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武田勝頼>>>>>>>>>豊臣秀頼>織田信雄


1 :2011/11/24 〜 最終レス :2018/07/28
織田や豊臣の跡取りが武勇や知略に恵まれた勝頼だったら余裕で天下統一していたな

2 :
東MAX>>>>>>>>>月亭八光>いしだ壱成

3 :
勝頼が誤解されそうなクソスレ建てんな
ようやく信玄の呪縛から逃れてまともに評価されるようになったのだぞ

4 :
勝頼が信長没後の信雄や関ヶ原以降の秀頼の立場にいたら
速攻で秀吉や家康に殺されるな。
まあ秀頼は史実でも殺されてるけどな

5 :
勝頼でも関ヶ原の秀頼みたくチンチンに毛が生えてなさそうな年齢ではどうにもならん

6 :
氏政>>武田勝頼>秀忠>信忠>輝元>>>>>豊臣秀頼>織田信雄

7 :
>>4
信雄は無能だから秀吉はR必要すらないと判断した

8 :
まあ勝頼が一般に思われてるよりはずっと有能な武将だったってのは同意。
>>7
違う。
主家だから。

9 :
秀頼も主家だろ

10 :
おだのぶお・・・・・・

11 :
秀吉は信孝の方は殺してるだろ
信雄は無能すぎたから助かっただけだ

12 :
>>11
信孝は家督次いでません

13 :
肥のゲームの初期の作品程、勝頼の能力は文武両道なステータスだったな
武将風雲録とか太閣立志伝とか
だんだん脳筋キャラになっていったが

14 :
武田勝頼公は戦国屈指の名将

15 :
ふーん

16 :
家臣に見限られまくっての滅亡だから
落ち目の時とはいえ、魅力のパラメーターは60どまりだろうな

17 :
60もないんじゃないかな

18 :
勝頼
統率120
武力98
知力92
政治100
魅力95

19 :
いや
穴山や木曽が寝返ったのは敵国と隣接してるパワーバランスからで、ある意味、家の存続のために仕方ない
でも、天目山に最後まで勝頼についてきた50名は、みんな領主クラスの侍だったらしい。
旗本だけでなく領主クラスが、そんなにたくさん勝頼と最後を共にしたんだから魅力は高いんじゃないか?
義経だって最後は兄や藤原氏に裏切られまくったが、弁慶などの忠臣がいたこともあり、魅力が低い というイメージはないしな

20 :
俺 魅力200

21 :
勝頼のレートが高いゲームってないだろ
つまり、リサーチャーからも軽く見られている

22 :
初期の方の信長だと名将だけどな

23 :
戦国群雄伝シナリオ2
武田勝頼
政治88
戦闘87
魅力96
野望83
強いね

24 :
今の能力はどんなんだったかな?

25 :
信玄上洛のレートを知りたいんだが
http://si-phon.jp/board/01/

26 :
>>24
天道PKの勝頼は
統率89
武勇90
知略56
政治55
義理53
足軽D騎馬A弓C鉄砲D兵器A
戦法:騎馬強化

27 :
天翔記辺りで一気に脳筋化したんだよな。覇王伝までは普通に軍師やってた筈

28 :
パワーキャラというか、パワーもあるけど他の概念を活かせる環境ではなかったキャラ。
なのではないかな。

>>25
なにこれたのしそう。

29 :
>>23
長篠の後に嫁いだ北条家の娘も最期まで勝頼に付き添ったし
勝頼の魅力の高さは納得や

30 :
むしろ北条家の子が夫婦仲いいのデフォ

31 :
>4
信雄とか現代人でたとえると鳩山だろ。
極めて無能だが、その無能ぶりにすら全く気づけず、プライドと
野心だけは人一倍だから権力者にとっては最高においしい人材。
極力生かして色々な局面でピエロとして活用、骨までしゃぶるのが通。
しゃぶられてることにすら本人は全く気づかないのだから。

32 :
秀頼161kgはデブステータスなら圧勝

33 :
>>31
むしろお前が鳩山だなw

34 :
>>31
それだと、利用する価値はあるから、鳩山は産まれながらのサラブレッド。各政財界には、顔が効く。
信雄は、サラブレッドであるかも、知れないが利用価値ゼロ。しかも暗愚。殺してしまう価値すら無いな。
勝手に自滅するだろうと秀吉は、踏んだ。

35 :
>>28
こんな感じ
http://sawamura133.blog.fc2.com/blog-entry-10.html

36 :
>>34
信雄は余りにも無能だったのが、命を救ったともいえる。同様のことが
今川氏真にも言える。
逆に、豊臣秀次、豊臣秀頼は中途半端に優秀だったので、警戒され
滅びた。
ちなみに、武田勝頼はまた別。仏教原理主義を操ってテロ行為を繰り
返した(父の信玄も同罪)ので、大いに憎まれ三族皆殺しとなった。

