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日本国号の由来
- 1 :2017/02/15 〜 最終レス :2018/06/03
- 日本国号の由来
日本国号の由来を考える。日本国号は東夷を表すつもりではなかったか。
「日本」の文字が見える最も古い記録は禰軍墓誌の「于時日本餘噍、據扶桑以逋誅、風谷遺氓、負盤桃而阻固」。
風谷遺氓を福信とする説を取ると、于時は碑文の「顯慶五年(660)」になる。
日本餘噍は660年に扶桑にいた。旧唐書の「扶餘勇者,・・・,是時走在倭國」は、日本餘噍は扶餘勇(百済王子)と思わせる。
白村江で多くの百済貴族が倭国に着き、扶餘勇と合一したはず。
旧唐書の「麟コ二年(665),封泰山・・・倭四國酋長赴會,・・・」は倭国が唐配下になったことを示し、倭国には新しい政権が生まれる素地がある。
天智天皇(中大兄皇子)が百済将軍を使って朝鮮山城を作る。
その範囲は北九州から滋賀県。即位したのは大津に遷都後で、近江朝は、百済政権。
旧唐書の「日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本爲名。或曰:倭國自惡其名不雅,改爲日本。或云:日本舊小國,併倭國之地。」の日本は
倭国を従えた近江朝のことではないか。
新唐書の「咸亨元年(670),遣使賀平高麗。後稍習夏音,惡倭名,更號日本。使者自言,國近日所出,以爲名。或云日本乃小國,爲倭所并,故冒其號。・・・」は
壬申の乱で近江朝が旧倭国に滅ぼされたことが対応し、倭の名を冒したから近江朝は、「日本」を自称していたに違いない。
注意すべきは高句麗が倒れた後に国号を日本にしていることである。
昔、朝鮮半島あたりを日の出の地域として中国は「日本」と呼んだ。
禰軍墓誌の「日本」もそのような意味。
唐によって潰された百済・倭・高句麗を受け継ぐ国名として、天智天皇は「日本」が相応しいと考えたのではないか。
百済にとって、倭も高句麗も同盟国である。志は百済だけではなく、東夷であると。
- 2 :
- クソスレ
- 3 :
- 高句麗に逃げた百済王扶余豊は高句麗が平定される(668)と、捕らえられ、
その冬には嶺南に流刑になる(資治通鑑)。
捕らえられた月日は明確でないが、高句麗扶余城がおとされたのが、668年2月。
勇が天智天皇になったのはWikipediaによると668年2月20日。
つまり、豊が扶余城にいたとすると、2月に捕縛され、百済王として機能しなり、
勇が正統に百済王統を嗣ぎ、天智になったと解釈される。
百済の同盟国である高句麗を平らげたことを祝賀する使いを唐に送らねば
ならなかった天智の気持ちを推し量ると、大変つらい気持ちであったでしょう。
その後、日本と国号変更して、東夷の中国への思いをこめたと察するのだが・・・
- 4 :
- 近江朝は日本を名乗っていた。壬申の乱のあと倭は国号を日本に変えた。年次は不明。
禰軍墓誌の「于時」(660,663)の時点では、日本国号はなかった。
禰軍墓誌が作られた時点(678)時点は近江朝の後で日本国号は存在していた。
禰軍墓誌には国号が使われていないので、678時点で日本国号はなかったと
結論付けるのは間違っているのではないか。
「據扶桑以逋誅」倭と書かずに扶桑としたのは、国名を使わないためではなく、
日本餘噍というのは独立組織で、倭国に頼っているのでない。
「扶桑の地に根拠を持って」という妥当な表現。
婉曲にいっているわけではない。
「風谷遺氓」も婉曲に高句麗を指すとするのは話が飛んでしまう。
やはり、峻険な城に立て篭もる福信や扶余豊の事を指すとするのが正しいと思う。
これも、独立組織であるから、国名を書けず、風谷と書いたのであろう。
- 5 :
- ヤマトの漢字表記を外国が名づけた「倭」として平気でいるのなら、
ヤマトの漢字表記を外国が名づける「日本」としても、かまわないだろう。
国内的には、ヤマトに変わりないし、国体も替わっていない。
と百済人は考える。
国際的には、国号を変えたと写るので、何故かということになり、
唐の官吏も問いただすことになる。
日本国号の真意は、百済あるいは東夷を表すなどといえたものでないので、
倭の名を憎みてということにすれば角が立たない。
こんな簡単なことだろうか・・・といぶかしむ。
- 6 :
- 闇に葬られた歴史(副島隆彦)のなかに、
岡田教授の「近江令のなかにはじめて日本が出てくる」を全面的に支持する
という意味の文章があるけれど、近江令の木簡でもあったのかね。
- 7 :
- 日本という呼び名を発明したんは百済人でしょ
朝鮮半島から見て南の九州の倭は少しも日の出づる方角すなわち「日本」ではないのだが
畿内の大和だとそれはまさしく東方の「日本」そのものにあたる
大和朝廷を近接する九州の倭ではなく朝鮮半島から見て東(日本)の遠方から日本列島を統べる大倭とみれば非常に自然
- 8 :
- 「日本」はもともと日の出の地を意味していて、中国では朝鮮半島を指していたらしい。
百済人が、失った故国から見て近畿を日本と名づけた可能性はありますね。
倭人が倭国号を変更するなら、ヤマトと発音できるものにするでしょう。
日本国号に変えたのは百済人です。
沢山百済貴族が白村江の敗戦で倭国に到着していますから。
- 9 :
- ほう、で典拠は?
