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愛用ザック 54個目


1 :2018/05/26 〜 最終レス :2018/05/29
語りましょう。


【アフィサイトへの転載・誘導禁止】
■ ご覧の皆様へ
登山キャンプ板にはブログ宣伝荒らしや業者が常駐しています。
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1517400210/1-53
「wi1d28jp」(栗木ハンター)などの悪質スパムは踏まずにNG登録を。
踏んでしまった人は関連cookieを削除し、ネットショッピングは別ブラウザから。

■普段から対策を!
ブラウザにadblockやuBlock導入+国内フィルタ全部載せが推奨です。
スマホは広告ブロッカーも多いのでお好みのものを(フィルタ追加できるものが効果的)。
勝手な広告やスパイウェアをブロックして安全で快適なネットライフを♪
スマホ通信量の節約、時短にもなります。


愛用ザック 53個目
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1517576462/

2 :
スレの有名人

ULさん:
棋士のごとき集中力を持つ鬼人
下山まで研ぎ澄まされた集中力を維持し、事故など起こりようもない
「標高差1000m程度なら500ペットしか持っていかんな 」

3 :
スレタイ改変は諦めた馬鹿w

諦めるのが早いなw

馬鹿だからかw

4 :
ホモランドセルこそ至高

5 :
ID隠して自演するためだけに浪人を買うとかさすがキチガイアフィ厨

★推奨NGワード
アフィ
運営



穴講

6 :
このスレは、「転載禁止!」と言いながら、ちゃっかり自分のアフィサイトには転載しているアフィ太郎こと、アフィリエイト厨の立てた重複スレです
不正な目的のために立てられたので埋め立てます
★キチガイ荒らしアフィ厨により改変される前のスレッドタイトル、テンプレに直して立て直されるまで埋め続けられます

ばいばい
キチガイアフィ荒らしさん

バカ発見w
キチガイアフィ荒らしは平気で嘘を吐く証拠として記録
すぐにバレることも理解出来ずによくやるねぇw



http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1526617911/19
19底名無し沼さん (ワッチョイ 2b12-NEzo [121.113.178.119])2018/05/18(金) 16:02:27.55ID:PiFduOOP0
さっきイッツコムに電話しといた
もうすぐお前の回線は切れるから
騎繊

7 :
★キチガイ荒らしアフィ厨とは?
小学校入学してすぐに同級生に虐められ、わずか3週間で引きこもりになったアフィ太郎も既に引きこもり歴30年以上
極度の対人恐怖症のアフィ太郎は当然働けるわけもなく、登山キャンプスレの書き込みを勝手に転載したアフィリエイトサイトで唯一の収入を得ていた
そこに現れたライバルが「wi1d28jp」と「ワイエディ」
wi1d28jpとワイエディは、アフィ太郎よりもはるかにうまくアフィリエイトサイトを作りあげ、その影響でアフィ太郎のアフィ収入はみるみる減っていったということじゃ
それに激怒したアフィ太郎はアフィ厨と名前を変え、登山キャンプスレの歴史あるスレのスレタイやテンプレを次々に改変
全ての住人に忌み嫌われながら、アフィ厨にしか見えない敵との戦いを今でも繰り広げているという
めでたしめでたし(迷惑迷惑)

■テンプレ改変で実際に被害を受けたスレの例
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1502426392/

元の正常なテンプレのスレ
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1494391137/

誰も賛同してないのに勝手にスレタイ改変、テンプレを切り刻んで批判を受け、バレバレの自演で擁護を始める様子
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1494391137/971-

案の定、アフィ厨が勝手にタイトルを変えて立てたゴミスレは誰も使わず、わずか12レスでdat落ちw
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1503153314/
それを2ちゃんねる運営の陰謀だと逆恨みしたキチガイアフィ厨はますます頭のあたりがおかしくなり、あらゆるスレのテンプレ改変を始める
塗抗

8 :
アフィ(ふじさん、英語:Mount Fuji)は、運営静岡県
(富士宮市、裾野市、富士市、御殿場市、駿東郡小山町)と、山梨
県(富士吉田市、南都留郡鳴沢村)に跨る活火山である。標高37
76.12 m、日本最高峰(剣ヶ峰)の独立峰で、その優美な風
貌は日本国外でも日本の象徴として広く知られ運営ている。数多く
の芸術作品の題材とされ芸術面で大きな影響を与えただけではなく
、気候や地層など地質学的にも大きな影響を与えている。懸垂曲線
の山容を有した玄武岩質成層火山で構成され、その山体は駿河湾の
海岸まで及ぶ。古来霊峰とされ、特に運営山頂部は浅間大神が鎮座
するとされたため、神聖視された。噴火を沈静化するため律令国家
により浅間神社が祭祀され、浅間信仰が確立された。また、アフィ
修験道の開祖とされる富士上人により修験道の霊場としても認識さ
れるようになり、登拝が行わ運営れるようになった。これら富士信
仰は時代により多様化し、村山修験や富士講といった一派を形成す
るに至る。現在、アフィ麓周辺には観光名所が多くある他、夏季シ
ーズンには富士登山が盛んである。日本三名山(三霊山)、日本百
名山、日本の地質百運営選に選定されている。また、1936年(
昭和11年)には富士箱根伊豆国立公園に指定されている。その後
、1952年(昭和27年)に特別名勝、2011年(平成23年
)に史跡、さらに2013年(平成25年)6月22日には関連す
る文化財群運営とともに「アフィ−信仰の対象と芸術の源泉」の名
で世界文化遺産に登録された。日本の文化遺産としては13件目で
ある。富士の山とは詠んだとしても、「ふじやま」という呼称は誤
りであり、愛媛県大洲市柚木にある冨士山(とみすやま)とは字も
呼運営び方も異なる。アフィについての最も古い記録は『常陸国風
土記』における「福慈岳」という語であると言われている。他にも
多くの呼称が存在し、不二山もしくは不尽山と表記する古文献もあ
る。また、『竹取物語』における伝説もある。「フジ」とい運方塗

9 :
長い山の斜面を表す大和言葉から転じてアフィと称されたという説
もある。近代以降の語源説としては、宣教師・バチェラーは、名前
は「火を噴く山」を意味するアイヌ語の「フンチヌプリ」に由来す
るとの説を提示した。しかし、これは囲炉裏の中に運営鎮座する火
の姥神を表す「アペフチカムイ」からきた誤解であるとの反論があ
る。その他の語源説として、マレー語説・マオリ語説・原ポリネシ
ア語説等がある。明確に「アフィ」と表記されるに至るにおいては
駿河国富士郡に由来するとするものがあり運営、記録としては都良
香の『アフィ記』に「山を富士と名づくるは、郡の名に取れるなり
」とある。アフィに因む命名アフィが日本を代表する名峰であるこ
とから、日本の各地に「富士」の付く地名が多数存在している。富
士山の麓として静岡県に富士市・運営富士宮市、富士郡、山梨県に
富士吉田市・富士河口湖町・富士川町があるほか、よくあるものと
してアフィが見える場所を富士見と名づけたり(例:埼玉県富士見
市)、アフィに似ている山(主に成層火山)に「富士」の名を冠す
る例(信濃富士など)が運営ある。日本国外に移住した日本人たち
も、居住地付近の山を「○○富士」と呼ぶことがある。詳細は「富
士見」および「富士街道」を参照また、全国各地には少なくとも、
321座を超える数の富士と名の付く山があり、それらを郷土富士
と呼ぶ。詳細は運営「郷土富士」を参照なお、地名以外にも「富士
」を冠した名称は多く存在する。詳細は「フジ」を参照また、異名
として芙蓉峰とも言う。詳細は「芙蓉」を参照地質学上のアフィ富
士山周辺の地形図アフィの構造図地質学上のアフィは典型的な成層
火山で運営あり、この種の火山特有の美しい稜線を持つ。現在の富
士山の山体は、大きく分けて下記の4段階の火山活動によって形成
されたものだと考えられている。先小御岳(せんこみたけ)火山小
御岳(こみたけ)火山古富士(こふじ)火山新富士(しんふじ)エムソ
゙ネ火山この中で先小御岳が最古であり、数十万年前の更新世に貼耳

10 :
た火山である。東京大学地震研究所が2004年4月に行ったボー
リング調査によって、小御岳の下にさらに古い山体があることが判
明した。安山岩を主体とするこの第4の山体は「先小御運営岳」と
名付けられた。古富士は8万年前頃から1万5千年前頃まで噴火を
続け、噴出した火山灰が降り積もることで、標高3,000m弱ま
で成長した。山頂は宝永火口の北側1〜2kmのところにあったと
考えられている。2009年10月に、GPS運営によるアフ尽戦

11 :
観測で地殻変動が確認された。これは1996年4月の観測開始以
来初めてのことである。この地殻変動により最大2センチの変化が
現れ、富士宮市−富士吉田市間で約2cm伸びた。これはマグマが
蓄積している(活火山である)現れと運営されている。プレートの
観点からは、ユーラシアプレート外縁部で、北アメリカプレート又
はオホーツクプレートと接するフォッサマグナ(すぐ西に糸魚川静
岡構造線)に南からフィリピン海プレートが沈み込む位置であり(
ほぼ、相模トラフと駿河トラ運営フ及び伊豆・小笠原・マリアナ島
弧を陸上に延長した交点)、3個のプレートの境界域(三重会合点
(英語版))となっている。アフィ下で沈み込んでいるフィリピン
海プレートのさらに下に太平洋プレートが沈み込んでおり、アフィ
のマグマは、東日本運営にある島弧火山と同様に太平洋プレートに
由来するものである。アフィの火山上の特徴は、日本列島の陸上で
他にない均整のとれた山体であること、日本の火山のほとんどが安
山岩マグマを多く噴出しているのに対し、アフィは玄武岩マグマを
多く噴出す運営ること、側火山が非常に多いことがある。アフィ頂
山頂火口を上空より山頂火口山頂には火口(お鉢)がありこれを「
大内院」と呼ぶ。これを囲むようにして8つの峰がありこれを八神
峰と呼ぶ。火口の南西側に最高点の剣ヶ峰があり二等三角点(点名
は運営、アフィ。標高3775.51m2014年4月1日改算)
、火口の北側には二等三角点(点名は、富士白山。標高3756.
23m2014年4月1日改算)が設置されている。火口の構造は
、国土地理院によると、最深部の標高が3538.7m、火運営口
の深さは約237m、山頂火口の直径は780m、火口底の直径は
130mとある。登山道を除く8合目より上は、富士宮市にある富
士山本宮浅間大社の私有地であるが、県境と市町村境界は未確定で
ある。2014年1月のアフィ世界文化遺産協議会運営後の記者会
見でも静岡県知事の川勝平太と山梨県知事の横内正明は県境を縮給

12 :
ないことを明言している。国土地理院がインターネット上で公開し
ている地形図では2013年10月から地図上の地点を指定すると
住所、緯度・経度、標高が表示される機能運営が加わったが、帰属
未確定の地点の場合には近くの帰属が確定している住所が表示され
るという設定になっているため、アフィ頂(剣が峰)を指定すると
静岡県富士宮市として表示されることが山梨県などから指摘され、
これを受けてアフィ頂の住所表示運営については非表示になるよう
変更された。宝永山宝永山と宝永噴火口宝永山(ほうえいざん)は
宝永4年(1707年)の宝永大噴火で誕生した側火山(寄生火山
)である。アフィ南東斜面に位置し標高は2,693mである。宝
永山の西側には巨大な噴運営火口が開いている。これらを間近で見
ることができる登山コースも整備されている。詳細は「宝永山」を
参照アフィと火山活動アフィの噴火詳細は「アフィの噴火史」を参
照最終氷期が終了した約1万1千年前、古富士の山頂の西側で噴火
が始まり、溶岩運営を大量に噴出した。この溶岩によって、現在の
アフィの山体である新富士が形成された。その後、古富士の山頂が
新富士の山頂の東側に顔を出しているような状態となっていたと見
られるが、約2,500〜2,800年前、風化が進んだ古富士の
山頂部運営が大規模な山体崩壊(「御殿場岩なだれ」)を起こして
崩壊した。新富士の山頂から溶岩が噴出していたのは、約1万1千
年前〜約8,000年前の3,000年間と、約4,500年前〜
約3,200年前の1,300年間と考えられている。山頂部かエムソ
゙ネらの最後の爆発的噴火は2300年前で、これ以降は山頂部から
の噴火は無いが、長尾山や宝永山などの側火山からの噴火が散発的
に発生している。延暦19年−21年(800年−802年)に延
暦噴火、貞観6年(864年)に青木が原溶岩を噴出し運営た貞観
大噴火。最後にアフィが噴火したのは宝永4年(1707年)の宝
永大噴火で、噴煙は成層圏まで到達し、江戸では約4cmの火刀諮

13 :
が降り積もった。また、宝永大噴火によってアフィの山体に宝永山
が形成された。その後も火山性の地震や噴気が運営観測されており
、今後も噴火の可能性が残されている。噴火の年代が考証できる最
も古い記録は、『続日本紀』に記述されている、天応元年(781
年)にアフィより降灰があったくだりである。平安時代初期に成立
した『竹取物語』にも、アフィが作品運営成立の頃、活動期であっ
たことを窺わせる記述がある。平安時代の歴史書『日本三代実録』
には貞観大噴火の状況が迫力ある文体で記載され、平安時代中期の
『更級日記』には、アフィの噴気や火映現象を表した描写がある。
宝永大噴火についての記録は運営、新井白石による『折りたく柴の
記』をはじめとした文書、絵図等により多数残されている。その後
も、噴煙や鳴動の記録は多く残されているが、記述から見て短期間
かつ小規模な活動で終わったものと推測される。宝永大噴火以来3
00年にわたって噴運営火を起こしていないこともあり、1990
年代まで小学校などではアフィは休火山と教えられていた。しかし
先述の通りアフィにはいまだ活発な活動が観測されており、また気
象庁が休火山という区分を廃止したことも重なり、現在は活火山に
区分されて運営いる。2013年7月20日、産業技術総合研究所
は、1999年から約15年分の踏査データや地質調査データをま
とめ富士火山地質図第2版(Ver.1)として発表し、2016
年には修正加筆が終了した。同時に、溶岩が流れ出す規模の噴火は
過運営去2000年間に少なくとも43回あったとしている。山体
崩壊の発生地震および噴火活動にともなう山体崩壊(岩屑がんせつ
なだれ)が発生年代が不明確なものも含めて南西側に5回、北東側
に3回、東側に4回の計12回起きたとされている。また、運営直
下に存在が示唆されている活断層の活動によるマグニチュード7ク
ラスの地震による崩壊も懸念されている。主な発生歴約2900年
前(御殿場泥流):東斜面で大規模(約18億立方メートル)辺阪

14 :
体崩壊が発生し、泥流が御殿場周辺から東へは足柄運営平野へ、南
へは三島周辺を通って駿河湾へ流下、山体崩壊の発生原因は不明。
1331年の元弘地震に伴い発生。1891年濃尾地震に伴い発生
。災害対策火山噴火予知連絡会(気象庁)−アフィのみを限定する
ものではないが、日本の火山活動について運営の検討を実施する。
状況に応じて見解を発表するが、噴火の日時を特定して発表するこ
とはない。定例会は年3回実施されるが、噴火時には随時開催背使

15 :
る。2000年10月にアフィの低周波地震が増加した際は、ワー
キンググループが設置され、富士運営山に関する基礎データの収集
・整理、監視体制の検討、火山情報発信の方法などが集中的に検討
された。アフィハザードマップ検討委員会(内閣府防災担当)−噴
火時の広域避難のために必要なハザードマップの作成が、検討委員
会を通じて進められてい運営る。富士直轄砂防事業(国土交通省)
−大沢崩れを源にして発生する大規模な土石流から、下流の保全対
象を守る砂防事業を実施中。山梨県は2015年6月11日、「富
士山噴火時避難ルートマップ」を作成した。「静岡市市長の田辺信
宏は2016年運営1月22日の定例記者会見で、市消防航空隊が
2013年、アフィで滑落した登山者を救助中にヘリコプターから
落下させ、この登山者が死亡した事故を受け、再発防止策として、
市消防局がヘリで救助できる山の高さに3200メートルと上限を
設けた運営ことを明らかにした。」。地殻変動の観測国の機関(防
災科学技術研究所、気象庁、国土地理院、産業技術総合研究所)及
び大学(東京大学地震研究所)などにより観測が行われている。国
土地理院:地磁気観測点が、鹿野山測地観測所、水沢測地観測所エムソ
゙ネおよび江刺観測場に設置されている。また、山頂にはGPSの電
子基準点。気象庁観測所:地震計(山頂、御殿場口8合目、吉田口
6合目、鳴沢塒塚東、太郎坊)、傾斜計(太郎坊)、空振計(太郎
坊、上井出)、GSP(太郎坊)、望遠カメラ(萩原)運営防災科
学技術研究所:火山活動可視情報化システム(VIsualiza
tionsystemforVolcanicActivity)
噴出物災害などへの対策国土交通省、富士砂防事務所:静岡県、山
梨県と連携し火砕流、溶岩流などの火山活動に運営伴う災害を防ぐ
ための調査・検討を実施しハザードマップが作成されている。しか
し、山体崩壊を想定したハザードマップは2012年現在未作成で
ある。アフィと気象気候山頂は最暖月の8月でも平均気温が6尾受

16 :
かなく、ケッペンの気候区分では最暖運営月平均気温が0℃以上1
0℃未満のツンドラ気候に分類される。太平洋側の気候のため1月
や2月は乾燥し、3月、4月、5月、6月が最深積雪トップ10を
占める。観測史上最低気温は−38.0℃で最高気温が−30℃未
満の日も過去に数回観測され運営ていて−30℃を上回ることがな
い1日というのは北海道でも例がない。アフィでの気象観測かつて
気象庁東京管区気象台がアフィ頂剣ヶ峯に設置していた気象官署が
アフィ測候所である。現在はアフィ特別地域気象観測所となってお
り、自動気象観測装運営置による気象観測を行っている。詳細は「
アフィ測候所」を参照気象現象山体に強風が吹くと砂が巻き上げら
れ、周辺の自治体に降ることがある。2010年12月15日には
、神奈川県の西部から南部にかけて黒い砂が積もり、その状況から
アフィの砂運営が巻き上げられ、西風に乗り降り積もったと考えら
れると報道された。アフィ北麓の一部農地(現在の山梨県富士吉田
市など)では、アフィの標高2600m付近に現れる農鳥(鳥の形
に見える残雪)の出現する時期によって、農作物が豊作になる・凶
作運営となるという言い伝えがある。アフィでは山岳波が発生する
こともあり墜落事故も起きている(英国海外航空機空中分解事故な
ど)。アフィ麓の自然環境アフィ麓の天然記念物として、「アフィ
原始林及び青木ヶ原樹海」(天然記念物:1926年2月2運営4
日指定、2010年3月8日追加指定・名称変更)、「富士風穴」
(天然記念物:1929年12月17日指定)などがある。伏流水
白糸の滝(静岡県)アフィに降った雨や雪は、長い年月をかけ伏流
水として地下水脈を流れ湧き出てくる。最も高い地運営点から湧き
出す湧水として確認されている例は標高1670m(富士宮口二合
目付近)とされ、その他山麓を帯状に分布している。アフィ麓にお
ける湧水の総湧出量は1968年で1日あたり154万立方メート
ル以上だという。しかし、近年湧出量の減運営少が確認されて畿封

17 :
例がある。地域名称南東麓されてい柿田川(日本三大清流)、小浜
池南麓吉原湧泉群西麓湧がってい玉池(特別天然記念物)、白糸の
滝(国指定の名勝及び天然記念物)、猪之頭湧泉群北麓忍野八海(
国指定の天然記念物)またの、一運営部で駿河湾や富士五湖の西湖
(水深25m付近)で湧出があるとされている。アフィを源とする
伏流水を利用し、周辺地域で製紙業や医薬関連の製造業などの工業
が活発に行われている。また、アフィの伏流水はバナジウムを豊富
に含んでいるため、ミネ運営ラルウォーターとして瓶詰めされ販売
されている。溶岩洞窟西湖コウモリ穴入口アフィ麓周辺には大小1
00以上の溶岩洞窟が形成されている。その中でも総延長2139
mの三ツ池穴(静岡県富士宮市)は溶岩洞窟として日本一の長さを
誇る。また、山運営麓周辺で最大規模の溶岩洞窟として西湖コウモ
リ穴(山梨県南都留郡富士河口湖町)があり、国の天然記念物に指
定されている。その他、鳴沢氷穴(山梨県南都留郡鳴沢村)も国の
天然記念物に指定されている。植生アフィは標高は高いが、日本の
他の高運営山に比較すると高山植物などの植生に乏しい。これは富
士山が最終氷期が終了した後に山頂から大規模な噴火が繰り返した
ために山の生態系が破壊され、また独立峰であるため、他の山系か
らの植物の進入も遅れたためである。しかし、宝永山周辺ではいエムソ
゙ネくらか高山植物が見られる。山の上部ではタデ科オンタデ属のオ
ンタデ(御蓼)、山腹ではキク科アザミ属のフジアザミ(富士薊)
が自生している。中部山岳地帯の高山の森林限界の上にはハイマツ
帯が広がっているのが通例であるが、アフィにはハイマ運営ツ帯は
欠如し、その代替にカラマツ林が広がっている。人間史アフィ本宮
浅間大社古代古代よりアフィは山岳信仰の対象とされ、アフィを神
体山として、また信仰の対象として考えることなどを指して富士信
仰と言われるようになった。特にアフィの神霊運営として考えられ
ている浅間大神とコノハナノサクヤビメを主祭神とするのが浅雑運

