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柴栄

柴栄


1 :2006/11/13 〜 最終レス :2013/06/10
どうなの?

2 :
柴進の先祖キタコレ

3 :
おや柴栄スレ

4 :
宮崎市定いわく、後周の世宗は信長、宋の太祖は秀吉、太宗は家康みたいだな、と。

5 :
秀吉の妹は家康に嫁がされているから、一応は義理の兄弟だよな。

6 :
柴栄に関わるエピソードで、信長ばりのモノは多い。
趙匡胤も、人たらしなところは秀吉に似ていなくもない。 戦はさらに上いっているが。
だが、趙匡義は家康と言えにくな… 
ま、個性ではなくて歴史に対する役割としての比定なんだけどね。

7 :
趙匡義はやや陰険なイメージがつきまとうね。
趙匡胤の死への疑惑や、その子、南唐後主らへの仕打ちから。

8 :
柴栄って何だか若くて清新なイメージなんだけど、
肖像画見たら・・・

9 :
ただのピザデブ親父だろ?
おいおい、39歳での死亡だぞ。その親父っぷりは趙匡胤よりひどかないかい?
ってマジでひとりでつぶやいてしまったくらいだ。
本紀では一応、容貌はとくに非凡な美しさ(英=「すぐれている」など)と書かれているのに…
まぁ『五代史記』のマンセー記述だがwww

10 :
39歳での崩御は暴飲暴食が祟ったんだろうか・・・
皇帝になった途端に、酒池肉林に走って一気に寿命を縮める人っているよね。

11 :
いや… ピザデブってそういう意味じゃ…
柴栄も過労死に近い気もするが、病死だな。
5年6ヶ月にやった、彼の改革を考えれば、一体いつ寝てるんだ? と問いたくなるくらい、席の温まる間もない多忙さだった。

12 :
詳しくないのを先に断っておくが
この人は賢君過ぎて
あとをついだ宗訓から趙匡胤に人気が移った可能性は?

13 :
>>12 本質はそれでいいわけだけど、より正確を期するなら、五代十国という時代性をまず知らなければならない。
この時代は一天万乗の皇帝という存在の価値が、著しく暴落した時代で、皇帝の血統を敬うとか、そういう精神が希薄になっています。
地方節度使という言わば大名が、日本でもあったような下克上の様相を呈しており、実力あるものが武力をもって取って代わる図式が、ふつうに成り立つような感じだったわけです。
もろん、皇室や一個人に忠誠を尽くすものも少なくなかったわけですが、政権が乱立し短命なる背景はそこに集約されると言ってもいいでしょう。
つまり、偉大な君主は衆を率いる騎手として、誰もが認めるわけですが、それが年端も行かない、あるいは実績の少ない若造であると、どうしてもベテラン連中が納得せず、納得できる実力者を押したてようと動くわけです。
趙匡胤はそういう状況の中で、自分にその民意が向くよう工作し(すでに実力第一人者だけど)、軍兵によって「しかたなく」擁立されるかたちで禅譲を迫ったわけです。
その点柴栄は、父帝の遺産を引き継いで即位したのですが、即位当初は彼を侮る廷臣が多く、また命令に服さない将軍も多かったのです。
後晋や後漢の二代目と、柴栄が違う部分は、その言うことを聞かないあるいは侮っている連中の目を開かせるのに、実力を示し続けたわけです。
まず即位早々、危険という廷臣の諫止をはねのけ親征し、味方が敵前逃亡する中で最後まで踏みとどまり、自ら槍を振るって士気を鼓舞するあたり、即位前の日陰者なイメージとは断然に違っています。
廷臣を、実力を持って彼個人に心服させたわけですから、趙匡胤の擁立とはやや事情が異なりますね。

14 :
>>13
くわしく教えていただきありがとうございました

15 :
自分も五代はあんまり詳しくないんですけど郭威と柴栄って漢族なんですか?

16 :
一般には漢人皇帝ということになっている。
そこで思うに、それまでは突厥系沙陀族の皇帝が続いたからその系統ではない、というだけで純粋なる漢民族かどうかというのは別問題なのではないか。
唐自体が鮮卑系民族の王朝であり、国内もいろんな出身の人たちが多かったので、この頃となると血統的に純粋な漢民族は、いただろうけど実利でいえば、それがどれほどの意味を持つか疑問視せずにはいられない。
柴栄は基本、漢人だけど厳密には鮮卑系の可能性もあるそうな。
趙匡胤も突厥系という話もある。

17 :
柴栄が鮮卑系の可能性があるっていうのは初耳でした
この頃は血統的に漢族であるかどうかなんて大して重要な事じゃなかったのかもしれませんね

18 :
本人と周りが漢族のつもりならば、それでよかったんじゃないの。

19 :
漢人つうのもいい加減なもんだしな。

20 :
独孤氏とか、宇文氏ってのは、結局漢人に吸収されたの?

21 :
>>20 ? 問いかけの趣旨がいまひとつわからない。
そういえば五代史、五代史記、十国春秋あたりに、「宇文」「独孤」という姓はみかけないような…
>>18 言いえて妙。 というか、それが本質であるべき。
相手を異民族だ蛮族だと、ただ風習や生活空間が違うだけで下に置く精神は、中国の歴史においてもっとも腐臭のただよう部分と思える。
例えば、後晋の廷臣連中は、辞を低くして臣下の礼をとった先代(石敬瑭)の苦労を無視して、契丹を蛮族と蔑み非礼することはなはだしかった。
その心底には相手をしょせん異民族と貶す腐った性根があり、たとえ契丹が後晋などより勢力範囲が広大で文化水準も高く、また独自の言語を持ち生産力も豊かであったとしても、それを認めず中華文明の二番煎じくらいにしか認識しなかった。
あるいは、そう無根拠に信じて優越していると考えていた。
実際はすでに後晋など問題にもならない強国だったので、そういう無礼者たちは正しい懲罰で酬いられてしまう。
主戦論の最右翼であった景延広は、さんざんイヤミを言われて殺され、皇帝は北の果てに強制連行されるに至った。
根拠を伴わない批判、誹謗の帰結するところかくの如し。
しかも中国はその後、性懲りもなく同じことをしてのけるから頭が下がる。
柴栄は相手の力量を正確に判断していたようだ。
自身が地盤を築くまではまともに戦わず、かといって王朴献策するところの「先南後北」策を遵守はせず、後蜀と南唐に重たい一撃を食らわせると、契丹に政治的揺らぎが見て取れるときに北伐へと乗り出す早業。
景延広などとは違い、契丹全体を敵に回すつもりがあったかどうか、それはわからない。
たぶん、燕雲十六州の奪還のみだったろうと思うけど… 

22 :
柴ってchai2だから、柴栄は「チャイロン」って読めばいいんだけど、なぜかなんとなく
チャイエイって読んでしまうよ。
柴田も柴崎も柴原もチャイって呼びたい。

23 :
なにその赤ちゃん発音ww

24 :
君主の姓が変わるなんて後周くらいしか例がないよね

25 :
>>23
辞書引けw

26 :
>>25 いや、怒るな。 すまん、>>22をバカにしたわけじゃない。

27 :
愚弄しただけだ。

28 :
愚弄しただけだ。

29 :
待たんか! そういう意味で言ったんじゃないつうの。
まぁ通じなければしょうがない。 しょせんは無機質な文字のみだしな。
それにしても、柴栄少年が郭威と柴氏のもとに養子になったとき、郭栄となったのかどうかコレといった記述はないようなのだ。
郭威と柴氏では、柴氏のほうが格が上なんで、案外尻にしかれていたのだろうか… とか妄想してしまうな。
憐れな郭雀児よ…
…世宗実録あたりになんか載ってるかな?

