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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ


1 :2017/10/28 〜 最終レス :2018/01/01
前スレ:鬼和尚の仏教勉強会 悟りの真実 2

ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、6、サビヤ

533 サビヤがいった、「何を得た人を<学識ある人>と呼ぶのですか? 何によって<すぐれた人>となるのですか?
 またいかにして<行いの具わった人>となるのですか? <遍歴行者>とはそもそも何ですか?
 先生! おたずねしますが、わたくしに説明してください。」

534 師が答えた、「サビヤよ。教えを聞きおわって、世間における欠点あり或いは欠点のないありとあらゆることがらを熟知して、あらゆることがらについて征服者・疑惑のない者・解脱した者、煩悩に悩まされない者を、<学識のある人>と呼ぶ。

535 諸々の汚れと執著のよりどころを断ち、智に達した人は、母胎に赴くことがない。三種想いと汚泥とを除き断って、妄想分別に赴かない、──かれを<すぐれた人>と呼ぶ。

536 この世において諸々の実践を実行し、有能であって、常に理法を知り、いかなることがらにも執著せず、解脱していて、害しようとする心の存在しない人、──かれは<行いの具わった人>である。

537 上にも下にも横にも中央にも、およそ苦しみの報いを受ける行為を回避して、よく知りつくして行い、偽りと慢心と貪欲と怒りと<名称と形態>(個体のもと)とを滅ぼしつくし、得べきものを得た人、──かれを<遍歴の行者>と呼ぶ。」

 そこで、遍歴の行者サビヤは師の諸説をよろこび随喜し、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、座から起ち上って、上衣を一方の肩にかけ(右肩をあらわし)、師に向かって合掌して、ふさわしい詩を以て目のあたり師を讃嘆した。

538 「智慧ゆたかな方よ。諸々の<道の人>の論争にとらわれた、名称と文字と表象とにもとづいて起った六十三種の異説を伏して、激流をわたりたもうた。

2 :
534
あらゆる法(事柄)を聞いて、熟知(証知)した人が学識のある人。
あらゆる事柄を征服し、あらゆる疑念を克服し、解脱したということ。
535
すぐれた人(聖者)とは、諸々の煩悩と執着を断ち切った人。
執着については渇愛への執着と見解への執着の二種があげられる。
三種の想とは、欲の想、怒りの想、害意の想。
「妄想分別に赴かない(〔概念化した〕時間に至りません)」<517><518>参照
536
仏教はブッダ教えと実践がセットになっているもの。実践のない仏教はあり得ない。教えはすべて実践によって体得できるもの。
諸々の行ないについて得るものを得た者である。
そのような人を、ブッダは「有能であって、常に理法を知り、いかなることがらにも執著せず、解脱していて、害しようとする心の存在しない」のだと称賛している。
537
苦しみの原因になる行為(業)。
上とは過去を意味し、下とは未来。横(中)は現在。過去、未来、現在の悪業をすべて捨てきたということ。具体的にはまやかしや慢心、貪りや怒りを捨てきったということ。
「名色の終わりをもたらした」とは、心と身体の終わりをもたらしたということ、もう輪廻をしないこと。解脱したということ。
すべてを「捨てきった人」を「遊行者〈遍歴者〉」と言う。
(´・(ェ)・`)つ

3 :
ご苦労さんなのじゃ。
サビヤの如く熱心に悟りを求めるならば悟りの門も開けるのじゃ。

4 :
>>3
鬼和尚、こんばんは。
精進するであります。
(´・(ェ)・`)つ

5 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、6、サビヤ

539 あなたは苦しみを滅ぼし、彼岸に達せられた方です。あなたは真の人(拝まれる人)です。あなたは完全にさとりを開かれた方です。
あなたは煩悩の汚れを滅ぼされた方だと思います。あなたは光輝あり、理解あり、智慧ゆたかな方です。苦しみを滅ぼした方よ。あなたはわたくしを救ってくださいました。

540 あなたはわたくしに疑惑のあるのを知って、わたくしの疑いをはらしてくださいました。わたくしはあなたに敬礼します。聖者の道の奥をきわめた人よ。心に荒みなき、太陽の末裔よ。あなたはやさしい方です。

541 わたくしが昔いだいていた疑問をあなたははっきりと説き明してくださいました。眼ある方よ。聖者よ。まことにあなたは<さとりを開いた人>です。あなたは、妨げの覆いがありません。

542 あなたの悩み悶えは、すべて破られ断たれています。あなたは清涼となり、身を制し、堅固で、誠実に行動する方です。

543 象の中の象王であり偉大な英雄であるあなたが説くときには、すべて神々は、ナーラダ、パッバタの両[神群]とともに随喜します。

544 尊い方よ。あなたに敬礼します。最上の人よ。あなたに敬礼します。神々を含めた全世界のうちで、あなたに比べられる人はおりません。

545 あなたは覚った人です。あなたは師です。あなたは悪魔の征服者です、賢者です。あなたは煩悩の潜在的な可能力を断って、みずから[彼岸に]渡りおわり、またこの人々を渡すのです。

546 あなたは生存の要因を超越し、諸々の煩悩の汚れを滅ぼしておられます、あなたは獅子です。何ものにもとらわれず、恐れおののきを捨てておられます。

547 麗しい百蓮華が泥水に染まらないように、あなたは善悪の両者に汚されません、雄々しき人よ、両足をお伸ばしなさい。サビヤは師を礼拝します。」

(´・(ェ)・`)つ

6 :
>>5
538
ブッダを称賛する10の偈。
ブッダの特徴、修行者にとっては修行の目標とすべきこと。
長部経典の梵網経の中で修行者達に62種類の見解があることが述べられている。63番目は有身見(永遠不滅の真我があるという見解)であると注釈書には書いてある。
諸々の修行者たちはこれらの見解に基づいて論争するが、これらの見解は観念と文字に依存しており、真実ではない。ブッダはこれらの見解の欠点を明らかにして、調伏して、論争の激流を終わらせた。
539
苦しみを滅ぼした方として称賛した。
彼岸(涅槃)に達した方。
真の人(拝まれる人)。完全にさとりを開かれた方(阿羅漢(人格完成者)として、正自覚者)。
煩悩を滅ぼし(煩悩を滅尽し)、光輝あり、理解あり、智慧ゆたかな方(光輝ある方として、思慧ある方として、多大なる知慧ある方になる。
540
「聖者の道の奥をきわめた人」
「温和な方」515参照。
温和とは、
@ 冷静で平等であること。無関心のように見えるが、執着がないこと。
A 念があるとは気づきがあること。自分の身口意の行動が自覚的であること。
B 生き物を殺さないこと。生き物に対する慈しみの心があること。
C 激流を渡ったこと。煩悩を克服したこと。
D 心に煩悩がないから、心には濁りがなく澄み切って透明であること。
E 情欲の高まりがなく、興奮することがないこと。
これらの特徴を持つ人。
「聖者の道の奥をきわめた」はA、Bなどから始めて、@、C、D、Eなどになる。
太陽の末裔(太陽の眷属)とは、ブッダを意味する。スッタニパータの54参照。
541
「あなたは、妨げの覆いがありません。」の意味は、あなたには心を覆って善をおこなわせないもの、智慧の力を弱めるものがない。具体的には五蓋(貪欲、瞋恚、沈鬱・眠気、興奮・後悔、疑い)。
542
前半は、悩み苦しみがすべてなくなったことを示す。解脱したこと。
後半は解脱すると、どのようになったかを示す。
@清涼になった(〔心が〕冷静になった)
。仏教用語では「捨」。
冷静で平等な判断。「悟りの光(智慧)が現れた」ということ。解脱すれば当然悟りの智慧が現れる。悟りの智慧が現れたから解脱したのだと言える。
どのようにしたら、解脱するかは、ブッダの言葉にいつも接していること。ブッダの言葉を実践すること。ブッダのある言葉が縁になって、ある時、解脱を望んでいれば、解脱するでしょう。
A身を制した(〔心身の〕調御を得た)
身口意の行為を制御できるようになる。
B堅固になった(〔道心〕堅固になった)
特に努力しなくとも、意志の強い人間になる。
C誠実に行動する(真の勤勉〔努力〕ある)行いはすべて誠実になる。優しさのあふれた人間になるから。
ブッダが解脱されたこと、そしてその結果@からCの性格であることを称賛している。
543
@象、A龍、Bすぐれた聖者(行者、とくに仏をさす)」
ナーラダ及びパッバタとは智慧のある神々の集団であると注釈書に書かれている。ナーラダ神群及びパッバタ神群を含めてすべての神々が、ブッダの説法を聞いて、大変喜ぶと述べられている
すべての神々も非常に喜んだということは、ブッダの解答(説法)は、ブッダの説法は時間や距離を超越している。
神々の世界は次元の異なる世界の象徴。ブッダの説法は地球の次元を超えた宇宙的な意味があることを神々という言葉で表現している。

(´・(ェ)・`)つ
つづく

7 :
>>5
544
「最上の人」
ブッダの九徳(九の性質)。
1.阿羅漢: 一切の煩悩を滅尽し、神々・人間の尊敬、供養を受けるに値する方。
2.正覚者: 完全たる悟りを最初に悟って、その悟りへの道を他に教えることのできる方。
3.明行具足者: 八種の智慧と十五の良い性格を具えた方
4.善逝(ぜんぜい): 正しく涅槃に達し、善く修行を完成し、正しく善い言葉を語る方。
5.世間解: 宇宙、衆生、諸行と言う3つの世界を知り尽くした方。
6.無上の調御丈夫: 人々を指導することにおいては無上の能力を持つ方。
7.天人師: 人間、神々などの一切衆生の唯一の師。
8.覚者(仏陀): 真理に目覚めた方。
9.世尊: すべての徳福を備えた方。
545
ブッダの六つの特徴。
1.覚った方:
四つの真理(四聖諦)をみずから覚り、自己の覚った道を世間に示し指導する方。
ブッダは覚りを四段階に分析し、十結(10の煩悩)と覚りの四段階の関係を明らかにした。
2.教師:
ブッダは阿羅漢果者。衆生が涅槃に至ることを願い、神々と人々を諭し、教えることができる方になる。
3.悪魔を征服する聖者:
欲界の支配者、覚りを妨害する悪魔を克服して、涅槃に至った聖者。
4.潜在的煩悩を断ち切った方。
苦の本体は「ナーマ・ルーパ(心・身体)」だと考察すると、顕在的煩悩は心に基づくもの、潜在的煩悩は身体に基づくものと考えると分かりやすい。
5.自ら渡った方:
彼岸(涅槃)に渡った。は激流(煩悩)を渡った。注釈書では輪廻を渡った。これらはすべて同じ内容。すべての煩悩をなくして、解脱して、涅槃に至ったこと。
6.人々を渡らせる方:
衆生が涅槃に至ることを願う方。
涅槃に至るかどうかは本人次第。
ブッダといえども、涅槃に至りたいと望まない人を渡らすことはできない。
546
生存の要因とは五蘊。五蘊は色受想行識(身体、感覚、表象、形成作用、認識)。これらを超越したとは、これらに執着しないこと。そのために、これらから自由でいるということ。
怖れおののくことない生命の象徴として獅子に例えている。
ブッダが怖れることがないのは執着がないから。怖れの原因は執着。執着がなければ恐れがない。
例えば、生命が一番執着しているものは、自分の命。どうしても生きていたいという執着がある。ですから死ぬのは怖い。殺されるのが怖い。
命に執着がなければ、死は怖くない。死も恐れないブッダには怖れるものは何もない。
547
ブッダが美しい白蓮華が泥水に汚されないように、善と悪の両方に汚されませんと述べている。ここで問題になるのは、何故悪だけでなく、善悪の両方なのかということ。
善にも汚されないと書いてある。何故善に心が汚されるのか?
ダンマパダ267、スッタニパータ520参照。
ものごとを良い悪いとこだわると心が静まらない。世間の塵とは欲や怒りのこと。これらの煩悩から離れると心は静まる。
善と判断しても、悪と判断しても単純には決められないということがある。善にも悪にも汚されることがない、動揺しない、静寂を保っている。

(´・(ェ)・`)つ

8 :
>>4 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
 学ぶのも修業の内なのじゃ。
 どんどん学ぶと善いのじゃ。

9 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、6、サビヤ

 そこで、遍歴の行者サビヤは尊き師(ブッダ)の両足に頭をつけて礼して、言った、
──「すばらしいことです、譬えば倒れた者を起こすように、覆われたものを開くように、方角に迷った者に道を示すように、あるいは『眼ある人々は色やかたちを見るであろう』といって暗闇の中で灯火をかかげるように、
ゴータマさま種々のしかたで真理を明らかにされました。ここでわたくしはゴータマ(ブッダ)さまに帰依したてまつる。また真理と修行僧のつどいとに帰依したてまつる。
わたくしは師のもとで出家したいのです。完全な戒律を受けたいのです。」

 (師はいわれた)、「サビヤよ。かって異説の徒であった者が、この教えと戒律とにおいて出家しようと望み、完全な戒律を受けようと望むならば、
かれは四カ月の間別に住む。四カ月たってから、もういいな、と思ったならば、諸々の修行僧はかれを出家させ、完全な戒律を受けさせて、修行僧となるようにさせる。
しかしこの場合は、人によって(期間の)差異のあることが認められる。」

 「尊いお方さま。もしもかつて異説の徒であった者が、この教えと戒律とにおいて出家しようと望み、完全な戒律を受けようと望むならば、かれは四カ月の間別に住み、
四カ月たってから、もういいな、と思ったならば、諸々の修行僧がかれを出家させ、完全な戒律を受けさせて、修行僧となるようにさせるのであるならば、
わたくしは(四カ月ではなくて)、四年間別に住みましょう。そうして四年たってから、もういいな、と思ったならば、諸々の修行僧はわたくしを出家させて、完全な戒律を受けさせて、修行僧となるようにさせてください。」

 さて遍歴の行者サビヤは(直ちに)師のもとで出家し、完全な戒律を受けた。それからまもなく、この長者サビヤは独りで他人から遠ざかり、怠ることなく精励し専心していたが、
やがて無上の清らかな行いの究極──諸々の立派に人々はそれを得るために正しく家を出て家なき状態に赴いたのであるが──を現世においてみずからさとり、証し、具現して日を送った。

「生まれることは尽きた。清らかな行いはすでに完成した。なすべきことをなしおえた。もはや再びこのような生存を受けることはない」とさとった。そうしてサビヤ長老は聖者の一人となった。

(´・(ェ)・`)つ

10 :
ナーマ、ルーパとは名前と形象なのじゃ。
言葉とイメージであり、観念の要素なのじゃ。
記憶に依って成立するものなのじゃ。 

11 :
>>10
鬼和尚、ありがとうであります。

ルーパ=形象=イメージが、ありのままの姿っいうことではなく、ルーパ=名前=言葉と同様に、記憶に依って成立するものであり、観念の要素なのでありますね。 

ナーマ、ルーパを 無視して対象を「ありのまま」をとらえる訓練が瞑想でありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ

12 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、7、セーラ

 わたくしが聞いたところによると、──或るとき師は大勢の修行僧千二百五十人とともにアングッタラーパ[という地方]を遍歴して、アーバナと名づけるアングッタラーパの或る町に入られた。
結髪の行者ケーニヤはこういうことを聞いた、「シャカ族の子である<道の人>ゴータマ(ブッダ)は、シャカ族の家から出家して、修行僧千二百五十人の大きなつどいとともに、アングッタラーパを遍歴して、アーバナに達した。
そのゴータマさまには、次のような好い名声があとずれている。
──すなわち、かの師は、真の人・さとりを開いた人・明知と行いを具えた人・幸せな人・世間を知った人・無上の人・人々を調える御者・神々と人間との師・目ざめた人(ブッダ)・尊い師であるといわれる。
かれは、みずからさとり、体得して、神々・悪魔・梵天を含むこの世界や<道の人>・バラモン・神々・人間を含む生けるものどもに教えを説く。
かれは、初めも善く、中ほども善く、終りも善く、意義も文字もよく具わっている教えを説き、完全円満で清らかな行いを説き明かす、と。ではそのような立派な尊敬さるべき人ら見えるのは幸せ、みごとな善いことだ。」
 そこで結髪の行者ケーニヤは師のおられるところに赴いた。そうして、師に挨拶した。
喜ばしい、思い出の挨拶のことばを交わしたのち、かれは傍らに坐した結髪の行者ケーニヤに対して師は法に関する話を説いて、指導し、元気づけ、喜ばされた。
結髪の行者ケーニヤは、師に法に関する話を説かれ、指導され、元気づけられ、喜ばされて、師にこのように言った、「ゴータマさまは修行僧の方々とともに、明日わたくしのささげる食物をお受けください。」

 そのように告げられて、師は結髪の行者ケーニヤに向かって言われた、「ケーニヤよ。修行僧のつどいは大勢で、千二百五十人もいます。またあなたはバラモンがたを信奉しています。」

 結髪の行者ケーニヤは再び師に言った、「ゴータマさま。修行僧の方々は大勢で、千二百五十人もいるし、またわたくしはバラモンがたを信奉していますが、しかしゴータマさまは修行僧の方々とともに、明日わたくしのささげる食物をお受けください。」

 師は結髪の行者ケーニヤに再び言われた、「ケーニヤよ。修行僧のつどいは大勢で、千二百五十人もいます。またあなたはバラモンがたを信奉しています。」

(´・(ェ)・`)つ

13 :
>>11 そうではないのじゃ。
 自らの認識、自我もナーマ・ルーパによって行われていると気付いて自我は厭離されるのじゃ。
 それが観念で゜しかないものと気付くからなのじゃ。
 そしてナーマ・ルーパによる観念の働きも観察し、厭離して無認識に至るのじゃ。
 それが大悟徹底なのじゃ。

14 :
>>13
鬼和尚ありがとうであります。
人が認識し得るものは全て、ルーパ=名前=言葉やルーパ=形象=イメージとして、記憶にとどめられるもののみでありましょうから、 
>自らの認識、自我もナーマ・ルーパによって行われている

そのナーマ・ルーパの与えられていないありのままの世界に気づこうとするのではなく、認識し得るものは全て、ナーマ・ルーパであるのだと気付気さえすればよいのでありますか?
言葉にできないこと、イメージできないことは、存在している、現象していると言えないわけで、
自我や認識も、その範疇のもねに過ぎないと、ありありと実感をもって気付けば良いだけなのでありますか?
(´・(ェ)・`)つ

15 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、7、セーラ

 結髪の行者ケーニヤは三たび師に言った、
「ゴータマさま。修行僧のつどいは大勢で、千二百五十人もいるし、またわたくしはバラモンがたを信奉していますが、しかしゴータマさまは修行僧の方々とともに、明日わたくしのささげる食物をお受けください。」
師は沈黙によって承諾された。

 そこで結髪の行者ケーニヤは、師が承諾されたのを知って、座から起って、自分の庵に赴いた。それから、友人・朋輩・近親・親族に告げていった、「友人・朋輩・近親・親族の皆さん。わたくしのことばをお聞きなさい。
わたくしは<道の人>ゴータマを修行僧の方々とともに、明日の食事に招待しました。だから皆さんは、身を動かしてわたくしに手伝ってください。」

 結髪の行者ケーニヤの友人・朋輩・近親・親族は、「承知しました」と、かれに答えて、或る者は竈の坑を掘り、或る者は薪を割り、或る者は器を洗い、或る者は水瓶を備えつけ、或る者は座席を設けた。
また結髪の行者ケーニヤはみずから(白い帳を垂れた)円い集会場をしつらえた。

 ところでそのときセーラ・バラモンはアーバナに住んでいたが、かれは三ヴェーダの奥義に達し、語彙論・活用論・音韻論・語源論(第四のアタルヴァ・ヴェーダと)第五としての史詩に達し、語句と文法に通じ、順世論や偉人の観相に通達し、
三百人の少年にヴェーダの聖句を教えていた。
そのとき結髪の行者ケーニヤはセーラ・バラモンを信奉していた。

 ときにセーラ・バラモンは三百人の少年に取り巻かれていたが、(長く坐っていたために生じた疲労を除くために)膝を伸ばす散歩をし、あちこち歩んでいたが、結髪の行者ケーニヤの庵に近づいた。
そこでセーラ・バラモンは、ケーニヤの庵に属する結髪の行者たちが、或る者は竈の坑を掘り、或る者はは水瓶を備えつけ、或る者は座席を設け、また結髪の行者ケーニヤはみずから円い集会場をしつらえているのを見た。
見てから結髪の行者ケーニヤに問うた、
「ケーニヤさんは息子の嫁取りがあるのでしょうか? あるいは息女の嫁入りがあるのでしょうか? 大きな祭祀が近く行われるのですか? あるいはマガダ王セーニヤ・ビンビサーラが軍隊とともに明日の食事に招待されたのですか?」

(´・(ェ)・`)つ

16 :
>>14 そうじゃ、自らの心の働きに気付くことで観念の無い認識も回帰するのじゃ。
 そしてありのままの世界も観られるのじゃ。
 自らの心の働きを今ここで観ることが全てなのじゃ。

17 :
>>16
鬼和尚ありがとうであります。
観念を越えた向こう側と言うか、観念のない世界というか、「ありのまま」の世界を妄想することはやめて、
ナーマ、ルーパによる観念の働きを素直にそのまま観察し続けることにより、「気づき」がもたらされる、というようなことでありましょうかね。
(´・(ェ)・`)つ

18 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、7、セーラ

 「セーラよ。わたくしには息子の嫁取りがあるのでもなく、息女の嫁入りがあるのでもなく、マガダ王セーニヤ・ビンビサーラが軍隊とともに明日の食事に招かれているのでもありません。
そうではなくて、わたくしは近く大きな祭祀を行うことになっています。シャカ族の子・道の人ゴータマ(ブッダ)は、シャカ族の家から出家して、アングッタラーパ国を遊歩して、大勢の修行僧千二百五十人とともにアーバナに達しました。
そのゴータマさまには次のような好い名声がおとずれている。
──すなわち、かの師は、真の人・さとりを開いた人・明知と行いを具えた人・幸せな人・世間を知った人・無上の人・人々を調える御者・神々と人間との師・目ざめた人(ブッダ)・尊き師であるといわれる。
わたくしはあの方を修行僧らとともに明日の食事に招きました。」

 「ケーニヤさん。あなたはかれを<目ざめた人>(ブッダ)と呼ぶのか?」
 「セーラさん。わたくしはかれを<目ざめた人>と呼びます。」
 「ケーニヤさん。あなたはかれを<目ざめた人>と呼ぶのか?」
 「セーラさん。わたくしはかれを<目ざめた人>と呼びます。」

 そのときセーラ・バラモンは心に思った。「<目ざめた人>という語を聞くことは、世間においてはむずかしいのである。
ところでわれわれの聖典の中に偉人の相が三十二伝えられている。それを具えている偉人にはただ二つの途があるのみで、その他の途はありえない。
[第一に]もしもかれが在家の生活を営むならば、かれは転輪王となり、正義を守る正義の王として四方を征服して、国土人民を安定させ、七宝を具有するに至る。
すなわちかれは輪という宝・象という宝・馬という宝・珠という宝・資産者という宝・及び第七に指揮者という宝が現われるのである。
またかれには千人以上の子があり、みな勇敢で雄々しく、外敵をうち砕く。かれは、四海の果てるに至るまで、この大地を武力によらず刀剣を用いずに、正義によって征服して支配する。
[第二に]しかしながら、もしもかれが家から出て出家者となるならば、真の人・覚りを開いた人となり、世間における諸々の煩悩の覆いをとり除く」と。

(´・(ェ)・`)つ

19 :
>>18
三十二の<偉人の相>
1. 足下安平立相(そくげあんぴょうりゅうそう)足の裏が平らで、地を歩くとき足裏と地と密着して、その間に髪の毛ほどの隙もない(扁平足)。
2. 足下二輪相(そくげにりんそう)足裏に輪形の相(千輻輪)が現れている。仏足石はこれを表したもの。
3. 長指相(ちょうしそう)10本の手指(もしくは手足指)が長くて繊細なこと。
4. 足跟広平相(そくげんこうびょうそう)足のかかとが広く平らかである。
5. 手足指縵網相(しゅそくしまんもうそう)手足の各指の間に、鳥の水かきのような金色の膜がある。
6. 手足柔軟相(しゅそくにゅうなんそう)手足が柔らかで色が紅赤であること。
7. 足趺高満相(そくふこうまんそう)足趺すなわち足の甲が亀の背のように厚く盛り上がっている。
8. 伊泥延相(いでいえんせんそう)足のふくらはぎが鹿王のように円く微妙な形をしていること。伊泥延は鹿の一種。
9. 正立手摩膝相(しょうりゅうしゅましっそう)正立(直立)したとき両手が膝に届き、手先が膝をなでるくらい長い。
10. 陰蔵相(おんぞうそう)馬や象のように陰相が隠されている(男根が体内に密蔵される)。
11. 身広長等相(しんこうじょうとうそう)身体の縦広左右上下の量が等しい(身長と両手を広げた長さが等しい)。
12. 毛上向相(もうじょうこうそう)体の全ての毛の先端が全て上になびき、右に巻いて、しかも紺青色を呈し柔軟である。
13. 一一孔一毛相(いちいちくいちもうそう)身体の毛穴にはすべて一毛を生じ、その毛孔から微妙の香気を出し、毛の色は青瑠璃色である。
14. 金色相(こんじきそう)身体手足全て黄金色に輝いている。
15. 丈光相(じょうこうそう)身体から四方各一丈の光明を放っている(いわゆる後光(ごこう))。光背はこれを表す。
16. 細薄皮相(さいはくひそう)皮膚が軟滑で一切の塵垢不浄を留めない。
17. 七処隆満相(しちしょりゅうまんそう)両掌と両足の裏、両肩、うなじの七所の肉が円満で浄らかである。
18. 両腋下隆満相(りょうやくげりゅうまんそう)両腋の下にも肉が付いていて、凹みがない。
19. 上身如獅子相(じょうしんにょししそう)上半身に威厳があり、瑞厳なること獅子王のようである。
20. 大直身相(だいじきしんそう)身体が広大端正で比類がない。
21. 肩円満相(けんえんまんそう)両肩の相が丸く豊かである。円満。
22. 四十歯相(しじゅうしそう)40本の歯を有し、それらは雪のように白く清潔である(常人は32歯)。
23. 歯斉相(しさいそう)歯はみな大きさが等しく、硬く密であり一本のように並びが美しい。
24. 牙白相(げびゃくそう)40歯以外に四牙あり、とくに白く大きく鋭利堅固である。
25. 獅子頬相(ししきょうそう)両頬が隆満して獅子王のようである。
26. 味中得上味相(みちゅうとくじょうみそう)何を食べても食物のその最上の味を味わえる。
27. 大舌相(だいぜつそう)舌が軟薄で広く長く、口から出すと髪の生え際にまで届く。しかも、口に入っても一杯にはならない。
28. 梵声相(ぼんじょうそう)声は清浄で、聞く者をして得益無量ならしめ、しかも遠くまで聞える。
29. 真青眼相(しんしょうげんそう)眼は青い蓮華のように紺青である。
30. 牛眼瀟睫相(ぎゅうごんしょうそう)睫が長く整っていて乱れず牛王のようである。
31. 頂髻相(ちょうけいそう)頭の頂の肉が隆起して髻(もとどり)の形を成している。肉髻(にくけい)の事。
32. 白毫相(びゃくごうそう)眉間に右巻きの白毛があり、光明を放つ。伸びると一丈五尺ある。

釈迦の風貌や身体的特徴を後世に伝えたかったのでありましょうか?それとも、パラモンの世界ではこんな伝説があったのでありましょうかね?。
(´・(ェ)・`)つ

20 :
>>17 そうじゃ、自らの本心を観ることが修業なのじゃ。

>>19 伝説なのじゃ。
 全部そろうと電光看板みたいなのじゃ。
 

21 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、7、セーラ

 「ケーニヤさん。では真の人・覚りを聞いた人であられるゴータマさまは、いまどこにおられるのですか?」

 かれがこのように言ったときに、結髪の行者ケーニヤは、右腕を差し伸ばして、セーラ・バラモンに告げていった、「セーラさん。この方角に当って一帯の青い林があります。(そこにゴータマさまはおられるのです)。」

 そこでセーラ・バラモンは三百人の少年とともに師のおられるところに赴いた。そのときセーラ・バラモンはそれらの少年たちに告げていった、
「きみたちは(急がすに)小股に歩いて、響きを立てないで来なさい。諸々の尊き師は獅子のように独り歩む者であり、近づきがたいからです。
そうしてわたしが<道の人>ゴータマと話しているときに、きみたちは途中でことばを挿んではならない。きみたちはわたしの話が終るのを待て。」

 さてセーラ・バラモンは尊き師のおられるところに赴いた。そこで、師に挨拶した。喜ばしい、思い出の挨拶のことばを交わしたのち、かれは傍らに坐した。
それから、セーラ・バラモンは師の身に三十二の<偉人の相>があるかどうかを探した。セーラ・バラモンは、師の身体に、ただ二つの相を除いて、三十二の偉人の相が殆んど具わっているのを見た。
ただ二つの<偉人の相>に関しては、(それらがはたして師にあるかどうかを)かれは疑い惑い、(<目ざめた人(ブッダ)>)であるということを)信用せず、信仰しなかった。その二つとは体の膜の中におさめられた隠所と広長舌相とである。

 そのとき師は思った、「このセーラ・バラモンはわが身に三十二の偉人の相を殆んど見つけているが、ただ二つの相を見ていない。
ただ体の膜の中におさめられた隠所と広長舌相という二つの偉人の相に関しては、(それらがはたしてわたくしの身にあるかどうかを)かれは疑い惑い、(目ざめた人(ブッダ)であるということを)信用せず、信仰してしない」と。

 そこで師は、セーラ・バラモンが師の体の膜の中におさめられた隠所を見得るような神通を示現した。次に師は舌を出し、舌で両耳孔を上下になめまわし、両耳孔を上下になめまわし、前の額を一面に舌で撫でた。

(´・(ェ)・`)つ

22 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、7、セーラ

 そこでセーラ・バラモンは思った、──「道の人ゴータマは三十二の偉人の相を完全に身に具えていて、不完全ではない。しかしわたしは、『かれがブッダであるか否か』ということをまだ知らない。
ただわたしは、年老い齢高く師またはその師であるバラモンたちが『諸々の<尊敬さるべき人、完全な覚りを開いた人>は、自分が讃嘆されるときには、自身を示現する』と語るのを聞いたことがある。
さあ、わたしは、適当な詩を以て、<道の人>ゴータマ(ブッダ)をその面前において讃嘆しましょう」と。そこでセーラ・バラモンはふさわしい詩を以て尊き師をその面前において讃嘆した。──

548 「先生! あなたは身体が完全であり、よく輝き、生れも良く、見た目も美しい。黄金の色があり、歯は極めて白い。あなたは精力ある人です。

549 実に、生れの良い人の具えるすがた・かたちは、すべて、偉人の相として、あなたの身体のうちにあります。

550 あなたは、眼が清らかに、容貌も美しく、(身体は)大きく、真っ直ぐで、光輝あり、<道の人>の群の中にあって、太陽のように輝いています。

551 あなたは見るも美しい修行者(比丘)で、その膚は黄金のようです。このように容色が優れているのに、どうして<道の人>となる必要がありましょうか。

552 あなたは転輪王(世界を支配する帝王)となって、戦車兵の主となり、四方を征服し、ジャンブ州(全インド)の支配者となるべきです。

553 クシャトリヤ(王侯たち)や地方の王どもは、あなたに忠誠を誓うでしょう。ゴータマ(ブッダ)よ。王の中の王として人類の帝王として、統治をなさってください。」

554 師(ブッダ)は答えた、「セーラよ。わたくしは王ではありますが、無上の真理の王です。真理によって輪をまわすのです。──(だれも)反転しえない輪を。」

555 セーラ・バラモンがいった、「あなたは<完全にさとった者>であると、みずから称しておられます。ゴータマ(ブッダ)よ。あなたは『われは<無上の真理の王>であり、法によって輪をまわす』と説いておられます。

(´・(ェ)・`)つ

23 :
>>21
548
「よく輝き」は.「 丈光相(じょうこうそう)」と言われる。身体から四方各一丈の光明を放っている(いわゆる後光(ごこう))。光背はこれを表している。

「生れも良く」は
「上身如獅子相(じょうしんにょししそう):上半身に威厳があり、瑞厳なること獅子王のようである。」
「 大直身相(だいじきしんそう):身体が広大端正で比類がない。」
「肩円満相(けんえんまんそう):両肩の相が丸く豊かである。円満。」ということ。

「見目も美しい」は「真青眼相(しんしょうげんそう:眼は青い蓮華のように紺青である。)特に瞳が透き通って美しいと言われている。

「黄金の色があり」は「 金色相(こんじきそう):身体手足全て黄金色に輝いている。」ということです。

「歯は極めて白い」は「 四十歯相(しじゅうしそう):40本の歯を有し、それらは雪のように白く清潔である(常人は32歯)」、
「 歯斉相(しさいそう):歯はみな大きさが等しく、硬く密であり一本のように並びが美しい。」、
「牙白相(げびゃくそう):40歯以外に四牙あり、とくに白く大きく鋭利堅固である。」

554
「真理の輪(法輪)を転ずる」とは、真理を人類に明らかにすることです。それは人類ばかりでなく神々にも最高の福音で、そのため法輪が転じられた時、地の神々から宇宙の神々まで讃嘆の声を発しました。

(´・(∀)・`)つ
たしかに、電光看板みたいであり、目が青く、歯が40本ある、扁平足の宇宙人みたいでありますね。

お釈迦さんの側でつかえた人達が、お釈迦さんは凄い人だったんだよって、いくら言っても伝わらず、少しづつ尾ひれがついて、いつのまにか、電光看板みたいな宇宙人になってしまったのかもでありますね。

24 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、7、セーラ

556 では、誰が、あなたの将軍なのですか? 師の相続者である弟子は、誰ですか? あなたがまわされたこの<真理の輪>を、誰が(あなたに)つづいてまわすのですか?」

557 師が答えた、「セーラよ。わたしがまわした輪、すなわち無上の<真理の輪>(法輪)を、サーリプッタがまわす。かれは<全き人>につづいて出現した人です。

558 わたしは、知らねばならぬことをすでに知り、修むべきことをすでに修め、断つべきことをすでに断ってしまった。それ故に、わたしは<さとった人>(ブッダ)である。バラモンよ。

559 わたしに対する疑惑をなくせよ。バラモンよ。わたしを信ぜよ。もろもろの<さとりを開いた人>に、しばしば見えることは、いともむずかしい。

560 かれは(さとりを開いた人々)が、しばしば世に出現することは、そなたらにとって、いとも得がたいことであるが、わたしは、その<さとった人>なのである。バラモンよ、わたしは(煩悩の)矢を抜き去る最上の人である。

561 わたしは神聖な者であり、無比であり、悪魔の軍勢を撃破し、あらゆる敵を降服させて、なにものをも恐れることなしに喜ぶ。」

562 (セーラは弟子どもに告げていった)、──「きみたちよ。眼ある人の語るところを聞け。かれは(煩悩の)矢を断った人であり、偉大な健き人である。あたかも、獅子が林の中で吼えるようなものである。

563 神聖な者、無比なる者、悪魔の軍勢を撃破する者、を見ては、だれが信ずる心をいだかないであろうか。たとい、色の黒い種族の生れの者でも、(信ずるであろう)。

564 従おうと欲する者は、われにわれに従え。また従いたくない者は、去れ。わたしもすぐれた智慧ある人のもとで出家しましょう。」

565 (セーラの弟子どもが言った)、──「もしもこの<完全にさとった人>の教えを、 先生が喜ばれるのでしたら、わたくしたちもまた、すぐれた智慧ある人のもとで、出家しましょう。」

566 (セーラは言った)、──「これら三百人のバラモンたちは、合掌してお願いしています。『先生! わたくしたちは、あなたのみもとで、清らかな行いを実践しましょう。』

567 師(ブッダ)が答えた──「セーラよ。清らかな行いが、みごとに説かれている。それは目のあたり、即時に果報をもたらす。怠りなく道を学ぶ人が、出家して(清らかな行いを修めるのは)空しくはない」

(´・(ェ)・`)つ

25 :
>>24
556
王は統括者。自らは執行の最前線には立たない。王の命令の執行者は誰なのかと聞いている。

557
「如来に続いて生まれた」
如来を縁として、如来に従って如来になったということ。サーリプッタ尊者は世尊に続いて、如来になられた方。
くまでも知ってる、般若心経で登場する舎利子さんは、ブッタの後継者、執行者として指名されてる偉い人だったのでありますね。
558
「知らねばならないこと」とは、四聖諦。
「修むべきこと」とは、四聖諦の道諦。
「断つべきこと」とは、四聖諦の集諦。
その結果、「苦の滅尽という真理」(苦滅諦)を体験した。
それ故に「私は覚者だ」と明言した。

561
実は、正覚者に対する疑いをなくすことは難しい。なぜならば、覚ってない者が覚った方を見分けるということだから。
それで、三十二相などの外見を見ることや面会して質問をするなどが必要だった。

567
「梵行はみごとに説かれた。」
出家を願い出ることは梵行であり、その結果は現実のものであり、その結果はすぐ現れるのだと説いた。それはつまり彼らの出家が許されたということ。

「怠りなく道を学ぶ人が、出家して(清らかな行いを修めるのは)空しくはない」
「怠りなく」とは仏教用語では不放逸。
単に「怠けない」ということではなく、心が煩悩によって汚れないように、気づきを怠らないという意味。これは覚りに導く大切な言葉。
「空しくない」は消極的な表現ようであるが、出家とは解脱を志す決意の一つの表現。
(´・(ェ)・`)つ

26 :
>>23 そうじゃ、伝説なのじゃ。
 

27 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、7、セーラ

セーラ・バラモンは仲間とともに師のもとで出家して、完全な戒律を受けた。

 ときに、結髪の行者ケーニヤは、その夜が過ぎてから、自分の庵で味のよい硬軟の食物を用意させて、師に時の来たことを告げて、「ゴータマ(ブッダ) さま。時間です。食事の用意ができました」と言った。
そこで師は午前中に内衣を着け、重衣をきて、鉢を手にとって、結髪の行者ケーニヤの庵に赴いた。そうして、修行僧のつどいとともに、あらかじめ設けられた席についた。
それから結髪の行者ケーニヤは、ブッダを初め修行僧らに、手ずから、味のよい硬軟の食物を給仕して、満足させ、あくまでもてなした。
そこで結髪の行者ケーニヤは、師が食事を終り鉢から手を離したときに、みずから一つの低い座を占めて、傍らに坐した。そうして結髪の行者ケーニヤに、師は次の詩を以て、喜びの意を表した。──
568 火への供養は祭祀のうちで最上のものである。サーヴィトリー[讃歌]はヴェーダの詩句のうちで最上のものである。王は人間のうちでは最上の者である。大洋は、諸河川のうちで最上のものである。

569 月は、諸々の星のうちで最上のものである。太陽は、輝くもののうちで最上のものである。修行僧の集いは、功徳を望んで供養を行う人々にとって最上のものである。

 師はこれらの詩を唱えて結髪の行者ケーニヤに喜びの意を示して、座から起って、去って行かれた。

(´・(ェ)・`)つ

28 :
>>27
568
ケーニヤさんが信奉している火の供養を最上とした。
サーヴィトリー賛歌とはインドの古典「リグ・ヴェーダの中にある太陽神(サーヴァトリー)に対する賛歌。これは諸ヴェーダを学ぶにあたって、第一に学ぶべきものなので、最上とした。
569
ケーニヤさんが僧団(サンガ)に食事の供養することは、功徳(福徳)を求める人々にとっては最上のものであることが、王、海、月、太陽のように最上であることを理解させた。

(´・(ェ)・`)つ

29 :
「ガーヤトリー・マントラ」
ヒンドゥー教において最高峰のマントラといわる。

紀元前12世紀頃に編纂されたリグ・ヴェーダにあらわれるこのガーヤトリー・マントラは、太陽神サヴィトリへの賛歌。聖仙ヴィシュヴァーミトラは、太陽の中に神(ブラフマン)を見出し、無限の力を引き出すガーヤトリー・マントラを発見した。

ガーヤトリー・マントラには、生きとし生けるものに命を与える太陽という最高の光が、私たちの心を照らし、知識を授け、正しい道へと導いてくれるよう、叡知を司る祈りが込められています。

「ガーヤトリー」とは、もともと韻律の一種であり、8音節の句を3つ重ねた、合計24音節からなる詩形を意味します。
後に、ガーヤトリーは神格化され、ガーヤトリー女神として崇められるようになりました。
ガーヤトリー・マントラが記されたヴェーダは、「知識」を意味し、ヒンドゥー教においてもっとも尊ばれる聖典であり、ガーヤトリー女神は人々の無知を取り除くヴェーダの母として崇められています。

om bhrbhuva sva
tat savitur vareya bhargo devasya dhmahi
dhiyo yo na pracodayt
オーム ブールブヴァハ スヴァハ
タット サヴィトゥル ヴァレーニャン バルゴー デーヴァッシャ ディーマヒ
ディヨー ヨー ナハ プラチョーダヤートゥ
(オーム 地よ、空よ、天よ
我らが、彼(か)の太陽神の愛でたき神の光輝を獲得せんことを
我が為に、彼が知性を鼓舞せんことを)

(´・(ェ)・`)つ

30 :
それがマントラなのじゃ。
神への祈りなのじゃ。
お釈迦様の元でも普通に唱えられていたのじゃ。

31 :
>>30

32 :
>>30
鬼和尚、ありがとうであります。
ヴェーダ、サヴィトリへ賛歌を探していて、見つけたサイトからの抜粋であります。
昔、十三仏真言を暗記して唱えてたことあるのでありますが、
これはサンスクリットなので、覚えるのたいへんそうであります。

オーム ブールブヴァハ スヴァハ
タット サヴィトゥル ヴァレーニャン バルゴー デーヴァッシャ ディーマヒ
ディヨー ヨー ナハ プラチョーダヤートゥ
(オーム 地よ、空よ、天よ
我らが、彼(か)の太陽神の愛でたき神の光輝を獲得せんことを
我が為に、彼が知性を鼓舞せんことを)


オーム ブゥ ブヴァ スァファ
物質的な世界 微妙な心の世界  因果の世界
タァ サヴィトゥ ヴァアレェエニャム
あの  宇宙の究極の実在を  あがめます
バァゴォ デヴァアシャ ディイマヒ
この究極の輝き  叡智の実在を、 深く瞑想します

サイトによって、発音のカタカナ表記も、意味も違うであります。
マントラは意味より音が大事らしいので、YouTubeとが探して聞いてみるであります。
(´・(ェ)・`)つ

33 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、7、セーラ

 そこでセーラさんは、自分の仲間とともに、独りで他人から遠ざかり、怠ることなく、精励し専心していたが、まもなく
──諸々の立派な人々がそれらを得るために正しく家を出て家なきに赴く目的であるところの──
無上の清らかな行いの究極を現世においてみずからさとり、得し、具現していた。
「(迷いの生存のうちに)生まれることは消滅した。清らかな行いはすでに完成した。なすべきことをなしおえた。もはや再びこのような生存を受けることはない」とさとったそしてセーラさんとその仲間とは、聖者の一人一人となった。

 そののちセーラさんはその仲間とともに師のおられるところに赴いた。そうして、衣を一方の(左の)肩にかけて[右肩を洗わして]、師に向かって合掌し、次の詩を以て師に呼びかけた。──

570 「先生! 眼ある方よ。今から八日以前に、われらはあなたに帰依しましたが、七日のあいだに、われらはあなたの教えの中で身をととのえました。

571 あなたは覚った方(ブッダ)です。あなたは師です。
あなたは悪魔を征服した聖者です。
あなたは煩悩の潜在的な可能力を断って、
みずから渡りおわり、またこの人々を渡してくださいます。

572 あなたは生存の素因を超越し、
諸々の煩悩の汚れを滅ぼしておられます。
あなたは執著することのない獅子のようです。
恐れおののきを捨てておられます。

573 これら三百人の修行僧は、
合掌して立っています。
健き人よ、足をお伸ばしください。
諸々の竜(行者)をして師を拝ませましょう。」
(´・(ェ)・`)つ

34 :
>>33
570
帰依から八日目に、つまり七夜の間修行した結果を世尊に報告した。「われらはあなたの教えの中で身をととのえました。」と過去形で報告。修行をし終わったということ。
サーラさんとその弟子達は、一週間で悟った。これはブッダという帰依所の威力と、その教を正しく理解して、真理に帰依した人は直ちに悟ることができることを示している。
(´・(ェ)・`)つ
ガーヤトリー・マントラ、サイババの歌うようなYouTubeを見つけたであります。

35 :
善かったのじゃ。
お釈迦様も聞いたじゃろう。
いろいろ学ぶとよいのじゃ。

36 :
>>35
鬼和尚、ありがとうであります。
短いし、発音も難しくないのでこれならくまでも暗記できそうであります。
(´・(ェ)・`)つ

37 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、8、矢

574 この世における人々の命は、定まった相なく、どれだけ生きられるかも解らない。惨ましく、短くて、苦悩をともなっている。

575 生まれたものどもは、死を遁れる道がない。老いに達しては、死ぬ。実に生ある者どもの定めは、このとうりである。

576 熟した果実は早く落ちる。それと同じく、生まれた人々は、死なねばならぬ。かれらにはつねに死の怖れがある。

577 たとえば、陶工のつくった土の器が終りにはすべて破壊されてしまうように、人々の命もまたそのとうりである。

578 若い人も壮年の人も、愚者も賢者も、すべて死に屈服してしまう。すべての者は必ず死に至る。

579 かれらは死に捉えられてあの世に去って行くが、父もその子を救わず親族もその親族を救わない。

580 見よ。見まもっている親族がとめどもなく悲嘆にくれているのに、人は屠所に引かれる牛のように、一人ずつ、連れ去られる。

581 このように世間の人々は死と老いとによって害われる。それ故に賢者は、世のなりゆきを知って、悲しまない。

582 汝は、来た人の道を知らず、また去った人の道を知らない。汝は(生と死の)両端を見きわめないで、わめいて、いたずらになき悲しむ。

583 迷妄にとらわれて自己を害なっている人が、もしもなき悲しんでなんらかの利を得ることがあるならば、賢者もそうするがよかろう。

(´・(ェ)・`)つ

38 :
>>37
574
「死」は人間の苦しみの中で最大のものであろう。死への恐怖が苦しみの原因になっている。多くの欲望も死を避けたいというところからくる。死を深く理解し、死を受容できれば、ほとんどの苦しみがなくなる。
仏教では死を観察することを重要な修行方法の一つとしている。
575
「生まれた者は死ぬということは法則であり、老いに至れば死に至るが、老いに至らなくても死ぬ。死に老若の決まりはない。」と述べた。
576
人間はいつ死ぬか分からない。死は恐怖なので、人間にはいつも死の恐怖がある。
人間には死は必ず起きることであるが、それを見ないようにしている人々に、いろいろな譬えを使って、死ぬことを自覚させようとしている。
577
生命は心と身体によって構成されている。通常死という場合は身体の死を意味している。熟れた果物や今回の陶器は生命の身体の部分の譬え。生命の身体は変化を続け、老化して、形をとどめておくことが出来なくなって、壊れてる。
では心はどうなっているのか?仏教では心は非常に速いスピードで生まれ、死ぬと考えている。ただし、前に死んだ心を縁として、次の心が生まれる。そのため、一つの心が続いているように感じられるが、実は心は絶えず生滅を繰り返している。
そのような心と肉体が結びついて、生命は生きている。通常言われている生命の死とは生命の身体から心が離れること。身体から心が離れた時「死んだ」という。
心が身体にある間は、身体は老化を続けるが、まだ生きている。しかし、心が身体に留まることが出来なくなって、身体から離れると死と言う現象が起こり、身体は老化ではなく、腐敗するという現象に変わる。
身体から離れた心は、新しい肉体に宿ることになる。身体から離れた心は心の状態にふさわしい身体に宿る。
神々にふさわしい心ならば神々の身体にやどり、人間にふさわしい心ならば人間として母胎に宿り、赤ん坊として生まれる。悪い心であれば、地獄とか、その心にふさわしい生命(畜生、餓鬼、阿修羅)に宿る。これが輪廻と言われる現象。
ですから心は善い心の状態にしておいた方がよい。いつ死ぬか分からないから。死ぬ前だけ善い心というわけにはいかないから。
578
どんな人間も死ぬという事実の前では平等であると言うことが述べられている。
580
人間は生まれたら必ず死ぬのですから、人は死を悲しむのであれば、生まれた時、喜ぶよりは悲しんだ方が合理的であるように思います。しかし、実際は人は生まれる時は喜び、死ぬ時悲しむ。
この不合理、人間の愚かさについて、ただ事実を述べている。
581
賢者は「生まれた者は必ず死ぬことは定め」をよく理解して、この定めに抵抗して、嘆き悲しむというようなことはしない。この道理を知って、あなたは賢者の仲間になるのか、世間の凡夫として留まるかはあなた次第。
582
死んだ人を悔やんで泣く人は、死んだ人が何処から来て(生まれて来て)、死んでどこに行くのか知らない。死んで善い所に行くのであれば、喜んであげるのが正しい態度ではないか。
もっとも、死んだ人が何処から来て、何処に行くか分かる人はいない、それを知らないで、無意味に泣くということはおかしいとは述べている。
583
嘆き悲しんでもどうにもならないことに対して嘆き悲しむと、心が混乱して、自分自身を苦しめるだけだと言う。
もし、嘆き悲しむことで、何かほんの少しでも良い事があるのならば、聡明な賢者も嘆き悲しむだろうが、
そのようなことはないのだから、賢者は決してそのようなことをしない。
(´・(ェ)・`)つ

39 :
そうじゃ、人は死ぬ定めにあるが多くの者はその真実から目を背けているのじゃ。
そして本心をも見失ってしまうのじゃ。
このように死を語るのも死を超える道があるからなのじゃ。
死を超える道を知る者は死から目を逸らさないようになるのじゃ。

40 :
>>39
>全てが一つと知れば死は木の葉が樹から落ちるものの如しと知って死は無いと知る
ので、ありますね。
無我を実感できれば、死を恐れる主体もなく、そもそも死ぬ主体がいないのでありますね。
(´・(ェ)・`)つ

41 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、8、矢

584 泣き悲しんでは、心の安らぎは得られない。ただかれにはますます苦しみが生じ、身体がやつれるだけである。

585 みずから自己を害いながら、身は痩せ醜くなる。そうしたからとて、死んだ人々はどうにもならない。嘆き悲しむのは無益である。

586 人が悲しむのをやめないならば、ますます苦悩を受けることになる。亡くなった人のことを嘆くならば、悲しみに捕らわれてしまったのだ。

587 見よ。他の(生きている)人々はまた自分のつくった業にしたがって死んで行く。かれら生あるものどもは死に捕らえられて、この世で慄えおののいている。

588 ひとびとがいろいろと考えてみても、結果は意図とは異なったものとなる。壊れて消え去るのは、このとうりである。世の成りゆくさまを見よ。

589 たとい人が百年生きようとも、あるいはそれ以上生きようとも、終には親族の人々すら離れて、この世の生命を捨てるに至る。

590 だから(尊敬されるべき人)の教えを聞いて、人が死んで亡くなったのを見ては、「かれはもうわたしの力の及ばぬものなのだ」とさとって、嘆き悲しみを去れ。

591 たとえば家に火がついているのを水で消し止めるように、そのように知慧ある聡明な賢者、立派な人は、悲しみが起こったのを速やかに滅ぼしてしまいなさい。──譬えば風が綿を吹き払うように。

592 已が悲嘆と愛執と憂いとを除け。已が楽しみを求める人は、已が(煩悩の)矢を抜くべし。

593 (煩悩の)矢を抜き去って、こだわることなく、心の安らぎを得たならば、あらゆる悲しみを超越して、悲しみなき者となり、安らぎに帰する。
(´・(ェ)・`)つ

42 :
587
1.寿命死:ロウソクの芯が無くなり、火が消えていくように、寿命が尽きて死ぬ。老衰による死を意味する。
2.業死:ロウソクの蝋が無くなり、火が消えていくように、その生命をもたらした業が尽きて死ぬ。事故に遭わずに急に若死にする。
3.寿命業死:ロウソクと蝋の両方が無くなり、火が消えていくように、寿命も業も尽きて死ぬ。
4.中断死:ロウソクの芯と蝋の両方がまだあるのに、強い風が急に吹くなどによって火が消されるように、寿命や業がまだあるのに過去世の業が機会を得ることによって故意に殺されたり、自殺したり、事故死したりする。

仏教の話は、実は暗くない。仏教は事実を正しく認識して、事実をいかに対処するか教えている。
592
死者に対する悲しみを根本的に消して、自分の安楽を求める人は、自分の嘆きと願い(=渇愛)と憂い(=心の苦しみ)を抜き去るがよいと教えている。
嘆きと願いと憂いが、苦の原因。この三つが人間を苦しめている。ですからこの三つが人間を苦しめている矢にたとえている。
嘆きと渇愛と心の苦しみを抜き去った人は、人間の全ての苦しみをなくすことができる。それは苦しみからの解脱。
死者に対する嘆き悲しみに直面した人に、解脱することを勧める説法をされた。
(´・(ェ)・`)つ

43 :
>>40 そうじゃ、死も無く、死んでいく何者もないのじゃ。
 全て一つなのじゃ。

44 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、9、ヴァーセッタ

わたくしが聞いたところによると、──或るとき尊き師(ブッダ)はイッチャーナンガラ[村]のイッチャーナンガラ林に住んでおられた。そのとき、多くの著名な大富豪であるバラモンたちがイッチャーナンガラ村に住んでいた。
すなわちチャンキンというバラモン、タールッカというバラモン、ポッカラサーティというバラモン、ジャーヌッソーニというバラモン、トーデーヤというバラモン
及びその他の著名な大富豪であるバラモンたちであった。
 そのときヴァーセッタとバーラドヴァーシャという二人の青年が(久しく坐していたために生じた疲労を除くために)膝を伸ばすためにそぞろ歩きをあちこちで行っていた。

 かれらはたまたま次のような議論を始めた、「きみよ。どうしたらバラモンとなれるのですか?」

 バーラドヴァーシャ青年は次のように言った。「きみよ。父かたについても母かたについても双方ともに生れ(素姓)が良く、純粋な母胎に宿り、
七世の祖先に至るまで血統に関しては未だかって爪弾きされたことなく、かって非難されたことがないならば、まさにこのことによってバラモンであるのである。」

 ヴァーセッタ青年は次のように言った、「きみよ。ひとが戒律をまもり徳行を身に具えているならば、まさにこのことによってバラモンであるのである。」

 [しかし]バーラドヴァーシャ青年はヴァーセッタ青年を説得することができなかったし、またヴァーセッタ青年はバーラドヴァーシャ青年を説得することができなかった。
そこでヴァーセッタ青年はバーラドヴァーシャ青年に告げて言った、「バーラドヴァーシャよ。
シャカ族の子である<道の人>ゴータマ(ブッダ)は、シャカ族の家から出家して、ここにイッチャーナンガラ[村]のイッチャーナンガラ林のうちに住んでいる。
そのゴータマさまには次のような好い名声があとずれている。
──すなわち、かの師は、尊敬さるべき人・目ざめた人・明知と行いとを具えた人・幸せな人。世間を知った人・無上の人・人々を調える御者・神々と人間との師・目ざめた人(ブッダ)・尊き師であるといわれる。
バーラドヴァーシャさん。さあ行こうよ。<道の人>ゴータマのいるところに行こう。
そこへ行ったら、<道の人>ゴータマにこのことがらを尋ねよう。そうして<道の人>ゴータマがわれわれに解答してくれたとおりに、われわれはそれを承認しよう。」
「そうしましょう」と、バーラドヴァーシャ青年はヴァーセッタ青年に答えた。

 そこでヴァーセッタ青年とバーラドヴァーシャ青年とは、師のいますところに赴いた。
そうして、師に挨拶した。喜ばしい、思い出についての挨拶のことばを交したのち、かれは傍らに坐した。そこでヴァーセッタ・バラモンは次の詩を以て師に呼びかけた。──
(´・(ェ)・`)つ
さぁ!みんなでブッタに会いに行こう!
そうしましょう!そうしましょう!

