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結局、信長と信玄と謙信、誰が一番優れているの?2


1 :2013/11/04 〜 最終レス :2015/10/21
戦国板の話題は結局これに終始すると思うので、気が済むまでとことん話しましょう。
色んな面から語ろう。荒らし・煽りは徹底放置推奨
前スレ
http://ikura.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1376726840/

2 :
信長に決まっとる。

3 :
天才すぎたんだ

4 :
織田軍の主力が志賀の陣や三方が原で壊滅したからこそ、信長に1万しか兵が集まらず
信長は兵糧も玉薬も兵も集まらず、誰が味方で誰が敵かわからないなどと泣き言を喚いていたんだろ。
そのこと自体が信長の戦下手を証明するというだけで、信玄死後の話や朝廷への和睦斡旋など
全く関係ない話に摩り替えて信長マンセーされても困る。元々国力的にいえば
圧倒できないとおかしいくらいのバランスなんだし。

5 :
戦国時代を要約すると
戦国最強の武田家が戦国最弱の織田家に所領を蹂躙されペンペン草も残さないぐらい完璧な敗北と無様な滅亡を演じた史実
織田は勿論上杉毛利北条島津伊達といった一流は生き残れたが武田はその資質は無かった
これがアスペルガーだがの言いたいことなんだと理解している

6 :
>>4
そんな最悪な状況を戦術的勝利であっという間にひっくり返した信長はまさに戦の天才だな
そう思わないかね?菅沼君

7 :
このスレもう必要あんのか?
結論が出ないのは前のスレで証明済みだろ?

8 :
そもそも織田軍はチート国力の尾張と大垣城と刈谷の水野氏の帰属と斉藤との同盟、
義龍死後内乱で瓦解し、ろくに抗戦がなかった美濃や元々お膳立てされた上洛と畿内と、一条兼定でもあっさり平定できそうな
ヌルゲーの主人公だったが、その圧倒的不利な状況を作ったのは信長や織田軍の戦下手が原因なので、全く信長が天才の根拠にはならない。
ピンチを切り抜けたのは天皇の和睦斡旋と信玄死去のおかげだし、超幸運に見舞われた棚ボタがあっただけにすぎんし

9 :
あれだけの国力を持ちながら信長に1万しか兵が集まらなかったのは対武田の三方が原や志賀の陣で織田軍が主力を壊滅させられたのが理由としか考えられんし
信長の天才っぷりどころか、信長の戦下手を証明する材料にしかならんよ。
ピンチを脱出できたのも朝廷に土下座して和議を仲介したのと、信玄の死に救われただけで、ますます信長の能力とはかけ離れた棚ボタのおかげだし。
つかその局面で信長の才能が発揮されたというのならどのように発揮しどう乗り切ったかを史料付きで詳しく頼むわ

10 :
>>9
歴史知らない人のかよw
何を言っても、最大の勢力圏を持ったのは信長だよ。
棚ボタだろうが何だろうが運も才能のうち。
運がなかったから武田は浅間山の噴火で滅びたって強調してたんじゃない
のか?w

11 :
菅沼君には次の諺を言っておこう
運も実力のうち
運がない信玄謙信は実力がなかったと言える

12 :
信長公記でも信秀が晩年疫癘に御悩みなされ、ご祈祷や治療をさまざま試したが御平癒なくついに亡くなったと書いてるように
天文18年11/5付け織田与十郎書状には備後守病中故と書かれており
神宮文庫の日記断片にも天文17?18年頃に信秀を入道と呼び、信長を若殿と書いており
信秀が当主を退いて後見役になっていたとされる(病だろうと右筆が書くから関係ない)
同じ時期に信長と濃姫の婚儀もあり
それと同時に天文18年11月に藤原信長として熱田村に書状を出していて
これは信長の初見文書であり、明らかに信秀は病を機に出家し後見役となり
信長を後継当主として擁立した流れとされている。
さらに天文21年10/21日には桃岩(信秀の法名)の判形の旨に任せて安堵という書状を
信長は大叔父の玄蕃允秀敏へ知行宛して当主権を行使している。
天文22年閏正月13日に信秀が外交を委任していた平手政秀が信長に悲観して自Rるや
道三は信長の大叔父玄蕃允秀敏に信長の悪行を心配している書状を出してる(浅井家文書)
そして同じく後見役とされていた林も信長を見放す。
しかし道三は娘を人質にされてるためか、信長を見放さず、
水野の小川城に対抗して岡崎衆が村木に砦を築くや天文23年正月に安藤伊賀守の軍勢を派遣し
小川城で水野信元と会談後に砦を落として帰っている。
明らかに信長がどうしようもない馬鹿で尾張が分裂していっただけで、
信秀は万全の体制で信長へ引き継がせてる。義龍によって尾張反語句を奪われたのは信長の糞アスペ人格が原因。
実際には信長と濃姫の婚姻が天文18年11月よりも早いとされ
信秀が信任し織田外交を任せていた平手の交渉による
斉藤との同盟が結ばれた天文17年中と考えられていて
それを以って後継者確定としている(信勝の妻との差は歴然)
そして信長に平手が後見人と付けられたのも
信秀の対外外交方針の変更が信長の代になっても変化ないことの宣言でもある。
しかし平手が自害することから信長は父の外交を引き継がず無謀な行動に出たので
尾張国が混乱し、離反が相次ぎ結果、今川・斉藤へ頼るものが出てきた。
完全に信長の失敗から尾張が崩壊しただけ。
稲本紀昭によると神宮文庫蔵の日記断片簡に天文17?18年に弾正忠入道・尾張若殿と書かれており
信長は出家した信秀の後見を受けて家督を継いでるとのこと。
信秀の死は天文21年3月だから信長18歳だろ。2年以上の時間をかけて信秀が信長の後ろ盾になってる。
定光寺年代記の死亡記録の信憑性の高さが決め手で確定してるでしょ。
万松寺過去帳はあくまで定光寺年代記の記録の正しさの補強として。
定光寺年代記の殺害記録によって織田信光という人間がいたことが判明したわけだし。この事実は大きい。
新修名古屋市史は信秀の死去についても定光寺年代記を支持してるし
鳥居和之氏や下村信博氏や池上裕子氏や織田信長文書の研究で有名な故奧野高廣氏や
信長公記研究で有名な岩沢愿彦など、 ことごとく天文21年死去を主張。

13 :
天文20年の信秀生前から備後守並びに三郎(信長)の先判の旨に任せて
などと信勝(信行)は明らかに序列によるケジメを付けられ
熱田神宮寺座主に安堵してるし、
その時期に西加藤家の次男へ信勝が信長への取次してる。
お前の言う熱田?ってのは西加藤家の分家の東加藤家へ出した22年10月の
信秀の先判の旨に任せってやつのことだろw
すでに信秀生前から本家の西加藤は信長。
分家の東加藤は信勝と分掌されていたとされる証明書状。
そもそも西加藤家は非常に重要視され
天文18年11月には信長が国内政務に初めて関与した機会として
西加藤家に対して藤原信長の名で熱田村八ヶ村宛てで制札が下され
熱田社造営の課役免除などが示され、信秀の後継地位を表している。
すでに信秀が病で信長が家督を継いでいるので
神宮文庫蔵の日記断片簡で万度 長鮑千本を出家した信秀が寄付し尾張若殿と明確に分けていることからも
すでに家督を信長が継承してる証左としてるし。
あと、信勝が信秀の父が支配下に置いていた織田家発展の原動力になった
大商業地の津島経済圏への影響力がまったくないことからも、
祖父以来の織田家本貫地といっていい津島衆を信長が配下にしているのを織田家を継承していた証左とされてるね。
石山本願寺日記で書かれてる記述は尾張で洪水などの天災があったようだとされてるだけで
信秀の死による混乱なんて無理やりな解釈はできない。というのも
河野門徒が飢餓だけど400疋を献上すると天文21年10/2の記録に書いてあり錯乱の原因が判明するから。
(天文21年5/2に去年は講衆する信者が少志を寄付したと書いていて20年のことと関連してるのがわかる)
河野門徒と言えば蓮如が河野惣道場を復興させて以来、
尾張葉栗郡?美濃国羽栗郡・厚見両郡にいたから木曽川中流の両岸が洪水起こしたんだろうねぇ。
本願寺は経済的に痛手を受けたのなら信長にとっちゃおいしいな。
中流ならむしろ岩倉城の織田伊勢守家と美濃国主がダメージを受けたってことだし。
飢餓による乱世と書いてるんだから本願寺の講衆の田畠が氾濫で流されて生活が苦しくなったから、
以前のように寄付がたくさん出来なくなったって話としか思えないけど。
戦乱乱世とか信秀死去による乱世なんて曲解にも程があるよ。
そもそも一次史料にその時期に戦乱を思わせるようなものは全く無いし。
尾張葉栗郡?美濃国羽栗郡・厚見両郡に住む本願寺の講衆の田畠が氾濫で流されて
飢餓による乱世状態になったので寄付がたくさんできないと申し出てきた史料
尾張の混乱は平手が失望のあまり自害し、それを見て林が見放したほどの信長の大うつけが原因であり
しかもこの信長の織田家内での不評っぷりは隣国まで伝わり
道三も信長の大叔父玄蕃允秀敏(信長が秀敏へ天文21年10/21に中村方三郷を安堵しているが、これが信長初の知行宛行文書)
にそれを心配して問い合わせてるほど
それを信秀の体調のせいだと曲解してんのがお前。
信長も信秀と同じ三郎を名乗っており、後見する宿老おとなが4人も信長には付けられ
明らかに織田後継と位置づけられてる。信勝にはおとなは一切付けられてない。

14 :
>>7
結論は出ているよ
信長と謙信は戦の天才だが信玄はただの凡人に過ぎないと
菅沼君だけが認めていないだけで
しかし菅沼君が必死になればなるほど信長が如何に戦の天才だったかが強調されるという皮肉
なんたって滅亡寸前の状況を戦術的勝利であっという間にひっくり返したのだから
戦略的敗北は戦術的勝利では覆せないという軍事学の常識を打ち破った信長
あのハンニバルですら出来なかったことを彼はやってのけた
これを天才といわずしてなんという?
そうだよね?菅沼君

