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黙示録の獣とは、どんな人物か?

 =禅=


1 :2019/09/11 〜 最終レス :2020/05/13
曹洞宗・臨済宗 坐禅修行をされている方、
坐禅に興味のある方集まれ!

大いに語り合おう!

2 :
坐禅されている人は、こちらえどーぞ。

3 :
十牛図」とは、逃げ出した牛を探し求める牧人を喩えとして、牛、すなわち真実の
自己を究明する禅の修行によって高まりゆく心境を十段階で示したものです。
http://www.kouitsu.org/ext3.html

4 :
「数息観」というのは、坐禅を組んで、静かに自分の息を数える修行の方法です。
これは古来印度において昔から行われた 精神修養の方法で、
「安楽の法門なり」ともいわれています。それが仏教と共に中国に伝わり、
さらに日本に伝わって来た もので、いわば三つの国を渡ってきた
心身の修養鍛錬の方法であります。
https://www.ningenzen.jp/susokukan.html

5 :
意の根というものがある。それがどうしても取れない。それは子供の時、知らんうちに思い込んで、その思い込みを育ててきたんじゃからどうしようもないんです。
 迷ったことを知らんのですからそれを取り除く方法が分かりようがない。
 それを釈尊が本当に徹見せられた。お茶を飲んだら、お茶の味がする、これが釈尊の到達された境涯です。救われている、成仏している。ご自分の様子をごらんになって、人々を救う道はここにある。救われる道は、これ一つ、他に救いようがない。
 どんなに世界の人がジダンダ踏んでみてもどうしようもない。それは、いつも云うように、理性に訴えて、そして理性をもって整理してみても、自分が整理したことまでみんな知っておる。それだから、どうしようもない。

6 :
見えないものを、見たように作ってみせても、それまで自分が知っておる。
 自分を自分でごまかせない。人間は基本的にそこまで正直であるのだが。そういうところに本当に人類は苦しんでいる。苦しみの根元はそこに在る。
 それを根本から救う道が仏道である。自分自身に正直であれば必ず忘自己の時節はある。徹する。
(井上義衍老師語録 pp.8-9)

7 :
 見ずに、美しいと言わないで下さい。聞かないのに、つまらないと言わないで下さい。
 私達はいかなる立場であれ、どのような状態に置かれていても、今という生活の欠けている人はおりません。皆必ず今という生活の上で生きております。この片時も離れることのない自己の身心の所在です。
 これを現成といいます。
 すでにあるんです。好き嫌い、善悪をいうまえに。
 それを受ける、それと出会う、それと共に時を同じくしたり、場所を同じくしたり、人を同じくして生きています。ここに公案といわれる、逃げも、隠れも出来ない立場での一人一人のあり方があります。相手にせざるを得ない。他人事では済まされないあり方が公案なのです。

8 :
 “あなたならどうする”
 “あなたならどうする”
 考えて、考えて、考えてどうにもならなくなった時でも、この私からは逃げられない。
そのような中にあって、道元禅師をはじめ祖師方は、どうしたのだろう。
間違いなく、考える前にある事実を考えでなく事実に率直に学んでみたのです。
自分の見方を使わずに。それが非思量といわれる、すごし方です。
これがないと、坐禅は、蝉のぬけがらになってしまいます。
現成公案は、だれしもの、抜き差しならない今が、私達が思っているようなものかどうか、
もう一度自分自身の上で確かめることです。
(井上義衍老師語録 pp.10-12)

9 :
>>1

【野良】悟りスレ【元柿猫】
https://rio2016.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1567855544/

【坐禅】白隠禅師【和讃】
https://rio2016.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1562610865/

坐禅と見性第131章輪に成って肩を組み歌い踊り笑いあう
https://rio2016.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1559127492/

坐禅と見性 第百十九章「胡乱より後三十年、塩?を少かず」
https://rio2016.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1539424984/

10 :
犬には仏性がない。
人間にも仏性がない。
なんでか。
無字の公案である。

11 :
公案と只管打坐
「坐禅中、例えば正身端坐になりきろうとか、無心になりきろうとかして、何かになりきろうとしますが、
そういう態度による坐禅はよろしいのでしょうか。」という質問に対して、次のように答えている。

