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ヤハウェ・イエス・キリスト☆🇮🇱イスラエル☆ニューエルサレム☆YHWH 77


1 :2018/02/05 〜 最終レス :2019/09/29
ヤハウェ・イエス・キリスト☆🇮🇱イスラエル☆ニューエルサレムYHWH 76
http://itest.2ch.sc/rio2016/test/read.cgi/psy/1513113326
前々スレ
ヤハウェ・イエス・キリスト☆🇮🇱イスラエル☆ニューエルサレムYHWH 75
http://itest.2ch.sc...d.cgi/psy/1506139036
始末スレ
ヤハウェ・イエス・キリスト☆🇯🇵イスラエル☆エルサレム☆YHWH
http://itest.2ch.sc...d.cgi/psy/1510637534

2 :
前スレが書けなくなったので、

続きを引用します。

3 :
十字架の言葉は、滅び行く者には
愚かですが、救いにあずかるわたしたちには、

神の力です。

すなわち、聖書に、「わたしは知者の知恵を滅ぼし、
賢い者の賢さをむなしいものにする」と書いてあります。

知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。
この世の論者はどこにいますか。

神はこの世の知恵を、愚かにされたではありませんか。
この世は、自分の知恵によって神を認めるに

至らなかったのです。それは、神の知恵にかなっています。
そこで神は、宣教の愚かさによって、

信じる者を救うこととされたのです。 ユダヤ人は
しるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求めます。

しかしわたしたちは、十字架につけられた
キリストを宣べ伝えます。このキリストは、ユダヤ人には

つまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、
召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、

神の力、神の知恵たるキリストなのです。
神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを
考えてみなさい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、

権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。

それなのに神は、知者をはずかしめるために、
この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、

この世の弱い者を選び、 有力な者を無力な者にするために、
この世で身分の低い者や軽んじられている者

すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのです。

それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためです。
あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、

神によるのです。キリストは神に立てられて、
わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられました。

それは、「誇る者はヤハウェを誇れ」と書いてあるとおりです。

4 :
続きはまた明日✨

5 :
イエス・キリストの御名を賛美しよう。

ハレルヤ🌌🌃CHRISTIAN.DINNER☆📦

6 :
ヤハウェなる父である神と

イエス・キリストの御名を賛美しよう、

ハレルヤ🌄🌴おはよう

ではみことばを引用します。

7 :
兄弟たちよ。わたしもまた、あなたがたの
所に行ったとき、神のあかしを宣べ伝えるのに、

すぐれた言葉や知恵を用いませんでした。
なぜなら、わたしはイエス・キリスト、

しかも十字架につけられた
キリスト以外のことは、あなたがたの間では

何も知るまいと、決心したからです。

わたしがあなたがたの所に行った時には、
弱くかつ恐れ、ひどく不安でした。

そして、わたしの言葉も わたしの宣教も、
巧みな知恵の言葉によらないで、

霊と力との証明によったのです。

それは、あなたがたの信仰が人の知恵に
よらないで、神の力によるものとなるためでした。

しかしわたしたちは、円熟している者の間では、
知恵を語ります。この知恵は、この世の者の知恵ではなく、

この世の滅び行く支配者たちの知恵でもありません。

むしろ、わたしたちが語るのは、隠された奥義としての
神の知恵です。

それは神が、わたしたちの受ける栄光のために、
世の始まらない先から、 あらかじめ定めておかれたものです。

この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、
ひとりもいなかったのです。

もし知っていたなら、栄光のヤハウェを十字架に
つけはしなかったでしょう。

8 :
しかし、聖書に書いてあるとおり、

「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に
思い浮びもしなかったことを、

神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」のです。

そして、それを神は、聖霊によって
わたしたちに啓示して下さいました。

聖霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるからです。

いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、
だれが知っているでしょうか。

それと同じように神の思いも、神の聖霊以外には、
知るものはありません。

ところが、わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、
神からの霊です。それによって、神から

賜わった恵みを悟るためです。 この賜物について語るにも、
わたしたちは人間の知恵が教える言葉を用いないで、

聖霊の教える言葉を用い、霊によって霊のことを解釈します。
生れながらの人は、神の聖霊の賜物を受けいれません。

それは彼には愚かなものだからです。

また、聖霊によって判断されるべきですから、
彼はそれを理解することができません。

しかし、霊の人は、すべてのものを判断しますが、
自分自身はだれからも判断されることはありません。

「だれがヤハウェの思いを知って、彼を教えることができようか」。

しかし、わたしたちはキリストの思いを持っているのです。

9 :
兄弟たちよ。わたしはあなたがたには、
霊の人に対するように話すことができず、

むしろ、肉に属する者、 すなわち、キリストにある
幼な子に話すように話しました。

あなたがたに乳を飲ませて、 堅い食物は与えなかったのです。
食べる力が、まだあなたがたになかったからです。

今になってもその力がありません。 あなたがたはまだ、
肉の人だからです。あなたがたの間に、

ねたみや争いがあるのは、あなたがたが肉の人であって、
普通の人間のように歩いているためではありませんか。

すなわち、ある人は「わたしはパウロに」と言い、
ほかの人は「わたしはアポロに」と言っているようでは、

あなたがたは普通の人間ではないのですか。
アポロは、いったい、何者ですか。また、パウロは何者ですか。

あなたがたを信仰に導いた人にすぎないのです。
しかもそれぞれ、ヤハウェから与えられた分に応じて

仕えているのです。わたしは植え、アポロは
水をそそぎました。しかし成長させて下さるのは、神です。

だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りません。
大事なのは、成長させて下さる神のみです。

植える者と水をそそぐ者とは一つであって、
それぞれその働きに応じて報酬を得るでしょう。

わたしたちは神の同労者で、あなたがたは神の畑であり、

神の建物です。」

10 :
神から賜わった恵みによって、わたしは
熟練した建築師のように、土台をすえました。
そして他の人がその上に家を建てるのです。

しかし、どういうふうに建てるか、
それぞれ気をつけなさい。なぜなら、すでに
すえられている土台以外のものをすえることは、
だれにもできません。

そして、この土台はイエス・キリストです。
この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、

または、わらを用いて建てるならば、
それぞれの仕事は、はっきりとわかってきます。

すなわち、かの日は火の中に現れて、
それを明らかにし、またその火は、

それぞれの仕事がどんなものであるかを、
ためすでしょう。

もしある人の建てた仕事がそのまま残れば、
その人は報酬を受けますが、

その仕事が焼けてしまえば、損失を被るでしょう。
しかし彼自身は、火の中をくぐってきた者のように、
救われるでしょう。

あなたがたは神の神殿であって、神の聖霊が
自分のうちに宿っていることを知らないのですか。

もし人が、神の神殿を破壊するなら、神はその人を
滅ぼされるでしょう。

なぜなら、神の神殿は聖なるものであり、
そして、あなたがたはその神殿だからです。

だれも自分を欺いてはいけません。
もしあなたがたのうちに、

自分がこの世の知者だと思う人がいるなら、
その人は知者になるために愚かになりなさい。
なぜなら、この世の知恵は、神の前では
愚かなものだからです。

「神は、知者たちをその悪知恵によって捕える」
と書いてあり、 更にまた、

「ヤハウェは、知者たちの論議のむなしいことを
ご存じである」と書いてあります。

だから、だれも人間を誇ってはいけません。
すべては、あなたがたのものなのです。

パウロも、アポロも、 ケパも、世界も、生も、
死も、現在のものも、将来のものも、ことごとく、
あなたがたのものです。

そして、あなたがたはキリストのもの、

キリストは神のものです。

11 :
このようなわけだから、人はわたしたちを、
キリストに仕える者、神の奥義を

管理している者とみなさい。

この場合、管理者に要求されているのは、
忠実であることです。 わたしはあなたがたにさばかれたり、

人間の裁判にかけられたりしても、なんら意に介しない。
いや、わたしは自分をさばくこともしません。

わたしは自ら省みて、なんらやましいことは
ありませんが、それで義とされているわけではないのです。

わたしをさばくかたは、ヤハウェです。
だから、ヤハウェがこられるまでは、何事についても、

先走りをしてさばいてはいけません。

ヤハウェは暗い中に隠れていることを明るみに出し、
心の中で企てられていることを、あらわにされるでしょう。

その時には、神からそれぞれ誉れを受けるでしょう。

12 :
兄弟たちよ。これらのことをわたし自身と
アポロとに当てはめて言って聞かせましたが、

それはあなたがたが、 わたしたちを例にとって、

「しるされている定めを越えない」ことを学び、
ひとりの人をあがめ、

ほかの人を見さげて高ぶることのないためです。
いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのですか。

