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オーディオ・マキャベリズム Ver.1.0


1 :2019/07/27 〜 最終レス :2019/12/25
「〜の王道」という言葉は
オーディオにとっては金次第。
ならば、徹底的に狡猾であれ。
  音質なんて空気のようなものに頼るな。
  他社製品を貶めてまで称賛せよ。
  貧乏マニアの多いことを誇大広告せよ。
  中古品と「もったいない」を葬り去れ。
全ては「オーディオの君主」たるものに
ふさわしい礼儀と言葉を弁えよ。

2 :
ルソーの「君主論」の評価に
  国王たちは人民が力弱く貧困に苦しみ自分たちに反抗できないことを望んでいる
というくだりがある。
これをそのまま読み替えると
  オーディオマニアは家電オーデイオが安かろう悪かろうの妥協の産物であり
  それより2ケタ多い投資をした自分の機器の足元に及ばないことを望んている
という論法が成り立つ。

ここで中身を検証すると
  オーディオメーカーの屋台骨は生産台数の多い家電オーディオにある
  価格が安くても音が良いオーディオ製品はほどほどに存在する
  多大な研究費を投じて造られたフラッグシップ機器はただの看板商品である

この結果から得られる教訓は
  オーディオマニアの多くは家電オーディオの消費に支えられつつ
  メーカーの看板を買ったことで満足している
ということになる。

3 :
メーカーの看板商品=フラッグシップ機は
いわばメーカーの存在意義を掛けた名誉そのものでもある。

それゆえ、オーディオマニアは、メーカーの名誉を買った者として
自分の勲章のように自慢したい。あたかも自分の名誉のように。

その意味では、フラッグシップ機には一種の人格が備わる。
機器ごとの個性とも言われるが、単なる違いだけではない。
トータルな品格ともいうべき、存在感があるともいえる。

それゆえ、オーディオ機器の品格が音楽を引き立て
あたかもそれ自体が芸術的行為のように称賛する。
鳴っている音楽ソフトが芸術性の源なのにも関わらず。

ここで得られる教訓は以下のようになる。
  フラッグシップ機には品格ともいうべきオーラが存在するが
  オーディオマニアはそれを所有する名誉のほうを重んじる
  たとえ鳴ってる音楽が誰でも同じ価格で購入できるとしても

4 :
ヴァルター・ベンジャミンは「複製芸術論」のなかで
レコードは生音とは異なる複製品であるにも関わらず
人間はそこに記録されている一種のオーラを感じとっている
そのような内容を記していた。まだ蓄音機しかなかった時代である。

日本の音楽批評家 野村あらえびすは「名曲決定盤」は
レコードに備わるオーラの存在を文章にした初期のものである。
まだその頃はオーディオ批評なるものは存在しなかったが
コロンビアの卓上電蓄よりも米ビクトローラのクレデンザのほうが
音の良いことくらいは誰でも知っていた。

野村あらえびす氏の決定的な違いは
どのような機材で聴こうと、音盤に蓄えられた音楽の内容は変わらない
という人間の感性の不変性を訴えたことにある。
作曲家と演奏家の歴史的背景、お国柄、演奏姿勢など
その文面はその時代の演奏家のポートレイトとも読み取れる。
レコードジャケットもなく、そこに解説など付かない時代に
同じ金銭で買うレコードに優越をつけて価値観を形成した。

5 :
野村あらえびすの時代は、SP盤の蒐集だけで巨大な投資を必要とした。
それほどレコードの価値が高かった時代でもある。
その一方で、現在の状況は新譜でも3,000円は高いほう。
かなりのオマケが付いて(例えば握手とか)売れ行きを伺う次第。
音楽ソフトのそのもののオーラは、それほど価値が高くない。

そこで、音楽ソフトの価値を高める再生機器の存在が浮上する。
レコードのもつオーラが相対的に下がっている現在
その価値を他人にも認めさせるための道具がオーディオである。

それゆえに、オーディオの価値とは
音楽のすばらしさを、その愛情に応じて投資しているという
所有者の自尊心そのものを示している。

ここで得られる教訓は
  オーディオは音楽のオーラを聴き取る手段であるが
  オーディオマニアは機器の性能がオーラの価値を高めると信じる
  そしてその価値観の高揚を、自分の手柄のように自慢する。
  オーディオとは音楽への愛情を示す自尊心のための道具である。

6 :
オーディオ批評の初期において、五味康祐の存在は際立っている。
野村あらえびすが「銭形平次」、五味康祐が「柳生十兵衛」と
共に時代小説で名を馳せたのは、なんとも奇妙ではあるが
音楽の評価に文筆力が発揮された好例ともいえる。

実はあれほどタンノイに御執心だったにもかかわらず
タンノイのどこが優れているかは少ししか文章にしていない。
あえて言えば、ユニット単体で買ったタンノイと
オートグラフに入れたタンノイとでは全くの別物であり
その違いについて自分なりに考察しているだけである。
むしろ自分がどれほど感動し興奮しているかを描写し
機材による音楽の伝わり方の違いを強調する
  洞窟の仄暗い雰囲気や、舞台中央の溶鉱炉にもえている焔
  そういったステージ全体に漂う雰囲気は再生してくれない。
  優秀ならざる再生装置では、出演者一人一人がマイクの前にあらわれて歌う。
  つまりスピーカー一杯に、出番になった男や女が現われ出ては消えるのである。

実はこれが五味康祐がオーディオ批評のなかで展開したオーラの正体であり
オーディオがレコードの価値を高める装置として覚醒した瞬間でもある。
  同じピアノでもベヒシュタインとベーゼンドルファーでは違う。
  ピアノという楽器の音でも、この違いはそれを選択する者の
  生き方の違いにつながる場合だってある。単に音とは言え、こわい話だ。
  そういう生き方につながる意味でも、わたくしはタンノイをえらんだ。

ここでオーディオマニアの君主論は以下のように展開される
  音楽が人生観に多大な影響を与えるとすればオーディオ装置にも同じことが言える
  オーディオ機器の選択の良し悪しは人間の生き方にも影響する
  自我の存在感を芸術鑑賞に委ねることは無限の価値を有すると信じ切っている
  そのための価値観としてオーディオ機器もまた自我を有する作品のひとつである
  オーディオマニアは自分の人生観よりもオーディオ機器のサクセスストーリーを好む

7 :
オーディオ機器のサクセスストーリーとはブランドイメージを意味する。
たとえ長く日本に置いてあって、湿気で木材がドンヨリ重たくなっていたとしても
国内産の箱よりもスコットランド産のオリジナルのほうが価値がある。
なぜならそこにブランド神話となりえるオーラが存在するからだ。

オーディオ機器の購入者をユーザーとは言わずオーナーと呼ぶ
このことさえも王侯貴族が召し抱えるという自尊心を示している。
家電のオーナーといえば大株主か創業者一族という感じだが
オーディオ機器のオーナーはかなり敷居が低い。

オーディオマニアの君主論は、それを所有する人が喜んでもらえるなら
用語の品位を上げることも必要となろう。それで価格が2倍で売れるなら。

8 :
バルカン星へようこそ!  .
://i.imgur.com/cv5TNaX.jpg ://i.imgur.com/rtk1XiX.jpg

9 :
Tomorrowland 登録者数 812万人 Tomorrowland 2012 | official aftermovie
://youtubetv.atspace.cc/?sop:v/UWb5Qc-fBvk!PUsN8M73DMWa8SPp5o_0IAQQ#MIX
://youtube.com/embed/UWb5Qc-fBvk

10 :
BABYMETAL検索いろいろ ://refind2ch.org/search?q=BABYMETAL
://www.google.co.jp/search?q=BABYMETAL&num=100&ie=utf-8
://www.google.co.jp/search?q=BABYMETAL&source=lnms&tbm=isch&sa=X
://www.google.co.jp/search?q=BABYMETAL&biw=1368&bih=966&tbm=vid
://www.google.co.jp/search?q=BABYMETAL&biw=1368&bih=966&tbm=nws
://www.google.co.jp/search?q=BABYMETAL&biw=1368&bih=966&tbm=shop

BABYMETAL - ギミチョコ!!- Gimme chocolate!! (OFFICIAL)  
://youtubetv.atspace.cc/?sop:v/WIKqgE4BwAY!RD7NL1u9G5CbA
://youtube.com/embed/WIKqgE4BwAY
BABYMETAL - いいね!- Iine! - Live in TOKYO 2012 
://youtubetv.atspace.cc/?sop:v/f7OLcw9OKHU!RDf7OLcw9OKHU
://youtube.com/embed/f7OLcw9OKHU
BABYMETAL - LIVE 〜LEGEND 1999& 1997 APOCALYPSE〜 Trailer 
://youtubetv.atspace.cc/?sop:v/E89u4rOG0CY!RDE89u4rOG0CY
://youtube.com/embed/E89u4rOG0CY
BABYMETAL - LIVE IN LONDON -BABYMETAL WORLD TOUR 2014- trailer 
://youtubetv.atspace.cc/?sop:v/7NL1u9G5CbA!RD7NL1u9G5CbA
://youtube.com/embed/7NL1u9G5CbA
BABYMETAL - LIVE AT BUDOKAN 〜RED NIGHT& BLACK NIGHT APOCALYPSE〜 Trailer 
://youtubetv.atspace.cc/?sop:v/RZ4Fzp33mGk!RDRZ4Fzp33mGk
://youtube.com/embed/RZ4Fzp33mGk

11 :
Star Trek Beyond: Starbase Yorktown Introduction Sequence
://youtubetv.atspace.cc/?sop:v/eZTnSxW4pOI!UU6vk-6pI8xMEomE_4qmymeg#MIX
://youtube.com/embed/eZTnSxW4pOI

12 :
【4K】Roppongi - from Roppongi hills to MidTown - Phil Sheeran - More Questions 
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13 :
あなたの耳にスマートな響きを!
://player.vimeo.com/video/345140497?loop=1
://i.vimeocdn.com/video/794830980.jpg

14 :
Exclusivel 2301 Oldplayer.ru 
://youtube.com/embed/aIrtBCSFrEw?list=PUI3usegZXSvEQdj_Quc8keA

15 :
Ramsey Lewis - Love Notes
://youtubetv.atspace.cc/?sop:v/LVmpNBa4hcM!PLvy11NbZJ_kHsLhJYYbLR2tNoddobgnLX#MIX
://youtube.com/embed/LVmpNBa4hcM

