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(自転車の起源)インドネシア火山大噴火(1815年)


1 :2019/07/24 〜 最終レス :2020/05/05
>1815年 インドネシアタンボラ火山大噴火
>1816年 火山灰により地球規模の寒冷化
>欧米で年平均気温が3度低下「夏の無かった年」
>作物に壊滅的な打撃、家畜の飼料が欠乏
>馬が大量に餓死し、移動手段が壊滅
>ドイツの発明家ドライス男爵が馬に代わる乗物として考案

2 :
>ドライス男爵は1817年に特許を取り、2輪ベロシペードを売り始めた。
>「ドライジーネ」「ダンディホース」と呼ばれる

3 :
>もちろん「火山の年」の効果は弱まっていった。
>大打撃を受けた馬は再び数を増やした。
>しかし1871年に、自転車と競走馬の競争が行われ、自転車はとても信頼性が高く、
>優れた乗物であるということが、広く一般に認知されるようになった。

4 :
>1891年、フランスのシャルル・テロンが1200km以上の距離を誇るパリ・ブレスト・パリで勝利した
>テロンはたった71時間で走破し、観客は驚いた。
>
>テロンはナポレオンをもじって、「ナポテロン」と呼ばれ、国民的英雄となった。

5 :
>自転車の人気が高まるにつれ、自転車製造も活発になっていった。
>瞬く間にヨーロッパ中に伝搬し、自転車や、その部品を製造する技術も
>一気に花開いて行った。

6 :
>当時、有名だった芸術家や作家の多くが自転車に惚れ込んだ。
>アレクサンドルデュマ、ジュールベルヌ、クロードドビュッシー、
>モーリスルブラン、ビクトルユーゴ、トゥールーズロートレック

7 :
>1899年にル・ヴェロのピエール・ジファールが
>あらゆる点で自転車が馬にとって代わって来ている
>と主張したエッセイ「馬の終わり」を発表した。

8 :
>1860 自転車にライトが導入
>1865 中空金属パイプのフレーム
>1868 時計技師ギルメがチェーン駆動のベロシペード
>1869 スポークつきホイール
>同年 ジュールサルレイがハブにボールベアリングを使用

9 :
>1874 ジョンケンプスターリーがタンジェント組みスポークホイールを開発
>1878 ルーソーが後輪がチェーンで駆動する自転車を発表
>1888 ダンロップが空気入りタイヤを発明
>1890 スプロケットギアが導入される
>1891 ミシュラン兄弟が取換え可能なタイヤを発明。

10 :
>1895 ジョンルーベイルが世界初の変速器"ポリセレール"を発表
>1897 フリーホイールが紹介される
>1901 トゥーリョカンパニョーロ誕生
>1903 ツールドフランス開催 モーリス・ガランが優勝する
>1909 ジロデイタリア開催

11 :
>1905 作家のポールドヴィヴィがダブルコグを考案
>1924 アルベールレイモンがレイモン シクロ(CYCLO)を開発 ランドナーの祖となる
>1927 クリップペダルが考案
>1930 トゥーリオカンパニョーロがクイックリリースハブを開発
>1933 カンパニョーロ社が設立
>1935 ニーデュ兄弟がビットリア マルゲリータ変速機を開発し、レースで使用する。
>1939 ルネ・ヴィエットが水筒をフレームに装着し、革靴に穴を空け通気性を確保した。

12 :
>1937 オスジェア社のスーパーチャンピオンの変速器でツールで総合優勝
>1947 アルフィオRーリが サンタマリア兄弟のセルビーノ変速器で優勝する。
>1949 ジーノバルタリがサンタマリア兄弟のセルビーノ変速器で優勝する。

13 :
>1896 トゥールーズロートレックが英国シンプソンチェーンの広告を
>「ベーカー」「ルグランコンスタン」の愛称で知られた名選手
>「コンスタンユーレ―」をモデルに描いた。
>引退後ユーレ―は変速器とスプロケットのメーカーを誕生させる

