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消えた赤線放浪記 2


1 :2018/12/12 〜 最終レス :2020/04/05
失われつつある旧赤線地帯や寂れた風俗街について語りましょう

2 :
*前スレ
http://itest.2ch.sc/matsuri/test/read.cgi/travel/1286474033

3 :
>>1
乙です

4 :
まさかの2軒目

5 :
遊廓・赤線に関わっていた人々は、遊客も含めて全国各地に大勢いたわけで
その事実が、時が経つにつれて忘れられ、伝えられず、あるいは意図的に隠されていったことは非常に残念ですね
木村聡さんも、自分の父や伯父が広島県三原市の糸崎遊廓内にあった豆腐屋で育っていたことを、赤線の本を出版した後で打ち明けられたそうです (日経新聞 2008・3・21)

6 :
ひつまぶし…蓬莱軒
味噌カツ…矢場とん
手羽先…風来坊or山ちゃん
味噌煮込みうどん…総本家or本店
きしめん…吉田
どて煮…島正
天むす…千寿
エビフライ…海老どて
あんかけスパ…ヨコイ
鉄板スパ…ユキ
台湾ラーメン…味仙
カレーうどん…鯱乃家
名古屋コーチン…一鳳
小倉トースト…リヨン
変わり種…マウンテン
ファーストフード…スガキヤorコメダ
ういろう…青柳or大須
鬼まんじゅう…浪越軒

7 :
京都・旧五条楽園の「五條製作所」もそうですが
豊橋・旧有楽荘の「富久有」も内部をリノベーションして、キレイになり過ぎてしまっているのは残念です
そのままにして置けない箇所だけを補修する形にしていただきたかったですね
余計なお世話ですけど…

8 :
>>6
半田の生せんべい入れろって言ってんだろ

>>7
京都の平岩なんかただの旅館だもんなぁ
屋上出られたのはちょっと楽しかったけど

9 :
>>8
平岩の屋上から何か見えるんですか?


>>6
個人的には
エビフライ…まるは食堂
鉄板スパ…はせ家

ですw

10 :
>>6
ファーストフードじゃなくてファストフード

11 :
山口瞳『血族』(1979)は、母親が横須賀・柏木田遊廓の「藤松楼」の娘だったという事実を知って、ショックを受けたという内容でしたが、自分としてはピンと来なかったですね
母親は姑から罵倒されて、子供には隠すようになったようですが
山口氏のような赤線を経験している世代であっても、遊廓への偏見が刷り込まれていたんだなと思いました

12 :
>>11
だから息子がアル中なのか

13 :
山口瞳の母方の曾祖母が妓楼を取り仕切っていたそうですが
大門から入ってすぐ、交番の近くという立地条件もあって、廃業となってしまったようです

同じ柏木田遊廓で、若い頃修業された桂歌丸の祖母もそうですが、遊廓は経営者として女性が活躍していた場所でもあったんですよね
これは赤線でも同様です
娼妓が搾取された虐待されたという点のみを強調して、そういう事実を故意に無視している方が結構いるのは残念だなと思います

14 :
大阪の飛田新地を冷やかしてきました。
明るい時間でしたがなかなかの雰囲気でしたね。
川崎あたりともまた違い、店に風情があって、統一されていて。
おねーちゃんはなかなか綺麗でした。ちょっとお高いのと自分と趣味ではなかったんで上がりませんでしたが。

15 :
あれで高いとか普段どんな店行ってんだよ

16 :
>>15
普段は駅前の早朝ソープなので…

17 :
>>2
佐渡島の遊里が気になる。

18 :
岐阜県大垣市墨俣町 夜城園跡

加藤政洋『敗戦と赤線』によると
花街→戦時中の慰安施設→赤線という経過を辿った場所のようですが
『墨俣町史』と1960年頃の住宅地図を照合することによって、1954年当時の特飲店27軒の所在地が明らかになります
特飲店だったと勘違いしてしまうような料理屋風の古い建物が残っているところから、戦前の花街(盛栄社組合)は相当な規模だったと推測できますね
しかし現在では、数年前まで営業していた店も閉じ、寂れが進んでいるといった印象でした

19 :
放浪している方のTwitter読んでいたら、遊廓や赤線に批判的な人の声が相当あって
皆さん既に廃止されている場所を非難しても仕方ないのにと思ってしまいました
歴史を知る前から、思想的、宗教的そして政治的なフィルターを備えてしまっては、自分に学習能力がないと告白しているようなものですけどね

本当に遊廓や赤線に関心があるのであれば、当時の社会情勢を含めて真面目に勉強してもらいたいです

とりあえず、カストリ書房にでも行ってw

20 :
男女問わず性的なものに嫌悪感を抱く人が増えているそうですし、性奴隷なるものが世界的に広まってしまっている現状ではなかなか理解が難しいものなのでしょうかね

21 :
その一方で、知る人ぞ知る場所を覗いてみたいという興味本位の人も、少なからずいると思います
前スレに、吉田類の酒場放浪記みたいな探訪番組やってもらいたい、とかありましたけどw
これ以上はメディアに出してもらいたくないですね
現役の場所は宣伝したい、集客したいと考えるのでしょうけど…

22 :
井田真木子『温泉芸者一代記』

大正・昭和に神奈川県湯河原町で芸妓をされていた方に取材した本で、酌婦も含めた小さな花街の発展と衰退の実態が描かれています
すぐ隣の静岡県熱海市とは規模が全く違いますね

23 :
湯河原のペン街は行政区分上は熱海市泉なんだよね(笑)

24 :
>>23
ご指摘ありがとうございます

25 :
おそらく町田南口の「田んぼ」と同じく、裏稼業の人々が行政管轄の隙間を狙ったんでしょうね。
「田んぼ」も相模原市南区にありますし。

23区内でも、渋谷、新宿、中野の三区境にテキ屋の怪しげなドヤが数年前までありました。
火事で焼けましたが。

26 :
岐阜県立図書館のサイトで「花魁道中絵はがき」を検索すると
花魁道中だけでなく、金津遊廓・花菱楼の外観、内観、モガスタイルの娼妓たちの画像を見ることができますね
花魁道中の絵はがきは、岐阜市歴史博物館に所蔵されているものと同一で、1932年のものだそうです
花菱楼の写真も昭和初期なのでしょう
当時流行の洋風妓楼という感じですね

貴重な史料が残っているのは嬉しいことです

27 :
>>25
そのみっつの区界って、西新宿五丁目駅から少し北のあたり?

