバレーは辞めるとさっさと引退したのでしょうね。
恰好いいんだわ、こういうのは
男子の大古なんかも白井と似ているようにも思うのですが。
大古は家庭の事情で中学を卒業後に高校へは行かず職業訓練校で働いたのですが。
で、その後リクエーションバレーを働きながらやってたら、バレー関係者の目に大古の事が目に止まり
松平さんに本格的にバレーをやらないかと誘われて日本鋼管へ入りミュンヘン五輪に出場して日本のエースとして大活躍したという。
んでその後にサントリーに移籍した事もこれまた白井とそっくりなんだからw
白井も大古もチームを移籍したときは世間をかなり騒がせたしね。ww

147 :
訂正
尻から5行目の真ん中のところから

職業訓練校に入りその学校の関係個所の会社に入社してそこでその後〜〜

白井も大古もミュンヘンの翌年にチームを移籍したのではなかったか?
白井はバレーを引退していたのでその時は無宿者でしたから日立で復帰という感じだったのでしたが
当時はそうする事にも色々な規則が確かあったのですよね。で、それで問題になった。
大古はミュンヘン大会直前の72年の6月頃にすでにサントリーから移籍話を持ち掛けられていたという事で
問題になったのでしたが。
が、サントリーは大古の他にも森田や深尾、佐藤や嶋岡などにも声をかけていたという事が発覚してそれで騒ぎに
なってしまったのだろう。その前には漫画雑誌に男子バレーチームのサインや手形が掲載されてしまいアマチュア選手として
相応しくない行動だとかってマスコミや水泳連盟などから叩かれたりもしていたから。

そんなのもあったから大古は渦中の人にあの時はなってしまったのだろうナ

148 :
大古も白井も現役当時はバレー関係者からもマスコミの連中からもかなりの異端児であると
そんな扱いを受け続けていたが、それは他の選手らにない類稀なバレーの才能を持っていたから
そういう目で見られてしまったのだとあだしは思うのですね。
大古がサントリーに移籍した時や白井が日立に移籍した時なんてマスコミの連中はこれでもかって位に
この二人を叩いていたのだから。日立山田の手から白井にかなりの札束が渡っているのでは?とか。
スポーツマンらしからぬ行動だとかw
あの頃ってこういうのが好きだったんだよナ、一般の国民らも。

149 :
白井は日立に入ってから世界的に有名な選手になったが大古の場合はサントリーへ
入ってから全日本から外されたりして何かその後、ぱっとしなかった印象があったんだよナ。
72ミュンヘン大会までの監督は松平だったが松平はミュンヘンで金を獲ったらすぐに監督を辞めちゃった。
72年の秋に辞めて後任には小山となったがこの小山が大古の事をあまり好きではなかったところがあったように
思ったんですよね。あれは74世の大会前だったのかナ?
大古を全日本から外すと、メンバーに選ばない、全日本に入れないと小山が公の場で発表して騒動になった事があったが
あの頃から大古がしなびた感じになっていったように思うんだよナ。
小山はあの時、なぜ大古を全日本に選ばなかったかについて公の場で『人間的に少し問題がある』と云ってしまい
それを聞いた松平が怒ってしまい松平はそれについて『大選手というのは他の選手とは少々違った異端なところがあるものなんだ』
と返したのではなかったか。
この事も国民を巻き込んだ大問題になっていたのではなかったか。
あの頃って本当にこういうのが多かったがこれは当時は男子も女子も日本のバレーが強かったから国民がそれだけ注目していたという事だったのだろうナ。
で、大古も白井もエースだったからそれだけに特に騒がれた、という事だったのだろう。
当時はチームを移籍するなんていう選手はあまりいなかったしね
なのに看板選手であった白井や大古が移籍したから大騒動になったという。
あの時の白井なんて現在の木村なんてもんじゃなかったからね、
男子の森田なんかは全日本に72ミュンヘン後も選ばれ続けていたのにそれを辞退して三大会には77wcまでの5年間一切出なかった、というのもあったけど。
んで、その77WCに森田が久々に出たら日本はその大会で2位になった。そしたら森田のお蔭だとかってやんややんや云ってたが翌年の78世では史上最悪の11位になって
80モスクワではアジア枠でも最終予選でも日本は完敗して切符すら獲る事が出来なかった。あの時から男子は今と同じ状態になっているように思うんだよナ。

150 :
昔から全日本のチームは男子は選抜が良くて女子は単独がいいと云ってたが
それには2つの理由があったとあだしは個人的には思ってた。
まず一つ目は女子が金メダルを獲った時の東京五輪の時のチームとモンの時のチームが
単独チーム(東京はニチボーでモンは日立武蔵)だったからそう云われていたのだろう。
男子はミュンの時のチームが選抜チームだったから。
あと女子は単独がいいと云ってたその理由で考えられた事は日立の山田監督は自分のところの選手を
入れて全日本の練習を日立でする事が厭だったのではないかとあだしなんかは日立の練習を見ていると
感じたんだよナ。日立の練習法や強化リノウハウを他チームの選手に盗まれるのを嫌っていたというのもありそうなのだが
それ以外の山田と日立の選手の関係なんかを知られたくない、と。そんなのが強く山田にあったので山田もモン(正確に云えば74世)
以降には女子は単独だと声高に叫んでいたのではないかって思うのだ。そしてそれを可能に出来たのは山田が、74.76.77で3冠に輝いたから。
それだけの事ですよ。w
もしも女子が68.72(この2つの五輪は選抜チームで全日本を組んだ)で金メダルを獲得していたなら単独か選抜かという論争自体なかったと思ったもんナ。w
この単独選抜論争は山田が常に全日本の監督になっていたいが為の物だったのではないのか。で、山田全日本になったなら必ず日立単独でw、と。
山田はそれを可能にする為に、1971年頃から優秀な高校生を日立にスカウトをしていたのだから。派手なスカウトをね。

151 :
6行目の終りの方訂正。
自分のところの選手以外を入れて〜 に。

71年頃から日立山田の派手なスカウトが始まった、というのは協会や各実業団の
監督等の間でもかなり有名なお話でしたがその頃に日立に入社した選手は下記の通りです。
金坂、高柳、荒木田、矢野、吉田
がこのラインの選手らは74〜77までの3冠までは日立に在籍していたが80年以降は一人も日立に残ってなく
皆、78世の前かその大会直後に引退してしまいましたね。山田はこうなる事は本当に計算外だったと思う。
この四人は80モスクワまではやってくれるだろう、と。そしてそれらの選手を中心としたチームで日本はモスクワで
金メダルを獲得する事だろう、と。監督はこの私、山田重雄でと。
そう考えていたのですよ、彼は。 www

152 :
山田さんは単独チームの方が良いという理由に、バレーはコンビや連携がとても重要なスポーツだから女子は気の合った者同士でチームを
組んだ方のが上手く行くとか云ってたけどこれは山田監督自身が自分の処の選手だけでチームを組んだ方が選手の管理をし易いからそんな事を
云ってただけだったんではないかなぁ〜という気があだしはするんですよ。
他チーム、例えばそこにユニチカの選手が入り日立のいつものやり方を見て、『へぇ〜日立っていつもこんな面倒な事をやってるんだ、ユニチカでは
そんな事はやらないけどなぁ〜』とか云われて日立の選手らが山田のやり方を批判したりするようになる事を懸念していたのではないか、山田は。

153 :
が、その時代に二人だけはいつも代表に選ばれていた選手が二人いた。
その事は注目すべき事だとも感じる。
その二人とはヤシカの飯田と三洋の前田だったのだが
この二人は実力や実績があったから選ばれたのでしょうが、
この飯田と前田は全日本のキャプテンとして日立中心の全日本の中に入っていたのだから
特に、この事は注目すべき事だったのではないかとあだしは思うのです。
飯田は74世と76オの時のキャプテンで前田は77wの時のキャプテンだったが飯田は白井松田よりも
年齢が6つも上だったので74世と76オでキャプテンになったのは当然と云えば当然だったが前田は白井松田と
同い年だったので77の時は白井か松田をキャプテンしても良かったのに山田はそこはそうせずに
三洋の前田をキャプテンにした。ここには山田の狙いがあったのではないのか、とあだしは思うのです。
どんな?

154 :
飯田は74世の前にバレーを引退しようとしていた、事実74世が終わったら引退した、
前田も76オが終わったら引退していた。山田は結婚適齢期になってもバレーを続けてる
この微妙な心理状態の二人を大会前まで引退しないようにキャプテンに抜擢したのだと思う。
キャプテンに任命されたらその選手は無責任な事は出来ない、となるからね。
また、日立以外の選手をキャプテンにする事で日立のメンバーの統制を図るというのもあった
のではないか。
他所のチームから来てキャプテンを飯田(前田)はやってるんだからお前らも飯田や前田に協力してやって
チームを盛り上げろ、と。そんな感じに山田は持って行きたかったんだよね、たぶん。

155 :
あともうひとつ考えられたのは、キャプテンを白井か松田にしてしまうと
キャプテンになれなかった方の人間がやる気を失ってしまうかも知れない、と
山田は考えたから77wcの時には他所のチームから来た前田をキャプテンにしたのかも
知れない。そうすれば白井松田の間で勝ち負けが発生する事が無く円満に行くと。
前田をキャプテンにした時は山田はメディアの前でしきりに『前田は温厚な性格をしていて大人だから』と
云っていたが事実、前田は白井と松田に比べるとおっとりとした性格をしていて誰からも好かれるという人間だったけど、
他所から連れて来た選手をキャプテンにする事もないのではないか、とそんな意見も当時はきっとあった筈だから。
山田監督はこういうのは割と面倒臭い手続きを取るタイプの人間だったから。
そこへ行くとユニチカの監督の小島さんなんかは、こんな事はせずに即決でジュリ
エースだし明るいからジュリだ、とそんな決め方をいつもしていたのではないか。w
あと山田監督は物静かでおっとりとしていて美人って感じの選手をいつも好んでキャプテンにするという傾向もあったけど。
気性が激しいタイプの選手は絶対に日立でも全日本でもキャプテンにはしなかったから。
ただし中田だけは別格だったという事になるのかナw

156 :
77wcの時は確かに前田がキャプテンだったけど松田はコートキャプテンとか
云われていましたよね。
コートキャプテンwww

こういうの今の真鍋ジャパンにもあるのかナ ?

最近と云うか前田松田白井の時代以降は、こういうのは今までなかったようにも思うのだが。

 

157 :
日本の男子バレーは強い、女子もソ連と常に金メダル争いをしているから世界では
1.2の強さだから日本は男女共にバレーの強豪国だなんて日本国内で云ってた1970年代。
その頃なんて6人制バレーボールが五輪の正式種目になってからまだ10年少ししか経ってない時だった。
日本は男女共1964年から1972年まで五輪ではいつもメダルを獲得していたから指導者らは上から目線で
キューバは高さはあるが腰高だから守備は今後も上達しないから世界の強豪国の仲間入りはしないwとか
中国は海外で試合をするとコンディション調整が上手く行かないから潜在的なバレーの能力はあるのだが、
これも強豪国になる事はこれからもないだろうw
なんてトンマな事を云っていたのですよね。
この頃なんてバレーの本格的な歴史が始まってからまだ10年
その頃に日本がたまたま強かっただけだったのに後先考えずにこんな事を偉そうに云っていた日本の指導者のM平やY田は
1970年代後半にそのキューバ中国にあっさり追い抜かれて恥ずかしくなかったのかね ?
その1970年代後半の頃でしたら、MやYが、こんな事を能天気に云っていたという事を憶えているという人間も今なんかよりも
沢山いた筈だったのに誰もその事に突っ込むようなのもいなかった事がとても不思議だったもんナ。
と云うか70年代初頭の頃にMやYが偉そな事を云った刹那、それは違うだろう、とキューバや中国そしてアメリカ等はまだ本格的にバレーというスポーツに取り組んでないだけ
だからこれからあいつらが本気でやるようになったら怖いと云うのがいなかった事が一番、あだしは不思議な事だったと思うのであるのだが。
日本のバレーの指導者って阿保なのばっかりだったのかナ? w

158 :
中国女子の監督をやっていた袁さんから見たら1975年頃には
日本なんて大した事はない、そしてそれはソ連も同様だ、と。
そんな風に思っていたのではないかw
あと3年も経ったら我々のチームは確実に日本チームにもソ連チームにも実力は
追いついている事だろう、もしかしたら追い抜いているかも知れない。日本の山田は
ソ連のギビの事を相当、リスペクトしているみたいだが、それがすでに時代錯誤なんだよな。
これからは、中国とキューバ、アメリカの時代が到来するのだから、韓国も今は我々にとっては強敵だが
韓国にもあと数年もしたら何も問題にならないという位の力を我々はつけるだろうから何とも思っていませんからね。
我々の80モスクワ以降のライバルはアメリカとキューバ、この2つのみになるだろう!!
その頃には日本はすでに終わっている国となっているのではないのかw
とこんな事を考えていたと思う。

159 :
このスレのスレ主が、あだしではなくこのあだしからいつも散々、馬鹿にされているヲカマのイトーであると云う事実www

 

160 :
をかまのイトーも絡む相手を間違えたんだわ
よりによってあだしなんかに絡んでしまったから
こんなに惨めな事になってしまったのではなかろうかw
絡んでもいい相手とそうではない相手の区別をつけてから
そういうのはやらないと。

で、こういった事になってしまったのだから w

ダメだよ
ミュンヘンでは日本の男子は平均身長が190オーバーだったから世界一高さのあるチームだった、とか
ソ連のチェスノコフ監督は大古をソ連に欲しがっていた
とこの程度の事を書いて自分はバレー通であると思ったりして自信満々でこんなところに書き込み等したら。

 
あだしの前ではこんなのは絶対に通用しない!!

161 :
をかまのイトーが云ってた、個体差
って結局、何だったのかしらね ?
あだしはそれを未だに理解できないのよ。
基地害のイトーが云った事だから理解出来なくてもかまわないのですが。 w
理解出来る方が頭が可笑しいという感じだものね!!
あだしに散々ここで遊ばれて可哀想な人だったもんナ
このあだしに勝ちたい一心でパソコンと携帯で2つも3つもIDを使ってたのに
それでも一度もこのあだしに勝てた事がなかった。 wwww
あだしが朝の9時すぎに、ここに来るのを毎日毎日、約10年間も只管、待ち続けて
それでもあだしは自分の仕事を切り上げる時間の5時過ぎまでしかここにはいなかったので
それが、をかまのイトーにしたらとても悔しかったみたいでしたが。w
そんなあだしに対して、をかまのイトーは
いつも夕方の5時過ぎになるときっちりここから退場してしまうからハンコ屋だと云ってた事も
あったようだが、いつまでもあだしと喋りたかったのならそういったくだらない事は云えばいいのに
余計な事をあだしに云うからまた、あだしから馬鹿にされて終わる、と。
この繰り返しだったもんナ
もっと素直になれば為になる沢山の事を教えてやれたのにw
残念だったナ!

