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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ


1 :2017/10/28 〜 最終レス :2018/01/01
前スレ:鬼和尚の仏教勉強会 悟りの真実 2

ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、6、サビヤ

533 サビヤがいった、「何を得た人を<学識ある人>と呼ぶのですか? 何によって<すぐれた人>となるのですか?
 またいかにして<行いの具わった人>となるのですか? <遍歴行者>とはそもそも何ですか?
 先生! おたずねしますが、わたくしに説明してください。」

534 師が答えた、「サビヤよ。教えを聞きおわって、世間における欠点あり或いは欠点のないありとあらゆることがらを熟知して、あらゆることがらについて征服者・疑惑のない者・解脱した者、煩悩に悩まされない者を、<学識のある人>と呼ぶ。

535 諸々の汚れと執著のよりどころを断ち、智に達した人は、母胎に赴くことがない。三種想いと汚泥とを除き断って、妄想分別に赴かない、──かれを<すぐれた人>と呼ぶ。

536 この世において諸々の実践を実行し、有能であって、常に理法を知り、いかなることがらにも執著せず、解脱していて、害しようとする心の存在しない人、──かれは<行いの具わった人>である。

537 上にも下にも横にも中央にも、およそ苦しみの報いを受ける行為を回避して、よく知りつくして行い、偽りと慢心と貪欲と怒りと<名称と形態>(個体のもと)とを滅ぼしつくし、得べきものを得た人、──かれを<遍歴の行者>と呼ぶ。」

 そこで、遍歴の行者サビヤは師の諸説をよろこび随喜し、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、座から起ち上って、上衣を一方の肩にかけ(右肩をあらわし)、師に向かって合掌して、ふさわしい詩を以て目のあたり師を讃嘆した。

538 「智慧ゆたかな方よ。諸々の<道の人>の論争にとらわれた、名称と文字と表象とにもとづいて起った六十三種の異説を伏して、激流をわたりたもうた。

2 :
534
あらゆる法(事柄)を聞いて、熟知(証知)した人が学識のある人。
あらゆる事柄を征服し、あらゆる疑念を克服し、解脱したということ。
535
すぐれた人(聖者)とは、諸々の煩悩と執着を断ち切った人。
執着については渇愛への執着と見解への執着の二種があげられる。
三種の想とは、欲の想、怒りの想、害意の想。
「妄想分別に赴かない(〔概念化した〕時間に至りません)」<517><518>参照
536
仏教はブッダ教えと実践がセットになっているもの。実践のない仏教はあり得ない。教えはすべて実践によって体得できるもの。
諸々の行ないについて得るものを得た者である。
そのような人を、ブッダは「有能であって、常に理法を知り、いかなることがらにも執著せず、解脱していて、害しようとする心の存在しない」のだと称賛している。
537
苦しみの原因になる行為(業)。
上とは過去を意味し、下とは未来。横(中)は現在。過去、未来、現在の悪業をすべて捨てきたということ。具体的にはまやかしや慢心、貪りや怒りを捨てきったということ。
「名色の終わりをもたらした」とは、心と身体の終わりをもたらしたということ、もう輪廻をしないこと。解脱したということ。
すべてを「捨てきった人」を「遊行者〈遍歴者〉」と言う。
(´・(ェ)・`)つ

3 :
ご苦労さんなのじゃ。
サビヤの如く熱心に悟りを求めるならば悟りの門も開けるのじゃ。

4 :
>>3
鬼和尚、こんばんは。
精進するであります。
(´・(ェ)・`)つ

5 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、6、サビヤ

539 あなたは苦しみを滅ぼし、彼岸に達せられた方です。あなたは真の人(拝まれる人)です。あなたは完全にさとりを開かれた方です。
あなたは煩悩の汚れを滅ぼされた方だと思います。あなたは光輝あり、理解あり、智慧ゆたかな方です。苦しみを滅ぼした方よ。あなたはわたくしを救ってくださいました。

540 あなたはわたくしに疑惑のあるのを知って、わたくしの疑いをはらしてくださいました。わたくしはあなたに敬礼します。聖者の道の奥をきわめた人よ。心に荒みなき、太陽の末裔よ。あなたはやさしい方です。

541 わたくしが昔いだいていた疑問をあなたははっきりと説き明してくださいました。眼ある方よ。聖者よ。まことにあなたは<さとりを開いた人>です。あなたは、妨げの覆いがありません。

542 あなたの悩み悶えは、すべて破られ断たれています。あなたは清涼となり、身を制し、堅固で、誠実に行動する方です。

543 象の中の象王であり偉大な英雄であるあなたが説くときには、すべて神々は、ナーラダ、パッバタの両[神群]とともに随喜します。

544 尊い方よ。あなたに敬礼します。最上の人よ。あなたに敬礼します。神々を含めた全世界のうちで、あなたに比べられる人はおりません。

545 あなたは覚った人です。あなたは師です。あなたは悪魔の征服者です、賢者です。あなたは煩悩の潜在的な可能力を断って、みずから[彼岸に]渡りおわり、またこの人々を渡すのです。

546 あなたは生存の要因を超越し、諸々の煩悩の汚れを滅ぼしておられます、あなたは獅子です。何ものにもとらわれず、恐れおののきを捨てておられます。

547 麗しい百蓮華が泥水に染まらないように、あなたは善悪の両者に汚されません、雄々しき人よ、両足をお伸ばしなさい。サビヤは師を礼拝します。」

(´・(ェ)・`)つ

6 :
>>5
538
ブッダを称賛する10の偈。
ブッダの特徴、修行者にとっては修行の目標とすべきこと。
長部経典の梵網経の中で修行者達に62種類の見解があることが述べられている。63番目は有身見(永遠不滅の真我があるという見解)であると注釈書には書いてある。
諸々の修行者たちはこれらの見解に基づいて論争するが、これらの見解は観念と文字に依存しており、真実ではない。ブッダはこれらの見解の欠点を明らかにして、調伏して、論争の激流を終わらせた。
539
苦しみを滅ぼした方として称賛した。
彼岸(涅槃)に達した方。
真の人(拝まれる人)。完全にさとりを開かれた方(阿羅漢(人格完成者)として、正自覚者)。
煩悩を滅ぼし(煩悩を滅尽し)、光輝あり、理解あり、智慧ゆたかな方(光輝ある方として、思慧ある方として、多大なる知慧ある方になる。
540
「聖者の道の奥をきわめた人」
「温和な方」515参照。
温和とは、
@ 冷静で平等であること。無関心のように見えるが、執着がないこと。
A 念があるとは気づきがあること。自分の身口意の行動が自覚的であること。
B 生き物を殺さないこと。生き物に対する慈しみの心があること。
C 激流を渡ったこと。煩悩を克服したこと。
D 心に煩悩がないから、心には濁りがなく澄み切って透明であること。
E 情欲の高まりがなく、興奮することがないこと。
これらの特徴を持つ人。
「聖者の道の奥をきわめた」はA、Bなどから始めて、@、C、D、Eなどになる。
太陽の末裔(太陽の眷属)とは、ブッダを意味する。スッタニパータの54参照。
541
「あなたは、妨げの覆いがありません。」の意味は、あなたには心を覆って善をおこなわせないもの、智慧の力を弱めるものがない。具体的には五蓋(貪欲、瞋恚、沈鬱・眠気、興奮・後悔、疑い)。
542
前半は、悩み苦しみがすべてなくなったことを示す。解脱したこと。
後半は解脱すると、どのようになったかを示す。
@清涼になった(〔心が〕冷静になった)
。仏教用語では「捨」。
冷静で平等な判断。「悟りの光(智慧)が現れた」ということ。解脱すれば当然悟りの智慧が現れる。悟りの智慧が現れたから解脱したのだと言える。
どのようにしたら、解脱するかは、ブッダの言葉にいつも接していること。ブッダの言葉を実践すること。ブッダのある言葉が縁になって、ある時、解脱を望んでいれば、解脱するでしょう。
A身を制した(〔心身の〕調御を得た)
身口意の行為を制御できるようになる。
B堅固になった(〔道心〕堅固になった)
特に努力しなくとも、意志の強い人間になる。
C誠実に行動する(真の勤勉〔努力〕ある)行いはすべて誠実になる。優しさのあふれた人間になるから。
ブッダが解脱されたこと、そしてその結果@からCの性格であることを称賛している。
543
@象、A龍、Bすぐれた聖者(行者、とくに仏をさす)」
ナーラダ及びパッバタとは智慧のある神々の集団であると注釈書に書かれている。ナーラダ神群及びパッバタ神群を含めてすべての神々が、ブッダの説法を聞いて、大変喜ぶと述べられている
すべての神々も非常に喜んだということは、ブッダの解答(説法)は、ブッダの説法は時間や距離を超越している。
神々の世界は次元の異なる世界の象徴。ブッダの説法は地球の次元を超えた宇宙的な意味があることを神々という言葉で表現している。

(´・(ェ)・`)つ
つづく

7 :
>>5
544
「最上の人」
ブッダの九徳(九の性質)。
1.阿羅漢: 一切の煩悩を滅尽し、神々・人間の尊敬、供養を受けるに値する方。
2.正覚者: 完全たる悟りを最初に悟って、その悟りへの道を他に教えることのできる方。
3.明行具足者: 八種の智慧と十五の良い性格を具えた方
4.善逝(ぜんぜい): 正しく涅槃に達し、善く修行を完成し、正しく善い言葉を語る方。
5.世間解: 宇宙、衆生、諸行と言う3つの世界を知り尽くした方。
6.無上の調御丈夫: 人々を指導することにおいては無上の能力を持つ方。
7.天人師: 人間、神々などの一切衆生の唯一の師。
8.覚者(仏陀): 真理に目覚めた方。
9.世尊: すべての徳福を備えた方。
545
ブッダの六つの特徴。
1.覚った方:
四つの真理(四聖諦)をみずから覚り、自己の覚った道を世間に示し指導する方。
ブッダは覚りを四段階に分析し、十結(10の煩悩)と覚りの四段階の関係を明らかにした。
2.教師:
ブッダは阿羅漢果者。衆生が涅槃に至ることを願い、神々と人々を諭し、教えることができる方になる。
3.悪魔を征服する聖者:
欲界の支配者、覚りを妨害する悪魔を克服して、涅槃に至った聖者。
4.潜在的煩悩を断ち切った方。
苦の本体は「ナーマ・ルーパ(心・身体)」だと考察すると、顕在的煩悩は心に基づくもの、潜在的煩悩は身体に基づくものと考えると分かりやすい。
5.自ら渡った方:
彼岸(涅槃)に渡った。は激流(煩悩)を渡った。注釈書では輪廻を渡った。これらはすべて同じ内容。すべての煩悩をなくして、解脱して、涅槃に至ったこと。
6.人々を渡らせる方:
衆生が涅槃に至ることを願う方。
涅槃に至るかどうかは本人次第。
ブッダといえども、涅槃に至りたいと望まない人を渡らすことはできない。
546
生存の要因とは五蘊。五蘊は色受想行識(身体、感覚、表象、形成作用、認識)。これらを超越したとは、これらに執着しないこと。そのために、これらから自由でいるということ。
怖れおののくことない生命の象徴として獅子に例えている。
ブッダが怖れることがないのは執着がないから。怖れの原因は執着。執着がなければ恐れがない。
例えば、生命が一番執着しているものは、自分の命。どうしても生きていたいという執着がある。ですから死ぬのは怖い。殺されるのが怖い。
命に執着がなければ、死は怖くない。死も恐れないブッダには怖れるものは何もない。
547
ブッダが美しい白蓮華が泥水に汚されないように、善と悪の両方に汚されませんと述べている。ここで問題になるのは、何故悪だけでなく、善悪の両方なのかということ。
善にも汚されないと書いてある。何故善に心が汚されるのか?
ダンマパダ267、スッタニパータ520参照。
ものごとを良い悪いとこだわると心が静まらない。世間の塵とは欲や怒りのこと。これらの煩悩から離れると心は静まる。
善と判断しても、悪と判断しても単純には決められないということがある。善にも悪にも汚されることがない、動揺しない、静寂を保っている。

(´・(ェ)・`)つ

8 :
>>4 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
 学ぶのも修業の内なのじゃ。
 どんどん学ぶと善いのじゃ。

9 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、6、サビヤ

 そこで、遍歴の行者サビヤは尊き師(ブッダ)の両足に頭をつけて礼して、言った、
──「すばらしいことです、譬えば倒れた者を起こすように、覆われたものを開くように、方角に迷った者に道を示すように、あるいは『眼ある人々は色やかたちを見るであろう』といって暗闇の中で灯火をかかげるように、
ゴータマさま種々のしかたで真理を明らかにされました。ここでわたくしはゴータマ(ブッダ)さまに帰依したてまつる。また真理と修行僧のつどいとに帰依したてまつる。
わたくしは師のもとで出家したいのです。完全な戒律を受けたいのです。」

 (師はいわれた)、「サビヤよ。かって異説の徒であった者が、この教えと戒律とにおいて出家しようと望み、完全な戒律を受けようと望むならば、
かれは四カ月の間別に住む。四カ月たってから、もういいな、と思ったならば、諸々の修行僧はかれを出家させ、完全な戒律を受けさせて、修行僧となるようにさせる。
しかしこの場合は、人によって(期間の)差異のあることが認められる。」

 「尊いお方さま。もしもかつて異説の徒であった者が、この教えと戒律とにおいて出家しようと望み、完全な戒律を受けようと望むならば、かれは四カ月の間別に住み、
四カ月たってから、もういいな、と思ったならば、諸々の修行僧がかれを出家させ、完全な戒律を受けさせて、修行僧となるようにさせるのであるならば、
わたくしは(四カ月ではなくて)、四年間別に住みましょう。そうして四年たってから、もういいな、と思ったならば、諸々の修行僧はわたくしを出家させて、完全な戒律を受けさせて、修行僧となるようにさせてください。」

 さて遍歴の行者サビヤは(直ちに)師のもとで出家し、完全な戒律を受けた。それからまもなく、この長者サビヤは独りで他人から遠ざかり、怠ることなく精励し専心していたが、
やがて無上の清らかな行いの究極──諸々の立派に人々はそれを得るために正しく家を出て家なき状態に赴いたのであるが──を現世においてみずからさとり、証し、具現して日を送った。

「生まれることは尽きた。清らかな行いはすでに完成した。なすべきことをなしおえた。もはや再びこのような生存を受けることはない」とさとった。そうしてサビヤ長老は聖者の一人となった。

(´・(ェ)・`)つ

10 :
ナーマ、ルーパとは名前と形象なのじゃ。
言葉とイメージであり、観念の要素なのじゃ。
記憶に依って成立するものなのじゃ。 

11 :
>>10
鬼和尚、ありがとうであります。

ルーパ=形象=イメージが、ありのままの姿っいうことではなく、ルーパ=名前=言葉と同様に、記憶に依って成立するものであり、観念の要素なのでありますね。 

ナーマ、ルーパを 無視して対象を「ありのまま」をとらえる訓練が瞑想でありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ

12 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、7、セーラ

 わたくしが聞いたところによると、──或るとき師は大勢の修行僧千二百五十人とともにアングッタラーパ[という地方]を遍歴して、アーバナと名づけるアングッタラーパの或る町に入られた。
結髪の行者ケーニヤはこういうことを聞いた、「シャカ族の子である<道の人>ゴータマ(ブッダ)は、シャカ族の家から出家して、修行僧千二百五十人の大きなつどいとともに、アングッタラーパを遍歴して、アーバナに達した。
そのゴータマさまには、次のような好い名声があとずれている。
──すなわち、かの師は、真の人・さとりを開いた人・明知と行いを具えた人・幸せな人・世間を知った人・無上の人・人々を調える御者・神々と人間との師・目ざめた人(ブッダ)・尊い師であるといわれる。
かれは、みずからさとり、体得して、神々・悪魔・梵天を含むこの世界や<道の人>・バラモン・神々・人間を含む生けるものどもに教えを説く。
かれは、初めも善く、中ほども善く、終りも善く、意義も文字もよく具わっている教えを説き、完全円満で清らかな行いを説き明かす、と。ではそのような立派な尊敬さるべき人ら見えるのは幸せ、みごとな善いことだ。」
 そこで結髪の行者ケーニヤは師のおられるところに赴いた。そうして、師に挨拶した。
喜ばしい、思い出の挨拶のことばを交わしたのち、かれは傍らに坐した結髪の行者ケーニヤに対して師は法に関する話を説いて、指導し、元気づけ、喜ばされた。
結髪の行者ケーニヤは、師に法に関する話を説かれ、指導され、元気づけられ、喜ばされて、師にこのように言った、「ゴータマさまは修行僧の方々とともに、明日わたくしのささげる食物をお受けください。」