28 :
>>27
そうです。ドヤは羽衣湯から山手通りに出る路地沿いでしたが、今は更地になってるようですね。
台地北面の古い擁壁にラーメン屋台がずらりと並び、粗末な木造二階家にテキ屋のおっさん達が寝起きしており奇観でした。
火事で焼け落ちた後も、暫くは黒焦げの建物に無理やり住んでましたね。

29 :
神社街道巡りしてるうちに、この界隈も気になって来た
人のいない早朝にいくつか行ってみたけど
黄昏てる雰囲気とか何回も通り過ぎてた駅にそういうところあったんだって発見から楽しい

30 :
>>26
続き

その後の花菱楼ですが、1944年に他の妓楼と共に建物を軍需企業の寮に提供して、移転先の手力で営業を続けたことは推定できます
戦後、市の中心部に戻った金津園では、『岐阜商工名鑑』(1952年)に特飲店「花菱」として掲載されていますし、赤線末期の1957年の住宅地図にも記されています
ただ、この時点では経営者は代替りしています

そして、赤線後は廃業したのかトルコ風呂に転業したのかは不明です

31 :
>>30
付記

かなり詳細なサイト「金津園ソープ徹底攻略」のコラム欄や住宅地図などを参照すると
「花菱」のあった場所は、「トルコ ギフ」となり、トルコ風呂・ソープランド時代に次々と店名も変わり、数年前に摘発による廃業があったようで、現在は「L」という店の西側の更地となってしまったようです…

昔の光 今いずこ

32 :
松川二郎『全国花街めぐり』(1929)によると、
新潟市を代表する花街・古町で芸妓と遊興する場合、「特別祝儀」は30円・50円が最も普通で、20円位もある代わり100円、200円という例も少なくないとのこと
当然、これ以外に通常の花代、待合の席料、遊興税もかかります

ちなみに、1930年の大卒初任給は73円だそうです
娼妓と比べると芸妓は写真で見てもキレイなんですが、さすが越後美人は高嶺の花、いや高値の花だったんですねw

33 :
金津園特有のピンクチェアーは映えるね

ある意味遺産かも

潜り椅子の進化系でもゴールドチェアーの方が背面運動もありスタンスが広く実質的快楽度はピンクより上なんだけど

演出効果としては今一なんだよね。

34 :
松川二郎『全国花街めぐり』の岐阜のページには、花街の一つとして高岩町が記されていて、「たかいはちやう」と振り仮名がついているのですが
現在は「こうがんちょう」という読み方になっています
ここは今でも岐阜芸妓組合の事務所が存在する町なのですが、一体どういう経緯で読み方が変わったのでしょうか?
芸妓や舞妓にそう読ませたいという下心があったのではと勘繰ってしまいますw

35 :
金津遊廓は初代総理の伊藤博文も登桜した。

確かそんなキャッチフレーズがあったような(-_-;)

36 :
いつまでもあると思うな妓楼カフェ


平成最後のモットーとさせていただきますw

37 :
米倉涼子に古着は似合わねえけど篠原涼子は似合ってたな。

38 :
殿山泰司『三文役者 あなあきい伝』(1974)

京都の芸娼妓両本位の遊廓(祇園乙部と宮川町)では、娼妓も芸妓と同様に貸席に呼んで遊興する送り込み制という形になっていましたが、
殿山さんの戦前の経験によると、遣り手が店先で遊客に声をかけ値段の交渉が行われていたようです
松川二郎さんはシステムについては詳述してくれますが、具体的な流れについては書いてくれなかったので、こういったエピソードが実に貴重ですね

39 :
ある市立図書館で1958年発行の商工名鑑を閲覧したところ、「特殊飲食」のページに白い紙が糊付けされていました
10軒ほどの店名、所在地などの大まかな情報が掲載されているようなのですが、白い紙がしっかり貼り付けてあるために、文字を読み取ることができませんでした
どなたか地元の正義感に燃えた方が、紙で隠したのでしょうか?
公共の資料を破損させてまでの情熱の強さには呆れるしかありませんでしたw

40 :
>>39
どこ?ある市ってどこ?!

