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いまから6時間以内に悟りをひらきたい


1 :2016/02/23 〜 最終レス :2018/05/30
ひらけたらピザ頼む。

ダメだったら、断食する。

だから誰か、知ってる人おしえてくれタノム。

2 :
自分自身が悟りなら、この質問はありえない。

3 :
断食がんばれ

4 :
むむむ。

5 :
tes

6 :
食い物を褒美に求める者は
他者を食い物にすることを褒美に求める
そのようなものは容赦なく餓鬼道に落とされる。

7 :
悟りとは差取り。すなわち格差ないこと。隠さない事である
ゆえに自らの恥部を隠すアダムとイブの子孫は
永遠に悟りを開くことはできない。
諦められよ。

8 :
1および2です。

じゃぁ、あなたはどうなの?

裸なの?

9 :
↓これを六時間で実感できれば、小悟かも!張り切って参りましょう!

比丘たちよ、色(肉体)は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。無我なるものは、わが所有にあらず、わが我にあらず、またわが本体にもあらず。まことに、かくのごとく、正しき智慧をもって観るがよい。(南伝相応部経典22-15)

比丘たちよ、色(肉体)は無我である。比丘たちよ、もし色が我であるならば、色が病に捲きこまれるようなことはあるまい。あるいは、その色について、わたしの色はかくあるがよい、わたしの色はかくあってはならないということができるはずである。
だが、比丘たちよ、色は我ではないからして、色が病に捲きこまれることもある。あるいは、その色について、わたしの色はかくあるがよい、わたしに色はかくあってはならぬということはできないのである。(南伝 相応部経典22-59 五比丘)

10 :
>>7
悟り 〜差取り〜
https://youtu.be/FDAwn28VW0g

11 :
>>9

なんで、肉体を色っていうの??

12 :
>>11
Wikipedia 色 (仏教) より抜粋。

仏教における色(しき、サンスクリット語: 、rpa)とは、一般に言う物質的存在のこと

漢訳で「色」と訳されたサンスクリット語のルーパ(rpa)は、「色彩」とともに「形」という意味も含んでいるため、「いろ」「かたち」で表現される物質的存在という意味が、すべて「色」という漢語の中に集約されている。

だ、そうであります。

13 :
なんで体なんや?

世界も体と捉えて、るんかな??

14 :
何をもって自我を感じるかと考えた時、痛みや快楽をを感じたり、見たり聞いたり匂ったりする体の存在は誰しも疑えないところだから、体と言ってるのかな?
その体の機能を通してしか世界を認識し得ないから体と言ってるのかな?
   ∧∧
  (-・(ェ)・-)
  _| ⊃/(___
/ └-(____/
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

15 :
ほーん

ほいじゃぁ苦なるものは無我ってのはなんやろう?

苦しみは無我?

意味不明やね。

16 :
Wikipediaによりますと、
無我(むが、パーリ:anatt、サンスクリット: antman)は、仏教用語で、「我」に対する否定を表し、文字通りには「我ならざるもの」という意味である。
だ、そうであります。
従いまして、「苦しみは無我」とは、
苦しみのまっただ中にあり苦しみと一体になってしまったように感じるときでも、それは我ではないよ。といった意味でありましょうか?

17 :
前世が何者なのか悟ることは己を知ること

知って後悔するのも歓喜するのも悟りのうち

18 :
それはウソ。

19 :
たとえば思考、感情、体の感覚(五感)

これらが自分、我ではない、というのは分かるんだよ。なんとなく。

でも、それにスポットを当てるもの、注目するもの、意識??

これはどうしても自分、としか思えない。

20 :
たとえば、腰で体を支えている感覚。

本当は24時間いつもある、起こっていることなんだけど、これに注目して、名前をつけたり、気持ちがいいとか、痛いとか思っても。

そのときの腰の感覚は、そのときにしか現れない。

つまりいくら頭で、捕えようとしたって、自分の体のことですら、捕えられない。

思考も実は同じで。

いくらそれに注目しても、いろいろ発見とか、大事な何かとか、分かったとしても、それも「思考」という機能に着目した、ということにしかならない、

集中した、というか。

つまり、思考にも、感情にも、感覚にも、頼れない。

21 :
↑1です。

22 :
>>19
>たとえば思考、感情、体の感覚(五感)これらが自分、我ではない、というのは分かるんだよ。
←それはすごいですね!
>でも、それにスポットを当てるもの、注目するもの、意識?? これはどうしても自分、としか思えない。
←スポットを外しみようとしても、それを意識すればするほどスポットを当ててる主体が自覚されてしまうので、この際逆に、一日中スポットをあてつづけてみようとしても、これもまた難しいですよね。

23 :
スポットを一日中当てる、、、?

つまり、スポットも我ではない、ということだと思うんだけど、1度それも試してみます。。。

24 :
集中力を高めて高めて集中対象と一体になるほど高めて、忘我に至ることができるひとは、そこからふとしたきっかけで「自我」が生じる場面(我にかえる)をとらえることができるのでしょうが、
凡人にはそれはなかなか困難でありますので、逆に常に「自我」を意識してみる習慣をつけてみることは、注意深い行動につながり悪いことではないと思うのであります。
そして、何かに集中した時に、自我が消えると言うか、もともと「我がある」ということ自体が観念妄想に過ぎなかったと気づけるのではないかと妄想してみた自我であります。

生じる場面をとらえるのが難しければ、消える場面をとらてみよぉう!
はてさて。
.∧_∧
(・(ェ)・)
.(つと)
.と_)_)

25 :
無我とは。

26 :
無我とは、生きてある限り疑いようのない「自我」の実感が、実は幻想なのだよという仏教的真理とされるものみたいでありますね。
修行によりその実感を得ることにより自らに証明するまでは、自我の実感は疑いようがなく、無我を仏教的真理だからと信仰することは、恐らく修行の妨げにしかならないでありましょう。
(´・(ェ)・`)ゞ

27 :
なるほど。

無我みたいなものを感じたことはある。

ああ仏陀やキリストが言いたかったのはこれか、と思った。

でも、そう「思った」ってのは、やぱり自我なのかな??