162 :
最後から4行目訂正。

〜〜 云わなければいいのに、に。

163 :
そういえば昨日の男子のチェコ戦は日本が2セットを連取していたのにその後
チェコに3セット獲られて2-3で負けたと。
あれはあだしがこの板で前から再三再四云って来た通りの試合展開だったですね。
チェコ(スロバキア)ってチームはヨーロッパのチームなのに他のヨーロッパのチームとは
違い、なかなかあきらめないチームだと。なので日本とやるとフルセットになる事が多い、と。
昔からそういったチームだったんですね、チェコスロバキアと云うチームは。
今回で日本はチェコとは何回目のフルセットゲームになるのだろうか、通算で。

164 :
あだしは何も自慢したくてサリホワさんや金増福の名前をここに書いたわけでもなかったのですが
をかまのイトーはいつもそういった価値観でここにレスしていたからあだしも自分と同じだろうと
あだしのレスに対して一々いちゃもんをつけて来ていたんだろうナw
それにイトーはサリホワも金増福の事も全然しらなかったもんだから悔しくなったというのも
あったのだろうがw

あだしは悪いけど大昔の事を知っているから凄いだろう、とそんな事を自慢臭くひけらかすような人間ではないのですから。
あだしがサリホワの事を書いたのは山田の事を批判する為だったのです。
をかまのイトーはもう少し大人になった方が良かったと思います
精神年齢が低すぎだったと思います
あと、日立の旧い体育館では一般の人は2階から見学をする事はできませんでしたし
山田監督は見学者にボール拾いをやらせるという事も絶対になかったと思います。
をかまのイトーのレスはどれもこれも上滑りしていたのは一度も日立体育館に見学へ行った事がないのに
それを空想や妄想で、こうではないかと書いていたからだと思うのですが、どうか?w

あだしが大学生の頃のクラス仲間に西野ってのがいたんだけどそいつはかなりのフカシで
『俺は330を乗っているんだよ』と云って、なら今度それに乗って学校に来いよ、と皆に云われて
それ以降そのまんま大学を辞めたがいたのですがw
そいつとそっくりなんだわ、をかまのイトーは。
もしかしてイトーは西野君なのですか???

165 :
でもサリホワさんは1974世の時に出ていたのだからあだしにとったらそれ程
古い選手だという感じもしないんですよね
だってその時あだしは小学校の5年生だったのだから。
をかまのイトーだってサリホワの事は当時、テレビで観ていたのではないの?
って感じだったんだよナ?
あれだけあだしに偉そうな事を云ってたんだから。
もしかしてイトーは70年代後半頃にソ連にいたマカゴノワとかアハミノワ辺りの
選手からしか知らなかったのかナ???
78世では石川は代表に選ばれてなかったとか強気にレスをしていたくらいだからw

166 :
今の現役選手の木村や江畑、それに新鍋辺りの選手なんかだと
バレーファンの人達にぞんざいな態度をとったりするとすぐに、
2ちゃんをはじめとした掲示板に色々と書かれてしまうから、と
ファンの人達にも感じ良く接したりするのだろうが、昔なんてそんなのが
全然なかったからファンにも平気で感じ悪い態度をとってる選手が多かったように
あだしは思う。
あだしが選手のおっかけをし始めた頃は昭和51年の頃だったのでその時の現役選手は
白井松田飯田前田とこの辺りの選手だった。そしてその後、横山水原江上三屋の時代を
経てあだしがおっかけを引退したのが昭和60年で85WC大会が最後だった。この大会ではあの大林が
八王子実践高校3年生の時で全日本入りしてデビュー戦だった記憶があるがどうか?
大林世代以降の選手たちから掲示板の書き込みに注意をはらうようになったのかしらね。
中田は大林よりも2つ年上だが中田はこんなのを気にした世代ではなかったように思う。
まぁ仮に中田がもっと若くて2ちゃんねるの書き込みを気にする世代であったとしても中田はそんなに何も
気にしてないと思うから、中田はファンの人達からボロクソ書かれていたのではなかろうか?
って思うのですがw

167 :
72ミュンヘン五輪の時の日本の男子チームの平均身長は公式記録とされた数値では190aを越えていて世界一高かったようだが、あれは本当だったのだろうか?
あの公式記録とされた数値に意図的な改竄があったとあだしは今も思っているのだが、
どうか?

168 :
今年の見解に関してまだご意見が聞かれないようで

169 :
黒人ハーフの宮部って身長は181で最高到達点は309だとかってあだしは聞いたけど
指高は何aなのだろうか???
宮部自身は自分は腕が長いから到達点が高いんだとかって云ってましたが。
通常は180aの純粋日本人の女子選手だと指高は、230a前後が一般的な数値になると
思うんだけど。とすれば宮部は235弱くらいあるという事なのか?
もしも235aの指高だとしたら309という最高到達点はそれほど高さがあるという感じだとも
あだしさんは思わないもんナ。
だって309−235=74でRJは74という事になるから。
まぁまだあの娘は高校生だからこれから実業団に入りそこで本格的に鍛えればあと5〜8aくらいは
ジャンプ力も伸びるとは思いますが。
しかしあの娘は半分、黒人の知が入っているのだから今すでに、最高到達点が315aあってもいい気もするのですよね。
兎に角、宮部には頑張ってもらいたい。
因みに1980年頃に白井二世と騒がれた杉山180の最高到達点は317で大谷178は307でしたが。
ああその白井182は305でしたが。

170 :
イタリア戦なんて日本が3-0で楽に勝てた試合だったのに
何で日本はいつもイタリアにはあんなに手こずってしまうのかしらね?
イタリアなんて特別、強いというチームでもないのに。
中国戦は日本がその昔(1980年代から2000年頃)、中国に全く勝てなかった頃と
同じ感じの試合だった。
最後の最期は高さのある中国選手にブロックの上からいいように打たれて日本のスパイクは
ブロックに抑え込まれてにっちもさっちもいかなくなって大差で負けるという。
あの攻撃を中国にやらせないようにするには日本はもう少しサーブを研究するしかないね。
中国は日本の木村をつぶせば日本なんてどうって事はない、われわれは普通にやればあの日本になんて
巻けるはずがない、と思っているのではないかw

日本は一発強打で決めきれるという選手がいないのだから速いコンビ攻撃で決めるしかない
とすればもっとサープレシーブを正確にセッターへ返さなければダメた。
宮部は合格点だったね!!
腕が本当に長い選手だとも思ったし
やっぱり黒人の血が入ると日本人の混血でも黒人の特性(腕が長い)が如実に表れるのだね。
彼女の身体にもう少し肉がついたらもっとパワフルなスパイクが打てるようになると思ったが、
太りすぎるのも良くないと思うので徐々に体を鍛えながら作って5年後の2020年の東京五輪の頃に日本の
エースとして活躍できる選手になったら良いなとあだしは思う。

171 :
古賀さんもなかなかの活躍をしていて良い選手だなって思ったけど
これからは外国チームのマークがかなり厳しくなって来ると思う。
そうしたらその時はその上を行く事があの古賀さんに出来るか否か。
出来れば、日本のポイントゲッター
出来なければ、二流の選手、国内仕様の選手、という事になる。
もう世界では随分前から340の時代になっている
宮部にしても古賀にしても、もっともっと高いところからスパイクを打てるようにならなければ
明日は無い。
真鍋はこの二人が出て来た事によってかなり浮かれているみたいだが、国内と世界で通用するという事は
全然ちがうから。
この今のムードって大谷と宮島廣が出て来た時と栗原大山が登場した時に似てるよね?
大谷が出て来た1980年頃、この時すでにあの郎平(現中国チームの女子の監督)は最高到達点が330とかだったのだから。
相変わらず日本はこれからも厳しい茨の道が続きそうだ。
宮部が高い高いと今、日本では騒いでいるようですが、冷静に考えてみれば、
今から30年以上も前に中国の郎平は330もあったのだから。w
宮部
その郎平まであと21a!!
どこまで差を縮めることが出来るのか?

 

172 :
>>1
ねぇ、ここのスレ主の をかまのイトーさん!!
今度また、このスレの次スレを立てる時、若しくは新たにあだしスレを立てる時は、
そのスレタイは、

あだし先生の マニアックな バレー講座、ではなくて
あだし先生の プロフェッショナルナな バレー講座、にして頂戴ねッ


だってあだしはプロだから
張容芳分析係だったのだから。
この事を知っていた山田監督と米田さんは他界してしまったけど

あだしはプロよ w

173 :
WCが始まったら、あだしはその感想や全日本の評価その他諸々をこのスレに沢山書きますから
あだしのファンの皆々様は楽しみにしていてくださいね。

2位以上の国にしか、リオの出場権の切符は与えられないのか?
と云う事はその2位以上というのはもしもブラジルが1位か2位になったら
3位でもOKだという事なのか?

174 :
昨夜、フジテレビの奇跡体験アンビリバボーで加藤明の事を
ペルー女子の監督時代の事を取り上げてやってましたね。
加藤明がペルーに渡った昭和40年代初頭の頃は、ペルーはバレーでは弱小国だったが、
昭和58(1982年)にペルーのリマで行われた世界選手権では日本を破るまでの実力を
着けたのだ、と。
そしてそれは加藤明の指導があったからだった、と。
しかしその加藤は1982世の大会直前に、この世を病気で去ったのだった、と。

♪上を向いて 歩こう 涙がこぼれないように〜

175 :
もしも加藤明が、82世の時に在世でペルー女子の監督としてベンチに座っていたとしたら
偉大な日本人だったと日本でも、もっともっと有名な人物になってリスペクトされていたのでは
なかろうか、とあだしなんかは思うのですがね。
88ソウルの時もペルーは準決勝で日本を破り決勝進出を果たした。この時も決勝ではソ連に負けて
2位でしたが、加藤がもしも監督としてベンチに座っていたらば、カトー!カトー!と国内外のバレー関係者から
云われていたのではないか、と思うのです。
だって加藤は88ソウルの時に生きていたとしたら年齢は56歳だったのだから、充分にその可能性もあった事だったので。
加藤の後継者だった韓国人の監督の、朴萬福は加藤がペルーの基礎や土台を完全に作ってからバトンタッチされたという感じ
だったのであれはかなり、ラッキーだったのではないか?

 

176 :
因みにこの加藤明さんという人はペルーに行く前までは八幡製鉄所に所属していた人
だったので今の全日本女子の監督の真鍋さんや前監督の柳本さんの大先輩になるのですね。
昭和38年生まれの真鍋監督から見たら昭和7年生まれの加藤明氏は父親くらいの年の差になるから
親子のような感じになると思いますが。
そして加藤さんが生前の時に真鍋さんは会った事はなかったと思いますが。
けど、柳本さんだったら一二度、日本で会っているのではないか。
それは77WCの時に?
とあの時は加藤氏はペルー選手を引き連れてその大会に出場して確か5位を獲得したと思うので。
その時に柳本さんは日本男子のメンバーにセッターとして選ばれていて12名の中に入ってたと思うので。?
柳本さんは前年の76モントリオール五輪の時が、初代表として選ばれた記念すべき大会だったようにあだしは記憶していたので。

177 :
WC第二戦、昨夜のロシア戦、あの試合なんて日本の3-0で勝っても全然おかしくない
試合でしたよ。なのに何で2-3で負けたの!って感じだ。
今の全日本チームって昨夜の試合のようなのがとっても多い
せっかく1セット目で良い入りをしていて先取したのに2セット目以降でつまらんミスをして
相手のリズムになり自滅して逆転されてそのままずるずると押し切られてしまうという試合が。
もしもロシアが日本よりも実力があるチームだったら日本は4セット目を獲得する事は出来なかったですよ。
日本は中国やイタリアなんかとの試合でもこの数年間は、こんな試合をして負けている事が多い
本来は3-0で楽勝出来た筈なのに結果は2-3や1-3で負けるというw
負けたから、新聞などでは、ロシアの高さと力にやられた、と書かれているだけなんだよね。
ロシアもかなり大事なところでミスをしてくれていたのに、あれだけやってくれたら日本は勝って当然なのに
なぜ、勝てないのだろうとあだしなんかは思うけどナ?
でも素人マスコミなんかは、日本はロシアの高さと力のスパイクを本当に良く拾い、粘ったのだが、とか
書いてるのナw
これって最初から日本はロシアには勝てるわけがないという前提で書いてるのでしょうね?
バレーを知らないんだね、全然。w

178 :
昨夜の日ロ戦を見て基本的には、昔とほとんど何も変わっていないんだなってあだしは思ったのでした。
流石にあだしも東洋の魔女の頃の事は分からないけど72ミュンの白井や飯田そして生沼がやっていた頃、
その後のモンの頃そして80年頃の横山の頃、更に84ロスから88ソウルの江上三屋中田の頃との日ソの関係や
それぞれの国のバレーは特に何も変わってないと思ったもんナ。
白井の時代は圧倒的に日本が強かったがこれは、その頃はソ連にはリスカルやスモレーワという一流スパイカーは
いたものの日本の白井前田の方が実力が上だったから日本の方が強かった。横山水原時代にもソ連にはマカゴノワや
アハミノワ、といった高さとパワーを兼ね備えた選手もいたがそれでもどの選手もせいぜい185までだたのでそれには
日本の守備で対応するれば勝てたのだろう。その後の江上の時代の頃からソ連は本格的に大型したのか?
が、日本は強打者はいなかったが試合巧者だったのでこの頃もあまりソ連に負ける事はなかった。
昔の日本選手は試合運びが本当に巧かったのでしょうね。
それが今の日本との差なのだと思う
昔は流れが日本に来たな、となったら絶対にその流れやリズムを相手に渡さなかったので
日本が強かったのだ。
身長の差、最高到達点の差、パワーの差は昔も今も同じですよ
今の日本選手に欠けているものは試合運びになるのかナ?
試合運びがきっと下手なのだという事ではないか、とあだしなんかは思う。

それだけですよ、それだけのことだからロシアもそれ程強くは無い
あと、日本選手はロシアの高いブロックを少し意識しすぎて弱気になってるところがあるので
あんなのもあまり意識することはないッもんね。
エイッて打ったら抜けるから

179 :
木村って試合でラリーが長く続いてて最後に木村にボールが兎に角上がりました
というような感じの時に態勢を整える暇も無く走り込んで行って我武者羅に強打しました
って時に割と決定率が高いんだよナw
そんな時、下手な小細工をしたりフェイントに走ると相手に簡単に拾われて切り替えされて
日本はいつもやられているように思う。
バレーって劣勢な時にするフェイントは決まらないからね
そしてこの事は木村のプレーを見ていれば良く分かるというものだ。古賀は若い割には
この事を良く心得てバレーをやっている選手だと思う。長岡は最近はどこの国からもかなりマーク
されていて厳しくなっている感じがするが、ここでそれに負けずにその上を行かないと世界の壁は越えられない
からここで頑張って欲しいですね。石井なんかは古賀が入った事によってもっとやらなければならない、という自覚が
芽生えチームにとっても本人にとってもこれは良かった事だったんではなかろうか?
厳しいとは思うけど。

180 :
キューバには日本がする、見え見えのフェイントはまだ通用するって感じだよナw
この事も、1970年代初頭の頃から何も変わってないと見たw

でもあのフェイントはこれから戦う中国やアメリカには通用しないと思う。
日本のサーブレシーブも昨夜くらいの安定感が常にあれば、強豪国である中、米、ブラジル
それにロシアなんかとやった時も勝つ確率が高くなるのだろうけど。
キューバは今、ベテランと若手の交代期というけれど今までのキューバだったら
もう少しスムーズにやっていたように思うんだよナ。
キューバもこんな試合を繰り返していると世界の強豪国からどんどん水を開けられてしまう事に
なっちゃうんでないかナァ〜。
今のチームで東京五輪で金を狙ってるとキューバの監督は云っていてそれはそれで結構な事だと思うけど。
世界Aランクだったチームが一度でもCランクにまで堕ちるとその復活にはかなりの時間や努力を要するものだと
あたしなんかは思うから。
キューバには日本の指導者が日本バレーを教えに行かなかった事が良かったのかナ?
このままキューバ女子チームは永遠に守備が苦手なチームであってほしいものです。
80年代以降でこんなに酷い出来のキューバチームを見た事は初めてのような気がする。

