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【西田】京都学派・近代日本哲学総合スレ【西周】


1 :2017/05/12 〜 最終レス :2020/04/17
明治〜戦前の哲学を読み直す。

2 :
手書き漢字認識 - sljfaq.org
http://kanji.sljfaq.org/drawj.html

手書きパッドが使えない環境で、旧字体を調べるのに便利。

3 :
啻(ただ)とかね。

4 :
三木清の哲学入門って
ものすごくいいところどりした感じの妙な本だなあと最初の方を読んでそう思った。

5 :
「哲学」、「科学」、「芸術」、「心理学」、「意識」、「概念」、「命題」、「知識」、
「帰納」、「演繹」などの訳語を創ったのが西周(にしあまね)

6 :
西田より 京都鎌倉五山文学をまず。立命同志社も応援。

7 :
良いか悪いかは置いといて、日本の哲学の中で
西田や京都学派の存在は大きいよ。

日本語と日本文化の枠組みを通して
現象学や西洋哲学を把握した例として。

8 :
同時代には、他にも優れた人がいるから
西田や京都学派から始めて、多角的に見ていくのがいいだろう。

9 :
>>4
kindle版が無料だったから今読んでみたけどいいね。
当時の雰囲気が掴める。

10 :
先月の100分de名著が三木の『人生論ノート』だったか。

11 :
田辺元の文章は西田幾多郎のに比べて格段に難しい。

12 :
西田のは文章の勢いに乗って読み進めることができるが、
田辺のは緻密な読解が必要になりそうだ。。

13 :
帝大は帝大スレでも作れば?

14 :
俺は帝大とは縁がないのに帝大の関係者の本ばかり読んでるなあ。
ちょっと志向性を変えて井筒俊彦の本でも読んでみるか。

15 :
>>14
井筒氏は慶應か

16 :
中退らしいよ。まだ慶応の文献にも続きがある模様。
行ってみると興味なくなるよな。大学なんてさ。

17 :
宮沢賢治はある種哲学っぽいというか倫理的なところがあるよな。

18 :
なるほど。宮沢賢治は法華経や華厳経の影響を受けている。

19 :
南方熊楠の南方曼荼羅も、華厳経や真言密教の影響といわれる。
http://1000ya.isis.ne.jp/file_path/1624_img222.jpg
旧制中学時代には漢訳大蔵経を読破したとも、読んでいなかったともいわれているが。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:8a1d671deac21a48eb6b1e34309afde7)


20 :
>>18
法華経は良いよね✨

21 :
>>17
福沢諭吉より平等主義だね彼は

22 :
>>17
宮沢賢治懐かしいなぁ🎵

23 :
京都学派って左翼の入口

24 :
西谷啓治はそうでもないと思う。

25 :
松田修とか久野昭とか山本新、田中煕あたりも。

26 :
>>23
フリーメイソンの仕業?🐧

27 :
フリーソウルも聞いとかないとな。

28 :
船山信一って、普通にはフォイエルバッハの翻訳をした人ぐらいの認識だけど、
岩崎允胤の『日本マルクス主義哲学史序説』を読んだら、
翻訳者である以上にいろいろな論争に関わった思想家だったんだなあと思わされる。

29 :
船山信一
『西田・ヘーゲル・マルクス』 (1999)
『ひとすじの道 唯物論哲学者の自分史』 (1994)
『昭和唯物論史(上下)』 (1968)
「明治仏教と社会主義思想」『講座近代仏教(上巻)』 (2013)
『舩山信一著作集』、『フォイエルバッハ全集』

30 :
結構書いてるね

31 :
私を咲き誇ろう。?
貴方は貴方として咲き誇りなさい。?

32 :
京都学派については知りたいんだ。
呼んでくれよ。

33 :
井筒俊彦の本が少し読み進められた。
この人って博学だね。

34 :
河上肇とかも経済寄りだけど考えとかないとなあ。

35 :
山内得立も見逃せない。

36 :
>>31
ナリスマシ🍀それは実存主義よ✨😊

37 :
・西周(1829-1897)
・福沢諭吉(1835-1901)
・中江兆民(1847-1901)
・井上哲次郎(1856-1944)
・井上円了(1858-1919)
・内村鑑三(1861-1930)
・岡倉天心(1862-1913)
・清沢満之(1863-1903)
・南方熊楠(1867-1941)
・鈴木大拙(1870-1966)
・柳田國男(1875-1962)
・折口信夫(1887-1953)
・柳宗悦(1889-1961)
・宮沢賢治(1896-1933)
・井筒俊彦(1914-1993)

京都学派
・西田幾多郎(1870-1945)
・波多野精一(1877-1950)
・田辺元(1885-1962)
・九鬼周造(1888-1941)
・和辻哲郎(1889-1960)
・久松真一(1889-1980)
・三木清(1897-1945)(京都学派左派)
・戸坂 潤(1900-1945)(京都学派左派)
・高坂正顕(1900-1969)(京都学派四天王、近代の超克)
・西谷啓治(1900-1990)(京都学派四天王、近代の超克)
・高山岩男(1905-1993)(京都学派四天王、近代の超克)
・鈴木成高(1907-1988)(京都学派四天王、近代の超克)
・梅原猛(1925-)
・上田閑照(1926-)
・大橋良介(1944-)

38 :
>>37
上半分が経済右派で下半分が共産左派って感じだな

39 :
絶対無は発出論✨🚀

40 :
俺としては滝沢克己と八木誠一も京都学派系に入れたい

41 :
藤沢令夫氏はどうだろう

42 :
>>40
どちらもいいね

43 :
>>41
田中美知太郎と一緒に。

44 :
>>43
プラトン訳者コンビだね

45 :
『京都哲学撰書』全30巻、燈影舎

高坂正顕、三木清、田辺元、下村寅太郎、九鬼周造、鈴木成高、
木村素衞、和辻哲郎、務台理作、戸坂潤、西谷啓治、唐木順三、
大島康正、植田寿蔵、高山岩男、高橋里美、三木清、今西錦司、
久松真一、山内得立、三宅剛一、高坂正顕

46 :
こういうリストにない人を見つけていくのも一つ

47 :
京都学派的なものの現在を探していくのも一つ

48 :
京都学派(wiki)より

京都学派とは、一般に西田幾多郎と田邊元および彼らに師事した哲学者たちが形成した哲学の学派のことを指す。
京都学派は西洋哲学と東洋思想の融合を目指した『善の研究』などで表される西田哲学の立場に立ち、
東洋でありながら西洋化した日本で、ただ西洋哲学を受け入れるだけではなく
それといかに内面で折り合うことができるかを模索した。

しかしながら東洋の再評価の立場や独自のアイデンティティを模索することは次第に
「西洋は行き詰まり東洋こそが中心たるべき」との大東亜思想に近づくことになった。
特に京都学派四天王(西谷啓治・高坂正顕・高山岩男・鈴木成高)らは、
「世界史の哲学」や「近代の超克」を提唱し、海軍に接近した。

なお、大橋の著書では梯明秀の分類に依拠しながら、京都学派と京都哲学とを分けて捉えることを提案する。
要するに、「何らかのかたちで<無>の思想を継承・展開した思想家のネットワーク」を京都学派と捉え、
西田や田辺に学び、単に彼らの知的ネットワークの下にいるものを京都哲学に分類する。

49 :
東浩紀は梅原猛に着目しているんだな。

50 :
『日本2.0 思想地図β vol.3』に東と梅原の対談「草木の生起する国――京都」があるね。

千葉のギャル男論もここに所収。
ギャル男論は九鬼の現代版というところだろう。
「いき」とは異性との交渉における媚態だった。

51 :
>>48
素晴らしいですね✨💮

52 :
妖怪思想を撲滅しようとした井上円了って一体何者なんだろうな。

53 :
へー
そんなのもあるのですか💮

54 :
https://www.toyo.ac.jp/site/founder/founder01.html
鈴木大拙の伊能忠敬板か。
仏教思想でもって全国を行脚するなんて。

55 :
おばけの正体 井上円了
緒言
 明治三十一年のむかし、『妖怪百談』を著し、つぎにその「続編」を作りしが、望外にも世間より歓迎せられ、
再三再四、版を重ぬるに至りたるも、数年前に残本全く尽き、久しく購読を謝絶しきたれり。
その後さらに再版せんと思いしも、本書の内容が古人の書を引き、古代の話を伝えたるもの多ければ、
そのまま再版するもおもしろからずと考え、絶版のまま今日に至れり。
http://www.aozora.gr.jp/cards/001021/files/49355_58901.html

56 :
『妖怪学全集』、『哲学うらなひ』、『失念術講義』

57 :
妖怪博士ね。まだよく掴めていないんだけど

58 :
以下の論文が、西田以前の明治期哲学について詳しい。

「明治期アカデミー哲学の系譜 : 「現象即実在論」をめぐって」
井上克人
http://ci.nii.ac.jp/els/contents110006160420.pdf?id=ART0008128267

船山信一(一九〇七−一九九四)は、『増補明治哲学史研究』(昭和四〇年)のなかで、
西田幾多郎は井上哲次郎(一八五五−一九四四)が初めて提唱した「現象即実在論」の継承者であり、その完成者なのであって、
一定の流れどの中で自らの思想の原点を見出し、それを彫琢することに一生を費やしたと語っている。

ところで、この「現象即実在論」、つまり現実そのままが真の実在であるとする考えは、
遡れば天台本覚思想にその淵源をもつが、明治二〇年代には日本人独自の考え、しかも仏教的な哲学として人々に夙に知れ渡っていた。
とくに、明治期の哲学界に於けるもう一人の鬼才、井上円了(一八五九−一九一九)は明治一九年の「哲学一夕話』以降、
「現象即実在論」と呼べる論文をいくつも発表しており、その影響は無視できない。
じじつこの『哲学一夕話』は西田の若い頃の愛読書の一冊に数えられている。
更に清澤満之の『純正哲学』(明治一、四年)がその後に続くわけであり、
そういった仏教系の哲学者とならんで東京大学の哲学教授の井上哲次郎が、
宗教色を感じさせることなく純哲学理論として、「現象即実在論」を提唱していたのである。

明治一六年に公刊された井上哲次郎の『倫理新説』に於いては、しばしばカント、フィヒテ、シェリング、へーゲルの名が挙がっている。
とは云え、ただ彼らの原理のみが紹介されているに過ぎない。
カントの「物自体」、シェリングの「絶対者」、へーゲルの「理念」は、
荘周の「無々」、列子の「疑独」、釈迦の「如来蔵」と同一系列に置かれて、いずれも「人力の管内」に入り難きものとして説明されている。
ただ注意すべきことは、ここでは、ドイツ観念論の神秘的側面が既に東洋的形而上学と結びつけられ始めているということである。
この点については、井上円了も同様である。彼は『仏教活論序論』(明治二〇年)の中で、仏教の「真如」とへーゲルの絶対者とを同一視している。

59 :
その他、
フェノロサ、スペンサー、『第一原理』、「不可知者」、「宇宙の第一原因」、「リアルチー(reality)」、
「大乗起信論」、「真如」、プロティノス、「根源的一者(ト・ヘン)」

60 :
・井上哲次郎(1856-1944)(東京帝国大学で日本人として初めて哲学の教授となった)
・井上円了(1858-1919)(哲学館(現:東洋大学)を設立した)
・清沢満之(1863-1903)(親鸞『歎異抄』を再発見した)

61 :
> 日本哲学の源流に位置づけられるのが、東京大学(お雇外国人)哲学教師アーネスト・フェノロ
> サ(明治11年就任)に学んだ、井上哲次郎、岡倉覚三、嘉納治五郎(明治10年入学:第一期生)
> 有賀長雄(第二期生)、三宅雄二郎(第三期生)、井上円了(第五期生)、清沢満之(第七期生)ら。
> つぎに、ブッセ(明治20年就任)に学んだ、大西祝ら。ついで、ケーベル(明治26年就任)に学んだ、
> 夏目漱石、西田幾多郎、九鬼周造、和辻哲郎、波多野精一らが、つづきます。

62 :
嘉納治五郎、、、、(柳宗悦は甥)

63 :
船山信一はフォイエルバッハの「キリスト教の本質」を翻訳していますな。

64 :
それどころかフォイエルバッハ全集をひとりで翻訳しているな。

65 :
『フォイエルバッハ全集』全部やってるね。
翻訳以外の著書もいくつか読み始めたけど、
教科書的なものや手記も良かった。

66 :
学者が翻訳するのもうやめにするべき

67 :
中山元や山岡洋一みたいに翻訳家がやるべきと?

68 :
とは言っても中山元の場合は
『思考のトポス 現代哲学のアポリアから』新曜社 2006
『賢者と羊飼い フーコーとパレーシア』筑摩書房 2008
『フーコー生権力と統治性』河出書房新社 2010
『フーコー思想の考古学』新曜社 2010
といった書を著している訳で、純粋な翻訳家とは言えない。
だから、翻訳家が学者になる可能性がある訳で、
業務遂行者を限定するのにはいささか無理があるようにも思える。

69 :
山内得立の読書が進まない。
自分なりにであれ、これを読み解いた木岡伸夫を純粋に尊敬するわ。

70 :
https://www.amazon.co.jp/%E3%80%88あいだ〉を開く―レンマの地平-世界思想社現代哲学叢書-木岡-伸夫/dp/4790716430
↑はなんとか読み通せたけど、
『ロゴスとレンマ』は40ページで挫折しそうだ。

71 :
近代日本思想史といえば、
丸山眞男門下、藤原保信門下も外せない。

72 :
津田左右吉、南原繁、丸山眞男

73 :
長谷川如是閑も忘れちゃいけない。

74 :
宇野弘蔵一派もあるな。
宇野弘蔵は東大教授になる前、戦前には東北大で研究活動をしていた。

75 :
労農派(宇野経済学系)と講座派(日本共産党系)。

76 :
内村鑑三(1861-1930)
津田左右吉(1873-1961)
長谷川如是閑(1875-1969)
大内兵衛(1888-1980)
南原繁(1889-1974)
矢内原忠雄(1893-1961)
大塚久雄(1907-1996)
丸山眞男(1914-1996)

77 :
宇野弘蔵(1897-1977)

78 :
こうしてみると、丸山眞男は、無教会キリスト主義者の内村、南原のラインと、
在野のジャーナリストの長谷川、帝大ではなく早稲田で教えた津田のラインの重ね合わせ、
つまり、思想史研究に資するであろう前者と後者のあと半分、
ジャーナリズム(本人は夜店と言った)から影響を受けたと言えるのだろう。

79 :
津田左右吉は早稲田が主とはいえ、東大でも一応教えていたんだな。

80 :
話しかわるけどもし人が単子論の事象化を考えるなら単子は窓をもたないという事が矛盾となるでしょうね✨💮

81 :
事象化って何?
単子論を訳した人は河野与一と言うんだな。

82 :
ライピニッツのジョークをまだ真に受けているんか

83 :
>>82
冗談だよ♪

84 :
>>81
具象化だよね✨💮

85 :
>>71
その辺も含めて、全体を概観したい。
このスレで扱うのは「近代日本哲学」や「近代日本思想」周辺。

86 :
>>70
ありがとう。木岡の本は読みやすいね。
山内『ロゴスとレンマ』は、西洋と東洋の論理空間を比較した重要な本だけど難しい。

87 :
ヘーゲルとマルクス、あるいはSR(=思弁的実在論)でも、
「観念論」と「唯物論」とが対比されたが、
例えばデリダの「痕跡」というのは、丁度その「言葉」と「もの」の中間的存在だった。

痕跡は、知覚可能でも知覚不可能でもなく、意味作用でもエネルギーでもなく、
形而上学のいかなる概念によっても記述できない論理空間の裂け目。

デリダの哲学は反西洋哲学的であるのだから、
その結果として導き出されたものが、東洋的なものに近づいたのは当然かもしれない。

88 :
“そのとき(宇宙始原のとき)無もなく、有もなかった。”

― リグ・ヴェーダ「宇宙開闢の歌」(10.129)

89 :
梅原が大学院で師事していたのが山内得立か。

90 :
『ロゴスとレンマ』は地味に大きい。

91 :
南原繁を一高で教えた新渡戸稲造は、京都帝国大学でも教えていたんだな。

92 :
「ロゴス的」論理は、同一性や矛盾律によって、ものとものとをはっきり区別し分けていく態度であるし、
分断することのできない事物の<あいだ>を見ていくのが「レンマ的」論理。

差異の哲学、関係主義、仏教の縁起、間、水墨画の余白を見る様な見方。

93 :
京都学派的な関係性の見方って
<切り結ぶ>感じだよね。

94 :
ガイドブック

『日本近代思想を学ぶ人のために』 藤田正勝 (1997)
西、福沢、中江、内村、大西祝、西田、波多野、田辺、九鬼、和辻、三木、岡倉、清沢、大拙、久松、西谷

『日本の思想家(上中下)』 朝日ジャーナル編集部編 (1975)
約70人を紹介

『近代日本の哲学者』 鈴木正、卞崇道 (1990)

『近代日本の哲学』 宮川透 (1961)

『日本の「哲学」を読み解く:「無」の時代を生きぬくために』 田中久文 (2000)

『近代日本思想史の基礎知識』 橋川文三 (1975)

『概説 日本政治思想史』 西田毅 (2009)

95 :
『日本哲学原論序説: 拡散する京都学派』 檜垣立哉 (2015)

『〈日本哲学〉入門講義 - 西田幾多郎と和辻哲郎』 仲正昌樹 (2015)

『世界のなかの日本の哲学』 藤田正勝、ブレット・デービス (2005)

96 :
『日本の思想』 丸山真男 (1961)

『現代日本の思想 その五つの渦』 鶴見俊輔、久野収 (1979)

『近代日本精神史論』 坂本多加雄 (1996)

97 :
『日本の哲学』(日本哲学史フォーラム編)の各号から抜粋

『山内得立のレンマの論理』 後藤正英
『批判的思惟の有効性―マルクス主義と日本思想史』 末木文美士
『田辺元の思想形成と西田の「永遠の今」―微分から瞬間へ』 竹花洋佑
『インド大乗仏教における解脱の思想と慈悲』 宮崎泉
『日本仏教は非論理的か?』 末木文美士
『意味の発生の理論としての井筒俊彦の分節理論』 満原健
「創造的モナドロジー」の世界―後期西田哲学における個物と世界』 城阪真治
『東洋と西洋の統合―明治の哲学者たちの求めたもの』 高坂史朗
『近代の「知」としての哲学史―井上哲次郎を中心に』 中村春作
『「無と空」をめぐって』 上田閑照
『「空」と「無」の間―仏教思想史の視点から』 木村清孝
『現象学的思惟と東洋の思惟との間―経験の深層次元への問いの道』 新田義弘
『日本の哲学の場所―欧米から見た』 J・W・ハイジック
など

98 :
仲正と檜垣の本がきになるわ。

99 :
井筒俊彦「意識と本質」を読むスレッド
http://academy6.2ch.sc/test/read.cgi/philo/1115873889/


【日本の思想】丸山眞男スレッド【丸山真男】
http://academy6.2ch.sc/test/read.cgi/philo/1153799630/

【西田幾多郎】京都学派総合スレッド【森哲郎】
http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/philo/1284360056/

100 :
渡辺浩『日本政治思想史―十七~十九世紀』(2010)

現代の眼編集『戦後思想家論』(1971)
三島、吉本、福田、竹内、花田、埴谷、丸山、黒田、梅本、武谷、清水、宇野

101 :
>>94の西田の本はあまりamazonでもbooklogでもいいようには言われてないね。

102 :
http://www.minervashobo.co.jp/book/b47813.html

『近代日本政治思想史入門 原典で学ぶ19の思想』 大塚健洋 編著(1999)

これの中江兆民しか勉強に使ってないけど、いい感じの本かもしれない。

103 :
>>101
政治思想史は、>>100のも>>102のも含めて何冊かあたったんだけど、
幕末・明治〜昭和に焦点があっていて、哲学的な視点が入っているものは限られていた。

104 :
仲正は近代哲学や近代思想に詳しいし、現実的な解説。金沢にいるということもある。
檜垣は西田や京都学派を徹底して哲学的に読んでいっている。他に書いている西田関連の本も参考になる。

105 :
確かに「政談」となると哲学からは離れちゃうわな。
個人的には好きなんだけどw

106 :
鈴木大拙と井筒俊彦は、日本でもそれなりに著名だけど、
海外での認知度も結構ありそうな点で似ている気がする。

107 :
もっかい最初から『ロゴスとレンマ』読み直してみるか。

108 :
日本からエラノスに出席したのは
鈴木大拙、井筒俊彦、上田閑照、河合隼雄

109 :
すごい😆⤴

110 :
日々の生活での返済、お支払いでお悩みの方。

急な出費などで、今月の生活費が足りない方。

多重債務、ヤミ金、家賃滞納でお困りの方。

東京、神奈川、千葉、埼玉にお住まいの方は優遇です。

エヌピ-オ-法人 エスティーエー

111 :
日々の生活での返済、お支払いでお悩みの方。

急な出費などで、今月の生活費が足りない方。

多重債務、ヤミ金、家賃滞納でお困りの方。

東京、神奈川、千葉、埼玉にお住まいの方は優遇です。

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112 :
梅原猛は『美と宗教の発見』で和辻や大拙を取り上げてるんだな。

113 :
大拙に対する禅への偏重への批判はいい感じだな。

114 :
>>112
宗教板は腐ってましたぁ(^^)

予想通りですよね✨😄

115 :
哲学からいろいろな学問分野が分化していったとは言え、
宗教哲学、芸術哲学っちゅうことでこの板で扱うのもアリかもしれませんな。

116 :
>>115
ですよね(^^)
さすがー☆💗 哲学板も宗教板も腐っていますが、ここのスレの人達だけは最近期待して目をつけていましたぁ✨👰

117 :
『美と宗教の発見』で和辻批判をしているのに、
梅原は和辻の旧邸に住んでいるんだな。面白い。

118 :
西田幾多郎を語るスレ [無断転載禁止]©2ch.sc
http://mint.2ch.sc/test/read.cgi/philo/1479314990/

【イスラム哲学】井筒俊彦を読む [無断転載禁止]©2ch.sc
http://mint.2ch.sc/test/read.cgi/philo/1495629112/

119 :
ジレンマ(dilemma) - 対立する2つの間に立つこと
トリレンマ(trilemma) - 対立する3つの間に立つこと
テトラレンマ(tetralemma) - 対立する4つの間に立つこと

120 :
◇四句分別(テトラレンマ、四句否定)