45 :
>>44
この経は、仏教の業に関する基本的は教えを説く、また「人間の平等」を説く重要な教典であるそうであります。
(´・(ェ)・`)つ

46 :
そうじゃ、人は生まれではなく行いによってバラモンになるのじゃ。
それが真理なのじゃ。

47 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、9、ヴァーセッタ

594 「われら両人は三ヴェーダの学者であると、(師からも)認められ、みずからも称しています。わたくしはポッカラサーティの弟子であり、この人はタールッカの弟子です。

595 三ヴェーダに説かれていることがらを、われわれは完全に知っています。われわれはヴェーダの語句と文法とに精通し、ヴェーダ読誦については師に等しいのです。

596 ゴータマよ。そのわれわれが生れの如何を論議して、論争が起りました。『生れによってバラモンなのである』とバーラドヴァーシャは語りますが、わたくしは『行為によってバラモンとなるのである』と言います。
眼ある方よ。こういうわけなのだと了解してください。

597 われら両人は互いに相手を説得することができないのです。そこで、<目ざめた人>(ブッダ)としてひろく知られているあなたさまにたずねるために、やって来ました。

598 人々が満月に向って近づいて合掌し礼拝し敬うように、世人はゴータマを礼拝し敬います。

599 世間の眼として出現したもうたゴータマに、われらはおたずねします。
生まれによってバラモンであるのでしょうか。あるいは行為によってバラモンとなるのでしょうか? われわれには解りませんから、話してください、──われわれがバラモンの何たるかを知りうるように。」

600 師が答えた、「ヴェーダよ。そなたらのために、諸々の生物の生れ(種類の)区別を、順次にあるがままに説明してあげよう。それらの生れは、いろいろと異なっているからである。

601 草や木にも(種類の区別のあることを)知れ。しかしかれらは(「われは草である」とか、「我等は木である」とか)言い張ることはないかれらの特徴は生まれにもとづいている。かれらの生まれはいろいろと異なっているからである。

602 次に蛆虫や蟋蟀から蟻類に至るまでのものにも(種類の区別のあることを)知れ。かれらの特徴は生れにもとづいているのである。かれらの生れは、いろいろと異っているからである。

603 小さいものでも、大きなものでも、四足獣にも、(種類の区別のあることを)知れ。かれらの特徴は生れにもとづいているのである。かれらの生れは、いろいろと異っているからである。

604 腹を足としていて背の長い匍うものにも(種類の区別のあることを)知れ。かれらの特徴は生れにもとづいている。かれらの生れは、いろいろと異っているからである。

605 次に、水の中に生まれ水に棲む魚どもにも、(種類の区別のあることを)知れ。かれらの特徴は生れにもとづいている。かれらの生れは、いろいろと異なっているからである。

606 次に、翼を乗物として虚空を飛ぶ鳥どもにも、(種類の区別のあることを)知れ。かれらの特徴は生れにもとづいている。かれらの生れは、いろいろと異っているからである。

(´・(ェ)・`)つ

48 :
>>47
596
「戒律をまもり徳行を身に具え」
仏教の教える十善業道
悪行をしないことです。
十悪行は、@殺生(R)、A偸盗(盗む)、B邪淫(邪な行為をする)、C妄語(嘘を言う)、D両舌(噂を言う)、
E綺語(無駄話を言う)、F麁悪語(悪口を言う)、G瞋恚(心で勝手に妄想する怒り)、H貪欲(心で勝手に妄想する欲)、I邪見(間違った意見を持つ)と言う十種類の行為。

601 602

植物には無数の種類があるが、「我々は植物である」と主張しない。しかしそれらの特徴は明らかに異なる。その違いは生まれによって異なる。生まれた時から、種の時から明らかに異なっている。
動物も生まれた時から、明らかな違いがある。これらの違いは生まれにようもの。

人間の場合には、もし生まれによってバラモンであるとしても、その人もその生まれについて自分の主張か、他人の教示がなければ、外見の特徴で、バラモンとは把握されないということ。外見的特徴に違いはない。

(´・(ェ)・`)つ

49 :
真の古ヴェーダにはただ人の働きによる区別が書かれているのじゃ。
後に捏造されたヴェーダにバラモンの子はバラモンとか書いてあるだけなのじゃ。
お釈迦様は真のヴェーダを正しく理解して説いたのじゃ。

50 :
>>49
鬼和尚、こんばんは。
この辺の話しは、真の古ヴェーダに添った話しなのでありますね。
携帯サイトでヴェーダ探してみたでありますが、断片的にしか見つからないであります。
残念であります。
(´・(ェ)・`)つ

51 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、9、ヴァーセッタ

607 これらの生類には生まれにもとづく特徴はいろいろと異なっているが、人類にはそのように生まれにもとづく特徴がいろいろと異なっているということはない。

608 髪についても、頭についても、耳についても、眼についても、口についても、鼻についても、唇についても、眉についても、

609 首についても、肩についても、腹についても、背についても、臀についても、胸についても、隠所についても、交合についても、

610 手についても、足についても、指についても、脛につていも、腿についても、容色についても、音声についても、他の生類の中にあるような、生まれにもとづく特徴(の区別)は(人類のうちには)決して存在しない。

611 身を禀けた生きものの間ではそれぞれ区別があるが、人間の間ではこの区別は存在しない。人間のあいだで区別表示が説かれるのは、ただ名称によるのみ。

612 人間のうちで、牧牛によって生活する人があれば、かれは農夫であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。

613 人間のうちで、種々の技能によって生活する人があれば、かれは職人であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。

614 人間のうちで売買をして生活する人があれば、かれは商人であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。

615 人間のうちで他人に使われて生活する者があれば、かれは傭人であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。

616 人間のうちで盗みをして生活する者があれば、かれは盗賊であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。

617 人間のうちで武術によって生活する者があれば、かれは武士であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。

618 人間のうちで司祭の職によって生活する者があれば、かれは司祭者であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。

619 人間のうちで村や国を領有する者があれば、かれは王であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。

620 われは、(バラモン女の)胎から生まれ(バラモンの)母から生まれた人をバラモンと呼ぶのではない。かれは(きみよ、といって呼びかける者)といわれる。かれは何か所有物の思いにとらわれている。
無一物であって執著のない人、──かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。

621 すべての束縛を断ち切り、怖れることなく、執著を超越して、とらわれることのない人、──かれをわたしは<バラモン>と呼ぶ。

622 紐と革帯と綱とを、手綱ともども断ち切り、門をとざす閂(障礙)を減じて、目ざめた人(ブッダ)、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

(´・(ェ)・`)つ

52 :
>>51
620
バラモンと言われる母親から生まれたから、あるいはまた何かを所有しているからバラモンだとは言わない。それらの人はただ「君よと言う」と偉そうにバラモン面している人だ。
「無一物であって執著のない人、──かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。」これがブッダの解答
621
「束縛」は十結のこと。輪廻の原因になる以下の煩悩。
1.有身見(うしんけん):永遠不滅の真我があると言う誤解 (自我があるという誤解)
2.疑:迷って確信がないこと
3.戒禁取(かいごんしゅ):無意味な苦行やあらゆる宗教儀式・儀礼
4.貪欲:五欲に執着すること
5.瞋恚(しんに):いらいらして怒ること
6.色貪(しきどん):色界禅定に執着すること
7.無色貪(むしきどん):無色界禅定に執着すること
8.慢:自分と比較すること。自分を重要と思うこと
9.掉挙(じょうこ):落ち着きのないこと
10.無明:真実を知らないこと
十結には経蔵の分類と論蔵の分類がある。上と異なる記載があればそれは論蔵の分類。
「執着を超えて」の「執着」は「四軛」(=四漏)。
四漏とは
1.欲漏:貪欲という煩悩
2.有漏:有という煩悩(存在したいという煩悩)
3:見漏:見解という煩悩
4:無明漏:無明という煩悩
人間はこれらの煩悩に執着しているのです。
622
束縛や執着をイメージ化して説明している。紐は怒りを、革紐は渇愛を、綱は煩悩を、手綱は六十二の邪見を象徴している。
これらの紐や革紐や手綱は固く断ち切るのが難しいが、これらの全てを断ち切ると無明と言うかんぬきを外すことができる。無明を開いたということは真理を悟ったということ。
ブッダは真理を悟った覚者をバラモンと呼ぶと言われた。

(´・(ェ)・`)つ

53 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、9、ヴァーセッタ

623 罪がないのに罵られ、なぐられ、拘禁されるのを堪え忍び、忍耐の力あり、心の猛き人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

624 怒ることなく、つつしみあり、戒律を奉じ、欲を増すことなく、身をととのえ、最後の身体に達した人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

625 蓮葉の上の露のように、錐の尖の芥子のように、諸々の欲情に汚されない人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

626 すでにこの世において自己の苦しみの滅びたことを知り、重荷をおろし、とらわれのない人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

627 明らかな智慧が深くて、聡明で、種々の道に通達し、最高の目的を達した人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

628 在家者・出家者のいずれとも交わらず、住家がなくて遍歴し、欲の少い人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

629 強くあるいは弱い生きものに対して暴力を加えることなく、殺さず、また殺させることのない人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

630 敵意ある者どもの間にあって敵意なく、暴力を用いる者どもの間にあって心おだやかに、執著する者どもの間にあって執著しない人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

631 芥子粒が錐の尖端から落ちたように、愛著と憎悪と高ぶりと隠し立てとが脱落した人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

632 粗野ならず、ことがらをはっきりと伝える真実のことばを発し、ことばによって何人の感情をも害することのない人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

633 この世において、長かろうと短かろうと、微細であろうとも粗大であろうとも、浄かろうとも不浄であろうとも、すべて与えられていない物を取らない人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

634 現世を望まず、来世をも望まず、欲求もなくて、とらわれのない人、──かれをわたしはバラモンと呼ぶ。

635 こだわりあることなく、さとりおわって、疑惑なく、不死の底に達した人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

636 この世の禍福いずれにも執著することなく、憂いなく、汚れなく、清らかな人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

637 曇りのない月のように、清く、澄み、濁りがなく、歓楽の生活の尽きた人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

638 この傷害・険道・輪廻(さまよい)・迷妄を超えて、渡りおわって彼岸に達し、瞑想し、興奮することなく、執著がなくて、心安らかな人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

639 この世の欲望を断ち切り、出家して遍歴し、欲望の生活の尽きた人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

940 この世の愛執を断ち切り、出家して遍歴し、愛執の生活の尽きた人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

641 人間の絆を捨て、天界の絆を超え、すべての絆をはなれた人、──かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。

(´・(ェ)・`)つ

54 :
624
怒りについて、思考と関連して考えて見る。人間は外界からの情報を、「早い思考」と「遅い思考」で処理する。
「早い思考」は瞬時に外界の対象を危険かどうか、好きなものかどうか判断する。情報の正確性は問題にしない。だから、ロープを蛇と間違えて逃げる指令を出すことがある。
危険でないもの好きなものと判断すると欲が現われる。危険なもの嫌いなものと判断すると怒りが現われる。
心の作用だが、脳で言えば扁桃体を通じて処理されている。「早い思考」の停止をすれば、怒りを止めることが出来る
「遅い思考」は概念による思考。これは大脳皮質で処理される。情報の質は吟味されるがもちろん正確であるとはいえない。
「遅い思考」においては主観的な概念で処理されるために、現実とのギャップは常にある。そのため、常にストレスが生じ、怒りの感情が現われる。これは後から来る怒り。「遅い思考」の停止をすれば、怒りを止めることが出来る。
「戒律を奉じ」について。在家の仏教徒であれば、五戒を守ることを誓って、それを実践する。この実践によって不幸になることを防げる。
比丘であれば227の戒律を守ることを誓って、それを実践する。
戒律というものは、私たちを拘束して不自由にするもののように思われがちであるが、むしろ悪を犯さないように、心穏やかに生活できるように定めたもの。また、戒律のおかげで、自己観察が容易にできる。
「欲を離れて自制して」も「早い思考」「遅い思考」を停止することで欲から離れることができる。「自制して」は思考を停止すること。これで心を育てられる。
思考を停止させることはかなり大変なこと。強い意志が必要。これを実践すれば、心は欲や怒りで汚れないため、心は清らかになる。強い心が出来る。これは冥想の目的の一つ。
626
不幸の原因は渇愛(欲望)であることを見極め、自分の幸福の考え方を正した人は、人生の重荷を下ろす。また束縛を離れる。人生は楽になり、自由になる。その時、自分の苦は滅尽したことを知る。そのような人を釈尊はバラモンと呼ぶ

(´・(ェ)・`)つ
つづく

55 :
627
「パンニャー(智慧)とは、ありのままにものを見られるということ。我々は自分の主観で、自分の偏見でものごとを見ている。よく知っているつもりだが、本当は眼耳鼻舌身意に入る色声香味触法の情報をありのままに正しく認識しない。
情報を自分の都合にあわせて捏造する。外の情報は何であろうとも、それに関係なく自分の好き勝手に認識する。それから、自分が知ったことはそのまま正しいのだと、相当な錯覚も作る。
パンニャー(智慧)とは、この主観・偏見を破ることで、データを捏造することをやめることで、現われる認識。
そこで初めて、ありのままに観た、ということになる。ありのままに観た人が、次の瞬間で解脱に達する。と言うわけで、パンニャー(智慧)は心所の中でも唯一の宝物。」
「道と非道を熟知し」は正しい修行法か、それとも過った修行法かよく知ってという意味。
より具体的に言えば、八正道を実践して、苦集滅道を理解することによってパンニャー(智慧)が生まれることを熟知すること。
最勝義は阿羅漢果すなわち涅槃。
「最勝義に到達した人」は「涅槃に達した人」すなわち、阿羅漢です。
630
普通の人間ではできないことをやっているということ。
敵意や暴力や執着などは、そのような人々と交わらなくとも自分の心の中にあるので、自分の中から敵意や暴力や執着をなくさなければ、敵意のない、心静かな、執着のない人にはなれない。

つづく(´・(ェ)・`)つ

56 :
631
因縁物語は次の通り。
兄のマハーパンタカ長老は阿羅漢果を得たのに対して、弟のチューラパンタカは、一つの短い偈を四か月かけても暗記できませんでした。
その原因は、過去世のひとつカッサパ・ブッダの時代に優秀な弟子であったにもかかわらず、愚鈍な比丘を見下し、嘲笑った悪業によるものでした。
仲間の比丘たちから「愚鈍である」と言われている弟に対して、兄は還俗をすすめました。弟は兄の言葉を受け入れてサンガを出ようとしたとき、突然ブッダが現れました。
ブッダはチューラパンタカに白い布を渡し「『汚れを取ること、汚れを取ること。』と念じながら、床を拭きなさい。」と命じられました。チューラパンタカはブッダの言葉を忠実に守り、実践する中で悟りを得たのでした。
後日、比丘たちは「なぜ、兄のマハーパンタカは弟にサンガをでるようにすすめたのだろう。阿羅漢になっても、怒りなどが残っているのだろうか?」と話しあっていました。
ブッダは「比丘たちよ、阿羅漢には貪欲や怒りなどは残っていない。マハーパンダカは弟のことを思ってあのように助言したのだ。」と答えられ、
「きりの先の芥子粒のように、貪欲と怒りと慢心と、悪意を落とした人、彼を私はバラモンと呼ぶ」と説かれた。
阿羅漢はすべての煩悩をなくし、欲や怒り無智などはないということ。
「きりの先の芥子粒のように」ポロリと、自然に、無理なく煩悩が落ちるということもポイント。つまり、智慧が現れれば、煩悩は無理なく、自然に落ちるということ。これが智慧の開発が必要な理由。
あらゆる現象に無常・苦・無我を発見することで、智慧が開発される。
632
理想的は話し方を教えている。
1.粗野でない言葉で話す。(乱暴な言葉を使わない。)
2.分かりやすく話す。(はっきり伝える。)
3.真実をはなす。(嘘をつかない。)
4.相手を不機嫌にさせないように話す。(愛語をはなす。)
この詩の因縁物語は乱暴な言葉を使う阿羅漢の話し。ピリンダウッチャー長老は比丘や女性信者に会うと、「来い、賎民。行け、売女。」と汚い言葉を使うのでした。
不愉快な思いをした比丘たちはブッダに訴えました。ブッダは長老を呼ばれて事実を確認すると、
「比丘たちよ、私の息子ピリンダウッチャーはあのような言葉を使うのは彼の過去世の悪い習慣が今も離れず続いているからである。あれは怒りからでた言葉ではない。」と説明された。
そして、「粗野でなく、分かりやすく、真実の言葉を語り、誰も不機嫌にしない人、彼を私はバラモンと呼ぶ」と理想的な話し方を説いた。
つづく(´・(ェ)・`)つ

57 :
633
五戒の内の一つだけでも、本当に真剣に、徹底して実践すると、心は成長し、人格は完成するようにできている。
与えられないものを取らない人でも、バラモンと呼べない人もいると思われるが、
「この世において、それが長、短、微細、粗大、清浄、不浄にかかわらず」という言葉で完全に、徹底して、この道徳を守る人ということを示している。
徹底してこれを守れる人は、どんなものにも執着しない人。無執着の人は阿羅漢。阿羅漢はバラモン。
634
ブッダの教えは、この世で幸せになるように、また生まれ変わっても幸せになる生き方を教えている。
更にこの世の幸せも、あの世に幸せも、限界があることを教え、究極の幸せは輪廻を乗り越えて、涅槃に達することを目指すべきであると教えている。
ブッダの教えを本当に理解した人のみが、この世での欲望を捨て、あの世に期待することがないのです。その人は涅槃に達することができる。彼はバラモン。
635
執着は私たちが、五つの感覚で快や不快を感じる所から生じる。そこに渇愛が生まれ、執着が生じる。その過程をストップさせることで、執着をなくす。
感覚に対するいろいろな外部刺激とそれを感じた時の感覚、その時に起こる心の変化を観察する。
渇愛が生まれ、執着が生まれる過程をつぶさに観察する。
それが意味のないことだと分かってくる。その時智慧が現れている。そのようにすると、自然に執着がなくなる。
「疑いのない」の「疑い」は、1.ブッダを疑う。2.ダンマを疑う。3.サンガを疑う。4.修習を疑う。5.過去を疑う。6.未来を疑う。7.現在を疑う。8.縁起を疑うことだと言われている。
「不死」とは涅槃を意味する。

つづく(´・(ェ)・`)つ

58 :
悟った者はバラモンなのじゃ。

59 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、9、ヴァーセッタ

642 <快楽>と<不快>とを捨て、清らかに涼しく、とらわれることなく、全世界にうち勝った健き人、──かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。

643 生きとし生ける者の生死をすべて知り、執著なく、幸せな人、覚った人、──かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。

644 神々も天の伎楽神(ガンダルヴァ)たちも人間もその行方を知り得ない人、煩悩の汚れを減しつくした人、──かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。

645 前にも、後にも、中間にも、一物をも所有せず、すべて無一物で、何ものをも執著して取りおさえることのない人、──かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。

646 牡牛のように雄々しく、気高く、英雄・大仙人・勝利者・欲望のない人・沐浴した者・覚った人(ブッダ)、──かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。

647 前世の生涯を知り、また天上と地獄とを見、生存を減し尽くしに至った人、──かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。

648 世の中で名とし姓として付けられているものは、名称にすぎない。(人の生まれた)その時その時に付けられて、約束の取り決めによってかりに設けられて伝えられているのである。

649 (姓名は、かりに付けられたものにすぎないということを)知らない人々にとっては、誤った偏見が長い間ひそんでいる。知らない人々はわれらに告げていう、『生れによってバラモンなのである』と。

650 生まれによって(バラモン)となるのではない。生まれによって(バラモンならざる者)となるのでもない。行為によって(バラモン)なのである。行為によって(バラモンならざる者)なのである。

651 行為によって農夫となるのである。行為によって職人となるのである。行為によって商人となるのである。行為によって傭人となるのである。

652 行為によって盗賊ともなり、行為によって武士ともなるのである。行為によって司祭者ともなり、行為によって王ともなる。

653 賢者はこのようにこの行為を、あるがままに見る。かれらは縁起を見る者であり、行為(業)とその報いとを熟知している。

654 世の中は行為によって成り立ち、人々は行為によって成り立つ。生きとし生ける者は業(行為)に束縛されている。−−進み行く車が轄に結ばれているように。

655 熱心な修行と清らかな行いと感官の制御と自制と、これによって<バラモン>となる。
 これが最上のバラモンの境地である。

656 三つのヴェーダ(明知)を具え、心安らかに、再び世に生まれることのない人は、諸々の識者にとっては、梵天や帝釈[と見なされる]のである。ヴァーセッタよ。このとおりであると知れ。」

 このように説かれたので、ヴァーセッタ青年とバーラドヴァーシャ青年とは師に向って言った、「すばらしいことです。ゴータマ(ブッダ)さま。すばらしいことです。ゴータマさま。
譬えば、倒れた者を起こすように、覆われたものを開くように、方角に迷った者に道を示すように、あるいは『眼ある人々は色やかたちを見るように』といって暗夜に灯火をかかげるように、
ゴータマさまは種々のしかたで理法を明らかにされました。
いまわたくしはゴータマさまと真理と修行僧のつどいに帰依したてまつる。
ゴータマさまはわたくしたちを、在俗信者として受けいれてください。わたくしたちは、今日から命の続く限り帰依いたします。」

(´・(ェ)・`)つ

60 :
636
因縁物語は次の通りです。ある時、比丘たちは話しを始めました。「レーヴァタ沙弥の善(利得、功徳)はすばらしい。ただ一人で500人の比丘のための僧院を建立したるなんてすばらしい。」と。
その時ブッダが現れ、その話を聞いて、「比丘たちよ、私の息子レヴァータには善(功徳)も悪もありません。彼には両者が捨断されているのです。」と語り、
この詩「この世の善と悪と、その両方への執着超えて、憂いのない欲のない清らかな人、彼を私はバラモンと呼ぶ」と説かれたということです。
このレーヴァタ沙弥という方は、サーリプッタ長老の一番下の弟。他の兄弟姉妹は皆出家していました。そこで心配した両親はレーヴァタに結婚をすすめました。
結婚式の当日華やかに着飾った招待客から祝福をうけ、初々しい花嫁の姿に見とれていました。
しかし、その時120歳の老婆が現れました。彼の目は老婆にくぎ付けになり、「すべての生き物が歳をとり、やがて老いて朽ちはてる」と悟り、その場で出家を決意しました。
彼は僧院から離れたアカシヤの森の中で熱心に修行して、幼くして阿羅漢になられた。
阿羅漢は心からすべての煩悩(悪)を捨てているので、すべての行為は悪行為ではない。
阿羅漢は善行為をしようとする意図もない。その意味ですべて阿羅漢の行為は善行為でも悪行為でもない。また、阿羅漢にとっては善、悪はない。そのことを知らずに、一般の人々は「善悪がない」と言えない。

637
仏教を学ぶ人は人生を期待、願望で見るのではなく、ありのままの生活を観察して、如何に生きるか考えるべき。実践するかどうか決めるのは私たち。
バラモンの心を、「曇りのない清らか月」で例えている。曇りとは煩悩のこと。
淡白とは歓喜と生存を望まないと言うこと。
「生存を望まない」とは死にたいと言うわけではない。ただ、どうしても生きたいと思ってはいないと言うこと。

つづく(´・(ェ)・`)つ

61 :
阿羅漢にも善悪はあるのじゃ。
そのような事を説いてはいかんのじゃ。
それは外道の説なのじゃ。
アングリマーラのアヒンサーも阿羅漢になってから石を投げられる報いを受けたのじゃ。

62 :
>>61
鬼和尚、こんばんは。
悟ったからといって、二元的世界における善悪から超然としてあれるわけではないのでありますね。
確かに、当たり前のように語られてることが不思議な内容であります。
阿羅漢と正等覚者はほぼ同じでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ

63 :
【覚醒者】 NEO仏教 PART1 【量子力学】
https://wc2014.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1455746036/

64 :
638
因縁物語は次の通りです。
コリヤ族の王妃スッパワーサーは7年もの長い間子宮に子供を宿し続けていました。ようやく陣痛が始まり、それも7日間も続きました。その苦しみの中で彼女は仏法僧の徳を念じ続けました。
彼女は王にこの苦しい状況をブッダに伝えてほしいと頼みました。王は早速ブッダを訊ね、妻の苦しみを訴えました。
ブッダは「コリヤ族の王妃スッパワーサーよ、健康と幸福の中で元気な子供を安産するように」と念じると、王妃はシーワリ王子を安産しました。
喜んだ王たちは、ブッダと弟子たちを宮殿に招待し、7日間にわたって御馳走を施し、歓迎しました。生まれたシーワリ王子もこれに参加しました。その後、王子は両親の許可を得て、出家すると、すぐに阿羅漢果を得ました。
ある日、比丘たちは「シーワリは大変難産の末にこの世に生まれてきた。なぜ彼は7年も母胎にいたのだろうか?」原因が分からず、ブッダに訊ねることにしました。
ブッダは「比丘たちよ、シーワリは過去世において、他国に滅ぼされた国の王子であった。
大人になった彼は母の言い付けで、奪われた領土を取り戻すために、7日間兵糧攻めを行った。そのために、多くの人々が食べ物も飲み物もなく苦しんだ。
この過去世の業で、シーワリは生まれる時苦しい目にあったのだ。しかし、今は自らの努力であらゆる苦しみの原因を断ち切り、涅槃の境地にいる。」と答えられました。
639
因縁物語は次の通りです。
サーヴァティ町の大金持ちの息子スンダラサムッタ(美海)はブッダの説法を聞いて出家を決意し、反対する両親を説得してようやくサンガに入団できました。
彼はサーヴァティから遠く離れたラージャガハに行き、そこで修行に励みました。両親は寂しさから、毎日泣いて過ごしていました。
そこにある娼婦がやってきて、「息子が還俗して帰ってきたら全財産を譲る」という約束をしたのでした。娼婦はすぐにラージャガハに行き、スンダラサムッタ比丘が托鉢するルートに七階建の屋敷を借り、彼を待っていました。
彼女は手練手管で、数日内に彼を七階まで引き込んで、女性が男性を誘惑する、戯れる、恥じらう、口づけをするなどの四十手を使い女性の媚態を見せ、言いよりました。
その時、スンダラサムッタははっと我に返り、自分の置かれている状況に気づきました。
その頃、ブッダは神通力でスンダラサムッタに何が起こっているかを察知して、アーナンダ長老を呼び、「アーナンダよ、今スンダラサムッタは娼婦の誘惑と戦っている。しかし、最後は彼が勝利するだろう。」と語られ、
「この世の欲望を捨て去って、出家して遊行する、欲のある生存が消えた人、彼を私はバラモンと呼ぶ」と説かれました。
その説法でスンダラサムッタ比丘は阿羅漢果を得ると、すぐにブッダのおられる僧院に向かいました。
「この世の欲望を捨て去って、出家して遊行する」ということが難しい。スンダラサムッタ比丘の場合は、ブッダの説法を聞くという強烈なインパクトがあったから、出家を決意できたが、今では、仏教をよく学び、理解することから始まる。
その後の娼婦の誘惑にも負けない意志は、初心を忘れないということが大切。

(´・(ェ)・`)つ

65 :
スッタニパータの2〜3行の短い経文に、詳しい因縁物語がいろいらあるのでありますね。
(´・(ェ)・`)つ

66 :
>>62 そうじゃ、阿羅漢は正等覚者でよいのじゃ。
 お釈迦様も阿羅漢と呼ぶのじゃ。
 目覚めたものなのじゃ。

67 :
640
欲望は仏教用語として使うときは、五感の刺激による欲望(五欲)。
渇愛は仏教用語。喉が渇いた人が激しく水を求めるような欲求を言う。渇愛は三種類に分類される。
1.欲愛(カーマ・タンハー):五欲に対する渇愛(物や楽しみを求める欲求)
2.有愛(バワ・タンハー):生存に対する渇愛(なんとしてでも生きていたいという欲求)
3.無有愛(ヴィバワ・タンハー):非生存に対する渇愛(死んですべてを終わらせたいという欲求)
仏教で渇愛という言葉が使われる主な文脈は2つある。
1.四聖諦:ブッダが悟られた四つの聖なる真理
@苦という聖なる真理 :生まれは苦。老いも苦。死も苦。愁い・悲しみ・憂い・悩みも苦。愛さない者たちと会うのは苦。愛する者たちと会わないのは苦。求めて得られないのは苦。身心への執着は苦。
A苦の生起という聖なる真理 : 再生を起こし、喜び貪りを伴い。ここかしこで歓喜する渇愛。すなわち欲愛と有愛と無有愛です。(これが三種類の渇愛です。)
B苦の滅尽という聖なる真理 : 渇愛の消滅による完全な滅尽・捨棄・破棄・解脱・無執着。
C苦の滅尽に至る行道という聖なる真理 : 聖なる八正道、すなわち正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定。
2.十二因縁の教え
無明に縁って行が生じる。行に縁って識が生じる。
識に縁って名色が生じる。名色に縁って六処が生じる。
六処に縁って触が生じる。触に縁って受が生じる。
受に縁って渇愛が生じる。渇愛に縁って固執が生じる。・・・(ここに渇愛がある。)
固執に縁って有が生じる。有に縁って生が生じる。
生に縁って老、死、憂愁、悲泣、苦しみ、悩み、落ち込みが現れる。
このようにして、このすべての苦蘊の生起がある。
より)
この渇愛さえなくせば、すべての苦が消滅し、渇愛をなくした人は解脱するのです。解脱した人は阿羅漢であり、バラモンと呼ぶべき人。

641
キーワードは「絆」と訳した「ヨーガ」。「軛(くびき)」とも訳せる。
仏教はでここで言う「人間の絆」とは、人間を縛りつけている束縛。人間は欲に縛りつけられている。生きたいという思いに縛りつけられている。
また、ある見解を持つとその見解に拘る。その見解を自分自身のように思い、その見解が批判されると自分が批判されたように怒る。
さらに、無知のために迷っていてもその迷いを肯定し真実を求めようとはしない。
「絆」と訳さずに、「束縛」と訳すと当たり前すぎて、誰も何も考えないん。「絆」であれば、皆考える。今まで大切に思っていることを捨ててと言うのはなぜだろうと考える。
この詩でいう絆とは、生命の間の慈悲喜捨の心ではない。親と子の間にある執着、夫婦の間にある執着、家族間にある執着、束縛に気づくための言葉。
仏教用語で説明すると、「ヨーガ」は四軛。1、欲軛、2.有軛、3.見軛、4.無明軛。四漏(四つの煩悩)と同じ。
人間の軛とは、人間の四つの軛のことです。天の軛とは、神々にも人間と同じような軛がありますから、天の軛という。これらの軛を捨てると、輪廻から離れ、解脱して阿羅漢になる。

(´・(ェ)・`)つ

68 :
無有愛(ヴィバワ・タンハー):非生存に対する渇愛(死んですべてを終わらせたいという欲求)
↑こんな渇愛があるとは知らなかったであります。
(´・(ェ)・`)つ

69 :
無色界の生存に対する欲とかいうのじゃ。
形を持たない精神的な愛着の欲じゃな。
知を愛する哲学も欲になるのじゃ。

70 :
>>69
自分があるとの思い=無明をはらしたいと言う欲求みたいなまのでありましょうか?
無我を追い求める欲求も捨てなきゃダメだよってなことでありましょうか?
くまが引用した、
>非生存に対する渇愛(死んですべてを終わらせたいという欲求)
という解説は、無我=自我の死と言う意味で、完全に間違いではないまでも、肉体の死に対する欲求、自殺願望のようにも読めてしまうのですが、そのような意味もあるのでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ

71 :
642
「快と不快を捨てて」の意味は、受(感覚)の快(楽)と不快(苦)を捨てること、つまり感覚で、次の渇愛への心の流れを止めること。心に渇愛が現れなくなくなれば、すべての苦がなくなり、涅槃に達することができる。
「快と不快を捨てて」により、解脱して涅槃に至り、阿羅漢になることを意味する。
「全世界を征服した英雄」
仏教では「全世界」とは眼の世界、耳の世界、鼻の世界、舌の世界、身の世界、意の世界で構成されていると考える。
「征服した」とは管理したという意味。「眼の世界、耳の世界、鼻の世界、舌の世界、身の世界、意の世界」において、快と不快を捨てた人は これらの世界を管理できる人。
ダンマパダ103番「戦場において百万人に勝つよりよりも、一人の自分に勝つ人は英雄である」。
感覚の快不快を管理する人は、自分に勝つ人であり、その人は英雄。彼はバラモン。
643
「生きものの死と再生をすべて知」れば、「生命とは何か」が分かる。「生命とは何か」を知れば、「如何に生きるべきか」理解できるようになる。「生命とは何か」を知るとは悟るために必要なこと。
生命とは心があること。そのため、仏教では心の研究をする。冥想は心を観察して、研究するため。心のすべてを知った人は、生命の死と再生のすべてを知った人であり、心のすべてを知った人には無明がなくなる。
無明のない人はすべて執着がなくなる。悟った人。彼は阿羅漢、最高の人間であるバラモンというべき人。
644
644番(=ダンマパダ420番)とスッタニパータ643番(=ダンマパダ419番)のの因縁物語は同じ。
釈尊と同時代にワンギーサというバラモンがいました。彼は死んだ人の頭蓋骨をたたいて、その人がどの世界に輪廻転生したか言い当てる超能力を持っていました。
彼の仲間が彼の能力を利用して、人々からお布施を集めることを始めました。そうしたある時、ワンギーサは釈尊のうわさを聞き、釈尊の能力に挑戦に出かけました。
釈尊は彼の意図を知り、弟子たちに、地獄、畜生、人間、天界に輪廻転生した死人の頭蓋骨を持って来させました。そして最後に阿羅漢の頭蓋骨を持って来させました。
ワンギーサはそれらの頭蓋骨をたたいて、死後のどの世界に輪廻転生したかを言い当てました。そのつど釈尊は彼をほめました。しかし、最後の阿羅漢の頭蓋骨についてはどちらに行ったか分かりませんでした。
ワンギーサは釈尊に、どちらに行ったか分かる方法を教えてくれるように頼みました。しかし、釈尊は、出家して、修行しなければ教えられないと断りました。
そこでワンギーサは釈尊のもとで出家して、修行し、その後しばらくして、阿羅漢になりました。彼は輪廻から解脱したので、阿羅漢の死後について分かりました。阿羅漢は解脱したので輪廻はしないのです。
その時、釈尊は比丘たちに「生きものの死と再生をすべて知り、執着なく幸せな悟った人、彼を私はバラモンと呼ぶ。
神々も音楽神も人間も、死後の行方がわからない煩悩の消えた阿羅漢、彼を私はバラモンと呼ぶ。」と説法しました。つまり、阿羅漢の死後については阿羅漢以外には分からない。

(´・(ェ)・`)つ

72 :
>>70 それらとも違うものじゃ。
 精神的に優れた境地に対する執着なのじゃ。
 それは傲慢ともなり真の悟りへの道を妨げてしまうものじゃ。
 少し修行が進んだ者に現れるものであるから注意すべき欲として伝えられるのじゃ。

73 :
>>72
鬼和尚、ありがとうであります。
無有愛(ヴィバワ・タンハー)について、
ネットで調べてみたのでありますが、
ほとんどが、:非生存に対する渇愛(死んですべてを終わらせたいという欲求)、自殺願望、自己破壊願望みたいな説明しか見つかりませんでした。
> 精神的に優れた境地に対する執着
というような説明は、どのような経典、解説書で読めるのでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ

74 :
645
スッタニパータ645=ダンマパダ421)の因縁物語は次の通り。
ダンマディンナーの夫ヴィサーカは、ブッダの説法をよく聞き、悟りの三段階である不還果を得ました。そのため世間との付き合いが煩わしくなり、妻にも興味がなくなりました。
彼は自分の気持ちを妻に話し、全財産を譲ると宣言しました。
夫の態度に悲しんでいた妻のダンマディンナーは「財産などいりません。あなたにとって不必要になった私は出家して、比丘尼になります」と言ってサンガに入団しました。
ダンマディンナー比丘尼は修行に励み、阿羅漢果を得ました。その喜びを家族にも分け与えようと元の夫のヴィサーカに会いに出かけました。
彼は彼女が還俗するために家に帰ってきたと勘違いしましたが、
彼女は「私は還俗など考えておりません」と答えました。
ヴィサーカはダンマディンナー比丘尼に、「それではお前のこれまでの修行を見せてもらおうか」と
「自分の身体とは何か?」「その身体の原因は何か?」「「身体の滅とは何か?」「その方法とは何か?」などの34の仏教の根本問題について質問しました。
それに対して彼女は即座に明確に答えました。彼はそのことに驚き、還俗するために家に帰ってきたのではないと理解しました。
彼はすぐに僧院をたずね、ブッダに彼女との問答の一部始終を話しました。
ブッダは「ヴィサーカよ、私の娘ダンマディンナーは阿羅漢果を得た大慧者である。もし、私にそれと同じ質問をしても、私は彼女と同じ答をしていただろう」と語られ、この偈を説かれました。
この因縁物語にあるヴィサーカがダンマディンナー比丘尼に質問した詳しい内容は、中部経典の「第44 小有明経」に書かれている。 
(´・(ェ)・`)つ

75 :
646
釈尊がアングリマーラという仏弟子に対して歌ったものとされている。
アングリマーラは伝説によると、コーサラ国パセーナディ王の司祭者の子で、その名をアヒンサカ(害を加えない者)といいました。師の妻に恋され、これをしりぞけたために邪道に入り、多くの人々を殺害しました。
しかし、ブッダに会ってから改心し、帰依して、教化を受けて、殺人をやめ、出家して、ついに悟りを開きました。

(´・(ェ)・`)つ

76 :
>>73 確か相応部の経典にあったのう。
 経の名は忘れたのじゃ。
 大乗にもあったような気がするのう。
 

77 :
>>76
鬼和尚ありがとうであります。
じっくり探してみるであります。
(´・(ェ)・`)つ

78 :
647
「前世を知り」とは宿住智。自分と他人の前世のことを知ることのできる智慧。
「天界と地獄を見て」とは天眼智。天人のように肉眼で見えない遠い所や微小なものをみることができる智慧。
「生の滅尽に達して」は漏尽智の。あらゆる煩悩を滅し尽くす智慧。
以上三つを三明と言い、多くの阿羅漢はこの三明を持っていたが、漏尽智だけあれば阿羅漢。
ブッダはさらに五つの智慧を完成させ、八明と言われる智慧を完成。それを「証智を完成した聖者」という。
観智:名色の無常、苦、無我をはっきり見ることができる智慧
意所成神変智:自分の思い通りにできる智慧
紳変智:一身、多身などを化作すること、空に飛び上がる、地下のもぐることのできる智慧
天耳智:天人の耳のように遠くも声や小さな声を聞ける智慧
他心智:他人の心を読める智慧
「成すべきことを成し遂げた」とは十五行と言われる行を成し遂げたということ。
@戒律儀:戒律を守ること
A根律儀:貪欲、怒り、無知などの煩悩が起こらないように、眼、耳、鼻、舌、身、意の六根を守ること。
B食物において適量を知ること。
C不眠の努力:眠らないで努力すること。
D信:仏法僧の三宝および因果法則を信じること
E慚:悪事をすることを内心に恥じること 
F愧:悪事をすることを外部に恐れること
G博識:知識が広い分野に及んでいること
H精進:励み努めること。ひたすら善を行い、悪を断つこと。
I念:気づきを忘れないこと。
J慧:智慧で理解すること。
K初禅:欲を離れ、不善の法を離れ、尋伺があり、障害の離より起こる喜楽のある境地L第二禅:尋伺のない、定より起こる喜楽のある境地
M第三禅:喜を離れ、捨のあり、念があり、正知があって、身によって楽を感受する境地
N第四禅:楽を離れ、苦を離れるがゆえに、喜と憂とが滅したために、苦楽がなく、捨によって念が浄まっている境地
(初禅から第四禅は、アビダルマの定義ではなく経典による定義です。)
八明と十五行の完成者を明行具足者という。ブッダは明行具足者の大バラモン。
(´・(ェ)・`)つ

79 :
>>77 そうじゃ、学ぶとよいのじゃ。
 学問在るのみなのじゃ。

80 :
無有愛(ヴィバワ・タンハー)について、二つのブログから↓

1)
重担
南伝 相応部経典22-22 重担
漢訳 雑阿含経3-23 重担
かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。
その時、世尊はもろもろの比丘たちに告げて、「比丘たちよ」と仰せられた。彼ら比丘たちは、「大徳よ」と答えた。世尊はこのように説きたもうた。
「比丘たちよ、わたしは、いま、汝らのために、重き荷物を担 になえる者のこと、また、重き荷物を担うこと、重き荷物をおろすことについて説くであろう。よく聞くがよい。
では、比丘たちよ、重き荷物とはなんであろうか。生を構成する五つの要素(五取蘊)がそれである。その五つとはなんであるか。
いわく、色(肉体)なる要素、受(感覚)なる要素、想(表象)なる要素、行(意志)なる要素、識(意識)なる要素である。比丘たちよ、これらを名づけて五つの重き荷物というのである。
比丘たちよ、では、重き荷物を担える者とはなんであろうか。人間がそれである。これこれの名、これこれの姓をもてる方々がそれである。比丘たちよ、これらを名づけて重き荷物を担える者というのである。
比丘たちよ、では、重き荷物を担うとは、どういうことであろうか。心に喜び、身を燃やして、あれやこれやに、わっとばかりに殺到する渇愛がそれであって、それが、さらに迷いの生(後有 ごう)をもたらすのである。
すなわち、性欲のかたまり(欲愛)、生存欲のかたまり(有愛)、自己優越の欲望のかたまり(無有愛)である。比丘たちよ、これらを名づけて、重き荷物を担うとはいうのである。
比丘たちよ、では、重き荷物をおろすとは、どのようなことであろうか。
それは、その渇愛を、まったく、余すところなく離れ滅することであり、放棄することであり、断念することであり、永断することであり、解脱して、執著なきにいたるのである。比丘たちよ、これらを名づけて、重き荷物をおろすというのである」
世尊は、そのように説きたもうた。そのように説いて、この素晴らしい師は、さらに説きたもうた。
「五蘊は重き荷物にして
これを担うものは人である
重きを担うは苦しくて
これを捨つれば安楽なり
すでに重荷を捨てたらば
さらに重荷を取るなかれ
かの渇愛を滅すれば
欲なく自由となりぬべし
注解
 この経題は「重担」(Bhram=the burden)とある。その重き荷物とは、ふるい訳語をもっていえば「五取蘊 ごしゅうん」である。
その「五取蘊」(pacupdna-kkhandh=the factors of fivefold clinging to existence)とは、生がそれに依存している五つの要素、あるいは、生を構成する五つの要素というほどの意のことばであって、それは他でもない五蘊のことである。
そして、いま釈尊は、それらに執著することがなければ安楽であろうと説いている。この経には偈がある。経の趣旨を要約したものであって、後の人の付したものであろう。
欲愛(kmataηh=thirst after sensual pleasures) 性欲の激情である。漢訳はこれを「欲愛」と訳した。人間の自己拡大の激情である。
有愛(bhavataηh=craving for existence) 生存欲の激情である。漢訳はこれを「有愛」と訳した。人間の自己延長の渇愛である。
無有愛(vibhavatanh=craving for power, wealth, prosperity) 自己優越の欲望の激情である。漢訳はこれを「無有愛」と直訳した。人間の名誉欲などのたかぶりがそれである。


2)
・釈尊の教説の根幹は釈尊自らが四諦だとしているが、その四諦の中にvibhava tanha : 無有愛(むうあい)という言葉がある。この言葉については他の経文での言及がほとんどないこともあり、重視されていないが、この言葉の解釈が大きく2つに分かれている。
・一つは「虚無への渇愛」だとするものでこれがたぶん主流派。
・もう一つはそれ以外の見解で、「抽象的な事柄(地位、名誉等)に対する欲望」だとする者(増谷文雄)や「財産欲、繁栄欲」だとするもの者(木村泰賢)もいる。ようするに性欲や食欲といった本能レベルの欲望ではなく抽象化された事物への欲望と見る説だ。

(´・(ェ)・`)つ

81 :
648
「世間でバラモンの名や姓とされているものも、他の名称と同じような名称に過ぎない。世間の習慣や取り決めで名付けられただけ。その名前によってバラモンに成るわけではない。」ということ。
649
姓名はその人を他の人から区別して、交際のために付けた。姓名はその人自身ではない。
姓名はかりに付けられたものにすぎないということを知らない人々は、生まれた時につけられた姓名によって、その人がバラモンであると思うようになった。
そして、それらの人々は「生まれによってバラモンである」と言う。
651 652
非バラモンとして具体的に、農夫、職人、商人、召使、さらに泥棒、武士、司祭者(僧侶)、王などが挙げられている。これらの人々は生まれによって成るのではない。行為によって成るのとブッダは述べた。
653
「生まれによってバラモンとなる」という人々は、バラモンや農夫、職人などの行為が彼ら自身を成り立たせていることをありのままに見ていない。
彼らの行為をありのままに見る人々は、行為が彼らの状態を成り立たせていることを理解しているのだとブッダは述べている。
654
世の中を構成するものは人々。その人々は行為によって成り立つ。
行為とば、身口意の行為。
世の中も行為によって成り立っている。
人間は、身口意の行為によって生きている。人間にそれらの行為に拘束されている。ブッダは人間たちの行為を、進んでいる車に車輪を結びつけている部品にたとえている。その部品がなければ、車が成り立たないように、人々も世間も成り立っている。
655
感覚器官を刺激して煩悩が起こらないように注意すること。
崇高な行為、禁欲的で清浄な行為をすることによって、具体的な例としては男女の性的な関係を結ばないこと。
自制によってとは、戒律に基づく行為をすること。
調御によってとは智慧に基づく行為をすること。
これらの行為によって、バラモンに成る。これらの最高に優れた行為によって、バラモンという最高の境地に至る。
656
人間は生まれながらの差別がないが、行為(業)によって区別あると説かれた。
バラモンの真のあり方を説いた。
三明をそなえ、寂静にして、輪廻を脱した方。そのような方は識者(賢者)にとっては単なるバラモンではなく、梵天や帝釈天のような方。つまり、そのような方は仏、阿羅漢。
三明とは、一般的にはバラモンの学習する三つのヴェーダと解くが、ここでは宿命通、天眼通、漏尽通を意味する。
宿命通とは、自己及び他人の前世ことを知ることができる智慧
天眼通とは、天人のように肉眼で見えない遠い所や微細なものを見ることができる智慧。
漏尽通とは、あらゆる煩悩を滅し尽くすことができる智慧。
(´・(ェ)・`)つ

82 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、10、コーカーリヤ

 わたしか聞いたところによると、──或るとき尊き師(ブッダ)は、サーヴァッティー市のジェータ林、<孤独な人々に食を給する長者の園>におられた。
そのとき修行僧コーカーリヤは師のおられるところに赴いた。そうして、師に挨拶して、傍らに坐した。それから修行僧コーカーリヤは師に向っていった、
「尊き師(ブッダ)よ。サーリプッタとモッガラーナとは邪念があります。悪い欲求にとらわれています。」
 そう言ったので、師(ブッダ)は修行僧コーカーリヤに告げて言われた、「コーカーリヤよ、まあそういうな。コーカーリヤよ、まあそういうな。サーリプッタとモッガラーナとを信じなさい。サーリプッタとモッガラーナとは温良な性の人たちだ。」
 修行僧コーカーリヤは再び師にいった、「尊き師よ。わたくしは師を信じてお頼りしていますが、しかしサーリプッタとモッガラーナとは邪念があります。悪い欲求にとらわれています。」
 師は再び修行僧コーカーリヤに告げて言われた、「コーカーリヤよ、まあそういうな。コーカーリヤよ、サーリプッタとモッガラーナとを信じなさい。サーリプッタとモッガラーナとは温良な性の人たちだ。」
 修行僧コーカーリヤは三たび師にいった、「尊き師よ。わたくしは師を信じてお頼りしていますが、しかしサーリプッタとモッガラーナとは邪念があります、悪い欲求にとらわれています。」
 師は三たび修行僧コーカーリヤに告げて言われた、「コーカーリヤよ、まあそういうな。コーカーリヤよ、サーリプッタとモッガラーナとを信じなさい。サーリプッタとモッガラーナとは温良な性の人たちだ。」
 そこで修行僧コーカーリヤは座から起って、師に挨拶して、右まわりをして立ち去った。修行僧コーカーリヤが立ち去ってからまもなく、かれの全身に芥子粒ほどの腫物が出てきた。
(初めは)芥子粒ほどであったものが、(次第に)小豆ほどになった。小豆ほどであったものが、大豆ほどになった。大豆ほどであったものが、棗の核ほどになった。棗の核ほどあったものが、棗の果実ほどになった。
棗の果実ほどあったものが余甘子ほどになった。余甘子ほどであったものが、未熟な木爪の果実ほどになった。未熟な木爪の果実ほどであっものが、熟した木爪ほどになった。
熟した木爪ほどになったものが破裂し、膿と血とが迸り出た。そこで修行僧コーカーリヤはその病苦のために死去した。修行僧コーカーリヤは、サーリプッタとモッガラーナとに対して敵意をいだいていたので、死んでから紅蓮地獄に生まれた。
 そのときサハー(老婆)世界の主・梵天は、夜半を過ぎた頃に、麗しい容色を示して、ジェータ林を隈なく照らして、師のおられるところに赴いた。
そうして師に敬礼して傍らに立った。そこでサハー世界の王である梵天は師に告げていった。
「尊いお方さま。修行僧コーカーリヤは死去しました。修行僧コーカーリヤは、サーリプッタとモッガラーナとに対して敵意をいだいていたので、死んでから紅蓮地獄に生まれました。」
サハー世界の主・梵天はこのように言った。このように言ってから、師に敬礼し、右まわりをして、その場で消え失せた。

(´・(ェ)・`)つ

83 :
>>80 学者でも意見が分かれているようじゃのう。
 言葉に囚われるのも意味の無いことじゃ。
 それも自分の心の中にどのような渇愛があるか観察するためのものなのじゃ。
 自分の心の中に無ければそれでよいのじゃ。


 

84 :
>>83
自分の心の中にある渇愛を観察してみると、
くま的には、
非生存に対する渇愛(死んですべてを終わらせたいという欲求)とか、「虚無への渇愛」よりも、
自己優越の欲望のかたまり とか、無色界の生存に対する欲、形を持たない精神的な愛着の欲、精神的に優れた境地に対する執着の方が、今は強いように思うであります。

死んですべてを終わらせたいという欲求と言うもの(=無有愛)が、仏教においては、克服すべき渇愛として取り上げられていると言うこと自体は間違いではないのでありますね。
(´・(ェ)・`)つ

85 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、10、コーカーリヤ

 さて、その夜が明けてから、師は、諸々の修行僧に告げて言われた、「諸々の修行僧らよ。昨夜サハー世界の主である梵天が、夜半を過ぎた頃に、麗しい容色を示して、ジェータ林を隈なく照らして、わたくしのいるところに来た。
それからわたくしに敬礼して傍らに立った。さうしてサハー世界の主である梵天は、わたくしに告げていった。
『尊いお方さま。修行僧コーカーリヤは死去しました。修行僧コーカーリヤは、サーリプッタとモッガラーナとに対して敵意をいだいていたので、死んでから紅蓮地獄に生まれました』と。
サハー世界の主である梵天はこのように言った。そうして、師を敬礼し、右まわりして、その場で消え失せた。」
 このように説かれたときに、一人の修行僧が師に告げていった、「尊いお方さま。紅蓮地獄における寿命の長さは、どれだけなのですか?」
 「修行僧よ。紅蓮地獄における寿命は実に長い。それを、幾年であるとか、幾百年であるとか、幾千年であるとか、幾十万年であるとか、数えることはむずかしい。」
 「尊いお方さま。しかし譬喩を以て説明することがでまるでしょう。」
 「修行僧よ。それはできるのです」といって、師は言われた、
「たとえば、コーサラ国の枡目ではかつて二十カーリカの胡麻の積荷(一車輌分)があって、それを取り出すとしょう、ついで一人の人が百年を過ぎるごとに胡麻を一粒ずつ取り出すとしよう。
その方法によって、コーサラ国の枡目ではかって二十カーリカの胡麻の積荷(一車輌分)が速やかに尽きたとしても、一つのアッブタ地獄はまだ尽きるに至らない。二十のアッブダ地獄は一つのニラッブダ地獄[の時期]に等しい。
二十のニラッブダ地獄は一つのアババ地獄[の時期]に等しい。二十のアババ地獄は一つのアハハ地獄[の時期]に等しい。二十のアハハ地獄は一つのアタタ地獄[の時期]に等しい。二十のアタタ地獄は一つの黄蓮地獄[の時期]に等しい。
二十の黄蓮地獄は一つの白睡蓮地獄[の時期]に等しい。二十の白睡地獄は一つの青蓮地獄[の時期]に等しい。二十の青蓮地獄は一つの白蓮地獄[の時期]に等しい。二十の紅蓮地獄[の時期]に等しい。
ところで修行僧コーカーリヤは、サーリプッタおよびモッガラーナに対して敵意をいだいていたので、紅蓮地獄に生まれたのである。」
 師はこのように言われた。幸せな人である師は、このことを説いてから、さらに次のように言われた。──

657 人が生まれたときには、実に口の中には斧が生じている。愚者は悪口を言って、その斧によって自分を斬り割くのである。

658 毀るべき人を誉め、また誉むべき人を毀る者、──かれは口によって禍をかさね、その禍のゆえに福楽を受けることができない。

659 賭博で財を失う人は、たとい自身を含めて一切を失うとも、その不運はわずかなものである。しかし立派な聖者に対して悪意をいだく人の受ける不運は、まことに重いのである。

660 悪口を言いまた悪意を起して聖者をそしる者は、十万と三十六のニラップダの[巨大な年数のあいだ]また五つのアッブダの[巨大な年数のあいだ]地獄に赴く。

661 嘘を言う人は地獄に墜ちる。また実際にしておきながら゜わたしはしませんでした」と言う人もまた同じ。両者とも行為の卑劣な人々であり、死後にはおの世で同じような運命を受ける(地獄に墜ちる)。

(´・(ェ)・`)つ

86 :
657
言葉は斧のように上手に使わないと自分自身を傷つける。言葉で自分を傷つけるとは、自分自身を不幸にすること。また死後には地獄などの悪所に生まれ変わるということ。
愚か者は言葉上手に使わない。言葉の下手な使い方は、@嘘をいうこと、A二枚舌を使うこと、B悪口をいうこと、C無駄話しをすることなど。
賢い人は言葉を上手に使う。言葉の上手な使い方は、@真実を話す、A仲良くさせる言葉を話す、B優しい言葉を話す、C役に立つ言葉を話すなど。
660
1ニラッブダは10の43乗×2、1アップダは10の42乗。
地獄にいる期間は終わりのない、無限の時間だと言ってもいい。
それに比べれば、どんなこの世の苦しみも小さなこと。
(´・(ェ)・`)つ

87 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、10、コーカーリヤ

662 害心なく清らかで罪汚れのない人を憎むかの愚者には、必ず悪(い報い)がもどってくる。風に逆らって微細な塵を撒き散らすようなものである。

663 種々なる貪欲に耽る者は、ことばで他人をそしる。──かれ自身は、信仰心なく、ものおしみして、不親切で、けちで、やたらにかげ口を言うのだが。

664 口穢く、不実で、卑しい者よ。生きものを殺し、邪悪で、悪行をなす者よ。不劣を極め、不吉な、でき損いよ。この世であまりおしゃべりするな。お前は地獄に落ちる者だぞ。

665 お前は塵を播いて不利を招き、罪をつくりながら、諸々の善人を非難し、また多くの悪事をはたらいて、長いあいだ深い坑(地獄)に陥る。

666 けだし何者の業も滅びることはない。それは必ずもどってきて、(業をつくった)主がそれを受ける。愚者は罪を犯して、来世にあってはその身に苦しみを受ける。

667 (地獄に墜ちた者は)、鉄の串を突きさされるところに至り、鋭い刃のある鉄の槍に近づく。さてまた灼熱した鉄丸のような食物を食わされるが、それは、(昔つくった業に)ふさわしい当然なことである。

668 (地獄の獄卒どもは「捕えよ」「打て」などといって)、誰もやさしいことばをかれることなく、(温顔をもって)向ってくることなく、頼りになってくれない。(地獄に墜ちた者どもは)、敷き拡げられた炭火の上に臥し、あまねく燃え盛る火炎の中に入る。

669 またそこでは(地獄の獄卒どもは)鉄の網をもって(地獄に墜ちた者どもを)からめとり、鉄槌をもって打つ。さらに真の暗黒である闇に至るが、その闇はあたかも霧のようにひろがっている。

670 また次に(地獄に堕ちた者どもは)火炎があまねく燃え盛っている鋼製の釜にはいる。火の燃え盛るそれらの釜の中で永いあいだ煮られて、浮き沈みする。

671 また膿や血のまじった湯釜があり、罪を犯した人はその中で煮られる。かれがその釜の中でどちらの方角へ向って横たわろうとも、(膿と血とに)触れて汚される。

672 また蛆虫の棲む水釜があり、罪を犯した人はその中で煮られる。出ようにも、つかむべき縁がない。その釜の上部は内側に彎曲していて、まわりが全部一様だからである。

673 また鋭い剣の葉のついた林があり、(地獄に墜ちた者どもが)その中に入ると、手足を切断される。(地獄の獄卒どもは)鉤を引っかけて舌をとらえ、引っ張りまわし、引っ張り廻しては叩きつける。

674 また次に(地獄に墜ちた者どもは)、超え難いヴェータラニー河に至る。その河の流れは鋭利な剃刀の刃である。愚かな輩は、悪い事をして罪を犯しては、そこに陥る。

675 そこには黒犬や斑犬や黒烏の群や野狐がいて、泣きさけぶかれらを貪り食うて飽くことがない。また鷹や黒色ならぬ烏どもまでが啄む。

676 罪を犯した人が身に受けるこの地獄の生存は、実に悲惨である。だから人は、この世において余生のあるうちになすべきことをなして、忽せにしてはならない。

677 紅蓮地獄に運び去られた者(の寿命の年数)は、荷車につんだ胡麻の数ほどある、と諸々の智者は計算した。すなわちそれは五千兆年とさらに一千万の千二百倍の年である。

678 ここに説かれた地獄の苦しみがどれほど永く続こうとも、その間は地獄にとどまらなねばならない。それ故に、ひとは清く、温良で、立派な美徳をめざして、常にことばとこころをつつしむべきである

(´・(ェ)・`)つ

88 :
663、664
モッガッラーナ尊者が死んで逝くコーカーリヤ比丘を訓戒して述べたと言われている。あるいは大梵天が述べたという説もある
665
何故自分の不利になることをするのか?
本人は自分に不利になるとは分かっていないか、或は、分かっていても感情的になっていて、自分の行動を制御できないということか?実はその前に、自分の行為に気づいていないことか?
自分が馬鹿なことをしないためには、自分の気づくことが必要。
666
業は、行為そのものを指す場合と、行為の結果を意味する場合がある。この詩では、行為の結果を意味している。
行為の結果からは逃げることはできないということ。
悪い行為の結果からは、逃げられないことは恐ろしいこと。悪い行為の結果は悪い結果に決まっているから。どこに逃げようとも、辛い、苦しい恐ろしい結果が待っている。
悪い行為の結果(悪業)の原因を作るなということ。
なぜ悪業から逃れないのか?業は行為そのもの、あるいは行為の結果。それは行為者の潜在的エネルギーとして心に蓄積されている。行為者の心が有る所、行く所、どこにでも付いて行く。

(´・(ェ)・`)つ
663、664←モッガッラーナさん、あるいは大梵天さん、ちょぴっと言い過ぎではありますまいか?と思いつつも、
読者が死後に恐ろしい地獄(667〜675)に行かなくてもすむようにとの優しさなのかもしれぬと思うくまであります。

89 :
>>84 そうじゃ、自らの心の中にそれがあれば滅するべき渇愛になるのじゃ。
 なければそれでよいのじゃ。
 全てを超えて進むのじゃ。

90 :
>>89
鬼和尚ありがとうであります。
ありのままに観察するであります。
(´・(ェ)・`)つ

91 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、11、ナーラカ

 [ 序 ]
679 よろこび楽しんでいて清らかな衣をまとう三十の神々の群と帝釈天とが、恭しく衣をとって極めて讃嘆しているのを、アシタ仙は日中の休息のときに見た。

680 こころ喜び踊りあがっている神々を見て、ここに仙人は恭々しくこのことを問うた、
「神々の群が極めて満悦しているのは何故ですか?
 どうしたわけでかれらは衣をとってそれを振り廻しているのですか?

681 たとえ阿修羅との戦いがあって、神々が勝ち阿修羅が敗れたときにもそのように身の毛の振るい立つぼど喜ぶことはありませんでした。どんな稀なできごとを見て神々は喜んでいるのですか?

682 かれは叫び、歌い、楽器を奏で、手を打ち、踊っています。須弥山の頂に住まわれるあなたがたに、わたくしはおたずねします。尊き方々よ、わたくしの疑いを速かに除いてください。」

683 (神々は答えて言った)、「無比のみごとな宝であるかのボーディサッタ(菩薩、未来の仏)は、もろびとの利益安楽のために人間世界に生まれたもうたのです、──シャカ族の村に、ルンビニーの聚落に。
 だからわれらは嬉しくなって、非常に喜んでいるのです。

684 生きとし生ける者の最上者、最高の人、牡牛のような人、生きとし生けるもののうちの最高の人(ブッダ)は、やがて<仙人(のあつまる所)>という名の林で(法)輪を回転するであろう。──猛き獅子が百獣にうち勝って吼えるように。」

685 仙人は(神々の)その声を聞いて急いで(人間世界に)降りてきた。そのときスッドーダナ王の宮殿に近づいて、そこに坐して、シャカ族の人々に次のようにいった、
 「王子はどこにいますか。わたくしもまた会いたい。」

686 そこで諸々のシャカ族の人々は、その児を、アシタという(仙人)に見せた。──溶炉で巧みな金工が鍛えた黄金のようにきらめき幸福に光り輝く尊い児を。

687 火炎のように光り輝き、空行く星王(月)のように清らかで、雲を離れて照る秋の太陽のように輝く児を見て、歓喜を生じ、昴まく喜びでわくわくした。

688 神々は、多くの骨あり千の円輪ある傘蓋を空中にかざした。また黄金の柄のついた払子で[身体を]上下に扇いだ。
 しかし払子や傘蓋を手にとっている者どもは見えなかった。

(´・(ェ)・`)つ

92 :
>>91
679〜698
序の部分はブッダがカピラ城に誕生した時、アシタ仙人がその相を占って、ブッダの将来を予言したことを述べている。
アシタ仙人とは、ゴータマ・ブッダの父であるスッドダナ(浄飯王)の技芸の師であり、王位についた後は宮廷僧であった。後に苦行者として出家して、王に仕えながら庭園だけに住み、修行を行い、八種の心統一と五神通を成就した。
「三十の神々の群」は普通三十三天の神々と言われている。

681
アシタ仙人は過去未来の四十劫の間の出来事を思い浮かべることが出来た。(劫とは一つの宇宙が生まれて消える時間。)「その長い期間に神々が以前にも、嬉々として喜んだことがあるだろうか。」とアシタ仙人は思いをめぐらしてみた。
神々と阿修羅たちが戦争をしたことがあり、神々が勝ち、その時も神々は喜んだが、今回のように身の毛がよだつほど喜ぶことはなかった。

682
口笛を吹くとは、口で高い音を出すこと。六万八千の楽器を奏でると注釈書には書いてある。

683
ボーディサッタの漢訳は菩提薩(ぼだいさった)、それを短縮して菩薩(ぼさつ)と言う。ボーボーディ(菩提)とは悟り、サッター(薩)とは衆生です。合わせて悟りをめざす人という意味す。
菩薩は悟りをめざす人で、悟りに達した人はブッダです。ブッダは真理を発見し、生命の苦しみの原因を突き止め、その苦しみを克服する方法を体得し、生命が苦しみから解脱する道を教示することができる存在。
神々はそのことを知っていたので、ブッダの出現を待ち望んでいた。菩薩が生まれることは、ブッダの出現が約束されたこと。そのために、神々は菩薩の誕生を歓喜して喜んだ。
684
法輪を転じる(仏教の教え説く)
688
傘蓋をかざし、払子を揺らす神々の姿は人間には見えない。

(´・(ェ)・`)つ

93 :
>>90 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。

94 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、11、ナーラカ

689 カンハシリ(アシタ)という結髪の仙人は、こころ喜び、嬉しくなって、その児を抱きかかえた。──その児は、頭の上に白い傘をかざされて白色がかった毛布の中にいて、黄金の飾りのようであった。

690 相好と呪文(ヴェーダ)に通曉しているかれは、シャカ族の牡牛(のような立派な児)を抱きとって、(特相を)検べたが、心に歓喜して声を挙げた。──「これは無上の方です、人間のうちで最上の人です。」

691 ときに仙人は自分の行く末を憶うて、ふさぎこみ、涙を流した。仙人が泣くのを見て、シャカ族の人々は言った、──
 「われらの王子に障りがあるのでしょうか?」

692 シャカ族の人々が憂えているのを見て、仙人は言った、──
「わたくしは、王子に不吉の相があるのを思いつづけているのではありません。またかれに障りはないでしょう。この方は凡庸ではありません。よく注意してあげてください。

693 この王子は最高のさとりに達するでしょう。この人は最上の清浄を見、多くの人々のためをはかり、あわれむが故に、法輪をまわすでしょう。この方の清らかな行いはひろく弘まるでしょう。

694 ところが、この世におけるわたくしの余命はいくばくもありません。(この方がさとりを開かれるまえに)中途でわたくしは死んでしまうでしょう。
わたくしは比(たぐい)なき力ある人の教えを聞かないでしょう。だから、わたくしは、悩み、悲嘆し、苦しんでいるのです。」

695 かの清らかな修行僧(アシタ仙人)はシャカ族の人々に大きな喜びを起させて、宮廷から去っていった。かれは自分の甥(ナーラカ)をあわれんで、比(たぐい)なき力ある人の教えに従うようにすすめた。──

696 「もしもお前が後に『目ざめた人あり、さとりを開いて、真理の道を歩む』という声を聞くならば、そのときそこへ行ってかれの教えをたずね、その師のもとで清らかな行いを行え。」

697 その聖者は、人のためをはかる心あり、未来における最上の清らかな境地を予見していた。その聖者に教えられて、かねて諸々の善根を積んでいたナーラカは、勝利者(ブッダ)を待望しつつ、みずからの感官をつつしみまもって暮らした。

698 <すぐれた勝利者が法輪をまわしたもう>との噂を聞き、アシタという(仙人)の教えのとおりになったときに、出かけていって、最上の人である仙人(ブッダ)に会って信仰の心を起し、いみじき聖者に最上の聖者の境地をたずねた。

 序文の詩句は終った。

(´・(ェ)・`)つ

95 :
>>94
689
「カンハシリ」の「カンハ」とは、「黒い」という意味。「シリ」は「吉祥」という意味。「カンハシリ」は「黒い吉祥」という意味。アシタ仙人はこのように呼ばれていた。

注釈書には、釈迦族の人々は始め、お釈迦様をアシタ仙人に抱かせようとしたのではなく、礼拝させようとして、差し出した、ところが赤ちゃんの足が動いて、アシタ仙人の頭の上に立ったと言うこと。
仙人はこの不思議を見て、「こころ喜び、嬉しくなって、その児を抱きかかえた。」ということ。

690
アシタ仙人は観相や真言の奥義に達した人、聖者の三十二相があるかどうか調べた。すべての瑞相が具わっていることを発見した。

693
最高のさとりに達する(至高の正覚を体得する)とは、
解脱すること、涅槃に達すること。
貪りの滅尽・怒りの滅尽・迷いの滅尽。
経典ではこれらを覚り(涅槃)の同義語として次のような言葉が使われている。
無為、無漏、真理、彼岸、巧妙、強固、照見、無説、無戯論、寂静、不死、最上、吉祥、安穏、渇愛の滅尽、希有、未曾有、無災、無災法、無害、離貪、清浄、解脱、無執着、洲、避難所、帰依所など。

この童子は最高に清浄な人になり、人々の利益のために、人々を慈しんで法輪を転じる(真理を教えを説法をする)だろうということ。

697
「その聖者」は、「アシタ仙人」を指し勝利者(勝者)はブッダを指している。
アシタ仙人が人のためをはかる心あり、アシタ仙人が未来における最上の清らかな境地を予見していたということ。

698
ブッダの始めの説法は、初転法輪経と言われ、インドのベナレスに近いイシパタナ(仙人の降り立つ地)にある鹿野苑(ろくやおん)で行われた。
この説法がされた時、地の神々から始まり、全宇宙の神々に<すぐれた勝利者が法輪をまわしたもう>という讃嘆の声が広がったということ。

(´・(ェ)・`)つ

96 :
実際には最初の説法は失敗したのじゃ。
それで苦滅の法を説いたのじゃ。
それによって成功したのじゃ。

97 :
鬼和尚、こんばんは。
昔の修行仲間に、最初は相手にされなかったのでありますしょうかね。
最初はどんな説法をして失敗したのでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ

98 :
自在さんも最初は失敗しましたもんね。

99 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、11、ナーラカ

699 [ナーラカは尊師にいった]、「アシタの告げたこのことばはそのとおりであるということを了解しました。故に、ゴータマよ、一切の道理の通達者(ブッダ)であるあなたにおたずねします。

700 わたくしは出家の身となり、托鉢の行を実践しようと願っているのですが、おたずねします。聖者よ、聖者の境地、最上の境地を説いてください」。

701 師(ブッダ)はいわれた、「わたくしはあなたに聖者の境地を教えてあげよう。これは行いがたく、成就し難いものである。さあ、それをあなたに説いてあげよう。
しっかりとして、堅固であれ。

702 村にあっては、罵られても、敬礼されても、平然とした態度で臨め。(罵られても)こころに怒らないように注意し、(敬礼されても)冷静に、高ぶらずにふるまえ。

703 たとい園林のうちにあっても、火炎の燃え立つように種々のものが現れ出てくる。
婦女は聖者を誘惑する。婦女をしてかれを誘惑させるな。

704 婬欲のことがらを離れ、さまざまの愛欲をすてて、弱いものでも、強いものでも、諸々の生きものに対してね敵対することなく、愛著することもない。

705 『かれもわたしと同様であり、わたしもかれと同様である』と思って、わがみに引きくらべて、(生きるものを)殺してはならなぬ。また他人をして殺させてはならない。

706 凡夫は欲望と貪りと執著しているが、眼ある人はそれを捨てて道を歩め。この(世の)地獄を超えよ。

707 腹をへらして、食物を節し、小欲であって、貪ることなかれ。かれは貪り食う欲望に厭きて、無欲であり、安らぎに帰している。

708 その聖者は托鉢にまわり歩いてから、林のほとりにおもむき、樹の根もとにとどまって座につくべきである。

709 かれは思慮深く、瞑想に専念し、林のほとりで楽しみ、樹の根もとで瞑想し、大いにみずから満足すべきである。

710 ついで夜が明けたならば、村里のほとりに去るべきである。(信徒から)招待を受けても、また村から食物をもらってきても、決して喜んではならない。

711 聖者は、村に行ったならば、家々を荒々しくガサツに廻ってはならない。話をするな。わざわざ策して食を求めることばを発してはならない。

(´・(ェ)・`)つ

100 :
>>99
699
「一切の道理の通達者(ブッダ)」(一切諸法(現象世界)の彼岸に至る方)の意味について、注釈書には、スッタニパータの第一の九の雪山夜叉経の168、169に言及。
「何があるとき世界は生起するのですか?」の雪山夜叉の質問に対して「六つがあるとき世界は生起する。」とブッダは答えている。
六つとは「眼、耳、鼻、舌、身、意」。世界はこの六つで知られることがすべてであると答えた。この六つで知られることを知りつくした人が一切の道理の通達者。

700
聖者たちが実践した「托鉢の行=乞食の行を実践しようと願っている者」
食べ物を他人からもらい、それを糧に生活し、修行すること。

702
普通、人間はけなされれば怒り、ほめられれば喜ぶ。
ブッダが「聖者の行」として始めにナーラかさんに教えたことは、この現象と反対のこと。
罵られても(=けなされても)怒らず、敬礼されても(=ほめられても)喜ぶなということ。このどちらにたいして同じ態度を取りなさいと教えている。

何故生命はほめられれば喜び、けなされれば怒るか。それは生命が何かに依存して生きているから。この依存は保障された時は安心して、喜ぶ。
逆に依存が保障されない時は不安になり、恐怖や怒りが現れる。ほめられるということ保障されたと感じ、けなされると保障されてないと感じてしまうから。
聖者、覚った人は何ものにも依存しない独立・自立の人。だから、ほめられることにも、けなされることにも無関心、無頓着。どちらにたいしても同じ態度を取る。
ほめられて喜び、けなされて怒る自分をよく観察し、それが当たり前だと思わずに、人の評価に依存している自分を自覚するように教える。

703
恐ろしいもの、心をとらえるもの、憎むべきもの、迷わすものが現れる。それらを「火炎の燃え立つように種々のものが現れ出てくる。」と表現。
聖者を誘惑しようとするものらに誘惑せないような態度を取らなければいけない。
修行中の聖者は、感覚を守り、心が煩悩で汚れないようにしなければならない。

704
淫欲その他にもいろいろな欲望があり、それらも悩み苦しみの原因であり、生命を輪廻させるもの。
「動くものと動かないものにたいし」「弱いものでも、強いものでも」つまりどんな生き物に対しても「敵対することなく、愛著することもない。」ということで、好き嫌いの意識を持たないというということ。

欲望を捨てなければ、どんな生命にも分け隔てなく、「敵対することなく、愛著することもない。」ということが出来ないということ。
自分に欲望があれば、すべて生命に対して平等に対応できない。すぐ依怙贔屓(えこひいき)の感情が現れる。平等・対等な態度は聖者のやさしさ。

