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司馬遼太郎の家康過少評価は異常
- 1 :2012/03/17 〜 最終レス :2018/07/12
- バランスの取れた家康評価をしていきましょう
- 2 :
- いまどき司馬(笑)の評価で家康語るやつなんかおらん。
- 3 :
- 司馬遼太郎はサントリーロックRー系の典型的な戦後日本破壊工作員じゃなかった
- 4 :
- いやむしろ評価しているほう
ただ嫌いなだけ
- 5 :
- 評価はしているけど、家康が朱印船貿易では秀吉以上の成果を収めたとか、
ノヴァイスパニア(メキシコ)との通商を望んで田中勝介を渡海させたとか、
ウィリアム・アダムズやヤン・ヨーステンを顧問として重用したとか、
家康の開明的な面はまったく描かず、田舎の陰険な爺さん扱いしたんだよね。
家康に関しては明らかな不当評価だと思われる>田舎の陰険な爺さん
- 6 :
- 鎖国に関しては日本人の精神を培養したとしか評価してなくて
そこはさすがに「鎖国は百害あって一利なし」と言ってた海音寺潮五郎の影響を感じさせる
もっとも家康は鎖国政策じゃないけど
- 7 :
- 司馬遼太郎なんて今や
結局、国際金融資本、ニセユダヤ銀行家の子分って評価しかないわ。
- 8 :
- じゃあ過大評価してる書を読めばバランス取れるじゃん
- 9 :
- 山岡小説の宣伝乙。
>>8は講談社。
- 10 :
- というか小説家の書いた小説(所詮作り話)を信じるな
これは文学板で立てろよ
- 11 :
- 司馬遼太郎著の「城塞」を読むと家康は策略家として
非常に高く評価されてるよ
ただし陰気な家康は司馬の好みではないというだけ
豊臣秀吉のとびぬけの明るさや織田信長の破天荒さが好きで
そっちのほうが生き生きと描かれてる
- 12 :
- >>4
司馬さんてツンデレだよな
乃木さんなんかも軍人としては酷評してても、一介の人間としては好きなんだろうなーってのが伝わってくるもん
- 13 :
- >>11
城塞こそ家康を「陰険な策略家」として定義づけた間違った徳川史観の決定打みたいなもんだぞ。
妄想が入りまくってるしまともに読むに値しない。あれがいちばん大阪民国ナショナリズムが色濃く反映されている。
大阪の陣はいつまでも徳川幕藩体制下に入ろうとしない豊臣家に家康がしびれ切らせて起こした戦だろ。
豊臣家も色々意地はあっただろうけど上方の百姓や大名が豊臣家に加担する可能性は皆無
ちなみに大石慎三郎は「信長の構想を引き継いだのが家康。秀吉は傍流」と言ってる
信長&秀吉=明と、家康=暗を分けるというのは恣意的分類に過ぎない。
家康個人は閉鎖主義的発想を持っていたわけでも何でもない。ノヴィスパンへの使節派遣しかり朱印船貿易しかり
- 14 :
- 結局、司馬の家康評価なんてほかに選択の余地がなかったからしょうがねえわ的なネガティブな評価で、
いかにも60年代の石投げて暴れる学生が多かった頃の評価だな。
- 15 :
- と言うか、戦国好きや歴女に、
家康って人気ない。
まあ偉大な策略家、政治家とは思うけど、
人物に面白味がない。
- 16 :
- >>15
「人物に面白みが…」、と言う時点で、
歴史をキャラで読んでるな。
あんな大政治家、面白いに決まってるだろ。
- 17 :
- >>13
なかなか家康に臣従しない秀頼に対して
大名から百姓に至るまで誰もが「秀頼を殺しちまえ!」という声が湧きあがり
渋々家康は秀頼を殺したというお前の考えもかなり偏った考え方だな。
- 18 :
- >>13
さすがに信長の後継者が家康だというのは飛躍しすぎだわ。
信長はむしろ家康を危険視して殺そうとしてたんじゃなかったっけ?
