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;゚д゚)<歴史ゲームらしいよΣ(゚Д゚;エーッ!!
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総合能力値の1位が武田信玄なのに納得いかない
- 1 :2013/11/16 〜 最終レス :2018/09/10
- ただの甲斐の田舎大名じゃん
なんで天下人より能力高いんだよ
- 2 :
- あと、謙信が統率1位なのにも納得いかん
ただの北陸の田舎大名じゃん
- 3 :
- バカはR!!
- 4 :
- 天下人ってだれ?
秀吉?
朝鮮侵略して今現代にいたるまで韓日関係の軋轢の原凶じゃねーかよ
- 5 :
- 糞スレ立てんなクズ!
さっさと消え失せろチンカス野郎!!
- 6 :
- 菅沼がくるぞー!
- 7 :
- >>4
チョンはファンタジー史でも語ってろボケ!
- 8 :
- 信州と越後は昔は田舎じゃないよ
現に関東より京に近いし
あと両方温泉出るよ
- 9 :
- 謙信=信玄>味噌>家康>天下
- 10 :
- 菅沼の自演スレ
当然>>1も菅沼
- 11 :
- 昔々 5000年もの間、朝鮮半島は中国の属国でありました。
その間、処女を宗主国に献上し慢性的に半島に女性が不足しました。
なので朝鮮人は代々母親と結婚したり、
実の姉妹や娘を犯す歴史が続いたのです。
加えて中国の歴代王朝は大陸のゴミ箱として朝鮮半島に中国の障害者や
犯罪者を延々と捨て続けました。
こういう数千年以上に及ぶ、近親相姦、大陸の犯罪者・奇形などの
劣等遺伝子を凝縮した民族が朝鮮人なのです。
- 12 :
- >>11
震度4まで読んだ。
- 13 :
- 【朝鮮半島の統治国の歴史】 万年属国チョンwww
紀元前108年〜220年:漢(植民地)
221年〜245年:魏(植民地)
108年〜313年:晋(植民地)
314年〜676年:晋宋梁陳隋唐(属国)
690年〜900年:渤海(属国)
1126年〜1234年:金(属国)
1259年〜1356年:モンゴル(属国)
1392年〜1637年:明(属国)
1637年〜1897年:清(属国)
1897年:下関条約により清の属国から開放される←←←←←←ココ重要
1903年:ロシア朝鮮半島を南下。日本の尽力によりロシアの属国化を回避
1905年〜1945年:日本(保護国、併合)
1945年〜1948年:アメリカ(非独立)
1948年:大韓民国成立(アメリカ軍による朝鮮統治によって国家基盤が形成され成立)
1948年:軍事独裁政権誕生
1948年:済州島4.3事件 3万人虐殺
1950年:朝鮮戦争 400万人殺し合い
1950年:保導連盟事件 30万人虐殺
1951年:国民防衛軍事件 10万人虐殺
1951年:居昌事件 8500人虐殺
1979年:軍出身の大統領政権誕生
1980年:光州事件 600人虐殺
1993年:初の文民政権誕生
1997年:アジア通貨危機・国家財政崩壊によりIMFに土下座
2012年:米韓FTA可決、事実を知った国民は火病デモをするも後の祭り
- 14 :
- >>13
ためになった。
- 15 :
- なんせうんこ漏らした奴が天下統一しちゃってるからな
- 16 :
- 英雄としての秀吉の失敗は朝鮮に侵略したことではなく
成功させられなかったことだな
- 17 :
- 秀吉の最終目標は朝鮮制圧じゃなくて唐入りだったんだからどう考えても朝鮮侵略は失政だろ
- 18 :
- 三方ヶ原で負けたから、統率については信玄>家康で良いかもしれんけどさ
だからってなんで総合能力値まで信玄>家康なんだよ
おかしいだろ ただの甲斐の田舎大名のくせに評価高すぎ
- 19 :
- >>4
元寇を忘れるなよ
先に仕掛けてきたのを忘れるな
- 20 :
- 一回目なんて元は乗り気じゃなかったのに無理やり乗せられて来てみたら敗北。
2回目は流石に気合い入れるもやっぱり敗北で国家転覆の遠因に。
朝鮮と連合すると負けるからな。
- 21 :
- PKは歴オタの最優良オナホでしょーが!
ちゃんと使え。
- 22 :
- やはり能力値MAX200でないシリーズは駄目だな
- 23 :
- いいスレダナー
- 24 :
- 最初にのぶやぼ出た時にやってた大河が武田信玄だったって聞いた
正直手当たり次第に周りに喧嘩売って友好度真っ赤にして包囲されて滅亡とかいう
始めて歴ゲーやる小学生みたいな滅び方した大名があの能力値はない
統率特化くらいでいいと思うわ
- 25 :
- しかし戦争もそれほど強くないという
- 26 :
- 信玄が戦国大名としての経歴やドラマ性を最も持っているからじゃないか
1.父親を追放(親子の無情)
2.他国侵略(領土拡張)
3.治水事業、金山経営(内政)
4.同盟の破棄(知略)
5.孫子の実践(軍略)
6.滅ぼした家の娘を娶る(家臣団形成)
7.京への胸熱(天下統一の夢)etc.
Mr.戦国って感じで
- 27 :
- 毛利といい尼子の爺さんといいやったもん勝ちのまま病死した武将は過大なんだよな
んで大抵跡継ぎに能力共々そのしわ寄せが・・・
- 28 :
- ドラマ性だと秀吉に勝てる奴いないだろ
- 29 :
- 菅沼遼太はアホ
- 30 :
- >>24
史実として考えれば、やむを得ない行為だったと思う
どう見ても甲州が穀倉地帯のはずが無いし、国家が戦争状態では交易なんてことも困難だろう。
運良く、枯れてない金鉱脈が見つかったから良かったようなもので、
状況は大東亜戦争を巻き起こした旧日帝より悪いんじゃないか?
そもそも武田って安芸や若狭にも進出した筈だが、そっちは何をしてたんだろ?
- 31 :
- >>4
応永の外寇でぐぐれ
秀吉よりはるか前に朝鮮は日本を攻めてきていたんだよ
自分のことは棚に上げて秀吉秀吉ってw
- 32 :
- もう天下人である秀吉がオール100でいいよ
- 33 :
- >>30
安芸武田:毛利に滅ぼされる
若狭武田:秀吉に滅ぼされる
- 34 :
- >>32
秀吉が知略トップでいいって言う人いるし統率トップでいいって言う人もいるよね
政治が100だったこともあった
しかし武勇だけはいいとこ80くらいじゃないか?