(´・(ェ)・`)つ
つづく

101 :
>>99
705
「『かれもわたしと同様であり、わたしもかれと同様である』と思って、」ということは「聖者の行」においては非常に大切な原理。
自分の欲望を乗り越えなければ出来ないこと。

706
欲望(欲求)と貪欲、その意味の違いは、まだ得てない対象を欲しがることと、手に入れた対象を貪るという所にある。そのような欲求と貪欲に凡夫は執着する。

眼ある人とは、ここではナーラカさんに言っているが、「聖者の行」を実践しようとする人は、欲求や貪欲に執着しないようにと述べられている。「眼ある人」は普通覚った人を指す場合が多いが、ここではまだ覚ってなく、その志のある人。

注釈書には、欲求と貪欲の対象を衣服や生活必需品をさしていると説明されている。それに執着する態度は、生活の清浄を失うことになる。
この(世の)地獄とは、生活必需品を欲しがり、貪る態度をこの世の地獄と言っている。そして欲求と貪欲を捨てることが、この世の地獄を超えること。
707
日常生活の大きな要素として衣食住薬があるが、そのうちの食に関して次のように比丘(出家者)は、次のように観察すべきであると教えられている。

「私は正しく考察して施食を受用します。
遊戯(楽しみ)のためでなく、驕慢(力の自慢)のためでなく、装飾(良い体格)のためでなく、荘厳(美容)のためでなく、ただこの身体の存続のため、維持のため、飢餓病気を静めるため、最勝行を守るために受用するのです。
この施食を受用することによって、前の苦痛(空腹)はなくなり、新しい苦痛(満腹)が起こらず、私は存続することが出来、罪がなく、安楽に過ごされるでありましょう。」

身体を維持できる最小量の食事で満足するようにする。そのように覚悟が出来れば、食事を貪ることはない。

そのように、心がけている修行者は、その他の欲望も静まり、欲求・貪欲ないものとして、解脱の道を進み、涅槃に達する。

(´・(ェ)・`)つ
つづく。

102 :
>>99
708
702〜707のような教えは自分の行動を自覚していなければできないこと。自分の心の状態を自覚していることは意外に難しい。
そこで、ブッダは「聖者の行」を実践するために、自分の心を自覚することを教えている。その方法として瞑想がある。
先ず、身体の状態、動きを観察。身体は目に見えるものですから、比較的観察しやすい。
次に感覚を観察。感覚も心より観察しやすい。また感覚を感じると必ずそれに伴う心の動きがある。
その心を観察するようにする。
瞑想において、身体、感覚、心を観察すると自分に起こるもろもろの現象や法則、真理などが明らかになって来る。
仏教ではこれらの観察する対象を「四念処」と言う。
四念処は身(身体)、受(感覚)、心、法(現象、真理)。

709
パーリ語のjhna・pasutoのjhnaは「深思すること、禅那、禅定、静慮」などの訳がある。瞑想という訳もよく使われる。pasutoは「専念すること、熱中すること」。jhna・pasutoは「瞑想に専念すること」。つまり八正道の「正定」を実践すること。

「正定」は「正しい瞑想」と言う意味。その内容は第一禅定、第二禅定、第三禅定、第四禅定であると定義されている。
「瞑想に専念する」とは第一から第四禅定に専念することになる。
禅定に入るためには、静かに坐るなどして、五蓋(欲貪、瞋恚、昏沈・睡眠、掉挙・悪作、疑)という煩悩の機能を停止する必要がある。
五蓋の機能が停止すると、自然に五支禅(尋、伺、喜、楽、一境性)が現れ、第一禅定に入る。
そうすると一時的に煩悩がない状態を経験するの。しかし、禅定により煩悩がなくなったわけではないから、禅定から出ると煩悩は現れる。
第二禅定はより一境性(集中力)が高まり、尋(大まかな思考)、伺(細かい思考)が消えた状態。
第三禅定は更に一境性が高まり、喜が消えた状態。
第四禅定は更に一境性が高まり、楽も消えた状態。
先ず始めの第一禅定に入れば、喜びや楽が経験できる。この偈に書いてあるような体験ができる。

ダンマパダ282。
実に心が統一されたならば、豊かな智慧が生じる。
心が統一されないならば、豊かな智慧が滅びる。
生じることと滅びることのこの二つの道を知って、
豊かな智慧が生じるように自己を整えよ。

ここで大切なポイントは二つ。心の統一とは禅定。禅定がなければ、智慧が現れない。また、智慧がなければ禅定に入れないというこ。もう一つは物事の生滅という真理を知るということ。瞑想によりこの重要なポイントを体得できる。
710
解脱を求める修行者は寝る時間を惜しんで修行しなさいということ。

(´・(ェ)・`)つ

103 :
>>97ウパカという者に わしは無師独悟の仏陀じゃとか言ったのじゃ。
 そうしたらそうかもしれんとか言われて終わりなのじゃ。
 
 それだけではいかんんと気付いたのじゃ。

>>98 おぬしわしに詳しいのう。
 苦を滅する法があるのじゃよ。
 わっはっはっは。


 

104 :
>>103
鬼和尚、ありがとうであります。
真理のことば(ダンマパダ)
第二四章 愛 執 353
http://fate.2ch.sc/test/read.cgi/keihatsu/1491878919/769
↑これが、ウパカさんへの失敗した初説法らしいでありますね。
(´・(ェ)・`)つ

105 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、11、ナーラカ

712 『(施しの食べ物を)得たのは善かった』『得なかったのもまた善かった』と思って、全き人はいずれの場合にも平然として還ってくる。
あたかも(果実をもとめて)樹のもとに赴いた人が、(果実を得ても得なくても、平然として)帰ってくるようなものである。

713 かれは鉢を手にして歩き廻り、唖者ではないのに唖者と思われるようにするためだ。施物が少なかったらとて軽んじてはならぬ。施してくれる人を侮ってはならない。

714 道の人(ブッダ)は高く或いは低い種々の道を説き明かしたもうた。重ねて彼岸に至ることはないが、一度で彼岸に至ることもない。

715 (輪廻の)流れを断ち切った修行僧には執著が存在しない。なすべき(善)となすべからざる(悪)とを捨て去っていて、かれは煩悶が存在はない。」

716 師がいわれた、
「「あなたに聖者の道を説こう。──(食をとるには)剃刀の刃の譬えのように用心せよ。舌で上口蓋を抑え、腹についてはみずから食を節すべし。

717 心が沈んでしまってはいけない。またやたらに多くのことを考えてはいけない。腥い臭気なく、こだわることなく、清らかな行いを究極の理想とせよ。

718 独り坐することと<道の人>に奉仕することを学べ。聖者の道は独り居ることであると説かれている。独り居てこそ楽しめるであろう。

719 そうすればかれは十方に光輝くであろう。欲望をすてて瞑想している諸々の賢者の名声を聞いたならば、わが教えを聞く者はますます恥を知り、信仰を起すべきである。

720 そのことを深い淵の河水と浅瀬の河水とについて知れ。河低の浅い小川の水は音を立てて流れるが、大河の水は音を立てないで静かに流れる。

721 欠けている足りないものは音を立てるが、満ち足りたものは全く静かである。愚者は半ば水を盛った水瓶のようであり、賢者は水の満ちた湖のようである。

722 <道の人>が理法にかない意義あることを多く語るのは、みずから知って教えを説くのである。

723 しかしみずから知って己れを制し、みずから知っているのに多くのことを語らないならば、かれは聖者として聖者の行にかなう。かれは聖者として聖者の行を体得した。」

(´・(ェ)・`)つ

106 :
>>105
712
そもそも、「聖者の行」を実践する修行者、出家者は「どうしても生きて生きたい」という渇愛という心の汚れを克服しようとしている。
托鉢で食べ物を得られても、得られなくとも聖者を志すものは善かったと思う。

714
「聖者の行」の復習、
1、罵られても、敬礼されても、平然とした態度で臨め。
2.婦女をして彼を誘惑させるな
3.諸々の生きものに対して、敵対することもなく、愛着することもない。
4.欲望と貪りを捨てて、この世の地獄を超えよ。
5.食べ物を節し、少欲であって、貪るなかれ。
6.托鉢が終われば、樹の根元で瞑想すべき。
7.樹の根元で瞑想し、満足すべき。
8.托鉢で食べ物をもらっても、喜んではならぬ。
9.托鉢で食べ物をもらえるような言葉を言うな。
10.食べ物をもらっても、もらえなくとも善かったと思うように。
11.もらった食べ物が少なくとも軽んじない。施者を侮らない。
「重ねて彼岸に至ることはないが」は、彼岸つまり涅槃に一度到達すれば、もう戻ることはないと言うこと。為すべき修行は完成、完了だということ。
「一度で彼岸に至ることもない」とは、涅槃に行くことを一度挑戦して、それで涅槃に行けるかと言えばそのようなことはないということ。
八正道は涅槃に行くための道。これは涅槃につながる一本の道だが、八種類の道。その道を一つずつ進まなければならない。それは八回挑戦しなければならないと言える。
そういう意味で「一度で彼岸に至ることもない」と述べられている。

715
「聖者の行」で修行した修行者には、輪廻の原因である渇愛などの煩悩はなくなっている。執着のない彼には「なすべき(善)となすべからざる(悪)と」はない。
制約・拘束するものがないから、苦悩はない。これは「聖者の行」の功徳。
「なすべき(善)となすべからざる(悪)と」は自分の想いが作っているもの。執着がないということは、そのような想いがないので、「「なすべき(善)となすべからざる(悪)と」がない。
悪行為は煩悩によって現れる。煩悩がないので、悪行為は出来ない。「「なすべき(善)となすべからざる(悪)と」を捨てても問題ない。

(´・(ェ)・`)つ
つづく

107 :
>>105
716
注釈書によると、ナーラカさんは715偈を聞いて、次のような心が生じた。
「もし聖者の行がこれだけのものなら、容易に行われ、なし難くもないし、わずかの苦労で満足させることができる」と。
それに対して、ブッダは「聖者の行は、まさになし難い」ことを示そうとして716を述べたと言うこと。
「カミソリについた蜜をなめるときには舌を切らないように用心する」と言うこと。すなわち、人々から受け取った食べ物や生活必需品から煩悩が起こらないように注意して心を守りなさいということ。
舌で上顎を強く押して、味への渇愛を除いて、托鉢で何ももらえない時でも、空腹に耐えるべきであるとも述べている。これは決して容易な行ではない。
717
「心が沈んでしまってはいけない。」とは、常に修行して、休まず行うこと、怠けてはいけないということ。
「またやたらに多くのことを考えてはいけない。」とは、眼、耳、鼻、舌、身、意を楽しませることなど。妄想や煩悩が増加するから。
生臭(スッタニパータの第2章の2に「生臭経」、生き物をR等の五戒を守らないこと)とは五戒を守っているということ。
「こだわることなく」とは、五感の対象に依存しないこと。これらに依存することは、これらに従属し、それらの奴隷になること。それらに依存しなければそれらから解放され、自由になること。
「清らかな行い」は、梵行の訳、注釈書には「『戒、定、慧』の三学というすべての教えとしての梵行に親しむがよい」という意味であるとしてある。
718
村から離れてという身体の遠離と、ブッダの瞑想方法による人々に依存しない心の遠離を学ぶようにということ。
719
一人瞑想をして、それを楽しむ賢者は東西南北、その間の四方と上下で十方に光輝く。
欲望を捨てて瞑想をする人を人々は称賛し評判が高まる。
しかし、そのような評判、うわさを聞いて、あなた(ナーラカさん)は浮つくことなく、ますます恥を知り、謙虚になって、仏法僧への信(確信)を確立するように教えた。
720
「そのことを」とは、
719偈の「わが教えを聞く者はますます恥を知り、信仰を起すべきである。」ということ。このことを「深い淵の河水と浅瀬の河水」でよく知りなさいと言うこと。
深い河の流れは静かに流れるが、浅瀬の川の流れは音を立てて流れるという違い。
721
智慧があれば静かであり、智慧がなければ騒がしいということ。
水が半分入った水瓶と満々と水をたたえた湖を例に挙げて、智慧のある人(賢者)と智慧のない人(愚者)を比較。
智慧がなければ恥を知らず、信仰を起こさないということ。
欲望を捨てて瞑想する賢者は評判が上がると、智慧が少ないと舞い上がって、騒がしく、信仰もいいかげんになってしまう。
しかし、智慧があれば、評判が上がっても、舞い上がらず、静かに、落ち着いて、謙虚に、信仰を高めるものだということ。
722 723
722は<道の人>は多くを語る。723は「みずから知っているのに多くのことを語らないならば、かれは聖者として聖者の行にかなう。」この矛盾をどのように考えたらよいか?
ダンマパダ268番には、「ただ沈黙しているからとて、愚かに迷い無智なる人が聖者なのではない。」と述べられている
聖者が黙っているのは必要があって黙っているということ。ただ、黙っているという訳ではない。必要がある時は聖者は大いに語る。
(´・(ェ)・`)つ

108 :
>>104 そうかもしれん。
 悟っても学ぶことは多いものじゃ。
 人の心を学ぶのじゃ。

109 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、12、二種の観察

 わたしが聞いたところによると、──或るとき尊師はサーヴァッティーの[郊外にある]東園にあるミガーラ(長者)の母の宮殿のうちにとどまっておられた。
そのとき尊師(ブッダ)はその定期的集会(布薩)の日、十五日、満月の夜に、修行僧(比丘)の仲間に囲まれて屋外に住しておられた。
さて尊師は仲間が沈黙しているのを見まわして、かれらに告げていわれた、──
 修行僧たちよ。善にして、尊く、出離を得させ、さとりにみちびく諸々の真理がある。そなたたちが、『善にして、尊く、出離を得させ、さとりにみちびく諸々の真理を聞くのは、何故であるか』と、
もしもだれかに問われたならば、かれに対しては次のように答えねばならぬ。──『二種ずつの真理を如実に知るためである』と。
しからば、そなたたちのいう二種とは何であるか、というならば、『これは苦しみである。これは苦しみの原因である』というのが、一つの観察[法]である。
『これは苦しみの消滅に至る道である』というのが、第二の観察[法]である。
【修行僧たちよ。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。
──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないこと(不還)である。──
尊師はこのように告げられた。そうして、幸せな師(ブッダ)は、さらにまた次のように説かれた。】(以下【A】繰り返し)

724 苦しみを知らず、また苦しみの生起するもとを知らず、また苦しみのすべて残りなく滅びるところをも、また苦しみの消滅に達する道をも知らない人々、──

725 かれらは心の解脱を欠き、また智慧の解脱を欠く。かれらは(輪廻を)終滅させることができない。かれは実に生と老いとを受ける。

726 しかるに、苦しみを知り、また苦しみの生起するもとを知り、また苦しみのすべて残りなく滅びるところを知り、また苦しみの消滅に達する道を知った人々、──

727 かれらは、心の解脱を具現し、また智慧の解脱を具現する。かれらは(輪廻を)終滅させることができる。かれらは生と老いとを受けることがない。

(´・(ェ)・`)つ

110 :
>>109
724、「苦しみ(苦諦)を知らず、また苦しみの生起するもと(集諦)を知らず、」「また苦しみのすべて残りなく滅びるところ(滅諦)をも、また苦しみの消滅に達する道(道諦=八正道)をも知らない」人々は、二種の観察をしてないので、知らないのだと述べている。

725では、そのような人々は心の解脱(心解脱)をすることもないし、まして智慧の解脱(慧解脱)をすることがないと説かれている。彼らは苦しみの輪廻を終わらせることが出来ず、生まれること、老いること、死ぬことを繰り返すということ。

726、727、二種の観察をする人は苦諦、集諦、滅諦、道諦を知り、心の解脱か、さらには智慧の解脱を達成して苦しみの輪廻を止めて、生まれること老いることを繰り返すことはない。

心の解脱(心解脱)貪欲を完全に克服することが心の解脱。
智慧(慧解脱)無明を完全に克服することが智慧の解脱。

ブッダは覚りは四段階。
預流果、一来果、不還果、阿羅漢果。
預流果の覚りに至ってもまだ貪欲は残っている。一来果になるとそれがかなり薄まるが、まだ残っている。
不還果に至って初めてすべての貪欲が克服される。そのため輪廻を止めることになる。しかし、まだ慢、掉挙(じょうこ)、無明等の煩悩が残っている。
これらすべての煩悩を克服した方が阿羅漢。阿羅漢には智慧の解脱によって成る。
(´・(ェ)・`)つ

111 :
そうじゃ、観察によって苦は滅するのじゃ。
そして悟りにも達することが出来るのじゃ。
それがお釈迦様の説いた法なのじゃ。

112 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、12、二種の観察

【「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか?】(以下【B】繰り返し)
 『およそ苦しみが生ずるのは、すべて素因に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら素因が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。【A】(>>109

728 世間には種々なる苦しみがあるが、それらは生存の素因にもとずいて生起する。実に愚者は知らないで生存の素因をつくり、くり返し苦しみを受ける。それ故に、知り明らめて、苦しみの生ずる原因を観察し、再生の素因をつくるな。

【B】『どんな苦しみが生ずるのでも、すべて無明に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら無明が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。【A】

729 この状態から他の状態へと、くり返し生死輪廻に赴く人々は、その帰趣(行きつく先)は無明にのみ存する。

730 この無明とは大いなる迷いであり、それによって永いあいだこのように輪廻してきた。しかし明知に達した生けるものどもは、再び迷いの生存に戻ることがない。

【B】『およそ苦しみが生ずるのは、すべて潜在的形成力に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら潜在的形成力が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。【A】

731 およそ苦しみが生ずるのは、すべて潜在的形成力を縁(原因)として起るのである。諸々の潜在的形成力が消滅するならば、もはや苦しみの生ずることもない。

732 「苦しみは潜在的形成力の縁から起るものである」と、この災いを知って、一切の潜在的形成力が消滅し、(欲など)相を止めたならば、苦しみは消滅する。このことを如実に知って、

733 正しく見、正しく知った諸々の賢者・ヴェーダの達人は、悪魔の繋縛にうち勝って、もはや迷いの生存に戻ることがない。

【B】『およそ苦しみが生ずるのは、すべて識別作用(識)に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら識別作用が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。【A】

734 およそ苦しみが生ずるのは、すべて識別作用に縁って起るのである。識別作用が消滅するならば、もはや苦しみが生起するということはあり得ない。

735 「苦しみは識別作用に縁って起るのである」と、この禍いを知って、識別作用を静まらせたならば、修行者は、快をむさぼることなく、安らぎに帰しているのである。
(´・(ェ)・`)つ

113 :
>>112
728
生存の素因(生存の基礎)に基づいて苦があるということ。
第一の観察は生存の素因(生存の基礎)によって苦が生起すること観察すること。
第二の観察は生存の素因(生存の基礎)がない時、苦がないことを観察すること。この二種の観察を正しく、怠らず、つとめ励んで、専心すれば、慧解脱か心解脱が出来て、輪廻を終滅できるということ。

生存の素因(生存の基礎)とは何か具体的に考える。四聖諦の教えから言えば、渇愛。
渇愛とは、喉の渇いた人が水を求めるように、欲望の対象を求める気持ち。第一の観察はこの渇愛がある時、苦が生起すること。
第二の観察はこの渇愛がない時、苦がないことを観察する。このことを知って、生存の素因(渇愛)を作らないようにと述べられている。

729 この状態から他の状態へと、くり返し生死輪廻に赴く人々は、その帰趣(行きつく先)は無明にのみ存する。無明があるから輪廻を卒業出来ないで、本人は自覚してないが、そのために苦しんでいる。

730
如何なる苦もすべて無明を縁にして現れるのだということ。それを観察することが第一の観察。そして無明が残りなくない時は苦がないということを観察するのが第二の観察。
無明というのは大きな迷い。これによって輪廻を長いこと繰り返している。この無明を克服して、明智に達した人々は輪廻を繰り返すことはない、もう生存には戻ってこないと述べられている。

四無明、1.苦を知らないこと。2.苦の原因を知らないこと。3.苦の滅を知らないこと。4.苦の滅に至る道を知らないこと。
すべての煩悩のもとには無明がある。無明は煩悩の原因。無明がなければすべての煩悩はない。無明は煩悩の王様。無明をつぶせば、すべての煩悩をつぶすことになる。すべての煩悩がなくなれば苦しみはなくなる。

731 732 733
730 731のテーマは、無明、潜在的形成力(行)、732のテーマは識別作用(識)であるから間違いなく十二支因縁の順番。すべての苦は無明を縁として生じる。
無明から自動的に、無明を縁にして潜在的形成力(行)が生じる。
潜在的形成力(行)を縁にして苦も生じる。

732潜在的形成力によって(欲など)想(saサンニャー)が現れると述べている。想を止めると、欲がとまるので、苦が消滅する。
(相、lakaa、仏教用語。特徴,特質,様相,形相という意味。仏教では,体 (本体) ,用 (作用) ,相の3語が組みになって用いられるが,この場合の相は,見られるものの姿を意味する。)
「潜在的形成力」はパーリ語のsakhraの訳。「行、有為の法、事象、術語としては十二支の第二支、及び五蘊の中の行蘊、十二支の行は身、語、意の行をいう。」身心を突き動かす力(衝動、内的衝動、習慣力、慣性)。
五蘊で言えば五蘊を形成する力、十二支から見ると次の識(認識)を準備するもの。意思あるいは衝動と思ってもよい。

733偈の悪魔の繋縛(けばく)。悪魔は欲界(輪廻の世界)の支配者であるから、欲の支配下に置かれること、欲の奴隷になっていること。悪魔は欲の象徴と考えてもよい。

734 735
テーマは識別作用(識)。無明を縁として潜在的形成力(行)が生じ、潜在的形成力を縁として今回の識別作用(識)が生じる。これは十二支因縁の教え。
識別作用(識)を縁にして苦が生じる。

識別作用はviaの訳。この言葉は、識、意識、認識、区別して認識すること、識別すること、知ること、分かること等の訳語が使われる。

術語としては、1.十二支因縁の第三支、2.五蘊の一つ、3.六識(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識)の識。

何故この識別作用が苦になるのか。識別作用は生命の持つ本能(死にたくない、なんとしても生きたい、苦を避け、楽を求める等の本能)により、真実から離れてしまうという欠点があるからだと思われる。
真実から離れた認識は誤謬であり、その誤謬が苦を生み出す。その欠点を避けるために、識別作用を静め、「修行者は、快をむさぼることなく、安らぎに帰している」。

(´・(ェ)・`)つ
鬼和尚、732は、何気ない行為や衝動によって「欲」が生じることがあるとを言ってるだけでありましょうかね?

114 :
↑そのようじゃ。
 それはおかしいのじゃ。
 十二因縁では無明から縁によって次々に起こるものであるからのう。
 行だけから欲が起こるのでは自ら語っていることすらわかっていないことになるのじゃ。

115 :
>>114
鬼和尚こんばんは。
お釈迦さんは、詳細に何でも分析して解説できる、超賢い人だったのでありますね!
(´・(ェ)・`)つ

116 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、12、二種の観察

【B】(>>112)『およそ苦しみが生ずるのは、すべて接触に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら接触が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。【A】(>>109

736 接触にとらわれ、生存の流れにおしながされ、邪道を歩む人々は、束縛の消滅は遠いかなたにある。

737 しかし接触を熟知し理解して、平安を楽しむ人々は、実に接触がほろびるが故に、快を感ずることなく、安らぎに帰している。

【B】『およそ苦しみが生ずるのは、すべて感受に縁って起るものである』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら諸々の感受が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。【A】

738 楽であろうと、苦であろうと、悲苦悲楽であろうとも、内的にも外的にも、およそ感受されたものはすべて、

739 「これは苦しみである」と知って、滅び去るものである虚妄の事物に触れるたびごとに、衰滅することを認め、このようにしてそれらの本性を識知する。諸々の感受が消滅するが故に、修行僧は快を感ずることなく、安らぎに帰している。

【B】『およそ苦しみが生ずるのは、妄執(愛執)に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら妄執が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。【A】

740 妄執を友としている人は、この状態からかの状態へと永い間流転して、輪廻を超えることができない。

741 妄執は苦しみの起る原因である、とこの禍いを知って、妄執を離れて、執著することなく、よく気をつけて、修行僧は遍歴すべきである。

【B】『およそ苦しみが生ずるのは、すべて執著に縁って起るのである。』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら諸々の執著が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。【A】

742 執著に縁って生存が起る。生存せる者は苦しみを受ける。生れた者は死ぬ。これが苦しみの起る原因である。

743 それ故に諸々の賢者は、執著が消滅するが故に、正しく知って、生まれの消滅したことを熟知して、再び迷いの生存にもどることがない。

(´・(ェ)・`)つ

117 :
>>116
736 737
十二因縁の順番で言うと次は名色(心の働きと身体としての物質が生まれること)、その次は六処(眼耳鼻舌身意などの感覚器官)、次に接触(触)が続く。
この経では名色と六処は言わないで接触が述べられている理由について、注釈書では、名色及び六処は色(物質)が混ざったもので、既に述べた728偈の生存の素因(生存の基礎)に関連するものだからという。
注釈書は生存の要因(生存の基礎)を業ととしていた。つまり、名色及び六処は業によるものだから説明済というわけである。
接触は感覚器官(感官)と感覚の対象と識別作用との和合から成り立つ。三者のどの一つでも欠けたら接触は成り立たない。
感覚器官と感覚の対象の接触があるのはないかと考えるかもしれないが、そのとき識別作用がなければそのような接触があったかどうか分からない。
このことが理解できると、既に述べたように、識別作用がなくなれば接触から次の流れが止まり、苦に至ることがなくなることが分かる。また、潜在的形成力作用がなくなれば、識別作用がなくなるわけだから、苦がなくなることが分かる。
736接触にとらわれると、「生存の流れにおし流され」(輪廻を続ける)、「束縛の消滅は遠いかなたにある」(悪魔の繋縛から抜け出せない)ということ。
737では、接触を熟知し理解した人は、静寂を楽しむようになり、そうすると接触がほろびて、苦(不快)や楽(快)を感じることなく、涅槃を至っていると述べている。
738、739
接触があると、感覚が生じる。感覚には好ましく感じるものがあり、それは仏教用語では楽と言い、また嫌だと感じるものがあり、それは苦と言う。好ましくも嫌だとも感じない、どちらでもない感覚があり、それを不苦不楽(非苦非楽)と言う。
このように感覚を大きく分けてればこの三種類があるが、これらの感覚を縁にして苦が生じるのだと述べている。
それは何故か?
感覚の好き嫌いは業(生まれながら持っている性質)によって決まっている。これは生命の種類によって決まっている。同じ種類でも個体による好き嫌いの違いも業によるもの。これらの好き嫌いの理由は説明できない。業だから。
しかし、好ましく感じる感覚も好ましくなく感じる感覚もどちらも、変化して確定はしていない。だから、これは好ましいと決めつけられない。
例えば好きな食べ物も、たくさん食べ過ぎると食べたくなくなり、ある場合には嫌いになる。好きとも嫌いとも断言できない。そのことを「滅び去るものである虚妄の事物」と言っている。
「触れるたびごとに、衰滅することを認め」とはどんな感覚も消えて行くということ。永遠に続く感覚はない。
楽の感覚もいずれなくなるから、それに対して不満が起きて苦を感じる。苦は始めから苦。不苦不楽も退屈して不満や不快に変わり苦になる。つまりどのような感覚も苦の縁になる。
そのことをよく知って、感覚にとらわれず、感覚から離れる修行者は安らぎの寂静(涅槃)にいる。
(´・(ェ)・`)つ
つづく

118 :
738「内も、外も、それが何であれ、」の内とは「自分に」であり、外には「他人に」の意味。
四念処経(中部経典第10)等に書かれている内と外の意味も内は自分であり、外は他人である。他人の感覚も注意深く観察すれば分かる。他人を配慮するとは他人の感覚も理解すること。
740 741
今回のテーマは渇愛。パーリ語は‘Tah(タンハー)、渇愛は仏教用語。中村訳は妄執(愛執)
728偈の渇愛は四聖諦の二番目集諦(苦の原因)の渇愛。今回は十二因縁の八番目の渇愛。それは1無明、2潜在的形成作用(行)、3識別作用(識)、4名称と形態(名色)、5感覚器官(六処)、6接触(触)、7感覚(受)、8渇愛、・・・・・と続く。
ここで渇愛を考えるときは、このつながりの中で考えた方がよい。感覚(受)では、その感覚から離れないでいると、すぐに今回の渇愛が現れる。そしてこの渇愛を縁として苦が生まれる。
また次のテーマの執着はこの渇愛があるとすぐ執着が現れる。渇愛の前後、また渇愛自身が苦の原因になる。
十二因縁の流れは非常に危険。どこかでこの流れを止めなければならない。
特に、感覚を縁にして渇愛が現れてところに注意を向ける。いろいろな感覚が現れてもそのままにして、渇愛が現れないようにする。瞑想で気づき(サティ)を入れてこの流れを止める。
742 743
十二因縁の教えによれば、渇愛の次は執着(取)。執着の次は生存(有)。生存(有)があると、生がある。生まれたものは必ず老と死がある。老と死は苦しみ。
執着が業になる。これは何としても生きていきたという思い。この思いは肉体が死んでも残っていて、次の生の因縁になる。そして再生する。
しかし、生まれれば必ず死ぬ。愚か者は「生まれた者は楽がある」と考えるが、「生まれた者は死があり、それは苦を受ける」と742偈で示している。

(´・(ェ)・`)つ
うー「十二因縁」には、じっくり取り組まねばなりますまい。

119 :
十二因縁も観察の一例に過ぎないのじゃ。
二つの観察も一例を示しただけなのじゃ。
それらに囚われず自らの本心を観察するのじゃ。

120 :
>>119
鬼和尚、ありがとうであります。
囚われずに精進するであります。
(´・(ェ)・`)つ

121 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、12、二種の観察

【B】(>>112)『およそ苦しみが生ずるのは、すべて起動に縁って起るのである。』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら諸々の起動が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。【A】(>>109

744 およそ苦しみが起るのは、すべて起動を縁として起る。諸々の起動が消滅するならば、苦しみの生ずることもない。

745 「苦しみは起動の縁から起る」と、この禍いを知って、一切の起動を捨て去って、起動のないことにおいて解脱し、

746 生存に対する妄執を断ち、心の静まった修行僧は、生をくり返す輪廻を超える。かれはもはや生存を受けることがない。

【B】『およそ苦しみが生ずるのは、すべて食料に縁って起るのである。』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら諸々の食料が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。【A】

747 およそ苦しみが起るのは、すべて食料を縁として起る。諸々の食料が消滅するならば、もはや苦しみの生ずることもない。

748 「苦しみは食料の縁から起る」と、この禍いを知って、一切の食料を熟知して、一切の食料にたよらない、

749 諸々の煩悩の汚れの消滅の故に無病の起ることを正しく知って、省察して(食料を)受用し、理法に住するヴェーダの達人は、もはや(迷いの生存者のうちに)数えられることがない。

【B】『およそ苦しみが生ずるのは、すべて動揺に縁って起るのである。』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら諸々の動揺が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。【A】

750 およそ苦しみが起るのは、すべて動揺を縁として起る。諸々の動揺が消滅するならば、もはや苦しみの生ずることもない。

751 「苦しみは動揺の縁から起る」と、この禍いを知って、それ故に修行僧は(妄執の)動揺を捨て去って、諸々の潜在的形成力を制止して、無動揺・無執著で、よく気をつけて、遍歴すべきである。

(´・(ェ)・`)つ

122 :
>>121
744 745 746
今回のテーマはパーリ語ではrambha。
中村訳:起動
正田訳:〔利己的な〕勉励
勉励には通常よい意味で使われているので、正田先生は「利己的な」という説明を付けている。
パーリ語辞書:。水野辞書には「努力、発動、あくせく、辛苦」
雲井辞書には「意図、努力、目的」
意味のニュアンス、頑張ること

今回のテーマ、頑張ることは、通常はよいことのように考えられていて、「頑張ります。」と自分の決意を語る場合や、「頑張れ、頑張れ」などと人を励ます時にも使う。
しかし、今回は「およそ苦しみが起るのは、すべて起動(頑張ること)を縁として起る。」と述べられている。

何故か?頑張ることは自我の働き。自我が頑張ろうと思い、人を頑張らさせようと思っている。
自我は真理に即した考え方をするのではなく、自分の都合のよい考え方をする。自己中心的な考え方をする。もっと言えば自分の欲望にそった考え方や行動をする。
世の中のことは自分の都合に合うようには動かない。自我の都合ではなく、全体の都合に合わせて、全体が調和のとれたように、動く。
そうすると、自我は物事が自分の望む通りに行かなくて、悩み苦しむことになる。このことを指して、「苦しみは起動(頑張ること)を縁として起こる」と述べている。

そうではなく、起動(頑張ること)を止めると、すなわち自我をなくすと言うことが、真理に即した考え方、行動ができるということ。
そうするとその人の考え方、行動がすべて上手く行き、自分も他の人達も満足できるという訳。

745偈では、一切の起動(頑張ること)を捨て去った人は、自我を捨て去った人。
そのような人は解脱していると述べている。
746偈ではそのような人は、生存に対する渇愛を捨てて、心が静まって、もう輪廻を繰り返すことがないと言っている。

747 748 749
今回は11番目のテーマ、それは食料。仏教用語では食(アーハーラ)。

仏教では物質的な食料(段食)、以外にも、触食、意思食、識食という四つ食を考えている。生命が生きていくために必要なエネルギー源を食料(食)と言う。

実は人間は、段食と言われる物質的な食料をだけ食べて生きているわけではない。段食は身体を維持する食べ物だが、人間の心を維持する食べ物として、上に述べた触食、意思食、識食をエネルギー源として摂取している。

触食は触によるエネルギー源。これから感覚が生まれ、渇愛が生まれ、生きていて、輪廻を繰り返す。
意思食は、何かしたいというエネルギー。これもなくては心は死んでしまう。
識食は知ることによるエネルギー源。人間の心はこれらをエネルギー源にしている。
例えば、何かを食べる時、物質的な食べ物だけを食べているわけではない。眼で食べ物を見たり、鼻で香を感じたりする。これは触食している。
また、食べたいと思う。その時、意思食をしている。また食べてみると、これは旬の野菜だとか、これは食べたことがないとかいろいろ事を知る。これは識食。これらを総合的に食べている。
段食からも苦を生じます。これがなければ飢餓になる。多すぎれば病気になる。
触食は触によるエネレルギーだから、二種の観察経の六番目のテーマの触の項で、すべての苦は触を縁にして生まれると知った。
意思食は行(潜在的形成力)をエネルギー源とする食料、これは四番目のテーマ、すべての苦は潜在的形成力から生まれることを学んだ。
また識食は五番目のテーマの識(識別作用)。これを縁にしてすべての苦が生まれることも学んだ。
このように、食料は物質的ものだけでなく、精神的な食料も、縁にして苦が生まれる。
これらの一切の食料にたよらない、依存しなければ、苦が生まれることがない。無限に食料を欲しがる衝動が消えると(解脱すると)、輪廻も消える。
食べることを止める必要はないが、食べ物をあれこれ選り好みしたり、こだわったりすることを止めることは必要。
749偈の無病とは、病気でないことだが、ここでは涅槃を意味している。
750 751
心に感情が現れた時には、心は動揺していることが分かる。動揺を縁として苦が発生するということは、感情を縁として苦が発生すると考えてもよい。
感情は潜在形成作用に含まれる。
心が動揺を縁として苦が発生するので、苦を免れるためにはなるべく心を動揺させずに静かにさせるのがよい。完全に心の動揺をなくした状態は涅槃だと言われている。

(´・(ェ)・`)つ

123 :
なにやらおかしいのう。
動揺させなくてよいのじゃ。
ただ単にそれを観察するようにと教えているのじゃ。
観察によって苦から厭離できるのじゃ。
 

124 :
密教の理趣経について
ご高説を伺いたいです

125 :
>>123
鬼和尚、こんばんは。

引用している解説では、
>苦を免れるためにはなるべく心を動揺させずに静かにさせるのがよい

としておりますが、

そのようにコントロールしようとするのではなく、
動揺してるのであれば、動揺していると、ありのまままに観察さえすれば、
>観察によって苦から厭離できる
と言うことでありますね。

(´・(ェ)・`)つ

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127 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、12、二種の観察

【B】(>>112)『従属するものは、たじろぐ。』というのが、一つの観察[法]である。『従属しない者は、たじろかない』というのが第二の観察[法]である。【A】(>>109

752 従属することのない人はたじろがない。しかし従属することのある人は、この状態からあの状態へと執著していて、輪廻を超えることがない。

753 「諸々の従属の中に大きな危険がある」と、この禍いを知って、修行僧は、従属することなく、執著することなく、よく気をつけて、遍歴すべきである。

【B】『物理的領域よりも非物質的領域のほうが、よりいっそう静まっている』というのが、一つの観察[法]である。『非物質的領域よりも消滅のほうが、よりいっそう静まっている』というのが第二の観察[法]である。【A】

754 物質的領域に生まれる諸々の生存者と非物質的領域に住む諸々の生存者とは、消滅を知らないので、再びこの世の生存に戻ってくる。

755 しかし物質的領域を熟知し、非物質的領域に安住し、消滅において解脱する人々は、死を捨て去ったのである。

【B】『神々と悪魔とともなる世界、道の人(沙門)・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者<これは真理である>と考えたものを、諸々の聖者は<これは虚妄である>と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』というのが、一つの観察[法]である。
『神々と悪魔とともなる世界、道の人・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者<これは虚妄である>と考えたものを、諸々の聖者は<これは真理である>と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』──これが第二の観察[法]である。【A】

756 見よ、神々並びに世人は、非我なるものを我と思いなし、<名称と形態>(個体)に執著している。「これこそ真実である」と考えている。

757 或ものを、ああだろう、こうだろう、と考えても、そのものは異なったものとなる。何となれば、その(愚者の)その(考え)は虚妄なのである。過ぎ去るものは虚妄なるものであるから。

758 安らぎは虚妄ならざるものである。諸々の聖者はそれを真理であると知る。かれらは実に真理をさとるが故に、快をむさぼることなく平安に帰しているのである。

(´・(ェ)・`)つ

128 :
>>127
752 753
テーマは従属(依存)。パーリ語のnissito
問題の言葉は、calati。「たじろぐ」「動揺する」等と訳される。
よく考えれば「たじろぐ」とは心の動揺を示していると思われる。
「従属(依存)する者には心の動揺がある」と考えてよい。
従属(依存)する者の心は自立してない。何かを頼りにしていて、頼りがなければ、不安定な。不安定なものは、揺れ動いている、動揺している。
心の動揺は、心の従属(依存)を原因としている。心の動揺がないとは心が従属(依存)してない、心が独立している、自立していると言うこと。
750 751で、心の動揺を縁にして苦が発生することを学んだ。従属(依存)する者には苦が発生する。
752では従属(依存)するものには、執着があることが述べられている。従属(依存)する者は、頼りにするものがなければ存在出来ないと思っているから、頼りにするものに執着する。
753では従属(依存)のなかに大きな危険(恐怖)があると述べている。従属(依存)から苦が発生すると言うことと、従属(依存)するものは常に不安を持っていて、それが大きな恐怖。
心の動揺をなくし、苦の発生をなくし、執着をなくし、大きな恐怖をなくすためには、従属(依存)をなくし、心の独立(自立)を目指さなければなない。従属(依存)を克服した人は輪廻を繰り返すことはない
754 755
テーマは物質的領域(色界)と悲物質的領域(無色界)。今回の偈の前の散文に説明されている二種の観察はいつもと少し違う。
第一の観察は、『物質的領域よりも非物質的領域のほうが、よりいっそう静まっている』、そして第二の観察は、『非物質的領域よりも消滅のほうが、よりいっそう静まっている』です。今回はより静まっているかどうかを観察する。
今回の観察は禅定を体験してないと実際はすぐ出来ない。色界の禅定あるいは無色界の禅定、さらには消滅(涅槃)を知らないから。
「物質的領域(色界)に生まれる諸々の生存者」とは、下位の梵天。「非物質的領域(無色界)に住む諸々の生存者」とは上位の梵天。これらの梵天も涅槃を知らないため、輪廻する。
これらの梵天の世界の静けさを人間であっても経験できる。禅定に入ればできる。第一禅定から第四禅定までを色界禅定と言って、下位の梵天と同じ静けさを体験できる。
さらに、その先の空無辺処禅定、識無辺処禅定、無所有処禅定、非想非非想処禅定の四つが無色界の禅定。これらの禅定の体験者は上位の梵天と同じような静けさを体験している。
「物質的領域(色界)よりも非物質的領域(無色界)のほうが、よりいっそう静まっている」と分かる。
しかし、「非物質的領域(無色界)よりも消滅(涅槃)のほうが、よりいっそう静まっている」については、解脱して、涅槃を体験しなければ分からない。
ただ、このテーマによる二種の観察はすぐに出来ないかもしれませんが、「静けさ」という観点は日常の瞑想修行において、自分の心がどれほど静まったかどうか感じて見ることは、非常に大切なこと。
自分の心が静まったのならば、一応瞑想はうまく行ったと考えて良い。
756 757 758
今回の散文で述べられているテーマは、真理と虚妄(虚偽)。二種の観察とは、覚ってない凡夫が「真理である」と考えたものを、覚った聖者は「虚妄(虚偽)である」と観る、これを観察することが第一の観察であり、
覚ってない凡夫が「虚妄(虚偽)である」と考えたものを、覚った聖者は「真理である」と観る、これを第二の観察であるということ。
756偈では、そのことを我(自己)と非我(自己ではないも)という例で述べられてる。つまり凡夫は非我であるものを我だと思い、それが真理だと考えると述べている。
757偈では凡夫があれやこれや考えても、考えた結果は事実と異なったものになるという。なぜならば凡夫(愚者)の考えは虚妄だからだと述べている。
しかし、758偈では涅槃は虚妄のものではない、聖者たちはそれを真理であると知って、静かなる涅槃に帰すのであると述べている
(´・(ェ)・`)つ

129 :
>>124 密教の経典全てについても言えることであるが、理趣経も基本的には諸仏菩薩などを観想して集中するための教えなのじゃ。
 そのために諸仏菩薩等の印とか真言が記されているのじゃ。
 その中で欲心をも極めれば菩薩の位と教えているのじゃ。
 欲心も清浄なものに昇華したならば菩薩なのじゃ。
 欲心も昇華すれば強い集中の力となるからのう。
 そのままではないのじゃ。

>>125 そうじゃ、経でははじめから観察の法として教えているのじゃ。
 観察を知らない者が勝手に解釈してはいかんのじゃ。
 それが学者の限界でもあるがのう。
 実践しないから止観もわからないのじゃ。 

130 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第3 大いなる章、12、二種の観察

【B】『神々と悪魔とともなる世界、道の人(沙門)・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者<これは安楽である>と考えたものを、諸々の聖者は<これは苦しみである>と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』というのが、一つの観察[法]である。
『神々と悪魔とともなる世界、道の人・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者<これは苦しみである>と考えたものを、諸々の聖者は<これは安楽である>と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』──これが第二の観察[法]である。【A】

759 有ると言われる限りの、色かたち、音声、味わい、香り、触れられるもの、考えられるものであって、好ましく愛すべく意に適うもの、──

760 それらは実に、神々並びに世人には「安楽」であると一般に認められている。また、それらが滅びる場合には、かれらはそれを「苦しみ」であると等しく認めている。

761 自己の身体(=個体)を断滅することが「安楽」である、と諸々の聖者は見る。(正しく)見る人々のこの(考え)は、一切の世間の人々と正反対である。

762 他の人々が「安楽」であると称するものを、諸々の聖者は「苦しみ」であると言う。他の人々が「苦しみ」であると称するものを、諸々の聖者は「安楽」であると知る。解し難き真理を見よ。無知なる人々はここに迷っている。

763 覆われた人々には闇がある。(正しく)見ない人々には暗黒がある。善良な人々には開顕される。あたかも見る人々に光明のあるようなものである。理法がなにであるかを知らない獣(のような愚人)は、(安らぎの)近くにあっても、それを知らない。

764 生存の貪欲にとらわれて、生存の流れにおし流され、悪魔の領土に入っている人々には、この真理は実に覚りがたい。

765 諸々の聖者以外には、そもそも誰がこの境地を覚り得るのであろうか。この境地を正しく知ったならば、煩悩の汚れのない者となって、まどかな平安に入るであろう。

 師(ブッダ)はこのように説かれた。修行僧たちは悦んで師の諸説を歓喜して迎えた。実にこの説明が述べられたときに、六十人の修行僧は執著がなくなって、心が汚れから解脱した。

[二種の観察]まとめの句

 真理(諦)と、生存の素因と、無名と、諸々の形成力と、第五に識別作用と、接触と、感受されるものと、妄執と、執著と、起動と、諸々の食と、動揺における震動と、物質的領域と、真理と苦とで、十六である。

<大いなる章>第三おわる

まとめの句

 出家と、つとめはげむことと、みごとに説かれたことと、スンダリカと、マーガと、サビヤと、セーラと、矢と、ヴァーセッタと、コーカーリヤと、ナーラカと、二種の観察と──

 これらの十二の経が「大いなる章」と言われる。

(´・(ェ)・`)つ

131 :
>>130
759.760.
凡夫が楽と感じる対象を六つに分ける。
眼耳鼻身体心で楽を感じる対象は色や形、音、香、味、接触、想い。自分が好きな、好ましいと感じる色や形、音、香、味、接触、想いがあると凡夫はそれを楽と感じる。
そして、それらの凡夫の楽しみをもたらす六つの対象がなくなると、凡夫は苦だと思う。自分が好きな、好ましいと感じるものがなくなると、悩み苦しむということ。
761.762.763.
凡夫と聖者の見方の違いが述べられている。具体的に身体が弱って、壊れて行く、老化し、病気になっていく過程を聖者は楽だと観るが、凡夫は悩み苦しみと感じる。
「この理解しがたい真理を見よ」と述べている。
人々には本来光明のような光を放っている。覆われた人は光を放たず、周りが見えない。このような光明を覆い隠しているものは、五蓋(貪欲、怒り、落ち込み・眠気、浮つき、疑惑)などの煩悩。
一方善良な人々は開かれていて、彼らの周りは明るく照らされていて、周りがよく見える。
覆われている人々の周りは暗いので、周りが見えない。たとえ近くに涅槃があっても見えない。
764.765
「凡夫が楽と言うものを聖者が苦と見、凡夫が苦と言うものを聖者は楽と見る」という真理ともとれるし、「二種の観察経」全体で述べられた真理、すなわち二種の観察によって、心の解脱あるいは智慧の解脱できるという真理と指すこともできる。
この真理は生存に執着し、欲望のままに生きていいる人々、悪魔の領域にいる人々には理解できない。
悪魔の領域とは輪廻の世界の意味。
この真理を覚れるもの、覚れる境地にいるものがは聖者であり、この境地を正しく知って、欲や怒りや無智などの煩悩を克服した方。聖者だけがこの真理を覚り、まどかな平安(涅槃)に入る。
しかし、聖者が出来たことを凡夫が出来ないはずはない。凡夫は聖者のような境地に立てばよい。

「二種の観察経」16テーマを復習。
1.四聖諦(苦集滅道)
2.生存の素因(生存の基礎)・・・ここでは渇愛としました。
3.無明
4.潜在的形成力(行)
5.識別作用(識)
6.接触(触)
7.感受(受)
8.妄執(渇愛)
9.執着
10.起動(勉励)・・・頑張ること
11.食料(食)
12.動揺
13.従属(依存)
14.物質的領域と非物質的領域(色界と無色界)
15.真理と虚妄(虚偽)
16.楽と苦

(´・(ェ)・`)つ

132 :
そうじゃ、何でも観察しまくるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。

133 :
>>132
で、ありますね。
抑制せず、評価せず、ただひたすらありのままに観察でありますね。
できるだけいつも意識的にあるように心かけてるくまであります。
鬼和尚、いつもありがとうであります。
(´・(ェ)・`)つ

134 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、1,欲望

766 欲望をかなえたいと望んでいる人が、もしもうまくゆくならば、かれは実に人間の欲するものを得て、心に喜ぶ。

767 欲望をかなえたいと望み貪欲の生じた人が、もしも欲望をはたすことができなくなるならば、かれは、矢に射られたかのように悩み苦しむ。

768 足で蛇の頭を踏まないようにするのと同様に、よく気をつけて諸々の欲望を回避する人は、この世で執著をのり超える。

769 ひとが、田畑・宅地・黄金・牛馬・奴婢・傭人・婦女・親類、その他いろいろの欲望を貪り求めると、

770 無力のように見えるもの(諸々の煩悩)がかれにうち勝ち、危い災難がかれをふみにじる。それ故に苦しみがかれにつき従う。あたかも壊れた舟に水が侵入するように

771 それ故に、人は常によく気をつけていて、諸々の欲望を回避せよ。船のたまり水を汲み出すように、それらの欲望を捨て去って、激しい流れを渡り、彼岸に到達せよ。



ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、2、洞窟についての八つの詩句

772 窟(自体)のうちにとどまり、執著し、多くの(煩悩)に覆われ、迷妄のうちに沈没している人、──このような人は、実に<遠ざかり離れること>(厭離)から遠く隔たっている。
実に世の中にありながら欲望を捨て去ることは、容易ではないからである

(´・(ェ)・`)つ

135 :
>>134
766
スッタニパータの中でも第四章と第五章は特に古い経でブッダの言葉そのものに非常に近い、しかも仏教の根本的な教えが述べられている。
私たちの生活は、欲望によって成り立っている。
朝起きる時は、起きようとする無自覚的な欲望からはじまり、自覚的な欲望が現れる。
欲望は苦しみの原因になる。
767
欲望をかなえたい望んでいる人が、欲望をはたすことが出来なくなった場合は欲望を持つ人は、矢に射られたように苦しむ。
欲望をかなえたいと望んでも、貪欲の生じない人には悩み苦しみは生じない。
欲望と貪欲の違い。人間は生きるために必要なものに対して欲望が現れる。しかし、生きるために必要なものは、その時欲しいと望んだものでなくてもよい。
「貪欲の生じた人」と訳されたパーリ語chandajtassaのchandaは通常は意欲と訳され、善悪を評価しない言葉として使われる。しかし、場合によっては貪欲と同義に使われると辞書に書かれている。
仏教では、欲望が生まれるとすぐに欲望に対する執着が生じ、貪欲に変わるから、欲望を抑制するように言うが、欲望の現れるのはある程度やむを得ない。
しかし、それに対する執着をなくし、貪欲にならないように注意する必要がある。
768
欲望そのものが悪いわけではない、欲望に執着することが問題。執着することで苦しみが生じるから。
しかし、執着を乗り越えることは難しいので、その前に欲望に注意する。欲望をコントロールすれば、執着を乗り越えられる。
欲望を蛇の頭で喩えている。欲望を足で踏むと蛇は大きな口(執着)を開けて噛みつく(苦しみ)。蛇に噛みつかれないようにするためには、蛇の頭(欲望)を踏まないようにすればよい。
欲望につき注意すべきすべきこと。一つは欲望には限界がないということ。
ダンマパダ186「たとえ貨幣の雨をふらすとも、欲望は満足されることはない。」
もう一つの重要な問題点。欲望は自己中心的なもの。欲望にとらわれている人は他人の欲望には眼が向かない。自分の欲望を満たすためには、他人の欲望はどうでもよい。顕著な例は泥棒。
その行為が相手をどのように悲しませているかに気づかない。欲望に執着する人は他人に慈悲の心を持つことが出来ない。
このような人は周りの人々から嫌われ、快適な生活はできなくなり、悩み苦しむということになる。
欲望を回避するためには、「よく気をつけて」(〔常に〕気づきある者として)が必要。パーリ語ではsato 、念(気づき、サティ)が必要であるということ。
つまり自分の心に欲望が現れたことに気づくこと。欲望が小さいうち気づけばコントロールしやすい。
(´・(ェ)・`)つ

136 :
>>134
769、770
欲望の対象を具体的に列挙。
そのような欲望の対象を貪ると、「無力のように見えるもの(諸々の煩悩)がかれにうち勝ち」とは・・・?
無力とは力。仏教で力と言えば五力。無力とは五力がないこと。五力とは「信、精進、念、定、慧」だから、無力は「無信、怠惰、放逸、掉挙(興奮)、愚かさ」になる。
つまり欲望の対象を貪ると「無信、怠惰、放逸、掉挙、愚かさ」が彼に打ち勝つということ。
実際に、貪欲になると、自分が「無信、怠惰、放逸、掉挙、愚かさ」に支配される。確かに無力(無力は「無信、怠惰、放逸、掉挙(興奮)、愚かさ」)になれば、彼はいろいろな災難に遭遇する。
この状態を壊れた舟に水が浸入するようだと表現。
つまり周りから侵入する水は無力。すなわち「無信、怠惰、放逸、掉挙(興奮)、愚かさ」。舟は沈没する。欲望の対象を貪ることがないようにしなければなない。
771
欲望の対象はいろいろあるが、その何かに執着すると他のものが見えなくなる。そうすると愚かさを始めとする諸々の煩悩が現れてくる。それを壊れた船に浸水という譬えで表現された。
この譬えは船(凡夫)に浸水した水(欲望)を汲み出すようにと表現していふ。そして激しい流れ(煩悩)を渡って彼岸(涅槃)到達せよと述べている。
その方法は「常によく気をつけていて」であるが、「常に念(サティ)を絶やさずに」ということ。これはヴィパッサナー瞑想の実践。
このように説明するとなんでもないことのように見えるが、これは仏教のすべてを説明している。
欲望から苦しみがはじまるから、その欲望を捨てるように、欲望を捨てるということは、世間は欲望の世界ですから、世間を捨てること。そして出世間(涅槃)をめざすように述べている。
しかし、それは特別な世界の行く訳ではなく、ただ心を変えるだけのこと。
772
ブッダが解脱を目指して修行している人がなぜ解脱し難いかについて述べたもの。この困難をいかに克服すべきかが述べている。
窟(いわや)或は洞窟とは身体を意味している。身体とは煩悩という猛獣が住み着いている場所ということ。
洞窟に留まりとは身体に執着してということ。人々は身体を心配し、身体の楽しみを求めている。
寒さ暑さを嫌い、快適な涼しさや温かさを求め、美しいものを求め、耳を楽しませる音楽を求め、更に美味しい食べ物を求める。そして、それらにありつければ人生は素晴らしいと思う。
しかし、それらにはすべて苦が付きまとい、そしてそれらは苦しみをもたらすものあることを知ろうとはしない。
それらの人々は、「<遠ざかり離れること>(厭離:おんり)から遠く隔たっている。」と述べられているが、この<遠ざかり離れること>とは、端的に言えば、解脱すること、覚ること。
つまり、これらの人々は解脱出来ないと述べている。
なぜならば、これらの人々は現状に安住しているから。解脱することは現状からの解脱。現状に問題があるから解脱する。
そもそも現状に安住している人は、不思議なことに現状に不満をもちながら現状に満足している。これを「迷妄のうちに沈没している」と言う。
「実に世の中にありながら欲望を捨て去ることは、容易ではないからである。」と述べられている。これが解脱することが困難である理由。
(´・(ェ)・`)つ

137 :
>>133 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

138 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、2、洞窟についての八つの詩句

773 欲求にもとづいて生存の快楽にとらわれている人々は、解脱しがたい。他人が解脱させてくれるのではないからである。かれらは未来をも過去をも顧慮しながら、これらの(目の前の)欲望または過去の欲望を貪る。

774 かれらは欲望を貪り、熱中し、溺れて、吝嗇で、不正になずんでいるが、(死時には)苦しみにおそわれて悲嘆する、──「ここで死んでから、われわれはどうなるのだろうか」と。

775 だから人はここにおいて学ぶべきである。世間で「不正」であると知られているどんなことであろうとも、そのために不正を行なってはならない。「ひとの命は短いものだ」と賢者たちは説いているのだ。

776 この世の人々が、諸々の生存に対する妄執にとらわれ、ふるえたいるのを、わたしは見る。下劣な人々は、種々の生存に対する妄執を離れないで、死に直面して泣く。

777 (何ものかを)わがものであると執著して動揺している人々を見よ。(かれらのありさまは)ひからびた流れの水の少ないところにいる魚のようなものである。
これを見て、「わがもの」という思いを離れて行うべきである。──諸々の生存に対して執著することなしに。

778 賢者は、両極端に対する欲望を制し、(感官と対象との)接触を知りつくして、貪ることなく、自責の念にかられるような悪い行いをしないで、見聞することがらに汚されない。

779 想いを知りつくして、激流を渡れ。聖者は、所有したいという執著に汚されることなく、(煩悩の)矢を抜き去って、勤め励んで行い、この世もかの世も望まない。

(´・(ェ)・`)つ

139 :
>>138
773
「欲求にもとづいて生存の快楽にとらわれている人々は、解脱しがたい。」と述べられている。その理由として、「他人が解脱させてくれるのではないからである。」
その他人がブッダであろうともあなたを解脱させてはくれない。ダンマパダ276「汝はみずからつとめよ。もろもろの如来(ブッダ)はただ教えを説くだけである。」
解脱とは自分自身の心の問題だから。自分自身で自分を拘束している束縛に気づき、それから自分自身で解放させること。
しかし、欲求にもとづいて生存の快楽にとらわれている人の関心は欲求の対象に向いているので、自分の状態に気づくことが出来ず、解脱に関心はない。
だから解脱したいと言ったり、思ったとしても、それは内容のともなわない単なる空念仏になる。
そのような人々の関心について、「かれらは未来をも過去をも顧慮しながら、これらの(目の前の)欲望または過去の欲望を貪る。」と説明している。
774
欲望を貪る人々は、自分の欲望にとらわれているから、他人のことに関心が向かない。
他人のことを心配出来ない。これらの人々は吝嗇(りんしょく)、すなわち物惜しみの心が強く、自分の持っているものが余っていても、人にはあげまないし、人に使われるのも嫌がる。他人を配慮出来ないので、他人の嫌がることでもしてしまう。
そのため罪を犯すことにもなる。それを「不正になずんでいる」と書かれている。
罪を犯す人、不正になずんでいる人の行先はよい場所ではない。死ぬ前に、「ここで死んでから、われわれはどうなるのだろうか」と嘆き悲しんでももう遅い。
775
「世間で『不正』であると知られているどんなことであろうとも、そのために不正を行なってはならない。」と言うことを学ぶべき。
「そのために不正を行なってはならない。」の「そのために」の意味はパーリ語原文から判断するとこの句の直訳は「彼にとって不正をする理由はない。」ということだから、結局不正は行ってはならないということ。
人生には不正を働いる暇はないということ。人生は短いのだから、解脱をめざす人にとって、不正を働いている暇はないということ。
不正は欲望に執着することから行われる。不正を働くとは、具体的に言えば五戒を犯すこと等。
生き物をR、与えられないものを取る、邪な行いをする、嘘をつく等だが、これらはすべて、自分の欲望を優先して、他の生命の迷惑を顧みないことから行なわれる。
逆に他の生命を慈しみ、他の生命の迷惑を掛けないように、注意する人は決して五戒を犯すようなことはしない。
また、ある人に欲望が現れても、他の生命の尊厳を重視し、慈しみの心を起こし、自分の欲望に執着せずに、それを手放すことが出来れば、それはその人にとって重要な意味を持つ。
不正をしないことは、解脱以前の人間のあり方を問う問題ではあるが、それ以上の意味がある。不正をやめた人は普通の人間が出来ないことをやり遂げたのである。
それは解脱に近づくための功徳を得たこと。また因縁があればその時点で解脱するということがあるかもしれない。不正をしないことはそれほどの意味がある。
776
「生存に対する妄執(渇愛)にとらわれて」いる人々は「ふるえて」いる。何故ならば怖いから。いつも何かを恐れてビクビクしている。
それは結局死を恐れている。生存に対する妄執とは何としてでも生きていたいという気持ちでだから、とにかく死が恐ろしいし、嫌なのだ。
しかし、どんな生命にとっても必ず死は来る。世の中のことはすべて必ずということはないが、唯一確実なことは「必ず死ぬ」ということ。ですから、すべての生命はいつも死ぬかもしれないとおびえてふるえている。
「下劣な人々は」とは、この真実をないかの如く、エラそうに生きている人々を指している。
自分は明日死ぬかも分からないのに、他人の迷惑を顧みることなく、自己主張して、不正な行いをし、他人と争う人々。
しかしこれらの人々も、重病などをして、死に直面すると、「ここで死んでから、われわれはどうなるのだろうか」と泣き叫ぶ。
(´・(ェ)・`)つ

140 :
>>138
777
解脱をめざす人々は如何にすべきかを教える。はじめは「『わがもの』という思いを離れて行うべきである。」ということ。
人は欲望の対象を「わがもの」と言う思いを持っている。或は「わがもの」にしようと思う。
しかし、私達には私のもの言えるものは本来ない。だから私のものにできるものはない。
ブッダはダンマパダ62で、「わたしには子がある。わたしには財がある」と思って悩む。
しかしすでに自己が自分のものではない。
ましてどうして子が自分のものであろうか。
どうして財が自分のものであろうか。
「ひからびた流れの水の少ないところにいる魚のようなものである」は、魚にとって、水は命に係わる欲望の対象。これが干上がってしまえば死んでしまう。
そのように、欲望の対象に執着している人々はこのような魚のように、恐怖で震えおののいているということ。
何ものにも「わがもの」という思いのない人、何ものわがものはないのだと覚悟の出来た人にとっては、何ものも執着するものがなく、怖れるものがない。このような人は涅槃の近くにいると言える。
778
「感覚を守る」とは、「両極端に対する欲望を制し」だが、両端とは感覚器官と感覚の対象。
すなわち、眼、耳、鼻、舌、身、意が感覚器官で、その対象とは色・形、音、香、味、触、法(思い考え等)。
それぞれに欲望がある。眼と色形、耳と音について言えば、眼の欲望は見たいという欲望。色・形に対する欲望とは美しいものに対する欲望。耳の欲望は快い音を聞きたいという欲望。音に対する欲望は快い音に対する欲望。
これらの「欲望を制し」とは、これらの欲望に執着しないで、貪欲にならないようにすること。貪欲になるとそこから離れることができずに、苦しみなる。
ブッダは感覚を六処に分析して教えている。感覚で起こっている現象を漠然と感じると欲望が現れる時の興奮に巻き込まれるが、冷静に分析して見ると欲望の感情に巻き込まれなくなる。
そうすると欲望を制御しやすい。
「自責の念にかられるような悪い行いをしないで、」はいわゆる良心の呵責を感じるような行いをしないということ。
これは感覚を守るといことで、興奮せずに、冷静に良心の声を聞けることができるようになる。
「見聞することがらに汚されない」は、見たり、聞いたりすることで、心が汚されないと言うことだが、これもまさに、感覚を守ること。
見たり、聞いたりしたことで、欲が現れることもあるが、怒りが現れることも多くある。自分の嫌なものを見たり、嫌なことを聞くと怒りが現れる。しかし、それらも冷静に対応すると、心を汚されずに済む。
779
「想(表象)をよく知って」。どのようによく知るのか? 感覚器官で苦(不快)や楽(不楽)を感じるのは想(表象)に基づくのである。
想とは五蘊{色(肉体)、受(感覚)、想(表象、記憶)、行(形成作用)、識(識別作用)}の「想」。
想には層がある。顕在記憶、個人的潜在記憶、集団的潜在記憶など。
顕在記憶とは自覚している記憶。潜在的記憶とは、自覚していない記憶。しかし、これは瞑想修行が進んでくると今まで自覚されてない記憶が思い出されて、潜在記憶が顕在記憶になる。
集団的潜在記憶とは、民族あるいは人類が共通して持っている潜在的記憶。
例えば、劣等感などは自覚していない場合も多いので、個人的潜在的記憶。もちろんそれが自覚されれば、顕在意識になる。
本能と言われる部分は集団的潜在的記憶。肉食動物は肉を食べ、草食動物は草を食べるなどは肉体に結びついたより深い集合的潜在的記憶。生命は多くの潜在的記憶に支配されている。
個人的潜在記憶である劣等感のない人は難なくできることも、劣等感のある人には出来ないことが多い。しかし自分の劣等感を自覚して、よく分析して、解決の糸口を見つければ解決できる。想をよく知ってとはそのようなこと。
また、煩悩と言われるものは人類共通の本能。私達の行動は煩悩し支配されている。「想い(想)知りつくして、激流を渡れ」とは、「本能を知り尽くして、本能を乗り越えよ」というような意味。
欲や怒りは生命の本能的な反応だが、決して乗り越えられないものではない。
例えば、性欲は本能だから止められないと思っている人もいるが、それは単なる妄想。そのことをよく理解すれば、止めることが出来る。止めることは出来ないと思っている限りできない。
本能は乗り越えられないというのは迷信、或は偏見。迷信や偏見を自覚して、よく知って、苦をなくし、解脱するためにはこれらを乗り越える必要がある。

(´・(ェ)・`)つ

141 :
分析ではなく観察なのじゃ。
観察すれば六処からも厭離できるのじゃ。
その刺激に囚われなくなるのじゃ。

142 :
>>141
ふむふむ。
確かに、
>ブッダは感覚を六処に分析して教えている。感覚で起こっている現象を漠然と感じると欲望が現れる時の興奮に巻き込まれるが、冷静に分析して見ると欲望の感情に巻き込まれなくなる。