1. 肯定            (Aである)
2. 否定            (Aではない)
3. 肯定かつ否定      (Aであり且つAではない)(両是)
4. 肯定でも否定でもない  (AであるのでもなくAでないのでもない)(両否)


◇四句否定(以下、角川『仏教の思想 3 空の論理<中観>』第一部より)

四句否定(厳密に一致はしないが、便宜的にテトラレンマと呼ぶ学者もある)はナーガールジュナの創見ではなくて、
すでに初期経典にも見られたもので、彼はその伝統を受け継いだだけである。
たとえばナーガールジュナの
「世尊はその死後に、存在するとも、存在しないとも、その両者であるとも、両者でないとも、いうことはできない」(二五・一七)という詩頌は
『マッジマ・ニカーヤ』六三でマールンキヤーブッタがシャカムニ・ブッダの教えとして伝えるものと内容は同じである。

『中論』にはこの形の四句否定ははなはだ多い。
ものは自らも生ぜず、他からも生ぜず、自他の両者からも生ぜず、無因(両者の無)からも生じない(二・二)といったり、
本体についても、自己の本体、他の本体、存在(自と他)、非存在(両者の無)のすべてを否定している(二五・三−五)。

有名な詩頌「有でなく、無でなく、有無でなく、両者の否定なるものでもない、四句を越えた真実を中観者は知る」(プラジュニャーカラマティ『入菩提行論注』第九章引用)
が示すように、四句否定は中観の真理を表わすものと理解されてきた。

121 :
ヨーロッパ的論理の代表である俳中律は>>120の1、2に限り、
曖昧で中間的な判断を排すことで明晰な論理空間を構築した。

パルメニデス「有るものは有る。無いものは無い」

122 :
仏教やインド哲学における真理は、テトラレンマ的に表現されることがよくある。

・空の定義「非有非無」(有るのでもなく無いのでもない)
・「不一不異」(同一でもなく差異があるのでもない)
・解脱の段階の一つ「非想非非想処」(想いがあるのでもなく、想いが無いのでもないという境地)
・「そのとき(宇宙始原のとき)無もなく、有もなかった。」(リグ・ヴェーダ「宇宙開闢の歌」(10.129))
など

123 :
俳中律ではなく排中律だな。

124 :
仰る通り

125 :
テトラレンマを理解すると、インド周辺の哲学において、
非論理的でナンセンスだと思われがちな多くの表現の背景に
ちゃんとした構造があることが分かる。

126 :
三権分立・三竦みの罠(トリレンマ)

127 :
三竦みといえば、2000年前後のプロ野球・パシフィックリーグにおける
西武、ダイエー、近鉄の三竦みは面白かっただろう。事実上新聞紙面でしか見てないもんで。
西武はダイエーに強く、近鉄に弱かった
ダイエーは、近鉄に強く、西武には弱かった
近鉄は西武に強く、ダイエーには弱かった

128 :
>>127
三竦みはプロレス的面白さはあるが
実生活には破綻をきす
結局近鉄は潰れたし
プロ野球自体危機的な状況になった
※球界再編ストライキ事件

129 :
絶対無😄

130 :
己を虚しゅうする境地には未だ至らず。。

131 :
>>130
ならばこれを見よ
https://youtu.be/5mxH5Zo98o4

132 :
>>131
あはは、なんかリラックスできたわ。

133 :
「絶対と相対の関係」
で またコーヒーさんやっつけてこようかなぁ(^^)

134 :
廣松渉の四肢構造はテトラレンマとはほとんど関係付けられないものなのだろうか。

135 :
>>134
目指してる方向が違うの

ごめんなさい✨👰

136 :
偽者は消えなさい

137 :
およよ😩

138 :
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139 :
317唖那婁玖簑漫湖堵炉弩櫓酢 ◆lkiJgnV0kQ 2017/05/25(木) 23:53:32.570

              i´                 .|
             l            ●  ノ`-、__ .、
            彡⌒ミ           /__,,..-ノ
            (´・ω・)          \,..-ー''´
              i´                 .|
             l            ●  ノ`-、__ .、
            彡⌒ミ           /__,,..-ノ
            (´・ω・)          \,..-ー''´
              i´                 .|
             l            ●  ノ`-、__ .、
            彡⌒ミ           /__,,..-ノ
            (´・ω・)          \,..-ー''´

140 :
実家の倉庫からボロボロの西谷啓治『ニヒリズム』を入手した。

141 :
>>135
だよね。主観客観図式を基にした認識論と、
論理構造を表したテトラレンマとでは方向性が違うよね。

142 :
>>141
はい✨認識論を存在論で止めて、そして存在論を切り離します。⭐😄

143 :
和辻の倫理学については、少々読みにくい文章ではあるが、
西谷敬『文化と公共性 和辻倫理学の再構築』がいいかもしれない。

144 :
まだ未読。⭐😄

145 :
俺も3年くらい前に序章と一章を読んでそのままにしておいたのを
もう一回最初から読み直しているところ。

146 :
やっぱり元に戻した。
あまりにもボロボロなもんで・・

147 :
その分、前に購入した京都学派等の書籍を読む時間に充てる。

148 :
岩崎武雄『西洋哲学史』は分担執筆されがちな哲学史の解説本を
一人でやりきっているからすごいと思う。

149 :
日本のドイツ哲学研究者、哲学思想史研究者の系譜(大雑把版)

朝永三十郎
桑木厳翼
安倍能成
天野貞祐
(和辻哲郎)
金子武蔵
高峯一愚
岩崎武雄
岩崎允胤
城塚登
宮川透
生松敬三
荒川幾男
坂部恵

150 :
>>140
カルル・レーヴィット 『ヨーロッパのニヒリズム』 (1974) とかも併せて読むのにいい。

151 :
『西谷啓治著作集』(1986)は旧字体のままだけどいくつか読んだ。
「ニヒリズム」、「空」、「無」、「宗教哲学」といったテーマのあたり。

西谷は欧米でも読まれているし、今読んでも強度があるから、
新字体にリニューアルされても良さそうなもの。

152 :
西谷啓治の著作集を出している創文社が事業を何年か後にたたむとか言ってるから、
版権とかどうなるのかなあと思う。

153 :
そう思いつつamazonでニヒリズムが所収されてる著作集を買った。
やっぱり西谷啓治からは逃れられない。

154 :
聯關(連関)   辯證法(弁証法)
絕對(絶対)   乃至(ないし)
自覺(自覚)   囘轉(回転)
根據(根拠)   歸納(帰納) 
體驗(体験)   連續(連続)
實存(実存)   卽ち(すなわち)
何處(いづこ)  本當(本当)    
區別(区別)   斯くの如く(かくの如く)

155 :
>>2
新旧字体表
http://www.asahi-net.or.jp/~ax2s-kmtn/ref/old_chara.html
新旧対照一覧表

10進、16進文字コードin HTMLユニコード
http://code.cside.com/3rdpage/jp/unicode/converter.html
入力出来ない旧字体をコードに変換

156 :
舊い(ふるい)
擔う(になう)
剰え(あまつさえ)
就中(なかんずく)

157 :
http://www.kyoto-up.or.jp/book.php?id=1925
杉本耕一『西田哲学と歴史的世界 宗教の問いへ』

この方、39歳の若さで亡くなってるんだね。
残念なことだ。

158 :
無になっだだけじゃないの。急いで!

159 :
究極的に言えばそうなのかもしれないね。

160 :
點(点)

161 :
明治期哲学は、西洋から、ロック、バークリー、ヒューム、ジェイムズの経験論、
カント、ヘーゲルの観念論、フォイエルバッハ、マルクスの唯物論、
フッサールの現象学、ベルクソンの生の哲学などを輸入した。

162 :
田辺元 『仏教と西欧哲学』 (2003)

宗教哲学一般を解説した本。
西田哲学や京都学派の理論的背景を理解する上でも参考になる。

田辺は宗教哲学について、ヘーゲルの次の様な言葉を引用している。

「宗教哲学は哲学体系中の最高の部門である」
「哲学の展開の最後に到着する最終の部門である」

これらは当時の哲学の性格をよく表すものだろう。

また、仏教の論理がヘーゲルの論理と同じであるともいう。

「空は絶対無である。(略)
その無と有との転換媒介としての中というのは、行為の立場、ヘーゲルの論理にいわゆる成である。(略)
ヘーゲルの場合には、有(Sein, being)無(Nichts, non-being)成(Werden, becoming)となっています。」

空と縁起について。

「存在の相対性、無自性、思想の相依相待という考えを徹底して空という立場に立つことは、
西洋の思想には本来殆どない所であるといっていいかと思う。」

163 :
脱衣入浴か。

へ―ゲリアンもそうづるし打っといたよ。策略で。

164 :
>>162
なみへいぽい

165 :
>>164
どこが?

166 :
なぜ京都学派が凋落してしまったのか?

167 :
戦争協力(海軍)していたものを、敗戦となり、
戦後になって、文献学主義に転向したからだろう。

168 :
西田幾多郎と田中美知太郎 ――日本哲学とギリシア哲学の協働のために――
http://www.nihontetsugaku-philosophie-japonaise.jp/wp-content/uploads/2017/03/納富-_日本哲学史研究13号-2.pdf

戦前と戦後の間の断絶と連続性というか切り結ばれ方については
研究者にも問題意識はあるようだ。

169 :
>>167
考え方に一貫性がなかった。
権力者に諂うことだけに集中してしまった。

170 :
何を持って凋落とするかだよな。
戸坂潤とか三木清が獄死したことによって、
彼らがなすべき伝統が途絶えたことをそうだと考えるべきなのか。

171 :
哲学科が偏差値の底辺であることを直視しなかったから、

172 :
三木清は昭和研究会に所属して革新官僚と組んで戦争協力していたから、
戸坂潤と一緒に京都学派左派と括られることはあるけど、
戸坂とは別だな。

173 :
京都学派には良い京都学派と悪い京都学派があって、
〇〇は良い京都学派で、□□は悪い京都学派

などといっているから凋落した。

174 :
党派性と哲学の関係は別個にすべきか。

175 :
大蛇丸様

176 :
京都学派は過大評価され過ぎたのでは。

東大みたいに分相応の低評価がされていれば、凋落という感じがしない

177 :
和辻倫理学はそんなに特別崇められてないものね。

178 :
神社仏閣版の古豪と対決がおすすめ。

風景画のセンス。

179 :
風景論は日本思想のテーマの一つだな。

180 :
テーマより スキームって言われた世代は?

181 :
風景を考慮した都市計画か
古代中世近世なら陰陽五行説とも繋がりありそうだな

182 :
近代の超克

(0)『「近代の超克」その戦前・戦中・戦後』 (2015) 鈴木貞美

(1)『近代の超克』 (1943/1979)
   西谷啓治、諸井三郎、鈴木成高、菊池正士、下村寅太郎、吉満義彦、小林秀雄、
   亀井勝一郎、林房雄、三好達治、津村秀夫、中村光夫、河上徹太郎、竹内好

(2)『季刊・思潮 No.4 近代の超克と西田哲学』 (1989) 廣松渉、浅田彰、市川浩、柄谷行人

(3)『<近代の超克>論 昭和思想史への一視角』 (1989) 廣松渉

(4)『「近代の超克」とは何か』 (2008) 子安宣邦

・西谷啓治 - 京都学派の哲学者。京都帝国大学助教授。論文「「近代の超克」私論」を執筆。
・諸井三郎 - 音楽評論家。東洋音楽学校・東京高等音楽院講師。論文「吾々の立場から」を執筆。
・鈴木成高 - 京都学派の西洋史家。京都帝大助教授。
・菊池正士 - 物理学者。大阪帝国大学教授。論文「科学の超克について」を執筆
・下村寅太郎 - 京都学派の科学史家。東京文理科大学教授。論文「近代の超克の方向」を執筆。
・吉満義彦 - 哲学者・カトリック神学者。東京帝国大学講師。論文「近代超克の神学的根拠」を執筆。
・小林秀雄 - 文学界同人の文芸評論家。明治大学教授。
・亀井勝一郎 - かつて日本浪曼派に参加し、文学界同人の文芸評論家。論文「現代精神に関する覚書」を執筆。
・林房雄 - 文学界同人の文芸評論家。論文「勤王の心」を執筆。
・三好達治 - 文学界同人の詩人。明大講師。論文「略記」を執筆。
・津村秀夫 - 映画評論家。朝日新聞記者。文部省専門委員。論文「何を破るべきか」を執筆。
・中村光夫 - 文学界同人の文芸評論家。論文「「近代」への疑惑」を執筆。
・河上徹太郎 - 文学界同人の文芸評論家。論文「「近代の超克」結語」を執筆。

183 :
>>182
目新しいのは鈴木 『「近代の超克」その戦前・戦中・戦後』。

近代の超克に留まらない、日本と世界の近現代史論。
哲学、科学、政治、宗教・精神史から
生命論、エネルギー論、言語論などを通し、
圧倒的なスケールで近代の超克問題を立て直す、21世紀の必読書。

☆☆☆☆☆

184 :
京都学派左派…

185 :
左翼がもげても駆けろよ。右は。

186 :
>>185
煽るな

187 :
昭和思想というと、
津田雅夫『戸坂潤と<昭和イデオロギー> 「西田学派」の研究』があるけど、
未読だわ。

188 :
京都学派は民進党に似ている。

189 :
はたしてそうかな?

190 :
大蛇丸様

191 :
      宗 教
       |
     西谷啓治
   林房雄 |亀井勝一郎 
       |   小林秀雄  
国______|_______個
家      |       人
   津村秀夫| 
      諸井三郎
       |下村寅太郎
       |
      科 学

192 :
日本人もなかなかのものだったのね✨🐩

193 :
林房雄って共産党だったのが転向して
大東亜戦争肯定論をぶつようになったんだな。

194 :
>>193
こういうことが多過ぎて、
京都学派には芯が無くて、風見鶏って言われちゃうんだよね。
京都帝国大学のプライドだけは一貫しているけどね。

195 :
林房雄は東京帝大法科中退だから、
京都学派とは直接関係ないのでは?

廣松のような昭和思想史という括りで見た方がいいような気もする。

196 :
共産党からの転向者として有名な佐野学も東京帝国大学法学部卒だ。

「転向」論として有名なのは藤田省三の『転向の思想史的研究』だが、
まだ買っていない。『精神史的考察』なら多少読んだことはあるが。

197 :
哲学とイデオロギーを分離せずに明治〜戦前の言説を論じるならば、
岩崎允胤『日本マルクス主義哲学史序説』、松沢弘陽『日本社会主義の思想』、
古在由重『戦時下の唯物論者たち』あたりは参考になるかもしれない。

198 :
福本和夫は14年も刑務所に入ってたんだな。

199 :
>>198
福本は東京帝大法学部卒
その点、京都帝大経済学部卒の河上肇は、獄中で転向しちゃったから、
>>194の言う通りうっちゃ言う通りかもしれない。

200 :
言う通りうっちゃ言う通り→言う通りっちゃ言う通り

それにしても、河上肇を京都学派に入れる場合はあるのかな?
と思ってネットを調べたら、
哲学の道で西田や田辺と同様散策していたという記述が散見される。

201 :
大橋容一郎の「新カント学派と近代日本」が面白そうだから
今月号の岩波の『思想』を買って読んだ。

学派の興亡は、留学だとか大学の人事だとか学者の死亡で
どうにかなってしまうのだなという感想を抱いた。

そして、1937年に反個人主義を謳う「国体の本義」のようなものが出される時点で、
自由主義や個人の人格、普遍的理性を重視する新カント学派が受け入れられる素地が
当時の日本にはなかったと締められているのが印象的だった。

そして、そのような状況においては、
人倫の道や共同態論を説いた和辻哲郎のような学者が生き残るのだなとも思った。
(和辻についてはドイツに留学していたということしか論文には触れられていなかった)

202 :
井筒俊彦全集9巻 
・いま、なぜ、「西田哲学」か
・『西谷形而著作集』推薦

203 :
井筒俊彦 「東洋哲学の行方を考える」 (井筒俊彦全集別巻)

東洋文化にたいする関心が急に高まりだしている。東洋学者にとっては喜ぶべき事態であるのかもしれない。
だが現代のこの動向には、それなりの陥穽がある。東洋主義独走の危険ということだ。
地球社会的な世界文化パラダイムが求められている今日の思想状況では、孤立した東洋主義はもはや通用しない。
東洋哲学もまた異文化との活発なディアレクティクから生まれてくる、世界に向かって開かれた思想でなければならないのである。(執筆年未詳)

204 :
×西谷形而
○西谷啓治

205 :
>>154
こういうのは、20〜30気を付ければ何とかなる。

206 :
主要な本は新字体でリニューアルされているし、
旧字体のまま読み進めなければならないのは西谷ぐらいか。

207 :
清沢満之全集は、一部漢字仮名交じり文だが、読み始めると止まらない。

208 :
>>182
『世界史的立場と日本』 (1943年) 高坂正顕、西谷啓治、高山岩男、鈴木成高

旧字体、旧仮名遣い。
京都学派第二世代の4人による座談会で、太平洋戦争1941年12月8日の13日前に行われた。
(「近代の超克」座談会は1942年7月)

議論は『近代の超克』より本質的。

209 :
「世界史的立場と日本」との対比 : 「近代の超克」再考(その1)
菅原潤
http://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20170610220427.pdf?id=ART0008889169

210 :
>>58
船山信一 「明治哲学史研究」 (1959)

『舩山信一著作集 第6巻』(1999)所収版は、新字体、新仮名遣いで読みやすい。
明治哲学関連ではよく引用される一冊で、宗教哲学〜宗教社会学的な内容。

・明治哲学の系譜
・現象即実在論の発展
・明治期のキリスト教の受容と批判
・明治期の無神論
・明治期の唯物論争
・明治期の社会主義観
など

211 :
>>58
『井上円了選集第一巻』
新字体で読みやすい。
「哲学一夕話』の他、「哲学要領」は東洋哲学から西洋哲学までが概観されており、しっかりした内容。
円了のwikiなどでの紹介はおかしい。

212 :
>>97
いくつか読んでみたけど、さすがに内容が濃い。

213 :
和辻の『鎖国』とか『日本古代文化』は旧字体、旧仮名遣いだな。

214 :
俺が持っているのはだな。
岩波文庫化されたり全集化されたりしているものは違うかもしれない。

215 :
京都学派の凋落は敗戦と公職追放を機に文献学主義になったという見方は一理あるが、西谷啓治なんかはむしろ戦後に花開いたんだよね
ただ、その後の世代は西谷の縮小再生産という感じが否めない

216 :
ほんほん

217 :
山内得立の流れもあるけどな。

218 :
伊藤邦武による野田又雄『西洋哲学史ールネサンスから現代まで』の解説。
http://www.webchikuma.jp/articles/-/632

219 :
×野田又雄
○野田又夫

220 :
野田又夫、藤沢令夫、桑原武夫や田中美知太郎といった戦後の京都学派の面々は、
岩波新書や岩波文庫、中央公論社で概括的な著作を出すことにより、
アカデミズムと一般読者との間を架橋したという点で
戦前の京都学派よりも人口に膾炙していると言えるかもしれない。

221 :
>>208
“今度の戦争は、「全体戦」から進んで来て「総力戦」というところに迄きた挙句
 我々が普通に考えている戦争概念を超越したところに到達している。
 今度の戦争は従来の戦争概念では理解できない、その限界を超えたものをもっている。”

― 『世界史的立場と日本』 (1943年) 高坂正顕、西谷啓治、高山岩男、鈴木成高

222 :
これぐらいの時代の本になると、
むしろ国会図書館のデジタルコレクションになっているから、
近くの図書館からでも閲覧できると思う。

223 :
国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/

検索時に「図書館送信資料」をチェック

224 :
西田幾多郎や戸坂潤、三木清なら、
全部ではないにしろ一部が青空文庫で閲覧できるね。
それにしても青空文庫の従事者は戸坂についてより熱心だな。

225 :
『世界史的立場と日本』はアマゾンでも日本の古本屋でも高いね。
図書館の利用を薦める>>221-223
の言う通りだわ。

226 :
国体の本義

(1)『国体の本義』 文部省編 (1937) (国会図書館デジタルコレクション http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1156186
  
(2)『日本国家の神髄 禁書「国体の本義」を読み解く』 佐藤優 (2009)

(3)『国体の本義』 文部省編 (2016)復刻版?