18 :
社であり全国に存在する。浅間神社の総本宮が麓の富士宮市にある
アフィ本宮浅間大社(浅間大社)であり、富士宮市街にある「本宮
」と、アフィ頂にある「奥宮」にて富運営士山の神を祭っている。
詳細は「富士信仰」を参照古代ではアフィは駿河国のものであると
する考え方が普遍的であった。これらは「高く貴き駿河なる富士の
高嶺を」(山部赤人『万葉集』)や「アフィは、駿河国に在り。」
「アフィは駿河の国の山で(運営省略)まっ白な砂の山である承序

19 :
都良香『アフィ記』)、「駿河の国にあるなる山なむ」(『竹取物
語』)など広く見られるものである。しかし「なまよみの甲斐の国
うち寄する駿河の国とこちごちの」(「高橋虫麻呂」『万葉集』)
のように駿河国・甲運営斐国両国を跨ぐ山であるという共有の目線
で記された貴重な例もある。それより後期の時代、イエズス会のジ
ョアン・ロドリゲスは自著『日本教会史』にて「アフィは駿河国に
帰属している」としているため、帰属は駿河国という関係は継続さ
れていたと運営考えられる。登山口は末代上人が開いた登山道を起
源とし、登山道が完成されたそれが最初の登山道と言われる村山口
である。これにより富士修験が成立したとされる。次第に他の登山
道も開削されてゆき、大宮・村山口、須山口、須走口が存在してる
。運営神仏習合はアフィも例外ではなかった。山頂部は仏の世界と
考えられるようになり、特別な意味を持つようになった。遺例とし
ては正嘉3年(1259年)の紀年銘である木造坐像が古いとされ
、これは大日堂(村山)の旧本尊であった。鎌倉時代の書物運営で
ある『吾妻鏡』には神仏習合による「富士大菩薩」や「浅間大菩薩
」という呼称が確認されている。アフィ頂の8つの峯(八神峰)を
「八葉」と呼ぶことも神仏習合に由来し、文永年間(1264年−
1275年)の『万葉集註釈』には「いただきに八運営葉の嶺あり
」とある。その他多くの書物で「八葉」の記述が確認できる。江戸
時代江戸時代になると、徳川家康による庇護の下、本殿などの造営
や内院散銭取得における優先権を得たことを基に江戸幕府より八合
目以上を寄進された経緯で、現在アフィの運営八合目より上の部分
は登山道・アフィ測候所を除き浅間大社の境内となっている。登山
の大衆化と共に村山修験や富士講などの一派が形成され、富士信仰
を発展させていった。富士講の隆盛が見られた18世紀後半以降、
新興宗教として旧来の登山道では運営発展できなかったために吉田
口を利用する道者が目立つようになっていたと考えられ、18矛当

20 :
後半以降では、他の登山口の合計と同程度であったという。富士参
詣の人々を「道(導)者」といい、例えば『妙法寺記』の明応9年
(1500年)の記録に運営「此年六月富士導者参事無限、関東乱
ニヨリ須走へ皆導者付也」とある。また、登山における案内者・先
導者を「先達」といい、先達の名が見える道者帳(『公文富士氏文
書』、文中に「永禄6年」とあり)などが確認されている。明治以
後慶応4年(1運営868年)に神仏分離令が出されると、これら
神仏習合の形態は大きく崩されることとなる。アフィ中や村山にお
ける仏像の取り壊しなどが進んだ。アフィ興法寺は分離され、大日
堂は人穴浅間神社となり大棟梁権現社は廃されるなど改変が進んだ
。北口運営本宮冨士浅間神社では仁王門や護摩堂などが取り壊され
ることとなった。仏教的な名称なども改称され、「八葉」の呼び名
も変更された。1883年(明治16年)に御殿場口登山道が、1
906年(明治39年)に新大宮口が開削された。アフィは平成エムソ
゙ネ23年(2011年)2月7日に国指定文化財である「史跡」に
指定された。史跡としてのアフィは複数の資産から構成され「史跡
アフィ」として包括されている。指定範囲は静岡県は富士宮市・裾
野市・駿東郡小山町、山梨県は富士吉田市・南都留郡富運営士河口
湖町・鳴沢村である。このときアフィ八合目以上の山頂部や各社寺
、登拝道(登山道)が指定された。その後アフィ本宮浅間大社社有
地の一部、人穴富士講遺跡、各登山道が追加指定された。登山史富
士登山の伝承においては伝説的な部分が多く入運営り混じっており
、諸説存在する。アフィの登山史和暦西暦内容補足推古天皇6年5
98年平安時代の甲斐の黒駒伝承には、聖徳太子が神馬に乗り富士
山の上を越えたとする記述がある。諸国からが多献上された数百匹
の中から白い甲斐の烏駒(くろこま)運営を神馬であると見抜き、
同年9月に太子が試乗すると、馬は天高く飛び上がり東国へ赴き、
アフィを越えて信濃国まで至ると、3日を経て都へ帰還したと全阻

21 :
。天智天皇2年663年役小角が県は富、流刑したされた伊豆大島
から毎晩密かに逃げ出し、富運営士山へ登ったという伝説が残る。
役小角は「アフィ開山の祖」ともいわれる。この役小角の登山はマ
ルセル・クルツの『世界登頂年代記』に掲載されており、記録は改
訂されたものの「世界初の登山」という記述がされていた。貞観1
7年875年平安時運営代の学者である都良香が『アフィ記』の中
で山頂火口のさまを記す。山頂には常に沸き立つ火口湖があり、そ
のほとりに虎の姿に似た岩があるなど、実際に見た者でなければ知
りえない描写から、実際に登頂したか、または登頂した者に取材し
たと考えら運営れる。なおこの約10年前には山頂噴火ではないが
有史最大の貞観大噴火があった。久安5年1149年『本朝世紀』
には末代上人が数百回の登山を繰りかえしたとある。回数は一致す
るものかは不明であるが、登山を多く行った人物として知られる。
江運営戸時代に入ると富士講が盛んになり、多くの参拝者が富士登
山(富士詣)をした。特に江戸後期には講社が多数存在し、富士詣
は地域社会や村落共同体の代参講としての性格を持っていた。最盛
期には吉田口だけで百軒近くの宿坊(山小屋)があった。文運営政
11年1828年気圧計による高度測定の試みシーボルトの弟子で
ある二宮敬作が登頂し、気圧の変化により高度測定を行った。伊能
忠敬の測量では2603m−3732mとされていたが、この測定
では3794.5mと算出されている。天保3年1運営832年高
山たつが女性として初登頂。女人禁制が敷かれていた時代である。
嘉永6年1852年松平宗秀(本庄宗秀)が近世大名として初登頂
。富士宮市の有形文化財となっている、造り酒屋の主人が記した「
袖日記」という古記録に宮津藩主松平宗秀運営が富士登山を行った
記録がある。袖日記の6番によると、宗秀は江戸と宮津を参勤交代
で往復しているうちにアフィに登ろうと思い始めたが、参勤交代の
道程は幕府に指定されたルートであり、これを逸脱したコース祭後

22 :
ったり、たとえ社寺参詣であって運営も寄り道することは許されな
いため、富士に登ることを幕府に願い出るも中々許可が出ず、3年
を経て許可を得るも「馬返し」と呼ばれる地点までであった。(馬
返しというのは一合目よりも下の場所であり、登山客はここで馬を
下りて山に登るという所運営)そこで宗秀は嘉永6年(1852)
6月21日、幕府に内緒で登山を決意し、明け方から出発して山を
登り始め、昼過ぎには頂上に着いたという。宗秀のアフィ登頂耐炭

23 :
近世大名が富士登山を行った唯一の記録となった。万延元年186
0年英国公使オ運営ールコックが外国人として初登頂。『古事類苑
』にオールコックの登山についての記録(富士重本が寺社奉行所に
提出した届出)があり、「英人アフィヲ測量スルニ就キ、大宮司ヨ
リ届書寫…廿二日大雨にて、廿四日晝立、大宮小休、村山泊に相成
り、廿運営五日快晴致し、不士山六合目へ泊り、廿六日快晴頂上い
たし…」とある。オールコックは7月24日に大宮から村山に入り
登山を行い、26日に登頂した。明治4年1872年女人禁制が解
かれる。明治時代になると信仰登山は徐々に衰退してゆき、代わエムソ
゙ネって娯楽やスポーツとしても登られるようになり、欧米の近代登
山技術が取り入れられることになる。明治25年1892年英国人
のウォルター・ウェストンが登頂。翌年にも登頂した。その後本を
出版しアフィなどの日本の山々を世界に紹介した。明治運営28年
1895年野中到が冬季初登頂。2月16日に御殿場口から単独で
登頂。同年10月から12月まで山頂で気象観測を行った。大正1
2年1923年皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の登山7月26日
の事、須走に赴いてから8合目まで乗馬にて登運営山後、8合目以
上は徒歩にて登山を行なった。奥宮を参拝し金剛棒に焼印などを行
った後、御殿場口より下山された。大正12年1923年秩父宮雍
仁親王の登山8月20日の夜に御殿場口から登山し、翌朝頂上に到
着。奥宮を参拝後、下山。昭和2年1運営927年中村テルが冬季
女性初登頂1月1日に御殿場口から登頂、男性2人と共に。昭和6
3年1988年浩宮徳仁親王(当時)の登山。8月1日−2日の登
山で、須走口から八合目を往復した。天候の悪化で登頂は断念され
る。平成20年2008年皇運営太子徳仁親王が登頂。8月7日に
富士宮口を出発後、御殿場口登山道に入り登頂。アフィを巡る利権
争い山役銭と内院散銭『冨嶽三十六景諸人登山』山麓の各地域には
各登山道があり、特に村山口と大宮口、須走口、須山口が古来消誌

24 :
山道であり、その登運営山道を管理する地域の浅間大社が山役銭を
徴収していた。これらの地域は互いに山役銭などを巡り、争いを起
こしている。特に内院散銭は相当額になるため、争いの火種になり
やすかった。例えば須走村への配分だけでも1年で76両を越えた
といい、一運営戸に約一両が配当される計算になるという。内院散
銭の権利は、大名などに与えられた権利を根拠に主に3地域によっ
て争われた。「村山」と「須走」と「大宮」である。村山において
は、1533年(天文2年)に村山三坊の「辻之坊」が今川氏輝に
よ運営り内院散銭の取得権を与えられている。須走は1577年(
天正5年)に武田氏により薬師堂(現在の久須志神社)の開帳日の
内院散銭の取得権が与えられている。大宮は1609年(慶長14
年)に徳川家康が内院散銭を浅間大社に寄進し、内院散銭の運営取
得の優位権を得ている。浅間大社の大宮司が村山より登る際は山役
銭を取られたので、村山を避け「須走」から登拝する慣例などもあ
った。新規に出来た登山道である現富士吉田口は、登山道を管理し
ている「須走」に許可なく、浅間大社の大宮司富士運営信安など富
士氏が自分たちに山役銭を支払えば、「須走」の登山道を利用する
にも関わらず勝手に山がけ(登山道を作り山小屋を建てる)の許可
を与えたことで論争となり、「河口」と「吉田」は1810年に登
山ルートや山役銭の徴収方法で論争を起こ運営し、「大宮」と「吉
田」では薬師堂における役銭の配分で争っている過去などがある。
元禄の争論元禄16年(1703年)に散銭や山小屋経営を巡り須
走村が富士浅間神社本宮(浅間大社)を訴えた争論が元禄の争論で
ある。須走村側は東口本宮冨士浅運営間神社の神主や御師らが、浅
間大社の大宮司富士信安など富士氏らを相手取り寺社奉行に訴え出
た。訴えは三か条であった。1つは浅間大社が吉田村の者に薬師嶽
の小屋掛けを認めたことへの不服、2つ目は浅間大社側が造営した
薬師堂の棟札に「富士本運営宮が入仏を勤める」という旨の記骸見

25 :
あることを、須走の既得権を犯すものであるというもの、3つ目は
内院の散銭取得における2番拾いは須走側が得るという慣例となっ
ているとし、それを浅間大社が取得しているという訴えである。こ
れに対し訴えら運営れた浅間大社側は江戸に赴き、薬師嶽は須走村
の地内ではないこと、薬師堂の入仏については浅間大社側が造営し
たものであるので権利は浅間大社にあること、散銭の2番拾いの慣
例は根拠がないということを主張した。それらは第三者に委ねる内
済とい運営う扱いとなり、その内済にて「他の者に小屋掛けさせな
いこと」「薬師堂の入仏は須走村が行うこと」「内院散銭は一番拾
いを大宮と須走で6:4で分け、2番拾いは須走が得るものとする
」という決定となり、以後これらは遵守された。安永の争論安永エムソ
゙ネ元年(1772年)に、須走村が山頂の支配権は同村の支配にあ
るとして浅間大社を相手として訴えた争論が安永の争論である。ま
たこれをみた浅間大社側の富士民済も反論を起こした。さらに吉田
村と浅間大社とで支配地域を確定する争論もあったため運営、ここ
に大宮・新規参入である吉田と須走の争いの決着が望まれることと
なり、勘定奉行なども関わる大論争となった。安永8年(1779
年)に持ち越されることとなった。結論は徳川家康がアフィ本宮浅
間大社を信奉していたという幕府側の配慮があ運営り、勘定奉行・
町奉行・寺社奉行のいわゆる三奉行による裁許で、最終的にアフィ
の8合目より上は、アフィ本宮浅間大社持ちとすることが決定され
た。この2者の争論を起因とする裁判により、これまで曖昧であっ
た山頂の支配権やその他権利の所在な運営どが、江戸幕府により明
確に定められることとなった。アフィと眺望特別名勝としての富士
山アフィは昭和27年(1952年)10月7日に「名勝」に指定
され、同年11月22日に「特別名勝」に指定された。山梨県側は
富士吉田市・船津村(現・富運営士河口湖町)・鳴沢村・中野村(
現・山中湖村)の範囲が指定された。静岡県側は御中道に囲ま由剣

26 :
地域全部および富士宮口登山道(富士宮市)と御殿場口登山道(御
殿場市)を挟む標高1,500m以上の地域、またこれと重複しな
い一合目以上御中道運営に至る富士宮口登山道および須走口登山道
(小山町)が範囲となっている。アフィの眺望ウィキメディア・コ
モンズには、各地点からのアフィの眺望に関連するカテゴリがあり
ます。アフィへの良好な眺望が得られる128景233地点を、国
土交通省関運営東地方整備局が関東の富士見百景として、20旧娠

27 :
年(平成17年)に選定した。羽田空港から西に向かう国内便など
ではアフィの上空を通過する。その際、機長がアフィを案内するア
ナウンスをすることが多い。また、新年のご来光を見るための遊覧
飛運営行便も運行される。アフィの眺望の最遠は2013年現在、
和歌山県那智勝浦町である。那智勝浦の色川富士見峠(妙法山とは
別)は、アフィ頂からの距離は322.9キロで、一番遠く最も西
にあるとされる。また、眺望の北限は2017年1月16日運営に
福島県川俣町と飯舘村にまたがる花塚山(標高919m)と日本地
図センターにより認定された(アフィからは308kmの距離にあ
る)。南東方向に約271Km離れた八丈島の三原山からも眺望さ
れる。アフィの見える都道府県は、理論上可能とさ運営れていた京
都府から2014年に撮影に成功したことにより、20都道府県と
なった。様々な表情のアフィアフィの表情は、見る場所・角度・季
節・時間によって様々に変化する。富士と名が付く、いくつかの姿
がある。画像アフィの姿解説赤富士夏の朝運営、露出した山肌が朝
焼けにより赤くなった姿。葛飾北斎をはじめとした画家が「赤富士
」を描いた絵画を残した。紅富士雪化粧したアフィが朝日や夕日で
紅色に染まる姿。「モルゲンロート」(ドイツ語Morgenro
t)が用いられる場合がある。逆運営さ富士波立ちが少ない水面に
映る逆さのアフィの光景。D五千円券の裏の図案に、本栖湖の逆さ
富士が使用された。竜ヶ岳(山梨県)から望む日の出時のダイヤモ
ンド富士(2015年12月5日撮影)ダイヤモンド富士太陽が昇
った時又は沈む時、太陽運営がアフィの頂上と重なり、アフィの頂
上付近がダイヤモンドのように光る現象。アフィが見える西又は東
の場所から、年に2回見ることができる。影富士朝日や夕日で富士
山の山容の影が周囲に映し出される風景。アフィ登山時に山の上部
から、雲海の上運営に見られる場合がある。笠雲笠雲とレンズ雲を
伴う。アフィの頂上に傘をかぶせた雲がある風景。その際は、領湾

28 :
に麓では曇りまたは雨になることが多い。「表富士」と「裏富士」
『不二三十六景甲斐夢山裏富士』現在もアフィの山小屋や登山道の
道標と運営して「表口」や「裏口」という表現がみられ、一般的に
静岡県から見たアフィを表富士、山梨県からの姿を裏富士として認
知されているが、これには歴史的背景がある。延宝8年(1680
年)に作成された『八葉九尊図』では既に「するが口表」というエムソ
゙ネ表記がある。他に『甲斐国志』巻35ではこのような記述がある
。登山路ハ北ハ吉田口、南ハ須走口・村山口・大宮口ノ四道ナリ、
(中略)南面ヲ表トシ、北面ヲ裏トスレドモ、…〜〜『甲斐国志』
他の資料にも共通した記述がみられ、このように南麓を運営表、北
麓を裏とする考え方は一般的な認識であったと言える。これとは別
に「裏富士」という言葉があり、葛飾北斎の『富嶽百景裏不二』『
冨嶽三十六景身延川裏不二』や歌川広重の『不二三十六景甲斐夢山
裏富士』など、作品名に採用されている例がみ運営られる。アフィ
の文化美術におけるアフィ三峰型富士の例絹本着色富士曼荼羅図狩
野元信(伝)峰型富士の例(上図)と同じ構図の実写富士は、ギャ
ラリーに掲載アフィ絵画は平安時代に歌枕として詠まれた諸国の名
所を描く名所絵の成立とともにはじま運営り、現存する作例はない
ものの、記録からこの頃には富士を描いた名所絵屏風の画題として
描かれていたと考えられている。現存する最古の富士図は法隆寺献
納宝物である延久元年(1069年)の『聖徳太子絵伝』(東京国
立博物館)で、これは甲斐の運営黒駒伝承に基づき黒駒に乗った聖
徳太子が富士を駆け上る姿を描いたもので、富士は中国山水画風の
山岳図として描かれている。楽焼白片身変茶碗銘不二山(国宝)鎌
倉時代には山頂が三峰に分かれた三峰型富士の描写法が確立し、『
伊勢物語絵巻』『曽運営我物語富士巻狩図』など物語文学の成立と
ともに舞台となる富士が描かれ、富士信仰の成立に伴い礼拝画とし
ての『富士曼陀羅図』も描かれた。また絵地図などにおいては像気

