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日本の城郭と諸藩 其ノ1


1 :2016/12/10 〜 最終レス :2018/07/12
古代から近世までの日本の城郭と江戸時代の諸藩について勉強するスレッドです。旧分国単位で綴ってゆきます。
城郭の位置・画像および諸藩の藩主でたどる藩政史、さらに城郭や諸藩にまつわるエピソードも紹介してゆきます。

【凡例】
◎ 旧分国の国名の由来や概略について
▽ 城郭について
▼ 諸藩について

2 :
◎東山道に属する。
◎国名の由来:7世紀の木簡はみな「三野国」と記す。8世紀初頭の藤原宮跡木簡に「御野国」という表記が出てくる。美濃の表記は8世紀にやや遅れて登場した。平城宮から出土した木簡には「美野国」「美乃国」と表記されたものもある。

3 :
◎702年の美濃国加茂郡半布里(現在の富加町羽生)戸籍に、古い渡来系氏族である秦人・秦人部の姓をもつ人々が多くみられる。715年7月、席田君邇近(むしろだのきみにこん)と新羅人74家の人々を美濃の国に移住させて、席田郡がつくられた。

4 :
▽川手城

岐阜市正法寺町…現在は済美高校の敷地。遺構はない。
http://www.hb.pei.jp/shiro/mino/kawate-jyo/indexb.jpg
東海道本線岐阜駅→バス:下川手下車

5 :
土岐氏累代の居城…加納城の東南500mに位置する。
源頼光…→源光信:美濃国土岐郷(土岐市)に住む。愛知県豊田市の北。岐阜県多治見市の東。

6 :
土岐頼遠:光厳上皇の行列に不敬→処刑される
土岐頼康(頼遠の甥):土岐氏の第3代守護職…美濃国・尾張国・伊勢国の3ヶ国の守護職となる。手狭となった長森城に代わり、1353年(文和2年)、川手城を築城する。以降、第11代土岐頼芸まで、川手城は土岐氏の本拠地となる。

7 :
土岐頼康の孫・康政は、一族の土岐頼益に川手城を奪われる。以後は、簒奪者・頼益の家系が続く。

8 :
大永7年(1527年)8月:土岐政頼追放事件
頼政:頼益から5代目→弟の頼芸に追放される。首謀者は西村勘九郎正利。後の斎藤道三。

9 :
土岐氏系図
http://www2.harimaya.com/sengoku/kz/toki_k.jpg

10 :
▽加納城

岐阜市加納丸之内…昭和50年(1975年)まで自衛隊の駐屯地が置かれるなどした後、昭和58年(1983年)10月28日に加納城跡として国の史跡に指定された。現在は、加納公園。
http://www.hb.pei.jp/shiro/mino/kanou-jyo/indexb.jpg

11 :
美濃国守護代・斎藤氏累代の居城…川手城の西の押さえ
文安2年(1445年)川手城の支城として斎藤利長が築いた。

12 :
その後、斎藤氏の家老・長井氏の預り城となる。

13 :
天文2年(1533年)2月
西村勘九郎は、稲葉山城主・長井藤左衛門長弘を上意討ち→長井新九郎規秀を名乗る。

14 :
天文7年(1538年)9月
守護代・斎藤利良(としなが)が嗣子を残さず死去→新九郎は斎藤氏の名跡を相続→斎藤左近大夫利政

15 :
利政(斎藤道三)が稲葉山城に居城を移すと、廃城同然となっていた。
関ヶ原の合戦後に復活。徳川家康による天下普請。

16 :
慶長6年(1601年):家康は岐阜城を廃し、加納城を改築。
奥平信昌(家康の女婿)が入城。

17 :
宝暦6年(1756年):永井氏が3万2千石で入城

18 :
日本中の城郭を全部やるつもりなの?

19 :
続きは、ま〜だ〜〜?