と、言うように、感覚を6つに分析していると言う説明の流れで、
冷静に観察と書くべきところを、分析と書いちゃってるようでありますね。

あくまでも、ありのままを観察せねば、厭離はできぬのでありますね。
肝心なところでありました。
鬼和尚、ありがとうであります。
(´・(ェ)・`)つ

143 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、3、悪意についての八つの詩句

780 実に悪意をもって(他人を)誹る人々もいる。また他人から聞いたことを真実だと思って(他人を)誹る人々もいる。誹ることばが起こっても、聖者はそれに近づかない。だから聖者は何ごとにも心の荒むことがない。

781 欲にひかれて、好みにとらわれている人は、どうして自分の偏見を超えることができるだろうか。かれは、みずから完全であると思いなしている。かれは知るにまかせて語るであろう。

782 人から尋ねられたのではないのに、他人に向かって、自分が戒律や道徳を守っていると言いふらす人は、自分で自分のことを言いふらすのであるから、かれは「下劣な人」である。と真理に達した人々は語る。
783 修行僧が平安となり、心が安静に帰して、戒律に関して「わたしはこのようにしている」といって誇ることがないならば、世の中のどこにいても煩悩のもえ盛ることがないのであるから、かれは<高貴な人>である、と真理に達した人々は語る。

784 汚れた見解をあらかじめ設け、つくりなし、偏重して、自分のうちにのみ勝れた実りがあると見る人は、ゆらぐものにたよる平安に執著しているのである。

785 諸々の事物に関する固執(はこれこれのものであると)確かに知って、自己の見解に対する執著を超越することは、容易ではない。故に人はそれらの(偏執の)住居のうちにあって、ものごとを斥け、またこれを執る。

786 邪悪を掃い除いた人は、世の中のどこにいても、さまざまな生存に対してあらかじめいだいた偏見が存在しない。
邪悪を掃い除いた人は、いつわりと驕慢とを捨て去っているが、どうして(輪廻に)赴くであろうか?かれはもはやたより近づくものがないのである。

787 諸々の事物に関してたより近づく人は、あれこれの議論(誹り、噂さ)を受ける。
(偏見や執著に)たより近づくことのない人を、どの言いがかりによって、どのように呼び得るであろえか? かれは執することもなく、捨てることもない。かれはこの世にありながら一切の偏見を掃い去っているのである。

(´・(ェ)・`)つ

144 :
>>143
780
他人や誹謗に対する生き方を示している。自分の主義・主張にとらわれてはならないことを説いている。
仏教以外の修行者たちがブッダの名声を嫉妬して、ブッダに対する悪い評判を立てるように、ある事件を企てた。その時に述べられたと言われている。
781
「悪意八詩句経」の中にこの偈があるのは、「悪意のある人は偏見がある。偏見がある人は悪意を持つ。」という事実があるから。
慈悲の心を妨害しているものは悪意と偏見。
慈悲の心を育てるために必要なことは、自分自身にある悪意を乗り越え、自分自身の偏見を乗り越えることが必要。
「欲にひかれて、好みにとらわれている人」は、「かれは、みずから完全であると思いなしている。」自分の欲や好みが正当ある、それでよいと考えている。当然、自分の欲や好みを変えようとはしない。
自分自身にある偏見を乗り越えることは出来ない。偏見があると悪意が生まれ、慈悲の心は育てられない。
解脱をめざすということは、完全な慈悲の人になること。解脱をめざす人にとっても、偏見を乗り越える重要な課題。そのために、「欲にひかれて、好みにとらわれない」ことが重要。
782
ブッダに立てられた悪評の真相を確かめようと王が僧院に来た。
「自分が戒律や道徳を守っていると言いふらす人」は、自分の自慢をしているようで、自己顕示欲の強い人。道徳を守るようなことは人に自慢することではなく、黙って行うべき。
783
「戒律に関して『わたしはこのようにしている』といって誇ることがないならば、かれは<高貴な人>である、と真理に達した人々は語る。」ということ。
784
毎田先生訳
自分の考えで作り上げたような教えは
汚れたものに過ぎないのに そんなものを尊んで
それを行えばこんなに立派になれると自分を信じている人は
揺れ動くものにある(みせかけの)平安にしがみついているのである

考えて作り上げた教えは決して真理ではないと言うこと。むしろそれらは、思考によって汚れたものになってしまう。思考は相対の世界のもの。
思考があれば必ず、それに反対の思考が現れる。それにより思考は汚れる。ブッダは決して教えなど作らなかった。思考を超えた真理を述べておられる。
(´・(ェ)・`)つ

145 :
>>143
785
○毎田周一先生訳
「自分がどんなに物事に捉われているかを知り
自分の考えでは駄目だと気付くのは実に難しい
だから人は立場にこだわって
真理を捨てたり掴んだりする」

なぜ「自分がどんなに物事に捉われているかを知る」ことは難しいのか?
自分が捉われていることは、自分にとって当たりませのことだから。あまり当たり前のことは気が付きにくい。
「自分の考えでは駄目だと気付くのは実に難しい」についてはどうか。
ほとんどの人は自分の考えは正しいと思って行動している。もし、自分の考えは正しくないと思ったならば、その考えを修正するはず。修正する以前は自分の考えは正しいと思っている。だから自分の考えは駄目だと思えない。
その結果、自分の判断に従って、真理まで排斥したり、受け入れたりする。これでは真理を知ることはできない。
それでは、どうしたらよいのか? 
人生、上手く行かない時の方は多い。失敗したり、困難に出会ったり、病気したり、辛い苦しい時も多い。そのような時に、それにめげないで、自分の考え方を見直してみる。
それで、自分のこだわりや自分の考えの駄目なところが分かってくる。その時がチャンス。分かってくれば、自分の考え方を修正することができる。失敗や困難は有り難いもの。
786
○毎田周一先生訳
「清められた人は この世の何処にいても
あれこれのことを自分で作り出した考えにあてはめてみるようなことはしない
だから清められた人は いつわりと思い上がりとからすっきりと離れている
この何にもとりついていない人が「何処かへ行く」ということがあるだろうか」

「さまざまな生存に対してあらかじめいだいた偏見が存在しない」→「自分で作り出した考えにあてはめてみるようなことはしない」=清浄な人には偏見がないということ。
清浄な人には、いつわり(〔欺瞞の〕幻想)と思い上がり(慢心)がない。
『何処かへ行く』ということがあるだろうか」とは、このような清浄な人は、輪廻をするということがあろうか、輪廻はしないと述べている。
すなわち、悪意から離れた人は偏見から離れ、欺瞞や慢心がなく、輪廻を繰り返すことのないということ。
787
○毎田周一先生訳
「物にとりつく人は言い争うが
何にもとりつかぬ人を どうして何を問題として論争に引入れることができるだろうか
この人は物に実体があるかないか そんな考えにはもう捉われてはいない
そこにはこの世にある限りの一切の偏見がなくなっている」

清められた人、清浄な人、「何にもとりつかぬ人」或るは「(偏見や執著に)たより近づくことのない人」は、論争に引きいれることは出来ない。
なぜならば、こだわり、執着のない人はどんな意見にも対立しないから。対立がなければ議論が成り立たない。
パーリ語の「Att niratt」の訳は「得たもの 捨てたもの」とも「我 非我」とも訳せる。中村先生は、前者の訳を取り、正田先生は後者の訳を取り、毎田先生は、 「物に実体があるかないか」と訳した。
清浄な人はこの対立する二つの立場にこだわらないのだから、結局はどの訳でもよいということになる。
結論は、清浄な人は「この世にある限りの一切の偏見がなくなっている」ということ。
(´・(ェ)・`)つ

146 :
>>142 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

147 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、4、清浄についての八つの詩句

788 「最上で無病の、清らかに人をわたくしは見る。人が全く清らかになるのは見解による」と、このように考えることを最上であると知って、清らかなことを観ずる人は、(見解を、最上の境地に達し得る)智慧である。

789 もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が知識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それは煩悩にとらわれている人が(正しい道以外の)他の方法によっても清められることになるであろう。
このように語る人を「偏見ある人」と呼ぶ。

790 (真の)バラモンは、(正しい道の)ほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。かれは禍福に汚されることなく、自我を捨て、この世において(禍福の因を)つくることがない。

791 前の(師など)を捨てて後の(師など)にたより、煩悩の動揺に従っている人々は、執著をのり超えることがない。かれらは、とらえては、また捨てる。猿が枝をとらえて、また放つようなものである。

792 みずから誓戒をたもつ人は、思いに耽って、種々多様なことをしようとする。しかし智慧ゆたかな人は、ヴェーダ(実践的認識)によって知り、真理を理解して、種々多様なことをしようとしない。

793 かれは一切の事物について、見たり学んだり思索したことを制し、支配している。このように観じ、覆われることなしにふるまう人を、この世でどうして妄想分別させることができようか。

794 かれははからいをなすことなく、(何物かを)特に重んずることもなく、「これこそ究極の清らかなことだ」と語ることもない。結ばれた執著のきずなをすて去って、世間の何ものについても願望を起すことがない。

795 (真の)バラモンは、(煩悩の)範囲をのり超えていてる。かれが何ものかを知りあるいは見ても、執著することがない。
かれは欲を貪ることなく、また離欲を貪ることもない。かれは(この世ではこれが最上のものである)と固執することもない。

(´・(ェ)・`)つ

148 :
>>147
788
○毎田周一先生訳
「私はここに最上の つまり煩いをすっかり離れた 清らかさを見る
そして人は物の見方で清らかになることが出来る」と
このように考えて 「最上のこと」がそこにあると知り
そんなことを 清らかさを見ていると称する人が 智慧だと信じ込んでいる

今回の偈はブッダの考え方を述べたものではない。ブッダが、世間には清浄についてこのように考えている人々がいることを示されている。
ここでの「私」は世間の一般の人。仏教以外の人と考えても良い。他にも「私は清浄を最高の無病(健康)と見ます。」とも訳せる。
物の見方=見解によって清浄になる。
見られたもの、見た対象によって清浄になる。=見ることによって(正田先生の訳)だと、清浄な人を見ると清浄になると理解される。
各自自分の考えが最上であると納得する。
それが智慧であると信じ込んでいるのだと述べている。
自分の以外のものによって自分が清浄になるということになる。

789
○毎田周一先生訳
「もしも人がその人の物の見方によって清らかとなったり
あるいはまた智慧によって苦しみを捨てるというのであれば
盲目の命を拠り処としているものが 何か他のことによって清められるということになる
そんなことをいう人を偏見の持主というのである」
物の見方(見解)によって清らかになるのではないとブッダは説かれている。
「何か他のこと」とは何か? なぜ他のことで清められないのか? では、どうしたら清められるのか? 
「何か他のこと」とは、790番の偈で明示される。
「なぜ他のことで清められないのか?」「もし、見られたものによって、人の清浄が有るなら、」、この意味を具体的に示せば、清浄な花を見ると、人は清浄になるということ。
逆に不浄なものを見れば人は不浄になるということだすから、そのようなことで人が清浄になるというのはおかしい。人が清浄になるとはそのようなことを言うのではない。
「どうしたら清められるのか?」は「清浄八詩句経」全体で答える問題。

中村先生「それは煩悩にとらわれている人」、毎田先生は「盲目の命を拠り処としているもの」、正田先生は「依り所(依存の対象)を有する者」。
パーリ語sopadhkoの辞書の訳は「有依者」、三先生がその意味を考えて訳された。

○毎田周一先生訳
790.
「道に達した人は 他のことを
即ち知識とか学問とか徳行とか思想とかを清らかであるとはいわない
そして善いことにも悪いことにも染まらず
この世で何かを作り出そうとせず 既に身についているものをみな払い捨ててしまう」

789で清められると考えられる「他のこと」が明示される。
中村先生訳、「見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想」、
正田先生訳、「見られたものについて、聞かれたものについて、戒や掟(執着の対象に成り下がった宗教行為)について、あるいは、思われたもの(我執の思いで対象化され他者化した認識対象)ついて」。

1.見解=見られたもの
2.伝承の学問=聞かれたもの
3.戒律・道徳¬=戒や掟
4.思想=思われたもの
つまり、これらのもので清らかになることはないと言うことです。

そうではなくて、「そして善いことにも悪いことにも染まらず、この世で何かを作り出そうとせず 既に身についているものをみな払い捨ててしまう。」ことで清らかになるのだと説かれている。

上記1.2.3.4.は八正道の正見、正思、正語、正業と関わりのある項目であるので、これらのよって、仏教徒は清められると考える。
しかし、これらの事柄についても教条的にこだわるならば、清めるどころか汚してしまうということに注意して、八正道についても正しく理解することが必要。
1.見解、2.学問については751偈で、3.戒律については752偈で、4.思想については753偈で解説されている。

パーリ語brhmaoを、三訳者は単にバラモンとはせずに、「道に達した人」、「(真の)バラモン」、「〔真の〕婆羅門(人格完成者)」として、ブッダと同じ見解を持つバラモンであることに注意している。

(´・(ェ)・`)つ

149 :
>>147
○毎田周一先生訳
791.
「前のものを捨てては次のものを掴み
落着きなく動き廻る人達は 捉われを離れていない
彼等は◯(掴?)まえてはまた投げすてる
丁度猿が木の枝を放しては掴むように」

790偈で述べた見解、学問によって清められると考える人達への批判。
そのような人達は、その見解、学問に執着している。そのように考えると、パーリ語で「前の」或は「後の」とのみ書かれている所は、「前の師、教義」、或は「後の師、教義」を意味していると考えられる。
師や教義に執着していても、このような人々は自分の心の動揺で、前の師を捨て、後の師を掴み依存するということを行う。
それは、まさに猿がこちらの枝を放し、あちらの枝を掴むようだと辛辣に批判している。このようなありさまだから、見解、学問によって清められることはない。

○毎田周一先生訳
792.
「自ら戒律をきびしく守る人は
自分だけの思いに捉われて思い上ったり卑下したりする
しかし賢い人は深い智慧によって真理を悟り
広やかな明るい心で 思い上りもせずまた卑下もしない」

戒律によっても、清められないということ。戒律をきびしく守る人は、往々にして戒律を守ることに執着している。その時戒律を守る意義を理解されていない。
戒律を守ることは、慈悲の実践。生命を殺さないことも、与えられてないものを取らないのも、不倫など邪な行為をしないのも、嘘をつかないのも、相手の生命を慈しむ行為。相手や自分の自由を束縛するものではない。
そこを忘れて、戒律を守ることだけに意義を求めることになっている人がいる。そのような人は、戒律を守っているからと言って自分を誇り、守らない人を見下す。このようなことは清められてとは言わない。
ブッダの弟子にデーヴァダッタというブッダの従兄弟がいた。彼は僧団(サンガ)の戒律をきびしくするようにブッダに提案しましたが、受け入れてもらえず、何人かの比丘とサンガを分裂させようとした。
それでブッダを怨み、殺そうとまでした。そのため、地獄落ちることになった。戒律はきびしくすれば善いというものではない。もちろん、それで清められるものではない。

パーリ語uccvaca gacchati〈高低に行く〉の訳を、毎田先生は「思い上ったり卑下したりする」、中村先生は「種々多様なことをしようとする」、正田先生は「〔迷いのままに〕高下に赴く」
パーリ語saasatto(想に執着し)は正田先生の「〔自分勝手な〕表象(想:概念・心象)に執着し、」が正確で分かりやすい。
戒律を守ることにも執着せずに、聖智に真理を悟った人は広い智慧があるので、思い上ったり卑下したりすることはなく、どんな場合でも冷静落ち着いるといということ。このような人を清められた人という。

○毎田周一先生訳
793.
「彼はどんなことに向っても
見たり学んだり考えたりしたことで自分を武装せず
物事をありのままに見 明るい心で生活してゆく――
だからこの人は世間の人がこういう人だと掴もうとしても 決して掴まえられない人である」

見たり、聞いたり、考えたことで清められることがないことについて述べた偈。

パーリ語、visenibhto(敵対することなき)を、毎田先生は「自分を武装せず」、中村先生は「制し、支配している」、正田先生は「敵対という有り方を離れている」と訳された。
ちなみに、注釈書には、Seni(魔軍)とは心中の賊のことで、不善、煩悩の類である。魔軍を離れているとは、「煩悩の魔軍を離れている」、「煩悩を離れている」、結局は、「捉われない」ということ。
「vivaa caranta」(隠すことなく行ずる)です。毎田先生は「明るい心で生活してゆく」、中村先生は「覆われることなしにふるまう人」、正田先生は「〔迷妄の覆いが〕開かれた者として行じおこなう者」と訳された。
「vikappayeyya」(分別するであろうか)毎田先生は「掴もうとしても 決してまえられない」、中村先生は「どうして妄想分別させることができようか」、正田先生は「想い描くというのだろう(執着の対象として想い描かれることもない)」

この偈の意図は「見たり、聞いたり、考えたことで清められることがない」ことについて述べたもの。

(´・(ェ)・`)つ

150 :
毎回書いているからもはやわかっているじゃろうが、見解ではなく観察なのじゃ。
人は観察によって清められるのじゃ。
そうであるからありのままに見るというのじゃ。
これほど明確に書かれているのに気付かないとはおかしなことじゃ。

151 :
>>150
鬼和尚、こんばんは。
ここでは、「見解」によって清浄になったり悟りに導かれたりすることはないと、説明されてるようでありますよ。
(´・(ェ)・`)つ

152 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、5、最上についての八つの詩句

796 世間では、人は諸々の見解のうちで勝れているとみなす見解を「最上のも」のであると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。それ故にかれは諸々の論争を超えることがない。

797 かれ(=世間の思想家)は、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、自分の奉じていることのうちのみすぐれた実りを見、そこで、それだけに執著して、それ以外の他のものをすべてつまらぬものであると見なす。

798 ひとが何か或ものに依拠して「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実にこだわりである、と<真実に達した人々>は語る。
それが故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこだわってはならない。

799 智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人より「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。

800 かれは、すでに得た(見解)[先入見]を捨て去って執著することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。人々は(種々異なった見解に)分かれているが、かれは実に党派に盲従せず、いかなる見解をもそのまま信ずることがない。

801 かれはここで、両極端に対し、種々の生存に対し、この世についても、来世についても、願うことがない。諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居は、かれには何も存在しない。

802 かれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、微塵ほどの妄想をも構えていない。いかなる偏見をも執することのないそのバラモンを、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?

803 かれらは、妄想分別をなすことなく、(いずれか一つの偏見を)特に重んずるということもない。
かれらは、諸々の教義のいすれかをも受け入れることもない。バラモンは戒律や道徳によって導かれることもない。このような人は、彼岸に達して、もはや還ってこない。

(´・(ェ)・`)つ

153 :
>>152
○毎田周一先生訳
796.
「世間の人は自分の重んじるものを
「最上のもの」とする考えを離れず
それ以外のものをすべて「劣っている」という
だから人は論争から離れることが出来ない」

人の判断基準は、それぞれ異なるから、最上と思う見解も異なる。そのため、論争が起こり、論争から離れることが出来ない。これがこの世の中の実情。

○毎田周一先生訳
797.
「知識や学問や徳行や思想の
優れた成果が 自分の中にあると思っているものは
それらのことだけを自分でつかまえて
その外のすべてのものは劣っていると見る」

「自分の重んずるもの」或は「優れていると見なす見解」を少し具体的に示されている。すなわち、知識(見たこと)、学問(学んだこと)、徳行(戒律や道徳)、思想(思索したこと)。
「清浄八詩句経」において、これらによって清浄にならないと述べられてるもの。

○毎田周一先生訳
798
「自分の立場にとりついて外のものを劣っていると見る人自身が
それこそ束縛そのものだと賢い人はいう
だから修行者は知識や学問や思想や
徳行などを頼みとしてはならない

自分以外に何かに依存するということは、その何かに束縛されているということを知るべき。
自分の師あるいはある学説に依存して、他のものを劣っていると言うならば、自分の師あるいはある学説に束縛されている。そのことを知って、修行者(比丘)は依存しないように述べている。
具体的には見たこと(知識)、学んだこと(学問)、思索したこと(思想)、戒律や道徳(徳行)にこだわってはならないと説かれている。これらによって清らかにならないし、最上にはならないのである。

○毎田周一先生訳
799.
「智慧についても徳行についても
世の人と自分を比べて一面的な考えをもってはならぬ
即ち自己を「等しい」ものだとみたり
また「劣った」ものとか「勝れた」ものとか考えたりしてはならぬ」

いかなる生命も対等・平等。それが生命の尊厳。それを本当に分かることが解脱。で仏教の教えはすべて、この「すべての生命は対等・平等である。」ということを前提にしている。
智慧があるとか道徳を守っているとかという理由で、生命をランクづけられないと言うこと。だから、自分と他人を比較して、「等しい」とか、「劣っている」とか「勝っている」とか言うことは仏教の教えに反している。
自分が他人より勝っていると勝手に考えて高慢になることも、他人により劣っていると考えて卑下することも、他人と同等だと考えて安心すると言う態度も、仏教では戒められている。
他人と比較する人々は、比較する相手によって、高慢になったり、卑下したり、心が揺れ動きいつも不安な状態にあり、苦しみが付いて回る。

○毎田周一先生訳
800.
「既に身についているものを捨てて何も掴まず
智慧についても一定の立場をとらない人は
意見の違いから分裂した人達の中でどちらの側にもつかず
どんな考え方もそれを鵜呑みにしない」

一行目、パーリ語の直訳で「自己を捨棄して、執取せずにいる者は」毎田先生は「既に身についているものを捨てて」と説明し、中村先生は「すでに得た(見解)[先入見]を捨て去って」と訳された。
自己とは、「既に身についているもの」或は「すでに得た(見解)[先入見]」と解釈している。
このような状態を「色眼鏡をかけている」という比喩で表現される。世の中をありのままに正しく見るためには、色眼鏡を外さなければならない。それが自己を捨ててということ。別の言葉で言えば、自我を捨てるということ。
パーリ原文の二行目epiのeは、毎田先生は「智慧」、中村先生は「学識」、正田先生は「知恵」と訳されたが、悟りの智慧(pa)とは異なる。「悟りに関する知識」と言ったような意味。
だから、ここの意味は「悟りに関する知識にも依存しない」という意味になる。
徹底して、自分の先入見や知識、悟りに関する知識などを排除して、それらに依存しないという態度が示されている。
しかし、多くの人々は自分の先入見や知識、悟りに関する知識などに依存し、それに執着しているから、個人が異なれば、当然意見・見解は異なり、お互いに対立し、論争する。
(´・(ェ)・`)つ

154 :
>>152
○毎田周一先生訳
801.
「彼はここでこの世とあの世のどちらにも
あのようにまたこのように生きたいとは願わない
しかも色々な事をよく見ているので
それにとりつく立場を何ももってはいない」

仏教では願望を持たないことの方を重視しする。
願望や欲望は幸福をもたらすものではなく、むしろ人々の苦しみの原因になることを知るべき。
この世ではあのよう生きよう、このように生きようと望まない、そしてあの世については天界に生まれ変わりたいとか、また人間界に生まれ変わりたいとか望まない。
すなわち、自然な成り行きに任せるということ。無為自然な生き方をすること。
また、もの事にたいして、主観的な判断、断定をして、固定した立場を取らない、何事にも執着しないと言うこと。このような態度が自由自在な幸福な生き方だと述べている。

○毎田周一先生訳
802.
「だから彼には自分で考え出した
知識や学問や思想の影すらもない
このように道に達した人がどんな考えにもとりついていないとき――
世間の人が彼をこういう人だと掴まえようとしても 決して○(掴?)まえられるものではない」

801の偈の「彼」は、「この世でも あの世についても 願わない 断定しない 彼は無立場」のような無立場であり、自由自在。
そのような彼について、802の毎田先生の訳では「世間の人が彼をこういう人だと掴まえようとしても 決して○(掴?)まえられるものではない」、世間の人は彼を理解できないということ。
中村先生の訳では「(彼を)この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?」「彼は妄想分別をしない」という意味になる。世間の人は妄想分別する人ですので、世間の人は妄想分別しない人を理解できないという意味なる。
訳の仕方が、毎田先生と中村先生とは違いますが、二人とも「彼(バラモン)」と「世間の人」の違いが述べられているのです。
世間の人は、分別(思考)するから、相対的な現象の世界しか理解できない。彼(バラモン)が到達したあらゆる見解、妄想分別から離れた真理の世界を理解できないということ。

○毎田周一先生訳
803.
「彼等は何も当てにせず 何かを取り出してあがめもしない
色々の教えさえも彼等は受けない
このように道に達した人達は 徳行などを人生の筋道として生きてゆかない
このような人は既に彼岸に渡って もう帰って来ない」

毎田先生の訳、「彼等は何かを当てにせず 又何かを取り出してあがめることもなく」、中村先生は「かれらははからいをなすことなく、(何物かを)特に重んずることもなく、」。正田先生は「〔特定の何かを〕想い描かず、〔特定の何かを〕偏重せず、」
「清浄八詩句経」では、この一行目を前提にしても、彼等のどのようなになったかの結論は出ていなかった。
しかし、今回の「最上八詩句経」では、このような人は「彼岸に達して、もはや還ってこない。」という結論が明確。すなわち彼等は解脱して、輪廻を脱して、もう生まれかわることがない。
(´・(ェ)・`)つ

155 :
>>150
今回も、
一切の見解を否定してると解説してるようであります。
(´・(ェ)・`)つ

156 :
見解を否定すると言う見解に囚われているのじゃ。
観察にはたどり着いていないのじゃ。
見解を否定するならば、何をすれば善いのかということを知らないのじゃ。
ただひたすらに観察あるのみなのじゃ。

157 :
>>156
790の解説で、
>1.見解=見られたもの
2.伝承の学問=聞かれたもの
3.戒律・道徳¬=戒や掟
4.思想=思われたもの
つまり、これらのもので清らかになることはないと言うこと。

そうではなくて、「そして善いことにも悪いことにも染まらず、この世で何かを作り出そうとせず 既に身についているものをみな払い捨ててしまう。」ことで清らかになるのだと説かれている。

上記1.2.3.4.は八正道の正見、正思、正語、正業と関わりのある項目であるので、これらのよって、仏教徒は清められると考える。
しかし、これらの事柄についても教条的にこだわるならば、清めるどころか汚してしまうということに注意して、八正道についても正しく理解することが必要。

と、いい線まで行ってるようなのでありますが、
>既に身についているものをみな払い捨ててしまう。」ことで清らかになる
と言うだけでは、ちょぴっと乱暴なような気もするでありますし、
確かに、
>観察にはたどり着いていない
で、ありますね。
鬼和尚のお陰で、くまはたどり着けてるであります。
(´・(ェ)・`)b

158 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、6、老 い

804 ああ短いかな、人の生命よ。百歳にたっせずせして死す。たといそれよりも長く生きたとしても、また老衰のために死ぬ。

805 人々は「わがものである」と執著した物のために悲しむ。(自己の)所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家にとどまってはならない。

806 人が「これはわがものである」と考える物、──それは(その人の)死によって失われる。われに従う人は、賢明にこの理を知って、わかものという観念に屈してはならない。

807 夢の中で会った人でも、目がさめたならば、もはやかれを見ることができない。それと同じく、愛したひとでも死んでこの世を去ったならば、もはや再び見ることはできない。

808 「何の誰それ」という名で呼ばれ、かつては見られ、また聞かれた人でも、死んでしまえば、ただ名が残って伝えられるだけである。

809 わがものとして執著したものを貪り求める人々は、憂いと悲しみと慳(モノオシ)みとを捨てることがない。それ故に諸々の聖者は、所有を捨てて行って安穏(アンノン)をみたのである。

810 遠ざかり退いて行する修行者は、独り離れて座所に親しみ近づく。迷いの生存の領域のうちに自己を現さないのが、かれにふさわしいことであるといわれる。

811 聖者はなにものにもとどこおることなく、愛することもなく、憎むこともない。悲しみも慳(モノオシ)みもかれを汚すことがない。譬えば(蓮の)葉の上の水が汚されないようなものである。

812 たとえば蓮の上の水滴、あるいは蓮華の上の水が汚されないように、それと同じく聖者は、見たり学んだり思索したどんなことについても、汚されることがない。

813 邪悪を掃い除いた人は、見たり学んだり思索したどんなことでも特に執著して考えることがない。かれは他のものによって清らかになろうとは望まない。かれは貪らず、また嫌うこともない。

(´・(ェ)・`)つ

159 :
>>158
○毎田周一先生訳
804.
まことに人生は短い
百歳にならないうちに死んでしまう
たとえそれ以上に生きたとしても
しかし彼は老衰のために死ぬ
この経は、「老」について述べた経ではない。もしこの経の題名を内容から作るとしたら、「清浄な人経」或は「最上な人経」。
この経の冒頭で、寿命が短いことが述べられたのは、人生は短いのだから、いかに生きるかが重要であるという問題提起である。生きている時間を無駄に使ってはいけないということ。
○毎田周一先生訳
805.
人々はわがものと思うもので悲しむ
何故ならひとの所有するものはいつもそこにあるものでもなく
又成長する一方のものないから――
これを思えば世間の生活に留まってはいられない筈である
人々は「わがものである」と執着したもののために悲しむということ。何故か?所有しているのは常住ではないからだと言う。
どんなものも無常でだから変化する。そして最後は壊れて、消えてしまうから、「わがもの」と思っていてもなくなってしまう。わがものがなくなれば悲しい。
この悲しみを乗り越えるためには、「わがもの」という思いを克服しなければならない。
参考)<777>
「わがもの」という思いの最大のものの一つに家がある。
正田先生訳は「家に住み止まらないように。」、中村先生訳は「在家にとどまってはならない。」となり、これは出家せよということになる。
出家しなくとも、在家の生活でも今までと同じように続けていけない。今までの生活を改善して精進せよということになる。
○毎田周一先生訳
806.
人が「これはわがもの」と思っているものも
その人がRばどこかへいってしまう
このことを明らかに知って 私に従う人は
ものを自分のものにしようと夢中にならぬがよい
「わがもの」という思いは「死によって失われる」。
人間は五蘊によって構成されている。五蘊とは、色(肉体)、受(感覚)、想(表象)、行(形成作用)、識(認識)。人間が死ぬと人間を構成する五蘊のそれぞれが失われる。
「わがもの」という思いは想(表象)だから、これもなくなる。死ぬと「わがもの」という思いのみならず、肉体も感覚もその他の表象も形成作用も認識もなくなる。
賢者はこのことを知って、いずれは「わがもの」という思いを失うのだから、死ぬ前に、この思いに執着しないで、捨てた方がよいと説かれている。
これにより悲しみの原因の一つを捨てることが出来る。
参考)ダンマパダ第6番の偈。
「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟しよう――このことわりを他の人は知っていない。しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。
○毎田周一先生訳
807.
たとえば夢であった人を
目が醒めれば もう人は見ないように
それと同じくどんなに好きだった人でも
その人が死んでしまえばもう見ることが出来ない。
「わがもの」という思いが死とともになくなることを、夢でたとえて説明。夢の世界が、この世で生きている世界。夢から覚めることはこの世で死ぬことを意味している。
夢の世界であった人(=この世であった人)に、夢から覚める(=この世で死ぬ)と、会うことが出来ないということ。これとおなじように、「わがもの」という思いもこの世で死ぬとなくなってしまう
「わがもの」という思いもこの世で死ぬとなくなってしまう。
「わがもの」という思いは夢のようなもの。夢だから執着する意味はない。
○毎田周一先生訳
808.
その人の名を何々と呼んで
人が現実にその人を見 その声を聞いた人々も
死んだ人といわれるようになっては
もう名ばかりが残る
私たちは自分の名前は自分のものだと考えている。また自分の名前に特別の愛着がある。自分の名前は自分のものだと思っている。
自分の名前も単なる記号。特別な実体があるわけではなく、その名前の人がなくなれば、残るものは名前だけ。
その他の「わがもの」と思っているものも、名前と同じように、単なる思いだけで、実体のない空虚なもの。執着するに値しないし、これらも無常だから、執着できないもの。
(´・(ェ)・`)つ

160 :
>>158
○毎田周一先生訳
809.
わがものと思うものと貪り求める人は
憂い悲しみねたむ心を離れることが出来ない
だからやすらぎがどこにあるかを見た静かな人達は
持ちものを捨てて行ったのである
何故、「わがもの」という思いがあると憂いと悲しみから離れられないのか?
この世の一切のものは無常だからである。「わがもの」という思いがあれば、大切にしていた我が物は必ず変化して、古くなり、色、形が変化し、終いには壊れてなくなってしまう。そうすれば、憂い悲しみの結果になる。
また、「わがもの」という思いがあると、何故物惜しみから離れないのか?
そもそも物惜しみとは、自分のものを他人にあげたり、使われたくないという気持ち。
物惜しみは自分にない物を欲しがる気持ちとは少し違う。自分の物を他人にあげたくないというケチな気持ち。その心があると、他人と物を分け合ったり、慈しみの持つことが出来ない。
だから、聖者たちは、「わがもの」という思いを捨てて、慈しみのある、平安な生活を行う。
○毎田周一先生訳
810.
この世を遠く離れて修行する者が
いよいよ世を超える心に生きて
この世間に顔を出すようなことがなければ
そこに彼にとって円かな世界が現れたのだといってよい
「パーリ語仏教辞典」の中に書かれている雲井昭善先生の訳。
「人里離れた坐所に親近し、厭い退いて行じる比丘(無滞着の比丘)、かれが生存の中にも自己をあらわさないなら、かれにとってそのことがふさわしい、と人々はいう。」これは
中村先生訳、「独り離れて座所に親しみ近づく」、毎田先生は「いよいよ世を超える心に生きて」としている。
中村先生訳、「遠ざかり退いて行する修行者」の「遠ざかり」は何から遠ざかりか明記していないが、正田先生は「欲望の対象から」という意味にとっている。毎田先生はこの世から遠ざかりとし、雲井先生は人里からの遠ざかりと訳した。
四行目を中村先生やその他の先生は「かれにふさわしいことであるといわれる。」としていまるが、毎田先生は、「そこに彼にとって円かな世界が現れたのだといってよい」と訳されている。
円かな世界とは涅槃のこ。「彼にふさわしいこと」とは涅槃の境地にいることが彼にふさわしいということ。
「迷いの生存の領域のうちに自己を現さないのが」或は「彼が、〔迷いの〕生存域において、〔彼の〕自己を見せないなら」或は「かれが生存の中にも自己をあらわさないなら」等の訳は涅槃の境地であると言っていることになる。
(´・(ェ)・`)つ

161 :
>>158
○毎田周一先生訳
811.
静かな人は どこへいっても捉われがなく
好き嫌いをいわない
葉の上で水が染まらぬように
悲しみもねたみも彼をよごさぬ
毎田先生は、muniを聖者あるいは牟尼とは訳さず、一貫して「静かな人」と訳される。muniには「沈黙して修行する聖人」という意味がある。ブッダがmuniという言葉を使われる時は覚った方を指している。
二行目の直訳は「愛を作らない、不愛を作らない」。これを「好き嫌いをいわない」或は「愛することもなく、憎むこともない。」或は「愛しいものを作らず、また、愛しくないものも〔作ら〕ない。」と訳される。
聖者は何ものにも依存せず、捉われがなく、「好き嫌いをいわない」あるいは「愛することもなく、憎むこともない」
それをイメージすると、ハスの葉の上に落ちた水が小さな水玉になって、水が葉を濡らすこと出来ないような状態だと言う。
○毎田周一先生訳
812.
蓮の葉の上で水滴が
蓮の葉の上で水が 染まらぬように
それと同じく静かな人は
知識にも学問にも思想にもそまらない
聖者(静かな人)は、見たこと(知識)、聞いたこと(学問)、考えたこと(思想)に依存しない、影響されないということ。あらゆる固定観念に拘束されずに、自由であるということ。
○毎田周一先生訳
813.
清らかになった人は 知識や学問や思想を
これがなければなどとは考えない
彼は他のことによって清らかになろうとは思わない
何故なら彼は貪ることにも 貪らぬことにも 共に執著していないから
今回の偈で「老経」が終わる。ブッダの教えはすべて、人々を解脱に導くものだから、老経の最後の偈はそのためのまとめ。
「清らかになった人は 知識や学問や思想をこれがなければなどとは考えない」
見ること(知識)、聞くこと(学問)、考えたこと(思想)によって解脱することは出来ない。
「他のことによって清らかになろうとは思わない」の「他のことによって」とは知識、学問、思想など以外のものによっても解脱できるとは思わない、すなわち自分自身によって解脱するということ。
四行目で解脱の仕方について述べられている。
「貪ることにも 貪らぬことにも 共に執著していない」ことで解脱する。
「貪らず、また嫌うこともない」ことで解脱する。
「〔欲に〕染まらず、離貪もしない」ことで解脱する。
(´・(ェ)・`)つ

162 :
>>150
鬼和尚、こんばんは。
>これほど明確に書かれているのに気付かないとはおかしなこと

中村元先生の訳文の中で、例えばどの辺りが、「観察」の重要性をのべてることになるのでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ

163 :
777 (何ものかを)わがものであると執著して動揺している人々を見よ。(かれらのありさまは)ひからびた流れの水の少ないところにいる魚のようなものである。
これを見て、「わがもの」という思いを離れて行うべきである。──諸々の生存に対して執著することなしに。

778 賢者は、両極端に対する欲望を制し、(感官と対象との)接触を知りつくして、貪ることなく、自責の念にかられるような悪い行いをしないで、見聞することがらに汚されない。

779 想いを知りつくして、激流を渡れ。聖者は、所有したいという執著に汚されることなく、(煩悩の)矢を抜き去って、勤め励んで行い、この世もかの世も望まない。

 この辺じゃな。
 知り尽くしてというのは本当は観察して知り尽くすのじゃ。
 それは知識を求めるのではないのじゃ。
 厭離のために観察して知り尽くすのじゃ。

164 :
>>163
鬼和尚こんばんは。
くまが引用してる解説では、
>>161
>解脱の仕方について・・・。
「貪ることにも 貪らぬことにも 共に執著していない」ことで解脱する。
「貪らず、また嫌うこともない」ことで解脱する。
「〔欲に〕染まらず、離貪もしない」ことで解脱する

執着しない、貪らなという と言うことのみを方法論として解説しており、
その執着や貪りからどうやって離れるかを解説してないようでありますね。

テラワダの立場からの解説なので、ヴィパッサナ-(観)は基本のはずなので、前面にだして説明すればよいのに、それをしてないようであります。

鬼和尚の補足が必要なようであります。
(´・(ェ)・`)つ

165 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、7、ティッサ・メッテイヤ

814 ティッサ・メッテイヤさんがいった、──「きみよ。婬欲の交わりに耽る者の破滅を説いてください。あなたの教えを聞いて、われらも独り離れて住むことを学びましょう。」

815 師(ブッダ)は答えた、「メッテイヤよ。婬欲の交わりに耽る者は教えを失い、邪まな行いをする。これはかれのうちにある卑しいことがらである。

816 かって独りで暮していたのに、のちに婬欲の交わりに耽る人は、車が道からはずれたようなものである。世の人々はかれを『卑しい』と呼び、また『凡夫』と呼ぶ。

817 かってかれのもっていた名誉も名声も、すべて失われる。このことわりを見たならば、婬欲の交わりを断つことを学べ。

818 かれは諸々の(欲の)想いに囚われて、困窮者のように考えこむ。このような人は、他人からのとどく非難の声を聞いて恥いってしまう。

819 そうして他人に詰られたときには虚言に陥る。すなわち、[自らを傷つける]刃(悪行)をつくるのである。これがかれの大きな難所である。

820 独りでいる修行をまもっていたときは一般に賢者と認められていた人でも、もしも婬欲の交わりに耽ったならば、愚者のように悩む。

821 聖者はこの世で前後にこの災いのあることを知り、独りでいる修行を堅くまもれ。婬欲の交わりに耽ってはならない。

822 (俗事から)離れて独り居ることを学べ。これは諸々の聖者にとって最上のことがらである。(しかし)これだけで『自分が最上の者だ』と考えてはならない。──かれは安らぎに近づいているのだが。

823 聖者は諸々の欲望を顧みることなく、それを離れて修行し、激流を渡りおわっているので、諸々の欲望に束縛されている人々はかれを羨むのである。」──
(´・(ェ)・`)つ

166 :
>>165
○毎田周一先生訳
814.
「性の関係に沈溺(ちんでき)するものが
と長老ティッサ・メッテーヤが尋ねた
そのために没落してゆく様を教えて下さい 師よ
そのお教えを聞いて 私達はそれを遠ざかることを学びたいと思います

○毎田周一先生訳
815
「性の関係に沈溺(ちんでき)する者は
メッテーヤよ と世尊は答えられた
そのために教えすら忘れて
人生の筋道を誤り 気高い道から外れてしまう

性行為にふける者は、性欲に翻弄されて、人生において「ブッダの教え」を実践することが一番大切であることを忘れてしまう。
中村先生訳「これはかれのうちにある卑しいことがらである。」正田先生訳「〔淫欲に束縛された〕彼のうちには、この、聖ならざる〔悩み苦しみ〕があります。」とあるが、この意味は毎田先生訳「人生の筋道を誤り 気高い道から外れてしまう」が分かりやすい。
○毎田周一先生訳
816.
今迄唯一人の道をいそしんでいたものも
性の関係に溺れるようになれば
道を外れた車に似て
世間の人は彼を低級な ただのの人間に過ぎないという

性行為にふけるならば、迷走する乗物に乗って、道から外れて崖から落ちるようなものである。崖から落ちるとは地獄に落ちるということ。
そして、このような行為を行う修行者は、非難されるということ。
○毎田周一先生訳
817.
彼がこれまでもっていた名誉も名声も
すっかり消えてなくなってしまう
そのことを思うにつけて
性の関係から離れることを学ばなければならない

○毎田周一先生訳
818.
どうしたらよいかと思い煩い
彼は貧乏人のように考えて込む
こういう人はひとが何かいったのを
聞いてもどぎまぎする

名誉も名声も失ってしまった者は、「どうしたらよいかと思い煩い」悩む。その有様は「彼は貧乏人のように考えて込む」。貧乏人は今日、明日の食べ物をどうしようかと悩むが、そのように悩む。
性行為に溺れている人は、そのような惨めなことになることを知るべき。

○毎田周一先生訳
819.
それというのもどうしても止められない
貪りのためであり
遂にはひたすら嘘の中へ身を
隠してしまうようになる

他人に叱責されると、自分を取り繕うために、苦し紛れに嘘をついてしまう。
この偈の前半の直訳は「他人の言葉で叱責された者は刃(やいば)を作る」とは、正田先生の訳にあるように自分を傷つける刃(悪行)をすることだが、それは後半で説明されているように嘘をつくこと。
嘘をつくことは五戒の一つである戒を破ることであり、地獄に落ちるような大難(大罪)になる。
性欲に負けて、性行為に溺れることに続く結果はいかに危険な恐ろしいことであることをしっかり理解すべきこと。甘く考えてはいけない。
「それというのもどうしても止められない 貪りのためであり」つまり、性欲に執着して貪欲になっている。セックスに夢中になっている。
(´・(ェ)・`)つ

167 :
>>165
○毎田周一先生訳
820.
唯一人の道をしっかりと進み
賢い人だと世間からも認められていた人が
一旦性の関係に陥ると 愚鈍な人と同じになり
ただもう引き摺り廻されるばかりである。

性欲に負けてしまうと、賢者と認められていても、愚者と同じことになってしまう。賢者と愚者の違いは、視野の違い。賢者は自分のことと同時に他人のことがよく見えて、他人の都合や他人のためを考えて行動できる。
しかし、愚者は自分のことしか見えない。他人の迷惑など眼中になくなる。性欲には人間をそのようにさせる力がある。注意する必要がある。

○毎田周一先生訳
821.
こんな浅ましいことが
この世間の前にも後にもあることを知って
静かな人はしっかりと唯一人の道を行き
性の関係に盲従しないようにするがよい

、「浅ましいこと」、「災い」、「危険」と訳されたことは、815から820で述べられた事柄。
性行為に耽ることによって、解脱への道を踏み外すこと、人々から非難され、蔑まれること、名誉や名声を失うこと、思い煩い、惨めになること、虚偽を語るようになること、愚か者になることなど。
これらのことは自らまいたことの結果だから、災い(災難)という言葉が適当だと思わないが、大変な災難である。しかし、これらの災難は自分の力で防止できる。
何としてでも防止しなければならない。性欲に負けないために、性行為に耽らないために、孤独に耐えて、一人で修行することに努めるべき。

822
○毎田周一先生訳
唯一人ということをどうしても学ばねばならない
これが最も気高いことである
しかしこれだけでこの上もないところへ行きついたと思ってはならない
彼はそこで涅槃に近づいたといえるだけである

性欲に負けないためには、「独りでいる修行を堅くまもれ」と説かれたが、「独りいる修行」は単に性欲に負けないということに留まらず、「聖者にとって最上のことがらである」とこの偈で述べられている。
何故ならば、独りで行う修行は涅槃に導くものだからである。
しかし、それだけでは涅槃に至らないと注意している。その具体的な内容は書かれてない。
○毎田周一先生訳
823.
どんな欲望にも駆り立てられず
そこから解き放されて生きてゆく静かな人は
既に盲目の命の流れを渡ってしまっているので
欲望のため身動きならぬ人達がただそれを羨ましいと思うばかりである。

欲望を顧みることなく、それから離れて修行し、激流(煩悩)を渡り終わった。そして、諸々の欲望に束縛されなくなった。涅槃に到達した。彼は聖者と呼ばれるのに相応しく、欲望に束縛されている人々からは羨ましいと思われる人になった。

毎田先生の訳で「静かな人」とは、通常の訳では「聖者」のこと。また激流(煩悩)を「盲目の命の流れ」という言葉を使われる。性欲は本能、すべての本能を乗り越えて、解脱して、彼岸(涅槃)涅槃に達するということになった。
(´・(ェ)・`)つ

168 :
>>164 そうじゃ、かなり混乱しているのじゃ。
 なにものにも執着せずに観察すればよいというだけであめのにのう。
 観察によって人は清らかになり、執着からはなれ貪欲もなくなるのじゃ。
 

169 :
>>168
鬼和尚こんばんは。
ありのままを観察すればよいだけ、ということは、実践してみれば誰でもくまでも、その効果、(=諸々の観念のによる拘束からの解放)を容易に実感できるのと思うのでありますが、それを伝えるのは難しいでありますね。
(´・(ェ)・`)つ

170 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、8、パスーラ

824 かれらは「ここにのみ清らかさがある」と言い張って、他の諸々の教えが清らかでないと説く。「自分が依拠しているもののみを善である」と説きながら、それぞれ別々の真理に固執している。

825 かれらは論議を欲し、集会に突入し、相互に他人を<愚者である>と烙印し、他人(師など)をかさに着て、論争を交わす。──みずから真理に達したものであると称しながら、自分が称賛されるようにと望んでいる。

826 集会の中で論争に参加した者は、称賛されようと欲して、おずおずしている。そうして敗北してはうちしおれ、(論敵の)あらさがしをしているのに、(他人から)論難されると、怒る。

827 諸々の審判者がかれの所論に対し「汝の議論は敗北した。論破された」というと、論争に敗北した者は嘆き悲しみ、「かれはわたしを打ち負かした」といっい悲泣する。

828 これらの論争が諸々の修行者の間に起ると、これらの人々には得意と失意とがある。ひとはこれを見て論争をやめるべきである。称賛を得ること以外には他に、なんの役にも立たないからである。

829 あるいはまた集会の中で議論を述べて、それについて称賛されると、心の中に期待したような利益を得て、かれはそのために喜んで、心が高ぶる。

830 心の高ぶりというものは、かれの害われる場所である。しかるにかれは慢心・増上慢心の言をなす。このことわりを見て、論争してはならない。諸々の熟達せる人々は、「それによって清浄が達成される」とは説かないからである。

831 たとえぱ王に養われてきた勇士が、相手の勇士を求めて、喚声を挙げて進んでゆくようなものである。勇士よ。かの(汝にふさわしい、真理に達した人の)いるところに到れ。相手として戦うべきものは、あらかじめ存在しないのである。

832 (特殊な)偏見を固執して論争し、「これのみが真実である」と言う人々がいるならば、汝はかれに言え、──「論争が起っても、汝と対論する者はここにいない」と。

833 またかれらは対立を離脱して行い、一つの見解を[他の]諸々の偏見と抗争させない人々なのであるが、かれらに対して、あなたは何を得ようとするのか? パスーラよ。
かれらの間で、「最上のもの」として固執されたものは、ここには存在しないのである。

834 さてあなたは(「自分こそ勝利を得るであろう」と)思いをめぐらし、心中にもろもろの偏見を考えて、邪悪を掃い除いた人(ブッダ)と論争しようと、やって来られたが、あなたも実にそけだけならば、それを実現することは、とてもできない。

(´・(ェ)・`)つ

171 :
>>170
○毎田周一先生訳
824.
人々は「これだけが清らかだ」と主張して
他の教えは清らかでないないという――
そして自分の立場だけを認めることによって
実は色々の 自分だけの真理というものにとりついている

「パスーラ経」のあらすじは特定な見解に固執して論争することの無意味さを教えるもの。ブッダは最後にパスーラに呼びかけて、煩悩を離れた者(ブッダ)と論争することが出来ないことを示唆する。
注釈書によるとこの経の因縁物語は、遊行者パスーラはサーリプッタ長老と欲望に関する論争に負けたので、仏教僧団の中で出家した。しかし指導する師僧を議論で負かした。そして今度はブッダに論争を挑んだ。
彼が祇園精舎のブッダのもとに行くと、神の力で一言も口をきくことが出来なくなった。それに対してブッダがこの経を説いたということ。

「ここにのみ清らかさがある」と言った時点、この見解は仏法(真理)ではないと、毎田先生は解説する。
「ここにのみ」ということは「ここ以外のもの」との対立を作る。対立すれば、異なる見解が現れるからである。異なる見解が現れると論争が現れる。

○毎田周一先生訳
825.
この人達はひとといい争うことが好きで 集りの中に入ってゆき
互いに反対して相手を愚かものと見なし
自分はほめられたいと思って 如何にも道理の解ったような顔をしてものをいい
他人と対立しながらただいい争っている。

○毎田周一先生訳
826.
人の集りの中でいい争うことになったものは
ほめられることを望んで 敗けないように心を砕くが
その甲斐もなく 相手に押切られると 口惜しさに堪えられず
自分も人の弱点を探しているのに 相手が自分の間違いを衝いたことを怒る

議論好きが、論争に参加した時の心理状態を細かく描かれている。

○毎田周一先生訳
827.
いい争うのを裁く人達が あなたのいうことには欠陥がある
だからあなたの方の敗けだというと
その論争に負けたひとは 泣き悲しんで
「あの人が自分を負かしたのだ」と口惜しがる

○毎田周一先生訳
828.
こんないい争いが道を修める人達の間に起こると
彼等の中に勝つと負けるとかいうことがあることになる
こんなことをみてもひとは論争を離れねばならぬ
何故ならそこにはほめられたということの外に何の利益もないからである

真理を求め修行する人は、他人の評価でなく、自分自身で真理を発見しなければならないから、他人の評価に依存する態度は修行の妨げになる。
真理の発見は心の変革と結びついた事柄。他人の評価ではなく、また何ものにも依存しない心の状態の時、そこに真理が現れる。その意味で論争の無意味さを本当に知った時、真理が理解できる。

(´・(ェ)・`)つ

172 :
>>170
○毎田周一先生訳
829.
あるいはまた人の集りの中で 自分の考えを述べて
それがほめられると
その人がかねて望んでいた利益を得たのだから
如何にも得意そうに自惚れることになる

実は褒められることは利益になるかどうかわからない。
人は褒められると嬉しくなる。褒められても自分はまだまだと思う謙虚な人は素晴らしが、多くの人は、心が高ぶる。中村先生の訳で「心が高ぶる」とは高慢になるということ。この高慢が問題。
人が高慢になれば、褒められることは不利益になる。

○毎田周一先生訳
830.
自惚こそは人の苦しみを生み出す土壌である
それなのに彼は愈々いい気になって思い上がったことをいう
これを見てもひとはいい争うことを止めねばならぬ
何故なら賢い人はそんな処に清らかさがあるとはいわないからである

一行目の三人の先生方の訳はニュアンスが異なる。
「自惚こそは人の苦しみを生み出す土壌である」
「心の高ぶりというものは、かれの害われる場所である。」
「その傲慢なるもの――それは、彼にとっては、悩み苦しみの境地。」
パーリ語の「高慢」を「自惚れ」「心の高まり」「傲慢」とそれぞれ訳されている。
そして「破滅の地」を「苦しみを生み出す土壌」「害われる場所」「悩み苦しみの境地」という言葉で表現された。
論争の勝利者の心の問題点、その時の心の状態の危険性は予想外に大きなものであることにも気づかされる。
「高慢」が「苦しみを生み出す土壌」「害われる場所」「悩み苦しみの境地」であることを知って、論争を止めるように述べている。
さらに四行目には論争に勝つことで「清浄」が得られないと賢者達が説いている。そもそも「清浄(真理)」を求めて論争するのだが、論争では「清浄」は得られないから、論争を止めよということ。

○毎田周一先生訳
831.
たとえば王侯から食禄を得ている勇ましい人が
敵の中に強い相手を求めながら 叫び声をあげて突き進むように
勇ましい人は 敵の居る処へとび込んでゆくがよい
そこにはしかし戦わねばならぬことは何もないのである

論争を好む者、論争を求める者を勇者にたとえて、皮肉を込めて述べている。
中村先生の訳、「王に養われてきた勇士」とは、自分の先生とか先輩の意見や業績に依存している論争者という意味。「相手の勇士」とは「論争の相手」。
「喚声を挙げて進んでゆくようなものである。」とは、論争の相手を探して論争を挑むがよいということだが、その時の論争の相手とは、中村先生がカッコの中で書かれているように、(汝にふさわしい、真理に達した人)。
次に「相手として戦うべきものは、あらかじめ存在しないのである。」とある。これは真理に達した人は、これが真理だと主張する所がないので、あなたは戦うことが出来ないのだと述べている。
(´・(ェ)・`)つ

173 :
>>170
○毎田周一先生訳
832.
ある学説をとり上げて議論を吹きかけてきて
「これこそ本当なのだ」という人があれば
そういう人にあなたはいってやるがよい――
いい争うとしても あなたの相手はここにはいませんと

論争を挑む者はある見解(偏見)をもって、「これのみが真理である」と述べるものだから、「汝と対論する者はここにいない」と応えよと教えている。

○毎田周一先生訳
833.
これとは反対に もう敵というものをもたない処に生きて
色々な考えに一つの考えを対立させない人達がある
パスーラよ あなたはこういう人達から何か得られると思うのか
その人達にはもうこれが最上のことだといって掴んでいるものは何もないのである

毎田先生と正田先生の訳では誤解がないと思うが、中村先生の訳の場合は誤解する恐れがある。と言うのは、883の「かれら」は誰をさしているか明確でないから。
「かれら」を882の「(特殊な)偏見を固執して論争をする人々」とも取れなくはない。
その点、毎田先生と正田先生の訳では、「これとは反対に」あるいは「いっぽうで」という言葉があるから、「(特殊な)偏見を固執して論争をする人々」ではなく、「論争をやめた人々」を意味していることになる。
もちろん中村先生の訳も他の先生と同じにも理解できるが、誤解されるおそれがあるということ。
この偈でブッダはパスーラさんに「お前は論争をやめた人々の処に行って、何を求めようとしているのか? 彼等には「最上だと」固執するものは何もないのだよ。」と教えていることになる。

○毎田周一先生訳
834.
ところであなたは色々の学説を心の中で思いめぐらせながら
そこに真理を尋ね求めているようだが
そういうことでは いくら清められた人に出会って学んでいるといっても
それ以上に先に進むことはとてもあなたには出来ないだろう

833偈で「敵というものを持たない処に生きて、色々な考えに一つの考えを対立させない人達とは論争出来ない」という真理が述べられた。
そのことを理解していないパスーラさんは「自分こそは勝利を得るであろう」と思いをめぐらして、心中にもろもろの偏見を考えてブッダと論争しようとやって来た。
ブッダはまさに、「敵というものを持たない処に生きて、色々な考えに一つの考えを対立させない人」なのだから、パスーラさんはブッダと論争しようにも論争出来ない。
それで「パスーラよ。 汝もこの真理(ことわり)を識って、争論と偏見とを離れるべきである。」ということになる。
三人の先生の訳が微妙に違う。パーリ語の yuga(軛を)の訳し方が異なる。
毎田先生と中村先生は軛という言葉がない。正田先生だけが軛という言葉を使っています。軛(くびき)とは、車の轅(ながえ)の端につけて、牛馬の後頸にかける横木。この偈では軛は比喩として使っている。
毎田先生は、「清められた人に出会って学んでいる」という意味に使っている。中村先生と正田先生は「論争しようとすること」という意味に使っている。
注釈書には、山犬とライオンは同じ軛をつけては歩めないように、パスーラとブッダはともに同じ軛をつけて一歩もともに進むことが出来ないと説明されている。

(´・(ェ)・`)つ

174 :
>>169 そうじゃ、観察は微妙なものであるからのう。
 記憶したとおりにできるものではないのじゃ。
 記憶に反する行為なのじゃ。
 そうであるから記憶に依存したものには困難なのじゃ。

175 :
>>174
絵を描くのが下手な人の為の練習法として、対象物を逆さまにして描くと方法があるとのことで、子くまの頃にやってみたら、実際に効果あるのであります。
要は、普段見慣れたものを観察して描く時、記憶に引きずられてしまうが、逆さまにして描くと、見慣れない姿になるので、観察が緻密になる効果を利用した練習方法ではないかと思うのでありま。

心の観察にも使えそうであります。
(´・(ェ)・`)b

176 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、9、マーガンディヤ

835 (師((ブッダ))は語った)、「われは(昔さとりを開こうとした時に)、愛執と嫌悪と貪欲(という三人の悪女)を見ても、かれらと婬欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。
糞尿に満ちたみの(女が)そもそも何ものなのだろう。わたくしはそれに足でさえも触れたくないのだ。」

836 (マーガンディヤがいった)、「もしもあなたが、多くの王者がもとめた女、このような宝、が欲しくないならば、あなたはどのような見解を、どのような戒律・道徳・生活法を、またどのような生存状態に生まれかわることを説くのですか?」

837 師が答えた、「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。
諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」

838 マーガンディヤがいった、「聖者さま。あなたは考えて構成された偏見の定説を固執することなしに、<内心の安らぎ>ということをお説きになりますが、そのことわりを諸々の賢人はどのように説いておられるのでしょうか?」

839 師は答えた、「マーガンディヤよ。『教義によって、学問によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、私は説かない。
『教義がなくても、学問がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない
。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」

840 マーガンディヤがいった、「もしも、『教義によっても、学問によっても、知識によっても、戒律や道徳によっても清らかになのことがではない』と説き、
また『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができない』と説くのであれば、それはばかばしい教えである、とわたくしは考えます。
教義によって清らかになることができる、と或る人々は考えます。」

841 師は答えた、「マーガンディヤよ。あなたは(自分の)教義にもとづいて尋ね求めるものだから、執著したことがらについて迷妄に陥ったのです。
あなたはこの(内心の平安)について微かな想いをさえもいだいていない。だから、あなたは(わたしの説を)『ばかばかしい』とみなすのです。

842 『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣っている』とか考える人、──かれらはその思いによって論争するであろう。
しかしそれらの三種に関して動揺しない人、──かれには『等しい』とか、『すぐれている』とか、(あるいは『劣っている』とか)いう思いは存在しない。

843 そのバラモンはどうして『(わが説は)真実である』と論ずるであろうか。
またかれらは『(汝の説は)虚偽である』といって誰と論争するであろうか?『等しい』とか『等しくない』とかいうことのなくなった人は、誰に論争を挑むであろうか。

844 家を捨てて、住所を定めずにさまよい、村の中で親交を結ぶことのない聖者は、諸々の欲望を離れ、未来に望みをかけることなく、人々に対して異論を立てて談論をしててはならない。

845 竜(修行完成者)は諸々の(偏見)を離れて世間を遍歴するのであるから、それらに固執して論争してはならない。
たとえば汚れから生える、茎に棘のある蓮が、水にも泥にも汚されないように、そのように聖者は平安を説く者であって、貪ることなく、欲望にも世間にも汚されることがない。

846 ヴェーダの達人は、見解についても、思想についても、慢心に至ることがない。かれらの本性はそのようなものではないからである。かれらは宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。

847 想いを離れた人には、結ぶ縛めが存在しない。智慧によって解脱した人には、迷いが存在しない。想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろつく。」

(´・(ェ)・`)つ

177 :
>>176
○毎田周一先生訳
835.
「私は嘗て『渇望』と『不満』と『貪欲』と(いう女)を見たが
それと一つになろうとは決して思わなかった
この尿と糞とに充ちた汚いもの それが一体何であろうか
私は足でそれに触れようとさえ思わない」

「マーガンディヤ経」は注釈書によれば、クル国のバラモン・マーガンディヤがブッダにあって、自分の美しい娘を嫁がせようとして、娘を着飾って妻とともに出かけていって申し出ます。
しかし世尊は「美女に用はない」と取り合いません。そこでマーガンディヤは「美女もいらぬとはどいう考えだ」とその考え方を問いただします。
その時の対話がこの経。最後はこのバラモンは妻とともに出家して阿羅漢になったという。
ブッダは次のように語った。「私がブッダになる前に一大決意で冥想の座についた時、悪魔の大軍が襲来して、悟りの完成を妨げに来ました。
その中に『渇望』と『不満』と『貪欲』という名前の悪魔の娘がいました。その三人は人間をだまして美しく見せていましたが、私はだまされません。
汚れた醜いものしか見えませんでした。同棲することはもちろん、足で触れることさえも望みません。糞や尿で満ちた女が何だというのですか。私には興味のないことです。」と。

○毎田周一先生訳
836.
「もしあなたが多くの帝王達に宝玉のように求められてた
その女を手に入れようと思われないのなら
それでは一体あなたは どんな学説と徳行と生活の仕方と
またどんな状態に生まれかわることとを 説こうとされるのですか」

マーガンディヤさんは、多くの王たちに求められている自分の美しい娘を、ブッダに拒否されたことを理解できなかった。
そこでブッダは愛欲を超越して欲望から離れた出家者だと考えた。
それならば、どのようにして愛欲を超越して、欲望から離れるような徳を身につけるのかを聞きたくなった。
ブッダの見解、道徳、生活の仕方、生存の再生(輪廻)について質問した。

○毎田周一先生訳
837.
「『私はこのように説く』ということが抑々私にはないのである
マーガンディヤよ と世尊はいわれた
この世にある色々の事にとりついてゆく自分であることを知って
私は色々の見解に接しても それを一つも取上げないことにした
こうして初めて私は自分の中に平安を見出したのである」

ブッダの答えは、マーガンディヤさんの期待していたものと大きく異なっていた。
ブッダの答えは出世間のもの。解脱するための答え。それには特定な方法はない。だから、ブッダは「わたくしはこのことを説く」ということがないと答えた。
ただ、「諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」と答えた。
ここで「安らぎ」は涅槃を意味しているが、執着に固執しないことによって涅槃を体験したと述べられている。

(´・(ェ)・`)つ

178 :
>>176
○毎田周一先生訳
838.
「よく考えて確かめられた そのような見解に
とマーガンディヤはいった
そのような見解に捉われないで 静かな人よ
あなたは『自分の内に平安』を見出したといわれますが
そういう意味のことを賢い人達も こういうことだと説き明かしていられるのでしょうか

838は、よく頭を切り替えて読まなければ、マーガンディヤさんが誤解して頓珍漢な愚問をしたことに気づけない。
ブッダは「私はこのことを説く」ということがないと言われているのに、マーガンディヤさんはブッダが何かを説いていて、そのような事柄を他の賢者達も説いておられているのかと質問している。
ブッダは彼の質問に答えるのではなく、自分の意図を説明した。

○毎田周一先生訳
389.
「見解とか 学問とか 知識とか
マーガンディヤよ と世尊はいわれた
そして徳行とか そういうもので人が清らかになるとは 私はいわない
そして又無見解や無学や無知や
そして不徳や非行などによっても 人が清らかになるとは 私はいわない
そういうことをすべて捨てて 捉われず
拠り所など何も持たず この世のことに少しも望みをかけぬがよい」

838でマーガンディヤさんが質問した問は「<内心のやすらぎ>ということをお説きになりますが、そのことわりを諸々の賢人はどのように説いておられるのでしょうか?」という愚問。
そこでブッダはその問には答えずに、今回の偈を述べた。
「『教義によって、学問によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、私は説かない。
『教義がなくても、学問がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。」とブッダは述べた。
簡単に言えば、「善いことをしても清らかにならない、またもちろん悪いことをしても清らかにならない。」と述べられた。
ブッダはこの言葉の後に「それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」
と述べたが、マーガンディヤさんはこの言葉の意味を理解する前に前半の言葉に反発してしまった。

○毎田周一先生訳
840.
「もしもそのように見解とか学問とか知識とか
とマーガンディヤはいった
そして徳行とか そういうもので人は清らかにはならぬといわれ
又無見解や無学や無知や
そして不徳や非行などによっても 清らかにならぬといわれるなら
それは人を惑わす教えだと私は思います
ある人々はものの見方で清らかになれると信じているではありませんか」