 そのように告げられて、師は結髪の行者ケーニヤに向かって言われた、「ケーニヤよ。修行僧のつどいは大勢で、千二百五十人もいます。またあなたはバラモンがたを信奉しています。」

 結髪の行者ケーニヤは再び師に言った、「ゴータマさま。修行僧の方々は大勢で、千二百五十人もいるし、またわたくしはバラモンがたを信奉していますが、しかしゴータマさまは修行僧の方々とともに、明日わたくしのささげる食物をお受けください。」

 師は結髪の行者ケーニヤに再び言われた、「ケーニヤよ。修行僧のつどいは大勢で、千二百五十人もいます。またあなたはバラモンがたを信奉しています。」

(´・(ェ)・`)つ

13 :
>>11 そうではないのじゃ。
 自らの認識、自我もナーマ・ルーパによって行われていると気付いて自我は厭離されるのじゃ。
 それが観念で゜しかないものと気付くからなのじゃ。
 そしてナーマ・ルーパによる観念の働きも観察し、厭離して無認識に至るのじゃ。
 それが大悟徹底なのじゃ。

14 :
>>13
鬼和尚ありがとうであります。
人が認識し得るものは全て、ルーパ=名前=言葉やルーパ=形象=イメージとして、記憶にとどめられるもののみでありましょうから、 
>自らの認識、自我もナーマ・ルーパによって行われている

そのナーマ・ルーパの与えられていないありのままの世界に気づこうとするのではなく、認識し得るものは全て、ナーマ・ルーパであるのだと気付気さえすればよいのでありますか?
言葉にできないこと、イメージできないことは、存在している、現象していると言えないわけで、
自我や認識も、その範疇のもねに過ぎないと、ありありと実感をもって気付けば良いだけなのでありますか?
(´・(ェ)・`)つ

15 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、7、セーラ

 結髪の行者ケーニヤは三たび師に言った、
「ゴータマさま。修行僧のつどいは大勢で、千二百五十人もいるし、またわたくしはバラモンがたを信奉していますが、しかしゴータマさまは修行僧の方々とともに、明日わたくしのささげる食物をお受けください。」
師は沈黙によって承諾された。

 そこで結髪の行者ケーニヤは、師が承諾されたのを知って、座から起って、自分の庵に赴いた。それから、友人・朋輩・近親・親族に告げていった、「友人・朋輩・近親・親族の皆さん。わたくしのことばをお聞きなさい。
わたくしは<道の人>ゴータマを修行僧の方々とともに、明日の食事に招待しました。だから皆さんは、身を動かしてわたくしに手伝ってください。」

 結髪の行者ケーニヤの友人・朋輩・近親・親族は、「承知しました」と、かれに答えて、或る者は竈の坑を掘り、或る者は薪を割り、或る者は器を洗い、或る者は水瓶を備えつけ、或る者は座席を設けた。
また結髪の行者ケーニヤはみずから(白い帳を垂れた)円い集会場をしつらえた。

 ところでそのときセーラ・バラモンはアーバナに住んでいたが、かれは三ヴェーダの奥義に達し、語彙論・活用論・音韻論・語源論(第四のアタルヴァ・ヴェーダと)第五としての史詩に達し、語句と文法に通じ、順世論や偉人の観相に通達し、
三百人の少年にヴェーダの聖句を教えていた。
そのとき結髪の行者ケーニヤはセーラ・バラモンを信奉していた。

 ときにセーラ・バラモンは三百人の少年に取り巻かれていたが、(長く坐っていたために生じた疲労を除くために)膝を伸ばす散歩をし、あちこち歩んでいたが、結髪の行者ケーニヤの庵に近づいた。
そこでセーラ・バラモンは、ケーニヤの庵に属する結髪の行者たちが、或る者は竈の坑を掘り、或る者はは水瓶を備えつけ、或る者は座席を設け、また結髪の行者ケーニヤはみずから円い集会場をしつらえているのを見た。
見てから結髪の行者ケーニヤに問うた、
「ケーニヤさんは息子の嫁取りがあるのでしょうか? あるいは息女の嫁入りがあるのでしょうか? 大きな祭祀が近く行われるのですか? あるいはマガダ王セーニヤ・ビンビサーラが軍隊とともに明日の食事に招待されたのですか?」

(´・(ェ)・`)つ

16 :
>>14 そうじゃ、自らの心の働きに気付くことで観念の無い認識も回帰するのじゃ。
 そしてありのままの世界も観られるのじゃ。
 自らの心の働きを今ここで観ることが全てなのじゃ。

17 :
>>16
鬼和尚ありがとうであります。
観念を越えた向こう側と言うか、観念のない世界というか、「ありのまま」の世界を妄想することはやめて、
ナーマ、ルーパによる観念の働きを素直にそのまま観察し続けることにより、「気づき」がもたらされる、というようなことでありましょうかね。
(´・(ェ)・`)つ

18 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、7、セーラ

 「セーラよ。わたくしには息子の嫁取りがあるのでもなく、息女の嫁入りがあるのでもなく、マガダ王セーニヤ・ビンビサーラが軍隊とともに明日の食事に招かれているのでもありません。
そうではなくて、わたくしは近く大きな祭祀を行うことになっています。シャカ族の子・道の人ゴータマ(ブッダ)は、シャカ族の家から出家して、アングッタラーパ国を遊歩して、大勢の修行僧千二百五十人とともにアーバナに達しました。
そのゴータマさまには次のような好い名声がおとずれている。
──すなわち、かの師は、真の人・さとりを開いた人・明知と行いを具えた人・幸せな人・世間を知った人・無上の人・人々を調える御者・神々と人間との師・目ざめた人(ブッダ)・尊き師であるといわれる。
わたくしはあの方を修行僧らとともに明日の食事に招きました。」

 「ケーニヤさん。あなたはかれを<目ざめた人>(ブッダ)と呼ぶのか?」
 「セーラさん。わたくしはかれを<目ざめた人>と呼びます。」
 「ケーニヤさん。あなたはかれを<目ざめた人>と呼ぶのか?」
 「セーラさん。わたくしはかれを<目ざめた人>と呼びます。」

 そのときセーラ・バラモンは心に思った。「<目ざめた人>という語を聞くことは、世間においてはむずかしいのである。
ところでわれわれの聖典の中に偉人の相が三十二伝えられている。それを具えている偉人にはただ二つの途があるのみで、その他の途はありえない。
[第一に]もしもかれが在家の生活を営むならば、かれは転輪王となり、正義を守る正義の王として四方を征服して、国土人民を安定させ、七宝を具有するに至る。
すなわちかれは輪という宝・象という宝・馬という宝・珠という宝・資産者という宝・及び第七に指揮者という宝が現われるのである。
またかれには千人以上の子があり、みな勇敢で雄々しく、外敵をうち砕く。かれは、四海の果てるに至るまで、この大地を武力によらず刀剣を用いずに、正義によって征服して支配する。
[第二に]しかしながら、もしもかれが家から出て出家者となるならば、真の人・覚りを開いた人となり、世間における諸々の煩悩の覆いをとり除く」と。

(´・(ェ)・`)つ

19 :
>>18
三十二の<偉人の相>
1. 足下安平立相(そくげあんぴょうりゅうそう)足の裏が平らで、地を歩くとき足裏と地と密着して、その間に髪の毛ほどの隙もない(扁平足)。
2. 足下二輪相(そくげにりんそう)足裏に輪形の相(千輻輪)が現れている。仏足石はこれを表したもの。
3. 長指相(ちょうしそう)10本の手指(もしくは手足指)が長くて繊細なこと。
4. 足跟広平相(そくげんこうびょうそう)足のかかとが広く平らかである。
5. 手足指縵網相(しゅそくしまんもうそう)手足の各指の間に、鳥の水かきのような金色の膜がある。
6. 手足柔軟相(しゅそくにゅうなんそう)手足が柔らかで色が紅赤であること。
7. 足趺高満相(そくふこうまんそう)足趺すなわち足の甲が亀の背のように厚く盛り上がっている。
8. 伊泥延相(いでいえんせんそう)足のふくらはぎが鹿王のように円く微妙な形をしていること。伊泥延は鹿の一種。
9. 正立手摩膝相(しょうりゅうしゅましっそう)正立(直立)したとき両手が膝に届き、手先が膝をなでるくらい長い。
10. 陰蔵相(おんぞうそう)馬や象のように陰相が隠されている(男根が体内に密蔵される)。
11. 身広長等相(しんこうじょうとうそう)身体の縦広左右上下の量が等しい(身長と両手を広げた長さが等しい)。
12. 毛上向相(もうじょうこうそう)体の全ての毛の先端が全て上になびき、右に巻いて、しかも紺青色を呈し柔軟である。
13. 一一孔一毛相(いちいちくいちもうそう)身体の毛穴にはすべて一毛を生じ、その毛孔から微妙の香気を出し、毛の色は青瑠璃色である。
14. 金色相(こんじきそう)身体手足全て黄金色に輝いている。
15. 丈光相(じょうこうそう)身体から四方各一丈の光明を放っている(いわゆる後光(ごこう))。光背はこれを表す。
16. 細薄皮相(さいはくひそう)皮膚が軟滑で一切の塵垢不浄を留めない。
17. 七処隆満相(しちしょりゅうまんそう)両掌と両足の裏、両肩、うなじの七所の肉が円満で浄らかである。
18. 両腋下隆満相(りょうやくげりゅうまんそう)両腋の下にも肉が付いていて、凹みがない。
19. 上身如獅子相(じょうしんにょししそう)上半身に威厳があり、瑞厳なること獅子王のようである。
20. 大直身相(だいじきしんそう)身体が広大端正で比類がない。
21. 肩円満相(けんえんまんそう)両肩の相が丸く豊かである。円満。
22. 四十歯相(しじゅうしそう)40本の歯を有し、それらは雪のように白く清潔である(常人は32歯)。
23. 歯斉相(しさいそう)歯はみな大きさが等しく、硬く密であり一本のように並びが美しい。
24. 牙白相(げびゃくそう)40歯以外に四牙あり、とくに白く大きく鋭利堅固である。
25. 獅子頬相(ししきょうそう)両頬が隆満して獅子王のようである。
26. 味中得上味相(みちゅうとくじょうみそう)何を食べても食物のその最上の味を味わえる。
27. 大舌相(だいぜつそう)舌が軟薄で広く長く、口から出すと髪の生え際にまで届く。しかも、口に入っても一杯にはならない。
28. 梵声相(ぼんじょうそう)声は清浄で、聞く者をして得益無量ならしめ、しかも遠くまで聞える。
29. 真青眼相(しんしょうげんそう)眼は青い蓮華のように紺青である。
30. 牛眼瀟睫相(ぎゅうごんしょうそう)睫が長く整っていて乱れず牛王のようである。
31. 頂髻相(ちょうけいそう)頭の頂の肉が隆起して髻(もとどり)の形を成している。肉髻(にくけい)の事。
32. 白毫相(びゃくごうそう)眉間に右巻きの白毛があり、光明を放つ。伸びると一丈五尺ある。

釈迦の風貌や身体的特徴を後世に伝えたかったのでありましょうか?それとも、パラモンの世界ではこんな伝説があったのでありましょうかね?。
(´・(ェ)・`)つ

20 :
>>17 そうじゃ、自らの本心を観ることが修業なのじゃ。

>>19 伝説なのじゃ。
 全部そろうと電光看板みたいなのじゃ。
 

21 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、7、セーラ

 「ケーニヤさん。では真の人・覚りを聞いた人であられるゴータマさまは、いまどこにおられるのですか?」

 かれがこのように言ったときに、結髪の行者ケーニヤは、右腕を差し伸ばして、セーラ・バラモンに告げていった、「セーラさん。この方角に当って一帯の青い林があります。(そこにゴータマさまはおられるのです)。」

 そこでセーラ・バラモンは三百人の少年とともに師のおられるところに赴いた。そのときセーラ・バラモンはそれらの少年たちに告げていった、
「きみたちは(急がすに)小股に歩いて、響きを立てないで来なさい。諸々の尊き師は獅子のように独り歩む者であり、近づきがたいからです。
そうしてわたしが<道の人>ゴータマと話しているときに、きみたちは途中でことばを挿んではならない。きみたちはわたしの話が終るのを待て。」

 さてセーラ・バラモンは尊き師のおられるところに赴いた。そこで、師に挨拶した。喜ばしい、思い出の挨拶のことばを交わしたのち、かれは傍らに坐した。
それから、セーラ・バラモンは師の身に三十二の<偉人の相>があるかどうかを探した。セーラ・バラモンは、師の身体に、ただ二つの相を除いて、三十二の偉人の相が殆んど具わっているのを見た。
ただ二つの<偉人の相>に関しては、(それらがはたして師にあるかどうかを)かれは疑い惑い、(<目ざめた人(ブッダ)>)であるということを)信用せず、信仰しなかった。その二つとは体の膜の中におさめられた隠所と広長舌相とである。

 そのとき師は思った、「このセーラ・バラモンはわが身に三十二の偉人の相を殆んど見つけているが、ただ二つの相を見ていない。
ただ体の膜の中におさめられた隠所と広長舌相という二つの偉人の相に関しては、(それらがはたしてわたくしの身にあるかどうかを)かれは疑い惑い、(目ざめた人(ブッダ)であるということを)信用せず、信仰してしない」と。

 そこで師は、セーラ・バラモンが師の体の膜の中におさめられた隠所を見得るような神通を示現した。次に師は舌を出し、舌で両耳孔を上下になめまわし、両耳孔を上下になめまわし、前の額を一面に舌で撫でた。

(´・(ェ)・`)つ

22 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、7、セーラ

 そこでセーラ・バラモンは思った、──「道の人ゴータマは三十二の偉人の相を完全に身に具えていて、不完全ではない。しかしわたしは、『かれがブッダであるか否か』ということをまだ知らない。
ただわたしは、年老い齢高く師またはその師であるバラモンたちが『諸々の<尊敬さるべき人、完全な覚りを開いた人>は、自分が讃嘆されるときには、自身を示現する』と語るのを聞いたことがある。
さあ、わたしは、適当な詩を以て、<道の人>ゴータマ(ブッダ)をその面前において讃嘆しましょう」と。そこでセーラ・バラモンはふさわしい詩を以て尊き師をその面前において讃嘆した。──

548 「先生! あなたは身体が完全であり、よく輝き、生れも良く、見た目も美しい。黄金の色があり、歯は極めて白い。あなたは精力ある人です。

549 実に、生れの良い人の具えるすがた・かたちは、すべて、偉人の相として、あなたの身体のうちにあります。

550 あなたは、眼が清らかに、容貌も美しく、(身体は)大きく、真っ直ぐで、光輝あり、<道の人>の群の中にあって、太陽のように輝いています。

551 あなたは見るも美しい修行者(比丘)で、その膚は黄金のようです。このように容色が優れているのに、どうして<道の人>となる必要がありましょうか。

552 あなたは転輪王(世界を支配する帝王)となって、戦車兵の主となり、四方を征服し、ジャンブ州(全インド)の支配者となるべきです。

553 クシャトリヤ(王侯たち)や地方の王どもは、あなたに忠誠を誓うでしょう。ゴータマ(ブッダ)よ。王の中の王として人類の帝王として、統治をなさってください。」

554 師(ブッダ)は答えた、「セーラよ。わたくしは王ではありますが、無上の真理の王です。真理によって輪をまわすのです。──(だれも)反転しえない輪を。」

555 セーラ・バラモンがいった、「あなたは<完全にさとった者>であると、みずから称しておられます。ゴータマ(ブッダ)よ。あなたは『われは<無上の真理の王>であり、法によって輪をまわす』と説いておられます。

(´・(ェ)・`)つ

23 :
>>21
548
「よく輝き」は.「 丈光相(じょうこうそう)」と言われる。身体から四方各一丈の光明を放っている(いわゆる後光(ごこう))。光背はこれを表している。

「生れも良く」は
「上身如獅子相(じょうしんにょししそう):上半身に威厳があり、瑞厳なること獅子王のようである。」
「 大直身相(だいじきしんそう):身体が広大端正で比類がない。」
「肩円満相(けんえんまんそう):両肩の相が丸く豊かである。円満。」ということ。