20 :
こんど岐阜へ旅行する。そのとき、このスレを見るよ。早く続きを書いて。

21 :
▽鵜飼山城

岐阜市御望(ごも)…岐阜城から北西8キロほどの場所にある御望山が城跡である。本巣駅が最寄りとなるが登山口まで1時間程度はありそうだ。南麓の神明神社から登山道があるらしいが、あまり人が登らない山のようで登山道は明瞭ではない。遺構はさっぱり残っていない。
http://jyokakuzukan.la.coocan.jp/016gifu/038ukaiyama/CSC_0338.jpg

22 :
土岐頼芸の重臣で頼芸の嫡男・頼秀の傳役でもあった村上芸重が、鵜飼山城主であったと記録に見える。
天文10年(1541年)、頼芸に重用され出世していった斎藤道三に対して譜代の重臣たちは快く思っておらず、度々道三についての讒言をしたところ、逆に道三によって兵を差し向けられて鵜飼山城に立て籠もった。

23 :
あやうく斎藤利政と戦になるところであったが、尾張の織田信秀、近江の六角定頼、越前の朝倉孝景などが美濃に入って仲介し、同年6月に和睦した。

24 :
この混乱の後、太郎法師(土岐頼秀)は廃嫡され、頼芸の弟・土岐頼満は毒殺され、翌天文11年(1542年)、頼芸の大桑城は攻められ頼芸は追放される。
また、斎藤利政は、この時以降剃髪して道三と号した。

25 :
村上芸重は、司馬遼太郎の『国盗り物語』では村上出羽守となっているが、村上越後守である。

26 :
美濃のお城に関して、お詳しいですね。岐阜県の方ですか?

27 :
▽大桑城

山県市高富町大桑市洞…戸羽川を遡る。国道256号線伊佐美の信号から県道174号線に入り、六反方面へ。遺構は残っていないが、山頂にミニチュア天守閣が造られている。
http://www.hb.pei.jp/shiro/mino/ohga-jyo/indexb.jpg
http://www.oumi-castle.net/takoku/gifu/ookuwa.jpg

28 :
承久の乱 (1221年) の功によって大桑の地を与えられた逸見又太郎義重の子、逸見又三郎重氏が築いた。逸見氏は、甲斐武田氏の一族。
応永年間(1394 - 1427年)に、土岐一族の支城となる。

29 :
大桑城は岐阜城の4km北方に位置する要害であったので、戦国期は府城の詰城として土岐氏主流の人物が相次いで居城した。
その後、斉藤道三の台頭により十代頼純は追われてこの城に入り病死。
十一代頼芸に至っては3度もこの城に逃げ込み籠城し、その都度落去して再起を図ったが、天文21年(1552)ついに道三に攻略され土岐氏は滅亡し、大桑城も廃城となった。

30 :
▽鷺山城

岐阜市鷺山…鷺山城は、濃尾平野に浮かぶようにある独立丘の鷺山に築かれた城である。稲葉山城に比べれば、山容からして臨戦態勢の山城向きの地形ではなく、「平時のお城」「ご隠居さまのお城」にふさわしいものだった。
http://www.geocities.jp/pappakun12/aruku/minokoku/sagiyama/sagiyama199.jpg

31 :
文治年間(1185 - 89年)に佐竹秀義によって築かれた。
戦国時代には、美濃守護職土岐頼芸が兄政頼を追って守護の座に就く前まで鷺山城主であった。

32 :
土岐頼芸を追放して美濃を手中に収めた斎藤道三は、天文17年(1548年)に嫡男義龍に家督を譲り鷺山城を隠居所として移った。
弘治2年(1556年)、斎藤義龍は父道三を攻めて長良川河畔に敗死させ、道三の居城鷺山城も落城した。その後、廃城となる。

33 :
▽城田寺城

岐阜市城田寺(きだいじ)…城田寺城の詰城があったのではないかと城ヶ峰に遺構を探しに登ったが、規模や位置関係から推察するに、城ヶ峰の山頂は詰城ではなく、砦跡や烽火台などの跡ではないかと思われる。城田寺の峰ということで「城ヶ峰」と呼ばれるようになったのかと思われる。
そもそも城田寺とは、そこにあった舎衛寺が旗堕(きだ)寺と呼ばれていたことから、やがてそれが村名となり、後に城田寺と書き改められたと『新撰美濃志』には書かれている。
http://3.bp.blogspot.com/-l88cs97dUJU/T8OMdqOHZxI/AAAAAAAAAKc/BL_cUS2_dGM/s1600/120526_DVC00076.JPG