28 :
>>27
何かを見たり聞いたりにおったり感じたりしたときに、それを瞬間に記憶と照合して、それを言葉=観念に置き換え認識する主体が「自我」。
その言葉=観念に置き換えられたものとしてのみ自分を含めた世界を認識しているのが、自我。
ただ、観念に過ぎないものは儚く消え去る。
実体があるとか無いとかの思考も、観念に過ぎない。
観念=「脳」より外に人はでれない。
実体のある無しを問題にしてるのではなく、思考、感情、苦の原因、全てはその儚い観念としてしか認識しえない。
しかし、心の観察を続けていれば、ひょんなことから「無我」の「実感」を得られるかもしれないなぁ・・・と期待(執着)しないように装いながら、本心期待してしまうのであります。
はてさて。
.∧_∧
(-(ェ)-)
.(つと)
.と_)_)

29 :
ふむふむ。

30 :
と、ところで、あなたは悟っておられる方なのでしょうか??

どちらにもとれる文だったので…

31 :
もっと自分の経験に自信をもって勘違いして生きたほうが良いと思います。

32 :
.∧_∧
(・(ェ)・)
.(つ旦と)
.と_)_)
いえいえ、単に「止観」を実践してみたら、生きるのがかなり楽になったとを実感したというだけであります。
「止観」は誰にでも出来る生きるのが楽になるテクニックでもあると思うであります。
けど切実な「苦」から遠ざかると、「止観」の取り組みも今一つ甘くなります。
苦しみを抱えてる時ほど修行は捗るようでありますね。

33 :
>>31
勘違いとは??
例をあげていただけませんか。

34 :
>>32
そうですね、僕もそうです。
苦しみから開放されるために、苦しんでいなければ修行に打ち込めないなんて、馬鹿な話ですが笑

35 :
>>34
.∧_∧
(・(ェ)・)
.(つ旦と)
.と_)_)
で、ありますね!
けど、「止観」で楽になれる実感を得たことは、やってみて本当に良かったなと思うであります。
どうせなら「無我」まで行ってみたいであります。
無我ってのは、自他の別も主観も客観も、生死の別もない、ただひとつの意識のみある境地だそうでありますが、
「苦」があれば、その境地を求める修行が捗るなら、新たな「苦」すらも、その時心を観察することを忘れさえしなければ、ある意味受け入れられそうな気もするであります。

36 :
瞑想はじめて間もないですが、寝起きスッキリしてきました。
ちょっとずつ続けていこうと思います。

37 :
また何か教えてくださーい、ありがとうございました

38 :
.∧_∧
(・(ェ)・)
.(つと)
.と_)_)
がんばりましょう!

39 :
苦しんでいる時ほど修行に打ち込める理由は何故でありましょうか?
.∧_∧
(-(ェ)-)
.(つと)
.と_)_)
たとえば、深い悲しみや怒りの直中にあり、その感情に支配されてるとき、それはそこに明確に「意識」され、それは自分自身と一体のように感じられる。
この克服対象としての「意識」を明確に「意識」することができるのが「苦」の体験だから、修行に打ち込めるのでありましょう。
この「くまの」「意識」が「ただ一つの意識」と入れ代わるか、「くまの」の部分が実は幻想なのだと気付くことが「無我」の実感なのでありましょうが、くまにはくまが付きまとうのであります。
はてさて・・・・

40 :
うーーーん。

なるほどー。

途中まで理解しました笑

41 :
.∧_∧
(・(ェ)・)
.(つ旦と)
.と_)_)
途中までご賛同いただき心強いであります。
くまは無我の実感未だなく、くままみれでありますので、無我を説明するのは不適切なのでありますが
無我っていうのは、無我に「なる」っていうことではなく、あ〜っそぉ〜なんだ!と気付くことらしいのであります。
そうすると、無我って気付くのは「誰?」ってことになるのでありますが、
身体(脳)の機能としての思考、感情、感覚等が消えてなくなるわけではなく、それらの思考、感情、感覚等の「主体」が存在しない、「自我」と思っているものが実は幻想であると言うことに気付けば良いらしいのであります。
無我を実感し得たとしても、記憶喪失になるわけでも、感覚が麻痺するわけでも、思考できなくなるわけでもなく、
「くまの」の部分がなくなるだけみたいであります。

42 :
すごく研究、観察されてますね。。。

くまさんも座禅をするのですか??