30 :
郭威は、姓が変わることに抵抗感はなかったんだろうか。

31 :
あの時代は、有能で人望のある奴が皇帝をやればいいって感じだったし、
息子もいない以上、まあいいやって感じじゃったんじゃないの。

32 :
>>31 柴栄スキーとしては、そんなドライな関係は否定したい。
郭威の息子らは殺されて、成人できなかったけど、たとえば後妻・楊氏の弟・楊延璋(美髯・男前)も結構有能な将だったけど、やはり柴栄のほうが重視された。
柴栄は子供の頃、郭家の財政を助けるため(郭威は結構大酒のみで、家計を圧迫していたとかいう話があるw)、行商人とともに淮南方面に出稼ぎしたりして実の子なみの奉公ぶりだった。
(もっとも、その経歴で、『飛龍伝』では妖しい行商人の苦労人とされてるけど…)

33 :
ほしゅ

34 :
>>32
史実はそうでなくても、もっと人情味のある関係であって欲しいね。

35 :
「知られざる素顔の中国皇帝」と言う本に、
「柴栄を名将と呼ぶにためらいがあるのは、補給の軽視によるところが大きい」
と書かれていた。

36 :
それ以上に民政統治に意を注いでいるし、それが致命傷になったことがない上、かならず挽回しているから大丈夫。
だいたい趙匡胤だって2度も失敗している例をとられても、もうひとつ納得できかねる。
そういう一面だけですべてを語ったように見せるその本は、あまりお勧めできない。
そのあとに続く、趙匡胤マンセーをみればあきらかだろうしね。
この時代はどうして戦乱が絶えなかったのか、どうして地方が好き勝手やっていたのか、ってところまで突き詰めないと、何も見えてこない。
他の時代と違って、節度使に密着した地域住民が中央の統制を受けないような状態だったからこそ、兵乱が絶えなかったわけ。
柴栄がやろうとしたのは、中央集権の回復と、地方の弱化。
民衆の徴発も、あるいはそれに即した流れだったのかもしれない。
しかし一方では、生産性の向上、農地の確保、農業の奨励、わずかな期間でありながら、いろいろ改革をやって軌道にのせているのは、実のところものすごい功績なんだ。
しかも、柴栄が崩御するころになると、武力討伐がなされていないだけで、華南勢力は後蜀以外はほとんど傘下に入っていたし。

37 :
五代の皇帝って大体が暴君か暗君だけど郭威って柴栄のせいで影薄いね
実際どんな人物だったのか

38 :
>>柴栄のせいで影薄いね
そんなことはない。 ただ知らないだけ。
どんな人物?
そうだな、わかりやすくいうと…
プロトタイプ趙匡胤
だと見ている。

39 :
柴栄って、皇帝直属の軍隊を整備して相対的に節度使の力を弱め、
各地を攻めて領土を広げて・・・・・・
と改革や出征などで統一の基盤を整えたかなりの名君なわけだけど、
在位期間たったの5年なのね。
いろんなことしているから、もっと長いこと在位していたような印象がある。

40 :
凝縮された5年6ヶ月。
その忙しい政務と親征で、まともに寝てないのではないかと思われる。
寿州包囲時、餅が薄いとキレて趙弘殷(匡胤のオヤジ)になだめられるという、余裕のなさが垣間見れる。
ゆえにその苛烈さも手伝って、あまり親しみをもたれていない英雄。
ちょっと前の織田信長的イメージのとらえ方だと思える。

41 :
雍正帝並みに忙しい皇帝稼業をしていたのだろうか

42 :
過疎っているので五代群雄伝スレに合流したほうがいいと思うな。
>>41
http://hobby9.2ch.sc/test/read.cgi/chinahero/1161622713/
の129からに、ちょこっとまとめてます。雍正帝を知らんので比較はできないです。

43 :
雍正帝は、過労死らしいからな。
呂四娘に暗殺されたって伝説もあるけどw

44 :
この人は中国ではそんなに人気はないのかな?

45 :
直後に、親しみが持てる人柄な上に、飛龍傳といった物語もある、
趙匡胤が控えているからな。
ちょっと影が薄くなりがちかも。

46 :
今の日本なら人気は
信長>秀吉だと思うんだが、柴栄>趙匡胤にはならんのか

47 :
趙匡胤は即位後から晩年まで見ても秀吉の晩年みたいにちょっとおかしくなった?というようなこともないしなぁ。

48 :
秀吉は趙匡胤と趙匡義両方あわせた感じがする

49 :
柴栄の肖像画がぐっとイケメンだったらなw

50 :
39歳で死んだのに、あの疲れきった晩年サラリーマンでは…(トランプではピザデブorz)
書いた人の悪意を感じるw

51 :
柴栄の肖像画っていつ描かれたのかな?
ああいうのって当人の生前に、当人の前で描くものなの?
それとも後継者(趙某)が描かしたものなの?

52 :
若いうちに死んだから、生前に描く暇はなかったのかもね。
皇帝時代はものすごく忙しそうだし。

53 :
柴栄のもとには、趙匡胤の趙普とでもいうべき、グランドデザイナー王朴がいたのだけど、
この人、柴栄が北伐に向かう前に早死にしたんだよな。
北宋が天下経略に用いた「先南後北」策は、王朴が柴栄に提案した国家戦略だった。
ただし、王朴はとにかくまず南唐に一撃を与えた上で、華南勢力の掃討に向かうという案だったのに対し
柴栄はそれを踏まえたうえで、まず後蜀相手に隴西奪還作戦を発動させ、それを陽動として征淮南に挑んだ。
揚子江の線さえ突破した柴栄は、後年南唐征伐にでるかと思いきや、北伐に転じた。
王朴の戦略では、南唐征伐が主眼だったろうけど、柴栄はあえてそれに反し、北に転じた。
惜しいことに、その北伐行の前に王朴が死去してしまったし、その北伐行でも柴栄自身が病に倒れた。
両人とも長生きさえすれば、結構理想のコンビだったろうと思われる。