- 10 :
- >>9
どの点についての根拠を求めているのかや?>>1を読みなされ
蒸し返しは議論の妨げになります
- 11 :
- 京畿道と近畿や京のネーミングセンスは近い気がするね
- 12 :
- >>11
和歌山県の牟婁郡。昔からムロオという地名があってと思う。
書紀の孝徳紀で「牟婁」と記されたのが始めてなのでしょう。
「牟婁」は百済本紀に出てきてもおかしくないネーミング。
- 13 :
- >>9 典拠。
新唐書の「咸亨元年(670),遣使賀平高麗。後稍習夏音,惡倭名,更號日本。
使者自言,國近日所出,以爲名。或云日本乃小國,爲倭所并,故冒其號。」
は日本小国は倭の併せるところとなり、ゆえに国号を冒したといっている。
倭に併合されたのは近江朝です。日本=近江朝です。この文の主語は近江朝です。
日本国号は670年以降、壬申の乱(672)以前にネーミングされた。
こんなにはっきりした「日本」の起源をなぜ曖昧にしているか疑問。
近江朝を探ると、百済王朝にたどり着く。
旧唐書・新唐書・三国史記・禰軍墓誌・書紀は完全に同じことを言っている。
書紀は扶余勇の名前を出さないので、同定する必要があります。
中大兄皇子=扶余勇とします。
Wikipediaの扶余勇=善光説は、なんで百済人同士で名前をかえる必要があるか疑問です。
- 14 :
- 本当の古代史
辰韓の鉄=遼寧省鞍山市の鉱山地帯
公諱隆字隆百済辰朝人也=隆は遼寧省の百済人であり公州の百済人ではない
この文は辰韓の位置を間違えていたり遼寧省の百済を知らない人には理解不能
「辰王がいた方の百済人」とかっこよく書いたら未来人には意味不明となった
渤海の国号、震=大氏発祥の地が過去の辰韓だった
震が辰に通じるのは自明だが、辰韓を韓国東部と解釈して思考停止するのは踏み込み不足
帯方郡(4900戸)=営口市、半径5km
あとは魏書韓伝にそってならべる
多婆那國=倭国(大連)東北1千里=中朝国境の卒本地方
好太王の碑文にある倭、百残、新羅の位置=遼寧省から鴨緑江の下流域
倭の五王が南朝に派遣した倭国使は靴をはいていない
通説(痛説)では裸足の集団に広域大戦争をさせてしまった
「西暦391 - 412年」中に、「倭」は「高句麗」と「鴨緑江」にて職貢図によれば「裸足」で戦わなければならない
のちに坂上田村麻呂の東北遠征が西暦800年に行われ、異民族風のアテルイが捕まえられる
何なんですかこの古代史!順序が逆ならまだしもなぜこうなるの
西暦400年に鴨緑江を攻め、その400年後に東北地方を攻めるのは不自然だ
この時点で倭=日本列島説はアウト
そもそも日本列島は韓と界接していないので最初からアウト
2重の意味で倭=日本列島説はアウト
http://i.imgur.com/9GXhZ3N.jpg
http://i.imgur.com/zVOyZ0J.jpg
- 15 :
- 西暦400年代、倭、百済、新羅は好太王に故郷を追われ朝鮮半島に逃げ込み拡散分布する
東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五國=海北とは遼寧省南岸
東、西、海北には領土があるが南の領土はなぜ主張しない=南進中を意味する
ここで博多中心説を採ると博多の南には領土があるはずなのでアウト
ここで奈良中心説を採ると西側の国が少なすぎるのでアウト
つまり倭王武にとって帰る国などなかった
道遥百済(省略)句驪無道=倭国、百済、句驪は陸続き、句驪はひどいと南朝に泣きついた
故郷を奪ったので句驪無道なのです、倭王武の悲痛な叫びを曲解せずまじめに聞きましょう
半島各地で任那ができる、倭国本体南下する
最後の遣使記事は502年=引越し中を意味する
西暦500年代初頭、倭国本体は九州に上陸し、先住民を土蜘蛛あつかいする
天孫降臨記念日を太古の昔に設定した日本書紀はこの時点でアウト、証拠能力ゼロ
志賀島の金印=先住民にとられないように埋めて隠すも、埋めた場所を忘れる
前方後円墳は堤防の概念がない先住民が積み上げた塚を倭国人がこれ幸いと墓に転用したものだ
塚の作成年代≠墓になった年代、これ重要
ため池あるとこ古墳あり、ため池なければ古墳なし
倭国人は堤防の概念、その他中国文明を知っており最初から巨大古墳を作っていない
6世紀の終わりには日本各地で、ほぼ時を同じくして前方後円墳が築造されなくなった(wikipedia参照)
上の理由は残土を堤防に使う
塚を墓であると主張するには副葬品などの提示が必要だ
塚はあっても墓はない、いわゆる空墓がかなりあるのはなんででしょう?
- 16 :
- 百済の熊津城=熊岳城
白江の口=熊岳城の南西、白沙湾
「百済辰朝人」であるところの「扶余隆」は百済五方「北方」の城「熊津城」で暮らしていた
熊岳城の南西に「白沙湾」という地名がグーグルマップでも発見できる
これはいったいどういうことだ!