15 :
信長の安堵状等の発給文書が天文21年秋以降に増えることから信秀の死は天文21年3月?
信長は元服以前から嫡男として遇されており、 父信秀が熱田の北に古渡城を築いて移った際に、
信秀のいた那古野城を譲られ、宿老筆頭のいちおとな林秀貞をはじめ?
と池上氏が去年末に出した本には書いてるね。
当主が自分の後継者に自分の城を譲って移転するってのは三好長慶が嫡男に芥川城を譲ったり、
伊達輝宗が政宗に米沢城を譲り隠居城を作りはじめたり、
信長が岐阜城を信忠に譲り安土城に移ったりと例がみれるね。
末森城って天文17年築城だから時期的にいって単なる隠居城でしょ。
しかも織田当主信長の名古屋城の東側を守る前衛だし。
柴田権六、佐久間次右衛門なんてしょーじき当時は一次史料にも出てこない程度の存在だし、
織田外交を一手に行ってたのが一次史料ではっきりわかる平手とは天地の差でしょ。
柴田と佐久間って当時はどんな地位で、なんの職だったん?それすらぶっちゃけわからんでしょ?
そもそも信勝に信長と争わせようとする信秀の意図なんて、どの一次史料に出てくんの? 完全に妄想レベルだよね。
だいたい発給文書数自体でいっても信勝はほとんど無いのに、信長に比する地位にいたなんて解釈は文書数からいってもあり得ない。
そもそもたかが末森城ひとつで何ができんの?たった1城持ってただけで当主顔できんの?
末森城なんて守山城とともに名古屋城を守るためにあるようなもんでしょ。
そもそも信勝が信秀と末森城で生活していたなんてデタラメだし、
単に信秀の葬儀の後の遺産分けで末森が信勝に与えられたに過ぎん。
信秀死後に信長が戦をする時はたびたび信勝も家臣の柴田を派兵しているように
織田家総領の信長というスタンスは証明される。
第一、信長につけられた織田家いちのおとなの林は寄親として荒子城・米野城・大脇城を指揮してるが
柴田や佐久間大学や林の弟なんて地位も職もまったくないただの信勝の家臣風情じゃないか。
さらに信勝はずっと信長配下として動いていて、そこに序列を巡る争いの種は一切見つからない。
そうして平穏に時が過ごしていたら1544年に道三が隠居に追込まれ
さらに事態は悪化し1555年に義龍は弟達を殺害し、道三に対して挙兵し、信長と義龍が敵対状態になった。
時を同じくして1555年6月に信長と信行の弟の喜六秀孝が守山城主織田信次に謝って殺される事件が発生。
恐怖した信次は守山へ戻らず逃亡。
これの対応を巡って信勝が信長へ相談なく勝手に守山へ攻めこみ
遠乗り中にそれを聞いた信長が「俺の弟ともあろう者がたった1騎で下郎のように歩いていたとは!
生きていたとしても許せない」と激怒。
結局、信次の家臣が篭城していたので信長軍に柴田を援軍で派兵し佐久間信盛の説得で開城し
守山城は信長の弟の秀俊が治めることで和睦。
このころから林と柴田が内通し信長へ謀反を企ててる風聞が流れ
そして1556年4月20日 斎藤道三討ち死にし義龍が完全に美濃を制圧。
1556年5月26日信長と秀俊が林邸に出向いて様子を伺う事件が発生。
翌日林が信長に謀反+守山城で秀俊が角田新五に暗殺されるという事態に発展。
信長は先に逃げていた前守山城主信次を呼び戻し守山城主に復帰させる。
8月22日に信勝から離反して信長についた佐久間大学が前線に砦を築いたことから
24日に合戦に発展。
明らかに美濃の情勢と信勝の挙兵はリンクしていて、
しかも守山城主の織田信次を明らかに信長は厚遇している。
さらに角田新五を不問にしてるため、そもそも織田秀俊暗殺も信長の謀略との疑いがある。
この後まもなく信長の庶兄の信広も斉藤家と内通して清洲城乗っ取りを狙うも失敗するなど
信長による兄弟粛清の荒らしの謀略に追い詰められ義龍に内応する織田一族の構図が見える。
これを見ても信秀が信勝を信長お対抗馬にしようなんて考えはない。

16 :
>>信秀は今川に尾張半分を奪われてた
信長領だった鳴海が今川方になったのは弘治元年(1555年)2/5付書状で証明されてる。
しかし、それ以外は取られてない。半分が今川とかアホだろw
その書状の中で信長が鳴海に同心したら領地没収の話を出してる。
そもそも弘治元年から2年に渡り三河全域で反今川勢力が蜂起して
今川勢と各地で戦ってたのは岡崎市史で指摘されてて、 今川にはこれ以後、余裕がまったくない。
信秀が死んだのは天文21年3月(1552年)で鳴海が今川へ寝返った時期から
すでに3年も経過してるから、信長が相続した時点では鳴海はちゃんと引き継いでいるし。
>>沓掛・高大根・部田村
城も奪われてないのに沓掛・高大根・部田村について触れた内容をもってきて
織田が劣勢とか頭が融けてるんじゃないか。
しかも売地だった土地を買い戻してやっただけじゃん。
そもそもこの手の城も奪わずに土地だけ安堵とかしてる書状なんて
実際にその土地が敵方陣営にいる親族が所持していたらカラ安堵を普通にするもんだし。
当時の国人は国の堺とか関係なしに先祖代々の飛び地を持ってる(越後国人が武蔵や伊豆に土地を持ってたり)
またその地が戦乱で維持できなくなっても安堵状だけはもらって土地所有権を主張しようとしていた。
実際に土地が伴った安堵ではないことは城を落とした結果という過程を経てないことからもわかる。
丹羽氏同士の本家争いで持ってない土地を今川が自陣営にいる方に安堵を出してる可能性も高いわ。
地域の拠点たる城を奪われたりしたわけじゃないのに、これで信秀が不利なら何で同時期に織田との和睦結びたいあまりに、
信秀が和睦の条件に要求した刈谷城を織田に返却してんだよ。
むしろ信秀が今川の背後の北条と連絡を取るようになったから安祥城までしか動けない限定的行動に
制限されたからこそ 翌年には信秀へ刈谷城を返却するはめになってるやん。
そりゃあ城を返却してまで今川は和睦したがってんだもん。面子もあって懇望してきたとかいいわけするだろ。
なにせ天皇が女房奉書で和睦して修理代を出すように言ってきた時ですら
意地になって今川は和睦はできないとメンツを気にしてたじゃん。
結局、信長公記でいうところの備後守殿に御目に懸けられ候と書かれて
信秀お気に入りの山口ルートを使って城を返却するから和睦してってすがってんじゃん。
最初から朝廷ルートで和睦を受け入れてたらメンツを気にすることなかったのにw
だいたい丹羽氏勝と丹羽氏秀の争いは天白川の水利権を巡る同族内争いであり
そもそも今川はまったく関係ない。関係ないんだよアホがw
お前は丹羽隼人佐なる謎人物が義元から書状をもらったことを
無理やりこの争いの関係者に位置づけるトリックを用いて今川が関わってるように捏造してるだけ。
丹羽宗家の岩崎城側が藤島側へ圧力をかけたので、藤島側が双方の上位権力の信長に仲介を求めたから
トラブッた話だろうが。それで言うことを聞かない岩崎を信長が攻めた挙句に大敗し
このことで藤島方は今川方へ逃亡するしかなくなった(名古屋/岩崎/天白川/藤島という位置により名古屋へ逃げれない)
その後、天文22年中に岩崎側も今川を頼り、鳴海城主の山口左馬助父子も織田を見限ってる。

17 :
>>俸禄が増える形になってますけど
そりゃあ松井の功績は七か条に及んで書かれて大きく評価されてるじゃん。
氏真の松井への評価はもともと非常に高い。
いままでの武功を箇条書きにして並べた後に
苅屋在城以後弐万疋、近年万疋、彼三万疋と書いているのは
苅屋在城していた時に2万疋、最近は1万疋というように
苅屋在城していた時、失った後で時期を区分している。
つまり自分の城が織田に攻められた時に駆けつけたが織田軍に封鎖され城を失ったってことだろ。
その後に続く文章で判明するが、城からの収入じゃなくて 今川家の蔵から吐き出してるじゃんよ。
文脈的には城を失ったから代わりに蔵から手当てが出るように変化したとも解釈できる。
苅屋在城以後弐万疋 近年万疋 以蔵入雖出置之
在城時と近年で時代区分を分けている。
これは失われたことを意味していて、それでも(雖も)忠節してきたから
そのままさし置いておくこととし代わりに蔵から支給してるってことだ。
1万疋追加は依今度忠節を評価して蔵より為彼三万疋之改替に替え改めやってんじゃん。
>>飯豊と密書を送って密議を重ねるなど
へっ?その信秀が今川との和睦をぶち壊そうとして駿河や遠江の国人との内応話の密書が
鵜殿へ回覧されたが、鵜殿は内応に同意せず、あくまで和睦するべしと主張し
逆にこれ以上あちこちへ信秀の書状が渡らないよう飯尾豊前守へ渡さず
鵜殿が止めて安心なる人物へ、この密書をまわすことを批判してるやつのことか?
信秀の申し出を読んだら朝比奈や庵原をはじめとした駿河・遠江の国人が同意し喜んで戦い始めることを予測し
安心も同意するなよと説得してる書状写こそ年がまったく確定できない書状じゃん。
だいたいその義元8万騎はお前の捏造歪曲だろw
定光寺年代記に実際に書いているのは5万騎。そしてこれはどの学者もありえないとしていて
百歩譲っても、当時流れていた風聞をそのまま書いただけだろうとしている。
さらにこれが信長公記を記述する際に桶狭間の戦いの元ネタに盗用されたといわれてる。
新修名古屋市史も 定光寺年代記の「尾州錯乱、八月義元に関して、
義元が知多郡に侵攻した事実は見出せないと否定してたよ。
定光寺年代記には、 天文19年に尾州錯乱したので、
8月に義元5万騎にて知多へ出陣し12月帰陣と言う誤伝があり、
これが信長公記の桶狭間の戦いの元ネタだったりする。
この風聞を天文21年に移動させて創り出された架空話が桶狭間の戦い。
信秀死去との間で調整するために桶狭間の戦いは作り出された。
>>信秀家臣ではなく僧侶中心の行事。
信長公記には信長側近の後に家老の衆も出席したと書いてるじゃないか。曲解もいい加減にしろ。
>>地盤がなければ戦いにも出れん。柴田がその辺の足軽と一緒に1人で供回りもつけず戦うのか?
遺産相続で末森城をもらったんだから柴田だって兵力を率いることができるようになるだろ。
林は平手の自害を見てあきれ果てて信長から離反したんだし、
佐久間大学は正当な主君が信長だと知ってるから信勝の謀反に組しなかったんだろ。
>>でまともに勘十郎本人が協力したなんて記録
信勝の末森城の兵力を柴田が率いて信長の戦闘を支援してんじゃねぇかよ。 屁理屈をたれんな。
>>柴田や佐久間次右衛門もちゃんと城や地盤を持ってるんだけどな
そんな一次史料ないし。勝手に妄想を広げるな。