54 :
最近、ちょくちょく他のスレでも柴栄の名を目にすることがある。
ま、多少は知名度も上がってきたかな、と。
名将百選スレでも推したけど、柴栄の軍事能力についてメスをいれてみようと思う。
一言でいってこの人の用兵は「イケイケ」。
もうちょっと言葉を選ぶと「果断速攻」。
即位してから、たかだか5年6ヶ月の間の治世でしかないから、それですべてというわけではないが
その間に起こった事象をもとに、彼の軍歴を洗ってみる。
・高平親征
・太原攻撃
・秦鳳奪還戦
・第一次淮南戦役/第一次寿州攻撃
・第二次寿州攻撃
・第二次淮南戦役(三度目の征淮南)
・燕雲十六州奪還戦(北伐)
ざっとこんなもん。
国力に関しては、先帝郭威の農業奨励などとあいまって、国内が落ち着いてきていたのが幸いしている。
とはいえ、柴栄が晋王として開封府尹をやっていた頃には、不平分子だった王殷などを追放し
かつてのような節度使や重臣の、面従腹背はとりあえず水面下に沈んだ(なくなったわけではない)。
荒廃して南唐などに逃げていた中原の民は、徐々に戻りつつあり、いい状態となっていた。
しかし郭威の死により、新帝即位となり、朝廷に軽く不安が奔る。
後漢の皇弟だった劉崇の北漢が、この時期を狙って契丹の助力を得て侵入。その数4万。
対北漢の最前線たる潞州軍は、敵に対し寡兵であるしまた伏兵にしてやられ、突破されてしまった。
敵軍潞州通過により、柴栄は親征を決定。
三軍になる防衛軍を編成し、第三軍とともに開封を出発。
8日で澤州東北に着陣(黄河の渡河もあり、異様な行軍速度)
さて、三方面から北漢軍に対した防衛軍配備をしているが、柴栄の本隊が早すぎたため
他の部隊が間に合わない。第三軍だけでは陣容が薄いが、北漢にとっては大いなるチャンスだった。
澤州高平で両軍の戦闘が開始されたが、後周軍の右軍が敵前逃亡し、北漢優勢。
魏仁浦の進言により、柴栄は陣頭指揮にでる。
皇帝が前線に出たことにより、後周軍の士気が高まり、「一人で百人に匹敵する」と言われる勢いを得た(イケイケ)。
このとき用兵の妙を見せたのは趙匡胤。彼は戦いつつ2千ほどの集団を作り、敵陣に密集突撃し
敵陣崩壊の糸口を作っている。
形勢が逆転した頃、後周軍の後発軍が到着し、兵力の上から優勢になったので、時を移さず追撃に出た。
追撃を受けた北漢軍は、皇帝劉崇が農民に身をやつして逃げねばならないほどだったが、
柴栄はあらかじめ、北漢軍の退路となるであろう地に伏兵を配していた(遠謀)。
しかしその伏兵部隊は、高平の戦いでの後周軍右軍壊滅の報を得た時点で退去していた。残念。
劉崇を捕捉できないまま、潞州に入城した柴栄は、敵前逃亡した右軍将兵70余人を皆殺しにする。
(敵前逃亡したのに、またわざわざ復命にもどってきたのだった)

これは長くなるな。
シリーズで書いていくか。

55 :
続き。太原攻めまで。
柴栄はすぐさま論考行賞して、性急に太原攻めを敢行。目的は劉崇を意気消沈させること。
5日で遠征軍が編成され、民の徴発もあわせて10万ほどの人数で北漢に向かった(民を使役すること大)。
21日目にして遠征軍は北漢領土の大半を抜く(戦功は柴栄の手柄とはならないが、そうさせる下準備はあった)。
柴栄、ここにきて潞州から太原城下の遠征軍本隊に移動し、本営を置き、陣頭指揮する。
そして、戦略目標も「北漢への打撃」から「北漢征伐」に切り替えた(気が逸ったか?準備不足、下策である)。
結果、契丹の加勢と食料欠乏により、徐々に不利に。
食料においては、現地略奪が横行し民は姿を晦まし非協力的に。
契丹軍の来援で、驍将の史彦超が戦死し、宿将の李筠もようやく逃げるという有様の状態で、
各地の軍隊も契丹軍により大敗を喫する。
最後の総攻撃は雨中で行われた。
韓通は土竜戦法で城壁に肉薄し、趙匡胤は城門を焼いて突撃したとき矢にあたるという激しさだったが
柴栄自ら指揮した攻城戦はかんばしくなく、ついに撤退を決意。
退却戦では薬元福のしんがりにより、来るとき以上の速度で逃げ帰った。
そのとき、軍としての規律、また兵数そのものをも著しく損ねた。
ただし、この戦いのあと北漢の劉崇は覇気を失い、ほどなく死去する。
原因が一時とはいえ、ほぼ全領土を占領されたことであろうことは想像できる。

とりあえずここまで。

56 :
あんまり需要はなさげだが、最後まで独り言を続けてみよう。
秦鳳奪還戦のこと。
即位早々親征かまして、ながらく京師を留守にした柴栄(約3ヶ月といったところか)。
帰還後はしばらく内政に努める。
特筆は禁軍の改変。侍衛親軍の冗員削減と、殿前軍の一新。
柴栄は洛陽(西京)の一役人の意見書なども自ら決裁した(皇帝の万機親裁)。
郭威の治政のおかげで、親征しても皇帝の地位をゆるがす事件が起きなかったのは幸い。
各節度使にも特に表立った反逆がないのは、すべて先帝郭威の遺産。
ただし、禁軍将校はさにあらず。
そのための改変だった。
その果断により、より皇帝の地位を強化することになる。
北漢遠征の失敗を、準備不足もむろんだが、究極的に国家としての体力に問題があるとして
急速な内地充実策を推進するがための万機親裁だった。
(朝臣には、この独裁の態度は受けが悪かったが、柴栄はそれを無視した)
逃げた農民の帰還を奨励し、契丹への防衛として河北に五段からなる防衛ラインを構築して守備を強めた。
また、かの仏教弾圧を行い、銅銭と生産力の大幅な確保を為した(当然非難は激しい)。
この仏像破壊の件で、のちに柴栄が北伐中、胸に悪性の腫瘍ができて死亡するという、因果説がある。
さらに開封を完全な首都とするため、あらたに外城の建設を企画した。
そういうとき、天下平定のための御前会議を開き、そこで翰林学士の王朴あざなを文伯が、ひとつの意見を言った。
いわく、南唐との境界線が長いので、敵を奔命に疲れさせ国力疲弊を引き起こす作戦が肝要で
揚子江以北を得てそこを橋頭堡とすれば、以南も容易に落ち(容易ではなかったのだが)、いきおい
蜀や南漢も支配下におくことができるだろう。ただし、北漢だけは必死に抵抗するだろうから
最後に圧倒的兵力差で押し切るしかない。
という感じのものだった。この頃、敵としては北漢・契丹を除けば南唐が最強で、後蜀、南漢と続く。
他は後周を宗主国としている同盟国だった。
その意見を取り入れた柴栄はしかし、西を狙った。
契丹襲来のおり、もともと後晋臣下だった秦州の節度使が契丹の支配から逃れ後蜀に
領地ごと寝返ったのだった。
その上で、鳳州も攻略していたが、それが今になってその領地の住民が、支配のあまりのひどさに
後周への帰属を訴えてきたのがことの始まり。
そのため統一事業を意識しての御前会議を開いたが、まず比較的容易そうな、こちらから手をつけることにした。
宰相・王溥の推挙により、方面軍司令官は向訓あざなを星民と、鳳翔節度使の王景をもってし、
秦、鳳、成、階の四州攻略を命じた(親征はなし)。
後蜀の方は、客省使・趙季良を防衛軍の総監督に起用したが、大散関を抜けた後周軍は
瞬く間に秦州の城塞八つを落としたので、趙季良はびびってひとりで成都に逃げてしまった。
前線で防衛軍の指揮を執る任に当たっていたのが李廷珪で、彼の自在の用兵により
王景らはすっかり足を止められ、武威城の戦いでは大敗し、排陳使(副将みたいなもん)の胡立が捕まるなど
かなりの苦戦を強いられた。また、例によって兵站線の長さから、補給が苦しくなってもいた。
そうなると遠征は失敗のものとし、撤退の声が上がったが、柴栄は韓通を援軍として派遣した。
それでも好転しなかったので、趙匡胤に視察を命じ、攻撃続行を決定した。
この趙匡胤派遣はかなり含むところがある。視察ではなく攻撃強化命令であった。
柴栄の苛烈さはすでに誰の脳裏にもあることなので、むざむざ負けて帰ったら殺される、
くらいの強迫観念はあったろう。涙目で必死になった向訓と王景らは奮戦した。
李廷珪の軍を一撃した後周軍は、将兵300人の捕虜を得る大勝をなした。
李廷珪は負けじと、別将を遣わして後周軍の糧道を断つ作戦に出たが、
それを読んだ王景は、裨将の張建雄を敵の別働隊に当て、自身は李廷珪の退路に回りこれを覆滅した。
この戦いを契機に、攻略目標とした四州は陥落した。
そして、この戦いが終るのを待たず、柴栄はすでに淮河を越えて、淮南の地に立っていた…
なんか、だんだん小説ばりになってきた?