34 :
〔船田合戦終焉の地〕
明応4年(1495年)、土岐成頼の後継に成頼のお気に入りである土岐元頼(末っ子)を擁護した石丸利光らの軍と、成頼の嫡男・土岐政房を推す斎藤利国(妙純)らの軍勢との間で争いが起こる。戦は斎藤軍の勝利に終わり、成頼は家督を政房に譲り、出家して舎衛寺に隠居する。また負けた石丸利光らは船田城を焼き払い、元頼らを連れて近江に逃れる。

35 :
翌明応5年、南近江で兵を集めた石丸利光の軍勢は、伊勢を経由して美濃に侵攻を図る。これに対し斎藤利国は、弟の斎藤利綱・一族の斎藤利実らを墨俣に、美濃諸氏を茜部に布陣させる。5月10日、石丸氏の軍勢は墨俣を突破し、土岐成頼のいる城田寺に至る。初めは門を閉ざし兵を入れまいとした成頼だが、利光が土岐元頼を連れていることを知りると門を開く。

36 :
一方、斎藤利国の軍勢は、土岐政房をして革手より稲葉山に陣を進めさせる。一度は破られた墨俣の斎藤利綱らも、追尾して木田に陣していた。さらには北近江の佐々木氏の配下である浅井・三田村の両氏が、援軍として鵜飼に至る。利国の軍勢は5月14日、早田の長良川の川原に本陣を布き、翌15日、稲葉山から烽火を揚げて長良川を渡河する。

37 :
この烽火を合図に、木田の斎藤利綱・利実と鵜飼の浅井氏・三田村氏の部隊も進軍する。浅井氏・三田村氏は城田寺の南西に至る。斎藤利綱・利実は鷺山に陣し、鷺山の北東には斎藤利国・利為が、また城田寺の東の鶴山には長井利安が布陣した。
これを見た石丸利光は戦況不利と判断し、土居の陣を焼き、城田寺城に退く。土居には村山氏が入る。
17日には尾張の織田氏が斎藤方の援軍として到着、石丸軍は完全に包囲される。

38 :
26日には、さらに援軍として越前の朝倉氏の軍勢が到着する。朝倉氏の軍勢は天神山に登る。この天神山は小山よりも高く、小山城を見下ろせたという。朝倉軍はそのまま小山を攻め、冨塚は斎藤利実・利為らの勢力によって攻め落とされる。
総攻撃を受け本堂を残すのみとなった城田寺城で、30日に石丸利光・利高親子は切腹。これを受け、諸国の援軍は引き返す。
6月になり土岐政房の説得を受けて土岐成頼は城田寺城を離れ、残された土岐元頼は6月20日に自害した。

39 :
〔斎藤道三終焉の地〕
斎藤義龍は自らが道三により廃嫡され、弟(孫四郎・喜平次)が後嗣に据えられるのではないかという危機感から、策謀によって弟を殺害する。この策謀は、義龍が仮病を装い稲葉山城に弟二人を呼び寄せておいて、日根野備中守が登城道の「七曲り」で殺害したともいわれている。
弘治元年(1555)12月、義龍は道三を鷲見美作守の居城・山県郡北野城(岐阜市三輪)に追う。

40 :
北野城に退いた道三は、明けて弘治2年(1556)1月、北野城から城田寺城へ移り、戦備を整え再び義龍と戦う。しかし、道三方に馳せ参じた者は義龍方の10分の1にも及ばなかったという。
道三方は敗北を喫し、城田寺城へ引き返すところを小牧源太・長井忠左衛門・林主水らに討ち取られた。その遺骸は、崇福寺の西、旧長良川の土手北に当る道三塚に葬られた。

41 :
続きは、まだ〜〜?