16 :
Joe Sample - Rainbow Seeker II
http://youtubetv.atspace.cc/?sop:v/UXM-w19gz7g!OLAK5uy_mOhvFqPqMzH7Oo1eBcHZWgto2y_VpxiIA#MIX
http://youtube.com/embed/UXM-w19gz7g

17 :
Gregg Karukas - Believe in Me
http://youtubetv.atspace.cc/?sop:v/ex9naPfO53Q!OLAK5uy_kzeBk57mYGh6qJqsDKksLp-KZdaxSy2aY#MIX
http://youtube.com/embed/ex9naPfO53Q

18 :
Dubai Mall - World's largest Shopping Mall
://youtubetv.atspace.cc/?sop:v/HksDvkX6Bjk!RDHksDvkX6Bjk!zrGcdnZ_rWc!RDfUxWuoDqfZY#MIX
://youtube.com/embed/HksDvkX6Bjk

19 :
【4K】Roppongi - from Roppongi hills to MidTown - Phil Sheeran - More Questions 
://youtubetv.atspace.cc/?sop:v/1BH_BD5J_iw!RDHEt6c_hdjLsq7uWkF_B5IL0AOVexJV-plMPudYuEiCVZM6!8nc93n-06GM!PLZVnoUeSWKGXozAzao7WK70jPczw4HM5L#MIX
://youtube.com/embed/1BH_BD5J_iw

20 :
とはいえ良い意味で念入りにチューンアップされたオーディオ機器も存在する。
これは数百万もするハイエンドに限ったことではない。
カタログに美辞麗句で埋め尽くされた製品よりも
手慣れた手法で造り込まれた中級品のほうが良い場合も多い。

ただ音楽を聴くために機能に絞ったといえば、聞こえは良いが
中堅機の購買層には意外に音楽そのものへの知識が十分でない場合もあり
昔から言う音楽ファンのためのリーズナブルなチョイスというのが
あまり喜ばれない傾向がある。
そもそもオーディオ道楽そのものが不要の用のようなところがあり
購買意欲、所有することの満足感を促す広告、批評は不可欠かもしれない。

21 :
一方で、宣伝効果を求めるあまり
音楽とはあまり関係のないコメントも多々ある。

クラシックの試聴で、ミケランジェリ、クライバーのような
通常のレベルを超えたマエストロの録音を試聴に使っては
演奏への理解の限界のほうが際立ってしまう。
このような演奏へは、オーディオ的な機能性の咀嚼は
ほとんどの場合、底の浅い言葉の連続に、無意味になる。

例えば、ミケランジェリのドビュッシー 映像などどうだろうか。
全ての音が必然的な響きとして収まり、不自然なところがない。
この音楽の自然な流れというのは、オーディオ批評の美辞麗句では
とても埋め尽くせない。1971年のアナログ録音なのに
まるでカメラでクローズアップしたり、パンフォーカスで引いたりしたように
全ての音が明瞭でありながら、どこまでも融け合っている。
これは、ただワイドレンジである以上に、高域と低域のレスポンスが揃い
タッチの硬さ柔らかさを瞬時に描き分ける能力が必要である。
しかし、こうした基本的な機能性は、地味なだけに気付きにくい。

22 :
ミケランジェリ、クライバーが共に共通するのは
コンサートでのサボリ魔としての浮名である。
その日の気分で、何かしら理由をつけてコンサートをキャンセルする。
そうしたことから、ライブで聴くことの希少性も手伝って
ほんの数枚のレコードが伝説的になっている。

クライバー/ウィーンフィルのベートーヴェン 運命&7番の場合
両者の相性の良さと相まって、はち切れんばかりの生命力に満ちている。
何よりもウィーンフィルがこれだけ仕事している感じを醸し出すのは
ほとんど稀有の事態でもある。ともかく聴かせどころを次々に連発し
ウィーンフィルのヴィルテゥオーゾ性を古典作品で存分に発揮している。

しかし、デュナーミクの対比、全体のバランスが
通常の演奏に比べると、裏をかくように変化をつけている。
それが自然な人格的な一致で語られているところが
やはり破天荒だったベートーヴェンの性格とも重なってくる。

こうした演奏をオーディオ的に吟味する場合
オケの細部がどれだけ聞けるか? 楽器の定位感のパースペクティブは?
こうしたオーケストラ作品の再生のポイントとなる面を挙げるだろう。
しかし考えて欲しい。この録音は1974、76年のものであり
ステレオに奥行き感を盛り込んだ初期のものであったことを。
マルチマイクによって楽器のクローズアップはされているが
その混ざり具合は、アナログ的な溶け合いのなかで描かれている。

23 :
クライバーの運命&7番で重要なのは
それがウィーンフィルの音であるという点だ。

昔のファンなら判るが、当時はレーベル毎のサウンドカラーが強く
デッカ、EMI、グラモフォンとそれぞれが全く異なっていた。
そのなかでグラモフォンの録ったウィーンフィルは
デッカの煌びやかさに比べ、蝋燭の光で照らし出した少しマットな光沢である。

おそらく比較する音として、ベームの全集をもっておくと便利かもしれない。
大学教授が集まった伝統的なカペルマイスターの仕事ぶりがある一方で
時代の一歩先に進もうとクライバーを好んだ面も伺える。

この少し後の時代には、ウィーンフィルはもっと国際的な機能性をもった
芸風に変わっていくのをみると、クライバーの演奏はひとつのピリオドを示す。
バーンスタインやアバドなど、情熱や精緻さを注ぎ込んだ演奏も出てくるが
作品論ではなく、文化そのものを体現できるマエストロはそれほどいない。
鑑賞というより、体験する時間をもつことが大切なのだと思う。
クライバーの演奏は、在り来たりな言い方をすれば
ベートーヴェンの時代と現代とを結ぶ文化的な体験そのものなのだ。

24 :
さて、オーディオ談義のほうに戻ると
1970年代のクライバー&ウィーンフィルの再生に必要なものとは何だろう?

ひとつはウィーンフィルの光沢感をいかに綺麗に出すか。
ほとんどの人はツイーターの音色を挙げるだろう。
例えば、ハーベスのような艶やかさ、あるいはクォードのような繊細さ。
逆にタンノイのようなゆったりとした低音に支えられた腰の強い高域。
こうした表面的なものは、木管群の大胆なコントロールを見逃す。
つまり、中域の表現が沈み込んだシステムでは
オケをコントロールしている機構を把握しきれない。
しかしウィーンフィルはウィーンフィルである。

低音の引き締まった刻み具合はどうだろうか。
1974年はアブソリュートという言葉がようやく出てきた頃で
ただホールらしさが出てればオーケストラらしいという
手ぬるい表現が難しくなった時代である。
その再生能力を試すソフトとして、クライバーのベト7番は最有力だ。

現代のシステムで考えると
低音の引き締まりというのは、むしろタイト過ぎるくらい良くできている。
むしろアナログ録音に特有の艶やかさが出しにくいと思う。
1970年代の録音は少し倍音を補足して滲ませないと美しくないし
ダイレクトに鳴らすとギスギスした感じを出すことがある。
倍音の良く出る真空管プリアンプ、ドライブ力の強いパワーアンプという
少し相反した組合せを当て込むという指針だ。

25 :
1970年代で気を付けたいのは
録音側でのソリッドステート化が急激に進んだことだ。

それまでの真空管&トランスで培われた音質
つまりパルス波のオーバーシュートによる光沢感と
磁気ヒステリシスによる音の粘りが失われる途上にあった。
アンプはトランジスターによるDCアンプが主流となり
スピーカーでは高調波歪みを抑えた引き締まった音質が好まれた。

とはいえ、1990年代以降のように歪みが完全に制御されておらず
そのことがスピーカー特有の癖に結びついていた。
ロジャース BBCモニターとB&W 801を比べれば
その傾向の違いはよりはっきりするだろう。
むしろB&Wなどでクライバーのベト7をモニターすると
楽器の遠近感の詰めが甘いことが判るかもしれない。
その意味では、もう少し漫然と鳴ってもらったほうが良いのだ。

26 :
クライバーのベト5&7番が漫然と鳴ってほしい理由は
ウィーンフィルが一丸となって威力を放っているのを
あえて分析的に聴く必要が感じられないからである。

あえて言えば、アスリートとボディビルダーの違いであって
しなやかな運動体としてのオーケストラの姿を
僧帽筋や上腕三頭筋に分類して肉付きを吟味するようなまねは
あまりしたくないのだ。

しかし、ただ漫然と鳴ってほしいわけでもない。
次々にウルトラCの技を繰り出すヴィルティオーゾ性を
ウィーンフィルにやらせているのが、この演奏の魅力でもある。
これがベルリンフィルやシカゴ響なら別に驚かない。
しかしウィーンフィルのあの音色で鳴りひびくことが
ミューズの宴とも言うべき、何とも抗しがたい魅力をもつ。

27 :
肝心なのがステレオセットの1世帯当たりの所有率で
1970年で3割、1974年に5割を行った後はほぼ横ばい。
ttps://www.env.go.jp/policy/hakusyo/img/159/fb1.2.2.1.gif
1970〜74年に起こったのはFMステレオ放送の全国ネット化だった。
他の半数の人は、ラジカセで聴いていたということになる。
そのラジカセも、1977年まではステレオ仕様は希少で売れない状況で
ステレオセットを持たない家庭は、テレビも含め歌謡曲をモノラルで試聴してた。

28 :
興味深い
もっと書いて

29 :
ウィーンフィルの音色(ねいろ)について、デッカ、EMI、グラモフォンと
レーベル毎に違うように聞こえることは、よく指摘されていた。
特にデッカによる録音の数々は、その輝かしいサウンドで
ウィーンフィルの音色がいかに特別なものかを象徴している。

決定的だったのはステレオ初期のショルティ「指輪」の録音で
モチーフの描写を細部まで克明に記録した結果
音響による絵巻をみるような壮観な出来栄えとなった。
もともとバイロイト音楽祭専用ともいうべきレパートリーに対し
隣国のウィーンはその伝統から外れていたのだが
バイロイト特有のくぐもった神秘的な音響の森から解放されて
白日の下に照らされたオケの収録は、団員の意気込みもあって
指輪を巡る冒険を読み解くのに、新しい発見に沸き立つ雰囲気に満ちている。

