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奴国は何処に存在したと推測しますか?


1 :2012/11/20 〜 最終レス :2019/06/15
唐津を出立した古代天文学、暦に長けた中国からの訪問団は
次の旅程記録を残していますね。
東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚・柄渠觚。有千餘戸。丗有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。
東南至奴國百里。
ここに記述された伊都国及び奴国は何処に在ったとするのか
皆さんのご意見を頂きたい。

2 :
吉野ヶ里

3 :
伊都国は佐賀県多久市中小路庄集落です。
奴国は、行路上の奴国は、佐賀県肥前山口土元で、旁国の奴国は福岡県山門郡です。
なお奴はトと発音するのが正しいのです。

4 :
ちなみに邪馬台国の都は、当初は佐賀県吉野ケ里でした。
240年代に佐賀県小城市甘木に遷都しました。
243年の貢献はその報告のためでした。

5 :
福岡県筑紫郡那珂川町仲、現人神社です。
「安徳台」が初期奴国の王都です。
奴国は、ナ国です。

6 :
>>3-4
ここは奴国関係のスレだ。
ロリコン爺は邪馬台国スレへ戻れ!

7 :
>>3
いいかげん、諸橋大漢和辞典を読んだら?
>>4
奴国が後漢に使者を送ったのはAD57年。
いいかげん、ちゃんと調べなさいよ。

8 :
永く研究をしておりますと、辞典等の権威あるものでも間違いがあることにきづくものです。
漢委奴国は、漢のイトコクとおよみください。
ただしこのイトは伊都ではありません。のちの邪馬台国のことです。

9 :
 中国の漢字音は、「地域と時代」によって発音が大きく変わる。
現代の普通音で訓めば、 「邪馬台」 = シェマタイ
            「卑弥呼」 = ペィミフ  となるが、
魏志倭人伝の時代とは、大きく違うので間違いである。

 地域は「洛陽であり、時代は三世紀」とはっきりしている。
陳寿も蜀人であるが、諸葛孔明に誅された「泣いて馬謖を斬る」の馬謖系統で
あり,幼少から洛陽音を熟知していたと思われる。

 したがって、魏志倭人伝は「三世紀洛陽音」で訓むべきなのである。

普通、魏音の言語は「中古中国語」にあたるから、「切韻」系の「中古漢音」で訓め
ばよいと考えられているが、仏教の経典等をみると中古中国語も前期にあたる
魏音の言語は「切韻」系とはだいぶ様相が違っているのである。
 奴 = ナです。
 「 新稿 邪馬台国の言語 」 弥生語復元  長田夏樹著

10 :
>>8
>永く研究をしておりますと、辞典等の権威あるものでも間違いがあることにきづくものです。
ふーん、じゃあ、「後漢書倭伝」も「魏志倭人伝」も間違っていることになりますわなあ。
>漢委奴国は、漢のイトコクとおよみください。
>ただしこのイトは伊都ではありません。のちの邪馬台国のことです。
上古音も中古音も調べていないくせに、よくもまあこんな事を平気で言えますなあ。
本当に呆れます。

11 :
>>9->>10
サガミハラハラは邪馬台国小城甘木説に狂った、ただの電波。
まともに相手にすること自体まちがっているのだよ。わかるかい?

12 :
須玖岡本遺跡と三雲遺跡は、王葬儀に用いるため中国からもらって来た
「玻璃壁」が出土している。 後漢時代の同じ王統である。壁は魏時代にはない。
中国の史書には、後漢時代の倭国王統の変化は記載されていない。
したがって糸島伊都国とは奴国の一部であり、奴国王墓であると思われる。
 中国史書の記載内容を見る限り
   須玖岡本遺跡 − 漢委奴国王
   三雲遺跡   − 倭国王帥升 ではないのだろうか。

13 :
南東に向かえば一世紀にその存在が確認されているとされる、
金印を賜った奴国とは異なる奴国となるのだけど。
もっとも、南東を東、北と読み違えれば一世紀と三世紀の奴国が
一致する可能性も出てくるけど。

14 :
 紀元前の早良王国吉武高木遺跡の出土品は、奴国を大きく圧倒していた。
衰退後奴国が繁栄して来る。しかし奴国が成長して漢委奴国王に成り上がった訳ではない。
 当時の後漢は人口大激減による影響から維持管理できず、濊の酋長に嶺東七県の地を放棄し
た後の旧県城を委託している。 倭国も同様で窓口を一本化し、奴国に委任したに過ぎない。
中国側の事情によって、倭国は大きく影響を受けることとなる。
 その決め手となったのは、対馬海域の海上交通力と思われる。 所謂「阿曇族」だろう。 
奴国王自体がそうであった可能性もある。 とすれば「漢委奴国王印」が、阿曇族の本拠地
志賀島から出土したことも不自然ではなくなる。
 特約代理店となった奴国は、これにより大繁栄をすることになるのは当然だろう。
他の国々は、奴国を通じて交易をすることになり、 中国側も同様に奴国が窓口となった。