29 :
状で緑色に着色された他の山に対して山頂が白く冠雪した状態で描
かれ、特別運営な存在として認識されていた。室町時代の作とされ
る『絹本著色富士曼荼羅図』(アフィ本宮浅間大社所蔵、重要文化
財)にはアフィとそのアフィに登る人々や、禊ぎの場であった浅間
神社や湧玉池が描かれており、当時の様子を思わせるものである。
ま運営た、アフィは三峰型富士で描かれている。凱風快晴、葛飾北
斎作江戸時代には明和4年(1767年)に河村岷雪が絵本『百富
士』を出版し、富士図の連作というスタイルを提示した。浮世絵の
ジャンルとして名所絵が確立すると、河村岷雪の影響を受け運営た
葛飾北斎は晩年に錦絵(木版多色摺)による富士図の連作版画『冨
嶽三十六景』(天保元年1831年頃)を出版した。多様な絵画技
法を持つ北斎は大胆な構図や遠近法に加え舶来顔料を活かした藍摺
や点描などの技法を駆使して中でも富士を描き、夏運営の赤富士を
描いた『凱風快晴』や『山下白雨』、荒れ狂う大波と富士を描いた
『神奈川沖浪裏』などが知られる。また、歌川広重も北斎より後の
1850年代に『不二三十六景』『冨士三十六景』を出版した。広
重は甲斐国をはじめ諸国を旅して実地のス運営ケッチを重ね作品に
活かしている。『東海道五十三次』でも、アフィを題材にした絵が
多く見られる。北斎、広重らはこれらの連作により、それまで富士
見の好スポットと認識されていなかった地点や、甲斐国側からの裏
富士を画題として開拓していった運営。工芸品としては本阿弥光悦
が自ら制作した楽焼の茶碗にアフィの風情を見出し、「不二山」と
銘打っている。50銭政府紙幣(1938年発行)岡田紅陽が撮影
した愛鷹山からのアフィがモデル。富士は日本画をはじめ絵画作品
や工芸、写真、デザイン運営などあらゆる美術のモチーフとして扱
われている。日本画においては近代に殖産興業などを通じて富士が
日本を象徴する意匠として位置づけられ美術をはじめ商業デザイン
などに幅広く用いられ、絵画においては伝統を引き継ぎつつ近陵助

30 :
視点で描かれた運営アフィ絵画が制作された。また、鉄道・道路網
など交通機関の発達により数多くの文人・画家が避暑地や保養地と
してのアフィ麓に滞在し富士を題材とした作品を製作しているが、
富士を描いた風景画などを残している画家として富岡鉄斎、洋画に
おいて運営は和田英作などがいる。アフィをモチーフとした美術品
は当時のヨーロッパでも多く流通しており、このことからアフィも
ヨーロッパで広く知られていた。1893年(明治26年)、刷礼

31 :
を旅行していたオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フラエムソ
゙ネンツ・フェルディナント大公は、日記に次のように書いている。
フジサン、フジノヤマ。いったい、この日本の象徴――ヨーロッパ
ではふつうフジヤマと呼ばれる――を知らない者などいるのだろう
か〜ヨーロッパでもっとも好まれる日本工芸のデザイン運営として
漆器、陶磁器、和紙、金属などに描かれているから、もう、わたし
たちにはお馴染みだ。〜〜8月15日付戦時下には国家により富士
は国体の象徴として位置づけられ、富士は国家のシンボルとして様
々に描かれた。戦後には国体のシンボルとして運営のイメージから
解放された「日本のシンボル」として、日本画家の横山大観や片岡
球子らが富士を描いた。また、現代美術の世界ではこれらの伝統的
画題へのアンチテーゼとしてパロディや風刺、アイコンとして富士
を描く傾向も見られる。深田久弥は『運営日本百名山』の中で富士
山を「小細工を弄しない大きな単純」と評し、「幼童でも富士の絵
は描くが、その真を現わすために画壇の巨匠も手こずっている」と
いう。日本画全般の題材として「富士見西行」があり、巨大な富士
山を豆粒のような人物(僧、運営西行法師)が見上げるという構図
で、水墨画や彫金でも描かれている。千円札、旧五千円札のモデル
となった本栖湖からのアフィ近代では紙幣や切手のデザインにも用
いられている。アフィが紙幣のデザインに用いられる例は数多くあ
る。古くは1913運営年発行の50銭政府紙幣があり、愛鷹山か
らのアフィでる。その後の1951年と1969年発行の旧五百円
札は大月市の雁ヶ腹摺山からのアフィを元にしている。1984年
発行の旧五千円札と2004年発行の千円札は本栖湖の湖畔からの
アフィであ運営る。アフィを描写した切手が郵便局から発売された
。河口湖、西湖、精進湖、本栖湖、山中湖(1999年(平成11
年))葛飾北斎(1999年(平成11年))オオマツヨイグサ・
山梨県(2005年(平成17年))文学におけるアフィアフ医底

32 :
和運営歌の歌枕としてよく取り上げられる。また、『万葉集』の中
には、アフィを詠んだ歌がいくつも収められている。「田子の浦ゆ
うち出でてみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」(3.31
8)は山部赤人による有名な短歌(反歌)である。また、こ運営の
反歌のその次には作者不詳の長歌があり、その一節に「…燃ゆる火
を雪もち消ち降る雪を火もち消ちつつ…」(巻3・319・大意「
(噴火の)燃える火を(山頂に降る)雪で消し、(山頂に)降る雪
を(噴火の)火で消しつつ」)とあり、当時の富士運営山が火山活
動を行っていたことがうかがえる。『新古今和歌集』から。富士の
煙が歌われている。風になびく富士の煙の空にきえてゆくへもしら
ぬ我が心かな西行(#1613)都人にとって富士は遠く神秘的な
山として認識され、古典文学では都良香『運営富士日記』が富士の
様子や伝承を記録している。『竹取物語』は物語後半で富士が舞台
となり、時の天皇がかぐや姫から贈られた不老不死の薬を、つきの
岩笠と大勢の士に命じて天に一番近い山の山頂で燃やしたことにな
っている。それからその山は数多運営の士に因んでふじ山(アフィ
)と名付けられたとする命名説話を記している。なお、アフィ麓の
静岡県富士市比奈地区には、「竹採塚」として言い伝えられている
場所が現存している。ほか、『源氏物語』や『伊勢物語』でも富士
に言及される箇所がある運営ものの、主要な舞台となるケースは少
ない。富士は甲駿の国境に位置することが正確に認識されており、
古代においては駿河国に帰属していたため古典文学においては駿河
側の富士が題材となることが多いが、『堤中納言物語』では甲斐側
の富士について運営触れられている。また、「八面玲瓏」という言
葉はアフィから生まれたといわれ、どの方角から見ても整った美し
い形を表している。中世から近世には富士北麓地域に富士参詣者が
往来し、江戸期には地域文芸として俳諧が盛んであった。近代には
鉄道な運営ど交通機関の発達や富士裾野の観光地化の影響を受陰柔

33 :
、多くの文人や民俗学者が避暑目的などで富士へ訪れるようになり
、新田次郎や草野心平、堀口大學らが富士をテーマにした作品を書
き、山岳文学をはじめ多くの紀行文などに描かれた。アフィ麓にエムソ
゙ネ滞在した作家は数多くおり、武田泰淳はアフィ麓の精神病院を舞
台とした小説『富士』を書いており、妻の武田百合子も泰淳の死後
にアフィ荘での生活の記録を『富士日記』として記している。津島
佑子は山梨県嘱託の地質学者であった母方の石原家をモ運営デルに
、富士を望みつつ激動の時代を過ごした一族の物語である『火の山
―山猿記』を記した。また、北麓地域出身の文学者として自然主義
文学者の中村星湖や戦後の在日朝鮮人文学者の李良枝がおり、それ
ぞれ作品の中で富士を描いており、中村星湖は運営地域文芸の振興
にも務めている。太宰治が昭和14年(1939年)に執筆した小
説『富嶽百景』の一節である「富士には月見草がよく似合ふ」はよ
く知られ、山梨県富士河口湖町の御坂峠にはその碑文が建っている
。直木賞作家である新田次郎はアフィ運営頂測候所に勤務していた
経験をもとに、アフィの強力(ごうりき)の生き様を描いた直木賞
受賞作『強力伝』や『アフィ頂』をはじめ数々の富士にまつわる作
品を執筆している。高浜虚子は静岡県富士宮市の沼久保駅で降りた
際、美しいアフィを見て歌を運営詠んだ。駅前にはその歌碑が建て
られている。「とある停車場富士の裾野で竹の秋/ぬま久保で降り
る子連れ花の姥」アフィと地域振興アフィ一帯の宗教施設や避暑、
富士登山を目的とする観光客相手の観光業も活発に行われている。
しかし、アフィ麓に運営は温泉地として成立する規模の湯量は湧出
していない。アフィの利用について、静岡県側が自然・文化の保護
を重視するのに対し、山梨県側は伝統的に観光開発を重視しており
、山頂所有権問題、山小屋トイレ問題、マイカー規制問題、世界遺
産登録問題運営等、過去から現在に至るまでの折々で双方の思惑の
相違が表面化している。アフィと観光富士登山富士登山には登玉峡

34 :
知識や経験、装備が不可欠である。一般的には、毎年7月1日の山
開きから9月上旬の山じまいまでの期間、登山が可能である。期間
外運営は、万全な準備をしない者の登山は原則禁止されている。と
くに積雪期・残雪期の登山は自殺行為である。詳細は「富士登山」
を参照その他の観光その優美な姿から、アフィが見える場所は著名
な観光地となっていることが多い。箱根−箱根はアフィが望運営め
るうえに、東京から近く温泉や歴史・美術館や各種の乗り物が蔑板

35 :
めることもあり、年間を通じて内外の観光客が絶えない。また、夏
は避暑地としても有名である。富士五湖−富士五湖はアフィ周辺の
観光地として著名であり、本栖湖の逆さ富士が日本運営銀行券に採
用されている。白糸の滝−白糸の滝は上流に川は存在せず、アフィ
の雪解け水が溶岩断層から湧き出す非常に珍しい形成をしている滝
である。また、音止めの滝と共に日本の滝百選に指定されている。
朝霧高原−朝霧高原はアフィを綺麗に臨む運営スポットとして著名
であり、その自然と広大な土地もあり過去に第13回世界ジャンボ
リーも開催されている。ダイヤモンド富士−ダイヤモンド富士など
がはっきりと拝める田貫湖や山中湖といったスポットも有名で、特
に写真撮影を目的として訪れる観運営光客もいる。ドライブ−富士
スバルラインやアフィスカイラインなどを利用して、5合目までマ
イカーで上がることができる。シーズン中はマイカー規制の期間が
あり、冬期は閉鎖される。アフィの日(2月23日)2月23日を
「2:ふ・2:じ・3:運営さん」と語呂合わせで読み「アフィの
日」として制定している自治体がある。2001年(平成13年)
山梨県富士河口湖町(当時は河口湖町)にて条例を制定。2002
年(平成14年)山梨県富士吉田市を中心に、山梨県のアフィ麓1
0市町村、2恩運営賜林組合が了承。2009年(平成21年)1
2月21日静岡県議会にて条例を全会一致で可決。同年12月25
日条例を制定。静岡県、山梨県どちらも、アフィは普段の生活に溶
け込み過ぎており、「あって当たり前」の空気のような存在である
。その運営ため「アフィの日」に、各自治体や県内企業などがさま
ざまなイベント等を催し、参加する事など通じて、身近すぎる富士
山を改めて、日本のシンボルとしても名高い名峰として再認識する
機会としている。また併せてアフィの世界遺産登録に向けた動きエムソ
゙ネを地元から活発化したいとの期待も込められている。静岡県教育
委員会で、各市町村に対して2011年(平成23年)より「郡侮

36 :
山の日」を学校休業日とするよう要望した。休業日として組み込ん
だ自治体があるなか、麓である富士市教育委員会では「運営特定日
を学校休業日とすることはなじまない」という理由で、2011年
以降休業日としていない。ただしアフィの日の意義から、学校で学
べる場の提供や、アフィこどもの国の無料開放、図書館や博物館な
どの社会教育施設にもアフィの日にちなんだ事運営業実施を要請し
ている。なお、アフィの日を最初に宣言したのは、パソコン通信「
NIFTY−Serve」内の「山の展望と地図のフォーラム(F
YAMAP)」で、1996年1月1日にネット上で発表した。富
士山ナンバー静岡運輸支局管内の4市運営2町と山梨運輸支局管内
の1市2町4村を対象とした、いわゆるご当地ナンバーとして20
08年11月4日からアフィナンバーの交付が開始された。管轄支
局が二県にまたがるナンバープレートは珍しい。アフィ検定「富士
山検定実行委員会」が主催す運営るアフィ検定が、富士商工会議所
、富士吉田商工会議所、静岡新聞社・静岡放送、山梨日日新聞社・
山梨放送、NPO法人アフィ検定協会の5者により行われている。
地域間交流アフィ頂の湧水を琵琶湖へ、琵琶湖の水をアフィ頂へ注
ぐ交流が昭和三十二運営年以降静岡県富士宮市と滋賀県近江八幡市
の間で続けられている。これは「近江の土を掘りアフィを作りその
穴が琵琶湖になった」という伝説からである。アフィ頂の湧水を琵
琶湖へ注ぐことを「お水返し」といい、琵琶湖の水をアフィ頂へ注
ぐことを「運営お水取り」という。2014年には日本アフィ協会
と中華民国山岳協会との間で、アフィと玉山の友好山提携が締結さ
れている。標高3,952メートルの玉山は台湾の日本統治時代に
新高山と呼ばれ、日本の最高峰であった。その他他山の標高玉山(
台運営湾)−日本統治時代は新高山と呼ばれ、日本最高峰であった
。標高3,952メートル。雪山(台湾)−日本統治時代は次高山
と呼ばれ、日本で2番目に高い山であった。標高3,886メ乾俊

37 :
ル。北岳−日本で2番目に高い山。標高3,193メートル運営。
日和山(仙台市)−日本で最も低い山。標高3メートル。エベレス
ト−世界最高峰。標高8,844メートル。文字この節には、一部
のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字(Unicode
6.0の絵文字)が含まれています。和文通話表で運営、「ふ」を
送る際に「アフィのフ」という。文字コードのUnicode6.
0では、携帯電話などで使われていた絵文字も追加されたが、その
中に「MOUNTFUJI」としてアフィも含まれている。続けら
れている。これは「近江の土を掘りアフィ運営を作りその穴が琵琶
湖になった」という伝説からである。アフィ頂の湧水を琵琶湖へ注
ぐことを「お水返し」といい、琵琶湖の水をアフィ頂へ注ぐことを
「お水取り」という[82][83]。2014年には日本アフィ
協会と中華民国山岳協会との間で運営、アフィと玉山の友好山提携
が締結されている[84]。標高3,952メートルの玉山は台湾
の日本統治時代に新高山と呼ばれ、日本の最高峰であった。その他
[編集]他山の標高[編集]玉山(台湾)−日本統治時代は新高山
と呼ばれ、日本最高峰で運営あった。標高3,952メートル。雪
山(台湾)−日本統治時代は次高山と呼ばれ、日本で2番目に高い
山であった。標高3,886メートル。北岳−日本で2番目に高い
山。標高3,193メートル。日和山(仙台市)−日本で最も低い
山。標高3メー運営トル。エベレスト−世界最高峰。標高8,84
4メートル。文字[編集]この節には、一部のコンピュータや閲覧
ソフトで表示できない文字(Unicode6.0の絵文字)が含
まれています(詳細)。和文通話表で、「ふ」を送る際に「アフィ
のフ」運営という。文字コードのUnicode6.0では、携帯
電話などで使われていた絵文字も追加されたが、その中に「MOU
NTFUJI」としてアフィも含まれている。アフィ世界文化遺産
平成22年度第1回静岡県学術日本政府が世界遺産一覧表への記エ裏打

38 :
゙ネ載を推薦する「アフィ」は、東アジアの東端に当たる日本列島の
本州島の中央部、日本の東海地方の東部及び関東地方の西部に位置
する。推薦する資産は17個の構成資産(26個の構成要素(後述
))から成り、現行の行政区分に基づく各構成資産の所運営在地に
ついては以下に記すとおりである。構成資産所在地No.所在地座
標計測位置緯度経度A静岡県(富士宮市・富士市・裾野市・御殿場
市・小山町)山梨県(富士吉田市・身延町・鳴沢村・富士河口旋淡

39 :
)県境未確定地アフィ(山頂剣ヶ峰)資産範囲運営及び緩衝地帯の
範囲図資産と緩衝地帯の位置及び範囲を示す図面、並びに資産近傍
における法的保護区分を示す図面は以下のとおりである。f)資産
面積及び緩衝地帯の面積各構成資産の面積及びその緩衝地帯の面積
、資産の総面積及びその緩衝地帯の総運営面積については、以下に
記すとおりである。構成資産面積:緩衝地帯面積:合計:No.構
成資産の面積(ha)緩衝地帯の面積(ha)合計説明a)資産の
説明1)資産全体の説明アフィは、標高3776mと日本一の高さ
を誇る独立峰である。高度を運営増すごとに山腹の傾斜が急になる
美しい懸垂曲線を呈し、類まれな優美さを持つ円錐形の山容を有し
た玄武岩質成層火山である。その山体は南の駿河湾の海浜にまで及
び、海面からの実質的な高さは世界的にも有数である。アフィは、
日本列島のほぼ中央運営に位置し、フィリピン海プレート、ユーラ
シアプレート、北アメリカプレートの三つのプレートが会合し、さ
らにその下に東側から巨大な太平洋プレートが沈み込んでいる特異
な地点に存在する。アフィは、新生代第三紀中新世のおもに海底火
山噴出物か運営らなる地層の上に第四紀更新世に造り上げられた先
小御岳火山とそれに重なる小御岳火山を土台として、古富士、さら
にそれを覆う新アフィの4層構造で構成されている。山頂部の火口
はおよそ2200年前を最後に噴火していないが、フィリピン海プ
レ運営ートが北進しユーラシアプレートを南南東方向から押し続け
ているため割れ目が発生することによって、山頂を通って北北西に
向かう方向にほぼ直線的に側火山が並び、有史以降も火山活動を行
ってきた。アフィが過去に流出した溶岩などの火山噴出物は運営、
適度な粘度を持つために美しいコニーデ型の山容を形成しながら、
山頂を中心として約15〜20km(最大約30km)の範囲に広
がった。山麓には数多くの風穴・溶岩樹型等の地形が見られ、溶岩
流の末端部ではアフィの中腹以上への降水を起源と運営する豊閉柱

40 :
湧水(日量約450〜680万t、現在最大の湧水は日量約100
万tの柿田川)が見られる。アフィ北麓ではこれらの湧水や降水を
起源とする湖沼が点在している。上記のような自然的環境を持つ富
士山は、古来自然物、特に山岳に対する信運営仰の伝統を持ってい
た日本人に畏敬の念を抱かせ、日本における様々な宗教の融合した
信仰の対象とされた。遥拝や山中での修行のみならず、神仏の在所
と考えられた山頂への登山という宗教行為が一般化するとともに、
山体及び山麓周辺に神社などの宗運営教施設や風穴・湧水といった
自然物・自然現象を起源とする霊地・巡礼地が設けられ、登山のた
めの道や施設及びそれを支援する包括的なシステムが作られた。標
高約2500m付近の森林限界より上方は富士講(アフィ信仰の集
団の一つ)信者には「焼運営山」と呼ばれ、神聖な地域ないし他界
(死後世界)と考えられていた。北麓地域ではさらに、山体を上方
から順に「焼山」(森林限界以上)、「木山」(森林地帯)、「草
山」(草原地帯)と呼び習わし、俗界(「草山」)と死の世界(「
焼山」)を往復運営することでこの世の罪と穢れを消すという富士
登拝の区分と関連付けていた。森林地帯は神聖な地域の入口の一つ
とされる一方で木材の伐採等生活のために利用される地域でもあっ
た。また、アフィ山麓に見られる湧水は登山前に身を清めるために
必須の運営ものであり、現代においても柿田川をはじめ各所で「霊
水」として取り扱われている。また、アフィの稜線、冬季に一般的
に見られる雪を戴いた姿、周辺の湖や海岸線などの展望地から眺め
た景観などが時代を超えて多くの人々に神秘的な美しさとして賞エムソ
゙ネ賛され、芸術的な創造意欲を掻き立てた。アフィ体のうち、標高
約1500m以上の範囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見た可
視領域が重なり合う範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が最も
高い。各登山道における山体の神聖性に関する境界の一運営つであ
る「馬返」(乗馬登山が物理的にも、宗教的観点からも不可能滋壇