本能寺の変の時、明智光秀率いる軍隊は徳川家康を殺しに行くと聞いて
それで納得して攻めたというし。
- 19 :
- 信長の子供たちや秀吉の甥たちに対しても酷評している。
- 20 :
- >>17
司馬遼太郎も作中で「秀頼さまにも困ったものだ、いいかげん新体制を認めろ」と諸大名に思わせているじゃんか。
司馬は関ヶ原での藤原惺窩と直江兼続の会話の描写なんか見る限り、
明らかに大坂の抵抗が「無名の師」であること自体は認めてるぜ。
>>18
大石が言ってるのは「路線の後継者」と言う意味だよ。
もっとも、秀吉を異端と見る大石史観も、家康を異端と見る司馬史観も不正確。
だいいち、家康は秀吉政権の東の重鎮なんだから、家康を抜いたら政権が崩壊する。
秀吉がなき後は家康に後事を託すのが当たり前だわ。
- 21 :
- 大石が秀吉を異端と見るのは、確か
・秀吉の朝鮮出兵時代の国内の疲弊がはなはだしかった
・対抗勢力、反対勢力への粛清が陰惨。信長のほうがマシだった
みたいなあたりかな。
秀吉時代は明るい時代どころか…
- 22 :
- >>20 >>21
そうそう。
司馬遼太郎は淀殿を「女が政治をするなんてとんでもない」と酷評し、
適当な男に政治をゆだねるべきだと断言している。
家康は適任ではなかったが他に誰もいなかったわけだ。
司馬はむしろ家康を非常に「良い人」に描いている。
孫の千姫を愛し、千姫の夫である秀頼をRつもりはないと言わせたりね。
まあ、史実では殺しちゃってるからその事実は家康ひいきのおまえでも認めざるを得ないわな。
- 23 :
- >>20
>秀吉がなき後は家康に後事を託す
秀吉は家康を信用し、幼い秀頼の後見人を任せた。
家康に後事を託すのは秀吉の意思だったわけだ。
まあ、秀頼殺して政権奪うとは思わなかっただけで。
朝鮮出兵してる暇があるなら家康を殺しておくべきだったというのが
後世の見解。
- 24 :
- >>14
司馬が学生運動に否定的だったはず。
- 25 :
- >>22
城塞を読んで「家康はいい人」と言う感想を持ったとしたらお前の読解能力はかなり深刻だな。
城塞は徳川幕府と言う権力が正当性を獲得するためにいかにグロテスクな悪行をやらかしたか、
と言う政治劇を描いてるから、家康は悪の権化の扱いなんだけどね。
豊臣公儀の命を悪用した三成(じっさい、秀頼にしてみたらいい迷惑)を討ち、
失敗した豊臣の平和に代わって、徳川の平和を樹立した家康の体制に参入する意思がないということは、
すなわち謀反の意思を公然と表明したも同然。家康はこれを討たなければ政権維持の大義を失うことになる。
司馬もそれは頭では分かってるんだけど、素直になれないんだな。
- 26 :
- だいたいね、膨大な国力を傾けた対外遠征に結果的に失敗した上に、
豊臣家譜代衆の間で対立が深刻化して家康に仲裁を任せてる時点で豊臣政権はもう終わってるんだよ。
自浄能力がないということなんだから。関ヶ原の戦いは豊臣家の内部抗争から勃発した戦争だぜ。
そんな家に天下を維持する能力がないのは明瞭だろうが。
>>23の朝鮮出兵をしてる暇があるなら家康を殺せと言うのは、完全な後知恵。
唐入りが成功した場合、家康は単に小田原合戦後10年しか経ってない関東の統治にかかずり合い、
急激に膨張する豊臣政権譜代の中で埋もれる危険性すらあった。
家康はよく秀吉の意を受けて関東、奥羽の統治に協力し、後顧の憂いを断った功労者と言うべき。
その家康の新領の直近に上杉家を移封するなんてことやらかしてる秀吉のほうがはるかに無神経。
- 27 :
- つまり家康が豊臣政権でのし上がったのは奇策を用いたからでも何でもない。
秀吉の唐入り構想のために関東に移ってまで協力して、大過なく任務を終えてるんだから、
秀吉も含めてドボンした上に内部抗争まで勃発してる豊臣家としては頭が上がるわけがない。
お家の存続の保証を家康に頼らざるを得ない。
なのに、天下無事平穏と言う世論を無視して大坂城で頑張ってるほうが戦国のアナクロニズムなの。
- 28 :
- >>24
高杉晋作、坂本竜馬は学園闘争の闘士たちのアイドル。
「天地静大」を描いて、日米安保闘争の暴力と混乱を批判した山本周五郎と違って、
司馬は暴力主義、革命主義に対しては必ずしも否定的ではない。
1968年は明治維新百周年だが、左の暴力主義が学園闘争の闘士。右の暴力主義が維新マンセー連中だよ。
日米安保で新左翼が大江健三郎を批判して石原を支持したことでも分かるように、
新左翼はむしろ暴力主義肯定の右翼と親和性がある。
- 29 :
- 家康を過度に贔屓するつもりもないし、秀吉を過小評価するつもりもないが、
少なくとも唐入りが失敗し、秀吉が逝去し、幼君が残され、内部抗争まで勃発した時点で豊臣家はそのままでは存続不可能。