「見目も美しい」は「真青眼相(しんしょうげんそう:眼は青い蓮華のように紺青である。)特に瞳が透き通って美しいと言われている。

「黄金の色があり」は「 金色相(こんじきそう):身体手足全て黄金色に輝いている。」ということです。

「歯は極めて白い」は「 四十歯相(しじゅうしそう):40本の歯を有し、それらは雪のように白く清潔である(常人は32歯)」、
「 歯斉相(しさいそう):歯はみな大きさが等しく、硬く密であり一本のように並びが美しい。」、
「牙白相(げびゃくそう):40歯以外に四牙あり、とくに白く大きく鋭利堅固である。」

554
「真理の輪(法輪)を転ずる」とは、真理を人類に明らかにすることです。それは人類ばかりでなく神々にも最高の福音で、そのため法輪が転じられた時、地の神々から宇宙の神々まで讃嘆の声を発しました。

(´・(∀)・`)つ
たしかに、電光看板みたいであり、目が青く、歯が40本ある、扁平足の宇宙人みたいでありますね。

お釈迦さんの側でつかえた人達が、お釈迦さんは凄い人だったんだよって、いくら言っても伝わらず、少しづつ尾ひれがついて、いつのまにか、電光看板みたいな宇宙人になってしまったのかもでありますね。

24 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、7、セーラ

556 では、誰が、あなたの将軍なのですか? 師の相続者である弟子は、誰ですか? あなたがまわされたこの<真理の輪>を、誰が(あなたに)つづいてまわすのですか?」

557 師が答えた、「セーラよ。わたしがまわした輪、すなわち無上の<真理の輪>(法輪)を、サーリプッタがまわす。かれは<全き人>につづいて出現した人です。

558 わたしは、知らねばならぬことをすでに知り、修むべきことをすでに修め、断つべきことをすでに断ってしまった。それ故に、わたしは<さとった人>(ブッダ)である。バラモンよ。

559 わたしに対する疑惑をなくせよ。バラモンよ。わたしを信ぜよ。もろもろの<さとりを開いた人>に、しばしば見えることは、いともむずかしい。

560 かれは(さとりを開いた人々)が、しばしば世に出現することは、そなたらにとって、いとも得がたいことであるが、わたしは、その<さとった人>なのである。バラモンよ、わたしは(煩悩の)矢を抜き去る最上の人である。

561 わたしは神聖な者であり、無比であり、悪魔の軍勢を撃破し、あらゆる敵を降服させて、なにものをも恐れることなしに喜ぶ。」

562 (セーラは弟子どもに告げていった)、──「きみたちよ。眼ある人の語るところを聞け。かれは(煩悩の)矢を断った人であり、偉大な健き人である。あたかも、獅子が林の中で吼えるようなものである。

563 神聖な者、無比なる者、悪魔の軍勢を撃破する者、を見ては、だれが信ずる心をいだかないであろうか。たとい、色の黒い種族の生れの者でも、(信ずるであろう)。

564 従おうと欲する者は、われにわれに従え。また従いたくない者は、去れ。わたしもすぐれた智慧ある人のもとで出家しましょう。」

565 (セーラの弟子どもが言った)、──「もしもこの<完全にさとった人>の教えを、 先生が喜ばれるのでしたら、わたくしたちもまた、すぐれた智慧ある人のもとで、出家しましょう。」

566 (セーラは言った)、──「これら三百人のバラモンたちは、合掌してお願いしています。『先生! わたくしたちは、あなたのみもとで、清らかな行いを実践しましょう。』

567 師(ブッダ)が答えた──「セーラよ。清らかな行いが、みごとに説かれている。それは目のあたり、即時に果報をもたらす。怠りなく道を学ぶ人が、出家して(清らかな行いを修めるのは)空しくはない」

(´・(ェ)・`)つ

25 :
>>24
556
王は統括者。自らは執行の最前線には立たない。王の命令の執行者は誰なのかと聞いている。

557
「如来に続いて生まれた」
如来を縁として、如来に従って如来になったということ。サーリプッタ尊者は世尊に続いて、如来になられた方。
くまでも知ってる、般若心経で登場する舎利子さんは、ブッタの後継者、執行者として指名されてる偉い人だったのでありますね。
558
「知らねばならないこと」とは、四聖諦。
「修むべきこと」とは、四聖諦の道諦。
「断つべきこと」とは、四聖諦の集諦。
その結果、「苦の滅尽という真理」(苦滅諦)を体験した。
それ故に「私は覚者だ」と明言した。

561
実は、正覚者に対する疑いをなくすことは難しい。なぜならば、覚ってない者が覚った方を見分けるということだから。
それで、三十二相などの外見を見ることや面会して質問をするなどが必要だった。

567
「梵行はみごとに説かれた。」
出家を願い出ることは梵行であり、その結果は現実のものであり、その結果はすぐ現れるのだと説いた。それはつまり彼らの出家が許されたということ。

「怠りなく道を学ぶ人が、出家して(清らかな行いを修めるのは)空しくはない」
「怠りなく」とは仏教用語では不放逸。
単に「怠けない」ということではなく、心が煩悩によって汚れないように、気づきを怠らないという意味。これは覚りに導く大切な言葉。
「空しくない」は消極的な表現ようであるが、出家とは解脱を志す決意の一つの表現。
(´・(ェ)・`)つ

26 :
>>23 そうじゃ、伝説なのじゃ。
 

27 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、7、セーラ

セーラ・バラモンは仲間とともに師のもとで出家して、完全な戒律を受けた。

 ときに、結髪の行者ケーニヤは、その夜が過ぎてから、自分の庵で味のよい硬軟の食物を用意させて、師に時の来たことを告げて、「ゴータマ(ブッダ) さま。時間です。食事の用意ができました」と言った。
そこで師は午前中に内衣を着け、重衣をきて、鉢を手にとって、結髪の行者ケーニヤの庵に赴いた。そうして、修行僧のつどいとともに、あらかじめ設けられた席についた。
それから結髪の行者ケーニヤは、ブッダを初め修行僧らに、手ずから、味のよい硬軟の食物を給仕して、満足させ、あくまでもてなした。
そこで結髪の行者ケーニヤは、師が食事を終り鉢から手を離したときに、みずから一つの低い座を占めて、傍らに坐した。そうして結髪の行者ケーニヤに、師は次の詩を以て、喜びの意を表した。──
568 火への供養は祭祀のうちで最上のものである。サーヴィトリー[讃歌]はヴェーダの詩句のうちで最上のものである。王は人間のうちでは最上の者である。大洋は、諸河川のうちで最上のものである。

569 月は、諸々の星のうちで最上のものである。太陽は、輝くもののうちで最上のものである。修行僧の集いは、功徳を望んで供養を行う人々にとって最上のものである。

 師はこれらの詩を唱えて結髪の行者ケーニヤに喜びの意を示して、座から起って、去って行かれた。

(´・(ェ)・`)つ

28 :
>>27
568
ケーニヤさんが信奉している火の供養を最上とした。
サーヴィトリー賛歌とはインドの古典「リグ・ヴェーダの中にある太陽神(サーヴァトリー)に対する賛歌。これは諸ヴェーダを学ぶにあたって、第一に学ぶべきものなので、最上とした。
569
ケーニヤさんが僧団(サンガ)に食事の供養することは、功徳(福徳)を求める人々にとっては最上のものであることが、王、海、月、太陽のように最上であることを理解させた。

(´・(ェ)・`)つ

29 :
「ガーヤトリー・マントラ」
ヒンドゥー教において最高峰のマントラといわる。

紀元前12世紀頃に編纂されたリグ・ヴェーダにあらわれるこのガーヤトリー・マントラは、太陽神サヴィトリへの賛歌。聖仙ヴィシュヴァーミトラは、太陽の中に神(ブラフマン)を見出し、無限の力を引き出すガーヤトリー・マントラを発見した。

ガーヤトリー・マントラには、生きとし生けるものに命を与える太陽という最高の光が、私たちの心を照らし、知識を授け、正しい道へと導いてくれるよう、叡知を司る祈りが込められています。

「ガーヤトリー」とは、もともと韻律の一種であり、8音節の句を3つ重ねた、合計24音節からなる詩形を意味します。
後に、ガーヤトリーは神格化され、ガーヤトリー女神として崇められるようになりました。
ガーヤトリー・マントラが記されたヴェーダは、「知識」を意味し、ヒンドゥー教においてもっとも尊ばれる聖典であり、ガーヤトリー女神は人々の無知を取り除くヴェーダの母として崇められています。

om bhrbhuva sva
tat savitur vareya bhargo devasya dhmahi
dhiyo yo na pracodayt
オーム ブールブヴァハ スヴァハ
タット サヴィトゥル ヴァレーニャン バルゴー デーヴァッシャ ディーマヒ
ディヨー ヨー ナハ プラチョーダヤートゥ
(オーム 地よ、空よ、天よ
我らが、彼(か)の太陽神の愛でたき神の光輝を獲得せんことを
我が為に、彼が知性を鼓舞せんことを)

(´・(ェ)・`)つ

30 :
それがマントラなのじゃ。
神への祈りなのじゃ。
お釈迦様の元でも普通に唱えられていたのじゃ。

31 :
>>30

32 :
>>30
鬼和尚、ありがとうであります。
ヴェーダ、サヴィトリへ賛歌を探していて、見つけたサイトからの抜粋であります。
昔、十三仏真言を暗記して唱えてたことあるのでありますが、
これはサンスクリットなので、覚えるのたいへんそうであります。

オーム ブールブヴァハ スヴァハ
タット サヴィトゥル ヴァレーニャン バルゴー デーヴァッシャ ディーマヒ
ディヨー ヨー ナハ プラチョーダヤートゥ
(オーム 地よ、空よ、天よ
我らが、彼(か)の太陽神の愛でたき神の光輝を獲得せんことを
我が為に、彼が知性を鼓舞せんことを)


オーム ブゥ ブヴァ スァファ
物質的な世界 微妙な心の世界  因果の世界
タァ サヴィトゥ ヴァアレェエニャム
あの  宇宙の究極の実在を  あがめます
バァゴォ デヴァアシャ ディイマヒ
この究極の輝き  叡智の実在を、 深く瞑想します

サイトによって、発音のカタカナ表記も、意味も違うであります。
マントラは意味より音が大事らしいので、YouTubeとが探して聞いてみるであります。
(´・(ェ)・`)つ

33 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、7、セーラ

 そこでセーラさんは、自分の仲間とともに、独りで他人から遠ざかり、怠ることなく、精励し専心していたが、まもなく
──諸々の立派な人々がそれらを得るために正しく家を出て家なきに赴く目的であるところの──
無上の清らかな行いの究極を現世においてみずからさとり、得し、具現していた。
「(迷いの生存のうちに)生まれることは消滅した。清らかな行いはすでに完成した。なすべきことをなしおえた。もはや再びこのような生存を受けることはない」とさとったそしてセーラさんとその仲間とは、聖者の一人一人となった。

 そののちセーラさんはその仲間とともに師のおられるところに赴いた。そうして、衣を一方の(左の)肩にかけて[右肩を洗わして]、師に向かって合掌し、次の詩を以て師に呼びかけた。──

570 「先生! 眼ある方よ。今から八日以前に、われらはあなたに帰依しましたが、七日のあいだに、われらはあなたの教えの中で身をととのえました。

571 あなたは覚った方(ブッダ)です。あなたは師です。
あなたは悪魔を征服した聖者です。
あなたは煩悩の潜在的な可能力を断って、
みずから渡りおわり、またこの人々を渡してくださいます。

572 あなたは生存の素因を超越し、
諸々の煩悩の汚れを滅ぼしておられます。
あなたは執著することのない獅子のようです。
恐れおののきを捨てておられます。

573 これら三百人の修行僧は、
合掌して立っています。
健き人よ、足をお伸ばしください。
諸々の竜(行者)をして師を拝ませましょう。」
(´・(ェ)・`)つ

34 :
>>33
570
帰依から八日目に、つまり七夜の間修行した結果を世尊に報告した。「われらはあなたの教えの中で身をととのえました。」と過去形で報告。修行をし終わったということ。
サーラさんとその弟子達は、一週間で悟った。これはブッダという帰依所の威力と、その教を正しく理解して、真理に帰依した人は直ちに悟ることができることを示している。
(´・(ェ)・`)つ
ガーヤトリー・マントラ、サイババの歌うようなYouTubeを見つけたであります。

35 :
善かったのじゃ。
お釈迦様も聞いたじゃろう。
いろいろ学ぶとよいのじゃ。

36 :
>>35
鬼和尚、ありがとうであります。
短いし、発音も難しくないのでこれならくまでも暗記できそうであります。
(´・(ェ)・`)つ

37 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、8、矢

574 この世における人々の命は、定まった相なく、どれだけ生きられるかも解らない。惨ましく、短くて、苦悩をともなっている。

575 生まれたものどもは、死を遁れる道がない。老いに達しては、死ぬ。実に生ある者どもの定めは、このとうりである。

576 熟した果実は早く落ちる。それと同じく、生まれた人々は、死なねばならぬ。かれらにはつねに死の怖れがある。

577 たとえば、陶工のつくった土の器が終りにはすべて破壊されてしまうように、人々の命もまたそのとうりである。

578 若い人も壮年の人も、愚者も賢者も、すべて死に屈服してしまう。すべての者は必ず死に至る。

579 かれらは死に捉えられてあの世に去って行くが、父もその子を救わず親族もその親族を救わない。

580 見よ。見まもっている親族がとめどもなく悲嘆にくれているのに、人は屠所に引かれる牛のように、一人ずつ、連れ去られる。

581 このように世間の人々は死と老いとによって害われる。それ故に賢者は、世のなりゆきを知って、悲しまない。

582 汝は、来た人の道を知らず、また去った人の道を知らない。汝は(生と死の)両端を見きわめないで、わめいて、いたずらになき悲しむ。

583 迷妄にとらわれて自己を害なっている人が、もしもなき悲しんでなんらかの利を得ることがあるならば、賢者もそうするがよかろう。

(´・(ェ)・`)つ

38 :
>>37
574
「死」は人間の苦しみの中で最大のものであろう。死への恐怖が苦しみの原因になっている。多くの欲望も死を避けたいというところからくる。死を深く理解し、死を受容できれば、ほとんどの苦しみがなくなる。
仏教では死を観察することを重要な修行方法の一つとしている。
575
「生まれた者は死ぬということは法則であり、老いに至れば死に至るが、老いに至らなくても死ぬ。死に老若の決まりはない。」と述べた。
576
人間はいつ死ぬか分からない。死は恐怖なので、人間にはいつも死の恐怖がある。
人間には死は必ず起きることであるが、それを見ないようにしている人々に、いろいろな譬えを使って、死ぬことを自覚させようとしている。
577
生命は心と身体によって構成されている。通常死という場合は身体の死を意味している。熟れた果物や今回の陶器は生命の身体の部分の譬え。生命の身体は変化を続け、老化して、形をとどめておくことが出来なくなって、壊れてる。
では心はどうなっているのか?仏教では心は非常に速いスピードで生まれ、死ぬと考えている。ただし、前に死んだ心を縁として、次の心が生まれる。そのため、一つの心が続いているように感じられるが、実は心は絶えず生滅を繰り返している。
そのような心と肉体が結びついて、生命は生きている。通常言われている生命の死とは生命の身体から心が離れること。身体から心が離れた時「死んだ」という。
心が身体にある間は、身体は老化を続けるが、まだ生きている。しかし、心が身体に留まることが出来なくなって、身体から離れると死と言う現象が起こり、身体は老化ではなく、腐敗するという現象に変わる。
身体から離れた心は、新しい肉体に宿ることになる。身体から離れた心は心の状態にふさわしい身体に宿る。
神々にふさわしい心ならば神々の身体にやどり、人間にふさわしい心ならば人間として母胎に宿り、赤ん坊として生まれる。悪い心であれば、地獄とか、その心にふさわしい生命(畜生、餓鬼、阿修羅)に宿る。これが輪廻と言われる現象。
ですから心は善い心の状態にしておいた方がよい。いつ死ぬか分からないから。死ぬ前だけ善い心というわけにはいかないから。
578
どんな人間も死ぬという事実の前では平等であると言うことが述べられている。
580
人間は生まれたら必ず死ぬのですから、人は死を悲しむのであれば、生まれた時、喜ぶよりは悲しんだ方が合理的であるように思います。しかし、実際は人は生まれる時は喜び、死ぬ時悲しむ。
この不合理、人間の愚かさについて、ただ事実を述べている。
581
賢者は「生まれた者は必ず死ぬことは定め」をよく理解して、この定めに抵抗して、嘆き悲しむというようなことはしない。この道理を知って、あなたは賢者の仲間になるのか、世間の凡夫として留まるかはあなた次第。
582
死んだ人を悔やんで泣く人は、死んだ人が何処から来て(生まれて来て)、死んでどこに行くのか知らない。死んで善い所に行くのであれば、喜んであげるのが正しい態度ではないか。
もっとも、死んだ人が何処から来て、何処に行くか分かる人はいない、それを知らないで、無意味に泣くということはおかしいとは述べている。
583
嘆き悲しんでもどうにもならないことに対して嘆き悲しむと、心が混乱して、自分自身を苦しめるだけだと言う。
もし、嘆き悲しむことで、何かほんの少しでも良い事があるのならば、聡明な賢者も嘆き悲しむだろうが、
そのようなことはないのだから、賢者は決してそのようなことをしない。
(´・(ェ)・`)つ