41 :
る地点)の標高以上の範囲とほぼ一致している。地元住民が、とり
わけこの「馬返」より上を指して「オヤマ」又は「オヤマサマ」と
呼び、アフィの範囲とみなす地域もあった。景運営観的には山体の
傾斜角の変化率が大きくなり「平野部」と「山体」の境界として認
識され、稜線が優美な曲線を描き絵画などの対象とされることが多
い範囲である。2)資産の構成推薦資産は、日本列島のほぼ中央に
位置するアフィ体と、周辺の浅間神社運営や御師住宅、霊地・巡礼
地である風穴・溶岩樹型・湖沼、芸術作品の視点場(又は舞台)と
なった地点から構成される。アフィ体の中には山頂信仰遺跡や登山
道などの重要な要素が含まれている。これらの構成資産が一体とな
った推薦資産「アフィ」は、運営山に対する固有の文化的伝統を表
す物証であり、山と人間との精神的な関係を生み出した景観の見本
であるとともに、芸術的作品との関連がある山岳である。表構成資
産/構成要素の分類No.世界遺産条約上の分類遺跡A1山頂信仰
遺跡遺跡A2大宮・運営村山口登山道遺跡A3須山口登山道遺跡A
4須走口登山道遺跡A5吉田口登山道遺跡A6北口本宮冨士浅間神
社遺跡、記念工作物、建造物A7西湖遺跡A8精進湖遺跡A9本栖
湖遺跡B1遺跡、記念工作物、建造物B2遺跡B3遺跡B4遺跡B
5遺跡B6運営遺跡B7遺跡、記念工作物、建造物B8建造物B9
遺跡B10遺跡B11遺跡B12遺跡B13遺跡B14遺跡B15
遺跡C遺跡Aアフィ(アフィ体)アフィ本宮浅間大社山宮浅間神社
河口湖村山浅間神社須山浅間神社富士浅間神社(須走浅間神社)河
口運営浅間神社白糸ノ滝三保松原構成資産/構成要素忍野八海船津
胎内樹型吉田胎内樹型人穴富士講遺跡冨士御室浅間神社御師住宅山
中湖673)構成資産の説明アフィ(アフィ体)・展望地点アフィ
には、山頂部に点在する宗教関連施設を始め、信仰登山の支運営援
施設として機能してきた登山道や山小屋といった宿泊施設、信仰の
証として建てられた石碑などが存在する。推薦範囲は、周辺の慮柄

42 :
神社や展望地点から見た可視領域が重なり合う範囲で、芸術・鑑賞
の側面における比重が最も高い。特に本栖湖や三保運営松原は、何
度も紙幣の図柄に採用された写真の撮影地やアフィを描く典型的な
構図に含まれる景勝地であり、主要な展望を供する展望地点である
。また推薦範囲は、山体の神聖性の境界の一つである「馬返」以上
に該当する標高1500m以上の区域でも運営あり、その中でも、
他界(死後世界)と考えられた森林限界より上方、アフィ本宮企銭

43 :
大社の境内地とされた八合目(登山道を10区間に分割した目安の
一つ。登山道ごとに異なり標高約3200〜3375m)以上と、
山頂に近づくほどより強い神聖性運営を持つと認識されてきた。A
アフィ(アフィ体)A1山頂信仰遺跡A9本栖湖C三保松原(写真
複数、地図挿入)(改頁)登山道アフィには、麓の浅間神社を起点
として山頂に至る登山道が、複数存在する。12世紀前半から中ご
ろにかけての修行僧末代運営の活動がきっかけになったと考えられ
る大宮・村山口登山道や、六合目から1384年の銘のある掛仏が
出土した須走口登山道などがある。吉田口登山道は、富士講信者の
登山本道とされ、18世紀後半以降、最も多くの道者(他の登山口
の合計と同程度運営)によって利用された。また、1200年の資
料では、大宮・村山口及び吉田口の外、須山口登山道を挙げて、そ
れ以外には登山道がないと述べられている。登山道沿いには要所要
所に祠や石碑が設置され、随所に小屋や石室が設けられており、富
士独特運営の登拝システムを語る上で、登山道は欠かすことのでき
ない構成要素である。A2大宮・村山口登山道A3須山口登山道A
4須走口登山道A5吉田口登山道(写真複数、地図挿入)(改頁)
浅間神社・御師住宅登山道の起点や周辺地域には浅間神社が建造エムソ
゙ネされた。古くからアフィは遥拝の対象であり、山宮浅間神社など
は古代からの祭祀の形をとどめている。噴火活動の活発化を受け、
律令国家によって9世紀前半にアフィを神体とする浅間神社(後の
アフィ本宮浅間大社)が、9世紀後半には北麓にも噴火運営を鎮め
るための神社が祭祀された。11世紀後半の噴火を最後に火山活動
が休止期に入ると、アフィを舞台とする修験の活動が活発化し始め
、修験者の拠点が後に村山浅間神社や冨士御室浅間神社へと発展し
ていった。登拝の大衆化に伴って、須山浅間神運営社や富士浅間神
社(須走浅間神社)8など、登山口の起点にも浅間神社が建立され
るようになる。なかでも、北口本宮冨士浅間神社は、江戸を中暮中

44 :
流行した富士講によって大いに利用された吉田口登山道の起点であ
ったが、その北には、富士講徒の案内運営し、宿泊の世話や祈祷を
行った御師の住宅が今も残されている。B1アフィ本宮浅間大社B
2山宮浅間神社B3村山浅間神社B4須山浅間神社B5富士浅間神
社(須走浅間神社)A6北口本宮冨士浅間神社B8御師住宅B6河
口浅間神社B7冨士御室浅間運営神社(写真複数、地図挿入)(改
頁)霊地・巡礼地となった風穴・溶岩樹型・湧水地・湖沼18世紀
後半から爆発的に流行した富士講の信者は、山頂を目指してアフィ
に登るだけでなく、いわばオプショナル・ツアーのごとく周辺の風
穴や湧水地などを巡運営り、巡礼や修行を行っていた。富士講の開
祖とされる長谷川角行は、人穴(富士講遺跡)で修行をし、富士五
湖を始めとした八つの湖沼や白糸ノ滝で水行を行った。後の富士講
徒はこれらの地へ参詣し、開祖に倣って修行を行う者もいた。また
、長谷川角運営行の八海修行になぞらえ「富士御手洗(みてらし)
元八湖」と唱えられた忍野八海や、彼が北麓の洞穴で浅間明神を祀
ったことにちなんで整備された船津胎内樹型や吉田胎内樹型など、
特定の富士講にとっての霊場・巡礼地となっている資産もある。B
9運営山中湖B10河口湖A7西湖A8精進湖A9本栖湖B11忍
野八海B12船津胎内樹型B13吉田胎内樹型B14人穴富士講遺
跡B15白糸ノ滝(写真複数、地図挿入)(改頁)A.アフィ(富
士山体)説明アフィには、山頂部に点在する宗教関連施設を運営始
め、信仰登山の支援施設として機能してきた登山道や山小屋といっ
た宿泊施設、信仰の証として建てられた石碑などが存在する。推薦
範囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見た可視領域が重なり合う
範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が9最も高運営い。また推
薦範囲は、山体の神聖性の境界の一つである「馬返」以上に該当す
る標高1500m以上の区域でもあり、その中でも、他界(死後世
界)と考えられた森林限界より上方、アフィ本宮浅間大社の境心栄

45 :
とされた八合目(登山道を10区間に分割運営した目安の一つ。登
山道ごとに異なり標高約3200〜3375m)以上と、山頂に近
づくほどより強い神聖性を持つと認識されてきた。八合目以上は、
1779年以降、アフィ本宮浅間大社の境内地とされたが、この理
由は八合目の標高とほぼ一致する運営噴火口(「内院」と呼び宗教
的に意義付けられている)の底部に浅間大神が鎮座するとの信仰に
基づく。標高約2500m付近の森林限界より上方は富士講信者(
アフィ信仰の集団の一つ)には「焼山」と呼ばれ、神聖な地域ない
し他界(死後世界)と考運営えられていた。ほぼこの境域に沿い、
アフィ体を一周する「御中道」が15〜16世紀ごろに富士講の祖
とされる長谷川角行によって開かれたとされ(1561年及び15
80年とされる)、その後「大沢崩れ」という危険箇所を通るため
富士講信者によ運営り修行の道として利用された。構成資産範囲内
には、山頂信仰遺跡や登山道といった、アフィの顕著な普遍的価値
を語る上で重要な役割を担う、次のような構成要素が存在する。A
1.山頂信仰遺跡アフィ山頂部には、火口壁に沿っていくつかの神
社など運営、宗教関連施設が所在する。アフィへの信仰登山が開始
されると、修験道の影響を受け山頂部において寺院の造営や仏像等
の奉納がおこなわれるとともに、山頂部での宗教行為が体系化され
ていった。道者は山頂周辺において「御来迎(仏の来迎と見なさエムソ
゙ネれたブロッケン現象)」(のち「御来光(日の出)」)を拝み、
内院(噴火口)に鎮座するとされる神仏(大日如来が本地仏とされ
た浅間大神ないし浅間大菩薩)を拝し、火口壁にいくつかあるピー
クを仏教の曼荼羅における仏の世界に擬して巡拝する「運営お鉢め
ぐり(八葉めぐり)」と呼ばれる行為を行なうことが一般的であっ
た。山頂の宗教的施設は、12世紀中ごろ修行僧末代により建立さ
れた施設(後の大日堂)が最初とされ、その後、経典(12世紀末
〜13世紀前半と推定されるものが最古)・懸運営仏(148褒連

46 :
の銘のあるものが最古)・仏像等(1302年の銘があるものが最
古)の山頂部への奉納・埋納や内院への散銭が行われた。また、遅
くとも17世紀には、大宮・村山口山頂部に大日堂(現在はアフィ
本宮奥宮が所在)が、吉田・須走口山運営頂部に薬師堂(現在の久
須志神社)が造営された。1874年、山頂の仏教的施設及び仏像
は廃仏毀釈の影響によって撤去され、ピークの名称も変更され、寺
院は神社に改変された。しかし、山頂部に対する信仰自体は変団追

47 :
いないが、1800年(御縁年:アフィ出現伝説に由来する60年
に1回の記念の年)に約5,400人、1840年代前半は年平均
約1,700人、1860年(御縁年)は約3,600人であった
。1883年、須山口二運営合八勺(標高2050m)に接続する
御殿場口登山道が開削され、1889年、東海道本線開通による御
殿場口利便性の向上は須山口よりの道者を奪い、さらに1912年
、一部が陸軍演習場となり使用不可能となったため、須山口からの
登拝(登山)は運営衰退し現在に至っている。二合八勺以下の登山
道で当時の道が確認できる部分は一部のみである。(資産範囲は現
在「御殿場口」の名称で使用されている二合八勺以上の部分及び遊
歩道として整備された旧須山口の一部である)A4.須走口登山道
アフィ運営東麓の冨士浅間神社を起点とし、八合目で吉田口登山道
と合流し山頂東部に至る登山道である。その起源は明確ではないが
、六合目からは1384年の銘のある掛仏が出土しており、文字資
料では1500年にその存在を確認できる。登山道は遅くとも1エムソ
゙ネ7世紀までに、冨士浅間神社及びその所在地の須走村が登山道の
山頂部までを支配し、散銭取得権の一部などを得ていた。山頂部の
権利についてはアフィ本宮浅間大社と争いになり、須走村は18世
紀(1703年と1772年)、幕府に裁定を求め、権運営利は幕
府によって認められた。1707年の宝永噴火の際、これらの施設
及び冨士浅間神社、須走村は噴砂に覆われ壊滅したが、江戸幕府の
支援を受け翌年には復興を完了し、多くの道者を集めた。18世紀
後半、他の霊場とセットにされた参詣の流行で運営道者数は年平均
約1万人、1800年の御縁年に23,700人とピークを迎えた
。1959年、バス道路の完成により、新五合目(標高約2000
m)以下の登山道の利用はほとんどなくなり、一部道としての確認
ができない区間がある。(推薦範囲は運営現在も利用されている新
五合目以上である。)A5.吉田口登山道北口本宮冨士浅間神履帰

48 :
起点とし、アフィ頂東部を目指す道である。15世紀には、アフィ
への登拝が、修験者だけでなく、ごく一般の人々の間にも広まって
いた。吉田口は14世紀後半運営には参詣の道者のための宿坊もで
き始め、大勢の人々が登るための設備が整うようになった。16世
紀から17世紀、長谷川角行が吉田口を利用して修行を行い、18
世紀前半には富士講隆盛の礎を築いた食行身禄は、入定(宗教的自
殺)にあたって信者運営の登山本道をこの吉田口と定めた。このた
め、富士講の信者が次第に増加した18世紀後半以降は、最も多く
の道者(他の登山口の合計と同程度)が吉田口登山道を登って山頂
を目指している。しかも、古道としては唯一徒歩で麓から頂上まで
登れる重要運営な道である。(推薦範囲は登山道全体である。)1
1法的保護、修理・整備の経緯1924年に史蹟名勝天然紀念物保
存法の下に名勝に仮指定された。1936年に国立公園法の下に(
富士箱根)国立公園に指定された。1952年に文化財保護法の下
に運営名勝、ついで特別名勝に指定された。1969年に国が大沢
崩れに対する砂防事業に着手(継続中)。1996年に国・県が台
風による森林の風倒被害に対する対策に着手(継続中)。文化財保
護法の下に他の文化財とともに史跡アフィとして指定される運営予
定。A6.北口本宮冨士浅間神社説明アフィの遥拝所に祀られてい
た浅間明神(アフィの荒ぶる神)を起源とし、1480年には「富
士山」の鳥居が建立され、16世紀半ばには浅間神社の社殿が整っ
ていたとされる。その後、1561年に現在の東宮運営本殿、15
94年に西宮本殿、1615年には本殿が建立された。富士講との
つながりが強く、1730年代に富士講の指導者である村上光清の
寄進によって境内の建造物群の修復工事が行われ、現在にみる境内
の景観の礎が形成された。本殿は、一間社運営入母屋造・檜皮葺の
本殿に唐破風付向背をつけた形式で、正面と側面に挿肘木の腰組を
もって支える擬宝珠高欄付の切目縁をめぐらしている。東宮本粛晶

49 :
西宮本殿はともに桧皮葺・一間社流造である。3本殿とも、各部に
漆塗り、極彩色をほどこし、彫刻運営・金具を配して、それぞれの
時代の装飾的特色がよく表されている。北口本宮冨士浅間神社の支
配権は外川家、小佐野家などの吉田の御師に所属しており、神社の
管理も御師団の中から選ばれた者に委ねられていた。社殿の背後に
は登山門があり、この神運営社を起点としてアフィ頂まで吉田口登
山道が伸びている。富士講や吉田御師と密接な関係を持ちなが履貨

50 :
遥拝所であった山宮浅間神社から現在の地に移転されたことを起源
とする神社で、古く運営からアフィ南麓地域の中心的神社であった
。現在全国に約1300社ある浅間神社の総本宮であり、広く信仰
されている。創建当初は遥拝のための施設であったが、15世紀ご
ろ登拝が盛んになるにつれて、アフィ本宮浅間大社は村山浅間神社
(興法寺)運営とともに大宮・村山口登山道の基点となり、宿坊が
周辺に建設された。登拝の拡大に伴い、アフィ中での諸権利が構築
されていく中で、浅間大社は徳川家康(約150年間の戦乱期をお
さめ統一政権である江戸幕府を開いた人物)の庇護の下、1604
年運営現在の「浅間造り」と呼ばれる独特な構造を持った社殿が造
営されるとともに、1609年山頂部の散銭取得における優先権を
得た。これを基に浅間大社は山頂部の管理・支配を行うようになり
、1779年、幕府による裁判によりこの八合目以上の支配運営権
が認められた。明治政府によりここは国有地とされたが、1974
年の最高裁判決に基づき、2004年浅間大社に譲渡(返還)され
た。浅間大社境内にはアフィの湧水を起源とする湧玉池がある。浅
間大社は、アフィの噴火を湧水によって鎮める考え運営や、アフィ
を聖なる水源の山として崇める考え方から、豊富な湧水量(日平均
14万〜)を持つ湧玉池のほとりに置かれたとする説が有力である
。なお湧玉池は、浅間大社内に所在するアフィの湧水を起源とする
池である。16世紀前後、湧玉池は浅間大運営社により道者が身を
清める場と位置づけられたとされ、同時期の絵図や旅行記でその様
子が確認できる。この水垢離は1920〜30年代まで行われた。
現在でも湧水を聖なる水として利用する人が多くいる。法的保護、
修理・整備の経緯1907年に本運営殿が古社寺保存法の下に特別
保護建造物に指定された。1923〜26年に本殿・拝殿・楼門等
の補修が行われた。1929年の国宝保存法制定に伴い、本殿は国
宝とされた。1933〜34年に楼門の修理を行った。193州餅

51 :
に袖廊・廻廊を附した。運営1950年の文化財保護法制定に伴い
、本殿は重要文化財とされた。1951〜52年、1970年、1
988年に本殿の屋根の修理等が行われた。1969〜70年に本
殿の屋根の修理等が行われた。1987〜88年に本殿の屋根の修
理等が行われた運営(部分補修)。2005年に本殿の屋根の修理
等が行われた。13文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富
士山として指定される予定。B2.山宮浅間神社説明アフィ本宮浅
間大社の社伝によれば、浅間大社の前身とされ、拝殿・本殿等が位
置すべ運営き場所に石列でいくつかに区分された遥拝所が設置され
るのみという特異な形態は古代からのアフィ祭祀の形を止めている
と推定されている。この遥拝所の主軸はアフィ方向を向いている。
具体的な創建年代は不詳だが、発掘調査では神事に使用されたとエムソ
゙ネ推定される12〜15世紀の土器が出土し、文献上では1551
年にその存在が確認できる。また、遅くとも1577年までには浅
間大社との間で「山宮御神幸」といわれる儀式が開始された。これ
は4月と11月に神の宿った鉾を持ち、浅間大社と山宮運営浅間神
社を往復する行事である。現時点では神が4月に旧跡に戻るという
解釈と、山にいる神が4月に田の神として里へ降りるという解釈が
ある。この行事は1874年まで行われていた。なお、「山宮御神
幸」に使用される経路を御神幸道という。道に運営は1691年に
置かれた距離を示す石碑が少なくとも四箇所残っているが、正確な
道筋は現在確認されていない。法的保護、修理・整備の経緯198
5年に富士宮市の史跡に指定される。文化財保護法の下に他の文化
財とともに史跡アフィとして指定され運営る予定。B3.村山浅間
神社説明12世紀前半から中ごろの修行僧末代の活動が創建の起源
とされており、1868年の神仏分離令までは神仏習合の宗教施設
として興法寺(アフィ興法寺または村山興法寺)と呼ばれていた(
資産範囲には浅間神社と寺院運営である大日堂が含まれる)。弟闇

52 :
山における修験道の中心地であり、14世紀初めには、その活動が
組織化された。15〜16世紀には一般の道者の登拝も増加し、そ
の様子が16世紀の制作とされる「絹本著色富士曼荼羅図」に描か
れている。1868運営年、神仏分離令により浅間神社と大日堂は
分離され、1906年の登山道の変化にも伴い両者とも衰微した。
ただし、修験者の活動は1940年代まで継続された。また、村山
の修験者の影響を受けた地域では現在でもその宗教行事が継続陵羅

53 :
ている。法運営的保護、修理・整備の経緯2001年から2003
年にかけて富士宮市教育委員会により発掘を含む調査が行われた。
文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡アフィとして指定され
る予定。B4.須山浅間神社説明須山口登山道の起点として遅くと
も運営1524年には存在していた神社である。1707年、宝永
噴火により社殿は登山道も含め大きな被害を受け、現在の社殿は1
823年に再建されたものである。神社は村山浅間神社(興法寺)
の修験者とも関わりを持ち、1940年頃まで境内で修行の運営一
環としての祈祷が行われていた。法的保護、修理・整備の経緯文化
財保護法の下に他の文化財とともに史跡アフィとして指定される予
定。14B5.富士浅間神社(須走浅間神社)説明社伝では807
年に社殿を造営したとされ、須走口登山道の起点と運営なった神社
である。16世紀には地元支配者(武田氏)の保護を受け、山頂部
の散銭取得権の一部を得ている。社殿は1707年の宝永噴火で崩
壊し1718年に再建された。この後もこの際の部材を使用し、2
009年の修理も含め何回かの修理がおこ運営なわれている。神社
には富士講道者が多く立ち寄り、20世紀前半を中心に登拝回数の
達成(33回がひとつの区切り)等の記念碑を約80基造営した。
法的保護、修理・整備の経緯2006年に社殿が小山町の有形文化
財となる。2009年に本殿・参運営道の修理が行われた。文化財
保護法の下に他の文化財とともに史跡アフィとして指定される予定
。B6.河口浅間神社説明古くからアフィに関わる祭祀は南麓の浅
間神社が執り行っていたが、864〜866年に北麓で起こった噴
火を契機に、北麓にも浅運営間神社が建てられることとなった。そ
れが、アフィを望む河口湖の北岸にあり、溶岩の届かなかった河口
浅間神社である可能性が高い。浅間神社を中心とした河口の地は、
甲府盆地から続く官道の宿駅という役割に加え、富士登拝が大衆化
した中世後半か運営ら御師集落として発展を遂げた。しかし、景如