同じようなことは、カラヤン&デル・モナコ「オテロ」にも言えて
シンフォニックな色合いを強調したスペクタルな興奮に包まれる。
こちらはザルツブルク音楽祭での実績を積んでのことだが
歌手を奥まったサウンドステージの上に載せるなど
その後のオペラ録音の潮流を見出しているように思える。
同時期にEMIがリリースした セラフィン&ローマ歌劇場のオテロを比較すると
オケも広くステージを構えるサウンドステージをもっており
当時は霧の向こうで鳴っているようなモヤモヤした印象がぬぐえなかったが
デジタル以降の録音に慣れた人には、むしろ自然に感じるかもしれない。

30 :
ウィーンのオペラの面白いのは、歌手のアンサンブルの親密さで
ソロ同士で覇気を競うというよりは、ひとつの家族のような和合がある。
最も効果があったのがモーツァルトの歌劇で
まるで日常会話のように自然な掛け合いが溶け合った間合いが得難い魅力となる。

1950年代にはひとつの歌劇場で専属のままキャリアを維持した歌手も多く
その後のジェット飛行機で国際的に活動を広げる時代とは事情が異なる。
おそらく1960年初頭のカルショウの録音にみる引き締まった表現は
歌手のバラエティに対するウィーンという街のオペラ気質が確固として存在している。

意外なのは、クレメンス・クラウスが1953年にバイロイトを指揮した「指輪」で
アンサンブル重視で進行する引き締まった表現は実にウィーン流儀である。
それでいてR.シュトラウス仕込みの優美な表現主義が入れ混じって
15世紀の装飾写本をみるような細密画の雅なフォルムを感じる。
それが19世紀末のウィーンやパリのアール・ヌーボー作品と重なるのだ。

31 :
一方で、室内楽におけるウィーンの伝統をみると
モノラル期のウェストミンスターの録音からスタートし
デッカではボスコフスキー主催のウィーン八重奏団など
ウィーン古典派を中心としたレパートリーが残されている。
舞曲やディベルメントといった気軽なレパートリーも万遍なく手掛け
どちらかというと大らかな田舎風の雰囲気が漂っており
その後の室内楽演奏の精度を競う潮流からは外れているが
ふと思い出して聞いてみると、懐かしい感じに包まれる。

こうした録音を聴いてみると、ウィーンは個々人においても気質を受け継いでおり
ウィーン楽友協会という音楽大学まで連なる自主運営が
本当に意味のあるものとなっているように思える。

32 :
ウィーンとデッカという組合せは、クラシックというジャンルの統合体という感じがある。
それは室内楽から交響曲、はたまたオペラにいたるまでを優雅に包み込む。

その一方で、デッカの録音というと他のレーベルに対し
唯我独尊の艶やかさがあり、それがオーディオ装置の調整を狂わせる。
デッカに合わせ調整すると、EMIの録音はくぐもった霧の向こうに響き
グラモフォンは古武士のように骨っぽく響く。
当初は、デッカ特有のffrrカーブのせいだと言われていたが
三つ子の魂百まで、と言わんばかりに引き継がれるのである。

33 :
デッカ特有の色艶は、よくRIAAとの比較で8kHz以上の高域と勘違いされがちだが
実際には2〜6kHzの中高音のピークであり、人間の耳につきやすい音域である。

クラシックの録音では、シンフォニーホールの音場を意識しているので
この帯域の直接音はジャズ的で雰囲気を削ぐと考えやすいが
デッカはそこを突いてくる。

デッカのマイク位置で特徴的なのが、Decca treeと呼ばれる3マイクのセットで
ちょうど指揮者の頭上から鳥瞰するように集音する。
ttp://polymathperspective.com/?p=3219
オーケストラともなると、左右に補助マイクや、ピックアップも配置するが
中央のマイク配置は、ホールに音が放り込まれる境界線を狙っている。

とはいえ、EMIの本陣アビーロードでも同じマイク配置での録音はされており
レーベル毎のサウンドポリシーのほうが明らかに勝っている。

34 :
では、デッカのオーディオ装置の考え方はどうだったかというと
Hi-Fi初期からオーディオの開発にも余念がなかったが
縦横振動型のVLカートリッジ、リボンツイーターなど
どちらかというとこちらも唯我独尊の機構で
ffrrカーブだけの問題とは考えていなかった。

こうした考え方はパイオニア精神あふれるというよりは
電蓄時代に培った総合音響メーカーとしての立場を踏襲したもので
HMV、RCAなどの時代からレコードと蓄音機を一緒に販売する体制にあった。

個人的な感想では、デッカ社ののオーディオ機器は
それ自体はとても真面目な音のするもので
逆にいえば無個性で面白味がないともいえる。

35 :
もうひとつ見方を変えると
海外での合弁会社、米デッカと独テルデックの録音の違いである。
あるいは日本のキング・レコードが手掛けたロンドン・レーベルを挙げても良い。

米デッカはどちらかというとポピュラー音楽において優勢だが
周囲のジャズ録音がもっと派手な演出をしていたなかで
比較的マジメな音の造りで、落ち着いたホームミュージックを意識していたと思う。
そうしたなかに、マントヴァーニ楽団のセミクラシックがあり、ひとつの調和をもっていた。

独テルデックは、旧テレフンケンの硬質な音質を引き継いで
艶やかというより、鋼鉄のようなソリッドな切れ味が目立つ。
カイルベルトの旧録音、アルバンベルク四重奏団、アーノンクールなど聴くと
英デッカの資本が入っているだけ、と思う人も多いだろう。

日本のロンドン・レーベルは、同じデッカ録音でも飴色の柔らかい音色で
英デッカのレコードと比べても、全く違う音色なのに驚いたものだった。
クリップス、イッセルシュテットのような中堅指揮者の魅力を巧く捉えていて
どちらかというと、キング・レコードのほうが良識的に思えたのだが
これが英デッカの本領かというと、少し違うようにも思われる。

こうした違いの多くは、アナログ時代に、マスターテープが同じでも
現地のカッティング工程でリマスター作業を行うことが慣例としてあり
海外での展開において英デッカへの見方が
酸味を中和するか、極端に辛みを増すか、両極端に触れた結果と思う。
プロの現場でさえそうなのだから、家庭オーディオの行く末はもっと多様なのだ。

36 :
デッカやEMIのスタジオでタンノイのモニターが使われていたのは誰しも知っている。
ステレオ期は同じ38cmのレッドまたはゴールドモニターだったが
デッカが普通のGRFを使っていたのに対し
EMIがLockWood社の角型箱に入れた物だった。
Decca)
ttp://westhampsteadlife.com/wp-content/uploads/2017/12/Mike-Smith-at-Decca.jpg
ttps://i.pinimg.com/originals/97/95/3a/97953ae0e4a32b96d0e4321652a2c035.jpg
EMI)
ttp://cent20audio.html.xdomain.jp/1950/BBC/abbey_road_studio-1a.jpg

タンノイの同軸型は、単体では非常にキレの強い高域をもっていて
オートグラフのような箱に入れても負けないくらいのバランスである。
デッカが家庭での試聴を意識していたのに対し
EMIが音の記録そのものに傾聴していた感じがある。
なんといってもEMIはステレオ録音のパイオニア、ブルムライン博士が居たのだ。

37 :
ブルムライン博士のステレオマイクは、8字指向性のマイクをX型に配置するもので
残響を逆相で一緒に収録するタイプのもの。
ttp://www.chrishancock.network/wp-content/uploads/2017/11/Blumlein.jpg
1950年代までの初期のEMIではこの収録方法が使われたが
段々とマルチマイクのセッテイングへと移行していった。

ブルムライン方式を最後まで守り通したのはBBCのライブ収録で
最初の成果が1959年のホーレンシュタイン指揮の「千人の交響曲」。
その後にステレオ放送が浸透するには時間がかかり
1970年代に入って家庭でのステレオ試聴が花開いた。
キングズウェイ・ホールからの中継が最もお手本になり
KEFやロジャースなどのBBCモニターの系譜も一般に知られるようになる。

38 :
BBCモニターが世界中で知られるようになったのは
1970年代のLS3/5aやLS5/8が一般発売されてからで
それまではBBC以外は門外不出の扱いだった。

このときの研究成果として、
スピーカーのインパルス応答の鋭さ
左右のチャンネルセパレーション
8kHz以上での正確な再生などが挙げられ
現在のステレオ再生の基本が確立された。

BBCモニターの音調は、KEF、ロジャース、ハーベス、スペンドールと
それぞれに特徴があるものの、強いて言えば高域に独特の艶や辛味があり
それが立体的なサウンドステージとの兼ね合いと一体化している。

39 :
ちなみにステレオ録音での奥行きのあるサウンドステージは1970年代以降のもので
それまでは平面的なスクリーン型の配置だった。

オートグラフのもつタンノイ・ステージと呼ばれるホールトーンは
一度コーナー型の箱に低音を溜め込んで、ゆっくり吐き出すタイミングが巧みで
ユニットそのものの推進力が、音楽の躍動感を保持している。

BBCモニターは、こうしたハードウェアでの疑似ホールの再現を必要としない
ソフト側でサウンドステージを再現できる要件を整えた点ですごかった。
ttp://downloads.bbc.co.uk/rd/pubs/reports/1970-13.pdf
ttp://downloads.bbc.co.uk/rd/pubs/reports/1976-29.pdf
LS3/5aのような小型スピーカーで、目の前にミニチュアのホールが出現するのは
こうした研究の終着点に、家庭用のステレオ試聴の在り方を見据えた結果だった。

40 :
BBCの提示したステレオイメージの刷新はFMステレオ放送によって
ニアフィールド・リスニングの手法として広がった。
ttp://www.keith-snook.info/wireless-world-magazine/Wireless-World-1968/Stereophonic%20Image%20Sharpness.pdf
とはいえ、ブルムライン方式での中継はイギリス国内でのことだったので
このイノベーションの意味は比較的曖昧なまま据え置かれたと思う。
ただ、バッフル面が細く奥行きの深いスピーカーが
ヨーロピアン的な奥に広がるサウンドステージを作り易いという認識だけは広まった。

その一方で、タンノイの持っていたハードウェアとしての恰幅の良さは
日本では根強い人気があり、その伝統の多様さこそが
ヨーロピアン・サウンドの面白さを引き立てているように思う。

41 :
さて、ヨーロピアン・サウンドを語るのに、スピーカーがブリティッシュばかりとは物足りないが
実際に1970年代にドイツや北欧はおろか、フランスやイタリアのメーカーに
オーディオファイルに希求した製品が少なかったとも言える。