14 :
1946 カンパニョーロ 2本ロッドのカンビオコルサ誕生
1948 フェルモカメッリーニが「ユーレ―クリテリウム」を使いベルギーのフレッシュワロンヌで優勝
1950 カンパニョーロ1本ロッドのカンビオコルサ パリルーベを開発
1951 カンパニョーロ パラレログラム式 グランスポール誕生
1953 ルイゾンボベが「ユーレ―」(後にユーレ―ルイゾンボベとなる)でツール総合優勝
1954 ルイゾンボベが「ユーレ―」でツール総合優勝
1955 ルイゾンボベが「ユーレ―」でツール総合優勝

15 :
1949 ファウストコッピがサンプレクスのリュシアンジュイと使用契約を交わす

16 :
>>1 歴史的な事実を思いださせてくれて、大変感謝する。

ここ20年間の先進国を中心としたスポーツ自転車ブーム
も「この天変地異の時代に備えて」人類の必然の流れだったと思えてならない。

17 :
大昔から雑誌や博物館の説明などに記載があったが、
眼中に無かった方が大半だろう。史実に驚いたちゃんねらーも居ただろう。

18 :
1700年代のフランスのシブラックの
(サイクルメイト ヨシダのシブラック店の由来)
セレリフェール説については、学術研究により、
後世の作り話として落ち着いたそうですね。

19 :
ユーレが初期のカンパ グランスポールに圧勝したことは分かった。
当時のユーレ―社のルイゾンボベRDがシングルケーブルになって
ユーレ ツールドフランスRDになったのかな? サンプレのツールドフランスと相違点は何だ?

>1953 ルイゾンボベが「ユーレ―」(後にユーレ―ルイゾンボベとなる)でツール総合優勝
>1954 ルイゾンボベが「ユーレ―」でツール総合優勝
>1955 ルイゾンボベが「ユーレ―」でツール総合優勝

20 :
>>1 明治時代、大正時代、昭和初期の主な交通手段って、
「馬車」と「自転車」ですからね。あとは「徒歩」と「蒸気機関車」くらい。

21 :
明治時代の自転車は現在の高級自動車くらいの超高級品であり、
お金持ちや、商売人の商用車としてしか持っていませんでしたからね。
当時の市街地の白黒写真も、「自転車」と「歩行者」しか映っていないのは
そういう理屈です。車なんか無いから。

22 :
>>19 >>14をより深く理解する為に、別のアプローチをしましょう。

23 :
アレックスサンジェの歴史
アレックスサンジェ:
我が国、日本では画家、書道家、グラフィックデザイナーなど
芸術家の愛好家が多く愛された自転車として知られる。
(収集家の集まりとしては通称 サンジェ会や旧 筍クラブが知られる)

24 :
1905年 アレックスサンジェ(ハンガリー人)がハンガリーブダペストで誕生
1923年 アレックスサンジェが父親とフランスへ移民
フランスで自転車競技を始め、ペリシェ兄弟と走る。

25 :
1930年 妻マリアと結婚
1938年 アレックスサンジェとして伝説の地※で自転車製作を開始
※あの有名なパリ ルバロワペレのビクトルユーゴ―通り
   当時の記録映画などにも、登場します。

26 :
1939年 グランプリ(コンクール)デュラルマンに参加
この時からの競争相手が、ルネ・エルスと※ジョー・ルートンの両者で
ある。ジョー・ルートンはサンジェで走っていたライダーであった。
※ジョー・ルートンはフランスの名車

27 :
この頃ACBO(アミカルシクリストデュラバンリューウエストクラブ)誕生

28 :
1944年 ローランとエルネストシューカ※を見習いとして雇う
ローランシューカはトーチの専門家となり
エルネストシューカは組み付けの専門となった

   ※アレックスサンジェの友人の息子でハンガリー人

29 :
1946年 アルザス地方コルマールのグランプリデュラルマンに参加
シクロキャンピング部門で1位
タンデム部門で1位・・・パイロットをエルネストシューカが務めた。
プロトタイプ(軽量車)部門で1位( 6.875kgで優勝 )

30 :
1940年代後半から、変速器は主に、フランス製のニベックスか、
後にツールで総合優勝したユーレ/サンプレ ツールドフランスや
ルイゾンボベが使われるようになった。

31 :
一方、マリアの愛車が誕生する
バルタリ型のハンドルが装着され、リムは特注品
ハブはサンジェ製の特大ラージハブ※ 前輪 24H 後輪28H
現在の完組もびっくりの超軽量な車輪である。
※京都のアイズさんで12万円もするラージハブはこれへのオマージュであろう。

32 :
1947年 ベルギー ブリュッセルのミニヨン家がサンジェの代理店になる。
1948年 ベルギー ベールセルのコンクールテクニークに参加
ミニヨンサンジェが上位を独占する。

33 :
当時、6段変速を登場させ、18段変速とした。
タンデムには、チェーンホイールを5枚装着し、
5×6段=30段変速となった!!!