- 35 :
- . ,、r‐''''''''''''''''ー 、
,r' `' 、
/ ヽ
. / , ヽ
,,' ; ,、、,_ ニニ ,、」、 俺は嫌な思いしてないから
l. :;;;i ´ .._`ー ‐''"....| それに織田豊臣徳川らが糞味噌に叩かれようが俺の知った事ではないわ
l:,;'"`'、, ‐=・-; -・=‐ ;〈 だって全員俺が嫌いな連中だし
. ';i l :::i;;,, ::' ` ̄,:  ̄´ .:゙, 大袈裟に言おうがそいつらが無能でもなんとも思わん
l;゙、',.::l;;;i ゚人,,__,,人:.. l, それは俺の頭の中では信玄公こそ戦国最強の存在だから
l;;;;`‐;;;;;ヽ , __ij..__ 、: l;;;,, つまり日本人なら武田信玄公を崇めるべき
. ,、rイ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ゝ `Zエlフ'´ , !;;;;:'
'.:.:.l ll ;;;;;;;;;;;;;;;;;' ,rニン" ` ̄´´ `ノ;;;;;`-、
:.:.:.| l.l '';;;;;;;;;;;;;;' ,イ l''' l `
:.:.:.:| ','、 ''''''''' , ‐---,ェr'".l.| | |
:.:.:.:| ゙、゙、 `''''''''"",ノ l l .| |
- 36 :
- 見た目からしてドワーフみたいな物だろ。
背が低いという意味じゃなくてwiz的な意味で。
- 37 :
- 信長の野望は史実を元にしたゲームじゃなくて
戦国創作物の主人公達が覇を争うSLGですよ
KOFとかスーパーロボット大戦みたいなものと思う
- 38 :
- 甲斐のクソ田舎から微妙な金山と戦国最強の投石部隊だけを武器に大勢力を築いた
武田信玄公を日本人なら崇め奉るべき。
- 39 :
- . ,、r‐''''''''''''''''ー 、
,r' `' 、
/ ヽ
. / , ヽ
,,' ; ,、、,_ ニニ ,、」、 俺は嫌な思いしてないから
l. :;;;i ´ .._`ー ‐''"....| それに織田豊臣徳川らが糞味噌に叩かれようが俺の知った事ではないわ
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. ';i l :::i;;,, ::' ` ̄,:  ̄´ .:゙, 大袈裟に言おうがそいつらが無能でもなんとも思わん
l;゙、',.::l;;;i ゚人,,__,,人:.. l, それは俺の頭の中では信玄公こそ戦国最強の存在だから
l;;;;`‐;;;;;ヽ , __ij..__ 、: l;;;,, つまり日本人なら武田信玄公を崇めるべき
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:.:.:.:| ゙、゙、 `''''''''"",ノ l l .| | 菅沼 遼太
- 40 :
- 武田信玄
統率:11
武力:8
知略:4
政治:12
家康 秀吉 信長
統率:98 99 100
武力:96 89 100
知略:98 100 99
政治:98 100 99
多数の意見を参考にすると、こんな感じだな
- 41 :
- 信玄堤って有名?だけど、実際のとこどんなもんなの?
- 42 :
- で、あるか
- 43 :
- ○織田対上杉 謙信生前…1万8000程度の寡兵で柴田&織田家オールスター武将4万以上に正面衝突で大勝
謙信死後… 御館の乱やその後の内戦・新発田の乱につけこんで圧倒的大軍&長・神保等地元大名の活躍と調略で能登・加賀・越中を火事場泥棒したのに
越中中部で天正8年から天正10年半ばまで2年も足止めされた挙句土肥・小島・須田などに大苦戦しロクな防備もなかった平城の松倉の枝城にすぎない魚津城攻防で上杉が信濃に
派兵した隙をついて 居留守泥棒的に行ったにもかかわらず大苦戦。松倉の須田に手も足も出ずに苦戦し撃退
新発田は完全に新潟から排除されて下越で包囲され逼塞
連発した内戦による瓦解・信濃5000・越中加賀能登越前飛騨(美濃の諸将も援軍に来てた)55000・下越2000・奥州(?)・上野(20000)
から総兵力8万そこそこで動員兵力5000〜8000そこそこの上杉に信濃長沼で敗北越中中部で苦戦した織田軍
上杉37万石程度(御館の乱や新発田の乱で極端に瓦解)に 伊達・芦名・新発田と共同戦線で9倍の兵力差でもって
2年も越中中部〜魚津・松倉のわずかな区間で進めず立ち往生
金森ら飛騨口部隊も松倉に手も足も出ず 森は長沼攻防に敗北して以来眼前の長沼・仁科方面すら奪回できず
滝川2万は三国峠の戦いで上杉方カラス組奇襲部隊に蹴散らされ敗北 新発田・伊達・蘆名も下越で逼塞
上杉5000〜8000に対して総勢8万そこそこで廻りから総勢で攻め込みまくって勝てなかったのが織田家トップの柴田
武田対織田…
上村合戦…武田の圧勝。東美濃攻防戦…武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方ヶ原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間・平手・滝川・水野・前田兄の大軍2万が敗走、平手・前田兄戦死
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり
長篠の戦い…「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ
ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
○武田と徳川…三方が原の戦いで織田の大軍2万&徳川8000を見事正面衝突で敗走させられる
勝頼時代も大いに苦戦し田中城に手も足も出ず高天神城に大苦戦
○織田と徳川…織田は大軍で寡兵の浅井に苦戦し当時の織田四天王の息子の坂井久蔵戦死。
徳川は寡兵で大軍の朝倉に勝利し、瓦解した織田軍を救って引き分けもで持っていく
秀吉…小牧長久手で家康より遥かに戦下手で織田家で最も無能で伊賀攻めに失敗し信長の勘気蒙り縁を切られそうになるアホ信雄に135000の大軍で挑んで
1万人殺される大敗。その後の攻防も二重堀・蟹江・前田・下市場・松ノ木・浜田・長久保・東駒野・河波・神戸攻防で敗北
二重堀合戦では防衛戦にもかかわらず1000そこそこの信雄勢に奇襲食らって楽田陣から見事に敗走させられる
蟹江・前田・浜田・下市場・長久保・神戸は秀吉方本陣から程近い距離にあるにもかかわらず見事に寡兵の信雄に奪回される
以上をまとめると上杉>>武田>>>>>>>>徳川>>>>>>織田>>>>>>>>>>豊臣
- 44 :
- 豊臣…徳川家に滅ぼされる 信長&織田家…光秀に滅ぼされる 徳川家…天下を取る
武田家…織田・徳川軍に勝ちまくり両家ともに滅亡寸前にまで追い込む
上杉…武田に大勝する。織田を半分以下の兵力で瞬殺し1800人討ち取る
秀吉…織田で最も雑魚な信雄やアホ輝元に10000人&3000人殺される。滝川に伊勢で蹴散らされまくる 本多500に20000の大軍で敗北する
北条…滝川18000を瞬殺し6000人ぶちR
史実の戦績で本多500>>>>>秀吉軍20000(小牧長久手時の後詰妨害の攻防)
織田徳川16000〜17000>>>>>>秀吉軍135000(決戦しかけたら1万人戦死の大敗)
滝川6000〜8000>>>>>>>秀吉軍60000(天正11年の伊勢の攻防、ゲリラ戦で苦しめられまくり7月まで篭城
(3/4柴田→填島書状、滝川事書本多氏論文)柴田・信孝の降伏で勝ち目なく降っただけ)
だから滝川破った氏直は秀吉の20倍くらいの戦闘力はある
信長や秀吉は畿内・美濃に大苦戦。 家康は瞬殺した。その家康は諏訪高島で北条相手に敗走。
秀吉は信雄相手に7.5倍以上の圧倒的兵力で1万人以上ぶち殺された。
氏直は信雄より遥かに勝る家康相手に諏訪高島・乙骨で勝利し、全体でも引き分けした。
秀吉は6万の大軍を伊勢で滝川に蹴散らされまくり大苦戦。北条は三万で滝川18000を瞬殺し6000人討ち取った。
豊臣家は家康に滅ぼされて滅亡
北条家は江戸期も存続。旧臣らは家康配下で重宝され、統治システムも豊臣ではなく北条家の物が受け継がれた
小田原合戦時の陣立書で全国から215000&佐竹結城里見宇都宮ら2万で235000。
北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。秀吉書状で2、3万。兵力比7.5〜11倍もあるんだから勝って当たり前
そんな戦闘で重臣一柳や堀尾の子、前田重臣、平岩弟が戦死し、氏家行継負傷。韮山500に大苦戦し小田原1000程度や忍1000に手も足も出ない。
勝てたのは家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが北条方の兵力が集中した上野・武蔵・下総の諸城落としたおかげ(ちなみに勝ってない。講和開城しただけ)
北条側は主戦派抗戦派割れるなど戦意0で松田大道寺皆川北条氏勝など寝返り・抗戦意思なしで降伏する者ばかりの戦意0の状況
享禄以来年代記によれば豊臣軍は29万。また榊原書状や那須記など50万の大軍。にもかかわらず忍小田原韮山など1000〜500そこそこの拠点も落とせず