41 :
>>40
もちろん、過去に遊廓そして赤線があった都市です
どこかという事より、そういう行為がなされてしまう現代の悲しさについて書き込んだ次第です

42 :
愛知県豊橋市吾妻遊廓

1927年の豊橋市街地図には、遊廓の隣の北ノ坪という町に競馬場が記されています
現在の栄町・東光町あたりですが、1925年に建設されて1931年に岡崎市羽根町に移転されるまで競馬が開催されていたそうです
また、戦後の1949年には、赤線・東田園ができる場所から市電の向こう側に競輪場が開設されています

まさに「飲む、打つ、買う」が街を発展させていた時代ですねw

43 :
『郷土研究 上方』の昭和8年の号には、その年の4月21日に行われた島原遊廓の太夫道中のレポートが掲載されています
登場した太夫の名前、置屋の名前、髷の種類、禿と引舟の名前も記されています
当日は遊廓内に多数の見物人(おそらく数百名)が桟敷にぎっしりと集まり、午後4時から1時間ほどの伝統的な行事を楽しんでいたようです

このように華やかで堂々とした文化の街だったわけで、
一部の研究者のように、単なる売買春の場で、ダークな地域とのみ考えてしまうのは相当に無理があると思われます

44 :
永峯清成『講談社の絵本の時代 昭和残照記』(2014)
名古屋の中村遊廓と大門界隈の回想が懐かしさをもって語られる箇所があります

地域住民にとって、「廓」「新地」と呼ばれる街は、特別に異様な場所ではなかったということですね

45 :
大阪の松島新地は遊郭時代からの記録があるみたい
どこへ行けば読めるのだろう
どなたかご存知ですか?  

46 :
>>43
同じく、福原貸座敷組合が取り決めた遊興代と台の物の値段表(昭和6年7月1日)が掲載されていますが
親子丼・天丼が60銭、鰻丼が80銭など当時としては、やや高額な設定ですね
当然、妓楼側にキックバックがあったのでしょう
ここは繁華街に隣接した遊廓なので、手頃な食事処があったはずですから、遊客が娼妓に奢る場合が多かったのかもしれません
貧しい農村出身の娼妓たちにとっては、結構なご馳走だったと思われますね

47 :
四日市市 旭新地跡

かつて富田旭町にあった赤線跡です
現在は、豊富川に掛けられた「みかえり橋」の袂に旭町という標識がありますね
区域は、東富田14・15・19・20番地だと考えられます
埋め立てによって旭町がつくられ(1928年)、近隣に散在していた料理屋や芸妓置屋などが集められた花街だったようです
その後、戦時中の慰安施設という流れになったのかは不明ですが、戦後は赤線となりました
昭和32年3月現在で17軒、同じく朝明待合組合に属する住吉新地と併せて73名だったそうです(『四日市市社会福祉事業史』)
隣町には戦前の「衆楽館」に始まる映画館が昭和半ばまで開いており、メインストリートの裏手には、「富喜湯」という銭湯が平成まで営業していました
そういう賑やかだった街も、今では数軒の遺構を残すだけの静かな住宅地となっていました

48 :
当時を知っている方が、遊廓や赤線を回想して語る言葉に
「(女性たちは)可哀想やった」とか「(売防法が成立して)良かった」といった内容が多いようですが、どこまで本音なのかなという気はしますね

老いた現在の立場で考えると、そう言いたくなる
取材に来た人も、そう言ってもらいたいんだろうな
廃止された現在では、そう言わなくてはならないな…

そういった配慮が働いている可能性があるので、話半分に聞いておく方が良いのかなと受け止めてしまいます
当時の遊び仲間が集まると、「〇〇楼にいた娘は良かった」とか内輪では話していても不自然ではないなと…

49 :
中川徳右衛門『波娜婀〇女』(明治38年刊、大正14年7版)
〇:おんなへんに耶
こんな字あるのでしょうか?
各図書館でも表示に苦労しているようですw
「はなあやめ」と読むんだそうです

名文調で島原遊廓と角屋の歴史、太夫たちの故事が語られています
奥付に《非賣品》とあるところから、おそらく遊客や関係者に配布して、宣伝の一端とした書物なのでしょうが、伝統への誇りが情調を尊重した文章からひしひしと感じられます
近世以前の内容ばかりでなく、明治以降の状況についても書いてもらいたかったですね

50 :
『産業観光 岐阜市と其の近郊』(1953年)によると
金津園 ショート300〜500円、泊まり2000円、設備の割には格安
国際街 ショート300〜500円、泊まり1000〜2000円、安バラックだが素人からの転向組多い
ハルピン街 泊まり600〜700円、小規模
青線区域(駅前、金公園付近) ショート300円、泊まり1000円以下

国際街とハルピン街が赤線地区のように扱われているところに違和感がありますが、当時の遊客の感覚だったのでしょう

51 :
令和を迎えても残存している遺構に感謝

非難される事柄の象徴としてでなく、時代の名残として

52 :
滋賀長浜の南片町遊郭を探索。
妓楼も壊されたものもあるが、一部は現役の飲食店になっていて、水路を挟んだ町割りを含めまだ往時が偲ばれる感じ。
ベンガラ色の壁と格子窓の店が印象的。

53 :
田中泰彦『京都遊廓見聞録』

京都各地の遊廓が栄えていた頃と赤線時代の貴重な写真が掲載されています
島原に関する記述が3割を占め、太夫道中ファンに喜ばれる写真が多いですね
ただ、昭和22年の特例を以って太夫道中を説明してしまうという妙な箇所があります
非常に勉強になるブログ「花街ぞめき」(2016・7・19)で指摘されている通りです
また、後書きにも
太夫が「外八文字を踏む」という凡ミスがあったのも残念でした

54 :
歴史の中の遊女・被差別民 : 謎と真相
が、メルカリで安く手に入ったわい。
あとで読むぞ。

55 :
飛田新地料理組合によると、6月28・29日はG20首脳会合のため、料亭全店(159店)が休業するそうです
大きなイベントのたびに潰されてきた大阪の風俗店の歴史を考えると
そろそろ終わりの時期が迫っているのかなと想像してしまいます
2025年の万博までには飛田も営業停止になる可能性がありますね
他の新地も同様なのかもしれません
せっかく残っていた遺構も解体されてしまうでしょうね

56 :
飛田の当たりは中華街構想があったり外国人向けの街に成り代わるかもしれませんな

松島も阪神と地下鉄の乗り継ぎ地点で外国資本にその価値に目を付けられたら買われてしまいそう

57 :
また放火とか無いといいけど、正直心配。

58 :
飛田新地は、一週間前の6月21日から30日まで、G20にあわせてつくった統一の白いのれんを全店舗の店頭にかける「のれん祭り」を催すとのこと

一時的に張見世を陰見世に自粛せよという当局からの指導が、何故か「お祭り」にw

59 :
松島新地は27日〜30日の4日間休業だそうですね

60 :
今里、滝井は休まないのかな?

