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◎●○三島由紀夫の名言・格言○●◎


1 :2010/04/27 〜 最終レス :2020/03/14
三島由紀夫(本名、平岡公威)
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/bf/Yukio_Mishima_1931.gif
http://image.rakuten.co.jp/auc-artis/cabinet/s-2540.jpg
http://www.c21-smica.com/blog_century21_nobu/img_1596165_27088893_0.jpg
大正14年(1925年)1月14日、東京都四谷区(新宿区)永住町2に
父・平岡梓(元農林省水産局長)、母・倭文重の長男として誕生。
昭和45年(1970年)11月25日、自衛隊市ヶ谷駐屯地にて割腹自決。
http://www.geocities.jp/kyoketu/61052.html
檄文 三島由紀夫
http://www.geocities.jp/kyoketu/61051.html
演説文 三島由紀夫

2 :
真の芸術家は招かれざる客の嘆きを繰り返すべきではあるまい。
彼はむしろ自ら客を招くべきであらう。
自分の立脚点をわきまへ、そこに立つて主人役たるべきであらう。
三島由紀夫「招かれざる客」より

3 :
偉大なる戯曲がさうであるやうに、偉大な文学も亦、独白に他ならぬ。
三島由紀夫「招かれざる客」より

4 :
いかに孤独が深くとも、表現の力は自分の作品ひいては自分の存在が何ものかに叶つてゐると
信ずることから生れて来る。自由そのものの使命感である。
では僕の使命は何か。僕を強ひて死にまで引摺つてゆくものがそれだとしか僕には言へない。
そのものに対して僕がつねに無力でありただそれを待つことが出来るだけだとすれば、
その待つこと、その心設(こころまう)け自体が僕の使命だと言ふ外はあるまい。
僕の使命は用意することである。
三島由紀夫「招かれざる客」より

5 :
悪意は善意ほど遠路を行くことはできない
三島由紀夫「潮騒」より

6 :
男は気力や。気力があればええのや。
三島由紀夫「潮騒」より

7 :
芸術が純粋であればあるほどその分野をこえて他の分野と交流しお互に高めあふものである。
演劇的批判にしか耐へないものは却つて純粋に演劇的ですらないのである。
三島由紀夫「宗十郎覚書」より

8 :
小説の世界では、上手であることが第一の正義である。
ドストエフスキーもジッドもリラダンも、先づ上手だから正義なのである。
三島由紀夫「上手と正義(舟橋聖一『鵞毛』評)」より

9 :
女の部屋は一度ノックすべきである。しかし二度ノックすべきぢやない。
さうするくらゐなら、むしろノックせずに、いきなりドアをあけたはうが上策なのである。
女といふものは、いたはられるのは大好きなくせに、顔色を窺はれるのはきらふものだ。
いつでも、的確に、しかもムンズとばかりにいたはつてほしいのである。
三島由紀夫「複雑な彼」より

10 :
日本の女が全部ぬかみそに手をつつこむことを拒否したら、日本ももうおしまひだ。
三島由紀夫「複雑な彼」より

11 :
全然愛してゐないといふことが、情熱の純粋さの保証になる場合があるのだ。
三島由紀夫「絹と明察」より

12 :
若さが幸福を求めるなどといふのは衰退である。
若さはすべてを補ふから、どんな不自由も労苦も忍ぶことができ、かりにも若さが
おのれの安楽を求めるときは、若さ自体の価値をないがしろにしてゐるのである。
三島由紀夫「絹と明察」より

13 :
自由やと?平和やと?そないなこと皆女子(おなご)の考へや。
女子の嚔(くさめ)と一緒や。男まで嚔をして、風邪を引かんかつてええのや。
三島由紀夫「絹と明察」より

14 :
美人の定義は沢山着れば着るほどますます裸かにみえる女のことである。
三島由紀夫「家庭裁判」より

15 :
若い女といふものは誰かに見られてゐると知つてから窮屈になるのではない。
ふいに体が固くなるので、誰かに見詰められてゐることがわかるのだが。
三島由紀夫「白鳥」より

16 :
童話とは人間の最も純粋な告白に他ならないのである。
三島由紀夫「川端氏の『抒情歌』について」より

17 :
無秩序が文学に愛されるのは、文学そのものが秩序の化身だからだ。
三島由紀夫「恋する男」より

18 :
人間が或る限度以上に物事を究めようとするときに、つひにはその人間と対象とのあひだに
一種の相互転換が起り、人間は異形に化するのかもしれない。
三島由紀夫「三熊野詣」より

19 :
あまりに強度の愛が、実在の恋人を超えてしまふといふことはありうる。
三島由紀夫「班女について」より

20 :
美人が八十何歳まで生きてしまつたり、醜男が二十二歳で死んだりする。
まことに人生はままならないもので、生きてゐる人間は多かれ少なかれ喜劇的である。
三島由紀夫「夭折の資格に生きた男――ジェームス・ディーン現象」より

21 :
愛するといふことにかけては、女性こそ専門家で、男性は永遠の素人である。
男は愛することにおいて、無器用で、下手で、見当外れで、無神経、蛙が陸を走るやうに
無恰好である。どうしても「愛する」コツといふものがわからないし、要するに、
どうしていいかわからないのである。先天的に「愛の劣等生」なのである。
そこへ行くと、女性は先天的に愛の天才である。どんなに愚かな身勝手な愛し方をする女でも、
そこには何か有無を言わせぬ力がある。
三島由紀夫「愛するといふこと」

22 :
大ていわれわれが醜いと考へるものは、われわれ自身がそれを醜いと考へたい必要から
生れたものである。
三島由紀夫「手長姫」より

23 :
小肥りのした体格、福徳円満の相、かういふ相は人相見の確信とはちがつて、しばしば
酷薄な性格の仮面になる。
三島由紀夫「手長姫」より

24 :
老夫妻の間の友情のやうなものは、友情のもつとも美しい芸術品である。
三島由紀夫「女の友情について」より

25 :
ほんたうの誠実さといふものは自分のずるさをも容認しません。
自分がはたして誠実であるかどうかについてもたえず疑つてをります。
三島由紀夫「青春の倦怠」より

26 :
初恋に勝つて人生に失敗するのはよくある例で、初恋は破れる方がいいといふ説もある。
三島由紀夫「冷血熱血」より

27 :
詩人とは、自分の青春に殉ずるものである。青春の形骸を一生引きずつてゆくものである。
詩人的な生き方とは、短命にあれ、長寿にあれ、結局、青春と共に滅びることである。
三島由紀夫「佐藤春夫氏についてのメモ」より

28 :
自在な力に誘はれて運命もわが手中にと感じる時、却つて人は運命のけはしい斜面を
快い速さで辷りおちつゝあるのである。
三島由紀夫「軽王子と衣通姫」より

29 :
どんな世の中にならうとも、女の美しさは操の高さの他にはないのだ。
男の値打も、醜く低い心の人たちに屈しない高い潔らかな精神を保つか否かにあるのだ。
さういふ磨き上げられた高い心が、結局永い目で見れば、世のため人のために何ものよりも役立つのだ。
三島由紀夫「人間喜劇」より

30 :
小説家は人間の心の井戸掘り人足のやうなものである。
井戸から上つて来たときには、日光を浴びなければならぬ。体を動かし、思ひきり
新鮮な空気を呼吸しなければならぬ。
三島由紀夫「文学とスポーツ」より

31 :
われわれが美しいと思ふものには、みんな危険な性質がある。
温和な、やさしい、典雅な美しさに満足してゐられればそれに越したことはないのだが、
それで満足してゐるやうな人は、どこか落伍者的素質をもつてゐるといつていい。
三島由紀夫「美しきもの」より

32 :
ある女は心で、ある女は肉体で、ある女は脂肪で夫を裏切るのである。
三島由紀夫「反貞女大学」より

33 :
愛から嫉妬が生まれるやうに、嫉妬から愛が生まれることもある。
三島由紀夫「反貞女大学」より

34 :
軽蔑とは、女の男に対する永遠の批評なのであります。
三島由紀夫「反貞女大学」より

35 :
芸術家といふのは自然の変種です。
三島由紀夫「反貞女大学」より

36 :
女性はそもそも、いろんな点でお月さまに似てをり、お月さまの影響を受けてゐるが、
男に比して、すぐ肥つたりすぐやせたりしやすいところもお月さまそつくりである。
三島由紀夫「反貞女大学」より

37 :
ちやうど年寄りの盆栽趣味のやうに、美といふものは洗練されるにつれて、一種の畸型を求めるやうになる。
三島由紀夫「反貞女大学」より

38 :
小説でも、絵でも、ピアノでも芸事はすべてさうだがボクシングもさうだと思はれるのは、
練習は必ず毎日やらなければならぬといふことである。
三島由紀夫「ボクシング・ベビー」より

39 :
青春の特権といへば、一言を以てすれば、無知の特権であらう。
三島由紀夫「私の遍歴時代」より

40 :
男が女より強いのは、腕力と知性だけで、腕力も知性もない男は、女にまさるところは一つもない。
三島由紀夫「第一の性」より

41 :
「足が地につかない」ことこそ、男性の特権であり、すべての光栄のもとであります。
三島由紀夫「第一の性」より

42 :
動物になるべきときにはちやんと動物になれない人間は不潔であります。
三島由紀夫「第一の性」より

43 :
変はり者と理想家とは、一つの貨幣の両面であることが多い。
どちらも、説明のつかないものに対して、第三者からはどう見ても無意味なものに対して、
頑固に忠実にありつづける。
三島由紀夫「第一の性」より

44 :
↓↓↓これが、日本の参政権を要求している在日の思想です。こんな奴らに参政権とかありえません。↓↓↓
子供手当ての申請をした同胞に差別した公務員 2010-04-24
【投稿者】 同胞を差別する公務員は嫌い
つい先日、兵庫県尼崎市に暮らされる同胞が、タイ国に残す、実子のように愛情込めて育てられた養子554人分の子供手当て(約8600万円)を
申請したにもかかわらず拒否されたとのことです。これは人種差別ではないのでしょうか?
この子供手当ては、実子・養子の区別なく、条件を具備すれば本来認めらるはずのものです。そのため、同胞の中には世界中の孤児院を巡っては、
養子縁組により同手当ての恩恵を受け、前途ある子供の将来に希望を持たせようとしている者も多いと聞きます。中には、すでに数万人単位の
養子縁組を実現したという者もいるようです。にもかかわらず、今となって拒否するのは人種差別そのものではないでしょうか?
民主党代表にして内閣総理大臣の鳩山氏は、はっきりと「日本は日本人だけのものではない」と述べたはずです。だから、民潭および同胞が一団となり、
民主党を選挙で勝利に導いたのです。しかし、地方参政権の約束も果たさず、先ほどのような人種差別も改善されていないのは、本当に腹が立ちます。

民潭HP(削除済み)http://www.mindan.org/bbs/bbs_view.php?bbsid=9655&page=1&subpage=4037&sselect=&skey=
魚拓 http://megalodon.jp/2010-0424-0434-24/www.mindan.org/bbs/bbs_view.php?bbsid=9655&page=1&subpage=4037&sselect=&skey=
スクショ http://market-uploader.com/neo/src/1272052277474.jpg

45 :
日本的非合理の温存のみが、百年後世界文化に貢献するであらう。
平岡公威(三島由紀夫)「戦後語録」より

46 :
流れる目こそ流されない目である。変様にあそぶ目こそ不変を見うべき目である。
わたしはかゞやく変様の一瞬をこの目でとらへた。おお、永遠に遁(に)げよ、そして
永遠にわたしに寄添うてあれ。
平岡公威(三島由紀夫)「戦後語録」より

47 :
人間が為し得る発見は、あらゆる場合、宇宙のどこかにすでに完成されてゐるもの――
すでに完全な形に用意されてゐるものの模写にすぎない
平岡公威(三島由紀夫)「廃墟の朝」より

48 :
愛情の裏附のある鋭い批評ほど、本当の批評はありません。
さういふ批評は、そして、すぐれた読者にしかできないので、はじめから冷たい批評の
物差で物を読む人からは生れません。
三島由紀夫「作品を忘れないで……人生の教師ではない私――読者への手紙」より

49 :
ある小説がそこに存在するおかげで、どれだけ多くの人々が告白を免かれてゐることであらうか。
三島由紀夫「小説とは何か」より

50 :
空虚な目標であれ、目標をめざして努力する過程にしか人間の幸福が存在しない。
三島由紀夫「小説家の息子」より

51 :
相容れないものが一つになり、反対のものがお互ひを照らす。それがつまり美といふものだ。
陽気な女の花見より、悲しんでゐる女の花見のはうが美しい。
三島由紀夫「熊野」より

52 :
世界が虚妄だ、といふのは一つの観点であつて、世界は薔薇だ、と言ひ直すことだつてできる。
三島由紀夫「『薔薇と海賊』について」より

53 :
人が愛され尽した果てに求めることは、恐れられることだ。
三島由紀夫「芥川比呂志の『マクベス』」より

54 :
無神論も、徹底すれば徹底するほど、唯一神信仰の裏返しにすぎぬ。
無気力も、徹底すれば徹底するほど、情熱の裏返しにすぎぬ。
近ごろはやりの反小説も、小説の裏返しにすぎぬ。
三島由紀夫「川端康成氏再説」より

55 :
かういふ箇所(自然描写)で長所を見せる堀氏は、氏自身の志向してゐたフランス近代の
心理作家よりも、北欧の、たとへばヤコブセンのやうな作家に近づいてゐる。
人は自ら似せようと思ふものには、なかなか似ないものである。
三島由紀夫「現代小説は古典たり得るか 『菜穂子』修正意見」より

56 :
たとへば情熱、たとへば理想、たとへば知性、……何でもかまはないが、人間によつて
価値づけられたもののかういふ体系を、誰も抜け出すことができない。
逆を行けば裏返しになるだけのことだ。
三島由紀夫「川端康成再説」より

57 :
芸術家肌の作家ほど、作品世界の調和と統一に敏感であり、又これを裏目から支える風土の問題に敏感である。
三島由紀夫「川端康成の東洋と西洋」

58 :
悲しいことに、われわれは、西欧を批評するといふその批評の道具をさへ、西欧から
教はつたのである。西洋イコール批評と云つても差支へない。
三島由紀夫「川端康成の東洋と西洋」より

59 :
自分を理解しない人間を寄せつけないのは、芸術家として正しい態度である。
芸術家は政治家ぢやないのだから。
三島由紀夫「谷崎朝時代の終焉」より

60 :
男子高校生は「娘」といふ言葉をきき、その字を見るだけで、胸に甘い疼きを感じる筈だが、
この言葉には、あるあたたかさと匂ひと、親しみやすさと、MUSUMEといふ音から来る
何ともいへない閉鎖的なエロティシズムと、むつちりした感じと、その他もろもろのものがある。
プチブル的臭気のまじつた「お嬢さん」などといふ言葉の比ではない。
三島由紀夫「美しい女性はどこにいる」より

61 :
アメリカでは、成功者や金持は決して自由ではない。従つて、「最高の自由」は、
わびしさの同義語になる。
三島由紀夫「芸術家部落――グリニッチ・ヴィレッジの午後」より

62 :
芸術上の創造行為は存在そのものからは生れて来ない。
自ら美しく生きようと思つた芸術家は一人もゐなかつたので、美を創ることと、
自分が美しく生きることとは、まるで反対の事柄である。
三島由紀夫「女が美しく生きるには」より

63 :
生の充溢感と死との結合は、久しいあひだ私の美学の中心であつたが、これは何も浪漫派に限らず、
芸術作品の形成がそもそも死と闘ひ死に抵抗する営為なのであるから、死に対する媚態と
死から受ける甘い誘惑は、芸術および芸術家の必要悪なのかもしれないのである。
三島由紀夫「日記」より

64 :
愛はみんな怖しいんですよ。愛には法則がありませんから。
三島由紀夫「班女」より

65 :
女の批評つて二つきりしかないぢやないか。
「まあすてき」「あなたつてばかね」この二つきりだ。
三島由紀夫「邯鄲」より

66 :
男性は、安楽を100パーセント好きになれない動物だ。また、なつてはいけないのが男である。
三島由紀夫「あなたは現在の恋人と結婚しますか?」より

67 :
裏切りは、かならずしも悪人と善人のあひだでおこるとはかぎらない。
三島由紀夫「あなたは現在の恋人と結婚しますか?」より

68 :
世間ではどんなに英雄的に見える男でも、家庭では甲羅ぼしをするカメのやうなものである。
“男性を偶像化すべからず”職場での彼、デート中の彼から70%以上の魅力を差し引いたものが、
家庭での彼の姿。
三島由紀夫「あなたは現在の恋人と結婚しますか?」より

69 :
芸術には必ず針がある。毒がある。この毒をのまずに、ミツだけを吸ふことはできない。
四方八方から可愛がられて、ぬくぬくと育てることができる芸術などは、この世に存在しない。
三島由紀夫「文学座の諸君への『公開状』――『喜びの琴』の上演拒否について」より

70 :
しかし日本では、神聖、美、伝統、詩、それらのものは、汚れた敬虔な手で汚されるのではなかつた。
これらを思ふ存分汚し、果ては絞め殺してしまふ人々は、全然敬虔さを欠いた、しかし
石鹸でよく洗つた、小ぎれいな手をしてゐたのである。
三島由紀夫「天人五衰」より

71 :
悪は時として、静かな植物的な姿をしてゐるものだ。結晶した悪は、白い錠剤のやうに美しい。
三島由紀夫「天人五衰」より

72 :
人間の美しさ、肉体的にも精神的にも、およそ美に属するものは、無知と迷蒙からしか
生れないね。知つてゐてなほ美しいなどといふことは許されない。
三島由紀夫「天人五衰」より

73 :
目ざめてゐるときは自分の意志を保ち、否応なしに歴史の中に生きてゐる。
しかし自分の意志にかかはりなく、夢の中で自分を強いるもの、超歴史的な、あるひは
無歴史的なものが、この闇の奥のどこかにゐるのだ。
三島由紀夫「天人五衰」より

74 :
純粋で美しい者は、そもそも人間の敵なのだといふことを忘れてはいけない。
三島由紀夫「天人五衰」より

75 :
美は鶴のやうに甲高く啼く。その声が天地に谺してたちまち消える。
人間の肉体にそれが宿ることがあつても、ほんのつかのまだ。
三島由紀夫「天人五衰」より

76 :
一分一分、一秒一秒、二度とかへらぬ時を、人々は何といふ稀薄な生の意識ですりぬけるのだらう。
老いてはじめてその一滴々々には濃度があり、酩酊さへ具はつてゐることを学ぶのだ。
稀覯の葡萄酒の濃密な一滴々々のやうな、美しい時の滴たり。……さうして血が失はれるやうに
時が失はれてゆく。
三島由紀夫「天人五衰」より

77 :
意志とは、宿命の残り滓ではないだらうか。自由意志と決定論のあひだには、印度の
カーストのやうな、生れついた貴賤の別があるのではないだらうか。
もちろん賤しいのは意志のはうだ。
三島由紀夫「天人五衰」より

78 :
或る種の人間は、生の絶頂で時を止めるといふ天賦に恵まれてゐる。
三島由紀夫「天人五衰」より

79 :
……詩もなく、至福もなしに!これがもつとも大切だ。
生きることの秘訣はそこにしかないことを俺は知つてゐる。
三島由紀夫「天人五衰」より

80 :
日本で『育ちがいい』といふことは、つまり西洋風な生活を体で知つてゐるといふことだけの
ことなんだからね。純然たる日本人といふのは、下層階級か危険人物かどちらかなのだ。
これからの日本では、そのどちらも少なくなるだらう。
日本といふ純粋な毒は薄まつて、世界中のどこの国の人の口にも合ふ嗜好品になつたのだ。
三島由紀夫「天人五衰」より

81 :
スポーツマンだといふと、莫迦だと人に思はれる利得がある。
三島由紀夫「天人五衰」より

82 :
この世には実に千差万別な卑俗があつた。
気品の高い卑俗、白象の卑俗、崇高な卑俗、鶴の卑俗、知識にあふれた卑俗、学者犬の卑俗、
媚びに充ちた卑俗、ペルシア猫の卑俗、帝王の卑俗、乞食の卑俗、狂人の卑俗、蝶の卑俗、
斑猫の卑俗……、おそらく輪廻とは卑俗の劫罰だつた。
そして卑俗の最大唯一の原因は、生きたいといふ欲望だつたのである。
三島由紀夫「天人五衰」より

83 :
何かを拒絶することは又、その拒絶のはうへ向つて自分がいくらか譲歩することでもある。
譲歩が自尊心にほんのりとした淋しさを齎(もた)らすのは当然だらう。
三島由紀夫「天人五衰」より

84 :
この世に一つ幸福があれば必ずそれに対応する不幸が一つある筈だ
三島由紀夫「天人五衰」より

85 :
人間は自分より永生きする家畜は愛さないものだ。
三島由紀夫「天人五衰」より

86 :
この世には幸福の特権がないやうに、不幸の特権もないの。悲劇もなければ、天才もゐません。
あなたの確信と夢の根拠は全部不合理なんです。
もしこの世に生れつき別格で、特別に美しかつたり、特別に悪(わる)だつたり、
さういふことがあれば、自然が見のがしにしておきません。
三島由紀夫「天人五衰」より

87 :
老いは正(まさ)しく精神と肉体の双方の病気だつたが、老い自体が不治の病だといふことは、
人間存在自体が不治の病だといふに等しく、しかもそれは何ら存在論的な病ではなくて、
われわれの肉体そのものが病であり、潜在的な死なのであつた。
衰へることが病であれば、衰へることの根本原因である肉体こそ病だつた。
肉体の本質は滅びに在り、肉体が時間の中に置かれてゐることは、衰亡の証明、
滅びの証明に使はれてゐるこに他ならなかつた。
三島由紀夫「天人五衰」より

88 :
生きることは老いることであり、老いることこそ生きることだつた。
三島由紀夫「天人五衰」より

89 :
書き込み方がわからない

90 :
僕らは嘗て在つたもの凡てを肯定する。そこに僕らの革命がはじまるのだ。
僕らの肯定は諦観ではない。僕らの肯定には残酷さがある。
――僕らの数へ切れない喪失が正当を主張するなら、嘗ての凡ゆる獲得も亦正当である筈だ。
なぜなら歴史に於ける蓋然性の正義の主張は歴史の必然性の範疇をのがれることができないから。
僕らはもう過渡期といふ言葉を信じない。
一体その過渡期をよぎつてどこの彼岸へ僕らは達するといふのか。僕らは止められてゐる。
僕らの刻々の態度決定はもはや単なる模索ではない。
時空の凡ゆる制約が、僕らの目には可能性の仮装としかみえない。
僕らの形成の全条件、僕らをがんじがらめにしてゐる凡ての歴史的条件、――そこに僕らは
たえず僕らを無窮の星空へ放逐しようとする矛盾せる熱情を読むのである。
決定されてゐるが故に僕らの可能性は無限であり、止められてゐるが故に僕らの飛翔は
永遠である。
三島由紀夫「わが世代の革命」より