43 :
..∧_∧
(〃・(ェ)・〃)
.(つ∪と)
.と_)_)
いえいえ、とんでもないであります。
けど、苦しかったので、かなり真剣に、瞑想に取り組んだであります。
で、当初の目的はある程度達せられてしまったので、最近はサボりがちであります。
ただ、以前書いた通り最近はできるだけ日常生活を通して意識的にあろうとしてるであります。
半端者のくまでありますので、あくまでも、できるだけでありますが・・・・

44 :
..∧_∧
(〃・(ェ)・〃)
.(つ∪と)
.と_)_)
はずかしなから、半端者くまののうがきのつづきであります。
で、ありましてでありますね、日常意識的にあり続けようとしても、なかなかどうしてこれが、そうそうできたもんではないのであります。
ついつい無意識にいろんな事をしてるのであります。
てか、できちゃうんであります。
思考する時、感じる時も同じなのであります。
意識的に課題に取り組むこともできますが、無意識の反応として多くの課題を処理したり、バカにされたら反応として怒ったりしてるのであります。
で、「苦」に繋がるような怒りとか不安といった感情や思考に囚われたとき、それが「自分の」怒りであり不安であると意識されるのであります。
日常無意識にできちゃう事も、それは当然「自分が」してるのであって、無意識にしたことも責任は当然「自分に」あるのであります。
ここで、くまがほざきたいのは、個体としての責任の有無の問題ではなく、
くまの行動、くまの思考、くまの感情、というように「くまの」と意識されずに行動、思考、感情が生じているという経験的な事実なのであります。
「無我」の実感とは程遠いのでありますが、これは>>9で引用した
>無我なるものは、わが所有にあらず、わが我にあらず、またわが本体にもあらず。まことに、かくのごとく、正しき智慧をもって観るがよい。(南伝相応部経典22-15)
ということを、言葉として理解するヒントくらいにはなるのではないかと愚考するくまなのであります。

45 :
https://www.youtube.com/watch?v=dH0YlQqUoxs&nohtml5=False

46 :
おそくなりました。ゆっくり読ませていただいてます。

意識的、というのは、無意識を観察する、という感じですか?

未開拓な土地を開拓していくような??

47 :
いえいえ、くまがやろうとしてるのは、もっと簡単なことであります。
歩くとき、食べるとき等々、日常無意識にしていることを自覚的に、ただ気付いていようとしてるだけであります。
思考や感情についても、それを意識的にコントロールしようとするよりも、それにただ気付いていようと心掛ける方が、感情や妄想に巻き込まれることが少ないであります。(否定も肯定もせず、抑圧もせず)
けど、常に自覚的、意識的にあることは難しいであります。
無我を求めて逆に、自我を強化してしまわないように、ただ気づいているという点が重要な気がするであります。
.∧_∧
(・(ェ)・)
.(つ∪と)
.と_)_)

48 :
それは、意識的に「無我ではない、無我を感じていない自分」をみる、ということでしょうか?

もしそうなら、海を感じようとして、魚を見つめている、ようなことではないでしょうか。

魚は海ではありませんが、海の一部といえます。

49 :
>意識的に「無我ではない、無我を感じていない自分」をみる、ということでしょうか?
←だいたいそうであります。否定できない自我をそれをそのまま「みる」であります。
>もしそうなら、海を感じようとして、魚を見つめている、ようなことではないでしょうか。
←魚を登場させるとくまの籾殻脳が混乱してしまうので、
海=「遍在する意識」に対して、その波立つ海の飛沫であるところな「個の意識」を見てみようとしてるのであります。
「分離された飛沫が意識を持ってしまったとの幻想を抱いている」いう比喩が適切な比喩であるかどうかを、飛沫であるくまは確かめてみようとしてるのであります。
果たしてくまは「遍在する意識」を実感できるか!
くまの大冒険であります!
.∧_∧
(・(ェ)・)
.(つと)
.と_)_)

50 :


くまさんオモシロい笑

51 :
..∧_∧
(〃・(ェ)・〃)
.(つ旦と)
.と_)_)
はっ。オモシロがっていただけると、くまも本望であります。
修行は楽しくやりたいであります。
くまのれぞんでーとるは「癒し」と心得ております。

52 :
何だか、ぼくも目標というか、同じ感じのような気がしてきました。

ところで、ここはご存知ですかー?

http://www.geocities.jp/ubik0101/

すごいところですよ…

53 :
>>52
.∧_∧
(・(∀)・)
.(つ旦と)
.と_)_)
>目標というか、同じ感じのような気がしてきました。
同行者があることはうれしいことであります。
くまが修行を志した動機はあくまでも「苦」を何とかしたかったということであります。
その方法が宗教である必要もスピリッチャルである必要もオカルトであるひつようもなかったのであります。
何か特別なことを「求めた」のではなく、「苦」を免れたかっただけなのであります。
ところで、ご紹介いただいサイトの最初の方だけちょぴっと読んでみましたが、くまにはピンと来るものがなかったので、読み進むことはないでありましょう。
けど、ありがとう。

54 :
いまは苦は、なくなったのですか??

その時に抱えていた苦がなくなったのか、それともすべての苦がなくなったのかな??

読んでもらって、ありがとう。まぁまた機会があれば。

55 :
くまは修行中のくまでありまして、「苦」がなくなったわけではないであります。
けど、「止観」の実践のお陰で、感情やそれをもたらす思考、妄想、をコントロールすることは容易いことん実感できたので、だいぶ生きやすくなったであります。

>読んでもらって、ありがとう。まぁまた機会があれば。

←もしかして、ブログの製作者さんなのでありますか?
.∧_∧
(・(ェ)・)
.(つ旦と)
.と_)_)

56 :
へー、止観って、仏教の瞑想のこと、なんですね?