37 :
信玄死後いきなり難攻不落の高天神城を落城させた事で武田勝頼は一気に警戒されたな


38 :
残念ながら世間一般の武田勝頼のイメージは
「長篠の戦いで鉄砲を持って待ち構える織田軍にわざわざ馬で突撃してやられたバカ」だからな
歴史の授業で勝頼のことや長篠の戦いを詳しく解説する先生なんざいないだろうし

39 :
センゴクで勝頼がそろそろ死ぬ

40 :
世間一般のイメージなんて信長秀吉家康=偉い人 伊達政宗 かっこいい
こんなもんだ

41 :
勝頼は父ちゃんが満点パパだもんそりゃきついって

42 :
信玄のやった事って自分の代だけで見れば最良かもしれん
だが次代に回す事を考えたら最低の極みなんだがな

43 :
>>38
詳しくかどうかはわからないけど
説明された

44 :
もし信玄が裏切らない男だったら、

45 :
>>44
勝頼が外交関係に苦しまなかった
が、最初から結構やばめな状況からスタートになるか。

46 :
それは信玄が謙信相手にどこまでいけたかによるな

47 :
>>46
それはたぶん変わらないと思う。
少なくとも今川を裏切る直前くらいで義理堅い武将に転換すればいい。
まあ勝頼じゃなくて義信が当主になるが飯富とかも健在だし、長篠で命令系統が狂うなんて事も無いし詰まないんじゃないかな。

48 :
場当たり的な外交遊びで景勝と同盟なんかして北条を敵に回したのは大失策だったな

49 :
家を滅ぼした武田勝頼が家を繋いだ織田信雄より上とな?

50 :
親の功績と失敗を差し引かなきゃダメよ

51 :
織田信雄って勝頼に誇れるもんあるの?

52 :
伊賀攻め

53 :
信雄って秀吉に利用されまくって改易されたカスだろ

54 :
尾張伊勢100万石
従二位内大臣


55 :
信雄は今で例えるなら安倍晋三並みのカスだろう

56 :
安部がやった事やろうとした事知った上で言ってんの?

57 :
しっ
さわっちゃいけません

58 :
       政 戦 智  技能
ID:SCBqTQTx  12 8 2 なし

59 :
場当たり的な行動を続けて自滅したあたり
菅直人みたいなバカだったんだろうな

60 :
信雄は家残した所だけ勝頼に誇れる

61 :
信雄がお家残せたのまぐれだろwwww
本当に賢いのなら移封を拒否して改易されて流罪にならない。
晩年に家康のまぐれで貰えた5万石と本来手に入れるはずだった東海地方の領土の差を考えると勝頼よりマシだったとは思えない。
親の負の遺産のせいで家が潰れた勝頼と自分のせいで織田家を崩壊させた信雄と比べるのはおこがましい。

62 :
戦国大戦じゃあ勝頼はそこそこ使えるんだよな。
てか、本願寺オンリーデッキからしてみりゃ編成しだいで悪夢みたいな存在になるし

63 :
戦国大戦の勝頼が使えたのは1.2初期だけだろ…
また趣味カードに戻ってる

64 :
てか本願寺オンリーデッキやってればどのデッキも大抵悪夢だしw
それで勝頼が評価されてるって言うにはちょっとおかしい。
使用率も奮わない最弱設定にされてる本願寺程度に勝ててる事は評価に繋がらない。

65 :
戦国大戦知らないけど本願寺カワイソス

66 :
槍が居ないデッキを組むとかありえないのに、10勢力の中で唯一槍の無い国だからな…
一部の足軽が暴れ過ぎて下方修正されたんだが、本願寺は足軽と鉄砲しか居ないから死んでる。
勝頼に限らず騎馬に蹂躙されて終わる。

67 :
信長公記自体が江戸時代の徳川政権時代に作られたこともあって
家康を破った信玄は超凄い事にしないとならないので
その軍隊を引き継いだのに
織田家に敗れてしまった勝頼は無能にしないとならなかったんじゃないの?

68 :
信長公記は名前通り信長バンザイの捏造軍記
・松永の降伏時期を一年前倒しして信玄西上中に降伏したけとに捏造歪曲
・手取川は長家家譜、北徴遺文、謙信書状などにあるにもかかわらず隠蔽
・熊見川も同様
・森長可が82年に越後侵攻した→景勝が越後の諸勢に戦いの労いや発布を出してる様子はなく
それどころか一次資料では森のキ沼を奪い、芋川らは5月下旬になっても信濃内で戦ってる事から明らかにデタラメ
・信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述