「最初の人はね、この自分を捨てるというと、捨てなければならない、
それを用いてはいけないのだという事になると、それをどうしようかという事が起こる人がある。

そんなこと言ったってと力こぶ入れるような人には、それで共死させればよいんです。
思いを持って、思いと共死すりゃいいんです。思いによって心中させる、
それが「趙州の無字」の公案でしょう。「白隠の隻手の音声」というのもそうです。

「考え方でどうしろといったって」、
「そんな事していて駄目じゃないか」という考えを持っている人があるから、
力こぶを一所懸命入れたい人には、それを与えて、
それによって相撲をとって、自分で力を失って倒れるまでやらせるのです。

そうすると必然に只管(しかん)という事に落ちてくるのです。
それで公案の方法もいいのです。だから人によるのです。
人によってはなりきる方法を用いさせるという事もいいです。
どれでもやれるんです。最終的にちゃんと分かっているのですからね。

それだから、私共はそういう風な事をせずに、要らない所で力を費やして苦労すると、間違うと発狂するのです。
それを真剣になってやってですね、やってやってやりきっているのに、なおそれを、「何してる、そんなつまらない事を」とやられると、場合によると発狂してしまう。
白隠の下で発狂したのが出たのはそれです。それは責めるからです。

それでこの曹洞系統でやっているのが良いのは、一つも責めないから。
理由を皆、知らせて、それで理由が理解できていて、やる方法もその通りにはっきりしていて、それで自分でそれが本当にやれるか、
やれないのかというだけなんでしょう。
(続く)

12 :
(続き)
それだから淡々として本当にやれるんです。もう絶対にそれで発狂するような事は起きてこないんです。そういう違いはある。

気の強い人なら(公案でも:注)いいです。
叩けば蹴り返すような気の強い人ならいいですが、
気の弱い人ならいっぺんに発狂する。それも注意しなければいけないのです。」

井上義衍「禅・もう迷うことはない」光雲社、1999年、135頁。

13 :
12.もう迷うことはない、か。
それならば、坐禅もしない、だろう。
大爆笑である。

14 :
>>13
キチガイw

15 :
坐禅をする時の心がまえというのは、内からも外からも、何がどうあろうとも、
それを善いとか、悪いとかいって手を付けずに、そのまま捨てておきなさい。
ただそういうことです。
 
それをやりますと、次第に、あっても気にかからぬようになる。
気にかからぬようになると穏やかになって、ただ事柄のみが在るようになる。

まだ事柄を知る自分がありますけれども、そういうものまでも、
やがて何処かにおいて本当にということ、自己を忘ずるということがあります。
そういう縁を結ぶということがある。
つづく

16 :
その後も、ただ縁に触れて動いているのみにして、別に問題がないということがありますから、
悟る前の様子と悟ってから後の様子が、いっぺんに完成するような方向で弁道してもらっているということです。
 
祖師方は皆、そういうふうにされて来た。
何の為ということはない。赤子は何の為に食べるのか、見るのか、泣くのか、動くのか、大小便をするのか。
目的がなければ生きがいがないのか、いや気や、いい加減にしか、しないのか、不足があるのか。

更に自己を立てて向う処がない。大人は思うことを縁として邪推するから迷いの元となる。
赤子は堂々とこれをやってのけている。
(井上義衍老師語録 pp.13-14)

17 :
坐以外の禅に興味があるのだが

18 :
長井自然老師 法話 H30.8.26 1/10 〜これが坐禅〜
https://www.youtube.com/watch?v=Ld1DxiYGSB0

19 :
>>17
ありえん。公案も坐で練っていく。
知的理解の答えはない。

20 :
19.知的理解以外の答え、はない。よ。
15.自己を忘ずる、ことは、知的理解である。痴呆症となる、ことではない。
大爆笑である。

21 :
任せる。「任せる」ということは、自分のほうから、何かをすることではないのです。
 (打掌して)「ポン」これが耳に任せたという状況です。

「ポン」これは耳に任せているということです。音がするだけです。
 聞くとか、特別何かをするような気配はない。

耳という道具自体に任せるということは、このように音がしたから聞こえるだけです。

六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)という、
この道具立て自体に全部任せてしまえばいいのです。

つづく

22 :
道具立てというのは、この身体の機能のことです。

眼は、ものが見えるように出来ている。耳は、音が聞こえるように出来ている。
鼻は、香りが分かるように出来ている。舌は、味がするように出来ている。
身体は感触がするように出来ている。