熊津道行軍總管、右威衞將軍孫仁師等破百濟餘衆及倭兵於白江,拔其周留城
韓国西部の公州に行くには高句麗の中を通らなければいけない
つまり熊津道は高句麗の手前側(唐に近い側)にあったはずだ
詔發淄、青、萊、海之兵七千人=山東省の北側から出撃した
人怪其故,答曰:擬削平遼海,頒示國家正朔
「遼海」と明示しており、どうみても渤海湾のことだ
百済平定物語は渤海の東側にある遼東半島のお話しであり、公州を攻撃したのではなかった
大連の北側にある白沙湾を日本列島から攻撃するのは西暦660年では不可能なはずだ
かの有名な白村江の戦いに作文疑惑が浮上した!
日本書紀には資治通鑑や三国史記を見ながら作文した箇所がちらほらある
特に天智紀は作文だらけ、白村江のくだりは全部作文
倭=日本列島を主張する日本書紀のおかげで重要な比定位置はことごとく南東に平行移動した
日本で見つかっている古い木簡は7世紀、韓国の場合は6世紀=楽浪郡ピョンヤン説、アウト
日本で見つかっている古い石碑は7世紀、韓国の場合は6世紀=楽浪郡ピョンヤン説、アウト
楽浪郡は紀元前108年にできたはずで、いくらなんでも漢字の伝来が遅すぎる、はいアウト
仮説の検証2項目
武藝啓(省略)有扶餘之遺俗=渤海人は奈良の支配者の出自が遼寧省にあることを知っていた(ビンゴ)
いまだに奈良公園ではシカを放し飼いにしている
坂上田村麻呂の東北遠征800年=この仮説で無理なく説明可能、大和朝廷史観では遅すぎる(ビンゴ)
邪馬台国=近畿説九州説、大和朝廷史観全部まとめてアウト
500年上陸説が正しい
http://i.imgur.com/5buzTh0.jpg
http://i.imgur.com/6Q0x678.jpg
- 17 :
- 資治通鑑は1084年作。
日本書紀のすべての写本が、1084年以降に白村江のことについて統一されたとは思えないが。
三国史記は1145年作。他の史書を参考にしている可能性はある。
旧唐書は信頼できると思っている。劉仁軌の条の「白江」の場所の特定が出来ていない
あるいは間違っているという指摘から、扶余勇がいた倭が「倭人雖遠」というのだから
半島の倭人ではなく、日本列島をさすことに狂いはないと思う。朝鮮山城をどう説明する?
倭の五王にまで遡って660年の解釈をするのははたして妥当か。後日考えては見ますが。
- 18 :
- 蘇定方が660に滅ぼした百済は公州。義慈王は、熊津に逃げ捕らわれた。
熊津が公州の南か北か。遼寧省の百済の話は聞いたことがある。
白村江を錦江の入り口と比定する通説には必ずしも賛同していない。
白江の場所が遼寧省付近である可能性はある。
公州を逃れた勇がいた倭が陸続きの倭かjapanか。
白江の戦いは事実。ここに参戦した倭が何処の倭かの問題。
距離が離れているから、japanの倭ではないとは限らない。中継手段もある。
封禅の儀に参加する4国の順序で、耽羅の次に倭国がでるのは、
済州島より遠い倭が、660-663の間にどこかで参戦した意味。
古墳は転用されたにしては、幾何学的。
河内の巨大古墳に副葬品はないらしいが、主墳を中心に対称的に位置する
陪塚が副葬品を多数納めている。鉄のものが中心。
倭の五王が502で渡ってきたのなら、河内和泉の古墳はjapanの倭になる。
それでも矛盾はないから、否定も肯定もしない。
- 19 :
- >>16の武藝啓(省略)有扶餘之遺俗=渤海人は奈良の支配者の出自が遼寧省にあることを知っていた
渤海が唐に反抗するために、日本に使者を使わし、挨拶した。
われわれは、高句麗の系統を引くものだと言う意味。日本にはもと高句麗の盟友
百済の者達が居る。倭国も一緒に戦った仲ではないかという意味合いと解釈。
必ずしも、遼寧省の百済に限定していない。
奥羽のことは、多賀城のアザマロの方がアテルイより早い。
多賀城は遺跡もあり、発掘され、4期のそれぞれの時期も特定されている。
多賀城は建設記録がなく、北方民のものを奈良が奪った。
東北の支配部族は豆満江からやってくるマッカツ系と思われる。
平泉の時代まで東北は彼らのもの。
泰衡が逃げた先は秋田から津軽方面。頼る先が大陸にあった。
唐にとっては、滅ぼした高句麗が日本海経由で倭国に転がり込んだ百済などと、
合一することを面倒に感じた。百済王氏が出羽守をよくやっている。
征夷大将軍や按察使をおいて、敗戦国の義務として日本政府に監視させた。
東北の件は何の矛盾もない。
- 20 :
- 遼東には熊津がありそう。宋書や魏書によれば、百済は遼河のあたりにいた。
半島に熊津があるがコマナルと発音する。
漢城が落ちて、南にいた王子が熊津を都にする。さらに、南の泗沘に都を移す。
遼東の百済は元伊勢のようなものではないか。
白村江が作文だとはいえない。
百済が南に下りてくるまで、韓半島はどうだったかは興味あるところ。
広開土王の碑の頃の各国の場所は660年とは大違いであろう。
そこに出て来る倭が列島の倭とも思いにくい。
- 21 :
- http://lelang.sites-hosting.com/naklang/rakurou.html
一読に値する研究
>>20でも言ったが、古い史書では百済は遼東遼西にいた。
それが、半島に逃げ、南へ南へ倭国にまで逃げたと解釈できる。
この研究は、あっとおどろく。
楽浪郡や帯方郡は朝鮮半島というのは作り事だと史書をもと証明する。
この二郡は遼東内にあるという。朝鮮半島は漢以来支配が及ばないところであるのは、
有名だが、長白山脈が兵站を邪魔するからである。