ちょうど桜田門外の変、坂下門外の変が勃発した後の江戸幕府が立ち直るのを期待するようなもの。
あと順逆を論ずるならば、秀忠は秀頼の岳父であり、家康は秀吉の実の妹の婿だったわけでな。
豊臣家最大の外戚の恩情に素直に従わない秀頼も問題っちゃ問題だ。
- 30 :
- ついでに言えば大坂の陣でも、司馬は牢人諸将の意見に従えば大坂は徹底抗戦できた
みたいな書きっぷりだが、現実にはそんなことはまったくない。
真田と後藤の対立を司馬は「軍師二人」と言う短編できちんと描いてるからちゃんと知ってる。
徳川方は休戦交渉に際しても一貫して強気で臨んでいる。
妥協案を提示した大坂が折れざるを得なかったのが実情。
- 31 :
- 喧嘩停止とか海賊停止とか惣無事令とか、あるいは禁教令とか、
家康がやってることはほとんど秀吉の国内政策を引き継いでんだけどね
何で家康が秀吉路線を否定したみたいに言われるんだかほんとにナゾだわ
対外政策で言えば家康は三浦按針、ヤン・ヨーステンを顧問として置き、
ノヴァイスパニアとの通商を求めて太平洋を渡航させるなど、秀吉よりずっと開明的に行動している。
- 32 :
- 昔は、「織田がつき羽柴がこねし天下餅……」とかいって別に路線否定とまではいわれてなかったと思うが?
あくまでも「鳴かせてみせよう」と「鳴くまで待とう」のキャラの違いとしてイメージされていた。
ただ、三代目の鎖国政策が家康のイメージに投影されがちというのはあっただろうけど、それはあくまでもあまり詳しくない人のレベル。
- 33 :
- >>29
それを言うなら秀忠は秀吉の義子だし(正室江は秀吉養女)、淀殿の義弟でもある。
だからこそ秀吉歯秀頼を託したのに、秀忠は義弟で甥である秀頼と義姉である淀殿を殺害した。
朝日姫は家康と結婚後1年半で逃げ帰り、間もなく没しているので家康との姻戚関係は解消されている。
親戚だから豊臣は徳川に従わなけれないけないというのならば徳川だってその義務があるということ。
現実に、家康は秀吉生前、秀吉との姻戚関係強化を願っていたくらいだから。
- 34 :
- >>32
「座りしままに食うは徳川」は棚からぼた餅と言う含意。江戸時代末期の落首。
版元が処罰されてるから、肯定的な意味合いじゃなかったのは明らかだよ。
>>33
はっきり言って関ヶ原以降の豊臣家の対応はトゥーリトル、トゥーレイト。
討伐の憂き目にあったのは仕方ないよ。
まず豊臣政権譜代家臣が真っ二つに割れて関ヶ原の大乱を引き起こし、統治能力がないことを露呈した。
戦後処理を行った時点で、天下さまは家康しかなくなったのは明白になったわけだ。
ところが豊臣家は豊臣譜代の大名の仲介を頼みにしていっかな徳川家体制の中に位置づけられようとしない。
普通ならこの時点で討伐の対象になるところを、彼らの仲介やら秀吉遺児への義理やらで延ばし延ばしにしてたわけでしょ。
清正や浅野幸長みたいな仲介者が次々にいなくなった後でもまだ服属を拒み、
前田家を誘ったり、牢人衆を集めたりしてるんだから家康としては放置できないよ。
だいたい、主筋と言っても家康は秀吉の家臣ではない。
かつて家康が、同盟者の家臣に過ぎなかった羽柴秀吉に折れて政権運営に協力したように、
おとなしく徳川の平和に協力すれば、家康としては秀頼を大坂から出す程度がせいぜいだったはず。
現に家康は淀殿の江戸出府の条件で妥協しかけてるんだから。
何で豊臣家だけこんなワガママが許されるのさ。空気よめと言われても仕方ない。
- 35 :
- 大坂の陣だって、本来は強硬手段を取りたい所を、豊臣譜代衆に配慮して延期してただけなんだから。
それなのに牢人衆集めたりしてたらそりゃ討伐されても仕方ない。
方広寺鐘銘事件が言いがかりとみなされてるから家康の陰謀家ぶりが強調されてるけど、
「国家安康」は確かに無神経と言われても仕方ないよ。
はっきり言って大坂の陣を引き起こした責任は、余計な軍事的・政治的策動を繰り返した大坂方にある。
- 36 :
- 結局、大坂は牢人衆召し抱えによって逆に暴走して抑えが効かなくなったんだな。
片桐どころか、夏の陣直前には大野治長まで襲撃されるありさまで、外交的な当事者能力なんて皆無に等しかった。
それと城破りの講和条件に際しても、軍事力の凍結を積極的に志向する徳川方と、戦国的な講和と捉えた豊臣方でギャップがあった。
(総堀の埋め立ては豊臣側も同意した条件)。これは後に福島正則も甘く解釈して改易されている。
家康は国内平和の維持のために徹底した軍事力の凍結を諸大名に要求しているし、
実際に喧嘩停止の徹底などで村落の武装にも干渉している。
- 37 :
- >>35
>主筋と言っても家康は秀吉の家臣ではない
えっ?