一方で、レコード再生では、オルトフォン、トーレンス、EMTなどがあり
繊細さが求められるクラシックの録音では、まさに高値の華だった。
ただしドイツ・シャルプラッテンやテルデックのような純正にドイツ的な録音は
少し骨太なエラックやシュアーのほうが相性が良かった。
フィリップス、エラート、スプラフォンなど、地域に寄り添ったサウンドがあり
そのまま演奏の個性に直結していたように思う。

42 :
フィリップスの録音は、ナチュラルと言えばナチュラルだが
再生装置によってはボヤけた印象のものも少なくない。

ステレオ以降のモニターがQUADという条件もあっただろうが
静電型で音の立ち上がりが繊細であるという以外に
ステップレスポンスがキッチリ逆三角形になるため
もともと音場の表現が鮮明な点が挙げられる。
ttps://www.stereophile.com/content/quad-esl-63-loudspeaker-measurements
これで豊満なコンセルトヘボウの響きを縫って各楽器の表情が保てる。
一方で、ESL63ともなると大型の割には
ステレオのスウィートスポットの狭いことでも知られ
なかなかマニアックなスピーカーでもあった。

実際のヨーロッパの録音セッションとなると
モニタールームのない古い会場では
ヘッドホンでの試聴ということもよくあり
ベイヤーやAKGなどが古くから使われていた。

43 :
フィリップスの録音では、オケ物がハイティング、コリン・デイビス、小澤征爾など
どんな難曲でも温和にまとめ上げる指揮者が選ばれる傾向があり
いずれもアムステルダム、ロンドン、ボストンと地域密着で長くポストに就いた人たちだ。
ショスタコーヴィチ、ベルリオーズなど、異国での全集など誰が夢みただろうか?
それだけに録音の奥底までが聞こえずに、何となく聞き流しているようににも思える。

一方でソリストのほうは、ブレンデル、アラウ、グリュミオーなど
個性的な演奏者と長く付き合って全集物を揃えるほかに
ソビエトやイタリアの室内楽奏者を迎え、貴重なレパートリーを埋めている。
イ・ムジチの四季、ロストロ&リヒテルのベートーヴェン、ボロディン・トリオのハイドンなど
その録音を通じて広まったレパートリーも多くある。

44 :
ん?ハイティングのショスタコはデッカのオリジナルだったか。
次のシャイーからはコンセルトヘボウ管はデッカに移ったので
現代曲も含めたレパートリーの拡充に走った時期という感じだろうか。
特に本国でも演奏される機会の少ない声楽付きで難解な13、14番では
この録音で初めて真価を知った人も多かっただろう。

アラウの録音は、日本ではポリーニやブレンデルほどの人気はないものの
ベートーヴェンの演奏は正統派という意味では
一番安心して聴けるもののひとつだろう。
底光りするピアノの音は、リスト直系というには
例えばボレットのような艶やかさはないものの
兄弟子のエドウィン・フィッシャーのようなヒューマニズムを感じる。
ショパンの夜想曲の深い表情は、ドイツ系というよりもラテン圏のカトリックのもので
フォーレやモンポウの夜想曲へと続く祈りの世界だ。

同じラテン系のポリーニはどうかというと、こちらも悟りの世界である。
心の葛藤というよりは、もっと明るい光のようなものがあるという希望につながっている。
凡人の夜想曲がベアトリーチェへの恋煩いなら、こちらは天国篇に差し掛かってる。
やはり悟りの境地なのだ。

45 :
ポリーニの夜想曲は、サロンというより修道院の雰囲気があり
ノクターンの元の意味である晩祷を思い起こさせる。
ミレーの農民画にも晩祷があるが、身分に関わらず神聖なときなのだ。
晩祷が一日の感謝の祈りを主体とした賛歌で彩られるとすれば
ショパンのそれは、もっと夜中の祈り、終祷のような気もするが
そこでは罪の悔い改めと復活への願いが込められている。
ポリーニのそれは、罪が引き起こす死の影を思いつつも
フラアンジェリコの壁画のような明るい希望を感じる。
それがポリーニのもつ正確な遠近法に基づいた
建築物に似た構図の均整によって
心の奥まで光に満たされる。

46 :
1970年代以降のグラモフォンがやや奇をてらった演奏で注目を集めたとすれば
フィリップスはハイティンク、グリュミオー、ブレンデルと
まさにスコア通りの模範演奏で高度な芸術性を提示するアーチストが目立つ。
レコード会社が有名曲のカタログを揃えるのは、音楽出版と同じ傾向にあるが
こと全集モノとなると、演奏家もレコード会社も大きな負担を強いることになる。
フィリップスの全集物は、ことさら文化事業的な趣が強く
その時代の作品理解の代表例を導き出しているようにも感じる。

とはいえ、例えばベートーヴェンの交響曲全集ともなると
買い手のほうも慎重にならざるをえず
グラモフォンがカラヤン、ベーム、バーンスタインとスター級をそろえるのに対し
フィィップスがヨッフム、ハイティンク(2回)、デイビスと質実剛健。
かといって、メンゲルベルク、ブリュッヘン、小澤征爾など意欲的な演奏もあり
今となっては解釈の幅を楽しめるようになっている。

47 :
レコード批評という観点からいうと、何か優越を競う感じがあって
そこに指揮者の個性、オーケストラの機能性など様々な要因が挙げられる。
機能性という点では、セル&クリーブランド管、ショルティ&シカゴ響などがあるが
ベートーヴェンという強烈な個性が綺麗に割り切れない印象を受ける。

おそらくハンガリー系の指揮者の合理的思考がそうするのかもしれないが
同じハンガリー系でも弦楽四重奏ともなると評価は逆転してくる。
独墺系の四重奏団が、オーケストラ活動と並行して活動していたのに対し
ハンガリー系は専従の四重奏団で、練習量も段違いのように感じる。
個々人の癖の出やすい室内楽においては、散漫さは退屈と隣り合わせになりやすい。
このときにはハンガリー系の勤勉さがプラスに働くのだ。

個人的には、ウィーン系の緩やかな休日を楽しむような演奏も好きで
モーツァルトやハイドンにおいては、喜遊曲という性格は欠かせないと思う。
作曲当時は、演奏に心得のある人たちだけで、交代しながら鑑賞する作品で
作品の純器楽的な構成もさることながら、コンサートにはない親密な距離感も重要だ。
そうした心置きなく言葉を交わせる関係が、ちょっとした間合いから漂ってくる。

48 :
セル&クリーブランド管については、いくつか思いがあって
ひとつは頭角を現した1950年代末頃のアメリカは
トスカニーニが開拓した新即物主義が一番力をもっていた時期で
R.シュトラウス仕込みの淡いロマン主義の系譜をもったセルの芸風は
聴き様によっては、アセチレンガスの炎のような青白い燃焼度を感じる。

実はこうしたサウンドは、真空管アンプを前提とした音造りでもあって
1970年代以降のFETアンプでは、スマートさと痩せぎすの紙一重になる。
セルのコロムビア録音の評価が真っ二つに分かれるのは
安定した三角形の底辺をもつ装置を持たない人のやっかみのようなところもあり
何を聴いてもメンデルスゾーンのような感触を受けるように思える。

ベートーヴェン、シューマン、ブラームスの全集に関しては
1960年代では一番安定度の高い全集でもあり
シェリングやアラウのような演奏家の好きな人にとっては
得難い魅力があるものと思う。

49 :
シェリングの欧米での評価は、日本でのそれに比べやや地味な感じで
ドイツ正統派というのが、アウアー派やフランコ=ベルギー派に押されて
なかなか評価されにくい状況があるように思う。
例えば、英ペンギン レコードガイドでのブラームスのVnソナタ集は
スークが一番でシェリングは番外という扱い。
随分と地味なチョイスをしたもんだと思う。

50 :
ロマン派というと、気宇壮大なものを思い浮かべやすい。
その対象の多くは交響曲というジャンルに求められる。
ベートーヴェンの第九の再演がバイロイトで行われたと言えば
そこにロマン派の求める入り口があったと言わなければならない。

一方で、精神的なロマンチシズムについては、意外に語られない。
個人的には、家庭的な淡いロマンチシズムというのが好きで
カール・ラーソン、ヴィルヘルム・ハンマースホイなどの北欧ロマン主義は
そうした嗜好を満たしてくれる。

シューベルト、ショパン、シューマン、ブラームスのような大家の作品は
作品解釈もかなり多種多様で、それこそサロン文化の名残だろう。

少し外したところで、ロマンチックな肖像画を選んでみると
以下のようなものが見つかった。

ギレリス:グリーク抒情小曲集
クレーメルら:ウィンナ・ワルツ集(室内楽版)
福田進一:ショパン(ギター編曲版)

51 :
ピアノの再生について、日本での演奏評価が思索的になるのは
おそらくほとんどの装置がピアノのパースペクティブを再現できていないからだと思われる。
単に音量的なスケールではなく、打鍵のインパクトが推し潰されていることが多い。

例えば、アラウのリスト超絶技巧練習曲(1974〜76、コンセルトヘボウ)などは
パッと聴きでは暖かい響きのために、人情に厚い演奏のように思われるが
あの大きな体格から押し出されるスタインウェイの低音弦のパッセージの凄さは
それだけで聴く人の全ての感覚を奪ってしまうほどの力をもっている。
大海の波に揺られて船酔い状態になるような深い咆哮がある。

52 :
時代の波とは恐ろしいもので、村上春樹の小説の影響だと言われるが
ベルマンのリスト巡礼の年(全曲)のような静謐な演奏が受け容れられている。

録音は1970年代末で、19世紀的なヴィルトゥオーゾで腕を鳴らしたベルマンが
晩年の聖職者となったリストの心境をひたすら語り通す。
表面的には19世紀風のゴシック・リバイバルの余波にも見え
リストが巡礼という行為にどれだけ本気だったかは知る由もないが
晩年をイタリアのフィレンツェで過ごしたベルマンの心境とも重なったのだろう。
あるいはヨーロッパ的なものが崩壊していく、ポストモダンの時代を予見しており
その感傷的な喪失感が、音の端々に現れている。

こうした倒錯した心境は、マーラーのほうが正直に描いていて
むしろピアノ曲で表現したことが目新しいことだったと思う。
あるいはシューベルトのピアノ・ソナタが同様の位置についていて
ロマン主義をさらに陰鬱な感情で取り巻いているような気がする。
とはいえ、時代の喪失感を失恋になぞらえていたのは
まさに19世紀初頭の主要テーマでもあったのだから
若きウェルテルは今も民衆の心を捉えて離さないのだ。