39 :
そうじゃ、人は死ぬ定めにあるが多くの者はその真実から目を背けているのじゃ。
そして本心をも見失ってしまうのじゃ。
このように死を語るのも死を超える道があるからなのじゃ。
死を超える道を知る者は死から目を逸らさないようになるのじゃ。

40 :
>>39
>全てが一つと知れば死は木の葉が樹から落ちるものの如しと知って死は無いと知る
ので、ありますね。
無我を実感できれば、死を恐れる主体もなく、そもそも死ぬ主体がいないのでありますね。
(´・(ェ)・`)つ

41 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、8、矢

584 泣き悲しんでは、心の安らぎは得られない。ただかれにはますます苦しみが生じ、身体がやつれるだけである。

585 みずから自己を害いながら、身は痩せ醜くなる。そうしたからとて、死んだ人々はどうにもならない。嘆き悲しむのは無益である。

586 人が悲しむのをやめないならば、ますます苦悩を受けることになる。亡くなった人のことを嘆くならば、悲しみに捕らわれてしまったのだ。

587 見よ。他の(生きている)人々はまた自分のつくった業にしたがって死んで行く。かれら生あるものどもは死に捕らえられて、この世で慄えおののいている。

588 ひとびとがいろいろと考えてみても、結果は意図とは異なったものとなる。壊れて消え去るのは、このとうりである。世の成りゆくさまを見よ。

589 たとい人が百年生きようとも、あるいはそれ以上生きようとも、終には親族の人々すら離れて、この世の生命を捨てるに至る。

590 だから(尊敬されるべき人)の教えを聞いて、人が死んで亡くなったのを見ては、「かれはもうわたしの力の及ばぬものなのだ」とさとって、嘆き悲しみを去れ。

591 たとえば家に火がついているのを水で消し止めるように、そのように知慧ある聡明な賢者、立派な人は、悲しみが起こったのを速やかに滅ぼしてしまいなさい。──譬えば風が綿を吹き払うように。

592 已が悲嘆と愛執と憂いとを除け。已が楽しみを求める人は、已が(煩悩の)矢を抜くべし。

593 (煩悩の)矢を抜き去って、こだわることなく、心の安らぎを得たならば、あらゆる悲しみを超越して、悲しみなき者となり、安らぎに帰する。
(´・(ェ)・`)つ

42 :
587
1.寿命死:ロウソクの芯が無くなり、火が消えていくように、寿命が尽きて死ぬ。老衰による死を意味する。
2.業死:ロウソクの蝋が無くなり、火が消えていくように、その生命をもたらした業が尽きて死ぬ。事故に遭わずに急に若死にする。
3.寿命業死:ロウソクと蝋の両方が無くなり、火が消えていくように、寿命も業も尽きて死ぬ。
4.中断死:ロウソクの芯と蝋の両方がまだあるのに、強い風が急に吹くなどによって火が消されるように、寿命や業がまだあるのに過去世の業が機会を得ることによって故意に殺されたり、自殺したり、事故死したりする。

仏教の話は、実は暗くない。仏教は事実を正しく認識して、事実をいかに対処するか教えている。
592
死者に対する悲しみを根本的に消して、自分の安楽を求める人は、自分の嘆きと願い(=渇愛)と憂い(=心の苦しみ)を抜き去るがよいと教えている。
嘆きと願いと憂いが、苦の原因。この三つが人間を苦しめている。ですからこの三つが人間を苦しめている矢にたとえている。
嘆きと渇愛と心の苦しみを抜き去った人は、人間の全ての苦しみをなくすことができる。それは苦しみからの解脱。
死者に対する嘆き悲しみに直面した人に、解脱することを勧める説法をされた。
(´・(ェ)・`)つ

43 :
>>40 そうじゃ、死も無く、死んでいく何者もないのじゃ。
 全て一つなのじゃ。

44 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、9、ヴァーセッタ

わたくしが聞いたところによると、──或るとき尊き師(ブッダ)はイッチャーナンガラ[村]のイッチャーナンガラ林に住んでおられた。そのとき、多くの著名な大富豪であるバラモンたちがイッチャーナンガラ村に住んでいた。
すなわちチャンキンというバラモン、タールッカというバラモン、ポッカラサーティというバラモン、ジャーヌッソーニというバラモン、トーデーヤというバラモン
及びその他の著名な大富豪であるバラモンたちであった。
 そのときヴァーセッタとバーラドヴァーシャという二人の青年が(久しく坐していたために生じた疲労を除くために)膝を伸ばすためにそぞろ歩きをあちこちで行っていた。

 かれらはたまたま次のような議論を始めた、「きみよ。どうしたらバラモンとなれるのですか?」

 バーラドヴァーシャ青年は次のように言った。「きみよ。父かたについても母かたについても双方ともに生れ(素姓)が良く、純粋な母胎に宿り、
七世の祖先に至るまで血統に関しては未だかって爪弾きされたことなく、かって非難されたことがないならば、まさにこのことによってバラモンであるのである。」

 ヴァーセッタ青年は次のように言った、「きみよ。ひとが戒律をまもり徳行を身に具えているならば、まさにこのことによってバラモンであるのである。」

 [しかし]バーラドヴァーシャ青年はヴァーセッタ青年を説得することができなかったし、またヴァーセッタ青年はバーラドヴァーシャ青年を説得することができなかった。
そこでヴァーセッタ青年はバーラドヴァーシャ青年に告げて言った、「バーラドヴァーシャよ。
シャカ族の子である<道の人>ゴータマ(ブッダ)は、シャカ族の家から出家して、ここにイッチャーナンガラ[村]のイッチャーナンガラ林のうちに住んでいる。
そのゴータマさまには次のような好い名声があとずれている。
──すなわち、かの師は、尊敬さるべき人・目ざめた人・明知と行いとを具えた人・幸せな人。世間を知った人・無上の人・人々を調える御者・神々と人間との師・目ざめた人(ブッダ)・尊き師であるといわれる。
バーラドヴァーシャさん。さあ行こうよ。<道の人>ゴータマのいるところに行こう。
そこへ行ったら、<道の人>ゴータマにこのことがらを尋ねよう。そうして<道の人>ゴータマがわれわれに解答してくれたとおりに、われわれはそれを承認しよう。」
「そうしましょう」と、バーラドヴァーシャ青年はヴァーセッタ青年に答えた。

 そこでヴァーセッタ青年とバーラドヴァーシャ青年とは、師のいますところに赴いた。
そうして、師に挨拶した。喜ばしい、思い出についての挨拶のことばを交したのち、かれは傍らに坐した。そこでヴァーセッタ・バラモンは次の詩を以て師に呼びかけた。──
(´・(ェ)・`)つ
さぁ!みんなでブッタに会いに行こう!
そうしましょう!そうしましょう!

45 :
>>44
この経は、仏教の業に関する基本的は教えを説く、また「人間の平等」を説く重要な教典であるそうであります。
(´・(ェ)・`)つ

46 :
そうじゃ、人は生まれではなく行いによってバラモンになるのじゃ。
それが真理なのじゃ。

47 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、9、ヴァーセッタ

594 「われら両人は三ヴェーダの学者であると、(師からも)認められ、みずからも称しています。わたくしはポッカラサーティの弟子であり、この人はタールッカの弟子です。

595 三ヴェーダに説かれていることがらを、われわれは完全に知っています。われわれはヴェーダの語句と文法とに精通し、ヴェーダ読誦については師に等しいのです。

596 ゴータマよ。そのわれわれが生れの如何を論議して、論争が起りました。『生れによってバラモンなのである』とバーラドヴァーシャは語りますが、わたくしは『行為によってバラモンとなるのである』と言います。
眼ある方よ。こういうわけなのだと了解してください。

597 われら両人は互いに相手を説得することができないのです。そこで、<目ざめた人>(ブッダ)としてひろく知られているあなたさまにたずねるために、やって来ました。

598 人々が満月に向って近づいて合掌し礼拝し敬うように、世人はゴータマを礼拝し敬います。

599 世間の眼として出現したもうたゴータマに、われらはおたずねします。
生まれによってバラモンであるのでしょうか。あるいは行為によってバラモンとなるのでしょうか? われわれには解りませんから、話してください、──われわれがバラモンの何たるかを知りうるように。」

600 師が答えた、「ヴェーダよ。そなたらのために、諸々の生物の生れ(種類の)区別を、順次にあるがままに説明してあげよう。それらの生れは、いろいろと異なっているからである。

601 草や木にも(種類の区別のあることを)知れ。しかしかれらは(「われは草である」とか、「我等は木である」とか)言い張ることはないかれらの特徴は生まれにもとづいている。かれらの生まれはいろいろと異なっているからである。

602 次に蛆虫や蟋蟀から蟻類に至るまでのものにも(種類の区別のあることを)知れ。かれらの特徴は生れにもとづいているのである。かれらの生れは、いろいろと異っているからである。

603 小さいものでも、大きなものでも、四足獣にも、(種類の区別のあることを)知れ。かれらの特徴は生れにもとづいているのである。かれらの生れは、いろいろと異っているからである。

604 腹を足としていて背の長い匍うものにも(種類の区別のあることを)知れ。かれらの特徴は生れにもとづいている。かれらの生れは、いろいろと異っているからである。

605 次に、水の中に生まれ水に棲む魚どもにも、(種類の区別のあることを)知れ。かれらの特徴は生れにもとづいている。かれらの生れは、いろいろと異なっているからである。

606 次に、翼を乗物として虚空を飛ぶ鳥どもにも、(種類の区別のあることを)知れ。かれらの特徴は生れにもとづいている。かれらの生れは、いろいろと異っているからである。

(´・(ェ)・`)つ

48 :
>>47
596
「戒律をまもり徳行を身に具え」
仏教の教える十善業道
悪行をしないことです。
十悪行は、@殺生(R)、A偸盗(盗む)、B邪淫(邪な行為をする)、C妄語(嘘を言う)、D両舌(噂を言う)、
E綺語(無駄話を言う)、F麁悪語(悪口を言う)、G瞋恚(心で勝手に妄想する怒り)、H貪欲(心で勝手に妄想する欲)、I邪見(間違った意見を持つ)と言う十種類の行為。

601 602

植物には無数の種類があるが、「我々は植物である」と主張しない。しかしそれらの特徴は明らかに異なる。その違いは生まれによって異なる。生まれた時から、種の時から明らかに異なっている。
動物も生まれた時から、明らかな違いがある。これらの違いは生まれにようもの。

人間の場合には、もし生まれによってバラモンであるとしても、その人もその生まれについて自分の主張か、他人の教示がなければ、外見の特徴で、バラモンとは把握されないということ。外見的特徴に違いはない。

(´・(ェ)・`)つ

49 :
真の古ヴェーダにはただ人の働きによる区別が書かれているのじゃ。
後に捏造されたヴェーダにバラモンの子はバラモンとか書いてあるだけなのじゃ。
お釈迦様は真のヴェーダを正しく理解して説いたのじゃ。

50 :
>>49
鬼和尚、こんばんは。
この辺の話しは、真の古ヴェーダに添った話しなのでありますね。
携帯サイトでヴェーダ探してみたでありますが、断片的にしか見つからないであります。
残念であります。
(´・(ェ)・`)つ

51 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、9、ヴァーセッタ

607 これらの生類には生まれにもとづく特徴はいろいろと異なっているが、人類にはそのように生まれにもとづく特徴がいろいろと異なっているということはない。

608 髪についても、頭についても、耳についても、眼についても、口についても、鼻についても、唇についても、眉についても、

609 首についても、肩についても、腹についても、背についても、臀についても、胸についても、隠所についても、交合についても、

610 手についても、足についても、指についても、脛につていも、腿についても、容色についても、音声についても、他の生類の中にあるような、生まれにもとづく特徴(の区別)は(人類のうちには)決して存在しない。

611 身を禀けた生きものの間ではそれぞれ区別があるが、人間の間ではこの区別は存在しない。人間のあいだで区別表示が説かれるのは、ただ名称によるのみ。

612 人間のうちで、牧牛によって生活する人があれば、かれは農夫であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。

613 人間のうちで、種々の技能によって生活する人があれば、かれは職人であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。

614 人間のうちで売買をして生活する人があれば、かれは商人であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。

615 人間のうちで他人に使われて生活する者があれば、かれは傭人であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。

616 人間のうちで盗みをして生活する者があれば、かれは盗賊であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。

617 人間のうちで武術によって生活する者があれば、かれは武士であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。

618 人間のうちで司祭の職によって生活する者があれば、かれは司祭者であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。

619 人間のうちで村や国を領有する者があれば、かれは王であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。

620 われは、(バラモン女の)胎から生まれ(バラモンの)母から生まれた人をバラモンと呼ぶのではない。かれは(きみよ、といって呼びかける者)といわれる。かれは何か所有物の思いにとらわれている。
無一物であって執著のない人、──かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。

621 すべての束縛を断ち切り、怖れることなく、執著を超越して、とらわれることのない人、──かれをわたしは<バラモン>と呼ぶ。

622 紐と革帯と綱とを、手綱ともども断ち切り、門をとざす閂(障礙)を減じて、目ざめた人(ブッダ)、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

(´・(ェ)・`)つ

52 :
>>51
620
バラモンと言われる母親から生まれたから、あるいはまた何かを所有しているからバラモンだとは言わない。それらの人はただ「君よと言う」と偉そうにバラモン面している人だ。
「無一物であって執著のない人、──かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。」これがブッダの解答
621
「束縛」は十結のこと。輪廻の原因になる以下の煩悩。
1.有身見(うしんけん):永遠不滅の真我があると言う誤解 (自我があるという誤解)
2.疑:迷って確信がないこと
3.戒禁取(かいごんしゅ):無意味な苦行やあらゆる宗教儀式・儀礼
4.貪欲:五欲に執着すること
5.瞋恚(しんに):いらいらして怒ること
6.色貪(しきどん):色界禅定に執着すること
7.無色貪(むしきどん):無色界禅定に執着すること
8.慢:自分と比較すること。自分を重要と思うこと
9.掉挙(じょうこ):落ち着きのないこと
10.無明:真実を知らないこと
十結には経蔵の分類と論蔵の分類がある。上と異なる記載があればそれは論蔵の分類。
「執着を超えて」の「執着」は「四軛」(=四漏)。
四漏とは
1.欲漏:貪欲という煩悩
2.有漏:有という煩悩(存在したいという煩悩)
3:見漏:見解という煩悩
4:無明漏:無明という煩悩
人間はこれらの煩悩に執着しているのです。
622
束縛や執着をイメージ化して説明している。紐は怒りを、革紐は渇愛を、綱は煩悩を、手綱は六十二の邪見を象徴している。
これらの紐や革紐や手綱は固く断ち切るのが難しいが、これらの全てを断ち切ると無明と言うかんぬきを外すことができる。無明を開いたということは真理を悟ったということ。
ブッダは真理を悟った覚者をバラモンと呼ぶと言われた。

(´・(ェ)・`)つ

53 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、9、ヴァーセッタ

623 罪がないのに罵られ、なぐられ、拘禁されるのを堪え忍び、忍耐の力あり、心の猛き人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

624 怒ることなく、つつしみあり、戒律を奉じ、欲を増すことなく、身をととのえ、最後の身体に達した人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

625 蓮葉の上の露のように、錐の尖の芥子のように、諸々の欲情に汚されない人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

626 すでにこの世において自己の苦しみの滅びたことを知り、重荷をおろし、とらわれのない人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

627 明らかな智慧が深くて、聡明で、種々の道に通達し、最高の目的を達した人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

628 在家者・出家者のいずれとも交わらず、住家がなくて遍歴し、欲の少い人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

629 強くあるいは弱い生きものに対して暴力を加えることなく、殺さず、また殺させることのない人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

