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早稲田二文・社学蹴りを大後悔の明治・駒澤系卒中年
早慶上理MARCH同立>関大関西学院
早稲田政経 数学必須に
週刊朝日 ダブル合格特集 早政経>慶経、上経>立教営、青学経>中央経、東洋経>日大経、同法>立命法
50代のおっさんが、明治駒沢と意味不明なことを叫んでいます
早慶附属からの大学受験
早慶上立(早稲田 慶應 上智 立教)>CHIMKASS(中央 法政 ICU 明治 國學院 青学 成蹊 成城)
☆☆★【正式な】日大vs東洋vs専修vs駒沢vs成蹊vs神奈川【大学群】★☆★vol.3
平塚江南高校トップは早稲田大学商学部へ。フェリス女学院高校トップも早稲田大学法学部へ進学。
【2019河合塾最新偏差値】早稲田大躍進、慶應義塾停滞で早稲田>>慶應≧上智に

旧制の学制/大昔凄かった学校Part7


1 :2017/11/30 〜 最終レス :2018/07/23
旧制新制の学制及び戦前の検定試験、官吏養成学校
文官や陸海軍関連学校、民法典論争、大学昇格運動など
昔の学歴学制に関する話題を含む

旺文社などの書籍のデジタルアーカアイブ化により新事実が判明中

今じゃ想像できないくらい大昔凄かった学校Part4
http://hanabi.2ch.sc/test/read.cgi/joke/1450956167/
旧制の学制/大昔凄かった学校part5
http://hanabi.2ch.sc/test/read.cgi/joke/1475309425/

※前スレ 旧制の学制/大昔凄かった学校Part6
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/joke/1493046258/

2 :
とりあえず旧制ナンバースクールはエリート

3 :
成蹊と甲南ではすべての生徒・教職員が一堂に会して昼食をとっていた。
イギリスの名門校のやり方を真似たらしい。

  鉄筋コンクリート造で、機械化された清潔な大調理室を備え、
  500名同時に給食できる設備を整えたこの食堂は、
  当時の学校設備としては、まれに見るものであった。
  (中略)食堂の入口から奥にかけて、尋常科1年より高等科3年まで
  クラス別に席が決められていたが、職員の席は別に設けず、
  校長はじめ教職員は分散して生徒の間に席を占めた。
  全員が席に着くとベルが鳴り、一せいに同じ献立の昼食を取るのであった。
  生徒はクラス担任の教員と会食しながら自由に懇談し、
  時に来賓と同席した生徒が、親しく話しかけたり、公演の内容にふれて
  質問するなど、食堂での一ときは、なごやかな師弟交流の場となり、
  知名の士と言葉を交わす機会ともなったのである。
  また、どこかの部が優勝旗やカップを持ち帰ると、
  必ず入口に飾って、喜びを共にする習わしであった。
  (『甲南学園50年史』174ページ)

4 :
洋食儀礼(大倉商業)

第1回の本科卒業式後、「品物少なく講釈沢山」の洋食による会食が行われた。
その席上石黒忠悳は「卒業生中海外に行く者が少くない。自分の希望としては
全員が海外で実務をとることを望む。それには海外の儀礼をわきまえねばならぬ。
外国人との親交には食事に招いたり招かれたりするのが慣例である。
一人前の紳士として、その作法を心得ておかねばならぬ」として洋食作法の講義を行い、
これを最後の訓とした。会食には、卒業生の他、来賓、協議員、理事、教員及び父兄が同席した。

石黒忠悳がこのような事を思いついたのは、卒業生達が欧米を舞台に活躍することを強く期待し、
また現実の卒業生が十分それに耐える資質能力をもっていることを真底から信じていたことの
証左とみるべきではなかろうか。この洋食会は向後毎年行われ、商業学校時代の特異な伝統の一つとなった。
(『東京経済大学八十年史』46ページ)

5 :
【大学ラグビーの実況放送は昭和4年に始まった】

 ラヂオ【八日、日曜日】
 東京【JOAK】
 ◇午後二時二十分 運動競技 「早大対明大ラグビー蹴球試合」
   (明治神宮外苑競技場より中継) 概評 秋山信好
 大阪【JOBK】
 ◇二時二十分 早大対明大ラグビー(東京中継)
 (『東京朝日新聞 昭和4年12月8日付』)

6 :
 『東京朝日新聞』 昭和7年12月5日付
┌──────┐
│.ラグビ−時代.│ 老部長を囲んで涙の校歌合唱 早大優勝の感激
└──────┘

初冬の神宮外苑に満都のファンの焦点は野球からラグビーへと移された。
4日午後外苑競技場に行われた早明戦はいよいよラグビー狂時代の出現を物語るものであった。

見よこの大観衆を! 五大学リーグ戦に共に無敗の戦績をもって覇権をめぐり相見える早明の快戦は
両軍の力量まさに伯仲を予想されただけに一層の人気を呼び、市内5ヶ所で売り出された前売券と
当事校に配られた学生券計1万枚は2日前に1枚残らず売り切れる盛況に。協会では当日売りに用意した
9千枚の普通席券にさらに3千枚の補充券を急造する有様であったが、

★…午前11時の開門を待ち切れず臨時に増設した切符売場に待つファンの群れは
競技場まれに見る風景で、南北の入口に延々と続く長蛇の列は野球場の盛観をそのまま移したものだ。
定刻前正面スタンドは全く満員、あの広い芝生も刻々に黒々と埋められた。

貴賓席には秩父宮、同妃、高松宮、朝香宮妃、同姫宮、
竹田宮礼子女王、北白川若宮の各殿下が台臨あらせられ、
リンドレー英国大使も家族同伴来場する。

7 :
★…午後2時半、紫と白の明治、海老茶と黒の早稲田、両軍は万雷の拍手のうちに出場、
貴賓席へ向かい敬礼の後バラバラとグラウンドに散ると、たちまち審笛一声
──昂まりゆく興奮と緊張がここで爆発した。

