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【昭和の】♪三島の名句・美文♪【遺産】


1 :2010/09/08 〜 最終レス :2018/10/10
三島由紀夫(本名、平岡公威)
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/bf/Yukio_Mishima_1931.gif
http://image.rakuten.co.jp/auc-artis/cabinet/s-2540.jpg
http://www.c21-smica.com/blog_century21_nobu/img_1596165_27088893_0.jpg
大正14年(1925年)1月14日、東京都四谷区(新宿区)永住町2に
父・平岡梓(元農林省水産局長)、母・倭文重の長男として誕生。
昭和45年(1970年)11月25日、自衛隊市ヶ谷駐屯地にて割腹自決。
http://www.geocities.jp/kyoketu/61052.html
檄文 三島由紀夫
http://www.geocities.jp/kyoketu/61051.html
演説文 三島由紀夫

2 :
王子をゆりうごかした愛は、合(みあは)しせんと念(おも)ふ愛であつた。鹿が狩手の矢も
おそれずに牝鹿が姿をかくした谷間へと荊棘(いばら)をふみしだいて馳せ下りる愛であり、
つがひの鳩を死ぬまで森の小暗い塒(ねぐら)にむすびつける愛であつた。その愛の前に
死のおそれはなく、その愛の叶はぬときは手も下さずに死ぬことができた。王子もまた、
死が驟雨のやうにふりそそいでくるのを待つばかりである。どのみち徒らにわたしは死ぬ、
と王子は考へた。死をおそれぬものが何故罪をおそれるのか?

この世で愛を知りそめるとは、人の心の不幸を知りそめることでございませうか。
わが身の幸もわが身の不幸も忘れるほどに。
三島由紀夫「軽王子と衣通姫」より

3 :
たとひ人の申しますやうに恋がうつろひやすいものでありませうとも、大和の群山(むらやま)に
のこる雪が、夏冬をたえずうつりかはりながら、仰ぐ人にはいつもかはらぬ雪とみえますやうに、
うつろひやすいものはうつろひやすいものへとうけつがれてゆくでございませう。

恋の中のうつろひやすいものは恋ではなく、人が恋ではないと思つてゐるうつろはぬものが
実は恋なのではないでせうか。

はげしい歓びに身も心も酔ふてをります時ほど、もし二人のうちの一人が死にその歓びが
空しくなつたらと思ふ怖れが高まりました。二人の恋の久遠を希ふ時ほど、地の底で
みひらかれる暗いあやしい眼を二人ながら見ました。あなたさまはわたくし共が愛を
信じないとてお誡(いまし)め遊ばしませうが、時にはわれから愛を信じまいと
力(つと)めたことさへございました。せい一杯信じまいと力めましても、やはり恋は
わたくし共の目の前に立つてをりました。
三島由紀夫「軽王子と衣通姫」より

4 :
わたくし共の間にはいつも二人の仲人、恋と別れとが据つてをります。それは一人の仲人の
二つの顔かとも存ぜられます。別れを辛いものといたしますのも恋ゆゑ、その辛さに
耐へてゆけますのも恋ゆゑでございますから。

自在な力に誘はれて運命もわが手中にと感じる時、却つて人は運命のけはしい斜面を
快い速さで辷りおちつゝあるのである。

女性は悲しみを内に貯へ、時を得てはそれを悉く喜びの黄金や真珠に変へてしまふことも
できるといふ。しかし男子の悲しみはいつまで置いても悲しみである。

凡ては前に戻る。消え去つたと思はれるものも元在つた処へ還つて来る。
三島由紀夫「軽王子と衣通姫」より

5 :
追憶は「現在」のもつとも清純な証なのだ。愛だとかそれから献身だとか、そんな
現実におくためにはあまりに清純すぎるやうな感情は、追憶なしにはそれを占つたり、
それに正しい意味を索めたりすることはできはしないのだ。それは落葉をかきわけて
さがした泉が、はじめて青空をうつすやうなものである。泉のうへにおちちらばつて
ゐたところで、落葉たちは決して空を映すことはできないのだから。

祖先はしばしば、ふしぎな方法でわれわれと邂逅する。ひとはそれを疑ふかもしれない。
だがそれは真実なのだ。
三島由紀夫「花ざかりの森」より

6 :
今日、祖先たちはわたしどもの心臓があまりにさまざまのもので囲まれてゐるので、
そのなかに住ひを索めることができない。かれらはかなしさうに、そはそはと時計のやうに
そのまはりをまはつてゐる。

美は秀麗な奔馬である。

真の矜恃はたけだけしくない。それは若笹のやうに小心だ。そんな自信や確信のなさを、
またしてもひとびとは非難するかもしれぬ。しかしいとも高貴なものはいとも強いものから、
すなはちこの世にある限りにおいて小さく、ゆうに美しいものから生れてくる。
三島由紀夫「花ざかりの森」より

7 :
わたしはわたしの憧れの在処を知つてゐる。憧れはちやうど川のやうなものだ。
川のどの部分が川なのではない。なぜなら川はながれるから。きのふ川であつたものは
けふ川ではない。だが川は永遠にある。ひとはそれを指呼することができる。それについて
語ることはできない。わたしの憧れもちやうどこのやうなものだ。

ああ、あの川。わたしにはそれが解る。祖先たちからわたしにつづいたこのひとつの黙契。
その憧れはあるところでひそみ或るところで隠れてゐる。だが、死んでゐるのではない。
古い籬(まがき)の薔薇が、けふ尚生きてゐるやうに。祖母と母において、川は地下を
ながれた。父において、それはせせらぎになつた。わたしにおいて、――ああそれが
滔々とした大川にならないでなににならう、綾織るものゝやうに、神の祝唄(ほぎうた)のやうに。
三島由紀夫「花ざかりの森」より

8 :
老婦人は毅然としてゐた。白髪がこころもちたゆたうてゐる。おだやかな銀いろの縁をかがつて。
じつとだまつてたつたまま、……ああ涙ぐんでゐるのか。祈つてゐるのか。それすらわからない。……
まらうどはふとふりむいて、風にゆれさわぐ樫の高みが、さあーつと退いてゆく際に、
眩ゆくのぞかれるまつ白な空をながめた。なぜともしれぬいらだたしい不安に胸がせまつて。
「死」にとなりあはせのやうにまらうどは感じたかもしれない、生(いのち)がきはまつて
独楽(こま)の澄むやうな静謐、いはば死に似た静謐ととなりあはせに。……
三島由紀夫「花ざかりの森」より

9 :
頽廃した純潔は、世の凡ゆる頽廃のうちでも、いちばん悪質の頽廃だ。

愛の奥処には、寸分たがはず相手に似たいといふ不可能な熱望が流れてゐはしないだらうか?
この熱望が人を駆つて、不可能を反対の極から可能にしようとねがふあの悲劇的な離反に
みちびくのではなからうか?

抵抗を感じない想像力といふものは、たとひそれがどんなに冷酷な相貌を帯びやうと、
心の冷たさとは無縁のものである。それは怠惰ななまぬるい精神の一つのあらはれにすぎなかつた。
三島由紀夫「仮面の告白」より

10 :
ロマネスクな性格といふものには、精神の作用に対する微妙な不信がはびこつてゐて、
それが往々夢想といふ一種の不倫な行為へみちびくのである。夢想は、人の考へてゐるやうに
精神の作用であるのではない。それはむしろ精神からの逃避である。

処女だけに似つかはしい種類の淫蕩さといふものがある。それは成熟した女の淫蕩とは
ことかはり、微風のやうに人を酔はせる。それは可愛らしい悪趣味の一種である。
たとへば赤ん坊をくすぐるのが大好きだと謂つたたぐひの。
三島由紀夫「仮面の告白」より

11 :
傷を負つた人間は間に合はせの繃帯が必ずしも清潔であることを要求しない。

潔癖さといふものは、欲望の命ずる一種のわがままだ。

好奇心には道徳がないのである。もしかするとそれは人間のもちうるもつとも不徳な
欲望かもしれない。

謙遜すぎる女は高慢な女と同様に魅力のないものである。

人間の情熱があらゆる背理の上に立つ力をもつとすれば、情熱それ自身の背理の上にだつて、
立つ力がないとは言ひ切れまい。
三島由紀夫「仮面の告白」より

12 :
他者との距離、それから彼は遁れえない。距離がまづそこにある。そこから彼は始まるから。
距離とは世にも玄妙なものである。梅の香はあやない闇のなかにひろがる。薫こそは
距離なのである。しづかな昼を熟れてゆく果実は距離である。なぜなら熟れるとは距離だから。
年少であることは何といふ厳しい恩寵であらう。まして熟し得る機能を信ずるくらい、
宇宙的な、生命の苦しみがあらうか。

一つの薔薇が花咲くことは輪廻の大きな慰めである。これのみによつて殺人者は耐へる。
彼は未知へと飛ばぬ。彼の胸のところで、いつも何かが、その跳躍をさまたげる。
その跳躍を支へてゐる。やさしくまた無情に。恰かも花のさかりにも澄み切つた青さを
すてないあの蕚(うてな)のやうに。それは支へてゐる。花々が胡蝶のやうに飛び立たぬために。

三島由紀夫「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃」より

13 :
極端に自分の感情を秘密にしたがる性格の持主は、一見どこまでも傷つかぬ第三者として
身を全うすることができるかとみえる。ところがかういふ人物の心の中にこそ、現代の
綺譚と神秘が住み、思ひがけない古風な悲劇へとそれらが彼を連れ込むのである。

外的な事件からばかり成立つてゐた浪漫的悲劇が、その外的な事件の道具立を失つて、
心の内部に移されると、それは外部から見てはドン・キホーテ的喜劇にすぎなくなつた。
そこに悲劇の現代的意義があるのである。

確信がないといふ確信はいちばん動かしがたいものを持つてゐる。
三島由紀夫「盗賊」より

14 :
男には屡々(しばしば)見るが女にはきはめて稀なのが偽悪者である。と同時に真の偽善者も亦、
女の中にこれを見出だすのはむつかしい。女は自分以外のものにはなれないのである。
といふより実にお手軽に「自分自身」になりきるのだ。宗教が女性を収攬しやすい理由は
茲(ここ)にある。

女の心に全く無智な者として振舞ひながらその心に触れてゆくやり方は青年の特権である。

愛といふものは共有物の性質をもつてゐて所有の限界があいまいなばかりに多くの不幸を
巻き起すのであるらしい。

ある人にあつては独占欲が嫉妬をあふり、ある人は嫉妬によつて独占欲を意識する。
三島由紀夫「盗賊」より

15 :
嫉妬こそ生きる力だ。だが魂が未熟なままに生ひ育つた人のなかには、苦しむことを知つて
嫉妬することを知らない人が往々ある。彼は嫉妬といふ見かけは危険でその実安全な感情を、
もつと微妙で高尚な、それだけ、はるかに、危険な感情と好んですりかへてしまふのだ。

我々が深部に於て用意されてゐる大きな変革に気附くまでには時間がかかる。夢心地の裡に
汽車を乗りかへる。窓の外に移る見知らぬ風景を見ることによつてはじめて我々は汽車を
乗りかへたことに気附くのである。

ある動機から盗賊になつたり死を決心したりする人間が、まるで別人のやうになつて了ふのは
確かに物語のまやかしだ。むしろ決心によつて彼は前よりも一段と本来の彼に立還るのではないか。
三島由紀夫「盗賊」より

16 :
死を人は生の絵具を以てしか描きだすことができない。

たとひ自殺の決心がどのやうな強固なものであらうと、人は生前に、一刹那でも死者の眼で
この地上を見ることはできぬ筈だつた。どんなに厳密に死のためにのみ計画された
行為であつても、それは生の範疇をのがれることができぬ筈だつた。してみれば、
自殺とは錬金術のやうに、生といふ鉛から死といふ黄金を作り出さうとねがふ徒(あだ)な
のぞみであらうか。かつて世界に、本当の意味での自殺に成功した人間があるだらうか。
われわれの科学はまだ生命をつくりだすことができない。従つてまた死をつくりだすことも
できないわけだ。生ばかりを材料にして死を造らうとは、麻布や穀物やチーズをまぜて
三週間醗酵させれば鼠が出来ると考へた中世の学者にも、をさをさ劣らぬ頭のよさだ。
三島由紀夫「盗賊」より

17 :
皮肉な微笑は、かへつて屡々(しばしば)純潔な少女が、自分でもその微笑の意味を知らずに、
何の気なしに浮かべてゐることがあるものだ。

いかに純潔がそれ自身を守るために賦与した苦痛の属性が大きからうと、喜びの本質を
もつた行為のなかで、その喜びを裏切ることが出来るだらうか。

人は死を自らの手で選ぶことの他に、自己自身を選ぶ方法を持たないのである。生を
選ばうとして、人は夥しい「他」をしかつかまないではないか。
三島由紀夫「盗賊」より

18 :
自殺しようとする人間は往々死を不真面目に考へてゐるやうにみられる。否、彼は死を
自分の理解しうる幅で割切つてしまふことに熟練するのだ。かかる浅墓さは不真面目とは
紙一重の差であらう。しかし紙一重であれ、混同してはならない差別だ。――生きて
ゆかうとする常人は、自己の理解しうる限界にαを加へたものとして死を了解する。
このαは単なる安全弁にすぎないのだが、彼はそこに正に深淵が介在するのだと思つてゐる。
むしろ深淵は、自殺しようとする人間の思考の浮薄さと浅墓さにこそ潜むものかもしれないのに。

人間の想像力の展開には永い時間を要するもので、咄嗟の場合には、人は想像力の貧しさに
苦しむものだつた。直感といふものは人との交渉によつてしか養はれぬものだつた。
それは本来想像力とは無縁のものだつた。
三島由紀夫「盗賊」より

19 :
死といふことは生の浪費ではありませんわね。死は倹(つま)しいものです。

何のために生きてゐるかわからないから生きてゐられるんだわ。

何気なく何物かを宿し、その宿したものに対して忠実なのは女だ。彼女の矜りの表情は
彼女の知らないところに由来してゐる。

必要に迫られて、人は孤独を愛するやうになるらしい。孤独の美しさも、必要であることの
美しさに他ならないかもしれないのだ。
三島由紀夫「盗賊」より

20 :
地球といふ天体は喋りながらまはつてゐる月だつた。喋りつづけてゐるおかげで、人間は
地球がもうすつかり冷却して月とかはりなくなつてゐることに気附かない。しかも
地球といふ天体は洒落気のある奴で、皆が気附かなければそれなりに、そしらぬ顔をして
廻りつづけてゐるのだつた。

決して生をのがれまいとする生き方は、自ら死へ歩み入る他はないのだらうか。
生への媚態なしにわれわれは生きえぬのだらうか。丁度眠りをとらぬこと七日に及べば
死が訪れると謂はれてゐるやうに、たえざる生の覚醒と生の意識とは早晩人を死へ
送り込まずには措かぬものだらうか。

莫迦げ切つた目的のために死ぬことが出来るのも若さの一つの特権である。
三島由紀夫「盗賊」より

21 :
女たちの笑ひさざめく声といふのは、どうしてこんなにたのしいのだらう。湖の上に
洩れて映る大きな旅館の宴会の灯のやうだ。そこには地上の快楽が、一堂に集まつてゐる
やうに見えるのだ。

小説家の考へなんて、現実には必ず足をすくはれるもんだ。

四十歳を越すと、どうしても人間は、他人に自分の夢を寄せるやうになる。

自分の小説の登場人物に嫉妬を感じる小説家とは、まことに奇妙な存在だ。
三島由紀夫「愛の疾走」より

22 :
美代は、丁度その時間にそこで作業が行はれてゐず、魚の腹から卵をしぼり出す残酷な仕事を
見ないですんだのを喜んだ。
『でも、卵……卵……卵……。男たちがこんな仕事をしてゐる!』
彼女は何だか自分が魚になつたやうな、ひどく恥かしい感じがした。自分も一人の女として、
冬からやがて春へと動いてゆく、自然の大きな目に見えない流れに、否応なしに押し流されて
ゆくのだと思ふと、しらない間に野球帽も手拭もとつて、寒さのために赤い活気のある
頬をした修一の横顔を、じつと眺めてゐるのが、何だか眩しくなつた。
三島由紀夫「愛の疾走」より

23 :
本当に愛し合つてゐる同士は、「すれちがひ」どころか、却つて、ふしぎな糸に引かれて
偶然の出会をするもので、愛する者を心に描いてふらふらと家を出た青年が、思ひがけない辻で
パッタリその女に会つた経験を、ゲエテもエッカーマンに話してゐるほどだ。

クライマックスといふものは、いづれにせよ、人をさんざんじらせ、待たせるものだ。
第一の御柱は崖のすぐ上辺まで来てゐるのに、ゆつくり一服してゐて、なかなか
「坂落し」ははじまらなかつた。

女といふものはな、頭から信じてしまふか、頭から疑つてかかるか、どつちかしかないものだな。
どつちつかずだと、こつちが悩んで往生する。漁も同じだ。『今日はとれるかな、とれないかな』
……これではいかん。必ず大漁と思つて出ると大漁、からきしダメだらうと思つて出ると大漁、
全くヘンなものだ。こつちが中途半端な気持だと、向ふも中途半端になるものらしい。
全くヘンなものだ。
三島由紀夫「愛の疾走」より

24 :
突然、美代は両手で自分の顔をおほひ、体を斜めにして、修一の腕をのがれた。
修一はおどろいてその顔を眺め下ろした。美代は泣いてゐた。
声は立てなかつたが、美代は永久に泣きつづけてゐるやうで、その指の間から、涙が
嘘のやうに絶え間なくこぼれおちた。顔をおほつてゐる美代の指は、華奢な美しい女の
指とは言へなかつた。意識してかしないでか、美代は自分の一等自信のない部分へ、
男の注視を惹きつづけてゐたことになる。
それは農村で育つたのちに、キー・パンチャーとして鍛えられた指で、右手の人差し指と
中指と薬指、なかんづく一等使はれる薬指は、扁平に節くれ立つて、どんな優雅な指輪も
似合ひさうではなかつた。
しみじみとその指を眺めてゐた修一は、労働をする者だけにわかる共感でいつぱいになつて、
その薬指が、いとほしくてたまらなくなり、思はず、唇をそれにそつと触れた。
三島由紀夫「愛の疾走」より

25 :
…もともと口下手の修一は、こんなときに余計なことを言ひ出して、事壊しになるやうな
羽目には陥らなかつた。彼は子供が好奇心にかられて菓子の箱をむりやりあけてみるやうに、
かなり強引な力で、美代のしつかりと顔をおほつてゐる指を左右にひらいた。
涙に濡れた美しい顔が現はれた。しかし崩れた泣き顔ではなくて、涙のために、一そう
剥き立ての果物のやうな風情を増してゐた。修一はいとしさに耐へかねて、顔を近づけた。
するとその泣いてゐた美代の口もとが、あるかなきかに綻んで、ほんの少し微笑したやうに
思はれた。
それに力を得て、修一は強く、美代の唇に接吻した。
三島由紀夫「愛の疾走」より

26 :
……美代はこの唇こそ、永らく待ちこがれてゐた唇だと、半ば夢心地のうちに考へた。
もう何も考へないやうにしよう。考へることから禍が起つたのだ。何も考へないやうにしよう。
……こんな場合の心に浮ぶ羞恥心や恐怖や、果てしのない躊躇逡巡や、あとで飽きられたら
どうしようといふ思惑や、さういふものはすべて、女の体に無意識のうちにこもつてゐる
醜い打算だとさへ、彼女は考へることができた。純粋になり、透明にならう。決して
過去のことも、未来のことも考へまい。……自然の与へてくれるものに何一つ逆らはず、
みどり児のやうに大人しくすべてを受け容れよう。世間が何だ。世間の考へに少しでも
味方したことから、不幸が起つたのだ。……何も考へずに、この虹のやうなものに全身を
委ねよう。……水にうかぶ水蓮の花のやうに、漣(さざなみ)のままに揺れてゐよう。
三島由紀夫「愛の疾走」より

27 :
……どうしてこの世の中に醜いことなどがあるだらうか。考へることから醜さが生れる。
心の隙間から醜さが生れる。心が充実してゐるときに、どうして、この世界に醜さの
入つてくる余地があるだらうか。……今まで誰にも触れさせたことのない乳房を、修一の
大きな固い掌が触つた。この人は怖れてゐる。慄へてゐる。どうして悪いことをするやうに
慄へてゐるのだらう。……この太陽の下、花々の間、遠い山々に囲まれて、悪いことを
人間ができるだらうか。……美代の心からは、人に見られる心配さへみんな消え失せてゐた。
世界中の人に見られてゐても、今の自分の姿には、恥づべきことは何一つないやうな気がした。……
それでゐて、美代の体が、やさしく羞恥心にあふれてゐるのを、修一は誤りなく見てゐた。
丈の高い夏草の底に埋もれて、彼女はそのまま恥らひのあまり、夏の驟雨のやうに地面に
融け込んでしまひさうだつた。
三島由紀夫「愛の疾走」より

28 :
初恋がすらすらと結ばれたら、そんな夫婦の一生は、箸にも棒にもかからないものになる。
人間は怠け者の動物で、苦しめてやらなくては決して自分を発見しない。自分を発見しない
といふことは、要するに、本当の幸福を発見しないといふことだ。
三島由紀夫「愛の疾走」より

29 :
佃煮や煮豆の箱がいつぱい並んでゐる。福神漬のにほひがする。そぼろ、するめ、わかめ、
むかしの日本人は、粗食と倹約の道徳に気がねをして、かういふちつぽけな、あたじけない
享楽的食品を、よくもいろいろと工夫発明したものである。

正義を行へ、弱きを護れ。

自分が若いころ闊歩できなかつた街は、何だか一生よそよそしいものである。

とにかく人生は柔道のやうには行かないものである。人生といふやつは、まるで人絹の
柔道着を着てゐるやうで、ツルツルすべつて、なかなか業(わざ)がきかないのであつた。

人生つて、右か左か二つの道しかないと思ふときには、ほんの二三段石段を上つて、
その上から見渡してみると、思はぬところに、別な道がひらけてるもんなのよ。さうなのよ。

人間には、自由だけですまないものがある。古い在り来りな、束縛を愛したい気持もある。
三島由紀夫「につぽん製」より

30 :
素足で歩いては足が傷ついてしまふ。歩くためには靴が要るやうに、生きてゆくためには
何か出来合ひの「思ひ込み」が要つた。

悦子は明日に繋ぐべき希望を探した。何か、極く小さな、どんなありきたりな希望でもよい。
それがなくては、人は明日のはうへ生き延びることができない。明日にのこつてゐる繕ひものとか、
明日立つことになつてゐる旅行の切符とか、明日飲むことにしてある罎ののこりの僅かな酒とか、
さういふものを人は明日のために喜捨する。そして夜明けを迎へることを許される。

われわれが人間の目を持つかぎり、どのやうに眺め変へても、所詮は同じ答が出るだけだ。

苟(いやしく)も仕事をしようとすれば、命を賭けずに本当の仕事ができるものではない。

生れのよい人間は滅多に風流になんぞ染つたりはせぬものだ。
三島由紀夫「愛の渇き」より

31 :
われわれはむしろ、自分が待ちのぞんでゐたものに裏切られるよりも、力(つと)めて
軽んじてゐたものに裏切られることで、より深く傷つくものだ。それは背中から刺された
匕首(あいくち)だ。
人生が生きるに値ひしないと考へることは容易いが、それだけにまた、生きるに値ひしない
といふことを考へないでゐることは、多少とも鋭敏な感受性をもつた人には困難である。

この世の情熱は希望によつてのみ腐蝕される。

ある人たちにとつては生きることがいかにも容易であり、ある人にとつてはいかにも困難である。
人種的差別よりももつと甚だしいこの不公平に、悦子は何ら抵抗を感じなかつた。
『容易なはうがいいにきまつてゐる』と彼女は考へた。『なぜかといへば、生きることが
容易な人は、その容易なことを生きる上の言訳になどしないからだ。それといふのに、
困難のはうはすぐ生きる上の言訳にされてしまふ。
三島由紀夫「愛の渇き」より

32 :
生きることが難しいなどといふことは何も自慢になどなりはしないのだ。わたしたちが
生の内にあらゆる困難を見出す能力は、ある意味ではわたしたちの生を人並に容易にするために
役立つてゐる能力なのだ。なぜといつて、この能力がなかつたら、わたしたちにとつての生は、
困難でも容易でもないつるつるした足がかりのない真空の球になつてしまふ。この能力は
生がさう見られることを遮(さまた)げる能力であり、生が決してそんな風に見えては
来ない容易な人種の、あづかり知らぬ能力であるとはいへ、それは何ら格別な能力ではなく、
ただの日常必需品にすぎないのだ。人生の秤をごまかして、必要以上に重く見せた人は、
地獄で罰を受ける。そんなごまかしをしなくつても、生は衣服のやうに意識されない
重みであつて、外套を着て肩が凝るのは病人なのだ。
三島由紀夫「愛の渇き」より

33 :
下から上を見たときも、上から下を見たときも、階級意識といふものは嫉妬の代替物に
なりうるのだ。

人生には何事も可能であるかのやうに信じられる瞬間が幾度かあり、この瞬間におそらく人は
普段の目が見ることのできない多くのものを瞥見し、それらが一度忘却の底に横たはつたのちも、
折にふれては蘇つて、世界の苦痛と歓喜のおどろくべき豊饒さを、再びわれわれに向つて
暗示するのであるが、運命的なこの瞬間を避けることは誰にもできず、そのために
どんな人間も自分の目が見得る以上のものを見てしまつたといふ不幸を避けえないのである。

あまりに永い苦悩は人を愚かにする。苦悩によつて愚かにされた人は、もう歓喜を
疑ふことができない。

嫉妬の情熱は事実上の証拠で動かされぬ点においては、むしろ理想主義者の情熱に近づくのである。

衝動によつて美しくされ、熱望によつて眩ゆくされた若者の表情ほどに、美しいものが
この世にあらうか。
三島由紀夫「愛の渇き」より

34 :
人間の性の世界は広大無辺であり、一筋縄では行かないものだ。
性の世界では、万人向きの幸福といふものはないのである。

音楽といふ観念が音楽自体を消すのである。

嘘つきの常習犯ほど却つて、自分の喋つてゐることが嘘か本当か知らないのではあるまいか?

一瞬の直感から、女が攻撃態勢をとるときには、男の論理なんかほとんど役に立たないと
言つていい。
三島由紀夫「音楽」より

35 :
いくら成人式をやつたつて、二十代はまだ人生や人間に対して盲らなのさ。大人が
しつかりした判断で決めてやつたはうが、結局当人の倖せになるんだ。むかしは、お婿さんの
顔も知らずに嫁入りした娘が一杯ゐるのに、それで結構愛し合つて幸福にやつて行けたもんだ。

たしかなことは、不幸が不幸を見分け、欠如が欠如を嗅ぎ分けるといふことである。
いや、いつもそのやうにして、人間同士は出会ふのだ。
三島由紀夫「音楽」より

36 :
精神分析学は、日本の伝統的文化を破壊するものである。欲求不満(フラストレーション)
などといふ陰性な仮定は、素朴なよき日本人の精神生活を冒涜するものである。人の心に
立入りすぎることを、日本文化のつつましさは忌避して来たのに、すべての人の行動に
性的原因を探し出して、それによつて抑圧を解放してやるなどといふ不潔で下品な教理は、
西洋のもつとも堕落した下賤な頭から生まれた思想である。

「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」といふ諺が、実は誤訳であつて、原典のローマ詩人
ユウェナーリスの句は、「健全なる肉体には健全なる精神よ宿れかし」といふ願望の意を
秘めたものであることは、まことに意味が深いと言はねばならない。

精神分析学者には文学に関する豊富な知識も必要だ。
三島由紀夫「音楽」より

37 :
人間は、どんなバカでも『お前を盲らにしてやるぞ』と言はれれば反撥する程度の自尊心は
あるから、テレビのコマーシャルをきらふけれど、『お前の目をさまさせてやる』と
言はれて不安にならぬほどの自尊心は持たないから、精神分析を歓迎するわけですね。

男性の不能の治療は、無意識のものを意識化するといふ作業よりも、過度に意識的なものを
除去して、正常な反射神経の機能を回復するといふ作業のはうが、より重要であり、
より効果的である。

見かけは恵まれた金持の息子でありながら、人生は貧乏人さへ知らない奇怪な不幸を
与へることがある。
三島由紀夫「音楽」より

38 :
女の肉体はいろんな点で大都会に似てゐる。とりわけ夜の、灯火燦然とした大都会に似てゐる。
私はアメリカへ行つて羽田へ夜かへつてくるたびに、この不細工な東京といふ大都会も、
夜の天空から眺めれば、ものうげに横たはる女体に他ならないことを知つた。体全体に
きらめく汗の滴を宿した……。
目の前に横たはる麗子の姿が、私にはどうしてもそんな風に見える。そこにはあらゆる美徳、
あらゆる悪徳が蔵されてゐる。そして一人一人の男はそれについて部分的に探りを入れる
ことはできるだらう。しかしつひにその全貌と、その真の秘密を知ることはできないのだ。
三島由紀夫「音楽」より

39 :
われわれは誰が何と言はうと、愛が人間の心にひらめかす稲妻と、瞥見させる夜の青空とを、
知つてをり、見てゐるのである。

どんな不まじめな嘘の裏にも、怖ろしい人間性の問題が顔をのぞかせてゐる。

神聖さと徹底的な猥雑さとは、いづれも「手をふれることができない」といふ意味で似てゐる。

強度のヒステリー性格は、受動的に潜在意識に動かされるだけではなく、無意識のうちに
識閾下の象徴を積極的に利用する。
三島由紀夫「音楽」より

40 :
精神分析を待つまでもなく、人間のつく嘘のうちで、「一度も嘘をついたことがない」
といふのは、おそらく最大の嘘である。

ひとたび実存主義的見地に立てば、「正常な」人間の実存も、異常な人間の実存も、
「愛の全体性への到達」の欲求においては等価であるから、フロイトのやうに、一方に
正常の基準を置き、一方に要治療の退行現象を置くやうな、アコギな真似はできない筈である。
つまりそれはあまりにも、科学的実証主義のものわかりのわるさを捨てすぎたのである。
三島由紀夫「音楽」より

41 :
社会構造の最下部には、あたかも個人個人の心の無意識の部分のやうに、おもてむきの
社会では決して口に出されることのない欲望が大つぴらに表明され、法律や社会規範に
とらはれない人間のもつとも奔放な夢が、あらはな顔をさし出してゐる。

神聖さとは、ヒステリー患者にとつては、多く、復讐の観念を隠してゐる。
三島由紀夫「音楽」より

42 :
待つといふ感情は微妙なものです。それは人の生活に、落着かない不満足な感じと同時に、
待つことそれ自身の言ふにいはれぬ甘美な満足をもたらすからです。

明日の遠足がよいお天気であるやうにとねがふ子供は、その明日がお天気であつただけで、
もはや遠足そのものの与へる愉しみの十中八九を味はひつくしてゐるのです。よいお天気の
朝を見ただけで、彼の満足の大半は、成就されたも同じことです。

仏の花を買ひにゆくといふ殊勝な用事を彼にうちあけることが、私には何故かしら
嬉しかつたのです。私は悪戯をする子供の気持よりも、修身のお点のよいことをねがふ
子供の気持のはうが、ずつと恋心に近いことを知るのでした。まして恋といふものは、
そつのない調和よりも、むしろ情緒のある不釣合のはうを好くものです。
三島由紀夫「不実な洋傘」より

43 :
われわれはふだん意志とは無形のものだと考へてゐる。軒先をかすめる燕、かがやく雲の
奇異な形、屋根の或る鋭い稜線、口紅、落ちたボタン、手袋の片つぽ、鉛筆、しなやかな
カーテンのいかつい吊手、……それらをふつうわれわれは意志とは呼ばない。しかし
われわれの意志ではなくて、「何か」の意志と呼ぶべきものがあるとすれば、それが
物象として現はれてもふしぎはないのだ。その意志は平坦な日常の秩序をくつがへしながら、
もつと強力で、統一的で、ひしめく必然に充ちた「彼ら」の秩序へ、瞬時にしてわれわれを
組み入れようと狙つてをり、ふだんは見えない姿で注視してゐながら、もつとも大切な瞬時に、
突然、物象の姿で顕現するのだ。かういふ物質はどこから来るのだらう。多分それは
星から来るのだらう、と獄中の幸二はしばしば考へた。……
三島由紀夫「獣の戯れ」より

44 :
幸二が正に見たかつたのは、人間のひねくれた真実が輝やきだす瞬間、贋物の宝石が
本物の光りを放つ瞬間、その歓喜、その不合理な夢の現実化、莫迦々々しさがそのまま
荘厳なものに移り変る変貌の瞬間だつた。さういふものの期待において優子を愛し、
優子の守つてゐた世界の現実を打ち壊さうと願つたのだから、それが結果として逸平の
幸福になつても構はない筈だつた。少なくとも幸二は何ものかのために奉仕したのだ。
しかし実際に幸二が見たのは、人間の凡庸な照れかくしと御体裁の皮肉と、今までさんざん
見飽きたものにすぎなかつた。彼は計らずも自分が信じてゐた劇のぶざまな崩壊に立ち会つた。
『そんなら仕方がない。誰も変へることができないなら、僕がこの手で……』
支柱を失つた感情で、幸二はさう思つた。何をどう変へるとも知れなかつた。しかし
着実に自分が冷静を失つてゆくのを彼は感じた。
三島由紀夫「獣の戯れ」より

45 :
『あのとき俺は、論理を喪くしたぷよぷよした世界に我慢ならなかつたんだ。あの豚の
臓腑のやうな世界に、どうでも俺は論理を与へる必要があつたんだ。鉄の黒い硬い冷たい
論理を。……つまりスパナの論理を』

幸二は清の単純な抒情的な魂を羨んだ。硝子のケースの中の餡パンのやうに、はつきりと
誰の目にも見える温かいふつくらした魂。刑務所の庭にも清の語つたのと同じやうな花園があつた。
受刑者たちが手塩にかけて育ててゐるその花園を、幸二は手つだはなかつたけれど、
遠くから愛してゐた。ひどく臆病に、迷信ぶかく、痛切に、しかもうつすらと憎んで。……
三島由紀夫「獣の戯れ」より

46 :
人生とは何だ? 人生とは失語症だ。世界とは何だ? 世界とは失語症だ。歴史とは何だ? 
歴史とは失語症だ。芸術とは? 恋愛とは? 政治とは? 何でもかんでも失語症だ。

座敷のまんなかに深い空井戸が口をあけてゐる家といふものを想像してみるといい。
空つぽな穴。世界を呑み込んでしまふほど大きな穴。あんたはそれを大事に護り、
そればかりか、穴のまはりに優子と俺をうまい具合に配置して、誰も考へつきさうもない
新らしい『家庭』を作り出さうといふ気になつた。空井戸を中心にしたすてきな理想的な家庭。
三島由紀夫「獣の戯れ」より

47 :
死といふ事実は、いつも目の前に突然あらはれた山壁のやうに、あとに残された人たちには
思はれる。その人たちの不安が、できる限り短時日に山壁の頂きを究めてしまはうと
その人たちをかり立てる。かれらは頂きへ、かれらの観念のなかの「死の山」の頂きへ
かけ上る。そこで人たちは山のむかうにひろがる野の景観に心くつろぎ、あの突然目の前に
そそり立つた死の影響からのがれえたことを喜ぶのだ。しかし死はほんたうはそこからこそ
はじまるものだつた。死の眺めはそこではじめて展(ひら)けて来る筈だつた。光にあふれた
野の花と野生の果樹となだらかな起伏の景観を、人々はこれこそ死の眺めとは思はず
眺めてゐるのだつた。
三島由紀夫「罪びと」より

48 :
あれは実に無意味な豪奢を具へた鳥で、その羽根のきらめく緑が、熱帯の陽に映える森の
輝きに対する保護色だなどといふ生物学的説明は、何ものをも説き明しはしない。
孔雀といふ鳥の創造は自然の虚栄心であつて、こんなに無用にきらびやかなものは、
自然にとつて本来必要であつた筈はない。創造の倦怠のはてに、目的もあり効用もある
生物の種々さまざまな発明のはてに、孔雀はおそらく、一個のもつとも無益な観念が
形をとつてあらはれたものにちがひない。そのやうな豪奢は、多分創造の最後の日、
空いつぱいの多彩な夕映えの中で創り出され、虚無に耐へ、来るべき闇に耐へるために、
闇の無意味をあらかじめ色彩と光輝に飜訳して鏤(ちりば)めておいたものなのだ。だから
孔雀の輝く羽根の紋様の一つ一つは、夜の濃い闇を構成する諸要素と厳密に照合してゐる筈だ。
三島由紀夫「孔雀」より

49 :
俺の美は、何といふひつそりとした速度で、何といふ不気味なのろさで、俺の指の間から
辷り落ちてしまつたことだらう。俺は一体何の罪を犯してかうなつたのか。自分も知らない
罪といふものがあるのだらうか。たとへば、さめると同時に忘れられる、夢のなかの
罪のほかには。
三島由紀夫「孔雀」より

50 :
安里は自分がいつ信仰を失つたか、思ひ出すことができない。ただ、今もありありと
思ひ出すのは、いくら祈つても分かれなかつた夕映えの海の不思議である。奇蹟の幻影より
一層不可解なその事実。何のふしぎもなく、基督の幻をうけ入れた少年の心が、決して
分かれようとしない夕焼の海に直面したときのあの不思議……。
安里は遠い稲村ヶ崎の海の一線を見る。信仰を失つた安里は、今はその海が二つに
割れることなどを信じない。しかし今も解せない神秘は、あのときの思ひも及ばぬ挫折、
たうとう分かれなかつた海の真紅の煌めきにひそんでゐる。
おそらく安里の一生にとつて、海がもし二つに分かれるならば、それはあの一瞬を措いては
なかつたのだ。さうした一瞬にあつてさへ、海が夕焼に燃えたまま黙々とひろがつてゐた
あの不思議……。
三島由紀夫「海と夕焼」より

51 :
われわれの内的世界と言葉との最初の出会は、まつたく個性的なものが普遍的なものに
触れることでもあり、また普遍的なものによつて練磨されて個性的なものがはじめて所を
得ることでもある。

少年は何かに目ざめたのである。恋愛とか人生とかの認識のうちに必ず入つてくる滑稽な夾雑物、
それなしには人生や恋のさなかを生きられないやうな滑稽な夾雑物を見たのである。
すなはち自分のおでこを美しいと思ひ込むこと。
もつと観念的にではあるが、少年も亦、似たやうな思ひ込みを抱いて、人生を生きつつ
あるのかもしれない。ひよつとすると、僕も生きてゐるのかもしれない。この考へには
ぞつとするやうなものがあつた。
三島由紀夫「詩を書く少年」より

52 :
あの慌しい少年時代が私にはたのしいもの美しいものとして思ひ返すことができぬ。
「燦爛とここかしこ、陽の光洩れ落ちたれど」とボオドレエルは歌つてゐる。「わが青春は
おしなべて、晦闇の嵐なりけり」。少年時代の思ひ出は不思議なくらゐ悲劇化されてゐる。
なぜ成長してゆくことが、そして成長そのものの思ひ出が、悲劇でなければならないのか。
私には今もなほ、それがわからない。誰にもわかるまい。老年の謐かな智恵が、あの秋の末に
よくある乾いた明るさを伴つて、我々の上に落ちかゝることがある日には、ふとした加減で、
私にもわかるやうになるかもしれない。だがわかつても、その時には、何の意味も
なくなつてゐるであらう。
三島由紀夫「煙草」より

53 :
「いつはりならぬ実在」なぞといふものは、ほんたうにこの世に在つてよいものだらうか。
おぞましくもそれは、「不在」の別なすがたにすぎないかもしれぬ。不在は天使だ。
また実在は天から堕ちて翼を失つた天使であらう、なにごとにもまして哀しいのは、
それが翼をもたないことだ。

そこはあまりにあかるくて、あたかもま夜なかのやうだつた。蜜蜂たちはそのまつ昼間の
よるのなかをとんでゐた。かれらの金色の印度の獣のやうな毛皮をきらめかせながら、
たくさんの夜光虫のやうに。
苧菟はあるいた。彼はあるいた。泡だつた軽快な海のやうに光つてゐる花々のむれに
足をすくはれて。……
彼は水いろのきれいな焔のやうな眩暈を感じてゐた。
三島由紀夫「苧菟と瑪耶」より

54 :
ほんたうの生とは、もしやふたつの死のもつとも鞏(かた)い結び合ひだけから
うまれ出るものかもしれない。

蓋をあけることは何らかの意味でひとつの解放だ。蓋のなかみをとりだすことよりも
なかみを蔵つておくことの方が本来だと人はおもつてゐるのだが、蓋にしてみれば
あけられた時の方がありのままの姿でなくてはならない。蓋の希みがそれをあけたとき
迸しるだらう。

ひとたび出逢つた魂が、もういちどもつと遥かな場所で出会ふためには、どれだけの苦悩や
痛みが必要とされることか。魂の経めぐるみちは荊棘(けいきよく)にみたされてゐるだらう。
三島由紀夫「苧菟と瑪耶」より

55 :
無くなるはずのないものがなくなること、――あの神かくしとよばれてゐる神の
ふしぎな遊戯によつて、そんな品物は多分、それを必要としてゐるある死人のところへ
届けられるのにちがひない。

星をみてゐるとき、人の心のなかではにはかに香り高い夜風がわき立つだらう。しづかに
森や湖や街のうへを移つてゆく夜の雲がただよひだすだらう。そのとき星ははじめて、
すべてのものへ露のやうにしとどに降りてくるだらう。あのみえない神の縄につながれた
絵図のあひだから、ひとつひとつの星座が、こよなく雅やかにつぎつぎと崩れだすだらう。
星はその日から人々のあらゆる胸に住まふだらう。かつて人々が神のやうにうつくしく
やさしかつた日が、そんな風にしてふたゝび還つてくるかもしれない。
三島由紀夫「苧菟と瑪耶」より

56 :
それは矛盾にみちた悲劇的な愛だつた。彼の巧みな手れん手くだに乗ぜられた女が、
やがて彼の愛が冷め、その冷たさ愛を糊塗しようとする彼の手くだの巧みさを見たとしたら、
おそらく興ざめて別離はたやすくなるにちがひない。しかし愛の冷却に伴ふさまざまな困難を
一つとして切抜けかねる彼の意外な不器用さが、女のなかに母性的な別種の愛をめざめさせ、
それがますます別離を困難にすることはありうることだ。

嫉妬は透視する力だ。

愛の問題ではないのです。女には事実のはうがもつと大切です。
三島由紀夫「獅子」より

57 :
皮肉は何といふ美味なつまみものであらう。殊に酒精分の強い洋酒の場合は。

凡て悪への悲しげな意慾が完全に欠如してゐるこのやうな人間、(それこそ悪それ自体)が
地上から滅び去るとはどんなによいことであらう。さういふ善意が滅びることは、
どれほど地上の明るさを増すことだらう。
三島由紀夫「獅子」より

58 :
椅子から体がずり落ちて床に倒れた。生きてゐる間は巧く隠し了せてゐたこの女の地声が
いよいよ聴かれるのだ。それはゲエといつたりウーフといつたりウギャアといつたりする声である。
乳房や頬や胴を猫のやうに椅子の脚や卓の脚にすりつける。顔に塗りたくつた真蒼な白粉が彼女に
よく似合ふ。彼女は頭を怖ろしい音を立てて床へぶつける。白い太腿が蜘蛛のやうな動きで
這ひまはつてゐる。そこにじつとりとにじみ出た汗は、目のさめるやうな平静さだ。
――彼女と卓一つへだてて彼女の父も、熱心に同じ踊りを踊り狂つてゐるのだつた。
彼の呻き声は笑ひ声と同様に無意味である。「苦悩する人」といふ凡そ場ちがひの役処を
彼が引受けてゐるのは気の毒だ。仔犬のやうな目を必死にあいたりつぶつたりしてゐるが、
一体何が見えるといふのか。彼自身の苦悩でさへもう見えはせぬ。彼は口から善意の
固まりのやうな大きな血反吐をやつとのことで吐き出して眠りにつく。さうでもしなければ
安眠できまいといふことを彼はやうやく覚(さと)つたのである。
――繁子は毒の及ぼす効力をこのやうにまざまざと想像することができた。
三島由紀夫「獅子」より

59 :
危険なのは「幸福」の思考ではあるまいか。この世に戦争をもたらし、悪しき希望を、
偽物の明日を、夜鳴き鶏を、残虐きはまる侵略をもたらすものこそ「幸福」の思考なのである。
三島由紀夫「獅子」より

60 :
不吉な宝石によつて投げかけられる凶運の翳といふものを人々はもはや信じまい。
尤もさういふ不信が現代の誤謬でないとは誰も言へまい。現代人は自分の外部に、すべて
内部の観念の対応物をしかみとめない。宝石などといふ純粋物質の存在をみとめない。
しかし人間の内部と全く対応しない一物質を、古代の人たちは物質と呼ばずに運命と
呼んだのではなからうか。精神のうちでも決して具象化されない純粋な精神が、外部に
存在して、ただ一つの純粋物質としてわれわれの内部を脅やかすに至つたのではあるまいか。
死、生、社会、戦争、愛、すべてをわれわれは内部を通じて理解する。しかし決して
われわれの内部を通過しないところの精神の「原形」が、外部からただ一つの純粋物質として
われわれを支配するのではあるまいか。ともすると宝石は、精神の唯一の実質ではなからうか。
三島由紀夫「宝石売買」より

61 :
報ひとは何だらう。そんなものがあつてよいだらうか。報ひといふ考へ方は、いま悪果を
うけてゐる者が、むかしの悪因の花々しさに思ひを通はす、殊勝らしい身振にすぎぬではないか。

貴族とは没落といふ一つの観念を誰よりも鮮やかに生きる類ひの人間であつた。たとへば
「出世」といふ行為を離れてはありえぬ「出世」といふ観念を人は純粋に生きることが
できないが、そこへゆくと、没落といふ観念はもともと没落といふ行為とは縁もゆかりも
ないものなのである。没落を生きてゐるのではなく、「失敗した出世」を生きてゐることにならう。
没落といふ観念を全的に生きるためには、決して没落してはならなかつた。落下の危険なしに
サーカスは考へられないが、本当に落ちてしまつたらそれはもはやサーカスではなくて、
一つの椿事にすぎないのと同じやうに。
三島由紀夫「宝石売買」より

62 :
女性のもつ人道的感情はきはめて麗はしいもので、多くの場合、審美的でさへあるのである。

女の宝石をほめるのは、面と向つてその体をほめるやうなものではなからうか。宝石への
誉め言葉が時あつてふしぎな官能の歓びを女に与へるのはそのためだ。

この人は自分の軽薄さを実に軽薄に扱ふ術を心得てゐる。真底から軽薄な人間の遠く及ばない
完全無欠な軽薄さだ。つまり真底から軽薄な人間は自分の軽薄さの自己弁護についてだけは真剣に
ならざるをえないのだから。その範囲で彼の軽薄さは不完全なものにならざるをえないのだから。
三島由紀夫「宝石売買」より

63 :
打算のない愛情とよく言ひますが、打算のないことを証明するものは、打算を証明するものと
同様に、『お金』の他にはありません。打算があつてこそ『打算のない行為』もあるのですから、
いちばん純粋な『打算のない行為』は打算の中にしかありえないわけです。夜があつてこそ
昼があるのだから、昼といふ観念には『夜でない』といふ観念が含まれ、その観念の最も
純粋な生ける形態は夜の只中にしかないやうに、又いはば、深海魚が陸地に引き揚げられて
形がかはつてゐるのに、さういふ深海魚をしか見ることのできない人間が、夜の中になく
夜の外にある昼のみを昼と呼び、打算の中になく打算の外にある『打算なき行為』だけを
『打算なき行為』とよぶ誤ちを犯してゐるわけなのです。
三島由紀夫「宝石売買」より

64 :
値踏みといへば、五千円といふまちがへやうもない名前をつけてやる行為です。世間一般でよぶ
鷲の剥製といふ名の代りに、値踏みをする人は五千円といふ特別誂への名でよびかけます。
すると鷲の剥製は、魔法の名で呼ばれたつかはしめの鳥のやうに歩き出して彼に近づいて
くるのです。
…人形に魂を吹き入れて『立て!』といふとき、魔女たちはこれに似た感情を味はひは
しないでせうか。人は値踏みによつてのみ対象に生命を賦与(あた)へることができるのです。
これ以上打算のない行為があるでせうか。
三島由紀夫「宝石売買」より

65 :
何度失敗してもまた未練らしく試みられて際限がないあの錬金術同様に、打算のない行為といふ
ものは、何度失敗しても飽きることなく求められて来ました。はじめそれは精神の世界で
探されました。宗教がさうですね。お互ひが真に孤独でなければ出来ない行為は、精神の
世界では、愛がその最高のものであり、もしかしたら唯一のものかもしれません。そこで
打算のない行為の原型が愛に求められました。しかし残念なことに、愛は対象の属性には
決してなりえないといふ法則が発見されたのです。これがつまり基督の昇天です。彼の愛は
人間の属性になるには耐へなかつた。孤独の属性になるには耐へなかつた。

嘘つきにみえる方が正直にみえるより得ではなくつて? だつて安心して本当のことが
言へますもの。
三島由紀夫「宝石売買」より

66 :
夢想は私の飛翔を、一度だつて妨げはしなかつた。

夢想への耽溺から夢想への勇気へ私は出た。……とまれ耽溺といふ過程を経なければ
獲得できない或る種の勇気があるものである。

最早私には動かすことのできない不思議な満足があつた。水泳は覚えずにかへつて来て
しまつたものの、人間が容易に人に伝へ得ないあの一つの真実、後年私がそれを求めて
さすらひ、おそらくそれとひきかへでなら、命さへ惜しまぬであらう一つの真実を、
私は覚えて来たからである。
三島由紀夫「岬にての物語」より

67 :
みしまゆきおってもうかけなくなってじさつしたの??

68 :
人間とはただ雑多なものが流れて通る暗渠であり、くさぐさの車が轍(わだち)を残して
すぎる四辻の甃(いしだたみ)にすぎないやうに思はれる。暗渠は朽ち、甃はすりへる。
しかし一度はそれも祭の日の四辻であつたのだ。

このごろの若い人のやつてゐることは、衣装がちがふだけで、中味はちつとも昔と
かはつてゐやしませんよ。若い人は自分にとつてはじめての経験を、世間様にもはじめての
経験だととりちがへる。どんな無軌道だつて昔とおなじで、ただ世間のやかましい目が
昔ほどぢやないから、無軌道も大がかりになつて、ますます人目につくことをしなくちや
ならなくなるんです。

今、世に時めいてゐる人たちは、無礼な冗談や狎(な)れすぎた振舞をもむしろ面白がるが、
かつて世に栄えて隠棲してゐる人たちにとつては、同じ冗談も矜りを傷つけられる種子に
なるのだ。そんな老人相手には、ひたすら聴き役にまはるに限る。そして柔らかな会話で
按摩をし、むかしの権力がふたたびその座に花やいでゐるやうな錯覚を起させるのだ。
三島由紀夫「宴のあと」より

69 :
若い男は精神的にも肉体的にもあんまり余分なものを引きずつてゐて、特に年上の女に
対しては己惚れが強くて、どこまでつけ上るかわからない。

「面倒臭い」。それは明らかに、老人の言葉だつた。

死んだやうな生活といきいきした思想とが、どうして同居してゐることができよう。

かづが今やその人たちの一族に連なり、その人たちの菩提所にいづれ葬られ、一つの流れに
融け入つて、もう二度とそこから離れないといふことは、何といふ安心なことだらう。
何といふ純粋な瞞着だらう。かづがそこへ葬られるときこそ、安心が完成され、瞞着が
完成される。それまでは世間はいかにかづが成功し、金持になり、金を撒かうと、本当に
瞞されはしないのだ。瞞着で世間を渡りはじめ、最後に永遠を瞞着する。これがかづの
世間へ投げる薔薇の花束である。……
三島由紀夫「宴のあと」より

70 :
その大仰な秘密くささも情事に似てゐて、政治と情事とは瓜二つだつた。

しかし人間は墓の中に住むことはできない。

かづが打算と考へてゐるものは一種の誠意、とりわけ民衆的な誠意であり、動機が
どうあらうとも、献身と熱中は、民衆に愛される特性だつた。

自然なものしか人の心を搏ちませんよ。

政治家の目からは選挙区の景色はどこも美しく見えなければならず、自然を美しく眺めるには
政治家でなければならない。それは収穫されるべき果物の、みずみずしさと魅惑に
充ちてゐる筈だ。

かうして展望することは政治的な行為であつた筈だ。展望し、概括し、支配するのは
政治の仕事である。

本当の権謀術数は、絹のやうな肌ざわりを持つべきである。

三島由紀夫「宴のあと」より

71 :
空虚に比べたら、充実した悲惨な境涯のはうがいい。真空に比べたら、身を引き裂く
北風のはうがずつといい。

曇り空の一角に白金のやうに輝いてゐる小さい太陽へ、たえずかづの目は惹きつけられる。
不可能といふことがその輝きの素なのである。それは輝いてゐる。美しく天空に懸つてゐる。
何度目を外らしてもその輝きへ目が行くのも、それが不可能だからなのだ。そしてちらと
そこへ目が行つたが最後、他所はすべて闇としか思はれなくなつてしまふ。

理想のちらつかせる奇蹟への期待も、現実主義の惹起する奇蹟への努力も、政治の名に於て
同一なのかもしれない。

男の目が不可能に惹きつけられて光つてゐるときには、それを愛情のしるしと考へてよかつた。

かづは自分の活力の命ずるままに、そこに向つて駈けて行かねばならぬ。何ものも、
かづ自身でさへも、この活力の命令に抗することはできない。しかもさうしてかづの活力は、
あげくの果てに、孤独な傾いた無縁塚へ導いて行くことも確実なのである。
三島由紀夫「宴のあと」より

72 :
みしまゆきおってもうかけなくなってじさつしたの??


73 :
佃煮や煮豆の箱がいつぱい並んでゐる。福神漬のにほひがする。そぼろ、するめ、わかめ、
むかしの日本人は、粗食と倹約の道徳に気がねをして、かういふちつぽけな、あたじけない
享楽的食品を、よくもいろいろと工夫発明したものである。

正義を行へ、弱きを護れ。

自分が若いころ闊歩できなかつた街は、何だか一生よそよそしいものである。

とにかく人生は柔道のやうには行かないものである。人生といふやつは、まるで人絹の
柔道着を着てゐるやうで、ツルツルすべつて、なかなか業(わざ)がきかないのであつた。

人生つて、右か左か二つの道しかないと思ふときには、ほんの二三段石段を上つて、
その上から見渡してみると、思はぬところに、別な道がひらけてるもんなのよ。さうなのよ。

人間には、自由だけですまないものがある。古い在り来りな、束縛を愛したい気持もある。
三島由紀夫「につぽん製」より

74 :
大ていわれわれが醜いと考へるものは、われわれ自身がそれを醜いと考へたい必要から
生れたものである。

小肥りのした体格、福徳円満の相、かういふ相は人相見の確信とはちがつて、しばしば
酷薄な性格の仮面になる。
独逸の或る有名な殺人犯は、また有名な慈善家と同一人であることがわかつて捕へられた。
彼はいつもにこやかな微笑で貧民たちに慕はれてゐた。その貧民の一人を、彼はけちな
報復の動機で殺してゐたのである。
彼は殺人と慈善とのこの二つの行為のあひだに、何らの因果をみとめてゐなかつた。
三島由紀夫「手長姫」より

75 :
中世欧羅巴(ヨーロッパ)の騎士たちは戦争のみならず日常生活の随所に織り込まれる
決闘によつてたえず生命の危険にさらされてゐた。それは古今東西変はらない女たるものの
天賦の危険、即ち貞操の危険と相頡頏するものであつた。つまり男女の危険率が平等であつたのだ。
さういふ時、女は自分の貞操を、男が自分の生命を考へるやうに考へただらうと思はれる。
貞操は自分の意志では守りがたいもので、運命の力に委ねられてゐると感じたに相違ない。
また貞操は貞操なるが故に守らるべきものではなく、それ以上の目的の為には喜んで
投げ出されるべきであつた。と同時に、男がつまらない意地や賭事に生命を弄ぶことが
あるやうに、女もそれ以外に賭ける財産がないではないのに、一番見栄えのする貞操を、
軽い手慰みに賭けて悔いないこともあつたにちがひない。その勇敢、その勇気が、かくして
時には異様に荘厳な光輝を放つたことがあつたかもしれない。……

余裕は反省を絞め殺してしまふものだ。
三島由紀夫「夜の仕度」より

76 :
どんな卑近な情熱でも、そこには何らかの自己放棄を伴ふものだ。

良心は人を眠らせないが、罪は熟睡させるのである。
三島由紀夫「孝経」より

女を知らない体がどうして不幸なものですか。わたしの体を知つた男はみんな不幸になる
ばかりだわ。わたしお兄様をお可哀想になんて言へないことよ。
三島由紀夫「家族合せ」より

77 :
往時より、月を見て暮らした人、透視術に淫した人は、疲労困憊して狂気か死への途を
辿るといはれる。さやうな疲れは人間の能力を超えたものへの懲罰であり、同時に
深く人性の底に根ざした疲れである。

死すべき時は選びえずともどうして死所を選びえぬことがあらう。
三島由紀夫「中世」より

78 :


     みしまゆきおってもうかけなくなってじさつしたの??


79 :
>>78
晩年に最高傑作の戯曲を書いてますから、それはないです。

80 :
この世界には不可能といふ巨きな封印が貼られてゐる。

本当の危険とは、生きてゐるといふそのことの他にはありやしない。生きてゐるといふことは
存在の単なる混乱なんだけど、存在を一瞬毎にもともとの無秩序にまで解体し、その不安を
餌にして、一瞬毎に存在を造り変へようといふ本当にイカれた仕事なんだからな。こんな
危険な仕事はどこにもないよ。存在自体の不安といふものはないのに、生きることが
それを作り出すんだ。

男は大義へ赴き、女はあとに残される。

大義とは? それはただ、熱帯の太陽の別名だつたかもしれないのだ。
三島由紀夫「午後の曳航」より

81 :
ところでこの塚崎竜二といふ男は、僕たちみんなにとつては大した存在ぢやなかつたが、
三号にとつては、一かどの存在だつた。少くとも彼は三号の目に、僕がつねづね言ふ世界の
内的関聯の光輝ある証拠を見せた、といふ功績がある。だけど、そのあとで彼は三号を
手ひどく裏切つた。地上で一番わるいもの、つまり父親になつた。これはいけない。
はじめから何の役にも立たなかつたのよりもずつと悪い。
いつも言ふやうに、世界は単純な記号と決定で出来上つてゐる。竜二は自分では知らなかつた
かもしれないが、その記号の一つだつた。少くとも、三号の証言によれば、その記号の
一つだつたらしいのだ。
僕たちの義務はわかつてゐるね。ころがり落ちた歯車は、又もとのところへ、無理矢理
はめ込まなくちやいけない。さうしなくちや世界の秩序が保てない。僕たちは世界が
空つぽだといふことを知つてるんだから、大切なのは、その空つぽの秩序を何とか保つて
行くことにしかない。僕たちはそのための見張り人だし、そのための執行人なんだからね。
三島由紀夫「午後の曳航」より

82 :
血が必要なんだ! 人間の血が! さうしなくちや、この空つぽの世界は蒼ざめて枯れ果てて
しまふんだ。僕たちはあの男の生きのいい血を絞り取つて、死にかけてゐる宇宙、
死にかけてゐる空、死にかけてゐる森、死にかけてゐる大地に輸血してやらなくちやいけないんだ。

彼はもう危険な死からさへ拒まれてゐる。栄光はむろんのこと、感情の悪酔。身をつらぬく
やうな悲哀。晴れやかな別離。南の太陽の別名である大義の叫び声。女たちのけなげな涙。
いつも胸をさいなむ暗い憧れ。自分を男らしさの極致へ追ひつめてきたあの重い甘美な力。
……さういふものはすべて終つたのだ。

誰も知るやうに、栄光の味は苦い。
三島由紀夫「午後の曳航」より

83 :
莫迦な女ですね。…自分を莫迦だと知つてゐるだけになほ始末がわるい。女といふものは、
自分を莫迦だと知る瞬間に、それがわかるくらい自分は利巧な女だといふ循環論法に陥るのですね。

下手な絵描きに限つて絵描きらしく見えることを好むものである。
魔はやさしい面持でわれわれに誘ひをかける。

中年の女といふものは若い女を見るのに苛酷な道学者の目しか持たぬ点に於て女学校の
修身の先生も奔放な生活を送つてゐる富裕な有閑マダムもかはりない。

厭世的な作家?
そんなものはありはしないよ。認められない作家はみんな厭世家だし、認められた作家は
長寿の秘訣として厭世主義を信奉するだけだ。とりたてて厭世的な作家なんてありはしない。
彼らとてオレンジは好きなんだ。オレンジのの滓(かす)がきらひなだけだ。この点で
厭世家でない人間があるものかね。
三島由紀夫「魔群の通過」より

84 :
われらの死後も朝な朝な東方から日が昇つて、われらの知悉してゐる世界を照らすといふ確信は、
幸福な確信である。しかしそれを確実だと信じる理由がわれわれにあるのか?