57 :
さぁ、今日もいってみましょうか。
後周軍の見せ場、征淮南。
第一次淮南戦役のこと。
南北大戦といえば大げさになるが、この一連の戦いを通じて並立していた諸国のパワーバランスが崩れた。
ことの発端は、気ぜわしい柴栄の性格と統一目標完遂のためと、王朴の意見書。
王朴いわく「先南後北」。華南一帯を平らげてから北に向かう、という国家戦略。
とはいえ、柴栄はいきなり西にむかうという天邪鬼ぶり。
しかしその秦鳳奪還戦が苦境から好転し、王景が李廷珪を大破し三州を奪還した頃を見計らって
はやくも淮南へ第一陣を派遣した。
文官の枢密使・李穀率いる後周軍の先鋒は正陽に浮橋をかけ、速攻で淮河南岸に上陸。
淮南の要衝である寿州を総攻撃する。
南唐の李璟は遅まきながら、迎撃軍を出撃させる。
幸い、寿州の節度使・劉仁贍は並みの男ではなかったので、あっさり陥落される愚は犯さなかった。
というのも、実は南唐はこの一昨年前、大規模な飢饉が発生しており、その再建のため
国庫がかなり厳しい状況だった。
そして、後周軍が北漢や後蜀と戦っている状況でもあったので、淮河の防衛軍を撤廃していたのだった。
李穀がやすやすと淮河を越えられたのも、それが一因している。
むろん、それを見越しての出兵だろうが。
ただし、寿州の劉仁贍だけは、北辺の安泰を無条件で信じておらず、常に防備のための準備を怠らなかった。
李穀が攻めてもビクともしなかった。
そして南唐軍は劉彦貞を主将とした迎撃軍が寿州に到達する頃、李穀は敵の援軍を恐れて正陽に後退した。
李穀のこの後退は整然といかず、潰走になってしまい劉彦貞に隙を作ってしまった。
追撃する劉彦貞。しかし劉仁贍は「深追い厳禁」と釘を打つ。無視する劉彦貞。
すでに車駕を発していた柴栄は南下する途上で李穀の後退を耳にし、侍衛親軍の大将・李重進を急行させた。
はたして李重進は劉彦貞の水軍と激突。正陽の東で迎え撃った李重進は、斬首2万、俘虜3千、
追撃30里におよび、劉彦貞を斬り、裨将の咸師朗を捕らえるという幸先のよすぎる大勝を得た。
気をよくした柴栄は、ふたたび寿州を包囲すると共に、後周領内から民を徴発し数十万人を攻撃軍に加えた。(悪魔のような民衆酷使)
寿州攻撃軍を大本営とし、自ら督戦し昼夜をわかたず波状攻撃する柴栄。しかしそれでも落ちない劉仁贍。
南唐の援軍を趙匡胤を派遣して撃ち破り、今度は趙匡胤を滁州方面に向かわせこれを攻略させる。
趙匡胤は清流関を守っていた皇甫暉を破り、退いた皇甫暉は滁州にて3万の軍を整え、
「兵を揃えて決戦しようではないか」と誘った。笑って受ける趙匡胤。
趙匡胤の手勢は2000。数で勝てると思った皇甫暉は、しかし一直線に単騎で馳せた趙匡胤のために
脳天に一撃を喰らい捕縛されてしまう。
南唐からの講和の使者を無礼として無視した柴栄は、さらに韓令坤を揚州(江都)攻略に向かわせ、
さらに泰州までをも切り取らせた。
趙匡胤は滁州から六合(金陵城の真北)に進み、これを押さえた。
寿州城はまだ落ちない。
南唐側は、おりからの大雨を奇貨として、反撃を開始した。
柴栄は水軍での決戦は本意でなかったし、また水軍自体を舐めていたので、この大雨に泣かされることに。
水量の増した淮南では兵站線が沼や湖沼で途切れてしまい、また多くの攻城兵器などもぬかるみにはまってしまった。
一番遠くに派遣されている韓令坤を標的に、南唐軍は斉王・李景達を大将、陸孟俊を別働隊として
揚州奪還のため、派遣した。
分進合撃によって韓令坤を包囲するはずだったが、六合に上陸した李景達は、2000程度の趙匡胤に
攻撃軍2万が壊滅させられてしまった。
一方、陸孟俊の1万は揚州で韓令坤を押していたが、趙匡胤が韓令坤隊の兵士が逃亡しようとするなら
「その足を折れ」と命じていたので、退くもできず踏みとどまっており、援軍を得てようやく撃退できた。
寿州は未だ落ちず。
長引いたので、柴栄は秦鳳奪還戦から帰還した向訓をもって総大将として、自身は一旦京師に帰った。
趙匡胤の武勲が大きく光った戦いだった。

58 :
柴栄の長編小説?拝見させて頂きました。
そこまで全力疾走するかつーぐらいの奮戦振りですな。(逆に死期を悟っとんかいとも見える)
趙匡胤はまさに鬼人ですな。皇帝になった時に将軍達に引退しなよと
さり気なく諭した人物と同一とは思えませんね。
あとですね柴栄は結構メジャーな方だと思いますよ。

59 :
柴栄の長編小説?拝見させて頂きました。
そこまで全力疾走するかつーぐらいの奮戦振りですな。(逆に死期を悟っとんかいとも見える)
趙匡胤はまさに鬼人ですな。皇帝になった時に将軍達に引退しなよと
さり気なく諭した人物と同一とは思えませんね。
(この人も俺は好きだなぁ)
あとですね柴栄は結構メジャーな方だと思いますよ。
なんか趙匡胤に美味しいとこ持って行かれた人って印象はあるけどね。