『明治!』『ワセダ!』『押せ押せ押せ』拍手以外一切の声援厳禁という
ラグビー競技場の不文律はいつの間にか破られたかたち、スリーコーターの快走に、
ゴール寸前にはばむタックルに3万の歓声が歓声がその都度冬の空気をゆるがせる。

ただ時々の珍プレイに誘発される笑声が熱戦の緊張に僅の緩和剤を投ずるのみ
──最後の審笛響き渡って凱歌は早大にあがった。

★…雪崩れ出る人波にもまれて控室へ入った早大軍が泥にまみれたユニフォームを脱ぎすてるとき、
部長たる宇都宮老教授が姿を見せた。汗もぬぐわず半裸のまま直立した選手の口からともなく
『都の西北』が歌いだされた。老部長のまわり円陣をつくった先輩選手が力強くこれに和した。
だが歌い進む毎に選手のほほに、先輩の目に溢れる涙に歌声がしめる。
選手の『宇都宮先生万歳!』に老教授は『光輝ある選手諸君万歳!』と涙と共に答える。
先輩選手は早大ラグビー部創立以来初めてだぞと相抱いてきょうの勝利を歓ぶのであった。

8 :
第10回早明戦(昭和7年12月5日)

 早大 24 - 12 明大

「明治の縦のユサブリが早稲田の横のユサブリに負けたという事実に直面したが、
それでも僕は自分の方針を変えようとはこれっぽっちも思わなかった。
逆に、もっと強力な縦を作ってやろうという決心を固めさせてくれた貴重な敗戦だったと思う」
(北島忠治)

9 :
>>5
85年前当時、早明戦が大阪でも中継されていたとは。

10 :
>(『東京朝日新聞 昭和4年12月8日付』)

88年前か。

11 :
東京帝国大学法学部 卒業生数

     法律学科    政治学科
明治30年  43     24
明治40年 103     69
大正10年 365    191
昭和10年 461    190
昭和22年 106    591(法律が抜本的に変わるから法律から逃げたか?)
    

12 :
>>11
逃げたと見えるなあ。しかし、学科決定するのはいつだろう。
民間が破滅したから、省庁にもぐりこもうとして法律学科にしてもおかしくないようにも
思えるが…。

13 :
私立大学の供託金問題について。
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317663.htm

財政基盤に関する条件は、私立学校の昇格認可の際特に強く要求された。
かねてから大学昇格を要望していた私学は、大学令公布後続々と昇格申請を行なったが、
その条件として先述のように私学の設立者である財団法人は「大学二必要ナル設備又ハ之二要スル資金」と
「少クトモ大学ヲ維持スルニ足ルヘキ収入ヲ生スル基木財産」をもつことが必要であり、その基本財産は
「現金又ハ国債証券其ノ他文部大臣ノ定ムル有価証券」を国庫に供託することを要求していた。
(大学令第七条)この供託金は単科大学で五〇万円、それに一学部を加えるごとに
一〇万円を加える定めであった。それに設備の充実に要する金額も膨大なものであった。


  当時大半の私立大学は授業料収入を最大の財源とし、
  敷地、校舎等の不動産を除けば基本財産を殆ど持たなかったらしい。
  例えば法政大学の大正6年度の経常費は僅かに3万円だったと言われる程の実情を見ても、
  これは私立大学撲滅策だと言わざるを得なかったのである。
  そこで私立大学側ではこれに関する緩和策を講ずるように運動し、
  政府も「不完全ナル大学ノ容易ニ設立セラルル」危険性に鑑みて、
  認可した各私立大学に25万円の補助金を10年割賦で補助することにした。
  また供託金も5年または6年の分割支払いを認めることにしたのである。
  (『早稲田大学百年史』 第三巻、42ページ)

実際には5〜6年で供託金を完納できた大学は多くなかったらしい。

14 :
《中央大学の場合》
・「総額70万円の基金を、6ヵ年に分割して、第1年度から第5年度まで毎年度10万7000円、
. 最終年度は10万5000円として供託」する計画を立て、第4年度までは計画通りに納付した
. (『中央大学百年史』 通史編上巻、380-381ページ)
・関東大震災の被災校に対しては納付条件の緩和および納付済みの供託金の還付が認められ、
. 大正13年度以降は減額納付を行うこととした(供託金の還付申請はしなかった)
・大学昇格が早かった7校(慶、早、明、法、中、日、國)に対しては国庫補助金が支給されていたので、
. 実質的な納付額は少なく、中央大学は昭和6年度に供託金を完納した


《明治大学の場合》
・関東大震災で焼失した校舎再建のため、すでに納めた供託金40万円の半額還付が認められた
・分納方法も15年間で30万円、それ以降の5年間で30万円に緩和
・昭和4年度までの納付額は58万円(残り12万円)
・昭和6年12月、和泉の予科校舎建設のため20万円の還付が認められた
. (同時期に法政と日大も20万円の返還が実現している)
・分納方法も昭和5〜7年度は猶予、昭和8〜12年度で32万円に緩和
・実際の猶予期間は昭和10年度まで延長されたらしい
・「供託金返還・猶予を求める運動が、財政的に苦しかったこの時期を乗り越える上で、
. 一定の成果をもたらした」 (『明治大学百年史』 第四巻 通史編U、38ページ)


《関西大学の場合》
2学部を持つ本学の供託金は60万円で、年間総予算を上回り、大きな負担となった。
大正11年6月に第1回分10万円を供託したが、残額の一括納入が困難なため、
文部省に分納願いを提出した。この申請が認められて昭和6年度から8年度までは毎年度3万円、
そのあと9、10年度に6万円ずつ分割して供託することになった。