認識の中にぬくぬくと坐つてゐる人たちは、いつも認識によつて世界を所有し、世界を
確信してゐる。しかし芸術家は見なければならぬ。認識する代りに、ただ、見なければならぬ。
一度見てしまつたが最後、存在の不確かさは彼を囲繞(いによう)するのだ。

僕は生れてからただの一度も退屈したことがないんだ。それだけが僕の猛烈な幸運なんだ。
三島由紀夫「旅の墓碑銘」より

85 :
自分の名前は他人の所有物だ。

『私』といふ言葉はもつとも仮構の共有物だと思はないかね。誰も僕のことを、
『おい、私』なんぞと呼びはしない。決してさう呼ばれないといふ安心が、『私』の
思ひ上りになり、はては権利になる。

僕の思念、僕の思想、そんなものはありえないんだ。言葉によつて表現されたものは、
もうすでに、厳密には僕のものぢやない。僕はその瞬間に、他人とその思想を共有して
ゐるんだからね。

個性といふものは決して存在しないんだ。
三島由紀夫「旅の墓碑銘」より

86 :
肉体には類型があるだけだ。神はそれだけ肉体を大事にして、与へるべき自由を節約したんだ。
自由といふやつは精神にくれてやつた。こいつが精神の愛用する手ごろの玩具さ。
……肉体は一定の位置をいつも占めてゐる。世界の旅でいつも僕を愕(おどろ)かせたのは、
肉体が占めることを忘れないこの位置のふしぎさだつた。たとへば僕は夢にまで見た
希臘(ギリシャ)の廃墟に立つてゐた。そのとき僕の肉体が占めてゐたほどの確乎たる
僕の空間を僕の精神はかつて占めたことがなかつたんだ。

精神は形態をもつやうに努力すべきなんだ。
生命は指で触れるもんぢやない。生命は生命で触れるものだ。丁度物質と物質が触れ合ふやうにね。
それ以上のどんな接触が可能だらう。……
三島由紀夫「旅の墓碑銘」より

87 :
旅の思ひ出といふものは、情交の思ひ出とよく似てゐる。事前の欲望を辿ることはもう
できない代りに、その欲望は微妙に変質してまた目前にあるので、思ひ出の行為が
あたかも遡りうるやうな錯覚を与へる。

どうしても理解できないといふことが人間同士をつなぐ唯一の橋だ。

本当の若者といふものは、かれら自身こそ春なのだから、季節の春なぞには目もくれないで
ゐるべきなのだ。

戦争時代の思ひ出つて全く妙だね。他人が一人もいなかつた。他人らしい清潔な表情を
してゐるのは、路傍にころがつた焼死死体だけだつた。
三島由紀夫「旅の墓碑銘」より

88 :
なぜなら、すべて神聖なものは夢や思ひ出と同じ要素から成立ち、時間や空間によつて
われわれと隔てられてゐるものが、現前してゐることの奇蹟だからです。しかもそれら三つは、
いづれも手で触れることのできない点で共通してゐます。手で触れることのできたものから、
一歩遠ざかると、もうそれは神聖なものになり、奇蹟になり、ありえないやうな美しいものになる。
事物にはすべて神聖さが具はつてゐるのに、われわれの指が触れるから、それは汚濁に
なつてしまふ。われわれ人間はふしぎな存在ですね。指で触れるかぎりのものを涜(けが)し、
しかも自分のなかには、神聖なものになりうる素質を持つてゐるんですから。

夢とちがつて、現実は何といふ可塑性を欠いた素材であらう。おぼろげに漂ふ感覚ではなくて、
一顆の黒い丸薬のやうな、小気味よく凝縮され、ただちに効力を発揮する、さういふ思考を
わがものにしなくてはならないのだ。
三島由紀夫「春の雪」より

89 :
何故時代は下つて今のやうになつたのでせう。何故力と若さと野心と素朴が衰へ、
このやうな情ない世になつたのでせう。

様式のなかに住んでゐる人間には、その様式が決して目に見えないんだ。だから俺たちも
何かの様式に包み込まれてゐるにちがひないんだよ。金魚が金魚鉢の中に住んでゐることを
自分でも知らないやうに。

歴史はいつも崩壊する。又次の徒(あだ)な結晶を準備するために。歴史の形成と崩壊とは
同じ意味をしか持たないかのやうだ。
三島由紀夫「春の雪」より

90 :
拒みながら彼の腕のなかで目を閉じる聡子の美しさは喩へん方なかつた。微妙な線ばかりで
形づくられたその顔は、端正でゐながら何かしら放恣なものに充ちてゐた。その唇の片端が、
こころもち持ち上つたのが、歔欷(きよき)のためか微笑のためか、彼は夕明りの中に
たしかめようと焦つたが、今は彼女の鼻翼のかげりまでが、夕闇のすばやい兆のやうに
思はれた。清顕は髪に半ば隠れてゐる聡子の耳を見た。耳朶にはほのかな紅があつたが、
耳は実に精緻な形をしてゐて、一つの夢のなかの、ごく小さな仏像を奥に納めた小さな珊瑚の
龕のやうだつた。すでに夕闇が深く領してゐるその耳の奥底には、何か神秘なものがあつた。
その奥にあるのは聡子の心だらうか? 心はそれとも、彼女のうすくあいた唇の、潤んで
きらめく歯の奥にあるのだらうか?
三島由紀夫「春の雪」より

91 :
清顕はどうやつて聡子の内部へ到達できるかと思ひ悩んだ。聡子はそれ以上自分の顔が
見られることを避けるやうに、顔を自分のはうから急激に寄せてきて接吻した。清顕は
片手をまはしてゐる彼女の腰のあたりの、温かさを指尖に感じ、あたかも花々が腐つてゐる
室のやうなその温かさの中に、鼻を埋めてその匂ひをかぎ、窒息してしまつたらどんなに
よからうと想像した。聡子は一語も発しなかつたが、清顕は自分の幻が、もう一寸のところで、
完全な美の均整へ達しようとしてゐるのをつぶさに見てゐた。
唇を離した聡子の大きな髪が、じつと清顕の制服の胸に埋められたので、彼はその髪油の
香りの立ち迷ふなかに、幕の彼方にみえる遠い桜が、銀を帯びてゐるのを眺め、憂はしい
髪油の匂ひと夕桜の匂ひとを同じもののやうに感じた。夕あかりの前に、こまかく重なり、
けば立つた羊毛のやうに密集してゐる遠い桜は、その銀灰色にちかい粉つぽい白の下に、
底深くほのかな不吉な紅、あたかも死化粧のやうな紅を蔵してゐた。
三島由紀夫「春の雪」より

92 :
われわれは恋しい人を目の前にしてさへ、その姿形と心とをばらばらに考へるほど
愚かなのだから、今僕は彼女の実在と離れてゐても、逢つてゐるときよりも却つて一つの
結晶を成した月光姫を見てゐるのかもしれないのだ。別れてゐることが苦痛なら、
逢つてゐることも苦痛でありうるし、逢つてゐることが歓びならば、別れてゐることも
歓びであつてならぬといふ道理はない。

優雅といふものは禁を犯すものだ、それも至高の禁を。

繁邦は思つてゐた。人間の情熱は、一旦その法則に従つて動きだしたら、誰もそれを
止めることはできない、と。それは人間の理性と良心を自明の前提としてゐる近代法では、
決して受け入れられぬ理論だつた。
三島由紀夫「春の雪」より

93 :
雨のまま明るくなつた空は、雲が一部分だけ切れて、なほふりつづく雨を、つかのまの
孤雨に変へてゐた。窓硝子の雨滴を一せいにかがやかす光りが、幻のやうにさした。
本多は自分の理性がいつもそのやうな光りであることを望んだが、熱い闇にいつも
惹かれがちな心性をも、捨てることはできなかつた。しかしその熱い闇はただ魅惑だつた。
他の何ものでもない、魅惑だつた。清顕も魅惑だつた。そしてこの生を奥底のはうから
ゆるがす魅惑は、実は必ず、生ではなく、運命につながつてゐた。

……海はすぐその目の前で終る。
波の果てを見てゐれば、それがいかに長いはてしない努力の末に、今そこであへなく
終つたかがわかる。
そこで世界をめぐる全海洋的規模の、一つの雄大きはまる企図が徒労に終るのだ。
三島由紀夫「春の雪」より

94 :
肉体が連続しなくても、妄念が連続するなら、同じ個体と考へて差支へがありません。
個体と云はずに、『一つの生の流れ』と呼んだらいいかもしれない。

どんな夢にもをはりがあり、永遠なものは何もないのに、それを自分の権利と思ふのは
愚かではございませんか。私はあの『新しき女』などとはちがひます。……でも、もし
永遠があるとすれば、それは今だけなのでございますわ。
三島由紀夫「春の雪」より

95 :
「じやあ、気をつけて」
と言つた。言葉にも軽い弾みを持たせ、その弾みを動作にも移して、聡子の肩に手を
置かうと思へば置くこともできさうだつた。しかし、彼の手は痺れたやうになつて動かなかつた。
そのとき正しく清顕を見つめてゐる聡子の目に出会つたからである。
その美しい大きい目はたしかに潤んでゐたが、清顕がそれまで怖れてゐた涙はその潤みから
遠かつた。涙は、生きたまま寸断されてゐた。溺れる人が救ひを求めるやうに、まつしぐらに
襲ひかかつて来るその目である。清顕は思はずひるんだ。聡子の長い美しい睫は、
植物が苞をひらくやうに、みな外側へ弾け出て見えた。
「清様もお元気で。……ごきげんやう」
と聡子は端正な口調で一気に言つた。
清顕は追はれるやうに汽車を降りた。(中略)
清顕は心に聡子の名を呼びつづけた。汽車が軽い身じろぎをして、目の前の糸巻の糸が
解(ほど)けたやうに動きだした。
三島由紀夫「春の雪」より

96 :
剃刀は聡子の頭を綿密に動いてゐる。ある時は、小動物の鋭い小さな白い門歯が齧るやうに、
ある時はのどかな草食獣のおとなしい臼歯の咀嚼のやうに。
髪の一束一束が落ちるにつれ、頭部には聡子が生れてこのかた一度も知らない澄みやかな
冷たさがしみ入つた。自分と宇宙との間を隔ててゐたあの熱い、煩悩の鬱気に充ちた黒髪が
剃り取られるにつれて、頭蓋のまはりには、誰も指一つ触れたことのない、新鮮で冷たい
清浄の世界がひらけた。剃られた肌がひろがり、あたかも薄荷を塗つたやうな鋭い寒さの
部分がひろがるほどに。
三島由紀夫「春の雪」より

97 :
髪は何ものかにとつての収穫(とりいれ)だつた。むせるやうな夏の光りを、いつぱい
その中に含んでゐた黒髪は、刈り取られて聡子の外側へ落ちた。しかしそれは無駄な収穫だつた。
あれほど艶やかだつた黒髪も、身から離れた刹那に、醜い髪の骸(むくろ)になつたからだ。
かつて彼女の肉に属し、彼女の内部と美的な関はりがあつたものが残らず外側へ捨て去られ、
人間の体から手が落ち足が落ちてゆくやうに、聡子の現世は剥離してゆく。……

ああ……「僕の年」が過ぎてゆく! 過ぎてゆく! 一つの雲のうつろひと共に。

今、夢を見てゐた。又、会ふぜ。きつと会ふ。滝の下で。
三島由紀夫「春の雪」より

98 :
どんな不キリョウな犬でも、飼ひ馴れれば、可愛くなる。

幸福といふものは、どうしてこんなに不安なのだらう!

誰も他人に忠告なんて与へられやしないよ。だから法律が、結局、人間生活のすべてなんだ。

はじめ思想や主義を作るのは男の人でせうね。何しろ男はヒマだから。
でもその思想や主義をもちつづけるのは女なねよ。女はものもちがいいんですもの。

人間には憎んだり、戦つたり、勝つたり、さういふ原始的な感情がどうしても必要なんだ。
三島由紀夫「永すぎた春」より

99 :
美しい身なりをして、美しい顔で町を歩くことは、一種の都市美化運動だ。

現実といふものは、袋小路かと思ふと、また妙な具合にひらけてくる。

他人の心のわかりすぎる人間は、小説なんか書かない。

建設よりも破壊のはうが、ずつと自分の力の証拠を目のあたり見せてくれるものだつた。
皆が等分に幸福になる解決なんて、お伽噺にしかないんですもの。
三島由紀夫「永すぎた春」より

100 :
あつちには病人がをり、こつちにはもう数週間で結婚する二人がゐる。人生つてさうしたもんさ。
さうして朝は、誰にとつても朝なんだ。

他人のことを考へることが、私たちのことを考へることでもある。
幸福つて、素直に、ありがたく、腕いつぱいにもらつていいものなのね。
三島由紀夫「永すぎた春」より

101 :
私は今まで、あれほど拒否にあふれた顔を見たことがない。私は自分の顔を、世界から
拒まれた顔だと思つてゐる。しかるに有為子の顔は世界を拒んでゐた。月の光りはその額や
目や鼻筋や頬の上を容赦なく流れてゐたが、不動の顔はただその光りに洗はれてゐた。
一寸目を動かし、一寸口を動かせば、彼女が拒まうとしてゐる世界は、それを合図に、
そこから雪崩れ込んで来るだらう。
私は息を詰めてそれに見入つた。歴史はそこで中断され、未来へ向つても過去へ向つても、
何一つ語りかけない顔。さういふふしぎな顔を、われわれは、今伐り倒されたばかりの
切株の上に見ることがある。新鮮で、みづみづしい色を帯びてゐても、成長はそこで途絶え、
浴びるべき筈のなかつた風と日光を浴び、本来自分のものではない世界に突如として
曝されたその断面に、美しい木目が描いたふしぎな顔。ただ拒むために、こちらの世界へ
さし出されてゐる顔。……
三島由紀夫「金閣寺」より

102 :
吃りが、最初の音を発するために焦りにあせつてゐるあいだ、彼は内界の濃密な黐(もち)から
身を引き離さうとじたばたしてゐる小鳥にも似てゐる。

鈍感な人たちは、血が流れなければ狼狽しない。が、血の流れたときは、悲劇は終つて
しまつたあとなのである。

金閣はおびただしい夜を渡つてきた。いつ果てるともしれぬ航海。そして、ふしぎな船は
そしらぬ顔で碇を下ろし、大ぜいの人が見物するのに委せ、夜が来ると周囲の闇に勢ひを得て、
その屋根を帆のやうにふくらませて出航したのである。
私が人生で最初にぶつかつた難問は、美といふことだつたと言つても過言ではない。
三島由紀夫「金閣寺」より

103 :
父の顔は初夏の花々に埋もれてゐた。花々はまだ気味のわるいほど、なまなましく生きてゐた。
花々は井戸の底をのぞき込んでゐるやうだつた。なぜなら、死人の顔は生きてゐる顔の
持つてゐた存在の表面から無限に陥没し、われわれに向けられてゐた面の縁のやうなもの
だけを残して、二度と引き上げられないほどの奥のはうへ落つこちてゐたのだから。
物質といふものが、いかにわれわれから遠くに存在し、その存在の仕方が、いかにわれわれから
手の届かないものであるかといふことを、死顔ほど如実に語つてくれるものはなかつた。
対面などではなく、私はただ父の死顔を見てゐた。
屍はただ見られてゐる。私はただ見てゐる。見るといふこと、ふだん何の意識もなしに
してゐるとほり、見るといふことが、こんなに生ける者の権利の証明でもあり、残酷さの
表示でもありうるとは、私にとつて鮮やかな体験だつた。
三島由紀夫「金閣寺」より

104 :
私といふ存在から吃りを差引いて、なほ私でありうるといふ発見を、鶴川のやさしさが私に教へた。
私はすつぱりと裸かにされた快さを隈なく味はつた。鶴川の長い睫にふちどられた目は、
私から吃りだけを漉し取つて、私を受け容れてゐた。それまでの私はといへば、
吃りであることを無視されることは、それがそのまま、私といふ存在を抹殺されることだ、
と奇妙に信じ込んでゐたのだから。

戦争が私に作用して、暗黒の思想を抱かせたなどと思ふまい。美といふことだけを
思ひつめると、人間はこの世で最も暗黒な思想にしらずしらずぶつかるのである。
人間は多分さういふ風に出来てゐるのである。
三島由紀夫「金閣寺」より

105 :
京都では空襲に見舞はれなかつたが、一度工場から出張を命ぜられ、飛行機部品の発注書類を
持つて、大阪の親工場へ行つたとき、たまたま空襲があつて、腸の露出した工員が担架で
運ばれてゆく様を見たことがある。
なぜ露出した腸が凄惨なのだらう。何故人間の内側を見て、悚然として、目を覆つたり
しなければならないのであらう。何故血の流出が、人に衝撃を与へるのだらう。何故
人間の内臓が醜いのだらう。……それはつやつやした若々しい皮膚の美しさと、全く同質の
ものではないか。……私が自分の醜さを無に化するやうなかういふ考へ方を、鶴川から
教はつたと云つたら、彼はどんな顔をするだらうか? 内側と外側、たとへば人間を
薔薇の花のやうに内も外もないものとして眺めること、この考へがどうして非人間的に
見えてくるのであらうか? もし人間がその精神の内側と肉体の内側を、薔薇の花弁のやうに、
しなやかに飜へし、捲き返して、日光や五月の微風にさらすことができたとしたら……
三島由紀夫「金閣寺」より

106 :
敗戦は私にとつては、かうした絶望の体験に他ならなかつた。今も私の前には、八月十五日の
焔のやうな夏の光りが見える。すべての価値が崩壊したと人は言ふが、私の内にはその逆に、
永遠が目ざめ、蘇り、その権利を主張した。金閣がそこに未来永劫存在するといふことを
語つてゐる永遠。
天から降つて来て、われわれの頬に、手に、腹に貼りついて、われわれを埋めてしまふ永遠。
この呪はしいもの。……さうだ。まはりの山々の蝉の声にも、終戦の日に、私はこの
呪詛のやうな永遠を聴いた。それが私を金いろの壁土に塗りこめてしまつてゐた。

私にとつて、敗戦が何であつたかを言つておかなくてはならない。
それは解放ではなかつた。断じて解放ではなかつた。不変のもの、永遠なもの、日常のなかに
融け込んでゐる仏教的な時間の復活に他ならなかつた。
三島由紀夫「金閣寺」より

107 :
この少年は私などとはちがつて、生命の純潔な末端のところで燃えてゐるのだ。燃えるまでは、
未来は隠されてゐる。未来の燈芯は透明な冷たい油のなかに涵つてゐる。誰が自分の純潔と
無垢を予見する必要があるだらう。もし未来に純潔と無垢だけしか残されてゐないならば。

雪は私たちを少年らしい気持にさせる。

肉体上の不具者は美貌の女と同じ不敵な美しさを持つてゐる。不具者も、美貌の女も、
見られることに疲れて、見られる存在であることに飽き果てて、追ひつめられて、
存在そのもので見返してゐる。見たはうが勝なのだ。
三島由紀夫「金閣寺」より

108 :
滑稽な外形を持つた男は、まちがつて自分が悲劇的に見えることを賢明に避ける術を知つてゐる。
もし悲劇的に見えたら、人はもはや自分に対して安心して接することがなくなるのを
知つてゐるからだ。自分をみじめに見せないことは、何より他人の魂のために重要だ。

そもそも存在の不安とは、自分が十分に存在してゐないといふ贅沢な不満から生まれる
ものではないのか。

世界は永久に停止してをり、同時に到達してゐるのだ。この世界にわざわざ、
「われわれの世界」と註する必要があるだらうか。俺はかくて、世間の「愛」に関する迷蒙を
一言の下に定義することができる。それは仮象が実相に結びつかうとする迷蒙だと。
三島由紀夫「金閣寺」より

109 :
戦争中の安寧秩序は、人の非業の死の公開によつて保たれてゐたと思はないかね。
死刑の公開が行はれなくなつたのは、人心を殺伐ならしめると考へられたからださうだ。
ばかげた話さ。空襲中の死体を片附けてゐた人たちは、みんなやさしい快活な様子をしてゐた。
人の苦悶と血と断末魔の呻きを見ることは、人間を謙虚にし、人の心を繊細に、明るく、
和やかにするんだのに。俺たちが突如として残虐になるのは、たとへばこんなうららかな
春の午後、よく刈り込まれた芝生の上に、木洩れ陽の戯れてゐるのをぼんやり眺めてゐる
ときのやうな、さういふ瞬間だと思はないかね。
世界中のありとあらゆる悪夢、歴史上のありとあらゆる悪夢はさういふ風にして生れたんだ。
三島由紀夫「金閣寺」より

110 :
隈なく美に包まれながら、人生へ手を延ばすことがどうしてできよう。美の立場からしても、
私に断念を要求する権利があつたであらう。一方の手の指で永遠に触れ、一方の手の指で
人生に触れることは不可能である。

禅は無相を体とするといはれ、自分の心が形も相もないものだと知ることがすなはち見性だと
いはれるが、無相をそのまま見るほどの見性の能力は、おそらくまた、形態の魅力に対して
極度に鋭敏でなければならない筈だ。形や相を無私の鋭敏さで見ることのできない者が、
どうして無形や無相をそれほどありありと見、ありありと知ることができよう。かくて
鶴川のやうに、そこに存在するだけで光りを放つてゐたもの、それに目も触れ手も
触れることのできたもの、いはば生のための生とも呼ぶべきものは、それが喪はれた今では、
その明瞭な形態が不明瞭な無形態のもつとも明確な比喩であり、その実在感が形のない虚無の
もつとも実在的な模型であり、彼その人がかうした比喩にすぎなかつたのではないかと思はれた。
三島由紀夫「金閣寺」より

111 :
それにしても音楽の美とは何とふしぎなものだ! 吹奏者が成就するその短かい美は、
一定の時間を純粋な持続に変へ、確実に繰り返されず、蜉蝣のやうな短命な生物をさながら、
生命そのものの完全な抽象であり、創造である。音楽ほど生命に似たものはなく、
同じ美でありながら、金閣ほど生命から遠く、生を侮蔑して見える美もなかつた。

私には美は遅く来る。人よりも遅く、人が美を官能とを同時に見出すところよりも、
はるかに後から来る。みるみる乳房は全体との聯関を取戻し、……肉を乗り超え、……不惑の
しかし不朽の物質になり、永遠につながるものになつた。
三島由紀夫「金閣寺」より

112 :
総じて私の体験には一種の暗合がはたらき、鏡の廊下のやうに一つの影像は無限の奥まで
つづいて、新たに会ふ事物にも過去に見た事物の影がはつきりと射し、かうした相似に
みちびかれてしらずしらずに廊下の奥、底知れね奥の間へ、踏み込んで行くやうな心地がしてゐた。
運命といふものに、われわれは突如としてぶつかるのではない。のちに死刑になるべき男は、
日頃ゆく道筋の電柱や踏切にも、たえず刑架の幻をゑがいて、その幻に親しんでゐる筈だ。

音楽は夢に似てゐる。と同時に、夢とは反対のもの、一段とたしかな覚醒の状態にも似てゐる。
音楽はそのどちらだらうか、と私は考へた。とまれ音楽は、この二つのものを、時には
逆転させるやうな力を備へてゐた。
三島由紀夫「金閣寺」より

113 :
それは確乎たる菊、一個の花、何ら形而上的なものの暗示を含まぬ一つの形態にとどまつてゐた。
それはこのやうに存在の節度を保つことにより、溢れるばかりの魅惑を放ち、蜜蜂の欲望に
ふさはしいものになつてゐた。形のない、飛翔し、流れ、力動する欲望の前に、かうして
対象としての形態に身をひそめて息づいてゐることは、何といふ神秘だらう! 形態は
徐々に稀薄になり、破られさうになり、おののき顫(ふる)へてゐる。それもその筈、
菊の端正な形態は、蜜蜂の欲望をなぞつて作られたものであり、その美しさ自体が、
予感に向つて花ひらいたものなのだから。今こそは、生の中で形態の意味がかがやく瞬間なのだ。
形こそは、形のない流動する生の鋳型であり、同時に、形のない生の飛翔は、この世の
あらゆる形態の鋳型なのだ。
三島由紀夫「金閣寺」より

114 :
蜂の目を離れて私の目に還つたとき、これを眺めてゐる私の目が、丁度金閣の目の位置に
あるのを思つた。それはかうである。私が蜂の目であることをやめて私の目に還つたやうに、
生が私に迫つてくる刹那、私は私の目であることをやめて、金閣の目をわがものにしてしまふ。
そのとき正に、私と生との間に金閣が現はれるのだ、と。

金閣を焼かなければならぬ。
三島由紀夫「金閣寺」より

115 :
老師を殺さうといふ考へは全く浮ばぬではなかつたが、忽ちその無効が知れた。何故なら
よし老師を殺しても、あの坊主頭とあの無力の悪とは、次々と数かぎりなく、闇の地平から
現はれて来るのがわかつてゐたからである。
おしなべて生あるものは、金閣のやうに厳密な一回性を持つてゐなかつた。人間は自然の
もろもろの属性の一部を受けもち、かけがへのきく方法でそれを伝播し、繁殖するに
すぎなかつた。殺人が対象の一回性を滅ぼすためならば、殺人とは永遠の誤算である。
私はさう考へた。そのやうにして金閣と人間存在とはますます明確な対比を示し、一方では
人間の滅びやすい姿から、却つて永生の幻がうかび、金閣の不壊の美しさから、却つて
滅びの可能性が漂つてきた。人間のやうにモータルなものは根絶することができないのだ。
そして金閣のやうに不滅なものは消滅させることができるのだ。どうして人はそこに
気がつかぬのだらう。
三島由紀夫「金閣寺」より

116 :
認識の目から見れば、世界は永久に不変であり、さうして永久に変貌するんだ。それが
何の役に立つかと君は言ふだらう。だがこの生を耐へるために、人間は認識の武器を
持つたのだと云はう。動物にはそんなものは要らない。動物には生を耐へるといふ意識なんか
ないからな。認識は生の耐へがたさがそのまま人間の武器になつたものだが、それで以て
耐へがたさは少しも軽減されない。それだけだ。

「世界を変貌させるのは決して認識なんかぢやない」と思はず私は、告白とすれすれの
危険を冒しながら言ひ返した。「世界を変貌させるのは行為なんだ。それだけしかない」
三島由紀夫「金閣寺」より

117 :
君は今や南泉を気取るのかね。……美的なもの、君の好きな美的なもの、それは人間精神の中で
認識に委託された残りの部分、剰余の部分の幻影なんだ。君の言ふ『生に耐へるための
別の方法』は幻影なんだ。本来そんなものはないとも云へるだらう。云へるだらうが、
この幻影を力強くし、能ふかぎりの現実性を賦与するのはやはり認識だよ。認識にとつて
美は決して慰藉(いしや)ではない。女であり、妻でもあるだらうが、慰藉ではない。
しかしこの決して慰藉ではないところの美的なものと、認識との結婚からは何ものかが
生れる。はかない、あぶくみたいな、どうしやうもないものだが、何ものかが生れる。
世間で芸術と呼んでゐるのはそれさ。

「美は……美的なものはもう僕にとつては怨敵なんだ」

どんな認識や行為にも、出帆の喜びはかへがたいだらう。

私はたしかに生きるために金閣を焼かうとしてゐるのだが、私のしてゐることは
死の準備に似てゐた。
三島由紀夫「金閣寺」より

118 :
鞘を払つて、小刀の刃を舐めてみる。刃はたちまち曇り、舌には明確な冷たさの果てに、
遠い甘味が感じられた。甘みはこの薄い鋼の奥から、到達できない鋼の実質から、かすかに
照り映えてくるやうに舌に伝はつた。こんな明確な形、こんなに深い海の藍に似た鉄の光沢、
……それが唾液と共にいつまでも舌先にまつはる清冽な甘みを持つてゐる。やがて
その甘みも遠ざかる。私の肉が、いつかこの甘みの迸りに酔ふ日のことを、私は愉しく考へた。
死の空は明るくて、生の空と同じやうに思はれた。そして私は暗い考へを忘れた。
この世には苦痛は存在しないのだ。

「人の見てゐる私と、私の考へてゐる私と、どちらが持続してゐるのでせうか」
「どちらもすぐ途絶えるのぢや。むりやり思ひ込んで持続させても、いつかは又途絶えるのぢや。
汽車が走つてゐるあひだ、乗客は止つてをる。汽車が止ると、乗客はそこから歩き出さねば
ならん。走るのも途絶え、休息も途絶える。死は最後の休息ぢやさうなが、それだとて、
いつまで続くか知れたものではない」
三島由紀夫「金閣寺」より

119 :
『私は行為の一歩手前まで準備したんだ』と私は呟いた。『行為そのものは完全に夢みられ、
私がその夢を完全に生きた以上、この上行為する必要があるだらうか。もはやそれは
無駄事ではあるまいか。
柏木の言つたことはおそらく本当だ。世界を変へるのは行為ではなくて認識だと彼は言つた。
そしてぎりぎりまで行為を模倣しようとする認識もあるのだ。私の認識もこの種のものだつた。
そして行為を本当に無効にするのもこの種の認識なのだ。してみると私の永い周到な準備は、
ひとへに、行為をしなくてもよいといふ最後の認識のためではなかつたか。
見るがいい、今や行為は私にとつては一種の剰余物にすぎぬ。それは人生からはみ出し、
私の意志からはみ出し、別の冷たい機械のやうに、私の前に在つて始動を待つてゐる。
その行為と私とは、まるで縁もゆかりもないやうだ。ここまでが私であつて、それから先は
私ではないのだ。……何故私は敢て私でなくなろうとするのか。
三島由紀夫「金閣寺」より

120 :


     みしまゆきおってもうかけなくなってじさつしたの??




121 :
もろもろの記憶のなかでは、時を経るにつれて、夢と現実とは等価のものになつてゆく。
かつてあつた、といふことと、かくもありえた、といふことの境界は薄れてゆく。
夢が現実を迅速に蝕んでゆく点では、過去はまた未来と酷似してゐた。

乙女たちは、鼈甲色の蕊をさし出した、直立し、ひらけ、はじける百合の花々のかげから
立ち現はれ、手に手に百合の花束を握つてゐる。
奏楽につれて、乙女たちは四角に相対して踊りはじめたが、高く掲げた百合の花は危険に
揺れはじめ、踊りが進むにつれて、百合は気高く立てられ、又、横ざまにあしらはれ、
会ひ、又、離れて、空をよぎるその白いなよやかな線は鋭くなつて、一種の刃のやうに
見えるのだつた。
三島由紀夫「奔馬」より

122 :
そして鋭く風を切るうちに百合は徐々にしなだれて、楽も舞も実になごやかに優雅であるのに、
あたかも手の百合だけが残酷に弄ばれてゐるやうに見えた。
……見てゐるうちに、本多は次第に酔つたやうになつた。これほど美しい神事は見たことが
なかつた。
そして寝不足の頭が物事をあいまいにして、目前の百合の祭ときのふの剣道の試合とが混淆し、
竹刀が百合の花束になつたり、百合が又白刃に変つたり、ゆるやかな舞を舞ふ乙女たちの、
濃い白粉の額の上に、日ざしを受けて落ちる長い睫の影が、剣道の面金の慄へるきらめきと
一緒になつたりした。……
三島由紀夫「奔馬」より

123 :
『喰べる人間……消化する人間……排泄する人間……生殖する人間……愛したり憎んだりする人間』
と本多は考へてゐた。それこそ裁判所の支配下にある人間だつた。まかりまちがへば
いつでも被告になりうる人間、それこそは唯一種類の現実性のある人間だつた。

純粋とは、花のやうな観念、薄荷をよく利かした含嗽薬の味のやうな観念、やさしい母の胸に
すがりつくやうな観念を、ただちに、血の観念、不正を薙ぎ倒す刀の観念、袈裟がけに
斬り下げると同時に飛び散る血しぶきの観念、あるひは切腹の観念に結びつけるものだつた。
「花と散る」といふときに、血みどろの屍体はたちまち匂ひやかな桜の花に化した。
純粋とは、正反対の観念のほしいままな転換だつた。だから、純粋は詩なのである。
三島由紀夫「奔馬」より

124 :
悪い血は瀉血(しやけつ)したらいいんだわ。それでお国の病気が治るかもしれない。
勇気のない人たちは、重い病気にかかつたお国のまはりを、ただうろうろしてゐるだけなのね。
このままではお国が死んでしまふわ。

壁には西洋の戦場をあらはした巨大なゴブラン織がかかつてゐた。馬上の騎士のさし出した
槍の穂が、のけぞつた徒士の胸を貫いてゐる。その胸に咲いてゐる血潮は、古びて、
褪色して、小豆いろがかつてゐる。古い風呂敷なんぞによく見る色である。血も花も、
枯れやすく変質しやすい点でよく似てゐる、と勲は思つた。だからこそ、血と花は名誉へ
転身することによつて生き延び、あらゆる名誉は金属なのである。
三島由紀夫「奔馬」より

125 :
忠義とは、私には、自分の手が火傷をするほど熱い飯を握つて、ただ陛下に差し上げたい一心で
握り飯を作つて、御前に捧げることだと思ひます。その結果、もし陛下が御空腹でなく、
すげなくお返しになつたり、あるひは、『こんな不味いものを喰へるか』と仰言つて、
こちらの顔へ握り飯をぶつけられるやうなことがあつた場合も、顔に飯粒をつけたまま退下して、
ありがたくただちに腹を切らねばなりません。又もし、陛下が御空腹であつて、よろこんで
その握り飯を召し上つても、直ちに退つて、ありがたく腹を切らねばなりません。何故なら、
草莽の手を以て直に握つた飯を、大御食として奉つた罪は万死に値ひするからです。では、
握り飯を作つて献上せずに、そのまま自分の手もとに置いたらどうなりませうか。飯はやがて
腐るに決まつてゐます。これも忠義ではありませうが、私はこれを勇なき忠義と呼びます。
勇気ある忠義とは、死をかへりみず、その一心に作つた握り飯を献上することであります。
三島由紀夫「奔馬」より

126 :
私の申し上げる罪とは、法律上の罪ではありません。聖明が蔽はれてゐるこのやうな世に
生きてゐながら、何もせずに生き永らえてゐることがまづ第一の罪です。その大罪を祓ふには、
涜神の罪を犯してまでも、何とか熱い握り飯を拵えて献上して、自らの忠心を行為にあらはして、
即刻腹を切ることです。Rばすべては清められますが、生きてゐるかぎり、右すれば罪、
左すれば罪、どのみち罪を犯してゐることに変りはありません。

同志は、言葉によつてではなく、深く、ひそやかに、目を見交はすことによつて得られるのに
ちがひない。思想などではなく、もつと遠いところから来る或るもの、又、もつと明確な
外面的な表徴であつて、しかもこちらにその志がなければ決して見分けられぬ或るもの、
それこそが同志を作る因(もと)に相違ない。
三島由紀夫「奔馬」より

127 :
存在よりもさきに精髄が、現実よりもさきに夢幻が、現前よりもさきに予兆が、はつきりと、
より強い本質を匂はせて、漂つてゐるやうな状態、それこそは女だつた。

思ふがままに感情の惑溺が許された短い薄命な時代の魁であつた清顕の一種の「英姿」は、
今ではすでに時代の隔たりによつて色褪せてゐる。その当時の真剣な情熱は、今では、
個人的な記憶の愛着を除けば、何かしら笑ふべきものになつたのである。
時の流れは、崇高なものを、なしくづしに、滑稽なものに変へてゆく。何が蝕まれるのだらう。
もしそれが外側から蝕まれてゆくのだとすれば、もともと崇高は外側をおほひ、滑稽が
内側の核をなしてゐたのだらうか。あるひは、崇高がすべてであつて、ただ外側に
滑稽の塵が降り積つたにすぎぬのだらうか。
三島由紀夫「奔馬」より

128 :
灯火に引き出された百合の一輪は、すでに百合の木乃伊(ミイラ)になつてゐる。そつと指を
触れなければ、茶褐色になつた花弁はたちまち粉になつて、まだほのかに青みを残してゐる茎を
離れるにちがいない。それはもはや百合とは云へず、百合の残した記憶、百合の影、
不朽のつややかな百合がそこから巣立つて行つたあとの百合の繭のやうなものになつてゐる。
しかし依然として、そこには、百合がこの世で百合であつたことの意味が馥郁と匂つてゐる。
かつてここに注いでゐた夏の光りの余燼をまつはらせてゐる。
勲はそつとその花弁に唇を触れた。もし触れたことがはつきり唇に感じられたら、
そのときは遅い。百合は崩れ去るだらう。唇と百合とが、まるで黎明と屋根とが触れるやうに
触れ合はねばならない。
三島由紀夫「奔馬」より

129 :
勲の若い、まだ誰の唇にもかつて触れたことのない唇は、唇のもつもつとも微妙な感覚の
すべてを行使して、枯れた笹百合の花びらにほのかに触れた。そして彼は思つた。
『俺の純粋の根拠、純粋の保証はここにある。まぎれもなくここにある。俺が自刃するときには、
昇る朝日のなかに、朝霧から身を起して百合が花をひらき、俺の血の匂ひを百合の薫で
浄めてくれるにちがひない。それでいいんだ。何を思ひ煩らふことがあらうか』

あいつらの脂肪に富んだ現実性は増してゐた。その悪の臭ひもいよいよ募つてゐた。
こちらはいよいよ不安で不確定な世界へ投げ込まれ、あたかも夜の水月(くらげ)の
やうになつた。それこそ奴らの罪過だつた、こちらの世界をこんなにあいまいなほとんど
信じがたいものにしてしまつたのは。この世の不信の根は、みんな向ふ側のグロテスクな
現実性に源してゐた。奴らの高血圧と皮下脂肪へ清らかな刃がしつかりと刺るとき、
そのときはじめて世界の修理固成が可能になるだらう。
三島由紀夫「奔馬」より

130 :
勲は、さうして体ごとぶつかる前には、いくつもの川を飛び越えて行く必要があらうと察した。
人間主義の滓が、川上の工場から排泄される鉱毒のやうに流れてやまぬ暗い小川を。
ああ、川上には昼夜兼行で動いてゐる西欧精神の工場の灯が燦然としてゐる。あの工場の廃液が、
崇高な殺意をおとしめ、榊葉の緑を枯らしたのである。

左翼の奴らは、弾圧すればするほど勢ひを増して来てゐます。日本はやつらの黴菌に蝕まれ、
また蝕まれるほど弱い体質に日本をしてしまつたのは、政治家や実業家です。

恋も忠も源は同じであつた。

勲たちの、熱血によつてしかと結ばれ、その熱血の迸りによつて天へ還らうとする太陽の結社は、
もともと禁じられてゐた。しかし私腹を肥やすための政治結社や、利のためにする営利法人なら、
いくら作つてもよいのだつた。権力はどんな腐敗よりも純粋を怖れる性質があつた。
野蛮人が病気よりも医薬を怖れるやうに。
三島由紀夫「奔馬」より

131 :
法律とは、人生を一瞬の詩に変へてしまはうとする欲求を、不断に妨げてゐる何ものかの集積だ。
血しぶきを以て描く一行の詩と、人生とを引き換へにすることを、万人にゆるすのは
たしかに穏当ではない。しかし内に雄心を持たぬ大多数の人は、そんな欲求を少しも
知らないで人生を送るのだ。だとすれば、法律とは、本来ごく少数者のためのものなのだ。
ごく少数の異常な純粋、この世の規矩を外れた熱誠、……それを泥棒や痴情の犯罪と全く
同じ同等の《悪》へおとしめようとする機構なのだ。
三島由紀夫「奔馬」より

132 :
夏の午睡の女の喜びは曇らなかつた。肌の上にあまねく細かい汗をにじませ、さまざな
官能の記憶を蓄へ、寝息につれてかすかにふくらむ腹は、肉のみごとな盈溢を孕んだ帆の
やうである。その帆を内から引きしめる臍には、山桜の蕾のやうなやや鄙びた赤らみが射して、
汗の露の溜まつた底に小さくひそかに籠り居をしてゐる。美しくはりつめた双の乳房は、
その威丈高な姿に、却つて肉のメランコリーが漂つてみえるのだが、はりつめて薄くなつた肌が、
内側の灯を透かしてゐるかのやうに、照り映えてゐる。肌理のこまやかさが絶頂に達すると、
環礁のまはりに寄せる波のやうに、けば立つて来るのは乳暈のすぐかたはらだった。
乳暈は、静かな行き届いた悪意に充ちた蘭科植物の色、人々の口に含ませるための毒素の
色で彩られてゐた。その暗い紫から、乳頭はめづらかに、栗鼠のやうに小賢しく頭を
もたげてゐた。それ自体が何か小さな悪戯のやうに。
三島由紀夫「奔馬」より

133 :
一寸やはらげれば別物になつてしまひます。その『一寸』が問題なんです。純粋性には、
一寸ゆるめるといふことはありえません。ほんの一寸やはらげれば、それは全然別の思想になり、
もはや私たちの思想ではなくなるのです。

あそこに太陽が輝いてゐます。ここからは見えませんが、身のまはりの澱んだ灰色の光りも、
太陽に源してゐることは明らかですから、たしかに天空の一角に太陽は輝いてゐる筈です。
その太陽こそ、陛下のまことのお姿であり、その光りを直に浴びれば、民草は歓喜の声をあげ、
荒蕪の地は忽ち潤ふて、豊葦原瑞穂国の昔にかへることは必定なのです。
けれど、低い暗い雲が地をおほふて、その光りを遮つてゐます。天と地はむざんに分け隔てられ、
会へば忽ち笑み交はして相擁する筈の天と地とは、お互ひの悲しみの顔さへ相見ることが
できません。
三島由紀夫「奔馬」より

134 :
天と地は、ただ座視してゐては、決して結ばれることがない。天と地を結ぶには、何か
決然たる純粋の行為が要るのです。その果断な行為のためには、一身の利害を超え、身命を
賭(と)さなくてはなりません。身を竜と化して、竜巻を呼ばなければなりません。
それによつて低迷する暗雲をつんざき、瑠璃色にかがやく天空へ昇らなければなりません。

私は人をRといふことは考へませんでした。ただ、日本を毒してゐる凶々しい精神を
討ち滅ぼすには、それらの精神が身にまとふてゐる肉体の衣を引き裂いてやらねばなりません。
さうしてやることによつて、かれらの魂も亦浄化され、明く直き大和心に還つて、私共と
一緒に天へ昇るでせう。その代り、私共も、かれらの肉体を破壊したあとで、ただちに
いさぎよく腹を切つて、死ななければ間に合はない。なぜなら、一刻も早く肉体を
捨てなければ、魂の、天への火急のお使ひの任務が果せぬからです。
大御心を揣摩することはすでに不忠です。忠とはただ、命を捨てて、大御心に添はんとする
ことだと思ひます。暗雲をつんざいて、昇天して、太陽の只中へ、大御心の只中へ入るのです。
三島由紀夫「奔馬」より

135 :
ずつと南だ。ずつと暑い。……南の国の薔薇の光りの中で。……

正に刀を腹へ突き立てた瞬間、日輪は瞼の裏に赫奕(かくやく)と昇つた。
三島由紀夫「奔馬」より

136 :


     みしまゆきおってもうかけなくなってじさつしたの??




137 :
芸術といふのは巨大な夕焼です。一時代のすべての佳いものの燔祭(はんさい)です。
さしも永いあひだつづいた白昼の理性も、夕焼のあの無意味な色彩の濫費によつて台無しにされ、
永久につづくと思はれた歴史も、突然自分の終末に気づかせられる。美がみんなの目の前に
立ちふさがつて、あらゆる人間的営為を徒爾(あだごと)にしてしまふのです。あの夕焼の
花やかさ、夕焼雲のきちがひじみた奔逸を見ては、『よりよい未来』などといふたはごとも
忽ち色褪せてしまひます。現前するものがすべてであり、空気は色彩の毒に充ちてゐます。
何がはじまつたのか? 何もはじまりはしない。ただ、終るだけです。
三島由紀夫「暁の寺」より

138 :
社会正義を自ら代表してゐるやうな顔をしながら、それ自体が売名であるところの、
貧しい弁護士などといふのは滑稽な代物だつた。

時として、広大な人間性に、法といふ規矩を与へることほど、人間の思ひついたもつとも
不遜な戯れはない。

何かにつけて青年が未来を喋々するのは、ただ単に彼らがまだ未来をわがものにしてゐない
からにすぎない。何事かの放棄による所有、それこそは青年の知らぬ所有の秘訣だ。

天変地異は別として、歴史的生起といふものは、どんなに不意打ちに見える事柄であつても、
実はその前に永い逡巡、いはば愛を受け容れる前の娘のやうな、気の進まぬ気配を伴ふのである。
三島由紀夫「暁の寺」より

139 :
日独伊三国同盟は、一部の日本主義の人たちと、フランスかぶれやアングロ・マニヤを
怒らせはしたけれども、西洋好き、ヨーロッパ好きの大多数の人たちはもちろん、
古風なアジア主義たちからも喜ばれてゐた。ヒットラーとではなくゲルマンの森と、
ムッソリーニとではなくローマのパンテオンと結婚するのだ。それはゲルマン神話と
ローマ神話と古事記との同盟であり、男らしく美しい東西の異教の神々の親交だつたのである。

一つの生をあまりにも純粋に究極的に生きようとすると、人はおのづから、別の生の存在の
予感に到達するのではなからうか。

酒がすこしづつ酢に、牛乳がすこしづつヨーグルトに変つてゆくやうに、或る放置されすぎた
ものが飽和に達して、自然の諸力によつて変質してゆく。人々は永いこと自由と肉慾の過剰を
怖れて暮してゐた。はじめて酒を抜いた翌朝のさはやかさ、自分にはもう水だけしか
要らないと感じることの誇らしさ。……さういふ新らしい快楽が人々を犯しはじめてゐた。
三島由紀夫「暁の寺」より

140 :
純粋なものはしばしば邪悪なものを誘発するのだ。

阿頼耶識は滅びることがない。滝のやうに、一瞬一瞬の水はことなる水ながら、不断に
奔逸し激動してゐるのである。
世界を存在せしめるために、かくて阿頼耶識は永遠に流れてゐる。
世界はどうあつても存在しなければならないからだ!
しかし、なぜ?
なぜなら、迷界としての世界が存在することによつて、はじめて悟りへの機縁が齎らされる
からである。

現在の一刹那だけが実有であり、一刹那の実有を保証する最終の根拠が阿頼耶識であるならば、
同時に、世界の一切を顕現させてゐる阿頼耶識は、時間の軸と空間の軸の交はる一点に
存在するのである。
三島由紀夫「暁の寺」より

141 :
唯識の本当の意味は、われわれ現在の一刹那において、この世界なるものがすべてそこに
現はれてゐる、といふことに他ならない。しかも、一刹那の世界は、次の刹那には一旦滅して、
又新たな世界が立ち現はれる。現在ここに現はれた世界が、次の瞬間には変化しつつ、
そのままつづいてゆく。かくてこの世界すべては阿頼耶識なのであつた。……

生きてゐる人間が純粋な感情を持続したり代表したりするなんて冒涜的なことです。

この世には道徳よりもきびしい掟がある。

不安こそ、われわれが若さからぬすみうるこよない宝だ。

生きるといふことは、運命の見地に立てば、まるきり詐欺にかけられてゐるやうなものだつた。
そして人間存在とは? 人間存在とは不如意だ。

知らないといふことが、そもそもエロティシズムの第一条件であるならば、エロティシズムの
極致は、永遠の不可知にしかない筈だ。すなはち「死」に。
三島由紀夫「暁の寺」より

142 :
真の危険を犯すものは理性であり、その勇気も理性からだけ生れる。

停電のときに、停電だと言つて、一体それが何になるのだらう。
…怠惰の言訳としてしか言葉を使はぬ人間がゐるものだ。

必要から生れたものには、必要の苦さが伴ふ。この想像力には甘美なところがみじんもなかつた。

嫉妬の想像力は自己否定に陥るのだ。想像力が一方では、決して想像力を容認しないのである。
丁度過剰な胃酸が徐々に自らの胃を蝕むやうに、想像力がその想像力の根源を蝕んでゆくうちに、
悲鳴に似た救済の願望があらはれる。

ほしいものが手に入らないといふ最大の理由は、それを手に入れたいと望んだからだ。

身の毛もよだつほどの自己嫌悪が、もつとも甘い誘惑と一つになり、自分の存在の否定自体が、
決して癒されぬといふことの不死の観念と一緒になるのだ。存在の不治こそは不死の感覚の
唯一の実質だつた。
三島由紀夫「暁の寺」より

143 :
自分の人生は暗黒だつた、と宣言することは、人生に対する何か痛切な友情のやうにすら
思はれる。お前との交遊には、何一つ実りはなく、何一つ歓喜はなかつた。お前は俺が
たのみもしないのに、その執拗な交友を押しつけて来て、生きるといふことの途方もない
綱渡りを強ひたのだ。陶酔を節約させ、所有を過剰にし、正義を紙屑に変へ、理智を
家財道具に換価させ、美を世にも恥かしい様相に押しこめてしまつた。人生は正統性を
流刑に処し、異端を病院へ入れ、人間性を愚昧に陥れるために大いに働らいた。それは、
膿盆の上の、血や膿のついた汚れた繃帯の堆積だつた。すなはち、不治の病人の、
そのたびごとに、老いも若きも同じ苦痛の叫びをあげさせる、日々の心の繃帯交換。
彼はこの山地の空のかがやく青さのどこかに、かうして日々の空しい治癒のための、
荒つぽい義務にたづさはる、白い壮麗な看護婦の巨大なしなやかな手が隠れてゐるのを感じた。
その手は彼にやさしく触れて、又しても彼に、生きることを促すのであつた。
三島由紀夫「暁の寺」より

144 :
人生が車の運転と同様に、慎重一点張りで成功するなどと思はれてたまるものか。

覗く者が、いつか、覗くといふ行為の根源の抹殺によつてしか、光明に触れえぬことを
認識したとき、それは、覗く者が死ぬことである。

今夜が最後と思へば、話なんていくらだつてあります。

裏切る心配のない見えない神様などを信じてもつまりませんわ。私一人をいつもじつと
見つづけて、あれはいけない、これはいけない、とたえず手取り足取り指図して下さる
神様でなければ。その前では何一つ隠し立てのできない、その前ではこちらも浄化されて、
何一つ羞恥心を持つことさへ要らない、さういふ神様でなければ、何になるでせう。

どんな高尚な事業どんな義烈の行為へ人を促す力も、どんな卑猥な快楽どんな醜怪な夢へ
そそのかす力も、全く同じ源から出、同じ予兆の動悸を伴ふ。
三島由紀夫「暁の寺」より

145 :
海、名のないもの、地中海であれ、日本海であれ、目前の駿河湾であれ、海としか
名付けようのないもので辛ふじて統括されながら、決してその名に服しない、この無名の、
この豊かな、絶対の無政府主義。

刹那刹那の海の色の、あれほどまでに多様な移りゆき。雲の変化。そして船の出現。
……そのたびに一体何が起るのだらう。生起とは何だらう。
刹那刹那、そこで起つてゐることは、クラカトアの噴火にもまさる大変事かもしれないのに、
人は気づかぬだけだ。存在の他愛なさにわれわれは馴れすぎてゐる。世界が存在してゐる
などといふことは、まじめにとるにも及ばぬことだ。
生起とは、とめどない再構成、再組織の合図なのだ。遠くから波及する一つの鐘の合図。
船があらはれることは、その存在の鐘を打ち鳴らすことだ。たちまち鐘の音はひびきわたり、
すべてを領する。海の上には、生起の絶え間がない。存在の鐘がいつもいつも鳴りひびいてゐる。
三島由紀夫「天人五衰」より

146 :
>>145訂正
海、名のないもの、地中海であれ、日本海であれ、目前の駿河湾であれ、海としか
名付けようのないもので辛うじて統括されながら、決してその名に服しない、この無名の、
この豊かな、絶対の無政府主義。

刹那刹那の海の色の、あれほどまでに多様な移りゆき。雲の変化。そして船の出現。
……そのたびに一体何が起るのだらう。生起とは何だらう。
刹那刹那、そこで起つてゐることは、クラカトアの噴火にもまさる大変事かもしれないのに、
人は気づかぬだけだ。存在の他愛なさにわれわれは馴れすぎてゐる。世界が存在してゐる
などといふことは、まじめにとるにも及ばぬことだ。
生起とは、とめどない再構成、再組織の合図なのだ。遠くから波及する一つの鐘の合図。
船があらはれることは、その存在の鐘を打ち鳴らすことだ。たちまち鐘の音はひびきわたり、
すべてを領する。海の上には、生起の絶え間がない。存在の鐘がいつもいつも鳴りひびいてゐる。
三島由紀夫「天人五衰」より

147 :
堤防の上の砂地には夥しい芥が海風に晒されてゐた。コカ・コーラの欠けた空瓶、缶詰、
家庭用の塗装ペイントの空缶、永遠不朽のビニール袋、洗剤の箱、沢山の瓦、弁当の殻……
地上の生活の滓がここまで雪崩れて来て、はじめて「永遠」に直面するのだ。今まで一度も
出会はなかつた永遠、すなはち海に。もつとも汚穢な、もつとも醜い姿でしか、つひに
人が死に直面することができないやうに。

見て見て見抜く明晰さの極限に、何も現はれないことの確実な領域、そこは又確実に濃藍で、
物象も認識もともどもに、酢酸に涵された酸化鉛のやうに溶解して、もはや見ることが
認識の足枷を脱して、それ自体で透明になる領域がきつとある筈だ。

微笑は同情とは無縁だつた。微笑とは、決して人間を容認しないといふ最後のしるし、
弓なりの唇が放つ見えない吹矢だ。
三島由紀夫「天人五衰」より

148 :
女の美しさが、男の一番醜い欲望とぢかにつながつてゐる、といふことほど、女にとつて
侮辱はないわ。

美の廃址を見るのも怖いが、廃址にありありと残る美を見るのも怖い。

しかし日本では、神聖、美、伝統、詩、それらのものは、汚れた敬虔な手で汚されるのでは
なかつた。これらを思ふ存分汚し、果ては絞め殺してしまふ人々は、全然敬虔さを欠いた、
しかし石鹸でよく洗つた、小ぎれいな手をしてゐたのである。

一目で見抜く認識能力にかけては、幾多の失敗や蹉跌のあとに、本多の中で自得したものがあつた。
欲望を抱かない限り、この目の透徹と澄明はあやまつことがなかつた。

悪は時として、静かな植物的な姿をしてゐるものだ。結晶した悪は、白い錠剤のやうに美しい。
三島由紀夫「天人五衰」より

149 :
私たちは一人のこらず、同じ投網の中に捕へられた魚なのですね。

人間の美しさ、肉体的にも精神的にも、およそ美に属するものは、無知と迷蒙からしか
生れないね。知つてゐてなほ美しいなどといふことは許されない。同じ無知と迷蒙なら、
それを隠すのに何ものも持たない精神と、それを隠すのに輝やかしい肉を以てする肉体とでは、
勝負にならない。人間にとつて本筋の美しさは、肉体美にしかないわけさ。

本多はウィーンの精神分析学者の夢の本は色々読んでゐたが、自分を裏切るやうなものが
実は自分の願望だ、といふ説には、首肯しかねるものがあつた。それより自分以外の何者かが、
いつも自分を見張つてゐて、何事かを強ひてゐる、と考へるはうが自然である。
目ざめてゐるときは自分の意志を保ち、否応なしに歴史の中に生きてゐる。しかし自分の
意志にかかはりなく、夢の中で自分を強ひるもの、超歴史的な、あるひは無歴史的なものが、
この闇の奥のどこかにゐるのだ。
三島由紀夫「天人五衰」より

150 :
僕は君のやうな美しい人のために殺されるなら、ちつとも後悔しないよ。この世の中には、
どこかにすごい金持の醜い強力な存在がゐて、純粋な美しいものを滅ぼさうと、虎視眈々と
狙つてゐるんだ。たうとう僕らが奴らの目にとまつた、といふわけなんだらう。
さういふ奴相手に闘ふには、並大抵な覚悟ではできない。奴らは世界中に網を張つてゐるからだ。
はじめは奴らに無抵抗に服従するふりをして、何でも言ひなりになつてやるんだ。
さうしてゆつくり時間をかけて、奴らの弱点を探るんだ。ここぞと思つたところで反撃に
出るためには、こちらも十分力を蓄へ、敵の弱点もすつかり握つた上でなくてはだめなんだよ。
三島由紀夫「天人五衰」より

151 :
純粋で美しい者は、そもそも人間の敵なのだといふことを忘れてはいけない。奴らの戦ひが
有利なのは、人間は全部奴らの味方に立つことは知れてゐるからだ。奴らは僕らが本当に
膝を屈して人間の一員であることを自ら認めるまでは、決して手をゆるめないだらう。
だから僕らは、いざとなつたら、喜んで踏絵を踏む覚悟がなければならない。むやみに
突張つて、踏絵を踏まなければ、殺されてしまふんだからね。さうして一旦踏絵を踏んでやれば、
奴らも安心して弱点をさらけ出すのだ。それまでの辛抱だよ。でもそれまでは、自分の心の中に、
よほど強い自尊心をしつかり保つてゆかなければね。

醜さも、ひとたび不在になれば、美しさとどこに変りがあるだらう。

……遠いところで美が哭いてゐる、と透は思ふことがあつた。多分水平線の少し向こうで。
美は鶴のやうに甲高く啼く。その声が天地に谺してたちまち消える。人間の肉体にそれが
宿ることがあつても、ほんのつかのまだ。
三島由紀夫「天人五衰」より

152 :
自然は全体から断片へと、又、断片から全体へと、たえずくりかへし循環してゐた。
断片の形をとつたときのはかない清洌さに比べれば、全体としての自然は、つねに不機嫌で
暗鬱だつた。
悪は全体としての自然に属するのだらうか?
それとも断片のはうに?

自分に向けられる他人の善意や悪意が、悉く誤解に基づくと考へる考へ方には、懐疑主義の
行き着く果ての自己否定があり、自尊心の盲目があつた。

退屈な人間は地球を屑屋に売り払ふことだつて平気でするのだ。

世界がなかなか崩壊しないといふことこそ、その表面をスケーターのやうに滑走して生きては
死んでゆく人間にとつては、ゆるがせにできない問題だつた。氷が割れるとわかつてゐたら、
誰が滑るだらう。また絶対に割れないとわかつてゐたら、他人が失墜することのたのしみは
失はれるだらう。問題は自分が滑つてゐるあひだ、割れるか割れないかといふだけのことであり、
本多の滑走時間はすでに限られてゐた。
三島由紀夫「天人五衰」より

153 :
一分一分、一秒一秒、二度とかへらぬ時を、人々は何といふ稀薄な生の意識ですりぬけるのだらう。
老いてはじめてその一滴々々には濃度があり、酩酊さへ具はつてゐることを学ぶのだ。
稀覯の葡萄酒の濃密な一滴々々のやうな、美しい時の滴たり。……さうして血が失はれるやうに
時が失はれてゆく。

老人は時が酩酊を含むことを学ぶ。学んだときはすでに、酩酊に足るほどの酒は失はれてゐる。

意志とは、宿命の残り滓ではないだらうか。自由意志と決定論のあひだには、印度の
カーストのやうな、生れついた貴賤の別があるのではないだらうか。もちろん賤しいのは
意志のはうだ。

或る種の人間は、生の絶頂で時を止めるといふ天賦に恵まれてゐる。

……詩もなく、至福もなしに! これがもつとも大切だ。生きることの秘訣はそこにしか
ないことを俺は知つてゐる。
三島由紀夫「天人五衰」より

154 :
「洋食の作法は下らないことのやうだが」と本多は教へながら言つた。
「きちんとした作法で自然にのびのびと洋食を喰べれば、それを見ただけで人は安心するのだ。
一寸ばかり育ちがいいといふ印象を与へるだけで、社会的信用は格段に増すし、日本で
『育ちがいい』といふことは、つまり西洋風な生活を体で知つてゐるといふことだけのこと
なんだからね。純然たる日本人といふのは、下層階級か危険人物かどちらかなのだ。
これからの日本では、そのどちらも少なくなるだらう。日本といふ純粋な毒は薄まつて、
世界中のどこの国の人の口にも合ふ嗜好品になつたのだ」
さう言ひながら、本多が勲を思ひうかべてゐたことは疑ふべくもない。勲はおそらく
洋食の作法などは知らなかつた。勲の高貴はそんなこととは関はりがなかつた。
三島由紀夫「天人五衰」より

155 :
世間が若い者に求める役割は、欺され易い誠実な聴き手といふことで、それ以上の何ものでもない。

世間は決して若者に才智を求めはしないが、同時に、あんまり均衡のとれた若さといふものに
出会ふと、頭から疑つてかかる傾きがある。

スポーツマンだといふと、莫迦だと人に思はれる利得がある。

――大人しい透に向つて、かうして執拗に説き進めながら、いつしか本多は、目の前に
清顕と勲と月光姫を置いて、返らぬ繰り言を並べてゐるような心地にもなつた。
彼らもさうすればよかつたのだ。自分の宿命をまつしぐらに完成しようなどとはせず、
世間の人と足並を合せ、飛翔の能力を人目から隠すだけの知恵に恵まれてゐればよかったのだ。
飛ぶ人間を世間はゆるすことができない。翼は危険な器官だった。飛翔する前に自滅へ誘ふ。
あの莫迦どもとうまく折合つておきさへすれば、翼なんかには見て見ぬふりをして貰へるのだ。
三島由紀夫「天人五衰」より

156 :
老人はいやでも政治的であることを強ひられる。

この世には実に千差万別な卑俗があつた。気品の高い卑俗、白象の卑俗、崇高な卑俗、
鶴の卑俗、知識にあふれた卑俗、学者犬の卑俗、媚びに充ちた卑俗、ペルシア猫の卑俗、
帝王の卑俗、乞食の卑俗、狂人の卑俗、蝶の卑俗、斑猫の卑俗……、おそらく輪廻とは
卑俗の劫罰だつた。そして卑俗の最大唯一の原因は、生きたいといふ欲望だつたのである。

何かを拒絶することは又、その拒絶のはうへ向つて自分がいくらか譲歩することでもある。
譲歩が自尊心にほんのりとした淋しさを齎(もた)らすのは当然だらう。

この世は不完全な人間の陽画(ポジティブ)に充ちてゐる。

この世に一つ幸福があれば必ずそれに対応する不幸が一つある筈だ。
三島由紀夫「天人五衰」より

157 :
「愛してゐる」といふ経文の読誦は、無限の繰り返しのうちに、読み手自身の心に何かの
変質をもたらすものだ。

人間は自分より永生きする家畜は愛さないものだ。愛されることの条件は、生命の短かさだつた。

この世には幸福の特権がないやうに、不幸の特権もないの。悲劇もなければ、天才もゐません。
あなたの確信と夢の根拠は全部不合理なんです。もしこの世に生れつき別格で、特別に
美しかつたり、特別に悪(わる)だつたり、さういふことがあれば、自然が見のがしにして
おきません。そんな存在は根絶やしにして、人間にとつての手きびしい教訓にし、
誰一人人間は『選ばれて』なんかこの世に生れて来はしない、といふことを人間の頭に
叩き込んでくれる筈ですわ。
三島由紀夫「天人五衰」より

158 :
精神的屈辱と摂護腺肥大との間に何のちがひがあらう。或る鋭い悲しみと肺炎の胸痛との間に
何のちがひがあらう。老いは正(まさ)しく精神と肉体の双方の病気だつたが、老い自体が
不治の病だといふことは、人間存在自体が不治の病だといふに等しく、しかもそれは
何ら存在論的な病ではなくて、われわれの肉体そのものが病であり、潜在的な死なのであつた。
衰へることが病であれば、衰へることの根本原因である肉体こそ病だつた。肉体の本質は
滅びに在り、肉体が時間の中に置かれてゐることは、衰亡の証明、滅びの証明に使はれて
ゐることに他ならなかつた。

生きることは老いることであり、老いることこそ生きることだつた。

われわれは何ものかの腹を肥やすための餌であつた。…そして神にとつても、運命にとつても、
人間の営為のうちでこの二つを模した唯一のものである歴史にとつても、人間が本当に
老いるまで、このことに気づかせずにおくのは、賢明なやり方だつた。
三島由紀夫「天人五衰」より

159 :
もし本多の中の一個の元素が、宇宙の果ての一個の元素と等質のものであつたとしたら、
一旦個性を失つたのちは、わざわざ空間と時間をくぐつて交換の手続を踏むにも及ばない。
それはここにあるのと、かしこにあるのと、全く同じことを意味するからである。
来世の本多は、宇宙の別の極にある本多であつても、何ら妨げがない。糸を切つて一旦卓上に
散らばつた夥しい多彩なビーズを、又別の順序で糸につなぐときに、もし卓の下へ落ちた
ビーズがない限り、卓上のビーズの数は不変であり、それこそは不変の唯一の定義だつた。
我が在ると思ふから不滅が生じない、といふ仏教の論理は、数学的に正確だと本多には
今や思はれた。我とは、そもそも自分で決めた、従つて何ら根拠のない、この南京玉(ビーズ)の
糸つなぎの配列の順序だつたのである。
三島由紀夫「天人五衰」より

160 :
狐はすべて狐の道を歩いてゐた。漁師はその道の薮かげに身を潜めてゐれば、難なく
つかまえることができた。
狐でありながら漁師の目を得、しかも捕まることがわかつてゐながら狐の道を歩いてゐるのが、
今の自分だと本多は思つた。

劫初から、今日このとき、私はこの一樹の蔭に憩ふことに決まつてゐたのだ。

自分はすでに罠に落ちた。人間に生れてきたといふことの罠に一旦落ちながら、ゆくてに
それ以上の罠が待ち設けてよい筈はない。すべて愚かしく受け容れようと本多は思ひ返した。
希望を抱くふりをして。印度の犠牲の仔山羊でさへ、首を落されたあとも、あのやうに
永いことあがいたのだ。

それも心々ですさかい。

この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまつたと本多は思つた。
庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしてゐる。
三島由紀夫「天人五衰」より

161 :
   ↑ 毎日 毎日 大変な労力 ご苦労さんです。

     
       みしまゆきおってもうかけなくなってじさつしたの??