兵站維持できるギリギリのところまで追い込まれる
北条>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉
×武田が実力で信長に滅ぼされた
○甲江約定反故にによる武田の戦闘体勢解除につけこんだ圧倒的大軍での騙まし討ちと
タイミングよく起きた浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる
離反の連鎖につけこんだ火事場泥棒
こんな卑怯な手法&幸運があれば誰でも勝てる あんなもん完全にラッキーだっただけ
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無 今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん
本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな
以上をまとめると武田>>>徳川・北条>>>>>>織田>>>>>>>>豊臣
- 45 :
- 事実小田原合戦で235000対34500の普通なら半月くらいで瞬殺されて終わりそうな兵力比で
一柳・堀尾嫡男・前田重臣が戦死するなど苦戦しまくり忍城1000や小田原1000に手も足もでなかったし
秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし
氏直が2倍程度の兵力で瞬殺した滝川(6000そこそこ)に5〜6万で挑んでゲリラ戦で苦しめられ蹴散らされてたし
神流川の戦いはガチンコ決戦だね。
合戦の最中寝返りが出たとか講談にしかないデタラメだし
上野国衆勢はむしろ緒戦で敢闘して氏邦勢を撃退してる
本戦で氏直の偽退却戦術にかかって滝川軍18000のうち6000も戦死し重臣もことごとく死ぬなど
決定的に戦術で負けただけ。ようは実力で勝負がついただけの戦。
あと信長が死んでボロボロになったのではなく
元々弱くてボロボロになっただけ。
森なんか本能寺前ですら四面楚歌状態の上杉に長沼攻防で敗北してるし
信玄横死後、斉藤道三・義龍横死後でも
美濃信濃甲斐遠州は草刈場にならなかったのに
信長横死したら甲斐信濃上野は大混乱で徳川上杉北条の独壇場。
いかに織田が雑魚だったかわかる事例
北条>>>>>織田
秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし
氏直が2倍程度の兵力で瞬殺した滝川(6000そこそこ)に5〜6万で挑んでゲリラ戦で苦しめられ蹴散らされてたし
- 46 :
- 武田軍は東美濃攻防戦や上村合戦で圧倒的大軍の織田に寡兵で大勝
岩村城攻防戦でも援軍全くだせない状況で圧倒的大軍の織田相手に半年近く持ち堪え最後は騙まし討ちでやっと落とされる
武田攻めでも50〜60分の一の兵で城外戦で一門の一人を討ち取り自軍より多くの被害を与え
最低4時間は戦ってたという戦術的大勝をする (ランチェスターの法則でいえば兵力差50〜60倍以上なら被害差も50〜60倍になるはず)
姉川で徳川以下の実力が露見した織田。その徳川を圧倒的勢いで勝ちまくり非常に軽微な被害で壊滅的損害与えたのが武田
よって武田>>>>>徳川>>>>織田
毛利は対織田戦や豊臣戦やら関が原やら圧倒的大軍や国力、鉄砲の豊富な動員にわりに
結局やられまくっただけだからな 織田が唯一兵数に頼らず楽に勝ててるのが毛利や島津といった雑魚大名
よって織田>>>>>島津>>>>毛利 以上をまとめると
武田>>>>>徳川>>>>>織田>>>>>島津>>>>>毛利 これが確定する
それぞれの合戦の戦闘結果から確定事項を抽出
信玄>>>>>家康 三方が原
家康>>>>信長 姉川
謙信>>>>柴田 手取川
謙信>>信玄 川中島
家康>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 84年一杯の直接対決
柴田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 しずが岳
滝川>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 伊勢での攻防
北条氏政、氏規>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 小田原征伐
織田信雄>>>>>秀吉 尾張や伊勢での攻防
北条氏直>>滝川 神流川
秀吉>>>>>>>>>>>>毛利一族 中国戦線
宮部>>>>>>>>>>島津 九州征伐
上杉景勝>>>北条氏照、氏邦 鉢方、八王子の攻防
上杉景勝>北条氏直 天正壬午
仁科>>>信忠 高遠の攻防戦(50〜60倍かそれ以上もの兵力差で織田方の損害の方が多く一門の一人戦死。最低4時間以上戦われる)
信忠≒光秀 二条城の戦い(圧倒的大軍で光秀は寡兵の信忠に何回も押し返された)
島津≒長宗我部 戸次川の戦い(兵力差あるとはいえ壊滅的打撃被った)よって
数的優位があるとはいえ滝川を野戦で見事な偽退却戦術で非常に軽微な被害で大破した上、
豊臣軍23万5千(陣立書だと21万5千だがこれには佐竹宇都宮里見那須結城といった反北条勢が入っていない)
にわずか34500で挑み緒戦の駿河伊豆国境の戦いで大勝し、伊豆韮山でわずか500の兵で豊臣2万を大苦戦させ
武蔵忍城では1000の兵で豊臣30000の包囲を受けながら結局落とされずわずか1000がこもっただけの本城小田原に手も足も
出させず4カ月も粘り、豊臣方兵站が壊滅する寸前という窮地に追いやり、かなり余力を残した状態で降伏した北条氏直
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
圧倒的大軍で滝川に大苦戦する秀吉の先遣隊の中の先遣隊に寡兵でやられまくった島津
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>圧倒的大軍持ちながら寡兵で送りこまれた秀吉軍にいいところなく
やられまくった毛利
- 47 :
- これらをもとに能力をつける
天下人の家臣団
政治 統率 知略
家康 110 114 108
本多 77 105 80
酒井 87 95 93
井伊 85 94 93
榊原 50 94 70
大久保 47 83 76
氏康 120 105 108
氏政 96 83 84
政宗 107 97 96
盛氏 86 99 95
元就 96 107 120
小笠原 73 78 60
依田 47 82 86
大須賀 58 82 64
天下人を苦しめた武田家臣団
信玄 97 110 96
馬場 80 93 79
山県 70 99 74
香坂 78 96 85
内藤 79 88 85
秋山 58 85 83
仁科 60 88 69
そのライバル上杉
謙信 87 120 76
景勝 83 100 86
本庄 70 99 59
斉藤 82 93 85
柿崎 30 97 12
須田 78 82 85
山浦 50 86 70
天下人の踏み台にされた雑魚共
政治 統率 知略
信長(笑) 90 71 86
秀吉(大 爆 笑)89 13 89
光秀 85 79 80
滝川 70 77 83
柴田 60 83 52
贔屓目にみてもこんなもん
他の連中はこれ以下のカス
織田厨の大好きな
信忠(笑) 50 28 30
蒲生(笑) 60 55 68
丹羽(笑) 70 15 67
- 48 :
- ※秀吉失態集※
・播磨で別所や播磨国衆の裏切りで窮地に陥り信長の助けを求める
・三木城攻略に2年も費やし、当時竹中重治と双璧といわれた谷を戦死させる
・ 熊見川で宇喜多、大友、南条、河野等にボロクソに負ける雑魚毛利にボロクソに負ける
・ 美作で宇喜多軍と協力しての軍事行動で穂井田元清に駆逐される
・防己尾城攻防で吉岡定勝に馬印を奪われる
・毛利を一人で攻め切れず援軍を信長に必死で懇願する
・倍以上の兵力を持ってして丹波平定に苦戦しまくる光秀と戦い、 光秀軍よりも多い損害を被る
(しかも光秀は山崎を守るための不利な布陣を強いられていた。ランチェスターの
法則でいえば倍の兵力なら相手の25%か50%の損害でなければおかしい )
・撤退中の柴田勝政や佐久間盛政を大軍で後ろから襲って反撃され、逆に撃退される
・大きな兵力差がありながら前田が兵をひくまで少数の柴田軍と野戦で均衡状態
前田が兵を引いてなんとか助けられる
・伊勢方面で寡兵の滝川一益に大苦戦。兵糧攻めも通用せず散々苦しめられる
・わずか16000〜17000ほどの信雄・家康に領国中の兵100000程かき集めて柵もめぐらされていない
無防備な陣の小牧山も全く攻められず短期決戦挑んでボロ負けし家康軍の5倍の被害を出し
池田親子・森長可・木下兄弟を討ち取られる
・20000の大軍で本多忠勝500に行軍を妨害される
・ごくわずかな兵しかいない木造具政・具康父子の戸木城を大軍で攻撃して撃退される
・ごくわずかな兵しかいない松の木城や松ヶ島城に2〜3万で攻めて散々手こずる
・圧倒的兵力差がありながらわずかな兵しかいない竹ヶ鼻城、紀伊太田城、忍城を
正攻法で瞬殺できず水攻めという時間や金を異常に無駄に使いしかも
雨が降らなかったら失敗していたであろう不確実な愚策を使ってやっと落とす
・せっかく滝川一益が佐久間正勝の留守をつき前田与十郎を寝返らせて蟹江その他数城を奪い、