91 :
新らしさが「発見」であるとするならば、発見ほど既存を強く意識させるものはない筈だ。
発見は「既存」の革命であるが、それは既存そのものの本質的な変化ではなく、既存の
現象的相対的変化に他ならない。既存の革命といふよりも、既存の意味の革命といふべきだ。
三島由紀夫「わが世代の革命」より

92 :
我々の最も陥りやすい信仰の誤謬は、存在そのものを信仰してゐるつもりで
その存在の可能性のみを信仰してゐることに存する
三島由紀夫「わが世代の革命」より

93 :
新らしい時代を築かうとする若年には夭折の運命がある。
神の国を後にした古事記の王子(みこ)たちは、凡て若くして刃に血ぬられた。
彼等と共に矜り高くその道を歩むことを、恐らく僕らの運命も辞すまい。
三島由紀夫「わが世代の革命」より

94 :
五十歳の美女は二十歳の美女には絶対にかなはない。
美女と醜女とのひどい階級差は、美男と醜男との階級差とは比べものにならない。
三島由紀夫「をはりの美学 美貌のをはり」より

95 :
手紙は遠くからやつてきた一つの小舟です。
三島由紀夫「をはりの美学 手紙のをはり」より

96 :
個性とは何か?
弱味を知り、これを強味に転じる居直りです。
三島由紀夫「をはりの美学 個性のをはり」より

97 :
私は「私の鼻は大きくて魅力的でしよ」などと頑張つてゐる女の子より、美の規格を
外れた鼻に絶望して、人生を呪つてゐる女の子のはうを愛します。
それが「生きてゐる」といふことだからです。
三島由紀夫「をはりの美学 個性のをはり」より

98 :
感傷といふものが女性的な特質のやうに考へられてゐるのは明らかに誤解である。
感傷的といふことは男性的といふことなのだ。
三島由紀夫「青の時代」より

われわれは、なかなかそれと気がつかないが、自分といちばん良く似てゐる人間なるがゆゑに、
父親を憎たらしく思ふのである。
三島由紀夫「青の時代」より

99 :
男性は本質を愛し、女性は習慣を愛する
三島由紀夫「青の時代」より

凡ゆる愛国心にはナルシスがひそんでゐるので、凡ゆる愛国心は美しい制服を必要とする
三島由紀夫「青の時代」より

100 :
戦争といふ奴は、人間の背丈を伸ばしもしなけりやあ縮めもしない
三島由紀夫「青の時代」より

男が金をほしがるのはつまり女が金をほしがるからだといふのは真理だな。
三島由紀夫「青の時代」より

101 :
近代が発明したもろもろの幻影のうちで、「社会」といふやつはもつとも人間的な幻影だ。
人間の原型は、もはや個人のなかには求められず社会のなかにしか求められない。
原始人のやうに健康に欲望を追求し、原始人のやうに生き、動き、愛し、眠るのは、
近代においては「社会」なのである。新聞の三面記事が争つて読まれるのは、
この原始人の朝な朝なの生態と消息を知らうとする欲望である。
三島由紀夫「青の時代」より

102 :
過度の軽蔑はほとんど恐怖とかはりがない。
三島由紀夫「青の時代」より

小金をもつてゐれば誰でも社長や専務になれ、女は毛皮の外套さへもつてゐればみんな
上流の奥様でとほり、世間はかうした仮装に容易に欺されることを以て一種の仮想の秩序を維持して来たのであつた。
だから演技による瞞著(まんちやく)は今の社会に対する礼法(エチケット)である。
三島由紀夫「青の時代」より

103 :
人助けは実に気持のよいものであり、殊に利潤の上る人助けと来たらたまらない。
三島由紀夫「青の時代」より

人間、正道を歩むのは却つて不安なものだ。
三島由紀夫「青の時代」より

104 :
すべての人の上に厚意が落ちかゝる日があるやうに、すべての人の上に悪意が落ちかゝる日があるものだ。
三島由紀夫「青の時代」より

人間の弱さは強さと同一のものであり、美点は欠点の別な側面だといふ考へに達するためには、
年をとらなければならない。
三島由紀夫「青の時代」より

105 :
人間の存在の意味には、存在の意識によつて存在を亡ぼし、存在の無意識あるひは
無意味によつて存在の使命を果す一種の摂理が働らいてゐるにちがひない。
三島由紀夫「青の時代」より

106 :
高飛車な物言ひをするとき、女はいちばん誇りを失くしてゐるんです。女が女王さまに
憧れるのは、失くすことのできる誇りを、女王さまはいちばん沢山持つてゐるからだわ。
三島由紀夫「葵上」より

107 :
お嬢さま、色恋は負けるたのしみでございますよ。
三島由紀夫「只ほど高いものはない」より

苦しみを知らない人にかかつたら、どんな苦しみだつて、道化て見えるだけなのよ。
三島由紀夫「只ほど高いものはない」より

108 :
不満といふものはね、お嬢さん、この世の掟を引つくりかへし、自分の幸福を
めちやめちやにしてしまふ毒薬ですよ。
三島由紀夫「道成寺」より

109 :
「許しませんよ」ああ、それこそ貴婦人の言葉だ。
生れながらのけだかい白い肌の言はせる言葉だ。
三島由紀夫「朝の躑躅」より

110 :
世界といふものはね、こぼれやすいお皿に入つてゐるスープなの。
みんなして、それがこぼれないやうに、スープ皿のへりを支へてゐなければなりませんの。
三島由紀夫「薔薇と海賊」より

111 :
都会の人間は、言葉については、概して頑固な保守主義者である。
三島由紀夫「小説家の休暇」より

さまざまな自己欺瞞のうちでも、自嘲はもつとも悪質な自己欺瞞である。それは他人に
媚びることである。
他人が私を見てユーモラスだと思ふ場合に、他人の判断に私を売つてはならぬ。
「御人柄」などと云つて世間が喝采する人は、大ていこの種の売淫常習者である。
三島由紀夫「小説家の休暇」より

112 :
第一私はこの人の顔がきらひだ。第二にこの人の田舎者のハイカラ趣味がきらひだ。
第三にこの人が、自分に適しない役を演じたのがきらひだ。女と心中したりする小説家は、
もう少し厳粛な風貌をしてゐなければならない。
私とて、作家にとつては、弱点だけが最大の強味となることぐらゐ知つてゐる。
しかし弱点をそのまま強味へもつてゆかうとする操作は、私には自己欺瞞に思われる。(中略)
太宰のもつてゐた性格的欠陥は、少なくともその半分が、冷水摩擦や器械体操や
規則的な生活で治される筈だつた。生活で解決すべきことに芸術を煩はしてはならないのだ。
いささか逆説を弄すると、治りたがらない病人などには本当の病人の資格がない。
三島由紀夫「小説家の休暇」より

113 :
私はかつて、真のでくのばうを演じ了せた意識家を見たことがない。
三島由紀夫「小説家の休暇」より

傷つきやすい人間ほど、複雑な鎖帷子(くさりかたびら)を織るものだ。そして往々
この鎖帷子が自分の肌を傷つけてしまふ。しかしこんな傷を他人に見せてはならぬ。
君が見せようと思ふその瞬間に、他人は君のことを「不敵」と呼んでまさに讃(ほ)めようと
してゐるところかもしれないのだ。
三島由紀夫「小説家の休暇」より

114 :
われわれが文明の利便として電気洗濯機を利用することと、水爆を設計した精神とは無縁ではない。
三島由紀夫「小説家の休暇」より

115 :
恋と犬とはどつちが早く駆けるでせう。さてどつちが早く汚れるでせう。
三島由紀夫「綾の鼓」より

今の世の中で本当の恋を証拠立てるには、きつと足りないんだわ、そのために死んだだけでは。
三島由紀夫「綾の鼓」より

116 :
悲しい気持の人だけが、きれいな景色を眺める資格があるのではなくて?
幸福な人には景色なんか要らないんです。
三島由紀夫「鹿鳴館」より

政治とは他人の憎悪を理解する能力なんだよ。
この世を動かしてゐる百千百万の憎悪の歯車を利用して、それで世間を動かすことなんだよ。
愛情なんぞに比べれば、憎悪のはうがずつと力強く人間を動かしてゐるんだからね。
三島由紀夫「鹿鳴館」より

117 :
花作りといふものにはみんな復讐の匂ひがする。
絵描きとか文士とか、芸術といふものはみんなさうだ。ごく力の弱いものの憎悪が育てた
大輪の菊なのさ。
三島由紀夫「鹿鳴館」より

お嬢さん、教へてあげませう。
武器といふものはね、男に論理を与へる一番強力な道具なんですよ。
三島由紀夫「鹿鳴館」より

118 :
幸福がつかのまだといふ哲学は、不幸な人間も幸福な人間もどちらも好い気持にさせる
力を持つてゐる。
三島由紀夫「スタア」より

119 :
恋の中のうつろひやすいものは恋ではなく、人が恋ではないと思つてゐるうつろはぬものが
実は恋なのではないでせうか。
三島由紀夫「軽王子と衣通姫」より
別れを辛いものといたしますのも恋ゆゑ、その辛さに耐へてゆけますのも恋ゆゑでございます
三島由紀夫「軽王子と衣通姫」より

120 :
鈍感な人たちは、血が流れなければ狼狽しない。
が、血の流れたときは、悲劇は終つてしまつたあとなのである。
三島由紀夫「金閣寺」より

私が人生で最初にぶつかつた難問は、美といふことだつたと言つても過言ではない。
三島由紀夫「金閣寺」より

121 :
物質といふものが、いかにわれわれから遠くに存在し、その存在の仕方が、いかにわれわれから
手の届かないものであるかといふことを、死顔ほど如実に語つてくれるものはなかつた。
三島由紀夫「金閣寺」より

美といふことだけを思ひつめると、人間はこの世で最も暗黒な思想にしらずしらず
ぶつかるのである。人間は多分さういふ風に出来てゐるのである。
三島由紀夫「金閣寺」より

122 :
肉体上の不具者は美貌の女と同じ不敵な美しさを持つてゐる。不具者も、美貌の女も、
見られることに疲れて、見られる存在であることに飽き果てて、追ひつめられて、
存在そのもので見返してゐる。見たはうが勝なのだ。
三島由紀夫「金閣寺」より

滑稽な外形を持つた男は、まちがつて自分が悲劇的に見えることを賢明に避ける術を知つてゐる。
もし悲劇的に見えたら、人はもはや自分に対して安心して接することがなくなるのを
知つてゐるからだ。自分をみじめに見せないことは、何より他人の魂のために重要だ。
三島由紀夫「金閣寺」より

123 :
隈なく美に包まれながら、人生へ手を延ばすことがどうしてできやう。
美の立場からしても、私に断念を要求する権利があつたであらう。一方の手の指で永遠に触れ、
一方の手の指で人生に触れることは不可能である。
三島由紀夫「金閣寺」より


124 :
禅は無相を体とするといはれ、自分の心が形も相もないものだと知ることがすなはち
見性だといはれるが、無相をそのまま見るほどの見性の能力は、おそらくまた、形態の
魅力に対して極度に鋭敏でなければならない筈だ。
形や相を無私の鋭敏さで見ることのできない者が、どうして無形や無相をそれほど
ありありと見、ありありと知ることができやう。
三島由紀夫「金閣寺」より

音楽は夢に似てゐる。と同時に、夢とは反対のもの、一段とたしかな覚醒の状態にも似てゐる。
三島由紀夫「金閣寺」より

125 :
形こそは、形のない流動する生の鋳型であり、同時に、形のない生の飛翔は、
この世のあらゆる形態の鋳型なのだ。
三島由紀夫「金閣寺」より

金閣を焼かなければならぬ。
三島由紀夫「金閣寺」より

どんな事柄も、終末の側から眺めれば、許しうるものになる。
「金閣寺」より

126 :
世界を変貌させるのは決して認識なんかぢやない。
世界を変貌させるのは行為なんだ。それだけしかない。
三島由紀夫「金閣寺」より

認識にとつて美は決して慰藉(いしや)ではない。女であり、妻でもあるだらうが、
慰藉ではない。しかしこの決して慰藉ではないところの美的なものと、認識との結婚からは
何ものかが生れる。はかない、あぶくみたいな、どうしやうもないものだが、何ものかが生れる。
世間で芸術と呼んでゐるのはそれさ。
三島由紀夫「金閣寺」より

美は……美的なものはもう僕にとつては怨敵なんだ。
三島由紀夫「金閣寺」より

127 :
人生のいちばんはじめから、人間はずいぶんいろんなものを諦らめる。
生れて来て何を最初に教はるつて、それは「諦らめる」ことよ。そのうちに大人になつて
不幸を幸福だと思ふやうになつたり、何も希まないやうになつてしまふ。
三島由紀夫「夜の向日葵」より

幸福つて、何も感じないことなのよ。幸福つて、もつと鈍感なものよ。
…幸福な人は、自分以外のことなんか夢にも考へないで生きてゆくんですよ。
三島由紀夫「夜の向日葵」より

128 :
一分間以上、人間が同じ強さで愛しつづけてゆくことなんか、不可能のやうな気が
あたしにはするの。愛するといふことは息を止めるやうなことだわ。一分間以上も息を
止めてゐてごらんなさい、死んでしまふか、笑ひ出してしまふか、どつちかだわ。
三島由紀夫「夜の向日葵」より

愛するといふことは、息を止めることぢやなくて、息をしてゐるのとおんなじことよ。
三島由紀夫「夜の向日葵」より

129 :
恋愛といふやつは、単に熱なんです。脈搏なんです。情熱なんていふ誰も見たことのない
好加減な熱ぢやない、ちやんと体温計にあらはれる熱なんです。
三島由紀夫「夜の向日葵」より

恋愛といふのは、数なんです。それも函数(かんすう)なんです。
五なら五、六なら六だけ生へ近づく、それと同時に、おなじ数だけ死へ近づくといふ、
函数なんです。
三島由紀夫「夜の向日葵」より

130 :
あなたらしさつていふものは、あなたの考へてゐるやうに、人が勝手にあなたにつけた
仇名ぢやない。人が勝手にあなたの上に見た夢でもない。あなたらしさつていふものは、
あなたの運命なんだ。のがれるすべもないものなんだ。神さまの与へた役割なんだ。
三島由紀夫「夜の向日葵」より

131 :
もしあたくしが豚だつたら、真珠に嫉妬なんか感じはしないでせう。
でも、人造真珠が自分を硝子にすぎないとしぢゆう思つてゐることは、豚が時たま
自分のことを豚だと思つたりするのとは比べものにはならないの。
三島由紀夫「夜の向日葵」より

大丈夫よ、自分を本当の真珠だと信じてゐれば、硝子もいつかは真珠になるのよ。
三島由紀夫「夜の向日葵」より

132 :
ひとたび叛心を抱いた者の胸を吹き抜ける風のものさびしさは、千三百年後の今日の
われわれの胸にも直ちに通ふのだ。この凄涼たる風がひとたび胸中に起つた以上、
人は最終的実行を以てしか、つひにこれを癒やす術を知らぬ。
三島由紀夫「日本文学小史 第四章 懐風藻」より

133 :
正しい狂気といふものがあるのだ。
三島由紀夫「小説家の休暇」より

134 :
青年の苦悩は、隠されるときもつとも美しい
三島由紀夫「青年像」より

135 :
巧くなつて不正直になるのは堕落といふもので、巧くなつてもなほ正直といふところが尊いのだ
三島由紀夫「原田・メデル戦」より

136 :
こんなにがんばって考えて考えていた
三島由紀夫氏は
どうして切腹?ハラキリィーをしたんだお
全然意味不わかんないお;;

137 :
いやに澄んだ高い声の、中性的なアナウンサーの乙リキにすました軽薄な「客観性」、
これこそ、ジャーナリズムのいはゆる「良心的客観性」の空虚ないやらしさを象徴してゐる。
三島由紀夫「日録(昭和42年)」より

138 :
この日本刀で人を斬れる時代が、早くやつて来ないかなあ。
三島由紀夫「日録(昭和42年)」より

139 :
私は外国でウサギの肉を食べたことがあるが、柔らかくて、わりに旨い。独特のクサ味を
調味料で除去すれば、うまいはうの肉に入る。ウサギにしろ、ニワトリにしろ、豚にしろ、
さらに牛にしろ、概して大人しい動物の肉はうまい部類に入る。
肉をまづくしよう。少なくとも俺一人の肉はまづくしてやらう。と私は断乎たる決意を
固めたのである。
三島由紀夫「日録(昭和42年)」より

140 :
極端に自分の感情を秘密にしたがる性格の持主は、一見どこまでも傷つかぬ第三者として
身を全うすることができるかとみえる。ところがかういふ人物の心の中にこそ、
現代の綺譚と神秘が住み、思ひがけない古風な悲劇へとそれらが彼を連れ込むのである。
三島由紀夫「盗賊」より

男には屡々(しばしば)見るが女にはきはめて稀なのが偽悪者である。
と同時に真の偽善者も亦、女の中にこれを見出だすのはむつかしい。
女は自分以外のものにはなれないのである。といふより実にお手軽に「自分自身」になりきるのだ。
宗教が女性を収攬しやすい理由は茲(ここ)にある。
三島由紀夫「盗賊」より

141 :
女の心に全く無智な者として振舞ひながらその心に触れてゆくやり方は青年の特権である
三島由紀夫「盗賊」より

嫉妬こそ生きる力だ。
だが魂が未熟なままに生ひ育つた人のなかには、苦しむことを知つて嫉妬することを
知らない人が往々ある。
彼は嫉妬といふ見かけは危険でその実安全な感情を、もつと微妙で高尚な、それだけ、
はるかに、危険な感情と好んですりかへてしまふのだ。
三島由紀夫「盗賊」より

142 :
死を人は生の絵具を以てしか描きだすことができない。
三島由紀夫「盗賊」より

たとひ自殺の決心がどのやうな強固なものであらうと、人は生前に、一刹那でも死者の眼で
この地上を見ることはできぬ筈だつた。どんなに厳密に死のためにのみ計画された行為であつても、
それは生の範疇をのがれることができぬ筈だつた。してみれば、自殺とは錬金術のやうに、
生といふ鉛から死といふ黄金を作り出さうとねがふ徒(あだ)なのぞみであらうか。
かつて世界に、本当の意味での自殺に成功した人間があるだらうか。われわれの科学は
まだ生命をつくりだすことができない。従つてまた死をつくりだすこともできないわけだ。
生ばかりを材料にして死を造らうとは、麻布や穀物やチーズをまぜて三週間醗酵させれば
鼠が出来ると考へた中世の学者にも、をさをさ劣らぬ頭のよさだ。
三島由紀夫「盗賊」より

143 :
人は死を自らの手で選ぶことの他に、自己自身を選ぶ方法を持たないのである。
生を選ばうとして、人は夥しい「他」をしかつかまないではないか。
三島由紀夫「盗賊」より

自殺しようとする人間は往々死を不真面目に考へてゐるやうにみられる。否、彼は死を
自分の理解しうる幅で割切つてしまふことに熟練するのだ。かかる浅墓さは不真面目とは
紙一重の差であらう。しかし紙一重であれ、混同してはならない差別だ。
――生きてゆかうとする常人は、自己の理解しうる限界にαを加へたものとして死を了解する。
このαは単なる安全弁にすぎないのだが、彼はそこに正に深淵が介在するのだと思つてゐる。
むしろ深淵は、自殺しようとする人間の思考の浮薄さと浅墓さにこそ潜むものかもしれないのに。
三島由紀夫「盗賊」より

144 :
138  まじで?
早々に自分で試したのかお;;

145 :
死といふことは生の浪費ではありませんわね。死は倹(つま)しいものです。
三島由紀夫「盗賊」より

何のために生きてゐるかわからないから生きてゐられるんだわ。
三島由紀夫「盗賊」より

146 :
決して生をのがれまいとする生き方は、自ら死へ歩み入る他はないのだらうか。
生への媚態なしにわれわれは生きえぬのだらうか。
丁度眠りをとらぬこと七日に及べば死が訪れると謂はれてゐるやうに、たえざる生の覚醒と
生の意識とは早晩人を死へ送り込まずには措かぬものだらうか。
三島由紀夫「盗賊」より

莫迦げ切つた目的のために死ぬことが出来るのも若さの一つの特権である。
三島由紀夫「盗賊」より

147 :
私の言ひたいことは、口に日本文化や日本的伝統を軽蔑しながら、お茶漬の味とは
縁の切れない、さういふ中途半端な日本人はもう沢山だといふことであり、日本の未来の
若者にのぞむことは、ハンバーガーをパクつきながら、日本のユニークな精神的価値を、
おのれの誇りとしてくれることである。
三島由紀夫「お茶漬ナショナリズム」より

148 :
エロティックといふのは、ふつうの人間が日常のなかでは自然と思つてゐる行為が、
外に現はれて人の目にふれるときエロティックと感じる。
三島由紀夫「古典芸能の方法による政治状況と性」より

149 :
日本人本来の精神構造の中においては、エロース(愛)とアガペー(神の愛)は一直線に
つながつてゐる。もし女あるひは若衆に対する愛が、純一無垢なものになるときは、
それは主君に対する忠と何ら変はりない。
三島由紀夫「葉隠入門」より

男の世界は思ひやりの世界である。男の社会的な能力とは思ひやりの能力である。
武士道の世界は、一見荒々しい世界のやうに見えながら、現代よりももつと緻密な
人間同士の思ひやりのうへに、精密に運営されてゐた。
三島由紀夫「葉隠入門」より

150 :
忠告は無料である。われわれは人に百円の金を貸すのも惜しむかはりに、無料の忠告なら
湯水のごとくそそいで惜しまない。しかも忠告が社会生活の潤滑油となることはめつたになく、
人の面目をつぶし、人の気力を阻喪させ、恨みをかふことに終はるのが十中八、九である。
三島由紀夫「葉隠入門」より