34 :
この頃にエルネストの妻のレオンヌの弟、ベルナールレイモンの
サンジェスポルティーフが誕生したのでは無いか?
    鋼線だけで構成された驚くべき超軽量なFDが、誕生している。
(板が無い!)
このFDは重量が35gしか無く、現在でも世界最軽量クラスである。

35 :
(重要)1948年 パリサロンにてアレックスサンジェは
    「パラレログラム式」の「ニベックス」のディレイラーを
トゥーリオカンパニョーロに2個販売する!!!

36 :
ここで一端、変速器の歴史へ跳びます!
○カンパの縦型変速器の始まり
1949年末 カンパニョーロ社はニベックス社のパラレログラム機構を
を模倣した、グランスポールを発表する(未発売)
1950年にダブルワイヤーからシングルワイヤーへ改良し、1951年に正式にリリースした。
と言う流れが>>14へ繋がります!

37 :
1949年 アレックスサンジェがパリブレストパリ1200kmオダックスへ参加
1949年 ジュルネヴェロシオのグランボア峠の有名な写真撮影
(京都のアイズさんのブランド名、グランボアの由来はこの峠と思われる)

38 :
1950年 エルネストシューカがシクロツーリスト版のツールドフランスで優勝する
この頃から、アレックスサンジェに任されるようになる
1951年 エルネストの妻のレオンヌシューカ
が夫妻で乗り、ポリーデュシャントルーで優勝する

39 :
1954年 ベルギーのポリーでサンジェの自転車が優勝する
(ライダーはシューカ夫妻)

40 :
1964年 ローランとエルネストとレオンヌが
アレックスサンジェを引き継ぐ
同年 エルネストの息子さんのオリビエシューカ氏(現オーナー)が誕生

41 :
1966年 アレックスサンジェが他界

42 :
1971年,1973年,1975年, ポルトドベルサイユのサロン展示会が開催され、出典する
この間に人気絶頂期のエディメルクスがサンジェのブースに立ち寄る
(エディメルクス氏も当時サンジェに憧れていたとの由)

43 :
1982年 ニューサイクリング誌の故今井編集長が
オーダーしたサンジェが日本に紹介され、賞賛される。

44 :
1985年 新田氏がオーダーした「ライトブルー」のサンジェが
日本に紹介され、以降、新田さんのブルーと呼ばれる。

45 :
1986年 エルネストの妻レオンヌシューカが他界し
アレックスの妻マリアサンジェはコートダジュールに隠居した

46 :
1987年 自転車文化センターがサンジェのタンデムを日本に輸入する
(ニューサイクリング誌の今井ちづか氏が尽力)

47 :
1993年 50年間サンジェを製作したローランが他界
ローランの調子が悪くなってくると、オリビエが
ヤスリ掛けを行うようになっていた。

48 :
1997年 オリビエ氏が一人で友人の為に自転車を製作する
2001年 パリサロンへ復帰
2003年 パリサロンへ出展
2005年 パリサロンへ出展
2007年 パリサロンへ60年出展した栄誉でエルネストが表彰される

49 :
2009年 パリサロンへ出展
同年 アイズの土屋郁夫氏からのオーダーにて1946年の
グランプリ(コンクール)デュラルマンへ出場したモデルをレストア。
(エルネストシューカ氏最後の仕事と言われる)

50 :
同年 エルネストシューカが他界し、息子のオリビエシューカがサンジェを引き継ぐ。
オリビエはフランスシクロツーリスム連盟に所属するサイクリストかつ
自転車競技の戦歴も誇る経歴の持ち主。
ビクトールという社員と共に今後が楽しみとの由