多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。
・公記が今堅田と共に石山砦で山岡景友を降伏させたと書いてるが、
一次史料には一切書かれてないデタラメ
・第二次木津川口の戦いで勝利とデタラメ
毛利側一次史料に勝利し兵糧を本願寺に運び入れたと書かれている事実
・高野山は最後まで信長を撃退しつづけて
本能寺の変のあとに戦友の上杉景勝に
山内に織田を一切入れなかったと自慢してるように
高野山の記事でもやはり信長公記はデタラメ吐いてる。
なんと公記は土橋の城館を攻め落として平定したというどうでもよいくだらない話で誤魔化すw
・公記の天正8年3月、
ついに北条氏政が関八州を織田分国にして下さいと降伏を申し出るw
早雲が小田原城奪取から85年にして北条はついに隷属化
・一次史料だけを読むと
信長って金ヶ崎で浅井に背後を攻められ挟撃の危機になったなんて
公記の記述が大ウソなのがわかる。実際は浅井と六角の兵が近江に起すを聞き、
越前より軍を班して京都に還ると書いてあるだけ。事前に情報を得ていてまったく危機的な状況ではなかった。
軍記特有の脚色がなされて信長絶体絶命のピンチみたいに描かれている
・信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか
志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き
志賀の陣のことを一戦御名誉と賞賛している。
つまり負け戦であっても信長公記は隠蔽してないどころか
ことごとく織田は負けてないことに歪曲されてるだけ
・高遠城攻防戦での織田信家戦死を隠蔽
・堂々とか公記の記述の撤退の時に砦取り返されて本当は2回あったのに書いてない
・大した戦果のない姉川が大勝になってる。
・長篠の戦果が十倍以上過大になってる。
・道三との会見では、織田家臣である太田が、信長が織田家臣を連れて帰った後の道三の
「いずれ息子たちは信長の家臣となるだろう」という呟きをなぜか知って書いてる
・河野島の流れとか書いてない
・大良河原では追撃軍に信長が仁王立ちになって鉄砲撃ったら敵が追撃やめた
・稲生では信長が大声あげたら敵が敗走したり、信長が京に上った時に刺客のいる宿に乗り込んで
「殺せるものなら殺してみろ!」と啖呵切って刺客が恐れ入ったりかなり信長万歳な記事が多い

69 :
信長公記にすら記されていない以上は捏造逸話以外のなにものでもない。
などと言いたいところだが、さて信長公記が隠蔽する時は必ず理由がある。
信長公記において家康がすでに同盟者となっていては都合が悪いのだ。
そこで思い出されるのは、信秀死去寸前に今川と和睦してることを隠蔽して、信長の立場が不安定だと捏造してる公記だが、
家康との共同作戦で思い出される史実で、公記が完全隠蔽してる事件がある。
それを隠蔽してる以上は家康がすでに同盟者であっては困る。
あくまで家康は永禄11年の義昭上洛戦以降の同盟者でなくては都合が悪いのだ。
さて以下がその隠蔽である。。永禄9年に信長は近江矢島の義昭を上洛させるためと称して
義昭に斉藤龍興との和睦を申請し義昭が喜んで和睦を斡旋したし
龍興も義昭を「公方様」と呼んで快諾して誓詞を細川藤孝に提出してる。
義昭は信長に藤孝を下向させ上洛の打ち合わせをし、7月には能登七尾の畠山義綱や大和の十市遠勝にも
来月22日に信長が出陣するから上洛の供をするように命じてる。
これにより尾張・三河・美濃・伊勢四ヶ国の兵を率いて上洛軍を催すこととなった。
しかし出陣当日になると信長が突然出兵できないと言い出す。
これには龍興18歳も信長が臆したと嘲笑し、義秋も信長を糾弾し天下の物笑いとなった。
これにキレた信長が8/29に同盟軍の美濃攻めを突如開始し木曽川の河野島へ渡川進撃。奇襲に怒った龍興も
すぐさま応戦し河野島へ渡ってきたので織田軍は敗走し川を挟んで対陣。
その翌日から風雨激しく洪水になり閏8月8日の明け方に奇襲を敢行した
龍興側に織田軍は大敗。勝利した斉藤に義昭は改めて上洛を願うが
織田の動向が心配なので上洛は難しいと言われ翌8月3日に織田と上洛戦を企んだと知った三好長逸3000が
近江坂本へ義昭討伐にやってくる。8/29は暗夜だったのを幸いに側近4、5人で琵琶湖を渡り若狭武田の下へ義昭は逃走した。