181 :
けど、こうしてバレー史を遡って見るとバレーボールのプレーの得手不得手や戦術その他国民性や
体型なんかはどの国を見ても早々簡単に変えられないものなのかも知れないね。
あのキューバだって自分たちは守備が苦手だからそれを克服しようとそれなりの
時間をかけて守備の練習をしているのだろうが、その成果がなかなか現れない、と。
日本は日本でもう少し大きな選手で戦おうと思ってみてもいつも結局は180前後止まりで
今の世界標準に比べると10〜15aも低くなってるしね。
そんな風に見ると韓国なんかは大型化に成功して攻撃力も相当アップしているように思うんだよナ。
韓国なんて今から約40年前の1976年の五輪の時のエースなんて165しかなかったのだから。その選手の名は
曹恵貞、というのですが。知らないね、こんな選手の事は大概の人は、今は。w
でもその大会では韓国は3位だったのだから。
守備がとっても上手かったのね、昔から韓国は。

守備力を落とさずに大型化に成功した韓国に天晴!!です。

そこへゆくと日本なんかは今も守備が上手いと云われてる(いう事になっている)ようだが、
守備力は年々、力が落ちているとあだしなんかは思うのですよ。

182 :
昨夜のケニア戦の3-0勝利は当然と云えば当然の結果だったけど
日本はケニアみたいなチームはやり辛かったんじゃないかな?
ケニアってスパイクするのもブロックもサーブも一つ一つのプレーが
他のチームの選手と比べるとタイミングが違うから。
ああいったのって日本の選手にしたらやり辛いですよ
スパイクなんかにしても、当たり損ないなのかなんだか良く分からないが
変な回転でボールが飛んで来るし、変な所に打って来るから。
厭な感じになるんだよナ、ケニアみたいなチームとやると。
70年代頃の日本とペルーの試合を観ているような感じがしたもんナ。w

183 :
ドミニカはリベロが良く日本のフェイントを拾っていたね
ペルーは先ずセッターが上手かった、兎に角落ち着いてた
あと、対空時間が長いサーブも厭な感じだった。
今日の韓国には絶対勝って欲しいですね
セルビアも強いけど落ち着いてやれば普通に勝てる相手だと思うんですよね。
日本は現在1位のロシアに対してだって1セット目で20-10とかって大差をつけてたから
あの試合は3-0で勝てると思ったのになぜか、やられてしまったのは勿体なかった。
韓国やセルビアにも1セット目で日本が相当リードする、という展開になる可能性が高いから
日本はロシア戦と同じような失敗をしないよう戦ってもらいたいですね。

184 :
日本はセルビア戦でもロシア戦と同じような失敗をして、また負けてしまいましたね。
勿体ない試合、というやつでw
また負けた、と。

185 :
全日本男子の石川君と柳田君の顔が似すぎていて見分けがつかない!
WC終了までに区別できるようになりたいんだわw

こんな風に感じているのはこのあだしだけなのかナ?
兎に角、この二人は良く似てる。

この二人って今までの全日本の男子のプレイヤーにはいなかったタイプの顔をしているとも
感じてる。
今風の若い男の子にいがちなルックスなんですよね

186 :
夕べのイタリア戦も日本が1セット目でもう少し踏ん張ってそのセットを取っていた
としたらばそのまま引き続き波に乗って日本の3-0の勝利というのもあったか
も知れないと思った。
バレーってそういったスポーツだからね
でも、そこでイタリアに日本はやられてしまったのだからやっぱり力不足だと
云う事になるのであろうナ。しかし各セットのゲームを観ていると日本とイタリア
の選手の力自体はそれ程、差があるようには見えなかった。女子も同じ感じでしたよね。

女子が負けた、ロ、セ、ア、中とはどの試合も日本が3-0で勝ってもおかしくない、
という試合をしていたと思うから。
日本選手は男女共に高いトスで一発強打で決める事が出来る選手がいないのと
サーブに力がないという事が欠点なのかしらね。これはずっと前から同じ事なのですが。

187 :
けど昔の全日本チームはそれでも男も女も金メダルを獲った。のだからそれは
どうしてか、という事になる。その理由をあだしなりに分析してみると、まず
昔、60年代70年代80年代初頭の頃までの外国勢はとても守備が下手だった。
それから今ほど大きな選手がいなかったので攻撃やブロックそしてサーブも
日本チームとの力の差がなかったので日本も外国勢と対等に張り合う事が出来たのだろう。
だから男子が72ミュンで世界一になった時に日本の大古がスーパースターだと
世界一の大砲だと呼ばれたのだと思う。女子の白井なんかもこれと全く同じ事になる。w

188 :
72ミュンで日本の男子は金メダルを獲得したのだが、この時はチームの平均身長が190で参加国の中で
一番高い、と騒がれて(と云うか日本のマスコミが必死に騒いでいたのだが)いたが、この時、日本は
これからも190以上のそこそこな選手を集めて世界大会に出れば金か銀メダルを獲る事が出来る、と。
そんな安心や油断があったのではなかろうか? 外国人チームがこれから例えもっと大きな選手を集めて
それで来ても、彼らは守備があまりうまくないから日本のようなプレーは出来ないのだから、と。
これが間違いだった、日本のw
で、それに最初に気づいた大会が72ミュンヘンの8年後に行われた78レニングラード世界選手権大会で
この大会で日本は11位に転落してしまった。日本はこの大会に出る直前まで78世では再び金メダルを!
と云っていたのではなかったのかw
この大会で今まで弱小国とされていたイタリアなどに負けて11位になりそれからガタガタと日本の男子
バレーは崩れて行ったのですね。で、この頃から今まで高さと力だけでバレーをやってたキューバや
ポーランドなども守備を強化したチームを作り日本は70年代初頭の勢いが全く無くなり世界Cランクの
チームまで堕ちたのだった。
でも現在の日本の平均身長は190だからこの40年間少しも進歩してないから勝てなくても仕方がない
よねw

189 :
そのキューバだが、72ミュンの頃のキューバなんてスパイクは物凄い強打を打って来ていたけどレシーブ
なんて本当に下手っぴで日本がする苦し紛れの見え見えのフェイントでさえ全くそれを取る事が
出来なかったのではないか?。だから日本がするフェイントなんかが面白いように決まってた。
しかし良く跳ねて物凄い高い処からスパイクを打ってきたのでその頃から、ゴムマリ軍団とかカリブの鳥人
とか云われてたんだわ。日本はその大会でキューバには3-0でどのセットも7点8点くらいで楽勝してたけど。
あだしもその試合をテレビで観ていたけど日本は兎に角、サーブミスさえしなければボールをキューバの
コートに返しておけば良いって感じで戦っていたと思う。そうすれば後は勝手にキューバがミスってくれるから、と。w
でもあだしはその時、こう思ったんだよね
キューバって確かに今はレシーブが下手糞だから日本は楽勝しているけどこのチームが守備が上手くなったら
日本は手がつけられない相手になるのでは? と。

190 :
当時は1セット、15得点でサーブ権を持ってる方が決めないと得点にならないというルールでしたからね。
だから当時は15-2とか15-0というような得点で各セットの取得が決まる、というような事も珍しくはなかったので
それを考慮してあだしのレスを楽しんで下さいね。今のルールとは違うのだ、と。w
しかしそれにしても日本とキューバではその実力に相当な違いがありましたよ。
キューバなんてその頃はほとんどクィックなんてやらなかったし。

191 :
日本人が考え編み出したとされるABCDのクィックやそれらの技に絡めた時間差(一人時間差を含む)
等々のコンビバレーなんて本当は大したプレーでもなかったという事だったのに、このプレーは外国人
には真似をする事は出来ないから日本独自のプレーだとかって勝手に決めつけて慢心を抱いてたのが
良くなかったって事だったんだよね。事実、72ミュンの時に世界一遅いバレーをすると云われていたその
大会第二位になった東独男子でさえも日本との決勝戦でシューマンなんかが時折、Aクィックをやっていた
のですから。
どうしてあの時に松平は今後は他国もそして女子もこのコンビバレーを導入してくるだろう、と。そしてそう
なった時は日本より大型選手がいる外国選手がそれをやると破壊力があるから日本は世界で勝てなく
なると思わなかったのだろうか? 素人でもなかったのにw
そこがあだしには解せなかったのですよ、昔から。それなのにあの松平ときたら、
外国選手は守備が苦手だから速い攻撃は出来ない、と決めつけてた。w

192 :
2015年、ミュンヘン五輪から43年が経過したが日本男子の平均身長は191aだ
ミュンヘン五輪の時とほぼ同じ身長のままだ
現在では女子のロシアやセルビア等の欧州勢やアメリカやアジア勢の中国でさえも190a位の平均身長
のチームで世界大会に出場しているというのに。
現在の世界の男子の平均身長の標準は200a前後になっている
松平はこうなる事が予想出来たのだろうか?
72ミュンヘンの時に日本人は全然小さくなんかないんだと
世界で一番平均身長が高いのだからと
豪語していましたが。

それも実は各選手の身長を2-3センチ鯖読みまでして
そんなことをして作って世界一ということにしてw
後先考えないでそんな事をするのがいけなかったのですよ。
あだしがあの時のメンバーを観たところ、あの時の男子の平均身長は187aくらいではなかったか?

大古、森田、横田の194は192で猫田179も177で嶋岡186は184で。
そもそも日本の男子のあの時の平均身長が190を越えていたとしても腕の長さを考慮した指標となる数値
の指高、それにRJを加えた最高到達点であの時の外国チームと比べたら日本が世界一の高さがある
なんて恥ずかしくてとても云えたものではなかった筈だ。w
だってどう観ても日本よりもブルガリアや東独の方が大きかったし高かったのだから。

193 :
今週の金曜日の爆報 The フライデー に76モントリオール五輪の時の金メダリストの前田悦智子さんが
出演するようですね。彼女は77wc直後にバレーを引退して会社でお世話になった34歳年上の男性と
結婚して広大な敷地に豪邸を建てて暮らしているという事で当時は、シンデレラストーリーと
云われていましたがその前田悦智子さんも今はもう63歳になっているのではないか?
旦那さんも存命であったなら現在、97歳とか?兎に角もうすぐ100歳といった感じになると思いますが。
先週の予告では、
資産がありすぎて相続税が支払えない?
とかってやってましたので旦那さんが最近に亡くなってしまったのか?
兎に角あだしは何が何でも今週の金曜日はそれを絶対に観たいと思ってる。
74世76オ77wで日本の女子が三冠を獲得した時のエースだった選手です、この前田悦智子さんは
もしかしたら74世76オ77wの時の映像が流されるかも知れないですね。
そんなのを楽しみにしている。
その旦那さんは田村って名前だったのではなかったか?
前妻さんを早くに亡くしてヤモメ暮らしをしているところに前田さんが現れて二度目の結婚をしたのだとか
って当時は聞いたけど、あれから40年近く
前田さんは幸せな結婚生活を送られていたのだろうか?
前田さんは現役の時はスラッとした体形でとても美人な選手だったけど、相変わらず美人さんなのだろうか?
太っちょのデカイおばさんに変身w してたりして ?


男の子が二人の間には生まれたという事は知ってましたが子供は一人だけだったのだろうか?
その男の子も今はもう40歳くらいになっていると思うので、結婚をして子供(悦智子さんの孫)もいるのかも
ね?

194 :
東京五輪の時の美人選手は宮本恵美子
メキシコ、ミュンヘン五輪の時の美人選手は生沼スミ江
モントリオール五輪の時の美人選手は飯田高子、前田悦智子、金坂克子
モスクワ、ロス五輪の時の美人選手は三屋裕子、江上由美
ソウル五輪の時の美人選手は丸山由美、大林素子

以上あだしの時代の思い出の美人選手でした。

195 :
キューバに敗れて78世で2位なった直後に80オまで監督をやる事に決まっていたのに
監督を辞任した山田、あの時の山田は本当にズルかったよね。

80モスクワ五輪では自分が監督をやっても勝てない(1位になる事は無理)からって小島に
監督に任せたのは。
で、78年の9月以降は自分のチームの日立の強化を重点的にやりましょう、と。で、国内で数年後に
No.1になって、次のロス五輪では自分が監督になって金メダルを獲るんだ、と。
そんな計算ずくなところが、見えたから。

あれは本当に卑怯な行動だったわwwww

196 :
いよいよ今夜7時からですね、前田さんが出る番組は。
前田さんと共に3冠時代のチームメイトとして白井さんや松田さんなんかも出ないですかね?
白井さんは引退以降もこれまでは様々な番組メディアに出ていたが松田さんはそんなのがあまり
なかったので松田さんが出たら本当はいいのだが、という訳なのですが。あだし的には。

197 :
前田さんのスパイクフォームの映像は、おそらく流されるんじゃないか、と
そんな感じであだしは期待している。前田さんのスパイクフォームは当時は
鶴が飛び立つようだ、と。とても美しいフォームだと云われていたから。
前田さんは身長は174aで当時としても特別大きな選手ではなかったが、
中学校の時には、陸上選手で走り高跳びをやっていたと云われていたんじゃないか。
それで跳躍力があったのかどうかは不明だが最高到達点は305aもあってその当時は
日本選手としても世界の選手と比べても素晴らしく高い位置からスパイクを打てる選手だった。
打球自体の強さはあまりなかったようでしたが。と云うか前田さんのスパイクは相手ブロックの上から
フワッとしたボールを打ち相手コートのエンドライン付近に落とすという感じのボールで決めていた。
80年代後半の頃に中国のエースに候玉株、て選手がいたがあの選手と同じ感じのスパイクフォーム
で同じようなボールを打ってスパイクを良く決めていましたよね。
候玉株は前田さんよりももう少し大きな選手で身長は180aでしたが。
あと、前田さんはお父さんが台湾人だったらしいと当時、あだしは何かで読んだか聞いたかしたけど
その事までは今夜の番組ではやらないでしょうね。

198 :
前田さんの方が候玉株よりも10年以上も前の選手なので候の方が前田のフォームに似ていたと書いた
方が適切だったのか?w
前田さんは少しブロード気味な感じでスパイクを打っていたので空中で2b位、移動しているって感じに
観えました。ビック白井は逆足っぽくチョンて跳んで高い処で手首だけで打つという感じだったので
ネットから50a位の近いボールを打つのが好きでしたが。
あの時のセッターの松田も前田用のトスと白井用のトスを巧みに使い分けて上げてたが、あの松田の
技術も相当なものだっだ。

こう考えると今の全日本の選手にはこのような特色や特徴はあまり無いような感じが致しますが、どうか?
選手それぞれに決まった特徴がある方がチームとしては良いのか否かは不明ですが。

199 :
だれが読むの

200 :
おばちゃんになった前田選手が金曜日の夜にテレビに出ていましたね
お腹が少し?かなり出ていたwwww
昔はすらっとした感じの体型のスマートな人だったのに
バレー引退後はその田村さんと結婚するまでの期間には美容エステサロンも主催していたのに。
俳優の石坂浩二がその番組にゲストで呼ばれていて嘘か本当か分からないけど、
『僕はこの前田選手のファンだったんですよね』と云っていたが、あだしはそこが印象的だったもんナ。
時代を感じた
前田さんが全日本で活躍していた1974年から1977年頃は前田さんは23から25歳で石坂浩二は30すぎ
だったのだろうが時代を感じましたね。
だろうナ、前田も石坂もその頃は
という感じに思えたんだわ。
前田が初めて全日本にデビューしたのは1973年だった
で、その頃、石坂浩二はTBSで木曜日の夜の9時からやっていたドラマ 『ありがとう』に出ていた。
そのドラマの主人公は水前寺清子で、その恋人役が石坂浩二だった
あだしはその頃は小学校の4年生だったが毎週それを観ていましたからね。www

あだし世代以上の日本人は皆、そんな感じだったのではないか?