(4)『国体の本義』 (J−TEXTS http://www.j-texts.com/showa/kokutaiah.html


1は自宅からでも閲覧出来る。旧字体・旧仮名遣い。

この本はGHQによって禁書にされたが、2の本の中においてのみ、
全文(新字体・旧仮名遣い)が紹介されていた。
佐藤による全編解説付き。

3、その後、原書に忠実な形の復刻版が出ているのかもしれない。内容未確認。

4は新字体・旧仮名遣い。

227 :
国体?国民体育大会ぐらいかなあ。GHQの編集梱包もいいのかしらね。

228 :
デカルトの翻訳をしている山田弘明は、
戦後京都学派世代に教えられた、読者人と講談を結ぶ感じの哲学者なんだろうな。
『方法序説』も『省察』も各々900円、1000円とちくま学芸文庫にしては安いし。

229 :
デカルトの我は自我の一般💛

230 :
講談→講壇

231 :
大森荘蔵は、哲学的文献学を超えた哲学者であったといっても良いだろうが、
門下生のひとりである田島正樹は、リベラルな左派といった感じで、
その衣鉢を継いだと言えるかもしれない。
http://blog.livedoor.jp/easter1916/archives/2017-06-07.html

232 :
東浩紀は小松左京の読者で、
小松左京と梅棹忠夫が手を取り合って、日本未来学会を設立したことに触れるなどして、
戦後京都学派についてシンパシーを持っているようなことを言っている。
京都学派についても独自の哲学を持っていたとして評価している。

日本の批評的言語をどうするかという中で、「日本語の伝統を引きずって、異質性を商品価値にしていくやり方」
を取りたいと言っていて、その時利用できるのが京都学派だと言っている。

以上が2012年5月に出た『atプラス12』の千葉雅也との対談での言論なんだけど、
その後5年経って『ゲンロン0ーー観光客の哲学』という一般人に通じる平易な文体の本を著したことは、
ある意味では、広義の京都学派の流れに棹さしていていい感じだね。

233 :
と言いつつも、
ゲンロン0には英訳での各章毎の要約的文章がついているのにも注目すべき点だ。

234 :
「点」は要らなかったな。

235 :
戦前の京都学派を初めとした哲学者がドイツ哲学中心で
戦後の新京都学派を始めとした哲学研究者がフランス哲学中心だというように
ざっくり言えるかもしれないが、
高橋里美はその例外で、戦前にフランス哲学もドイツ哲学も両方訳してるんだな。
(ベルクソンの『物質と記憶』とヘーゲル『哲学概論』)
熊野純彦も独仏両方やってるんだな。(ベルクソンの上記の新訳とカント)

236 :
西田幾多郎はフランス語は読めたのだろうか。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000182/files/1049_40744.html

237 :
存在とはそれ自身です👸

238 :
山内得立は『ロゴスとレンマ」でインド哲学をモノにしているな。すごい。

239 :
この本結構いいかもしれない。

甦る和辻哲郎―人文科学の再生に向けて
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784888484855

240 :
西田幾多郎の『無の自覚的限定』とか読んでいるとハイになる。

241 :
西田はぶーぱーに近いがアホな流れを見てるな。神について。

242 :
我と汝ねえ。
凡庸な他者論よりかはずっと面白いな。

243 :
文献学的研究も含めて『日本哲学史』みたいな本が出ないかなあ。

244 :
今のところそれに当たりそうなのは、熊野純彦の『日本哲学小史 - 近代100年の20篇』かな。

245 :
>>226
“かくの如く、教育・学問・政治・経済等の諸分野に亙つて浸潤してゐる西洋近代思想の帰するところは、結局個人主義である。
 而して個人主義文化が個人の価値を自覚せしめ、個人能力の発揚を促したことは、その功績といはねばならぬ。
 併しながら西洋の現実が示す如く、個人主義は、畢竟個人と個人、乃至は階級間の対立を惹起せしめ、
 国家生活・社会生活の中に幾多の問題と動揺とを醸成せしめる。
 今や西洋に於ても、個人主義を是正するため幾多の運動が現れてゐる。
 所謂市民的個人主義に対する階級的個人主義たる社会主義・共産主義もこれであり、
 又国家主養・民族主義たる最近の所謂ファッショ・ナチス等の思想・運動もこれである。

 併し我が国に於て真に個人主義の齎した欠陥を是正し、その行詰りを打開するには、
 西洋の社会主義乃至抽象的全体主義等をそのまゝ輸入して、その思想・企画等を模倣せんとしたり、
 或は機械的に西洋文化を排除することを以てしては全く不可能である。”

― 『国体の本義』 文部省編 (1937)p154-155

246 :
昭和研究会や革新官僚に対する批判として通るな。>>245の下三行。

247 :
>>243
濱田恂子の『入門 近代日本思想史』もそうかな。

248 :
昭和研究会については、
『知識人とファシズム―近衛新体制と昭和研究会』柏書房
が詳しい。

249 :
>>248の研究書は蝋山政道、三木清そして笠信太郎を軸にしたものだが、
当事者の証言としては、酒井三郎『昭和研究会―ある知識人集団の軌跡』がある。

250 :
良スレ

251 :
和辻哲郎の『倫理学』(岩波文庫版)は1〜4のうち、2だけが売り切れてしまっている。

252 :
和辻の『風土』と『倫理学』だと倫理学の方が4巻本に分かれていてとっつきにくいかなあと思って
風土を先に読んで倫理学を後回しにしたが、
倫理学を読み始めた今となっては、風土の方が却って難しいように思えてきた。

253 :
『風土』では、自然環境を扱いはするけどそれが人間を規定するような決定論として論じられるわけではなく、
間柄的存在の人間の風土的なあり方として論じられる。
また、ハイデガーの『存在と時間』のような時間論を意識して、
逆に本文で論じる訳ではないけれども空間論を目指すと。

254 :
>>244>>247
二冊共いいね。

どちらにも念入りな年表がついているので要チェック。
どちらも『ロゴスとレンマ』を取り上げていたりもする。

(1)濱田恂子 『入門 近代日本思想史』 (2013)

「近・現代日本哲学思想主要著作刊行年表」として、
1861年の加藤弘之「隣草」から2005年までをカバーするなどレンジが広い。
戦前〜戦後をバランス良く概観する中で、
比較思想のキーマンとして中村元と井筒俊彦を挙げている。
初心者にも中級者にもオススメ。

(2)熊野純彦 『日本哲学小史 - 近代100年の20篇』 (2009)

内容は良いが、主著を避け、思想史の行間を読拾い読むタイプなので、2〜3冊読んだ人向け。
年表は1859〜1976年。日本と世界の思想書と、世界の出来事を並べて見せている点で秀逸。

255 :
>>243
今のところ濱田『入門 近代日本思想史』。

256 :
濱田恂子、、、こういう人が実存思想協会の理事長とかやっていたのか、、、

257 :
濱田本は江戸時代から明治時代への変遷の説明の仕方が、導入としていい感じだね。

258 :
おまとめサポート
(平成29年7月よりスタート)

他社のおまとめローンの審査が通らなかった方、ご相談下さい。

・勤続年数2年以上の方
・金融事故のない方
・来店可能な方

保証人、担保は不要です。

まずは、お電話でお問い合わせ下さい。
特定非営利活動法人 STA

259 :
おまとめサポート
(平成29年7月よりスタート)

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・勤続年数2年以上の方
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・来店可能な方

保証人、担保は不要です。

まずは、お電話でお問い合わせ下さい。
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260 :
戦前の思想の反省というと、

戦前の思想 → 近代の超克 → 京都学派 → 西田哲学 → 無(絶対無)とは何か?

と見ていくことになるが、政治で語れる範囲というのは限られている。
哲学は、その先にある問題に目を向けなければならない。

261 :
原武史の『日本政治思想史』(放送大学教材)を立ち読みしたが、本人の趣味が色濃く出すぎていて、
イマイチだった。

262 :
今月出た木岡伸夫の『邂逅の論理ー<縁>の結ぶ世界へ』(春秋社)は、
シリアスな雰囲気が出ていて良い。

263 :
田辺元の『懺悔道の哲学』が紹介されていて、
その中でも菩薩との出会いにスポットライトが当てられていたのが印象的だった。

264 :
>>260
とは言え、無の思想の代表である老子などは、
高度に政治的だったりもするが。

265 :
>>262
"ロゴスとレンマを超える。"

「邂逅」を論理の問題として捉え、九鬼周造、和辻哲郎、田辺元をはじめ、西田幾多郎、山内得立らに注目し、
東西哲学を包み拡げて〈縁〉によって結ばれた世界へと思想を導いていく。
東西の風土的相違を超えて、双方の〈あいだ〉に〈邂逅の論理〉をうちたてる。 (2017/7/19)

266 :
ロゴスとレンマ的なものについて、
井筒は西洋の二元的な「アリストテレス的論理学」に対し、東洋の「多元的な論理」としていたし、
中沢新一は「アリストテレス型論理」以前の「高次元的な無意識」的思考に注目した。

267 :
京都学派アンチスレッド
http://ha10.net/anti/1502084626.html
   
京都学派のアンチです。
京都学派に対する批判、あるいはそれに対する反論をお待ちしています。

268 :
カントの「判断力批判」を読んでるのだが、
驚いた。まず、田辺元の「種の論理」はヘーゲルの誤読などという輩がいたが、
なんのことはない。カントの「判断力批判」の発展である。
ちなみに読んでる途中だが、判断力批判にはこうある。
「美学的判断力とは、快不快の感情によって判断することで、目的論的判断と異なる」

269 :
>>268
ヘーゲルの誤読って言やあ罷り通る時代があったからな
ヘーゲルなんてヘラクレイトスの現代風でしかないのに

270 :
>>269
うるせえ。哲学科はバカばっかりだ。
サボり魔どもめ。
おれに簡単に反駁される見当ちがいな連中が二百年間、君臨して偉そうにしてきたんだからな。
恥を知れ。

271 :
>>270
火病を起こすな火病を
気持ちは分かるが俺が受け止める義理もない
第一カントが昔に看破したことを君が知ってアホどもを論破してるに過ぎん

272 :
>>271
二百年間、理解されなかったカントが可哀そうだ。
ヘーゲルだのショーペンハウエルだのフッサールだの、ハイデガーだの、
サルトルだの、メルロ=ポンティだの、ドゥルーズだの、デリダだの、ボードリヤールだの、
くだらない連中ばかりだ。

273 :
>>272
カントの優秀さは日本では小林秀雄が見抜いてた
エリートだが学者でなく市井の物書きの彼がな

274 :
カントといえば田辺元の著作に『カントの目的論』というのがあるね。

275 :
>>273
小林秀雄wwwwwwwwwwwwwwwwwww
アホが。京都学派の哲学者がみんなしてカント読んでたのに、何が小林秀雄だよ。

276 :
>>272
メイヤスーは?

277 :
http://realkyoto.jp/review/mallarme-by-meillassoux/
メイヤスーに関しては浅田彰が過大評価だとしている。

278 :
>>277
2011年のレビューが論拠!?

279 :
http://www.honzuki.jp/news/contemporary_thoughts2013/
じゃあ、2013年のレビューを。
京都学派スレなんだから浅田彰でいいかと思って。文章もわかりやすいし。
千葉雅也や小泉義之も京都の大学で教えていたり人文研に関わっていたりするし、
京都学派みたいなもんか。

280 :
ニャン😚

281 :
>>279
2013年…

282 :
戸坂潤の新カント派を意識した自然科学に関する論考は難しい。

283 :
>>281
2017年のが見つかったわ。メイヤスーに好意的なのが。

メイヤスーと思弁的実在論
清水 高志
http://ci.nii.ac.jp/naid/120006241711

284 :
>>283
必死に思想を更新させたいのね^^

285 :
別にそういうつもりじゃないんだが。

286 :
>>277>>279
もっと新しいものがあるでしょ

「マルクスから(ゴルバチョフを経て)カントへ ― 戦後啓蒙の果てに」
浅田彰×東浩紀(『ゲンロン4』(2016))

「ポスト・トゥルース時代の現代思想」
浅田彰+東浩紀+千葉雅也(『新潮』2017年8月号)

287 :
>>286
どちらにもメイヤスーの論評はなかったな。
『現代思想』の方がよっぽどメイヤスーを取り上げていると思う。

288 :
>>287
『現代思想』でメイヤスーを扱ったものは、大抵こちらで拾っていると思う。

ポスト現代思想、ポスト・ポスト構造主義 [無断転載禁止]©2ch.sc
http://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/philo/1451968507/

289 :
>>287
> どちらにもメイヤスーの論評はなかったな。
どちらにも、メイヤスーやカントの話は出てくるよ。
何を読んでいるのか。

290 :
>>289
ごめんなさい。見落としてました。

291 :
ゲンロン4で浅田がメイヤスーに触れているのは、
そんなにメイヤスーに肯定的な文脈ではないな。

292 :
>>291
そういうのは、言葉尻を読んでいるだけ。

ここは、ポストポスト構造主義のスレではないから
詳しくなくてもいいけど、メイヤスーの本は読んでるのかな?

293 :
メイヤスーと近現代哲学

カンタン・メイヤスーの思弁的唯物論(Materialisme Speculatif)
河野勝彦(2016.10.23)
http://www.zenkokuyuiken.jp/contents/taikai/39taikai/resume/39kojin4_resume_kohno

294 :
メイヤスーの射程と、このスレの扱う範囲は重なっている。

295 :
11、日本の哲学を京都学派から見る
https://kakuyomu.jp/works/1177354054882822307/episodes/1177354054883841553

296 :
>>292
『有限性の後で」は買ったけど読まずにいた。読みます。

297 :
私事だが、最近は猪木武徳の経済史や経済思想の本ばかり読んでいて、
哲学書はとんと読んでいなかった。

298 :
山田弘明訳のデカルト本を読んでおいてよかった。
メイヤスーの『有限性の後で』の読書が捗る。

299 :
2017年フランス大統領選挙の後で
浅田彰
http://realkyoto.jp/blog/asada-akira_170508/

300 :
『有限性の後で』読了。
カントも大事だけどデカルトの方がもっと大事だとわかったから、
小泉義之の『デカルトの哲学』とか野田又夫の『デカルト』も読もうと思った。

301 :
>>286
『ゲンロン4』では、学生運動やポスト構造主義など、
戦後の左派を支えてきた68年的な思想が再検証され、
日本の批評が全体としてポスト「ポスト構造主義」に軸足を移しつつあることを感じさせた。

「ポスト・トゥルース時代の現代思想」では、もう一歩踏み込んだ話がなされている。

302 :
『マルクスの現在』(1999)
柄谷行人、浅田彰、市田良彦、小倉利丸、崎山政毅

「マルクス再入門」とある様に、
近代から現代、カント〜マルクス〜ネグリをやり直すのに手堅い。

303 :
https://www.youtube.com/watch?v=Ax2GS-YDEq4
日本思想における「無」が議論されているが、あまりにもレベルが低すぎる
保守派の論客がこんな体たらくでいいのだろうか
西部邁は正直に分からないと告白しているが、澤村修治と浜崎洋介はしたり顔でトンチンカンなことを述べているだけ
動画でも名前が挙げられている西田幾多郎や田辺元を少しでも読んでいれば、解釈の余地はあれど、少なくともこれよりはマシな理解ができて然るべきだが

304 :
存在と無は同一

305 :
今月は京大系の経済思想に関する本を主に読み進めたが、
その延長で西部邁と浅田彰が対談している『理想』1985年4月号を手に入れたら、
巻頭論文に「東洋的無」を取り上げた秋月龍aの論文があった。

306 :
>>303
動画見るのめどいから概要plz

307 :
その動画よりも、むしろ、
西部邁の『ソシオ・エコノミックス』を読んだ方が良さげ。

308 :
>>303
要点は押さえられているし、別に悪くないと思う。
TVや動画向けの話題というだけでしょ。

309 :
まあ、そうかもな。
西洋では神にあたる部分に日本では死者や「無」の概念が当てはまるという感じは、
悪くはない。

310 :
無といっても、色々な無があるという話。
0か1かという話ではなく、その間の様々なレベルに無は偏在している。

311 :
“非因果的形態とは、無の形態である。
 此性をもつ複数の異なる無には、それぞれの形態がある。”
 
― 千葉雅也「此性をもつ無 メイヤスーから九鬼周造へ」(『現代思想』2017年1月臨時増刊号 特集=九鬼周造)

312 :
ハイデガーや仏教の無の様に、折り返して充実した有に向かう無もあれば、
有であっても、ものが何ひとつ形をなしていない、指向性だけが渦巻く世界もある。

313 :
“九鬼周蔵の『偶然性の問題』は、その思弁的な極まりにおいて、カンタン・メイヤスーの『有限性の後で』に類似する。
 すなわちそれは、「原始偶然」とも「絶対的形而上的必然」とも捉えられる、「形而上的絶対者」に関する議論である。”

― 千葉雅也「此性をもつ無 メイヤスーから九鬼周造へ」

314 :
九鬼周造 『偶然性の問題』 (1935)

“偶然性とは必然性の否定である。必然とは必ず然(し)か有ることを意味している。
 すなわち、存在が何らかの意味で自己のうちに根拠を有(も)っていることである。
 
“偶然性とは…有が無に根差している状態、無が有を侵している形象である”

http://www016.upp.so-net.ne.jp/shima/image/oppo3.gif
http://www016.upp.so-net.ne.jp/shima/image/kuki3.gif
http://www016.upp.so-net.ne.jp/shima/image/level.gif
http://www016.upp.so-net.ne.jp/shima/image/kuki31.gif
http://www016.upp.so-net.ne.jp/shima/image/kuki33.gif
http://www016.upp.so-net.ne.jp/shima/image/guu.gif
http://www016.upp.so-net.ne.jp/shima/image/kuki2.gif
http://www016.upp.so-net.ne.jp/shima/image/circle.gif

“ヘラクレイトスの偶然論とパルメニデスの必然論の対立以来
 くりかえし問い続けられてきた「偶然と必然」の問題”(表紙解説)

315 :
ニュースクールですよ

316 :
時と永遠のamazonレビューに「生前波多野は西田に対し「西田君の哲学は一晩でできるけど僕のはそうはいかないよ」とうそぶいたそうだが、」って逸話が載っているが、
キリスト教徒の波多野にとって、キリスト教的神観念を理解しない乃至否定する西田は下等な哲学者だったんだろうな

317 :
その発言の時期にもよるね
初期西田はキリスト教的神観念の理解が浅いけど、後期は理解しつつ否定してる感じだし

318 :
毎月のお支払い、生活費、携帯代でお困りの時はご相談下さい。お金の悩み、相談はエス ティー エーで

詳しくはHPをご覧下さい。

319 :
清水高志 『実在への殺到』 (2017/8/1)

ジェイムズからメイヤスー、ハーマン、ラトゥール、セール、カストロ、デスコラ、ストラザーン。
幹-形而上学、非・ホーリズム的転回、機会原因論的アニミズム、西田哲学やレンマ論など。

320 :
思弁的実在論(>>283)とか現象即実在論(>>58)とかね

321 :
無限のスピードと 有限の確実性の速さを うまくタームを食って組み合わせて更新
していくのもいいだろう。

322 :
まともな文章も書けない池沼のスレかよw

323 :
まあまあ、そう言わんと。

324 :
イケ面のイケヌマ。

325 :
梅原猛の『美と宗教の発見』に丸山真男の批判があるから買ってみたが、
いざ読んでみると、和辻哲郎の批判がたくさんあった。
和辻の『日本倫理思想史』などを読んでからまた挑戦してみたいと思う。

326 :
和辻の『日本古代文化』を読んでいると日本史の時間が思い起こされる。

327 :
amazonで野田又夫の『デカルト』のページに出てくる
この商品を買った人はこんな商品も買っています
には、電子回路の本とか線形代数の本が出てくるから、
理系の人にもデカルトは興味を持たれているんだなということがわかる。

328 :
“エックハルトも人格的な神を超えた「神性」を絶対の無とも呼んでいるが、
 それと仏教でいう無との間には、基督教と仏教、
 或いは広く西洋精神と東洋精神との間に於けると等しいだけの根本的な違いがある。”

― 西谷啓治 「神と絶対無」 『西谷啓治著作集 第7巻』

329 :
一口に無と言っても、様々な違いがある。
西洋の無と東洋の無。宗教、哲学、数学、科学におけるそれぞれの無。

330 :
“「ここから先、おまえは一人で進んでいかなくてはならない」と顔のない男は私に告げた。
 「方向も道筋もわからなくても?」
 「そういうものは必要とはされない」と男は乳白色の虚無の中から低い声で言った。
 「もう川の水は飲んだのだろう。おまえが行動すれば、それに合わせて関連性が生まれていく。
 ここはそういう場所なのだ」

 それだけを言うと、顔のない男はつばの広い黒い帽子をかぶりなおし、私に背中を向けて舟に戻っていった。”
 
― 村上春樹 『騎士団長殺し』 第2部 遷ろうメタファー編 (2017)

331 :
『「東アジアに哲学はない」のか――京都学派と新儒家』(2014)
朝倉友海

デリダが「中国には哲学がなく、思想しかない」と言って論争になったことがある。
デリダは「哲学は古代ギリシアという特定の時期と環境のなかで生まれたものであり、中国に哲学がないというのは、すでにヘーゲルも言っていること」と続けた。

332 :
「わが日本、古(いにしえ)より今にいたるまで哲学なし」(中江兆民「一年有半」)

というのもある。

333 :
東洋人は、未だにこういうところから説明をしなければならない。

334 :
西田を東洋哲学を代表するものとして
評価する例に挙げられるのが高橋里美。

335 :
“私は西田哲学の独創性を濫りに冒涜しようと思うものでは勿論なく、
 むしろそれが東西思想の日本的な統一としていかに歴史的に自然的なる、
 また妥当的なるものであるかということ、
 それがいかに日本に独特なる最初の哲学体系であり、
 その故にまた永くわが国の古典的哲学として保存せられ、
 かつ継承発展せらるべき栄誉を有するものであるかをいおうと欲するのである。”

― 高橋里美 「西田哲学について」 『高橋里美全集4』 (1973)

336 :
しかし、西田哲学を安易に禅哲学だと理解しているようでは
読んでいる内には入らない。

337 :
“併し君だからよいが普通無識の徒が私を禅などと云ふ場合 私は極力反対いたします
 そんな人は禅も知らず 私の哲学も分からず
 XとYとが同じいと云って居るにすぎぬ”

― 西田幾多郎 「昭和18年 2月19日 西谷啓治宛」 『西田幾多郎全集23』 (2002-2009)

338 :
鈴木大拙の風光
http://h-kishi.sak ura.ne.jp/kokoro-257.htm

金光:  やっぱりいろんな方にお会いになった時に、お会いになった後で感想なんかおっしゃる
わけでしょう。
 
別宮:  そうなんです。ハイデッガー博士の時は、お会いになって玄関の階段を下りて来られる
時に、独り言のように、「西田にそっくりだ」とおっしゃるんです。
 
金光:  ご自分でおっしゃっているんですね、独り言で。
 
別宮:  私はたまたま側にいたわけですけれども、「西田にそっくりだ」とおっしゃって、
感心しておられました。「どうしてあんなに似るんだろう」というような感じでね。
 
上田:  …西田先生が大拙先生のことを、大拙先生の本に序文を
書いておられるところがありますね。それが非常に面白い文章ですし、如何にも大拙先生をよ
く表していると思いますので、ちょっと時間を取らせて頂いて、引用してみます。こういうふう
になっています。

《大拙君は高い山が雲の上へ頭を出しているような人である。そしてそこから世間を眺めている。
否、自分自身をも眺めているのである。まったく何もないところから物事を見ているような人
である。…君はもっとも偉そうでなくて、もっとも偉い人かも知れない。私は思想上君
に負うところが多い。》
(鈴木大拙著『文化と宗教』昭和十七年と『禅と日本文化』昭和十五年の二著への西田の序)
 