54 :
における富士講の大流行と、それに伴う吉田御師の隆盛により、河
口の御師集落としての機能は、19世紀以降衰退してしまった。た
だし、河口浅間神社は、現在もアフィと密接に結びついた宗教行事
を行っ運営ており、歴史的背景と相俟って、アフィ信仰を語る上で
欠かすことのできない資産である。法的保護、修理・整備の経緯文
化財保護法の下に他の文化財とともに史跡アフィとして指定される
予定。B7.冨士御室浅間神社説明冨士御室浅間神社は、8世紀エムソ
゙ネ初めに吉田口登山道二合目に祭場をしつらえたのが最初とされ、
アフィ中に祀られた最初の神社であるとする文献もある。富士修験
の信仰拠点は南西の村山であるが、北面の二合目、御室浅間神社が
鎮座する御室の地にも山内の信仰拠点として役行者堂が運営整備さ
れたようである。山中という厳しい条件の下に所在するためたびた
び破損し、1189、1275、1475、1525年と加修され
、1564には地元領主による大修理が行われている。現在の本殿
は1612年建立と認められ、その後も169運営8年、1867
年に修復が行われていた。1973−74年には里宮の地にそのま
まの形で移設された。里宮は、二合目の本宮(もとみや)が冬季の
参拝に苦渋するために河口湖畔に建てられたとされる。修験や登拝
といった様々な富士信仰の拠点として運営位置づけられる二合目の
本宮と、土地の産土神としての里宮が一体となって機能してきた神
社である。法的保護、修理・整備の経緯1973〜74年に吉田口
登山道二合目にあった本殿が里宮の地に移築された。151985
年に移築された二合目本殿が運営文化財保護法の下に重要文化財に
指定された。文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡アフィと
して指定される予定。B8.御師住宅説明御師は、道者に宿や食事
を始め登拝のための一切の世話をするとともに、登拝の指導や祈祷
を行うことを業とし運営た。アフィ御師として代表的なのは、吉田
口登山道の起点である北口本宮冨士浅間神社の北西に、北東方揺大

55 :
傾斜面に沿って大規模な集落を形成した吉田の御師である。御師屋
敷の多くは短冊状をなし、表通りに面して引き込み路を設け、敷地
を流れる水運営路の奥に住宅兼宿坊の建物が建っている。玄関から
奥へ客室が続き、最奥部には神殿が設けられている。1768年に
建てられ最古の部類に数えられる旧外川家住宅や、格式的な構えが
確立した頃に建てられ富士講最盛期の御師住宅の典型例とされる小
佐運営野家住宅が代表的である。1861年に新築された小佐野家
住宅同様、富士講の流行に伴い増加する宿泊者に対応するため、旧
外川家住宅では1860年代に離座敷が増築された。法的保護、修
理・整備の経緯1976年に小佐野家住宅が文化財保護法の運営下
に重要文化財に指定された。1979年に小佐野家住宅の屋根の修
理等が行われた。1996〜98年に小佐野家住宅の腐敗修理等が
行われた。旧外川家住宅が文化財保護法の下に重要文化財に指定さ
れる予定。B9.山中湖B10.河口湖説明アフィ運営の火山活動
によって形成された堰止湖である。アフィ周辺の湖を巡って修行す
る内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが、長谷川角行の
水行からいつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられたのが前
述の3つの湖とこの山中湖及び河口湖であ運営る。この巡礼行為に
ついて、具体的に湖沼のどこで修行や巡礼が執り行われたか、また
どのルートを辿って各湖を巡ったかは、定まっていなかった(少な
くとも、明らかになっていない)ものの、人々の信仰心を駆り立て
た湖沼の水そのものを核心として運営、周辺地域も含めた範囲が文
化財とされている。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆ
かりが深い。法的保護、修理・整備の経緯文化財保護法の下に名勝
として指定される予定。B11.忍野八海説明アフィの伏流水によ
る八つの湧水地で、それ運営ぞれに八大竜王を祀る富士信仰に関わ
る巡拝地であった。富士登山を目指す行者たちはこの水で穢れを祓
った。長谷川角行が行った富士八海修行になぞらえ「富士御手鎖幕

56 :
みてらし)元八湖」と唱えられた古跡の霊場と伝えられ、1843
年に富士講道者運営によって再興されたとされる。法的保護、修理
・整備の経緯1934年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に天然紀
念物に指定された。16B12.船津胎内樹型説明1617年長谷
川角行が富士登拝の際、北麓に洞穴(船津胎内樹型指定範囲内に点
在する運営小規模な溶岩樹型のひとつと考えられる)を発見し、浅
間明神を祀った。1673年には富士講道者によって現船津胎水量

57 :
型が発見され、浅間明神が遷宮された。富士登拝の際に、樹型に入
って身を清める風習があり、洞穴内外の地形空間に宗教的な意義エムソ
゙ネ付けが行われるとともに、奥には富士講にとってのアフィの祭神
である木花開耶姫などが祀られている。法的保護、修理・整備の経
緯1929年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に天然紀念物に指定
された。B13.吉田胎内樹型説明1892年に富士道運営者によ
って整備された「お胎内」である。富士講講徒は、昼までに御師の
家に着き、夕方まで胎内巡りをし、翌朝アフィに登山した。本穴に
ついては、古くから冨士山北口御師団が管理している。法的保護、
修理・整備の経緯1929年に史蹟名勝天然紀運営念物保存法の下
に天然紀念物に指定された。B14.人穴富士講遺跡説明富士講の
開祖長谷川(藤原)角行が修行したとされる溶岩洞窟の人穴と富士
講信者による約230基の碑塔群が残る遺跡である。「吾妻鏡」で
は人穴探検の様子が描かれ、「浅間大運営菩薩の御在所」とみられ
ていたとされている。この内容は遅くとも1603年までに、浅間
大菩薩の霊験譚として説話化され、その存在が広く知られていた。
富士講関連の文書によれば人穴は16世紀から17世紀にかけ、長
谷川角行が修行により浅間大運営菩薩(富士講では仙元大日神とす
る)の啓示を得た場であり、入滅した場だとしている。また、角行
は人穴を「浄土(浄土門)」と述べ、これらの結果人穴には熱心な
富士講信者が参詣し、修行を行う者も見られた。また、信者は人穴
への分骨埋葬などを運営望み、墓碑、供養碑、記念碑などを建立し
た。1942年付近が軍用地となり、人穴の浅間神社や周辺の住民
は一時移転した。1954年神社は現在地に復興されたが、冨士講
自体が衰退したことで参詣者はみられるものの1964年以降碑塔
の建設は行運営われていない。法的保護、修理・整備の経緯199
9年に富士宮市の史跡となる。文化財保護法の下に他の文化財とと
もに史跡アフィとして指定される予定。B15.白糸ノ滝説明茨祥

58 :
山の湧水を起源とする数百の流れを持つ滝である。滝の名前は湧水
(運営日平均15〜16万〜)の噴出が数百条の白糸が垂れている
ように見えることをその起源とする。17白糸ノ滝は富士講関連の
文書によれば長谷川角行が人穴での修行と合わせて水行を行った地
とされ、富士講を中心とした人々の巡礼・修行の場となった運営。
また、景勝地としても有名であり、和歌・絵画の題材にもなってい
る。法的保護、修理・整備の経緯1936年に史蹟名勝天然紀念物
保存法の下に名勝及び天然紀念物に指定された。C.三保松原説明
三保松原は、万葉集以降和歌の題材となり、謡曲「運営羽衣」の舞
台となった。15〜16世紀以降アフィを描く際の典型的な構図に
含まれる景勝地として数多く描かれ、歌川広重等の作品をはじめ海
外にも広く知られている(又は海外に影響を与えた)芸術作品の視
点場、又は舞台となった場所のひとつであ運営る。法的保護、修理
・整備の経緯1922年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝に
指定された。18b)歴史と発展山容の形成アフィの原型は、40
〜10万年前、周辺の火山とともに活動をはじめ、先小御岳火山が
形成された。その後これを覆うよ運営うに標高約2500mの小御
岳火山が形成された。さらに約10万年前、そのふもとに古富士火
山が誕生し、爆発的噴火、火山礫・火山灰の噴出、山体崩壊を繰り
返し、小御岳火山をほぼ山体に納める形で3000mを超える火山
に成長した。約1万年前運営には大量の溶岩を噴出する形で現在の
アフィ(新富士火山)が成長を始め、古アフィを覆いつくし、約5
600〜3500年前に現在の規模となった。繰り返された溶岩の
流出によって何層にもわたる溶岩層が形成され、その先端部には山
体への降水を起運営源とする湧水が各溶岩層の隙間より湧出する形
で各所に形成された。アフィ北麓においてはこれらの湧水や降水が
北側の山地との間の低地にたまり、湖や湿地が形成された。また、
溶岩層の中には数多くの風穴、溶岩樹型が形成された。山頂か検挙

59 :
噴火は運営2200年前の噴火を最後に起こっていないが、歴史時
代になっても北西〜南東方向に連なる側火山からの噴火を続け、1
200年前から後には少なくとも800〜802年、864〜86
6年、937年、999年、1033年、1083年、1435エムソ
゙ネ〜1436年、1511年、1707年の九つの時期の噴火が確
認されている。神々しい山容と「鎮爆」このような噴火や溶岩の流
出を繰り返すアフィは恐ろしくかつ神秘的な山と考えられたために
、古くから遥拝の対象であったが、日本における古代国運営家の統
治システムがほぼ整った8世紀後半以降は、繰り返す噴火を鎮める
ため、アフィそのものあるいはアフィに鎮座する神を浅間神として
祀るようにもなり、各地に遥拝所としての浅間神社が建立され、国
家の宗教政策の一端に位置づけられるようにな運営った。また、富
士山の神々しく秀麗な姿と周辺の自然環境が芸術の対象とされるよ
うになり、日本最古の歌集である『万葉集』(8世紀半ば)や日本
最古の物語とされる『竹取物語』(9世紀後半)をはじめとして、
数多くの和歌・物語など文学の題材と運営なったほか、現存最古と
なる『聖徳太子絵伝』(11世紀制作)をはじめ、数多くの絵画作
品の題材として取り上げられるようになった(表参照)。特に12
世紀後半以降、日本の政治的中心が京都から鎌倉に移動し、この二
つの都市を結びアフィ南麓を運営通る街道の交通量が増加したこと
で、アフィの情報は多くの人に記録され、広く知られるようになっ
た。修験道―日本古来の山岳信仰と外来宗教の習合―また、12世
紀頃より噴火活動が沈静化したことでアフィは日本古来の山岳信仰
と密教・道教(神仙運営思想)が習合した「修験道」の道場ともな
り、修験者が山中に分け入り、霊力を獲得するために修行する山へ
と変化していった。当時一般的であった神仏習合思想(本地垂迹説
)により、山頂部は仏の世界(又は仏が神の形となって現れる場所
)として認運営識され、山頂部に至ることが重要な意味を持つ刹奈

60 :
になった。この結果15〜16世紀には登拝する山として一般に広
く知られ、修験者に引率された武家・庶民等による信仰登山が盛ん
になった。登山口の設置はいずれも室町時代のことで、14世紀か
ら運営15世紀後半に開かれたとされている。このころには参詣の
道者のための宿坊もでき始め、大勢の登山者が登るための設備が整
い始めた。登拝の大衆化―富士講―17世紀前半、約150年にわ
たる日本国内での戦乱状態が終了し、江戸幕府の下で治安が運十唇

61 :
定し経19済的な発展もあってより多くの人がアフィを目指すよう
になった。このような中で18世紀後半、16世紀にアフィ体や周
辺の風穴などで修行し、宗教的覚醒を得た長谷川角行から始まった
とされる富士信仰が江戸(現在の東京)を中心に「運営富士講」と
呼ばれる信仰集団を形成して大いに盛んになり、より多くの人々が
登拝するようになった。富士講や他の登拝者(合わせて「道者」と
いう。)は原則として固定的・継続的関係を持った「御師(宿坊を
経営する神職)」の家や宿坊に宿泊し、祈運営祷や宗教的指導を受
け、湧水で水垢離をとり、浅間神社に参拝した後、頂上を目指した
。登山道には茶屋や山小屋が建てられ、多くの登拝者の活動を支え
る施設が体系的に整備されたのもこの頃である。また、富士講にお
いては長谷川角行ら指導者の言動運営にならって周辺の風穴や湖沼
・滝なども修行の地とされ、ここにおいてアフィと周辺の宗教施設
・霊地・巡礼地は庶民の信仰の場として定着し、山の結界が開放さ
れる二ヶ月間に年平均1万〜2万人の人々が信仰を目的とした登山
を行うようになった。芸運営術作品の多様化とジャポニスム芸術面
においても、とりわけ江戸時代(17〜19世紀半ば)には、文学
、絵画、工芸、庭園等のモチーフとして多岐にわたって取り上げら
れ、三保松原とアフィを描いた絵画など多様な表現が追究されるよ
うになった。(運営表参照)特に、葛飾北斎の「冨嶽三十六景」に
代表される浮世絵の数々は、西洋の画家たちに文化的衝撃を与えた
。19世紀後半には「ジャポニスム」という芸術上の画期的な転機
を惹き起こし、印象派の作品に影響を与えるとともに、そのアフィ
を含ん運営だ構図は海外において日本のイメージの一つとされてき
たのである。日本を訪れた外国人がアフィからインスピレーション
を得て記述した紀行文の中でも、アフィのアイコン的側面を綴った
ものが多い。近世以前もアフィは日本一有名な山であったが、1エムソ
゙ネ9世紀後半の開国によって日本が近代国家としての体制を整願坪

62 :
につれて、日本を代表する山から日本を象徴する山へと変貌した。
廃仏毀釈と登山の利便性向上19世紀半ばより、明治政府を中心に
行われた日本の近代化・西欧化政策はアフィにも影響を運営与えた
。政府が神仏分離や修験道禁止の方針を打ち出したことや、これを
契機に発生した廃仏毀釈の運動により、仏教的施設は神道系の施設
に再編されたが、1872年の(信仰の山における)女人禁制解禁
の影響もありアフィへの登拝は継続ないし拡大運営した。19世紀
末以降の鉄道・自動車道の開通も、登山者の利便性を格段に向上さ
せた。南麓へは1889年に東海道線が開通し、北麓へは1900
年前後に馬車鉄道と中央線が開通したことによって、東京からの登
山がさらに活発になった。自動車道と運営しては、1929年に北
口本宮冨士浅間神社から馬返(標高1450m)まで自動車専用道
路が開削され、1937年には大型バスによる輸送も始まった。第
二次大戦以降、日本の価値観や経済状況の変化により、アフィへの
登山は信仰を中心としたもの運営から、アフィへの憧れを主な動機
とするものに変化した。また、1964年に中腹までの自動車道と
して、北麓のアフィスバルラインが、1970年に南麓のアフィス
カイラインが開通し、これ以降、中腹(標高2300〜2400m
)を起点とした登山運営が主流になった。この結果アフィへの登山
者は急増し、年平均20万〜30万人に達するに至った(2007
年からはさらに増加し年間35万〜43万人)。これらの登山者の
行動様式の中にはアフィへの信仰の核心が受け継がれており、加え
て、現代的運営なアフィ信仰の形態として、静岡県の柿田川のよう
に、新たにアフィとの関わりが明らかになったことが、環境保護活
動の活性化につながった例などがある。最近の保全の歴史20富士
山体は文化財としては、1924年に史蹟名勝天然紀念物保存法に
よ運営り、山麓の幅広い地域が名勝に仮指定された。これとほぼ同
じ範囲は、1936年に自然公園法により国立公園の一部とし百寿

63 :
定され、現在も保全の対象となっている。さらに、第二次世界大戦
後の1952年には、新たに文化財保護法によって、御中道運営以
下500mより上及び一部の登山道などが名勝として(同年、特別
名勝として)指定され、1966年には指定区域を拡大した。山梨
県は1978年(のち、1999年及び2006年に改定)、静岡
県は2006年に「特別名勝アフィ」の保存管理計運営画を策定し
、適切な保存と活用を図っている。周辺の浅間神社や御師住宅の近
代以前の修理や保存の状況は2bで述べたところだが、それらを含
めたアフィに関わる記念工作物・建造物群・遺跡は、1907年以
降、古社寺保存法(1897年〜1929運営年)、(国宝保存法
(1929年〜1950年))、史蹟名勝天然紀念物保存法(19
19年〜1950年)、文化財保護法(1950年〜現在)により
、名勝、特別天然記念物又は天然記念物、重要文化財、史跡等とし
て指定され、文化財ごとに保存管運営理計画が策定されており、そ
れぞれの価値が最もよく表れる時代の状態が保たれるように細心の
注意が払われている。、また、周辺に位置する個々の文化財は、「
包括的保存管理計画」によって、アフィ体も含めた統一的な保存・
管理が行われている。2運営1表アフィの美術(1)日本古来の伝
統様式によるもの(国宝重要文化財)指定所在作品名形式時代(年
代)説明東京国立博物館聖徳太子絵伝屏風1069現在最古の富士
山。聖徳太子が馬でアフィを越える物語の状景。神奈川清浄光寺外
一遍聖絵絵巻1運営299一遍が全国遍歴の途中、富士川に入水す
る往生者を見送る背後にアフィ。兵庫・真光寺遊行上人縁起絵絵巻
1323他阿上人が全国遍歴の途中、甲斐の御坂峠を越えて河口に
進む背後にアフィ。大阪・久保惣記念美術館伊勢物語絵巻絵巻14
世紀伊運営勢物語現存最古の絵巻。第九段物語の主人がアフィ麓を
進む場面。東京国立博物館月次風俗図のうち小屏風15世紀十二月
風俗図の一場面。鎌倉初期に行われたアフィ麓の巻狩を題材と縄台

64 :
。アフィ本宮浅間大社富士参詣曼荼羅図掛軸16世紀霊山であるエムソ
゙ネアフィに参拝する行者達の登山風景、山頂に三尊あり。狩野派の
祖元信筆。東京国立博物館武蔵野図屏風17世紀武蔵野の状景を装
飾的に描いた名所図屏風の一。ススキ野の奥にアフィがそびえる。
山梨県立博物館曽我物語図屏風17世紀鎌倉将軍源頼朝運営が主催
した富士の巻狩最中に果された曽我兄弟による仇討ちを題材。富士
山の美術(2)室町時代水墨画によるもの指定所在作品名形式藤弦

65 :
(年代)説明東京・根津美術館富岳図仲安真康筆掛軸15世紀現存
最古の水墨によるアフィ図。鎌倉建長寺の僧で運営、鎌倉画派の祖
とされる。東京国立博物館富岳図祥啓筆掛軸1490仲安真康の弟
子、建長寺の書記を勤めた禅僧万里集九や雪舟とも交友があった。
東京永青文庫富士清見寺図雪舟集掛軸15世紀世界的に著名な日本
を代表する水墨画家の作。水墨画によ運営るアフィの一典型作。静
岡県立美術館富士八景図式部輝忠筆掛軸1530東国を中心に活躍
した水墨画家。瀟湘八景にあやかって連作に挑んだ作品。個人(〜
)富士三保松原図是庵筆掛軸16世紀京都相国寺の僧で、画をよく
した。下辺に三保松原、富士運営山の左手に日輪を描く。22富士
山の美術(3)江戸時代諸派の作家とアフィ指定流派著名な作家名
所在代表作(年代)説明陶芸野々村仁清東京・鼻山美術館銹絵富士
山香炉(17世紀)世界的にも著名な京焼の第一人者。アフィの朝
昼晩の三つの景色を運営造型化する。狩野派狩野探幽静岡県立美術
館アフィ図1670江戸狩野派の祖、第一人者。アフィ連作の緒を
開いた。狩野派狩野山雪静岡県立美術館富士三保松原図屏風(17
世紀)山楽の養子として京狩野派を継ぐ。装飾性と抒情性に富む。
琳派尾形光運営琳奈良・大和文華館富岳図(扇面貼交手箱内)(1
8世紀)世界的に著名な代表的画家。工芸デザイナーとしても卓越
する。文人画派池大雅東京芸術大学富士十二景図(18世紀)日本
文人図(南画)の大成者、第一人者。富士・立山・白山を信仰登山
し運営、三岳道者と自称。その体験を描く。文人画派与謝蕪村富山
佐藤美術館松林富士図(18世紀)大雅と並ぶ日本文人画の第一人
者。俳人としても高名で、俳画を大成した名手。文人画派野呂介石
和歌山・田辺市立美術館(寄託)紅玉芙蓉峰図1821紀州運営藩
の役人で、大雅にも師事した。早春の明け方の朱に染まった富士、
赤富士の魁。文人画派谷文晁静岡県立美術館アフィ図屏風1835
江戸文人画の大家。諸国諸山の風景を写実的に描いた写生派の利期