201 :
その頃の石坂浩二って二枚目俳優としてテレビで活躍していた人だったが俳優業の他にも作詞をしたり
画家としての才能もあってマルチな才能を持ったタレントとして世の人々にリスペクトをされていた。
1972年だったか?
さよならをするために、という石坂が作曲した歌をビリーバンバンが歌ってヒット曲になった。
この歌はテレビドラマの主題歌になっていたのではなかったか?
そのドラマのタイトルは忘れてしまったが。
そんな石坂だったので、俳優としてもインテリジェンスを感じさせる二枚目という役が本当に多かった。
ありがとうでも、理知的な二枚目の好青年、という役柄であったと思う。
本当に時代ですよね
1972年と云えばバレーでは男子がミュンヘン大会で金メダルを獲得したのですが、その頃にはやっぱり
テレビドラマで『木枯らし紋次郎』という番組が当時の若い娘から流行っていた。前田選手もそれを良く
見ていたという世代の娘さんだったのではないか?日立バレー部の選手は合宿所のテレビで皆で観て
いたとセッターの松田が云ってたから。

202 :
木枯らし紋次郎という番組が当時の若い娘たちの間で流行っていた、でしたね。少し日本語が変でした。
日立バレー部内でもその番組は人気でその頃にバレー部内にいた松田や金坂らは毎週楽しみに
それを観ていたのだろう。
紋次郎役だった中村敦夫が人気だったらしい。その紋次郎は寡黙でいつも独りでいる孤独なところが、
当時の若い娘たちはしびれたのだろう。???
日立の山田監督はどうして選手たちが紋次郎に惹かれるのかを研究したらしい。
それで出た答えが、あまり多くを語らないところと、いつも孤独でいるところではないか、と思った、
と山田監督自身が昔、何かのテレビ番組で語っていましたけど山田監督はその当時から選手の心や
女心を掌握する事に努力をしていたのだろうかw
そんな事をしてばかりいたから晩年になってあんな事を週刊誌で書かれてしまったのではないのか
ってあだしは思っているのですよ。
山田監督は紋次郎を観て紋次郎をきっと真似ていたのだろう? w
こういった所が山田のおシゲさんはとっても単純だったんだよナ。
選手達には男と付き合うな、バレー部以外の友達は女性でも作るな、とか散々云ってたみたいだけど。

203 :
山田監督って選手の心を掴む為とかライバル監督の性格を知る為にとか
で自チームの日立の選手やソ連のギビ監督の趣味や嗜好なんかを徹底的に調べたり探ったりすることが
大好きだったからね。76モントリオール大会の前に交流試合で来日したソ連のギビの日本での買い物に
まで付き合ったというのだから。w
ギビの買い物に付き合う一方で日本との試合の時にはベンチの椅子の下に隠しマイクを仕掛けたりして
作戦タイムの時にギビは何を云ってるのかを録音していたらしいし。
こういったやり方ってとても粘着質な性格をしている男だとあだしは思ったしね。
ギビのことは68メキシコ大会で日本が負けて以降、山田監督は本当にギビに関する色々な事を調べて
いたというし。ギビの家族のことや趣味、等々まで。
好きな色まで調べたらしいですよ、ちなみにそれは緑色だったらしいですが。
どれもこれもそんなことを調べたのも、76モントリオールで日本がソ連に勝つためだったみたいですが
ここまで行くと少し病気なのではないのかって気も致しますよね。


      気持ち悪りぃ〜!! と。 wwww


普通の人間だったらこんなことをして何になるんだろうかって途中で自分が気がついて冷めて
その刹那に、こんな意味がない事をするのは止めよう、と思い止めるのではないか
ってところなんですが。

204 :
あと山田監督は昔(1978年頃)
顔が小さい選手はバレーが上手
歌が上手い選手もバレーが上手
だとかって何の根拠もないこんな事をマスコミの前で云ってましたけど、これってそれまで山田監督が
指導した三鷹高校や日立の選手を見ていてそう思ったのでしょうかね?
統計的に、私の指導してきた選手を見てみると、という事だったのですかねw

が、それでもし日立入社を断られたという顔がデカイ人や音痴な人がいたとしたら少し可哀想でしたね。
1984ロスの頃に就職先が決まらぬままに代表選手になった大谷って選手がいたけれど彼女は歌が下手
だったのでしょうか? 顔はあまり小さい、という感じではなかったと思いますがw
しかし、そのロス五輪前に日立の体育館で練習をしていた大谷選手に対して山田監督は、
『大谷は日立に来るよな!』
と度々大谷本人に声をかけていたのですがね。
少なくてもその時は山田監督は大谷の事を日立に入れたい、と思っていたようでしたが、その後は大谷は
日立にもユニチカヘも行かずで、結局はカネボウへ行く事になった。
ロス大会で大谷が思うような活躍をする事が出来なかったからなのか、なんなのかあだしには良く分かりませんが
ロス五輪の大会期間中に山田と大谷との間できっと何かがあったのだろうナ、という感じに思ったんだわ。

205 :
前田選手のお父さんは台湾人、とあだしは少し上の方で書きましたが、それは正確にはこうでした。
前田選手のお父さんは日本人と中国人の混血でした。前田選手のお母さんは沖縄の人でした。
なので前田選手は高校生の頃までの名前は 陳でしたがその後、三洋電機に入社してからお母さんの
旧姓の前田となりました。
また、前田さんが田村さんと結婚したのは1982年で子供が生まれたのは翌年の1983年でしたから息子
さんは現在32歳になると思いますので40歳近くなっているという、あだしの記述も間違えでした。

206 :
このあだしが思うにソ連は1972年のミァュンヘン大会では金メダルを獲ったけどその頃から実力は完全に
下降気味で76モントリオールで金メダルを獲ったメンバーの松田や前田らが全日本にデビューした1973年
の頃には確実に実力は日本の方が上だったように感じたんだわ。
それなのに小島や山田はソ連にオリンピックで負けていたからか、コンプレックスの塊になっていてソ連を
やたらにリスペクトしてたよね、しずぎだった。で、やれギビは策士だとか両利きのサリホワがどうしたとか
そんなのに無駄に執着して本当に馬鹿だったと思ったんだわ。
現実に73年の春の日ソ対抗でセッターとしてデビューした松田はその試合は1-3で日本が負けたにも
かかわらず試合後のインタビューで、

試合では日本は負けたけど今のソ連はそんなに大した事はない、と云っていたくらいだったのだから。

近いうちに勝てるようになるとも云ってたけどそれもその通りだった。それは翌年の74世で証明されたが、
まだこの時も山田はその大会がオリンピックではなかったから、とソ連を引き続きリスペクトしていた。
もう少し自信を持ってもいいんじゃないの、ギビなんてそんなに畏れなくてもいいんじゃないのってあだしは思っていたのですがね。

207 :
山田なんかも74世の頃ではまだそれが気づけなかったかも知れないが、75-6年頃には、
これからは日本の敵はソ連等ではなくキューバ中国アメリカだと気づいて欲しかったですね。
これは男子バレーの流れを見ていたならすぐに分かった事だったのに山田はそれに気づく事が
出来たのは7WC以降の事だったのではなかったか?
あだしはあの頃、山田って意外と無能なんだナ、残念だ、と思って見ていましたから。
76モントリオール五輪の頃に日立体育館にアメリカのナショナルチームが合宿で来ていて日立の
選手と一緒に練習をしていたけどアメリカ選手のスパイクなんかを観ていると本当にパワフルで
ツボにはまった時のスパイクなんてその頃に仮想ソ連でやっていた日本の男子大学生等よりも
全然重みのあるボールだったから。
けど試合をするとその頃のアメリカチームは守備がとてつもなく下手糞だったから、日立が15-3とかで
勝つのだけれどあだしはあんなのをリアルタイムで近い所で観ていたけど底知れぬ恐怖を感じたものだった。
山田はあの時はどんな感じでアメリカチームの事を見ていたのだろうか?
アメリカは凄いのを打つけど守備が下手すぎるから、今後も日本が脅かされる事はないだろうと思っていたのではないのか。


アメリカなんかよりもソ連、ソ連、ギビ、ギビだよねってかw

208 :
72ミュンヘン後にあの白井さんはバレーを引退して翌年の73年7月に日立に入社して復帰し
この白井の活躍で日立は74年から78年までは国内では敵無でずっと連勝していてその期間は
日立=全日本みたいな感じになっていて山田も幅を利かせてバレー協会でも日立でも好き勝手
気儘にやっていたようでしたが、あの時もしも白井が日立に行かずにユニチカかヤシカに入って
バレーをやっていたなら白井も山田もそして小島のその後の運命もかなり違ったものになっていたように
あだしは思うのです。
白井はあの時は日立とユニチカそして韓国と北朝鮮からも家でバレーをやらないかと声をかけられていた
からね。ヤシカはそこまで積極的ではなかったようでしたが、白井がヤシカでお世話になりたいと一言
云ったら当然、ヤシカも白井をチームに入れたと思うのでヤシカも書きました。しかしあの時は白井もミュンヘン後に引退
していたユニチカの松村の実家で居候させてもらったりしていたのでユニチカ入りが濃厚だと新聞に
スクープされていたのに、何かあったのでしょうナ、白井と山田の間でw?


こんな事知らないよね、をかまのイトーは
だって78年度の日立のスタメンに当時、中村高校3年生だった吉川を入れてしまうくらいだから。www

あやふやな知識で焦って書くからこんな恥をかかなければならなくなるんだよナ。

過去月バレがあまりに古くなっていて表紙の印刷の文字が焼けていて79年が78年と見えたのかしら?
その吉川さんとあだしは丸3年違いだった事をあだしは今でも覚えていたからすぐにその間違えに気づいた
というわけですが。あだしは78年(昭和53年)時は中3だったのでw

209 :
ミュンヘンの時、優勝した日本男子のメンバーの平均身長は190オウバーで世界一高かったんだよ、その時の日本選手は小さくなんかなかったんだよ

と、をかまのイトーはかつて豪語したがw あだし的にはこう、をかまのイトーがぶっこいた時が
一番楽しかったかナw こいつをこれからカモにしたら面白くなりそうだ、と。
そしたら案の定それからしばらくしたら

72ミュンヘンの時のキューバ男子チームの守備はとても上手かった、これはあの斎藤コーチがそう云ってたのですから

とかまたまた変な事を知ったかぶりして書いていた事もあったし。w

で、最後の最期には をかまのイトーはミュンヘン大会の男子の試合を一試合も観ていなかったと
いう事が判明していたのですから。けどどうしてそのレベルの人間が偉そうな事を度々こんな処に出て
来て、あだしの前で一丁前な事を書いたりしたのだろうか?
あだしはその神経が理解する事が出来ないのですよ。
統失やアスペルガーは、をかまのイトー本人の事だったのではないか???

210 :
あと、こんな事もありましたよね
あだしがいつもの調子でクドクド長文で男子の68オ〜74世の滅茶苦茶なバレー史を自慢臭く書いたら、
をかまのイトーはそれに対してもう飽き飽きだと云わんばかりに
『誰もが知っているそんなつまらない事を書いて』とかって書いちゃった。
あだしは、日本男子は68メキシコ五輪と70世で銀メダルを獲得したが、と書いていたのですが、
これは違いますでしょう。正しくは日本男子が銀メダルを獲得したのは68メキシコ五輪と69WCでしたから。
70世では日本男子は銅メダルだったのですよ。

つまり日本男子は
64東京五輪−3位
68メキシコ五輪-2位
69WC−2位
70世-3位
72ミュン五輪-1位
74世-3位

だったというわけ。
こんなバレー史を今も正確に憶えているという人なんて一部の古いバレー関係者くらいの人達だけで日本人
全体でも4人もいないのでしょうがw
その4人の中の一人が、このあだしなわけですが。?

211 :
石川や柳田なんかの今バレーのファンをやっている人達はこんな事は知らないと思いますが、
全日本の男子は、64東京五輪でバレーボールが正式に五輪競技種目になってからは今まで
三大会(五輪、WC、世界選手権)では金を一回、銀を三回(68メキシコシティー、69WC、77WC)銅を二回
獲得していたんですね。
まぁこれらの大会は全て1960年代から70年代までのものでしたが。
かつての男子バレー輝かしい時代もあったという事なのですよ。
1970年代後半頃から翳りが見えて来たという事だったのですが、それまではどの大会でも金メダルを
獲得する事が期待されていたのだから。1976年のモントリオール五輪の時もそうだったのですが、
その大会では準決勝でポーランドに敗れて決勝進出を果たす事が出来ずにそれで選手達が呆然と
なってしまい、3位決定戦でもキューバに負けて結果は4位で終わった。
あだしは個人的にはこの大会でポーランドに負けて決勝に行けなかったという事がその後の
男子バレーがこうなる運命だったのではなかったのかと思っている。
あの大会でのポーランドは決勝もソ連を破り優勝したのだから本当に強かったのだが、日本も前回の
ミュンヘン大会の優勝国だったのでプライドがあったので負けるわけにはいかなかったのだが負けた。
そのショックでキューバにも負けて4位になってしまったのだ、と。
そこからだったんじゃないのかな?
ズルズルと負け出し80モスクワでは出場権も獲得する事が出来なくなりその後は世界10-15位辺りのランク
をうろちょろするようなチームになってしまったのは。

212 :
だがしかし、このスレ主は、をかまのイトーであるという件w

213 :
そう云えば、をかまのイトーって
72ミュンの時の全日本男子チームは世界と比べて全然、小さくなんかなかったんだよね、むしろ世界一
高かっただよね。だってその時の全日本男子チームの平均身長は190オウバー・ラブイズオウバーも
あったのだから。
って以前に豪語していた事があったけど、それについてこのあだしが
もう72ミュンから30年以上の時が流れているのだから、そういった恥かしいレスをするのはお止めなさいよ
って云ったら二度とそれを云わなくなったよナw

これってどうしてをかまのイトーは云わなくなってしまったのだろうか?
確かにあだしのその当時のトリビア記録ファィルにも日本チームの平均身長が一番高く記録されていて
をかまのイトーが云った事は公式データ的にも正しかった、と思うのだが。w

全然まちがってなんかないのに、どうしてそれを、をかまのイトーは二度と口にしなくなったのか?

214 :
をかまのイトーがその事で間違ったとすれば

身長が高い=高さがある

だと、イトーが思っていたとしたら(この前提で考えていたら)それは完全に間違えだったと
云わざるを得ないですね。身長が高くてもジャンプ力がなかったり腕が短く指高が身長のわりに低い
ケースもありますからね。この事と同様に、ジャンプ力があまりなかったりすると最高到達点が身長のわり
に著しく低いというケースもある。
故にバレーボールおける高い低いとは身長が高いから高いではなく、低いから低いでもないという事になる。

そう考えるとあの時の全日本チームの選手は本当に世界一の高さがあったのだろうか?
と問われるとその答えは、NO だった、とこのあだしは思うのです。


それにあの時の日本の選手の公式記録だとされた身長のデータには改竄があったのではなかったか?と
あだしは今でも思っている。この事は自信を持ってそう云っている。


それについては明日以降に!!ここに記して行く予定ですがw

215 :
これは今でもそうですが、1970年頃の日本では、日本人は欧米人に比べると身長が、かなり小さい、と
そんなのが日本人の中にコンプレックスとして強く根付いていたように思うのですよ。
現実に64東京五輪の時のバレーの試合でも日本は結果としてはその大会では3位を獲得したものの
どのチームの対戦相手も190を優に超えるという選手が3-4名いたのに日本選手は185前後の選手で
戦っていたのですから。
で、ミュンヘンで監督となる、松平(東京の時はコーチ的立場だった)がその後、日本全国を駆け回り
190以上ある、又は将来は190以上になりそうだという大きな選手を集めたのだと。
それで集められた選手が194の大古森田横田だったのです。
これが1966年とかそんな頃の事だったのではないか???