70 :
角川文庫の信長公記は陽明文庫本の翻訳で角川ははしがきに第一級の史料と自分マンセーしたのがそもそも素人の誤解の始まり。
太田は信長の右筆ではないので信長についての情報をすべて知る立場にいないので注意が必要である。
一説に丹羽長秀の与力だったことから長秀の右筆なのではないかと言われている(天正3年に長秀の命を受けている) 現在まで残る信長公記の自筆・写本・亜流は金子拓氏の最新研究結果によれば70以上
太田牛一は発注者の意を汲んで添削してるので一種の売文家の評されている。
池田家に発注された時には武田攻めに参加してない池田の名前を追加したりした信長記である。
尊経閣文庫蔵安土日記
信長記の写本だがもっとも古態をとどめている。安土城についての史料的価値が高く他の信長記にない逸話が登場する。
木田梧楼家蔵信長記
本願寺攻めが他の信長記より詳しい。
首巻のある信長記(陽明本など)
信長上洛以前の記録であるが、これは自筆本が後世に伝わってない。
また年次の誤りが異常に多く永禄3年の桶狭間の戦いを天文21年としていたりする。
尊経閣文庫蔵織田記
首巻が他のと違う。が天文13年9月の信秀の美濃攻めで大敗した織田の討ち死に数を50とする。
陽明本などは5000とする為、こちらの方が信憑性が高いと言われる。
内閣文庫蔵安土日記は池田家本系統の写
長篠での鉄炮数を30挺計と書いていたりする。
天理本
首巻の桶狭間での一番鑓は子平太ではなく小藤太になっている(古戦群記と同じ)
また信長が上洛した時に斉藤家義龍の刺客6人衆の中の青木加賀右衛門が抹消されていない。
陽明本では姉川の戦いで真柄を討ち取ったのが青木所右衛門と改変されている。
太田の子孫は青木氏に仕えている。
桶狭間前哨戦の大高城において天理本は大高城の南にも押さえとして
信長は大野・小河衆を配置している(張州雑志にも氷上・正光寺に付城があったと記している
さらに小瀬甫庵本信長記と同じく軍議を開いた信長が家老衆らの籠城策を蹴って国境で決戦すると主張している。
また信長が出撃する際に敦盛を舞うシーンがでてくるが天理本はその前日にも家来達の酒宴を開いてる。
そもそも信長は発給文書が極端に少なく、ほとんど部下へ丸投げなので
信長の業績はまったくわからず、やむおえず太田の著書に頼らざる負えないだけで
信憑性は疑問のシロモノであり、関が原や秀吉の史料は豊富にあるので
太田の記述した関が原や秀吉に関する記述は三次史料以下の扱いである。
信長公記は志賀の陣まで 前代未聞の栄誉ある一戦などと勝利宣言してるからまったく信用性ゼロ
実際は義昭が必死に調停してくれたから信長は助かっただけ。
そもそも三河物語には和田が参加したなんて書いてない。
3万の朝倉が1万の織田を旗本まで切りくずして朝倉軍が一気に前進していたが、
家康が前面の敵を撃ち、信長の崩れを見て 一気に朝倉奥陣に斬り込んだから
本陣に横撃を受けて朝倉軍が崩れただけ。 志賀の陣でも朝倉軍3万に
織田1万じゃ帰り道を塞がれたらかなわないから和睦したって書いてるし、
信長が兵糧に困るだろうと考えていたら比叡山から朝倉に米が運ばれてしまったと書かれてる。
その一方で比叡山の騙し討ちを喝破した信長をさすがの弓取りと称賛してるから
これでも三河物語は信長寄りにかいてるわけだが。信長から御加勢依頼がきて
徳川からは石河家成が織田への援軍で参加してるから。