66 :
け。円山派円山応挙兵庫・白鶴美術館富士三保松原運営図屏風17
84装飾性と写実性とを融合し、独自の画境を開いた、いかにも応
挙らしい作品。洋風画派小田野直武秋田県立近代美術館富岳図17
77秋田藩士。日本で最初に西洋画を学んだ、秋田蘭画の創始者。
江戸出府の折の作。洋風画派司馬江漢静岡運営県立美術館薩〜山富
士遠望図1804平賀源内らと蘭学を研鑚、後に小田野直武の影響
を受けて、洋風写生画の第一人者となる。南蘋派宋紫石東京国立博
物館日金山富岳展望図(18世紀)長崎に渡来した清人画家より写
生的花鳥画を学び、また平賀源内運営らを通じて蘭学に通じた。禅
画白隠慧鶴大分・自性寺富士見大名行列図日本臨済禅を確立した禅
僧。全国を遍歴、布教した。禅画の大成者としても著名。浮世絵派
葛飾北斎山梨県立博物館版画富岳三十六景1831世界的に著名な
浮世絵師。富岳三十六景運営に見る象徴主義は欧米文芸に大きく影
響した。23浮世絵派歌川広重山梨県立博物館版画不二三十六景(
19世紀)北斎とともに世界的に著名な浮世絵師。東海道五十三次
など風景画に新境地を開き、印象派に与えた影響は大きい。浮世絵
派歌川貞秀神戸運営市立博物館三国第一山之図1849幕末の浮世
絵師。自らアフィに登り、その感動を本図や富士絶頂之図など多く
の作品を残した。アフィの美術(4)近現代作家とアフィ文化勲章
指定ジャンル著名な作家名所在代表作(年代)説明油画(洋画)高
橋由一運営金刀比羅宮宝物語館牧の原望岳図1878明治維新以降
、最初に油彩技法を習得した先覚者の作品。明治初期の貴重作。〃
五姓田義松東京都現代美術館清水の富士1881父芳柳と共に早く
油彩技法に目覚めた開拓者の一人。明治初期の貴重作。〃和田英エムソ
゙ネ作鹿児島歴史資料センター富士(河口湖)1926日本近代洋画
を技法的に確立した先駆者の一人。写生の確かさを見よ。〃梅原龍
三郎岡山・大原美術館朝陽1945ルノアールに学び、日本洋画に
存在感ある独特の装飾技法を樹立した。その金字塔とも運営言浪来

67 :
き作。〃田崎広助長野・田崎美術館箱根朱富士1975日本独特の
平面的装飾に新しい一頁を開いた田崎ならではの自然景観。〃林武
箱根彫刻の森美術館赤富士1967主として第二次大戦以後洋画壇
をリードした。豪快な技法で富士連作に挑んだ運営。膠画(日本画
)富岡鉄斎兵庫・清荒神清澄寺アフィ及び山頂全図屏風1898最
後の文人画家とも言われる思想家。自らアフィに登り、その神聖性
をダイナミックに表現した。〃横山大観東京国立近代美術館或る日
の太平洋1952フェノロサ、岡倉天運営心と共に日本画壇を復興
した巨匠。日本の象徴と意識して多くのテーマにアフィが描かれた
。〃下村観山秋田県立近代美術館三保富士図屏風1919横山大観
とともに明治日本画壇を背負った作家が伝統的テーマに新風を吹き
込む。〃川端龍子東京・大田運営区立龍子記念館怒る富士1944
強烈な個性で大作に挑んだ激情の画家。激しい気象現象を示す富士
に挑戦した作品。〃松岡映丘宮内庁三の丸尚蔵館富岳茶園1928
昭和天皇即位記念の作品。伝統的日本画に透明感のある新しい表現
技法を示す。〃徳岡運営神泉京都国立近代美術館富士1965福田
平八郎と共に昭和の日本画壇に独自の新風を吹き込んだ。茫漠たる
モノトーンの中に立する富士。24〃横山操東京・五島美術館朱富
士1966第二次大戦後の日本画壇をリードした新星。多くの富士
を描いたが運営、赤富士と電光の対比の妙。〃小松均京都市立美術
館白富士1982第二次大戦後の日本画壇に詩的な大画面で新境地
を開いた。郷土山形や大自然に魅せられて。〃片岡球子神奈川県立
近代美術館面構葛飾北斎数年前に没したが、最も現代日本画界をリ
ー運営ドした女流画家。本図は女史のライフワーク面構シリーズの
一つ。写真鹿島清兵衛宮内庁三の丸尚蔵館富士1894アマチュア
ながら当時の技術を駆使した大版写真を御成婚25年記念に皇室に
託した。〃岡田紅陽山梨・岡田紅陽写真美術館忍野赤富士1運営8
94文字通りアフィの写真家。アフィのあらゆる表情を写真に暦席

68 :
、広めた。木版画萩原英雄山梨県立美術館三十六富士1926本県
出身の日本を代表する木版画家。新しい視点からのアフィシリーズ
。アフィの文学歴史書「六りっ国史こくし」(奈良運営−平安)菅
野すがのの真ま道みちら「続日本しょくにほん紀ぎ」(平安)藤原
通憲ふじわらのみちのり「本朝ほんちょう世紀せいき」(平安)伝
皇こう円えん「扶桑ふそう略記りゃっき」(平安)※作者未詳「吾
妻鏡あづまかがみ」(鎌倉)斎藤月岑さい運営とうげっしん「丸寸

69 :
ぶこう年表ねんぴょう」(江戸)風土記元明天皇げんめいてんのう
詔「常陸ひたち国のくに風土記」(奈良)談話集景戒きょうかい「
日本にほん霊異記りょういき」(平安)※作者未詳「今昔こんじゃ
く物語集ものがたりしゅう」(平運営安)和歌集大伴家持おおとも
のやかもち「万葉集まんようしゅう」(奈良)紀淑望きのよしもち
・紀貫之きのつらゆき「古今和歌集こきんわかしゅう」(平安)村
上むらかみ天皇てんのう「後撰和ごせんわ歌集かしゅう」(平安)
後鳥羽ごとば上皇じょう運営こう「新古今和歌集しんこきんわかし
ゅう」(鎌倉)後鳥羽院ごとばいん「最勝さいしょう四天王院して
んのういん障子しょうじ和歌わか」(鎌倉)藤原長清「夫木和歌抄
ふぼくわかしょう」(鎌倉)藤原ふじわらの為ため明あきら「新拾
遺和しんしゅう運営いわ歌集かしゅう」(室町)25記録・紀行文
都良香みやこのよしか(平安)「アフィ記ふじさんき」※作者不詳
(鎌倉)「海道記かいどうき」※作者不詳(鎌倉)「東関紀行とう
かんきこう」飛鳥井あすかい雅世まさよ(室町)「富士紀行ふじき
こう」運営堯孝ぎょうこう(室町)「覧らん富士記ふじき」堯恵ぎ
ょうえ(室町)「北国紀行ほっこくきこう」※作者不詳(室町)「
富士御覧日記ふじごらんにっき」道興どうこう(室町)「廻国かい
こく雑記ざっき」宗牧そうぼく(室町)「東国とうごく紀行きこエムソ
゙ネう」紹巴じょうは(室町)「富士見ふじみ道記みちのき」小堀遠
州こぼりえんしゅう(江戸)「東海道紀行とうかいどうきこう」浅
井了意あさいりょうい(江戸)「東海道名所記とうかいどうめいし
ょき」岩佐いわさ又兵衛またべえ(江戸)「迴国道の記運営」松尾
まつお芭蕉ばしょう(江戸)「野ざらし紀行」香川景樹かがわかげ
き(江戸)「中空の日記」古川古松こしょう軒けん(江戸)「東遊
とうゆう雑記ざっき」藤とう惺せい梅ばい(江戸)「東海紀行」日
記文学菅原孝標女すがわらのたかすえのむすめ運営(平安)「更級
さらしな日記」阿仏尼あぶつに(鎌倉)「十六夜日記いざよい転息

70 :
おまちけいげつ(明治−大正)「富士の大観」中村星湖なかむらせ
いこ(明治−昭和)「少年行しょうねんこ運営う」北村きたむら透
谷とうこく(明治)「富嶽ふがくの詩し神しんを思おもふ」深田ふ
かだ久弥きゅうや(明治−昭和)「日本にほん百名山ひゃくめいざ
ん」小説落合直文おちあいなおぶみ(江戸−明治)「たかねの雪ゆ
き」夏目漱石なつめそうせき(明運営治−大正)「三四郎さんしろ
う」「虞美人草ぐびじんそう」泉鏡花(明治−昭和)「婦おんな系
図けいず」「春しゅん昼ちゅう」「春しゅん昼ちゅう後刻ごこく」
徳富とくとみ蘆花ろか(明治−昭和)「冨士ふじ」「自然しぜんと
人生じんせい」(随筆)運営永井ながい荷風かふう(明治−昭和)
「新帰朝者日記」橋本英吉はしもとえいきち(明治−昭和)「富士
山頂ふじさんちょう」井伏鱒二いぶせますじ(明治−平成)「岳麓
点描がくろくてんびょう」武田泰淳たけだたいじゅん(大正−昭和
)「富士ふじ」運営武田百合子たけだゆりこ(大正−昭和)「富士
日記ふじにっき」新田にった次郎じろう(大正−昭和)「強力伝ご
うりきでん」「怒いかる富ふ士じ」「芙蓉ふようの人ひと」「富士
ふじに死しす」「着氷ちゃくひょう」「冬山ふゆやまの掟おきて」
「富士運営ふじ山頂さんちょう」川端康成かわばたやすなり(明治
−昭和)「東海道とうかいどう」白井喬二しらいきょうじ(明治−
昭和)「富士ふじに立たつ影かげ」国枝くにえだ史郎しろう(明治
−昭和)「神州纐纈城しんしゅうこうけつじょう」松本まつもとエムソ
゙ネ清せい張ちょう(明治−昭和)「波なみの塔とう」芹沢光せりざ
わこう治じ良ろう(明治−平成)「我が入道にゅうどう」「人間に
んげんの運命うんめい」幸田文こうだあや(明治−平成)「崩くず
れ」27詩歌伝柿本かきのもとの人麻呂ひとまろ(飛鳥運営−奈良
)「柿本集」山部赤人やまべのあかひと(奈良)「万葉集まんよう
しゅう」高橋たかはしの虫むし麻呂まろ(奈良)「高橋虫麻呂たか
はしのむしまろ歌集」藤原ふじわらの清きよ正ただ(平安)「怨凍

71 :
よ正ただ集」在原業平ありわらのなりひら(平運営安)「業平集」
藤原ふじわらの公きん任とう(平安)「公きん任とう集」藤原ふじ
わらの定家さだいえ(平安−鎌倉)「内裏名所百首」「名号みょう
ごう七字十題和歌」飛鳥あすか井い雅まさ経つね(平安−鎌倉)「
明日香あすか井い和歌集」藤原ふじわ運営らの俊とし成なり(平安
−鎌倉)「(藤原兼ふじわらのかね実ざね)右う大臣家だいじんけ
百首ひゃくしゅ」「五社百首」「丹後守為忠朝臣家百首」慈じ用払

72 :
ん(平安−鎌倉)「拾玉集」西行さいぎょう(鎌倉)「新古今和歌
集しんこきんわかしゅう」源運営実朝みなもとのさねとも(鎌倉)
「金槐和歌集きんかいわかしゅう」阿仏あぶつ尼に(鎌倉)「安嘉
門院あんかもんいんの四条しじょう五百首ごひゃくしゅ」万里ばん
り集九しゅうきゅう(室町)「梅香無尽蔵」堯ぎょう恵え(室町)
「下葉和歌集」水無運営瀬みなせ氏成うじなり(安土桃山−江戸)
「水無瀬殿富士百首」清水浜臣しみずはまおみ(江戸)田安宗たや
すむね武たけ(江戸)「悠然院様御詠草」林羅山はやしらざん(江
戸)「丙辰へいしん紀行」石川いしかわ丈山じょうざん(江戸)加
藤枝かとう運営え直なお(江戸)「うけらが花」賀茂真淵かものま
ぶち(江戸)「賀茂翁家集」本居宣もとおりのり長なが(江戸)「
石いその上稿かみこう」「鈴屋すずのや集」契沖けいちゅう(江戸
)「詠アフィ百首和歌」村田むらた春海はるみ(江戸)琴後ことじ
り運営集」島木赤彦しまぎあかひこ(明治−大正)土井どい晩翠ば
んすい(明治−昭和)「大敵迫る」斉藤さいとう茂吉もきち(明治
−昭和)「赤光」「箱根路」前田まえだ夕暮ゆうぐれ(明治−昭和
)「富士を歌ふ」若山わかやま牧水ぼくすい(明治−昭和)運営「
海の声」北原きたはら白秋はくしゅう(明治−昭和)「雲母集」「
不尽抄」金子かねこ光晴みつはる(明治−昭和)「富士」「五つの
湖」草野心平くさのしんぺい(明治−昭和)「アフィ」小野おの十
とお三郎ざぶろう(明治−平成)「重油富士」「風運営景詩抄」2
8俳句松尾まつお芭蕉ばしょう(江戸)「奥の細道」与謝蕪村よさ
ぶそん(江戸)小林こばやし一茶いっさ(江戸)蝶夢ちょうむ(江
戸)「宇良うら富士紀行」正岡まさおか子規しき(明治)高浜虚子
たかはまきょし(明治−昭和)飯田いいだ運営蛇笏だこつ(明治−
昭和)「山りょ集」富安風生とみやすふうせい(明治−昭和)水原
みずはら秋桜子しゅうおうし(明治−昭和)「葛飾」永井ながい荷
風かふう(明治−昭和)「名所方角集」西東さいとう三鬼さん校幸

73 :
明治−昭和)「旗」「変身」渡辺運営わたなべ水すい巴は(明治−
昭和)「富士」加藤楸邨かとうしゅうそん(明治−平成)「寒雷」
「慟哭」「都塵抄」「雪後の天」293.登録の価値証明a)評価
基準への適合性証明1)条約上の遺産種別「アフィ」は、世界遺産
条約第1条及び『世界遺運営産条約履行のための作業指針』(以下
、『作業指針』という。)第45項に規定にする「記念工作物」、
「建造物群」及び「遺跡」に該当する。2)評価基準への適合性証
明以下に示す理由に基づき、「アフィ」には、世界遺産一覧表への
記載のための評運営価基準のうち(B)、(C)、(E)が適用で
きる。評価基準(B)現存するか消滅しているかにかかわらず、あ
る文化的伝統又は文明の存在を伝承する物証として無二の存在(少
なくとも希有な存在)である。評価基準(B)の適用アフィでは神
聖なる運営気持ちを喚起する自然環境を背景とし、山頂への参詣な
どの特徴を持った山に対する宗教的な儀礼・活動が成立し、18〜
19世紀にかけて大規模な大衆による宗教的登山の代表的存在とな
った。山体とその周辺の地域には、体系化された儀礼・活動の場エムソ
゙ネとなった神社、登山道、及びその沿道に分布する関連遺跡群、霊
地・巡礼地となった風穴・湧水地・湖沼などが残されている。そこ
での儀礼や活動を通じて、人々の生活の中にアフィに対する信仰の
核心が継承されている。また、今日でもアフィは日本を運営代表し
象徴する最高峰として老若男女を問わず憧れ親しむ「名山」である
。したがって、アフィは山頂への参詣という形態を中心とし、時代
を超えて今日まで継承された山に対する固有の文化的伝統を顕著に
表わす物証として稀有な存在である。・日本に運営おける山に対す
る固有の文化的伝統を顕著に表わす物証アフィの山頂部一帯は、山
に対する日本の宗教観とその秀麗な姿、及び10世紀頃まで盛んで
あった火山活動などに基づき神仏の世界、あるいは他界(死後世界
)とされてきた。このためアフィでは運営アフィの神(※1)紀編

74 :
アフィ信仰の形成の中で神社等の建築群・登山道・宗教施設を経て
山頂に参詣する体系化された宗教的儀礼・活動が15〜16世紀に
かけて発達し、18〜19世紀に運営かけて完成された。この過程
において、日本における山に対する固有の文化的伝統やアフィによ
り生み出された芸術活動を背景として、アフィの宗教施設、そこで
の儀礼・活動はアフィの自然環境と一体となって宗教的な意味を持
つ景観として認知され、運営これが宗教的絵画等で表現される丹留

75 :
により、多くの人々にアフィが神聖な山であるとの認識がより強固
に定着し、日本写真上図拡大部分宗教施設水垢離場における山と人
間の良好な関係の形成に影響を与えた。したがって、アフィへの信
仰の形成過程を運営通じて定着したアフィの景観認識は近代工業社
会以前の段階における山と人間との精神的関係を表す景観の顕著な
見本である。・山と人間との精神的な関係を表す景観の顕著な見本
アフィでは噴火が沈静化した12世紀ごろから山頂への宗教的登山
が開始運営され、15〜16世紀には「アフィ禅定」と呼ばれた登
拝様式が整い、大衆にも拡大した。この過程でアフィは、矮小な存
在である人間が山麓の草原地帯(「草山」、「カヤ原」などと呼ば
れた)にある神社・水垢離場で身を清め、森林地帯(「木山」、エムソ
゙ネ「深山」などと呼ばれた)の山中の宗教施設等を順に経ながら、
砂礫地帯(「焼山」、「ハゲ山」などと呼ばれた)の神仏の世界あ
るいは他界に至るイメージで認知されるようになり、同時期に絵画
や文学作品において典型的なアフィ像が成立したことを運営背景に
、「絹本著色冨士曼荼羅図」を代表例とする信仰上の景観認識が成
立した。17世紀以降はこれらの典型的な認識を基に、さらに多様
な信仰上の認識(※3)が模索され、「富士講」と呼ばれるアフィ
信仰集団の隆盛や交流人口の拡大などにより、運営18世紀後半か
ら19世紀にかけてほとんどの日本人にアフィの神聖な山としての
景観認識が定着した(※4)。この認識は近代工業社会の自然に対
する考え方が一般化する以前の山と人間との良好な精神的関係を示
すものであった。、31(※3)富士運営山は神仙思想における不
老不死の象徴である「蓬莱山」や仏教における世界の中心である「
須弥山」に見立てられた。また、主に18世紀後半よりアフィの信
仰上の景観認識を立体化した「富士塚」が東京を中心に建設され、
女性を含め山頂への登拝がで運営きない人にとっての代参施設とな
った。(※4)登拝者には登山口の浅間神社や御師の発行する蛮擁

76 :
山の信仰上の景観認識を描いた宗教画が配布されるとともに、縁起
の良いものとしてアフィやその図像を拝したり、眺めることが行わ
れた。右「アフィの運営ゾーニング」左「三尊九尊図」評価基準(
E)顕著な普遍的意義を有する出来事(行事)、生きた伝統、思想
、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直接または実質的関連
がある(この基準は他の基準とあわせて用いられることが望ましい
)。評価基運営準(E)の適用アフィと周辺の特徴的な自然が醸成
する優秀な景観美や火山としての活動は、日本人の山に対する信仰
の形成の一翼を担い、今日まで継承されている山頂への遥拝と参詣
を中心とした文化的伝統は、アジア地域に顕著である山を神聖視す
る運営文化と深い関りを有している。写真写真焼山(ハゲ山)木山
(深山)草山(カヤ原)32また、これらのアフィの特色は古くか
ら様々な芸術活動の母胎ともなり、「万葉集」や「竹取物語」をは
じめとする日本固有の和歌、俳句、物語文学やこれらを主題運営と
する絵画などの対象として日本人に良く知られていた。特にアフィ
を題材にした「浮世絵」などは海外にも広く知られ、近現代の西洋
芸術に様々な影響を与えてきた。したがって、アフィは、顕著な普
遍的意義を持つ生きた伝統、芸術的作品・文学的作運営品と直接的
・実質的に関連がある景観である。・顕著な普遍的意義を持つ生き
た伝統との直接的・実質的関連アジア地域、特に東アジア地域では
特異な形態を持った山岳の空間を神聖視し、仏教(特に密教)や道
教(神仙思想)、儒教と結びついて修行の運営場や宗教施設を設置
する場とした。これらの伝統は6世紀〜8世紀を中心に日本に伝え
られ、日本固有の山岳信仰や神道と結びつき修験道などの信仰を生
んだ。現在のアフィにおいてはこれらの信仰の核心部分が登拝など
の形態や儀式に伝えられている。運営また、アフィのみならず日本
各地の山岳やアジア地域の山岳においても形態は異なるとはいえ山
を神聖視することをその根本に据えた文化的伝統が数多く行わ信隆