216 :
で、1968メキシコシティー五輪の銀メダル獲得を経て1972ミュンヘンで全日本は大型化???に成功して
金メダルを獲得したという事になっていたようですが。w
日本のその時のスタメンは194の大古森田横田のビックスリーにこれまた194あった若手の深尾と
185の木村に179の猫田だった。
確かにこの6名の平均身長は190になるのですが、日本がミュンヘンで対戦したブルガリアや東独らの
選手等と試合中に身長やプレー中の高さを比較して真剣にあだしが観ていたけど、どう見ても日本の選手よりも
ブルガリアや東独の選手の方が背が高くスパイクやブロックにおける高さは日本よりも相当高く見えたのですよ。
ま、ここからこれをきっかけにしてあだしのそれについての研究が始まったのですがね。w
その時あだしは小3だったのかしら?

217 :
で、1974世の頃に新日鉄の田中幹康195や小田勝美198がデビューしたのだろうか、全日本選手として
国際舞台に。この時代になると日本の選手にも沢山の190超えの選手が現れて来たな
といった感じになっていたようでしたが、その頃になると世界では200超えの選手が次々に現れていたので
195の田中なんて日本国内では大型選手で通っていたけど世界では特別大きなとか高い、て程でもなく
こじんまりとまとまってるアジアの一選手という感じだった。これは田中が初めてエースとして抜擢されて
出場した五輪、76モントリオール大会で4位だったからなのか?。
76モンの時はミァュンヘン組のスパイカーとして全日本に選ばれていた選手って誰だったのだろうか?
大古、横田、佐藤、嶋岡、深尾そして190の西本だったのか。他にもいたかも知れないが、この5人と
セッターの猫田が入っていたというのは間違いない。
で、その翌年の77WCの時にそれまで全日本に選ばれても辞退していた森田が5年ぶりに代表入りした
のでなかったか?
が、この時はあの大古や横田は代表には選ばれていなかった。で、その代わりに若手の190の村上や山田
そして中大出の鋼管の192の花輪が代表入りした。あああと、197の岩田も入ってたのかな?

218 :
で、その1977-8年頃は国内ではどんどん大きな選手が現れているからミュンヘンの次の世代の丸山190
、田中195、小田198、花輪192やミュンヘンの時、若手だった深尾194、西本190、嶋岡186のベテランに
丸山田中小田の中堅が居ればそこに新入りの山田190、村上190、岩田197を加えて全日本を編成しても
これからも日本の男子は世界で1位2位を狙う事が出来るだろうと安泰ムードで盛り上がっていたんですよね。
しかし日本男子は78世でいきなり出鼻を挫かれてしまい、11位と不名誉な史上最低な成績に終わった。
それでも日本はこの時も優勝を真面目に狙っていたし77WCで久々に全日本に復帰した森田もまだチーム
に残っていたのですから。

をかまのイトー! 色々とここで書き込みをこの下に入れたいのだろうがもう少しの辛抱なw
我慢しろ、今まではその我慢が足りなくて素人の浅智慧で焦って書き込みをしていたから
沢山の恥をかいたのだからw

219 :
その後の79年の五輪の出場権を賭けて戦ったアジア選手権や最終予選でも日本の成績は芳しくなく
結局はモスクワ五輪の出場権を日本男子は獲得する事が出来なかったのでした。
で、ここでチームを若手に切り替える、と。また、そこで選ばれたメンバーの身体測定や運動能力テストを
するという事で1980年の3月に新生全日本の12名のメンバーが発表されて渋谷の岸記念体育館で
全選手の身長、体重 胸囲や指高を精密に計測した。運動能力テストでは、
垂直跳びや握力そしてハンドボール投げ等々を行ったのだが、その時の記録が月バレの臨時増刊号に
掲載されたのでしたが、それを当時、見たあだしは、ああやっぱりな、と思ったのでした。
何がやっぱりなのか?それは上記>>214であだしが思っていた疑問の答えがそこに記されていたから
だったのです。
それには、山田修司の身長が186.5(それまでは190とされていた)と掲載されていて岩田の身長も195.5
(これもそれまでは197とされていた)となっていたからだ。
つまり山田はそれまでは公式記録を3.5aも岩田は1.5a、それぞれ大きく申告していたという事だったのだ。
この時は田中も花輪も新生全日本からお呼びがかかっていたもののそれを辞退していたのでこの測定を
受けてなかったのでこの時には今までこの二人もそれらの記録を鯖読みしていたかどうかというのは定か
ではなかったのだがその後にすぐにこの二人も鯖読みをしていた事が判明したのであった。。。。

220 :
んで、その後この1980年の3月に結成された新生全日本の成績もボロクソでその監督をやっていた
中野さんもこれではどうしようもないって事で全日本を辞退していた田中と花輪を再び復帰要請して
この二人を全日本に加えたのですが再登録された時のこの二人の身長がまた可笑しな事になっていた
んですよね。
田中195は193に、花輪192は190にそれぞれ2aずつ小さくなっていた。www
田中や花輪ってそれ以前には72のミュンヘン組の森田194や大古194らと一緒にやっていた選手だった
けどこういうのってあり?ってあだしは思ったものw
つまりミュンヘン組の連中とこの二人がやってた時は、

花輪192<森田194<田中195
だったけどその新データを出した事によって
花輪190<田中193<森田194
になってしまうじゃないかとw
もしかしたら、その時点で森田も大古も現役を続けていて全日本に選ばれていたとすると、その身長は
192にとかにして
花輪190<森田192<田中193
にして帳尻を合わせてそれでお仕舞にしてしまうのかしら?w
って感じでしたが。それならそれでもいいけど、そうなるとミュンヘンの時の他のメンバー身長はどうなって
しまうのか、更にあの時のメンバーの平均身長は190超えになるのかと色々な疑問が湧いて来る。


こう考えるのはこのあだしだけだったのでしょうか?
ってお話なんですよ。

221 :
1984年のロス五輪の時に日本の技巧派センターとして活躍した選手に三橋栄三郎(弘前工業−日体大
−富士フィルム)という選手がいたが、この選手だけは上記の例とは異なり大学生の頃までの身長の
公式記録は184だったのに社会人になって全日本に選ばれるようになってからは186に変わった(大きくなった)
という選手もいた。wけどこの場合はその三橋もその頃はまだ、20代前半だったので身長が伸びたのかも
知れない、という事でこれは、説明がつくのでこれはそれで解決という事にあだしはしておるのですが。

あと、ミュンヘン組の西本は81WCまで確か全日本選手としては現役でやっていたと思うが、この西本だけは
72ミュンヘンから81WCまで身長の公式記録は190aのままでしたね。
という事は77WCの時は花輪192よりも2a低く山田190と同じ身長だったが、80年以降は花輪190と同じになり
山田187より3a大きな選手となったという事になる。w

222 :
山田修司、岩田稔それに田中にしても花輪も全員、ミュンヘンの時の選手ではないけれど
この4人はミュンヘンのメンバーが現役の時は一緒にコートで試合をしている。
田中なんてミュンヘンの代表だったエースの大古と76五輪の時にはレフトで対角を組んで
やっていたのだし、花輪、山田、岩田にしても77WCでは森田と一緒にプレーをしていたからね。
田中もだけど。
あだしは72ミュンヘンの時の日本男子チームの平均身長は190もなかったのではないかと思う。
各人の選手がそれぞれ2〜3a程度、大きく公式記録と云われる数値を申告していたのではないか、と。
つまりあの、ミュンヘンの時の全日本の男子チームの平均身長は190もなく187.5〜188くらいであったと。
あの時セッターをやっていた猫田勝敏も公式記録では179aという事になっていたが本当は177aしか
ないのだと語っていた事があったし、中村も185となっていたが後に184になってたり183になってたりしたので。
また、嶋岡も186から184まで様々な数字がミュンヘン後に並んでいたので、あの時はなんとかして日本の
平均身長を190にしようと、頑張って???
190にしていたのではなかろうかwww

223 :
こうしたデータ改竄が次々に発覚したときにあだしは、やっぱりあだしが、ミュンヘン大会を観た時に思った
日本の平均身長は世界一高くはないというのは、正しかったのだと思ったもんね。
そうあだしが思ったのは小3だったのかナ?
それから8年後の1980年、あだしが高校2年の時にやっとその事が分かった(判明)したのだけど。
その年(1980年)の日ソ対抗の時だったのだろうか?
解説が松平で、実況がフジテレビの松倉だったが
松倉が「日本の数名の選手の身長が今までのデータと少し違っているようですが」と云ったら
松平が「今までのは・・・とにかく今の数値が正確です・・・・」と本当に歯切れ悪そうに云ってた事があったからね。w
あだしはこの時、この一言で松倉が松平から嫌われなければ良いのだが、と思ったよ。
でも松倉はその後も81WCでも総合司会等をやっていたからひとまずそれはそれで安心していたのですが。
普段、歯切れの良いあの松平が、その質問でかなり取り乱した? ということは
やっぱりこれは、あだしが前から思ってた通りだったんだわってその刹那、あだしは感じたのですよ。

224 :
これをこのあだしは、松平はブルガリアと東独に勝ってミュンヘンで金メダルを獲ったけど
このあだしには負けた! と云ってるのです。w

ま、何れにしてもあの時の日本の男子の平均身長が190超えだったとしてもブルガリアや東独更に
ソ連やポーランドの平均身長も188-189はあったのでその差は1-2a程度のものでしかなかったのだから
くだらないと云えばくだらない事だったとも思うんだわ、とっても。

そもそも身長でそれらの国々に2-3a程度、日本が大きかったとしても日本人は西欧人や黒人と比べて
腕の長さが全般的に短い傾向があるので指高で比べたらブルガリアや東独そしてソ連にポーランド
の方が高かったと思う。それにジャンプ力も考慮したら日本はこの欧州の強豪国と比べたら最高到達点
も一番低かったのではないか。
日本のエースだった大古は身長が194で指高が240で、僕は身長のわりに腕が短く指高が低い、と云ってた事がありましたが
これは事実その通りの事なのでしょうが、実は大古の身長も2-3aの過大申告があって特に短かくなってしまったのではないのかw
ってあだしは思ったのですよ。?
だってあの山田修司は186.5の243なのですから。

225 :
インチキまでして72ミュンヘンでは日本は190オーバーだと云って、それが通用したのは
あの時は日本の男子が金メダルを獲れたからだったのですね。
勝てば官軍という事。
でもあの時の日本の男子の本当の実力は4位から6位くらいだとあだしは思ったもんナ!
だってあの時の準決勝で対戦したブルガリアには勝つには勝ったけど先に2セット先行されて
奇跡の大逆転とかで日本が勝てただけで、あんなのはマグレだから、実力ではなかったから。
そのブルガリアが4位だったので、4〜6位があの時の日本の本来の実力だった、と。
現実に日本はその後の74世でも3位で76オでは4位だった。
インチキな身長データを並べて
190オーバーで世界一 平均身長が高いチーム、日本!!
サーカス団バレーの日本!!
松平一家!!
なんてこんなくだらない事ばかりやって真実を見つめずに浮かれていたからこうなっただけですよ。
けど、当時のバレーファンも悪かったとあだしは思うんだわ。
マスコミの云ってる事を鵜呑みにしてそれをすぐに信じて何も自分で考えようとせず
そんな馬鹿騒ぎに便乗していた、その姿勢が。

226 :
>>221で登場したその三橋の場合なんかは1980モスクワ五輪以降の選手だったからなのか
高校-大学と真面目に身長を申告していたから全日本に選ばれた途端に184→186に
身長が大きくなっちゃったw
他のメンバーの人達は1980年以降は小さくなる事はあっても大きくなる事は殆どなかったのに。
この三橋も1992年頃に二人の女性と重婚をしたとかで週刊誌でそれを大きく取り上げられていた事が
ありましたよね。
その後、この件はどうなったのかは不明でしたが
この時、週刊ポストはそれにいて『バレー三橋、重婚』『結婚まで一人時間差』とかって見出しで騒いでた。
その後、三橋は右足のアキレス腱を痛めたとかでバレーを引退したみたいですがこの時の三橋の年齢は
まだ32とかだったのでこの重婚問題がなければもう少しバレーをやれたのではないかってあだしは思ったのですが、
残念でしたね。

227 :
194あるとされた、大古森田横田が本当は192しかなかったとしても
一般の人達からしたらその2aの過大申告の誤魔化しについて気づける人は普通はいないもんね。
当時の一般人の日本人の男の平均身長なんて167とか168だったのだから
170にも満たない人間が、190の人間の男を見たら、それは只々デカイなぁ〜、となってお仕舞だから。
あだしは中3の時に日立いた白井貴子182を傍で見た事があったけどその当時のあだしの身長は167とか
そんなものだったけど、白井さんて大きいなぁ〜、というだけでしたから。それしかなかったから。
あだしが175くらいに成長した高2の時だったかしら?
日本リーグの松下VS日本鋼管、ユニチカVS富士フィルムの試合を東京体育館に観に行ったらその時、
便所で選手兼コーチという立場になったばかりの鋼管の嶋岡を見たのですが、185の嶋岡はあだしより
10a大きいだけだったんだろうけどそれでもかなりの大男に見えたくらいでしたから。

228 :
けど、そんな小さな日本人選手が72ミュンヘン五輪では世界一になった。
指高もジャンプ力も大して高くもなかったのに世界一になったのはどうしてだったのだろうか?
それはその当時の世界の強豪国と呼ばれたチームの守備力があまりにお粗末だったから
それに助けられて?日本は優勝することが出来ただけだった。
ま、当時の日本にはトリッキーなコンビバレーがあったからそれもひとつの勝因ではあったと思うが、
一番の勝因は他国の守備の悪さがあったからだと思う。
あの大会では日本のエースが大古だったので大会後にはこの大古の事がマスコミから多く取り上げられ
大古は高さもパワーも一級品だ、世界の大砲だと、やんややんやと云われてかなりリスペクトをされていた
ようでしたが、あたしがその大会で見た大古のスパイクにはそれ程の高さもパワーもあったようには悪い
けど見えませんでしたから。日本人の選手としたら確かに高さもパワーもあるとは思うけど、と。
そんな印象でしたよね?
大古も横田も。
だからその2年後にあった74世で日本は3位に転落して76オでは4位になってしまったのです。