家康と信雄の領土を分断するという大チャンスをつくったのにもかかわらず、
なぜか木曽川筋でダラダラ陣を張り織田徳川方に滝川を駆逐されてしまう
・紀州口でも大苦戦。散々な死者を出す
・圧倒的兵力差がありながら九州征伐で仙石・長曾我部勢を先行させるという愚策を講じ見事大敗する
・圧倒的国力差がありながら家康を臣従させるため母と妹を人質に出すという失態をおかす
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条を瞬殺できず
緒戦の伊豆駿河国境の戦いでボロ負けする
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条に対し まともに倒せず
手薄な支城を攻めるのが手一杯で兵站を維持できるぎりぎりの所まで
追い込まれる(降伏時も北条はかなり余力残した状態)
・わずか500しか兵がいない伊豆韮山城を3万で攻めて3か月近く手間取り、重臣一柳直末を戦死させる
・わずか300程度の伊豆山中城攻防戦で重臣始め大多数の被害を出し大苦戦する
・わずか1000ほどしか兵がいない忍城を3万で攻めて落とせない
・わずか1000程度の小田原城に手も足も出ない
・秀次、その侍女一族や千利休を殺し人望を失う
・占領できもしないのに二度にわたる朝鮮出兵という愚行をなし案の定ボロ負けし、
国内を大いに疲弊させる
- 49 :
- 圧倒的兵力差があったし敵対者の対立を利用してん寝返らせて勝ってるだけ。
別に有利な状況も秀吉が実力で作ったわけじゃない。
織田家が当主の能力や運、状況に恵まれ拡張でき秀吉はあくまでその中の枠内で歯車のひとつとして働いていたにすぎない。
本能寺時点で大きな勢力持っていたのもひとえに織田が拡張したからであってその中で秀吉が果たした役割は
初期ではほんのわずか。後期でもあくまで軍司令官の一人、つまり一部分。
そこで光秀が運よく信長を討って逆賊の汚名も被ってくれたから逆賊打つという格好の名分を
おいしく頂いた。上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけ。
そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。
11月13日秀吉→伊木、池田・荒尾書状
これって「秀吉の主観による信雄の心中予測」ってだけ
実際秀吉の予定とは全く別
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
本当に(ry
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており
現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
- 50 :
- ○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人
4/10家康書状一万人
4/11家康書状一万人
4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人
5/7織田信純書状一万人
家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り
イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人
当代記2万人
池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太
また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる
3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが
文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに
家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ
- 51 :
- ●二重掘合戦で大敗し、楽田陣から敗走した秀吉w
細川家記
3月27日秀吉一に25日、秀吉公犬山に入り、楽田・羽黒辺まて諸大将衆はかり召し連れられ、
仕寄の下知など仰せ付けられ先つ小牧山に対し向城を高く構え、堀を二重に深くほり、柵を堅く結び
井楼を上させられる、是を二重掘の要害といい、この外岩崎山・小松寺山・青塚内窪山等の付城勢を
分ヶ守らせらる…(省略)
秀吉公二重掘に附城三ヶ所仰せ付けられ、忠興君を初大将数多くして守らせられ、
小松山寺を本陣とし、用心厳しくして合戦を持て数日対陣有り、二重掘には細川与一朗・蒲生忠三朗
堀久太郎…(省略)
五月遡日、信雄小牧山より見て一あてせんと有しを、家康公御無用とおおせられ、ぜひにと有りて御立候間、
家康公御家人を召され、尾張勢定立らるへし、もり返す用心せよと仰せられ候、信雄の勢は木村・長谷川等の手に食い付き、
芝手の中まてかけこみ、両手の軍士散々に敗走いたし候、忠興君御手廻討に走出られ、芝手の上に御揚り御下知、…(略)
長久手にて3大将討ち死に、秀次利を失われ、二重掘にても既に味方追崩され、秀吉公御気色悪かりしに、忠興君御手にて敵を
追い返し、勢ひつくのみならず、…
徳川家の軍勢小牧山より打ち出て二重掘の前に一戦せんと備ふ、秀吉公下知には敵馬を入れ来らは成へき程折敷て防くこと、…
二重掘の神子田半左え門一戦にも及ばず敗走す、寄手是を追討…神子田、太閤の御勘気を蒙ると云々…
二重掘の軍勢周章して伍を乱す、信雄兵其の気に乗じて攻撃多く首級を得たり、
秀吉の三大デタラメ
○秀吉は城攻めがうまい→デタラメ。松ノ木・三木・戸木・長久保・韮山・鳥取など大苦戦
圧倒的資金力と人心掌握と大規模軍隊が必要な水攻めや兵糧攻めや降伏勧告で楽に勝ってるだけ
○秀吉の一夜城→一次資料にない太閤記のデタラメ
○秀吉の中国大返し→事前に兵糧・街道確保など準備してたからできただけ
上方の圧倒的国力・先進的装備&135000もの圧倒的大軍の豊臣軍が
わずか22000程度で寝返り続出中で木造の傀儡状態で基盤ガタガタの信雄相手に大敗!!! 敗戦!!!!
ってまるで漫画だな。
アホすぎる
さすが戦国最強豊臣軍
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
- 52 :
- 秀吉が天下取れたのは単に棚ボタでしょ。そもそも天下など取っておらずあっけなく徳川に秒殺されるわけだが。
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して大きく勢力拡張。山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入で
ぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多く
あつまっただけ。毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
- 53 :
- 豊臣家が滅亡したのは、秀吉が広大な版図持ちながら自力ではどこにも勝てず上杉佐竹毛利長宗我部木曽小笠原真田石川水野十河河野大友龍造寺前田
柴田勝豊金森不破信雄宇喜多など諸大名に土下座しまくって力を借りて漁夫の利を得ただけの見せ掛け政権だったおかげ。
所詮自力で取った天下じゃないのであっさり徳川に敗戦し潰されたのが史実
単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし
北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり陥落したが本城は余力ありまくりの状態での降伏だった。
逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
7倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
あんな糞作戦立てた秀吉の完敗だろ
わずか20町ほどの距離にある自軍の6分の一以下の家康軍に対してあの醜態晒して
責任を池田森らに押し付けるとか基地外だな
100パーセント秀吉の戦術的大敗だろうが
6倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから
戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上上手だろーな
秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな
目付け役で堀・長谷川も加わってるしさすがに別働隊だから秀吉の責任じゃないとか全くそれは言い訳にならん
お前らの論理だと秀吉は相手と近距離で直接戦闘をした経験はほとんどなく
ある程度距離がある味方に指令だすのが中心だったからわずか20町ほどの距離での
家康との対陣での敗北を秀吉の責任じゃないというなら秀吉が勝った戦もほとんど秀吉の功じゃなくなるな
- 54 :
- 上方の圧倒的国力・先進的装備&135000もの圧倒的大軍の豊臣軍が
わずか22000程度で寝返り続出中で木造の傀儡状態で基盤ガタガタの信雄相手に大敗!!! 敗戦!!!!
