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--佛教論議の伽藍スレ-- 第五巻
- 1 :2019/06/13 〜 最終レス :2019/08/28
- 仏教に関するKeyword
「無我」と「アートマン(我)」、「輪廻」や「涅槃(ニルヴァーナ)」などについて、
原始経典(「パーリ五部聖典」や「漢訳四阿含経典」)に説かれているブッダからの教説を中心にして、
激しく議論したり、または有益な情報を互いに交換するためのスレです。
尚、自説の主張に際しては、最低限の論拠や根拠を併せて提示されますよう宜しくお願いします。
基本的に仏典(原始経典)の記述を根拠にしていることが大前提ですが、
もし、そうでない場合には明確な理由を必ずしっかりと説明して下さい。
-------------------当スレの戒律(マナーとルール) -------------------
条項 1.アスキーアートは原則禁止(議論に使用する為の真面目な図解については可)
2.文章、三行以下の投稿は連投を禁止します---落書き帳やメモ帳ではない
(チャットような使い方はすぐ1000レス使い切るので辞めて下さい。内容を一つに纏めてから投稿しよう)
3.コピー転載やリンク貼りのみの投稿は慎んでください。
4.一行明け投稿や無駄な空間を使用した投稿は遠慮願います。
5.意味の無い無駄な投稿は完全な犯罪級の荒らしです。スレ主の判断で即刻、退場してもらいます。
6.南伝仏教(または上座部仏教/南方仏教..)を「小乗仏教」と呼称することは差別用語なので使用禁止です。
(1950年の世界仏教会議にて決議した)
7.議論でヒートアップしても相手を不当に侮辱した言葉を使わないこと(節度ある態度で接しよう)
8.仏教徒として当り前の話ですが、ブッダを侮辱する意味の言葉は厳禁です。即刻、退場してもらいます。
9.次スレを立てる際は、勝手に「スレタイ」や「テンプレ」(及びレス番2/資料リンク)を変えないこと。厳守!!
10.円滑な議論のために、当スレでは「コテハン」(固定ハンドルネーム)の使用を推奨します(ただし、強制ではありません)。
以上ですが、基本的には参加者皆さんの良識に期待します。
- 2 :
- -----当スレッドは-----
過去の2ch『原始佛教』、『仏教議論スレッド』シリーズを継承したような良スレになることを期待します。
投稿する方はスレ主である私(宝珠真範)の指示に従い、必ず当スレの“戒律 ”を厳守のこと。
違うことをしたいという方は、どうぞ他スレでお好きにして下さい。
また、当スレは同時に『質問箱』の機能も合わせ持ちます。
質問に関しては、仏教関連ならば気軽に大乗も含めて祭祀や葬儀、等々...何でも構いません。
解答や情報をお持ちの方はどうか質問者へ親切に教えてあげて下さい。
尚、複数の異なる解答があった際には質問者の方の判断にお任せします(参考程度にどうぞ)。
-------------------------------------------------------------------------------------
前スレ
https://rio2016.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1548698413/
過去ログ保管庫
http://houjugusya.web.fc2.com/link.html
Wikipedia ― Category:仏教
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E4%BB%8F%E6%95%99
論文検索
http://ci.nii.ac.jp/
http://sc.chat-shuffle.net/
http://www.inbuds.net/jpn/index.html
http://www.totetu.org/index.php?id=523
パーリ三蔵
http://www.tipitaka.org/cell/mainlist.html
http://www.tipitaka.org/romn/
大正蔵経検索
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php
- 3 :
- おおっ! 1000レス使い切れたw
https://rio2016.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1548698413/997
>>前スレ997 紐へ
>>ただ、あなたがブッダの教えを信奉しなければいいだけのことです。
>>なので勝手に説かれていることを改変しないように!
>これって私の事? 宝珠自身の事だろうよww
私の主張は、仏典(経典)の記述に沿っている。
そのことを“常に根拠(経文の聖句)を引用提示しつつ”述べてきたものと自負している。
あなたにもそのように求めます。
(少なくとも最低限、“何経の第何章何節”という具合に)
- 4 :
- >>前スレ998 七へ
>侮蔑じゃなくて、 「違う」 と言ってるだけ。
>貴方が、勝手に侮蔑だと感じてるだけの、貴方自身の受容の仕方の問題でしかないのw
ただ「違う」という話だけなら、この私も別に何もいわない。
しかし、この私の勝手な受容の仕方などではなくて彼らは明確に侮辱を続けてきた...。
己の理解の未熟を棚上げしておきながらね。
「唯一の真理にして正しいものは仏教だけであり、それ以外のものはすべて間違っている。
一見すると、仏教と酷似して見えるヒンドゥーなどに騙されてはいけない。
アートマンを説くヒンドゥーは間違っており、これでは絶対に成仏できない。
成仏したい者はヒンドゥーを信奉してはならない」が、
彼ら、テーラワダの主張だ(証拠探しには困らないぞ!!)。
あなた(七)もこれに同調するのであれば、等しく同罪だ!!
https://rio2016.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1548698413/999
>>前スレ999 七へ
>たとえば、本音を言えば、
>---中略---危険性を増やすことになるわけで・・。
>実際、オウム関連はまさにソコだし。
これについてなら別に異論を挟む気はない。
>で、やっぱり、思い起こされるのは片山さんの台詞で
>「仏典を読んでください」
>に尽きてしまうわけでね・・・。 ノシ
その仏典の記述を無視するのが、あ・な・た(七)なんじゃないか!
涼しい顔して、ひと(他人)ごとにして誤魔化すなって!!!
- 5 :
- 昔、御釈迦様は王子だったが、家出して林の中へ行って瞑想した。
多分、王族よりもバラモン僧が身分が上なのが気に入らなかったらしい。
バラモン教は、前世の行いにより今世の身分が確定する教えだから、
輪廻転生の思想は、統治サイドとしては不都合な論理であったことは
簡単に想像できる。
王族がピラミッドの頂点であることを国民に啓蒙するために家出した
・・・と私は妄想している。
現在、1000兆円国債残高があっても、500兆円の資産が
あれば、いいんじゃないの?という思想は、
統治サイドとしては、不都合な論理であることは、間違いないと断定できる。
借金して経済を回すのは、本来、銀行の仕事である。
信用創造の原理で経済を活性化するのは銀行にまかせて、
公的機関は銀行の監視をするのが、本来のあり方である。
- 6 :
- 僕も混ぜてください\(^q^)/
お久しぶりです宝珠さん、早速ですが本題です
私が常々疑問に思ってるのはヒンズー教(バラモン教)と仏教の違い区別は何なのか?です
そもそも仏教はヒンズー教よりも劣った宗教ではないのか?
劣ったというと語弊があるのですが、ヒンズー教を水に薄めて飲みやすくしたのが仏教なのでは?と
アートマンの探求を目指すことを断念した妥協の産物が仏教なのではないか
要するにヒンズー教のエコノミーバージョンが仏教
私は勉強不足で大雑把なことしか言えなくて恐縮なのですが
一個何千円もする高級チョコより、一個10円のチロルチョコの方が普及してますよね
アートマンとは高級ブランドのこと
釈迦がやったことは無印良品ではないかと
ブランドが無くても機能すりゃいいじゃんが仏教、、、
すんません、アホなこと書いて
宝珠さんの参考になればと思い書かせていただきました(´・ω・`)
- 7 :
- 6.悟れないバカ栄進が言う、ことである。信用しない、が正解である。
大爆笑である。
- 8 :
- 相変わらず、斬新な視点で刺激的ですね。
こちらこそよろしくお願いいたします。
- 9 :
- 974 名前:ポッタン師[] 投稿日:2019/06/05(水) 06:26:36.85 ID:ZPLHkN+d
973.輪廻転生は迷信である。なんでか。
- 10 :
- 無視してるのはどっちだかw >>4
- 11 :
- 宝珠の言い分でいけば、
「【全世界の】、【99.9%】の僧侶・学者が仏典を無視している」
ってことになるわけで・・・。 ┐(´ー`)┌
- 12 :
- >>10-11
ホント...あなたは素直さがないね!
禅って、修行を続ければ素直さが掻き消えるのかい?
そんなことじゃ〜死んでからイイ処に行けなくなるよw
餓鬼になって浮遊霊と化してしまうからねwww
そんな、テキトウなことをいわないで欲しい。
仏典に従っていないのは僧侶たちです。学者は違うからね(ごく一部を除けば)。
経典の記述を研究するのが彼らの仕事だ。
だからよ〜く読んでる。そして、その意味を確認している。意味を理解して、今度はそれを解説する。
だから、この私も仏教理解についてはその殆どが学者からの解説が中心だ。
僧侶による読み物というのは殆ど持ってないし、読まない。
僧侶からの説明が必要なのは、「事相」(修行の具体的な実勢内容)くらいなもの。
その証拠に、学者の悪口ばかりであることはテーラワーダ/スマ長老の著作を見れば一目瞭然だ!!
* この後〜したいことがあって暫く投稿を控えさせてもらいますm(__)m
- 13 :
- >>12
訂正:
×「(修行の具体的な実勢内容)くらいなもの」
○「(修行の具体的な実践内容)くらいなもの」
- 14 :
- 別次元(別世界)があるという夢想を捨てるのが、
今、君に必要なことだと思うよ。 >>?
- 15 :
- ん? なぜはてなw
別次元(別世界)があるという夢想を捨てるのが、
今、君に必要なことだと思うよ。 >>12
- 16 :
- 自灯明は自己責任下で自己の自由な選択において自分の人生を切り開け〜という事に他ならない。
他者を頼りやってはいけないという事だ。他人の意見に惑わされるなという事だ。
しかし、その上で他者の意見(仏典など)を参考に、その中の何を採用するか否かを決めるのは自分で、
自分で決めた生き方をするのは良いのでないのか?
宝珠が真我(アートマンの肯定)を仏典から汲み取り、己の生き方として採用して生きているのなら何も文句はない。
だが、他者(アートマン否定論者)が我の生き方と異なるのを取り上げて仏典に沿わない解釈(自分の解釈とは異なる〜)
である云々〜と言うのは明確な誤りだ。人それぞれだろうよ。我こそが100%正しいなんてのは、言っていること自体が100&誤りだww
大体、飲まず食わず息もせず空も飛べて1万年以上人間は生身のまま生きられる〜なんて大真面目に信じている事自体が一般的には
あり得ないが、その見解を一般的な周りの人間と共有しようというのは並外れた説得努力が必要だろうなあw
何を選択するのも自己責任下の自分の自由だw
- 17 :
- >>16
こういうのもキリスト病の一つで個人主義的視点で仏教を曲解したものだ。
我々は個々で点在して生存しているのではなく、社会の一部として他人との何らかの関係性の中で生存しており、
社会とは、現時点のみならず長い歴史の上で成立している。
従って、出家者といえども社会から布施をされて存続し、仏典の「自灯明」とは必ず「法灯明」とセットで説かれ、
「拠り所」「島」そして「灯明」という喩えから判るように、決して「自己責任で〜」などという個人主義ではあり得ない。
勿論アホの宝珠のように、オカルト趣味の故人の妄想に依るのは論外だが、(笑)
法を灯明として、即ち縁起を学び中道を行じ寂滅を楽しむように、
自らを観察し、制御し、真の楽しみを目指せという意味だ。
このような曲解は、在家向けには何処の宗派もしていると聞くが、これもまた縁起であり、因果となるのだろう。
(^。^)よってアホの宝珠と同罪であり、俺には関係ない話だと言えよう。(笑)
- 18 :
- >>17
ところで中国での道家の妖術と密教僧の祈祷呪術の対決ではどちらが勝ったの?
三国志読むと黄巾の乱の首謀者や五斗米道のリーダーの妖術もすごいものがあるよね
- 19 :
- 17.宗教は個人主義に決まっている。
バカには理解できない。大爆笑である。
憲法規定もある、よ。
- 20 :
- >>17
>従って、出家者といえども社会から布施をされて存続し、仏典の「自灯明」とは必ず「法灯明」とセットで説かれ、
>「拠り所」「島」そして「灯明」という喩えから判るように、決して「自己責任で〜」などという個人主義ではあり得ない。
これまた、これまでに散々言われてきたことであるが、明確な誤った指摘だ。
自灯明=法灯明で、この両者に異なった点は微塵もない。
わざわざ仏陀がこの2つの言葉を使ったのは仏陀の親切心からだろうよ。
個々人の自由な選択(選択の自由)〜という事は、そこに個々人の自己責任というものが切っても切り離されない関係である。
社会の関係性が縁起〜等と陳腐な縁起の表現しか出来ないのならば、そんな縁起は糞の役にも立たんわww
- 21 :
- 20.なんでか。
縁起を否定したものが宗教である、からである。
バカには理解できない。大爆笑である。
- 22 :
- 香港の引き渡し条例
最後の砦かもしれんな・・
ここを破られたら、中国の民主化は、また30年遅れることになるだろう。
天安門が、「教訓」「先鞭」「風穴」「蟻穴」にjなり得なかった現実が悔やまれる・・。
- 23 :
- 宝珠vsセブンの10年越しの平行線争w
- 24 :
- まるで卵の黄身のように私たちの「身体の中に」、
或いは“パラレルワールドのように”w重ね合わせの如くに、
何か特別な「わたくし」がある・居る、というのが宝珠。
ラッキョウやタマネギのように、
どこまで剥いていっても「芯」なぞなく、
一番内側及びその周辺部分を「心」或いは「識」と見做すのがお釈迦様。
一番内側なら、本来清浄(タブララサ)だろうよw。
それを染め上げる作用が、感受によって諸々が想起され、(文字通り)心が動いてゆく在り様・事象に他ならない。
だから、感官を制御せよと言われ、念を確立せよ(正念相続せよ)と言われ、
調え切ったところに安楽が生じるわけで。
- 25 :
- タマネギの皮を剥いていって、何かを見つけようとするのが宝珠。
(ナーガセーナの車の喩えの如く)、
剥いてしまっては、元も子もなく、タマネギは、丸丸そのまんまでこそタマネギだ、
というのが、臨済や慧能白隠等等。
- 26 :
- 理解できない、パーペキ(パーフェクト完璧)でパ゚ーペキパープリンイヌヤマァ
妻子と月一、金曜夜7時からのお坐り会、ワンコインで茶菓、バカイヌは見栄張る、品性劣悪漢オトコ
イヌは 華厳宗だろ、禅はカラッキシで、くちパクパクだけの尋牛(じんぎゅう)未満
南伝仏教華厳宗奈良東大寺官長じっちゃんのお抱え運転者だった。
それが唯一自慢タラタラでツカイッパ全くの無内容、年金暮らしで一日中ブラブラ誰からもウトマレル禿げ爺だね。
禅では無い。印度教外道。
2ちゃんねるの会話の形式はバトル形式、馴れ合いを禁じます。
但し、その事を踏まえた会話かどうかが 問われています。
ググるシッタカの糞雀鬼はアンタはエライ!と褒めて欲しいのです。
それは糞雀鬼がリアル社会で疎外無視され続けてきた現実があります。
一見、相手を罵倒する悪口雑言の数々は、糞雀鬼の抱え込むリアル社会の絶対評価です。
と言う事で、糞雀鬼は「暴れさせて、ゴミがたまったら透明あぼ〜んが適切ですね。
決してレスポンスしない事が、大切。
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| ○荒らし粘着糞雀鬼は無視放置スルーされるのが一番キライ、耐えられません。
|| 荒らし糞雀鬼は常に誰かの反応レスを待ち焦がれジレます。
|| ○荒らし糞雀鬼は門から入るものが宝と誤謬し、自己の内側、佛心が観えず。
|| 荒らし糞雀鬼は常に無視されている自己存在の確認要求に拘泥します。
|| ○荒らし糞雀鬼は問いに問いで返す破廉恥無脳が故の脊髄反射のパープリンです。
|| 荒らし糞雀鬼は理解力が皆無、とにかくしつこい、金魚ドジョウと救い難い。
|| ○荒らし粘着糞雀鬼の重複スレには誘導リンクを貼って放置が一番カステラ2番。
|| ウザイと思ったら専ブラのNG機能や あぼ〜んを活用。
|| ○放置された荒らし糞雀鬼は煽りや自作自演でアナタのレスを巧みに汚く誘います。
|| 荒らし糞雀鬼にノセられてレスしたらその時点でアナタも同類、負け、完敗です。
|| ○反撃は荒らし糞雀鬼の滋養にして栄養であり最も悦ぶ事です。
|| 荒らし糞雀鬼につけ入るエサを与えないで下さい
|| ○荒らし糞雀鬼が枯死するまで孤独に暴れさせておいてゴミが溜まったら削除です。
|| 荒らし糞雀鬼は外道{野狐}です。
- 27 :
- _人人人人人人人人人人_
> なんやー!!! <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^^Y^ ̄
彡 ⌒ ミ
(`・ω・´) キキーッ!
O┬O )
◎┴し'-◎ ≡
- 28 :
- ブッタ
「じつにポッタパーダよ、私にとって、我の獲得体は三〔種〕あります。粗大な我の獲得体、意所成の我の獲得体、無色の我の獲得体です。」
「チッタよ、如来はとらわれることなくこれら(三種の我(アートマン)の獲得体)による言説をなします〔が〕、
じつにそれらは世間における名称、世間における言辞、世間における慣用語、世間における概念〔にすぎない〕のです」
https://komyojikyozo.web.fc2.com/dnskv/dn09/dn09c04.htm
龍樹
五 業と煩悩が滅びてなくなるから、解脱がある。業と煩悩とは分別思考から起こる。ところでそれらの分別思考は形而上学的議論(戯論)から起こる。しかし戯論は空においては滅びる。
六 もろもろのブッダは「我(アートマン)が有る」と仮説し、「無我(アナートマン)である」とも説き、また「アートマンなるものは無く、無我なるものも無い」とも説いた。
七 心の境地が滅したときには、言語の対象もなくなる。真理は不生不滅であり、実にニルヴァーナのごとくである。
http://matsunamilab.cocolog-nifty.com/dharma/2015/07/2002-8dee.html
やっぱら龍樹はブッダに忠実
- 29 :
- 28.龍樹はバカ丸出しである、よ。大爆笑である。
バカには理解できない。大爆笑である。
なんでか。
業と煩悩が滅びてなくなる、か。
そんなことはない。
それと解脱との因果関係はない。
バカには理解できない。大爆笑である。
- 30 :
- https://toyo.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_snippet&index_id=1017&pn=1&count=20&order=17&lang=japanese&page_id=13&block_id=17
- 31 :
- >>29
お前は馬鹿か?
菩提樹下でお釈迦さんが気付かれたのが、
「 >業と煩悩が滅びてなくなる 」とき、そこに「 >解脱 」がある
ということだろが。
もし、これを否定して、別の方便を掲げるなら、
それは、宝珠同様、(人間にとっての、精神安定を導く手段としてはあり得ても)
お釈迦さんの示された道ではない、と言うしかない。
ポッタンは、(元)精霊大王同様、
上っ面・文字っ面でしか理解してないとしか思えない。
- 32 :
- ああ・・、
今書き終わって思ったのは、
宝珠は、私含め他者の意見に、「仏教をカウンセリングに貶めるのか?」
というものがあったが、
ブーメランのように返せるな、と。
我々に関わりのある世界の中で、真の安心を得ようとしたとき、
「真我」というぬいぐるみを抱かせて、「はい、これでもう安心ね。おやすみ」
というような似非安心を提示する宝珠とは、未来永劫握手できんな、とw
それ(真我)が、対処療法でなくて何なのか?と。
- 33 :
- >「真我」というぬいぐるみ
www
凄い表現w
- 34 :
- 31.バカ丸出しである、よ。大爆笑である。
なんでか。
業と煩悩とが滅びてなくなる時、か。解脱、か。
大爆笑である。
それならば、お前たちは、悟れない。解脱できない、よ。
大爆笑である。
そのバカが、釈迦の教え、だと言う。
実践して達成できないバカどもが、
これが、これが釈迦の教え、だと言う。
大爆笑である。
- 35 :
- 野次馬は、決してフィールドへ下りて来ない。
なぜなら、
自分はプレーできない・そのスキルを持たない、ことを分かっているから。
- 36 :
- 定期的に湧くねぇ・・・ こういうの
http://rio2016.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1559901710/
- 37 :
- 結局、どっち(誰)が勝ったの?(優勢なの?)
- 38 :
- 優勢かどうかは、味方の人数での判断しかないでしょw
それでも、俯瞰して情勢を見るなら、(向こうでも誰かが呟いてたけど)、
基準値の取り方が真逆なので、永遠に平行線。
こっちのスレで言えば、
たとえ何阿僧祇劫を費やしたとしても、ワシと宝珠が平行線のママなのと同じ。 >>37
- 39 :
- http://www.kinshoji.or.jp/haikan_hitokutihowa-back12.htm
>のけ者にされたり、意地悪をされたりする事を「邪慳される」といいますが、本来は「邪見」と書きます。
>字の通り読めば、邪(よこしま)な見方で、つまり、間違った見方・考え方の事です。
>尚、仏教では、邪見に陥った人の事を「外道(げどう)者」といって、十悪の一つに数えています。
>何事も因果の理法にそむき、自分勝手な考え方(我見)に固執すると、邪見にくらまされて人生を誤り、是非善悪の判断ができなくなるといわれます。
>それは三毒(貧(とん)・瞋(じん)・痴(ち))のうちの「痴」に当たるわけですが、そうした事例は、古今東西、枚挙にいとまがありません。
どちらか一方がこうだともう何も噛み合いませんね
- 40 :
- >>39
ww そうだろうねえw
大体、仏教に限らずあらゆる宗教、各宗派で主張するから各派に分かれているんだろう。
例え仏陀と言えども論争するなかれ〜とは言ったかもしれんが、己(仏陀自身)も生きて
活動しているころはインド各地で様々な論争をしてきたらしい〜というのは真実ではないのか?
ならば、その金昌寺の坊さんが言う三毒やら外道というのも陳腐なものの見方でしかないなw
仏教中心で見れば仏教(仏陀の教え)以外が外道だろうが、その考え方自体が仏陀の言う偏った
ものの考え方で中道に反する。
三毒やら外道の価値観より中道の方がより仏教らしいとは思うなww
- 41 :
- 全然そういう話じゃないと思うね
邪見に陥っているか
どうか
であって
仏教に忠誠を誓っているか
それとも他の宗教セクトに忠誠を誓っているか
そんな軸の話に受け止めることなのだろうか
キリスト教とかにおける「異教徒」の概念と
「外道」というタームを
混同してるんじゃないかと思うが
異教徒だろうが、邪見に凝り固まっておらず、
正見に目覚めると、仏説を受け入れる例は少なくない
一方で、邪見が酷く、
仏陀と直接対話しても端から耳を貸そうともしなかった外道の例もある
こうなると仏陀ですらどうしようもない
そういう話
- 42 :
- >>41
だからww
>邪(よこしま)な見方で、つまり、間違った見方・考え方の事です。
邪(よこしま)な見方か否か、間違った見方・考え方か否か〜の判断基準を仏教(仏陀の教え)
に置いて邪見〜とか言われてもねえww
キリスト教やイスラム教の人から見れば仏教の人の方が邪見だろうよw
仏陀には己の教えこそが100%正しく他の教えは邪見のもの〜なんてのは微塵もなかっただろうよ。
(それを作り出しのたのは仏陀の教えを仏教に仕上げた後の教団の人間の仕業に違いないww)
仏陀は他者が己の主張を取り入れなければ、「ああ、そうですか、ではお元気で〜」程度のもの
だっただろうよw
- 43 :
- >>42
それは今でもそうだろw >「ああ、そうですか、ではお元気で〜」
そうでない言葉が出てくるのは、
釈尊からすれば、「私が示す涅槃に繋がらないので、それは「外の道、邪な見解」です」だろうし、
滅後で言えば、「それは、世尊が示されたことではありません(=外の道、邪な見解)」ということでしょ。
「違うものを同じと言う」ことに関しては、お釈迦さんはめっちゃ厳しかった筈だ。
たとえば、神智学と仏教は同じ、キ教と仏教は同じ、とか、これらを
「ではお元気で」とするのは、お釈迦さんに対して申し訳なさ過ぎるだろ?w
- 44 :
- そうかいww
僧侶の7さんよww
では、釈尊自身が自分の教えに賛同しない相手に「外道」だの「邪見」だの
(外の道、邪な見解)→これは相手に対して甚だ軽蔑、見下ろした姿勢なのだが、
こういう言葉を吐いた記録が仏典には有るのかい?有れば教えて下さい。
- 45 :
- それが「涅槃へ導かないもの」「三毒に流されているもの」「悪果へ繋がるもの」「他を害するもの」等等
である場合、
「私はそうは説かない」を越えて、明確に「それは邪な(=涅槃に資せず、悪果を結ぶ)もの」としての集成が、
スッタニパータでありダンマパダだろ。
もっと言えば、
それらは、「世尊自身によって斥けられ、代わって説示される教え」として、現存経蔵全てがそうだろうよ。
- 46 :
- >「私はそうは説かない」を越えて、明確に「それは邪な(=涅槃に資せず、悪果を結ぶ)もの」としての集成が、
「私はそうは説かない」と「「外道」だの「邪見」だの(外の道、邪な見解)」は同じではないだろうよww
スッタニパータやダンマパダで「「外道」だの「邪見」だのの言葉が有るのか?という問いなんだが?
言い換えて誤魔化してもダメだwww
- 47 :
- ちょいと横槍をば。(笑)
>>42で明らかなように、この人は、「個人主義」的な視点で、其々の価値観は独立したもので甲の正邪と乙の正邪とは縁起してないという解釈。(笑)
つまり、「仏教という価値観に一定の理解を示す」立場。
依って宝珠やバカカルトのような「仏教と詐称して全く違うものを他人に勧める」立場も「個人主義」的な視点からアリな訳よ。(笑)
このような社会性の欠如は、と、あとは言わずもがな。(笑)
では何故、「議論」を望むか?
やはり、然程確信が無くとも、漠然と自己正当性を信じて、教導しようとしているのだろう。
所で真に「個人主義」ならば、他者の主義思想も又、当人の「個人としての信条」なんだから、「真の自己本質」も「縁起による仮設」も「仏教だと信じる」のは個人の勝手で、釈尊の遺志と言い張ろうと何の関係も無いとは思わないのかね?(笑)
彼等は君の「教導」なんか望んで無いと思われるが。(笑)
(^。^)因みにサイコパスは、百人に一人は居るそうだから、悪いとか責めてるとかって訳じゃ無いからね?(笑)
- 48 :
- 大体、個人主義の反対に位置するのは社会主義、共産主義でこういうのを望むのなら
北朝鮮にでも亡命してくれwww
「教導」ねえww
承狂 の「教導」も誰も受けたくはないだろうよw
要は個々人で何を選択するか自由に選ぶという事が最も大事で、他者に惑わされるなという事だwww
- 49 :
- >>48
だから、君らを教導はしないって何度も書いてるんだがなぁ。(笑)
(^。^)因みに「個人主義」の対義語は、一般的には「全体主義」などなんだが、(笑)
何処でそんな風に教わったの?(笑)
やっぱ朝鮮学校?(笑)
- 50 :
- 阿保かww
個人主義の反対は全体主義だろうが、その全体主義は社会主義と同じだろうよww
何を言ってんだ?
あるいは利己主義(「個人主義)vs利他主義という言い方も出来るわなww
真に教導しなければ書き込まないだろうよ。その点で私もあなたも同じ「教導」しようという
意思があるのに変わりはないwww
- 51 :
- >>50
ほうほう、君には俺が教導しようとしているように見えるのかね。(笑)
まぁ、全体主義と共産主義が同じだと言う人にはそう見えるんだろうね。(笑)
(^。^)所で君の母国では、「JUMP」は飛ぶと同じ意味なのかね?(笑)
「相当する」は全く同じという意味なのかね?(笑)
何れも以前、バカカルト信者が主張していたんだが、ひょっとして朝鮮語では同じなのかなと、疑問に思ってたんだよ。(笑)
- 52 :
- では承狂先生、全体主義と社会主義と共産主義の違いについてご教授願いますw
後、「JUMP」は飛ぶや「相当する」は全く同じ〜についてもお願いしますww
- 53 :
- >>52
あぁ、朝鮮人ではなくて、単なるおバカさんだったか。(笑)
いや、失敬失敬。(笑)
宗教哲学に関して議論出来るだけの知能があると誤解していました。(笑)
(^。^)まさか、三十分も経ってないレスを忘れてしまうような方とは思いもよらず、大変失礼しました。(笑)
- 54 :
- で?無回答が回答か? w
- 55 :
- >>54
(^。^)ggrks
- 56 :
- ggrks www
良い言葉だなあww 答えられなければググレカス〜ww
全体主義と社会主義の違いを言え、カスwwww
- 57 :
- ホレ、期待に沿ってググってやったぞw
https://okwave.jp/qa/q612864.html
>ここまでは考え方ですが、では旧ソ連は、中国は、北朝鮮はどうなのかと???
>社会主義を掲げているが、実態は全体主義なのではないかと。
>その通りですね。
考え方は異なるが実体は同じという事か?
考えが異なっても実体が同じでは、これは違うと言えるのか?ww
だから、個人主義を馬鹿にする阿呆どもは北朝鮮に亡命しろと言うんだよw
仏陀の自灯明の教えは極めて個人主義的である。
頼るべきものは他者ではなく己のみと自覚せよ〜との教えだ。
仏陀の教えの最上位に位置する教えだろうなあw(まあ、個人的には〜)
- 58 :
- >>47
なるほど
価値観に関しては紐さんの個人主義は全く結構な事で
そこに特に文句つけるつもりは無いんですよね
出だしの所で
そもそもそもコンテクスト的に、(仏教という個別セクトの)価値観という意味で
(正・邪)見
(中・外)道
というタームが使われている訳ではないということをわかっていただきたい
地表を水平に分ければ、大地は日本領やアメリカ領、北朝鮮領など、それぞれに属するでしょう
そうではなくて
「見」や「道」といったタームはこの場合
垂直方向に属するもの
夜空に見えるオリオン座も、北斗七星も、
例えばアメリカ人だけが独占できるものじゃありません
仏教サイドではそういうコンテクストで使っているつもりなんですけどね
オリオン座を見ると呪われるとか言って頑なに目を閉じる人がいるよね(ヒソヒソ)って我々は言っちゃうんです
- 59 :
- 業と煩悩とかが無くなる、か。
それは事実の問題である。
宗教は事実の問題ではない、よ。
解脱は、その事実から離れる、という事実の問題ではない、よ。
それならば、何の問題である、か。
バカには理解できない。大爆笑である。
- 60 :
- >>58
あなたの言葉の使い方はおかしい。
そもそも、外道にしろ邪見にしろ仏教用語として使われる以上それらは仏教という個別セクトの価値観だろうよw
しかもあなた自身が、仏教サイドでは〜と断りを入れて説明していればこれは明確な矛盾だろw
>仏教サイドではそういうコンテクストで使っているつもりなんですけどね
仏教の教えは普遍的であり他宗教をも呑みこむ〜的に言っているのかもしれんが、そういう
モノの捉え方自体が傲慢というんだよw 仏教こそは〜っていくら主張してもキリスト教や
イスラム教にとっては大したことにはならんわな。
- 61 :
- >>60
だから別に
「日本の領土」が
「朝鮮半島」も「アメリカ大陸」も飲み込む
なんて話はしてないの
夜空に見える星空の光景の話が
何で
地上の領有権を主張している話になる
のか
日本に住んでる人でも北朝鮮に住んでる人でも
夜空に見えてる星は同じ
誰も独占なんて出来やしない
それすら
コミュニケーションの段階で
通用しないのは
重症の邪見じゃないのか
外道ってそういうものか
(ヒソヒソ)ってな具合
- 62 :
- >>61
また微妙に話を変えてきたなww
>オリオン座を見ると呪われるとか言って頑なに目を閉じる人がいるよね(ヒソヒソ)って我々は言っちゃうんです
これと、
>日本に住んでる人でも北朝鮮に住んでる人でも
>夜空に見えてる星は同じ
>誰も独占なんて出来やしない
これは同じ主張ではなかろうww
そもそも、外道だの邪見だのと言って仏教以外の人間を見下しているのは仏教サイドだろw
あんたの言っていることは支離滅裂なんだよw
(仏教という個別セクトの)価値観という意味で言葉を使っていないと言いながらしっかり
外道だの邪見だの言って相手をこき下ろしているだろうがw
こういう相手をコミュニケーションをとれない相手というんだよw 支離滅裂、矛盾だらけw
- 63 :
- 夜空に星(普遍的真理)があるのに見ているのは仏教徒だけでそれ以外は外道、邪見で見えていない〜
これを傲慢と言わず何という? まさに傲慢の極みwww
- 64 :
- 涅槃に資さない教法は外道、
涅槃に資さない見解は邪見、
これほど明快なことはなかろうに・・。
見下してるとかそういう話じゃないってのがわからんかったら、宝珠と同じ。
彼も、 「ヒンドゥを見下すなー!」 と憤ってたけど、
単純に、「それらは涅槃に資さない」「仏法(仏陀の教え)ではない」というだけなんだけどね・・。 ┐(´ー`)┌
- 65 :
- >>64
で、ダンマパダやスッタニパータに釈尊が相手に対して「外道」「邪見」という言葉を使った例は有ったのか?
現代の日本において「外道」「邪見」は十分に相手を見下した言葉だろうよw
仏教用語の真意として見下していない〜などと言う弁明は成り立たない。
見下していないのならば釈尊のように「私はそうは説かない〜」で行くべきだろうよw
あんた等仏教徒が何を説こうが勝手な話だが、仏教サイドから外に向かって「外道」「邪見」
というのは喧嘩を売っているに等しいww
- 66 :
- >>65
ここ、一応佛教系のスレ内なわけですしおすし(ヒソヒソ)
仏教外のスレでこういったヒソヒソ会話は機能しないでしょうけど
「日本国内」で「北朝鮮」のことボロクソ言っても
誰も当の「北朝鮮」に乗り込んでそれはやらないでしょ
「命知らず」のお馬鹿さんとか、「テロリストの暗殺部隊」以外はね
でも我々は「日本国内」では「北朝鮮」のことをボロクソ言ったりする訳ですよ
事と場合によってはね
- 67 :
- ww
そういうのは仏教徒だけが集まクローズの集会時だけとかにしとけば何の問題もないだろうが、
netで発言は外に向かって喧嘩を売る行為そのものだろうよ。例え仏教スレだろうがnetのオープン
環境じゃダメだろうよw
- 68 :
- >>67
>現代の日本において「外道」「邪見」は十分に相手を見下した言葉
ああ、そうかもね。
でも、その語を使うのが、「所謂ニュアンス」に表現の上で、尤も適切で、
他の言い換えが相応しくないから、使用され続けてるということでもあるから。
で、単語としての「邪見」「外道」は無くとも、云われている内容は、
上で言及した通り、「涅槃に資するか資さないか」あるいは「他に対して善なる果に繋がるかどうか」
なわけで。
なぜ、「邪命外道」という言い方が生じるかと言えば、
それは、「お釈迦さんの説かれたことと異なって」「その人を、悪しき果の結実へ誘ってしまうから」だよ。
だから、法句や経集を例に挙げた理由は、
そういう意味で、
涅槃に資する事柄が説かれる中、愚者の見解・行が成果に繋がらない事柄は、
自動的に、「外道→御写あkさんが説いていないこと」「邪見→その人を悪趣に導く・涅槃から遠ざける見解」
として外道であり邪見になるわけさ。
語句としての問題でなく、中身の問題だよ。
- 69 :
- 仏教だって、他の宗教からしたら「邪見」であり「外道」だろう。
でも、その通りなんだから仕方ない。
明示しておこうか・・
「仏教では」
「お釈迦さんの説かれた道以外」は「外道」、
「涅槃へ導く視線以外」は「邪見」
という、実にシンプルな話。
勿論、イ教からしたら、仏教なぞ邪見外道どころか、殲滅の対象だろうけどwww
- 70 :
- 紐は、頭良すぎて頭悪くなっちゃった典型かもな。
- 71 :
- >>69
ww
で、ダンマパダやスッタニパータに釈尊が相手に対して「外道」「邪見」という言葉を使った例は有ったのか?
7はまず↑これに回答してから色々と言ってくれw
>「仏教では」
>「お釈迦さんの説かれた道以外」は「外道」、
>「涅槃へ導く視線以外」は「邪見」 道以外」は「外道」、
>「涅槃へ導く視線以外」は「邪見」
所詮、これらも「お釈迦さんの説かれた」は「私が解釈するお釈迦さんの説かれた」に過ぎず、
「涅槃へ導く視線」も「私が解釈する涅槃へ導く視線」に過ぎないww
で、総合的にあなた自信の見解で他者を外道、邪見という現代日本の見下した言い方をするのは
お釈迦さんの教えなのか?ww
- 72 :
- >>71
無いよ。 同時に、「ある」と言った記憶もないがw
けれども、説かれている内容は全て、
A:○○は、善あなる事柄、正行、正見と言われ、
B:××は、悪果へ繋がる、或いは正行の妨げになる、
という羅列。
が、それは、
Aが、仏陀によって説かれる、涅槃へ導く道、見解(→正道・正見)であり
Bが、仏陀によって説かれない、涅槃へ導かない道、見解(→外道・邪見)である、
ということの形式的表れ。
何が木尾に入らないんだか・・・┐(´ー`)┌
>現代日本の見下した言い方をするのは
現代日本のような見下した使い方をしてるのは君だけだと思うよ。
- 73 :
- 3.11以降、
各宗教合同の慰霊も多く行われていると思う。(鎌倉でも毎年やってる)
今の時代、互いに見下すようなスタンス、見解はないよ。
ただ、それでも、それぞれが、自分たちを正見としている筈だし、
もし、そうでなかったら(―俺たち間違ってるかも・・、相手の方が正しいかも・・、なんてスタンスだったら)
そんな自信のない宗教なんざ信仰に値しないわw
- 74 :
- >無いよ。 同時に、「ある」と言った記憶もないがw
>>44 >>45
>「私はそうは説かない」を越えて、明確に「それは邪な(=涅槃に資せず、悪果を結ぶ)もの」としての集成が、
>スッタニパータでありダンマパダだろ。
確かに「ある」とは言っていないかもしれんが、内容的には十分あるという話だわなww
大体、自分は仏教徒でもなく他者に対して外道やら邪見やら言う事はないw
それを言うのは常にあんた等仏教サイドの人間だろうよw
ダンマパダやスッタニパータをどう読むかも個々人の自由ではあるが、その個人的
解釈を元に他者を現代日本の見下した言い方(外道、邪見)でこけ下ろすのはいかがなものか?w
あんたが解釈する「お釈迦さんの説かれた道」は正見じゃないかもしれず、
あんたが解釈する「涅槃へ導く視線」も正見じゃないかもしれないわな。
中道の仏教ではこのような事は起こらないだろうよw 中道より三毒やら外道の価値観を
重視する阿呆だけが陥るマヌケな事だwww
- 75 :
- ああ、そうか・・。
>>71
>所詮、これらも
>「涅槃へ導く視線」も「私が解釈する涅槃へ導く視線」に過ぎない
つまり、「涅槃」という目指すべきゴールが、各宗教毎にあるから、、どれか一つを正しいとする
ことがおかしいということだね。
A:「>私が」の私は、仏教に傾倒するものが、『仏教の涅槃』のみを正とし、『他の宗教の涅槃』を誤とするのが気に入らない、
と。
また、
B:『仏教の涅槃』には、:「>私が」認識する見解・道とは別の、他の宗教と重なる『涅槃』『道』がある、
と。
それって、宝珠や一在家と完全一致だけど?w ┐(´ー`)┌
- 76 :
- >>74
>内容的には十分あるという話だわな
その通りだよ。 私はそのように読む。
- 77 :
- 紐も劣化したなぁ・・ orz
- 78 :
- >>76
ww
そうじゃないだろうよw
内容的の内容は経典の内容ではなくあんたの発言内容の事だw
誰が他の宗教の事を言っているんだ?>>75
あんた自身の判断(個々人の〜判断)で経典をを読んでその解釈を元に外道やら邪見と
他者をこけ下ろすのは駄目だろうと言ってんだよw 頭悪すぎww
劣化してんのは私より7の方が甚だしいなあw
- 79 :
- マジ補:
>>74
>あんたが解釈する「お釈迦さんの説かれた道」は正見じゃないかもしれず、
>あんたが解釈する「涅槃へ導く視線」も正見じゃないかもしれないわな。
ということは、
正見と見做し得る >「お釈迦さんの説かれた道」 があり得、
正見と見做し得る >「涅槃へ導く視線」 があり得る、
ということには同意するのかい?
- 80 :
- >>78
お前、馬鹿だろ?
- 81 :
- >>79
当たり前だろうよ。同意も同意、大同意だわなww
だが、それを正見か否かを判断するのは個々人(己自身、自灯明の自だw)であり他者に依らないw
又、それを元に他者を外道、邪見とこけ下ろすのは仏教徒の集合会合などクローズの場なら許されるが
ネットなどオープンな場では例え仏教スレでも駄目だろうよw
私は馬鹿かもしれんが7はウすら馬鹿というところだなw
- 82 :
- >>81
いやいやいやいやw
私の発言の「正見邪見」のみを否定するということでFAね。
私の解釈でなく、別の者の解釈による「正見邪見」ならよいのね?w
お前は本当の馬鹿だ・・。
- 83 :
- 私のFAは>>81であり、わざわざ念を押す>>82ではないw
>>81で言い尽くされており、これで理解できないのなら現代の僧侶も地に落ちたものだw
- 84 :
- www
>>83
だから、
「正見邪見」があり得るってことだろ。
それを許容するということは、君の中にも「正見邪見」の線引きがあるということだ。
マジでわかってないのか? Σ(・Д・;)
- 85 :
- この人>>84は幼稚園児かよwww
>それを正見か否かを判断するのは個々人(己自身、自灯明の自だw)であり他者に依らないw
線引きなんてのは各自有って当たり前ww それを元に公(オープンな場)で他者を外道だの邪見だの
言う事自体がアウトだと、、何回言えば分かるのやらww
- 86 :
- さて、かつて「外道の独り言」というスレをやっていたオレ様が通りますよっとww
・・・・・・・・・・そもそも、「外道」は相手を罵倒する言葉か?w
確かに、時代劇などでは、「この外道が!」とか、言うけどねw 残忍なことする悪人に対してww
元々は、「仏道に外れるもの」「仏教を信仰しない者」と言う意味でしょ?w
オレは仏教徒ではないので、自己を明確に外道と規定していますがねw
よって、外道と言われようが、「はい、その通りですが何か?」 で終わりw
「邪見」も、仏教と言う一宗教において説かれる、「涅槃」というゴールに達するのに
妨げになる見方ということでしょ?
別にいいでしょ? 仏教においては邪見でも、キリスト教においては正見な場合もあるしw
要は、現在のお題がどのフィールドで話しているかをきちんと理解した上で話すこと。
仏教的価値体系が唯一の真理であるという前提で、世俗に干渉してくるなら、オレは
はっきりとそのバカ仏教徒を叩くが、逆に仏教スレに世俗の価値体系を真理基準に
持ち込むバカはオモチャにして遊ばしてもらいますww
(今、一人いるんだよね、そういうバカがww)
>紐
お前も、仏教徒じゃねえんだろ?
だったら、外道と言われようが、邪見だと言われようが、「はい、その通りです」
と言えやww
- 87 :
- >>86
果たしてパーマンは外道なのか?
シッダルタさん大好きすぎて、自虐的なコテにしてしまうほど崇拝してて、
仏教諸派を全部シッダルタさんの功績にしたい程のヤンデレさんなのに?(笑)
(^。^)ルシフェルと名乗るキリスト崇拝者がいたら、俺にはキリスト教徒だとしか思えないがな。(笑)
- 88 :
- >>87
wwwwwwwwwwww
外道も外道、大外道だぜw
釈迦の言うことならオールOK・・・・なんて全く思わんしw
釈迦の呼称もずっと「釈迦」w
かつて、「釈尊」と言えと仏教徒さまから、お叱りを受けましたww
- 89 :
- >>86
今度は言動不一致のパーピかよww
そもそも俺が言っているのは自分が外道やら邪見と言われた事ではないww
話の流れも見ずに話しに割り込んで偉そうに説教垂れる悪い癖も治っていないなあww
仏教スレは仏教徒だけしか見られないものではないんだよw 阿呆か?ww
やりたければ会員制のクローズの場を設けてやれ。
オープンな場で一般的に悪意のある外道だの邪見だの言う輩がいれば、例え仏教的意味で
悪意が無かろうとも、例え仏教スレだろうが駄目だろうよ。
ちなみに遊ばせてもらってんのはこっちの方だww
- 90 :
- >>88
まぁ、お前さんの深層心理なんぞどーでも良いから止めとくわ。(笑)
(^。^)あと、密教の教主は大日如来だからな!このバーカ!(笑)
- 91 :
- >>89
wwwwwwwwwwwwww
相変わらず、バカは治ってないか? 紐w
ここは、宝珠が立てた仏教に関するスレw
よって、「仏教では」どのように説かれているか? が問題なのw
そこに世俗の価値体系を持ち込んで、「それはアウト」と言うほうが馬鹿なのw
仏教的視点が嫌なら、初めからこんなスレを覗くな、バカがw
仏教というのは、元々、「アンチ社会性を内包しているものなの」w
・・・・そこに「出家なんて、何にも社会的発展に貢献しないからクソ」なんて言ってみても
まるで意味がないのw
仏教には仏教の価値体系があり、そこに世俗論理や、他教・・・・例えばキリスト教の原理を
持ち込んで批判すること自体がアホなのw
オープン??? アホですか?w
何のために板が分かれていて、各種スレが分立していると思ってんの?ww
- 92 :
- >(^。^)あと、密教の教主は大日如来だからな!このバーカ!(笑)
え〜〜〜〜〜〜〜と、その大日如来さまは、いつ頃のお人なのでしょうか?w
釈迦と同時代の2500年位まえのひとでしょうか?ww
- 93 :
- >>91
仏教的価値体系、世俗的価値体系(は仏教には無意味〜)、アンチ社会性の内包〜
あんたが仏教をどう見ているかがこれらの言葉から浮かび上がるわなあww
確かに板が分かれていれば、そこで何を語ろうが自由だろうよ、少なくとも現代の言葉の意味として
悪意のある言葉(外道、邪見)で他者を見下すのも正見なんだろうよ、ただし一般的見解としてではなく、
あんたから見ればという限定的な意味においてでだがなww
だが俺はそうは見ないから、俺の立場で書いているだけだ。あんたの見解と俺の見解は異なる。
ところで八正道に他者を見下すのは正しい行いとして入っていたのかな?w
相変わらずの言動不一致の阿呆さ加減丸出しで、お元気そうで何よりだwww
- 94 :
- >>91
「仏教はアンチ社会性」なりや。
周知の事ながら出家とは、四住期の末なれば、反社会ならず。
乞食を為して糞掃衣を纏えども、四恩を忘れず遺法を説きたるが故に。
それ反社会とは売国詐欺のバカカルト乃至「宗教は個人主義」等と嘯く輩を指す。
仮初めにも八万余中の一門を承りたる者、遍く供養すべし、徒にも「反社会性」などとは言うべからず。
(^。^)こんばかちんが。(笑)
- 95 :
- >>93
板が分かれていて、さらに各種スレが分立しているのは、それぞれスレタイに沿ったテーマで
お話しましょう という意味なのw
政治の話をしたければ、そういう板に行けばいいし、芸術の話がしたければ、それに合った
板に行けばいいのw
そしてここは宗教板の仏教スレなの。 よって「仏教ではどのように考えるか?」がポイント
なのであって、世俗の価値体系を基準に語るのはバカなのw
勿論、アホ仏教徒が「仏教と言う範疇からはみ出して」自己の価値体系を基準に世俗に
干渉して来たら、そのとき初めてそのバカを叩けばよいだけのことw
仏教徒から見れば、仏教徒でない者は「外道」なのw 別にそれでいいんだよw
この「外道」というのが、一般社会における罵倒語として普遍性をゆうするか? と言えば
極めて疑問だねw 今どき「外道」なんて、時代劇かやくざ社会でしか聞かんだろ?w
邪見となるとさらに専門用語性が高まるw
仏教かじった奴にしか通じねえぞw
・・・・・・・・仏教徒でない者に対して、仏教徒が「外道」と言っても「はい、そうですよ」と
言えばいいだけw
実際、その通りなんだからww
- 96 :
- >>94
は〜〜〜〜〜????
お前はバカか?
実際、釈迦が布教して各地を回った際、各家の者たちは働き手を(出家して)とられると
騒ぎになり、嫌われた事実を知らんのか?w
仏教が田舎ではなく都市部において広まったのも、それが理由の一つ。
田舎では農作業に従事するその家の働き手を取られることはまさに死活問題だったからw
さらに仏教は労働と蓄財を否定する。
また家庭を構成することもなw
これらを否定してどうして社会発展が望めるか?w
アホ仏教徒は絶対に仏教のアンチ社会性を認めないが、そういうところが仏教自体を
貶める誘因となることを知れ、アホがw
- 97 :
- >>96
すると労働と蓄財に関与しないニートとか売れない芸術家とかも「反社会勢力」かね?(笑)
(^。^)するってぇと、アリだとサボってるのが六割とも言うから、反社会勢力が大半なんだな。(笑)
- 98 :
- 多分、非生産的とか非経済的とか言いたかったんだろうが、反社会的と間違えるなんて、何とかさんと同じくらいテキトウだね。(笑)
反社会性人格とか、聞いたこと無いのかね?(笑)
仏教徒がソシオパスみたいな事言っといて、否定されたら「貶めるな」とか、何とかさんみたいな支離滅裂な事言うなよ。(笑)
(^。^)うわ〜、恥ずかしい奴。(笑)
「貶めるな」(キリッ)。(笑)
- 99 :
- >>97
お前、日本国民の三大義務っての中学校の時にならわなかったの?w
その一つに「勤労の義務」ってのがあったでしょ?w
勿論、この「勤労」ってのは狭義の「労働」のみではなく、社会の発展に何らかの形で
貢献する広い意味での行動を意味するわけw
だから、芸術家の創作活動も含むし、プロスポーツの選手の活動なども入るわなw
ニート・・・・・これは、色々な個々人の状況があるだろうから、一概に括ることはできないだろうが、
純粋に社会資本を食いつぶしているだけの奴・・・即ち、働くことが可能なのに働かずに
いる奴は、現在、社会問題化してるのも知らないのか?w
さて、初期の仏教・・・・これはどうだったか?
基本、これはアンチ社会集団だよw
出家僧は、労働せず、蓄財せず、家庭を持たず・・・・その生活はあくまでも世俗からの
布施頼り。 社会の発展に対する貢献度は、ほぼゼロw
貴族や大商人の信仰と布施がその生命線だったの。
(だから、大都市で発展した。)
・・・・ちなみに密教もそのパトロンは商人w
後に大乗仏教となると、世俗社会の構成員たる性格が色濃くでてくるが、
出家マンセーの初期仏教は、アンチ社会性を内包し、それを世俗とどう折り合いを
つけるかが重要なポイントで釈迦もそれに苦労したんだよw
ちっとは勉強しろ、アホがw
- 100 :
- >>98
お前、もしかして俺が「アンチ社会性」という表現でいったのを、やくざや犯罪集団なんかの
意味にとってたの?wwww
オレは、初めから「社会の発展に資する」ことのない と言う意味で言ってたんだがねw
オレの書き込み初めから読み直してこいww
無理やり「反社会的人格」とかに結び付けて、罵倒したいわけ?ww
お前のクソさが際立つねww
お前はもう密教など語るなw
そういうクソ人格で密教など語ると、真摯な密教信者までが迷惑するわww
- 101 :
- いやマジで今日という今日は、この承狂のクソさがわかったわ。
こちらの語彙表現の揚げ足取り的なレスつけてでも、何とか言い負かそうとw
そう言う奴は今まで、腐るほどいたが、少なくともお前はそういうことはしない奴だと
思ってたんだがな。
眼鏡違いだったわ。
揚げ足取りなどで論点をずらす奴は、オレの中では最低評価なんだわ。
今までは、お前に対しては最低限の礼は尽くしてレスをつけてきたつもりだが
今後は遠慮はせんわ。
くそ承狂、 覚えておきなw
- 102 :
- 「アンチ社会性」だと、誰が見ても「反社会性」だろ。(笑)
(^。^)お前の脳内では「アンチジャイアンツ」はジャイアンツを褒め称えるのか?(笑)
- 103 :
- >仏教というのは、元々、「アンチ社会性を内包しているものなの」w
>・・・・そこに「出家なんて、何にも社会的発展に貢献しないからクソ」なんて言ってみても・・・・
俺が初めて「アンチ社会性」と言う表現を使った文も、「何にも社会的発展に貢献しないから」と
書いている。 さらに>>96 >>99 の書き込みも全てその側面・・・・
「社会的発展に資するか否か?」の側面だけを論じている。
そこにはみじんも、このバカの言う「反社会的性格」などの意味合いはない。
それをこのバカは勝手に曲解して否定してくる。
マジでクソだね。
- 104 :
- 別のバトルが始まったようですがw
邪見はパーリ語ではミッチャ・ディディ「悪い・間違った見解」で
原語それほど離れてはいませんが、
外道というのは漢訳者の意訳が過ぎるかもしれない
ジャイナ教では歴代の聖者をティールタンカラと呼び
ティールタは「浅瀬」を意味する
つまり彼岸へ導く者の喩え
パーリ語原典では外道はティルタとか梵語ではティルティカ
そのままジャイナ教での呼称を使ったものと思われる
特に外とか、道から外れるという意味は言葉自体には含まれていない
責めるなら漢訳者?
漢字って様々な意味を込められるので
パパンチャを大変活性化しやすい厄介な言語体系かも
- 105 :
- 悟れない外道であるバカバービマンが言う、ことである。信用しない、が正解である。
大爆笑である。
- 106 :
- まあね・・。
今日の昼間、尾上丑之助の襲名公演やってたけど、
同じような英才教育として、
なぜ、現代日本に於いてさえ、
老師方は妻帯しないのだろうか?家庭を持たないのだろうか?
子をなし、少子高齢化に抗わないのだろうか?人口減少という、先進国の最重要深刻課題の解決に協力しないのか?
なぜ、自らの師家というポジションを、質的にも名目的にも、世襲させないのだろうか?
なぜ、より確実性としては高い実子でなく、
出会うかどうかもわからない一箇半箇に頼るのだろうか?
僧侶のなりて自体減っている中、師家分上となれば尚更に。
梨園のような英才教育こそが、仏法存続の最良しゅだんだったりしてなw
- 107 :
- 仏法は己自究明が基本だから、誰かに育ててもらうってのが違うのじゃないか
習い事なら、子供の頃から、繰り返し型を仕込んで一人前になるけど
- 108 :
- >>104
だから>>40 >>42で言うように、そのような言葉を作ったのは後代の人間に違いなく、
仏教的意味として悪意はなくとも、現代言語感覚上悪意に満ちた言葉である事には
違いないのだから、公の場で気安く使うべきではないというんだよ。
それを、世俗的価値体系〜云々であれこれ批判する馬鹿たれがいるようだがw
仏教的価値体系(何を指して言っているのさっぱり分からんがw)ですら世俗的価値体系
の上に築かれたものだろうよw 世俗と全く相容れない仏教的価値なんて無いだろうwww
だから、そんな言葉を使うのならばクローズ(仏教徒限定の会員制のサイトでも作って〜)で
やれというんだよww
まるで俺個人が外道と呼ばれて反論を書き込んでいる〜というような糞な指摘があったが
>>40から読み返せばそんなものではない事は一目瞭然だろうよw
- 109 :
- 中日ドラゴンズが、
応援歌のフレーズ 「お前が打たなきゃ誰が打つ」 を止めるとさ。
『お前』の代わりに、個々人の名前を入れるそうな。
選手に失礼だから、だって。 誰にも名前があるのだから、だって。
【言葉狩り】も極れり。
面と向かってたら、唾履きながら怒鳴ってたと思う。 「お前ら馬鹿か?」 と。
紐も、こういう似非人権屋と同じ、と。
- 110 :
- >>109
だって〜だって〜と駄々をこねる幼稚園児のお出ましかww
>面と向かってたら、唾履きながら怒鳴ってたと思う。 「お前ら馬鹿か?」 と。
偉そうに怒鳴っても「馬鹿はお前の方だ〜」と言い返されて涙目で鼻水垂れるのがせいぜいだろうよww
世俗の中で生きていれば世俗のルールで生きるよりあるまい。
仏教徒には仏教徒のルールがある〜ならばクローズで〜略www
- 111 :
- >>110
大人しくしてなかったら顔にVXガスでも塗り付けにくるの?