229 :
1960年代、70年代の日本のバレーって男子も女子も強かったけど個々の選手についての身体の大きさや
身体能力なんかについてはあまり外国選手と比較したりしなかった様に思うんですよね。
で、少し日本人として大きな身体をしてたり良く跳ぶ選手なんかが若い選手から出て来ると、それだけで
騒いで国内のみでやんややんや云ってるところがあったけど、あんなのも良くなかったのではないかって
強くあだしは思うのですよね。
77WCの時だったかしら?
女子の白井と前田の最高到達点が305で、日本の選手としてはずば抜けて高く試合でも日本が勝って
いたというのもあってか、解説をしていた生沼さんなんかが白井と前田がスパイクを打つ度に声をひっくり
返して『前田さんの高さがあるスパイクです』などといい調子で云ってたけど、その大会が終わって他国の
選手のデータを良く調べてみたらキューバの選手なんてほぼ全員の最高到達点が305を超えていて、
ウルヘリエスなんかは327もあったという事を知り、別に白井や前田が世界的に見てとてつもない高さが
あるわけじゃなかったんだと、あだしはとても冷めた記憶があったんだよね。
これから先あのキューバがもっと守備が上達したらとても怖い相手になるぞ、と。そしてそれは黒人がいる
アメリカなども同じだと思ったしね。
日本が一番強かった時代に、男子も女子もその順位だけを見て個々の選手の潜在能力の違いを良く分析
してみなかった当時の指導者達に大きな責任があるという事が云いたいのです。
それは男子の松平、そして女子は山田という事なのですが。

230 :
キューバチームなんかは男子も女子も1970年前後の頃から、かなりの高さとパワーはあってツボには
まった時のスパイクは日本もソ連もどうにもならないという感じだったけどネットにかけたりコートから
大きくアウトになるといったミスも多かったので日本は男女共に、72ミュンヘンの頃まではそれ程、
その高さやパワーのあるスパイクを恐れていなかった。
どうせネットにかけてくれるから、アウトになるからとw
で、試合なんかではキューバ対策を練るというのも日本は殆どなかった。
しかしキューバもこれではダメだと思っていたのだろうね
その後、守備を強化させてコンビ攻撃をやるようになっていたから。
なのに日本はいつまでもあのキューバが守備が上達するわけがないと余裕でいたから76モンオリでは
男子が3位決定戦で負けて、78世では女子が二度も負けたのだと思ったんですよね。
腰高のキューバは守備はいつまでも守備は下手糞のままだと日本は決めつけていたところに大きな問題が
あったんですよ、日本の男女の指導者は。
自分が金メダルを獲った事に慢心を抱き、そんな感じになっていたのだとあだしは思ったもんナ。
あの時点で、このチームにもう少し守備力がついたならこれからは怖い相手になると、そう予測するのが
本当の名監督、名将なのではなかったのか?。

今更こんな事を云っても本当に遅いのですがw

231 :
だって1970年頃にはすでにキューバの女子には169のルイスやディアスがいてこの二人の選手は170にも
満たない身長なのに、最高到達点は320に届くとか云われていたのだから。
身長なんか今の全日本の選手で云ったら新鍋や江畑よりも5aも低いのに最高到達点は320もあったのですからね。
最高到達点320って今でも世界の超一流プレイヤーと互角ですよね?
女子なんかだと今でも320に手が届くといったプレイヤーは世界でもごく一部の限られた選手だけしか
いないと思うから。

232 :
けど、そんなに高い打点からスパイクを打てる選手が、1970年代初頭の頃からキューバには
いたのに、そのキューバは3大会で初めて優勝したのは78世だったのだからそれまでのキューバの
守備力が如何に酷かったか、という事がその結果から良く分かるというものだ。
キューバは今でも守備はお世辞にも、上手いとは云えないチームだが、70年代初頭の頃なんて
笑ってしまうくらいに下手糞なチームでしたから。男子は72ミュンヘンの時に日本と予選で対戦してたけど
スパイクだけは本当に凄いのを打っていたが守備が悪すぎてセッターまでボールが回らない、回っても
良いトスを上げる事が出来ないといった感じだったので日本に0-3各セットの点数も6〜8点しか日本から
獲る事が出来ずにあっけなく負けたという試合だった。
この大会にあのマルチネス178も出ていたのかな?
で、そのマルチネスの跳躍力があまりに素晴らしいかったのでその試合の解説をやっていた日本人解説者が
『マルチネスはデータ上、どのくらいの跳躍力があるのか分かりませんが試合でのスパイクを観た限りでは140a位は跳んでるのではないでしょうか』
と云ったのでしたよね。w

233 :
で、あだしが中学へ入学したのは1976年の4月で入学と同時にすぐ、あだしはバレー部に入部したの
だけれどその年の7月にモントリオール五輪があってその大会にも日本とキューバは出ていたから、
バレー部の先輩なんかが、キューバにはランニングジャンプで140aも跳ぶマルチネスという選手が
いるんだとかって練習中に話しているのを良く聞いたんだよね。
その大会では日本はそのキューバと3位決定戦で戦って負けて4位で最終順位は、1位ポーランド、
2位ソ連、3位キューバ、4位日本だったと思ったけど。
そのキューバ戦はあだしもしっかりと観ましたもんナ、マルチネスは本当に140aも跳んでいるかをチェック
したかったので。
マルチネスは確かにジャンプ力は相当あったけど、140aも跳んではいなかったと思ったわ。w
当たり前ですよね、こんなのは。
けど、そこはまだあだしなんかにしたら少年の頃だった時のお話でしたので少しはそれを信じて観ていたのですよ。

    110a位だったのだろうか、マルチネスのRJは。
けどこのマルチネスのRJは140あるというお話はあだし世代のバレー部に所属していた人間なら
72年から76年年頃に一度は、バレー部の仲間と部活動内で話題になりそれで盛り上がった経験があったのでは、なかろうか?w

234 :
マルチのRJは110aぐらいだったのではないかとあだしは思ってる。これが結論なんだわ
140は絶対にあり得ない!120も。
でも110だとしてもそれはなかなかなものだったと思う。
76モンにも出ていたと思うが日本の小田勝美(新日鉄198)は指高251で最高到達点351で当時、日本では
一番高さがあると云われていた。この小田でRJは100aだったのだから。
マルチはそれよりも10aも多い跳躍力があったという事になるのだから。
なのでマルチは178aしか身長がなかったけど1970年代に世界の一流スパイカーとして活躍したのだと
思った。
あとこのマルチは指高も本当に高かったんですよね、238だったのか?
日本の大古194が240のところがそれよりも16aも背が低いマルチの指高が238だったのだから。
2aしか差がないのですから。
が、まぁこれは大古の腕が短かったのか、マルチが超人間的体格で腕が長すぎだったのか、その両方で
そんな数値になっていたのかw
???

ですねw

235 :
1972ミュンオリが終わった頃だったのだろうか、大古は自分の体型の事でこんな事をテレビで云っていた
事がありましたよね。

自分は身長の割には腕が短いんだ、と。

けど、こんなのもそれは確かに長くはなかっただろうが身長を数a高くサバ読みして公表していたから
特に短くなっちゃっていて指高が身長の割に低かったのではないのか、と。
で、194の240と小田が198の251であった事を考えると245くらいあっても良さそうだったのだが。
1970年代後半頃に活躍した富士の山田なんかだと187の243でしたから。
人間は両腕を真横に伸ばした時の右手と左手の指先までの長さはその人の身長とほぼ同じ長さであると
以前、あだしはそんな事を聞いた事があって自分のその寸法も計り調べてみた事がありましたが、
あだしの場合は身長より両腕を伸ばした長さの方が4aくらい長かったけど
こんなのに10aも人や人種によって差があるとも思えないのですが、日本人と欧米人や黒人と比較すると
かなりの差が、そこには見られるという事が多い。

236 :
けど1980年の新生全日本のメンバーが発表された時は大笑いしたもんナw

若手の大型選手を中心にして選んだので今回の全日本の平均身長は190.7で平均年齢は21歳だとかっ云ってた。
これって今までの全日本と比べて特に大きくなったわけでもないじゃん、て思ったんだよね。だって日本は
1972年の時にすでに190は超えていたんだから。サントリーの井坂203等を入れたから190を平均でやっと
こさ超えただけじゃんてw それまでの身長よりも2-3cm小さくなってる選手も幾人かいたから前のデータ
で、そのまま平均を算出したら、平均は191か192になるから大型全日本だと云ってたのかしら、と。
本当にあの時は笑えたんだワ。
んで、そのチームで1年間、外国チームと戦ってみたけど全然勝てなくて田中や花輪それに西本なんかが
その後に加入したがそれでも勝てなかったんだよね。
新生全日本1980と発表した時は8年後の五輪で金メダルの奪還とかって散々騒いでいたのに。
負けが連続すると、やっぱり大型でも負けたらチームとしては上手くないからと、すぐに諦めて
攻撃力はなくても守備の上手い中型チームでこれからはやると、81WCの頃にはそんな事を云うようになっていたし。

237 :
1980年の時に8年後に金メダルと云ったのは1964年で初めてバレーが五輪競技になってから、その8年後
の72ミュンで金メダルを日本が獲れたからそう云ってたのでしょうが、これは本当に甘かった。
で、1988ソウル五輪の時は日本は何位だったんだっけ?
その大会には出れたんだったっけ?
兎に角、準決勝には進出出来てなかったと思うがw

238 :
この時だったのだろうか?
藤沢商業高校を卒業したばかりの古川180って選手が『打てるセッター』とか云われて全日本入りを
したが、すぐに合宿所から逃げ出してしまったのはw
あれって古川は全日本に入って実際に世界と戦ってみたら自分の力不足をしみじみと思い知ったのだろうね。
その後、この古川も全日本に選ばれてセッターとしてやっていた事もあったと思うけど、結局は松下電器の
志水176やサントリーの松田174がセッターをやっていたのではないか。
猫田179が低い低い、と云われていたのに結局その後釜は、それよりももっと小さい選手がセッターでやる事になった
のだから本当に笑えたよ。
あれッもう一人油川 ?か由川?とか云う古川より少し大きな若手の選手がその時に選ばれていたのでは
なかったか。結局その人も正セッターにはなれなかったと思うけど。
あだしなんかこの時はもう面倒臭いから76モン以降に猫田の控えで度々選ばれていた新日鉄の柳本に
セッターを任せてやればいいのにとかって思っていたけど、柳本もそうはならなかったもんナ

けどあれはどうしてだったのだろうか?
あだしは今でもそうならなかったのか、その理由が分からない。
柳本ならそれなりのキャリアもあったし身長だって182はあったから良いんじゃないかと思ったんだよね。

239 :
だからと云って1980年の新生全日本のメンバーが全然、ダメな選手ばかりだったわけでも
なかったんですよね。国内の選手の中ではまぁまぁな実力は有していた選手だったとは思ったもの。
その頃からかつての強豪国のソ連やポーランドそしてキューバ等は急速に大型化してそれまで大して
強くなかった、アメリカや中国、イタリアなんかが台頭して来たから日本はアジアでもトップに立てなくなり
世界でもどんどん順位を落として行き世界のAランクからCランク?Dランクまで順位を落としてしまったのだろうね。
でもあの時程、惨めな感じの全日本男子はなかったよね?
なぜならばソ連と試合をすると大人と子供で試合をしているみたいでしたから。当然、子供が日本だったのですが。
日本は世界一のソ連に対して高校生で戦っているの?って感じに見えたくらいでしたから。
あの時の全日本男子の姿は本当に惨めでした "(-""-)"

打っても決まらない、相手のスパイクはブロックでも止められない、レシーブでも拾えない、ってな感じでしたから。

240 :
1980年の頃って気づいたら世界では日本の男子バレーは勝てなくなっていた、という感じだった。
それまで日本は世界と全く試合をしてなくて、というのであったら納得出来たのですが鎖国?を
していたわけでもなかったのに世界と大きく水を開けられていたって感じでしたよね、あの時は。
だからどこかの弱小国と試合をする時なんかも試合前はこの国とならば、3-0で楽勝だろう等と思って
実際に試合をしてみると反対に0-3で負けたりした。そんなのが何回も繰り返しあった。で、日本の男子は
もう強くはないと世界に広まっていったように思う。
その頃だったのかな?
全日本は引退していたけどサントリーでまだ現役でプレーをしていた大古が、今の選手は試合で負けても
試合後の控室でヘラヘラして笑っているのが多く、けしからん!と。我々の頃の選手の気質とは随分と
変わっているとか精神面について云々するような事が多くなっていたが結局は全日本男子はそれ以降、
一度も復活してませんよね。
78世の時に11位という不名誉な成績になった時にこれはすでに始まっていたのだろうが弱くなった事が
ハッキリとしたのは1980年からだったと思う。
1978年頃から1980年までの間に一体何が起きていたのでしょうね?
世界や日本国内で。

241 :
1972年から78年頃までは男子は世界の強豪国と云われてたソ連なんかには勝てないまでも
1-3や2-3のあと少しで勝てたという良い試合をしていた。ポーランドやキューバ等に対しては3回
試合をしたらそのうち1回は勝ってたので力関係で云ったら、ソ連  ポーランド、キューバ日本
という感じだった。だからこの6年間はソ連には勝てないけど
一発ひっかけたら銀メダルは獲得する事が出来、準決勝で負けても3位決定戦の相手国がソ連以外
のチームなら3位は堅いといったムードで常に大会に臨んでたので目標は優勝!と云っていて
そう云ってもそんなのは無理だという感じにはならなかった。そしてそれは日本が72ミュンで金メダルを
獲得しているという実績があったからだったからだろう。
しかしその思いと現実が一致したのは74世で3位を日本が獲得した時までだったのではないか。
76モンオリの時
日本はこの大会でも目標は金メダルだと豪語していた。wが準決勝でポーランドに敗れたら3位決定戦
でもキューバに完敗した。この時もその大会直前では日本がもし、3位決定戦に回る事になったらその
相手国はキューバかチェコスロバキアだろうと目算を立てていた。で、キューバでもチェコでもどちらでも
日本は勝てるだろうから日本は最低でも3位は堅いとまで云ってたが結果は4位でそれ以降、日本は滅茶苦茶に
なってしまったように思うのですよ、あだしは。
もしもタイムマシーンがあったなら76モンの3位決定戦前に戻りその試合を再びやって日本がキューバに
勝てたなら男子は80モスクワの出場権も得て、78世でも4位くらいにはなっていたのではないのかって思うのですよ。
とにもかくにも日本男子が弱くなってしまった原因は76モンの3位決定戦でキューバに完敗した事だとあだしは思っているのですね。
あの試合なんだわ、きっかけは。

242 :
ああそうか?
日本は東京五輪で、女が優勝して男が3位だった事でバレー先進国だという感じになってその頃から
日本人の指導者を海外に派遣し始めていたんだったわ。んでそれから約10年が経過した1970年代の
後半頃に華が開いたという事だったのかもね? というかそういった事だったのだろう。
んで、打つのは日本なんかよりも優れた力を持っていた南米のチームなんかがその日本人の指導者の
力によって守備力が着いてコンビ攻撃なんかを覚えて、強くなって行ったのでしょうナ。
それが女子ではペルー(指導者は加藤明)だったのだろう。
男子でもこんなのは他に沢山あったのかもね、あだしは具体的にはその国を知らないけど。
70年代の半ばの頃だったのか?カナダに前田豊の息子の前田健(後にイトーヨーカドーの監督になった)
が派遣されてカナダ男子を強くした事は良く憶えてますが。
こんなので日本が将来、世界で手こずる様な事になるとは予想できなかったのでしょうね。
1960年代半ばの頃の日本バレー協会の幹部の人々はw
海外に日本の沢山の指導者を派遣した事は絶対に間違いでしたよね?w
でも日本人って親切な国民だからこんな事を喜んでやっちゃったのでしょうね。