徳川家康は豊臣秀吉に臣下の礼を取っているよ
信長とはただの同盟者だったけど
それに家康は秀頼に臣下の礼を求めているよね?
臣下の礼などもとめずただ徳川の同盟者として大阪城から出て
領地替えに応じればRつもりなどなかったなどただの妄想
- 38 :
- >>35
「豊臣を早く滅亡させて!」というのは誰もが願ったことで
徳川家康は必然性から正々堂々と大坂の陣を敷いたというのならば
そもそも鐘銘事件など起こさなくて良かった
徳川家があちこちの大名に粛清かけたように豊臣家を粛清すればいい
実際にはまだ豊臣家が主家と考える大名がいたから理由づけが必要だったんでしょ?
なんくせつけずに「粛清」のほうがまだましだった。
- 39 :
- >>37
「主筋」と「家臣」は違う。
家康は臣下の礼は取ってるが、豊臣家の譜代の家臣とは違う。もともと自立の諸侯。
あと、家康が秀頼に臣下の礼を求めるのはそれと同じ。徳川幕府秩序の中に位置づけられろと言うこと。
当たり前の要求でしょ。それに秀吉と違って家康には秀頼の扱いに対して倫理的な困難がある。
いったんは秀吉政権を支える立場になり、豊臣家を主筋として自分の孫娘まで嫁がせているのだから、
秀頼が徳川体制に入る意思を示しても、殺したとなれば倫理的非難は免れられない。
それ以前に豊臣恩顧の大名が納得しない。
だから家康は秀頼に強硬手段を取れず、伝手を求めて何とか自発的に徳川体制に入ってもらおうとしたわけで。
おそらく秀頼が大坂城を出てたら、家康の一代に限っては豊臣家は身上を保障される。
秀頼が千姫に子を産ませて隠居すればなお安泰。少なくとも御家門以上の扱いにはなる。
- 40 :
- 家康は征夷大将軍任官の時点では秀頼を粛清しようなんて考えてないって。
関ヶ原の後で会見を申し入れて何度も断られてるけど、子供を派遣して関係繋いでるんだし、
千姫だって約束通り輿入れさせてる。
豊臣討伐はその後の展開によるもので、当初から滅ぼそうとなんて思ってない。
その後徳川体制が固まるのに反比例して秀頼が無断任官するわ、出仕もしないわ証人も出さないわ謁見もしないわ、
あげくのはてに前田家を誘ったり、牢人集めて対徳川政策で暴走始めちゃったから
平和的解決を断念して戦争に突入したわけで。
あとね国家安康は失礼よ。一応、家康の諱を避けるくらいの配慮はしないと、叱責食らっても仕方ないよ。
冬の陣の段階だって、家康から仕掛けた戦争ならもっと良いタイミングを選ぶわ。
途中で講和したりせず一気に攻め滅ぼしてるよ。総堀だって大坂方が同意した講和条件だぜ。
- 41 :
- 家康は豊臣家に対して相当配慮してると思うけどなぁ。
冬の陣の段階でも、豊臣家が牢人衆をコントロールできればまだ妥協の余地はあったと思うよ。
牢人衆がどうもダメらしいと見て、家康はあいつらを追っ払うか、自分たちが城を出なさいと言ってるわけで、
豊臣家の運命が決まったのは、牢人衆を召し抱えて北朝鮮化してからだな。先軍政治になっちゃっただろw
そういう意味じゃ、秀頼にとっては牢人衆なんて迷惑な存在でしかなかった。
- 42 :
- >そもそも鐘銘事件など起こさなくて良かった
>徳川家があちこちの大名に粛清かけたように豊臣家を粛清すればいい
>実際にはまだ豊臣家が主家と考える大名がいたから理由づけが必要だったんでしょ?