帯方が遼東のうちにあるなら、邪馬台国も、倭の五王も、
朝鮮半島での出来事ではないかとまず考えるべきなのだ。
この考察抜きに、マキムクが卑弥呼の可能性などというのは、
歴史改竄の実力行使。救われないね。
このスレタイの日本国号の由来は、遼東地域を指していたかもしれなくなった。
>>14>>15ありがとう。
- 22 :
- 九州から見て近畿・畿内こそ日出処=日本
- 23 :
- 近畿から見て東関東・東東北こそ日出処=日本
梅原猛
「日出処天子致書日没処天子」、「日出づる国」という発想が「日本」だ。
高橋富雄さんの説などは、蝦夷がやはり「日出づる国」と言っている。「日本」という名称は蝦夷が名乗っていた。
上田正昭
「日高見国」ですね。
梅原猛
その蝦夷の国の国号を逆にとって、それを「日本」という国号にしたという説です。
これはたいへん面白い説だと思うんですが、やはり「日本」が一つの国家として成立するときに、東の国という形で「日本」という国号をとったんだとおもいます。
- 24 :
- 取るに足らない。出版社にとりいるのが上手いのだろう。
好きなことを言わせてもらえてるだけ。素人をだますのが上手い。
両名とも京大文学部じゃないか。
- 25 :
- 日下(ひのもと)の草香
↓ ↓
↓ 日下(くさか)
↓
日本(ひのもと)
↓
日本(にっぽん)
http://www.ne.jp/asahi/isshun/original/note33.html
- 26 :
- >>25
「日下(ひのもと)の草香(くさか)」は谷川健一氏のオリジナルでなく、
西宮一民という人の説で、谷川氏はそれを引用しただけで、
しかも、「日下のクサカ」なる「枕詞的な修辞句」は見つからないそうです。
http://szmkodai.blogspot.jp/2011/08/blog-post.html
- 27 :
- >>21
山形説のパクリだな
- 28 :
- 東(ひがし)の語源は「ひむかし」で、「ひむかし」→「ひむがし」」→「ひんがし」」→「ひがし」と変化。
「ひむかし」は「日向処」または「日向嵐」の意。
http://gogen-allguide.com/hi/higashi.html
「日向国」は現在の宮城県で、天孫降臨の高千穂峰や、神武天皇の出身地、邪馬台国説などなど。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%90%91%E5%9B%BD
宮城県は、熊本県から見れば東に位置するが、福岡県から見ると南。
元来(弥生時代頃)「ひむかし」は方角ではなく、国を指した言葉で、
神武東征で「ひむか国」が畿内に移ったため、東を指す言葉に変わったのではないだろうか?
ちなみに、関東地方は「あづま(吾妻)」と呼ばれていた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%9B%BD
昔は、方角を指す言葉として「東西南北」ではなく、国のある方を指したのかも。
今でも、他人に道を尋ねられたとき、「富士山の方に歩いて10分」とか言ったりするよね。
九州北部の人々は自分達の国を「わがくに」と呼び、畿内を「ひむかし」と呼んでいた。
畿内の人々は自分達の国を「やまと」と呼び、関東を「あづま」と読んでいた。
後に畿内が九州から関東までを統一、国号を日本とした。
日本統一に伴って言葉が入り混じり、倭や日本をヤマトと読んだり、東をヒガシやアズマと読むようになった。
- 29 :
- 神武東征というけれど、「東へ行こう」と言いながらも一行は北へ向かって出発したんだよな。
以前宮崎県の人に聞いたことあるけど「宮崎県から見て東には何がある?」
で、全員が「太平洋」「日向灘」という答えで、誰も奈良県とは思わない、とw
- 30 :
- >>28
<東野炎立所見而反見爲月西渡> 万葉集卷一・48番歌
ひむがしの のにかぎろひの たつみえて かへりみすれば つきかたぶきぬ ←江戸時代以降の読み方
あづまのに けぶりのたてる ところみて かへりみすれば つきかたぶきぬ ←平安〜江戸初期までの読み方
- 31 :
- >>29
後から振り返って考えて東征って事じゃないの?
- 32 :
- 禰軍墓誌によると、遅くとも西暦678年には日本という国号が使われていたことになる。
そこで、九州王朝説ですよ。
九州王朝(倭国)と大和王朝(日本)があったと考えれば、スッキリ解決。
白村江の戦いで九州王朝(倭国)が敗れ、倭の王族が大和王朝(日本)に逃げ込む。
その後、大和王朝が九州を併合。大和朝廷(日本)が成立。
- 33 :
- >>29
では、「神武東北東征」ってことでw
- 34 :
- >>32
別に九州なんちゃらを持ち出す必要も無いのだが。
- 35 :
- >>28
宮城じゃねー、宮崎の間違い(ノ∀`) アチャー
って、みんなわかってると思うけどwww
- 36 :
- 俺が思う神武東征経路の解釈。
そのころ筑紫の岡田宮が九州王朝の都で、神武天皇は仕官のため日向から上京。
そこから赴任先か駐屯先かの阿岐国多祁理宮、吉備国高島宮と転勤。
大和国に反乱が発生したか、武力征伐が企てられたか、があって
「東へ行かむ」と志願して紆余曲折の末に大和盆地を征服し、太守に。
この一連の行動が「神武東征伝説」として語り継がれ、話が膨らみ削られ
やがて古事記に記載の物語となる。
- 37 :
- 日本って単に東の方という意味で使ってる場合もあるんじゃないの?