思想は覚悟である。覚悟は長年にわたつて日々確かめられなければならない。
三島由紀夫「葉隠入門」より

151 :
長い準備があればこそ決断は早い。そして決断の行為そのものは自分で選べるが、
時期はかならずしも選ぶことができない。それは向かうからふりかかり、おそつてくるのである。
そして生きるといふことは向かうから、あるひは運命から、自分が選ばれてある瞬間のために
準備することではあるまいか。
三島由紀夫「葉隠入門」より

「強み」とは何か。知恵に流されぬことである。分別に溺れないことである。
三島由紀夫「葉隠入門」より

152 :
エゴティズムはエゴイズムとは違ふ。
自尊の心が内にあつて、もしみづから持すること高ければ、人の言行などはもはや
問題ではない。人の悪口をいふにも及ばず、またとりたてて人をほめて歩くこともない。
そんな始末におへぬ人間の姿は、同時に「葉隠」の理想とする姿であつた。
三島由紀夫「葉隠入門」より

もし、われわれが生の尊厳をそれほど重んじるならば、どうして死の尊厳をも重んじない
わけにいくだらうか。いかなる死も、それを犬死と呼ぶことはできないのである。
三島由紀夫「葉隠入門」より

153 :
今日只今の平和な日常生活の中にも、間接侵略の下拵(したごしら)へは着々と進められてゐる
三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」より

不退転の決意とは何か?すなはち、国民自らが一朝あれば剣を執つて、国の歴史と伝統を
守る決意であり、自ら国を守らんとする気魄(きはく)であります。
三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」より

154 :
妹の死後、私はたびたび妹の夢を見た。
時がたつにつれて死者の記憶は薄れてゆくものであるのに、夢はひとつの習慣になつて、
今日まで規則正しくつづいてゐる。
三島由紀夫「朝顔」より

155 :
われらの死後も朝な朝な東方から日が昇つて、われらの知悉してゐる世界を照らすといふ確信は、
幸福な確信である。しかしそれを確実だと信じる理由がわれわれにあるのか?
三島由紀夫「旅の墓碑銘」より

認識の中にぬくぬくと坐つてゐる人たちは、いつも認識によつて世界を所有し、世界を
確信してゐる。しかし芸術家は見なければならぬ。認識する代りに、ただ、見なければならぬ。
一度見てしまつたが最後、存在の不確かさは彼を囲繞(いによう)するのだ。
三島由紀夫「旅の墓碑銘」より

156 :
僕は生れてからただの一度も退屈したことがないんだ。それだけが僕の猛烈な幸運なんだ。
三島由紀夫「旅の墓碑銘」より

自分の名前は他人の所有物だ。
三島由紀夫「旅の墓碑銘」より

157 :
言葉によつて表現されたものは、もうすでに、厳密には僕のものぢやない。
僕はその瞬間に、他人とその思想を共有してゐるんだからね。
三島由紀夫「旅の墓碑銘」より

個性といふものは決して存在しないんだ。
三島由紀夫「旅の墓碑銘」より

158 :
肉体には類型があるだけだ。神はそれだけ肉体を大事にして、与へるべき自由を節約したんだ。
自由といふやつは精神にくれてやつた。こいつが精神の愛用する手ごろの玩具さ。
……肉体は一定の位置をいつも占めてゐる。世界の旅でいつも僕を愕(おどろ)かせたのは、
肉体が占めることを忘れないこの位置のふしぎさだつた。たとへば僕は夢にまで見た
希臘(ギリシャ)の廃墟に立つてゐた。そのとき僕の肉体が占めてゐたほどの確乎たる
僕の空間を僕の精神はかつて占めたことがなかつたんだ。
三島由紀夫「旅の墓碑銘」より

159 :
生命は指で触れるもんぢやない。生命は生命で触れるものだ。
丁度物質と物質が触れ合ふやうにね。
三島由紀夫「旅の墓碑銘」より

旅の思ひ出といふものは、情交の思ひ出とよく似てゐる。
事前の欲望を辿ることはもうできない代りに、その欲望は微妙に変質してまた目前にあるので、
思ひ出の行為があたかも遡りうるやうな錯覚を与へる。
三島由紀夫「旅の墓碑銘」より

160 :
どうしても理解できないといふことが人間同士をつなぐ唯一の橋だ。
三島由紀夫「旅の墓碑銘」より

本当の若者といふものは、かれら自身こそ春なのだから、季節の春なぞには目もくれないで
ゐるべきなのだ。
三島由紀夫「旅の墓碑銘」より

161 :
戦争時代の思ひ出つて全く妙だね。他人が一人もいなかつた。
他人らしい清潔な表情をしてゐるのは、路傍にころがつた焼死死体だけだつた。
三島由紀夫「旅の墓碑銘」より

162 :
何か、極く小さな、どんなありきたりな希望でもよい。それがなくては、人は明日のはうへ
生き延びることができない。明日にのこつてゐる繕ひものとか、明日立つことになつてゐる
旅行の切符とか、明日飲むことにしてある罎ののこりの僅かな酒とか、さういふものを
人は明日のために喜捨する。そして夜明けを迎へることを許される。
三島由紀夫「愛の渇き」より

163 :
われわれが人間の目を持つかぎり、どのやうに眺め変へても、所詮は同じ答が出るだけだ。
三島由紀夫「愛の渇き」より

苟(いやしく)も仕事をしようとすれば、命を賭けずに本当の仕事ができるものではない。
三島由紀夫「愛の渇き」より

164 :
生れのよい人間は滅多に風流になんぞ染つたりはせぬものだ。
三島由紀夫「愛の渇き」より

われわれはむしろ、自分が待ちのぞんでゐたものに裏切られるよりも、力(つと)めて
軽んじてゐたものに裏切られることで、より深く傷つくものだ。
それは背中から刺された匕首(あいくち)だ。
三島由紀夫「愛の渇き」より

165 :
人生が生きるに値ひしないと考へることは容易いが、それだけにまた、生きるに値ひしない
といふことを考へないでゐることは、多少とも鋭敏な感受性をもつた人には困難である。
三島由紀夫「愛の渇き」より

この世の情熱は希望によつてのみ腐蝕される。
三島由紀夫「愛の渇き」より

166 :
ある人たちにとつては生きることがいかにも容易であり、ある人にとつてはいかにも困難である。
人種的差別よりももつと甚だしいこの不公平。
三島由紀夫「愛の渇き」より

167 :
生きることが難しいなどといふことは何も自慢になどなりはしないのだ。
わたしたちが生の内にあらゆる困難を見出す能力は、ある意味ではわたしたちの生を
人並に容易にするために役立つてゐる能力なのだ。なぜといつて、この能力がなかつたら、
わたしたちにとつての生は、困難でも容易でもないつるつるした足がかりのない
真空の球になつてしまふ。
この能力は生がさう見られることを遮(さまた)げる能力であり、生が決してそんな風に
見えては来ない容易な人種の、あづかり知らぬ能力であるとはいへ、それは何ら格別な
能力ではなく、ただの日常必需品にすぎないのだ。
人生の秤をごまかして、必要以上に重く見せた人は、地獄で罰を受ける。
そんなごまかしをしなくつても、生は衣服のやうに意識されない重みであつて、
外套を着て肩が凝るのは病人なのだ。
三島由紀夫「愛の渇き」より

168 :
下から上を見たときも、上から下を見たときも、階級意識といふものは嫉妬の代替物に
なりうるのだ。
三島由紀夫「愛の渇き」より

人生には何事も可能であるかのやうに信じられる瞬間が幾度かあり、この瞬間に
おそらく人は普段の目が見ることのできない多くのものを瞥見し、それらが一度
忘却の底に横たはつたのちも、折にふれては蘇つて、世界の苦痛と歓喜のおどろくべき
豊饒さを、再びわれわれに向つて暗示するのである。
三島由紀夫「愛の渇き」より

169 :
あまりに永い苦悩は人を愚かにする。
苦悩によつて愚かにされた人は、もう歓喜を疑ふことができない。
三島由紀夫「愛の渇き」より

嫉妬の情熱は事実上の証拠で動かされぬ点においては、むしろ理想主義者の情熱に
近づくのである。
三島由紀夫「愛の渇き」より

170 :
衝動によつて美しくされ、熱望によつて眩ゆくされた若者の表情ほどに、美しいものが
この世にあらうか。
三島由紀夫「愛の渇き」より

171 :
女といふものは、自分を莫迦だと知る瞬間に、それがわかるくらい自分は利巧な女だといふ
循環論法に陥るのですね。
三島由紀夫「魔群の通過」より

下手な絵描きに限つて絵描きらしく見えることを好むものである。
三島由紀夫「魔群の通過」より

172 :
魔はやさしい面持でわれわれに誘ひをかける。
三島由紀夫「魔群の通過」より

中年の女といふものは若い女を見るのに苛酷な道学者の目しか持たぬ点に於て
女学校の修身の先生も奔放な生活を送つてゐる富裕な有閑マダムもかはりない。
三島由紀夫「魔群の通過」より

173 :
『時』は私たちの生きてゐることの徒(あだ)な所以をいひきかせるために
流れてゐるのであらうか?
三島由紀夫「花山院」より

174 :
寡黙な人間は、寡黙な秘密を持つものである。
三島由紀夫「日曜日」より

恋人同士といふものは仕馴れた役者のやうに、予め手順を考へた舞台装置の上で
愛し合ふものである。
三島由紀夫「日曜日」より

善意も、無心も、十分人をRことのできる刃物である。
三島由紀夫「日曜日」より

175 :
不安は奇体に人の顔つきを若々しくする。
三島由紀夫「毒薬の社会的効用について」より

176 :
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177 :
まことに海も山も時であつた。
人の目に映つたこの世のさまざまな事象は、一旦記憶の世界へ投げ込まれるや、時の秩序に
組み入れられた存在に他ならぬ。そこにあるものは、時の海、時の山脈に他ならぬ。
波はもはや浜辺に打ち寄せてゐる青い海水ではない。時の水に充たされた海には、
時の潮が時のつきせぬ波を波立ててゐるにすぎない。そのとき海が却つてその本質を、
その流転の本質を露(あら)はにするのである。
人間もまた時間の形をしてゐる。これだけが人間のほぼ確実な信頼するに足る外形である。
三島由紀夫「偉大な姉妹」より

178 :
この世には自分の形を忘れることのできる人とできない人との二つの種族がある。
三島由紀夫「偉大な姉妹」より

179 :
歌舞伎役者の顔こそ偉大でなければならない。
大首物の役者絵は、悉く奇怪な偉大さを持つた顔を描いてゐる。その偉大さには一種の
不均衡と過剰がある。
拡大された感情、誇張された悲哀を包むその輪廓は、均斉を保たうがためにこの悲哀や
歓喜の内容に戦ひを挑んでゐる。美の伝達力として重んぜられたこの偉大さは、
歌舞伎が考へたやうな美の必然的な形式なのである。
そこでは美と偉大の結婚は世にも自然であつた。美が一個の犠牲の観念であり、偉大が
一個の宗教的観念となることによつて、この婚姻が成り立つた。大首物の錦絵の顔は、
偉大に蝕まれた美のあらはな病患を語つてゐる。
三島由紀夫「偉大な姉妹」より

180 :
もし罪といふものがあるなら、それは罪の行為が飛び去つたあとの真白な空白にすぎぬだらう。
罪ほど清浄な観念はないだらう。
三島由紀夫「偉大な姉妹」より

181 :
『奇蹟』は何と日常的な面構へをしてゐたらう!
三島由紀夫「ラディゲの死」より

神がかりの人間は、神が去つたあとで、おそろしい疲労に襲はれるんださうだ。
それはまるでいやな、嘔吐を催ほすやうな疲労で、眠りもならない。
神を見た人間は、視力の極致まで、人間能力の極致まで行つてかへつて来る。
ほんの一瞬間でも、そのために心霊の莫大なエネルギーを費つてしまふ。
三島由紀夫「ラディゲの死」より

182 :
僕が『天の手袋』と呼んでゐるものを君は識つてゐる筈だ。
天は、手を汚さずに僕等に触れる為めに、手袋をはめることが間々あるのだ。
レイモン・ラディゲは天の手袋だつた。彼の形は手袋のやうにぴつたりと天に合ふのだつた。
天が手を抜くと、それは死だ。
三島由紀夫「ラディゲの死」より

生きてゐるといふことは一種の綱渡りだ。
三島由紀夫「ラディゲの死」より

183 :
小説家における人間的なものは、細菌学者における細菌に似てゐる。
感染しないやうに、ピンセットで扱はねばならぬ。言葉といふピンセットで。……しかし
本当に細菌の秘密を知るには、いつかそれに感染しなければならぬのかもしれないのだ。
そして私は感染を、つまり幸福になることを、怖れた。
三島由紀夫「施餓鬼舟」より

青年の文学的な思ひ込みなどは下らんものだ。
三島由紀夫「施餓鬼舟」より

184 :
俺の美は、何といふひつそりとした速度で、何といふ不気味なのろさで、俺の指の間から
辷り落ちてしまつたことだらう。俺は一体何の罪を犯してかうなつたのか。
自分も知らない罪といふものがあるのだらうか。たとへば、さめると同時に忘れられる、
夢のなかの罪のほかには。
三島由紀夫「孔雀」より

185 :
嫉妬は透視する力だ。
三島由紀夫「獅子」より

愛の問題ではないのです。女には事実のはうがもつと大切です。
三島由紀夫「獅子」より

186 :
皮肉は何といふ美味なつまみものであらう。殊に酒精分の強い洋酒の場合は。
三島由紀夫「獅子」より

凡て悪への悲しげな意慾が完全に欠如してゐるこのやうな人間、(それこそ悪それ自体)が
地上から滅び去るとはどんなによいことであらう。さういふ善意が滅びることは、
どれほど地上の明るさを増すことだらう。
三島由紀夫「獅子」より

187 :
この世に戦争をもたらし、悪しき希望を、偽物の明日を、夜鳴き鶏を、残虐きはまる侵略を
もたらすものこそ「幸福」の思考なのである。
三島由紀夫「獅子」より

188 :
一寸ばかり芸術的な、一寸ばかり良心的な……。要するに、一寸ばかり、といふことは
何てけがらはしいんだ。
三島由紀夫「急停車」より

体力の旺盛な青年は、戦争の中に自殺の機会を見出だし、知的な虚弱な青年は、抵抗し、
生き延びたいと感じた。まことに自然である。
平和な時代であつても、スポーツは青春の過剰なエネルギーの自殺の演技であるし、
知的な目ざめは、つかのまの解放へ急がうとする自分の若い肉体に対する抵抗なのだ。
それぞれの資質に応じ、抵抗が勝つか、自殺が勝つかである。
三島由紀夫「急停車」より

189 :
人間の歴史は、青春の過剰なエネルギーの徹底的なあますところのない活用の方途としては、
まだ戦争以外のものを発明してはいない。
三島由紀夫「急停車」より

一刻のちには死ぬかもしれない。しかも今は健康で若くて全的に生きてゐる。かう感じることの、
目くるめくやうな感じは、何て甘かつたらう!あれはまるで阿片だ。悪習だ。
一度あの味を知ると、ほかのあらゆる生活が耐へがたくなつてしまふんだ。
三島由紀夫「急停車」より

190 :
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191 :
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三島由紀夫
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192 :
女が生活に介入してくることによつて、人は煩瑣(はんさ)を愛するやうになる。
男女関係は或る意味では極めて事務的なたのしみだ。
三島由紀夫「慈善」より

男を事務的な目附で眺めることができるのは既婚の女の特権である。
公私混同には持つてこいの特権だ。
三島由紀夫「慈善」より

193 :
幸福の話題は罪のやうに人を疲らせる。
三島由紀夫「慈善」より

悪徳の虚栄心が悪徳そのものの邪魔立てをする。
「魂の純潔」なるものを保たせようとするならば、少くとも青年には、美徳の虚栄心よりも
悪徳の虚栄心の方が有効なのである。
三島由紀夫「慈善」より

194 :
曇つた空を見てゐると、人間の習慣とか因襲とか規則とかいふものはあそこから落ちて
来たのではないかと思はれるのである。曇つた日は曇つた他の日と寸分ちがはない。
何が似てゐると云つて、人間の世界にはこれほど似てゐるものはない。
人はこんな残酷な相似に耐へられたものではない。
三島由紀夫「慈善」より

195 :
戦争が道徳を失はせたといふのは嘘だ。道徳はいつどこにでもころがつてゐる。
しかし運動をするものに運動神経が必要とされるやうに、道徳的な神経がなくては
道徳はつかまらない。戦争が失はせたのは道徳的神経だ。この神経なしには人は道徳的な
行為をすることができぬ。従つてまた真の意味の不徳に到達することもできぬ筈だつた。
三島由紀夫「慈善」より

196 :
罪といふものの謙遜な性質を人は容易に恕(ゆる)すが、秘密といふものの尊大な性質を
人は恕さない。
三島由紀夫「果実」より

197 :
風景もまた音楽のやうなものである。一度その中へ足を踏み入れると、それはもはや
透明で複雑な奥行を持つた一個の純粋な体験に化するのである。
三島由紀夫「死の島」より

形式とは、僕にとつては残酷さの決心だつた。しかしあの島の形式の優美なことは、
およそ僕の決心と似ても似つかない。ああ、あの島は形式の美徳で僕を負かす。
あれは僕の内部へ優雅な行幸(みゆき)のやうに入つて来る。……
三島由紀夫「死の島」より

198 :
占領時代は屈辱の時代である。虚偽の時代である。面従背反と、肉体的および精神的売淫と、
策謀と譎詐の時代である。
三島由紀夫「江口初女覚書」より

199 :
蘭陵王は必ずしも自分の優にやさしい顔立ちを恥じてはゐなかつたにちがいない。
むしろ自らひそかにそれを矜つてゐたかもしれない。
しかし戦ひが、是非なく獰猛な仮面を着けることを強ひたのである。しかし又、蘭陵王は
それを少しも悲しまなかつたかもしれない。或ひは心ひそかに喜びとしてゐたかもしれない。
なぜなら敵の畏怖は、仮面と武勇にかかはり、それだけ彼のやさしい美しい顔は、
傷一つ負はずに永遠に護られることになつたからである。
三島由紀夫「蘭陵王」より

私は、横笛の音楽が、何一つ発展せずに流れるのを知つた。何ら発展しないこと、これが重要だ。
音楽が真に生の持続に忠実であるならば、(笛がこれほど人間の息に忠実であるやうに!)
決して発展しないといふこと以上に純粋なことがあるだらうか。
三島由紀夫「蘭陵王」より

200 :
私がいつもふしぎに思ふのは、小説家がしたり気な回答者として、新聞雑誌の人生相談の欄に
招かれることである。それはあたかも、オレンヂ・ジュースしか呑んだことのない人間が、
オレンヂの樹の栽培について答へてゐるやうなものだ。
三島由紀夫「小説とは何か」より

201 :
女が男にだまされることなんぞ、一度だつて起りはいたしません。
三島由紀夫「サド侯爵夫人」より

想像できないものを蔑む力は、世間一般にはびこつて、その吊床の上で人々はお昼寝を
たのしみます。そしていつしか真鍮の胸、真鍮のお乳房、真鍮のお腹を持つやうになるのです、
磨き立ててぴかぴかに光った。
あなた方は薔薇を見れば美しいと仰言り、蛇を見れば気味がわるいと仰言る。あなた方は
御存知ないんです。薔薇と蛇が親しい友達で、夜になればお互ひに姿を変へ、蛇が頬を赤らめ、
薔薇が鱗を光らす世界を。
三島由紀夫「サド侯爵夫人」より

202 :
どんな時代にならうと、権力のもつとも深い実質は若者の筋肉だ。
三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

灼熱した不定形なものこそ、あらゆる形をして形たらしめる、形の内側の焔なのだ。
雪花石膏(アラバスター)のやうに白い美しい人間の肉体も、内側にその焔を分ち持ち、
焔を透かして見せることによつてはじめて美しい。
三島由紀夫「わが友ヒットラー」より

203 :
個人が組織を倒す、といふのは善である。
三島由紀夫「個人が組織を倒す道徳――『サムライ』について」より

204 :
論敵同士などといふものは卑小な関係であり、言葉の上の敵味方なんて、女学生の寄宿舎の
そねみ合ひと大差がありません。
三島由紀夫「野口武彦氏への公開状」より

剣のことを、世間ではイデオロギーとか何とか言つてゐるやうですが、それは使ふ刀の
研師のちがひほどの問題で、剣が二つあれば、二人の男がこれを執つて、戦つて、
殺し合ふのは当然のことです。
三島由紀夫「野口武彦氏への公開状」より

205 :
悲しみといふものを喜劇によそほはうとするのは人間の特権だ。
三島由紀夫「彩絵硝子」より

206 :
無秩序もまた、その人を魅する力において一個の法則である。
三島由紀夫「鍵のかかる部屋」より

本当に男を尊厳できるのは、劣等感を持つた女だけだ。
三島由紀夫「鍵のかかる部屋」より

207 :
女を抱くとき、われわれは大抵、顔か乳房か局部か太腿かをバラバラに抱いてゐるのだ。
それを総括する「肉体」といふ観念の下(もと)に。
三島由紀夫「鍵のかかる部屋」より

この世には無害な道楽なんて存在しないと考えたはうが賢明だ。
三島由紀夫「鍵のかかる部屋」より

208 :
地位を持つた男たちといふものは、少女みたいな感受性を持つてゐる。
いつもでは困るが、一寸した息抜きに、何でもない男から肩を叩かれると嬉しくなるのだ。
三島由紀夫「鍵のかかる部屋」より

歌うたひにはみんな白痴的な素質がある。
歌をうたふといふことは、何か内面的なものの凝固を妨げるのだらう。或る流露感だけに
涵(ひた)つて生きる。そんなら何も人間の形をしてゐる必要はないのだ。
三島由紀夫「鍵のかかる部屋」より

209 :
>>206の訂正
尊厳 → 尊敬

210 :
同情といふ感情は一種の恐怖心で、自分に大して関係のないものが関係をもちさうになるのを
惧(おそ)れるあまり、先手を打つて、同情といふ不良導体でつながれた関係をもたうとする感情だ。
三島由紀夫「親切な機械」より

事件といふものが一種の古典的性格をもつてゐることは、古典といふものが年月の経過と共に
一種の事件的性格を帯びるのと似通つてゐる。
事件も古典と同じやうに、さまざまの語り変へが可能である。
三島由紀夫「親切な機械」より