60 :
>>59
うう、反応があった。
どうであれ反応がないのは知名度の低さの表れと思っていたので、これはうれしい。
自分も柴栄自体を知ったのはたかだか5年前だし、中国史に興味を持ったからといって
すぐに知れる人物でもないと思っていたので。
ただ、彼に関する資料は探せば多い。
自分が知らなかっただけで、先人は当然ながら十分に研究材料としていたのですよね。
ま、それで興味を持つかどうかは個人の勝手ということだけど、三戦板の頃から比べたら
ずいぶん、口の端に乗るようになったかな、と。
>>逆に死期を悟っとんかいとも見える
それがよくわからないですね。
柴栄は王朴との対話で、王朴に天文から占いをしてもらい、いつまで生きれるか、を尋ねたことがあります。
まぁ、そんなこと聞くからには、多少不安でもあったんでしょうかね。ともかく…
そのとき王朴は「大いなる福がありましょう。しかし臣は、30年先まではわかりますが、その後は不才の身で分かりかねます」
と言ったそうな。
すると「ならば、はじめの10年間で天下を統一し、次の10年間では民の生活を安定させ、最後の10年間では皆と太平を致そう」
と柴栄は喜んで言ったといいます。
この逸話にある王朴の言葉は、5年と6ヶ月をかけると30になるという、なんとも皮肉なもです。

61 :
柴栄はまだマシな方じゃないのかな?<知名度
なんせ専用スレ立ってんだし。
それに貴方の地道な努力はちゃんと報われます。前向きにいきましょうよ。

62 :
本日は不落の寿州城を陥落させる、第二次寿州城攻撃のこと。
第二次と名打つは、柴栄が親征した回数によるもので、勝手に命名しています。あしからず。
本来は、先の淮南攻略作戦から続いている一連の戦役の中にあります。
柴栄が一旦京師に帰ったあと、遠征軍を任されたのは後蜀との戦いで、秦鳳四州を得た向訓だが
柴栄の帰還により、一時的な士気喪失と、長く伸びた戦線の把握に、ちょいと隙をみせてしまった。
李重進らの波状攻撃を受けている寿州の劉仁贍は、柴栄帰還を見澄まして、防御から一転し反撃に移った。
劉仁贍は出撃し、李重進麾下の侍衛歩兵軍を率いる李継勲の部隊を攻撃。
(李継勲は趙匡胤の十義兄弟のひとりですね)
劉仁贍は李継勲部隊を蹴散らし、邪魔臭い攻城兵器のいくつかを焼き討ちした。
それを契機に南唐側の反撃が強まったが、それ以上に現地進駐軍の秩序の乱れが、より泥沼化していた。
占領下住民への高圧的態度と略奪により(皇帝不在がここまで軍律を損なったか?)、民衆の抵抗を生んだ。
白甲軍という民衆の抵抗運動は、食料が欠乏している後周軍に現地調達さえ許さず
それどころか、後周軍の哨戒部隊や小集団を襲っては無視できない損害を与えた。
悩んだ末、向訓は戦線の縮小を奏上し、寿州城攻略のみに全力を注ぐことにした。
後周軍の後退にあわせ、南唐の李景達は旧領を回復し、10万の兵力でもって寿州包囲軍と対した。
濠州(鍾離)に本営を置いた李景達は、さらに朱元を紫金山に配し、10余の砦を構築させ、
寿州に物資輸送の手をうった。しかし…
朱元は寿州へ向けて連絡壕を掘り進めたが、察知した李重進に邪魔され届かず、
また林仁肇は後周軍の渡河ポイントである下蔡鎮の浮橋を狙って、火船を放ち後周軍を苦しめたが、
対する張永徳は思案して、夜中泳ぎの得意な者を集め、水中から敵船を繋ぎ動けなくしたうえで、
陸上へと退去する敵兵を待ち構えて撃破した。
(李重進、張永徳はともに後周帝室の縁者)
それらを見て取った劉仁贍は、内外呼応して挟撃すれば、敵軍を撃ち破れると考え、
総大将たる李景達に決戦の許しを得ようとしたが、李景達はそれを許さなかった。
その返書を手にした劉仁贍は憤激のあまり卒倒してしまった。
劉仁贍が倒れたので不安になった息子の劉崇諫が降伏しようとしたが、劉仁贍はこれを斬って捨ててしまった。
病床にあってなお、軍律を正した劉仁贍。寿州城はいまだに不落を誇っていた。
さて、京師に帰った柴栄は当然遊んでなどおらず、ふたたび淮南へと赴く準備を整えていた。
敵の水軍を軽視し、補給線が断たれた失敗を補う秘策をもって、前回に淮南を去ってより7ヵ月後
再度、親征した。今度は、巨大戦艦を建造してのことだった。
柴栄は闘艦をはじめとする新造水軍数千を率いて淮河に現れ、南唐軍の度肝を抜いた。
柴栄は最前線を駆け、まず紫金山の朱元を撃破したのを手始めに、許文縝(きょぶんしん)、辺鎬らを
次々と連破し、逃げる南唐軍を淮河を北(後周領)に越えて追撃し、鎮淮軍に追い詰め殲滅した。
攻撃軍5万のうち4万を失い、驚いた李景達は後先構わず金陵に逃げ帰った。
後、この敗戦が彼のトラウマとなったという。
李景達は剛毅な人となりで、悪事を憎む正大な人物だったが、ただ軍事の経験は少なかった。
寿州近辺から南唐軍を掃討した柴栄は、あらためて寿州城攻撃に向かった。
しかし寿州の劉仁贍はすでに意識朦朧。重臣たちの一存で降伏を申し出ることになった。
劉仁贍は輿に担がれ、柴栄の前に出た。
柴栄はその軍略と忠義心を大いに讃え、中書令、鄆州節度使としたが、
劉仁贍はその日のうちに死去した。
寿州の兵力は生き残ったもので1万ほどだったという。
ようやく寿州を得た柴栄だったが、ふたたび雨季がおとずれたので、一旦軍を返すことにした。
付近の住民には食料を放出し、慰撫に努めた上で、開封に帰っていった。