15 :
後漢書
「安帝永初元年、倭國王帥升等、獻生口百六十人、願請見。」
これじゃまるで、帥升がおねだりして朝貢を願ったような書き方である。
 これもまた中国側の国内事情によるものである。
後漢の四代目「和帝」の皇后陰氏は逮捕され、ケ氏の時代となった。
跡継ぎは、次々に死んで弟の息子を皇帝にした。十三歳の少年「安帝」である。
 運の悪いことに、中国では大雨が続き食料不足となり、中央アジア諸国は叛き、
後漢は西域都護を廃止し、中央アジアを放棄することになった。 
皇后が女の為宦官が勢力を持つ、宦官排斥のクーデターは失敗し司空は自Rる。
 この内外の苦境を一掃する為、ケ皇后の企画したのが数少なくなった友好国の中で
一番格上の金印紫綬の国「漢委奴国王」に働きかけ、表敬訪問の大イベントであった。
生口百六十人ならば、それ相応の人数になった大使節団になったであろう。
 倭国朝貢の旗を先頭に、笛太鼓で国内を行進し「天子の徳」を表すものである。
韓国大統領の支持率が落ちると竹島問題が再燃するように、習 近平氏が「天皇特例会見」
を願うように、当時ノ中国国内では、朝貢は有効な手段であった。

16 :
【倭国王帥升】
「倭面土王帥升」「倭面上国王帥升」「倭面土地王帥升」と記載されているようだが、
奴国王統で間違いないと思われる。
「面土」(メタ)と読んで、米多国王帥升説などもあるが、単なる誤解、誤写と思う。

17 :
おいサガミ、以下の文字の発音を表記してみろ。
明日中にな。それができなければ、サガミは「無能」と判断させてもらう。
わかったか!!
奴児合赤
小児合赤
木児合赤
産合蓮
曼古児太
和格
阿只格
多児昆
極児合郎
固山
寧古塔

18 :
すみません。私は魏志倭人伝の倭人の言葉を当時の中国語で当てはめた字の読みしかわからないのです。

19 :
>>18
どこで魏志倭人伝の倭人の言葉を勉強したの?
藤堂明保先生に教わったの?

20 :
主に地名からですね。現存する地名と倭人伝の地名と似ており、さらにそれが存在していたであろう地からです。

21 :
>>20
あれ、あんた、以前は「邪馬台国時代?の地名と現在の地名は違っている」
と言ってたじゃん?考え方を転向したの?

22 :
>>21
サガミは電波ですから相手にしないように。

23 :
>>17
ねーねー、それなんて読むの?

24 :
私がいったのは、類似性の問題なのです。
末盧が松浦となっているように、古代の地名がそのままのこっているわけではない、ということです。
似ている地名から当時の地名を割り出していくということです。

25 :
>>24
それなら安本美典がぞいぶん前にやっているじゃん。

26 :
伊都国、奴国の比定地により近畿説が
完全否定される可能性があるよね。

27 :
>>16
「漢書」<地理志倭人条>
 「楽浪海中有倭人」
(注)
 如淳曰「如墨委面 在帯方東南万里」
 臣曰「倭是国名 不謂用墨 故謂之委也」
 
http://www.d3.dion.ne.jp/~mkpo/08.pdf#search='%E5%80%AD%E9%9D%A2'

28 :
>>23
奴児合赤(ヌルハチ 清の太祖)
小児合赤(シュルガチ)
木児合赤(ムルガチ)
産合蓮 (サハリヤン) 
曼古児太(マングルタイ)
和格 (ホーゲ)
阿只格 (アジゲ)
多児昆 (ドルゴン)
極児合郎(ジルガラン)
固山 (グーサ =旗本の意)
寧古塔 (ニングダ =地名 別名:六王府 アイシンギオロ氏発祥の地)

29 :
長田夏樹  「魏志倭人伝は、三世紀洛陽音で訓むべきである。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E7%94%B0%E4%BF%8A%E6%A8%B9
 倭     ワ           卑彌呼    ヒムカ
 對馬    トマ          難升米    ナニソゴム
 一支    ユッキ         都市牛利   タゾゴル
 末廬    マツラ         伊聲耆    ウセダ
 伊都    ウタ          掖邪狗    ヤクヤコ
 奴     ナ           狗古智卑狗  コカチヒコ
 不彌    ホム          載斯烏越   ソシアヲチ
 投馬    ドマ          臺與     ドヤ
 邪馬臺   ヤマド         卑彌弓呼   ヒムコカ
 狗奴    コナ

30 :
「平成24年度 開催の公開講座案内」
12月15日(土)
「原始絵画にみる祈りの世界」   常松 幹雄(福岡市経済観光文化局)
弥生人が残した原始絵画や文様。出土する青銅器や土器に残された弥生のメッセージ、鹿と鉤。
弥生人の祈りの世界を読み解く。
常松氏は現役の考古学者。 面白いかもね。 無料がイイね!
http://www.city.fukuoka.lg.jp/maibun/html/lecture_1.html

31 :
>>12
> 糸島伊都国とは奴国の一部であり、奴国王墓であると思われる。
『魏志』によれば伊都国と奴国は別個の国だ。
『漢書』には倭人が「分かれて百余国をなす」とある。
『魏志』には末盧国、伊都国、奴国とみえ、それぞれが唐津、糸島、福岡平野に比定される。
中期後半の三雲南小路甕棺墓と須玖岡本甕棺墓の被葬者は同等の権威を有している。
もともとから3世紀代まで別の「国」だったと思われる。

32 :
唐津の東南は糸島、福岡方向にはならないのでは。
一世紀頃の奴国と魏志で記述されている奴国は別場所じゃないのかな?