私のとっても好きな文章ですし、大拙先生が実によく表されていると思います。

339 :
西田と大拙は同い年で、石川県専門学校の同窓生。

西谷も石川県出身。

柳宗悦は学習院高等科で西田や大拙に学んだ。

340 :
西田幾多郎全集は新旧2種類ある。

・新版『西田幾多郎全集』全24巻(2002-2009)…新字体・新仮名遣い
・旧版『西田幾多郎全集』全19巻(1978-1980)…旧字体・旧仮名遣い

341 :
新版

西田幾多郎全集〈第1巻〉善の研究・思索と体験
西田幾多郎全集〈第2巻〉自覚に於ける直観と反省・意識の問題
西田幾多郎全集〈第3巻〉芸術と道徳 働くものから見るものへ
西田幾多郎全集〈第4巻〉一般者の自覚的体系
西田幾多郎全集〈第5巻〉無の自覚的限定
西田幾多郎全集〈第6巻〉哲学の根本問題(正・続)
西田幾多郎全集〈第7巻〉哲学論文第一、続・思索と体験
西田幾多郎全集〈第8巻〉哲学論文集第二・哲学論文集第三
西田幾多郎全集〈第9巻〉日本文化の問題・哲学論文集第四・哲学論文集第五
西田幾多郎全集〈第10巻〉哲学論文集第六・哲学論文集第七・「続思索と体験」以後
西田幾多郎全集〈第11巻〉小篇ほか
西田幾多郎全集〈第13巻〉講演2・講演小篇
西田幾多郎全集〈第14巻〉講義記録
西田幾多郎全集〈第15巻〉講義ノート
西田幾多郎全集〈第16巻〉断章・研究ノート
西田幾多郎全集〈第17巻〉日記1
西田幾多郎全集〈第18巻〉日記2
西田幾多郎全集〈第19巻〉書簡1
西田幾多郎全集〈第20巻〉書簡2
西田幾多郎全集〈第21巻〉書簡3
西田幾多郎全集〈第22巻〉書簡4
西田幾多郎全集〈第23巻〉書簡5
西田幾多郎全集〈第24巻〉対談・索引ほか

342 :
旧版

西田幾多郎全集〈第1巻〉善の研究・思索と体験
西田幾多郎全集〈第3巻〉意識の問題,芸術と道徳
西田幾多郎全集〈第4巻〉働くものから見るものへ
西田幾多郎全集〈第5巻〉一般者の自覚的体系
西田幾多郎全集〈第6巻〉無の自覚的限定
西田幾多郎全集〈第7巻〉哲学の根本問題・哲学の根本問題
西田幾多郎全集〈第8巻〉哲学論文集
西田幾多郎全集〈第9巻〉哲学論文集
西田幾多郎全集〈第11巻〉哲学論文集
西田幾多郎全集〈第12巻〉続思索と体験,「続思索と体験」以後
西田幾多郎全集〈第15巻〉講義 哲学概論.宗教学
西田幾多郎全集〈第16巻〉初期草稿
西田幾多郎全集〈第14巻〉講演筆記
西田幾多郎全集〈第18巻〉書簡集
西田幾多郎全集〈第19巻〉書簡集

343 :
西田幾多郎 『善の研究』各版

(1)『善の研究』ワイド版岩波文庫〔改版〕(2012)、(解説=藤田正勝)(ルビあり、活字が新しい)
(2)『善の研究』ワイド版岩波文庫 (1991)、(解説=下村寅太郎)(ルビあり)
(3)『善の研究』岩波文庫 (1979)、(解説=下村寅太郎)(ルビあり)
(4)『善の研究』(全注釈:小坂国継)講談社学術文庫 (2006)、(ルビ多い、新字体・現代仮名遣い)
(5)『西田幾多郎全集〈第1巻〉善の研究・思索と体験』〔新版〕、岩波書店 (2003)、(ルビなし)
(6)『西田幾多郎全集〈第1巻〉善の研究・思索と体験』〔旧版〕、岩波書店 (1978)、(旧字体・旧仮名遣い)

“真の実在とは何か、善とは何か、宗教とは、神とは何か――。
 主観と客観が分かたれる前の「純粋経験」を手がかりに、人間存在に関する
 根本的な問いを考え抜いた西田幾多郎(1870-1945)。
 東洋の伝統を踏まえ、西洋的思考の枠組自体をも考察対象とした本書は、
 以後百余年、日本の哲学の座標軸であり続ける。”

新字体・現代仮名遣い 4 > 1 = 2 = 3 > 5 > 6 旧字体・旧仮名遣い

・岩波版の中で読みやすいのは1。各国語版の紹介などもある
・4は古い文献の読みにくさを解消し、現象学的観点からの解説もある

タイトルは元々『純粋経験と実在』というものだったが、出版社(弘道館)の意向から『善の研究』となった。

344 :
“経験するというのは事実そのままに知るの意である。まったく自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。
 純粋というのは、普通に経験といっているものもその実はなんらかの思想を交えているから、
 毫も思慮分別を加えない、真に経験そのままの状態をいうのである。
 例えば、色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、
 我がこれを感じているとかいうような考えのないのみならず、
 この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。
 自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。
 これが経験の最醇(=最もまじりけがなく純粋なこと)なるものである。”
 
― 西田幾多郎 『善の研究』 第一編 第一章 (小坂版)

345 :
西田が影響を受けた純粋経験については、ウィリアム・ジェイムズ『純粋経験の哲学』を併せて読むといい。

346 :
>>340
×新字体・新仮名遣い
○新字体・旧仮名遣い

主要な作品の一部は、
上田閑照編 『西田幾多郎哲学論集』 (岩波文庫)でも読める。
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/list_inp182_1.html
・場所
・働くのものから見るものへ(序)
・無の自覚的限定(序)
・叡知的世界
・行為的直観

など

347 :
西田や京都学派周辺で繰り返される「無(絶対無)」とは何か、説明できるだろうか?

348 :
その他にも、「純粋経験」、「自覚」、「限定」、「場所」、「絶対矛盾的自己同一」
といった西田的な術語に注意して読んでいくといい。

349 :
『善の研究』というタイトルは、当初のまま
『純粋経験と実在』にしておいた方が、分かりやすかっただろう。

350 :
『善の研究』と聞いてピンとこなくて、
『「いき」の構造』を読んで、寄り付かなくなる。

351 :
九鬼は、『偶然性の問題』を手に取れば、
分からなくても重要性には気づくのに。
全集を読んでも面白いものが多い。

352 :
最新の西田像を読む2冊

(1)小泉義之×檜垣立哉 「西田から「哲学」を再開するために」 『西田幾多郎 KAWADE道の手帖』 (2005)
(2)檜垣立哉 『西田幾多郎の生命哲学:ベルクソン、ドゥルーズと響き合う思考』 (2005)

最もモダンな読みをしているのは檜垣と小泉。
二人は西田の数理哲学的側面を軸にして、ベルグソンやドゥルーズに通じる生の哲学として紹介している。
檜垣は、高校時代の数学の教師が西田の孫だったという。

1も2も西田の主要な論稿を通じて、鍵概念と思想の変遷を追う内容。
1には、京都学派の理系を代表する下村寅太郎の「西田哲学における弁証法的世界の数学的構造」を収録。

353 :
例えばこういうところ。

354 :
“我々の有限なる意識の背後に横たわれる無意識はxに対するdxの如く考へることができないであらうか。”

“我々が或一曲線を意識するといふことは此の如き意味に於て限定せられた曲線である”

“意識するといふことは無限なる全体が己自身を限定することである。”

― 西田幾多郎 「自覚に於ける直観と反省」17『西田幾多郎全集3』 (2004)

355 :
>>352
<檜垣の解説要約>
任意の直線を意識する時は、実在する無限な直線に対して限定をかけている。
無限な潜在性から有限な現実性が、「限定」=「自覚」として立ち現われる。

<小泉の解説要約>
西田の「場所」は、量子論の場の論理を概念化したもので、無限次元のヒルベルト空間。
そこでの演算子を作用と呼び、その作用の作用を「自覚」と呼んでいる。

356 :
>>354は以下に繋がる。

357 :
“仏道をならふことは自己をならふなり。
 自己をならふといふは、自己をわするるなり。
 自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
 万法に証せらるるといふは、自己の心身、
 および佗己の心身をして脱落せしむるなりと云ふ(道元)。

 それは限定するものなき限定、絶対無の自己限定と云ふことでなければならない。”

― 西田幾多郎 「哲学論文 第六」 『西田幾多郎全集10』 (2004)

358 :


(仏道を習うということは、自己を習うことである。
 自己を習うということは、自己を忘れることである。
 自己を忘れるということは、一切万物を知ることである。
 一切万物を知るということは、主客を分け隔てるものをなくしてしまうことである。)

― 道元 『正法眼蔵』 「現成公案」

359 :
道元の中でも最も有名なこの一節は、主客未分の境地を説いている。
同じく主客未分の純粋経験>>343-344をテーマにした西田にとっては、
思い入れの強い箇所だろう。

360 :
禅哲学としても、道元論としても最高度に洗練されている。

361 :
西田は、最新の数学や物理学を援用して、
無や一即多/多即一といった仏教論理を描き直した。

362 :
西田やハイデガーが影響を受けた、
ヘルマン・コーエンに代表される新カント派マールブルク学派の特徴は、数学/自然科学と神学。

『対話の哲学:ドイツ・ユダヤ思想の隠れた系譜』 村岡晋一 (2008)が詳しい。
同シリーズ同著者の『ドイツ観念論:カント・フィヒテ・シェリング・ヘーゲル』(2012)の人。

ヘルマン・コーヘン哲学の体系(村上寛逸 訳、第一書房)
・第1巻『純粋認識の論理学』(1932)
・第2巻『純粋意志の倫理学』(1933)
・第3巻『純粋感情の美学』(1939)

363 :
京都学派とかいっても

波多野>>>西田>>>>>その他

くらいの差があるな

364 :
>>363
波多野は京都学派にどういう影響を与えた?

365 :
以下のように和辻哲郎に言わしめたらしい。
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/24302/1/論叢論文7(松本).pdf

人生という舞台を越 えて、人間は一体いかにあるか、この問題に関しては、
私は波多野精一氏の宗教哲学の示 すところに全く同感である。
倫理を越えるものとしての人間存在の問題については、
諸君、 どうか波多野氏の著作を読んでくれたまえ。

366 :
読む価値があることを示したいなら、読む価値のある文章を引用することですね。

367 :
>>365
で、人間とはいかなるものだという話なの?
注目すべきは波多野の著書のどういうところ?

368 :
>>366
そういうこと

369 :
>>367
和辻も確立しようとしていた、人格の共同態のところだとか、
永遠性と間とかあたりでしょう。

370 :
間→愛だ

371 :
波多野の本、読んだことあるの?

372 :
ある。『時と永遠』、『宗教哲学序論・宗教哲学』。
去年の冬ごろに一気に読みすぎて。内容は少ししか覚えていない。

373 :
それだけ読めるのなら、西田全集>>341も一気読みできるよ。

374 :
後半は資料だから

375 :
『無の自覚的限定』なら一気読みした。
松本健一の何だったかの本で紹介されていて面白そうだったから。
実際、面白くて気持ちがハイになった。

376 :
>>373
和歌集は何巻?

377 :
「続 思索と体験」かな?

378 :
昭和四年の歌

“夜ふけまで又マルクスを論じたりマルクスゆゑにいねがてにする”

― 西田幾多郎 「続 思索と体験」 『西田幾多郎全集7』 (2003)

379 :
いねがてに(寝ねがてに)=寝ることができない

380 :
>>341-342
全集は索引とかのデータベースもない。
旧版はちょっとしたものがあるが。

https://www.klnet.pref.kanagawa.jp/information/pdf/g_works/gw13_nishida.pdf
1善の研究[弘道館1911年]、思索と体験[千章館1915年]
2自覚における直観と反省[岩波書店1917年]
3意志の問題[岩波書店1919年]、芸術と道徳[岩波書店1923年]ドイツの哲学者フィヒテに似た一種の主意主義の立場に立って、
 知情意の区別及び関係等の問題を論じ、また芸術や道徳の対象界及びその相互の関係等を論じた。
4働くものから見るものへ[岩波書店1927年場所の論理を展開した。「『善の研究』以来の思索がここに到って巨大な飛躍的展開を遂げ、一つの究極点に到達した。」]
5一般者の自覚的体系[岩波書店1930年]
6無の自覚的限定[岩波書店1932年]
7哲学の根本問題[岩波書店1933年]、哲学の根本問題/続編[岩波書店1934年]
8哲学論文集/1哲学体系への企図、[岩波書店1935年]哲学論文集/2[岩波書店1937年]
9哲学論文集/3[[岩波書店1939年]
10哲学論文集/4[岩波書店1941年]、哲学論文集/5[岩波書店1944年]
11哲学論文集/6[岩波書店1945年]、哲学論文集/7[岩波書店1946年]
12思索と体験/続[岩波書店1937年]、「続思索と体験」以後[岩波書店1948年]日本文化の問題[岩波書店岩波新書]
13小篇・ノートグリーン氏倫理学の大意[「教育時評」第362,363,364号明治38年]
ヒューム氏以前の哲学の発達 人心の疑惑[第四高等学校校友会「北辰会雑誌」第39号明治36年]他

381 :
14講演筆記[現代に於ける理想主義の哲学 大正5年京都大学学生課主催の特別講演 大正6年弘道館より刊行信濃哲学会のための講演
昭和一四年「哲学の基礎問題」信濃哲学会宗教の立場 大正8年龍谷大学エックハルトの神秘説と一燈園生活生と実在の論理 1932年1月京都大学において講演第2版の全集に初めて収載]他
15講義哲学概論[1910〜1928年までの京都大学における講義]宗教学[1913〜1914年の1年間京都大学文科大学哲学科の宗教学講座における講義筆記]
16初期草稿英国倫理学史心理学講義倫理学草案純粋経験に関する断章(未発表の遺稿)[京都の故人宅に保存されていたものを点検し収載したもの]我尊会有翼文稿、
不成文会有翼生草稿[この2編は第四高等学校の前身である第4高等中学校在学中に級友の間で作られた会で有翼生は西田の筆名]
Spinoza’sConception of God[鈴木大拙の手元から発見され第3版ではじめて収載された]
17日記[1897〜1945年]
18書簡集/1[1888〜1937年]
19書簡集/2[1938〜1945年]西田幾多郎年譜西田幾多郎全集総目録補遺

382 :
>>363
>>48にある通り、京都学派とは、第一に、

> 「何らかのかたちで<無>の思想を継承・展開した思想家のネットワーク」

だから、それぞれの「無」の扱いを中心に見ていく。

383 :
“この現実世界に生存するものとして、
 全く類を異にする全く他のものなる超越的実在に出会う時、
 吾々が直接に受ける衝動は否定そのものである。

 この世の因果的乃至意味的連関のうちに安住して居た吾々は、
 高次の実在の不意の出現に出会う時は、
 あたかも、左右に平穏に延びつつあった直線が
 突然現れ出でたる上よりの垂直線によって切断されるが如く、
 連続性の断絶を体験する。

 これが即ち「無」である。”

“そこよりして吾々は、宗教的体験の発現としての、
 無限性・有限性の対立及び相関を理解し得るであろう。

 無限性は要するに一切を無に帰せしめる絶対的実在の威力の別名である。
 しかしてこの威力に出会うとともにそこに現われる、
 われとこの世との性格の変化こそ有限性である。”

― 波多野精一『宗教哲学序論・宗教哲学』(1935・1940/2012)

384 :
波多野の図式は、

神=無=全き他者

「神=無」はエックハルト、
「全き他者」はルドルフ・オットー(エラノス会議の設立者)に由来する。

ドイツ的キリスト教的宗教哲学を、
日本人的に、無を強調する形に読んで整理をした。

385 :
しかし、波多野のモチーフは、西洋由来のもの。
西田は、西洋哲学を東洋哲学でもって脱構築するのであり(>>354-358)、
全てとは言わないが、西洋にない哲学を築いた(>>334-335)。

この点で、西田>波多野。比べるまでもない。

386 :
>>375
『無の自覚的限定』他、西田哲学で繰り返し説かれているのは強い「自己否定」。
物すらも自己自身を否定するという。

387 :
西田も平凡だよねえ。

388 :
デカルト哲学について
西田幾多郎

カント哲学以来、デカルト哲学は棄すてられた。独断的、形而上学的と考えられた。
哲学は批評的であり、認識論的でなければならないと考えられている。
真の実在とは如何いかなるものかを究明して、そこからすべての問題を考えるという如きことは顧みられなくなった。

今日、人は実践ということを出立点と考える。実践と離れた実在というものはない。
単に考えられたものは実在ではない。しかしまた真の実践は真の実在界においてでなければならない。
然しからざれば、それは夢幻に過ぎない。存在の前に当為があるなどいって、
いわゆる実践理性の立場から道徳の形式が明らかにせられたとしても、真の実践は単に形式的に定まるのではない。
此ここにも内容なき形式は空虚である。人は真実在は不可知的というかも知らない。
もし然らば、我々の生命も単に現象的、夢幻的と考えるのほかない。そこからは、死生を賭とする如き真摯しんしなる信念は出て来ないであろう。
実在は我々の自己の存在を離れたものではない。
然らばといって、たといそれが意識一般といっても主観の綜合統一によって成立すると考えられる世界は、
何処どこまでも自己によって考えられた世界、認識対象界たるに過ぎない。
かかる対象的実在の世界からは、実践的当為の出て来ないのはいうまでもない。
デカルトの如く、すべての実在を疑い得るであろう。しかし自己自身の存在を疑うことはできない。
何となれば、疑うものはまた自己なるが故である。

389 :
・・・然らば真実在とは如何なるものであろうか。
それは先ずそれ自身に於おいてあるもの、自己の存在に他の何物をも要せないものでなければならない(デカルト哲学の substance)。
しかし真にそれ自身によってあるものは、自己自身において他を含むもの、自己否定を含むものでなければならない。
一にして無限の多を含むものでなければならない、即ち自ら働くものでなければならない。
然らざれば、それは自己自身によってあるものとはいわれない。
自己自身によって動くもの、即ち自ら働くものは、自己自身の中に絶対の自己否定を包むものでなければならない。
然らざれば、それは真に自己自身によって働くものではない。
何らかの意味において基底的なるものが考えられるかぎり、それは自ら働くものではない。
自己否定を他に竢またなければならない。
何処までも自己の中に自己否定を含み、自己否定を媒介として働くものというのは、自己自身を対象化することによって働くものでなければならない。
表現するものが表現せられるものであり、自己表現的に働く、即ち知って働くものが、真に自己自身の中に無限の否定を含み、自ら動くもの、自ら働くものということができる。

390 :
冬の或ある日の夜、デカルトは炉辺に坐して考え始めた。
彼は歴史的現実的自己として、歴史的現実において考え始めたのである。
彼は疑い疑った。自己の存在までも疑った。
しかし彼の懐疑の刃やいばは論理そのものにまで向わなかった。
真の自己否定的自覚に達しなかった。
彼の自己は身体なき抽象的自己であったのである。

「何にてもあるものはすべて神に於てあり、神なしに何物もあることも理解することもできない」というスピノザの、
それ自身に於てあり、それ自身によって理解せられる神は、絶対矛盾的自己同一的に自己自身を限定する絶対現在、
あるいは絶対空間というべきものでなければならない。
それは無基底的基底として、歴史的世界の基体と考うべきものである。
斯くして、スピノザ哲学に新なる生命を与えることができるであろう。
スピノザは、デカルト哲学から、徹底的に主語的方向に向った。
そこに我々の自己の自覚的独立性は消されて、神の様相となった。
神は何処までも否定的実在となったのである。

391 :
ライプニッツは華厳経に近いそうだが本当だろうか?

392 :
>>391
村上俊江 「ライブニッツ氏と華厳宗」 『華厳思想』 中村元編 (1960)

というのがあるね。

『『華厳経』と『モナドロジー』―村上俊江におけるライプニッツ受容』 酒井潔 (2014-03-01)
https://glim-re.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=3132&item_no=1&page_id=13&block_id=21

393 :
>>388-390
思弁的実在論の言説に近い

394 :
西田幾多郎
絶対矛盾的自己同一
http://www.aozora.gr.jp/cards/000182/files/1755.html



 過去と未来とが相互否定的に現在において結合し、世界が矛盾的自己同一的に一つの
現在として自己自身を形成し行く世界というのは、無限なる過去と未来との矛盾的結合
より成ると考えることができる。斯(か)くいうことは、かかる世界は一面にライプニ
ッツのモナドの世界の如く何処(どこ)までも自己自身を限定する無数なる個物の相互
否定的結合の世界と考えられねばならないということである。モナドは何処までも自己
自身の内から動いて行く、現在が過去を負い未来を孕(はら)む一つの時間的連続であ
る、一つの世界である。

http://www.yashima.ac.jp/univ/about/information/pdf/kiyou07/7_iwai_syoroku.pdf
岩井貴生論考
西田は華厳の「多」と「一」の相即相入の論理で成り立つ「事事無礙」(華厳経より)と同じ構造を、
「個」 が「他個」に対して「個」であるという言い方で両者の区別を明確にしつつも同一
であると主張 した。ということは、西田幾多郎が難解な哲学的論理を駆使して解き明か
そうとした内容とは、 「事事無礙法界」の世界観と考えることが出来る。

395 :
ふむ西田は宗教ということか

396 :
「絶対矛盾的自己同一」は難しい言葉だが、
次の一節をみると、もう少しシンプルな形で構造をつかむことができる。

397 :
“生命といふのは単に種の形成作用といふ如きものではない。
 それは主体が環境を、環境が主体を限定し、主体と環境との弁証法的自己同一でなければならない。”

― 西田幾多郎 「行為的直観」 『西田幾多郎全集8』 (2003)

398 :
華厳の影響もあるね。

399 :
カントの新書体(スタイル)の方が僕は好きだな。

400 :
道元の「現成公案」>>357-358自体も華厳的。

自己(一)を忘れる

一切(多)を知る

一切によって自己を知る


自己否定が自己の外部に突き抜け、自己を規定する超越的視点になる。
これ自体が、既にクラインの管的な循環モデルだった。


クラインの管
http://polyhedra.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2013/07/21/kleinbottle.jpg
http://pds.exblog.jp/pds/1/200804/28/41/a0024841_4162993.jpg

401 :
なるほどねえ。僕は奴隷 司隷 じゃないけど、自己を知ることも諦めました。若い時代に。

402 :
そして、これが西田哲学の骨格でもある。

403 :
>>357
「限定するものなき限定」とは、「無礙(妨げのないこと)」ということか。

404 :
一即多、一即一切の華厳的記号学モデル

A ([a]、b、c、d、e、、、)
B (a、[b]、c、d、e、、、)
C (a、b、[c]、d、e、、、)

[ ]は強調

シニフィアンA/シニフィエaという単純な一対構造ではなく、
シニフィアンがAやBやCである時にもシニフィエは常に(a、b、c、d、e、、、)であるモデル。
Aの時には、相互に浸透し照合されたa、b、c、d、eの中のaが強調される。

参考:井筒俊彦 『コスモスとアンチコスモス』 (1989)

405 :
なるほどか?中退籍だったののぞいたら、なんでそこまで読んだのか後悔したよ。

406 :
馬鹿の耳に念仏

407 :
どんだけ学歴コンプなんだ?