こうして9年度までに54万円を納付、残り1回6万円までにこぎつけたが、
昭和9年12月に予科校舎が炎上し、新校舎建設費32万円の臨時支出が当面の緊急課題になる。
この不慮の事態のため本学は、文部省に納期を1年延長して再分割を要請し、
翌11年度にようやく供託金を完納した。(『関西大学百年史』 通史編上、617ページ)

15 :
《立命館大学の場合》
・大正11年に第1回の8万4000円を納付、以後5回にわたって同額を供託する計画だった
・翌年に第2回供託金を納付、それ以後は財政難のため納付は滞りがちになる
・「大正末年からの立命館文庫の充実、さらに1927年から29年にかけての
. 大学各校舎の相次ぐ建築、グラウンドの整備は、学園の充実化につながった反面、
. 大きな財政危機をもたらすことになった」(『立命館百年史』 通史一、424ページ)
・昭和12年の段階でも12万円が未納のまま、さらに60万円を超える借金があった


《専修大学の場合》
本学の供託金は60万円であった。しかしこれを一時に供託するのは固より無理だから、
本学は他の大学と同様、分割供託の方式を申請し、毎年10万円ずつ、6ヵ年で供託する認可を受けた。
そして大正11年度と12年度は、相馬学長からの借入金をもって、各10万円、合せて20万円を
供託することができた。ところが相馬学長は、大正13年1月卒去されたので、
13年度以後の供託金は、全く目処が立たなくなった。(『専修大学百年史』 下巻、1231ページ)

・関東大震災で校舎焼失、昭和恐慌で学生数激減→債務累増
・大正13年度〜昭和11年度の納付額はわずか2万円
・昭和11年度以降は毎年度の国庫補助金をそのまま供託金にまわすことになった


《東洋大学の場合》
東洋大学は昭和3年第1回の供託金25万円の供託をおこなった。
そして2回目以降は毎年度それぞれ9万円・8万円・8万円ずつを供託し
昭和6年度で50万円の供託を完了する予定であった。しかしこれを実行することはできなかった。
(『東洋大学百年史』 通史編T、1037ページ)

・昭和恐慌で学生数激減(昭和4年度:2326人→昭和12年度:421人)
・昭和6年度〜昭和17年度の納付額はわずか1万5千円
・昭和9年度には文部省から供託金5万円の還付を受けることになった

供託金問題に関しては東洋大学の場合、結局全供託金額の半分にも満たない状態のまま
戦後を迎えたのである。(『東洋大学百年史』 通史編T、1135ページ)

16 :
各私立大学が納付した供託金は戦後まもなく返還された。

  これらの公債は、戦後、本学に返還された。その受領にあたった
  本学会計課、片岡権治郎、原幸作は、「日本銀行大阪支店に出向き、
  リュックサックにつめこんで帰ってきた。とにかくぼう大な量の債券であった」と、語っている。
  この苦心の供託金も、戦後のすさまじいインフレの前には、さしたる値打ちはなかった。
  (『関西大学百年史』 通史編上、617ページ)

17 :
レベル11
東京大(理V)、京都大(医)

レベル10
東京大、京都大、国公立大医学部
慶應義塾大(医)

レベル9
一橋大、東京工業大

レベル8
北海道大、東北大、名古屋大、大阪大、神戸大、九州大
早稲田大(政経・法・文・各理工など)、 慶應義塾大(経済・法・理工など)、私大医学部

レベル7
筑波大、東京外国語大、お茶の水女子大
早稲田大(人間科学・社会科学・国際教養など)、 慶應義塾大(SFCなど)、上智大

レベル6
千葉大、首都大学東京、横浜国立大、電気通信大、東京農工大、新潟大、金沢大、広島大、岡山大、熊本大、長崎大、名古屋工業大、
名古屋市立大、京都工繊大、奈良女子大、大阪市立大、大阪府立大、神戸市外国語大 など
東京理科大、中央大(法)、関西学院大、同志社大

レベル5
小樽商科大、弘前大、群馬大、埼玉大、東京学芸大、信州大、静岡大、三重大、
滋賀大、兵庫県立大、和歌山大、香川大、山口大、鹿児島大 など
明治大、青山学院大、立教大、法政大、中央大、立命館大、
関西大、学習院大、津田塾大、南山大、私立大薬学部 など

http://www.toshin.com/curriculum/images/kouza_en.pdf

18 :
80周年の受験情報誌『螢雪時代』にみる学校・入試制度の変遷、受験生の感性
大学入試の“温故知新” !  旺文社

 http://eic.obunsha.co.jp/viewpoint/201104viewpoint/

小社の大学受験情報誌『螢雪時代』は、前身の『受験旬報』が
昭和7(1932)年に創刊されてから、今年で80周年になります。

そこで、これまであまり知られていない
昭和初期から戦時下にかけての学校制度と「旧制大学」進学や入試方法、
「旧制高校」受験、戦後の「新制大学」発足当初の入試状況、
及び各時代の受験生から小誌に寄せられた“受験ユーモア・コント”などを振り返り、
今に続く大学入試のミニ昭和史を紐解いてみました。

19 :
国語漢文ということは、漢文は国語ではないという扱いだったのか。
今は漢文は国語の一部の扱いだけどどっちが正しいのか。

20 :
>>19

国語漢文=国文解釈+漢文解釈
国文解釈は、今の「古文」に相当するみたいです。

 中古和文調の文章が与えられ、それを現代語で解釈する問題である。
 与えられる文章には句読点がないので、
 自分で意味を考えて句読点を補わなくてはならない。

 http://id.fnshr.info/2013/02/10/s4ichikokokugo/
 

21 :
●漢文解釈

旧制高校の受験者は基本的に旧制中学の在学生・卒業生である。
旧制中学の四大教科と言えば国・漢・英・数と言われたほど、
旧制中学では漢文の学習が重視された。

これを踏まえて、旧制高校でも漢文をしっかり問うている。
今の視点からするとかなり難しい問題である。
もっとも、当時の受験者にとっては極端に難しいということはなかったのだろう。
あまり難しくて誰も解けなければ試験の意味がないであろうから。