42 :
▽岐阜城

岐阜市金華山…岐阜公園と金華山の山頂駅を約3分で結ぶ金華山ロープウェーで、岐阜市の街並が一望できます。
http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/gifu_01.JPG
http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/gifu_03.JPG
http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/gifu_06.JPG

43 :
稲葉山城は、建仁元年(1201年)に、二階堂行政によって築かれた。 
その後、室町時代には、美濃守護代・斎藤利永が、この城を修復して居城とする。

44 :
斎藤利親:斎藤氏持是院家3代目当主。
明応5年(1496年)9月、父・斎藤妙純とともに近江の六角高頼討伐に参加するが、同年12月7日、郷民の蜂起に遭い、父・妙純共々戦死した。享年24。
子の斎藤利良は幼いため、弟の又四郎が後を継いだ。

45 :
斎藤利良(としなが):斎藤氏持是院家6代目当主。
天文7年(1538年)9月1日に死去。

46 :
天文8年(1539年):守護代・斎藤利政(道三)が、稲葉山山頂に城作りを始める。
天文16年(1547年):織田信秀、稲葉山城下まで攻め入るも大敗する(加納口の戦い)。
天文23年(1554年):斎藤利政、稲葉山城と家督を嫡男・斎藤義龍に譲り、剃髪して道三と号する。
弘治2年(1556年):斎藤義龍、長良川の戦いで父・道三を討ち取る。
永禄4年(1561年):父・義龍の急死により、斎藤龍興が13歳で家督を継ぎ城主となる。

47 :
永禄7年(1564年):竹中重治と安藤守就が造反して挙兵し稲葉山城を攻める。龍興は城を捨て鵜飼山城へ逃げ、竹中らが城を半年間占拠する。
永禄10年(1567年):織田信長が西美濃三人衆の内応により稲葉山城下に進攻(稲葉山城の戦い)。龍興は城を捨てて長良川を舟で下り、伊勢長島へ逃亡した。

48 :
天正4年(1576年):信長は岐阜城を嫡男・信忠に譲り、安土城へ移った。
天正10年(1582年)6月2日:本能寺の変

49 :
本能寺の変後は、神戸信孝(信長の三男)が城主となる。
天正11年(1583年)4月:賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が敗れ、兄・信雄によって居城の岐阜城を包囲されると、これに降伏した。その後、信孝は切腹。

50 :
天正11年(1583年)5月:池田恒興が美濃国にて13万石を拝し大垣城主となると、池田元助が岐阜城主となる。
天正12年(1584年):小牧・長久手の戦いで池田恒興と元助が討死。
天正13年(1585年):恒興の次男・池田輝政の居城となる。

51 :
天正19年(1591年):池田輝政に代わって木下秀勝が岐阜城の城主となる。
文禄元年(1592年):木下秀勝が没すると、織田秀信(幼名・三法師)が美濃国岐阜13万石を領有し岐阜城の城主となる。
慶長5年(1600年):関ヶ原の戦いの前哨戦で岐阜城に立てこもるが、福島正則や池田輝政らに攻められて落城(岐阜城の戦い)。
慶長6年(1601年):徳川家康は岐阜城の廃城を決め、奥平信昌に10万石を与えて加納城を築城させる〔>>16〕。

52 :
『日本の城1000城』という本を買ってきました。
早く続きをお願いします。

53 :
オナニースレですか?

54 :
▽菩提山城

岐阜県不破郡垂井町菩提
標高402m、比高約300mの菩提山の山頂に築かれていた南北260m、東西最大幅約60mの城域をもった城である。
永禄元年(1558)、揖斐郡大野町を本拠としていた半兵衛の父・重元(しげちか)は、菩提山を本拠として勢力をふるっていた岩手弾正頼重を攻略して、ここに新城の建設に着手した。しかし、重元はその翌年病死し、16歳の嫡男・半兵衛重治が家督を相続し完成させた。
http://blog-imgs-92.fc2.com/s/i/r/siroatomeguri/IMG_0880.jpg
http://blog-imgs-92.fc2.com/s/i/r/siroatomeguri/IMG_0883.jpg