211 :
表現によつて、われわれは生へ還つてゆく。芸術家が死のあとまでも生きのこるのはそのためだ。
しかも表現といふ行為は、芸術家の生活は、何といふ緩慢な死だらう。精神が肉体を模倣し、
肉体が自然を模倣する。つまり自然を――死を模倣する。自然は死だ。そのとき芸術家は
死の限りなく近くに、言ひかへれば、表現された生の限りなく近くにゐるのだなあ。
芸術家にとつては、だから絶望は無意味だ。絶望する暇があつたら、表現しなければならぬ。
なぜかといつて、どんな絶望も、生を前にして表現が感じなければならぬこの自己の無力感、
おのれの非力を隅々まで感じるこの壮麗な歓喜と比べれば何ほどのことがあらう。
三島由紀夫「火山の休暇」より

212 :
人生経験は多くの場合恋愛に一定の理論を与へるが、人は自分の立てた理論を他人に
強ひこそすれ、自分は又してもその理論に背いて躓(つまづ)くのを承知で行動する。
三島由紀夫「牝犬」より

生活とは凡庸な発見である。いつもすでに誰かが先にしてしまつた発見である。
三島由紀夫「牝犬」より

213 :
理想的な「他人」はこの世にはないのだ。滑稽なことだが、屍体にならなければ、
人は「親密な他人」になれない。
三島由紀夫「牝犬」より

吝嗇といふものは一種の見張りであり、陰謀であり、結社であり、油断のならない正義の
熱情である。
三島由紀夫「牝犬」より

浪費癖にくらべると、吝嗇は実に無我で謙遜である。
三島由紀夫「牝犬」より

214 :
愛とは目的をもたない神秘的な洞察力がわれわれを居たたまれなくさせる感情のやうにも思はれ、
一個の想像力のやうにも思はれ、本質的に一つの「解釈」にすぎないやうにも思はれる。
三島由紀夫「椅子」より

215 :
女には、世を捨てると云つたところで、自分のもつてゐるものを捨てることなど出来はしない。
男だけが、自分の現にもつてゐるものを捨てることができるのである。
三島由紀夫「志賀寺上人の恋」より

216 :
女はあらゆる価値を感性の泥沼に引きづり下ろしてしまふ。
女は主義といふものを全く理解しない。『何々主義的』といふところまではわかるが、
『何々主義』といふものはわからない。主義ばかりではない。独創性がないから、
雰囲気をさへ理解しない。わかるのは匂ひだけだ。
三島由紀夫「禁色」より

女のもつ性的魅力、媚態の本能、あらゆる性的牽引の才能は、女の無用であることの証拠である。
有用なものは媚態を要しない。男が女に惹かれねばならぬことは何といふ損失であらう。
男の精神性に加へられた何といふ汚辱であらう。
三島由紀夫「禁色」より

217 :
あらゆる文体は形容詞の部分から古くなると謂はれてゐる。つまり形容詞は肉体なのである。
青春なのである。
三島由紀夫「禁色」より

絶望は安息の一種である。
三島由紀夫「禁色」より

窓の外から眺める他人の不幸は、窓の中で見るそれよりも美しい。
不幸はめつたに窓枠をこへてまでわれわれにとびかかつてくるものではないからである。
三島由紀夫「禁色」より

218 :
本当の美とは人を黙らせるものであります。
三島由紀夫「禁色」より

美といふものは手を触れたら火傷をするやうなものだ。
三島由紀夫「禁色」より

思想を抱いてゐる男は、女の目にはもともと神秘的に見えるものである。
女は死んでも「青大将は俺の大好物だ」なんぞと言へないやうに出来てゐるからである。
三島由紀夫「禁色」より

219 :
家庭といふものはどこかに必ず何らかの不幸を孕んでゐるものだ。
帆船を航路の上に押しすすめる順風は、それを破滅にみちびく暴風と本質的には同じ風である。
家庭や家族は順風のやうな中和された不幸に押されて動いてゆくもので、家族をゑがいた
多くの名画には、華押のやうに、ひそんだ不幸が手落ちなく一隅に書き込まれてゐる。
三島由紀夫「禁色」より

人の不幸は何程かわれわれの幸福である。
激しい恋愛の時々刻々の移りゆきではこの公式が一等純粋な形をとる。
三島由紀夫「禁色」より

感情の或る種の詭計(きけい)の告白に当つて、女が示す放恣な陶酔の涙ほど、
人の心をうごかすものはない。
三島由紀夫「禁色」より

220 :
様式は芸術の生れながらの宿命である。作品による内的経験と人生経験とは、様式の
有無によつて次元を異にしてゐるものと考へなくてはならぬ。
しかし人生経験のうちで作品による内的経験にもつともちかいものが唯一つある。
それは何かといふと、死の与へる感動である。
われわれは死を経験することができない。しかしその感動はしばしば経験する。死の想念、
家族の死、愛する者の死において経験する。つまり死とは生の唯一の様式なのである。
芸術作品の感動がわれわれにあのやうに強く生を意識させるのは、それが死の感動だから
ではあるまいか。
三島由紀夫「禁色」より

221 :
表現といふ行為は、現実にまたがつて、そいつに止(とど)めを刺し、その息の根を止める行為だ。
三島由紀夫「禁色」より

女が髭を持つてゐないやうに、彼は年齢を持つてゐなかつた。
三島由紀夫「禁色」より

222 :
自殺はどんな高尚なそれも低級なそれも、思考それ自体の自殺行為であり、およそ
考へすぎなかつた自殺といふものは存在しない。
三島由紀夫「禁色」より

愛さないで体を委すといふことが、男にはあんなに易しいのに、女にはどうして難しいのだらう。
なぜそれを知ることが、娼婦だけにゆるされてゐるのだらう。
三島由紀夫「禁色」より

223 :
どんな思想も観念も、肉感をもたないものは、人を感動させない。
三島由紀夫「禁色」より

『君は僕が好きだ。僕も僕が好きだ。仲良くしませう』――これはエゴイストの愛情の
公理である。同時に、相思相愛の唯一の事例である。
三島由紀夫「禁色」より

224 :
しかしいつも勝利は凡庸さの側にある。
三島由紀夫「禁色」より

褒められた女は、精神的に、ほとんど売淫の当為を感じる。
三島由紀夫「禁色」より

女は決して征服されない。決して!男が女に対する崇敬の念から凌辱を敢てする場合が
ままあるやうに、この上ない侮蔑の証しとして、女が男に身を任す場合もあるのだ。
三島由紀夫「禁色」より

愛する者はいつも寛大で、愛される者はいつも残酷さ。
三島由紀夫「禁色」より

225 :
醒めることは、更に一層深い迷ひではないのか。どこへ向つて、何のために、われらは
醒めようと望むのか。人生が一つの迷妄である以上、この錯雑した始末に負へない迷妄のうちに、
よく秩序立ち論理づけられた人工的な迷妄を築くことこそ、もつとも賢明な覚醒ではないのか。
三島由紀夫「禁色」より

226 :
愛は絶望からしか生まれない。
精神対自然、かういふ了解不可能なものへの精神の運動が愛なのだ。
三島由紀夫「禁色」より

精神はたえず疑問を作り出し、疑問を蓄えてゐなければならぬ。精神の創造力とは疑問を
創造する力なんだ。かうして精神の創造の究極の目標は、疑問そのもの、つまり自然を
創造することになる。それは不可能だ。しかし不可能へむかつていつも進むのが精神の方法なのだ。
精神は、……まあいはば、零を無限に集積して一に達しようとする衝動だといへるだらう。
三島由紀夫「禁色」より

227 :
美とは到達できない此岸(しがん)なのだ。さうではないか?宗教はいつも彼岸(ひがん)を、
来世を距離の彼方に置く。しかし距離とは、人間的概念では、畢竟するに、到達の可能性なのだ。
科学と宗教とは距離の差にすぎない。六十八万光年の彼方にある大星雲は、やはり、到達の
可能性なのだよ。宗教は到達の幻影だし、科学は到達の技術だ。
美は、これに反して、いつも此岸にある。この世にあり、現前してをり、確乎として
手に触れることができる。われわれの官能が、それを味はひうるといふことが、美の前提条件だ。
官能はかくて重要だ。それは美をたしかめる。しかし美に到達することは決して出来ない。
なぜなら官能による感受が何よりも先にそれへの到達を遮(さまた)げるから。
希臘人が彫刻でもつて美を表現したのは、賢明な方法だつた。
三島由紀夫「禁色」より

228 :
此岸にあつて到達すべからざるもの。かう言へば、君にもよく納得がゆくだらう。
美とは人間における自然、人間的条件の下に置かれた自然なんだ。人間の中にあつて
最も深く人間を規制し、人間に反抗するものが美なのだ。精神は、この美のおかげで、
片時も安眠できない。……
三島由紀夫「禁色」より

229 :
この世には最高の瞬間といふものがある。この世における精神と自然との和解、
精神と自然との交合の瞬間だ。
その表現は、生きてゐるあひだの人間には不可能といふ他はない。生ける人間は、その瞬間を
おそらく味はふかもしれない。しかし表現することはできない。それは人間の能力をこえてゐる。
『人間はかくて超人間的なものを表現できない』と君は言ふのか?それはまちがひだ。
人間は真に人間的な究極の状態を表現できないのだ。人間が人間になる最高の瞬間を
表現できないのだ。
芸術家は万能ではないし、表現もまた万能ではない。表現はいつも二者択一を迫られてゐる。
表現か、行為か。愛の行為でも、人は行為を以てしか人を愛しえない。そしてあとから
それを表現する。
三島由紀夫「禁色」より

230 :
しかし真の重要な問題は、表現と行為との同時性が可能かといふことだ。それについては
人間は一つだけ知つてゐる。それは死なのだ。
死は行為だが、これほど一回的な究極的な行為はない。
三島由紀夫「禁色」より

231 :
死は事実にすぎぬ。行為の死は、自殺と言ひ直すべきだらう。人は自分の意志によつて
生れることはできぬが、意志によつて死ぬことはできる。これが古来のあらゆる自然哲学の
根本命題だ。しかし、死において、自殺といふ行為と、生の全的な表現との同時性が
可能であることは疑ひを容れない。最高の瞬間の表現は死に俟たねばならない。
これには逆証明が可能だと思はれる。
生者の表現の最高のものは、たかだか、最高の瞬間の次位に位するもの、生の全的な姿から
αを差引いたものなのだ。この表現に生のαが加はつて、それによつて生が完成されてゐる。
なぜかといへば、表現しつつも人は生きてをり、否定しえざるその生は表現から除外されてをり、
表現者は仮死を装つてゐるだけなのだ。
三島由紀夫「禁色」より

232 :
このα、これを人はいかに夢みたらう。芸術家の夢はいつもそこにかかつてゐる。
生が表現を稀(うす)めること、表現の真の的確さを奪ふこと、このことには誰しも
気がついてゐる。生者の考へる的確さは一つの的確さにすぎぬ。死者にとつては、
われわれが青いと思つてゐる空も、緑いろに煌めいてゐるかもしれないのだ。
ふしぎなことだ。かうして表現に絶望した生者を、又しても救ひに駆けつけて来るのは美なのだ。
生の不的確に断乎として踏みとどまらねばならぬ、と教へてくれる者は美なのだ。
ここにいたつて、美が官能性に、生に、縛られてをり、官能性の正確さをしか信奉しないことを
人に教へるといふ点で、その点でこそ正に、美が人間にとつて倫理的だといふことがわかるだらう。
三島由紀夫「禁色」より

233 :
最早私には動かすことのできない不思議な満足があつた。
水泳は覚えずにかへつて来てしまつたものの、人間が容易に人に伝へ得ないあの一つの真実、
後年私がそれを求めてさすらひ、おそらくそれとひきかへでなら、命さへ惜しまぬであらう
一つの真実を、私は覚えて来たからである。
三島由紀夫「岬にての物語」より

234 :
蓋をあけることは何らかの意味でひとつの解放だ。蓋のなかみをとりだすことよりも
なかみを蔵つておくことの方が本来だと人はおもつてゐるのだが、蓋にしてみれば
あけられた時の方がありのままの姿でなくてはならない。蓋の希みがそれをあけたとき
迸しるだらう。
三島由紀夫「苧菟と瑪耶」より

235 :
星をみてゐるとき、人の心のなかではにはかに香り高い夜風がわき立つだらう。
しづかに森や湖や街のうへを移つてゆく夜の雲がただよひだすだらう。そのとき星ははじめて、
すべてのものへ露のやうにしとどに降りてくるだらう。あのみえない神の縄につながれた
絵図のあひだから、ひとつひとつの星座が、こよなく雅やかにつぎつぎと崩れだすだらう。
星はその日から人々のあらゆる胸に住まふだらう。かつて人々が神のやうにうつくしく
やさしかつた日が、そんな風にしてふたゝび還つてくるかもしれない。
三島由紀夫「苧菟と瑪耶」より

236 :
女にとつて優雅であることは、立派に美の代用をなすものである。なぜなら男が憧れるのは、
裏長屋の美女よりも、それほど美しくなくても、優雅な女のはうであるから。
三島由紀夫「美徳のよろめき」より

あふれるばかりの精力を事業や理想の実現に向けてゐる肥つた醜い男などは何といふ
滑稽な代物でだらう。みすぼらしい風采の世界的学者などは何といふ珍物であらう。
仕事に熱中してゐる男は美しく見えるとよく云はれるが、もともと美しくもない男が
仕事に熱中したつて何になるだらう。
三島由紀夫「美徳のよろめき」より

237 :
女に友情がないといふのは嘘であつて、女は恋愛のやうに、友情をもひた隠しにして
しまふのである。その結果、女の友情は必ず共犯関係をひそめてゐる。
三島由紀夫「美徳のよろめき」より

どんな邪悪な心も心にとどまる限りは、美徳の領域に属してゐる
三島由紀夫「美徳のよろめき」より

どんな驚天動地の大計画も、一旦心が決り準備が整ふと、それにとりかかる前に、
或る休息に似た気持が来るものである。
三島由紀夫「美徳のよろめき」より

238 :
個性を愛することのできるのはむしろ友情の特権だ
三島由紀夫「美徳のよろめき」より

嫉妬の孤立感、その焦燥、そのあてどもない怒りを鎮める方法は一つしかなく、それは
嫉妬の当の対象、憎しみの当面の敵にむかつて、哀訴の手をさしのべることなのである。
…自分に傷を与へる敵の剣にすがつて、薬餌を求めるほかはないのである。
三島由紀夫「美徳のよろめき」より

われわれが未来を怖れるのは、概して過去の堆積に照らして怖れるのである。
恋が本当に自由になるのは、たとへ一瞬でも思ひ出の絆から脱したときだ
三島由紀夫「美徳のよろめき」より

239 :
道徳は、習慣からの逃避もみとめないが、同時に、習慣への逃避も、それ以上にみとめて
ゐないのだ。
道徳とは、人間と世界のこの悪循環を絶ち切つて、すべてのもの、あらゆる瞬間を、
決してくりかへされない一回きりのものにしようとする力なのだ。
三島由紀夫「美徳のよろめき」より

肉体の仕業はみんな嘘だと思つてしまへば簡単だが、それが習慣になつてしまへば、
習慣といふものには嘘も本当もない。
精神を凌駕することのできるのは習慣といふ怪物だけなのだ。
三島由紀夫「美徳のよろめき」より

240 :
自然の物理的法則からすつかり身を背けることが大切なのだ。自然の法則になまじ目移りして、
人間は人間であることを忘れ、習慣の奴隷になるか逃避の王者になるかしてしまふ。
自然はくりかへしてゐる。一回きりといふのは、人間の唯一の特権なのだ。
三島由紀夫「美徳のよろめき」より

明日を怖れてゐる快楽などは、贋物でもあり、恥づべきものではないだらうか。
三島由紀夫「美徳のよろめき」より

241 :
習慣からのがれようとする思案は、陰惨で、人を卑屈にするばかりだが、快楽を
捨てようとする意志は、人の矜りに媚び、自尊心に受け容れられやすい。
三島由紀夫「美徳のよろめき」より

男は、一度高い精神の領域へ飛び去つてしまふと、もう存在であることをやめてしまえる!
三島由紀夫「美徳のよろめき」より

242 :
女が一等惚れる羽目になるのは、自分に一等苦手な男相手でございますね。
あなたばかりではありません。誰もさうしたものです。そのおかげで私たちは自分の欠点、
自分といふ人間の足りないところを、よくよく知るやうになるのです。
女は女の鑑(かがみ)にはなれません。いつも殿方が女の鑑になつてくれるのですね。
それもつれない殿方が。
三島由紀夫「美徳のよろめき」より

情に負けるといふことが、結局女の最後の武器、もつとも手強い武器になります。
情に逆らつてはなりません。ことさら理を立てようとしてはなりません。情に負け、
情に溺れて、もう死ぬほかないと思ふときに、はじめて女には本来の智恵が湧いてまゐります。
三島由紀夫「美徳のよろめき」より

243 :
女は恋に敗れた女に同情しながら、さういふ敗北者の噂をひろげるのが大そう好きで、
恋に勝つてばかりゐる女のことは、『不道徳な人』といふ一言で片附けるだけなのでございます。
いはば、さういふ勝利者は抽象的な不名誉だけで事がすみ、細目にわたる具体的な不名誉は、
お気の毒にも、不幸な敗北者の女が蒙ることになるのです。
三島由紀夫「美徳のよろめき」より

世間を味方につけるといふことは奥様、とりもなおさず、世間に決して同情の涙を
求めないといふことなのです。
三島由紀夫「美徳のよろめき」より

惚れすぎて苦しくなり、相手をむりにも軽蔑することで、その恋から逃げようとするのは、
拙ない初歩のやり方です。万に一つも巧くはまゐりません。
ひたすらその方をうやまひ、尊敬するやうになさいまし。お相手がどんなに卑劣な振舞をしても、
なほかつ尊敬するやうになさいまし。さうしてゐれば、とたんにお相手はあなたの目に、
つまらない人物に見えてまゐります。
三島由紀夫「美徳のよろめき」より

244 :
苦痛の明晰さには、何か魂に有益なものがある。
どんな思想も、またどんな感覚も、烈しい苦痛ほどの明晰さに達することはできない。
よかれあしかれ、それは世界を直視させる。
三島由紀夫「美徳のよろめき」より

245 :
外人の男たちの、鶏みたいな、半透明な血の色の透けてみえる、ひどく老化の早い、汚ならしい肌
三島由紀夫「肉体の学校」より

西洋人より、日本の若い男のはうが、ずつと動物的な美しさを持つてゐる。
つまり動物的なしなやかさと、弾力と、無表情な美しさとを。
三島由紀夫「肉体の学校」より

男にしろ、女にしろ、肉体上の男らしさ女らしさとは、肉体そのものの性のかがやき、
存在全体のかがやきから生れる筈のものである。
それは部分的な機能上の、見栄坊な男らしさとは何の関係もない。
三島由紀夫「肉体の学校」より

246 :

【民主党】の実績(たった8カ月でこれだけ実現)
●国家公務員の天下りあっせんを全面禁止
●子供手当支給
●生活保護の母子加算復活
●記者会見オープン化
●父子家庭に児童扶養手当支給
●公立高校生授業料無償化
●密約解明
●私立高校生年12〜25万円助成
●社会保障費年2200億円削減方針撤回
●基礎的自治体に事務事業の権限と財源を大幅に移譲
●医師不足に悩む救急や外科、産婦人科、小児科医などの診療報酬引き上げ
●国と地方の協議の場を設置
●全ての国直轄事業における負担金制度を廃止
●非正規労働者の雇用保険への適用条件を緩和
●原則として製造現場への派遣を禁止
●先進国では常識の農家へ戸別所得補償制度実施
●バリアフリー改修、省エネ改修工事などを支援
●分娩の公的助成
●肝炎患者のインターフェロン治療の自己負担限度額を月7万円→1万円
●マグロ規制問題で、欧米を敵に回し歴史的大勝利
●口蹄疫の発生に対して政府一丸となって対処
  自衛隊を早期に投入して蔓延拡大の防止
●事業仕分けで無駄の削減
●シーシェパード船長を逮捕拘束。
 →ちなみに麻生政権では、侵入者に天麩羅ご馳走して無罪放免w
●豪州政府との間で物品役務相互提供協定(ACSA)を締結。
  アジア、オセアニアの安全保障に大いなる貢献

247 :
革命は行動である。行動は死と隣り合はせになることが多いから、ひとたび書斎の
思索を離れて行動の世界に入るときに、人が死を前にしたニヒリズムと偶然の僥倖を頼む
ミスティシズムとの虜にならざるを得ないのは人間性の自然である。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より

248 :
「帰太虚」とは太虚に帰するの意であるが、大塩(平八郎)は太虚といふものこそ
万物創造の源であり、また善と悪とを良知によつて弁別し得る最後のものであり、
ここに至つて人々の行動は生死を超越した正義そのものに帰着すると主張した。
彼は一つの譬喩を持ち出して、たとへば壷が毀(こは)されると壷を満たしてゐた空虚は
そのまま太虚に帰するやうなものである、といつた。壷を人間の肉体とすれば、
壷の中の空虚、すなはち肉体に包まれた思想がもし良知に至つて真の太虚に達してゐるならば、
その壷すなはち肉体が毀されようと、瞬間にして永遠に偏在する太虚に帰することが
できるのである。
その太虚はさつきも言つたやうに良知の極致と考へられてゐるが、現代風にいへば
能動的ニヒリズムの根元と考へてよいだらう。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より

249 :
仏教の空観と陽明学の太虚を比べると、万物が涅槃の中に溶け込む空と、その万物の創造の
母体であり行動の源泉である空虚とは、一見反対のやうであるが、いつたん悟達に達して
また現世へ戻つてきて衆生済度の行動に出なければならぬと教へる大乗仏教の教へには
この仏教の空観と陽明学の太虚をつなぐものがおぼろげに暗示されてゐる。
ベトナムにおける抗議僧の焼身自殺は大乗仏教から説明されるが、また陽明学的な行動とも
いふことができるのである。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より

250 :
陽明学には、アポロン的な理性の持ち主には理解しがたいデモーニッシュな要素がある。
ラショナリズムに立てこもらうとする人は、この狂熱を避けて通る。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より