22 :
全国大学高等学校専門学校入学案内 南光社 大正14年
早稲田大學
百二十圓
慶應義塾大學
百二十圓
明治大學
百圓
中央大學
八十八圓
日本大學
八十八圓
法政大學
九十圓

東京慈恵會醫科大學
二百圓
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/913353

23 :
蛍雪時代』1965(昭和40)年5月号の第1付録「学部・学科選択ガイドブック
http://d.hatena.ne.jp/akamac/touch/20100104/1262616164
上智は法しか載っていない(1957年法学部設置と遅い)

1977理系難易度
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/7816/1.htm
上智は3位

1985高校偏差値
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/7816/2.htm
日大鶴ヶ丘って美術や音楽コースがあったんだね

24 :
>>23
東工大附属と浅野がこんだけ低いのは謎。
浅野はもう田舎県のトップ校くらい進路良かったのに。

25 :
>>24
学附筑附お茶なども載っていないから
おそらく東京工業は私立で東工大附ではないと思う
しかし日大附属は下がったというか他の大学附属が上昇したというか
なんで波に乗れなかったんだろうか?

26 :
東京工業は現在の日本工大駒場みたいだね

27 :
>>19 ひらがなカタカナができる前は、漢文が日本語としても使われたから国語な

28 :
>>19
そりゃ国語と漢文は違うだろ

29 :
今は、もともとのあちらの言語を日本語化してるから国語の一部という扱いなのかな。

30 :
医学部って理科乙が優先で理科甲からはあまり入れなかったんだろうか?

31 :
とっくに年収1000万確定の職業になってたのにほとんどの私立医が平成初頭までマーチ理工並かそれ以下の偏差値だったのが謎。
しかもそんな時代でも今と同じく多浪がたくさんいたし。

32 :
1990年あたりまでは医師以外にも確実に食える職業がたくさんあったからね
一流大文系から都銀あたりに入れば一生安泰といわれていたし

33 :
そのころだとまだ今以上に医学部の学費が払えない人もいただろう。

医学部に限らず、理系が不人気だったよね。

34 :
妹殺した歯学部浪人生が日大松戸歯学部を多浪してたのも謎。
あそこセンター利用英語数学1A理科の3科目で73%取れば合格するようなレベルのところなのに。

35 :
昭和時代は、まだ戦前の末は博士か大臣か
の意識が残っていて
町医者より早慶出の方が上という意識だった

36 :
昭和時代は、まだ戦前の末は博士か大臣か
の意識が残っていて
町医者より早慶出の方が上という意識だった

37 :
このころ凄いとされていたところで、ホントは凄くも何ともなかったところもいろいろあるよね。

青山学院の国際政治経済学部って何だったんだ。

38 :
1990年あたりだと津田塾や神戸女学院英文科が早慶に次ぐくらいの高偏差値をつけていた

39 :
津田塾や神戸女学院は歴史があるからわかるんだけど…。
あと、上智の国際何とかっていうのもあったな。

40 :
1960年代の受験ランキング

http://d.hatena.ne.jp/akamac/touch/20100104/1262616164

41 :
>>27
更にそれ以前は神代文字が。

42 :
>>39
上智の国際部はGHQ子弟の学校
のちの上智国際が人気になるのはある意味当然

43 :
名前:エリート街道さん[] 投稿日:2017/09/30(土) 16:32:34.55 ID:l+ZW/wtB [1/2]
入学辞退率(蹴られ率)ランキング(首都圏私立大学)
http://resemom.jp/article/2014/06/02/18748.html
http://news.livedoor.com/article/detail/12009433/
https://s.resemom.jp/article/img/2017/07/06/39062/172825.html

 2017年            2016年            2014年
******************** ******************** ********************
1位 81.57% 理科大   1位 82.98% 理科大   1位 83.87% 理科大
******************** ******************** ********************
2位 79.59% 明治大   2位 80.55% 明治大   2位 79.84% 明治大
******************** ******************** ********************
3位 79.22% 法政大   3位 80.48% 法政大   3位 78.00% 成蹊大
4位 77.18% 東洋大   4位 78.06% 明学大   4位 77.59% 立教大
5位 76.62% 成蹊大   5位 78.05% 早稲田   5位 76.89% 法政大
6位 74.71% 日本大   6位 77.92% 東洋大   6位 76.31% 中央大
7位 73.99% 駒澤大   7位 77.21% 立教大   7位 76.06% 駒澤大
8位 73.19% 中央大   8位 77.19% 成蹊大   8位 74.02% 東洋大
9位 72.54% 立教大   9位 76.98% 中央大   9位 73.81% 国学院
10位 71.91% 明学大  10位 76.49% 駒澤大  10位 73.00% 日本大
-------------------- -------------------- ------------------
11位 70.43% 上智大  11位 74.83% 日本大  11位 72.04% 青学大
12位 70.23% 国学院  12位 72.63% 国学院  12位 72.02% 上智大
13位 67.46% 学習院  13位 71.24% 青学大  13位 68.50% 成城大
14位 65.15% 早稲田  14位 69.68% 上智大  14位 68.30% 早稲田
15位 63.27% 青学大  15位 59.38% 慶應大  15位 59.47% 慶應大
16位 58.14% 慶應大  16位 54.09% 学習院  16位 54.96% 学習院