33 :
>>31
>もともとから3世紀代まで別の「国」だったと思われる。
 両遺跡の時期は、ほぼ重なっている。
 後漢時代に王統が二つあるはずがない。
 

34 :
>>31
糸島の弥生前期では、打製・磨製の石剣、石鏃、石釧が出土しているだけ。
弥生中期の青銅製器も、高祖遺跡の細形銅剣一口、向原遺跡から三口。
良港今津に面している今宿遺跡で、一口の出土しかない。
隣国早良王国の三十口と比べれば、雲泥の差である。
糸島は、韓半島との交易は少なかったと考えるべき。
その糸島の弥生中期後半に、突如として当時倭国最高級の王墓が出現する。
須玖岡本遺跡と同様の奴国王墓のはずである。
「玻璃壁」「金銅四葉座飾金具」「前漢鏡三十五面」出土の「三雲南小路1号王墓」
が倭国王帥升の墓と思う。

35 :
>>34
> 「前漢鏡三十五面」出土の「三雲南小路1号王墓」
そう。「三雲南小路1号王墓」は前漢代の墓です。

36 :
前漢鏡がそんなにでたのなら、前漢時代の中国人の墓に間違いありませんね。

37 :
>>36
岡田英弘著『日本史の誕生』「古代日本は中国の一部だった」を読んでないだろ。

38 :
三雲王墓は、副葬された最も新しい鏡が紀元6年に製作された「居摂元年」銘連弧文鏡の直前の型式(柳田)から
紀元前後頃に設定されてるね

39 :
>>35
じゃ、漢委奴国王印は、伊都国王統ということになりますね。
委奴 = 伊都 = イト

40 :
>>39
「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」
『後漢書』は、
建武中元二年(57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす。
と記す。
印綬を賜ったのは「奴国」の王。

41 :
>>40
三雲遺跡は、王統を示す出土品がある。
須玖岡本遺跡からも出ている。
王統が二つ同時に存在していたことになる。
 おかしい?
紀元前の糸島の出土状況からすれば、いずれも奴国王統と思う。
糸島は独立した国ではなかった。 奴国の一部であった。

42 :
勿論不要な人物は実在しないよ!?♪。

43 :
>>41
『魏志』倭人伝によれば、伊都国に代々王が有り、狗奴国の卑弥弓呼も王である。
また、『後漢書』には「漢に使訳通ずるのは三十国ほど。国皆が王を称す」とある。

44 :
>>43
>>39

45 :
>>9
魏晋代は上古音ね、中古音は五胡の流入した南北朝以降

46 :
漢、委、奴国王
とあるくらいだから、大国なのは間違いないよね?

47 :
安本美典さんの「奴国の滅亡」を読みました。
最盛期の奴国は九州はもちろん、朝鮮半島にまで勢力を及ぼしていたそうですね。
奴国が後漢の光武帝に朝貢の使者を派遣して金印をもらった15年前の西暦42年に
金首露王が朝鮮半島東南部に駕洛国を建国したのと関係あるのかにゃー?

48 :
一人称単数の自分を指す言葉に[わ]を使う方言が現存。
倭人は自分たちを [わ]と言っていたのを中国側が倭人とした?
かたや、[な、ぬ、や]はあなた、(ヌシ)、他方、他人、んを指す呼称。
(淡路島の漁師町、洲本市由良地区では、お前=や。ほかにも通訳者が必要な場合多々あり)
倭奴は[わぬ]=俺とお前の意味かと。
となると国ならば連合国、合衆国などを意味するかと

49 :
>>48
淡路はお前を「や」かw
場所は何処か言わんが俺のシマじゃ「いゃ」だ。

50 :
奴国については、福岡市西部の旧早良郡ありじゃないか。野方遺跡など、邪馬台国の時代の遺跡もある。
また、地図で見ると金印のあった志賀島は、海上を使うと近い。
後漢書の時代だと、吉武異性などがある。

51 :
申し訳ない、上記は吉武遺跡の打ち間違えです。

52 :
徐福と奴国とは、どのような関わりがあるんねすか?
私は吉野ヶ里や久留米一帯は、徐福に纏わる勢力で、博多付近の奴国とは敵対的な関係にあったと考えていますが、ご意見をお聞かせください。

53 :
伊都国が前原であるという説は、江戸時代の新井白石がとなえたものであり、その根拠は、伊都はイトと読み、
糸島半島南部に同音の場所があったのでそことしたのです。
つまり語呂合わせによるものなのです。
方角が違うにも関わらずです。
そのご多くの学者とかしょうするひとたちも、方角は違うがなんとかと理屈をつけて前原が伊都国であるとしたのです。

54 :
2万戸が想定出来る国だという事を忘れるなよ。
当時の住居適地では北部九州全部を含んでも
足りない広さが必要だからな。

55 :
直方(のぉ方)じゃないのかな。
宗像市にも怡土郷(いとのさと)というのがあったようだね。

56 :
>>54
あなたには邪馬台国の問題は無理。
引退した方がよい。

57 :
当時北部九州全部を含んでも
対馬国+一支国=末盧国=四千の五倍以下
だとは失笑もののあり得ない話だ。
狭くて人口密度も高くなかった糸島ですら万あったのだから。
広くて人口密度も高い福岡平野、博多湾岸の人口はどこへ消えたんだ?
さらには、それよりも広くて人口密度も高い有明海沿岸の人口はどこへ消えたんだ?
南九州か北九州市周辺か熊本平野だけでも
対馬国+一支国=末盧国=四千の五倍よりも遙かに多い。

58 :
奴国二万は
伊都国〜不弥国のわずか二百里の間にある国だ。

59 :
道程が記載された奴国は佐賀市北部
不可得詳の奴国は博多湾岸。
これ、ホントの話ね。

60 :
邪馬台国の謎が解けないのは勝手な読み方ばかりするからだ。
方角を読み替えて違う方角へ進むのが間違っている。
それに
水行二十日水行十日陸行一月の解釈が間違っている。
伊都国起点に放射状に進んだり
郡起点に考えるのが大間違い。
邪馬台国まで間違いなく案内するのが一番大切なことだから
素直に順番に進めば良いだけの話だ。
行程記事は素直に順番に読むべきで
読み方を放射状とかに読み替えてはだめだ。