あなたの持っているもので、もらっていないものが
あるのですか。もしもらっているなら、
なぜもらっていないもののように誇るのですか。

あなたがたは、すでに満腹しているのです。
すでに富み栄えているのです。わたしたちを差しおいて、

王になっています。ああ、王になっていてくれたらと思います。
そうであったなら、わたしたちも、

あなたがたと共に王になれたでしょう。

わたしはこう考えます。神はわたしたち使徒を死刑囚のように、
最後に出場する者として引き出し、こうしてわたしたちは、

全世界に、天使にも人々にも見せ物にされたのです。

わたしたちはキリストのゆえに愚かな者となり、
あなたがたはキリストにあって賢い者となっています。

わたしたちは弱いが、あなたがたは強いのです。
あなたがたは尊ばれ、わたしたちは卑しめられています。

今の今まで、わたしたちは飢え、かわき、裸にされ、
打たれ、宿なしであり、 苦労して自分の手で働いています。

はずかしめられては祝福し、迫害されては耐え忍び、
ののしられては優しい言葉をかけています。

わたしたちは今に至るまで、この世のちりのように、
人間のくずのようにされています。

13 :
わたしがこのようなことを書くのは、あなたがたを
はずかしめるためではなく、むしろ、わたしの愛児として
さとすためです。 たといあなたがたに、

キリストにある養育掛が一万人あったとしても、
父が多くあるのではありません。

キリスト・イエスにあって、福音によりあなたがたを
生んだのは、わたしなのです。 そこで、あなたがたに勧めます。

わたしにならう者となりなさい。 このことのために、
わたしはヤハウェにあって愛する忠実な

わたしの子テモテを、あなたがたの所につかわしました。
彼は、キリスト・イエスにおけるわたしの生活のしかたを、

わたしが至る所の教会で教えているとおりに、
あなたがたに思い起させてくれるでしょう。

しかしある人々は、わたしがあなたがたの所に来ることは
あるまいとみて、高ぶっているということです。

しかしヤハウェのみこころであれば、わたしは
すぐにでもあなたがたの所に行って、

高ぶっている者たちの言葉ではなく、
その力を見せてもらいましょう。神の国は言葉ではなく、力です。

あなたがたは、どちらを望むのですか。
わたしがむちをもって、あなたがたの所に行くことですか、

それとも、愛と柔和な心とをもって行くことですか。

14 :
続きはまた明日✨⭐

15 :
イエス・キリストの御名を賛美しよう。

ハレルヤ🌌🌃CHRISTIAN.DINNER☆📦

16 :
ヤハウェなる父である神と

イエス・キリストの御名を賛美しよう、

ハレルヤ🌄🌴おはよう

ではみことばを引用します。

17 :
現に聞くところによると、あなたがたの間に
不品行な者があり、しかもその不品行は、

異邦人の間にもないほどのもので、ある人が
その父の妻と一緒に住んでいるということです。

それなのに、なお、あなたがたは高ぶっています。
むしろ、そんな行いをしている者が、あなたがたの中から

除かれねばならないことを思って、悲しむべきではありませんか。
しかし、わたし自身としては、

からだは離れていても、霊では一緒にいて、
その場にいる者のように、そんな行いをした者を、


すでにさばいてしまっています。
すなわち、ヤハウェ・イエスの御名によって、

あなたがたもわたしの霊も共に、

わたしたちのヤハウェであるイエスの権威のもとに
集まって、 彼の肉が滅ぼされても、その霊が

ヤハウェのさばきの日に救われるように、
彼をサタンに引き渡してしまったのです。

あなたがたが誇っているのは、よろしくない。
あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体を

ふくらませることを、知らないのですか。
新しい粉のかたまりになるために、

古いパン種を取り除きなさい。
あなたがたは、事実パン種のない者だからです。

わたしたちの過越の小羊であるキリストは、

すでにほふられたのです。ゆえに、わたしたちは、
古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、

パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、
祭をしようではありませんか。

18 :
わたしは前の手紙で、不品行な者たちと
交際してはいけないと書きましたが、

それは、この世の不品行な者、

貪欲な者、略奪をする者、偶像礼拝をする者などと
全然交際してはいけないと、言ったのではありません。

もしそうだとしたら、あなたがたは
この世から出て行かねばならないことになります。

しかし、わたしが実際に書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、
不品行な者、貪欲な者、偶像礼拝をする者、

人をそしる者、酒に酔う者、略奪をする者があれば、
そんな人と交際をしてはいけない、

食事を共にしてもいけない、ということでした。
外の人たちをさばくのは、わたしのすることでしょうか。

あなたがたのさばくべき者は、内の人たちではありませんか。
外の人たちは、神が裁かれます。

その悪人を、あなたがたの中から除いてしまいなさい。

19 :
あなたがたの中のひとりが、仲間の者と
何か争いを起した場合、それを聖徒に訴えないで、

正しくない者に訴え出るようなことをするのですか。
それとも、聖徒は世をさばくものであることを、

あなたがたは知らないのですか。そして、世が
あなたがたによってさばかれるべきであるのに、

きわめて小さい事件でもさばく力がないのですか。
あなたがたは知らないのですか、わたしたちは

御使いをさえ さばく者なのです。
ましてこの世の事件などは、

いうまでもないではありませんか。 それなのに、この世の
事件が起ると、 教会で軽んじられている人たちを、

裁判の席につかせるのですか。 わたしがこう言うのは、
あなたがたを はずかしめるためです。

いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを
仲裁することができるほどの知者は、

ひとりもいないのですか。 しかるに、兄弟が兄弟を訴え、
しかもそれを不信者の前に持ち出すのですか。

そもそも、互に訴え合うこと自体が、すでに
あなたがたの敗北なのです。
なぜ、むしろ不義を受けないのですか。

なぜ、むしろだまされていないのですか。 しかるに、
あなたがたは不義を働き、だまし取り、

しかも兄弟に対してそうしているのです。 それとも、
正しくない者が神の国をつぐことはないのを、
知らないのですか。

まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、
姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、

貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、
いずれも神の国をつぐことはないのです。

あなたがたの中には、以前はそんな人もいました。

しかし、あなたがたは、ヤハウェ・イエス・キリストの
御名によって、またわたしたちの神の霊によって、
洗われ、きよめられ、義とされたのです。

20 :
さて、あなたがたが書いてよこした事について
答えると、男子は婦人にふれないがよい。

しかし、不品行に陥ることのないために、
男子はそれぞれ自分の妻を持ち、
婦人もそれぞれ自分の夫を持ちなさい。

夫は妻にその分を果し、妻も同様に夫に
その分を果すべきです。妻は自分のからだを

自由にすることはできないのです。

それができるのは夫です。夫も同様に自分のからだを
自由にすることはできません。それができるのは妻です。

互いに拒んではいけない。ただし、合意の上で祈りに
専念するために、しばらく別れ、

それからまた一緒になることは、さしつかえありません。
そうでないと、自制力のないのに乗じて、

サタンがあなたがたを誘惑するかも知れない。
以上のことは、譲歩のつもりで言うのであって、

命令するのではありません。

わたしとしては、みんなの者がわたし自身のように
なってほしい。

しかし、ひとりびとり神からそれぞれの賜物を
いただいていて、ある人はこうしており、他の人はそうしています。

次に、未婚者たちと、やもめたちとに言いますが、
わたしのように、ひとりでおれば、それがいちばんよいのです。

しかし、もし自制することができないなら、結婚しなさい。
情の燃えるよりは、結婚する方が、よいからです。

21 :
更に、結婚している者たちに命じます。
命じるのは、わたしではなくヤハウェですが、

妻は夫から別れてはいけない。

しかし、万一別れているなら、結婚しないでいるか、
それとも夫と和解するかしなさい。

また夫も妻と離婚してはならない。 そのほかの人々に言います。

これを言うのは、ヤハウェではなく、わたしです。
ある兄弟に不信者の妻があり、そして共にいることを

喜んでいる場合には、離婚してはいけない。

また、ある婦人の夫が不信者であり、そして共に
いることを喜んでいる場合には、離婚してはいけない。

なぜなら、不信者の夫は妻によってきよめられており、
また、不信者の妻も夫によってきよめられているからです。

もしそうでなければ、あなたがたの子は汚れている
ことになりますが、実際はきよいではありませんか。

しかし、もし不信者の方が離れて行くのなら、
離れるままにしておきなさい。兄弟も姉妹も、

こうした場合には、束縛されてはいないのです。

神は、あなたがたを平和に暮させるために、召されたのです。
なぜなら、妻よ、あなたが夫を救いうるかどうか、

どうしてわかりますか。

また、夫よ、あなたも妻を救いうるかどうか、
どうしてわかるのですか。 ただ、各自は、ヤハウェから

賜わった分に応じ、 また神に召されたままの状態に
したがって、歩むべきです。 これが、すべての教会に対して
わたしの命じるところです。

22 :
召されたとき割礼を受けていたら、
その跡をなくそうとしないがよいでしょう。

また、召されたとき割礼を受けていなかったら、
割礼を受けようとしないがよいのです。
割礼があってもなくても、それは問題ではありません。

大事なのは、ただ神の戒めを守ることです。
各自は、召されたままの状態にとどまっているべきです。

召されたとき奴隷であっても、それを気にしてはいけません。
しかし、もし自由の身になりうるなら、
むしろ自由になりなさい。 ヤハウェにあって召された奴隷は、

ヤハウェによって自由人とされた者であり、

また、召された自由人はキリストの奴隷なのです。
あなたがたは、代価を払って買いとられたのです。
人の奴隷となってはいけません。

兄弟たちよ。各自は、その召されたままの状態で、
神のみまえにいるべきです

23 :
おとめのことについては、わたしは

ヤハウェの命令を受けてはいないが、
ヤハウェのあわれみにより

信任を受けている者として、意見を述べましょう。
わたしはこう考えます。現在迫っている危機のゆえに、

人は現状にとどまっているがよいでしょう。
もし妻に結ばれているなら、解こうとしてはいけません。
妻に結ばれていないなら、

妻を迎えようとしてはいけません。

しかし、たとい結婚しても、罪を犯すのではないのです。
また、おとめが結婚しても、罪を犯すのではありません。

ただ、それらの人々はその身に苦難を受けるでしょう。
わたしは、あなたがたを、それからのがれさせたいのです。

兄弟たちよ。わたしの言うことを聞いてほしい。
時は縮まっています。今からは妻のある者はないもののように、

泣く者は泣かないもののように、喜ぶ者は喜ばないもののように、
買う者は持たないもののように、

世と交渉のある者は、それに深入りしないようにすべきです。
なぜなら、この世の有様は過ぎ去るからです。

24 :
続きはまた明日🍡

25 :
イエス・キリストの御名を賛美しよう。

ハレルヤ🌌🌃CHRISTIAN.DINNER☆📦

26 :
ヤハウェなる父である神と

イエス・キリストの御名を賛美しよう、

ハレルヤ🌄🌴おはよう

ではみことばを引用します。

27 :
わたしはあなたがたが、思い煩わないようにしていてほしい。
未婚の男子はヤハウェのことに心をくばって、

どうかしてヤハウェを喜ばせようとしますが、
結婚している男子はこの世のことに心をくばって、

どうかして妻を喜ばせようとして、その心が分れるのです。

未婚の婦人とおとめとは、ヤハウェのことに心をくばって、
身も魂もきよくなろうとしますが、結婚した婦人は

この世のことに心をくばって、どうかして夫を喜ばせようとします。

わたしがこう言うのは、あなたがたの利益に
なると思うからであって、あなたがたを束縛するためではありません。

そうではなく、正しい生活を送って、余念なく
ヤハウェに奉仕させたいからです。

もしある人が、相手のおとめに対して、
情熱をいだくようになった場合、それは適当でないと思いつつも、

やむを得なければ、望みどおりにしてもよいでしょう。

それは罪を犯すことではありません。ふたりは結婚しなさい。

しかし、彼が心の内で堅く決心していて、無理をしないで
自分の思いを制することができ、その上で、

相手のおとめをそのままにしておこうと、心の中で決めたなら、
そうしてもよいのです。

だから、相手のおとめと結婚することはさしつかえないが、
結婚しない方がもっとよいのです。
妻は夫が生きている間は、その夫につながれています。

夫がRば、望む人と結婚してもさしつかえありませんが、
それはヤハウェにある者とに限ります。
しかし、わたしの意見では、そのままでいたなら、もっと幸福です。

わたしも神の霊を受けていると思います

28 :
偶像への供え物について答えると、
「わたしたちはみな知識を持っている」ことは、
わかっています。

しかし、知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高めるのです。
もし人が、自分は何か知っていると思うなら、
その人は、知らなければならないほどの事すら、