630 敵意ある者どもの間にあって敵意なく、暴力を用いる者どもの間にあって心おだやかに、執著する者どもの間にあって執著しない人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

631 芥子粒が錐の尖端から落ちたように、愛著と憎悪と高ぶりと隠し立てとが脱落した人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

632 粗野ならず、ことがらをはっきりと伝える真実のことばを発し、ことばによって何人の感情をも害することのない人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

633 この世において、長かろうと短かろうと、微細であろうとも粗大であろうとも、浄かろうとも不浄であろうとも、すべて与えられていない物を取らない人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

634 現世を望まず、来世をも望まず、欲求もなくて、とらわれのない人、──かれをわたしはバラモンと呼ぶ。

635 こだわりあることなく、さとりおわって、疑惑なく、不死の底に達した人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

636 この世の禍福いずれにも執著することなく、憂いなく、汚れなく、清らかな人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

637 曇りのない月のように、清く、澄み、濁りがなく、歓楽の生活の尽きた人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

638 この傷害・険道・輪廻(さまよい)・迷妄を超えて、渡りおわって彼岸に達し、瞑想し、興奮することなく、執著がなくて、心安らかな人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

639 この世の欲望を断ち切り、出家して遍歴し、欲望の生活の尽きた人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

940 この世の愛執を断ち切り、出家して遍歴し、愛執の生活の尽きた人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

641 人間の絆を捨て、天界の絆を超え、すべての絆をはなれた人、──かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。

(´・(ェ)・`)つ

54 :
624
怒りについて、思考と関連して考えて見る。人間は外界からの情報を、「早い思考」と「遅い思考」で処理する。
「早い思考」は瞬時に外界の対象を危険かどうか、好きなものかどうか判断する。情報の正確性は問題にしない。だから、ロープを蛇と間違えて逃げる指令を出すことがある。
危険でないもの好きなものと判断すると欲が現われる。危険なもの嫌いなものと判断すると怒りが現われる。
心の作用だが、脳で言えば扁桃体を通じて処理されている。「早い思考」の停止をすれば、怒りを止めることが出来る
「遅い思考」は概念による思考。これは大脳皮質で処理される。情報の質は吟味されるがもちろん正確であるとはいえない。
「遅い思考」においては主観的な概念で処理されるために、現実とのギャップは常にある。そのため、常にストレスが生じ、怒りの感情が現われる。これは後から来る怒り。「遅い思考」の停止をすれば、怒りを止めることが出来る。
「戒律を奉じ」について。在家の仏教徒であれば、五戒を守ることを誓って、それを実践する。この実践によって不幸になることを防げる。
比丘であれば227の戒律を守ることを誓って、それを実践する。
戒律というものは、私たちを拘束して不自由にするもののように思われがちであるが、むしろ悪を犯さないように、心穏やかに生活できるように定めたもの。また、戒律のおかげで、自己観察が容易にできる。
「欲を離れて自制して」も「早い思考」「遅い思考」を停止することで欲から離れることができる。「自制して」は思考を停止すること。これで心を育てられる。
思考を停止させることはかなり大変なこと。強い意志が必要。これを実践すれば、心は欲や怒りで汚れないため、心は清らかになる。強い心が出来る。これは冥想の目的の一つ。
626
不幸の原因は渇愛(欲望)であることを見極め、自分の幸福の考え方を正した人は、人生の重荷を下ろす。また束縛を離れる。人生は楽になり、自由になる。その時、自分の苦は滅尽したことを知る。そのような人を釈尊はバラモンと呼ぶ

(´・(ェ)・`)つ
つづく

55 :
627
「パンニャー(智慧)とは、ありのままにものを見られるということ。我々は自分の主観で、自分の偏見でものごとを見ている。よく知っているつもりだが、本当は眼耳鼻舌身意に入る色声香味触法の情報をありのままに正しく認識しない。
情報を自分の都合にあわせて捏造する。外の情報は何であろうとも、それに関係なく自分の好き勝手に認識する。それから、自分が知ったことはそのまま正しいのだと、相当な錯覚も作る。
パンニャー(智慧)とは、この主観・偏見を破ることで、データを捏造することをやめることで、現われる認識。
そこで初めて、ありのままに観た、ということになる。ありのままに観た人が、次の瞬間で解脱に達する。と言うわけで、パンニャー(智慧)は心所の中でも唯一の宝物。」
「道と非道を熟知し」は正しい修行法か、それとも過った修行法かよく知ってという意味。
より具体的に言えば、八正道を実践して、苦集滅道を理解することによってパンニャー(智慧)が生まれることを熟知すること。
最勝義は阿羅漢果すなわち涅槃。
「最勝義に到達した人」は「涅槃に達した人」すなわち、阿羅漢です。
630
普通の人間ではできないことをやっているということ。
敵意や暴力や執着などは、そのような人々と交わらなくとも自分の心の中にあるので、自分の中から敵意や暴力や執着をなくさなければ、敵意のない、心静かな、執着のない人にはなれない。

つづく(´・(ェ)・`)つ

56 :
631
因縁物語は次の通り。
兄のマハーパンタカ長老は阿羅漢果を得たのに対して、弟のチューラパンタカは、一つの短い偈を四か月かけても暗記できませんでした。
その原因は、過去世のひとつカッサパ・ブッダの時代に優秀な弟子であったにもかかわらず、愚鈍な比丘を見下し、嘲笑った悪業によるものでした。
仲間の比丘たちから「愚鈍である」と言われている弟に対して、兄は還俗をすすめました。弟は兄の言葉を受け入れてサンガを出ようとしたとき、突然ブッダが現れました。
ブッダはチューラパンタカに白い布を渡し「『汚れを取ること、汚れを取ること。』と念じながら、床を拭きなさい。」と命じられました。チューラパンタカはブッダの言葉を忠実に守り、実践する中で悟りを得たのでした。
後日、比丘たちは「なぜ、兄のマハーパンタカは弟にサンガをでるようにすすめたのだろう。阿羅漢になっても、怒りなどが残っているのだろうか?」と話しあっていました。
ブッダは「比丘たちよ、阿羅漢には貪欲や怒りなどは残っていない。マハーパンダカは弟のことを思ってあのように助言したのだ。」と答えられ、
「きりの先の芥子粒のように、貪欲と怒りと慢心と、悪意を落とした人、彼を私はバラモンと呼ぶ」と説かれた。
阿羅漢はすべての煩悩をなくし、欲や怒り無智などはないということ。
「きりの先の芥子粒のように」ポロリと、自然に、無理なく煩悩が落ちるということもポイント。つまり、智慧が現れれば、煩悩は無理なく、自然に落ちるということ。これが智慧の開発が必要な理由。
あらゆる現象に無常・苦・無我を発見することで、智慧が開発される。
632
理想的は話し方を教えている。
1.粗野でない言葉で話す。(乱暴な言葉を使わない。)
2.分かりやすく話す。(はっきり伝える。)
3.真実をはなす。(嘘をつかない。)
4.相手を不機嫌にさせないように話す。(愛語をはなす。)
この詩の因縁物語は乱暴な言葉を使う阿羅漢の話し。ピリンダウッチャー長老は比丘や女性信者に会うと、「来い、賎民。行け、売女。」と汚い言葉を使うのでした。
不愉快な思いをした比丘たちはブッダに訴えました。ブッダは長老を呼ばれて事実を確認すると、
「比丘たちよ、私の息子ピリンダウッチャーはあのような言葉を使うのは彼の過去世の悪い習慣が今も離れず続いているからである。あれは怒りからでた言葉ではない。」と説明された。
そして、「粗野でなく、分かりやすく、真実の言葉を語り、誰も不機嫌にしない人、彼を私はバラモンと呼ぶ」と理想的な話し方を説いた。
つづく(´・(ェ)・`)つ

57 :
633
五戒の内の一つだけでも、本当に真剣に、徹底して実践すると、心は成長し、人格は完成するようにできている。
与えられないものを取らない人でも、バラモンと呼べない人もいると思われるが、
「この世において、それが長、短、微細、粗大、清浄、不浄にかかわらず」という言葉で完全に、徹底して、この道徳を守る人ということを示している。
徹底してこれを守れる人は、どんなものにも執着しない人。無執着の人は阿羅漢。阿羅漢はバラモン。
634
ブッダの教えは、この世で幸せになるように、また生まれ変わっても幸せになる生き方を教えている。
更にこの世の幸せも、あの世に幸せも、限界があることを教え、究極の幸せは輪廻を乗り越えて、涅槃に達することを目指すべきであると教えている。
ブッダの教えを本当に理解した人のみが、この世での欲望を捨て、あの世に期待することがないのです。その人は涅槃に達することができる。彼はバラモン。
635
執着は私たちが、五つの感覚で快や不快を感じる所から生じる。そこに渇愛が生まれ、執着が生じる。その過程をストップさせることで、執着をなくす。
感覚に対するいろいろな外部刺激とそれを感じた時の感覚、その時に起こる心の変化を観察する。
渇愛が生まれ、執着が生まれる過程をつぶさに観察する。
それが意味のないことだと分かってくる。その時智慧が現れている。そのようにすると、自然に執着がなくなる。
「疑いのない」の「疑い」は、1.ブッダを疑う。2.ダンマを疑う。3.サンガを疑う。4.修習を疑う。5.過去を疑う。6.未来を疑う。7.現在を疑う。8.縁起を疑うことだと言われている。
「不死」とは涅槃を意味する。

つづく(´・(ェ)・`)つ

58 :
悟った者はバラモンなのじゃ。

59 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、9、ヴァーセッタ

642 <快楽>と<不快>とを捨て、清らかに涼しく、とらわれることなく、全世界にうち勝った健き人、──かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。

643 生きとし生ける者の生死をすべて知り、執著なく、幸せな人、覚った人、──かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。

644 神々も天の伎楽神(ガンダルヴァ)たちも人間もその行方を知り得ない人、煩悩の汚れを減しつくした人、──かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。

645 前にも、後にも、中間にも、一物をも所有せず、すべて無一物で、何ものをも執著して取りおさえることのない人、──かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。

646 牡牛のように雄々しく、気高く、英雄・大仙人・勝利者・欲望のない人・沐浴した者・覚った人(ブッダ)、──かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。

647 前世の生涯を知り、また天上と地獄とを見、生存を減し尽くしに至った人、──かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。

648 世の中で名とし姓として付けられているものは、名称にすぎない。(人の生まれた)その時その時に付けられて、約束の取り決めによってかりに設けられて伝えられているのである。

649 (姓名は、かりに付けられたものにすぎないということを)知らない人々にとっては、誤った偏見が長い間ひそんでいる。知らない人々はわれらに告げていう、『生れによってバラモンなのである』と。

650 生まれによって(バラモン)となるのではない。生まれによって(バラモンならざる者)となるのでもない。行為によって(バラモン)なのである。行為によって(バラモンならざる者)なのである。

651 行為によって農夫となるのである。行為によって職人となるのである。行為によって商人となるのである。行為によって傭人となるのである。

652 行為によって盗賊ともなり、行為によって武士ともなるのである。行為によって司祭者ともなり、行為によって王ともなる。

653 賢者はこのようにこの行為を、あるがままに見る。かれらは縁起を見る者であり、行為(業)とその報いとを熟知している。

654 世の中は行為によって成り立ち、人々は行為によって成り立つ。生きとし生ける者は業(行為)に束縛されている。−−進み行く車が轄に結ばれているように。

655 熱心な修行と清らかな行いと感官の制御と自制と、これによって<バラモン>となる。
 これが最上のバラモンの境地である。

656 三つのヴェーダ(明知)を具え、心安らかに、再び世に生まれることのない人は、諸々の識者にとっては、梵天や帝釈[と見なされる]のである。ヴァーセッタよ。このとおりであると知れ。」

 このように説かれたので、ヴァーセッタ青年とバーラドヴァーシャ青年とは師に向って言った、「すばらしいことです。ゴータマ(ブッダ)さま。すばらしいことです。ゴータマさま。
譬えば、倒れた者を起こすように、覆われたものを開くように、方角に迷った者に道を示すように、あるいは『眼ある人々は色やかたちを見るように』といって暗夜に灯火をかかげるように、
ゴータマさまは種々のしかたで理法を明らかにされました。
いまわたくしはゴータマさまと真理と修行僧のつどいに帰依したてまつる。
ゴータマさまはわたくしたちを、在俗信者として受けいれてください。わたくしたちは、今日から命の続く限り帰依いたします。」

(´・(ェ)・`)つ

60 :
636
因縁物語は次の通りです。ある時、比丘たちは話しを始めました。「レーヴァタ沙弥の善(利得、功徳)はすばらしい。ただ一人で500人の比丘のための僧院を建立したるなんてすばらしい。」と。
その時ブッダが現れ、その話を聞いて、「比丘たちよ、私の息子レヴァータには善(功徳)も悪もありません。彼には両者が捨断されているのです。」と語り、
この詩「この世の善と悪と、その両方への執着超えて、憂いのない欲のない清らかな人、彼を私はバラモンと呼ぶ」と説かれたということです。
このレーヴァタ沙弥という方は、サーリプッタ長老の一番下の弟。他の兄弟姉妹は皆出家していました。そこで心配した両親はレーヴァタに結婚をすすめました。
結婚式の当日華やかに着飾った招待客から祝福をうけ、初々しい花嫁の姿に見とれていました。
しかし、その時120歳の老婆が現れました。彼の目は老婆にくぎ付けになり、「すべての生き物が歳をとり、やがて老いて朽ちはてる」と悟り、その場で出家を決意しました。
彼は僧院から離れたアカシヤの森の中で熱心に修行して、幼くして阿羅漢になられた。
阿羅漢は心からすべての煩悩(悪)を捨てているので、すべての行為は悪行為ではない。
阿羅漢は善行為をしようとする意図もない。その意味ですべて阿羅漢の行為は善行為でも悪行為でもない。また、阿羅漢にとっては善、悪はない。そのことを知らずに、一般の人々は「善悪がない」と言えない。

637
仏教を学ぶ人は人生を期待、願望で見るのではなく、ありのままの生活を観察して、如何に生きるか考えるべき。実践するかどうか決めるのは私たち。
バラモンの心を、「曇りのない清らか月」で例えている。曇りとは煩悩のこと。
淡白とは歓喜と生存を望まないと言うこと。
「生存を望まない」とは死にたいと言うわけではない。ただ、どうしても生きたいと思ってはいないと言うこと。

つづく(´・(ェ)・`)つ

61 :
阿羅漢にも善悪はあるのじゃ。
そのような事を説いてはいかんのじゃ。
それは外道の説なのじゃ。
アングリマーラのアヒンサーも阿羅漢になってから石を投げられる報いを受けたのじゃ。

62 :
>>61
鬼和尚、こんばんは。
悟ったからといって、二元的世界における善悪から超然としてあれるわけではないのでありますね。
確かに、当たり前のように語られてることが不思議な内容であります。
阿羅漢と正等覚者はほぼ同じでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ

63 :
【覚醒者】 NEO仏教 PART1 【量子力学】
https://wc2014.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1455746036/