63 :
ついでだから、第二次淮南戦役もいっとこう。
第二次淮南戦役のこと。
親征の回数でいけば、三度目の征淮南。
開封にあること、またまた7ヶ月でせわしなく出陣。京師から運河で、新水軍に搭乗して南下する。
このたびの遠征は淮南、つまり江北十四州すべてを席巻するつもりなので、前回のように
途中で川や湖沼で兵站や進軍が妨げられたはいけないからと、「ラクダ部隊」を編成してのおなりだった。
…どこの国の軍隊かと思わせるが、ラクダは武装した兵士を乗せたまま川などを渡れるからだそうで。
各所に水塞を築いて迎撃する南唐軍。
柴栄はまたまた自ら最前線を駆け陣頭指揮し、淮河沿いに各州城を次々と陥落させていく。
このとき、淮河北岸を柴栄自ら軍を率い、南岸は趙匡胤が統率したという。
淮河もここまで下流にくると、両岸ともに道などなく葦が生い茂り行軍にはまったく難渋したが
兵士たちの士気は異様なほど高く、行軍中、兵士らが自ら作った「檀來の歌」が数里にわたって聞こえたという。
また、民家への略奪を厳禁した後周軍の秩序は、民衆の評判を回復できた。
道すがら、民はすすんで食料を提供したという(かなり誇張が入っていると思える。そこまで協力的になるのはまだ早かろう)。
さて、このまま楽に勝たせてもらえるほど、南唐の人材は消え去ってはいなかった。
淮河の最下流にある楚州城では、楚州防御使の張彦卿以下1000人の防衛軍が後周軍主力を待ち構えていた。
張彦卿は楚州城を枕に討ち死に覚悟の兵らを率いて、絶頂期の柴栄を40日間足止めした。
この激しすぎる張彦卿の抵抗は、柴栄をして悪鬼羅刹に変えてしまった。
付近の住民を緊急徴発し、楚州城の西を流れる運河を浚渫させ、そこに直接軍艦を横付けさせて
楚州城を攻撃させた。
(その作業はわずか10日で完了したので、南唐軍は「神業」といって驚いたという)
さらに城壁に穴を穿ち、もろくなったところに火薬を仕込み爆発させ、崩れた城壁から
一斉に楚州城内へとなだれ込んだ。
市街戦になっても一歩も引こうとしない張彦卿。
柴栄の怒りとあせりは頂点に達し、ここ楚州城では非戦闘員もろとも皆殺しにする蛮行が行われた(楚州屠城)。
楚州を抜き、水軍で運河を南下し、揚州に到着した。すでに先鋒隊は揚州〜泰州へと派遣しており、
通州まで切り取り、同盟国である呉越と直接連絡が取れるようになっていた。
柴栄は揚子江北岸にたち、南岸の金陵を間近にした。
後周水軍はついに揚子江に浮かび、河口で集結していた南唐水軍と激突。
柴栄の果断速攻はここでも本領を発揮し、急襲を受けた南唐最後の水軍は壊滅し、
揚子江の制水権は後周のものとなった。南唐、虫の息。
ついにあきらめた南唐帝・李璟は、後周に対して臣従することになり、江北十四州は後周領となった。
ただ、ここで柴栄が金陵に攻め上らなかったのは、北漢・契丹の動きが活発になっていたことと
さすがに敵の首都まで攻め行けば、相手も必死になるだろうから、今は無理をするべきではない、
といったあたりが重臣らの一致した見解だったからだ。
だが一方で、後周国力の限界でもあったことは推察できる。
ともかく、この南唐の屈服で、後蜀を除く華南政権はすべて後周に入朝し、その宋主権を認めたのだった。

64 :
正直2chで長文読むのはめんどいからHPかなんかでも立ち上げてほしい

65 :
>>64
すでに立ち上げてるよ…
一種の布教活動というやつだ。
しかし、読むのめんどいのなら、軽くスルーしておいてくれ。
ほっといても次で終るから。

66 :
別に興味がないわけじゃないんだ
むしろ読みたいぐらいなんだが、2chだと読みずらいから読む気にならないんだ
だからHP教えろ、な

67 :
>>65
続きはまだですか?
布教活動支援してるのだが…
長文云々は別に気にしなくてもいいかと。

68 :
これで最後、後周の北伐を。
燕雲十六州奪還戦のこと。
燕雲十六州は言うまでもなく、契丹国家、遼に後晋朝が割譲した北方領土。
幽州、雲州の最重要州を擁し、最南端は鎮州(常山)の東に食い込む。
太原晋陽に朝を開く北漢は、遼の属国として、また後漢朝を簒奪した後周朝を不倶戴天の敵として
ことあるごとに南下しては、辺境を騒がせた。
後周にとっては、なにより目障りな存在。
南唐への遠征前、柴栄は一計を案じ、北漢の太原に向けて潞州の重鎮、李筠の軍を差し向けて
これを陽動とした。
しかし思いもかけず寿州にてこずってしまい、かえって北漢には潞州城下に肉薄されてしまった。
また、遼も河北に構築した防衛ラインのおかげで、深く侵入はできないものの、南下の意思は挫けず
ために、揚州攻略後、柴栄は殿前軍大将・張永徳に2万の兵で防衛に向かわしていた。
以上のように、南唐と相対していたとき、北では北漢と遼の動きが活発になっており、
南唐へのとどめの一撃を打ち込めなかった原因のいくつかを占めていた。
もっとも南唐戦での民衆酷使のため、仮にさらなる南下が可能であったとしても、
その戦線が長く続くとも思えないが…
ともあれ、淮南の塩地を手に入れた柴栄はそれを生かすべく、内政に意を用いた。
その内政に励んでいる一方で、北伐の時期をも検討していた。
柴栄がこれまでの五代諸皇帝と決定的に違うところは、受身とならず、またただ相手を蛮族と貶めず
自ら主導権を行使して、北方の問題に立ち向かったことにある。
潞州の李筠は、この時期、北漢が攻めてくればこれを州境で迎え撃ち、敵に隙あれば
州境を侵して突出し、少なからず戦果を挙げていた。
また鄴都の符彦卿なども、河北防衛ラインを楯に契丹の侵入を受け止めていた。
北漢の背後には遼がある。北漢を落とすには遼の援護を断たねばならない。
ゆえに柴栄はこのたび、防御から攻勢に転じることとし、その目標を幽州陥落とした。
幽州は燕雲十六州の中心拠点であるから、ここを落とせば、燕雲十六州の命令機能は崩れることになる。
隋の煬帝が築いた大運河、永済渠から水軍を引っさげて北上する柴栄。
機動力に勝る契丹騎兵に対し、柴栄は水軍を持ってすることでそれを上回った。
この超スピードの北伐軍の行動は隠密裏に行われており、遼軍の意表を衝いた。
自らは竜船の本営にあり、陸上軍を侍衛親軍大将・韓通に、水軍を殿前軍大将・趙匡胤に委ね
幽州の南で、後周領内に食い込む、瀛・莫二州の北側に回り込み、益津関と瓦橋関という
幽州との連絡拠点を瞬く間に落とした。
水軍で行き着ける益津関まで行って、これを攻略し軍勢を陸揚げするとき、柴栄の本営は500人程度の
守備兵しかいなかったという。
陸軍は契丹騎兵と交戦し、その機動戦術に足を止められたいたし、
川幅がせまく全水軍が集中できなかったからだ。
それを察知した遼軍は、柴栄本陣の間断ない攻撃をかけたが、随従していた趙匡胤の采配によって
それを悉く粉砕されたという。
その直後、柴栄はわずかな守備兵をさらに割いて趙匡胤に与え、彼に瓦橋関攻略を命じた。
意表を衝かれた瓦橋関守備兵は風を望ん降り、ここに「一矢も一兵も失うことなく」瓦橋関を得た。
退路を断たれた瀛・莫二州は兵を挙げて投降し、後周領内に食い込んだ地域は回復された。
瓦橋関に本営を置いた柴栄のもとに、新領土総督(淮南)となっていた李重進が援軍をもって参じたので
さらに強化された北伐軍は、幽州の真南にある固安を攻略し、幽州を指呼の間に望んだ。
柴栄は瓦橋関から固安に本営を移そうとし、それを容易にするため道程にある川に橋を架けるように命じた。
その日はそれで日没となったため、固安行きは翌日に延期された。
そしてその夜、柴栄は病に斃れたのである。
幽州攻略は中止され、韓通に命じて益津関に防衛のための城塞を建設させ、李重進らには
北漢の牽制のため、西に向かわせておいて、自身は開封に戻ることにした。
退却に際して、変事を敵に悟らせず、また追撃も許さず、北伐のために開封を発ってより
わずかに60日で帰り来たったのだった。
帰京して20日後、柴栄は39歳にして世を去った。