44 :
2017 第一回 駿台全国模試 国公立大文系 (前期日程/一般入試)
前期日程の偏差値60以上を全て! 抜き出しました。

難関大には定評のある駿台偏差値です。
脳内偏差値であれこれ好き勝手にランキングするものたちへ。



68 東大文一

67 東大文二 東大文三

66

65 京大法

64 京大経済 京大文 京大教育 一橋大法 東京外大言語文化/英語

63 京大総合人間 一橋大経済 一橋大商 一橋大社会 東京外大国際/北西欧・北米

62大阪大法 東京外大言語文化/フランス語・スペイン語 東京外大国際/中央欧

61大阪大文 東京外大言語文化/ドイツ語・イタリア語 東京外大国際/ラテンアメリカ

60大阪大経済 大阪大人間科学 東京外大言語文化/ロシア語 東京外大国際/ロシア 大阪大外国語/英語

45 :
戦前の受験雑誌で私大ネタは意外と少ない。

  『受験と学生』『受験旬報』(のちの『蛍雪時代』)には、
  立教大学予科への進学情報はほとんど載せられていない。
  立教に限らず、早稲田・慶応・明治・同志社などの私立大学予科の
  入試情報もきわめて少ない。編集姿勢のせいもあったろうが、
  戦前日本の中等学校卒業生の進学関心は官立高校・専門学校などに向けられ、
  また実際官立校への入試が激しい競争だったからであろう。
  とくに『受験旬報』は、欧文社(旺文社)社長赤尾好夫の指導の下に、
  高等学校・大学予科・専門学校・専門部・高等師範学校、さらに戦時下に入ると
  軍関係学校などへの受験情報、進学案内を精力的に報道した。
  しかし、両誌はときに学園のルポルタージュや教授評判記などの類を載せている。
  (『立教学院百二十五年史』 資料編第1巻、803ページ)

46 :
『受験と学生』第16巻12号(昭和8年)に掲載された「早慶明法立学生気質」だが。

  立  教
 
  同志社、関西学院――何れも関西にあるミツシヨン、スクールであるが、
  非常にバタ臭い。さうして大半は、それぞれの普通部、中学部の出身者である。
  ところが、立教は矢張りミツシヨンであるがそんなにバタ臭くないのみならず、
  学生に、立教中学出身者が割に少い。

  つい先だつて英吉利人の英作文の教師が、日本が支那を侵略したとかいふ
  文章を作らせたと云つて、学生が騒いだが、それ程ミツシヨンでありながら、
  気骨のある大学だ。

  校舎だとか、野球やラグビイの合宿などは、何れも赤煉瓦造りの英吉利式な
  ガツチリした建物で、なかなか瀟洒でもあるが、学生の気風はジミである。
  法政が慶応に似通つてゐるとしたら、立教は寧ろ早稲田である。
  池袋界隈は長崎町の立教に近いので、立教の学生の姿を至る処で看るが、
  服装など、附近の豊島師範の生徒と余り変らない。誠に珍しいミツシヨン、スクールである。


慶応に似た法政、早稲田に似た立教・・・戦後のイメージとはずいぶん違うな。

47 :
 
  立教程、学生の人数に比して、体育の盛んな処はあるまい。
  スポーツに、武道に、或は屋内遊戯に至るまで、其の設備、内容、完全を期してゐる。
  近年、野球部の進展は、野球好きの満都のフアン達にはワイワイのお祭り騒ぎである。
  水泳部でも、蹴球部でも、殊に籠球部に至つてはスポーツ界の驍将であるとさへ言はれてゐる。
  こんな元気の好い、兄貴連中が体育館を中心として活躍してゐる。勝負などは念頭に置かないで、
  あの素晴らしい運動の陶酔に居れたら、若々しい生活がどんなにでも出来ますよ。
  (『受験と学生』第10巻1号(昭和2年))

戦後の立教はスポーツ推薦をやめていた時期が長かった(近年復活)。

48 :
前田利貴
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%88%A9%E8%B2%B4

学習院を経て、1940年(昭和15年)に法政大学法学部を卒業し、
三井物産に入社する。

戦前の法政大学はお洒落な校風だったのだよ。

49 :
>>30
医学部入試の外国語がドイツ語だったから理科乙類の方が有利だったってことじゃないのか?
文科から岡山医大入学した人もいるし

50 :
法政、戦後の一時期に医学部創設の話があったらしい
全日空の中野勝義と日通の福島敏行が主導して
でも、中野が飛行機事故で死んで、福島が日通事件で失脚して消えたけど

51 :
やっぱり歴史を辿ると法政が著名人が多く関わっており面白い

52 :
長嶋が佐倉高から立教に進んだときはまだバンカラ・スポーツ校の色彩が濃厚だったのかな

53 :
早坂暁氏のご冥福をお祈りします

海軍兵学校予科(防府?)で終戦、旧制松山高校一年修了で学制改革、日芸演劇学科入学

54 :
時計塔校舎が見守ってきた木月校地|法政大学
http://www.hosei.ac.jp/gaiyo/daigaku_shi/museum/2016/160607.html

  軍需インフレによって昭和恐慌が克服され、学生数が増加したことから、
  予科は東京横浜電鉄東横線(現東急東横線)元住吉駅付近の
  川崎市木月(現川崎市中原区木月大町)へ移転します。
  ちなみに、東横線にはまだ武蔵小杉駅がなく、
  南隣の日吉駅付近には慶應義塾大学の予科が一足先に移転していました。

法政と慶應の予科生は同じ電車に乗って通学。

55 :
慶應の日吉キャンパスは米軍に接収されたんだよな

56 :
>>55
太平洋戦争末期には連合艦隊司令部が日吉キャンパスにあった
http://21432839.at.webry.info/201211/article_3.html

57 :
接収キャンパス

日吉   慶應
越中島  東京商船・水産講習所
大阪   大阪市立

58 :
東大本郷キャンパスはGHQの本部用に接収されかかった云々。

59 :
>>52
立教の野球部はスパルタ指導で有名で、しばしば監督排斥運動が起きている。

60 :
旧制高校の衆道(男色)はいつまで続いていたんだろう?
海軍兵学校生徒らが起こした白袴隊事件以降も続いたのだろうか?
男色を禁止するよう通達したような気がするが詳しくは知らん
薩摩系が衆道文化を高校に根付かせたのだろうか?
というか鹿児島はいつ頃まで衆道文化があったのか?
旧軍は肉体的ではなく精神的な繋がりは最後まであったのかもしれんな