- 112 :
- >>111
さあねww それは個人主義批判の例の全体主義者(でも社会主義ではないらしいww)にでも聞いてくれw
- 113 :
- 何と言われようと、言葉狩りを是認することはない。
- 114 :
- つーか、
応援歌としてのあのフレーズを 「人権侵害だー!」 と叫ぶような奴と仲良くする自信はないw
- 115 :
- >>112
またバカな事を。(笑)
俺は全体主義を賛美なんかしてないだろ。(笑)
「宗教が個人主義」というのを否定しただけ。(笑)
こうした個人の主義思想を否定して、「我々がそう考えるんだからお前らも従え」というのが全体主義。(笑)
何処の団体か知らんが、「宗教は個人主義」という思想を強制するお前らこそ「全体主義」者だよ。(笑)
戦前の日本も、誰かさんの引用にもあるように「全体主義」だったが、
誰かさんの妄想世界では大日本帝国も「社会主義」国だったのかね?(笑)
(^。^)議論するんなら言葉の意味ぐらい弁えろや、カス共。(笑)
- 116 :
- >>115
www
カスはお前だろうw >>115
答えられなければggrksで済ますのをカス中のカスというんだよww
さて、これも事の発端を振り返って見てみれば一目瞭然www
>>17
>「拠り所」「島」そして「灯明」という喩えから判るように、決して「自己責任で〜」などという個人主義ではあり得ない。
根本的にココが大間違いだろうよw
俺自身は別に個人主義でも構わないがこの「自己責任」の否定は自滅的だなあww
自分で判断して、選択して自分の人生を生きて行く時に、自己責任を否定するのはあり得ない。
尚、全体主義が独裁である以上、現代においてそれは社会主義と何ら変わらない。
言葉の真意を理解していない馬鹿はお前の方だwww
- 117 :
- >>116
多分、個人主義も自由主義も民主主義も、この何とかさんには同じなんだろう。(笑)
このぼんやりとした世界観で、仏教だ何だと宣える神経には驚嘆を禁じ得ない。(笑)
全体主義も個人主義も社会主義も民主主義も、ちょっと調べれば分かるだろうに、(笑)
「日本も全体主義でした」と書いてる文章の一部を曲解してまで、自分らの妄想を押し付ける。(笑)
本当にこの全体主義者は、どうしようもない屑だね。(笑)
(^。^)何処のカルト信者か知らんが、そんな屁理屈はカルト内部でしか通じないよ。(笑)
- 118 :
- www
おいおいww
以前は人を個人主義者呼ばわりして今度は正反対の全体主義者か?ww
支離滅裂な頭が逝かれたそ再起不能の脳みそのようだなあw
- 119 :
- あと、実体と実態の意味も調べとけよ、屑。(笑)
それから、「〜と言えるかもしれません」と書いてあったら、それは断定ではなく、個人的な推定だから。(笑)
何処をどう読んでも、「全体主義の実体が社会主義」だなんて書いてない事は、
中学程度の国語力が有れば読み取れるはずだがなぁ。(笑)
ところで、何とかさんの引用文には「日本も全体主義だった」と有りますが、大日本帝国は社会主義国だったんですか?(笑)
日本人なら、そんなバカな事を言う筈ないから、やはり何とかさんは外国の方なんですかね?(笑)
あと、「考え方が異なっても実体が同じなら同じ」との事ですが、(笑)
「〜主義」とは何だろうね、という話をしていたのに、
誰とも判らない人の文章の「実態」を「実体」と改竄して曲解しといて、「言葉の真意がー」とか、どの口が言うんだろうね?(笑)
「恥」って概念が欠落してるのかな?(笑)
(^。^)やっぱ朝鮮人だろ、アンタ。(笑)
- 120 :
- >>118
あぁ、普段本を読まない人には難しかったかな?(笑)
「個人主義」とか、会話文でなくカッコ書きしてたら、それは何らかの意味で強調してるんだよ。(笑)
何とかさんみたいな「言葉の真意」を理解出来ずに、
「日本も全体主義でした」とある文章の一部を曲解して改竄して、
「全体主義は社会主義」なんて出鱈目の根拠とするような屑の落書きなんぞ、
一々全部の文章の添削しても、屑には理解出来ないのは明白だからね。(笑)
(^。^)実態と実体の違いも判らない奴が「言葉の真意」とか、ホント笑わせるな。(笑)
- 121 :
- 同じ事を四回繰り返して書いてあげたが、屑にはまだまだ理解出来ないんだろうなぁ。(笑)
(^。^)日本人同士なら、一度ですむ話なんだが。(笑)
- 122 :
- お前さんの大好きなググれ、何たらかんたらという奴だww
>「実態」は、実際の状態、ありのままの様子という意味です。実体と同じ意味で用いられることもあります。
カスの負け犬の遠吠えwww
- 123 :
- >>121
そもそも俺はあんたに、
「先生、どうかご教授を〜」とし下手に尋ねたのを、ggrksで回答した本物のカスだww
カスと関わるのも時間の無駄という奴だな。
- 124 :
- 直接対話してみたいランキング
5位:隠居
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1位:一代
- 125 :
- 四回も「大日本帝国は社会主義だったかね?」とレスを重ねたのに、(笑)
また訳の判らない引用文。(笑)
「実体と同じ意味で用いられる
こともあります。」
「実態は社会主義と同じと言えるかもしれません」
いいかね?この文章では、
「(法的な建て前論として)社会主義(私財の否定や富の共有化などの政治理念)を掲げているが、「実態」(即ち個々の意識レベルで)は全体主義(即ち集団の歯車として自他の個性を否定し集団の規範に従うだけ)と言えるかもしれません」
との意味だから、
「全体主義は独裁」(笑)
とか
「全体主義の実体(本質、中核をなしている何か)が社会主義」(笑)
なんて話では全くない訳だよ。(笑)
例えば端的な比喩としての「資本主義者の実態は拝金主義者」と「資本主義者の実体は拝金主義者」なら同じ事を言ってると言えるが、
「言葉の真意」を問うなら、この二者も厳密には意味は異なる。
こんな中学の国語レベルですら理解出来ない者が、仏教哲学云々などとは、本当に恥知らずで身の程知らずな話だ。
個人主義という概念のルーツも知らず、「宗教は個人主義」等とほざき、
>>52の文章で「下手に出た」等とほざく。
その醜悪かつ矮小な、根拠のない慢心を守るためにどれだけ他人様に迷惑掛ければ気が済むんだ?(笑)
(^。^)チビでバカなのは、お前を構成している因縁なんだから、有りの侭受け入れて、世間様を僻んだりすんなや、みっともない。(笑)
てか、バカはバカらしくバカとバカ話でもしてろや、この×××××。(笑)
こんな中学生でも判るレベルのショーもない事を書かされる此方の身にもなれや、この××××××××××××××××××××。(笑)
- 126 :
- wwww
では承狂先生、私はどこで「宗教は個人主義」等とほざいたのでしょうか?
速やかに答えろ馬鹿垂れがww
- 127 :
- それと、ww
>では旧ソ連は、中国は、北朝鮮はどうなのかと???
>社会主義を掲げているが、実態は全体主義なのではないかと。
>その通りですね。
これと、あんたが示す、
>「実態は社会主義と同じと言えるかもしれません」
は、同じかね?www
- 128 :
- つまり、>>16で、「何を選択するのも自己責任で個人の自由」と書いたのを忘れたわけだね。(笑)
そして、俺が>>17で書いた内容も断片的にしか読んでないわけだ。
そして訳の判らない引用や誤読や妄想を重ねて過去を改竄して泣き喚いて媚びへつらって自分の正当性を訴えると。(笑)
絵に描いたような朝鮮人の遣り口だな。(笑)
(^。^)何の議論しているのか、レスの意味も判らないなら、スルーしろよ、アホか。(笑)
- 129 :
- >>127
そこは社会主義と全体主義の間違えだったね。
訂正するよ。
- 130 :
- 「何を選択するのも自己責任下の自分の自由」これがどう転んだら「宗教は個人主義」になるんだ?
詳細、精密に解説を願おう。
- 131 :
- >>129
「その通りですね。」と「かもしれません」の違いはないのかい?
- 132 :
- おいおいwww
言語に精密な承狂先生がそんないい加減なレスをしたら駄目だろうよww
いい加減なレスをしたり、ggrksで済ますならスルーしろやウスラアホがww
- 133 :
- 「全体主義」と呼ぶ範囲は、さまざまな立場がある。
ハンナ・アーレントは1951年の著書「全体主義の起源」で、ファシズムやナチズムを「全体主義」としたが、いずれも共産主義に影響を受けているものだと記した。
フランクフルト学派出身のフランツ・ボルケナウは著書「全体主義という敵」で、ファシズムと共産主義の実質的な同一性を記し、ロシアは「赤いファシズム」、ナチス・ドイツは「褐色のボルシェヴィズム」と呼んだ[13]。
ジョージ・ケナンは、著書「アメリカ外交50年」で「大戦の開始前、世界の陸軍力と空軍力の圧倒的部分がナチス・ドイツとソヴェト・ロシアと日本帝国という3つの政治勢力の手に集中されていた。
これらの勢力はどれも、西側民主主義に対して深刻な危険な敵意を抱いていた」としたうえで「この3つの全体主義国」なる括りで論評している[14]。
村上和也はJ.リンスの定義に照らして中華民国(台湾)の蒋介石体制を全体主義、その息子蒋経国体制を権威主義と分析する[15]。
「全体主義」の用語と概念は、個人主義や自由主義の反対概念から発生しており、個人主義的自由主義を批判する立場からは肯定的に、個人主義的自由主義を支持する立場からは批判的に使用されている。
フリードリヒ・ハイエクは右翼も左翼も一見正反対に見える政治思想も実は同じ全体主義であるとした。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E4%BD%93%E4%B8%BB%E7%BE%A9
- 134 :
- https://i.imgur.com/Vnsu38g.jpg
https://i.imgur.com/HAO8Ueu.jpg
https://i.imgur.com/qwYlHiy.jpg
ここで釈迦は自灯明法灯明について四念処のうち
身念処、受念処、心念処が自灯明
法念処が法灯明
であるとけっこう明確に言ってるのではないでしょうか?
四念処
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%BF%B5%E5%87%A6
もっと最期の方の説法になると、人々の利益・幸福になるための法とは何かということで、三十七道品の一つ一つを挙げています(四念処〜八正道)。
- 135 :
- 仏陀自身は布教を望んでいなかったわけで、そこは正覚仏も独覚仏も変わるところはない。
布教を決意したのは、バラモン(後のヒンドゥ)教側で至高神として崇められている梵天の要請によるところ。
(※常見系宗教では、梵天は様々な名で呼ばれているが、要するに絶対至高神の位置付けにあるところの存在)
当の梵天さんは、(己を崇める)常見者たちが、常見を否定する仏教にイチャモンを付ける行為をどう感じておられるのか?
色界禅定を得て、誰か梵天さんに直撃インタビューを頼む。
- 136 :
- >>134
読み直して気がつきましたが、法灯明の法とは四念処の法念処には限定されずにまず釈迦が説いた三十七道品全てが前提にあるかもしれません。
参考資料
https://i.imgur.com/iNQDMVr.jpg
https://i.imgur.com/qgCSg9A.jpg
https://i.imgur.com/9adqlzF.jpg
この中から自灯明法灯明では四念処を持ってきて、それを自ら実践して観察して貪欲より起こるこの世の憂いを調伏して住するのが自灯明法灯明ということでしょうかね。
また法には一切法とか諸法のような内外(名色、名称と形態、心と体、心的なものと物質的なもの)にある諸々の存在を法とも言いますが、法灯明の法はそれではないですね。
- 137 :
- 仏教における法(ほう、梵: dharma、ダルマ、巴: dhamma、ダンマ)とは、法則・真理、教法・説法、存在、具体的な存在を構成する要素的存在などのこと。
本来は「保持するもの」「支持するもの」の意で、それらの働いてゆくすがたを意味して「秩序」「掟」「法則」「慣習」など様々な事柄を示す。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95_(%E4%BB%8F%E6%95%99)
説一切有部などの部派仏教が三世もしくは現在の一瞬のみに存在する法とは、上の説明だと「存在、具体的な存在を構成する要素的存在」のことを指します。
縁起とか無常とか無我とかの法則が三世実有としたわけではないので混同しないようにしましょう。
誰に向けてのレスという訳ではありませんが、念のため。
- 138 :
- さとれば修行はしない。
悟れないバカどもは修行を継続する。
- 139 :
- 最澄空海栄西道元日蓮法然
ギャーテーギャーテー
高野山ケーブルカー
永平寺
- 140 :
- >>138
ホ〜〜、
こりゃまた随分とエラソウだな!
自分は悟ってるから修行しないってか。
まさか『中論』でも読んで、
「オイラはその意味をすべて分かるんだ!」とかじゃ〜ないだろうな(笑)。
この私は、物質化(濃密物質界の完全なコントロール)のできない者など認めんから!
- 141 :
- >>134 >>136
う〜む。
とても勉強となる良い投稿をありがとうございました。
ここでいう「法」(法帰依の法)とは、「四念処」のことだと...。
『先に述べたように、世間では、このいわゆる自灯明の説示について十人十色の、すなわち自分勝手で無根拠なる諸解釈が行われ、
時にそのような解釈がさも真であるかのように言い立てる人があります。けれども、また改めてここに繰り返しますが、「自灯明法
灯明(自帰依法帰依)とは四念住を修習すること」に他なりません。諸経においてこのように明示されている以上、そこに牽強付会
の説・奇妙奇天烈の珍解釈を持ち込む余地はまったくありません。四念住を修習する者が「自灯明法灯明(自帰依法帰依)」という、
仏陀の遺教の実践者です。』
(『自灯明法灯明―四念住(四念処)とは何か―』真言宗泉涌寺派大本山法楽寺)
http://www.horakuji.com/dhyana/sikan/smrtyupasthana.htm
>>135
あのですね...
「絶対至高神」がコニャニャチハ〜♪
して、誰かの目前に出て来ることなどはないの。
自分自身に対して“出現”したり、語りかけてきたが最期、
それはすでにもう絶対至高神ではないの。
絶対至高神というのは絶対に擬人化され得ないのです。
だからこそ、唯一なる絶対存在なのだ!
故に、それは断じて“人格神”足り得ないから(要するに人型をしたり、
普通の人間にも理解可能な領域--言葉や動作--で自らが認知されようすること)。
あなたのような思考というのは世間一般において、
「神(絶対至高神)などはいない。もし神がいるならばこんな不条理なこと
(東日本大震災による無差別の大量災害死などの出来事)が起こる筈がない」と、
嘆いているのと同等レベルだということ。
理解があまりにも未熟。
- 142 :
- >>141
「マ.イ.ト.レーヤ」がどこぞに出現してコニャニャチハ〜♪
という話とどの程度の違いがあるの?
- 143 :
- 紐さんは、確かに無知ではあるけれども、
しかしその分、宗教の伝統教義(ドグマ)に“条件付け”されていなくてまったくの自由だ。
そして、ある意味ではMaitreyaの教えの基本にも沿っている...。
最もダメなのは、専門僧侶である七と元僧侶だという承狂の二人だ。
『「あなた自身のままでありなさい。お互いの後に従ってはならない。もし、あなたが正直な心(マインド)と誠実な生気(スピリット)
と無執着を実践するならば、あなたは自分の真我を知るだろう。あなたはわたしを知るだろう。あなたは主を知るだろう」
「わたしを崇拝してはならない。もしわたしを崇拝するならば、あなたは自分を低めようとしている。わたしはそれを欲しない。わたしは、
あなたに同等であって欲しい。あなたは至高なる存在の閃光(きらめき)である。 あなたはわたしよりも低い存在と考えてはならない」
「わたしを喜ばせようとしないで、自分自身を幸せにしなさい。そうすれば、それがわたしを幸せにする。もし、あなたが自分自身を大切
にするなら、あなたはわたしを大切にすることになるのである」
「わたしを体験しなさい。本来のあなた自身でありなさい。あなたが本来のあなたであろうとするや否や、あなたは自分が誰であるのかを、
なぜなのかを、体験する」
「あるがままの自分でありなさい。自分自身に対する尊重の念、尊厳を他人に踏みにじらせてはならない。自分自身を他の人間(自我)に
屈従させるや否や、あなたは腑抜けになる。他の人間の影でさえも、あなたを占領させてはいけない。あなたの運命(さだめ)は自由である
ことである」
- 144 :
- 「わたしから最も遠い存在の者は人生の教義と責任をすべて放棄してしまった聖者やグルたちである。彼らは人生の現実に目を閉ざして、
神を知ろうとして、天のどこかに神の住まわれるところを見つけようと、日夜、神を探し求めている。外的には彼らは健全で平穏なように見
えるが、内的には混沌の中におり、必死に神を探し求めながら心の内で泣いている。」
伝統固執主義や教義主義は終わりに近づいている。その時代は急速に過ぎていく。「主義」というブランドを放棄した途端、その人は自由に
なる、とMaitreyaは言われる。その人は自分の裡にわたしがいることに気づくであろう。なぜなら、わたしはあらゆるイデオロギーから自由
だからである。
もしあなたがこの鏡を使って世界の宗教を見るならば、それらは預言者やグル(導師)や聖者などの個人的経験に基づいていることが分か
るだろう。人々がそれに従うとき、必ず苦しみを経験する ―― なぜなら自分自身の真我に従っていないからである。もしあなたが目を閉じ
て誰か別の人に導いてもらうなら必ずつまずく。すべての者が自由意志を持つ。その自由意志が機能していないとき、あるいは間違って導か
れているとき、「主が介入される」とMaitreyaは言われる。』
(側近からもたらされた“Maitreyaの言葉”より)
- 145 :
- >>142
まったく違う!
Maitreyakの進化レベルが如何に高かろうとも絶対至高神などではないから。
“絶対至高神としての梵天が現れてブッダに説法を奨めた”
などという仏教徒に拠る創作(神格化の作り話)とは意味が違う。
Maitreyaは、
自分の意志力で肉体を創造して、それを纏っている方(母胎から産まれたわけではない)。
そして、同時に世界中の複数ヶ所に出現して、また忽然と虚空に掻き消えることができる。
Maitreyaは、この“地上”において地球人類の中で最も進化された方、第七段階イニシエート、全知全権のレベルです。
悪口は辞めておきなさい。
- 146 :
- >>16紐
>何を選択するのも自己責任下の自分の自由だw
もちろん、あなたや七が唯物主義に生きるのも自由。
「アートマンなど無い」と見なすのも自由です。
ただし、ブッダの教えがそうであるというのであれば、
それは必ず仏典経典の記述を根拠にしていなければならない、といっているまでのことです。
もしも、それができないのであれば、それは単なる個人の妄想(虚言)でしかない。
だからいうのです。
あなた方の発言は仏典の記述に反している。
無視している、と。
- 147 :
- >>17承狂
>(^。^)よってアホの宝珠と同罪であり、俺には関係ない話だと言えよう。(笑)
しっかし、ホント笑わせるね。
「法」(ダールマ/ダンマ)とは真理のことで、ブッダの説かれた教えのことをいう。
それが纏められたものが仏典であり、経典の記述となっている。
仏典の記述に反することばかりいってるあなたたちの
それの一体、どこが法灯明なの?
文句があるならば、
仏典の記述を引用提示しながら述べな!
>>20紐
「自灯明」というのは、
自分勝手な煩悩塗れの自己からくるデタラル見解のことではないから。
それでは灯明にはならない。当然、「法灯明」ともイコールにはならないでしょ。
自灯明というのは、自分の心の奥底に潜むすべての真実を知る声のことであり、“良心”というのはその最大特性だといえる。
誰にでもある心の良心。その良心とは何か? それは何処からくるものであり、そしてそれが何故、在るのか? そのことが重要なんですよ。
自灯明とは、その自己の良心の声(すべての真実を知っている意識)に耳を傾けそれに従え!
ということをいっている。そして、実践としては法灯明の三十七菩提分法...。
『真実であるか虚偽であるかを、汝の自己が知っているのだ。証人よ(sakkhi)。実に尊い自己を汝は軽視している。』
(AN.T,p.149 G.)
- 148 :
- >>147
>誰にでもある心の良心。その良心とは何か?
だから、それが法だろうよw
だから、法灯明は自灯明と変わらないと言っているww
自己こそ自分の主(あるじ)である。他人がどうして〔自分の〕主であろうか。自己をよくととのえたならば、得がたき主を得る。
(ダンマパダ)
例え仏陀といえども自分から見れば他人であり、頼るなかれ〜という有難い教えだ。
宝珠がアートマンの肯定を仏典から読み解くのならばそれはあなたの勝手(自由)。
だが、そう理解する人間は少数派だろうよw
- 149 :
- >>145
それ、仏教では古代から
「化生」
の一言で片付けられて大して顧みられてるような事じゃないんだけど、
その程度で勝ち誇れることなの?
むしろそういう理解で「助さん・格さん」ぶるなんて、
弥勒菩薩「黄門」さん本人に対して失礼・迷惑なんじゃないの?
勝手に未来仏のご威光を振りかざして現世仏の弟子筋に難癖付けるなんてさ
化生なんて珍しくもない存在で、その属性を以って菩薩を騙る者に加担する方が大問題ではないか思うけどね
- 150 :
- マーラ・パーピマンの幻術にまんまと嵌めらるのがオチ
- 151 :
- 彼らなら、弥勒菩薩に変身するなんて訳ないだろうし
それでもまともな仏教徒なら、自在天ごときに易々とは騙されないだろうけど
- 152 :
- >>147
>仏典の記述に反することばかりいってるあなたたち
華麗なる自己紹介w お見事です。
- 153 :
- 何の出典かと聞かれても正確に覚えていないがw
修行僧が托鉢で良家の前に立つ事はなく、らい病(ハンセン病)患者の前に立ち、彼から食べている
残飯を貰い受け食べたら中に彼の腐った指が落ちて混ざっていたが嫌な感情は微塵も起きなかった〜
(テーラガータだったかな?)とか、こういうのは事実だと思うが自分には出来ない事だと思うわ。
さすが出家修行者だけある。立派。
出家という意味の厳しさという点では現代僧侶でこのような厳しさを持っているものはいるのか?
こういうのが仏陀活躍中の逸話になってしまい、生ぬるい出家修行者しか出ないのが現代の仏教の低迷の
原因の一つだろう。
- 154 :
- >>153
しょーもなw
- 155 :
- 結局この程度の話に帰結するのだったらどうやっても承狂師の>>17の意見に軍配が上がるわな
- 156 :
- http://rio2016.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1559901710/
- 157 :
- >>156
何か知らんけど、発作起こして発狂しているみたいだねw
現法受業の例を己が身を以って呈してくれてるとは
- 158 :
- >「もし人ありて、このように言うとする、
>『修行者あるいは、バラモンが、善法(真理)を知ることもあるかもしれないが、その證知する善法(真理)を、他人のために説いてはならない。
>何故ならば、人が他人のために何ができるものだろうか。そのような事は、あたかも古い結縛を壊して、更に他の新たな結縛を作るようなものである。
>そのような行いは、貪欲の悪法である、と私は説く。人が他人のために何を為し得るものか』
>と、このように言う者があるならば、
>彼は如来の教えである、法と律とに従って、預流果を證得し、一来果を證得し、不還果を證得し、阿羅迦果を證得し、勝れた地位に到達した良家の人々にとりて、
>また、生天の行を行じて、善処・天界に生じようとする人々にとりて障害者である。
>(無知によりてとしても、善処へ赴くのを)障害する者は、利益や恩恵を持たない者であり、そのように、利益や恩恵を持たない者に、害する心が起こる。害する心の起こるのは邪見である。
- 159 :
- 諸法(万物、物資だけではなく精神も含む)には実体がないので、本来生じることも滅することもないし、浄不浄もないし、増えたり減ったりすることもない。
それらがそう見えるのは縁起によって仮にそうなっているだけであり、本来は不生不滅である。
それを人は分別してしまうので実体があるかのように錯覚してしまう。
と般若心経で説かれているようです。
- 160 :
- >>159
>本来は不生不滅である。
でw あんたが現にそう書き込んでいるあんた自身は「錯覚」の幻で存在しないのか?www
面白いねえww そもそも分別無しで人間は生活できるのかね? そういうと鈴木なんたらの無分別の分別とか
訳の分からん事を言う輩も出てきそうだがww
- 161 :
- 一水四見
- 162 :
- 或いは、
大和や武蔵を「不沈艦」と見做すようなもんか。
- 163 :
- >>160
(159氏の真意は知らんが)
幻同士の間では現実だろうが
イチイチ幼稚なツッコミでスレ汚しすなや
アンチ大乗、アンチ龍樹(中観)の人間ですら一つの仮説としてはわかる話なんだけどw
- 164 :
- 阿呆相手に何度も同じ話を繰り返すのはくたびれて嫌なんだがww
前にも言ったが、そもそも世の中に「実体」があるもの等有るのかね?w
幼稚なレスをしているのはお前の方だw >>163
自覚のない奴w
今更、般若心経で世の中は全部「空」ですよ〜「実体」がありません、「錯覚」です〜とやって
誰がありがたがるんだ?ww 阿呆か?
どうせやるなら、世の中は空かもしれないが生きている間は確実に在る我はこうやって我執を乗り越えた〜
くらいなレスを付けろやw ノータリンがw
あ、ちなみに私は非仏教徒だから我執有りまくりで何ら問題ないからそんなレスは付けられないがww
- 165 :
- >>164
>どうせやるなら、世の中は空かもしれないが生きている間は確実に在る我はこうやって我執を乗り越えた〜
これ、全て般若心経に書いてありません?
世の中は空かもしれないが生きている間は確実に在る我→空即是色
こうやって我執を乗り越えた→ 照見五蘊皆空 度一切苦厄
だと思いますが、さてどうでしょう?
- 166 :
- 般若心経はものの見方を説いたお経で経験談を語ったお経じゃないでしょう。
経典作家が「空」を世に知らせるために創作したお経に過ぎない。
- 167 :
- 紐は、パーピのような、「ほんとはいい人ヒール」でなく、
徹底ヒールになりきろうとしてるのかしらんけど、
>>166>般若心経はものの見方を説いたお経で
ここまで分かってて>>160と。
>>166が>>160への返答になるってトコが分かってないのかな?w
- 168 :
- >>159の「〜縁起によって仮にそうなっているだけで、「本来」は不生不振〜」
この「本来」を現代口語としての「本来」、つまり「かくあるべき」と読むと矛盾した文章になる。
160は、「実態」と「実体」の違いが判らないような人なので、口語文としてしか読んでないのではないかと。
(^。^)要するにね、バカなんすよ。(笑)
- 169 :
- 馬鹿はお前らだろうよww 167-168
おいおい、言葉に正確な承狂先生が何度も間違えたら駄目だろうよww
>「本来」は不生不振〜」
何だコレ?ww 不生不滅のことを言っているのか? 頭悪すぎw
空を言う奴は虚無主義に陥りやすい。
実体がないから我も無い。だから無我が仏陀の教え〜
我も無ければ(感じ取る主体が無いので)苦もあろうはずがない〜
こういう流れは駄目だろうよ。
繰り返し言うのはくたびれて嫌なんだが、理解力が極めて乏しい阿呆相手に
言えば「生きている間は確実に在る我だけを頼りに己の人生を生ききる」事が
最も大事である。(頭の隅に置いておくに留めて)般若心経などを生き方の指針に
するべからず。だw
- 170 :
- 自分で書いてて>>166の意味を解ってないとか、
狡猾か天然のどっちかしかないなw
- 171 :
- 目の前にリンゴが「ある」というとき、
それは、
そこに 「リンゴという名称と、リンゴと括られる性質と、或る程度の質量」 が
そのような事象として
現れている
ということであって、
(イデア的に)≪リンゴ≫なるものがこの世に存在しているわけではない、
というのが、>>166一行目の意味であり、>>160への反論なわけw
- 172 :
- 世間的な文章として「リンゴはある」と言い得るし、
そのように、世間的な視座で「リンゴはある」わけ。
お釈迦さんは、
『世間的な視座で「リンゴ(我)はない」と言ったのではなく、
出世間の視座で「リンゴ(我)はない」と言った』
のですよ。(龍樹はもっと尖ってるけどw)
- 173 :
- 頭の悪いセブンに存在論の解説など受けても無駄だわw
敢えて言えば、それは空で良いのだが、しかし生きている人間に空は当てはまらない。
昔からの相変わらずの下手な比喩で説明しても誰も理解しないだろうよw
仏陀の無我は非我であり、我執を取り払え〜という意味でしかない。
>>153のような真の出家修行者など現代にはいないだろうよw
しかし、人間は我執の塊のような生き物で生半可な僧侶など糞の塊のような我執のなかに
生きている。(セブン、お前の事だよww)
- 174 :
- >>173
>>153のようなしょーもない例を出して我執がどーのと言っている段階で
何もわかってないのはあんたの方でしょうがw
- 175 :
- いやいやw
>>173
貴方自身の >>160>>166が、相矛盾する発言だと言っているのですよ。
- 176 :
- 紐が大嫌いな譬え話で言えばw
ウルトラマンでも何でもいいけれども、
「大勢が、ストーリーを立て、キャラを構築し、造形し、(着ぐるみを)制作し、
ジオラマを造り、演じ、撮影し、放送される」
或いはデパートの屋上で、
「バイトの若者が、種々の着ぐるみを着、立ち回り、(司会が状況を説明し、煽り)、
そこに、或る物語が「現される」」
とき、 (→それはまさに、所縁によって事象が現れているということであるわけだが)
観客は(…子供たちは)、
【そこに、『ウルトラマン』がいる】と、≪認識する≫≪信じる≫。(サンタクロースも同様かもしれない)
その時、そこに、
「ウルトラマンそのもの、真にウルトラマンなるものが居る」
と見るか、
「ウルトラマンとして表現されている、活劇のキャラクターが居る」
と見るかの違いなんだけどね。
そしてまさに、そのことを表現した文言が、紐自身の >>166 なわけでね・・・。
ヒールを気取ってるのかもしれんけど、その割には綻びが目立ち過ぎかな、と。
- 177 :
- 別件だが、
先日も、中国で巨大な竜巻が走って行った。
日本のつむじ風なんか比ではない、あのレベルのものを見れば、
(湖の水を巻上げて天へ昇っていく様を見れば)
そりゃ、そこに龍神を見ても無理ないな、と。
紐の難点は、生物としての、或いは社会的生き物としてのヒトの性質を無視しているってとこ。
差別問題にしても、異文化外国人障碍者、肌の色が違う、言葉が違う、体格が違う等等、
「異質なもの」「見慣れないもの、馴染んでいないもの」を、畏れ、忌避するのは生物として当然なのに、
『そのような感情』が『生じてしまう』こと自体を糾弾するグループがいたりする。
お前ら馬鹿か?と。
そのように感じてしまう、想ってしまうのは『自然なこと』であって、それを責めるのは筋違いに過ぎる。
生物として、共同体として生きる社会的存在として自然な感情を否定するのでなく、
そうした感情が、心の動きが起こってしまうのは、(世俗に於いて)必然で不可避だということを踏まえた上で、
そこに、理性と教育・学びとで、補正をかけていくのが、
「ヒト」を越えた「人間」としての目指すべき方向性じゃねーかな、と。
戯言失礼したw
- 178 :
- >>177
朝鮮人に「理性と教育」で接したから、現代の日本はめんどくさい事になったんだがね。(笑)
(^。^)そしてキリスト教式の理性と教育で日本はおのが文化を失いつつあるんだがね。(笑)
- 179 :
- >>178
全体主義の承狂の御説はイランわw
人に言葉で説教垂れるくせに己は誤字だらけ〜ww いかに掲示板が誤字に甘かろうが
人に言葉で説教垂れるのなら己の言葉くらい管理して発言しろやw もうろくジジイww
>>177
>紐の難点は、生物としての、或いは社会的生き物としてのヒトの性質を無視しているってとこ。
これまた出典を聞かれても答えられんが、仏陀自身が褒めたたえた修行僧は、裸一貫、2500年前のインドの
墓場(=死体捨て場)に住み着いて、>>153のような托鉢で生きていた修行僧だ。
まさに我執を取り払っていると仏陀が称賛したのだ。それを「難点」としか見ないならば
僧侶としての感性が根本的に欠落している。さっさと僧侶を引退して別の生き方を探すことだ。
- 180 :
- (^。^)今日もギャグが絶好調だな。(笑)
- 181 :
- 〜この話の流れについて言及するならば、
人類は共に分かち合って平和を達成しなければならない。
苦悩している人々を放置している限り、それは人と人との正しい関係、人と神(法)との正しい関係は築かれない。
それでは聖なる関係であるとはいえないとする我々の見解に対し、
所詮、苦悩している人間は自業自得の結果に過ぎない。
また、人類の抱える問題とされる戦争にテロ殺人に病気に飢餓...など、
それらすべては「空」であるから、実体などない。
なのでそれらを無くそうとするのではなくて、それらは空であると見て無頓着であれ。
現象世界からは解脱すべきなのだ〜
という論争とも繋がってくる...。
- 182 :
- >>153
テーラガーター
18.1.1 マハー・カッサパ長老の詩偈 より
1057.(1054) 臥坐所から降りて、〔行乞の〕食のために、〔わたしは〕城市に入った。癩病の人が〔何やら〕食べているところに、彼〔の傍ら〕に、〔わたしは〕恭しく立った。
1058.(1055) 彼は、爛熟した手で、わたしに、一握り〔の食〕を授けてくれた。一握り〔の食〕を〔鉢に〕置く〔彼〕の〔腐った〕指も、このとき、〔一緒に〕断ち切られた。
1059.(1056) しかして、〔城市の〕壁の根元に依拠して、〔わたしは〕その一握り〔の食〕を食べた。あるいは、〔それを〕食べつつも、あるいは、食べてしまったときも、わたしに、忌避〔の思い〕は見い出されない。
http://aranavihaara.web.fc2.com/arana-khuddaka-8.html
- 183 :
- >>182
このマハー・カッサパは漢訳では摩訶迦葉とか迦葉などと訳され、禅宗においては禅宗の祖とされています。
拈華微笑《ねんげみしょう》 (無門関)
「世尊、昔、霊山会上に在って、花を拈じて衆に示す。是の時、衆皆な黙然たり。
惟(ただ)迦葉尊者のみ、破顔微笑(はがんみしょう)す。世尊云く、「吾に正法眼蔵
(しょうぼうげんぞう) 涅槃妙心(ねはんみょうしん) 実相無相(じっそうむそう)
微妙法門(みみょうのほうもん)あり。不立文字(ふりゅうもんじ)教外別伝(きょうげ
べつでん)摩訶迦葉(まかかしょう)に付嘱(ふしょく)す」と。
(現代語訳は下記サイトにあります)
http://www.jyofukuji.com/10zengo/2009/04.htm
- 184 :
- >>172
「なすべきことをなし了え、煩悩の汚れを滅ぼし、今や最後の身体をたもっている真人となった修行僧は、『わたしが語る』と言ってもよいでしょう。
また『人々が〔これこれは〕〈わがもの〉である、と語っている』と言ってもよいでしょう。
真に力量ある人は、世間における名称を知って、言語表現だけのものとして、〔仮りに〕そのような表現をしてもよいのである。」
(『神々との対話』サンユッタ・ニカーヤ T 中村元訳 岩波文庫 p.40〜41)
>真に力量ある人は、世間における名称を知って、言語表現だけのものとして、〔仮りに〕そのような表現をしてもよいのである。
ということですね。
最上の悟りを得た者は、世間的な名称として、言語表現だけのものとして、『私が語る』『わがものである』と語るのは良い、と。
- 185 :
- >>181
そのレスの空をマーヤに置き換えるとどうなります?
- 186 :
- 仏教は、
「そこに【リンゴと認識される事象】が存在すること」
を否定はしない。 確かに、そこには、何がしかが存在する。
そこに何もない、エンプティである、という意味で「無い」とは言っていない。
ただ、
「そこにあるのは、”リンゴ”というコンセンサスを有する事象である」
と言っているだけ。それを、金剛経的に言えば「如夢幻泡影」となる。
それを理解できないとき、
「何も無いなんておかしい!幻だなんておかしい!ここに確かに○○はある!」
という発言が、生じることになる。
ってことなんだけどね・・。
- 187 :
- 仏教のことをヒンドゥのマーヤー思想的に解釈した上で、
→否定的意見を仏教僧のセブン・承狂両氏にぶつける紐氏
→(誰も聞いてないのにここぞとばかりに)肯定的見解を述べようとする宝珠氏
って感じ?
なら、ヒンドゥ教のスレにでも行ってやって欲しいw
- 188 :
- >>185
ご指摘の通り。
「空」と「マーヤー」は殆ど類似のものです。
「空」が生じている理由をまったく説かない仏教と、
それは“神の御意志”だとするところの違いでしかない。
だからこの私は、
ヒンドゥーを最上のものとして“自分の道”とはしなかったわけ。
私が結果的に自分の道として選択したものは“神智学の教え”ですから。
その一部の偏った見解に陥っている仏教徒らとヒンドゥーの視点とは同一性のものです。
>>187
>ヒンドゥー教のスレ
残念ながら、
ヒンドゥー間では仏教各派や個人のような互いの論争というのは殆どないから(互いに尊重し合い認め合っている)。
また、仏教徒のように「ヒンドゥーだけが唯一の真理で他はすべてダメだ」などというアホは、まずいないからね。
ヒンドゥーの覚者たちはそういう痴態は説かないのでね。
よって、特に議論することがらがない。
- 189 :
- >>149-151
エッ、
“現世仏の弟子筋”に難癖付けだって???
戒律破り放題で経典の記述を無視しまくりの僧侶たちなのに???
ナニナニ?
自在天が弥勒菩薩を扮して惑わしてるだって?
まともな仏教徒ならば騙されない、って...(失笑)。
あなたは、アニメの観過ぎでは?
>>152
肝心なところをそんな一行レスじゃなくて、
経文を引用しつつ、具体的にやってくれないかな!!
>>154
いやいや.全然しょーもなくないよ!
その紐さんの声は、
日本の現代僧侶とブッダ当時の出家僧との意識レベルがあまりにも違うことを指摘してるのでしょ!
それはとても大切な視点であり、今まさにそのことが求められているんだよ!
そのことを軽視したり、茶化す意識状態が腐敗してる証拠そのものだ!!!
まっ、それでも、
例えば千日回峰行などは確かに大きく敬意に値するものとは思う。
少々、ブッダが異を唱えた苦行的要素が色濃い印象はあるけれども、
その僧侶の真剣度と努力においてはこちらの目頭が熱くなり、拝する側は自然と頭が下がる...。
>>23
>宝珠vsセブンの10年越しの平行線争w
いやいや.決着はとっくについてる。
ただ、七がそのことを認めたくないというだけの話。
- 190 :
- >>25
>タマネギの皮を剥いていって、何かを見つけようとするのが宝珠。
いえいえ、
そんな「有為」の皮を剥ぐなどという無駄は最初からしないから(笑)。
元々、アートマンが有為の中に見つけられるわけないことなどは最初から分かってること。
それがアートマンの本来的な性質なのだから。
ホント.笑わせる...。
>>28
理由としては、
つまり、言語で示されたものというのはすべて限定意に過ぎず、
そのものを示したものはないからでしょう。
それは、どういう態度で接するかという(ブッダとしての)立場の問題。
それとブッダの教説はすべて世俗諦であって、
龍樹(中論)のような説き方はしないから。
仏典があれば『中論』など無用。
それは逆に、かえって弊害しか生まないものだから。
- 191 :
- >>31七
エッ、この私がいつ、
“業と煩悩の消滅が解脱である”とすることを否定したというのか???
嘘デタラメは止めなさいな!!!
あなたの方こそ、
僧侶のくせに業報輪廻の明確な否定者ではないか!!
もう一人の自称、元僧侶(承狂)も同様だ。
だから、
あなた方は僧侶の皮を被った詐欺師だといってるわけ。
>>32
“真我がある”と思うことで似非安心を与えてるだって?
それはたぶん、あなたがかなり恵まれた環境で生まれ育ったから、
そんなノンキなことをいうのだろうね?
空缶拾いをして、
やっと今日明日の生存ギリギリの食を得ている子供たち、
戦争や無差別テロで両親を亡くした子供たちとか、
明日、生きたままノコギリで首を切断されて惨殺されかねない捕虜たちとか、
世界には、実に様々な生き地獄の中で生きている人たちがいるのが現実だ。
しかし、たとえどんな地獄にあっても、自分の本質本性は真我そのものであるというのは唯一の希望となる。
つまり、譬え肉体は滅ぼうとも真我が滅ぶことはない。
そして、必ずや神の救いがあるという想いこそが最後の生きる希望であり、
死の際においても、自暴自棄になって取り乱すことがない。
どんな人間にも仏性がある。
だから、いつの日か必ずや成仏することができると説くのも同じこと。
そしてそれは単なる口任せの安心ではなくて、真実そのものだから。
そのことは以前にも見たように、
南方テーラワーダの若き僧侶たちの
間違った無我の教えの洗脳からくる失望感を紹介したニュースとは天地の違いほどに対照的なものだ。
そのことを、よ〜く憶えておきなさい。
- 192 :
- >>42-46の流れ〜について
>>42
>仏陀には己の教えこそが100%正しく他の教えは邪見のもの〜なんてのは微塵もなかっただろうよ。
> (それを作り出しのたのは仏陀の教えを仏教に仕上げた後の教団の人間の仕業に違いないww)
まったく同意。
ブッダは、自分だけが唯一正しくて他はすべて間違ってるなどとはいってない。
確かに、バラモンの伝統には迷信が多く蔓延っていることを指摘されたが(だから、そのままでいいとはしなかったわけだ)、
けれども、バラモン教そのものすべてを間違いだなどとはいってないから。
ブッダが説いたもの(スッタニパータ)とは、“正しきバラモン”の本当のあるべき姿についてだった。
- 193 :
- >>64 七
>見下してるとかそういう話じゃないってのがわからんかったら、宝珠と同じ。
>彼も、 「ヒンドゥを見下すなー!」 と憤ってたけど、
>単純に、「それらは涅槃に資さない」「仏法(仏陀の教え)ではない」というだけなんだけどね・・。 ┐(´ー`)┌
いやいや.これらの聖句の何処がそういう意味になるんだ???
『すでにこの世において自己の苦しみの滅びたことを知り、重荷をおろし、とらわれのない人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。
(Sn.626) 明らかな智慧が深くて、聡明で、種々の道に通達し、最高の目的を達した人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。(Sn.627)
前世の生涯を知り、また天上と地獄とを見、生存を減し尽くしに至った人、──かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。(Sn.647)』
(スッタニパータ)
そして、ブッダは『ヴェーダ』(ヴェーダを正しく修得した者は、更に“ヴェーダの達人”と呼ばれる)
を讃えたのであって、「ヴェーダはダメだ。それは外道の間違った教えである」などとはいってないからな。
『諸々の煩悩の汚れの消滅の故に無病の起ることを正しく知って、省察して(食料を)受用し、
理法に住するヴェーダの達人は、もはや(迷いの生存者のうちに)数えられることがない。』(スッタニパータ.749)
ブッダは姿勢はすべてがそう。重要なのは中身なのであって、
正しいところとそうではないところを分別して見極めることの重要さにある。
ヴェーダだからダメ。バラモン教だからダメ。キリスト教だからダメ...などというものではない。
仏教だけが唯一の真理で、他の宗教はすべて間違いなどといった---幼稚な意識---では、
『幸福の○○』や『オウム---』や異教徒などは殺しても構わないとする見解の古きカトリックとか、
そして、今も無差別テロ殺戮を繰り広げる一部イスラムの一派らとも大して変わらない。
- 194 :
- >>75七は、以下の聖句をよくよく噛締めるべきだ。
『見解や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、これらに依拠して他の説を蔑視し、自己の学説の断定に立って喜びながら、
「反対者は愚人である。真理に熟達してない人である。」という。(Sn.887)
かれらは自己の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何人を愚者であると見ることができようぞ。他の説を、「愚かである」、
「不浄の教えである」、と説くならば、かれらはみずから確執をもたらすであろう。(Sn.893)』
(スッタニパータ)
『ある修行者、バラモンたちは、実にこれらの見解に執着している。ただ一部分のみを見る人々がこれを論じて互いに争うのである。
象とはこんなものだ、あんなものではない、象とはこんなものではない。あのようなものだ、と。
それと同様に、他の諸々の流派に属する修行者たちは盲目であって・・・、
・・・口論を生じ、論争を生じ、論難に陥り、鋭い舌鋒をもって互いに他人を突き合いながら日々を送っているのである。』
(Uda^na Y,4)
http://www.intweb.co.jp/buda/buda_4_12_tunoshiku.htm
- 195 :
- >>148
私はこの経文における
“よく整えるべき自己”とは、「煩悩に塗れている日常の自分」のことであり、
そして、“得難き主”こそが「真我」(本来の姿である真実の自己)のことであると理解します。
>だが、そう理解する人間は少数派だろうよw
正しく理解する者、真実を知る者はいつの時代においてもごく僅かですから。
まっ、要するに信仰者というのは宗教的に洗脳されているので、
確かに仏教者の中にはそういう理解の者は殆どいないようですね。
けれども、信仰上からの縛りなしに真実を追求する姿勢に在るプロの研究者たちにおいては、
“仏教者たちの理解は間違いだ”いう見方でほぼ一致しています。
そして、中にはウパニシャッドの説く梵我一如の境地は仏教の目指す涅槃と同一のものだ、
という見解を示す方も何人もいますから。
私は、
仏教の僧侶たちというのは仏典の記述を無視しているので、彼らの説法はまったく信用しません。
彼らはそのことを伝統(法燈)だの、口伝だのといってきますけれども、
ならば、どーしてそれは仏典の記述とは合致していないのでしょうかね?
仏典の記述と相反する伝統や口伝って...それって一体、何よ???
- 196 :
- それから、
『真実であるか虚偽であるかを、汝の自己が知っているのだ。証人よ(sakkhi)。実に尊い自己を汝は軽視している。』
(AN.T,p.149 G.)
これは実際、バラモン教の『マヌ法典』において、
『自己(アートマン)こそ実に自己の証人(sa^ksin)であり、また自己は自己の帰趣(gati)である。
諸々の人間にとって最高の証人である自分の自己を軽視することなかれ。』(Mann [,84.)
という思想に対応するものです。
では何故、
人間の心には善悪を判断する「良心」というものが備わっているのだろうか? ということ。
人間、誰しもが生れつき持っていて、自分の心の中に内在していると見なされるこの良心についても、
原始仏教においては、あくまでもアートマン(自己)の問題として語られるのだということ。
私がこれを採り上げたのは何故か? というと、人間が生れつき持っている良心(善を成さんとする意志)という性質こそが、
実に、重要なアートマン属性(≒ブラフマン)に他ならないからなのです。
『変化せず、清浄であり、悪を離れたブラフマンである私に、精神統一していない状態や他の浄化されるべきものがあるのを、
決して、私は見ることがない。』(シャンカラ著『ウパデーシャ・サーハスリー』T,14.35.)
以上.
- 197 :
- >>191
> つまり、譬え肉体は滅ぼうとも真我が滅ぶことはない。
これだと六師外道のパグダ・カッチャーヤナ説になるのでは?
Wikipedia
>カッチャーヤナによれば、7つの要素は、作られたものではなく、作らせられたものではなく、また、何かを作るものでもない。
>また、不変不動で、直立しており、動揺することなく、他を害することもなく、
>たとえ、鋭利な剣によって頭を断ち切ったとしても、誰かが誰かの命を奪うということにはならない。
>それは単に、7要素の間隙、諸要素間の裂け目に剣先が落ちるにすぎない。
>カッチャーヤナはこのように述べて絶対的な実体論を主張
パグダ教は仏教とは違うし、
> そして、必ずや神の救いがあるという想いこそが最後の生きる希望であり、
まさか、仏教が「神の救い」を説く教えだと言いたいの?
真我に救いを求めているのか、神に救いを求めているのか、どっちかに絞って欲しい
不滅の真我があれば神なんて恐れる必要がなく、サイコパスが悪逆非道をし放題(でも不滅だから平気)という解釈も可能な(教えとして、言葉に欠陥のある)教えだということも意味する
- 198 :
- >>188
> >>185
> ご指摘の通り。
> 「空」と「マーヤー」は殆ど類似のものです。
> 「空」が生じている理由をまったく説かない仏教と、
> それは“神の御意志”だとするところの違いでしかない。
「でしかない」なの?
空を意志で生じさせる存在って……(・・;)
自在天どころの話じゃないじゃんwww
- 199 :
- >>197
真我は不生不滅なので、そういう意味においては同意でしょう。
ただし、カッチャーヤナ七要素説では「真我」のみならず、その他の要素についても不変としているので異なる。
そして、真我以外のすべての要素は縁起で生ずるだけの実体のない空だとするのが仏教であり、
神の御意志に拠る幻影マーヤーに過ぎないとするのがヒンドゥーでしょう。
尚、正確には「魂」それ自体は永遠ではなく、これも縁起に拠って生じている仮和合の自己に過ぎないので、
これを誤って恒常視しているところもカッチャーヤナ説の間違いです。
また、これはカッチャーヤナ説だけに限らないけれども、真我ではない魂を誤って真我と見なしてしまっているのです。
それから、法王猊下ダライ・ラマ14世の出生〜インド亡命までの半生を描いたドキュメンタリー映画『クンドゥン』の中では、
毛沢東の統治する中国の侵攻を受けて、命の危険に曝されている側近を案ずる法王に対して、
この高僧は、「殺されても大丈夫です。(魂は)死にませんから!」と答えて安心させる名シーンが描かれている。
それから、あなたのとんでもない誤解ですけれど、
不滅の生命ならば何をしてもいい、悪逆非道でも構わないということはないのであって、
カッチャーヤナ説は業報を否定しているが、業報の作用から逃れられるものはないのです。
そして、真我の性質には“諸悪”というものはないから。
『変化せず、清浄であり、悪を離れたブラフマンである私に、精神統一していない状態や他の浄化されるべきものがあるのを、
決して、私は見ることがない。』(シャンカラ著『ウパデーシャ・サーハスリー』T,14.35.)
それから、ヒンドゥーにおいては不滅の「真我」と「神」は同一不可分です。
敷いて言えば、海洋大海がブラフマン(神)。そして、コップで汲み取った海水がアートマン(真我)だということになる。
そして、そのブラフマン(梵)との合一(梵我一如)を果たした聖者がゴータマ・ブッダだと見なされているのが、『スッタニパータ』の世界です。
『私(ブッダ)は梵となりたる(もの) であり、無比であり、魔軍をほろぼしすべての敵を屈服させ、おそれることなく喜ぶ。』
(スッタニパータ.561)
- 200 :
- >>198
(「空」ではなく)「幻影マーヤー」を生じさせているのは“神の御意志”だということ。
「空」というのは、現象界の実態である縁起作用のこと。
そして、それが起きている理由については仏教では説かなかったわけだ。
要するに、それは人知を超えた推し量ることのできない法(法則)であるということだ。
知るのことできないものに時間を費やす無駄は辞めて、
ただひたすら実修行に打ち込みなさいというのが仏教の姿勢。
対して、現象界の性質を規定したのは神の御意志だとするのがヒンドゥー...。
ただ、それだけのことです。
- 201 :
- >>199
> そして、真我以外のすべての要素は縁起で生ずるだけの実体のない空だとするのが仏教であり、
「真我以外の」って仏教のどこで言及されてるの?
- 202 :
- >>182
わざわざ探してくれてありがとう。実はその前の〜
↓ここの部分も結構大事な点で、手元にあるテーラーガーター(中村元訳)によれば下のようになる。
>修行僧が托鉢で良家の前に立つ事はなく、
1051 群衆に尊敬されて遍歴すべきではない。(もしそうするならば)心が乱れ、心の安定は得難いであろう。
さまざまな人々から受け容れられるのは苦しみである、と見なして、群衆(と交わること)を喜んではならない。
1052 聖者は良い家庭に近づいてはならぬ。(もしそうするならば)心が乱れ、心の安定は得難いであろう。
がつがつして、味に耽溺する者は、幸せをもたらす目的を見失う。
1053 けだし、かれら(修行者)は、良家の人々からつねに受ける礼拝と供養とは、汚泥のようなものと
知っているからである。細かな(鋭い)矢は抜き難い。凡人は(他人から受ける)尊敬を捨てることは難しい。
現代の日本の僧侶など、「良家の人々からつねに受ける礼拝と供養」こそ有難いものとして受け止め、あるいは
要求すらしているのではないか?www (セブンお前の事だよww)
- 203 :
- >>202
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjcanth/78/4/78_KJ00009351264/_pdf/-char/ja
- 204 :
- はぁ?>>203
こんな長たらしい要領を得ない論文は読みに耐えんわww
で、何が言いたいの?言いたいことだけ教えてくれww
- 205 :
- >>204
>言いたいことだけ
全文ですがなw
- 206 :
- 阿呆か?ww
こんな長たらしい、何が言いたいのか焦点が定まっていない論文を出しておいて
出した本人が「全文ですがなw」ってバカ丸出しだなww
では聞くが、この論文の言いたいこと(主旨)を3行にまとめて書いてくれ。
それが出来ないのなら、まさにこれこそがスレ汚しって奴だww
- 207 :
- 「要約されたものは曲解する」 というのが、
≪宝珠≫≪在家≫≪カラス≫≪隠居≫或いは≪昆布≫或いは≪最高位≫、そして特に≪紐≫w
のスタイルなのに、どうして塩を送るようなことができようかw
- 208 :
- 受験で論文の主旨を3行にまとめる〜なんてやったことないのか?w
佛教大学なんてそんなものかww レベル低すぎだろうww
>>202nなど1051〜1053の6行が、
>修行僧が托鉢で良家の前に立つ事はなく〜になるのだが、
阿呆のセブンには論文の主旨をまとめるのは荷が重すぎて無理かww
いや〜すまんかったなあw 無理な注文をつけてwwww
- 209 :
- >>208
うん。 私には文章まとめる力無いので、
自分で読んで、内容を把握してください。お願いします。
- 210 :
- ミャンマーにおいては「出家」という形式が、出家者と在家者双方の努力と理解によって
実現可能であるということを示唆している。(T僧院の事例を元に〜)
で、ミャンマーではかろうじて出家という形式は可能だが、日本においては不可能だとでも
言いたいのか?では可能なミャンマーにでも移って出家してくれw
- 211 :
- あの論文は、
実現の可能性があることを示唆したい方向でまとめられているが、
示されている実状の分析は、
日本とか東南アジアとか大乗とか上座部とかの別と無関係に、
そもそも、人間の社会的活動の中に於いては成立し得ないのではないか?という問題提起になっている点が面白味。
釈尊在世時においてさえ、その45年の間、
「遊行生活の維持のために」「「修行者が、その生活と安定した行の継続の為に」、
「社会の中で、その存在を許容してもらう爲に」、
「様々な社会からの要求に屈する形で」
サンガの在り様(特に律)が変遷していったことを振り返れば尚更に。
- 212 :
- 保身=我執で、日本の現代僧侶はまさにこのど真ん中にあぐらをかいているw
論文で「実現可能であるということを示唆している。」のならばミャンマーで裸一貫
出家して己の身の回りのモノを全部捨ててから出直すべきだろうよ。
今のまま日本で僧侶をしていたらドツボにはまるだけだww
- 213 :
- >>211
そこに面白さを感じるのは、仏教教団を基準に考えてるから。
パーマンだと、プロテスタンティズム的な資本主義者として仏教を「アンチ社会的」としてたが、(笑)
妄想世界に逃避して、その妄想によって他人に仕事を辞めろと言うような連中にはまぁ、どーでも良い話だろうね。(笑)
(^。^)仏教教団がそのようにあって、キリスト教側から理解出来ないのは、根っこの価値観の違いによるので、幾ら縁起を説いても無駄なことよ。(笑)
- 214 :
- 今日のNHK6時では、ブラジルの銃規制緩和の話題もあった。
年間の犯罪犠牲死者7万人だとさ。
規制緩和によって、景観の発砲ケースも増え、
警官に射殺される人数は年間5000人と。
そういう治安の悪さが嫌なら、外国へ移住すればいいじゃないかwww、
という発言と同じ。 >>212
- 215 :
- >>213
「面白味」と言ったのは、
可能にする方法論が、
・(嫌味な言い方をすればw)マインドコントロール的に、高価値を謳い、サポートの正当化を図る
・おとなしい言い方をすれば、(谷村有美じゃないがw)心の向きを変えて、布施や奉仕に積極的価値を見出そうとする
或いは
・釈尊以来の(おそらく外しようのない)世間出世間というダブルスタンダード、2種類の視座、
(それは、を前から見るか後ろから見るかのようなものかもしれんが・・)を、受容する
ことで可能となるわけで、
それが叶わない場合、(他宗教はそもそも論外としてもw)つまり、
そこに信仰が―「信」が―なければ成り立たない、ってことでね・・。
- 216 :
- 仏陀は「信仰」など勧めなかったぞw
信じるというのは真か偽か理解できないから信じるのであって、
仏陀は「来て見てみよ」の人であり信とは正反対の立場だ。
教師の握りこぶしに隠されたものなどない〜。
仏陀は我執を取り払えと言ったんだ。つまり出家僧たるものが「保身=我執」にどっぷり浸かっていては駄目だと
言ったんだよww ならば行動を起こすよりあるまいw
これを妄想という承狂の頭の構造こそが妄想というんだよ。もうろくジジイがww
- 217 :
- その「来て、見よ」というお釈迦さんの台詞を信じない人間が、
お釈迦さんのもとで比丘になるのかしらね?w
- 218 :
- 俺は非仏教徒だから構わんが、僧侶の看板をあげているセブンが我執=保身に浸っていては駄目だろうよww
ぬるま湯に浸かって僧侶の看板をあげていて恥ずかしくないのか?ww
- 219 :
- 保身に浸れないのが日本仏教だってのがわかってないみたいだねw
- 220 :
- >>215 >可能にする方法論が、
で保身のそろばんを弾いていて寝言を言うなww
保身が保てそうにないのであたふたと「保身を保とうと」計算する嫌らしい姿を仏陀が
見たらなんと言うかね?w 情けないwww
- 221 :
- >>216
「真偽が判らないから信じる」
(^。^)この説明だと、よく判らない話は何でも信じるって話になるんだが、(笑)
本人的には問題無いんだろうな。(笑)
だってバカだから。(笑)
- 222 :
- >>216
ならお前は我執にこだわってんなら
他人の生き方に首突っ込んで幼稚なイチャモン付けてる暇があったら
その時間を自分の私生活に注いでろやw
1秒たりとも我執を怠けるなよ
と言っておく
セブンがいちいちしょーもない難癖つけてくる奴に律儀に相手にするのがいじましく思えるわ
10年以上に渡って……
それこそ菩薩道ということなのかもしれないけど
- 223 :
- >>201
仏道における目的である“ (修行)完成者=如来ホトケ”の境地である涅槃とは、“縁起しない世界”のこと(Uda^na.8,1-3)
その修行完成者が「真人」であり、“その真人は『私が語る』『わがものである』と語ることができる”(SN.T,3-5)>>184。
それが“真我(真実の自己)を実現した者”のことです。
つまり、涅槃を実現した真実の自己こそが縁起しないアートマンだということになる。
これが不生不滅にして永遠の境地である涅槃と涅槃に住するアートマン(真我)だ。
「多くの迷信や間違い含みのバラモン伝統と一緒でいいんだ」という誤解を受けたくないゴータマ・ブッダの真意を読めないのが仏教徒。
それが無記の態度を採った理由だ。
まっ、所詮は、
“ただ言われたこと”のオウム返ししかできない洗脳された仏教信者らには到底、無理なことだ。
あなた方は自分自身のお頭ツムでは、忖度できないから...。
元々、「アートマンは無い」などという無我の理解は
ブッダ御自身が教えたものではなく、後の部派仏教が勝手に展開したアビダンマに拠るものです。
それが伝承されて今日のテーラワーダの教義となっており、経典成立の過程で大乗を含めてその他すべての諸派も同じくこれに追従した。
今日、仏教学の研究よってそのことが明らかとなり、まともな学者ならばこれはほぼ共通の認識となっている。
ここに一つ、読み物(仏教学上の共通認識の基本)を提供しておきます。
- 224 :
- 参考:
『仏教の認識論では知覚が決定的に重視されるが、--中略-- ゴータマ・ブッダは、知覚できるものを端的にいったまでのことで、知覚
できないものは実在しないなどとは一言もいっていない。(p84-86) --中略--
こうしたことを総合的に勘案してみれば明白なように、ゴータマ・ブッダは、五蘊は自己ではないといったが、自己とは何かという質問
には沈黙するのみであった、そして重要なのは、「自己は存在しない」(無我)とは一言も語ったことがない、ということである。
ところが、ゴータマ・ブッダが入滅してからいつのころからか、五蘊のいずれも自己でないならば、そもそも自己なるものは存在しない
のだとする、乱暴なことに、きわめて形而上学的な無我説という主張が現れ、やがて同様に形而上学的な、すべては空であるという主張が
現れるようになった。それも、気分としてではなく、理論としてそうした主張は展開されたのである。
ゴータマ・ブッダの経験論の心髄は、ついに後世の仏教徒たちにはわからなくなってしまったのである。--中略-- 少なくともゴータマ・
ブッダ、最初期の仏教は、そのような見解に立つものではなかった。(p186-187)--中略--
はるか後世の無我説では、自己(アッタン、アートマン、漢訳で「我」)は存在しないとされるが、ゴータマ・ブッダはそういう考えと無
縁であると述べた。
じっさいのところ、ゴータマ・ブッダは、自己の存在の否定どころか、自己を超えて的に扱って語ることも多かった。(p188) 』
(宮元 啓一著『ブッダが考えたこと』春秋社)
- 225 :
- >>208
蛇足だけど、
七の出身校は駒澤大学(禅宗/曹洞宗系)らしいよ...。
- 226 :
- 追記:
>>197
>それから、あなたのとんでもない誤解ですけれど、
>不滅の生命ならば何をしてもいい、悪逆非道でも構わないということはないのであって、
>カッチャーヤナ説は業報を否定しているが、業報の作用から逃れられるものはないのです。
>そして、真我の性質には“諸悪”というものはないから。>>199
キッキリいいますと、
悪逆非道でも構わないという人間は、輪廻転生を否定し、来世を信じない者にこそ起こると見るべきです。
転生と来世を信じる者というのは今生における行為の果報を認める者であるから、
悪逆非道の限りを尽くした罪過は自分がそのまま受けることになることを理解している。
であるから、そこに自制というものが生じて来るということになるのです。
しかし、今生限りの生存だと思っている者は違う。
自制すればその分だけ自分が損することとなり、そして、自分の望みを適えるほど自分が得をすることになる。
周囲の迷惑と苦悩が自分の良心を苦しめると感じない者にとっては、悪逆非道もなんのそのだ...。
これが正しい理解であり、真実ですよ!