69 :
さて。
勝手に評してみようか。
しかし、いろいろ思うところはあるが、やっぱ「一代の英雄」でしょうかね。
欠点をあげつらってみる。
生来のものか、後天的なものかは判然としないが、「イラちで性急」なこと。
そのため、皇后符氏には落ち着かせられるエピソードもあり、また寿州包囲時には
餅屋の餅が薄いと激怒して誅殺くらわそうとして、趙弘殷らに押し止められるようなことも。
愛すべき欠点とみるか、狭量とみるかは、その人次第ということで。
あと、その性急さが災いしての、最終的な「見通しの甘さ」がある。
北漢遠征のこと、秦鳳遠征のこと、第一回の淮南遠征のこと。
これら、最終的には柴栄の判断ミスが苦境を招いている。
ただ、これはかなり厳しい意見と自覚している。
北漢遠征は、柴栄自身も郭威の墓前で号泣するくらい後悔したことで、これは弁解の余地はないが
後蜀戦と淮南戦は、その地形にこそ問題が多かった。
どちらも後には克服しているので、そうマイナスではないように思うが、
その間に使役された民衆のことは無視できない。
そして、その判断にミスを生じさせた想定外のことが、攻城戦にてこずったことが挙げられる。
太原、寿州、楚州と思惑を大きく外れて足止めさせられた。
野戦ではあの契丹騎兵にすら負けなしの柴栄が、城攻めではてこずった。
これは、他の州城の陥落ぶりを鑑みると、柴栄の「城攻めがへたくそ」と言うには酷と言うものだろから、
劉仁贍や張彦卿が尋常ではなかったと思いたい。
とくに劉仁贍は後周軍に一度も負けていない。
そのころ「近代無比」と評された後周軍にである。
兵站の件は北漢、後蜀戦と、第一回の淮南戦は見通しの甘さから、失敗しているが、
それ以降、といっても寿州と二回目の淮南戦と北伐だけだが、は北朝の分際で水軍を利用することで克服している。
あと、後世とやかくいわれるのは、万機親裁の態度。
皇帝がすべて決裁する、というのは廷臣にしてみればうざいし、信用されていないのではないかと疑う。
また、狭量の表れとして、それをたしなめる臣下もいたという。
たしかにそういうやり方では、柴栄がいなくなったとき、万事皇帝に委託していた朝廷は揺るぐ。
そういう意味で、長期政権の創設者足り得ないところだろう。
ただし、政治的な遺産としてはどうか?
柴栄の政治理念はおおかた宋朝の沿うところとなった。

70 :
>>69
ワンマンは難しい部分があるよね。
有能であればあるほど成果は上がるが人材とか育ちにくかったりするし。
後燕の慕容垂はワンマンで引っ張っていたが
彼の死後はガタガタになっていったからなぁ…

71 :
>>70
それなんですよね。
仮にあと20年の寿命があれば、また違った結果になったことは間違いないだろうから
推察するしかないところがもどかしい。
人材育成に関して言うと、わりと多くの朝臣を見出しては用いているし、それなりの権限も与えている。
ただ、最終的な行使段階では、必ず柴栄がそれを確認した。
そこが廷臣らの不満が宿る部分かもしれない。
意見もよく聞いたけど、ただ消極論だけは嫌った。
廷臣は得てして事なかれや、大事に至らぬような措置を好むから、その辺が柴栄の性格には合わなかった。
なんといっても、養父である郭威をすら、優柔不断と斬って捨てた人ですから…
ま、とにかく。貴重な意見を感謝します。おかげで最後まで書く気力となりえました。

72 :
>>71 もし柴栄が長生きしてたら明の朱元璋の様になってたかも…
でも寧ろ早死にしちゃったってよかったのかもね。
南朝の梁の武帝(蕭衍)のみたいにあたら長生きして
前半は名君でも老害撒き散らかした人もいるしなぁ…
(柴栄とは逆に仏教に凝って財政圧迫させたり、
捕らえられて餓死させられちゃった人物)
まあ柴栄→趙匡胤と意志は受け継がれてるし結果オーライなのだが。
P.S
貴殿を見ていると五代潰瘍さんの精神が脈々と
受け継がれているのかな?とは感じます。

73 :
>>72
猜疑心の強い柴栄は、朱元璋になっていたかもしれませんね。
どこかのスレで、長生きも能力だ、といった意見があり、
ために柴栄は評価できない(あくまで中国史全体を通じての話だろうが)とされていました。
自分などは、「はぁ、そうですか」としか言えませんが…
>>五代潰瘍さんの精神が脈々
特に深い接点はありませんが、こちらが一方的に師事しているのは否定しません。
文脈が似ていますか?

74 :
戦争でまけたり政争に敗れたりで死を強制されたのならまあ能力の問題と言っても
いいかもしれませんけどねえ>寿命

75 :
>>73
長生きも能力だの意見はたまに見受けますね。
即効で反論が返ってきますが…(俺も反論しました)
某作家、曰く日本の歴史学者は前後の流れを見ず判断を下すそうで
それでは本質は見えて来ないと著書の中で語ってました。
全くその通りだと思いますね。
柴栄を評価出来ないと言ってる人は
何か趙匡胤の為の地均し程度にしか見てないんでしょうか?
>文脈が似ていますか?
似てますね。文脈どころか五代に対する熱き思いというか本当に好きなんだなと。
実際、貴殿は五代潰瘍さんかな?
と古巣に尋ねに行ったぐらいですからw
(あっさり否定されましたけどね)        
あと布教活動なんて言うセリフが五代潰瘍さんと何か重なるんです。
で彼の精神が受け継がれているのかな?と勝手に思った訳なんです。

76 :
いつHP見せてくれるんだ?
すごい楽しみにしてるのだが

77 :
>>74
その場合の死は、憤死とか憂死(っていうのかな?)とかになりますね。
はっきりいって、それは寿命を縮められたと言えるでしょう。
そういう場合、たしかに「ちから及ばず」となり、まぁ能力が足りなかったと言えなくもないですが。
柴栄の場合、やる気まんまんで本営を動かそうとした、その晩に倒れてるんですよね。
一種の過労でしょうが、帰還途上で立ち寄った、かつて治めていた澶州で、ついに不治の病とあきらめたそうです。
>>75
五代に興味をもって、柴栄のことを調べようとしたとき、最初に教えを請うたのが五代潰瘍さんでした。
もっとも2chではなかったので、世界史スレの潰瘍さんと、その人が同一と知ったのは去年のことでしたw
似ている自覚はないし、受け売りで書けるほど話し込んでもいないので、属性ではないでしょうかね。
たしかあの人も三国志愛好家で、ゲーム好きでもありましたっけね。今はどうされていることやら。

78 :
>>76
すまぬ。2chでHP晒せるほど、まだ人間できていませんのでご容赦。

79 :
内容濃いので揚げ

80 :
柴氏の子孫って南宋時代はどこに住んでいたんだろう?