まだ知っていません。 しかし、人が神を愛するなら、
その人は神に知られているのです。

さて、偶像への供え物を食べることについては、わたしたちは、
偶像なるものは実際は世に存在しないこと、

また、唯一の神のほかには神がないことを、知っています。

というのは、たとい神々といわれるものが、あるいは天に、
あるいは地にあるとしても、そして、多くの神、
多くのヤハウェがあるようではありますが、

わたしたちには、父なる唯一の神のみがいます。

万物はこの神から出て、わたしたちもこの神に
帰するのです。また、唯一のヤハウェなる

イエス・キリストのみがいます。万物はこのヤハウェにより、
わたしたちもこのヤハウェによっているのです。

しかし、この知識をすべての人が持っているのではありません。
ある人々は、偶像についての、 これまでの習慣上、

偶像への供え物として、それを食べるが、彼らの良心が、
弱いために汚されるのです。

食物は、わたしたちを神に導くものではありません。
食べなくても損はないし、食べても益にはなりません。

しかし、あなたがたのこの自由が、弱い者たちの
つまずきにならないように、気をつけなさい。

29 :
なぜなら、ある人が、知識のあるあなたが
偶像の宮で食事をしているのを見た場合、

その人の良心が弱いため、 それに「教育されて」、
偶像への供え物を食べるようにならないでしょうか。

するとその弱い人は、あなたの知識に
よって滅びることになります。この弱い兄弟のためにも、

キリストは死なれたのです。 このようにあなたがたが、
兄弟たちに対して罪を犯し、

その弱い良心を痛めるのは、キリストに対して
罪を犯すことなのです。 だから、もし食物が

わたしの兄弟をつまずかせるなら、兄弟をつまずかせないために、

わたしは永久に、断じて肉を食べることはしません。」

30 :
わたしは自由な者ではありませんか。使徒ではないですか。
わたしたちのアドニーであるイエスを見たではありませんか。

あなたがたは、ヤハウェにあるわたしの働きの実ではありませんか。
わたしは、ほかの人に対しては
使徒でないとしても、あなたがたには使徒です。

あなたがたがヤハウェにあることは、わたしの使徒職の印なのです。

わたしの批判者たちに対する弁明は、これです。
わたしたちには、飲み食いをする権利がないのですか。
わたしたちには、ほかの使徒たちやヤハウェの兄弟たちや

ケパのように、信者である妻を 連れて歩く権利がないのでしょうか。

それとも、わたしとバルナバとだけには、
労働をせずにいる権利がないのですか。

いったい、自分で費用を出して軍隊に加わる者があるでしょうか。
ぶどう畑を作っていて、その実を 食べない者があるでしょうか。

また、羊を飼っていて、その乳を飲まない者があるでしょうか。
わたしは、人間の考えでこう言うのではありません。

律法もまた、そのように言っているではありませんか。
すなわち、モーセの律法に、

「穀物をこなしている牛に、くつこをかけてはならない」と書いてあります。

神は、牛のことを心にかけておられるのでしょうか。
それとも、もっぱら、わたしたちのために言っておられるのでしょうか。

もちろん、それはわたしたちのためにしるされたのです。
すなわち、耕す者は望みをもって耕し、
穀物をこなす者は、その分け前をもらう望みをもってこなすのです。

31 :
もしわたしたちが、あなたがたのために
霊のものをまいたのなら、肉のものをあなたがたから刈りとるのは、

行き過ぎしょうか。 もしほかの人々が、あなたがたに
対するこの権利にあずかっているとすれば、
わたしたちはなおさらのことではありませんか。

しかしわたしたちは、この権利を利用せず、
かえってキリストの福音の妨げにならないようにと、

すべてのことを忍んでいます。 あなたがたは、
神殿仕えをしている人たちは神殿から下がる物を食べ、

祭壇に奉仕している人たちは祭壇の供え物の
分け前にあずかることを、知らないのですか。 それと同様に、

ヤハウェは、福音を宣べ伝えている者たちが
福音によって生活すべきことを、定められたのです。

しかしわたしは、これらの権利を一つも利用しなかったのです。
また、自分がそうしてもらいたいから、
このように書くのではありません。

そうされるよりは、死ぬ方がましだからです。わたしのこの誇は、

何者にも奪い去られてはならないのです

32 :
わたしが福音を宣べ伝えても、それは誇にはなりません。
なぜなら、わたしは、そうせずにはおれないからです。

もし福音を宣べ伝えないなら、わたしはわざわいです。
進んでそれをすれば、報酬を受けるでしょう。
しかし、進んでしないとしても、それは、

わたしにゆだねられた任務なのです。

それでは、その報酬はなんでしょうか。
福音を宣べ伝えるのにそれを無代価で提供し、わたしが宣教者として
持つ権利を利用しないことです。

わたしは、すべての人に対して自由ですが、できるだけ
多くの人を得るために、自ら進んですべての人の

奴隷になりました。 ユダヤ人には、ユダヤ人のようになったのです。
ユダヤ人を得るためです。

律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、
律法の下にある者のようになりました。

律法の下にある人を得るためです。
律法のない人には――わたしは神の律法の外にあるのではなく、

キリストの律法の中にあるのですが――律法のない人のようになりました。
律法のない人を得るためです。

弱い人には弱い者になりました。弱い人を得るためです。
すべての人に対しては、すべての人のようになりました。

なんとかして幾人かを救うためです。

33 :
兄弟たちよ。このことを知らずに
いてもらいたくありません。

わたしたちの先祖はみな雲の下におり、
みな海を通り、 みな雲の中、海の中で、モーセにつく

バプテスマを受けました。 また、みな同じ霊の食物を食べ、
みな同じ霊の飲み物を飲んだのです。

すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのですが、

この岩はキリストにほかなりません。
しかし、彼らの中の大多数は、神のみこころに

かなわなかったので、 荒野で滅ぼされてしまったのです。

これらの出来事は、わたしたちに対する警告であって、
彼らが悪をむさぼったように、わたしたちも
悪をむさぼることのないためなのです。

だから、彼らの中のある者たちのように、
偶像礼拝者になってはいけません。

すなわち、「民は座して飲み食いをし、また立って
踊り戯れた」と書いてあります。

また、ある者たちがしたように、わたしたちは
不品行をしてはいけません。

不品行をしたため倒された者が、一日に二万三千人もありました。
また、ある者たちがしたようにわたしたちは

ヤハウェを試みてはならない。ヤハウェを試みた者は、
へびに殺されました。

また、ある者たちがつぶやいたように、つぶやいてはいけません。
つぶやいた者は、「死の使」に滅ぼされました。

これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告として
であって、それが書かれたのは、

世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためです、
だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。

34 :
途中のみことばが抜けました。

最初からやり直します。

35 :
福音のために、わたしはどんな事でもします。
わたしも共に福音にあずかるためです。

あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は、
みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけです。
あなたがたも、賞を得るように走りなさい。

しかし、すべて競技をする者は、何ごとにも節制をします。

彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、
わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのです。

そこで、わたしは目標のはっきりしないような
走り方をせず、空を打つような拳闘はしません。

すなわち、自分のからだを打ちたたいて服従させるのです。
そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、
自分は失格者になるかも知れないからです。

36 :
兄弟たちよ。このことを知らずに
いてもらいたくありません。

わたしたちの先祖はみな雲の下におり、
みな海を通り、 みな雲の中、海の中で、モーセにつく

バプテスマを受けました。 また、みな同じ霊の食物を食べ、
みな同じ霊の飲み物を飲んだのです。

すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのですが、

この岩はキリストにほかなりません。
しかし、彼らの中の大多数は、神のみこころに

かなわなかったので、 荒野で滅ぼされてしまったのです。

これらの出来事は、わたしたちに対する警告であって、
彼らが悪をむさぼったように、わたしたちも
悪をむさぼることのないためなのです。

だから、彼らの中のある者たちのように、
偶像礼拝者になってはいけません。

すなわち、「民は座して飲み食いをし、また立って
踊り戯れた」と書いてあります。

また、ある者たちがしたように、わたしたちは
不品行をしてはいけません。

不品行をしたため倒された者が、一日に二万三千人もありました。
また、ある者たちがしたようにわたしたちは

ヤハウェを試みてはならない。ヤハウェを試みた者は、
へびに殺されました。

また、ある者たちがつぶやいたように、つぶやいてはいけません。
つぶやいた者は、「死の使」に滅ぼされました。

これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告として
であって、それが書かれたのは、

世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためです、
だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。

37 :
続きはまた明日⭐☕

38 :
イエス・キリストの御名を賛美しよう。

ハレルヤ🌌🌃CHRISTIAN.DINNER☆📦

39 :
ヤハウェなる父である神と

イエス・キリストの御名を賛美しよう、

ハレルヤ🌄🌴おはよう

ではみことばを引用します。

40 :
あなたがたの会った試錬で、 世の常でないものはありません。
神は真実です。
あなたがたを耐えられないような試錬に会わせる

ことはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、
のがれる道も備えて下さるのです。

それだから、愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。
賢明なあなたがたに訴えます。わたしの言うことを、