18 :
>>東の加藤家に対して信長と対抗するために
だから本家の熱田八カ村の管理もしてる西加藤家へは信長、
分家の東加藤は信勝によって分掌されていただけのことだ。
東加藤なんてなんも力がないじゃないか。
さらに天正20年9/20熱田神宮座主に対して備後守並びに三郎の先判の旨に任せ?
と信勝が出してる書状あるように、まだ信秀が生きているし、
信秀の名乗りであった三郎を継いだ信長より下位にいるのは明白で序列がはっきりしてる。
弾正忠を名乗るくらいなら備後守を名乗るだろwそもそも信長は存在しない架空の上総守などと完全にウリジナルを名乗ってるし。
>>天文22年の勘十郎判物
信秀任先判之旨免許舟之事
信秀生前は備後守と書いていた信勝だったが、亡くなったので官名で書かず信秀と書いているだけのこと。
明らかに信秀がすでに死んでいることの証明じゃないか。なんでこれをもって天文21年死没を否定できるのか意味不明
生前から信秀が信勝を優遇してるとしたらかなり無礼な書き方だよな。 やはり信秀は信勝を優遇なんてしてないわな。
>>勘十郎が守護代家と結びついたのは
はいはい妄想乙w達の字に改名したことからの連想ゲームですねw
じゃあ信長に左遷され竜泉寺城主織田武蔵守信成に成り果てた信勝の「成」は誰からもらったのw
弾正忠も軽く捨てて武蔵守を名乗ってますけど、弾正忠にどれほどの価値があったんすかねぇw
なんかその後もテキトーな妄想を書いてるようだけど、結局、信秀が信勝を信長の対抗馬にしようとは
思ってないし、信勝も信長配下として働いている。その良好な関係が崩壊したのが道三の強制隠居劇と義龍の政策にリンクしてるだけ。
誰に利用されてるとか利用してるとかどうでもいいよ。信秀がそう仕組んでいたのではなく、信長が大うつけで尾張の結束を崩壊させ
道三の後見が失われた時に、ついに信長の味方だった信勝もついに信長を見捨てざるを得なくなったことが理解してもらえたら。
>>斎藤義龍は数年前に親の道三を排した直後であり、尾張の情勢に構っている暇はない
弘治3年4/19には当時は高政と名乗っていた義龍が尾張武蔵守宛てに書状を出してるのが残ってるのも知らんようだな。
様子を伺いたい。こちらから派遣した使者に伝えたいことはすべて申し伝えているので、直接聞いてください。
これからも重ねて連絡するので書面には詳しく書くのを避けます。
あきらかに怪しい文面だよな?義龍は尾張情勢に干渉してんだよ。当たり前だよな、失脚させた父が後見していた信長を放置できるわけがない。
委曲申含進之候なんて思いきっり怪しいだろ。
じゃあこの書状の評論した横山住雄氏のコメントも紹介しておこう
「文面に詳しいことはまったく書かれておらず、密書的色彩の濃い書状になっている」
一般常識ある人間ならそう解釈するわなw曲解するアホには単なる挨拶に見えるんだなw
でさ、織田が大垣城を失ったとする一次史料はまだなの?まさかまた妄想を重ねてるの?
道三の大垣城攻撃から信秀が守りきった→信長と濃姫の婚姻→道三の信長後見
この流れでいつ大垣城が道三に襲われて奪い取られるんだよ。妄想もいい加減にしとけ。
信秀は天文18年春あたりから体調を崩してから(美濃国諸旧記)
信長への権力移譲を少しずつ開始していて後見役として、自分が死んだ後も信長が安心して統治ができるよう
親心として内外の問題を解決する方針に変更していた。
美濃では婚姻同盟を結び、北条とも通信し、
美濃と尾張の協調を背景に三河戦線では今川に同盟したいなら刈谷城を水野に返すように迫り
朝廷が和睦するように申し出ても拒否していた今川だったが、信秀の恫喝の前には城を差し出す
これで岡崎が動揺して東条松平家の甚二郎が織田方になっちまって、あわてた岡崎城代たちは甚二郎の弟を引き上げて兄跡職を給与してる。
美濃では大垣を確保し稲葉山城を牽制する状況で道三を折れさせて濃姫を人質に同盟
三河では水野氏を以って三河西部に足がかりを残し、信長は万全の体制のまま引き継いでる。
(今川は北条が駿河や遠江の国人と内通していたりと地盤が弱い)

19 :
そりゃ信長がチートスタートなのははっきりしてるだろ。
そもそも信長が大名への返礼で虎や豹の皮や絹織物と言った唐国からの輸入物ばっかり贈ってる時点で経済的屈強さを物語ってる。
今川戦にしたって天文23年には信長は斎藤軍の援軍をもらい、知多半島の尾三国境にある村木城を奪い、
お隣の刈谷城の水野の安全保障を示すことで知多半島戦線を優位に進めてる。
つか発生年代からして超デタラメな桶狭間の戦いって捏造軍記だろ。
後世に作りだされた写し以外の原本確認できる一次史料からわかるのは義元が不慮になったと書いてあって、
思いがけない突然死があったと書いてるだけで、ムリくり桶狭間の戦いと結びつけているだけだし。
そもそも米による収入以外に商業による上りと税関収入がある。
信長の祖父の信貞が勢力を拡大させたのは木曽川と伊勢の通商路の津島社とその門前町と港を支配できたから。
そして信秀も熱田社とその門前町と港を支配し伊勢と知多半島に渡る商業圏を手に入れたから。
祖父や父によって二大商業圏を手に入れていたことで織田は抜きん出た国力を持つ強国を成立させていた。
それは朝廷への圧倒的献金額でもはっきりしている。
博多を押さえさらに中国との貿易をしていた大内ですらカスレベル。
信長は尾張や三河の水野分や身のの大垣城分もあるので初期段階で75万石
しかしアホ無能だった信長を支えてきた後見役の平手や林が呆れ果ててしまうほどで
せっかく信秀が信長に残したものがどんどん失われていく。
特に後見役道三が信長保護に全力を尽くしたために義龍に打倒されるや
尾張は崩壊を見せ、義龍は信長の弟へ取次役を通さず直接書状を出すなど
離反策を推し進め、義龍が当主だった実質4年の間に信長は義龍によって
尾張の半分を奪われてしまう。しかし義龍が急死し無能幼君の竜興が斉藤を継いだために信長は滅亡せずに済んだ。
織田厨の無知さは義龍によって尾張半国が奪われたことを
知らずに信秀が失っていたと思い込んでいて
しかも指摘されても認めず、信秀は無能ニダ!信長天才ニダとキモイ発言を繰り返していること。
だいたい信長伝説(笑)が一人歩きしててどうしようもない。
たとえば岐阜の命名にまで天下統一の野心が伺えるとか
平気で書いちゃうのがエセ歴史家だからね。
そもそも快川やその師の仁岫らが岐阜を仏教の力で守護するという意味で
護阜という名称をずっと使ってたのも知らんで
信長が名称を改めたって主張する信長公記のデタラメを妄信してんだから。
はっきり言ってこれ美濃で力があった臨済宗への信長の媚び諂いでしょ。

20 :
都合が悪くなるとまた妄想コピペかね?菅沼君

21 :
妄想コピペはお前らも十分にしてるから落ち着けよ織田厨。
菅沼は盲目な武田信玄信者だが、お前ら織田厨も菅沼と同類レベルの織田信長信者なんだよ。
いい加減に気づけ。