61 :
自女王国以北其戸数道里可略載其餘旁國遠絶不可得詳
(女王国以北は北其戸数道里を略載できるが、
その他の旁國については遠絶なので詳しく知り得ない。)
この文から、其餘旁國は女王国の南にあると言う者がいる。
しかし
末盧国伊都国奴国不弥国投馬国邪馬台国と南へ進みながら
女王国=邪馬台国よりも北には其餘旁國は一国も無かったとはあり得ない。
それは
其餘旁國遠絶不可得詳から分かる。
つまり
其餘旁國はどこにあるのか判らないと述べているのだ。
すなわち
其餘旁國は北にあるのか南にあるのかも判らないと述べていることになるのである。
では
自女王国以北はどう言う意味なのだろうか。
行程記事から
対馬国一支国末盧国伊都国奴国不弥国投馬国は自女王国以北にあることが判っている。
他の国はどうだか判らない。
つまり
自女王国以北とは女王国以北にあると判っている国はと解釈しなければならない。
投馬国が邪馬台国よりも南にあると言う主張などは問題外である。

62 :
陳寿は
不弥国から投馬国まで水行二十日かかったと述べているが
不弥国から水行二十日の場所に投馬国があるとは一言も述べていない。
投馬国から邪馬台国まで水行十日陸行一月かかったと述べているが
投馬国から水行十日陸行一月の場所に邪馬台国があるとは一言も述べていない。
陳寿が間違いなく述べているのは
其餘旁國遠絶不可得詳である。
つまり
対馬国一支国末盧国伊都国奴国不弥国投馬国邪馬台国以外の国は
其餘旁國遠絶不可得詳なのである。
これの意味する所は誰にでも(よっぽどの馬鹿でない限り)判るはずだ。
魏の勅使は八国以外の国へは行っていないのである。
遠絶不可得詳とはそういう事を意味している。
そして、その結果必然的に
不弥国の南で次にある国が投馬国で
投馬国の南で次にある国が邪馬台国であると言う事になる。
途中には他の国は一国たりとも無かったのである。

63 :
対馬国一支国末盧国伊都国奴国不弥国投馬国邪馬台国は
順番にあったのであり、途中には他の国は一国たりとも無かった。
陳寿が嘘を書いてなかったら、
其餘旁國遠絶不可得詳が嘘でなかったらそういう事になるのである。
ならば
順番にたどっていけばいいだけの話になり、
邪馬台国の場所はほぼ間違いなく、しかも簡単に判ってしまうことになる。
しかし、だとするならば
水行二十日水行十日陸行一月は一体何なのか?
陳寿の嘘、または誤解、記載ミスなのだろうか?
いゃ、そんなことは決してない。
倭人伝の他の記述と水行二十日水行十日陸行一月を照らし合わせることにより、
魏の勅使がわざわざ倭まで来て、卑弥呼を特別扱いしたことや、
卑弥呼の実像がはっきりと浮かび上がってくるのである。
水行二十日水行十日陸行一月は倭人伝の謎を解くための記載であり、
邪馬台国の場所を知るための記述では無いことをはっきりと認識しておくことが必要だ。
第一
水行二十日水行十日陸行一月が邪馬台国の場所を知る手がかりだとしたら
その時点で、陳寿は邪馬台国までの案内を放棄してしまったことになる。
なぜなら
投馬国邪馬台国はどこにでも比定できるようになってしまうからである。

64 :
陳寿は邪馬台国まで間違いなく案内しようとしている。
しかしだ、
本当に間違いなく案内するつもりならば
不弥国から投馬国、投馬国から邪馬台国までの距離が記載してないのはなぜだ。
間違いなく案内するのに距離は不可欠のはずだ。
投馬国、邪馬台国までの距離が判らなかったのだろうか?
勿論そんなことはない。
実は、
投馬国、邪馬台国までの距離を記載しなかったのは記載できない訳があるのである。
その訳はと言えば、距離を記載すればそれが必ず嘘になってしまうからである。
そんな馬鹿な。
距離は判っている。
そして、投馬国、邪馬台国までの距離が伸び縮みしようはずもない。
なのに投馬国、邪馬台国までの距離が記載できないのは何故だ?
投馬国、邪馬台国までの距離を記載すればそれが必ず嘘になってしまうとは一体どういうことなのか?
それは倭人伝の謎が解けたときに理解できることになる。
いずれにしても
投馬国、邪馬台国までの距離は記載してないのだが、
それは、投馬国、邪馬台国までの距離が記載できなかっただけではなく、
距離を記載しなくても、投馬国、邪馬台国の場所が判るからなのである。
どういうことなのかと言えば
不弥国のすぐ南で奴国の2.5倍の人口を擁する国が投馬国であり、
投馬国のすぐ南で奴国と投馬国を合わせた人口を擁する国が邪馬台国なのである。
問題はそのような場所が実際に存在したのかということだけである。