とんでもない。加藤清正、池田輝政、浅野幸長ら豊臣−徳川間の周旋に当たった大名衆は
鐘銘事件の前に没してるから、大幅に豊臣譜代衆の抵抗勢力は減殺されている。
鐘銘事件ていどで他の大名衆は納得しないよ。出師の大義名分に乏しい。
家康としてはその前から急激に反徳川姿勢を強めていた大坂方を、この事件で呼び出して和戦を決める二者協議に入ったわけ。
ところがその徳川方の主張を持ち帰った手筋の片桐が謀殺されかけて手切れになり、開戦に至ってるわけだ。
このパターンは夏の陣の前の大野治長襲撃とまったく同じ。
- 43 :
- 城塞の頃は老練な家康像なんだからしゃーねーべ。
覇王の家んときもそうだっけ?
- 44 :
- それは人によるな。
戦前でも家康は質素、忍耐、律儀などの側面が強調されておおむね人格者扱い
山本周五郎や山岡荘八は家康好きだしね。司馬のようにダークな人物として描くほうがマイノリティ
まあ、それが60年代の学生運動をやってた人間たちのメンタリティのようだが
- 45 :
- 司馬遷は謀略で金玉切り取られた。
当時の士大夫なら自決するのが普通の屈辱を耐え、その怒りと恨みで史記を書いた。
これは歴史というのは必ず誰かの感情なり、対場を反映した視点がはいってる事のあらわれでもある。
真に客観視した歴史などどこにも無い。
遼太郎はその「視点」が自分の主観で良いんだという事をどこかの時点で気がついたんだと思うよ。
- 46 :
- 以前読んだ史料で大阪の陣の頃は大阪征伐は止むを得ないという空気が大名の間
に漂っていたと書いてあった。
大阪方のかたくなさが不思議。服属さえすれば何らかの形でお家は存続出来たはず。
秀吉自身が織田家を簒奪し天下は強い者が得ていくというのを体現しているのに、
家康が同様の事をしても許せなかったのは何故なんだろう。
- 47 :
- >服属さえすれば何らかの形でお家は存続出来たはず。
大阪はその姿勢を終始貫いてる。
幕府発足以後はただの一大名にすぎないし、将軍である家康に臣従の挨拶もした。
結局、所領が大きすぎた事、関西という日本の要地を押さえていたため
徳川としても何かの名目をつけて討たざるを得なかった。
それにもう一つ、浪人問題もあった。
全国の不平氏族や浪人をまとめて始末するため大阪は利用された。
- 48 :
- それは違うだろ。
まず慶長16年(冬の陣の3年前)の会見は妻の祖父との会見という名目で、幕府秩序への臣従かどうかの位置づけは争いがある。
さらに大坂の陣の前には無断任官、牢人徴募、はては前田家との同盟を模索するなど(…「城塞」の序盤に記されている)
露骨に幕府への敵対姿勢をむき出し始めた。
家康もこの動きを見て開戦に備えていたが、豊臣家が二条城会見で「宿題」であった臣下の礼をはっきり取っていれば、
以後、こんな問題は起きるはずがないし、起こしたとしたらすなわち「謀反」。
牢人問題に関しては、冬の陣で徳川方は不問に付す=罪を問わないと約束している。
しかし大坂方はここで牢人諸将とその軍事力を引き続き温存したまま。
これは、のちに福島正則に対しても一国一城令の徹底を求め、軍事力の凍結を強く求めた家康から見たら、
明らかな違約行為。
大坂方に同情的な解釈をすれば、家康と大坂方には認識ギャップがあった。
家康は文禄慶長から10年間引き続いた内乱・外征を終結させるために軍事力凍結を強く求めたのに対して、
福島や豊臣家は戦国時代的な「城破り」つまり、武力の行使を前提とした一時停戦としてその要求を受け取った。
だから総堀問題や牢人問題で講和条件を破ったと受け止めた家康が態度を硬化させてるんだよ。
>>46
大坂方に同情すべき点があったとすれば、軍事力の中核となる牢人諸将の召し抱えによって、
彼らが対徳川強硬路線を唱えて講和に反対した。
対徳川外交を担当した片桐が追放され、冬の陣の講和を纏めた大野治長が大事な折衝の段階で銃撃されるなど、
大坂はちょうど軍国主義日本のように軍部が独走した状態になり、まともな外交が出来なくなってたんだろう
- 49 :
- たとえば織田有楽斎(長益)は関ヶ原の功労で大和、美濃に父子とも所領を与えられた大名であるが、
冬の陣では父子で大坂に入城して秀頼を助け、和睦斡旋に務めている。
戦況が絶望的になった夏の陣直前までも大坂にあったが、事態は彼の手に負える所でなくなっており、
「許可を得て」城を退去している。
徳川から豊臣に移籍した七手組の青木一重も、冬の陣の講和で徳川方との外交を担当していたが、
京で拘束され、大阪の陣後は出家している。
このように徳川・豊臣間の和睦を取り持とうと懸命な動きがあったにも関わらず、
結局、豊臣家は牢人諸将の暴走もあって生かせなかったんだよな。
司馬は織田長益や青木一重をスパイと決めつけて、やたらに牢人諸将をほめたたえるんだが、