71 :
公記は天正10年の武田攻めでは侵攻日に起きた浅間山大噴火を隠蔽。武田滅亡の天意と言われた。
援軍に来た勝頼も諏訪から甲斐へ撤退せざるを得なくなる。浅間山噴火が京で視認できたのは有史以来この時でわずか二度目。
東に横たわるアルプス山脈を無視して考えた場合、広島での原爆が京都から視認出来たくらいの距離に相当する。
信長公記によると、
范可とは唐時代の人で止むを得ない事情により父親を殺さざるを得なかった経歴を持つとの事を書いているが ...もちろんそんな人物は中国に存在しません。
義龍が范可の署名を弘治元年12月から署名しており、 公記の記述は辻褄が合わない。
捏造信長公記は父殺しイメージを架空人物まで創造して捏造してまで強調してるが、
実際は重臣達に追放された武田信虎や六角義治らと同じような状態になった際に道三は死ぬ覚悟に決戦を選択したに過ぎ無い。
公記には天文21年(1552年)に桶狭間の戦いがあったと書いている事実w
このため桶狭間の戦い虚構捏造説の根拠にされるw(信秀死去は天文20年もしくは天文21年とされる)
天正9年11/24に信長の子の御坊殿が武田から返却されてきたので犬山城主にしたと
公記には書いてある。そこには信玄が養子にしたいと言うから甲斐へ送っていたと書かれている。
しかし実際は岩村城の養子に信長がねじ込んだ末に、武田軍に大敗して拉致られただけ。
完全に歪曲捏造しまくりなのが公記。
第二次木津川口の戦い自体は兵糧搬入成功している以上勝利だからね
毛利側にも本願寺側にも証拠がある
毛利家文書834 小早川隆景書状写
「去六日至木津諸警固乗入、大坂衆申談候、敵船雖罷出候、舟軍等勿論此方得勝利候」
毛利家文書832 下間頼廉書状写
「諸警固一昨日六日木津浦御着岸候、当寺大慶此事候」
「兵粮両度被入 信長公より九鬼大隅守に被命以大船 川口被塞 雖然打破り 兵粮を入る」
毛利家日記より
討ち取られた武将もいない
野田福島の戦いでは京へ撤退しようとする信長 江口川は水量が多く、水勢もすさまじいものがあり
船でしか渡れない場所なのに、信長は徒歩で渡れる始末。 しかも翌日からはまた徒歩でわたれなくなり
地元民が奇跡だと言い合う。これにより三好軍と本願寺からの 追撃を免れたなどとバカな妄想を書く公記。
他にも道三が討死した報を聞き退却しようとした織田軍であったが義龍の軍勢が追撃しようとしたところを、
信長が鉄砲を撃っただけで、信長公の勢いに飲まれて追撃する気がなくなるなど
くだらん話が散見されるのが妄想軍記信長公記のウケを狙ったガチなギャグである。
信長公記はデタラメだらけだしね。例えば伊勢なんて簡単に平定したみたいに書かれてるけど
永禄10年(1567年)に滝川を先鋒に4万で伊勢侵攻したが仁木氏勢力圏の楠城の山路弾正の籠城&神戸氏への支援として
白子からの伊勢水軍・鳥羽からの志摩水軍&鈴鹿の関氏の他に
長島門徒・高田門徒・天台宗信徒に呼応して美濃で氏家・安藤・稲葉が謀反の噂が流れ。
さらに支流支援として北畠氏は鳥屋尾石見を使者として信玄とも協調し徹底抗戦したから滝川を放置して信長は逃亡してるし、
永禄11年11月の伊勢攻めでは去年の屈辱からかおよそ武士とは言えない略奪暴行大虐殺をしまくって南下するも苦戦。
結局戦闘行為で力でねじ伏せることを諦め神戸氏に人質として信孝と信包を与えて縁戚化させるしかなかった。
(情勢的には10/18義昭征夷大将軍になったり10/28松永久秀が幕府に降伏するなど
続々と幕府に帰順降伏していて六角義秀や仁木義政らの影響も受けている神戸氏は義昭への協調姿勢に転じた)
織田軍は永禄12年春には安濃津城前面まで来ながら抵抗が激しく信長は逃走してる。