マーガンディヤさんは、見解とか学問とか知識とか徳行にこだわっている。それ以外の考え方があるとは思いもよらないこと。だからそれらに依っても或はそれらに依らなくても清浄にならないと言われたらどうしたらいいのだと思ってしまう。
そのため、そのような考え方は「人を惑わす教えだ」或は「ばかばかしい教えである」或は「迷愚な教えだ」と思ってしまう。多くの人々は一度ある考えにとりついてしまうとそれ以外の発想が出来なくなるもの。
(´・(ェ)・`)つ

179 :
>>176
○毎田周一先生訳
841.
「自分の考えにだけとりついて ものを聞いているから
マーガンディヤよ と世尊はいわれた
執著を離れられず あなたは世迷言を言っている
あなたは今ここではっきりと ものを見ていないではないか
そうして私のいうことを人を惑わす教えだなどといっている

ブッダはマーガンディヤさんに教える。
自分の考えという色メガネで物を見ているので正しくもの見られないのだと説かれている。
そもそもマーガンディヤさんの質問は「どのようにして愛欲を超越して、欲望から離れるような徳を身につけるのか?」ということであった。
しかし、マーガンディヤさんはその答えを「そのためには、どのような見解を持ち、どのような道徳を守り、どのような生活をすればよいのか?」という問いの答えを期待した。
マーガンディヤさんの前半の質問は、「どのようにしたら清らかになるか?」ということであり、「どのようにして内心の平安を得るか?」ということ。
しかしマーガンディヤさんの後半の質問はブッダにとっては(真理からみれば)成り立たないもの。
たとえて言えば、ウサギの角は長いですか、短いですか?」というようなもの。なぜならば、見解、学問、知識、徳行などによって人は清らかになるものではないから。

○毎田周一先生訳
842.
等しいとか 勝れているとか あるいはまた劣っているとか そういう比較の立場に立って
ものを考えている人は 必ずひとと争うだろう
しかしこのような物を比較する三つの関係のどちらへも揺れ動かぬ人――
そういう人には『等しい』とか『勝れている』とかいうことはないのである

ブッダはマーガンディヤさんがよく理解できないようなので、話題を少し変えた。比較するということについて話した。二つのものを比較すると違いがあることが解る。
その違いをある人は一方を勝れていると思い、他方は劣っていると思う。或は等しいと判断する場合もある。しかし、この判断は人によって異なる。ある人が勝れていると判断した物を、別の人は劣っていると判断する。
このために論争が起こる。
論争をしない人がいる。このような人は二つのものを比較して違いがあることは分かっているが、勝れているとか劣っているとか等しいとは判断しない。
何故ならばこの世界のどのような二つを取って、比べても決して同じものはなく、違いがあるのは当たり前である。また違いがあるのは片方の存在があるからである。片方がなければ勝れているとも劣っているともいえない。
たとえ勝れていると言われてもそれはもう片方のおかげ。だから勝れていることに価値を置くことは出来ない。
比べて等しいと言う場合も厳密に言えば等しくはない。等しいと、自分の都合で妄想しているだけ。
という訳で、論争しない人の心は比較しても心は落ち着いている。繰り返すが、世の中のものは違ってあたりまえ。それに対して論争することがあるか。

○毎田周一先生訳
843.
道に達した人は 何をさして『これは真理である』と主張するだろうか
又誰に向って『これは虚妄である』と争うだろうか
等しいとか等しくないとかいうことのなくなった人が
一体誰と論争を始めるだろうか

毎田先生訳の「道に達した人」あるいは中村先生訳の「そのバラモン」あるいは正田先生訳の「〔真の〕婆羅門たる彼」は、842で述べられた比較して揺れ動かない人、「等しい」とか「勝れている」とかいう思いのなくなった人を指している。
そのような人は「これは真理である」とか「これは虚妄である」と主張しない。また誰とも論争しないと述べられている。
優劣の思いのなくなった人には、これが「清らかである」とか「これが清らかでない」という思いもなくなっている。そのため内心の平安という状態になっている。
ブッダの説法はマーガンディヤさんの質問に戻って行くが、道に達した人(そのバラモン)は見解、学問、知識、徳行などによって、優劣の思いをなくしたのではない。
見解、学問、知識、徳行にたいする先入観からはなれて、今ここではっきりとものを見ることで、事実を見て優劣を離れたのです。ここが重要なところです。

(´・(ェ)・`)つ

180 :
>>176
○毎田周一先生訳
844.
家の生活を捨ててひとところに定住せず 思いのままに道を行き
村里の生活に親しみ近づかぬ 静かな人は
色々の欲望を離れて 世間には目もくれず
ひとと違った説など述べ立てて 議論する筈がない

優劣の思いない道に達した人、バラモンは、家庭生活を捨てて、定住しないで遍歴する。在家の人々と親交を深めるということはない。このような生活法をしなければならないと考えて、このようにしているわけではない。
道に達した人はいろいろな欲望から離れているので、世間のいろいろな事柄に期待、希望を持たないから、自然にそのような生活態度になる。世間の事柄に目もくれず、関心がないので、それに対して何か特別な見解を持って論争をすることもない。

○毎田周一先生訳
845.
何の捉われもなく この世を堂々と生きてゆく修道者は
これが自分の説だなど論ずべきではない
水に生える棘(とげ)のある蓮が
水にも泥にも汚されぬように
静かな人は安らぎへの道を明かして 情熱に駆られず
欲望にも世間にも汚されない

始めの二行は前回の偈を受けて、道に達した聖者は諸々の偏見から離れているので、自説を取り上げて、論争する筈はない。また論争すべきではないと強調している。
次の二行はそのような聖者を蓮に譬えている。蓮は池底の泥に根を張り、そこから茎が伸び、葉や花は水面に抜き出す。その時、葉や花は水や泥で汚れない。そのように聖者は欲望にも世間にも汚されない。
その時の聖者の様子は安らぎ(平安あるいは寂静)を説く者であって、貪ることがないと述べられている。
これは解脱した聖者の境地。

(´・(ェ)・`)つ

181 :
>>176
○毎田周一先生訳
846.
至上の智慧に到った人は 意見をもつとか物が解るとかいうことで
思い上りはしない 何故ならそのような意見や見解がもうその人にはないからである
彼は如何に行い 如何に学ぶかというようなところに生活の中心をおかない
固定した立場などに立ってはいない

この偈のパーリ語原文の vedagは三人の先生の訳は次の通り。「至上の智慧に到った人」、「ヴェーダの達人」、「〔真の〕知に至る者」、これらを三通り読んでみるとこの語のイメージが解ってくる。しかし訳は全然異なる言葉。

それに続く訳も三人の先生の訳は同じようだが、細かいところでかなり異なる。これはブッダの言葉に対する三先生の理解が異なるから。訳が間違えというわけではないが、理解は異なるということ。

○毎田周一先生訳
847.
思想を持たないものは自由を束縛されない
智慧によって自在を得たものには迷いはない
思想や見解を掴んでいる人達は
ひとにぶつかりながら 世の中を右往左往する

ブッダのマーガンディヤさんへの説法は、想を離れて、慧で解脱した人は自由で迷いがなく、想いと偏見を固執している頑固の人は人々と衝突しながら生きているとまとめられたのです。この偈で「マーガンディヤ経」は終わります。

この偈の一行目の「想を離れた人」と「智慧で解脱した人」を別の人と考えると前者は心解脱した人、後者は慧解脱した人になる。
テーラーワーダ仏教では心解脱の人は不還果で慧解脱の人は阿羅漢。両者もう輪廻することはないが、不還果の人はまだ完全には無明が除かれていない。

(´・(ェ)・`)つ
今回は
>>179
843.の解説で、
>見解、学問、知識、徳行にたいする先入観からはなれて、今ここではっきりとものを見ることで、事実を見て優劣を離れたのです。ここが重要なところです。

と書いてるであります。

182 :
教義や学問は実践を教えるものじゃ。
それだけでは清らかになれないのじゃ。

しかし、それらによって実践を知ることができるのであるから、それらが無しで清らかになるとも説かないのじゃ。
教義や学問によって実践するべきことを知り、実践することで清らかになるのじゃ。
  

183 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、10、死ぬよりも前に

848 「どのように見、どのような戒律をたもつ人が『安らかである』と言われるのか? ゴータマ(ブッダ)よ。おたずねしますが、その最上の人のことをわたくしに説いてください。」

849 師は答えた「死ぬよりも前に、妄執を離れ、過去にこだわることなく、現在においてもくよくよと思いめぐらすことがないならば、かれは(未来に関しても)特に思いわずらうことがない。

850 かの聖者は、怒らず、おののかず、誇らず、あとで後悔するような悪い行いをなさず、よく思慮して語り、そわそわすることなく、ことばを慎しむ。

851 未来を願い求めることなく、過去を思い出して憂えることもない。[現在]感官で触れる諸々の対象について遠ざかり離れることを観じ、諸々の偏見に誘われることがない。

852 (貪欲などから)遠ざかり、偽ることなく、貪り求めることなく、慳みせず、傲慢にならず、嫌われず、両舌を事としない。

853 快いものに耽溺せず、また高慢にならず、柔和で、弁舌さわやかに、信ずることなく、なにかを嫌うこともない。

854 利益を欲して学ぶのではない。利益がなかったとしても、怒ることがない。妄執のために他人に逆らうことなく、美味に耽溺することもない。
(´・(ェ)・`)つ

184 :
>>183
○毎田周一先生訳
848.
「どのように物を見 又どのように行いを保つ人が
平安であるといわれるのでしょうか
ゴータマよ 私はお尋ねしている 
その最高の人について どうぞ教えて下さい」

この経の因縁物語によると不思議な経。世尊が多くの神々が集まる大集会で説法をしていた時、神々に「さあ一体、身が壊れる(死ぬ)前に何をすべきか」という心が生じたのを知ったが、どの神々も世尊にその問を発しない。
そこで世尊は神々のために御自身の化身(もう一人のブッダ)を作って、その化身に質問させた。
この問はどのようにして寂静者と呼ばれる聖者になるのかという問いではない。聖者はどのように物事を見て、どのように道徳を守っているかを問うもの。聖者の有り方、生き方を問うもの。それを聞いて、死ぬ前に為すべきことを学ぼうとした。
この問の答えは神々ばかりでなく、人間にとっても学ぶべきもの。

○毎田周一先生訳
849.
「死なない前に 愛欲を絶って
と世尊はいわれた
その人は過ぎ去ったことに捉われず
今のことを煩わず 
未来に向かって用意などしない

第一の答えは、死ぬ前に「愛欲(妄執、渇愛)から離れている。」ということ。仏教の根本的な教えである四聖諦で述べられているように、渇愛は苦の原因。
聖者は一切の苦を滅しているから、苦の原因である渇愛を滅している。そこが聖者について語るとき第一のポイントになる。
次のポイントは聖者の時間に対する態度。聖者は過去、現在、未来に対してどのような態度を取っているか述べられている。
過去に対して、正田先生は過去について過去の記憶と解説してるが、聖者は過去或は過去の記憶に対してこだわることがない。だから後悔をすることもなく、思い悩むこともない。
現在については、渇愛から離れているから、執着することがない。執着していないから、物事を正しく見て、判断できる。正しく見て、正しく判断できれば、正しく行為できる。正しく行為できれば、その結果は成功する。
そうすれば人からとやかく言われることなく、称賛される。聖者の現在はいつも平安。その周りの人々も幸せになる。
また、未来についてはまだ起きてないことだから、起きてない事柄について心配することはない。
未来に起きる事象を限りなく予測することが出来る。しかし、その中の一つが起きるかどうか分からない。世の中のことはすべて想定外のことが起きる場合の方がむしろ多い。それらについていちいち心配するのは無意味。
起きた現象に適切に対応すればよい。聖者は悩むことがないから、それらを巧妙に行うことが出来る。それは法に従うということで、聖者の方法。
(´・(ェ)・`)つ

185 :
>>183
○毎田周一先生訳
850.
この静かな人は怒らず怖れず
自惚れず また悔いることなく
聡明に語って 思いをたかぶらせず 
そして言葉を慎しむ

怒りとは、自分の情欲に対立することがある時起こる。しかし聖者は愛欲(妄執、渇愛)から離れているから、情欲がない。そのため怒りが現れない。だから聖者は怒らない。
恐怖とは、死ぬかもしれないという感情。すべての生き物は何としても生きていたいという想いがあるから死ぬかもしれないという感情は恐怖。
しかし、聖者は渇愛がないから、何としても生きていたいという想いがない。だから恐怖がない。そのため聖者は怖れない。
自惚れとは、他人と自分を比較して自分の優位を誇ること。しかし、比較するということをしない聖者は自惚れることはない。また、そもそも自分という想いのない聖者には誇る自己がない。ですから聖者は自惚れない。
悔いるとは、過去の行為について後悔すること。しかし、聖者は過去について捉われていないから後悔することがない。
聡明に語って(よく思慮して語り、明慧によって話し)とは、事実を語ること、自分の主観をまじえずに語ること。その際慈しみの心で語ること。自分の話しで他の人を傷つけることがないように配慮すること。
思いをたかぶらせず(そわそわすることなく、〔心が〕高ぶらない)とは、興奮せずに、落ち着いていること。
言葉を慎しむ(言葉を制し)とは、言葉に関する悪行為(妄語、両舌、悪口、無用語)をしないこと。

○毎田周一先生訳
851.
未来のことを期待せず
過ぎ去ったことを思い出して悲しまず
感覚に触れるものを一定の距離を置いて見
又自分の考えで人生の生き方を決めようともしない

仏教の時間論では過去・未来はなく、あるのは現在のみ。聖者は未来がないことは分かっているから、それに期待も心配もしない、それに執着しない。
過ぎ去ってもう存在しない、有るとすれば観念の世界、記憶の中にある。だから過去を過度に懐かしむことはなく、後悔することはない。だから聖者は過去を憂えるということがない。
現在は今の事柄であるとはいえ、無常だから絶えず変化している。今経験したこともすぐ変化する。だから今の経験にも執着せずに、冷静に対応する。
それが「[現在]感官で触れる諸々の対象について遠ざかり離れることを観じ」ということ。
更に、未来・現在・過去に対する正しい態度で接している聖者は、諸々の誤った見解に惑わせることがない。
梵網経(長部経典第1)の中で、ブッダは世の中の邪見を62に分類して述べている。それは過去に関する説18種と未来に関する説44種で、すべて過去と未来に関するもの。
要するに過去と未来に関する説は邪見になるということ。もちろん聖者はそのような邪見に惑うことはない。
(´・(ェ)・`)つ

186 :
>>183
○毎田周一先生訳
852.
物事に捉われず 正直で 
貪る心がなく 人のためにつくし
控え目で いやな感じを与えず 
人を中傷することがない

聖者のいろいろな特徴。
一番目は「遠ざかる」だが、何から遠ざかるのか?毎田先生は「物事に捉われず」としている。中村先生は「貪欲などから」と言葉を補っている。正田先生は「欲望の対象から」としている。貪瞋痴の煩悩から遠ざかりと理解してよい。
二番目は嘘をつかないこと、正直であること。
三番目は欲望がないこと。
四番目は物惜しみの思いがないこと。毎田先生は自分の持っているもので、「人のために尽くす」と表現されている。
五番目は傲慢でないこと。そのような人は「控え目な人」。
六番目は「嫌われない人」。そのような人はもちろん人に「いやな感じを与えない」。
七番目は「人を中傷しない」。中傷とは「無実のことを言って他人の名誉を傷つけること」だが、パーリ語の本来の意味は仲たがいをさせるような言葉を使うことなので、両舌の方が近い言葉。

○毎田周一先生訳
853.
快楽に耽らず 
思い上がっていい気にもならず 
おだやかで 機智に富み
自分の信ずることを人におしつけず 
又自分はどうしても無欲にならねばならぬとも思っていない

「快いものに耽溺せず」について。生きることのほとんどは苦であっても、少しの楽があるために人間は生きることを嫌がらずに、何としても生きて生きたいと思っている。
しかし、聖者は快いもの(快楽)は人間を迷わす毒だと知って快いもの(快楽)に耽溺しない。聖者はその理由を知って、渇愛を滅しているから、快いもの(快楽)に執着することがない。
「高慢にならず」について。852の「傲慢にならず」とほぼ同じ。毎田先生は「思い上がっていい気にもならず」と説明している。
「柔和で」について。正田先生は「〔所作進退が〕優雅で〔隙なく〕」と説明している。
「弁舌さわやかに」につい。毎田先生は「機智に富み」と訳されている。正田先生は「即応即答〔の知慧〕ある」と説明されている。教条的な知識でなく、事実に即した分かりやすい智慧による話をするということ。
「信じることなく」について。毎田先生は「自分の信ずることを人におしつけず」と訳された。正田先生は「限定された特定の信仰を持たず」と説明されている。注釈書には信は盲信として、自信が覚った法を信じ、誰の法も信じないとしている。
「なにかを嫌うこともない」について。毎田先生は「自分はどうしても無欲にならねばならぬとも思っていない」と訳された。
正田先生は「離貪という行為自体が存在しない」と説明された。聖者は何かをしようとする作為がないので、離欲もしようとも思わない。すなわち無為の態度。
(´・(ェ)・`)つ

187 :
>>183
○毎田周一先生訳
854.
何かを得ようとして学ぶのではなく 
従って何も得られなくてもあわてず
愛欲に捉われて 人と関係をきしませず 
又美味を貪りもしない

「利益を欲して学ぶのではない。」について。正田先生は「利得(行乞の施物)を欲して学ばず」と訳して、利得を行乞の施物と説明された。比丘(出家者)は食事のお布施をもらうために、経典を学ぶのではない。
次の「妄執のために他人に逆らうことなく」について。妄執は愛欲あるいは渇愛、欲望と考えて良い。「他人と逆らう」とは他人と対立すること。
何故対立するのか。それは他人と利益が対立するから。他人との対立の本質は利益の対立であり。欲望の対立。しかし、そもそも聖者は対立する欲望がないから、対立しない。
「美味に耽溺することもない。」について。853「快いものに耽溺せず」がより具体的に、「美味」になった。聖者は美味しいものにも耽溺しない。
解脱した人は、美味しいからと言ってそれに引きずられない。聖者にとっては味に関する煩いのない安穏な状態は最高。ブッダは「涅槃は最高だ。」と述べておられる。
(´・(ェ)・`)つ

188 :
過去も未来も今にも囚われずに進むのじゃ。

189 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、10、死ぬよりも前に


855 平静であって、常によく気をつけていて、世間において(他人を自分と)等しいとも思わない。また自分が勝れているとも思わないし、また劣っているとも思わない。かれは煩悩の燃え盛ることがない。

856 依りかかることのない人は、理法を知ってこだわることがないのである。かれには、生存の断滅のための妄執も存在しない。

857 諸々の欲望を顧慮することのない人、──かれこそ<平安なる者>である、とわたしは説く。かれには締めの結び目は存在しない。かれはすでに執著を渡り了えた。

858 かれには、子も、家畜も、田畑も、地所も存在しない。すでに得たものも、捨て去ったものも、かれのうちには認められない。

859 世俗の人々、または道の人・バラモンどもがかれを非難して(貪りなどの過)があるというであろうが、かれはその(非難)を特にきにかけることはない。それ故に、かれは論議されても、動揺することがない。

860 聖者は貪りを離れ、慳みすることなく、『自分は勝れたものである』とも、『自分は等しいものである』とも『自分は劣ったものである』とも論ずることがない。かれは分別を受けることのないものであって、妄想分別におもむかない。

861 かれは世間において<わがもの>という所有がない。また無所有を嘆くこともない。かれは[欲望に促されて]、諸々の事物に赴くこともない。かれは実に<平安なる者>と呼ばれる。」

(´・(ェ)・`)つ

190 :
>>189
○毎田周一先生訳
855.
歓び悲しみも届かぬ静かな処に いつもすっきりした気持で居り
この世の中で 自分を人と等しいとも思わなければ
また勝れているとも劣っているとも思わず
総じて何の思い上りもない

一行目。パーリ語のウペッカー(捨)、意味は冷静、平静。これは喜怒哀楽の感情から離れた状態。毎田先生は「歓び悲しみも届かぬ静かな処」と訳された。
この言葉のあとに「常に気づき(念)のある(者)」が続く。それは常に気づきあると、平静でいられるから。毎田先生は気づきのある状態を「すっきりした気持ちでいる」と訳された。気づきあれれば気持ちはすっきりしている。
二行目、三行目。「この世の中で、自分を人と等しいとも思わなければ、また勝れているとも劣っているとも思わず」。
これは、一行目の状態にある聖者は、自分を他人と等・勝・劣と思わない。平静で気づきのあると、自分を他人と比較することなく、等・勝・劣を思わない。自分と他人の区別よりも人間として、対等・平等であることを感じている。
四行目「彼には、諸々の増長〔の思い〕は存在しない。」(正田先生訳)。一行目から三行目で述べた聖者はこのような方だという。中村先生訳の「かれは煩悩の燃え盛ることがない。」ということ。

○毎田周一先生訳
856.
この人が何の拠り処ももたないのは
物事の本性をよく知って それによりかからぬからである
そこには生きようとする強い願いも
又生きることを止めようとする強い願いも そのどちらもない
(※○正田大観先生訳
彼に、〔他者に〕依存することが存在しないなら、
法(真理)を知って、依存なき者となります。
彼に、〔迷いの〕生存への〔渇愛の思いが〕、あるいは、〔迷いの〕生存から離れることへの
渇愛〔の思い〕が、見い出されないなら――(9))
一行目と二行目の関係は、三人の先生方の考え方が違う。毎田先生は、二行目が原因で一行目が結果。中村先生は一行目と二行目が並列的。正田先生は一行目が原因で二行目が結果。どの訳も一理ある。
パーリ語に忠実に訳すると正田先生のようになるが、そうすると、一行目はどのようにしてそうなるのか考えてしまう。すなわち、どのようにして依存しない者になるのかと言うこと。
その点、毎田先生のように、「物事の本性をよく知って それによりかからぬからである」と考えると解りやすい。依存しないためには、物事の本性をよく知ることだということになる。
物事の本性を知るとは、無常だと知るということ。無常なものには依存できない。無常なものは確固たるものではないから、それに依存できない。そのことを正しく知った人は依存しない。
という訳で、「物事の本性をよく知って それによりかからぬからである」ということになる。
三行目、四行目は、聖者には渇愛がないということ。渇愛の内容には三種類ある。@欲愛:五欲(眼、耳、鼻、舌、身、意の欲)に対する渇愛。A有愛:生きたいという渇愛。B無有愛:死にたいという渇愛。
この偈は渇愛の有愛と無有愛が表現されている。
一、二行目と三、四行目の関係。すなわち依存しないことと渇愛がないこととどのような関係があるのか?
キーワードは無常。物事の本性は無常であると知った人は、依存しないと同様に、物事の本性が無常だと知った人には渇愛は起こらない。
渇愛は渇愛の対象を契機として起こるが、その対象は無常であり、渇愛の対象になりえないと知ってしまえば、渇愛は起こらない。
五欲に対する渇愛は分かりやすい。生きることも、死ぬことも無常。今自分が考えている生も死も無常。渇愛の対象にならない。
そのことを正しく知れば聖者と同じように、「生きようとする強い願いも、又生きることを止めようとする強い願いも、そのどちらもない」。

(´・(ェ)・`)つ

191 :
>>189
○毎田周一先生訳
857.
色々の欲望を悉く顧みないでゆく人
こういう人を平安な人と私はいう
彼を縛るものは何もなく
彼は既に彼は執著をこえてしまっている

人々の関心の第一は自分の欲望だが、それに関心がない、期待しないということはどういうことか。
通常自分の欲は捨てられない。しかし、自分の欲を超える関心が自分の心に起きた時、それは因縁により起こる。
その時私達は自分の欲への関心がなくなる。その時私達は自分の欲を乗り越える。その時心から欲がなくなる。
このようにして、欲を顧みず、期待しない人は、欲のない人になり、欲のない状態を経験する。
欲望がなければ心を駆り立てるものがない。私達の心はこの駆り立てるものによって平安であることはできない、また静かな状態ではいられない。
しかし、心を駆り立てるものがなければ、平安で静かになる。そのため、欲望のない人は平安の者(寂静者)という。
そのような人には束縛(拘束するもの)はない。そして彼には執着の思いがなくなる。このような人は再生する結び目がないから、彼はもう輪廻転生はしない。

○毎田周一先生訳
858.
その人の処には子供も家畜もおらず 
田畑や屋敷もない
そして彼が手に入れたものとか 未だ手に入れなかったものとか
そういうものが彼の内には何もない

子供がいるということは結婚して幸せな家庭ができ子供ができるということ。家畜が居るということは畜産という安定した職業があり、田畑や屋敷があるということは財産があるということ。すなわちそれは現代でも通用する理想的な幸福の世間的なイメージ。
この偈では、子供もいない、家畜もいない、財産もない人について述べられている。これは世間的な考えでは不幸な人になる。それについて具体的な評価をしていない。
三行目のattとnirattにはそれぞれ二つの訳がある。
attは@得たもの、A自己、自我nirattは@捨てたもの、A無我、非我。毎田先生及び中村先生は、「得たもの、捨てたもの」の訳を取り、正田先生は「自己、自己でないもの」という訳をしている。
簡単に訳しなおすと「彼には得たものも捨てたものもない」或は「彼には自我も無我もない」ということになる。
これをあえて説明すれば、「彼には得ようとしたものも捨てようとしたものがない」であり、作為がないということになる。それを「自我も無我もない」という言葉で表現している。

○毎田周一先生訳
859.
世俗の人や修道者や婆羅門達が
この人のことをどんなにとやかくいおうと
いわれる事柄自身が既に彼の無視していることだから
そんな論議のために動かされはしない

世間の凡夫や覚ってない沙門やバラモンは、解脱と関係のないいろいろなことを言いう。
その中には人間は安定な職業を持って、結婚して家庭を持ち、子供を作ることが幸せなのだとも言う。
しかし、解脱という目的をわきまえた人には、そのような見解は眼中にない。またその他の世俗的な楽しみにも興味がないから、世俗の人々の言うことによって、心は動揺しない。
(´・(ェ)・`)つ

192 :
>>189
○毎田周一先生訳
860.
静かな人は貪らず 利己心がなく
自分が勝れているとも
また等しいとも 劣っているともいわないで
時の流れに流されず 却って時を超えている

貪りを離れることと慳(物惜しみ)がないことは、聖者にとって重要な徳目。
毎田先生は「慳(物惜しみ)」がない」ことを「利己心がなく」と訳された。852では「人のために尽くし」と訳された。もの惜しみの意味を深く考えてのこと。
二行目、三行目の「自分が勝れているとも また等しいとも 劣っているともいわないで」について。これらの境地は有身見(自分がいると言う感覚)のない聖者にとっては当然のこと。
すなわち、聖者は勝れているとか等しいとか劣っていることは単なる妄想であると実感している。
四行目は、三人の先生方の訳は表現がかなり異なる。kappaの意味の取り方。kappaはスッタニパータの373、517に出てきた。
kappaの意味を列挙。
@ 時、時間、劫(コウ)、長時、周期的な時間の長さを言う→輪廻の一時期をいうことがある
A 教令、法則
B 分別、妄想、はからい、想念、概念
C カッパ樹、如意樹
毎田先生はkappaの意味を「時間」と取って、「時の流れに流されず 却って時を超えている」と意訳された。
中村先生は「分別、妄想」と取って、「かれは分別を受けることのないものであって、妄想分別におもむかない。」と訳された。
正田先生は「時間」と取って「〔概念化した〕時間(劫:間時間の型枠・分別妄想・輪廻的あり方)なき者は、〔概念化した〕時間に至りません(輪廻しない・妄想しない)。」と訳され、カッコで説明されている。
仏教の時間論では過去・未来はなく、有るのは現在(今)のみ。今しかないから、時間はないとも言える。無時間。だから、時間に関する概念や思考はすべて妄想であると言っていい。
そのような考え方に立てば、時間で訳しても、妄想と訳しても同じことになる。「時の流れに流されず 却って時を超えている」とは「妄想の流れに流されず、かえって妄想を超えている」となる。

○毎田周一先生訳
861.
彼はこの世に自分の持物が何もないが
ないからといって別に悲しみはしない
又色々な事をとりあげて それにあくせくすることもない
――こういう人をこそ平安な人という」

この世において自分のものが何もなくとも悲しまない人は、自分自身も自分のものではないという事実が解っている人。
仏教は無我を説き、物を所有する個人すらないことを説いている。どうしてこの世において自分のものがないことに嘆くことがあるか。

三行目の直訳は「諸々の法において行かない」だが、中村先生が「欲望に促されて」捕捉して訳されているように、「かれは[欲望に促されて]、諸々の事物に赴くこともない。」であり、
毎田先生訳のように「それにあくせくすることもない」ということ。まさに、それは寂静者(平安なる者)と呼ばれる人。

(´・(ェ)・`)つ

193 :
それを訳してなぜ実践できないのかのう。
不思議なことじゃ。

194 :
>>193
鬼和尚、こんばんは。
どの部分に対するご指摘でありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ

195 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、11、争 闘

862 「争闘と争論と悲しみと憂いと慳みと慢心と傲慢と悪口しは、どこから現われ出たのですか? これはどこから起ったのですか? どうか、それを教えてください。」

863 「争闘と争論と悲しみと憂いと慳(モノオシ)みと慢心し傲慢と悪口とは愛し好むものにもとづいて起る。争闘と争論とは慳みに伴い、争論が生じたときに、悪口が起る。」

864 「世間において、愛し好むものは何にもとづいて起るのですか。また世間にははびこる貪りは何にもとづいて起るのですか? また人が来世に関していだく希望とその成就とは、何にもとづいて起るのですか?」

865 「世の中で愛し好むもの及び世の中にはびこる貪りは、欲望にもとづいて起る。また人が来世に関していだく希望と成就とは、それにもとづいて起る。」

866 「さて世の中で欲望は何にもとづいて起るのですか? また(形而上学的な)断定は何から起るのですか? 怒りと虚言と疑惑と及び<道の人>(沙門)の説いた諸々のことがらは、何から起るのですか?」

867 「世の中で<快><不快>と称するものに依って、欲望が起る。諸々の物質的存在には正起と消滅とのあることを見て、世の中には<外的な事物にとらわれた>断定を下す。

868 怒りと虚言と疑惑、──これらのことがらも、(快と不快との)二つがあるときに現れる。疑惑ある人は知識の道に学べ。<道の人>は、知って、諸々のことがらを説いたのである。」

869 「快と不快とは何にもとづいて起るのですか? また何がないときにこれらのものが現れないのですか? また生起と消滅ということの意義と、それの起るもととなっているものを、われに語ってください。」
(´・(ェ)・`)つ

196 :
>>195
○毎田周一先生訳
862.
「何処から闘争と論争と
憂いと悲しみと 利己心と
傲慢と 人に対する誹謗とが 起こるのでしょうか
それがどこから起こるかを どうぞお教えて下さい

この経の因縁物語は「死前経」と同じように、神々の大集会でブッダの説法を聞いていて、「一体どこから争いなど八つのことが起こるのか?」
という疑問を持った神々がいたので、その理由を明らかにするために、化仏(ブッダの化身)を作り、自分に質問させて、この経を説いたと言われている。

○毎田周一先生訳
863.
「闘争と論争と
憂いと悲しみと 利己心
傲慢と 人に対する誹謗とは 愛ゆえに起こる
闘争と論争とは 利己心に結びつき
論争が起これば 人を誹謗するようになる」

化仏の質問に対するブッダの回答。
質問の回答は、すべて「愛」=「愛し好むもの」=「愛しいもの(自己中心的な愛着や愛執の対象)」から起こるというもの。愛が「自己中心的な愛着や愛執の対象」であると解説される。
以上の回答に追加して、争いと論争については物惜しみ(=利己心)に結びついていると述べられている。
子供の時は玩具の取り合いから、青年期になれば恋人の取り合い、成人になれば仕事の取り合い、国家間では領土の取り合いで戦争になる。これらはすべて愛し好むものの取り合い。
これらの争いに負けた者たちは、憂いと悲しみがある。また勝った者たちも無傷ではいられない。負けた者たちの報復が待っている。安心して寝ていられない。いつ攻撃があるか分からない。いつも不安な夜を過ごさなければならない。
勝者も敗者と同じように憂いと悲しみがある。これらすべて「愛」から起こる。
争いが起これば、口での争いも起こり、論争になります。そして論争が起これば、悪口や誹謗、中傷なども出てくる。

○毎田周一先生訳
864.
「愛はこの世で何を元として起こるのでしょうか
又世間に拡がってゆく貪りは 何から起こりますか
そして人が来世に向って希望を抱き
それが果たされるのは 何に基づくのでしょうか」

ブッダの回答に対する質問者(化身)の質問。何に基づいて争いと論争など八項目が起きるかという質問に対して、ブッダはすべて愛(愛し好むもの)に基づいて起こると答えた。
この質問者はここで、それならば「愛」は何に基づいて起こるのか質問した。
更に、この質問者は、世間に蔓延している貪欲は何に基づいて起こるのか質問した。
また、「人が来世に向って希望を抱き、それが果たされるのは何に基づくのか」と質問した。この意味は人々が死後、善い所に生まれ変わる希望を持って、その結果が現れるのは何に基づくのかということ。
(´・(ェ)・`)つ

197 :
>>195
○毎田周一先生訳
865.
「この世に愛があり
世間に拡がる貪りがあるのも欲求ゆえのことである
人が来世に向って希望を抱き それが果たされるのも 
同じく欲求ゆえのことである」

「愛(愛するもの)は欲望に基づいて起こる」とブッダは答えた。
愛(愛するもの)は、好きなもの。これは欲望がなければないのか? それがはっきりわからないのは、私達にはいつも欲望があるから。欲望がない状態を知らないから。
欲望がなかった時を経験していれば、その時、愛するもの好きなものがないことがよく分かるはず。
この偈では貪欲も欲望に基づいて起こると述べられている。貪欲は欲望に対する執着だから、欲望がないとき貪欲は起こらない。
また、来世に対する希望とその結果も、死後にも安楽な生活をしたいという欲望から起こることは明らか。

○毎田周一先生訳
866.
「それではその欲求は この世で何を元として起こるのでしょうか
又色々に考えて断定を下すことは 何に由るのでしょうか
怒りと嘘と疑いと そして
修道者があれこれと指摘する事柄は 何に基づくのでしょうか」

質問者は、その欲望は何に基づいて起こるのか質問した。
しかし、次に「断定」が続くのは少し分かりにくい。毎田先生はいろいろ考えて結論を出すという意味で「断定」と言っている。
中村先生は、欲望が世俗的なテーマだから、それに対して、世俗を超越したという意味で、断定に「形而上学的な」という説明を付けた。
正田先生は「〔世の人々が下す〕諸々の〔断定的〕判断」としている。
いずれにせよ、質問者は、欲望に続いて、断定は何に基づいて起こるのかを質問している。
さらに、怒りと偽りの言葉と疑惑は何に基づいて起こるかと質問した。
「修道者=<道の人>(沙門)=沙門」の意味は注釈書によるブッダを指している。つまりブッダによって説かれた「怒りと偽りの言葉と疑惑」ということ。

○毎田周一先生訳
867.
「この世で『快と不快』とはいわれることを元として
欲求が生じる
色や形の世界で なくなるとか生じるとかいうことのあるのを見て
世間の人は考えをめぐらし断定を下すのである

欲望が発生するのは、欲望の対象である物があるから。しかし、ただ物があるだけでは欲望が発生しない。
そこで、、物に触ったとき、快とか不快とかを感じられる物から欲望が発生すると述べている。
より具体的に言うならば、見て美しいと感じられるとか美しくないと感じられるもの、或は美味しいとか不味いと感じられるもの等が欲望を発生させるのだということ。
この偈の後半は、「断定は何から起こるのですか」と言う質問にたいする回答。
すなわち「色や形の世界」=「物質的存在」=「形態」の消滅と生起が断定(判断)の因縁になっていると説かれている。
(´・(ェ)・`)つ

198 :
>>195
○毎田周一先生訳
868.
怒りと嘘と疑いと
これらも亦(快と不快との)二つに過ぎない
そして思い惑う人は 修道者があれこれと指摘していることを知って
智慧の道を進むようにするがよい」

866の質問「怒りと嘘と疑惑は何から起こるのですか?」に対するブッダの解答。ブッダはこれらも「快と不快」の二つがあるとき現れると説かれた。
怒りについては、分かりやすい。不快なものに対してはそれを避けようとするエネルギーが現れる。それが怒り。そのため怒りは「快と不快」があるとき現れると説かれた。
ここで「不快」と表現せずに。「快と不快」と表現されているのは、快と不快は個人によって受け止め方が異なるから。
人間に好き嫌いという感情を引き起こすものが怒りの元になるから。
それでは、なぜ嘘は快と不快から起こるのか?「人は何故嘘をつくのでしょうか?」。 それは浅はかな自己防衛のため。
浅はかなというのは、真の意味で自己防衛は真実にあることを知らない者の自己防衛だから。
自己防衛とは、不快を避けて、快を求めること。これが死から免れることだと思っている。この目的のためには事実か虚偽かは問題にならない。ある場合には事実に反することでも言う。これが嘘の真相。
では、疑惑はどのようにして「快と不快」から起こるのか?
疑惑も自己防衛の結果だが、その「快と不快」が避けるべきものか受け入れるべきものか分からないとき現れる。そのような者に対しては、沙門(ブッダ)が説かれた「智慧に関する知識」を学ぶとよいと教えている。

○毎田周一先生訳
869.
「快と不快とは又何を元にして起こるのでしょうか
何がないとき これらもないのでしょうか
また『なくなるとか 生じるとか』いうことの意味は
何に基づくのでしょうか それを話して下さい」

ブッダが、「欲望は快と不快から起こる。また怒りと嘘と疑いも快と不快から起こる」答えられたので、質問者は、更に「快と不快とは何を元として起こるのか?」と質問した。
ブッダの解答が快と不快と無関係の事柄でないことを確かめるために、「何がないとき、快と不快がないのか?」と質問している。
それは「AがあるときBがあり、AがないときBがない。」という形式の質問。このときAとBに因果関係がある。
更に、この質問者は、快と不快が有るときと無いときと、物事の生起と消滅に何等かの関係があるのではないかと予想したのか、「生起と消滅ということの意義と、それの起こるもととなっているものを、教えて下さい。」と頼んだ。
(´・(ェ)・`)つ

199 :
全体的にじゃな。
このようにすれば安楽になると知っていても出来ないのは不思議なのじゃ。

200 :
>>199
集中する訓練と、
ありのままに観察することだけで、
楽になれると言う実感を得てから、学んだ方が、
書かれていることの意味がよくわかるかも知れぬでありますね。
頭でっかちにになり、専門用語の知識ばかりついても、ちぃ〜とも役にたたないばかりか、逆に邪魔になるかもでありますね。

そんな意味でありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ

201 :
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202 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、11、争 闘

870 「快と不快とは、感官による接触にもとづいて起る。感官の接触が存在しないときには、これらのものも起こらない。生起と消滅ということの意義と、それの起るもととなっているもの(感官による接触)を、われは汝に告げる。」

871 「世の中で感覚による接触は何にもとづいて起るのですか? また所有欲は何から起るのですか? 何ものが存在しないときに、<わがもの>という我執が存在しないのですか?

872 「名称と形態とに依って感官による接触が起る。諸々の所有欲は欲求を縁として起る。欲求がないときには、<わかもの>という我執も存在しない。形態が消滅したときには<感官による接触>ははたらかない。」

873 「どのように修行した者にとって、形態が消滅するのですか? 楽と苦とはいかにして消滅するのですか? どのように消滅するのか、その消滅するありさまを、わたくしに説いてください。わたくしはそれを知りたいものです。
──わたくしはこのように考えました。」

874 「ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない。──このように理解した者の形態は消滅する。

875 「われらがあなたにおたずねしたことを、あなたはわれわれに説き明かしてくださいました。われらは別のことをあなたにおたずねしましょう。どうか、それを説いてください。
──この世における或る賢者たちは、『この状態だけが、霊(タマシイ)の最上の清浄の境地である』とわれらに語ります。しかしまた、それよりも以上に、『他の(清浄の境地)がある』と説く人々もいるのでしようか?」

876 「この世において或る賢者たちは、『霊の最上の清浄の境地はこれだけのものである』と語る。さらにかれらのうちの或る人々は断滅を説き、(精神も肉体も)残りなく消滅することのうち(最上の清浄の境地がある)と、巧みに語っている。

877 かの聖者は、『これらの偏見はこだわりがある』と知って、諸々のこだわりを塾考し、知った上で、解脱せる人は論争におもむかない。思慮ある賢者は種々なる変化的生存を受けることがない。」

(´・(ェ)・`)つ

203 :
>>202
○毎田周一先生訳
870.
「触れることによって 快と不快とが起こり
触ることのないとき それらのこともない
『なくなるとか 生じるとか』いうことの意味も
それと同じく触れることによると私はいう」
(※○正田大観先生訳
〔世尊は答えた〕「快と不快〔の二者〕は、因縁として接触(触:感覚・経験)から〔発生しました〕。
接触が存在していないとき、これらのものは、まさに、有ることなくあります。
虚無、さらには、また、実体という、〔まさに〕その、この義(無と有の概念的二項対立)は、因縁としてこれ(接触)から〔発生すること〕を、このことを、あなたに説きます」〔と〕。(9))

ブッダは「快と不快は何に基づいて起こるのか?」と質問されたので、「接触に基づいて起こる。」と答えた。また、「何がないとき、快と不快がないのか?」とも聞かれたので、「接触のないとき、快と不快もない。」と答えた。
更に、ブッダは生起と消滅についての質問にも、「接触があるとき生起があり、接触のないとき消滅がある。」と答えられた。
確かに、快である喜びも不快である悲しみも、嬉しいことや悲しいことに遭遇(接触)したときに起こる。細かく言えば、感覚器官に何かが接触したときに快や不快と言う感覚が生まれる。逆に、このような接触がなければ、快不快の感覚は生まれない。
物事の生起と消滅についても、接触に説明されている。新な接触があるとき生起であり、その接触がないとき消滅。
正田先生は、消滅を虚偽、生起を実体と訳されている。そしてこれは「無と有の概念的二項対立だ」としている。

○毎田周一先生訳
871.
「触れるということがこの世でどうして起こるのでしょうか
又執著することがどうして起こるのでしょうか
何がなくなると
触れることも触れることでなくなるのでしょうか」

一行目と四行目がワンセット、二行目と次のワンセットと考えると分かりやすい。
「AがあるときBもある。」「AがないときBもない。」「Aが生じるときBも生じる」「Aが滅するときBも滅する。」で完全な因果論を述べられるが、その一部を活用している。
一行目は、ブッダが、「快と不快は感官による接触によって起こる」と述べたので、質問者は「世の中で感覚による接触は何にもとづいて起るのか?」と質問した。
更に、四行目で「何ものが消滅したときに、感官による接触がはたらかないのか?」と質問する。
二行目の「また所有欲は何から起るのか?」という質問と対にして三行目で、「何ものが存在しないときに、<わがもの>という我執が存在しないのか?」と質問した。「所有欲=<わがもの>という我執」と考えると分かりやすい。
二行目と三行目の質問は、一行目と四行目と関連した解答を質問者は予想している。快と不快は楽と苦に繋がる。
この先に決定的に重要な質問に至り、ブッダに仏教の真髄を聞きだすことになる。

○毎田周一先生訳
872.
「名と形とに由って 触れることが生じる
求めることを元として執著があり
求めることがなければ 我執もない
形がなければ 触れることも触れることではなくなる」

871の質問に対するブッダの解答。質問と同じように一行目と四行目をワンセット、二行目と四行目をワンセットとして読むと分かりやすい。
先ず、「感官による接触は何にもとづいて起こるのか?」と質問されたので、ブッダは「名称と形態とに依って感官による接触起こる。」と答えた。
そして四行目で「形態が消滅したときには<感官による接触>ははたらかない。」と答えた。
四行目の解答の中になぜ「名称」が入っていないのか?名称は形態があるから、それに対する名称がある。形態がないときは名称がない。形態がなければ感官による接触が起こらない。
だから、ここでは「形態が消滅したときは<感官による接触>ははたらかないと述べられた。
「所有欲は何から起こるのか?」という質問に対するブッダの解答は「所有欲は欲求を縁として起こる。」。更に三行目で、「欲求のないときには、<わがもの>という我執も存在しない。」と答えられた。
ここで思い出すべきは、876で「<快><不快>と称するものに、依って欲望が起こる。」という言葉。
欲求と欲望はほぼ同じ意味だから、「形態から接触、接触から快・不快、快・不快から欲望(欲求)、欲望(欲求)から所有欲(我執)」という流れが考えられる。こうなると、形態が消滅したとき、所有欲(我執)も消滅することになる。

(´・(ェ)・`)つ

204 :
>>202
○毎田周一先生訳
872.
「名と形とに由って 触れることが生じる
求めることを元として執著があり
求めることがなければ 我執もない
形がなければ 触れることも触れることではなくなる」

871の質問に対するブッダの解答。質問と同じように一行目と四行目をワンセット、二行目と四行目をワンセットとして読むと分かりやすい。
先ず、「感官による接触は何にもとづいて起こるのか?」と質問されたので、ブッダは「名称と形態とに依って感官による接触起こる。」と答えた。
そして四行目で「形態が消滅したときには<感官による接触>ははたらかない。」と答えた。
四行目の解答の中になぜ「名称」が入っていないのか?名称は形態があるから、それに対する名称がある。形態がないときは名称がない。形態がなければ感官による接触が起こらない。
だから、ここでは「形態が消滅したときは<感官による接触>ははたらかないと述べられた。
「所有欲は何から起こるのか?」という質問に対するブッダの解答は「所有欲は欲求を縁として起こる。」。更に三行目で、「欲求のないときには、<わがもの>という我執も存在しない。」と答えられた。
ここで思い出すべきは、876で「<快><不快>と称するものに、依って欲望が起こる。」という言葉。
欲求と欲望はほぼ同じ意味だから、「形態から接触、接触から快・不快、快・不快から欲望(欲求)、欲望(欲求)から所有欲(我執)」という流れが考えられる。こうなると、形態が消滅したとき、所有欲(我執)も消滅することになる。

○毎田周一先生訳
873.
「どのように知った者にとって形がなくなるのでしょうか
楽と苦も亦どうしたらなくなるのでしょうか
そのなくなるということを ありのままにお教え下さい
『そのことを知りたい』と 私は熱望しております」

「形態から接触、接触から快・不快、快・不快から欲望(欲求)、欲望(欲求)から所有欲(我執)」ということになるから、形態の消滅は一切の苦と楽の消滅につながる。
そこで質問者は「どのように修行した者に、形態が消滅するのか?」と仏教の核心になる質問をする。仏教の目標は一切の苦からの解脱だから。
また、質問者は解答を予想して、確認のために「楽と苦とはいかにして消滅するのか?」と質問した。
しかし、形態の消滅に関しては詳しく知らない。そこで「どのように消滅するのか、その消滅するありさまを、わたくしに説いてください。」そして「それを知りたいという心になった。」と質問者は述べた。
これは発心。ここから仏教の修行が始まる。これは誓願であり、これにより解脱することが出来る。

ブッダはこの誓願に答えて、仏教の真髄を874で述べるす。
(´・(ェ)・`)つ

205 :
>>202
○毎田周一先生訳
874.
自然に思うように思うのでもなく 間違って思うでもなく
それかといって思わないのでもなく 思いをなくそうとするのでもない――
と丁度このように知るもの知るものにとって 形はなくなる
何故なら 思いによって ありとあらゆる妄想が起こるからである

いよいよ仏教の核心。
「形態の消滅のためには、どのように修行すればよいのか?」と問われたブッダはいきなり、なぜ、思い方について答えのか?
その理由は四行目にある。「何故なら、思いによって、ありとあらゆる妄想が起こるからである。」と。
「自然に思うように思うのでもなく、間違って思うでもなく、それかといって思わないのでもなく 思いをなくそうとするのでもない。」と言われると、
ではどうするのかと質問したくなる。せっかくブッダが形態の消滅方法を教えてくれたが、どうしていいか分からないのが実情。
それならば思わなければいいのだなというわけには行けない。「思わないのでもなく、思いをなくそうとするのでもない」とも言われているから。
これは一種の公案。
この言葉を理解するためには、「真理の言葉」が必要。その言葉がこの偈の中に述べられている。それは「思いによって ありとあらゆる妄想が起こるからである。」。
すなわち、形態も、ありとあらゆる妄想の一つであり、思いによって起こったものであると知った者には形態は消滅するということ。これこそが「真理の言葉」だと知った者は解脱する。
毎田先生は、「思いによって ありとあらゆる妄想が起こると言われる、一句こそは、仏法の真理の一句である。
怖そるべき、まことの一句である。その意味でこの874偈は第四章の最頂点に位するというべきである。」と述べている。
これは形態が滅すれば、接触がなくなり、接触がなくなれば、快・不快がなくなり、欲望がなくなり、我執がなくなり、一切の苦と楽がなくなるという仏教の根本に関わる一句だからである。
正田先生の訳「諸々の虚構の名称(世界認識の道具として虚構された概念)は、因縁として表象〔作用〕(想:認識対象を表象し概念化する働き)から〔発生する〕」。
言葉は難しいけれど丁寧に訳されている。
874偈については、まだ説明してない一番大切なポイントがある。ブッダの解答は一種の公案のようだと述べた。この公案を解くには智慧が必要。ではその智慧はどのようにして現れるのか。それは一大事の因縁によって現れると言われる。

○毎田周一先生訳
875.
「お尋ねしたことを 本当に明らかにお教え下さったので
更に付け加えてお尋ねしますが どうかそれも教えて下さい――
ある賢い人達は この世ではここまでが
人としての最高の清らかさであるといいますが
それともそれ以外のことを説く人もあるのでしょうか

○毎田周一先生訳
876.
「ある賢い人達は この世ではここ迄が
人としての最高の清らかさであるというが
それらのうちのある人達は その外に
一切が無に帰すると巧みに説いて そんなことを究極のこととして論ずる」

ブッダは、質問者の追加の質問に答えた。ある賢者達は、「形態の消滅」が人間の精神の最高の清浄であると主張します。
しかし、別の賢者達は「一切が無に帰すること=(精神も肉体も)残りなく消滅すること=〔生存の〕依り所という残りものがないもの(無余依)」が最高の清浄だと説いていると述べます。

○毎田周一先生訳
877.
「静かな人はこんな人達が『拠り処をもつ人』であると知り
その拠り処が一体何であるかを明らかにし それを離れて自由の人となる
しかし智慧の人が決してあれこれの生き方をしないことを知っているから
人といい争ったりしないのである」

質問者の最後の問に対して、「形態の消滅が最高の清浄だと言う人達も、それを拠り所にしてこだわっていると知った。
それに対して、一切が無に帰すことが最高の清浄と言う人達もその見解にこだわっていると知った。
それらのこだわりをよく知って、解脱した人はそれらの論争に近づかないのである。」と全体をまとめた。

「争いと論争の経」この経はスッタニパータ第四章の頂点にあると言われているが、難しく、特に874偈は難解だが、仏教の真髄が述べられている。

(´・(ェ)・`)つ

206 :
>>200 そのようなものじゃ。
 少しでも実践する者の方が経の意味もよくわかるようになるのじゃ。
 実践する者は幸福なのじゃ。
 実際に安楽への道を歩んでいるのであるからのう。
 実践が全てなのじゃ。
 

207 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、12、並ぶ応答─小篇

878 (世の学者たちは)めいめいの見解に固執して、互いに異なった執見をいだいて争い、(みずから真理への)熟達者であると称して、さまざまに論ずる。
──「このように知る人は真理を知っている。これを非難する人はまだ不完全な人である」と。

879 かれらはこのように異なった執見をいだいて論争し、「論敵は愚者であって、真理に達した人でない」と言う。これらの人々はみな「自分こそ真理に達した人である」と語っているが、これらのうちで、どの説が真理なのであろうか?

880 もしも論敵の教えを承認しない人が愚者であって、低級な者であって、智慧の劣った者であるならば、これらの人々はすべて(各自の)偏見を固執しているのであるから、かれらはすべて愚者であり、ごく智慧の劣った者であるということになる。

881 またもし自分の見解によって清らかとなり、自分の見解によって、真理に達した人、聡明な人となるのであるのならば、かれらのうちには知性のない者はだれもいないことになる。かれらの見解は(その点で)等しく完全であるから。

882 諸々の愚者が相互に他人に対していうことばを聞いて、わたくしは「これは真実である」とは説かない。かれらは各自の見解を真実であるとみなしたのだ。それ故にかれらは他人を「愚者」であると決めつけるのである。

883 或る人々が「真理である、真実である」と言うところのその(見解)をば、他の人々が「虚偽である、虚妄である」と言う。このようにかれらは異なった執見をいだいて論争する。何故に諸々の<道の人>は同一の事をを語らないのであろうか?

884 真実は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争うことがない。かれらはめいめい異なった真理をほめたたえあっている。それ故にもろもろの<道の人>は同一の事を語らないのである。

885 みずから真理に達した人であると自称して語る論者たちは、何故に種々異なった真理を説くのであろうか? かれは多くの種々異なった真理を(他人から)聞いたのであるか? あるいはまたかれらは自分の思索に従っているのであろうか?

886 世の中には、多くの異なった真理が永久に存在しているのではない。ただ永久のものだと想像しているだけである。
かれらは、諸々の偏見にもとづいて思索考研を行って、「(わが説は)真理である」「(他人の説は)虚妄である」と二つのことを説いているのである。

(´・(ェ)・`)つ

208 :
>>207
○毎田周一先生訳
878.
「賢い人達が めいめい自分の見方に立ち それをしっかり○まえて
みなが違う説を述べ――
『こういうように知るものが真理を知って居り
これを斥けるものは完全な人間ではない』といっています。
今回の「小集積経」も、「争いと論争の経」と同じように、神々の大集会における神々の疑問を晴らすために、化仏(化身)を作り、質問させて、述べたものであると言われている。
世の中の論争者は自分を賢いとし、他の論者を愚かだと決めつけていることを指摘して、その態度を批判している。すべて自分の断定を捨てる人は論争しないと述べている。
内容は4章4の「清浄八詩句経」と次の4章13の「大集積経」と重なるところがある。
質問者(化仏)が世の中の論争者の態度について述べている。
○毎田周一先生訳
879.
「その人達は自分の立場を離れないでいい争い
『外のものは愚か者で 正しくない』といっています
その人達はみな自分こそ正しいと思って説いていますが
一体 これらのうちで どの説が真理なのでしょうか」
質問者の言葉。「では一体これらのうちで どの説が真理なのでしょうか?」と問うことになった。
○毎田周一先生訳
880.
「もしも他人の説を認めないものが
愚か者で 畜生 低能ということになれば
彼等も亦すべて愚か者で 低能ということになる
何故なら彼等はみな自分の説を掴んで離そうとしない者ばかりであるから
論争者が他人の説を認めないならば、愚か者で低能であると言うのであれば、論争者はすべて愚か者で低能であると言わざるを得ないというもの。なぜならば、彼等はすべて、自分の説を固執して、離そうとしていないから。
○毎田周一先生訳
881.
またもし自分で正しいと認めている物の見方で清められて
清らかな智慧の人 正しい人 悟った人となるなら
彼等のうち誰ひとりとして 低能などあろう筈がない
何故なら彼等の物の見方は 彼等自身にとって みな同じ完全無欠なものだからである
ブッダの次の答えは前回と反対の事柄。すなわち、自分の見解で清浄になり、真理に達した人になるならば、誰も劣った人にはならないということ。何故ならば、自分の見解を述べる人は、自分の見解は正しく、完全だと思っているから。
しかし、実際は自分の見解を述べる論争者達は、お互いに相手を愚か者、相手の見解は正しくないと言い合っているのが、実状。何故か。
○毎田周一先生訳
882.
対立するものが互いに相手を愚かだといってきめつけている どちらの見方に対しても
私は『こちらが真理である』などとはいわない
彼等は自分の見方をそれぞれ真理として
他人を『愚かだ』と見ているのに過ぎない」
「世の賢者と言われる人々や学者達は、お互いに自分の見解に固執して、自分の説を正しいとして、他の説は不完全で劣っている。では一体どの説が真実なのでしょうか?」と質問者はブッタに問う。
それに対して、ブッダは880で、「もし他人の説を認めない者が愚か者になるならば、すべての者は愚か者になる」と言われ、
また881では逆に、「自分で正しいと認める見解で、自分が浄められ、悟った者になるのならば、誰一人として愚か者にはならない」と述べられた。
それらの言葉は、その内容の否定を意味している。何故ならば実状はそうではないことが明らかであるから。
そこで882で、ブッダは対立するどちらの見解に対して、「こちらが真理であるなどとは言わない。彼等は互いに自分の見解を真理とし、相手を愚か者と言っているに過ぎない。」と述べた。
○毎田周一先生訳
883.
「一方の人が『まことだ 本当だ』ということを
外の人は『無意味だ 間違っている』といい
みなが自分の説にとりついて いい争っています
どうして道を修める人達が 一つのことを一致していわないのでしょうか」
今回は質問者の第二の質問。
(´・(ェ)・`)つ

209 :
>>207
○毎田周一先生訳
884.
「真理は一つであり 第二のものはないと
本当に知るならば それでも尚いい争うことはないだろう
処が彼等はそれぞれに違ったことを 真理として それをめいめいでほめたたえている
だから道を修める人達は 一つのことを一致して言わないのである

ブッダの解答は「「真理は一つであり 第二のものはないと本当に知るならば それでも尚いい争うことはない。」ということ。
この解答は実は結構難しい。これだけ言われて、なるほどとはなかなか思えないのではないか。なぜ真理が一つならば論争しないのか?
先ず、真理とはどういうものか? また一つである真理とはなにか?
仏教で真理と言えば、人を解脱に導く言葉と理解しておく必要がある。
そうすると、真理を知らない人は、解脱に導く言葉を知らないから、同じ言葉を言えない。真理を知っている人には論争する必要はない。また論争する無意味さをよく知っているから論争しない。

(´・(ェ)・`)つ

210 :
○毎田周一先生訳
885.
「自分を正しいと主張する人が
どうしてそれぞれの真理を説いて 真理がいくつもあることになるのでしょうか
彼等は多くの真理を 様々に聞いたのでしょうか
それとも彼等は疑わしい 根拠もない考えを 頭の中へ植えつけられているのでしょうか」

ブッダは覚ってない人に真理を伝える時、言葉によってしか伝えられない。だから、真理を言葉で表現して、伝える。
ただ、覚ってない凡夫はその言葉を正しく理解できないだけ。覚ってない修行者も理解できないが、その言葉を手掛かりに、言葉の真意を理解しようとし、それを理解したとき覚る。

○毎田周一先生訳
886.
「沢山のさまざまな真理があろう筈がない
いくつもあるのはただ世間で 永遠の真理だと思っているものがあるのに過ぎない
人々は色々の根拠のない考え方を組み合わせて
『これが真理だ あれは虚偽だ』とこの二つのことを並べていっているのである

前回の偈は「自分を正しいと主張する人々がそれぞれの真理を説いているが、真理がいくつもあることになるのか? 彼等はいろいろ聞いたからか? 頭のなかでいろいろ考えたからか?」という質問であった。今回の偈はブッダのこれに対しての答え。
ブッダは真理は一つであると述べているから、当然真理が幾つもあるはずがないと答えた。しかし、世間にはいろいろ真理があるように見えるのは、それぞれの人がそれぞれの思う真理を真理だと述べているのに過ぎないのだと説明された。
その方法は根拠のない思いを組み合わせて、「これは真理だ。あれは虚偽だ。」と説いているのだとブッダは痛烈に批判した。

世間に真理がいろいろあるように見えるのは、結局それは真理と思って言う人も、真理と思って聞く人も一つである真理を知らないから。
もし、言う人も聞く人も真理が分かっていれば、一つである真理を説くだろうし、真理を知った人は真理以外の言葉を聞いてもそれを真理とは思わないから、真理がいろいろあるとは思わない。
(´・(ェ)・`)つ

211 :
真理とは四諦なのじゃ。
苦を滅し、悟りに導く真理なのじゃ。
それを知れば論争する暇も無く実践あるのみなのじゃ。

212 :
>>211
鬼和尚こんばんは。
ふむふむ。
人生は苦であり。苦を克服するためには、心をありのままに観察し、観察により、心も自我も観念に過ぎないものであり、実体がないと見極めて、無我にまで達すればよいのでありますね。
そもそも自我などないものだと言う理屈を暗記して議論してみても、苦を克服することはできず、ひたすら無我と見極められるまで、観察するのでありますね。

人生は苦であると言うことと、それを克服するための修行方法であるところの止観が真理でありますね。
(´・(ェ)・`)つ

213 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、12、並ぶ応答─小篇

887 偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、これらに依存して(他の説を)蔑視し、(自己の学説の)断定的結論に立って喜びながら、「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。

888 反対者を(愚者)であると見なすとともに、自己を<真理に達した人>であるという。かれはみずから自分を<真理に達した人>であると称しながら、他人を蔑視し、そのように語る。

889 かれは過った妄見を以てみたされ、驕慢によって狂い、自分は完全なものであると思いなし、みずからの心のうちでは自分を賢者だと自認している。かれのその見解は、(かれによれば)そのように完全なものだからである。

890 もしも、他人が自分を(「愚劣だ」と)呼ぶが故に、愚劣となるのであれば、その(呼ぶ人)自身は(相手と)ともに愚劣な者となる。
また、もしも自分でヴェーダの達人・賢者と称しているのであれば、諸々の、<道の人>のうちには愚者は一人も存在しないことになる。

891 「この(わが説)以外の他の教えを宣説する人々は、清浄に背き、<不完全な人>である」と、一般の諸々の異説の徒はこのようにさまざまに説く。かれは自己の偏見に耽溺して汚れに染まっているからである。

892 ここ(わが説)にのみ清浄があると説き、他の諸々の教えには清浄がないと言う。このように一般の諸々の異説の徒はさまざまに執著し、かの自分の道を堅くまもって論ずる。

893 自分の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何びとを愚者であると見ることができようぞ。他(の説)を、「愚者である」、「不浄の教えである」、と説くならば、かれはみずから確執をもたらすであろう。

894 一方的に決定した立場に立ってみずから考え量りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。

(´・(ェ)・`)つ

214 :
>>213
○毎田周一先生訳
887.
見解とか学問とか徳行とか思想とか
そういうものに腰をおろして 人を軽蔑し
自分の独断の上に立って 得意げに
『これを知らぬものは 愚か者で 間違っている』といっている

○毎田周一先生訳
888.
他人を『愚か者』と見るのだから
自分自身を『正しい』というのである
つまり自分を正しいと認めるから
他人を軽蔑して そういうことをいうのである

○毎田周一先生訳
889.
見当の狂ったものの見方をしながら 自分を完全なものと思い
高ぶってのぼせ上がり もう心がそれだけになり
自分をこの世の神聖な第一人者だと自認している
それというのも彼の見方は 自分にとってそんなにも立派な完全なものだからである

自分が正しいと主張する人の心の状態を述べている。見当違いのものの見方をしながら、慢心によって狂い、自分を完全な者であると思い、意で灌頂している。

「意で灌頂しているのです。」とは、自らを自らの手で王位に就けること、即ち自分をこの世の王のように一番偉いと思いこんでいるということ。まさに狂っている。そして、そのような人々にとって、自分の見解は立派なものと考えている。

○毎田周一先生訳
890.
もし人にそういわれた丈で 劣った人になるのなら
そのようにいう彼自身が低能ということになろう
又もし自分一人でそう思えば 最高の智慧の人 賢い人となるのなら
家を離れて道を修める人達の中に 誰一人として愚か者はいないことになる

今回の偈は、880、881で述べた内容の再説。「もし人に言われただけで劣った人になるなら、そう言った人は低能になる。何故なら他人は他人を愚か者と言うから。」
もう一つは「又自分一人でそう思えば、最高の智慧者になり、賢い人になるのなら、誰でも賢い人になる。何故なら、皆自分は賢いと思っているから。」である。

しかし、実際にはそのようなことはない。だから、上の仮設は成り立たない。

○毎田周一先生訳
891.
『これ以外の教えを説く人は 清らかでも完全でもない』と
異説を称える人達は一般にそういうのである
何故なら彼等は自分の説の正しさに夢中になり
のぼせ上っているからである

何故このように、自説に執着する人々について、言葉を少し変えて、繰り返し述べるのか。言葉が少し変われば、イメージが少し変わる。イメージが変われば、あるイメージでは分からなかった人も分かることがある。
ブッダは言葉を少し変えて繰り返し述べ、分からなかった人を分かるように、頭で理解するだけでなく、心でも分かるように、懇切丁寧に教えておられる。
(´・(ェ)・`)つ

215 :
>>213
○毎田周一先生訳
892.
『ここにこそ清らかさがある』と説いて
他の教えの中には 清らかさがないという――
このように異説を称える人達は すべて執著して
自分自身の道をしっかりつかまえて論じている

その人の言葉が真実かどうかは、その人の言葉や行いでわかる。自分は清浄だと言いながら、他人を批判することはどうか。その態度は清浄とは思えない。
だから、この人は言っていることとその態度が違っている。もうこの事実で彼は間違っていると言える。

○毎田周一先生訳
893.
自分の道をしっかり○まえて論ずるものが
外の誰を『愚か者』だということができよう
外の説を愚かだ 汚れた教えだというのなら
外ならぬ彼自身が 不和を引き起す当人ではないか

○毎田周一先生訳
894.
彼は独断の上に立って その説を作り上げ
世間に出て 論争に憂身をやつす――
一切の断定を捨ててしまえば
人は世間で誰とも争わないで済むのに」

ブッダは893で自説に固執している論者自身が世間に不和をもたらしていることを指摘して、批判したが、それに対しての平和な道が894で示された。
「一切の断定を捨ててしまえば、人は世間で誰とも争わなくて済むのに」ということ。これはブッダの金言。心に銘記しておけばその功徳は大。
誰には他人ばかりでなく、自分自身も含む。自分自身も誰かの一人だから、自分自身とも争わないということになり。自分自身と争わないとは、心に葛藤がないということ。
心に葛藤がない人の心は安定して、穏やか。一切の断定を捨てれば、心も安定して、穏やかになる。
断定とはなにか?自分の制限された想いで作り出されたもの。これは無限の世界で通用するはずがない。通用出来ない断定を振り回せば世界は混乱する。だから、「断定を捨てれば」よいと述べられている。
それではどのように想うべきかという問題がある。874の「ありのままに想う者でなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない。」そのように想う者のように想うべきなのだ。
(´・(ェ)・`)つ

216 :
>>212 そうじゃ、人を悟りに導く法こそ真理と呼べるものなのじゃ。
 そうでなければ人が真理として記憶し、伝えていく必要も無いものじゃ。
 四諦を実践していくことが真理を守り伝えていくことなのじゃ。

217 :
>>216
鬼和尚こんばんは。
ふむふむ。
ぜぇ〜ったいに、守り伝えて行かなくてはならぬでありましょう!
(´・(ェ)・`)つ

218 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、13、並ぶ応答─長篇

895 これらの偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、──かれらはすべて他人からの非難を招く。また、それについて(一部の人々から)称賛を博するだけである。

896 (たとえ称賛を得たとしても)それは僅かなものであって、平安を得ることができない。
論争の結果は(称賛と非難との)二つだけである、とわたしは説く。この道理を見ても、汝らは、無論争の境地を安穏であると観じて、論争をしてはならない。

897 すべて凡俗の徒のいだく、これらの世俗的見解に、智者は近づくことがない。かれは、見たり聞いたりしたことがらについて「これだ」と認め知ることがないから、こだわりがない。かれはそもそもどんなこだわりに赴くのであろうか?