51 :
本スレには、2人のエルネストという偉人が登場することになります。

アレックスサンジェのエルネスト・シューカ(恐らくフランス国籍のハンガリー人)
チクリ コルナゴのエルネスト・コルナゴ(イタリア人)

52 :
これにてアレックスサンジェの歴史・・・完了

53 :
ここで再び、>>36>>14の変速器の歴史へ戻ります。

54 :
バーエンドコントローラーの歴史・・・始まり

実はバーコン元年=Wレバー元年という事実。

55 :
2019年現在、最新型カンパスーパーレコード12速と
デュラエース11速でバーエンドコントローラーが使われています。

56 :
バーエンドコントローラーはどうだったのか?
その歴史を紐解いてみましょう。

57 :
(ペダルを逆回転させた時代)
1950年のパリルーべ コッピはRDに2本ロッドのカンビオ・コルサを使い優勝。
    (パリ・ルーベの名称の由来となった)レースではアタックを繰り返し、
    ラスト45kmを独走して優勝した。

58 :
既に現在のロードレースと全く同レベルのデッドヒートが繰り広げられている。

59 :
1950年 RDにパラレログラム型のカンパの元祖"グラン・スポール"が誕生した。
    まだプロトタイプで発売されておらず、2本ケーブル。

60 :
1951年のジロ コッピはRDに新型1本ロッドのカンビオ・コルサを使用。

61 :
ちなみに、この新型1本ロッドのカンビオ・コルサは、
大昔のニューサイクリング誌で故 今井編集長が入手し、
。大阪のサイクルショー用として長沢義明氏製作のフレームをベースに
クラシックイタリアンロードとして、蘇らせた特集があったようです

62 :
>1950年 RDにパラレログラム型のカンパの元祖"グラン・スポール"が誕生した。
>    まだプロトタイプで発売されておらず、2本ケーブル。

1951年 グラン・スポールにリターンスプリングが内臓され、1本ケーブルでリリース。

63 :
(バーエンドコントローラー元年=パラレログラム式元年)
1952年のツール Bianchiチームのカレーラ"サンドリーノ"がバーコンを登場させた!

64 :
>1952年のツール Bianchiチームのカレーラ"サンドリーノ"がバーコンを登場させた!
    エース格のコッピは(左右Wレバー)を登場させた!
    (片側2本レバーはその前からあった)

65 :
このとき、バーコンとWレバーに合わせたのは、前述のニベックスのパンタグラフ機構を
取り入れたRD、パラレログラム型のカンパの元祖"グラン・スポール" "グラン・スポルト”
である。(後のZEUS はクリテリウムRDなどでカンパを模倣したが、その元祖もこれ)
ロードバイクは既に現在と大差無い形状と速度を達成している。

66 :
この後、バーエンドコントローラーがブームとなる。
1953年に創業したエルネストCOLNAGOがサポートしたことで知られるイタリアの英雄

1956年のジロ フィオレンツオ・マーニ(NIVEA時代)はバーエンドコントローラーを使用。
    フィオレンツオ・マーニはジロで3回総合優勝したカンピオニッシモである。
   (尚マーニは90歳過ぎまでギザッロ自転車博物館の館長を務めた)

67 :
この「NIVEA」チームは、日本でも知られている化粧品のニベアとのこと。
「フィオレンツオ・マーニ」の往年の写真は全てバーエンドコントローラーを
装着したドロップハンドルを握りしめているような、スタイルが多い。

68 :
1940年代のバルタリとコッピの争いが50年代半ばまで続いた後に出てきたのが、
このフィオレンツオ・マーニという英雄であり、ここからコルナゴのキャリアが開始されている。

1950年代半ば以降=フィオレンツオマーニ=ジロ3回優勝=コルナゴのメカニックサポート、
そして、バーエンドコントローラーというアイコンの流れが分かったと思う。

69 :
バーエンドコントローラー70年の栄光の歴史・・・まとめ

それまでは、ロッド式や、カンビオコルサのようなレバー式であったが、
フランスニベックスのパンタグラフRD→カンパグランスポルト→リターンスプリング内臓
で、ようやく、バーエンドコントローラーが使える流れとなった。