意、つまり心はものが思えるように出来ている。

それを全部、それ自体の働きに任せておく。
自分で、自分の好き嫌いで使うことをしないのです。

つづく

23 :
すべてが、その通りにあるだけです。
それが修行の着眼点です。

今、ある。そのものによらなければ、そのものは絶対に分からない、
という基本的な勉強の仕方を忘れているんじゃないですか。

自分自身というものを本当に知りたかったら、
自分自身に向かう以外にない。
古今東西の聖人たちが、必ず歩んできた道です。
(井上義衍老師語録 pp.15-16)

24 :
お、新スレか、がんばれ、

最近、坐禅軽視生活だな笑。
1月後には坐禅ライフだな、きつと・・・・・。

25 :
心に不安がある人は恩田尊師の指導を受けましょう。

https://ameblo.jp/onnchou/entry-12524221272.html

26 :
23.自分自身はない。
無我である。
自分自身に向かう、バカである。
大爆笑である。

27 :
>>26
自分自身がないと言っているのは誰かな。

28 :
気に入るものもあるが、気に入らんものもある。あるということは、
どちらも問題にならず自分のところに現成している。

迷おうとおもうても迷われんように出来ている各自の今の在り様です。
それ程、はっきりした確かな道があるということです。

ところが長い間の悪習慣があって、一念心というものがチラッと動くと、
それに依って考え方に落ちる。それだけ立脚地が違うということです。
凡聖の分れるところです。

29 :
事実は同じ生活、同じ生活者。自分自身の全身を挙げての必然性に任せて、
必然性の良薬をおあがり下さい。そうすると必ず救われる。それが仏法の教えです。

自分に持ち合わせておる五つの機能、如実に活動する五つの機能、
目、耳、鼻、舌、身、五つの器官を通じ確実に残りもののない活動をしている
実物を本当に見てもらう。考え方を捨てて。


考え方と事実との違い。誤りを起こす根源は、人が気に入る、入らんに関係なくある。
その事実から離れて、考えの上で事実を眺める。あるということは、みな自分の消息です。
 

30 :
初めて聞く、その音が、今、自分のところに直にある。実に微妙な、すばらしい人の本来の面目です。
こういうことは、考えることでも、理解することでもなく、
今の各自が触れている事実、その実証が欲しいのです。

(井上義衍老師語録 pp.17-18)

31 :
27.身心脱落した道元である。
大爆笑である。

32 :
此の身即ち仏なり

33 :
32.犬には仏性がない。
人間にも仏性がない。
なんでか。
無字の公案である。

34 :
「ドン」これが皆さんの命の根元です。これが分かるといいんです。
何も知らんものが(人の誕生)、知らんなりに、知らん世界にゴロッと出てきたら、
出てきたまんまに、いきなり環境と共に、否応なしに一つになって(同化して)、
動くように出来上がっておる。それが人の真相です。

生まれながらに出来上がっている大道としての働きを、本当に我がものにするには、
長い間苦心したとか、今、始めて聞く人であろうが、「ドン」この音を聞くのに、
時間も経験も、老若も新旧も全く関係ない。一様にみなコロッとそうなる。
そんなに確実な道がある。それを仏道というのです。

35 :
生まれながらの必然性としてのものと、後天的な修養に依って得られたものと、
その際(きわ)が出来るんです。

そこに本当のものと、偽物といったことが伺われるところがある。
坐禅をするということは、自分の考え方で一切細工をしないことです。

細工をしようとする、それを一切止めることです。
「ドン」、机を叩くと、そういうことが、いきなり在るということです。

36 :
このもの(自己)が、そのようにコロッと、人の考え方を飛び越えてコロッとそうなる。いつでもそうです。
「心頭を滅却すれば、火も亦涼し」というのもそうです。
熱い時に熱いということです。誰が熱いと言わせておるか、人がいないんです。

(井上義衍老師語録 pp.19-21)

37 :
「どうしようか」「こうしようか」と悩んでいる、と。
それは通常迷っている、悩んでいることだと思っている。
そうじゃない。少しも迷っていない。そういうことを知ってもらいたい。