898 戒律を最上のものと仰いでいる人々は、「制戒によって清浄が得られる」と説き、誓戒を受けている。
「われわれはこの教えで学びましょう。そうすれば清浄が得られるでしょう」といって、<真理に達した者>と称する人々は、流転する迷いの生存に誘きこまれる。

899 もしもかれが戒律や誓戒を破ったならば、かれは(戒律や誓戒の)つとめにそむいて、おそれおののく。(それのみならず)かれは「こうしてのみ清浄が得られる」ととなえて望み求めている。
たとえば隊商からはぐれた(商人が隊商をもとめ)、家から旅立った(旅人が家をもとめる)ようなものである。

900 一切の戒律や誓いをも捨て、(世間の)罪過あり或いは罪過なき(宗教的)行為をも捨て、「清浄である」とか「不浄であると」とかいってねがい求めることもなく、それらにとらわれずに行え。──安らぎを固執することもなく。

901 あるいは、ぞっとする苦行にもとづき、あるいは見たこと、学んだこと、思索したことにもとづき、声を高くして清浄を讃美するが、妄執を離れていないので、移りかわる種々なる生存のうちにある。

902 ねがい求める者は欲念がある。また、はからいのあるときには、おののきがある。この世において死も生も存しない者、──かれは何を怖れよう、何を欲しよう。

903 或る人々が「最高の教えだ」と称するものを、他の人々は「下劣なものである」と称する。これらのうちで、どれが真実の説であるのか? ──かれはすべて自分らこそ真理に達した者である称しているのであるが。

904 かれらは自分の教えを「完全である」と称し、他人の教えを「下劣である」という。かれらはこのように互いに異った執見をいだいて論争し、めいめい自分の仮説を「真実である」と説く。

(´・(ェ)・`)つ

219 :
>>218
○毎田周一先生訳
895.
「めいめいの物の見方で
『ここにこそ真理がある』といって争う人は
誰もみなひとからの非難を免れないにしても
又一方賞讃をもかちとるではありませんか」

「大集積経」の内容は、「小集積経」と同じように、神々の大集会において、「自分の見解にしがみついてる者達は、非難だけを受けるのか、それとも賞讃をも受けるのか」という疑問を持った神々がいた。
ブッダはその疑問に答えるために、これも同様に化仏(化身)によって自分に質問させ、それに答えたのがこの経。
自分の見解に基づいて、「これのみが真理だ」と主張する者達は、すべて他人から非難されるのが常でありますが、一部の人達からは称賛される。」というもの。
そのような人々は、自己主張する人と立場が同じで、利害が一致する。

○毎田周一先生訳
896.
「しかしそれではどうしても はっきり結末がつかないではないか
いい争うことには例外なく その非難と賞讃という二つの結果がつきまとうからだと 私はいうのである
このことをよく考えてあなた方は
いい争うことのなくなった処にだけある静けさを求めて 人と決して論争などすべきではない

自己の見解に基づいて論争すれば、多くの人々から非難されるが、ほんの一部の自分の仲間達からは称賛されるかもしれない。しかし、その称賛も非難されたことによる心の動揺や苛立ちを抑えられるものではない。
もし心の平安や寂静を求めるのならば、論争をしないこと。

○毎田周一先生訳
897.
賢い人は 世間の普通の考え方などを
自分の中へとり入れようとは思っていない
見たり聞いたりすることに盲従せず 執著を離れている人が
一体何にとりつこうとして世間に出かけてゆくだろうか

論争しない人について述べている。論争しない賢い人々は、世俗的な常識的な考え方を学ぼうとしない。世間の人々の論争には興味がない。だから、論争に近づこうとは思っていない。

○毎田周一先生訳
898.
戒律を最高のものと考えている人は
それを堅く守りながら 自分を抑制するところに 唯一つ清らかさがあるといっている
そして『これで身を修めれば 必ず清らかになる』と
生きるという(ことを肯定する一面的な)立場に捉われているとも知らず それが正しいのだと思っている

自説を固執する人達のなかには、戒律を最高だと考える人達がいる。戒律は仏教の修行法を戒・定・慧と分けったときの一つ。だから戒律を守ることは仏教徒にとって大切なこと。
しかし、一部だけを取り上げて、それを強調し、それ執着することは、他説に執着することと同様に、誤った行為。
戒律を怠けによって破ることと、正しい智慧によって戒律を捨てることとは異なる。
実際には智慧のない凡夫にとっては、そのことを正しく理解はできず、論争の対象になってしまう。智慧がなければ、教条主義的、原理主義的な理解と戒律を捨てる考え方が対立するから。

(´・(ェ)・`)つ

220 :
>>218
○毎田周一先生訳
899.
彼はもし戒律を破ったりすれば 罪のある行いをしたといってふるえおののき
再び戒律の生活へ帰って清らかになろうと躍起になる
あたかも隊商から離れたものが隊商の処へ
家を離れて生活するものが 家へ帰りたがるように――

戒律を破ったら恐れおののいて、戒律を守ろうとすることは悪いことではない。むしろ褒められるべきこと。仏教では慚愧(ざんき)は重要な徳目。
慚(ざん)は悪い行いをすることを恥じる心で、愧(き)は悪い行いすることを怖れる心で、この二つの心によって、戒律が守られ、道徳が実践される。
しかし、今回の偈では戒律を破ることにおそれおののくことに、批判的は表現がされている。それは何故か? 
戒律は何のためにあるのか? 戒律は人々の自由を拘束するためにあるのではない。人々が不幸にならないためにある。慈悲を実践するためにある。
例えば五戒の一つ一つの項目を守ることは慈悲の実践。これらを守らないことは慈悲を実践しないこと。五戒を守らなければ、罪になり、人間関係が悪くなる。
それは不幸になること。だから戒律を守ることは、不幸ならないことであり、慈悲を実践すること。
戒律を守るということは戒律の条項を守ることではなく、慈悲を実践すること。戒律を守ろうとする人の気持ちの中に、だだ戒律の条項を守ればよいと思っていると、戒律の精神を忘れてしまう恐れがある。
仏教の初期には戒律はなかった。いろいろな出家者や仏教徒の中には慈悲の心のない人、少ない人がいた。そのために慈悲を教える方便としてブッダは戒律を制定した。戒律は守ればよいというものではない。慈悲の精神を実践すること。

○毎田周一先生訳
900.
戒律を立派に守ろうなどと 一切考えず
罪があろうとなかろうと そのどちらの行ないも共に捨てて
『清らかである 清らかでない』などと願い求めることなく
靜けさということにさえ捉われず 自由に生きてゆくべきである

戒律を守ることに執着することを否定して、戒律を守ることを超越して、戒律に対する無執着の態度を強調している。
もちろんこれは、戒律を犯してよいというものではない。戒律を超越して、慈悲の心から戒律を犯すことが出来ない。
考え方の範囲を広げるとは、戒律に対する態度と同様に、罪に対しても、罪を犯さないように精進するというレベルではなく、罪があるかないかを超越して、罪の犯せない、罪を超越した境地を目指している。罪があるかないかに執着していない。
更に、清浄であるか不浄であるかを超越して、清浄に関しても無執着。もちろん清浄であるべきではある。「清浄であるべきだ」ということは清浄にこだわっていることであり、本当の清浄から離れている。
最終的には、寂静に関しても、寂静にこだわることなく、完全な無執着の態度、自由に生きることが推奨されている。この時の自由は、エゴの自由(わがまま)ではなく、エゴから離れた自由。

○毎田周一先生訳
901.
見るも厭わしい苦行の中へ身を投じたり
或はまた見解や学問や思想の上に腰をおろしたりして
声高に清らかさをほめたたえるものは
あれこれの生き方を願って 生きることを(一面的に肯定する立場から)離れていない

戒律で清浄になると考えている人々について、そうではないと898、899、900で述べられたが、901は、苦行で清浄になる、或は見解、学問、思想などで清浄になると主張している人々を批判。
既に、見解、学問、思想などで清浄にならないということは「小集積経」でも述べられていた。
ここでは、新たに苦行で清浄になろうとしていることに批判している。また、それらのもので清浄になろうとしている、その執着する心が清浄から離れた事柄なのだと述べている。
(´・(ェ)・`)つ

221 :
>>218
○毎田周一先生訳
902.
熱望し 希求するものには
その計らいゆえに おののきがある
この世で 死も生もないもの――
彼は何におののき 何をもとめよう

この偈は、900及び901を別の側面から述べたもの。すなわち、苦行や見解、学問、思想なので清らかさや寂静を求めようとする人々は、それらを得ようとする欲望のために、心が汚れ、得られないかもしれないという不安や恐れが生じる。
しかし、そのようなことを熱望しない者、希求しない者には何も怖れることがないと述べている。また、そのような者は何を怖れ、何を求めるのかと反語の形で述べられている。
三行目の「この世で死も生もないもの(この世において死も生も存しない者)」は、清らかさや寂静を熱望したり、希求しない者を意味している。この世において死も生も存しない者とは解脱した覚者。輪廻を乗り越え輪廻しない人。
解脱してない者の死には再生(生)がある。解脱した者には再生(生)ないから死はない。すなわち死も生もない者とは輪廻をしない人、解脱した人を言う。また、解脱した覚者は既に清らかさや寂静を得ているので、清らかさや寂静を希求しない。

(´・(ェ)・`)つ

222 :
>>218
○毎田周一先生訳
903.
「ある人のこれこそ『最高だ』とする教えを
反対するものが『つまらない』といい
こうしてみなで自分こそ正しいというのであれば
一体これらの中で どれが真理を説いているのでしょうか

902でこの経の前半部分が終わり。そのため、902はまとめの偈。
前半が終わり、質問者は改めてブッダに問う。その内容は「小集積経」の879の「一体これらのうちでどの説が真理なのでしょうか?」と同様のもの。重要な問なので繰り返されている。

○毎田周一先生訳
904.
自分の教えは完全であるといい
外の教えは反対につまならぬといって
このように自分に執著していい争い
それぞれにありきたりの俗説を真理としています」

903と同じような内容を肯定文で書かれている。904は誰の言葉かが問題になる。
毎田先生は903、904は質問者の言葉としているが、正田先生は903は質問者として、904は世尊の言葉としている。中村先生はどうか。903は質問者としているが、904偈はどちらの言葉かはっきりしない。
904が質問者の偈としても、世尊の偈にしても、経全体に与える影響はあまり変わらない。

(´・(ェ)・`)つ

223 :
>>217 そうじゃ、そのためには精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

224 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、13、並ぶ応答─長篇

905 もしも他人に非難されているが故に下劣なのであるというならば、諸々の教えのうちで勝れたものは一つもないことになろう。けだし世人はみな自己の説を堅く主張して、他人の教えを劣ったものだと説いているからである。

906 かれらは自分の道を称賛するように、自己の教えを尊重している。しからば一切の議論がそのとおり真実であるということになるであろう。かれらはそれぞれ清浄となれるからである。

907 (真の)バラモンは、他人に導かれるということがない。また諸々のことがらについて断定をして固執することもない。それ故に、諸々の論争を超越している。他の教えを最も勝れたものだと見なすこともないからである。

908 「われは知る。われは見る。これはそのとうりである」という見解によって清浄になることができる、と或る人々は理解している。
たといかれが見たとしても、それがそなたにとって、何の用があるだろう。かれらは、正しい道を踏みはずして、他人によって清浄となると説く。

909 見る人は名称と形態とを見る。また見てはそれらを(常住または安楽であると)認めるであろう。見たい人は、多かれ少かれ、それらを(そのように)見たらよいだろう。
真理に達した人々は、それ(を見ること)によって清浄になるとは説かないからである。

910 (「われは知る」「われは見る」ということに)執著して論ずる人は、みずから構えた偏見を尊重しているので、かれを導くことは容易ではない。
自分の依拠することがらのみ適正であると説き、そのことがらに(のみ)清浄(となる道)を認める論者は、そのように(一方的に)見たのである。

911 バラモンは正しく知って、妄想分別におもむかない。見解に流されず、知識にもなずまない。かれは凡俗のたてる諸々の見解を知って、心にとどめない。──他の人々はそれに執著しているのだが。──

912 聖者はこの世で諸々の束縛を捨て去って、論争が起こったときにも、党派にくみすることがない。かれは不安な人々のうちにあっても安らけく、泰然として、執することがない。──他の人々はそれに執著しているのだが。──

913 過去の汚れを捨てて、新しい汚れをつくることなく、欲におもむかず、執著して論ずることもない。賢者は諸々の偏見を離脱して、世の中に汚されることなく。自分を責めることもない。

914 見たり、学んだり、考えたりしたどんなことについてでも、賢者は一切の事物に対して敵対することがない。かれは負担をはなれて解放されている。かれははからいをなすことなく、快楽に耽ることなく、求めることもない。

(´・(ェ)・`)つ

225 :
>>224
○毎田周一先生訳
905.
「もしもひとに詰まらぬといわれただけで もう劣ったものになるのであれば
どこにも優れた教えなど一つもないことになる
何故ならそれぞれの人は 自分のものはしっかり○まえて論じながら
外の教えは詰まらぬと 互いにいい合っているからである

今回と同じ趣旨の偈は、小集積経の880、881、更に890でも述べられた。

○毎田周一先生訳
906.
彼等は自分のゆきついた境地に感激しながら
自分の信奉する教えを無上のものとしている
そこで一切の教えはみな真実だということになる
何故ならそれらの教えは それを信奉する人達にとってはそれぞれ清らかなものだからである

今回の偈は前回905の逆の場合。すなわち905は「他人から非難されれば下劣になるならば一切の教えは優れたものでない。」ということ。906は「自分の教えを尊重すれば清浄になるならば一切の教えは清浄になる。」ということ。
教えの正しさは他人の評価や自分はその教えを尊重するか(信じるか)どうかで決まるものではないということ。このような当たり前のことが自分の信じる教えに関しては解らなくなる。

○毎田周一先生訳
907.
自在の人には 他に導かれるということがなく
彼は色々の教えを考察しても それにとりつきはしない
そのようにしてかれは人といい争う余地がない
何故なら彼は他の教えを これは特に優れたものだといって とり上げたりしないからである

毎田先生が「自在の人」と訳されたパーリ語はバラモン。それを中村先生及び正田先生は、階級としてのバラモンでなく、本来のバラモンという意味で「真のバラモン」(真の婆羅門)と訳されている。ここではこのバラモンは釈尊と考えてもよい。
釈尊は他の教えに導かれることがないと述べられている。ブッダになる前の釈尊はシッダルタと呼ばれていたが、彼は当時のインドで最高の指導者だと言われていたアーラーラ・カーラーマ仙やウッダカ・ラーマプッタ仙等に指導を受けた。
しかし、それらの教えに満足することなく、最も優れた教えだと見なすこともなかった。更に探究を続け、真理を発見した。真理は論争を超越しているから、論争を超越したブッダになられた。

(´・(ェ)・`)つ

226 :
>>224
○毎田周一先生訳
908.
『私は知る 私は見る これが本当である』
というような考え方で ある人はそこに清らかさがあると信じているが
もし何かを見たとしても それがその人自身にとって一体何になるだろう
彼等は本来居るべき処をゆき過ぎて 即ち他のものによって 清らかさをいっているのに過ぎない

今回の偈は話しの流れが少し変わる。「私は知る。私は見る。これが本当である。」と言う考え方で清浄になることができると理解している人について批判している。
何故この考え方で清浄になれないのか?「私は知る。私は見る。」とは、私には知らないことがあるから、清浄でないのだという考え方。だから、知らないことを知って、知らないことを調べて、自分を清浄にしようとする考え方。
世界には無限に知らない対象がある。無限の対象に対して、有限の時間しか持たない人間が調べ尽くすことはできない。そうすると人間は清浄になれないということになる。
そもそも清浄になるものは「私は知る」の私。この私を探究せずに、私の外の対象に対して、知らないから知ろうとして調べても、探究の対象を間違えているから、私は清浄になれない。そのことがこの偈の三行目と四行目で述べられている。

○毎田周一先生訳
909.
見る人は名と形を見るのであるが
それを見るときには 一応それをそれとして知るであろう
そして見ようと思うならどんなことでも それらをそれとして見るがよいだろう
しかし聡明な人は それらを見ることによって清らかになるなどとはいわない

今回の偈を注釈書にそって理解すると、この偈は昨日の偈を受けて、その捕捉的説明になり、明日の偈に予備的説明になっている。つまり、昨日の偈と明日の偈をつなぐものになっている。
しかし、それと全然違った解釈も可能。と言うのはパーリ語の原文の三行目のKmaを、注釈書にそって訳すと「欲するままに」となるが、
Kmaを「欲望」という意味で、三行目を訳すと、「欲望を多く或は少なく見よ。」となる。
注釈書にそって訳すと「欲するままに多く或は少なく見よ。」。この違いは「見よ」の対象が欲望かそうではないのかという違い。今回はこの考えは保留して、注釈書にそって解釈する。
908で、「私は知る。私は見る。」ことで清浄にならないことが述べられたが、「私は知る。私は見る」ことで清浄になると信じている人は、見る。
この見る人は、正田先生の説明にあるように、「名前と形態(名色:現象世界)を〔常住〕見る」。ここで現象世界を常住と見るということは、注釈書の解釈。
現象世界を無常と見ないで、常住と見ると捕捉しなくても、「私は知る。私は見る」ことで、清浄ならないことは908で説明した。
見ることで清浄になると信じている人は、そのようにするのだから、自分の好きなように見ればよいだろうという解釈になる。しかし、注釈書によれは、聡明な人は常住と見ることで清浄になるとは考えていないのだと説いている。
910への予備的説明という意味は、910は自分の見解に固執している人は、自分の見解を容易に変えられないと述べているから。
(´・(ェ)・`)つ

227 :
>>224
○毎田周一先生訳
910.
自分の立場を離れないで論ずる人は
自分考え出したその考えを 立派なものと思っているので その人に本当のことを悟らせるのは難しい
自分のとりついている処にだけ清らかさがあるというように
清らかさを論ずる人は そこにだけ本当のことがあると見ているからである

自分の考え方に固執している人は真理を知ることが難しいということ。
自分の考え方に固執している人は、自分で考えことを非常に大切に思って、尊重している。だから、自分が間違っているとも思わないだろうし、たとえ間違っていてもそれを彼は変えることが出来ない。
自分の考え方を自分自身のように考えている。自分自身を否定できないので、自分の考え方も否定できない。そもそも彼は自分の考え方が間違っているとは思えない。
自分の考え方に固執することについて、中村先生の訳では、(「われは知る」「われは見る」ということに)執著して論ずる人としている。
自分の考え方を、前からの偈のつながりの中で解釈されている。もちろん、それでもよいのだが、もう少し広く考えて、自分の考え方とすると、この偈はいろいろな場合に適応できる。

○毎田周一先生訳
911.
真に自在の域に達した人を その人はこういう人だと誰もいうことは出来ない
彼は自分の考え方などに捉われず 知識をもって廻りもしない
一般世俗のものの抱く意見もよく承知しているが
ひとはそれにとりついていても 彼はそんなものに目もくれない

自分の主義主張にこだわっている人々についてのまとめとして、
先ずそのような人はバラモン。しかし、このバラモンは身分としてのバラモンではなく、真のバラモン。
真のバラモンは、中村先生訳でその特徴を示すと、@正しく知る。A妄想分別におもむかない。B見解に流されない。C知識になずまない。D凡俗のたてる諸々の見解を知って心にとどめない人。
毎田先生訳では、@Aはこういう人だと誰もいうことができない。B自分の考え方に捉われない。C知識をもって廻りもしない。D一般世俗のものの抱く意見もよく承知しているが、そんなものに目もくれない
正田先生訳では、@〔正しく〕究明している。A〔時間の〕妄想(時間の型枠・分別妄想・輪廻的あり方)に近づきません(輪廻しない・妄想しない)。
B見解に走り行く者ではない。C知恵の眷属(知識に結縛された者)でもありません。D凡俗なる諸々の主義を知って、〔それらを〕放捨します
真のバラモンはこのような特徴があるということ。

(´・(ェ)・`)つ

228 :
>>224
○毎田周一先生訳
912.
静かな人は この世の中で色々のつながりに縛られることなく
人がいい争っても そのどちらへつくということもない
彼は不安にとりつかれた人々の間にありながら しかも安らかに 喜びも悲しみも届かぬ処にいて
人々が捉われるどんなことでも その一つすらとり上げようとはしない

自分の主義主張に固執しない人を聖者と表現されている。毎田先生はそのような人を「静かな人」と訳される。
中村先生の訳で今回示された聖者の特徴。@この世の諸々の束縛を捨て去る。A論争が起こっても、党派にくみすることがない。B不安な人々のうちにあっても、安らけく、泰然としている。C執することがない。

毎田先生訳では、@この世の中で色々のつながりに縛られることがない。A人がいい争っても、そのどちらへつくことがない。
B不安にとりつかれた人々の間にありながら、しかも安らかに、喜びも悲しみも届かぬ処にいる。C人々が捉われるどんなことでも、その一つすらとり上げようとはしない
正田先生訳では、@〔この〕世において、諸々の拘束を捨てる。A諸々の論争が生じたとして、〔特定の〕党派に走り行く者ではありません。
B寂静ならざる者たちのなかにいながら寂静で、〔諸々の主義や主張を〕放捨する者です。C〔特定の見解に〕執持する者ではありません。
@は、世間では義理人情と言ったり、絆と言って大切にしているが、聖者はそれにも価値をおいていない。

○毎田周一先生訳
913.
過去の煩いを捨てて新たにそれを作り出さず
欲望をかきたてず しつこく論ずることもなく
聡明な人は 色々の物の見方に捉われず
そして世間からは汚されず われとわが身を責めることもない

主義主張に固執しない人は「聡明な人」、「賢者」、「〔真の〕慧者」と表現されている。それらの人々には次のような特徴がある。

中村先生訳では、@過去の汚れを捨てる。A新しい汚れを作らない。B欲におもむかない。C執著して論じない。D諸々の偏見を離脱する。E世の中に汚されることがない。F自分を責めることがない。
毎田先生訳では、@過去の煩いを捨てる。A新たに煩いを作らない。B欲望をかきたてない。Cしつこく論ずることがない。D色々な物の見方に捉われない。E世間から汚されない。Fわれとわが身を責めることもない。
正田先生訳では、@諸々の過去の煩悩を捨棄する。A諸々の新しい〔煩悩〕を作らない。B欲〔の思い〕に至らない。C、〔特定の見解に〕固着しない。
D諸々の悪しき見解から解脱している。E世において、〔何ものにも〕汚されない。F自己を難じることがない。
キーワードは「汚れ=煩い=煩悩」です。過去の汚れは捨てて、新しい汚れは作らない、そして世間の人々からも汚されないということが大切。
Fの自己を責めるとは、後悔することで、過去という妄想に捉われた煩悩す。自分を責めてはいけない。
(´・(ェ)・`)つ

229 :
>>224
○毎田周一先生訳
914.
静かな人は この世のどんなことでも
自分の見解や学問や思想を拠り所として それを見ない
彼の肩の荷はすっかりおろされて 自由に解放されている
そして時に流されることなく 快楽に耽らず 何も願い求めるものがない

聖者の特徴、聖者の生き方が示されている。
中村先生訳。@見たり、学んだり、考えたりしたどんなことについてでも、一切の事物に対して敵対することがない。A負担をはなれている。B解放されている。Cはからいをなすことがない。D快楽に耽ることない。E求めることもない。
毎田先生訳では、@この世のどんなことでも、自分の見解や学問や思想を拠り所として、それを見ない。A肩の荷はすっかりおろされている。B自由に解放されている。C時に流されることない。D快楽に耽らない。E何も願い求めるものがない。
正田先生訳では、@見られたもの、聞かれたもの、あるいは、思われたもの、それが何であれ、一切の諸法(事象)にたいし、敵対という有り方を離れている。A〔生の〕重荷を降ろした者である。B牟尼であり、解脱者である。
C〔時間の〕妄想ある者ではない。D〔作為の〕止息ある者ではない。E〔未来の〕切望ある者ではない。
@については、中村先生訳、正田先生訳が分かりやすい。何事にも敵対しない。受容するということ。
Aは毎田先生訳の「肩の荷はすっかりおろされている。」。実際はだれでもこの状態なのだと思うが、多くの人々は自分の想い(妄想)によって重い(想い)荷物をしょっている。
Dについては、毎田先生と中村先生は、「快楽に耽ることない。」と訳されたが、正田先生は「〔作為の〕止息ある者ではない。」とされている。
注釈書には「止息なく」とは、善良な凡夫・有学の人たちのように止息をそなえた者ではない。」となっている。すなわち、止める者ではないとなっている。
しかし、原文では行頭に否定語があるから、止める者ではなくないとなり、止める者であると取れる。そうするとここは、止める者は、止めない者とも取れる。
私は止める者と取りたいが、対象が明記されていないので、今のところこれ以上は分からない。

(´・(ェ)・`)つ

230 :
なにやら混乱しているようじゃ。
正しく観察する事で清浄になるという主旨なのじゃ。

231 :
>>230
鬼和尚おはようございます。
905〜910で、世間で行われている、清浄になれない方法について語られ、911〜914で、妄想分別せず、見解、知識に基づかない、ありのままの観察(>914自分の見解や学問や思想を拠り所として それを見ない) が説かれてるのでありますね。(´・(ェ)・`)つ

232 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、14、迅 速

915 [問うていわく──]「・・・・修行者はどのように観じて、世の中のものを執することなく、安らいに入るのですか?」

916 師(ブッダ)は答えた、「<われは考えて、有る>という<迷わせる不当な思惟>の根本をすべて制止せよ。内に存するいかなる妄執をもよく導くために、常に心して学べ。

917 内的にでも外的にでも、いかなることがらをも知りぬけ。しかしそれによって慢心を起こしてはならない。それが安らいであるとは真理に達した人々は説かないからである。

918 これ(慢心)によって『自分は勝れている』と思ってはならない。『自分は劣っている』とか、また『自分は等しい』とか思ってはならない。いろいろの質問を受けても、自己を妄想せずにおれ。

919 修行者は心のうちが平安となれ。外に静穏を求めてはならない。内面的に平安となった人には取り上げられるものは存在しない。どうして捨てられるものがあろうか。

920 海洋の奥深いところでは波が起こらないで、静止しているように、静止して不動であれ。修行者は何ものについても欲念をもり上げてはならない。」

(´・(ェ)・`)つ

233 :
>>232
○毎田周一先生訳
915.
「私は『太陽の親族』であられる偉大な聖者に
独立への道と 静けさの境地とをお尋ねします
修行者は どのように物を見れば
世間に少しも捉われず 情欲を離れることが出来るでしょうか」

「迅速経」も、ブッダが神々の大集会において、「阿羅漢になるための修行は何であろうか?」という心が現れた神々のために、ブッダが自分の化仏(化身)を作って、自分に質問させて、それにブッダが答えるという形でできた経だと言われている。
出家修行者の修行法と生活法が説かれている。禁止項目がほとんどだが、その内容は具体的で、小集積経や大集積経よりも分かりやすい。
「太陽の親族=太陽の裔=太陽の眷属」とはゴータマ・ブッダを意味している。ゴータマ・ブッダの出身の釈迦族は太陽の末裔と言われてるため、このように呼ばれることがある。
「太陽の眷属」はスッタニパータ54及び540参考。

○毎田周一先生訳
916.
「『自分を聖者のように』考える一切の妄想の
と世尊はいわれる
その根本を断ち切って
内にあるどんな情欲をも取除こうと
いつもはっきりと目醒めて学んでゆくがよい

ブッダはいくつかの項目について説法するとき、一番大切な項目から説かれると言われている。
三人の先生方の訳の仕方が細かい点で異なるので、パーリ語原文にそった訳に従って説明。
一行目は「妄想(捏造)と呼ばれるものの根本を(すべて破壊すれがよい。)」。これが根本で、一番大切なところ。
このことは874で「何故ならば、思いによって、ありとあらゆる妄想(捏造)が起こるからである。」と述べられたことが思い出される。
二行目は「智慧によって、『私がいる』という思いをすべ破壊するがよい。」だが、妄想(捏造)の最大のものが「私がいる」という思い。私がいるという思いから、あらゆる悩み苦しみが生まれる。
毎田先生は、「『自分を聖者のように』考える一切の妄想」とし、
中村先生は「「<われは考えて、有る>という<迷わせる不当な思惟>」とし、
正田先生は「「虚構の名称(世界認識の道具として虚構された概念)の根元を、『〔わたしは〕存在する』という〔我執の〕一切を、明慧によって」としている。
一番大きな違いはパーリ語の「Mant」をどのように訳すかが大きな違い。毎田先生は「聖者」と訳した。だから「自分を聖者のように考える一切の妄想」となる。
中村先生は「考える」と訳した。そのため、「私は考えて、(私は)ある」となる。
この点について、御自身の訳書「ブッダのことば」の注で「われ思う。故に、われ有り」というデカルトの言葉を引用して、「文句が似ているとしても、近代西洋と仏教とのあいだには、確然たる相違があった。
近代西洋におけるその表現は、自我の確立をめざす第一歩であった。しかし、古代のインド仏教では、分裂・対立した自我は、むしろ制し、滅ぼされるべきものであった。」と書かれている。
正田先生は「明慧によって」とされている。
後半の二行も大切。
毎田先生訳、「内にあるどんな情欲をも取除こうと、いつもはっきりと目醒めて学んでゆくがよい」
中村先生訳、「内に存するいかなる妄執をもよく導くために、常に心して学べ。」
正田先生訳、「それらが何であれ、内に、諸々の渇愛〔の思い〕があるなら、それらを取り除くために、常に気づきある者として、〔怠ることなく〕学ぶように。」
三人の先生方の訳は基本的に同じ。唯、パーリ語のtahの訳が、「情欲」と「妄執」と「渇愛」が違う。
また妄想(捏造)で悩み苦しみが生まれると書いたが、それは妄想(捏造)によって「情欲」=「妄執」=「渇愛」が生まれ、増加するから。妄想(捏造)の根本を断ち切ることは本当に大切なこと。
(´・(ェ)・`)つ

234 :
>>232
○毎田周一先生訳
917.
内界のことや外界のことについての
如何なる道理も それを知っているのはよいが
しかしそれを過信してはならない
何故ならそれが苦痛を鎮めるなどと目醒めた人はいわないからである

内界と外界或は内的と外的とは何を指しているのか?この二つで「如何なることも」ということだから、「すべて」を意味している。
ブッダは「すべて」という経で、「すべてとは、眼と色、耳と声、鼻と香、舌と味、身と触、意と法である。」と述べておられる。
すなわち内界とは眼耳鼻舌身意であり、外界とは色声香味触法。これがすべて。この偈の一行目、二行目では、すべてを知り尽くせと述べている。
このすべてを知り尽くすことによって、真理の三相と言われる無常、苦、無我を知ることが出来る。しかし、三行目では、それによって慢心してはいけないと述べられている。それは覚った人が説く涅槃の境地ではないからである。

○毎田周一先生訳
918.
それによって 自分を勝れているとも
劣っているとも また等しいとも 思わぬがよい
そして色々なことを人から問われても
自分をひとかどの者と思って相手に対せぬがよい

一行目の「それによって」は、前回の「すべてを知り尽くすこと」において、相手より勝れていると思ったり、同等と思たり、より劣っていると思うことをしてはならないと述べられている。
仏教では一般に、自分を他人と比較する心の働きを「慢」と言う。そしてその種類を三種類に分類している。
@増上慢:自分が他人より上だと考える。
A同等慢:自分が他人と同等だと考える。
B卑下慢:自分が他人より劣っていると考える。
この心の働きは根強いものがあり、阿羅漢になるまではなくならないと考えられている。
預流果になれば有身見がなくなる筈なのに、何故阿羅漢になるまでなくならのかという疑問に対する解答としては、有身見とは「私がいる」という見解がなくなることで、「私という」感覚は阿羅漢になるまでなくならないということである。(??)
三行目の訳について、毎田先生と中村先生の訳は同じだが、正田先生の訳とパーリ語原文の訳は異なる。
その理由は訳する底本の原文が異なるため。ブログのパーリ語Phuhoは「触れたる」、これは正田先生と同じで、毎田先生と中村先生の底本のパーリ語がPuho「問われたる」となっているため。
四行目は、慢によって自分についていろいろ妄想し、舞い上がったり、落ち込んだりするなと言うこと。
毎田先生の訳は、916で「自分を聖者のように」と訳されていた、ここでは「自分をひとかどの者と思って相手に対せぬがよい」ということになっている。
(´・(ェ)・`)つ

235 :
>>232

○毎田周一先生訳
919.
修行者は 心の内が静かであればよい
外の世界に平和を求めてはならない
心の内の静けさを保つものには――
掴んでいるものがない どうして捨てねばならぬものがあろうか

自分を他人と比べて、勝っているとか、劣っているとか妄想すると、心は静かにならない。他人比べることを止め、これが欲しい、あれが欲しいという思いを止めると、心は静かになる。自分の心を静かに、穏やかにすれば平安になる。
自分の心が、不満や怒りで揺れ動いているのは、他人のせいではない。同じような条件のなかでも、静かに落ち着いている人もいる。心が穏やかでないのは人のせいではない。自分自身の問題なのだとしっかりと自覚すべし。
三行目と四行目の訳において、毎田先生と中村先生の訳はほぼ同じだが、正田先生の訳は少し異なる。これはattとnirattの意味が二通りあるから。
Attは@得られたる、A自己の
Nirattは@捨てられたる、A自己ならざるものの
どちらも考えられるが、@の方が分かりやすい。
@の訳を採用した毎田先生は次のようになっている。
「心の内の静けさを保つものには――
掴んでいるものがない どうして捨てねばならぬものがあろうか」
「掴んでいるものがない」とは執着しているものがないということ。執着するものがなければ捨てるべきものはない。何をもっていても構わない。悩み苦しみの原因にはならないから。

○毎田周一先生訳
920.
海の内には
波が起こらず そこが不動であるように――
修行者は情欲を離れ 外から動かされることなく
どこにいても思い上がらぬようにするがよい」

「心の内の静けさ」を「海の内側の静けさ」で喩えている。海の表面は風などの影響で波立っていて静かではないが、海の底は外部の影響を受けずに、不動で静か。心も欲情を離れ、外部からの影響で動かされることがなければ、不動で静かになる。
(´・(ェ)・`)つ

236 :
>>231 そうじゃ、自らの見解にも囚われてはいかんというのじゃ。
 なにものにも囚われずに進むがよいのじゃ。
 

237 :
自己啓発もいいけどネットで得できる情報とか
⇒ http://hutokutei111.sblo.jp/article/181868213.html

RXFQP2581E

238 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、14、迅 速

921[質問者はいわく]、「眼を開いた人は、みずから体験したことがら、危難の克服、を説いてくださいました。ねがわくは正しい道を説いてください。戒律規定や、精神安定の法をも説いてください。」

922 [師いわく]、「眼で見ることを貪ってはならない。卑俗な話から耳を遠ざけよ。味に耽溺してはならない。世間における何ものをも、わかものであるとみなして固執してはならない。

923 苦痛を感じるときがあっても、修行者は決して悲嘆してはならない。生存を貪り求めてはならない。恐ろしいものに出会っても、慄(フル)えてはならない。

924 食物や飲料や堅い食べものや衣服を得ても、貯蔵してはならない。またそれらがえられないからとて心配してはならない。

925 こころを安定させよう。うろついてはならないるあとで後悔するようなことをやめよ。怠けてはならなぬ。そうして修行者は閑静な座所・臥所に住むべきである。

926 多く眠ってはならぬ。熱心に努め、目ざめているべきである。ものぐさと偽りと談笑と遊戯と婬欲の交わりと装飾とを捨てよ。

927 わが徒は、アタルヴァーダの呪法と夢占いと相の占いとを行ってはならない。鳥獣の声を占ったり、懐妊術や医術を行ったりしてはならない。
(´・(ェ)・`)つ

239 :
>>238
○毎田周一先生訳
921.
「明らかな眼を以てあなたが自ら証しせられた煩いを除く法を
いまお聞きしました。
尊き方よ 更に正しい行いについてお示し下さい
人の必ずせねばならぬことと 深く思わねばならぬこととはなんでしょうか」

前半は第一の質問の解答へのお礼の言葉。後半では、修行実践の道(方法)と戒律条項、心の統一についての質問。

○毎田周一先生訳
922.
「目に見えるものを貪り求めず
つまらぬざれ言に耳を貸さず
美味なものを無闇に欲しがらず
世間の何事も愛好せぬがよい

具体的で分かりやすいが、実践することは難しいす。なぜならば、基本的に私達は楽しみたいと思っているから。物を見て楽しみたい。音を聞いて楽しみたい。食べて楽しみたいと思っている。
だから、「眼で見ることを貪ってはならない。卑俗な話から耳を遠ざけよ。味に耽溺してはならない。」と言われてもなかなか出来ない。ではどうするのか?
 眼で見ることを貪ることによって、どのような苦しみを生み出しているのか調べること。
四行目、「世間の何事も愛好せぬがよい」=「世間における何ものをも、わがものであるとみなして固執してはならない。」=「世において、何であれ、わがものと〔錯視〕しないように。」
とは、楽しみたいという思いを打ち消すための言葉。世間の何事も楽しめるというよりは、それらに耽溺すれば苦を生み出すことを知らなければならない。それが分かれば、ブッダの今回の言葉を実践できるようになる。

○毎田周一先生訳
923.
刺すような苦痛に会っても
修行者は決して泣き悲しまず
どうしても生きたいなど命を貪らず
恐ろしいものに出会っても震えぬがよい

一行目の直訳は、「触れて感じた時に」だが、二行目は「修行者は決して悲嘆してはならない」だから、苦しくなるものに触れた時のようである。だから、正田先生は病気や飢えを補って訳されている。
そこで、何故このような苦痛に会った時も、修行者は嘆き悲しんではいけないのか?
苦痛に対して嘆かないことは、完全な感官の防護。感覚に対する刺激から心が汚れないように守るため。
凡夫であるならばこのような苦痛に対して嘆くことは普通のことだが、修行者たるものは、心を守ることは重要な修行だから、たとえ大きな苦痛であっても耐え忍ぶべき。
三行目、「どうしても生きたいなど命を貪らず」=「生存を貪り求めてはならない」=「〔迷いの〕生存を渇望しないように」について説明。
大きな苦痛に対して嘆き悲しむのは、生命の危機を感じるから。
生命の危機に対しても動じない修行者は、痛い時は痛いが、嘆き悲しむことがない。何故ならば彼にとっては自分の生命より大切なものがあるから。それは真理の探究。彼は真理の探究にとって嘆くことが相応しくないのであれば嘆かない。
三行目「恐ろしいものに出会っても震えぬがよい」も、恐ろしいものに出会って震えるのは命が惜しいから。」
真理のためならば、命も惜しくない修行者は、恐ろしいものに出会っても震えないす。」彼には「悪事を働くこと」以外に恐ろしいものはない。
(´・(ェ)・`)つ

240 :
>>238
○毎田周一先生訳
924.
食べものや飲みものや
保存の出来る食物や衣服を受けても
それを貯えるようなことはせず
又それが手に入らなくてもくよくよせぬがよい

922の四行目で「世間における何ものをも、わがものであるとみなして固執してはならない。」と述べられてた。
貯蔵するということは、それに対して「わがもの」という思いがある。
「わがもの」という思いは「私がある」という思いにつながる。このような発想は、無我を体得しようという修行に逆行する。だから「貯蔵してはならない。」
924の四行目、「またそれらがえられないからとて心配してはならない。」
出家して修行することは、他の人々に与えられたもので命をつなぐ覚悟を決めている筈だから、何日か食べ物を得られないことがあっても心配するべきではない。
また、仏教には「業」という考え方がある。業によって寿命が決まっている。その寿命を全うする糧は得られるということも決まっている。だからじたばたしなくともよい。
食べ物があっても死ぬ時は死に、寿命があれば必ず、そのために必要な食べ物は与えられる。仏教を信じ、業を信じているものは食べ物が得られなくとも心配してはならない。

○毎田周一先生訳
925.
修行者はどこ迄も深くものを考えて さまよい歩かず
悔いることを止め 時を無駄に過ごさず
騒音を離れたところに
坐る場所 臥せる場所を求めて そこに住むがよい

始めの言葉Jhyを、毎田先生は「修行者はどこ迄も深くものを考えて」、中村先生は「こころを安定させよう」、そして正田先生は「瞑想者は」と訳しました。どの訳も可能。ここでは中村先生の訳を中心にして、解説。
@こころを安定させよう。
これは瞑想すること。毎田先生は、瞑想することを「どこまでも深く考えていること」と考えている。
Aうろついてはならない。
パーリ語を分析して意味をとると、正田先生の捕捉的訳にあるように、「欲望の対象を求めて歩き回ること」。
Bあとで後悔するようなことをやめよ。
この訳からは、悪行為をしないことという意味にもとれるが、パーリ語の意味は「後悔することを止めるように」。
後悔はなぜいけないか? 後悔している時は気づきを怠っている。時間を無駄に使っている。また心が落ち込み、暗くなるから。さらに、後悔すると、二重に悪行為をすることになる。
すなわち、悪行為したという悪行為と、そのために、後悔するという悪行為を重ねるということ。
C怠けてはならぬ。
これは単に、仕事や勉強を怠けるなという意味ではなく、正田先生の訳のように「〔常に気づきを〕怠らないように」ということ。
仏教用語としては不放逸という言葉を使う。この言葉を毎田先生は「時を無駄に過ごさず」としている。気づきを怠らないということは、今の瞬間に気づいていることで、今を生きているという意味。
Dそうして修行者は閑静な座所・臥所に住むべきである。
修行者はあくまでも、心の静けさを求めて修行すべきだが、環境も大切で、静かな場所の方が修行は実践しやすい。
(´・(ェ)・`)つ

241 :
>>238
○毎田周一先生訳
926.
眠りを貪ることなく
注意深く 生々と働き
不精と 偽善と 冗談と 娯楽と
性の関係と 上辺を飾ることとを止めるがよい

@多く眠ってはならぬ。
眠っている間は心を育てるということは出来ない。だから修行は眠りを貪ってはならない。
多く食べると多くの睡眠を必要とする。食物の消化・吸収・排泄のために多くのエネルギーが必要だから。修行のために必要な食物だけを取るようにすると、睡眠時間が少なくて済む。
A熱心に努め、目ざめているべきである。
気づきを絶やさない(不放逸)ために、目ざめている必要がある。そのために、熱心にということが必要。大念処経やその他の経典にも「熱心に、正知をそなえ、念をそなえ」と三セットで繰り返し述べられている。
B不精=ものぐさ=倦怠を止めるがよい。
不精、ものぐさはやるべきことをやらないこと。倦怠はいやになって止めること。
これで修行が完成するはずはない。この反対のことで修行が完成する。やるべきことはやる。嫌になっても完成するまでは止めない。これで修行が完成する。
C偽善=偽り=幻想を止めるがよい。
この三つを並べると意味が分かりにくいが、妄想を止めて、真実を見て、真実のある真心のある行ないをすること。
D冗談=談笑=笑喜を止めるがよい。
E娯楽=遊戯=遊興を止めるがよい。
DEは一緒に考えてもよいでしょう。今私達は苦の世界で生きていることが事実。そのことから眼を背けて、談笑し、面白可笑しく、遊びほけてよいのか。この苦しみにみちた輪廻を無限に繰り返すことになる。
ダンマパダ146「何の笑いがあろうか。何の喜びがあろうか。
世間は燃えているのに
汝らは暗黒におおわれている。
どうして燈明を求めないのか?」(中村先生訳)
F性の関係=淫欲のまじわり=淫欲を止めるがよい。
性の関係には二つの側面がある。一つは種の保存。もう一つは快楽の追及。淫欲を止めるがよいというと子孫が絶えてしまうと言いう人がいるが、この項は修行者に対して述べられてもので、一般の人々に述べているのではない。
快楽の追及に関しては、修行者にとっては楽の中で苦を見出すことが重要な課題。楽に惑わされて輪廻を繰り返しているわだから。
G上辺を飾ること=装飾=〔身を〕飾り立てることを止めるがよい。
上辺を飾ること、おしゃれをすること、化粧をすること等は、何故行うのか? 
修行者のなすべきことは心を清らかにすること、心を育てること。上辺を気にすることは見当違いの行ない。時間の無駄。ありもしない自分を飾って、しかも上辺を飾って何の意味があるか。

○毎田周一先生訳
927.
妖術と 夢占いと 人相を見ることと
それから又星占いなどをせず
鳥や獣の声を占ったり 子を授かる法や
医術を施すことをすき好んでせぬがよい

占いは昔から、現在も人気のあるもの。占いが人気があるのは、人間は無知のために、すべての事柄に対して不安で、一時的でも安心できる拠り所が欲しいから。
しかし、ではなぜブッダは弟子達に占いを禁じたのか?その基本は、自ら真理を発見するため。迷信、根拠のない事柄を盲信するという態度では真理を発見できないから。
占いを信じるようでは、真理探究の修行を正しく進められないから。
後半では、懐妊術(子を授かる法)や治療についても弟子達に禁じている。これはなぜか? 子を授かる法や治療は信者さんに喜ばれることではあるが、それは仏弟子の行うべき仕事ではない。
それらの分野は肉体に関する事柄でそれらの専門家に任せること。仏弟子は自分自身の心の清浄と成長を中心に取り組み、信者さんの心の成長や安穏のために働くべきだから。
(´・(ェ)・`)つ

242 :
それらを職業にしてはいかんのじゃ。
乞食によって身を養うので有るからのう。
修業のためにマントラを唱えたりするのはよいのじゃ。

243 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、14、迅 速

928 修行者は、非難されても、くよくよしてはならない。称讃されても、高ぶってはならない。貪欲と慳みと怒りと悪口を除き去れ。

929 修行者は、売買に従事してはならない。決して誹謗をしてはならない。また村の人々と親しく交わってはならない。利益を求めて人々に話しかけてはならない。

930 また修行者は高慢であってはならない。また(自分の利益を得るために)遠廻しに策したことばを語ってはならない。傲慢であってはならない。不和をもたらす言葉を語ってはならない。

931 虚言をなすことなかれ、知りながら詐りをしないようにせよ。また生活に関しても、知識に関しても、戒律や道徳に関しても、自分が他人よりもすぐれていると思ってはならない。

932 諸々の出家修行者やいろいろ言い立てる世俗人に辱しめられ、その(不快な)ことばを多く聞いても、あらあらしいことばを以て答えてはならない。立派な人々は敵対的な返答をしないからである。

933 修行者はこの道理を知って、よく弁えて、つねに気をつけて学べ。諸々の煩悩の消滅した状態が「安らぎ」であると知って、ゴータマ(ブッタ)の教えにおいて怠ってはならない。

934 かれは、みずから勝ち、他にうち勝たれることがない。他人から伝え聞いたのではなくて、みずから証する理法を見た。それ故に、かの師(ブッタ)の教えに従って、怠ることなく、つねに礼拝して、従い学べ。」

──このように師(ブッダ) はいわれた。

(´・(ェ)・`)つ

244 :
>>243
○毎田周一先生訳
928.
修行者は非難されても悩まず
ほめられても思い上がらず
利己心と一緒に 貪りと
怒りと陰口をきくこととを払いさるがよい

一行目。平安の境地を求める者は他人の非難に動揺してはいけない。他人の非難はある意味、他人の自由。他人の非難に動揺しているものは心の平安は得られない。
ダンマパダ227「アトゥラよ。これは昔にも言うことであり、今に始まることでもない。
沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、すこしく語る者も非難される。
世に非難されない者はいない。」(中村先生訳)
二行目。人々はほめられると嬉しくなって、舞い上がるものだが、それ自体が心の落ち着き、平安でない。これでは平安の境地に至ることはできない。
舞い上がる人は何に舞い上がるのか。良い事を行ったり、良い事を言ったりしたとしても、それはあなたのみの手柄か。多くの場合、多くの人の支えによってなし得たこと。

○毎田周一先生訳
929.
修行者は売買には従わず
決して人を罵らず
又村里にいても不機嫌な様子をせず
(それかといって)利益を得ようとして人と余計なはなしをせぬがよい

修行者とは、比丘あるいは乞食修行を意味している。彼等は生きる糧を稼ぐ仕事を止めて、ただ真理を求める修行だけに専心し、生きる糧は乞食に頼ることを決意した人々。だから、売買などの商いに従事してはいけない。
二行目。修行者は、真理を求めることに専念するとはどのようなことか? 人格を完成する、無量心「慈悲喜捨」の心を完成し、即ち真のやさしさを知り、それを実践できるようになること。
それならば、他人を罵る、誹謗する、批判するということがあってよいか。それはすべて真のやさしさに反する行為。すべきでないことは明らか。
三行目、毎田先生は「不機嫌な様子をせず」、中村先生と正田先生は「親しく交わってはならない=〔在家者たちと〕交際しないように」と訳されている。
パーリ語辞書に両方の意味が掲載されているからこの違いがある。どちらにしても、修行に差しさわりのある人間関係を持ってはいけないということ。
四行目は、利益を求めて話をすることは、欲に基づく行為。無意識にもそのような行為をしないように注意すべき。
(´・(ェ)・`)つ

245 :
>>243
○毎田周一先生訳
930.
修行者は傲慢な態度をとらず
又腹に一物あるようないい方をせず
押しの強さを身につけることなく
人と争うようないい方でものをいわぬがよい

一行目「傲慢=高慢=自慢する者」これらは、明らかに自分を他人と比較して自分を勝れていると思っていること。
二行目は、「腹に一物あるようないい方=(自分の利益を得るために)遠廻しに策したことば=食を得るためのほのめかしの言葉」いじましい、せこい、修行者でなくても人間として情けない。
三行目は、傲慢さを身につけるなということ。何かを学んでも、そのために自分は偉くなったと思うなということ。何か新しいこと学んだら、自分は偉くなったと思うのではなく、自分はこのようなことも知らなかったのだと謙虚さを学ぶべき。
四行目、真理は論争や争いを超越している。真理を探究する修行者ならば、論争や争いの種はまかない。そのようなことにならないようにくれぐれも注意すべき。

○毎田周一先生訳
931.
嘘をつかぬようにし
狡猾なことをしないように気をつけ
また生活についても叡智についても
徳行についても 他人を軽蔑せぬがよい

「嘘をつかぬように」は五戒の一つ。正しく生きようと思う者は必ず守るべき徳目。なぜ嘘をついてはいけないのか。慈悲の心に反する行為だから。
二行目は「狡猾なことをしないように気をつけ」は930「腹に一物あるようないい方をせず」に似ている。ブッダはいろいろな言い回しで、よく分かるように説かれている。
三行目、四行目も930「傲慢な態度を取らず」ということでもあり、「人と争うようないい方でものをいわぬがよい」ということでもあります。慢心を戒めている。
(´・(ェ)・`)つ

246 :
>>243
○毎田周一先生訳
932.
いらいらさせられるような多くの言葉を
外の修行者や 色々と悪口をいう俗人から聞いても
荒々しい言葉で答えぬがよい
何故なら静かな人は仕返しなどしないからである

ダンマパダ5及び133、134を参考。

○毎田周一先生訳
933.
修行者は以上のことをよく理解して
微妙なことによく気付き いつも目醒めて学びながら
一切の煩いのなくなる処に 『静けさ』のあることを知り
目醒めた人の教えを聞いて 時を空しく過ごさぬがよい

迅速経のまとめ。「以上のこと」とは、921の質問に答えられたブッダの十一の偈の内容。
これらの道理を実践する中で、「一切の煩いのなくなる処に 『静けさ』のあることを知り=諸々の煩悩の消滅した状態が「安らぎ」であると知って=寂滅〔の境処〕(涅槃)を、『〔真の〕寂静である』と知って」、
「時を空しく過ごさぬがよい」と述べられている。
ブッダは道理を実践することで、真理を体得すべきであると述べておられる。

○毎田周一先生訳
934.
その人は自らに打克って 他に打克たれることなく
人から聞いてではなく自ら証しして真理を見た人である
だからこそこの尊き師の教えをあがめ 怠ることなく
それに従って学んでゆくがよい

迅速経を述べたブッダはどのよう方なのか?またこの経に述べられた真理はどのようなものなのか?そしてその真理をどのように学ぶべきかここで述べられる。
自分自身に打ち勝つということは、自分の煩悩を克服したということ。
また、ブッダが覚った真理は、人から聞いたり、教えられたものでなく、自分自身で体得した真理であるということ。
そのようなブッダの教えだからこそ、ブッダを尊敬し、不放逸、常に気づきを怠ることがないようにいるべきと説かれた。
この経のパーリ語の題名はTuvaakasutta。このTuvaakaの意味は「迅速な」「急ぐ」などの意味があるので、「迅速経」と呼ばれている。
この経の偈の中にTuvaakaという言葉はない。そのために、Tuvaakaを人名と考える説もあるが、その確定的な証拠がないので、注釈書の注では、「どうしてこの題名を冠するのか明らかでない。」と述べられている。
しかし、この経の編集者の意図を考えてみる。
この経の要所に不放逸ということが述べられている。925、933、及び934に不放逸という言葉がある。
不放逸は通常、念、気づきを怠らないことと訳されるが、毎田先生は不放逸を「時を無駄に過ごさず」と訳された。まさに、不放逸とは時間を無駄にしないこと。
ブッダの最後の言葉は「すべての現象は消えていくものです。不放逸で励みなさい。」だった。このように修行者が不放逸であるべきなのは、すべての現象が迅速に消え去るから。
不放逸であるべき前提は、すべての現象が迅速に消えるところにある。そのような訳でこの経は「迅速経」と命名されたのではないか。

(´・(ェ)・`)つ

247 :
自分で観察して厭離が起こるのじゃ。
学んだだけでは起こらないのじゃ。
そうであるから真理を見るというのじゃ。

248 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、15、武器を執ること

935 殺そうと争闘する人々を見よ。武器を執って打とうとしたことから恐怖が生じたのである。わたくしがぞっとしてそれを厭い離れたその衝撃を宣べよう。

936 水の少ないところにいる魚のように、人々が慄えているのを見て、また人々が相互に抗争しているのを見て、わたくしに恐怖が起った。

937 世界はどこでも堅実ではない。どの方角でもすべて動揺している。わたくしは自分のよるべき住所を求めたのであるが、すでに(死や苦しみなどに)とりつかれていないところを見つけなかった。

938 (生きとし生けるものは)終極においては違逆に会うのを見て、わたくしは不快になった。またわたくしはその(生けるものどもの)心の中に見がたき煩悩の矢が潜んでいるのを見た。

939 この(煩悩の)矢に貫かれた者は、あらゆる方角をかけめぐる。この矢を抜いたならば、(あちこちを)駆けめぐることもなく、沈むこともない。

(´・(ェ)・`)つ

249 :
>>248
○毎田周一先生訳
935.
「争う人々を見るがよい 
杖をとりあげるから 恐怖が生じたのである――
私は世間の悲惨を見て 強く心を動かされたが 
そのとき感じたままを これから話してみよう

この経の由来は、サーキャ族(釈迦族)とコーリヤ族の間に水争いが起こった時、世尊はその争いを止めようとして、両軍の中に立ってこの経を説いたと言われている。
またこの経名は、この偈の最初の言葉 Attadaから来ている。この語はAttaとdaからできているが、Attaには、「取る(執る)」という意味と「自己の」という意味がある。
daは、「杖、棒(武器、暴力)」。毎田先生と中村先生の訳は「杖をとりあげる=武器を執って」としているが、正田先生は「自己の棒(暴力)」と訳している。
そのため、厳密には題名の訳は二通りになるが、ここでは中村先生の訳を取った。
この偈のポイントは二つ。第一は、恐怖は武器を執るから生じるということ。逆ではない。恐怖があるから武器を執るのではないのだとブッダは説かれている。
そこまで詳しく丁寧に心の機微を観察する必要がある。恐怖は人間の根本な感情の一つ。これに対する理解により人間の理解が出来る。
第二は、ブッダが「私は世間の悲惨を見て、強く心を動かされたが、そのとき感じたままを、これから話してみよう。」と述べられた意図を知る必要がある。
「世間の悲惨」とは「苦」の実状。四聖諦の第一の苦諦を理解するためには、世間の悲惨を観察しなければならない。
またブッダは「そのとき感じたままを、これから話してみよう。」と仰られているので、それに学んで、観察すること。苦の観察の見事な見本が示されることになる。

○毎田周一先生訳
936.
水の少ない処で
はねかえっている魚のような人を見
また互いに反目している人達を見て 
私は恐ろしくなった

反目している人々の姿を、水の少ない処にいる魚に例えている。魚は水が少なくて苦しくて、のたうち回っている。
反目している人々は、恐怖におびえ、苦しんでいる。では何がたりなくて苦しんでいるのか。それは愛情。反目している人々の心には怒りで、愛情がなくなって苦しんでいる。人間には、魚に水が必要なように、愛情が必要。

○毎田周一先生訳
937.
この世のどこを見ても 確かなことがなく
どの方向もみな揺れ動いていた
私は自分の住み処(か)を求めていたが 
すでに何かが住み込んでいない処を見なかった

936も今937も、ブッダがお悟りになる前の菩薩であったとき、世間の人々のあり様を語られている。
936の偈で水の少ない水の中で苦しんでいる魚のように怖れ苦しんで人々に対して戦りつが起こったので、菩薩はそこから眼を転じて、あまねく世間を見渡した。
しかし、世間には何一つ確実なものがなく、やはり恐れや苦しみのために揺れ動いていた。
菩薩はそれでも何とか自分の安らげる場所を探し求めた。しかし、そのような場所はなく、何処も、生老病死などの苦しみが住み着いていた。

○毎田周一先生訳
938.
そこには必ず行き詰まりがあり 
人がそれにぶつかってどうにもならぬのを見て 
私は不愉快になった。
そうして一見して解らない矢が 
彼等の心中に刺さっているのを見た

菩薩は、水の少ない処で苦しむ魚のように、怖れ苦しむ人々を見て、どこかに安らぎのある住処を求めました。しかし、そのような場所はどこにもなかった。人々は仲良く生活しているように見えても、最後には、互いに敵対し、反目し合うようになる。
それを見て、菩薩は不快になったが、その原因を探究した。彼等の心に矢というべきものがあった。これを修行者は自分で観察して自分で発見すべきもの。無智、無明の凡夫には発見し難いもの。この矢とは無智、無明。

○毎田周一先生訳
939.
この矢の刺さった者は 
あらゆる方向に駆け回るのであるが
その矢を抜いてさえしまえば 
駆け廻ったり はては身動きならぬことにならなくてもよいのである
矢に射られたものは、痛いのだから、あちらこちら走り回る。この矢を引き抜きさえすれば、しばらくすれば痛みもおさまり、走り廻ったり、痛みのためにうずくまらなくともよくなる。
しかし、実際は988に述べられていたように、凡夫には矢は見難いので、矢に射られていることも分からずに、怖れ、苦しみ、走り廻っている。だから、まず、苦しみの原因を見極めること。そうすれば苦しみの原因である矢を取り除くことが出来る。
(´・(ェ)・`)つ

250 :
杖をとりあげるから恐れがおこるとはどう考えてもおかしいじゃろう。
それでは武器があれば恐れはない事になるからのう。
武器を推奨したりはしないのじゃ。

251 :
>>250
鬼和尚、こんばんは。
たしかに、毎田先生の「とりあげる」を解説のように、中村先生の訳と同じように解することは、日本語としてちょぴっと不自然であると思うであります。
(´・(ェ)・`)つ

252 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、15、武器を執ること

940 そこで次に実践のしかたが順次に述べられる。──世間における諸々の束縛の絆にほだされてはならない。諸々の欲望を究めつくして、自己の安らぎを学べ。

941 聖者は誠実であれ。傲慢でなく、詐りなく、悪口を言わず、怒ることなく、邪まな貪りと慳みとを超えよ。

942 安らぎを心がける人は、眠りとものぐさとふさぎこむ心とにうち勝て。怠惰を宿らせてはならぬ。高慢な態度をとるな。

943 虚言をつくように誘き込まれるな。美しいすがたに愛著を起すな。また慢心を知りつくしてなくすようにせよ。粗暴になることなく、ふるまえ。

944 古いものを喜んではならない。また新しいものに魅惑されてはならない。滅びゆくものを悲しんではならない。牽引する者(妄執)にとらわれてはならない。

(´・(ェ)・`)つ

253 :
>>252
○毎田周一先生訳
940.
世間では色々の学術を習うのであるが
そんなものによって
世間へあれこれと縛りつけられるのではなく
そもそも欲望というものが何であるかをよく知って
自分というものがすっかりなくなることをこそ学ぶがよい

毎田先生は、sikkhaを学術と訳している。世間の学術によって拘束されるべきでない。それよりは、欲望の本質を究めよと述べている。また「自己の寂滅」の意味を「自分というものがすっかりなくなること」として、それを学ぶべきだとしている。
これが心に刺さった矢を抜くことと解釈している。
中村先生と正田先生は、sikkhaを「実践のしかた=諸々の学び〔のあり方〕」と取られ、941からの偈で続いて述べられる具体的な項目を指している。
これらの具体的な項目の実践は「矢を抜くこと」なのだとしている。ただ、「世間における諸々の束縛の絆にほだされてはならない。」の意味は「実践のしかた」が形骸化されるといけないという意味。
例えば、戒律の心を重んじないで、形だけ戒律を守ればよいとするようなこと。
四行目については、「諸々の欲望を究めつくして」が心に刺さった矢を抜くことになるということ。そして、それが自己の涅槃を学ぶことだとしている。「自己の涅槃」を学ぶとは、毎田先生は、「自分というものがすっかりなくなること」としてる。

○毎田周一先生訳
941.
静かな人は おだやかに 誠を尽くし 
心豊かに ひとを謗らぬ人であり
怒りを離れ 貪りの禍いと
利己心とをこえた人でなければならない

心に刺さった矢を引き抜くために、諸々の欲望を究めつくして、自己の安らぎ(涅槃)を学ぶこととは、具体的には941で述べられたこと。

@誠実であれ、A傲慢でなく、Bいつわりなく、C悪口を言わず、D怒ることなく、E邪まな貪りを超える、Fもの惜しみを超える、以上中村先生訳。
これらは慈悲の心がある人ならば、すべて簡単に実践できること。しかし、私達の心に欲望があるならば、簡単ではない。欲の心が邪魔をする。
欲の心は利己心。毎田先生は「物惜しみ」を利己心と訳された。利己心は慈悲の心を邪魔する。
利己心がある時、誠実にはなれない。傲慢になる。ある時は悪口を言い、怒る。自分に都合が悪いから怒る。また利己心故に貪り、物惜しみになる。慈悲と欲望は対立するものだと理解する必要がある。