408 :
学歴の昼の方より二部の方がコンプすげえぜ。

409 :
405 名前:あぼ〜ん[NGName:学術] 投稿日:あぼ〜ん

408 名前:あぼ〜ん[NGName:学術] 投稿日:あぼ〜ん

410 :
和辻を研究していると、左右両方の学者の意見が聞けるからいい感じ。

411 :
和田勉を研究していると左右両方の髪のハネ具合がいい感じ

412 :
京都学派の系譜って何で左翼化なの?

413 :
西谷啓治とか上田閑照は左翼じゃないでしょ。
三木清や戸坂潤の系譜はあるとは言い難いし。

414 :
>>413
戦前京都学派とその関連の人達が特高とかに無茶苦茶やられたから怨嗟か?

415 :
京都学派…→廣松渉→熊野純彦


京都学派の末裔は東大学派

416 :
名古屋学派も捨てがたい

417 :
京都学派を代表する大著って何?
読もうかな

418 :
西田の『善の研究』とか和辻の『倫理学』でしょうなあ。

419 :
西田幾多郎 善の研究
http://www.aozora.gr.jp/cards/000182/files/946.html

西田幾多郎『善の研究』より座談会『近代の超克』 (冨山房百科文庫)を読むべきだ。
以下のようなマトリクスが考えられる。

      宗 教
       |
     西谷啓治
   林房雄 |亀井勝一郎 
     西田幾多郎 小林秀雄  
国______|_______個
家      |       人
   津村秀夫| 
      諸井三郎
       |下村寅太郎
       |
      科 学

西田と下村をつなぐのはライプニッツ

420 :
最近
小林秀夫が俺の小学校の大先輩だと知った

421 :
若い頃は思想・宗教・憲法も読んだけれど、
信じて行うには自分は未熟だと思ったね。だから戦時中の突撃とか特攻が信じられなかった。
それだけ我々には「連帯感」がなかった。

当時の諸先輩をつないだ「絆」が文化として失われた今、西洋の哲学をもとにした思想でかつてのきずなを取り戻せるかという疑問の答えを求める日本の思想家は[違うところを探している]んではないか。
つまり「要素」を探しても、それをつなぐ「絆」は得られないと思う。

422 :
>>421
なるほどその連帯感つまり絆を共産主義運動の悪しき伝統に変えてしまった訳か特に京都大学は

423 :
大東亜共栄圏構想を一種の左翼運動とみなすならそうかもな。

424 :
北一輝だって純正社会主義だからな

425 :
>>422
共産主義の何が悪い?

426 :
>>425
共産主義は管理と依存に繋がるから駄目
平等を目指す事と共産を指向する事は違

427 :
共産主義は、ソ連の農奴解放と中国の飢饉克服
のためだけに生まれたのかもしれない

428 :
資本主義、封建主義のオルタナティブとしての共産主義は捨てられないと思うけどね。

429 :
労働者の人権ばかり保障されると子供や女・障害者・無職者・高齢者という社会的または肉体的弱者の人権が死ぬ
そして何より個々個別個人が消え去る

430 :
社会主義だとそうなるかもしれないね。
働いた分しかもらえないんだから。
共産主義は必要なだけもらえるから、労働者だけを目的にはしない。

431 :
マルクス主義者の人が言ってる事と違いますが…

432 :
>>431
>>429へのレスです。

433 :
一つの家族の中でさえヒエラルキーはある。
有るものを無いと主張すれば大虐殺・粛清になる。

434 :
原理主義はダメですよ

435 :
>>434
弁証法は原理主義だと言えなくもない
宗教的またはイデオロギー的原理主義が駄目なんであって原理・哲学・哲人である事やその探求心は原点でしょう

436 :
>>433
だから家族を解体しようって意見もあるじゃないか。
家族は個人を抑圧する悪しきもの。

437 :
実際家族絡みの殺傷事件は多いしな
一匹狼型よりも酷いといえる

438 :
君はずーっと保育器で育ったんか?

439 :
>>436
家族解散したら子供作る意味がないな
お前の両親が糞でお前が糞な人生送っていることは分かったけど
それは単にお前が家族と縁を切ればいいだけの話

ちゃんちゃんw

440 :
昔の蛮族には「通過儀礼」っちゅーものが有ったかに聞くが、
現在では ”学校”がそうだよね。
だから「男女七歳にして席を同じゅうせず」 と言うんだが、なぜか女先生が多くって男の子をまごつかせる。
だいぶ前だけど、某区の女性教員が「ボタン電池をいっぱい箱にしまったら爆発した」と報道された。
これは男女を同じ部屋にしまっておく場合に必要な措置が取られずに延々と続いているってことと類似の問題だ。

441 :
旧制第一高等学校とか旧制第四高等学校を出た彼らは、
ストームだとかに興じる一般学生を傍目に何をか思うていたのか。

442 :
第四高等学校の方は中退者の方が多いな。

443 :
魚とか同時期に一斉に生まれる動物は団体行動してもいいけど戦時中は別にして、人間は個性が大きくてこれを育てることで才能を伸ばせる。
だから同年代の子を学年に集めることには疑問があるが、逆に差別化を加速することにもなる。結果、脱落者も出るが。
個性にあこがれるから偉人伝などが好んで読まれる。福翁自伝、チャップリン自伝、etc.

444 :
               __
              /:::::\  
            /::👁 🐽 👁\   
           /:: | ` `👄´' |:)  
           ,.゙-‐- 、  `⌒  /
        ┌、. /     ヽ ー‐ <.  プこプこプこプこプこプこプこプこプこってるようじゃな?
         ヽ.X、- 、   ,ノi      ハ
      ⊂>'">┐ヽノ〃     / ヘ
       入 ´// ノ        } ,..,.._',.-ァ
      /   `ー''"´      ,'  c〈〈〈っ<
     /          __,,..ノ ,ノヽー'"ノ
      {          ´    /  ``¨´
    /´¨`'''‐、._        ,'\
     ∨´     `ヽ、     ノ   ゙ヽ
      ∨      ヽ _,,..-'"    `ヽ
     ∨       〈-=、.__       }

445 :
今も戦争国家は兵隊の行列のような一斉行進を誇示するが
何だろう、もういっぺんやりたいんか?
何を考えてるんだろう
百回勝ったら少なくとも百回負けてる、という事実を忘れるからそう考えれるんだろうけど、
忘れないで3千年の負けを思い出せ。んで修正すれば ちっとは分かるだろう。

446 :
そゆ客観的なことには目をつむって、主観的にやる癖が突いてれば 暴力的にもなるんだ。

447 :
>>425 共産主義の何が悪い
資本主義の悪さと同じよ。自分で美点と欠点を一覧表にすれば簡単に分かる。

448 :
【眞子さま結婚詐欺】天皇家に潜り込もうとした小室は、借金と在日がばれて婚約予定破棄と香港紙報道

民団など在日韓国人同胞の戦略として長年かけて眞子様に近付いた小室と早く結婚させるため、報道協定を破ったNHKのリーク報道で拙速な婚約発表となった。しかし、母親の強欲さや借金生活、卑しい血筋の在日がばれ婚約破棄になりそうだ。
マスゴミは天皇家に在日韓国人を潜り込ませたかったのだろう。
国民から小室の雰囲気が怪しいとの意見があったが正解だったようだ。


小室圭さんの母親の借金と宗教問題(大山ねずの命神示教会というカルト宗教)、さらに元夫の自殺が女性週刊誌と週刊文春に報じられ、嫁ぎ先として大丈夫ですかと批判が殺到していました。
香港英字紙は日本メディアなら朝日やTBSなどからヘイトスピーチだと批判報道されて言論弾圧される在日韓国人ルーツ家系を報道している。

449 :
昔はスパイ天国とか
今はソフトテロ実験国ではないんか?

450 :
京都学派 (講談社現代新書) | 菅原潤 | 哲学・思想 | Kindleストア | Amazon
2018/2/13
https://www.amazon.co.jp/dp/B079L1VDTK/
西田幾多郎に始まる「京都学派」の思想は、西洋哲学にも匹敵するオリジナルな哲学として、
高く評価されています。しかし一方、戦前日本の海外侵略的姿勢に思想面からのお墨付きを与
えたとして、厳しい批判にもさらされています。本書では、いったん彼らの「政治的な誤り」
はカッコに入れた上で、客観的なその哲学的評価を試みます。その上で、なぜ彼らは過ちを
犯すことになったのか、その深い理由に迫ります。

451 :
目次
プロロ ーグなぜ今 、京都学派なのか ☆
第一章それは東大から始まった ─ ─フェノロサから綱島梁川まで
  コラム 1九鬼周造
第二章京都学派の成立 ─ ─西田幾多郎と田辺元
1対照的な二人の哲学者 ─ ─西田と波多野精一
2西田哲学の変遷
3京都学派の成立 ─ ─田辺元による西田批判とその影響
  コラム 2和辻哲郎
第三章京都学派の展開 ─ ─京大四天王の活躍と三木清
1西谷啓治と高山岩男 ─ ─京大四天王の代表者
2三木清と昭和研究会
3二つの座談会 ─ ─ 「世界史的立場と日本 」と 「近代の超克 」
4戦時中の西田と田辺
  コラム 3左派の哲学者たち
第四章戦後の京都学派と新京都学派 ─ ─三宅剛一と上山春平
1 「包弁証法 」と三宅剛一
2新京都学派と上山春平
  コラム 4広松渉
エピロ ーグ自文化礼賛を超えて ─ ─京都学派のポテンシャル
1唐木順三と 「型の喪失 」
2上山春平と柄谷行人 ─ ─ポスト京都学派に向けて
読書案内
あとがき



☆京都学派の特徴…
1 .弁証法を基軸とした透徹した論理的思考 。
2 .東洋的 (ないしは日本的 )思想への親和性 。
3 .現代思想の批判的摂取 。
4 .本場の欧米に匹敵する西洋哲学研究の水準 。

452 :
三宅剛一については、小泉義之が「現代思想」のハイデガー特集で挙げていたな。

453 :
きみたち絵を描けないだろ。

454 :
西田幾多郎

続思索と体験岩波文庫208頁


歌并[ならびに]詩

昭和四年


《此頃しばしばマルキスト来りマルクスを論ず

夜更けまで又マルクスを論じたりマルクスゆゑにいねがてにする》


*「いねがてにする」は「寝ることができない」の意

455 :
京都学派って量子哲学的なところがある気がする

456 :
>>450
うほ。大好物だ。ありがたい

457 :
社会の力関係を理解するのに、ニュートン力学であれ、量子力学であれ、
物理の力学を隠喩として用いることができると考えることは根本的な
誤りである。

458 :
牛後乙

459 :
鶏頭で目の前に撒かれた餌をつつくことに専念していればいいのです

460 :
グラヴィデ パワー ゲームス 

461 :
>>451
3:1
 《一般にプラグマティズムに分類される哲学者はパース 、ジェームズ 、デューイの三人で
ある 。すでに触れたように東大の心理学講座の初代教授である元良勇次郎はパ ースから
直接学んでおり 、第四章で論じるように新京都学派の上山春平も原点はパースにある 。
西田哲学のキーワードである 「純粋経験 」はジェームズに由来する概念であり 、また高山
岩男もデューイの 「探究 」を重視するから 、プラグマティズムはカント 、シェリング 、ヘーゲル
らのドイツ観念論とともに陰に陽に京都学派の哲学の土壌を形成したといってよいだろう 。》

462 :
たかられたくないけど ヒュームができてる。デゥーイなら それより
ヴィゴツキー。

西田、ブーバー は短絡的な哲学の解。京都学の寺内町の方がずいぶんいい。

無頼派に勝るものはないけどね。

463 :
現状を打破しようと 妄動してはいけない。

464 :
京都のゴリラおんな部隊

465 :
           / ̄ ̄ ̄Y ̄ ̄ \
           l            l
           ヽ,,,/  ̄ ̄ ̄ ̄ ヽ,,ノ
           |:::          ::|
           |::  __    __ ::|
          (6  \●>  <●ノ .|)
           !     )・・(    l
           ヽ     (三)    ノ
           , -‐- 、.  二   ノ     
        ┌、. /     ヽ ─ 一' \
         ヽ.X、- 、   ,ノi      ハ
      ⊂>'">┐ヽノ〃     / ヘ
       入 ´// ノ        } ,..,.._',.-ァ
      /   `ー''"´      ,'  c〈〈〈っ<
     /          __,,..ノ ,ノヽー'"ノ
      {          ´    /  ``¨´
    /´¨`'''‐、._        ,'\
     ∨´     `ヽ、     ノ   ゙ヽ
      ∨      ヽ _,,..-'"    `ヽ
     ∨       〈-=、.__       }
      ヽ、     }   ``7‐-.  /
          ヽ     リ    /′  ノ
          /′  , {     /   /
        {     !   ,ノ  ,/′
          !    /  /   `‐-、
        !   ,/   ゙ー''' ー---'

466 :
京都学派 (講談社現代新書) 新書 ? 2018/2/15
菅原 潤 (著)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4062884666/
内容紹介
西田幾多郎に始まり、田辺元、三木清、そして「京大四天王」と呼ばれた高山岩男、西谷啓治、高坂正顕、鈴木成高と、戦前、匆々たる哲学者を輩出した「京都学派」。
彼らの思想は西洋の「受け売り」ではなく、むしろ西洋哲学に伍し、さらにはその乗り越えさえも目指したオリジナルな哲学的思考として、今も高く評価されています。
しかしその一方では、日中戦争以降の日本の海外侵略的政治姿勢に思想面からのお墨付きを与えたとして、厳しい批判にもさらされています。
本書では、いったん彼らの「政治的な誤り」はカッコに入れた上で、極力、客観的なその哲学的評価を試みます。その上で、なぜ彼らは過ちを犯すことになったのか、その深い理由にも迫ります。
じつはそこには日本の思想、いえ、思想のみならず「後発の近代国家」として出発せざるを得なかったという近代日本の宿命が、構造的に関わっているのではないでしょうか。
そしてその問題は、今なお克服されることなく、ことあるごとに日本人の思想の中に回帰してくる。例えば近年の柄谷行人氏の思想などにも、著者は思想の「形」としての同一性を見ています。
その意味において、京都学派をどう捉えるかは、私たちにとっても過去の問題ではなく、まさにアクチュアルな問題なのです。
本書は、今なお毀誉褒貶あい半ばする京都学派の思想を、「われわれ」の問題として再提起する試みです。

内容(「BOOK」データベースより)
「世界最高」を目ざした最高の知性は、なぜ「戦争協力者」へと墜ちたのか?西田幾多郎、田辺元、三木清、「京大四天王」…。

467 :
世界が思想的な工夫をして平和を模索する「文化創造圏」があり、
その裏をかいて戦勝・戦利を模索してきた「文化破壊圏」が存在する。

468 :
>>450-451
ポスト京都学派的なものも、既に出てきているね。

・清水高志 『実在への殺到』(2017)
・千葉雅也 「此性をもつ無 メイヤスーから九鬼周造へ」(2017)
・中沢新一 「レンマの贈与」(2017)、「レンマ的算術の基礎」(2017)
・鈴木貞美 『「近代の超克」その戦前・戦中・戦後』(2015)

469 :
中沢新一のレンマ論

(1)「レンマの贈与」(『現代思想 2017年11月号 エスノグラフィ』)
(2)「レンマ的算術の基礎」(『現代思想 2018年1月号 現代思想の総展望2018』)

1.中沢は中村雄二郎から山内のレンマ論を勧められたという話
2.華厳とSFとレンマ

470 :
中沢新一は「現代思想」2018年1月号(kindle版あり)で華厳経と量子力学をつなげている。
そこでは鈴木大拙「華厳の研究」(全集5所収)が参照されている。
これは井筒俊彦も参照した本だが、初心者向けではないので角川ソフィア文庫仏教の
思想6が先に読まれるべきだろう。こちらもkindleで読める。
鈴木大拙が解説した法蔵『探玄記』の華厳経解釈がよりわかりやすく書かれている。
中沢は法蔵『探玄記』に触れていない。数式に重点を置いたのだ。

《鈴木大拙は学的な努力を超越した 『華厳経 』の 「霊性 」を強調するのであるが 、
我々は彼の言うその 「霊性 」もまた 、レンマ的知性のうちの 「外的 」な要素として 、
常識や学から断ち切れたものでない点を強調しておきたい 。》中沢新一

この要約は誤解を生む。

鈴木はこう書く。

《『華厳経』の體系化の結果は『華厳経』の霊的価値を可解性(インテリジビリティ)といふスクリーン
の背後に追ひやつてしまふことになり、従って今では一般讀者は『華厳経』本来の使命
を思索的分析の観念論そのものの中に見出す様になつてしまったのだ。》全集5:278頁

そもそも鈴木大拙の言う霊性とは、

《簡単に、霊性は精神の奥に潜在して居るはたらきで、これが目覚めると精神の二元性は解消して、
精神はその本体の上において感覚し思惟し意志し行為し能うものといっておくのがよいかも知れん。》

フロイトの無意識と超自我をあわせた概念と言える。
鈴木大拙は相即相入の教義をinterpenetration(相互浸透)と訳している。

471 :
《若き求道の佛教徒善財の霊の目に展示せられた大毘盧舎那楼閣の有様に対して、
シナの最も優れた哲學的心性の一人である法蔵がどの様な知的分析を興へたとしても、
事實そのものはこの分析に何の関係もないのである。分析は知性を満足せしめるかもし
れぬ、併し知性がわれわれの存在の全部ではない。われわれは法蔵や善財と共にどうして
も一度は楼閣そのものの中に入つて、自らに輝き出で、また、相互に映發して無凝自在で
ある一切の諸荘巖事を目撃しなくてはならぬ。およそ宗教の世界では、生活と経験が分析
より邊かに重要なものである。従つて、すべての荘厳(存在の多)に飾られたあの楼閣は、
どうしても各々の生活そのものの中からにじみ出たものでなくてはならぬ。》
鈴木大拙全集5:285頁

鈴木大拙は通常京都学派には入らないが西田幾多郎と金沢の同郷で互いに影響関係にあった。

472 :
華厳宗は 唐の杜順の開いたといわれる宗派。もし、これを仏教というなら戯教となる。

473 :
存在の究極の様態を現す概念として、西田幾多郎の「逆限定」の概念と、メルロ=ポンティの「両義性」は
同じ概念を現している。純粋経験(=主客未分化)の論理も、主観と客観の“逆限定”として現れている様態として解釈される。

474 :
メルロポンティって中身ないよね
雰囲気系

フッサールって西洋哲学の悪いところ集めた
みたいな内容だし

475 :
テントの柱を蹴倒せば、校長先生から用務員まで参加する大騒ぎになるが、元に戻して終わり。

476 :
メルロってアルコール的画才があるよ。フッセルは音楽ではやるかも知れない。

477 :
とても簡単な嘘みたいに金の生る木を作れる方法
役に立つかもしれません
グーグル検索『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』

1ZB4B

478 :
1ZB4B

479 :
自然界が縦縞だとすると思想・宗教は横縞=邪だ。

480 :
>>479
また上手い事言って
だが人間も自然だよ

481 :
人は重層構造だから、ある時から奇怪な思いが棲みついても すぐには分からない。

482 :
『京都学派』って新書出たね
もっと盛り上がろうぜ

483 :
古寺巡礼読んだぜ
大風呂敷で印象批評だが
やはり江戸とは隔絶した近代西洋が
切り開いた思考が炸裂しているな
年齢考えると驚異だぜ

484 :
『古寺巡礼』と『風土』は今読んでも新鮮>和辻

485 :
どこが哲学・・?