そして事実、
ブッダ御自身がそのようにみているということ。
『愚かな者は(悪い事を)しながら「この報いはわれには来ないであろう」と考える。しかし、来世におもむいて、悪い行いをした
人々の行き着くところを知る。』(9-10) 愚かな者は(悪い事を)しながら「この報いはわれには来ないであろう」と考える。しかし、
のちに報いを受けるときに、苦痛が起こる。』(9-11)
『悪い事をしても、その業(カルマ)は、刀剣のように直ぐに斬ることは無い。しかし、来世におもむいてから、悪い行ないをし
た人々の行きつく先を知るのである。のちに、その報いを受けるときに、劇しい苦しみが起る。』(9-18)
(ウダーナヴァルガ)
※『来世を信ぜざる人は悪事を行う』(Dhp.176)
- 227 :
- TVでは、吉本興業問題で松ちゃんが、
不安でいっぱいの若手芸人たちのために「松本動きます」とツイートし、
実際、その夜の内に社長らと緊急対談したという。
はい、この私宝珠も動きま〜す。
全日本仏教協会と各派宗門すべての総本山へ向けて手紙やメールを発信させてもらう。
もちろん、僧侶としてあるまじき輪廻否定(低き見解と馬鹿にしている)を
堂々とブログ発信しているあの例の恐山禅僧のことも通報させてもらう!
この日本の仏教界から唯物論者を含めたすべての生臭坊主たちを一掃して、
日本仏教の再起のキッカケを促す!!
七にも潔く、僧侶資格を返却することを奨める。
ただの自己研究ならばご自由に...。
>>224
誤字訂正:
「自己を超えて的に扱って語ることも多かった。(p188) 」
「自己を肯定的に扱って語ることも多かった。(p188) 」
- 228 :
- 『悪い事をしても、その業(カルマ)は、刀剣のように直ぐに斬ることは無い。しかし、来世におもむいてから、
悪い行ないをした人々の行きつく先を知るのである。のちに、その報いを受けるときに、劇しい苦しみが起る。』
(ウダーナヴァルガ.9,18)
-----すべての生臭僧侶らに告ぐ-----
一般人ならばともかくも袈裟衣を羽織っている正式な僧侶が、
輪廻転生を否定することなど絶対に許されてはならない。
経典の聖句に従え! 信じないのならば最初から僧侶になるな!
すでに持ってしまった資格は速やかに返却すべし。
-----勧告は以上だ.
- 229 :
- 228.迷信バカが言う、ことである。大爆笑である。
輪廻転生があるか否か、は科学の問題である。
それは宗教の問題ではない。
科学をやっているバカである、よ。
大爆笑である。
宮元啓一を読め。
- 230 :
- >>226 私の見解は死後世界は無記(無記は無いという意味ではない。生きている人間には知る事が出来ない領域。
ゆえに、非有非無、空ともいえる。)であり、当然、輪廻転生についても無記となる。
そんなものは(死後世界や輪廻転生〜は)有ってもよく、無くてもよい。どーでも良い事であるw
ただ、仏典に眉唾もので見ていることに、アラハントは死後消えて消滅するが、世の中の凡人は輪廻転生を
繰り返す〜、ゆえに輪廻転生からの脱却を目指し修行でニルバーナ(涅槃)を体現する〜というのがある。
こんなのは、一般的、科学的に考えてもあり得ないだろうよw ある特定の条件下の人間だけは消えて消滅
するが、その他全般は輪廻転生を繰り返す〜なんてそれこそ信仰の問題で信じる信じないは個々人の勝手というやつだろうw
又、輪廻転生を信じている人間は今世を大事に生きて来世に果を残し、輪廻転生を信じていない人間は今世で好き勝手
生きて他者の迷惑をも顧みない〜というのもいかがなものか?
現代の若者なんてゲーム世代はゲームのリセットの感覚で、来世があるのならつまらない今世などさっさと終わらせようと
自暴自棄に暴走し他者を巻き込んで自Rるケースもありうるだろう。一概に輪廻転生を信じる信じないで人の生き方を
評価できるわけがない。
要は今世をどう生きるかは個々人の資質、生き方(己の人生の捉え方)によるので、輪廻転生云々とは無関係だろうよ。
>>222 お前は目が無いのか?ww (>>218) 非仏教徒の一般人なんて我執の塊だろうよ。当然俺も一般人だww 一般人はそれでいいんだよw
だが、僧侶が一般人と同じように(つうか一般人以上に〜ww)保身-我執にまみれていればこれは非難されて当然の事。
だから、出家可能なミャンマーにでも行って裸一貫出直せと言っているんだよww
- 231 :
- 一代も、三世に跨る輪廻を認める立場だったが、
宝珠は一代も批判してたから、
宝珠と一代と、どこが違うんだろうね。
- 232 :
- 保身我執に準じた人こそが、
周囲の迷惑考えすに東南アジアへ渡ってるんだけどね・・。
ま、お釈迦さんが、
妻子両親、配下の臣民を切り捨ててアノーマー河を渡った事蹟を、
より正確に踏襲している意味で、素晴らしい行者ではあるけれど。
- 233 :
- >>230
だから紐に「我執をなくせ」とは言っとらんだろw
日本語通じてる?
むしろ我執に殉じろと言ってる訳だが
お前みたいな言行不一致な自己矛盾してる奴の主張なんて言葉が軽すぎるわwww
- 234 :
- 釈迦や仏弟子は涅槃に到達した者を真人などとは呼んでませんよ。
またアートマンについてあるとかないとか直接は言及していませんが当時の波羅門や沙門が唱えていたアートマンには否定的でした。
https://komyojikyozo.web.fc2.com/dnskv/dn09/dn09c04.htm
この経典のこのページ上段よ
ポッタパーダよ、一部の沙門婆羅門は、このような主張、このような見解を有しています。
『ただ楽のみを有する無病の我が、死後に存在する』と。
ここから読み始めると分かります。
- 235 :
- >>228
外道にそんな“勧告”などする資格があるとでも?w
言論の自由としてはもちろんほとんど何だってあるけど、誰が耳を傾けるんだろうね、という意味で草しか生えないんじゃないかとw
- 236 :
- 仏教と他の宗教との差異の一つは、その柔軟性にあると思うんだよね。
勿論、戒律というものがあって、その大枠は規定されてるけれども、釈迦自身も
細部に関しては変更も可としているしw
要は「苦の滅」という方向性さえ見据えていれば、彼岸に渡る筏の形は種々あってよし と。
だから、仏教はその伝播地域の特性によって様々に変化していった。
土着の信仰や迷信なども取り込んで地域ごとの独自の仏教というものを生み出して言ったわけだ。
その柔軟性があったから仏教は世界宗教となったわけで、ジャイナ教はその厳格さゆえに
広い地域、多くの民族間において広まることが妨げられた。
釈迦は「画一的な正しさ」あるいは「特定の価値観」によって、自分の教えが縛り上げられる
ことを嫌ったのでは?
弟子が釈迦の教えをサンスクリットで統一しようとしたとき、釈迦はそれを是とせず、
あくまでも「現地の言葉」で説くようにとしたのも、各地域、各民族のもつ独自性を重視し、
それに逆らうような方向で進めば、結局は最も肝心な仏教の核心が理解される前に拒絶されてしまう
ことがわかっていたのでしょう。
それ故に「涅槃に至る」というゴールさえ間違わなければ、多少の変遷・・・・・地域特性、
民族特性は許容しましょうや・・・というスタンスだったと思うんだがねえw
・・・・・現代日本仏教が批判されるべき多くの問題を抱えていることは否定しないが、
日本と言う土地で、その国民に受容されるには、やはり日本独自の仏教の形というものが
必要であり、それを丸っと否定して、テラワダの形態を強制するのは、ちと違うのでは?w
(まあ、現在のテラワダも釈迦のころとは違うしねw)
- 237 :
- 伽藍
- 238 :
- 堂
- 239 :
- 自演臭い・・w
また、
月に数回程度の書き込みしかないスレなら、ハマったろうけど。
- 240 :
- >>226
誤字訂正:
×「キッキリいいますと」
〇「ハッキリいいますと」
>>236
その見解については、私もほぼ全面的に同意します。
>>231
それはあなた方が考えることですよ。
端的には、あの方は強烈で盲目的な“原理主義者”だということ。
尚、僧侶としての意識レベルの高さについては、私も心から尊敬を申し上げます。
>>235
外道で結構!!
“結構毛だらけ猫灰だらけ”だ(古いなぁ...)。
それでも、あなた方よりは何倍も実在したブッダの真意(実像)に迫っており、
仏典の記述にも忠実(な理解)だと自負する。。。
そして、受け入れられるか否かではなくて、まずは声を上げ(続ける)ということが何より重要なこと。
最もダメなのは反対意見の声を届けないことであり、更にもっと悪いのは無関心であることです。
ただ放置していての自然発生的な内部浄化というのは殆ど期待できない。
- 241 :
- 実際、
長い年月の間に仏教も多くの諸派に分かれてしまっており、
それぞれに許容範囲内のものからやや首を傾げてしまうようなものまで多岐に渡っている。
しかし、最も大切なことは、
その宗教や思想が“その中身の本質”において三十七菩提分法の意味合いに“どこまで合致できているか”であって、
その形式や発生伝統が「仏教」であるかどうかというのは実際上は、大した問題ではない。
現存する仏教(各諸派)においても、実際には当時のブッダが説いたものとは大きく異なったものとなっていてその変化が激しい。
外教の代表としてキリスト教(現教会の教え)を上げるとしても、
これもその事情としては仏教同様に当時のイエスの教えからは大きくかけ離れている。
なので、キリスト教(教会)の実態やその教えを見てイエスを非難するのは的外れです。
そして因みに、
ヒンドゥーのレベルの高さについて纏めるとこうなる。
1.ヒンドゥー教内における諸派間の論争という論争は殆どない。
2.仏教以前から今日に至るまで続くその思想の根幹にはまったくブレがなく、一貫して統一している。
3.物質を創造できるレベルの覚者が今日でも途絶えたことがない。
4.「ヒンドゥーだけが唯一の真理なので、他はすべて間違い」などとする意識レベルの低いアホ聖者は一人もいない。
- 242 :
- >>240
まあ自分が正しいという自負だけは持つのは自由だよ
植松聖だって京アニ放火テロ犯だってそう思ってたんでしょ
問題は客観的にそれが同意を得られるかどうか
客観的に正しければ、最初は小さな狼煙火でもそのうち山火事のように燃え広がるだろうし(例:N国党の立花孝志議員)
単なる主観に過ぎないのだったら、無視され続けて終わるでしょう(例:幸福実現党の大川隆法)
- 243 :
- >>234
>釈迦や仏弟子は涅槃に到達した者を真人などとは呼んでませんよ。
ブッダ御自身が「真人」と呼んで構わないといっているのだから、あなたがこれに異を挟む何ものもないでしょうが!
「真人」とは文字通り“真実の人”であり、“真実の自己”を実現して、自分の「真我」へと到達した者のことです。
それは“修行完成者”のことだというのだから、つまりは“涅槃に到達した者”、すなわち「如来」と同義だということになる。
>当時の波羅門や沙門が唱えていたアートマンには否定的でした。
そのことはこの私が事の最初から一貫して、ズ〜とこのスレで述べてきたことです。
当時のバラモン達は腐敗堕落しており、すでに伝統ヴェーダの心髄を正しく理解する者は一人もいませんでした。
彼らの主張するアートマン見解は間違いだらけであって、
当然、アートマンを実現した者、梵我一如の境地の達成者などは何処にもいませんでした。
そのような時代において、ゴータマ・ブッダが当時における唯一の梵我一如の実現者でした。
ブッダは、彼らの間違ったアートマン観(そして、彼らの境地はまだアートマンのものではなかった)を否定し(それが『梵網経』の世界)、
そして、ブッダ独自のアートマンへのアプローチを示したのです。
それが後に「仏教」と呼ばれるものとなったのです(本来は、『スッタニパータ』の通りで“バラモンの正しい姿を説くもの”だった。
>>192.193.196.199.224
どう、これらについてあなたは認めますか?
もし認めないならば、その理由と明確な根拠を仏典を引用しながらお願いします。
- 244 :
- 選挙で
N国党(立花孝志)に一票を入れてもいいけど、
幸福実現党(大川隆法)に入れる気にはならないのと同様に、
一連の仏教議論スレにおいて
大乗仏教僧(一代ら)には一票を入れてもいいけど、
神智学外道(宝珠ら)には入れる気にはなれませんね
悪いけど、それが正直な、“選挙民”側からの感想
- 245 :
- >>244
ホー.それはどうも。
その選挙民とは、<<仏教の伝統信奉者>>のことでしょう?
そうではなくてもっと広く特定の宗教を信仰していない一般人全体に、
その議論の“内容だけ”を問うならばもっと事情は異なると思うが...。
どうしても、仏教は日本でも永く信仰され続けている安心できるもので、
神智学というと何やらよく分からない胡散臭いオカルトの世界...。
というレッテルや印象というものがあるので、
そうならないような---公平な手段---があるのならば、
たぶん“負けることはない”と思うね!
- 246 :
- >>230紐
あなたが死後の世界を無いものとして否定するのは自由であるし、
また、普通の人間には死後の世界の有無については確認ができないとする見解についても、
一般的には最も広く支持されている基本的な前提ではある。
しかし、特別な修行を積んだ聖者(行者)などではなくても臨死体験と心霊現象の確認によって、
死後の意識存在があることについてはほぼ疑いようのないものとして知ることができる。
この方面についても科学者が古くから携わっており、すでに否定できない膨大なデータが蓄積されている。
仏典の言葉では、阿羅漢は死後に消滅するなどとは説いていません。
まったくそうではなくて、阿羅漢(修行完成者の意)の死後というのは
世間一般の認知レベルで理解できる領域を遥かに超えたものだということをいっているのです。
そして、修行未完成と一般人の死後については来世の転生という形でこれを明確に説き、
人によっては餓鬼存在(浮かばれない死霊/幽霊状態)としての苦しい期間を過ごすことが説かれているわけです。
心霊現象のみならず、転生現象についても科学者によってすでに何十年も研究が続けられてきており、
研究者によってそれは疑いようのない完全なる事実として認められています。
まだ、単に世間一般には知られていないだけのことです。
それから、来世を信じる人の殆どというのは業報理論をセットで捉えています。
つまり、生前の行為に等しい対価としての来世での果報(報い)があるとして見ています。
従って、利己的な考え方と行動によって他者に苦悩を与えた者はその分の苦しみをそのまま自分が受けることになると見なすので、
多くの割合でもって意図的に悪を為そうという意識は少なくなるのです。
>お前は目が無いのか?ww --中略-- 出家可能なミャンマーにでも行って裸一貫出直せと言っているんだよww
いってる意味は理解できるもので、基本的には同調します。
- 247 :
- >>245
いや、違うよ
少なくとも自分は
あなたの言ってるのは
自民党信者や公明党が、自民を支持する、他の野党は雑魚と言って相手にしないケース
に対する反論にしかなっていない
そうじゃなくて、同じように既成勢力に対するアンチテーゼあっても、
幸福実現党(他の国民に相手にされず)と
N国党(第三者に支持されて議席を獲得)との違い
それと同じことだという事
- 248 :
- あと、例えにおいて
ここの議論に関しては大乗仏教僧に票を入れるとは言ったけど
もちろん彼らはN国党ポジションではなく自民党ポジションですね
主旨としては
どのみち幸福実現党は相手にされないという話
アンチでいくならN国党のような第三者を納得させる合理がなければならないという話
ただアンチなだけで、奴等ではなく自分が正しいと一方的に主張するだけで
第三者を納得させる主観的ではない客観的理が一つもないまま10年を経過
それじゃご勝手にどうぞと
- 249 :
- >>247
仏教徒たちから、
“無我の間違い”について支持されないのは止む得ないこと
(二千年続いてきた伝統にてその洗脳が激しいから)。そんなことは最初から百も承知ですから。
自分でそのことに気付いた者や、認めた者ならすでに自称仏教徒の看板はとっくに自ら降ろすだろうからね。
未だ仏教徒の看板を掲げてるということは、その人は(無我の間違いを)認めないということだ。
尚、本人たちがそのように信じて幸せを感じている間は好きにすればいい...。
自らその間違いに気付けない内は到底、無理な話なのだから。
しかし、輪廻転生否定者と唯物論者が僧侶の衣を纏うことだけは断じて認められない。
“生臭坊主の排除”、これについては辞めることなく運動していく所存。
- 250 :
- >>243
漢字じゃなく、Skt、p、或いはTib等の「原語」的言葉で言及しろよw
パーリやサンスクリットでも、「真実の人」という意味なのかい? >真人
- 251 :
- >>249
>本人たちがそのように信じて幸せを感じている間は好きにすればいい...。
>自らその間違いに気付けない内は到底、無理な話なのだから。
毎度毎度の華麗な自己紹介、お見事です。 (-人-)
- 252 :
- >各宗凸
いずれ、直接会うことができることを願ってるよw
メール等でなく、直接乗り込んでくるようなことがあれば、
顔を合わせることもあるかもしれないwww >>宝珠
頑張ってくれたまえ。
- 253 :
- >>252
願わくば、YouTubeにアップしてねw
- 254 :
- 互いに仮面かぶって顔出し無しでもいいので
- 255 :
- セブンはもちろんウルトラセブンのお面だろうけどw
- 256 :
- >>249
10年間で何かその成果はあったの?
それこそ立花孝志を見習ってYouTubeでドブ板活動を地道に続けていればいいのに
こんなところでセブン相手に恫喝を匂わせていないで
第三者の方を向いた活動をやればいいのに
第三者向けの説得可能な有効で客観的な理を持っているんなら
第三者からも相手にされなかったとあるテロリストは己の仮想敵である京アニを爆燃させる凶行に出たわけだけど(=選挙に出てシカトされて逆恨みしたオウム真理教)
タイマン勝負で己か相手かどちらが生き残るかという果たし合いでしか物事を捉えられないのかね
第三者の目と存在を眼中に入れていない段階で第三者に対して非常に失礼だし、だからこそ第三者から相手にされない
- 257 :
- >>246
無記は無いではないと釘を押したはずだが?w
また、臨死体験は科学的データの蓄積もありそれは認められていもいるだろうが
それはあくまで死に臨んだ体験であり、死んだ後の体験ではない。
また、心霊現象などは科学的データの蓄積すらなく仮に何らかの話があるにせよ
エピソード、逸話の類でしかない。臨死体験のエピソードは何故かインドが大半
を占め、その他の地域はごく僅かしかないのも、当然だろうよ。
そんな何の役にも立たないエピソードを元にあれこれ議論しても無駄という事だ。
- 258 :
- ×釘を押した
〇釘を刺した
- 259 :
- ×臨死体験のエピソードは何故かインドが
〇輪廻転生のエピソードは何故かインドが
世界的にインドが最も輪廻転生を信じている国〜
- 260 :
- https://i.imgur.com/T7XsVLR.jpg
- 261 :
- >>260
選挙の話はあくまでも例えとして出しただけで、
政治そのものを話題にされても困る
出てけw
- 262 :
- >>256
この十年間の2-2ch上での投稿の目的は、
仏教に関する具体的な細部に渡った内容で議論対論するためのもので、
仏教信奉者側からの反応と反論内容などを知るためのものです。
そして、その目的はほぼ達成できたと思います。
非常に少ないですが、しかし、ごく稀にこの私の投稿内容をしっかりと理解して頂けている方もいるということはわかっています。
その確認は得られているのでこの活動は決して無駄ではなかったと思っています。
YouTubeでの顔出し講義Upなる活動はその気がありません。
やるならば、自己サイト上での(一方的な)情報発信です。
日常でのリアル議論というのは、
ネットに登場する以前は新興宗教団体の会合に招かれてそこで意見を求められて話をしたり、
仏教系の信徒グループや教団の会館で大乗非仏説を説明して相手方と議論したりということは何度もしてきました。
- 263 :
- それから新しい閲覧者もいるだろうから繰り返しいっておきます。
七などは、この私を非仏教徒のオカルト「神智学徒」として
“如何わしいジャンルの人間”だとアピールして不信感を煽ろうとする。
つまり、まともに議論の中身で勝負してしまうと敗北があからさまなのでそういう手段に出るのです。
ハッキリいっておきますが、この私からのブッダについて、
そして、仏教に関する主張内容というのはその99パーセント以上が“近代仏教学上の研究成果”を元にしたものです。
“第三者(世間一般)に対するアピール”という話も出ましたけれど、
それらは学会に出席しなければならないような高等難解なものではなくて、
殆どがごく普通の市販書であり、誰でも書店から購入できるものばかりです。
あとの一部は図書館で自分で読み調べた内容とネット上の閲覧可能な論文やサイト情報です。
すべて専門の仏教学者や印度哲学の研究者らによるものです。
要するに元々、世間一般に向けて発信されていた内容が元となっています。
なので神智学系の何処かで仏教に関して受講したなどというものではない。
そのような活動はどこにも一つもありません
(神智学活動を勝手にそのように誤解されては困るのでいっておきます)。
ここでの議論でよくよくわかったことの成果は、
私がごく当たり前のものとして学んできた仏教理解(仏教学上の内容)は、
平均的な仏教信者というものは殆ど分かってないということです。
これには驚かされました...。
- 264 :
- でも釈迦は菩提樹下で正覚を得て真人になったという表現をするのであれば、その真人は釈迦が自称した仏陀(目覚めたもの)や如来(真理に到達したもの)と同意語とするなら問題ないですが、
真我に目覚めたものとか梵我一如を達成したものとする宝珠さんの仏典解釈は個人的には行き過ぎと思いますよ。
あと、釈迦当時の婆羅門沙門が主張する我について否定的であったばかりではなく、釈迦が度々言及する古のバラモンについても古のバラモンは真我に目覚めたなどという説法はおそらくしてないですよ。
まあ解釈は様々あっても良いのかもしれませんが、私の解釈こそ正しいというのなら、それこそ釈迦の説法から飛躍することなく合理的に解釈していからければならないですな。
- 265 :
- スッタニパータ等古層は、(苦行者文学という評がされることもあるくらい)
『古い表現』が散見されるそうな。
それは、「言い回し」「単語(術語)」に若干のマイナーチェンジが施されても、
『釈尊以前の文言が、ほぼそのまま輸入されている』ということでもある。
これは、御大中村先生も各所で言及していること。 そしておそらくその通りだろう。
(たとえば、「バラモン(梵行者)」という呼称、称号も。)
その時の考え方として、以下のようなバリエーションが生じてくる。
イ、同じ文言、同じ単語(術語)が見られる場合、
それは、仏典以前の意味、概念が、お釈迦さんによって
踏襲されている(→同じ意味合いで用いられている)、と見るもの
ロ、同じ文言、同じ単語(術語)が見られる場合、
お釈迦さんの説かれた全体像の中に落とし込んだとき整合性が崩れるなら、
それは、必ずしも従前の意味合いが踏襲されているわけではない、と見るもの
そして今一つは
ハ、たとえ、古い文学的表現が採用されていたとしても、
無批判に引用される筈はないので、全ての文言・単語は、
必ず「仏教という枠組みから読み解くべき」とするもの
- 266 :
- >>263
>平均的な仏教信者というものは
これって、
「僧職にある者」のことか、それとも「檀家・信者等一般人」のことか、
或いは双方含めてかしらん? (´・ω・`)
まあ、どの括りで行くにしろ、 >殆ど分かっていない のは、
奈良時代以降の仏教の受容と拡がり、所謂鎌倉仏教と言われる転換期、
幕府へ取り込まれていった江戸期、
そして、明治に入っての国家神道擁立による締め出されと資産没収の上に形成されていった
高度成長期以降の近代檀家体制、によるわけで、
ここにびっくりするのは、日本仏教の歴史を知らないという告白でしかない。
- 267 :
- >>263
>“如何わしいジャンルの人間”だとアピールして不信感を煽ろうとする
それは、
大きな誤解というか被害妄想というかw
【「本筋から外れて」「神智学のスキームで仏典を読んでいる」】
という ≪【『事実』】≫ を、
「彼は、神智学の文脈で仏典を読んでいる」 と評しただけでしかない
のに、そのように感じるなら、
それは、そのように感じてしまう素因が、宝珠自身の中にあるということ。
因・縁のない所に結果は生じないので。
- 268 :
- 再再再・・・度、言葉にしておくなら、
どれだけ探しても(瞑想で深層に潜ったとしても)見つからないから、
「我(アートマン)」はある、と言わなかった。
これに尽きるはずなんだがね・・。
仮に、1000億歩譲って、何かしらあったとしても、
それが、様々な五蘊仮和合自己の行動を制御し抑制し、善なる方向へ誘導するものなれば、
それは、既に「所縁のもの」でしかない。(これも、散々指摘した)
もし、そうした世俗の事柄から超越した何ものかなれば、
どうして、世俗のアレコレに作用し得るだろうか?(これも、散々指摘した)
もし、そうした世俗のアレコレに作用して、様々な事蹟、指導、教導をし得るなら、
それは、所縁の存在でしかない。(これも、散々指摘したことであり、ウダーナ8に反してしまう)
宝珠の言う「真我」は、実は梵我一如のブラフマンアートマンですらない。
個個人それぞれの「自己」なれば、それは全体ではない。梵になりきれていない。
また、もし、一如なれば、そこには、「法を説く存在として、俗世に五蘊を再び表す」こともありえない。
彼は、ヒンドゥとの連関をよく言うけれども、
そもそも矛盾が生じていることになぜ気付けないんだろうか?
- 269 :
- i今やってるNHKSP
ブラックホールが、マドラーの如く宇宙を掻きまわして、
生命に必要な元素が、全体にまんべんなく行き渡ったのかも、
だと。
古事記の撹拌、インドの宇宙観の破壊と創造(壊・成・持・壊・・・・)
と重なったw
印度人はやっぱスゲーかもw
そうして感じるのは、
宝珠の(=神智学の)世界観、教学的思想的構造は、
やっぱり、インド的なもの(・・・ヒンドゥ的なもの)でなく、
実に、西洋的
なんだよね・・・。
- 270 :
- あ、あげ
- 271 :
- つか、それも遥か昔に指摘済みだったかもw
>神智学は西洋的(≒人間頂点の階級的世界観)と。
- 272 :
- >>269
最新の宇宙科学だと、宇宙は膨張する一方で二度と収縮する理論的材料がないらしい
つまり無限に薄く引き延ばされて原子核すら「蒸発」して終わり
なので、死んだこの宇宙自体は再生することは期待薄であり、ヒンドゥの創造維持破壊のサイクルのようにはいかない
(宝珠神智学のとは全く異なる)仏教宇宙論のような、劫的な、禅定世界に一旦逃れて、新しい別の宇宙が生じるとともにそこに降下するしか、宇宙の歴史は紡がれないことになる
単発単発の刹那滅を、同一の宇宙が連続していると捉えるのは科学的にもナンセンスというわけ
我も同様
- 273 :
- 新しい宇宙の初期値などにはダークマター的なるものが関係していて、
刹那滅する我の問題においてはまさしく仏教で業と特定されているものに相当するのかもしれない
我自体は宇宙同様、決して存続せず、一回きり、単発の現象
ここがわかっている人ならば決して、業相続と、我の存続を混同したりしない
混同するのは邪見
邪見は外道
- 274 :
- 何度も言うが、公の場で「邪見」だの「外道」と言うのは、言っている本人がその「邪見」で「外道」
に陥っているというのを自覚するべきだ。
また、仮説はどう転んでも仮説にすぎないw
宗教の仮説も、科学の仮説も同じこと。
死後世界(輪廻転生)や宇宙の全体像などは形而上で人間にとり謎〜と言うのが正解で
人間には永遠に解明できないだろうよw
これを仮説を立ててこれこそ真実〜とやるから「あんた馬鹿ですね〜」と言われるのだw
分からんものが有っても良いだろうよ。何から何まで全部分からねば気が済まない〜という
のならば己のその精神構造が病んでいるという事だww
- 275 :
- >>274
お前は誰と戦ってるんだ?w
- 276 :
- 三千大千世界といって仏の数だけ宇宙(仏国土)があります
多元宇宙です
https://i.imgur.com/H29bnYF.jpg
- 277 :
- 伝統日本仏教をぶっこわーす!
でも神智学実現党も唯物コミュニストもお呼びでないよw
- 278 :
- 色即是空、つまり物質は空であると言っているから仏教は唯物論ではないよ。
- 279 :
- NHKをぶっ壊す。大爆笑である。
- 280 :
- ボットン便所w
- 281 :
- 278.色即是空、か。
空は色である、から唯物論である、よ。空も物質である、よ。
バカには理解できない。大爆笑である。
- 282 :
- >>281
朝鮮人は日本から出ていけー!
(^。^)てか、さっさと北に帰属しろー!
- 283 :
- 282。バカが言う、ことである。大爆笑である。
- 284 :
- https://shinto-bukkyo.net/bukkyo/%E4%BB%8F%E6%95%99%E3%81%AE%E7%9F%A5%E8%AD%98%E3%83%BB%E4%BD%9C%E6%B3%95/%E8%89%B2%E5%8D%B3%E6%98%AF%E7%A9%BA-%E7%A9%BA%E5%8D%B3%E6%98%AF%E8%89%B2/
お釈迦様は「空」の概念を分かりやすく、琵琶で例えてくださっています。
琵琶を想像してみてください。上の写真のようなギターみたいなものです。
この琵琶という楽器はこの世に存在するモノ「色」です。
琵琶は私たちの手で触ることができ、弦をはじけば美しい音色を私たちの耳に届けてくれるものです。しかしその琵琶は実体がない「空」だというのです。
これは琵琶という楽器は、弦があって、その弦が張られた木があって、バチがあって…など様々な構成要素があって、それらが組み合わさった結果琵琶というモノができています。
琵琶という概念は、琵琶を構成する部分部分に分解してみても、「琵琶」という唯一無二の存在(実体)は、分解した後の部品にはありません。
残るのは、弦と本体になる木とその他もろもろも構成要素です。
琵琶という名前のついた楽器は、分解したらなくなってしまう実態のない「空」だというのです。
琵琶が空であるというイメージは出来ましたでしょうか?
この話は琵琶に限らず、あらゆる「色(モノや現象)」にも当てはめることができます。
お釈迦様の時代にはこの色即是空は上記のような概念で理解していましたが、科学が進歩した今「色即是空」は正しいと言えるようになります。
色即是空は科学的には|量子力学と素粒子物理学
私は素粒子物理学の専門ではないので、あまり突っ込んで解説ができないのですが、結論「色即是空」は素粒子物理学の考えから正しいと言えるのです。
- 285 :
- >>284
色即是空は仏陀の説(仏説)じゃなくて龍樹説じゃないの?
名即空までは原始仏教からも異論は出ないと思うけど
- 286 :
- >>285
合ってるか合ってないかに焦点を絞った方が良くない?
琵琶の喩えは「ミリンダ王の問い」で言うところの車の例えと共通だし 龍樹の空論も縁起の説明から出発してるので有れば外れてないと思うけど?
龍樹だろうがキリストだろうが 示唆する所ががブッダと同じ内容なら少なくともその部分はブッダの言葉として捉えたらどうかな?
- 287 :
- 284.琵琶をいくら分解しても、それらは全部が、色である。
空となる、ことはない。
バカには理解できない。大爆笑である。
- 288 :
- >>287
例え話も理解出来ない馬鹿発見 笑
一つ一つの部品も更に細かく終いには分解して行けば目に見えない無色の粒子の状態になるだろ?
その状態が空で物質の定義には当てはまらない
しかしその無色の粒子を寄せ集めて構成された物質を部品として琵琶を構成すれば元の琵琶だ
空即是色っていうのはそういう意味で お前が言うような空は物質だっていう意味じゃ無いんだよ
少しは解ったか?
- 289 :
- 288.粒子は物質でない、というバカ発見である。
大爆笑である。
- 290 :
- 288.その状態が空、か。
空とは、状態、か。
大爆笑である。
- 291 :
- >>290
だから、朝鮮人には概念に関する議論なんか無理だって。(笑)
何時までも無駄な努力してないで、半島に帰ってウンコ酒でも飲んでろよ。(笑)
(^。^)君には無理なの、だってバカだから。(笑)
- 292 :
- 291.狂ったから、承狂、か。
大爆笑である。
キチガイが言う、ことである。
大爆笑である。
- 293 :
- >>292
(^。^)ほうほう、つまり承伏とは伏せることかね。(笑)
- 294 :
- >>289
馬鹿はお前 笑
素粒子は物質を構成する要素で有って単体で物質とはならないんだよ
ニュートリノみたいに物質を通り抜ける素粒子だって有るのにあんまり知ったかすんなよ
お前だけ話に付いて行けて無いんだから黙ってROMってろよ
- 295 :
- >>290
物質を構成してる状態と単体で存在してる状態
少なくとも空には二通り有るのも解らん池沼は口を閉じとけよ
せっかく高度な議論が読めて面白いのに お前のつまらん茶々で台無しだわ
お前は夏休みの宿題でもやっとけ
- 296 :
- >物質を構成してる状態と単体で存在してる状態
それは空ではなく有だww
阿呆のお前よりボッタンの方が利口だろうよw
- 297 :
- >>296
有というのは五感で確認出来る存在だよ どアホ
此処のコテには馬鹿しか居ないのか?
- 298 :
- 輪廻転生について小記事
↓↓
https://shohaku.hatenablog.jp/
- 299 :
- 297.ここのコテにはバカしかいない、か。大爆笑である。
有というのは五感で確認できる存在、か。大爆笑である。
正解を出さないで良い、から師家としては楽である、よ。
大爆笑である。
- 300 :
- >>299
「ここのコテはバカしかいない」って、自分もバカだって認めてやんの。(笑)
(^。^)さすが「合コンに紛れ込んだ不細工」師だな。(笑)
- 301 :
- >>299
測定する機械の無い時代に有無を断定出来るのは五感を通じて認識を共有出来る事物のみだと解らんか?笑
師家って中国人かお前?
- 302 :
- 300.狂ったバカが言う、ことである。
大爆笑である。
- 303 :
- >>302
鏡でも見てるのか?笑
- 304 :
- 301.五感バカが言う、ことである。
大爆笑である。
- 305 :
- >>304
お前バカと大爆笑しか言えない池沼だもんな?
- 306 :
- 305.悟れないバカを指導する師家の特権である、よ。
バカには理解できない。大爆笑である。
早く悟れ。
大爆笑である。
- 307 :
- >>306
会話出来ないなら下がって良いよ
お前の指導なんて誰も求めて無いから死ぬまでバカと大爆笑だけ言ってろよ
二仏中間の世に正覚者なんて出やしないんだから も少し気の利いた事を言えよハゲ
- 308 :
- 「ポッタン 韓国語」でググると意味が出ます。
「合コンに紛れ込んだ不細工」って意味で朝鮮人が使うそうです。(笑)
(^。^)不細工朝鮮人マスター、という意味のコテハン、それが彼です。(笑)
- 309 :
- む、「不細工朝鮮人マスター」だと朝鮮人のブスセンを極めたってなるか。(笑)
訂正するわ。(笑)
韓国語の爆弾、つまり合コンの不細工道を極めた人なんだから、「極めつけの不細工朝鮮人」だな。(笑)
(^。^)失敬失敬。どうでもいい奴のことだからテキトウに考えてたわ。(笑)
- 310 :
- この不逞朝鮮人のように、禅宗系統の異常行動は昔から、野狐禅とか魔禅なんて言葉が伝わって注意換気されてますが、
寺和田でも、やはりそうした魔境に落ちやすいような噂ですな。
これら上座由来とされている禅の系統とは別に、
チベット密教という系統も、あの連続テロ団体の残党が紛れ込んでるから要注意。
興味深い点として、これら禅系統とチベット密教系統は、西洋では仏教のイメージそのものとなっている点が挙げられる。
即ち、西洋的な価値観の人はこうした系統を仏教として受け入れ易い訳だ。
ここのスレ主である西洋オカルト趣味の先生もこの系統であり、恐らくzen みたいな瞑想をして悦に入り、繰り返しカキコしているようなチベット密教的な「輪廻転生」を妄想し、経論や同系統の人向けの書籍等を都合良くピックアップしてる訳だ。
んで、都合の悪い話は、「これは仏教では無い!」と宣うと。(笑)
「俺は違うぞ」というであろう奴も居ますが、根っこの西洋的な価値観という点は同じで、この二系統とは別の拠り所に囚われているだけなんで、大差はないんだが、まぁ、どーでも良い話ですな。(笑)
で、世界的には西洋の映画とかの影響もあって、彼らの方が主流な訳ですよ。(笑)
また、伝統的宗派の側でも皆が学校教育を受けてるから、やはり西洋的な価値観の人が多数になってる訳で、
更に社会から「ハラスメントはダメ」的な西洋的な常識に基づく圧力を暗に受けてるわな。
だからまぁ、俺らが生きてる間くらいは大丈夫だろうが、世代交代が進むほど、宝珠サイドが正しいって事になるだろうよ。(笑)
要は大衆化であり、嘗て大陸で陽明学が辿った道を日本仏教も行く訳だ。
計らずも、誰かさんの言ったように「仏教とはアンチ社会的な宗教」と言われるような社会になる訳だ。(笑)
因みに、このキリスト病は程度の差こそあれ皆が罹患してるから、七氏以下全員に言ってる話だからね。(笑)
m9(^。^)他人事と笑ってるお前!お前もだぞ。(笑)
- 311 :
- なるほどね
ベストアンサーに選ばれた回答
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11145294551
jiw********さん
2015/5/821:38:54
韓国人です。
@爆弾
Aミーティングで、気に入らない相手
Bのだめカンタービレの「奥山 真澄」のヘアスタイル
C爆弾酒(???)=ビール+焼酎(ソジュ)
四十代以下の韓国人は漢字の読み書き出来ないから翻訳ソフトか爺で曹渓宗の鼠か?
根拠も言わずに相手を不当に見下す韓国人の特徴丸出しだもんな
とことん礼節を知らん民族だ
さすが日本が併合する迄 道端に穴掘って糞してただけの事は有るわ
- 312 :
- 310.狂ったバカが言う、ことである。
大爆笑である。
- 313 :
- >>311
本当の所は判らんけどね。(笑)
まぁ、朝鮮に何かしら縁のあるのは確かだし、マウンティングしか考えられない憐れな老人なのも明らかだろ。(笑)
(^。^)脳機能障害者か痴呆、何れかの老人なんだから、それなりに扱ってあげましょ。(笑)
- 314 :
- 313.悟れないバカが言う、ことである。
大爆笑である。
- 315 :
- >>313
マウンティングした処で知識が無いから相手の言葉にバカと大爆笑を付けるしか能が無いっていうね 笑
返しが怖くて相手が何か言わないとレス出来ないみたいだから ほっとけば良いよ
しつこい上にセンスが無くてつまんないし(苦笑)
- 316 :
- >>314
(^。^)はいはい、お爺さんは偉いですねー。トイレも一人で行けますもんねー?(笑)
- 317 :
- 315.悟れないバカを相手にしても面白くない、よ。
大爆笑である。
早く悟れ。
大爆笑である。
- 318 :
- ※餌を与えないでください
レス乞食とは、電子掲示板などで多数の人間の反応が返ることを狙って文章を書き込むこと。または、その行為をする者。ニコニコ動画やニコニコ大百科でも多い。
たとえば、2ちゃんねるのニュース速報板やニュース速報+板、ニコニコ動画の政治カテゴリでは、一つの書き込みが多くの人に注目される。そのため、支離滅裂なことや特定の人に不快感を与える書き込みには多くのレスがつく。
- 319 :
- 悟れなくても威張れる、と思っているバカは、放っておくのが良い。
大爆笑である。
そんな時代は終わった、よ。昔の時代はよかった、かや。
大爆笑である。
- 320 :
- >>315
お前さんはあれだな。(笑)
ジジイ二人のいがみ合いに執心して他のネタを書けないような因業がある訳か。(笑)
(^。^)まぁ、めげずに修行に勤めなされ。(笑)
- 321 :
- 320.悟れば坐禅=バカ坐り、はしない。修行はしない。
バカには理解できない。大爆笑である。
- 322 :
- >>321
はいはい、お爺ちゃんの話じゃありませんからねー。(笑)
ちゃんと数字をみましょーねー。(笑)
- 323 :
- な?
完全にイカれたジジイだろ?(笑)
- 324 :
- 朝鮮人と誤解したバカ承狂である。
それを訂正できないバカ承狂である。
それがバカである、ことの証拠である。
大爆笑である。
- 325 :
- >>320
ちょっと何言ってるかわかんない 笑
お宅らの確執なんぞ興味ないし ポットンが茶々入れる前の高度な議論の応酬をみたいだけで 俺が何かを書けるかどうかなんてどうでもいい事だよ
- 326 :
- >>286
テーラワーダ側からは色即是空までは言い過ぎじゃないかという意見もあったような
魚川祐司さんの本だったか
実際問題、色即是空まで視野に入れると、現代の自然科学的常識からすると信仰にしかならないと思うけど、
名即是空の範疇にとどまって色(物質)の問題にタッチしない方が、精神衛生を扱っているものとして、何ら現代社会と価値観的に矛盾せず、現代人にはフィットすると思う。
前者は信仰の問題だから、仏教徒かどうかというような話にもなる。
後者は信仰とは無関係だから(アホの紐のような一つ覚えの相対化は意味をなさず)、自然科学的な一般性のあるノウハウの体系として扱える。
まあ、承狂氏の言うように、これは現代的な西洋思考の影響下にあるせいかもしれないが、
保守的なテーラワーダの方が、却って現代の物質科学の進んだ西洋的な価値観にマッチしているという皮肉。
- 327 :
- >>323
どうせ返しても大した事書けないんだから 調子に乗せないでスルーしないと論客同士の面白いバトルが見れなくなるから…
- 328 :
- >>326
物理学的には色は空を内包するから色即是空も成り立つみたいだよ
物質とエネルギーの関係性として見れば良いんじゃない?
- 329 :
- >>326
「保守的なテーラワーダ」
果たしてそうだろうか?
一度絶えて、キリスト教文化圏になった社会の人が、タイから坊さん呼んで学んだだけで、本当に
「保守的な」
仏教徒になれるものだろうか?
てか、「保守的な」仏教徒が「人生には意味がない」だなんて考えるものかね?(笑)
(^。^)キリスト教による文化や価値観の破壊って、そんな甘いもんじゃあありませんぜ。(笑)
- 330 :
- 328.バカが言う、ことである。
大爆笑である。
物理学の教授になれ。
大爆笑である。
- 331 :
- 329.悟れないバカ承狂が言う、ことである。
大爆笑である。
悟って仏教徒になってから言え。
大爆笑である。
- 332 :
- 職業としての宗教家の道を歩むのならば、何はともあれ涅槃(ニルバーナ)の体現を
志向するべきだろうなあ。体現して、初めてそこから職業宗教家の道が始まる。
だが、現在においては何らその「志向」の意志すらない阿呆似非坊主どもが我は仏教徒なり〜
と我執(保身、いかに生き残れるか?・・)のど真ん中にあぐらをかいてのさばっている。
全く情けないww 一から出直しで、さっさとミャンマーにでも行って出家しろw
- 333 :
- 悟って仏教徒になれ? 笑
悟りきったら信仰は要らないのに 頓馬は何処までも頓馬だわ
筏の喩えも知らない素人が僧侶を名乗ってどうするんだか(爆)
- 334 :
- 333.教授になれないバカが言う、ことである。
大爆笑である。
332.涅槃バカが言う、ことである。
大爆笑である。
- 335 :
- 比丘たちよ、筏の譬えの教えをあなたたちに説こう。
筏は、渡るためにあるのであって、取って置くためにあるのではない、ということを、これを聞いてよく考えなさい。
それでは話そう。
たとえば、比丘たちよ、長い道のりを旅してきた人が大河を見たとしよう。
こちらは危険で恐ろしく、向こう岸は安全で恐怖はない。
そして彼には、こちらから向こうへ渡る船も橋もないとしよう。
彼はこう考える。なるほど、これは大河である。
こちらは危険で恐ろしく、向こう岸は安全で恐怖はない。そして、こちらから向こうへ渡る船も橋もない。
さあ、私は草、木片、枝、葉を集めて筏を結び、その筏に乗って手と足を使って努力して安全に向こう岸へ渡ろう、と。
そうして、比丘たちよ、この人は草、木片、枝、葉を集めて筏を結び、その筏に乗って手と足を使って努力して安全に向こう岸へ渡る。
向こう岸に渡った彼は、こう考えるだろう。
この筏は、大変わたしの役に立った。
わたしはこの筏に乗って手と足を使って努力して安全に向こう岸に渡った。
さあ、わたしはこの筏を頭に乗せ、あるいは肩に担いで行きたいところに出発しよう、と。
比丘たちよ、あなたたちはそれをどう思うか。
はたして、このようにする人は、その筏について為すべきことを為す人なのだろうか。
尊い方よ、そうではありません。
比丘たちよ、それではどのようにすれば、その人はその筏について為すべきことを為す人となるのであろうか。
ここで、比丘たちよ、向こう岸に渡った彼がこう考えるとしよう。
この筏は、大変わたしの役に立った。わたしはこの筏に乗って手と足を使って努力して安全に向こう岸に渡った。
さあ、わたしはこの筏を陸地に置き捨て、あるいは水に沈めて行きたいところに出発しよう、と。
比丘たちよ、このようにする人は、その筏について為すべきことを為す人であろう。
そのように、いいかね、比丘たちよ、わたしは[筏の喩え]の教えを説く。
筏は、渡るためにあるのであって、取って置くためにあるのではない、ということを。
比丘たちよ、筏の譬えをあなたたちは理解した。
あなたたちは諸々の教えといえども捨て去るべきである。
いわんや、諸々の悪い教えについては、なおさらである。
- 336 :
- 335.一難去って又は一難である。
筏を捨て去ったバカは、どうするのかや。
大爆笑である。
- 337 :
- やっぱり仏教の事を何にも知らないんだな?
筏を捨て去ったのは他ならぬゴータマ本人だし ブッダへの誹謗は重罪なのに‥完全に頭がおかしい
向こう岸=彼岸=涅槃
二度と此方側=比岸に戻る事も無ければ それ以上何処かへ移る事も無いから筏は一度きりなんだよ
そんな事も知らないポットン便所が誰よりも悟れてないとハッキリしたから用無し
畑の肥やしにもならん
- 338 :
- 337.一度きり、のバカである、か。
大爆笑である。
- 339 :
- 337.彼岸とか涅槃とかは、観念であって、実体ではない。
バカには理解できない。大爆笑である。
- 340 :
- >>339
ただの観念ならば最初から求める必要がない。
そうではないから、すべてを掛けてその境地を目指している。
縁起しておらず、二度と堕ちることがない絶対的な境地だからこそ、
その価値がある。
冷やかし程度しかできないのなら、黙って消えな!!
- 341 :
- 実体が有るという訳でもなく 無いという訳でもない
無知は黙ってろ
精選版 日本国語大辞典の解説
うむ【有無】 の=二見(にけん)[=見(けん)]
仏語。有見と無見。有と無の対立するいずれかの一方を極端に固執する誤った考え方。「大智度論‐七」に「復有(二)二種見(一)、有見無見」とある。有無の邪見。
※教行信証(1224)二「龍樹大士出(二)於世(一)、悉能摧(二)破有無見(一)」
- 342 :
- え〜〜〜〜とですなw
このポッタン師 というのは、悟りスレ他、各種のスレに短文罵倒書き込みをするコテですが
まともな日本語を書く能力に欠けておりまして会話が成立しません。
リアルで知能障害もしくは精神疾患を患っておると考えられます。
ですので、私は完全スルーとしておりますが、悟りスレでもほぼ完全に住人から完無視されて
いるのが現状です。
このスレの住人はまだ、知らない人が多いと思いますので、注意しておきますが構うと
スレ汚しにしかなりませんので、完全スルーが最も良いと思います。
- 343 :
- 342.悟れないバカバービマンが言う、ことである。信用しない、が正解である。
大爆笑である。
- 344 :
- 341.バカはバカな日本国語大辞典を信用する、か。
大爆笑である。
内容を見よ。誤りである。
バカには理解できない。大爆笑である。
- 345 :
- 340.バカ丸出しである、よ。
バカは、死んでも、なおらない。
大爆笑である。
絶対的な境地、バカである。
- 346 :
- 342.親分に御報告をするバカバービマンである、か。
大爆笑である。
早く悟れ。
大爆笑である。
- 347 :
- 辞典と自分の見解が違う時は自分が間違ってると考えるのが正常な判断
悟り以前の問題として ポットン便所は真人間にならないと悟りへの道にすら入れない
先ずは中道の立場を取れないのに僧侶を自称するのを止める事だ
知識と理解で在家に劣る禅僧がいるとは考えにくい
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
有無
うむ
bh?va-abh?va
仏教用語。存在と非存在。仏教では存在するものはすべて一時的な仮のものであり,諸条件によって生滅するものであるから,存在それ自体に不変常住な固定的実体はないと考える。存在に固定的実体を認めるのが「有」の見解である。
逆に,すべての存在を否定してしまうのを「無」の見解という。仏教は,すべてが諸条件によって生滅するという事実に立って,「有」と「無」という両極端の見解に陥ることを戒めている。この立場が仏教の「中道」である。
- 348 :
- 347.辞典の書きうつし、をやっているバカである。大爆笑である。
辞典を迷信しているバカである。
禅僧を迷信しているバカである。
- 349 :
- 全く説得力の有る反論も出来ないのに ただ他人の見解にケチを付けるだけのもの惜しみ(笑)
俺は禅宗じゃないし 絶対視はしてないけど 「本物」には一目置いてるよ
ポットン便所は只の肥溜めだけどな
何を言ってもペンペン草も生えない下級の糞が精一杯背伸びして自分のチンケなプライドを保とうとしてるだけ
- 350 :
- 自分の方がが正しいと言いたいのなら 相手を上回る説得力の有る論理を展開すれば良いのに 基礎知識すらあやふやだからバカしか言えない低能は誰とも対等な会話すら出来てないのにも気付けない
自分は勉強出来ないし嫌いだけどプライドだけは誰にも負けないっていう虚しい自己主張
それを悟りと偽って憚らない厚顔無恥
仏教はもとよりそもそも宗教に向いていない
凡俗以下
- 351 :
- 350.迷信バカが言う、ことである。
大爆笑である。
辞書読み、をやってるバカである。
自分の答えを持っていないバカである。
悟れないバカが言う、ことである。大爆笑である。
本物、の判定もできないバカである。
大爆笑である。
- 352 :
- >>347
>辞典と自分の見解が違う時は自分が間違ってると考えるのが正常な判断
阿呆か?ww
それでは仏陀の言う自灯明に反するわw
それは辞典灯明だわなあww
仏教の特徴の中道は確かに極端な立場に立たないというものではあろう。
だから存在は空で非有非無となるのはOKだw
しかし、生きている間においては有るものは有るのであり、無いものは
無い。生きている間を外れて生前、死後の事となればそれは空という事だ。
これまた何度も言う事であるが、世の中に「実体」がある物など有るのかね?
また、実体がないから無いと言えるのか?実体がないから無いのならば世の中の
物は全部無い事になるわなあwww
- 353 :
- >>352
学校教育(義務教育)全否定ですかwww
相変わらず恐れ入りますなぁ・・・ ┐(´ー‘)┌
>>350
明治以降、一般人に「仏法」が広まったのは、
明治以降の禅宗の動き方に責があるのは否定できない。
すそ野が広がり、知られ、認知され、評価され、
したのは効果成果としても、
野狐禅の極みたる「”禅っぽい自分”への陶酔居士」を量産した罪は、結構重い・・・。
- 354 :
- >>329
ミャンマーやタイ等でも一度滅んだの?
- 355 :
- >>329
ちなみに、個人的な、世間向けの論証なしの位置付けとしては、
キリスト教は、西伝した派生仏教の位置付け
儒教(化した仏教含む)文化よりはずっとマシ
承狂氏は、キリスト教批判か、儒教批判か、どちらか一方だけ取る(標的を絞る)としたら、どっちとるの?
- 356 :
- >>352
自灯明と法灯明がワンセットなのを無視してどちらかに偏るから邪見に陥る
成長の止まった病人はもう良いから お疲れ
- 357 :
- >353
>学校教育(義務教育)全否定ですかwww
誰が小中学生に対して言っているのだ?
お前らは扶養されているガキどもか?wwww
揚げ足取りしかできない糞坊主ww
糞のセブンはさっさとミャンマーで乞食でもしてろw
- 358 :
- >>353
野狐禅は禅宗だけに限らずどの宗派にも起こり得るよ
短いフレーズの繰り返しで起こるトランスを悟りと勘違いする酷いのもいるし…
- 359 :
- >>356
>自灯明と法灯明がワンセットなのを無視してどちらかに偏るから邪見に陥る
これまた、これまで散々繰り返し言ってきた事www
自灯明は法灯明と何ら変わらない同じものだw
頭が弱いのか実体験が弱いのかww いずれにせよ弱すぎだなあww
- 360 :
- もし、
多少なりとも、或いはスケールダウンしたものとして実体験があったら、
紐のような思考にはならない。
断言していいw
- 361 :
- 涅槃(ニルヴァーナ)を体現せずに我執(保身)にはまっている糞坊主に「断言」されても
誰も信用しないわww だからミャンマーで乞食をしろと言っているwww >360
- 362 :
- >>358
しかし、禅には
「禅語(というキャッチコピー)」、「反正統、反秩序、無頼」を賞賛する癖があるから。
「抑下の托上 ( よくげのたくじょう」なんてのも、そうした視線・価値観の上に成立している
祖録の読み、解釈の一スタイルなわけで・・。
特に、禅語のキャッチ―さの悪影響はデカい・・・w
- 363 :
- >>362補
特に、茶人連中の「禅語崇拝」の様子を見てると溜め息しか出ないw
- 364 :
- ともかく、ナーガールジュナによると、ニルヴァーナは一切の戯論(形而上学的議論)を離れ、一切の分別を離れ、さらにあらゆる対立を超越している。
したがって、ニルヴァーナを説明するためには否定的言辞をもってするよりもほかにしかたない。
「捨てられることなく、[あらたに]得ることもなく、不断、不常、不滅、不生である。―これがニルヴァーナと説かれる」(第二十五章。・第三詩)
「否定の論理の実践」
われわれの現実世界を離れた彼岸に、ニルヴァーナという境地あるいは実体が存在するのではない。
相依って起こっている諸事象を、無明に束縛されたわれわれ凡夫の立場から眺めた場合に輪廻とよばれる。
これに反してその同じ諸事情の縁起している如実相を徹見するならば、それがそのままニルヴァーナといわれる。
輪廻とニルヴァーナとは全くわれわれの立場の如何に帰するものであって、それ自体は何ら差別のあるものではない。
『中論』の帰敬序において、「八不、戯論の寂滅、めでたさ」が縁起に関していわれているが、これらは元来ニルヴァーナに関して当然いわれるべきことである。
しかるに縁起に関してこれを述べるのは、相互関係において成立している諸事象とニルヴァーナとの無別無異なることを前提としているのである。
これは実に大胆な立言である。われわれ人間は迷いながら生きている。
そこでニルヴァーナの境地に達したらよいな、と思って、憧れる。
しかしニルヴァーナという境地はどこにも存在しないのである。
ニルヴァーナの境地に憧れるということが迷いなのである。
「否定の論理の実践」
- 365 :
- >>359
やっぱり解ってない 笑
普段の自分そのままだったら灯明処か全くの無明
始めに法を知り その灯明に依って自らを照らさない限り自灯明とはならん
そのままで自分に灯明が有るという意味では無い
- 366 :
- >>362
禅宗という言葉でひとくくりにしないで個別に論ずるべきでは?