65 :
「奴国二万戸は当時の住居適地では北部九州全部を含んでも足りない広さが必要」
「邪馬台国七万は福岡佐賀を合わせても足りない人口。」
等というのは大間違い。
間違いないのは対馬国一千、一支国三千であると言うことだ。
末盧国の唐津も遺跡は点在している状態で四千は妥当だろう。
糸島でさえその倍以上はあり、
壱岐対馬唐津糸島だけで二万戸を越えてしまうのである。
博多湾岸、春日〜古賀、宗像なら壱岐対馬唐津糸島の数倍では足りないだろう。
さらには筑紫平野の
小城〜佐賀大和〜鳥栖〜小郡〜筑前〜甘木〜朝倉〜浮羽郡〜
久留米〜広川〜八女〜筑後〜旧山門郡〜大牟田〜荒尾〜玉名は
鳥栖付近以外は
遺跡が帯状にびっしりと隙間無く密集しており
壱岐対馬唐津糸島の数十倍以上の人口は確実だろう。
二万戸が何人なのかは知らないが、
山沿いに二百里(10q〜20q)の中に収まる人口なのである。
五万戸、七万戸も考えられないほどの大人口だとはとても言えない。

66 :
@倭人伝記載の方角通りに進む。
A倭人伝記載の距離だけ進む。
B戸数に個人の解釈を加えずに対馬国一支国の遺跡を基準に考える。
C勅使は行程記事に記載した以外の国へは行っていない。
D水行二十日水行十日陸行一月を距離に換算しない。
E個人の解釈を元に読み方を変えない。
F方角距離人口は、常識的な範囲の誤差を考える。
先入観念や
辻褄の合うように読み方を変えるの
を排除して倭人伝を読めば邪馬台国の場所を知るのは
困難なことではないと思う。
しかし、例えば、
伊都国を糸島に比定すれば
伊都国への方角と人口が違う。
奴国までの方角と距離が違う。
不弥国から先は水行なので先へ進めない。
南にある次の国という条件では投馬国、邪馬台国の人口を満たす国が存在しない。
末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国全てにおいて
方角、距離、人口を条件にして倭人伝記載の通りに進める確率を考えて頂きたい。

67 :
「水行二十日水行十日陸行一月を距離に換算」すれば
「行程記事に記載した以外の国へは行っていない」が成立しないし、
「行程記事に記載した以外の国へは行っていない」のであれば
「水行二十日水行十日陸行一月を距離に換算」できない。
C勅使は行程記事に記載した以外の国へは行っていない。

@水行二十日水行十日陸行一月を距離に換算しない。

ほぼ同じ事だと思う。

68 :
http://www.geocities.jp/fsrfb814/isekibunpuzu.JPG
いづれ
唐津なども含む広範囲な弥生時代遺跡分布図をアップするつもりだが
とりあえず佐賀市とその周辺だけ。
唐津(末盧国四千戸)の遺跡は点在しているが
見て判るように佐賀市北部の遺跡はびっしりと密集している。
そこには、単なる貝塚にすぎないが東名遺跡がある。
しかし問題なのはそれが西日本最大級の貝塚遺跡なのである。
つまり、何を言いたいのかと言えば
そこには
西日本最大級の貝塚遺跡を形成するほどの大人口密集地帯があったことになるのである。
弥生時代遺跡分布図もそれを裏付けている。
東南陸行五百里到伊都國
東南至奴國百里
から
其餘旁國遠絶不可得詳の奴国ではなく
伊都国と不弥国の間で投馬国と邪馬台国の北にあり
人口二万戸と詳しく判っている奴国の
魏の勅使が到着した場所は
方角距離人口から
東名遺跡から2〜3q以内にあったと推定している。

69 :
対馬国+一支国(4千戸)=末盧国(唐津4千戸)の
弥生時代遺跡は点在しており、
その5倍(2万戸)の奴国はは遺跡の数から推定すれば
佐賀大和〜吉野ヶ里程度になる。
奴国で魏の勅使が到着したのは東名遺跡付近だったと推定しているが
だとすれば
奴国の東百里(5〜10q)にある不弥国は吉野ヶ里遺跡になり
奴国の北西百里にある伊都国は佐賀大和の都渡城になる。
違っていても
それぞれの場所から数q以内の場所にあっただろう。
伊都国を都渡城だと推定した理由は
@風土記によれば佐賀大和は有明海の干満の影響を受けたそうだから港が存在できる。
A嘉瀬川の川上付近は川幅が異常に広く人工的に造った港があったような形をしている。
http://flood.firetree.net/?ll=33.3223,130.2694&zoom=15
B東名遺跡付近から北西5〜10qという条件に合う。
C都渡城と言う名前が邪馬台国と諸外国を結ぶ窓口であった可能性がある。

70 :
伊都国には港があった。
不弥国にも港があった。
恐らく
奴国にも港があっただろう。
ところが
投馬国、邪馬台国はこれらの船で行く南にあったのである。
ならば
魏の勅使はわざわざ奴国、不弥国へ行かずに
伊都国から南水行できたのである。
なのに奴国、不弥国へ行き不弥国から南水行している。
一体何故なのだろう?
実はこの記述や水行二十日水行十日陸行一月が
倭人伝の謎を解く大きな手がかりになるのだが
それについてはいずれ述べることになる。
しかし間違いないことは
魏の勅使は
佐賀大和付近⇒東名遺跡付近⇒吉野ヶ里付近へと進み
不弥国(吉野ヶ里付近)から投馬国へ向かって南水行したのである。