162 :
コピペ貼るだけの馬鹿はRばいい。




三島由紀夫「天人五衰」より

163 :
>>161
>>79参照

164 :
全然愛してゐないといふことが、情熱の純粋さの保証になる場合があるのだ。

若さが幸福を求めるなどといふのは衰退である。
若さはすべてを補ふから、どんな不自由も労苦も忍ぶことができ、かりにも若さがおのれの
安楽を求めるときは、若さ自体の価値をないがしろにしてゐるのである。

自由やと? 平和やと? そないなこと皆女子(おなご)の考へや。女子の嚔(くさめ)と一緒や。
男まで嚔をして、風邪を引かんかつてええのや。
三島由紀夫「絹と明察」より

165 :
若者は彼をとりまくこの豊饒な自然と、彼自身との無上の調和を感じた。彼の深く吸ふ息は、
自然をつくりなす目にみえぬものの一部が、若者の体の深みにまで滲み入るやうに思はれ、
彼の聴く潮騒は、海の巨きな潮(うしほ)の流れが、彼の体内の若々しい血潮の流れと
調べを合はせてゐるやうに思はれた。

悪意は善意ほど遠路を行くことはできない

新治が女をたくさん知つてゐる若者だつたら、嵐にかこまれた廃墟のなかで、焚火の炎の
むかうに立つてゐる初江の裸が、まぎれもない処女の体だといふことを見抜いたであらう。
決して色白とはいへない肌は、潮にたえず洗はれて滑らかに引締り、お互ひにはにかんで
ゐるかのやうに心もち顔を背け合つた一双の固い小さな乳房は、永い潜水にも耐へる
広やかな胸の上に、薔薇いろの一双の蕾をもちあげてゐた。
三島由紀夫「潮騒」より

166 :
「その火を飛び越して来い。その火を飛び越してきたら」
少女は息せいてはゐるが、清らかな弾んだ声で言つた。裸の若者は躊躇しなかつた。
爪先に弾みをつけて、彼の炎に映えた体は、火のなかへまつしぐらに飛び込んだ。
次の刹那にその体は少女のすぐ前にあつた。彼の胸は乳房に軽く触れた。『この弾力だ。
前に赤いセエタアの下に俺が想像したのはこの弾力だ』と若者は感動して思つた。二人は
抱き合つた。少女が先に柔らかく倒れた。
「松葉が痛うて」
と少女が言つた。
三島由紀夫「潮騒」より

167 :
この乳房を見た女はもう疑ふことができない。それは決して男を知つた乳房ではなく、
まだやつと綻びかけたばかりで、それが一たん花ひらいたらどんなに美しからうと
思はれる胸なのである。
薔薇いろの蕾をもちあげてゐる小高い一双の丘のあひだには、よく日に灼けた、しかも
肌の繊細さと滑らかさと一脈の冷たさを失はない、早春の気を漂はせた谷間があつた。
四肢のととのつた発育と歩を合はせて、乳房の育ちも決して遅れをとつてはゐなかつた。
が、まだいくばくの固みを帯びたそのふくらみは、今や覚めぎはの眠りにゐて、ほんの
羽毛の一触、ほんの微風の愛撫で、目をさましさうに見えるのである。

男は気力や。気力があればええのや。
三島由紀夫「潮騒」より

168 :
私にとつては、美はいつも後退りをする。かつて在つた、あるひはかつて在るべきであつた
姿しか、私にとつては重要でない。鉄塊は、その微妙な変化に富んだ操作によつて、
肉体のうちに失はれかかつてゐた古典的均衡を蘇らせ、肉体をあるべきであつた姿に
押し戻す働らきをした。

あらゆる英雄主義を滑稽なものとみなすシニシズムには、必ず肉体的劣等感の影がある。
英雄に対する嘲笑は、肉体的に自分が英雄たるにふさはしくないと考へる男の口から出るに
決まつてゐる。

私はかつて、彼自身も英雄と呼ばれてをかしくない肉体的資格を持つた男の口から、
英雄主義に対する嘲笑がひびくのをきいたことがない。シニシズムは必ず、薄弱な筋肉か
過剰な脂肪に関係があり、英雄主義と強大なニヒリズムは、鍛へられた筋肉と関係あるのだ。
なぜなら英雄主義とは、畢竟するに、肉体の原理であり、又、肉体の強壮と死の破壊との
コントラストに帰するからであつた。
三島由紀夫「太陽と鉄」より

169 :
敵とは、「見返す実在」とは、究極的には死に他ならない。誰も死に打ち克つことが
できないとすれば、勝利の栄光とは、純現世的な栄光の極致にすぎない。

私の文体は対句に富み、古風な堂々たる重味を備へ、気品にも欠けてゐなかつたが、
どこまで行つても式典風な壮重な歩行を保ち、他人の寝室をもその同じ歩調で通り抜けた。
私の文体はつねに軍人のやうに胸を張つてゐた。そして、背をかがめたり、身を斜めにしたり、
膝を曲げたり、甚だしいのは腰を振つたりしてゐる他人の文体を軽蔑した。
姿勢を崩さなければ見えない真実がこの世にはあることを、私とて知らぬではない。
しかしそれは他人に委せておけばすむことだつた。
三島由紀夫「太陽と鉄」より

170 :
私が求めるのは、勝つにせよ、負けるにせよ、戦ひそのものであり、戦はずして敗れることも、
ましてや、戦はずして勝つことも、私の意中にはなかつた。一方では、私は、あらゆる
戦ひといふものの、芸術における虚偽の性質を知悉してゐた。もしどうしても私が戦ひを
欲するなら、芸術においては砦を防衛し、芸術外において攻撃に出なければならぬ。
芸術においてはよき守備兵であり、芸術外においてはよき戦士でなければならぬ。

「武」とは花と散ることであり、「文」とは不朽の花を育てることだ、と。そして不朽の
花とはすなはち造花である。
かくて「文武両道」とは、散る花と散らぬ花とを兼ねることであり、人間性の最も相反する
二つの欲求、およびその欲求の実現の二つの夢を、一身に兼ねることであつた。
三島由紀夫「太陽と鉄」より

171 :
かつて向う岸にゐたと思はれた人々は、もはや私と同じ岸にゐるやうになつた。すでに
謎はなく、謎は死だけになつた。

私が幸福と呼ぶところのものは、もしかしたら、人が危機と呼ぶところのものと同じ地点に
あるのかもしれない。言葉を介さずに私が融合し、そのことによつて私が幸福を感じる
世界とは、とりもなほさず、悲劇的世界であつたからである。

われわれは「絶対」を待つ間の、つねに現在進行の虚無に直面するときに、何を試みるかの
選択の自由だけが残されてゐる。いづれにせよ、われわれは準備せねばならぬ。この準備が
向上と呼ばれるのは、多かれ少なかれ、人間の中には、やがて来るべき未見の「絶対」の絵姿に、
少しでも自分が似つかはしくなりたいといふ哀切な望みがひそんでゐるからであらう。
もつとも自然で公明な欲望は、自分の肉体も精神も、ひさしくその絶対の似姿に近づきたいと
のぞむことであらう。
三島由紀夫「太陽と鉄」より

172 :
七生報国や必敵撃滅や死生一如や悠久の大義のやうに、言葉すくなに誌された簡素な遺書は、
明らかに幾多の既成概念のうちからもつとも壮大なもつとも高貴なものを選び取り、
心理に類するものはすべて抹殺して、ひたすら自分をその壮麗な言葉に同一化させようとする
矜りと決心をあらはしてゐた。
もちろんかうして書かれた四字の成句は、あらゆる意味で「言葉」であつた。しかし
既成の言葉とはいへ、それは並大抵の行為では達しえない高みに、日頃から飾られてゐる
格別の言葉だつた。今は失つたけれども、かつてわれわれはそのやうな言葉を持つてゐたのである。

私の幼時の直感、集団といふものは肉体の原理にちがひないといふ直感は正しかつた。

肉体は集団により、その同苦によつて、はじめて個人によつては達しえない或る肉の高い
水位に達する筈であつた。そこで神聖が垣間見られる水位にまで溢れるためには、個性の
液化が必要だつた。のみならず、たえず安逸と放埒と怠惰へ沈みがちな集団を引き上げて、
ますます募る同苦と、苦痛の極限の死へみちびくところの、集団の悲劇性が必要だつた。
三島由紀夫「太陽と鉄」より

173 :
私には地球を取り巻く巨きな巨きな蛇の環が見えはじめた。すべての対極性を、われとわが尾を
嚥(の)みつづけることによつて鎮める蛇。すべての相反性に対する嘲笑をひびかせてゐる
最終の巨大な蛇。私にはその姿が見えはじめた。
相反するものはその極致において似通ひ、お互ひにもつとも遠く隔たつたものは、ますます
遠ざかることによつて相近づく。蛇の環はこの秘義を説いてゐた。

私は肉体の縁(へり)と精神の縁、肉体の辺境と精神の辺境だけに、いつも興味を
寄せてきた人間だ。深淵には興味がなかつた。深淵は他人に委せよう。なぜなら深淵は
浅薄だからだ。深淵は凡庸だからだ。
縁の縁、そこには何があるのか。虚無へ向つて垂れた縁飾りがあるだけなのか。
三島由紀夫「太陽と鉄」より

174 :
地球は死に包まれてゐる。空気のない上空には、はるか地上に、物理的条件に縛められて
歩き回る人間を眺め下ろしながら、他ならぬその物理的条件によつてここまでは気楽に昇れず、
したがつて物理的に人を死なすこときはめて稀な、純潔な死がひしめいてゐる。人が素面で
宇宙に接すればそれは死だ。宇宙に接してなほ生きるためには、仮面をかぶらねばならない。
酸素マスクといふ仮面を。
精神や知性がすでに通ひ馴れてゐるあの息苦しい高空へ、肉体を率いて行けば、そこで
会ふのは死かもしれない。精神や知性だけが昇つて行つても、死ははつきりした顔を
あらはさない。そこで精神はいつも満ち足りぬ思ひで、しぶしぶと、地上の肉体の棲家へ
舞ひ戻つて来る。彼だけが昇つて行つたのでは、つひに統一原理は顔をあらはさない。
二人揃つて来なくては受け容れられぬ。

ほんのつかのまでも、われわれの脳裡に浮んだことは存在する。現に存在しなくても、
かつてどこかに存在したか、あるひはいつか存在するであらう。
三島由紀夫「太陽と鉄」より

175 :
晩年に最高傑作の戯曲を書いてますから、それはないです。

↑ じゃぁー どうして 自殺なんかしたんですか?
   老骸を晒したくないから?   それが 三島美学???

176 :
コピペ貼るだけの馬鹿は市ね!
ブログでやれよクズ!!!!!!!!!!!





三島由紀夫「太陽と鉄」より

177 :
苦悩や青春の焦燥を恥ぢるあまり、それを告白せぬことに馴れてしまつて、かれらは極度に
ストイックになつた。かれらは歯を喰ひしばつてゐた。実に愉しげな顔をして。
この世に苦悩などといふものの存在することを、絶対に信じないふりをしなくてはならぬ。
白を切りとほさなくてはならぬ。

世界が必ず滅びるといふ確信がなかつたら、どうやつて生きてゆくことができるだらう。
詩才の欠如は人の信用を博する早道である。

どんなに辛苦を重ねても、浅い夢しか見ない人は浅い生をしか生きることができない。

狂人がある程度自分を狂人だと知つてゐるやうに、嫌はれるタイプの男は、ある程度、自分が
嫌はれることを知つてゐるのだが、狂人がさういふ自己認識にすこしも煩はされないやうに、
嫌はれてゐるといふ認識にすこしも煩はされないことが、嫌はれ型の真個の特質なのである。
三島由紀夫「鏡子の家」より

178 :
人体でもつとも微妙なものは筋肉なのである!

筋肉は厳密に個人に属しつつ、感情よりもずつと普遍的である点で、言葉に似てゐるけれど、
言葉よりもずつと明晰である点で、言葉よりもすぐれた「思想の媒体」なのである。

僕は詩人の顔と闘牛師の体とを持ちたい。

真に抒情的なものは、詩人の面立(おもだち)と闘牛師の肉体との、稀な結合からだけしか
生れないだらう。

この世は必ず破滅にをはる。しかもその前に、輝かしい行動は、一瞬々々のうちに生れ、
一瞬々々のうちに死ぬ。

芸術的才能といふものの裡にひそむ一種の抜きがたい暗さを嗅ぎ当てる点では、世俗的な
人たちの鼻もなかなか莫迦にしたものではない。才能とは宿命の一種であり、宿命といふものは
多かれ少なかれ、市民生活の敵なのである。それに生れつき身にそなはつたものだけで
人生を経営してゆくことは、女や貴族の生き方であり、市民の男の生き方ではなかつた。
三島由紀夫「鏡子の家」より

179 :
会社のタイム・レコーダアを莫迦らしいと思はない人が、どうして結納の三往復を
莫迦らしいなどと言ふことができよう。

女の裸体は猥褻なだけさ。美しいのは男の肉体に決まつてゐるさ。

神聖なものほど猥褻だ。だから恋愛より結婚のはうがずつと猥褻だ。

人は信じた思想のとほりの顔になる。

どこの社会にも、誰が見ても不適任者と思はれる人が、そのくせ恰(あた)かも運命的に
そこに据つてゐるのを見るものだ。

権力や金に倦き果てた老人のたしなむ芸術には、あらゆる玄人の芸術にとつて必須な、
あの世界に対する権力意志が忌避されてゐる。

芸術作品とは、目に見える美とはちがつて、目に見える美をおもてに示しながら、実は
それ自体は目に見えない、単なる時間的耐久性の保障なのである。作品の本質とは、
超時間性に他ならないのだ。
三島由紀夫「鏡子の家」より

180 :
……そこでは毎晩刃傷沙汰が起り、悲劇が起り、本当の恋の鞘当、本当の情熱、――ええ、
どんな俗悪な情熱でも、あなたがたの物知り顔よりは高級ですもの、――さういふ本当の情熱、
本当の憎しみ、本当の涙、本当の血が流れなくちやいけませんの。

男の精神的天才が決して女に理解されないやうに、男の肉体的天才も、女に理解されない
やうにできてゐる。

ひどい暮しをしながら、生きてゐるだけでも仕合せだと思ふなんて、奴隷の考へね。
一方では、人並な安楽な暮しをして、生きてゐるのが仕合せだと思つてゐるのは、動物の
感じ方ね。世の中が、人間らしい感じ方、人間らしい考へ方をさせないように、みんなを
盲らにしてしまつたんです。

愛されない人間が、自ら進んで、ますます愛されない人間にならうとするのには至当の
理由がある。それは自分が愛されない根本原因から、できるだけ遠くまで逃げようとするのである。

金でたのしみが買えないと思つてゐるのは、センチメンタルな金持だけです。
三島由紀夫「鏡子の家」より

181 :
天才とは美そのものの感受性をわがものにして、その類推から美を造型する人であつた。
かういふ手がかりが正にあの喜悦であつて、美にとつては、世界喪失は苦悩ではなくて
生誕の讃歌のやうなものなのだ。そこでは美がやさしい手で規定の存在を押しのけて、
その空席に腰を下ろすことに、何のためらひもありはしないのだ。いひかへれば天才の
感受性とは、人目にいかほど感じ易くみえやうと、決して悲劇に到達しない特質を
荷つてゐるのである。

一人ぐらしの女が何の感情にも溺れないで生きてゐるといふのは大したことだわ。

ああ、他人こそ、犠(にへ)であり、かけがへのない実在なのだ。

僕は死ぬだらう。血はどこまで高く吹き上がるだらう? 自分の血の噴水を、僕ははつきり
この目でたしかめることができるだらうか。
三島由紀夫「鏡子の家」より

182 :
他人の情念にしろ、希望にしろ、他人にあんまり興味を持ちすぎることは危険です。
それはこちらが考へもせず、想像もしないところへまで引きずつてゆき、つひには
『他人の希望』の代りに、『他人の運命』を背負ひ込む羽目になります。

美しい者にならうといふ男の意志は、同じことをねがふ女の意志とはちがつて、必ず
『死の意志』なのだ。これはいかにも青年にふさはしいことだが、ふだんは青年自身が
恥ぢてゐてその秘密を明さない。

男の断末魔の手がつかむものが、星に充ちたがらんとした夜空や、荘厳な重い塩水に充ちた
海ではなくて、腰紐だの、長襦袢だの、まとはりつく髪だの、なよやかなパンティだのである
といふことは、男の生涯のひとりぽつちの永い戦ひの記憶をすつかり台無しにしてしまふだけだ。
三島由紀夫「鏡子の家」より

183 :
鏡子は大袈裟に、一つの時代が終つたと考へることがある。終る筈のない一つの時代が。
学校にゐたころ、休暇の終るときにはこんな気持がした。充ち足りた休暇の終りといふものが
あらう筈がない。それは必ず挫折と尽きせぬ不満の裡に終る。――再び真面目な時代が来る。
大真面目の、優等生たちの、点取虫たちの陰惨な時代。再び世界に対する全幅的な同意。
人間だの、愛だの、希望だの、理想だの、……これらのがらくたな諸々の価値の復活。
徹底的な改宗。そして何よりも辛いのは、あれほど愛して来た廃墟を完全に否認すること。
目に見える廃墟ばかりか、目に見えない廃墟までも!

峻吉は不幸や不運を明るく眺め変へたり、一旦挫折した力の方向をやすやすと他へ
転じようしたりする、あの人生相談的な解決を憎んだ。決して悔悟しない人間になることが必要だ。
ちつぽけな希望に妥協して、この世界が、その希望の形のままに見えて来たらおしまひだ。
三島由紀夫「鏡子の家」より

184 :
健康な青年にとつて、おそらく一等緊急な必要は『死』の思想だ。

青年にとつて反抗は生で、忠実は死だ。

青年にとつて、反抗が必要なのと同じくらい、忠実も必要で、美味しくて、甘い果実なんだ。

死は常態であり、破滅は必ず来るのだ。

一つの思想が死ぬやうに見えても必ずよみがへり、一つの理想主義が死に絶えて又
新らしい形でよみがへる。しかも思想と思想は、殺し合ふことしか考へないのである。
が、清一郎は感じてゐた。これら再生の神話そのもの、復活の秘義そのものが、まぎれもない
世界崩壊の兆候なのだ。

人生といふ邪教、それは飛切りの邪教だわ。私はそれを信じることにしたの。生きようと
しないで生きること、現在といふ首なしの馬にまたがつて走ること、……そんなことは
怖ろしいことのやうに思へたけれど、邪教を信じてみればわけもないのよ。
三島由紀夫「鏡子の家」より

185 :
神秘が一度心に抱かれると、われわれは、人間界の、人間精神の外れの外れまで、一息に
歩いて来てしまふ。そこの景観は独自なもので、すべての人間的なものは自分の背後に、
遠い都会の眺めのやうに一纏めの結晶にかがやいて見え、一方、自分の前には、
目のくらむやうな空無が屹立してゐる。(中略)
僕は画家だから、その地点を、魂などとは呼ばず、人間の縁と呼んでゐた。もし魂といふものが
あるなら、霊魂が存在するなら、それは人間の内部に奥深くひそむものではなくて、
人間の外部へ延ばした触手の先端、人間の一等外側の縁でなければならない。その輪郭、
その外縁をはみ出したら、もはや人間ではなくなるやうな、ぎりぎりの縁でなければならない。
三島由紀夫「鏡子の家」より

186 :
僕はありありと目に見える外界へ進んで行つた。その道をまつすぐ歩いてゆく。すると
当然のやうに、僕は神秘にぶつかつた。外部へ外部へと歩いて行つて、いつのまにか、
僕は人間の縁のところまで来てゐたのだ。
神秘家と知性の人とが、ここで背中合せになる。知性の人は、ここまで歩いてきて、
急に人間界のはうへ振向く。すると彼の目には人間界のすべてが小さな模型のやうに、
解釈しやすい数式のやうに見える。(中略)
……しかし神秘家はここで決定的に人間界へ背を向けてしまひ、世界の解釈を放棄し、
その言葉はすみずみまでおどろな謎に充たされてしまふ。
三島由紀夫「鏡子の家」より

187 :
でも今になつてよく考へると、僕は結局、知性の人でもなく、神秘家でもなく、やはり
画家だつたのだと思ふ。過度の明晰も、暗い謎も、どちらも僕のものではなかつた。
人間の縁のところまで来たとき、僕は人間界へ背を向けることもできず、又人間界へ
皮肉な冷たい親和の微笑を以て振返つて君臨することもできず、ひたすら世界喪失の
感情のなかに、浮び漂つてゐたのだと思ふ。
僕の目は鎮魂玉に集中することはできず、おそるおそる周囲の闇のなかを見まはした。
するとそこには、同じ死と闇のなかに、世界喪失の感情に打ち砕かれて、漂つてゐる
多くの若者たちの顔が見えた。ここまで歩いてきたのは僕一人ではなかつた。そのなかには
血みどろな死顔も見え、傷ついた顔も、必死に目をみひらいてゐる顔も見えた。……
三島由紀夫「鏡子の家」より

188 :
花は実に清冽な姿をしてゐた。一点のけがれもなく、花弁の一枚一枚が今生まれたやうに
匂ひやかで、今まで蕾の中に固く畳まれてゐたあとは、旭をうけて微妙な起伏する線を、
花弁のおもてに正確にゑがいてゐた。(中略)
僕は飽かず水仙の花を眺めつづけた。花は徐々に僕の心に沁み渡り、そのみじんも
あいまいなところのない形態は、弦楽器の弾奏のやうに心に響き渡つた。(中略)
すべて虚無に属する物事は、ああも思はれかうも思はれるといふ、心象のたよりなさによつて
世界が動揺する、その只中に現はれるものではないだらうか。僕の目が水仙を見、これが
疑ひもなく一茎の水仙であり、見る僕と見られる水仙とが、堅固な一つの世界に属してゐると
感じられる、これこそ現実の特徴ではないだらうか。するとこの水仙の花は、正しく
現実の花なのではないか。
三島由紀夫「鏡子の家」より

189 :
……僕にはその花が急に生きてゐるやうに感じられた。それはただの物象でもなく、
ただの形態でもなかつた。(中略)
もしこの水仙の花が現実の花でなかつたら、僕がそもそもかうして存在して呼吸してゐる
筈はないと考へられた。(中略)
僕は君に哲学を語つてゐるのでもなければ、譬へ話を語つてゐるのではない。世間の人は、
現実とは卓上電話だの電光ニュースだの月給袋だの、さもなければ目にも見えない遠い
国々で展開されてゐる民族運動だの、政界の角逐だの、……さういふものばかりから
成り立つてゐると考へがちだ。しかし画家の僕はその朝から、新調の現実を創り出し、
いはば現実を再編成したのだ。われわれの住むこの世界の現実を、大本のところで
支配してゐるのは、他でもないこの一茎の水仙なのだ。
三島由紀夫「鏡子の家」より

190 :
この白い傷つきやすい、霊魂そのもののやうに精神的に裸体の花、固いすつきりした
緑の葉に守られて身を正してゐる清冽な早春の花、これがすべての現実の中心であり、
いはば現実の核だといふことに僕は気づいた。世界はこの花のまはりにまはつてをり、
人間の集団や人間の都市はこの花のまはりに、規則正しく配列されてゐる。世界の果てで
起るどんな現象も、この花弁のかすかな戦(そよ)ぎから起り、波及して、やがて
還つて来て、この花蕊にひつそりと再び静まるのだ。
三島由紀夫「鏡子の家」より

191 :
あひかはらず忙しく往来してゐる社会の海の中に、ここだけは孤島のやうに屹立して感じられる。
自分が憂へる国は、この家のまはりに大きく雑然とひろがつてゐる。自分はそのために
身を捧げるのである。しかし自分が身を滅ぼしてまで諫めようとするその巨大な国は、
果してこの死に一顧を与へてくれるかどうかわからない。それでいいのである。
ここは華々しくない戦場、誰にも勲しを示すことのできぬ戦場であり、魂の最前線だつた。
三島由紀夫「憂国」より

192 :
中尉の目の見るとおりを、唇が忠実になぞつて行つた。その高々と息づく乳房は、山桜の
花の蕾のやうな乳首を持ち、中尉の唇に含まれて固くなつた。胸の両脇からなだらかに
流れ落ちる腕の美しさ、それが帯びてゐる丸みがそのままに手首のはうへ細まつてゆく
巧緻なすがた、そしてその先には、かつて結婚式の日に扇を握つてゐた繊細な指があつた。
指の一本一本は中尉の唇の前で、羞らふやうにそれぞれの指のかげに隠れた。……胸から腹へと
辿る天性の自然な括れは、柔らかなままに弾んだ力をたわめてゐて、そこから腰へひろがる
豊かな曲線の予兆をなしながら、それなりに些かもだらしなさのない肉体の正しい
規律のやうなものを示してゐた。光りから遠く隔たつたその腹と腰の白さと豊かさは、
大きな鉢に満々と湛へられた乳のやうで、ひときは清らかな凹んだ臍は、そこに今し一粒の
雨粒が強く穿つた新鮮な跡のやうであつた。影の次第に濃く集まる部分に、毛はやさしく
敏感に叢れ立ち、香りの高い花の焦げるやうな匂ひは、今は静まつてはゐない体の
とめどもない揺動と共に、そのあたりに少しづつ高くなつた。
三島由紀夫「憂国」より

193 :
かうした経緯を経て二人がどれほどの至上の歓びを味はつたかは言ふまでもあるまい。
中尉は雄々しく身を起し、悲しみと涙にぐつたりしてした妻の体を、力強い腕に抱きしめた。
二人は左右の頬を互ひちがひに狂ほしく触れ合はせた。麗子の体は慄へてゐた。
汗に濡れた胸と胸とはしつかりと貼り合はされ、二度と離れることは不可能に思はれるほど、
若い美しい肉体の隅々までが一つになつた。麗子は叫んだ。高みから奈落へ落ち、
奈落から翼を得て、又目くるめく高みへまで天翔つた。中尉は長駆する聯隊旗手のやうに喘いだ。
……そして、一トめぐりがをはると又たちまち情意に溢れて、二人はふたたび相携へて、
疲れるけしきもなく、一息に頂きへ登つて行つた。
三島由紀夫「憂国」より

194 :
毎日 毎日 小説のコピペ ごくろうさん  よく飽かないね?

コピペ貼るだけの馬鹿は市ね!
ブログでやれよクズ!!!!!!!!!!!

↑ あなたのことでわ?

195 :
ごめんなさい。  云われるとおりでございます。

196 :
いくら乱れた世の中でも、一本筋の通つたまじめな努力家の青年はゐるもんだよ。

よくこんな経験があるものだ。十年も二十年も前に、たとへばピクニックに行つて、
一人だけ群を離れて、小滝や野の花の茂みのある静かな一劃に出てしまふ。そのとき何となく、
意味もなく口をついて出た言葉が、十年後、二十年後になつて、何かの瞬間に、再び
ふつと口をついて出てくるのだ。すると永年小さな謎の蕾として眠つてゐたその言葉が、
今度は急速に花をひらき、意味を帯び、人生のその瞬間を決定する、とりかへしのつかない
重要な言葉になつてしまふのだ。

小心で優柔不断らしい女が、男を不幸にしてゐる。

結婚して一ヶ月もたてば、大した苦労を嘗めなくても、女は十分現実を知つたといふ自信を
持つやうになる。

一等怖ろしいのは人間の言葉の魔力である。証拠らしい証拠がなくても、耳に注がれる
言葉の毒は、たちまち全身に廻つてしまふ。
三島由紀夫「お嬢さん」より

197 :
玉のやうな男の児。「玉のやうな」とは何と巧い形容だらうと一太郎は思つてゐた。
明るい薔薇いろをした堅固な玉。弾む玉。野球のボールのやうに力強く飛びまはる玉。
それは飛び出して、ころころ転がつて、両親や祖父母の膝の上へ跳ね上り、笑ふ玉、
喜ぶ玉、きらきらした国旗の旗竿の玉のやうに青空に浮び上り……、それを見るだけで
みんなに幸福な気持を起させるのだ。

人の心といふものは、一定の分量しか入らない箱のやうなものである。

あなたはお嬢さんだわ。本当に困つたお嬢さん、私の妹だつたら、お尻にお灸をすえてやるわ。
どうしてあなたは叫ばないの? 泣かないの? 吼えないの? 思ひ切つて、景ちやんの顔に
オムレツでもぶつけてやらないの? 花瓶を叩き割らないの? お宅の硝子窓だつて、
ずいぶん割り甲斐があるぢやない? あなたのヤキモチは小細工ばかりで醜いわ。
そんなの、ほんとに女の滓だわ。
三島由紀夫「お嬢さん」より

198 :
女はあらゆる価値を感性の泥沼に引きずり下ろしてしまふ。女は主義といふものを全く
理解しない。『何々主義的』といふところまではわかるが、『何々主義』といふものは
わからない。主義ばかりではない。独創性がないから、雰囲気をさへ理解しない。
わかるのは匂ひだけだ。

女のもつ性的魅力、媚態の本能、あらゆる性的牽引の才能は、女の無用であることの証拠である。
有用なものは媚態を要しない。男が女に惹かれねばならぬことは何といふ損失であらう。
男の精神性に加へられた何といふ汚辱であらう。

最上の逃避の方法は、相手に出来るだけ近づくことである。

あらゆる文体は形容詞の部分から古くなると謂はれてゐる。つまり形容詞は肉体なのである。
青春なのである。
三島由紀夫「禁色」より

199 :
風呂に入るときに腕時計を外して入るやうに、女に向ふときは精神を外してゐないと、
忽ち錆びて使ひものにならなくなりますよ。それをやらなかつたので、私は無数の時計を
失くして、一生、時計の製造に追ひ立てられる始末になつたのです。錆時計が二十個
集まつたので、今度全集といふやつを出しました。

打算は愛によつて償はれると考へるのが青年の確信ですね。計算高い男ほど自分の純粋さに
どこかでよりかかつてゐるものです。

絶望は安息の一種である。

死人の目で見たときに、現世はいかに澄明にその機構を露はすことか! 他人の恋情は
いかにあやまりなく透視できることか! この偏見のない自在の中で、世界はいかに
小さな硝子の機械に変貌することか!
三島由紀夫「禁色」より

200 :
窓の外から眺める他人の不幸は、窓の中で見るそれよりも美しい。不幸はめつたに
窓枠をこえてまでわれわれにとびかかつてくるものではないからである。

決定的な瞬間といふものは、心の傷に対して医薬のやうに働らく場合がある。

本当の美とは人を黙らせるものであります。

美といふものは手を触れたら火傷をするやうなものだ。
三島由紀夫「禁色」より

201 :
「でも先生は若さがおきらひだ」
悠一はさらに断定的にさう言つた。
「美しくない若さはね。若さが美しいといふのはつまらぬ語呂合せだ。私の若さは
醜くかつたんだ。それは君には想像も及ばないことだ。私は生まれ変りたいと思ひつづけて
青春時代をすごしたからな」
「僕もです」
と悠一がうつむいたままふと言つた。
「それを言つてはいけない。それを言ふと、君はまあいはば禁忌を犯すことになるんだ。
君は決してさう言つてはならない宿命を選んだんだ。…」
三島由紀夫「禁色」より

202 :
男の目の中に欲望を見出す時ほど、女がおのれの幸福に酔ふ時はない。

思想を抱いてゐる男は、女の目にはもともと神秘的に見えるものである。女は死んでも
「青大将は俺の大好物だ」なんぞと言へないやうに出来てゐるからである。

家庭といふものはどこかに必ず何らかの不幸を孕んでゐるものだ。帆船を航路の上に
押しすすめる順風は、それを破滅にみちびく暴風と本質的には同じ風である。家庭や家族は
順風のやうな中和された不幸に押されて動いてゆくもので、家族をゑがいた多くの名画には、
華押のやうに、ひそんだ不幸が手落ちなく一隅に書き込まれてゐる。

人の不幸は何程かわれわれの幸福である。激しい恋愛の時々刻々の移りゆきではこの公式が
一等純粋な形をとる。
感情の或る種の詭計(きけい)の告白に当つて、女が示す放恣な陶酔の涙ほど、人の心を
うごかすものはない。
三島由紀夫「禁色」より

203 :
様式は芸術の生れながらの宿命である。作品による内的経験と人生経験とは、様式の
有無によつて次元を異にしてゐるものと考へなくてはならぬ。しかし人生経験のうちで
作品による内的経験にもつともちかいものが唯一つある。それは何かといふと、死の
与へる感動である。われわれは死を経験することができない。しかしその感動はしばしば
経験する。死の想念、家族の死、愛する者の死において経験する。つまり死とは生の
唯一の様式なのである。
芸術作品の感動がわれわれにあのやうに強く生を意識させるのは、それが死の感動だから
ではあるまいか。

表現といふ行為は、現実にまたがつて、そいつに止(とど)めを刺し、その息の根を止める行為だ。

女が髭を持つてゐないやうに、彼は年齢を持つてゐなかつた。

ナルシスは、その並々ならぬ誇りのために、却つて不出来な鏡を愛する場合がある。
不出来な鏡は少なくとも嫉妬を免れしめる。
三島由紀夫「禁色」より

204 :
自殺はどんな高尚なそれも低級なそれも、思考それ自体の自殺行為であり、およそ考へ
すぎなかつた自殺といふものは存在しない。
愛さないで体を委すといふことが、男にはあんなに易しいのに、女にはどうして難しいのだらう。
なぜそれを知ることが、娼婦だけにゆるされてゐるのだらう。

どんな思想も観念も、肉感をもたないものは、人を感動させない。
『君は僕が好きだ。僕も僕が好きだ。仲良くしませう』――これはエゴイストの愛情の
公理である。同時に、相思相愛の唯一の事例である。

しかしいつも勝利は凡庸さの側にある。
三島由紀夫「禁色」より

205 :
褒められた女は、精神的に、ほとんど売淫の当為を感じる。

女は決して征服されない。決して! 男が女に対する崇敬の念から凌辱を敢てする場合が
ままあるやうに、この上ない侮蔑の証しとして、女が男に身を任す場合もあるのだ。

愛する者はいつも寛大で、愛される者はいつも残酷さ。

人間をいちばん残酷にするのは、愛されてゐるといふ意識だよ。

現代では、われわれの教養の中から、かつてあれほど精細を極めてゐた悪徳に関する教養が、
根こそぎ葬り去られてしまつた。悪徳の形而上学は死んでしまひ、その滑稽さだけが残つて
笑ひものにされてゐる。(中略)
崇高なものが現代では無力で、滑稽なものにだけ野蛮な力がある。
三島由紀夫「禁色」より

206 :
精妙な悪は、粗雑な善よりも、美しいから道徳的なのです。古代の道徳は単純で力強かつたから、
崇高さはいつも精妙の側にあり、滑稽さはいつも粗雑の側にあつた。ところが現代では、
道徳が美学と離れた。道徳は卑賎な市民的原理によつて、凡庸と最大公約数の味方をします。
美は誇張の様式になり、古めかしくなり、崇高であるか、滑稽であるか、どちらかです。
この二つは、現代では、同じものをしか意味しません。
無道徳な似非近代主義と似非人間主義が、人間的欠陥を崇拝するといふ邪教を流布した。
近代の芸術は、ドン・キホーテ以来、滑稽崇拝のはうへ傾いてゐます。

本当は、人間が人間である以上、世間でふつうさうしてゐるやうに、人間以外のもの、
神だとか、物質だとか、科学的真理だとかを援用したがるはうが、もつとずつと人間的では
ありますまいか。
三島由紀夫「禁色」より

207 :
醒めることは、更に一層深い迷ひではないのか。どこへ向つて、何のために、われらは
醒めようと望むのか。人生が一つの迷妄である以上、この錯雑した始末に負へない迷妄のうちに、
よく秩序立ち論理づけられた人工的な迷妄を築くことこそ、もつとも賢明な覚醒ではないのか。

青春の死の耐へがたさに比べれば、肉体の死が何程のことがあらうか。多くの青春が
さうであるやうに、(何故かといふと青春を生きることはたえざる烈しい死であるから)
かれらの青春もいつも新たな破滅を夢みてゐた。死に臨んで美しい若者は莞爾たる筈であつた。

思想ははじめから、肉体の何らかの誇張の様式なのだ。大きな鼻を持つた男は、大きな鼻
といふ思想の持ち主であり、ぴくぴく動く耳を持つた男は、従つてまた、どう転んでみても、
畢竟するに、ぴくぴく動く耳といふ独創的な思想の持ち主である。
生活を侮蔑することによつて生活を固執すること、この奇妙な信条は、芸術行為を無限に
非実践的なものにしてしまふ。芸術によつて解決可能な事柄は存在しない。
三島由紀夫「禁色」より

208 :
俊輔の孤独は、それがそのまま深い制作の行為になつた。彼は夢想の悠一を築いた。
生に煩はされず、生に蝕まれない鉄壁の青春。あらゆる時の侵蝕に耐へる青春。

青春の一つの滴のしたたり、それがただちに結晶して、不死の水晶にならねばならぬ。
青春が無意識に生きることの莫大な浪費。収穫(とりいれ)を思はぬその一時期。生の破壊力と
生の創造力とが無意識のうちに釣合ふ至上の均衡。かかる均衡は造型されなければならぬ。

愛は絶望からしか生まれない。精神対自然、かういふ了解不可能なものへの精神の運動が
愛なのだ。

精神はたえず疑問を作り出し、疑問を蓄へてゐなければならぬ。精神の創造力とは疑問を
創造する力なんだ。かうして精神の創造の究極の目標は、疑問そのもの、つまり自然を
創造することになる。それは不可能だ。しかし不可能へむかつていつも進むのが精神の方法なのだ。
精神は、……まあいはば、零を無限に集積して一に達しようとする衝動だといへるだらう。
三島由紀夫「禁色」より

209 :
美とは到達できない此岸(しがん)なのだ。さうではないか? 宗教はいつも彼岸(ひがん)を、
来世を距離の彼方に置く。しかし距離とは、人間的概念では、畢竟するに、到達の可能性なのだ。
科学と宗教とは距離の差にすぎない。六十八万光年の彼方にある大星雲は、やはり、
到達の可能性なのだよ。宗教は到達の幻影だし、科学は到達の技術だ。
美は、これに反して、いつも此岸にある。この世にあり、現前してをり、確乎として手に
触れることができる。われわれの官能が、それを味はひうるといふことが、美の前提条件だ。
官能はかくて重要だ。それは美をたしかめる。しかし美に到達することは決して出来ない。
なぜなら官能による感受が何よりも先にそれへの到達を遮(さまた)げるから。希臘人が
彫刻でもつて美を表現したのは、賢明な方法だつた。(中略)
此岸にあつて到達すべからざるもの。かう言へば、君にもよく納得がゆくだらう。美とは
人間における自然、人間的条件の下に置かれた自然なんだ。人間の中にあつて最も深く
人間を規制し、人間に反抗するものが美なのだ。精神は、この美のおかげで、片時も
安眠できない。……
三島由紀夫「禁色」より

210 :
この世には最高の瞬間といふものがある。
この世における精神と自然との和解、精神と自然との交合の瞬間だ。
その表現は、生きてゐるあひだの人間には不可能といふ他はない。生ける人間は、その瞬間を
おそらく味はふかもしれない。しかし表現することはできない。それは人間の能力をこえてゐる。
『人間はかくて超人間的なものを表現できない』と君は言ふのか? それはまちがひだ。
人間は真に人間的な究極の状態を表現できないのだ。人間が人間になる最高の瞬間を
表現できないのだ。
芸術家は万能ではないし、表現もまた万能ではない。表現はいつも二者択一を迫られてゐる。
表現か、行為か。愛の行為でも、人は行為を以てしか人を愛しえない。そしてあとから
それを表現する。
しかし真の重要な問題は、表現と行為との同時性が可能かといふことだ。それについては
人間は一つだけ知つてゐる。それは死なのだ。
三島由紀夫「禁色」より

211 :
死は行為だが、これほど一回的な究極的な行為はない。……さうだ、私は言ひまちがへた。
死は事実にすぎぬ。行為の死は、自殺と言ひ直すべきだらう。人は自分の意志によつて
生れることはできぬが、意志によつて死ぬことはできる。これが古来のあらゆる自然哲学の
根本命題だ。しかし、死において、自殺といふ行為と、生の全的な表現との同時性が
可能であることは疑ひを容れない。最高の瞬間の表現は死に俟たねばならない。
これには逆証明が可能だと思はれる。
生者の表現の最高のものは、たかだか、最高の瞬間の次位に位するもの、生の全的な姿から
αを差引いたものなのだ。この表現に生のαが加はつて、それによつて生が完成されてゐる。
なぜかといへば、表現しつつも人は生きてをり、否定しえざるその生は表現から除外されてをり、
表現者は仮死を装つてゐるだけなのだ。
三島由紀夫「禁色」より

212 :
このα、これを人はいかに夢みたらう。芸術家の夢はいつもそこにかかつてゐる。
生が表現を稀(うす)めること、表現の真の的確さを奪ふこと、このことには誰しも
気がついてゐる。生者の考へる的確さは一つの的確さにすぎぬ。死者にとつては、
われわれが青いと思つてゐる空も、緑いろに煌めいてゐるかもしれないのだ。
ふしぎなことだ。かうして表現に絶望した生者を、又しても救ひに駆けつけて来るのは美なのだ。
生の不的確に断乎として踏みとどまらねばならぬ、と教へてくれる者は美なのだ。
ここにいたつて、美が官能性に、生に、縛られてをり、官能性の正確さをしか信奉しないことを
人に教へるといふ点で、その点でこそ正に、美が人間にとつて倫理的だといふことがわかるだらう。
三島由紀夫「禁色」より

213 :
絶望は卑怯な方法である。目前の不幸なり困難なりにぶつかつて絶望するとき、人は
もし絶望しなかつたら更にぶつかつたであらう一層大きな不幸や困難から身を守るのだ。
絶望する者は結局、不幸や困難を愛することを知らないのだ。そして絶望と妥協した範囲だけの
不幸や困難を愛するのだ。そのとき彼は、絶望そのものにだけは絶望しえない自分を
見出だすだらう。なぜなら絶望といふ前提をとり除いたら彼の現在の存在理由はなく、
また同時に絶望によつてしか現在の存在理由を失はしめえないと考へるとき、彼は新たな
第二の絶望のために何らかの行動の原理をたのまざるをえないだらう。それが他ならぬ
希望ではあるまいか。
この世のありとあらゆる不幸と困難を心から愛し、あらゆる不幸と困難に対して扉を
とざすことのないものこそ、希望と憧憬、この生への意慾の二つの美しい支柱である。

人間もまた向日葵のやうにたえず太陽のはうへ顔を向けてゐたいと希ふものだ。夜のあひだ
向日葵は夢みてゐる。それは夜になれば太陽の光が彼の内面にだけ差し入つて来るからだ。
三島由紀夫「人間喜劇」より

214 :
目前の汚れた小さな水たまりに目を奪はれて、お前も海の水の青さを疑つてはならないぞ。
どんな世の中にならうとも、女の美しさは操の高さの他にはないのだ。男の値打も、
醜く低い心の人たちに屈しない高い潔らかな精神を保つか否かにあるのだ。さういふ
磨き上げられた高い心が、結局永い目で見れば、世のため人のために何ものよりも役立つのだ。
人の心はいつかは太陽へ向ふやうに、神がお定め下すつたのだからな。

不幸や悲しみの滅びないことを信じる人だけが、幸福も滅びないことを知ることができる
わけなのね。

何もかも失くした時こそ、何もかも在りうる時なのです。

人が自分のことでない喜びをよろこんでゐる表情ほど美しいものはありませんね。
三島由紀夫「人間喜劇」より

215 :
自分の不幸だけを忘れようとするのは烏滸(をこ)のわざですよ。もしあなたが不幸に
会はれたら世界中の不幸を忘れてしまふ覚悟をなさることです。私のことなんぞ当分
お考へになるには及びません。又いつかきつとお考へになる時は来るのですから。そして
一旦世界中の不幸を忘れる必要に迫られた人だけが、世界中の不幸の慰め手になることが
できるのです。それを不幸への愛と呼びませうかね。愛するためにはまづ忘れることが必要です。
あなたは希望をお忘れにならぬ。これは若い人として美しいことです。しかし希望を
お忘れになつたときに、あなたの希望への愛も本当に生きてくるでせう。それは絶望を
忘れた人の、絶望への愛と似通つて来ます。ともかくお生きなさい。そしてお忘れなさい。
それが愛するといふことです。

どんな世の中が来ようとも誠実と愛とは貴く、情熱は美しいものだと頑固に疑はない。
そのどれもが人間にだけ出来るものなのだから。
三島由紀夫「人間喜劇」より

216 :
矜りのない人間に自殺は出来ない。同様に傷つけられた自負心は人をたやすく死へ
みちびき入れるものである。

「幸福」などといふ怖るべき観念が人心に宿つて殺人罪を使嗾(しそう)する結果にならぬやう、
私は一社会人の立場に立つて衷心より切望する次第である。
三島由紀夫「幸福といふ病気の療法」より

人生といふものはまるで脈絡もない条理もない感動に充ちてゐる、感動は私たちの心の
トンネルを通過する急行列車のやうに過ぎてゐるのだ、何も残らない、永久に感動する心は
永久に純潔な心だ。

心の共有とはなんといふ容易な事柄でせう。黙つてさへゐれば人間の心は永久に一人一人の
共有物でありませう。黙つてさへゐれば思ふままに相手を創造することができます。
相手は私の中で創造られ、私に似て来ます。本当の真実は孤独なものです。愛のためなら
何故真実が要りませう。愛はいつでも真実を敵に廻すべきではないでせうか。
三島由紀夫「舞台稽古」より

217 :
夥しい薔薇は衰へた高貴な詩人の顔へ花冠を向けてゐた。彼らの本質を歌ひ、彼らの存在の
核心を透視した不朽の詩人の顔に向つてゐた。被造物のうちでも最も精妙な最も神秘な
美しい存在が、この詩人の何ものも希はない深い無為の瞳の澄明の前に、われにもあらず
嘗て己れの秘密を売つたのであつた。薔薇はリルケの美しい詩のなかで裏返された
いたましい喪失の存在に化した。それは認識の手によつてではなく、運命を共有する一つの
宇宙的な魂の手で、あばかれた羞恥と苦痛なのである。苦痛の思ひ出は、微風のやうに繁みを
ゆるがした。薔薇は詩人にその名を呼ばれたものの受苦の上に、詩人をも誘はうと試みた。
リルケの瞳は、恰かもまどろんでゐると見える見事な一輪の薔薇にとどまつた。
葉は蝕まれてゐず、咲具合も頃合である。花弁は深く包まれてゐてしかも艶やかに
倦(たゆ)げである。心もち重みにうなだれ、リルケの目に対してゐた。
三島由紀夫「薔薇」より

218 :
うんこ








三島由紀夫「薔薇」より

219 :
まやかしの平和主義、すばらしい速度で愚昧と偸安への坂道を辷り落ちてゆく人々、
にせものの経済的繁栄、狂はしい享楽慾、世界政治の指導者たちの女のやうな虚栄心……
かういふものすべては、仕方なく手に委ねられた薔薇の花束の棘のやうに彼の指を刺した。
…重一郎は世界がこんな悲境に陥つた責任を自分一人の身に負うて苦しむやうになつた。
誰かが苦しまなければならぬ。誰か一人でも、この砕けおちた世界の硝子のかけらの上を、
血を流して跣で歩いてみせなければならぬ。

一人の人間が死苦にもだえてゐるとき、その苦痛がすべての人類に、ほんのわづかでも
苦痛の波動を及ぼさないとは何事だらう! こんな肉体的苦痛の明確な個人的限界に
つきあたると、重一郎は又しても深い絶望に沈んだ。どうしてあの原子爆弾の怖ろしい
苦痛ですら、個人的な苦痛に還元され、肉体的な体験だけで頒(わか)たれることに
なつたのだらう。
三島由紀夫「美しい星」より

220 :
いやが上にも凡庸らしく、それが人に優れた人間の義務でもあり、また、唯一つの自衛の
手段なのだ。

今や人類は自ら築き上げた高度の文明との対決を迫られてをり、その文明の明智ある
支配者となるか、それともその文明に使役された奴隷として亡びるか、二つに一つの
決断を迫られてゐる。

アメリカは、広島への原爆の投下によつて、自らの手を汚しました。これは彼らの歴史の
永久に落ちぬ汚点となりました。

あるべきだと考へるものは、決してこの世に存在しない。しかし何かが存在しないなら、
それが存在すべきだつた。

肉の交はりはそもそも心の交合の模倣であり、絶望から生れた余儀ない代償ではないだらうか。
三島由紀夫「美しい星」より

221 :
偶然といふ言葉は、人間が自分の無知を湖塗しようとして、尤もらしく見せかけるために
作つた言葉だよ。偶然とは、人間どもの理解をこえた高い必然が、ふだんは厚いマントに
身を隠してゐるのに、ちらとその素肌の一部をのぞかせてしまつた現象なのだ。人智が
探り得た最高の必然性は、多分天体の運行だらうが、それよりさらに高度の、さらに
精巧な必然は、まだ人間の目には隠されてをり、わづかに迂遠な宗教的方法でそれを
揣摩してゐるにすぎないのだ。宗教家が神秘と呼び、科学者が偶然と呼ぶもの、そこにこそ
真の必然が隠されてゐるのだが、天はこれを人間どもに、いかにも取るに足らぬもののやうに
見せかけるために、悪戯つぽい、不まじめな方法でちらつかせるにすぎない。人間どもは
まことに単純で浅見だから、まじめな哲学や緊急な現実問題やまともらしく見える現象には、
持ち前の虚栄心から喜んで飛びつくが、一見ばかばかしい事柄やノンセンスには、
それ相応の軽い顧慮を払ふにすぎない。
三島由紀夫「美しい星」より

222 :
かうした人間はいつも天の必然にだまし討ちにされる運命にあるのだ。なぜなら天の必然の
白い美しい素足の跡は、一見ばからしい偶然事のはうに、あらはに印されてゐるのだから。
恋し合つてゐる者同士は、よく偶然に会ふ羽目になるものだ。それだけならふしぎもないが、
憎み合つてゐて、お互ひに避けたいと思つてゐる同士も、よく偶然に会ふ羽目になるものだ。
この二例を人間の論理で統一すると、愛憎いづれにしろ、関心を持つてゐる人間同士は
否応なしに偶然に会ふといふことになる。人間の論理はそれ以上は進まない。しかし
われわれ宇宙人の鳥瞰的な目は、もつと広大な展望を持つてゐる。そこから見ると、
関心を抱き合ひつつ偶然に会ふ人の数とは比べものにならぬほど、人間どもは、電車の中、
町中で、何ら関心を持ち合はない無数の他人とも、時々刻々、偶然に会つてゐるのだ。
おそらく一生に一度しか会はない人たちと、奇蹟的にも、日々、偶然に会つてゐるのだ。
三島由紀夫「美しい星」より

223 :
ここまでひろげられた偶然は、もう大きな見えない必然と云ふほかはあるまい。仏教徒だけが
この必然を洞察して、『一樹の蔭』とか『袖触れ合ふも他生の縁』とかの美しい隠喩で
それを表現した。そこには人間の存在にかすかに余影をとどめてゐる『星の特質』が
うかがはれ、天体の精妙な運行の、遠い反映が認められるのだ。実はそこには、それよりも
さらに高い必然の網目の影も落ちかかつてゐるのだが……。
三島由紀夫「美しい星」より

224 :
かつて叫ばれた八紘一宇といふ言葉は、かかる文明史的予言であつたものを、軍閥に
利用されて、卑小な意味に転化されたのだ。

世界連邦の理念は、国際連合的な悪平等の上に立つてにつちもさつちも行かなくなるやうな
ものではなく、文明史的潮流の予言的洞察の上に立ち、日本といふ個と、世界といふ全体との、
お互ひがお互ひを包み込むやうな多次元的綜合(!)に依るべきである。

人間には三つの宿命的な病気といふか、宿命的な欠陥がある。
その一つは事物への関心(ゾルゲ)であり、もう一つは人間への関心であり、もう一つは
神への関心である。人類がこの三つの関心を捨てれば、あるひは滅亡を免れるかもしれないが、
私の見るところでは、この三つは不治の病なのです。
三島由紀夫「美しい星」より

225 :
いくら人間が群をなして集まつても、宇宙法則の中で『生命』といふものが例外的なものに
すぎないといふ無意識の孤独感は拭はれず、人間はとりわけ物に、無機物き執着します。
金貨と宝石とは人間の生命と生活に対する一等冷淡な対立物であるにもかかはらず、
さういふ物質をとらへて、人間的色彩をこれに加へ、人間的臭気をこれに与へることに
人々は熱中して来ました。そのうちに人間は物に馴れ親しみ、物の運動と秩序のなかに、
人間の本質をみつけ出すやうにさへなつたのです。
そして有機物にすら、生きて動いてゐる猫にすら、人間の惹き起す事件にすら、いや、
人間そのものにすら、物の属性を与へなくては安心できぬやうになつた。物の属性を
即座に与へることが事物に完結性の外観をもたらし、人間が恒久性の観念と故意を
ごつちやにしてゐる『幸福』の外観をもたらすからです。
三島由紀夫「美しい星」より

226 :
かやうに人間の事物への関心は、時間の不可逆性からつねに自分を救ひ出さうとする欲求で、
三十年前にロンドンで買つた傘を愛用してゐる紳士も、今年の夏の流行の水着を身につける女も、
三十年間にしろ、一ヵ月にしろ、その時間を代表する物質に自分を閉じ込めて安心するのです。
物質に対する人間の支配は、暗々裡に、いつも物質の最終的な勝利を認めてきた。
さうでなかつたら、どうして地球上に、あんなに沢山、石や銅や鉄のいやらしい記念碑や
建築物やお墓が残つてゐる筈がありませう。さて、そこで人間は、最後に、物質の性質を
ある程度究明して、原子力を発見したのです。水素爆弾は人間の到達したもつとも逆説的な
事物で、今人間どもは、この危険な物質の裡に、究極の『人間的』幻影を描いてゐるのです。
三島由紀夫「美しい星」より

227 :
性慾は実は人間的関心ではないのです。それは繁殖と破壊の間から、世界の薄明を
覗き見る行為です。

彼らはみな、苦痛が決して伝播しないこと、しかも一人一人が同じ苦痛の『条件』を
荷つてゐることを知悉してゐるのです。
人間の人間に対する関心は、いつもこのやうな形をとります。同じ存在の条件を荷ひながら、
決して人類共有の苦痛とか、人類共有の胃袋とかいふものは存在しないといふ自信。……

政治的スローガンとか、思想とか、さういふ痛くも痒くもないものには、人間は喜んで
普遍性と共有性を認めます。毒にも薬にもならない古くさい建築や美術品は、やすやすと
人類共有の文化的遺産になります。しかし苦痛がさうなつては困るのです。大演説の最中に
政治的指導者の奥歯が痛みだしたとき、数万の聴衆の奥歯が同時に痛みだしては困るのです。
三島由紀夫「美しい星」より

228 :
神のことを、人間は好んで真理だとか、正義だとか呼びたがる。しかし神は真理自体でもなく、
正義自体でもなく、神自体ですらないのです。それは管理人にすぎず、人知と虚無との
継ぎ目のあいまいさを故ら維持し、ありもしないものと所与の存在との境目をぼかすことに
従事します。何故なら人間は存在と非在との裂け目に耐へないからであるし、一度人間が
『絶対』の想念を心にうかべた上は、世界のすべてのものの相対性とその『絶対』との間の
距離に耐へないからです。遠いところに駐屯する辺境守備兵は、相対性の世界をぼんやりと
絶対へとつなげてくれるやうに思はれるのです。そして彼らの武器と兜も、みんな人間が
稼いで、人間が貢いでやつたものばかりです。
三島由紀夫「美しい星」より

229 :
神への関心のおかげで、人間はなんとか虚無や非在や絶対などに直面しないですんできました。
だから今もなほ、人間は虚無の真相について知るところ少く、虚無のやうな全的破壊の原理は
人間の文化内部には発生しないと妄信してゐる人間主義の愚かな名残で、人知が虚無を
作りだすことなどできないと信じてゐます。
本当にさうでせうか? 虚無とは、二階の階段を一階へ下りようとして、そのまますとんと
深淵へ墜落すること。花瓶へ花を活けようとして、その花を深淵へ投げ込んでしまふこと。
つまり目的を持ち、意志から発した行為が、行為のはじまつた瞬間に、意志は裏切られ、
目的は乗り超へられて、際限なく無意味なもののなかへ顛落すること。要するに、
あたかも自分が望んだがごとく、無意味の中へダイヴすること。あらゆる形の小さな失錯が、
同種の巨大な滅亡の中へ併呑されること。……人間世界では至極ありふれた、よく起る
事例であり、これが虚無の本質なのです。
三島由紀夫「美しい星」より

230 :
科学的技術は、ふしぎなほど正確に、すでに瀰漫してゐた虚無に点火する術を知つてゐます。
科学的技術は人間が考へてゐるほど理性的なものではなく、或る不透明な衝動の抽象化であり、
錬金術以来、人間の夢魔の組織化であり、人間どもが或る望まない怪物の出現を夢みると、
科学的技術は、すでに人間どもがその望まない怪物を望んでゐるといふことを、証明して
みせてくれるのです。そこで、人間をすでにひたひたと浸してゐた虚無に点火される日が
やつてきました。それは気違いじみた真赤な巨大な薔薇の花、人間の栽培した最初の虚無、
つまり水素爆弾だつたのです。
しかし未だに虚無の管理者としての神とその管理責任を信じてゐる人間は、安心して
水爆の釦を押します。十字を切りながら、お祈りをしながら、すつかり自分の責任を免れて、
必ず、釦を押します。
三島由紀夫「美しい星」より

231 :
平和は自由と同様に、われわれ宇宙人の海から漁られた魚であつて、地球へ陸揚げされると
忽ち腐る。平和の地球的本質であるこの腐敗の早さ、これが彼らの不満のたねで、彼らが
しきりに願つてゐる平和は、新鮮な瞬間的な平和か、金属のやうに不朽の恒久平和かの
いづれかで、中間的なだらだらした平和は、みんな贋物くさい匂ひがするのです。

人類はまだまだ時間を征服することはできない。だから人類にとつての平和や自由の観念は、
時間の原理に関はりがあり、その原理によつて縛られてゐる。時間の不可逆性が、
人間どもの平和や自由を極度に困難にしてゐる宿命的要因なのです。
三島由紀夫「美しい星」より

232 :
私が彼らの想像力に愬(うつた)へようとしたやり方は、破滅の幻を強めて平和の幻と同等にし、
それをつひには鏡像のやうに似通はせ、一方が鏡中の影であれば、一方は必ず現実であると
思はせるところまで、持つて行く方法でした。空飛ぶ円盤の出現は、人間理性をかきみだす
ためだつたし、理性を目ざめさせるにはその敵対物の陶酔しかないことを、理性自体に
気づかせるのが目的であつた。そしてわれわれの云ふ陶酔とは、時間の不可逆性が崩れること、
未来の不確実性が崩れること、すなはち、欲望を持ちえなくなること、――何故なら
人間の欲望はすべて時間が原因であるから――、これらもろもろの、人間理性の最後の
自己否定なのでした。人間の純粋理性とは、経験を可能にする先天的な認識能力のすべてを
云ふのださうで、人間の経験は欲望の、すなはち時間の原則に従つて動くからです。
私は未開の陶酔を人間どもに教へようとしたのでした。そこでこそ現在が花ひらき、
人間世界はたちどころに光輝を放ち、目前の草の露がただちに宝石に変貌するやうな陶酔を。
三島由紀夫「美しい星」より