61 :
陸軍だと1期違いは案外と疎遠になるが2期違いだと濃密な関係になるとか。職務の配置や指導の関係で。

62 :
1888年(明治21年)に
呉市の呉鎮守府に近接した
広島県の安芸郡江田島町(現在の江田島市)に移転した。



白袴隊事件は1899年3月に発生している。
海軍兵学校生徒ではなく、海軍予備校生徒が下手人だろう。

63 :
関西学院って今では考えられないくらい高かったよね。
何故なのかはわからない。

64 :
1960年代だと早慶>上智関学津田塾>その他 だったと読んだことがある。
当時の京大阪大理系の最大併願先が関学理系だったとも。
今じゃ信じられない話だが。

65 :
昔の関学が凄かったというが
全盛期で関学≒同志社か関学≧同志社くらいじゃないの?
上智や女東大の津田と同等はにわかに信じられない
確かに61旺文社の商経の点数を信じるならば
慶>早>南山>上智>同志社≒関学だけど
南山??

66 :
仮に伝統あるキリスト教関係の学校だったから高かったとして、なぜ今の関西学院は
あの様で同志社は無事なのか…?

たぶん、単純に関西大学と名前が似てることが悪影響を及ぼしたのではないか?

67 :
http://www.geocities.jp/gakurekidata/syu1966.html
60年代の週刊誌の就職特集をみると関学が相当健闘しているように読める

あと、当時は三菱系に成蹊大卒がかなり採用されていて、昔は本当に系列採用で優遇されていたのだなあと思う
三菱商事や三菱重工の採用数をみると
今現在だと成蹊大から三菱商事に10名も採用とか、ちょっと考えられないし

68 :
>>67
小樽商科が未だに三菱系古参企業から超優遇されてるのも凄い。

69 :
関学の凋落の原因はいくつかあると思う
大震災、人口減少、お洒落な街だけど川崎っぽい、
立命の如く矢継早の改革が出来なかった、関西資本の東京移転
そして聖霊大学?とかいう無名の大学を吸収してしまった
旧制大学ではない関学が何故昔は凄かったのか分からない
進駐軍の指定学校でもあったのかね?
https://www.kwansei.ac.jp/r_history/r_history_008710.html
旧軍諸学校の人材は受け入れていたようだ

70 :
関学は昭和初期に旧制大学に昇格してるぞ。

71 :
大阪市立大学の赤化の謎と、関西学院の隆盛の関係について
『香川大学解体新書』と言うブログに非常に納得させられる論考があります。
その一部を下記に記載させて頂きました。

●大阪市立大学に見る伝統の断絶
1945〜46年、少なからぬ大学で、治安維持法違反などで
拘束・服役・辞職していた教員や学生の復職・復学などをきっかけとして、
(戦時中の)残留組教授の戦争協力責任という問題が大きくなり、
大阪商大では、教授全員が辞表を提出し学長にその処理を任せることで、
けじめをつけるということが行われた。
その結果、1946年2月に教授であった27名のうち、
辞表受理ないし自発的退職によって、
なんと16名の教授が大学を去り、残ったのは11名に過ぎなかった。

これだけ大量の辞職と少数の残留とを分けるラインが
戦争協力の有無にあったとは思えない。
(筆者注;他大学では軍国主義教育を主導したとして
責任を追及された教授の数は桁違いに少ない)

同時に、(市立大阪商科)大学の学則第一条(目的)が
「商業に関する学術」から「政治経済に関する学術」に変更され、
カリキュラムも必修科目はゼロですべて選択の超自由主義型となった。
残留組は、法律系、経済系に多く、経営、金融、貿易、市政という、
商科大学初期の四分科にかかわる教授たちが辞職となっていることが印象的である。

この点について、最近、林純平『関西学会展望』(交友堂書店、1938年)という
本を読み、ある種の感慨を覚えた。
この本は、当時の『夕刊大阪新聞』に掲載された関西の大学と学者の紹介を
単行本にしたものであるが、京都帝国大学、神戸商業大学に続いて
大阪商科大学も取り上げられており、そこで高い評価の教授と低い評価の教授が、
完全ではないが、1946年の残留組と辞職組につながっているのである。

大阪市立大学において大阪商科大学の雰囲気が感じられなかったのは、
このような教員構成の断絶(筆者注;商業系・実務系科目担当教員の追放)と
(それによる)大学の性格変化という要因も大きかったのではないかと考えている。

https://ameblo.jp/ssasamamaru/entry-12155038068.html

72 :
>>71 承前

●関学の輝き
最近、受験界では関西学院大学がふるわないとよく聞く。
しかし、戦後から大学紛争が激しくなる昭和40年代までの
関西学院大学の社会科学系学部は間違いなく輝いていた。
いま関西財界で関学OBの数が多いのは知られているが、
その要因のひとつは、戦後の大阪商科大学に蔓延していた
「進歩的」雰囲気に耐えられずスピンアウトした
優秀な教授を迎え入れたことによるだろう。

関学は、原田の森時代、もともと同じ神戸市葺合にあった
神戸商業大学(当時は官立神戸高商)とはライバル関係にあったため仲が悪く、
旧制の商系学部の教授供給源を、京都帝国大学と大阪商科大学に求めていた。

筆者の個人的交友範囲でも、筆者の実家の隣りに住んでいた
保険論の椎名幾三郎博士は、東商大(現・一橋大)を出て
小樽高商教授を経て大阪商科大学の教授となった方だが、
この「大量辞職」により、関西学院大に新設された商学部に迎えられ、
昭和42年まで教授をつとめた。

旧帝大の京都大学や新設された大阪大学は「経済学部」であり、
商学・経営系に割り当てられた教授定員はもともと少ない。
神戸大学は商大であったため講座数は豊富にあったが、
すでに自前の教官供給能力を備えており、「避難先」にはなりえなかった。