「どうしようか」という時、「どうしようか」ということがあるだけ。
「こうしようか」という時、「こうしようか」ということがあるだけです。
 
いろいろ、その先のことを考える。迷っているんじゃなくて、考えの中にいるだけです。
考えの中で生活しているだけです。迷っているのではない。

38 :
これからやることがあるから考えるのであって、
やらないんだったら考える要はない。
 
「石橋を叩く」という話がある。あれは渡るために叩くんです。
渡らないのなら叩く要はない。
 
今の自分の在りようです。

考えとしての働き、その動きに教えられればよい。
動きとしての事実に教わればよい。その動き対して考えが動き、
考え方で取り扱うのが人の常。
 
「痛い」ということ、「困ったな」ということがあっても、それに迷うということはない。

(井上義衍老師語録 pp.22-23)

39 :
>>33
坐禅するワン♪
https://i.imgur.com/eOz2aXg.jpg

40 :
39.公案には答えられないバカ丸出し、である、か。
大爆笑である。

41 :
相変わらず俺様は禅をなまけて、古き日本土着仏教廻国聖、巡礼山伏、巡礼聖の世界観を探求しているのであった・・・・・・笑。

42 :
立禅 基本
https://youtu.be/AWLVVHWvgx4

43 :
坐禅をするということは、どういうことをするのかといいますと、
一切のものを無条件で、そのまま受け入れて、なんともない人になるんです。
それが坐禅の本質です。 

考え方で、ああの、こうのと言っていれば切りがない。
それじゃからそんなものを一切問題にせず、
問題にしようとする主体を離してしまうのです。

問題にする主人公、それを離してしまうんです。
そうすると、縁のいかんを問わず問題にしなくなる。

相手の世界を問題にしなくなる。
相手の世界が問題にならなくなるだけ
自分自身の真相が明らかになってくる。

そうすると、ただ、そのことがそのこととしてあるのみであって、
それが人と言われておる私達の実体である。

(井上義衍老師語録 pp.24-25)

44 :
本当に妄想が止みますと、縁の如何を問題にしなくなる。
相手の世界を問題にしなくなる。

相手の世界と思っていたものが相手でなくなる。
それだけ自分自身の真相が明らかになってくる。
 
そうすると、ただ、そのことがそのこととしてあるのみであって、
それが私達、人といわれているものの実体である。

人間の考え方がどうであろうと、否定しようが肯定しようが、
そういう考えに全く関係なく事実がある。

45 :
人とものとの関係において、いちいち、ものが現れ、現れては消え、消えては現れる。
その様子が分かる。

人間の従来の考え方を持って自分を守っておるということは、
それだけ道から離れておることなのです。

五感(眼、耳、鼻、舌、身)というものは正直なものですから、
その縁を縁のままに受けるんです。
ただそのまんまに受けられるようなところまでゆけば大丈夫です。
 

46 :
ところが、私どもはそこまで本当にいかんのです。
縁に触れると、それにすぐ心がついて動いてゆく。そういう憂いがある。
そういう点を大いに警戒しなくてはいけない。

人のために何か言いたくてしょうがない、
やりたくてしょうがないという、
そういう気持ちが先に立ちますと
いきおい自分の修行はできなくなる。

(井上義衍老師語録 pp.26-27)

47 :
『兀兀(ごつごつ)として坐定して、箇の不思量底を思量せよ。
不思量底、如何が思量せん。非思量、此れ即ち坐禅の要術なり』(道元禅師 普勧坐禅儀)
 
『兀兀として端坐すべし。此に於て箇の不思量底を思量す。如何が思量せん。
謂く非思量、此れ即ち坐禅の要法なり』(螢山禅師 坐禅用心記)
 
道元禅師は坐禅の要術と示され、螢山禅師は要法と示されておりますが、
いずれにせよ、「坐禅をされる中で最も重要なこと」と受け止めて下さればよい。
 
坐禅というものが正しく伝わり、実践してもらっているかというと、
はなはだ、おぼつかない気がします。一番大切なことは、坐禅中(日常の生活も)
どのようにして過ごしているのか、そこを大事なこととして伝えてゆくかです。