と思うんだわ

243 :
でも日本の指導者が海外に行き5-6年くらい日本式のバレーを教えたくらいで
日本はその国にすぐに追いつかれて追い越されてしまうのだから日本が64東京の時にやっていた
回転レシーブとか72ミュンヘンの時にやっていたサーカス団のアクロバティックなコンビ攻撃なんてそれ程
大したバレーでもなかったのだという事が良く分かるのではないか。
64東京の時の大松バレーは兎も角も72ミュンヘンの時に松平がやったバレーなんてその当時は
スポーツの芸術!
だとかってマスコミから賞賛されていたのですが、こういうのって今考えると本当にちゃんちゃら可笑しく
なるもんナ。
その頃は松平は松平で
日本のバレーを諸外国の人間が真似しろったってそれは無理なお話ですよ
日本人特有の守備の上手さがないとこれは早々簡単に真似出来るものではないですから
等と意気揚々と豪語していたのですから。

本当にこんなのには笑えるもんナwww

244 :
カトーアキラはペルーの女子の監督になってそのままペルー滞在中に82世の直前に
ペルーで亡くなってしまったけどこのカトーとか76モンの時の男子の監督だった小山、この二人が
ヨーカドーの前田健のように日本女子バレーの中に入り日立ユニチカの山田小島を凌駕して
全日本の女子の監督になってくれたなら1970年代後半の日本の女子バレーは面白かったかもな、と
思ったんだわ。
1980年頃から1985年頃までの日本の女子って大して強くもないのに国内では小島と山田でごちゃごちゃ
相変わらずレベルの低い政権交代を繰り返していたので。w
日立は攻撃型、ユニチカは守備型とかってその頃も云ってたけれど世界で戦うとなるとその攻撃も守備も
全然、特徴はなかった。w
80-85年の頃だともう小島は勿論の事、山田も世界では三流の監督に成り下がっていましたからね。
小山、加藤、前田が割ってそこへ入りこの二人を凌駕してくれたら全日本女子は変われた筈?
なのにその後は岩本とか米田だったじゃないか!
この二人じゃ世界で勝てるわけがない。
誰が米田とか岩本を抜擢したのだったのだろうか?
この抜擢はセンスがなさすぎでしたよね。

245 :
Rや朝鮮クソ珍古ヲタホモ豚ジジイ汚物矢野大介、地獄に堕ちろ
http://2.bp.blogspot.com/-n1ncGA0Sqv8/UrklsolXXPI/AAAAAAAA5wA/ufTEW7zeHOI/s640/tumblr_my0kszcB521rw5vcwo1_400.gif

246 :
あだしは、素人さんなんかはマトモに相手をしないからw
あだしとタメこきたかったならサリホワや金増福の事くらいは知っておかないと
そこからですよね

全日本男子が70世で銀を獲得した、とあだしに書かれて、『そんな事は誰でも知ってる事』だとかって
ヒスッて書いて来るようなバレーの素人のヲカマの伊藤とあだしでは格が違いすぎるんだわw

247 :
そう云えば最近、ヲカマの今井計ちゃんとさすらいのオババを全く見なくなりましたよね???
こいつらの本当の正体は、をかまのイトーw
だったという事で正解?
なのかしら。


で、をかまのイトーは一体全体、何をしにこの板に来ていたの ?
何が目的だったの ?
バレーボールの事なんか何も全く知らないど素人だったのに
偉そうな事を云ったり知ったかし続けたりしていたのは
何だったのだろうか。

248 :
をかまのイトーはなぜ!?
一度もそこへ見学に行った事もなかったのに

自分は以前、日立体育館へ見学に行った時に、山田監督に頼まれてボール拾いをやらせてもらった!!
等と2ちゃんねるのこの板に書き込んだりしたのだろうか ???

そんな事をあの山田が一般の見学者に依頼する筈がないのに
旧日立体育館の中はそれ程広くもなくボール拾い自体する必要がない感じの練習場だったのに w

もしかしたら をかまのイトーにとっては
日立体育館に昔見学をしたという事や山田と直にお話しが出来たという
事自体が他の人に誇れる事、優越感に浸れる事だったのかもナ。
んで、ありもしない事を妄想で思わず書いてしまったという事だったのだろう。
こうとしか思えないもんナ wwww


不気味な奴だッ、をかまのイトーって奴は


因みに日立体育館はコートのサイドラインからもエンドラインからも3bの処に体育館の壁や
ネットが張ってありボール拾いを誰かがしている、という姿自体をあだしは見た事が一度もなかった
ですからね、あだしさんなんかは見学は10年以上(1968年頃から1982年頃)の間に300回以上は行ってたけど。

249 :
こんな体育館で日立は練習していたから、メキシコ五輪頃からモスクワ五輪の頃までの期間に監督を
やっていた山田監督は相当、不満を感じていたのではなかったか?
日立を強くしても会社は何も考えてくれない、と。全日本で金メダルを幾つも獲ってもバレー協会も国も
何も動いてはくれない、と。特に74世、76オ、77wcで三冠に輝いて以降はどうにかして欲しいとい
う気持ちが特に強くなっているようにあたしには見えたがどうだったのか?
しかし日立も全日本も78年以降の日本の女子バレーは今一ぱっとしなかったので山田もその頃は
この事は仕方がない事だと納得していた様でしたよね。
しかし81年の日本リーグの頃から日立はブレイクして、その後ロス五輪の頃までは国内では敵無で
第三期黄金時代に日立バレー部は輝いていた。
日立バレー部のメンバー6名=全日本女子のメンバーといった形になっていたので山田監督は又その頃
から会社に設備の整った新しい大きな体育館を作って欲しいと会社に強く要望したのであろう。で、ロス
五輪前にそれは完成したが・・・・

250 :
山田って74世から77wcの頃は無敵、全日本を日立のメンバーで作っていたので会社の幹部の人間達
からも相当、リスペクトされていた様に見えていたけど山田の性格はすぐ天狗になる質だったので会社の
幹部の連中からは嫌われていたんですよね、本当のところは。だからバレー部も日立では本当はお荷物
クラブだったところもあったのではないか。
確かにバレー部が強ければそれはそれで会社の宣伝にもなるから会社としても助かってる面も大いに
あったのだろうがいつもいつもいつまでも強い時ばかりではないから、少し弱くなったりすると途端に
棄てられてしまうという危機は常にあった筈だった。それは充分、覚悟しておかなければならない山田で
あった筈だったのだが少し調子が良くなるとそんなのを忘れてしまい調子に乗ってすぐに天狗になって
しまったのではないか?
そして、1994年に日立バレー部の成績もあまり芳しくなかった時にあの事件が起こり、山田はついに失脚
をしてしまったのだろう。あのセクハラの件も会社の市上層部の人間がマスコミにリークしたんだと
あだしは今も思ってる。
んで、日立バレー部は終わってしまったのだろう。


1970年代半ばの頃に山田自身がこんな事になってしまうとは、一切思ってはいなかっただろうね w

251 :
http://chiebukuro.yahoo.co.jp/my/myspace_quedetail.php?writer=natural_181010810

252 :
加藤明のことが今朝の読売新聞のスポーツ欄で取り上げられていましたね!

1982年に他界してから30年以上も経つのに今もまだ、ペルーの英雄としてペルー国民から
リスペクトされている、とその記事には載っていましたが。
ペルーの女子は68メキシコ五輪で4位、その後は88ソウル五輪で2位を獲得したがその後は低迷が続いて
いるが今年行われるリオ五輪に向けてその大会に出場できるようにと毎日、選手たちは努力している
のだとか。
加藤は東京五輪で金メダルを獲得した日本の大松バレーをペルーの選手に徹底的に教えたんだとか。
そのひとつが回転レシーブであったともありましたが。
ペルー国内では人気No.1のスポーツはサッカーでその次がバレーボールであるとも書かれてましたが。
ペルー国民は老若男女を問わず今でもアキラ・カトーの事を知らない人はいないらしいです。
今、30代の人で大松監督の事を知っている日本国民はどのくらいいるのか?
そんなことをその新聞の記事を読んで思った、あだしさんでしたw

253 :
ロシアのドーピング問題でリオ五輪でロシアの選手の出場や参加が今、危ぶまれていますが、
ロシアや東ドイツの選手がドーピングをやっているんじゃないか? 等ということはあだしの知ってる限り
では、1968年のメキシコシティー五輪の頃から言われていた事だったので本当に、今、ドーピング問題で
これだけの騒動になってても、今更だ、という感じしかないんですよね。
今更何をwだと、それしかないですよ。
うん、1970年前後の頃に北朝鮮の女子チームにいた、金増福もそれを疑われていた事があってその後の
大会でその金が試合後のセックスチェックを拒否したとかって事で日本の当時のバレー関係者なんかが
中心になって、『金増福は男なのではないか?』
と騒いでいた事があったけどあれもあの時だけの事になっていてその後は何もなく有耶無耶に
なっちゃっていたけどあんなのも北朝鮮やソ連や東独はこれまで何度もドーピングの問題を重ねて来て
いたかも知れないから、氷山の一角で特別な事ではなかったのかも知れない、とあだしなんかは思うのです。
ハッキリ言えば旧ソ連、北朝鮮、東独等欧州の過去、共産圏だった国々は全てが怪しかったと思う。

体操で有名になったコマネチの国、ルーマニアも選手の身体が成長しないように特別な薬を選手に
飲ましているとかって噂もあったくらいだったし。

254 :
昭和の頃の日本人ってあの女子選手は実は女ではなく男なのではないか、とか
ソ連は鉄のカーテンに包まれた体育館で秘密練習をしているから何か特別な秘策を
五輪では見せてくるかも知れないから要注意だとか、こういう事を云うのが大好きだったよね。
別にそんなのは相手国には何もなかったのかも知れなかったのかも知れなかったのに
兎に角、こういった裏読みをしてそれを全日本の監督自らが、マスコミに大々的に云ってマスコミに
『ソ連、五輪で秘策!ギビ監督、鉄のカーテンの中で秘密の特訓、打倒日本を目指す!』とか書かせてたように見えたもの。
72ミュンヘンの決勝の時にソ連は、チュリナという選手を出して日本チームのリズムを崩して勝ち優勝したけど。
あの後日本のバレー関係者は、策士ギビ、チュリナを隠して来るとはとか云ってたけどあんなのもギビは
作戦でやった事なんかではなくてたまたまチュリナが調子が良かったから出しただけだったのかも知れなかったのに
日本は必要以上にこねくりまわして考えて、それで相手の実力をより以上のものに見て日本が勝手に自滅
していたというのもあったのではなかったのか、とあだしさんは思っていたのですが、どうか?

255 :
事実68五輪の時の監督の山田等は68五輪でソ連に決勝で負けた後はしばらくの間は
ソ連コンプレックスに陥っていて73年の頃に全日本デビュー戦で入ってソ連と戦った新人の松田は
ソ連は山田先生が強いと云ってたわりに大して強くはなかった、と云ってたのにその松田の弁を素直に
山田は信じられずに74世の時も76オの時もソ連の事を強敵扱いしていたのだが、実際に蓋を開けて
みれば本当に大したチームでもなくどちらの大会も3-0で日本の圧勝だったのだから。
一度染みついたコンプレックスや負け癖はなかなかそれを自分の中から取り除く事は困難だという事なのか? w

256 :
ソ連は昔から強かったけど女子バレーの選手なんかも60年代頃から何か特別な薬?を飲まされていた
ようにあだしは思っていたのですがね。ソ連は60年代からドーピングをしていたのでは???
と云うのは過去には女子選手なのに髭がうっすらと生えてる選手や試合で来日する度に筋肉隆々になって
いた女子選手がいたから。
あれは絶対にやってるとあだしは思ったもんナ!

257 :
今回のリオ五輪でではロシアのバレーボールチームについては国ぐるみで行われていたのではないかと
思われているドーピングの問題は、関係ない(問題ない)とされたようで連帯責任は免れて参加が可能に
なったようですが、ロシアの女子チームはこの状況下の中でどういった活躍を見せるのでしょうか?

258 :
今日のソ連のスタメンの平均身長は175で日本のスタメンの平均よりも2p大きいですね、とか云っていた
1975年前後の頃の全日本女子バレーチームの試合を観るのが一番楽しかったのかもね、あだしは。
で、そのメンバーはこんな感じ
セッターは松田 金坂
レフトは白井 岡本 前田 横山
センターは飯田 矢野 加藤
ライトが吉田 荒木田 高柳 会田

 この辺りのメンバーで世界の強豪国と云われる国が、日本とソ連と韓国だけだった時代の日本の女子バレー
を観ている時が一番安心して見ていられた気がするんですよね?
松田がレフトの白井にばかりトスを上げるとそれを白井は殆ど決めてしまう
そうすると試合が早く終わってしまうから、それだとつまらないのでレフトに横山を
入れてトスを上げる人もライトの高柳や吉田会田にすればいいとか思ってあだしなんかは
試合を観ていたくらいですから。

259 :
68メキシコ、72ミュンヘン五輪で活躍した日立の生沼さん、現役引退後は女子バレーの解説者として
又はママさんバレーの指導者としても全国各地を飛び回って活躍していた生沼さん、1988ソウル五輪
の頃からテレビで殆ど姿を見られなくなりましたが今は何をされているのでしょうか?。
現在は70歳くらいになるのでしょうか
誰か生沼さんの現在の事を分かるという方がおりましたら教えてください。

260 :
生沼さんて64東京五輪の時の東洋の魔女のメンバーでもないし
76モントリオール五輪の時に12年ぶりでソ連に勝って優勝した時の
メンバーでもないから一旦メディアとかから引っ込んでしまうとすぐに
忘れ去られてしまう選手だという感じがする。
現役の時は酒井和歌子に似ていて綺麗な選手だと云われていて人気があったのだが。

261 :
2020年の東京五輪の時のバレー会場がどこになるのか、という事で72ミュンヘン大会の男子代表だった
木村憲治がテレビに少し出ていたが彼は今、71歳になったみたいだけど、思ったよりもあまり老けてなくて
案外いい男になっててびっくりしましたよ。彼は若い時の方がオヤジ臭い顔をしていた感じがしたからね。
若い時に老け顔だと歳をとらないとかって云われる事があるが、この木村憲治はその典型例だと思ったもんナ。
木村は全日本選手としては1974年にメキシコで行われた世界選手権(日本は3位)まで代表選手として
活躍していたけれどそこで全日本からは引退したのではなかったか?
で、今は日本バレーボール協会会長になっていたのですね。
この木村なんかから現在の日本男子を見たらどんな風に思っているのか?
現役中は身長が184cmだったので補助アタッカーとして松平監督からは機関銃とかゲリラ部隊だとかって
云われてましたがね。

262 :
だからなんだよ

263 :
あだし様、お元気でいらっしゃいますでしょうか?