臨済宗と曹洞宗と黄檗宗で同じなのか否か
- 367 :
- >>364
捉えようが無いものを捉えようとすれば直接言及する事は出来ないからね
「〜ではない」 「かといって〜という訳でもない」式の論法で正反対の極端を否定し続ける事でしか概要が見えて来ない
- 368 :
- >>367
サンジャヤ・ベーラッティプッタじゃあかんの?
- 369 :
- >>368
内道や無いからね
- 370 :
- 366.真理は一つである。
頂上への山道が多くある、と言う、バカもいる。
- 371 :
- 悟りを開いたブッダがやたらに他人にバカバカ言ってたら 仏教は現在まで存続しなかっただろうな?
少なくともゴータマは自分の望む完璧な結果を得たから 悪口を言わない完璧な人間になれたのだろう
- 372 :
- >>355
神仏道儒は其々に学ぶべきものがあるが、キリスト教には全くないと思いますよ。(笑)
(^。^)勿論、国家神道日蓮宗南方の左道朱子学などと欠点を挙げ連ねる事もできますがね。(笑)
キリスト教はね。(笑)
糞ですよ。(笑)
人類という種に掛けられた禍々しい呪詛でしかありません。(笑)
- 373 :
- 371.完璧人間バカである。大爆笑である。
- 374 :
- > 371.完璧人間バカである。大爆笑である。
63
もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である。
愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、「愚者」だと言われる。
64
愚かな者は生涯賢者につかえても、真理を知ることが無い。
匙(サジ)が汁の味を知ることができないように。
66
あさはかな愚人どもは、自己に対して仇敵(カタキ)に対するようにふるまう。
悪い行いをして、苦い果実(コノミ)を結ぶ。
69
愚かな者は、悪いことを行っても、その報いの現われないあいだは、それを蜜のように思いなす。
しかしその罪の報いの現れたときには、苦悩を受ける。
70
愚かな者は、たとい毎月(苦行者の風習にならって一月に一度だけ)茅草の端につけて(極く小量の)食物を摂るようなことをして、(その功徳は)真理をわきまえた人々の十六分の一にも及ばない。
71
悪事をしても、その業(カルマ)は、しぼり立ての牛乳のように、すぐに固まることはない。
(徐々に固まって熟する。
)その業は、灰に襲われた火のように、(徐々に)燃えて悩ましながら、愚者につきまとう。
72
愚かな者に念慮(オモイ)が生じても、ついにかれには不利なことになってしまう。
その念慮はかれの好運(シアワセ)を滅ぼし、かれの頭を打ち砕く。
73
愚かな者は、実にそぐわぬ虚しい尊敬を得ようと願うであろう。
修行僧らのあいだでは上位を得ようとし、僧房にあっては権勢を得ようとし、他人の家に行って供養を得ようと願うであろう。
74
「これは、わたしのしたことである。
在家の人々も出家した修行者たちも、ともにこのことを知れよ。
およそなすべきことなすべからざることとについては、わたしの意に従え」──愚かな者はこのように思う。
こうして欲求と高慢(タカブリ)とがたかまる。
- 375 :
- 371.釈迦が最高と思うバカである。
仏に会えば仏をR。
釈迦の上を行く、のである。
バカには理解できない。大爆笑である。
- 376 :
- >>375
( ´,_ゝ`)プッw
妄想幻覚の仏をRと釈迦の上になれるのか?
だとすれば仏教じゃないな?
釈迦の上に有るのは法だけだ 無明
- 377 :
- 376.釈迦の上にあるのは法だかけ、か。
大爆笑である。
それだと仏教じゃない、よ。
大爆笑である。
- 378 :
- >>377
天上天下唯我独尊
ブッダを超える「人間」は居ない
ブッダを超える者が居るとすれば過去七仏よりも前から有り 弥勒の後にも続く「法」のみだ
「仏に会うては仏を殺せ」というのは瞑想中に現れる幻覚を断ち切れという意味で 既に六道から離れたブッダを殺せるという意味じゃ無いと思うが お前の師は気でも狂ってるのか?笑
- 379 :
- >>372
そりゃ残念ですなw
自分には仏教とキリスト教の共通する良い部分を評価する気持ちの方が、
儒教の持つネガティブな側面(効果)の前には優先されるので
東洋と西洋という対立軸の二元論で捉えるのって、その思考構造がむしろ西洋人の植民地主義に由来するって、何かの評論で目にしたけど(河合塾の模試の国語の問題だっけか?)
もちろんその構造の中で西洋側か、反西洋側に立つかは、西洋人か非西洋人かという各人のアイデンティティに潜在意識的に振り回されているのだろうけど、
ともかく、思考の対立構造としては植民地主義由来なんだとか
アイデンティティに敏感になるというナショナリズム的な思考自体、あまり東洋的、日本的とは言い難い気がするんだよね
江戸幕府が儒教化を進めたせいで、ついにはロクでもないこと(明治維新)になったと思ってるんで
まあ世間には教育関係を中心にして左翼的な西欧主義が跋扈しているので、それに対する反動で東洋にハマったこともあるけど、自分的にはその辺はアウフヘーベンされた模様
最終的に、西洋だろうが、東洋だろうが、左に行こうが右に行こうが、日本人に潜む害毒は儒教的なるものだと思ってる
福沢諭吉先生に共感するね(慶應閥は大嫌いだけどねw)
- 380 :
- >>379
諭吉ねぇ。(笑)
多分、俺と反対の視点なんだろうね。(笑)
俺は勝海舟安房守殿を尊敬してて、キリスト教は全て敵視してるが、
これは伝統的価値観から見ての事。
リベラル的には、儒教って解りやすい敵だし、諭吉は神社の御神体をすり替えて他人が拝むのを陰で笑ってたアンチ伝統文化な野郎だからね。(笑)
そのリベラルの根っ子は、やはりキリスト教に見えるがね。
(^。^)まぁ、興味があるなら「お前らが宗教と呼んでいるものが宗教ではない件について」ってスレでも見ていなされ。
そのうち気が向いたら、その視点の縁起も書くかもしれんから。(笑)
- 381 :
- 378.迷信バカが言う、ことである。
大爆笑である。
ブッダを超える法とは、なんの法か。
バカには理解できない。大爆笑である。
- 382 :
- >>380
いや、右の観点から見ても儒教がって思ってるんだけど
そこは承狂氏には分かってもらえぬのかな?
- 383 :
- 仏をRのも、父母をRのも、禅宗の一句ではあろうが、その要旨は自灯明に尽きる。
自灯明は自分以外に頼るなかれという教えだ、
例え仏典と言えどもそれに頼って生きてはいけない。
さらに突き進んだところに非我、無我の教えがあり、その頼るべき己に対しても執着を捨てよ〜
というのが仏陀の教えだ。
自分以外のものに対する執着は当然捨てねばならんが、自灯明の根幹の我に対する執着も捨てねばならんww
恐らく、この自己に対する執着を捨てている高僧というのは現代においては皆無だろうなw
- 384 :
- バカは自分に囚われながら、「俺は自分に囚われてはいない」と自慢する。(笑)
その世俗な自分と法が同じなんだと駄々を捏ねる。(笑)
(^。^)こんな連中には、調伏難調が徒弟も黙Rるしかないが、バカはこれを勝ったんだと誤解するという、なんとも御目出度い話。(笑)
- 385 :
- >>384
おっちょこちょいの承狂先生かよwwww
誰が「俺は自分に囚われてはいない」と「自慢」しているんだ??wwwwwwww
目の無いお前には見えないかwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
俺が言っているのは「〜自己に対する執着を捨てている高僧というのは現代においては皆無だろう」
だwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
非仏教徒を自称する俺が自分に執着するのは当たり前ww
お前ら職業僧侶がやるべきだと警告しているんだよww このノータリンがwwww
- 386 :
- >>385
よく>>384だけで紐向けのコメントだってわかったね
ボットン向けなのか紐向けなのか、はたまた俺向けなのか、と訝しんでいたところなんだけど
多分承狂先生はわざとやってるんだろうけどねw
- 387 :
- >>385
よく>>384だけで紐向けのコメントだってわかったもんだね
ボットン向けなのか紐向けなのか、はたまた俺向けなのか、と訝しんでいたところなんだけど
多分承狂先生はわざとやってるんだろうけどねw
- 388 :
- 重複スマヌ
- 389 :
- >>386
まぁ、それは兎も角、宗教というものがどうしたものか、先に書いたスレでのんびり書いてく予定だから、質問などは彼方へ。
スレチのことばかり書いても宝珠以下のお歴々に失礼だよ。
- 390 :
- まあ、「格義仏教」というフレーズは、駒大で槍玉に挙がった時代があるくらい、
中国仏教の色合いを決定付けているのも事実だろうし、
そのように、「(特に宗密のアレンジを経た後の)儒教化した仏教」が日本には入ってきてるわけで、
奈良平安の公務員仏教とか、鎌倉仏教での転換とか、室町戦国の戦乱の世の信心とか、
江戸時代のシステムとしての寺と信者の関係とか、色々重要な側面はあるけれど、
そもそも、日本に入ってきた仏教は、(国家仏教という側面とは別に!)
『儒教色に染め直された仏教』だ、という点は、
マニアなら押さえておいていいポイント。
まあ、だからこそ、
先祖供養の宗教として、これだけの地位を確立できた
とも言えるわけだが・・。
- 391 :
- >>381
「有るとすれば」と述べているにも関わらず 自分に都合の悪い部分は目に入らない
脳が覚醒していないのがよく判る一例だな
- 392 :
- >>366
> 禅宗という言葉でひとくくりにしないで個別に論ずるべきでは?
> 臨済宗と曹洞宗と黄檗宗で同じなのか否か
言われてみれば返す言葉が減ってしまうが、
現代禅宗は、臨黄曹で本質的な違いはないと思う。
寧ろ、臨済が白隠以降白隠一色になったのと同様、
明治期以降は、三者に差はないと思うし、寧ろ、差異を見出す方が難しそう。
特に、「在家」と括られる一般信者(≒マニア)の人々の「禅的フレーズの受け止め方」に関しては。
それはまるで、
方言が薄まり、均質化し、標準語が日本全土に染み亘り、
標準語的津軽弁、会津弁、沖縄弁、三河弁等等等になってきたが如き、
祖録・禅語の解釈の「仏教学禅学、文献研究」の影響による均質化として・・。
- 393 :
- >>390
そこなのね
もう「墓守宗教」とでも言うべき、別物(実質儒教)に成り代わってる
方便なんて次元じゃなくて、むしろ言い逃れのために仏教の看板を掲げてるレベル
それでも、聖徳太子から、室町の一休さんくらいまでの、ちゃんと個人的に自らの精神要求からも仏教に向き合っていた、一握りの教養高い貴族クラス(必ずしも貴族出身でなくともよい)は
自分なりにテクストを読んでいた事が後世からも明白に伺えるわけで、
そういうのが、江戸期以降(仏教の表舞台から)消失してまう気がするのよね
もうただ、宗祖個人や宗団への信仰に丸投げとか、帰属・忠誠意識が重要になる
ほんで集団ヒステリーへと突っ走って今に至っても根はそのまんま
右も左も集団ヒステリー
儒教呪縛をぶっこわーす! って誰かやってくんないかな
僕の大切な日本ちゃんを儒教の穢れたカルマから解脱させて丁髷
p.s. 諭吉先生は全然リベラルじゃなくて、日本を守るためにその足枷になる諸悪の根源だった儒教価値観を憎んだ、現実路線的右翼だったという話
恨み言言ってる暇あったら寸暇を惜しんで負けないように対抗できる力を付けるために努力せいってね(脱亜、富国強兵)
人の上に人を造らずなんて説いてないのに何故か切り貼りで説いたことにされて自由民権(平等)思想家と思われてるらしい
- 394 :
- >>392
> 方言が薄まり、均質化し、標準語が日本全土に染み亘り、
> 標準語的津軽弁、会津弁、沖縄弁、三河弁等等等になってきたが如き、
標準語ばら撒いたA級戦犯て、NHKですしお寿司w
- 395 :
- ま、日本の仏教を先祖供養という名の餓鬼界的儒教呪縛から解脱さすというのは
NHKから受信料制度を奪うよりも至難の業なのかもしれないねw
“スクランブル化”で妄執をズタズタに断ち切らないといけない
- 396 :
- >>381
> 378.迷信バカが言う、ことである。
> 大爆笑である。
> ブッダを超える法とは、なんの法か。
> バカには理解できない。大爆笑である。
論理性の欠片も無いな 笑
法は人よりも前に有り 神々よりも前から存在する
その法を悟ったブッダでさえも法から生まれたという基本が解っていれば済む話
生まれて来た法に戻るから法帰依・自帰依が成り立つという事も判らないから釈迦を超えるなんて幻想を抱く様になるんだよ
向こう側は行って見なければ解らないし この世にいながら涅槃をあれこれ言うのは悟りではないし あくまでもこの世から見た涅槃でしかない
人の脳で理解出来ない事を理解したというのは狂人の理屈
それこそ騙されて魔境にでも行ったんじゃないのか? 笑
お前の言動には安穏が全く無いからな
釈迦を超えてなんかいないし 人倫の頂点にも無い
ただ単に他人にケチを付けて回るケチな悟りだなとしか思わんよ
優越感や劣等感から自由になってる様にも見えないし 寧ろその虜
そんなもので釈迦を超えただなんて可哀想に頭をやられたんだな? (ー人ー)
自他の区別が無くなる悟りの境地で誰かを超えるとか超えないとかの分別が有る訳無いだろ?
- 397 :
- >>392
現代ではとかじゃなくて 宗義として何を目指していたのかが知りたいかな
道元は何故初期仏教の瞑想法と密教の礼法を直結させたのか?とか
臨済宗の悟らないと猫が死んでしまうぞとか言って師が本当に猫を殺したのに対して優れた弟子が頭に靴を乗せて出ていったとか師僧と殴り合いをしたら悟っただとかは意味不明だからどうでもいいけど(笑)
中国禅が果たしてディヤーナになってるのかどうかだね?
- 398 :
- 396.眼くら、がバカが、前から存在する法を迷信とする。
大爆笑である。
釈迦が、そんなことを言う、か。
大爆笑である。
仏教ではない。
たんなる迷信を述べたものである、よ。
大爆笑である。
- 399 :
- 極左老害スターリニズム・毛沢東イズム洗脳のクソジジイ・ポッタン師の割り込みである、よ
大顰蹙である
- 400 :
- 399.バカの、あ君は運転労働を自慢している、が良い。
大爆笑である。
- 401 :
- >>398
> 396.眼くら、がバカが、前から存在する法を迷信とする。
> 大爆笑である。
> 釈迦が、そんなことを言う、か。
> 大爆笑である。
> 仏教ではない。
> たんなる迷信を述べたものである、よ。
> 大爆笑である。
会話にもならん
法信仰で精進して最後には信仰をも捨てる原始仏教を理解出来てないから 大乗の本仏の実体も理解出来ないんだろ?
久遠実成の釈迦だろうと大日如来だろうと その実体は空だという結論は変わらん
この先もまだ無数の転生を繰り返す無明の輩が釈迦を超えるなんて悪い冗談だ
- 402 :
- 何故、瞋恚を発するかを自問すべきでね。(笑)
それは相手も仏教徒と誤認してるからな訳。(笑)
自称「仏教徒」なら、あの連続テロリスト団体だってそうだか、あんなものには瞋の対象物には成らないわな。(笑)
同様に、例えどこぞの門跡だろうが、果ては朝鮮仏教(笑)だろうが、違うのは違う訳。(笑)
仏陀でも囚われれば、その瞬間に墜ちるんだから、「是は違うんだ」と思えば其までの話なんだよ。(笑)
(^。^)まして、我等在野の凡人凡夫、むしろ佛道にある方が奇跡よ。(笑)
- 403 :
- その意味で此処で「仏教」を語ってるのは七氏くらいで、俺以下の全員が自称「仏教」のトンチンカンな我見だから面白い見世物でしかないわな。(笑)
(^。^)いつも笑わせてもらってます。(笑)
- 404 :
- 401.法を語れ。
迷信を語るバカである。
大爆笑である。
- 405 :
- >>404
自分で師家を名乗りながら在家に法を語れってか?笑
先ず何処がどのように迷信か?
法とは何か?
の二点をお前が語って見せろよ
お前はただ否定してるだけで何一つ論拠を明確にしてないぞ?(´・ω・`)
- 406 :
- >>402
まあ単なる遊びの領域だから そこまでの議論にはならないんじゃない?
怒りを捨て去ったと迄は言わないが 怒る程の相手でもないし 猫をじゃらす様なもんだよ笑
- 407 :
- 405.師家は答えを教えない。
バカには理解できない。大爆笑である。
迷信第一。釈迦を超えられない。
これは、お前の迷信である。
根拠がない。
引用できる、ものがない。
大爆笑である。
- 408 :
- (^。^)でもホントは猫じゃなくて、耳元の蚊かコバエだろ?(笑)
- 409 :
- >>407
答えなんてお前に出来ない事は聞いていない
自分で説明出来もしない事を他者に求める愚を指摘してるのだよ
大乗五十二階でさえ等覚だと言ってるのに それを超える悟りとは何の文献に有るのかね?笑
デジタル大辞泉の解説
とう‐がく【等覚】
仏語。
1 《諸仏の覚悟は平等一如であるところから》仏のこと。
2 修行が満ちて、正覚(しょうがく)の仏と等しくなった位。菩薩(ぼさつ)の最高位。等正覚。
大辞林 第三版の解説
とうがく【等覚】
?仏?
@ 仏のこと。すべてを悟った諸仏の悟りが等しいことをいう。
A 仏と等しい悟りを得て、次生で仏となることのできる位。菩薩修行を五十二段階に分けたうち、最高の仏位である妙覚に次ぐ位。
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
等覚
とうがく
仏道修行の階位の一つ。大乗仏教では、発心修行して仏になることを目標とするが、その過程において種々の階梯(かいてい)が設けられている。
その数は経論によって異同があるが、『菩薩瓔珞本業経(ぼさつようらくほんごうきょう)』(中国成立の偽経)によれば52であり、その最高位である仏の悟りの境地を妙覚(みょうがく)といい、等覚はそれにほぼ等しい位をいう。
すなわち、菩薩が修行を完成してまさに仏になろうとするときの段階をいい、究極の仏果(ぶっか)に隣接するので隣極(りんきょく)ともいう。[藤井教公]
精選版 日本国語大辞典の解説
とう‐がく【等覚】
?名? 仏語。
@ (真理を悟った仏の悟りの内容が等しいという意で) 仏をいう。等正覚。〔大智度論‐一〇〕
A 修行が満ちて、智慧・功徳が仏と等しくなった最高の位。菩薩(ぼさつ)の最高位。また、その菩薩。
- 410 :
- >>408
よくお分かりで 笑
- 411 :
- 409.辞典読み、のバカである。
大爆笑である。
そんなもので威張れる、と思うバカである。
- 412 :
- >>411
威張ってるのはお前だろ?笑
引用出来る文が無いと決め付けたから反証しただけなのに 言うに事欠いて論点ズラしまでして恥ずかしくないのかね?(´・ω・`)
お釈迦さんには大勢の異教の修行者が弟子入りして次々と開悟させる事で正しさを証明したけどお前は誰にも相手にされてないだろ?
釈迦を超えた偉い仏さんにしては結果がショボすぎやせんか?
酔っ払いみたいにネットで誰彼構わず馬鹿である 大爆笑である言っても追随するのは同じレベルのアホが一人だけ
虚しいとは思わんのか?
- 413 :
- >>394
近現代禅に於いて、そのNHK的役割を果たしたのは誰か?(何か?)
と問う必要が、現代禅宗にはあるわけで・・。
- 414 :
- >>413
出版メディアの発達?
- 415 :
- >>414
まあ、一端ではあろうけど、それによって、何が変わったか、ということで・・。
個々の(仕上がり)レベルの低下(師資相承の瓦解)
+
メディアの発達
↓
知識の仕入れ先の一元化 (←西洋中心の近代仏教学・中村仏教学の洗礼)
+
(宗教離れ)
↓
現代的価値観(科学的思考、人権思考、個の尊厳等々)に立脚した、教義・宗学の再構築
&
一般人の認知度・好感度up狙い
- 416 :
- 412.バカである、お前は、辞書読み、をやっていれば良い。
大爆笑である。
門前の小僧で終わり、である、よ。
大爆笑である。
- 417 :
- >>416
お釈迦さんには大勢の異教の修行者が弟子入りして次々と開悟させる事で正しさを証明したけど お前は誰にも相手にされてないだろ?
釈迦を超えた偉い仏さんにしては結果がショボすぎやせんか?
酔っ払いみたいにネットで誰彼構わず馬鹿である 大爆笑である言っても追随するのは同じレベルのアホが一人だけ
虚しいとは思わんのか?
- 418 :
- 417.門前の小僧が何を言う、か。
大爆笑である。
辞典読み、経典バカ、をやっている、が良い。
大爆笑である。
お前も、大爆笑できる身分に昇格せよ。
大爆笑である。
- 419 :
- >>418
お釈迦さんには大勢の異教の修行者が弟子入りして次々と開悟させる事で正しさを証明したけどお前は誰にも相手にされてないだろ?
釈迦を超えた偉い仏さんにしては結果がショボすぎやせんか?
酔っ払いみたいにネットで誰彼構わず馬鹿である 大爆笑である言っても追随するのは同じレベルのアホが一人だけ
虚しいとは思わんのか?
- 420 :
- 419.門前の小僧をやっていて、虚しい、と思わんか。
大爆笑である。
- 421 :
- >>420
お釈迦さんには大勢の異教の修行者が弟子入りして次々と開悟させる事で正しさを証明したけどお前は誰にも相手にされてないだろ?
釈迦を超えた偉い仏さんにしては結果がショボすぎやせんか?
酔っ払いみたいにネットで誰彼構わず馬鹿である 大爆笑である言っても追随するのは同じレベルのアホが一人だけ
虚しいとは思わんのか?
- 422 :
- 421.バカが同じことの繰り返し、である、か。
大爆笑である。
- 423 :
- 耳の痛い質問に答えられずに逃げ回るポットン便所 笑
お釈迦さんには大勢の異教の修行者が弟子入りして次々と開悟させる事で正しさを証明したけどお前は誰にも相手にされてないだろ?
釈迦を超えた偉い仏さんにしては結果がショボすぎやせんか?
酔っ払いみたいにネットで誰彼構わず馬鹿である 大爆笑である言っても追随するのは同じレベルの
アホが一人だけ
虚しいとは思わんのか?
- 424 :
- 423.バカが同じことの繰り返し、である、か。
大爆笑である。
- 425 :
- ww 日本の葬式仏教、先祖供養仏教はもうこれからは不要。
個々人が仏壇を設けて祈れば良いだけ。意味のない高額な布施など支払う必要なし。
所詮、僧侶が涅槃を志向する意志がないのに一般人がその僧侶に布施を与える必要はない。
己の反省なしに環境に不平不満を述べるのも性根の嫌らしさが滲み出ているw
- 426 :
- 425.涅槃を志向する、と葬式とは何の関係もない。
バカには理解できない。大爆笑である。
- 427 :
- >>426
その通り、関係ないねえww だから不要だと言っているw
Do you understand? ww
- 428 :
- 少し上で、そういうのは儒教(儒教化した中国日本仏教)であって、
お釈迦さんの示された仏法ではない、という話が出ているところへ
この台詞(レス)w >>425
やっぱ買い被ってたかな・・、紐のこと。 テヘペロ
- 429 :
- >>428
うん、紐のセブンへの無理難題ワガママ放題はアホというか幼稚で相手にする価値低いと思う
紐の葬式仏教に対する批判的態度は結果としては俺と同サイドにはなる部分だけど、
そう考えてる中身が薄いのよね
もっと凄い価値のある部分があって、それが表面的な葬式仏教という形態の方に覆い隠されて来ているから問題であって、
まるでそこだけが仏教の全てという判断で、僧籍の姿勢をグシャッと丸めて矯正して解決するって他人ごと的ものでもないだろうと思う
需要と供給の関係で、葬式仏教に一定の需要がある限り、それを供給する者も一定数が存続するはず
そうではなく、葬式以上のもっと凄い価値があることに人々が再び気づいてきたならば、自然と供給サイドも変わる
供給サイドにいるのなら、供給サイドとしての真摯なありようがあると思うし
需要サイドにいるのなら、需要サイドとしての真摯なありようがあるはず
紐は己は需要サイドの人間と開き直りながら、全てを供給サイドに丸投げ
既成政党の左翼側みたいな無責任批判じゃないかとw
- 430 :
- 中村仏教が庶民の手に届く所にあって、云十年経過する今現在でさえ、
人々が求めるお坊さんは、
「悟りを求める行者」 ではなくて、
「身近で親しい」「菩提寺(・・・先祖の墓)を守って」「法要を蔑ろにしない」「人格者」 であればいいのでw
今でも、
「真に仏教・仏法に知識があって、それを求める僧侶」は、敬遠される傾向。
もう一世代分は続くと思う。
その辺で、次の代替わりに向けて、どう働きかけていけるか? こそが、
今本当に拈提すべき案件なんだけどね。
ほんとは、喫茶店やバンド、コンサート、イベント、体験もの等等で認知度を上げるとか言ってる次元じゃない・・w
- 431 :
- >>424
お前が答えないで逃げてる間はコピペで十分だ 笑
お釈迦さんには大勢の異教の修行者が弟子入りして次々と開悟させる事で正しさを証明したけどお前は誰にも相手にされてないだろ?
釈迦を超えた偉い仏さんにしては結果がショボすぎやせんか?
酔っ払いみたいにネットで誰彼構わず馬鹿である 大爆笑である言っても追随するのは同じレベルのアホが一人だけ
虚しいとは思わんのか?
- 432 :
- 431.オマエが、門前の小僧である、ことを知れ。
師家に文句を言える身分か。
バカには理解できない。大爆笑である。
- 433 :
- >>432
都合の悪い質問には答えない師家って何だね?笑
同門でもないのに師弟関係が有る訳無いだろ?ハゲ(爆)
お釈迦さんには大勢の異教の修行者が弟子入りして次々と開悟させる事で正しさを証明したけどお前は誰にも相手にされてないだろ?
釈迦を超えた偉い仏さんにしては結果がショボすぎやせんか?
酔っ払いみたいにネットで誰彼構わず馬鹿である 大爆笑である言っても追随するのは同じレベルのアホが一人だけ
虚しいとは思わんのか?
- 434 :
- 433.門前の小僧は、どの師家から見ても、門前の小僧、である。
バカには理解できない。大爆笑である。
門前の小僧が威張れる、と思うバカである。か。
大爆笑である。
- 435 :
- >>434
その門前の小僧に答えを詰まらせて関係ない人格攻撃でみっともなく逃げ回るのが師家なのか?笑
禅僧のフリしただけの価値の無い禿げだな( ̄ー ̄)
逃げれば逃げる程滑稽だよ
1.お釈迦さんには大勢の異教の修行者が弟子入りして次々と開悟させる事で正しさを証明したけどお前は誰にも相手にされてないだろ?
2.釈迦を超えた偉い仏さんにしては結果がショボすぎやせんか?
酔っ払いみたいにネットで誰彼構わず馬鹿である 大爆笑である言っても追随するのは同じレベルのアホが一人だけ
3.虚しいとは思わんのか?
- 436 :
- 435.そんな質問に答えて、お前に、どんな利益がある、のかや。
バカ丸出しである、よ。
大爆笑である。
それで、威張りたい、だけである、か。
大爆笑である。
笑い、すぎて死ぬ。殺したい、か。
大爆笑である。
- 437 :
- >>436
利益?
単なる遊びに何寝言ってんだか 笑
お前が答えると自分の不利益になると考えてるのがよく判る( ̄ー ̄)
1.お釈迦さんには大勢の異教の修行者が弟子入りして次々と開悟させる事で正しさを証明したけどお前は誰にも相手にされてないだろ?
2.釈迦を超えた偉い仏さんにしては結果がショボすぎやせんか?
酔っ払いみたいにネットで誰彼構わず馬鹿である 大爆笑である言っても追随するのは同じレベルのアホが一人だけ
3.虚しいとは思わんのか?
- 438 :
- 437、バカが同じことの繰り返し、である、か。
大爆笑である。
そういう狂人も居る、か。
大爆笑である。
- 439 :
- ポットン便所は部が悪くて答えられない様なので誰か適当に答えてあげて下さい ( ̄∀ ̄)
1.お釈迦さんには大勢の異教の修行者が弟子入りして次々と開悟させる事で正しさを証明したけどお前は誰にも相手にされてないだろ?
2.釈迦を超えた偉い仏さんにしては結果がショボすぎやせんか?
酔っ払いみたいにネットで誰彼構わず馬鹿である 大爆笑である言っても追随するのは同じレベルのアホが一人だけ
3.虚しいとは思わんのか?
- 440 :
- 439.答えるバカが登場する、か。
大爆笑である。
- 441 :
- おお、このスレ、ちったあ、面白くなってきたか笑。
- 442 :
- 皆さんへ
パーピの指摘通り、あまりアホ師をかまって無駄にスレを消費するのは辞めて下さい!!
>>430
>「真に仏教・仏法に知識があって、それを求める僧侶」は、敬遠される傾向。
エッ、ホントにホントにそうですかね?
いや寧ろ、真実はその逆なのであって、
そういう本物の僧侶、聖職者にして聖なる修行者がいるようには思われないから、
だから、皆シラケてるんだよね!!
胡散臭くて、
金取りだけの生臭坊主たちばかりに見えるから、
だから、大衆はシラケてる。
所詮、その程度の認識だから詐欺師同然なんだよ!
それから、
確かに直接的には悟りの教えとは結びつかないけれども、
しかし、葬儀もゴータマは認められ、先祖供養についてもゴータマが説かれたものです。
原始経典の表面だけを眺めてるだけから、それらは非仏教などというのです。
もっと、よ〜く調べて勉強したらどうか?
- 443 :
- 宝珠の意見よりも、
実情は、日本仏教は、山伏的文化による宝珠ぽい仏教故に、
本来明治維新前に意味があった日本土着仏教の霊的価値が
文明化と共に価値が低下して、檀家は、それに価値を感じなくなった。
あと、坊主の世襲化と世俗化が進み、故に、金くれ坊主が増えた。
- 444 :
- >>442
>しかし、葬儀もゴータマは認められ、先祖供養についてもゴータマが説かれたものです。
ほんと、日本土着山伏絶対主義の妄想者、宝珠のレスは面白いなあ・・・・・・笑。
- 445 :
- >>444
ブッダは自ら父親の葬儀をしてるけどそれはどう説明するの?
http://web.sanin.jp/p/sousen/1/3/1/6/01/
釈尊は王を見舞い、宮中の人々に仏法を説いた。釈尊がカビラ城に着いてから7日目に王は息を引き取った。王が崩御されると、釈尊は重臣たちと葬儀の準備を進めた。
たくさんの香料を溶かした汁で王のからだを洗い、きれいに拭きとったあと、絹の布で全身を覆い棺に納めた。7つの宝石で遺体を荘厳したあと、棺を台座の上に安置し、真珠で編んだ網を垂れめぐらした。そのあと華を四方に散らし、香をたいて死者を供養した。
棺を葬場に送る際、釈尊は親の恩義に報いるために自ら棺をかついだ。釈尊の弟、子供、従弟も棺をかついだ。親に対する最後の孝行は、その遺体を最後まで守ることだろう。
この棺をかついだ4人は、浄飯王の子供、甥、孫にあたる。日本の葬儀において、故人の実子、兄弟、孫と言った血縁の者が棺をかつぐ習慣がある。これは釈尊を始めとする因縁の深い人々が、浄飯王の棺を擔いで葬儀を営んだことに由来している。
なおそのあと火葬に附しているが、これはインドの伝統的な葬法である。
- 446 :
- >>445
日本の先祖供養=インドの葬儀と考えるな。
文化が違う。
日本の先祖供養は、神道的、死は穢れで、清まるまで長期的に供養するべしが、日本の先祖供養。
インドはRば、輪廻だろ。
- 447 :
- >>442
代々続く親戚縁者の居ない都市型人間には解らんだろうね。
サンプル数どころか、肌で感じる機会すらないだろうから。
- 448 :
- 上の方で、
日本仏教は儒教だ、とお題提示している人がいるにもかかわらず、
未だに、布施や生臭を理由にするお花畑がいるとは・・。
以前の精霊大王もそうだけど、宝珠も、
「本当の現場」「本当の庶民の感覚」を知らなすぎる。
自分の視界に入る所だけが世界じゃねーぞw
- 449 :
- まあ、
お盆の時期らしい話題かも・・・w
- 450 :
- >>448
歴史的事実軽視による断言オナニーお見事!笑。
- 451 :
- >日本仏教は儒教だ、とお題提示している人がいるにもかかわらず、
明治維新以降の、明治政府管理により、
明治維新以降は儒教色は濃くなったが・・・・・。
それ以前の日本土着仏教要素が消えたわけではない。
- 452 :
- >>446
その前にブッダが僧侶の葬儀を否定したかどうかだよ
当時まだ阿羅漢果を得ていなかった修行僧に葬儀に関わるなと言っただけじゃないの?
- 453 :
- >448
自分が僧侶の皮を被った唯物論者なものだから、死者供養に価値を見出せないでいる。
信じてないにも関わらず、「死後の世界でのご先祖たちの修行(あの世の暮らし)の後押しになっています。
ご先祖たちも喜ばれてますよ!」と、檀信徒たちに語らねばならない自分に不条理を感じている。
経典中に、
繰り返し死者の存在と供養が説かれていても認められない似非僧侶。
そんな僧侶の行う死者供養なる行為は詐欺でしかない。
対して、しっかりとその意味を理解して、真面目に死者救済にも取り組んでいる僧侶は立派。
供養行為への布施も詐欺とはならない。
- 454 :
- w
>>453
お前には、じいちゃんばあちゃんや御先祖様や煩型の親戚とか居ねーのかよw
まずは、全国の田舎を行脚して来い。
じいちゃんばあちゃんや、地域の重鎮、或いは旧家の名家の長男方が、
お寺に何を期待しているか。実地調査して来い。
- 455 :
- まあ、こういうのを
(実体験のあるなしに依る)温度差と言うんだろうな・・。
- 456 :
- 453.死者救済、か。
キリスト教かいな。
大爆笑である。
- 457 :
- >>443
それはそれで仏教というよりは土俗的な呪術の類
ブゥードゥーマジックの世界
八つ墓村の祟り
仏教では本来は、戒禁守として斬って捨てられているもの
- 458 :
- >>446
ブッダに出会ってブッダの言葉だけでたちまち悟って解脱したバーヒヤは死後は輪廻せずにニルヴァーナに行きましたが、
ブッダは弟子に命じてそのバーヒヤの葬儀を執り行っております。
- 459 :
- 「比丘たちよ、樹皮行者のバーヒヤの遺骸を収め取りなさい。
寝床に載せて運び出して、燃やしてあげなさい。
そして、彼のために塔を作りなさい。
比丘たちよ、あなたたちと梵行を共にする者が、命を終えたのです」 と。
「尊き方よ、わかりました」 と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えて、樹皮行者のバーヒヤの遺骸を、寝床に載せて運び出して、燃やしてあげて、
そして、彼のために塔を作って、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。
近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。
一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。
「尊き方よ、樹皮行者のバーヒヤの肉体は焼かれました。
そして、彼のために塔が作られました。
彼には、どのような〔来世の〕境遇(趣)がありますか、どのような未来の運命がありますか」 と。
「比丘たちよ、樹皮行者のバーヒヤは、賢者です。法(教え)を法(教え)のままに実践しました。
そして、法(教え)を問題にして、わたしを悩ますことがありませんでした。
比丘たちよ、樹皮行者のバーヒヤは、完全なる涅槃に到達したのです」 と。
そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を知って、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。
「しかして、そこは、水と地と火と風が依って立たざるところにして、そこに、星々は輝かず、日は輝かず、そこに、月は輝かず、そこに、闇は見い出されない。
しかして、〔真の〕婆羅門たる牟尼(沈黙の聖者)が、寂黙〔の知慧〕によって、自己みずから、〔このことを〕知ったとき、
しかして、形態(色)から、かつまた、形態なきもの(無色)から、楽苦〔の思い〕から、〔彼は〕解き放たれる」 と。
https://blog.goo.ne.jp/waikei2008/e/f4b085b489234df831c8f027eafc7d9a
- 460 :
- 458.迷信である。
輪廻せず、とだれが確認した、か。
- 461 :
- まあ、>>459から受ける印象は、
≪涅槃の先に「永遠の「生」」がある≫
というものにはならんよな・・。
だから、世尊は、説かれなかった。
その説かれなかった部分を、西洋的人間至上主義で構築してるのが、宝珠神智学、とw
何を言われようとも、
やっぱり、宝珠のやっていることは、
「師の握り拳はあった」、そしてそれは「永遠の【生】である」という ≪反縁起≫ としか思えないわけで・・・。
- 462 :
- 今一度確認するなら、
宝珠の言う「我」の永遠(常住、不滅)は、「不老不死」なのかどうか?
かな。
これまでの文言を総合すれば、
「不老不死」で、「個別性、個性があって」、「或る感性・感情を保持したまま」「永遠に持続する」 『存在』
と読めてしまうのだけれども。
- 463 :
- 輪廻は100%ネガティブなものとしてしか捉えられていないものを
肯定的に捉えている段階で仏教の輪廻とは、宝珠神智学輪廻は全く別物ということになる
これはまた儒教化した仏教と別の意味で別物、仏教として何の意味もないという意味で結果的に何ら違いはない
なろう小説の異世界転生モノ的な位置付けw
- 464 :
- まあ、チベット系はもしかしたら多少なりとも輪廻に肯定的な色彩があるのかもしれんけど
輪廻のお陰でダライ・ラマが代々存在してくれるわけで
- 465 :
- 阿呆ww
輪廻転生やら死後世界に生き方の指針(方向性)として焦点が当たるのを仏陀は拒否したんだろうよw
日頃の良い行いは来世で良い生まれとなる種となる〜程度には害もなくむしろ道徳的には
良いかもしれないからある程度は黙認していたんだろうよ。
だが、所詮そんなことは形而上で生きた人間には理解不能の世界だから基本的に無記。
それよりもこの世で執着を無くせと説いた〜という方に焦点を当てるべきだろうよ。
現代においては聖人はおらず、僧侶だろうが偉い政治家だろうが執着の塊の生き方を送っているw
こういうのを仏陀は戒めたのだろうなあww
- 466 :
- 465.阿呆、が言う、ことである。
大爆笑である。
- 467 :
- >>465
お前は低レベル過ぎて全然わかってないんだから喋るなよ
輪廻ってのはわかっていればいるほど恐るべき不可避の問題なんだよ
それは事実を直視できる智慧のレベルを物語る
だからむしろ輪廻を肯定的に捉えて語る人間は妄想塗れでなろう小説的輪廻を口走っているだけということにもなる
仏教では修行を優先せよという意味で毒矢の喩えのような話はあるが
儒教の孔子のように形而上的な話に触れること自体から徹底的に逃げようとする態度とは違う
中国仏教〜日本仏教はそういうところも毒されているかもしれないが
仏陀は怪力乱神も時には語る
- 468 :
- ・ヒンドゥに於ける死後の「みたま」御魂(御魂)
・日本仏教における死後の「みたま」御魂(御魂)
・仏教以前の日本に於ける死後の「みたま」御魂(御魂)
・仏教的世界観が投影された上での日本的死後の「みたま」御魂(御魂)
・儒教的祖霊・先祖・両親祖父母を、そのまま存続させる死後の「みたま」御魂(御魂)
・儒教的祖霊・先祖・両親祖父母への思慕に由来する死後の「みたま」御魂(御魂)
ざっと挙げただけでもこれだけのヴァリエーションがあって、
更に、
戦後の西洋的高等教育に乗っかった科学的視線のバイアスをかけた死後の「みたま」御魂(御魂)
新興宗教、心霊的な「生ける存在」としての死後の「みたま」御魂(御魂)
もっと列挙できるかもしれんがw
これらを一緒くたに、霊魂は〜 とか言いたくない、ってことなんだけどね・・・。
- 469 :
- その意味で、
個別的霊魂、魂、或いは「我」を挙揚する輩は信用できないし、
また、
500%お釈迦さんの系譜ではない!と断言すべきと心底思う・・・。
- 470 :
- 滅することなく生ずることなく(不生不滅)、
(死後)断滅することなく永遠ではなく(不断不常)、
同じではなく異なることなく(不一不異)、
来るのでもなく去るのでもなく(不来不去)、
戯論が寂滅する、吉祥なる、縁起を説いた正覚者(ブッダ)に対し、最高の説法者として、わたしは敬礼する。
(『中論頒』帰敬偈)
- 471 :
- 470.縁起バカが言う、ことである。
大爆笑である。
- 472 :
- なんとか時間を見つけて手元で投稿文を作成している内に、
また、次から次へとあなた方からのデタラメ仏教理論、間違った理解が次々と投稿されるので、
私からの反レス反証の投稿がとても追いつきませんね(苦笑)。
「“アートマンは無い”が無我の教えだ」、「如来ホトケも空だ」、「輪廻転生は迷信であってブッダは説かない」、
「ブッダは葬儀を否定し、また先祖供養も説かなかった」等々...
これらのアホ間違いとデタラメはすべて叩き斬るから!!
どうか、そのつもりでいて下さい!
(尚、>>445 >>452 >>458-459は、
大変良い投稿ですね。
とてもよく勉強されています。素晴らしい!!)
しかし、
「罪を憎んで人を憎まず」(『孔叢子』5段階イニシエート=覚者/孔子)
「罪を憎んでも人を憎まず」(『ヨハネ福音書8章』当時4段階イニシエートの弟子イエスをオーバーシャドウされたMaitreya)
という言葉がある通りで悪気そのものはないのであり、中には真摯に信仰に打ち込んでいる人もいる。
その真剣な想いだけは同じく尊いものと思うから、その誤った論理を斬るだけです。
こちら北海道では8月お盆に突入するということで、
私は、明日が家族でお墓参りの予定となっています。
自宅で勤行後→妻方の菩提寺→妻方実家の御仏壇→実家母方の菩提寺→菩提寺本院→菩提寺→実家の御仏壇
となっていて、なかなかのハードスケジュール。
更には、13日/実家の精霊棚設置と迎え火、14日/実家での棚経参り、16日/菩提寺での盂蘭盆施餓鬼法要の予定でいます。
また、時間をみてまた投稿していきますから、宜しくどうぞ!!
〜皆さんも、
各方面へのお参りや帰省や行楽の移動があるものと思いますが、
事故のないようお気を付けくださいm(__)m
では、楽しいお盆をどうぞ。
- 473 :
- 宝珠は、全体が見えないタイプ、ってのがよくわかるな・・w
>>472
>「ブッダは葬儀を否定し、また先祖供養も説かなかった」等々
これを流布させた大罪人が、中村御大なんだぜ?
彼が岩波文庫で初期仏典なんか出すから、
日本のお坊さん方皆、右へ倣えでインド仏教パーリ仏教へ舵を切った。
ネット上を眺めてみれば、いったいどれほどのページやブログが、
祖師の語録を差し置いて中村訳を引用しまくってるか・・・。
だから、明治以降の仏教学の歴史をちゃんと見ろ、と言っている。 >>宝珠
- 474 :
- >>473
ん? 何が全体をだ!
私は、個々の間違ったアホ理解について批難してるまでのこと。
(まっ、もちろんこれとは別の話として伝統仏教そのものの間違いも指摘させて頂くが...)
んじゃ〜、その経文は中村訳だからが原因なの?
中村訳が間違ってる、とな?
では、別訳だとその経文は中村氏とは全く異なることになるというその事例を出してくれよ。
論点を変えずに、その“葬儀否定、先祖供養否定”についてのね!!
それ.楽しみにしてるから、是非とも。
話はそれからだな。。。
- 475 :
- 法系の企画もあるのに一次元ではねえ。
- 476 :
- >>474
>では、別訳だとその経文は中村氏とは全く異なることになるというその・・・・
お前、オウム事件前の学者連中の態度全無視なのなw
中沢や島田が、「オウムの初期仏教的要素」や瞑想による体験面をどれだけ評価していたか。
(勿論、「世俗を離れ、出家共同生活を送る」という形式は、今現在も禅宗が踏襲しているスタイルではあるが・・)。
中村訳が間違っているから、ではない。
(この時点で、宝珠が、上っ面の文言しか見ていないことが明白なわけだが。)
中村訳によって提示された、
【日本仏教とは違う】【お釈迦さんにより近い】【もともとの仏教】
というスタンスの取り方が、現代的科学的価値観と相俟って、
伝統的日本仏教の改変を誘導した、というjことだよ。
お前は、ほんとに理解力に欠ける。
だから、直接会って話したい、と言っているwwww ノシ
- 477 :
- >>476
YouTube対談ワッフルワッフルw
- 478 :
- >>472
お盆がエンターテイメント化しているのが宝珠教w
- 479 :
- ちなんだプチ情報としては、
お盆や施餓鬼に通じる(―いや、それそのもの―)を仏教という枠内に新設したのが、中峰明本、
仏教(特に禅宗)に、儒教的要素を投入したのが、圭峰宗密。
どういう経緯で、昭和或いは平成の日本仏教が構築されてきたか
を無視して批判する輩は、
大概新興宗教系か、インド仏教に触れたばかりの学部生w
- 480 :
- たとえば、
http://rio2016.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1559901710/の桃とか?w
- 481 :
- まあ、あれは、初期仏教批判でもあるけれど。
- 482 :
- >>476
>中村訳が間違っているから、ではない。
---中略---
>中村訳によって提示された、
> 【日本仏教とは違う】【お釈迦さんにより近い】【もともとの仏教】
>というスタンスの取り方が、現代的科学的価値観と相俟って、
>伝統的日本仏教の改変を誘導した、ということだよ。
あなたはいつも「中村氏の訳は悪い」と批難してきたからね。
だからつい、そういうことと私は受け止めたよ。
分かりました。そういう意味だったのならそれは認めましょう。
それでは、
「ブッダは葬儀を否定し、また先祖供養も説かなかった」というのは誤解であるということを
あなたは認めてるのですね???
そして、日本仏教についてのよく言われてきた“葬式仏教なる批判”とは、
葬儀そのものがダメなのではなく、また先祖供養そのものがダメなのではなくて、
生臭坊主たちに拠る金取が増えて腐敗堕落したことへの批難だということを認めますね?
- 483 :
- >>479
先祖供養がたとえ日本化しようと、
または儒教影響であろうともそんなことは別に問題じゃない。
元々、原始経典において「ブッダからも行うようにと説かれていた」のであればだ!!
特別、トンデモナイ内容でない限りは、別にその形式や様式や諸作法の細かいことは何も問題ではない。
儒教の祖霊崇拝の在り方から良きものを採り入れ、更に日本人の心を加味したのならば良いことと言わざる得ない。
- 484 :
- >>478
日本仏教のお盆とは、
日本人にとっての一大エンターテイメントに違いないから。
一体、どこが変なのか???
おい、
クダラナイ批判してくるのなら覚悟してこい!!
こっちは自信あるぞ!!!
- 485 :
- 例えば仮に、仏教の声明等が寺院の主な収入源になってたとして、(笑)
その節回しを是非を当然、民間の歌謡業者は批判するだろう。(笑)
坊主が「それは仏教の主題ではありません。」と云ったとしてもね。(笑)
- 486 :
- >>472
先祖供養の典拠はこれかな?
「善因楽果・悪因苦果」と「自業自得」という業の原則は絶対ですから、例外はないのですが、 仏教においては「これを超越できる」としています。
それが「廻向」です。
仏教においては、悪業をやっての「罪」は、廻し向けることはできません。
他人に自分の罪をもらってくれということはできないんですが、功徳の方は、他人に向けることができます。
それを「廻向」と言います。
この「廻向」という考え方は、先祖供養という形で、『増支部』「ジャーヌッソーニ章」(アングッタラニカーヤ、V269)にも存在しますから、
なにも大乗仏教に限らず存在した考え方です。
(藤本晃『功徳はなぜ廻向できるの?』国書刊行会参照)
- 487 :
- >>486
簡潔単純に、
“先祖供養を行うよう”にとブッダはハッキリと明言している。
わからなければ後で提示しますよ。
もしも、分かる方は是非それをどうぞ!!
>>479
そもそも「先祖供養」を認めるには、
仏教における業報理論と輪廻、そして当然、肉体亡き後の意識存在について理解していなければならないのだが、
ただ単に、「亡くなった方々やご先祖たちのことを想うその心が、施行者自身の心を清める効果があるのだ」
(「葬儀」も生きている人間側のためのものでしかない--死別の区切として自分の心を切り替える。
または、死者のあの世の生活が良きことを願うその心が葬儀に参加する者の心の浄化となる。等々...)
といった程度のことしか理解できない似非僧侶のあなたには、それが本当にできるのか?
もし分からないでいて、ただ亡くなった方を「供養します」などといって法要を営むのならば、
それは“詐欺”だといってる。
で、そろそろこの経文は理解できるようになったのかな?
この程度の当たり前の内容でもアレコレと突っ掛かってしまうでは話にならないのだけれど...。
『物質的領域に生まれる諸々の生存者と非物質的領域に住む諸々の生存者とは、
消滅を知らないので、再びこの世の生存に戻ってくる。』(Sn.754)
- 488 :
- https://i.imgur.com/xTuXXsW.jpg
- 489 :
- >>484
もしかしてイベントとエンターテイメントの違いもわからずに言ってるの?
エンターテイメントと言い切っておきながら、>>487のこのセブンへの批判とどう両立するのかw
- 490 :
- まあ、言葉を間違えていたとしても、実際のところ、各種宗教行為をコスプレ的にエンターテイメント化したのが宝珠神智学教と考えると辻褄が合うかもねw
- 491 :
- 487.先祖供養、か。
それは、自分の延長である。
だからして、それは、自分の延長である先祖を崇拝する、ことである。
バカでもできる。
大爆笑である。
- 492 :
- 【社会】京都仏教会 拝観料など「キャッシュレス決済」に反対
https://www.grade.tokyo/article/post-5395.html
- 493 :
- >>491
いや、親をはじめとする尊属先祖を敬うという、
「人として当たり前」(畜生道者ではそうでもない)
ができない率が多い民族には
社会ルールとして上から形の上で強制するニーズがあるんだよ
心の中から発露しないからこそ
バカではできない
だから学校の先生の前で優等生ぶるように号令として唱え儀式化する
バカが外側に対してバカではないフリをしたがる
それが儒教ニーズの尺度
- 494 :
- 大体、武士が実権を持つようになった時代あたりから、国のトップが親兄弟間で血で血を洗うような連中なわけだから、必然的に儒教ニーズの素地が出てきた
朝廷が、疫病などの窮民救済を願って国分寺を建立したりして仏教布教を推進した、公家トップの時代性と違ってきてしまった
- 495 :
- 後者の観点での施餓鬼会には仏教的には大いに意義がある
前者の観点で盆行事に意義があるのは儒教的意義だと思うね
- 496 :
- 先祖が偉い人だから自分も、その余徳がある、と思うバカである。
バカでも理解できる理屈である。
だからして、そんな具体的な内容を基準とする、からバカと言われる。
宗教は抽象的である、ことによって、その価値がある、ことになる。
- 497 :
- >>476
>中村訳によって提示された、
> 【日本仏教とは違う】【お釈迦さんにより近い】【もともとの仏教】
>というスタンスの取り方が、現代的科学的価値観と相俟って、
>伝統的日本仏教の改変を誘導した、というjことだよ。
そうそうww その通り!w
大体、セブンが何を焦ってあれこれ書いているのか、そのこと自体が哀れだ。
中村元氏の岩波文庫で仏陀の教えを読む人間はこれからも増える一方で、それに対して
日本の習慣的な「亡くなった人間の戒名代』やら「葬儀の読経代として支払われる
高額な布施」にも「いかがなものか?」と今後益々注目も集まるだろうw
だから、そういう仏教はこれからは「不要」と見做されて、形を変えてこれからは生き残る
のかもしれないw
仏陀の言う通り「条件=縁起」により世界は成り立っているというのはこの意味では
正しいのかもしれないww が、しかしwww
比縁性の縁起論など量子力学の現代においては却下されるww
- 498 :
- つか、
紐も宝珠も、
まずは日本仏教史を(少し細か目にw)把握してから、云々してほしいもんだ・・・ orz
- 499 :
- 量子力学は大乗仏教(特に中観と唯識)と親和性があるとされる
龍樹の空の哲学について 現代宇宙論。素粒子論の先駆者としての、。
https://ncode.syosetu.com/n1608en/
量子論と仏教
https://www.toyo.ac.jp/uploaded/attachment/7982.pdf 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be20a4887bc3d3353f527d3636c44e3)
- 500 :
- 瞋痴学も個人主義も量子物理学も、
仏教とは全く違うベクトルの話。
上っ面が似てると親和性があるんなら、「仏教とキリスト教は同じ」なんてのも正しい事になるわ。(笑)
(^。^)アホかと。(笑)
- 501 :
- >>500
「親和性がある」というのと「同じ」というのは違う
- 502 :
- >>501
その通り。
親和性があるからといって、 「同じことが説かれている!」 ということにはならない。
- 503 :
- しかし、
親和性につられて、
全く違うものを同一視する愚者が、ネットにはたくさんいる、と。
在家とか宝珠とか宝珠とか在家とか。
- 504 :
- そう言えば大川隆法が勝手に諸宗教の聖人を騙ってどうこう言うのと、
宝珠神智学が諸宗教の聖人をあれはイニシエート何段階どうのと言うのと
両者には確かに親和性があるw
- 505 :
- すなわち、コスプレ宗教エンターテイメントw
- 506 :
- だから、違うベクトルで、上っ面が似てる事が有っても、
(瞋痴とか個人主義とか量子物理学とか)
親和性が高いとは言えないんだっての。(笑)
瞋痴と仏教では何一つ「結合反応」なんかしてないだろ。(笑)
量子物理学とも同じ事。
似たような話がありますよってだけで、何一つ「結合反応」してないでしょ。(笑)
(^。^)物理学側がそうした期待をするのは仕方ないが、仏教側が言う台詞じゃあないよ。(笑)
- 507 :
- フォイエルバッハとヘーゲルを読め。
そこにしか、悟る方法がない。
バカには理解できない。大爆笑である。
- 508 :
- >>507
そこにしか?
ならば、当のヘーゲルやフォイエルバッハ自身はどうやって「悟った」というのか?
- 509 :
- 508.良い問題である。
答えを付けて返せ。
それが作法である。
- 510 :
- >>468
>これらを一緒くたに、霊魂は〜 とか言いたくない、ってことなんだけどね・・・。
誰が? 「仏教徒は」か?
>ざっと挙げただけでもこれだけのヴァリエーションがあって、
どの宗教がそれを何と呼んでいようとも関係がない。
同一のものをそれぞれの宗教が自分たちの伝統や理解に沿って別の呼称をする。
当たり前の話だ。呼称が違えど同一のものなら何も問題ない。
関係ない。
>>487
追記:
>この程度の当たり前の内容でもアレコレと突っ掛かってしまうでは話にならないのだけれど...。
所詮、つまり、
小学低学年レベルで高等学校〜大学大学院が理解できるのかどうかだ!
心霊一つすら理解でない程度の人間には到底、無理な話だということ。
勉強してから鯉!!w
- 511 :
- >>489
>もしかしてイベントとエンターテイメントの違いもわからずに言ってるの?
あのだね...お盆とは供養であり、
そして、普段はバラバラの家族が故郷に帰って来て久しぶりに一同が集まる楽しい一時です。
家族団らんで一同揃っての墓参りやお仏檀参り、そして、ご家族揃っての食事会や盆踊りなどの行事参加。
中には連休中に行楽のお出かけと向かうご家族もいるでしょ。
これらのすべてが日本のお盆なのです
(この家族一同の楽しい時間のすべてがご先祖の喜ばれることだ)。
それは日本の一大イベントであり、楽しい一大エンターテイメントであることにまったく間違いがない。
(供養目的ではないが、あと一つは年越し正月が日本人の故郷大帰省だな)
その他にあるのか??? ん?
- 512 :
- >>498
>日本仏教史
そんなもの関係ない。自分たちを正当化するでないぞ!!
戒名を金額で差別化し、100万円にて最高度の戒名を授けるという生臭坊主を追いだせということ。
「離檀料を払え!」と脅すヤクザ紛いの詐欺師を叩き出せということだ。
自分自身が“死者たちの死後意識”を信じないくせに、
遺族らの死者を供養するといって法要を営み
布施を貰ってる生臭坊主どもすべてを一人残らず永久追放しろといってる。
こちらの話はそういうことだから!!!
セブンもこれ以上罪障を背負う前に
僧侶資格を自ら返上することを奨める。
(研究はご自由だが、あなたは僧侶には向いてない)
一日も早いほうがイイ。
>>500-506
仏教と同じである必要がない。
すべての人間が仏教徒になる必要もない。
どの宗教からも前進が可能、個人によっては解脱(完成)も可能だ。
問題はその本質であって、形態や様式や伝統ではない。
では、あなた方に問う!
仏教発生以前の過去仏(過去七仏の六仏たち)は“何教で解脱したか”を言え!!!!!!
おい承狂!!、
自称元プロの僧侶なんだからあなたが代表して答えてみなさい。
こんなもの時間かけないで即答でヨロシク!!!