48 :
坐禅堂での作法や、姿勢、息の整え方等を学んで、 一応形もでき、静かに坐って、
それで終りでしょうか。こういうところを自分のこととしてよく見て下さい。
 
人の機能が機能として純粋に活動している、今ある事実が事実のまま。
それに思いを起こさずにいる時の自分の在りように、きちっと目を向けて、
その事実を見逃さないようにしているということが、不思量底を思量するということです。
そこを間違わないでいただきたい。

(井上義衍老師語録 pp.28-29)

49 :
坐禅中、何も考えず只坐ればよいと、よく言われますが、
只、坐るとは、どう言うことなんでしようか。
道元禅師は 「不思量底を思量せよ」と、申されております。
 
人の考え方を用いないと眼前のものが見えないでしようか。
考え方を用ゆる前に、すでに眼に映じています。
車の音、人の声は如何ですか。
 
禅堂に入ると、お香のかおりが人の思量にかかわらず分かるようになっています。よく観て下さい。
是の如く不思量の生活です。不思量とは事実の生活の様子です。
 
私の、この身の働きを以って自らを試験台にして、
不思量である自らの様子を思量を以って実証することです。事実に学ぶことです。
 

50 :
この不思量底の自らの在り方を、自分自身の上で、はっきり知ることが大切です。
これが出来ないまま、只、坐っているのでは
本当に人の計らいを離れている自分の在り方を誰れが実証するのですか。
必ず私を通してのみ知り得ることです。
 
“即”と言われるのは、必ず自らを以って言えることです。
仏祖方の坐禅は、このようにしておられます。
 
「仏道を習うというは、自己を習うなり」と言われるゆえんです。

自分自身を離れ、即今の事を離れて学ぶことは出来ないことです。
ご自分のことですから、自分がどのようにして坐っておるのか、しっかり観て下さい。

(井上義衍老師語録 pp.30-31)

51 :
48.事実、か。
事実バカである。
それは宗教ではない。

52 :
テレビの声が聞こえる。そういうことが自分のところにある。
どうしたんでもないのに聞こえている。それが不思量底なんです。

あなたの考えに何も関係ない、考え方で声があるんじゃなく、
考え方を飛び越えた事実が「今」ある。その事実に教わるんです。

今は自分を認め、相手を認めた上の生活。
もう少し本当に勉強していただくと、
相手の世界というもののない生活があることが分かってくる。
「今」ある事実に触れてゆくことにより、相手の世界がなくなってゆく。
 

53 :
 
五感と環境の働きは、必然に考え方を飛び越えた大きな働き方をして いる。
この作用は無限に活動を起こす。

「今」の、その働き、そのものに教えられておいでになると、
自分のあることも、何もかも、すっかりなくなって、わからんほどに、
すっかり、ものと一如になって、一如になったことも知らずに生活しておる。
そうしたところに、図らずも縁によって、その真相が手に入るんです。

(井上義衍老師語録 pp.32-33)

54 :
実相に二つの姿はない。二つの姿がないからダマされない。
人をゴマかさない。苦労させない。

二つの様子があれば、修行してその様になる、
あるいは、今の様子はダメだから、それを取り除いて本当の様子になる、
そういう苦労と時間が必要になるかも知れないけれども実相には、そんなことはない。

55 :
それだから 「即心是仏」という。「道本円通」ともいう。
修証を仮らない所以である。

耳に聞こえる音に実体はない。その時の耳と音との様子で、その時に只聞こえるように出来ている。
音が止めば必ず影も形も、その音としてのものは無くなるように出来ている。
そういう自分の様子があって、そのように他人の話を縁としていただく場合には、
これは怒る対象にはならない。そのように縁が働く。
 
ところが、実体として、在るものとして見る時に、声や姿が入って来た場合には、
矢張りそれを実体の在るもののようにして執えてゆくから、いつも根切れがしない。

56 :
そういう見方しか出来ない。そうすると、実体のない果としてはいただけない。
実体のないサラッとした生き方はいただけない。

実相というのは、今の自らの様子、在り方だけです。
今の様子だから疑いようはない。次から次へ変化しつつ、今の様子はなくならない。

(井上義衍老師語録 pp.34-35)