その牢人諸将も譜代の毛利勝永を除いて、後藤、真田らは決して上意に忠実だったとは言えない
- 50 :
- 大野さんも城中で襲われたしね
- 51 :
- >>46
坊やだからさ
- 52 :
- 城塞は「大坂は本気で戦えば徳川に勝てた」と言う大阪人司馬のルサンチマンの塊
- 53 :
- >城塞は「大坂は本気で戦えば徳川に勝てた」と言う大阪人司馬のルサンチマンの塊
本気が出せないように家康は謀略打ってたでしょ。秀頼は最後まで出馬しなかったし。
- 54 :
- 城塞を史実と取り違えてるやつがほんとにいたのか。
- 55 :
- >>53
謀略も何も、秀頼は後にも先にも一度も陣頭指揮してないじゃないか。どこで謀略だと分かるんだ。
お前まさか、秀頼が出馬してたら勝ったとかいう大ガセ信じてるのか。すごい洗脳効果だな
- 56 :
- 大阪民国人は執念深い
- 57 :
- 大坂は最強だ。文句あんのかてめーら。
- 58 :
- 秀頼は肥満で陣頭指揮取れなかった説まであるんだよな…
- 59 :
- 秀頼が天王寺合戦に出馬するのは難しいだろうね。
前日の道明寺合戦で真田信繁は後藤基次救援に時間的に齟齬を来たして失敗してる。
これだけで城内には真田に対する不信感が強まっただろう。牢人諸将間には対立もあったようだしね
しかも、天王寺合戦って実際は一刻半くらいの短時間で終わり、その直後に大坂城が炎上している。
秀頼が天王寺口まで出ている間に、追い詰められた城から内応者が出る可能性がある。
- 60 :
- 慌てて牢人をかき集めたはいいけど、牢人諸将を統制する力が譜代衆になくなってしまった。
もし譜代衆がきちんと統制してたら秀頼出馬もあり得ただろうが…
- 61 :
- 家康の本陣に迫ったと言っても、数万規模の激戦で旗本が混乱したくらいで、
家康が自刃を決意するほどの状況だったかと言えば明らかに創作だな。しかし司馬は創作は全面採用なんだよね
- 62 :
- 家康好き=山本周五郎、山岡荘八=暴力否定、秩序維持、漸進改革、学生運動その他暴力的運動に否定的=戦前の暴力と戦後の暴力の反省
家康嫌い=司馬遼太郎=暴力肯定、「この世には有益な暗殺もある」みたいなことを堂々と書いちゃう
で、60年代〜70年代前半だけは家康を異常に否定する基地外が増えた
しかしいつの世も平和と穏健と秩序維持が好きなので、家康は80年代以降再評価されて今に至る
- 63 :
- と言うか現代の家康再評価は、家康は秩序維持者ではなく、天下泰平を達成し、
かつ秀吉みたいな殴り込みをせずに海外交易を活発に行った明るい男と言う評価なんだけどなw
- 64 :
- 長宗我部、木村らの諸隊が八尾と若江の戦闘で壊滅してるので手持ち戦力がない
- 65 :
- >>1
家康のことを根暗な性格とか決め付けてたのが行け好かなかった。
- 66 :
- >>62 歴史を進めた暗殺は桜田門外事変だけ、と司馬先生は仰っておるじゃろ。
とにかく、徳川260年が日本を貶めたのは事実。
- 67 :
- 司馬は徳川政権は大坂を優遇してくれたと繰り返してるが
- 68 :
- >>66
日本を最大に貶めたのは昭和の敗戦だ
- 69 :
- 利家が死んでも野望をむき出すことなく秀頼の後見をして豊臣を守れば忠臣かもしれんが
形としては御家乗っ取りかつ主人一家を殺害だから好かれるわけがないw
- 70 :
- 家康アンチといえばかくこーぞーじゃねえの
- 71 :
- >>69
家康は秀吉の遺命を忠実に守ってただけなのに
三成はじめ西軍陣営が野心剥き出しで暴走したから制裁した。
大坂の陣は淀殿と秀頼が無能かつアホだったから自滅した。
はい論破。
- 72 :
- >>71
太閤の御置目を守るどころか私的婚姻を進める家康
この時に利家ら四大老で家康をきっちり処断してればよかったw。
利家が死ぬや、お家乗っ取りの障害がなくなり
利長や景勝に帰国を勧めては謀反のでっち上げ
前田は屈服したが上杉は屈服しなかったので戦になった。
(上杉は国替え[加増も]があったので浪人を雇ったり、城の普請は当たり前)
関ヶ原後も主君の秀頼に戦勝を報告してるわけだが
そのまま豊家の家老を続けるような家康ではないねw
いよいよかつての主家を滅亡させる大坂の陣では
家康本陣が崩れ[三河物語]かつての主君の義元と同じ目に
あいそうになったのはご愛嬌w
- 73 :
- >>66
全然事実ではない、江戸幕府は国内の内乱から喧嘩に至るまで武力発動を停止し、
高税率で取った税収をガンガンインフラ整備に回し中期からは驚異的な低税率を実現
おかげで民間に資本が蓄積され産業が発展、幕末には工場制手工業も始まり日本はあっという間に近代化に適応できた
すべて「今後は民衆はむさと殺されることはない」とお触れを出した権現様のおかげ
>>72
きっちり処分したら豊臣政権の大番頭がいなくなって内乱勃発なんですけど?