251 :
われわれは天といへば青空のことだと思つてゐるが、こればかりが天ではなくて、石の間に
ひそむ空虚、あるひは生えてゐる竹の中にひそんでゐる空虚もまつたく同じ天であり、
太虚の一つである。この太虚は植物、無機物ばかりではなく、人間の肉体の中にも
口や耳を通じてひそんでゐる。
われわれが持つてゐる小さな虚も、聖人の持つてゐる虚と異なるところはない。
もし、誰であつても心から欲を打ち払つて太虚に帰すれば、天がすでにその心に
宿つてゐるのである。誰でも聖人の地位に達しようと欲して達し得ないことはない。
「聖人は即ち言あるの太虚にして、太虚は即ち言はざるの聖人なり」
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より

252 :
太虚に帰すべき方法としては、真心をつくし誠をつくして情欲を一掃し、そこへ入つていく
ほかはない。形のあるものはすべて滅び、すべて動揺する。大きな山でさへ地震によつて
ゆすぶられる。何故なら形があるからである。しかし、地震は太虚を動かすことはできない。
これでわかるやうに心が太虚に帰するときに、初めて真の「不動」を語ることができるのである。
すなはち、太虚は永遠不滅であり不動である。心がすでに太虚に帰するときは、いかなる
行動も善悪を超脱して真の良知に達し、天の正義と一致するのである。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より

253 :
その太虚とは何であるか。人の心は太虚と同じであり、心と太虚とは二つのものではない。
また、心の外にある虚は、すなはちわが心の本体である。かくて、その太虚は世界の実在である。
この説は世界の実在はすなはちわれであるといふ点で、ウパニシャッドのアートマンと
はなはだ相近づいてくる。
大塩平八郎はその「洗心洞剳記」にもいふやうに、「身の死するを恨みずして心の死するを恨む」
といふことをつねに主張してゐた。この主張から大塩の過激な行動が一直線に出てきたと
思はれるのである。心がすでに太虚に帰すれば、肉体は死んでも滅びないものがある。
だから、肉体の死ぬのを恐れず心の死ぬのを恐れるのである。心が本当に死なないことを
知つてゐるならば、この世に恐ろしいものは何一つない。決心が動揺することは絶対ない。
そのときわれわれは天命を知るのだ、と大塩は言つた。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より

254 :
われわれは心の死にやすい時代に生きてゐる。しかも平均年齢は年々延びていき、
ともすると日本には、平八郎とは反対に、「心の死するを恐れず、ただただ身の死するを恐れる」
といふ人が無数にふえていくことが想像される。肉体の延命は精神の延命と同一に
論じられないのである。われわれの戦後民主主義が立脚してゐる人命尊重のヒューマニズムは、
ひたすら肉体の安全無事を主張して、魂や精神の生死を問はないのである。
社会は肉体の安全を保障するが、魂の安全を保障しはしない。心の死ぬことを恐れず、
肉体の死ぬことばかり恐れてゐる人で日本中が占められてゐるならば、無事安泰であり
平和である。しかし、そこに肉体の生死をものともせず、ただ心の死んでいくことを
恐れる人があるからこそ、この社会には緊張が生じ、革新の意欲が底流することになるのである。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より

255 :
死を恐れるのは生まれてからのちに生ずる情であつて、肉体があればこそ死を恐れるの
心が生じる。そして死を恐れないのは生まれる前の性質であつて、肉体を離れるとき初めて
この死の性質をみることができる。したがつて、人は死を恐れるといふ気持のうちに
死を恐れないといふ真理を発見しなければならない。それは人間がその生前の本性に
帰ることである。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より

256 :
ひたすら聖人に及ばざることのみを考へてゐるところからは、決して行動のエネルギーは
湧いてはこない。同一化とは、自分の中の空虚を巨人の中の空虚と同一視することであり、
自分の得たニヒリズムをもつと巨大なニヒリズムと同一化することである。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より

何故日本人はムダを承知の政治行動をやるのであるか。しかし、もし真にニヒリズムを
経過した行動ならば、その行動の効果がムダであつてももはや驚くに足りない。
陽明学的な行動原理が日本人の心の中に潜む限り、これから先も、西欧人にはまつたく
うかがひ知られぬやうな不思議な政治的事象が、日本に次々と起ることは予言してもよい。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より

257 :
日本が貿易立国によつて進まねばならない島国といふ特性を有しながらも、アジアの
一環に属することによつて西欧化に対する最後の抵抗を試みるならば、それは精神による
抵抗でなければならないはずである。
精神の抵抗は反体制運動であると否とを問はず、日本の中に浸潤してゐる西欧化の弊害を
革正することによつてしか、最終的に成就されない道である。そのとき革新思想が
どのやうな形で西欧化に妥協するかによつて、無限にその政治的有効性の方向に
引きずられていくことは、戦後の歴史が無惨に証明した如くである。われわれは
この陽明学といふ忘れられた行動哲学にかへることによつて、もう一度、精神と政治の
対立状況における精神の闘ひの方法を、深く探究しなほす必要があるのではあるまいか。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より

258 :
少年期の特長は残酷さです。どんなにセンチメンタルにみえる少年にも、植物的な残酷さが
そなはつてゐる。
少女も残酷です。やさしさといふものは、大人のずるさと一緒にしか成長しないものです。
三島由紀夫「不道徳教育講座 教師を内心バカにすべし」より

259 :
世間で謙遜な人とほめられてゐるのはたいてい犠牲者です。
三島由紀夫「不道徳教育講座 できるだけ己惚れよ」より

己惚れ屋にとつては、他人はみんな、自分の己惚れのための餌なのです。
三島由紀夫「不道徳教育講座 できるだけ己惚れよ」より

260 :
どうでもいいことは流行に従ふべきで、流行とは、「どうでもいいものだ」ともいへませう。
三島由紀夫「不道徳教育講座 流行に従ふべし」より

流行は無邪気なほどよく、「考へない」流行ほど本当の流行なのです。
白痴的、痴呆的流行ほど、あとになつて、その時代の、美しい色彩となつて残るのである。
三島由紀夫「不道徳教育講座 流行に従ふべし」より

261 :
洋食作法を知つてゐたつて、別段品性や思想が向上するわけはないのです。
三島由紀夫「不道徳教育講座 スープは音を立てて吸ふべし」より

エチケットなどといふものは、俗の俗なるもので、その人の偉さとは何の関係もないのである。
三島由紀夫「不道徳教育講座 スープは音を立てて吸ふべし」より

262 :
全く自力でやつたと思つたことでも、自らそれと知らずに誰かを利用して成功したのであり、
誰にも身を売らないつもりでも、それと知らずに身を売つてゐるのが、現代社会といふものです。
三島由紀夫「不道徳教育講座 美人の妹を利用すべし」より

263 :
男といふものは、もし相手の女が、彼の肉体だけを求めてゐたのだとわかると、
一等自尊心を鼓舞されて、大得意になるといふ妙なケダモノであります。
三島由紀夫「不道徳教育講座 痴漢を歓迎すべし」より

女の人が自分の体に対して抱いてゐる考へは、男とはよほどちがふらしい。その乳房、
そのウェイスト、その脚の魅力は、すべて「女たること」の展覧会みたいなものである。
美しければ美しいほど、彼女はそれを自分個人に属するものと考へず、何かますます
普遍的な、女一般に属するものと考へる。この点で、どんなに化粧に身をやつし、
どんなに鏡を眺めて暮しても、女は本質的にナルシスにはならない。
ギリシアのナルシスは男であります。
三島由紀夫「不道徳教育講座 痴漢を歓迎すべし」より

264 :
人に恩を施すときは、小川に花を流すやうに施すべきで、施されたはうも、淡々と
忘れるべきである。これこそ君子(くんし)の交はりといふものだ。
三島由紀夫「不道徳教育講座 人の恩は忘れるべし」より

若い人といふものは、殊に喧嘩の話が好きです。若いくせにひたすら平和主義に沈潜したり
してゐるのは、たいてい失恋常習者である。
三島由紀夫「不道徳教育講座 喧嘩の自慢をすべし」より

265 :
「洗練された紳士」といふ種族は、必ず不道徳でありますから、お世辞の大家であつて、
「人間の真実」とか「人生の真相」とかいふものは、めつたに持ち出してはいけないものだ、
といふことを知つてゐます。ダイアモンドの首飾などを持つてゐる貴婦人は、そのオリジナルは
銀行にあづけ、寸分たがはぬ硝子玉のコピイを首にかけて出かけるのが慣例です。
人生の真実もこれと同じで、本物が必要になるのは十年にいつぺんか二十年にいつぺんぐらい。
あとはニセモノで通用するのです。それが世の中といふもので、しよつちゆう火の玉を抱いて
突進してゐては、自分がヤケドするばかりである。
三島由紀夫「不道徳教育講座 空お世話を並べるべし」より

266 :
男と女の一等厄介なちがひは、男にとつては精神と肉体がはつきり区別して意識されてゐるのに、
女にとつては精神と肉体がどこまで行つてもまざり合つてゐることである。
女性の最も高い精神も、最も低い精神も、いづれも肉体と不即不離の関係に立つ点で、
男の精神とはつきりちがつてゐる。いや、精神だの肉体だのといふ区別は、男だけの
問題なのであつて、女にとつては、それは一つものなのだ。
三島由紀夫「不道徳教育講座 いはゆる『よろめき』について」より

五百人の男と交はつた女は、心をも切り売りした哀れな娼婦になり、五百人の女と交はつた男は、
単なる放蕩者に止(とど)まつて、精神の領域では立派な尊敬すべき男であるといふ
事態も起り得る。
三島由紀夫「不道徳教育講座 いはゆる『よろめき』について」より

267 :
精神と肉体をどうしても分けることのできない女性の特有そのものを、仮に「罪」と
呼んだと考へればよい。そして一等厄介なことは、女性の最高の美徳も、最低の悪徳も、
この同じ宿命、同じ罪、同じ根から出てゐて、結局同じ形式をとるといふことです。
崇高な母性愛も、良人に対する献身的な美しい愛も、……それから「よろめき」も、
御用聞きとの高笑いも、……みんな同じ宿命から出てゐるといふところに、女性の
女性たる所以があります。
三島由紀夫「不道徳教育講座 いはゆる『よろめき』について」より

268 :
http://hugo-sb.way-nifty.com/photos/uncategorized/z2.jpg
http://blog-imgs-16.fc2.com/i/s/u/isulog/mishima_head.jpg
http://www19.atpages.jp/imagelinkget/get.php?t=v&u=hugo-sb.way-nifty.com/photos/uncategorized/z4.jpg

269 :
死者に対する賞賛には、何か冷酷な非人間的なものがあります。死者に対する悪口は、
これに反して、いかにも人間的です。悪口は死者の思ひ出を、いつまでも生きてゐる人間の
間に温めておくからです。
三島由紀夫「不道徳教育講座 死後に悪口を言ふべし」より

ケチな人と附合つて安心なのは、かういふ人には、まづ、やたらと友だちに「金を貸してくれ」
などと持ちかけるダラシのないヤカラはゐないことです。
三島由紀夫「不道徳教育講座 ケチをモットーにすべし」より

270 :
利口であらうとすることも人生のワナなら、バカであらうとすることも人生のワナであります。
そんな風に人間は「何かであらう」とすることなど、本当は出来るものではないらしい。
利口であらうとすればバカのワナに落ち込み、バカであらうとすれば利口のワナに落ち込み、
果てしもない堂々めぐりをかうしてくりかへすのが、多分人生なのでありませう。
三島由紀夫「不道徳教育講座 馬鹿は死ななきや……」より

271 :
告白癖のある友人ほどうるさいものはない。もてた話、失恋した話を長々ときかせる。
三島由紀夫「不道徳教育講座 告白するなかれ」より

やたらと人に弱味をさらけ出す人間のことを、私は躊躇なく「無礼者」と呼びます。
それは社会的無礼であつて、われわれは自分の弱さをいやがる気持から人の長所をみとめるのに、
人も同じやうに弱いといふことを証明してくれるのは、無礼千万なのであります。
三島由紀夫「不道徳教育講座 告白するなかれ」より

どんなに醜悪であらうと、自分の真実の姿を告白して、それによつて真実の姿をみとめてもらひ、
あはよくば真実の姿のままで愛してもらはうと考へるのは、甘い考へで、人生をなめて
かかつた考へです。
三島由紀夫「不道徳教育講座 告白するなかれ」より

272 :
北欧諸国で老人の自殺が多いのは何が原因かね。社会保障が行き届きすぎて、老人が何も
することがなくなつて、希望を失つて自Rるのである。
三島由紀夫「不道徳教育講座 日本及び日本人をほめるべし」より

青年男女の自殺といふのはママゴトのやうなもので、一種のオッチョコチョイであり、
人生に関する無智から来る。
三島由紀夫「不道徳教育講座 日本及び日本人をほめるべし」より

大体、男女といふものは、色事以外は、別種類の動物であつて、興味の持ち方から何から
ちがふし、トコトンまでわかり合ふといふわけには行かないのであるから、どこへも
男女同伴夫婦同伴などといふのは、人間心理をわきまへぬ野蛮人の風習である。
三島由紀夫「不道徳教育講座 日本及び日本人をほめるべし」より

273 :
どんな功利主義者も、策謀家も、自分に何の利害関係もない他人の失敗を笑ふ瞬間には、
ひどく無邪気になり、純真になります。誰でも人の好さが丸出しになり、目は子供つぽい
光りに充たされます。
三島由紀夫「不道徳教育講座 人の失敗を笑ふべし」より

友情はすべて嘲り合ひから生れる。
三島由紀夫「不道徳教育講座 人の失敗を笑ふべし」より

274 :
三千人と恋愛をした人が、一人と恋愛をした人に比べて、より多くについて知つてゐるとは
いへないのが、人生の面白味ですが、同時に、小説家のはうが読者より人生をよく知つてゐて、
人に道標を与へることができる、などといふのも完全な迷信です。
小説家自身が人生にアップアップしてゐるのであつて、それから木片につかまつて、
一息ついてゐる姿が、すなはち彼の小説を書いてゐる姿です。
三島由紀夫「不道徳教育講座 小説家を尊敬するなかれ」より

神経が疲労してゐるとき病的に性欲が昂進するのは、われわれが、経験上よく知つてゐる
ことである。これを「強烈な原始的性欲」とか、「本能の嵐」とかに見まちがへる人がゐたら、
よつぽどどうかしてゐるのである。これはむしろ本能から一等遠い状態です。
三島由紀夫「不道徳教育講座 性的ノイローゼ」より

275 :
怪力乱神は、どうもどこかに実在するらしい、といふのが私のカンである。
仕事をしてゐるときでも、ふと自分が怪力乱神の虜になつてゐると感じることがある。
しかしこの世に知性で割り切れぬことがあるのは、少しも知性の恥ではない。
三島由紀夫「不道徳教育講座 お化けの季節」

276 :
人間対人間では、いつも勝つのは、情熱を持たない側の人間です。
あるひは、より少なく情熱を持つ側の人間です。
三島由紀夫「不道徳教育講座 人を待たせるべし」より

セールスマンの秘訣は決して売りたがらぬことだと言はれてゐる。人が押売りからものを
買ひたがらぬのは、人間の本能で、敗北者に対して、敗北者の売る物に対して、
魅力を感じないからであります。
三島由紀夫「不道徳教育講座 人を待たせるべし」より

人を待たせる立場の人は、勝利者であり成功者だが、必ずしも幸福な人間とはいへない。
駅の前の待ち人たちは、欠乏による幸福といふ人間の姿を、一等よくあらはしてゐると
いへませう。
三島由紀夫「不道徳教育講座 人を待たせるべし」より

277 :
いくら禿頭でも、独身の男といふものは、女性にとつて、或る可能性の権化にみえるらしい。
男にとつていかに独身のはうがトクであるかは、言ふを俟ちません。かく言ふ私でも、
結婚したとたんに、女性の読者からの手紙が激減してしまひました。これは大いに私を
意気沮喪させる現象でありました。
三島由紀夫「不道徳教育講座 子持ちを隠すべし」より

孤独感こそ男のディグニティーの根源であつて、これを失くしたら男ではないと言つてもいい。
子供が十人あらうが、女房が三人あらうが、いや、それならばますます、男は身辺に
孤独感を漂はしてゐなければならん。
三島由紀夫「不道徳教育講座 子持ちを隠すべし」より

278 :
男はどこかに、孤独な岩みたいなところを持つてゐなくてはならない。
三島由紀夫「不道徳教育講座 子持ちを隠すべし」より

このごろは、ベタベタ自分の子供の自慢をする若い男がふえて来たが、かういふのはどうも
不潔でやりきれない。アメリカ人の風習の影響だらうが、誰にでも、やたらむしやうに
自分の子供の写真を見せたがる。かういふ男を見ると、私は、こいつは何だつて男性の
威厳を自ら失つて、人間生活に首までドップリひたつてやがるのか、と思つて腹立たしくなる。
「自分の子供が可愛い」などといふ感情はワイセツな感情であつて、人に示すべきものでは
ないらしい。
三島由紀夫「不道徳教育講座 子持ちを隠すべし」より

279 :
日本も三等国か四等国か知らないが、そんなに、「どうせ私なんぞ」式外交ばかりやらないで、
たまにはゴテてみたらどうだらう。さうすることによつて、自分の何ほどかの力が
確認されるといふものであります。
三島由紀夫「不道徳教育講座 何かにつけてゴテるべし」より

現代は一方から他方を見ればみんなキチガヒであり、他方から、一方を見ればみんな
キチガヒである。これが現代の特性だ。
三島由紀夫「不道徳教育講座 痴呆症と赤シャツ」より

男が持つてゐる癒やしがたいセンチメンタリズムは、いつも自分の港を持つてゐたいといふことです。
世界中の港をほつつき歩いても最後に帰つて身心を休める港は、故里の港一つしかない。
三島由紀夫「不道徳教育講座 恋人を交換すべし」より

280 :
私は自分のものの考へ方には頑固であつても、相手の思想に対して不遜であつたことはない
といふ自信がある。これが自由といふものの源泉だと私には思はれる。
三島由紀夫「『尚武のこころ』あとがき」より

281 :
追憶は「現在」のもつとも清純な証なのだ。
愛だとかそれから献身だとか、そんな現実におくためにはあまりに清純すぎるやうな感情は、
追憶なしにはそれを占つたり、それに正しい意味を索めたりすることはできはしないのだ。
それは落葉をかきわけてさがした泉が、はじめて青空をうつすやうなものである。
泉のうへにおちちらばつてゐたところで、落葉たちは決して空を映すことはできないのだから。
三島由紀夫「花ざかりの森」より

祖先はしばしば、ふしぎな方法でわれわれと邂逅する。ひとはそれを疑ふかもしれない。
だがそれは真実なのだ。
三島由紀夫「花ざかりの森」より

282 :
今日、祖先たちはわたしどもの心臓があまりにさまざまのもので囲まれてゐるので、
そのなかに住ひを索めることができない。かれらはかなしさうに、そはそはと時計のやうに
そのまはりをまはつてゐる。
三島由紀夫「花ざかりの森」より

美は秀麗な奔馬である。
三島由紀夫「花ざかりの森」より

283 :
わたしはわたしの憧れの在処を知つてゐる。憧れはちやうど川のやうなものだ。
川のどの部分が川なのではない。なぜなら川はながれるから。きのふ川であつたものは
けふ川ではない。だが川は永遠にある。
ひとはそれを指呼することができる。それについて語ることはできない。
わたしの憧れもちやうどこのやうなものだ。
三島由紀夫「花ざかりの森」より

284 :
ああ、あの川。わたしにはそれが解る。祖先たちからわたしにつづいたこのひとつの黙契。
その憧れはあるところでひそみ或るところで隠れてゐる。だが、死んでゐるのではない。
古い籬(まがき)の薔薇が、けふ尚生きてゐるやうに。
祖母と母において、川は地下をながれた。父において、それはせせらぎになつた。
わたしにおいて、――ああそれが滔々とした大川にならないでなににならう、綾織るものゝやうに、
神の祝唄のやうに、神の祝唄(ほぎうた)のやうに。
三島由紀夫「花ざかりの森」より

285 :
老婦人は毅然としてゐた。白髪がこころもちたゆたうてゐる。おだやかな銀いろの縁をかがつて。
じつとだまつてたつたまま、……ああ涙ぐんでゐるのか。祈つてゐるのか。それすらわからない。……
まらうどはふとふりむいて、風にゆれさわぐ樫の高みが、さあーつと退いてゆく際に、
眩ゆくのぞかれるまつ白な空をながめた。なぜともしれぬいらだたしい不安に胸がせまつて。
「死」にとなりあはせのやうにまらうどは感じたかもしれない、生(いのち)がきはまつて
独楽(こま)の澄むやうな静謐、いはば死に似た静謐ととなりあはせに。……
三島由紀夫「花ざかりの森」より

286 :
愛の奥処には、寸分たがはず相手に似たいといふ不可能な熱望が流れてゐはしないだらうか?
この熱望が人を駆つて、不可能を反対の極から可能にしようとねがふあの悲劇的な離反に
みちびくのではなからうか?
三島由紀夫「仮面の告白」より

抵抗を感じない想像力といふものは、たとひそれがどんなに冷酷な相貌を帯びやうと、
心の冷たさとは無縁のものである。それは怠惰ななまぬるい精神の一つのあらはれにすぎなかつた。
三島由紀夫「仮面の告白」より

287 :
ロマネスクな性格といふものには、精神の作用に対する微妙な不信がはびこつてゐて、
それが往々夢想といふ一種の不倫な行為へみちびくのである。夢想は、人の考へてゐるやうに
精神の作用であるのではない。それはむしろ精神からの逃避である。
三島由紀夫「仮面の告白」より

処女だけに似つかはしい種類の淫蕩さといふものがある。それは成熟した女の淫蕩とは
ことかはり、微風のやうに人を酔はせる。それは可愛らしい悪趣味の一種である。
たとへば赤ん坊をくすぐるのが大好きだと謂つたたぐひの。
三島由紀夫「仮面の告白」より

288 :
傷を負つた人間は間に合はせの繃帯が必ずしも清潔であることを要求しない。
三島由紀夫「仮面の告白」より

潔癖さといふものは、欲望の命ずる一種のわがままだ。
三島由紀夫「仮面の告白」より

289 :
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290 :
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291 :
正義を行へ、弱きを護れ。
三島由紀夫「につぽん製」より

自分が若いころ闊歩できなかつた街は、何だか一生よそよそしいものである。
三島由紀夫「につぽん製」より

とにかく人生は柔道のやうには行かないものである。
人生といふやつは、まるで人絹の柔道着を着てゐるやうで、ツルツルすべつて、
なかなか業(わざ)がきかないのであつた。
三島由紀夫「につぽん製」より