53 :
ヴィルトゥオーゾがそもそも英雄的な力の理論だとすると
それを敗者の理論で彩る演出は、ベートーヴェンの英雄2楽章から
ロマン主義の鉄板でもあるように思う。センチメンタルな時代感である。

ギレリスのグリーク、福田進一のショパンから感じるのは
もうすでに喪失感を味わい尽くした人のもつ優しさでもある。
こうした優しさを音で表現するというのは、なかなか難しい。
柔らかいと同時に、切実な思いが瞬時に湧き出る
本当のアキュレートが必要とされるからだ。

54 :
ポストモダンを脱構築となぞらえるなら
古楽器でのオーセンティックな演奏理論は、バロックから19世紀末まで広く浸透している。
それまでの19世紀的な楽壇の有様を、曾祖父にまでさかのぼって見直すというのだ。
画期的だったのは、1978〜85年のホグウッド/AÅMのモーツァルト交響曲全集で
それまでほとんどレパートリーに入らなかった初期〜中期の交響曲を
溌剌とした表情でブラッシュアップして、各都市での交響曲の成立史まで画いた。

そもそもコンサート・オブ・エイシェント・ミュージックというのは
18世紀末に急激に変化するイギリス音楽界の動向を憂いて
ヘンデルやコレッリといった過去の作品を鑑賞する定期演奏会のことで
現在のクラシックという音楽ジャンルの言葉の定義を与えたものである。
この団体から派生して、バッハの作品の再出版がはじまり
現在のロマンティック・オルガンの様式は、バッハ演奏のために考案された。
それまでイギリスのオルガンにはペダルが無かったのだ。

現在の世界有数のモダン・オーケストラがマーラー・チクルスをこなすのも
自分たちの存在理由を、本来のクラシックの意味から見直すことが必要だからだ。
その意味で、オーケストラ指揮者としてその機能を最大限に駆使し
人間のエゴの可能性を切り拓いたマーラーの作品は
モダン・オーケストラの自画像として鑑賞することができる。

55 :
マーラー作品がモダン・オーケストラの自画像とするなら
ステレオ機器の発展がコンサート・ホールでのオーケストラの疑似再生と重なる。
RCAがリビング・ステレオと銘打ったのは、自宅でのコンサート気分の再現であり
録音史とマーラー演奏の可能性は、それが大掛かりな一期一会の催しなだけに
ステレオ録音のアーカイブのなかに、録音史と演奏史がほぼ相似形となって残っている。

56 :
従来のモダン・オーケストラの自画像はベートーヴェンだった。
市民社会に支持され独立して活動できた最初の器楽作曲家であり
オーケストラの機能性を拡張しながら、ロマン派への道を切り拓いた。
一方で、ベートーヴェン作品がクラシックの殿堂入りを果たしたのは
19世紀も半ばに達してワーグナーによる第九の再演からであった。
その頃の改訂が、後のベートーヴェン解釈と深く結びついている。

同じ方向性はモダン・ピアノにも言えて
ベートーヴェン→ツェルニー→リストへと続く系譜のなかで
1850年頃に立て続けに起こったピアノの改造によって
ロマン派時代のピアノの様式が確立した。
いわく、リストの打鍵の強さに耐えられる構造が必須であり
それとピアノ演奏の可能性とはセットで考えられるようになった。
リストの影響は、ブラームス派やワーグナー派を問わず共通のもので
大ホールでのコンサート・ピアノの在り方を決定付けた。

57 :
マーラーをモダン・オーケストラの自画像と言ったが
録音史の流れからすると、ベートーヴェンのほうが説明はしやすい。
ニキシュの運命は、室内楽版と言っていいくらいのものだったが
ワインガルトナーの全集ともなると、電気録音が安定期に入っている。
トスカニーニ、メンゲルベルクのベートーヴェン・チクルスのライブ収録は
ベートーヴェン解釈の彼岸を示していて興味深い。
フルトヴェングラーかカラヤンか?そういうものは吹っ飛んでしまう。

その後の録音での全集制覇は、オーケストラと指揮者のステータスを知る
リトマス試験紙のようなもので、録音の良し悪しも同様であった。
カラヤンのようにモノラル、ステレオ、デジタルと10年置きに残したことで
録音方式の進展も演奏解釈と一緒に考えられた。
晩年の自然体の演奏も、余計な演出抜きのデジタル的な演奏とも思える。

58 :
1950〜1980年代のオーディオ機器の主流を言うと
1950年代がモノラル期のそれ自体が楽器のような鳴り方をして
タンノイのオートグラフ、エレクトロボイスのパトリシアン、JBLのハーツフィールドなど
多くはコーナー型ホーンというスタイルだった。
理由は、ウーハーがローコンプライアンス型で重低音の伸びがそれほど無かったからだが
それと引き換えに軽い風のように流れる低音は、PA技術と並行していたからでもある。
アンプもそれほど高出力でなくとも十分に駆動できる。

ステレオ期になって現れたのが、AR-3のようなエアサスペンション型で
コンパクトな割に低音の伸びも十分確保され、ブックシェルフ型スピーカーの走りとなった。
それまでのフリーエッジ型は、密閉で200Lという大型が標準だった。
このタイプは能率が低く、なおかつ低域にパワーが必要なので
アンプもそれなりに高出力のものが求められた。
マッキントッシュやマランツの製品が好まれるのは、その安定度の高さからである。
同じ理由でステレオカートリッジも、業務用あがりのオルトフォンが随一の存在。
他にフェアチャイルド、GE、はたまたデッカなどもあったが、オルトフォンほど息が長くない。

一方で、モノラル期に開発された楽器型のコーナーホーンも好まれ
クラシック再生の基本形のような体裁をもっていた。
単純には迫力が違う。それがクラシックにも言えるのだ。

ただあまり知られていないのは、アルテックのA7の存在で
RCA以外のアメリカのスタジオでは、テープ録音のプレイバックはこれで聴いていた。
そもそもプレイバック・システムの商標がアルテックのものなのだ。
この前身の800システムで、グールドがスピーカーの周りを熊のようにウロウロして
プレイバックして吟味している様子が映像で残されている。

59 :
AR-3aは1970年頃のカラヤンの自宅で使われていると宣伝されていた。
ttp://www.aes-media.org/historical/html/recording.technology.history/images3/92356bg.jpg
写真右端にあるレコードプレーヤーとアンプもAR社のものだろう。
米エンジェル・レコード(EMI)の役員室でも使っていたらしい。
ttp://www.aes-media.org/historical/html/recording.technology.history/images3/92353bg.jpg
ttps://www.stereophile.com/content/acoustic-research-integrated-amplifier
同様にソニー TAH-10+ゼンハイザー MDH-414ヘッドホンも使用とも。
ttp://pds20.egloos.com/pds/201108/17/37/f0018137_4e4b978719176.jpg
総合するとAR-3aが優れているという以上に、マーケティングを意識して
一般家庭でどう聞かれているかのほうに傾聴していた感じがする。
それも新しい情報にアップデートする傾向がある。

60 :
1980年代に入ってB&W 801がほとんどのクラシック・レーベルで採用されたのは
おそらくデジタル録音のもつ広帯域で均質なエネルギーバランスを意識してのことだろう。
それまでRIAA偏差で丸まっていた特性が、まっすぐになったのだ。
同時にテープコンプレッションのようなリミッター機能が働かない平板な音を意味していた。

デジタルとアナログの違いで大きいのはノイズの処理で
アナログがヒスノイズ、スクラッチノイズ、三角ノイズなど様々あるが
デジタルがリミットオフして無かったことにすると同時に
21kHz近傍に大量のスイッチング歪みを累積する。
このスイッチング歪みは、パルス成分を主体とするため
音の粒立ちが良くなったようにも聞こえる一方で
品のないギラギラした輝きを伴う。

例えば、BBCモニターはFM放送用なので
三角ノイズに埋もれがちな高域のパルス波をキッチリ出す傾向にある。
ところが、あまり高域の処理が巧くないCDプレーヤーを使うと
パルス成分が際立ってしまい、何でもキラキラしたイミテーションに聞こえる。
CDの音が正確だという思い込みと、アナログ装置との相性の悪さも手伝って
CDよりLPのほうが良かったと嘆くのだ。

61 :
CDが出てしばらくしてから、CDライントランスなる商品が出たが
これは超高域でのパルスノイズを和らげる効果がある。
一方で、定位感や臨場感を劣化させる要因ともなり
デジタル録音で奥行き感が減少すると、全体に平板な印象になりやすい。
やはりアナログ録音をAD変換したCDに有用だと思う。

真空管アンプとの相性については
実際の真空管のストレートな音はアキュレートなのだが
アウトプットトランスそのものがパルス成分をフィルタリングする。
もうひとつは、楽音に含まれるパルス成分に対しては
真空管がオーバーシュートして楽音に沿った高次歪み(倍音)を出すため
持続的なデジタルノイズが目立たなくなる感じがする。

62 :
1970年代の大きな技術革新は、FMステレオ放送とカセットテープの普及だが
50〜15,000Hz、S/N比60〜80dBは、ステレオ再生の基準となるボーダーラインとして
それ以上の再生能力を備えることがオーディオ道楽の基本だった。

逆に言えば、それ以前のAM規格100〜8,000Hzとの比較で
LP再生が大きなアドバンテージをもっていたのに対し
FM放送で音質が底上げされた家電機器との差異をはっきりさせるには
20〜20,000Hz再生への憧れはとてつもなく大きかったとも言える。

しかし、いざ20〜20,000Hz、SN比90dBという再生条件を前にして
それまでのアナログが蓄音機の頃から拡張してきた名残で
200〜6,000Hzを中核として徐々にフォーカスを甘くしていくのに対し
全帯域で均質にストレートに出てくるデジタル技術の出現は
50〜200Hz、6〜15kHzでのデフォルメでアドバンテージを付けた機器を
全く無駄にしてしまった。

63 :
200〜6,000Hzを中核として徐々にフォーカスを甘くしていくのはアナログ録音のほうで
アナログ期の再生機器はその外縁のほうを鮮明に再生できるようにデフォルメする。
ただ、こうした傾向は初期のCDの特徴なのでは?と思うかもしれない。
それが再生機器側の折衷的なHi-Fi感を出す強調点でもあった。
それを、より鮮明になったと喜ぶ人も居れば、やりすぎ感に否めない人も多かった。

こうした新規格に伸るか反るかの反応は
SP盤からLP盤、モノラルからステレオへの移行期にもあり
マーケティング主体のパラダイムシフトだと言われても仕方ない。
問題は、音楽の中身がちゃんと保護されることである。