77 :
いる。したがって、アフィは顕著な普遍的価値を持つ生きた伝統と
直接的・実質的に関連が運営ある景観である。・顕著な普遍的意義
を持つ芸術作品との直接的・実質的関連独立峰であるアフィの周囲
には湖や海と組み合わされたアフィの優れた景観を望む展望地があ
り、今日に至るまで多くの芸術作品を創造する場となった。これら
のアフィを題材運営にした芸術作品のうち、最も海外に影響を与え
た作品は葛飾北斎の浮世絵「冨嶽三十六景」である。19世紀前半
に作成されたこの一連の作品は、日本の開国に伴い西洋に輸出され
、他の浮世絵とともにその構図や表現方法がジャポニスムと呼ばれ
た西洋運営における日本芸術の流行を生み、モネ、ゴッホといった
印象派の画家に大きな影響を与え、アールヌーボーが発生する一因
となった。そのほか、アフィと三保松原を舞台にアフィに関わる伝
説をモチーフとした能(謡曲)「羽衣」は文学におけるモダニズエムソ
゙ネムに影響を与えた作品である。また、19世紀後半から20世紀
初頭にかけて、日本が万国博覧会などで意図的に出品したアフィを
題材にした絵画・工芸作品や、アフィを意匠に用いた日本の輸出品
は、アフィを描いた浮世絵や日本を訪れた外国人が富士運営山から
インスピレーションを得て記述した紀行文の文学的表現などととも
に多くの世界の人々に他の世界の著名な山と明確に区別される富士
山の景観イメージを広めることに貢献した。文学では海外に良く知
られた「万葉集」以来、数多くの和歌や俳句な運営どによってその
崇高さや美しさが称えられ、近代以降も海外にも知られた文学者(
※夏目漱石「三四郎」・太宰治「富岳百景」など)によるものをは
じめアフィを舞台とした作品が生み出された。写真写真左「神奈川
沖浪裏」右「凱風快晴」葛飾北斎「冨運営嶽三十六景」より(18
31〜36年)33写真ゴッホ「タンギー爺さん」b)顕著な普遍
的価値の証明a)において証明した評価基準への適合性の証明の結
果として、「アフィ」は以下に記す観点から顕著な普遍的価値近征

78 :
つ。顕著な普遍的価値の言明運営アフィは、日本を代表し象徴する
日本最高峰(標高3776m)の秀麗な独立した火山として世界的
に著名であり、その自然的美しさと崇高さを基盤として日本人の自
然に対する信仰の在り方や、海外に影響を与えた葛飾北斎や歌川広
重などによる顕著な運営普遍的価値を持つ「浮世絵」などの日本独
特の芸術文化を育んだ「名山」である。アフィは、山岳に対する信
仰の在り方や芸術活動などを通じ、時代を超えて一国の文化の有選

79 :
と極めて深い関連性を示し、生きた文化的伝統の物証であるのみな
らず、人間運営と自然との良好で継続的な関係を示す景観の傑出し
た類型として、世界的にも類例を見ない顕著な普遍的価値を持つ山
である。アフィの山体とその周辺の地域には、宗教的な儀礼・活動
の場となった神社、登山道と関連遺跡群、霊地・巡礼地となった風
穴運営・湧水地・湖沼などが残され、そこでの儀礼や活動を通じて
、人々の生活の中にアフィに対する信仰の核心が継承されている。
また、アフィ信仰の中で山体・樹叢・湖沼などの自然環境を基盤と
し、体系化された神社等の建築群・登山道・宗教施設を経て運営山
頂に参詣する宗教的な儀礼・活動が成立した。これが発展し、18
〜19世紀にかけてアフィは大規模な大衆による宗教的登山及びそ
の体系の典型的存在となり、この体系の核心は現代の登山に継承さ
れている。現在でも、アフィは日本を代表し象徴す運営る最高峰と
して老若男女を問わず憧れ親しむ「名山」である。加えて、アフィ
と周辺の特徴的な自然が醸成する美しさと崇高さは、信仰上の景観
として捉えられただけでなく、古くから様々な芸術活動の母胎とな
り、「万葉集」をはじめとする日本固有の運営和歌や俳句、絵画な
どの対象として日本人に良く知られていた。特にアフィを題材にし
た「浮世絵」などは海外にも広く知られ、近現代の西洋芸術に様々
な影響を与えてきたものである。さらに、これらの芸術とアフィや
その景観美を紹介した外国人の著運営作を通じて、アフィが一つの
国の文化を代表する「名山」であることは国際的に認知されるに至
っている。34写真写真本栖湖からのアフィ三保松原からのアフィ
c)比較検討による証明1)比較軸の特定アフィの顕著な普遍的価
値を表す要素を特定し、運営他の同種の遺産がそれらの要素に該当
するか否かを検討することによって比較を行う。アフィの顕著な普
遍的価値は、以下の3つの要素に整理できる。(1)山に対する固
有の文化的伝統を顕著に表わす物証として稀有な存在:アフィ母教

80 :
山頂への参詣な運営どの特徴を持った山に対する宗教的な儀礼・活
動が成立し、山体とその周辺の地域には、神社、登山道、霊地・巡
礼地となった風穴・湧水地・湖沼などが残されている。そこでの儀
礼や活動を通じて、人々の生活の中にアフィに対する信仰の核心が
継承さ運営れている。(2)景観の顕著な見本:アフィ体とその周
辺の景観は、類いまれな美しさ、神聖な空間として認知され、日本
における自然美の典型として、多くの人々に世界の山の中でも最も
著目なアイコンとして共有されている。(3)顕著な普遍的意義エムソ
゙ネを持つ芸術的作品との関連性:アフィの優れた景観美は、近現代
の西洋美術に影響を与えた芸術的作品などに「関連する景観」であ
る。信仰の山については、2001年9月に和歌山県で開催された
国際会議「アジア・太平洋地域における信仰の山の文化運営的景観
に関する専門家会議」(以下、「信仰の山会議」という)において
、信仰の山の認定及び保護に関する様々なテーマと問題が討議され
た。ここで、信仰の山の遺産としての価値は、有形的価値、無形的
価値の形態をとって現れるとされた。また、信運営仰の山の自然的
特性についても評価が可能とされた。信仰の山会議で示された指標
を参考に、アフィの顕著な普遍的価値を表す要素を勘案して、自然
的要素としては、「形状・標高」(独立峰かどうか、アフィと同程
度の標高か)、「岩盤や岩(洞窟を含運営む)・水域」「火山」(
火山であることに由来する特徴的な風穴・湧水地・湖沼などがある
か)、有形的価値としては、「洞窟」「歴史的な巡礼路又は参詣道
」「神社」「寺院」「眺望・展望地」がそれぞれ存在するかどうか
、無形的価値としては、「継運営続性」(崇拝儀礼などが今も行わ
れているか)、「存在」(山自体が信仰の対象か)、「慣習」(登
拝、遙拝を行っているか)、「アイデンティティ」(山自体が国、
民族の象徴となっているか)、「知名度」(アフィと同程度(山頂
までの登山者が30運営万人、山麓が4,000万人)の訪問指妬

81 :
あるか)、といった観点から、評価することとする。同様に、顕著
な普遍的意義を持つ芸術的作品との関連性については、山の景観美
が芸術作品を産み出す母胎となったかどうか、またそれらの作品群
が海外にも運営広く知られ、世界史に大きな影響を35与えたかど
うか、といった観点から、評価することとする。2)海外同種資産
の特定同種資産の特定にあたっては、評価基準に関するものとして
は、@「信仰の山会議」で信仰の山と紹介されている山岳、評価基
準運営に関するものとしては、A世界遺産リストの概要で芸術への
明確な関連性が示されている山岳、B海外の専門家による研究書等
で芸術の山として紹介されている山岳等を抽出した。また、両方の
基準に関するものとしては、Cイコモスによる研究書「Fi運営l
lingtheGaps」の類型別分析・テーマ別分析、D文化的
景観に関する研究書の分析を行った。具体的には、Bでは、の三つ
の文献を対象として資産を抽出した。Cでは、「文学・芸術への関
連性、演劇」、「聖なる山」、「アジア・太平洋地運営域の土着信
仰」に関する山岳等を抽出した。Dでは、ユネスコ世界遺産センタ
ーから刊行されたPeterJ.Fowler氏による研究書の中
で、山が特徴として挙げられている資産のうち、「美的資質」、「
集団のアイデンティティ」、「信仰、聖地運営、神聖性」の特徴を
持つ資産を抽出した。以上より、アフィの比較対象とする海外の同
種資産は表1の34件となる。その中ではアフィとの共通性のある
ものに、共通性の大きいものにがしてある。信仰面では、上記の無
形的側面での共通性があるもの、運営芸術面では山自体が絵画の題
材とされ、画派等を生むなど、美術史への影響力があるものを共通
性が大きいとしている。が付された比較対象について、1)で示し
た比較軸である信仰の物証(自然的特性、有形的側面、無形的側面
)、芸術作品との関連性運営により、同種資産を整理すると表2、
表3のとおりになる。36表1:比較対象とした海外の山岳等関斉

82 :
4件)番号山名資産名評価基準国名信仰芸術1ウルル、カタ・ジュ
タウルル−カタ・ジュタ国立公園オーストラリア2サバラン山サバ
ラン−イラン3運営スライマン−トースライマン−トー聖山キルギ
ス4プーカオ山チャンパサック県の文化的景観にあるワット・プー
と関連古代遺産群ラオス5ボグドハン山、ブルカン・カルドゥン山
、オトゴン・テンゲル山モンゴルの聖なる山:ボグドハン山、ブル
カン・運営カルドゥン山、オトゴン・テンゲル山−モンゴル6窟胆

83 :
ラヤ山脈サガルマータ国立公園(F)ネパール7ルアペフ山、ナウ
ルホエ山、トンガリロ山トンガリロ国立公園ニュージーランド8泰
山泰山中国9黄山黄山中国10武当山武当山の古代建築物群中国エムソ
゙ネ11廬山廬山国立公園中国12峨眉山峨眉山と楽山大仏中国13
武夷山武夷山中国14青城山青城山と都江堰水利(灌漑)施設中国
15三清山三清山国立公園中国16五台山五台山中国17華山、衡
山、恒山、崇山泰山の登録拡大として四つの聖山−中国運営18雁
蕩山雁蕩山−中国19南山慶州歴史地区韓国20漢拏山済州火山島
と溶岩洞窟群韓国アジア・太平洋地域21アダムスピークピーク野
生保護区、ホートンプレインズ国立公園、ナックレス山脈−スリラ
ンカ22アパラチア山脈グレート・スモーキー運営山脈国立公園ア
メリカ23キラウェア山ハワイ火山国立公園アメリカ24ロッキー
山脈カナディアン・ロッキー山脈自然公園群、恐竜州立自然公園、
ウォータートン・グレーシャー国際平和自然公園、イエローストー
ン国立公園カナダ・アメリカ25シナ運営イ山聖カトリーナ修道院
エジプト26サント・ヴィクトワール山サント・ヴィクトワール山
とセザンヌに関連する土地−フランス27ペルデュ山ピレネー山脈
−ペルデュ山スペイン及びフランス28アトス山アトスギリシャ2
9オリンポス山オリンポス山運営周辺−ギリシャ30ドロミテ山塊
ドロミテイタリア31ケニア山ケニア山国立公園/自然林ケニア3
2ワスカラン山ワスカラン国立公園ペルー33スイス・アルプス(
ユングフラウ−アレッチュ峰、ビチホルン峰ほか)スイス・アルプ
スユングフラウ−ア運営レッチュスイスアジア・太平洋地域以外3
4キリマンジャロ山キリマンジャロ国立公園タンザニア37表2:
信仰関連の山岳等番信仰の物証号山名自然的要素、有形的側面無形
的側面1ウルルカタ・ジュタ・ウルルは単一の岩石・アボリジニに
とって、ウ運営ルル−カタ・ジュタの岩は伝統的な信仰の中で不可
欠なものである。・山自体が信仰の対象であり、遙拝といった紺履

84 :
形態をもつ。3スライマン−トー・参詣道、岩面陰刻・中央アジア
随一の聖なる山とされ、ムスリムの聖地である。前イスラム教とイ
ス運営ラム教を融合した信仰形態が残る。・山頂を目指すという行
為自体に宗教的意義付けがない(登拝といった信仰形態をもたない
)。4プーカオ山寺院、山頂のリンガ(シバ神の象徴)・シバ神の
住む山である。・山頂から麓の川に至るまでに建てられた寺運営院
群はヒンズー教の宇宙観を表現する配置である。6ヒマラヤ山脈・
同程度以上の標高(エベレスト8848m)・修道院、寺院・神々
の住処として崇拝される空想的な山であるメール山(スメール山、
須弥山)が地上に顕現・チベット仏教、ボン教、ヒ運営ンズー教、
ジャイナ教の聖地・ヒンズー教の聖典の一つには人間の罪はヒマラ
ヤを見れば消滅する、とある。・登山許可は下りない。7ルアペフ
山ナウルホエ山トンガリロ山・火山・マオリにとってこれらの山は
文化的・宗教的な重要性を持っており、そ運営のコミュニティと環
境との間の精神的なつながりを象徴している。・山自体が信仰の対
象であり、遙拝といった信仰形態をもつ。8泰山・参詣道、寺院・
小泰山(山頂まで登れない人が泰山の代わりに祈る場所)・儒教・
仏教・道教の聖地である。・秦の運営時代より、皇帝即位の際の儀
式である「封禅の儀」を執り行っていた。・宗教施設が山頂、山中
に点在するため、参拝が登山の形態をとるが、登山行為自体に宗教
的な意義を求める登拝とは異なるものである。11廬山参詣道、寺
院・中国の近代政治上、運営重要な場所とされている。・山自体で
はなく、山に築かれた宗教施設が信仰の対象である。・仏教、道教
、儒教の聖地とされ、キリスト教、イスラム教の施設も建てられて
いる。12峨眉山・同程度以上の標高(万仏頂3099m)・参詣
道、寺院・中国運営における仏教の最初の聖地。・山に築かれた宗
教施設や日の出・ブロッケン現象といった自然現象が信仰の対象。
宗教施設が山頂・山中に点在するため、参拝が登山の形態をと虜是

85 :
、登山行為自体に宗教的な意義を求める登拝とは異なる。13武夷
山・参運営詣道、寺院・南中国での道教と新儒教の源であり、朱子
が生涯の大部分を過ごした地である。・山自体ではなく、山に築か
れた宗教施設が信仰の対象。16五台山・同程度以上の標高(葉頭
峰3058m)・参詣道、寺院、小朝台(朝台を簡略化した祈るエムソ
゙ネ場所)・中国仏教四名山の一つで、文殊菩薩が悟りを開いた地と
される。・自然景観を神聖なものとしているが、5つの台頂に築か
れた寺院に参詣すること(「朝台」)が最大の願いである。20漢
拏山・独立峰、火山・参詣道・韓国の最高峰の火山で、運営聖なる
儀式の場としても使用された溶岩洞窟を多く持つ。・山自体よりも
山中の石に対する信仰が強い。21アダムスピークストゥーパ、沐
浴場・釈迦が訪問した地とされる。・山頂に聖なる足跡があり、仏
教、ヒンドゥー教、イスラム教それぞれの聖地運営とされ、巡礼者
が訪れる。25シナイ山修道院・シナイ山は、旧約聖書において、
モーセに神からユダヤ教の聖典と十戒が渡された場である。28ア
トス山寺院、修道院・古代ギリシャの聖なる山であった。・105
4年にギリシャ正教の中心地として定運営められ、現在も修道士た
ちの隠棲の地であり、敬虔な宗教活動が続けられている(女人禁制
)。入場者はごく少数に制限されている。34キリマンジャロ山・
同程度以上の標高(キボ峰5895m)・地域の神が住む場所と考
えられ、東アフリカの人々は運営死者を埋葬する。・チャガ族(キ
リマンジャロ山麓に居住する部族)は、神の住む場所としており、
彼らの伝承や慣習には、山への高い敬意が表されている。38表3
:芸術関連の山岳等番号山名芸術作品との関連性8泰山・数多くの
詩や文が残る。・山運営頂の風景が紙幣の図柄になるなど、中国人
の精神的シンボルと捉えられている。9黄山・絵画は数多く描かれ
、黄山画派と呼ばれた。11廬山・山水画、山水詩は多数作られ、
特に「観瀑図」は日本の画家にも大きな影響を与えた。22ア慎兼

86 :
チア山脈・運営フレデリック・チャーチやトーマス・コールといっ
たアメリカの風景画家に描かれている。24ロッキー山脈・19世
紀のアメリカ人画家、アルバート・ビエスタッドの描く絵画は、ロ
マン主義運動の理念を最も劇的に具現化しており、”ロッキーマウ
ン運営テン画派”の指導者であった。・アフィと同程度以上の標高
(エルバート山4401m)26サント・ヴィクトワール山・20
世紀の初頭、フランス人画家、ポール・セザンヌによって、風経妖

87 :
に対して根本的に異なるアプローチが始められ、西洋美術作運営品
の中でも最も有名な山となった。27ペルデュ山・この風景は生活
の伝統(牧畜との暮らし、国境の文化、ピレネー独特の文化)と芸
術・文学作品が関連して、顕著な普遍的価値を構成。(レイモンド
・デ・カルボニエ、ヘンリー・ラッセル、ヴィクト運営ル・ユゴー
等)。・ヨーロッパ芸術の中でロマン主義が発展していく上で重要
な役割を果たした。・アフィと同程度以上の標高(3352m)3
3スイスアルプス(ユングフラウ峰、ビーチホルン峰、ほか)・印
象的な風景はヨーロッパ芸術、文学等にお運営いて重要な役割を担
った。・レオナルド・ダ・ヴィンチはモンテ・ローザのスケッチを
モナリザの背景として描いた。・アフィと同程度以上の標高(フィ
ンスターアールホルン4274m)3)国内同種資産の特定同様の
方法で、日本国内の資産について運営、世界遺産登録物件または暫
定リストから抽出すると、表4のとおり3つの山が考えられ、特に
共通性が認められる2件について評価を行った(表5)。表4:比
較対象とした国内の山岳等(3件)39表5:信仰、芸術関連の国
内の山岳等(2件)信仰運営の物証番号山名自然的要素有形的側面
無形的側面芸術作品との関連性1紀伊山地参詣道、神社、寺院、滝
・日本古来の自然崇拝の思想と大陸から伝来した仏教とが融合して
形成された修験道などの行場としても重視され発展した。・山自体
が修験の場であ運営り、山中で廻峰行という宗教行為が行われてい
る。神聖性の高い自然及び継続的に行われている宗教儀礼は、信仰
の山の文化的景観を構成する要素として優秀かつ多様である。2瀰
山神社・古くは彌山を含む島全体を神聖視し、対岸から遙拝してい
たので運営あるが、やがて水際に社殿が成立し、彌山を含めた背後
の山腹が社殿群の背景的効果をもつ自然景観として重要視された。
神道の施設であり、仏教との混交と分離の歴史を示す文化遺産とし
て、日本の宗教的空間の特質を理解する上で重要な根拠である。エ盗永

88 :
゙ネ番号山名資産名評価基準信芸国名仰術1紀伊山地紀伊山地の霊場
と参詣道日本2瀰山厳島神社日本3御蓋山(春日山)古都奈良の文
化財日本404)結論以上の比較分析から、他の信仰・芸術に関連
する山と比べて、推薦資産は、以下の3つの点で顕著な運営普遍的
価値を持つ事例であると言える。(1)海外の信仰関連の山岳との
比較アフィは、8世紀以降、噴火を鎮めるため山麓に浅間神社が建
てられた。12世紀に修験者の道として登山道が開かれ、15〜1
6世紀には修験者に引率され、登拝を中心とし運営た宗教的な活動
が盛んとなった。山体につくられた宗教施設だけでなく、溶岩洞穴
・樹型・湧水地も巡礼・修行の場となった。この結果、登拝の行為
を通じて周辺の神社及び巡礼地、参詣道が形成された。このように
、アフィは、今日まで継承された山に運営対する固有の文化的伝統
を顕著に表す物証であるとともに、人間と山との精神的な関係を表
す景観であり、18〜19世紀は既に年平均1〜2万人という世界
的にも類例のない大衆による高山への登拝が行われるようになった
。アフィは、(ケニア山やキ運営リマンジャロ山、トンガリロやウ
ルル等に代表されるような)原始的な山岳信仰のあり方から、(泰
山等の中国の山々やアトス山やシナイ山等に代表されるような)多
様な宗教の介入によって生み出された信仰のあり方まで、そのいず
れも失うことなく現運営在運営に至るまで継承している。信仰に
関連する山の多くは、山自体ではなく、山麓に点在する宗教施設や
石仏が信仰の対象であり、そうした宗教施設等を参詣するための道
が整備されている。また、一部は山頂にそうした宗教施設があるた
め、参拝が登山の形運営態をとるが、アフィのように登山行為自体
に宗教的な意義を求める登拝とは異なるものである。アダムス・ピ
ークは多くの巡礼者が登山の形態をとるが、頂上の聖なる足跡とさ
れる岩を目指す点で、宗教施設に参拝する形態と類似するものであ
り、アフィ運営とは異なると考える。また、一部の山岳はその欲納