ウィキを見ました。

いえいえ、自分は一読者のひとりです。
濃い掲示板ではいつも質問に答えてもらったりしてます。

57 :
うんうん。
けど、釈迦が発明した方法ではなくもっとずぅ〜っと昔々からインドで行われていたらしいでありますよ。
釈迦は、超頭の良い人だったみたいでありますが、当時の宗教では自分の「苦」は克服できなかったので、自分一人で自分の心に問いかけ、悟りを開いたらしいであります。
人生は「夢」のようなものであり、目覚めた人とされるのが釈迦でありましょう。
その目覚めるため教えが釈迦の教えでありましょう。
その方法として推奨されたのが「止観」らしいであります。
「止」=集中。集中して思考妄想を止める。
「観」=心に浮かぶありのままを観察する。
自分の「苦」を克服できるのは自分だけでありましょう。
どのような苦境にあっても、この誰でも出来る「止観」という方法が「仏教」的と評されることを釈迦は望んでいなかったでありましょう。
くまなり理解では「縁起」とか「因果」とか「八正道」とかは、「観」の際のガイドみたいなものかと思うのであります。
.∧_∧
(-(ェ)-)
.(つと)
.と_)_)

58 :
止観といっても、止と観は別のものなのでしょうか。

妄想をとめて集中する、と
心を観察

って反対のことに思えてしまいます。

59 :
ほんと、思考をとめてみたいものです。

60 :
>>58>>59
>止と観は別のものなのでしょうか。
←一緒にやっちゃおうとする方法もあるみたいでありますが、くまは別々にやる方がやりやすかったでありますが、
どっちでもよいのではないでしょうか。

妄想をまみれでは、それに巻き込まれ何をどう観察すりゃいいのやら、途方にくれてしまうくまでありました。
で、まず呼吸に集中して、出来るだけ無思考の状態を維持するようしたであります。
そこはほれ、半端者のくまのやることでありますので、「できるだけ」でありますが・・・。
で、妄想まみれの心というか思考というか、とにかくちょぴっと静まってきても、それでも出てくる、思考、妄想にまみれないように、できるだけ早くそれに気付いて、
集中対象である呼吸にもどるだけであります。
この思考妄想に気付くと言う部分が、ある意味観察の基礎みたいなものでありましょうが、
観察は、その思考妄想を否定も肯定も抑制もせず、
ただありのままに観察するのがよいみたいであります。

.∧_∧
(・(ェ)・)
.(つと)
.と_)_)
半端者、修行中のくまの能書きでありました。
けど、くまは↑こんなんで、かなり楽になれたであります。
おすすめであります!

61 :
ほぇー

また参考にさせていただきます。

ちなみに、今まで冥想してて、なにか不思議なこととか、体験とか、ありましたか??

62 :
>>61
うん。ありますが、ごくありきたりなことでありまして、読んだり聞いたりすることが、本当にあるのかな?と半信半疑でやってると、
ありゃ?みたいな感じでありますよ。
それは脳内物質の影響でありましょうから、格別不思議なことでも何でもないであります。
不思議なことに、それらは求めてない時にはじまるのであります。
.∧_∧
(・(ェ)・)
.(つ∪と)
.と_)_)

63 :
籾殻脳くまのたわごと。
ただ一つの意識=海の意識。
波立つ海の飛沫の一滴が、分離された独自の意識をもっているという幻想が自我の意識。
という表現が正しかったとして、
分離された自我意識は、個々の記憶に基づく観念=言葉により世界や自分を理解しようとし、表現しようとする。
そして今くまもくまの籾殻脳理解に基づきこれを書いている。
無我、不二一元、と言っても、あなたが居ないわけでもくまがいないわけでもなく、みんなみんな居るのである。
本来海の水の一滴でしかないものが、自分は海であることを思い出すことが「悟り」なのでありましょうかねぇ。
万事に執着するなと言うのも、この一滴のくまにとって疑いようのない「自我」を薄めて、「くまは海なんだ!」と実感するための訓練方法の一つなのかもでありますね。
.∧_∧
(-(ェ)-)
.(つ∪と)
.と_)_)

64 :
おはようございます。

やっぱり瞑想は奥が深い、ですね。

ちょっとずつ続けてみようかなって、思います。

65 :
こんにちは。
そうでありますね!
身体の健康のために散歩が効果があるように、心の健康のために瞑想習慣は効果絶大であります。
禅宗では、安楽の法門とも言われるようであります。
  ∧_∧
  ( ´∀`)
 ⊂   ノつ
  人 Y
 し (_)

66 :
きのうはくまさんの言葉で思い出して、瞑想、ではなく散歩とランニングに行きました。

身体もあたまも、なんだかスッキリです。

今日は雨だし、瞑想に集中しようかなーと思う、いまこの頃です。

67 :
   ∧∧
  (-・(ェ)・-)
  _| ⊃/(___
/ └-(____/
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
うんうん。心地よく身体を動かし、好きなことを集中して行うことにより集中力を鍛え、その集中力で自分の心をありのままに観察するだけで、
ありゃ不思議!の世界に誰でもちょぴっとだけなら行けるような気がするくまであります。
世界平和!みなの心の平安!
おやすみなさい。

68 :
でもどうなんだろうくまさん。
俺思うんだけど、無我の境地とか、まぁ感じたとするよね?
でも、それって多分世界の全部が完成とか輝いてる感じになるんだよね?

ってことは、何か無我の境地とか、悟りとか、そこにゴールというか、目標のモノがあるわけではない、んじゃないかな?