233 :
私が私の予見を語らないのは、それが語られると同時に、地球の人類の宿命になつてしまふからだ。
動いてやまない人間を静止させるのが私の指命だとしても、それを宿命の形で静止させるのを
私は好まない。あくまで陶酔、静かな、絶対に欲望を持たない陶酔のうちに、彼らを
休らはすのが私の流儀なのだ。
人間の政治、いつも未来を女の太腿のやうに猥褻にちらつかせ、夢や希望や
『よりよいもの』への餌を、馬の鼻面に人参をぶらさげるやり方でぶらさげておき、
未来の暗黒へ向つて人々を鞭打ちながら、自分は現在の薄明の中に止まらうとする
あの政治、……あれをしばらく陶酔のうちに静止させなくてはいかん。
三島由紀夫「美しい星」より

234 :
歴史上、政治とは要するに、パンを与へるいろんな方策だつたが、宗教家にまさる政治家の知恵は、
人間はパンだけで生きるものだといふ認識だつた。この認識は甚だ貴重で、どんなに
宗教家たちが喚き立てやうと、人間はこの生物学的認識の上にどつかと腰を据へ、健全で
明快な各種の政治学を組み立てたのだ。
さて、あなたは、こんな単純な人間の生存の条件にはつきり直面し、一たびパンだけで
生きうるといふことを知つてしまつた時の人間の絶望について、考へたことがありますか?
それは多分、人類で最初に自殺を企てた男だらうと思ふ。何か悲しいことがあつて、
彼は明日自殺しようとした。今日、彼は気が進まぬながらパンを喰べた。彼は思ひあぐねて
自殺を明後日に延期した。明日、彼は又、気が進まぬながらパンを喰べた。自殺は一日のばしに
延ばされ、そのたびに彼はパンを喰べた。……或る日、彼は突然、自分がただパンだけで、
純粋にパンだけで、目的も意味もない人生を生きてゐることを発見する。
三島由紀夫「美しい星」より

235 :
自分が今現に生きてをり、その生きてゐる原因は正にパンだけなのだから、これ以上
確かなことはない。 彼はおそろしい絶望に襲はれたが、これは決して自殺によつては
解決されない絶望だつた。何故なら、これは普通の自殺の原因となるやうな、生きてゐる
といふことへの絶望ではなく、生きてゐること自体の絶望なのであるから、絶望が
ますます彼を生かすからだ。
彼はこの絶望から何かを作り出さなくてはならない。政治の冷徹な認識に復讐を企てるために、
自殺の代りに、何か独自のものを作り出さなくてはならない。そこで考へ出されたことが、
政治家に気づかれぬやうに、自分の胴体に、こつそり無意味な風穴をあけることだつた。
その風穴からあらゆる意味が洩れこぼれてしまひ、パンだけは順調に消化され、永久に、
次のパンを、次のパンを、次のパンを求めつづけること。生存の無意味を保障するために、
彼らにパンを与へつづけることを、政治家たち統治者たちの、知られざる責務にして
しまふこと。しかもそれを絶対に統治者たちには気づかせぬこと。
三島由紀夫「美しい星」より

236 :
この空洞、この風穴は、ひそかに人類の遺伝子になり、あまねく遺伝し、私が公園のベンチや
混んだ電車でたびたび見たあの反政治的な表情の素になつたのだ。
こいつらは組織を好み、地上のいたるところに、趣きのない塔を建ててまはる。私はそれらを
ひとつひとつ洞察して、つひには支配者の胴体、統治者の胴体にすら、立派な衣服の下に
小さな風穴の所在を嗅ぎつけたのだ。
今しも地球上の人類の、平和と統一とが可能だといふメドをつけたのは、私がこの風穴を
発見したときからだつた。お恥ずかしいことだが、私が仮りの人間生活を送つてゐたころは、
私の胴体にも見事にその風穴があいてゐたものだ。
私は破滅の前の人間にこのやうな状態が一般化したことを、宇宙的恩寵だとすら考へてゐる。
なぜなら、この空洞、この風穴こそ、われわれの宇宙の雛形だからだ。
三島由紀夫「美しい星」より

237 :
人間が内部の空虚の連帯によつて充実するとき、すべての政治は無意味になり、反政治的な
統一が可能になる。彼らは決して釦を押さない。釦を押すことは、彼らの宇宙を、内部の
空虚を崩壊させることになるからだ。肉体を滅ぼすことを怖れない連中も、この空虚を
滅ぼすことには耐へられない。何故ならそれは、母なる宇宙の雛形だからだ。

愛と生殖とを結びつけたのは人間どもの宗教の政治的詐術で、ほかのもろもろの政治的
詐術と同様、羊の群を柵の中へ追ひ込むやり方、つまり本来無目的なものを目的意識の中へ
追ひ込む、あの千篇一律のやり方の一つなのだね。

皮肉なことに愛の背理は、待たれてゐるものは必ず来ず、望んだものは必ず得られず、
しかも来ないこと得られぬことの原因が、正に待つこと望むこと自体にあるといふ
構造を持つてゐる。
三島由紀夫「美しい星」より

238 :
気まぐれこそ人間が天から得た美質で、時折人間が演じる気まぐれには、たしかに天の最も
甘美なものの片鱗がうかがはれる。それは整然たる宇宙法則が時折洩らす吐息のやうなもの、
許容された詩のやうなもので、それが遠い宇宙から人間に投影されたのだ。人間どもの
宗教の用語を借りれば、人間の中の唯一つの天使的特質といへるだらう。
人間が人間を殺さうとして、まさに発射しようとするときに、彼の心に生れ、その腕を突然
ほかの方向へ外らしてしまふふしぎな気まぐれ。…(中略)
さういふ美しい気まぐれの多くは、人間自体にはどうしても解けない謎で、おそらく
沢山の薔薇の前へ来た蜜蜂だけが知つてゐる謎なのだ。何故なら、こんな気まぐれこそ、
薔薇はみな同じ薔薇であり、目前の薔薇のほかにも又薔薇があり、世界は薔薇に充ちてゐる
といふ認識だけが、解き明かすことのできる謎だからだ。
私が希望を捨てないといふのは、人間の理性を信頼するからではない。人間のかういふ
美しい気まぐれに、信頼を寄せてゐるからだ。あなたは人間どもは必ず釦を押すと言ふ。
それはさうだらう。しかし釦を押す直前に、気まぐれが微笑みかけることだつてある。それが人間といふものだ。
三島由紀夫「美しい星」より

239 :
もし人類が滅んだら、私は少なくとも、その五つの美点をうまく纏めて、一つの墓碑銘を
書かずにはゐられないだらう。この墓碑銘には、人類の今までにやつたことが必要かつ
十分に要約されてをり、人類の歴史はそれ以上でもそれ以下でもなかつたのだ。
その碑文の草案は次のやうなものだ。
『地球なる一惑星に住める 人間なる一種族ここに眠る。
彼らは嘘をつきつぱなしについた。
彼らは吉凶につけて花を飾つた。
彼らはよく小鳥を飼つた。
彼らは約束の時間にしばしば遅れた。
そして彼らはよく笑つた。
 ねがはくはとこしへなる眠りの安らかならんことを』
三島由紀夫「美しい星」より

240 :
これをあなた方の言葉に翻訳すればかうなるのだ。
『地球なる一惑星に住める 人間なる一種族ここに眠る。
彼らはなかなか芸術家であつた。
彼らは喜悦と悲嘆に同じ象徴を用ひた。
彼らは他の自由を剥奪して、それによつて辛ふじて自分の自由を相対的に確認した。
彼らは時間を征服しえず、その代りにせめて時間に不忠実であらうとした。
そして時には、彼らは虚無をしばらく自分の息で吹き飛ばす術を知つてゐた。
 ねがはくはとこしへなる眠りの安らかならんことを』
三島由紀夫「美しい星」より

241 :
人間は前へ進まうとするとき、必ずうしろへも進んでゐるのだ。だから彼らは決して
到達することも、帰り着くこともない。これが彼らの宇宙なのだ。

破滅か救済かいづれへ向つてゐやうと、未来は鉄壁の彼方にあつて、こちらには、すべてに
手つかずの純潔な時がたゆたうてゐる。この、掌の中に自在にたはめられる、柔らかな、
決定を待つていかやうにも鋳られる、しかもなほ現成の時、これこそ人間の時なのだ。

どんな威嚇も、人間の楽天主義には敵ひはしないのだ。その点では、地獄であらうと、
水爆戦争であらうと、魂の破滅であらうと、肉体の破滅であらうと、同じことだ。
本当に終末が来るまでは、誰もまじめに終末などを信じはしない。
三島由紀夫「美しい星」より

242 :
生きる意志の欠如と楽天主義との、世にも怠惰な結びつきが人間といふものだ。

一寸傷つけただけで血を流すくせに、太陽を写す鏡面ともなるつややかな肉。あの肉の外側へ
一ミリでも出ることができないのが人間の宿命だつた。しかし同時に、人間はその肉体の
縁(へり)を、広大な宇宙空間の海と、等しく広大な内面の陸との、傷つきやすく
揺れやすい「明るい汀」にしたのだ。その内面から放たれる力は海をほんの少し押し戻し、
その薄い皮膚は又、たえまない海の侵蝕を防いでゐた。若い輝かしい肉が、人間の矜りに
なるのも尤もだつた。それは祝寿にあふれた、もつとも明るい、もつとも輝かしい汀であるから。
三島由紀夫「美しい星」より

243 :
>>1はコピペ馬鹿!







三島由紀夫「美しい星」より

244 :

   ↑↑ 毎日 毎日 小説のコピペ ごくろうさん  よく飽かないね?


245 :
女にとつて優雅であることは、立派に美の代用をなすものである。なぜなら男が憧れるのは、
裏長屋の美女よりも、それほど美しくなくても、優雅な女のはうであるから。

あふれるばかりの精力を事業や理想の実現に向けてゐる肥つた醜い男などは何といふ滑稽な
代物でだらう。みすぼらしい風采の世界的学者などは何といふ珍物であらう。仕事に
熱中してゐる男は美しく見えるとよく云はれるが、もともと美しくもない男が仕事に
熱中したつて何になるだらう。

女に友情がないといふのは嘘であつて、女は恋愛のやうに、友情をもひた隠しにして
しまふのである。その結果、女の友情は必ず共犯関係をひそめてゐる。

どんな邪悪な心も心にとどまる限りは、美徳の領域に属してゐる。
三島由紀夫「美徳のよろめき」より

246 :
どんな驚天動地の大計画も、一旦心が決り準備が整ふと、それにとりかかる前に、或る休息に
似た気持が来るものである。

個性を愛することのできるのはむしろ友情の特権だ。

嫉妬の孤立感、その焦燥、そのあてどもない怒りを鎮める方法は一つしかなく、それは
嫉妬の当の対象、憎しみの当面の敵にむかつて、哀訴の手をさしのべることなのである。
…自分に傷を与へる敵の剣にすがつて、薬餌を求めるほかはないのである。

われわれが未来を怖れるのは、概して過去の堆積に照らして怖れるのである。恋が本当に
自由になるのは、たとへ一瞬でも思ひ出の絆から脱したときだ。
三島由紀夫「美徳のよろめき」より

247 :
考へること、自己分析をすること、かういふことはみんな必要から生れるのだ。

この世で一等強力なのは愛さない人間だ。

肉体の仕業はみんな嘘だと思つてしまへば簡単だが、それが習慣になつてしまへば、
習慣といふものには嘘も本当もない。精神を凌駕することのできるのは習慣といふ怪物だけなのだ。

道徳は、習慣からの逃避もみとめないが、同時に、習慣への逃避も、それ以上にみとめて
ゐないのだ。道徳とは、人間と世界のこの悪循環を絶ち切つて、すべてのもの、あらゆる瞬間を、
決してくりかへされない一回きりのものにしようとする力なのだ。
三島由紀夫「美徳のよろめき」より

248 :
自然の物理的法則からすつかり身を背けることが大切なのだ。自然の法則になまじ目移りして、
人間は人間であることを忘れ、習慣の奴隷になるか逃避の王者になるかしてしまふ。
自然はくりかへしてゐる。一回きりといふのは、人間の唯一の特権なのだ。

明日を怖れてゐる快楽などは、贋物でもあり、恥づべきものではないだらうか。

習慣からのがれようとする思案は、陰惨で、人を卑屈にするばかりだが、快楽を
捨てようとする意志は、人の矜りに媚び、自尊心に受け容れられやすい。

男は、一度高い精神の領域へ飛び去つてしまふと、もう存在であることをやめてしまえる!
三島由紀夫「美徳のよろめき」より

249 :
女が一等惚れる羽目になるのは、自分に一等苦手な男相手でございますね。あなたばかりでは
ありません。誰もさうしたものです。そのおかげで私たちは自分の欠点、自分といふ人間の
足りないところを、よくよく知るやうになるのでございます。女は女の鑑(かがみ)には
なれません。いつも殿方が女の鑑になつてくれるのですね。それもつれない殿方が。

情に負けるといふことが、結局女の最後の武器、もつとも手強い武器になります。
情に逆らつてはなりません。ことさら理を立てようとしてはなりません。情に負け、
情に溺れて、もう死ぬほかないと思ふときに、はじめて女には本来の智恵が湧いてまゐります。
三島由紀夫「美徳のよろめき」より

250 :
女は恋に敗れた女に同情しながら、さういふ敗北者の噂をひろげるのが大そう好きで、
恋に勝つてばかりゐる女のことは、『不道徳な人』といふ一言で片附けるだけなのでございます。
いはば、さういふ勝利者は抽象的な不名誉だけで事がすみ、細目にわたる具体的な不名誉は、
お気の毒にも、不幸な敗北者の女が蒙ることになるのです。

世間を味方につけるといふことは奥様、とりもなほさず、世間に決して同情の涙を求めない
といふことなのです。
秘密といふものはたのしいもので、悩みであらうが喜びであらうが、同じ色に塗りたくつて
しまひます。それに国家の機密なぞは平気で洩らしませうが、自分の秘密を大事に固く
守ることは、女にとつてはそれほど難事ではありません。
三島由紀夫「美徳のよろめき」より

251 :
惚れすぎて苦しくなり、相手をむりにも軽蔑することで、その恋から逃げようとするのは、
拙ない初歩のやり方です。万に一つも巧くはまゐりません。ひたすらその方をうやまひ、
尊敬するやうになさいまし。お相手がどんなに卑劣な振舞をしても、なほかつ尊敬するやうに
なさいまし。さうしてゐれば、とたんにお相手はあなたの目に、つまらない人物に見えてまゐります。

ただ盲目であるときはまだ救はれ易い。本当に危険なのは、われわれが自分の盲目を
意識しはじめて、それを楯に使ひだす場合である。

苦痛の明晰さには、何か魂に有益なものがある。どんな思想も、またどんな感覚も、
烈しい苦痛ほどの明晰さに達することはできない。よかれあしかれ、それは世界を直視させる。
三島由紀夫「美徳のよろめき」より

252 :

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これしか 生きがいが ないんでしょうか?


253 :
>>251は蛆虫。






三島由紀夫「美徳のよろめき」より

254 :
↑ ご自分のことを ほざいているよ!
        
         三島由紀夫「美徳のどよめき」より

255 :
たとへ単なる私慾も、程度が強まり輪郭がひろがれば、人間のふしぎな本能から、
無私の要素を含まずにはいられない。同時に無私の情熱も、
ちよつと弛んだ刹那には私慾に似るのだ。

集中といふことは、夢中になるといふことぢやない。問題は持続だ……

祖父は目的を弁(わきま)へなかつたが、自分の効用はいつも自覚してゐた。箒が、
「自分は物を掃くためにある」と確信してゐるあひだは、どんなことをしたつて箒は
孤独にならない。

まだ持たないものを思ひ描くことは人を酔はせるが、現に持つてゐるものはわれわれを
酔はせない。もし酔ふとしても、それは人工的な酔ひである。

そもそも性慾とは、人間を愛することであらうか?
三島由紀夫「沈める滝」より

256 :
負と負を掛けて正になる数式のやうに、退屈した人間とのお喋りだけが、退屈した人間を、
正にその退屈から救ふのかもしれない。

誰をも愛することのできない二人がかうして会つたのだから、嘘からまことを、虚妄から
真実を作り出し、愛を合成することができるのではないか。負と負を掛け合はせて
正を生む数式のやうに。

遊び飽いた人間といふものには、一種独特の匂ひがある。遊び人同士はお互ひの嗅覚で
すぐそれを嗅ぎあてる。

信じるなら、仕方ないから、丸ごと信じなくちや。なるほど、女の真実を信じることと、
女の嘘を信じることは、まるきり同じことなんだ。

われわれを動かすのは概してありきたりな、しかし虚飾のない手紙である。

三島由紀夫「沈める滝」より

257 :
技術がもし完全に機械化される時代が来れば、人間の情熱は根絶やしにされ、精力は
無用のものになるだらうから、科学技術の進歩にそそがれる情熱や精力は、かかる
自己否定的な側面をも持つてゐる。しかし幸ひにして、事態はまだそこまでは来てゐない。
ダム建設はこのやうな意味で、一種の象徴的な事業だと思はれた。われわれが山や川の、
自然のなほ未開拓な効用をうけとる。今日では幸ひに、われわれ自身の人間的能力である
情熱や精力の発揮の代償としてうけとるのだ。そして自然の効用が発掘しつくされ、
地球が滓まで利用されて荒廃の極に達するまでは、人間の情熱や精力は根絶やしには
されまいといふ確信が昇にはあつた。
三島由紀夫「沈める滝」より

258 :
ダム建設の技術は、自然と人間との戦ひであると共に対話でもあり、自然の未知の効用を
掘り出すためにおのれの未知の人間的能力を自覚する一種の自己発見でなければならなかつた。
あの幸福な予定調和を失ひ、人間主義の下における使命感と分業の意識を失つた技術は、
孤独になりながらも、今日ではエヴェレスト征服にも似たかうした人間的な意味を
もつやうになつた。

盲目になれる才能、……内に発見するためには盲目にならなければならない。

どんな種類の愛情でも必ずエゴイズムの形をとる。

悲劇を演じるやうな見かけを持つて生れなかつた男が、悲劇を演じなければならないとは、
本当の悲劇である。

素朴な感情には本来素朴な表現形式がそなはつてゐるものである。
三島由紀夫「沈める滝」より

259 :
にせものの夜の中から、本当の夜がはじまる。電燈のあかりは、煌めきを増し、暖かみを
帯びる。時折あけられる石炭の投入口から、のぞかれるストーヴの焔は、新鮮な懐かしい
火の色をしてゐる。

公衆を前にして自分の役を演ずることは容易ではないが、却つて孤独のはうがわれわれを、
われとわが役の意識せざる俳優にしてしまふのに力がある。

女たちの纏ふものは、みんな、藻だの、鱗だの、海に似たものを思ひ出させると昇は思つた。
しかし漂つてゐるのは磯の香ではない。ものうげな、濃密な、甘くて暗い匂ひである。
夜の匂ひといふよりは、女たちの時刻、午後の匂ひである。

あなたはダムでした。感情の水を堰(せ)き、氾濫させてしまふのです。
三島由紀夫「沈める滝」より

260 :
どんな分野にも、陰惨なほど真摯な権威者といふものが居り、金魚のことなら世界的権威で
あつたり、楔形(せつけい)文字についてはその人にきかなければならないと云ふやうな
人がゐる。普遍的であるべき科学的技術の世界にもさういふ人がゐて、神秘な力で、
ほかの人たちの上に、卓越してゐるのを見るのはふしぎなことである。
こんな種類の人間を押し進めてゆく情熱には、何か最初に、最低の線でしか社会と
つながるまいとする決意があつて、結果的には心ならずも、最高の線で社会とつながつて
しまふやうになるものだ。

時として精神の解放には、巨人的なもの、威圧的なもの、精神をほとんど押しつぶすやうな
ものが必要である。
三島由紀夫「沈める滝」より

261 :
どんな死でもあれ、死は一種の事務的な手続である。

一人死んでも、十人死んでも、同じ涙を流すほかに術がないのは不合理ではあるまいか?
涙を流すことが、泣くことが、何の感情の表現の目安になるといふのか?

われわれには死者に対してまだなすべき多くのことが残つてゐる。悔恨は愚行であり、
ああもできた、かうも出来たと思ひ煩らふのは詮ないことであるが、それは死者に対する
最後の人力の奉仕である。われわれは少しでも永いあひだ、死を人間的な事件、人間的な
劇の範囲に引止めておきたいと希(ねが)ふのである。

記憶はわれわれの意識の上に、時間をしばしば並行させ重複させる。
三島由紀夫「真夏の死」より

262 :
事実らしさを超えて事実がありうるのはふしぎなことだ。子供が一人海で溺れれば、
誰しも在りうることと思ひ、事実らしいと思ふであらう。しかし三人となると滑稽だ。
しかし又、一万人となれば話は変つてくる。すべて過度なものには滑稽さがあるが、
と謂つて大天災や戦争は滑稽ではない。一人の死は厳粛であり、百万人の死は厳粛である。
一寸した過度、これが曲者なのである。

悲嘆の博愛を信じろと云つても困難である。悲しみは最もエゴイスティックな感情だからである。

生きてゐるといふことは、何といふ残酷さだ。
…この残酷な生の実感には、深い、気も遠くなるほどの安堵があつた。
三島由紀夫「真夏の死」より

263 :
あれほどの不幸に遭ひながら、気違ひにならないといふ絶望、まだ正気のままでゐるといふ絶望、
人間の神経の強靭さに関する絶望、さういふものを朝子は隈なく味はつた。
…われらを狂気から救ふものは何ものなのか? 生命力なのか? エゴイズムなのか?
狡さなのか? 人間の感受性の限界なのか? 狂気に対するわれわれの理解の不可能が、
われわれを狂気から救つてゐる唯一の力なのか? それともまた、人間には個人的な不幸しか
与へられず、生に対するどんな烈しい懲罰も、あらかじめ個人的な生の耐へうる度合に於て、
与へられてゐるのであらうか? すべては試煉にすぎないのであらうか? しかしただ
理解の錯誤がこの個人的な不幸のうちにも、しばしば理解を絶したものを空想するに
すぎないのであらうか?

事件に直面して、直面しながら、理解することは困難である。理解は概ね後から来て、
そのときの感動を解析し、さらに演繹して、自分にむかつて説明しようとする。
三島由紀夫「真夏の死」より

264 :
われわれの生には覚醒させる力だけがあるのではない。生は時には人を睡(ねむ)らせる。
よく生きる人はいつも目ざめてゐる人ではない。時には決然と眠ることのできる人である。
死が凍死せんとする人に抵抗しがたい眠りを与へるやうに、生も同じ処方を生きようと
する人に与へることがある。さういふとき生きようとする意志は、はからずもその意志の
死によつて生きる。
朝子を今襲つてゐるのは、この眠りであつた。支へきれない真摯、
固定しようとする誠実、かういふものの上を生はやすやすと軽やかに跳びこえる。
もちろん朝子が守らうとしたものは誠実ではない。守らうとしたのは、死の強ひた一瞬の感動が、
意識の中にいかに完全に生きたかといふ試問である。この試問は多分、死もわれわれの
生の一事件にすぎないといふ残酷な前提を、朝子の知らぬ間に必要としたのである。

男性は通例その移り気に於て女性よりも感傷的なものである。
三島由紀夫「真夏の死」より

265 :
「BL作品の氾濫は少子化の原因。児童ポルノとは別枠で小説も含めた厳しい規制が必要」
「ゲーム脳」の提唱者・森昭雄日大教授の新著「ボーイズラブ亡国論」(産経新聞社刊)
http://toki.2ch.sc/test/read.cgi/news2/1221494175/

266 :
>>264はクズ!






三島由紀夫「真夏の死」より

267 :
男の天才、女の美貌、これこそは神様のさづかりもので、あだやおろそかにはできんのだよ。
天才といふやつは、自分で自分が思ふやうにならず、この世の通常ののぞみは全部
捨てなければならん宿命に生まれついてゐる。美人も同様に不自由な存在なのさ。
自分で自分の美に一生奉仕しなければならんのだ。

美に対する女性の感受性は、凡庸でなければならなかつた。機関車を美しいと思ふやうでは
女もおしまひである。女にはまた、一定数の怖ろしいものがなければならず、蛇とか毛虫とか
船酔とか怪談とか、さういふものは心底から怖がらなければならぬ。夕日とか菫の花とか
風鈴とか美しい小鳥とか、さういふ凡庸な美に対する飽くことのない傾倒が、女性を真に
魅力あるものにするのである。
三島由紀夫「女神」より

268 :
個性美は飽きの来るものである。もつとも大切なのは優雅だ。女の個性が優雅をはみ出すと
大てい化物になつてしまふ。一芸に秀でることはもつとも禁物だつた。美といふものは本来
微妙な均衡の上にしか成立たないものだから。

女をわれわれが美しいと思ふのは、欲望があるからですよ。ほんたうに欲望を去つて、
なほかつ女が美しく見えるかどうか、僕には、はなはだ疑問なんです。自然とか静物なら
美しさがよくわかるし、その美しさは多分贋物ぢやないでせう。しかし女はね。

僕はいはゆる美人を見ると、美しいなんて思つたことはありません。ただ欲望を感じるだけです。
不美人のはうが美といふ観念からすれば、純粋に美しいのかもしれません。何故つて、
醜い女なら、欲望なしに見ることができますからね。
三島由紀夫「女神」より

269 :
美といふものは第三者から見て快いのみならず、美しい者のお互にとつても快いのである。
お互が自分の美しさを知つてゐても、鏡によらずしてはそれを見ることができないといふのは
宿命的なことだ。自分が美しいといふ認識は、たえず自分から逃げてゆくあいまいな
不透明な認識であつた。結局この世では他人の美がすべてなのだ。

女の人には、自分で直感的に見た鏡が、いちばん気に入る肖像画なんです。それ以上の
ものはありませんよ。
火に対抗するのには氷といふのはまちがひですよ。火には火、もつと強い、もつと猛烈な
火になることです。相手の火を滅ぼしてしまふくらいな猛火になることですよ。
さうしなければ、あなたの方が滅びます。

一つの悪い評判といふものは、十の悪い評判とつながつてゐるものなんです。
三島由紀夫「女神」より

270 :

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271 :
>>269
今日も涙目でコピペかよww





三島由紀夫「女神」より

272 :
……今、四海必ずしも波穏やかならねど、
日の本のやまとの国は
鼓腹撃壌(こふくげきじやう)の世をば現じ
御仁徳の下(もと)、平和は世にみちみち
人ら泰平のゆるき微笑みに顔見交はし
利害は錯綜し、敵味方も相結び、
外国(とつくに)の金銭は人らを走らせ
もはや戦ひを欲せざる者は卑劣をも愛し、
邪まなる戦(いくさ)のみ陰にはびこり
夫婦朋友も信ずる能(あた)はず
いつはりの人間主義をたつきの糧となし
偽善の団欒は世をおほひ
力は貶(へん)せられ、肉は蔑(なみ)され、
若人らは咽喉元をしめつけられつつ
怠惰と麻薬と闘争に
かつまた望みなき小志の道へ
羊のごとく歩みを揃へ、
快楽もその実を失ひ、信義もその力を喪ひ、
魂は悉(ことごと)く腐蝕せられ
年老いたる者は卑しき自己肯定と保全をば、
道徳の名の下に天下にひろげ
真実はおほひかくされ、真情は病み、
道ゆく人の足は希望に躍ることかつてなく
なべてに痴呆の笑ひは浸潤し
魂の死は行人の顔に透かし見られ、
よろこびも悲しみも須臾(しゆゆ)にして去り
三島由紀夫「英霊の声」より

273 :
清純は商(あきな)はれ、淫蕩は衰へ、
ただ金(かね)よ金よと思ひめぐらせば
人の値打は金よりも卑しくなりゆき、
世に背く者は背く者の流派に、
生(なま)かしこげの安住の宿りを営み、
世に時めく者は自己満足の
いぎたなき鼻孔をふくらませ、
ふたたび衰へたる美は天下を風靡し
陋劣(ろうれつ)なる真実のみ真実と呼ばれ、
車は繁殖し、愚かしき速度は魂を寸断し、
大ビルは建てども大義は崩壊し
その窓々は欲球不満の蛍光燈に輝き渡り、
朝な朝な昇る日はスモッグに曇り
感情は鈍磨し、鋭角は磨滅し、
烈しきもの、雄々しき魂は地を払ふ。
血潮はことごとく汚れて平和に澱み
ほとばしる清き血潮は涸れ果てぬ。
天翔(あまが)けるものは翼を折られ
不朽の栄光をば白蟻どもは嘲笑(あざわら)ふ。
かかる日に、
などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし
三島由紀夫「英霊の声」より

274 :
この日本をめぐる海には、なほ血が経めぐつてゐる。かつて無数の若者の流した血が
海の潮の核心をなしてゐる。それを見たことがあるか。月夜の海上に、われらはありありと見る。
徒に流された血がそのとき黒潮を血の色に変へ、赤い潮は唸り、喚(おら)び、猛き獣のごとく
この小さい島国のまはりを彷徨し、悲しげに吼える姿を。

われらには、死んですべてがわかつた。死んで今や、われらの言葉を禁(とど)める力は
何一つない。われらはすべてを言ふ資格がある。何故ならわれらは、まごころの血を
流したからだ。
三島由紀夫「英霊の声」より

275 :
われらは最後の神風たらんと望んだ。神風とは誰が名付けたのか。それは人の世の仕組が
破局にをはり、望みはことごとく絶え、滅亡の兆はすでに軒の燕のやうに、わがもの顔に
人々のあひだをすりぬけて飛び交はし、頭上には、ただこの近づく滅尽争を見守るための
精麗な青空の目がひろがつてゐるとき、……突然、さうだ、考へられるかぎり非合理に、
人間の思考や精神、それら人間的なもの一切をさはやかに侮蔑して、吹き起つてくる
救済の風なのだ。わかるか。それこそは神風なのだ。

われらはもはや神秘を信じない。自ら神風となること、自ら神秘となることとは、
さういふことだ。人をしてわれらの中に、何ものかを祈念させ、何ものかを信じさせることだ。
その具現がわれらの死なのだ。
三島由紀夫「英霊の声」より

276 :
しかしわれら自身が神秘であり、われら自身が生ける神であるならば、陛下こそ神であらねば
ならぬ。神の階梯のいと高いところに、神としての陛下が輝いてゐて下さらなくてはならぬ。
そこにわれらの不滅の根源があり、われらの死の栄光の根源があり、われらと歴史とを
つなぐ唯一条の糸があるからだ。そして陛下は決して、人の情と涙によつて、われらの死を
救はうとなさつたり、われらの死を妨げようとなさつてはならぬ。神のみが、このやうな
非合理な死、青春のこのやうな壮麗な屠殺によつて、われらの生粋の悲劇を成就させて
くれるであらうからだ。さうでなければ、われらの死は、愚かな犠牲にすぎなくなるだらう。
われらは戦士ではなく、闘技場の剣士に成り下るだらう。神の死ではなくて、奴隷の死を
死ぬことになるだらう。……
三島由紀夫「英霊の声」より

277 :
陛下の御誠実は疑ひがない。陛下御自身が、実は人間であつたと仰せ出される以上、
そのお言葉にいつはりのあらう筈はない。高御座にのぼりましてこのかた、陛下はずつと
人間であらせられた。あの暗い世に、一つかみの老臣どものほかには友とてなく、
たつたお孤(ひと)りで、あらゆる辛苦をお忍びになりつつ、陛下は人間であらせられた。
清らかに、小さく光る人間であらせられた。
それはよい。誰が陛下をお咎めすることができよう。
だが、昭和の歴史においてただ二度だけ、陛下は神であらせられるべきだつた。何と云はうか、
人間としての義務において、神であらせられるべきだつた。この二度だけは、陛下は
人間であらせられるその深度のきはみにおいて、正に、神であらせられるべきだつた。
それを二度とも陛下は逸したまふた。もつとも神であらせられるべき時に、人間にましましたのだ。
三島由紀夫「英霊の声」より

278 :
一度は兄神たちの蹶起の時、一度はわれらの死のあと、国の敗れたあとの時である。
歴史に『もし』は愚かしい。しかし、もしこの二度のときに、陛下が決然と神にましましたら、
あのやうな虚しい悲劇は防がれ、このやうな虚しい幸福は防がれたであらう。
この二度のとき、この二度のとき、陛下は人間であらせられることにより、一度は軍の魂を
失はせ玉ひ、二度目は国の魂を失はせ玉ふた。

もしすぎし世が架空であり、今の世が現実であるならば、死したる者のため、何ゆゑ
陛下ただ御一人は、辛く苦しき架空を護らせ玉はざりしか。

陛下がただ人間(ひと)と仰せ出されしとき
神のために死したる霊は名を剥脱せられ
祭らるべき社(やしろ)もなく
今もなほうつろなる胸より血潮を流し
神界にありながら安らひはあらず。
三島由紀夫「英霊の声」より

279 :
日本の敗れたるはよし
農地の改革せられたるはよし
社会主義的改革も行はるるがよし
わが祖国は敗れたれば
敗れたる負目を悉く肩に荷ふはよし
わが国民はよく負荷に耐へ
試練をくぐりてなほ力あり。
屈辱を嘗めしはよし、
抗すべからざる要求を潔く受け容れしはよし、
されど、ただ一つ、ただ一つ、
いかなる強制、いかなる弾圧、
いかなる死の脅迫ありとても、
陛下は人間(ひと)なりと仰せらるべからざりし。
世のそしり、人の侮りを受けつつ、
ただ陛下御一人(ごいちにん)、神として御身を保たせ玉ひ、
そを架空、そをいつはりとはゆめ宣はず、
(たとひみ心の裡深く、さなりと思すとも)
祭服に玉体を包み、夜昼おぼろげに
宮中賢所のなほ奥深く
皇祖皇宗のおんみたまの前にぬかづき、
神のおんために死したる者らの霊を祭りて
ただ斎き、ただ祈りてましまさば、
何ほどか尊かりしならん。
などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。
 などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。
  などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。
三島由紀夫「英霊の声」より

280 :
中国/尖閣は中国領土でOK?。っていうかお咎めなしの海域までは中国領土でOK?
韓国/竹島は韓国領土で確定。対馬も韓国領土って言ってればそうなるんじゃね?
ロシア/な〜んだ、北方領土返さなくてもいいんじゃん。気使って損したぜ

281 :
↑ 早晩 そうなるよ。  この調子じゃぁーね。

282 :
「葉隠」の恋愛は忍恋(しのぶこひ)の一語に尽き、打ちあけた恋はすでに恋のたけが低く、
もしほんたうの恋であるならば、一生打ちあけない恋が、もつともたけの高い恋であると
断言してゐる。
アメリカふうな恋愛技術では、恋は打ちあけ、要求し、獲得するものである。恋愛の
エネルギーはけつして内にたわめられることがなく、外へ外へと向かつて発散する。
しかし、恋愛のボルテージは、発散したとたんに滅殺されるといふ逆説的な構造をもつてゐる。
現代の若い人たちは、恋愛の機会も、性愛の機会も、かつての時代とは比べものにならぬほど
豊富に恵まれてゐる。しかし、同時に現代の若い人たちの心の中にひそむのは恋愛といふものの
死である。もし、心の中に生まれた恋愛が一直線に進み、獲得され、その瞬間に死ぬといふ
経過を何度もくり返してゐると、現代独特の恋愛不感症と情熱の死が起こることは目にみえてゐる。
若い人たちがいちばん恋愛の問題について矛盾に苦しんでゐるのは、この点であるといつていい。
三島由紀夫「葉隠入門」より

283 :
かつて、戦前の青年たちは器用に恋愛と肉欲を分けて暮らしてゐた。大学にはいると先輩が
女郎屋へ連れて行つて肉欲の満足を教へ、一方では自分の愛する女性には、手さえふれることを
はばかつた。
そのやうな形で近代日本の恋愛は、一方では売淫行為の犠牲のうえに成り立ちながら、
一方では古いピューリタニカルな恋愛伝統を保持してゐたのである。しかし、いつたん
恋愛の見地に立つと、男性にとつては別の場所に肉欲の満足の犠牲の対象がなければならない。
それなしには真の恋愛はつくり出せないといふのが、男の悲劇的な生理構造である。
「葉隠」が考へてゐる恋愛は、そのやうななかば近代化された、使ひ分けのきく、
要領のいい、融通のきく恋愛の保全策ではなかつた。そこにはいつも死が裏づけとなつてゐた。
恋のためには死ななければならず、死が恋の緊張と純粋度を高めるといふ考へが「葉隠」の
説いてゐる理想的な恋愛である。
三島由紀夫「葉隠入門」より

284 :
日本人本来の精神構造の中においては、エロース(愛)とアガペー(神の愛)は一直線に
つながつてゐる。もし女あるひは若衆に対する愛が、純一無垢なものになるときは、
それは主君に対する忠と何ら変はりない。このやうなエロースとアガペーを峻別しないところの
恋愛観念は、幕末には「恋闕の情」といふ名で呼ばれて、天皇崇拝の感情的基盤をなした。

男の世界は思ひやりの世界である。男の社会的な能力とは思ひやりの能力である。武士道の世界は、
一見荒々しい世界のやうに見えながら、現代よりももつと緻密な人間同士の思ひやりのうへに、
精密に運営されてゐた。

忠告は無料である。われわれは人に百円の金を貸すのも惜しむかはりに、無料の忠告なら
湯水のごとくそそいで惜しまない。しかも忠告が社会生活の潤滑油となることはめつたになく、
人の面目をつぶし、人の気力を阻喪させ、恨みをかふことに終はるのが十中八、九である。
三島由紀夫「葉隠入門」より

285 :
思想は覚悟である。覚悟は長年にわたつて日々確かめられなければならない。

長い準備があればこそ決断は早い。そして決断の行為そのものは自分で選べるが、時期は
かならずしも選ぶことができない。それは向かうからふりかかり、おそつてくるのである。
そして生きるといふことは向かうから、あるひは運命から、自分が選ばれてある瞬間のために
準備することではあるまいか。

「強み」とは何か。知恵に流されぬことである。分別に溺れないことである。

エゴティズムはエゴイズムとは違ふ。自尊の心が内にあつて、もしみづから持すること高ければ、
人の言行などはもはや問題ではない。人の悪口をいふにも及ばず、またとりたてて人を
ほめて歩くこともない。そんな始末におへぬ人間の姿は、同時に「葉隠」の理想とする姿であつた。
三島由紀夫「葉隠入門」より

286 :
自由意思の極致のあらはれと見られる自殺にも、その死へいたる不可避性には、つひに
自分で選んで選び得なかつた宿命の因子が働いてゐる。また、たんなる自然死のやうに
見える病死ですら、そこの病死に運んでゐく経過には、自殺に似た、みづから選んだ死で
あるかのやうに思はれる場合が、けつして少なくない。

「葉隠」にしろ、特攻隊にしろ、一方が選んだ死であり、一方が強ひられた死だと、
厳密にいふ権利はだれにもないわけなのである。問題は一個人が死に直面するといふときの
冷厳な事実であり、死にいかに対処するかといふ人間の精神の最高の緊張の姿は、
どうあるべきかといふ問題である。

もし、われわれが生の尊厳をそれほど重んじるならば、どうして死の尊厳をも重んじない
わけにいくだらうか。いかなる死も、それを犬死と呼ぶことはできないのである。
三島由紀夫「葉隠入門」より

287 :

   ↑↑ 毎日 毎日 小説のコピペ ごくろうさん  よく飽かないね?

これしか 生きがいが ないんでしょうか?



288 :
>>287
それを毎日監視して、いちいち見回るあなたがそうなんでしょう。トリバレさん、ご苦労さま。

289 :
>>287
毎日何度も閲覧ありがとうございますね。

290 :
感傷といふものが女性的な特質のやうに考へられてゐるのは明らかに誤解である。
感傷的といふことは男性的といふことなのだ。それは単純で荒削りな男が自分の心に
無意識に施す粉黛である。

われわれは、なかなかそれと気がつかないが、自分といちばん良く似てゐる人間なるがゆゑに、
父親を憎たらしく思ふのである。

男性は本質を愛し、女性は習慣を愛する。

凡ゆる愛国心にはナルシスがひそんでゐるので、凡ゆる愛国心は美しい制服を必要とするものらしい。

経済学の学説なんぞといふものは、どつちみち如意棒のやうなもので、エイッと声をかけて、
耳へ入るだけの小ささに変へてしまへばやすやすと握りつぶせるのである。そもそも
唯物論は、『金で買へないものは何もない、どんな形の幸福も金で買へる』といふ
資本主義的偏見の私生児なのである。

戦争といふ奴は、人間の背丈を伸ばしもしなけりやあ縮めもしない。
三島由紀夫「青の時代」より

291 :
男が金をほしがるのはつまり女が金をほしがるからだといふのは真理だな。そのためにも
まづわれわれは、生きなければならん。

感動すまいとする分析家は、感動以上の誤りを犯す場合がままある。

近代が発明したもろもろの幻影のうちで、「社会」といふやつはもつとも人間的な幻影だ。
人間の原型は、もはや個人のなかには求められず社会のなかにしか求められない。
原始人のやうに健康に欲望を追求し、原始人のやうに生き、動き、愛し、眠るのは、
近代においては「社会」なのである。新聞の三面記事が争つて読まれるのは、この原始人の
朝な朝なの生態と消息を知らうとする欲望である。つまり下婢にだけ似つかはしい欲望である。
そしてその出世の野心は、たかだか少しでも主人に似たいといふ野心にすぎない。

過度の軽蔑はほとんど恐怖とかはりがない。
三島由紀夫「青の時代」より

292 :
小金をもつてゐれば誰でも社長や専務になれ、女は毛皮の外套さへもつてゐればみんな
上流の奥様でとほり、世間はかうした仮装に容易に欺されることを以て一種の仮想の秩序を
維持して来たのであつた。だから演技による瞞著(まんちやく)は今の社会に対する
礼法(エチケット)である。

人助けは実に気持のよいものであり、殊に利潤の上る人助けと来たらたまらない。

人間、正道を歩むのは却つて不安なものだ。
すべての人の上に厚意が落ちかゝる日があるやうに、すべての人の上に悪意が落ちかゝる
日があるものだ。

人間の弱さは強さと同一のものであり、美点は欠点の別な側面だといふ考へに達するためには、
年をとらなければならない。
三島由紀夫「青の時代」より

293 :
人間的な遣り方といふものは、人に馬鹿にされまいといふ馬鹿げた用心から、完全に
免かれた一部分を生活のなかにもつことだ。

しばしば人を愛してゐることに気がつくのが遅れるやうに、われわれは憎悪の確認についても、
ともするとなほざりな態度をとる。さういふときわれわれは自分の感情の怠惰を憎らしく
思ふのである。

人間の存在の意味には、存在の意識によつて存在を亡ぼし、存在の無意識あるひは
無意味によつて存在の使命を果す一種の摂理が働らいてゐるにちがひない。
三島由紀夫「青の時代」より

294 :

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いっとくけど いちいち読んでなんかいやせんよ。  あほらし。


295 :
読んでもないのにいちいち来る酔狂な暇人お疲れさま。

296 :
辷り台を辷り下りるとき、子供はどんなにうれしさうな顔をするか。辷り下りるといふことは
素晴らしいことなのにちがひない。重力の法則、この一般的な法則のなかで人は自由になる。
その他の個別的な法則はどこかへ飛んでいつてしまふ。
無秩序もまた、その人を魅する力において一個の法則である。

自殺をすれば、国民貯蓄課の属官たちはかう言ふにちがひない。『前途有為な青年が
どうして自殺なんかするのだらう』前途有為といふやつは、他人の僭越な判断だ。
大体この二つの観念は必ずしも矛盾しない。未来を確信するからこそ自Rる男もゐるのだ。

土曜日の午後がはじまつてゐた。『土曜日は人魚だ』と一雄は思つた。『半ドンの
正午のところをまんなかに、上半身は人間で、下半身は魚だ。俺も魚の部分で、思ひきり
泳いでいけないといふ法はないわけだな』
三島由紀夫「鍵のかかる部屋」より

297 :
一雄は醜い女もきらひではなかつた。本当に男を尊敬できるのは、劣等感を持つた女だけだ。

女を抱くとき、われわれは大抵、顔か乳房か局部か太腿かをバラバラに抱いてゐるのだ。
それを総括する「肉体」といふ観念の下(もと)に。

犬だつて女のやうな表情をうかべることがある。

この世には無害な道楽なんて存在しないと考えたはうが賢明だ。

国民の自覚、といふ言葉で、誰も吹き出さなかつたのはふしぎだつた。「国民」とか
「自覚」とかの言葉には、場末で売つてゐる平べつたいコロッケ、藷(いも)と一緒に
古新聞の切れつぱしなんぞの入つてゐる冷たいコロッケのやうな、妙にユーモラスな
味はひがある。
三島由紀夫「鍵のかかる部屋」より

298 :
地位を持つた男たちといふものは、少女みたいな感受性を持つてゐる。いつもでは困るが、
一寸した息抜きに、何でもない男から肩を叩かれると嬉しくなるのだ。

彼はふと自分が流行歌手になつてゐるところを想像した。マドロスの扮装をし、
ドーランを塗り、にやけた表情をする。この空想が彼を刺戟した。歌うたひにはみんな
白痴的な素質がある。歌をうたふといふことは、何か内面的なものの凝固を妨げるのだらう。
或る流露感だけに涵(ひた)つて生きる。そんなら何も人間の形をしてゐる必要はないのだ。
この非流動的な、ごつごつした、骨や肉や血や内蔵から成立つたぶざまな肉体といふもの。
これが問題だ。
三島由紀夫「鍵のかかる部屋」より

299 :
二十九歳まで童貞でゐられるとはすばらしい才能だ。世界の半分を無瑕(むきず)で
とつておく。それまで女をドアの外に待たして、ゆつくり煙草を吹かしたり、国家財政を
研究したりしてゐたのだ。
決して急がない男がゐるものだ。世間で彼は「自信のある男」と呼ばれる。蝿取紙のやうに
ぶらぶら揺れて待つてゐる。人生が蝿のやうに次々とくつつくのだ。かういふ男は
どんなに蝿を馬鹿と思ひ込んで、一生を終るだらう。事実は、蝿取紙に引つかからない
利口な蝿もゐることはゐるのだが。

不死は、子や孫にうけつがれるなんて嘘だ。不死の観念は他人にうけつがれるのだ。
三島由紀夫「鍵のかかる部屋」より

300 :

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301 :
一寸ばかり芸術的な、一寸ばかり良心的な……。要するに、一寸ばかり、といふことは
何てけがらはしいんだ。

体力の旺盛な青年は、戦争の中に自殺の機会を見出だし、知的な虚弱な青年は、抵抗し、
生き延びたいと感じた。まことに自然である。平和な時代であつても、スポーツは
青春の過剰なエネルギーの自殺の演技であるし、知的な目ざめは、つかのまの解放へ
急がうとする自分の若い肉体に対する抵抗なのだ。それぞれの資質に応じ、抵抗が勝つか、
自殺が勝つかである。
三島由紀夫「急停車」より

302 :
戦争は畢竟するに、生ける著名な将軍のためのものではなく、死せる無名の若い兵士たちの
ものなのである。あとにのこされた母や恋人の悲嘆のためのものではなく、
死んでゆく若者自身のエゴイズムのためのものなのである。愕(おどろ)くべきことだが、
人間の歴史は、青春の過剰なエネルギーの徹底的なあますところのない活用の方途としては、
まだ戦争以外のものを発明してはいない。

一刻のちには死ぬかもしれない。しかも今は健康で若くて全的に生きてゐる。かう感じることの、
目くるめくやうな感じは、何て甘かつたらう! あれはまるで阿片だ。悪習だ。
一度あの味を知ると、ほかのあらゆる生活が耐へがたくなつてしまふんだ。
三島由紀夫「急停車」より

303 :
小説家における人間的なものは、細菌学者における細菌に似てゐる。感染しないやうに、
ピンセットで扱はねばならぬ。言葉といふピンセットで。……しかし本当に細菌の秘密を
知るには、いつかそれに感染しなければならぬのかもしれないのだ。そして私は感染を、
つまり幸福になることを、怖れた。

若さはいろんなあやまちを犯すものだが、さうして犯すあやまちは人生に対する
礼儀のやうなものだ。

青年の文学的な思ひ込みなどは下らんものだ。実際下らんものだ。
三島由紀夫「施餓鬼舟」より

304 :
死の近い病人が無意識に死の予感にかられて、自分を愛してくれる人たちを別れ易くして
やるために、殊更自分を嫌われ者にする、といふ言ひつたへには、たしかに或る種の真実がある。
病苦や焦燥のためだけではなくて、病人のつのる我儘には、生への執着以外の別の動機が
ひそんでゐるやうに思はれる。
三島由紀夫「貴顕」より

女方こそ、夢と現実との不倫の交はりから生れた子なのである。
三島由紀夫「女方」より

305 :
木内はかうして自分に立ち向つてくる若さを愛する。若さは礼儀正しく、しかも兇暴に
撃ちかかつて来て、老年はこちらにゐて、微笑しながら、じつと自信を以て身を衛る。
青年の、暴力を伴はない礼儀正しさはいやらしい。それは礼儀を伴はない暴力よりももつと悪い。

相手の完璧さは完璧さの仮装であり、完璧さに化けてゐるのだ。この世に完璧なものなんぞ
あらう筈はない。

反抗したり、軽蔑したり、時には自己嫌悪にかられたりする、柔かい心、感じ易い心は
みな捨てる。廉恥の心は持ちつづけてゐるべきだが、うじうじした羞恥心などはみな捨てる。
「……したい」などといふ心はみな捨てる。その代りに、「……すべきだ」といふことを
自分の基本原理にする。さうだ、本当にさうすべきだ。
生活のあらゆるものを剣に集中する。剣はひとつの、集中した澄んだ力の鋭い結晶だ。
精神と肉体が、とぎすまされて、光りの束をなして凝つたときに、それはおのづから
剣の形をとるのだ。
三島由紀夫「剣」より

306 :
少年のころ、一度、太陽と睨めつこをしようとしたことがある。見るか見ぬかの一瞬のうちの
変化だが、はじめそれは灼熱した赤い玉だつた。それが渦巻きはじめた。ぴたりと静まつた。
するとそれは蒼黒い、平べつたい、冷たい鉄の円盤になつた。彼は太陽の本質を見たと思つた。
……しばらくはいたるところに、太陽の白い残影を見た。叢にも。木立のかげにも。
目を移す青空のどの一隅にも。
それは正義だつた。眩しくてとても正視できないもの。そして、目に一度宿つたのちは、
そこかしこに見える光りの斑は、正義の残影だつた。
三島由紀夫「剣」より

307 :
剣は結局、手の内にはじまつて手の内に終るな。俺が三十五年、剣道から学んだことは
それだけだつた。人間が本当に学んで会得することといふのは、一生にたつた一つ、
どんな小さいことでもいい。たつた一つあればいいんだ。
この手の内一つで、あんな竹細工のヤワな刀が、本当に生きもし、死にもする。これは実に
ふしぎな面白いことだ。しかし一面から見れば、地球を廻転させる秘法を会得したも同じことだ、
と俺は思ふんだよ。

幸福なんて男の持つべき考へぢやない。
三島由紀夫「剣」より

308 :

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309 :
やさしい心根をもつゆゑに、人の冷たい仕打にも誠実であらうとする。誠実は練磨された。
ほとんど虚偽と見まがふばかりに。

事件といふものは見事な秩序をもつてゐるものである。日常生活よりもはるかに見事な。
三島由紀夫「サーカス」より

美しい女と二人きりで歩いてゐる男は頼もしげにみえるのだが、女二人にはさまれて
歩いてゐる男は道化じみる。
三島由紀夫「春子」より

310 :
相似といふものは一種甘美なものだ。ただ似てゐるといふだけで、その相似たものの
あひだには、無言の諒解(りようかい)や、口に出さなくても通ふ思ひや、静かな信頼が
存在してゐるやうに思はれる。

少女はかういふ咄嗟の場合にも好きな人の模倣を忘れない。模倣が少女の愛の形式であり、
これが中年女の愛し方ともつとも差異の顕著な点である。

この翼さへなかつたら彼の人生は、少なくとも七割方は軽やかになつたかもしれないのに。
翼は地上を歩くのには適してゐない。
三島由紀夫「翼」より
人間の野心といふものは衆にぬきん出ようとする欲望だが、幸福といふものは皆と
同じになりたいといふ欲求だ。
三島由紀夫「クロスワード・パズル」より

311 :
この世界の愚劣を癒やすためには、まづ、何か、愚劣の洗滌が要るのだ。藷たちが
愚劣と考へることの、一生けんめいの聖化が要るのだ。あいつらの信条、あいつらの
商人的な一生けんめいさをさへ真似をして。
三島由紀夫「葡萄パン」より

大噴柱は、水の作り成した彫塑のやうに、きちんと身じまいを正して、静止してゐるかの
やうである。しかし目を凝らすと、その柱のなかに、たえず下方から上方へ馳せ
昇つてゆく透明な運動の霊が見える。それは一つの棒状の空間を、下から上へ凄い速度で
順々に充たしてゆき、一瞬毎に、今欠けたものを補つて、たえず同じ充実を保つてゐる。
それは結局天の高みで挫折することがわかつてゐるのだが、こんなにたえまのない挫折を
支へてゐる力の持続は、すばらしい。
三島由紀夫「雨のなかの噴水」より

312 :

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313 :
お嬢さま、色恋は負けるたのしみでございますよ。

あたしあなたの、その不死身が憎らしいの。誰も愛さないから、誰からも傷を負はない。
お母様がさういふあなたをどんなに憎んでどんなに苦しんで来たか、よくわかつたわ。

苦しみを知らない人にかかつたら、どんな苦しみだつて、道化て見えるだけなのよ。
三島由紀夫「只ほど高いものはない」より

314 :
いろんな感情の中に、同時にあたくしが居ます。いろんな存在の中に、同時にあたくしが
居たつて、ふしぎではないでせう。

高飛車な物言ひをするとき、女はいちばん誇りを失くしてゐるんです。女が女王さまに
憧れるのは、失くすことのできる誇りを、女王さまはいちばん沢山持つてゐるからだわ。
昼のあとに夜が来るやうに、苦しみはいづれ来ますわ。

六条:どうしてこの世に右と左が、一つのものに右側と左側があるんでせう。今あたくしは
あなたの右側にゐるわ。さうすると、あなたの心臓はもうあたくしから遠いんです。
もし左側にゐるとするわ。さうすると、あなたの右の横顔はもう見えないの。
光:僕は気体になつて、蒸発しちまふほかはないな。
六条:さうなの。あなたの右側にゐるとき、あたくしにはあなたの左側が嫉ましいの。
そこに誰かがきつと坐るやうな気がするの。
三島由紀夫「葵上」より

315 :
贅沢や退屈のしみこんだ肉は、お酒のしみこんだ肉と同じで、腐りさうでなかなか腐らない。

希んだものが、もう希まなくなつたあとで得られても、その喜びは無理矢理自分に言つて
きかせるやうなものなんです。

人間つて決して不幸をたのしみに生きてゆくことなんかできませんのね。

目には目を、歯には歯を、さうして、寛大さには寛大さを。

人を恕すといふことは、こんなことだつたのか。こんなに楽なことだつたのか。……
そしてこんなに人間を無力にするものなのか。

世の中つて、真面目にしたことは大てい失敗するし、不真面目にしたことはうまく行く。
三島由紀夫「白蟻の巣」より

316 :

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317 :
僕は空を飛ぶのに、思想と肉体と両方で飛びたかつたんだ。

足さへ折らなけりや、今ごろは派手な海軍将校さ。……自爆さ……ドドーン、キュウ……
特攻精神の権化になつてるよ、今ごろは。特攻隊といふもの、あれがわれわれの唯一の
青春なんだからな。……今の時代でいちばんアルトハイデルベルヒ的な青春は特攻隊にしか
ないんだからな。……これはまあ、俺も承認する事実だよ。時代の宿命みたいなものだもの。

どうして飛行機を作るより、飛行機に乗りたいとばかり思ふんだらう。弾丸の中をくぐる生活、
それしか安全な生活はないやうな気が僕はするんだ。かうしてただ何かを待つてゐるほど、
危険なことはないやうな気がするんだ。

動いてゐない人間の顔つて、何て醜いんだらう。動いてゐない水のおもてとおんなじなんだ。
頑固で、貧しくて、固くて。

人間、憎しみといふ感情を忘れてゐるときほど、素直になれることはない。
三島由紀夫「魔神礼拝」より

318 :
共産主義は資本主義経済内部の一現象にすぎん。資本主義に出来たおできみたいなものだな。
いづれは凹まなければならんものだ。あれは「理想」といふものぢやない。

君にはわからない。おほぜいの盲人の中で、自分一人目がさめてゐると感じることが
どんな苦しみだか。気違ひの中で自分一人が正気だと感じ、大ぜいの馬鹿の中で自分一人が
利巧だと感じること、こいつは決して永保ちのする感じ方ぢやない。もし永保ちすれば、
それは偽物だね。

理想に殉ずるといふことは美しいことだ。

人間が作つたものは、大きければ大きいほど、広ければ広いほど、高ければ高いほど、
不安定になつてしまふ。

がむしやらにうどんを呑み込むやうに時間といふ奴をつるつる呑み込んで、いつか
そのうちに顎の下に山羊みたいなまつ白な毛が生えてくるのを待てばいいのさ。
人生といふ奴は毛生え薬だ、同時に脱毛剤さ。
三島由紀夫「魔神礼拝」より

319 :
雪の中に、処女(をとめ)の肌のやうな花々が咲いてゐる。その雪の花は百合といふのだ。
百合は聖なる処女を意味する。更に、嬰子のやうな純潔な心を意味する。汝らはそれに
接吻するであらう。その夜、聖なる命が世に放たれるのだ。

いとしい娘よ。そなたは未だ持つてゐるだらう。わしのやつた五つの宝石函を。
その一つは、海のなかゝら、人魚たちが捧げ持つて来る真珠で満たされてゐる。
それらは、女たちの心をうつし取るたからだ。それらは牛乳の風呂で浴(ゆあ)みする
女の肌に似てゐる。牛乳の風呂で浴みする若い女の乳房のやうだ。真珠を月に向つて
透かして見るがよい。そなたの希ふ女の像や心が、その表面に映るであらう。それは殆ど、
三百を数へることだらう。そなたのまるい、すべすべした肩は、真珠が大変よくうつるだらう。
真珠は、なべての悲しみや、希ひをやぶられた女の秘かな歯噛みや、清純な諦めなどを
現はしてゐる。だから、真珠の曇りは清い曇りなのだ。
三島由紀夫「路程」より

320 :
僕たちにおそろしい妄想を見せるのは臆病といふ病気ですよ。僕たちを縛つてゐるのは
僕たち自身ぢやありませんか。みんな仮の名に、仮の姿におびえてゐるんです。

幸福な思ひ出は不幸な思ひ出よりも人を臆病にさせるものなのよ。
三島由紀夫「灯台」より

太七:船軍で攻められては
源五:たちまち雑魚の佃煮で
弥三:茶漬にして喰はるるまで
岩次:胃の腑の地獄の三丁目
玉市:鱗で涙が
一同:拭かれうか。

人は最期の一念によつて生(しやう)を引く。ふたたび波の越えざる隙に、とくとく
追ひつき奉らん。
三島由紀夫「椿説弓張月」より

321 :
女はシャボン玉、お金もシャボン玉、名誉もシャボン玉、そのシャボン玉に映つてゐるのが
僕らの住んでゐる世界。

女の目のなかにはね、ときどき狼がとほりすぎるんだよ。

女の批評つて二つきりしかないぢやないか。「まあすてき」「あなたつてばかね」
この二つきりだ。

子供が生れる。こんなまつ暗な世界に。おふくろの腹の中のはうがまだしも明るいのに。
なんだつて好きこのんで、もつと暗いところへ出て来ようとするんだらう。

三島由紀夫「邯鄲」より

322 :
恋と犬とはどつちが早く駆けるでせう。
さてどつちが早く汚れるでせう。

恋愛といふやつは本物を信じない感情の建築なんです。

笑ひなさい! いくらでも笑ひなさい! ……あんた方は笑ひながら死ぬだらう。
笑ひながら腐るだらう。儂はさうぢやない。……儂はさうぢやない。笑はれた人間は
死にはしない。……笑はれた人間は腐らない。

今の世の中で本当の恋を証拠立てるには、きつと足りないんだわ、そのために死んだだけでは。
三島由紀夫「綾の鼓」より

323 :
むかし俗悪でなかつたものはない。時がたてば、又かはつてくる。

私を美しいと云つた男はみんな死んぢまつた。だから、今ぢや私はかう考へる。
私を美しいと云ふ男は、みんなきつと死ぬんだと。

どんな美人も年をとると醜女になるとお思ひだらう。ふふ、大まちかひだ。美人は
いつまでも美人だよ。今の私が醜くみえたら、そりやあ醜い美人といふだけだ。

一度美しかつたといふことは、何といふ重荷だらう。そりやあわかる。男も一度戦争へ行くと、
一生戦争の思ひ出話をするもんだ。

人間は死ぬために生きてるのぢやございません。

僕は又きつと君に会ふだらう、百年もすれば、おんなじところで……。
もう百年!
三島由紀夫「卒塔婆小町」より

324 :
世界といふものはね、こぼれやすいお皿に入つてゐるスープなの。みんなして、それが
こぼれないやうに、スープ皿のへりを支へてゐなければなりませんの。

僕はどこまでも行くんだよ。たくさんの雲が会議をひらいてゐるあの水平線まで……。

人間の住む屋根の下では、どんなことでも起るんだよ。

飲みのこしたコーヒーはだんだん冷えて、茶碗の底に後悔のやうに黒く残るの。それは
苦くて甘くて冷たくて、もう飲めやしないの。コーヒーは美味しいうちに飲んで、さうね、
何もかも美味しいうちに飲み干して、それから、「おはやう」を言ふときのやうに元気に、
「さよなら」を言はなければ……。
三島由紀夫「薔薇と海賊」より

325 :
帝一:「さよなら」を言ふときも、「おはやう」を言ふやうに朗らかに、つて君言つたよね。
楓:ええ。
帝一:牛乳配達も来ない朝、窓のカーテンの隙間に朝の光りが、金いろの若草が生ひ
茂つたやうに見えもしない朝、鷄といふ鷄は殺されて時も告げない朝、……もし今が
朝だつたら、そんな朝だもの。どうして「おはやう」つて言ふだらう。そんな朝には誰だつて、
「さよなら」つて言ふだらう。さうして殺された鷄のために泣くだらう。
楓:ちらばつた血まみれの羽が、朝風にひらひら飛んでも、朝が来れば私たちは、
「おはやう」と言はなくては。
三島由紀夫「薔薇と海賊」より

326 :
定代の幽霊:薔薇は枯れることがございません。
勘次の幽霊:この世をしろしめす神様があきらめて、薔薇に王権をお譲りになつた。
定代の幽霊:これがそのしるしの薔薇、
勘次の幽霊:これがその久遠の薔薇でございます。
定代の幽霊:薔薇の外側はまた内側、
勘次の幽霊:薔薇こそは世界を包みます。
定代の幽霊:この中には月もこめられ、
勘次の幽霊:この中には星がみんな入つてをります。
定代の幽霊:これがこれからの地球儀になり、
勘次の幽霊:これがこれからの天文図になるのでございます。哲学も星占ひも、みんな
この凍つた花びらのなか、緋いろの一輪のなかに在るのでございます。
三島由紀夫「薔薇と海賊」より

327 :
誰だつて空想する権利はありますわ。殊に弱い人たちなら。

余計なことを耳に入れず、忌はしいものを目に入れないでおくれ。知らずにゐず、
聴かずにゐたい。俺の目に見えないものは、存在しないも同様だからさ。

夢をどんどん現実のはうへ溢れ出させて、夢のとほりにこの世を変へてしまふがいい。
それ以外に悪い夢から治ることなんて覚束ない。さうぢやないこと?