61 :
横浜の永間遊郭の南にあたる中村町から石川町にかけて、どう見てもアレな意匠の戸袋の家がたくさんある
昔は青線的なやつだったのかな?

62 :
飛田新地で料亭の経営やスカウトマンの経験があるという杉坂圭介さんが、開沼博『社会が漂白され尽くす前に』で語っていますが
今里や滝井のような小規模の新地は、経営者の数が少ないため、当局が真っ先に潰しやすいとのことです
そのあたりの動きが始まったら、大きな新地も営業停止→遺構解体へと進んで行くのかもしれません

63 :
『愛知県警察史』第2巻
大正から終戦までの主な刑事事件の概要が記されている章があります
昭和17年に起きた連続強盗殺人事件の犯人は、各地での犯行の合間に2度も遊廓で登楼しています
岡山市の東遊廓と大阪市の飛田遊廓です
大金を取得した刑事犯が遊廓で豪遊するというパターンは結構知られていますが、どちらも泊まりでの遊興だったようで
岡山では敵娼が余程気に入ったのでしょう、金の指輪をプレゼントしていたそうです
残虐非道な犯行を繰り返した犯人なのですが、こういうところに人間味を感じてしまいますw

64 :
吉村昭の陸奥爆沈にも、日本海軍の素行不良水兵が遊郭で散財するさまが描かれてるな

65 :
岐阜県多治見市西ヶ原遊廓跡

遊廓の入口すぐ右手には岐阜県立西ヶ原治療院があり、『多治見市史 通史編 下』には写真が掲載されています
その病院については、上村行彰『日本遊里史』(1929)の一覧表にも記されています
赤線時代の治療院については不明なのですが、1968年の住宅地図によると、治療院があった場所には岐阜相互銀行多治見支店があります
『写真集 思い出のアルバム 多治見』(1984)でも、その場所に銀行の支店が建っているのが確認できます
しかし、現在では同じ場所にクリニックが建っています
診療科目には婦人科などは無いようですし、新しい立派な施設のようです

この街の歴史を知った上で現地を歩くと、ちょっと不思議な気持ちになってしまいました

66 :
スレは上がるが何も見えないwww
またあいつかwww
自分のことは棚に上げてまたほざいてるんだろうなwww

全ての原因 散々煽ってきておいて茨城スレに泣きつく負け犬ポチwww
被害者面して自演を繰り返すキチガイwwwwww

591列島縦断名無しさん2019/06/06(木) 08:30:07.05ID:TSkOLjNx>>592
あみなさんお気づきと思いますが、今、旅行板は、コピペを大量に貼ってスレを落とす荒らしが潜伏しています。
この荒らしは、以前から旅行板に潜伏していましたが、いろいろなスレで難癖をつけては、コピペ攻撃を開始し、次々にスレを落とし旅行板を亡き物にしようと必死になっています

このコピペ荒らしをスレから追放するためには、コピペ荒らしがコピペ連投でスレくぉ潰すより早く多くのスレをたてれば対抗が可能で、コピペ荒らしの心をおることが可能だと思います。
つきましては、現在狙われている以下のスレが、攻撃にあっていたり、落ちていたらスレたて代行してどんどん立てていただけないでしょうか?
コピペ荒らしは、重いレスを採用しているので、200レスを越えるとスレが落ちる可能性が高いです。

秩父・小笠原・石垣島・宮古島・沖縄本島・北海道・国内旅行質問・フェリー・1人旅

荒らしは、無視するのが、一番と思いのかたも多いかもしれませんが、コピペキチガイは、意図的に板全体を徐々に侵食しています
もしかしたら次に狙われるのはこのスレです
板一丸となってコピペ荒らしを追放に協力ください
698列島縦断名無しさん2019/06/06(木) 08:46:30.62ID:TSkOLjNx>>600
えー今まで荒らしは、自演したりなんだかんだで徐々に範囲を広げていたんですが、先日から新たに沖縄関連スレとフェリースレに手をつけてよくも悪くも手一杯になってきているんで、一番の対処法は、迅速にスレたてかと思っています
もうスレ埋める以外本人が小細工もやめたようなのでわかりやすいといえばわかりやすいですね
619列島縦断名無しさん2019/06/06(木) 09:29:01.13ID:TSkOLjNx
遅かれ早かれですよ
彼を追い出さないと板の混乱は、収まらないので、やっぱりみなさんで決意が必要かと思います
630列島縦断名無しさん2019/06/06(木) 09:40:49.88ID:TSkOLjNx
まああんなのりだね
いつも
自分は、どこかのスレの常駐じゃないんで、別に被害者ってことは、ないんですけどね
彼のことは、板全体で考えた方がいいと思っていますよ