64 :
CDがクラシック音楽の保管と再生に適しているかを考えると
周波数レンジと均質なダイナミックレンジという以外に
チャンネルセパレーションと位相の正確さという点が挙げられる。

実際にサウンドステージという用語は、1980年代のポップスの録音で顕著だが
スピーカーの間に立体的な音場が形成されることを指す。
この音場の再現は、例えば1960年代にはスクリーン状の平面配置であり
左右に高低の楽器を並べ替え2chであることを強調し
エコーの長さなどで遠近の違いが判る程度のものだった。
こうしたスタイルは、先行した映画館の3chステレオ規格に準拠しており
ブルムラインの2chバイノーラルとは異なっていた。

B&Kマイクなど周波数特性とインパルス応答の正確なマイクによって
デジタル録音の音場再生の可能性は広がったとも言える。
ガーディナーがヴェネツィアの聖マルコ大聖堂で録音したモンテヴェルディの晩祷などは
その複雑な音響効果を、楽曲の性格に沿って読み直した録音として
ドキュメンタリーとしての価値が高いものである。

65 :
ガーディナーの晩祷の録音にはデジタルならではの逸話が色々とあって
例えば自動車の暗騒音を無くすため、聖堂周辺の交通規制を政府に協力させたが
演奏の合間に犬の声が聞こえるので、録音スタッフが慌てて原因を探ると
近隣の住民が散歩に広場を歩いているのを発見。
警察官も近隣住民が出歩くことの規制までは考えていなかったことが判明して
録音が仕切り直しになったとのこと。

聖堂でのルネサンス・バロック音楽の録音は
それまでが深いエコーでそれを感じさせる程度のものだったが
デジタル時代に入ると、8〜12kHzでの楽音とエコーの分離が明瞭になり
さらには聖堂内に共鳴する低音の暗騒音を空気感として残すものもある。
こうした低音の暗騒音は、LPのカッティングでは邪魔な存在でカットされてたが
聖堂というシチュエーションをそのまま収録しようとすると残すことになる。

66 :
クラシック録音のモニターにヘッドホンが使われるのは
初期のブルムラインをはじめ、かなり古い段階から行われいる。
特に伝統的な音楽ホールでは録音用のモニター室のないことが多く
マイクのセッテイング、サブマイクのバランスなどもヘッドホンで確認する。

そういう意味では、ヘッドホンでの試聴は原音主義に後れをとらないのだが
問題は外耳の形状で、中高域での耳内の共振に個人差があり
それも10dBの違いは当たり前という感じでもある。
ttp://en.goldenears.net/388
ソニーのヘッドホン開発では、耳たぶの形による音の違いも吟味され
開発時の耳たぶの型取りに選ばれることは大変名誉なことらしい。

ヘッドホンでの試聴は、単純に頭内定位でサウンドステージが再現しにくい
という以上に、周波数バランスにもバラツキの多いことに注意しなければならない。
人間の脳の感覚まで測定する技術は、まだ始まったばかりだからである。

67 :
クラシック再生の場合、私個人の嗜好でいえば
正確であるという以上にロマンティックであるべきだと考えるようになった。
正確な音色、正確な周波数バランス、正確な定位感…その総合点を競うよりは
耽美な音色、均整のある周波数バランス、各楽器の存在感というほうが好ましい。
ロマンティックとは、朧げな精神性とか、気宇壮大な思想の表明というものではなく
人間の奏でる肉体的な優美さであり、気品のある生活感を伴うものだと思う。
艶やかでダイナミック、凛としてしなやかな立ち振る舞い、そうしたものに憧れる。

68 :
スタックスのイヤースピーカーで、音の正確さではFETなのだが
真空管ドライブにしたときの艶めかしさには驚いた。
これを聞いたら、他のオーディオ機器など聴けなくなるし
ちゃんとした装置をスピーカーで組もうとしたときの難題がのしかかる。

あるいは、ラックストーンというのが昔からあって
飴色のニス塗りした木彫家具のような、暖色系の艶のある音色だ。
当初はNEC特注の真空管50CA10とか、OY型トランスとか
その音色の出る理由を考えたのだが、FETアンプでも継承するとなると
やはりメーカーのもつトーンなのだと思う。
例えば、A級アンプと言っても、アキュフェーズとは全く逆の方向だ。

とはいえ、ラックスマンのアンプでマルチを組もうという人はいないだろうし
アキュフェーズの安定度は、また別次元のものである。

69 :
BBCモニターの系譜のうち、日本で人気のあるメーカーにハーベスがある。
LS5/8を少し小振りにしたようなHLCompact 7は
日本の家屋に収まりやすいうえに、高域の弦に明るい艶があって
美音系に数えられる一品だ。

同じように、イタリアのソナスファベール、スイスのピエガなども
デジタル録音のマッシブさを少し柔らかく受け止めて、美しくまとめてくれる。

70 :
ハーベスのHLCompact 7は、初代のHLCompactが1987年で
既に4代目、30年のロングセラーだ。
他のBBC系のロジャース、スペンドールが、やや辛口の音調なのに対し
ハーベスの音は、中域からの艶をあえて載せて、小音量でも聴きやすくしている。
その分、アルミドームのリンギングを巧く操るのが使いこなしの要で
そのためのスピーカーの足回りの調整が欠かせない。
現在の高剛性のニアフィールド試聴が、音の立体感を出すのに
かなり精緻に足回りの調整をするのとは、大分わけが違う。

この中域から湧き出る艶は、例えばEL84のような真空管に特有のもので
1970年代初頭の懐かしい音調にも似たものだ。
HLCompact自体もっと古い機種だと思っていたが
ちょうどLPの生産がストップする寸前の時代であり
回顧的な気分も大いにあったのかもしれない。
同じ時代のLUXMAN L-570などを思い浮かべれば
その頃のノスタルジーというものが理解しやすいかもしれない。

71 :
これとは全く逆のメインストリームが
例えばティールなどの完全にタイムコヒレントを調整したスピーカーで
デジタルでの位相の正確さを元手に、フロア型で奥行きの定位感を出した。
ワディアのCD再生技術、電流供給の瞬発力の高いクレルのアンプなど
デジタル対応の本当の意味を形にしたオーディオ機器は多かった。

しかし、いざこうした最高品質のオーディオを前にして
万難を排して再生に挑める録音ソースの貧しさのほうが目立ってくる。
特にデジタルのミキサーそのものの機能が貧弱で
出張録音ではヤマハでようやく10chのものが実用化された程度。
まだまだアナログ機器が信頼性の上でも使用され続けていた。

ハイサプンリング、ハイビットが模索されるなか
EMIの録音クルーがハイサンプリング録音に真空管マイクプリが合うことを発見。
今では、真空管マイクは老舗のノイマンも含め普通に製造販売されている。
こうしたデジタル化に伴うトリビア的なトピックスは
技術革新という側面よりも、オーディオにとっての心地よい音というものが
けして進化するようなものではないことを示している。

72 :
今ではあまり注目されないが
アメリカのテラーク社の録音は、デジタルの広帯域、ダイナミックの代名詞だった。
ちょうどPCM録音のパイオニア、デンオンの録音が痩せた音だったのに対し
テラーク社の芳醇な音は、次世代の録音への期待を抱かせるものだった。

最大の驚きが、チャイコフスキー1812年でリアルな大砲の音を
LPにカッティングした際に、針飛びも辞さない低音の蛇行で
よりハイコンプライアンスのカートリッジの開発に拍車を掛けたが
これがLP盤の再生能力の限界を示したという逆の意味ともとれる。

一方で、やや演出過剰な録音は、むしろジャズのほうに向いており
旧来のクラシック録音の潮流を変えるまでにいたらなかったように思う。

73 :
現状で、最新の録音にも追従できるポテンシャルをもっていて
使いこなしのしやすいスピーカーは
例えばKEF RシリーズやREFERENCEシリーズが挙げられる。

一見して、LS50にウーハーが付いただけだと思うのだが
ミッドレンジを逆相にスムーズに繋げることで
ステップレスポンスが非常に鋭敏にシェイプする。(Fig.7)
ttps://www.stereophile.com/content/kef-r700-loudspeaker-measurements
ツイーターのパルス波が定位感を浮きだたせるのに対し
他のユニットとのネットワークの位相歪みが目立ち、違和感をもつことが少なくなかったが
KEFはUni-Qドライバーの開発段階で巧く回避したと思う。

LS50は旧来のLS3/5aと同様にツイーターが逆相で
奥行き感を演出する方向で調整している。(Fig.8)
ttps://www.stereophile.com/content/kef-ls50-anniversary-model-loudspeaker-measurements

74 :
一般に、定位感の正体は、パルス波の立ち上がりで決まるのだが
超高域にピンと立つパルス波が先行して耳に届くことで
他の楽音の波を押しのけて(マスキングして)音の位置を知らせる。

例えば、デンオンのワンポイントマイクが
無指向性のB&Kマイクを30cm程離すだけでステレオ効果を得られるのは
従来の位相差によるステレオ効果ではなく
パルス波の届く距離の差を正確に記録できるようになったからである。
ttps://columbia.jp/classics/onepoint/

パルス性の直流波で位相変化をみるステップレスポンスでは
スピーカーは高域から順に低域へと音響エネルギーを放出するのだが
ネットワークのないフルレンジでは当たり前に右肩下がりに推移する。
ttps://www.stereophile.com/content/measuring-loudspeakers-part-two-page-3
これが自然な定位感をもたらすのだが
実際には、パッシブ回路で位相をいじると、電気的なフィルターの負荷が大きく
全体に定位感はよいのだが、ダイナミックさに欠けるという欠点がある。

また1970年代のマルチウェイ化において、位相の乱れは普通だったので
クロスオーバー歪みはオーディオ文化として受容されている。
例えば、B&Wは正相で全てのレンジをキレイに繋げる設計となっていて
むしろレンジに隔たりの無いダイナミックレンジのほうが重視されている。
ttps://www.stereophile.com/content/bw-nautilus-801-loudspeaker-measurements-part-3
1980年代から40年近く経つ現在において、保守的に留まっているのは
ワイドレンジ化に伴うクロスオーバー歪みということができる。

75 :
こうしてみると、デジタル録音での広帯域、S/N比、音場感、長尺録音など
最も恩恵を受けたと思えるクラシック音楽において
オーディオ的な対応というのが、1970年代のステレオ文化を引きずっている
というのが本音のように思う。