55 :
竹中重治
主君・斎藤龍興は酒色に溺れて政務を顧みようとせず、一部の側近だけを寵愛して竹中重治や西美濃三人衆を政務から遠ざけていた。このため永禄7年(1564年)2月、弟・重矩や舅・安藤伊賀守守就とともに龍興の居城・稲葉山城を16人の部下とともにわずか1日で奪取した。
織田信長は重治の稲葉山城奪取を知ると、城を譲り渡すように要求したが、重治は拒絶し、8月には稲葉山城を龍興に返還した。

56 :
竹中重治は、天正7年(1579年)4月、播磨三木城の包囲中に病に倒れた。
秀吉は京都で療養させたが、重治は既に自らの死期を悟り武士ならば戦場で死にたいと秀吉に懇願して、播磨三木平井山の秀吉本陣に戻り、陣中にて6月13日に死去した。享年36。死因は肺の病気とされ、現代では肺炎か肺結核と推測されている。

57 :
竹中重門
天正元年(1573)に誕生。
関ヶ原の戦いでは、伊吹山で西軍の将・小西行長を捕縛するなどの大功を挙げ、家康から直筆の感状を受けた。幕府旗本(交替寄合席)として美濃岩出山6,000石を安堵され代々継承した(のちに分家を輩出し5,000石となる)。
戦後は竹中氏陣屋に拠点を移し、二条城の普請や大坂の陣にも参加したが、寛永8年(1631)に江戸にて死去する。享年59。

58 :
▽大垣城

岐阜県大垣市郭町2-52
明応9年 (1500) 竹腰彦五郎尚綱によって築かれた牛屋城が始まりとされる。
天文13年 (1544) 尾張の織田信秀が大垣城を攻め落とし、織田信辰を大垣城主とする。しかし天文16年 (1547) には斎藤道三の軍勢が攻略して竹腰尚光を城主とする。
永禄2年 (1559) 美濃三人衆の一人氏家直元 (卜全) が大垣城主となり、永禄10年 (1567) には織田信長の家臣となる。
http://www.hb.pei.jp/shiro/mino/ohgaki-jyo/indexb.jpg

59 :
大垣城は城主の入れ替わりがはげしく、関が原合戦以前の歴史は史料によってまちまちで、たいへん理解しにくい。
天守閣が築かれたのは、文禄4年(1595)、伊藤佑盛が城主の時期である。

60 :
慶長5年(1600)8月8日、石田三成ら西軍は、伊藤盛宗に大垣城の明渡しを迫って入城する。
9月14日、東軍は大垣城の西北にある勝山に陣する。西軍はその夜、大垣城を出て関が原にむかう。
関が原本戦は一日で終わったが、大垣城の戦いは、9月23日まで続いた。

61 :
明治維新まで続いた大垣城主は戸田氏。寛永12年(1635)戸田氏鉄が摂津尼崎から入部。
天守閣は太平洋戦争時のアメリカ軍の空襲により焼失した。昭和24年に四層の天守閣を復興した。

62 :
▽墨俣城

大垣市墨俣町大字墨俣
国道21号線が長良川を渡る長良大橋の畦を北へ行くと、長良川と並行して流れる犀川が二つに分かれる。その三角地帯が墨俣城跡である。
http://www.hb.pei.jp/shiro/mino/sunomata-jyo/photo_010s.jpg

63 :
永録9年 (1566年) 木下藤吉郎によって築かれた。 稲葉山城攻略のため織田信長は墨俣の地に築城を試みるが、墨俣は美濃斎藤領であり稲葉山城と大垣城に挟まれているため苦難を強いられる。
最初に築城を命ぜられたのは佐久間信盛、続いて柴田勝家が命ぜられるが、ともに斎藤軍の攻撃により失敗した。最後に築城を命ぜられた木下藤吉郎は、建築用材を木曾川上流で加工し、河川を利用して運搬し築城に着手する。
始めに柵を造り敵の攻撃に備え、次に外堀を掘り、その土で土台を固め櫓などを組み立てていった。築城完成まで数日であったことから墨俣一夜城とも呼ばれる。