72 :
信長は大河内城2ヶ月大包囲において本田親康の船江城の陥落は難しいとして避けたら奇襲される始末。
さらに曽原城の天花寺氏と挟撃されるわ、氏家ト全も蜂屋般若之助ら36人討死と壊滅的打撃を受ける。
滝川軍も逆激を受けて谷底に落ちまくるなどして壊滅。
大河内城攻防は周囲の支城からの夜昼なき奇襲を受けまくり
北畠は信長から信雄を人質にとってるが北畠は信長に人質を1人も出さず。
しかも嫡男信忠と次男信雄の2人だけは母が生駒氏だとされているためその価値は非常に高い。
信忠が死ぬなどでうまくやれば織田家乗っ取りさえも可能。
すばらしいカードを手に入れたが長島一向一揆を鎮圧後に伊勢掌握のために
具教暗殺&暗愚具房のため逆に弱体化させられる。
明らかに不平等な交渉だがそのおかげで織田軍は退却の時に追撃を受けずにすんだ。
退却時にボコボコにされて織田軍の将が討死するケースはたくさんあるからね。
安全に退却させてもらうためには人質提出は止むをえない。
信雄を人質に取ったことで水谷刑部少輔が賛意を取り付け和睦に合意。
具教は具藤と一緒に三瀬谷城へ隠棲したが暗に妻の実家の六角氏の支援を受けている。
北は宮川の険路・南は吉野や紀州に連なる南朝以来の結束を持つ土豪達の住むところ
西は大樹海に覆われる要害に地で伊賀国人とも連絡が取れた。
隠棲するや家臣達が具教を慕って集住しあっという間に城下町が形成されたくらい反織田だった。
船江城の者どもは信長の帰国を狙って銃撃し激怒した信長が曽原城の天花寺に
船江城破却を命じるや拒否し破却中の織田軍を伊賀衆で襲撃し壊滅させる。
信長は曽原城を攻撃するが苦戦し付け城を築くがまったく落ちず
逆に四五百森に潮田長助らが防御施設を作り対抗。結局、信長は破却どころか一城たりとも落せず。
具教が背後で伊勢長島一向一揆を支援していたのは
紀伊の熊野新宮の豪族で熊野水軍最強と言われた堀内氏善(新宮城主)らに支援要請してたのでもわかる。
井上専正入道教順は本願寺顕如の客将になる。家城之清は槍主水と呼ばれ勇名で鳴っていた。
ちなみに志摩水軍で北畠家臣だった小浜景隆は土屋貞綱の元で武田水軍創設に尽力。
1575年に信雄が家督を得て田丸城へ入り御本所と呼ばれるようになる(田丸具忠は一ノ瀬御所へ移城)
北畠当主として滝川に差出検地をやらせることで伊勢での実効支配を進めようとしたのだ。
それに対して信雄側の加藤甚五郎に対して熊野勢堀内氏虎が攻撃をかけて激破。
具教の差し金ということで信長が徹底調査すると
以前に鳥屋尾満栄が信玄に使いし信玄の上洛の時は岡崎まで大船団を派遣し迎えると約していたことが発覚。
1576年正月に鳥屋尾が岐阜に国司の使いとして年賀の挨拶に来るや信長は挑発しまくって威嚇した。
11月北畠具房と四男・徳松丸、五男・亀松丸が共に暗殺され
同日朝に次男・長野具藤、三男・北畠親成、北畠房兼、大河内教通、大河内具良、
波瀬具祐、波瀬具通、岩内光安、坂内具義は
信雄の妻の千代御前(雪姫)が兄達にぜひ会いたいと騙されて田丸御所に呼び出され暗殺。
坂内御所では坂内具房・霧山御所では城代・北畠政成・波瀬具通が殺されたことで
北畠氏は完全に指導者を失うことでやっと伊勢国を鎮定するまでは北畠氏の支配はうまくいかなかった。
剣豪国司と言われた具教ももっとも信用する藤方慶由の嫡男である藤方朝成の家臣達の挨拶と聞いて
完全に油断していたそうで短刀しかもっていなかった。
のち息子が主家に不忠したことにショックを受け藤方慶由は自害。
鳥屋尾満栄は具房の妻子(具房嫡男昌教はのち本願寺へ)を助け出すことに成功し
具教の弟で大和興福寺別当にいた北畠具親は伊賀吉原氏の支援により
還俗し1577年蜂起した際に合流し川俣の戦いで戦死。具親は国司家復興と打倒信長を掲げ毛利客将になった。
9/26に越前虐殺大会から帰ると、万単位の虐殺に大満足してるようで高揚してるのか
思い出したように10/1に赤井直正を討つから光秀派遣したから片岡藤五郎は協力しろ。
そして天正4年1/15に光秀が赤井と波多野に大敗した報が入り、
1/28には石山本願寺に織田軍が敗れる報がやってくる。
ここら辺りの信長公記は安土城建設開始とか書いて完全に隠蔽してる。
さすがに本願寺攻めに失敗し5月の原田(塙)戦死するところは隠蔽できず書いてるが
(つか、書かないと大幅に白紙日程になるのを誤魔化しきれない)
それですら一次史料にはない信長の5/7天王寺突撃大勝利話を持ち出して信長マンセーに摺り変えてる。

73 :
>>67
徳川は弱さを見せてはいけなかったからなぁ。
武田にしても真田にしても「こいつら相手に負けたなら仕方無い」ってレベルまで強さを引き上げる必要あったよね。
個人的には姉川で徳川家が居なければ負けてた的な胡散臭い記述が一番嫌いだ。

74 :
姉川で勝てたのは徳川のおかげ。
浅井三代記や三河物語で織田の苦戦と徳川の活躍で共通している上に
水野真氏も姉川の史料が徳川に豊富に存在するのは徳川の勝利をよく示していると認めている
また遠藤直経の戦死場所が織田の本陣の布陣位置から大分後方へ離れている事から織田方の苦戦が読み取れ
信長書状から定説どおり織田vs浅井 徳川xs朝倉の布陣を敷いていた事がわかるし
定説どおり織田は寡兵の浅井に苦戦し徳川が大軍朝倉を破りそのおかげで勝ったという流れだろう

75 :
ちなみに徳川が圧倒的に強いのは
対今川・吉良・豊臣・姉川・北条(天正壬午)・関が原・大阪の陣で確定している
天下を取ったのも徳川
家康に勝てるのなんてほとんどいない
武田相手にやられまくってるのはただ武田が強すぎるだけ
北条や織田もけっちょんけっちょんにやられてるし

76 :
長い

77 :
なんか20年以上前の学説に洗脳されてるバカを久しぶりに見た
多分、学研の本程度の知識なんだろうけど

78 :
学説ってか普通に物事を考えリャ馬鹿でもわかる事だろ

79 :
>>74-75は未だに三段撃ちや桶狭間の奇襲を信じてそうだな。
下手すりゃ武田信虎が妊婦の腹を割いてたとかまで信用してそう…

80 :
高性能鉄砲揃えてたのは最近の説でも否定されてないし

81 :
>>80
そこは否定してないだろ?
三千丁も集めて三隊に分けて射撃するのが三段撃ちだろ

82 :
三段に構えての説を否定してるのに、なんで鉄砲集めた話を出してるの?