- 513 :
- >>512
追記:
あなた方は、
カトリック以外を認めず異端派(同じくキリスト教なのだが)ですら、
大勢を火あぶり拷問で惨殺したきた彼らと、
イスラム以外は認めず、すべてをイスラム教徒にしたがり、
異教徒たちはすべて皆殺しして構わないのだ(異教が悪いから)とする奴らと近い?
唯一の違いは非暴力か?
- 514 :
- >>512
あのねぇ、「仏教と同じ」必要性だなんて誰も言ってないでしょ。
「親和性が高い」とはどういう意味か理解出来てない連中に意味を教えてやってるの。(笑)
全く話を理解せずに自分勝手な話を捏造して、その妄想に腹を立てて、他人様に説明を求めるとか、(笑)
完全に頭のおかしな人ですよ。(笑)
因みに過去の七仏さんが「何教で解脱したか」なんて問も馬鹿げてるし。(笑)
そして、教えてほしいのに、呼び捨てにして「答えろ!」なんて態度も非常識ですよ。(笑)
(^。^)瞋痴に酔い痴れてますなぁ。(笑)
- 515 :
- >>512
それむしろ霊感商法的脅しをかけてるのあなたの方ですわ
承狂師にでも霊視してもらって狐か狸かの霊に憑かれていないか鑑定してもらうがよろし
てか仏敵にマインドコントロールされてる説だったよね
もっと小物だったのかも
お盆のお供え物を頂いていた狐狸の類とかw
- 516 :
- >>506
ベクトル関係なし
オリンピックとSNSは親和性が高い
この場合もオリンピックとSNSは元々のベクトルは違う
- 517 :
- >>506
「量子論は仏教の教えと同じ」ダライ・ラマ14世が感動解説! “シュレーディンガーの猫”も一致、科学と宗教が統合へ!?
https://www.excite.co.jp/news/article-amp/Tocana_201705_post_13173/
あんたダライ・ラマを馬鹿にしてんの?
- 518 :
- >>517
量子論による物理モデルが龍樹の空論と合致するとして
それで人が解脱できるとでもいうの?
まさしく毒矢の喩えに該当するじゃん
- 519 :
- >>517
ダライ・ラマ氏はチベットのボン教と仏教が混ざってるラマ教の人だから、
日本の密教とは違う系譜というだけで、
別にバカにはしてませんよ。
(^。^)あと、願望を込めて「親和性」云々というのは個人の自由ですが、それは願望でしかありませんので。(笑)
>>516
それは、「結合反応」つまり、互いに影響しあって経済的相乗効果やイベントとして互いに盛り上がってるという意味でしょ。(笑)
仏教哲学と量子物理学で理論的影響がどちらかに起きてないんだから、「親和性が高い」なんて言えません。(笑)
(^。^)だいたい、ダライ・ラマさんは、金さえ貰えばカルト教祖とも握手するような人だし。(笑)
まぁ、政治家としては当然なんだがね。(笑)
- 520 :
- >>518
「(1959年に)難民としてインドに来て、私は科学者を含むさまざまな分野の人々と話し合いの機会を得ました。
そして30年前から宇宙論や神経生物学、物理学、量子力学、心理学に焦点を当てた一連の対話を行っています。
専門家とのディスカッションはお互いにとってとても有益なものになりました」
(ダライ・ラマ14世)
>>517のサイトより
- 521 :
- >>515
御盆にそーゆー話はしなさんな。
(^。^)寄ってくるよ?(笑)
- 522 :
- >>515
霊感商法というのは金取目的だ。
この私がいつ、誰々から金銭を要求しました?
そして、霊感商法というのは社会悪であってカルトです。
まずは、カルトの意味を理解してからここに来な!!
http://houjugusya.web.fc2.com/cult.htm
この私の主張は何ら仏典の記述とは相反しない。
今は出かけるところで時間がないので、もしも相手して欲しければあとでおいで。
- 523 :
- >>521
宝珠さんに寄られました(テヘペロ
- 524 :
- >>519承狂
おい.法王猊下の悪口はやめておけ!!
ダライ・ラマはレベルが高い。おまえらじゃ〜とても相手できない。
不徳を積むから止めな!!!
- 525 :
- >>523
詰め寄り、ね
- 526 :
- 宝珠もだが、(笑)
仮にも亡命政府代表の立場の人を呼び捨てとか、
一体、何様のつもりなんだろうね?(笑)
(^。^)代弁者気どりかな?(笑)
「バカにしてんの?」って此方の台詞だよ。(笑)
- 527 :
- >>519
https://i.imgur.com/VlHf5wB.jpg
はい、ボン教関係なし。
アンタの言ってることは逆も然りですよ。
僕は量子力学と仏教に親和性はないと思うし、将来にわたって影響しあうこともないと信じている、と個人的願望で語るならこちらも何も言いません。
世間には
>>499に書いた通り量子力学と大乗仏教の親和性(相性の良さ)を示して論文を書く学者もいますし、ブログを書く人もいます。
アンタは一々その見解を否定していくのかな?
ちなみに物理学と大乗仏教ならすでに反応が出ていて、E=mc2を説明するのに色即是空で説明する物理学の先生は結構いるとのことw
まあ何にせよ自分の考えが絶対に正しく自分は人に教授する資格がある、だなんて思わないことですな。
>>518
もともとは>>497の最後の一行へのレスを>>499でしたことから始まったネタなので。
まあ>>499でアンカ打たなかったのはこちらの手落ちで、それで混乱を生じさせたとすれば失礼しました。
- 528 :
- >>526
>>519
>(^。^)だいたい、ダライ・ラマさんは、金さえ貰えばカルト教祖とも握手するような人だし。(笑)
どちらが何様のつもりなんだろうね、呆れるわ。
- 529 :
- >>527
だから、物理学側が願望として「親和性が高い」とするのは仕方ないと書いたし、
政治家として、カルト教祖と握手するのも当然だと書いたでしょ。
君らのような仏教側のふりをして中論を単なる物理話にすり替える連中を否定してるのであって、
チベット亡命政府代表には何の含みもありませんよ。
呼び捨てにしたことも無いし。(笑)
(^。^)あと、チベット仏教は、仏教とボン教が混ざってる宗教ですよ。(笑)
- 530 :
- >>529
>君らのような仏教側のふりをして中論を単なる物理話にすり替える連中を否定してるのであって、
ここに論理の飛躍があるね。
思い込みが激しい人なのかな?
- 531 :
- >>517でダライ・ラマ氏を錦の御旗として出しといて、「僕は仏教側のふりしてません」とか言い出すんですか?(笑)
権威主義的に間違いを指摘出来たつもりだから「バカにしてんの?」と書いたんでしょ?(笑)
(^。^)それとも善意の第三者気どりですか?(笑)
- 532 :
- >>531
>>>517でダライ・ラマ氏を錦の御旗として出しといて、「僕は仏教側のふりしてません」とか言い出すんですか?(笑)
意味不明。
誰がいつ仏教側のふりをしていませんとレスしたか明確にしてきするように。
>>497
>仏陀の言う通り「条件=縁起」により世界は成り立っているというのはこの意味では
>正しいのかもしれないww が、しかしwww
>比縁性の縁起論など量子力学の現代においては却下されるww
俺のは上の497に対して量子力学と大乗仏教は親和性が高いとして、その根拠となるサイトを幾つか提示しただけ。
アンタが量子力学と大乗仏教には親和性がないと考えるのは勝手だけど、親和性(ここでは相性の意味)があると考えてる人も沢山いてダライ・ラマもその一人ということ。
そもそも仏教側に立ってなければ497に対して意見などもしないよ。
早とちりせずにレスの流れを読むように、読むのが面倒なら頓珍漢なチャチャを入れないでくれ、面倒だから。
- 533 :
- >>532
>誰がいつ仏教側のふりをしていませんとレスしたか明確にしてきするように。
訂正
>誰がいつ仏教側のふりをしていませんとレスしたかのように見えるのかレス番示して明確にしてきするように。
もっもと指摘しなくても別に構わないけどね。
アンタの人間性はだいたい見えてきたし。
レスの応答をしていくだけ泥沼にハマるみたいだからね。
- 534 :
- >>527
縁起はそもそも自然科学現象のこととはカテゴリー的に関係ないのに
それを前提に勝ち誇る紐の低レベルなたわ言の相手しなくてもいいんじゃね?
ほとんど「サンタクロースなんていねーんだよ」とか言って他の年少幼稚園児に勝ち誇ってる年長さんレベル
もちろんサンタクロースが「本当はいるんだいっ!」って言い張ってる人も約一人はスレにいるんだけどw
- 535 :
- 親和性があるからといって「お釈迦さんは量子力学を説いていた!」
などと言い出す輩がいることを、しょきょは、(ワシもだがw)憂いているわけさ。
宝珠もまた同様。
外見似てたら同一人物かよw っていうくらい、
奴も同じように血迷ってるから。 >>ALL(&>>532)
- 536 :
- >>534
ほ〜ぉww 仏陀の縁起は自然科学ではなく非自然科学であると?ww
これまた、珍しい説を唱える阿呆がいるものだwwwwwwwwwww
世の中の現象の事を全て外せば非自然科学と言えるかもしれないが、それで
その「縁起」は何を語っているのか?
お前頭悪すぎだからもう書かない方が良いぞww
書けば書くほど恥をかくだけだw
- 537 :
- 恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥
恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥
恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥
恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥
恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥
恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥
恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥
恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥
恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥
恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥
恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥恥φ(。_。*)カキカキ
- 538 :
- セブン、
日本仏教史どころか、
仏陀は自然科学者だ
とか言い出してるよ紐がw
どこの科学史のページに仏陀の縁起説が自然科学の研究成果として載ってんだろ?
- 539 :
- ついでに言えば、>>469
500%なんてないからww これまた阿呆の言い方w
何だ?500%って?
ダライ・ラマに関してはお抱えの調理人を連れて外遊し肉しか食わない〜
という話が事実なら仏教徒とは言えないだろうなあ。
托鉢で混じっている肉を食べるのは構わないが、自ら進んで肉を嗜好して
それしか食わない〜というのは駄目だろうよ。
仏陀は自分の説くところを「信仰」しよ〜とは言わなかっただろう。
来て見てみよ〜。の人だ。これを自然科学から外す神経が仏典の読み方
としていかがなものか?とは思うわなあw
まあ、いずれにせよ阿呆なんだから書けば書くだけ阿呆の上塗りだw
- 540 :
- >>539
自虐ネタかよwww
- 541 :
- >>535
>外見似てたら同一人物かよw
見た目だけではなく、肝心なのはその中身の本質だ!
逆にあなた方こそ、ただの見た目だけのウワベだけの浅はかな判断しかできてないでしょ。
>>538
自然科学ではないけれども、
現象界(自然)の性質とその本質について述べたものが縁起の教えであることに間違いがない。
そして、ニルヴァーナ(涅槃)とアートマン(及びブラフマン)だけがこの縁起に拠らないものだ。
まっ、この私の目から見れば、
この今の投稿者の中ではパーピと紐だけが飛びぬけて先頭を進んでる。
後の全員は残念ながら、五十歩百歩のどんぐりの背比べ状態で遥か後方を亀の歩みだ。
- 542 :
- >>526承狂
>仮にも亡命政府代表の立場の人を呼び捨てとか、
> 一体、何様のつもりなんだろうね?(笑)
はぁ?
私はちゃんと「法王猊下」と御呼びしたでしょ!!
これ以上の尊崇呼称はない。
「ダライ・ラマ」という呼称自体が、
大海を意味するモンゴル語の「ダライ」と、師を意味するチベット語の「ラマ」とを合わせた意味の“称号”であり、
チベット仏教界の最高位の化身ラマを指すものだ。だから、普段は「ダライ・ラマ」云々と呼称して話をしても
(これ自体が敬意を表する呼称なので)何ら問題ではないから。そして、チベットではまた、「クンドゥン」などとも呼ばれている。
もちろん直接、呼掛けるような場合には、「ダライ・ラマ猊下」「ダライ・ラマ法王猊下」、
もしくは単に「猊下」「法王猊下」などと及びするでしょう!
本名(ラモ・トンドゥプ)や法名 (テンジン・ギャツォ)を呼び捨てにしたのとはわけが違うから。
>>529承狂
確かに、
チベット仏教は土着信仰のボン教との融合なのだろうけれども、
それは日本仏教が神仏習合の長い歴史を抱きつつ、神道からの良きエキスも取り込んだのと意味的には大して変わらない。
まっ、いずれにせよあなたの過去からの発言から見て、ボン教含みだからとチベット仏教を軽視しているのは明白だ。
しかし、この私の目からは現存する仏教諸派の中で最も優れているのが彼らチベット仏教であり、
そして、世界中で最も優れた意識を持っている僧侶がダライ・ラマ法王猊下だ。
それから、あなたが馬鹿にしたくてしょうがない「神智学」についても、
現・仏教僧侶の中で最もこの神智学に理解を示されているのもダライ・ラマ猊下であり、
神智学運動に対しては大きな御協力を頂いていることをここに附け加えておく。
- 543 :
- >>514承狂
>因みに過去の七仏さんが「何教で解脱したか」なんて問も馬鹿げてるし。(笑)
いやいや意味不明。
あなたは伝統仏教以外は断固として認めず、私の主張についても個人仏教のデタラメと嘲笑する。
ましてや、他の宗教などはすべて非真理に過ぎないという立場でしょう!
だから、仏教発生以前の過去仏は一体、何教の教えによって解脱したのかを説明しろといってるのです。
それとも過去仏の話はあり得ない嘘だとでもいいたのか?
全然、馬鹿げた問いなんかじゃない。矛盾がないならば明確に回答できる筈。
しかし、ホントあなたは他の方々からも指摘されてるように精神が腐ってるな。
まだ七セブンは、ある意味で自分にとても正直で真っ直ぐだ。そういう意味ではとても真面目な姿勢にある。
けれど、あなた(の精神の不誠実さ)はいったい何なんだ!!!
それに、
ここ最近はまた随分と元気を取り戻したものだね。
ついこの前まであなたは、泣きべそかいて姿をズ〜とくらましてたんじゃなかったっけ???
あの時、この私に何ていってか忘れたようだから、それをここに公開しておくね!!
>へぇ?(笑)
>釈尊は「真実の自己の追求と具現の必要」なんて説かれたんだ?(笑)
> (^。^)釈尊の説いた教えとしてデタラメを言うだなんて、宝珠も堕ちたもんだ。(笑)
>じゃあ、釈尊は当然、弟子に「仏陀は本当の自己の追求方法を説く」と何度も強調して説かれたんですね?
>「サトリとは、本当の自己の実現である」と。
>(^。^)へー、仏教ってそんな教えだったんだー。
> 「言説不可得」だなんて意地悪なデタラメだったんだー
で、すぐにあなたの無知が私によって露呈されてこのザマでしょ!!!
どう? 思い出しましたか???
https://rio2016.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1548698413/581-583
>>542
訂正:
×「及びするでしょう!」
〇お呼びするでしょう!」
- 544 :
- >>543
また得意の脳内変換か。(笑)
(^。^)お前らには付き合いきれんよ。(笑)
- 545 :
- >>541
> この私の目から見れば、
> この今の投稿者の中ではパーピと紐だけが飛びぬけて先頭を進んでる。
それ、本人たちにとって名誉なことなのか、むしろ……
- 546 :
- 545.悟れないバカバービマンである。
バカ宝珠も同じ仲間である、か。
大爆笑である。
- 547 :
- 今日は昼に狐の嫁入りに遭ったわw
- 548 :
- >>542
>この私の目からは現存する仏教諸派の中で最も優れているのが彼らチベット仏教であり、
>そして、世界中で最も優れた意識を持っている僧侶がダライ・ラマ法王猊下だ。
そして、
過去スレ四巻 583
>私は、龍樹がブッダの教えの最高の理解者であるとか、
>『中論』はブッダの教えと同じであるとしてはみていません。
>むしろ逆であって、ただ勘違い者を増やし続ける迷惑なものであって弊害ばかりの産物です。
>従って、私は『中論』の記述をブッダの教えの根拠としてみていないし、まったく評価もしていません。
これ、ダライ・ラマやチベット仏教徒に対して言ったら、どう思われるんだろう?
色々と首尾一貫してなくて、支離滅裂な気がするんだよね。
要するに、エキノコックス獣よろしく、虎の威を借るためにダライ・ラマやチベット仏教を出してるんじゃ?
- 549 :
- >>548
瞋痴に「理解を示して」「協力」してるそうだから、ダライ・ラマ氏は宝珠同様に何らかの普遍の存在や輪廻転生してる個人主体を認めてるんじゃないかな?
そーゆー話だよな?(笑)
(^。^)ハリウッド映画を引用するまでもなく、西洋人のイメージする仏教ってそんなのだし、
亡命政府代表としては、当然仏教云々よりもチベット存続の方が重要なんだよね。
こうした汚い現実によって、同氏が活佛という文化を廃止しようとするのもやむを得ない話だろうね。
- 550 :
- 要するに、チベット仏教以外の他宗派に対して権威を振りかざすためにダライ・ラマやチベット仏教の名を出す
その実、中観思想のことは馬鹿にする
地面師が他人の土地を使って巨額詐欺事件を起こすのとどう違いがあるというのか
Wikipedia
>ブラヴァツキーは……、活動の場をインドに移してからはヒンドゥー教や仏教の教えを多く取り入れた。しかしそれらの東洋思想の理解には限界があり、……
>西洋のインド思想・仏教の理解は誤解に満ちており、理解できない部分を「西洋思想」で補って解釈しているため、
>「カルマ」や「輪廻転生」などの解釈は引用元のものとは相当に異なる。
Wikipedia
>近代〈神智学〉では、東洋の哲学・宗教の多くの教えが改変されたが、特に「輪廻転生」の理論は根本的に改変され、元来の教義からはるかに遠ざかっている。
要するに偽物・紛い物・捏造品ということじゃん
Wikipedia
>フレデリック・ルノワールは、「仏教はそこでは、根本的に西洋的な、わけてもキリスト教的な伝統の刻印を残したままの教義を表現するための、一種の口実でしかなかった」と述べ、
>神智学協会が主導した企てを「自身の教義の本体や自身の神話をでっちあげるために仏教を横取りする」意図的な同化の企てであると批判している。
地面師確定!
(文句・反論はWikipediaにどうぞw)
- 551 :
- セブンなんかは、
エキノコックス星人が支離滅裂なのを見て、
理解力が低いからとか、実情をよく知らないとか、
そういう憐れみの心から色々と教えてやろうと10年以上も対話を続けてきたのかもしれないけど
実際、支離滅裂なのは、要するに、
権威を利用するため
中身は馬鹿にしてるんだから
もともと他人の土地で金を騙し盗ろうとしているわけだから
全く整合性がないのも、むしろ当然、意図的なものだったと
それが実はエキノコックス星人個人の問題ではなく近代神智学の伝統だったと
日蓮宗が開祖から排他的なナショナリズム体質でありそれが創価に至る現在まで受け継がれているように
イスラームが開祖からジハーディストでありそれが現在に至っても原理主義者のテロリズムの種となっているように
- 552 :
- >>548-551
今は時間がないので放置しておくけれど、
あなた方がこの私(宝珠)の見解と相反してぶつかり合う時、
その原因のすべてがあなた方側の“無知”に原因がある。
それ以外にはあるか?
そして、無知な者というのは
自分が無知だから私(宝珠)の見解に反発してしまうのだということを理解できない。
そして必ず、己の無知を棚上げしておいて相手側を非難してくる...。
それが“無知”というもの。
山の頂上からは下がよく見えて、そこまでの道程と状態を把握している。
しかし、まだ遥か下を登っている最中の者には山頂までの道程と山頂からの眺めを知ることは決してできない。
そうではなかったことがあるのか?
いや、ない!
勉強してから鯉w
- 553 :
- エキノコックス星人さん、スレ民たちをジャングルジムから睥睨するの図
そりゃ腐卵投げつけられても仕方がないw
- 554 :
- 片山先生も奈良先生も水野センセも森センセも
馬場センセも村上センセも前田センセも
高楠センセも平川センセも、
み〜んな無知かw
何様か、つー話でね・・・。
- 555 :
- >>554
この私の仏教理解は仏教学的根拠に拠るのが殆どだと何度もいっている。
その指摘を認めないのがあなた方でしょ?
簡単なことです。
大基本、まずは仏典の記述に従え!
それができないのならば、自称仏教徒を名乗るな!
仏教の看板は外せ!!
私は、仏典の記述に従ってないのが伝統仏教だといってる。
そして、七はその伝統仏教のレベルすらも従わない愚か者だということだ。
ある意味では、紐のいうように部分的には伝統よりも自己の見解に従ってるとは言えるけれどw
以上.
- 556 :
- w
私の意見は、(細部はともかく、、大枠で)
イコール片山先生奈良先生水野センセ森センセも
馬場センセ村上センセ前田センセ
高楠センセ平川センセ
なんだけどね・・。
これらと大枠で相反してるのが貴方ですよ。 >>555
また少し落ち着いたら、逐文レスしてあげるから。 ノシ
- 557 :
- >>556
いやいやもう結構ですよ。七セブンよ!
そうじゃ〜なくて、あなたもそろそろここ(このスレ)を去る時がきてるのではないのかい?
『物質的領域に生まれる諸々の生存者と非物質的領域に住む諸々の生存者とは、
消滅を知らないので、再びこの世の生存に戻ってくる。』(Sn.754)
まずは、
これくらいは理解できてからここにおいで。
これすら分からない者にそれ以上の話は絶対に無理だから。
この当たり前の小学生レベルの常識中の常識くらいはだ!
でないと、私はとても相手できないな。
以上だ.
- 558 :
- 取りあえず、
TV番組「ぶっちゃけ寺」の内容で苦情(いつも神社ロケと戦国武将ばかりの内容に対して)をテレビ朝日に送信した。
そして、これから仏教界に対して、
仏事作法から着火物のマッチを根絶してガスライターで統一、一本化できないものかを進言する予定。
何故なら、大アマゾンの森林破壊を少しでも食い止める必要があるから。
この大破壊の主な原因は、日本人の割り箸の使い捨て、爪楊枝、そしてマッチ棒だからだ。
あなた方もアホなことはかりでなく、
どうしたら世の中が少しでも改善されるかを考えるべきです。
- 559 :
- >>557
それは、一代と一緒に、
細部まで明確に、
一在家の読みが誤読だと論証した筈だが? 流石鳥頭、忘れるの早いなwww
- 560 :
- https://www28.atwiki.jp/buddha/pages/21.html
- 561 :
- >>555
地面師詐欺、看板ドロボーの外道にそれを言われてもーw
内道者同士でしかそんな批判は有効じゃないよ
- 562 :
- 昨今の流行で言えば、
ガスライターの方が、
石油製品・プラ製品として罪が重くなるかもしれんがなw
つか、
割り箸にしろマッチにしろ(塔婆にしろw)、間伐材等、
「必要と思われる伐採で生じた木材でもある」という側面は無視か・・。
いつもながら視野狭窄だな・・・ >>宝珠
ま、そんな中、こんな呟きもあるが・・・
https://www.zourin.com/2016/07/09/kanbatu/
- 563 :
- ガスライティングが好きなんだろうねw
詐欺師だけに
- 564 :
- >>558
> 何故なら、大アマゾンの森林破壊を少しでも食い止める必要があるから。
> この大破壊の主な原因は、日本人の割り箸の使い捨て、爪楊枝、そしてマッチ棒だからだ。
アマゾン森林破壊日本人(それも割り箸・爪楊枝・マッチ棒限定)主犯説wwwww
https://www.hopeforanimals.org/environment/211/
>森林破壊の主因は牛だ。伐採の70%近くが牛のための牧草地に変わっているという。
- 565 :
- エキノコックス星人さん、尻尾見えまくりwww
- 566 :
- 武田邦彦氏によれば太陽光発電は無駄であり、スーパーのレジ袋有料化も無駄との意見でw
総じて日本のエコ政策は全くダメとの御意見だ。(また彼は地球温暖化は全く問題ない〜とも
言っているw)
まあ、宝珠がいくら頑張っても仏典からアートマンの肯定を導き出すのは無理だろうなあ。
我の所有物は例え我が体と言えども我が物ではない〜のならば突き詰めて我は無い〜
となるのが仏教の無我だろう。
だが、いくら無我とは言えどもそれは死んだ後の世界の事で生きている間は我は間違いなく有る。
これを「空」だとか分かったようなことを言う阿呆は実は何も分かっていないw
- 567 :
- >>566
ジャングルジムの王者のライバルくん来たね。
その低レベル理解での「我」は繰り返し再生されちゃんだよね、残念でした〜w
- 568 :
- >>566
アートマンではなく五蘊仮和合による自己は無性であるが故に空性である
- 569 :
- 昨夜は満月に合わせて、MY施餓鬼供養を終了!
そして、本日は菩提寺での盂蘭盆施餓鬼大法要への参拝参加、最後に自宅で精霊棚の片付けと送り火となっている。
どう? ここに集うペーパー仏教徒よりは遥かに日本仏教徒らしいでしょうがw
とにかく、
適当にアシラッテいるとあなた方はすぐにつけ上がるから、
最近は、思い直して徹底的に間違いを叩き潰すことにしたからw
それが逆に、あなた方のためになるものと思うのでね...。
>>564
かつてはアマゾンの樹木伐採の主な原因に日本の割り箸が上げられていたものですが、どうやらそれは何十年か前の古い話だったよう
です。それについてはここに訂正します。
しかし、アマゾンではなくても日本が何十年以前から世界における木材輸入大国の殆どトップ〜3位だったことは事実であって、要す
るに充分にある国産の森林からではなく、実に木材の80%を発展途上国から格安(場合によっては違法による)の木材を大量輸入してきた。
そして、フィリピンの森林を伐採し尽くしてから、今度はインドネシア、マレーシアと取引の相手を変えてきたのです。割り箸は間伐材
を使用しているから木材を無駄にしないエコ利用だと思っている人も多いのでしょうが、現実には殆どすべてが中国から輸入された割り
箸を使用しており、中国の工場では原木(間伐材ではない)から日本行きの割り箸を製造しているのです。
ということで、マッチ棒も使わない済むならば、やはりそれに越したことはない筈です。
- 570 :
- >>562
確かに、ガスライターよりマッチ棒の方が伝統的な和式仏壇には雰囲気としてはマッチwしてるようには見えるけれども、しかし、
ただそれだけのことであって、それ以外はただの弊害しか生んでいないものと思います。
先にまず森林破壊のことを上げましたけれど、その他にも、マッチは亜硫酸ガスが生じて人体に有害(近年は改良されているタイプ
もある模様)です。また、マッチはボヤボヤしていると火が近づいてきて指の火傷も起きやすく、それからマッチ棒の使い捨てがいち
いちゴミとなっている。そして更には、使用済みマッチ棒によるボヤ火災の原因にもなるのでといいところがまったくありません。
日本中でなされるお盆や彼岸の習慣と毎日の仏壇参りでこのマッチの使用からライターへと切り替わるならば、その効果は大きいも
のと思います。僧侶からそのように指導しないから、大衆は“お参りというものはマッチでなければならない”ものだと勝手に思い込
んでいるのです。だから、マッチの需要がいつまでも無くならないのです。
もちろん必要な伐採があることは理解もするし、それについては承知しているけれども、しかし、別に無くても困らないもののため
の伐採がなくなって、その分の樹木が助かるのであればそれに越したことはないでしょうが!
ガスライターには“補充タイプ”もあるし、また仏檀向きのデザインタイプすらかなり出回っている。それから、プラスチックとい
うものは“再利用”も可能であるし、地殻内からの原油抽出(プラスチック製品への変換製造)の行為そのものは生きた樹木の森林伐採
ほどの害悪ではないと思いますが...。
- 571 :
- それから蛇足になるけれども、この私は若い頃には林業へと携わっており、山々に分け入って植林〜チャンソーを握って除伐〜間伐
をしてきた。そしてまた、製材工場にも勤務して丸太から製材加工〜チップ製造を経験してきた。一応、いっておくけれども普通は、
植林〜間伐という作業は人口林のことなんですよ。要するに、勝手に人間が利用する都合によって商業的な種類の木だけを植えてそれ
を管理してるのです。だから、大自然のアマゾンの樹木保存などとはまったく意味合いが異なる。それらの商業植林などでは決して自
然の森林復活とはならないから。失ったら最後、決して取り戻すことはできない。
それから一応、私は高野山の森林を維持保全する活動も支援しています。
- 572 :
- >>559-560
ホント.糞坊主だなぁ〜w
いやいや.だからそうじゃ〜なくて、
あのね...悪いけれども、在家さんなんか(何でもアートマン視する癖)とこの私を一緒にしないでもらえます?
そして、そんなもので勝ち誇られては困るから。「消滅」とは「涅槃」のことだなんてのは百も承知なの。
その一代の解説すべてはこの私の見解とはまったく無関係だから!!
どうやら、やっぱり分からないようだから面倒だけど、ちゃんと説明しますよ!
『物質的領域に生まれる諸々の生存者と非物質的領域に住む諸々の生存者とは、
消滅を知らないので、再びこの世の生存に戻ってくる。』(Sn.754)
だから、「再びこの世の生存に戻ってくる」といってるでしょ。当然、これは輪廻における転生のことであり、来世の生まれ変わりを
いっている。その来世に転生してくるものは二つのタイプだと説いているのです。その一つは当然、今の我々であり、肉体を持って生存
している人間のことです。そして、これから生れて来る子供たちのすべてです。そして、もう一つはこれが特にあなたに分かって欲しい
部分なのであって、それが「非物質的領域に住む諸々の生存者」のことですよ。
(意識が在って)生きているのだけれど、それは“非物質的領域”で生きているといっている。これが何かをあなたは理解してるのか?
と、この私はいってるわけだ。
先に、輪廻において来世に転生してくるこの現世(それが「物質的領域」)での生存者のことをいったのだから、もう一つは当然、死後
において“肉体無き後の霊存在”のことをいってるのです。あなたのレベルではトンチンカンだろうけれども、一応、簡単に説明してお
くから、今度こそしっかりと覚えるように!
人間の意識レベルというものは大きく四階層となっていて、その第一は普通に生存中の通常意識のこと。第二は死後にも一定期間残存
を続ける意識。そして、第三に輪廻主体(基体)である「魂」(jIvAtman/ジーヴァ)があり、更には第四として、究極である縁起しない恒
常にして永遠の「真我/パラマートマン」(paramatman)、通常、ウパニシャッドでいうところの「アートマン」。
- 573 :
- 神智学分類とヒンドゥーでの呼称はこの通りです。
【神智学】
「1.エゴ(自我)」-「2.マナス/アストラル体(情緒想念形体)」
-「3.アートマ/ソウル(魂)」-「4.モナド/スピリット(霊)」
【ヒンドゥー】
「1.アハンカーラ」-「2.プラーナマーヤコシヤ(カーマローカ)」-「3.ジーヴァ」-「4.アートマン」
このSn.754での再び転生してくる非物質的領域に生存している存在とは、当然、第二階層のアストラル想念形体であり、これが異常
状態にあるとその領域に永く留まることになってしまう。それがカーマ・ローカであり、一般においては幽霊や心霊存在だということに
なる。これを仏教では「餓鬼」といっているのです。質問があるならば、いくらでも説明しますよ!
だから、あなたは仏教の看板を偉そうに掲げているけれども、私と議論するようになってあれから十年を経て、そろそろこの心霊存在
くらいは理解できるようになったのか?と、聞いてるのです。
まだ、分からないなら、それ以上の難しい話をしても理解できるわけがないでしょう。ということをいってるわけだ。
どう? わかった??? もし、まだ分からないんだったら仏教の看板をせっせと下ろすか、
ボヤボヤしないで何処かへ勉強に行け!
- 574 :
- 宝珠愚者のころは、もう少し他人の話を聞いてたように思うが、本当に因業爺になったよなぁ。(笑)
仮に、人の本質が魂みたいなものとしてだ。(笑)
それは生物進化のどこで肉体に寄生するようになったんだね?(笑)
我々の本質は寄生虫みたいなものだと、本気で信じてるのかね?(笑)
釈尊は、修行者には常に煩悩を払えと説かれたが、
瞋痴の珍説が本当なら、釈尊は弟子にワザと解りにくい説明しかしなかったと、
釈尊は性格が悪かったんだと、そう言いたいのかね?(笑)
或いは瞋痴が上だとでも?(笑)
(^。^)畜生道を行くのも一興だろうが、他人様に迷惑を掛けちゃあ、ダメだよ。(笑)
- 575 :
- 572.573.バカ宝珠の迷信を述べたものである。
大爆笑である。
救いようが無いバカ宝珠である。
大爆笑である。
- 576 :
- >>548
>これ、ダライ・ラマやチベット仏教徒に対して言ったら、どう思われるんだろう?
>色々と首尾一貫してなくて、支離滅裂な気がするんだよね。
>要するに、エキノコックス獣よろしく、虎の威を借るためにダライ・ラマやチベット仏教を出してるんじゃ?
その『中論』についての評価はこの私個人による仏教理解であって、神智学とはまったく関係がない。神智学側からは仏教に対しては
何ら批判するものではなく、すべてに対して敬意を表するでしょう。そのことに間違いがない。
この私はチベット仏教を高く評価しているし、ダライ・ラマ法王猊下のことは心から尊敬している。実際、猊下のことは35年以上も前
から最高の仏教僧として敬意を申し上げてきた。2015年には、ダライ・ラマ法王14世来日法話 『般若心経・菩提心の解説・観音菩薩の
許可灌頂』の講演チケットを購入して拝聴した。また、最近は猊下の生誕〜インド亡命までの半生を描いたドキュメンタリ映画『Kundun』
のブルーレイを購入して、すでに3度拝聴している(素晴らしいものなので1度、家族にも一緒に見てもらった)。
私の評価としてはまちがいなく、ダライ・ラマ法王猊下が世界中における仏教僧侶の中のトップレベルに進化した方であると思う。我々
のグループから提供されたMaitreyaのメッセージからも、全世界はダライ・ラマ法王とローマ法王の二人の声にもっと耳を傾けるべきだ
として称賛されています。そして、法王猊下からはいつも神智学運動については暖かいご理解とご協力を頂いています。神智学協会の創立
者であるブラヴァツキー著『沈黙の声』は、パンチェン・ラマ9世からは菩薩道の理想を正しく解説したものとして、また法王猊下からは
初版百年記念にて言葉を寄せて頂いており、この本を高く評価して頂いています。
- 577 :
- 『ダライ・ラマ法王は、2011年7月17日にワシントンD.C.からシカゴへ移動後、「信仰の架け橋(Bridging the Faith
Divide)」と題して神智学協会が主催する2日間のプログラムを行なう予定。』
(ダライ・ラマ法王、ワシントンD.C.にて長寿祈願法要とオバマ大統領会談/ダライ・ラマ法王日本代表部事務所)
http://www.tibethouse.jp/news_release/2011/110803_WashingtonDC.html
しかし、だからといって、法王猊下が神智学の内容すべてを理解しているとは私は思いませんし、決してそうではないでしょう。猊下は
神智学運動による世界平和への貢献活動を喜ばれているのです。そして、私個人の見解としては、ダライ・ラマ法王とてただの一仏教徒で
あり、その理解は伝統仏教の枠を超えたものではないということ。つまり、仏教の説く「一切」についての理解を間違っており、「空」を
誤解していると(私は猊下の著書も所持している)。もちろん、『中論』についてもその他の仏教徒たち同様、素晴らしいものとして絶賛され
ていることでしょう。
ということで、この私の理解とは異なる部分はあるけれども、それでも法王猊下の素晴らしさがそれで霞むことはないということ。チベッ
ト仏教徒とダライ・ラマ法王のレベルが高くて、神智学とも親和性が強いことの理由の一つが“シャンバラ”の理解にあるのだというのが私
の見方です。シャンバラというのは完成された超人たちの住む永遠なる理想郷であり、彼らはこのシャンバラの実在を強く信じているのです。
何故なら、歴史的にシャンバラの物理的な影響化と霊導が伝統チベットにはあったからなのです。このシャンバラの超人達が全人類を見守り、
そして、導いていることを。それから事実として、人類の歴史における科学の発展と世界中の伝統宗教の発生に関わってきたことを知ってい
ます。尚、神智学の場合は彼らの持つ伝説伝説レベルなどとは違って、シャンバラと人類との関係の事実についてその詳細を知っています。
あなた方も仏教徒を自認するのであれば、このシャンバラについては知っておくべきです。
- 578 :
- >>549承狂
>こうした汚い現実によって、同氏が活佛という文化を廃止しようとするのもやむを得ない話だろうね。
いやいや.そんな勝手なデタラメをいわないで貰いたいね。
https://www.sankei.com/world/news/190715/wor1907150021-n1.html
あくまでも中国共産党によるチベット侵攻と実行支配の影響下において、
決して紛争を望まれない法王猊下は、もしもダライ・ラマ継承制度が問題であるというのならば
これの存続維持には固執しないということをいったまでです。
ただし、チベット国民がこれを必要とし、それを望んでいるのならば、
自身は恐らくインド国内において次の15世として転生するだろうということ。
中国政府が勝手に指名する偽15世などは、決して誰も後継ダライ・ラマ法王として支持しないということ。
>>550-551
>その実、中観思想のことは馬鹿にする
>
>中身は馬鹿にしてるんだから
いや、別に馬鹿になどしていない。
『中論』も真理について述べたものだということはこの私も認めますよ。ただし、それはゴータマ・ブッダの教えとは異なるということ
です。ゴータマ仏は決してあのような勝義諦の、すなわち一元論などというものは説かなかった。「輪廻と涅槃に違いがない」などとは説く
ことがない。縁起している輪廻現象である「有為」とは異なる世界が「無為」なる涅槃であると、ハッキリと述べているのが『ウダーナ』
ですから。
そして事実、弊害を産むような読まれ方ばかりされているのが『中論』なのです。仏典があれば、『中論』などは不要です。あなた方は
天才ナーガールジュナによる高度な文面を目の当たりにして、ただ手放しで称賛している。ただそれだけです。これをブッダの教えの最高
の理解者などというアホなことをいう者が多いから、正直に「ブッダの説いたものとは違う」と指摘するまで。
それからいつものように繰り返しいっておくけれども、ブッダが『ウダーナ』において違うと明言された通り、「涅槃」も、そして、そこ
に住する完成者たる「如来」も「空」などではないから。
- 579 :
- >「カルマ」や「輪廻転生」などの解釈は引用元のものとは相当に異なる。
>近代〈神智学〉では、東洋の哲学・宗教の多くの教えが改変されたが、
>特に「輪廻転生」の理論は根本的に改変され、元来の教義からはるかに遠ざかっている。
>わけてもキリスト教的な伝統の刻印を残したままの教義を表現するための
だから、私は最初から何度も神智学は仏教ではないといってる。
仏教はブッダによって2500年も古い時代に説かれたものであり、そして、永い年月において内容も変質した。しかし、神智学は違う。神
智学はゴータマ仏とは異なる覚者によって、この近代に直接提供されたまったく新しいものです。従って、それは本来のブッダの教えを含め
た、そして、更にこの時代に相応しい新しい内容がそこに加味されている。
現在、これを超えるものは世界中どこを探しても決して見つけることはできない。ただ何も分かってないアホ評論家どもが、勝手に仏教
やその他の諸宗教から都合のイイところだけを拾い集めた紛い物だというのです。
>わけてもキリスト教的な伝統の刻印を残したままの教義を表現するための
いやいや.冗談じゃないから!
神智学から見て、もっとも真理から遠いのがキリスト教だ。
神智学普及運動の最大の敵者(邪魔をしてくる)が彼らキリスト教徒たちです。
ブラヴァツキーはクリスチャンの洗礼を受けていたが、教会には無関心であり、キリスト教を信じることはなかった。
そして、若い頃の彼女が敬意を抱いて心から憧れを持ち続けたのが仏教徒になることだった。
その理由は当然、ブッダの教えを奉じるものだと見なしていたからに他ならない。
そして事実、その後に彼女はスリランカ仏教にて受戒を受けた。
- 580 :
- >それが実はエキノコックス星人個人の問題ではなく近代神智学の伝統だったと
>
>>574承狂
>釈尊は弟子にワザと解りにくい説明しかしなかったと、
>釈尊は性格が悪かったんだと、そう言いたいのかね?(笑)
>或いは瞋痴が上だとでも?(笑)
仏教、その他を馬鹿にしているということはない。
唯一の違いはただ一つ。神智学以外の世界の諸宗教は発生から膨大な時間を経ており、内容が変色しているということ。
しかし、神智学は違う。本物のヒマラヤの覚者方からこの近代において直接に伝授された教えです。
従って変色がまったくないということ。だから決定的にそこが違う! その違いが大きい。
>>556
都合よく「センセ」利用してるのは七ではないのか?
多くの仏教学のセンセたちが伝統仏教の無我の間違いについてハッキリと指摘してることを再び羅列してあげましょうか!
全員、同一内容で完全に同じ発言をされているというのに...。
- 581 :
- >>571
え? 林務課の人?
聞きたかったんだけど 高野山で伐倒する時は供養的な事はするんですか?
- 582 :
- >>580
「バカにはしてない」けど、「内容が変色し」たのか。(笑)
つまり、「内容」である釈尊の教えを、仏教の先達が正しく伝えてない、「変色させた」という事だが、
それは「バカにはしてない」と。(笑)
(^。^)なるほどねぇ。(笑)
で?
我々人類はホモサピエンスに寄生してんの?(笑)
それとも生物すべてが似たような寄生虫に利用されてんの?(笑)
(^。^)対人恐怖症の白色なんたら団さんは何て説かれてんの?(笑)
- 583 :
- >>574承狂
>宝珠愚者のころは、もう少し他人の話を聞いてたように思うが、本当に因業爺になったよなぁ。(笑)
進化したのか、それとも退化したのか?
ただ老化が進んだことだけは間違いない。
白髪もシワも増えましたわw
>仮に、人の本質が魂みたいなものとしてだ。(笑)
>それは生物進化のどこで肉体に寄生するようになったんだね?(笑)
>我々の本質は寄生虫みたいなものだと、本気で信じてるのかね?(笑)
はい、神智学の説くところによれば、
肉体人間に魂が投下されたのが1850万年前のことでした。
肉体というものは所詮、魂にとってはただの乗り船に過ぎません。
使い物にならなくなれば、また新しい船を見つけるまでまでのこと。
こうして、魂は経験を獲得していくのです。それが意識の進化です。
そして、一定基準のゴールに達すればその必要はなくなり、転生は止む(涅槃)。
完成者はすべての乗り船とその人生を思い出し、その記憶は再び失われることはありません。
ダライ・ラマ法王も幼少時までは先代13世だった時の記憶を保持していました。
そのことは映画の中にもよく描かれています。その様を見ていた側近たちにとり、
それはまさに疑いの余地のないダライ・ラマ転生の事実そのものでした。
>>582承狂
>それとも生物すべてが似たような寄生虫に利用されてんの?(笑)
人類は個別の魂による転生をしていますが、それ以外のすべての動物界は、
そのすべてが一括りで巨大な一つなる「超魂/オーバーソウル」と繋がっており、まったく個別化していません。
人間は個々の経験が個々の成長となりますが、動物界の場合には一つの生命体の生存活動による経験情報はこの超魂へと吸収されます。
そして、すべての動物界における生物の誕生時においてこの超魂からまた1個の“動物魂”が入魂していくことになる。
進化のドアはすでに閉ざされたので、類人猿といえどももう決して人間に進化することができません。
>(^。^)対人恐怖症の白色なんたら団さんは何て説かれてんの?(笑)
表の歴史舞台から秘密裏に働かれてきた『聖白色同胞団』ホワイト・ブラザーフットの存在ね。
シャンバラの命を受けて活動する完成した超人とその限られた高級弟子チェラによって構成された秘密組織です。
- 584 :
- >>581
いえ、
ただ地元の北海道で森林組合の作業員として業務に就いていたことがあるというだけです。
製材工場もただの社員として働いただけ(工場では、高野山真言宗僧侶と一緒に勤務していたけどw)。
高野山の事情について私はよく知りません。
ただ、世界遺産/高野山の樹木保存と植林のための寄付に参加してるだけですから。
知っていることは精々、高野山での林業作業者というのはその殆どの人が、
高野山奥之院の特別製、『弘法大師身代御守り』を大切に身に付けて働いてるのだということ。
そして、廃材もすべて無駄にすることはなく、
そこから腕輪念珠などを作成する分なども回したりしています(当然、これは僧侶が祈祷)。
- 585 :
- 熱帯雨林の伐採は今ではバイオマス燃料の資源としてが主目的。
環境に優しいはずのバイオマス発電が環境破壊を引き起こしているという矛盾。
政府はバイオマス発電への補助金制度はやめた方がいいですね。
空というのはブラフマンアートマンのような起源となるものではなくむしろ逆で自性がないことを指すので、空とは一元ではなくゼロ元です。
全ては縁起による事象であるというのが空の意義です。
そこには何も起源となるものはありません、実体はないのですから。
ウダーナで説かれている涅槃は否定形でしか説かれていません。
要するに涅槃には何かあるのではなく具体的なものは何もないのです。
識別作用を滅却させたところにあるのが涅槃だからそれも当然かと思います。
それは龍樹の無分別智と等しいと思います。
また涅槃な入れば如来は永久不滅だ、などということもブッダは説きませんでした。
むしろあちこちの経典で如来の死後について弟子や外教の修行者から尋ねられた時も一貫して沈黙を貫いていました。
- 586 :
- まあ取り敢えずw
>>572
>『物質的領域に生まれる諸々の生存者と非物質的領域に住む諸々の生存者
ってのは、「三界における「欲界・色界」と無色界」にある者のことじゃねーの?
凡夫であり(修行途上であり)、再生の因をいまだ有している者のことじゃねーの?
だから、
≪『涅槃を知らない(見ていない)者』(悟り得ていない者)は、再び生を受ける≫
という文章なんだろ?
だからこそ、その相対として、
≪『涅槃を知る(見た)者』(悟り得た者)は、再び生を受けることはない≫
となるのだろ?
ここで、言われているのは、 悟ってねー奴は戻ってくる、悟った奴は戻ってこない ということだけ。
(アートマンだか真我だか知らんがw)悟ったけど戻ってくる奴はいないの。
だから、寂滅と言われるの。だから、ウダーナ8のように「手の付けられない領域」としてしか描写されないの。
※勿論、三界の分類やそれぞれの「具体的在り様」については別の議論を持ってもよいが、
上記Sn754・755は、
≪『涅槃を知らない(見ていない)者』(悟り得ていない者)は、再び生を受ける≫
≪『涅槃を知る(見た)者』(悟り得た者)は、再び生を受けることはない≫
というシンプルな話。
- 587 :
- >>585
>ウダーナで説かれている涅槃は否定形でしか説かれていません。
>要するに涅槃には何かあるのではなく具体的なものは何もないのです。
だから、それが真実の自己、求めるべき自己、
従うべき自己、完成された自己...についての教えがそうでしょう。
そして、それ以上のことは説かれなかった。
https://rio2016.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1548698413/581-583
>また涅槃な入れば如来は永久不滅だ、などということもブッダは説きませんでした。
>むしろあちこちの経典で如来の死後について弟子や外教の修行者から尋ねられた時も一貫して沈黙を貫いていました
それは、間違いだらけで迷信含みのバラモンたちと同じでいいと勘違いされたくないからですよ。
>>586
とにかく.素直じゃないなぁ...。
肉体無き後の意識生存体について教えている経文はまだまだあるというのにか?
しかし、あなたそこまで詭弁奮ってブッダの教えを否定してると、
ホントに不徳を積むよ!w
では、もう寺院に向かう支度があるでさいならです。
- 588 :
- >>583
多分、自分達が何を言ってるか理解出来てないんだろうなぁ。(笑)
お前ら、自分自身を架空の寄生虫扱いしてんだぞ?(笑)
大脳生理学とか、ロボトミー手術の臨床例とか、ちょっと調べれば、そんなバカな話見破れるだろうに。
それに「動物は」「個別化してない」とか、犬とか猫とか飼えばそんな事はあり得ないと判るだろうに。
ヒドイ話だね。
魂の重さを計ったとか言い張った奴も、「動物には魂がない」とかほざいてたが、
キリスト教系統の連中は本当に人間以外の生物を単なるモノとしか見ないよなぁ。
(^。^)あと、チベットのは君らのいう転生ではなく、化身だからね。(笑)
確かに先代の記憶があるというケースが殆どだが、次代の子供を生前に決めたケースも有るんだよ。(笑)
- 589 :
- >>588
しょうきょうたん、久しぶり。
で、マジ質問なんですが、空海著、般若心経秘鍵
で、
あのないようは、空海は顕教の学習も大事という意味で示している面もあるんですかね?
- 590 :
- 586.涅槃を知ると、再び生を受けることはない、か。
バカが言う、ことである。
その涅槃は、単なる心理的事実でしかない。
それで、生を受けない、とバカなことを言う、バカ宝珠である。
大爆笑である。
- 591 :
- >>584
普通の皆伐でも社長の子供が集材機のワイヤーに弾かれて頭蓋骨やったり その弟が病死したりとか有って やっぱり巨木の伐倒には供養が必要なのかな?と 辞めた今でも時々考えたりするんですよ
高野山のは樹齢数百年の御霊木ばっかりだし あの何かに見られてる雰囲気の中で古木の伐倒なんて 何か供養法でもやらないと出来ないかなって…
- 592 :
- >>589
だから、俺に聞くなよ。(笑)
習ってる人に聞きなっての。(笑)
(^。^)本当に、一体何をしているんだ、お前は。(笑)
学校でお勉強してるんじゃあないんだぞ。(笑)
- 593 :
- w
私も
>間違いだらけで迷信含みの神智学と同じでいいと勘違いされたくないから
こうして喋り続けているのですよ。 >>587
半歩譲って、肉体無き後の意識生存体(仏典用語で言えば「無色界にある者」ということになろうが)が、
『具体的生き物』として認められたとしても、
それと有我は全く無関係。永遠の生命なんて御伽噺とも無関係。
十何年の間、私の文章の、いったいどこを読んでいたのやらw
読解力の無さは天界一品だな。
何度でも何度でも何度でも言う。 ウダーナ8を読めていないのは貴方だ、宝珠。
- 594 :
- >>579
だからこのスレの我々にではなく、天下のWikipedia様に文句でも言ってねと断っておいたのにw
- 595 :
- >>593
そこで無色を出すあたり、本当にアレだなぁと。(笑)
俺ならアレでアレだからアレなんだぞと、ハッキリ引導渡すんだが。(笑)
(^。^)因みに「不老不死」ならベニクラゲとかヒドラとか、普通に自然界に生息してますが。(笑)
それに仏教でも、(笑)
- 596 :
- >>579
>だから、私は最初から何度も神智学は仏教ではないといってる。
仏教ではないのに、神智学のなろう小説的輪廻転生観を持ち出す。
仏教スレに仏教の純正な輪廻観を突き付けて、セブンらに僧職としての瑕疵を問うのならまだわかる。
しかしエキノコックス星人のやっているのは、同じ輪廻というラベルはついていても、お供え物のお饅頭の中身が泥団子にすり替えられたみたいな、偽物・紛い物・捏造品を食べろと迫るもの。
仏教徒に輪廻を認めさせたいのなら、外道のなろう小説的輪廻転生観ではなく仏教の純正な輪廻な輪廻観を正しい(そして外道の輪廻観は否定して)としなければならない。
そうでないと「他人の土地を使って代金を騙し盗ろうとしている地面師」と同じ詐欺行為なんだよね。
- 597 :
- >>583
これが泥団子ねw
- 598 :
- >>577
> あなた方も仏教徒を自認するのであれば、このシャンバラについては知っておくべきです。
知っておかねーよw
チベット仏教限定の話であってそこは仏教のエッセンスそのものじゃないだろ
それこそ、中国・日本仏教の儒教要素の部分をそれこそが仏教にとってエッセンシャルなものだと主張するのと同じ
地面師詐欺ばっか
- 599 :
- >>579
> ブラヴァツキー…はスリランカ仏教にて受戒を受けた。
チベット仏教かぶれなのかスリランカ仏教かぶれなのか、どっちなんよ?
地面師的には実際のところ中身はどーでもいいから、一貫性なくて平気なわけだなw
- 600 :
- >>572
うん、セブンも解説してくれているけど、572も泥団子w
- 601 :
- >>588
「キリスト教嫌い」という点では、本当は、承狂師の立ち位置の方がエキノコックスたんと「親和性がある」気がするんだけどねえw
なんであんなに承狂さんに対して喧嘩腰なんだろうかとw
- 602 :
- >>585
実体のないものだからいくらでもホイホイ湧き続けてしまう、再生し続けるってだけなんよね
それはそこが色界・無色界かの別を問わない
実体を前提として、それが輪廻して存続するというのはなろう小説
- 603 :
- >>596
瞋痴のような「輪廻転生」観は、「なろう小説的」ではなく、現代日本、というか現代西洋人の「輪廻転生」観ですよ。
ハリウッド映画のゴールデンチャイルドとか日本の漫画とかを見ればわかりますけど。
>>599
「この不毛を乗り越えて スリランカ」で検索すれば出ますが、瞋痴はスリランカ仏教と因縁があります。
復興成立時から詐欺団体と係わってるのがアソコ。(笑)
スリランカのキリスト教による四世紀以上の統治の影響については先述済。
(>>329)
>>601
同じのは、オカルト側というだけで、瞋痴はキリスト教系統で俺は東洋の系統だからね。(笑)
まぁ、瞋痴はキリスト教系統という自覚がないから余計ね。(笑)
(^。^)宝珠は人格者らしいから、決して俺が煽ってるのを怒ってる訳ではない、だろう?(笑)
しかし、御本人以外は皆がキリスト教系統だと思ってるのになぁ。(笑)
- 604 :
- >>603
現代日本人の輪廻転生観にふくめる形で、人口に膾炙してなろう小説と呼んでますw
あと、まあスリランカ仏教は元がタイ仏教だったりミャンマー仏教だったりすると考えて評価するなりすればよろしいのではないかと
そのコメントでエキノコックスたんに言いたかったのは、仏教諸派間でもかなり両極に位置するチベット派と上座派の間で神智学はどう整合つけるのかね?(毛頭ないんでしょ?)とw
- 605 :
- >>604
なろう小説読者としては、異議あり!(笑)
>>578にあるように、宝珠は「中論は不要」という人ですよ。(笑)
あと、寺和田さんは「人生は無意味」と公言してる連中ですので、伝統的な上座とは分けて考えてあげてほしい。(笑)
(^。^)そんな簡単な話じゃあないと思うよ。(笑)
- 606 :
- >>605
んーまあ、経験値が引き継がれるシステムとかは菩薩道の波羅蜜システムと見れないこともないですけどねw
基本はチートシステムですよね、あれはw
楽変化天あたりとリンクしている世界なのかな〜
- 607 :
- 確か、霊魂(生命の実体)が肉体と別個に有るや無しやの話も十無記の一つ
常見だと別個にあると考え霊魂は存続すると見、
断見だと肉体死とともに命は尽きると見る
いずれも無記の対象
要するに仏教的には不適切な観点によってそもそもの問いが発せられていると見るべきもの
- 608 :
- https://dic.nicovideo.jp/a/%E3%81%AA%E3%82%8D%E3%81%86%E7%B3%BB
なるほど。
皆さんが何を言ってるのか知りませんでしたが、納得w >なろう
神智学に限らず、昭和以降の新宗教系はコッチでしょうね。
(そしてヨーロッパアメリカ、キ教系なれば、尚のことその傾向は強くなりそう)
その意味で言えば、(詳しくは見てないが)創価も、その出発時は良き方向性だったかもしれない。
今の創価は池田教、と。
その他、明治大正期の新興宗教系も、時代背景や人々の生活環境・レベル等を考えれば、
発生も必然なら成長拡大も必然だろうな・・、と。
まあ、
そういう俯瞰視線で見れば、
神智学系の「人間中心主義のキ教土台の思想」が、
「個人の尊厳や権利、或いは自由、或いは夢」を重視する近代的人間観に立脚したインテリゲンチャの間で流行するのも
むべなるかな・・と。
で、そうしたインテリにとって、神智学的枠組や種々の枝葉要素は、(ロープレゲームの設定の如くw)
実に魅力的で、自分らの願望をかなえてくれそうな輝かしい物語に見えることだろう。
- 609 :
- >>587
ブッダが般涅槃した如来の死後について
―如来は死後に存在し、かつ存在しない―、あるいは―如来は死後に存在するのでもなく、かつ存在しないのでもない―
というといに答えなかったのは、勘違いされたくなかったから、ではなく不確定なものであるから、と答えています。
長部ポッタパーダ経でブッダが遍歴行者ポッタパーダの問いへの答えとしてそう語っています。
https://komyojikyozo.web.fc2.com/dnskv/dn09/dn09c06.htm
- 610 :
- 一方仏教は、
真面目な人間からすれば、途方もなく困難な無理ゲーなわけでw
だから、大乗的ムーブメントが必要だったし、
日本でなら、念仏唱名系の存在意義ってのはでかいわけでね・・。
そもそもがハイレベルなのだから敷居が高くて当然なわけだが、
じゃあ、敷居に足が届かない人間は敷居の前で苦悶してろ!