71 :
不弥国(吉野ヶ里)のすぐ南の筑紫平野中央部は遺跡がほとんどない。
津(港)とか島の付く名前の場所に点在しているだけである。
吉野ヶ里の東西に港があったことや、
吉野ヶ里の港のあった場所、吉野ヶ里の南の地域が
吉野ヶ里から見下ろす形になっていることからも
吉野ヶ里は海に突き出た半島だったと考えている。
ここから南へ水行すれば到着するのは筑後平野である。
陳寿はわざわざ【其餘旁國遠絶不可得詳】と記載している。
これは、略載以外の国へは一国たりとも行っていない事を意味している。
そして、不弥国の次に記載(略載)しているのは【南至投馬国】である。
これにより投馬国は吉野ヶ里から南へ進んで
最初にあった国であるから筑後平野にあったことになる。
陳寿は投馬国の人口を【可五萬餘戸(五万余戸ばかり)】と記している。
ここで問題になるのは五万余戸の意味する人数である。
ある者は1戸5人、1戸10人、或いは1戸20人以上だと言う。
いずれにしても大人口である。
そして、必然的に奴国、投馬国、邪馬台国は巨大な地域を
支配していたことになってしまうのである。
しかし、ちょっと待ってほしい。
(対馬国+一大国)=末盧国=四千戸なのである。
二万戸、五万戸、七万戸というのは
その5倍、12倍余り、18倍弱にすぎない。
遺跡が点在している(対馬国+一大国)=末盧国が四千戸なのであるから
遺跡が隙間なくぎっしりと密集している
筑紫平野(佐賀平野、筑後平野)ならば妥当な人口だろう。

72 :
不弥国=吉野ヶ里の南に当たる部分の筑後平野には
八女市、八女郡、三潴郡、筑後市、大川市、柳川市がある。
ところがこの地域のほとんどはその昔、妻(下妻郡、上妻郡)と呼ばれていたのだ。
四世紀に八女津姫にちなんで八女と名付けられたが、
その後下妻郡、上妻郡となり
現在では八女、筑後、三潴などになっている。
今は下妻小学校、上妻小学校、下妻地区、上妻地区などと
狭い地域の名前として妻の名前が残っているだけである。
しかし、不弥国=吉野ヶ里から南へ進んで最初の国のあった場所で、
(対馬国+一大国)=末盧国=四千戸の12倍以上の遺跡があったと思われるのが
八女市、八女郡、三潴郡、筑後市、大川市、柳川市である。
しかも、そこには投馬国を示唆する妻の名前が残っているのである。
宮崎とか鹿児島に邪馬台国を比定する人もいるが、
【周旋可五千餘里】とか【其南有狗奴国】と齟齬をきたすだけではない。
弥生時代に人口最大密集地の有明海沿岸(筑後平野〜熊本平野)の国々を
通過しておきながら
陳寿は【其餘旁國遠絶不可得詳】と嘘を記載したことになるのである。
残念だが
機内説同様、鹿児島説、宮崎説の可能性は皆無だろう。

73 :
水行二十日水行十日陸行一月は
行程記事だけから判断すれば
所用日数の場合もあれば所用日数ではない場合もある。
ほとんどの人が所用日数であると考えているが、
思い込み以外に根拠がある訳ではない。
行程記事だけからは所用日数であるか否かは判断が難しいが
倭人伝の記述からは判断できるのだ。
陳寿は
水行二十日水行十日陸行一月が所要日数ではないと
何度も断っているのである。
但し、「所要日数ではありません。」と補足説明してあるのではない。
30国の問題も
狗奴国との戦いの結末も
投馬国、邪馬台国までの距離の記載がないことも
卑弥呼を優遇した理由も
一切補足説明はしていない。
日本人なら当然補足説明すべき事柄についても、
倭人伝で陳寿は何一つ補足説明をしていないのである。
もしも、
陳寿が全てに補足説明をしていたならば
邪馬台国論争がここまで混乱することはなかっただろう。
それでは何も理解できず、何も解らないのだろうか?
もちろん、そんなことがあろうはずもない。
陳寿は
補足説明をするのではなく、補足説明をしなくても解るような
事実を記載しているのである。

74 :
日本では
「美しい」とか「愛している」と表現するのはあまり良くない、と言う人がいる。
事実を記載する事によって美しい、とか愛している事が解るような
文章が優れているのだそうだ。
私にそのような技法を使いこなし、優れた文を書く事などできようはずもないが、
例えば
「その人と初めて会ったとき、その人の周りは輝いているように見えた。
長い髪が風に揺れて、彼女が私を見て微笑んだとき、私の心臓は激しく
波打ち、動悸の音が他の人に聞こえないだろうかと心配するほどだった。
彼女とはずっと昔からの親しい知り合いだったような感覚に襲われ、離れたくないと思った。」
どのような文章を書くのが優れているのか、人によって
また、国や時代によって違うのである。
陳寿の時代は
不必要な文は極限まで削除して、簡潔、正確、明瞭に書くのが
優れていると考えられていたそうである。
だからその結果、
くどくどと補足説明をした文は駄文で、
事実だけを記載して補足説明をしなくても解る文章が優れていたのである。
しかし、
事実だけを記載して、その意味する事を読み取れ、と言うからには
極めて正確な文章を書く必要がある。
意味のない文、でたらめな文、間違いの文が含まれていたら
その意味する事を読み取る事は絶対に不可能だからである。
では、
水行二十日水行十日陸行一月が所要日数ではないと言うことは
どうして解るのだろうか。

75 :
実は
『水行二十日水行十日陸行一月が所要日数ではないと言うことは
どうして解るのだろうか。』
と言うよりも
倭人伝には
『水行二十日水行十日陸行一月が所要日数である』ことを裏付ける記述は皆無で
『水行二十日水行十日陸行一月が所要日数ではない』と言うことしか記載してないのである。
第一には
參問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里
(倭地の様子を見聞きしたところによれば、海中の島に孤立して、離れ或いは連なりながら一周すれば五千余里になる。)
とあることである。
狗邪韓国〜末盧国230q程度が三千里なのに
周旋可五千餘里しかない国の中を進むのに
次の国へ進むのに
水行二十日や水行十日陸行一月もの所要日数は不自然と言うより
あり得ない話である。