264 :
ミュンヘンの頃は若い娘が3人も集まれば、私は大古さんがいい、私は森田さんだわ、私はケンジ!木村憲治の方ではなくて嶋岡健司ね、とかって会話が飛び交うほど男子バレーや選手が日本全国で人気者に
なっていた。あの頃は女子よりも男子の方が人気があったからね。
72ミュンヘンの大会前は日本男子が金メダルを獲れる確率より日本女子が獲る確率の方が高いと云われ
ていたが結果は男子の金メダル、女子の銀メダルで終わった。子の時に女子の監督だった小島監督は、
大会後に
山田、船山には勝ったがソ連のギビと男子の松平に負けた!
と云われたがこの言葉は誰が考えたのか知らないけど当時の国内と海外のバレー界を良く知る名文句
だとあだしは思ったものだった。この大会前には女子の監督は実業団チームの監督ではなく他のニュートラル
な立場の人間が監督を務めるという事で小山勉が監督になると一時は思われていたのに、最後の最後に
ニチボー貝塚の監督の小島が監督に決まりこれはバレー協会の前田豊と裏取引があってそうなったのだと
大会前にささやかれていた事だったので、本当に、
この山田、船山には勝ったがギビと男子の松平に負けた!という言葉は名文句でしたね。

64東京の頃から72ミュンヘンの頃までは国内では男女のバレー人気が物凄かったので男子と女子では
どちらが人気があるのかとか常に話題になっていたから。
男子の松平にも負けたのだとwww
この部分は本当に時代を感じさせますね。

265 :
小島と山田はその後もずっとライバルだったけどヤシカの船山はその後はこの二人とは少しだけ
違って是が非でも自分が全日本の監督に、というのがあまりなかった気がするんだけど
これは船山さん自身に何かがあったのでしょうか?
会社が倒産してヤシカバレー部も失ったからだけではなかったようにあたしは思ったのですがね。
72ミュンヘンの時に秘密の日本の大砲だと云われた白井貴子がその大会後にすぐに引退して
翌年の73年の夏に現役復帰をした時も日立の山田はとてもうれしそうにしていてユニチカの小島は
残念だった、とそんな感じでしたが、ヤシカの船山はそんなのが一切なかったですよね。
75年の春に八王子実践の須藤が実業団入りする時も多くのチームが須藤を欲しい、とスカウト合戦が
繰り広げられていたのに、ヤシカの船山はこの時もこの事で表舞台にはあまり登場していなかったようだったし。
その結果は須藤は富士フィルムに入社したので完全に肩透かしで終わったのですが。
大谷の時はもう船山はバレー界にはいなかったのかなぁ〜
子の時は山田VS小島に完全になっていましたよね。大谷も結局はカネボウへ入社したけどw
しかし山田は84ロス五輪直後の頃からは大谷は日立に入社しなくても良いって思ってたから須藤の時ほど残念
だったというのは山田にはなかったように見えた。

266 :
白井貴子は倉紡倉敷を退社した後に日立に入社したのだが、その時はマスコミが、
白井には日立(山田)からお金が渡っている筈だとかで大騒ぎしていたけどこの真相は結局は現在まで
闇の中でしたね。白井自身もバレー界を退いてから何度か自叙伝を出したり、『金メダルを売って
しまいたい』というタイトルの手記を週刊誌に送り付けて1980年代初頭の頃までは何度か白井の事が
世の中で話題になる事はありましたけど。
ミュンヘン引退後に白井は国内では日立とユニチカから強烈な勧誘を受けていたらしいですが
白井は元々は在日韓国朝鮮人だったのでそれがはっきりと分かってしまったミュンヘン五輪、直後には
韓国そして北朝鮮からも、家の国へ来てバレーをやらないかと誘われたんですってね。その件で白井は
北朝鮮の当時の国家主席の金日成の下まで行った(呼ばれた)と自身の手記に書いてありましたからね。
こんな事も本当に時代を感じさせる出来事ですよね?
因みに白井の実家では朝鮮半島が北と南に分断された後は両親や兄弟姉妹の間では、自分は北がいい
とか南がいいとかで色々あったと白井はある手記にそう、書いていた事がありましたが。
でも白井自身は日本で育ち日本の小中高学校へ行ったので日本語しか話せない、とも書いてありましたね。

267 :
びっくりしたよ!! まだ女子バレー軟弱喫茶ってやってたんだねw

たった今、カネボウの西村と真方を検索してみたら女子バレー喫茶が出てきたので
まだやってるという事を知ったんだわ。
けど、残念だったわね、これだけ長くやってるのにあだしはそこへ一度も行かずで。
だってそこってあだしがこちらでやったネタを、おかまのイトーが真似してしったかしてやってるだけなので
あだしの受け売りスレだから行く気がしないのですよ。
あだしが古い昔のネタを良く知ってるからあだしに憧れるのも分からなくはないけど
サリホワや金象増福をそこでやってはいけませんよ。
ここであだしがやってもおかまのイトーは全然分からなくて恥をかいたお話だったのに、よりによってその
ネタを軟弱女子バレー喫茶でやるなんて本当にありえないもんナw
それともあだしネタをそちらでやったらこのあだしが来るとでも思ったのでしょうか?
おかまのイトーはあだしと常に会話したかったのだろうか?
だとしたら気持ち悪い奴だナ、おかまのイトーって。。。。

268 :
日立の山田監督は全日本の監督をやってた1973年から78年頃は革新的で何事も新しい事をやる
監督だと云われていたけれどそれは74世、76オ、77wcで連続3つの金メダルを獲得したから
リスペクトされてただけで本当は古臭い価値観に常にとらわれていた保守的な人間だったと思うんだわ。
それは73年の春に行われた日ソ戦の時にあだしはそう思ったんですよね!
この時の対抗戦で松田や前田がデビューしたのだがこの時の日本は松田が先発で出た試合で1-3で
負けてしまったのだがその試合を観たあだしはなかなか日本はいい感じになっていると思ったんだよね。
松田も新入りだったにも拘わらず試合後のインタビューで
試合には負けたけどそれ程怖い相手だとも思わなかったと語っていた。そしてそれは松田の云う通りで
正しかったのに山田だけは自信なさげでギビさんはまだ何かを隠しているかもと云いそれ以降も日立
体育館では毎日毎日、ソ連対策を馬鹿みたいにやっていた。とっくのとうに日本はソ連の実力を超えて
いたのに。ソ連なんかよりこれからは中国アメリカキューバに目を向けなければならないのに
山田の意識は常にソ連と韓国だったからねw

この山田のセンスの悪さがその後の日本女子バレーの衰退を産んだんだとあだしは今でも思っている。

269 :
おかまのイトーは、ミュンヘン ミュンヘン って散々云ってたけど
東独の3S(スリーエス)の事も知らなかったし、ブルガリア戦もリアルタイム
では観てなかったと白状していたよね。w
こんな素人がここであだしに勝とうだなんて思ってあだしに噛み付いていた事自体が
間違えだったのではないのw

3Sとは当時、東独チームにはシュルツ、シュナイダー、シューマンと名前にSがつく有能な選手が3人
いたので松平さんがその3人のことをまとめて3Sと呼んでいたのですよ。
ブルガリア戦は0-2からの大逆転勝利だったのだが中継時間が深夜になっていて当時、小学生の3年だった
あだしには最後まで試合を観てられなかった。があだしは2-2つまり4セット目の途中までは視たのかな
ってところだったのでした。

270 :
3-0で勝てた試合だったよね 昨夜の中国戦
何で負けちゃうの w

柳田と石川の二人はなぜあんなにサーブミスが多いの
ミスしてもいいから思い切ってサーブを打てと云う人がいるけど
これはそもそもサーブミスが少ない選手に対してかける言葉であるだけだから
この二人には適用外の言葉ですからw

日本バレーは昔から男女共、ミスが少ない緻密なバレーをして高さと力がある外国チームに
勝って来たのですよ。あれだけのサーブミスをしてたら勝てる筈がない。

72年のミュンヘンの頃のキューバチームと同じくらいのミスの多さなのではなかったか???
昨夜の日本チームのサーブは。

今のは思い切って打ったのだから仕方がないとかって云う人もいるみたいですが
あだしはそうは絶対に思わない。
サーブミスは絶対にダメですよ
中垣内もここを選手にもっと強く云わないとダメだね。

72の時の監督の松平や女子の大松監督が生きていたらこのあだしと同じ事を云った筈。

271 :
ブラジルにしばらくぶりで日本は勝てたね
けど、あの試合を観ていて思ったのですが、日本チームの実力が向上したから
勝てたという感じではなかったんですよね。ブラジルが今一、元気がなかったので
日本が勝ったという試合だった。守備も攻撃も日本はまだまだ努力すれば伸びる筈だ。
でもマラクルでも何でも日本はブラジルに勝ったのだから自信が着いたんじゃないのかナ。
逆にブラジルは自信を失ったと見た。
こういうのを繰り返しているうちに女子バレー界にシャッフルが起こりアメリカやブラジルが
世界で勝てなくなってその下にいたかつての強豪国の日本や韓国などが世界大会で上位進出を果たして
来るとまた女子バレーが少し面白くなってくるのだがね。 ???

で、東京五輪に突入して行ったらとてもいい感じなのですが。

272 :
>>271
マラクルではなくミラクルでしたねw 訂正です。
しかし男子の石川と柳田は大事な場面でのサーブミスが多い選手なんだよナ
あれは絶対に直さなくちゃダメだ。
へなちょこサーブでもいいからサーブはいつも入れておかなくちゃ

その点女子の古賀さんとか新鍋さんは安定感があっていい選手になって来たよね。

273 :
あだし様、お元気ですか?

274 :
日本の女子は、こないだのブラジル戦をあだしが観た限りでは1979年頃の全日本女子がやっていた
バレーと殆ど同じバレーをやってる。何も新しいものはなかったように見えたけど
どうか?
横山樹理・江上由美時代のバレーと同じ
選手の背の大きさなどでも殆ど同じだ。
内瀬戸なんかが普通にコートに入って活躍なんかを観ていると嘘だろッて思ってしまうのは
このあだしだけなのだろうか?
ユニチカの小島監督等はあまりそういうのはなかったけれど日立の山田監督は74世76オ77WCの頃でさえ
身長が175以下の選手はそれだけでレギュラーから外してしまう事だってあったからね。
あの当時の山田監督は背が低い日本チームの平均身長をなんとか上げようと、なんとしても175オーバーに
しようというのが感じられた。でもいつもこの頃の日本チームの平均身長は173cm程度で175にはあと2cmくらい
足りなかったのですが。w
小島さんなんかはそういった事にはあまりこだわりがなかったので広瀬170とか奥嶋170とか北井170とかをエースポジションに
置いてたけれど。
でも、170のスパイカーと云ったら68メキシコ五輪の時代でさえ小さなエースと呼ばれた筈だ。
それなのにもうすぐ2020年になるというのにあの小さな内瀬戸を日本はレギュラーで使っているというんだからこれって本当に
考えられない事ですよ。

>>273
あだしにここへ来て昔バレーを語ってもらいたいなと思っている子が
まだまだいるみたいですねw

275 :
こんな感じの山田監督だったのだが
88ソウル五輪の時にいきなり日電の山下164を代表に選んだ時は本当にびっくりしたよね。
170でも小さいとその20年前頃から云われてたのに。そしてこの山下は自チームの日立の選手では
なく他所のチームの選手だったのだから。
山田監督は本来なら88ソウルでは185cm級の選手をずらっと揃えたチームでこの大会を戦う筈だったので
86年日立の入社組に和製郎平と云われた武藤や大林それに田島や菊池を受け容れていたもののソウルの時に
世界で戦える選手は大林くらいだったのでソウルでは中田江上廣杉山のロス組に大林と173の藤田で戦ったのでしたが。

276 :
江上(丸山)と日立に同期入社した森田なんかは本当に良く頑張った選手だったのでは
なかろうか? 身長も170しかなかったのにロス五輪ではレフトとして活躍して日本の銅メダル
獲得に貢献した選手だった。森田はモントリオール代表の矢野や吉田そして高柳らが78世の後に
引退した直後に選手層がいきなり薄くなった日立でレフトに抜擢されたのだがその後、吉野なんかが
日立に入社してからは大型化構想で、レギュラーからまた外されたが、吉野や多田が思うように伸びなかった
ので又レフトで日本リーグに登場してたがその頃の全日本の中心メンバーはユニチカの横山や日電の吉永そして
藤の須藤といったメンバーだったのでその時点ではどう考えてみてもこれから全日本のメンバーにも選ばれるという感じでは
なかった。それが79年から80年頃だったのか?
あだしは子の頃に森田は引退してしまうのかと思って見ていたのですが、そのまま日立で小さなエースとして頑張り続けた。
80モスクワ五輪は、日本は不参加という結果になってしまった。

 下記に続く

277 :
その後も日立は81年に三屋、小高、中田が入社するまではユニチカに勝てずで
森田もリーグではそれ程目立つ選手でもなかったが森田のポジションを奪い取るまでの
選手は日立にはいなかった。
青木や早坂その少し前には鈴木や多田それに吉野もいたがどの選手も森田を超える事は
出来なかった。81年に小高が入社した時はこれからは小高179をレフトにして、森田は控えに
回るのかと思ったが小高はそれまで吉野や青木がやっていたライトに抜擢されて森田はレフトで
その後もレギュラーでやっていた。子の頃からユニチカよりも日立が強くなって来ていたのか???
それでも全日本はまだユニチカ中心だったが。

下記に続く

278 :
そんな時に82世で森田は小島監督から日本代表に選ばれたのではなかったか
選ばれたといっても控えとしてだったが。
これをきっかけとしてその後、リーグで日立が独走するとそのまま日立を中心とした
全日本になり83アジアで日本が中国を破り84ロスの出場権を獲得してそのまま森田は
ロス五輪へ出て活躍したのだが、森田は76年の春に日立に入社後は何度も自分で引退を
本気で考えた時があったのではないだろうか。
同期入社して森田よりも先に全日本に選ばれていた、金子も川原も引退したり別のチームに行ってたり
してたのだから。
どう考えても78年頃にはあだしはこれからこの森田が全日本の選手に選ばれる事はないと思っていたのですから。w



279 :
白井さんなんかの時代(1972-1978)の選手には半月板を損傷したとか今日は
生理だからとか云って試合を欠場していた選手が結構いたものだったが今はこういうの
あまり聞かなくなってるもんナ。
あれって山田監督が選手を温存させるために嘘をついていたんじゃないかと
さえ思うんだよね、今なんかだと???

280 :
あの頃って選手の生理日なんかを試合の解説をしていた生沼さんなんかが
堂々と云ってた
『今日は矢野さんが生理日のようですがそんなに調子は悪くなさそうですね』
とか。
こんなのってバレーのみならず水泳や陸上なんかでもあったけど今はないですよね?
選手がそんな事を云うのは止めてくれって云ったのかしら?
江上が全日本の中心選手でやるようになった1980年頃からそうなったのではないかと
あだしなんかは思っているのですが。

281 :
夕べの日韓戦で活躍した野本って娘、あの選手はあだしは昨夜、初めて見たよ
野本さんてスパイクフォームが1990年代初頭に全日本のエースをやっていたダイエーの山内に似てるな
と思ったね。スパイクフォームが女のコっぽくないんだよね
男子選手ぽい
あの打ち方って女子の選手なんかだと欧州の選手なんかにはいるけど日本の女子選手にはあまりいない
気がする。
高さそしてパワーもあるから今後、かなり期待できるのではないか!!
木村さんが辞めてしまったけど野本、内瀬戸、石井で日本は穴埋めできそうだな
というか木村は引退する頃はあまり出来が良くなくなっていたから老兵は只消え去るのみという感じだった
ので野本の方が良いと感じたよ。
黒人ハーフの宮部さんは昨日は見えなかったけど彼女は今回の全日本には選ばれなかったのか?
あの娘も少し前には東京五輪の期待の星とかって云われていたけどこのまま消えてしまいそうだわナ。

新鍋さんと内瀬戸さんは凄くはないけどあの安定感は素晴らしいですね。

でもまぁあの韓国だったら3-0で日本が勝っても当然かも
韓国はリオの時より力が3割くらいは落ちているように見えたんだわ。

282 :
ユニークで個性的な自宅で稼げる方法
少しでも多くの方の役に立ちたいです
グーグル検索⇒『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』

R4WYR

283 :2018/09/23
まだあったのね、このスレは w


一年ぶりに来てみたということになるのかしら




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