64 :
〔川畔〕
「畔」一字であれば、「あぜ」。「畦」の訓読みと同じ。
「河畔」と書いて「かはん」と読むほうが一般的かと思うが、上に固有名詞の「○○川」がついた場合、「かわあぜ」ではなく「かわはん」と読むべきだと思う。
倉敷市教育委員会文化財保護課に、「川畔」の読み方について確認してみたところ、「ガワハン」と読んでいるとのことであった。

65 :
▽高須城

岐阜県海津市海津町高須町
http://uub.jp/47/gifu/gifu_map1.png
高須城は現在の海津明誠高校のあたりに築かれていたが、遺構はほとんど残っていない。
高須小学校の北側に「城跡公園」があり案内板がある。北東には「主水橋」があり、ここにも案内板が設置されている。
http://www.hb.pei.jp/shiro/mino/takasu-jyo/indexb.jpg

66 :
暦応元年 (1338年) 美濃国石津郡に地頭職を賜った氏家重国が館を構えた。これが高須城の前身である。
氏家(藤原)重国の地頭職は、越前灯明寺畷で新田義貞の首級を挙げた恩賞である。

67 :
関ヶ原の戦い(慶長5年)
城主:高木十郎左衛門=西軍…関ヶ原本戦に先立つ8月19日に落城 →出雲に逃れる。
  ↓
城主:徳永寿昌(ながまさ)→徳永昌重 →小笠原貞信

68 :
元禄13年(1700)
尾張藩第2代藩主:徳川光友の次男:松平義行……尾張藩の支藩3万石→維新まで続く
本家に嗣子がない場合、必ず高須松平家から出す。

69 :
松平容保は、高須松平家の出だよな。
たしか第10代義健の子。

70 :
▽鵜沼城

岐阜県各務原市鵜沼南町
http://uub.jp/47/gifu/gifu_map1.png
鵜沼城は木曽川に面した標高89mの岩山に築かれていた。 かつてこの城山には旅館があったが、今は廃業して何も建っていない。
木曽川に面した部分は切り立った岩山で敵を寄せ付けない、極めて堅固な山となっている。
http://www.hb.pei.jp/shiro/mino/unuma-jyo/indexb.jpg

71 :
永享年間 (1429年〜1441年) に大沢薩摩守治利によって築かれたと云われる。大沢治利和泉国から美濃に移ってきた。
大沢氏は斎藤道三に従い、後に織田信長に降ったが、信長が大沢次郎左衛門正重の武勇を恐れて暗殺しようとしたため、正重は城を棄てて逃亡し行方をくらました。以後、鵜沼城は廃城となった。

72 :
▽金山城

岐阜県可児市兼山字古城山……美濃国可児市と尾張国犬山市とは隣接している。
http://uub.jp/47/gifu/gifu_map1.png
金山城は木曾川南岸に聳える標高280mの古城山の山頂に築かれている。現在は国指定史跡となって遊歩道が整備されている。城山への車道があり、出丸が駐車場となっている。
http://www.hb.pei.jp/shiro/mino/kaneyama-jyo/indexb.jpg

73 :
城主
斎藤正義……鳥峰城
森可成〔金山城〕→森長可→森忠政

74 :
天文6年 (1537年) 斎藤正義によって築かれた鳥峰城が始まりである。斎藤正義は斎藤道三の猶子で、関白近衛稙家の庶子と云われる。

75 :
斎藤道三の命を受けた正義が築城し、鳥峰城と名付けた。
正義は東美濃に勢力を伸ばして、苗木城の遠山氏、加茂堂洞城の岸氏、加治田城の佐藤氏、久々利城の久々利氏らを配下とした。
しかし天文17年 (1548年) 久々利城にて久々利(土岐)悪五郎によって正義は謀殺された →廃城。