83 :
20年前の話に囚われてるバカだから
今そのころの話されてもスルーされてる事を理解していない

84 :
長篠の件については
・信長公記の3000丁は後世の書き加え説もあるが、それを差し引いてもこの戦場だけで最低1000丁+αの鉄砲が存在
 別働隊には500丁+徳川の弓・鉄砲兵が2000人が
・現地にはとても横に1000人並べるほどのスペースはなく、地形もデコボコ。
 なのでこの数でも鉄砲隊で待ち受けることはおそらく可能
・3人が撃っては入れ替わり撃っては入れ替わりするという3段撃ちはおそらく存在しない
 あったとすれば撃ったあと鉄砲だけ交換するやり方
・発射音と煙がすごいため、合図によって一斉射撃するのは難しい、おそらくは個々の判断で撃っていた

85 :
>>84
あと長篠の三段打ちを現代の火縄銃のプロがその一番上の条件で再現しようと思ったら無理だったんだよね。
それと武田が竹把等で鉄砲対策が進んでたのに、一般的には最強の騎馬は最新の鉄砲に勝てなかったと教えられちゃってるんだよね。
無理な突撃を繰り返したせいで負けたとかとか適当な話を作られてるから勝頼が暗愚という前提にされる事が多い。

86 :
圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面&まるで城みたいな陣地
こんな状況下で9時間以上戦い続けて柵も破りまくったんだからいかに名将ぞろいだったかがわかる。また
・勝頼が「相手は打つ手がないみたいなのでこちらから突撃してやる」
・勝頼が「今回の織田との一戦を危ぶむ者がいる」と書いている
・武田一族衆は戦死者皆無
・武田譜代衆は信玄たたき上げ
山県→信玄の元小姓で兄売ってでも武田の為に仕える
内藤→信虎に追放された後の活躍が認められて兄を差し置いて上野まかされるほどの抜擢を受けた
土屋→信玄の元小姓で兄弟揃って武田に殉じた金丸家出身
馬場→勝頼を逃がすため殿軍買ってでる、織田に評価されるほど
こんな連中が勝頼が開戦と決めた以上、敵前で戦わずして退却するわけがない
皆、開戦には反対でも武田の為に懸命に戦ったってとこだろう
・勝頼は長篠戦後も信長と乾坤一擲の決戦をやるつもりでいると書状に書いている
・勝頼が長篠戦後も重税&軍制改革に臨み、書状の内容が嘘でなく勝頼の意思である事がわかる
これらの事実から軍艦の内容通り勝頼が織田の待ち構える陣地に無謀に突撃していった事が主な敗因であると容易に想像がつく

87 :
君はもう少し、戦国時代の武士社会の実態を研究したが良い
江戸視点の史料を下に、明治初期の学術の粋の文章を読んでも
今時何言ってんだ、頭が悪いとしか思われないよ
コーエーのゲームは30年前にできたから、その視点なんだけど
それから進んでいないので、馬鹿にされているんだよ

88 :
>>86
穴山梅雪を筆頭に御親類衆が命令違反を犯して指令系統が混乱してた事を意図的に無視するんだな。
長篠は合戦中の被害よりも退却中の被害の方が断然多い。
その「武田一族衆は戦死者皆無」ってところに関係してくるんだが、これは勝手に御親類衆が退却したせい。
なので勝頼の突撃が敗因ではなく、勝手に退却されたせいで君の列挙した武将達が孤立する状況下に陥ったのが敗因。
まとめれなかった勝頼に責任があると言えばそれまでだが、元を正せば信玄が勝頼を正式な後継者として認めてなかったり権力委譲出来てたなかったのが原因。

89 :
信玄公を神格化したいが為の勝頼落としとでも言うか…歴史はある一面をざっくり切り取るが故に残酷だね

90 :
信玄を必要以上に強く見せる必要があったからな。
そしてその最強の武田に勝てたという要素をもりこまないといけないし。

91 :
>>87
馬鹿ですか???
>>86の内容全部書状類で確認できるんだけど????
お前のがむしろ史料無視して曲解してるだけの馬鹿
>>88
そもそもさ、
>長篠は合戦中の被害よりも退却中の被害の方が断然多い。
これが軍記ソースのデタラメだろ
普通に考えて圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面&まるで城みたいな陣地
こんな状況下で9時間以上戦い続けて織田徳川方にも6000もの被害が出るような激戦をやってのけたんだから
普通に退却前の本戦で多く討ち取られただけだろ
逆に退却に失敗してたら全滅して一門衆も皆死んで即武田滅亡してるくらいの勢いじゃないとおかしい
実際には武田は直後に軍動かしてる上に勝頼は長篠後も乾坤一擲の勝負を織田と再び行うと書状で書いてるし
岩村も半年も持ち堪え遠州のラインも概ね維持できている
長篠はただ勝頼が織田をなめ過ぎていて発狂自爆しただけだろ
勝頼が織田をナメくさっているのは勝頼が書状で「相手は打つ手がないみたいなのでこちらから突撃してやる」と書いてる事から明らか