全部が全部国号とは限らないのでは
- 38 :
- >>1 を読んで議論してね。
- 39 :
- >>14
>辰韓の鉄=遼寧省鞍山市の鉱山地帯
辰韓でなく弁辰のことをいいたかった?
>公諱隆字隆百済辰朝人也=隆は遼寧省の百済人であり公州の百済人ではない
遼寧省の百済は最早なかった。そこは百済の故地。
>この文は辰韓の位置を間違えていたり遼寧省の百済を知らない人には理解不能
すでに弁辰を辰韓と勘違いしている時点でアウト
>「辰王がいた方の百済人」とかっこよく書いたら未来人には意味不明となった
渤海の国号、震=大氏発祥の地が過去の辰韓だった
震が辰に通じるのは自明だが、辰韓を韓国東部と解釈して思考停止するのは踏み込み不足
すべて思い込みと、踏み込み不足、思考停止 状態ですね。混乱させるだけ。
- 40 :
- 1 : 日本@名無史さん2017/03/12(日)
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう
90 : 日本@名無史さん2017/03/12(日)
>>88
狗邪韓國は何人の領土?
95 : 1 ◆q8leUXpsw. 2017/03/12(日)
>>90
領土といいう観念に語弊があるかとは思いますが韓人の国でしょう
金官国の全身とするのが通説です
- 41 :
- これ普通にショックでしょ?
本当なの?
https://goo.gl/oORYbN
- 42 :
- 次のyahoo知恵袋を参照してください。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11171066091
近江朝=日本=百済 扶余勇=天智天皇 であることが解ります。
- 43 :
- 韓国の歴史小説家が
・・・韓国食を食べ韓国語を使っていた時代だったので日本の歴史はBC20年-300年までは韓民族移
住開拓時代-AD400年からは百済直営時代(倭時代)AD670年からは日本国-AD786年からは現
在の日本時代と見ればよいだろう。日本は百済が滅びるとすぐに義慈王の三番目の息子、扶余
勇が日本の天地天皇として670年に即位し、明治を経て125代アキヒト天皇に至る。・・・
と述べているそうだが、「扶余勇が日本の天地天皇として670年に即位し」について、
年号の違いがあるが、このスレは証明したことになる。ほかの部分はこのスレノ範囲でない。
- 44 :
- こんな記事がある
・・・・
『「弥生時代以後の日本建国の祖となった支配者たちは
牧畜制度、父権制、高度に発達した軍事組織を持ち、黒竜江の
こちら側(西方、南方)及び朝鮮半島経由で日本列島(北九州、山陰、北陸)に
組織的に侵攻し、農民を征服した人々である。」
「歴史と現代」(1980/8)の朴蒼岩氏の論文「日本国民に
告ぐ!歴史の掠奪者は誰か?」を挙げることができよう。
「そもそも韓民族の歴史を抹Rることが、日本の国策であったらしい
……ということは久しく主張されていた。例えば高句麗の英主広開土王は、
倭王(天皇のことである)を伐った功績のために、遥か後世の明治時代に、日本の
憲兵、酒匂大尉によって碑文を破壊されてしまった。
この破壊の理由は、日本の天皇が百済人であったからで、そのことは既に、
心ある韓国史家の間では通説になっていたのだが、日本の偽史活動の内容とか
目的は必ずしも明瞭ではなかった。
文定昌氏は1970年、その著『日本上古史』に於いて、大和の国号は新羅真徳
女王の年号の太和であることを指摘し、……紀元661年、白村江の決戦で敗北
した扶余勇が、天智(天皇)となったことを主張した。
天智王朝が百済の亡命王国であることについては議論に価しない程自明の理で
ある……
明治政府の基本的国策は、偽史の確立であり、真相の抹殺であった。 」』
・・・・
こういう説は以前からあるのだな。しかし、証明ができていない。誰が見ても明らかだ
程度の主張なのだ。このスレで、証明してやったことになる。
主張のほかの部分も証明抜きなのだろう。真剣には考えないが・・・
- 45 :
- 663年 白村江の戦いで<倭国&百済>が<唐&新羅>に負けた
倭国というのがそもそも先行の渡来人の国だった
667年 新羅は日本列島を侵略・支配し、国号を倭国から日本に変えた
新羅はボルネオ語のシラヒースから来るもので「日が出る処」という意味
同じく、日本も「日の出る処」という意味
新羅も日本も、その西からやってきた連中によって命名されたと考えるのが自然で
土着民にはそんな発想は無いだろう
- 46 :
- 663年 白村江の戦いは九州倭国、出雲、新羅VS畿内ヤマト、百済
である
- 47 :
- >>45
倭国人は先行渡来人でしょうけれど、何処から来たのでしょう。
新羅が来た経緯は、歴史書のどの部分が当てはまりますか。
「日本」は西からやってきた人がつけた名前であることは事実です。
新羅がボルネオ語で日の出るところという意味なら、ボルネオ語が何故朝鮮半島で
使われているのでしょう
- 48 :
- >>46
具体的にお願いします。
- 49 :
- 禰軍は百済の佐平であったわけだから、義慈王を支える一の貴族だったわけだ。
唐に敗れて、禰軍は、義慈王とともに連行され、まぁ寝返ったというか唐の将軍に抜擢された。
こういう人物が、白村江の戦後処理のためにjapanに来たなんてことはありえない。
倭国は白村江の敗戦で、倭国王が唐の言うことを聴かねばならない状態で、
戦後処理は郭務ソウなど、唐の組織で十分対応できたはずだ。
何故、禰軍がjapanにきたか。それは、倭国の埒外にある、扶余勇(義慈王の子供)政府と
折衝するためだろう。倭国の誰と話をしても、扶余勇政府をコントロールすることは出来ないから。