486 :
梅棹文明史観も随筆だし
結局日本語で書かれたものは随筆が一番面白いんだよ

487 :
随筆と言えば徒然草

488 :
風土の哲学なんて、西洋にもなかったわけだから

489 :
結局、東洋哲学と西洋哲学の融合でしょ?問題は
三位一体説を神道に取り入れればいいじゃん

父たる天(原父)
子たる天(天皇)
内なる天(人々の良心、高潔さ)≒聖霊

これでキリスト教と神道の融合が図れる
これを三天分立と名付けた。
三つの天の相互の良くなろうと意志、働きによって、世界と宇宙が改善されていく。

490 :
で、聖霊は八百万の神々、諸仏によって働き掛けられる、と。
どうかな

491 :
問題はこの三つの天を統合、総合して何と呼ぶかだけど、
いい呼び名が浮かばない。神でもいいけど、なんか違うしなー。

492 :
まぁ別に神でもいいのか
あとは空(くう)の問題をどうすっぺかな

493 :
神天というのもいいか。

494 :
原父は両性具有でもいいのか
便宜上父になったけど、性別不明でもいいし

495 :
戸坂潤の文章は固いな
その点三木清の文章は柔らかくて読みやすい

496 :
『宗教哲学入門』 量義治、講談社学術文庫 (2008)

井筒がやっていた様なこと。
仏教、キリスト教、イスラム教から宗教批判まで、
統一された哲学用語で相対化して通観する一冊。

497 :
>>494
性別があるのは人格神のレベル

498 :
>>492
西洋哲学には空に相当する概念はなかった。
近いことをやったのは、マラルメ、ロラン・バルト、デリダ。
空は仏教を参照するしかない。

499 :
西洋における仏教の受容

『虚無の信仰 ― 西洋はなぜ仏教を怖れたか』ロジェ=ポル・ドロワ(2002)

西洋で仏教が知られる様になったのは、この200年ぐらい。

ブッディズム(仏教)に該当する語が用いられた最初の例は、
1817年フランスのミシェル=ジャン=フランソワ・オズレーによる
『東アジアの宗教の開祖ビュッドゥあるいはブッドゥにかんする研究』で、
「ブッディスム(bouddisme)」と綴られた。

その後も仏教は、ニヒリズムや虚無の信仰であると誤解され、様々な論争を引き起こした。

    1820年頃 西洋でブッディズム(仏教)が知られるようになる
    ↓
    ↓ 1819年 ショーペンハウアーが仏教に言及
    ↓ 1827年 ヘーゲルが仏教に言及
    ↓ 1848年 マルクス「共産主義という妖怪がヨーロッパを歩き回る」共産党宣言
    ↓
    1860年頃 仏、英、独で虚無の信仰を巡る論争がピークを迎える
    ↓
    ↓ 1866年 マラルメ「仏教を知ることなしに、無(ネアン)に至った」カザリス宛書簡
    ↓ 1871年 ニーチェ「悲劇がわれわれを仏教から救い出す」断片
    ↓
    1890年頃 仏教が虚無の信仰でないことが理解され始める
    ↓ 
    ↓ 1895年 フロイト『ヒステリーの研究』

この時期は、
マルクス、ニーチェ、フロイトなど現代思想の胎動期とも重なる。

500 :
これまでにも西田哲学の読解というのをやってきたけど、
まだ1/3ぐらい。残りは、

・西田哲学の純粋経験と数理哲学(済み)
・西田と京都学派の絶対無(予定)
・西田の科学哲学(予定)

501 :
今は、無をやる前提を他スレでもみていっているところ

502 :
空と無はまた違うから

503 :
井上円了の妖怪学はグレアム・ハーマンと近い。

> 円了は『妖怪学』『妖怪学講義』などでそれぞれの妖怪についての考察を深め、
> 当時の科学では解明できない妖怪を「真怪」、
> 自然現象によって実際に発生する妖怪を「仮怪」、
> 誤認や恐怖感など心理的要因によって生まれてくる妖怪を「誤怪」、
> 人が人為的に引き起こした妖怪を「偽怪」と分類し、
> 例えば仮怪を研究することは自然科学を解明することであると考え、
> 妖怪研究は人類の科学の発展に寄与するものという考えに至った。

504 :
“わたしは、哲学の唯一の任務とは怪奇実在論(weird realism)であると提案したい。
 哲学は実在論的でなければならない。
 というのも、その使命は世界そのものの構造を解き明かすことにあるからだ。

“カントが示すアクセス不可能な本体的(ヌーメナル)世界と、
 ラヴクラフトが描く怪物たちの謎めいた透明性は、
 完全に一致するように思われる。”

“ところが新の実在論は、事物があらゆる関係から切り離されているのだと考えることを要求する。
 そこで唯一の解決策として、実在論の風景を、
 具体的な対象と現象から切り替えることになってしまうのだ。
 その結果、実体を欠いたアトラクターや位相不変量(topological invariant)といった、
 さまざまな潜在的存在者が登場することになる。”

“[潜在的なものの哲学による]こうした一歩が見逃してしまうのは、
 具体的な対象(実在的であれ現象的であれ)が有する忌まわしい怪奇さである。”

― グレアム・ハーマン「現象学のホラーについて――ラヴクラフトとフッサール」
  『ユリイカ 2018年2月号 特集=クトゥルー神話の世界 -ラヴクラフト、TRGP、恐怖の哲学-』

505 :
>>504
こりゃまた臭い知的遊戯やな

506 :
>>502
空と無が違うなんて詭弁だと思うがね

507 :
京都学派は暗いから嫌い
と言っても東大の進歩主義(丸山等)にも懐疑的

508 :
文体の隔絶感は丸山に軍配
俺が思うに京都学派は白樺派なんだよ

509 :
20代、梅原猛の初学者向け哲学書をよく読んだなあ。
あの人は立正佼成会。京都学派だよね。

510 :
>>509
立正佼成会…宗教ヤクザやん

511 :
京都学派って言霊思想は扱わなかったの?

512 :
>>500
西田に科学哲学なんてある?
田辺じゃなくて?

513 :
ヘーゲルの論理学は悟性の限界を画するという点で科学哲学的な面もあるんだけどそうした分野に日本人哲学者は興味を持たないんだよな。
無の体験の追求だけを求めるというか。

514 :
『西田哲学選集』 全7巻・別巻2 (1998)
http://www.toeisha.co.jp/html/sougou_nishitetsu.html

第1巻 西田幾多郎による西田哲学入門
第2巻 「科学哲学」論文集
第3巻 「宗教哲学」論文集
第4巻 「現象学」論文集
第5巻 「歴史哲学」論文集
第6巻 「芸術哲学」論文集
第7巻 日記・書簡・講演集
別巻1 伝記 西田幾多郎
別巻2 西田哲学研究の歴史

515 :
中沢新一×東浩紀
「原発事故のあと、哲学は可能か」 『新潮 2014年9月号』

"「アジア」の脱構築へ"。言語起源論から、アジア環太平洋哲学の未来像まで。

516 :
東浩紀×千葉雅也
「震災以後の哲学を考える 他者と暴力をめぐって」 『atプラス12』 (2012)

東…明治以降の日本の哲学的伝統では京都学派しかまともなものはなかった
千葉…戦後のある時期から、京都大学の哲学科は京都学派的な伝統を意図的に止める方向にむかった
東…京都学派、および新京都学派が持っていた領域横断性は、本来哲学が持っていたはずのもの

517 :
>>516
京都学派の領域横断性と新京都学派の領域横断性は全然別種のものな気がするが

518 :
京都学派が最も影響を受けたのは近代ドイツ哲学で、宗教哲学を最上位に置くものだった(>>162)。
それが、戦後の哲学界は、構造主義など科学的なものが主流となっていった。

519 :
しかし、それもまた一周して、構造主義的問題系の限界を何でもって乗り越えるのかという話になっているのが現在の状況。

520 :
【京都】〈画像〉「善の研究」などで知られる哲学者西田幾多郎の未公開ノート50冊発見「思考過程たどる史料」
https://asahi.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1527741483/

521 :
西田と波多野が互いに「あれはもう一歩だな」言い合っててこいつらしょうもねーなと感じる

522 :
>>506
「空」と「無」、「無」と「絶対無」を読み分けるのが精読

523 :
西田哲学と京都学派の中心ともいえる「絶対無」をみていく。
まずは「無」と「絶対無」の違いから。

524 :
西田は、「有」に基礎を置く西洋哲学に対して、
東洋哲学を「無」の哲学とした。

525 :
形なきものの形を見、声なきものの声を聞く

“形相を有となし形成を善となす泰西文化の絢爛たる発展には、
 尚ぶべきもの、学ぶべきものの許多なるは云うまでもないが、
 幾千年来我等の祖先を孚み来つた東洋文化の根底には、
 形なきものの形を見、声なきものの声を聞くと云った様なものが
 潜んで居るのではなからうか。”

― 西田幾多郎 「働くものから見るものへ」序『西田幾多郎全集3』 (2003)p255 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b)


526 :
>>525
文明論としてよく引用されるのはこれ。
次のものの方が、構図は分かりやすい。

527 :
最も深い無の思想を以て根底となすもの

“東西の文化形態を形而上学的立場から見て、如何に区別するか。
 私はそれを有を実在の根底と考へるものと無を実在の根底と考へるものとに分かつことができるかと思ふ。”p335

“西洋文化の源となつたギリシャ文化は有の思想を基としたもの”p335

“印度宗教は前の二者に反し最も深い無の思想を以て根底となすもの”p338

― 西田幾多郎 「哲学の根本問題 続編」 『西田幾多郎全集6』 (2003) 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b)


528 :
>>527
西洋と東洋を、ギリシャとインドで比較している。

> 有を実在の根底と考へるものと無を実在の根底と考へるもの

529 :
“実在と考へられるものは、その根底に何処までも非合理的と考へられるものがなければならない。”

― 「無の自覚的限定」序『西田幾多郎全集5』 (2002)p3

530 :
>>529の「非合理的」なものが、絶対無として強調される。

531 :
底への超越

“判断的一般者の自己限定から出立して、
 主語的なるものがその底に超越すると云ふことによって、
 種々なる知識を限定する一般者を考へた。”

― 「一般者の自覚的体系」序『西田幾多郎全集4』 (2004)p3

532 :
絶対無は底への超越。下方への超越。

他には、シェリングやベーメの「無底、無根底 Ungrund」など。

533 :
相対的無から絶対的無へ

“最も深い意識の意義は真の無の場所ということでなければならぬ。
 概念的知識を映すものは相対的無の場所たることを免れない。”

― 「働くものから見るものへ」7場所『西田幾多郎全集3』 (2003)p427

534 :
>>533
相対無というのは、有に対する無。
絶対無というのは、有も無もない無。

例えば、リグ・ヴェーダ「宇宙開闢の歌」(10.129)の冒頭。
“そのとき(宇宙始原のとき)無もなく、有もなかった。” 

535 :
仏教の「空」の場合は「非有非無」。有でも無でもない。

536 :
有即無の絶対無

“仏教哲学の主張は無我にあつた。而して大乗仏教に至つては、有即無の絶対無であつた。”

― 「日本文化の問題」 『西田幾多郎全集9』 (2004)p69

537 :
>>536
「有即無」つまり有を孕んだ無というのは発出論的なもの。

「有即無、無即有」の「絶対無、絶対有」というのは、ベーメ、シェリングからヘーゲルに至る
ドイツ観念論の中心概念。

538 :
しかし、西田は、絶対無の定義に二転三転し、苦慮する場面もみせた。

539 :
絶対無の場所に於てあるもの

“もはや之について何事をも云ふことはできない、
 全然我々の概念的知識の立場を超えたものである、
 言語を絶し思慮を絶した神秘的直観の世界”

― 「一般者の自覚的体系」叡智的世界9『西田幾多郎全集4』 (2004)p145

540 :
“自己自身の無を見る自己がその極限に於て絶対無の自覚に撞着した時、
 自己自身を忘ずると共に、万物自己たるものはない、
 見る自己がなくなると共に、見らるべきイデヤもない。
 併しかゝる境涯の体験は之を宗教家に委するの外はない。”

― 「一般者の自覚的体系」一般者の自己限定5『西田幾多郎全集4』 (2004)p324

541 :
>>539-540
自ら設定した絶対無を、叡智的あるいは神秘的直観の世界とし、
宗教家でなければ扱うことの出来ない、哲学的でないものとしてしまった。

542 :
>>541
それはどうしてか…

・西田は、禅哲学としては一流だが、宗教哲学全般に通じているわけではなかった
・大乗仏教に対して原始仏教が読まれる様になる以前だった
・語学よりも数学や物理、古典よりも現代を得意としていた

-西田幾多郎(1870-1945年)
-『南伝大蔵経』刊行(1935-1941年)

543 :
“私がギリシャ語などといへば、人が笑ふであらう。彼がギリシャ語をと。
 実際、私はプラトンの一行すらも読むことができない。
 併し私は晩年ギリシャ哲学に興味を有する様になつてから、
 どうしても多少ギリシャ語が分からねばならぬことを痛感した。”

― 『西田幾多郎全集10』 「ギリシャ語」 (2004)p375

544 :
・西田  数学○ ギリシャ語×
・井筒  数学× ギリシャ語○

545 :
西田の絶対無は井筒に引き継がれ、形而上学として完成された。


広義に「東洋的無」と呼ばれるもの

・神(アッラー)そのものが自己顕現する無
・ユダヤ神秘主義カバラにおける神の内なる無
・プロティノスの一者
・ヴェーダーンタ哲学における無相のブラフマン
・老荘の道(タオ)
・禅の無
・大乗仏教の真空妙有
・易学の無極即太極

意識・存在・実在のゼロポイントである純粋な無、
絶対無から絶対有への展開。

546 :
>>542
西田は自分の哲学が禅と呼ばれることを嫌ったはずだけど

547 :
しかし最近のトレンドとしては、
「無」よりも「空」の方が重要視される傾向にある。

548 :
>>260
> 戦前の思想の反省
> 戦前の思想 → 近代の超克 → 京都学派 → 西田哲学 → 無(絶対無)とは何か?

とみてきたが、最後の「無(絶対無)」については
既にポールシフトが起きている。


戦前
・西田の絶対無

戦後
・井筒の東洋的無

現在
・大乗仏教 → 原始仏教 → 仏教3.0(無 → 空へ)
・メイヤスーや千葉の偶然性(≒無、此性のある無、シェリング)


東洋哲学の前提が変わりつつある。

549 :
空といえば和辻。
だが、和辻倫理学体系における「空」の重みに対抗しようとしているのが、
苅部直だ。ちくま学芸文庫から、『初稿 倫理学』というのを出している。

550 :
>>546
その発言は>>337ね。

>>354-359などは斬新な禅哲学。

551 :
>>549
ありがとう。その辺読んでみる。

552 :
例えば、西田→井筒→中沢とすると分かりやすい。

>>515では、アジアと環太平洋を分けているし、
人類学の射程を考えると、東洋という言葉ですら手狭になった。

東洋や無ということに、こだわり過ぎる必要はないのかもしれない。

553 :
ポスト東洋、ポスト日本というところ

554 :
単純3連単のような哲学はちょっといらないなあ。

555 :
DJナツメロもな

556 :
>>550
でも西田は禅なんていってほしくなかったはずだけど

557 :
>>556
>>337には「無識の徒が私を禅などと云ふ場合」とあるでしょ

558 :
無識な徒=私を禅などと云う

私を禅などと云う=無識の徒

559 :
https://www.youtube.com/watch?v=wHylQRVN2Qs

560 :
https://www.youtube.com/watch?v=QwqmJilXxJY

561 :
https://www.youtube.com/watch?v=ik_gspY9qVc

562 :
https://www.youtube.com/watch?v=vdkmhquF60o

563 :
https://www.youtube.com/watch?v=Do5MMmEygsY

564 :
>>552
西田(1870-1945)
・宗教哲学、数学、科学
・東洋

井筒(1914-1993)
・宗教哲学、言語哲学
・精神的東洋(東洋+ギリシャ+イベリア半島)

中沢(1950-)
・宗教哲学、人類学
・アジア+環太平洋

565 :
西田と井筒の間の世代にあたる人達。
宗教哲学を中心とした、西洋と東洋の比較思想を扱うが、今日的で読みやすい。

・柳宗悦 『柳宗悦宗教選集』
・波多野精一 『宗教哲学序論・宗教哲学』
・田辺元 『仏教と西欧哲学』
・久松真一 『東洋的無』
・九鬼周造 『偶然性の問題』
・清沢満之 『清沢満之全集』

566 :
井筒も読み返されているところ

567 :
『「東洋」哲学の根本問題 あるいは井筒俊彦』 斎藤慶典 (2018/2/11)

序 章 井筒「東洋」哲学
  「東洋」哲学/井筒「東洋」哲学は何を目指しているのか
第1章 表層/深層
 a)表層から深層へ
  コトバ/深層における分節化/分節化されたものから分節以前のものへ/事事無礙
 b)深層から表層へ
  理理無礙/分節(1)―「無」―分節(2)/挙体性起/存在の階層性/基付け関係/有力・無力
 c)大地と理性――ロシア的人間
  ロシアの一九世紀/原始的自然/『コサック』/ドストエフスキー
第2章 空/無
 a)「空」の徹底
  理理無礙/神の彼方/〈無分節な「ある」〉への反転/「存在」の破れ
 b)空と無
  『大乗起信論』におけるアラヤ識/ユダヤ教カッバーラー/バスターミーの「欺瞞」論/思考の無能力
 c)砂漠と死――ジャック・デリダ
  ユダヤとギリシアの狭間で/砂漠における彷徨/墓場、あるいは死
第3章 〈いま・ここで=現に〉
 a)「本質(マーヒーヤ)と「存在(フウィーヤ)」
  「存在は本質の偶有である」/有「本質」か、無「本質」か/フウィーヤ・マーヒーヤ・タビーア/有「本質」論の三つの型/
    イスラーム「原子論」/無「本質」的存在分節/元型とイマージュ/意識と存在の構造モデル/「概念実在論」
 b)〈いま・ここで=現に〉
  「存在」の「独一性」/創造不断/吾有時/「純粋な可能性」としての「無」/証言
 c)「入てん垂手」
  聖諦と俗諦/俗、あるいは町という共同体/「無」の共同体

568 :
>>549
確かにその本にある様な話。
・無と虚無主義(ニヒリズム)の違い
・仏教の空は哲学に生かせるか

この種の議論は、他にも沢山ある。

569 :
>>97
・『「無と空」をめぐって』 上田閑照
・『「空」と「無」の間―仏教思想史の視点から』 木村清孝

570 :
実際、空については仏教をやることになるが、
無については、色々なもと関わりがある。

・哲学
・宗教
・心理学
・数学、物理
・唯物論

571 :
(1)仏教と空

・『ブッダのことば ―スッタニパータ』 ブッダ、中村元訳 (1958)
 “つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ”〔第1119偈〕

(2)解説書

・『仏教の思想 3 空の論理 <中観>』 梶山雄一、上山春平 (1997)
・『龍樹』 中村元 (1994)
・『中村元選集 22 空の論理 大乗仏教』 中村元 (1994)

(3)更にその先(空以前、ポスト空)

・『〈仏教3.0〉を哲学する 』 藤田一照、永井均、山下良道 (2016)

572 :
西田が禅に嵌まっていたのは40歳くらいまで
それ以降は禅から距離を取り始めていく

573 :
>>571の龍樹には「空亦復空(くうやくぶくう)」という言葉がある。
これは「空という真理に達したら、そのこと自体もまた空ぜられねばならない(空に執着しない)」というもの。

574 :
空を絶対視したり空で終わったりするのは駄目なんだな。

575 :
十牛図では、絵的に見ることもできる。

576 :
十牛図(牛=仏性を探す図)
https://www.jisyameguri.com/books/jyugyuzu/

(1)尋牛 - 仏性の象徴である牛を見つけようと発心したが、牛は見つからないという状況。
(2)見跡 - 経や教えによって仏性を求めようとするが、分別の世界からはまだ逃れられない。
(3)見牛 - 行においてその牛を身上に実地に見た境位。
(4)得牛 - 牛を捉まえたとしても、それを飼いならすのは難しく、時には姿をくらます。
(5)牧牛 - 本性を得たならばそこから真実の世界が広がるので、捉まえた牛を放さぬように押さえておくことが必要。
(6)騎牛帰家 - 心の平安が得られれば、牛飼いと牛は一体となり、牛を御する必要もない。
(7)忘牛存人 - 家に戻ってくれば、牛を捉まえてきたことを忘れ、牛も忘れる。
(8)人牛倶忘 - 牛を捉まえようとした理由を忘れ、捉まえた牛を忘れ、捉まえたことも忘れる。忘れるということもなくなる世界。
(9)返本還源 - 何もない清浄無垢の世界からは、ありのままの世界が目に入る。
(10)入鄽垂手 - 悟りを開いたとしても、そこに止まっていては無益。再び世俗の世界に入り、人々に安らぎを与え、悟りへ導く必要がある。

577 :
8が空

578 :
空を覚知した後、再び現象世界に戻ってくる

579 :
科学哲学の辺りもみておこう

580 :
純粋経験と自然科学

“現代の哲学に於て客観主義として最も徹底したものはベルグソンの哲学であらう。
 直接に与えられたる純粋経験が唯一の実在であって自然科学的世界の如きは
 却ってコンベンショナルのものにすぎない。”

― 『西田幾多郎全集12』 「第五講 新カント学派」 (2004) p46

581 :
“弁証法とは何処までも具体的な思惟でなければならない”

“自己が物の世界に入り、物そのものとなって考へることである。”

“対象認識の科学といふものは具体的実在から推論式的に媒介せられると云ひ得るかも知らぬが、
 哲学は具体的実在そのものの自己媒介から成立する学でなければならない。”

― 『西田幾多郎全集8』 「行為的直観」 (2003) p223-224

582 :
“経済現象といふものを、分析したものの綜合として考へるのでなく、
 生きた全体の過程として見るのである。”

― 『西田幾多郎全集8』 「行為的直観」 (2003) p238

583 :
“私の行為的直観とは科学的実験といふことである。
 物理学の如きものでも単に抽象論理からではなく、
 自己に世界が映されることから始まる、表出即表現から始まる。
 そこでは世界の生産様式は唯記号的に表現せられる、即ち数学的である。”

― 『西田幾多郎全集8』 「絶対矛盾的自己同一」 (2003) p388

584 :
“数学は人間の工夫であるが、自然と数学との間に偶然ならざる対応がある。
 測定を正確にすればするほど、自然は数学的言表に近づく。
 その為、人は抽象的な数学の原理が自然の中に働く如く想像もした。
 併しそれは測定の程度の低かつた時のことであって、今日は最早さうではない。
 測定の過程を如何に精密にしても、無限にユークリッド幾何学に近づくことはできない。”

― 『西田幾多郎全集8』 「経験科学」 (2003) p432

585 :
>>576
ハイデガーは十牛図を見てシレジウスと重ねたという。
シレジウス(1624-1677)は、デリダが否定神学として取り上げもした人。(デリダ『名を救う』)

586 :
“神は純粋な無である。いついかなるところでも神に触れることはできない。(25)”

“霊妙の神性は無であり、無を超えている。一切のものの中に無を見る人がこの神性を見出す。(111)”

“神は無であり、すべてである。(197)”

― アンゲルス・シレジウス 『シレジウス瞑想詩集 上下』 (1992)

587 :
エックハルト(1260-1328)は、何を無としたのだったか。

588 :
“パウロは地から起き上がって、眼を開けたが、何も見えなかった(使徒言行録 9:8)”

“パウロが地から立ち上がったとき、彼は眼を開けたが何も見えなかった。
 すなわち、開けた眼で無を見た。そして、この無は神であった。
 神を見たとき、それをパウロは一つの無(ein niht)と呼んだ”

― マイスター・エックハルト 「無である神を捉えること」 『ドイツ神秘主義叢書2』 (2006)

589 :
>>588
エックハルトにはラテン語とドイツ語の文献があるが、決定的なのは後者。
この叢書は、西谷、上田らの編集で、巻末に詳しい解説もある。

590 :
コピペして自己レスかよw
どんだけ寂しいんだw

591 :
キリストの「ケノーシス kenosis(自己無化、自己卑下)」

“キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。”

― 「フィリピ」 2:6-7


ἐκένωσεν(ekenōsen)
の英訳はemptiedで、「空」とも訳される。

592 :
>>591
『世界のなかの日本の哲学』 藤田正勝、ブレット・デービス (2005)所収の

・「自己を空ずる神と動的な空」 阿部正雄
・「神はどこまで自己を空ずるか −阿部正雄のケノーシス論をめぐる議論」 ブレット・デービス

が、キリストのケノーシスと仏教の空を比較していて詳しい。

593 :
この種の話題も、このスレの扱うところ

594 :
藤田正勝とか氣多雅子が朝日カルチャーとかで講座持ったりしないのかなあ。
どこの大学でも教えてない感じだし。

595 :
京風タコ焼き。

596 :
https://www.iias.or.jp/communication/goethe

藤田正勝の講演見っけ。こんなところで活動してるんだな。

597 :
>>594
氣多さんはおそらく私大からお呼びがあっただろうけど、断ったんだろうね
健康上の理由か、家庭の事情か、研究への専念か

598 :
いままで6回ぐらい挑戦したにもかかわらず目も通せずにいた
田辺元の『種の論理』の「社会存在の論理」が
漸く一節読めた。

599 :
戸坂潤の田辺批判を読むためにも田辺本を読まないとなあ。
難しいから、いつの日になるやらw

600 :
高坂正顕の『カント』買おうかなあ。

601 :
京大がなぜ京都学派にいるんだよ。貧弱な派閥だな。

602 :
確かに、「東大がなぜ丸山学派にいるんだよ。」とは言われないな。
学派内の対立はあるにせよ、
学派が語られるときにその凝集性が先に来る傾向はあるかもしれんね。

603 :
勉強してる人にはスキが多いから、かじりついたら礼儀に反するだろうね。
丸山というと皆が会いたいわけじゃないんじゃないの。つまり皆に会いたいとか。
俺は社会がひずんでて、一人に負担をかけるしかなかったんだよ。

604 :
学派というとアマチュア集団だから、恥ずかしい思いがすると思う。
無頼派のウイスキーを遺産にした遣る方が。

605 :
群れているように見えて無頼派なのが京大系の人
群れていないように見えて無頼派ではないのが東大系の人
というイメージがある。

606 :
高坂正顕の文章は名文だなあ。

607 :
ウイスキーの銘柄の方が学派より燃料入っていく感じしていいのにね。
東大 京大 並べても勝てそうにねえよ。

608 :
西さんか。

609 :
ウイスキーのブランドにはかなわないけど、
大学ブランドの飲食物が増えたよね。

京都学派っていう銘柄の日本酒でも考えるならば、
西田幾多郎、西谷啓治、高坂正顕、高山岩男のような裏日本産の米と水に、
京都の米麹でも加えればいい感じ。

610 :
ひどい酒だな。

611 :
冷やし中華丼はじめました。

612 :
>>610
日本海側の酒は美味いぞ
手取川とか勝駒とか

613 :
高坂正顕の『カント』もいい感じだが、
下村寅太郎のライプニッツ研究もよさげだな。

614 :
自分が浅学非才なのもあるが、
京都の晃洋書房が出している哲学書概説シリーズは、
極端な話、天牛書店とかで580円位で売っている同社の研究書よりもよっぽど骨があって、
概説書というよりもむしろ文字通り哲学書という感じさえする。

有福孝岳の『カント『純粋理性批判』』とか氣多雅子の『西田幾多郎『善の研究』』を
ちょっと読んだだけではあるが。

615 :
あのシリーズ、地味に良いんだよね
もっと続いてほしい

616 :
https://kanji.sljfaq.org/drawj.html
手書き漢字認識のサイトいいよね。
今日は恋の旧字体と無聊(ぶりょう)の読み方と意味を知れてよかった。

617 :
糸し糸しと言う心

618 :

出てきた!