喜んだ顔をしなくてはいけないから喜び、幸福さうに見せなくてはいけないから幸福に
なつたのよ。いつまでも羽根のきれいな蝶々になつてゐなくてはならないから、蝶々に
なつたのよ。

一度枯れた花は二度と枯れず、一度死んだ小鳥は二度と死なない。又咲く花又生れる小鳥は、
あれは別の世界のこと、私たちと何のゆかりもない世界のことなのよ。

淋しさといふものは人間の放つ臭気の一種だよ。
三島由紀夫「熱帯樹」より

328 :
複雑な事情などといふものは、みんなただのお化けなのですわ。本当は世界は単純で
いつもしんとしてゐる場所なのですわ。少なくとも私はさう信じてをります。ですから
私には、闘牛場の血みどろの戦ひのさなかに、飛び下りて来て平気で砂の上を、不器用な
足取で歩いてゆく白い鳩のやうな勇気がございます。私の白い翼が血に汚れたとて、
それが何でせう。血も幻、戦ひも幻なのですもの。私は海ぞひのお寺の美しい屋根の上を
歩く鳩のやうに、争ひ事に波立つてゐるお心の上を平気で歩いて差上げますわ……。

この世の終りが来るときには、人は言葉を失つて、泣き叫ぶばかりなんだ。たしかに僕は
一度きいたことがある。

背広といふ安全無類の制服、毎日毎日のくりかへしの生活に忠実だといふ証文なんですね。
三島由紀夫「弱法師」より

329 :
僕の魂は、まつ裸でこの世を歩き廻つてゐるんだよ。四方に放射してゐる光りが見えるでせう。
この光りは人の体も灼くけれど、僕の心にもたえず火傷をつけるんです。ああ、こんな風に
裸かで生きてゐるのは実に骨が折れますよ。実に骨が折れる。僕はあなた方の一億倍も
裸かなんだから。……ねえ、桜間さん、僕はひよつとすると、もう星になつてるのかもしれないんです。

川島:われわれはみんな恐怖のなかに生きてゐるんだよ。
俊徳:ただあなた方はその恐怖を意識してゐない。屍のやうに生きてゐる。

俊徳:みんな僕をどうしようといふんだらう。僕には形なんか何もないのに。
級子:形が大切なんですよ。だつてあなたの形はあなたのものぢやなくて、世間のものですもの。
三島由紀夫「弱法師」より

330 :
年齢が何だつて言ふんです! 年齢が! 年齢といふものはね、一筋の暗闇の道なんです。
来し方も見えず、行末も見えない。だからそこには距離もないし、止つてゐるも歩いてゐるも
同じこと、進むのも退くのも同じこと、そこでは目あきも盲らになり、生きてゐる人間も
亡者になり、僕同様杖をたよりに、さぐり足でさまよつてゐるにすぎないんです。
赤ん坊も老人も青年も、つまりは同じ場所で、じつと身を寄せ合つてゐるのにすぎない。
夜の朽木の上にひつそりと群れ集まつてゐる虫のやうに。
三島由紀夫「弱法師」より

331 :
僕はたしかにこの世のをはりを見た。五つのとき、戦争の最後の年、僕の目を炎で灼いた
その最後の炎までも見た。それ以来、いつも僕の目の前には、この世のをはりの焔が
燃えさかつてゐるんです。何度か僕もあなたのやうに、それを静かな入日の景色だと
思はうとした。でもだめなんだ。僕の見たものはたしかにこの世界が火に包まれてゐる
姿なんだから。
(中略)
世界はばかに静かだつた。静かだつたけれど、お寺の鐘のうちらのやうに、一つの唸りが
反響して、四方から谺(こだま)を返した。へんな風の唸りのやうな声、みんなでいつせいに
お経を読んでゐるやうな声、あれは何だと思ふ? 何だと思ふ? 桜間さん、あれは
言葉ぢやない、歌でもない、あれが人間の阿鼻叫喚といふ奴なんだ。
僕はあんななつかしい声をきいたことがない。あんな真率な声をきいたことがない。
この世のをはりの時にしか、人間はあんな正直な声をきかせないのだ。
三島由紀夫「弱法師」より

332 :

   ↑↑ 毎日 毎日 小説のコピペ ごくろうさん  よく飽かないね?

これしか 生きがいが ないんでしょうか?



333 :
>>332
おめーもな 同じこと何度も書いてるな ぷっ

334 :
若いやつの死だけが、豪勢で、贅沢なのさ。だつてのこりの一生を一どきに使つちやふんだ
ものな。若いやつの死だけが美しいのさ。それはまあ一種の芸術だな。もつとも自然に
反してゐて、しかも自然の一つの状態なんだから。

デカダンばつかりですからね。それにみんな半病人ですから、自分の個体の存続にばかり
気をとられて、国の永遠の生命といふものを見失つてますからな。

喜んで国のために死ぬといふことと、真理探究とは、両立すると俺は思つてゐる。

人間つて、自分が思ひ込んだとほりのものになるものでねえ。ジャン・コクトオが面白い
ことを言つてゐる。「ヴィクトル・ユウゴオは、自らヴィクトル・ユウゴオだと信じた
狂人だつた」と。諸君はひよつとすると、自ら無気力だと信じてゐる狂人なんぢや
ありませんかね。

日本が敗けたことが何ともないのか。だから俺はインテリがきらひなんだ。きんたまの
ない男をインテリといふんだよ。きんたまがあつたら、祖国が野蛮人の前に膝を屈するのを
黙つて見てゐられるか。
三島由紀夫「若人よ蘇れ」より

335 :
ねえ、人間つて、待つたり待たせたりして生きてゆくものぢやない?

愛はみんな怖しいんですよ。愛には法則がありませんから。
三島由紀夫「班女」より

大切なのは今といふ時間、今日といふこの日だよ。その点では遺憾ながら、人のいのちも
花のいのちも同じだ。同じなら、悲しむより楽しむことだよ。

楽しみといふものは死とおんなじで、世界の果てからわれわれを呼んでゐる。その輝やく声、
そのよく透る声に呼ばれたら最後、人はすぐさま席を立つて、出かけて行かなくちやならんのだ。

相容れないものが一つになり、反対のものがお互ひを照らす。それがつまり美といふものだ。
陽気な女の花見より、悲しんでゐる女の花見のはうが美しい。
三島由紀夫「熊野」より

336 :
ひとりひとりの胸にそんなにまで切ない憧れをのこして行つたかなしみは、その哀しみのゆゑに
はるかな、たとしへもなく美しい悔いを悼歌のやうにかなでた。だれが悔いる責を負ふ人で
あつたらう。さうした悔いのなかには、ねぎごとに似たふしぎな美しさが聳えだしたと、
そんな風に人はだれにむかつて云はう――。
三島由紀夫「世々に残さん」より

年齢はいつも橋であると同時にそれの架る谷間でもある。昔の彼は谷底を見ずに飛越す。
今のエスガイは飛越さうとする時に谷底を見る。しかし可能性の限局ではないのだ。
エスガイは可能性の輪のなかへ入つたのだ。はじめて彼は可能性を己が所有とした。
昔の彼であつたなら、それを彼が、可能性の虜になつてゐる。としか信ぜぬやうな仕方で、
エスガイは輪へ踏み入ることにより、真に輪の外へ出るのではないのか。
三島由紀夫「エスガイの狩」より

337 :
接吻をしようと決心した男が、恋文ひとつ書く勇気もないといふことほど滑稽な矛盾が
あらうかしら。事実僕は、小説を読んでも、一人の蕩児が手れん手くだを用ひて遂に女を
ものにする筋より、夢のやうな衝動に襲われた女が見も知らぬ男の頸にすがりつくやうな
場面の方に惹かれがちな年頃であつた。
小説の主人公は一度はかならずさういふ女にめぐりあつて仮の契を結ぶ。しかし実際の
人生で、男がまづめぐりあふ女は、そんな女であることは滅多にないのだ。若い女は
自分の清純をこそねがへ、相手の男の清純をそれほどねがひはしない。これは当然でもあり、
矛盾でもある。
三島由紀夫「恋と別離と」より

お嬢さん方、詩人とお附き合ひなさい。何故つて詩人ほど安全な人種はありませんから。
三島由紀夫「接吻」より

「彼女の死を選択したことは、よく考へてみると、俺自身の死を選択したことでもあつたのだ。
人生よ、さらば!」
――つまりこれが失恋自殺といふ奴である。
三島由紀夫「哲学」より

338 :
抑々(そもそも)人間性の底には或るどうにもならない清純さが存在するのであります。
古代人がこれについて深く思ひを致したならば恐らく神性と名付けるでありませう。
かゝる清純さは、本能的なもの無意志的なものと固く結びついてをるのでありまして、
或る時は社会的拘束の凡て、――就中(なかんづく)道徳的準縄の凡てをも、やすやすと
超越し逸脱し得るやうに考へらるゝのであります。さればこそそれは恒常の人間生活の
評価の前に立つ時、殆んど清純と反対の評語――邪悪、破廉恥、厚顔、淫乱、等の汚名をば
浴びせらるゝことを寡(すくな)しとしませぬ。

実に純粋とは、青春の苦役でもあるのであります。
三島由紀夫「贋ドン・ファン記」より

339 :
われらが一ト度幸福のなかへ入ると、何をしようと幸福の方でわれらを捕へて放さぬやうに
みえる。しかしわれらの意識せぬ別の力が、いつのまにかわれらを幸福から放逐して
くれるのである。

花には心がある。万象の心の中でも人の心に最も触れやすい心は之である。人が花を
愛づる時、花がなぜその愛に応へ得ぬことがあらう。花の愛は人に愛の誠を教へた。
女には婦徳を、男には平和を。光源氏が世にありし頃、女はなほ花と分ちがたい名を
持ち心を持つてゐた。恋歌は花をうたふ風体の上乗なるものであつた。しかも四時の花は
天候や季節に左右されることなく、極寒の梅も手に触るればあたゝかに、大暑の百合も
人の心に涼風を通はす。
三島由紀夫「菖蒲前」より

340 :
否、所謂(いはゆる)花の心は花にもなく人にもない。花を見、且つは触れ、且つは
そを愛でて歌詠む時、人の魂はあくがれ出で花のなかへはひつてゆく。花へはひつた人の心は
水に映れる月のやうに、漣が来れば砕けるが月が傾けば影も傾く。その間に目に見えぬ
糸があり、月と潮の満干のやうな黙契があると思ふのは、誤ち抱いた妄想にすぎぬ。
人の心が人の心のまゝになることに何の不思議があらう。鏡の影が像の儘(まま)に
動くとてなど怪しむことやある。花の心は人の心の分身である。人の心が立去るとき
花にも心は失はれる。

苦しみをはじめて得た人はなほその苦しみを味方に引入れて共に住むことを知らない。
その敵たらんと好んで力(つと)め、苦しみは益々耐へがたいものになる。
三島由紀夫「菖蒲前」より

341 :
占領とは何だ。占領とはつまり、自分の国の幻滅のありたけをその国へ持ち込んで、
そこで幻滅のない国を夢みることだよ。

しばらく物を云はないで。……その窓にあなたのきれいな横顔がある。実に贅沢で、
豪華な横顔ですよ。あれだけの戦争を、いつときのシャワーみたいにくゞり抜けてきて、
日本の古い歴史の高価で淫蕩な血を伝へて本当の東洋の貴婦人らしいあなたの横顔がある。

伊津子:あなたは小さなかはいゝ箱庭を手にお入れになつたのね。でもさうやつて、
人を命令して従はすのつて、すてきでせうね。人をだましたり、人と相談したりして、
結局自分の思ふところへ引張つてゆくといふのは……何だか卑怯みたいね。
エヴァンス:それが民主々義といふもんです。

神様を信じてゐて悪いことをするはうが、信じてゐないでするよりもすてきぢやなくて。
三島由紀夫「女は占領されない」より

342 :
私、占領された日本の男の人たちから、「占領された」つていふ悲しい顔をとつてあげたいの。
哀れな、卑屈な、不如意な男の人たちの顔を、みんな私の顔みたいに、明るくて、呑気で、
のびのびした顔にしてあげたいの。だつて女といふものは、やすやす占領なんかされて
ゐないんですもの。

日本といふ国は、占領軍がゐたつてゐなくたつて、蜘蛛の巣におつこちた蝶みたいに、
何一つ思ひ切つたことはできないやうになつてるんだ。

僕のたくさんの上官も、その上に威張り返つてゐるマッカーサーも、いや、最高政策を
刻々ワシントンから指令して来るあのオールマイティの連合国委員会も、何一つ、誰一人、
絶対の意志と絶対の権力を持つてゐるやつはゐないんだ。すべては世界の潮流のまゝに
流されてゐる木切なんだ。大きい木切も、小さい木切も。……ごらん。夜の海のまつくらな面が、
ふくらんだり退いたりしてゐる。潮の流れが沖のとほくのはうからすべてを支配してゐる。
それに従つて木切は動く。そして自分で動いたと思つてゐる。……僕も木切にすぎない。
さうして君も……。
三島由紀夫「女は占領されない」より

343 :
エヴァンス:僕は一生わすれないだらう。
伊津子:私のことは忘れてもいいわ。たのしさだけはおぼえてゐてね。
エヴァンス:何もかも、僕は一生わすれないだらう。年をとると、何もかもがたのしい
夢のやうに思へてくるだらう。占領政策だの、焼趾だの、革新党内閣だのはみんな
忘れられて、広重の描いたやうな小さな可愛らしい日本だけが残るだらう。それだけが
僕の一生の夢、小さな幸福の思ひ出になるだらう。
伊津子:そのときなら私も安心して、絵の中の女になるでせう。白髪のおばあさんに
なつたときの私なら、喜んで今の私を、絵の中の女だと思ふでせう。
三島由紀夫「女は占領されない」より

不満といふものはね、お嬢さん、この世の掟を引つくりかへし、自分の幸福を
めちやめちやにしてしまふ毒薬ですよ。

自然と戦つて、勝つことなんかできやしないのだ。
三島由紀夫「道成寺」より

344 :
どうして作者が主人公を救つたりする必要があるんです、そのためにたとへ地獄へ落ちようと。
安物の小説家は、安手な救済を用意します。あれは安い麻薬です。小説の中に
「生きるための手引」なんぞを上手に織り込みます。あれは売薬の広告です。……もちろん
小説を書くといふこと、実在のまねをして人をたぶらかすこと、それは罪だと私は知つてゐます。
だからせめて私は、救済のまねごとまでは遠慮したんです。

私がまねようとした実在、その結果世間の人がみんな信じるやうになつた実在、あの
五十四人の女に愛された光といふ人間は、はじめからそこらにある実在とはちがつて
ゐたんです。どうちがつてゐたか? どうしてそれが特別の実在だつたか? それは
月のやうな実在で、いつも太陽の救済の光りに照らされて輝いてゐた。だから女たちは
その輝やきに魅せられて彼を愛した。彼に愛されれば、自分も救はれるやうな気がしたからです。
三島由紀夫「源氏供養」より

345 :
いいですか。私のしたことはといへば、この救済の光りだけを存分に利用しておいて、
救済は否定したといふことなの。これが天の妬みを買つたんです。そんじよそこらの実在と
安手な救済との継ぎはぎ細工なら、天は笑つて恕すでせうに、私の場合は恕せませんでした。
何故つて光のやうな人間こそ、天が一等創りたい存在だからです。救済の輝やきだけを
身に浴びて、救済を拒否するやうな人間こそ。……わかりますか。天はそれを創りたくても
創れない。何故なら光の美しさの原因である救済を天は否定することができないからです。
それができるのは芸術家だけなんですよ。芸術家は救済の泉に手をさし入れても、
上澄みの美だけを掬ひ取ることができる。それが天を怒らせるのよ。
三島由紀夫「源氏供養」より

346 :
3 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2010/10/12(火) 16:33:31
<日経新聞>
http://www.nikkei.co.jp/news/main/20050114STXKF061214012005.html
韓国の警察当局は14日、ソウル市内のホテルのカジノで在日韓国人が両替した現金のうち、420枚の1万円札
が偽札と分かり、捜査を行っていると明らかにした。この在日韓国人は日本で不動産業などを経営し、偽札と
は知らなかったと話しているという。
<読売新聞>
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20050114it12.htm
同署によると、このカジノで11日、関東地方在住の在日韓国人2世の男性が、1540万円を両替しようとした。
担当職員が紙幣の手触りが違うことに気づき、銀行に連絡。銀行員がうち420枚を偽札と確認したため、警察
に通報した。
<毎日新聞>
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/jiken/news/20050115k0000m040064000c.html
韓国の警察当局は14日、ソウル市内のカジノで偽1万円札420枚を使おうとした不動産業の在日韓国人の
男に対し、任意で事情聴取を行っていると明らかにした。
<産経新聞>
http://www.sankei.co.jp/news/050114/kok071.htm
韓国の警察当局は14日、ソウル市内のホテルのカジノで40歳代の在日韓国人の男性が使った現金のうち、
420枚の1万円札が偽札と判明、捜査を始めたと明らかにした。
<朝日新聞>
http://www.asahi.com/national/update/0114/027.html
調べでは、偽札はすべて、日本から来た男性観光客1人が11日、カジノで1540万円をチップに替えた際に交じっていた。
【まとめ】
日経・・・在日韓国人
読売・・・在日韓国人二世
毎日・・・在日韓国人
産経・・・在日韓国人
朝日・・・日本から来た男性観光客

347 :

   ↑↑ 毎日 毎日 小説のコピペ ごくろうさん  よく飽かないね?

これしか 生きがいが ないんでしょうか?



348 :
私は物と物とがすなほにキスするやうな世界に生きてゐたいの。お金が人と人、物と物、
あなたと私を分け隔ててゐる。退屈な世界だわ。さうぢやなくつて?

きれいな顔と体の人を見るたびに、私、急に淋しくなるの。十年たつたら、二十年たつたら、
この人はどうなるだらうつて。さういふ人たちを美しいままで置きたいと心(しん)から思ふの。
年をとらせるのは肉体じやなくつて、もしかしたら心かもしれないの。心のわづらひと
衰へが、内側から体に反映して、みにくい皺やしみを作つてゆくのかもしれないの。
だから心だけをそつくり抜き取つてしまへるものなら……。

ダイヤでもサファイアでも、宝石の中をのぞいてごらんなさい。奥底まで透明で、
心なんか持つてやしないわ。ダイヤがいつまでも輝いてゐていつまでも若いのはそのせゐよ。
三島由紀夫「黒蜥蜴」より

349 :
小さいときから、宝石のやうに大事にされ、可愛がられて育つてきて、私、買はれるより
盗まれるのを夢みるやうになつたんだわ。
私を欲しがる人は、盗むくらゐの熱がなくつちやいや。厚い硝子の窓に守られ、
天鵞絨(ビロード)の台座に据ゑられた私を、硝子ごしにのぞいて通る人の目の中に、
諦らめや怒りや尊大な強がりや、さういふものが浮ぶのを見るのに飽きて、私はいつか
勇敢な泥棒の目ばかりを待ちこがれるやうになつたんだわ。

若くてきれいな人たちは、黙つてゐるはうが私は好き。どうせ口を出る言葉は平凡で、
折角の若さも美しさも台なしにするやうな言葉に決つてゐるから。あなたたちは着物を
着てゐるのだつて余計なの。着物は醜くなつた体を人目に隠すためのものだもの。
恋のためにひらいた唇と同じほど、恋のためにひらいた一つ一つの毛穴と、ほのかな産毛は
美しい筈。さうぢやなくて? 恥かしさに紅く染つた顔が美しいなら、嬉しい恥かしさで
真赤になつた体のはうがもつときれいな筈。
三島由紀夫「黒蜥蜴」より

350 :
宝石には不安がつきものだ。不安が宝石を美しくする。

人間は眠る。宝石は眠らない。町がみんな寝静まつたあとでも、信託銀行の金庫の中で、
錠の下りた宝石箱の中で、宝石たちはぱつちりと目をひらいてをる。宝石は絶対に夢を
見ないのだ。ダイヤモンドのシンジケートが、値打ちをちやんと保証してくれてゐるから、
没落することもない。正確に自分の値打ち相応に生きてる者が、どうして夢なんか見る
必要があるだらう。あーあ。なあ、さうだらう、早苗? 夢の代りに不安がある。これは
ダイヤモンドの持つてる優雅な病気だ。病気が重いほど値が上る。値が上るほど病気も重る。
しかもダイヤは決して死ぬことができんのだ。……あーあ。宝石はみんな病気だ。
お父さんは病気を売りつけるのだ。澄んだ、光つた、純粋な小さな病気を。透明な病気、
青い病気、緋いろの病気、紫いろの病気。
三島由紀夫「黒蜥蜴」より

351 :
危機といふものは退屈の中にしかありません。退屈の白い紙の中から、突然焙り出しの
文字が浮び上る。

犯人が黒い色で考へるところを僕が白い色で考へて、一枚の写真のやうに、ぴつたり
絵柄が合ふところまで行ければね。なかなかさうは行きません。これだけ沢山の事件を
くぐつて来たのに、犯罪といふものには、僕にどうしてもわからない部分が必ずある。
或る難事件が起るたびに、僕は自分が犯人であつたらなあと思ひますよ。僕が犯人なら
何でも知つてゐて、解けない謎はない筈ですから。だから僕は一心に犯人をまねる。
犯人の考へたやうに考へ、行つたやうに行はうとして精魂を傾ける。……しかしもう一歩の
ところで、惜しいかな、僕は犯人になりきれない、何かが心の中で僕の邪魔をして……。

犯罪といふものには、何か或る資格が要るのです。いいですか。犯人自身にもしかと
つかめない或る資格が。

どんな卑俗な犯罪にも、一種の夢想がつきまとつてゐる。
三島由紀夫「黒蜥蜴」より

352 :
明智:…今発射したところで、射的の人形のやうに忽ち夜が倒れて、そのむかうから朝の
太陽が顔を出す筈もありません。このピストルはただ夢み、常識を逸脱し、一つのことを
待つてゐるのです。一つのこと、つまり、夜がはつきり脈を打ち、体温を帯び、徐々に
動物特有の匂ひを得て、一人の人間の姿に固まつて現はれる瞬間を。
緑川夫人:それでそれがあらはれたら、あなたは法律の名に於て発射なさる……。
明智:いいえ。夢想の名に於て。われわれ私立探偵の役割が刑事とちがふのはそこなんです。
夢想で夢想を罰する。犯罪の持つてゐる夢の要素を、僕の理智のゑがく夢で罰する。
それ以外に何の生甲斐があるでせう。

今の世の中ぢや。善いことといふのはみんな多少汚れてらあね。だからあんた方は
汚れた善いことの味方だから、いつまでもぱつとしないんだよ。そこへ行くと明智先生は
ちがふわね。あの先生はこの世の中で成り立たないやうな善と正義の味方らしいわ。
三島由紀夫「黒蜥蜴」より

353 :
トリックはなるたけ大胆で子供らしくて莫迦げてゐたはうがいいんだわ。大人の小股を
すくふには子供の知恵が必要なんだ。犯罪の天才は、子供の天真爛漫なところをわがものに
してゐなくちやいけない。さうぢやなくて?

私は子供の知恵と子供の残酷さで、どんな大人の裏をかくこともできるのよ。犯罪といふのは
すてきな玩具箱だわ。その中では自動車が逆様になり、人形たちが屍体のやうに目を閉じ、
積木の家はばらばらになり、獣物たちはひつそりと折を窺つてゐる。世間の秩序で
考へようとする人は、決して私の心に立入ることはできないの。……でも、……でも、
あの明智小五郎だけは……
三島由紀夫「黒蜥蜴」より

354 :
黒蜥蜴:あのときのお前は美しかつたよ。おそらくお前の人生のあとにもさきにも、お前が
あんなに美しく見える瞬間はないだらう。真白なスウェータアを着て、あふむき加減の
顔が街灯の光りを受けて、あたりには青葉の香りがむせるやう、お前は絵に描いたやうな
「悩める若者」だつた。つややかな髪も、澄んだまなざしも、内側からの死の影のおかげで、
水彩画みたいなはかなさを持つてゐた。その瞬間、私はこの青年を自分の人形にしようと
思つたんだわ。

黒蜥蜴:…その夜のうちに、お前は私の人形になる筈だつた。……でも、どうでせう。
気がついてからのお前の暴れやう、哀訴懇願、あの涙……
雨宮:それを言はないで……。
黒蜥蜴:お前の美しさは粉みぢんに崩れてしまつた。死ぬつもりでゐたお前は美しかつたのに、
生きたい一心のお前は醜くかつた。……お前の命を助けたのは情に負けたんぢやないわ。
命を助けてくれれば一生奴隷になると言つたお前の誓ひに呆れたからだわ。
三島由紀夫「黒蜥蜴」より

355 :
今日も何事もなく日が沈む。この大都会、白蟻に蝕まれたやうに数しれない犯罪に
蝕まれたこの大都会に日が沈むんだ。殺人、強盗、誘拐、強姦……、言葉にしてみれば
他愛もないんだが、みんなその一つ一つに人間の知恵と精力と、怒りと嫉妬と、欲望と
情熱がせめぎ合つてゐる。その一つ一つが狂ほしい道に外れた人間の、それでも全身的な
表現なのだ。こいつのどこから手をつけたらいい? 依頼主か。こりやあ自分のことしか
考へない。犯罪の本質にいつも向き合つて、その焔の中の一等純粋なものを身に浴びなければ
ならないのは僕なのだ。僕には犯罪の全体が見える。それはたえず営々孜々とはげんでゐる
世界一の大工場みたいなものだ。ほとんど無数の工員。昼夜兼帯の作業。あの夕映えを
見てゐると、その工場のものすごく巨大な熔鉱炉のあかりみたいな気がする。……今ごろ
黒蜥蜴はどうしてゐるだらうか?
三島由紀夫「黒蜥蜴」より

356 :
今の時代はどんな大事件でも、われわれの隣りの部屋で起るやうな具合に起る。どんな
惨鼻な事件にしろ、一般に犯罪の背丈が低くなつたことはたしかだからね。犯罪の着てゐる
着物がわれわれの着物の寸法と同じになつた。黒蜥蜴にはこれが我慢ならないんだ。
女でさへブルー・ジーンズを穿く世の中に、彼女は犯罪だけはきらびやかな裳裾を
五米(メートル)も引きずつてゐるべきだと信じてゐる。……さういふ考へは、僕にも
分らんことはないよ。

僕の惚れ方は相手の手も握らずに、相手をぎりぎりの破局まで追ひつめることしかない。
これほど清潔でこれほど残酷な恋人はないだらう。僕のやさしさは、相手を破滅させる
やさしさで、……これがつまり、あらゆる恋愛の鑑なのさ。
三島由紀夫「黒蜥蜴」より

357 :
明智:この部屋にひろがる黒い闇のやうに
黒蜥蜴:あいつの影が私を包む。あいつが私をとらへようとすれば、
明智:あいつは逃げてゆく、夜の遠くへ。しかし汽車の赤い尾灯のやうに
黒蜥蜴:あいつの光りがいつまでも目に残る。追はれてゐるつもりで追つてゐるのか
明智:追つてゐるつもりで追はれてゐるのか
黒蜥蜴:そんなことは私にはわからない。でも夜の忠実な獣たちは、人間の匂ひをよく
知つてゐる。
明智:人間たちも獣の匂ひを知つてゐる。
黒蜥蜴:人間どもが泊つた夜の、踏み消した焚火のあと、あの靴の足跡が私の中に
明智:いつまでも残るのはふしぎなことだ。
黒蜥蜴:法律が私の恋文になり
明智:牢屋が私の贈物になる。
黒蜥蜴&明智:そして最後に勝つのはこつちさ。
三島由紀夫「黒蜥蜴」より

358 :
この「エヂプトの星」はかうして私の手に渡つて、私の胸にかがやいてゐるのに、
露ほども私に媚を売らうとしない。女王さまの胸につけられてもきつとさうだらう。
宝石は自分の輝きだけで充ち足りてゐる透きとほつた完全な小さな世界。その中へは誰も
入れやしない。……持主の私だつて入れやしない。……人間も同じこと。私がすらすらと
中へ入つてゆけるやうな人間は大きらひ。ダイヤのやうに決して私がその中へ入つて
ゆけない人間。……そんな人間がゐるかしら? もしゐたら私は恋して、その中へ入つて
行かうとする。それを防ぐには殺してしまふほかはないの。……でも、もしむかうが
私の中へ入つて来ようとしたら? ああ、そんなわけはないわ。私の心はダイヤだもの。
……でももしそれでも入つて来ようとしたら? そのときは私自身をRほかはないんだわ。
私の体までもダイヤのやうに、決して誰も入つて来られない冷たい小さな世界に変へて
しまふほかは……
三島由紀夫「黒蜥蜴」より

359 :
明智:君は……
黒蜥蜴:捕まつたから死ぬのではないわ。
明智:わかつてゐる。
黒蜥蜴:あなたに何もかもきかれたから……
明智:真実を聴くのは一等辛かつた。僕はさういふことに馴れてゐない。
黒蜥蜴:男の中で一等卑劣なあなた、これ以上みごとに女の心を踏みにじることはできないわ。
明智:すまなかつた。……しかし仕方ない。あんたは女賊で、僕は探偵だ。
黒蜥蜴:でも心の世界では、あなたが泥棒で、私が探偵だつたわ。あなたはとつくに
盗んでゐた。私はあなたの心を探したわ。探して探して探しぬいたわ。でも今やつと
つかまえてみれば、冷たい石ころのやうなものだとわかつたの。
明智:僕にはわかつたよ。君の心は本物の宝石、本物のダイヤだ、と。
黒蜥蜴:あなたのずるい盗み聴きで、それがわかつたのね。でもそれを知られたら、
私はおしまひだわ。
明智:しかし僕も……
黒蜥蜴:言はないで。あなたの本物の心を見ないで死にたいから。……でもうれしいわ。
明智:何が……
黒蜥蜴:うれしいわ。あなたが生きてゐて。
三島由紀夫「黒蜥蜴」より

360 :
狸の銀:心づくしの狸汁で、帰りを待つが子分のつとめ、けふの狸はどうぢや知らぬ。
こりや上乗の狸ぢやわい。
鴉の権:肌あたたむる狸汁
梟の八:おんなじ肌のぬくもるにも
狐の拳:女と狸ぢや大きな相違
熊の胆:都恋しき朝夕なれど
狸の銀:ここの稼ぎもやめられぬ。
鴉の権:ハテ親分はもう帰られさうなものぢやなア。

鴉の権:蝦蟇丸(がままる)親分の
子分一同:おかへりだわい。
鴉の権:シテ今宵の首尾は?
蝦蟇丸:獲物も獲物、二つとない品ぢや。花嫁御寮を連れて戻つたわ。
鴉の権:見れば姿もあでやかに、月にたたずむ姫御前は、まことに菩薩か天人か、
拝んだだけで身がとろける。これは結構なお土産を、ヘイありがたう存じまする。
蝦蟇丸:たはけめ、貴様にやるものか。
鴉の権:そんならどなたの
子分一同:花嫁御寮か。
蝦蟇丸:わしのぢやわい。
鴉の権:モシ親分、それではすみますまい。
蝦蟇丸:何がすまぬ。
鴉の権:ぢやと申して、
蝦蟇丸:シーッ。
子分一同:ヘーイ。
三島由紀夫「むすめごのみ帯取池」より

361 :
菊姫:こりや何の羹(あつもの)ぢやわいなア。
蝦蟇丸:腹中を温むるに、これに如(し)くものなしと古伝の羹、まづ召されい。
菊姫:何やら茶めいたものなれど
鴉の権:ハイ狸汁でござりまする。
菊姫:ヒエエ、狸ぢやとエ。
蝦蟇丸:コリャ姫の御気色直さんため、いつもの踊りを早う早う。
子分一同:ヘーイ。
蝦蟇丸:踊りのあとは盃事、用意の盃、早う持て。
狸の銀:ハア。
菊姫:いかい武張つたお盃、こりや又何のお盃事かいなう。
蝦蟇丸:言はずと知れた、三三九度ぢやわえ。
菊姫:山賊(やまだち)にも似ぬよい殿御と、思ひ定めて来し身なれば、今さらおどろく
いはれもなけれど、夫婦の固めの盃に、無粋な衆の列座もいかが、皆の衆退らしやんせ。
鴉の権:女房気取でぴんしやんと
梟の八:都をしばらく見ぬうちに
狐の拳:とんと近ごろの姫御前は
熊の胆:蓮葉なものでは
子分一同:あるめいか。
蝦蟇丸:何をつべこべ。退れ。退れ。
子分一同:ヘーイ。
三島由紀夫「むすめごのみ帯取池」より

362 :
森:…やつぱりこんなに月の明るい静かな秋の夜だつた。兵隊たちは忍び足で、まつ白な
月かげに剣附鉄砲を光らせて、浜づたひにやつて来たのだ。クウ・デタ。失敗したにしろ、
栄光にみちた言葉だ。とにかく十・一三事件はすばらしい事件だつた。わしはその二年前、
大蔵大臣に任ぜられて、時の内閣に列なつたときよりも、十・一三事件に狙はれたときのはうが、
もつと高い栄光の絶頂に立つてゐたのだ。
豊子:いつもそれを仰言るのね。そのときは慄へていらしたくせに。
森:わしが怖がつたの怖がらなかつたのといふことは問題ぢやない。狙はれたといふことだけが
重要なんだ。暗殺者に、それも一個中隊の叛乱軍に狙はれる。これこそ政治家の光栄の
絶頂だ。よくも狙つてくれたものだ。あの若い兵隊たちの鼻の上には、いつも憎いわしの
銅像が、国賊の銅像、資本家どもの守り神の銅像が、のしかかつて笑つてゐたのだ。
あの一人一人の兵隊の鼻の上に、昼となく、夜となく……。あとでそれを思ふと、わしは
喜びでぞくぞくしたもんだ。
三島由紀夫「十日の菊」より

363 :
あのころ上層部の生活のちよつとした動きまでが、下級将校の耳にピリリと伝はつた。
同じ血潮の夢をゑがきながら、あんなにまで老人と若者がお互ひに近づいたことはなかつた。
あいつらは知つてゐた、百梃の機関銃の前には内閣も大銀行もフェルトの帽子のやうに
脆いことを。あいつらは一寸それを頭にのつけて洒落てみたいと思つたのだ。実に
若者らしい夢だつた。そのためには老衰した水つぽい血がほんのすこし流れればよかつたのだ。
……それでもお父さんは殺されはしなかつたぞ! 若者たちの夢を裏切つてやることが、
大人たちのつとめだからだ。いや、そんなに固苦しくいふことはない。わしはやつらの夢を
愛してゐたから、するりと身をよけて遠くのはうから、やつらの夢を嘲笑つてやることも、
同じやうに愛してゐたわけだ。……わかるかね、豊子。……十六年前の今夜、白刃と
ピストルと機関銃とに取り巻かれてゐた輝やかしいわしが、今夜はかうして、不恰好な
トゲだらけのサボテンに囲まれてゐる。……いいかね。これが人生といふものだ。
三島由紀夫「十日の菊」より

364 :
怨みは時が積れば忘れもしようが、一旦人に施した恩は忘れようとしたつて忘れられる
ものぢやない。

稲妻のやうにあの事件が、青い光りをここの御家族へ投げ入れます。……あの晩、はつきり
申し上げますわ、私は旦那様の妻でした。誰も否定できませんわね、旦那様。あの晩私は、
この身一つであなたに歓びを与へ、この身一つであなたのお命を助けようとしてゐる
完全無欠な妻でした。

歴史といふ奴はごみための封印さ。たつた一行書き直しても、封印が破けてしまふ。
そしてそこから数しれない怪物が、翼をひろげて飛び出すのだ。

酔つぱらひの介抱役がいつも介抱するめぐり合はせになるやうに、一度人助けをしたら
どこまでも人を助ける羽目になるものかしら? 私はゆうべ今さらながら、しみじみと
感じたの。助けた人間と、助けられた人間とは、決してわかり合ふことなんかない。
それは王様と乞食みたいに、別々の世界にとぢこめられた人間なんだつて。
三島由紀夫「十日の菊」より

365 :
重高:菊さん、死んだやつはみんな仕合せだ思はないかね。こんな澄んだ秋の朝空には、
死んだ奴らの霊が喜々として戯れてゐる。空は奴らの霊でひしめいてゐる。満員の
高架鉄道みたいに。しかし肩をすり合はせ、肱をすり合はせてゐても、奴らは厭ぢやない。
個体といふものがなくなつて、透明な全体の中に溶け合つてゐるからだ。……われわれのやうに、
生きてゐるといふことは、つまり何ものかに嘲られてゐるといふことだ。その大きな
嘲笑ひの前には、われわれはちつぽけな虱(しらみ)だよ。
菊:さういふ考へ方もございませうね。しかし生れついての虱だつたら、そんな風に
考へることはございますまい。

豊子:あ、男がコートを草に敷いて、女と並んで座つたわ。女の肩に手をかけた。……
女の肩にはどうしても男の固い重い掌が要るんだわね。恋が女の制服なら、男の重い掌は
そのいかつい肩章なのね。あの掌から女の体に伝はつて来るもの、あれは濃い葡萄酒を
血のなかへ注ぎ込むやうなものだわね。
垣見:さあ、どうでございませうか。ずいぶん感じの鈍い女も沢山をります。
三島由紀夫「十日の菊」より

366 :
豊子:…時折風に乗つて、あの若い動物たちの麝香の匂ひがここまで伝はる。若いの。
どれもこれもみな若い。あの若さが潮風みたいに、当つてゐるときは気がつかなくても、
あとでひりひりするいやな痛みをこちらの肌に残すの。若いといふことがどうしてそんなに
偉いんでせう。
垣見:第一腰が痛みません。関節が痛みません。それだけでも大したことでございます。
豊子:若いといふことは非難や中傷とおんなじで、人を陥れる働らきをするんだわ。
若さといふものは陰謀なんだわ。悪辣な陰謀なんだわ。さうでなければ、「私たちは若い」
と語つてゐる男や女の目が、あんなにお互ひに素速い親密な目くばせをすることなんか
できない筈だわ。
垣見:陰謀なんて、そりやあ御思ひすごしでございませうな。強ひて云へば、同盟といふ
やうなものかもしれません。いづれにしましても、あんまりお金には縁のない同盟なんでして。
三島由紀夫「十日の菊」より

367 :
菊:醜い裏切りが美しい犠牲に、化けられるとでも仰言るんですか。助けられた人が
助ける人に成り変れるとでもお思ひなんですか。いいえ、決してそんなことが……
重高:今度は俺が君の確信をこはす番だ。一生のうちにたつた一瞬かもしれないが、
人間はその役割を交換することができるんだ。それができなかつたら、人生に一体何の
値打がある。その一瞬が今朝来たんだ。

重高:…今しがたわかつたんだ。津波はあの海から起るのぢやない。津波は或る朝、
俺の中の死んだ海から、来る日も来る日もいくら釣糸を垂れても魚一つかからない死んだ
海の只中から、突然起るんだと。それがわかつたんだ! 菊さん、津波は今起つたんだよ、
疑ひやうもなく。
三島由紀夫「十日の菊」より

368 :
森:…ところでわしにも、お前の知らない思ひがあつたのだ。例の事件の只中に、
わしがその抜け穴から逃げ出して、暗い山道を駆けてゐたために、つひに見ることの
できなかつたのが心残りの……。
菊:何をでございます。
森:お前のそのときの輝やくばかりの裸をだよ。
菊:え?
森:ここにお前のその裸が、百年に一度とないほどの歴史の光りに照らしだされたお前の
裸が、倒れた記念碑のやうに横たはつてゐたのだなあ。兵隊たちの吐きかけた唾のおかげで、
ますます誉れを高めたその美しい裸が。……菊、われわれはそのときこそ一心同体だつたんだ。
罵られ、唾を吐きかけられながら、誰も犯すことのできなかつたその神々しいほどの女の裸は、
正に絶頂に達したわしの栄光の具体的なあらはれだつたのだ。お前の裸がわしの栄光であり、
わしの栄光がお前の裸だつたのだ。……しかし残念なことに、わしはそれを見なかつた。
十六年間、このベッドを見るたびに、ここにわしはその夜のお前の寝姿を思ひ描いた。
本当だよ、菊、本当だよ。
三島由紀夫「十日の菊」より

369 :
↑毎日毎日ごくろうさん!

370 :
【尖閣抗議デモ】日本のマスコミは華麗にスルー★55
http://yuzuru.2ch.sc/test/read.cgi/offmatrix/1286904921/

371 :
僕は社会をひつくりかへすために陰険な策謀をめぐらしたり、無辜(むこ)の市民を傷つけるやうな計画を立てたり、
日本の歴史と文化の伝統を破壊しようと企てたり、そのために友を裏切り、恩人を裏切り、目的のためには
手段をえらばぬと云つた、さういふ連中を憎みます。一市民として憎みます。これが僕の信念です。

全学連の女の子が、われわれに怒鳴つた言葉はこたへたなあ。今でもときどき思ひ出しますよ。女子学生がですよ。
かりにも教養のある女子学生がかう言つたのです。「そんな顔でお嫁が来ると思ふか。もつと心を入れかへて
勉強しろ。バカ。無智。人殺し」つて。われわれの親は貧乏で、心を入れかへて勉強しようにも、大学へ
進めなかつたんですからね。
…まあ、女子学生にそこまで言はせた、大きな国際的陰謀があるわけですよ。
三島由紀夫「喜びの琴」より

372 :
国際共産主義の陰謀ですよ。あいつらは地下にもぐつて、世界のいたるところで噴火口を見つけようと窺つて
ゐるんです。世界中がこの火山脈の上に乗つかつてゐるんです。もしこの恣まな跳梁をゆるしたら、日本は
どうなります。日本国民はどうなります。日本の歴史と伝統と、それから自由な市民生活はどうなります。
われわれがガッチリ見張つて、奴らの破壊活動を芽のうちに摘み取らなければ、いいですか、いつか日本にも
中共と同じ血の粛正の嵐が吹きまくるんです。
地主の両足を二頭の牛に引張らせて股裂きにする。妊娠八ヶ月の女地主の腹を亭主に踏ませて踏ませてR。
あるひは一人一人自分の穴を掘らせて、生き埋めにする。いいかげんの人民裁判の結果、いいですか、中共では
十ヶ月で一千万以上の人が虐殺された。一千万といへば、この東京都の人口だ。それだけの人数が、原爆や
水爆のためぢやなくて、一人一人同胞の手で殺されたのだ。それが共産革命といふものの実態です。それが
革命といふものなんです。こんなことがわれわれの日本に起つていいと思ひますか。
三島由紀夫「喜びの琴」より

373 :
片桐:……考へてみろよ。二・二六事件の将校は英雄になつたが、彼らに射たれて死んだ警官は名前も忘れられ、
ただガラスのケースの中の英雄になつた。俺たちは永遠の脇役で、権力と叛逆者の板ばさみになつて、
つまらない人間のためにも身を捨てるんだ。そのとき残るのは何だと思ふ。同じ立場の俺たちの信頼だけだ。…(中略)
瀬戸:…警察官も一つの職業だよ。人を疑ふのが商売で、それに徹すりやいいんだ。疑つてるうちに、カンも
発達してくる。さうすりや、疑はないでいいことと、疑ふべきことの区別がついてくる。善良な市民に迷惑を
かけるおそれもなくなる。実績も上つてくる。さうなるための第一歩は、まづ何でも疑つてかかることだ。
人を見たら泥棒と思へ、さ。まづそこからはじめるんだ。さうして疑ふ技術を洗煉するんだ。人を信じるだの
信頼するだのつて、耳や目が遠くなつてからでもゆつくりできるぜ。
三島由紀夫「喜びの琴」より

374 :
野津:この雪の中のあちこちで、毛唐や三国人があひかはらず、悪事をたくらんで動きまはつてゐる。
堀:しかし管内には麻薬犯罪がなくて助かるよ。
野津:白い悪魔の粉のごとく、麻薬のごとく雪はふる、か。

俺はストライキのことしか知らないが、群衆心理つてのは怖ろしいもんだぜ。一人がワッと叫ぶと、みんな
その気になつちまふんだ。まあ、いはば、蕁麻疹みたいなもんだ。それに乗せられるのも一時はいい。一時は
いいが、気をつけろよ。手綱を引きしめるのを忘れるなよ。こんな説教みたいなことは言ひたくないが、
君はまだ若いんだし、今日の午すぎからでも、急にそんな人気者にならないとも限らんし、今のうち言つて
おくのがいいと思ふんだ。マスコミちふのは軽薄だからな。ぽんと乗せて、ぽいと捨てる、そりやあよつぽど
気をつけなくちやいかんぜ。
三島由紀夫「喜びの琴」より

375 :
はじめから憎んでゐたものが憎らしいのは当り前の話さ。……なあ、片桐、思想といふのは、いろんな形をとるものさ。
あるときはライオンの。あるときは可愛い小鼠の。憎むんだから、そいつから目を離さず、そいつの千変万化の
変身にあざむかれず、この世界のあらゆるものにそいつの影を見つけ、花にも自転車にも雲にも小さなマッチ箱にも、
怠りなくそいつの影を読みとらなければならないんだ。それには力が要る。綿密な注意が要る。そりやあ物事を
本当に信じるのとほとんど同じくらゐ力の要る仕事だ。

やはりお前は裏切られた怒りを選ぶのか。そんならこの傷は手ひどく祟るぞ。一生痛みつづけるぞ。それも
みんなお前の罪なんだ。思想よりも人間を選んだお前の罪なんだ。こんなまちがひは若い栗鼠しかやらない。
くるみとゴルフのボールをまちがへるやうなことは、公安のおまはりは決してやつてはならんことだ。
三島由紀夫「喜びの琴」より

376 :
俺はな、ずうーつと前からよ、ずうーつと前から松村を臭いと思つとつたよ。あいつと佐渡との関係も臭いと
睨んどつたよ。カンだな。永年のカンちふものは怖ろしいよ。あいつの目つきから、顔つきから、何から何まで
気に入らない。何かよくわからないが、プーンとアカの匂ひがしとつたんだね。垢の匂ひか。まあ、おんなじ
やうなもんさ。アカは匂ひを立てよるよ。腐つた魚みたやうな。お前、留置場の匂ひを知つとるだろ。あれだ。
はじめから暗い場所へ入るやうにできてる人間は、さういふ匂ひを立てる。今ごろ松村は、いちばん自分の匂ひに
ぴつたりの場所にゐるわけだよ。さうだよ。なあ。

三島由紀夫「喜びの琴」より

377 :
片桐:あなたきこえるんですね。あの琴が。
川添:きこえるとも。たしかにきこえる。
片桐:実は、僕にもきこえるんです。……どうです。あの澄んだ、静かな、心の休まるやうな
やさしい音楽。
川添:お前もきこえるのか。
片桐:さうです。今きこえはじめたんです。しかし今、僕は一寸ミスをやりました。
川添:ミスつて?
片桐:うつかり同僚に「あれがきこえるか」つて訪ねてしまつたんですよ。どうやら
やつらにはきこえないらしいんです。自分一人にきこえるんだつたら、それを秘密にして
おくべきですね。
川添:わしはみんな喋つちまふ。だから莫迦にされるんだ。

片桐:あ、きこえる。きこえる。みんなにはきこえないんだ。
川添:わしら二人だけだ、この世界に。
片桐:いつかみんなにきこえるやうになりませんかね。
川添:無理だらう。わしはどれだけみんなに宣伝したか。何しろ天からまつすぐに、
澄み切つた琴の音が落ちてくるんだから。
三島由紀夫「喜びの琴」より

378 :
豊:美濃子! 俺の気持がわからないのか。
美濃子の声:いけません。いけません。あなたの気持などを仰言つては。
豊:美しい美濃子! 俺の二十歳の生涯に、君ほど美しい人は見たことがない。
ある日、天から降つた花びらのやうに、君の清らかな姿は、俺の瞼に落ちかかり、
俺の目をふさいでしまつた。それからといふものは、世界は俺にとつては一片の花びらだつた。
世界は君の姿の形、一片の花びらの形になつた。美濃子! 君のおかげで、意味あるものは
意味を失ひ、とるにたらぬものが香りを放つた。むかしは荒野が俺の住家、今はその住家が
いとはしい、君のやさしい顔の小函、それを夜も昼も家に飾つて、眺めあかして暮らすので
なくては、美濃子、俺の住家はもう墓場だ。それがなくては俺は屍、その小函だけで
世界の幸が買へるのだ。美濃子、君が好き、君が好き、君が好きだ。
美濃子の声:私を好いてはいけません。
豊:なぜだ。
美濃子の声:私たちは結ばれない星の下に生れたのです。
三島由紀夫「美濃子」より

379 :
女の貞淑といふものは、時たま良人のかけてくれるやさしい言葉や行ひへの報いではなくて、
良人の本質に直に結びついたものであるべきだといふことですわ。蝕まれた船は蝕む虫と、
海の本質を頒け合つてゐるのですわ。

女が男にだまされることなんぞ、一度だつて起りはいたしません。

私がずつと前からアルフォンスを知つてゐたといふ気持は、ひつくりかへりはいたしません。
あの人に急に尻尾が生えたり、角が生えたりしたわけではないのですもの。私はともすると
あの人の陽気な額、輝く眼差の下に隠されてゐた、その影を愛してゐたのかもしれませんの。
薔薇を愛することと、薔薇の匂ひを愛することと分けられまして?
三島由紀夫「サド侯爵夫人」より

380 :
幸福といふのは、何と云つたらいいでせう。肩の凝る女の手仕事で、刺繍をやるやうな
ものなのよ。ひとりぼつち、退屈、不安、淋しさ、物凄い夜、怖ろしい朝焼け、さういふものを
一目一目、手間暇をかけて織り込んで、平凡な薔薇の花の、小さな一枚の壁掛を作つて
ほつとする。地獄の苦しみでさへ、女の手と女の忍耐のおかげで、一輪の薔薇の花に
変へることができるのよ。

サン・フォン:…奥様、快楽にだんだん薬味が要るやうになると、人は罰せられた子供の
たのしみを思ひ出し、誰も罰してくれないのを不足に思ふやうになります。ですから
見えない主に唾を引つかけ、挑発し、怒りをそそり立てようと躍起になるのでございます。
それでも神聖さは怠けものの犬です。日向に寝そべつて昼寝に耽り、尻尾を掴まうが、
髭を引張らうが、吠えることはおろか、目をひらいてさへくれません。
モントルイユ:あなたは神を怠けものの犬だと仰言るのね。
サン・フォン:ええ、それも老いぼれた。
三島由紀夫「サド侯爵夫人」より

381 :
恥ずかしさの底にゐるときには、同情のやさしい心持も残つてはをりません。同情は
上澄みで、心が乱れれば、底の澱が湧き昇つて上澄みを消してしまふ。

想像できないものを蔑む力は、世間一般にはびこつて、その吊床の上で人々はお昼寝を
たのしみます。そしていつしか真鍮の胸、真鍮のお乳房、真鍮のお腹を持つやうになるのです、
磨き立ててぴかぴかに光つた。あなた方は薔薇を見れば美しいと仰言り、蛇を見れば
気味がわるいと仰言る。あなた方は御存知ないんです。薔薇と蛇が親しい友達で、夜になれば
お互ひに姿を変へ、蛇が頬を赤らめ、薔薇が鱗を光らす世界を。兎を見れば愛らしいと仰言り、
獅子を見れば怖ろしいと仰言る。御存知ないんです。嵐の夜には、かれらがどんなに血を
流して愛し合ふかを。神聖も汚辱もやすやすとお互ひに姿を変へるそのやうな夜を
御存知ないからには、あなた方は真鍮の脳髄で蔑んだ末に、さういふ夜を根絶やしにしようと
お計りになる。でも夜がなくなつたら、あなた方さへ、安らかな眠りを二度と味はふことは
おできになりません。
三島由紀夫「サド侯爵夫人」より

382 :
ルネ:私が人間の底の底、深みの深み、いちばん動かない澱みへだけ、顔を向けてきたのは
本当だわ。それが私の運命でした。
アンヌ:だからそれには思ひ出はないわ。あるのは繰り返し、それだけだわ。
ルネ:私の思ひ出は虫入りの琥珀の虫。あなたのやうに、折にふれては水に映る影ではないわ。
さう、あなたはうまいことを言つた。私の思ひ出は、いつも必ず私の邪魔をするの。

この世で一番自分の望まなかつたものにぶつかるとき、それこそ実は自分がわれしらず
一番望んでゐたものなのです。それだけが思ひ出になる資格があり、それだけが琥珀の中へ
閉ぢ込めることができるのよ。それだけが何千回繰り返しても飽きることのない、
思ひ出の果物の核(さね)なのだわ。

あなたは神の釣人の糸にかかつた魚です。何度か鉤(はり)をかけられて遁れながら、
あなたは実のところ、いづれは釣り上げられることを御存知だつた。浮世の水にかがやく
鱗を、神の御目(おんめ)のきびしい夕日のうちに、身もだえして閃めかせながら、
釣り上げられるのを望んでおいでだつた。
三島由紀夫「サド侯爵夫人」より

383 :
人間はみんなこの地球の上の居候さ。

……ほら、二階の窓があきます。喪服の老夫人が謡をうたつてゐます。あれは日本の悲しみと
過去の象徴なの。あそこから死と思ひ出の歌がひびいて来ます。それから……ほら、
中二階の茶室の障子があきます。静かな中年の夫婦がお茶のお点前をしてゐます。あれが、
何もかも忙しさの中に見失ふ年ごろの人たちに、静けさの意味を教へるんですわ。ええ、
もちろんお客様はいつでもあの部屋へ行つて、お茶を習ふことができます。……今度は……
ほら、向うの橋から、凛々しい若者がやつて来ました。あれこそ日本の雄々しい若さ、
それもつつしみ深い、礼儀正しい若さの姿ですわ。日本の青年はみんな全学連に入つて
ゐたり、町角で女の子をからかつてゐるわけぢやありません。もしお客様がお望みなら、
あの人はよろこんで弓の手ほどきをするでせう。どう? これが私たちの独特のホテルの
おもてなしなのよ。
三島由紀夫「恋の帆影」より

384 :
この左手が春の橋、私たちのくぐつてきたあの橋が夏の橋、家のうしろに秋の橋と冬の橋が
あつて、家のまはりがみんなああいふ低い粗末な橋に囲まれて、だからむかしこの邸は、
四つ橋屋敷と呼ばれてゐましたの。(中略)
梅さんの操るこの小さな和船、そして今にも落ちさうな朽ちかけた小さな橋、それだけが
この家と外界をつなぐよすがなんです。舟が沈み、橋が朽ちたら、ここは外界から
ぱつたりと縁を絶たれ、ここにあるすべてが本当の夢になるんです。今いらしたせまい川を、
梅さんの小舟が、まるで体をすりつけて甘える小猫みたいに、あやめのまじる川岸の草に、
船ばたをこすりつけながら来たでせう。あれでなくてはいけないんだわ。両側の岸から
さし交はす枝々が、たえず木影を舟に辷らせ、ときどき真菰(まこも)の草むらから
かはせみが翔つ。それでなくてはいけないんだわ。ここではすべてが何かから護られ、
じつと大人しく日本の美しさの中に閉ぢこもつてゐることができるんです。帆舟なんて、
ざわざわと風にはためく帆舟なんて、決してそんなものが……。
三島由紀夫「恋の帆影」より

385 :
お客とは何ぞや。それは不幸な、いらいらした、始終幸福を求めてゐる人たちなのです。
ホテルの窓の数ほどに沢山な苦情の種子を見つけ、自分がホテルからどの程度に重んじられて
ゐるかを気にし、水道の出が一寸わるくても、ドアの鍵の具合が一寸わるくても、忽ち
そのホテルを三流ホテルときめつけます。それといふのも、偶然の故障などといふものを
お客はみとめず、それをすべて自分が軽んじられてゐる証拠だと思ひ込むからです。

何故自然をありのままに売物にできないんです。私たちの自然な日本人の生活を、
不自由は百も承知で、そのまま売物にできないんです。

みゆき:私たちは世界に対して閉ざされた宝石になるのですね。日本の美しさと艶やかさを、
氷の中の花にしてしまひ、誰にも手を触れさせないで、誰にも微笑を向けて暮すんですね。
正:それこそ姉さん、あなたにぴつたりのホテルですよ。
三島由紀夫「恋の帆影」より

386 :
みゆき:…本当の姉弟がこんなことをするかしら? 本当の弟がこんな風に姉さんの胸を
探るかしら? 本当の姉弟がこんな風に? 今、喜死鳥(かはせみ)が立つたわ、青い
羽根をかがやかせて。ああ、私たちは何度もここへ帰つてくる。そこでは世間は嘘の鎧で
しつかりと私たちを護つてくれ、その中で私たちの体は虹のやうに融ける。嘘は私たちの
ことぢやない。嘘はただ世間が私たちにくれた免罪符だわ。それをまちがへちやいけないわ。
正:なぜあなたは自由が欲しくないんだ。なぜ曇つたままの鏡が好きで、それを拭き取らうと
しないんだ。
みゆき:七色の滴に覆はれた鏡のはうが、ずつときれいに映るからだわ。女には正確な
鏡なんか要らないのよ。
正:今なら僕たちはみんなに大事に護られてきた嘘の温室の硝子屋根を打ち割つて、
公然と……
みゆき:公然と、何をするの?
正:結婚することだつてできるんだ。
みゆき:結婚? まあ、いやだ、そんな下品なこと。
三島由紀夫「恋の帆影」より

387 :
がまがへるの目には、がまがへるが美しいし、俺の目には、こんなおかちめんこが美しいのさ。
地球の目には月が美しく、月の目には地球が美しい。宇宙に鏡があれば地球もその
あばた面の美に目ざめ、ほかのあばた面の星を探しに出かけるだらう。思想家には眼鏡が
美しく、芸術家にはお金が美しい。

あの方を見ると、すべてが救はれ、あの方と話してゐるあひだは、どんな曇りの日にも
青空が見え、雨の夜にも月がかがやくんです。遠くからあの方の紺絣のお姿、弓を手にした
凛々しいお姿を見ただけでも、一日の仕合せが買へるのです。そんな安い私の仕合せなのに、
私の苦しみと不幸はもつと安くて、ほとんど只みたいに無尽蔵に湧いて来ます。同じ水から
生れたものでも、仕合せは虹、不幸は霧、虹はつかのまに消えてしまふのに、霧は全部を
包んでしまふ。……それといふのも、どうしたらあの方に愛されるか、私にはわからない
せゐなんだわ。
三島由紀夫「恋の帆影」より

388 :
啓夫人:今ごろ、あの子は嵐の荒れ狂ふ湖へ、あてどもなく漕ぎ出してゐるんだわ。
啓:罪のない者は美しく死なせてやれ。罪を重ねた奴には、そんな死に方はできやしない。
どうせ脳溢血か胃癌がオチさ。……それに罪のない者がゐなかつたら、あいつらの純白の
カンヴァスがなかつたら、絵具と絵筆はどうして暮したらいいんだね。私たちはその
カンヴァスをいつも探してゐたんぢやないのかね。そして今夜やつとそれを探し当てたんぢや
ないのかね。

みゆき:私は知つてゐます。私たちのことを告げ口されたら、きつとあの娘は死ぬでせう。
それはあの娘が純なばかりでなく、あなたにははつきり女を死なせるだけの力があるわ。
女の私の言ふことだから、まちがひがない。どう? これで満足が行つたでせう。
正:だから僕は……
みゆき:お待ちなさい! さうやつて立上がるあなたは滑稽だわ、啓様の言ふやうに、
自分の己惚れの、自分の魅力のおそろしい結果をたしかめるために、いそいそと
出かけてゆく滑稽な男だわ。
正:ちがふ!
三島由紀夫「恋の帆影」より