というわけにもいかないわけで。
敷居を低くするか、踏み台を用意するか、手段は色々としても、
いずれにしても、誰もが越え得る敷居である必要が要請され続けたというのも、
仏教史の一側面かもしれない・・。
- 611 :
- >>608補
だからこそ、大拙は西洋的価値観(→個の尊厳・霊性)に対抗すべく、
従前の仏教的世界観に西洋色を被せねばならなったし、
彼の、東洋思想(→日本仏教→禅)の宣伝は、
(漱石が身を以て感じ、克服しようとした)西洋化と伝統との葛藤と相似する。
また、はるかに進んだ西洋に追いつかんとする、無意識裡の近代化欲求が、
仏教や禅の解釈し直しにも繋がっていることは否めない。(それはおそらく釈宗演にしても同じだろう)。
大拙が、そうした想いに包まれている中、神智学系の思想は、
実に魅力的なツールに見えたことだろう・・。
良くも悪くも日本は、西洋的価値観の過剰投与によって後遺症を負っている。
- 612 :
- まぁ、禅宗がどう擁護しようが、
相手を見ずにベラベラと垂れ流したのには違いないし、(笑)
チベットが政治目的に仏教を利用したのも史実だよ。(笑)
インドでヒンドゥに追い出されたのも史実だし、初期の中観派が論で勝っても物理で負けたのも多分史実だろう。
(^。^)俺は数十年考えたが、どう考えてもキリスト教系統に呑まれる未来しかないと思うよ。(笑)
- 613 :
- >>612
それは、
或る一面―「個の尊厳、権利、自由(反束縛)、夢(希望の実現(恣意性・欲望の肯定))」―を、
人間社会の必然と、人類の未来像への必須要件とするなら、
避け得ないかも。
勿論、上記のスキームそのものが西洋的であり
(―今話題wのブータン的価値観と比較して優劣を問うことは野暮としてもw―)、
目指すべき唯一の理想形と設定するのもまた、洗脳&習い性かもしれんけど。
- 614 :
- >>613
https://nasublo.com/2018/10/18/%E5%AE%9F%E3%81%AF%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%81%AE%E5%A1%8A%EF%BC%81%EF%BC%9F%E9%9B%A3%E3%81%97%E3%81%84%E8%A8%80%E8%91%89%E3%82%92%E4%BD%BF%E3%81%84%E3%81%9F/
- 615 :
- >>610
輪廻を前提とすればそのような焦りは必要ないんだけどね
波羅蜜次第
必ずしも今生での結果にこだわる必要はない(修行を怠る言い訳にしてはいけないが)
ある段階で輪廻が「前提」ではなく「信じる対象」となった
大乗が発生した
- 616 :
- 輪廻を前提としない潜在意識を持った人間が
「在家主義」などとほざいて上座・僧籍を目の敵にするわけですなw
- 617 :
- 犬には仏性がない。
人間にも仏性がない。
なんでか。
無字の公案である。
- 618 :
- 16日/菩提寺での盂蘭盆施餓鬼法要は参拝者が少なかった。
日照りが強くて暑いのに加え、この後に台風の接近で大荒れとの予報があったからだと思う。
ともあれ無事に、寺院法要と送り火と精霊棚の片付けが済み。
そして、帰宅後の自宅で再び御霊膳と三宝の野菜盛りを捧げての御法楽を以て、
なんとかこの夏のお盆の行事をすべて終了しましたm(__)m
>>574承狂
>宝珠愚者だった頃は、
せっかく総本山から頂いた有難い名前なので使わせてもらっている。
「愚者」だった頃よりはその分、少しくらいは進化したかと?
ダメか? 名前だけじゃ〜変わってないかw
- 619 :
- >>599
>チベット仏教かぶれなのかスリランカ仏教かぶれなのか、どっちなんよ?
>地面師的には実際のところ中身はどーでもいいから、一貫性なくて平気なわけだなw
>>604
>仏教諸派間でもかなり両極に位置するチベット派と上座派の間で神智学はどう整合つけるのかね?(毛頭ないんでしょ?)とw
教義的上における神智学との親和性と類似性の高さという意味において、そして実際上、この日の僧侶たちの意識レベルの進化
度合いからみて高評価しているのがチベット仏教。そして、一般的に見て現存する仏教諸派の中で尊敬するブッダの教えに最も近
い状態を維持してきたという意味でのテーラワーダです。別に何も、それはスリランカ仏教でなければならないということではない。
そして、その後にスリランカ仏教の消滅の危機を救うためにブラヴァツキー夫人と共に授戒を受けたもう一人の神智学協会創立
者だったオルコット大佐がここへと一人残って、残りすべての生涯を捧げてスリランカ仏教復興のために尽くしたのです。
オルコット大佐は、今日でもスリランカでは英雄であり、彼の銅像が建立されてスリランカ仏教復興の父として讃えられている。
ブラヴァツキーもここで一緒に残りたいという想いがあったのだけれど、神智学を世に広めるという一大使命があったのでそのこ
とをオルコットにいわれてヨーロッパへと戻ったのです。
ちなみにあなた方がいつも拝する日本の各寺院での法要イベントで必ず掲げられている「仏旗」というのは、オルコット大佐が
キリスト教の十字架に匹敵する全世界的な仏教シンボルの創設を願って、仏典の中から発案して国際会議で採用されたものであり、
日本には実際、オルコット大佐が京都仏教協会からの招聘で来日した際(二度、来日した)に持ち込まれて今日、広まったものです。
- 620 :
- >>619
訂正:
×「教義的上における--中略--この日の僧侶たちの」
〇「教義上における--中略--今日の僧侶たちの」
- 621 :
- >>615
その台詞は両刃。
今は、どうしようもないんだから、我慢して苦しんでおけ、ってことでしょ。
そりゃ、「来て、見よ」と言われているのだから、
「来れない」者は論外なわけだけどw、
その「来れない者」達に、どう安心(あんじん)を与え得るか
を模索した祖師方が居たことには敬意を表したい・・。
- 622 :
- >>621
んー、外道のエキノコックスコンコンチキが何か言ってるのかなあ?
輪廻を信仰ではなく前提として、その上で波羅蜜、己の積んだ業次第と捉えれば、極めて平等な、自分の(過去世からの)業がストレートに報われるシステムってだけ
まあ外道には当然、そもそも輪廻にしろ何にせよ元から歪んでるし、「歪めてる」から、外道自身にとっては、両刃なわだろうなw
歪めた前提で評価して「だからしゃーない」ということにして、それを前提として別のベクトルを作るのも勝手だし、それはまたそういう歪めた業にふさわしいように宿命も形成されていく
というのが業論てもんだでw
- 623 :
- >>622
その点(仏教は実は冷徹っての)には同意だがw、
それで済まないのが、人の世(娑婆)であり、
安居が始まったのも、僧伽へ入るのに条件が増えていったのも、律が煩瑣になっていったのも、
全部、人の世(娑婆)との兼合いなわけで。
個人的には、〔仏教は、本質的に「門前払いをする」宗教である〕、と思っているけれども、
四弘誓願の素晴らしさを考えれば、
〔門戸は常に(―既に!―)開かれていて、入る者拒まず去る者追わず、歩みの遅きも責めず〕
でもあるべきだろうな・・と。w
- 624 :
- >>623補足
>〔仏教は、本質的に「門前払いをする」 ・・・
たとえば宝珠・在家・隠居・カラス・桃・紐・・・etc.とか?w >門前払い
- 625 :
- >>621補足
>今は、どうしようもないんだから、我慢して苦しんでおけ
こういう言い方の内容ではないけれど、
以前からずっと指摘しているのは、
「見返り、平等、苦労に対する報い・評価・報奨」を切望しているのが、
新興宗教系であり神智学だ、ということなんだけどね。
輪廻や、肉体無き衆生を認めることに、それほどの躊躇はない。
が、
現状の不公平不平等苦悩をトレードの如く相殺させるために、輪廻を設定する姿勢には、
断じて賛同できない。 ただそれだけ。
現成の不満の解消ツールとして、トータルで利益を得ようとする姿勢は、株のトレーダーと何が違うのか?とw
- 626 :
- >>591
はたして、それらの事故が関係があったのかどうは私には確認することができませんけれども、
しかし、私もそのような異変が起きても何も不思議はないと思いますよ。
巨木の場合は魂が宿るといいますが、やはりマズイかと思いますね。
こちら北海道でも、木を切った者が次々の不慮の事故で変死を遂げる有名な恐ろしい切株があります。地元では知らない者はいません。
この切株は今も残っていますけれど、あまりにも祟りが酷過ぎて遂に根こそぎは断念、国道はこの木を避けて不自然に曲げられています。
仏典にも樹は霊樹としてとても多く登場してきますね。
特に、「仏教三霊樹」や「仏教五木」とされるものがよく知られています。
ブッダが悟りを開かれた時に瞑想で座られていた場所(金剛座)の巨木がブッダガヤの菩提樹
(ピッパラ樹、いわゆるインド菩提樹)で、なんとこれは今でも巨木して元気に茂っている。
悟りを楽しまれるための瞑想はまた別の霊樹で、亡くなる時にもまた異なる霊樹の傍でした。
仏陀説話にまつわる聖樹の数々
http://www.ts-kaneko.net/?p=914
丸井 浩解説「ブッダ最後の旅」に学ぶB入滅への決意
http://h-kishi.sa kura.ne.jp/kokoro-727.htm (投稿規制強く「sa kura」のスペース入れました。リンクはスペース削除で)
満久崇 鷲著『仏典の中の樹木--その性質と意義--(1)』
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/51293/1/KJ00000704278.pdf
- 627 :
- ああ、>>625補
逆の位相で、
「怨敵は、その悪行の報いを受けるべき!」 という【報復願望】も同様。
- 628 :
- 実際、樹木には霊妙なパワーが宿っていて、これを人の霊的な成長の援けとして利用することができるのです。
その中でもこの私が以前に強く推奨したものが、「ルドラクシャ・ビーズ」(金剛菩提樹の実で造られており、ブッダ悟りの菩提樹とは異なる種)です。
これを首に掛けて使うのですが、大変素晴らしい波動があって身体を浄化して不浄なものから守ってくれるのです。
これらのヒンドゥー数珠は総じて「マーラー」といわれているもので、普段は首にかけて使います(できれば肌に直接触れるようにする)。
そして、サンスクリット語で「ジャパ」といって“神の御名やマントラを繰り返し唱える”際には、
このマーラーを手に取ってこの玉を一つずつ括りながら数を数えて使います。なのでこれを「ジャパマーラー」といいます。
これは仏教数珠と同様、その数も108個の輪であり、要するにこれが仏教念珠(数珠)の“原型”なのです。
仏教以前から古代バラモンが使用していたものが密教を通じて、その後しだいにすべての仏教諸派にも導入されていったのです。
ルドラクシャ・ビーズ
https://rio2016.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1512891346/643
http://wsc-nehan.com/?pid=121674676#
高野山真言宗の末端(事例:引用の「東光寺」)が“伐採供養”をうたっているのですから、
その総本山のある聖地高野山の霊木を伐採するのに供養無しなどとは考えられませんね。それは当然なされている筈です。
私も高野山には一度だけ行ってきて宿坊にも泊まってきましたが、その素晴らしさで大変有難くて、その感謝の想いでいっぱいになりました。
この霊山は最高の聖地ですね! まだの方には是非お勧めいたします。
『枯木・樹木伐採供養 樹木や枯木には多くの生き物が生活しており、老木などの精霊が宿る樹木を不用意に伐採すると、
思わぬ障りを受けるといわれます。生き物に対して感謝と安らぎを与えるご供養です。ある程度猶予期間が必要となるため、
伐採予定日よりも1〜2カ月ほど早めにお申し込みください。』
(高野山真言宗七寶山東光寺 https://www.s-toukouji.or.jp/memorial/)
それから、割とごく普通に庭木の伐採においても供養してからといわれているようです。
https://curama.jp/magazine/119/
- 629 :
- >>591さんは山仕事関係なんですか?
私は僅か1年足らずの経験でしたが、でもすぐに辞めて本当に良かったです。
間伐というのは人口樹林で針葉樹(松系)の細いのが中心ですけれど、
“大木”を伐採することになるのは決まって“広葉樹林”なんですよ。
広葉樹の広がる山々というのは生き物でいっぱいなんです。
そこは微生物〜甲虫〜野鳥〜小動物〜と溢れていて皆、楽しそうに生きているのです。
その地での主であり、生き物たちの拠り所となっているのが広葉樹の巨木たちなんですが、
これを根元からチェンソーでやる際には本当にいい気はしません。
凄い罪悪感が湧きますし、これが倒れていく時に上の枝にいた小鳥たちが羽ばたくのだけれど...。
それと野鳥の巣があって、それがまた卵と孵りたてのヒナのいる巣なのですが、
それを命懸けで守ろうとする親鳥が羽ばたきながら私の顔の傍で口を開いてズ〜と威嚇しているんです。
もちろん気にはなるけれども、でもとても作業中にその巣を援けてあげることができなくて...。
だから、凄く可哀想で惨くて自分が嫌でしたね。数日間、その親鳥の抵抗する姿が目に焼き付いてダメでしたね
- 630 :
- 広葉樹の木々すべてを切り倒した後は、
今度はブルドーザーで根こそぎ谷の下まで押し込み除去するのです。最後は黒土もなくなって死の山肌が顔を出す。
山の黒土が売り物となる場合には重機で振るいに掛けて、山の下まで持っていきダンプに積まれます。
「植林」とは聞こえは良くても、商業的に便利な樹木で同じものばかりを植え込むものであり、大抵は製材となる針葉樹です。
これら松系統というのは松脂の影響で殆どの生き物たちはこれを嫌いますね。
なので針葉樹林の山は生き物のいない死の森みたいな感じになります。
それで、私の見てきた経験上では、これらの普通の森林作業では伐採供養などは何もしませんね。
そのような話も聞きませんでした。
各個人が、自分の家庭のお仏壇なり神棚なりに手を合わせる際に、人によっては感謝や謝罪のお祈りをしてるのでしょう。
ということで漁師さんなんもそうですが、自分は殺生をする仕事に就かなくて良かったなと思います。
私たちもそのお陰で頂くことのできる漁師さんには感謝する以外にはありませんが...。
そして、馬頭観音さまかもしれませんが、またどんな形式でもいいので
感謝と供養の儀式というのはして頂きたいものだと切に思います。
- 631 :
- ああ、たまたま見つけた過去レス
http://toki.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1305381089/448
448 神も仏も名無しさん sage ▼ 2011/05/20(金) 08:52:29.65 ID:z92NOjIw [5回目]
>>442
一代が、丁寧に縷々説明していたことが全く理解できてないんだな・・。
(私の意見への評定はともかくw)、貴方の考えは、仏教では明確に排斥されるものなんですよ。
伝承した弟子達の誤解なんかじゃない。
【根本的に】仏教の視線、スタンスに反するものなんだよ。
「三世に跨る」業報にしても、貴方の言うような跨り方ではない筈です。
継続(して存在)する基体(→真我でも魂でも名前は何でもいいが)なぞ設定してしまっては終わりです。
※(>>413への御感想は何かありますか?w)
また、>>414にURLを貼ったように、
「なぜ私だったのか」(≒〔「なぜ、《この私》は《この私》なのか?」「なぜ、《この肉体》に《この私》なのか?」)
というのは、実に西洋的(或いはデカルト的と言うべきか?)視線であり、
「縁起」「五蘊仮和合」「根境識の和合」という仏教の一歩手前なのです。
「自を世界の基点・中心とし、世界はそこから拡がらねばならない」という前提から出発する、
「俺が俺が」的価値観なのです。「まず私がいなければ始まらない」という基準取りから外れられないのです。
*(だから貴方は【「一切」の外に“それ”を持ってきた】。
“それ”無くしては成立しないので、【どこかに“それ”を存在せしめねばならなかった】。
実に単純な思考手順です。)
*(華厳の法界縁起と対極にある、とも言えるかもしれません。)
哲学界では、こういう考え方にも何かしら名前があるのかも知れませんが、
いずれにしろ、仏教は、そこよりもう一つ先を見据えるわけです。
- 632 :
- http://toki.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1305381089/
ああ、てすとが顔出してた頃かw
- 633 :
- >>629
瞋痴としては、鳥には「個別の魂はない」んだから、(笑)
個別の魂を持った人間様の、しかも瞋痴の真理を知るところの大先生が、(笑)
一体何を感じるというんだ?(笑)
(^。^)バカカルト並みに「ポアシテヤッタ」とか思うべきだろ?(笑)
何で個別に供養なんて思ってんだよ。(笑)
>>622
>>623
この二人の論点には、色々と言いたい事もあるが、書き出すと止まらないのでノーコメントとします。(笑)
(^。^)てか、いい加減お前らコテつけろよ。(笑)
タマに七が発狂したかと思う時があるんだよ。(笑)
- 634 :
- >>633
確かに動物界の生き物は個別化した魂ではないけれども、もちろん、皆それぞれに自分の魂を内包します。
そして、個体による個性がないなどとはこの私はいっていませんからね>>588。
この私は動物大好き者でワンちゃんも何度も飼いましたから、彼らは個性がとても強いということをよく知っています。
(子供の頃から生き物好きで何でも飼ってきた。今も20年ほど熱帯魚のアクアリウムを続けています)
逆に、科学のほうこそ動物はすべて本能で行動しているに過ぎないなどというアホなことをいっているのです。
それから、人間が進化の頂点に君臨しているからといって、それ以外の生き物を虐待してもいいことにはならないですからね。
(子供〜少年期に強くはまったフィッシングもブッダの教えと出逢ってからは止めました。それは魚の虐待娯楽だったからです)
そんなことはこの私は一度も述べたことがないし、もちろん動物愛護の精神を尊重しています
(この私は、オ・モ・テ・ナ・シ☆新次郎妻の動物愛護を応援しています)。
チベット仏教のポアの正しい意味はRことなどではないですからね。
それは、死後の行き先を少しでも高い境地に至らしめるという秘法です。
- 635 :
- >>596
>仏教ではないのに、神智学のなろう小説的輪廻転生観を持ち出す。
>仏教スレに仏教の純正な輪廻観を突き付けて、セブンらに僧職としての瑕疵を問うのならまだわかる。
はいはい。
この私からは“仏教の純粋な輪廻観”などとっくの昔にすべて突きつけきり、その議論は終えていますよ!
その結果として、彼(七セブン)は自分は輪廻というものを信じないけれども、
仏典上においては確かに説かれているという事実は認めると明言したのです。
それにも相当に時間を費やしましたけれどね...。w
では彼は、
仏典には説かれているのに何故、それを信じないのでしょうか?
@ブッダが間違ったことを説いているから。
Aブッダは説かなかったのだが、後代になって弟子たちによって経典上へと勝手に加えられたから。
Bブッダが輪廻を説いたのはそれが事実だからではなくて、バラモン教の思想を方便利用するためだったから。
Cブッダの教えを信じられないから。
輪廻を信じないタイプの自称仏教徒らはBが圧倒的に多い印象を受けていますが、
しかし、彼はその理由を明言していなかったように記憶します(ニュアンス的にはCか)。
私もその理由についてはあまり追及しませんでした。何故ならば、“信じないのは御自由”だからですよ。
なので、信じない者は別に“信奉しなければそれでイイ”ということなのです。
だから私は、「信じていないのだから僧侶の衣を早く脱げ! これ以上、僧侶の振りをして人々を欺くな!!」
と、怒っているわけです。
- 636 :
- ちなみに承狂の場合は、
輪廻とは個人が別の人格として来世に生まれ変わって来ることではないと断固として言い放つので、
https://rio2016.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1541436305/21
ならば、これは何だと問い詰めたところ、
途端にそんなこと自分には分からないといってトボケ始め、これには無言を通してきた...。
七は取りあえず、自分の信じるままにまっすぐ一生懸命のレスをしてくるが、
しかし、承狂の場合はかなりズルくてボケているフリを始め出すのです。
また、Bのタイプに、この私からはブッダは「バラモンの受け売りで輪廻を説いてるわけではなく、
すべて自分自身で確認した事実であるからだ」とハッキリ明言している経文を提示しても、
彼らはズルくて、それに対しては無回答を通して無視をします。
以上が、輪廻転生についての実際上の議論の実態ですよ
>>609
失礼しました。訂正しておきます。
その「不確定」という言い方は私はどうなのかと微妙な印象も受けますが、
この私としては、“一般的に理解(定義)できる表現を超えたものであるから”
が、この場合は正解なのではないでしょうかね。
所詮、これは私の理解ですけれど。
- 637 :
- >>593
ではいいでしょう。
仮にもし、“無色界の住人”をも含めるとしましょうか?
ならば、あなたは心霊存在すらも信じてないというのに、
天部の肉体無き意識体のことは空想の産物ではないとして認めるということなのかな?
(確かに、天部もいずれは下位の境地へと堕ちてくるというからね)
そこ.どうなんだい!!
で、ハッキリいっておくから。
その聖句がアートマンを説くとか、アートマンがあることに繋がる経文だなどとはこの私は一言もいったことがないからね。
そしてもちろん、私はそのように見なしてはいないからね。
どこかの何でもアートマンのことになるといってくるような人たちとこの私を一緒にしないでくれるか!
ただ、心霊存在すらも認められないようなレベルの者にそれ以上の話がわかる筈がないといったまでのことだ!!
何が読解力のなさだ。あなたこそ一流大学で高い金を掛けて何を勉強したんだ???
>何度でも何度でも何度でも言う。 ウダーナ8を読めていないのは貴方だ、宝珠。
誰もこれがウダーナと関係するなどとはいってない。
- 638 :
- ブッダは『ウダーナ』において、
縁起しているのが有為で、有為とはまったく異なる縁起しない無為である涅槃があるとして説き、
“この両者は異なるからこそ”有為からの解脱を、有為から解脱したものとしてそのことを覚知できるのだといった。
その有為の縁起の状態を空ともいう。なので、縁起しない無為が空であるということは理論的に在り得ない。
仏教における「一切」とはすべて有為についてのこと。その一切に勝手に涅槃をぶち込んだのが「部派仏教」であり、
これを今日までテーラワーダが“伝承” (口伝とアビダンマ)と称して受け継いできた。
そして、その伝承の流れを他の仏教諸派のすべてが信用した。
しかし、間違っていた!!! 〜以上だ.七セブンよw
昔、〇○大王だとかいろんな変なのが大量に湧いた頃があったよね。
彼らは、この私から輪廻転生を示す明確な経文としてそれを提示しても、
「そういう意味ではない」「そうは書かれてない」と断固拒否するまるで精神障害のような人たちでしたね。
それでは、あなたは「何と書かれていると見ているのか」と尋ねてみると、
もう殆どカタツムリを見てクワガタと返答するくらいのブッ飛び内容だった。
そんな憂さ芝居を打ってでも何とかしてブッダが輪廻を説いたことを間違った情報にしようとするのです。彼らは...。
まさかかセブンまでそうなってはいないだろうね?
もし、お望みならば、『ウダーナ』の経文をまたここに提示しますか?
それとも、またいつものように“訳が悪い”とか言い出すのですか?
(もし訳が悪いというならば、その理由を明確に説明しなさい!)
- 639 :
- >>631
実にクダラン!!!
輪廻の主体(基体)は仏教では「識」(これが魂)として明確に説かれている。
別に三世に跨ったって、それらもすべて縁起の範疇ですから。
それが縁起の唯一、科学サイエンスの物理や自然科学などとは明確に異なるところですよ。
ただし、これを「アートマンと見なすなかれ!」というのがブッダの注意事項なのです。
だから何度も何度も何度もいってきたように、「魂」と「アートマン」とを混同するな。
味噌も糞も一緒にするな! と、あれほど口酸っぱくいっているわけです。
しかし、あなたのような唯物論のアホが、どうせ「魂」も「アートマン」も同じようなものだろう。
その違いなんか俺らには分からないし、最初からそんなものは別にどうでもいいや〜〜。
どうせ肉体生命の他には何も無くて、死んでから存続する意識などは皆無なのだから〜
が、あなた方の無知で愚かな言い分だからだ。
まずは、自己のレベル四段階を知りなさい。
そして今話している「自己」とはどのレベルの自己のことかが分からないならば意味がない。
それからいつもいつもいつもいってきたように、「アートマンは輪廻しない」からね。
いいかげんに憶えておきなさい!
- 640 :
- >>626
細い木やマツクイムシの被害木だと割りと問題無く伐れるけど それでも伐った後に山の斜面から引き摺り下ろす時にクレーンのワイヤーが他の枝に引っ掛かって切れたりとかのトラブルは有りましたからね
事前に何らかの供養をして置けば 事故は避けられたのかも知れません
- 641 :
- >>628
真言宗は念珠の首掛け厳禁ですよ…
高野山は大門の内と外でも雰囲気が全く違うし 奥の院は畏怖を感じますね
富士山の陽の気と反対に強い陰の気だけど 彼処はまた行きたくなります
- 642 :
- ---再掲載---
>人間の意識レベルというものは大きく四階層となっていて、
>その第一は普通に生存中の通常意識のこと。第二は死後にも一定期間残存を続ける意識。
>そして、第三に輪廻主体(基体)である「魂」(jIvAtman/ジーヴァ)があり、
>更には第四として、究極である縁起しない恒常にして永遠の「真我/パラマートマン」(paramatman)、
>通常、ウパニシャッドでいうところの「アートマン」。
>神智学分類とヒンドゥーでの呼称はこの通りです。
> 【神智学】
> 「1.エゴ(自我)」-「2.マナス/アストラル体(情緒想念形体)」
> -「3.アートマ/ソウル(魂)」-「4.モナド/スピリット(霊)」
> 【ヒンドゥー】
> 「1.アハンカーラ」-「2.プラーナマーヤコシヤ(カーマローカ)」-「3.ジーヴァ」-「4.アートマン」
- 643 :
- *教えのポイントは二つだ!!
その一
・業報を継承する時空を超えたものを仏教では認めている
(輪廻の主体を認めずに業報を主張するやり方は間違いであり、仏教ではこの主体は説かれている)。
・しかし、それすらも永久不滅ではなく「我」とはしない(よって「無我」とは抵触しない)。
その二
*仏教に登場する四つの我(自己)とは、
・日常生活で普通に認識している我 (自己) →死後には消滅
・死後の生存であり、生前の状況に応じた姿で接触することがある
→死後の餓鬼(幽霊)、夜叉、神々的存在、等々
・前世や来世に跨って継承する我(自己) →原始仏典の説く「魂神」「識神」、大乗の説く「阿頼耶識」等々、いわゆる「魂」存在
(餓鬼存在も含めて「五蘊」の「識」は死後で消滅するわけではないことに要注意!!)
・永久不滅の我(バラモンの説くアートマンであり、真実の自己/真我=唯一なる自己)
→「一切」(現象界)においては確認できない存在であるが、ただし「無い」といっているのではなく、
仏陀はその存在の有無については説かない姿勢の「無記」の態度を採った。
尚、仏教においても、“真実の自己を目指そう”とか、“本来の自己は清浄である”といういい方がされることがある。
- 644 :
- >>629
以前マツクイムシの被害木処理からパルプの伐採に移って計三年程やってました 今は庭木の伐採すら怖くて出来ませんが 仕事中に毒蛇とか見つけると殺したりしてました…
今では殺虫スプレーでも気が咎めながらです
虫一匹でも気分はよくないですね
- 645 :
- >>630
林業だけじゃなく狩猟も土木も漁業も生き物の命を奪う仕事は従事者も死の影がついて回りますからね
だからといってジャイナ教みたいに極度の不殺生を貫く訳にも行かないし やはり何らかの祈りは必要でしょうね
- 646 :
- >>640
私も、ミニブルで伐採木を引っ張っていく作業やりましたね。
運転手もやって何度、崖から転落の危機に襲われたことか...w
>>641
>真言宗は念珠の首掛け厳禁ですよ…
はい、私は真言信者ですから知っています。
もちろん、その意味についてもよーく分かっています。
ルドラクシャ・ビーズというのは確かに首に掛けるものなのですが、
当然、これはまったく仏教数珠ではないので仏教作法には縛られる必要もないのですけれど、
しかし、それでも仏教寺院内では余計な誤解を招くだけなので、見えるような首掛けは当然ダメですよね!
なので使用する場合には外からは絶対に見えないようにすることが注意事項となります(元々、これは肌身に付けるべきもの)。
まっ、私の場合には首に何か掛けていると“首が凝る”ので(笑)、普段は自宅での勤行と瞑想持のみに使用していますが。
>>624
いやいや.
「断滅論」で「邪見」のあなたこそが真っ先に門前払いでしょ!
“鏡”はあるのか?
- 647 :
- >>646
ブルもユンボも入れない険しい地形が殆どの地域なので索道を造って集材機で運搬が殆どでした
半径500mぐらいの山谷が丸裸になってくのは圧巻でしたけど どれだけの命を奪ったかと考えるといたたまれなくなります
- 648 :
- >>644
そうでしたかぁ〜了解!
私もなるべく殺生はしないようにはしています。
家に入り込んだ虫もすべてそのまま外に逃がしています。
でも生き物(魚や小エビ)を飼っているので、たまに自分の失敗で死んだのかな? ということも起こりますしm(__)m
あと、蚊に喰われたときとかは「アーー!!」と叫んで“パチン”とやりますし、コバエホイホイも常時置いていますよw
私は絶対に虫も殺さない聖者にはとてもなれないですよぉ。
>>645
はい、ですよね...
ジャイナの極端はブッダも否定されたので、
人間として生きる上での止む得ぬ業だとして受け止め、とにかく祈ったり供養しながらしかないでしょう。
林業や殺生の仕事の人には感謝しつつも自分自身は絶対に就きたくはないです
(ミンク毛皮の惨たらしい工場内を見学したこともある)。
あと自分は、“完全菜食の実践”にもいずれ再び入りたいとは思っています(若い頃に4-5年実践済です)。
- 649 :
- >>634
>>583に、「個別化しない」、「進化のドアは閉ざされ」てる旨あるから、単なるシステム、
つまり、スタンドアローンのパソコンに繋がれた無数の端末に過ぎない訳だろ?
「進化のドアは閉ざされ」てるのに「個性はある」ってのは、単に端末の性能差だろ?
で瞋痴呆的な目的は「輪廻からの脱却」なんだから、
そんな単なる現象としての個性に対応するなんてのは、感傷でしかないぞ?
科学が「アホ」としてるが、おまえの話より、進化する分だけ可能性を認めてるぞ?
相変わらず、お前の話は全く判らん。(笑)
>>636
全く、とんでもないゲス野郎だな、承狂って奴は。(笑)
そんな奴とは係わらずに、釈尊をも越えるという瞋痴呆の真理を広めなきゃあダメだよ。(笑)
(^。^)俺も、話が判らないような奴とは係わらないようにしてるぜ!(笑)
まぁ、嘘ですが。(笑)
- 650 :
- >>647
それは自分などはとても比較にならない険しさですね。
何県? 長野とか?
>どれだけの命を奪ったかと考えるといたたまれなくなります
はい。とてもよく分かります。
私、若い頃に動物を虐待で殺してしまったことがあり、今はとても後悔しています。
今でも何度も思い出してしまう。若かったとはいえ本当に酷いことをしました。
その分の報いは避けられないものと覚悟はしています。トホホ
その分じゃないけれど動物を可愛がりたい想いです。
私は不動尊信者で自宅にてお祀りしてるのですが、
今度、そのうち馬頭観音(馬頭明王)にも参拝にいってみたいと思います。
ネットで見つけた情報によれば、
---伐採作業の前に樹木の木霊を抜くための伐木撥遣(木霊抜き)の作法を行い、木霊を撥遣供養するとのこと---
なるほど...
- 651 :
- >>648
完全菜食は歯をやられるから気をつけて
私はまだどうやって貪りと怒りを解消するかで躓く日々です
酒量も大分減ったけど まだ時々飲んでしまうし 十善戒処か五戒すら難しいです
- 652 :
- >>650
九州です
長野や山梨も険しいですね
此方は斜面だらけの上に曲がりくねった木が多いので倒れる方向を間違えると直ぐにチェーンソーが挟まれます 笑
- 653 :
- >>651
歯が? ホントですか?
それはカルシウム摂取の問題なのかな...
そういわれれば確かに不足はするのかなぁ...
お酒は親睦付合いのために職場の飲み会では飲みます(ビールを2-3杯)。
そして普段は、妻との晩酌で週に1回程度をビールやワインやカクテル缶を1-2杯を頂いています。
もちろん、大いに飲めということではありませんけれど...
元々の、仏教の不飲酒戒の起源は、莎伽陀(しゃがた/サーガタ)という出家僧が
信者から酒を振舞われて泥酔して大醜態を晒したためにブッダが激怒されたことに始まりました。
なので、飲酒の禁止は出家僧に対してのものであり、
在家については元々、禁止ではなくて「飲まないほうが良い」程度のものと私は理解します。
以前、僧侶もかなりの割合で飲んでいることを知り、ショックを受けたことがありますw
>>652
了解しました^^
- 654 :
- >>653
私も過去に七年ぐらい肉魚を一切採らずに過ごしてて歯がすっかり悪くなりましたから…
密教に歯痛呪が無いのは効かないからかも知れませんね
蝋燭の溶けた蝋が神仏の形になったりする事は有っても溶けた歯が再生する様な話は無いから その辺が真言の限界なのかも
- 655 :
- >>633
すまんねえw
宝珠・紐の言いように対してはどうしてもセブンの肩持ちたくなったりするから
「七狂」とでも名乗るべきか(羽柴秀吉みたいなw
- 656 :
- >>639
だから、仏教的な輪廻をどーの言うのなら、
畜生界や地獄界とも行き来があること前提にしろって
仏教的には、神智学が「個別の魂はない」と見下しているその辺の虫ケラだって、あんたの先祖である可能性があると見る
先祖供養どころの騒ぎじゃないね
セブンに罪障ガーって霊感商法よろしく脅しかけてるどころじゃないね
俺は別に「仏教の修辞に従って」輪廻を語ることに禁忌はないんで、議論をもちこむなら仏教純正品の輪廻を持ってきな
偽物・紛い物・捏造品は地面師詐欺
- 657 :
- 増支部経典八集>第四 布施品
「 第十 悪行の異熟
40.比丘たちよ、生き物をRことを習い修習し多く為せば、地獄に転じ、畜生胎に転じ、餓鬼境に転じる。一切が軽いものであるならば生き物をRことの報いは、人としては寿命を少なくすることに転じる。
比丘たちよ、与えられていないものを取ることを習い修習し多く為せば、地獄に転じ、畜生胎に転じ、餓鬼境に転じる。一切が軽いものであるならば与えられていないものを取ることの報いは、人としては財産を損失することに転じる。
比丘たちよ、欲における邪行を習い修習し多く為せば、地獄に転じ、畜生胎に転じ、餓鬼境に転じる。一切が軽いものであるならば欲における邪行の報いは、人としては相手の怨みに転じる。
比丘たちよ、嘘を言うことを習い修習し多く為せば、地獄に転じ、畜生胎に転じ、餓鬼境に転じる。一切が軽いものであるならば嘘を言うことの報いは、人としては事実でないことを言われることに転じる。
比丘たちよ、分裂させることを言うことを習い修習し多く為せば、地獄に転じ、畜生胎に転じ、餓鬼境に転じる。一切が軽いものであるならば分裂させることを言うことの報いは、人としては友人を破られることに転じる。
比丘たちよ、不快なことを言うことを習い修習し多く為せば、地獄に転じ、畜生胎に転じ、餓鬼境に転じる。一切が軽いものであるならば不快なことを言うことの報いは、人としては意にかなわない声を聞くことに転じる。
比丘たちよ、気に触る駄弁を習い修習し多く為せば、地獄に転じ、畜生胎に転じ、餓鬼境に転じる。一切が軽いものであるならば気に触る駄弁は、人としては取るべきでないことを言われることに転じる。
比丘たちよ、穀酒・果実酒(木酒・花酒)を飲むことを習い修習し多く為せば、地獄に転じ、畜生胎に転じ、餓鬼境に転じる。一切が軽いものであるならば穀酒・果実酒を飲むことの報いは、人としては酔うこと(あるいは癡狂)に転じる。(了)」
『南伝大蔵経21 増支部経典5』大蔵出版 P139-140 に相当
- 658 :
- ちなみに先祖供養は元々のブッダの説法では餓鬼界に転じた先祖の供養
- 659 :
- >>653
>飲酒の禁止は出家僧に対してのものであり、
> 在家については元々、禁止ではなくて「飲まないほうが良い」程度のものと私は理解します。
五戒と律の違いすら弁えていないエキノコックス持ちの尻尾が丸見えw
- 660 :
- スッタニパータ ダンミカ
393 次に在家の者の行うつとめを汝らに語ろう。このように実行する人し善い<教えを聞く人>(仏弟子)である。純然たる出家修行者に関する規定は、所有のわずらいある人(在家者)がこれを達成するのは実に容易ではない。
394 生きものを(みずから)殺してはならぬ。また(他人をして)殺さしめてはならぬ。また他の人々が殺害するのを容認してはならぬ。世の中の強剛な者どもでも、また怯えている者どもでも、すべての生きものに対する暴力を抑えて──。
(略)
398 また飲酒を行ってはならぬ。
この(不飲酒の)教えを喜ぶ在家者は、他人をして飲ませてもならぬ。他人が酒を飲むのを容認してもならぬ。──
これは終に人を狂酔せしめるものであると知って──。
399 けだし諸々の愚者は酔いのために悪事を行い、
また他人の人々をして怠惰ならしめ、(悪事を)なさせる。
この禍いの起るもとを回避せよ。
それは愚人の愛好するところであるが、しかしひちを狂酔せしめ迷わせるものである。
400 (1)生きものを害してはならぬ。(2)与えられないものを取ってはならぬ。(3)嘘をついてはならぬ。(4)酒を飲んではならぬ。(5)婬事たる不浄の行いをやめよ。(6)夜に時ならぬ食事をしてはならぬ。
401 (7)花かざりを着けてはならぬ。芳香を用いてはならぬ。(8)地上に床を敷いて伏すべし。これこそ実に八っの項目より成るウポーサタ(斎戒)であるという。
苦しみを修滅せしめるブッダが宣示したもうたものである。
(略)
404 正しい法(に従って得た)財を以て母と父とを養え。正しい商売を行え。つとめ励んでこのように怠ることなく暮らしている在家者は、(死後に)<みずから光を放つ>という名の神々のもとに赴く。」
- 661 :
- >>660
八斎戒で色界第2天に行けちゃうんだね
神智学のサナンクマーラでも梵天(色界第1天)なのに
もちろん神智学のは弥勒同様、偽者の嫌疑アリアリだけどねw
- 662 :
- >>654
エエッ...そうなんですか?
私は、4-5年玄米菜食を敢行して肉魚鳥卵を絶ったのですが、
確かに、今は歯がボロボロでして、現実に上なんかは総入れ歯になりました(笑)
仏教と出逢う前の十代青年期にはシンナーも吸ったりと少し不良化していたので、
自分ではその影響ではないかと思い込んでいましたけど...。
今、ネットで少し見てみましたら、
最新研究では玄米菜食の落とし穴としてカルシウムとミネラルを排出してしまい、血管と筋肉の老化を招くとありました。
まーよくTVなんかの話では、長寿で健康な御老人たちは皆、肉を凄くよく食べてるようですが。
食べ物の事は本当によく分からない...。
- 663 :
- >>656
すでに述べたように、
仏典における輪廻転生の話については七セブンとはとっくに議論を終えています。
尚、いっておきますが、
私は現存する伝統仏教各派すべてにおいて、ブッダの説いた純粋で正しい教えは“消滅して存在していない”ものと見ています。
それが、私が仏教を最高のものとする見方を辞めた決定的理由です。つまり、現存する“仏教はブッダの教えそのものではない”ということ。
その理由により、私個人の学びの中心は「仏教」→「ヒンドゥー」→「神智学」へと移行していったのです。
要するに、私個人の評価としては一位が神智学で、二位がヒンドゥー、
そして、仏教はその次の第三位となります(総じて聖職者と信者のレベルは更に低い)。
何故ならば、現存する伝統仏教は仏典に忠実でないことに加えて、更に言えば、その仏典そのもの自体がすでに変色している。
私個人は仏典の記述のすべてをブッダの正しい教えとしてはみていないし、真理ともみていません。
輪廻の内容についても然りです。ただし、仏教徒たちが伝統仏教の説く内容の輪廻を信じることについては別に構いません。
そのことでは特に害悪もないでしょうから、だから、どうぞ好きにすればそれでいいのです。重要なことは業報と転生を認めるかどうかです。
しかし、すみませんがこの私は“迷信は嫌い”なものでして、自分は“より真実を求めている”のでそれについては失礼させてもらう。
何故ならば、それが“ブッダの精神”だと思いますのでね。
- 664 :
- >>659-660
>エキノコックス
はいはい、
だいたい議論の中身ではとても構わないと察した者が始めるのが、
これらの相手を罵倒する呼称の連呼なんだな!
昔、「アリンコノウミソ」...とかの連呼を始めた基地外もいた。
所詮は、あなたも同レベルなのだなっと理解する。
だから、
不飲酒戒の起源を説明した通り、それは元々は「酒」そのものが悪いのではなくて、
酒に飲まれて醜態を晒す者が出たから叱られたというのが始まりだ。
だから、節度ある飲み方であれば本来的には何も問題とはならなかったものだ。
出家者と僧侶は禁止事項として守るべきかと思うけれども、在家についいてはそうは思わない。
まっ、在家もダメだとするのが仏教なんだというならば、どうぞお好きに断酒をして下さいな!
この私は仏教徒ではないし、断酒よりももっと重視すべき事柄はいくらでもあるから。
>>661
>神智学のサナンクマーラでも梵天(色界第1天)なのに
おい.勝手に決めるな!(怒)
まず、「梵天」を下位に見なすのが後代の仏教徒らによる策略だ!!
意図的に、バラモン教を仏教の下位にしようとする作戦そのもの。
「梵天勧請」の逸話そのものが神格化であり、その策略だからね。
- 665 :
- >>588承狂
はい。
もちろん私もダライ・ラマが“観世音菩薩の化身”として崇められていることはよく知っています。
けれども、私は法王猊下を最高レベルの方として尊敬はしていますが、
だからといって言われる通りに観世音菩薩の化身とは見ていません。
ここでいう観世音菩薩とは、単に菩薩道の修行者などといった意味合いではなくて、
密教的に見るならば、これは大日如来が衆生を救済する変化身の一つなのだということになる。
チベットにおける大衆の尊敬を一心に集めた想いが、
この衆生を教え導くために様々な姿をとる観世音菩薩の化身なんだというものとなった。
つまりは、これも神格化だということになる。私は、神格化(迷信)というものは信じません。
あくまでも猊下も普通の人間であって、そして、幾段階かのイニシエートとして見ているのです。
神智学では、3.0段階を超えた高位のイニシエートの場合には、
自分である程度の転生先を選択できるようになると言われています。
また、チベットの密教にはそのような秘法もあるのでしょう(ポアの秘法もあるのだから)。
なので、特定の高位のラマならば本当にそれができるのではないかと思います。
- 666 :
- >>250
一応、ザッと確認してみると、
この経文のタイトルそのものが『araham. (アラハン) / 敬わるべき人』であり、
「真人」というのは、中村氏によるarahamの意訳だということ。
そして、中村氏はこの「真人」という訳をとても気に入っているとみえて、
パーリ涅槃経『大パリニッバーナ』の翻訳においても随所で多用していることがわかります。
では、この「真人」が中村氏による独創的な意訳なのかというとそうではなくて、
これは元々、『arhat(アルハット)』の漢訳として使われてきた用語なのであり、
それは中国道教における“悟りを開いた不老不死の仙人”という意味合いの言葉だということ。
ブッダは弟子たちに対して、“真実の自己を求めよ”と説いたのであるから、
最初期の教団ではブッダと同義の言葉としての「araham」(真人)が、その真実の自己の実現者であって間違いがないものと思います。
『ブッダ神々との対話』(岩波文庫)の訳注p248では、ズバリこう記されています。
『『わたしが語る』と言っても良い---これは我(アートマン)が存在すると主張する議論である。『雑阿含経』には「何言説有我」。
わがもの---中略---「我所」(『雑阿含経』)・・・表現をしてもよいのである---』
(『ブッダ神々との対話』)
>ブッダ御自身が「真人」と呼んで構わないといっているのだから、あなたがこれに異を挟む何ものもないでしょうが!
>「真人」とは文字通り“真実の人”であり、“真実の自己”を実現して、自分の「真我」へと到達した者のことです。
>それは“修行完成者”のことだというのだから、つまりは“涅槃に到達した者”、すなわち「如来」と同義だということになる。>>243
- 667 :
- 参考:
『阿羅漢 梵語アルハット(arhat)の男性・単数・主格、アルハン(arhan)の音写。阿羅訶[呵]あらか・阿盧漢あるかん・羅漢ともいう。
応供おうぐ・応おう・殺賊せつぞく・不生ふしょう・無生むしょう・応真おうしん・真人しんにんなどと漢訳する。』
(WikiArc)
『しん‐じん【真人】 〘名〙 真理を悟った人。神妙の域に達した人。また、世俗を超越した人。中国の老荘思想で道を体得した人。
道教で仙人のこと、また道士の尊称。』
(精選版 日本国語大辞典の解説)
『老荘の伝統では,「聖人」よりむしろ「仙人」を理想の姿とする。仙とは長生ないし不老不死の意であり,「真人」とも呼ばれる仏教の文脈で
それはアルハトarhat すなわち阿羅漢(羅漢とも)を指す古訳である。阿羅漢を意味する真人は格義〈的〉であると言える。』
(船山 徹著『文化接触としての仏典漢訳―「格義」と「聖」の序論的考察』)
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/177242/1/ctz_4_010.pdf
- 668 :
- >>266
これは無我についての理解のことですが、
2-2chで投稿してくる仏教徒が殆ど皆そうだったものだから、何故、そんなにも偏っているのかと驚かされたということ
(この人たちは一体、何を読んできたのだろう?)。それで、ついそのことを評して発露した言葉です。
それと別意で、2-2ch投稿者は輪廻転生信じてない者ばかり、たぶん、仏教徒全体からはごく一部の少数派なのだろうけれど...。
>>267
> 【「本筋から外れて」「神智学のスキームで仏典を読んでいる」】
>という ≪【『事実』】≫ を、
> 「彼は、神智学の文脈で仏典を読んでいる」 と評しただけでしかない
いやいや.冗談じゃないね!!!
この私はあくまでも、(仏教学的理解を以て)仏典の記述に従ってそのまま素直に沿っているだけ。
極々、一部だけを除いて仏典の記述は殆どそのまま文字通りに受け止めてその通りに理解してる。
もしも、もっと異なった神智学的視点の場合には必ずそのことを述べている。
あなた方のこそ、いやテーラワーダを始め伝統仏教の信奉者たちこそが、仏典の記述を無視して従っていないからね。
また、追々そのことを繰り返し、何度でも指摘させて頂くから!!
- 669 :
- >>268
>どれだけ探しても(瞑想で深層に潜ったとしても)見つからないから、
> 「我(アートマン)」はある、と言わなかった。
>これに尽きるはずなんだがね・・。
涅槃においてすべての自己が消滅しているわけではないことは『ウダーナ』にも明白なこと。
そこには涅槃を涅槃であるとして自覚している自己があり、それが煩悩の無い本来の自己であり、真実の自己の状態なのだ。
それは当然、“アートマンということになる”のだけれども、
ただブッダは、間違いだらけのバラモンたちと自分の教えが同一視されてしまって、
いずれ自分の教えがその中へと埋もれて時と共に消滅することを避けるべく、
敢えてアートマンがあることについては明らかにしなかっただけだ。
それが“無記”の態度というものです。
何故なら、もしも、本当に何も無かったのならば、
そんなもの無いものはどうしようもないわけだから、そのまま素直に「無い」という以外にはないからだ。
しかし、「無い」などとはブッダは一言も発しなかった。ただ、「在る」とは言いたくなかっただけのことだから。
「そのブッダの御心をちゃんと感じ取れっ!」てことをこの私はいってるわけ。
>それが、様々な五蘊仮和合自己の行動を制御し抑制し、善なる方向へ誘導するものなれば、
その本質が「善」そのものだからですよ。
そして、真我とのコンタクトによってその性質が露わになってくるのは当然のこと。
通常は、こちら側(五蘊仮和合自己)からの意識的な刺激が必要であり、そうして真我とのバンプが太くなっていく。
が、瞑想と善行の実践によって、今度は真我の方からこちら側を刺激してくるようになってくる。
神が物質を創造したといわれるが如く、真我が五蘊仮和合自己に作用するようになることに何も矛盾はない。
>宝珠の言う「真我」は、実は梵我一如のブラフマンアートマンですらない。
>個個人それぞれの「自己」なれば、それは全体ではない。梵になりきれていない。
個々の自己であり、そして尚且つ、それは全体の部分として同一なる性質でもある。
というのがヒンドゥーの説くところですよ。私は何も間違ってなどいないから。
ちゃんと自分で勉強することです。
- 670 :
- >>271
>つか、それも遥か昔に指摘済みだったかもw
>>神智学は西洋的(≒人間頂点の階級的世界観)と。
では、ショウガナイ。
まだ分からないようだから単純明確に教えておきます。
生物学的にみて人類が生命進化の頂点にあるという科学的事実は、別に神智学の説くところと何ら変わらない。
唯一の違いは、科学というのは未熟かつ、アプローチの視点が異なるが故に霊的視点がないということ。
では、仏教ではこのことをどういっているのかというと、
成仏できるのは人間だけであってその他の生命にはできないこと(これは仏性があるのは人間だけという意味ではない)。
であるから、自分が人間として生れてきた今の生が如何に奇跡的で有難いことであるかということをよくよく理解し、
この希なる機会を決して無駄にすることのないように、しっかりとこの仏縁を深めて教えを学びましょう!
といっているわけです。それが欠かさず日々の勤行の始まりで御唱えする『開経偈』というものでしょう。
その教えの趣旨というのは、大乗だろうとテーラワーダだろうとまったく同じことだ。
人間でなければ、書物を読んだリ、仏教の話を聞いて理解することができない。
唯一、それは人間だけに可能なことであり、生物界の最高位にあるからこそできることです。
そんなのは当り前の話だ!!
ただ中には、
生命の尊さはすべて(どの生き物でも)等しいのだといって、
「野菜を釜茹でにするのも生きた人間をそのまま釜茹でして惨Rるのも同じことだ。
だから、どちらか一方だけを助けられる際にもまったく選びようがない」
などとホザク呆れた基地外がいるからいったまでのことだ!!
生命の尊さと平等とやらをただ上っ面だけで述べている奴のことをこの私はいってる。
『無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇
我今見聞得受持 願解如来真実義
最高にして深遠な(仏陀が悟られ、説かれた)真理には、
どれほど生まれ変わり死に変わりしても巡り合うことは難しい。
しかし私はいま(仏教に)出会ってその教えに触れることが出来た。
願わくは仏陀の説かれた真理を体得せん』
http://www.horakuji.com/BuddhaSasana/Vajrayana/zaike/kaikyoge.htm
- 671 :
- >>461
「永遠の「生」」などという表現は誤解を生じる恐れがあるから、この私は使ってないと思うが???
「生」ではなくて、「意識」ね。つまり、「永遠の「意識」」ということ。そして当然、それは自己意識のことだ。「生」というのと、
肉体的生存と受け取られかねないから。勘違いして欲しくないのは、目指すところの完成者というものは肉体上の不老不死という
ことではないからね。
そして、仏教でいう所謂、消滅する自己というのは煩悩のこと。それは煩悩を生じている自己のことであり、これを自我と読ん
だリ、個我といったりといろいろな呼び方をしている。神智学ではもっと明確な言い方を選んでおり、これを「低我(低級我)」と
呼んでいる。それはまた、単純に煩悩の消滅のことだとも一般的には表現する。無くなるのはコレ(低級我=煩悩)のことだ!
- 672 :
- >その説かれなかった部分を、西洋的人間至上主義で構築してるのが、宝珠神智学、とw
確かに、神智学は近代西洋の世界へともたらされたものです。それは事実。そして、神智学の顕著な特徴でもあることですが、
神智学は密教(一般には理解されにくい内容や知る必要のない事柄が多い)でもあるということ。仏教のヴァジュラヤーナ(金剛大乗)
と混同してはいけないので、「秘教」というのが適した言い方ですけれど。また、神智学はヒマラヤの覚者から提供されたものなの
で、トランス・ヒマラヤ秘教(または単に「秘教」)というのです。
つまり、ゴータマ仏とは異なる覚者によってこの近代において与えられた新しい教えであるから、当然、仏教では説かれていな
かった“新しい教え”の部分がある。なので、別に当時のゴータマが握り拳として隠したということとは意味合いは違います。
ゴータマ仏だって、もしも今日、再び現れたのならば、当時は教えていなかった新しい事柄だって語る筈ですよ。仏典は、“2500年
も古い時代の内容”であり、更にはその後に編纂されたものです。
>「師の握り拳はあった」、そしてそれは「永遠の【生】である」という ≪反縁起≫ としか思えないわけで・・・。
いや、そうではない。
縁起に拠らない世界である涅槃(無為)の境地にある自己も当然、同じく縁起しない。
縁起する有為の自己が、無為で縁起しない涅槃で住するわけがないからね。
それ(この自己)は、「有為」じゃないから!
- 673 :
- 突然、話題を変更しますが、最近、たまたま再放送で番組に登場した片岡鶴太郎のヨガ・マスターの話をみた。それはイ
ンド政府公認の難関、「プロフェッショナルヨガ検定・インストラクター」に合格というもので、そもそものヨーガを始めた
キッカケは、世界中の歴史的偉人たちの多くが実は瞑想を実践していたという話を知り、それで自分も瞑想をしたいと思っ
たからだという。
そのストイックなまでの溢れる熱意と努力の成果には私も素直に拍手を送りたいが、しかし、非常に残念なのは多くの者
がついやってしまう落とし穴にこの鶴ちゃんもズッポリだということ。
鶴ちゃんの何がダメなのかというと、パタンジャリのヨーガ聖典『ヨーガ・スートラ』をそのまま受け取って、ヨーガ・
スートラの説く解脱への段階としての“八支則”に縛られてしまっていること。
1. ヤマ・禁戒
2.ニヤマ・勧戒
3. アーサナ・体位法
4. プラーナヤーマ・調息
5. プラティヤハーラ・制感
6. ダラーナ・凝念
7. ディヤーナ・静慮
8. サマディー・三昧
八支則においては、瞑想(ダラーナ・ディヤーナ・サマディー)は最終段階とされているために、その前段階の特にハタ・
ヨーガ(アーサナ・プラーナヤーマ)をすべて修得すべく没頭してしまっているのです。
しかし、実際には、ハタ・ヨーガは長時間の瞑想にも耐え得る肉体を創るのがそもそもの目的であって、ハタ・ヨーガを
すべてマスターしなければ瞑想はできないという意味ではないにも関わらず、これを誤解している者が殆どなのが実情。つ
まり、彼らはハタ・ヨーガ体系すべてを完全マスターしようなどとするから、そのことだけに無駄に全生涯が費やされ、そ
れで瞑想の実践が疎かになっているわけです。
ヨガナンダやラーマ・クリシュナといった本物の覚者は、ハタ・ヨーガの徹底指導などはしない。入門後は、すぐに瞑想
の実践と取り組みについて指導する。
- 674 :
- このことと同じような理由によって、私個人は好きで真言密教を信仰しているけれども、しかし元々、真言密教の奥義の
すべてを修得したいなどとは思ったことがない。
確かに密教というのは色々と役には立つが、しかし、これも単なる利用道具の一つであり、その部分でしかない。密教で
なければ解脱できないというものではなく、そのすべての修得が不可避なわけでもない。
その視点から見ると、無用な知識があまりにも膨大なのが密教の世界だ。ただし、プロの僧侶というのは一定基準の内容
を修得する必要があるし、そして、真言僧としての勤めと日課に追われる日々を過ごすこととなる。特に縛りを嫌うこの私
には、まったく僧侶に成りたいという考えはない。
もしも、特定の伝統宗派の僧侶となってしまうと、もう好き勝手なことは許されなくなるからだ。
*次に、お盆だったからというわけでもないのだけれども、
「供養」(ここでは先祖供養/死者供養の意)については、
ブッダも明確に“ (行うよう)説かれた”ということについて投稿しようかと思います。
確かに、このことが七の指摘したように、原始経典についての情報が普及してきたことによる誤解として、
その弊害の大きな部分だとしてこの私も思っているので...。
- 675 :
- >>655
一応言っとくが、俺と七氏とは立場も仏教観も結構違うからな。
宝珠が、天文学的レベルで明後日の方に居るから相対的に近く見えるだけで。(笑)
ついでに言うと、密教の立場でもない。
単に知ってるから明らかな間違いを指摘してるだけで。
だから質問とかすんなよ。(笑)
(^。^)あと、今まで、ハゲ相手にも結構な暴言書いてるんだがね。(笑)
何故かバカには見えないらしい。(笑)
>>665
「観音の化身ではない」➡「だから転生」
これが瞋痴の迷信を信じるということだよ。(笑)
絶対に個人主体は転生するという迷信を知らなければ、オカルティストとしては
「観音と詐称してる何かが毎回取り憑いてる」
となる。
論理的根拠もなく、「そう言われてるから間違いない」と信じるのを「迷信」と言うんだよ。(笑)
因みに、「論理的」とは、「余計な設定をつけて検証出来てないのに出来たと言い張る」事ではありませんので。(笑)
(^。^)あと、科学よりも生命の尊厳を踏みにじるお前が「生命の尊さ」とか、何の冗談だよ。(笑)
- 676 :
- >>675承狂
観音による化身の話はチベットの民たちの信仰であり、ただ私は認めていないということ。
しかし、“「転生」現象”というのは、ブッダが説いたものであり、尚且つ、“実際上の事実”です。
これは科学者による検証データによっても明らかなものであって、まったく迷信などではない。
業報理論と転生は論理的に整合性が取れている話であって、逆にこれを否定することが非論理的な話だ。
何故、物質(生命)に意識が生じるのか? 今生のみに限った生存というみことの方が実に不自然。
縁起の理解から見ても、今生が生じた因果というのは前世があったからであって、
そして、また来世があるものと見なすことこそ自然の理です。
迷信ではない事実に対して、勝手に迷信のレッテルを貼る姿勢こそが無知による決め付けの妄想だ!
ヴァージニア大学のイアン・スティーヴンソン教授による研究というものがある。
当然、情報データからはノイズとして処理できる疑わしいものについてはすべて排除していくのだけれど、
それでも転生を認める以外にはどうしても説明のつかない事例が残る...。
こうして転生の事実として確認された本物の事例は、すでに2300件を超えている。
もちろん、ダライ・ラマの件についても素晴らしい検証事実です。
尚、前世では動物や虫ケラだったといいう記憶が出てきたなどという検証事実はまったく皆無であり、
その事例は一つも報告がありません。あしからず...。
*私は、以下に上げるサイトページには、すべて目を通されることをお薦めします。
ブッダの教えを舐めない方がいいよ!!(凡人と一緒にしないことだ)
http://www.tibethouse.jp/dalai_lama/reincarnation/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%B3
http://umarekawari.org/gakusha/index05.html
http://www.kisc.meiji.ac.jp/~metapsi/psi/7-3.htm
http://karapaia.com/archives/52183980.html
- 677 :
- >(^。^)あと、科学よりも生命の尊厳を踏みにじるお前が「生命の尊さ」とか、何の冗談だよ。(笑)
意味不明。
動物たちにも「魂」はある。別に命の尊さを軽視してわけではない。
ただし、人間ほど進化したものではないという歴然たる事実があるだけのことだ。
あなたの反応をみて明らかなように...