22 :
菅沼君自演乙

23 :
>>22
見事に自爆していてワロタwwwwwwww

24 :
清洲城で傀儡になっていた尾張守護斯波義統は天文13年に稲葉山城攻撃中の信秀の援護射撃で禁制を出したのを最後に消え去るので間もなく死去と思われる。
清洲城主尾張下郡守護代織田大和守信友は架空人物。
岩倉城主尾張上郡守護代織田伊勢守信安や子の信賢も江戸期の軍記の架空人物。
織田信清も軍記の架空人物。ただ犬山城は金山城などと共に斎藤氏が信長から奪って支配していた可能性が高い。
織田信光は名古屋城で信長に暗殺されたっぽい。
斎藤氏が短命で滅亡したが行政文書は義龍時代に集中して遺っている。
下々の意見をすくい取り自ら政を重臣に諮る英邁な主君であるのは間違いない。 信長とはえらい違いだ。
この改革の中で別伝の乱という宗教対立が起きる。道三は日蓮宗だったが、最後まで厚遇姿勢のままで、
土岐成頼や政房や斎藤妙椿や妙純などの妙心寺派を統制できなかった。
この宗教権威への介入のため義龍は妙心寺四派のうちの霊雲派の別伝を保護し伝燈寺を開創した。
禅宗寺院の寺統権を新設された寺燈寺に任命するやいなや
土岐や斎藤に創建され尊崇を受けて来た東海派の瑞龍寺が反発。
これに同調し聖沢派や龍泉派も怒る。
そして彼らは崇福寺の快川紹喜の主導で永禄四年1/5尾張犬山の瑞泉寺に出国して会議を行い対抗。
義龍は通達は別伝が勝手にやったこととして撤回したが、 別伝の僧籍削除には断固反対し
義龍は別伝に勅願寺と紫衣着用を奏請し、さらに4/30には将軍義輝にもこれに福書してもらうことで対抗。
しかし対立中に義龍が5/11急死してうやむやになり出国していた諸老も帰国し別伝が逐電。快川は甲斐に行った。
義龍の急死で斎藤氏の宗教統制の挫折となったのは痛かった。
しかし信長がただの不良からヤクザの親分になっただけに比べて義龍は名君であるのは間違いない。
内政すらロクにやってないアホ長と違って義龍は優秀だな。
幼君の龍興が稲葉山を乗っ取られたりと美濃国衆が斉藤を見限り始めたりと信長はホントに運がいいな。
考えてみたら長尾家も家格を引き上げたり、 将軍から朝倉孝景に続いて白傘袋や毛氈鞍覆を
下賜してもらうことで守護の同格の権利を認めてもらい 天皇から治罰綸旨を頂いていながら
為景は家格の高い上条に組みする国人と対抗した挙句に結局、守護上杉方に敗北してるし、
景虎時代にも同じことをして上杉行政府たる公銭方の爆弾を抱え関東管領の養子になってまで家格を引き上げたもんな。
越後が完全統一できたのは天正3年に新発田・竹俣ら国衆が謙信政権に参加した時とされてる。
(白傘袋や毛氈鞍覆をもらって守護権力と互角にしようと努力した守護代家は朝倉の他には赤松の守護代の浦上や大内の守護代の陶・杉・内藤)
信秀の時代にはすでに斯波守護権力は完全に解体されてるし 家格も財力を背景に朝廷工作して三河守まで貰って今川を牽制してるし
(のち三河守を家康に取られて自分が格下になったことを知り慌てた信長・・・)
すべてを解決して信長に引き継ぐ時には 道三の後ろ盾、義元とは家康を返却した時に和睦してるし
その後には内裏修繕費用を献上してもらいたい天皇の仲介により、今川方が信秀の要求に従い水野へ城を譲渡する形で信秀と和睦同盟してる。
信長公記でも信秀が晩年疫癘に御悩みなされ、ご祈祷や治療をさまざま試したが御平癒なくついに亡くなったと書いてるから
死ぬ前の闘病生活の期間を通じて信秀は嫡男のために心配がまったくない状態にして死んでる。

25 :
信長の場合は斯波氏が永禄7年(1564年)に事実上の廃止事件が起きてるからね。
義輝によって武衛斯波義廉邸を没収され、将軍の居邸が造営されてしまった。
これで尾張支配は信長で一本化している。
おかげで信長の上洛の時も畠山高政・昭高親子と細川昭元の三管領家は論功行賞にいたが、斯波氏は消えていた。
それどころか天皇の勅旨で彼らのさらに上の副将軍に信長がいる状態になった。
信長は天皇の鶴の一声で絶対に越えられない家格の壁を打ち壊し、織田家を副将軍になれる家格に引き上げてくださった。
これだけのチートを信長は与えられたのも、父の信秀が生前に非常に勤皇だったことを評価されていたから。
父の七光りで、信長は超チート力をもらっていて、これだけのすさまじい付加能力を付けてくれれば
誰でも苦労なく覇権を確立できるわな。 斯波氏は三管領筆頭だからな。
事実上、織田が斯波氏を上回る家格になったことで、 畿内国人たちが信長の命に従うことを天皇が命じたも同然。
この時点で、義尋を傀儡に信長が死に体のまま幕府運営することも可能になっていた。
道三の美濃統治は不安定なもので、
木曽川長良川の大洪水と六角や朝倉や織田の攻撃による相次ぐ戦乱により、
美濃で大量の餓死者でた天文21年6月に六角が頼芸支援で攻め込んだ。
この戦いののち道三は頼芸を追放するが
越後で長尾氏が上杉の支配機構を解体出来なかったように、
斎藤氏も土岐氏の支配機構は解体できず
かと言って道三には民政の新しい施策も全くなく結局、
重臣達により国主たる資格なしとして、
天文23年3月に道三も隠退に追い込まれる。
そして最後は甲斐を追放された信虎と同じく
追放か抗戦かの選択で道三は抵抗を選び討ち死にした。
ちなみに1554年に道三が隠退した翌年に
義龍が范可の署名を弘治元年12月から署名しており、
捏造信長公記は父殺しイメージを押し付けてるが
この使用し始めた段階ではあくまで道三は隠退しただけで死んでないし
父を殺した范可なんて人物も史記などにも存在しない捏造。
道三独裁から重臣たちによる擁立となった義龍政権は行政を刷新し
1558年を中心に義龍は施策を次々に打ち出し
最高意志決定機関の宿老制が完成し、
用水相論の裁許を重臣連署で解決(用水相論解決は一揆的結合の浅井などでも見られる)
立政寺の門前の池で鵜を飼い網を引くのを禁止した制札も連署。
これは土岐氏の官僚機構を
国人合議制により斎藤の元に奉公人制を確立させ吸収していく動きであった。
永禄三年には印判状という文書形式を導入。
知行あてがいも貫高制が導入され
重臣合議制斎藤氏の知行軍役体系が構築されていく。
さらに上洛し将軍相判衆になり美濃国主に正式に認められ、
伊勢や近衛との縁組など家格を上げる努力をしているあたりは
越後統治の正当性を求めて対立する国人を取り込みたい長尾家と同じ動きである。
信長にはできない状態の中で義龍の矢継ぎ早の改革は評価されるべきだろう。
さらに道三への援軍でやってきた信長を危険視し、
弘治三年4/19付け高政書状(義龍)などで
末盛城主織田武蔵守信成に(信勝。通称だと弟の信行)
書状を出すなど尾張での反信長蜂起を策動し改革の邪魔をさせないよう信長を牽制。

26 :
天文17年11月〜18年の間に信秀と道三は和睦し婚姻同盟し信長の後継者確定。
天文18年11月には藤原信長と署名する初見文書により熱田へ発給している。
天文19年8月に今川5万が尾張へ侵攻とする誤伝が定光寺年代記があり、これが桶狭間の戦いのモデル。
これを信長公記は天文21年に起きた桶狭間の戦いとして脚色した(さらにデタラメ学者は永禄3年の間違いと主張w)
しかし現実では斉藤が織田側になったこともあり
今川と織田は和睦の雰囲気となってきており天文19年冬に天皇が織田と今川の和睦を斡旋しており
信秀側が義元へ和睦してもらいたいなら刈谷城を水野に返還せよとの要求をしており今川はそれを呑んでいる。
それに前後して東条松平甚二郎が織田方へなるなど織田優位なままに三河戦線も終結した。
ちなみに稲本紀昭によると神宮文庫蔵の日記断片簡に天文17〜18年に弾正忠入道・尾張若殿と書かれており
信長は出家した信秀の後見を受けて家督を継いでいる可能性が高い。
そして天文21年3月に信秀は死去する。(信長公記系統では天文18年死去し21年に桶狭間とする操作を行っている)
また守護代達勝もこれに前後して死んでいるようで、天文22年に大和守勝秀の名で唯一の書状が出されている。
天文22年閏正月に平手が信長のアホぶりに失望し自害。信秀が後見につけた4人のうち
青山は稲葉城下で戦死・内藤は謎人物・林は信長を見限り弟支持に回るなど、信長の側近は崩壊。
この糞人格に不安を覚えた道三が4月に信長と会見し、舅だけは婿を見限らない宣言(娘が人質だしなw)
その後、守護斯波義統暗殺・守護代大和守信友暗殺と信長に都合がよい展開になっていたが
守山城主織田孫十郎による信長弟織田喜六郎秀孝殺害
守山城への信長弟の安房守の就任後暗殺されると、信長が逐電していた叔父の孫十郎の守山城主就任許可。
守山城を舞台として信長兄弟達が次々と抹消されていき、
信長に対抗できるのは勢力は達成(信勝・信行)だけになり疑心暗鬼になっていた時に義龍から書状が届いている。
信長の最年長の叔父織田信光暗殺(公記系では不慮の死と書いて誤魔化すが定光寺年代記に害されると書かれている)
天文23年正月、今川攻めをする信長のために道三が兵力を加勢し、水野と信長は知多半島で軍事作戦をする。
岡崎市史によれば1555年から二年の間に三河全域で国人たちの反今川大蜂起が発生しており、信長有利な展開だったという。
しかし1554年に道三が重臣に追放され義龍政権が発足し道三という信長保護後見役が政権から降りると情勢は一変していく。
1556年4/20に道三が討たれた時に美濃譲り状を貰った信長だったが、義龍の尾張への謀略に悩まされ内乱に陥る。
5年後の1561年(永禄4年)8/28の快川紹喜書状には義龍が江南出勢し勝利したが現在も戦いが続いていると書かれ
(4月の浅井戦のこと。その後5月義龍急死)さらに【【美濃は尾張半国を取っている】】と書かれているのである。
(信長は義龍死去を聞いて斉藤勢が近江戦線に出張っている隙を突き即、美濃を奇襲するが大敗する)
当時の斎藤は浅井と戦っていて、六角義治が斎藤と協調しようとするのを、
土岐氏に配慮する六角義賢が、同盟不成立にさせたりと西側が不安定だったから斎藤は南下なんて考えてない。
義龍は信長同様に内政や国内整備や宗教統治政策をまったくやらずに放置した道三の悪政から、
改革を押し進めていたから、尾張を戦わずして勝つの深慮遠謀の策を以って内乱状態にさせて信長を封じつつ、宗教統制を改革中に急死。