64 :
638
因縁物語は次の通りです。
コリヤ族の王妃スッパワーサーは7年もの長い間子宮に子供を宿し続けていました。ようやく陣痛が始まり、それも7日間も続きました。その苦しみの中で彼女は仏法僧の徳を念じ続けました。
彼女は王にこの苦しい状況をブッダに伝えてほしいと頼みました。王は早速ブッダを訊ね、妻の苦しみを訴えました。
ブッダは「コリヤ族の王妃スッパワーサーよ、健康と幸福の中で元気な子供を安産するように」と念じると、王妃はシーワリ王子を安産しました。
喜んだ王たちは、ブッダと弟子たちを宮殿に招待し、7日間にわたって御馳走を施し、歓迎しました。生まれたシーワリ王子もこれに参加しました。その後、王子は両親の許可を得て、出家すると、すぐに阿羅漢果を得ました。
ある日、比丘たちは「シーワリは大変難産の末にこの世に生まれてきた。なぜ彼は7年も母胎にいたのだろうか?」原因が分からず、ブッダに訊ねることにしました。
ブッダは「比丘たちよ、シーワリは過去世において、他国に滅ぼされた国の王子であった。
大人になった彼は母の言い付けで、奪われた領土を取り戻すために、7日間兵糧攻めを行った。そのために、多くの人々が食べ物も飲み物もなく苦しんだ。
この過去世の業で、シーワリは生まれる時苦しい目にあったのだ。しかし、今は自らの努力であらゆる苦しみの原因を断ち切り、涅槃の境地にいる。」と答えられました。
639
因縁物語は次の通りです。
サーヴァティ町の大金持ちの息子スンダラサムッタ(美海)はブッダの説法を聞いて出家を決意し、反対する両親を説得してようやくサンガに入団できました。
彼はサーヴァティから遠く離れたラージャガハに行き、そこで修行に励みました。両親は寂しさから、毎日泣いて過ごしていました。
そこにある娼婦がやってきて、「息子が還俗して帰ってきたら全財産を譲る」という約束をしたのでした。娼婦はすぐにラージャガハに行き、スンダラサムッタ比丘が托鉢するルートに七階建の屋敷を借り、彼を待っていました。
彼女は手練手管で、数日内に彼を七階まで引き込んで、女性が男性を誘惑する、戯れる、恥じらう、口づけをするなどの四十手を使い女性の媚態を見せ、言いよりました。
その時、スンダラサムッタははっと我に返り、自分の置かれている状況に気づきました。
その頃、ブッダは神通力でスンダラサムッタに何が起こっているかを察知して、アーナンダ長老を呼び、「アーナンダよ、今スンダラサムッタは娼婦の誘惑と戦っている。しかし、最後は彼が勝利するだろう。」と語られ、
「この世の欲望を捨て去って、出家して遊行する、欲のある生存が消えた人、彼を私はバラモンと呼ぶ」と説かれました。
その説法でスンダラサムッタ比丘は阿羅漢果を得ると、すぐにブッダのおられる僧院に向かいました。
「この世の欲望を捨て去って、出家して遊行する」ということが難しい。スンダラサムッタ比丘の場合は、ブッダの説法を聞くという強烈なインパクトがあったから、出家を決意できたが、今では、仏教をよく学び、理解することから始まる。
その後の娼婦の誘惑にも負けない意志は、初心を忘れないということが大切。

(´・(ェ)・`)つ

65 :
スッタニパータの2〜3行の短い経文に、詳しい因縁物語がいろいらあるのでありますね。
(´・(ェ)・`)つ

66 :
>>62 そうじゃ、阿羅漢は正等覚者でよいのじゃ。
 お釈迦様も阿羅漢と呼ぶのじゃ。
 目覚めたものなのじゃ。

67 :
640
欲望は仏教用語として使うときは、五感の刺激による欲望(五欲)。
渇愛は仏教用語。喉が渇いた人が激しく水を求めるような欲求を言う。渇愛は三種類に分類される。
1.欲愛(カーマ・タンハー):五欲に対する渇愛(物や楽しみを求める欲求)
2.有愛(バワ・タンハー):生存に対する渇愛(なんとしてでも生きていたいという欲求)
3.無有愛(ヴィバワ・タンハー):非生存に対する渇愛(死んですべてを終わらせたいという欲求)
仏教で渇愛という言葉が使われる主な文脈は2つある。
1.四聖諦:ブッダが悟られた四つの聖なる真理
@苦という聖なる真理 :生まれは苦。老いも苦。死も苦。愁い・悲しみ・憂い・悩みも苦。愛さない者たちと会うのは苦。愛する者たちと会わないのは苦。求めて得られないのは苦。身心への執着は苦。
A苦の生起という聖なる真理 : 再生を起こし、喜び貪りを伴い。ここかしこで歓喜する渇愛。すなわち欲愛と有愛と無有愛です。(これが三種類の渇愛です。)
B苦の滅尽という聖なる真理 : 渇愛の消滅による完全な滅尽・捨棄・破棄・解脱・無執着。
C苦の滅尽に至る行道という聖なる真理 : 聖なる八正道、すなわち正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定。
2.十二因縁の教え
無明に縁って行が生じる。行に縁って識が生じる。
識に縁って名色が生じる。名色に縁って六処が生じる。
六処に縁って触が生じる。触に縁って受が生じる。
受に縁って渇愛が生じる。渇愛に縁って固執が生じる。・・・(ここに渇愛がある。)
固執に縁って有が生じる。有に縁って生が生じる。
生に縁って老、死、憂愁、悲泣、苦しみ、悩み、落ち込みが現れる。
このようにして、このすべての苦蘊の生起がある。
より)
この渇愛さえなくせば、すべての苦が消滅し、渇愛をなくした人は解脱するのです。解脱した人は阿羅漢であり、バラモンと呼ぶべき人。

641
キーワードは「絆」と訳した「ヨーガ」。「軛(くびき)」とも訳せる。
仏教はでここで言う「人間の絆」とは、人間を縛りつけている束縛。人間は欲に縛りつけられている。生きたいという思いに縛りつけられている。
また、ある見解を持つとその見解に拘る。その見解を自分自身のように思い、その見解が批判されると自分が批判されたように怒る。
さらに、無知のために迷っていてもその迷いを肯定し真実を求めようとはしない。
「絆」と訳さずに、「束縛」と訳すと当たり前すぎて、誰も何も考えないん。「絆」であれば、皆考える。今まで大切に思っていることを捨ててと言うのはなぜだろうと考える。
この詩でいう絆とは、生命の間の慈悲喜捨の心ではない。親と子の間にある執着、夫婦の間にある執着、家族間にある執着、束縛に気づくための言葉。
仏教用語で説明すると、「ヨーガ」は四軛。1、欲軛、2.有軛、3.見軛、4.無明軛。四漏(四つの煩悩)と同じ。
人間の軛とは、人間の四つの軛のことです。天の軛とは、神々にも人間と同じような軛がありますから、天の軛という。これらの軛を捨てると、輪廻から離れ、解脱して阿羅漢になる。

(´・(ェ)・`)つ

68 :
無有愛(ヴィバワ・タンハー):非生存に対する渇愛(死んですべてを終わらせたいという欲求)
↑こんな渇愛があるとは知らなかったであります。
(´・(ェ)・`)つ

69 :
無色界の生存に対する欲とかいうのじゃ。
形を持たない精神的な愛着の欲じゃな。
知を愛する哲学も欲になるのじゃ。

70 :
>>69
自分があるとの思い=無明をはらしたいと言う欲求みたいなまのでありましょうか?
無我を追い求める欲求も捨てなきゃダメだよってなことでありましょうか?
くまが引用した、
>非生存に対する渇愛(死んですべてを終わらせたいという欲求)
という解説は、無我=自我の死と言う意味で、完全に間違いではないまでも、肉体の死に対する欲求、自殺願望のようにも読めてしまうのですが、そのような意味もあるのでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ

71 :
642
「快と不快を捨てて」の意味は、受(感覚)の快(楽)と不快(苦)を捨てること、つまり感覚で、次の渇愛への心の流れを止めること。心に渇愛が現れなくなくなれば、すべての苦がなくなり、涅槃に達することができる。
「快と不快を捨てて」により、解脱して涅槃に至り、阿羅漢になることを意味する。
「全世界を征服した英雄」
仏教では「全世界」とは眼の世界、耳の世界、鼻の世界、舌の世界、身の世界、意の世界で構成されていると考える。
「征服した」とは管理したという意味。「眼の世界、耳の世界、鼻の世界、舌の世界、身の世界、意の世界」において、快と不快を捨てた人は これらの世界を管理できる人。
ダンマパダ103番「戦場において百万人に勝つよりよりも、一人の自分に勝つ人は英雄である」。
感覚の快不快を管理する人は、自分に勝つ人であり、その人は英雄。彼はバラモン。
643
「生きものの死と再生をすべて知」れば、「生命とは何か」が分かる。「生命とは何か」を知れば、「如何に生きるべきか」理解できるようになる。「生命とは何か」を知るとは悟るために必要なこと。
生命とは心があること。そのため、仏教では心の研究をする。冥想は心を観察して、研究するため。心のすべてを知った人は、生命の死と再生のすべてを知った人であり、心のすべてを知った人には無明がなくなる。
無明のない人はすべて執着がなくなる。悟った人。彼は阿羅漢、最高の人間であるバラモンというべき人。
644
644番(=ダンマパダ420番)とスッタニパータ643番(=ダンマパダ419番)のの因縁物語は同じ。
釈尊と同時代にワンギーサというバラモンがいました。彼は死んだ人の頭蓋骨をたたいて、その人がどの世界に輪廻転生したか言い当てる超能力を持っていました。
彼の仲間が彼の能力を利用して、人々からお布施を集めることを始めました。そうしたある時、ワンギーサは釈尊のうわさを聞き、釈尊の能力に挑戦に出かけました。
釈尊は彼の意図を知り、弟子たちに、地獄、畜生、人間、天界に輪廻転生した死人の頭蓋骨を持って来させました。そして最後に阿羅漢の頭蓋骨を持って来させました。
ワンギーサはそれらの頭蓋骨をたたいて、死後のどの世界に輪廻転生したかを言い当てました。そのつど釈尊は彼をほめました。しかし、最後の阿羅漢の頭蓋骨についてはどちらに行ったか分かりませんでした。
ワンギーサは釈尊に、どちらに行ったか分かる方法を教えてくれるように頼みました。しかし、釈尊は、出家して、修行しなければ教えられないと断りました。
そこでワンギーサは釈尊のもとで出家して、修行し、その後しばらくして、阿羅漢になりました。彼は輪廻から解脱したので、阿羅漢の死後について分かりました。阿羅漢は解脱したので輪廻はしないのです。
その時、釈尊は比丘たちに「生きものの死と再生をすべて知り、執着なく幸せな悟った人、彼を私はバラモンと呼ぶ。
神々も音楽神も人間も、死後の行方がわからない煩悩の消えた阿羅漢、彼を私はバラモンと呼ぶ。」と説法しました。つまり、阿羅漢の死後については阿羅漢以外には分からない。

(´・(ェ)・`)つ

72 :
>>70 それらとも違うものじゃ。
 精神的に優れた境地に対する執着なのじゃ。
 それは傲慢ともなり真の悟りへの道を妨げてしまうものじゃ。
 少し修行が進んだ者に現れるものであるから注意すべき欲として伝えられるのじゃ。

73 :
>>72
鬼和尚、ありがとうであります。
無有愛(ヴィバワ・タンハー)について、
ネットで調べてみたのでありますが、
ほとんどが、:非生存に対する渇愛(死んですべてを終わらせたいという欲求)、自殺願望、自己破壊願望みたいな説明しか見つかりませんでした。
> 精神的に優れた境地に対する執着
というような説明は、どのような経典、解説書で読めるのでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ

74 :
645
スッタニパータ645=ダンマパダ421)の因縁物語は次の通り。
ダンマディンナーの夫ヴィサーカは、ブッダの説法をよく聞き、悟りの三段階である不還果を得ました。そのため世間との付き合いが煩わしくなり、妻にも興味がなくなりました。
彼は自分の気持ちを妻に話し、全財産を譲ると宣言しました。
夫の態度に悲しんでいた妻のダンマディンナーは「財産などいりません。あなたにとって不必要になった私は出家して、比丘尼になります」と言ってサンガに入団しました。
ダンマディンナー比丘尼は修行に励み、阿羅漢果を得ました。その喜びを家族にも分け与えようと元の夫のヴィサーカに会いに出かけました。
彼は彼女が還俗するために家に帰ってきたと勘違いしましたが、
彼女は「私は還俗など考えておりません」と答えました。
ヴィサーカはダンマディンナー比丘尼に、「それではお前のこれまでの修行を見せてもらおうか」と
「自分の身体とは何か?」「その身体の原因は何か?」「「身体の滅とは何か?」「その方法とは何か?」などの34の仏教の根本問題について質問しました。
それに対して彼女は即座に明確に答えました。彼はそのことに驚き、還俗するために家に帰ってきたのではないと理解しました。
彼はすぐに僧院をたずね、ブッダに彼女との問答の一部始終を話しました。
ブッダは「ヴィサーカよ、私の娘ダンマディンナーは阿羅漢果を得た大慧者である。もし、私にそれと同じ質問をしても、私は彼女と同じ答をしていただろう」と語られ、この偈を説かれました。
この因縁物語にあるヴィサーカがダンマディンナー比丘尼に質問した詳しい内容は、中部経典の「第44 小有明経」に書かれている。 
(´・(ェ)・`)つ

75 :
646
釈尊がアングリマーラという仏弟子に対して歌ったものとされている。
アングリマーラは伝説によると、コーサラ国パセーナディ王の司祭者の子で、その名をアヒンサカ(害を加えない者)といいました。師の妻に恋され、これをしりぞけたために邪道に入り、多くの人々を殺害しました。
しかし、ブッダに会ってから改心し、帰依して、教化を受けて、殺人をやめ、出家して、ついに悟りを開きました。

(´・(ェ)・`)つ

76 :
>>73 確か相応部の経典にあったのう。
 経の名は忘れたのじゃ。
 大乗にもあったような気がするのう。
 

77 :
>>76
鬼和尚ありがとうであります。
じっくり探してみるであります。
(´・(ェ)・`)つ

78 :
647
「前世を知り」とは宿住智。自分と他人の前世のことを知ることのできる智慧。
「天界と地獄を見て」とは天眼智。天人のように肉眼で見えない遠い所や微小なものをみることができる智慧。
「生の滅尽に達して」は漏尽智の。あらゆる煩悩を滅し尽くす智慧。
以上三つを三明と言い、多くの阿羅漢はこの三明を持っていたが、漏尽智だけあれば阿羅漢。
ブッダはさらに五つの智慧を完成させ、八明と言われる智慧を完成。それを「証智を完成した聖者」という。
観智:名色の無常、苦、無我をはっきり見ることができる智慧
意所成神変智:自分の思い通りにできる智慧
紳変智:一身、多身などを化作すること、空に飛び上がる、地下のもぐることのできる智慧
天耳智:天人の耳のように遠くも声や小さな声を聞ける智慧
他心智:他人の心を読める智慧
「成すべきことを成し遂げた」とは十五行と言われる行を成し遂げたということ。
@戒律儀:戒律を守ること
A根律儀:貪欲、怒り、無知などの煩悩が起こらないように、眼、耳、鼻、舌、身、意の六根を守ること。
B食物において適量を知ること。
C不眠の努力:眠らないで努力すること。
D信:仏法僧の三宝および因果法則を信じること
E慚:悪事をすることを内心に恥じること 
F愧:悪事をすることを外部に恐れること
G博識:知識が広い分野に及んでいること
H精進:励み努めること。ひたすら善を行い、悪を断つこと。
I念:気づきを忘れないこと。
J慧:智慧で理解すること。
K初禅:欲を離れ、不善の法を離れ、尋伺があり、障害の離より起こる喜楽のある境地L第二禅:尋伺のない、定より起こる喜楽のある境地
M第三禅:喜を離れ、捨のあり、念があり、正知があって、身によって楽を感受する境地
N第四禅:楽を離れ、苦を離れるがゆえに、喜と憂とが滅したために、苦楽がなく、捨によって念が浄まっている境地
(初禅から第四禅は、アビダルマの定義ではなく経典による定義です。)
八明と十五行の完成者を明行具足者という。ブッダは明行具足者の大バラモン。
(´・(ェ)・`)つ