ってまるで漫画だな。
アホすぎる さすが戦国最強豊臣軍
秀吉が過大評価されるのは徳川時代の講談とプロバガンダの影響だろ。 一時的に政権持ってただけの奴を天下人だわなんだわと奉るからこうなった。
実際公家とかが名目上諸大名を従わせてるのと同じで天下なぞ取っていない
秀吉は対柴田戦時自領600万石に加え宇喜多、毛利、上杉、信雄も味方で稲葉、勝豊、前田も味方につけられた。
この状況で前田が兵を引くまで均衡を崩せず、しかも撤退中の佐久間盛政や柴田勝政を背後から大軍で襲撃して逆に撃退されるってどんだけ戦下手なんだよと。
秀吉はヘタレ毛利が上月を攻め落とし織田軍を蹴散らしたのに 安芸からの兵站の長さを理由に退却する雑魚っぷりを披露し毛利つかえねぇwwwwとみた南条・宇喜多が離反し
毛利は数倍の国力がありながらこいつらに大苦戦。その隙に織田方は兵糧切れの三木・同じく織田方に裏切ろうとした山名が米を売るなど物資貧困状態の鳥取などを火事場泥棒
この頃毛利は宇喜多に数倍の国力差がありながら加茂崩れ・辛川合戦で大敗するなど苦戦しまくり翻弄されまくり備前はおろか備中・美作でも劣勢だった
この窮地を救ったのが鳥取を火事場泥棒した秀吉が宇喜多方に歩調を合わせ参戦してきた事で
宇喜多は戦闘ゴミレベルの秀吉のせいで忍山・祝山攻防などで大敗し窮地に陥る
備中高松の時も、秀吉は宇喜多単体に翻弄されまくっていた毛利に対し「うわwwwこえぇwwww」と
膨大な金銭や人員や時間を犠牲にし雨が降らなければ失敗していたであろう水攻めという博打に打って出るが
気概0のヘタレ毛利にはこの策が功を挺し廻りが離反だらけで劣勢な中、単独で宇喜多・羽柴を撃退するなど功を上げていた清水宗治を見事に見捨て、高松は落城。 運がよかったな
信長の力を見抜き土下座外交を必死でした北条氏政が秀吉に従わなかったのは
秀吉の力のなさを見抜いてたからだろうな
運悪く周辺諸大名があっさり秀吉になびいてしまったが秀吉の天下がなあなあで形だけのものだった事は
秀吉が死んだだけで脆く崩れ去った事で裏打ちされてる
氏政は十分先見性のある武将だろう
秀吉の力を見誤ったんじゃなくて家康と伊達などの動向を見誤っただけ。
ぶっちゃけ秀吉の天下は圧倒的国力差と敵対勢力が別に抱えてた多くの敵を利用して
運だけで取ったようなもん。
実力でいえば相当無能な部類だと思う。関東でいえば小山、小田あたりにも負けそう
秀吉は元々あった対立関係利用して漁夫の利得ただけ。 中身のないゴミ政権だからすぐにボロが露呈した。
信長に従い土下座外交してた氏政が秀吉に従わなかったのも秀吉の実力のなさを見抜いてたからだろうな
本能寺時点でも光秀が運良く信長を打ち逆賊の汚名被り毛利も運良く追撃せず
柴田戦でも運良く勝家が雪で動けないのを利用し勝家と勝豊の運よく不仲なのを利用し寝返らせ
運良く権力基盤が弱い信孝を攻め運良く稲葉を寝返らせてへタレ前田が運よく軍を引きやっと勝てただけ
- 55 :
- 史料総覧 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
萩藩閥閲録
晋叟寺文書
毛利家日記
[参考]備前軍記
[参考]浦上宇喜多両家記
[参考]陰徳太平記
[参考]御答書
[参考]總見記
[参考]柏崎物語
【管理番号】020100216456
【編/冊/頁】10編911冊179頁
【綱文和暦】天正6年6月21日(15780060210) 3条
【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書
天正6年8/21
今度播州上月之城従芸州被催候処、
自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、
成田五郎左衛門尉秀綱(花押)
晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八
敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、
輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門
桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候
天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿
輝元 御判
天正10年5/4小早川→冷民少
如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉
去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉
去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉
去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状
一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉
態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元
去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、
…中略 昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
- 56 :
- 秀吉が広範な版図支配下においたといっても所詮一時期だけだしなぁ
所詮徳川に木っ端微塵にされて滅亡した雑魚でしかない。
小牧長久手は3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした 『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる 六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。
この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じておりその後も三河への侵攻計画を表明している。
8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
- 57 :
- 織田が死なせた武将達一覧
赤瀬清六、佐々隼人正、千秋四郎、山口取手介、
土方彦三郎、織田信益、岩室長門守、梶川平左衛門、山県源内、
宇野弥七、朝日孫八郎、波多野弥三、近松豊前、神戸伯耆、
神戸市介、野村越中、森可成、織田九郎信治、青地茂綱、
尾藤源内、尾藤又八、道家清十郎、道家助十郎、織田信興、
坂井政尚、浦野源八親子、氏家ト全、平手汎秀、長谷川橋介、
佐脇藤八、山口飛騨、加藤弥三郎、林新次郎、賀藤次郎左衛門、
前波吉継、織田信広、織田秀成、織田信成、織田仙丸、
織田又六郎、織田信次、織田信方、織田信直、織田久三郎、
織田清長、原田直政、塙喜三郎、塙小七郎、蓑浦無右衛門、
丹羽小四郎、万見重元、織田信家、真鍋七五三兵衛、沼野伊賀、
沼野伝内、野口、小畑、宮崎鎌大夫、宮崎鹿目介、
矢代勝介、伴太郎左衛門、伴正林、
村田吉五、森乱丸、森力丸、森坊丸、小河愛平、
高橋虎松、金森義入、菅屋角蔵、魚住勝七、武田喜太郎、
大塚又一郎、狩野叉九郎、薄田与五郎、今川孫二郎、落合小八郎、
伊藤彦作、久々利亀、種田亀、山口弥太郎、飯河宮松、
祖父江孫、柏原鍋兄弟、針阿弥、平尾久助、大塚孫三、
湯浅甚介、小倉松寿、湯浅甚助、小倉松寿、津田又十郎、