81 :
南宋までの記録はないらしい。
柴宗訓が洛陽に保護された後、房州(湖北)に遷され、そこで程なくして死去(20歳の若さ)。
その後、仁宗のとき、柴家の年長者が柴栄と柴宗訓の墓守を命ぜられ、歴史から消えたそうな。

82 :
その人の名前ってある?

83 :
>>82
なぜかアク禁喰らってたよ。
つうことで、興味あるので検索かけたw
結構出てくる。なんぞ、これ…
まず
・太祖の建隆3年(962)12月の記録。「周の鄭王(柴宗訓)、房州に出て居を遷す」
・仁宗の天聖4年(1026)9月の記録。「周世宗の従孫、柴元亨を三班奉職となす」
・仁宗の嘉祐4年(1059)4月の記録。「(周)柴氏の子孫を崇義公に封じる」
・神宗の熙寧4年(1071)12月の記録。「崇義公の柴詠が職を辞したので、子の若訥が襲位した」
・徽宗の重和元年(1118)閏9月の詔。「(周)恭帝の子孫をもって宣義郎とし、周陵廟を監督させる」
・(南宋)高宗の紹興5年(1135)4月の記録。「周帝室の子孫、柴叔夏が崇義公の襲位のため(朝廷に)訪れる」
・(南宋)理宗の淳裕9年(1249)正月の詔。「周世宗八世の孫、柴.彦穎を承務郎とし、崇義公を襲位させる」
と、いったあたりかな。
なんだ、南宋まできっちりいるじゃん。
しかしどこに住んでいたのかは、これだけではわからないな…
基本的に貴族暮らしのようだけど、房州からは替わっていないようだし。
靖康の変のときも、房州にいたから難を逃れたのだろうか。
ざっと調べただけなんで、こんなもんです。
なんか論文でも書くんですか?

84 :
そういえば、殺人鬼・柴守礼(柴栄のお父ちゃん)はどうなったんだろうか…
従孫はこっちの系統だろうから、いっしょくたに田舎(房州)送りにされたんだろうなぁ。
しかし趙匡胤の世になって、生きた心地せんかったろうな、柴守礼は。

85 :
>>83
それ見ると、都ではなく、地方に住んでいたようだね。
説岳全伝なんかだと、岳飛一家の配流先にいたりなんて設定にしてあったけど。

86 :
柴進の名前を期待したけど、さすがにそれはなかったw
房州というのは、房陵のことで、三国志とかでは
襄陽の西の新城、上庸というあたりなら聞いたことがあると思うが
ちょうどそこにあたる。
結構な田舎なわけだけど、その分平穏だったのかもしれん…
それにしても南遷のごった返しているときでも、よく見捨てられなかったものだ。
理宗のあとがないから、襄漢攻防戦後から南宋滅亡の間にどうなったことやら。

87 :
襄陽のあたりは、宋と金の戦争でもしばしば戦場になっているけど、
房州のあたりはどうだったのかな。
阿波にいた足利氏の一族が、江戸時代になっても、
地元民から「公方さん」と呼ばれて、親しまれていたと聞くから、
房州の柴氏もそんな感じだったのかなと想像。

88 :
柴氏の側でも、危険な立場をわきまえて、
あまり目立とうとするな、というような家訓があったりして。

89 :
針のむしろに座らされているような心地だったかもね。
いつ謀反を疑われるかびくびくとして。

90 :
微妙な立場にいる場合、馬鹿を装うのが一番

91 :
ふと、上げたくなった。
また暇ができたら、高平戦の詳細でも書こうかな。

92 :
柴栄て小説とかにしたら結構面白そうだよね

93 :
あげ

94 :
ひさしぶりに揚げてみる。
柴栄軍団の中核を為す人材は、多くは彼が澶州節度使時代に
得た者が多いけど、その前の河中騒乱のおりに、それぞれ奇縁もある。
まず、趙匡胤。
こやつは後漢のとき、河中の叛乱鎮圧に向かった郭威の軍に自ら参じた。
韓通。
もともと、郭威の太原時代から面識あり、信頼できるものとして
郭威が河中征戦の軍中に招いた。
王審g。
郭威の帳下にあり、河中征戦に従軍。内殿直のなどの禁軍の将となる。
その意味では、韓令坤、慕容延釗などなど、も同じ。
王溥。
後に柴栄に直諫する硬骨漢の片割れ。今一人は范質。
もともとからして郭威の部下。
魏仁浦。
郭威の軍師的人物。柴栄の親征のときは、常に一緒だった。
澶州時代になって、趙匡胤が直参となった。
もともと別節度使の副使になるところ、柴栄が招いた。
郭威のはからいで、補佐として王朴が赴任してきた。
ゴールデンコンビの誕生である。
馬全義が柴栄を頼ってやってきた。もともと河中の将だったけど
乱鎮圧後、行方をくらまし、澶州で任官した。
符彦卿。
この頃、その娘と結婚し、親類関係となる。北の重鎮。鄴は天下の台所。
袁彦がやってきた。
郭威の帳下にあったが、柴栄の幕下に入れられる。
曹彬。
この頃、酒蔵の管理をしていた。趙匡胤に絡まれる。
などなどいっぱい。
多くは、もともと顕職にあるものをそのまま用いていたが
手駒というか、子飼い的な人材は、多くが郭威の帳下に属して
柴栄と浅からぬ面識あった者たちと、そもそも柴栄に付き従った者。
遠征で力を発揮したのは、そういった者達だったようだ。
常に先陣にたち、矢石を冒して督戦した柴栄だったが、一度も矢傷を受けていない。
そのかわりと言ってはアレだが、趙匡胤や王審gなどは敵の矢をありがたく頂戴している。
伝説としては、南唐の名将劉仁贍が、柴栄めがけて矢を放つと、その矢は
突然ちからを失って、地に落ちることが数度あり、劉仁贍は弓を叩きつけて
「天は南唐を滅ぼすのか」と嘆いた… という。

95 :
うひゃあ、下がったなぁ。
上げておこう。

96 :
あげ

97 :
良スレ過ぎるage

98 :
sageてたorz

99 :
柴栄(さいえい)
これをしえいって読んでた。なんかさいえいよりしえいの方が響きがいい
でもすると柴進がししんになってしまい史進とかぶる
柴進はさいしんの方がいい
だから妥協してさいえいに落ち着いたわ

100 :
うわ、懐かしいスレが上がってきたな。
今も昔も主観入りまくりだなw


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