76 :
永禄8年 (1565年) 織田信長は東美濃に侵攻して森可成(よしなり)を城主とする。可成は織田信長の上洛の後、近江国宇佐山城主となったが、元亀元年 (1570年) 朝倉・浅井連合軍に攻められ討死した。

77 :
跡を継いだ可成の次男長可は織田信忠に従って信濃へ侵攻し、武田勝頼が滅亡すると信濃四郡を加封されて信濃国海津城へ入城したが、本能寺の変で織田信長が横死すると金山城へ帰還した。

78 :
森長可は、その後羽柴秀吉に従い、天正12年 (1584年) 小牧・長久手の合戦に従軍して討死した。
その跡を、末弟の森忠政が家督を継いだ。
慶長5年 (1600年) 森忠政は信濃国川中島十三万七千五百石に転封となり、金山城は廃城となった。

79 :
金山城の三層の天主は、岡部又右衛門の縄張だな。

80 :
兼山城(金山城)の天守が尾張犬山城の天守として移築されたという伝承があり、司馬遼太郎氏も、この伝承に依拠されて小説『国盗り物語』をお書きになっておられる。
しかし、『国盗り物語』連載開始前の昭和36年(1961年)に、犬山城天守の解体修理の際の調査の結果、移築の痕跡がまったく発見されなかったため、移築説は現在は否定されている。

81 :
※移築の痕跡がまったく発見されなかった犬山城
http://www.shirofan.com/files/shiro/toukai/inuyama/100-9045S53B.jpg

82 :
>>76
>元亀元年 (1570年) 朝倉・浅井連合軍に攻められ討死した。

信長は可成の死を悲しみ、直後に浅井・朝倉軍に協力した比叡山延暦寺の焼き打ちを行った。その時、可成の墓がある聖衆来迎寺だけは手出しを許さなかった。可成の死が、比叡山焼き打ちの原因の1つになった。
父を弔うため、長男森長可が創建した寺が可成寺(かじょう寺)である。
http://okikuyihsot.travel.coocan.jp/kajouji7.jpg

83 :
信長は可成の死を悲しんだわけじゃなくて、愛稚児の蘭丸(可成の子)の悲しみを慰撫するために、叡山焼き討ちを挙行したんだよ。

84 :
《美濃と尾張の国境》
関ヶ原町……近江国米原市
大垣市……近江国多賀町/伊勢国員弁市(いなべ) 
海津市……伊勢国桑名市/尾張国愛西市(あいさい)
羽島市……尾張国稲沢市(いなざわ)/一宮市
笠松町……尾張国一宮市
各務原市……尾張国江南市/扶桑町/犬山市
坂祝町(さかほぎ)……尾張国犬山市
可児市……尾張国犬山市
多治見市……尾張国春日井市/瀬戸市
土岐市……三河国豊田市
瑞浪市(みずなみ)……三河国豊田市
恵那市……三河国豊田市
※当スレッドでは市町村名のひらがな表記を禁止しています。例:員弁市(いなべ) 

85 :
僕はピンポンパンのおねえさんの中では、渡辺直子さんがいちばん好きでした。
http://contents.oricon.co.jp/upimg/news/20130219/2021779_201302190297443001361274993c.jpg
http://www.sam.hi-ho.ne.jp/hyper-kinchan/home2/w10.jpg

86 :
酒井ゆきえの脚も、なにげにエロい。
http://ecx.images-amazon.com/images/I/81qdFShSrLL._SL1500_.jpg
http://www.geocities.jp/mesidoles/sy-fs/image/p0045.jpg

87 :
幼稚園児なのに、すでにエロ目線www

88 :
>>83
寵童という日本語があるよ。

89 :
 ___ _
  ヽo,´-'─ 、 ♪
   r, "~~~~"ヽ
   i. ,'ノレノレ!レ〉 ☆ 衆議院と参議院のそれぞれで、改憲議員が3分の2を超えております。☆
 __ '!从.゚ ヮ゚ノル  総務省の、『憲法改正国民投票法』、でググって見てください。
 ゝン〈(つY_i(つ 日本国憲法改正の国民投票を実施しましょう。お願い致します。☆
  `,.く,§_,_,ゝ,
   ~i_ンイノ