92 :
>>91
じゃあ君の言うソースが信用出来るのかい?
どのソースを元にしたお話だい?
武田は織田を舐めてたというよりは信玄の遺言しかり、年々強くなる織田を早くなんとかしなければいけなかったの2つの要素が絡んでる。
それに書状で当主が弱気を見せるべきか見せないべきかという部分もしっかり考慮するべき。
兵力差から考えても舐めて掛かったと言うには暴論過ぎる。

93 :
愛知県資史料編織豊の長篠前の勝頼の書状を確かめれば
勝頼が陣地に引きこもってる相手に対して相手が打つ手なしなのでこちらから仕掛けてやる
と書き一方の信長は相手を引き寄せて撃破してやるといってるし
実際その通りの行動をしている
また今回の決戦を危ぶむ者がいるとも書いてるため甲陽軍艦に書いてる通説が正しいとわかる
長篠後でも勝頼は信長U大して乾坤一擲の決戦を再び行うと書いているから織田方をいかにナメ腐っていたかがわかる
兵力差2.5倍でこちらから城みたいな陣地&前日の雨でぬかるんだ地面&高性能鉄砲こんなとこに突っ込む馬鹿は早々いない
よほど相手をナメていて冷静な判断能力を欠いていたんだろう

94 :
どうしようもないバカだな
お前さん

95 :
自己紹介乙

96 :
甲陽軍艦の話が出た時点で萎えた。
一次資料を元に話そうよ。

97 :

最近の甲陽軍鑑は飛躍的に再評価されてきている。
1990年代に国語学者酒井憲ニ氏の大著甲陽軍鑑大成を完成させてからは
柴辻氏なども軍鑑を史料に取り込むなどの風潮が出始めており、
それどころか桶狭間の戦いにおける黒田日出男氏を始めとした今川軍乱捕り中の隙を
織田軍が攻撃した為に義元を討てたとする論拠として軍鑑を援用している。
これは藤本正行氏の正面攻撃説や小和田氏の正面奇襲説の
信長の不可解な成功の理由として充分な証明理由となろう。
旧日本陸軍の迂回奇襲説はこれにより論破されてしまったのである。
読む場合に注意すべき点は
軍鑑と史実の年記の食い違いがあるので対照年表を見ながら読むべし
ごくまれに偽文書が挿入され操作をしている
特に史実と食い違うのが山本勘助がらみの誤記創作が多いと言う事で
勘助自体が存在しないと言われる所以である
原因は高坂弾正の口述を猿楽者大蔵彦十郎と春日惣次郎が筆記した作品を
小幡景憲がのちに自家のために加筆し歪曲捏造改悪をしていると言われている。
市河文書「武田晴信書状」に山本菅助の名前があり存在が確認され
晴信側近である事がわかり軍鑑では足軽衆である事がわかる。
この文書では勘助と共に原与左衛門尉が足軽大将衆であったのがわかる。
この原の舅が小畠景憲の祖父である虎盛であり東信や北信で活躍しており勘助との関わりが見える。
また小畠景憲は出版する金がなかったから出版出来なかったと言うのが通説だが
出版出来なかった理由が自家に都合がよく改悪捏造したからとも考えられる。
三条藩主稲垣重種が筆写のために借りた軍鑑を宇佐美勝興に書写された時に
無断で密にもう一つ筆写して京都で出版したと言う。

98 :
圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面&まるで城みたいな陣地
こんな状況下で9時間以上戦い続けて柵も破りまくったんだからいかに名将ぞろいだったかがわかる。また
・勝頼が「相手は打つ手がないみたいなのでこちらから突撃してやる」「今回の織田との一戦を危ぶむ者がいる」
と書状で書いている
・武田一族衆は戦死者皆無
・武田譜代衆は信玄たたき上げ
山県→信玄の元小姓で兄売ってでも武田の為に仕える
内藤→信虎に追放された後の活躍が認められて兄を差し置いて上野まかされるほどの抜擢を受けた
土屋→信玄の元小姓で兄弟揃って武田に殉じた金丸家出身
馬場→勝頼を逃がすため殿軍買ってでる、織田に評価されるほど
こんな連中が勝頼が開戦と決めた以上、敵前で戦わずして退却するわけがない
皆、開戦には反対でも武田の為に懸命に戦ったってとこだろう
・勝頼は長篠戦後も信長と乾坤一擲の決戦をやるつもりでいると書状に書いている
・勝頼が長篠戦後も重税&軍制改革に臨み、書状の内容が嘘でなく勝頼の意思である事がわかる
これらの事実から軍艦の内容通り勝頼が織田の待ち構える陣地に無謀に突撃していった事が主な敗因であると容易に想像がつく
また公記や長篠日記でも武田が織田方陣地に突撃して討ち取られていく場面が書かれているため
軍艦の通説が正しかったとわかる

99 :
やはりどうしようもなバカだったか

100 :
壊れたラジオとはこの事か


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