57 :
人がものを見たというてみても、物があるというてみても、
変わったことがあるんじゃない。

自分以外のところに、カレンダーがあったり、山があったり、
花があったり、いろいろある。
 
全部よそのことのように思える。
いつからそうなったのか。

分別がそういうふうに見させているんです。
それは分別の世界の話です。
分別が止まると、一体感として、ただ自分の動きとしてのものなんです。
 

58 :
もの、そのものながら自分の様子であり、
自分の様子は、直にものの様子である。
 
そういうふうなことは、考えることではない。
眼があって見るのか、ものがあって見えるのか。
そんなことは人間が後から、いらん名を付けてみただけの話です。
 
全てあるということは、自分の眼に写っている内容でしょ。
自分の眼に写っているものを認識しているだけでしょ。
 

59 :
ものと一つになった経験のある人は、しっかりと観て下さい。
一つになったということが分かる時は、
少なくとも残念ながら二つなんです。
一つになったことは事実なんだけれども、
一つになったということも消えてしまうんです。

60 :
そこまでゆかんと相手(対象)が残る。
後で気付くことですから。
気付いた時に始めて、一つの時には一つということもなく、
見ていた自分も、ものも出てこない、全くない。
問題になるようなことが全くない。

(井上義衍老師語録 pp.36-38)

61 :
禅生活を送れる時代は太古の昔。
御託を並べても現代には通用しない。
原始時代の生活方法を解説するようなもの。
こんなものはまったく役に立たない糞。

62 :
自分で決めた心じゃ駄目なんです。自分の中で思われる働きを心だと思っていないか。
それは自分がつくった心に対する定義です。
 
お釈迦さまはじめ、悟りを開かれた方々が言っておられる
心に対する定義というものを把握しないとズレが生じる。
 
同じ心というものを言っていても共通理解ができない。
仏祖方が言われる「心」ということは、本堂に行けば行ったように、
柱に向えば向ったように、お経の声に接すれば接したように、
寸分のズレも間違いもなく、必ずその通りになる。
 
それを心と名付けておられる。自分を抜きにして一切は存在しない。
己の全活動であって他の活動は一切ない。その全活動を心というておられる。

(井上義衍老師語録 pp.39-40)

63 :
解脱をする上で、自分が物心ついた時点で、
この身心を「自分である」と知らずに思い込んだということ、
これが一番のガンなのです。

その思い込みというものが、今の考え方をもってしては、
どうしてもけりがつかんものです。
 
なぜかといいますと、認識それ自体の活動が、
そのものの根底、根源を知らんのです。

64 :
心自体が、自分の心自体の本性を知ることができないのです。
どこまでも分別で、分別を処理しようとする範囲ですから、
法としての存在である自分を見ることはできないのです。

そこに大きな問題があるのです。
それで、本当に人の見解から一度離れてしまってみると、
初めて分かるのです。

65 :
その時の状況をチラッと話しますと、
一切の人間的な見解というものを忘じ切って、
自他の関係もなにもかも本当になくなってしまうということが、
必ずあるものです。

66 :
その自他の関係を忘じ切ってしまった状態においての生活が、
わたくしどもの平常こうして行われておるときの状況です。

ですけれども、一度、自己を忘ずるということがないと、
うなずけないのです。

(井上義衍老師語録 pp.41-42)

67 :
66.忘れたらば、痴呆症病院に行こう。
大爆笑である。

68 :
我見をこれから離れるのではない。
 
我見の起こる前があって、その前が自分の事実です。
それが本当の私どもの心の在り方です。
 
我見といわれるものは、認識作用で何も実体はないのです。
空(くう)にする前に空であった事実が、そのまま 「ズバッ」と、みな。

それだけでいいんです。それをやると、
必然的に人我(にんが)の見(けん)というものが、みな離れる。

それが「道」です。それが坐禅の一番大切な様子です。

(井上義衍老師語録 p43)