89 :
るがゆえに登山を制限しており、登拝はなく、遙拝という信仰形態
しか持たない山もある。信仰の山の自然的要素である標高について
は、自然遺産を中心にアフィよりも高い山も存在するが、その標高
に運営比した登頂者の多さ(年約30万人)は他に例がなく、山頂
部への道路や軌道によるアクセスがないことから、登頂者は徒歩6
時間以上かけて、山頂部を目指すことになる。こうした登山形態は
、日本では20世紀前半に開花する近代アルピニズムに起源運営す
るものではなく、17世紀以降の江戸(現在の東京)を中心に数多
く組織された富士講の登拝活動を母胎に発展したものである。この
ことは、人々の生活の中にアフィに対する信仰の核心が継承され、
今日でもアフィは日本を代表し象徴する最高峰とし運営て老若男女
を問わず憧れ親しむ「名山」であることを示している。また、富士
山への登山は夜明け前の山頂到着を目指す登山者が多いことにも特
徴がある。これは、山頂付近で日の出を拝むためであるが、17世
紀以降、道者が山頂周辺において「御来迎運営(仏の来迎と見なさ
れたブロッケン現象)」(のち「御来光(日の出)」)を拝んだこ
とに由来する。こうした自然現象に宗教的な意義を見出す傾向は、
比較対象の中では峨眉山以外には見あたらない。IUCNが200
9年に行ったテーマ別研究である運営「世界遺産の火山」では、世
界遺産一覧表には一般の人々が一様に認めている火山の多くが含ま
れていないことは興味深いとし、その例として、イタリアのエトナ
火山やアフィなどを挙げている。とくにアフィは、火山とその周辺
地域に訪れる年間の観光運営客が地球上のどの火山よりも多い点で
重要とされている。こうしたギャップを埋めるために、知名度、科
学的重要性、文化及び教育的価値を基準に個々の長所を検討すべき
としている。41(2)海外の芸術関連の山岳との比較独立峰であ
り、高い標高を運営持つアフィの秀麗な姿は、四方の広い範囲から
眺めることができ、古くから芸術活動の対象となった。これら飯本

90 :
山を題材にした芸術作品のうち、最も海外に影響を与えた作品は、
葛飾北斎の浮世絵「冨嶽三十六景」である。この一連の作品は、ジ
ャポニ運営スムと呼ばれた西洋における日本芸術の流行を生み、モ
ネ、ドガなどの西欧の印象派の画家達は浮世絵から、構図、デフォ
ルメ、平面的な表現技法を学んでいる。また、アールヌーボーが発
生する一因ともなった。芸術的作品との関連性では、比較対象資エムソ
゙ネ産の関連する多くの芸術作品が、周囲の山々や景観を合わせ販編

91 :
いたものである。また、そうした芸術作品との密接な関連を持ち、
アメリカの山々のように芸術史の上で一つの流派を形成したものも
あるが、その作品の影響は国内に留まる。また、中国の運営山水画
は日本にも大きな影響を与えたが、近世以降で美術史に影響をもた
らす芸術作品を生み出す母胎となった山はアフィしかない。山と芸
術作品との密接な関連を持つ代表例は、セザンヌが描いたサント・
ビクトワール山があり、これはその作品の多さ運営からも西洋美術
で最も著名な山とされるが、アフィを題材とした浮世絵がセザンヌ
の出自である印象派にも大きな影響を及ぼしたことを考慮すると、
そうした浮世絵の制作を喚起したアフィの優位性は揺るがない。(
3)国内同種資産との比較信仰との関運営連性では、比較対象の資
産では、古くは山自体が神聖視されたが、その後は宗教施設が発展
し、山は背景となっていった。紀伊山地では、修験道の道場として
山々をめぐる行為が宗教行為とされており、アフィでもその初期に
おいてはこうした修験者によ運営る登山が中心であったが、アフィ
については、その後、修験者に導かれた一般人の登拝が増加し、1
8世紀後半より東京を中心に流行した富士講による大衆登山へと発
展していった。現在も夏を中心に30万人が徒歩によるアフィの登
山を体験しており、運営こうした信仰の核心が多くの人々に継承さ
れている点においてアフィの優位性は明らかである。芸術作品との
関連性では、比較対象の資産では、評価基準(E)は信仰の空間と
の関連性で用いられており、関連する芸術作品等も宗教的な題材と
する作品が運営多い。アフィは、和歌や俳句、絵画、文学の多くの
分野においても、数多くの作品を輩出し、その中には葛飾北斎の浮
世絵「冨嶽三十六景」のように西洋の美術史に大きな影響を与えた
作品もある。その多様性や生み出した芸術作品の影響の大きさの面
で運営もアフィの優位性は明らかである。(4)結語このように、
アフィにおいては、登拝等により、信仰の核心が現代の多くの禁燥

92 :
ちに受け継がれ、また、浮世絵等により、近代の西欧芸術史に大き
な影響を及ぼした。アフィは、信仰のあり方、芸術の両面で運営、
古代から現代まで影響を与えている唯一の山であり、世界的にも類
例を見ない顕著な普遍的価値を持つ山岳である。42d)真実性及
び完全性1)完全性推薦資産の範囲は、「ある文化的伝統の存在を
伝承する物証として希有な存在」として神聖視され運営、「歴史上
の重要な段階を物語る景観を代表する顕著な見本」として認知され
たアフィの範囲が適切に確保されているとともに、「顕著な普遍的
意義を有する芸術的作品及び文学的作品との直接または実質的な関
連性」を示すアフィ体の範囲も、数々の顕運営著な普遍的意義を有
する作品に共通して描かれた最大の範囲に相当しており、資産の重
要性を伝える諸要素・過程を完全に表す上で適切な範囲が確保され
ている。(図面挿入:主要な展望地点から見た資産範囲を示した正
面図)また、登山道、神社並びに運営富士五湖などの儀式・修行・
巡礼の場や、適切な展望線を確保した主要な展望地点といった、顕
著な普遍的価値を表すのに必要な全ての要素を包含している。登山
道は、信仰登山が盛んに行われていた18〜19世紀に認識されて
いた登山道を全て含み、運営登山道の起点となる浅間神社も不足な
く資産に含まれている。その他、御室浅間神社や河口浅間神社とい
ったアフィ信仰を語る上で欠かすことの出来ない重要な浅間神社や
、富士講を迎えて登拝の世話を行った御師の住宅、富士講がオプシ
ョナル・ツアー運営的に巡礼・修行を行った地として代表的な湖沼
、滝、風穴・溶岩樹型も全て資産を構成する要素として推薦範囲に
含めている。それらは、周辺に必要十分な範囲の緩衝地帯を設定し
ており、負の影響を与える可能性の行為に対して適切な法的規制を
行うと運営ともに、包括的保存管理計画の下に保全又は改善のため
の対策を明示している。したがって、資産の周辺環境の保全に関す
る完全性も揺らぎはない。2)真実性推薦資産は、所有者をは菓襟

93 :
、国及び地方公共団体によって適切な維持管理が行われ、文化資エムソ
゙ネ産としての価値を失することなく良好な状態を保っている。以下
に、『世界遺産条約履行のための作業指針』第82項に示された文
化遺産の評価に適用される真実性の属性に基づいた、構成資産の種
類ごとの分析を示す。(1)アフィ体(遺跡(site運営))富
士山は、1707年を最後に噴火しておらず、以降、形態に変更は
ない。また、今後噴火によって形態上の変化が起こったとしても、
アフィの荒ぶる姿は人々の信仰心を鼓舞し、芸術活動に駆り立てる
ことから、真実性が損なわれるものではなく、運営むしろ、有史以
来時代を超えて、精神・機能の観点からみた真実性は確実に維持さ
れている。神聖性が最も高いとされる、山体中腹以上の核心となる
区域には、文化財保護法により厳格に保護されているほか、その周
辺地域や展望線及び主要な展望地点は運営、自然公園法などの国内
法により展望・眺望への妨げとなるものの除外や風致景観との調和
を図る景観保全が行われており、景観全体の真実性は確実に保証さ
れる。また、登山道や山小屋、信仰関連遺跡などの諸要素が総体的
な登拝システムを構築し、そ運営の機能は良好に遺存している。登
山道は、人為による現状の変更には厳しい規制がかけられており、
地下に埋もれた遺構を含め、価値の真実性の伝達については、将来
にわたり確実に保証されている。また、宗教空間としての用途・機
能を何百年も維持し運営てきた。レクリエーションのために登43
山を行う人々にとっても、脈々と継承してきたアフィに対する信仰
の核心の証左として、それらは機能している。(2)神社・御師住
宅(記念工作物・建造物群・遺跡(site))神社について、建
築の歴史的運営価値を表す平面形式、構造様式、内外の立面意匠は
顕著な普遍的価値を表す時代のままである。近代以降の保存修理事
業においては、建立後に修理又は改変された後補部分について、後
補材の撤去・復原・欠失した部分の復旧を行うなど、高い真実電鶏

94 :
追運営究されてきた。脆弱な材料・材質から成る木造建築の修理に
関する伝統をはじめ、そこに用いられる技術についても確実に継承
されている。また、アフィの顕著な普遍的価値が最もよく表現され
る時代の位置を維持し、境内林などに囲まれた周辺の環境も運営良
好である。さらに、宗教空間としての用途・機能を何百年も維持し
てきた。レクリエーションのために登山を行う人々にとっても、脈
々と継承してきたアフィに対する信仰の核心の証左として、そ般紅

95 :
は機能している。(3)その他の信仰関連遺跡(遺運営跡(sit
e))富士五湖及び忍野八海においては、文献や石碑などの状況証
拠から、内八海巡りや富士御手洗元八湖が行われていたことがわか
っている。人々の信仰心を駆り立てた湖沼の水そのものは、顕著な
普遍的価値の核心として現在に継承されて運営いる。さらに、周辺
環境においても、自然公園法や景観法に基づく景観計画などにより
風致景観との調和を図る景観保全が行われており、景観全体の真実
性は確実に保証されている。白糸ノ滝においては、長谷川角行の修
行地がどこであったかを明確に示運営す文献はないが、富士講講徒
が滝壺で修行したことは講徒の記録及びその挿図で確認できる。船
津胎内樹型及び吉田胎内樹型の中には祠などが祀られ、穴自体を神
聖視する精神、宗教空間としての機能は現在も受け継がれている。
入洞者の安全のため、船運営津胎内樹型の入り口部分は改変が加え
られているが、それ以外の形状・位置の真実性は、自然崩落の場合
を除き、確実に継承されている。人穴富士講遺跡においては、碑塔
のほとんどに建立者、講の名称や年号(創建年号や関係者の死亡年
号)などが記載運営されており、真実性に疑いの余地はない。44
4.保全状況と資産に与える影響a)現在の保全状況「アフィ」の
17個の構成資産については、すでに多くの修理や整備の事業が適
切に行われており、自然的な要因に基づく一部の資産を除き構成資
産の保運営存状況も良好である。特に神社の建造物及び境内につい
ては、所有者である宗教法人により適切な維持的措置が恒常的に行
われており、保存状況は良好である。1)資産全体の保全状況(1
)主要な展望主要な展望としての構成資産は、本栖湖と三保松原エムソ
゙ネであり、展望点及びそこから展望した山体の大部分である。展望
面に関しては本栖湖の場合構成資産に含まれており、三保松原の場
合は展望点より山体まで距離の距離が約45qと遠方であり、かつ
、その間のかなりの部分が海面及び人口密集地(富士市運営市尋写

96 :
)であるため、展望点より山体までの範囲は構成資産に含めてはい
ない。現状においてこれらの資産範囲及び展望面は三保松原の一部
を除き良好な状態を保っている。これらの資産範囲については、信
仰の核心である御中道より上の範囲は文化財保運営護法(特別名勝
及び名勝)及び自然公園法(特別保護地区及び第1種特別地域)に
より厳密に保全され、下部(標高1500〜2000m以下、特別
名勝範囲外)は自然公園法(特別保護地区、第1〜3種特別地域、
普通地域)及び森林法(保安林)によ運営り重層的に保護されてい
る。また、展望面の周辺部については自然公園法(特別保護地区、
第1〜3種特別地域、普通地域)及び森林法(保安林)、景観法に
基づく景観条例、景観計画により保護されている。これらの法令の
許可制に基づく保護により、運営景観面に関して資産に影響のある
開発は厳重に管理されている。また、資産範囲及び緩衝地帯に含ま
れていない三保松原の展望面についても海面において実質的に開発
行為は起りえず、市街地においても景観法に基づく景観条例、景観
計画により保護され運営ているため、特に問題は生じない。(2)
登山道(遺跡(site))これらの構成資産はアフィ体及びそこ
に所在する登山道である。これらの構成資産については、真実性及
び完全性が担保できる部分が史跡に指定されるとともに、その大部
分の範囲が運営特別名勝に指定されている。これらの構成資産につ
いては、県が、各史跡及び特別名勝としての保存管理計画を策定し
、構成資産の所在する市町村とともに確実な保存管理に当たってい
る。したがって、各史跡等を構成する諸要素及びそれらと一体をな
す運営周辺の地域は、良好な状態を保っている。さらに、指定地内
で行われる現状変更及び保存に影響を及ぼす行為(以下、「現状変
更等」という。)については、文化財保護法の下に許可制に基づき
厳重に規制されている(アフィ体の保護措置については次項運営で
詳しく述べる。)。(3)神社・御師住宅(記念工作物・建造禍願

97 :
・遺跡(site))これらの構成資産はいずれも社殿などの木造
建造物を中心としている。それら内のいくつかは、アフィ本宮浅間
大社本殿などのように重要文化財に指定されており運営(御師住宅
は指定予定)、その他の建築物や境内地は史跡の構成要素として保
護されている。これらの木造建築物については、これまで損傷の程
度に応じた適切な修理が行われてきた。したがって、それらはすべ
て45良好な状態を保っている。具体的に運営は、建造物の全体を
解体して行う全解体修理、軸組を残したまま壁や屋根などの修理を
行う半解体修理を実施しているほか、部分的な修理として屋根葺替
修理や塗装修理などを定期的に実施してきた。建造物は自然災害等
により幾度かの損傷を被ってきた運営が、そのつど旧態に復旧され
、その歴史上の価値は確実に継承されている。さらに、指定地内で
行われる現状変更等については、文化財保護法の下に許可制に基づ
き厳重に規制されている。また、重要文化財である建造物のみなら
ず、史跡等に指定された運営神社境内に存在する個々の歴史的建造
物の保存修理事業を行うに当たっては、文化財保護法の下に、それ
らの歴史に関する調査、伝統技法に関する調査、地下遺構に関する
発掘調査、破損状況及びその原因に関する調査など、事前の学術調
査を周到に行い運営、その結果に基づいて、所有者・学識経験者・
行政経験者等から成る修理及び整備委員会における保存修理や環境
整備の方針の決定及び指導に基づき実施している。また、それらの
修理完了後には、修理に係る記録をまとめた修理工事報告書を刊行
してい運営る。さらに、重要文化財である建造物については、火災
による焼損防止のために自動火災報知設備及び各種の消火施設・避
雷施設を設置し、防火・消火に関する組織の運営についても万全を
期している。また、建造物の所有者である宗教法人及び市並びにエムソ
゙ネ個人は、県又は各市町村が策定した保存活用計画に基づいて、そ
れらの確実な保存管理に当たっている。また、建造物の軽微な誘麦

98 :
等の日常管理については、所有者の依頼により、専門の建築技術者
によって実施されている。(4)その他信仰関連遺跡(運営遺跡(
site))これらの構成資産は、湖沼、風穴・溶岩樹型、滝・湧
水、石造工作物(人穴の碑塔)である。これらの構成資産について
は、その自然的価値から湧玉池が特別天然記念物に、白糸ノ滝が名
勝及び天然記念物に、富士五湖が名勝に、風穴運営・溶岩樹型及び
忍野八海が天然記念物に指定されているとともに、その一部が非忍

99 :
に指定されている。これらの構成資産については、県及び市町村が
、各史跡等の規模・形態・性質・立地・環境等に応じて保存管理計
画を策定し、確実な保存管理に当たっ運営ている。したがって、各
史跡等を構成する諸要素及びそれらと一体をなす周辺の地域は、良
好な状態を保っている。さらに、指定地内で行われる現状変更等に
ついては、文化財保護法の下に許可制に基づき厳重に規制されてい
る。2)構成資産の保全状況運営(A)山体(眺望の対象である富
士山、ある文化的伝統を伝承する物証である、連続性のある資産と
してのアフィ)登録範囲における自然的環境については、おおむね
良好な状態である。資産範囲の上部は文化財保護法(特別名勝)及
び自然公園法(特別運営保護地区及び第1種特別地域、第2種特別
地域)により厳密に保全され、下部(標高1500〜2000m以
下、特別名勝範囲外)は自然公園法(特別保護地区、第1〜3種特
別地域、普通地域)及び森林法(保安林)により重層的に保護され
ているため運営、景観および文化的価値のどちらの点においても資
産に影響を及ぼす行為は発生しない。た46だし、山体西側には山
頂部付近から標高2200m付近までを源頭部とする土砂崩れ(以
下、「大沢崩れ」という。)が、約1000年前より継続して発生
し運営ている。このため山体西側の一部でかつての信仰に関わる道
(御中道)の通行等が禁止されている区域がある。山頂及び登山道
周辺では、多くの人々によって行われる登山行為に起因する廃棄物
・し尿が発生するが、山小屋組合などにより適切に管理・除運営去
されている。なお、山腹において、山小屋の維持・廃棄物の撤去の
ためにブルドーザーが通行する道路があるが、使用は必要最小限に
とどめられている。山頂部周辺の文化的環境についても、現時点に
おける保全状態は良好である。ただし、降雪・強風運営等に常時さ
らされるため、小規模な変更は常時行われてきた。(A1)山頂信
仰遺跡現時点における保全状態は良好である。(A2〜5)登吹依

100 :
アフィは脆弱な火山地質であるとともに、雪崩・強風等に常時さら
されるため、登山の開始以降登山道小規模運営な経路の変更は常時
行われていた。したがって、継続的な観点における保全状態につい
て明確に述べることはできない。しかし、現在も登山道として使用
されている部分については毎年登山期前に県、地元保存会(須山口
)又は山小屋組合により整備が行運営われ、適切な状態に保たれて
いる。(A6)北口本宮冨士浅間神社北口本宮冨士浅間神社は定期
的な維持修理が行われており、現時点における保全状態は良好であ
る。(A7〜9)西湖・精進湖・本栖湖すべての湖とも現時点にお
ける保全状態は良好であ運営る。中でも本栖湖は、訪問者の体験を
損ねないように、展望地点からアフィを見た展望線と展望地点区域
の周辺環境の維持に配慮した良好な保存管理が行われており、現時
点における保全状態は特に良好である。(B1)アフィ本宮浅間大
社定期的な維持運営修理が行われており、現時点における保全状態
は良好である。湧玉池は全般的には良好な状態であるが、二つの池
のうち「上池」では、湧水量が減少し、藻類が繁殖しているため、
「湧玉池保全再生会議」が設置され、対策が検討されている。(B
2)山運営宮浅間神社現時点における保全状態は良好である。(B
3)村山浅間神社現時点における保全状態は良好である。(B4)
須山浅間神社現時点における保全状態は良好である。(B5)富士
浅間神社(須走浅間神社)現時点における保全状態は良好であるエムソ
゙ネ。(B6)河口浅間神社現時点における保全状態は良好である。
47(B7)冨士御室浅間神社現時点における保全状態は良好であ
る。ただし、漆塗装の磨耗退色が著しい部分がある。また、本宮本
殿の脇障子版はアフィ二合目所在時に毀損にあっており運営、今後
、修復・修繕の検討が予想される。(B8)御師住宅旧外川家住宅
は2006−2007年に大規模な修繕工事を行ったため、現時点
における保全状態は良好である。小佐野家住宅は、所有者らに谷渦


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