70 :
バーエンドコントローラー70年の栄光の歴史・・・まとめ
1952年のツール Bianchiチームのカレーラ"サンドリーノ"がバーコンを登場
1956年のジロ フィオレンツオ・マーニ(NIVEA時代)はバーエンドコントローラーを使用し、
     以降、ジロで3回総合優勝を成し遂げる。
2019年 12段スーパーレコード及び、9001 11段デュラエースでも使われている。
ENE シクロのバーエンド・コントローラーの今後の成長も楽しみである。

71 :
メルクスの軽量化時代と少し重いバーエンドコントローラーの関係

1972年のジロ 山岳でトップに躍り出て、マリアローザを着た
マヌエル・フエンテ(KAS)はバーエンドコントローラーを装備し、
手元変速を行っていた。
Wレバーのマイヨーアルカンシェルを着た世界最強のメルクス(モルテニ時代)と戦った。

72 :
山岳王フエンテのバーエンドコントローラーの方がWレバーより+100g重いんだけど、
山岳に強いんで、軽量で世界最強のメルクスが相手でも全く無関係。
しかもメルクスはスモールハブだが、フエンテはラージハブなので、+30gは重い。
体重的にどう考えても逆なんだけど、フエンテはラージハブを好んでいた。

>1972年のジロ 山岳でトップに躍り出て、マリアローザを着た
>マヌエル・フエンテ(KAS)はバーエンドコントローラーを装備し、
>手元変速を行っていた。
>Wレバーのマイヨーアルカンシェルを着た世界最強のメルクス(モルテニ時代)と戦った。

73 :
ここからは、「世界の英雄とラージハブの歴史」となります。

74 :
バーエンドコントローラー70年の栄光の歴史・・・世界の英雄達まとめ

○ジョバンニ・ピナレッロ(ジロで最下位のマリアネーラ)
1951年のジロでバーエンド・コントローラー愛用
昨今は、ピナレロプリンス、オペラで知られている。

75 :
○フィオレンツオ・マーニ
バーエンド・コントローラー愛用
○マヌエル・フエンテ(スペインの山岳スペシャリスト)
1972のジロとツールでバーエンド・コントローラー愛用

76 :
○ルイス・オカーニャ(スペインの山岳スペシャリスト)
バーエンド・コントローラー愛用

77 :
「世界の英雄とラージハブの歴史」を開始します。

78 :
○ルイス・オカーニャ(スペインの山岳スペシャリスト)
バーエンド・コントローラー愛用
の逸話を忘れていました。

79 :
1973年のロード世界選手権(もっとも有名な一つ)
スペインはバルセロナのモンジュイック サーキット

4輪と2輪のサーキットですから、当然、平地向き。

80 :
>1973年のロード世界選手権(もっとも有名な一つ)
優勝 ジモンディ(メルクス最大のライバル、Bianchi)←1970年代のイタリアの英雄
2位 メールテンス(ベルギーの新人スーパースプリンター)←←後に世界チャンプ2回の超人
3位 ルイス・オカーニャ(山岳王ながらスプリント合戦に参加!)←←←←
4位 メルクス(世界のスーパースター、山岳王に抜かれた!)←←

81 :
以上から、山岳スペシャリストは世界最強のスプリンター
とサーキットのような超高速コースでも勝負できると分かりました。

バーエンドコントローラーは最高のパフォーマンスを披露すると分かりました。
但し、この時は、Wレバーとどっち使っていたか、不明。

82 :
↓日本人だと、まさにあのレジェンドの「市川」を彷彿とさせます。

>3位 ルイス・オカーニャ(山岳王ながらスプリント合戦に参加!)←←←←

83 :
>1973年のロード世界選手権(もっとも有名な一つ)
○使用パーツに注目です!
(ジモンディ)カンパスーパーレコード←
(メールテンス)島野71デュラエースクレーン←←←←←
(ルイス・オカーニャ)カンパ スーパーレコード←
(メルクス)カンパスーパーレコード←←←←←