292 :
期待してゐる人間の表情といふものは美しいものだ。そのとき人間はいちばん正直な表情を
してゐる。自分のすべてを未来に委ね、白紙に還つてゐる表情である。
三島由紀夫「恋の都」より

羞恥がなくて、汚濁もない少女の顔ほど、少年を戸惑はせるものはない。
三島由紀夫「恋の都」より

自分の尊敬する人の話をすることは、いはば初心(うぶ)なフランスの少年が女の子の前で
ナポレオンの話をするのと同様に、持つて廻つた敬虔な愛の告白でもあるのだ。
三島由紀夫「恋の都」より

293 :
本当のヤクザといふものは、チンピラとちがつて、チャチな凄味を利かせたりしないものである。
映画に出てくる親分は大抵、へんな髭を生やして、妙に鋭い目つきをして、キザな仕立の
背広を着て、ニヤけたバカ丁寧な物の言ひ方をして、それでヤクザをカモフラージュした
つもりでゐるが、本当のヤクザのカモフラージュはもつとずつと巧い。
旧左翼の人に、却つて、如才のない人が多いのと同じことである。
三島由紀夫「恋の都」より

自分の最初の判断、最初のねがひごと、そいつがいちばん正しいつてね。
なまじ大人になつていろいろひねくりまはして考へると、却つて判断をあやまるもんだ。
婿えらびをする能力といふものは、もしかしたら、三十五歳の女より、十六歳の少女のはうが、
ずつと豊富にもつてゐるのかもしれないんだぜ。
三島由紀夫「恋の都」より

後悔ほどやりきれないものはこの世の中にないだらう。
三島由紀夫「恋の都」より

294 :
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tcanalblog livres mishima photo sabre 1 jpg していたが 173センチの私より二回りばかり小さかった
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295 :
美しい女と二人きりで歩いてゐる男は頼もしげにみえるのだが、女二人にはさまれて
歩いてゐる男は道化じみる。
三島由紀夫「春子」より

296 :
事件といふものは見事な秩序をもつてゐるものである。日常生活よりもはるかに見事な。
三島由紀夫「サーカス」より

297 :
相似といふものは一種甘美なものだ。ただ似てゐるといふだけで、その相似たものの
あひだには、無言の諒解(りようかい)や、口に出さなくても通ふ思ひや、静かな信頼が
存在してゐるやうに思はれる。
三島由紀夫「翼」より

模倣が少女の愛の形式であり、これが中年女の愛し方ともつとも差異の顕著な点である。
三島由紀夫「翼」より

翼は地上を歩くのには適してゐない。
三島由紀夫「翼」より

298 :
人間の野心といふものは衆にぬきん出ようとする欲望だが、幸福といふものは皆と
同じになりたいといふ欲求だ。
三島由紀夫「クロスワード・パズル」より

299 :
死の近い病人が無意識に死の予感にかられて、自分を愛してくれる人たちを別れ易くして
やるために、殊更自分を嫌われ者にする、といふ言ひつたへには、たしかに或る種の真実がある。
病苦や焦燥のためだけではなくて、病人のつのる我儘には、生への執着以外の別の動機が
ひそんでゐるやうに思はれる。
三島由紀夫「貴顕」より

300 :
この世界の愚劣を癒やすためには、まづ、何か、愚劣の洗滌が要るのだ。
藷たちが愚劣と考へることの、一生けんめいの聖化が要るのだ。あいつらの信条、
あいつらの商人的な一生けんめいさをさへ真似をして。
三島由紀夫「葡萄パン」より

301 :
大噴柱は、水の作り成した彫塑のやうに、きちんと身じまいを正して、静止してゐるかの
やうである。しかし目を凝らすと、その柱のなかに、たえず下方から上方へ馳せ昇つてゆく
透明な運動の霊が見える。それは一つの棒状の空間を、下から上へ凄い速度で順々に
充たしてゆき、一瞬毎に、今欠けたものを補つて、たえず同じ充実を保つてゐる。
それは結局天の高みで挫折することがわかつてゐるのだが、こんなにたえまのない挫折を
支へてゐる力の持続は、すばらしい。
三島由紀夫「雨のなかの噴水」より

302 :
どんか死でもあれ、死は一種の事務的な手続である。
三島由紀夫「真夏の死」より

一人死んでも、十人死んでも、同じ涙を流すほかに術がないのは不合理ではあるまいか?
涙を流すことが、泣くことが、何の感情の表現の目安になるといふのか?
三島由紀夫「真夏の死」より

303 :
われわれには死者に対してまだなすべき多くのことが残つてゐる。悔恨は愚行であり、
ああもできた、かうも出来たと思ひ煩らふのは詮ないことであるが、それは死者に対する
最後の人力の奉仕である。われわれは少しでも永いあひだ、死を人間的な事件、
人間的な劇の範囲に引止めておきたいと希(ねが)ふのである。
三島由紀夫「真夏の死」より

記憶はわれわれの意識の上に、時間をしばしば並行させ重複させる。
三島由紀夫「真夏の死」より

304 :
悲嘆の博愛を信じろと云つても困難である。悲しみは最もエゴイスティックな感情だからである。
三島由紀夫「真夏の死」より

生きてゐるといふことは、何といふ残酷さだ。
…残酷な生の実感には、深い、気も遠くなるほどの安堵があつた。
三島由紀夫「真夏の死」より

305 :
われらを狂気から救ふものは何ものなのか? 生命力なのか? エゴイズムなのか?
狡さなのか? 人間の感受性の限界なのか? 狂気に対するわれわれの理解の不可能が、
われわれを狂気から救つてゐる唯一の力なのか? それともまた、人間には個人的な不幸しか
与へられず、生に対するどんな烈しい懲罰も、あらかじめ個人的な生の耐へうる度合に於て、
与へられてゐるのであらうか? すべては試煉にすぎないのであらうか?
しかしただ理解の錯誤がこの個人的な不幸のうちにも、しばしば理解を絶したものを
空想するにすぎないのであらうか?
三島由紀夫「真夏の死」より

事件に直面して、直面しながら、理解することは困難である。理解は概ね後から来て、
そのときの感動を解析し、さらに演繹して、自分にむかつて説明しようとする。
三島由紀夫「真夏の死」より

306 :
われわれの生には覚醒させる力だけがあるのではない。生は時には人を睡(ねむ)らせる。
よく生きる人はいつも目ざめてゐる人ではない。時には決然と眠ることのできる人である。
死が凍死せんとする人に抵抗しがたい眠りを与へるやうに、生も同じ処方を生きようとする人に
与へることがある。さういふとき生きようとする意志は、はからずもその意志の死によつて生きる。
三島由紀夫「真夏の死」より

死もわれわれの生の一事件にすぎないといふ残酷な前提…
三島由紀夫「真夏の死」より

男性は通例その移り気に於て女性よりも感傷的なものである。
三島由紀夫「真夏の死」より

307 :
なぜなら、すべて神聖なものは夢や思ひ出と同じ要素から成立ち、時間や空間によつて
われわれと隔てられてゐるものが、現前してゐることの奇蹟だからです。
しかしそれら三つは、いづれも手で触れることのできない点で共通してゐます。
手で触れることのできたものから、一歩遠ざかると、もうそれは神聖なものになり、
奇蹟になり、ありえないやうな美しいものになる。事物にはすべて神聖さが具はつてゐるのに、
われわれの指が触れるから、それは汚濁になつてしまふ。われわれ人間はふしぎな存在ですね。
指で触れるかぎりのものを涜(けが)し、しかも自分のなかには、神聖なものになりうる
素質を持つてゐるんですから。
三島由紀夫「春の雪」より

308 :
歴史はいつも崩壊する。又次の徒(あだ)な結晶を準備するために。
歴史の形成と崩壊とは同じ意味をしか持たないかのやうだ。
三島由紀夫「春の雪」より

優雅といふものは禁を犯すものだ。それも至高の禁を。
三島由紀夫「春の雪」より

309 :
われわれは恋しい人を目の前にしてさへ、その姿形と心とをばらばらに考へるほど
愚かなのだから、今僕は彼女の実在と離れてゐても、逢つてゐるときよりも却つて一つの
結晶を成した月光姫を見てゐるのかもしれないのだ。
別れてゐることが苦痛なら、逢つてゐることも苦痛でありうるし、逢つてゐることが歓びならば、
別れてゐることも歓びであつてならぬといふ道理はない。
三島由紀夫「春の雪」より

……海はすぐその目の前で終る。
波の果てを見てゐれば、それがいかに長いはてしない努力の末に、今そこであへなく
終つたかがわかる。
そこで世界をめぐる全海洋的規模の、一つの雄大きはまる企図が徒労に終るのだ。
三島由紀夫「春の雪」より

310 :
肉体が連続しなくても、妄念が連続するなら、同じ個体と考へて差支へがありません。
個体と云はずに、『一つの生の流れ』と呼んだらいいかもしれない。
三島由紀夫「春の雪」より

どんな夢にもをはりがあり、永遠なものは何もないのに、それを自分の権利と思ふのは
愚かではございませんか。私はあの『新しき女』などとはちがひます。……でも、もし
永遠があるとすれば、それは今だけなのでございますわ。
三島由紀夫「春の雪」より

311 :
『ああ……「僕の年」が過ぎてゆく! 過ぎてゆく! 一つの雲のうつろひと共に』
三島由紀夫「春の雪」より

今、夢を見てゐた。又、会ふぜ。きつと会ふ。滝の下で
三島由紀夫「春の雪」より

312 :
この日本をめぐる海には、なほ血が経めぐつてゐる。かつて無数の若者の流した血が
海の潮の核心をなしてゐる。それを見たことがあるか。月夜の海上に、われらはありありと見る。
徒に流された血がそのとき黒潮を血の色に変へ、赤い潮は唸り、喚(おら)び、
猛き獣のごとくこの小さい島国のまはりを彷徨し、悲しげに吼える姿を。
三島由紀夫「英霊の声」より

われらには、死んですべてがわかつた。死んで今や、われらの言葉を禁(とど)める力は
何一つない。
われらはすべてを言ふ資格がある。何故ならわれらは、まごころの血を流したからだ。
三島由紀夫「英霊の声」より

313 :
われらはもはや神秘を信じない。自ら神風となること、自ら神秘となることとは、
さういふことだ。人をしてわれらの中に、何ものかを祈念させ、何ものかを信じさせることだ。
その具現がわれらの死なのだ。
しかしわれら自身が神秘であり、われら自身が生ける神であるならば、陛下こそ
神であらねばならぬ。神の階梯のいと高いところに、神としての陛下が輝いてゐて
下さらなくてはならぬ。そこにわれらの不滅の根源があり、われらの死の栄光の根源があり、
われらと歴史とをつなぐ唯一条の糸があるからだ。
三島由紀夫「英霊の声」より

314 :
そして陛下は決して、人の情と涙によつて、われらの死を救はうとなさつたり、
われらの死を妨げようとなさつてはならぬ。神のみが、このやうな非合理な死、青春の
このやうな壮麗な屠殺によつて、われらの生粋の悲劇を成就させてくれるであらうからだ。
さうでなければ、われらの死は、愚かな犠牲にすぎなくなるだらう。われらは戦士ではなく、
闘技場の剣士に成り下るだらう。神の死ではなくて、奴隷の死を死ぬだらう。……
三島由紀夫「英霊の声」より

315 :
陛下の御誠実は疑ひがない。陛下御自身が、実は人間であつたと仰せ出される以上、
そのお言葉にいつはりのあらう筈はない。高御座にのぼりましてこのかた、陛下はずつと
人間であらせられた。あの暗い世に、一つかみの老臣どものほかには友とてなく、
たつたお孤(ひと)りで、あらゆる辛苦をお忍びになりつつ、陛下は人間であらせられた。
清らかに、小さく光る人間であらせられた。
それはよい。誰が陛下をお咎めすることができよう。
だが、昭和の歴史においてただ二度だけ、陛下は神であらせられるべきだつた。
何と云はうか、人間としての義務において、神であらせられるべきだつた。この二度だけは、
陛下は人間であらせられるその深度のきはみにおいて、正に、神であらせられるべきだつた。
それを二度とも陛下は逸したまふた。もつとも神であらせられるべき時に、人間にましましたのだ。
三島由紀夫「英霊の声」より

316 :
一度は兄神たちの蹶起の時、一度はわれらの死のあと、国の敗れたあとの時である。
歴史に『もし』は愚かしい。しかし、もしこの二度のときに、陛下が決然と神にましましたら、
あのやうな虚しい悲劇は防がれ、このやうな虚しい幸福は防がれたであらう。
この二度のとき、この二度のとき、陛下は人間であらせられることにより、一度は軍の
魂を失はせ玉ひ、二度目は国の魂を失はせ玉ふた。
三島由紀夫「英霊の声」より

もしすぎし世が架空であり、今の世が現実であるならば、死したる者のため、何ゆゑ
陛下ただ御一人は、辛く苦しき架空を護らせ玉はざりしか。
三島由紀夫「英霊の声」より

317 :
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318 :
現代人は自分の外部に、すべて内部の観念の対応物をしかみとめない。宝石などといふ
純粋物質の存在をみとめない。しかし人間の内部と全く対応しない一物質を、古代の人たちは
物質と呼ばずに運命と呼んだのではなからうか。精神のうちでも決して具象化されない
純粋な精神が、外部に存在して、ただ一つの純粋物質としてわれわれの内部を脅やかすに
至つたのではあるまいか。
三島由紀夫「宝石売買」より

319 :
貴族とは没落といふ一つの観念を誰よりも鮮やかに生きる類ひの人間であつた。
たとへば「出世」といふ行為を離れてはありえぬ「出世」といふ観念を人は純粋に
生きることができないが、そこへゆくと、没落といふ観念はもともと没落といふ行為とは
縁もゆかりもないものなのである。没落を生きてゐるのではなく、「失敗した出世」を
生きてゐることにならう。没落といふ観念を全的に生きるためには、
決して没落してはならなかつた。落下の危険なしにサーカスは考へられないが、本当に
落ちてしまつたらそれはもはやサーカスではなくて、一つの椿事にすぎないのと同じやうに。
三島由紀夫「宝石売買」より

320 :
女性のもつ人道的感情はきはめて麗はしいもので、多くの場合、審美的でさへあるのである。
三島由紀夫「宝石売買」より

女の宝石をほめるのは、面と向つてその体をほめるやうなものではなからうか。
宝石への誉め言葉が時あつてふしぎな官能の歓びを女に与へるのはそのためだ。
三島由紀夫「宝石売買」より

321 :
打算のない愛情とよく言ひますが、打算のないことを証明するものは、打算を証明するものと
同様に、「お金」の他にはありません。打算があつてこそ「打算のない行為」もあるのですから、
いちばん純粋な「打算のない行為」は打算の中にしかありえないわけです。
夜があつてこそ昼があるのだから、昼といふ観念には「夜でない」といふ観念が含まれ、
その観念の最も純粋な生ける形態は夜の只中にしかないやうに、又いはば、深海魚が陸地に
引き揚げられて形がかはつてゐるのに、さういふ深海魚をしか見ることのできない人間が、
夜の中になく夜の外にある昼のみを昼と呼び、打算の中になく打算の外にある「打算なき行為」
だけを「打算なき行為」とよぶ誤ちを犯してゐるわけなのです。
三島由紀夫「宝石売買」より

322 :
何度失敗してもまた未練らしく試みられて際限がないあの錬金術同様に、打算のない行為と
いふものは、何度失敗しても飽きることなく求められて来ました。はじめそれは
精神の世界で探されました。宗教がさうですね。お互ひが真に孤独でなければ出来ない行為は、
精神の世界では、愛がその最高のものであり、もしかしたら唯一のものかもしれません。
そこで打算のない行為の原型が愛に求められました。しかし残念なことに、愛は対象の
属性には決してなりえないといふ法則が発見されたのです。これがつまり基督の昇天です。
彼の愛は人間の属性になるには耐へなかつた。孤独の属性になるには耐へなかつた。
三島由紀夫「宝石売買」より

323 :
嘘つきにみえる方が正直にみえるより得ではなくつて?
だつて安心して本当のことが言へますもの。
三島由紀夫「宝石売買」より

324 :
どんな卑近な情熱でも、そこには何らかの自己放棄を伴ふものだ。
三島由紀夫「孝経」より

良心は人を眠らせないが、罪は熟睡させるのである。
三島由紀夫「孝経」より

325 :
若さは礼儀正しく、しかも兇暴に撃ちかかつて来て、老年はこちらにゐて、微笑しながら、
じつと自信を以て身を衛る。青年の、暴力を伴はない礼儀正しさはいやらしい。それは
礼儀を伴はない暴力よりももつと悪い。
三島由紀夫「剣」より

相手の完璧さは完璧さの仮装であり、完璧さに化けてゐるのだ。
この世に完璧なものなんぞあらう筈はない。
三島由紀夫「剣」より
廉恥の心は持ちつづけてゐるべきだが、うじうじした羞恥心などはみな捨てる。
「……したい」などといふ心はみな捨てる。その代りに、「……すべきだ」といふことを
自分の基本原理にする。さうだ、本当にさうすべきだ。
三島由紀夫「剣」より

326 :
少年のころ、一度、太陽と睨めつこをしようとしたことがある。見るか見ぬかの
一瞬のうちの変化だが、はじめそれは灼熱した赤い玉だつた。それが渦巻きはじめた。
ぴたりと静まつた。するとそれは蒼黒い、平べつたい、冷たい鉄の円盤になつた。
彼は太陽の本質を見たと思つた。……しばらくはいたるところに、太陽の白い残影を見た。
叢にも。木立のかげにも。目を移す青空のどの一隅にも。
それは正義だつた。眩しくてとても正視できないもの。そして、目に一度宿つたのちは、
そこかしこに見える光りの斑は、正義の残影だつた。
三島由紀夫「剣」より

327 :
剣は結局、手の内にはじまつて手の内に終るな。
三島由紀夫「剣」より

人間が本当に学んで会得することといふのは、一生にたつた一つ、どんな小さいことでもいい。
たつた一つあればいいんだ。
三島由紀夫「剣」より

幸福なんて男の持つべき考へぢやない。
三島由紀夫「剣」より

328 :
誰かが苦しまなければならぬ。誰か一人でも、この砕けおちた世界の硝子のかけらの上を、
血を流して跣で歩いてみせなければならぬ。
三島由紀夫「美しい星」より

一人の人間が死苦にもだえてゐるとき、その苦痛がすべての人類に、ほんのわづかでも
苦痛の波動を及ぼさないとは何事だらう!
…どうしてあの原子爆弾の怖ろしい苦痛ですら、個人的な苦痛に還元され、肉体的な体験だけで
頒(わか)たれることになつたのだらう。
三島由紀夫「美しい星」より

329 :
いやが上にも凡庸らしく、それが人に優れた人間の義務でもあり、また、唯一つの
自衛の手段なのだ。
三島由紀夫「美しい星」より

今や人類は自ら築き上げた高度の文明との対決を迫られてをり、その文明の明智ある
支配者となるか、それともその文明に使役された奴隷として亡びるか、二つに一つの
決断を迫られてゐる。
三島由紀夫「美しい星」より

アメリカは、広島への原爆の投下によつて、自らの手を汚しました。これは彼らの歴史の
永久に落ちぬ汚点となりました。
三島由紀夫「美しい星」より

330 :
あるべきだと考へるものは、決してこの世に存在しない。しかし何かが存在しないなら、
それが存在すべきだつた。
三島由紀夫「美しい星」より

肉の交はりはそもそも心の交合の模倣であり、絶望から生れた余儀ない代償ではないだらうか。
三島由紀夫「美しい星」より

331 :
偶然といふ言葉は、人間が自分の無知を湖塗しようとして、尤もらしく見せかけるために
作つた言葉だよ。偶然とは、人間どもの理解をこえた高い必然が、ふだんは厚いマントに
身を隠してゐるのに、ちらとその素肌の一部をのぞかせてしまつた現象なのだ。
人智が探り得た最高の必然性は、多分天体の運行だらうが、それよりさらに高度の、
さらに精巧な必然は、まだ人間の目には隠されてをり、わずかに迂遠な宗教的方法で
それを揣摩してゐるにすぎないのだ。宗教家が神秘と呼び、科学者が偶然と呼ぶもの、
そこにこそ真の必然が隠されてゐるのだが、天はこれを人間どもに、いかにも取るに
足らぬもののやうに見せかけるために、悪戯つぽい、不まじめな方法でちらつかせるにすぎない。
三島由紀夫「美しい星」より

332 :
人間どもはまことに単純で浅見だから、まじめな哲学や緊急な現実問題やまともらしく
見える現象には、持ち前の虚栄心から喜んで飛びつくが、一見ばかばかしい事柄や
ノンセンスには、それ相応の軽い顧慮を払ふにすぎない。かうした人間はいつも天の必然に
だまし討ちにされる運命にあるのだ。なぜなら天の必然の白い美しい素足の跡は、
一見ばからしい偶然事のはうに、あらはに印されてゐるのだから。
恋し合つてゐる者同士は、よく偶然に会ふ羽目になるものだ。それだけならふしぎもないが、
憎み合つてゐて、お互ひに避けたいと思つてゐる同士も、よく偶然に会ふ羽目になるものだ。
この二例を人間の論理で統一すると、愛憎いづれにしろ、関心を持つてゐる人間同士は
否応なしに偶然に会ふといふことになる。人間の論理はそれ以上は進まない。
三島由紀夫「美しい星」より

333 :
しかしわれわれ宇宙人の鳥瞰的な目は、もつと広大な展望を持つてゐる。そこから見ると、
関心を抱き合ひつつ偶然に会ふ人の数とは比べものにならぬほど、人間どもは、電車の中、
町中で、何ら関心を持ち合はない無数の他人とも、時々刻々、偶然に会つてゐるのだ。
おそらく一生に一度しか会はない人たちと、奇蹟的にも、日々、偶然に会つてゐるのだ。
ここまでひろげられた偶然は、もう大きな見えない必然と云ふほかはあるまい。
仏教徒だけがこの必然を洞察して、『一樹の蔭』とか『袖触れ合ふも他生の縁』とかの
美しい隠喩でそれを表現した。そこには人間の存在にかすかに余影をとどめてゐる
『星の特質』がうかがはれ、天体の精妙な運行の、遠い反映が認められるのだ。実はそこには、
それよりもさらに高い必然の網目の影も落ちかかつてゐるのだが……。
三島由紀夫「美しい星」より