だから、“まだ心の準備のできてない者”が知る必要はないんだ、ということになる。
それ故に、これは「秘教」なのだということだ。
なので〜安心して欲しい/認める必要は全然ないからね!
尚、科学サイエンスでは、動物はすべて本能で反応しているだけであり、
その体はDNAの乗り物でしかないというのが主流ですねw
人間もそうだけど精神活動があってもすべてはニューロン電気信号の反応でしかない。
もちろん、魂のようなものは認めていない。
- 678 :
- 676.輪廻転生は科学の問題である。
それは宗教の問題ではない。
バカには理解できない。
大爆笑である。
- 679 :
- >>678
だから、
「科学者」が研究して事実と認定しているといってる。
あなたは何処を読んでる?
ただし、
誰が何処から何処へと転生していくのかを予測したり、
前世の状態そのものを見ることはブッダのような完成者にしかできない。科学の力では不可能だ!!
そのブッダのような存在になる方法を具体的に知っているのは「宗教」だけだ!
ただの煽りなら要らないから、どっか行きな!
- 680 :
- >>664
架空のヒランヤの大使とか何とかいう妄想のコンコンチキの化けたもの信じて余すところのない人がよく言うねw
- 681 :
- >>663
> しかし、すみませんがこの私は“迷信は嫌い”なものでして、
迷信の権化のように他の人たちの目には映っていると思うんだけどw
まずヒランヤの大使ってどうなんよ?
電波以外に誰が会ったことあるわけ?
手品おばさんの取り出した手紙の主だろwww
- 682 :
- >>675
了解
まあ、儒教に対する姿勢の違いなど、
承狂さんが東洋思想軸なのは何となく把握
- 683 :
- いやいや、何の縁かタイミングが知らないけど
八斎戒と第2禅定地が関連するとは
尋伺を無くしたいというニーズが個人的に生じてきたタイミングなんだよね
そうしないと試験の解答時間が足らない気がする
- 684 :
- >>681
あのね.「ヒマラヤ」ね!
ハイアラキーの覚者方には、こちらからは会おうとして逢えるものではない。
覚者方の側からそのような意図が生じない限りは無理なことです。
尚、すでに降臨されているハイアラキーの首長Maitreyaは大勢の人々とも対面しており、
この私も一度だけお会いしています。会話をして、そのお体にも触れています。
また、もちろん創立当時の神智学協会の主要メンバーの何人かはMaitreyaの弟子である覚者方と直接対面してます。
それから一般的に歴史上においてもその存在の公的な記録が確認されているのは
唯一、サンジェルマン伯爵(現在のラコーシ覚者)です。
それから、本物のマハトマ・レター(覚者からテレポーテーションで届いた直筆の手紙)は、
今でも大英博物館に保管されています。
Maitreya & Miracle water(94年頃放映/日本テレビ『スーパーテレビ』)
http://www.youtube.com/watch?v=ajp5p0b0-6E
シリア騒乱の中で“白い天使”の出現としてメディアに現地報道された傷ついた人を助け出すMaitreyaの姿
https://www.youtube.com/watch?v=sSGVtJOeXAo
Maitreya出現の徴(光の十字架、光のサークル)
https://www.youtube.com/watch?v=xwX-K9iCIew (東京都ひばりが丘/西友ストア)
https://uni.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1387571518/791 (札幌/東急百貨店、大阪/阪急電鉄本社ビル)
神智学協会初期当時のモリヤ覚者の目撃談(『神智学の五年間』より)
http://mimizun.com/log/2ch/psy/1239017285/662-663
サンジェルマン伯爵について
https://www.youtube.com/watch?v=Sc8ZYRBPvs0
時空を超えた超人サン・ジェルマン伯爵の謎
http://inri.client.jp/hexagon/floorB1F_hsg/_st_germain.html
クートフーミ覚者肖像画
http://lh5.ggpht.com/_MkRWi4hHTPg/TOaJ-aNZOmI/AAAAAAAAAsc/qQrtfwmJ2ik/kuthumi02.jpg
モリヤ覚者肖像画
http://iihatobu.com/work/contents/morya1.jpg
- 685 :
- >>662
完全菜食 野菜と魚だけ 肉食も含めた雑食で比較すると野菜と魚が一番長生き出来る様です
肉を食べる場合は煮沸して油抜きを徹底した方が身体には良いみたいですよ
- 686 :
- ここは・・・・・
http://o.2ch.sc/1iojg.png
- 687 :
- >>684
小学生が多数目撃した口裂け女、人面犬と同類じゃんw
- 688 :
- その判断能力で仏典の真偽を判断されてもねえ……
UFO妄想と同次元で宗教存在の有無を主張しちゃってるんだしw
- 689 :
- >>684
> Maitreyaは大勢の人々とも対面しており、
> この私も一度だけお会いしています。会話をして、そのお体にも触れています。
あかんわ
完全にマーラの幻術にやられてるわwww
- 690 :
- https://i.imgur.com/AvF5oDu.jpg
その如来十号には漢訳でも真人はありません。
如来十号
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%8F%B7
- 691 :
- とりあえず、「もし」だけど俺が初禅地に入ったら、サナンクマーラに、
俺の宝珠さんに対する神智学詐欺説を含めた態度に問題があって、
正す必要があるなら、コンタクトとってくるだろうし、こちらとしてもコンタクトとってきてもらって構わないし、
そうじゃないってことは、そうじゃないってことなんだろう
むしろサナンクマーラの名を騙る詐欺をやめさせるようにってコンタクト取ってくる可能性だってあるしね
同じ事は弥勒菩薩についても言えるんだけど、どうやったら兜率天禅定に入れるのか、よくわかんないんだけどw
あ、弥勒菩薩に関しては、神智学と同じこと、無着がやらかしてたっけ?
- 692 :
- ただ、トゥシタ天の名を冠したエスニックレストランには毎週のように行ってたわw
ということはそこで潜在意識では弥勒菩薩からのメッセージを受け取っているのかもしれないが、俺の如きに分かろうはずもないのだろう
ただ、神智学詐欺に対する強い反感は確実にある
- 693 :
- 「アーナンダよ、過去の時において、清浄であって最高にして無上な空性に達して住していた沙門やバラモンたちは、みなすべて、まさしく、清浄であって最高にして無上な空性に達して住していたのである。
アーナンダよ、未来の時において、清浄であって最高にして無上な空性に達して住しているだろう沙門やバラモンたちは、みなすべて、まさしく、清浄であって最高にして無上な空性に達して住しているだろう。
アーナンダよ、今現在、清浄であって最高にして無上な空性に達して住している沙門やバラモンたちは、みなすべて、まさしく、清浄であって最高にして無上な空性に達して住しているのである。
それ故に、アーナンダよ、ここにおいて<清浄であって最高にして無上な空性に達して、わたしは住しようと、このように、アーナンダよ、学習すべきである。」
(『マッジマ・ニカーヤ』第121経 空小経)
- 694 :
- さて、
ちょっと角度を変えて煽ってみよう。
もし、仏陀が、
従前の狭いアートマン(我、真我)との混同を怖れ、『在世中』は、明言しなかった
という言い方を受用し、また、「師の握り拳はない」という台詞も受容するなら、
【仏陀の到達点が、そのレベルだった】という発想を、なぜ、考慮できないのか? >>宝珠
ヒンドゥでも神智学でもどっちでもいいがw
そこで言われる「階層」や「悟り(覚醒・成長)の段階」或いは「真のゴール」という視点で見た時、
『ゴータマシッダッタは、途中までだった』
と、なぜ言わないのか?
憲法9条と自衛隊等と同じく、【読み方、解釈の上で、ゴータマ仏陀は神智学的ゴールを説いていた】
と見做しているだけで、実際の文言はそうではない。
読み解き方の相違であることは、お互い様。(上の阿羅漢=真人とかw 心性本浄とかウダーナとかw)
宝珠自身、「違う」ということ、そして「在世時は積極的に説かなかった」というスタンスなわけで、
だったら、神智学の階層の中で、仏陀を、途中の、途上にある者と位置付ければ済むのに、
なぜ、そうではなく、(当時ははっきり言わなかったけど説いていたなどとw)ややこしいことを言わねばならんのか?
現に、ヒンドゥ世界では、仏陀はその他大勢の神や化身と同レベルなわけでね・・。
なぜ、 『わざわざ、「ゴールまでたどり着いていた」ということにしなきゃならんのか』と。
仏教(仏陀の教え)と神智学は違う、仏陀は、いいところまで来てたけど、あと一歩だった
で、なぜいけないのか? という話。
だから、
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も
言ってるけど、
違うものは違う、で済む話なのに、なぜ、「同じ」であるとしなければならないかが、
やっぱり理解できない・・。
- 695 :
- ああ、
上げとくか
- 696 :
- 改めてまとめ。
「ブッダは、神智学の悟りの階層の中では、ゴールまで達していない」
この文章で、これまで十数年の議論は一瞬にして片が付くwww
- 697 :
- 仏教と神智学が同じである必要は全く無く、
仏教は仏教の世界観と価値観の中で、
ちゃんと、安心(あんじん)と平穏を提供「してきた」し、また、この先も提供し続けうるのさ。
*(上記「してきた」は重要。 神智学が知られてなくとも、仏教は、信じ行じられてきたのだから。)
- 698 :
- (^。^)なんか、ほんとにコテ付けてくれてて、ありがとさんでござんした。(笑)
>>676
その偉大な科学者先生の名前でググれば、
前世が動物のケースも検証してる
と書いてる記事が出てくるし、
そもそもデータの検証をしただけで、
「私の解釈は重要ではない」としてるらしいが?
宝珠の書き方は、正に「余計な設定をつけて検証できないのに検証出来ました」とミスリードしてるだけなんだが、
きっと理解出来ないんだろうなぁ。
>>677も>>649で何を指摘されたか全く理解出来てないし。
真面目な話、一度マトモなカウンセラーとよく話し合った方がいいよ。
反応が、まるで洗脳されたカルト信者みたいだ。
- 699 :
- なぜ、694のような謂いを思いつくかと言えば、
漱石さんのことがあるからで、
漱石は、(「即天去私」という語があったり、20代の参禅経験があるように)
「ファンの間では、相当な境地にあったと思いたい」ベクトルがあるわけで、
かといって、禅者からすれば、
「(TPOもあるので、悪し様には言わないがw)、所詮処世訓レベル、良くて熱心な信者レベル」という評価なわけでさ。
- 700 :
- >>696
今調べてみたけど、
仏陀はつい最近、1956年にブッダレベル(レベル8)から梵天サナンクマーラと同じ神レベル(レベル9)にレベルアップしたらしいw
そして……
レベル数百〜数千クラスがこの銀河にいるらしいよwww
マーラの幻術にやられとるw
- 701 :
- なんというドラゴンボールw
ああ、ジャンプの世界観って世界共通かも。
自分らを虐げる(排しようとする)敵がいて、
けど、方向性の類似に気付いて意気投合して仲間になって、
互いに高め合うけど、最後の最後は、
宿命とか生まれ持った才能とかetc.で、北斗宗家だったりサイヤ人のエリートだったり、
定められた者が定められた役割で定められた方法で定められた(≒望まれる)解決策を実行する、と。
ナルトはどうだったっけか・・・。
いずれにしても、
(実は大乗仏教もその色合いはあるが)「ロープレ化」こそが宗教の劣化であり、
また、リトマス試験紙かもな・・と。
- 702 :
- Khattiyo settho jane tasmim ye gottapatisārino
Vijjācaranasampanno so settho devamānuse.
これぞ大梵天サナンクマーラの真言
神智学徒、彼らはあまりにも大梵天を誹謗し、妄語し、多くの不徳を生んでいるのです
- 703 :
- >>702
これが大梵天さんの俺に対する返答ということだね
ものすごいパワー溢れる真言
- 704 :
- >>685
情報をありがとうございました.
ご親切に感謝しますm(__)m
>>690
それは“如来”「tathāgata」(ターターギャター)の別称でしょ。尚且つ、それは十語にて限定されてる。
第一、十号にはそもそも「阿羅漢」だって直接は入ってないのだからね。あくまでも阿羅漢は「応供」の“別称”の扱いでしょう。
「真人」は、そのまた更に“阿羅漢”「arhat」(アルハット)の別称なのだから止む得ないのでは?
- 705 :
- >>688
>UFO妄想
エッ! まだ見てなかったの?
いや.ザンネンだね.. ホントあなた方は...。
で、あなたは生きている間に心霊存在とUFOのどっちかくらいは見れますかね(笑)
宇宙に地球人だけという方が不自然で不条理です。
科学的にも確率的に宇宙人の存在は当然と考えられている。あとは彼らとの遭遇の問題...。
しかし実際上、UFOくらいすでに多くの人が目撃してるよ!!
これが私の目撃情報です--あいよぉ!!
https://rio2016.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1548698413/986-987
>>691
サナット・クマラから直接、何処かの誰かにコンタクトをつけるなどということは在り得ない。
サナット・クマラは世界主にしてワンイニシエーター。サナット・クマラに遭えるのは、
第三段階イニシエーションとそれ以降の高位のイニシエーションのときのみです。
そして尚且つ、通常はその時の記憶は保持することができない。
たかが通常の瞑想レベル程度でこちらから望んでMaitreyaや世界主に会って来るなどできる筈がない。
あなたが第三段階以上、いや第四段階のアルハット位階以上の進化を遂げていなければ、
とても望むような接触などはできない。
>あ、弥勒菩薩に関しては、神智学と同じこと、無着がやらかしてたっけ?
それはハイアラキーの首長であるMaitreyaとは別存在であり、普通に実在した僧侶です。
『インドの僧。大乗仏教の学派のひとつ瑜伽行唯識学派の開祖とされる人物[2]。未来仏として信仰される弥勒菩薩と同じ存在
として扱われてきたが、仏教学者の宇井伯寿が1929年に『Maitreya as an Historical Personage』において歴史的人物として扱
う見方を提示した[3]。』(Wiki)
- 706 :
- >>700
それらはすべてデタラメです。
あなたは、それを何処のサイトで見ました?
いっておきますが、
ネット上に溢れているホワイト・ブラザーフットとハイアラキーの覚者方についての情報は
その殆どが間違っており、まったく使えませんから。
>>701
冗談じゃない!!
“デタラメ”見て反応するのはやめてくれよw
- 707 :
- >>698
>その偉大な科学者先生の名前でググれば、
>前世が動物のケースも検証してる
了解しました...。
ご指摘ありがとうございました!
そのことについてはココに謝罪をしますm(__)m
『「前世」は,非業の死を遂げた人物であることが多く,殺人被害者の場合は,加害者に対して敵意を見せる。
「前世」が,自殺者であることは少ないし,動物であることはほとんどない(少なくとも報告されてない)。』
(生まれ変わり事例の研究) http://www.kisc.meiji.ac.jp/~metapsi/psi/7-3.htm
ということで、
私は人間⇔動物間(人間以外)での転生についてはかなり懐疑的でしたが、
しかし、そのようなごく稀なレアケースもあるらしいことについては認めることにします。
私は、仏教における六道(本来は修羅のない五道)の“畜生道・畜生界”とは、
まるで人間ではない動物のような扱いを受ける酷い境涯のことなのだと受け止めていました。
つまり、分かり易く極端な事例でいえば、マルタ人体実験とか人身売買や奴隷虐待、人質拷問...等々が上げられますが、
それらが畜生道(畜生界)への転生のことであると。
なので仏典の説く、動物に生まれるという意味での「畜生胎」>>657の話はすべて、
人を悪事に入らせないための脅し的な方便だととらえていました。そのまま受け取るのは迷信かと...。
しかし、まさか本当に動物の肉体に転生する事例があるとは...かなり驚きました。
でもたぶん、本当にそれは極々稀なレアケースだろうとは思いますが。
- 708 :
- >>694-696
いや、意味不明...。
私はブッダが低いなどとはいったことはないし、そして、誰もそう見てない。
低いのは現状の“仏教界の実態”のことですよ。
仏教徒自身が“本来の真実のブッダの教えを見失ってしまった”のです。
だから、仏教徒たちというのはその実際上の歴史において常に、
大衆部及び大乗vs上座部、説一切有部vs諸派、密教vs諸派、中観派vs唯識派、
浄土信仰vs諸派、輪廻否定/断滅論支持派vs伝統諸派...etcと、限りなく果てしなく論争し続けてきたのです。
つまり、何が正しいのかが分からないのです。
まずは、その事実を認めなさいな!
神智学の教えでは、
地球人類から出てきた中での最高度の進化を達成した方がブッダであり、その進化段階は8段階だとされる。
そして、ブッダと一緒に一番最初に地球上でのイニシエーションを受けたのが、ブッダの兄弟であり後継者のMaitreya(7段階)。
そのMaitreyaを頂点とするハイアラキーの覚者方、Maitreyaの直弟子たちがチョハンの6段階。
我々が目指すべきゴールであるニルヴァーナ境地に達した覚者が5段階です。
そして、その手前のアルハット位階の4段階(神智学ではアルハットは覚者ではない)、
サナット・クマラ(この惑星ロゴスの反映であり、人類の魂を吹き込まれた父)から最初に受ける本格的イニシエーションが3段階、
Maitreyaから受ける幼子のイニシエーションが1-2段階です。
そして大体、世界平和を志向したり、瞑想などの実践に取り組みだすような人々というのは殆ど皆、
1段階の前後にいるとされています。
尚、一般大衆が何もそこまで知る必要はまったくない。
ニルヴァーナ涅槃(5段階イニシエート=覚者)を目指すことには何も変わりがない。
- 709 :
- >>704
アルハットはもともと「尊敬されるべき人」の意味でその意訳が応供、音写が阿羅漢。
真人という意味ではありません。
- 710 :
- >>697
その主張は概ね認めます!
確かに人々に受け入れられ、
認められて、実際に永い歴史の中で信仰され続けてきた。
こうしてブッダの精神を二千五百年を経て今日まで伝えてきたわけです。
それ自体が素晴らしい奇跡といえるし、それこそ大変な努力ですよ。
ならば、
仏教だけが唯一の真理で他はすべてダメというアホ論理は捨てるべきです。
己の未熟を顧みずヒンドゥーを下位に置こうとする醜態は止めた方がいい。
あとは、ご自由に信仰をこれからも続けるのは何も問題ない。
- 711 :
- >>705
> >UFO妄想
>
> エッ! まだ見てなかったの?
> これが私の目撃情報です--あいよぉ!!
> https://rio2016.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1548698413/986-987
セブン、これが宝珠の本質なんだよ
サンタさんの実在を強弁してはばからない
こんなのは、サンタさんを信じるガキを論破して得意満面の紐あたりに任せときゃいいのよね
真面目に仏教の思想体系に基づいて反駁する価値はない
- 712 :
- >>706
天下のWikipedia様w
もう、身内の神智学同士でも、要するに
・自分の都合の良いものは(他人に突き付ける印籠として)援用する
・自分の都合の悪いものは間違っているとして無視
なんでしょw
そうやってハイアラキー同士でも手品で出す手紙を互いに捏造し合って神智学協会は分裂したわけだしw
三つ子の魂百まで
始祖の魂末端信者まで
の好例がここにもw
- 713 :
- >>706
>In the Ascended Master Teachings, it is believed that on January 1, 1956,
>Buddha advanced from the 8th level to the 9th level, becoming co-equal with Sanat Kumara.
英語で情報入れられると、海外の情報は最新の情報をキャッチアップしやすいねw
て、1956年だけどなw
まあ少なくとも己が情弱になって、情弱相手に偉そうなこと言って圧倒しようとする手の詐欺師のペースに陥ることは
なくて済むので助かるわ
- 714 :
- >>709
だから、“古訳”としてあるといってるでしょ。
前回の引用が少しミスってるようなので再掲しますよ!
『老荘の伝統では,「聖人」よりむしろ「仙人」を理想の姿とする。仙とは長生ないし不老不死の意であり,「真人」
とも呼ばれる(儒教では「真人」という語は用いない) ---中略---
因みに「真」という文字は儒学の経典には出てこない。それは概念も言葉も道家のものであって,『老子』には現れ
ないが,『荘子』において多用されている[吉川 1990 : 178]。 仏教の文脈でそれはアルハトarhat すなわち阿羅漢
(羅漢とも)を指す古訳である。阿羅漢を意味する真人は格義〈的〉であると言える。』
(船山 徹著『文化接触としての仏典漢訳―「格義」と「聖」の序論的考察』)
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/177242/1/ctz_4_010.pdf
そして、『ブッダ神々との対話』(岩波文庫)の訳注p248では、
中村氏は、『シナでは「真人」をこれの訳語として用いていることがある。』と説明しています。
“これ”とはもちろん、“尊敬されるべき人”のことで、araham.のこと。
認めたくないならばご自由に...
- 715 :
- >>711
仏典のこそ奇跡と神通のオンパレードでしょうが!
事実は事実。本物は本物。そして、迷信は迷信だ...。
そのように正しく分別をつけるのが正しい姿勢だ。
>>712-713
デタラメはデタラメ。
嘘は嘘。間違いは間違い。
それ以上のいいようはない!!
あなたの発言にはいちいち付き合ってられないので、
今後は逐一レスしませんからね。労力の無駄...。
なので、あなただとすぐ分かり易いようにコテハンつけて欲しいね。
- 716 :
- 効いてる効いてるw
- 717 :
- >>707
瞋痴の言う、動物の魂は同じとかって話は間違いだった訳だ。
こんな重要な事を間違う瞋痴なのに、何故、仏教より上だと断定できるのかな?
「瞋痴が絶対正しい」という結論ありきで考えてるからだろ?
それはキリスト教と同じく、異教は愚かな迷信という傲慢な考え方。
それと、仏教で「自分の宗派が絶対に正しい」と言い合うのは、
「自分の宗派が、回り道せずに悲願に至る方法論として、絶対に正しい」
という意味であり、
他所の宗派は劣るものであって「愚かな迷信」という意味ではありません。
これは七氏などが繰り返し何度も言い方を変えて説明してますが、
先述のバイアスが掛かってるから読み取れないのです。
これを世間では、洗脳状態と言います。
(^。^)悪いことは言わないから、一度、マトモなカウンセリングを受けなさい。
- 718 :
- >>717承狂
だから、
それは極ごくレアケースとして、稀なる可能性としてです。
基本前提の認識には変更はないです。
そんなことを言う割には、あなた自身が仏典の記述を信じないじゃないか!
フザケルのも大概にした方がいいのでは???
あなたの真面目さはコテハン使用を守ることだけだw
- 719 :
- >>718
レアケースがある法則なんてものは間違いだよ。
そんなものは単なる経験則に過ぎない。
瞋痴は、基本中の基本である魂の在り方を誤認してるって認めなさい。
間違った話を元に、他の宗教を歪めようとするのは、良いことではないと解りませんかね?
「人は人に絶対に生まれ変わる」
これは間違いです。
つまり「輪廻を、生まれ変わりとするのは間違い」な訳。
蛇が人に転生するなら、人が転生しないケースも有るかも知れないでしょ?
これを証明するのは論理的に不可能なのは判りますか?
結論ありきではなく、論理的に考えてみなさい。
- 720 :
- というか、瞋痴はどれだけ術を使えるのか知らないが、
何らかの術で実際に神仏や霊とやりあってたら、
「輪廻が生まれ変わりの意味」
だなんて単純な考えは改めさせられるはずなんだがね。
まさか、聞いた話、見かけた現象だけで、正しいとか間違いだとか言ってるのかね?
それがどのくらい恐ろしい事か、考えた事はないのかね?
- 721 :
- >阿羅漢を意味する真人は格義〈的〉であると言える。
つまり、『中国的に解釈し直した訳語』ということ。
原義ではない(インド仏教が付与していた意味合いではない)ということ。
大きな辞書的に言えば、10番目20番目になってようやく出てくる意味ということ。 >>714
- 722 :
- >>719承狂
いやいやまだ、動物⇔人間についてはその可能性としてですよ。
だから、そういう情報があるという程度に留めます。
それは憑依であり、憑依していた時の記憶である可能性も検討する必要があるだろうしね。
また、もし仮に動物⇔人間があるとしても、それは“蛇が人に転生する”のではなくて、
それはあくまでの“人の魂が蛇に転生し、そしてまた再び人へと転生して戻って来る”ということだと理解します。
「蛇の魂そのもの」が人間に転生するという意味とは見なさない。
>つまり「輪廻を、生まれ変わりとするのは間違い」な訳。
>蛇が人に転生するなら、人が転生しないケースも有るかも知れないでしょ?
あなたは論理が突然、飛躍するのですね! 業報理論からみて在り得ないでしょ!
では、ここに涅槃に入る以外の転生が止むケースについてその仏典の記述を出してもらえます?
- 723 :
- >>708
なぜ意味不明なのか意味不明w
>私はブッダが低いなどとはいったことはないし、そして、誰もそう見てない。
>低いのは現状の“仏教界の実態”のこと
だからw
「ブッダは覚醒レベルが低かった」 で良いじゃないですかw
なぜ、神智学の枠の外のインドの一遊行者を、最高レベルに祭り上げる必要があるのか?
という話。
*(だから、その意味では、
仏教の世界観では勿論頂点(か、舎利弗と並ぶかwという位置付け)としても、
神智学の世界観では、多分真ん中くらいの低い所なんだろうな、と私は思ってますよ?www)
説かれなかったことは説かれなかったこととして素直に受け止めておけばいいのに、
なぜ、「実は云々」という形にしなきゃならんのか?ということ。
(まさに少年ジャンプの世界観!w)
- 724 :
- >>722
それ、文脈から見て、「人が人に」の脱字でしょ
- 725 :
- 423 前世の生涯を知り、また天上と地獄とを見、生存を滅ぼしつくすに至って、直観智を完成した聖者、完成すべきことをすべて完成した人、---かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
岩波文庫「ブッダの真理のことば 感興のことば」中村元訳より
「Pathame udana(歓喜の言葉)」
Aneka j?tisa?s?ra? sandh?vissa? anibbisa?
Gahak?raka? gavesanto dukkha j?ti punappuna?
?
無数の生涯にわたり、あてどなく輪廻をさまよってきた、家の作者を探し求めて。
更に更にと、生まれ変わるのは苦しいことである。
?
154.
Gahak?raka di??ho'si puna geha? na k?hasi
Sabb? te ph?suk? bhagg? gahak??a? visa?khata?
Visa?kh?ragata? citta? ta?h?na? khayamajjhag?.
?
家の作者(渇愛)よ、汝の正体は見られたり。
汝が家を作ることはもはやあるまい。
汝の梁(煩悩)はすべて折れ、家の屋根(無明)は壊れてしまった。
形成するはたらき(行)から心は離れ、渇愛を滅ぼし尽した。
?(ダンマパダ153,154)p28「日常読誦経典」
- 726 :
- >>723
>神智学の枠の外のインドの一遊行者を、最高レベルに祭り上げる必要があるのか? という話。
いや.意味不明。
“どの宗教からでも道を上ることができる”とするのが神智学であって、
神智学以外は非真理でダメだというものではない(あなた方とは違う)。
単純に、ブッダが最高位にあるというのが事実だからであって、別に神智学外の聖者を持ち上げているわけではない。
で、神智学はMaitreyaが説いたものではなくて、その弟子の覚者方からのものです。
Maitreyaは一般には誰にでも分かる簡単な教えしか語らない。
そして、世界中に出現した諸宗教の発生を最終的に決定しているのはMaitreya(ブッダ以降の後継として)です。
舎利弗その他の古い弟子たちは皆すべて、とっくの昔に5段階以上です。
まっ、詳しくやっても意味ないだろうから辞めます。
- 727 :
- >>726
いや、だからw
神智学で言われる幾つかが、仏教では説かれていないんですよね?
少なくとも、仏教内の文献からは辿れてませんよね?
だから、
「ブッダはそこまでだった」でいいじゃないですか?と言っているのですw
- 728 :
- 或いは、別の妄想をしてもいい。
>>726
>舎利弗その他の古い弟子たちは皆すべて、とっくの昔に5段階以上
寧ろ、ブッダよりも舎利弗やその他弟子の方が上位階層へ登っていて、
だからこそ、晩年隠居状態だった釈尊の言葉以上に、
弟子たちの言葉が、(明文化ではなくとも)残った。
弟子たちの方が釈尊より上だった、という仮説もとれますよ?w
- 729 :
- このスレ読んでいて
神智学って妄想を駆使して作り上げた
「ぼくの考えた最強の」なんちゃって宗教なんだね
という感想を持った
- 730 :
- なるほど、真我実現を唱え真我を発見したようなことをハッキリと言っているラマナ・マハリシなどの聖人は、
真我を見つけられなかった、確認できなかった釈尊よりも神智学のイニシエートとかいうものでは何段階か上ということになるのかもしれないね。
うむ。
- 731 :
- 或いはまた、
仏教内でも様々な僧が輩出されているわけだが、
それら有名どころもまた、或るレベルどまりで、ブッダ釈尊だけが最高位に置かれるところも、
「開祖・創唱者だから?」と勘繰りたくもなる。
又、
仏教外でも様々な宗教的聖者の名は挙がるわけだが、
彼らもまた最高位に列せられない。
なぜ、仏教・ブッダだけが、他を抜きんでて表彰台の頂点へ列せられるのかな、と。
(残された資料からすると、大乗系の各如来や菩薩の方が、よっぽどふさわしいし、
19世紀以降の近代仏教学の成果は、史実としての歴史的人物シッダッタの掘り下げに寄与してきたわけで、
その視点からすれば、他の多くの聖者方の方が、よっぽどふさわしい。)
- 732 :
- 又、
儒教的価値観と先祖供養や、
日本の霊魂観と儒教的道徳観と仏教的世界観の上に構築された、
「日本的先祖供養」についても、
葬儀社や仏具石材店のHPレベルの知識しかないもんだから、
日本仏教の問題点が、布施等金銭面、或いは僧侶の日常生活しか見えてない。
勿論、それも重要な点だけれど、
根っこというか病巣は、もっと根深く、長期に亘って醸成された日本文化、習俗にあるというのに・・。
その辺も書き込もうかと思ってたけど、面倒なんでやめた。
また、何かきっかけがあれば、少し喋るかも・・。
- 733 :
- 訳の分からん論争が続いていますなあw
皆さんご活発で何よりなことですww
大体、宝珠の神智学なんて真面目に取り組む人間の方が少ないだろうよw
人間は空も飛べ、文字通り食わず飲まず息もせず、海中(水中)で無呼吸で
生き続ける事が出来て何万年でも生き続ける事が出来る〜なんて誰がマジに
信じるのだ?
ミスターマリックが目の前で手品を披露したらそれを真に受けて信じるような
感覚で、騙された感がある〜と感じるのが普通の人間。それを大真面目に信じるのが宝珠。
仏教の特異的な特徴は無我にある。他宗教ではアートマンを肯定するが、仏教だけ
これを否定する。これが仏教の特徴であり魅力でもある。仏教がアートマンを肯定して
いるのなら仏教の魅力なんて無いも等しいww
- 734 :
- >>733
うむ、ご苦労w
- 735 :
- ×ミスターマリックが目の前で手品を披露したらそれを真に受けて信じるような
感覚で、
〇ミスターマリックが目の前で手品を披露したらそれを真に受けて信じるような
感覚であっても、
そうは言っても、極端な阿呆は、人生全部無我やら実体がないから空だとか虚無の
世界観を仏教から誤読(まあ私から見ての事だがwww)するから時々ちゃちゃを入れているw
- 736 :
- >>735
そっから先はお前の預かり知るところじゃないからw
- 737 :
- 仏教を虚無志向と捉えるのは、200%西洋的価値観の人間。
また、
近代の科学的世界観価値観、
或いは世俗的享楽の否定が許せない人種、
或いは、自我・自己等「わたくし」の消失を怖れる西洋的感性・神智学的感性もまた、
それを怖れる。
しかしながら、
「涅槃」が「寂滅」と同義と扱われる所以に思いを馳せるなら、
虚無ではなく安楽だと、ストンと解るんだけどね・・。
- 738 :
- ああ、
一代は貴重な論客だったな・・・。
- 739 :
- 科学的云々言う前に己の200&とか500&とか非科学的な表記を改めよww
- 740 :
- ×200&とか500&
〇200%とか500%
- 741 :
- 100%を超えても使っても良い表記は列車の乗車率位なものだww
それ以外で使う奴は大体頭が非科学的w
- 742 :
- 良くも悪くもレトリックに対する不感症さが紐の限界なんよねえ
- 743 :
- >>739
大きなお世話w
別に、数学的計算をしてるわけじゃないから。
もしかして君は、
「八百万の神」と謂う時、800万柱の神を指していると思ってる?
「八百屋」と謂った時、800種類の野菜が並んでると思ってる?
「八万四千の法門」と謂った時、本当に8万4千通りの説法だと思ってる?
「三千大千世界」と謂われた時、3000×1000個の世界だと思ってる?
「指切りげんまん、針千本飲〜ます」と謂った時、実際に1000本飲まし得る約束と思ってる?
「世尊が、2500人の菩薩と云々」と記されている時、本当に2500人の人間(弟子)がそこに居たと思ってる?
君には日本語が向いてないんだろうな・・・。 >>紐
- 744 :
- >>743追記
「十二分」を広辞苑で調べとき。
本来は「十分」が正解で、「100%と120%の違い」は、たぶんそこから来てるんだろうと思うけど。
- 745 :
- 阿呆ww
日本語が向いていないのはお前らの方だろうがww
200%とか500%とかいうのは何らレトリックではないww
日本古来の言葉の使い方で200%とか500%とかあるのかよwww
日本古来の言葉の使い方はOKだが、「200%とか500%」なんてのはいただけないなあw
使う人間の感性を疑うw
- 746 :
- .
.
┐(´ー‘)┌
- 747 :
- >>745
「ら抜き言葉」「させていただきます」の濫用より遥かにマシw
人によっては、主語と敬語・謙譲語の連関が滅茶苦茶なの多いしね。
こわいのは、ビジネス・営業の場面で、それが黙認されている(というか気付かれずにある)ということ。
ま、言葉は生き物だから、いずれ、
「写真を撮らさせていただきます」とか、
「では、あと数分もすれば、○○先生が、ここに来ていただけますので云々」とかも、
通常如常の、正解の言い回しになるのかもしらんけど・・・ orz
- 748 :
- そんな言葉の変化より200%とか500%の方が遥かに気色悪いがなあw >>747
まあ非科学的な頭の人間にはこれがレトリックにうつるんだろうなあw
- 749 :
- まあ情緒の解せない人間には、計算通りの数字しか見えないんだろうなぁw >>748
- 750 :
- 算数が出来ない人間は、
>計算通りの数字〜
となるが、そもそも「計算」なんてしていないし、「数学」ですらない。算数でもないw
表記の問題なのを理解できないのは日本語の理解力の欠如が甚だしいw
やっぱ、あらゆる方角から見てセブンは僧侶には向いていないだろうなあ。
- 751 :
- 表記の問題だから、そこに情報の上乗せがされる(され得る)ということが理解できないなら、
やっぱ、あらゆる方角から見て紐は日本語には向いていないだろうなあ。
- 752 :
- 表記だから>>745 >使う人間の感性 なので、
200%やら500%が、100%を超える甚だしい状態を指す表現を示そうというのであっても
駄目ということだよw
センスのないのは性分だから変えようがない。僧侶もその意味で合っていないという事だ。
- 753 :
- 表記だから、使う人間の感性 なので、
甚だしい状態を強調したい表現として上乗せされるわけだよw
(八百万の神、八万四千の法門、八百屋、千代に八千代に細石の、
万国博覧会、千の風になって、百千万劫難遭遇、などまさにそう。)
センスのないのは性分だから変えようがない。日本語の使用もその意味で合っていないという事だ。
- 754 :
- ああ、でも、
出会った当初から、
日本語の使い方でコンセンサスが取れてない感じはあったかも。 >>紐
ワシとはともかく、他の人とも齟齬が多かったのは、存外、その辺にも原因があったのかもな・・。
- 755 :
- >>732補
強いて一言二言添えておくなら、
「生まれ変わり」と「日本的先亡の諸霊」と「盆彼岸等の先祖の霊の【帰【郷】】」、
或いはまた、
「(日本的には)先亡の諸霊と(ある種)合一化し(祖霊というグループ化を果たし)、
「そのポジションのまま」子孫・家系を守護する」
ということと、
「生まれ変わって別の人生を生きるということの両立」は成立するのか?
ということを、神智学ではどう理屈をつけてるのかね?
地域によっては、盆踊りの際は、死者が戻ってきて一緒に踊ってるという考え方もあるらしいけど、
生まれ変わって、別の人生を生きて、別の我が子と盆踊りを踊りながら、
別の場所で、前世の縁者と盆踊りを踊ってるのかね?
- 756 :
- んー、まあ、多少は紐の立場も擁護を試みると、
時代的に日本人がそな言語的背景にある文化教養的コンセンサスの厚みや幅というのがどんどんと薄く、狭くはなってきているので、
セブンの期待するほどの“日本語理解力”はそれほど求めることは難しいのかもしれない
まあ、紐のは確かにアスペルガー寄りなんだけどw
ただ、仏教とか特定の文化カテゴリーに足を踏み入れて何か言論行為をなすにあたって、そのカテゴリーのレトリックを踏まえず、一方的に元来から持っている自分の了見を押し通すのはね……
……あ、なるほど、宝珠がどうりで紐に秋波を送るわけだw
- 757 :
- いやもうね、宝珠たんのUFOとか真顔で言ってるのと同じ路線で「本当の仏教ガー」ってやられると本当、
エクソシシズム必要なんじゃないかと
「俺は見た見たって」言い張るんだけど、
尊師よ、眼は私の物です
って悪魔のセリフのまんまだしね
- 758 :
- そんな人の見た弥勒菩薩なんて
もう99.99%本物の弥勒菩薩じゃなくて
あれだよね
「悪魔のもの」である眼が見させている経験を何の疑いもなしに丸呑みしてるだけだよね
- 759 :
- >>755
全員が全員自動的に転生されるのか それとも生前の世に未練を持って迷うのか または転生するものとこの世に止まり続ける者に別れるのか?
そもそも肉体と心のどちらに主体が有るのか?
死後も心が有るとして それは永遠に有るのか? それとも一時的な仮の現象に過ぎないのか?
永遠に有るとすれば恐竜や原始人の霊が見られない事の説明が付かないし 直ぐに自動的に転生するので有れば死者の霊が目撃される事の説明が付かない
或いはフアントム・ペインの様に生者の心に帰属する幻痛が産み出す錯覚なのだろうか?
貴方はどう考えますか?
- 760 :
- >>759 横から失礼します
https://i.imgur.com/Vihft6k.jpg
https://i.imgur.com/T6sl5vY.jpg
https://i.imgur.com/BT5nypC.jpg
https://i.imgur.com/Cceli2J.jpg
https://i.imgur.com/jv2ntVe.jpg
https://i.imgur.com/dtCZbPs.jpg
https://i.imgur.com/R0qkbms.jpg
ここからが質問への答えになるかも?
https://i.imgur.com/RSLqWbj.jpg
https://i.imgur.com/lePRmuz.jpg
https://i.imgur.com/Qiob9nr.jpg
- 761 :
- >>760
有り難うございます
ゴーディカ経を始めて読みました
ですが 私の問いかけはそのレベルに達する遥か以前の俗人の死後に対するものです
また文中の黒い煙の様なものの表記で亡くなった身内の顔から出た同様のものの正体が私の直感と合致していて納得が行きました
重ねて有り難うございます
- 762 :
- >>743
そこはジンバブエのインフレ率とか宇宙の膨張率とか、具体例を上げてやんないと、バカは納得しない……
あ、しないからバカなんだっけ。(笑)
(^。^)そうそう、だから係わりたくないんだった。(笑)
>>724
いや、「人が転生しない」ですよ。
例えば、数劫の間地獄にあるという場合、生命の歴史は数十億年なので、それは未来の話であり、
現状は永遠に地獄に在るのと同じことです。
また、何かに封じられれば、転生も何もありませんし。(笑)
そもそも、マクロな観測が出来ないんだから、「全て転生してる」とは言えないんですがね。
全て個人からの観測の伝聞でしかないので。
霊に関する通説は、
「太陽は毎日昇って沈む」ように見えるから、「太陽が死と再生を繰り返してる」と信じるのと同じく、
見たままを信じてる「素朴実在論」レベル。
これと「輪廻」を同じレベルで扱うのはね。(笑)
(^。^)もう、宝珠いじりは飽きました。(笑)
後は頼んだぞ、諸君!(笑)
- 763 :
- >>762 他人の言葉にはうるさいが己の言葉にはいい加減な承狂大先生かよww
俺は列車の乗車率などで100%を超える表記は許されるが〜と念を押しているw
何でも全て駄目だなどとも言っていない。
お前は人の何を読んで偉そうに茶々をいれているんだ?カスがw
↓こういう表記で100%を超える表記は駄目だと言っているんだよ。
>500%お釈迦さんの系譜ではない
>200%西洋的価値観の人間。
200%あり得ない〜 500%そうに決まっている〜 なんて頭の弱い人間が言う言葉だw
そんなに頭が弱くて僧侶が務まるのかよww だから辞めろとwww
- 764 :
- それに輪廻転生なんてのはインド地方の信仰にすぎず、体験例として上がっているのも
そのほとんどがインド辺りのもので、世界的に他の地方での報告例はごくわずかしかない。
臨死体験の報告例が世界全体に偏らずあるのに対して輪廻転生はインドに偏っているのは
インドの信仰のバイアスがかかているからだろうなあww
- 765 :
- >>762
> >>724
> いや、「人が転生しない」ですよ。
それは失礼しました
宇宙が崩壊する時、第2禅定地未満の存在がどうなるのかという話もありますね
地獄界の連中は「他の」宇宙の地獄界に転生するしかない、というような話もどこかで聞いたような
転生するしかない、という話であって、自動的に転生するシステムになっているという話ではないですからね
まあどこまで仏教的に通説なのかも不明ですし
- 766 :
- 愚か者が人に生まれるのは奇跡
たとえば、穴の一つ開いたくびきが海に浮かんでいて、一匹の盲目の亀が百年に一度浮かびあがって、たまたまそのくびきに頭を突っ込んだぐらいの奇跡。
「それはどうしてでしょうか。弟子たちよ、
(地獄、畜生、餓鬼といった)悪趣には、法に適う行いがなく、正しい行いがなく、善を積むことがなく、徳を積むことがないのです。
弟子たちよ、そこには足の引っ張り合いがあり、弱肉強食があるのです。
弟子たちよ、そのようにして、その愚か者が幾久しい歳月の後に人という境涯にやってきますが、そのときには、卑しい家−−チャンダーラの家、猟師の家、竹籠作りの家、車作りの家、あるいは屠殺者の家に生まれ変わります。
・・・そこでは衣食を得るのが難しいのです。
それでかれは容色悪く、容貌醜く、病気がちです。
目がつぶれていたり、手が曲がっていたり、足をひきずっていたり、半身不随であったりします。
また、食物や飲み物や衣類や乗り物や花環や香料や塗油や寝具や家屋や灯明も手に入れることができないのです。
かれは悪しき行いをし、悪しきことばをしゃべり、悪しき考えを抱いてから、死んで肉体が滅んだ後、幸なきところ、悪い行き先、落ち行く先である、地獄に生まれます」
博打ですべてを失ったとしても、地獄に行くことに比べれば取るに足りない。「弟子たちよ。これこそ、まさに愚か者の完成する境地なのです」
(中部経典 第一二九経 癡慧地経)
- 767 :
- 仏陀が説く殺生、殺害、中絶、堕胎、窃盗、盗みなどの悪業、悪行と地獄の苦しみとの因果関係
https://gamp.ameblo.jp/hsf15/entry-12379015757.html
- 768 :
- >>767
個別具体的な他者に対する害意ではなく、
仏法
という抽象的なものに対する「盗み」ってどうなるんでしょうね?
エキノコックス星人がやらかしているかもしれないという
- 769 :
- >>768
横からすみません
造られた法なら盗みも出来るだろうけど 始めから有る法なら盗む事も所有する事も不可能ではないのですか?
寧ろ万物が法の支配下に有る訳ですから
- 770 :
- >>769
そういう意味での「盗み」ではなく
「仏」法
を
「コンコンチキ」法
とか、ラベルを貼り変えてしまうということです
相対性理論を「アインシュタインではなく俺が発見したんだ!」と強弁したりするような
- 771 :
- >>770
ああ久遠実成の日蓮が釈迦を産み出したという様なアレな人達のそれですね?
彼はちゃんと話せば解らない人ではないし そこまでではないのでは?
からかう様な物言いに反応して少し制御が効かなくなる感じはしますが
- 772 :
- 仏以外にも仏教VIPである弥勒菩薩や大梵天サナンクマーラの名を騙っている嫌疑もありますけどね
その場合は名や権威を盗んでいることにもなりますね
- 773 :
- そういう場合の業報はどのようになるのだろうかと
- 774 :
- >>771
そんな酷いのがいるんだw
専ら話題にしているのはこのスレ参加者のUFOおじさんです
- 775 :
- >>774
日蓮本仏論は個人じゃなくて宗派まるごとなんで 酷いなんてものじゃ有りません 笑
そういう人達に絡まれてバトルしてると大抵の人は許容範囲内になりますよ
- 776 :
- >>772
そういう体験は個人的なものだから否定も肯定もしない方が良いのではないですか?
有ると言っても無いと言っても推量による断定だから確証には至りません
私も未確認飛行物体本来の意味でなら見た事は有るけど それが異星人の乗り物かどうかは確認出来ていませんので真偽保留にしています
現代では写真や映像も完璧な証拠にはならないし 誰かの経験と誰かの未経験だけで論じるのは余り意味を持たない様に思います
経験者で肯定派 経験者だけど否定派という様な細分化が適切かも知れません
確認出来るものは確認して 確認出来ないものは保留というのはどうでしょう?
その方が仏教的だと思いますが?
- 777 :
- >>776
まあ、一般論としてはそうでしょうね
今、現に、このスレで訳の分からない偽の仏教像を語っているUFOおじさんは
その個人の体験をここでねじ込んで来ているわけ
なのでその行動ぶりから逆に何だかこれは異常だなってなるのね
冷静な姿勢の個人と個人のそれぞれの主観体験を別にとやかくするようなとこじゃないのね
そこまで主観に踏み込んで客観で行き過ぎるのは紐だしw
- 778 :
- >>775
お疲れ様ですw
- 779 :
- >>777
皆さん高度なお話をされてるのに僅かな違いで言い争うのは少し勿体無い気がしますね
既に知り得ている素晴らしい事を実践出来ていないのは見ていて歯痒い思いです
宝珠氏も皮肉ったりからかったりされなければ落ち着いて話の出来る方だと見えますので お互いに揶揄や皮肉を交えずに話し合われてみてはどうでしょうか?
一定以上の宗教知識と理解が有る同士がVIP板みたいな煽り合いをしてる様に見えてしまいます
- 780 :
- >>779
それが11年に渡ってこうだと思うとですね……(苦笑
結局、自説の確認行為しかやっていないんじゃないかと
- 781 :
- 私は、一代のおかげで、
「なるほど、そういう視線なら、(奈良さんの仏教風呂敷論よろしく)
阿含から“近世”日本仏教まで、ちゃんと仏教として(ブッダの教えとして)筋が通るのね」
と、視野拡がったけど。
別に非仏説とは言わんけど、理や筋は曲がり過ぎじゃね? と思ってたからw
そんな彼も、日蓮さんは嫌いだったみたいだが・・
- 782 :
- >>780
それは長いですね…
- 783 :
- >>781
原始経典から密教迄を緻密に見れば糸は見えると思います
日蓮はその糸を法華経でおしまいにしてブチッと切るから嫌われるのは当たり前という気がしますね
華厳の一即多 多即一も 密教のシンボリズムも彼の視野に入らなかったのかなと思えます
- 784 :
- ああ、ここにも・・・w
つか、仮面被った一代だったりして。
欲求を抑えられず、再び書き込んでるのかという気がするほどw、
ここ暫く、同系統の匂いの書き込みが続いてるので。
- 785 :
- >>784
違う、その人はマインドフルネススレで念を保っていながら車のドアを閉め忘れたとして有名な人。
しかし7はいつまでも一代に恋い焦がれているんだな。
彼の再来を待ち続けるために2ちゃんねるを続けているかのようにみえる。
- 786 :
- >>785
ああ、大乗(及び中観)って、こういうことか・・
という実例を見せてくれた点で、手帳に名前を残したくなる人物w
- 787 :
- >>785
私はどちらとも別人です
- 788 :
- つか、龍樹に関しては、
(今でも、
「尖り過ぎてて要らない、という判断をしてもいいんじゃないか」
とは思ってるけどw
それでも)、
「縁起」という在り様の考察(及び教理面での発展)に関して、大いに参考になった。
- 789 :
- >>788補
「尖ってる」のは(理としての)中論だけで、
他は、ちゃんと(易行も含め)順を踏んだ行論だ、という
彼の言葉にも頷きはするけれど。
- 790 :
- 一代氏って宝珠に対しては当時からかなり否定的だった気が
過去スレ確認すれば分かることだけど(サボりスマヌ
- 791 :
- 宝珠は昔議論スレでその一代を含む色々なコテと議論してたのが楽しく懐かしい思い出ででありその続きをやりたくてこういうスレを立てている
- 792 :
- 【大阪坊主】あおり運転疑いで「僧侶」を書類送検 急ブレーキ繰り返す ・
https://asahi.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1566460239/
- 793 :
- >>791
そうなん!?
本人コメントよろ
- 794 :
- てs
- 795 :
- >>759
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og129.
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c
2
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bl
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h
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- 796 :
- NG設定厳しいなw
- 797 :
- ほうw
>>721も無視されてる状態か・・。
- 798 :
- 漢訳は、その訳経のスパンの長さから、
「文体・単語・文意等で、古形を残している可能性」も高いのだけれど、
同時に、
「当時の価値観に合わせて、訳し方に語義の変更を加えているケース」も多い。
(というか、「6・7・8割がそうだ!」というのが、「格義仏教」という批判語なわけで)
で、無我を初め、様々な中国的訳語を批判しながら、「真人」は無批判にそのままとか、
どんだけ御都合主義だよwと。 >>宝珠
- 799 :
- 「真人」を受け入れるなら、同じように「無我」も受け入れとけ、っていう話。
- 800 :
- そしてもし、宝珠が、
「ちゃんと、語の意味内容を吟味して、正しい(―仏陀が説いたと思われる意義―)
訳され方、使われ方、解され方がされてる語は採用し、
そうでない、間違った(―仏陀が説かれていないと思われる意義―)
訳され方、使われ方、解され方がされてる語は採用しない」
というスタンスならば、
(私も含め)多くの対論者が、全く同じ思い・スタンスで、貴方に反論している、
ということも、
十分理解できる筈なんだけどね・・・。
- 801 :
- >>799補
その意味で、
大乗の末席にあることを自覚する者は、
「常楽我浄」を、仏説として、縁起の理の上に、まことしやかに説明できねばならないわけでね・・。
(まあ、だから
「涅槃の四徳」という逆相を設定していくことになった、
と、個人的には類推するのだけれど)
ただ、その説明の際に用いる構図が、
キ教的なるもの神智学的なるもの古代中華的なるもの、
そして古代インド的なるもの、でないことが、ただただ希われる・・・・。
- 802 :
- 何て言うか、仏法を盗む、というか勝手に別物にして読み替えてしまうような真似をすると、
業論的には、
その業報として、
その者から、仏法が盗まれてしまう
つまりダルマの深い真実に到達するという縁を自ら断ち切ってしまうという自業自得に陥るんじゃないかという気がするんだよね
あ、それで今現にそうなって(現法受業)、悪循環してるわけか(苦笑)
完全な自己否定しか救いよう(改心のチャンス)はねーな
- 803 :
- 本来の悪い意味での一闡提みたいな
- 804 :
- 龍樹「空七十論」
第62詩頌から第66詩頌
真実を見ることによって4つの倒錯(無常を常と見ること、苦を楽と見ること、不浄を浄と見ること、無我を我と見ること)がなくなり、
4つの倒錯に縁って生起する迷い(=無明)もなくなる
迷い(=無明)がなければ行(=生成のはたらき)は生ぜず、その他の十二支も生じない
Aに縁ってBが生起するという相互依存関係にある存在と無存在も、生成変化するものと生成変化しないものも、実体としては寂静だ
そしてそれこそ涅槃ということに他ならない
「Aに縁ってBがある」というものを真実に実在するものだと妄想することこそ迷い(=無明)に他ならないと尊き師は言われた
この迷い(=無明)から十二支が生ずるのだ
真実を見て、「実体はない、空だ」としっかり知るならば迷い(=無明)は生じない
これこそ迷い(=無明)の滅であり、これによって十二支も滅する
- 805 :
- ということで、龍樹の立場に立つと
常と無常
楽と苦
我と無我
浄と不浄
は此れあれば此れありの相互依存関係にありはたまたそれは単なる名称である
それらを真実に実在するものだと迷妄することなく全ては空であると知れば執着を手放し解脱できる
真の世界の実相は「不常不無常、不楽不苦、不我不無我、不浄不不浄」であり、涅槃の如しである。
という感じになるかな?
- 806 :
- >>805
素晴らしい
先日寝ぼけてて 涅槃とはそれらの対立概念のどちらにも行かない境地だという考えが浮かんだのですが合ってますかね?
結局 それ以上の説明は出来ないし 出来ても不要なんじゃないかと…
生滅の間 有無の間 光陰の間 過去と未来の間 輪廻の間 天地の間‥等々の中間の領域に止まる事でしかないのかなと
それなら「〜ではない論法」からはみ出さないで成立しますから
- 807 :
- サンジャヤ・ベーラッティプッタとの違いは?
- 808 :
- >サンジャヤ・ベーラッティプッタ
不可知論、懐疑論: 真理をあるがままに認識し説明することは不可能であるとする。判断の留保。
可知か不可知か 可能か不可能か のどちらかの立場を取らないという違いが有りますね
それに判断の留保ではなく停止だと思います
有無の二見を邪見とする仏教ではどのような見地にも立たなくなる事が望ましいのではないかと…
- 809 :
- >>806
そうですね、龍樹における世俗諦と勝義諦の思想で対立概念という世俗諦を超えたところに空である勝義諦があるというのは、かなりブッダの思想に忠実なのではないかと思います。
時間がないのでとりあえず参考サイトのリンク
龍樹と輪廻転生 石飛道子
http://manikana.la.coocan.jp/essay/reincarnation3.html
(特に 善悪と空 が考えを理解する上で分かりやすかったです)
中部経典 第117経 『聖道経』
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=951429&id=29096929
(世俗における正しいものの見方と世俗を超えた(比丘用の?)正しいものの見方という考えは龍樹の世俗諦と勝義諦の思想と同じなのではないかな、と思いました)
- 810 :
- >>795
所詮は、それらの諸宗教の教義レベル、
及び単なる心霊主義者とニューエージの類には分からないことだ。
すべてを分かっている者は、
本物の覚者レベル(ゴータマ仏のみならず)と神智学のみ。
尚、仏教というのは実に古いものであり、知りたい肝心なところはすべて無記で無回答ばかり。
(そして、「そのときがくればいずれは分かることとして、今のあなたには無用な知識だと戒められるか、
または、<もしも、知りたければ自ら体験せよ!>といわれることになるのが仏教だ)
従って、知的(知識的)に理解する残された唯一の方法は、神智学の学習だけだということ。
その神智学には無記はなし!!(その代わり当然、凡人や一般人には無用な知識が多く、
また、常人の理解を遥かに超えた内容で満ち満ちている。それが神智学というものだ)
それらの疑問ついては後で回答します!
- 811 :
- >>784-785
一代を待ち望んでも無駄!!
たとえ来たところであなた方に勝ち目はないから(ゼロ)
>>790
アートマン肯定派だから、そりゃ〜当然でしょ!
(ブッダがアートマンが在ると説いたとはいってないが)
>>791>>793
書籍やサイトページなどによる情報発信というのは他にもいろいろとある。
ただし、その殆どは対話のできない一方通行ばかり。
この私は、仏教を唯物論化している者に対して、そして、間違った無我の理解によって、
唯一の真理は仏教だけで他はすべてダメだとする偏見に対して、
それらと徹底的に議論するためにこれらの各スレを起こしてきたのです。
つまり、どこがどうダメで間違っているのかを具体的に指摘すること。
そしてまた、その人達の持つ疑問に対して明確に答えるためです。
それを続けてたら、なんともう十年を超えてた...。
なので、これは“アソビ”ではないの!!
- 812 :
- 龍樹ばかの誕生である、か。
大爆笑である。
なんでか。
有無の二見を邪見とする、か。
対立概念のどちらにも行かない、か。
それが、空、か。
バカ丸出しである、よ。
なんでか。
その、空、を否定したものが正解である、からである。
バカには理解できない。
大爆笑である。
- 813 :
- >>721>>797>>798>>800
あのね...
文句があったら中村氏にいってくれ!!!
http://ifsa.jp/index.php?Gnakamurahajime
http://www2s.biglobe.ne.jp/~posteios/PROJ_B035.htm
これまでも何度かいってきたけれども、しかし、ホントにあなた方は“直訳”が好きだね!