それで、もと佐平の禰軍が選ばれたと考えられるのだ。
どんな話がなされたのか。唐が倭国を攻めていない歴史の成り行きをみると、
扶余勇政府は禰軍のもと主君の子供の政府であることへの温情があり、
海を隔てているので、戦争するのは唐にとって不利であることは唐政府への説明理由になる、
などが理由で、特に唐に反抗しなければ、お構いなしということだったのだろうか。
扶余勇=天智の死を禰軍(678年死亡)は知っていることになる。お構いなしだった近江政府も
天智の死によって、禰軍の判断もあり、郭務ソウは潰してもよしと倭国に許したのかもしれない。
- 50 :
- >>49
>扶余勇=天智の死を禰軍(678年死亡)は知っていることになる。お構いなしだった近江政府も
天智の死によって、禰軍の判断もあり、郭務ソウは潰してもよしと倭国に許したのかもしれない。
郭務ソウはそんな権限を持っていないだろう。近江政府=扶余勇の監視役人だ。
天智が死んだとき三度挙哀して拝んでるくらいだ。天智が死んだら、帰国しているではないか。
お役目が終わったのだろう。単なる、事務方の長だろう。
- 51 :
- 【白村江の戦いと倭国滅亡】
663年に白村江において行われた倭・百済と唐・新羅の決戦で倭国の1000隻余りの水軍のうち400隻余りが炎上し、陸上戦でも敗北した。
記紀を編纂した近畿大和朝廷から見れば、これこそが政権奪取の好機だった。
中大兄皇子らが実権を握る近畿政権はもともと新羅と親交があり、積極的には朝鮮半島に援軍を送らず、百済と親しかった筑紫倭国を意図的に敗北に追い込んだ可能性がある。
中大兄皇子が唐や新羅ともとより通じていたのであれば、敗戦処理においてむしろ唐の信任を得て勢力を拡大したことも合理的に説明できる。
自ら前線に赴いていた筑紫君薩夜麻(当時の大君と考えられる)が捕虜となり8年にわたり唐に抑留される。
筑紫には唐から郭務悰ら唐人六百人を含む2000人の使節団が駐留したが、畿内大和ではなく筑紫を占領したのは、そこが倭国の首都だったからである。
668年、筑紫の駐留軍は撤退し敗戦処理が終わり、中大兄皇子は天智天皇として西は九州、東は東北南部までの統一政権を樹立した。
この敗戦処理が中大兄皇子がなかなか天皇に即位せず大兄(おおえ、皇太子)でありつづけた理由だろう。
その翌年には筑紫都督府が置かれ、同じ敗戦国の百済に置かれた熊津都督府と同様に、唐の皇帝が任命する官の行政府として機能したと考えられる。
都督府制度は唐が周辺の国々を征伐した後、征服した国に設置した統治制度であり、倭国は独立国としての権限を喪失した。
こうして栄華を極めていた倭国王朝は滅亡し、その権益は唐に朝貢(遣唐使)を再開する畿内大和政権が継承した。
筑紫が679年に水縄断層系によるM7.1の筑紫大地震、畿内が684年に南海トラフ地震と推定されているM8.4の白鳳大地震により被災している。
実質的な権力移行により官僚は畿内に移動し、地震により倒壊した建物や仏教芸術を含む白鳳時代の文化財も畿内に移築され、主権を失っていた筑紫は震災からの復興もままならなず政治的には没落したと考えられる。
旧唐書には倭国と日本国が分けて記載され、「日本は旧小国、倭国の地を併せたり」とある。
三国史記の新羅本紀には「670年、倭国が国号を日本と改めた」、新唐書にも670年に「日本と號す」とあるが、国内には国号の変更については記録がない。
- 52 :
- 参考 https://blogs.yahoo.co.jp/longhistoryjapan/55796499.html
大宝政権が列島を統一する遠因には、百済の崩壊がある。
5世紀の統一も外因である。弥生時代には、各地の墳墓には地域特性があって、
出雲・北陸、中部・関東、近畿・瀬戸内に区分される。
それぞれ、大王がいたと考えられる。近畿・瀬戸内は、大和がその大王と考えられる。
4世紀後半から、5世紀にかけて、河内・和泉に政権が出来ているが、その文化・産業・土木は外来のもの。
大和は存続したまま、外来の河内・和泉政権が列島を統一した。
河内・和泉政権の全国制覇を大和は後世自分のものにした。
河内・和泉政権は6世紀に入って衰える。
各地に、地方豪族が再び、芽をもたげ始める。
北陸の継体が南下し、大和に入るという現象が起きる(継体の陵墓は大和ではないが…)。
継体は、復活した筑紫の磐井を制した。
その後、白村江までの権力の流れの詳細は今後の課題。
仏教文化は大和にもたらされた。孝徳は難波宮を造っている。
権力が小さくなると、列島の地勢による権力の分立が起きる。
これを統一するには、文化・文明・手段が必要になる。
策略やペテンでは権力を握れない。
660年の頃、倭国が分立していたかどうか。中心は何処にあったか。
- 53 :
- 筑紫の最盛期は考古学的には5〜6世紀になる。
畿内政権の歴史には記されない別の王朝が列島を代表していた。
仏教は畿内より早く九州に流入している。
白村江の戦いに際しては畿内からも斉明天皇が出陣しているので、この時点では筑紫が列島を指揮する立場だった。
- 54 :
- 九州説は九州説の中で批判を仰げばよい。
筑紫は考古学的に5-6世紀が最盛期といわれても、意味が分らない。
斉明天皇が九州に行ったので、筑紫が指揮したといっても、
そうかもしれないし、そうでないかもしれない。
河内政権が終わってから660年までの列島の権力の状態は、
今のところ決定的なことがないのでわからない。
この板は扶余勇=天智天皇説への批判を仰いでいる。
扶余勇=天智天皇説を否定するのに九州説を出されても、答えようがない。
- 55 :
- むしろ天智天皇は百済から遠い人物に見えるんだよ。
天智天皇が百済系であるならば、戦勝国である唐から日本の経営を任されただろうか?