27 :
濃尾だけで100万石オーバーじゃねぇかw
織田は信秀時代ですらすでに朝廷への献金額も異常だし
織田家のボンボン嫡男に過ぎない時代で趣味ですでに高価な鉄砲を大量所持して
美濃国守の道三がビックリしてたし 幼少の家康を買い取った時の
たかが人質買い取りにしては桁外れの金額を即金で払った財力からしてかなり豊かだろうが。
信長は完全にチートスタートだ。
津島や熱田の海上貿易通商路を押さえた信秀のボンボン息子でお小遣いをたくさん持ってた
吉法師は将軍義輝が六角氏に命じて近江国友村に作らせた鉄砲製造所で試作がようやく完成したばかりであったが
さっそく大量の六匁玉の鉄砲を発注していたので道三との会見においてすでに五百梃の鉄砲と火薬を持ってた。
1543年2月信秀は平手政秀を通じて内裏修造費用4千貫文を貢納。
3年前にも伊勢豊受大神宮仮殿造営費700貫文を献納していたのにも関わらず。
田原城主戸田家臣又右衞門が拉致った松平竹千代を五百貫文の破格の大金でキャッシュ即払いした信秀
超イージーモードの織田家に自ら刃向かうバカはいません。
信長公記の記述する戦はデタラメばっかりです。
信玄は父を追放した権臣たちの操り人形の傀儡として祭り上げられ家臣団による合議体制となった。
信玄がその恐怖から脱したのは村上との敗戦を招いた権臣たちの討ち死にが契機となる。
一方、信長は斎藤道三の後見により確固たる地位を保持しており
三河でも水野を防波堤となし
将来の危険の芽を摘むべく弱者を追い詰め蜂起させて圧倒的戦力で叩き潰し直轄領化を推進していく。
義元は自国と尾張の隔絶した国力差に危機感を抱き
是が非でも三河の安定領国化を成さねばならない追い詰められた状況だった。
尾張より国力の小さい美濃攻略に11年
その後、将軍チートで簡単に上洛できただけ
しかしその後、信玄に滅亡寸前に追いやられるのが信長
甲斐の2倍の国力ある信濃を攻略できた信玄とはレベルが違い過ぎる。
斎藤は当主の相次ぐ死による交代で衰退し美濃国人衆は見限り初めて瓦解期に入っていた。
村上は地の利を占め逆に領土拡大する隆盛期に入っていた。
そんだけ信長が戦下手だという証拠。
そりゃそうだ。信長には敵を外交で一つに絞って
戦力の集中をすると言う軍事の基本すら理解できてない素人。
経済力を背景に負けても負けても侵攻を執拗に続けるだけのバカ。
領土拡大なんて濃尾の平野&湾岸の異常な石高と経済力を背景にすれば楽勝だろ。
むしろ無駄に摩擦と衝突を引き起こして同時に複数国で混乱を起こさせて勝つまで
執拗に攻め込みまくる信長のやり方は無駄に時間を浪費させただけに過ぎない。

28 :
永正8年・10年と尾張守護の斯波義達が今川氏親と戦っているが
なんと大和守・伊勢守の両織田守護代家は一切協力しておらず
完全に実権喪失している事実。
織田両守護代家にとり斯波は象徴的存在に過ぎなくなっていた。
西尾張が根拠地の信秀の東尾張平定たる天文7年の名古屋城攻略と
今川氏豊の追放により尾張南半分を支配下においたわけだが
すでに守護代織田達勝も信秀の行動を応援是認し
10月に名古屋の性海寺への免除書状で支援している。
そして根拠地を自らが文書発給し支配していた
西尾張の勝幡城から信秀は本拠地を名古屋に移転して西三河へ目を向ける。
天文9年には伊勢神宮へ700貫寄進し、朝廷から三河守に任じられ
三河から圧迫を受けていた尾張は信秀の名古屋攻略とともに
劣勢から攻勢に転換し、尾張をほぼ安定化させたため
天文日記10年7/27でも斯波義統が信秀の威信をアテにして
本願寺に対して越前まで討ち入り越前を回復するから
加賀門徒の協力依頼までしているほどの評価が尾張の外へ轟いている。
次に長尾為景が越後守護上杉定美傀儡政権運営していた時と酷似していた状況が一変したことを示す権力変化の証拠がある。
天文12年2/21の達勝安堵状には「弾正忠申調られ出置く上は」と書かれ
天文8年までの従来、東尾張において達勝→信秀と出されてきた発給文書が、
ついに信秀→達勝に順番が逆になってしまう。この逆転現象は巨大な衝撃である。
謙信政権でも苦悩していた守護による政治機構が簡単に解体されていく姿が尾張に生じているのである。
(結局、後継者なく定美が亡くなり、関東管領に就任し上杉を継ぐまで越後統治の正当性が得られなかった長尾氏)
また天文13年の信秀の美濃侵攻では守護斯波義統が禁制を出すなど、信秀支持の姿勢を示している。
9月に美濃立政寺へ禁制を出した織田寛近は岩倉伊勢守の一族であり
守護斯波は言うまでも無く尾張国の大半が信秀の美濃侵攻を支持していたのは間違いない。
ここに信秀による尾張統一が達成されたのである。

29 :
>>21
妄想コピペと自作自演はアスペルガーだがの得意技

30 :
具体的にどこがおかしいのか指摘できない時点で負けを認めたようなもんだなw

31 :
>>30
禿同
だがの負けで決定

32 :
菅沼のことは検索して理解したけど、「だが」って誰?

33 :
>>32
菅沼遼太=アスペルガーだが=嘘吐き

34 :
菅沼君の言うことが事実なら信長はハンニバルを超える戦の天才ということになるからね
信玄が死んだくらいでなぜ状況が一変したのか全く説明出来ていない以上は

35 :
信長公記が三河物語に較べて信憑性が低いとされる点に
天文11年第一次・天文17年第二次に渡る小豆坂合戦記述がある。
三河物語は第二次の方のみしか記されておらず、今川義元の感状から第二次のみは史実確認が取れる。
信秀は第二次にあたる戦いでは今川の背後にあたる北条氏康に書状を出しているなど
今川を背後から牽制する策をとっており挟撃策を恐れる今川方も抑止的な軍事行動しかできていない。
佐々木城主松平忠倫や松平清定(信秀縁戚)など有力な織田方松平一族も依然として信秀を支持している。
静岡県史も今川の軍勢が天文11年に西三河に進出するなど考えられないと一蹴している。
よって第一次の戦いは公記の捏造であり、三河物語の正しさが証明された戦いである。
ただ信秀が東三河で優勢だったのはたしかで、
水野信元や松平信孝(天文16年9/28には松平広忠を大敗させてる武辺者)
らが織田方として存在している。
天文12年には後奈良天皇に4000貫を献上し(今川は500貫)
従来尾張を支配する守護斯波と守護代大和守の富強ぶりが都でも評判であったが
すでに信秀にとって代わられている事実が見える。
この献上の際には信長の側近の平手が京に出向いているが
本願寺証如に面会してるのがわかる。本願寺側は「門徒に対して一段悪勢の者」と認識しており
丁重に織田外交団を接待しているのがわかる。本願寺との険悪さがすでに存在していた。
また同時期には熱田神宮寺座主も、いままでは大和守の判物を手にいれて満足していたはずなのに
信秀を当殿様と呼び信秀判物を手に入れようとした。
信長公記系に記される信秀に従い出陣し稲葉山の戦いで戦死した清洲三奉行の織田因幡守の子で信友が
守護代大和守の養子として清洲城(斯波氏を傀儡にしてる)へ入城し天文16〜17年・21年に信秀・信長と対抗?
そもそも大和守達勝は天文19年12/17の熱田神宮の書状で存命が確認されるのでデタラメ。
しかも達勝の後継者は勝秀であり、もう何言ってんのかわかりませーんw
そもそも信友なんて一次史料には一切出てこない架空人物としか思えないし。
つうか斯波氏を傀儡にしている大和守を傀儡にしてる信友を
さらに傀儡にしてる孤立してる清洲城の坂井・川尻・織田三位ら重臣達ってストーリーかよwww
ちなみに尾張北を支配していた岩倉織田伊勢守も天文6年に広高が当主であったのが確認できるが
その後、まったく消え去り史料上から消え去っている。信安を追放した信賢とか江戸期の捏造話で存在確認できない。
公記系によると永禄2年に信長が岩倉城を数ヶ月包囲して信賢を降伏させたとするが
言継卿記によるとその時期の信長は上洛して義輝に謁見し、堺・奈良見物してる最中w
つまり公記の記す信長の尾張での内戦話がほぼデタラメなのがわかるのである。