あれだけ煽っておいてお前がすべての張本人ってことに気づかないバカwwwwwww

67 :
『新編 豊川市史 第4巻 通史編 現代』によると、
昭和25年、警察予備隊が海軍工廠の跡地の一画に駐屯したことで、その近く豊川稲荷裏の現・開運通へと赤線地区を移転させる計画があったそうです
しかし、文教地区という理由で反対運動が起こり、実現に至らなかったとのことです
この赤線・円福荘の施設は、昭和18年に特殊飲食街(通称 遊郭)として豊川町遠通に完成したという記述があります
この年は、海軍工廠の建設・拡充に呼応して、近隣4つの町村が合併し、豊川市が誕生したという重要な年です
そして、軍需産業都市の発展により、男性が女性人口の1、7倍にも増加していきます(昭和19年の市の人口調査)
しかし、なぜ緊迫度が高まっていた戦時下に遊興施設がつくられたのか? 特殊飲食街と海軍工廠との関連は? 赤線地区を駐屯地の近くへと移転させようとした理由とは?
残念ながら、それらについて明確な説明はありません
読み手に推測してもらいたいではなく、ハッキリと書いていただきたいですね

68 :
前スレで言及した豊橋市・東田園跡の「階楽」という店について

住宅地図の記載では
1958年 特飲店 階楽
1961年 トルコ風呂 旅館 階楽
1966年 トルコ風呂 かいらく

この店の記事が『週刊大衆』に掲載されていました(昭和42年10月26日号)
1階が6室のトルコ風呂、2階が旅館で、入浴料450円と格安だったようです
「サービス料次第」という文言が気になりましたw

69 :
休業期間の飛田へ行ってみようかな

さすがに写真NGなのでしょうけど…

70 :
休業中の飛田を歩いてきました

メンテナンスしているお店が多かったですね、声を掛けられずに建物を見られる有意義な時間でしたわ

71 :
廃業に追い込まれる前に見て回りたいですね

営業時間外にですがw

72 :
>>65
続き

江戸末期創業の鰻屋は遊廓・赤線時代を越えて存続しているようですが、1968年の住宅地図にあった転業旅館「大阪屋」は大きなマンションに変わり、メインストリートの中程の交番も今はありませんでした
街の所々に残る小規模な料理店や飲み屋小路の廃墟などが、往時の繁栄を少しだけ物語っていますね
裏手にある新羅神社内の稲荷社には石碑が残っていて、西ヶ原貸座敷組合が金六拾圓を昭和13年正月に寄付したと刻まれていることで、かろうじて街の歴史が偲ばれました

73 :
「令和」と聞いて名楽園跡の風俗店の名前が思い浮かんでから早くも3ヶ月w

74 :
花房ゆい『遊廓へ 女子ひとりで街歩き』

遊廓・赤線関連の文献に当たると、研究者なのかフェミニズムの闘士なのか区別できない女性の方が多いですが、こういう方もいるんですね

遺構や地元民との関わり方が自然で、遊廓・赤線に否定的な発言がありません
「宝くじが当たったら、旧妓楼を買い取って住んでみたい」
「遊廓があった時代の人々と心を通わせることができたような瞬間が、遊廓めぐりを続けることにつながっている」
など、共感できる箇所がありました

75 :
livedoor NEWS 2019・7・14

G20では全面自主休業 それでも観光客が殺到した飛田新地の魅力


儲かりまっせw

76 :
インスタの#カフェー建築 タグ普通の床屋とか道路標識とかについてるの最初は笑えたけどだんだんイライラしてきた

77 :
殿山泰司『三文役者のニッポンひとり旅』で
昭和初期でも、祇園乙部のみならず祇園甲部にも娼妓置屋があったことを地元の方に教えられて驚く箇所があるのですが、『全国遊廓案内』や上村行彰『日本遊里史』などに記されていることが実証される形となっています

現在の京都の花街関係者にとっては表に出したくない事柄なのでしょうが、
そういう法律も価値観も異なった時代を経過した後に今があるわけで、オーバーツーリズムに至ってしまっている昨今に、堂々と過去を語ったとして、大して悪影響があるとは思われないなと、考えたりしてしまいます

78 :
閑さや遺構にしみ入る蝉の声


拙句w

79 :
笑福亭松鶴(6代目)『極めつけおもしろ人生』

若き日の数々の武勇伝が語られていますが、
1933年頃、大阪の新町遊廓の妓楼前でぞめいている時、娼妓の取り合いからどつき合いが始まり、相手に拳銃を懐から出されて逃げたところ、後ろから何発も撃たれながらもジグザグに走って助かったというエピソードがあります
こんな修羅場もあったりしたんですね

80 :
赤線廃止後は「アルバイト料亭」と称して営業を続けていた飛田新地ですが、店先に女性が出て遊客を誘う形式は赤線時代と同様だったようです
ところが、『週刊大衆』(昭和41・4・21)には「店々の玄関に、やり手婆さんが立ち、手招きはしきり。その奥のノレンの影に、若い女の顔がいくつもならんでいる」
また「飛田や松島などは当局のキビシい通達で女も引き手婆さんも、すっかり店の奥に姿をひそめてしまった」(昭和42・5・4、同上誌)という記述があります
どうやら赤線時代と変わらない営業活動が問題となったようで、仲居たちは店内へと追いやられ、まさに令和元年のような「のれん祭り」状態となってしまっていたんですね

こういう結界のような存在を、風情があると考えるか、あるいは邪魔と考えるかは、人それぞれなのでしょう…

81 :
各地の名所が紹介されている戦前の絵ハガキに、遊廓の風景が写されている例がいくつもあるのは、現在の人間からすると奇妙な感じがします
現代社会のソープ街や現役の新地が、絵ハガキになることは決してないでしょうね
しかも遊廓の大通りや大門の近くに子供たちが集まっていたりするものまであります
やれ悪所だ、やれ苦界だと露悪的に語られていた場所であっても、壮麗な建物が立ち並ぶ繁華街として、地元の人々には注目され重んじられていた場所だったと推測できるのではないでしょうか…