84 :
これには、30年間論争されている諸説あります。
最後は老舗マニア店で出てきた会話ですが、なんとなく最後の気がします。
(ジモンディ説)メルクスは、最後にスタミナが切れて千切れただけ。
(メールテンス説)メルクスは、勝つ気が無いことを教えてくれなかった。
(メルクス説)メールテンスの勢いが良過ぎて、出遅れ、スタミナ切れになった。
(フランス新聞説)シマノのメールテンスを勝たせない為に、メルクスがジモンディに勝ちを譲った。
(日本のベテランのファンの説)逆にシマノがデビュー戦でメダル取れるように、
メルクスがメールテンスに勝ちを譲ろうとしたが、ジモンディに差されて、2位になっただけ。

85 :
「世界の英雄とラージハブの歴史」を開始します。

86 :
○ファウスト・コッピとラージハブ
ビアンキで、コッピは結線スポークで組んだ
カンパラージハブLFQR 36Hで8本組みのホイールを使っている。

87 :
○1960年代のフランス選手とラージハブとセンタープルブレーキ
フェルディナン・ブラック
ジャック・アンクティル
等々 この頃は、マイヤールやペリシェ(フランスの英雄)など
フランス製のハブが沢山あり、ラージハブの選択肢が沢山あった。

88 :
栄光のCOLNAGOとイタリアの英雄そして上級者が選ぶパーツの歴史

89 :
>栄光のCOLNAGOとイタリアの英雄そして上級者が選ぶパーツの歴史

時は1940年代〜1950年代のバルタリとコッピの争いは終わりに
近づいていた頃。変速器がグランスポルトに代わった頃。

90 :
目次
(1)(1950年代)フィオレンツオ・マーニとバーエンドコントローラー
(2)(1960年代)ジャンニ・モッタとラージハブ
(3)(1970年代)エディ・メルクスとヌーボレコードそしてスーパーレコード
(4)(1980年代)ジュゼッペ・サロンニと後期〜最終スーパーレコード、そしてC35から40へ

91 :
(1)(1950年代)フィオレンツオマーニとバーエンドコントローラー

1953年カンビアーゴでCOLNAGOが創業する。
1956年 フィオレンツオマーニがバーエンドコントローラーでグランツールを戦う。

92 :
(2)(1960年代)ジャンニ・モッタとラージハブ

意外に知られて居ない、1960年代のイタリアの英雄
かつフレームブランドの創業者ジャンニ・モッタの歴史を始めます。
これは長いですよ。

93 :
1943年 ジャンニ・モッタ誕生
1957年 14才(原宿にもある)モッタ菓子店でアルバイト
片道25km!を重い実用自転車(後にロード)で通勤する。
その能力を見抜いた従兄弟から、選手を勧められる。

94 :
→まずは毎日50km程度、走り、疲れたら、
イタリア菓子でも食べるのが良い。と分かる。
毎日50kmも走ったら大半の人は疲れて、バイトにならないので、
その時点で、ロード選手の才能が無いと分かる。

95 :
アマ時代、ジャンニモッタはCOLNAGOを使っていた。、
1959年 16才でアマ自転車レースを始め6勝する。
1960年 13勝 通称ソルマーノの壁で一流プロを抜き去る
1961年 20勝
1962年 イタリア選手権で優勝
1963年 ディレッタンテで13勝、国際チームロード代表

96 :
この頃、COLNAGOをメカニックとして、モルテニチームが結成される。

97 :
COLNAGOはフレーム供給を中断し、ボッテッキアに1966年まで依頼する。
以降、モルテニ時代のジャンニ・モッタはボッテッキアに乗る。

98 :
1964年 COLNAGOの紹介でモルテニでプロデビュー。
    いきなりジロで総合5位に入り、ロンバルディアで優勝
(ジロではカンパのラージハブを使って、グラベルを走り、スプリントを行った。)

99 :
>1964年 ジロの結果
1位 アンクティル(フランスの英雄、アワーレコード)
2位 イタロ・ジリオーリ 当時の名選手('64'65とジロで連続2位!)
3位 デロッソ 当時の名選手
4位 アドールニ(1965年ジロ優勝、1968年世界チャンプの英雄)
5位 ジャンニ・モッタ(21才)←←←

100 :
そりゃ、有名超一流プロもびっくりだよ。ウサインボルトに出会ったようなもんだもん。

>1960年 13勝 通称ソルマーノの壁で一流プロを抜き去る
>↓
>1964年 いきなりジロで総合5位


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