389 :
みゆき:…底になびく水草とあなたの髪が、もつれ合つたらもう二度と解けない。死ぬわ、
あなたもあの娘も、助けようとする力がR力になり、お互ひが生きようとして沈め合ふわ。
ああ! 溺れた人のおそろしい力、何か別の力がのりうつり、底のはうから手助けでも
してゐるやうな、あの夢の中で胸を押へる夢魔よりも非情な力、あれに取り縋られたら
もうおしまひだわ。死ぬわ、いいえ、あなた一人だけでも。嵐の中をさすらひ求め、
叫ぶ声も涸れ、漕ぐ腕も萎え、舟はまるで茶碗の底へ銀の匙のやうにらくらくと沈む。
あなたは溺れるわ。溺れるわ。水があなたの内側まで充たさうと、外側からひしめき合つて
雪崩れ込む。わかつてゐるの? 水は人の外側から、人が浮ぶのを支へてゐるのにすぐ
倦きる。湖の水は人の内側にあこがれる。そこにどんなに美しい、どんなに暖かい、水の
ねぐらがあるかを知りたいんだわ。水は自分の古い親戚の、海のやうに塩辛い人間の血に、
その暖かいねぐらで直に会ひたいんだわ。だから勢ひ込んで、軍隊のやうに、水は
あなたの中へ攻め寄せる。息を追ひ出し、息よりももつと濃い命であなたを充たし、……
さうしてあなたを自分のものにするために。
三島由紀夫「恋の帆影」より

390 :
うちの弁天様は人並の二本の腕(かひな)に、美しい螺鈿(らでん)を施した琵琶を抱いて
微笑んでゐる。自ら奏でる楽の音(ね)が、月影のやうに湖のお顔に注ぐと、きらめく
漣のやうなその微笑が現はれる。すべては音楽の霊妙な作用なんだ。水は音楽だ。だから
彼女はそれを支配する。人間の体は水でできてゐる。だから彼女はそれを支配して、
それは音楽に変へてしまふ。血は水でできてゐる。だからそれを支配して、血は音楽に
変つてしまふ。

璃津子:このさき日本はどうなるのでせう。
経広:僕たちは、つてききたいのではない?
璃津子:その二つは同じことだわ。
経広:さうだね。同じことだ。
璃津子:お国の右の腕が痛むと
経広:僕たちの右腕も痛むのだ。そしてあの海のかなたへまで晴れやかにひろげられた
お国の裳裾が引き裂かれると
璃津子:私たちも引き裂かれるのだわ!
経広:その引き裂かれた絹の叫びが
璃津子:かうしてゐても海のむかうからきこえてくるわ。……もしかすると、日本は
負けるのではないかしら。
経広:それは世界が夜になることだ。この世でもつとも美しい優雅なものが土足に
かけられることになるのだよ。そんなことにさせてはいけない。
三島由紀夫「朱雀家の滅亡」より

391 :
経広:海が僕を惹き寄せる。何故だか知れない。絶望と栄光とが、押し寄せる海風のなかに
いつぱいに孕まれてゐる。かうして海から来る風に顔をさらしてゐると、絶望と栄光の砂金が
いつぱい詰つた袋で頬桁を張られてゐるやうな気がする。なぜ、又、いつから海が僕を
非難するやうになつたのか。
君にも話したね。中等科のころまでは、僕は新聞の貨物船の広告を見て夢を描くのが
大好きだつた。寄港地の名前はみな宛字の漢字で書いてあつた。新嘉坡(シンガポール)、
波斯湾(ペルシャわん)、亜歴山(アレクサンドリア)、……僕はそのへんな漢字の
どれもが読めるのが得意だつた。貨物船と近東風の月夜と、ペルシャ湾の毛足の長い
絨毯のやうな重い夕凪とが、海への僕の憧れのすべてだつた。それほどやさしい海が、
いつから僕の頬桁を張り、僕を非難するやうになつたのか。
三島由紀夫「朱雀家の滅亡」より

392 :
経広:わかつてゐる。海が死と絶望と栄光の金の食器を、敷きつめた青い波のテーブル・
クロースの上に満載して、僕の着席を待つて向うから、用意を整へ、しづしづと近づいて
来てからといふものだ。その食卓には今潮の中から引き揚げられたばかりの珊瑚が山と
積まれ、熱帯の積乱雲が飾り立てられてゐる。御紋章つきの金のコンポートには、
色さまざまな熱帯の果物が盛り上げられてゐる。そして僕がその一つを口に入れれば、
それは死なのだ。これほど飢ゑてゐながら、僕が食卓に就かないのを海は非難してゐる。
僕の飢ゑの烈しさを誰よりもよく知つてゐるのは、海だ、おそらく君よりも。
璃津子:女はみんな知つてゐるわ、どんな女でも、男の方のさういふ飢ゑを鎮めることは
できないのを。
三島由紀夫「朱雀家の滅亡」より

393 :
悲しみのあまりだつて? 人はさう言ふ。悲しみは慰められても、悲しみよりもつと遠くへ
行つた人間に、人の慰めなんぞが追ひつくものか。

生きてゐる間は若様でした。私は自分の卑しさのすべてをかけて、あの子を若様と呼びました。
……今はちがひます。あの子は死ぬと同時に、青い空の高みからまつしぐらに落ちてきて、
ここへ、ここへ、この血みどろの胎の中へ、もう一度戻つて来たのですわ。もう一度私の
賎しい温かい血と肉に包まれて、苦しい名誉や光栄に煩はされることのない、安らかな
眠りをたのしみに戻つて来たのですわ。今こそ私はもう一度、ここにあの子のすべてを
感じます。あの子の眼差、あの子の微笑、あの子のしつかりした手足をこの中に。
三島由紀夫「朱雀家の滅亡」より

394 :
経隆:経広はおそらく知つてゐたらう、自分の小さな死は無益(むやく)であり、たとへ
その死を何万と積み重ねても狂瀾を既倒に回(めぐ)らす由もないことを。しかし又
知つてゐたらう、このやうな御代に生き御代に死んで、すでに閉じられようとしてゐる
大きな金色の環へ鋳込まれて、永遠に歴史の中を輝やかしく廻転してゆくその環の一つの
粒子になることを。身を以て空にかけた悲しみの虹の、一つの微粒子になることを。
……どんな苦しい戦況であらうと、経広は男として満ち足りて死んだ筈だ。
おれい:まるでその場に居合はせたかのやうに。あの子の肌が割けた痛みの万分の一も
御存知でないあなたが。
経隆:苦しみをこえる矜りといふものがあるのだ。たとへば木は大地につながつてゐる。
それは苦しみだ。痛みだ。しかし梢にかかる白い雲は青空に属してゐる。私たちはその
美しい横雲と樹木とを、いつも一つの絵のなかに見るではないか。
三島由紀夫「朱雀家の滅亡」より

395 :
……しかし私が気が狂つてゐたとすると、それはどんな狂気だつたのだらう。果して
私自身の狂気だつたらうか。それともはるかかなたから、思召しによつて享けた狂気だつたか。
たとへ私が狂気だつたにせよ、あの狂気の中心には、光りかがやくあらたかなものがあつた。
狂気の核には水晶のやうな透明な誠があつた。

翼を切られても、鳥であることが私の狂気だつたから、その狂気によつてかるがると私は
飛んだ。……今はどうだ。お前は私が正気になつたといふかもしれない。私にはわからない。
自分が今なほ狂気か正気かといふことが、自分にはわからう筈がない。只一つわかることは、
その正気の中心には誠はなく、みごとに翼は具へてゐても、その正気は決して飛ばない
といふことだ。あたかも醜い駝鳥のやうに。私は知らず、少なくともお前たちみんなは
駝鳥になつたのだよ。
三島由紀夫「朱雀家の滅亡」より

396 :
光康:…もう時代は変つて、手袋を裏返しにしたやうに、すべては逆になつたのに。
経隆:写真の陰画が陽画になつただけかもしれない。絵はもともと一つなのだ。

海と雲とは一色(ひといろ)の重い苦患に融け合ひ、沖に泊つてゐる外国の船の白い船腹を、
苦痛にむきだした白い鮮やかな歯のやうに見せてゐる。日本の船はどこにも見えぬ。
日本の船は悉く沈んでしまつた。
経広があこがれたのは決してこんな海ではなかつた。ただあいつの死の刹那に、海が
青かつたことを私は祈る。あいつのためには、海は晴れやかに青く輝き、そこにこそ
誉れの火柱は高くあがり、若者のおびただしい血潮は、透かし見られる朱い珊瑚礁のやうに
亜熱帯の海を染めなした。あの島をめぐる海は、経広の最後の日に、雲の影一つないほど
晴れ渡つてゐたことを私は祈る。あいつは朱雀家の代々が使はなかつた黄金造りの太刀の、
明るい花やかな朱いろの下緒(さげを)のやうな死を選んだと思ひたい。
三島由紀夫「朱雀家の滅亡」より

397 :
なぜといへ、それを最後に、日本は敗れ、滅びたからだ。古いもの、優雅なもの、
潔らかなもの、雄々しいものは、悉く滅びたからだ。かつて気高く威光さかんであつた
一帝国は滅びたからだ。もつとも艶やかな経糸(たていと)と、もつとも勇ましい
緯糸(よこいと)とで織られてゐた、このたぐひまれな一枚の美しい織物は、血と火の
苦しみのうちに、涜され、踏みにじられ、つひには灰になつた。歴史の上で誰も二度と
ふたたび、同じ見事な織物を織り成すことはできまい。

すべては去つた。偉大な輝やかしい力も、誉れも、矜りも、人をして人たらしめる大義も
失はれた。この国のもつとも善いものは、焼けた樹々のやうに、黒く枯れ朽ちて、
死んでしまつた。
三島由紀夫「朱雀家の滅亡」より

398 :
雪がふつて来たな。
この浄らかな冷たさ、雪はすべてを和める力だが、それといふのも、すべての身を一様に
慄(ふる)へさすからだ。雪は女神に似てゐる。冷たく、美しく、矜り高く、残酷な
女神に似てゐる。その女神の冷たい嫉妬のおかげで、夏のかがやかしい日々は消されてしまつた。

璃津子:滅びなさい。滅びなさい! 今すぐこの場で滅びておしまひなさい。
経隆:(ゆつくり顔をあげ、璃津子を注視する。……間。)
どうして私が滅びることができる。夙うのむかしに滅んでゐる私が。
三島由紀夫「朱雀家の滅亡」より

399 :
戦後の頽廃は、すでに戦時中銃後に兆してゐたのだ。戦後のあのもろもろの価値の顛倒は、
卑怯者の平和主義は、尻の穴より臭い民主主義は、祖国の敗北を喜ぶユダヤ人どもの陰謀は、
共産主義者どもの下劣なたくらみは、悉くその日に兆してゐたのだ。ああ、金色の
ヴァルハラの広場に、ヴァルキュリーたちによつて運ばれた、気高い戦場の勇士たちの
亡骸は、ひとたび霊に目ざめるや、祖国ドイツのこの有様をのぞみ見て、いかに万斛の涙を
流したことであらう。楯の格天井、鎧の椅子は、卓上の焔に照り映えて、悲嘆の響きを
鏘然(さうぜん)と高鳴らせたことであらう。

もう貧血症の、屁理屈屋の教授連は一切要らん。銃一つ持てないほど非力だから、我身
可愛さにヒステリックな平和主義の叫びをあげる、きんたまを置き忘れたインテリは一切
要らん。少年に向つて亡国の教へを垂れ、祖国の歴史を否定し歪曲する非国民教師どもは
一切要らん。
三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

400 :
レーム:…俺は、お前が腐敗と反動の後釜を継ぐのには反対だぞ。折角俺たちの力で一新した
この新らしいドイツを裏切つて、買弁資本家やユンカー一族、保守派の老ひぼれ政治家や
老ひぼれ将軍、将校クラブで俺を鼻であしらつた貴族出身の無能な士官たち、革命や
民衆のことを一度も考へたことのないあの様子ぶつたプロシア国軍の白手袋たち、朝から
ビールとじやがいものおくびをしてゐる布袋腹のブルジョアども、官僚といふあの
マニキュアをした宦官ども、……あんな連中の上にのつかつて、あんな連中にへいこらしながら、
シーソオ・ゲームに憂身をやつして、お前が大統領になるなら反対だぞ。断乎として反対だぞ。
俺が腕づくででも止めてみせる。
ヒットラー:エルンスト!
レーム:きけ。俺はお前に大統領になつてほしいと思つてゐる。心からさう思つてゐる。
しかし、それには力を協せて、この腐つた土地の上のごみ掃除をやつてのけてからだ。
軍部が何だ。口だけではおどしをきかせるが、軍服の中身はからつぽの、あんな金ぴかの
案山子(かかし)のどこが怖い。
三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

401 :
クルップ:雨になつたやうだ。
ヒットラー:大した雨ではない。妙なことだ。私が演説をしたあとではきつと雨になる。
クルップ:君の演説が雲を呼ぶのだらう。
ヒットラー:雨が広場を黒く濡らした途端に、どのベンチからも人影が消えてしまつた。
何といふ無趣味ながらんとした広場だらう。人つ子一人ゐない。ついさつきまでここを
群衆が埋めて、とどろく歓声と拍手で熱してゐたとはとても思へない。演説のあとの
広場といふものは、発作のあとの狂人の空白のまどろみのやうだ。どこまで行つても
人間は人間を傷つける。どんな権力の衣にも縫目があつてそこから虱が入る。クルップさん、
絶対に誰からも傷つけられない、どこにも縫目も綻びもない、白い母衣(ほろ)のやうな
権力はないものですかね。
クルップ:なければ君が誂へたらよい。
ヒットラー:あなたがその仕立屋になつてくれませんか。
クルップ:それには寸法をとらなくてはね。ヒットラー:どうでした?
クルップ:残念ながら、まだちと寸法が足りないやうだ。
三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

402 :
クルップ:仕立屋といふのは慎重なもんだよ、アドルフ。仕払つてもらふ宛てがなければ、
おいそれと着物も仕立てられない。仕立ててあげたいのは山々だが、寸が足りなくては
芸術的満足が得られない。それに仕立ててあげたものを、快適に着てもらはなくては
つまらない。ゆるやかに、楽々と、まるで着てゐるかゐないか本人にもわからぬやうな、
そんな着方をしてもらはなくては。……私は窮屈なチョッキは上げたくない。狂人に
狭窄衣を着せるのとはちがふんだから。
ヒットラー:もし私が狂人だとしたら……
クルップ:私も何度かさういふ経験を持つてゐる。自分を狂人だと思はなければとても
耐へられぬ、いや、理解すらできない瞬間にぶつかる場合は……
ヒットラー:さういふ場合は?
クルップ:自分ではない他人をみんな狂人だと思へばよいのだ。

ヒットラー:クルップさん、ひとつ私に狂人用の窮屈なチョッキを誂へてくれませんか、
両手を拘束されて人を傷つけることはできないが、又決して人から傷つけられることもないやうな……
三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

403 :
レーム:…生れ落ちてから薬や医者には縁のない、永遠の若い鋼の体、このレーム大尉の
体が病気になるつて?
ヒットラー:だから……
レーム:誰がそんなことを信ずるものか。俺を傷つけることができるのは弾丸だけさ。
といふよりは俺の体の鋼鉄が、いつか俺を裏切つて、同じ仲間の鉄の小さな固まりを、
俺の体内へおびき寄せるとき。さうだ、鉄と鉄とが睦み合ふために、引寄せ合つて
接吻するとき、そのときだけだ、俺が倒れるのは。しかしそのときも、俺が息を引取るのは
ベッドの上ではない。
ヒットラー:さうだな、勇敢なエルンスト、いくら大臣になつても、お前はベッドの上で
死ぬやうな男ではない。しかし、ともあれ、お前は仮病を使つて、声明書と共にその旨を
発表するのだ。一、二ヶ月の療養ののち、再起と共に突撃隊を以前よりも精鋭な軍隊に
叩き上げると約束するのだ。
レーム:しかし誰がそれを信じる。
ヒットラー:信じられないからこそ、隊員みんなは信じるだらう。つまり、こいつは、
よほど已むを得ない事情だといふことを。
三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

404 :
レーム:…書類を喰つて生きのびた年寄の山羊どもが、首を長くしてお前の餌を待つてゐる。
お前はサインをのたくつて日々をすごす。剣を揮ふ腕の力は見捨てられたままになつてゐる。
権力とは何だ。力とは何だ。それはただサインをする蒼ざめた指さきの細い細い筋肉の
運動にすぎなくなつたのだ。
ヒットラー:それ以上は言はなくてもわかつてゐる。
レーム:だから、友よ、だから言ふのだ。お前の権力がその指さきの運動にではなく、
遠くからお前の一挙一動を憧れの眼差で見戍つて、素破といふときはためらひなく命を
投げ出す覚悟の若者たちの、逞しい腕の筋肉にあることを忘れるな。どんなに行政機構の
森深く踏み迷つても、最後に枝葉を伐つて活路を見出すには、夜明けの色の静脈と共に
敏感に隆起する力瘤だけがたよりなのだ。どんな時代にならうと、権力のもつとも深い
実質は若者の筋肉だ。それを忘れるな。少なくともそれをお前のためにだけ保存し、
お前のためにだけ使はうとしてゐる一人の友のゐることを忘れるな。
三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

405 :
ヒットラー:レームが羊ですつて? あいつがきいたらどんなに怒るか。
クルップ:羊でなくても、レーム君が抱いてゐるのは群の思想さ。さうではないかね。
しかしレーム君と別れたあとの、君の暗い額にひらめいたのは、羊でもなければ牧羊犬でもない。
それこそ嵐そのもの、さう言つては持ち上げすぎなら、暗くはためく嵐の予兆そのもの
だつたのだ。峯々を稲妻の紫に染め、世界を震撼させ、人々の活きた魂を電流をとほして
一瞬のうちに、黒い一握の灰に変へてしまふ、あの嵐の兆そのものだつた。君はおそらく
自分ではさう感じはしなかつたらう。
ヒットラー:あのとき、私は怖れてゐた。迷つてゐた。悲しんでゐた。それだけです。
クルップ:人間の感情を持つてゐることを、いくら総理大臣だつて恥ぢるには及ばない。
ただ、人間の感情の振幅を無限に拡大すれば、それは自然の感情になり、つひには摂理になる。
これは歴史を見ても、ごくごくわづかな数の人間だけにできたことだ。
ヒットラー:人間の歴史ではね。
三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

406 :
シュトラッサー:…歌はもうあの鋭い清らかな悲鳴と共通な特質を失つてしまつたのです。
死者の目に映る遠い青空は、変革の幻であつたのに、今、青空は洗濯の盥の水にちりぢりに
砕けてしまつた。あらゆる煙草は、耐へがたい訣別の甘いしみとおるやうな味をなくして
しまつた。
(中略)
どこかで遠い昔に嗅ぎ馴れた腐敗の匂ひ、落葉のなかで、猟犬が置き忘れた獲物の鳥が
腐つてゆくときの、森の縞目の日光をかすかに濁らすやうな独特な匂ひ。いたるところで、
その腐敗の匂ひが、人々の指先の感覚を、癩病やみのやうに鈍麻させてゆく。かつて
闇のなかで道しるべの火のやうに敏感に方角を知らせた指は、今では小切手に署名をするのと、
女の体をこじあけるのにしか使はれなくなつた。脱落、脱落、目に見えない透明な日々の脱落、
この感覚を、レーム君、君だつてつぶさに味はつて来た筈だ。
三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

407 :
シュトラッサー:もう一度革命をやらなければならぬ、と君が考へてゐることを私は知つてゐる。
ところで、私も、もう一度革命をやらなければならぬ、と考へてゐる。二人で話し合ふ
話題には、事欠かぬ筈ぢやないか。
レーム:しかし、方法がちがふ。目的もちがふ。
シュトラッサー:鏡をのぞいてみるやうに、君の右は私の左だ。しかし私の右は君の左だ。
だから却つて鏡を打ち破れば、われわれはぴつたり合ふかもしれないのだ。

シュトラッサー:君はすでに病気になつたのだらう。さつきも言つてゐたやうに。
信頼といふ病気にかかつたのだ。
レーム:殺されるのか、処刑されるのか。
シュトラッサー:おそらくその両方だらう。君は拷問に耐へる自信があるか?
レーム:誰があんたをそんなひどい目に会はさうといふんだね、心配性の弱虫君。言つて
ごらん、そいつの名を言ふのが怖いのかね。言つただけで呪ひがかかるとでもいふのかね。
シュトラッサー:アドルフ・ヒットラー。
三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

408 :
レーム:…友愛、同志愛、戦友愛、それらもろもろの気高い男らしい神々の特質だ。
これなしには現実も崩壊する。従つて政治も崩壊する。アドルフと俺とは、現実を
成立たせるこの根本のところでつながつてゐるんだ。おそらくあんたの卑しい頭では
わかるまい。
われわれの住むこの地表はなるほど固い。森があり、谷があり、岩石に覆はれてゐる。
しかしこの緑なす大地の底へ下りてゆけば、地熱は高まり、地球の核をなす熱い岩漿(マグマ)が
煮え立つてゐる。この岩漿こそ、あらゆる力と精神の源泉であり、この灼熱した不定形な
ものこそ、あらゆる形をして形たらしめる、形の内側の焔なのだ。雪花石膏(アラバスター)の
やうに白い美しい人間の肉体も、内側にその焔を分ち持ち、焔を透かして見せることに
よつてはじめて美しい。シュトラッサー君、この岩漿こそ、世界を動かし、戦士たちに
勇気を与へ、死を賭した行動へ促し、栄光へのあこがれで若者の心を充たし、すべて
雄々しい戦ふ者の血をたぎらせる力の根源なのだ。
三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

409 :
ヒットラー:…いつかあなたは言はれましたね。自分自身を嵐と感じることができるか
どうか、つて。それは何故自分が嵐なのかを知ることです。なぜ自分がかくも憤り、なぜ
かくも暗く、なぜかくも雨風を内に含んで猛り、なぜかくも偉大であるかを知ることです。
それだけでは十分ではない。なぜかくも自分が破壊を事とし、朽ちた巨木を倒すと共に
小麦畑を豊饒にし、ユダヤ人どものネオンサインにやつれ果てた若者の顔を、稲妻の閃光で
神のやうに蘇らせ、すべてのドイツ人に悲劇の感情をしたたかに味はせようとするのかを。
……それが私の運命なのです。

ヒットラー:あの銃声が、クルップさん、ドイツ人がドイツ人を射つ最後の銃声です。……
これで万事片附きました。
クルップ:さうだな。今やわれわれは安心して君にすべてを託することができる。
アドルフ、よくやつたよ。君は左を斬り、返す刀で右を斬つたのだ。
ヒットラー:さうです。政治は中道を行かなければなりません。
三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

410 :


↑ レスは手短にお願い。   ゴホンの宣伝は たいがいに。 ゴホンといったらルル三錠!


411 :
やっと 終了か。

412 :
寡黙な人間は、寡黙な秘密を持つものである。

恋人同士といふものは仕馴れた役者のやうに、予め手順を考へた舞台装置の上で
愛し合ふものである。
善意も、無心も、十分人をRことのできる刃物である。
三島由紀夫「日曜日」より

占領時代は屈辱の時代である。虚偽の時代である。面従背反と、肉体的および精神的売淫と、
策謀と譎詐の時代である。
三島由紀夫「江口初女覚書」より

潔癖な人間には却つて何事もピンセットで扱ふことに習熟したやうな或る鷹揚さ、
緩慢さが備はるものだ。

罪といふものの謙遜な性質を人は容易に恕(ゆる)すが、秘密といふものの尊大な性質を
人は恕さない。
三島由紀夫「果実」より

413 :
われわれのひそかな願望は、叶へられると却つて裏切られたやうに感じる傾きがある。

少女の驕慢な心は、概ね不測の脆さと隣り合せに住んでをり、むしろ脆さの鎧である。

空想といふものは、一種専制的な秩序をもつてゐる。
三島由紀夫「遠乗会」より

人生経験は多くの場合恋愛に一定の理論を与へるが、人は自分の立てた理論を他人に
強ひこそすれ、自分は又してもその理論に背いて躓(つまづ)くのを承知で行動する。

生活とは凡庸な発見である。いつもすでに誰かが先にしてしまつた発見である。

お互ひが見えてゐて見えない。手をのばせば触れることができて触れ合はない。ところが
さういふ理想的な「他人」はこの世にはないのだ。滑稽なことだが、屍体にならなければ、
人は「親密な他人」になれない。

吝嗇といふものは一種の見張りであり、陰謀であり、結社であり、油断のならない正義の
熱情である。

絶望的な浪費癖にくらべると、吝嗇は実に無我で謙遜である。
三島由紀夫「牝犬」より

414 :
一つの戯曲が現はれ、その上演が決定されると、配役の決定を待つ俳優たちは、自分の発見し、
自分に最適と思はれる一つの役を、現実に生活しはじめるのである。

夕方になると気がふさぐのは、人間だつて鳥だつて獣だつておんなじですわ。それをね、
仰々しく虚無だの絶望だのつて、可笑しうございますわ。もしかすると人間特有の感情なんて、
みんながさう思つてゐるものの百分の一ぐらゐしかないのかもしれないわ。自然の感情が
いちばん大きいんだ、と私思ひましてよ。あるときは自分がお猿になつたり、また
あるときは鳩になつたり……

人間の感情に絶対的な権力をもつてゐる男が、やはり人間の感情の持主だといふことは
変なことである。
三島由紀夫「女流立志伝」より

415 :
芝居といふものは大奥のやうな秘密主義の上に築かれてゐる。なぜ秘密にするのかといふと
大した理由はない。秘密は芝居のたのしみの歴然たる一部なのである。芝居の当事者は、
子供にやるお年玉を新年まで見つけられないやうに戸棚の奥に隠しておく親の心理で
行動するのであるが、お年玉をのぞかうと一生懸命になる子供をあざむくたのしみは、
いざ手渡されてみてそのお年玉の貧弱さにおどろく子供の失望とは、全く無関係に発展する。

劇場といふところは、大きな向日葵のやうなものである。舞台はいつも太陽のはうへ、
観客のはうへ顔を向けてゐる。花弁も、雄しべも、雌しべも、その炎えるやうな黄いろも、
すべてが観客席へ向つてひらいてゐる。楽屋や事務所は、茎であり、あるひは根である。
とはいふものの見えない糸がいつもそれらの部屋の貌(かほ)を観客席のはうへ向けて
ゐるせゐで、さういふ部屋にゐるときも、俳優たちが、ふと壁のはうを気にする仕草を
見せるのを、見てゐるのはたのしいものである。
三島由紀夫「女流立志伝」より

416 :
悲哀が人を愉しませてゐるさまは気味のわるいものである。

「泥棒! 泥棒!」かういふ呼称は本当は妙である。「大臣! 大臣!」とよぶときは、
相手の大臣を呼ぶにすぎないだらう。しかし「泥棒!」とよぶときに、われわれは
不特定多数の意見、乃至は輿論(よろん)に呼びかけてゐるのである。

小肥りのした体格、福徳円満の相、かういふ相は人相見の確信とはちがつて、しばしば
酷薄な性格の仮面になる。独逸の或る有名な殺人犯は、また有名な慈善家と同一人で
あることがわかつて捕へられた。彼はいつもにこやかな微笑で貧民たちに慕はれてゐた。
その貧民の一人を、彼はけちな報復の動機で殺してゐたのである。彼は殺人と慈善との
この二つの行為のあひだに、何らの因果をみとめてゐなかつた。

大ていわれわれが醜いと考へるものは、われわれ自身がそれを醜いと考へたい必要から
生れたものである。
三島由紀夫「手長姫」より

417 :
妹の死後、私はたびたび妹の夢を見た。時がたつにつれて死者の記憶は薄れてゆくもので
あるのに、夢はひとつの習慣になつて、今日まで規則正しくつづいてゐる。

私たちの憐れみの感情は、何かしら未知なもの、不可解なものに対する懸橋なのである。
それらのものに私たちは憧憬によつてつながり、あるひは憐れみによつてつながる。
憧憬と憐れみとは、不可解なものに対する子供らしい柔かな感情の両面だつた。
よく遠くの森で梟(ふくろふ)が鳴く声を、寝床のなかで耳をすましてきいてゐると、
子供の私は動物界の自由に対する童話的な憧れの気持と、暗い森の奥の木の洞から目を
丸くみひらいて歌ひつづけてゐなければならないあの小さな「生あるもの」への憐れみの
気持とを、併せ感じた。

霊魂といふものに、やはり生の形を与へないことには、私たちの想像の翼は羽搏かないの
かもしれない。
三島由紀夫「朝顔」より

418 :
過ちといふものは、美しいものが期待に反して犯す醜行のことである。

美貌といふものは、停車場や博物館と同様に共有物であり公的な存在なのである。それを
私することは公的の福祉に反することであり、停車場を買ひ占めようとするやうなものである。

各界の名士といふ人種が一堂に会する眺めは、一種奇怪である。彼らは要するに、
カメラマンに「自然な姿態」をとられるのに馴れた人種であるから、その言はうやうない
「自然な」態度には、どうすれば見物人から餌をもらへるかをよく知つてゐる動物園の
熊に似た超然ぶりが見られるのである。見物人を意識してゐない動物が、一匹でも動物園に
ゐたらお目にかかりたい。

名士は大抵「殿下」とか「閣下」とか「先生」とかいふ源氏名のついた娼婦であつて、
莫迦に忙しい口ぶりの男は二流であり、莫迦にゆつくりした喋り方をする男は一流である。
彼らは日常の多忙のために生理的な速度に変調を来して、道を歩くやうな歩度の喋り方は
出来なくなつてゐるので、彼らのお喋りは、自動車に乗つてゐるか、それとも興に乗つて
ゐるかどちらかであつた。
三島由紀夫「家庭裁判」より

419 :
美人の定義は沢山着れば着るほどますます裸かにみえる女のことである。

女の涙といふものは世間で最もやりきれないものの一つであるが、小鳥がとまつたかと
見る間に生む美しい空いろの卵のやうに、こんな風に涙がこぼれるのをみると、右近の心は
甚だ痛んだ。

良人は大ていのことを座興と思つてゐてよい特権をもつものである。
三島由紀夫「家庭裁判」より

久一にとつて馬ほど愛すべき安全な玩具はなかつた。やさしい動物である。傷つきやすい
心を持ち、果敢な勇気を持ち、同時に怠けものの心と臆病さとを持つた動物である。
血走つた目はたまには、敵意や蔑みをあらはしこそすれ、一度忠誠を誓つた乗手のためには、
人間も及ばなぬ献身のまことを示した。
よく云はれることだが、サラブレッドの名馬は宛然一個の美術品である。
三島由紀夫「鴛鴦」より

不道徳も清潔な限り美しいものである。
三島由紀夫「修学旅行」より

420 :
http://kamome.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1288143581/

421 :
まことに海も山も時であつた。人の目に映つたこの世のさまざまな事象は、一旦記憶の世界へ
投げ込まれるや、時の秩序に組み入れられた存在に他ならぬ。そこにあるものは、時の海、
時の山脈に他ならぬ。波はもはや浜辺に打ち寄せてゐる青い海水ではない。時の水に
充たされた海には、時の潮(うしほ)が時のつきせぬ波を波立ててゐるにすぎない。
そのとき海が却つてその本質を、その流転の本質を露(あら)はにするのである。
人間もまた時間の形をしてゐる。これだけが人間のほぼ確実な信頼するに足る外形である。

この世には自分の形を忘れることのできる人とできない人との二つの種族がある。
三島由紀夫「偉大な姉妹」より

422 :
歌舞伎役者の顔こそ偉大でなければならない。大首物の役者絵は、悉く奇怪な偉大さを
持つた顔を描いてゐる。その偉大さには一種の不均衡と過剰がある。拡大された感情、
誇張された悲哀を包むその輪廓は、均斉を保たうがためにこの悲哀や歓喜の内容に戦ひを
挑んでゐる。美の伝達力として重んぜられたこの偉大さは、歌舞伎が考へたやうな美の
必然的な形式なのである。そこでは美と偉大の結婚は世にも自然であつた。美が一個の
犠牲の観念であり、偉大が一個の宗教的観念となることによつて、この婚姻が成り立つた。
大首物の錦絵の顔は、偉大に蝕まれた美のあらはな病患を語つてゐる。

もし罪といふものがあるなら、それは罪の行為が飛び去つたあとの真白な空白にすぎぬだらう。
罪ほど清浄な観念はないだらう。
三島由紀夫「偉大な姉妹」より

423 :
彼は青年にならうといふころ、皮肉(シニシズム)の洋服を誂へた。誰しも少年時には
自分に似合ふだらうと考へる柄の洋服である。次郎はしばらくこの新調の服を身に纏つて
得意であつた。……やがてこの服が自分に少しも似合はないことに気付いた。ある朝
街角の鏡の中で、女が新らしい皺を目の下に見出して絶望するやうに。……いや、この比喩は
妥当でない。次郎は皮肉の洋服が彼の年齢の弱味を隠すあまりに、年齢に対して彼が
負うてゐる筈の義務をも忽(ゆるが)せにさせることを覚つたのである。今年の夏にいたつて、
皮肉は彼の滑稽さを救ふどころか、もつと性悪な滑稽さに、つまりあらゆる感情を
笑殺してきたので滑稽の仮面を被つた八百長の感情しか生れて来ないといふ滑稽さに、
彼を陥れつつあるのをまざまざと見たのである。
次郎は黙視を学んだ。滑稽であるまいとしても詮ないことだ。彼自身の滑稽さを恕(ゆる)す
ところから始めねばならぬ。われわれ自身の崇高さを育てようがためには、滑稽さをも
同時に育てなければならぬ……。
三島由紀夫「死の島」より

424 :
風景もまた音楽のやうなものである。一度その中へ足を踏み入れると、それはもはや透明で
複雑な奥行を持つた一個の純粋な体験に化するのである。

『目くばせをしたぞ』と次郎は自分の舟がその間を辷りゆきつつある二つの小島を仰ぎ
見ながら呟いた。『たしかに今、この二つの島は目くばせをした。島と島とが葉ごもりの
煌めきで以て目くばせをするのを僕は今たしかに見たぞ。……それもその筈だ。彼らには
僕たち人間の目が映すもののすがたが笑止と思はれるに相違ない。彼らこそこの水上の風景が
虚偽であることを知つてゐる。島と島との離隔は仮の姿にすぎず、島といふその名詞でさへ
架空のものにすぎないことを知つてゐる。水底の確乎たる起伏だけが真実のものだといふ
ことを知つてゐる。僕たちの目が現象の世界をしか見ることが出来ないのを、彼らは
目まぜして嗤(わら)つてゐるのだ』
三島由紀夫「死の島」より

425 :
…今、次郎は音楽が、……生れながらに完全な形式をそなへた存在が……、彼を訪れる姿を
見たのである。
『形式とは』と次郎は考へた。『僕にとつては残酷さの決心だつた。しかしあの島の形式の
優美なことは、およそ僕の決心と似ても似つかない。ああ、あの島は形式の美徳で僕を
負かす。あれは僕の内部へ優雅な行幸(みゆき)のやうに入つて来る。……』

『あの雨上りの街路のやうな小島は、その街路を雨後に這ひ出した甲虫のやうなつややかな
乗用車が連なつて疾駆することもなく、永遠に人の住まない空つぽな街の街路であるに
とどまるだらう』――次郎は遠ざかる島影を見ながら、かう心に呟いた。『きつとさうだらう。
人間の関与を拒むやうな美が、愛の解熱剤として時には必要だ』――それは葡萄に手の
届かなかつた狐の尤もらしい弁疏(べんそ)であつた。
三島由紀夫「死の島」より

426 :
愛とは目的をもたない神秘的な洞察力がわれわれを居たたまれなくさせる感情のやうにも
思はれ、一個の想像力のやうにも思はれ、本質的に一つの「解釈」にすぎないやうにも思はれる。
三島由紀夫「椅子」より

よその女の美貌に同意する義務は、どこの奥さんにだつてない筈だ。

コンパスで描いたやうに丸い。口があどけなくて、目は清らかである。悪いことを何にも
知らないやうなかういふ顔ほど、男の目から見て神秘的に見えるものはない。
三島由紀夫「金魚と奥様」より

一度男の目が決して自分を見ないと決めてしまつてから、人生はどんなに生き易くなつた
ことだらう! 彼女は男の教授にでも、づけづけとものを言ふ。相手に彼女の「性」を
感じさせないのをむしろエチケットと思つてゐるからで、世間が考へるやうに、老嬢は
必ずしもわれしらず中性化してゐるのではない。
三島由紀夫「二人の老嬢」より

427 :
一部の大人が考へてゐるやうに、戦後の青年が一人残らず十代で童貞を失つてゐるなどといふ
莫迦げた憶測は、事実から遠いものだ。どんな時代だつて、青春の生きにくさは、
外部よりも内部にあるのだ。今日のやうに、青春を妨げる外部の障害の多い時代には、
内部の障害を気にしないでゐられるので、童貞を失はないまじめな青年の数は却つて
多いといふ逆の理窟だつて成立つ筈だ。

大体甘い物語には甘い考へがつきものなのは已むをえない。狂気といふものがもしこんなに
甘い物語を生むものなら、正気の僕たちは、正気では考へられない甘い空想を、それに
はなむけすべきではなからうか? それとも君は、僕の話が嘘つぱちだと云ふのぢやあるまいね。
三島由紀夫「雛の宿」より

428 :


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429 :


終了  終了

430 :
一寸ばかり芸術的な、一寸ばかり良心的な……。要するに、一寸ばかり、といふことは
何てけがらはしいんだ。

体力の旺盛な青年は、戦争の中に自殺の機会を見出だし、知的な虚弱な青年は、抵抗し、
生き延びたいと感じた。まことに自然である。平和な時代であつても、スポーツは青春の
過剰なエネルギーの自殺の演技であるし、知的な目ざめは、つかのまの解放へ急がうとする
自分の若い肉体に対する抵抗なのだ。それぞれの資質に応じ、抵抗が勝つか、自殺が勝つか
である。通念に反して、杉雄の体験したところでは、戦争は、精神主義時代ではなくて、
肉惑的な時代だつた。飛行機乗りになつた青年たちも、これに同感の意を表するだらうと
思はれる。
三島由紀夫「急停車」より

431 :
戦争の中に育つた一時代の青春といふものに、世間は無用の誤解をしてゐる、と杉雄は考へた。
戦争は畢竟するに、生ける著名な将軍のためのものではなく、死せる無名の若い兵士たちの
ものなのである。あとにのこされた母や恋人の悲嘆のためのものではなく、死んでゆく
若者自身のエゴイズムのためのものなのである。愕くべきことだが、人間の歴史は、
青春の過剰なエネルギーの徹底的なあますところのない活用の方途としては、まだ戦争以外の
ものを発明してはゐない。青年によつて成就された無血革命があるだらうか?

一刻のちには死ぬかもしれない。しかも今は健康で若くて全的に生きてゐる。かう感じる
ことの、目くるめくやうな感じは、何て甘かつたらう! あれはまるで阿片だ。悪習だ。
一度あの味を知ると、ほかのあらゆる生活が耐へがたくなつてしまふんだ。
三島由紀夫「急停車」より

432 :
杉雄は戦争中、家人の疎開のために要らなくなつた箪笥(たんす)を、道ばたに出して
投売りをしてゐるのを見た。ひどく廉(やす)かつたが、誰も買はなかつた。
『あれは全く箪笥だつた』と杉雄は思つた。
『明日は灰になるかもしれないが、むしろ、明日は灰になることがわかつてゐただけに、
あれは正真正銘の箪笥だつた。箪笥は道ばたの筵(むしろ)の上で初夏の陽を浴びてゐた。
桐の柾目は美しく落着いて、この箪笥の純良な原料をはつきりと日ざしのなかに誇示してゐた。
ああいふ明瞭な物質を人間は好かないのだ。あれは生活の中に置くには危険すぎるんだ。
もつとあいまいな、図太い存在、一個の永続性のある家具……さういふものに対してだけ
世間は金を払ふらしい』

彼は戯れに少年向のけばけばしい冒険雑誌の頁をめくる。各頁に色彩と行為が氾濫してゐる。
あらゆる人物は、疾走し、射ち、擲(なぐ)り、よろめき、あるひは倒れてゐる。
『俺も子供のころはこんな本に熱中したもんだ』と杉雄は思つた。男の子は誰もこんな本に
熱中する。成長する。成長してみると、行為はどこにも存在しないのだ。
三島由紀夫「急停車」より

433 :
常套句を口にする男は馬鹿に見えるだけだが、女の場合、それは年齢よりももつと美を
損なふのだ。

われわれ男性は、男のピアニストがどんなに偉くなり、男の政治家がどんなに成功しようと
放置つておくが、ただ同性だからといふ理由で、女の社会的進出をむやみと擁護したり
尻押ししたりする婦人たちがゐる。フランスの或る女流作家が、現代社会では、男性が、
男及び人間といふ二つの領域に采配をふるつてゐるのに、女性は、女といふ領域だけしか、
自分のものにしてゐないと云つてゐるのは正しい。

惚れない限り女には謎はないので、作為的な謎を使つて惚れさせようといふつもりなら、
原因と結果を取違へたものと言はなくてはならない。

外国にゐて日本人の男女が演ずる熱情には、何か郷愁とはちがつた場ちがひな、いたましい
ものがある。
三島由紀夫「不満な女たち」より

434 :
『奇蹟』は何と日常的な面構へをしてゐたらう!

ねえ、レイモン、君は見神者の疲労つて奴を知つてるか。神がかりの人間は、神が去つたあとで、
おそろしい疲労に襲はれるんださうだ。それはまるでいやな、嘔吐を催ほすやうな疲労で、
眠りもならない。神を見た人間は、視力の極致まで、人間能力の極致まで行つてかへつて来る。
ほんの一瞬間でも、そのために心霊の莫大なエネルギーを費つてしまふ。……君のいまの
不眠症は、『ドルヂェル伯の舞踏会』を書いた直接の結果にすぎないのさ。

僕が『天の手袋』と呼んでゐるものを君は識つてゐる筈だ。天は、手を汚さずに僕等に
触れる為めに、手袋をはめることが間々あるのだ。レイモン・ラディゲは天の手袋だつた。
彼の形は手袋のやうにぴつたりと天に合ふのだつた。天が手を抜くと、それは死だ。
……だから僕は、あらかじめ十分用心してゐたのだつた。初めから、僕には、ラディゲは
借りものであつて、やがて返さなければならないことが分つてゐた。……

生きてゐるといふことは一種の綱渡りだ。
三島由紀夫「ラディゲの死」より

435 :


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436 :
この世界には何かが欠けてゐる。たとしへなく大きなもので、しかも目に見えないものが
欠けてゐる。根本的な条件が欠けてゐるのだ。

銹(さ)びた鉄の水呑場は大そう高く、小さな男の児は母親に体をもちあげてもらつて、
足を宙に浮かして水を呑まねばならない。小さなとんがらかした唇が、不安定な様子で、
小まめに吹き出てゐる水に近づく。水は外れて、鼻孔に入つてしまつた。男の児は泣き出した。
こんな重大な蹉跌には、誰だつて泣くだけの値打がある。

自動車博覧会の雑沓の只中に、誰の才覚でこんな硝子の小さな箱が設けられたのだらう。
誰の才覚で、その硝子の内側に水が注がれ、金魚が放り込まれたのだらう、無意識の善意とか、
無意識の悪意とかいふものは本当にある。さういふものが考へつくのは、いつもかうしたことだ。
三島由紀夫「博覧会」より

437 :
ついこの間も、寿産院事件があり、引きつづいて帝銀事件があつた。どちらの事件にも、
彼は別に関係がなかつた。当り前のことだ。一雄はそれを新聞で読んだだけだ。しかし
舞台上の事件と観客とが絶対に関係がないと言ひ切れるだらうか。
なんとなく、みんなが顔色のわるい顔をして、十分いきいきと、たのしくてたまらないやうに
暮してゐた。どんな行為にでも弁疏の自由があつた。辷り台を辷り下りるとき、子供は
どんなにうれしさうな顔をするか。辷り下りるといふことは素晴らしいことなのにちがひない。
重力の法則、この一般的な法則のなかで人は自由になる。その他の個別的な法則はどこかへ
飛んで行つてしまふ。
無秩序もまた、その人を魅する力において一個の法則である。それと絶縁して、その
自由だけをわがものにすることはできないだらうか?
人々は好い気になつて、悪い酒を呑んでは抒情的になつてゐた。メチール・アルコホル入りの
ウイスキイのおかげで、死んだり盲になつたりする人が大ぜいゐた。
三島由紀夫「鍵のかかる部屋」より

438 :
彼のまはりにはあけつぴろげな誘惑があつた。自Rるのはほんたうに簡単だ。自殺をすれば、
国民貯蓄課の属官たちはかう言ふにちがひない。『前途有為な青年がどうして自殺なんか
するのだらう』前途有為といふやつは、他人の僭越な判断だ。大体この二つの観念は必ずしも
矛盾しない。未来を確信するからこそ自Rる男もゐるのだ。朝のラッシュ・アワーの
電車に揉まれてゐて、一雄は誰も叫び出さないのをふしぎに思ふことがあつた。自分の体さへ
思ふままにならない。他人の圧力から、自分の腕をどうにか引つこ抜いて、背中の痒いところを
掻くことさへできない。誰もこんな状態を、秩序の状態だとは思はないだらう。しかし
誰もそれを変改できない。満員電車のなかの、押し黙つた多くの顔の底に、ひとつひとつ
無秩序が住んでゐて、それがお互ひに共鳴し、となりの男の無礼な尻の圧力を是認して
ゐるのだ。ああいふ共鳴は、一度共鳴してしまつたら、とても住みよくなるのだ。
三島由紀夫「鍵のかかる部屋」より

439 :
鍵のかかる音、あの輪郭のくつきりした小さな音を、一雄は自分の背後に聴いた。
『何て女だ』……彼は別に嘔気(はきけ)もしなかつた。レコードを替へるふりをした。
彼の背後で、そのとき外界が手ぎはよく、遮断された。
まだ宵の口だつた。彼の外界は、その鍵の音で、命令され、強圧され、料理されてしまつた。
途方もなく連続してゐたもの、たとへば、よく清涼飲料の商標にある、若い女が罎の口から
呑んでゐるその罎のレッテルに、また若い女が罎の口から呑んでゐる絵があり、その絵の中の
罎のレッテルにまた若い女が罎の口から呑んでゐる絵のある、(一雄の住んでゐる現実は
さういふ構造をもつてゐた、)無限につながつた現実の連鎖が、小気味よく絶たれてしまつた。
罎のレッテルの中の罎の、そのレッテルの中の罎の、そのレッテルの中の罎の、最後の
レッテルは空白になつた。彼は息がつけた。そしてのろのろと上着を脱いだ。
そのとき女のはうが鍵をかけたといふことはたしかに重要だつた。
三島由紀夫「鍵のかかる部屋」より

440 :
一雄は呑み干したココアの茶碗を置いた。雨は小降りになぞなつてゐなかつた。駅へ
下りてゆく人影が少くなつた。土曜日の午後がはじまつてゐた。『土曜日は人魚だ』と
一雄は思つた。『半ドンの正午のところをまんなかに、上半身は人間で、下半身は魚だ。
俺も魚の部分で、思ひきり泳いでいけないといふ法はないわけだな』

彼女はうるさいほど度々鏡を見た。何かの奇蹟で自分の知らない間に美人に変貌してゐるかも
しれないと思つて、一雄は醜い女もきらひではなかつた。本当に男を尊敬できるのは、
劣等感を持つた女だけだ。

女を抱くとき、われわれは大抵、顔か乳房か局部か太腿かをバラバラに抱いてゐるのだ。
それを総括する「肉体」といふ観念の下(もと)に。

犬だつて女のやうな表情をうかべることがある。むかし一雄が飼つてゐたジョリイはよく
こんな顔をしたものだ。
三島由紀夫「鍵のかかる部屋」より

441 :
この世には無害な道楽なんて存在しないと考へたはうが賢明だ。

国民の自覚、といふ言葉で、誰も吹き出さなかつたのはふしぎだつた。「国民」とか
「自覚」とかの言葉には、場末で売つてゐる平べつたいコロッケ、藷(いも)と一緒に
古新聞の切れつぱしなんぞの入つてゐる冷たいコロッケのやうな、妙にユーモラスな
味はひがある。

地位を持つた男たちといふものは、少女みたいな感受性を持つてゐる。いつもでは困るが、
一寸した息抜きに、何でもない男から肩を叩かれると嬉しくなるのだ。

彼はふと自分が流行歌手になつてゐるところを想像した。マドロスの扮装をし、ドーランを塗り、
にやけた表情をする。この空想が彼を刺戟した。歌うたひにはみんな白痴的な素質がある。
歌をうたふといふことは、何か内面的なものの凝固を妨げるのだらう。或る流露感だけに
涵(ひた)つて生きる。そんなら何も人間の形をしてゐる必要はないのだ。この非流動的な、
ごつごつした、骨や肉や血や内蔵から成立つたぶざまな肉体といふもの。これが問題だ。
三島由紀夫「鍵のかかる部屋」より

442 :
廿九歳まで童貞でゐられるとはすばらしい才能だ。世界の半分を無瑕(むきず)でとつておく。
それまで女をドアの外に待たして、ゆつくり煙草を吹かしたり、国家財政を研究したり
してゐたのだ。
決して急がない男がゐるものだ。世間で彼は「自信のある男」と呼ばれる。蝿取紙のやうに
ぶらぶら揺れて待つてゐる。人生が蝿のやうに次々とくつつくのだ。かういふ男はどんなに
蝿を馬鹿と思ひ込んで、一生を終るだらう。事実は、蝿取紙に引つかからない利口な蝿も
ゐることはゐるのだが。

不死は、子や孫にうけつがれるなんて嘘だ。不死の観念は他人にうけつがれるのだ。
三島由紀夫「鍵のかかる部屋」より

443 :
われわれの内的世界と言葉との最初の出会は、まつたく個性的なものが普遍的なものに
触れることでもあり、また普遍的なものによつて練磨されて個性的なものがはじめて所を
得ることでもある。

「彼女が僕の額をとても美しいつて言つてくれるんだ」(中略)
『ずいぶんおでこだな』と少年は思つた。少しも美しいといふ感想はなかつた。
『僕だつてとてもおでこだ。おでこは美しいといふのとはちがふ』
――そのとき少年は何かに目ざめたのである。恋愛とか人生とかの認識のうちに必ず
入つてくる滑稽な夾雑物、それなしには人生や恋のさなかを生きられないやうな滑稽な
夾雑物を見たのである。すなはち自分のおでこを美しいと思ひ込むこと。
もつと観念的にではあるが、少年も亦、似たやうな思ひ込みを抱いて、人生を生きつつ
あるのかもしれない。ひよつとすると、僕も生きてゐるのかもしれない。この考へには
ぞつとするやうなものがあつた。
三島由紀夫「詩を書く少年」より

444 :
固さは脆さであります。

思想は多少に不拘(かかはらず)、暴力的性質を帯びるものである。

腕力こそは最初の思想である。もし腕力が最初に卵の殻を割らなかつたら、誰が卵を
食用に供しうるといふ思想を発明しえたでありませう。
三島由紀夫「卵」より

高位の貴婦人であらうと、女である以上、愛されるといふことを抜きにしたいかなる権力も
徒である。

一体女には、世を捨てると云つたところで、自分のもつてゐるものを捨てることなど
出来はしない。男だけが、自分の現にもつてゐるものを捨てることができるのである。
三島由紀夫「志賀寺上人の恋」より

健康で油ぎつた皮膚の人間には、みんな蠅のやうなところがある。蠅は腐敗を好むほど
健康なのだ。

貧乏には独特の匂ひがある。貧しい人たち同士はそれで嗅ぎわけるのだ。
三島由紀夫「水音」より

445 :
女の踝が美しいのは、このいかにも慎みのない突起が、なめらかな脚のつづきに現はれて、
そこで突然動物的なものを感じさせるからだらう。

ヤクザ特有の死に関する単純な投げやりな見解、真情を隠して抵抗する可愛い女、それらは
身についた卑俗と卑小の独特の詩を荷つてゐる。凡庸さを一寸でも逸脱したら忽ち失はれる
やうな詩が、かういふ物語の中にはこもつてゐる。天才に禍ひあれ。この種の詩は決して
意識されてはならず、看過されるときだけ薫りを放つのだ。そして大多数の映画は
すばらしいことに、すべてを看過しながら描写してしまふ。
三島由紀夫「スタア」より

446 :
「霧の夜道に青い灯に、
別れた瞳が気にかかる」
この種の凡庸と卑俗の詩は、言葉の置き換へのゆるされない厳然たる存在だといふことに
誰が気づくだらう。人がかういふ詩の存在を許すのは、それらが紋切型で無力で蜉蝣のやうに
短命だと思つてゐるからだ。ところが永生を約束されてゐるのは実はこれのはうで、
悪が尽きないやうに、それは尽きない。鱶(ふか)のお腹についてゐる小判鮫のやうに、
それはどこまでも公式の詩のお腹について泳ぐのだ。それは創造の影、独創の排泄物、
天才の引きずつてゐる肉体だ。安つぽさだけの放つ、ブリキの屋根の恩寵的な輝き、
うすつぺらなものだけが持つことのできる悲劇の迅速さ、十把一からげの人間だけが見せる、
あの緻密な念の入つた美しさと哀切さ。愚昧な行動だけがかもし出す夕焼けのやうな
俗悪な抒情。……すべてこれらのものに守られ、これらの規約に忠実に従つた、この種の
物語を僕はとても愛する。
三島由紀夫「スタア」より

447 :
幸福がつかのまだといふ哲学は、不幸な人間も幸福な人間もどちらも好い気持にさせる力を
持つてゐる。

「見られる」といふことがどういふことか、世間の人にいくら説明しても無駄だと思ふ。
正に「見られる」といふ僕らの特質が、僕らを世間から弾き出し、世外の人にしてしまふ
原因だからだ。

僕は、一緒に寝てくれといふ女より、どこかで自涜してゐる女のはうが、はるかに
好きなことはたしかである。僕が本当のラヴ・シーンと考へるものはこれしかない。

スタアはあくまで見かけの問題よ。でもこの見かけが、世間の『本当の認識』の唯一つの
型見本、唯一つの形にあらはれた見本だといふことを、向う様も十分御存知なんだわ。
世間だつて、結局認識の源泉は私たちの信仰してゐる虚偽の泉から汲んで来なければ
ならないことを知つてるの。ただその泉には、絶対にみんなの安心する仮面がかぶせて
なければ困るのよ。その仮面がスタアなんだわ。
三島由紀夫「スタア」より

448 :


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三島のつぎは沼津


449 :
日本でも天の宇受売の命(うずめのみこと)がさうであるが、古来、踊りをやる人には、
多少常規を逸したところがある。かのイサドラ・ダンカンも、ギリシアを訪れて、アテネの
ゼウス神殿オリュンピエイオンで、突如として古代の霊感に搏たれ、月明りの下に全裸の姿で
一人踊り狂つたと伝へられる。
三島由紀夫「芸術狐」より

戦前でも、ダム工事のための資金は、主としてアメリカの外資によつてゐたことを知つて
ゐる人は案外すくない。戦前から電力会社は、ダム建設のために一億数千万弗(ドル)の
社債を、アメリカへ売りに行つてゐたのである。
三島由紀夫「山の魂」より

職人気質(かたぎ)といふものは今もあり、かういふ人たちの廉恥心、実直、正直、仕事熱心、
寡黙、仕事の出来栄えについての良心、などの美徳は、今も決して衰へてゐるのではない。
この物語の不幸は、ある女が、さういふ美徳を疑つてかかつたことから起つたのである。
だからわれわれは、もうなくなつてしまつたと世間で思はれてゐる美徳をも、信じるやうに
しなければならない。
三島由紀夫「屋根を歩む」より

450 :
映画の世界ほど、無意味な不公平の横行してゐるところはあるまい。外の世界なら、
多かれ少なかれ、伎倆の相違でランクがつけられ、羨望と嫉妬も、みんな身から出た錆だと
思ふほかはない。
映画の世界の不公平は、もつと絶対的なのである。かりに容貌の美醜でランクがつけられると
するなら、これは或る意味では才能と同じやうに、天賦のものだから文句のつけやうがない。
しかし映画界でスタアと下積みとを分けるものは、決して容貌の美醜や、肉体の優劣ではない。
もし諸君が撮影所へゆき、撮影現場を見学して、主役の男女優からしばらく目を外らし、
セットのかげで待機してゐる大部屋の人たちに目をそそげば、主役以上の美男美女を
わけなく発見するにちがひない。が、その人たちの多くは、一生はかない夢を抱いて、
埋もれてしまふ人たちなのである。
たとへばハリウッドの一映画会社で、個性的な顔のスタアが売り出されたとする。そのとき
セットのかげには、そのスタアによく似てゐるが、容貌も肉体もずつとすぐれた無名俳優が
かくれて歯ぎしりしてゐると思つていい。
三島由紀夫「色好みの宮」より

451 :
↑ 相変わらず 懲りずにやっとるね。

452 :
もうそろそろ おしまいに しませう。

453 :
/~~\ ⊂⊃
...............,,,,傘傘傘::::::::傘傘傘.............
 ∧_∧
(´・ω・)      キキーッ!
O┬O )
◎┴し'-◎ ≡
          _,,..,,,,_
         / ,' 3  `ヽーっ
         l   ⊃ ⌒_つ
          `'ー---‐'''''"

454 :
三島のつぎは沼津

455 :
女が生活に介入してくることによつて、人は煩瑣(はんさ)を愛するやうになる。
男女関係は或る意味では極めて事務的なたのしみだ。

男を事務的な目附で眺めることができるのは既婚の女の特権である。公私混同には
持つてこいの特権だ。
幸福の話題は罪のやうに人を疲らせる。

悪徳の虚栄心が悪徳そのものの邪魔立てをする。「魂の純潔」なるものを保たせようと
するならば、少くとも青年には、美徳の虚栄心よりも悪徳の虚栄心の方が有効なのである。

曇つた空を見てゐると、人間の習慣とか因襲とか規則とかいふものはあそこから落ちて
来たのではないかと思はれるのである。曇つた日は曇つた他の日と寸分ちがはない。
何が似てゐると云つて、人間の世界にはこれほど似てゐるものはない。人はこんな残酷な
相似に耐へられたものではない。
三島由紀夫「慈善」より

456 :
いちばん高貴で美しい「忘却」といふ作用がいちばん醜くて愚劣な「習慣」といふ作用と
いつも結びついてゐること以上の不合理はない。

戦争が道徳を失はせたといふのは嘘だ。道徳はいつどこにでもころがつてゐる。しかし
運動をするものに運動神経が必要とされるやうに、道徳的な神経がなくては道徳は
つかまらない。戦争が失はせたのは道徳的神経だ。この神経なしには人は道徳的な行為を
することができぬ。従つてまた真の意味の不徳に到達することもできぬ筈だつた。

絶対に無道徳な貞節といふものが可能ではあるまいか。絶対に道徳を知らないで道徳に
奉仕することができはすまいか。無道徳といふ無限定が、その無限定のために、やすやすと
不徳乃至(ないし)道徳といふ限定に包まれうるものならば、象が大きすぎるといふ理由で
鼠に負けるならば。
三島由紀夫「慈善」より

457 :
↑ 相変わらず 懲りずにやっとるね。

↑ レスは手短にお願い。   ゴホンの宣伝は たいがいに。 ゴホンといったらルル三錠!
三島のつぎは沼津


458 :
世間といふものは、女と似てゐて案外母性的なところを持つてゐるのである。それは
自分にむけられる外々(よそよそ)しい謙遜よりも、自分を傷つけない程度に中和された
無邪気な腕白のはうを好むものである。

巌(いはほ)のやうな顔が愛くるしい笑ひ方をした。強欲な人間は、よくこんな愛くるしい
笑ひ方をするものである。強欲といふものは童心の一種だからであらうか。

残り惜しさの理由は、使ひ慣れたといふ点にしかない。しかしかけがへのない感じは、
これだけの理由で十分であつた。おそらくこれ以上の理由は見つかるまい。

田舎の有力者ほどひがみやすい人種はないのである。

よく眠る人間には不眠をこぼす人間はいつでも多少芝居がかつた滑稽なものに映る。

死のしらせは同情より先に連帯的な或る種の感動で人を結ぶものである。
三島由紀夫「訃音」より

459 :
少年といふものが彼らの年齢特有の脆弱さを意識して反対の「粗雑さ」に憧れる傾向を、
亘理は冷眼視してゐるやうに思はれるのだつた。彼はむしろ脆弱さを守らうとしてゐた。
自分自身であらうとする青年は青年同士の間で尊敬される。しかし自分自身であらうと
する少年は少年たちの迫害に会ふのである。少年は一刻でも他の何物かであらうと
努力すべきであつた。
三島由紀夫「殉教」より

下手な恋文しか書けない人に、『恋文を書く必要がない』といふ幸福を一生あたへ
つづけること、それが結婚生活といふものなのですからね。

男は女と別れたら、よし御夫婦でも、女を自分の『昔の女』とか『別れた妻』とか
『昔の恋人』とかいふ別の新鮮な偶像に仕立てて、そのコッピーをちやんと自分のところに
とつておかうとする甘つたるい欲望から脱けきれないものです。
三島由紀夫「親切な男」より

不安は奇体に人の顔つきを若々しくする。
三島由紀夫「毒薬の社会的効用について」より

460 :
↑ 相変わらず 懲りずにやっとるね。

↑ レスは手短にお願い。   ゴホンの宣伝は たいがいに。 ゴホンといったらルル三錠!
三島のつぎは沼津 その次は 片浜?