334 :
かつて叫ばれた八紘一宇といふ言葉は、かかる文明史的予言であつたものを、軍閥に利用されて、
卑小な意味に転化されたのだ。
三島由紀夫「美しい星」より

世界連邦の理念は、国際連合的な悪平等の上に立つてにつちもさつちも行かなくなるやうな
ものではなく、文明史的潮流の予言的洞察の上に立ち、日本といふ個と、世界といふ全体との、
お互ひがお互ひを包み込むやうな多次元的綜合(!)に依るべきである。
三島由紀夫「美しい星」より

人間には三つの宿命的な病気といふか、宿命的な欠陥がある。
その一つは事物への関心(ゾルゲ)であり、もう一つは人間への関心であり、もう一つは
神への関心である。人類がこの三つの関心を捨てれば、あるひは滅亡を免れるかもしれないが、
私の見るところでは、この三つは不治の病なのです。
三島由紀夫「美しい星」より

335 :
いくら人間が群をなして集まつても、宇宙法則の中で『生命』といふものが例外的なものに
すぎないといふ無意識の孤独感は拭はれず、人間はとりわけ物に、無機物き執着します。
金貨と宝石とは人間の生命と生活に対する一等冷淡な対立物であるにもかかはらず、
さういふ物質をとらへて、人間的色彩をこれに加へ、人間的臭気をこれに与へることに
人々は熱中して来ました。そのうちに人間は物に馴れ親しみ、物の運動と秩序のなかに、
人間の本質をみつけ出すやうにさへなつたのです。
そして有機物にすら、生きて動いてゐる猫にすら、人間の惹き起す事件にすら、いや、
人間そのものにすら、物の属性を与へなくては安心できぬやうになつた。物の属性を
即座に与へることが事物に完結性の外観をもたらし、人間が恒久性の観念と故意を
ごつちやにしてゐる『幸福』の外観をもたらすからです。
三島由紀夫「美しい星」より

336 :
かやうに人間の事物への関心は、時間の不可逆性からつねに自分を救ひ出さうとする欲求で、
三十年前にロンドンで買つた傘を愛用してゐる紳士も、今年の夏の流行の水着を身につける女も、
三十年間にしろ、一ヵ月にしろ、その時間を代表する物質に自分を閉じ込めて安心するのです。
物質に対する人間の支配は、暗々裡に、いつも物質の最終的な勝利を認めてきた。
さうでなかつたら、どうして地球上に、あんなに沢山、石や銅や鉄のいやらしい記念碑や
建築物やお墓が残つてゐる筈がありませう。さて、そこで人間は、最後に、物質の性質を
ある程度究明して、原子力を発見したのです。水素爆弾は人間の到達したもつとも逆説的な
事物で、今人間どもは、この危険な物質の裡に、究極の『人間的』幻影を描いてゐるのです。
三島由紀夫「美しい星」より

337 :
性慾は実は人間的関心ではないのです。それは繁殖と破壊の間から、世界の薄明を
覗き見る行為です。
三島由紀夫「美しい星」より

彼らはみな、苦痛が決して伝播しないこと、しかも一人一人が同じ苦痛の『条件』を
荷つてゐることを知悉してゐるのです。
人間の人間に対する関心は、いつもこのやうな形をとります。同じ存在の条件を荷ひながら、
決して人類共有の苦痛とか、人類共有の胃袋とかいふものは存在しないといふ自信。……
三島由紀夫「美しい星」より

338 :
政治的スローガンとか、思想とか、さういふ痛くも痒くもないものには、人間は喜んで
普遍性と共有性を認めます。毒にも薬にもならない古くさい建築や美術品は、やすやすと
人類共有の文化的遺産になります。しかし苦痛がさうなつては困るのです。大演説の最中に
政治的指導者の奥歯が痛みだしたとき、数万の聴衆の奥歯が同時に痛みだしては困るのです。
三島由紀夫「美しい星」より

339 :
神のことを、人間は好んで真理だとか、正義だとか呼びたがる。しかし神は真理自体でもなく、
正義自体でもなく、神自体ですらないのです。それは管理人にすぎず、人知と虚無との
継ぎ目のあいまいさを故ら維持し、ありもしないものと所与の存在との境目をぼかすことに
従事します。何故なら人間は存在と非在との裂け目に耐へないからであるし、一度人間が
『絶対』の想念を心にうかべた上は、世界のすべてのものの相対性とその『絶対』との間の
距離に耐へないからです。遠いところに駐屯する辺境守備兵は、相対性の世界をぼんやりと
絶対へとつなげてくれるやうに思はれるのです。そして彼らの武器と兜も、みんな人間が
稼いで、人間が貢いでやつたものばかりです。
三島由紀夫「美しい星」より

340 :
神への関心のおかげで、人間はなんとか虚無や非在や絶対などに直面しないですんできました。
だから今もなほ、人間は虚無の真相について知るところ少く、虚無のやうな全的破壊の原理は
人間の文化内部には発生しないと妄信してゐる人間主義の愚かな名残で、人知が虚無を
作りだすことなどできないと信じてゐます。
本当にさうでせうか? 虚無とは、二階の階段を一階へ下りようとして、そのまますとんと
深淵へ墜落すること。花瓶へ花を活けようとして、その花を深淵へ投げ込んでしまふこと。
つまり目的を持ち、意志から発した行為が、行為のはじまつた瞬間に、意志は裏切られ、
目的は乗り超へられて、際限なく無意味なもののなかへ顛落すること。要するに、
あたかも自分が望んだがごとく、無意味の中へダイヴすること。あらゆる形の小さな失錯が、
同種の巨大な滅亡の中へ併呑されること。……人間世界では至極ありふれた、よく起る
事例であり、これが虚無の本質なのです。
三島由紀夫「美しい星」より

341 :
科学的技術は、ふしぎなほど正確に、すでに瀰漫してゐた虚無に点火する術を知つてゐます。
科学的技術は人間が考へてゐるほど理性的なものではなく、或る不透明な衝動の抽象化であり、
錬金術以来、人間の夢魔の組織化であり、人間どもが或る望まない怪物の出現を夢みると、
科学的技術は、すでに人間どもがその望まない怪物を望んでゐるといふことを、証明して
みせてくれるのです。そこで、人間をすでにひたひたと浸してゐた虚無に点火される日が
やつてきました。それは気違いじみた真赤な巨大な薔薇の花、人間の栽培した最初の虚無、
つまり水素爆弾だつたのです。
しかし未だに虚無の管理者としての神とその管理責任を信じてゐる人間は、安心して
水爆の釦を押します。十字を切りながら、お祈りをしながら、すつかり自分の責任を免れて、
必ず、釦を押します。
三島由紀夫「美しい星」より

342 :
平和は自由と同様に、われわれ宇宙人の海から漁られた魚であつて、地球へ陸揚げされると
忽ち腐る。
三島由紀夫「美しい星」より

人類はまだまだ時間を征服することはできない。だから人類にとつての平和や自由の観念は、
時間の原理に関はりがあり、その原理によつて縛られてゐる。時間の不可逆性が、
人間どもの平和や自由を極度に困難にしてゐる宿命的要因なのです。
三島由紀夫「美しい星」より

343 :
私が彼らの想像力に愬(うつた)へようとしたやり方は、破滅の幻を強めて平和の幻と同等にし、
それをつひには鏡像のやうに似通はせ、一方が鏡中の影であれば、一方は必ず現実であると
思はせるところまで、持つて行く方法でした。
空飛ぶ円盤の出現は、人間理性をかきみだすためだつたし、理性を目ざめさせるには
その敵対物の陶酔しかないことを、理性自体に気づかせるのが目的であつた。そして
われわれの云ふ陶酔とは、時間の不可逆性が崩れること、未来の不確実性が崩れること、
すなはち、欲望を持ちえなくなること、――何故なら人間の欲望はすべて時間が原因で
あるから――、これらもろもろの、人間理性の最後の自己否定なのでした。人間の純粋理性とは、
経験を可能にする先天的な認識能力のすべてを云ふのださうで、人間の経験は欲望の、
すなはち時間の原則に従つて動くからです。
私は未開の陶酔を人間どもに教へようとしたのでした。そこでこそ現在が花ひらき、
人間世界はたちどころに光輝を放ち、目前の草の露がただちに宝石に変貌するやうな陶酔を。
三島由紀夫「美しい星」より

344 :
人間の政治、いつも未来を女の太腿のやうに猥褻にちらつかせ、夢や希望や『よりよいもの』への
餌を、馬の鼻面に人参をぶらさげるやり方でぶらさげておき、未来の暗黒へ向つて人々を
鞭打ちながら、自分は現在の薄明の中に止まらうとするあの政治、……あれをしばらく
陶酔のうちに静止させなくてはいかん。
三島由紀夫「美しい星」より

345 :
歴史上、政治とは要するに、パンを与へるいろんな方策だつたが、宗教家にまさる政治家の
知恵は、人間はパンだけで生きるものだといふ認識だつた。この認識は甚だ貴重で、
どんなに宗教家たちが喚き立てやうと、人間はこの生物学的認識の上にどつかと腰を据へ、
健全で明快な各種の政治学を組み立てたのだ。
さて、あなたは、こんな単純な人間の生存の条件にはつきり直面し、一たびパンだけで
生きうるといふことを知つてしまつた時の人間の絶望について、考へたことがありますか?
それは多分、人類で最初に自殺を企てた男だらうと思ふ。何か悲しいことがあつて、
彼は明日自殺しようとした。今日、彼は気が進まぬながらパンを喰べた。彼は思ひあぐねて
自殺を明後日に延期した。明日、彼は又、気が進まぬながらパンを喰べた。自殺は
一日のばしに延ばされ、そのたびに彼はパンを喰べた。……或る日、彼は突然、自分が
ただパンだけで、純粋にパンだけで、目的も意味もない人生を生きてゐることを発見する。
自分が今現に生きてをり、その生きてゐる原因は正にパンだけなのだから、これ以上
確かなことはない。
三島由紀夫「美しい星」より

346 :
彼はおそろしい絶望に襲はれたが、これは決して自殺によつては解決されない絶望だつた。
何故なら、これは普通の自殺の原因となるやうな、生きてゐるといふことへの絶望ではなく、
生きてゐること自体の絶望なのであるから、絶望がますます彼を生かすからだ。
彼はこの絶望から何かを作り出さなくてはならない。政治の冷徹な認識に復讐を企てるために、
自殺の代りに、何か独自のものを作り出さなくてはならない。そこで考へ出されたことが、
政治家に気づかれぬやうに、自分の胴体に、こつそり無意味な風穴をあけることだつた。
その風穴からあらゆる意味が洩れこぼれてしまひ、パンだけは順調に消化され、永久に、
次のパンを、次のパンを、次のパンを求めつづけること。生存の無意味を保障するために、
彼らにパンを与へつづけることを、政治家たち統治者たちの、知られざる責務にしてしまふこと。
しかもそれを絶対に統治者たちには気づかせぬこと。
三島由紀夫「美しい星」より

347 :
この空洞、この風穴は、ひそかに人類の遺伝子になり、あまねく遺伝し、私が公園のベンチや
混んだ電車でたびたび見たあの反政治的な表情の素になつたのだ。
こいつらは組織を好み、地上のいたるところに、趣きのない塔を建ててまはる。私はそれらを
ひとつひとつ洞察して、つひには支配者の胴体、統治者の胴体にすら、立派な衣服の下に
小さな風穴の所在を嗅ぎつけたのだ。
今しも地球上の人類の、平和と統一とが可能だといふメドをつけたのは、私がこの風穴を
発見したときからだつた。お恥ずかしいことだが、私が仮りの人間生活を送つてゐたころは、
私の胴体にも見事にその風穴があいてゐたものだ。
私は破滅の前の人間にこのやうな状態が一般化したことを、宇宙的恩寵だとすら考へてゐる。
なぜなら、この空洞、この風穴こそ、われわれの宇宙の雛形だからだ。
三島由紀夫「美しい星」より

348 :
人間が内部の空虚の連帯によつて充実するとき、すべての政治は無意味になり、反政治的な
統一が可能になる。彼らは決して釦を押さない。釦を押すことは、彼らの宇宙を、内部の
空虚を崩壊させることになるからだ。肉体を滅ぼすことを怖れない連中も、この空虚を
滅ぼすことには耐へられない。何故ならそれは、母なる宇宙の雛形だからだ。
三島由紀夫「美しい星」より

349 :
愛と生殖とを結びつけたのは人間どもの宗教の政治的詐術で、ほかのもろもろの
政治的詐術と同様、羊の群を柵の中へ追ひ込むやり方、つまり本来無目的なものを
目的意識の中へ追ひ込む、あの千篇一律のやり方の一つなのだね。
三島由紀夫「美しい星」より

皮肉なことに愛の背理は、待たれてゐるものは必ず来ず、望んだものは必ず得られず、
しかも来ないこと得られぬことの原因が、正に待つこと望むこと自体にあるといふ
構造を持つてゐる。
三島由紀夫「美しい星」より

350 :
気まぐれこそ人間が天から得た美質で、時折人間が演じる気まぐれには、たしかに天の最も
甘美なものの片鱗がうかがはれる。それは整然たる宇宙法則が時折洩らす吐息のやうなもの、
許容された詩のやうなもので、それが遠い宇宙から人間に投影されたのだ。人間どもの
宗教の用語を借りれば、人間の中の唯一つの天使的特質といへるだらう。
人間が人間を殺さうとして、まさに発射しようとするときに、彼の心に生れ、その腕を突然
ほかの方向へ外らしてしまふふしぎな気まぐれ。今夜こそこの手に抱くことのできる恋人の
窓の下まで来て、まさに縄梯子に足をかけようとするときに、微風のやうに彼の心を襲ひ、
急に彼の足を砂漠への長い旅へ向けてしまふ不可解な気まぐれ、さういふ美しい気まぐれの
多くは、人間自体にはどうしても解けない謎で、おそらく沢山の薔薇の前へ来た蜜蜂だけが
知つてゐる謎なのだ。何故なら、こんな気まぐれこそ、薔薇はみな同じ薔薇であり、
目前の薔薇のほかにも又薔薇があり、世界は薔薇に充ちてゐるといふ認識だけが、
解き明かすことのできる謎だからだ。
私が希望を捨てないといふのは、人間の理性を信頼するからではない。人間のかういふ
美しい気まぐれに、信頼を寄せてゐるからだ。
三島由紀夫「美しい星」より

351 :
もし人類が滅んだら、私は少なくとも、その五つの美点をうまく纏めて、一つの墓碑銘を
書かずにはゐられないだらう。この墓碑銘には、人類の今までにやつたことが必要かつ
十分に要約されてをり、人類の歴史はそれ以上でもそれ以下でもなかつたのだ。
その碑文の草案は次のやうなものだ。
『地球なる一惑星に住める 人間なる一種族ここに眠る。
彼らは嘘をつきつぱなしについた。
彼らは吉凶につけて花を飾つた。
彼らはよく小鳥を飼つた。
彼らは約束の時間にしばしば遅れた。
そして彼らはよく笑つた。
 ねがはくはとこしへなる眠りの安らかならんことを』
三島由紀夫「美しい星」より

352 :
これをあなた方の言葉に翻訳すればかうなるのだ。
『地球なる一惑星に住める 人間なる一種族ここに眠る。
彼らはなかなか芸術家であつた。
彼らは喜悦と悲嘆に同じ象徴を用ひた。
彼らは他の自由を剥奪して、それによつて辛ふじて自分の自由を相対的に確認した。
彼らは時間を征服しえず、その代りにせめて時間に不忠実であらうとした。
そして時には、彼らは虚無をしばらく自分の息で吹き飛ばす術を知つてゐた。
 ねがはくはとこしへなる眠りの安らかならんことを』
三島由紀夫「美しい星」より

353 :
人間は前へ進まうとするとき、必ずうしろへも進んでゐるのだ。だから彼らは決して
到達することも、帰り着くこともない。これが彼らの宇宙なのだ。
三島由紀夫「美しい星」より

破滅か救済かいづれへ向つてゐやうと、未来は鉄壁の彼方にあつて、こちらには、
すべてに手つかずの純潔な時がたゆたうてゐる。この、掌の中に自在にたはめられる、
柔らかな、決定を待つていかやうにも鋳られる、しかもなほ現成の時、これこそ人間の時なのだ。
三島由紀夫「美しい星」より

354 :
どんな威嚇も、人間の楽天主義には敵ひはしないのだ。その点では、地獄であらうと、
水爆戦争であらうと、魂の破滅であらうと、肉体の破滅であらうと、同じことだ。
本当に終末が来るまでは、誰もまじめに終末などを信じはしない。
三島由紀夫「美しい星」より

生きる意志の欠如と楽天主義との、世にも怠惰な結びつきが人間といふものだ。
三島由紀夫「美しい星」より

355 :
一寸傷つけただけで血を流すくせに、太陽を写す鏡面ともなるつややかな肉。あの肉の外側へ
一ミリでも出ることができないのが人間の宿命だつた。しかし同時に、人間はその肉体の
縁(へり)を、広大な宇宙空間の海と、等しく広大な内面の陸との、傷つきやすく
揺れやすい「明るい汀」にしたのだ。その内面から放たれる力は海をほんの少し押し戻し、
その薄い皮膚は又、たえまない海の侵蝕を防いでゐた。若い輝かしい肉が、人間の矜りに
なるのも尤もだつた。それは祝寿にあふれた、もつとも明るい、もつとも輝かしい汀であるから。
三島由紀夫「美しい星」より

356 :
純粋とは、花のやうな観念、薄荷をよく利かした含嗽薬の味のやうな観念、やさしい母の
胸にすがりつくやうな観念を、ただちに、血の観念、不正を薙ぎ倒す刀の観念、袈裟がけに
斬り下げると同時に飛び散る血しぶきの観念、あるひは切腹の観念に結びつけるものだつた。
「花と散る」といふときに、血みどろの屍体はたちまち匂ひやかな桜の花に化した。
純粋とは、正反対の観念のほしいままな転換だつた。だから、純粋は詩なのである。
三島由紀夫「奔馬」より

壁には西洋の戦場をあらはした巨大なゴブラン織がかかつてゐた。馬上の騎士の
さし出した槍の穂が、のけぞつた徒士の胸を貫いてゐる。その胸に咲いてゐる血潮は、
古びて、褪色して、小豆いろがかつてゐる。古い風呂敷なんぞによく見る色である。
血も花も、枯れやすく変質しやすい点でよく似てゐる、と勲は思つた。
だからこそ、血と花は名誉へ転身することによつて生き延び、あらゆる名誉は金属なのである。
三島由紀夫「奔馬」より

357 :
忠義とは、私には、自分の手が火傷をするほど熱い飯を握つて、ただ陛下に差し上げたい一心で
握り飯を作つて、御前に捧げることだと思ひます。その結果、もし陛下が御空腹でなく、
すげなくお返しになつたり、あるひは、『こんな不味いものを喰へるか』と仰言つて、
こちらの顔へ握り飯をぶつけられるやうなことがあつた場合も、顔に飯粒をつけたまま
退下して、ありがたくただちに腹を切らねばなりません。
又もし、陛下が御空腹であつて、よろこんでその握り飯を召し上つても、直ちに退つて、
ありがたく腹を切らねばなりません。
何故なら、草莽の手を以て直に握つた飯を、大御食として奉つた罪は万死に値ひするからです。
では、握り飯を作つて献上せずに、そのまま自分の手もとに置いたらどうなりませうか。
飯はやがて腐るに決まつてゐます。
これも忠義ではありませうが、私はこれを勇なき忠義と呼びます。
勇気ある忠義とは、死をかへりみず、その一心に作つた握り飯を献上することであります。
三島由紀夫「奔馬」より

358 :
聖明が蔽はれてゐるこのやうな世に生きてゐながら、何もせずに生き永らえてゐることが
まづ第一の罪です。その大罪を祓ふには、涜神の罪を犯してまでも、何とか熱い握り飯を
拵えて献上して、自らの忠心を行為にあらはして、即刻腹を切ることです。
Rばすべては清められますが、生きてゐるかぎり、右すれば罪、左すれば罪、どのみち
罪を犯してゐることに変りはありません。
三島由紀夫「奔馬」より

359 :
思ふがままに感情の惑溺が許された短い薄命な時代の魁であつた清顕の一種の「英姿」は、
今ではすでに時代の隔たりによつて色褪せてゐる。その当時の真剣な情熱は、今では、
個人的な記憶の愛着を除けば、何かしら笑ふべきものになつたのである。
時の流れは、崇高なものを、なしくづしに、滑稽なものに変へてゆく。何が蝕まれるのだらう。
もしそれが外側から蝕まれてゆくのだとすれば、もともと崇高は外側をおほひ、滑稽が
内側の核をなしてゐたのだらうか。
あるひは、崇高がすべてであつて、ただ外側に滑稽の塵が降り積つたにすぎぬのだらうか。
三島由紀夫「奔馬」より

360 :
勲の若い、まだ誰の唇にもかつて触れたことのない唇は、唇のもつもつとも微妙な感覚の
すべてを行使して、枯れた笹百合の花びらにほのかに触れた。そして彼は思った。
『俺の純粋の根拠、純粋の保証はここにある。まぎれもなくここにある。俺が自刃するときには、
昇る朝日のなかに、朝霧から身を起して百合が花をひらき、俺の血の匂ひを百合の薫で
浄めてくれるにちがひない。それでいいんだ。何を思ひ煩らうことがあらうか』
三島由紀夫「奔馬」より

361 :
あいつらの脂肪に富んだ現実性は増してゐた。その悪の臭ひもいよいよ募つてゐた。
こちらはいよいよ不安で不確定な世界へ投げ込まれ、あたかも夜の水月(くらげ)のやうになつた。
それこそ奴らの罪過だつた、こちらの世界をこんなにあいまいなほとんど信じがたいものに
してしまつたのは。この世の不信の根は、みんな向ふ側のグロテスクな現実性に源してゐた。
奴らの高血圧と皮下脂肪へ清らかな刃がしつかりと刺るとき、そのときはじめて
世界の修理固成が可能になるだらう。
三島由紀夫「奔馬」より

人間主義の滓が、川上の工場から排泄される鉱毒のやうに流れてやまぬ暗い小川を。
ああ、川上には昼夜兼行で動いてゐる西欧精神の工場の灯が燦然としてゐる。
あの工場の廃液が、崇高な殺意をおとしめ、榊葉の緑を枯らしたのである。
三島由紀夫「奔馬」より