とか、思うんだ。

69 :
どうなのでありましょうね?。

自我のフィルターを通さず、ありのままをみれば、
>世界の全部が完成とか輝いてる感じになる
←らしいでありますね。
更に「死」をもって閉じる自らの存在に対する不安との戦いを終え、
完全な平安の中に入れたら、それは流石に「にゴール」でありましょう。

>何か無我の境地とか、悟りとか、そこにゴールというか、目標のモノがあるわけではない、んじゃないかな?

←大乗の誓願のことでありましょうか?

  /   /  /  /
  _n_
 ///|ヾ\ / /
 ⌒⌒|⌒⌒
/   |∧_∧ /  /
   |・(ェ)・`)
 /  Oと  ) / /
    しーJ。。。。。

70 :
昨日は瞑想、なんかいい感じに出来ました。

思考を思考と気づくのが、今までダメダメだった気がします。


大乗の誓願?ググってもでません、、何でしょうか?

71 :
.∧_∧
(・(ェ)・)
.(つ∪と)
.と_)_)
うんうん。何かいい感じに行くときと、じゃない時がありますよね。

Wikipediaによりますと、
誓願(せいがん、梵: praidhna, プラニダーナ)とは、大乗仏教において、仏道を志すものが願いを成就させるという誓いを立てること。
菩薩が一切衆生を救済するという願いと誓いを立て、願いが叶うまでは自分が涅槃には赴かないとする。大乗仏教徒によって強調された。また阿弥陀仏の本願も誓願と同じ。

だ、そうであります。
(つづく)

72 :
>何か無我の境地とか、悟りとか、そこにゴールというか、目標のモノがあるわけではない

←無我であり、不二一元であるとするならば、自他の別も、主客の別も、生死の別もなく、スタートもゴールも目標もないということになるのでありましょう。

ここで、全てが観念であり幻想であるとするなら、何故「誓願」だけ別なんだ?という点に付きましての、くまなり籾殻脳理解では、
そもそも、観念だ幻想だと言っても、くまや皆や、くまの掌にあるガラ携や、居住空間や空や大地や宇宙が幻であり、何も存在しないと言う話ではなく、
ないのは「自他の別」と言う「観念」であり、「ガラ携」、「宇宙」と言った「観念」 なのでありましょう。
くまは、自分や世界を言葉と言う極めて限定的不十分な道具で多面的な対象の一断面をとらえて「認識」することしかできませんが、
無我の実感を得ることがもし出来れば、
自我のフィルターを通さず、ありのままの世界を受けとる(?)ことができるようになるということでありましょう。
「不二一元」とは、自他、主客、生死、一切合切全て「ない」、その一も全てもない・・・という、むちゃくちゃな、みもふたもない話でありますが、
おそらくそこで言われてるのは、それらの「観念」「言葉」を捨て去ることによってしか、本当のことには到達できませんよって事なのではないでしょうか?
完全な「悟り」にまで至らなくても、「無我」の実感まで何とかたどり着ければ、そこにおいては、
不安や恐怖や欠乏感等を感じる「主体」がないわけでありましょうから、ある意味それで一丁上がり!って感じになってしまってもよいのでしょうが、
そこはそれ、他者のまだ、「苦」を抱え込んで、もがいているくまたちのために、手をさしのべましょううて、修行を始める前に誓いましょうって話ではないかな・・・と
くまの行き当たりばったりの籾殻脳理解でありますので、変だなと思ったら、この前のサイトの先生に聞いたり、調べたりしてみてください。
.∧_∧
(・(ェ)・)

73 :
例えば、「次元」という「観念」があります。
点が一次元、線が二次元、それに高さが加わって三次元。
これがくまたちの住んでる世界であります。
三まであるならそれより更に高い次元を想定できるはずでありますが、ぼんくらな凡くまであるくまにはわからないでのであります。
高さのない二次元においては、三次元を知ることはできないのであります。
なぜなら、「高さ」が「ない」からであります。
同様に仮に高次元を垣間見ることができたとしても、それは二次元で平面の影を見て高さを想像させるような言葉でしか説明できないでありましょう。

りんご、ごりら、ラッパ、パイナップル、ルビー、ビーダマ、マイク、くま。
やっとくま登場。
まぁ〜そのぉ〜、言葉を聞くと、それらのイメージはわくのであります。
そのイメージをもって、そのものを知っているという気になってしまうのであります。
また、イメージのわかないものは、認識出来ないのであります。
くまを離れられないくまは、波立つ海の飛沫の一滴のまま、もがくのであります。
まさかくまが海だとはイメージがわかないのであります。
「自我」とはなんぞや?
くまにとっての自我とは、まさに、記憶であり、その記憶は言葉でありイメージであります。
ことば=観念で理詰めで「無我」を実感しようとしても不可能なのであります。
無我夢中ということばがありますが、
一所懸命集中して、我を忘れ、対象と一体化し、ふと我にかえった時に、自我が生じる瞬間を目撃できれば、
その瞬間こそが、逆に遍在する意識を実感できる瞬間なのではないかなと思うのであります。
.∧_∧
(-(ェ)-)
.(つと)
.と_)_)

74 :
あっ!それからもう一つ、
>>48でピザ主さんが、
>魚は海ではありませんが、海の一部といえます。
と書いてる点なのですが、

人の体はたくさんの細胞というか命のより集まったもので、赤血球とか神経とか
詳しいことはわかりませんが大腸菌とかガン細胞とかも命でありましょうが、それらを命を意識せずにくまやみながあるように、
宇宙からみれば、人も地球の一部であり、地球も銀河の一部であり、
全ては生まれて滅するものであり、それでもある「意識」が所謂一つの海の意識なのでありましょうかねぇ?
そのように考えると、まぁ小せぇことはほっといて、みな仲良くしようや!
って気になる単純なけまであります。
.∧_∧
(・(∀)・)
.(つ∪と)
.と_)_)