76 :
次も距離の話になるが
帯方郡から女王国(邪馬台国)までは一万二千余里で
不弥国までが七千里+三千里+五百里+百里+百里=一万七百里だから
邪馬台国までは残り千三百里しかないのである。
狗邪韓国〜末盧国230q程度が三千里の四割強(100q足らず)しかない距離を進むのに
水行二十日水行十日陸行一月だろうが
水行十日陸行一月だろうが
所要日数と考えるのは不自然である。
何か他の目的があった日数と考えるしかないのである。
そして
次に示す記載が水行二十日水行十日陸行一月が所要日数
ではないと言う決定的な証拠となる。

77 :
陳寿の時代は
不必要な文は極限まで削除して、簡潔、正確、明瞭に書くのが
優れていると考えられていたそうである。
だからその結果、
くどくどと補足説明をした文は駄文で、
事実だけを記載して補足説明をしなくても解る文章が優れていたのである。
つまり、
魏志倭人伝は読み解くのに不必要な意味のない文はなく、
記載してあるのは事実ということになるのだ。
事実として、倭人伝には補足説明などは一つもない。
記載された事実だけから、
邪馬台国の場所、魏の皇帝が大量の賜物を与えたり、
勅使を派遣までして卑弥呼を優遇した理由など全てを読み取れと、
陳寿は言っているのである。
事実だけを記載して、その意味する事を読み取れ、と言うからには
極めて正確な文章を書く必要がある。
つまり倭人伝に記載してある事柄には無駄な文は無く、
全て正確な事実と考えなければ何一つ解らないのである。
現在
倭人伝の謎が何一つ解けてないのは、倭人伝が曖昧で、
間違いだらけの文章だと考えられているからなのである。

78 :
それでは倭人伝を正しく、正確に読むためにはどのように読むべきなのだろうか。
第一には、
【東南陸行五百里到伊都國】と記載があるのに、
末盧国(唐津付近)の東南ではなく北東にある糸島を伊都国に比定したのが間違いである。
これにより、
方角が違う、距離があわない、伊都国の人口が間違っている、
船で直行できるのに、道のない悪路を五百里も歩くような場所に上陸する、
【南至投馬國水行二十日】とあるのに水行の出発点の不弥国の南は山であるから
南水行ができない、などと言うように
倭人伝は完全に信用のおけない出鱈目な文になってしまうのである。
しかし、本当は
出鱈目なのは倭人伝ではなく私達読者だったのである。
これでは、邪馬台国の場所すら解る訳がなかろう。
そして、これにより、
倭人伝の謎を解く手がかりは完全に消滅してしまったのである。

79 :
ところで、
邪馬台国の場所はどうやって知ることができるのだろうか?
ある人は末盧国から二千里という距離で推定する。
またある人は水行二十日水行十日陸行一月という日数で推定する。
しかし、これらは邪馬台国へ到着するまでに進んだ距離と日数を記載したに過ぎない。
両方とも間違いのない事実に違いないのだろうが、
不思議なことにこれにより邪馬台国の場所を特定することは絶対にできない。
これは、両方とも邪馬台国の場所を特定するための情報ではなく、
倭人伝の謎を解くための情報なのだからである。
どこにも比定できないような情報、
言い換えれば、どこにでも比定できるような情報が、位置情報である訳が無い。
どちらの情報を選択したとしても、邪馬台国の場所は特定できず、
無理な解釈、珍解釈を創作するしかないではないか。
しかも、無理な解釈、珍解釈を無理に採用したとしても邪馬台国の場所は特定できない。
邪馬台国の場所を特定するための情報でないものを、
邪馬台国の場所を特定するための情報として扱っているからなのである。
邪馬台国の場所を決して特定できないという事実が、これらが
邪馬台国の場所を特定するための情報ではないという証拠である。
それでは、邪馬台国の場所を特定する情報とは一体何なのだろうか?
本当にそんなものが、倭人伝に記載されているのだろうか?

80 :
わしの心の中では、奴国は、ずっと那の津と言われた博多

81 :
奴国は福岡市、春日市、那珂川町で間違いない。

82 :
末盧国は本拠地は松浦だが、当時九州北岸を支配していた。
魏使は壱岐から松浦半島に寄ったが、そこからさらに東へ海岸沿いに博多沿岸まで進んだ。
これが壱岐国〜末盧国まで千里の理由。
伊都国は博多沿岸から内陸部へ五百里進んだところにあるが、ここは昔の倭奴国の王都であったが、
邪馬台国が一大率を置いて直轄領とした。すなわち広大な奴国の中(あるいは一角)にある。
奴国は東南に百里行ったところにあるとされるが、これは当時の奴国の中心地のことを指していて、
倭奴国の元王族が伊都国から移り住んだ場所である。
東に百里行ったところにある不弥国も元は奴国の一部。
ちなみにここまでの国の副官の名は、伊都国を除いて卑奴母離で共通している。

83 :
魏志倭人伝で大国とみられる国は奴国、投馬国、邪馬台国、狗奴国の四つ。
一方、古事記では九州を筑紫国(白日別)、豊国(豊日別)、肥国(建日向日豊久士比泥別)、熊曾国(建日別)の四つに分けていて、
それぞれ、
筑紫国(白日別)=奴国
豊国(豊日別)=投馬国
肥国(建日向日豊久士比泥別)=邪馬台国
熊曾国(建日別)=狗奴国
に対応する。

84 :
奴国。ナラ。重複した国、領域(ナ・ラ)の意

85 :
投馬、、、、タジマ?