36 :
信秀は1541年伊勢神宮遷宮の際の材木や銭七百貫文を献上だけでなく朝廷に献金でも日本一。
朝廷に献金した金額ランキングが載っています。
1 織田信秀 四十万疋 天文十二年(1543) 内裏修理
2 大内義隆 二十一.四万疋 天文四年(1535) 即位費
3 大内義隆 十万疋 天文六年(1537) 不明
4 三好長慶 六万疋 弘治三年(1557) 大葬費
5 今川義元 五万疋 天文十二年(1543) 内裏修理
ぶっちぎりのトップは信長の父親である織田信秀で、
彼は何と「ライバル」である今川義元の10倍近い金額を献金しています。
まだガキだった時の信長のお小遣いで超高級品だった鉄砲500が買える尾張の財力だったり、
信秀から尾張ほぼ一国+美濃大垣城+三河水野信元を引き継ぎ、
しかもむちゃくちゃ優しい道三が貢献とか
今川とも竹千代交換して和議が成り、信長ほどチートスタートな大名っていないよな。
超過保護大名斎藤道三
信長「お父さん知多半島の今川軍の城が気になって眠れません…」
道三「おぅおぅ他ならぬ婿の頼みとあっては何とかせねばな!して場所は?」
信長「松平家忠が村木城にいて水野信元が私に援軍要請してるが私では…」
道三「わかった。ワシの手勢の安藤守就を那古野城に援軍に派兵してやろう」
信長「有難う御座います!このご恩必ず返します」
義龍「なんで尾張のために美濃兵の血を流さないとならんのか?クソ爺をRしかねーな!」
斯波氏に関しては今川の捕虜になった斯波義達の跡を継いだ
義統が3歳の幼君なのを良いことに守護代織田氏は専横して傀儡に成り下がって実権なし。
信秀は今川義元の弟で捕虜になった斯波義達の娘を娶って尾張に来た今川氏豊を討って
今川の尾張支配の牙城那古野城を奪取するなど今川勢力を尾張国から一掃してる。
織田大和守家の分家で清洲三奉行「織田弾正忠家」の勢威は主家を上回っており押さえられる者はいなかった。
それは大和守家の織田達勝の娘が信秀によって離縁させられてるのでもわかる。
(大和守家織田達勝と三奉行家の「織田藤左衛門家」が共同して信秀に当たっても勝てなかった)
1547年の信秀の稲葉山城攻撃では岩倉方織田伊勢守の一族や中嶋郡の豪族など
尾張北西部の者どもが先鋒をしていて「織田伊勢守家」岩倉織田家家中もすでに傘下に組み込んでいるのがわかる。
さらに朝倉孝景の軍も信秀の援軍にやってきていて
稲葉山城包囲は25000の兵が動員されたほどに信秀の威勢は巨大だった。
稲葉山城攻防において夕闇が迫り一時撤退した油断を突かれて道三の奇襲で破れたものの
次の大垣城攻防戦では道三も驚く速さで渡河した信秀は
電光石火の進軍で火をかけながら稲葉山城方面を急襲しようとしたために
驚いた道三が大垣城攻撃を諦めて撤退してる。
(藤左衛門家もこの時に信秀配下として軍事行動をしており信秀は尾張の大半から動員していた)
「織田伊勢守家」岩倉織田を継いだ織田信安(妹は信秀側室・のち信秀妹を娶る)は
「織田大和守家」から入った人物で幼君を口実に犬山城で後見監視してたのが信秀の弟の信康なわけで、
ぶっちゃけ尾張は信秀がほぼ制していたと言っていい。

37 :
1549年正月17日の信秀弟の信康の子の犬山城主織田信清の謀反に至っては信秀が急を聞き即日撃破してるほどの圧勝し
2月25日には何事も無く平穏であり美濃から帰蝶が無事に尾張へ輿入れして信長は強力な後ろ盾を得てる。
3月に入り太原雪斎に安祥城を攻められるが頑強な抵抗をしており
本多忠勝の父が討ち死にするなど今川全軍を撤退に追い込んでる。
11月8日の再攻撃で火縄銃を投入しやっと安祥城を落とせたほど苦労してるので尾張への軍事行動が断念されてる。
安祥城落城も雪斎が非常に攻めづらい城南からの奇襲で
城側は油断しきって防備が甘かったって言う奇略で1日で落としたって話だし。
これはもう信秀の失敗とは言えないよな。
それに三河国碧海郡にあった刈谷城を本拠地にしていた三河の大身と呼ばれた水野信元が信秀側だったから
織田の三河進出の拠点は失ってねーし、結局、信秀は尾張の旗頭として
国内に敵を入れることはなかった(守山崩れの例外があるが)
今川とも竹千代交換して和議が成り信秀の晩年は内外ともに安定してる。
清洲三奉行因幡守家から織田大和守家の織田達勝の養子になったと言われる織田信友は
織田伊勢守家同様にすでに家臣団を信秀に奪われ傀儡守護の斯波義統を擁立していたと言う
一点でかろうじて信秀の主君と言う名目的地位を維持できていたにすぎず軍事的には信秀に屈していた。
天文12年には後奈良天皇に4000貫を献上し(今川は500貫)
従来尾張を支配する守護斯波と守護代大和守の富強ぶりが都でも評判であったが
すでに信秀にとって代わられている事実が見える。
伊勢湾貿易の富を独占し商業収入を含む日本一豊かな尾張一国
三河の水野氏の隷属
美濃大垣城
娘婿になったことによる強力な道三の後見
竹千代譲渡による今川との和睦
竹千代を戸田康光が奪ってきて織田家に引渡した際に
即金で千貫文を払ってるくらいバブルなのが信秀。
こんなに親父が信長のために遺してくれたのだから日本一恵まれてるのが信長。
大和守家の織田信友はすでに清洲城しかない孤立した状態で信秀に屈していたのに、
美濃の道三の後ろ盾がある信長に刃向かうこと自体が
獅子に立ち向かう蟻も同然で明らかに信長による排除圧力に追い込まれた無謀な挙兵だろうな。
のちに武力で勝てないから信長暗殺計画を考えてたら、
信長にチクられたとして斯波義統を暗殺しちゃって自爆するし謀略に簡単に引っかかる超バカ殿だろ…
尾張統一されたもんを引き継ぎながら道三が死んで後見が失われるや
信長自身の悪政を義龍に付込まれて尾張が謀反三昧にされただけだろw
まぁ平手まで自刃するほどのキチガイ信長じゃしょーがねぇけどな。
今川も別に尾張方面へ調略してた一次史料もなく、どう考えても愚主信長を見限り
今川方に鞍替えしただけの話で、それに対して信長がパブロフ犬のように条件反射で
包囲して砦を構築したから、義元も後詰めをしなければ面目を失うから出てきただけで
今川軍を呼び込んだのも信長本人の悪政が原因であり、それまでは今川と織田の和睦は継続していた。

38 :
結果 主家の尾張守護代清洲織田家が衰退期に入り
清洲三奉行・織田弾正忠家が高収入源の商業都市津島や熱田を支配しまさに隆盛拡大発展期に入り、
織田弾正忠家の力のみで周辺諸国の国持ち大名とガチで戦闘が行えるまでに成長する。
さらに円滑に家督を継いでいた信長は実に運がいい男と言える。
しかも信長が1556年の斉藤道三の死から1567年に美濃掌握し11年で
尾張57万石+美濃54万石=111万石になり上がり、
この濃尾平野に覇権を確立した時点で周囲を圧倒した勢力になっていた。
また三好長慶が死去し分裂紛争中の三好三人衆や松永久秀らの暴虐ですでに三好政権は瓦解中。
三好配下内で闘争していた池田勝正などもあっけなく信長に降伏し労せずして摂津支配も確定させ
将軍権威を背景に若狭武田なども帰属させ大商業都市の堺・大津・草津をも支配下に組み込む。
一方、北条氏康・上杉謙信ら隆盛期を迎えた各家に囲まれた信玄は家督継承し1542年に信濃侵攻を開始し
1553年に村上義清が謙信の元へ敗走し信濃を11年で掌握し(しかも村上家も領土が膨張しており勃興期を迎えていた)
天候不順と河川氾濫ばかりの甲斐22万石+信濃40万石=62万石と信玄は自分の領地の2倍の石高の地を併呑する奇跡を成し遂げている。
キツイ城ランキングを見ると信濃の山城ばかり目立つ。武田軍の精強さと攻城の苦労がわかる。
ttp://utsu02.fc2web.com/tozanranking1.html
ただ焔硝の製法である古土法だと大量生産ができずに普及が進まなかった(当時は明との交易は禁止されていた)
信玄なども1555年正月に焔硝について触れている書状がある。
1549年太原雪斎が信秀の安祥城を攻略した決め手も奇襲した際の鉄砲だと言われてる。
良質のインド産の焔硝をポルトガル商人から輸入できるようになってから大量運用が可能になる。
ちなみに1567年信長が岐阜城を落したのと同時期に
宗麟が司教宛てに毛利への硝石の輸出禁止と
毎年良質な硝石200斤の大友への輸出を航海指揮官ピタン・モールに頼んで欲しいと依頼しているほどの戦略的な軍事物資。
信秀が死ぬ2年前の1549年に信長が近江の国友村に高級品の火縄銃500丁を注文しており、
道三との正徳寺会見でその鉄砲を大量所持していて道三が驚いたとの記述があるが、
希少価値が高い硝石の在庫がそんなにあったのだろうか・・・
もしあったのなら尾張国に集まる経済力と富は突出していて東アジア最高の土地になってしまいとてつもないものだったろう。
父から信長が与えられた名古屋城の税だけでそんだけの鉄砲を買い込み火薬も備蓄してたとなると
道三死後に美濃国譲り状までもらって支配の正当性を持ちながら
なんで美濃国攻略に10年以上もかけてるんだって話だよね。
大和守家の織田信友はすでに清洲城しかない孤立した状態で信秀に屈していたのに、
美濃の道三の後ろ盾がある信長に刃向かうこと自体が
獅子に立ち向かう蟻も同然で明らかに信長による排除の謀略に引っかかっての無謀な挙兵だろうな。
のちに武力で勝てないから信長暗殺計画を考えてたら、
信長にチクられたとして斯波義統を暗殺しちゃって自爆するし謀略に簡単に引っかかる超バカ殿だろ…
信秀による実質的な尾張統一完成が稲葉山城攻撃につながったと言われてるからね。
ロクに優秀でもない林・佐久間・平手を付けられた信長が与えられた名古屋城の税だけで
そんだけの鉄砲を買い込み火薬も備蓄してたとなると
道三死後に美濃国譲り状までもらって支配の正当性を持ちながら
なんで美濃国攻略に10年以上もかけてるんだって話だよね。