75 :
くまさん、本当は無我とか体験したことあるのではないですか?笑

76 :
>>75
.∧_∧
(・(ェ)・)
.(つと)
.と_)_)
いいえ。
くまはくままみれのくまであります。
何かを知りたい、「苦」を克服したいと張り切ってるのはまぎれもなく、くまであります。
けど、ある程度感情や思考に苦しむことに対する対処法が身についてくると、まぁ小さいことはほっといてもいいじゃん!
的な受け入れ方ができる様になってきたとは言えるであります。
くまには「主体がない」という実感はなく、主体は「生成変化する」程度でしかありません。
遍在する意識の存在に気付く=実感できれば良いなと思うのでありますが、
取り組みとしてそれは、無我の実感を得ようとすることと同じことのようでありますが、実は大きく異なるのかもしれません。
なぜならそれは、無我の実感=自我の不存在はそのまま自らの「死」とイメージが重なるからでありましょう。
否応なしに死すべくしてあっても、やはりそれは究極の「苦」であり、それとの真剣な取り組みを無意識に避けたいとくまが思ってるのでありましょう。
無我を深く追求して行く道はまだまだこれからであります。
この辺まで来ると、心の健康法を越えて、チョピッと「修行」ぽくなってくるでありますね。

77 :
そうですねぇ、悟りや無我なんて、最高の健康法のはずですよね。
だからこそ求めてしまうので。
そらまぁ悟った人には、運動や食事、習慣の方が大事だ、なんて言われそうですが。

くまさんの仰ること、全てその通りと思います。
そして、言われるように理詰めでは仕方ない。。
ではどうするか?
瞑想と、自分の研究、日常をちゃんと過ごすこと。

というのが僕の方法かな?

早く無我を手に入れて、ピザを食べてしまって、【ピザ主】であることから解放されたいです。

お互いの健闘を祈ります…

78 :
>>7
また宗教に隠した奴隷化全体主義社会主義か

79 :
本気出すなら・・
今からサウナに行く・・
体を清め・・サウナに入る・・10分(ここで苦を感じる)
水風呂に入り頭と体を冷やす・・3分(ここで解脱の感覚を味わう)
外に出て座禅・瞑想する・・5分(私がいないことを知る(涅槃の境地)
これを4回繰り返す・・
最後の瞑想で自我が無いことを知れば成功^^

仮の涅槃の境地になるにはこれしかない^^
はよ急げ^^
検討祈る・・

あと結果はここに書いてね^^

80 :
くまは、瞑想は心の健康法として有効だと実感しておりますが、
それを「無我」の実感を得るため、自らに無我の確証を得させるための取り組みとした場合、
困難さが予想されます。
一般に、証明においては、不存在の証明は「悪魔の証明」と言われ、不可能とされています。
従って、立証責任は常に存在を主張する側にあります。
しかも、ここにおいて証明を求められるのは、「無我」=自分と思っているものは自分ではない、自分のものではない、ということであります。
心身の痛みを感じるとき、それは疑いようもなく自分の痛みでありましょう。
それが、自分のものではないなんて・・・・
従って、ここにおいて、一般の原則に従い、無いこと=無我の確証を得ようとするよりも、あること=「海の意識」の実感を得ようとする方が合理的かなと思ったのであります。
しかし、考えてみますと、ここにおいて証明とは、他者に対してするものではなく、自己が確証をもつために行われるものであり、
必ずしも一般の原則の適用が求められるものでも、有効なものでもないかもしれないと、昨夜思い付きました。
「止観」、「ヴィパッサナー」、「内観」とかいう技法は、全て自分の「心」のありのままを観察する技法でありましょう。
その観察において、「ありのまま」といっても、機が熟さないと、観察対象は潜在意識の奥深くにしまいこまれていて出てきません。
だからこそ、激しく「苦」が意識される時こそ、観察の好機となるわけですが、
ただ観察を捗らせるために自ら「苦」を招くようなことは、したくありません。
やはり、深く静かに心の観察をし、潜在意識の奥底まで追求してみることを続けることが必要なのでありましょう。
.∧_∧
(-(ェ)-)
.(つと)
.と_)_)

81 :
>>79
.∧_∧
(・(∀)・)
.(つ∪と)
.と_)_)
サウナ+水風呂セットは確かに極楽極楽でありますね。

>>78
全体も個もない、主も従もない、始まりも終わりもない、というみもふたもないはなしを釈迦はしてたみたいで、当然宗教も奴隷も王さまもないみたいでありますよ。
まぁ、それで「苦」が克服できればいいじゃんみたいな話しみたいでありますよ。

82 :
>>81
4日間連続で行ってサウナ水風呂瞑想・・1日6時間くらいやってる・・
明日も行って瞑想する・・
苦(サウナ)・・解脱(水風呂)・・瞑想(涅槃)って意識してる・・
ちょうど外に瞑想に最適な石があってその上で座禅冥想してる・・
自我が消え私がいなくなる・・
自然に溶け込む・・
仮想体験だけど・・
やみつきになる^^