だから家康をある程度牽制した後は和解したんだろ
- 74 :
- 徳川家康の名前は「イエス・キリスト」
http://ichiba.geocities.jp/gbsg0309/0203/37/252.html
おそらく、駄洒落のつもりだろう。
- 75 :
- 天領では国民負担率は30%以下。世界最低水準のアメリカよりはるかに小さな政府
百姓天国、商人天国、官僚は地獄、いつリストラされるか分からないから賄賂なんてもってのほかと言う世界
- 76 :
- >>73
>中期からは驚異的な低税率を実現
えっ?江戸時代って末期になればなるほど税金足りなくて
庶民に重税課したり武士が内職したりしてたでしょ?
そもそも朝廷や幕府が徴税するのは農民からだけで
商人にはもともと税金が課せられていないから(室町幕府の政策である座だけが特殊だった)
権現様のおかげで工場制手工業が始まったわけでもなんでもない
- 77 :
- 田沼意次
- 78 :
- 天領の農民の幸せな生活
http://www.nishi.or.jp/homepage/siryo/minwa/minwa43.html
- 79 :
- >>76
いや、渡辺崋山は伊豆で「天領の百姓は生活がどえらく楽ちんだから俺らも天領の百姓になりてえよ」
と言ってるのを聞いてあきれたと日記に書いている。天領の百姓の生活はうんと楽だよ
武士は地獄。だって米価がどんどん下がる上に、俸禄は変わらないから内職をせざるを得ない
しかし武士は公務員なので、公務員は超安月給
商人は元々税金が課されていないから、実際の国民負担率はもっと低かった可能性が高い
それは権現さまが軍事力凍結を宣言して喧嘩停止を徹底し、インフラ投資に熱意を注いだ延長線上にあるわな。
- 80 :
- 年貢率は天領の4公6民を標準としていました。将軍のお膝元の関東は関東郡代伊奈氏による独特の農業土木技術により新田を開墾し当初10年間は年貢を免除するなどの優遇政策を行いその間の実効年貢率は1公9民だったと記録が残っています。
(伊奈氏は天領の農民から「神様、仏様、伊奈様」と慕われていました。)「百姓は生かさず殺さず」という言葉は有名で、確かに徳川家の記録に残っていますが、発言したのは大久保長安で、
それを聞いた家康は「百姓は国の宝とんだ心得違いだ」と激怒したとの記録が残っています。明治時代になってから、新政府が自らの政権の優位性を主張するのに江戸時代の百姓は虐げられていたと、
その言葉のみを学校で教えたのが真実だそうです。
- 81 :
- 天領は実効で30%以下、諸藩は60%以上だな。薩摩や会津は70%は取ってるだろ
- 82 :
- 諸藩は参勤交代で大量のムダ金をドブに捨てることを強要されてたから
(会津みたいに、百姓から容赦なく搾り上げた年貢で大枚はたいて大見得張って、
幕府に尻尾振って喜んでる藩も多かっただろうが)、
天領よりも諸藩のほうが武士の生活が豪勢だったわけでもないだろう。
いずれにせよ、北朝鮮の将軍様一族並みの特権階級であったことに変わりはない。
- 83 :
- >>82
天領の武士ってどこの武士だよw
- 84 :
- 1721年→1846年の人口
周防66%増
薩摩62%増
陸奥18%減
東北11%減
関東13%減
中部14%増
近畿6%減
中国21%増
四国27%増
九州14%増
日本史再発見 理系の視点から(朝日選書)
- 85 :
- 天明・天保の飢饉があったので関東と奥羽は大打撃を受けたのは確かだな。
関東奥羽の開発で18世紀の前半までは高度経済成長だけど、その後が頭打ちなので
近畿がなぜ減ってるのかは知らないが。19世紀は気象的に西日本は比較的生産力をキープできたはず
- 86 :
- 司馬の家康は過大過少の前にまずキャラが違いすぎる
温厚な長者を装おうとしても生来の(祖父や父譲りの)癇癪玉みたいな性格が