82 :
柿くへば鐘が鳴るなり浄閑寺

合掌。

83 :
大阪の赤線跡で最も跡形が無い所こと港新地

84 :
>>80
続き

『週刊アサヒ芸能』(昭和42・4・9)にも
「昨年の秋までは、女が家の外に出て客を引いていたが、十月から各店とも のれんをかけて、女は店のなかに引っ込んでしまった。所轄署の警告で、業者が自粛の申し合わせをしたからだ。」と記されています
この当時の様子は野坂昭如『夢二乗』(1997)に描かれています
昭和42年の4月から9月頃のことだそうです
「玄関の前に、幅いっぱい長い紺の三つに割れた暖簾をかけ、裾を道にまで張り出させ錘しでとめている。斜めの暖簾のすき間から中がのぞけ、玄関の式台、片側の障子の後、左の壁際に座布団敷いて二、三の女が座る。」

85 :
田村隆一『女神礼讃』(1998)

1941か1942年頃、福島県・飯坂温泉で、祖父の財布から10円抜いて銘酒屋へ行き、2日続けて同じ酌婦と遊んだというエピソードが書かれています
遊廓だけでなく、私娼街もあったようですね

ちなみに、祖父は東京の鳥料理屋の経営者で、大塚三業組合の創業者の一人なのだそうです

86 :
大塚は三業地って今もわかりやすく残っているね

87 :
入り口の看板無くなっちゃったし、だいぶ成りを潜めてるけどね。

88 :
松島の店舗がまた1つ取り壊し

あんな所に普通の民家は建てないとは思うけど、どうなんだろうな

89 :
太田達・平竹耕三 編著『京の花街』(2009)

かつて遊廓であった京都市の花街における、年中行事・伝統芸能・建築・町並み保存などに関しての現況が詳しく語られています
「もともと京都では『廓(くるわ)』ということばが戦前まで使われていたが、昭和20年代の後半より『花街(かがい)』という語が用いられはじめ、島原も含む『六花街』または『五花街』といった名称が、昭和30年代に定着したようである。」

こういった文章に、赤線廃止運動の影響と売防法の成立・施行という歴史を、しっかりと感じ取るべきなのでしょう…

90 :
西成山王ホテルや飛田ホテルなど復刻した黒岩重吾の本には
売防法前後の話が内側から書かれていて面白い
ところで青線だが天六の民家や四貫島のスナックに
そのあとはまだ残っているようだ
飛田横の山王二丁目や太子はホモ宿が今もある

91 :
末廣旅館?

92 :
天六の娼家は飲食店街になっている場所にあったとか何とか

周辺に妖しい家はいくつかありますが

93 :
天六は北斎場に行く方向の路地にそれなりの民家が残る
西成太子のそれは大番アパートとか

94 :
四貫島の私娼窟だったらしい複数のスナックは今もそれなりの雰囲気あり
天六の民家は斎場の墓場通り横以外にも交差点北西を西へ入った路地に
昔の長屋がありかつてそういう所だったという記事を見たことがある
行ってみたら韓国人か沖縄の人の名前ばかりの長屋があり驚いた
飛田の末廣旅館のことをモチーフにおそらく書いた黒岩さんの短編が
西成山王ホテルに収録されている 主人公の男がそこの住人になっている話
そこはホモ宿ではなくドヤよりワンランク上の月極め家賃

95 :
四貫島は主に戦前で、戦後に復興した後は青線認定されないくらいのディープスポットだったのかな

96 :
戦後はスナック売春とかざらにあったものなあ
連れ出しや二階で

97 :
http://tatefesta.info/2019/ichiraku.html

こんなのあるぞい

98 :
太田三郎『風俗おんな往来』(昭和35)
著者の生家と大須の旭廓及び中村遊廓との関わりについて書かれている章があります
「お妾と本妻との話」
西枇杷島町(現・清須市)の青物問屋「問孫」の太田家は、「稲本楼」の稲川家と親戚関係なのだそうです

99 :
>>84
続き

1969年公開のドキュメント映画『にっぽん`69セックス猟奇地帯』には、暖簾をくぐって料亭に出入りする遊客たちの様子が紹介されています

昭和46〜47年に取材したという殿山泰司『三文役者のニッポンひとり旅』では、
「のれんのかかった明るい店の奥から、ヤリテババアの声がきこえる。店の外へ出て客を引いてはいけないことになってるらしい。」と書かれています
料亭に上がると、左側の溜まり場で4人の女性がラーメンをすすっていたそうです
陰見世ならではですねw
この頃は、今は亡き「飛田歓楽街」という赤いネオンのアーチがあったようです…

100 :
吉原は東京大空襲で焼失するまでは花魁、新造、禿とかが居る昔ながらの遊廓だったの?
youtubeで赤線消滅寸前の吉原映像見たらすっかり所謂赤線じゃないですか?

101 :
大阪の新町遊郭は戦前にはだいぶ縮小していたそうな

102 :
おく底の しれぬ寒さや 海の音 哥川

103 :
山城新伍『現代・河原乞食考』(1997)

著者の父は京都・西陣の千本で医院を開いていたそうです
「五番町や上七軒という有名な色街や芸妓の置き屋さんのある花街にも近かったからか、わが渡辺医院の待合室には芸者さんや昔でいうお女郎さんたちが大勢いた。淋病なんかを患って通って来る役者さんたちが、うちのメインのお客さんだった。」
「僕が役者になりたいと言うと、オフクロは烈火のごとく怒った。淋病を患った当時の大スターたちが、看護婦である僕の母親の前でオ〇ン〇ンを出しては洗浄させられていた。」
「『何言うてんのよ、役者なんて家へ〇ン〇ン洗いに来る人と同じやないの! 見てごらんなさい、家へ〇ン〇ン洗いに来る人を! 役者さんとか映画界の人ばっかりやないの、ロクなもんにならんから』と、猛反対。」

強烈な文章のため、一部伏せ字としていますw

そういえば、殿山泰司氏も淋病に罹っていたことを自著で明かしていましたね…

104 :
『写真が語る「百番」と飛田新地』(2019)
『飛田百番 遊廓の残照』(2004)刊行以降に、かつて百番の所有者であった菊地三郎氏の子息によって提供された写真が掲載されています
昭和25年正月に撮影されたという、百番の正面玄関前に並ぶ主人夫妻と接客婦たち、従業員たちの写真
昭和16年当時の妓楼の一覧図
百番以外の妓楼の絵はがき
など、後世に残る貴重な史料書となるでしょうね
素晴らしい!