自ら判断してみなさい。 わたしたちが祝福する祝福の杯、
それはキリストの血にあずかることではありませんか。

わたしたちがさくパン、それはキリストのからだに
あずかることではありませんか。

パンが一つであるから、わたしたちは多くいても、
一つのからだなのです。みんなの者が一つのパンを
共にいただくからです。

肉によるイスラエルを見なさい。供え物を食べる人たちは、

祭壇にあずかるのではありませんか。
すると、なんと言ったらよいのですか。偶像にささげる供え物は、

何か意味があるのですか。また、偶像は何かほんとうにあるものなのですか。

そうではありません。

人々が供える物は、悪霊たち、すなわち、神ならぬ者に
供えるのです。わたしは、あなたがたが悪霊の仲間に

なることを望みません。 ヤハウェの杯と悪霊たちの杯とを、
同時に飲むことはできないのです。

ヤハウェの食卓と悪霊たちの食卓とに、同時にあずかることはできません。

それとも、わたしたちはヤハウェのねたみを
起そうとするのでしょうか。わたしたちは、

ヤハウェよりも強いのでしょうか。

41 :
あなたがたの会った試錬で、 世の常でないものはありません。
神は真実です。
あなたがたを耐えられないような試錬に会わせる

ことはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、
のがれる道も備えて下さるのです。

それだから、愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。
賢明なあなたがたに訴えます。わたしの言うことを、

自ら判断してみなさい。 わたしたちが祝福する祝福の杯、
それはキリストの血にあずかることではありませんか。

わたしたちがさくパン、それはキリストのからだに
あずかることではありませんか。

パンが一つであるから、わたしたちは多くいても、
一つのからだなのです。みんなの者が一つのパンを
共にいただくからです。

肉によるイスラエルを見なさい。供え物を食べる人たちは、

祭壇にあずかるのではありませんか。
すると、なんと言ったらよいのですか。偶像にささげる供え物は、

何か意味があるのですか。また、偶像は何かほんとうにあるものなのですか。

そうではありません。

人々が供える物は、悪霊たち、すなわち、神ならぬ者に
供えるのです。わたしは、あなたがたが悪霊の仲間に

なることを望みません。 ヤハウェの杯と悪霊たちの杯とを、
同時に飲むことはできないのです。

ヤハウェの食卓と悪霊たちの食卓とに、同時にあずかることはできません。

それとも、わたしたちはヤハウェのねたみを
起そうとするのでしょうか。わたしたちは、

ヤハウェよりも強いのでしょうか。

42 :
すべてのことは許されています。
しかし、すべてのことが益になるわけではありません。

すべてのことは許されています。しかし、すべてのことが
人の徳を高めるのではありません。

だれでも、自分の益を求めないで、ほかの人の益を求めるべきです。
すべて市場で売られている物は、いちいち良心に

問うことをしないで、食べなさい。
地とそれに満ちている物とは、ヤハウェのものだからです。

もしあなたがたが、不信者のだれかに招かれて、
そこに行こうと思う場合、自分の前に出される物はなんでも、

いちいち良心に問うことをしないで、食べなさい。
しかし、だれかがあなたがたに、これはささげ物の

肉だと言ったなら、それを知らせてくれた人のために、
また良心のために、食べないがよいでしょう。

良心と言ったのは、自分の良心ではなく、他人の良心のことです。
なぜなら、わたしの自由が、どうして他人の良心によって

左右されることがあるでしょうか。

もしわたしが感謝して食べる場合、その感謝する物について、
どうして人のそしりを受けるわけがあるでしょうか。
だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、

すべて神の栄光のためにすべきです。

ユダヤ人にもギリシヤ人にも神の教会にも、
つまずきになってはいけません。

わたしもまた、何事にもすべての人に喜ばれるように
努め、多くの人が救われるために、

自分の益ではなく彼らの益を求めています。

43 :
わたしがキリストにならう者であるように、
あなたがたもわたしにならう者になりなさい。

あなたがたが、何かにつけわたしを覚えていて、
あなたがたに伝えたとおりに言伝えを守っているので、

わたしは満足に思います。 しかし、あなたがたに
知っていてもらいたい。すべての男のかしらはキリストであり、

女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。

祈りをしたり預言をしたりする時、かしらに物をかぶる男は、
そのかしらをはずかしめる者です。

祈りをしたり預言をしたりする時、かしらにおおいをかけない女は、
そのかしらをはずかしめる者です。

それは、髪をそったのとまったく同じだからです。
女がおおいをかけないなら、髪を切ってしまうがいいでしょう。

髪を切ったりそったりするのが、 女にとって
恥ずべきことであるなら、おおいをかけるべきです。

男は、神のかたちであり栄光であるから、
かしらに物をかぶるべきではありません。

女は、また男の光栄です。なぜなら、男が女から出たのではなく、
女が男から出たのだからです。

また、男は女のために造られたのではなく、
女が男のために造られたのです。

それだから、女は、かしらに
権威のしるしをかぶるべきです。
それは天使たちのためでもあります。

ただ、ヤハウェにあっては、男なしには女はないし、
女なしには男はありません。

それは、女が男から出たように、男もまた女から生れたからです。
そして、すべてのものは神から出たのです。

あなたがた自身で判断してみなさい。女がおおいを
かけずに神に祈るのは、ふさわしいことでしょうか。

自然そのものが教えているではありませんか。
男に長い髪があれば彼の恥になり、

女に長い髪があれば彼女の光栄になるのです。
長い髪はおおいの代りに女に与えられているものだからです。

しかし、だれかがそれに反対の意見を持っていても、
そんな風習はわたしたちにはなく、神の諸教会にもありません。

44 :
ところで、次のことを命じるについては、
あなたがたをほめるわけにはいきません。

というのは、あなたがたの集まりが利益にならないで、
かえって損失になっているからです。

まず、あなたがたが教会に集まる時、
お互の間に分争があることを、わたしは耳にしており、

そしていくぶんか、 それを信じています。
たしかに、あなたがたの中でほんとうの者が明らかにされるためには、

分派もなければならないのです。

そこで、あなたがたが一緒に集まるとき、
ヤハウェの晩餐を守ることができないでいます。

というのは、食事の際、各自が自分の晩餐を
かってに先に食べるので、 飢えている人が

あるかと思えば、酔っている人がある始末です。
あなたがたには、飲み食いをする家がないのですか。

それとも、神の教会を軽んじ、貧しい人々を
はずかしめるのですか。わたしはあなたがたに対して、

なんと言いましょうか。あなたがたを、ほめましょうか。
この事では、ほめるわけにはいきません。

わたしは、ヤハウェから受けたことを、また、あなたがたに
伝えたのです。すなわち、ヤハウェ・イエスは、

渡される夜、パンをとり、 感謝してこれをさき、そして言われました、

「これはあなたがたのための、わたしのからだです。
わたしを記念するため、このように行いなさい」。
食事ののち、杯をも同じようにして言われました、

「この杯は、わたしの血による新しい契約です。
飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。

45 :
だから、あなたがたは、このパンを食し、
この杯を飲むごとに、それによって、

ヤハウェがこられる時に至るまで、
ヤハウェの死を告げ知らせるのです。

だから、ふさわしくないままでパンを食し
ヤハウェの杯を飲む者は、 ヤハウェのからだと血とを犯すのです。

だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきです。

ヤハウェのからだをわきまえないで飲み食いする者は、
その飲み食いによって自分にさばきを招くからです。

あなたがたの中に、弱い者や病人が大ぜいおり、
また眠った者も少なくないのは、そのためです。

しかし、自分をよくわきまえておくならば、わたしたちは
さばかれることはないでしょう。

しかし、さばかれるとすれば、それは、この世と共に
罪に定められないために、

ヤハウェの懲らしめを受けることなのです。 それだから、
兄弟たちよ。食事のために集まる時には、
互に待ち合わせなさい。 もし空腹であったら、

さばきを受けに集まることにならないため、家で食べなさい。

そのほかの事は、わたしが行った時に、定めることにしましょう。

46 :
兄弟たちよ。霊の賜物については、次のことを
知らずにいてもらいたくありません。

あなたがたがまだ異邦人であった時、誘われるまま、
物の言えない偶像のところに引かれて行ったことは、

あなたがたの承知しているとおりです。
そこで、あなたがたに言っておきますが、神の霊によって

語る者はだれも

「イエスはのろわれよ」とは言わないし、
また、聖霊によらなければ、だれも「イエスはヤハウェである」
と言うことができません。

霊の賜物は種々ありますが、聖霊は同じです。
任務は種々ありますが、ヤハウェは同じです。

働きは種々ありますが、すべてのものの中に
働いてすべてのことをなさる神は、同じです。

各自が聖霊の現れを賜わっているのは、
全体の益になるためです。

すなわち、ある人には聖霊によって
知恵の言葉が与えられ、ほかの人には、同じ聖霊によって

知識の言葉、 またほかの人には、 同じ聖霊によって信仰、
またほかの人には、一つの聖霊によっていやしの賜物、

またほかの人には力あるわざ、 またほかの人には預言、
またほかの人には霊を見わける力、またほかの人には種々の異言、

またほかの人には異言を解く力が、与えられています。
すべてこれらのものは、一つの同じ聖霊の働きであって、

聖霊は思いのままに、それらを各自に分け与えられるのです。

47 :
からだが一つであっても肢体は多くあり、また、からだの
すべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように、

キリストの場合も同様です。 なぜなら、わたしたちは皆、
ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つの聖霊によって、

一つのからだとなるようにバプテスマを受け、
そして皆一つの聖霊を飲んだからです。

48 :
実際、からだは一つの肢体だけではなく、
多くのものからできています。

もし足が、わたしは手ではないから、からだに属して
いないと言っても、それで、からだに属さないわけではありません。

また、もし耳が、わたしは目ではないから、からだに
属していないと言っても、それで、からだに

属さないわけではありません。もしからだ全体が目だとすれば、
どこで聞くのですか。もし、からだ全体が耳だとすれば、

どこでかぐのですか。 そこで神は御旨のままに、
肢体をそれぞれ、からだに備えられたのです。

もし、すべてのものが一つの肢体なら、どこにからだがあるのですか。
ところが実際、肢体は多くあるが、からだは一つなのです。

49 :
目は手にむかって、「おまえはいらない」とは言えず、
また頭は足にむかって、

「おまえはいらない」とも言えないのです。

そうではなく、むしろ、からだのうちで他よりも弱く
見える肢体が、かえって必要なのであり、 からだのうちで、

他よりも見劣りがすると思えるところに、ものを
着せていっそう見よくします。

麗しくない部分はいっそう麗しくしますが、 麗しい部分は
そうする必要がありません。

神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに
調和をお与えになったのです。

それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が
互いにいたわり合うためなのです。
もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、