天武天皇の方がむしろ百済系だったのではないか。
- 56 :
- >>52
>5世紀の統一も外因である。弥生時代には、各地の墳墓には地域特性があって、
>出雲・北陸、中部・関東、近畿・瀬戸内に区分される。
なんでわざわざ九州を外した?
5世紀においては彩色古墳や沖ノ島の祭祀など、独自の文化的繁栄を謳歌していたことは間違いない。
政治的立場は議論の余地がある。
まあ、各地に王権を認めるのは古田氏の多元王朝論なのだろうけれども。
- 57 :
- >>55
天智天皇は唐から日本を任されたわけじゃないぞ
- 58 :
- >>49 >>50
百済王族の生き残りが居て日本を実効支配、その事を唐新羅が知っていたならそう書くだろド戯け。隠す理由がない
- 59 :
- 史書はすべてを詳細に書くわけではない。特に他国については。天智は全土を支配していない。
扶余豊も、高句麗での所在は明らかでない。捕らえられたことは刑に処せられたことで分るのみ。
扶余勇も、倭国に居たことを記述しているだけで、その後のことは記述がない。
扶余隆は唐の官職に就いたので、そのことが記載されている。唐での墓誌もある。
- 60 :
- >>56
書き漏らしです。
前方後円墳グループは近畿・瀬戸内・北九州です。
文脈的には、5世紀に統一する前の状態をスケッチしているだけで、正確なことはわかりません。
五世紀に統一されるまでは、古墳の形式によって、グループ分けされ、
それぞれに大王がいたことは、九州説と関係なく述べられています。
- 61 :
- 関東だって前方後円墳だよ。
都道府県別では一番前方後円墳が多いのは千葉県だったはず。
- 62 :
- >>57
記紀は明らかには書かないだけで、実際には任されたはず。
何しろ敗戦国だったから、唐の承認が必要だった。
しかも、戦後は遣唐使を送ったりして、唐にべったりとなった。
太平洋戦争後と同じ。
- 63 :
- >>61
関東・中部は古墳前期に前方後方墳が、後に前方後円墳ができたようです。
- 64 :
- >>60
書き洩らしというか、説明不足が多すぎる。
- 65 :
- >>61
安房は阿波からの移民の地だからな
- 66 :
- 由来?バカですか?
そこじゃないでしょ
重要なことは
倭国も日本国も(これは二つ同時あったわけです、異論ありますか?)
やまとと言っていたことです
自分たちのことをですよ
- 67 :
- >>66
日本国と倭国は同時に有ったと解釈しています。
記紀では倭国も日本も発音はヤマトです。
古事記では倭が使われ、日本の文字はありません。
書紀では国を意識するときに日本が使われ、倭は地方名に使われ、区別しています。
外国からすれば、文字が変わりましたので、国号変更です。
- 68 :
- >>66
多分、畿内はもとはヤマトではなかった。
おそらく日本。
白村江の後に畿内が筑紫倭国を併合して、大倭となり、読みはそのままヤマトとして、表記を大和に書き換えた。
そして国号は日本として、大和は畿内の一地域の名称に落ち着いた。
- 69 :
- 大唐の如く、大倭は美称の可能性。
- 70 :
- >>55
天智紀を読めば天智は百済から遠い人物?
戦犯でも歯向かわなければ、政治する例もあります。
- 71 :
- >>70
倭と百済が同盟して唐と戦い負けた。
倭国内で百済から距離を置いていた天智天皇が戦後処理に指名された可能性はある。
- 72 :
- >>69
史記の用例からすると、ある国が他の国を合併して大きくなると大◯と呼ばれる。
畿内日本と筑紫倭国が合併して大倭国となったのかもしれない。
ただし実際には畿内日本が主導権を握ったため、国号は日本として知られるようになったのかも。
- 73 :
- 古代ユダヤ王の誰かが「ニッポン」って名前だった
- 74 :
- 唐が中大兄を信頼して政治を任せたなら、
抑留している倭国王(?)を帰国させる唐の行為は、矛盾をはらむ。
- 75 :
- >>74
政治的実権を失っていれば返しても問題はない。
- 76 :
- 政治的実権を失うね〜、そんなものですか。
どんな疑問にでも、すぐお答えできそうだから自信持ってください。
- 77 :
- >むしろ天智天皇は百済から遠い人物に見えるんだよ。
天智天皇が百済系であるならば、戦勝国である唐から日本の経営を任されただろうか?