83 :
あっおもしろい動画あったから貼っとくか^^

パパジ〜「悟りは今ここに:この世で一番簡単なことが悟り」
https://www.youtube.com/watch?v=iuCClgCRJek

ほとんど仏教だけどね^^

84 :
>>83
(土)からヨガナンダさんの映画が渋谷ではじまり、全国回るらしいであります。
.∧_∧
(・(ェ)・)
.(つと)
.と_)_)

85 :
訂正
(土)→先週の(土)から
(´・(ェ)・`)/

86 :
>>77
>お互いの健闘を祈ります…
はい。がんばりましょう。
.∧_∧
(・(∀)・)
.(つと)
.と_)_)
「6時間・・・」というライトな瞑想お手軽コース的なスレタイにひかれて、おじゃましましたが、
ピザ主さんと知り合えたお陰で、書き込みしてるうちに、自分自身新たに気付けたことがたくさんありました。
感謝してるであります。ありがとう。

87 :
>>79
アドバイスありがとうございます。

6時間チャレンジはあっけなく終了したのですが、今度そのサウナ水風呂瞑想もチャレンジ、気持ち良さそうだし、やってみますね。

ただ79さんが変なお客さんに思われていないか、少し心配です…

88 :
>>80
悪魔の証明ですか。そう言われるとチャレンジしたくなりますね〜

そうですね、そういわれると、自分で苦を招くことも難しい、ですね。
自分を出来るだけ苦しめるには何をすればいいのか、それすら自分でも分からないです。

たとえば大事な誰かに危害を加えたとして、それが出来てる時点で、狂ったやつ、だとしたら、ちゃんとそれで苦しめるか微妙です。

いまある苦で十分、なんですかね。

89 :
>>86
そうでした、ここはお手軽な悟りを探求するスレでした。

ついつい真面目になってしまうのがぼくの性分です。

これからはたまにバカもやろうと思います。

こちらこそ、くまさんとのやりとり、いつも楽しんでます。

ありがとう。

まだここも続けられそうなので、またいつでも来てください。

90 :
>>88
「悪魔の証明」とは、何かがあるか無いかを証明しなければいけない時、あると主張する側は、ただ一つの証拠を提示すれば済むが、
(例えば、雪男がいると主張するのであれば、探して連れてくればよい。)
無いこと=不存在の証明には、ありとあらゆる存在可能性がないことを証明し尽くさなければならず、事実上不可能であると言うことです。
論理的な話しと言うよりもむしろ、事実上不可能なことを強いる点で「悪魔の」という比喩が使われるようです。
ただ、これは、訴訟の場面などにおける話であり、「止観」の実践に際しては、むしろ余計な観念を付け加えるだけの結果となりそうです。
やはり、ただひたすら、ありのままの心を観察したほうがよいかと思い直しました。
何か(=海の意識)を探し求めることは、ありのままの観察とは言えず、またそれは、そのような観念に対する執着ともいえるかとも思いました。

生きること、老いること、病むこと、死ぬこと、無常であること、「一切皆苦」だそうでありますので、わさわざ自分を苦しめようなどとは間違っても考えないほうが、よいかと思います!
そのように考えて、本当に引寄せてしまったら、たいへんです!
ただ、苦しい時の方が、真剣に心と向き合えますよねというだけでありまして、
目的である苦の克服のために苦を呼び寄せることはないでしょう。
ありのままを観察、否定も抑制もせず、ただ巻き込まれずにありのままを観察すればよいだけのようです。
(´・(ェ)・`)/

91 :
おもしろい!
ほんとですね。
ない、を証明するのってそんなに難しいんだ…!

そうなんでしょうね、自分がない、は体感する他ないようですね。

もちろん、そのために、苦を呼びつけようなんて自分は考えておりません。
なければ、ないほど良いです…

今日も軽く運動しました、これから瞑想するであります。

92 :
籾殻脳くまの一人ごと。
.∧_∧
(-(ェ)-)
.(つと)
.と_)_)
くまは、仏教徒ではないのである。信仰は持たないのである。
ただ、釈迦が残してくれた、究極の苦撲滅テクの実践をてみたら、大いに効果あったので、これからも続けるのであります。
で、輪廻とか業とか言う概念はくまにとってはあまり関心事ではなかったのでありますが、
最近なんとなく、なるほどなと思うようになったのである。
不二とかは、取り合えず、言葉が使いにくくなっちゃうのでは、横に置いといて、
1)永遠を想定できるのであれば、時間は幻想なのである。
あるいは、永遠の中にありながら、有限という幻想を測るための、便宜なのである。 2)無限を想定できるのであれば、無限の組み合わせがあると同時に、当然同じような個としての経験が無限に繰り返されるのである。

1)2)を前提に、考えると、輪廻、や業はくまにも、ふむふむと思えるのである。

例えば、くまが、くまとして生まれた境遇に苦しんでいたとして、
その「苦」はなぜ生ずるのだろう?
どうしたら「苦」を克服できるだろう?
と思った時、その究極の克服法として、「止観」があるのでありますが、
自らの心の観察に向かわせる前提として、
例えば、くまが、なんでくまをくまとして産んだんだよぉ〜と親を恨んでいたとする。(くまは幸いなことに感謝している。)
恨みはまさに「苦」である。
「苦」には常に原因があるが、原因を外に求め続ければ、永遠に「苦」を克服することはできない。
原因を内側=業に求めることにより、はじめて「修行」の価値に気づくことができる。