その点、関西学院大学は、高商や戦前の商経学部時代から
大阪商大より教授を受け入れていたという背景があり、
経済学部と新設された商学部が
この大量辞職者の受け皿のひとつになったものと思われる。

つまり、皮肉にも市立大阪高商の商学の学統は、
関西学院に「接ぎ木」されたことになる。

いっぽう、大学紛争の残り火がくすぶる昭和50年代まで、
いわゆる関関同立の4校のうち夜間部を持たないのは関西学院だけであった。

筆者は、上記大阪商大からの教授受け入れとあわせたこのふたつの要因が、
当時の関学の実業界での評価を高める大きな要因になったと想像している。

73 :
>>67
成蹊とか成城って授業料自体が高かったんだよね
で、付属でずっときてるようなお坊ちゃんも多いとこだし

74 :
この頃はまだ日中戦争前だから国民生活にも若干余裕があった。


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東京・新宿 伊勢丹

(『東京朝日新聞』昭和12年3月6日夕刊)

75 :
面白クテ勉強ノ助ケニナル 小学館発行 八大学習雑誌 [四月特大号 本日発売]

此ノ豪華執筆陣ヲ見ヨ 児童雑誌界空前ノ盛観!!
オ子様ノ成績ヲ良クスルタメ新学期ノ此ノ際 是非オ与ヘ下サイ 是非オ読マセ下サイ

[小学六年生]  ... 四月号(五大附録付) 特価 金六十銭
[小学五年生]  ... 四月号(四大附録付) 特価 金五十五銭
[小学四年生]  ... 四月号(五大附録付) 特価 金五十銭
[せうがく三年生]  四月号(五大附録付) 特価 金四十五銭
[セウガク二年生]  四月号(五大附録付) 特価 金四十銭
[セウガク一年生]  四月号(六大附録付) 特価 金四十銭
[幼稚園]     .  四月号(五大附録付) 特価 金四十銭
[幼年知識]   .  四月号(三大附録付) 特価 金三十五銭

(作家・学者)
蘇峰徳富猪一郎先生 三上於菟吉先生 大仏次郎先生 桜井忠温少将 佐藤春夫先生
西條八十先生 長与又郎先生 青木誠四郎先生 吉川英治先生 松村武雄博士 石原純博士
福永恭助少佐 小川未明先生 獅子文六先生 辰野九紫先生 筒井敏雄先生 沖野岩三郎先生
久米元一先生 木村毅先生 村岡花子先生 中野実先生 横山美智子先生 芝佳吉先生
青木堯助先生 南洋一郎先生 佐伯孝夫先生 サトウ・ハチロー先生 湊邦三先生 高垣眸先生 
(順序不同)

本誌独特ヲ誇ル「勉強室」ハ各高師三十有余先生方ノ分担執筆デス!!
四月特大号ハ各誌共大フンパツ大オマケ揃ヒ!! コノ外ステキナ大懸賞!! 大奉仕!!
売切レノ恐アリ即刻書店ヘ申込マレヨ

[東京神田 小学館 振替東京45107]

(『東京朝日新聞』昭和12年3月7日)

76 :
昭和12年だと戦争特需で景気が上向いていた時期だぞ。

戦時色が濃くなってゆくのは昭和15年から。

77 :
三菱系企業の成蹊卒採用優遇がなくなったのっていつ頃なんだろうね
今でも成蹊の理事長は三菱金曜会のトップから選ばれているけど

78 :
 東京において、最大の難関校は一高(第一高等学校)であり、次が東京高商であった。
 その理由として、若干、説明を付け加えるとこういうことである。
 すでに述べたように、当時、東大法学部を卒業しただけでは必ずしもエリートコースには乗れない。
そのうえ、何が必要であったかというと、出身高校のエリート性である。
 とりわけエリート度が高いのが一高で、ついで、三高。ほかの高校ともなると、ぐっと落ちていた。
これは、明治から大正の半ばころまでの話であり、その後、状況は変化した。
 それにしても、昭和の初め頃、全日本のVIPの過半数が一高出身であったのだから、そのエリート度たるや大したもの。
 それゆえ、他の高校ならラクに入れるのに、無理に浪人してまで一高受験を繰り返す受験生も後を絶たなかった。
このころの高校は、どこでもみんな、すこぶる特権性は高かった。
それゆえ1年ほども頑張れば、どの高校からでも東大法学部に入れた。それならば、無理に一高に入る必要もなさそうである。
しかし、一高に天下の秀才が集中した理由は、右のごときものであった。
 となると、こういう結論にならざるを得ない。
 東大でも、中以下の学生は、高商の学生よりレヴェルは下である。
 今日のように、東大に入れない学生が一橋へ行くということはなかったのであった。
 東大といえども、けっして商大を眼下に見下ろしてそびえたっていたわけではない。
 では、東大、商大、この連山がとびぬけた特権校か。そうえもなかった。
 本当のエリートは師範学校にいった
(以下略)

   小室直樹 著「偏差値が日本を滅ぼす」より
 
 
 

79 :
小室直樹は新制会津高校
東京高商なんて知らんし東京高師も知らん世代だろ
もっともナンバースクールくらいしかない時代の
東京高商のステータスは高かったろうが
昭和に入ると旧制浦和や7年制高校のほうが難しかったはず
前スレに当時の中学、7年制尋常科の志望校優先順位だと
最優等が7年制を受験し、次が一中などを受験した
確かに一高閥は凄いものがあるが小室は田舎もんだから神格化し過ぎ

80 :
旧制高校の寄宿寮

大部屋制(1室十数人)
  一高(部屋ごとに室長がいた)