69 :
人は知らずに生まれてきている。それが基本です。
知ったから生きているんじゃないんです。
知らずに生きている自分があるのです。
 
それが本当の人の在り方です。
それは永遠の在り方です。
 
そういう永遠の在り方、
そのものに徹するということが本当に必要なんです。
 
徹するまでは 「わたしが」という人間を認めておったんです。
その苦しみを逃れる要件を見つけて、
それを土台にしてどうかしようとする。
 

70 :
これは人間的な影が残っているのです。
そういうものがすっかりなくなってしまうものです。
 
それですから古人が、歌にこういっている。
「主なくして、見聞覚知する人を、生き仏とは、これをいうなり」
主人公はおらんのです。

「身の破れ、果てたるときの心こそ、実に万法一如なりけり」
 
六根、六境の働き、一切詮索することをやめて、
ただ機能と環境との関係にうち任せる。

71 :
法性というものは、法の性質です。
法といわれるものは、もともと、場所も、位置もあるんじゃないんです。
空寂です。本当に何も存在しない。

修行の眼目は 生まれながらのこの本来の相(すがた)に接することです
参ずるということは承る。

自分自らがそれに承当(じょうとう)する。
自性に徹することです。
徹しているものを妨げておるものが、人の心意識です。
その心意識を用いることがなければ、そのものは、いつも徹しておる。

(井上義衍老師語録 pp44-46)

72 :
説法というのは、人のことを聞くんじゃないんです。
自分のことを自分で味わう様子が説法の様子です。
 
それですから「本性の理」というんです。
「本性の理」というのは、決して人の鼻を借りて呼吸をすることはできないんです。
各自、人々分上(にんにんぶんじょう)、自分の鼻で自分で呼吸しておる。
 
だから、どのようなことが、どのように起こってみても、
決して他人のことじゃないはずです。私が話しているようなんですけれども、
その実、私の声があるということは、各自、ご自分の様子です。
 

73 :
法それ自身が、法それ自身として活動しておる。
大道それ自身が大道それ自身として活動しておる。
生命をかけての大問題です。

自己を忘じ切ったところにおいて、
自己なくして行なわれる様子がある。

私が手を打てば、「ポン」、どうしても、みなさん、
そうならなければならんようにできあがっておるんです。
「ポン」どうですか。

74 :
それが本来の面日です。すでに是の如く他に行き場はないんです。
そうなりたい、それが問題です。修行において長い間の苦労というものは、
ただ、この一念、そうなりたいと思う念が起きたために、
どうにもならない状態であったということです。

(井上義衍老師語録 pp.47-48)

75 :
眼耳鼻舌身意という道具立て、それに対して、
色声香味触法という境(きょう)とを対象に見せてあるんです。
 
境というのは、どういうことかといいますと、
どうもせん、どうも思わんのに、向かえば、縁に触れれば、
そういうことが動くように出来ているんです。それが法です。

(井上義衍老師語録 p49)

76 :
庭掃きをしている時「今、何をしているのか」「誰が掃いているのか」と。
分かり切っていると思われることを問われると、
本当は分っていないから、何かあるんじゃないかと念が走る。
 
在りのままとか、平常心とか、今が大切とか、
言葉を知り、理解しているつもりが、全く判らなくなる。
 
この問は、それぞれ皆さんに問われていることです。

只、今の動きだけがある。それを受ける人がない、
自分が立たない、理屈は知っていても自分自身のこととして
自問自答してみると役に立たない、全く哀れな様子である。
 

77 :
今、生活をしている、自分の生きている、
今の真只中の様子の上の話でなければ話にならんのです。
 
自分という自我意識、自己を認めるようなものが、すっかり姿を消す、
自我が死にきる。そのために仏祖方や先輩たちは二十年三十年と黙々と、
ただこの一点だけで修行をされたんです。
 
本当に、今の様子に一度徹底したらよい。それがきちんと胸落ちをする。
そうすれば誰れの力も借りることなく大安心の生活者となる。
仏法を論ずる時、そういうことが基本になっているはずである。
本気になれば誰でも出来る道です。

(井上義衍老師語録 pp50-51

78 :
「世の中に雪ほど黒いものはない」
 
皆さん如何ですか。

79 :
「世の中に雪ほど黒いものはない」
 
皆さん如何ですか。

80 :
耳は、「それはおかしい」とは言わない。
聞くのに他人の耳に用はない。生涯自分自身の耳で生活をする。

その時の様子は寸分違わない。二つも三つもの聞き方などない。
それが、人が迷わないように出来ている証明である。何の不足もない。

81 :
眼が雪に触れる時、眼はごまかされはしない。
必ず、その通りに映るように出来ている。

「雪ほど黒い」と聞いて記憶したものと、雪は白いものと記憶したものとが、
自分の頭の中で矛盾を起こす。どう言うことだろうと探るようになる。
 
触れた通りの動き、理屈も何もない、
確実に文句なしの実物である。そのことに用がある。
 

82 :
世の中のことを、あるがままに知ることは難しい、と人は言う。
自分自身の生(なま)の姿を知るには、必ず今を用いる。
必ず自分自身を用いる。いきなりという知り方をする。
 