一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜びます。

あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりは
その肢体です。そして、神は教会の中で、

人々を立てて、第一に使徒、第二に預言者、第三に教師とし、
次に力あるわざを行う者、 次にいやしの賜物を持つ者、

また補助者、管理者、種々の異言を語る者をおかれました。
みんなが使徒でしょうか。みんなが預言者でしょうか。

みんなが教師でしょうか。

みんなが力あるわざを行う者でしょうか。 みんながいやしの
賜物を持っているのでしょうか。

みんなが異言を語るのでしょうか。みんなが異言を解くのでしょうか。

50 :
だが、あなたがたは、更に大いなる賜物を
得ようと熱心に努めなさい。

そこで、わたしは最もすぐれた道を
あなたがたに示しましょう。たといわたしが、人々の言葉や

御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、
わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じです。

たといまた、わたしに預言をする力があり、
あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、

山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、
わたしは無に等しいのです。

たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、
また、自分のからだを焼かれるために渡しても、
もし愛がなければ、いっさいは無益です。

愛は寛容であり、愛は情深いのです。また、
ねたむことをしません。愛は高ぶらず、誇らず、

不作法をしません、
自分の利益を求ず、いらだたず、恨みをいだきません。

不義を喜ばないで真理を喜びます。
そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、

すべてを耐えるのです。

51 :
愛はいつまでも絶えることがありません。
しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるでしょう。

なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、
預言するところも一部分にすぎません。

全きものが来る時には、部分的なものはすたれます。
わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、

幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていました。

しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを
捨ててしまったのです。 わたしたちは、今は、鏡に映して

見るようにおぼろげに見ています。

しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るでしょう。
わたしの知るところは、今は一部分にすぎません。

しかしその時には、わたしが完全に知られているように、
完全に知るでしょう。

このように、いつまでも存続するものは、
信仰と希望と愛と、この三つです。

このうちで最も大いなるものは、愛です。

52 :
続きはまた明日⭐🌌

53 :
イエス・キリストの御名を賛美しよう。

ハレルヤ🌌🌃CHRISTIAN.DINNER☆📦

54 :
ヤハウェなる父である神と

イエス・キリストの御名を賛美しよう、

ハレルヤ🌄🌴おはよう

ではみことばを引用します。

55 :
愛を追い求めなさい。また、霊の賜物を、
ことに預言することを、熱心に求めなさい。

異言を語る者は、 人にむかって語るのではなく、
神にむかって語ります。それはだれにもわかりません。

彼はただ、霊によって奥義を語っているだけです。
しかし預言をする者は、人に語ってその徳を高め、

彼を励まし、慰めます。 異言を語る者は自分だけの
徳を高めますが、預言をする者は教会の徳を高めます。

わたしは実際、あなたがたがひとり残らず異言を
語ることを望みますが、特に預言をしてもらいたいのです。

教会の徳を高めるように異言を解かない限り、
異言を語る者よりも、預言をする者の方がまさっています。

56 :
だから、兄弟たちよ。たといわたしが
あなたがたの所に行って異言を語るとしても、

啓示か知識か預言か教かを語らなければ、
あなたがたに、なんの役に立つでしょうか。

また、笛や立琴のような楽器でも、
もしその音に変化がなければ、何を吹いているのか、

弾いているのか、どうして知ることができましょうか。
また、もしラッパがはっきりした音を出さないなら、

だれが戦闘の準備をするでしょうか。
それと同様に、もしあなたがたが異言で

はっきりしない言葉を語れば、どうして
その語ることがわかるでしょうか。
それでは、空にむかって語っていることになります。

世には多種多様の言葉がありますが、
意味のないものは一つもありません。

もしその言葉の意味がわからないなら、
語っている人にとっては、わたしは異国人であり、語っている人も、

わたしにとっては異国人です。 だから、あなたがたも、

霊の賜物を熱心に求めている以上は、教会の徳を
高めるために、それを豊かにいただくように励みなさい。
このようなわけですから、異言を語る者は、

自分でそれを解くことができるように祈りなさい。

57 :
もしわたしが異言をもって祈るなら、わたしの霊は
祈るが、知性は実を結ばないからです。

すると、どうしたらよいのですか。わたしは霊で
祈ると共に、知性でも祈りましょう。霊で賛美を歌うと共に、

知性でも歌いましょう。 そうでないと、もしあなたが
霊で祝福の言葉を唱えても、初心者の席にいる者は、

あなたの感謝に対して、どうしてアーメンと言えましょうか。
あなたが何を言っているのか、彼には通じないからです。

感謝するのは結構ですが、それで、ほかの人の徳を
高めることにはなりません。

わたしは、あなたがたのうちのだれよりも
多く異言が語れることを、神に感謝します。

しかし教会では、 一万の言葉を異言で語るよりも、
ほかの人たちをも教えるために、むしろ五つの言葉を知性によって
語る方が願わしいのです。

兄弟たちよ。物の考えかたでは、子供となってはいけません。
悪事については幼な子となるのはよいのですが、

考えかたでは、おとなとなりなさい。 律法にこう書いてあります、
「わたしは、異国の舌と異国のくちびるとで、

この民に語るが、それでも、彼らはわたしに耳を傾けない、
とヤハウェが仰せになる」。

このように、異言は信者のためではなく未信者のための
しるしですが、預言は未信者のためではなく
信者のためのしるしです。

58 :
もし全ての教会が一緒に集まって、全員が異言を
語っているところに、初心者か不信者かがはいってきたら、

彼らはあなたがたを気違いだと言うでしょう。
しかし、全員が預言をしているところに、
不信者か初心者がはいってきたら、彼の良心はみんなの者に責められ、

みんなの者にさばかれ、 その心の秘密があばかれ、その結果、
ひれ伏して神を拝み、「まことに、神があなたがたのうちにいます」
と告白するに至るでしょう。

すると、兄弟たちよ。どうしたらよいのでしょうか。
あなたがたが一緒に集まる時、各自は賛美を歌い、

教えをなし、啓示を告げ、異言を語り、それを解くのですが、
すべては徳を高めるためにすべきです。

もし異言を語る者があれば、ふたりか、多くて三人の者が、
順々に語り、そして、ひとりがそれを解くべきです。

もし解く者がいない時には、教会では黙っていて、
自分に対しまた神に対して語っているべきです。

預言をする者の場合にも、ふたりか三人かが語り、
ほかの者はそれを吟味しなさい。

しかし、席にいる他の者が啓示を受けた場合には、
初めの者は黙るがよいでしょう。

あなたがたは、みんなが学びみんなが勧めを受けるために、
ひとりずつ残らず預言をすることができるのですから。

かつ、預言者の霊は預言者に服従するものです。
神は無秩序の神ではなく、平和の神です。

59 :
聖徒たちのすべての教会で行われているように、
婦人たちは教会では黙っていなければならないのです。

彼らは語ることが許されていません。
だから、律法も命じているように、服従すべきです。
もし何か学びたいことがあれば、家で自分の夫に尋ねなさい。

教会で語るのは、婦人にとっては恥ずべきことです。
それとも、神の言葉はあなたがたのところから出たのですか。
あるいは、あなたがただけにきたのですか。

もしある人が、自分は預言者か霊の人であると思っているなら、
わたしがあなたがたに書いていることは、

ヤハウェの命令だと認めるべきです。

もしそれを無視する者があれば、その人もまた無視されます。

わたしの兄弟たちよ。このようなわけだから、
預言することを熱心に求めなさい。
また、異言を語ることを妨げてはいけません。

しかし、すべてのことを適宜に、かつ秩序を正して行うがよいでしょう。

60 :
兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに伝えた福音、
あなたがたが受けいれ、それによって立ってきた

あの福音を、思い起してもらいたい。

もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの
宣べ伝えたとおりの 言葉を固く守っておれば、
この福音によって救われるのです。

わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、
わたし自身も受けたことでした。

すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、
わたしたちの罪のために死なれたこと、

そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目に
よみがえられたこと、ケパに現れ、次に、
十二人に現れてくださったことです。

そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れてくださいました。
その中にはすでに眠った者たちもいますが、

大多数はいまなお生存しています。 そののち、ヤコブに現れ、
次に、すべての使徒たちに現れ、 そして最後に、いわば、

月足らずに生れたようなわたしにも、 現れてくださいました。
実際わたしは、神の教会を迫害したのですから、

使徒たちの中で いちばん小さい者であって、使徒と
呼ばれる値うちのない者です。

しかし、神の恵みによって、 わたしは今日あるを
得ています。

そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、
むしろ、わたしは 彼らの中のだれよりも多く

働いてきました。しかしそれは、わたし自身ではなく、
わたしと共にあった神の恵みなのです。

とにかく、わたしにせよ彼らにせよ、そのように、
わたしたちは宣べ伝えており、そのように、
あなたがたは信じたのです。

61 :
さて、キリストは死人の中からよみがえられた
と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、
死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことですか。

もし死人の復活がないならば、 キリストも
よみがえられなかったでしょう。

もしキリストがよみがえられなかったとしたら、
わたしたちの宣教はむなしく、
あなたがたの信仰もまたむなしいのです。

すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえ
なるわけです。

なぜなら、万一死人がよみがえらないとしたら、
わたしたちは神が実際よみがえらせなかったはずの

キリストを、よみがえらせたと言って、神に反する
あかしを立てたことになるからです。

もし死人がよみがえらないなら、キリストも
よみがえられなかったでしょう。
もしキリストがよみがえられなかったとすれば、

あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、
いまなお罪の中にいることになるでしょう。

そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、
滅んでしまったのです。

もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって
単なる望みを いだいているだけだとすれば、

わたしたちは、すべての人の中で最も
あわれむべき存在となります。

しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、
死人の中からよみがえられたのです。

それは、死がひとりの人によってきたのだから、
死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならないのです。

62 :
アダムにあってすべての人が死んでいるのと
同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。