天武天皇の方がむしろ百済系だったのではないか。
百済派とか新羅派とか、政党政治じゃないんですね。
支配は、現実問題、できるかどうかです。力、権威、組織・・・。
負けた高句麗には、もとの王が再び利用された。
百済は扶余隆が任じられたが、隣国が出てきて、赴任すらしなかった。
王の正統性は大きい力です。
唐は倭国についても、正統性の観点で選んだに違いない。
天智は正統な王ですよ。何処の王かは考えるべきですがね。
- 78 :
- >>77
天智天皇が正統でないとは言っていません。
中国が正統性にこだわるのはご指摘の通りです。
しかし倭国内にも様々な立場や思惑があったのではないかということです。
- 79 :
- 倭国内の人の立場や思惑を史書から窺えるのですか?
唐が筑紫に居るから、倭国の王は唐に負けた百済系でないのではとの疑問のようですが、
それだけで、百済系の王の可能性を排除できますか?
663年は日本書紀はまだありません。天武以前の天皇は日本書紀で確定したのです。
そういう状態での倭国の王の正統性を考えるべきではないでしょうか。
- 80 :
- >>79
そうじゃなくて、唐が筑紫にいるから、負けた時の筑紫の倭国王は百済系だっただろうと。
そして、中大兄は皇族の中でも百済からやや遠かったから唐から指名されたのだろうと。
それは別に正統でないというわけではない。
皇位継承権は皇族なら皆持っていたわけだから。
はっきり言えば、中大兄はもとから唐と通じていて援軍を送らなかったのではないか、との疑惑もある。
天皇制が確立するのは天武の時なのはその通りだが、説明しにくいので天皇や皇位などの言葉も使わせてもらった。
- 81 :
- 筑紫の倭国王?
- 82 :
- 倭国の盟主は白村江の戦いまでは筑紫であった立場なので。
- 83 :
- 立場?
- 84 :
- 様々な説があるし、九州王朝説に反対する人もいる。
白村江の後に政権交代を想定するのは主に九州王朝説だろう。
- 85 :
- 白村江後に政権交代を想定している?
この板は、政権交代を論証している。
科学の板に錬金術師。
科学者にとって錬金術師の話はとても退屈なものだろう。
- 86 :
- 歴史は科学じゃないから
- 87 :
- >歴史は科学じゃないから
九州王朝説は科学的でないことを認めたね。
- 88 :
- >>87
畿内説に毒された歴史学会のことじゃないか?
- 89 :
- >畿内説に毒された歴史学会のことじゃないか?
九州説の科学性から畿内説の誹謗にすり替わっている。
脳みそが汚染している?
- 90 :
- ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と
生活保護を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人に、ベーシックインカムの
導入は必須です。月額約60000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。☆☆
- 91 :
- 日本
- 92 :
- 歴史は社会科学の一分野
- 93 :
- 社会科学が科学じゃないんだよな
- 94 :
- 扶余勇=天智天皇だとします。
旧唐書の封禅の儀に行くことになった倭国王は
書紀上天智称制でみつからないようになっていますが、
この元倭国王=大海人皇子とすると壬申の乱の経緯が腑に落ちます。
筑紫都督府から支配権を得た扶余勇は元倭国王を利用して倭国を支配します。
元倭国王は耐え忍んで扶余勇に協力し、復讐の機会を狙います。
大海人皇子は暗殺を恐れていますね。扶余勇がなくなったのを機に近江政府を討伐する。
人心を結集するのは容易なことではありません。
大海人皇子が元倭国王だからこそ、新参者の扶余勇を快く思わない国民が支持してくれたのです。
王位を簒奪され、臥薪嘗胆し、復讐して返り咲く。天武天皇はドラマチックですね。
それも、半島の動きと連動しているのです。日本にこんなダイナミックな歴史がありうるのです。
(参考)
http://www.geocities.jp/jhistoryverification/fuyoyuu.htm
- 95 :
- 漫画の話?
- 96 :
- 童話のようなストーリーだけれど、隠された倭国王が実在する限り、無視できない説。
史実であるとの証明は時間がかかるから、それまでコミックのねたにでもどうぞ。
一応、学問のカテゴリーでやってますから、史書の上では整合性が取れています。
血縁でつづる史書は権威主義で統一されています。
挫折・忍従・復讐・勝利の王の人生は、世界中にあります。こちらが現実。
国民に不屈の精神を教えるので、まずいとでも思いましたかね?
日本の史書は儒教思想の枠からは出ていませんよ。
- 97 :
- >>94
>扶余勇=天智天皇だとします。
ここに無理がある。
単に唐と通じた裏切り者がいただけ。
- 98 :
- >>97
「扶余勇=天智天皇」はこの板で証明しています。
まだ証明されていないとされる方にも、大海人皇子=元倭国王の合理性を説明するには、
「扶余勇=天智天皇とする」と断りをいれなければならないと感じたまでのこと。
ところで扶余勇=天智天皇であるならば、大海人皇子=元倭国王を認めるという意味ですか?
>単に唐と通じた裏切り者がいただけ。
天智天皇が唐と通じたのですか?過去において唐とどのような繋がりが有ったのですか?
扶余勇はどうなりました?
- 99 :
- 鮮卑の唐は邪馬台国、倭の五王記した民族じゃないから無知なだけで、日本は倭のヤマトと同種に決まってんだろシネ
- 100 :
- 旧唐書では倭と日本は分けて書いてあり、同族だけれども違う政権のように読めますね。
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