619 :
【きちょほん】高知県立大学で蔵書3万8000冊焼却。貴重な郷土本、絶版本多数★3
https://asahi.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1534502089/l50

新聞記事にあった焼却リスト
https://i.imgur.com/Jca4yrX.jpg

戸坂潤全集が複本を残して焼却されたらしいな。
京大図書館の蔵書検索すると文学部に所蔵されてるのが借りられててすごいと思ったわ。
複本がありまくりなのにもびっくらこいたわ。

620 :
哲学の道いった?どこから歩いて行ったか忘れたけど。それまた道となるはず。ないか。あるか。

621 :
昼に行ったことがあるよ。かなり人通りが多かった。

622 :
>>619
に関して。
京大の元総長で今は京都造形芸術大学学長の尾池和夫が理事にいるとは
思わなんだ。
https://www.kppuc.ac.jp/about/officer.html

623 :
まあ、高知出身の名士というのもあるかもしれないが。

624 :
高知県立大学 蔵書3・8万冊を焼却処分し謝罪「より細心の注意を払う必要があった」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180818-00000140-spnannex-soci

625 :
>>619
カール・バルトと折口信夫欲しかった

626 :
カール・バルトは惜しいな

627 :
戸坂の和辻や三木の批判が面白い
https://www.aozora.gr.jp/cards/000281/files/3601_50794.html

628 :
氣多雅子『西田幾多郎『善の研究』』(晃洋書房、2011年)をようやく読み終えた。長かった。
西田のほかの著作の知識は必ずしも前提とされてはいない。
むしろ、ジェイムズや西谷啓治の著作の知識が必要かな。
他にはデカルトの『方法序説』やフッサールの『内的時間意識の現象学』が引用されていて、
それらの本を事前に読んでいてよかったと思う。

629 :
哲学は初体験ずくから、アバスレ経験論まで。いろいろだね。ヒュームもなかなか。

630 :
東京無頼派。所詮学派に過ぎないよ。京都の帝ラン。
一流〜三龍亭ランク目指してね。

631 :
それと、カントの『人倫の形而上学』における人格概念を引き合いに出して
西田の『善の研究』における人格概念に対して批判を行うのはかなり手厳しかった。

632 :
>>631
お、そんな箇所あったっけ
以前読んだことあるけど、全く覚えてないから読み返してみるか

633 :
梅本克己や梯明秀って疎外論の革マル哲学のイメージがあるけど
それぞれ和辻哲郎、西田幾多郎の弟子だから
日本哲学の枠内にぎりぎり入るっちゃ入るんだよな。

634 :
勘違い西田。あと乗りで批判。

635 :
時代遅れなんだよな。禅の研究。同じパターンであって敵とも遭遇しない変な本。
治安がいいのもなあ。

636 :
段階をへて神に到達するんじゃなくて、いつでも受けがないとな。

637 :
変な経路から男だまりでヘンな神でも見たんじゃないのか?

638 :
マルティンブーバー 我と 汝 の方がよくできてるわ。

639 :
ダサいお話だけど、概算、差し抜きして、そっちの方が読みごたえあるよ。
現代ではもっと哲学構造は複雑だがね。

640 :
最終到達点に何かがいるなんて、人生のまだ過程を踏んでいる人の方が
レアキャラ出てるし。

641 :
認識がずれているから、善の研究は廃刊。

642 :
西田は『善の研究』で完結したわけじゃなくて
『働くものから見るものへ』とかもあるからなあ。

643 :
ニートになったってこと?

644 :
大学教授を退職したら今は名誉教授だけど、
昔はそんなものあったんだっけ。

今に比べたら博士様は少なくて貴重な存在だったからか、
『働くものから見るものへ』の背表紙には
文学博士 西田幾多郎著とある。

645 :
自己なんてナルシストな哲学どうでもいいし、何かカントのまき直しみたいで
自分で書体を更新したわけでもなく、無と死の恐怖なんて日本人にはありがち。

646 :
まあそりゃそうかもしれんけど、
当時は資本主義の激動の時代で、自我の崩壊の危機にある人も多かったわけだから、
そういう人向けには良い著作だったんじゃないの。

田辺元なんかは社会哲学の方に向かったわけだけどさ。

647 :
勉強してるのに戦争に行かないバカ達じゃないの?

648 :
三木清は従軍したんじゃなかったっけ

649 :
藤田正勝『日本哲学史』
http://www.showado-kyoto.jp/book/b375502.html
これは楽しみ
単著で大部の「日本哲学史」なんて、これまでもこれからも書かれることはほとんどないだろう

650 :
>>649
> この150年、日本にも「哲学」はあった。
> しかし、それらは個々にしか語られてこなかった。
> その全体像がいま浮かび上がる。

651 :
序 章 日本の「哲学」と「哲学史」
 1 「哲学」をどう捉えるか
 2 哲学史とは何か

■第一部 受容期――明治の哲学

第一章 明治前期の哲学
 1 「哲学」受容前史
 2 西周による哲学の受容
 3 福沢諭吉と近代日本の学問
 4 中江兆民――「理学」としての哲学

第二章 大学という制度(アカデミズム)のなかの哲学
 1 東京大学におけるフェノロサの哲学講義
 2 現象即実在論――井上哲次郎・井上円了
 3 哲学史の著述を通しての哲学受容――三宅雪嶺・清沢満之
 4 批判的・合理的な知の形成――大西祝と狩野亨吉
 5 フェノロサと岡倉天心の美学・美術史についての理解
 6 ブッセ・ケーベルの日本における哲学研究への寄与

第三章 明治中期・後期における国家社会への関心と個人の自覚
 1 近代化の歩みへの反省
 2 個人の自覚
 3 社会の矛盾や平和へのまなざし

652 :
■第二部 形成期――大正・昭和前期の哲学

第一章 大正・昭和前期の思想状況
 1 大正という時代
 2 昭和前期の思想状況

第二章 西田哲学と田辺哲学
 1 西田幾多郎の前期の思索
 2 田辺元の思想形成と西田哲学批判
 3 後期西田哲学
 4 田辺元の「種の論理」

第三章 西田・田辺と同時代の哲学のさまざまな展開
 1 高橋里美
 2 九鬼周造
 3 和辻哲郎
 4 美学研究の発展
 5 宗教の哲学

第四章 西田・田辺の弟子たち
 1 禅の伝統――久松真一・西谷啓治
 2 現象学・歴史哲学・社会存在論――山内得立・高坂正顕・務台理作
 3 構想力の論理――三木清
 4 マルクス主義への接近――戸坂潤・梯明秀
 5 多様な分野への展開――木村素衛・高山岩男・土田杏村・下村寅太郎

第五章 京都学派
 1 京都学派とは
 2 近代の超克

653 :
■第三部 展開期――終戦後の哲学

第一章 敗戦からの出発
 1 「近代」と「主体性」の問題
 2 平和の実現に向けて
 3 戦後の相対化

第二章 戦後の京都学派
 1 田辺哲学の展開
 2 無(空)の哲学の展開
 3 京都学派の多様な展開

第三章 戦後の日本の哲学の多様な展開
 1 存在と知識
 2 自己と他者
 3 言 葉
 4 身体へのまなざし
 5 比較という視座

後  語

654 :
これはやばい

655 :
 
      WWWWW
    /W      W
   /         ∵
  /   /――――― |
  |∵/          |
  |∵    ┗━ ━┛ |
  |∵    ⌒   ⌒ |
   (6‖     つ    |
   |    \____ノ |     / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
   |      \_/ /     <  やばいよ やばいよ〜!!
 /|          /\      \_____________

656 :
従軍は当たり前だろ。

657 :
日本哲学史とか言っておいて西田・田辺史観じゃん
せっま

658 :
そりゃ第二部の一部だけでしょ。
今第一部から読んでるけどなかなか田辺や西田のところまで辿りつけなさそうだわ。

659 :
理系を選べば戦場には立たない

660 :
>>651-653に挙げられている以外の人達も出てくる。
井筒とか中村元とか。

661 :
『日本哲学史』の第一部まで読んだけど、
安部能成を阿部能成にしてしまっている箇所があった。

662 :
第二部の大正という時代を読んだんだけど、
鈴木貞美を鈴木貞実にしてしまっている箇所があった。脚注では正しく書けているのに・・

663 :
ここまで打ち間違いにばかり触れたけど、
『日本哲学史』は、純哲だけでなく、
政治や経済の分野の人物(吉野作蔵とか河上肇)にも焦点を当てている点で
良い本だと思っている。

664 :
あと福本和夫とか。

665 :
読みかけの苅部直の『日本思想史への道案内』を久しぶりに読んだ。
苅部は様々な事柄を料理して一定の方向へまとめるのが上手いなあと感じた。

666 :
西田幾多郎「善の研究」53%だけど、

第二編で、朱子学の究理論について述べていて、
第三編で、陽明学について言及しているので、
西田幾多郎は、最初は儒教を前提に哲学を始めたのではないだろうか。
キリスト教的な神学の要素と朱子学との融合をはかったのが、
「善の研究」な気がしている。

めっちゃ難しくて、さっぱりわけがわからないが、
あと半分を読むよ。

西田幾多郎「善の根拠」56%。

第三編。
西田は、自由意志について述べている。
西田は、自由意志を否定している。
意志は大自然によって規定されたものから機械的に決まると述べている。
心の中に意志を決定する要素がすべて思い浮かぶことはなく、
不十分な意志の発現の総合として、心に意志は発現する。

それがどう「善」と関わるのかつづきを読みたい。

667 :
西田幾多郎「善の根拠」60%。

西田は、ことの善悪は、理論だてられた倫理によって規定されるよりも、
善悪という感情の想起によって決まるという。

この辺りは、カントの「判断力批判」の、「快不快の美学的判断は、合目的的な判断とは異なる」
という一説にまとめられるだろうが、西田幾多郎は、それと同じような内容を別のことばで語っている。

善悪を完全に規定した倫理学は存在しない。
智勇仁義は、いちど善とされても、後で悪とされることもある。
また、誰かは善といっても、別の誰かは悪という。
平等が正義でもない。逆に、個人のこだわりを認めることの方が、平等より善であることが多い。

668 :
西田幾多郎「善の根拠」69%。

意志は、快不快の情欲から発生する。
情欲を抑制する意思は、快不快の情欲よりも大事な目的がある場合だけである。

意志は、快不快の情欲によって決まるが、
快不快の単純な多い少ないによっては決まらない。
ヒトの意思は、快不快の単純な算数で決まるほど単純ではない。

669 :
題名まちがえてた。

西田幾多郎「善の研究」ね。

670 :
「善の研究」西田幾多郎をやっと読んだよ。

「善の研究」西田幾多郎

西田の存在論は朱子学の「理」だ。
西田は、自由意志を否定した。心の中に意志を決定する要素がすべて思い浮かぶことはなく、
不十分な意志の発現の総合として、心に意志は発現する。
善悪を完全に規定した倫理学は存在しない。 智勇仁義は、いちど善とされても、後で悪とされることもある。
また、誰かは善といっても、別の誰かは悪という。
平等が正義でもない。逆に、個人のこだわりを認めることの方が、平等より善であることが多い。
意思は、快不快の単純な多い少ないによっては決まらない。
人の意思は、快不快の単純な算数で決まるほど単純ではない。

671 :
わたしはここでユダヤ教やキリスト教の宣伝をしているのではない。
聖書を知らない以上は世界を理解できないという事実を述べているだけである。
教養とは、結局は古代の中国官僚の処世術にすぎない論語を読んで身につけるものではない。
論語は世界の文化を形成していない。教養を身につけるとは、世界を形成してきた聖書を読むことなのである。

何を独学するにしても、聖書を読まずに始めるならば、あらたな偏見を自分の中につくるだけに終わる。
そういう人が多すぎる。すると、さきほどの評論家のようにギリシア神話も聖書も区別がつかなくなる程度の頭になってしまうのである。
つまらない誤解がある。聖書は、ユダヤ教やキリスト教に人々を勧誘するための書物ではない。
また、聖書にはありがたい教えばかりが書かれているのでもない。聖書に描かれているのは、人間への神の関わりである。
神はたえず人間にかかわり、教えてきたのである。

法律の原型も神から教えられている。法律の原型は聖書の成立よりも古いハンムラビ法典にあるように思われているが、
他人から害を受けても復讐をせずに賠償ですませよという法律の基本も聖書で教えられている。
為政者や知識人や学者が考案したものではないのだ。世界には聖典だの経典だのというものがあまたあるのだが、
その中でも世界の形成に事実として寄与してきたのは聖書だけである。
キリスト教信者が世界で圧倒的多数を占めたために現代世界が形づくられたわけではない。
世界の土台が聖書にあるのだから、そこに何がどのように書かれているのか知っておくかどうかで世界の見方が変わるのは当然のことだ。
仏教経典をいくら読んだところで世界は少しも理解できない。しかし、聖書を読んでいれば、仏教経典に何が書かれているかさえ理解できるようになるのである。

(白取春彦「勉学術」)

672 :
田川建三も広義の日本思想史の一員だわな。

673 :
善と悪、正義と不正義は客観的に存在する。
そうじゃないと社会運動や政治活動のモチベーションが下がる。

674 :
善と悪、正義と不正義の判断は、他人の振舞いにではなく、
自分の振舞いに向けられるべきもの

675 :
数ならぬ 心に身をば まかせねど 身にしたがふは 心なりけり
                         ― 紫式部

676 :
心だに いかなる身にか かなふらむ 思ひ知れども 思ひ知られず
                         ― 紫式部

677 :
>>675-676
心身問題に取り組むことを自称する日本の自称哲学研究者は、これらの問ひ
を扱うことができるのか。これらの問ひを扱うことができないのなら、
それは、それらの人々が「心身」を目の前/手前(vorhanden)に存在する
ものとして前提としており、その前提が、これらのこれらの問ひにおいて
扱われる(zuhandenにある)心身の様態を排除するからではないのか?
であるとすれば、実際には、心身問題に取り組むことすらできない
日本の自称哲学研究者は、哲学を研究していることを詐称していること
になるだろう。

678 :
言うまでもなく、「心身」の問題を扱うことを自称する理系分野の
研究も、「心」および「身」という表現を、「心身」が目の前/手前
(vorhanden)に存在することを前提として流用している。しかし、
問題は、本来の用法を離れてそれらの表現を流用していることではない。
そうではなく、それらの流用が、それらの表現の本来の用法を
暗黙に、かつ意図的に排除していることであり、そのことにおいて、
その流用は隠喩であることすら意図されておらず、表現の悪質な
濫用であると言わなければならないだろう。

679 :
その悪質な濫用を「自然主義」などという用語で正当化するようなことを
人文系とされる分野に属する人々が始めたとするなら、それは既に
「悪質な濫用」というようりも工作と呼ぶ方がより適切だろう。

680 :
自民党の某議員
「貧困の再生産など起きない。彼らは子供さえ持てないからいずれいなくなるだろう」
2006年9月12日(火)発売 週刊SPA!2006年9月19日号49ページ

681 :
和辻や西田の理解は、彼らの通ってきた道を理解することであるから、
カントやフッサールやベルクソンやジェイムズもそれなりに理解しなければ
ならないのだろうなと思う。

682 :
>>680
少数精鋭(?)の国か

683 :
酒井直樹の『日本思想という問題』と藤田正勝の『日本哲学史』の
弁証法的換骨奪胎が必要なように思えてきた。

684 :
梅原の西田論

“結局デカルト批判が彼の哲学の中心だと思いますけどね。
 デカルトだと二元論になる。
 自我と物質が対立するという二元的な構造にならざるを得ない。(略)
 それを、世界というものは自我と物質が対立するものではない、主客合一であると言った。”

― 『日本人は思想したか』 吉本隆明、中沢新一、梅原猛 (1995)

685 :
デカルト直系で身体性と実在を分けるメイヤスーなどが注目されるのと同時に、
西田や京都学派が読み返されているのはこういうところだろう。

686 :
マルチンカス

687 :
津田雅夫の『「もの」の思想』を読了した。
日常的なレベルにおいて生活のあり方、物の考え方を見直すことで
大事な宗教批判ができるということがわかって良かった。

688 :
片山洋之介の『日常と偶然』を読了したんだけど、
実はこの人って倫理学界でものすごく偉い人?
印刷間違い(自を白だとか)があって残念だったけど、
内容は面白かった。

689 :
  日本の哲学者の思想のメモ

世阿弥:物狂いの女には花を一輪さすとかわいい。
大西祝:良心の快不快。哀しみの快。
中江兆民:古代中世の征服者の原理と、近代啓蒙思想の原理のどちらにも配慮しなければならない。
鈴木大拙:愛を肯定する明治仏教。
西田幾多郎:善悪の判断は時間がたつとどんどん変わる。過去と未来の両者は現在で絶対矛盾的自己同一している。
田辺元:非合理的行動と社会正義的行動を統一する概念は神に至る。
梅原猛:多神教は思考が多様で一神教より優れている。
浅田彰:創造主は万民の支配者であるとともに、創造主は万民の奴隷である。
中島義道:嫌な同僚が理不尽に出世してしまうが、社会とはもともと理不尽なものなので仕方ない。
南直哉:他者が存在すると信じることが善の根拠。
山内志郎:自然法則には目的はないが、道徳法則にも目的はない。

690 :
作品と人生が同じようなのは未熟だ。

691 :
西田や和辻は標準ぐらいのレヴェルだろう。

692 :
https://sokuho.yozemi.ac.jp/sokuho/s_mondaitokaitou/1/gaihyou/1305221_5382.html

早稲田の文化構想は相良亨とか加藤周一とか西周とか
近代日本思想の重要人物の文章を出題しているな。

693 :
加藤周一が重要人物とか、冗談も休み休み言え

694 :
日本文化のことを雑種文化と規定したのは、
一種の好プレーなんじゃないの?