ただ、各自はそれぞれの順序に従わねばなりません。
最初はキリスト、次に、ヤハウェの来臨に際して
キリストに属する者たち、 それから終末となって、

その時に、キリストはすべての君たち、
すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、
国を父なる神に渡されます。

なぜなら、キリストはあらゆる敵を その足もとに
置く時までは、支配を続けることになっているからです。

最後の敵として滅ぼされるのが、死です。

「神は万物を彼の足もとに従わせた」からです。
ところが、万物を従わせたと言われる時、

万物を従わせたかたがそれに含まれていないことは、
明らかであす。 そして、万物が神に従う時には、

御子自身もまた、万物を従わせたそのかたに
従われるでしょう。それは、神がすべての者にあって、
すべてとなられるためです。

63 :
そうでないとすれば、死者のためにバプテスマを
受ける人々は、なぜそれをするのでしょうか。

もし死者が全くよみがえらないとすれば、
なぜ人々が死者のためにバプテスマを受けるのですか。
また、なんのために、わたしたちはいつも危険を冒しているのですか。

兄弟たちよ。わたしたちのアドニー・キリスト・イエスにあって、
わたしがあなたがたにつき持っている 誇りにかけて

言いますが、わたしは日々死に直面しています。
もし、わたしが人間の考えによってエペソで獣と戦ったとすれば、

それはなんの役に立つのでしょうか。
もし死人がよみがえらないのなら、

「わたしたちは飲み食いしようではないか。
あすもわからぬいのちなのだ」となります。

まちがってはいけません。

「悪い交わりは、良いならわしをそこなう」のです。
目ざめて身を正し、罪を犯さないようにしなさい。

あなたがたのうちには、神について無知な人々がいるからです。
あなたがたをはずかしめるために、わたしはこう言うのです。」

64 :
しかし、ある人は言うでしょう。

「どんなふうにして、死人がよみがえるのですか。
どんなからだをして来るのですか」。

おろかな人だ。あなたのまくものは、死ななければ、
生かされないではありませんか。

また、あなたのまくのは、やがて成るべきからだを
まくのではありません。

麦であっても、ほかの種であっても、ただの種粒にすぎません。
ところが、神はみこころのままに、これにからだを与え、

その一つ一つの種にそれぞれのからだをお与えになります。
すべての肉が、同じ肉なのではなく、人の肉があり、

獣の肉があり、鳥の肉があり、魚の肉があります。
天に属するからだもあれば、地に属するからだもあるのです。

天に属するものの栄光は、地に属するものの栄光と違っています。
太陽の栄光があり、月の栄光があり、

星の栄光があります。また、この星とあの星との間に、
栄光の差があります。

65 :
死人のよみがえりも、また同様です。朽ちるものでまかれ、
朽ちないものによみがえり、

卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、
弱いものでまかれ、強いものによみがえり、

肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのです。
肉のからだがあるのだから、 霊のからだもあります。

聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」
と書いてあるとおりです。

しかし最後のアダムは命を与える霊となりました。

最初にあったのは、霊のものではなく肉のものであって、
その後に霊のものが来るのです。

第一の人は地から出て土に属し、第二の人は天から来ます。
この土に属する人に、 土に属している人々は等しく、

この天に属する人に、天に属している人々は等しいのです。
すなわち、わたしたちは、土に属している形を

とっているのと同様に、また天に属している形をとるでしょう。

66 :
兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておきます。

肉と血とは神の国を継ぐことができないし、
朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがありません。

ここで、あなたがたに神秘を告げましょう。
わたしたちすべては、眠り続けるのではありません。

終りのラッパの響きと共に、またたく間に、
一瞬にして変えられます。

というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者に
よみがえらされ、わたしたちは変えられるのです。

なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、
この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからです。

この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが
死なないものを着るとき、

聖書に書いてある言葉が成就するのです。

「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、
どこにあるのか。

死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。
死のとげは罪であり、罪の力は律法です。

しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの
アドニーであるイエス・キリストによって、

わたしたちに勝利を賜わったのです。

だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、
いつも全力を注いで ヤハウェのわざに励みなさい。

ヤハウェにあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、
あなたがたは知っているからです。

67 :
ヤハウェなる父である神と

イエス・キリストの御名を賛美しよう、

ハレルヤ🌄🌴おはよう

ではみことばを引用します。

68 :
聖徒たちへの献金については、わたしはガラテヤの諸教会に
命じておきましたが、あなたがたもそのとおりにしなさい。

一週の初めの日ごとに、あなたがたはそれぞれ、いくらでも
収入に応じて手もとにたくわえておき、

わたしが着いた時になって 初めて集めることのないようにしなさい。
わたしが到着したら、あなたがたが 選んだ人々に手紙をつけ、

あなたがたの贈り物を持たせて、 エルサレムに送り出すことにしましょう。

もしわたしも行く方がよければ、一緒に行くことになるでしょう。
わたしは、マケドニヤを通過してから、

あなたがたのところに行くことになるでしょう。
マケドニヤは通過するだけですが、 あなたがたの所では、
たぶん滞在するようになり、 あるいは冬を過ごすかも知れません。

そうなれば、わたしがどこへゆくにしても、あなたがたに送ってもらえるでしょう。

わたしは今、あなたがたに旅のついでに会うことは好みません。
もしヤハウェのお許しがあれば、

しばらくあなたがたの所に滞在したいと望んでいます。

しかし五旬節までは、エペソに滞在するつもりです。というのは、
有力な働きの門がわたしのために

大きく開かれているし、 また敵対する者も多いからです。

69 :
もしテモテが着いたら、あなたがたの所で不安なしに
過ごせるようにしてあげてほしい。

彼はわたしと同様に、ヤハウェのご用にあたっているからです。
だれも彼を軽んじてはいけない。
そして、わたしの所に来るように、どうか彼を安らかに送り出してほしい。

わたしは彼が兄弟たちと一緒に来るのを待っています。
兄弟アポロについては、兄弟たちと一緒に
あなたがたの所に行くように、たびたび勧めてみました。

しかし彼には、今行く意志は、全くありません。

適当な機会があれば、行くでしょう。目をさましていなさい。
信仰に立ちなさい。男らしく、強くあってほしい。
いっさいのことを、愛をもって行いなさい。

兄弟たちよ。あなたがたに勧めます。あなたがたが知っているように、
ステパナの家はアカヤの初穂であって、
彼らは身をもって聖徒に奉仕してくれました。

どうか、このような人々と、またすべて彼らと共に働き共に

労する人々とに、従ってほしい。 わたしは、ステパナとポルトナトと
アカイコとがきてくれたのを喜んでいます。

彼らはあなたがたの足りない所を満たし、 わたしの心とあなたがたの
心とを、安らかにしてくれました。

こうした人々は、重んじなければならないのです。アジヤの諸教会から、
あなたがたによろしくとのことです。

アクラとプリスカとその家の教会から、ヤハウェにあって心から
よろしくとのことです。

すべての兄弟たちから、よろしくとのことです。あなたがたも互いに、
きよい接吻をもってあいさつをかわしなさい。

ここでパウロが、手ずからあいさつを記します。 もしヤハウェを
愛さない者があれば、のろわれよ。

マラナ・タ(われらのアドニー、きたりませ)。

ヤハウェ・イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。
わたしの愛が、キリスト・イエスにあって、あなたがた一同と共にあるように。

70 :
コリントのクリスチャンへの手紙に続き、

これからコリント第二の手紙を引用します。

71 :
神の御旨によりキリスト・イエスの使徒となった
パウロと、兄弟テモテとから、コリントにある神の教会、
ならびにアカヤ全土にいるすべての聖徒たちへ。

わたしたちの父なる神とヤハウェ・イエス・キリストから、
恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

ほむべきかな、わたしたちのアドニーである
イエス・キリストの父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神。

神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、
また、わたしたち自身も、 神に慰めていただくその慰めをもって、

あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるように
して下さるのです。

それは、キリストの苦難がわたしたちに満ちあふれているように、
わたしたちの受ける慰めもまた、 キリストによって

満ちあふれているからです。 わたしたちが患難に会うなら、
それはあなたがたの慰めと救いとのためであり、慰めを受けるなら、

それはあなたがたの慰めのためであって、その慰めは、
わたしたちが受けているのと同じ苦難に耐えさせる力となるのです。

だから、あなたがたに対していだいているわたしたちの
望みは、動くことがありません。

あなたがたが、わたしたちと共に苦難にあずかっているように、
慰めにも共にあずかっていることを知っているからです。

72 :
兄弟たちよ。わたしたちがアジヤで会った患難を、
知らずにいてもらいたくないのです。

わたしたちは極度に、耐えられないほど圧迫されて、
生きる望みをさえ失ってしまい、 心のうちで死を覚悟し、

自分自身を頼みとしないで、死人をよみがえらせて
下さる神を頼みとするに至りました。

神はこのような死の危険から、わたしたちを救
い出して下さいました、また救い出して下さるでしょう。

わたしたちは、 神が今後も救い出して下さることを望んでいます。
そして、あなたがたもまた祈りをもって、ともどもに、

わたしたちを助けてくれるでしょう。これは多くの人々の
願いによりわたしたちに賜わった恵みについて、
多くの人が感謝をささげるようになるためです。

さて、わたしたちがこの世で、ことにあなたがたに対し、
人間の知恵によってではなく神の恵みによって、

神の神聖と真実とによって行動してきたことは、
実にわたしたちの誇りであって、良心のあかしするところです。

わたしたちが書いていることは、あなたがたが読んで
理解できないことではありません。

それを完全に理解してくれるように、わたしは希望します。
すでにある程度わたしたちを

理解してくれているとおり、わたしたちのアドニー・イエスの
日には、あなたがたがわたしたちの誇りであるように、

わたしたちもあなたがたの誇りなのです。この確信をもって、
わたしたちはもう一度恵みを得させたいので、

まずあなたがたの所に行き、それからそちらを通って
マケドニヤにおもむき、そして再びマケドニヤから

あなたがたの所に帰り、あなたがたの見送りを受けて
ユダヤに行く計画を立てたのです。 この計画を立てたのは、

軽率なことであったでしょうか。それとも、自分の計画を
肉の思いによって計画したため、

わたしの「しかり、しかり」が同時に「否、否」
であったのでしょうか。 神の真実にかけて言いますが、

あなたがたに対するわたしの言葉は、「しかり」と同時に
「否」というようなものではありません。

73 :
なぜなら、わたしたち、すなわち、わたしと
シルワノとテモテとが、あなたがたに宣べ伝えた

神の子キリスト・イエスは、「しかり」となると同時に
「否」となったのではありません。そうではなく、
「しかり」がイエスにおいて実現されたのです。

なぜなら、神の約束はことごとく、彼において
「しかり」となったからです。だから、わたしたちは、
彼によって「アーメン」と唱えて、神に栄光を帰するのです。

あなたがたと共にわたしたちを、 キリストのうちに堅くささえ、
油をそそいで下さったのは、神です。 神はまた、わたしたちに証印をおし、
その保証として、わたしたちの心に聖霊を賜わったのです。