105 :
ワイも見ましたわ、今は無き大型妓楼…

106 :
殿山泰司『日本女地図』(1969)
「1947年に、神戸で女を買ったとき、たしか加納町だったけど、その女の部屋の戸口が、まん中に二尺ばかりの開閉式の扉があるだけで、上下のあいている、つまり西部劇の酒場の入口みたいな扉であった。
女の上に乗っかってやりながら横を向くと、廊下を歩く男や女の腰から下が見える。だから向こうの人間がかがめば、こっちが丸見えになるわけだ。そんな部屋がずらりと馬小屋のように並んでいた。その凄まじい売春形態にオレはびっくりしたことがある。」

こちらも驚きですが、今後の研究課題としておきます…

107 :
中村遊郭跡の大型妓楼がまた一つ解体か…

108 :
奈良の京終駅から木辻遊郭跡へ向かうと豆タイルの時計屋と使途不明の建物に遭遇する

109 :
『目で見る岐阜市民の100年』(1984)には、昭和7年頃の写真として、ずらりと提灯が並んだ金津遊廓の夜景が掲載されています
「富久泉」のネオンが右手に写っていることから、『大日本職業別明細図』(1930)などを基にすると、大富町又は千歳町(当時)の通りであると推測されます
「富久泉」は当時の電話名簿によると、大正末には金津遊廓に妓楼を構えています
おそらく戦時中は手力へ移転したのでしょう、戦後も金津園の特殊飲食店として営業を続けていたことが、『岐阜商工名鑑』(1952)などで確認できます
1971年の住宅地図では、隣接する店がトルコ風呂、旅館に転業している中、トルコ風呂の駐車場と普通の飲食店の敷地となっています
赤線後は転業することなく廃業したのかもしれません
ブログ『金津園ソープ徹底攻略』のコラムによると、その後ソープが建てられ、店名変更を繰り返した後に、現在は「I」というソープが営業中です
現代のキラキラしたライトよりも、戦前のモノクロ写真のネオンの方に魅了されてしまいます…

110 :
>>99
続き
「『ニイさん遊んでいかはらへんか、オモロイで』 夜の飛田新地を歩くと、料亭のノレンの奥から、きまってこんな声がかかる。」
「ノレンをくぐると玄関の右側にガラス戸の待合があり、女のコが四人おもいおもいのポーズで寝そべって週刊誌を読んだり、テレビをみたりして客を待っている。」(『週刊大衆』1973・3・15)
1980年代になっても…
「軒を連ねて並ぶ店にはそれぞれ足の長い暖簾が下がり、風に揺れるその際に身を売る女たちの顔が見え隠れする。」(『潮』1981・3)
「『お兄さん、ちょっとちょっと』 暖簾の間から、割烹着姿のオバさんが、低い声で通行人に呼びかける。」(『FOCUS』1981・11・6)

111 :
食満南北『上方色町通』(昭5年)
「神戸の福原
これは又娼妓本位で、しかも東京流のまはしをとる処が、ちよつと上方としては変つてゐると云はなければならない。」

『全国遊廓案内』(昭5年)
「神戸市福原遊廓
遊興は時間制だから廻しは絶対に取らない。」


こういう同時期の史料に、全く逆の説明があると、後世の凡庸な研究者としては非常に困ってしまいます
単純に遊興制度の事柄のみならず、廻し部屋の有無という妓楼の内部構造に関わる事柄でもあります

殿山泰司『三文役者あなあきい伝』では
「関西の女郎屋は神戸の福原もそうだったけど、マワシのない関係上、満員になるとバタバタと店の戸を閉めてしまう。」

食満氏は著名な方で、花街・遊廓に詳しい通人なのですが…

112 :
奈良県立図書情報館に洞泉寺遊郭跡の貴重なお写真が
http://www.library.pref.nara.jp/supporter/naraweb/page_thumb13764.html

113 :
>>111

食満氏が選んだ川柳が記されています

懐手昼の舞妓にとりまかれ 茶十
流連のおちよぼにも何か買つてやり 同

こういう旦那衆が花街・遊廓の文化を支えていたんですよね

114 :
>>113
同じく…
生真面目で引子に顔をおぼえられ 当百
先斗町行合ふ傘を上と下 同

時代を越えて共感できますね

115 :
松島新地って自然な感じで商店街と繋がってるんだね

116 :
RGH

117 :
『岐阜花街案内』(1936年)に「笑婦街」という項目があります
芸妓、公娼、カフエー以外の遊興として私娼が取り上げられています

最初は昭和町に私娼窟が登場したが、浄化されたのか殆ど残っていない
現在では、金津遊廓周辺の神室町・金町あたり、そして梅川町(梅河町)・大正町あたり
あるいは岐阜駅東側の安良田町・長住町あたりに散在しているそうです
「名古屋市その他の都市のやうな、軒を並べた魔窟は無くなつた」とのことです