90 :
姫路城

91 :
▽久々利城

岐阜県可児市久々利字薬師洞……美濃国可児市と尾張国犬山市とは隣接している。
http://uub.jp/47/gifu/gifu_map1.png
城は郷土歴史館の北にある尾根に築かれている。 郷土歴史館の建つ地は久々利城の根古屋跡で、江戸時代には千村陣屋が置かれていた。
http://www.hb.pei.jp/shiro/mino/kukuri-jyo/photo_003s.jpg
http://www.hb.pei.jp/shiro/mino/kukuri-jyo/indexb.jpg

92 :
築城年代は定かではないが南北朝の頃、土岐康貞によって築かれたと云われる。 康貞は美濃国守護土岐氏の一族で土岐伊予守頼清の四男。三河守悪五郎と称した。その子行春の時より久々利氏を名乗ったという。

93 :
天文の頃には鳥峰城主斎藤正義に従っていたが、天文17年(1548年)斎藤正義を久々利城へ招き、酒宴を催して暗殺した〔>>75〕。一説に斎藤道三の命によるものともいわれる。

94 :
永禄8年(1565年)東美濃に侵攻した織田信長は金山城主として森可成を置き、久々利氏はその配下となった〔>>76〕。
天正11年(1583年)森長可〔>>77〕は悪五郎を金山城へ招いて酒宴を催し、その帰路悪五郎を殺害し、久々利城を奪って久々利氏は滅亡した。

95 :
久々利氏は滅亡後は、森家家臣の戸田勘左衛門が城代となっていたが、慶長5年(1600年)に森家が信濃に転封となると、金山城とともに廃城となった。
その後、久々利の地は千村氏に与えられ、久々利城跡には千村良重が建てた千村陣屋がある。
千村氏は代々尾張藩に仕え、明治維新を迎えた。

96 :
  −=≡ ∩彡 ⌒ ミ∩ 
 −=≡  ヽ(´・ω・)/  信濃国境に近い美濃の東端まで移動ー
−=≡    (    /
 −=≡   ( ⌒) 
  −=≡  c し'

97 :
▽岩村城

岐阜県恵那市岩村町
岩村城は標高713mの城山山頂に築かれており、三大山城(備中松山城、大和高取城)の一つに数えられている。
山頂には本丸をはじめ、二の丸、三の丸などがあり総石垣の近世城館であるが、各尾根には堀切など中世の遺構も残る。また藩主は麓に近い居館に御殿を構えており、ここは現在歴史資料館が建ち、太鼓櫓などが復元整備されている。
http://www.hb.pei.jp/shiro/mino/iwamura-jyo/indexb.jpg

98 :
源頼朝の重臣・加藤景廉の長男遠山景朝が築き、その子孫の岩村遠山氏が戦国時代に至るまでこの地を治めた。
景朝が遠山荘に赴任した鎌倉時代中期頃には平坦部に築かれた砦あるいは城館であり、織田氏・徳川氏・武田氏の抗争が激しくなった戦国時代末期の16世紀中に遠山氏・武田氏の手で本格的な城山が構築されていったとみられる。

99 :
1570年(元亀元年) 城主は遠山景任であったが、甲斐武田氏の家臣・秋山虎繁(信友)が東濃に侵攻、上村での戦いに勝利し西進してきたが、織田信長の武将・明智光秀が小田子村でこれを撃退した(上村合戦)。

100 :
1571年(元亀2年)に遠山景任が病没すると、信長は五男の坊丸(織田勝長)を遠山氏の養子とした。後見は信長の叔母・おつやの方(景任未亡人)で、幼少の養子に代わって女城主として差配を振るった。
おつやの方は絶世の美人であったが、好色絶倫で、遠山景任はそのために寿命を縮めた。
http://prod.akimg.video.rakuten.co.jp/content/43/88/173488/chapter_l_0123.jpg


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