禅は難しい、修行は時間がなくて出来ないと、よく言われる。
「今」「自分自身」「いきなり」何時でも何処でも場所を選ばない。
決して難しいとは言わせない。

(井上義衍老師語録 pp52-53)

83 :
82.あるがままに知る、ことはありえない。
バカには理解できない。
大爆笑である。

84 :
ポンという音は事実で、これ自体には意味がないのにあなたは考えようとする。
考える以前にこの音はあるでしょう。
 
自分が聞いているんじゃない、ただ聞こえているのです。
つまり、この音は自分を離れた活動者なのです。
坐禅をすればわかります。
 
すべての作用が観念的なものではなく、
本質的に無我なものであるということが解ります。
やってみてください。

(井上義衍老師語録 p54)

85 :
相手の世界というのは、こっちへ、自分という標準をおくから出てくるのです。
主観と客観というようなことが云われるんです。

ところが、よく見ますと、眼でも、向こうのものを見る時には、
その向こうのものが《ある》だけです。
それと比較しようと思うて、こっちを見た時には、向こうのものは《ない》んです。

86 :
人間は観念で、二つのものを並べて、それを比較して云々いうんです。
けれども、事実は比較できないように出来ているんです。
それが私どもの真相です。
 

87 :
立つ時に立った、座った時に座ったんです。
この身体で立つことと座ることは同時に出来んのです。
対象を立てる習慣がついておるんです。事実に学ぶんです。

(井上義衍老師語録 pp55-56)

88 :
87.事実、主義か。
その事実を、どのように確定するか、の問題である。
坐禅で良い、か。
道元バカの登場である。

89 :
水が濁っておるから澄ましてやろうと思うて、手を入れてかき回すと、
なんぼでも濁るんです。ところが、かき回すのをやめてご覧なさい。
水は澄むんです。

それと同じで、人間の考え方で取り扱うのをやめて、
心の動きのままに動きっばなしにして、一 切いいとか悪いとかで、
どうかしようということをやめて、そのまんまの様子にまかせるんです。

長い間の習慣があるもんですから、大変なことかもしれませんが
活動自体を活動自体のまんまに、手をつけずに、
やりっばなしにすることが要(かなめ)です。
 

90 :
坐禅をするときには、自分を中心にして坐禅してはならんのです。
それを本当にやめて、六感を解放して、六感の作用がどうあろうとも

一切かまわず、かまわず、一々そのときそのときの作用のまんまに、
煩悩らしい作用が起きようが、立派そうなものが起きようが、かまわないことです。
その現じたり、滅したりする、それ自体が、あなたがたの手つかずの真相なんです。

(井上義衍老師語録 pp57-58)

91 :
最近「碧巌録」を読み始めたけど難しいな。

92 :
>>91

同じ場所に立っていてはいけない高速回転趣味だからね笑。
最近、すこし、そのコツを理解しだした笑。

井上義衍老師語録の方が楽でしょうね。

93 :
まともなスレ発見

94 :
日本は呪われてる
真敵・職人気質が格差の根元である。
ヤンキー、過激思想、サイコパス等の成れの果てが職人・職人気質です
その職人・職人気質が新たなヤンキー、過激思想、サイコパス等の悪種を生み出すのです。
職人、職人気質が格差をつくり、イジメを生み、犯罪を生み、戦争を生み、地域振興を阻害し、治安が悪化し国力が低下する。
職人気質を廃してこそ日本は平和かつ生産的かつクリエイティブな国家になれるのだ
職人気質は存在自体がパワハラです。緊急事態です。

職人気質は悪しき文化
http://mevius.2ch.sc/test/read.cgi/rail/1573270987/755

dkr

95 :
臨済録を読んだけど全然意味が分からないや。
捨てちまお。

96 :
俺のなりすましがトリップまで付けたまま

97 :
晒し

98 :
勃起が収まらない
これもほとけにいのちなんだな

99 :
糞カムイは変なスレを立てては中途半端にやめていなくなる。

100 :
禅とはでぃあーなだ。
それは通常だ。
異常ではない。


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