実数は不明ですが、小規模で散在していたせいか、『業態者集団地域ニ関スル調』には記されていない私娼窟ということになるようです

こういった場所も含めると、全国にあった色里の数は相当なものであったと推測しなくてはならないのかもしれませんね…

118 :
飛田新地の組合が依頼した本が発売されてましたな

119 :
小野常徳『コソコソ昭和史』(1975年)
著者は都内の赤線地区のフィルムを制作したことで研究者たちに知られている方ですね
愛知県一宮市の赤線・花岡園の見取り図が掲載されています
現在の泉2丁目の住宅地図と比較すると、郷土史の勉強になります

120 :
中村区の住宅で火事か

121 :
某大型書店では、『「百番」と飛田新地』が陳列してあった日本史コーナーでなく、写真集コーナーに置いてあった『百年の色街 飛田新地』
表紙がピンクで、ビニールが巻かれてありました
エロ本のようで、非常に買いにくかったですw

122 :
>>121
続き
古い資料が多く掲載されていたら良かったですね
百番については類書が出版されていますし、
料理組合の協力というメリットが感じられたのは、組合事務所や料亭の内部、営業中の街並みとかですね…

123 :
共栄街 (岐阜県岐阜市)
加藤政洋『敗戦と赤線』で、岐阜県下の青線の一つとして触れられています
戦後のヤミ市から発展した集娼地区なのだそうです
「共栄マーケット」という呼称もあることから、発生した経緯が推測されます
『岐阜市商工名鑑』(1951)には、神田町7丁目の「飲食店」として10軒が記されています
ちなみに、赤線の金津園は「特殊飲食店」となっています
1955年出版の住宅地図で確認すると、個別の店の屋号でなく、「玉森共栄街」とのみ書かれています
隣接する玉森町にまたがるマーケットとして誕生しながら、次第に青線化していったのでしょうか…

124 :
滋賀
https://bukkenfan.jp/e/6078720633640868288

125 :
新型コロナウイルス対策のため
各地の図書館が2週間ほど臨時休館やサービス限定状態となっています
研究と放浪に支障が…

126 :
洞泉寺町の取り壊しが決まってる妓楼の最終公開は今日明日だけか…

127 :
新名月に移転後の大阪住吉新地の歴史を知る
住之江区御崎の洋食屋「源ちゃん」が先日その歴史に幕を閉じた
客である芸妓さんらとの写真が飾ってあった
あの辺りはスナック街が一部残るのみ

128 :
滋賀の物件は、名古屋・中村遊廓にあった稲本楼の「伊吹の間」を思わせる傘天井が興味深いです
藤森照信『建築探偵 東奔西走』(1988)によると、稲本楼の方は京都・高台寺の茶席「傘亭」に由来するらしいですが、高台寺には吉野太夫(二代目)に関わる茶席「遺芳庵」もあります
かつては楼主たちも建築家たちも他の花街・遊廓まで赴いて、意匠を研究し合っていたのかもしれませんね…

129 :
飛田新地組合の前にあった永和信金山王支店が
防災会館に変わった
永和信金はもともと飛田の無尽から始まったらしく
松島にも支店があるところが面白い

130 :
労働省婦人少年局による「婦人関係資料シリーズ 調査資料」には、赤線関連の報告書が入っていて、赤線の実態を知るための貴重な史料ですね
『売春婦の転落原因と更正の問題』(昭和33年)、『婦人の更正に関する事例』(昭和35年)など差別的なタイトルの冊子には、各地の赤線に勤める女性たちの経歴、家庭環境、経済状況等の事例も具体的に紹介されていて、当時の社会の断面が窺われます

131 :
墨堤隠士『女魔の怪窟 昭和奇観苦心探検』(昭和7年)

京都「やとな」淫騒の一幕
新潟芸者の才色艶濃
山代山中温泉の湯女


昭和初期の各地の遊興地が語られています
いろいろと興味深いです

132 :
ふらっと川崎に行ったんですが、
聞いてはいましたがもう何にも残ってないんですね。
人のいない小料理屋wが並ぶだけ。
あとはただのソープ街。
もうずーっと昔のことですが、川崎の薄暗い小部屋の
化け猫みたいなおばちゃんと目があって。
手招きされて、結局恐くて入らなかったことを思い出します。

133 :
>>123
続き
『岐阜県史 通史編 続・現代』によると、戦後の物資不足の中、県の商工経済会が公設市場を数ヶ所設置しています
共栄街の近くの玉宮町にも開業したそうですし、神田町9丁目の「岐阜マーケット」や今沢町の「中央マーケット」は『岐阜商工案内』(1947年)に広告が出されています
しかし、それらとは異なり、自然発生的なヤミ市となると、単なる商取引の場だけではなくなっていったのかもしれません
共栄街の青線後の実態は不明ですが、1959年出版の住宅地図では「神田小路」と書かれています
転業により新しい街が出現したのでしょうか
令和の現在では、長良橋通りに面した5階建てのテナントビルと駐車場になっていて、往時の面影を見ることは全くできません

134 :
飛田新地が緊急事態宣言が出たら休業するそうな

135 :
行政には従順でないと生き残れないからね
西成署に対する接待といい、組合は徹底されていますね

136 :
休業中の新地に全国からファンが集まりそうな気もする

137 :
ニュースで見ましたが飛田新地休業らしいですね
再開まで長引けばそのまま無くなるのかもしれない

138 :2020/04/05
五輪期間中は休業の予定だったのでしょう
来年開催されれば、また休業
それに耐えきれない料亭は廃業
廃業するなら、その前に内部見学会をやっていただきたいですね
地域社会に貢献するという料理組合の姿勢に期待したいところです

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