39 :
天文12年には後奈良天皇に4000貫を献上し(今川は500貫)
従来尾張を支配する守護斯波と守護代大和守の富強ぶりが都でも評判であったが
すでに信秀にとって代わられている事実が見える。
伊勢湾貿易の富を独占し商業収入を含む日本一豊かな尾張一国
三河の水野氏の隷属
美濃大垣城
娘婿になったことによる強力な道三の後見
竹千代譲渡による今川との和睦
竹千代を戸田康光が奪ってきて織田家に引渡した際に
即金で千貫文を払ってるくらいバブルなのが信秀。
こんなに親父が信長のために遺してくれたのだから日本一恵まれてるのが信長。
大和守家の織田信友はすでに清洲城しかない孤立した状態で信秀に屈していたのに、
美濃の道三の後ろ盾がある信長に刃向かうこと自体が
獅子に立ち向かう蟻も同然で明らかに信長による排除圧力に追い込まれた無謀な挙兵だろうな。
のちに武力で勝てないから信長暗殺計画を考えてたら、
信長にチクられたとして斯波義統を暗殺しちゃって自爆するし謀略に簡単に引っかかる超バカ殿だろ…
尾張統一されたもんを引き継ぎながら道三が死んで後見が失われるや
信長自身の悪政を義龍に付込まれて尾張が謀反三昧にされただけだろw
まぁ平手まで自刃するほどのキチガイ信長じゃしょーがねぇけどな。
今川も別に尾張方面へ調略してた一次史料もなく、どう考えても愚主信長を見限り
今川方に鞍替えしただけの話で、それに対して信長がパブロフ犬のように条件反射で
包囲して砦を構築したから、義元も後詰めをしなければ面目を失うから出てきただけで
今川軍を呼び込んだのも信長本人の悪政が原因であり、それまでは今川と織田の和睦は継続していた。
結果 主家の尾張守護代清洲織田家が衰退期に入り
清洲三奉行・織田弾正忠家が高収入源の商業都市津島や熱田を支配しまさに隆盛拡大発展期に入り、
織田弾正忠家の力のみで周辺諸国の国持ち大名とガチで戦闘が行えるまでに成長する。
さらに円滑に家督を継いでいた信長は実に運がいい男と言える。
しかも信長が1556年の斉藤道三の死から1567年に美濃掌握し11年で
尾張57万石+美濃54万石=111万石になり上がり、
この濃尾平野に覇権を確立した時点で周囲を圧倒した勢力になっていた。

40 :
誤魔化しにまた妄想コピペかね?菅沼君

41 :
そもそも織田軍はチート国力の尾張と大垣城と刈谷の水野氏の帰属と斉藤との同盟、
義龍死後内乱で瓦解し、ろくに抗戦がなかった美濃や元々お膳立てされた上洛と畿内と、一条兼定でもあっさり平定できそうな
ヌルゲーの主人公だったが、その圧倒的不利な状況を作ったのは信長や織田軍の戦下手が原因なので、全く信長が天才の根拠にはならない。
ピンチを切り抜けたのは天皇の和睦斡旋と信玄死去のおかげだし、超幸運に見舞われた棚ボタがあっただけにすぎんし
あれだけの国力を持ちながら信長に1万しか兵が集まらなかったのは対武田の三方が原や志賀の陣で織田軍が主力を壊滅させられたのが理由としか考えられんし
信長の天才っぷりどころか、信長の戦下手を証明する材料にしかならんよ。
ピンチを脱出できたのも朝廷に土下座して和議を仲介したのと、信玄の死に救われただけで、ますます信長の能力とはかけ離れた棚ボタのおかげだし。
つかその局面で信長の才能が発揮されたというのならどのように発揮しどう乗り切ったかを史料付きで詳しく頼むわ

42 :
だから豪運ってだけで実力がある証拠なんだけど?
頭大丈夫か?

43 :
運も実力の内なんだよなぁ…
でもあくまで実力の「内」だから。
実力=運 とは思わないでほしい。
運の信長、戦の謙信、外交の信玄 でもう終わりでいいんじゃない?

44 :
>>41
妄想コピペ貼っていないでちゃんと答えなさいな菅沼君
なぜ信玄が死んだくらいで滅亡寸前の状況から大逆転出来たのかを
信玄なんて形式上は義昭の使いっぱしりに過ぎないんだぜ?
パシりが一人死んだくらいでなんで義昭が降参しているんだね?菅沼君

45 :
信玄の死と朝廷への土下座で信長に味方する連中増えたってだけの話だろ。
頭大丈夫か?

46 :
まぁ運とかどうでも良くて結果がよければ実力あるという馬鹿な妄想なら織田家は大衰退し
江戸期には1万石程度のコジキ大名にしかなれなかったんだから
信長はゴミみたいな才能しかなかったといえるわけで。

47 :
光秀に殺されて家をほとんど滅ぼされかけ嫡流断絶と実質滅亡させられた信長が実力あるわけがないだろ。

48 :
>>47
信玄に勝算があるならとっくに信長を滅ぼしているよ
しかし信長が怖くて勝負を避け続けた信玄が真実の姿
格下の家康ですらちょっかい出すのが精一杯で滅ぼすことができませんでした
ID:8rFhEQ77が無知なのはわかったよ
悔しかったら反論してみ?

49 :
>>43
外交の信玄だけはないわ
あいつ周囲敵だらけだったから外交は下手くそだぞ

50 :
武田好きな人にとって、だがはどういう存在なんだろう

51 :
>>48
信玄に勝算があったからこそ、信長を滅ぼしかけたんだろ。
織田の方が遥かに国力経済力が上にもかかわらず志賀の陣や三方が原で織田の主力を瞬殺し
家臣を殺されまくったあげく、信長には1万程度しか兵が集まらず
信長は細川に宛てて兵糧も玉薬も兵も不足していて、もはや誰が味方で誰が敵かわからないなどと
泣き言をわめく所まで追い込まれているのが史実。

52 :
>>48
えっ?美濃で斉藤相手に泥沼の連敗街道まっしぐらの信長が、
養女を提出するから武田と同盟してくださいと頼み込むから同盟してやったのにw
同盟せずに信長を攻めたら余裕で織田滅亡でしたが何か?

53 :
>>51
横から口を出すな馬鹿タレ
ID:8rFhEQ77の反論だけを受け付ける
お前のようなカスに興味は無い

54 :
>>44
信玄の西上作戦がうまくいっているのを確認してから、
やっとはっきりと挙兵した義昭なんだから、
信玄死んだらさっさと義昭が降伏するのは当たり前だろが。

55 :
>>45
武田が撤退した後信長に味方した連中の一次資料を出してくれ。

56 :
>>45
答えになっていない
パシりが一人死んだくらいで何でそうなったんだね?菅沼君

57 :
>>54
信玄が死んだあとも挙兵しているね?菅沼君

58 :
>>51
そんな状況なのに一気に逆転した信長は天才だね菅沼君
あと織田家は大名として残ったが武田は旧家臣らから完全無視され大名復帰は二度となかったのが史実ですよ?菅沼君
浅間山大噴火と同じで相変わらず嘘ばかりだね菅沼君

59 :
菅沼先生、コピペだけじゃなくて具体的に反論してくださいよぉ

60 :
>>51
>信玄に勝算があったからこそ、信長を滅ぼしかけたんだろ。
え?
まだ勢力内にも入っていないのに滅ぼしかけたって・・・。
妄想にしても酷過ぎないか?
もっとさ、第三者的に見ようよ。

61 :
>>57
それは鞆幕府を樹立し、毛利や石山本願寺や勝頼の全面支援を受けられる確信があったから再挙兵したんだろ。

62 :
>>61
だからそれはパシリ一人が死んでも状況は変わっていないと義昭が判断したからじゃないのかね?菅沼君
そしてその最悪な状況を戦術的勝利であっという間にひっくり返した信長は戦の天才ということだ
ハンニバルでさえ出来なかったことを信長はいとも簡単にやってのけた
こんな天才相手に凡人に過ぎない信玄が勝てるわけなかろう
そう思わないかね?菅沼君

63 :
最強信玄、最弱信長を滅ぼしかけたと願望妄想してたのは納得。
現実から目を反らした愚か者はアスペルガーだがのようになるということ。

64 :
>>63
http://ikura.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1378101699/17-23

65 :
織田厨ってなんでそんなに相手を貶めるの?
意見を出して、だから信長はすごい。 なら分かるけど、そこに凡人信玄とか無能とか悪口を付け加えるとか…
菅沼と同レベルのキチガイ。
もはや織田厨にとって、根拠の無い嘘だらけの信玄崇拝=菅沼 では無くて、
自分に都合の悪い意見=菅沼 になってるよね?
>>53 とか義務教育をちゃんと受けたかどうかもわからないレベルのマナーの悪さだぞ?

66 :
>>65
バレバレの自演は楽しいかね?菅沼君

67 :
そもそも武田厨なんていないだろ。
織田チョンが一次史料皆無で、
悪口中傷、デタラメ妄言、捏造歪曲、嘘史料、盲目マンセーを繰り返してきたから、
それはデタラメ間違っていると武田だけに限らず、
適宜、間違いを正すために反論をしてるだけだからね。
勝手に武田を敵視して織田チョンが罵詈雑言を繰り返してるだけ。
武田に対して異常なまでにジェラシーを感じて逆切れしてる厨房が織田チョン。

68 :
この板から武田ファンがいなくなりアンチ武田ばかりになった原因が自分にあるとわからないのかね?菅沼君
というかアンチ武田ではなく正確にはアンチだが(=菅沼)なんだけどね
自演とコピペ爆撃を繰り返し嘘ばかりついて荒らしていたのだからみんなから嫌われるのは当然

69 :
>>68
アンチ菅沼ならなんで「信玄」じゃなくて「凡人信玄」とか書き込んでるの?
なにが「アンチ武田ではない」だよ。
お前はただの織田信長の狂信者だろ。
菅沼と同類だよお前は。
ちょっと武田信玄を擁護しただけで菅沼認定されるからこっちとしても困る。

70 :
自分に都合が悪いレスをするやつは
誰彼構わず、レッテル貼って回って
単発ID自演で排除しまくるのが織田厨。
結果、戦国板住民がほとんどいなくなった。

71 :
>>69
皮肉も理解出来ないのかな?菅沼君は
ならわかりやすく説明しようか
菅沼君の言うような滅亡寸前の状況から信長が戦術的勝利によって大逆転したのならこれは天才というしかない
というかハンニバルやナポレオンをはるかに越えた神レベル
そんな神信長と比べたら信玄は凡人に過ぎない
アスペルガーの菅沼君にもこれで理解出来たかな?
つーか自演バレバレなんだからもうやめたらどうかね?