79 :
>>77 そうじゃ、学ぶとよいのじゃ。
 学問在るのみなのじゃ。

80 :
無有愛(ヴィバワ・タンハー)について、二つのブログから↓

1)
重担
南伝 相応部経典22-22 重担
漢訳 雑阿含経3-23 重担
かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。
その時、世尊はもろもろの比丘たちに告げて、「比丘たちよ」と仰せられた。彼ら比丘たちは、「大徳よ」と答えた。世尊はこのように説きたもうた。
「比丘たちよ、わたしは、いま、汝らのために、重き荷物を担 になえる者のこと、また、重き荷物を担うこと、重き荷物をおろすことについて説くであろう。よく聞くがよい。
では、比丘たちよ、重き荷物とはなんであろうか。生を構成する五つの要素(五取蘊)がそれである。その五つとはなんであるか。
いわく、色(肉体)なる要素、受(感覚)なる要素、想(表象)なる要素、行(意志)なる要素、識(意識)なる要素である。比丘たちよ、これらを名づけて五つの重き荷物というのである。
比丘たちよ、では、重き荷物を担える者とはなんであろうか。人間がそれである。これこれの名、これこれの姓をもてる方々がそれである。比丘たちよ、これらを名づけて重き荷物を担える者というのである。
比丘たちよ、では、重き荷物を担うとは、どういうことであろうか。心に喜び、身を燃やして、あれやこれやに、わっとばかりに殺到する渇愛がそれであって、それが、さらに迷いの生(後有 ごう)をもたらすのである。
すなわち、性欲のかたまり(欲愛)、生存欲のかたまり(有愛)、自己優越の欲望のかたまり(無有愛)である。比丘たちよ、これらを名づけて、重き荷物を担うとはいうのである。
比丘たちよ、では、重き荷物をおろすとは、どのようなことであろうか。
それは、その渇愛を、まったく、余すところなく離れ滅することであり、放棄することであり、断念することであり、永断することであり、解脱して、執著なきにいたるのである。比丘たちよ、これらを名づけて、重き荷物をおろすというのである」
世尊は、そのように説きたもうた。そのように説いて、この素晴らしい師は、さらに説きたもうた。
「五蘊は重き荷物にして
これを担うものは人である
重きを担うは苦しくて
これを捨つれば安楽なり
すでに重荷を捨てたらば
さらに重荷を取るなかれ
かの渇愛を滅すれば
欲なく自由となりぬべし
注解
 この経題は「重担」(Bhram=the burden)とある。その重き荷物とは、ふるい訳語をもっていえば「五取蘊 ごしゅうん」である。
その「五取蘊」(pacupdna-kkhandh=the factors of fivefold clinging to existence)とは、生がそれに依存している五つの要素、あるいは、生を構成する五つの要素というほどの意のことばであって、それは他でもない五蘊のことである。
そして、いま釈尊は、それらに執著することがなければ安楽であろうと説いている。この経には偈がある。経の趣旨を要約したものであって、後の人の付したものであろう。
欲愛(kmataηh=thirst after sensual pleasures) 性欲の激情である。漢訳はこれを「欲愛」と訳した。人間の自己拡大の激情である。
有愛(bhavataηh=craving for existence) 生存欲の激情である。漢訳はこれを「有愛」と訳した。人間の自己延長の渇愛である。
無有愛(vibhavatanh=craving for power, wealth, prosperity) 自己優越の欲望の激情である。漢訳はこれを「無有愛」と直訳した。人間の名誉欲などのたかぶりがそれである。


2)
・釈尊の教説の根幹は釈尊自らが四諦だとしているが、その四諦の中にvibhava tanha : 無有愛(むうあい)という言葉がある。この言葉については他の経文での言及がほとんどないこともあり、重視されていないが、この言葉の解釈が大きく2つに分かれている。
・一つは「虚無への渇愛」だとするものでこれがたぶん主流派。
・もう一つはそれ以外の見解で、「抽象的な事柄(地位、名誉等)に対する欲望」だとする者(増谷文雄)や「財産欲、繁栄欲」だとするもの者(木村泰賢)もいる。ようするに性欲や食欲といった本能レベルの欲望ではなく抽象化された事物への欲望と見る説だ。

(´・(ェ)・`)つ

81 :
648
「世間でバラモンの名や姓とされているものも、他の名称と同じような名称に過ぎない。世間の習慣や取り決めで名付けられただけ。その名前によってバラモンに成るわけではない。」ということ。
649
姓名はその人を他の人から区別して、交際のために付けた。姓名はその人自身ではない。
姓名はかりに付けられたものにすぎないということを知らない人々は、生まれた時につけられた姓名によって、その人がバラモンであると思うようになった。
そして、それらの人々は「生まれによってバラモンである」と言う。
651 652
非バラモンとして具体的に、農夫、職人、商人、召使、さらに泥棒、武士、司祭者(僧侶)、王などが挙げられている。これらの人々は生まれによって成るのではない。行為によって成るのとブッダは述べた。
653
「生まれによってバラモンとなる」という人々は、バラモンや農夫、職人などの行為が彼ら自身を成り立たせていることをありのままに見ていない。
彼らの行為をありのままに見る人々は、行為が彼らの状態を成り立たせていることを理解しているのだとブッダは述べている。
654
世の中を構成するものは人々。その人々は行為によって成り立つ。
行為とば、身口意の行為。
世の中も行為によって成り立っている。
人間は、身口意の行為によって生きている。人間にそれらの行為に拘束されている。ブッダは人間たちの行為を、進んでいる車に車輪を結びつけている部品にたとえている。その部品がなければ、車が成り立たないように、人々も世間も成り立っている。
655
感覚器官を刺激して煩悩が起こらないように注意すること。
崇高な行為、禁欲的で清浄な行為をすることによって、具体的な例としては男女の性的な関係を結ばないこと。
自制によってとは、戒律に基づく行為をすること。
調御によってとは智慧に基づく行為をすること。
これらの行為によって、バラモンに成る。これらの最高に優れた行為によって、バラモンという最高の境地に至る。
656
人間は生まれながらの差別がないが、行為(業)によって区別あると説かれた。
バラモンの真のあり方を説いた。
三明をそなえ、寂静にして、輪廻を脱した方。そのような方は識者(賢者)にとっては単なるバラモンではなく、梵天や帝釈天のような方。つまり、そのような方は仏、阿羅漢。
三明とは、一般的にはバラモンの学習する三つのヴェーダと解くが、ここでは宿命通、天眼通、漏尽通を意味する。
宿命通とは、自己及び他人の前世ことを知ることができる智慧
天眼通とは、天人のように肉眼で見えない遠い所や微細なものを見ることができる智慧。
漏尽通とは、あらゆる煩悩を滅し尽くすことができる智慧。
(´・(ェ)・`)つ

82 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、10、コーカーリヤ

 わたしか聞いたところによると、──或るとき尊き師(ブッダ)は、サーヴァッティー市のジェータ林、<孤独な人々に食を給する長者の園>におられた。
そのとき修行僧コーカーリヤは師のおられるところに赴いた。そうして、師に挨拶して、傍らに坐した。それから修行僧コーカーリヤは師に向っていった、
「尊き師(ブッダ)よ。サーリプッタとモッガラーナとは邪念があります。悪い欲求にとらわれています。」
 そう言ったので、師(ブッダ)は修行僧コーカーリヤに告げて言われた、「コーカーリヤよ、まあそういうな。コーカーリヤよ、まあそういうな。サーリプッタとモッガラーナとを信じなさい。サーリプッタとモッガラーナとは温良な性の人たちだ。」
 修行僧コーカーリヤは再び師にいった、「尊き師よ。わたくしは師を信じてお頼りしていますが、しかしサーリプッタとモッガラーナとは邪念があります。悪い欲求にとらわれています。」
 師は再び修行僧コーカーリヤに告げて言われた、「コーカーリヤよ、まあそういうな。コーカーリヤよ、サーリプッタとモッガラーナとを信じなさい。サーリプッタとモッガラーナとは温良な性の人たちだ。」
 修行僧コーカーリヤは三たび師にいった、「尊き師よ。わたくしは師を信じてお頼りしていますが、しかしサーリプッタとモッガラーナとは邪念があります、悪い欲求にとらわれています。」
 師は三たび修行僧コーカーリヤに告げて言われた、「コーカーリヤよ、まあそういうな。コーカーリヤよ、サーリプッタとモッガラーナとを信じなさい。サーリプッタとモッガラーナとは温良な性の人たちだ。」
 そこで修行僧コーカーリヤは座から起って、師に挨拶して、右まわりをして立ち去った。修行僧コーカーリヤが立ち去ってからまもなく、かれの全身に芥子粒ほどの腫物が出てきた。
(初めは)芥子粒ほどであったものが、(次第に)小豆ほどになった。小豆ほどであったものが、大豆ほどになった。大豆ほどであったものが、棗の核ほどになった。棗の核ほどあったものが、棗の果実ほどになった。
棗の果実ほどあったものが余甘子ほどになった。余甘子ほどであったものが、未熟な木爪の果実ほどになった。未熟な木爪の果実ほどであっものが、熟した木爪ほどになった。
熟した木爪ほどになったものが破裂し、膿と血とが迸り出た。そこで修行僧コーカーリヤはその病苦のために死去した。修行僧コーカーリヤは、サーリプッタとモッガラーナとに対して敵意をいだいていたので、死んでから紅蓮地獄に生まれた。
 そのときサハー(老婆)世界の主・梵天は、夜半を過ぎた頃に、麗しい容色を示して、ジェータ林を隈なく照らして、師のおられるところに赴いた。
そうして師に敬礼して傍らに立った。そこでサハー世界の王である梵天は師に告げていった。
「尊いお方さま。修行僧コーカーリヤは死去しました。修行僧コーカーリヤは、サーリプッタとモッガラーナとに対して敵意をいだいていたので、死んでから紅蓮地獄に生まれました。」
サハー世界の主・梵天はこのように言った。このように言ってから、師に敬礼し、右まわりをして、その場で消え失せた。

(´・(ェ)・`)つ

83 :
>>80 学者でも意見が分かれているようじゃのう。
 言葉に囚われるのも意味の無いことじゃ。
 それも自分の心の中にどのような渇愛があるか観察するためのものなのじゃ。
 自分の心の中に無ければそれでよいのじゃ。


 

84 :
>>83
自分の心の中にある渇愛を観察してみると、
くま的には、
非生存に対する渇愛(死んですべてを終わらせたいという欲求)とか、「虚無への渇愛」よりも、
自己優越の欲望のかたまり とか、無色界の生存に対する欲、形を持たない精神的な愛着の欲、精神的に優れた境地に対する執着の方が、今は強いように思うであります。

死んですべてを終わらせたいという欲求と言うもの(=無有愛)が、仏教においては、克服すべき渇愛として取り上げられていると言うこと自体は間違いではないのでありますね。
(´・(ェ)・`)つ

85 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、10、コーカーリヤ

 さて、その夜が明けてから、師は、諸々の修行僧に告げて言われた、「諸々の修行僧らよ。昨夜サハー世界の主である梵天が、夜半を過ぎた頃に、麗しい容色を示して、ジェータ林を隈なく照らして、わたくしのいるところに来た。
それからわたくしに敬礼して傍らに立った。さうしてサハー世界の主である梵天は、わたくしに告げていった。
『尊いお方さま。修行僧コーカーリヤは死去しました。修行僧コーカーリヤは、サーリプッタとモッガラーナとに対して敵意をいだいていたので、死んでから紅蓮地獄に生まれました』と。
サハー世界の主である梵天はこのように言った。そうして、師を敬礼し、右まわりして、その場で消え失せた。」
 このように説かれたときに、一人の修行僧が師に告げていった、「尊いお方さま。紅蓮地獄における寿命の長さは、どれだけなのですか?」
 「修行僧よ。紅蓮地獄における寿命は実に長い。それを、幾年であるとか、幾百年であるとか、幾千年であるとか、幾十万年であるとか、数えることはむずかしい。」
 「尊いお方さま。しかし譬喩を以て説明することがでまるでしょう。」
 「修行僧よ。それはできるのです」といって、師は言われた、
「たとえば、コーサラ国の枡目ではかつて二十カーリカの胡麻の積荷(一車輌分)があって、それを取り出すとしょう、ついで一人の人が百年を過ぎるごとに胡麻を一粒ずつ取り出すとしよう。
その方法によって、コーサラ国の枡目ではかって二十カーリカの胡麻の積荷(一車輌分)が速やかに尽きたとしても、一つのアッブタ地獄はまだ尽きるに至らない。二十のアッブダ地獄は一つのニラッブダ地獄[の時期]に等しい。
二十のニラッブダ地獄は一つのアババ地獄[の時期]に等しい。二十のアババ地獄は一つのアハハ地獄[の時期]に等しい。二十のアハハ地獄は一つのアタタ地獄[の時期]に等しい。二十のアタタ地獄は一つの黄蓮地獄[の時期]に等しい。
二十の黄蓮地獄は一つの白睡蓮地獄[の時期]に等しい。二十の白睡地獄は一つの青蓮地獄[の時期]に等しい。二十の青蓮地獄は一つの白蓮地獄[の時期]に等しい。二十の紅蓮地獄[の時期]に等しい。
ところで修行僧コーカーリヤは、サーリプッタおよびモッガラーナに対して敵意をいだいていたので、紅蓮地獄に生まれたのである。」
 師はこのように言われた。幸せな人である師は、このことを説いてから、さらに次のように言われた。──

657 人が生まれたときには、実に口の中には斧が生じている。愚者は悪口を言って、その斧によって自分を斬り割くのである。

658 毀るべき人を誉め、また誉むべき人を毀る者、──かれは口によって禍をかさね、その禍のゆえに福楽を受けることができない。

659 賭博で財を失う人は、たとい自身を含めて一切を失うとも、その不運はわずかなものである。しかし立派な聖者に対して悪意をいだく人の受ける不運は、まことに重いのである。

660 悪口を言いまた悪意を起して聖者をそしる者は、十万と三十六のニラップダの[巨大な年数のあいだ]また五つのアッブダの[巨大な年数のあいだ]地獄に赴く。

661 嘘を言う人は地獄に墜ちる。また実際にしておきながら゜わたしはしませんでした」と言う人もまた同じ。両者とも行為の卑劣な人々であり、死後にはおの世で同じような運命を受ける(地獄に墜ちる)。

(´・(ェ)・`)つ

86 :
657
言葉は斧のように上手に使わないと自分自身を傷つける。言葉で自分を傷つけるとは、自分自身を不幸にすること。また死後には地獄などの悪所に生まれ変わるということ。
愚か者は言葉上手に使わない。言葉の下手な使い方は、@嘘をいうこと、A二枚舌を使うこと、B悪口をいうこと、C無駄話しをすることなど。
賢い人は言葉を上手に使う。言葉の上手な使い方は、@真実を話す、A仲良くさせる言葉を話す、B優しい言葉を話す、C役に立つ言葉を話すなど。
660
1ニラッブダは10の43乗×2、1アップダは10の42乗。
地獄にいる期間は終わりのない、無限の時間だと言ってもいい。
それに比べれば、どんなこの世の苦しみも小さなこと。
(´・(ェ)・`)つ

87 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、10、コーカーリヤ

662 害心なく清らかで罪汚れのない人を憎むかの愚者には、必ず悪(い報い)がもどってくる。風に逆らって微細な塵を撒き散らすようなものである。

663 種々なる貪欲に耽る者は、ことばで他人をそしる。──かれ自身は、信仰心なく、ものおしみして、不親切で、けちで、やたらにかげ口を言うのだが。

664 口穢く、不実で、卑しい者よ。生きものを殺し、邪悪で、悪行をなす者よ。不劣を極め、不吉な、でき損いよ。この世であまりおしゃべりするな。お前は地獄に落ちる者だぞ。

665 お前は塵を播いて不利を招き、罪をつくりながら、諸々の善人を非難し、また多くの悪事をはたらいて、長いあいだ深い坑(地獄)に陥る。

666 けだし何者の業も滅びることはない。それは必ずもどってきて、(業をつくった)主がそれを受ける。愚者は罪を犯して、来世にあってはその身に苦しみを受ける。

667 (地獄に墜ちた者は)、鉄の串を突きさされるところに至り、鋭い刃のある鉄の槍に近づく。さてまた灼熱した鉄丸のような食物を食わされるが、それは、(昔つくった業に)ふさわしい当然なことである。

668 (地獄の獄卒どもは「捕えよ」「打て」などといって)、誰もやさしいことばをかれることなく、(温顔をもって)向ってくることなく、頼りになってくれない。(地獄に墜ちた者どもは)、敷き拡げられた炭火の上に臥し、あまねく燃え盛る火炎の中に入る。

669 またそこでは(地獄の獄卒どもは)鉄の網をもって(地獄に墜ちた者どもを)からめとり、鉄槌をもって打つ。さらに真の暗黒である闇に至るが、その闇はあたかも霧のようにひろがっている。

670 また次に(地獄に堕ちた者どもは)火炎があまねく燃え盛っている鋼製の釜にはいる。火の燃え盛るそれらの釜の中で永いあいだ煮られて、浮き沈みする。

671 また膿や血のまじった湯釜があり、罪を犯した人はその中で煮られる。かれがその釜の中でどちらの方角へ向って横たわろうとも、(膿と血とに)触れて汚される。

672 また蛆虫の棲む水釜があり、罪を犯した人はその中で煮られる。出ようにも、つかむべき縁がない。その釜の上部は内側に彎曲していて、まわりが全部一様だからである。

673 また鋭い剣の葉のついた林があり、(地獄に墜ちた者どもが)その中に入ると、手足を切断される。(地獄の獄卒どもは)鉤を引っかけて舌をとらえ、引っ張りまわし、引っ張り廻しては叩きつける。