終生直らなかったという家康が
なぜか感情の起伏のない古狸にw
- 87 :
- >>80
明治政府が徹底して徳川暗黒史観を教え込んだんだよな。それが戦後も続いた。とんだ洗脳だぜ
- 88 :
- こいつのせいで日本が100年は遅れたからな
幕末、明治になって一気にそのつけがきた
- 89 :
- 家康を人格者だとか徳川が神というほうがとんだ洗脳だぜ
- 90 :
- >>86
司馬は、忠輝の説明の際に、徳川の血の中に時折現れる狂気の気質、
みたいなこと書いてて家康にもその気があったことに触れているよ
特に狂気が表に出すぎたのが忠輝とか忠直だが
- 91 :
- 30年前の歴史教科書を見ると、百姓は生かさぬように殺さぬようにとか、
慶安のお触書とか、とにかく徳川が百姓をいびってたことを示す怪文書は何でも教科書に載せていた。
中国共産党も顔負けの捏造教育
- 92 :
- >>89
徳川は神ですが何か?
- 93 :
- >>90
殺戮マシーンの両巨頭・信長、秀吉に比べればカワイイもんだろ。
- 94 :
- 徳川幕府は、その愚民政策で日本を貶めたよな。
あの鎖国・農本主義政策への転換がなければ、絶対主義王政が花開き、
早期に西欧列強に伍して世界を主導、あの昭和の悪夢もなければ、明るい文化が育ち、
今頃は中国・南北朝鮮なんて存在せず、北方領土問題も起こらず、亜細亜に冨み榮え、強い平和な大国が出来ていた。
それと、主に豊臣政権時代の歴史を捏造、日本人の歴史知識を大きく歪めたことは万死に値する。
豊臣家康・羽柴秀忠と名乗らされ、武家家格制度の下、秀吉の完璧な統治・支配に服していたのに、
それを曲げて伝えよった。
- 95 :
- >>94
逆だね。豊臣政権が続いていたらその後の明清交代で確実にちょっかいを出して清と対立関係に入る。
明からたきつけられるから間違いない。江戸幕府ほど厳しく内政不干渉に徹することが出来ない。
あと何より、江戸幕府は軍事力で豊臣政権を滅ぼし、関東に拠点を置いたことで
初期に強力な大名の配置転換とインフラ投資を断行した。結果、関西資本が関東に流入し東日本が飛躍的に成長した
武士が集住する大消費地・江戸が誕生したことで奥羽地方の生産が刺激され、波及効果で豊かになった。
豊臣政権の継続なら、東日本は東日本在地の大名のまま。ロシアの東漸に対して手を打てなかったに決まってる。
- 96 :
- それまで「内陸部の経済後進地帯」だった東日本に大量に資金をつぎ込み、国土の均衡ある発展を可能にし、
内需主導の成長を実現し、東から来る米国・ロシアと言う二大国と通商をするに適した国家を作り上げた
畿内から江戸に前線を進めた功績だけで徳川は偉大だよ
しかも最終的には国民負担率が3割を切るという超低税率国家を実現したわけだから
- 97 :
- 江戸幕府の歴史捏造についてはどう?
- 98 :
- 新井白石・松平定信への賛美は、ほとんど捏造の産物なので、
「清貧や経済萎縮こそ日本を精強へ立ち直らせる」式の妄想を現在でも生んでいるこの両名は、ゴミ箱に捨てたほうが良い。
他は、綱吉は財政を立て直していた、とか萩原重秀(方向は正しいがちょっとインフレしすぎ)・田沼意次(この人は功罪あり)とか、
新井白石(天皇礼賛以外はデフレ強権でむしろ悪政)・松平定信(農村福祉以外は悪政だらけ)より取り上げるべき人間が存在する。
- 99 :
- >>97
始祖家康の業績と豊臣政権からの簒奪過程については確かに捏造はあるが、事実は誤魔化せないから
「評価」で誤魔化してる部分が多く、それほどひどくはない。
水戸学なんて異物が誕生したのは江戸時代なればこそだろう。
- 100 :
- >>99
新井白石と松平定信は業績に詐称多し
両名の業績を信じるなかれ
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