○毎田周一先生訳
942.
一切の煩いを除こうと思うなら 
眠りと不精と 迂闊(うかつ)に時を過ごすこととに
うちかってふしだらな様子と
思い上がった態度とを捨てるがよい

心に刺さった矢を引きぬために実践すべき項目が述べられている。しかし、その内容は単に矢による苦しみを取り除くという意味でばかりでなく、それは涅槃を目指す人に薦められる事柄でもある。
@眠りに打ち勝つ。
「迅速経」の926。参考
A倦怠、ものぐさに打ち勝つ。
926やるべきことをやらないこと。倦怠はいやになって止めること。
B落ち込み、ふさぎ込む心に打ち勝つ。
落ち込み、ふさぎ込みは心のエネルギー不足。エネルギーの不足した心は成長しない。これに打ち勝たなければならない。どうしたら心のエネルギーを供給できるか?
心のエネルギーは愛情(慈悲)。心のエネルギーは放出すると、供給される。だから先ず放出する。つまりあなたが誰かに愛情を与える。やさしくすること。そうするとあなたに心のエネルギーが入ってくる。実践すればすぐに分かる。
C放逸、怠惰を心に宿らせない。
気づきを絶やさないこと。
D高慢な態度を取らない。
高慢とは自分と他人を比較して、自分が勝っていると思うことだが、これこそ無智の現れ。高慢な人と同じ無智なレベルで考えても、世界は広く多くの人々がいる。高慢な人以上に勝っている人は、世界にいくらでもいると思わなければいけない。
高慢な人はそのような一人でもいれば、苦しむことになる。
仏教では無我を教えている。本来、他人と比較する自分がないことを知らなければならない。そして、何よりも重大な問題は高慢な人は他人から素直に学べないから、成長出来ない。
(´・(ェ)・`)つ

254 :
>>252
○毎田周一先生訳
943.
嘘をつかず 
形あるものに執著せず
思い上がる心を隅々まで究めて 
決して暴力を用いぬようにするがよい

@嘘をつかないこと
妄語に導かれないようにと表現されており、嘘をつかなければならない状況ならないように注意されている。これは言葉に関する戒め。
A形あるものに執着しないこと。
形あるものとは、物質的なもの、肉体などを意味する。物を欲しがったり、自分の肉体、健康や美容などに執着しないこと。これは心に関する戒め。
B慢心を究め尽くすこと。
自分と他人と比較するという心の作用。これはなかなか取り除くことの出来ない、心の癖のようなものだから、究め尽くせと述べられている。これも心に関する戒め。
C暴力を振るわないこと。
原文の四行目のshasaは、「性急、暴力、粗暴、暴悪」などの意味があるから、四行の意味は「粗暴になることなく」「無理強いすることから離れた者となり」などの意味であると理解できる。これは身体に関する戒め。

○毎田周一先生訳
944.
古いものを楽しむことなく 
新しいことを受け入れることなく
滅びゆくものを悲しむことなく 
光あるものに愛著すべきでもない

「牽引するもの=惹き付けるもの」とは、渇愛、妄執を意味している。
毎田先生は「光あるもの」と訳された。五感で快を感じるものに引きつけられないようにということ。五感の奴隷にならないようにということ。
これらのことで、心に刺さった矢を引き抜くことができ、涅槃に達することが出来ると教えている。
(´・(ェ)・`)つ

255 :
>>251 そうじゃ、恐れから武器をとったというのが正しいのじゃろう。
 他人を攻撃するのは恐れが有るからなのじゃ。
 恐れから武器を取り上げて攻撃するのじゃ。

256 :
>>255
鬼和尚、こんばんは。
て、ことは、どの訳も間違えでありますか?
たしかに、恐怖から武器をとるの方が自然で、
武器をとるから恐怖が生じるは、考えすぎのような気もするではありますが、
>恐怖は武器を執るから生じるということ。逆ではない。恐怖があるから武器を執るのではないのだとブッダは説かれている。
そこまで詳しく丁寧に心の機微を観察する必要がある

という解説にも一理あるような気がするのでありますが、いかがでありましょう。
(´・(ェ)・`)つ

257 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、15、武器を執ること

945 わたくしは、(牽引する者のことを)貪欲、ものすごい激流と呼び、吸い込む欲求と呼び、はからい、捕捉と呼びね超えがたい欲望の汚泥であるともいう。

946 バラモンである聖者は、真実から離れることなく、陸地(安らぎ)に立っている。かれは一切を捨て去って、「安らぎになった人」と呼ばれる。

947 かれは智者であり、ヴェーダの達人である。かれは理法を知りおわって、依りかかることがない。かれは世間において正しくふるまい、世の中で何びとをも羨むことがない。

948 世間における諸々の欲望を超え、また克服しがたい執著を超えた人は、流されず、束縛さけず、悲しむことなく、思いこがれることもない。

949 過去にあったもの(煩悩)を涸渇せしめよ。未来には汝に何ものも有らぬようにせよ。中間においても汝が何ものをも執しないならば、汝は「安らかな人」としてふるまうことであろう。

(´・(ェ)・`)つ

258 :
>>257
○毎田周一先生訳
945.
私は欲望のことを『大きな流れ』といい 
吸い込むものとも 
飢餓ともいいまた土台とも はからいとも
越え難い煩いの泥濘(ぬかるみ)ともいう

945は、944の四行目、「牽引する者(妄執)にとらわれてはならぬ」(中村先生訳)に対して、「何故とらわれてはならぬか?」と問われた場合の解答に相当するもの。それは欲望というものがどのようなものか説くことになる。
欲望とは大きな激流、洪水なようなものである。奔流とも表現されている。これは急流、速く流れるもの(根元的な欲望、本能的欲望)を意味している。
また熱望とも説かれた。捕えるもの=捕捉とは、それに捉えられると逃げられないもの。
「はからい」とは、欲望は妄想であるということです。そして最後に欲望は「越え難い泥沼」のようなものだと述べられている。
欲望というものは根元的な欲望、本能的欲望であるならば、個人的な心の作用というばかりではなく、人間及び生き物全体にあるもの。だから、個人的に簡単に越えられるものではなさそう。
しかし、欲望は「はからい」=妄想であるならば、欲望を乗り越えることが出来るかもしれない。また、「越えられない泥沼」ではなく、「越え難い泥沼」だから、超えることはできる。
実際に不可能と思えるこのことをブッダはやり遂げた。その時、ブッダは人間及び生き物を超えた存在になった。

○毎田周一先生訳
946.
静かな人は真実を一歩も離れず 
道に達した人はじめじめしない高い処に立っている
彼等はこの世の一切を抛(なげう)っているが 
こういう人を平安な人というのである

「真実から離れることなく」とは、法から離れることなくということ。具体的には944に述べられた心でいること。
すなわち、古いものを喜ぶことなく、新しいものに魅惑されることなく、滅びゆくものに対して悲しまない。また欲望の奴隷にならないということ。
「陸地(安らぎ)に立っている」とは、945で述べられた「越え難い欲望の汚泥(=泥沼)」ではなく、そこから離れて「陸地」にいるということ。
そして彼は一切を捨て去っている。そのような人を、ブッダは「平安な人」=「安らかになった人」=「寂静者」と呼ぶ。

○毎田周一先生訳
947.
こういう人が悟った人であり 最高の智慧に到った人である 
彼は物事の道理を知って捉われず
世間にあっては正しい道をゆき 
そしてこの世の誰をも羨まない

一行目は、「かれは智者であり、ヴェーダの達人である。」(中村先生訳)の「智者」とは、自己以外の学問などを学んで智者になったのではない。彼は自分自身の内面を学んで成った。毎田先生はそのような人を「悟った人」と表現している。
また「ヴェーダの達人」とはヴェーダ聖典を学びつくした人という意味ではなく、自分自身を学んで「最高の智慧に到った人」という意味。
二行目「かれは理法を知りおわって、依りかかることがない。」(中村先生訳)とは、彼はそのようにして、理法=物事の道理=法(真理)を知り終わったが、それに依存しない、捉われない。
三行目、物事の道理を知る人は、失敗することがなく、正しく振舞える。だから、覚るべきだと言える。
四行目、最高の智慧に達した人は羨むということがない。これは、自分が最高の境地にいるから、羨むべき対象がいないので、羨まないということではない。羨むという心の作用がない。
(´・(ェ)・`)つ

259 :
>>257
○毎田周一先生訳
948.
この世の色々の欲望と 
渡るに難い執著とをこえた人は
流れを絶ち切って 何も束縛されず 
悲しみも 心配もない

「欲望を乗り越える」或は「執著を乗り越える」と心解脱或は慧解脱が起きる。このことについてスッタニパータ第3大きな章 12、「二つの観察経」に述べられている。
心の解脱(心解脱)と智慧の解脱(慧解脱)。貪欲を完全に克服することが心の解脱。無明を完全に克服することが智慧の解脱。
ブッダは覚りを四段階に分けて説かれている。預流果、一来果、不還果、阿羅漢果。預流果の覚りに至ってもまだ貪欲は残る。一来果になるとそれがかなり薄まるが、まだ残っている。不還果に至って初めてすべての貪欲が克服される。
そのため輪廻を止めることになる。しかし、まだ慢、掉挙(じょうこ)、無明等の煩悩が残っている。これらすべての煩悩を克服した方が阿羅漢。阿羅漢には智慧の解脱によって成る。

○毎田周一先生訳
949.
あなたが若し過去のことは涸らし尽くし 
未来にはあなたにとって何もないようにし
そして現在のことを掴まないなら 
あなたは静かな生活をすることになるだろう

一行目「過去にあったもの(煩悩)を涸渇せしめよ。」(中村先生訳)、この訳では「過去にあったもの」を「煩悩」としているが、
これは正確に言うと過去にあったものを縁にして起こる現在の煩悩。過去の煩悩はどうでもよい。現在の煩悩が問題になるから。

人間は過去のこと、過去の記憶を後悔や悲しみの材料とするばかりでなく、過去の業績を誇りにしたり、過去の想い出を楽しみにして親しい人々と語り合ったりしている。それを生きがいだとまで思っている。
だから、それを「涸渇せしめよ」ということは、一般人の常識に反する言葉であり、多くの人々は受け入れない、出来ないことなのだと理解した上で読んだ方がよい。
「涸渇せしめよ」の実際の行為は、「過去にあったもの」に価値を置かないということ。過去の事柄で感情を揺り動かされないということ。
二行目「未来には汝に何ものも有らぬようにせよ。」これは未来の事柄に対して、夢や希望を持ったり、或は不安や怖れや心配などをしないようにということ。
未来の事柄について、生まれた者は必ず死ぬという以外に、何一つとして確定していることはない。死は決まっていることだから、不安や恐れを持つ必要ない。
これに関しては現在悪行為をしなければよい。それ以外はできない。心配することは悪行為になる。
その他の事柄は起きるかどうか分からないこと。(予想できることは無限にあるから、ほとんど起きない事柄。)それに対して心配することは無意味、エネルギーの無駄。
三行目、四行目「中間においても汝が何ものをも執しないならば、汝は『安らかな人』としてふるまうことであろう。」の「中間」とは言うまでもなく「現在」を意味している。
過去・未来は観念の世界であり、現在のみが実在である、一番大切。すべての生命は現在のみに生きているから。執着しないことも、現在すべきこと。
過去、未来、現在において、何も執着しない人の心は動揺しない。心が動揺しなければ静か。そしてそのような人は「安らかな人」、解脱した人。
過去・現在・未来については、ダンマパダ348、421参照。
(´・(ェ)・`)つ

260 :
>>256 武器を持つと大抵むしろ使ってみたくなるものじゃ。
 よい刀を手に入れた武士が辻斬りをしたくなるとかのう。
 闘争心が沸くのが普通なのじゃ。
 

261 :
>>260
たしかに、本身を持つと気分が高揚したりするのが普通でありますね。
翻訳の間違いと言うよりも、ブッタの話を聞いた人の考えすぎによる誤解かも知れぬでありますね。
(´・(ェ)・`)つ

262 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、15、武器を執ること

950 名称と形態について、<わがものという思い>の全く存在しない人、また(何ものかが)ないからといって悲しむことのない人、──かれは実に世の中にあっても老いることがない。

951 「これはわがものである」また「これは他人のものである」というような思いが何も存在しない人、──かれは(このような)<わがものという観念>が存しないから、「われになし」といって悲しむことがない。

952 苛酷なることなく、貪欲なることなく、動揺して煩悩に悩まされることなく、万物に対して平等である。──動じない人について問う人があれば、その美点をわたくしは説くであろう。

953 動揺して煩悩に悩まされることなく、叡智ある人にとっては、いかなる作為も存在しない。かれはあくせくした営みから離れて、至るところに安穏を見る。

954 聖者は自分が等しい者どものうちにいるとも言わないし、劣った者のうちにいるとも、勝れた者のうちにいるとも言わない。かれは安らいに帰し、取ることもなく、捨てることもない。

 ──と師は説かれた。

(´・(ェ)・`)つ

263 :
>>262
○毎田周一先生訳
950.
名と形あるものを 
すべてわがものとするのを止め
何かがないといって 悲しむことのない人
――こういう人は世にあって 老いることなき人である

「名称と形態」とは何を意味しているのか?
名称はパーリ語ナーマの訳で精神的なもの、人間においては心を意味する。また形態はパーリ語ルーパの訳で物質的なもの、人間においては肉体を意味する。ナーマ・ルーパと合わせて個人の意味で使われる。
或は正田先生の訳にあるように、名前と形態を現象世界と理解される場合がある。
「名称と形態」を個人と取るか、現象世界と取るかでニュアンスが少し変わりる。個人と取れば、五蘊(色受想行識)のすべてに<わがものという思い>がないということになりり、無我が意識される。
一方、現象世界と取れば、自分の外に<わがものという思い>がないということになり、無所有が意識されます。

無我であれば、自分というものがないのだから、自分の物がないのは当たり前。それ故に悲しむことはない。

○毎田周一先生訳
951.
『これはわがものである』とか
『これはひとのもの』とかいうことなくなった人には
わがものという考えが少しもないので 
『私にはない』といって悲しむことがない

950と同様のテーマ。「自分のもの」とか「他人のもの」とかという意識がないということ。そのような人は自分の物がないことに悲しまないという結論になる。
「自分のもの」とか「他人のもの」とかという意識がないということは自分と他人という区別意識がないということ。
これは仏教の平等観と言えるもの。人間を表層で観察すれば自分と他人の区別はある。しかし、同じ生命だと見る人にとっては自分とか他人とかという区別意識はない。
区別意識は自我が作りだすもの。自我のなくなった人は、自分と他人という区別がなく、その意識から「自分のもの」とか「他人のもの」とかという意識もなくなる。
世の中にあるものは必要な人のものということになる。そこには自己中心的な欲望はない。
自分より必要な人がいれば、いわゆる「自分のもの」であっても、喜んで、自分より必要な人に分け与えるということになる。「自分のもの」というこだわりは一切ない。もちろん、「自分のもの」がないことに悲しむことはない。

(´・(ェ)・`)つ

264 :
>>262
○毎田周一先生訳
952.
その人は思い上りも貪りも持たず 
情欲を離れ 万物に対して平等である――
とこのように 不動の人のことを 
私はほめたたえていうのである

ブッダが「動じない人」はどのような人ですかと尋ねられたら、以下の四つを美点として褒め称えるというもの。
@‘Anihur :思い上りがない=苛酷なることなく=嫉視(しっし:憎しみの目でみること)なく
Aananugiddho:貪りを持たず=貪欲なることなく=貪求なく
Banejo:情欲を離れ=動揺して煩悩に悩まされることなく=動揺なく
Csabbadh samo:万物に対して平等である=万物に対して平等である=〔一切にたいし〕一切所に等しくあります
「不動の人=動じない人=〔心が〕動かない者」とは解脱した阿羅漢だが、以上の四つの徳を備えている。特に、「C万物に対して平等である」については、真理を体得した方には、自然の結果。

○毎田周一先生訳
953.
情欲を離れ 智慧の目の開けたひとには 
何かをしようとすることが全くない
彼は何かを得ようとつとめたりなどせず 
到る処に平安を見出している

始めの言葉Anejassaは、952anejoの変化形。意味は同じだから、三人の先生の訳はそこから始まる。「情欲を離れ=動揺して煩悩に悩まされることなく=〔心に〕動揺なく」。そのような人は世の中をありのままに認知している。
そうすると世界は何一つ問題ない。法に従って、法のままにある。何一つ心配したり、怖れたり、期待することもない。そうであるならば、そのように世界を見る人は、何かしようとすることがない。また特別努力しようとすることがない。
しかし、世界は問題だらけであり、何一つまともなものがなく、心配ばかりだと多くの人々は思っている。それは彼等の自我がそのように見ている。
すべで終わってしまった過去について、繰り返し悩み、後悔し、まだ起きてない未来について心配し、はかない希望を持つので問題だらけになる。
そして、重要な今の事柄をまともに見てないから、失敗ばかりしていると思っている。そこには上手く行かなかった経験があるだけ。そこから学べばよい。自我を克服している人にとっては、すべて法の通りであり、何処も平安である。

○毎田周一先生訳
954.
静かな人は 自分を等しいものの仲間であるとも 劣ったもの 
あるいは勝れたものの仲間であるともいわない
そうして安らかに 利己心を離れて 
取ることもなければ また捨てることもない

「武器を執ること経」全体のまとめ、結論の偈。
ブッダは、聖者は人間の中で、同じ人々だとも、劣った人々だとも、勝れた人々だとも比べられないと述べている。つまり聖者は人間を超えた存在だと述べておられる。
同じ、劣った、勝れている等と比較できるのは同じ種類の間でできること。そのことを、このように表現している。聖者は人間でないということを言いたいのである。普通の人間が持っている本能を持っていないから、人間でない。

人間は安らかでないし、利己心を離れていない。しかし、聖者は安らかであり、利己心を離れている。そして、自分のものにしようとすることはない。また、自分のものと言う意識がないから、捨てるということもない。

(´・(ェ)・`)つ

265 :
名称と形態でよいのじゃ。
全ての観念はそれに縁ってできているのじゃ。
それがなければ観念も無いのじゃ。

266 :
1ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、15、武器を執ること

950 名称と形態について、<わがものという思い>の全く存在しない人、また(何ものかが)ないからといって悲しむことのない人、──かれは実に世の中にあっても老いることがない。

951 「これはわがものである」また「これは他人のものである」というような思いが何も存在しない人、──かれは(このような)<わがものという観念>が存しないから、「われになし」といって悲しむことがない。

952 苛酷なることなく、貪欲なることなく、動揺して煩悩に悩まされることなく、万物に対して平等である。──動じない人について問う人があれば、その美点をわたくしは説くであろう。

953 動揺して煩悩に悩まされることなく、叡智ある人にとっては、いかなる作為も存在しない。かれはあくせくした営みから離れて、至るところに安穏を見る。

954 聖者は自分が等しい者どものうちにいるとも言わないし、劣った者のうちにいるとも、勝れた者のうちにいるとも言わない。かれは安らいに帰し、取ることもなく、捨てることもない。

 ──と師は説かれた。

|\
∴∴∴
(´・(ェ)・`)つ

267 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、16、サーリプッタ

955 サーリプッタさんが言った、
──「わたくしは未だ見たこともなく、また誰からも聞いたこともない。──このようにことば美わしき師(ブッダ)、衆の主がトゥシタ天から来りたもうたことを。

956 眼ある人(ブッダ)は、神々及び世人が見るように、一切の暗黒を除去して、独りで(法)楽をうけられた。

957 こだわりなく、偽りなく、このような範たる人として来りたもうた師・目ざめた人(ブッダ)であるあなたのもとに、これらの束縛ある多くの者どものために問おうとして、ここに参りました。

958 修行者は世を厭うて、人のいない座所や樹下や墓地を愛し、山間の洞窟の中におり、

959 または種々の座所のうちにいるのであるが、そこにはどんなに恐ろしいことがあるのだろう。──修行者は音のしないところに坐臥していても、それらを恐れて震えてはならないのだが。

(´・(ェ)・`)つ

268 :
>>267
○毎田周一先生訳
955.
「私の今までに 見たことも
と尊者サーリプッタはいった
また誰からも聞いたこともないことであります――
かくも美しい言葉で話される師が遂に 
トゥシタ天からこの地上へ多くのものに教えようとしておいでになりました

この経はスッタニパータの第4章の最後、16番目の経。21偈から構成されている。始めの8偈はサーリプッタ尊者のブッダに対する讃辞と質問。その後の13偈はブッダの解答。
サーリプッタ尊者とは、仏弟子中智慧第一と言われる方で、モッガラーナー尊者と並んでブッダが最も信頼されていた弟子の一人。
この955で一番重要なところは、「私の今までに、見たことも、また誰から聞いたこともないことであります。」という言葉。この意味することは、ブッダが話される言葉は真理の言葉(智慧の言葉)であるということ。
真理を体得したブッダののみが語る言葉だから、ブッダの現れる以前には見たことも、聞いたこともない言葉なのである。それをまた美しい言葉とも表現している。
四行目「衆の主がトゥシタ天から来りたもうたことを。」の意味は、中村元先生の訳書「ブッダの言葉」に次のように注釈してある。「トゥシタ天――Tusita. 兜率天、都史多天などと表記する。天上にあるすばらしい楽しいところ。
後代の仏教宇宙論によると、欲界のうちにあるが、ヤーマ天(夜摩天)と楽変化天との中間にあるとされた。
ここでは、ブッダはこの世に生まれる前にトゥシタ天に住し、そこから没して、カピラ城の近くのルンビニー園で生まれたという伝説をいう。」(以上引用)。尚、「衆の主」とはブッダのこと。

○毎田周一先生訳
956.
神々と世の人々とが
じっと見ているその前で 『眼ある方』は
一切の暗黒を除き去り 
ただ一人深い喜びを享受せられました

「神々を含む世界(人々)に見えるように」とは、「神々を含む世界に見えるように、人間達にも見えるように」という意味と、「ありのままに、誤りなく見えるように」という意味があると注釈書には書いてある。
「眼ある方=眼ある人」とはブッダのこと。
「一切の暗黒=一切の闇」とは、一切の無明、一切の煩悩のこと。
前人未踏の境地(涅槃)をブッダが初めて体得したので、「ただ一人¬=独りで=まさしく、一人」と表現されている。
「深い喜びを享受せられました=(法)楽をうけられた=〔真の〕喜びに到達しました」とは、ブッダは解脱して、涅槃の境地に達したことを示している。

(´・(ェ)・`)つ

269 :
>>267
○毎田周一先生訳
957.
自由な明るいお心のそのままに 
多くのものに教えようとしてお出で下さった
『目覚めた方』のもとへ私がまいりましたのは
ここにいる多くの未だ束縛を離れ切れないでいるもののために
お尋ねしようと思ってであります。

一行目「依存なき方に、如なる方に、虚言なき方に」(正田先生訳)を、毎田先生は意訳して「自由な明るいお心のそのままに」と訳されている。
二行目「〔兜率天から〕やってきた〔世の〕衆師たる方に」(正田先生訳)は、毎田先生は「多くのものに教えようとしてお出で下さった」と訳されている。「お出で下さった」とは、正田先生の説明にあるように「兜率天から」お出で下さった。
三行目、「これらの束縛ある多くの者どものために」(中村先生訳)の「束縛ある者」とは、弟子は師のもとで生き方が束縛されているから、弟子を意味している。
また、「多くの者ども」とは王族を意味していると注釈書に書かれている。これらの人々はサーリプッタ尊者の弟子達を意味している。このように理解しても良いが、まだ覚ってない弟子達と理解してもよい。毎田先生の訳はそのように取っている。
四行目「問おうとして、ここに参りました。」(中村先生訳)の解釈は注釈書に三通りに書いてある。
「質問をしたくて私はやってきたのです。」或は「質問をしたい人が来ました。」もう一つは「質問を求める者が来たのです。」と。始めの訳でよい。

○毎田周一先生訳
958.
世を厭うて修行する者が 
人里離れた坐る場所や
木の根もとや墓場や 
山々の洞窟や

959.
高いまたは低い臥せる場所に 親しみ住んでいる時 
そこにはどんなに多くの怖ろしいことがあるでしょう
しかし修行する者は その物音のしない処に坐り又臥しながら 
それに怖れおののいていてはならぬと思います

958と959は一つながりの偈。
サーリプッタ尊者は、多くの弟子を連れて、目覚めた方ブッタのもとに訪れた。その理由はまだ覚ってない弟子達のために、質問するためだった。
その質問の始めるにあたり、サーリプッタ尊者は弟子達の決意をこの偈で述べた。
弟子達は、世俗の生活を厭って、即ち嫌って、修行を行う。何故ならば、世俗の生活が苦しみの原因だと考えたから。
そのため、彼らは、村里から離れた寂しい場所、森の中の人のいない場所、木の下や墓地、山奥の洞窟の中などの瞑想などの修行をする。
しかし、そのような場所にはいろいろな危険な生き物がいる。修行者の中にはそれらに対して恐れを抱くものいる。しかし、サーリプッタ尊者は、ブッダの教えを乞う者はそれらに対して怖れてはならぬと表明した。

(´・(ェ)・`)つ
>>266は重複してしまったであります。

270 :
何度もよむとよいのじゃ。
それも修業になるのじゃ。

271 :
1ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、16、サーリプッタ

960 未到の地におもむく人にとっては、この世にどれだけの危難があることだろう。──修行者は辺鄙なところに坐臥していても、それらの危難にうち克たなければならないのだが。

961 熱心につとめる修行者には、いかなることばを発すべきか? ここでかれのふるまう範囲はいかにあるべきか? かれのまもる戒律や誓いはどのようなものなのですか?

962 心を安定させ気を落ち着けている賢者は、どのような学脩を身に受けて、自分の汚れを吹き去るのですか? ──譬えば鍛冶工が銀の垢を吹き去るように。」

963 師(ブッダ)は答えた、
「サーリプッタよ。世を厭い、人なき所に坐臥し、さとりを欲する人が楽しむ境地および法にしたがって実践する次第を、わたくしの知り究めたところによって、そなたに説き示そう。

964 しっかりと気をつけ分限を守る聡明な修行者は、五種の恐怖におじけてはならない。すなわち襲いかかる虻と蚊と爬虫類と四足獣と人間(盗賊など)に触れることである。

(´・(ェ)・`)つ

272 :
>>271
1○毎田周一先生訳
960.
不死の世界へゆこうとするものにとって 
この世にどれ程の危難があるでしょうか
修行者は 人里離れたところに坐り又臥しながら 
それに打克たねばならぬでありますが

サーリプッタ尊者の最初の質問は、一行目、二行目。「不死の世界へゆこうとするものにとって 
この世にどれ程の危難があるでしょうか」(毎田先生訳)。ここで「不死の世界」と訳されているところは、中村先生は「未到の地」、正田先生は「〔いまだ〕赴かざる方角(涅槃)」と訳された。正田先生がカッコの中で説明されたように「涅槃」。
しかし、涅槃という言葉は知られているが、その内容は理解できない。そのため、不死の世界とか、未到の地とか、いまだ赴かざる方角と訳される。さらにそこに向う道程には予想が出来ない。
そのため、「涅槃に向おうとする修行者にとって、どのような危険と困難がありますか」と涅槃に到達されたブッダに質問された。
三行目、四行目では、サーリプッタ尊者は、そのような危難は乗り越えなければならないものと覚悟をしていると述べた。

○毎田周一先生訳
961.
もののいい方はどのように心すべきでありましょうか 
又ここでどれ丈のことをなすべきでありましょうか
固い決心をしている修行者の守らねばならぬことは 
どいうことでしょうか

サーリプッタ尊者の次の質問は、涅槃に向うことを決意した修行者の行動について。
人間の行動は身口意に分類できる。身とは身体による行動。口とは言葉による行動。意とは心による行動。
すべての行動は始めに心による行動があり、それに続いて言葉或は身体の行動が始まる。だから、心の行動、すなわち心の動きに注意することが一番大切。
しかし、心の行動、心の動きには姿形がないから、また心の動きスピードが速いため、気づくことが難しい。
そこで、自分の行為を律しようとする修行者は、まず言葉の行為あるいは身体に行為に注意を向けて、行動を制する。
それから心の動きに気づけるようになる。心の動きを制御するためには、戒めや誓願が必要。
そのため、この偈では修行者の言葉について、次に身体の行為のあり方について、そして心を制御するために必要な戒や誓いについて質問している。

○毎田周一先生訳
962.
心を集中して目覚めている賢い人は 
どいう智慧を体得して
あたかも鍛冶屋が銀の垢を吹き去るように
自分の汚れを除くのでありましょうか」
(○正田大観先生訳969.(962)
彼は、どのような学びを受持して、
〔心が〕専一なる者となり、賢明なる者となり、気づきある者となり、
鍛冶屋が銀の〔垢を取り除く〕ように、
自己の垢を取り払うのですか」〔と〕。(8))

今回はサーリプッタ尊者が弟子のために尋ねた最後の質問。仏教徒の最終目標である解脱を達成して涅槃に到るにはどのようにすれば良いかという問い。
原文の直訳に近い正田先生の訳に沿って説明。「彼は」とは修行者。「どんな学びを受持して」とは、どんな修行をしてということ。
「専一な者」とは、心を集中して、心を安定させた者。すなわち禅定のある者。「賢明な者」とは智慧のある者。「気づきある者」は、自分の身口意に気づいている者。
これらの三つの資質を持つ者が、自分の垢、即ち煩悩を取り除くことが出来ると述べていることになる。そして、すべて汚れ、煩悩を取り除けば解脱するということになる。
毎田先生は、「どんな智慧を体得して、自分の汚れを除くのでありましょうか」の訳から、これらの三つの資質をまとめて、どのような智慧を体得することが必要かということになる。

(´・(ェ)・`)つ

273 :
>>271
○毎田周一先生訳
963.
「世を厭いて 人里離れた坐る場所や臥せる場所にいて 最高の智慧を求めるものが
サーリプッタよ と世尊は言われた
どのようなことを楽しみ
また 如何に真理のままに生活してゆくかを
私の知り得たままに あなたに話してあげよう

ブッダはその解答を、次のような者に説くことを語る。
@世を厭う者=〔世俗の生活を〕忌避している者
A人のいない坐臥所に親しむ者=人里離れた坐る場所や臥せる場所にいる者=〔無用となり〕遠ざけられた坐所と臥所に慣れ親しんでいる者
B最高の智慧を求める者=さとりを欲する人=正覚を欲する者
次に何を説くかを語る。
@どのようなことを楽しみ=さとりを欲する人が楽しむ境地=平穏〔の境地〕
A如何に真理のままに生活してゆくか=法にしたがって実践する次第=(正田先生訳ではこの項は、どのように説くかの項に入れてある。)
更に、ブッダはどのように説くか語る。
「私の知り得たままに あなたに話してあげよう。」=「わたくしの知り究めたところによって、そなたに説き示そう。」=「法(真理)のままなるとおりに、それを、あなたに言示しましょう
――〔わたしが〕覚知している、そのとおりに。」

○毎田周一先生訳
964.
いつも目醒めて 心をひきしめている修行者は
五つの恐れを しかも恐れてはならない――
即ち 虻(あぶ) 蚊と 爬虫類と
人間への接触と 四足獣とである

修行者は五つの恐怖を恐れてならないというもの。五つの恐怖とは、@虻アブとA蚊(蚋ブヨとも訳されている。)とB爬虫類(蛇など)とC人間との接触とD四足獣です。

「C人間との接触」の人間は盗賊などを指していると思われるが、修行者は盗賊でなくてもすべての人間との接触を恐れてはならない。一切の生命に慈悲の心を育てようとする修行者はどんな人間も恐れてはならない。
(´・(ェ)・`)つ

274 :
インドは熱帯であるから虫や爬虫類も多かったのじゃ。
それらをも恐れず修業すべきなのじゃ。

275 :
>>274
なかなかの苦行のように思えるであります。
(´・(ェ)・`)つ

276 :
1ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、16、サーリプッタ

964 しっかりと気をつけ分限を守る聡明な修行者は、五種の恐怖におじけてはならない。すなわち襲いかかる虻と蚊と爬虫類と四足獣と人間(盗賊など)に触れることである。

965 異った他の教えを奉ずる輩を恐れてはならない。──たといかれらが多くの恐ろしい危害を加えるのを見ても。──また善を追求して、他の諸々の危難にうち勝て。

966 病いにかかり、餓えに襲われても、また寒冷や酷暑をも耐え忍ぶべきである。かの<家なま人>は、たといそれらに襲われることがいろいろ多くても、勇気をたもって、堅固に努力をなすべきである。

967 盗みを行なってはならぬ。虚言を語ってはならぬ。弱いものでも強いものでも(あらゆる生きものに)慈しみを以て接せよ。心の乱れを感ずるときには、「悪魔の仲間」であると思って、これを除き去れ。

968 怒りと高慢とに支配されるな。それらの根を掘りつくしておれ。また快いものも不快なものも、両者にしっかりと、うち克つべきである。

969 智慧をまず第一に重んじて、善を喜び、それらの危難にうち勝て。奥まった土地に伏す不快に堪えよ。次の四つの憂うべきことに堪えよ。

(´・(ェ)・`)つ

277 :
>>276
○毎田周一先生訳
965.
異教を奉ずるものも恐れてはならぬ
たとえ彼等に幾多の恐るべきもののあるのを見ても――
そして又善いことを求めて止まぬものは
その他の危難にも打克ってゆかねばならない

964で虻と蚊と蛇と人間との接触と猛獣の五つの恐怖を恐れてはいけないと説かれた。怖れるということは、それらを嫌うということで、それらに悪意をもつこと。
そもそも善を求め、心の汚れを除こうとする修行者の心に悪意があってよいのか。悪意は取り除かなければならない。すべての生命に慈しみの心を持たなければいけない。
965では、五つの恐怖の外にも、異教徒に対しても恐れてはならないと説かれている。
ブッダの時代のインドでも新興の仏教に対して、多くの異教徒から迫害や嫌がらせもあった。その後も、イスラム教による仏教寺院と経典の焼き討ちや仏教徒の迫害などがあった。現代でも異教徒のそのような行為は続いている。
しかし、それらを恐れてならない。そればかりではなく、慈しみの心で接することを考えなければならない。
この偈では、更にその他の諸々の危難を征服するようにと説かれている。

○毎田周一先生訳
966.
病気に罹(かか)り飢えに襲(おそ)われても
又寒さやひどい暑さにあっても それを堪え忍ばねばならない
――ことに家を離れて修行するものにそういうことが多いのではあるが
自らを励まし 勇気をもって しっかりと自分の道を行かなければならない

965の四行目に「その他の危難にも打克ってゆかねばならない」と説かれていた。その他の危難とは、具体的には今回に述べられている「病気と飢えと寒さと暑さ」。
病気になると、身体の何処かが痛くなる、或は苦しくなる、身体の自由が効かなくなる、またそれらのことから、死ぬのではないかという恐怖が現れる。
そのため、身体の支配者であるべき心は身体の奴隷になり、いつも身体の心配をして、考えることは病気のことばかりで、自分にとって一番大切なことは、病気が治ることになる。
善を求め、心の汚れを取ることがおろそかになってしまう。その意味で修行者にとって病気は大きな危難。
「飢えは最大の病である。」(ダンマパダ203)と言われるから、病気が修行者の大きな危難であれば、「飢え」は修行を妨げる最大の危難。
飢えた人には、修行などはどうでもよいものになってしまう。瞑想していても食べ物に関する妄想が頭に去来する。しかし、固い決心をした修行者はこれらを克服する。
病気や飢えの危難がなければ、寒さと暑さは修行者にとって大きな危難になる。
ブッダの活動されていたインド東北部の乾季は非常に寒く、夏の暑さは非常に厳しいもの。現代の日本の状態からは考えられないもの。だから、寒さ暑さというものも大きな危難。
しかし、怠け者の修行者にとっては、寒さ暑さは怠けの言い訳になるから、寒さ暑さも危難と言えるのです。修行中、寒い暑いという心が現れたら、心に怠けが現れたと注意しなければならないということ。
修行に集中していれば、寒さ暑さはあまり気にならないもの。修行者は怠け心に負けてはならない。
(´・(ェ)・`)つ

278 :
>>276
○毎田周一先生訳
967.
盗むことなく 嘘をつかず
弱いものにも強いものにも ひとしく慈愛を持って接するがよい
心の乱れに気付いたら
『暗黒の部分』が働くのだと それを取払うがよい

966で「寒さ暑さを耐え忍ぶべきだ」と述べたが、苦行を強いるものではない。仏教は苦行を奨励しない。なるべく、寒くもなく暑くもない処で修行できればそれが望ましい。しかし、少しの寒さや少しの暑さで弱音を吐くなと言うこと。
961でサーリプッタ尊者はブッダに以下のように質問しました。
熱心につとめる修行者には、
いかなることばを発すべきか? 
ここでかれのふるまう範囲はいかにあるべきか? 
かれのまもる戒律や誓いはどのようなものなのですか?(中村先生訳)
この質問に対するブッダの解答が967。
1.「いかなることばを発すべきか?」に対して、「虚言を語ってはならぬ。」
これは「偽りを語らない」ということ。
2.「ここでかれのふるまう範囲はいかにあるべきか?」に対しては、「盗みを行なってはならぬ。」及び「弱いものでも強いものでも(あらゆる生きものに)慈しみを以て接せよ。」
前者は「与えられていないものを取らない」ということであり、後者は「生き物を殺さない」ということ。
3.「かれのまもる戒律や誓いはどのようなものなのですか?」に対して「心の乱れを感ずるときには、「悪魔の仲間」であると思って、これを除き去れ。」である。
これは「淫らな行為をしないこと。」及び「放逸の原因となり人を酔わせる酒・麻薬類を使用しない」ということ。
このように考察すると今回の偈は五戒の初期的な表現であると見ることが出来る。

○毎田周一先生訳
968.
怒りと思い上りとの力に屈せず
それらの根を掘りつくして 立たねばならない
そして又好き嫌いをいうことを
すっきりとあなたは克服せねばならぬ

煩悩は三つに分類できる。欲と怒りと愚かさ。最終的にはこの三つをなくすことが目標。
このうち欲は、なくすべきものですが、自分にとって必要なものと思っているから、なくそうという思いがなかなか現れない。
愚かさは欲よりも自分では気づけない。愚かさが現れている時は本当に愚かで、気づくということからかけ離れているからである。
この三つの中では怒りは、気づきやすいもの。しかも、怒りがある時は気分が悪い。本人も怒りたくないと思っている筈。
そこで968では怒り、特に激しい怒り、憤激をとりあげている。
憤激は非常に危険。憤激の結果に現れることは、すべて周りの人々も自分自身も不幸にしてしまう。あとで必ず、憤激さえしなければよかったということになる。
憤激というのは、高慢、過度な慢心から現れることが多い。謙虚な人はあまり怒ることはない。特に憤激などはしない。思い上り、高慢の態度を改めることにより、怒りを少なくすることが出来る。
そして、怒りと高慢の根を掘り尽くして、怒りと高慢を根絶するように説かれている。
968の後半は、好き嫌いをなくすように説かれている。ここでは怒りと関連して考えてみる。
怒りはとくに嫌いなものに対して現れる。好き嫌いの感情が少ない人は怒りはあまり現れない。怒りをなくすためには好き嫌いをなくすことも重要。好き嫌いをなくすことは欲の感情を少なくすることにもなる。
好き嫌いの感情は妄想が作り出すものなので、妄想をなくせば、好き嫌いの感情が少なくなる。この逆も言えることで、好き嫌いの感情を少なくすれば、妄想を少なくすることにもなる。

○毎田周一先生訳
969.
智慧を尊び 善行を楽しみ
以上に述べた危難に打克ち
人里離れた臥せる場所の不快に堪えて
次にいう四つの悲しみをこえねばならない

二行目の「以上述べた危難」とは、964の「虻、蚊、蛇、猛獣、人間」、965の「異教徒」、966の「病気、飢え、寒さ、暑さ」など。これらの堪え忍べと説かれていた。
しかし、968の一行目、二行目の「智慧を尊び 善行を楽しみ、以上に述べた危難に打克ち」とは、ただ堪え忍び、危難に打克てということではなく、智慧を発揮して、それを智慧を実践することで、危難に打克てと説かれている。
覚悟の決まった修行者は危難の時、智慧が現れる。そのことを特にここで述べられている。
(´・(ェ)・`)つ

279 :
>>275 そのようじゃ。
 オショーもたくさんの蚊には困っていたのじゃ。
 今安楽に修業できるものは幸運なのじゃ。

280 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、16、サーリプッタ

970 すなわち『わたしは何を食べようか』『わたしはどこで食べようか』『(昨夜は)わたしは眠りづらかった』『今夜はわたしはどこで寝ようか』──家を捨て道を学ぶ人は、これら(四つの)憂いに導く思慮を抑制せよ。

971 適当な時に食物と衣服とを得て、ここで(少量に)満足するために、(衣食の)量を知れ。かれは衣食に関して恣ままならず、慎しんで村を歩み、罵られてもあらあらしいことばを発してはならない。

972 眼を下に向けて、うろつき廻ることなく、瞑想に専念して、大いにめざめておれ。心を平静にして、精神の安定をたもち、思いわずらいと欲のねがいと悔恨とを断ち切れ。

973 他人からことばで警告されたときには、心を落ちつけて感謝せよ。ともに修行する人々に対する荒んだ心を断て。善いことばを発せよ。その時にふさわしくないことばを発してはならない。人々をそしることを思ってはならぬ。

974 またさらに、世間には五つの塵垢がある。よく気をつけて、それらを制するためにつとめよ。すなわち色かたちと音声と味と香りと触れられるものに対する貪欲を抑制せよ。

(´・(ェ)・`)つ

281 :
>>280
1○毎田周一先生訳
970.
「私は何を食べようか」「私はどこでたべようか」
「私は昨夜よく眠れなかった」「私は今日どこで寝ようか」という――
この四つの悲しみをさそい出す考えを
家を捨てて道を修める人は払い去らねばならぬ

何と具体的なのか? 仏教の修行はすべて具体的なもの。真のやさしさも具体的なもの。慈しみは具体的な言葉や行動で表現されるもの。これらの言葉にブッダの慈しみが感じられる。
「家を捨てて道を修める人」は、嘆き悲しみ(悩み)なるような思い・考えを止めるように説かれた。
いろいろ考えるから悩みになる。大丈夫だと思っていれば、悩みはない。大丈夫だと思えないと言うかもしれない。いろいろ考えることは無数にできるが、実際に起こることはそのうちの一つか、それ以外の事柄。
だから心配することは起らないと考えてよい。考えるだけむだ。

万が一不幸なことが起きても、だからどうなのか、起きたことは起きたこと。不幸とも言えないのである。その出来事に対応すればよい。困難があれば、智慧を発揮するチャンス。だから大丈夫なのだ。

○毎田周一先生訳
971.
ほどよい時に食物と衣服とを得られたら
それに充分に満足し その量に足ることを知って
それに向かう心を引締め 慎み深く村を行き
辱められても荒々しく言葉を返してはならない

比丘は托鉢によって、生活の糧を得る。それを乞食(こつじき)と言う。労働はしない。労働とは生活の糧は得るために、体力を使って働くことだが、比丘はそれをしない。
何故ならばそれは世間の生き方だから。比丘は世間の生き方から離れるために、労働をしないで乞食をする。
乞食では、適宜必要な時に、必要は量の食べ物を得たらそれで満足をしなければいけない。必要な量とは、空腹の苦しみをなくし、満腹の苦しみにならない量。比丘はその量を知って、求め過ぎてはいけない。
乞食(こつじき)は「こじき」とも読む。「こじき」は世間では普通尊敬される行為ではない。それは働かないで生活の糧を得る方法だから。それを世間では怠け者と見なすから。
「こつじき」と「こじき」は外からみれば同じように見える。そのため、世間の人々から、侮辱的な言葉を投げかけられる時もある。しかし、比丘はそれに対して粗暴な言葉を返してはならない。
何故なら比丘は覚悟して、世間から離れる生き方をしているのだから。
比丘が世間から離れた生き方をするのは、世間の生き方は欲に基づく生き方だから。
欲から離れた生き方は解脱するため。解脱は一切の苦しみから離れた平安な涅槃に到るため。

○毎田周一先生訳
972.
眼を下にじっと向けて うろうろと歩き廻らず
深い思いの中にあって 何事にもよく気付き
心の靜けさを保って 喜びも悲しみも届かぬ処へゆきつかねばならない
そして疑いの起る余地をなくして 後悔の念をたちきらねばならない

「眼を下に向けて」は、生物を傷つけないように下を向いて歩くという解釈もあるが、この偈の全体の流れからは、自分の内面に意識を向けるということだと思われる。
「うろうろと歩き廻る」は何かを求めて探し求めるというイメージ。ここでは「うろうろと歩き廻らず」だから、探し回らない。求めるものがない。欲がない。満足しているということになる。
「瞑想(禅定)に専念して」は、注釈書によると、「未だ生じてない禅定を生じさせ、また既に生じた禅定に習熟すること」となっている。
禅定のレベルは、八正道の正定で、ブッダは第四禅定までを定義しておられる。ブッダは第四禅定までを推薦していると考えられる。
三行目「平静をもって自己を統一し」(パーリ語原文からの訳)とは、第四禅定を体験して、自己を統一すること。
第四禅定とは、五禅支という禅定の時の五つの心の要素(尋、伺、喜、楽、一境性)のうちの、尋、伺、喜、楽がなく、一境性(集中力)と捨(平静で平等な心)のみがある禅定を言う。
そして、四行目「思いわずらいと欲のねがいと悔恨とを断ち切れ。」と結んである。深い禅定状態にある心には、「思いわずらいと欲のねがいと悔恨」はない。「思いわずらいと欲のねがいと悔恨」があると禅定には入れない。
(´・(ェ)・`)つ

282 :
>>280
○毎田周一先生訳
973
人から非難されたら その言葉を深く考えて(よくこそいってくれたと)喜びを感ぜねばならぬ
共に道に勤(いそ)しむ者に対しては 心を明るく開いて接し
その時にふさわしいよい言葉を用い
無駄話に過ぎないことは思うことすらないようにするがよい

972は瞑想修行について説かれたものだが、973は日常生活における修行について説かれたもの。
一行目「人から非難されたら その言葉を深く考えて(よくこそいってくれたと)喜びを感ぜねばならぬ」(毎田先生訳)。これはなかなか出来ないこと。
他人から非難されれば、それを受け入れて、反省するのではなく、非難に反発する心が現れる場合が多いが、自分の欠点を指摘してくれる宝のような言葉と受け入れられるならば、自分の欠点を自覚でき、それを自分を修正できる。
だから非難する人に対しては、自分の先生のように思い、感謝すべき。
ダンマパダ76参照。
二行目。「ともに修行する人々に対する荒んだ心を断て。善いことばを発せよ」(中村先生訳)。「ともに修行する人々」とは修行仲間。
これを少し広く解釈して、日常生活で関わりのある人々と理解。
それらの人々の中には、自分の苦手な人、嫌いな人もいる。それらの人々は自分を非難しなくとも、側にいるだけで嫌。彼等も自分の先生。彼等は自分の側にいるだけで、先生になってくれるので有り難い存在。
私が嫌っているのは彼等の自我だし、嫌っている私は私の自我。自我と自我の対立。妄想のかたまりである自我の対立に惑わされてはいけないということも分かってくる。
そして、何とか頑張って、「善いことばを発す」努力を続ければ、少しずつ心が変わってくる。彼等も私に優しい言葉をかけてくる。このようにして、自分の心が変わるのが分かる。

○毎田周一先生訳
974.
又更に世の中には五つの汚れがある
深くものを考える人は それを除くことを学べねばならない――
即ち形と声とそして又味と
香りと触れることとであって それらのものに向う貪りを捨てねばならない

ブッダはサーリプッタ尊者の質問に答えて、初めに「五つの恐れがあって、それらに恐れてはならぬ。」と答えられた。それらは虻と蚊と蛇と人間との接触と猛獣でした。その他、異教徒や病気や飢えの危難についても説かれた。
そして、今回は、「又更に世の中には五つの汚れがある」と述べられる。それらは、形と声と香り味と触れること。形とは眼の対象。声とは耳の対象。香りとは鼻の対象。味とは舌の対象。触れることとは身体(皮膚)の対象。
何故これらが汚れなのか?ここで汚れとは心の汚れを意味しているが、心の汚れは欲と怒りと愚かさ(無智)。
形が眼に作用すると、心は「快」か「不快」か「快でも不快でもない」のいずれかを感じる。快を感じる時はその快を失いたくない、もっと欲しいという欲が現れる。
不快を感じる時はその感覚を嫌がる怒りの感情が現れる。
また快でも不快でもない時は無関心の状態になり、愚かさ(無智)という汚れの状態になる。
という訳で、形は心の汚れになる。同様に声、香り、味、触れることは心の汚れになる。心の汚れに執着すること貪欲と言う。貪欲は打ち負かさなければならない。
(´・(ェ)・`)つ

283 :
それが制感の行なのじゃ。
五つの感覚を制して無我に入るのじゃ。

284 :
>>283
鬼和尚、こんばんは。
>974 よく気をつけて、それらを制するためにつとめよ。
とは、五感から、執着に連結しないようにしろということでありましょうが、これは、ありのままの観察だけでは達せられることでは無さそうであります。
又、
>貪欲を抑制せよ。
とも言ってますので、
感覚を抑制する、我慢するといった訓練になるのでありましょうかね?
(´・(ェ)・`)つ

285 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、16、サーリプッタ

975 修行僧は、よく気をつけて、心もすっかり解脱して、これらのものに対する欲望を抑制せよ。かれは適当な時に理法を正しく考察し、心を統一して、暗黒を滅ぼせ。」
 ──と師(ブッダ)はいわれた。

<八つの詩句の章>第四おわる

まとめの句
 欲望と、洞窟と、悪意と清浄と、最上と、老いと、メッテイヤとバスーラと、マーガンディヤと、死ぬよりも前にと、争闘と、二つの<並ぶ応答>と、迅速と、武器を執ることと、サーリプッタの質問とで、十六になる。
 これらの経はすべて<八つの詩句の章>である。

○毎田周一先生訳
975.
思いも深く よく心の自由を得た修行者は
これらの五つのものに対する強い欲求を離れ
時を外さず 物事を正しく考え抜き
心を集中して暗黒を払い去ってゆくに違いない
  ――と世尊は言われた――

毎田先生訳「これらの五つのもの」とは、974で述べられた「五つの汚れ」のこと。
すなわち、形と声と香りと味と触れること。これらのものが貪瞋痴を作り出すから、これらに対する欲求から離れる。解脱して、これらの欲求から離れると書いてあるが、これらの欲求から離れると解脱する。同一の事柄。
またこのことは、諸々の煩悩から離れることだから、覚ることでもある。この偈に書かれている暗黒とは無明のこと。無明を破ることは覚ること。無明を破るためには、無明を破る智慧が必要。
四行目「心を集中して暗黒を払い去ってゆくに違いない=心を統一して、暗黒を滅ぼせ=〔心が〕専一と成った者、〔世の〕闇を打破するでしょう」は、心は禅定に入り、そして智慧が現る
智慧が現れないと、禅定に入れないということでもある。(ダンマパダ282、372参照)そして無明が破れるの。修行の完成。修行の完成を持って、「サーリプッタ経」が終わり、そして「第4 八つの詩句の章」も終わる。

(´・(ェ)・`)つ
止観の止による禅定ということは、抑制や我慢とはやっぱり違うのでありましょうか?

286 :
1ブッダのことば(スッタニパータ)
第5 彼岸にいたる道の章、1、 序

976 明呪(ヴェーダ)に通じた一バラモン(バーヴァリ)は、無所有の境地を得ようと願って、コーサラ族の美しい都から、南国へとやってきた。

977 かれはアッサカとアラカと(両国の)中間の地域を流れるゴーダーヴァリー河の岸辺に住んでいた、──落穂を拾い木の実を食って。

978 その河岸の近くに一つの豊かな村があった。そこから得た収益によってかれは大きな祭りを催した。

979 かれは、大きな祭りをなし終って、自分の庵にもどった。かれがもどってきたときに、他の一人のバラモンがやってきた。

980 足を傷め、のどが渇き、歯がよごれ、頭は塵をあびて、かれは、(庵室の中の)かれ(バーヴァリ)に近づいて、五百金を乞うた。 
(´・(ェ)・`)つ

287 :
>>286
第5 彼岸に到る道の章 第1経 序偈 1.

976
スッタニパータの最後の「第5 彼岸に到る道の章」が始まる。ヴェーダ聖典の奥義に精通したバラモンの師バーヴァリが16人の彼の高弟を連れてブッダの所に訪れた。
この偈のバラモンがバーヴァリ師。
無所有の境地は所有物や生活資材から離れることと言われている。

977
この偈の「彼」とは、バラモンのバーヴァリ師。彼はヴェーダに通暁していた達人で、コーサラ国の輔相(国師、司祭)であとたが、高齢になったため、それを辞退して、出家して、無所有の境地を目指していた。
コーサラ王からは手厚い保護を受けていた。しかし、彼自身は落穂や木の実を生きる糧としていた。
落穂は収穫のあとに落ち散った稲などの穂だから、不要になったものであり、また木の実は樹木にとっては取られることが期待されたものだから、樹木を害するものではない。

978
ゴーダーヴァリー川の近くに大きな村があった。その村で耕作などによって百千金に及ぶ収益が生まれた。
資産家たちはアッサカ国の王の処に行って、「王様、収益を使って下さい。」と申し出た。しかし王は「私はそれを使わない。バラモンの処に持って行きなさい。」と言った。
バラモン(バーヴァリ)は、それを自分で使わないで、布施供養祭を営んだ。このようにして彼は毎年毎年、布施を行っていた。

979
ある他のバラモンがバーヴァリ・バラモンを庵に訪れたことが、「第5 彼岸に到る道の章」が始まる切っ掛けになる出来事。

980
バーヴァリ・バラモンの処にやって来たバラモンは、足を痛め、喉が渇き、歯は汚れ、頭はちりをあびていました。彼は遠くから歩いてやって来たのだろう。
彼は、バーヴァリ・バラモンに近づいて、五百金をくれるように要求した。彼はバーヴァリ・バラモンが王の保護を得て、大きな収入を得て、大きな祭りを営んでいることを聞きつけて、その金の一部を自分にくれるように要求したのだと思われる。
当時のインドでは、今もそうかもしれないが、持たない者が持っている者からもらうということ(インドの常識?)は当然という感覚がある。

(´・(ェ)・`)つ

288 :
>>284 五感を観察する事でも制することができるのじゃ。
 それらを観察すれば自分の目とか見たこととか、自分が見るという自己同一化がなくなるからのう。
 実践あるのみなのじゃ。

 貪欲は三毒の一つなのじゃ。
 煩悩であり、修業の邪魔になるから滅すべきものなのじゃ。
 それだけを抑制しようとしても難しいじゃろう。
 原因から観察する事でそれもなくなるのじゃ。

289 :
>>288
鬼和尚、おはようございます。
ふむふむ。
我慢とか抑制を持ち込むと、「自分の」感覚を我慢、抑制というように、自我を強化してしまうでありましょうかね。
ここにおいても、あくまでありのままの観察が肝心でありますね。
観察されるものは観察するものではないと言うことが腑に落ちてしまえば、一気に解決なのでありましょうが、なかなか落ちぬくまであります。
(´・(ェ)・`)つ

290 :
1ブッダのことば(スッタニパータ)
第5 彼岸にいたる道の章、1、 序

981 バーヴァリはかれを見て、座席を勧め、かれが快適であるかどうか、健康であるかどうか、をたずね、次のことばを述べた。

982 「わたくしがもっていた施物はすべて、わたしが施してしまいました。バラモンよ。どうかおゆるしください。わたくしには五百金がないのです。」

983 「わたくしが乞うているのに、あなたが施してくださらないならば、いまから七日の後に、あなたの頭は七つに裂けてしまえ。」

984 詐りをもうけた(そのバラモン)は、(呪詛の)作法をして、恐ろしいことを告げた。かれのその(呪詛の)ことばを聞いて、バーヴァリは苦しみ悩んだ。

985 それは憂いの矢に中てられて、食物もとらないで、うちしおれた。もはや、心がこのような気持では、心は瞑想を楽しまなかった。

986 バーヴァリが恐れおののき苦しみ悩んでいるのを見て、(庵室を護る)女神は、かれのためを思って、かれのもとに近づいて、次のように語った。

987 「かれは頭のことを知っていません。かれは財を欲しがっている詐欺者なのです。頭のことも、頭の落ちることも、かれは知っていないのです。」

988 「では、貴女は知っておられるのでしょう。お尋ねしますが、頭のことも、頭の落ちることをも、わたくしに話してください。われらは貴女のおことばを聞きたいのです。」

989 「わたしだってそれを知っていませんよ。それについての知識はわたしにはありません。頭のことも、頭の落ちることも、諸々の勝利者(ブッダ) が見そなわしておられます。」

990 「ではこの地上において頭のことと頭の裂け落ちることとを、誰が知っておられるのでですか? 女神さま。どうかわたしに話してください。」

991 「むかしカピラヴァットゥの都から出て行った世界の指導者(ブッダ)がおられまするかれは甘蔗王のの後裔であり、シャカ族の子で、世を照す。

992 バラモンよ。かれは実に目ざめた人(ブッダ)であり、あらゆるものの極致に達し、一切の神通と力とを得、あらゆるものを見通す眼をもっている。あらゆるものの消滅に達し、煩いをなくして解脱しておられます。

993 かの目ざめた人(ブッダ)、尊き師、眼ある人は、世に法を説きたもう。そなたは、かれのもとに赴いて、問いなさい。かれは、それを説明するでしょう。」

994 <目ざめた人>という語を聞いてバーヴァリは歓喜した。かれの憂いは薄らいだ。かれは大いに喜んだ。

995 かのバーヴァリはこころ喜び、歓喜し、感動して、熱心に、かの女神に問うた。
「世間の主は、どの村に、またどの町に、あるいはとせの地方にいらっしゃるのですか?
そこへ行って最上の人である正覚者をわれわれは礼拝しましょう。」

996 勝利者・智慧豊かな人・いとも聡明な人・荷をおろした人・汚れない人・頭のおちることを知っている人・牛王のような人であるかのシャカ族の子(ブッダ)は、コーラサ国の都であるサーヴァッティーにまします。」
(´・(ェ)・`)つ

291 :
>>290

981 982

983 984
注釈書によると「(呪う)用意をしてから」とは、
牛糞・森の花・クサ草などを取って、大急ぎでバーヴァリ・バラモンの庵の戸口に行き、牛糞を地面になすりつけ、花をまき散らし、草を敷き拡げ、左足を長口のある水瓶の水で洗って、七歩ほど行って、自分の足裏をこすって、
このような欺瞞を行って」ということ。
このような何か意味がありそうな欺瞞でバーヴァリ・バラモンを嚇した。バーヴァリさんにとってはとんだ災難だが、このおかげでバーヴァリさんはブッダに会う切掛けになったのだから、よかったのかもしれない。

985 986
バーヴァリさんはヴェーダ聖典に精通したバラモンだったが、それだからこそ自分の知らない呪いの言葉のまやかしに騙されてしまったのかもしれない。呪いの言葉が、矢のように彼の心を打ちぬいて、嘆き悲しむ。
そのため食べ物を食べることもできず、やつれはてる。
それを見かねた、彼の庵を守る女神がバーヴァリさんに近づいて、言葉をかける。

987、988
女神がバーヴァリさんを安心させようとして語った言葉は「かれは頭のことを知っていません。かれは財を欲しがっている詐欺者なのです。頭のことも、頭の落ちることも、かれは知っていないのです。」
(中村先生訳)
バーヴァリさんは、少し安心したかもしれないが、「頭と頭落ち」の意味が分からなければ完全には安心できない。そこで、彼は声をかけてくれた女神にその意味を聞いた。

989 990
女神様も頭や頭落ちについては知らなかった。ただ女神様はそのことについて勝利者が知っていると言った。この場合、勝利者とは一切を知るブッダを意味している。
「頭と頭落ち」とは、ブッダのみが知るもの。そうするとバーヴァリさんでもなくてもその意味を知りたくなる。バーヴァリさんは女神様に、この世界のどこの誰がそれを知っているのか尋ねた。

991 992
女神様は、頭と頭落ちについて知る方を教える。その方は、カピラヴァットという都の出身で、甘蔗王の子孫であり、釈迦族の王子であった。彼は出家して、修行して、悟りを開かれた。
つまり一切の現象に精通し、一切の神通力がり、一切を知る方であり、一切の煩悩を滅尽し、解脱し、一切の依存するものを滅尽した方である。

993 994
中村先生の訳で覚者と正覚者を「目ざめた人」を区別してないが、覚者はBuddhoの訳で一切の法を悟った者という意味で、正覚者はSambuddhoの訳で正しく一切の法を悟った者という意味。
世尊(尊き師)とは、bhagavの訳で六つの福徳をそなえた方という意味。
この六つとは@自在「自分に従わせる徳」、A道・果・涅槃の出世間法、B名声「よい評判」、C吉祥「めでたしるし」、D意欲「思い期待どおりにすべてが成就した徳」、E努力精進と言われている。
さて、バーヴァリさんはヴェーダ聖典に通暁した達人だから、「正覚者」の意味はよく知っていた。彼は「正覚者」という言葉を聞いただけで喜んだ。
「正覚者」は一切知者だから、バーヴァリさんが悩んでいた疑問は、正覚者に聞けば分かるとすぐに理解した。また彼は、正覚者はいつでも現れるものではないと言うことも知っていた。だから、自分は幸運であると思った。

995 996
正覚者がおられることを知ったバーヴァリさんは、大喜びで女神様にその方はどこにおられるか尋ねた。女神様は「コーサラ国の都のサーヴァッティ(舎衛城)におられると答える。
バーヴァリさんの心にその方に対する畏敬の念が現れて、彼はそこに行ってその方に礼拝したくなった。
996では、その正覚者を、勝利者、智慧ゆたか人(多大なる知慧ある方)、いとも聡明な人(優れた広き思慮ある方)、荷を下ろした人(〔人としての〕重荷を離れた方)、汚れのない人(煩悩なき方)、
頭落ちることを知っている人、牛王のような人(人の雄牛たる方)、釈迦族の子と表現している。
(´・(ェ)・`)つ

292 :
>>289 そうじゃ、あるがままに観るのじゃ。
 そうすれば気づくこともおおくなるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

293 :
>>292
鬼和尚ありがとうであります。

ところで、「見るものは、見られるものである」(A)と言う表現を、あちこちで目にするのでありますが、
その意味は、
人が認識している世界は、その人の記憶と照合した上でとらえられた観念であり、世界そのものではなく、むしろ、認識しているその人そのものであると言うような理解で良いのでありましょうか?

くまは、>>289に書いたように、「見るものは見られるものではない」(B)、と考えていたのでありますが、これは間違いでありましょうか?