86 :
投馬・・・當麻(=出雲)

87 :
奴国。
ナカ/ナガの国。
那賀、那加、長、中(中つ国)、永、なが
級長津彦命(風神)に長が付くのが意味深?
(土佐一宮の土佐神社(味鋤高彦根命/賀茂の大御神)は地元ではシナネ様と呼ばれ親しまれている)

ナカ(ナガ)の国と言われたのが現在の徳島県南部地域。
紀伊水道の船舶の動向を掌握し、日(朝日)に向かう地勢。
橘湾、小戸の阿波岐原、
北部地域がアワの国。
那賀須泥毘古/長髄彦(倭大己貴命)のナガ(ナカ)であり支配地域だった?。
那珂郡、那賀川。海部郡とか長尾姓。

88 :
投馬・・・當麻(=出雲)

89 :
>>54
>2万戸が想定出来る国だという事を忘れるなよ。
>当時の住居適地では北部九州全部を含んでも足りない広さが必要だからな。

  計算もできない低能が一人前の顔して寝言言ってんじゃねーよ www
 俺が教えてやるよ。
  吉野ヶ里は、面積が約50ヘクタールで推定人口は5400人だ。
  邪馬台国は7万戸。1戸当たりの人口が問題になるが、5人説が多いので
 そうだとすると35万人だ。ということは、単純計算では65倍の人口だ。
 面積については、居住区域=集落の面積のほかに集落間の「緩衝地帯=非居住
 区域」の存在が必要となるので、これを合わせて10倍の面積が必要だと仮定しよう。
 すると、50ヘクタール×65×10=32500ヘクタール となる。
 これを平方キロメートルに換算すると、325平方キロメートルになる。
 ちなみに福岡市の面積は341平方キロメートルだ。福岡県の面積は4979
 平方キロメートルだ。
  計算もしないアホがバカ言ってんじゃねーよ wwwwwwwwww
  

90 :
おっと、邪馬台国じゃなかったな。奴国だったか。7分の2でいいわけだから、
325×2÷7=92.8平方キロだ。大牟田市より少し大きい程度の国だぜ。

91 :
>当時の住居適地では北部九州全部を含んでも足りない広さが必要だからな。

  これが畿内説のレベルだな www

92 :
言っておくけど、精密に思われている天文学だって、星の数なんかこういう概算で
やっているんだぜ。理系に言わせれば、こういう計算は十分ありなんだよw
文系の石頭にはわからないだろうが。

93 :
本当に文系、特に歴史系のヤツは使えない人間ばかりだな。」

94 :
>2万戸が想定出来る国だという事を忘れるなよ。
>当時の住居適地では北部九州全部を含んでも足りない広さが必要だからな

この計算が成り立つための条件とは、次のとおり。
 奴国の人口は、2万戸×5人=10万人
 北九州を福岡県及び佐賀県とすると、その面積は7485平方キロメートル
 吉野ヶ里の面積は50ヘクタール=0.5平方キロメートル、人口は5400人
 したがって奴国の人口は吉野ヶ里の18.5倍。
 「緩衝地帯=非居住区域」の面積が居住区域に対してどれほど必要なのかが問題
 となる。
   0.5×18.5×k=7485  → k=809

  つまり、このド阿呆の主張が成り立つためには、「緩衝地帯=非居住区域の」の
 面積は居住区域の800倍の面積が必要だということ。
  石器時代じゃねーんだよ wwwwww

95 :
結局このド阿呆は、邪馬台国の時代は稲作じゃなくて縄文時代の狩猟採集を
やっていたということなんだろw それならこれくらい低い人口密度じゃないと
生きていけないよね。

96 :
その狩猟採集をやっていた原始的な国=邪馬台国が中国から金印を授けられていたと。
北九州では収まらないくらい広い国がねーw 

97 :
>>89
>面積については、居住区域=集落の面積のほかに集落間の「緩衝地帯=非居住
>区域」の存在が必要となるので、これを合わせて10倍の面積が必要だと仮定しよう。

  この時代は10倍じゃ済まない。70倍くらいだろう。
 壱岐で計算すると200倍になる。これは離島だからどうしても人口密度が低くなる
 ので、九州本土ならその3倍の密度で70くらいだろう。それだと奴国は福岡県の面積の
 45%、約半分になるぞ。

98 :
奴国→不彌国は百里だが、1里=80メートルで計算すると8キロしかない。
>>97 の意見では奴国の面積は650平方キロメートルと計算されるが、奴国の
形が正方形と仮定すると、25キロ四方となって、8キロという計算に合わない。
1里=70〜90メートルはほぼ確定しているので、>>97 の「この時代は10倍
じゃ済まない。70倍くらい」という仮定は怪しいね。

99 :
国の面積をどうこう言ってもあまり意味はない。どこの国にも属さない場所があったのだろうし。
ある国に千戸の民がいたとして、その外側にはどこの国にも属さない民もいたかもしれないね。
だから、俺は倭人伝に出てくる国というのは集落の集合体で、その集落間の距離はさほど離れて
いなかった、だから >>89 の言う「非居住区域」は集落の10倍くらいがけっこう妥当じゃないか
と思う。後は、どの国にも属さない土地がどれだけあったのかということ。 

100 :
別にお前らが主張したからってお前らの願いが叶うわけじゃないぜ


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