津田源三郎、津田勘七、津田九郎二郎、津田小藤次、菅屋九右衛門、
菅屋勝次郎、猪子兵介、村井春長軒、村井清次、村井作右衛門、
服部小藤太、永井新太郎、野々村三十郎、篠川兵庫頭、下石彦右衛門、
下方弥三郎、春日源八郎、団平八、桜木伝七、寺田善右衛門、
塙伝三郎、種村彦次郎、毛利新介、毛利岩、斎藤新五、
坂井越中、赤座七郎右衛門、桑原助六、桑原九蔵、逆川甚五郎、
山口小弁、河野善四郎、村瀬虎、佐々清蔵、福富平左衛門、
小沢六郎三郎、土方次郎兵衛、石田孫左衛門、宮田彦次郎、浅井清蔵、
高橋藤、小河源四郎、神戸二郎作、大脇喜八、犬飼孫三、
石黒彦二郎、越智小十郎、平野新左衛門、平野勘右衛門、水野宗介、
井上又蔵、松野平介、飯尾毛介、賀藤辰、山口半四郎、
竹中彦八郎、河崎与介、村井新右衛門、服部六兵衛、水野九蔵
- 58 :
- 氏康は今川、武田、両上杉、長尾、里見、佐竹、結城、
宇都宮、梁田、那須、小山、太田
その他大勢の関東諸侯に打ち勝ち、関東を手中にした。
信長は、浅井朝倉武田斉藤本願寺長島一揆雑賀衆北畠赤井等に敗戦し続け、家を滅ぼした。
氏康>>>>>>>信長
信長や秀吉は畿内や美濃に大苦戦し生涯を終えた。
家康は武田に苦戦したが畿内や美濃は瞬殺した。
武田>>>>家康>>>>>>>>>>>>>>>>雑魚織田
信長は山県、馬場、家康より弱い。
信玄は山県、馬場、家康よりずっと強い。
謙信は信玄より強い。
謙信>>信玄>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>信長
- 59 :
- 武田戦では滝川平手佐久間水野はおろか徳川軍崩壊を見殺しにし
浅井朝倉戦や本願寺戦では原田森とか坂井正尚・久蔵とか平手とか氏家とか重臣クラスでも信長のアホな戦でかなり死んでるしそのおかげで
上がいなくなって抜擢されて有名になっただけなのが柴田明智羽柴滝川。坂本・宇佐山に置かれなくて運がよかったな
その与力の織田信治とか青地・尾藤源内・尾藤又八・道家清十郎・助十郎も戦死
坂井と一緒に安藤・桑原・甲斐守・浦野、氏家と一緒に種田・一柳
林秀貞の嫡子の新次郎、与力加藤
小口城の合戦で信長の側近岩室三方が原の合戦で加藤長谷川山口佐脇玉越
大量に戦死してる
しかも天正8年に一番の功臣佐久間信盛や安藤やら水野を粛清しだし
家臣達に反感を買い、光秀に殺されるヘタレぶりw
織田徳川の大軍に対して行われた三河遠州侵攻作戦とか三方が原、長篠の戦いなんて武田が少ない兵力で侵攻しまくってるし対北条今川戦でも武田が侵攻側で
大国今川北条が防衛側だが北条今川相手に勝ちまくってるし信濃・上野の山間の天嶮によって割拠するガチンコ山城を攻撃側としては少ない兵力で落としまくってるからな
長篠の戦いも「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ
ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
以上のように織田徳川を寡兵で圧倒しまくってるし圧倒的に戦上手な部隊としかいいようがない
秀吉は防御戦でも醜態さらしてるからね
二重堀合戦では1000そこそこの信雄勢に奇襲食らって楽田陣から見事に敗走させられてるし
熊見川の戦いは上月城の防衛を目的に行われた防御戦だったが見事に失敗して3000人も殺されてるし上月城・神吉城も奪回されて尼子勢をはじめ大量に戦死者出してる
つか山崎合戦とかも光秀方から仕掛けた戦だし陣地も光秀は朝廷を守るため天王山の陣取りを捨てて不利な形で布陣したわけだし防衛戦じゃない。
しずヶ岳だって勝家が攻撃してた中川の拠点守るため出兵しただけだし普通に防御戦だろ。勝家の方から攻めかかってきただけだし秀吉は撤退途中の勝政・盛政を背後から圧倒的大軍で強襲したら
逆襲くらって不破・前田・金森らが兵をひくまで結局均衡くずせない始末だし
- 60 :
- 信長の勝ち戦なんて講談がほとんどだしなぁ
桶狭間も一次資料にないデタラメだしその軍記内ですらたまたま先陣と思っていった先が本陣で
たまたま偶発的に都合いいタイミングで雨や風が吹いて勝てただけだし
甲斐は18万石&例年のように飢饉
信濃は40万石近い上にキツイ城ランキングトップクラスが立ち並ぶ天嶮
おまけに山之内上杉は上野49万石長尾も越後37万石
あと山之内上杉が本格的に弱体化するのは天文17年以降でそれまでは上野にしっかり地盤を残し氏康にも抗戦している
あと斉藤が60万石とかデタラメもいい所
斉藤は幼君で分裂状態・稲葉山乗っ取り事件に代表されるようめちゃめちゃに弱りきってた上
信長が攻めていくと抗戦もせず降伏するものばかりだったし実高でいえば10数万石くらいだろ
おまけに浅井やら甲賀衆やらが援軍で送られてくるし
織田がやった戦なんて火事場泥棒しかねーじゃん
美濃を斉藤の幼君&混乱&分裂で寝返りばかりなのを火事場泥棒したら負けまくり
動乱でぐちゃぐちゃになった畿内を浅井や徳川や足利義昭の力を頼って火事場泥棒したはいいが
その後信玄に負けまくり滅亡寸前
伊勢でも分裂状態の北畠を無理矢理乗っ取ったりしたしたはいいが大河内城や長島一揆に負けまくり
しまいには御館の乱や新発田の乱で極度まで疲弊した上杉を45000の大軍&神保・佐々・長など地元諸侯派遣しまくり
火事場泥棒しようとしたら越中中部〜魚津・松倉の短い区間で天正8年から2年も立ち往生するなど大苦戦。
まともにガチンコで切り取った土地なんかねーだろ
- 61 :
- 信長や秀吉は畿内・美濃に大苦戦。
家康は瞬殺した。
その家康は諏訪高島で北条相手に敗走。
秀吉は信雄相手に7倍以上の圧倒的兵力で1万人以上ぶち殺された。
氏直は信雄より遥かに勝る家康相手に諏訪高島・乙骨で勝利し、全体でも引き分けした。
秀吉は6万の大軍を伊勢で滝川に蹴散らされまくり大苦戦。
北条は滝川を瞬殺した。
豊臣家は家康に滅ぼされて滅亡
北条家は江戸期も存続。旧臣らは家康配下で重宝され、統治システムも豊臣ではなく北条家の物が受け継がれた
小田原合戦時の陣立書で全国から215000も動因してる上にこれに佐竹結城里見宇都宮など反北条軍2万
が加わるから235000。
それに対し北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。
秀吉書状で2、3万。
兵力比7.5〜11倍もあるんだから勝って当たり前
そんな戦闘で一柳や堀尾の子、前田重臣が戦死し、氏家行継負傷。韮山500に大苦戦し
小田原1000程度や忍1000に手も足も出なかったのが秀吉。
はっきりいって勝てたのは家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが味方だったおかげ。
しかも北条側は主戦派抗戦派割れるなど戦意0で松田大道寺皆川北条氏勝など寝返り・抗戦意思なしで降伏する者ばかりの戦意0の状況
北条>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉
小田原合戦時の陣立書で全国から215000も動因してる上にこれに佐竹結城里見宇都宮など反北条軍2万
が加わるから235000。
それに対し北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。
秀吉書状で2、3万。
兵力比7.5〜11倍もあるんだから勝って当たり前
そんな戦闘で一柳や堀尾の子、前田重臣が戦死し、氏家行継負傷。韮山500に大苦戦し
小田原1000程度や忍1000に手も足も出なかったのが秀吉。
はっきりいって勝てたのは家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが味方だったおかげ。