ハッキリというけれども、「直訳」というものは極端な話が翻訳辞書と最低限の基本ルールさえ押さえれば、シロウトの誰にでもできるものだ
(ちょうど話に出てきたようですが、見たところ石飛氏もそうだ。結局、殆どが直訳ばかりだから、まともな意味が通り難く全体的にギクシャ
クした感じの文章が多い。ただの直訳しかできない下手くそ文章の典型だ)。
ただの単語直訳でいうのならば、そもそも「アートマン」の単語だって本来は「息」(気息)ということであって、そこには“恒常不変なる
真実の自己”などという意味はない。しかし、もちろんウパニシャッドが説いているもの、その指し示しているものというのは「息」の話をし
ているのではない。そんなことは当たり前の話だ。それをあなた方は、「この単語は息だ。気息のことだ!」と言い張ってるも同然。
この「真人」と訳して使用したのは中村 元氏ですよ(私は自分の先生以外は決して「センセ」とは呼ばないけど)。この方を舐めないほうが
いい...。中村氏にはいつも、神智学関係でもご理解とご協力を頂いています(神智学の最高原典である不朽のブラヴァツキー著『シークレット
・ドクトリン(秘密教義)』の翻訳書の帯に有難い推奨文を頂いた。実に本物のプロだけに神智学の評価は認められるのです)。
『[帯の文章]
シークレット・ドクトリンとは、あらゆる宗教や古代思想の源である「秘められた叡智」(秘教)の体系を指す。本書は1888年に出版されて
以来、アインシュタインやカンディンスキー、イエーツやモンテッソリなど20世紀を代表する西洋の思想家や科学者、芸術家たちに多大な影
響を与えてきた。
H・P・ブラヴァツキーは、アジアの人々に自分たちの宗教的、文化的伝統の尊さを自覚させ、アジアの精神的復興に大きく貢献した。
(東大名誉教授/中村 元)』http://www.meditations.jp/index.php?main_page=product_music_info&products_id=11258
- 814 :
- 世に知られる仏教学やインド哲学の専門研究者たちの殆どが皆、この中村氏の弟子かその教えを受けた者ばかりであり、中村氏の影響を受け
なかった者などいない。この中村氏の天才ぶりとその偉大さは並の学者陣のレベルを遥かに超えたものだ。その歴史的に最も偉大な天才的な研
究者であった中村氏が、何故、この「真人」などという一風変わった言葉をわざわざ「araham」の訳語に選出したのかということ?
その意図を感じ取らないでいて、ただ単純に単語の直訳と比較して判断する愚ではとてもそのことを理解することなどできないと思う。ちょ
うど輪廻転生の否定論者たちの殆どがいつもやってるような経文の中のごくごく短い部分的なところや一つの単語だけを抜き出してきて、「〜
だから輪廻転生はない」といってくるのとまったく同じ勝手都合の卑怯なやり口と一緒だと思う。
それが本当に正しい訳であるか? 正しい理解であるかどうかというものは、必ずもっと全体でもって、つまり、その文章のあるところの節全
部や章全体とか、そして当然、それは「仏教経典」全体の意図するところとの符合性において判断しなければダメに決まってる。
- 815 :
- その第五節の『敬わるべき人』を読むならば、それは「“わたしが語る”と言ってもよい」ということであり、そしてまた、「言語表現だけの
ものとして<<仮に>>そのような表現をしてもよい」といっている。訳注で中村氏は、ここでいう「わたしが語る」のわたしとは、存在の有無が
議論される「アートマン」のことだとハッキリ指摘していることが極めて重要だ。であるから、このアートマンとは真実の自己である真我のこ
とであり、これについてブッダ自らが言語表現としては「アートマンと言ってもいいよ」と話したということをここで指摘してるのです。だか
ら、わざわざ「仮に」とか「言語表現としてはいい」という断り書きがブッダによってここに付け加えられているわけです。ただ単に、普通に
この単語のままの「阿羅漢」(如来の十号の何でもいいが...)の意味でいいんだったならば、わざわざブッダがそれらの断りをいちいいち話の中
に入れる必要性がないでしょ!! 「araham」なので阿羅漢でいいんだ、その限られた意味でいいということだったならば、この断りを附け加える
ことの理由がないから。「araham」だから阿羅漢と訳すでは、普通にただ当たり前であって、その断りを附け加えた全体の文意にはまったく適さ
ないものです。そこで中村氏は文意文脈と見事に符合して、尚且つ、「わたしが語る」のアートマン(真実の自己)ともリンクできる漢字熟語の
「真人」をこの適語として敢えて採用した。これは中国では究極の完成者の意味であり、そして文字通り、日本人からみれば真実の人を意味す
る語だとすぐ分かる熟語となっている。なのでこれは、天才中村氏だからこそできた的確で神業的に見事な翻訳となっているのです。これがあ
まりにも適した訳語だったので、たぶんご本人もすごく気に入られたと見えて、この「真人」は『パーリ涅槃経』の翻訳でも随処において使わ
れているのです(例:第一章p14.p29、等々)。
ということで、もいい加減にその一つの単語の原語だけで判断するなんてのは、そろそろ卒業してはどうなのかな?
>>799
皆さん、遠慮してるだけ。
ハッキリいうならぱ仏教学上は「無我」という漢訳などは誤訳以外の何ものでもないから。
- 816 :
- 815.無我、を理解できないバカ宝珠である。
よって、真我、真人、も理解できないバカ宝珠である。
大爆笑である。
- 817 :
- >>813-815
追記:
そして、もしも本当にアートマンのアの字も存在しないのであれば、
そのことをブッダ自らがシカと確認済だったのならば、
それが仮に表現だけであろうとも、ブッダが弟子たちに“私(アートマン)は語るといってもいいよ”
などと言うことは在り得ないでしょ。「それはとても可笑しな表現だから辞めなさいな。
完成者であれば物事は正しく語り、それらの迷信的な誤解を産むような相応しくない表現は止めなさい」
という筈ですから。
>>818
「真人」とは、この私の本名のことだ。
このバカタレが!!
おまえは引っ込んでなさい!
- 818 :
- >>809
有り難うございます
大般涅槃経に有る「法を見る者は私を見る」の意味が少し解りかけて来ました
つまりブッダは存在と非存在の中間の状態即ち空に永遠に止まる選択をしたのだと思います
空の中に於ては全ては空なのでどれとか彼とかの代名詞が全く通用しなくなり 自他の区別も生滅も無くなるから何の不安も無くなるという事でしょうね
識別が止まるというか識別のしようが無くなるのだと思います
- 819 :
- >>817
>>>818
「真人」とは、この私の本名のことだ。
このバカタレが!!
おまえは引っ込んでなさい!
私は真人の話なんてしてないけど 何か?
- 820 :
- >>812
ばかしか言えない貴方の悟りを誰も求めて無いから コメントは不要ですよ
マーラは望まれていない存在だと覚って口をつぐんでください
- 821 :
- >>817
大変.失礼しました。
>>816ポッタン師宛てのアンカーミスですm(__)m
すみません。
- 822 :
- >>813
リンク切れ訂正:
http://www.utyu-publishing.com/book01.html
- 823 :
- だみだこりゃw
- 824 :
- 一闡提
- 825 :
- 南伝大蔵経は
・6巻DN3阿摩畫(アンバッタ)経での「阿羅漢」の訳として
・6巻DN1梵網経での「如来」の訳として
・9巻MN1根本法門経,2一切漏経、22蛇喩経、
10巻MN44有明小経、46得法大経、64摩羅迦大(大マールンキヤプッタ)経での「善人(sappurisa)」の訳として、
使われてる。
其々訳者は
・長井真琴
・宇井伯寿
・干潟龍祥
>>真人
- 826 :
- ただ、それぞれ、ほぼ一回か数回ずつのピンポイント用例。
梵網経やアンバッタ経は、それぞれ38頁132頁。
(参:南伝大蔵経総索引)
- 827 :
- 梵網経当該箇所は、所謂「無記」の段。
「( )はその死後に存するや、( )はその死後に存せざるや、云々」
末尾註の(宇井さんの)文章
「真人(tathAgata)は、如来の原語と同じ。
如来は仏陀の自称なること阿含経蔵において通例なれど、
ここにては詭弁論者の用うる語にて仏陀を指す理なし。
註釈者〔ブッダゴーサ〕も此の場合には有情の意味と同じとなす。
此の経の説時とせらるる頃に、外道の間、又は仏弟子の間に、
仏陀の死後を問題とすべきが如きのあるべき理なし。
故に如来と訳さずして、単に真人と訳したり。」
- 828 :
- 大正蔵経 阿含部「真人」検索 583 hits
大正蔵経 阿含部「阿羅漢」検索 10143 hits
大正蔵経 阿含部「応供」検索 2538 hits
ちなみ5
大正蔵経 阿含部「無我」検索 10093 hits
大正蔵経 阿含部「非我」検索 3137 hits
- 829 :
- https://i.imgur.com/s8mYw6T.jpg
https://i.imgur.com/hIFdNwZ.jpg
まあ中村元氏においても真人を使う場合そこに真我アートマンを匂わす意図で使っていないことは、本人の注釈から察せられますね。
- 830 :
- アラハットを神のような存在にまでしているのは仏教ではなくジャイナ教である、と。
- 831 :
- 直訳なら「応供」一択。 阿羅漢は音写語。
意訳なら、
人々から敬われるのは、その価値があるのは、
「完き人」「(道徳的宗教的に)正しき人、真っ直ぐな人」であるといった意味合いで
「本来の、あるべき姿の人」→「真の人」→「真人」
が、自然な読解。
もっと直訳すれば「敬人」「尊人」、「被敬人」「受尊人」とか「有価人」とか? >>arahant
- 832 :
- あとは、
意訳の射程をどこまで拡げるか。
確かに、阿羅漢は「悟った人」であるから、
「悟った人」を形容する呼称を、そこへ持ってくることを妨げる理由はない。
(翻訳はセンスだから。月が綺麗ですねじゃないがw)
だから、極端な謂いをすれば、arahantのところを仏陀と(或いは如来と)訳してもいい。
まあ、さすがにそれは混同が過ぎるというか不便なので、違う言い方を捜した方が良さそうだが・・w
Aという原語のA’という単語があって、その意味にaやbやcがあって、
Cという原語の持つcという意味に合わせてCの語の訳にA’を使う時、
それがcの意味であるということが等閑視され、ましてやaの意味で解されるようなことがあるなら、
その訳は不適切だし、せめて読解に於いて注意されるべきだろう。
さて、「arahant」と「真人」の関係はどうだろうか・・・。
- 833 :
- 雑阿含二十二 阿摩畫経該当箇所
時に、沸伽羅娑羅婆羅門は
『沙門瞿曇釈種子の出家成道し大比丘衆と 〜 十号具足し、
諸天、世人、魔もしくは魔天、沙門婆羅門中に於て自身作証し、
他の為に説法す。上中下善く義味具足し、梵行清浄なり。
此の如き「真人」に往いて親観すべし』
と聞きぬ。
我れ今、寧ろ沙門瞿曇を観るべし。
(定めし三十二相有るが為に名聞流布せむ。
実を称すと爲すやいなや、當に何かの縁を以て仏の相を見るを得べし。
復た此の念を爲して謂う。今我が弟子の阿摩畫は、 〜 三部の旧典の諷誦通利し、
種々の経書を尽く分別す。又、能く大人の相法、祭祀、儀礼を善解す。
唯だ此の人有りて仏を観て、相の有無を知らしむべし。云々)
- 834 :
- 833.バカ丸出し、である。
大爆笑である。
- 835 :
- >>815
〔神霊曰く〕「比丘が阿羅漢へ至った者となり、漏尽者にして最後身の保持者となったならば、
彼は『私は言う』と言い得るのであろうか。また彼は『彼らは私へ言う』と言い得るのであろうか。」
〔世尊曰く〕「比丘が阿羅漢へ至った者となり、漏尽者にして最後身の保持者となったとしても、彼は『私は言う』と言い得る。
また彼は『彼らは私へ言う』と言い得る。
善巧なる者は世間の呼称を知りて、ただ慣用語として、彼は言説することができるのである」
https://komyojikyozo.web.fc2.com/snsgv/sn01/sn01c25.files/sheet001.htm
>善巧なる者は世間の呼称を知りて、ただ慣用語として、彼は言説することができるのである」
龍樹に言わせればそれこそが世俗諦だということになると思います。
八 二つの真理(二諦)に依存して、もろもろのブッダは法(教え)を説いた。【その二つの真理とは】世俗の覆われた立場での真理と、究極の立場から見た真理とである。
九 この二つの真理の区別を知らない人々は、ブッダの教えにおける深遠な真理を理解していないのである。
一〇 世俗の表現に依存しないでは、究極の真理を説くことはできない。究極の真理に到達しないならば、ニルヴァーナを体得することはできない。
(「中論」第二四章 四つのすぐれた真理の考察)
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&id=9530364
この二つの真理の区別を知っている人々が生存の素因を滅しつくして最終身となった阿羅漢(中村元氏の訳だと真人)で、
区別を知っているからこそ「ただ慣用語として私という呼称を言説することができる」という意味に恐らく龍樹は説くと思います。
まあ、そうではないか、と私(自分)が思っているから上の推論になるわけですが。
- 836 :
- >>835
区別を知っているからこそ「ただ慣用語として私という呼称を言説することができる」という意味に恐らく龍樹は説くと思います。
↓
二つの真理の区別を知っているからこそ「ただ慣用語として私という呼称を言説することができる」とブッダは説いた、と恐らく龍樹は説くと思います。
- 837 :
- >>28を再掲載
ブッタ
「じつにポッタパーダよ、私にとって、我の獲得体は三〔種〕あります。粗大な我の獲得体、意所成の我の獲得体、無色の我の獲得体です。」
「チッタよ、如来はとらわれることなくこれら(三種の我(アートマン)の獲得体)による言説をなします〔が〕、
じつにそれらは世間における名称、世間における言辞、世間における慣用語、世間における概念〔にすぎない〕のです」
https://komyojikyozo.web.fc2.com/dnskv/dn09/dn09c04.htm
龍樹
五 業と煩悩が滅びてなくなるから、解脱がある。業と煩悩とは分別思考から起こる。ところでそれらの分別思考は形而上学的議論(戯論)から起こる。しかし戯論は空においては滅びる。
六 もろもろのブッダは「我(アートマン)が有る」と仮説し、「無我(アナートマン)である」とも説き、また「アートマンなるものは無く、無我なるものも無い」とも説いた。
七 心の境地が滅したときには、言語の対象もなくなる。真理は不生不滅であり、実にニルヴァーナのごとくである。
http://matsunamilab.cocolog-nifty.com/dharma/2015/07/2002-8dee.html
やっぱり龍樹はブッダに忠実だと思います。
- 838 :
- 837.業と煩悩が滅びてなくなる、ことはない。
バカには理解できない。
大爆笑である。
- 839 :
- >>835
そんな面白いページがあったとはw
真宗系は学者肌多いからなぁ・・。
けど、こうして、
いつか片山訳が定番とならんことを願うw
けど、全部が全部は分解してないのね。(やりかけてるから自分でやるけどw)
片山訳届いたら、こっち「私が語る」の方も詳説します。 ノシ
- 840 :
- つか、既にざっくりとは指摘してるけど・・。
http://rio2016.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1533070464/461
http://rio2016.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1533070464/463
http://rio2016.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1533070464/475-476
http://rio2016.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1533070464/480
http://rio2016.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1533070464/483
http://rio2016.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1533070464/488
(http://rio2016.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1533070464/494)
http://rio2016.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1533070464/498
おまけ
http://rio2016.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1533070464/484-485
http://rio2016.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1533070464/487
- 841 :
- >>839
はい、そしてリンク先の原文では私はあくまでAhaṃであり、我attā(梵語だとātman)ではないんですよね。
アーガマで定型句となっている
比丘たちよ、◯◯は無常である。
無常であるから苦である。
苦であるから無我である。
無我であるから、これはわが所有 ものにあらず、我にあらず、また、わが本体でもない。
はつぶさに見ていくと
わが所有 もの 「私のもの」(パーリ語: mama मम)
我 「私」(パーリ語: ahaṃ अहं)
わが本体 「私の我」(パーリ語: me attā मे अत्ता)
あくまで2番目の私ahaṃまでは阿羅漢は言い得るのであって、流石にattā(ātman)は言うということまで慣用句であるから言ってもよい、とまでは説いてないようです。
従って
『『わたしが語る』と言っても良い---これは我(アートマン)が存在すると主張する議論である。『雑阿含経』には「何言説有我」。
わがもの---中略---「我所」(『雑阿含経』)・・・表現をしてもよいのである---』
(『ブッダ神々との対話』)
という中村元氏の注釈は中村元氏のドグマに思えますね。
この経典のどこを見ても我(アートマン)についてまでブッダは言及していません。
- 842 :
- 取り敢えず、宝珠自身の言葉から、一文引いとこう。
*(ここまで【私の】意見を解ってて、まだ言うか?って感じだけど・・w)
http://rio2016.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1533070464/488
> 『言語表現だけのものとして、〔仮に〕そのような表現をしてもよいのである』>> 463
> セブンは、この後半部分を指して、ただ言葉上での仮の表現に過ぎないのであって、
> だから、それはアートマンが在るという意味などではない。
> アートマンが無いから言葉の表現を使っているだけだ。
> もしも、本当にアートマンが在れば、ゴータマはハッキリ「在る」と断言している筈だ。
> という見解でしょう。
- 843 :
- 普通にブッダのアーナンダとの間の会話だと
「無我」
が当然の共通認識としてあるので、
「なぜあの外道に無我とはっきり言わず、無記だったのですか?」
と言われて
「外道がショックで錯乱するから」
と、相手に合わせた対機的対応だったというやり取りがあったのだから
無我でFA
- 844 :
- >>818
>つまりブッダは存在と非存在の中間の状態即ち空に永遠に止まる選択をしたのだと思います
「空」というのは、現象界(有為)には固定的な恒常性はないことを一語で表現したものに過ぎない。
その現象界(有為)の諸性質の支配下から解脱した境地が無為である涅槃なのであって、
自己の意識がその涅槃に永遠に住しているのが如来(ブッダ)です。
従って、まだ生存中であっても意識が現象界の支配を受けないならば有余涅槃ということになる。
そして一度、涅槃の到達した者は肉体崩壊後もその境地から堕ちることは二度とない。
なので、現象界が「空」であることを悟るということと空の中に永遠に住することとは意味はまったくことなる。
無為法が空といったのはすべてアビダンマの間違いです。
「空」とは有為のことであり、それは無我性のものだということ。
そして、それは“一切に限定されたもの”のことです。
そのことについては、『仏教要吾の基礎知識』(水野弘元著)に明らかなのですが、
また話題に上げられている一代による最高の推奨本がこの『--要語』なのでした。
ただし、あの方は自分が奨める本が自分の主張には不利な内容のものであることすらも理解できてはいませんでした。
どうしてもテーワワーダに洗脳された色眼鏡で読むから分からないのですね。
あの方の推奨した本は、その殆どが自分の間違いを指摘した内容となっていたことすらも分からず誤読ばかり。
まずは、「一切」について正しく理解しないことにはすべて誤読に終わるだけです。
>空の中に於ては全ては空なのでどれとか彼とかの代名詞が全く通用しなくなり
>自他の区別も生滅も無くなるから何の不安も無くなるという事でしょうね
自他の区別や消滅がなくなるのは無為である涅槃です。
「空」は有為に限定された話です。これが分かっている仏教徒はいったい何人いることやら...。
般若心経の“色即是空/空即是色”がそのことを端的に表現している。
空とは「色」(物質、及び物質的現象のすべて)に限定されたものです。
それ以外は含まない(涅槃は空ではない/それはアビダンマの間違いだ)。
- 845 :
- >>809
>世俗諦を超えたところに空である勝義諦がある
どうして... こうなるのかな?
“空とは素晴らしいもの”という誤解に陥っている平均的な仏教徒たちというのは...?
「空」とは“価値の無いもの”のことです。
なので、
涅槃は空だとか、如来は空などといっているということは、
それらはすべて無価値だと自ら宣言してるも同じこと。
『中論』も空だ、龍樹も空だ、空の教えも空だ...は、
これらは無価値なんだと自ら宣伝してるも一緒です。
- 846 :
- >>841
>という中村元氏の注釈は中村元氏のドグマに思えますね。
>この経典のどこを見ても我(アートマン)についてまでブッダは言及していません。
いや.だから...
ならばどうして、ブッダはわざわざここで断り説明をしたのです?
ただの阿羅漢、応供でいいならば今更、何のための<<仮に>>なのですか?
それはどうしても<<仮に>>と、付け加えておきたい言葉で表現したからではありませんか?
そもそも元々、すべての話が真理そのものを指し示すことは不可能だと教えていたのがブッダの教えの筈でしょう?
それなのに何を今更、<<言語表現としては>><<仮に>>などという但し書きが必要だったのか?
ですから、
その部分を含めた全体のニュアンスが重要なんであって、
だからこそ中村氏はそのことを的確にとらえて表現したのです。
- 847 :
- >>813追記:
---中村氏については---
普通ではとても信じがたいような『佛教語大辞典』の原稿紛失の凄いエピソードがある。。
もしも、これがこの私だったら19年間を費やして完成した原稿がゴミと間違われて捨てられたとなったら、
「この私の19年間の人生を返せ!!」といってその人の首を絞めていたと思う。
けれど中村氏は、「怒ったって出てこないでしょう」といって間違ってゴミに出してしまった出版社を決して責めなかった...。
そして、原稿を紛失した出版社名を終生明かさなかった。これは常人にはとても真似ができることではないと思う。
私がこのエピソードを初めて知ったときには、どうしても自分の目頭が熱くなるのを押さえられなかった...。
中村氏は、書き直したものはもっと良いものができたといってるけれども、これについてはこの私も何度も体験していることでして、
一昔以前のPCというのは、「上書き保存」をクリックする前に瞬停電とかするとせっかく苦労して書いた原稿が瞬時にして消滅しました。
私は仏教関係の投稿を始める以前の約十間年は、地震予知に関する研究をしてきており、それで学者ら相手に掲示板やML上で議論をしてきた。
6時間とか〜数日間、物事を調べながらやっと書き上げたものを何度も無くし、その度にまた新しく書き直すという体験をしてきた。
その度に経験するのは、一度書いてることで中身はほぼ脳裏にはあるので、書き直したものの方が更にもっといいものが書けるということ。
ただし、その分の時間と労力が膨大に失われてしまう...。そのことに睡眠を削って没頭し、体がボロボロになった。
- 848 :
- 『中村が常に心がけていたことがある。原始仏典の翻訳に際し、平易で明確であることである。彼は常用漢字以外は使わず、大和
言葉で訳すことに努めた。「インドにおいて釈尊の教えは、誰にでも理解できるものであった」からである。そうした信念で取り組ん
だのが、『佛教語大辞典』であった。これが完成したのが1967年、19年の歳月を費やした。2百字詰め原稿用紙約4万枚に約3
万語が収録された大作であった。リンゴ箱に入れて出版社に持ち込んだのであるが、あろうことか、出版社がその原稿を紛失してし
まったのである。社の移転騒動の中で、ゴミと間違えて出されたしまったようなのだ。
1ヶ月ほど、呆然として何も手につかなかった。中村は当時を振り返り、「まるで土足で顔を踏みつけられたような感じがした」と
語っている。そんな夫の姿を見て、妻の洛子夫人が言った。「あなた、ボーッとしていてもしょうがないでしょう。やり直したらどう
ですか」。また、友人の篤志家が、やり直すための費用として多額の私財の提供を申し出てくれた。こうした声に励まされて、中村は
不死鳥のごとく甦った。1968年1月、やり直しの作業を開始するのである。そして8年後の1975年2月、ついに『佛教語大
辞典』が刊行された。着手してから27年の歳月を費やした労作となった。
語彙は4万5千に増え、分量も倍以上になり、難解な仏教用語が分かりやすく表現された。これが大評判となり、毎日出版文化賞を
受賞した中村は、次のように言った。「やり直したおかげで、前のものよりもずっとよいものができました。逆縁が転じて順縁となり
ました」。しかし、これで終わりではなかった。84歳の時、中村は「あれはまだ不本意です」と言って、改訂作業を開始した。彼に
は「終わり」はなかったのである。一つの完成は、次の「始まり」に過ぎなかった。中村はこの改訂版を見ることはできなかったが、
彼の死後、弟子たちが師の遺志を受け継ぎ、2001年に『広説佛教語大辞典』として完成したのである。』
http://ifsa.jp/index.php?Gnakamurahajime
- 849 :
- だみだこりゃw
一闡提
- 850 :
- SN.1.3.5 arahantasuttaM(世尊の偈の部分)
比丘にして羅漢たり、煩悩尽きて後有無き者は、
吾今語ると言い得べし、吾に語れと言い得べし。
世の名称を正しく知って、習いに倣い、法を説く。
我慢を捨てて縛られず、あらゆる慢心滅びし者は、
思弁によらぬ智慧ある者は、
吾今語ると言い得べし、吾に語れと言い得べし。
世の名称を正しく知って、習いに倣い、法を説く。
- 851 :
- 片山訳まだ届いてないけど、835リンク先で、
「mamaM」のモヤモヤがスッキリしたw
てことで、
間違いあるかもしれんけど、語呂善くできたので一旦書込み。
- 852 :
- >>845
>>693
- 853 :
- >>844
>自他の区別や消滅がなくなるのは無為である涅槃です。
>「空」は有為に限定された話です。これが分かっている仏教徒はいったい何人いることやら...。
>般若心経の“色即是空/空即是色”がそのことを端的に表現している。
>空とは「色」(物質、及び物質的現象のすべて)に限定されたものです。
>それ以外は含まない(涅槃は空ではない/それはアビダンマの間違いだ)。
是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減
是故空中 無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界 乃至無意識界 無無明亦 無無明尽
乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得
空においては自他の区別も生滅もないことは般若心経にもはっきりと書かれていますよ。
この識別作用がなくなることを無分別智と称するはずです。
あるいは仏教での無為というのもこの無分別智(識別作用の消滅)によって作られたものという概念がなくなるから無為なのかもしれませんね。
これは自分の憶測ですが。
- 854 :
- >>846
>ならばどうして、ブッダはわざわざここで断り説明をしたのです?
ウダーナみたいな自説ではなく、神からの問いへの回答だったからでしょうね。
ですから神に誤解が生じないように断り説明をしたのだと思います。
- 855 :
- 横から。
>>846>>854
後にまた触れるかもしれんが、
たとえば隠居の如く、たとえば紐の如く、たとえば過去哲板の最高位の如く、
或いはその他、極々一般の多くの人の謂いとして、(或いはデカルトか・・?)
「ほら、≪私(我)≫って言ってるじゃん。」
「≪私(我)≫が、〔そこ〕に、〔居る〕じゃん」
「≪私(我)≫が無かったら、思考も、発言も、行動(行為)も無いじゃん」
「貴方の肉体がそこに有り、まさにそのように貴方が〔感じ〕〔思考し〕〔発言し〕ていることが、
『≪私(我)≫がある』 ということの証拠である」
という意見を斥けねばならないからなんだけどね。
そのように社会の中にある時は、
「その社会の中の一員として」、「大勢居る中の誰それ」、ということが
「互いに」「特定」できなければならないので、
その為に、自称するし呼応するのだ、と。
けれどもそれは、絶対永遠ではないよ、と。
※上の「肉体」を「魂」や「霊魂」或いは「識」或いは「アストラル何ちゃら」、或いは「真我」、
などと言い換えても何も変わらない。
>「貴方の○○がそこに有り、まさにそのように貴方が〔感じ〕〔思考し〕〔発言し〕ていることが、
> 『≪私(我)≫がある』 ということの証拠である」
- 856 :
- あ、少し修正
>けれどもそれは、絶対なるもの永遠なるものではないよ、と。
- 857 :
- だから、
極端な作業として上記相応部の一文に少し手を加えるなら、
>最後身の保持者となったとしても、鈴木さんは『鈴木は言う』と言い得る。
>また田中さんはは『彼らは田中へ言う』と言い得る。
>「なすべきことをなし了え、煩悩の汚れを滅ぼし、今や最後の身体をたもっている真人となった佐藤さんは、
>『佐藤が語る』と言ってもよいでしょう。
>また『人々が〔これこれは〕〈佐藤のもの〉である、と語っている』と言ってもよいでしょう。
というのと同じ。代名詞だから。
一人称で自分の名前を言うことは女の子には多いけど、
名字を使うことは、まず無い。軍や体育会系でも「自分は、○○であります!」「自分にやらせてください!」
などはあっても、名字を自称することは限りなく稀。
ビジネスシーンでは、多くのスタッフ、社員の中の「その件は、(わたくし)木村が担当致します」
などということがあるだろうが・・。
鈴木さん田中さんが、絶対・永遠(なもの)でないように、私もまた絶対・永遠ではない。
- 858 :
- >>844
空をエネルギー 色を物質として考えた場合 物質は密度の高いエネルギーで有ると言えます
その物質の密度を上げない様に保てばエネルギーのままです
アビダルマは正直 余り読んでません
龍樹の小乗批判から推測する程度です
- 859 :
- >>844
>なので、現象界が「空」であることを悟るということと空の中に永遠に住することとは意味はまったくことなる。
ダンマパダ
7 阿羅漢の章
7.3 ベーラッタシーサ長老の事例
92.(92) 彼らに、蓄積“たくわえ”が存在せず、彼らが、食のことを遍知しているなら
――彼らの、解脱の境涯が空“くう”にして、かつまた、相“そう”なきものであるなら――
彼らの境遇(趣:死後に赴く所)は、虚空における鳥たちの〔足取り〕のように、捉えどころがない。
7.4 アヌルッダ長老の事例
93.(93) 彼の、諸々の煩悩が完全に滅尽し、しかして、〔彼が〕食について依存なき者であるなら
――彼の、解脱の境涯が空にして、かつまた、相なきものであるなら
――彼の境処(境地)は、虚空における鳥たちの〔足跡〕のように、捉えどころがない。
http://aranavihaara.web.fc2.com/arana-khuddaka-2.html
中村元の訳だと
第七章 真 人
92 財を蓄えることなく、食物についてその本性を知り、その人々の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれらの行く路(=足跡)は知り難い。──空飛ぶ鳥の迹の知りがたいように。
93 その人の汚れは消え失せ、食物をむさぼらず、その人の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれの足跡は知り難い。──空飛ぶ鳥の迹の知りがたいように。
どの道>>693の経典からも解脱した者は空の境地にある、空に住する、とブッダは説いているように思えます。
あと補足として有名なスッタニパータの詩偈
「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界が空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り越えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、<死の王>は、見ることがない。」
- 860 :
- いい加減、聞く耳持たない、自分の意見を一方的に押し通すことしか頭にない相手(宝珠)に、何を言っても意味ないって分かんないのかな<<セブンほか
日本の製造業が、ただ、良い物さえ作る努力してればいいなんて、作り手視線に胡座をかいてやがて消費者側のニーズを無視したツケがきたわけだけど
聞く耳持たない相手に、ひたすら自分らの反証の示し方(論文)の補強を計る
日本製造業の驕りと同じ愚に陥ってんじゃないのかと
全くニーズの有る無しに関係なく、自分の供給者としての動作をどう工夫するかしか考えが回らない
10年超の平行線の片翼を担ってる
真っ直ぐ斬り込んで「この悪魔憑きの仏敵が!」って言えば済むだけじゃん
聞く耳ある人間に一人でも多く仏法を広めるために、有意義に時間労力を費やすべき
- 861 :
- まあ、
自分の遊興余興になっていることは否定はしないけどw >>860
それでも、
(調べ直したり、スルーしてた部分・興味なかった部分にも目を遣ったりもあって)
自身の頭の中の整理には、ものすごく役に立った面がある。
新たな発見があったりとか、目から鱗とか、腑に落ちるとかも。
また、家庭教師のバイトもそうだろうけど、学校でも生徒同士で互いに教え合うような授業もあると思うけど、
そのように、人に教えるには自分がちゃんと理解しておかないといけないから、
改めて勉強し直す感じにもなるし、なんとなく雰囲気で知った気になってただけで、
実はあまり理解していなかったことに気付いたりとか、学生時代以上のwプラクティスになってる面もあったりw、
机の上や、引き出し本棚を整理し直すみたいに、自分の中での理解が整頓された面もあるし、
そういう意味では、(一代だけでなく)宝珠にも感謝するし、過去の(他の板も含め)種々の論客や会話相手にも
今振り返ってみれば、感謝すべきだろうなと思うし。
(つか、このシリーズを立ち上げた宝珠への感謝レスは、過去何度か書き込んだことがあるな・・・w)
- 862 :
- >>861
何だ、馴れ合ってただけなんかいw
そりゃ野暮だったね……
- 863 :
- >>862
馴れ合いというか、
マジで、学生時代より勉強したなぁ・・という感慨。
(特に、宝珠在家隠居等相手の時w)
- 864 :
- 涅槃(ニルバーナ)は必ずしも死後世界の事ではなく、生きている間において
体現できるものであるらしい。仏陀の言う五戒を守り八正道を実践し生きていれば
涅槃を体現出来るものらしく、現に仏陀がこの点について質問されたならば、その回答として
(仏陀活躍当時で〜)在家の男女であっても数百人以上の人間が涅槃を体現した〜というのがある。
しかし、現代においては、僧侶に籍を置く人間であっても涅槃を体現しない。
そもそも、己が涅槃を体現した事をもって他者をも救おう〜というのならばまだ話は分かるが、ww
己が涅槃を体現していないのに他者を救おう〜というのは、こういうのであっても、いわゆる大乗仏教と言えるのか?w
ギターを演奏できないのにギターの先生になって生徒を教える〜なんて馬鹿げたギター教室と同じだろうw
だから、世の中の涅槃を体現出来ていない僧侶で住職など言語道断であり、こういう連中は全員降格で単なる修行僧-雲水
とするべきだろうなあ。
世の中が、こういう形骸化した仏教を切り捨てるのも時間の問題だろう。
とはいえ、葬儀(に伴う戒名や読経)、法事などはまだ急に無くすわけにはいかないだろうから、一律、一個1万円〜
とかなる日が来るだろう。葬式で読経してもらって戒名書いてもらって2万円、法事の読経は1万円〜とかねえw
納骨の墓も必要なし。自宅で仏壇を設けて自分でご先祖を祈れば良い。
無駄な仏教など切り捨てて、中村元氏の岩波文庫で原始仏教世界を読んで各自参考にして生きる方が遥かにマシだ。
- 865 :
- 864.先祖供養は儒教である。
涅槃は体現する、ものではない。
バカには理解できない。
大爆笑である。
- 866 :
- >>865
現代の日本の仏教では先祖供養もテリトリーに入っている。
涅槃が「体現するものではない」のならアンタにとっての涅槃は何なのだ?
死後世界で実現可能なものでこの世のものではない〜という見方なのか?
もし、そうであればそのような見方は却下する。バカで結構、こちらから見れば
アンタの方がバカなだけw
- 867 :
- >>864
> そもそも、己が涅槃を体現した事をもって他者をも救おう〜というのならばまだ話は分かるが、ww
> 己が涅槃を体現していないのに他者を救おう〜というのは、こういうのであっても、いわゆる大乗仏教と言えるのか?w
> ギターを演奏できないのにギターの先生になって生徒を教える〜なんて馬鹿げたギター教室と同じだろうw
何言ってんの、言えるか? じゃなくて、それこそが大乗、そうじゃなきゃ大乗じゃないんだよw
そこを悟っていないのに菩薩の方が阿羅漢より格上うんたらって色々と勝手な理屈を後付けして正当化してるんだから
相変わらず、突っ込み方がおかしい奴w
- 868 :
- 「サンタがお父さんであること」を世紀の発見のように嬉々として語るみたいなw
- 869 :
- それこそ大乗かww
ふ〜〜んwww ならば、そんなのは「馬鹿げたギター教室と同じ」だなw
- 870 :
- 「馬鹿げたギター教室」は永くは続かんだろうなあw
- 871 :
- 菩提心(ぼだいしん)を発(おこ)すというは、己れ未だ度(わた)らざる前(さき)に一切衆生を度さんと発願(ほつがん)し営むなり、
設(たと)い在家にもあれ、設い出家にもあれ、或いは天上にもあれ、或いは人間にもあれ、苦にありというとも楽にありというとも、
早く自未得度先度佗(じみとくどせんどた)の心を発すべし。
(大意)
仏の道を歩いていこうとすることは、自分の幸せよりも周囲の人の幸せを考える生き方を志すということでもある。
在家の人であろうと、出家して僧侶となった者であろうと、どのような境遇にあっても、
自分の幸せよりも人の幸せを願うような心をおこして生きていきなさい。
『修証義』第四章「発願利生」冒頭
https://www.zen-essay.com/entry/hotsugan-risyou
日蓮から個人成仏主義と批判された禅宗でさえこう説いています。
もっとも、日蓮は栄西や道元といった禅宗の宗祖のことは批判していません。
栄西を批判しなかった理由は分かりませんが、道元を批判しなかったのは道元が法華経を厚く信仰していており、
その著書正法眼蔵の中でも法華経を敬うことが書いてあったり、法華経からの引用が多かったりしたからではないかとも言われています。
ちなみに鎌倉仏教での浄土教の祖、法然のことは日蓮は手厳しく批判しています。
- 872 :
- >>871
>自分の幸せよりも周囲の人の幸せを考える生き方を志すということ
これもおかしなことでw これが事実上実践できていれば涅槃も近かろうが、
実際は、周囲の人の幸せよりも己の幸せを優先する僧侶ばかりだろ?ww
だからン十万も読経料として布施を要求する。
何度も言うが己が出来ていない事を他者に広めようという志向自体が駄目だろうよ。
上の人の話ではこれこそ大乗らしいから、大乗は駄目ということだろうなあ。
まだ、寺和田の方が可能性があるww
- 873 :
- >>872
うん、だから、なーんの文化慣習のしがらみのない、都会育ちの現代日本人感覚にはむしろテーラワーダ仏教の方がマッチする
超人めいた時空を超越する偉大なる存在ブッダとか、如来とか、観音とか、そちらに飛躍するよりは、
(もちろん、歴史的な生身の実在人物としてのブッダには全幅の敬意を持つという意味での信仰心はある)
ただ、世間を捨てて、内心の絶対的自由と平穏の獲得を目指す
何も現代の自然科学と抵触する(表立った)社会活動とは結びつかない
(これが例えば日蓮宗とかイスラムだと、開祖を習って俗世間をどうにか自分らの都合の方に実際的に変えようという動きになる)
というわけで、紐は、こんな所で文句を言ってる暇があったら、自分でミャンマーに行くなりして「ギターのプロにギターを習って」来るべきw
そもそも「ギターを習うつもりがない奴」外野=外道には何にせよ口を挟むこと自体が野暮
- 874 :
- >外野=外道には何にせよ口を挟むこと自体が野暮
そうかねww
ならば、そちらの方がこちらの方へ、葬儀の読経、戒名代として数十万を慣習的に
要求するのは、日本仏教界から世俗に「口を挟むこと」ではないのかね?
お互いが口を挟まないのであれば、そのような関係(世界)も無くなり大いに結構なんだがw
まるで今の韓国と日本の関係のような話だなあwww
- 875 :
- >>874
いやいや、そちらって言われたって俺坊主関係者じゃないし
嫌なら葬式法要を頼まなきゃいいだけ
頼んどいてタダにしろはないだろ、それこそ現代人感覚的にな
- 876 :
- 俺テレビないから、人んち行った時くらいしかテレビ観ない
ともかくテレビに何の価値も感じない人間
だから、NHKは完全に無価値で筋が通る
ところが、世の中には、NHK観る癖に、金をケチって払わない、払いたくないってブーブー不平言う連中がいる
紐がそういう奴らと同類じゃなきゃいいんだけどなw
- 877 :
- >嫌なら葬式法要を頼まなきゃいいだけ
まあ、近い将来皆、頼まなくなるだろうなあw
ちなみに俺はプロのオルガニストにオルガンを習ているw
- 878 :
- 涅槃に例えられるレベルに達したギタリストを例えばジョンマクラフリンやアルディメオラにすると彼らのギターが弾けないギター教室の先生はたくさんいます。
https://youtu.be/Om6HDUKBbzE
ジミヘンドリックスレベルの即興演奏やバッキング構成力がないギターの先生も掃いて捨てるほどいます。
あるいはベートーヴェンの熱情第3章やショパンの英雄ポロネーズなどをピアノの涅槃レベルだとすると、それらの曲をたどたどしくしか弾けないピアノの先生もたくさんいます、
って言うか綺麗に弾ける先生のほうが少ないと思います。
プレイヤーとして涅槃レベルに達してないからといって別に人に教えていけないなんてことはありませんよ。
- 879 :
- >>878
作曲、編曲レベルではその通りだろうが、演奏テクニックまで下げればそうではない。
演奏面でプロの水準に届いていない人間が他者に教えること自体が糞w
上の人の説によれば大乗仏教も同じ糞という事になる。
- 880 :
- >>877
そうか?
西洋で近代化の結果、一般大衆が宗教的な葬式をやらなくなったとは聞かないけど
- 881 :
- >>879
>演奏面でプロの水準に届いていない人間が他者に教えること自体が糞w
だいたいがプロになり損ねたプレイヤーがギターやピアノ教室の先生やってるケースが多いと思いますが。
まあプロといってもヘタウマの人もいれば超絶技巧の人もいて様々ですがね。
- 882 :
- >>880
だから頼むだろうが、1個1万円だww
葬儀の読経だろうが法事の読経だろうが1万円、戒名も1万円。
これならば馬鹿高い布施を払う事も無くなるだろうよ。西洋の葬儀費用なんて
日本と比べたらどれだけ安い事かww
- 883 :
- その代わり日本仏教は、年間経費が少なくて済む。
疎遠なフリをすれば、毎年墓地の管理費だけで済むし、
寺へ行く事も顔を合わせることも数十年に一度で済む。
楽な宗教だw
葬儀だって、急だったので荼毘まで済ませちゃいました、と事後報告って手もあるし。
まあ、「経費」という言い方が、そもそもかもしれんが。
- 884 :
- >>878
ギターの師はマヌエルバルエコだなw
https://www.youtube.com/watch?v=O92TO-l2XbU
まあ、ここまで弾けなくても良いのだが、プロ演奏家のレベルとして全然ダメ
という人間がいかに多い事かww
プロならばプロの意地を見せろと言いたいww
そんな糞似非プロが素人に教えること自体が駄目だろうw →大乗
- 885 :
- >>884
んーまあ、紐個人の姿勢は何も肯定できないのは従前通りだが
自分でも時折プライベートコンサートやるレベルの人が、それだけでは食っていけないから、普段は音楽教室やってるみたいな市井のプロの音楽家は確かによくある話
日本の大乗のお坊さんは、公立小中学校の先生みたいなもので、受験勉強のチャンピオン側の人材が後進を教えているわけではない
そういうのに近いかな
となると、宗派的な問題というよりも社会制度的な問題とも言えるが……
- 886 :
- >>813
>この「真人」と訳して使用したのは中村 元氏ですよ
これ本当に良くない訳だよね
- 887 :
- >>764紐
>それに輪廻転生なんてのはインド地方の信仰にすぎず、
『古代ギリシアには、オルペウス教やピタゴラス教団、プラトンなど一部に転生の発想はあった。
竹倉史人によると、ピタゴラスは前世の記憶を持っていたと伝えられている。』(Wiki)
アジア地域にも復活の思想がありますし、この教えは全世界的なものです。
あのイエスも転生の教えは説いていたので原始キリスト教ではそのことはよく知られていました。
しかし、それがローマの支配下の中でキリスト教会議に拠る教義編纂において異端扱いされて、
それ以降、キリスト教ではこの教えは抹殺されたのです。
尚、異端派キリスト教諸派の中には、歴史上のカタリ派などは転生教義でよく知られています。
(彼らはカトリックからの弾圧を受けて虐殺されました。カトリックによって100万人もの異端派クリスチャンが殺されました)
いつのどの時代、世界中の何処であろうとも、 本物の覚者と覚者に近いレベルの聖者によってこれは事実として説かれました。
>インドの信仰のバイアスがかかているからだろうなあww
それは認めますよ。
ただし、それは前世の記憶を保持する事例が多いという意味に過ぎず、
もちろん転生そのものがインドや転生を信じる人々に限るということではありません。
すべての人間が繰り返し転生しており、こうしてまた再び生れてきたのです。
ただし、通常は前世の記憶は消失するのであり、
ごく稀にイレギュラー的に記憶保持者があらわれるということ(それがインドに多いということに過ぎない)
修行者はいずれ自分自身の力で失われた記憶のすべてを取り戻します。
- 888 :
- >>733
>仏教の特異的な特徴は無我にある。他宗教ではアートマンを肯定するが、仏教だけ
>これを否定する。これが仏教の特徴であり魅力でもある。仏教がアートマンを肯定して
>いるのなら仏教の魅力なんて無いも等しいww
その言いたいことは、もちろんよく分かるけれども、
しかし、その見解というのが実は180度、完全に間違っていたということです。
つまり、あなた方の理解はこういうものです。
ブッダはアートマンを否定した。そんなものは無いと教えた。だから、アートマンや自己の永遠なることを説くヒンドゥーをはじめ、
その他の宗教はすべて間違っていた。全世界において仏教だけがこの真理を悟り、その教えを説いているのだと。だから、この仏教の
教えでなければ悟りに達することはできないのだと。そして、アートマンが無いのであれば輪廻転生も当然ある筈がない。何故なら、
転生する核コアがないのだから転生のしようがないのだと。
この仏教独自の教えと姿勢には、新しく唯物主義者らが大勢食らいついて支持を表明するようになった。一方、仏典で説かれている
輪廻転生をブッダの説いた真理だと受け止める伝統信奉者の側は、アートマンに拠らない輪廻転生を説明しなければならないこととなった。
それで業そのものの作用で輪廻するので転生の主体(基体)は不要だとする理論や、輪廻主体としての阿頼耶識(アートマンではない)を
説く派まで現れるようになった。尚、これについては今だに納得できない人たちによって、あーでもないこーでもないと同じ議論が続
いている...。
ところが、実はそうではなかったのです。
- 889 :
- ブッダは、アートマンの有無については明言は避け(無記)、決して「アートマンは無い」などとは言わなかった。
ブッダが語ったこととは一貫して、「それらはアートマンではない。アートマンでないものをアートマンと見なすことなかれ」(五蘊無
我説)なのです。なので、ブッダは「アートマンは無い」ではなくて、「アートマンではない」とする“非我(我にあらず) ”を説かれたの
です。これを言い換えるならば、“誤認することなくアートマンであるものをアートマンとして正しく見よ! ”ということになるのです。
要するに、非我の教えというものはアートマンがあることを基本前提としており、“(正しく)アートマンを見つけなさい”と述べている
ことになるのです。
であるからその通りに、“(真我)真実の自己を探究せよ! その自己(アートマン)こそが自己(あなた)の主であり、最も尊いものだ”と教
えているのです。この五蘊非我の教えが永い年月を経過した後に出現した部派仏教において、五蘊の何処にもアートマンが無いのならば、
つまり、それはアートマンそのものが無いことに他ならないということとなった。そして更に、勝手に仏教の説く「一切」の中に無為涅
槃までも含めてしまった...。
こうして、恒常にして永久不滅のアートマンについてはすべてただの妄想扱いにされてしまったのです。しかし、近代仏教学の進歩に
よって、その無我の理解が根本的に間違いだったことが明らかとなったということです。
紐さんには、その辺を勉強して欲しいと思う。
- 890 :
- >>757
あなたはこれも馬鹿にするのか?
馬鹿にしてるならば、それは紐>>733と同じだぞ!
http://mimizun.com/log/2ch/psy/1302158994/421
>727七
だから、
それはブッダのレベルが低いなどというものではなくて、
ただ単に、現存する仏教という宗教は古くてすでに2500年以上を経過して
以来、時が止まっていることが主な理由ですよ。
新しい教えというのは常に、これまでの“古い教えの上に築かれる”のです。
>>728
>寧ろ、ブッダよりも舎利弗やその他弟子の方が上位階層へ登っていて、---中略---
>弟子たちの方が釈尊より上だった、という仮説もとれますよ?w
だから、神智学の教えというものは「仮説」ではないのです。
それは誰かによる研究成果でもなければ、仮説や仮定、想定、憶測...etcなどではない。
これは“総てを知り賜いし存在(覚者) ”から真理として直に提供されたものです。
神智学の教えというのは覚者からコンタクティ(弟子)へと、
オーバーシャドウすること(覚者がコンタクティの肉体を用いること)によって、
または自動書記(勝手に手が動いて自分の知らない内容を綴る)の手法によって、
或いはまた、テレパシー通信(覚者の声がしたり、映像を見せられる)などによって、
時には、肉体の覚者及びアストラル体の覚者と対面しつつもたらされたものです。
>>730
また、そうやってデタラメを語る...。
ブッダは、アートマンの有無を明言しなかったということ。「無記」の態度を採ったのです。
「アートマンは無い」などとは述べたことがない。
それから単純に、
進化段階の高い方がより正しいことを述べるということも限らない。
それは相対的で全般的な傾向でしかない
そして、マハルシのようなアヴァターの場合は、
この惑星ハイアラキーの覚者方によって神の代理人(手伝い)として地球外から招待した方々であり、
その個々についての進化段階は基本的に公表されていません。
もちろん、アヴァターはすべて五段階以上の覚者であり、その殆どが6.7段階か、または8段階以上でしょう。
- 891 :
- >>731
想像上で仮定の如来や諸菩薩などではなく、
歴史的に実在した個性の進化段階の話のことです。
そして、各個人の素質や努力の差は当然あるわけですが、
まずは第一にして各個人の大きな差が出るのは“イニシエーションを通過した順”に拠るものです。
先に通過した者が進化の高みに位置しているのは当然のことです。
だから、ブッダの場合はこの惑星における一番最初にイニシエーションを通過したグループにいた一人であり、
そしてもう一人が、アトランティス時代に共にブッダの兄弟であった後継者のMaitreyaです。
だから、それ以外の存在はブッダよりも下位に位置しているのです。
すべては単に時間的タイミングが主な理由であって、別に特別優遇したのでも何でもない...。
>>732
先祖供養というのは元々、これはブッダ自らが説かれたものです。
“説かれてなかったのに儒教影響で導入されてしまった”ということではない。
そして、祭祀のあり方と詳細についてなどは儒教道教などから良いものを利用したということなのだから、
それはそれで全然良いことです。後で、ブッダ御自身が先祖供養を行うよう説いたことを明らかにします。
- 892 :
- >>737
>或いは、自我・自己等「わたくし」の消失を怖れる西洋的感性・神智学的感性もまた、
>それを怖れる。
ヒンドゥーでも神智学でもそう。
それは自己の消失を恐れているからではなくて(大衆は恐れる)、
そのすべては覚者によって確認された事実だからです。
ただブッダは語らなかっただけのこと。
>しかしながら、
> 「涅槃」が「寂滅」と同義と扱われる所以に思いを馳せるなら、
> 虚無ではなく安楽だと、ストンと解るんだけどね・・。
寂滅したのは煩悩(低我)ですよ。
その「安楽」だと感受してるのは誰なのか?
もちろんそれは自分自身に決まってる。つまり、低我が消滅した後に残った真実の自己です。
>>755
お盆の先祖帰郷というのはあくまでも民間信仰であって、
本来的には事実ということではない。ただし、これは想念の世界のことですから、
それが諸霊の住む世界であるアストラル界とリンクして、本当の現実となるケースもあるかもしれません。
ただし、帰郷したそれは「霊」(心霊ゴースト、アストラル想念形体...)であって、転生する「魂」ではありません。
そして、諸霊活動がある期間は絶対に転生しません。なので、諸霊活動の永い人はその間の転生はないので、
その分その人の進化する機会は失われ時間をロスします。
従って、転生後に生前の霊体と一緒に存在することはありません。
(すでに説明した自己の“四段階のレベル”を参照のこと)
- 893 :
- >>852 >>693 >>859
失礼しましたm(__)m
一応、中村氏による解説(『ブッダ伝/生涯と思想』角川ソフィア文庫p272-p286)を確認しましたけれど、
(ごく当たり前の普通の理解で以て)物質現象界の性質というものは永遠不滅の固定的な実体というものはなく、
ただ縁起により流転変滅して生じては滅することを繰り返すだけであるとするこの真理を仏教では「空」と呼ぶ。
その理解を根底において生きることを“空に住する(空を生きる) ”と表現する。
〜ということでした。
なので、この意味であるならばこの私も了承します。
>>853
これは、物質現象界の見た目だけの変滅の繰り返しは、
“実体として生じ滅しているわけではない”という意味で述べた言葉だろうとは思いますが、
しかし、これではまるで龍樹の説く“輪廻も涅槃も違いがない”にも通じるような
殆ど一元論的な勝義諦の表現として映ってしまいかねない。
ましてや、これはそのまま涅槃の状態についての説明とも被ってしまうものなので、
これではただ余計な誤解を招く言葉でしかないとこの私は思います。
取り上げたのは私の方ですが、所詮、大乗諸経典の記述について真剣に対面する価値などはないと改めてそう思います。
- 894 :
- >>859
そして当然、
“涅槃も空である (涅槃に住する如来も空) ”という見解には、やはり私は異を唱えさせてもらいます。
そのようにブッダが説かれたとする根拠については未だ私は見たことがありません。
ブッダは『ウダーナ』において、“涅槃とは縁起せず有為とは全く異なる境地”だと明確にハッキリ説いている。
なので、縁起している無自性/無我空なる現象界(有為)とは異質の縁起せず無自性/無我空ではない境地が無為なる涅槃です。
確かに、経典上では明確にされていないかもしれませんが、
つまり、これは実際上は“自性/我”ということになるのではないのか?
尚、“涅槃は空ではない”そして、“輪廻と涅槃を同じものにしてはいけない”という意味については、
あのテーラワーダのスマ師も同じことを述べています。
『仏教の世界でも、「無」「空」という概念は人気があります。それは、虚無主義ではなく、我々が経験している現象の世界は、
実は実体のないものです、という意味です。この存在は、「空」というのです。しかし、涅槃は「空」だというと、正しくないの
です。そうなると、輪廻も涅槃も同じものになるのです。であるならば、修行しなくても、努力しなくても良いことになるのです。
釈尊は、涅槃を anakkhāta (ineffable)表現不可能だと説かれているので、涅槃を「空」とは言わないのです。』
https://j-theravada.net/dhamma/kantouhouwa/kantou125/
>>858
物質はすべてエネルギーであるという見解は私も同意します。
尚、「空」というのはただ単に、
“物質には永遠不滅の固定的な実体というものはない”という意味でしかないです。
その状態がただ単に「空」であり、
流転変滅して止まない現象(無常)を引き起こしている作用を「縁起」(因縁生起)として説明しているのです。
- 895 :
- >>857七
いえいえ全然、違いますよ!
七は、あの経文の一体どこをどう読んでるの???
鈴木さん、田中さんそんなことは関係ないです。
仮に、言語表現としては、
ウパニシャッドの説く“恒常不滅のアートマン”という意味での「わたし」として語っても良いとブッダはいってるのです。
ただし、それは修行完成者に対しての限定付きですよ、と。註を見ればそのことが明らかでしょう!
もちろん、ここでは「アートマンはある」ということをいっているわけではないけれども、
しかし、完成者はアートマンという意味で「わたしは語る」といってもいいよとブッダは述べられたのです。
これはあなた方のいつもの立場から見たならば、本来ならば
「ある筈もないアートマンについて誤解を生じかねないそのような正しくない発言は止めなさい」というのが、
いつもブッダの説かれる“正しい態度と言葉遣い”というものなのではないのですか?
と、この私はいってるのです。
【なすべきことをなし了え、煩悩の汚れを滅ぼし、今や最後の身体をたもっている真人となった修行僧は、『わたしが語る』と言ってもよ
いでしょう。また『人々が〔これこれは〕〈わがもの〉である、と語っている』と言ってもよいでしょう。真に力量ある人は、世間における
名称を知って、言語表現だけのものとして、〔仮りに〕そのような表現をしてもよいのである。】
慢心を捨て去った人には、もはや結ぶ束縛は存在しない。かれには慢心の束縛がすべて払いのけられてしまった。聡明な叡智ある人は、死
の領域を超えてしまったので、『わたしが語る』と言ってもよいであろう。また『人々が〔これこれは〕〈わがもの〉であると語っている』と
言ってもよいであろう。真に力量ある人は、世間における名称を知って、言語表現だけのものとして、そのような表現をしてもよいのである。】
(サンユッタ・ニカーヤ T,3-5 )
【註:『わたしが語る』と言ってもよい---これは我(アートマン)が存在すると主張する議論である。『雑阿含経』には「何言説有我」。
わがもの---mamam = mama patto,mama civaran ti a^di katha^voha^ram su^tva^(Comm.p.51). 「我所」(『雑阿含経』)。】
(中村 元訳『プッダ 神々との対話』岩波文庫p248)
- 896 :
- 七.あのですね...。
例えば、石飛道子氏との昨年のあのときの議論では何が浮き彫りとなったのかというと、“アートマンは無い”という意味での伝統説とし
ての無我論は、実は部派仏教による間違いを継承したものだとする仏教学上の事実を彼女自身も学者の一人として、その厳然たる事実とし
てしっかりと受け止めているということ。がしかし、それでも自分自身はテーラワーダを中心とする伝統教義を信奉するんだというものです。
彼女は一代によっても大天才と讃えられた聡明な学者さんですが、その一代が惚れ込むのも当然のことであって、彼女の思いというのは
一代(ただし、一代は日蓮さんには苦言あり)と同様に大乗上座部を問わず、すべての仏教諸派がブッダの教え(意志?)を受け継いだ素晴ら
しいものなんだというものですよ。
だから、これだったならば全然いいのです。これならこの私も(その人には)何もいいません!
何が好きだとか、どれを信仰するというのは人それぞれまったくの自由だからです。全然、自分の好きなものを大いに学び信奉すればい
いのです。ただし、目の前の事実は事実としてしっかりと受け止めろということです。“自分の眼耳を塞いで嘘吹くな!!”といってるのです。
日本の大乗諸派も未だに大乗非仏説には無視の態度を保ち続けている。そして、大乗諸教(諸経)がブッダの教えだなどと今もテキトウな
ことを話している。それをいい加減にしろ!と、この私はいってるわけです。
まずは、事実を事実として謙虚に受け止めて認めなければならないということ。そして、その上で自宗自派の存在意義とその素晴らしい
点について各自で主張すべきです。そうでないならば、ただの詐欺集団ですよ。
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