言い換えれば、1970年代の夢の続きを、未だに見ていることになる。

76 :
1970年代のオーディオ・ファイルの夢とは何だったのか?
おそらく技術革新の絶えざる連続のようなことだったかもしれないし
現在のハイレゾ音源にみるようなフォーマットによるパラダイムシフトかもしれない。
一方で、演奏スタイルも収録マイクも、大きく進化したわけではない。

かつて日本製のスピーカーは、測定したスペックは優秀だが
音楽を聴く喜びを表現する何かが足らないと言われてきた。
いわく測定に使われたB&K製マイクをもじって
「B&K社製スピーカー」と揶揄された。
新素材を使ったユニットの開発は世界でも随一だったが
それの良否を判断する材料に欠けていたとも言える。

同じことはMOS-FETを用いたアンプにも言え
デバイスの製造が世界一で国内で行えたため
自家製のオーダーメイド品も取り揃えていたのだが
その違いについて明確なことは言えないと思う。

レコード針、テープヘッド、様々な部品の加工技術で
日本はシェア共に世界一だったのだが
どうも夢の見方がどうかなっていたのかもしれない。

77 :
ただ日本製の無味乾燥ろ思えるオーディオ製品が
世界では重宝されたケースも少なくない。

例えば、ヤマハのNS-10Mは、ポップスの業界ではデフォルトスタンダードだった。
同じことはテクニクスのターンテーブルにも言えて、これがなければ現在のDJ文化はない。
あるいは、ソニーのPCM録音機 PCM-F1の柔らかい素直な音調は
BISの録音などで使われ、シンプルなマイクでのダイレクト収録の良さが出た録音だ。
こうした使いようによっては、創造的なことも十分にできたのだが
総合力という点での提案力に欠けていたともいえる。

78 :
オーディオ製品にはエージングという経時変化がある。
初期に起こるのは、信号、振動など動的なものに馴染んでいくものだが
いざ安定期に入ったと思うときが、調整の本格的な開始になる。
こればっかりは、店頭試聴で確認するということでは十分ではなく
自分の好みという課題と向き合うことになる。

ただ自分の好みというのは、基本的に聴く音楽と関連性が深いので
漠然と「良い音」というのが、いかに不十分なものかは明らかだ。
一方で、クラシック向け、ジャズ向け、はたまたポップス向けというのも
いわゆるステレオタイプを押し付けることになり、演奏の本質から外れやすい。
聴く音楽へより深い理解に達することが、オーディオ機器では重要な気がする。

79 :
オーディオ批評の場合、音楽を物質的な現象として捉えることが多い。
ピアノのタッチ、バイオリンの倍音、コントラバスの低音の深さ、オーケストラの音場感
クラシックと言えども、これだけ多様な楽器の特性、空間性を再現するのだから
音楽ホールでの鑑賞というような、一括りで済ますことはできない。

ところが、多くのクラシック愛好家は、まず交響曲の再生からスタートする。
こうした傾向は、1952年のレコード芸術の創刊号にも書かれていて
外国がオペラ、室内楽が主流なのに、日本では今一つだと言われる。

逆にジャズは近接マイクで、目の前で演奏している状況を好むので
シンフォニーホールとクラブジャズという、両極端な音響のメインストリームが
そのままクラシック向け、ジャズ向けというステレオタイプを生み出している。

問題は、ピアノやバイオリンなど、サロン文化と関わりの強い音楽の聴き方が
20世紀の大型コンサート会場での演奏を基準にしていることで
自宅を開放してもてなす音楽サロンの雰囲気とは全く違う。
家で聴くクラシックの基本は、むしろ室内楽・器楽にあるのだというべきだろう。

80 :
室内楽・器楽の曲目を、音楽サロンの場を想定して聴くというのが
実際どういうものなのかを想像するのは意外に難しい。
ttp://www.piano.or.jp/report/04ess/prs_cpn/2008/03/01_7540.html
ttp://www.piano.or.jp/report/02soc/19memoirs/2016/09/30_21769.html

1950年代のコーナーホーン大型スピーカーが、家具調デザインというか
そのままタンス(キャビネット)と呼んで良いくらいの大きさだったのは
意外にも実物大のピアノ、チェロの胴音をどう司るかのニーズが大きかったかもしれない。
というのも、それ以前のSP盤で名盤と言えば、クライスラーやラフマニノフ、カザルスといった
名演奏家のものが多数を占めていて、リソースとしては生きていた。
こうした基礎に加えて、LPでのオーケストラ鑑賞が新たに追加された。
この時期の新しい可能性のほうが、ステレオ再生のスタンダードになったのではないか?

81 :
音楽にとってロマン主義とは、楽器や音楽語法の革新という感じだが
内実のほうはゴシック・リバイバルにみるような、中世ヨーロッパへの郷愁に満ちている。
狂王ルートヴィッヒ2世をはじめ、むしろメルヘンに似た絵物語の現実化にみえるのだが
ディズニーランドと同じように考えると、事の発端は比較的理解しやすい。

欧米の都市においてオーケストラを編成することがどれだけの意味をもっていたか
その熱情の源泉を知るのはなかなか難しい。
狂王が国家財政を危機に落としいてれて疎んじられたのと
富裕層のパトロンを中心とする音楽協会の健全な経営とは紙一重で
その源泉となるパッションに大きな隔たりはないのだ。

82 :
メルヘンというと少女趣味の感覚があるが
イギリスの挿絵付き小説などをみると、ロマン主義の奥行きの広さを実感できる。
例えばスペンサー「妖精の女王」に画いたウォルター・クレインの挿絵は
ワーグナー「ローエングリン」「パルジファル」とそのまま重なっている。
同じチューダー朝のシェイクスピア劇を好んだヴェルディ「マクベス」「オテロ」が
現代的なシリアスな人物像を好むのとはやや正反対の感じがする。
グリーナウェイ「窓の下で」のような子供の子供らしい仕草を優雅さに含める手法は
シューマン「子供の情景」のような作品に出くわすことになる。
もちろんこの前座にはソナチネ集のような、アマチュア愛好家向け作品集があったが
オリエンタリズムとおとぎ話というコンセプトがロマンチシズムの源泉である。

83 :
ロマン主義が昔の王侯貴族の誉れを夢見て、絵物語を現実のものとする状況は
クラシック音楽をオーディオで聴くことと、あるいは似ているかもしれない。
そこには音による優美な表現を尊ぶいうことも含まれている。
ヴィルトゥオーゾは、楽器の機能的制約を越えて
自由闊達に情念を語れる達人のことを言うのであろう。

しかし、オーディオの多くは写実主義に基づいて評価される。
ヴィルトゥオーゾが譜面を楽器で実現化する達人とするなら
同じ語源のバーチャルは、実質的に等価のもの、さらには仮想現実となる。
オーディオがヴィルトゥオーゾのバーチャルという2重の意味をもつ
一種のヒエラルキーの下に服すことになるのはこの所為である。
そこで、オーディオが写実的ということには、儀礼的な課題が残るのだ。

84 :
オーディオがクラシック音楽を写実主義を通じて表現するとき
その結果として優美さを伴わないのであれば、それは失敗である。
つまり優美さという得体の知れないものを、数値化する作業が本来必要なのだ。

美音系と呼ばれるオーディオ機器の多くは高次歪み(倍音)を伴うものが多い。
真空管のリンギング、トランスやテープの磁気飽和、スピーカーの分割振動
こうしたアナログ特有の歪み成分は、Hi-Fi初期には必要悪のような存在で
むしろこの悪影響を巧く利用した機器が名機として名を残している。

85 :
真空管のリンギングやオーバーシュートについては
オーディオ機器から消えたのはDCアンプの登場した1970年代半ば以降で
その頃になるとトランスレスということもあり磁気歪みも減っていた。
しかし、録音媒体は磁気テープが残っており
再生側ではテープヘッドあるいはレコードのカートリッジにも
信号経路に磁性体は1980年代半ばまで生き残る。

一方で、完全にデジタル化された後に判ったのは
アナログ→デジタルが単純にノイズレスになったという以上の損失があったことだ。
個人的には、その得体の知れないエッセンスが、高次歪みのように思っている。

前に述べたように、最後まで残った磁性体はスピーカーで
これが残ったおかげで、デジタル技術の仕上げが難しくなっていると思う。
一方で、アナログ的な美点への足掛かりも残されたのだ。

86 :
美音系スピーカーへの憧憬は、例えばabsolute sounnd誌における
Harbeth HL Compact 7ES-3への好意的な評価にも現れて興味深い。
ttp://www.theabsolutesound.com/articles/harbeth-hl-compact-7es3-loudspeaker/
前作に比べ表情が晴れやかになった3代目だが
シトコヴェツキー編曲のゴールドベルク変奏曲、バーンスタイン/ウィーンフィルの田園など
こうした美音と優美さを究めた録音を、品よくまとめる術を心得ている。

87 :
absolute sounnd誌といえば
1970年代からハイエンド・オーディオでの究極のリアリズムを牽引したことで知られ
優秀録音ばかり聴くオーディオマニアを生んだメインストリームのひとつだ。

一方で、今回のようなハーベスへの対応は
一種の郷愁にも似たアナログ思考を示している点で興味深いのだ。
オーディオ文化そのものの黄昏というべきだろうか。
HL Compact も、CD時代でのアナログ的な美質の保存を意識しており
そういう思いが30年を巡って一段落しているように思える。

88 :
シューマンのピアノ曲というと、ほとんどが若書きの情熱に掻き立てられ
女性ヴィルトゥオーゾ・ピアニスト クララ・ヴィークの姿が思い浮かぶ。
それがクララへの実質的な恋文だったとしたらなおのことで
難曲に等しい楽曲は、激しやすく涙もろい、シューマンらしさが垣間見える。

一方で、作品50「楽園とペリ」まで成功作に恵まれなかったシューマンにとって
ピアノ曲のそれは難解なテクニックが覆いかぶさってさらに渋さを増している。
市場での曲の人気はいまいちなのに、ピアニストにとっては魅力的な題材らしく
リヒテル、アシュケナージ、デムス、ブレンデルなど名立たる巨匠がひしめく。

89 :
個人的に惹かれるのは、ポリーニのコレクションで
70歳を記念してショパン録音集に続いての2番手がシューマンだったのは意外だった。
とはいえ、純然たるシューマン・アルバムは3枚
他はシューベルト、シェーンベルクとのカプリングから抜粋である。