例えば、身体や心を観察対象として、厭離すると言うことは、自分だと思っていたものは、自分ではなく、自分などどこにもいないと言うことに気付こうとすることだと思うのでありますが、

その際、見るもの(=主体)、見られるもの(=客体)ではないと考えた方がイメージしやすいきがするのであります。

(A)と(B)は反対のことを言ってるようでありますが、(A)は全ては観念に過ぎないこと、実在するもなど何もないと説くときに使われ、(B)は無我を説くときに使われると言うような理解でも良いのでありましょうか?、
(´・(ェ)・`)つ

294 :
1ブッダのことば(スッタニパータ)
第5 彼岸にいたる道の章、1、 序

997 そこでかれは(ヴェーダの)神呪に通達した諸々の弟子・バラモンたちに告げていった、
「来たれ、学生どもよ。われは、そなたらに告げよう。わがことばを聞け。

998 世間に出現すること常に稀有であるところの、かの<目ざめた人>(ブッダ)として命名ある方が、いま世の中に現れたもうた。そなたらは急いでサーヴァッティーに赴いて、かの最上の人に見えよ。」

999 「では(師)バラモンよ。かれを見て、どうして<目ざめた人>(ブッダ)であると知り得るのでしょう? われらはどうしたらそれを知り得るか、それを教えてください。われらは知らないのです。」

1000 諸々の神呪(ヴェーダ)の中に、三十二の完全な偉人の相が伝えられ、順次に一つ一つ説明されている。

1001 肢体にこれらの三十二の偉人の相のある人、──かれには二つの前途があるのみ。第三の途はありえない。

1002 もしもかれが、<転輪王>として家にとどまるならば、この大地を征服するであろう。刑罰によらず、武器によらず、法によって統治する。

1003 またもしもかれが家から出て家なきに入れば、蔽いを開いて、無上なる<目ざめた人>(ブッダ)、尊敬さるべき人となる。

1004 (わが)生れと、姓と、身体の特徴と、神呪(習ったヴェーダ)と、また弟子たちと、頭のことと、頭も裂け落ちることとを、ただ心の中で(口に出さずに)かれに問え。

1005 もしもかれが、見るはたらきの障礙のない<目ざめた人>(ブッダ)であるならば、心の中で問われた質問に、ことばを以て返答するであろう。」

1006 バーヴァリのことばを聞いて、弟子である十六人のバラモン──アジタと、ティッサ・メッテイヤと、プンナカと、およびメッタグーと、

1007 ドーカタと、ウパシーヴァと、ナンダと、およびヘーマカと、トーデイヤとカッパとの両人と、賢者ジャトゥカンニンと、

1008 バドラーヴダと、ウダヤと、ポーサーラというバラモンと、聡明なるモーガラーシャと、大仙人ピンギヤと、──

1009 かれらはすべて、それぞれ衆徒を率い、全世界に命名があり、瞑想を行い、瞑想を楽しむ者で、しっかりと落ち着いていて、前世に宿善を植えた人々であった。

1010 髪を結い羚羊皮をまとったかれは、すべてバーヴァリを礼し、またかれに右まわりの礼をして、北方に向って出発した。

(´・(ェ)・`)つ

295 :
>>294
997 998
バーヴァリさんは、コーサラ国の輔相(国師)の息子として生まれ、三つの大丈夫の相(偉人の相)をそなえ、三ヴェーダの奥義を究め、父の死後は輔相の地位についていたが、三代の王に使えた後、出家した。
彼には16人の年長の奥義をきわめた内弟子がおり、更にそれぞれの内弟子には合計一万六千人の弟子がいた。
バーヴァリさんは、女神様の言葉を聞いて、弟子達を呼び集めた。そして弟子達に「学生どもよ。」と呼びかけるが、
この時の「学生」は、現代語で使われている「がくせい」ではなく、「がくしょう」と読み、今の意味の学生とは違う。研究者や教授という意味に理解した方がよい。なにしろヴェーダの奥義をきわめた達人たちだから。しかし、まだ覚者ではない。
「しかし、今日そのような善い評判の正覚者がこの世に現れたことを聞いた。その方はサーヴァッティーにおられますから、急いでそこに行って、人間として最上の人(両足尊)に会ってくるように。」と弟子達に命じた。
ダンマパダ182参照

999 1000
三十二相については、スッタニパータ「第3大きな章 7.セーラ・バラモン経の序」に記載。

1001 1002 1003
バーヴァリ・バラモンの弟子たちへの、三十二相を持つ偉大な人の説明。つまりこの相を持つ人は輪転王になるか、正覚者になるかのどちらかだということ。

1004、1005
三十二相をそなえた正覚者の能力は凄い。人の心の中が分かる。それはいわゆる他神通と言われる神通力。しかし、この能力は「見るはたらきの障礙のない人」にとっては特別な能力という訳でなく、自然な力なのだと思われる。
なぜならば、人間のすべての行動はその人の心の表現なのだから、その人を、ありのままに見れば当然その人の心が分かってくるからである。
また、他人を自分自身であるように感じる能力があるためで、自分のことならばわかる。

1006 1007 1008
16人のバーヴァリさんの高弟の名前が列挙されている。
これらの16人の弟子の一人一人がブッダに質問。その問答がこの章の本文になる。
序偈におけるバーヴァリさんの疑問、頭と頭落ちに関するブッダの解答は仏教の真髄を示す。

1009 1010
十六人の弟子達は、それぞれが多くの弟子を指導しており、全インド中で名前の知られた有名人であった。また彼等は瞑想にも勝れ、禅定を楽しむ者達でもあった。
「前世に宿善を植えた人々」とは、前世で善い行いをし、それが今世でブッダに会い、また質問できるという幸運にめぐり会ったということ。
結髪とは当時のバラモン達の髪方で、修行者は羊の皮の衣を着ていた。
「右まわりの礼」とは、「自分の右肩を相手の方に向けて、相手の人の回りをめぐること。敬礼の一つ。
右回りをすることは、当時バラモンたちのあいだで行われていて、それを仏教が取り入れたことが解る」と中村先生の「ブッダのことば」の注釈に書かれている。

(´・(ェ)・`)つ

296 :
1ブッダのことば(スッタニパータ)
第5 彼岸にいたる道の章、1、 序

1011 ムラカの(首都)パティターナに入り、それから昔の[都]マーヒッサティへ、またウッジェーニーへ、コ゜ーナッダ、ブェーディサへ、ヴァナサというところへ、

1012 またコーサンビーへ、サーケータへ、最高の都サーヴァッティーに行った。(ついで)セータヴィヤへ、カピラヴァットゥへ、タシナーラーの宮殿へ(行った)。

1013 さらに享楽の都市パーヴァーへ、ヴェーサーリーへ、マガダの都(王舎城)へ、またうるわしく楽しい(石の霊地)に達した。

1014 渇した人が冷水を求めるように、また商人が大きな利益を求めるように、暑熱に悩まされている人が木陰を求めるように、かれらは急いで(尊師ブッダのまします)山に登った。

1015 尊き師(ブッダ)はそのとき僧衆に敬われ、獅子が林の中で吼えるように修行僧(比丘)らに法を説いておられた。

1016 光を放ちおわった太陽のような、円満になった十五夜の月のような目ざめた人(ブッダ)をアジタは見たのであった。

1017 そこで(アジタは)師(ブッダ)の肢体に円満な相好のそなわっているのを見て、喜んで、傍らに立ち、こころの中で(ブッダにつぎのように)質問した。──

1018 「(わが師バーヴァリの)生年について語れ。(バーヴァリの)姓と特徴とを語れ。神呪(ヴェーダ)に通達していることを語れ。(師)バラモンは幾人に教えているのか?」

1019 (師はいわれた)、「かれの年齢は百二十歳である。かれの姓はバーヴァリである。かれの肢体には三つの特徴がある。かれは三ヴェーダの奥義に達している。

1020 偉人の特徴と伝説と語彙と儀規とに達し、五百人(の弟子)に教授し、自分の教説の極致に通達している。」

1021 (アジタいわく)、「妄執を断じた最高の人よ。バーヴァリのもつ諸々の特徴の詳細を説いてください。わたくしに疑いを残さないでください。」

1022 [師いわく]、「かれは舌を以てかれの顔を蔽う。かれの両眉の中間に柔い白い毛(百毫) がある。かれの隠所は覆いに隠されている。学生ょ、(かれの三つの特徴を)このように知れ。」

1023 質問者がなにも声を出して聞いたのでないのに(ブッダが)質問に答えたもうたのを聞いて、すべての人は感激し、合掌して、じっと考えた。──

1024 いかなる神が心の中でそれらの質問をしたのだろか? ──神か、梵天か、またはスジャーの夫なる帝釈天か? ──また[尊師は]誰に答えたもうたのだろう?

(´・(ェ)・`)つ

297 :
>>296
1011
16人の弟子達は、16の都市を巡ってブッダの所に行く。

1012 1013
16という数字はインド文化では満数という意味がある。

1014
ブッダはサーヴァティーにおられると聞いて、そこに向っていたが、ブッダは活動の場所を移動されていた。そこで彼等はブッダの向かわれた場所に移動して行った。
そしてついに、ブッダはパーサーナカ廟(霊地)におられることがわかった。そこは山であった。それで彼等はその山に登った。
その時の彼等に気持ち、真理を求める気持ちを、三つに譬えで表現されている。
先ず、喉の渇いた人が水を飲みたい時の気持ち、商人が利益を求めようとしているときの気持ち、そして、灼熱の太陽の下で少しでも涼しさを求めて日陰を探している時の気持ち。

1015
バーヴァリさんの弟子達が、パーサーナカ廟についた時に、正覚者(ブッダ)は多くの比丘達に敬われて、森の中で吼えるライオンのように、説法をされていた。
「獅子吼とは、獅子のように吼えること声量豊かに語る、雄弁に語ることと思われている向きもあるが違う。雄弁に、大声で、流暢に、また説得力にあふれた話しの仕方ではない。
獅子吼とは、相手が誰であろうとひるむこと無く、正しいことを言う勇気ある姿勢をいう。百獣の王ライオンは勇敢な動物なので、その勇気ある姿勢から『獅子吼』と言っている。

ブッダの説法に関しては、「スッタニパータの第3 大きな章 4.善語経」
450.立派な人々は説いた──
最上の善いことばを語れ。(これが第一である。)
正しい理を語れ、理に反することを語るな。これが第二である。
好ましいことばを語れ。好ましからぬことばを語るな。これが第三である。
真実を語れ。偽りを語るな。これが第四である。
このようにブッダは説法される。これが獅子吼。

1016 1017
彼が正覚者であることを、更に確かめるために、喜びでワクワクして、師匠のバーヴァリさんに教えられて通りに、心の中で声を出さずに問を発した。

1018
アジタさんが心の中でブッダに質問した内容、実はこの質問は師匠のバーヴァリさんに、1004に示されている質問してくれと頼まれた内容。

1004には、生まれ(年齢)と姓と特相と真言(ヴェーダ)と弟子達と頭と頭落ちについて質問してくれと頼まれている。

1019、1020
ブッダは、アジタさんの心の中の問に対して、答えをのべた。

1021、1022
ブッダは、バーヴァリさんの特相について、三つあると答えた。しかし、アジタさんはバーヴァリさんの特相を具体的に知りたいと思った。
そこで、ブッダはバーヴァリさんの舌は大きく、その舌で顔を覆うことができる、また眉の間に白い毛が生えている、さらに陰部は身体の内に隠されていると説明した。
日本語では大舌相(だいぜつそう)、白毫相(びゃくごうそう)、 陰蔵相(おんぞうそう)と言う。

1023 1024
アジタさんの心の中の質問に対して、ブッダが1019、1020、及び1022でお答えになったので、人々に畏敬の念が起こり、合掌して考えた。
如何なる神が心の中で質問したのだろうかと、人々は考えた。この人々はアジタさんを除く、バーヴァリさんの15人の弟子とその弟子達。彼等は神か梵天か帝釈天が質問したのかと考えた。そしてその答えは誰に答えたものか考えた。

(´・(ェ)・`)つ

298 :
>>293 そうじゃ、見るものという観念は実は見られているから成立しているのじゃ。
 見る主体があるという観念は実は見られたものなのじゃ。
 それに気づけば自我が見られるのじゃ。
 見るものとして主体があるとと思っていたのが実はそうではなかったと気づくのじゃ。
 そのように理解すると善いのじゃ。

299 :
>>298
鬼和尚こんばんは。

主体と思っていたものが、見られて=客体となって初めて成立する観念であることが見きわめられれば、
>>293の(B)の「見るものは見られるものではない」、と言う正しい結論と矛盾するとはっきり気付けるので、主体の不存在、無我に気付けるという理解で良いのでありましょうか。
(´・(ェ)・`)つ

300 :
1ブッダのことば(スッタニパータ)
第5 彼岸にいたる道の章、1、 序

1025 (アジタがいった)、「バーヴァリは頭のことについて、また頭の裂け落ちることについて質問しました。先生! それを説明してください。仙人さま! われらの疑惑を除いてください。」

1026 (ゴータマ・ブッタは答えた)、「無明が頭であると知れ。明知が信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭を裂け落とさせるものである。」

1027 そこで、その学生は大いなる感激をもって狂喜しつつ、羚羊皮(の衣)を(はずして)一方の肩にかけて、(尊師の)両足に跪いて、頭をつけて礼をした。

1028 (アジタがいった)、「わが親愛なる友よ。バーヴァリ・バラモンは、かれの弟子たちとともに、心に歓喜し悦んで、あなたさま(ブッダ)の足下に礼拝します。眼あるかたよ。」

1029 (ゴータマは答えた)、「バーヴァリ・バラモンも、諸々の弟子も、ともに楽しくあれ。
学生よ、そなたもまた楽しくあれ。永く生きよ。

1030 バーヴァリにとっても、そなたにとっても、もしも疑問が起って、心に問おうと欲するならば、何でも質問なさい。」

1031 <目ざめた人>(ブッダ)に許されたので、アジタは合掌して坐して、そこで真理体現者(如来)に第一の質問をした。

ブッダのことば(スッタニパータ)
第5 彼岸にいたる道の章、2、学生アジタの質問

1032 アジタさんがたずねた、
「世間は何によって覆われているのですか? 世間は何によって輝かないのですか? 世間をけがすものは何ですか? 世間の大きな恐怖は何ですか? それを説いてください。」

1033 師(ブッダ)が答えた、
「アジタよ。世間は無明によって覆われている。世間は貪りと怠惰のゆえに輝かない。欲が世間の汚れである。苦悩が世間の大きな恐怖である、とわたしは説く。」

1034 「煩悩の流れはあらゆるところに向かって流れる。その流れをせき止めるものは何ですか? その流れを防ぎ守るものは何ですか? その流れは何によって塞がれるのでしょうか? それを説いてください。」

1035 師は答えた、「アジタよ。世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、気をつけることである。(気をつけることが)煩悩の流れを防ぎまもるものでのである、とわたしは説く。その流れは智慧によって塞がれるであろう。」

1036 アジタさんがいった、「わが友よ。智慧と気をつけることと名称と形態とは、いかなる場合に消滅するのですか? おたずねしますが、このことをわたしに説いてください。」

1037 アジタよ。そなたが質問したことを、わたしはそなたに語ろう。識別作用が止滅することによって、名称と形態とが残りなく滅びた場合に、この名称と形態とが滅びる。」

1038 「この世には真理を究め明らめた人々もあり、学びつつある人もあり、凡夫もおります。おたずねしますが、賢者は、どうかかれらのふるまいを語ってください。わが友よ。」

1039 「修行者は諸々の欲望に耽ってはならない。こころが混濁していてはならない。一切の事物の真相に熟達し、よく気をつけて遍歴せよ。」

(´・(ェ)・`)つ

301 :
>>300
1025、1026
アジタ学生は心の中で、バーヴリ・バラモンの一番切実な問である「頭について、頭が裂け落ちることについて」その意味を尋ねた。
ブッダは呪いの言葉であると思われた言葉に対して、その真実の意味は明らかにする。それはすべての生命にとって宝というべき真理であり、仏教の真髄だった。
ブッダは頭とは無明を意味しているのだと述べた。そして頭を裂け落とさせるものとは明知(智慧)であると説かれた。
無明である頭を裂け落とすと明知が現れる。明知が現れた時、修行者はありのままに見ることが出来る。そして解脱する。これこそが解脱のメカニズム。仏教の真髄。

1026では、さらに明知は信と念と定と意欲と精進と結びついていると説かれている。無明を克服するものは明知だが、それは信と念と定と意欲と精進を縁にして生まれる。
信は自分も解脱できるという信念。念は注意深くいること、解脱に関わることを見逃さないこと、自分の心の観察もあるが、人の言葉も注意深く聞くこと。今回の経で言えば、呪いの言葉にも真理を見出そうとすること。
定は心の落ち着きと静けさ。妄想をなくすこと。意欲とは解脱しようとする意欲。そうして精進とは解脱をあきらめないで挑戦すること。すべて解脱に向って進むこと。これらが明知に結びついている。

1027 1028
ブッダに頭と頭落ちについて真実の意味を聞いたアジタさんは、大いなる感激(畏敬の念)を持って、中村先生訳では、「狂喜しつつ」、皮の衣の片方の肩を脱いで、ブッダの足元にひざまずいて、頭をブッダの足につけて最敬礼をした。

1029、1030 1031
ブッダは、アジタさんが自分の言葉を理解したことを知り、バーヴァリ・バラモンとその弟子達すべてを祝福した。
さらに、心に思う疑問があるのならば、何でも尋ねるがよいと、質問することを許可した。

1032
アジタさんはブッダに対して8つの質問をした。
今回は世間に関するもの。ここで世間と訳したパーリ語はloka。lokaには世界とか世間のいう訳語がある。しかし、仏教の関心の中心は生命や人間だから、世界とか世間と言っても、具体的にはその中の生命や人間に焦点を当てて考えた方が理解しやすい。
1.人間は何によって覆われているのか?
2.人間は何によって輝かないのか?
3.人間を汚すものは何か?
4.人間の大きな恐怖は何か?
これらの質問は、アジタ学生の深い自己の洞察から生まれたもの。多くの人間は自分が何かにおおわれていることに気付いていない。皆自己の現状を当たり前であると思っているから、おおわれていることに気付けない。
おおわれているとどうなっているのか?周りを正しく見えてない。雲っているとか、くすんで見えている。アジタさんはそのことに気付いたから、ブッダにそのことを質問した。
自分がおおわれていることに気付いている人には、自分が輝いていないことにも気づく。
さらに輝きについて言えば、自分が汚れているから輝かないことも分かる。
アジタさんは人間の恐怖についても質問した。

1033
世間・人間は何に覆われているのか? ブッダの解答は世間・人間は無明によって覆われているというもの。アジタ学生は自分を覆っているものを感じた時、これは何だと思ったが、わからない。これは無明だと教えられた時、無明の実体が見えて来た。
この章の序偈において、無明が頭であると教えられたアジタ学生にとっては、この解答によって二度真理が明らかにされたということ。
世間・人間は何によって輝かないか? 解答はもの惜しみと怠惰(放逸)。確かに、ケチな人や怠け者は輝いてない。
世間・人間を汚しているものは何か? 欲心(渇愛、欲望)。世間・人間を構成している地、水、火、風を汚しているのはすべて人間の欲望の結果だから、世間(世界)・人間を汚しているのは欲望であると言ってよい。
世間・人間の大きな恐怖は何か? 解答は苦悩(苦しみ)。これは教えられて、よく考えればわかる。私達は苦しみを恐れ、苦しみを避けながら生きている。これは生きることの実態。

(´・(ェ)・`)つ

302 :
>>300
1034
中村先生の訳は、「煩悩の流れは」とあるが、パーリ語原文には「煩悩の」はない。そこで正田先生は「諸々の〔欲望の〕流れは」とカッコで〔欲望の〕を入れて訳されている。
流れだけでは、意味がよく分からないので、煩悩あるいは欲望などを補って理解する必要がある。1033で、ブッダの解答の中にあった「無明、貪り、怠惰、欲心など」をアジタ学生は「流れ」と受け止めたのだと思われる。
では「煩悩の流れはあらゆるところに向かって流れる」の「あらゆるところ」とは「どこか」についても考えておく。
一応「六処」のすべてところという意味であろう。
詳しく言えば「六内所(眼、耳、鼻、舌、身、意)」と「六外処(色、声、香、味、触、法)」と考えておけばよい。
これらの場所に、煩悩、欲望が流れる。アジタ学生はこれらの流れを「せき止めるものは何ですか?」と質問した。
もう一つ「その流れを防ぎ守るものは何ですか?」という質問をしたように訳されているが、パーリ語からは同一の質問のようにもとれる。
「せき止める」と「防ぎ守る」と異なる動詞で質問したのだと思われる。なぜならば、1035のブッダの解答は一つだから。
もう一つの質問は、「煩悩(欲望)の流れは何によって塞がれるのか?」ということ。この二つの質問の違いは、洪水を土嚢で防ぐか、堤防で防ぐのかの違いではないかと思われる。
実際には堤防も決壊することがあるので、洪水も決壊も起こらない治水対策かもしれない。

1035
煩悩(欲望)の流れをせき止めるもの、煩悩(欲望)の流れを防ぎ守るものが何かがブッダによって説き明かされる。
その解答は、サティ(念)。中村先生訳では「気をつけること」。この言葉は英語では「マインドフルネス」言われ、日本語では「気づき」と訳される場合が多い。
ここではブッダがサティ(念、気づき)の定義を明確にしている。サティ(念)は煩悩(欲望)の流れをせき止め、防ぎまもるもの。だから、単に気づいていることではない。煩悩(欲望)の流れを止めない「気づき」はサティではない。
サティは悪い心が起こらないように注意すること。サティは何でもかんでも気づいていることではない。そうでなければ、サティによって煩悩(欲望)の流れをせき止められない。
次は煩悩(欲望)の流れを塞ぐもの。煩悩(欲望)の流れを根本的に塞ぐ、煩悩(欲望)をなくすこと。煩悩(欲望)がある限りは、常にサティによって、その流れを止めなければならないが、煩悩(欲望)をなくしてしまえば、サティの必要もない。
その時は解脱した時、覚ったとき。
煩悩(欲望)の流れを塞ぐとは、解脱すること、覚ること。そのためには智慧が必要。だから、流れを塞ぐものは何かに対するブッダの解答は智慧。

(´・(ェ)・`)つ

303 :
>>300
1036
中村先生の訳は、そのまま読むと、アジタ学生はなせこのような質問をしたのか分からない。なぜならば、智慧と気づきと名称と形態がすべて一緒に消滅するように解される。
特に何故智慧と気づきも消滅することを問う必要があるのかと思う。
(○正田大観先生訳、1036 
かくのごとく、尊者アジタが〔尋ねた〕
「まさしく、しかして、知慧が〔諸々の欲望の流れの統御となり〕、さらには、気づきが〔諸々の欲望の流れの防護となる〕、というのなら、
では、敬愛なる方よ、名前と形態(名色:現象世界)を、
これを、〔問いを〕尋ねられた者として、わたしに説いてください。
どこにおいて、この〔名前と形態〕は止滅するのですか」〔と〕。)
その点正田先生の訳であるならば、「智慧と気づき」と「名前と形態」を別のグループとして、消滅(止滅)するものは、「名前と形態」であることが解る。
つまりアジタ学生はブッダに「どこにおいて、この〔名前と形態〕は止滅するのですか」と尋ねたことがわかる。
アジタ学生のこの質問は彼の深い洞察による結果。彼は彼岸(涅槃)に到ることを考えていた。そのため前の質問でブッダに智慧によって解脱することを教えられたので、それは名称と形態の消滅だと理解した。
だから、どこで(いかなる場合に)消滅するか尋ねた。そうでなければ、何故アジタ学生が名称と形態の消滅について尋ねたかわからない。
「名称と形態」について。中村先生訳「ブッダのことば(スッタニパータ)」の注(岩波文庫416ページ)には「名称と形態。この両者が現実の世界においては個人存在を構成している、と考えられていたことが、よく解る。」と書いてある。
それを踏まえて考えると、個人存在と言っても、それは個人の肉体ではなく、この場合問題にしている個人存在は自我意識。自我意識の消滅が解脱。自我意識は非常に根強いものがあり、簡単には消滅しない。
だから簡単には解脱出来ないということがある。この自意識は顕在意識にも潜在意識にも存在している。解脱において消滅されるべき自我意識は顕在意識のみならず、潜在意識における自我意識をも含むの。
名称と形態の消滅という場合の名称と形態の意味は、名称は浅い部分の潜在意識。形態は深い部分の潜在意識。浅いとは観念的な潜在意識であり、深いとは肉体に結びついている潜在意識であると考えられる。
観念的な潜在意識より、肉体に結びついた潜在意識は消滅しにくいから、浅いと深いに区別される。このように考えることは、1037で明らかにされるブッダの解答を深く理解するために必要なこと。

1037
1036のアジタ学生の質問のポイントは「智慧と気をつけることとによって、名称と形態はいかなる場合に消滅するのですか?」ということ。
つまり、智慧と気をつけることによって、名称と形態が消滅するのだが、そのメカニズムはどのようになっているのかを質問している。
その質問に対して、ブッダは「智慧と気をつけることとによって、識別作用が滅止し、名称と形態が残りなく滅びた場合に、解脱が起こるのです。」と答えている。」
「識別作用」について。パーリ語のViaの訳。正田先生は「識知〔作用〕」と訳されており、(識:認識作用一般・自己と他者を識別する働き)と解説されている。
この解説に基づいて説明すると、識別作用が止滅するということは、自己と他者を識別する作用がなくなるということ。これは自我意識がなくなるということ。これが智慧と気をつけることによって為される。
自我意識は虚妄なのだから、智慧が現れればそのことがありのままに解るということ。顕在意識における自我意識はもちろん、潜在意識における自我意識(名称と形態)が消滅する。
(´・(ェ)・`)つ

304 :
>>300
1038
アジタ学生はブッダに解脱の道筋に説いてもらったが、更に具体的にどのようにその道筋を歩むべきかを尋ねた。
バーヴァリ・バラモンの16人の弟子とそれぞれに千人規模の弟子達がいたので、いろいろなレベルの修行者がいたのだと思われる。
そこで、アジタ学生は「真理を究め明らめた人々」と「学びつつある人」そして「凡夫」に分けて、それぞれがどのような行いをすべきか尋ねた。
「真理を究め明らめた人々」はもう学ぶものがないという意味で、無学と呼ぶ。それの人々は阿羅漢を指している。
「学びつつある人々」。学ぶことがあるという意味で有学。それでもこれらの人々は、預流果、一来果、不還果のいずれかの人々を指している。悟っていない修行者は凡夫。

1039
1038で、修行者を無学、有学、凡夫に分けて、「彼らの振る舞い(正しい行為のあり方)を、わたしに説いてください」と頼んだ。
しかし、ブッダは修行者を分けずに、すべて修行者に対する正しい行為のあり方を説かれたように思う。
ブッダの解答は、先ず「諸々の欲望において、その欲望に執着しないように」ということ。
「意に濁りなき者として存するように。」これは心に、わだかまりや、恨みや、敵意などをなくすこと。
これらの思いが心にあると、心はいつも、ざわついていて、落ち着かない。すると、心は汚れ、正しく判断することが出来なくなり、何事も失敗してしまう。だから、心は濁りのない、澄んだ心にすべきなの。
次は「一切の事物の真相に熟達し(一切諸法(現象世界)に巧みな智ある者として)」だが、これはなかなか難しいことだが、これを目指して修行すべきだと理解すればよい。
「よく気をつけて遍歴せよ(〔常に〕気づきある比丘として、遍歴遊行するように)」だが、これもなかなか難しい。
よく気をつけて(気づきある比丘として)、サティ(念)を絶やさずに、ということだが、これはアジタ学生の始めの質問にたどりつく。
ここでは「遍歴せよ。」となっている。これをどのように受け止めるべきか。各自が解脱に向けて、課題を見つけて、いろいろ挑戦してみよというようなこと。

(´・(ェ)・`)つ

305 :
1ブッダのことば(スッタニパータ)
第5 彼岸にいたる道の章、3、学生ティッサ・メッテイヤの質問

1040 ティッサ・メッテイヤさんがたずねた、「この世で満足している人は誰ですか? 動揺することがないのは誰ですか? 両極端を知りつくして、よく考えて、(両極端にも)中間にも汚されることがない、聡明な人は誰ですか? 
あなたは誰を<偉大な人>と呼ばれますか? この世で縫う女(妄執)を超えた人は誰ですか?」

1041 師(ブッダ)は答えた、「メッテイヤよ。諸々の欲望に関して清らかな行いをまもり、妄執を離れて、つねに気をつけて、究め明らめて、安らいに帰した修行者、──かれには動揺は存在しない。

1042 かれは両極端を知りつくして、よく考えて、(両極端にも)中間にも汚されない。かれを、わたしは<偉大な人>と呼ぶ。かれはこの世で縫う女(妄執)を超えている。」

ブッダのことば(スッタニパータ)
第5 彼岸にいたる道の章、4、学生プンナカの質問

1043 プンナカさんがたずねた、
「動揺することなく根本を達観せられたあなたに、おたずねしょうと思って、参りました。仙人や常の人々や王室やバラモンは、何の故にこの世で盛んに神々に犠牲を捧げたのですか?
先生! あなたにおたずねします。それをわたしに説いてください。」

1044 師(ブッタ)は答えた、
「プンナカよ。およそ仙人や常の人々や王族やバラモンがこの世で盛んに神々に犠牲を捧げたのは、われらの現在のこのような生存状態を希望して、老衰にこだわって、犠牲を捧げたのである。」

1045 プンナカさんがいった、
「先生! およそこの世で仙人や常の人々や王族やバラモンが盛んに神々に犠牲を捧げましたが、祭祀の道において怠らなかったかれらは、生と老衰をのり超えたのでしょうか?
 わが親愛なる友よ。あなたにおたずねします。それをわたしに説いてください。」

1046 師は答えた、
「プンナカよ。かれらは希望し、称賛し、熱望して、献供する。利得を得ることに縁って欲望を達成しようと望んでいるのである。供犠に専念している者どもは、この世の生存を貪って止まない。
かれらは生や老衰をのり超えてはいない、とわたしは説く。」

1047 プンナカさんがいった、
「もしも供犠に専念している彼らが祭祀によっても生と老衰とを乗り越えていないのでしたら、わが親愛なる友よ、では神々と人間の世界のうちで生と老衰とを乗り越えた人は誰なのですか?
先生! あなたにお尋ねします。それをわたしに説いてください。」

1048 師は答えた、
「プンナカよ。世の中でかれこれ(の状態)を究め明らめ、世の中で何ものにも動揺することなく、安らぎに帰し、煙なく、苦悩なく、望むことのない人、──かれは生と老衰とを乗り越えた、──と、わたしは説く。」

(´・(ェ)・`)つ

306 :
>>305
1040
ティッサ・メッテヤ学生がブッダに質問。
質問文としては次の5つになっている。
1.この世で満足している人は誰か?
2.動揺することがないのは誰か?
3.両極端にも中間にも汚されることがない人は誰か?
4.あなたは誰を<偉大な人>と呼ばれるか?
5.この世で妄執(貪愛)を超えた人は誰か?
この内の3番目の「両極端にも中間にも」は何を意味するか?。
仏教は中道を説いているが、その時は両端とは快楽と苦行。中道の場合は智慧の道(八正道)。
しかしこの偈でいう中間は世間で言う中間で、中道ではない。快楽で汚れるとは快楽に溺れること、苦行に汚れるとは、意味のない苦行に価値をおくこと。中間に汚れるとは、無関心になり怠惰になること。
或は賞賛と非難も両端になる。中間は無視されることになるか。賞賛で汚れるとは喜び、舞い上がって、高慢になること。非難で汚れるとは、怒りで興奮し、相手に攻撃的になるなど。無視で汚れるとは、寂しくなり、悲しくなって落ち込むことなど。
中村先生訳の「縫う女」はパーリ語のsibbiniにそのような意味があるからだが、カッコ内にあるように、妄執(貪愛、愛着)の意味と取ればよい。

1041
ブッダは、ティッサ・メッテヤ学生の初めの質問「この世で満足している人は誰ですか?」には直せず答えず、二番目の「動揺することがないのは誰ですか?」という問いに答えていく。
動揺するとは、心が揺れ動くこと。「諸々の欲望に関して」という時は、食欲と性欲を考えればよい。「清らかな行いをまもり」とは、生きるために必要な食事で済ませ、性欲は個人が生きるためには必要ないから、それを抑えるということ。
そうすると心は、食欲と性欲で動揺することがない。食欲と性欲があればそれらによって動揺する。
欲望をなくすことは困難だが、「アジタ経」の質問で「煩悩(欲望)の流れを止めるものはサティ(念、気づき、気をつけること)であることを学んだ。
だから「常に気づきある者」(正田先生訳)は渇愛を離れることができ、欲望を初期のうちに止めることができる。
更にそのような人は「〔法を〕究めて」、智慧が現れて、解脱し、涅槃に至る。そのような人は動揺することはなく、ブッダが直接は答えなかったが、この世で満足している人である。

1042
この偈の始めの言葉「彼」とは、前偈で述べられた「動揺しない人」を指している。この彼が、ティッサ・メッテヤ学生の三番目の質問「両極端にも中間にも汚されることがない人は誰ですか?」の解答。
すなわち、動揺しない人は両極端にも中間にも汚されない。
そして、四番目の質問「あなたは誰を<偉大な人>と呼ばれますか?」の解答も、彼であり、動揺しない人であり、両極端にも中間にも汚されない人。
更に、五番目の質問「この世で妄執(貪愛)を超えた人は誰ですか?」の解答も彼であり、動揺しない人であり、両極端にも中間にも汚されない人。
ブッダが直接答えなかった第一番目の質問「この世で満足している人は誰ですか?」の解答も彼。つまり解脱して、涅槃に到った彼。

1043
プンナカ学生の質問。
プンナカ学生の始めの言葉は、前回の問答の一つのテーマが「動揺することのない」であったため、ブッダを「動揺することのないあなた」と呼び、さらに「両端を知りつくした方」として、「根本を達観されたあなた(根本を見る方)」としている。
これはプンナカ学生のブッダへの称賛の言葉であり、自分もそのような人間になりたいという思いがあるのだと思われる。
質問は「仙人や常の人々や王室やバラモンは、何の故にこの世で盛んに神々に犠牲を捧げたのですか?」ということ。
この質問の真意は、これらの人々は何を求め、望んでいるのかということ。この思いは現在社会で神や神々を信仰している人々の気持ちと同一のものがあると思われる。

(´・(ェ)・`)つ

307 :
>>305

308 :
>>305
1044
ブッダの解答。王族やバラモン達は、この世の生活にある程度満足していた。だからそのような生活をいつまでも続けたいと思っていた。
だが、老いという問題があった。だんだん身体が弱って、病気にもなる。更にその先に死があるという恐怖を感じていた。
そのために、彼らは神々に、安楽な生活をできるだけ長く続けられるように、また、死後にはよい世界に生まれ変われるように願って犠牲を捧げて、祭祀を営んだ。
しかし、それが本当に意味があるのかどうか、そのことについてもプンナカ学生は尋ねることになる。

1045
この偈は、言葉の繰り返しを除くと、「祭祀の道において怠らなかったかれらは、生と老衰をのり超えたのでしょうか?」「祭祀によって、かれらは生と老衰をのり超えたのでしょうか?」と言う質問だけになる。
(´・(ェ)・`)つ

309 :
>>305
1046
プンナカ学生の次の質問「祭祀によって、彼らは生と老衰をのり超えたのでしょうか?」に対するブッダの解答は「彼らは生と老衰を乗り超えていない。」ということ。
その理由は、彼らの祭祀は、利得を得ることによって欲望を達成することを望んでいるから。すなわちこの世の生存を貪っているから。
この理由を納得するためには、「生と老衰を乗り超える」とはどういうことか理解しておかなければならない。
「生と老衰」とは自我が経験するものであり、自我を概念と見る立場では「生と老衰」も概念。そのことに気付いた時、「生と老衰を乗り超えた」という。
この世の生存を貪っている人は「生と老衰」を概念とは思えず、実体のあるものとして生存を貪る。
別の説明としては、「生と老衰」に続いて、病気そして死が続く。そして新たな「生と老衰」がある。これは輪廻を意味している。
「生と老衰を乗り超える」とは輪廻を乗り超えるという意味。欲望を欲求し、生存を貪る人は輪廻を解脱できないから、生と老衰をのり超えられない。

1047
「一体誰が生と老衰を乗り超えたのですか?」というのがプンナカ学生の質問。
生を乗り超えるとは、輪廻において誕生を繰り返さないというよりは、王族やバラモンのような身分として生まれたいという思いを超えるということ。
そのような人々にとって生を乗り超えるとは、身分に価値を置かないということ。これは人間を身分で差別しないこと。
また老衰を乗り超えるとは、老いを惨めだと思わないということ。また若いから幸せであるとか、老人だから不幸だとは思わないこと。これは人間を年齢で差別しないこと。年齢に価値を置かないこと。
このように考えると、犠牲を神々に捧げる王族やバラモン達は生と老衰を超えていない。これらを乗り超えた人は身分によって人間を差別せず、身分に価値を置かない人。
また年齢によって人間を差別せず、年齢に価値を置かない。そのような人は実際にはどのような人なのか?それが今回のプンナカ学生の質問。

1048
プンナカ経の出だしは「動揺することがない」と言う言葉だったが、最後の偈で、「生と老衰を超えた人」を「動揺することがない人」であると説かれる。
そして、動揺のない人は、安らぎに帰した人であり、煙がない人と(身に悪行がない人と言う意味)、苦悩がなく、望むことがない人。すなわちそのような人はすべての煩悩をなくした阿羅漢。
阿羅漢は生存への執着をなくしており、輪廻を繰り返すことはない。
生まれ(身分)や年齢に価値を置くことがないので、それらによって人間の差別することはもちろんない。これらは解脱する前の価値観の消滅すなわち不必要な識別作用の消滅によるもの。
(´・(ェ)・`)つ

310 :
>>299 そのような理解でよいのじゃ。
 実践によって確めるのじゃ。
 実践有るのみなのじゃ。

311 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第5 彼岸にいたる道の章、5、学生メッタグーの質問

1049 メッタグーさんがたずねた、
「先生! あなたにおたずねします。このことをわたしに説いてください。あなたはヴェーダの達人、心を修養された方だとわたくしは考えます。世の中にある種々様々な、これらの苦しみは、そもそもどこから現われ出たのですか。」

1050 師(ブッタ)は答えた、
「メッタグーよ。そなたは、わたしに苦しみの生起するもとを問うた。わたしは知り得たとおりに、それをそなたに説き示そう。世の中にある種々様々な苦しみは、執著を縁として生起する。」

1051 実に知ることなくして執著をつくる人は愚鈍であり、くり返し苦しみに近づく。だから、知ることあり、苦しみの生起のもとを観じた人は、再生の素因(=執著)をつくってはならない。」

1052 「われらがあなたにおたずねしましたことを、あなたはわれらに説き明かしてくださいました。あなたに他のことをおたずねしますが、どうかそれを説いてください。
どのようにしたならば、諸々の賢者は煩悩の激流、生と老衰、憂いと悲しみとを乗り越えるのでしょうか? 聖者さま。どうかそれをわたくしに説き明かしてください。あなたはこの法則をあるがままに知っておられるからです。」

1053 師が答えた、
「メッタグーよ。伝承によるのではなくて、いま眼のあたり体得されるこの理法を、わたしはそなたに解いて明かすであろう。その理法を知って、よく気をつけて行い、世間の執著を乗り越えよ。」

1054 偉大な仙人さま。わたくしはその最上の理法を受けて歓喜します。その理法を知って、よく気をつけて行い、世間の執著を乗り越えるでしょう。」

1055 師が答えた、
「メッタグーよ。上と下と横と中央とにおいて、そなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、それらに対する喜びと偏執と識別とを除き去って、変化する生存状態のうちにとどまるな。

1056 このようにして、よく気をつけ、怠ることなく行う修行者は、わかものとみなして固執したものを捨て、生や老衰や憂いや悲しみをも捨てて、この世で智者となって、苦しみを捨てるであろう。」

1057 「偉大な仙人のことばを聞いて、わたくしは喜びます。ゴータマ(ブッダ)さま。煩悩の要素のない境地がよく説き明かされました。たしかに先生は苦しみを捨てられたのです。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるのです。

1058 聖者さま。あなたが懇切に教えみちびかれた人々もまた今や苦しみを捨てるでしょう。
竜よ。では、わたくしは、あなたの近くに来て礼拝しましょう。先生! どうか、わたくしをも懇切に教えみちびいてください。」
(´・(ェ)・`)つ

312 :
>>311
1049
メッタグー経。
「世の中にはいろいろな苦しみがありますが、その源は何か?」
これは仏教で解決すべき根本的な問い。メッタグー学生はブッダに、正攻法、真正面からの質問をした。
この質問は、正しく洞察されたものだった。世の中にある種々の苦しみは、単純に考えれば、飢えた時の苦しみは、食べ物がないから。また、病気の時の苦しみは病気が原因。人々の考えは苦しみの原因は、人間に対する外部的な種々の要因に及ぶ。
しかし、メッタグー学生は苦について種々の外部定要因ではなく、一つに集約される内部的要因が何かと言う質問をしている。

1050
ブッダは、「世の中にある種々様々な苦しみは、執著を縁として生起する。」(中村先生訳)と端的に答えることが出来た。「執著を縁として」を正田先生は「依り所(依存の対象)という因縁から」と訳されている。
Upadhiは、パーリ語辞書には「存在の拠り所」と書いてある。十二因縁の教えによれば、存在(有)の拠り所は、執著(固執)であるから、執著=存在の拠り所と考えてよい。「執著=存在の拠り所」が苦の源であるとブッダはメッタグー学生に教えた。
この偈で、ブッダが自分の教えについて、「わたしは知り得たとおりに、それをそなたに説き示そう。」と述べたことは重要。
ブッダは、伝承でもなく、人から聞いたことでもなく、憶測でもなく、自分自身が悟って、知ったことを、しかもそれを隠すことなく、ありのままに説くと言明している。

1051
「執著=存在の拠り所」が苦の源である」ことについての説明のつづき。
苦の源を知らない人は、愚かにも執著を繰り返し、そのために繰り返し苦しんでいる。だから、苦しみの源をよく知って、苦しみの生起の元を観察した人は、執著(存在の依り所)を作ってはならないと説かれた。
しかし、多くの人々は苦しみの源を知らない。それ故に苦しみの源(執著)を繰り返している。
もしくは、知っていても、執著を止められずに、苦しみを繰り返すことになっている。この場合も本当には解っていないということかもしれない。
苦しみの源は自分の外にはなく、自分の内にあるから見ることが難しいから。見ることができ、止めることが出来れば、解脱する。

1052
今回は、メッタグー学生の二番目の質問。
「どのようにしたならば、諸々の賢者は煩悩の激流、生と老衰、憂いと悲しみとを乗り越えるのでしょうか?」
一番目の質問は、苦しみの源を問うものだった。その解答は執著(存在の依り所)だった。だから苦を作らないためには、執著(存在の依り所)を作ってはならない。しかし、実際には、人々は執著(存在の依り所)を作ってしまう。
そのために、いろいろな煩悩が現れ、人々は苦しむことになる。また、プンナカ経で問題にした生と老衰等による苦しみも現れる。そしてまたそのために憂いと悲しみが襲ってくる。
この質問は執著を作ってしまった人は、どのようにするかというもの。ブッダは苦しみの根源とそれを乗り超える法則を悟った方だから、この質問にも答えて下さいとメッタグー学生は頼んだ。

1053
ブッダはメッタグー学生の第2の質問に対して、人に聞いたことでなく、今ここで体験されるありのままの法(理法)をありのままに説き明かそうと述べた。そしてその理法を知って、よく気をつけて行い、世間の執著を乗り超えなさいという。
メッタグー学生は執著を作って、苦しみ、憂い悲しむことになってしまった人は如何にするかという質問だったが、そのような人でも理法を知って、改めて執著をなくすことが必要。

(´・(ェ)・`)つ

313 :
>>311
1054
メッタグー学生は二番目の質問に答えられた理法をまだ聞いてない。
しかし、1053でブッダが「伝承よるのではなく、いま眼のあたりに体得された理法を聞いて、よく気をつけて行い、世間の執著を乗り越えよ」言われたので、それに応えて、今回の偈を述べた。「偉大な仙人様」はブッダを指している。
「世間の執著を乗り越えるでしょう。」について復習。執著とは存在の拠り所。十二因縁の教えによれば、執著(固執)を縁にして存在(有)が生じる。つまり執著は存在の拠り所。
存在の拠り所は、自分というものをあるかどうかわからないまま、自分が何かわからないまま、つまり無明のまま、自分が有るとして架空の自分を確立すること。
それが存在の拠り所。そして執著の意味は架空の自分を執著によって確立すること。

1055
いよいよ、メッタグー学生の第2の質問にたいするブッダの解答。ブッダはメッタグーに対して、「君が意識するものすべてに対して」と言う。
それを上と下と横と中央に分類した。これら何を意味しているのか。
単に意識する対象を空間的に、上にあるもの、下にあるものというように理解できたが、注釈書には、上は未来の時、下は過去の時、横と中は現在の時と言われていると書かれてる。
しかし、この上、下、横、中は、時間や空間の意味ではなく、価値観(優劣観)の上下と取った方がブッダの真意を理解しやすい。
価値のあるもの(優れているもの)、価値のないもの(劣っているもの)、価値が普通のもの(同等のもの)のように理解する。
このようにメッタグー学生が意識するすべての事柄に関して、先ず、喜びを意識することを取り除くように、ブッダは述べた。
例えば、ダイヤモンドに対してこれは価値のあるものであり、優れた宝石だと喜びの意識を持たない、あればそれを取り除くということ。価値や優劣は架空の自分がつくった観念。

1055
次は、ブッダは偏執(固着)を除き去るように述べた。喜びの意識のあるものには偏執(固着)する意識が現れる。これは執著。
執著はその対象への執著もあるが、気づきにくいことだが、その対象に執著する自分に執著している。そこで架空の自分が確立されていく。偏執(固着)する意識を除き去ると、架空の自分への執著がなくなっていく。
更に、ブッダは識別(識別作用)を除き去るようにと説く。無明を縁として行が生じるが、行は自分と他を区別する作用。この行によって識別作用が生じる。自分と他を識別する作用。架空の自分が識別され、それに対する他が識別される。
だから、識別作用が除き去れば、執著する自分もなくなり、対象(例えばダイヤモンド)への執著も除き去る。
このようにして、執著は存在の拠り所だから、依り所がなくなり、生存状態にとどまることがなくなる。すなわち、輪廻から解脱する。

(´・(ェ)・`)つ

314 :
>>311
1056
メッタグー学生の第2の質問に対する解答の続き。
自分が気づいてよく知っていることは何であれ、それに対して喜びと偏執と識別を除き去るように注意していると、「わがものとみなして固執したものを捨てる」と説かれる。ここがこの偈の眼目。
「わがものとみなして固執したもの」は、文字通りには、自分の外の対象だが、実はこの時、自分はわがものと見なす自分に固執している。
だから、それに対して喜びと偏執と識別を除き去るようにすると、わがものと見なす自分を除き去っていく。
そのような自分がなくなれば、生や老衰や憂い悲しみはなくなり、この世の苦しみを捨て去ることになる。

1057
メッタグー学生はゴータマ・ブッダを偉大な仙人と呼んだ。
偉大な仙人の言葉とは、メッタグー学生の二つの質問に対するブッダの解答。
第一の質問に対する解答は「世の中の種々苦しみは執著(存在の拠り所)を縁として生起する」というもの。
第二の質問に対する解答は「何であろうと、それらに対する喜びと偏執と識別とを除き去って、変化する生存状態のうちに留まるな」というもの。
これらの言葉によって、苦しみの原因が明らかにされ、それを取り除く方法が示された。
だからメッタグー学生は、それらの言葉を喜び、「たしかに先生は苦しみを捨てられたのです。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるのです。」と述べた。

1058
メッタグー学生が述べた言葉であるが、真理の言葉を聞いたのならば、あとは実践するだけ。それなのに、彼は、ブッダに「懇切に(停滞なく)教えみちびいてください。」と頼んでいる。
人間の実状は一度真理の言葉を聞いただけで、理解することはできず、ましてや実践することが出来ない。

(´・(ェ)・`)つ

315 :
   ∧_∧
  (・(ェ)・)
  /|=宗=|\
 (_)LLLLLL(_)
鬼和尚、あけおめ、ことよろであります。

316 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第5 彼岸にいたる道の章、5、学生メッタグーの質問

1059 「何ものをも所有せず、欲の生存に執著しないバラモン・ヴェーダの達人であるとそなたが知った人、──かれは確かにこの煩悩の激流をわたった。かれは彼岸に達して、心の荒びなく、疑惑もない。

1060 またかの人はこの世では悟った人であり、ヴェーダの達人であり、種々の生存に対するこの執著を捨てて、妄執を離れ、苦悩なく、望むことがない。『かれは生と老衰とを乗り越えた』


ブッダのことば(スッタニパータ)
第5 彼岸にいたる道の章、6、学生ドータカの質問

1061 ドーカンさんがたずねた、「先生! わたくしはあなたにおたずねします。このことをわたくしに説いてください。偉大な仙人さま。わたくしはあなたのおことばを頂きたいのです。あなたのお声を聞いて、自分の安らぎ(ニルヴァーナ)を学びましょう。」

1062 師(ブッダ)が答えた、「ドータカよ。では、この世でおいて賢明であり、よく気をつけて、熱心につとめよ。この(わたしの口)から出る声を聞いて、自己の安らぎを学べ。」

1063 「わたくしは、神々と人間との世界において何ものをも所有せずにふるまうバラモンを見ます。あまねく見る方よ。わたくしはあなたを礼拝いたします。シャカ族の方よ。わたくしを諸々の疑惑から解き放ちたまえ。」

1064 「ドータカよ。わたしは世間におけるいかなる疑惑者をも解脱させ得ないであろう。ただそなたが最上の真理を知るならば、それによって、そなたはこの煩悩を渡るであろう。」

1065 「バラモンさま。慈悲を垂れて、(この世の苦悩から)遠ざかり離れる理法を教えてください。わたくしはそれを認識したいのです。わたくしは、虚空のように、乱され濁ることなしに、この世において静まり、依りすがることなく行きましょう。」

1066 師は言われた、
「ドータカよ。伝承によるのではない、まのあたり体得されるこの安らぎを、そなたに説き明かすであろう。それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えよ。」

1067 「偉大な仙人さま。わたくしはその最上の安らぎを受けて歓喜します。それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えましょう。」

1068 師は答えた、
「ドータカよ。上と下と横と中央とにおいてそなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、──それは世の中における執著の対象であると知って、移りかわる生存への妄執をいだいてはならない」と。

(´・(ェ)・`)つ

317 :
>>316
1059
ブッダの言葉。中村先生訳で最初の言葉「何ものをも所有せず」、正田先生訳では「無一物」は重要なキーワード。このことであとに続く「欲の生存に執著しない」ことができる。
「何ものも所有せず」とは、自分のものは何もないという意味で、自分のものは何ものもないことを理解していること。
生物はすべて大自然から一時的に借りて生まれてくる。死ぬ時にそれらすべて、大自然に返して何もなくなるから。
さらに、このことを本当に理解するためには、自分ものと思う時の自分がないことも理解していなければならない。何かを見たり、聞いたりする時の主体である自分は無明(無知)から始まって、仮に現れた自分。実はそれは存在していない。
しかし、それが行(「自他」形成作用)によって仮に生まれてくる。それは自我と言ってもよい。自我は見たり、聞いたりすると欲しくなり(渇愛)、自分のものにしたくなる(執著)。
本来、自分のものはないと理解していると、自分のものにしたくなることがない。そうすると、執著することもなくなる。執著がなくなれば、「欲の生存に執著しないことになる。」
さて今回の偈に戻れば、そのような人は「──かれは確かにこの煩悩の激流をわたった。かれは彼岸に達して、心の荒びなく、疑惑もない。」ということ。「彼は解脱して、涅槃に達したのです。」とブッダは述べられた。
「自分のもの何もはない」ということに関して、ダンマパダ62参照。

1060
「「何ものをも所有せず、欲の生存に執著しない人であるとそなたが知った人、」は「この世では悟った人であり、種々の生存に対するこの執著を捨てて、妄執を離れ、苦悩なく、望むことがない。」
この偈をよく理解するためには、「メッタグー経」の1055と1056を復習。
「生と老衰を超える」方法について述べられている。それは「何であろうと、それに対する喜びと偏執と識別捨てることによって、生と老衰と憂いと悲しみを捨てる」というもの。
「生と老衰を乗り超える」とはどういうことか?については「プンナカ経(プンナカ学生の問い)4.」1046参照。
「生と老衰を乗り超える」とはどういうことか理解しておくべき。
「生と老衰」とは自我が経験するものであり、自我を概念と見る立場では「生と老衰」も概念なのである。そのことに気付いた時、「生と老衰を乗り超えた」というのである。
この世の生存を貪っている人は「生と老衰」を概念とは思えず、実体のあるものとして生存を貪る。
別の説明としては、「生と老衰」に続いて、病気そして死が続く。そして新たな「生と老衰」がある。これは輪廻を意味している。「生と老衰を乗り超える」とは輪廻を乗り超えるという意味。

(´・(ェ)・`)つ

318 :
>>316
1061
ドータカ学生の問いは疑問文の形で述べられていないから、不明確だが、
「あなたのお声を聞いて、自分の安らぎ(ニルヴァーナ=涅槃)を学びましょう。」と述べているから、自分の安らぎ(自分の涅槃)について教えて下さいと言うことだと思われる。
「自分の安らぎ(ニルヴァーナ)を学びましょう。」という文章に関して、中村先生の「ブッダのことば」(岩波文庫)の注に次のように書いてある。
「この文章をみるかぎり、安らぎを実現するために学ぶことがニルヴァーナであり、ニルヴァーナとは学びつつ(実践しつつ)あることにほかならない。
ブッダゴーサの注によると、「貪欲などをなくすために(ニルヴァーナのために)戒などを実践するのだと言い、ニルヴァーナを目的とみなし、戒などの実践を手段と見なしている。後代の教義はみなこういう見解をとっている。
しかしこういう見解によるならば、人間はいつになっても、戒律の完全な実践は不可能であるから、ニルヴァーナはついに実践されないであろう。
この詩の原文によって見るかぎり、学び実践することが、ニルヴァーナであると漠然と考えていたのである、と解することができよう。」
中村先生の注のように、すなわち「ドータカ学生がニルヴァーナとは学びつつ(実践しつつ)あること」と考えていたのならば、この後のブッダの偈(言葉)で修正されることになると思われる。
もちろん、ドータカ学生はそれを期待していたのだと思われる。

1062
この偈の「自己の安らぎを学べ。」についても、「ブッダのことば」(岩波文庫)の注に、中村先生は次のように書いてある。「ここでも『自己の安らぎ(ニルヴァーナ)を学ぶ』というのは、よく気をつけて、熱心であることにほかならない。」と。
今回の偈はブッダの言葉だから、この偈の解釈が中村先生の注の通りであれば、それはブッダの教えということになる。
しかし、ブッダは自己の安らぎ(ニルヴァーナ)について、理法を述べてはいないから、「『自己の安らぎ(ニルヴァーナ)を学ぶ』というのは、よく気をつけて、熱心であることにほかならない。」ということで完結させてはいけないように思われる。
これから理法を述べるから、よく気をつけて、熱心に聞いて、学べと述べているとうに思われる。

1063
ドータカ学生の言葉。この偈の趣旨は二つあり、一つは、彼はブッダが無所有の境地にあることを認め、それ故に「私はブッダを礼拝します」ということである。
当時のバラモン達にとっては「無所有の境地」は最高の境地であり、バラモン達が目指す境地であると考えていた。第五章の976で、16人の学生達の師匠であるバーヴァリ・バラモンも「無所有の境地を得ようと願って」と書かれていた。
もう一つは、「わたくしを諸々の疑惑から解き放ちたまえ。」ということ。ではこの諸々の疑惑とは何か? 無所有の境地で振舞われるブッダにお願いしていることだから、無所有の境地とは何であるか? 
どうすればその境地に至れるか? また私もその境地に至れるか?等の疑惑だと思われる。また無所有の境地と自分の安らぎ(涅槃)との関係についてドーカタ学生はどのように考えていたのか等これから明らかになる。

(´・(ェ)・`)つ

319 :
>>316
1064
今回はブッダの言葉。前半は、ブッダは疑惑ある者を解脱させることは出来ないと述べている。
疑惑ある者は自分で自分の疑惑をなくすべきであると言う。自分で解脱できるか分からないと迷っている人は解脱出来ない。自分は解脱できると確信した人のみが解脱できるのだろうから。
しかし、疑惑ある者を突き放しているわけではない。ブッダの話す最上の真理を聞くならば、自分で自分の疑惑を晴らすことができるだろうということ。
疑惑の具体的な内容は、無所有の境地とは何であるか? どうすればその境地に至れるか? また私もその境地に至れるか?等だから、それらは最高の真理を知れば解決できるであろう。
また無所有の境地と自分の安らぎ(涅槃)との関係については、ブッダは解脱という言葉で説明してるので、解脱することで最高の境地である安らぎ(涅槃)に達するので、無所有の境地は当然達することができると考えておられるように思われる。

1065
この偈ではドータカ学生がブッダに「遠離の法」を教えて下さいと頼んでいる。遠離の法を中村先生は「(この世の苦悩から)遠ざかり離れる理法」と訳されている。
ただこの偈をよく読むと、ドータカ学生は、遠離の法について一応のイメージを持っていることが解る。
大空のように何ものにも妨げられることないこと、すなわち静かな場所で他人に邪魔されないように一人でいること。次は、静かな心でいること。更に何ものにも依存しないで修行・生活すること。
これらを実践できるためには、どうしたらよいかブッダに尋ねている。以上三つのことを後に、身離、心離、依遠離の三離としてまとめられている。
この偈にそって以上考えてみたが、このような考え方は世間の常識から離れていることを始めに理解しておかなければよく分からないことなのである。
世間では、一人孤独でいることは寂しく避けるべきことであり、一人静かにいるよりは、多くの人々とワイワイ、ガヤガヤ騒ぐことが楽しいと考えているのだから。
この世の苦悩は人々と集合するからだと解っていないと遠離の法を求める気にならないのである。

1066
1053 参照
師が答えた、
「メッタグーよ。伝承によるのではなくて、
いま眼のあたり体得されるこの理法を、
そなたに説き明かすであろう。
その理法を知ってよく気をつけて行い、世間の執著を乗り越えよ。」
1066
師は言われた、
「ドータカよ。伝承によるのではない、
まのあたり体得されるこの安らぎを、
そなたに説き明かすであろう。
それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えよ。」
中村先生は同じパーリ語を少し違った訳にしてあるが、パーリ語原文の違いは「メッタグーよ」と「ドータカよ」及び「理法」と「安らぎ」だけである。
メッタグー学生には、煩悩、生と老いと悲しみを乗り越えるために、伝承でない体得された理法を説いたが、ドータカ学生には遠離の法を教えるために、伝承でない体得された理法を説くことになる。

(´・(ェ)・`)つ

320 :
>>316
1067
メッターグー経1054参照。
「最上の理法」が「最上の安らぎ」に変わっているだけ。
1054
偉大な仙人さま。
わたくしはその最上の理法を受けて歓喜します。
その理法を知ってよく気をつけて行い、
世間の執著を乗り越えるでしょう。
1067
偉大な仙人さま。
わたくしはその最上の安らぎを受けて歓喜します。
それを知ってよく気をつけて行い、
世の中の執著を乗り越えましょう。
ブッダが「伝承によるものでない、まのあたりに体得された安らぎを解き明かそう」と仰られたので、それに彼は歓喜した。
また、「それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えよ」と命じられたので、それを受けて「それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えましょう。」と応えた。

1068
ブッダのドータカ学生への最後の教え。この偈はメッタグー経の1055と前半は同じだが、後半は少し異なる。
前半は「上と下と横と中央とにおいて、そなたが気づいてよく知っているものは何であろうと」ということで、あなたが意識しているものは何でもということだった。
「上と下と横と中央とにおいて」については、「それを上と下と横と中央に分類した。これら何を意味しているのか。
単に意識する対象を空間的に、上にあるもの、下にあるものというように理解できたが、注釈書には、上は未来の時、下は過去の時、横と中は現在の時と言われていると書かれている。
しかし、この上、下、横、中は、時間や空間の意味ではなく、価値観(優劣観)の上下と取った方がブッダの真意を理解しやすいと思われる。
価値のあるもの(優れているもの)、価値のないもの(劣っているもの)、価値が普通のもの(同等のもの)のように理解するのです。」
1055の後半は次の通り。
「それらに対する喜びと偏執と識別とを除き去って、変化する生存状態のうちにとどまるな。」
今回の1068は次の通り。
「それは世の中における執著の対象であると知って、移りかわる生存への妄執をいだいてはならない」と。
表現は異なるが、趣旨は同じ。微妙な違いを指摘すれば、1055では「喜びと偏執と識別とを除き去って」であるが、1068では「生存への妄執をいだいてはならない」という所だと思われる。
(´・(ェ)・`)つ

321 :
>>318
けっきょく、
中村先生の言うように、
>「・・・安らぎを実現するために学ぶことがニルヴァーナであり、ニルヴァーナとは学びつつ(実践しつつ)あることにほかならない。
なのか、
ブッダゴーサの注に
>「貪欲などをなくすために(ニルヴァーナのために)戒などを実践するのだと言い、ニルヴァーナを目的とみなし、戒などの実践を手段と見なしている。
なのか、
どちらが、正しいのでありましょうか?
ニルヴァーナを目的地とすることは、悟りを目的地とすることでありましょうから、
ブッダゴーサが正しいかは別としても、
>ニルヴァーナとは学びつつ(実践しつつ)あることにほかならない。
と言うのは、目的が曖昧になりすぎるような気がするであります。
(´・(ェ)・`)つ

322 :
ブッダのことば(スッタニパータ)
第5 彼岸にいたる道の章、7、学生ウバシーヴァの質問

1069 ウバシーヴァさんがたずねた、
「シャカ族の方よ。わたしは、独りで他のものにたよることなくして大きな煩悩の激流をわたることはできません。わたしがたよってこの激流をわたり得る<よりどころ>をお説きください。あまねく見る方よ。」

1070 師(ブッダ)は言われた、「ウバシーヴァよ。よく気をつけて、無所有をめざしつつ、<なにも存在しない>と思うことによって、煩悩の激流を渡れ。諸々の欲望を捨てて、諸々の疑惑を離れ、妄執の消滅を昼夜に観ぜよ。」

1071 ウバシーヴァさんがいった、
「あらゆる欲望に対する貪りを離れね無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の<想いからの解脱>において解脱した人、──かれは退きあともどりすることがなく、そこに安住するでありましょうか?」

1072 師は答えた、「ウバシーヴァよ。あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の<想いからの解脱>において解脱した人、──かれは退きあともどりすることなく、そこに安住するであろう。」

1073 「あまねく見る方よ。もしもかれがそこから退きあともどりしないで多年そこにとどまるならば、かれはそこで解脱して、清涼となるのでしょうか? またそのような人の識別作用(あとまで)存在するのでしょうか?」

1074 師が答えた、「ウバシーヴァよ。たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって(火としては)数えられないように、そのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって、(生存するものとしては)数えられないのである。」

1075 「滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか? 或いはまた常住であって、そこなわれないのでしょうか? 聖者さま。どうかそれをわたくしに説明してください。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるからです。」

1076 師は答えた、
「ウバシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである。」

(´・(ェ)・`)つ

323 :2018/01/01
>>322
1069
ブッダと第6番目の学生ウパシーヴァさんとの対話。ウパシーヴァさんはブッダに「シャカ族の方よ。わたしは、独りで他のものにたよることなくして、大きな煩悩の激流をわたることはできません。
わたしがたよってこの激流をわたり得る<よりどころ>をお説きください。」と弱音を吐いているようにも聞こえる。
「<よりどころ>をお説きください。」は、これからこの困難を乗り越える決意の表れである。

1070
ウパシーヴァさんは無所有処定(無色界の禅定の一つ)を得ている。この禅定は色界禅定の上のレベルの高度な禅定。彼は既に多くの修行を積んでいる修行者。
しかし、禅定というものは、レベルの高い禅定状態であっても悟りとは異なり、禅定状態の時にのみ、煩悩が機能しない状態になっているだけで、禅定状態から離れると、元の人間に戻り、人格などは変わっていない。
そのことを知っていたから、ウパシーヴァさんは「一人では激流を渡れない」と言った。

そこで、ブッダはウパシーヴァさんに「無所有処定」の体験を<依り所>にして、その時の「何ものもない」という思い(表象)を依り所にして、
諸々の欲望を捨て、諸々の疑惑を離れて、渇愛(欲しいという思い)の消滅を、気づきを持って、昼も夜も求めなさいと教えた。
「何ものもない」と言う思いは普通の人には思えない思いである、ウパシーヴァさんは「無所有処定」の体験をしたから、そのように思える。
禅定には色界禅定と無色界禅定とある。
色界禅定は以下の通り、これは八正道の正定で定義されているもの。
第一禅定には、もろもろの欲をはなれ、もろもろの不善の法をはなれ、大まかな考察のある、細かな考察のある、遠離から生じた喜びと楽がある。(尋、伺、喜、楽、一境性)
第二禅定には、大まかな考察、細かな考察が消え、心の統一された、大まかな考察、細かな考察のない、心の安定により生じた喜びと楽がある。(喜、楽、一境性)
第三禅定では、喜びを離れていることから、平静を備え、念を備え、正知をそなえて住み、楽を身体で感じる。(楽、一境性)
第四禅定には、楽を断ち、苦を断ち、苦も楽もない、平静による念の清浄がある。(捨、一境性)
さらに無色界の禅定がある。
空無辺処定は、無辺の空間を対象として定める禅定。
識無辺処定は、無限の認識を対象として定める禅定。
無所有処定は、何ものもそこにはないものを対象として定める禅定。
非想非非想処定は、想でも無想でもない状態に入る禅定。

1071
禅定状態においては欲望や怒りを鎮静させているだけ。だから禅定状態から離れれば、またそれらの煩悩は現れてくる。だから、煩悩のある状態に退き後戻りする。
しかし、あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のもの(その他の煩悩)を捨ててしまえば、この状態を<想いからの解脱>と述べているが、「その時は禅定から離れても煩悩が戻ってこないのか」
とウパシーヴァさんはブッダに尋ねている。これに対してブッダは如何に答えられるのか?

1072
今回の偈は前回の疑問文が肯定文に変わっただけ。すなわち、「・・・・・最上の<想いからの解脱>において解脱した人、かれは退きあともどりすることがなく、そこに安住するでありましょうか?」から次の文に変わっただけ。
「・・・・・最上の<想いからの解脱>において解脱した人、かれは退きあともどりすることなく、そこに安住するであろう。」何故そのように言えるのかと言えば、ブッダが実際に体験した事実だから。
この偈で特に学ぶべきことは、禅定を究めると言うよりは、偈の前半の「あらゆる欲望に対する貪りを離れ、その他のもの(煩悩)を捨て、」ということを、日常生活のなかでよく気づき、実践することだと思われる。
(´・(ェ)・`)つ

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