しかも北条側は主戦派抗戦派割れるなど戦意0で松田大道寺皆川北条氏勝など寝返り・抗戦意思なしで降伏する者ばかりの戦意0の状況
北条>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉
享禄以来年代記によれば豊臣軍は29万。また榊原書状や那須記など50万の大軍。
にもかかわらず忍小田原韮山など1000〜500そこそこの拠点も落とせず
兵站維持できるギリギリのところまで追い込まれた雑魚豊臣軍
秀吉は伊勢で滝川に蹴散らされまくる(3/4柴田→填島書状、滝川事書本多氏論文)
北条は滝川を瞬殺。6000戦死の壊滅的大勝
豊臣家は家康に滅ぼされて滅亡
北条家が江戸期も存続
北条>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉
- 62 :
- 1571 常陸岩井合戦 北条vs佐竹 分け
1573 下野多功原合戦 北条vs佐竹 佐竹勝利
1576 常陸下妻合戦 北条vs佐竹 佐竹勝利
1578 常陸小川台合戦 北条vs佐竹 分け
1581 下野佐野合戦 北条vs佐竹 佐竹勝利
1584 下野沼尻合戦 北条vs佐竹 分け
佐竹義重>>>>>>>北条一族
まあ、織田を代表する滝川軍も上野攻略では北条に大敗して逃げ帰っているがな。
- 63 :
- 信玄は家臣団を統率できてたのと三方ヶ原の戦いの大勝でイメージができてる感じ
- 64 :
- >>4
チョン
フルボッコ涙目逃走でワロタwww
早く祖国に帰れよwwww
- 65 :
- >>1571 常陸岩井合戦 北条vs佐竹 分け
関八州古戦録にしかない捏造合戦。その年の北条の軍事行動は北武蔵〜上野南部が中心で常陸など全く攻めていない。1
>>1573 下野多功原合戦 北条vs佐竹 佐竹勝利
まともなソースは謙信書状くらい。北条は関宿城・水海城、北武蔵羽生城、深谷城などの攻略を継続して行い
佐野(下野)などほとんど攻めてない。
>>1576 常陸下妻合戦 北条vs佐竹 佐竹勝利
この年も上杉謙信の関東出兵や、北条の下野榎本・小山、上総の里見領への侵攻が中心で
常陸などほとんど攻めてない。
>>1578 常陸小川台合戦 北条vs佐竹 分け
これは一応史料にある。だが佐竹は結城小山宇都宮那須や白川結城石川相馬葦名など大連合を抱えており
北条側としても迂闊に手が出せなかっただけ。
>>1581 下野佐野合戦 北条vs佐竹 佐竹勝利
これは史料に一切ない捏造合戦。
武田勝頼や佐竹結城宇都宮那須皆川佐野水谷壬生ら大軍と対峙する北条軍が
下野内陸部にあたる佐野など攻められるはずがない(つか佐野より大分南部にあたる榎本や小山ですら、佐竹らの侵攻にさらされてた。)
>>1584 下野沼尻合戦 北条vs佐竹 分け
これは史料にある。だが北条の敵対勢力はかなり強大で、北上野の真田や東上野の由良長尾に加え佐竹結城宇都宮那須壬生皆川佐野大田原に
南奥州の石川相馬白川結城葦名田村など大連合が加わってたから北条としても手を出すのは無理。
- 66 :
- >>65
1571年 常陸岩井合戦
芦名・白河結城連合と南陸奥ににらみ合っている最中に南から侵略する氏照の
5,000に後を追って鬼怒川まで迫っていたとされる氏政の15,000との戦い。
北条軍進軍の報告を受けると、直に止々斎と和睦し援軍に向う。
氏照が取り囲んでいた落城寸前の下妻城に着くや、自ら率い北条軍に突撃し
7人を叩き切り北条軍を撃退。本軍と戦わない事から分けとされるが、その恐ろしさ
から鬼義重と言わしめた戦い。
1573年 下野多功原合
宇都宮から援軍を受けた義重は先鋒氏照・氏邦、 本陣氏政の約20,000の大軍に
対し、義重・義久5,000に太田・真壁の700で対戦するものの圧勝。
有り得ない大敗に、その恐ろしさから氏政が一人馬に乗り小田原に逃げてしまった
とされる戦い。
- 67 :
- >>65
おい、東国武将興亡録を知らんのか?
1571年 元龜2年
〃 〃 5月22日 相模国小田原城主北條氏政は陸奥国の葦名盛氏、田村清顯、白河義親等と同盟し常陸国の佐竹義重を挟撃せんと謀り、
弟の北條氏照、北條氏邦らと倶に下総国に発向し、途中、葛飾郡の関宿城主簗田晴助の出迎えを受け、結城郡結城城主結城晴朝と示し合わせて
結城郡の山川城に着陣し鬼怒川を隔てて佐竹勢と対陣す。陸奥国の南郷に出陣中の佐竹義重は其の陣を引拂って下野国の宇都宮に退陣し漸らく
滞在して兵を集め、更に南進して下野国河内郡の上之川に到着し、部將小野崎義昌や東義久らを遊軍として筑波山麓の小貝川辺に布陣させて
下妻城主多賀谷政経の加勢を成さしむる。
〃 〃 5月25日 佐竹義重は
茂木上総介父子等を率いて下総国猿島郡の岩井村に屯する北條氏政の本陣を夜襲し北條氏照らと戰う。
小田原勢は鬼怒川を上下から渡河して真壁郡下妻城主多賀谷政経を南方から攻め、多賀谷政経は小島に伏兵を置きて之れを迎へ撃って戰い、
北條氏照、結城晴朝、簗田晴朝らは古沢村に押し寄せて下妻勢を破り下妻城を攻める。多賀谷政経は偽りの降伏を申し出て小田原勢のひるむ間に
城の大手、搦手の両門より打って出て小田原軍を破る。
- 68 :
- 攻め時を見極めるのも才能じゃないの?信長さんの長篠戦
詳しくは知らんけど
- 69 :
- 1572年 元龜3年 1月 北條氏政が武藏国の軍役を定める。
〃 〃 3月 常陸国真壁郡下妻城主多賀谷政経が小田原の北條氏政と和平す。
〃 〃 5月22日 北條氏政が大形郷仁江戸に於て多賀谷政経と戰ったが大敗北を成す。
〃 〃 6月 佐竹義重は那須資胤の・・・再家の講和が成立す。
〃 〃 7月 佐竹義重は陸奥国の寺山に於て白河義親や葦名盛氏らを破る。
〃 〃 12月26日 佐竹義重、那須資胤、小山高朝、結城晴朝、田村清顯等が小田原方の
下野国皆川城主皆川山城守廣照を攻める。
〃 〃 12月29日 小田原城主北條氏政が下総国葛飾郡関宿城主簗田中務大輔晴助を攻め、
更に下野国の多功原に於て佐竹義重、宇都宮廣綱らと戰ったが敗北し、佐竹義重は皆川領の深沢、
南摩の十一ヶ城を攻略し皆川城を裸城にして残した。
- 70 :
- 1573年 天正1年 7月 佐竹義重は新治郡の・・・菅谷はは人質を差出して降服し攻略さる。
〃 〃 8月25日 佐竹義重は小田方の属城である・・・攻め破って降伏させ攻略す。
〃 〃 9月8日 佐竹義重が東館に出陣し下野国に向う。
〃 〃 10月11日 佐竹義重は下野国壬生城主壬生綱雄を攻める。
〃 〃 10月28日 佐竹義重は余勢を以て小田方の・・・甲山城は攻略された。
〃 〃 12月5日 北條氏政が下総国葛飾郡関宿城主簗田晴助を攻めて包囲し、
上杉謙信、佐竹義重、宇都宮廣綱の加勢軍と戰う。
1574年 天正2年 4月 上杉謙信が利根川に於て北條氏政と対陣す。
〃 〃 8月25日 佐竹義重は常陸国の小田氏治の属城である・・・攻める。
〃 〃 11月 佐竹義重が陸奥国白川城主白河上野介義親と和睦す。
- 71 :
- 羅刹と称された義重を知って物事を言っているのか?
「義重の器量只人(ただひと)ならず、威、面(おもて)にあらわれ、髭、逆(さかしま)にして透間なく、
眼中の光すさまじく、夜叉、羅刹(らせつ)とも云いつべし」 「奥羽永慶軍記」より
- 72 :
- 陰流ニ世と称させた義重と邪道な正宗を教えてやるよ。
「義重の器量只者にあらず。覇・面において表れ、髪逆にして隙間無く、 眼中の光凄ましく、
夜叉羅刹と伝いつべし」 「奥羽永慶軍記」より
「政宗は北条と同盟しながら瞬く間に裏切る義理も信義もない輩。 伊達などは略奪横領を
生業にして周囲に迷惑な家」 「会津陣物語」より
- 73 :
- >>67
そんな軍記を一次資料と思い込んでるのか?