わたしは自分の魂をかけ、神を証人に呼び求めて言いますが、
わたしがコリントに行かないでいるのは、
あなたがたに対して寛大でありたいためです。

わたしたちは、あなたがたの信仰を支配する者ではなく、
あなたがたの喜びのために共に働いている者にすぎません。

あなたがたは、信仰に堅く立っているからです

74 :
そこでわたしは、あなたがたの所に再び悲しみをもって
行くことはすまいと、決心したのです。

もしあなたがたを悲しませるとすれば、わたしが
悲しませているその人以外に、 だれがわたしを

喜ばせてくれるのですか。このような事を書いたのは、わたしが
行く時、わたしを

喜ばせてくれるはずの人々から、悲しい思いをさせられたくないためです。
わたし自身の喜びは あなたがた全体の喜びであることを、

あなたがたすべてについて確信しているからです。

わたしは大きな患難と心の憂いの中から、多くの涙をもって
あなたがたに書きおくりました。

それは、あなたがたを悲しませるためではなく、あなたがたに
対してあふれるばかりにいだいている

わたしの愛を、知ってもらうためでした。
しかし、もしだれかが人を悲しませたとすれば、それはわたしを

悲しませたのではなく、控え目に言いますが、

ある程度、あなたがた一同を悲しませたのです。 その人にとっては、
多数の者から受けたあの処罰で もう十分なのですから、

あなたがたはむしろ彼をゆるし、また慰めてやるべきです。そうしないと、

その人はますます深い悲しみに沈むかも知れません。

75 :
そこでわたしは、彼に対して愛を示すように、あなたがたに
勧めます。わたしが書きおくったのも、 あなたがたが

すべての事について従順であるかどうかを、ためすために
ほかならなかったのです。

もしあなたがたが、何かのことについて人をゆるすなら、
わたしもまたゆるしましょう。

そして、もしわたしが何かのことでゆるしたとすれば、
それは、あなたがたのためにキリストのみまえで
ゆるしたのです。

そうするのは、サタンに欺かれることのないためです。
わたしたちは、彼の策略を知らないわけではありません。

さて、キリストの福音のためにトロアスに行ったとき、
わたしのためにヤハウェの門が開かれたにもかかわらず、

兄弟テトスに会えなかったので、わたしは気が気でなく、
人々に別れて、マケドニヤに出かけて行きました。

しかるに、神は感謝すべきかな。神はいつもわたしたちを
キリストの凱旋に伴い行き、わたしたちをとおして

キリストを知る知識のかおりを、至る所に放って下さるのです。
わたしたちは、救われる者にとっても滅びる者にとっても、

神に対するキリストのかおりです。

後者にとっては、死から死に至らせるかおりであり、
前者にとっては、いのちからいのちに至らせるかおりです。

いったい、このような任務に、だれが耐え得ましょうか。
しかし、わたしたちは、多くの人のように 神の御言葉を売物にせず、

真心をこめて、神につかわされた者として神のみまえで、
キリストにあって語るのです。

76 :
続きはまた明日⭐🌌

77 :
イエス・キリストの御名を賛美しよう。

ハレルヤ🌌🌃CHRISTIAN.DINNER☆📦

78 :
EL.DORADO
http://www.youtube.com/watch?v=kNNa_o7btRU

79 :
ヤハウェなる父である神と

イエス・キリストの御名を賛美しよう、

ハレルヤ🌄🌴おはよう

80 :
わたしたちは、またもや、自己推薦をし始めているのでしょうか。
それとも、ある人々のように、あなたがたにあてた、あるいは、

あなたがたからの推薦状が必要なのでしょうか。
わたしたちの推薦状は、あなたがたなのです。

それは、わたしたちの心にしるされていて、すべての人に知られ、
かつ読まれています。

そして、あなたがたは自分自身が、わたしたちから
送られたキリストの手紙であって、墨によらず

生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に
書かれたものであることを、はっきりとあらわしているのです。

こうした確信を、わたしたちはキリストにより神に
対していだいています。

もちろん、自分自身で事を定める力が自分にある、
と言うのではありません。わたしたちのこうした力は、

神からきています。

81 :
神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者と
されたのです。それは、文字に仕える者ではなく、

霊に仕える者です。文字は人を殺し、霊は人を生かす。
もし石に彫りつけた文字による死の務が栄光のうちに行われ、

そのためイスラエルの子らは、モーセの顔の消え去るべき
栄光のゆえに、その顔を見つめることが

できなかったとすれば、まして霊の務は、はるかに
栄光あるものではないでしょうか。もし罪を宣告する務が

栄光あるものだとすれば、義を宣告する務は、はるかに栄光に
満ちたものです。 そして、すでに栄光を受けたものも、

この場合、はるかにまさった栄光のまえに、その栄光を
失ったのです。 もし消え去るべきものが栄光をもって

現れたのなら、まして永存すべきものは、もっと栄光の
あるべきものです。

82 :
こうした望みをいだいているので、わたしたちは
思いきって大胆に語り、 そしてモーセが、

消え去っていくものの最後をイスラエルの子らに
見られまいとして、顔におおいをかけたようなこと
しないのです。

実際、彼らの思いは鈍くなっていました。今日に至るまで、
彼らが古い契約を朗読する場合、その同じおおいが

取り去られないままで残っています。それは、キリストにあって
はじめて取り除かれるのです。

今日に至るもなお、モーセの書が朗読されるたびに、
おおいが彼らの心にかかっているのです。

しかしヤハウェに向く時には、そのおおいは取り除かれます。
ヤハウェは霊です。そして、ヤハウェの霊のあるところには、

自由があります。 わたしたちはみな、顔おおいなしに、
ヤハウェの栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、

ヤハウェと同じ姿に変えられていくのです。
これは霊なるヤハウェの働きによります。

83 :
このようにわたしたちは、あわれみを受けて
この務についているのだから、落胆せずに、

恥ずべき隠れたことを捨て去り、悪巧みによって歩かず、
神の言葉を曲げず、真理を明らかにし、神のみまえに、
すべての人の良心に自分を推薦するのです。

もしわたしたちの福音がおおわれているなら、
滅びる者たちにとっておおわれているのです。

彼らの場合、この世の神が不信の者たちの思いを
くらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の

輝きを、見えなくしているのです。

しかし、わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、
ヤハウェなるキリスト・イエスを宣べ伝えます。

わたしたち自身は、ただイエスのために働くあなたがたの
僕にすぎません。 「闇の中から光が照りいでよ」と

仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を
明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのです。

84 :
しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っています。
その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから

出たものでないことが、あらわれるためです。
わたしたちは、四方から患難を受けても窮しません。

途方にくれても行き詰まりません。
迫害に会っても見捨てられません。倒されても滅びません。

いつもイエスの死をこの身に負うています。それはまた、
イエスのいのちが、この身に現れるためです。

わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に
渡されているのです。それはイエスのいのちが、わたしたちの

死ぬべき肉体に現れるためです。 こうして、死はわたしたちの
うちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。

「わたしは信じた。それゆえに語った」としるしてあるとおり、
それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じてます。

それゆえに語るのです。 それは、ヤハウェなるイエスを
よみがえらせたかたが、わたしたちをもイエスと共に

よみがえらせ、そして、あなたがたと共にみまえに
立たせて下さることを、知っているからです。

すべてのことは、あなたがたの益であって、恵みが
ますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、

神の栄光となります。だから、わたしたちは落胆しない。
たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は

日ごとに新しくされていきます。 なぜなら、このしばらくの
軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりに

わたしたちに得させるからです。わたしたちは、
見えるものにではなく、見えないものに目を注ぎます。

見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくからです。

85 :
わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、
神からいただく建物、すなわち天にある、

人の手によらない永遠の家が備えてあることを、
わたしたちは知っています。

そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に
望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえています。

それを着たなら、裸のままではいないことになるでしょう。
この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って

苦しみもだえています。それを脱ごうと願うからではなく、
その上に着ようと願うからであり、それによって、

死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためです。
わたしたちを、この事にかなう者にして下さったのは、神です。

そして、神はその保証として聖霊をわたしたちに賜わったのです。
だから、わたしたちはいつも心強い。

そして、肉体を宿としている間はヤハウェから
離れていることを、よく知っています。

わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって
歩いているのです。それで、わたしたちは心強いのです。

そして、むしろ肉体から離れてヤハウェと共に住むことが、
願わしいと思っています。

86 :
そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、
それから離れているにしても、

ただヤハウェに喜ばれる者となるのが、心からの願いです。

なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前に
あらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、

それぞれ報いを受けねばならないからです。
このようにわたしたちは、ヤハウェの恐るべきことを

知っているので、人々に説き勧めます。わたしたちのことは、
神のみまえには明らかになっています。さらに、あなたがたの

良心にも明らかになるようにと望みます。わたしたちは、
あなたがたに対して、またもや自己推薦を

しようとするのではありません。ただわたしたちを
誇る機会を、あなたがたに持たせ、心を誇るのではなく

うわべだけを誇る人々に答えうるようにさせたいのです。
もしわたしたちが、気が狂っているのなら、それは

神のためであり、気が確かであるのなら、それは
あなたがたのためです。

なぜなら、キリストの愛がわたしたちに
強く迫っているからです。

87 :
わたしたちはこう考えています。

ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が
死んだのです。 そして、彼がすべての人のために

死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、
自分のために死んでよみがえったかたのために、
生きるためです。

それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって
知ることはしません。かつてはキリストを肉によって