72 :
つか、意見とか反論に対して史料を提示したり論を主張ではなくレッテル張りで返してる時点で議論じゃ勝てないと認めたようなもんだからな

73 :
そもそも織田軍はチート国力の尾張と大垣城と刈谷の水野氏の帰属と斉藤との同盟、
義龍死後内乱で瓦解し、ろくに抗戦がなかった美濃や元々お膳立てされた上洛と畿内と、一条兼定でもあっさり平定できそうな
ヌルゲーの主人公だったが、その圧倒的不利な状況を作ったのは信長や織田軍の戦下手が原因なので、全く信長が天才の根拠にはならない。
ピンチを切り抜けたのは天皇の和睦斡旋と信玄死去のおかげだし、超幸運に見舞われた棚ボタがあっただけにすぎんし
あれだけの国力を持ちながら信長に1万しか兵が集まらなかったのは対武田の三方が原や志賀の陣で織田軍が主力を壊滅させられたのが理由としか考えられんし
信長の天才っぷりどころか、信長の戦下手を証明する材料にしかならんよ。
ピンチを脱出できたのも朝廷に土下座して和議を仲介したのと、信玄の死に救われただけで、ますます信長の能力とはかけ離れた棚ボタのおかげだし。
つかその局面で信長の才能が発揮されたというのならどのように発揮しどう乗り切ったかを史料付きで詳しく頼むわ

74 :
>>滅亡寸前の状況から信長が戦術的勝利によって大逆転
はっ?何それ?
そんな合戦ねーよアホ

75 :
チート尾張斯波家継ぎながら幼君でガタガタの斉藤領火事場泥棒しようとしたらまけまくり
長島侵攻では3回も敗北し餓死寸前の一揆勢数百を騙まし討ち&数万の大軍で一門10人以上殺されるなど負けまくり
本願寺攻めでも大苦戦し武田にも上村合戦や東美濃攻防で敗北し信玄在世中は追い込まれる一方で滅亡確定、
最後は光秀に殺されて死んだのが信長
最貧国甲斐から二倍も国力ある信濃を山之内上杉や長尾が介入してくる中切り取り
信濃山間や上野山間などキツイ城トップクラスの所をガチンコで落としまくり
最強家康に死の恐怖与え織田家トップ格の佐久間水野平手滝川を蹴散らしまくり
駿河も自国より国力上の北条+今川から切り取り北条の大軍大破して150万石まで領土広げた信玄
どうみても信玄>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>信長でしょ。
信長が甲斐に生まれてたらきつい城ランキングトップクラスが立ち並ぶ天嶮の信濃の城をほとんどおとせず終わっただろうし
山之内上杉か諏訪あたりに蹴散らされて終りでしょ。史実で弱体化したクーデター騒ぎの幼君斉藤に負けまくり
長島侵攻戦でも何回も大敗し、餓死寸前の一揆勢数百を数万で騙まし討ちにしたら一門10人以上殺される雑魚だし
信濃の拠点落とせるわけがない。

76 :
妄想主張とレッテル貼りのアスペルガーだがが勝てない理由がわかりました

77 :
結局>>68の行動を取る菅沼君であった
君がそんなことばかりしているからアンチ武田が増えるってが理解出来ないのかねえ

78 :
>>71
神信長wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
やっぱ駄目だお前。
菅沼君は今、信長に入れ込んでるのか。
狂信者に話は通じない。このスレから出てけよ。
自分批判はすべて菅沼 ←こんな奴が批判されないとか、このスレ織田厨しかいねえな。

79 :
武田厨にとっては、だがさんは英雄なんだろうな

80 :
>>79
ふざけるな
あれはキングボンビーのような疫病神

81 :
>>77
は?自分の発言に何突っ込んでんの?
>>79
英雄なわけねーだろ。
アレのせいでキチガイ織田厨が歓喜し、純粋な武田好きは被害を受けた。

82 :
アスペルガーだがが織田厨だったらどんなによかったことか

83 :
アスペルガーだがが織田厨だったらどんなによかったことか

84 :
>>82
そうやって煽るのは織田厨と同じ。
そもそもアスペルガーだがが存在しなきゃよかった。

85 :
>>81
それは違う
レスしてもアスペルガーだがと同一人物と思われるのが屈辱だから武田のことが書けなくなった
諸悪の根源はアスペルガーだが一人だけ

86 :
>>84
すまん
織田厨の人たちが悪いわけじゃないよな
アスペルガーだがが上杉毛利北条島津伊達徳川豊臣厨房そして中立も全て織田厨扱いだったからな

87 :
まあアスペルガーだが一人だけがクズということが伝わればそれでいい
武田厨と織田厨はいい人

88 :
>>78
菅沼理論通りだと神信長になるという皮肉だよ
それくらいわからんかねえ
君が仮に菅沼君と別人だとしても皮肉もわからない時点で同じアスペルガーと思われても仕方ないぞ?

89 :
>>88
皮肉()
俺には狂信者のお前が感情的になって「神信長」と書いたのを今になって必死に否定してるだけにしか見えない。
あと、俺は>>78と同一人物。
回線だかプロパイダだかの関係で書き込むたびIDが変わるのはすまないと思っている。

90 :
>>89
コテハンになればいい
三好斎藤スレに自演荒らしが一匹いて最悪だった
あんな馬鹿な展開を避けるためにもお願いします

91 :
>>90
付けた。

まぁ結局は菅沼を相手にしなければ解決することだな。
菅沼議論はさっさと終わらせよう。

92 :
>>91

菅沼遼太=アスペルガーだがを相手にしないのはいいが
そうすると駄々捏ねて長文コピペ連投爆撃が始まるからそれも面倒だな

93 :
>>92
とりあえず放置でいいんじゃね?
すでに7氏も言っているが結論なんか出ないし

94 :
司法の闇 「特定秘密保護法違反」で市民が逮捕される日
http://www.shinmai.co.jp/news/20131104/KT131102ETI090015000.php
特定秘密保護法は非常に危険

95 :
都合が悪いので、テンプレをコピペと涙目で言い換える織田厨の虚勢っぷり…

96 :
>>89
んー・・・・アスペルガーと言われたのがそんなに応えたのかな?
勝手に私が必死だとか妄想しているし
私のレスをよく読めば本気じゃなくて皮肉だってすぐにわかりそうなものだけどねえ
それとも菅沼君の「信長は滅亡寸前だった」というのを擁護するために下手な挑発しているの?
つーか君のレスからは菅沼君と同じ臭いがプンプンするんだけど?
彼の得意技は自演だからねえ
まあこれは私の勝手な妄想だけどね

97 :
要するに敬愛する偉大な主君信玄が撤退したので絶望した義昭は畿内から去る
考えたが、ただ京から去るだけでは外聞が悪い。
そこで金銀兵糧全てを使い要害の二条城からボロ城の槙島に移ったと、
ちょうど都合がいいことに1万の乞食兵に恐れおののいた大阪本願寺と毛利が
支援を打ち切ったのも幸いした。
後は三好や松永朝倉や北畠などの包囲網勢力が援軍に来る前に降伏すればいい、
そう考えて挙兵してソッコーで降伏したと。

98 :
>>96
菅沼、菅沼と… 前スレにもお前はいたな。
丁寧語もどきを使って冷静さを装っているのはわかるが、自分のIDを見てみるといい。
冷静な口調に反して真っ赤だ。
世界も、このスレもお前が中心じゃないんだよ。自分批判は全部、菅沼。この考えはもう捨ててほしい。
菅沼は嘘と捏造だらけのキチガイ糞野郎なんだろ?
そんな奴から、正当な回答が返ってくると思ってるのか?俺は思わない。
だからお前ももう、菅沼にかまうな。これで解決するんだよ。
捏造コピペとかいうやつも無視しろ。皮肉で信長や信玄を神扱いしたり、凡人扱いするのはやめろ。
いい加減大人になれ。

99 :
菅沼認定も狂信者認定も似たようなことしてんだから仲良くしろよ

100 :
アスペルガーだが(菅沼遼太)一人のために争うのもバカバカしいと思うので双方落ち着け煽り合うな
ID変更対策 ◆Z7hEhMqnC6 氏の発言を見ると
>>89
>あと、俺は>>78と同一人物。
>回線だかプロパイダだかの関係で書き込むたびIDが変わるのはすまないと思っている。
これを見る限りアスペルガーだがの自演荒らしは
>>70
>>72
>>73
>>74
>>75
この辺りだろ?
ただID変更対策 ◆Z7hEhMqnC6 氏のこの発言は撤回しろ
こんな煽りを入れたお前が馬鹿だ
反省文を書け
>>78
>菅沼君は今、信長に入れ込んでるのか。

>狂信者に話は通じない。このスレから出てけよ。

>自分批判はすべて菅沼 ←こんな奴が批判されないとか、このスレ織田厨しかいねえな。
これじゃアスペルガーだがと思われても文句は言えまい
ID:svqXKaPc氏もただID変更対策 ◆Z7hEhMqnC6 氏が反省文を書けば納得できるんじゃないか?
ID変更対策 ◆Z7hEhMqnC6 氏が反省文を書いたらID:svqXKaPc氏も和解しろ
これで手打ちでどうだ?


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