シューベルト:さすらい人幻想曲、シューマン:幻想曲(1973年)
シューベルト:ピアノ・ソナタ第16番、シューマン:ピアノ・ソナタ第1番(1973年)
◆シューマン:交響曲的練習曲、アラベスク(1981年、1983年)
シューマン、シェーンベルク:ピアノ協奏曲(1989年)
◆シューマン:ダヴィッド同盟舞曲集・ピアノ・ソナタ第3番(2000年)
◆シューマン:クライスレリアーナ、暁の歌、アレグロ(2001年)

ピアニズムの極致とはよく言ったもので、シューマンのパッションの方向性が
図らずもピアノという楽器に向けられていた、という超幻想的な内容を含んでいる。
ピアノの響きに呑み込まれた青年というべきか。消え入る響きの変化までコントロールされる。
ペルシャ絨毯を拡大鏡で覗いて、織り目のグラディエーションまで鑑賞して
なるほど1万円と100万円の価格の差に納得する感じである。

90 :
ポリーニのような演奏家は、大器晩成などという言葉が似つかわしくないと思っていたが
ショパン、ベートーヴェンと聞き続けていると、本人なりに枯れて円熟する機会を
何かしら思い描いていたのだと思う。

ベートーヴェンの場合は、録音期間が作曲家の実際のタイムスパンに近いのだが
後期作品から初期に若返る方向に逆行している。
まるでオスカー・ワイルド「ドリアン・グレイの肖像」のような変な仕掛けがある。
ショパンなど最後の50番台の作品集のアルバム題はそのまま「ショパン」である。
その前の晩年の作品集が自身として最後のアルバムと思ったのかもしれないが
オール・ショパン・プログラムでワールド・ツアーという企画を伴って
多少の衰えも問題にせず音楽を慈しむ姿に感銘をうける。

対照的なのはブレンデルで、3回もベートーヴェン全集を吹き込んで
それぞれの時代のなかで解釈を深めていく姿勢が顕著である。
マイクの位置も段々と遠のいていくのは、客観性を増しているように思うが
米VOX、DECCA、Philipsのレーベルの違いかもしれない。
実際には、若い時から平衡感覚の強い作品解釈のあったことが判り
地味な徒弟から老舗の職人まで、周囲の見る目が変わっただけかもしれない。

91 :
1970年代の前半に、ピアノ演奏の方法論が変化して
例えばミケランジェリ、ポリーニ、ルプーなど繊細なコントロールを得意とする
ピアニストが台頭するようになる。

ところがこの1970年代前半に評価が高かったこれらの録音を
当時の人たちがどういうステレオ装置で聴いていたかというと
はなはだ疑問の出る点が多い。

スピーカーでも、AR-3aは広帯域で再生できる機種ではあったが
重い反応で、ピアノのレスポンスにどれだけ追いつけたかは疑問だ。
JBLのマルチ化はまだで、クォードのESL-63も開発中
タンノイのゴールドモニター、スペンドールのBC-II、ヤマハ NS-1000Mあたりだろう。

あるいはSTAXのコンデンサースピーカーということも考えられる。
マーク・レビンソン氏は自宅でQUAD ESLをスタックして
ハートレイ製61cmウーファー、デッカ製リボントゥイーターを追加した
「H.Q.D」システムを使用していたが、アンプのほうはスタックス製を置いていた。

B&Wが世界中のスタジオで使用される前の時代に
オーディオファイルに向けた高音質録音の提案は
意外に難しい局面をもっていたという感じがする。

92 :
1975年頃を水準に置くと、瀬川冬樹氏の思い描く最高機種は
BBC LS5/1A、EMT 930st、マークレビンソン LNP2+スチューダー A68で
その後にJBL 4351との格闘に入る。
BBC 5/1Aは非売品なので、一般にはKEF 104、スペンドール BC-II を推奨していた。

JBLへの憧憬の第一歩は、4320における打音へのアキュレートな反応で
EMTのトレース能力を正しく伝えきれるスピーカーがあまり無かったことが挙げられる。
ようやく4320を買おうとしたが4330シリーズに移行していて
一度自宅に入れたもののあまり納得がいかず、最新の4340シリーズに突入した。
一般には1970年代後半から1980年代前半のオーディオバブル期を代表する
方向性をもっていたように思う。

93 :
JBLというと、日本ではジャズかロック向けという感じだが
DELOSやTELARCという優秀録音を売りにしているアメリカのレーベルでは
そのマッシブな音圧を出し切れるスピーカーとして有力候補となる。
高音質なレーベルでは、昔のマーキュリー、エベレストなどを思い出す人もいるだろう。
そもそもDELOSは、JBLの顧問 ジョン・M・アーグル氏が起こしたレーベルで
まさにアブソリュート・サウンドの尖峰を務めた。
とはいえ、日本ではそういう部屋に恵まれるオーディオファンは少ない。
低音が縮退をするのに、高音だけがドカンと押し寄せる。
だから日本ではジャズ向けと言われてきた。

94 :
日本でラックマンのアンプは、ある種の艶やかなラックストーンで知られるが
最近のものはアンプとしての駆動力を優先させているような感じで
色んな意味で安定志向、少し歳をとったかな? と思わないではないが
理由は低能率で広帯域のスピーカーが増えたためだ。
昔の艶やかさは、真空管のほうにまかせているようにも見え
その辺の采配の広さが、アンプメーカーとしての歴史を感じさせる。
もしかすると、日本マランツのほうが艶やかなように思うのだが
高域が伸びきっているからという評価に傾く人も多い。
個人的には、艶やかさは2〜4kHz付近の共振にあるのだが
今のスピーカーのほとんどは、その帯域を無色透明にしているものが多い。
アンプの艶は、そういう意味で有効な手立てだと思う。

ラックスマンには昔からの流れで、一種の暖かみのある表現を期待するのだが
もともと艶の多いハーベスやタンノイとの組合せで昔ながらのスタイルに収まるが
エラック、KEF、ピエガとの組合せでも、ヨーロピアン・サウンドを満喫できる。
Dynaudioでは真面目過ぎ、B&Wでは超高域のキラキラが削がれるなど
スピーカーに求めるキャラとの相違が現れる。
海外でのB&Wは、むしろ中域と低域のマッシブさやエモーションナルが売りなのか
ROTELのような、もっと音のグローな業務ライクの音が好まれるので
ラックマンのアンプの底力のようなものに期待してもいいのだと思う。
意外にもJBLとラックスマンの組合せは、そのタップリしたボディのスケールで
古き良き時代のCBS、RCAといった録音群に強い相性をもたらす。

95 :
クラシックで中域の艶やかさというものに注目するのは
例えば木管楽器のプリプリした感じとかで、バイオリンの艶ではない。
ところが、500〜2000Hzの帯域は、楽器の基音に近い帯域で
むしろブローイング、ボーイングといった
演奏のエモーショナルな部分での表現力に関わる。
クラシックで、音の美しさに耳を奪われがちだが
演奏そのもののパッションに、身体ごと委ねるようなことも必要だと思う。
その中域での再現力は、高音の到達が早いとマスキングされてかき消される。
オーディオショップで聴くB&Wなどに顕著なのだが
音の立ち上がりが非常に早いのに、音量が後から部屋を満たす感じがあり
ホールの返しが強いオーケストラはともかく、ピアノ演奏の低音のアタックは
どう理解しているのだろう? と色々勘繰ったりしてしまう。
ユニットの素性は良いので、マルチアンプできっちり鳴らしてあげるべきだと思うが
そういう指南はあまり聞いたことがない。商売が成り立たないからだろうか。

96 :
中域の扱いでは、ATCやPMCといったメーカーでは
むしろスコーカーの開発そのものからスタートした会社もあって
低域と高域は、むしろ素っ気ないほどの鳴り方だ。
逆にいえば、クラシック向けというよりは
80年代以降のジャズやソウルをしっかりエモーショナルに鳴らす
という目的で開発されている部分も多いのだが
ピアノをガッチリと再生するとなると、こうしたチョイスも悪くない。
しかし、素っ気ない顔立ちに、価格が高級車なみというと、大分躊躇するだろう。

97 :
1980年代のスピーカーの潮流で驚かされたのが
セレッションのSL-600シリーズで低能率、広帯域という路線を打ち出し
当時これを鳴らし切れるのがクレル社のセパレートアンプだけ、という化け物だった。
しかし、そのスマートで定位感の良い低域は、小型ブックシェルフの可能性を
大きく広げたとも言え、通常のアンプの駆動力もこの後は劇的に改善された。
あとは脚周りをきっちり支えないと、音場の立体感が出ない
ラインケーブル、スピーカーケーブルでゴロゴロ音が変わるなど
結構面倒くさい問題もクローズアップされた。

98 :
音場の立体感はデジタル録音になって大きく変化したもので
高域の位相特性とチャンネルセパレーションが安定したおかげで
パルス性の音の立ち上がりがストレスなく描写されるようになった。

このおかげで、過去のマルチ録音のミキシングの粗さが目立ち
音の塊、平面的な配置に聞こえるようになった。
こうしたニアフィールド・リスニングを基本にしたサウンドステージの形成は
すでにBBCの研究で萌芽していたものの
素直なワンポイントマイクでの収録という、初期ステレオ録音の再評価につながった。
デンオンはともかく、BISなどの小規模レーベルが、ペアマイクと若干の補助マイクで
すっきりした音場で収録しはじめたのも、この時代でもある。

99 :
セレッションのSL-600〜700がもたらした試聴スタイルの変化は
たとえ小型スピーカーでも大音量で聴くことで
スケール感を伴いながら精緻な定位感をも獲得できるということだった。
これは従来の大型スピーカーでは難しいもので
課題だった150〜500Hzのミッドローのレスポンスと関連性があり
以来20cm以下でロングストローク、大入力でも歪みの少ないウーハーが増えた。
一方で、小音量では動きが悪く音痩せするウーハーが増えてきたため
たとえ十数万のスピーカーでも、アンプのほうが倍の価格が必要という逆転現象が起き
オーディオビギナーが最初に求めるステレオの敷居が一気に上がった。
こうした課題も2000年を越えて落ち着きを取り戻しつつあるように思う。

100 :
CD時代も末期的になってきて、全集セットが当たり前の時代になった。
ベートーヴェンの交響曲全集など、LP盤ではまとめて買う機会が少なかったが
今では新譜1〜2枚分の価格でよりどりみどりの状況だ。

その一方で、集中して聴ける演奏というのも少なくなったように感じていて
いかに1枚のアルバムを充実したものにするか、という課題も感じている。
良い演奏に出会うと、テレビをみてる1時間より、ずっと長い充実した時間を感じる。


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