自分になんの責任もないのに、自分のこの苦はなんだ!
責任者出てこぉ〜い!
と新たな苦を自分で作り出すよりも、
全ては輪廻の中における自分の業によるものだと見極め、自ら克服する道を選ぶ方が、籾殻脳的にはふむふむと思えるのでります。

93 :
.∧_∧
(-(ェ)-)
.(つと)
.と_)_)
くまの部屋はいつも何かの雑音が聞こえている。
冷蔵庫のコンプレッサー、建物の揚水ポンプ、水道管、近所の声、
通りを走る車、時々飛行機、等々、
静寂はない。
それが、くまの生活環境である。
瞑想時に、呼吸に集中し、思考を少なくし、特になにか特別なことは求めず、ただ感覚に気づいているようにつとめる。
で、気づいてる中で取り分け、音について、面白い感覚を感じた。
普通、外部の音を自分が聞いていると感じる。
そして、この音は飛行機、これはモーター、これは近所の赤ちゃん、などと認識し、うるさい、とか、音楽のように聞こえるとか、評価し、感情や妄想を呼び起こしたりする。
瞑想時にただ、それに気づいているだけという感じでいると、外部の音と自分との隔たりが曖昧になってくるのを感じた。
音と、自分という観念が分けられないように感じた。
これが鳥のさえずりとか、川のせせらぎとかなら、何かそれっぽい話しなのだか、生活音、雑音でも、こんな感覚になることがあるものなのだなと思った。
音と自分との隔たりが曖昧になることにより、一気に「自我」が薄らぐ気配も感じた。
音と自分との隔たりが曖昧になり、
その音と隔てがない自分という観念・・・
音があるように(あるいはあるので)自分があり、音がなければ自分はない、・・・のかも!
などと、思考を巡らせはじめるとその感覚も消え、瞑想は中断された。
やはり、何かを求めようとするとそれは遠退く。

94 :
>>92
おぉ、ぼくも似たような考え方だよ。
輪廻は、自分という意識の苦しみのリレーじゃないか、って思う。
永遠とか無限とかってのは、僕の頭ではちょっとついてけないけど。

でも

>永遠を想定できるのであれば、時間は幻想なのである。
あるいは、永遠の中にありながら、有限という幻想を測るための、便宜なのである。

これはカッコいいね

95 :
>>93
いいねぇ〜なんかすごくいい感じっぽいですね。

くまさんにピザが届く日もそう遠くないのかもね?

楽しみだね〜

おれも頑張ろう

96 :
.∧_∧
(・(ェ)・)
.(つと)
.と_)_)
>>94
>輪廻は、自分という意識の苦しみのリレーじゃないか
←くまは、ちょぴっと違うのであります。輪廻だけでなく、「自分」も何もかも、全ての「観念」は幻想なのだということが、大前提なのであります。(そのような実感はないでありますが、取敢ずそう前提をたてるのであります。)
その上で、その幻想の観念で構築した理論を組み立てていくと、なるほどなとおもえるのであります。
幻想を承知で、論理的に(←これも幻想でありますが)、考えると、自分が経験してきたこと、これから経験すること、感じることは、永遠に無限に繰り返されるのだとくまの籾殻脳は結論に至ったのであります。
とにかく、永遠とか無限てどういうことかなと籾殻脳で想像してみたら、そう思えちゃったのであります。
そんなの嫌だぁ〜い!と思うくまは、その輪から1抜けたぁ〜い!と思うのであります。
>・・・・これはカッコいいね
←でぇへへ、でありますか!ありがとう。

97 :
a

98 :
.∧_∧
(-(ェ)-)
.(つと)
.と_)_)
くま、思うのでありますが、観察は、ありのままかえるのぱぱ、でなければ観察にならないのであります。
知識は不要。否、邪魔なのであります。
こう見えるのが正しいとか、こう見えるはずだという思い込みが妄想を生むのである。
で、輪廻や業同様に今までにくまの大きな関心事ではなかった無執着という概念に、くま的には脚光があたったのである。

輪廻や業は心の観察に人を向かわせるための動機付けとして説かれ、
無執着は修行(=止観)に取り組む際の心構えとして、説かれたのではないだろうか?
と、籾殻脳で妄想してみたくまなのでありました。
おやすみなさい。

99 :
僕の、場合、どっからでも手をつけられるほど雑念だらけですね。

でも今日は割りかしいい感じだったかな。

無執着、ヒントに、なりそうです。
ありがとう。

おやすみなさーい

100 :
.∧_∧
(・(ェ)・)
.(つと)
.と_)_)
>どっからでも手をつけられるほど雑念だらけですね。
←雑念だらけの一つ一つの雑念に、もぐらたたきのように「気付き」、そして集中対象にもどっていける。もどれるという実感を瞑想をはじめた初期にえたことが、
これは使える!これは有効だ!と確信した理由でした。
雑念とは記憶であります。記憶の内容は観念でありイメージであります。
うっかりすると記憶のおもちゃ箱から浮かび上がる観念に巻き込まれる。
感情は、反応です。その記憶を原因として反応は起こります。
で、ありますから、怒り、悲しみ、不安等々の感情は、原因である事実の記憶を呼び起こされることにより、生じるのであります。
この単純な仕組みの有効性を、既にビザ主さんも実感してるのではないでしょうか?

で、ありますれば、
>どっからでも手をつけられるほど雑念だらけですね。
という状況下で、もぐらゲームたたきのテクニックをあげて行けばよいと思うであります。
それは、感情のコントロール法であり、くまが瞑想を心の健康法として実践の価値大と確信したゆえんであります。


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