- 74 :
- >>1571 常陸岩井合戦 北条vs佐竹 分け
関八州古戦録にしかない捏造合戦。その年の北条の軍事行動は北武蔵〜上野南部が中心で常陸など全く攻めていない。1
>>1573 下野多功原合戦 北条vs佐竹 佐竹勝利
まともなソースは謙信書状くらい。北条は関宿城・水海城、北武蔵羽生城、深谷城などの攻略を継続して行い
佐野(下野)などほとんど攻めてない。
>>1576 常陸下妻合戦 北条vs佐竹 佐竹勝利
この年も上杉謙信の関東出兵や、北条の下野榎本・小山、上総の里見領への侵攻が中心で
常陸などほとんど攻めてない。
>>1578 常陸小川台合戦 北条vs佐竹 分け
これは一応史料にある。だが佐竹は結城小山宇都宮那須や白川結城石川相馬葦名など大連合を抱えており
北条側としても迂闊に手が出せなかっただけ。
>>1581 下野佐野合戦 北条vs佐竹 佐竹勝利
これは史料に一切ない捏造合戦。
武田勝頼や佐竹結城宇都宮那須皆川佐野水谷壬生ら大軍と対峙する北条軍が
下野内陸部にあたる佐野など攻められるはずがない(つか佐野より大分南部にあたる榎本や小山ですら、佐竹らの侵攻にさらされてた。)
>>1584 下野沼尻合戦 北条vs佐竹 分け
これは史料にある。だが北条の敵対勢力はかなり強大で、北上野の真田や東上野の由良長尾に加え佐竹結城宇都宮那須壬生皆川佐野大田原に
南奥州の石川相馬白川結城葦名田村など大連合が加わってたから北条としても手を出すのは無理。
- 75 :
- 武田信玄は村上義清に何度も負けたから、采配30、武力20でいい
織田信長も斉藤龍興に何度か撃退されたが、それは竹中半兵衛がいたからで問題ない
- 76 :
- 岐阜城なんて6回くらい簡単に落城しまくった雑魚城に唯一苦戦した信長は統率10くらいだろ。
美濃なんて井ノ口を取れば簡単に制覇できると信長公記にも書いてるような雑魚国だし
木曽川さえ超えてしまえば大した迎撃拠点もないヌルゲー
信濃は日本全国でもトップクラスのキツイ山城が立ち並ぶガチンコ天嶮アルプス地帯。
しかも各郡に地元に根付いた小豪族が割拠し
一方を攻めても、ドミノ倒し的に帰参せず、根強く抗戦するガチの戦国っぷり。
そんな所や山之内上杉や長尾の援軍がありながら、敗戦という敗戦はわずか2回でガチンコで2倍の国力の国を分捕ったのが信玄。
- 77 :
- 武田信玄 織田信長
統率:30 110
武力:20 103
知略:21 107
政治:32 120
田舎大名と安土時代の立役者との差だな
- 78 :
- 信玄
統75
武75
知80
政70
謙信
統100
武95
知70
政60
氏康
統70
武65
知70
政90
義元
統75
武55
知80
政85
信長
統95
武80
知95
政95
家康
統95
武80
知95
政95
- 79 :
- 本願寺と外交でトラブりまくって、10年も無駄にした信長の知と政が95なわけないだろ
- 80 :
- それより規格外の有利な交戦条件や優れた軍隊でもって
部下を殺されまくった雑魚な部隊指揮・防御能力にもかかわらず
部隊防御力に当たる統率が110とかネタ数値なのに突っ込めよ
- 81 :
- >>78のステータスだと、信長つかえばアホでも天下とれますぞ
- 82 :
- 信長、家康以外が過小評価としか言えない。
- 83 :
- 信長は戦に負けてばかりいたし家を滅ぼされたんだか能力高いのはおかしいよな。
一時的に斉藤や北畠や三好らの弱体化や内訌などや畿内諸侯の相次ぐ病死で、棚ボタ的に領土が広がっただけだし
この辺をゲームで巧く表現すればいいだけ。
- 84 :
- >>83
信長は今川義元に勝った
武田信玄は今川義元が上洛することを妨害出来なかった
武田信玄は今川義元が死んでから、遠駿に侵攻した
武田信玄を基準にして点をつけたんだろ
- 85 :
- 上杉謙信はガチで強かったってことでいいの?
- 86 :
- 川中島はヤオ
- 87 :
- >>86
意味不明
- 88 :
- 信長が義元を殺したのは先陣と勘違いして本陣に突っ込むというありえない棚ボタラッキーチャンスに恵まれただけだし
そもそも義元が桶狭間に戦死したとか軍記にしかない妄想じゃん
- 89 :
- もう史学界もいい加減、桶狭間の戦いなんて無かったと認めるべき時がきてるね。
ぶっちゃけ天文19年8月に今川義元が駿河・遠江・三河の5〜6万の大軍を率いて
知多郡の織田へ攻めてきたが、信秀が国境を支えて侵攻を許さず12月には今川軍を撤退に追込んでる。
その後、信秀主導で今川と織田は無事を結んで(朝廷は御所修理費などが欲しくて、将軍も三好と戦うために近江・美濃・尾張・駿河の無事を願った)
天文21年に信秀の死を挟み信長が弘治2年3月に今川攻めするまで平和だった。
信長公記は信秀死去を前にずらして天文21年に信長によって桶狭間の戦いが起きたことに順序を逆にしてる。
桶狭間の戦いは信秀によって起されたものであるのは明らかで、
公記は今川の侵攻年と信秀の死去年を交換して調整してる。
現代の史学者は公記の天文21年を書き間違えただけで、実際は永禄3年と書くつもりだったなどと
大きく改変してまで桶狭間の戦いで信長が勝ったなどとウソにウソを重ねて史学者として恥ずかしくないのかねぇ。
そもそも桶狭間の戦いが書いてある首巻自体が、
太田が書いたもんじゃなくて、
作者不明でいつ書かれたものかも不明だからな。
第二次小豆坂の戦いの記述は三河物語からの流用だし、
それ以外の戦記述は捏造妄想戦ばかりで一次史料皆無だし、
道三と信長の会談とか作り話だらけ。
桶狭間の戦いだけは事実なんてムシが良過ぎるわな。
- 90 :
- 下記のエピソード全部、公記のデッチ上げ作り話で根拠ゼロ
小豆坂の合戦
信長と道三の聖徳寺の会見
織田信光が尾張清洲城を奪い、信長に譲り那古屋城主になる
斯波義銀と吉良義昭の会見
赤塚の戦い
萱津の戦い
稲生の戦い
浮野の戦い
- 91 :
- 長文書きまくってる基地外が常にわく
武田信玄に自分を重ねてるのか?
ただの引きこもりが重ねられるような屑じゃないと思うんだがw
- 92 :
- 「だが」なんですよ、「だが」。
- 93 :
- テスト
- 94 :
- しかし東北や北陸に伸びていける上杉や関東に伸びていける北条や
近畿に伸びていける織田家と違ってたいして大きくなれない武田家
- 95 :
- 武田信玄なんてただの地方大名
三傑とは格が違いすぎるわ
- 96 :
- 運は重要な能力のひとつなのに、「運が良かっただけ」とかで貶してるつもりになってる馬鹿はなんなの?誉めてんじゃん。
- 97 :
- 武田信玄 織田信長
統率:80 84
武力:60 88
知略:87 85
政治:88 73
運気:62 120
慢心:85 120
こんなもんでしょ
- 98 :
- 信玄の総合能力値が一位ってなんの奴?烈風伝くらいしか知らないけど、
もしかして全てのシリーズで一位なのかな
- 99 :
- >>31
神功皇后はどーすんだよwww
- 100 :
- >>99
朝鮮人が神功皇后にふじこってるのは見たことないな
一応1000年経つと忘れる仕様らしいから
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