461 :
>>460
あんたも相変わらず懲りずに見回ってるね。ご苦労様。

462 :
女を知らない体がどうして不幸なものですか。わたしの体を知つた男はみんな不幸になる
ばかりだわ。わたしお兄様をお可哀想になんて言へないことよ。
三島由紀夫「家族合せ」より

精力はともすると物憂げな外見を装ひたがるものである。

同情といふ感情は一種の恐怖心で、自分に大して関係のないものが関係をもちさうに
なるのを惧(おそ)れるあまり、先手を打つて、同情といふ不良導体でつながれた関係を
もたうとする感情だ。

事件といふものが一種の古典的性格をもつてゐることは、古典といふものが年月の経過と
共に一種の事件的性格を帯びるのと似通つてゐる。事件も古典と同じやうに、さまざまの
語り変へが可能である。
三島由紀夫「親切な機械」より

どんな卑近な情熱でも、そこには何らかの自己放棄を伴ふものだ。

良心は人を眠らせないが、罪は熟睡させるのである。
三島由紀夫「孝経」より

463 :
表現といふことは生に対する一つの特権であると共に生に於ける一つの放棄に他ならぬこと、
言葉をもつことは生に対する負目(ひけめ)のあらはれであり同時に生への復讐でも
ありうること、肉体の美しさに対して精神の本質的な醜さは言葉の美のみがこれを
償ひうること、言葉は精神の肉体への郷愁であること、肉体の美のうつろひやすさに
いつか言葉の美の永遠性が打ち克たうとする欲望こそ表現の欲望であること、――かうした
さまざまな判断を次郎は事もなげに採集した。彼は肉体を鍛へるやうに言葉を鍛へた。
文体に意を須(もち)ひ、それが希臘彫刻の的確な線に似ることを念願とした。
古代彫刻の青年像に見られる額から鼻へかけてのなだらかな流線は、自然そのままの
模写ではない。いはばそれは自然がわれわれにむかつて約束してゐる美の具現である。
本当の意味での創造である。すべての自然のなかには創造されたいといふ意志、深い
祈念をこめた叫びがある。
三島由紀夫「火山の休暇」より

464 :
…この刹那の落日は彼を感動させたのである。
『われわれの生も……』と次郎は考へた。『われわれが考へるよりはもつと壮大であり、
想像と思念と行動が及ぶかぎりをこえて壮麗なものであるにちがひない。さればこそ
それは現実ではないんだ。さればこそそれは表現を要求するんだ。この廻りくどい緩慢な
行為を要求するんだ。表現によつて、われわれは生へ還つてゆく。芸術家が死のあとまでも
生きのこるのはそのためだ。しかも表現といふ行為は、芸術家の生活は、何といふ緩慢な
死だらう。精神が肉体を模倣し、肉体が自然を模倣する、つまり自然を――死を模倣する。
自然は死だ。そのとき芸術家は死の限りなく近くに、言ひかへれば、表現された生の
限りなく近くにゐるのだなあ。芸術家にとつては、だから絶望は無意味だ。絶望する暇が
あつたら、表現しなければならぬ。なぜかといつて、どんな絶望も、生を前にして表現が
感じなければならぬこの自己の無力感、おのれの非力を隅々まで感じるこの壮麗な歓喜と
比べれば何ほどのことがあらう。……』
三島由紀夫「火山の休暇」より

465 :
それにしても、火山は休んでゐるのに、次々と自殺者が船に乗つて、はるばる東京から
この島まで来て、噴火口に身を投ずるのは何故であらう。火山は休業中だ。地獄へ行つても
休業中といふ札が貼つてあるかもしれない。地獄の大通りを歩いて行つても、酒屋も
理髪店もホテルも八百屋も魚屋も公会堂も劇場も、ことごとく休業中といふ札を戸口に
貼つてゐるかもしれない。死んだ人間は、休業中の火山へとびこんで、休業中の地獄へ
行つて、休業中の大通りを歩いて、結局どこまで行つても泊めてもらふことができない
かもしれない。さて、それから先、どこへ行けばよいのであらう。……それにもかかはらず、
空虚な火口へ身を投ずるために、次々と、人は船に乗つてここの島を訪れるのである。
結局、地獄はなくなつたのではなからうか。現代の地獄は、地獄が存在しないことでは
あるまいか。現代の怖ろしい特質はここにあるのではなからうか。さもなければあれほど
人々が地獄を呼び求め、ありもせぬ地獄を翹望(げうばう)する気持が次郎にはわからない。
三島由紀夫「火山の休暇」より

466 :
神さまが仰言いました。
「ここまで他人に荒されちや大変だ。わしはだから人間世界へ電報を打たうと思ふんぢやよ。
『わしはもう居ない。わしはもう決してどこにも存在しない』とね」
三島由紀夫「天国に結ぶ恋」より

野外演習の払暁戦で、富士の裾野に身を伏せてながめやつた箱根の山々の稜線の薄明を
思ひ出した。明星が消え残つてゐた。それは事実、ふしぎに大きく、ふしぎにかがやかしく
見えた。ピタゴラスが言つたといふ「天体の奏でる微妙な音楽」の、最後までかすかに
尾を引く嚠喨(りうりやう)たる笛の音のやうなかがやきであつた。
名人は演能のさなかにも、幾度かこの星のやうな笛の音を美しい仮面の下からきくのであらう。
それは薄明の山上にあるやうに、老いた名人の感官に、大きな、身近な、手をのばせば
とどく星の存在を、たえず触知させてゐるにちがひない。
三島由紀夫「星」より

堕落したつもりで彼は一向に堕落してゐなかつた。一人の女しか知らないことがどうして
堕落であらう。
三島由紀夫「退屈な旅」より

467 :
『女御がみまかつてから、私は蝉の抜殻のやうだ』と帝は考へられた。『何ものも私を
慰めないし、何ものも私を力づけない。この地上で確かなものといつたら、それは何なのだ。
人間が三度三度食事をするといふことか? 地上の確かさはそれに尽きるのか? 
それだのに、さういふ確かさうなものを見、その確かさに安心してゐる人たちを見ると、
私は笑ひたくなる。女御がゐたときは一刻も永遠のやうに思はれた。幸福な一刻だつたからだ。
今でもやはり、永遠のやうに思はれる一刻がある。不幸な一刻、退屈な耐へがたい一刻だからだ。
してみると、時といふもの、私たちの生きてゐることの唯一の仕方がない理由といふものも、
こんなにあやふやな当てにならないものであらうか? 「時」は私たちの生きてゐることの
徒(あだ)な所以(ゆゑん)をいひきかせるために流れてゐるのであらうか?
三島由紀夫「花山院」より

468 :
軍服着て、腹切った人かの、確か、鉢巻していたな、・・・

469 :
↑ 相変わらず 懲りずにやっとるね。

↑ レスは手短にお願い。   ゴホンの宣伝は たいがいに。 ゴホンといったらルル三錠!
三島のつぎは沼津 その次は 片浜の次は 原?


470 :
おしまいです。

471 :
頽廃した純潔は、世の凡ゆる頽廃のうちでも、いちばん悪質の頽廃だ。

愛の奥処には、寸分たがはず相手に似たいといふ不可能な熱望が流れてゐはしないだらうか? 
この熱望が人を駆つて、不可能を反対の極から可能にしようとねがふあの悲劇的な離反に
みちびくのではなからうか? つまり相愛のものが完全に相似のものになりえぬ以上、
むしろお互ひに些かも似まいと力め、かうした離反をそのまま媚態に役立てるやうな心の
組織(システム)があるのではないか? しかも悲しむべきことに、相似は瞬間の幻影のまま
終るのである。なぜなら愛する少女は果敢になり、愛する少年は内気になるにせよ、
かれらは似ようとしていつかお互ひの存在をとほりぬけ、彼方へ、――もはや対象のない
彼方へ、飛び去るほかはないからである。

旅の仕度に忙殺されてゐる時ほど、われわれが旅を隅々まで完全に所有してゐる時はない。
三島由紀夫「仮面の告白」より

472 :
……下手なピアノの音を私はきいた。
(中略)
そのピアノの音色には、手帖を見ながら作つた不出来なお菓子のやうな心易さがあり、
私は私で、かう訊ねずにはゐられなかつた。
「年は?」
「十八。僕のすぐ下の妹だ」
と草野がこたへた。
――きけばきくほど、十八歳の、夢みがちな、しかもまだ自分の美しさをそれと知らない、
指さきにまだ稚なさの残つたピアノの音である。私はそのおさらひがいつまでもつづけ
られることをねがつた。願事は叶へられた。私の心の中にこのピアノの音はそれから五年後の
今日までつづいたのである。何度私はそれを錯覚だと信じようとしたことか。何度私の理性が
この錯覚を嘲つたことか。何度私の弱さが私の自己欺瞞を笑つたことか。それにもかかはらず、
ピアノの音は私を支配し、もし宿命といふ言葉から厭味な持味が省かれうるとすれば、
この音は正しく私にとつて宿命的なものとなつた。
三島由紀夫「仮面の告白」より

473 :
想像しうる限りの事態が平気で起るやうな毎日なので、却つてわれわれの空想力が貧しく
されてしまつてゐた。たとへば一家全滅の想像は、銀座の店頭に洋酒の罎がズラリと並んだり、
銀座の夜空にネオンサインが明滅したりすることを想像するよりもずつと容易いので、
易きに就くだけのことだつた。抵抗を感じない想像力といふものは、たとひそれがどんなに
冷酷な相貌を帯びようと、心の冷たさとは無縁のものである。それは怠惰ななまぬるい精神の
一つのあらはれにすぎなかつた。

かへりの汽車は憂鬱だつた。駅で落ち合つた大庭氏も、打つてかはつて沈黙を守つた。
皆が例の「骨肉の情愛」といふもの、ふだんは隠れた内側が裏返しにされてひりひり
痛むやうな感想の虜になつた体だつた。おそらくお互ひに会へばそれ以外に示しやうのない
裸かの心で、かれらは息子や兄や孫や弟に会つたあげく、その裸かの心がお互ひの無益な
出血を誇示するにすぎない空しさに気づいたのだつた。
三島由紀夫「仮面の告白」より

474 :
驟雨がやみ、夕日が室内へさし入つた。
園子の目と唇がかがやいた。その美しさが私自身の無力感に飜訳されて私にのしかかつた。
するとこの苦しい思ひが逆に彼女の存在をはかなげに見せた。
「僕たちだつて」――と私が言ひ出すのだつた。「いつまで生きてゐられるかわからない。
今警報が鳴るとするでせう。その飛行機は、僕たちに当る直撃弾を積んでゐるのかも
しれないんです」
「どんなにいいかしら」――彼女はスコッチ縞のスカアトの襞を戯れに折り重ねてゐたが、
かう言ひながら顔をあげたとき、かすかな生毛(うぶげ)の光りが頬をふちどつた。
「何かかう……、音のしない飛行機が来て、かうしてゐるとき、直撃弾を落してくれたら、
……さうお思ひにならない?」
これは言つてゐる園子自身も気のつかない愛の告白だつた。
三島由紀夫「仮面の告白」より

475 :
ロマネスクな性格といふものには、精神の作用に対する微妙な不信がはびこつてゐて、
それが往々夢想といふ一種の不倫な行為へみちびくのである。夢想は、人の考へてゐるやうに
精神の作用であるのではない。それはむしろ精神からの逃避である。

半月形の襟で区切られた彼女の胸は白かつた。目がさめるほどに! さうしてゐる時の
彼女の微笑には、ジュリエットの頬を染めたあの「淫らな血」が感じられた。処女だけに
似つかはしい種類の淫蕩さといふものがある。それは成熟した女の淫蕩とはことかはり、
微風のやうに人を酔はせる。それは何か可愛らしい悪趣味の一種である。たとへば赤ん坊を
くすぐるのが大好きだと謂つたたぐひの。
私の心がふと幸福に酔ひかけるのはかうした瞬間だつた。すでに久しいあひだ、私は
幸福といふ禁断の果実に近づかずにゐた。だがそれが今私を物悲しい執拗さで誘惑してゐた。
私は園子を深淵のやうに感じた。
三島由紀夫「仮面の告白」より

476 :
私は体を離して一瞬悲しげな目で園子を見た。彼女がこの時の私の目を見たら、彼女は
言ひがたい愛の表示を読んだ筈だつた。それはそのやうな愛が人間にとつて可能であるか
どうか誰も断言しえないやうな愛だつた。

傷を負つた人間は間に合はせの繃帯が必ずしも清潔であることを要求しない。

潔癖さといふものは、欲望の命ずる一種のわがままだ。

好奇心には道徳がないのである。もしかするとそれは人間のもちうるもつとも不徳な
欲望かもしれない。

少女時代から彼女の自慢話が私は好きだつた。謙遜すぎる女は高慢な女と同様に魅力の
ないものである。

人間の情熱があらゆる背理の上に立つ力をもつとすれば、情熱それ自身の背理の上にだつて、
立つ力がないとは言ひ切れまい。
三島由紀夫「仮面の告白」より

477 :
↑ 相変わらず 懲りずにやっとるね。

↑ レスは手短にお願い。   ゴホンの宣伝は たいがいに。 ゴホンといったらルル三錠!
三島のつぎは沼津


478 :
不在といふものは、存在よりももつと精妙な原料から、もつと精選された素材から成立つて
ゐるやうに思はれる。楠といざ顔をつき合はせてみると、郁子は今までの自分の不安も、
遊び友達が一人来ないので歌留多あそびをはじめることができずにゐる子供の寂しさに
すぎなかつたのではないかと疑つた。

凡庸な人間といふものは喋り方一つで哲学者に見えるものだ。

どこかひどく凡庸なところがないと哲学者にはなれない。

手もちぶたさになつた沢田が炬燵の柱を指で叩きだした。いつのまにか郁子も亦、自分の指が
同じやうに炬燵の柱を叩いてゐるのに気づいて、すこし熱くなつた指環の感じられる指を
炬燵蒲団からさりげなく抜いた。

若さといふものは笑ひでさへ真摯な笑ひで、およそ滑稽に見せようとしても見せられない
その真摯さは、ほとんど退屈にちかいものと言つてよろしく、中年よりも老年よりも遥かに
安定度の高い頑固な年齢であつた。
三島由紀夫「純白の夜」より

479 :
明治時代にはあだし男の接吻に会つて自殺を選んだ貞淑な夫人があつた。現代ではそんな
女が見当らないのは、人が云ふやうに貞淑の観念の推移ではなくて、快感の絶対量の
推移であるやうに思はれる。ストイックな時代に人々が生れ合はせれば、一度の接吻に
死を賭けることもできるのだが、生憎今日のわれわれはそれほど無上の接吻を経験しえない
だけのことである。どつちが不感症の時代であらうか?

どんな女にも、苦悩に対する共感の趣味があるものだが、それは苦悩といふものが本来
男性的な能力だからである。

秘密は人を多忙にする。怠け者は秘密を持つこともできず、秘密と附合ふこともできない。

秘密を手なづける方法は一つしかない。すなはち膝の上で眠らせてしまふ方法である。

感情には、だまかしうる傾斜の限度がある。その限度の中では、人はなほ平衡の幻影に
身を委す。といふよりは、傾斜してみえる森や家並の外界に非を鳴らして、自分自身が
傾きつつあることに気がつかない。
三島由紀夫「純白の夜」より

480 :
粗暴な快楽が純粋でないのは、その快楽が「必要とされてゐる」からであり、別の微妙な
快楽は、不必要なだけに純粋なのだ。

貞淑といふものは、頑癬(たむし)のやうな安心感だ。彼女は手紙といいあひびきといひ、
あれほどにも惑乱を露はにした一連の行動を、あとで顧みて、何一つ疾(や)ましいところは
ないのだと是認するのであつた。彼女は冷静に行動し、何一つ手落ちがなかつたことを
自分に言ひきかせながら、或る日のこと楠と気軽に接吻した。

不安はむしろ勝利者の所有(もの)だ。連戦連勝の拳闘選手の頭からは、敗北といふ一個の
新鮮な観念が片時も離れない。彼は敗北を生活してゐるのである。羅馬(ローマ)の格闘士は、
こんな風にして、死を生活したことであらう。

恋愛とは、勿論、仏蘭西(フランス)の詩人が言つたやうに一つの拷問である。どちらが
より多く相手を苦しめることができるか試してみませう、とメリメエがその女友達へ
出した手紙のなかで書いてゐる。
三島由紀夫「純白の夜」より

481 :
1. 富士の白雪ゃ ノーエ 富士の白雪ゃ ノーエ エー
富士のサイサイ  白雪ゃ朝日で溶ける
2. 溶けて流れて ノーエ 溶けて流れて ノーエ エー
溶けてサイサイ 流れて三島に注ぐ
3. 三島女郎衆は ノーエ 三島女郎衆は ノーエ エー
三島サイサイ 女郎衆はお化粧が長い
拍手拍手
三島由紀夫「宴会の夜」より

482 :
ああ、誰のあとをついて行つても、愛のために命を賭けたり、死の危険を冒したりすることは
ないんだわ。男の人たちは二言目には時代がわるいの社会がわるいのとこぼしてゐるけれど、
自分の目のなかに情熱をもたないことが、いちばん悪いことだとは気づいてゐない。

退屈する人は、どこか退屈に己惚れてゐるやうなところがあるわ。

夫婦と同様に、清浄な恋人同志にも、倦怠期といふものはあるものだつた。

「しかし狩人は義士ぢやございません」と黒川氏は、にこにこしながら言つた。「狩人の
ねらふのは獣であつて、仇ではございません。獲物であつて、相手の悪意ではございません。
熊に悪意を想像したら、私共は容易に射てなくなります。ただの獣だと思へばこそ、
追ひもし、射てもするのです。昆虫採集家は害虫だからといふ理由で昆虫を、つかまへは
いたしますまい」
三島由紀夫「夏子の冒険」より

483 :
↑ 相変わらず 懲りずにやっとるね。


484 :
凛々しい方でした。 永井荷風を祖とし、川端康成先生はじめ皆様に可愛がられ何故にあのような…
思いまするに皇后美智子妃と銀座6丁目での出会いのそれを成就させておればあの自決はなかったのではないか…
愚かな私はかように思いを夢幻のごとくはせらせます
       

485 :
愚かな夢想です。「テニスじゃなくて淫行でもしていれば妃にならなかった」
程度のレベルです。

486 :
人間つて誰でも一つは妙な才能をもつてゐるものだわ。

期待してゐる人間の表情といふものは美しいものだ。そのとき人間はいちばん正直な
表情をしてゐる。自分のすべてを未来に委ね、白紙に還つてゐる表情である。

羞恥がなくて、汚濁もない少女の顔ほど、少年を戸惑はせるものはない。

自分の尊敬する人の話をすることは、いはば初心(うぶ)なフランスの少年が女の子の前で
ナポレオンの話をするのと同様に、持つて廻つた敬虔な愛の告白でもあるのだ。
三島由紀夫「恋の都」より

487 :
本当のヤクザといふものは、チンピラとちがつて、チャチな凄味を利かせたりしないものである。
映画に出てくる親分は大抵、へんな髭を生やして、妙に鋭い目つきをして、キザな仕立の
背広を着て、ニヤけたバカ丁寧な物の言ひ方をして、それでヤクザをカモフラージュした
つもりでゐるが、本当のヤクザのカモフラージュはもつとずつと巧い。
旧左翼の人に、却つて、如才のない人が多いのと同じことである。

今の世では時代おくれのあの思想は、いつも私の生きる糧だつた。天皇陛下への絶対の愛、
日本人としての絶対の矜り、理窟はどうあらうと、私は五郎さんの肉体を抱きしめるやうに、
あの人の思想を抱きしめて来たんだわ。弱りかかる心、現実を知つて利巧に妥協的になり
かかる心を抑へて、いつも私は心の底からアメリカを憎んでゐた。(中略)私は五郎さんを
殺した屈辱的な敗戦を決して忘れなかつた。それ以後、私は一度もアメリカに負けなかつた
自信がある。
三島由紀夫「恋の都」より

488 :
自分の最初の判断、最初のねがひごと、そいつがいちばん正しいつてね。なまじ大人になつて
いろいろひねくりまはして考へると、却つて判断をあやまるもんだ。婿えらびをする能力
といふものは、もしかしたら、三十五歳の女より、十六歳の少女のはうが、ずつと豊富に
もつてゐるのかもしれないんだぜ。

君はまだ人生の後悔といふやつのおそろしい味を知らない。そいつは灰の味だ。灰を舐めて
ごらん。しかも毎日毎日舐めてごらん。もうこの世の中から味といふものは消えてしまふんだ。
何を食べても灰の味がする。後悔ほどやりきれないものはこの世の中にないだらう。
三島由紀夫「恋の都」より

489 :
かけまくもあやにかしこき
すめらみことに伏して奏(まを)さく
今、四海必ずしも波穏やかならねど
日の本のやまとの国は
鼓腹撃壌(こふくげきじやう)の世をば現じ
御仁徳の下(もと)、平和は世にみちみち
人ら泰平のゆるき微笑みに顔見交はし
利害は錯綜し、敵味方も相結び、
外国(とつくに)の金銭は人らを走らせ
もはや戦ひを欲せざる者は卑劣をも愛し、
邪まなる戦ひのみ陰にはびこり
夫婦朋友も信ずる能(あた)はず
いつはりの人間主義をなりはひの糧となし
偽善の茶の間の団欒は世をおほひ
力は貶(へん)せられ、肉は蔑(なみ)され
若人らは咽喉元をしめつけられつつ
怠惰と麻薬と闘争に、
かつまた望みなき小志の道へ
羊のごとく歩みを揃へ
快楽もその実を失ひ
信義もその力を喪ひ、魂は悉く腐蝕せられ、
三島由紀夫「悪臣の歌」より

490 :
年老いたる者は卑しき自己肯定と保全をば、
道徳の名の下に天下にひろげ
真実はおほひかくされ
道ゆく人の足は希望に躍ることかつてなく
なべてに痴呆の笑ひは浸潤し、
魂の死は行人の顔に透かし見られ、
よろこびも悲しみも須臾(しゆゆ)にして去り
清純は商(あきな)はれ、淫蕩は衰へ、
ただ金(かね)よ金よと思ひめぐらせば
金を以てはからるる人の値打も、
金よりもはるかに卑しきものとなりゆき、
世に背く者は背く者の流派に、
生(なま)かしこげの安住の宿りを営み、
世に時めく者は自己満足の
いぎたなき鼻孔をふくらませ、
ふたたび衰弱せる美学は天下を風靡し、
陋劣(ろうれつ)なる真実のみがもてはやされ、
三島由紀夫「悪臣の歌」より

491 :
人ら四畳半を改造して
そのせまき心情をキッチンに磨き込み
車は繁殖し、無意味なる速力は魂を寸断し、
大ビルは建てども大義は崩壊し
窓々は欲球不満の蛍光灯にかがやき渡り、
人々レジャーへといそぎのがるれど
その生活の快楽には病菌つのり
朝な朝な昇る日はスモッグに曇り、
感情は鈍磨し、鋭角は磨滅し、
烈しきもの、雄々しき魂は地を払ふ。
血潮はことごとく汚れて平和に温存せられ
ほとばしる清き血潮はすでになし。
天翔(あまが)けるもの、不滅の大義はいづくにもなし。
不朽への日常の日々の
たえざる研磨も忘れられ、
人みな不朽を信ぜざることもぐらの如し。かかる日に、
――などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。
三島由紀夫「悪臣の歌」より

492 :
かけまくもあやにかしこき
すめらみことに伏して奏(まを)さく。
かかる世に大君こそは唯御一人
人のつかさ、人の鑑(かがみ)にてましませり。
すでに敗戦の折軍将マッカーサーを、
その威丈高なる通常軍装の非礼をものともせず
訪れたまひしわが大君は、
よろづの責われにあり、われを罰せと
のたまひしなり。
この大御心(おほみこころ)、敵将を搏(う)ちその卑賤なる尊大を搏ち
洵(まこと)の高貴に触れし思ひは
さすがの傲岸をもまつろはせたり。
げに無力のきはみに於て人を高貴にて搏つ
その御けだかさはほめたたふべく、
わが大君は終始一貫、
暴力と威武とに屈したまはざりき。
和魂(にぎみたま)のきはみをおん身にそなへ
生物学の御研究にいそしまれ、
その御心は寛厚仁慈、
なべてを光被したまひしなり。
三島由紀夫「悪臣の歌」より

493 :
民の前にお姿をあらはしたまふときも
いささかのつくろひなく、
いささかの覇者のいやしき装飾もなく
すべて無私淡々の御心にて
あまねく人の心に触れ、
戦ひのをはりしのちに、
にせものの平和主義者ばつこせる折も
陛下は真の人の亀鑑、
静かなる御生活を愛され、
怒りも激情にもおん身を委(ゆだ)ねず、
静穏のうちに威大にましまし
御不自由のうちに自由にましまし
世の範となりぬべき真の美しき人間を、
世の小さき凹凸に拘泥なく
終始一貫示したまひき。
三島由紀夫「悪臣の歌」より

494 :
つねに陛下は自由と平和の友にましまし、
仁慈を垂れたまひ、諸人の愛敬を受けられ
もつとも下劣なる批判をも
春の雪の如くあはあはと融かしたまへり。
政治の中心ならず、経済の中心ならず、
文化の中心ならず、ただ人ごころの、
静止せる重心の如くおはし給へり。
かかる乱れし濁世(ぢよくせ)に陛下の
白菊の如き御人柄は、
まことに人間の鑑にして人間天皇の御名にそむきたまはず、
そこに真のうるはしき人間ありと感ぜらる。
されどこはすべて人の性(さが)の美なるもの、
人のきはみ、人の中の人、人の絶巓(ぜつてん)、
清き雪に包まれたる山頂なれど
なほ天には属したまはず。すべてこれ、
人の徳の最上なるものを身に具(そな)はせたまふ。
――などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。
三島由紀夫「悪臣の歌」より

495 :
かへりみれば陛下はかの
人間宣言をあそばせしとき、
はじめて人とならせたまひしに非ず。
悪しき世に生(あ)れましつつ、
陛下は人としておはしませり。
陛下の御徳は終始一貫、人の徳の頂きに立たせたまひしが、
なほ人としてこの悪しき世をすぐさせ給ひ、
人の中の人として振舞ひたまへり。
陛下の善き御意志、陛下の御仁慈は、
御治世においていつも疑ふべからず。
逆臣侫臣(ねいしん)囲りにつどひ、
陛下をお退(さが)らせ申せしともいふべからず。
大事の時、大事の場合に、
人として最良の決断を下したまひ、
信義を貫ぬき、暴を憎みたまひ
世にたぐひなき明天子としてましましたり。
これなくて、何故にかの戦ひは
かくも一瞬に平静に止まりしか。
されどあへて臣は奏す。
――などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。
三島由紀夫「悪臣の歌」より

496 :
陛下の大御代(おおみよ)はすでに二十年の平和、
明治以来かくも長き平和はあらず、
敗れてのちの栄えといへど、
近代日本にかほどの栄えはあらず。
されど陛下の大御代ほど
さはなる血が流されし御代もなかりしや。
その流血の記憶も癒え
民草の傷も癒えたる今、
臣今こそあへて奏すべき時と信ず。
かほどさはなる血の流されし
大御代もあらざりしと。
三島由紀夫「悪臣の歌」より

497 :
そは大八洲(おほやしま)のみにあらず
北溟(ほくめい)の果て南海の果て、
流されし若者の血は海を紅(くれな)ゐに染め
山脈を染め、大河を染め、平野を染め、
水漬(みづ)く屍は海をおほひ
草生(くさむ)す屍は原をおほへり。
血ぬられし死のまぎはに御名を呼びたる者
その霊は未だあらはれず。
いまだその霊は彼方此方(かなたこなた)に
むなしく見捨てられて鬼哭(きこく)をあぐ。
神なりし御代は血潮に充ち
人とまします御代は平和に充つ。
されば人となりませしこそ善き世といへど
――などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。
三島由紀夫「悪臣の歌」より

498 :
御代は血の色と、
安き心の淡き灰色とに、
鮮やかに二段に染め分けられたり。
今にして奏す、陛下が人間(ひと)にましまし、
人間として行ひたまひし時二度ありき、
そは昭和の歴史の転回点にて、
今もとに戻すすべもなけれど、
人間としてもつとも信実、
人間としてもつとも良識、
人間としてもつとも穏健、
自由と平和と人間性に則つて行ひたまひし
陛下の二くさの御行蔵あり。
(されどこの二度とも陛下は、
民草を見捨てたまへるなり)
一度はかの二、二六事件のとき、
青年将校ども蹶起(けつき)して
重臣を衂(ちぬ)りそののちひたすらに静まりて、
御聖旨御聖断を仰ぎしとき、
陛下ははじめよりこれを叛臣とみとめ
朕の股肱(ここう)の臣を衂りし者、
朕自ら馬を進めて討たんと仰せたまひき。
三島由紀夫「悪臣の歌」より

499 :
重臣は二三の者、民草は億とあり、
陛下はこの重臣らの深き忠誠と忠実を愛でたまひ
未だ顔も知らぬ若者どもの赤心のうしろに
ひろがり悩める民草のかげ、
かの暗澹たる広大な貧困と
青年士官らの愚かなる赤心を見捨て玉へり。
こは神としてのみ心ならず、
人として暴を憎みたまひしなり。
されど、陛下は賢者に囲まれ、
愚かなる者の血の叫びをききたまはず
自由と平和と人間性を重んぜられ、
その民草の血の叫びにこもる
神への呼びかけをききたまはず、
玉穂なすみづほの国の
荒れ果てし荒蕪(くわうぶ)の地より、
若き者、無名の者の肉身を貫きたりし
死の叫びをききたまはざりき。
三島由紀夫「悪臣の歌」より

500 :
かのとき、正に広大な御領の全てより、
死の顔は若々しく猛々(たけだけ)しき兵士の顔にて、
たぎり、あふれ、対面しまゐらせんとはかりしなり。
直接の対面、神への直面、神の理解、神の直観を待ちてあるに、
陛下は人の世界に住みたまへり。
かのときこそ日本の歴史において、
深き魂の底より出づるもの、
冥人の内よりうかみ出で、
明るき神に直面し、神人の対話をはかりし也。
死は遍満し、欺瞞をうちやぶり、
純潔と熱血のみ、若さのみ、青春のみをとほして
陛下に対晤(たいご)せんと求めたるなり。
されど陛下は賢き老人どもに囲まれてゐたまひし。
日本の古き歴史の底より、すさのをの尊(みこと)は
理解せられず、聖域に生皮を投げ込めど、
荒魂(あらみたま)は、大地の精の血の叫びを代表せり。
このもつとも醇乎たる荒魂より
陛下が面をそむけたまひしは
祭りを怠りたまひしに非ずや。
――などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。
三島由紀夫「悪臣の歌」より

501 :
二度は特攻隊の攻撃ののち、
原爆の投下ののち終戦となり、
又も、人間宣言によりて、
陛下は赤子を見捨てたまへり。
若きいのちは人のために散らしたるに非ず。
神風(かみかぜ)とその名を誇り、
神国のため神のため死したるを、
又も顔知らぬ若きもの共を見捨てたまひ、
その若きおびただしき血潮を徒(あだ)にしたまへり。
今、陛下、人間(ひと)と仰せらるれば、
神のために死にしものの御霊(みたま)はいかに?
その霊は忽(たちま)ち名を糾明せられ、
祭らるべき社もなく
神の御名は貶(へん)せられ、
ただ人のために死せることになれり。
三島由紀夫「悪臣の歌」より

502 :
人なりと仰せらるるとき、
神なりと思ひし者共の迷蒙はさむべけれど、
神と人とのダブル・イメーヂのために生き
死にたる者の魂はいかにならん。
このおびただしき霊たちのため
このさはなる若き血潮のため
陛下はいかなる強制ありとも、
人なりと仰せらるべからざりし也。
して、のち、陛下は神として
宮中賢所(かしこどころ)の奥深く、
日夜祭りにいつき、霊をいつき、
神のおんために死したる者らの霊を祭りておはしませば、
いかほどか尊かりしならん、
――などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。
三島由紀夫「悪臣の歌」より

503 :
陛下は帽を振りて全国を遊行しし玉ひ、
これ今日の皇室の安寧のもととなり
身に寸鉄を帯びず思想の戦ひに勝ちたまひし、
陛下の御勇気はほめたたふべけれど、
もし祭服に玉体を包み夜昼おぼろげなる
皇祖皇宗御霊の前にぬかづき、
神のために死せる者らをいつきたまへば、
何ほどか尊かりしならん。
今再軍備の声高けれど、
人の軍、人の兵(つはもの)は用ふべからず。
神の軍、神の兵士こそやがて神なるに、
――などてすめろぎは人間(ひと)となり玉ひし。
三島由紀夫「悪臣の歌」より

504 :
↑ 相変わらず 懲りずにやっとるね。 ボケ帽子?

505 :
過度の男らしさといふものは、女には通じないものである。

敏夫は妹思ひ、妹は兄思ひで、ほとんど一心同体でした。一人が家出すれば、もう一人も
きつと家出したでせうし、敏夫が三津子に同情して家出したのやら、その反対やら、まるで
わかりませんわ。あの兄妹は、兄妹といふより恋人同士でした。そりやあお互ひに好き合つて
ゐました。あんな愛情は、きつと自分でも知らずに、血のつながつてゐないといふことの
ふしぎな直感から、生れたものにちがひありませんわ」
「でもあの二人は、永久にそれを知らずにすぎてしまふわけですわね。又いつか日本へ
かへつて、私たちの前に現はれでもしない限り」
「永久にですわね、先生。永久に兄妹の愛に終つてしまふんですわね。世界中で一等
愛し合つてゐる二人なのに、恋人にもなれず、夫婦にもなれずに」
「永久に清らかな愛のままで。……でもそれが不幸でせうか」
「さあ、不幸か幸福かそれはわかりません」
三島由紀夫「幸福号出帆」より

506 :


おしまい。

507 :
↑ 相変わらず 懲りずにやっとるね。

↑ レスは手短にお願い。   ゴホンの宣伝は たいがいに。 ゴホンといったらルル三錠!
三島のつぎは沼津


508 :


終   了

509 :
   
    sage

510 :
アメリカ特有の匂ひ、衛生的な薬品の匂ひと甘いしつこい体臭とを五分五分にまぜあはせた
やうな匂ひが店内に充ちてゐた。ほとんど中年以上の女客が、濃い口紅を塗り、威丈高な
目つきをして、大きな菓子やオープン・サンドウヰッチと取り組んでゐた。これだけ
騒々しい店なのに、着飾つた一人一人の孤独な女たちの食慾にはひどくしめやかなものが
あつた。しめやかな、淋しい、沢山の消化器の儀式のやうだ。
三島由紀夫「魔法瓶」より

この世界の愚劣を癒やすためには、まづ、何か、愚劣の洗滌が要るのだ。藷たちが愚劣と
考へることの、一生けんめいの聖化が要るのだ。あいつらの信条、あいつらの商人的な
一生けんめいさをさへ真似をして。

とにかくジャックはもう治つたのだ。彼が自Rれば、それと同時に、あのいぎたない
藷たちの世界も滅びるだらうと思つてゐたのはまちがひだつた。彼が意識を失つて病院へ
運ばれ、やがて意識を取り戻してまはりを見廻したとき、藷たちの世界は依然いきいきとして
彼を取巻いてゐた。……あいつらが不治ならば、こつちが治つてやるほかはない。
三島由紀夫「葡萄パン」より

511 :
雅子の涙の豊富なことは、本当に愕くのほかはない。どの瞬間も、同じ水圧、同じ水量を
割ることがないのである。明男は疲れて、目を落して、椅子に立てかけた自分の雨傘の末を見た。
古風なタイルのモザイクの床に、傘の末から黒つぽい雨水が小さな水溜りを作つてゐた。
明男はそれも、雅子の涙のやうな気がした。
彼は突然、勘定書をつかんで立上つた。

一見、大噴柱は、水の作り成した彫塑のやうに、きちんと身じまひを正して、静止して
ゐるかのやうである。しかし目を凝らすと、その柱のなかに、たえず下方から上方へ
馳せ昇つてゆく透明な運動の霊が見える。それは一つの棒状の空間を、下から上へ凄い速度で
順々に充たしてゆき、一瞬毎に、今欠けたものを補つて、たえず同じ充実を保つてゐる。
それは結局天の高みで挫折することがわかつてゐるのだが、こんなにたえまのない挫折を
支へてゐる力の持続は、すばらしい。
三島由紀夫「雨のなかの噴水」より

512 :
↑  また 始まったがな。

513 :
人間が或る限度以上に物事を究めようとするときに、つひにはその人間と対象とのあひだに
一種の相互転換が起り、人間は異形に化するのかもしれない。

時代がどうあらうと、社会がどうあらうと、美しい景色を見て美しい歌を作れ、といふ考へを
支へるには、女なら門院のやうな富と権勢、男なら梃でも動かない強い思想、といふものが
必要なのではないだらうか。

人間の醜い慾の争ひをこえてまで顕現する美は、あるひは勝利者の側にはあらはれず、
敗北者や滅びゆく者の側にだけこつそりと姿を現はすのかもしれない。

誰の身の上にも、その人間にふさはしい事件しか起らない。
三島由紀夫「三熊野詣」より

大体無教育な人間にむかつても、相手に準じて程度を下げた会話をしないといふ私の流儀は、
人から厭味に思はれたことも屡々だが、私は私で自分の流儀の正しさを信じてゐる。
それは却つて相手の胸襟を容易に披かせ、その中に思ひがけない共通の知識を発見させて
喜ばせることもできるのだ。
三島由紀夫「月澹荘綺譚」より

514 :
小説を書いて世に売るといふのは、いかにも異様な、危険な職業だといふことを、私は時折
感ぜずにはゐられない。私は言葉を通じて、何を人の心へ放射してゐるのであらうか? 
芸術家にはたしかに、酒を売る人に似たところがある。彼の作品には酒精分が必要であり、
酒精分を含まぬ飲料を売ることは、彼の職業を自ら冒涜するやうなものである。つまり
酩酊を売るのである。正常な人間は、それが酒であることを知つて買ひ、一夜の酔をたのしみ、
酔が醒めれば我に返る。しかし、かういふことがありうる。酒と知らずに、有益な飲料だと
思つて買つて、その結果、馴れない酒のために悪酔をするといふこと。あるひは、はじめから、
正常でない人間がこれを買つて、一定の酒精分からは思ひもかけないほどの怖ろしい結果を
惹き起すこと。……

小説を読むことは孤独な作業であり、小説を書くことも孤独な作業である。活字を介して、
われわれの孤独が、見も知らぬ他人の孤独の中へしみ入つてゆく。
三島由紀夫「荒野より」より

515 :
あいつが机の抽斗(ひきだし)をあければ、そこからも孤独がすぐ顔をのぞかせた。そして
孤独と共に、そこにはいつも私がゐたのだ。
――一体、あいつはどこから来たのだらう。警官はもちろん私にあいつの住所などを
告げなかつた。
しかし、だんだんに私には、あいつがどこから来たのか、その方角がわかるやうな気が
しはじめた。あいつは私の心から来たのである。私の観念の世界から来たのである。
あいつが私の影であり、私の谺(こだま)であるのは確かなことだが、私の心はといへば、
あいつの考へるほど一色ではなかつた。小説家の心は広大で、飛行場もあれば、中央停車場も
ある。中央駅を囲んで道路は四通八達し、ビル街もあれば、商店街もある。並木路もあれば、
住宅地域もある。郊外電車もあれば、団地もある。野球場もあれば、劇場もある。そして
その片隅のどんな細径も私は諳んじてをり、私の心の地図はつねづね丹念に折り畳まれて
しまつてゐる。
三島由紀夫「荒野」より

516 :
しかしその地図は、私がふだん閑却してゐる広大な地域について、何ら誌すところがない。
私はその地域を閑却し、そこへ目を向けないやうにして暮してゐるが、その所在は否定できない。
それは私の心の都会を取り囲んでゐる広大な荒野である。私の心の一部にはちがひないが、
地図には誌されぬ未開拓の荒れ果てた地方である。そこは見渡すかぎり荒涼としてをり、
繁る樹木もなければ生ひ立つ草花もない。ところどころに露出した岩の上を風が吹きすぎ、
砂でかすかに岩のおもてをまぶして、又運び去る。私はその荒野の所在を知りながら、
つひぞ足を向けずにゐるが、いつかそこを訪れたことがあり、又いつか再び、訪れなければ
ならぬことを知つてゐる。
明らかに、あいつはその荒野から来たのである。……
その意味は解せぬが、あいつは私に、本当のことを話せ、と言つた。そこで私は、
本当のことを話した。
三島由紀夫「荒野より」より

517 :
蘭陵王は必ずしも自分の優にやさしい顔立ちを恥ぢてはゐなかつたにちがひない。むしろ
自らひそかにそれを矜つてゐたかもしれない。しかし戦ひが、是非なく獰猛な仮面を
着けることを強ひたのである。
しかし又、蘭陵王はそれを少しも悲しまなかつたかもしれない。或ひは心ひそかに喜びとして
ゐたかもしれない。なぜなら敵の畏怖は、仮面と武勇にかかはり、それだけ彼のやさしい
美しい顔は、傷一つ負はずに永遠に護られることになつたからである。

私は、横笛の音楽が、何一つ発展せずに流れるのを知つた。何ら発展しないこと、これが重要だ。
音楽が真に生の持続に忠実であるならば、(笛がこれほど人間の息に忠実であるやうに!)、
決して発展しないといふこと以上に純粋なことがあるだらうか。

何時間もつづけて横笛を練習すると、吐く息ばかりになるためであらうか、幽霊を見るさうだ。
三島由紀夫「蘭陵王」より

518 :
儂がまだまだずつと若い頃のことぢや。勿論、こんなに腰も曲つて居らんでな。白いひげなんか、
一つもなかつた時分ぢや。いつ頃のことか忘れて了うたが、その晩は全く妙な夜ぢやつた。
月はうまさうな朧月ぢやつたとおぼえとる。星が沢山々々儂の家の屋根にあつまつての、
まるで話しでもしとるやうぢや。
儂はひよんな事ぢやと思うたから、下駄をつつかけて庭へ出て、一生懸命星を見とつたが、
どうも不思議でならん。それでな、上を見て、ぼんやりしとつた所が、おやおや何と
気味の悪いことぢや、足下の叢から人の声が聞えてござらつしやる。
じーつと見て居つたらの。竜胆(りんだう)の葉のかげで、小人どもが踊つてゐるのぢや。
真中に、角力の土俵のやうなものが有つて、一人が踊ると、踊らん小人らは恰好をなほしたり、
注意したりして、まあ、やかましいのなんのつてお話にならんのぢやが、その中の一人が
こんなことを言ひよつたのぢや。
『今晩“萩ヶ丘”でやる舞踏会はな、十二時きつかり始まるで、それまでによう練習
しとかんといかん』
平岡公威(三島由紀夫)10歳「緑色の夜」より

519 :
なんというたらいゝぢやらうか。
その綺麗なことこと。錦の布の金糸、銀糸をほどいて、それを細う切り、ぱアーつと
散らばしたやうぢや。
気の早い連中がこんなにも多いと見えて、未だ一時間あるのにもう踊りのけいこをしとる。
大分長い間たつた。十二時十分前頃にな。ほれ、珍客どもが揃つてござつたわ。
湖底の洞にすむ竜の背中で暮してゐる小人は、竜のキラキラする鱗をつづつて作つた
甲冑のやうな洋服を着て来居つた。
橄欖(かんらん)の木に居る妖精は、葉の面を剥いで仕立てた、つやのある、天鵞絨
(ビロード)のやうなのを、大きな樹の叉に住まつて山蚕を飼つとる小人は、そのまゆで
こしらへた良い肌ざはりの絹の衣裳を着て来るのぢや。
水晶の沢山ある山に住んどる奴は赤い木の実をつぶして染めた紅衣裳に、水晶の粉を
ちりばめて来たが、まあ、その美しかつたことと云つたら。口では話せんわい。
平岡公威(三島由紀夫)10歳「緑色の夜」より

520 :
自然に対する病的な、憧憬や、執着が子供にもある。否、それは、大人より強烈な場合がある。

彼は充分に笑つてから、まだお腹の隅で、くつくつと笑つてゐるのを押へて、ポケットから
白いボールを出し、空高く投げた。
青空だ。
青空が、ボールについて、上つて行く、そして恐ろしい勢で落ちてくる。彼はそのボールを
受けると、青空を我がものにしたやうに喜んだ。それから、彼は、思ひ切り切り空気を吸つた。
秋彦は、室内や町の中でこんな空気を吸つたことはなかつた。否吸つたと云ふより、
食べたのだ。不思議な味をし、香りをした空気を、青空を、それから、雲を、彼は口の中に
押し込んだ。その味や香りが、どこから湧き出て来るのかわからなかつた。併し彼は、
今その源がわかつたやうな気がする。再び、喜びが湧いて来た。空気の味と香りの源を
確かめたのは、最も大きな喜びであるに違ひない。
それから、秋彦は、大地の躍動を知つた。大地は心臓の鼓動の様に踊り始め、秋彦の足も
自然にそれに伴つた。森羅万象は音楽を奏し始めた。
平岡公威(三島由紀夫)13歳「酸模(すかんぽう)―秋彦の幼き思ひ出」より

521 :
――僧よお汝(まへ)は今まで他人をまねて悟りを開かうとした。併しそんないやしい考へで
得られよう筈がない。私はそこで痩せこけた老人に身を変へてお汝を悟りのいとぐちへ
導いたのだ。行きなさい、明日の朝、お前は悟りを得ることだらう――朝開が稲妻のやうに
迫つて来た。太陽は光を得五条の光が閃いた。
――そして坊主は悟りを得た。
それから坊主いや聖人のもとへ一人の小さな男の子がどこからともなく入つて来た。
坊主はそれを極端に可愛がつた。
翌々年聖人はねはんに入つた。聖人は男の子に苦しい息の下から遺言した。――庵の縁の下に
大きな函がある。それをあけなさい。私のお汝への遺産ぢや。お汝の子孫はその遺産を以て
栄え栄えるであらう――
男の子は泣き乍ら、函をあけて見た。中に大きな石があつた。石の上に墨黒々と信念の二字が
かいてあるのみだつた。男の子はいぶかしく思つて石の下をさぐつて見たが何もなかつた。
只石の下面に字があつた――この石にかじりつきて働き働くべし、怠ることなかれ――
平岡公威(三島由紀夫)13歳「座禅物語」より

522 :
祖母は神経痛のために風にあたるのを嫌つたので、障子は悉く閉め切られ、光は殆ど
得られなかつた。
わたしは祖父のところへ行き、書籍をよみをはつたのをうかゞつて「おぢいさまはこんなに
暖かいのに何故こたつなんかに這入つていらつしやるの」と言ふと、祖父は小さく笑ひ乍ら
私を見た。わたしは炬燵蒲団の上に細々と砕けてこぼれてゐる正午に近い陽光を指さした。
祖父とわたしとでゆつくりと庭へ下りる前にわたしは、祖母の居間の障子をそうおつと
明け放つた。風は草の葉を揺がす程もなく、祖母は徐ろに庭先を眺めた。そこには新緑が
春光に反射されて、さふあいやのやうな光を放ち、庭木は逞ましい腕をさしのべて蒼穹に
向つて伸び行きつゝあつた。その木の間に真赤なひらひらするものが、こまかい枝々を
とほして見えた。祖母が何ときいたので、山椿ですよ、と答へた。まあ、山椿! もう
山椿が咲き出す時分になつたかねえ。
平岡公威(三島由紀夫)13歳「春光」より

523 :
わたしはその下に行つて、手頃な小枝を二三本手折つた。びろうどのやうな不透明な柔かさが
しつとりと指先に吸ひついた。――祖母は女中に一輪差を持つてこさして自分がさし、
顔をそうーつと花のそばへ持つて行つた。葩一枚一枚には、春光がすつかりしみ込んでゐた。
祖母の面(おもて)は、眼(まなこ)は俄かに若々しくなり再び一輪差の中からそれを
とり出していつまでももてあそんだ。
祖父は涼亭(ちん)へ行つて了つたので、わたし一人芝生の上にとりのこされた。芝の匂ひは
むせるやうに激しくて、一匹の蟻がよたよたと嬰子のやうな恰好して歩いて来た。怪我を
してゐるらしかつた。わたしは急にいとほしくなり、そうおつと掌にのせてやつて
蠢(うご)めいてゐる小さな生物の生命のよろこびをたのしんだ。
祖父は涼亭の石段をことことと下りて来た。
平岡公威(三島由紀夫)13歳「春光」より

524 :
女は愛するだけが最大の幸福だ――何といふ腹だゝしい定理であらう。

いかさま恋といふものは自分の想像も及ばないやうな深いところに現はれて来るものなのである。
真実の恋とは自分では気付かないものなのだ。恋の最初の身振はいささかの無理を伴つて来る。
人々は強ひて、自分の狂ほしい気持をその深い井戸のなかへもつて行かうとする。

恋は保護色であらゆる色のなかにしみいつてゐるものなのだ。すべての女たちのやうに
恋人に対してわれ知らず自分の印象をよく見せようにしてゐる天性が彼女のなかに果して
少しもなかつたか。恋といふものは決して裸かでは為されないものである。身につけあつてゐる
さまざまな鎧がいつか鎧ではなくなつて、それが攻撃の道具となり手引となり、身体の
一部と相手に思はせるやうになるものなのだ。
平岡公威(三島由紀夫)14歳「心のかゞやき」より

525 :
恋のはじめといふものは鞦韆(ぶらんこ)の下の花のやうなものである。自分で鞦韆を
うごかしておきながら、花をつむことの難しさに、わざと大きくゆらして花をとりたい気持を
自分自身に隠さうと見栄を張るのだ。

愛情の爆発でない嫉妬といつたら、形式的な虚栄(みえ)の混つたものではないだらうか。
わづかにのこつた薄い愛情からも嫉妬は炎え出すものであるが、愛情が薄ければうすいほど、
その形式的な気持や虚栄が濃くなつてくるものとはいへないだらうか。世の人の、
「最も激しい嫉妬」といふものこそ純粋な嫉妬の姿なのである。

恋敵への嫉妬は帰するところ、盗人への怒りである。恋人への嫉妬はそんな単純なものではない。
寛容と憤怒、失望と敗者の自己嫌悪、その他のあらゆるものが激し合ひ融け合ひ、彼あるひは
彼女の上に注ぎかゝる。
平岡公威(三島由紀夫)14歳「心のかゞやき」より

526 :
皆さんは月に一つぺん位、大きな入道雲を御覧になるでせう。入道雲はおどけた人のやうな顔を
してゐます。あれは、淋しく弟と暮らしてゐるお母さんを笑はせてなぐさめるために、
月に一度来るときには必らずお面をかぶつて来る男の子の姿なのです。
一度あのお面をとつて見たいものですね。
平岡公威(三島由紀夫)10〜11歳(推定)「大空のお婆さん」より

悲しみといふものを喜劇によそほはうとするのは人間の特権だ。
平岡公威(三島由紀夫)15歳「彩絵硝子」より

死のもたらす不在はそのすみずみまでが、あらけない不吉な確信にみたされてゐる。それは
はげしい風のやうにすべてをそのなかに見失はせてしまふ。だがそこからは再びなにものも
生れてはこないのであらうか。それらのおもひでを耕す鍬を人はもう失くしてしまつたので
あらうか。
平岡公威(三島由紀夫)17歳「青垣山の物語」より

ほんのつまらぬ動機からも、子供にありがちな移り気と飽きつぽさは、なにかおおきな意味を
みつけたがるものでございます。
平岡公威(三島由紀夫)17歳「祈りの日記」より

527 :
焼けた河原から河原へ大きな橋がかゝつてゐて、その下を清い多摩川の流れが、昨日の雨に水量を増して大速力で
走つて居ました。
私も河の中を海へ海へと走つてゐました。ところが“流れ”は私達“水”を海へ運んで行きはしませんでした。
陽はかんかんと照りつけて、私達の冷たい体も、ぽかぽかとあたゝかくなりました。両側の河岸では、麦藁帽子を
被つた人々が、呑気さうに、けれども如何にも暑さうに釣をして居ました。白いペンキで塗つた新らしいボートが
するすると水面をすべつて行くのも気持のよいものでしたが、古い昔からの渡船がのんびりと、ろを動かし動かし、
眠さうに走つて行くのも何となくいゝ気持になりました。
やがて、私達はごうごうといふ音を立てゝ、何やら暗い所へ入つて了ひました。
これは、かねがね噂に聞いた“海”といふものではなささうでした。第一、しほつからくもありませんし、
《常に頭の上にある》と云ふ太陽さへ、今はどこにも見出だせません。
平岡公威(三島由紀夫)10〜11歳「“水”の身の上話」より

528 :
体が何度か上へ押し上げられ、激しく落とされました。随分長い時間でしたが、やつと日の目を見ることが出来ました。
そこは、浄水池といふところでした。けれども、暫くの間でまた暗い暗い道に入らねばなりませんでした。
道は私達の前居た多摩川とは比べものにならない程窄(せま)くて、ひどく曲りくねつてゐるものですから、
体のもまれやうが大変でした。
やがて妙な音がして私達の体がぐぐつと押し上げられました。
そして、せまい器の中へ納まりました。
さて私達が浄水池へ行つて体を見た時にはあんなにすきとほつて美しかつたのが、今、水道の口金から出て、
器へ入つた拍子に、真白で、すきとほらなくなつて了ひました。
それは、お米をといでゐる女中さんが、お釜の中へ私達を入れたのでした。その為、ぬかにそまつてこんなに
なつて了つたのです。
私は絶えず掻きまはしてゐる女中さんの手の間から、台所の中を見まはしました。向側に瓦斯があつて、薬鑵が
のつかり、白い湯気を一杯出してゐました。私が湯気と云ふものを見たのは、これが始めてでした。
平岡公威(三島由紀夫)10〜11歳「“水”の身の上話」より

529 :
面白くなつて一生懸命覗いてゐますと、すぐ私達を、じやあつと捨てゝ了ひました。
捨てられた私達(水)は、白い体のまゝいやな臭ひのする下水へと急がねばなりませんでした。下水には、
黒い大きな泥溝鼠が、我物顔に走つてゐました。
泥溝鼠は新入の私達を迎へて、私達の流れる速さと同じにかけながら、白い私に話しかけました。
「君は多摩川で、鼠の死んだのを見かけなかつたかね」
私は多摩川をそんな汚ない所に思はれるのがいやでしたので、返事をしないで居ましたが、彼は更に云ひました。
「実は僕の弟が、三人とも居なくなつて了つたのでね」私達はそれを聞いて、少し可哀さうになつたとは云ふものゝ、
この下水と多摩川とがつながつてゐるやうに考へてゐる泥溝鼠を可笑しくもなりましたので「そのうちに、
さがし出して上げませう」と云つて別れました。
やがて下水は、大きな深い穴で終りました。そしてまた、暗い鉄管の中を通つて行きました。
平岡公威(三島由紀夫)10〜11歳「“水”の身の上話」より

530 :
闇の中にぽつんと明るい点が見えたと思つたのは、嬉しいこと、河へ注いでゐる出口でした。私達の流れは急に
早くなりました。そしてボシャンといふ音を立てゝ川に落ちこみました。
川は広かつた。そして水はきれいでした。ゆるやかにゆるやかに私達は動き、そして、ふつと自分の体を見たら、
多くの水が混り合つて、すつかり元のやうに美しく透通つてゐたではありませんか。
それからの毎日毎日は楽しい時がつゞきました。
ある時はかはいゝ鵞鳥の子が大勢で泳ぎました。
又、小さな子供が笹舟を、そのやはらかい紅葉(もみぢ)のやうな手で作つて、そつと水に浮ばせたときも
ありました。私はさゝぶねを乗せて、ごくゆつくりと歩いてあげました。
小さな子供は、赤いほゝをしてゐて、それはそれは可愛く、さゝぶねが流れるのを追つて面白さうにかけました。
平岡公威(三島由紀夫)10〜11歳「“水”の身の上話」より

531 :
それは春のことでした。いつの間にか河底で生れた鮎の子は、元気にかろやかに泳ぎました。河辺には荻が茂つて、
私達はするすると、荻の間を進みました。
やがて朝の霧がうすくうすくわからないやうにはつてゐる向うに、土も、それから樹も、丘も山も何も見えないのに
気付いたのです。
そして、なんとなくしほつからくなつて来たやうに思へます。
海へ出たのでした。私は、あんなに多摩川からすぐ海へ行つた友達をうらやましがりましたが、海へ出るのに
こんな方法もあつたのでした。
春の日は、水面、もう海面である私達の頭に、金色のこてをあてました。こてにかゝつた髪のうねりは次第に
高まつて、始めて知つた波となつて、白砂の浜にうちつけました。
私は、気持よく、ゆりかごにのつたやうに、波打つてゐたのです。
平岡公威(三島由紀夫)10〜11歳「“水”の身の上話」より

532 :
↑  もういいよ。

533 :
外で威張つてゐる女ほど、どこかに肉体的劣等感を持つてゐる。

外人の男たちの、鶏みたいな、半透明な血の色の透けてみえる、ひどく老化の早い、
汚ならしい肌が、妙子はきらひであつた。背も高く、体力もあり、鼻も高く、横顔も
立派なのに、西洋人の男から受ける妙子の感じは、へんに無力な、生命力の稀薄な感じであつた。
だから妙子は、西洋人の誘惑には決して乗らなかつた。

『動物的といふ見地から言つたら』と妙子は、美男と云へなくもないその男の顔をつらつら
眺めながら考へてゐた。『こんな西洋人より、日本の若い男のはうが、ずつと動物的な
美しさを持つてゐる。つまり動物的なしなやかさと、弾力と、無表情な美しさとを』

男にしろ女にしろ「愛される」といふことは、よほど「愛する」といふこととちがふのだ。

愛される人間の自己冒涜の激烈なよろこびは、どこまで行くかはかり知れない。愛する人間は、
どんな地獄の底までもそれを追つかけて行かなければならないのだ。
三島由紀夫「肉体の学校」より

534 :
本当の男なら、本当の男の塊りなら、立たうが坐らうが、上にならうが下にならうが、
逆立ちしようが引つくりかへらうが、男自体の輝やきにおいて、ますます男らしくなるだけ
ではないか。
たとへばつまらない機能上の男らしさにこだはつてゐる男のうち、性的魅力のこれつぽちもない
哀れな情ない男が、心の中では彼を少しも愛してゐない女の上に立つて、どんな男性的行動に
いそしまうが、それが一体何だらうか。
男にしろ、女にしろ、肉体上の男らしさ女らしさとは、肉体そのものの性のかがやき、
存在全体のかがやきから生れる筈のものである。それは部分的な機能上の、見栄坊な
男らしさとは何の関係もない。そこにゐるだけで、そこにただ存在してゐるだけで、
男の塊りであるやうな男は、どんなことをしたつて、男なのである。
三島由紀夫「肉体の学校」より

535 :
『仏教といふのは妙なもんだ』と岡野は考へてゐた。『慈眼で見張れば、湖上の船も難から
救はれるといふ考へなんだ。こんな死んだ金いろの目で』
見るといふことは岡野にとつて、本来、残酷さの一部だつたが、
「遠くひろがる湖面には、
帆影に起る喜悦の波。
払暁の町はかなたに
今花ひらき明るみかける」
などといふ彼の好きなヘルダアリンの詩句も、この千体仏の暗い金の重圧、慈悲による、
見ることによる湖の支配の前に置かれては、たちまち力を喪ふやうに思はれた。

ハイデッガーのいはゆる「実存(エクジステンツ)」の本質は時間性にあり、それは本来
「脱自的」であつて、実存は時間性の「脱自(エクスターゼ)」の中にある、と説かれてゐるが、
エクスターゼは本来、ギリシア語のエクスタテイコン(自己から外へ出てゐる)に発し、
この概念こそ、実存の概念と見合ふものである。つまり実存は、自己から外へ漂ひ出して、
世界へひらかれて現実化され、そこの根源的時間性と一体化するのである。

536 :
全然愛してゐないといふことが、情熱の純粋さの保証になる場合があるのだ。

善意や慈善は、必ず人の心に届くのだ。あるときは日光のやうにまつすぐに、あるときは
蜜蜂に運ばれる花粉のやうに、さまざまの迂路をゑがいて。

ヨーロッパの個人主義は悲惨を極め、パリの街頭を、助ける人もなく、よろめき歩く老人の
数の夥しさは彼を怒らせた。『嫁はんは一体何をしとるんや』黒衣の老婆が片手に杖をつき、
片手は建物の壁に縋(すが)つて、口のなかで何事か呟きながら、一歩一歩、定かならぬ歩を
運ぶ有様は、彼には人間世界の終焉と感じられ、その呟く言葉はきつと経文にちがひないと
思はれた。

若さが幸福を求めるなどといふのは衰退である。若さはすべてを補ふから、どんな不自由も
労苦も忍ぶことができ、かりにも若さがおのれの安楽を求めるときは、若さ自体の価値を
ないがしろにしてゐるのである。そして若くして年齢のこの逆説を知ることが、人間に必須な
教養といふものだつた。
三島由紀夫「絹と明察」より

537 :
その理法を司る駒沢の立場は、時には日照りが望まれてゐるときに雨を降らせ、雨が
乞はれてゐるときは日照りをつづけたりせねばならず、目先だけでは理解されやうもないが、
いつも遠い調和へ目を放つて、そのときの理解をたのしみに暮すほかはなかつた。
サークル活動は風紀を紊(みだ)し、文化的なたのしみは青年を腑抜けにし、その害毒は
いづれも年配になればわかることだが、彼は自由の意味もわからぬ年ごろに自由を与へたり
することが、自然に反する行ひだと知つてゐた。

彼は無知を弾劾し、忘恩をののしり、この世に正義が行はれなくなつたことを大声で
慨(なげ)いた。いやらしい黴菌が若い者の心に巣喰ひ、美しい情誼を足蹴にかけさせ、
腐敗と怠惰が世界中にはびこり、謙虚が色褪せ、女の股倉が真黒になり、懐疑と反抗が
男の叡智を曇らせ、喰つたものはみんな洟汁と精液になり、勤勉は嘲られ、誠意はそしられ、
嘘の屁と欺瞞のげつぷをところかまはずひり出し、ために健全な母親の乳房も爛れてしまふ。
さういふペストが、つひに駒沢紡績をも犯したのだ。
三島由紀夫「絹と明察」より

538 :
あんたらは、はいはいと女子(おなご)の言ふなりになつたわけか。わしはやるべきものと
やらいでええものとを弁へてをつたが、あんたらにはその弁へがつかんのや。自由やと? 
平和やと? そないなこと皆女子の考へや。女子の嚔(くさめ)と一緒や。男まで嚔をして、
風邪を引かんかつてええのや。