674 また次に(地獄に墜ちた者どもは)、超え難いヴェータラニー河に至る。その河の流れは鋭利な剃刀の刃である。愚かな輩は、悪い事をして罪を犯しては、そこに陥る。

675 そこには黒犬や斑犬や黒烏の群や野狐がいて、泣きさけぶかれらを貪り食うて飽くことがない。また鷹や黒色ならぬ烏どもまでが啄む。

676 罪を犯した人が身に受けるこの地獄の生存は、実に悲惨である。だから人は、この世において余生のあるうちになすべきことをなして、忽せにしてはならない。

677 紅蓮地獄に運び去られた者(の寿命の年数)は、荷車につんだ胡麻の数ほどある、と諸々の智者は計算した。すなわちそれは五千兆年とさらに一千万の千二百倍の年である。

678 ここに説かれた地獄の苦しみがどれほど永く続こうとも、その間は地獄にとどまらなねばならない。それ故に、ひとは清く、温良で、立派な美徳をめざして、常にことばとこころをつつしむべきである

(´・(ェ)・`)つ

88 :
663、664
モッガッラーナ尊者が死んで逝くコーカーリヤ比丘を訓戒して述べたと言われている。あるいは大梵天が述べたという説もある
665
何故自分の不利になることをするのか?
本人は自分に不利になるとは分かっていないか、或は、分かっていても感情的になっていて、自分の行動を制御できないということか?実はその前に、自分の行為に気づいていないことか?
自分が馬鹿なことをしないためには、自分の気づくことが必要。
666
業は、行為そのものを指す場合と、行為の結果を意味する場合がある。この詩では、行為の結果を意味している。
行為の結果からは逃げることはできないということ。
悪い行為の結果からは、逃げられないことは恐ろしいこと。悪い行為の結果は悪い結果に決まっているから。どこに逃げようとも、辛い、苦しい恐ろしい結果が待っている。
悪い行為の結果(悪業)の原因を作るなということ。
なぜ悪業から逃れないのか?業は行為そのもの、あるいは行為の結果。それは行為者の潜在的エネルギーとして心に蓄積されている。行為者の心が有る所、行く所、どこにでも付いて行く。

(´・(ェ)・`)つ
663、664←モッガッラーナさん、あるいは大梵天さん、ちょぴっと言い過ぎではありますまいか?と思いつつも、
読者が死後に恐ろしい地獄(667〜675)に行かなくてもすむようにとの優しさなのかもしれぬと思うくまであります。

89 :
>>84 そうじゃ、自らの心の中にそれがあれば滅するべき渇愛になるのじゃ。
 なければそれでよいのじゃ。
 全てを超えて進むのじゃ。

90 :
>>89
鬼和尚ありがとうであります。
ありのままに観察するであります。
(´・(ェ)・`)つ

91 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、11、ナーラカ

 [ 序 ]
679 よろこび楽しんでいて清らかな衣をまとう三十の神々の群と帝釈天とが、恭しく衣をとって極めて讃嘆しているのを、アシタ仙は日中の休息のときに見た。

680 こころ喜び踊りあがっている神々を見て、ここに仙人は恭々しくこのことを問うた、
「神々の群が極めて満悦しているのは何故ですか?
 どうしたわけでかれらは衣をとってそれを振り廻しているのですか?

681 たとえ阿修羅との戦いがあって、神々が勝ち阿修羅が敗れたときにもそのように身の毛の振るい立つぼど喜ぶことはありませんでした。どんな稀なできごとを見て神々は喜んでいるのですか?

682 かれは叫び、歌い、楽器を奏で、手を打ち、踊っています。須弥山の頂に住まわれるあなたがたに、わたくしはおたずねします。尊き方々よ、わたくしの疑いを速かに除いてください。」

683 (神々は答えて言った)、「無比のみごとな宝であるかのボーディサッタ(菩薩、未来の仏)は、もろびとの利益安楽のために人間世界に生まれたもうたのです、──シャカ族の村に、ルンビニーの聚落に。
 だからわれらは嬉しくなって、非常に喜んでいるのです。

684 生きとし生ける者の最上者、最高の人、牡牛のような人、生きとし生けるもののうちの最高の人(ブッダ)は、やがて<仙人(のあつまる所)>という名の林で(法)輪を回転するであろう。──猛き獅子が百獣にうち勝って吼えるように。」

685 仙人は(神々の)その声を聞いて急いで(人間世界に)降りてきた。そのときスッドーダナ王の宮殿に近づいて、そこに坐して、シャカ族の人々に次のようにいった、
 「王子はどこにいますか。わたくしもまた会いたい。」

686 そこで諸々のシャカ族の人々は、その児を、アシタという(仙人)に見せた。──溶炉で巧みな金工が鍛えた黄金のようにきらめき幸福に光り輝く尊い児を。

687 火炎のように光り輝き、空行く星王(月)のように清らかで、雲を離れて照る秋の太陽のように輝く児を見て、歓喜を生じ、昴まく喜びでわくわくした。

688 神々は、多くの骨あり千の円輪ある傘蓋を空中にかざした。また黄金の柄のついた払子で[身体を]上下に扇いだ。
 しかし払子や傘蓋を手にとっている者どもは見えなかった。

(´・(ェ)・`)つ

92 :
>>91
679〜698
序の部分はブッダがカピラ城に誕生した時、アシタ仙人がその相を占って、ブッダの将来を予言したことを述べている。
アシタ仙人とは、ゴータマ・ブッダの父であるスッドダナ(浄飯王)の技芸の師であり、王位についた後は宮廷僧であった。後に苦行者として出家して、王に仕えながら庭園だけに住み、修行を行い、八種の心統一と五神通を成就した。
「三十の神々の群」は普通三十三天の神々と言われている。

681
アシタ仙人は過去未来の四十劫の間の出来事を思い浮かべることが出来た。(劫とは一つの宇宙が生まれて消える時間。)「その長い期間に神々が以前にも、嬉々として喜んだことがあるだろうか。」とアシタ仙人は思いをめぐらしてみた。
神々と阿修羅たちが戦争をしたことがあり、神々が勝ち、その時も神々は喜んだが、今回のように身の毛がよだつほど喜ぶことはなかった。

682
口笛を吹くとは、口で高い音を出すこと。六万八千の楽器を奏でると注釈書には書いてある。

683
ボーディサッタの漢訳は菩提薩(ぼだいさった)、それを短縮して菩薩(ぼさつ)と言う。ボーボーディ(菩提)とは悟り、サッター(薩)とは衆生です。合わせて悟りをめざす人という意味す。
菩薩は悟りをめざす人で、悟りに達した人はブッダです。ブッダは真理を発見し、生命の苦しみの原因を突き止め、その苦しみを克服する方法を体得し、生命が苦しみから解脱する道を教示することができる存在。
神々はそのことを知っていたので、ブッダの出現を待ち望んでいた。菩薩が生まれることは、ブッダの出現が約束されたこと。そのために、神々は菩薩の誕生を歓喜して喜んだ。
684
法輪を転じる(仏教の教え説く)
688
傘蓋をかざし、払子を揺らす神々の姿は人間には見えない。

(´・(ェ)・`)つ

93 :
>>90 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。

94 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、11、ナーラカ

689 カンハシリ(アシタ)という結髪の仙人は、こころ喜び、嬉しくなって、その児を抱きかかえた。──その児は、頭の上に白い傘をかざされて白色がかった毛布の中にいて、黄金の飾りのようであった。

690 相好と呪文(ヴェーダ)に通曉しているかれは、シャカ族の牡牛(のような立派な児)を抱きとって、(特相を)検べたが、心に歓喜して声を挙げた。──「これは無上の方です、人間のうちで最上の人です。」

691 ときに仙人は自分の行く末を憶うて、ふさぎこみ、涙を流した。仙人が泣くのを見て、シャカ族の人々は言った、──
 「われらの王子に障りがあるのでしょうか?」

692 シャカ族の人々が憂えているのを見て、仙人は言った、──
「わたくしは、王子に不吉の相があるのを思いつづけているのではありません。またかれに障りはないでしょう。この方は凡庸ではありません。よく注意してあげてください。

693 この王子は最高のさとりに達するでしょう。この人は最上の清浄を見、多くの人々のためをはかり、あわれむが故に、法輪をまわすでしょう。この方の清らかな行いはひろく弘まるでしょう。

694 ところが、この世におけるわたくしの余命はいくばくもありません。(この方がさとりを開かれるまえに)中途でわたくしは死んでしまうでしょう。
わたくしは比(たぐい)なき力ある人の教えを聞かないでしょう。だから、わたくしは、悩み、悲嘆し、苦しんでいるのです。」

695 かの清らかな修行僧(アシタ仙人)はシャカ族の人々に大きな喜びを起させて、宮廷から去っていった。かれは自分の甥(ナーラカ)をあわれんで、比(たぐい)なき力ある人の教えに従うようにすすめた。──

696 「もしもお前が後に『目ざめた人あり、さとりを開いて、真理の道を歩む』という声を聞くならば、そのときそこへ行ってかれの教えをたずね、その師のもとで清らかな行いを行え。」

697 その聖者は、人のためをはかる心あり、未来における最上の清らかな境地を予見していた。その聖者に教えられて、かねて諸々の善根を積んでいたナーラカは、勝利者(ブッダ)を待望しつつ、みずからの感官をつつしみまもって暮らした。

698 <すぐれた勝利者が法輪をまわしたもう>との噂を聞き、アシタという(仙人)の教えのとおりになったときに、出かけていって、最上の人である仙人(ブッダ)に会って信仰の心を起し、いみじき聖者に最上の聖者の境地をたずねた。

 序文の詩句は終った。

(´・(ェ)・`)つ

95 :
>>94
689
「カンハシリ」の「カンハ」とは、「黒い」という意味。「シリ」は「吉祥」という意味。「カンハシリ」は「黒い吉祥」という意味。アシタ仙人はこのように呼ばれていた。

注釈書には、釈迦族の人々は始め、お釈迦様をアシタ仙人に抱かせようとしたのではなく、礼拝させようとして、差し出した、ところが赤ちゃんの足が動いて、アシタ仙人の頭の上に立ったと言うこと。
仙人はこの不思議を見て、「こころ喜び、嬉しくなって、その児を抱きかかえた。」ということ。

690
アシタ仙人は観相や真言の奥義に達した人、聖者の三十二相があるかどうか調べた。すべての瑞相が具わっていることを発見した。

693
最高のさとりに達する(至高の正覚を体得する)とは、
解脱すること、涅槃に達すること。
貪りの滅尽・怒りの滅尽・迷いの滅尽。
経典ではこれらを覚り(涅槃)の同義語として次のような言葉が使われている。
無為、無漏、真理、彼岸、巧妙、強固、照見、無説、無戯論、寂静、不死、最上、吉祥、安穏、渇愛の滅尽、希有、未曾有、無災、無災法、無害、離貪、清浄、解脱、無執着、洲、避難所、帰依所など。

この童子は最高に清浄な人になり、人々の利益のために、人々を慈しんで法輪を転じる(真理を教えを説法をする)だろうということ。

697
「その聖者」は、「アシタ仙人」を指し勝利者(勝者)はブッダを指している。
アシタ仙人が人のためをはかる心あり、アシタ仙人が未来における最上の清らかな境地を予見していたということ。

698
ブッダの始めの説法は、初転法輪経と言われ、インドのベナレスに近いイシパタナ(仙人の降り立つ地)にある鹿野苑(ろくやおん)で行われた。
この説法がされた時、地の神々から始まり、全宇宙の神々に<すぐれた勝利者が法輪をまわしたもう>という讃嘆の声が広がったということ。

(´・(ェ)・`)つ

96 :
実際には最初の説法は失敗したのじゃ。
それで苦滅の法を説いたのじゃ。
それによって成功したのじゃ。

97 :
鬼和尚、こんばんは。
昔の修行仲間に、最初は相手にされなかったのでありますしょうかね。
最初はどんな説法をして失敗したのでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ

98 :
自在さんも最初は失敗しましたもんね。

99 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、11、ナーラカ

699 [ナーラカは尊師にいった]、「アシタの告げたこのことばはそのとおりであるということを了解しました。故に、ゴータマよ、一切の道理の通達者(ブッダ)であるあなたにおたずねします。

700 わたくしは出家の身となり、托鉢の行を実践しようと願っているのですが、おたずねします。聖者よ、聖者の境地、最上の境地を説いてください」。

701 師(ブッダ)はいわれた、「わたくしはあなたに聖者の境地を教えてあげよう。これは行いがたく、成就し難いものである。さあ、それをあなたに説いてあげよう。
しっかりとして、堅固であれ。

702 村にあっては、罵られても、敬礼されても、平然とした態度で臨め。(罵られても)こころに怒らないように注意し、(敬礼されても)冷静に、高ぶらずにふるまえ。

703 たとい園林のうちにあっても、火炎の燃え立つように種々のものが現れ出てくる。
婦女は聖者を誘惑する。婦女をしてかれを誘惑させるな。

704 婬欲のことがらを離れ、さまざまの愛欲をすてて、弱いものでも、強いものでも、諸々の生きものに対してね敵対することなく、愛著することもない。

705 『かれもわたしと同様であり、わたしもかれと同様である』と思って、わがみに引きくらべて、(生きるものを)殺してはならなぬ。また他人をして殺させてはならない。

706 凡夫は欲望と貪りと執著しているが、眼ある人はそれを捨てて道を歩め。この(世の)地獄を超えよ。

707 腹をへらして、食物を節し、小欲であって、貪ることなかれ。かれは貪り食う欲望に厭きて、無欲であり、安らぎに帰している。

708 その聖者は托鉢にまわり歩いてから、林のほとりにおもむき、樹の根もとにとどまって座につくべきである。

709 かれは思慮深く、瞑想に専念し、林のほとりで楽しみ、樹の根もとで瞑想し、大いにみずから満足すべきである。

710 ついで夜が明けたならば、村里のほとりに去るべきである。(信徒から)招待を受けても、また村から食物をもらってきても、決して喜んではならない。

711 聖者は、村に行ったならば、家々を荒々しくガサツに廻ってはならない。話をするな。わざわざ策して食を求めることばを発してはならない。

(´・(ェ)・`)つ

100 :
>>99
699
「一切の道理の通達者(ブッダ)」(一切諸法(現象世界)の彼岸に至る方)の意味について、注釈書には、スッタニパータの第一の九の雪山夜叉経の168、169に言及。
「何があるとき世界は生起するのですか?」の雪山夜叉の質問に対して「六つがあるとき世界は生起する。」とブッダは答えている。
六つとは「眼、耳、鼻、舌、身、意」。世界はこの六つで知られることがすべてであると答えた。この六つで知られることを知りつくした人が一切の道理の通達者。

700
聖者たちが実践した「托鉢の行=乞食の行を実践しようと願っている者」
食べ物を他人からもらい、それを糧に生活し、修行すること。

702
普通、人間はけなされれば怒り、ほめられれば喜ぶ。
ブッダが「聖者の行」として始めにナーラかさんに教えたことは、この現象と反対のこと。
罵られても(=けなされても)怒らず、敬礼されても(=ほめられても)喜ぶなということ。このどちらにたいして同じ態度を取りなさいと教えている。

何故生命はほめられれば喜び、けなされれば怒るか。それは生命が何かに依存して生きているから。この依存は保障された時は安心して、喜ぶ。
逆に依存が保障されない時は不安になり、恐怖や怒りが現れる。ほめられるということ保障されたと感じ、けなされると保障されてないと感じてしまうから。
聖者、覚った人は何ものにも依存しない独立・自立の人。だから、ほめられることにも、けなされることにも無関心、無頓着。どちらにたいしても同じ態度を取る。
ほめられて喜び、けなされて怒る自分をよく観察し、それが当たり前だと思わずに、人の評価に依存している自分を自覚するように教える。

703
恐ろしいもの、心をとらえるもの、憎むべきもの、迷わすものが現れる。それらを「火炎の燃え立つように種々のものが現れ出てくる。」と表現。
聖者を誘惑しようとするものらに誘惑せないような態度を取らなければいけない。
修行中の聖者は、感覚を守り、心が煩悩で汚れないようにしなければならない。

704
淫欲その他にもいろいろな欲望があり、それらも悩み苦しみの原因であり、生命を輪廻させるもの。
「動くものと動かないものにたいし」「弱いものでも、強いものでも」つまりどんな生き物に対しても「敵対することなく、愛著することもない。」ということで、好き嫌いの意識を持たないというということ。

欲望を捨てなければ、どんな生命にも分け隔てなく、「敵対することなく、愛著することもない。」ということが出来ないということ。
自分に欲望があれば、すべて生命に対して平等に対応できない。すぐ依怙贔屓(えこひいき)の感情が現れる。平等・対等な態度は聖者のやさしさ。

(´・(ェ)・`)つ
つづく


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