中部屋制(1室4〜8人くらい)
  二高、五高、七高造士館、八高など

1室2人制
  静岡高、姫路高、大阪高、武蔵高など

完全個室
  府立高など

新設校ほどアパート化する傾向があり、
単なる勉強本位と批判されることもあった。

81 :
秦郁彦が家永三郎のことを「東京高校みたいなお坊ちゃん校を出て、、」みたいに書いていたが、東京高校は一高や浦和高に比べると父兄の社会階層が高かったのかな

82 :
周りがバンカラなのに東京高校だけスマートな校風だったんだろうね
戦前は東大は勿論慶應も比較的バンカラだっただろう
旧制高校別の親の所得に関する本や論文を読んだことはないけど
旧制7年制高校は富裕層の中でも上層の階級の息子が行ったのかもしれない
田舎の庄屋や造り酒屋の息子が中学から東京の旧制7年制尋常科を受験するとは思えんし

83 :
東京高校は全寮制じゃなかったから良かったのかもしれない。
全寮制じゃない方がいいということは、その頃は高校のバンカラとか寮文化とかデカンショとかの幻想を
もたない者も多かったんじゃないか。

84 :
田舎の村長の息子くらいだと進学したとしても旧制中学までが普通だった。

85 :
東京高校出身の清水幾太郎は、東京高校の事を“ ジュラルミン高校 ” と呼んだ。

●大宅壮一「ジュラルミン高校紳士録」1957年

★軽くて強いジュラルミン 
現代は鉄の時代に代わってジュラルミンの時代だといわれる。
ジュラルミンというのはアルミウム合金の一種で、銅、マグネシウム、マンガンなどが少しずつ入っているのだが、
鉄よりも軽くて強いというので、航空機の発達とともに金属界の王座にのし上がった。

これに似た現象が戦後の日本の学界、マスコミ界、美術、芸能の世界にも起こっている。
日本文化の全分野では”軽くて強いて便利な”ジュラルミン時代を現出している。

こういった風潮の波に乗って、急に浮かび上がったきたのが「旧制東京高校グループ」である。
例えばここの卒業生で東大の教授、助教授などになっているのがなんと百六十九名もいる。
東大には約六百人の先生がいるというから、その二八%にあたるわけだ。

大宅が言いたかったのは「軽くて強くて便利だが、鉄ほどの重みはない」ということらしい。
http://www.geocities.jp/seakurosaki/jinbutu4.html#ooya
→ 26.大宅壮一 社会評論家(1900〜1970)

86 :
>>83
ストームとかウザイだろう。
大部屋の寮なんて汚いし、
綺麗好きや几帳面な性格だと合わない奴はとことん合わない。

87 :
寮雨と称して寮の二階から小便する悪習とか住環境が良い訳がない。

88 :
>>86
旧制高校生は酒飲んで暴れて事件起こしても余程のことがない限り放校はなかったようだし
当時はそういうのに憧れて旧制高校に進学したんだろうね
親父は県下一番の高校(旧制一中)出身でバンカラの気風が強かったみたいだが
ストームとかデカンショとか昭和二桁生まれの親父もよく知らんみたい
戦争が続いていたら海兵に行きたかったと言っていた

89 :
当時の寮内の写真を見ると
とても清潔とは言いがたい環境なんだよな。

床上にミカンの皮とかゴミが散らばっているし。

綺麗好きな芥川龍之介は旧制一高の寮が好きじゃなかったようだ。

90 :
蒲団は敷きっ放しの万年床、掃除が行き届かない部屋はゴミだらけ。
おまけにバンカラを気取る多くの学生は風呂に入らず、髪も洗わない。

考えただけでも恐ろしい空間だ。

91 :
男塾みたいなところなんだな

92 :
寮の不潔な環境に対応できず、病気を患う旧制高校生も居たという話。

だから寮を個室にする学校も出てきたのだろう。

93 :
学生寮なんてちょっと前まではどこもそう
左翼が入り込み、学生寮自体廃止してきたとこが多いけど
京大の熊野寮みたいな

94 :
>>90
戦前は洗髪の習慣はあまりなかったようだよ
昭和30年代でも新聞広告で女性向けに5日に1度は洗髪をみたいな煽りがあったから
男は一週間くらい髪の毛を洗ってなかったんだよ
毎日洗髪するのは1980年代以降
http://www2.synapse.ne.jp/palikare/senzen5.png

95 :
日本髪の女性が毎日洗髪しないのは分かるが、
本当に男女ともに頭を洗わなかったのか?

臭いしフケが出るし、痒くて仕方がないぞ。

96 :
今でも外人は髪なんて毎日洗わないよ

まあ、昔は湯を沸かすのが一苦労だから

97 :
>>95
94の洗髪する女性の絵は現代女性とそう髪の長さが変わらない
花王がシャンプーを売る為に月2回を推奨しているということは
昔は月2回も洗髪していなかったということ
毎日薪で風呂炊くなんてめんどくさいし
風呂釜持っている家はそう多くなかったんじゃないか?
上記の花王の広告でも女性は桶で洗髪しているしね
70年代流行歌である南こうせつの神田川も銭湯の歌詞がある

98 :
>>97
昭和24年生まれの親父は
少年時代に銭湯通いをしていたが
風呂屋へ行くのは2日に1度だった云々。

東北の山奥で育った同じく昭和24年生まれの母親は
強風で無い限り毎日お湯を沸かして入浴したとのこと。

99 :
正価1個5銭か。
現在だと100〜150円くらいだな。

100 :
昭和に入れば一、高に浪人して入って読めもしないデカンショだの何だの言ってる者を
バカにしてた者も大勢いただろうな。
実際、一高には入ったものの、その後東大にも入れずろくに就職できずに、一高という
無駄なプライドだけを持って崩れていった者も数えきれないほどいるんだろう。

戦前戦中に、頭のいい者は軍学校に行くべしという世間の圧力のようなものを
のらりくらりとかわして旧制高校や理科に進んだ者の話とかも知りたいね。


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