駒沢の考へる家族とは、愛などを要せずに、そこに既に在るものだつた。はじめから
一続きの紙に、どうして愛などといふ糊が要るだらうか。

男が自由や平等や平和について語るのは、自らを卑しめるもので、すべて女の原理の借用に
すぎぬといふこと。少しでも自尊心のある男なら、自由や平等や平和の反対物、すなはち
服従や権威や戦ひについて語るべきだといふこと。男があんなことを言ひ出したとたんに、
女にしてやられ、女の代弁者として利用されるやうになるといふこと。……
三島由紀夫「絹と明察」より

539 :
かれらも亦、かれらなりの報いを受けてゐる。今かれらは、克ち得た幸福に雀躍(こをどり)して
ゐるけれど、やがてそれが贋ものの宝石であることに気づく時が来るのだ。折角自分の力で
考へるなどといふ怖ろしい負荷を駒沢が代りに負つてやつてゐたのに、今度はかれらが肩に
荷はねばならないのだ。大きな美しい家族から離れ離れになり、孤独と猜疑の苦しみの裡に
生きてゆかなければならない。幸福とはあたかも顔のやうに、人の目からしか正確に
見えないものなのに、そしてそれを保証するために駒沢がゐたのに、かれらはもう自分で
幸福を味はうとして狂気になつた。さうして自分で見るために、ぶつかるのは鏡だけだ。
血の気のない、心のない、冷たい鏡だけ、際限もない鏡、鏡……それだけだ。
『それもええやらう。苦労するだけ苦労したらええ。その先に又、おのづから道がひらけて
来るのや』
そして存分に、悲しさうに吠えるがよい! 人間どもは昔からさうして吠えてきたし、
今後もそのやうに吠えつづけるだらう。だから駒沢は、自分をも含めて、かれらをみな恕す。
三島由紀夫「絹と明察」より

540 :
彼は米国で見た北斎を思ひ浮べたが、北斎は風景ばかりか人間まで怖ろしいほどよく知つてゐた。
それを存分に描いて後世に伝へ、外国人にまで愛された。何といふ相違だらう。駒沢はそれを
知つてゐるといふことを、北斎同様、公然と示したのであるが、一人は栄光にかがやき、
一人はそのために悲境に陥つた。駒沢は画家ではなかつたのだから、その秘密を公言すべきでは
なかつたのだ。北斎にしろ広重にしろ、あんなに逆巻く波や噴火する山や横なぐりの雨を描き、
そこに小さく点綴される人間の貧しい重い労働を描き、それをすべて世にも幸福な色彩で
彩つたのだが、駒沢のやつたことも同じで、
『結局お前らはみんな幸福なんや』
と言ひつづけて来たのだつた。色彩は罰せられず、言葉は罰せられるのは何故だらう。
だが今、彼を嘘つきと言ひ、不正直と言ひ、狂人と言ひ、悪徳資本家と言ひ、企業を
私物化した時代おくれの石頭と言つた、すべての人を彼は恕す。
三島由紀夫「絹と明察」より

541 :
かれらの憎悪と、それに触発された駒沢の憎悪が、今はからずも、一会社の枠をこえて、
『四海みな我子やさかいに……』
といふ心境に彼を辿りつかせた。それこそは正に、彼が彦根の署長室から立ち去つてゆく
大槻の白いシャツの背に見出したものだつた。
やがてかれらも、自分で考へ自分で行動することに疲れて、いつの日か駒沢の樹てた美しい
大きな家族のもとへ帰つて来るにちがひない。そここそは故郷であり、そこで死ぬことが
人間の幸福だと気づくだらう。再び人間全部の家長が必要になるだらう。……

駒沢の伝染(うつ)す死は、必ずしも肉体的な死ばかりではあるまい。岡野の心のほんの
一小部分でもそれに犯されたら、彼の得る利得はただ永久に退屈な利得につらなり、
彼の思想はただ永久に暗い深所の呟きにをはつて、二度とその二つが輝やかしく手を握ることは
ないだらう。……
へんな、いつはりのよみがへりの時代がはじまつてゐた。
三島由紀夫「絹と明察」より

542 :
「やあ子」が泊りに来るときはその八畳の中央に床をならべた。康子の「す」の音がうすつぺらな感じを与へるので、
「やあ子」といふ彼女の撫肩そつくりな発音の愛称を、私は好いた。風呂から上るとこの小さな女の子は、洋服を
きちんと畳んで枕許におくので、おまんはそれを模範として私にも所謂「いゝ癖」をつけさせようとした。
癪にさはつて私がいふのである。
「お床にいれる方があつたかくなるからボクがいれてあげよう、やあちやん」
気のいゝ彼女はこの親切にさからへない。翌朝、私の床のなかに筋目も何もなくなつたしわくちやな洋服を
見出だして、おまんは憤慨し、やあ子は泣き出すのだつた。
大人つぽく肱で頬つぺたを支へながら、やあ子は心臓を下にし、私は左肩を上にして向ひあひ、お互に床ふかく
埋つて千代紙みたいな会話を交はした。それは千代紙のやうに稚拙な色をもち、金粉をかけ、皺がより、断片的な、
子供特有のあの会話の型式なのだ。私は「天井の木目」がこはくなくてすむところから、かうした夜々を好きに思つた。
平岡公威(三島由紀夫)15歳「幼年時」より

543 :
ひどく心配さうな目附で彼女が云ふのである。「沙漠のね」
「沙漠の?」
「なんだつたかしら」
「え?……」
「ラクダにのつかつて」
「隊商!」
「隊商がね、ラクダでザックザックつてくるでせう。その音がとほくからきこえるの」
「ほんたう?」
「やめようとおもつてもきこえるの。上をむくときこえないけれど枕を耳にあてると
きこえてよ。近くなつてくるわよ、だんだん」
「きこえない」
「あらへんね。やあ子とおんなじ方むいたら?」
「きこえない」
「へんね、やあ子ずつときこえてゝよ。また近くなつた……こはあーい」
さう云ふなり彼女は耳をおさへて私の床へはひつてきた。私は強がらないわけにはいかなくなり、
「大丈夫」とおまんの口真似をするのだつた。
その幻聴はやあ子の貧血の前駆症状だつた。
平岡公威(三島由紀夫)15歳「幼年時」より

544 :
玩具をみるときの子供の目つきは、ちやうど美しくめづらしい石をみつけたときの原始人の
目付に似てゐる。子供が大人からその玩具の使用法をおそはつて暫く無意識に何度もねぢを
廻しては殆ど目的のぼやけた「興味」を傾けたのち、はじめて子供はその玩具の本当の
使用法を知るに到るのだ。玩具は玩具函のなかにあるものではない。玩具は子供のなかに
ゐるものなのだ。母親たちはわづか二、三日でその玩具の機械(からくり)をまはさなく
なつた子供に悲観してはならない。玩具がもつてゐる不変の機械作用は、ほんの外面のものに
過ぎないのだ。玩具を了解する瞬間に子供にとつてそれは有形のものではなくなり、
無形の抽象物……即ち消極的に生活の一部を支配し、ある重要なつとめを有(も)つものと変る。
かくして私のまはりの透明体の城壁の一部――それを見透かすときあらゆる生物が植物の
やうにみえ、あらゆる事物が不自然に拡大されてみえる城壁の一部として、その玩具が
あらたに加はつたのを、私はすぐさま感じた。
平岡公威(三島由紀夫)15歳「幼年時」より

545 :
召使たちの別棟は、塀近い御長屋風の二階建で、おまんは塀へむいた二階の二間を占有してゐた。
私の部屋の傍から、長い覆附の渡廊下が、その棟に続いてゐた。祭の日に行列の通る時刻を
予め問ひ合はせ、その半時ばかり前から、おまんが私を迎ひに来るのだつた。これといつて
刺戟のない日々に引き比べて、その前の晩、私はなかなかねつかれなかつた。ことにおまんが
自分の部屋を「仕度し」にいつてゐる小一時間、私はひとりでそこへ行つて了つては
つまらない気がするので、あのお年玉を待つときそつくりな気持でおまんの迎ひを
待ちこがれてゐた。倦怠と焦慮の様子は、両者とも時間をもてあましてゐる点で大へん
よく似てゐるものである。(中略)
おまんの袖に抱かれるやうにして、「御前様にみつかりなさると大変でございますよ」
いふおまんの声にせきたてられて、一気に駈けぬける廊下は長かつた。杜鵑花(さつき)の
植込の、非常に赤いのが目に残つた。
平岡公威(三島由紀夫)15歳「幼年時」より

546 :
几帳面で綺麗好きなおまんは、自分の部屋へ私が来るといふので、女の部屋特有な調度類は
皆片附けて、隅々まで掃除したうへ、道路に面した窓を一杯にあけはなしておいてくれた。
なかんづく懐かしかつたのは、その時用意してくれるウエファースだつた。ふだんの
「お茶」にはウエファースなぞあまりつかないのに、祭のたびにおまんが揃へておいて
くれるのは決つてウエファースだつた。それも子供じみた秘密な儀式の、たのしい
「しきたり」の一つになつた。
私は窓ぎはにちよこなんとすわつて、祭のさきぶれの、ひどくあけつぱなしな雑踏を
ながめながら、うすい九重(ここのへ)に頻りにウエファースをひたしては喰べてゐた。
さうしてゐる私は、また自分の背中いつぱいに注がれてゐる、いとしくてたまらないといふ
おまんの目附をあたゝかく感じて幸福に思つた。
疎らな竹藪と丈の高いひばの並木は街道のざわめきをよく見せた。裏二階はどこも開け放され、
物干は満員だつた。乾物のいろどりの間に、人の顔がいつぱい詰つてゐるのがゴシック模様の
やうだつた。
平岡公威(三島由紀夫)15歳「幼年時」より

547 :
当の娘の父親にとつては、この世に一般論などといふものはあるべきではなかつた。心の奥底で
娘を手離したくないと思つてゐる父親の気持から、オールド・ミスにならぬうちに誰かに
早く呉れてやりたいと思つてゐる父親の気持まで、無数のニュアンスの連鎖があつて、
どこからが一般論で、どこからがさうでないとは云へなかつた。又、見様によつては、
世の父親のすべての心には、右の両極端の二つの気持が、それぞれの程度の差こそあれ、
混在してゐる筈であつた。

怖ろしい巨犬には、正面から向つて行けばいいのである。

あまり完璧に見える幸福に対して、人は恐怖を抱かずにはいられないものなのであらうか?

僕はね、君を百パーセント幸福にして上げたいと思ふと、いろんなことを考へだして、
気むづかしくなつてしまふんだ。一種の完璧主義者なんだな。……人間の心といふ奴は、
とにかく、善意だけではどうにもならん。善意だけでは、……人生を煩はしくするばかりだと
わかつてゐてもね。
三島由紀夫「夜会服」より

548 :
人間は誰でも、(殊に男は)自然にこれこれの人物になるといふものではない。目標があり、
理想像があればこそ、それに近づかうとするのである。

幸福といふものは、そんなに独創的であつてはいけないものだ。幸福といふ感情はそもそも
排他的ではないのだから、みんなと同じ制服を着ていけないといふ道理はないし、同じ種類の
他人の幸福が、こちらの幸福を映す鏡にもなるのだ。

隔意を抱くといふことは淋しいことである。しかも、愛情のために隔意を抱くといふことは、
まるで愛するために他人行儀になるやうなもので、はじめから矛盾してゐる。

結婚とは、人生の虚偽を教へる学校なのであらうか。

現代では万能の人間なんか、金と余裕の演じるフィクションにすぎないんだ。

人間つて誰でも、自分の持つてゐるものは大切にしないのぢやないかしら。
…誰でも、手に入れたものは大したものだと思はなくなる傾きがあるのぢやないかしら。
三島由紀夫「夜会服」より

549 :
あなたは女がたつた一人でコーヒーを呑む時の味を知つてゐて?
今に知るやうになるわ。お茶でもない、紅茶でもない、イギリス人はあまり呑まないけれど、
やはりそれはコーヒーでなくてはいけないの。それはね、自分を助けてくれる人はもう
誰もゐない、何とか一人で生きて行かなければ、といふ味なのよ。
黒い、甘い、味はひ、何だかムウーッとする、それでゐて香ばしい味、しつこい、
諦めの悪い味。……それだわ、私が本当にコーヒーの味を知つたのは、俊男が結婚してから
はじめてだつたの。それまではコーヒーの味がわからなかつた。主人が亡くなつたあとでもね。
一人で生きなければ、とたえず背中から圧迫されたり激励されたりしてゐるやうな感じつて
わかつて? 誰かの手がいつも自分の背中を、はげますやうに叩いてゐる。あんまり
うるさいから、背中へ手をのばしてつかまへてやると、それが何と自分の手なんだわ。
三島由紀夫「夜会服」より

550 :
さびしさ、といふのはね、絢子さん、今日急にここへ顔を出すといふものではないのよ。
ずうーつと、前から用意されてゐる、きつと潜伏期の大そう長い、癌みたいな病気なんだわ。
そして一旦それが顔を出したら、もう手術ぐらゐでは片附かないの。
私、何で自分がさびしいのか、その理由を探さなくては気がちがひさうだつた。あなた方の
結婚が、はつきりその理由を与へてくれたやうに思ひ込んでしまつた。でも、私つてバカなのね。
さびしさの本当の深い根は自分の中にしかないことに気がつかなかつたの。
鳥のゐない鳥籠は、さびしいでせう。でも、それを鳥籠のせゐにするのはばかげてゐるわね。
鳥籠をゴミ箱へ捨ててもムダといふものね。鳥がゐないことには変りがないんですから。
三島由紀夫「夜会服」より

551 :
でも、何十年も先、あなたもきつと同じさびしさを味はふだらうと思ふと、少しは埋め合せが
つく気がする。それは女といふものの引きずつてゐる影みたいなものなんですよ。女は、
いつかそのさびしさに面と向かはなければならないの。男の人とちがつて、女は人のゐない
野原みたいなものを自分の中に持つてゐる。男は、その野原の上を歩いて、悲壮がつて、
孤独だ孤独だなんて言つてゐるにすぎない、と思ふのよ。
いつか、あなたも、私の言つたことを思ひ出すことがあると思ふわ。たとへば、障害を
跳び越えてほつとしたあと、うれしいと思ふ気持のあひだにも、ずつとさびしさが、
一本の道のやうに、向かうへずつとつづいてゐるのを見ることがあると思ふわ。
はじめ、それは幻みたいに見えるの。でもいづれその幻が現実になるのよ。
三島由紀夫「夜会服」より

552 :
「文は人なり」とは、まことに怖ろしい格言です。

五十歳にもなれば、人生は、性欲とお金だけで、「純粋な心の問題」は、それが満たされた
あとでなくては現はれるはずもないのです。

ところどころ、何のことかわからないことを入れるのが、ファン・レターの秘訣です。

本当に「おはやう」といふのにふさはしい唇を持つた若い女性は、人の目をさまさせますよ。

私は結婚しても、あの手紙だけはとつておきたいやうな気がするの。
「おはなはん」ぢやないけれど、三十年たち、四十年たつて、自分の若いころの魅力的な姿を
思ひ出すには、やつぱりどんなよく撮れた写真よりも、他人の言葉のはうがリアリティが
あるにちがひないから。

そもそも、助け合ひなどといふことは貧乏人のすることで、その結果生まれる裏切りや
背信行為も、金持ちの世界とはまるでちがひます。金持ちの裏切りは、助け合ひなどといふ
バカな動機からは決して起りません。
三島由紀夫「三島由紀夫レター教室」より

553 :
毅然としてゐる。青年らしい。ちつとも女々しいところがない。ちつともメソメソした
ところがない。――これが借金申し込みの大切な要素です。人は他人のジメジメした心持ちに
対してお金を上げるほど寛大ではありません。

女の子から、「ちよつとイカスわね」と言はれれば、うれしいにきまつてゐるが、男は
軽率に自分の男性的魅力を信じるわけにはいきません。
女の子といふものは、妙に、男の非男性的魅力に惹かれがちなものだからです。

女は自分のことばかりにかまけて、男をほめたたへる、といふ最高の技巧を忘れ、あるひは
怠けてゐる。

大ていの女は、年をとり、魅力を失へば失ふほど、相手への思ひやりや賛美を忘れ、しやにむに
自分を売りこまうとして失敗するのです。もうカスになつた自分をね。

あらゆる男は己惚れ屋である。
三島由紀夫「三島由紀夫レター教室」より

554 :
脅迫状は事務的で、冷たく、簡潔であればあるだけ凄味があります。
第一、感情で脅迫状を書くといふのはプロのやることではありません。卑劣に徹し、
下賤に徹し、冷血に徹し、人間からズリ落ちた人間のやる仕事ですから、こちらの血が
さわいでゐては、脅迫状など書けません。
便せんをすかしてみて、そこに少しでも人間の血の色がすいて見えるやうでは、脅迫状は
落第なのです。

この世に生命を生み出す女つて、何てふしぎなものでせう。世の中でいちばん平凡なことが、
いちばん奇跡的なのだ。

女の人は、肉体的なことしかわからないのではありませんか?

西洋人はすべて社交馴れしてゐますから、社交は、建て前が大切だといふ第一原則を守ります。
招待を断わるには、「のがれがたい先約があつて」といふ理由だけで十分で、その内容を
説明する必要はありません。たとひ、ひと月前、ふた月前の招待であつても、さういふ理由で
かまひません。
三島由紀夫「三島由紀夫レター教室」より

555 :
男が「結婚してくれ」と言ふときには、彼のはうに、彼女を迎へ入れるに足る精神的物質的
社会的準備が十分整つてゐるのが理想的です。

人生は一つの惰性なのかもしれません。

恋愛にとつて、最強で最後の武器は「若さ」だと昔から決まつてゐます。
ともすると、恋愛といふものは「若さ」と「バカさ」をあはせもつた年齢の特技で、
「若さ」も「バカさ」も失つた時に、恋愛の資格を失ふのかもしれませんわ。

人間はいくつになつても感傷を心の底に秘めてゐるものですが、感傷といふのは
Gパンみたいなもので、十代の子にしか似合はないから、年をとると、はく勇気がなくなる
だけのことです。

本当に死ななくても、愛しあふ恋人同士は毎晩心中してゐるのだと思ひます。

僕は演劇は民衆の心に訴へかけ、民衆の魂に火をつけるのでなくては意味がないと思ひます。
三島由紀夫「三島由紀夫レター教室」より

556 :
あらゆる投書狂、身の上相談狂は自分の告白し、あるひは主張してゐることについて、
内心は、本当の解決など求めてゐはしませんし、また何かの解決を暗示されても、それを
心から承服したりはしません。

この身の上相談の女性もさうですが、世間の人はだれでも、彼女のことに関心を持つて
くれるのが当たり前だ、といふ錯覚におちいつてゐます。
私たちには、何もそんな関心を持つ義務はないのだし、未知の人が死んでも生きても、
別に興味はないのですが、彼女は、自分に対する熱烈な興味は、他人も彼女に対して
同じやうに持つはずだと信じてゐる。

身の上相談の手紙は一見、内容がどれほど妥当でも、全部がこのまちがつた思ひ込みの上に
築かれたお城なのですから、もし彼女がこの基本的な思ひちがひに気がつけば、ほかの
あらゆる人生問題は片づくかもしれないのに、永遠にそこに気がつかないといふところに、
大悲劇があるのです。
つまり、見知らぬ他人に身の上相談なんかするといふ行動それ自体に、彼女の人生を
悩み多くする根本原因がひそんでゐるといへませう。
三島由紀夫「三島由紀夫のレター教室」より

557 :
ヒステリーの女は絶対に、自分のヒステリーは自分のせゐぢやないと信じてゐるわ。

子供を重荷と感じて、自分たちの自由と快楽をいつまでも追はうとするのは、末期資本主義的
享楽主義に毒された哀れな奴隷的感情だと思ふんだ。

だれでも、自分とまつたく同じ種類の人間を愛することはできませんものね。

罪もない相手を悲境に陥れるといふのは、一見、悪魔的ふるまひとも思へますが、もともと
恋に善悪はない。

自分の感情にそむいては、何ごとも成功するものではありません。
テレビでいちばん美しいのは、やつぱり色彩漫画で、宇宙物なんかの色のすばらしさは、
ディズニー・ランドそつくりですが、ディズニーはなんで死んだのでせう。

こんなことを言つてるとキチガヒみたいだけど、テレビばつかり見てると、どうしても
世界中のことがみんな関係があるやうな気がしてきます。テレビの前で食べてる甘栗は、
中共から輸入されたものだらうし、君の妊娠だつて、思はぬことで、何か世界情勢と
関係があるかもしれません。
三島由紀夫「三島由紀夫のレター教室」より

558 :
大体、頭のいい友だちを求める人たちは、よほど頭がわるい連中なんだわ。心を打ち明け合つて
安心なのは、それによつて相手が、はじめてバランスがとれたと感じるやうな友だちなのだわ。
といふのは、頭のよい友だちはふだんから頭で優越感を持つてゐるところへ、そんな告白を
きかされて、感情でも優越感を持つてしまふでせうに、頭のわるい友だちなら、ふだんの
知的な劣等感を感情の優越感で補はれたと思つて、うれしがるでせう。うれしがつて本当に
心からの親切を尽くすでせう。さういふ友だちが大切なのだわ。

恋は愉しいものではなくて、病気だわ。いやな、暗い発作のたびたびある、陰気な慢性の
病気だわ。恋が生きがひだなんていふ人がゐるけれど、とんでもないまちがひで、悪だくみの
はうが、ずつと生きがひを与へてくれます。恋が愉しいなんて言つてゐる人は、きつと
ひどく鈍感な人なのでせう。
三島由紀夫「三島由紀夫のレター教室」より

559 :
何かほしいときだけ甘つたれてくる猫たちの媚態は、あまりにも無邪気な打算がはつきり
してゐて、かはいらしい。
男は別に人格者の女を求めるわけではなく、人間のもろもろの悪徳が、小さな、かはいらしい
ガラス張りの箱の中に、ちんまりと納まつてゐるのを見るのが、安心であり、うれしくもあり、
かはいらしくもある。そこが男の愛の特徴です。

他人の幸福なんて、絶対にだれにもわかりつこないのです。

私は手紙の第一要件だけを言つておきたい。
それは、あて名をまちがひなく書くことです。これをまちがへたら、ていねいな言葉を
千万言並べても、帳消しになつてしまひます。
姓名を書きまちがへられるほど、神経にさはることはありません。
三島由紀夫「三島由紀夫のレター教室」より

560 :
手紙を書くときには、相手はまつたくこちらに関心がない、といふ前提で書きはじめ
なければいけません。これがいちばん大切なところです。
世の中を知る、といふことは、他人は決して他人に深い関心を持ちえない、もし持ち得ると
すれば自分の利害にからんだ時だけだ、といふニガいニガい哲学を、腹の底からよく
知ることです。

手紙の受け取り人が、受け取つた手紙を重要視する理由は、
一、大金
二、名誉
三、性欲
四、感情
以外には、一つもないと考へてよろしい。このうち、第三までははつきりしてゐるが、
第四は内容がひろい。感情といふからには喜怒哀楽すべて入つてゐる。ユーモアも入つてゐる。
打算でない手紙で、人の心を搏つものは、すべて四に入ります。

世の中の人間は、みんな自分勝手の目的へ向かつて邁進してをり、他人に関心を持つのは
よほど例外的だ、とわかつたときに、はじめてあなたの書く手紙にはいきいきとした力が
そなはり、人の心をゆすぶる手紙が書けるやうになるのです。
三島由紀夫「三島由紀夫のレター教室」より

561 :


↑  もういいよ。


562 :
女の部屋は一度ノックすべきである。しかし二度ノックすべきぢやない。さうするくらゐなら、
むしろノックせずに、いきなりドアをあけたはうが上策なのである。
女といふものは、いたはられるのは大好きなくせに、顔色を窺はれるのはきらふものだ。
いつでも、的確に、しかもムンズとばかりにいたはつてほしいのである。

日本の女が全部ぬかみそに手をつつこむことを拒否したら、日本ももうおしまひだ。

ウソの友情より、本当の憎悪のはうが美しい。
『男のはうが女よりずつと御体裁屋だわ』

女同士の喧嘩の場合は、打たれた女より、打つた女のはうが百倍も可哀想な女なのよ。

日本人のくせに髪を赤毛に染めてゐたりする女を見ると、唾を引つかけてやりたくなる。

当事者といふものは、物事の表面にごく見易くあらはれてゐる異常さに、なかなか気が
つかないものである。

思つてることが、しらない間に独り言になつて出るといふことほど、わびしい老いの兆はないな。
三島由紀夫「複雑な彼」より

563 :
ドライ・マルティニの好きな顔といふのがあるのである。油断ならぬ顔つきの人間にそれが多い。
テキサスあたりの大男で、人のいい顔をした人物が、オールド・ファッションドなんかを
呑むのと対蹠的だ。

父は色が多少浅黒いので、かういふ緑がよく似合ふのである。緑は顔いろをわるく見せるが、
もともとわるい人の顔色はよく見せる。

ちかごろの日本の青年は、情ない奴ばつかりだ。さう思はんかね。金がほしい。できれば
名もほしい。そのためには犬畜生に劣る振舞でも平気でやる。十代の少年を見ても、
非行少年には義理も人情もないし、よく勉強するいはゆる優秀な少年は、自分のことだけ
考へてゐる器の小さい連中ばかりだ。こんなことで、日本の将来を託すべき青少年は
どうなるのだ。

譲二は決してオー・デ・コローニュは使はなかつた。あれは不潔で体臭のつよい外国人が
使ふもので、日本人の清浄な体に使へば、男らしさを滅Rる効果しかないことを知つて
ゐたからである。

とても面白いと思つて見た映画は、二度見てはいけないんです。
三島由紀夫「複雑な彼」より

564 :
思ひ出といふのは、もう固まつた美術品みたいなものなんです。もう誰も手を加へることの
できない、完成品の美なんです。ミロのヴィーナスと、美しい思ひ出とは同格なんです。
それをみんな思ひちがへてゐるんですよ。ミロのヴィーナスに十年ぶりに会つたつて、
欠けた腕が、いつのまにか生えてゐるといふことはありえないでせう。ところが思ひ出に
十年ぶりで会ふと、心の中でいろんな風に修正してゐて、欠けてゐた腕も生えそろつてゐる
わけだから、現実の思ひ出の腕が欠けてゐるのを見て、『おや、片輪になつた』と錯覚を
起すんです。人間は必ずかういふ錯覚を起すやうにできてゐる。バカな話ぢやありませんか。
だから、僕が思ひ出に対して節度があるといふのは、第一に、その昔の人に対して会はない
やうにすることです。
それから、僕が思ひ出に対して誠実だといふのは、又会つて好きになつたら、全く
新らしい意味で好きになるので、思ひ出とは別個なものだと考へることです。つまりさう
なつたら、思ひ出のはうをさつさと殺してしまふんですよ。それがどんなに美しい思ひ出でも。
三島由紀夫「複雑な彼」より

565 :
心といふものは地図に似てゐる。
高低がある。山がある。川がある。等高線がある。
山の高みに達すると、のびやかな平野の眺めがひらけ、今までの苦しい登り道を忘れさせる
やうな、愉しい下り坂がはじまる。
そこに又、湖がある。池がある。川がある。あるひは谷間がある。

男と女ははじめから引合ふやうに出来てるんだが、縁といふものはこれは別だよ。
縁は引力よりも偉大かもしれん。これは、もう決められてゐることで、ほとんど引力を
感じないでも、すこぶる深い縁といふものもあるんだから。

僕はアル中の女とボクシング・ファンの女は、心の底から大きらひだ。どつちも
フラストレーションの固まりの、ひどく下品な女なんだ。

ボクシングはすごいスポーツだよ。男がまつしぐらに戦つて血を流すんだ。そこに男の見物は、
自分たちの社会での戦ひの、毎日やつてゐる血みどろの戦ひの、一番端的な代表を見るわけなんだ。
だから僕は、戦つてもゐない女が、生意気に、ひまつぶしにスリルと興奮を求めて、
ボクシングが好きになるといふことはゆるせないんだよ。それは絶対に下品だからな。
三島由紀夫「複雑な彼」より

566 :
私が恋してゐるのは、お父様が決して認めようとなさらないやうな、《複雑な彼》なのです。

今の日本で一番不足してゐるものは、金でもない、家でもない、人物だよ。

あの方は、近ごろの東南アジアの状勢に深く心を痛めてをられて、今、一人の日本人が
身を挺してこれを救はなければ、アジアは永久に救はれないと考へてをられる。

今の状勢について、日本人全般は、日本人が出る幕ぢやないと思つて、『関係ナイ、
関係ナイ』といふ気持で、レジャーに耽つてゐるばかりだ。一人としてアジアを憂へる青年は
をらない。デモをやつてゐる連中は、左翼にあやつられてゐるだけだし、集団の力を漠然と
たのんでゐるだけだ。
しかし、いつでも歴史を動かすのは個人なんだよ。それも一人の青年の力なんだよ。
『関係ナイ』と思つてゐるのは、自ら、関係を持たうとしないだけのことで、もし一人の
青年が身を挺すれば、アジアを救ふことができるのだ。
三島由紀夫「複雑な彼」より

567 :
世界が意味があるものに変れば、死んでも悔いないといふ気持と、世界が無意味だから、
死んでもかまはないといふ気持とは、どこで折れ合ふのだらうか。

死体つて、何だか落ちてこはれたウイスキーの瓶みたいぢやないか。こはれれば、中身が
流れ出すのは当たり前だ。

あの美しい欅の梢が、夕空の仄青い色を、精妙無類に、丁度夕空へ投げかけた投網のやうに
からめ取つてゐるのは、そもそも何故だらう。自然は何でこんなに無用に美しく、人間は
何でこんなに無用に煩はしいのだらう。

これからはもう物事をあんまり複雑に考へるのは止しになさるんですね。人生も政治も案外
単純浅薄なものですよ。もつとも、いつでもRる気でなくては、さういふ心境には
なれませんがね。生きたいといふ欲が、すべて物事を複雑怪奇に見せてしまふんです。
三島由紀夫「命売ります」より

568 :
自殺……。
そこまで考へると、彼は何か知れず、精神的な吐き気を感じた。
一度失敗してゐるだけに、自殺だけは、どう考へても億劫な気がした。折角自堕落な
いい気持になつてゐるときに、つい目と鼻の先にあるタバコをとりに立つ気がどうしてもしない。
十分タバコを喫みたい気はあるのだが、ここから手をのばしても届かないことのわかつて
ゐるタバコをとりに立つことが、何だか故障した自動車の後押しをたのまれるほど、
しんどい仕事に思はれる。それがつまり自殺なのだ。

羽仁男は今の今まで休養するつもりだつたのが、また、をかしなものに巻き込まれ
かかつてゐる自分を感じた。世界は多分雲形定規のやうな形をしてゐるのだらう。地球が
球形だといふのはおそらく嘘なのだ。それは、一つの辺がいつのまにか妙にひねくれて
内側へ曲つてゐたり、かと思ふと、まつすぐな一辺が突然断崖絶壁になつたりするのである。
人生が無意味だ、といふのはたやすいが、無意味を生きるにはずいぶん強力なエネルギーが
要るものだ、と羽仁男はあらためて感心した。
三島由紀夫「命売ります」より

569 :
多分、羽仁男のやうな男は、一つのことからのがれても、また別の「同類」に会ふやうに
運命づけられてゐるのかもしれない。孤独な人間はお互ひの孤独を、犬のやうにすぐ
嗅ぎわけるのだ。

無意味はヒッピーたちの考へるやうな形で人間を犯して来るのでは決してない。それは絶対に、
新聞の活字がゴキブリの行列になつてしまふ、ああいふ形で来るのだ。

シャム猫の鼻先に、シャベルでミルクをやつて、呑まうとするとシャベルをはね上げて、
猫の顔をミルクだらけにしてしまふこと。
彼の空想裡できはめて重要だと思はれたこの儀式は、日本の政治経済すべてにとつても
重要なのにちがひなかつた。つまり、一国の閣議はさうしてはじまるべきだつたし、
安保条約問題もさうして解決されるべきだつた。一匹の高慢ちきな猫の、思ひもかけぬ
不面目によつて、われわれは、猫を飼つてゐるといふことの意味を、よくよく知ることが
できるのだ。
三島由紀夫「命売ります」より

570 :
つまり、羽仁男の考へは、すべてを無意味からはじめて、その上で、意味づけの自由に
生きるといふ考へだつた。そのためには、決して決して、意味ある行動からはじめては
ならなかつた。まづ意味ある行動からはじめて、挫折したり、絶望したりして、無意味に
直面するといふ人間は、ただのセンチメンタリストだつた。命の惜しい奴らだつた。
戸棚をあければ、そこにすでに、堆(うづたか)い汚れ物と一緒に、無意味が鎮座して
ゐることが明らかなとき、人はどうして、無意味を探究したり、無意味を生活したりする
必要があるだらう。

人の命を買ふ人間、しかもそれを自分のために使はうといふ人間ほど、不幸な人間はない。

何の組織にも属さないで、しかも命を惜しまない男もゐるといふことを知らなくちやいかん。
それはごく少数だらう。少数でも必ずゐるんだ。

命を売るのは君の勝手だよ。別に刑法で禁じてはゐないからね。犯人になるのは、命を買つて
悪用しようとした人間のはうだ。命を売る奴は、犯人ぢやない。ただの人間の屑だ。
それだけだよ。
三島由紀夫「命売ります」より

571 :
65 名前:名無しさん@恐縮です[sage] 投稿日:2011/03/14(月) 17:24:21.06 ID:hAy8l0eHP
みんなの募金を朝鮮玉入れに使ったカスがいるぞ
http://i.imgur.com/gYvSv.png
http://i.imgur.com/xR649.png

572 :
http://www.youtube.com/watch?v=nexofSW4u7Y
http://iup.2ch-library.com/i/i0262536-1300106523.jpg
誰か犬を助けて!

573 :
人間の恋愛は動物の恋愛と違つて、みな歴史、社会、環境、いろいろなものに制約されてゐるわけです。
われわれが一つ恋愛をすると、その恋愛の中に全人類の歴史、全人類の文化が反映してゐるのです。これは、
われわれといふ存在が、ちやうど歴史の一端に大ぜいの先祖と、大ぜいの文化の趨勢の上に生まれてきたのと同じに、
今あなたないし私のする恋愛も、決してひとりでまるで天から落ちかかつてくる隕石のやうに、恋愛が始まるといふ
ものではなく、みな何ものかに規約されてゐるといふことができます。

キリスト教の恋愛には、やはりマリアへの愛が、いつも基本になつてゐる。これは、宗教にエロチシズムが、
幾ら除いてもこびりついてくるといふ、一つの証拠です。

キリスト教のやうな欲望否定の宗教が、あれだけ勢力を占めたといふことの裏には、ヨーロッパ人が、それだけ
動物的な本能の強い人種だといふこともいへないことはありません。
三島由紀夫「新恋愛講座」より

574 :
日本人の一番健康な恋愛らしきものが描かれてゐるのは「万葉集」ですが、「万葉集」の恋といふのは、この
ヨーロッパ、ギリシャのやうな、哲学的背景を持つた恋愛ではありません。ただ古い民族のすなほな肉体的欲望が、
日本人のやさしい心持ちとか、繊細な生活感情の中に溶け込んで、そこに、美しい別離の情とか、恋人に久しぶりに
会つた喜びとか、さういふものが素朴に、しかし正直に述べられてゐます。

「源氏物語」の「もののあはれ」といふ大きな主題、この「もののあはれ」の中には、いろいろ仏教的な考へも
ないわけではないのですが、根本的には、日本人が恋愛をただ感情の形でだけ浄化してきた、その一つの完成した
形が見られます。

概して少年期には、年上の異性を愛するやうになります。

われわれは皆、好ききらひがあつて、どんな美人でも、ある人にとつては、ちつとも魅力のない場合があり、
どんな醜女でも、ある人の目から見ると、非常に魅力的な場合があるのです。
三島由紀夫「新恋愛講座」より

575 :
恋愛の嗜好といふのは、実は、だれでも先天的に持つてゐるものではないので、ある人にとつては母親の
イメージがあり、ある人にとつては、早く死んだお姉さんのイメージがある。しかし異性のイメージはその人個人
のみでなく、祖先から民族全体から、どこかに深く積み重ねられたものがあつて、それがその人の心の中に
出てくるといふことが言へるのです。つまり、何かその原形がある。

自分の官能的なものと自分の人生とがぶつかり合ふ、結びつき合ふ、自分の肉体と精神とが初めてぶつかり合ふ、
自分のおぼろげに感じてゐた性欲的なものと、自分がだんだんに修練して得た理知的なものが、重大な関連を
持つてゐることを、一挙に発見するのが初恋です。

戦争は、原始的な形では、恋愛の一つの形式のやうなものである。民族的恋愛のやうなものであつたのです。
これはあくまで、他民族がその民族にとつては他者であるからであります。
三島由紀夫「新恋愛講座」より

576 :
人生が、自分のよい意図、正しい意図、美しい意図だけでは、どうにもならないといふことを学んで、それに
絶望して、だめになつてしまふ人は、人間としても伸びて行けない人だといはなければならない。それからまた、
それですべてをあきらめてしまつて、自堕落に一生を送らうといふ人、これはまた、人間としてゼロだと
いはなければならない。
ですから、けつきよく、人間が成長する途上で初恋の幻滅に会つても、それに打ちひしがれないで、なほ積極的な
態度で人生に向つていくといふ力強さ、さういふものが、試金石としての初恋の値打だらうと思ひます。

恋愛は、相手の当人を特別な存在に見せ、たとひ、人から見て値打のないものでも、自分にとつて世界中で
かへがたいものに見せる心の働きですから、悲観的な考へ方をする人は、恋愛のことを全部錯覚にすぎないと
言つてゐます。恋愛は病気と同じやうに、診断をすることもできるし、また分析することもできると考へたのが、
プルーストといふ二十世紀の小説家であります。
三島由紀夫「新恋愛講座」より

577 :
情熱は、人間の心の中で一番崇高な、一番価値のある感情で、情熱があればこそ人間は生きていくかひがある。

私は恋愛といふものを、プルーストのやうに悲観的には考へてをりません。なぜなら、恋愛が錯覚であるならば、
人生も錯覚であるし、一人の女をあるひは一人の男を美しいと思つて恋することは、人間が自分の仕事を美しいと
思つて、それを熱愛して、一つの仕事を完成するのと同じことです。

恋愛中には、恋人はお互ひに愛し合つた上でも、やはり千変万化の働きをしなければならない。なぞのない恋人は
魅力を失つてしまふのです。それはわれわれの幻想を描く力を失はせてしまふからです。

人間同士の信頼感といふものは、恋愛のほんたうの要素ではありません。信頼感ならば、友だち同士の友情の方が
強いでせうし、また、長いこと連れ合つた夫婦の間の愛情も、信頼感といふ点では恋愛よりずつと強いのです。
恋愛は結局、わからないことがどこかにひそんでゐなければならない。
三島由紀夫「新恋愛講座」より

578 :
人間には心があるから、心で証拠を求めようとしても、からだで求められない。からだで求めようとしても、
心で求められない。かういふ、人間独特の分裂状態から、恋愛が生まれてくる。それが、人間的なものの一つの
特徴になるのであります。
そして情熱の法則は、自分で自分を裏切るといふふうに傾くもので、理性の法則とはまるで違つてゐます。
ですから、うそもうそでなくなる。真実も真実ではなくなつてしまふわけです。

よく、結婚したときに夫に向つて、自分の過去の恋人のことを全部告白してしまふ奥さんがありますが、これが
誠実といふものかどうかは疑はしい。それによつて夫は、いつまでも悩むことになるでせうし、彼女は、自分に
誠実であつたことによつて、実は自分にだけ誠実であつたことになるのです。すべて人間の愛の感情では、
自分にだけ誠実であるといふことが、必ずしもその恋愛に誠実であるといふことにはならないといふ皮肉な
法則があります。

誠実さとは結局、自分の真心を押しつけることではなくて、むしろ自分を捨てて相手のためを思ふことであり、
そのためには、うそも誠実になつてくるのです。
三島由紀夫「新恋愛講座」より

579 :
同性愛の原因については、いろいろの学者が学説を述べてゐますが、ほんたうのところははつきりつかめません。
現在ではフロイドの考へで、結局後天的な、心理的な原因だといふふうに考へられてゐます。つまり生まれつき
同性愛の人はゐない。なぜかといふと、性ホルモンと同性愛とは関係がないことがわかつてきて、女性ホルモンの
多い女性も十分同性愛になり得るし、女性ホルモンの少ない女性も十分異性愛になり得る。そして、女らしい
女性でも、同性愛に陥るし、ごく生理的に男らしい男でも同性愛に陥ります。結局、フロイドが述べてゐるところの
心理的な、いろいろな錯綜から生じた一種の病気であつて、その原因に、快感が加はると、その快感を習慣的に
追ふことによつて、だんだん深みに落ちていくといふふうにいはれてゐます。しかし同性愛の人たちは、それを
自分たちは宿命的と考へてゐて、自分たちだけの小さな王国を作らうとし、さういふ王国がだんだん地上に
広がつていくことを望むやうになるのです。
三島由紀夫「新恋愛講座」より

580 :
一つの習慣がついたからといつて、それがすぐ全人生を支配するものでもない。もし誘惑される立場にあつたならば、
自分がそれにおぼれない用心をしてかかるほかはないのであつて、あくまでも同性愛のほかに広い世界があると
いふことを忘れないで、育つていくことが大事だと思います。若くてさういふ世界に誘惑された少年少女は、
それだけが全世界だと思ひがちですが、人生には、もつと広い世界があるといふことを忘れなければ、必ずその
広い世界へまた出ていくことができるのです。さう言ふと、私は何も解決を与へてないやうですが、同性愛は、
すべて心理的な原因ですから、心理的に自分で解決していくことです。

私の思ふのに、もし同性愛に対して欲求を持つた青少年がゐるならば、初めは思ふ存分それに向つて突進したら
いいでせう。人間の欲望は押へようとしても押へ切れるものではなく、彼は自分の思ふままに欲望に走る。
そしてそれにぶつかつて失敗するなり成功するなりしたらいい。
三島由紀夫「新恋愛講座」より

581 :
自分が自分の欲望を追求して、その欲望を突き抜けて、人生に対して同性愛といふものもあるんだといふやうな
のどかな気持で、もう一度自分を客観的に見るやうな余裕が持てるところまでいかなければ、どんな医者が
どう言つても無理だと思ふのです。そして今一般的には根治しがたい、不治の病のやうにいはれてゐる精神病の
中でも、一番治しにくいのが同性愛であつて、なぜならば、それは快感を伴ふから治りにくいのだといはれて
ゐるのですが、さういふこととは別に、女性ならば女性であるといふ誇りを、男性ならば自分が男性であると
いふ誇りを、いつでも持つてゐれば、決してゆがめられた、グロテスクな同性愛の底に沈んでしまふといふことは
あり得ないと思ひます。そして自分の本来の性の誇りが、自然に彼を引き戻すであらうと私は思ひます。
三島由紀夫「新恋愛講座」より

582 :
人間は生まれてから年をとるまで、いつも嫉妬と親しい関係にあります。

嫉妬は必ず、ある瞬間にもせよ、負けた側の人間に生じるものであります。

嫉妬といふことは、一番端的な現はれは、“安心のない愛”と定義できるでせう。いつか逃げていきはしないか。
いつか自分から去つていきはしないか。かういふ不安がなければ、嫉妬といふものは生まれてきません。

嫉妬は愛の表現ではあるが、しかしむづかしい言ひ方をすると、愛するといふことの不可能の表現だとも言へると
思ひます。なぜなら、われわれは他人を、そんなに簡単に自分のものにすることはできません。

人間は残酷なやうですが、やはり一人一人孤独に生きてゐるのです。そこで、愛は相手を所有することだとしても、
簡単に所有するといふ形は、われわれにはほんたうはできない。相手が眠つてゐるときか相手が死んでゐるときしか
できないのです。相手の自由を完全に自分のものとすることは、相手を殺してしまふか眠らせてしまふしか
ないのであります。
三島由紀夫「新恋愛講座」より

583 :
盲腸炎にかかつた人でなければ盲腸といふものの痛みもわからない。また歯が痛んだことのある人でなければ、
歯の痛みもわからない。それと同時に、嫉妬の苦しみも、自分が一度味はつたことのある人でなければ、決して
わからないのであります。

私は、情熱といふものを尊敬しますが、同時に理性も尊敬します。そして美しい愛情はやはり情熱と理性とが
適当に折れあつてゐなければならないので、情熱だけがいつも正しいと言つて、相手を責めることはできません。

恋愛は完全に健康なもの、そして円満な人格、欠点のない人がら、さういふことものを見きはめて愛するものでは
ありません。結局、欠点を愛することになるのが恋愛の一般の法則であり、その欠点ないし弱味は、ともすると
人の同情をそそる形で現はれます。

相手の同情をよぶことが何かの効き目を持つのは根本法則ですが、相手に自分の与へてゐる魅力がまづなければ
ならない。魅力のないところに同情を持ちかけても、何もなりません。魅力とミックスされるところに、初めて、
同情されることが愛において持つ値打がある。
三島由紀夫「新恋愛講座」より

584 :
私は、ここにちやうど現代の社会における性の行為が、実は皆さんの考へてゐるほどロマンチックなものでは
ないといふことを言はなければならない。なぜなら、今まで述べたやうに、性的な幻滅とか、性的な荒廃とか
不良化とか堕落とかいふものは、実は、性そのものに関する無知ではなくて、私には人間そのものに関する無知と、
よく現代の社会の構造を見きはめないといふ無知からくるもののやうに思はれるからです。なぜ現代社会で
あんなに早く人間が動物的に成熟しながらも、結婚がだんだんおくれていく傾向にあるか。これは現代社会の
矛盾ですがしやうがない矛盾なのです。つまり性的結合は、経済的独立が伴はなければ社会の公然たるものとして
認められない。これが現代社会の一つの鉄則と言つていいものです。もし経済的独立が伴はないで性的結合が
行はれれば、必ずそこにいろいろな不調和が生じる。そして無理に無理が重なつて、堕落と、おそらく犯罪が
待ちかまへてゐることになります。
三島由紀夫「新恋愛講座」より

585 :
男の秘訣は、女に対しては、からだの交渉を持つまでは、決して女の欲望を認めてはいけないといふことです。
あたかも、相手には欲望がないやうに、ふるまはなければなりません。それは、女性の羞恥心を、悪く刺激する
ことになるからです。少なくとも、処女は自分の欲望を認められることを、大へんきらふものです。

世間には浮気を浮気としてやれる人と、本気でなくてはやれない人とがあります。そしてそれは、必ずしも前者が
不まじめな人間で、後者がまじめな人間だとは限りません。後者の中には、三人でも四人でも同時に愛するといふ
離れわざのできる人間もあるからです。

男性の場合における恋愛のエチケットは、たとへ相手を自分が捨てた場合でも、自分が捨てられたやうな振りを
することであります。つまり、世間的な体面において、相手を勝利者のやうに見せてやることです。自分が
しよつちゆう振られたと言つて歩く男は、実はいつも恋愛の成功者である場合が多い。そして、あの女を振つて
やつたと言つて歩いてゐる男は、実は捨てられてばかりゐる男である場合が多いのであります。
三島由紀夫「新恋愛講座」より

586 :
○ 日本的非合理の温存のみが、百年後世界文化に貢献するであらう。

平岡公威(三島由紀夫)昭和20年9月16日「戦後語録」より

587 :
○ 流れる目こそ流されない目である。変様にあそぶ目こそ不変を見うべき目である。わたしはかゞやく変様の
一瞬をこの目でとらへた。おお、永遠に遁(に)げよ、そして永遠にわたしに寄添うてあれ。
平岡公威(三島由紀夫)昭和20年9月16日「戦後語録」より

588 :
○ 神界がもし完全なものならそれが発展の故にでなく、最初からあつたといふことは注目すべき事実だ。
平岡公威(三島由紀夫)昭和20年9月16日「戦後語録」より

589 :
○ どのやうな美しい物語にも慰さめられないとき、生れ出づるものは何であらうか。それを書いた瞬間に、
すべては奇蹟になり、すべては新たにはじめられ、丁度、朝警笛や荷車や鈴や軋りやあらゆる騒音が活々と
ゆすぶれだし、約束のやうに辷り出す、さういふ物語を私は書きたい。そしてそのやうな作品の成立がもはや
恵まれずとも怨まない。
平岡公威(三島由紀夫)昭和20年9月16日「戦後語録」より

590 :
人間の所謂発見とは? 寓話はいつでも教訓の私生児です。即ち人間が為し得る発見は、あらゆる場合、宇宙の
どこかにすでに完成されてゐるもの――すでに完全な形に用意されてゐるものの模写にすぎないのでした。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より

591 :
決定されてゐるが故に僕らの可能性は無限であり、止められてゐるが故に僕らの飛翔は永遠である。
平岡公威(三島由紀夫)21歳「わが世代の革命」より

592 :
大学新聞にはとにかく野生がほしい。野生なき理想主義は、知性なきニヒリズムより数倍わるくて汚ならしい。
三島由紀夫「野生を持て――新聞に望む」より

593 :
「後悔せぬこと」――これはいかなる時代にも「最後の者」たる自覚をもつ人のみが抱きうる決心である。
浅間しい戦後文学の一系列が、ほしいまま跳梁を示してゐるなかに、最後の者、最後の貴族の生みえたまことの
芸術が、失はれた星の壮麗を復活させようとする決心に、後悔はありえない。
三島由紀夫「跋(坊城俊民著「末裔」)」より

594 :
人間の道徳とは、実に単純な問題、行為の二者択一の問題なのです。善悪や正不正は選択後の問題にすぎません。
道徳とはいつの場合も行為なんです。
三島由紀夫「一青年の道徳的判断」より

595 :
自意識が強いから愛せないなんて子供じみた世迷ひ言で、愛さないから自意識がだぶついてくるだけのことです。
三島由紀夫「一青年の道徳的判断」より

596 :
(『詩を書くのが趣味の交際相手の男性が女々しく思えて許せない』という相談者に)
 美輪明宏『文学者でも例えば三島由紀夫や中原中也なんかは男らしかった思うけれど…。
貴女ももっと本をお読みになったらどうかしら?』
 相談者『(憤然として)読んでますよ』
 美輪明宏『どんなのを読んでらっしゃるの?』
 相談者『秋元康とか』
 美輪明宏『(一瞬判らず)あきも……?(ピンと来て)オホホホホホwwwww』
 相談者『?』

597 :
愛といふ言葉は、日本語ではなくて、多分キリスト教から来たものであらう。日本語としては「恋」で十分であり、
日本人の情緒的表現の最高のものは「恋」であつて、「愛」ではない。


日本のやうな国には、愛国心などといふ言葉はそぐはないのではないか。すつかり藤猛にお株をとられてしまつたが、
「大和魂」で十分ではないか。


恋が盲目であるやうに、国を恋ふる心は盲目であるにちがひない。しかし、さめた冷静な目のはうが日本を
より的確に見てゐるかといふと、さうも言へないところに問題がある。さめた目が逸したところのものを、
恋に盲ひた目がはつきりつかんでゐることがしばしばあるのは、男女の仲と同じである。一つだけたしかなことは、
今の日本では、冷静に日本を見つめてゐるつもりで日本の本質を逸した考へ方が、あまりにも支配的なことである。
さういふ人たちも日本人である以上、日本を内在的即自的に持つてゐるのであれば、彼らの考へは、いくらか自分を
いつはつた考へだと言へるであらう。

三島由紀夫「愛国心」より

598 :
武士とは死の職業である。どんな平和な時代になつても、死が武士の行動原理であり、武士が死をおそれ死を
よけたときには、もはや武士ではなくなるのである。
三島由紀夫「葉隠入門」より

599 :
われわれが住んでゐる時代は政治が歴史を風化してゆくまれな時代である。歴史が政治を風化してゆく時代が
どこかにあつたやうに考へるのは、錯覚であり幻想であるかもしれない。しかし今世紀のそれほど、政治および
政治機構が自然力に近似してゆく姿は、ほかのどの世紀にも見出すことができない。古代には運命が、中世には
信仰が、近代には懐疑が、歴史の創造力として政治以前に存在した。ところが今では、政治以前には何ものも
存在せず、政治は自然力の代弁者であり、したがつて人間は、食あたりで床について下痢ばかりしてゐる無力な
患者のやうに、しばらく(であることを祈るが)彼自身の責任を喪失してゐる。

三島由紀夫「天の接近――八月十五日に寄す」より

600 :
泰平無事が続くと、われわれはすぐ戦乱の思ひ出を忘れてしまひ、非常の事態のときに男がどうあるべきかと
いふことを忘れてしまふ。金嬉老事件は小さな地方的な事件であるが、日本もいつかあのやうな事件の非常に
拡大された形で、われわれ全部が金嬉老の人質と同じ身の上になるかもしれないのである。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より

601 :
自然な日本人になることだけが、今の日本人にとつて唯一の途であり、その自然な日本人が、多少野蛮であつても
少しも構はない。これだけ精妙繊細な文化的伝統を確立した民族なら、多少野蛮なところがなければ、衰亡して
しまふ。子供にはどんどんチャンバラをやらせるべきだし、おちよぼ口のPTA精神や、青少年保護を名目にした
家畜道徳に乗ぜられてはならない。
三島由紀夫「お茶漬ナショナリズム」より

602 :

皆さん、カルト親鸞会に気をつけて!
全国の大学で偽装サークルをつくり、暗躍している宗教法人「浄土真宗親鸞会」なるものが存在します。
近時は高齢者にターゲットを絞っています。もちろん目的は財産狙い。
「生きる意味」「人生の目的」などが常套句です。
投稿文|高森顕徹氏と親鸞会の問題
1.親鸞会の集金システム
2.法もまた財なり、財もまた法である
3.高森顕徹会長と絶対無条件服従
4.高森顕徹会長への礼賛
5.なぜ隠すのか

http://nazeyame.shinrankai.biz/mondai/
※「なぜ生きる」「歎異抄をひらく」はカルト教団・浄土真宗親鸞会の著書です。
【恐るべし!財施(お布施)の具体的実例】
http://homepage2.nifty.com/nonsect/shinrankai/donation2.html

603 :
真の東洋的なもの、東洋的神秘主義の最後の一線を、近代的立憲国家の形体に於て留保したものが日本の天皇制である。
天皇制は過去の凡ゆる東洋文化の枠であり、帝王学と人生哲学の最後の結論である。これが失はれるとき
東洋文化の現代文化へのかけはし、その最後の理解の橋も失はれるのである。

三島由紀夫「偶感」より

604 :
間接侵略の過程においては、まづ基幹産業の侵蝕と破壊が企てられることは、常識でありますが、わが企業体を
身を以て守るといふ覚悟乃至行動は、それ以上の高い国家理念の裏附なしには期待することができません。
企業防衛こそ国土防衛の重要な一環であり、一例が電源防衛にしても、それ自体がただちに国土防衛の本質的な
ものにつながります。
三島由紀夫「J・N・G仮案(Japan National Guard ――祖国防衛隊)」より

605 :
戦後の日本にとつては、真の民族問題はありえず、在日朝鮮人問題は、国際問題であり、リフュジー(難民)の
問題であつても、日本国内の問題ではありえない。これを内部の問題であるかの如く扱ふ一部の扱ひには、
明らかに政治的意図があつて、先進工業国における革命主体としての異民族の利用価値を認めたものに他ならない。
三島由紀夫「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より

606 :
(堤氏の父・堤康次郎氏の)家長というもののすご味を感じたな。冷酷なようだけれども、家を守るということは
ああいうことだね。いまのヒューマニズムじゃちょっと割り切れないが、あの当時、そんなヒューマニズムなんて
言っていたら、みんな三国人に取られちゃいますよ。(笑)
三島由紀夫
堤清二との対談「二・二六将校と全学連学生との断絶」より

607 :
>近時は高齢者にターゲットを絞っています。もちろん目的は財産狙い。
素晴らしい。頑張れ、親鸞会!!

608 :
繊維交渉に当たつては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあつたのに、国家百年の大計にかかはる核停条約は、
あたかもかつての五・五・三の不平等条約の再現であることが明らかであるにもかかはらず、抗議して腹を切る
ジェネラル一人、自衛隊からは出なかつた。
沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを
喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの
傭兵として終るであらう。
三島由紀夫「檄」より

609 :
up

610 :


611 :
現代の教育で絶対にまちがつてゐることが一つある。それは古典主義教育の完全放棄である。古典の暗誦は、
決して捨ててはならない教育の根本であるのに、戦後の教育はそれを捨ててしまつた。ヨーロッパでもアメリカでも、
古典の暗誦だけはちやんとやつてゐる。これだけは、どうでもかうでも、即刻復活すべし。
三島由紀夫「生徒を心服させるだけの腕力を――スパルタ教育のおすすめ」より

612 :

中野新橋あたりの、誰も待っていない、うす暗いボロアパートに戻り、
「やれやれ……どっこししょ」とかタメ息をつきながら、
薄くなった頭から制帽を外し、縦縞のド派手な
制服を脱ぎ捨ててゆく姿……。あまりにも哀しすぎる。

年相応なサルマタ姿に戻ると、40年間も買い続けている『フロムエー』
をコンビニ(昔、バイト勤めしたことのある店)の袋から出して眺める。
「60ぅのジジィのオレに、工事現場の交通整理はつらぃやねぇ……」
ヤカンがピィピィ鳴りだした。『緑のたぬき』かなにかをズズッと
すすりながら、魚肉ソーセージを肴に『ワンカップ白鶴』を1杯やる。

22時41分、テレビで古館一郎が「もぉ、横綱も冗談ばかり。クククッ……」
とかウケている声を聞きながら、ふと見上げると、
ハンガーから吊り下がった、齢(トシ)不相応に派手な制服。
「げふっ。はぁ〜、もぉ寝っがな……」
誰も聞いてくれる人がいないセリフをまたこぼしながら、
傍らにふたつ折りにしていた、せんべい布団を拡げ、寝っころがる。

酒の力を借りて寂しい現実を忘れようと、老爺は眠りの世界へ落ちる。
……夢のクニでは、俺は“夢”を成功させたシンガーさ。
吉祥寺駅前でギターをかき鳴らしていた35年前、
レコード会社のプロデューサーが拾ってくれたんだ。
……ん? えっ? あれっ? やっぱり夢かぁ。プロデューサーの
顔をよく見れば、前のバイト先の店長(28歳年下)じゃねぇか。
やっぱり俺の現実なんてあのボーヤに使われるだけなんだよな。へへっ……
せめて、夢のなかでぐらい“みじめさ”ってもんを忘れさせてくれよ。


613 :
現代ジャーナリズムが商業的に避(よ)けて通るやうな問題にこそ、最も緊急な現代的問題がひそむ。
三島由紀夫「『侃侃諤諤』を駁す――交友断片」より

614 :
一般大衆は、革命政権の樹立が、自分たちの現在守つてゐる生活に、将来どのような時間をかけてどのように
波及してくるかについてほとんど知るところがない。彼らは、現在の目前の問題としては、いつもイデオロギーよりも
秩序を維持することを欲し、ことに経済的繁栄の結果として得られた現状維持の思想は、一人一人の心の中に
浸み込んで、自分の家族、自分の家を守るためならば、どのようなイデオロギーも当面は容認する、といふ方向に
向つてゐる。そして、秩序自体の変質がどういふ変化を自分たちにおよぼすか、といふ未来図を彼らの心から
要求することは、ほとんど不可能である。人々はつねられなければ痛さを感じないものである。
もし革命勢力、ないし容共政権が成立した場合、たとへたつた一人の容共的な閣僚が入つても、もしこれが
警察権力に手をおよぼすことができれば、たちまち警察署長以下の中堅下級幹部の首のすげかへを徐々に始め、
あるひは若い警官の中に細胞をひそませ、警察を内部から崩壊させるであらう。
三島由紀夫「反革命宣言」より

615 :
up

616 :
三島由紀夫=美文は認める・・ガ:::不可解な人物だったと〜
何で自衛隊に乗り込んで…割腹したのが理解不能。天才を狂気の人。

617 :


618 :
.

619 :
三島は屑だな。

620 :
触れたかった
この指で
この手で
この唇で
相手の快楽を奪うようにいとおしみたかった
遂げられぬ想いは星屑になりけり

621 :
スレ違い、失礼いたしますm(_ _)m
九州盲導犬協会所属の盲導犬アトムが 2012/1/23より 行方不明になりました。
盲導犬アトム の 【 動画 】 があります。諸事情のため、詳しく書き込めませんが
キーワード(盲導犬アトム )( Atom's Story )だけでもアトムの映像がヒットします。
視聴していただけませんか。お願い申し上げます。

622 :
アトムについて 示現舎  電子書籍 ですがとりあげられています。
  (2012年4月号発売)(電子版300円
こちらも諸事情のため、詳しく書き込めません。 
今回は九州を大特集。
長崎市で盲導犬が失踪。一方で虐待疑惑が取り沙汰され、地元紙は虐待説を非難。
真実を求め現地からのレポート。
補助金と善意の募金からなる盲導犬制度にいったい何が・・・。
盲導犬の現状にお心をよせていただけませんでしょうか。宜しくお願い申し上げます

623 :
「春の雪」の綾倉聡子っていい名前だな。順番を変えて聡倉綾子でも
悪くなかった。

624 :
【八巻正治状態】
【八巻正治状態】
【八巻正治状態】
http://usokomaker.com/joutai/r/%C8%AC%B4%AC%C0%B5%BC%A3
八巻正治状態とは
すぐ調子に乗って何かやらかして怒られる様子

625 :


626 :
せっかく、自衛隊応援ホモクラブを作ったのに、自衛隊のみんな、入会しないって、
ひどいよーーー。一緒に、男同士で楽しもうよって言ったのにーーーーー。
もう、ぼくすねちゃう。wwwwwwww

627 :
q

628 :
三島

629 :
.

630 :
「葉隠」にあるやうに、武士の倫理における外面性の重視は、武士の良心にかかはりがあった。
われわれは肉体文化の伝統を持たず、体力に対する民族的信仰は、何か超自然的なものへの
信仰の影を宿してゐる。
古代美術的基準に忠実であるボディビルは、最も日本文化伝統に欠けてゐるものの新しい移植である。

631 :2018/10/10
ボケ由起子9時すぎとるぞおおおおwwwwwwwwwwwはよしろおwwwwwwwwwwwwww

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