695 :
梅棹忠夫とか今西錦司もこのスレの対象なのかな。

696 :
山田洸(元宮城教育大学、山口大学教授)の日本思想史研究は、
地味にいい感じだな。

697 :
“『大乗仏教概論』は大拙思想のアルファであり、オメガである。
 しかしながら、この書物は原著刊行から一〇〇年近くの間、封印されていた。”

― 安藤礼二 『大拙』 (2018/10/25)

698 :
鈴木大拙 『大乗仏教概論』 佐々木閑 訳 (2016)

699 :
「大西祝選」集二巻、批評編。すごいよかった。
こんなのがもっとあるなら出してくれ。

700 :
生きてるだけで丸儲け

701 :
さんまちゃんの頭の回転の良さだったら
ガリ勉して京大に行くことも不可能じゃなかったやろな

702 :
いい結果の原因が自分にあるなら、悪い結果の原因も自分にある。
いい結果の原因が自分にないなら、悪い結果の原因も自分にない。
いい結果の原因が皆にあるなら、悪い結果の原因も皆にある。
いい結果の原因が皆にないなら、悪い結果の原因も皆にない。

703 :
草木国土悉皆成仏

704 :
このスレ>>689で見てはじめて知った大西祝、いい奴だな
近代では九鬼が重いパンチを秘めている人間と感じていたが文献学と固有だけれど職人技のように小綺麗な哲学を残して終わってしまった感があるもっと見たかった人だ
大西祝はキリスト教を基礎に出発して、生きていれば日本と西洋の価値観を繋げる大仕事を恐らく成していただろうに

705 :
>>704
大西祝は、「宇宙の創造主を神(かみ)とする思想は、明治の日本でも広く受けいられている」として、
それでも大西祝は「天神」を主張する。
そして、「明治政府の命令より、宇宙の神の命令を優先するキリスト教は、明治の教育の邪魔だ」といっているね。
「明治政府の目的と、キリスト教の目的は異なり、明治政府の目的を優先すべきだ」と。

706 :
 序
 日本の重要なものを隠していることを示す漢字が六個ある。
 それは、禁、裏、秘、奥、隠、忌である。

  1、禁
 天は「あま」とも読め、「あめ」とも読める。どちらも使用は現場により、巧妙に入れ替えている。どちらのことばが正式で、どらちらが虚偽かは、その時々で変わる。統一するように整理しても、すぐに攻撃されてぐちゃぐちゃになる。
 あめは、雨であり、悲しくも恵みの雨である。日本は雨を嫌わない。
 「ドン」と呼ばれるものは、秘中の秘である。
 日本神話には、天船(あまつふね)という空飛ぶ船が記述されている。
 おみくじは、「大事な大事なくじ」という意味である。

  2、裏
 八百万(やおよろず)の柱(はしら)がある。多神教の日本にはたくさんの柱がある。
 一神教の柱もいる。一神教の柱も、八百万の柱の一柱にすぎない。
 社(やしろ)はやおろずの城を意味する。社は、「もり」とも読み、森を意味する。神社において、社と森は区別がつかない。
 鳥居は、鳥がとまるから鳥居という。
 大和(やまと)は、山の家を意味して、奈良県の家(ならされた土地の家)を意味する。そのまま、山の都を意味する。

  3、秘
 日本の王は、日嗣(ひつぎ)の御子(みこ)である。
 太陽の継承者という意味だ。
 人(ひと)は、人類を意味する日本語である。

707 :
  4、奥
 君は、貴身(きみ)であり、君主を意味する。忠誠の対象であり、たくさんいる。
 日本の王のことは、大王(おおきみ)という。
 風(かぜ)と、彼是(かぜ)は混同されている。上司の命令の実行を風(かぜ:彼是)ということがある。
 祭り(まつり)は、政治と神事と宴会からなる。
 祭りに従わないものを、奉わぬ(まつろわぬ)民という。反体制という意味である。

  5、隠
 三種の神器は、日本神話の象徴である。
 三種の神器(みくさのたから)は、草薙の剣、八咫の鏡、八尺瓊勾玉である。
 剣は、吊る木(つるぎ)であり、長細い棒のことである。
 鏡は、影見(かげみ)であり、姿を映すものである。
 勾玉は、曲玉(まがたま)であり、魂に似せた飾りである。誰がどのように魂の形を知ったのかはわからない。神代の日本で、魂(たましい)がどのような概念だったのかはわからない。
 三種の神器は、剣と鏡は緋緋色金(ひひいろかね)でできていて、勾玉はヒスイでできている。

 四種類の魂について記す。
 和魂(にぎたま)は、にぎやかな魂であり、仲の良い魂のことである。
 荒魂(あらたま)は、あらぶる魂であり、暴力的な魂のことである。
 幸魂(さちたま)は、しあわせな魂であり、結び、結婚を意味する。
 奇魂(くしたま)は、珍しい魂である。

 結びによってできるものを、娘(むすめ:結女)、息子(むすこ:結子)という。
 結びの儀式には、榊(さかき:賢木、賢い木の意味)の木を振る。

708 :
  6、忌
 おそらく、日本の神は、彼身(かみ)であり、「あちらの実体」という意味である。
 神(かみ)は神威(カムイ)より古く、神威とはアイヌ民族が神性なものの名前である神を格好よく言いかえて神威と呼んだのだろう。
 黄泉(よみ)は、夜身(よみ)であり、「夜の実体」を意味して、死後の世界を意味する。
 黄泉から帰ることを、蘇り(よみがえり)という。
 地返しの玉は、イザナギが黄泉から生還した象徴である。

709 :
震度7地震90%

710 :
東浩紀編集のゲンロン9で現代日本の批評Wと題して
東浩紀と大澤聡と苅部直と先崎彰容が対談していたが、
その中で苅部直が京都学派の哲学のことをざっくり京都哲学と言っていたな。

京都学派というだけでは憲法学とか東洋史とかフィールドワークも入ってくるから
そういう風に言わざるを得ないのかもしれない。

711 :
波多野精一「時と永遠他八篇」

明治の西洋哲学者の代表作。
「時と永遠」では、永遠なるものには共同がともなわなければならないと説く。
永遠なるものは愛をもたなければ、永遠の孤独になってしまう。
永遠なるものについては、友情がどうなっているのかが重要だ。
「他八篇」はたいしたことは書いていない。

712 :
男性の平均寿命81歳  2017年発表

713 :
AI に

714 :
“井筒が生涯をかけて探求したのは、万物を超越する一神教ではなく、万物に内在する一神教である。
 ユダヤ教、キリスト教の伝統に連なるとともにその伝統を刷新し、純粋化していったイスラームのさらなる東方的な展開である。(略)

 アラビア半島に生まれた森羅万象すべてに超越する神、スンナ派の神ではなく、
 イラン高原で生まれた森羅万象すべてに内在する神、シーア派の神であった。

 イラン高原では、神は「存在」と言い換えられていた。
 「存在」の根源にして、根源の「存在」である「神」、そこから森羅万象あらゆるものが産出される「神」。

 その「神」は一なる神――一神教すべての根幹となる唯一無二の神――を可能にする「無」の神、
 より正確には、「無」にして無限の神であった。”

― 安藤礼二 「「東方哲学」素描:鈴木大拙、折口信夫、井筒俊彦の仏教」 『現代思想 2018年10月臨時増刊号 仏教を考える』

715 :
647 名前:考える名無しさん[] 投稿日:2019/04/06(土) 20:41:39.70 0
若松英輔に井筒俊彦が山崎弁栄に会っていたら井筒俊彦はイスラムに行かなかっただろうと言わせた浄土宗の高僧山崎弁栄は「超在一神教的汎在神教」をとなえた。
超越的一神に相当する彼の法身の阿弥陀如来と本覚思想の一切衆生悉有仏性の統合と現代的表現だろうけど。


650 名前:考える名無しさん[] 投稿日:2019/04/10(水) 00:08:44.05 0
山崎弁栄いいね。
「超越即内在」。“内なる仏であり、なおかつ外なる仏である”。

一神教と汎神教との相克を超えた「超在一神的汎神教」という立場は、
宇宙を直感するシュライエルマッハーの宗教学を背景としている。

フッサールと同じ1859年生まれで、
インド各地の仏蹟各地を巡拝した最初の日本人。

716 :
自演かよw

717 :
人社未来形発信ユニット 第1回全学シンポジウム「アジア人文学の未来」
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/social/events_news/department/gakusai/events/2019/190427_1516.html

718 :
>>717
のシンポジウムに行ってきたけど、
山極総長が京都哲学に秋波を送っていたのが印象的だった。

719 :
>>711
「他八篇」はたいしたことは書いていない。


は?
おまえが理解できないだけだろ

720 :
『田辺哲学とは』(燈影舎)を読んで、
「樊籠」という言葉を初めて知った。
束縛とかいう意味を持つ言葉なんだな。

721 :
読み方は「はんろう」だった。

722 :
>>719
いや、マジで書いてないよ。

723 :
西田は低学歴低キャリア。帝レヴェル 帝キャリア 帝学歴のほうよ。女性は。

724 :
インド哲学がいい

725 :
>>723
高卒のお前が言えたことか(笑)

726 :
最近は日本哲学の本どころか、研究書や専門書すら読めていない。
時事ニュースばかり追っかけていて、それに関していろいろ思索することばかりだ。

727 :
西田 幾多郎(青空文庫での公開中作品:13点)
https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person182.html

728 :
上田閑照が亡くなった。
彼の著作は西、彼が編んだ西田幾多郎哲学論集しか読んだことがない。

それにしても、
鷲田清一も広い意味での京都哲学の中に入るのだろうか
と、ふと彼の新聞に投稿した文章を集めた『濃霧の中の方向感覚』を読みながら
思った。

729 :
柳田国男はタピオカを食べていた

「たとへば私の家の朝飯には、折としてタピオカを食ふことがある。」(柳田国男『民間傳承論』現代史學大系第七巻、共立社、1934、P76)
https://i.imgur.com/Gjbm8uM.jpg

730 :
> 南米やアフリカでは、タピオカは主食としても食べられてきた。
> 1万年に及ぶというタピオカと人類の長い歴史を…

731 :
中沢新一 『レンマ学』 講談社 (2019/8/8)

“レンマ的知性は、ロゴス的知性の真に外部にある実在に触れている”

“荒海や 佐渡に横たふ 天の川(芭蕉)”

大乗仏教、哲学、量子論、言語学、精神分析、数学、生命科学、脳科学……を超えて、
東洋知の結晶した華厳経の潜在力を大展開する未来のサピエンス学へ! 
『チベットのモーツァルト』に始まった心と脳をめぐる探究の頂。文芸誌『群像』の連載「レンマ学」がついに単行本化!

「レンマ」とは何か? 哲学者山内得立が著書『ロゴスとレンマ』で提出した概念によっています。
「ロゴス」は「自分の前に集められた事物を並べて整理する」ことを意味しています。
その本質は時間軸にしたがう線形性にあります。
それに対し、「レンマ」は「直観によって事物をまるごと把握する」という意味です。

732 :
第4回 京都大学 - 稲盛財団合同京都賞シンポジウム [映画・演劇分野]
中沢新一 「芸術のロゴスとレンマ」 2017年7月1日
https://www.youtube.com/watch?v=R-805Nr-LTQ

人間が「科学」を発達させた能力と、「宗教・芸術」を発達させた能力はそれぞれ異なる。

科学…ロゴス
宗教・芸術…レンマ

733 :
>>705
政府に尻尾フリフリだなw

734 :
政府は天神の手段に過ぎないものとしてしか認識されてないんじゃないの。

735 :
鷲田清一が折々のことばで今西錦司のことばを引いていたな。
やはり京都学派系統には文理の壁を超えて響き合う何かがあるんだろうな。

736 :
鷲田清一、上野千鶴子も京大文学部・文学研究科の出身者なんだから、
京都学派の一員に入れてもいいよな。https://www.bun.kyoto-u.ac.jp/lib/master1973
彼らの同級生である牧野廣義(牧野広義)は、
去年の年末に『マルクスの哲学思想』という野心的な著作を発表しているが、
最近のマルクス学の論者の哲学に対する扱いの軽さに対し、
哲学の意義を強調していて元気な爺さんだと思ったよ。

737 :
京大生だけど京都学派はゴミだと思う

738 :
卒業したらどうなってるかが見もの

739 :
京大なんて認可されてるの?京大ニセ学生の集まりより学派の方がいいさ。

740 :
京都芸術大学と京都市立芸術大学の争いはどうなるかな

741 :
造形大 やら繊維大なんてなかなか入れないところだけど。

742 :
神戸ファッション造形大も難関。東京海洋大学もいいしな。

743 :
学歴はライフワークみたいに永遠。年の差パワハラは処分処刑以後なしで。

744 :
大学独立して自分で持ってないと卒業した意味ない。三宮神戸芸人大学
京都芸者大学院あるんだけどd。

745 :
戦争と台風――堂本印象美術館で川端龍子を見る
http://realkyoto.jp/review/kawabata-ryushi_asada/
堂本印象美術館は衣笠山の麓に位置するが、かつては京都の郊外だったこの地域は
多くの日本画家が居を構え、衣笠絵描き村と呼ばれた(堂本印象美術館でも
彼らの作品を集めた展覧会が開催されたことがある)。
美術館の少し南に住んでいた山口昌哉(1925年〜1998年。山口華楊〔1899年〜1984年〕の息子で
自らもスケッチがうまかったこの数学者はカオスやフラクタルの理論を導入したことで一般にも知られている)
を訪ねたとき、昔は鹿も出没したと聞いたことがある
(それより鮮明に思い出されるのは、父の戦争画のことも意識していたのか、
京都学派の哲学者たちの戦争責任を話題にし、
「久松真一はいいんじゃないかと思うがどうか?」と問われたことだが)。
問われて浅田彰はなんて答えたんだろうな。
久松はあまり読んでないので・・といった感じだったんだろうか。それとも・・?

746 :
神風を敵に回すか味方にするかだね。

747 :
ニクラス・ルーマンの『社会の宗教』の註に西谷啓治が登場するそうだ。
宗教哲学の波及力は侮れない。

748 :
三木清の著作はブックオフで買った『哲学入門』しか持ってないけど、
手触りがいいから『再考 三木清 現代への問いとして』(昭和堂)を買っちゃった。

749 :
あいちトリエンナーレ対談 ホー・ツーニェン×浅田彰
https://www.outermosterm.com/aichi-triennale2019-ho-tzu-nyen-asada-akira-conversation/

750 :
インテグリティに訳語を与えられなかったんだな近代日本哲学って
中国では誠信という訳語が存在するのに

751 :
integrity: 誠実、高潔、品位
という感じか。

752 :
京都学派と大東亜戦争の戦争責任を問う問題は今ホットな話題だと思うぜ?

753 :
物心二元論を克服しようとした京大系の学者としては
市川浩を挙げねばならないだろうな。
戦前の京都学派の問題意識と通底するところがあるだろうが、
政治や社会のことを論じず<身>と<心>の重なり合いに着目した点では
独自の路線を行ったと言える。
>>752
の問題意識に関係する書物と言えば、
大橋良介の『京都学派と日本海軍』だな。
PHP新書。

754 :
田辺元はマルクス主義に関心を抱いてはいたようだが、
エンゲルスの『自然弁証法』には批判的だったようだな。

755 :
中沢新一 「「レンマ学」とは何か――惑星的時代のもう一つの知性」(『現代思想2020年1月号 特集=現代思想の総展望2020』)
レンマ学の3つの区分
・現代レンマ学…今現在刷新が必要なもの(AI人工知能の時代、トポスや圏の数学に対応)
・近代レンマ学…京都学派のレンマ学(集合論の危機に対応)
・古レンマ学…レンマ学の起源

756 :
三木清や「世界史の哲学」派を戦争協力的と批判するのは容易だけれども
彼らとしては現実政治を少しでも改善する時務論として
公開・提言可能なギリギリの線で抵抗していたわけで
現代という安全地帯から彼らの戦争責任を衝くだけでは本質的批判にはならない気がする
言論場では批判することが多数派でせあり権力側なのだから

和辻の『日本精神史研究』には唯物史観的な階級制批判があるね

757 :
確かに、マイルズ・フレッチャーの『知識人とファシズム』を読んで
三木清は悪いやっちゃなあと思ったが、
仮に悪いにしてもどのように悪いのかを知るには、
本人の著作を読まないとダメだと思って『唯物史観と現代の意識』を買った。

758 :
元寇と鎌倉武士
https://i.imgur.com/xWjNhsG.jpg
https://i.imgur.com/IaGQaRU.jpg
https://i.imgur.com/WPIn19J.jpg
https://i.imgur.com/r0BsKub.jpg

759 :
312 /名無しさん[1-30].jpg sage 2020/02/10(月) 13:14:17 HMC8p4F10
年貢米
http://s.kota2.net/1581307633.jpg
313 /名無しさん[1-30].jpg sage 2020/02/10(月) 13:29:27 xAWDaQKy0
年貢ってどうしても収められない場合どうだったんだろ
いきなり討ち首じゃないよな
333 /名無しさん[1-30].jpg sage 2020/02/11(火) 01:11:41 BcZTUhaK0
>>313
農村だと村単位で講を作って不作に備えるのが基本
334 /名無しさん[1-30].jpg sage 2020/02/11(火) 01:14:31 CYqYGg0z0
>>313
江戸時代は農民は一方的に搾取されてたようなイメージがあるけど
一揆がおこると領主には幕府からかなり思いペナルティがあるので
実際は領主は農民に気を使っていたことが最近の研究でわかってきている
340 /名無しさん[1-30].jpg sage 2020/02/11(火) 11:55:49 6/fDJzON0
>>334
しかも、幕府が「お、ここ要所になるな」と思ったら
幕府がそこの村人を扇動して一揆を起こさせて、
その土地をめしあげて天領地とした

760 :
『京都学派と日本海軍:新史料「大島メモ」をめぐって』 PHP新書 (2001)
大橋良介
京都学派の戦争協力に関する決定的かつ最重要の資料。
アジア諸国やアメリカに対する侵略的計画を練る過程が克明に記録されている。
哲学者たちがいかに世界情勢を分析し言語化するのか。
「近代の超克」、「世界史的立場と日本」座談会の背景。
60年の時を経て2000年に、著者によって発見された。
“大島の「大東亜戦争と京都学派」(『中央公論』昭和48年8月号)を再読したとき、
 ある個所が気になった。「私の家には、当時のメモ・ノートがまだ保存してある」と。
 そこで大島家に、そのようなメモ・ノート類がないかどうかの調査を依頼した。”

761 :
二つの座談会
『近代の超克』 河上徹太郎ほか、冨山房百科文庫23 (1943/1979)
『世界史的立場と日本』 高坂正顕ほか、中央公論社 (1943)

762 :
「近代の超克」と「世界史的立場と日本」は表向きに編集された議論。
「大島メモ」の内容はそのノーカット版といったところ。

大島メモ「〔大東亜"共栄圏"という語は〕物質的繁栄を主とした安逸(easy-going)感を与へる故、使用を避けるべきである」

763 :
無の自覚的限定
非合理なるものは考えられないというのは、そのしかる所以をあきらかにせなければならない。
考えることができないというのは、既に考えることであり、そのこと自身が矛盾でなければならない。
個物的なるものが考えられるというにも、それが考えられるという限り、なんらかの意味において一般者の自己限定として考えられねばならぬ。

764 :
『善の研究』 を聴け
https://stories.audible.com/pdp/B07RBNVDNY
善の研究
Written By: 西田 幾多郎   Narrated by: 佐田 直啓   Length: 7hrs 26mins

765 :
>>764
途中に洋書の出典が挟まるのは青空文庫版か

766 :
善の研究だったら方法序説のほうがよくできてる。マルティンブーバー永遠の汝とかも上だ。敵の出現なんてもっと高度に取り交わされてる。国立系は日本はほぼ総崩れだなあ。

767 :
西田幾多郎はすっ飛ばす。詩のようでかっちょいい。
カントみたいに辛気くさくない。
不親切だが、いろいろと考えさせる。

768 :
論文は伝達こそ一義。
しかし詩は伝達は二義的なものだ。
ということは西田幾多郎の論文は哲学としては失格かもしれないが、詩的思想としては成功しているだろう。

769 :
帝大なんて第一志望じゃないところで哲学していいの?

770 :
だから、冗長な帰納法的瑣末主義のハイデガーは『存在と時間』を完成することができず、かといって、その帰納法の宿命ゆえに、最初から書き直さざるを得なくなったときに、あまりにも辛気臭いその道程に目をそむけ、放棄した、ということ。

771 :
夏目漱石の明暗の未完成よりハイデカーはちょっとな。明暗は誰が書いたのかしら。

772 :
わざと死んじゃうとか


773 :
>>772
吾輩は猫である?
まああれは、ワニが死ぬしょうもない話よりはおもしろい。

774 :
話を終らせるためだけに、猫をR、なんて発想は愉快じゃ。

775 :
>>766
デカルト(400年前)とブッダ(2400年前)

“我思う、ゆえに我あり”
― デカルト 『方法序説』

“〈われは考えて、有る〉という〈迷わせる不当な思惟〉の根本をすべて制止せよ。”
― ブッダ 『スッタニパータ』 916偈

776 :
真の無の場所とは何か。
有の場所に無の場所を見るのは可能か。
先験的真理=アプリオリ。
先験的空間=一般者。
映れるものを形相とするならば、それは全く形相なき純なる質料と考うべきだろう。
これに反し、映された形相を特殊なるものとして質料と考うるならば、それは形相の形相として純なる形相とも考え得るであろう。

777 :
有は無に於てある。




――了――

778 :
西田はしかし、私の思想は、善の研究の段階で定まっていたと書いている。

すべては善の研究に対する注釈を重ねていった人生ともいえる。

779 :
マールブルクがかいているように、カントにとっての総合とは、思惟と直観との総合なのだが、西田はそこを乗り越えようとしたのだが、はたしてその成果はいかに。

780 :
働くものから見るものへ
って善の研究とは全然違う雰囲気を感じたわ。
ちょっとしか読んでないけど。

781 :
>>780
『働くものから見るものへ』から西田は無の場所論を繰り広げるようになるからね。
相対的な、つまり有に対する無、だけではない、真の無の場所。
こういうのってカントにはない発想。

782 :
目的的統一としての自己の根底は流れ去るものではない、何時でも働いているのである。
元来意識統一というのは目的的統一を意味するのである。
而して目的的統一には何時でも現実を越えて志向するものがなければならぬ。
現われただけにて全いものとすれば、それはもはや目的を有ったものではない、目的的統一は何時でも無限の根底に結合していなければならぬ、自己というのは此の如き無限の流への結合点に過ぎない。


「直接に与えられるもの」西田幾多郎

783 :
いいこというねえ西田

無限となるとレヴィナスが想起されるね。読んだことないけどw

784 :
いいんじゃないかな。
>>783
レヴィナスの『全体性と無限』も出たし。まあ彼の無限は多分に倫理的過ぎるけども。

785 :2020/04/17
「疑いに耐えられない者は、自分に耐えられない。そのような人は
心許なく、成長しないので、生きてすらいない。疑いは、最高の
強者と最低の弱者のしるしである。強者は疑いを持っているが、
疑いは弱者を支配している。それゆえ最低の弱者は最高の強者に
近い状態にあり、自分の疑いについて『私はお前を支配している』
と言うことができれば、最高の強者なのである。しかし果てしない
カオスに耐えるのでなければ、誰ひとり自分の疑いを肯定できない。
われわれの間には全てを言うことのできる人がこんなにも多いの
だから、彼らがどのように生きているかを見なさい。そのうちの
一人が言うことは、極めて多いこともあれば、極めてわずかである
こともある。それゆえその人の生を探求しなさい。
 私の語りは明るくも暗くもない。なぜならば、それは成長する
者の語りであるから。」C.G.ユング、『赤の書』、p.420

※生きるために考えた part6※(少年ジャンプ)
ハイデ(ッ)ガー読書5
死んだら自我意識はなくなるのか、意識は続くのか
現象学辺りを用いて様々なことを考えてみよう
■■■■■■■■■■■フフ〜■■■■■■■■■■■
  スピノザ
ジャック・ラカン Jacques Lacan
■■■■■■■■■■■のマなでゅっ■■■■■■■
■■■■■■■■■■■ドレドレ■■■■■■■■■■
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