知っていたとしても、今はもうそのような知り方をしません。
だれでもキリストにあるならば、その人は

新しく造られた者です。古いものは過ぎ去りました、見よ、
すべてが新しくなったのです。

しかし、すべてこれらの事は、神から出ています。
神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、

かつ和解の務をわたしたちに授けて下さいました。
すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、

その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、
わたしたちに和解の福音をゆだねられたのです。

神がわたしたちをとおして勧めをなさるのですから、
わたしたちはキリストの使者なのです。

そこで、キリストに代って願います、神の和解を受けなさい。
神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを

罪とされました。それは、わたしたちが、彼にあって
神の義となるためです。

88 :
続きはまた明日✨🍵

89 :
イエス・キリストの御名を賛美しよう。

ハレルヤ🌌🌃CHRISTIAN.DINNER☆📦

90 :
ヨード ヘー ワウ ヘー

91 :
ヤハウェなる父である神と

イエス・キリストの御名を賛美しよう、

ハレルヤ🌄🌴おはよう

92 :
わたしたちはまた、神と共に働く者として、
あなたがたに勧めます。

神の恵みをいたずらに受けてはならない。
神はこう言われます、

「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、
救の日にあなたを助けた」。

見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日です。
この務がそしりを招かないために、わたしたちは

どんな事にも、人につまずきを与えないようにし、
かえって、あらゆる場合に、神の僕として、

自分を人々にあらわしています。すなわち、
極度の忍苦にも、患難にも、危機にも、行き詰まりにも、

むち打たれることにも、入獄にも、騒乱にも、
労苦にも、徹夜にも、飢餓にも、

真実と知識と寛容と、慈愛と聖霊と
偽りのない愛と、真理の言葉と神の力とにより、

左右に持っている義の武器により、ほめられても、
そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、

神の僕として自分をあらわしています。
わたしたちは、人を惑わしているようですが、

しかも真実であり、人に知られていない
ようですが、認められ、死にかかって

いるようですが、見よ、生きており、
懲らしめられているようですが、殺されず、

悲しんでいるようですが、常に喜んでおり、
貧しいようですが、多くの人を富ませ、

何も持たないようであるが、すべての物を持っています。

93 :
コリントの人々よ。あなたがたに向かって
わたしたちの口は開かれており、

わたしたちの心は広くなっています。
あなたがたは、わたしたちに

心をせばめられていたのではなく、自分で
心をせばめていたのです。

わたしは子供たちに対するように言いますが、
どうかあなたがたの方でも心を広くして、

わたしに応じてほしい。

不信者と、つり合わないくびきを共に
してはいけません。義と不義と

なんの係わりがありますか。
光と闇となんの交わりがありますか。

キリストと悪魔となんの調和がありますか。

信仰と不信仰となんの関係があるのですか。

神の神殿と偶像となんの一致があるのですか。

わたしたちは、生ける神の神殿です。

94 :
神がこう仰せになっています、

「わたしは彼らの間に住み、
かつ出入りをするであろう。

そして、わたしは彼らの神となり、
彼らはわたしの民となるであろう」。

だから、「彼らの間から出て行き、彼らと
分離せよ、とヤハウェは言われる。

そして、汚れたものに触てはならない。
触なければ、

わたしはあなたがたを受けいれよう。

そしてわたしは、あなたがたの父となり、
あなたがたは、

わたしの息子、娘となるであろう。

全能のヤハウェが、こう言われる」。

95 :
愛する人たちよ。わたしたちは、このような
約束を与えられているのだから、

肉と霊とのいっさいの汚れから
自分をきよめ、神をおそれて全く清くなろうではありませんか。

どうか、わたしたちに心を開いてほしい。わたしたちは、
だれにも不義をしたことがなく、

だれをも破滅におとしいれたことがなく、
だれからもだまし取ったことがありません。

わたしは、責めるつもりでこう言うのではないのです。
前にも言ったように、あなたがたは
わたしの心のうちにいて、わたしたちと生死を共にしています。

わたしはあなたがたを大いに信頼し、
大いに誇っています。また、あふれるばかり慰めを受け、
あらゆる患難の中にあって喜びに満ちあふれているのです。

96 :
さて、マケドニヤに着いたとき、
わたしたちの身に少しの休みもなく、さまざまの患難に会い、

外には戦い、内には恐れがありました。

しかるに、うちしおれている者を慰める神は、
テトスの到来によって、
わたしたちを慰めて下さったのです。

ただ彼の到来によるばかりではなく、彼があなたがたから受けた

その慰めをもって、慰めて下さいました。すなわち、
あなたがたがわたしを慕っていること、

嘆いていること、またわたしに対して
熱心であることを知らせてくれたので、

わたしの喜びはいよいよ増し加わったのです。
そこで、たとい、あの手紙であなたがたを

悲しませたとしても、 わたしはそれを悔いていません。
あの手紙がしばらくの間ではあるが、

あなたがたを悲しませたのを見て

悔いたとしても、 今は喜んでいます。
それは、あなたがたが悲しんだからではなく、
悲しんで悔い改めるに 至ったからです。

あなたがたがそのように悲しんだのは、
神のみこころに添うたことであって、

わたしたちからはなんの損害も受けなかったのです。

97 :
神のみこころに添うた悲しみは、
悔いのない救いを得させる悔改めに導き、

この世の悲しみは死をきたらせます。

見よ、神のみこころに添うたその悲しみが、
どんなにか熱情をあなたがたに起させたことか。

また、弁明、義憤、恐れ、愛慕、熱意、
それから処罰に至らせたことか。

あなたがたはあの問題については、 すべての点に
おいて潔白であることを証明したのです。

だから、わたしがあなたがたに書きおくったのは、
不義をした人のためでも、不義を受けた

人のためでもなく、わたしたちに対する
あなたがたの熱情が、 神の前にあなたがたの間で

明らかになるためです。 こういうわけで、
わたしたちは慰められたのです。

これらの慰めの上にテトスの喜びが
加わって、わたしたちはなおいっそう喜びました。

彼があなたがた一同によって安心させられたからです。
そして、わたしは彼に対してあなたがたのことを

少しく誇ったのですが、それはわたしの恥に
ならないですみました。

あなたがたにいっさいのことを真実に語ったように、
テトスに対して誇ったことも真実となってきたのです。

また彼は、あなたがた一同が従順であって、
おそれおののきつつ自分を迎えてくれたことを思い出して、

ますます心をあなたがたの方に寄せています。
わたしは、あなたがたに全く信頼することができて、

喜んでいます。

98 :
兄弟たちよ。わたしたちはここで、マケドニヤの
諸教会に与えられた神の恵みを、

あなたがたに知らせましょう。

すなわち、彼らは、患難のために激しい
試錬をうけたのですが、その満ちあふれる喜びは、
極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て

惜しみなく施す富となったのです。
わたしは証しますが、 彼らは力に応じて、否、

力以上に施しをしました。すなわち、自ら進んで、
聖徒たちへの奉仕に加わる恵みに

あずかりたいと、わたしたちに熱心に願い出て、
わたしたちの希望どおりにしたばかりか、

自分自身をまず、神のみこころにしたがって、
ヤハウェにささげ、また、わたしたちにもささげたのです。

そこで、この献金をテトスがあなたがたの所で、
すでに始めた以上、またそれを完成するようにと、

わたしたちは彼に勧めたのです。

さて、あなたがたがあらゆる事がらについて
富んでいるように、 すなわち、信仰にも

言葉にも知識にも、あらゆる熱情にも、また、
あなたがたに対するわたしたちの愛にも

富んでいるように、この恵みのわざにも
富んでほしいのです。こう言っても、

わたしは命令するのではありません。
ただ、他の人たちの熱情によって、あなたがたの

愛の純真さをためそうとするのです。

あなたがたは、わたしたちのヤハウェであるイ
エス・キリストの恵みを知っています。

99 :
すなわち、ヤハウェは富んでおられたのに、
あなたがたのために貧しくなられたのです。

それは、あなたがたが、彼の貧しさによって
富む者になるためです。 そこで、わたしは、

この恵みのわざについて 意見を述べましょう。
それがあなたがたの益になるからです。

あなたがたはこの事を、昨年以来、 他に先んじて
実行したばかりではなく、それを願っていました。

だから今、それをやりとげなさい。
あなたがたが心から願っているように、

持っているところに応じて、それをやりとげなさい。
もし心から願ってそうするなら、持たないところに

よらず、持っているところによって、神に
受けいれられるのです。

それは、ほかの人々に楽をさせて、あなたがたに
苦労をさせようとするのではなく、

持ち物を等しくするためです。

すなわち、今の場合は、あなたがたの余裕が
あの人たちの欠乏を補い、後には、彼らの余裕が

あなたがたの欠乏を補い、
こうして等しくなるようにするのです。

それは「多く得た者も余ることがなく、
少ししか得なかった者も足りないことはなかった」

と書いてあるとおりです。

100 :
わたしがあなたがたに対して持っている
同じ熱情を、テトスの心にも与えて下さった神に感謝します。

彼はわたしの勧めを受けいれ、そして更に熱心になって、
自分から進んであなたがたのところに行きました。
わたしたちはまた、テトスと一緒に、ひとりの兄弟を送ります。

この兄弟が福音宣伝の上で得たほまれは、
すべての教会に聞えているのですが、そのうえ、彼は、

ヤハウェご自身の栄光があらわれるため、
また、わたしたちの好意を示すために、骨を折って
贈り物を集めているわたしたちの同伴者として、

諸教会から選ばれたのです。 そうしたのは、わたしたちが
集めているこの寄附金のことについて、
人にかれこれ言われるのを避けるためです。

わたしたちは、ヤハウェのみまえばかりではなく、
人の前でも公正であるように、気を配っているのです。

また、もうひとりの兄弟を彼らと一緒に送ります。
わたしたちは、多くの事について彼が熱心であったことを、

たびたび認めました。

彼は今、あなたがたを非常に信頼して、
ますます熱心になっています。 テトスについて言えば、
彼はわたしの仲間であり、あなたがたに対するわたしの協力者です。

この兄弟たちについて言えば、
彼らは諸教会の使者、キリストの栄光です。 だから、
あなたがたの愛と、また、あなたがたについて

わたしたちがいだいている誇とが、真実であることを、諸教会の前で
彼らにあかししていただきたいのです


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