362 :
左翼の奴らは、弾圧すればするほど勢ひを増して来てゐます。日本はやつらの黴菌に蝕まれ、
また蝕まれるほど弱い体質に日本をしてしまつたのは、政治家や実業家です。
三島由紀夫「奔馬」より

恋も忠も源は同じであつた。
三島由紀夫「奔馬」より

363 :
勲たちの、熱血によつてしかと結ばれ、その熱血の迸りによつて天へ還らうとする太陽の
結社は、もともと禁じられてゐた。しかし私腹を肥やすための政治結社や、利のためにする
営利法人なら、いくら作つてもよいのだつた。権力はどんな腐敗よりも純粋を怖れる性質があつた。
野蛮人が病気よりも医薬を怖れるやうに。
三島由紀夫「奔馬」より

法律とは、人生を一瞬の詩に変へてしまはうとする欲求を、不断に妨げてゐる何ものかの集積だ。
血しぶきを以て描く一行の詩と、人生とを引き換へにすることを、万人にゆるすのは
たしかに穏当ではない。しかし内に雄心を持たぬ大多数の人は、そんな欲求を少しも
知らないで人生を送るのだ。だとすれば、法律とは、本来ごく少数者のためのものなのだ。
ごく少数の異常な純粋、この世の規矩を外れた熱誠、……それを泥棒や痴情の犯罪と
全く同じ同等の《悪》へおとしめようとする機構なのだ。
三島由紀夫「奔馬」より

364 :
天と地は、ただ座視してゐては、決して結ばれることがない。天と地を結ぶには、
何か決然たる純粋の行為が要るのです。その果断な行為のためには、一身の利害を超え、
身命を賭(と)さなくてはなりません。身を竜と化して、竜巻を呼ばなければなりません。
それによつて低迷する暗雲をつんざき、瑠璃色にかがやく天空へ昇らなければなりません。
三島由紀夫「奔馬」より

ずつと南だ。ずつと暑い。……南の国の薔薇の光りの中で。……
三島由紀夫「奔馬」より
正に刀を腹へ突き立てた瞬間、日輪は瞼の裏に赫奕(かくやく)と昇つた。
三島由紀夫「奔馬」より

365 :
天才というものは源泉の感情だ。そこまで堀り当てた人が天才だ。
三島由紀夫「舟橋聖一との対話」より

366 :
人間のあらゆるいやらしさと崇高さとがちっとも矛盾しないのが人間だと思うんです。
三島由紀夫
河上徹太郎との対談「創作批評」より

367 :
子供の遊びは無目的、それでいて真剣そのものでしょう。夕方、御飯になって遊びと
別れるときの、あの辛さ、ああいう辛さがなかったら、文学はビジネスにすぎなくなる。
御飯は生活です。誰でも御飯はたべなくちゃならない。しかし「御飯ですよ」と呼ばれるまで、
御飯の時間を忘れていられるような真剣な遊びを毎日みつけなくてはね。
三島由紀夫
久米正雄・林房雄との対談「人生問答」より

市民というものは何を売っても、肉をひさぐことはしない。しかし芸術家というものは
それをどうしてもやらなければならないんですね。そこに市民と芸術家のちがいがある。
三島由紀夫
久米正雄・林房雄との対談「人生問答」より

368 :
色気があり過ぎてもだめ、なさ過ぎてもだめだと思います。あまりあり過ぎると、
女蕩(たら)しになる。生活者になってしまうと思う。
生活者になれない程度の色気のなさ、そうかといって考古学者にもなれない色気のあり方、
そういう微妙なところで小説は書けて行くのではないか。
三島由紀夫
久米正雄・林房雄との対談「人生問答」より

美は恐ろしいですよ。女も恐ろしいけど……。
ただ市民は美を恐ろしいと思わない人種だと思うんだが、やはり市民は電気冷蔵庫の
デザインが美しいとか、1951年型の自動車のデザインが美しいとか、そういう
怖ろしくない美しか理解しない。自分の生活を脅かすようなものを決して美しいと思うな、
というのが市民の修身です。やはり美に脅かされるということが芸術家で、市民になれない
最後の一線でしょう。
三島由紀夫
久米正雄・林房雄との対談「人生問答」より

369 :
幸福というものは掴んだ瞬間になくなるからといって諦めるのは、卑怯だと思う。
三島由紀夫
久米正雄・林房雄との対談「人生問答」より

大体、人体というこんな複雑な機械が故障なく動いてるということは幸福ですよ。
そのためには一億くらいの条件がそろわなければ、こんなことを喋っていられるコンディションに
ならないんだ。これはある意味で幸福だな。第一、人間は幸福でなければ生きていませんよ。
三島由紀夫
久米正雄・林房雄との対談「人生問答」より

370 :
芸術家というものは、かなり追いつめられて来てから、始めて自分の「場」を発見するんだね。
そして芸術家の価値というものは成功したとか成功しないとかいう問題でなく、
自分の宿命を見究めたかどうかにあるんだと思うな。
三島由紀夫
戸板康二との「歌右衛門の美しさ」より

371 :
僕は「仮面の告白」以来、小説というのはやっぱり人生を解決する、あるいは人生を
料理するものだという考えが抜けないね。どんなに唯美的に見えても、その小説が何か
作家の行動であって、一種の世界解釈だという考えは抜けないね。
ほんとうに生きるということと同じなんだから、それは唯美的に見える作家のほうが
かえって強く持っている考えであるかもしれない。
三島由紀夫
石原慎太郎との対談「七年目の対話」より

372 :
日本人というのは方法論がないかわりに、無意識の形式意欲がある。無意識の形式意欲に
対する日本人独特の感覚的な厳しい意欲がある。そしてある新しいものが入ってくると、
日本人は無意識にそれを形式的にキャッチしようと思う。
三島由紀夫
石原慎太郎との対談「七年目の対話」より

373 :
ベケットでね、「ゴドーを待ちながら」ね、僕はゴドーが来ないというのはけしからんと思う。
それは二十世紀文学の悪い一面だよ。ゴドーが来ない。これはいやしくも芝居でゴドーが
来ないというのはなにごとだと、僕は怒るのだ。
三島由紀夫
安部公房との対談「二十世紀の文学」より

374 :
僕という人間が生きているのは、なんのためかというと、僕は伝承するために生きている。
どうやって伝承したらいいかというと、僕は伝承すべき至上理念に向って無意識に成長する。
無意識に、しかしたえず訓練して成長する。僕が最高度に達したときになにかをつかむ。
そうして僕は死んじゃう。次にあらわれてくるやつは、まだなんにもわからないわけだ。
それが訓練し、鍛錬し、教わる。教わっても、メトーデは教わらないのだから、結局、
お尻を叩かれ、一所懸命ただ訓練するほかない。なんにもメトーデがないところで模索して、
最後に、死ぬ前にパッとつかむ。パッとつかんだもの自体は、歴史全体に見ると、
結晶体の上の一点から、ずっとつながっているかも知れないが、しかし絶対流れていない。
三島由紀夫
安部公房との対談「二十世紀の文学」より

375 :
僕は最近、神風連を興味をもって調べたんだけど、あれは絶対に勝つ見込みがない戦争を
仕掛けたんだね。しかも日本刀だけしか使わない。鉄砲は外国からきたものだから、
汚れているといって使わない。熊本の鎮台に対して戦うんだ。初めは奇襲で少し勝つけど、
相手は鉄砲をもって攻めてくるから、所詮、勝負は決まってるわけだ。なぜ日本刀だけで、
負けると解ってる戦争をやったか。僕はね、それはやっぱり彼らがインテリゲンチャだった
からだと思う。インテリゲンチャというものは、そういうものなんだね。つまり計算して、
こうだからやるというのは生活者の考え方なんだね。生活者の考えと、インテリゲンチャの
考えはいつも違うんだ。あなたがどっちの立場に徹するかということは大問題だと思う。
生活者に徹すれば、日本は価値のない国、戦争にも抵抗できないという生活者の知恵で
みるだろうね。神風連の事件は、生活者にはできないもので、日本の近代インテリゲンチャの
思想の源流なんです。あなたが芸術家であるか、生活者であるかという分かれ目に
ぶつかったときには、必ずその矛盾が出てくる。
三島由紀夫
野坂昭如との対談「エロチシズムと国家権力」より

376 :
言葉だけの思想的な主張ないしは思想的な説得力には、僕は昔から疑問をもっている。
腕力があり、剣があって、初めて自分の思想が貫かれるのだろう。最後に人間の顔と顔とが、
ぴたっとむかいあったときは、言葉は役に立たないと思う。やっぱりそのときには剣が
ものをいうだろうね。文筆業者はそこへゆくまでのことを一所懸命、言葉で考えてる
人間なんだけど、それで言葉が最終的に役に立つと思ったら間違いだと思う。
三島由紀夫
野坂昭如との対談「エロチシズムと国家権力」より

377 :
おまえらこればらまいてから言え
http://livedoor.2.blogimg.jp/netamichelin/imgs/c/0/c02bfd6b.jpg

378 :
日本人は絶対、民主主義を守るために死なん。ぼくはアメリカ人にも言うんだけど、
「日本人は民主主義のために死なないよ」と前から言っている。今後もそうだろうと思う。
三島由紀夫
福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」より

何を守ればいいんだと。ぼくはね、結局文化だと思うんだ。本質的な問題は。というのはね、
やっぱりキリスト教対ヘレニズムというようなもんなんだよ。いまわれわれが当面している問題は。
結局ね、世界をよくしようとか、未来を見ようとかいう考えと、それから、未来は
ないんだけれども、文化というものがわれわれのからだにあるんだという考えと、
その二つの対立だよ。
三島由紀夫
福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」より

「文化を守る」ということは、「おれを守る」ということだよ。
三島由紀夫
福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」より

379 :
十年、五十年単位の考えは、絶対に必要なことだ。なぜかというと、十年、五十年と考えると、
今日始めなきゃだめなんだよ。だから一番緊急なことなんだよ。
三島由紀夫
福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」より

一番長い経過を要する仕事を今日始めて、そしてあしたはだね、三年先のことを始める
というのが、ぼくは一番現実的な考えだと思うね。
三島由紀夫
福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」より

380 :
ぼくは文化というものはね、変な比喩だが、金とおんなじことだと思う。とにかく、
あぶないときにどっかに置いておかなければ、いつもこわされちゃう。こんなもろい、
こんなものはない。僕はいわば文化の金本位制論者だ。
日本では、昔から金について一番もろくて弱かった独占資本的財閥、戦前のそういう連中はね、
どんなインテリよりもぼくは、実際に敏感だったと思いますよ。それは昭和の歴史を見ても
よくわかりますがね。文化人というのはいつものんきなんだが、資本家が金をこわがるように、
どうして文化人は文化というものの、もろさ、弱さ、はかなさ、というものを感じないんだろうかね。
三島由紀夫
福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」より

381 :
いまでもぼくは、文化というものは、ほんとにどんな弱い女よりもか弱く、どんな
破れやすい布よりも破れやすい、もう手にそうっと持ってにゃならんのだと思いますね。
そっからすべてものの危機感がくるんだし、それで、そのためには自分のからだを
投げ出してもいいと思うしね。
三島由紀夫
福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」より

文化がどんなに変様されて、歪曲されても、生きのびるほど強いもんだということは結果論です。
三島由紀夫
福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」より

382 :
天皇はあらゆる近代化、あらゆる工業化によるフラストレーションの最後の救世主として、
そこにいなけりゃならない。それをいまから準備していなければならない。それは
アンティエゴイズムであり、アンティ近代化であり、アンティ工業化であるけど、決して
古き土地制度の復活でもなければ、農本主義でもない。(中略)
天皇というのは、国家のエゴイズム、国民のエゴイズムというものの、一番反極のところに
あるべきだ。そういう意味で、天皇は尊いんだから、天皇が自由を縛られてもしかたがない。
その根元にあるのは、とにかく「お祭」だ、ということです。天皇がなすべきことは、
お祭、お祭、お祭、お祭、――それだけだ。これがぼくの天皇論の概略です。
三島由紀夫
福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」より

383 :
エリザベスは、亭主が自分の部屋に電話を引いたり、テレビをつけたり、ボタンを押すと
飛び上がる椅子をつけたりするのに、自分は、まだ十八世紀のお茶の作法で、百メートル先から
女官たちが手から手へつないだお茶を持って来て、冷えたお茶を飲んでいる。
自分の部屋には電話がない。ぼくは、そういうことが天皇制だろうと思うんです。
日本の皇室がその点でわれわれを納得させる存在理由は日ましに稀薄になっている。
つまりわれわれが近代化の中でこれだけ苦しんで、どこかでお茶を十八世紀の作法で
飲んでいる人がいなければ、世界は崩壊するんだよ。
三島由紀夫
福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」より

384 :
世界の行く果てには、福祉国家の荒廃、社会主義国家の嘘しかないとなれば、何がほしいだろう。
それはカソリックならカソリックかもしれない。だけど、日本の天皇というのはいいですよ。
頑張ってれば世界的なモデルケースになれると思う。それが八紘一宇だと思うんだよ。
三島由紀夫
福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」より

385 :
あらゆる忠義によるラジカルな行動を認めなければ、天皇制の本質を逸すると僕は言っている
わけです。場合によっては共産革命だって、もし錦旗革命だったら天皇は認めなければ
ならないでしょうね。天皇制の本質なのかもしれませんよ。それをよく知らないで、
右翼だとかファッショだといってバカにしきって戦後共産党がやっていたのは共産党が
バカだといいたいね。米のなかった時代に朕はたらふく食った、汝国民は飢えていろなどと
いう代りに、何で赤旗をもって宮城前で天皇陛下万歳をやらなかったかといいたい。
あそこで陛下の帽子をふっているあとを追いかけていって革命を成功させなかったか。
三島由紀夫
大島渚との対談「ファシストか革命家か」より

386 :
彼ら(共産党)は天皇制護持を平気で言えるという時点まで踏み切れない。
だから日本の共産党はダメなんだ。天皇制護持までできれば成功していたし、第一党に
なっていただろうと思うが。彼らに言わせれば、まあ惜しいことをした。しかしもう遅い。
三島由紀夫
大島渚との対談「ファシストか革命家か」より

守るというのは剣の使命であって、言葉の使命ではないからだ。言葉はただ刺すだけだ。
守ろうと思ったら、剣を執らなきゃだめだ。
三島由紀夫
大島渚との対談「ファシストか革命家か」より

387 :
三島の文学って油っぽくて好きになれない。

388 :
虚栄心、自尊心、独占欲、男性たることの対社会的プライド、男性としての能力に関する自負、
……かういふものはみんな社会的性質を帯びてゐて、これがみんな根こそぎにされた悩みが、
男の嫉妬を形づくります。
男の嫉妬の本当のギリギリのところは、体面を傷つけられた怒りだと断言してもよろしい。
三島由紀夫「不道徳教育講座 いはゆる『よろめき』について」より

ワシントンは子供心に、ウソをついた場合のイヤな気持まで知つてゐたので、正直に
白状したのかもしれません。たいてい勇気ある行動といふものは、別の或るものへの怖れから
来てゐるもので、全然恐怖心のない人には、勇気の生れる余地がなくて、さういふ人は
ただ無茶をやつてのけるだけの話です。
三島由紀夫「不道徳教育講座 大いにウソをつくべし」より

389 :
崇高なものが現代では無力で、滑稽なものにだけ野蛮な力がある。
三島由紀夫「禁色」より

人間をいちばん残酷にするのは、愛されてゐるといふ意識だよ。
三島由紀夫「禁色」より

390 :
歌舞伎の世界というのは、名優は自分は死なないで、死の演技をする。それで芸術の最高潮に
達するわけですね。しかし武士社会で、なぜ河原乞食と卑しめられたかというと、あれは
ほんとうに死なないではないか、それだけですよ。そのひと言だけで芸術はペッチャンコですよ。
三島由紀夫
埴谷雄高との対談「デカダンス意識と死生観」より

391 :
私は民主主義と暗殺はつきもので、共産主義と粛清はつきものだと思っております。
共産主義の粛清のほうが数が多いだけ、始末が悪い。暗殺のほうは少ないから、シーザーの
昔から、殺されたのは一人で、六十万人が一人に暗殺されたなんて話は聞いたことがない。
これは虐殺であります。(中略)
たとえば暗殺が全然なかったら、政治家はどんなに不真面目になるか、殺される心配が
なかったら、いくらでも嘘がつける。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より

392 :
大体政治の本当の顔というのは、人間が全身的にぶつかり合い、相手の立場、相手の思想、
相手のあらゆるものを抹Rるか、あるいは自分が抹殺されるか、人間の決闘の場であります。
それが言論を通じて徐々に徐々に高められてきたのが政治の姿であります。
しかしこの言論の底には血がにじんでいる。そして、それを忘れた言論はすぐ偽善と嘘に
堕することは、日本の立派な国会を御覧になれば、よくわかる。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より

393 :
私が一番好きな話は、多少ファナティックな話になるけれども、満州でロシア軍が
入ってきたときに――私はそれを実際にいた人から聞いたのでありますが――在留邦人が
一ヵ所に集められて、いよいよこれから武装解除というような形になってしまって、
大部分の軍人はおとなしく武器を引き渡そうとした。その時一人の中尉がやにわに
日本刀を抜いて、何万、何十万というロシア軍の中へ一人でワーッといって斬り込んで行って、
たちまち殴り殺されたという話であります。
私は、言論と日本刀というものは同じもので、何千万人相手にしても、俺一人だというのが
言論だと思うのです。一人の人間を大勢で寄ってたかってぶち壊すのは、言論ではなくて、
そういうものを暴力という。つまり一人の日本刀の言論だ。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より

394 :
初めから妥協を考えるような決意というものは本物の決意ではないのです。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より

私は、暗殺者が必ずあとですぐに自Rるという日本の伝統はやはり武士(さむらい)の
道だと思っている。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より

395 :
人間が一対一で決闘する場合には、えらい人も、一市民もない。そこに民主主義の原理が
あるのだと私は考える。
だから、政治というものはいずれにしろ激突だ。そして激突で一人の人間が一人の人間を
許すか、許さないか、ギリギリ決着のところだ。それが暗殺という形をとったのは
不幸なことではあるけれども、その政治原理の中にそういうものが自ずから含まれている。
もしそうでなければ、諸君が選挙の投票場へ行って投ずる一票に何の意味がありますか。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より

民主主義なんて甘いものじゃない。これをどうやって純粋民主主義に近づけるかなんて、
いつまでたっても無駄なんだ。人間は汚れている。汚れている中で相対的にいいものを
やろうというのが民主主義なんだ。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より

396 :
どんな政治体制でも歴史的な基盤があって、徐々に形成されたものであるので、その点では
日本の天皇制もまったく同じだと思います。ですから民主主義が悪いとか、天皇制が
いいとか悪いとかいう問題じゃなくて、その国その国の歴史的基盤に立った政治体制が
できていくということは当然だと思います。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より

国家がなくなって世界政府ができるなんという夢は、非常に情けない、哀れな夢なんです。
…資本主義国家も国家が管理している部分が非常に大きくなっておりますから、実際の
国家の時代という点では、国家の管理機能はむしろ史上最高ぐらいまで達しているのではないか。
これが極点に達し、崩れて、超国家ができるかどうか、そんなことは先のことである。
我々はまず国家の中に生きているという存在から問題を考えなければならんというように
私は思っております。ですから、国家の時代なればこそ戦争も必ずある。であるから、
それに対する防衛の問題も真剣に考えなければならんと、私はそういうように思っております。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より

397 :
共産社会に階級がないというのは全くの迷信であって、これは巨大なビューロクラシーの
社会であります。そしてこの階級制の蟻のごとき社会にならないために我々の社会が
戦わなければならんというふうに私は考えるものですが、日本の例をとってみますと、
日本にどういうふうに階級があるのか、まずそれを伺いたい。たとえばアメリカなどは
民主主義社会とはいいながら、ヨーロッパよりさらに古い、さらに深い階級意識が
ある国です。というのは、ヨーロッパを真似して成金が階級をつくったのですね。
ですからこれはアングロ・サクソンの文化の伝統ですが、クラブというのがありますね。
みんなメンバーシップオンリーのクラブで、下のクラブの人が上のクラブをステイタス・
シンボルとして、ステイタス・クライマーが上流のクラブへ入るためにあらゆる算段を
するわけです。(中略)
アメリカにはステイタス・シンボルというものが非常にたくさんあります。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より

398 :
ところが日本ではステイタス・シンボルに当たるものが私は何があるのかと聞きたい。
…一つの社会風俗的現象としてのステイタス・シンボルがあるのか。キャデラックに
乗っていたらブルジョアなのか。みんな会社の金でキャデラックに乗っている、それが
ブルジョアなのか。あるいはゴルフクラブに入っていたらそれがブルジョアなのか。
ゴルフクラブに入って、あのキャディに、かよわい女性に重いものを背負わせて歩けば
それがブルジョアなのか。そして日本では社会主義者も共産主義者もみんな軽井沢に
別荘を持っている。(中略)
私は階級差というものの甚だしい例をヨーロッパでたくさん見てきた。(中略)
富の分配というのは一応マルクス主義の美名になっておりますが、これは別の方法を
使ったってできるのだ。(中略)
権力の分配に至っては、共産主義社会のあのおそろしいビューロクラシーと比べると、
我々はむしろ権力の分配の公正な社会に生きていると、私はこう考えております。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より

399 :
我々はヒューマニスティックな愛情を何に対して持つか。ニューヨークじゃ、もう人間に
同情する人がなくなっちゃったのでみんな犬に同情している。それがアングロ・サクソン
動物愛護協会というものなんです。これは生活の余裕がなければできないことで、
オールビーの「動物園物語」という芝居をご覧になった方はわかりますが、犬を可愛がって、
犬としか対話しない人間が長々と出てきます。人間というのはそういうふうになっちゃう
ものなんですね。愛情と憐れみを何に向って与えようか。その溢れるアフェクションの中から
どうやって社会革新の情熱を呼びさまそうか。人間はこういうものを考える動物だと思います。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より

400 :
自分に危険がないような暴力行為はまったく意味がない。それにはモラルがないですからね。
ですから、アウシュヴィッツや、原子爆弾には、いまでも反対ですね。それは、ヒューマニズムと
ちょっと違うんだな。ヒューマニズムだからそういうことをしちゃいけない、というのとは
ちょっと違う。
三島由紀夫
石川淳との対談「肉体の運動 精神の運動――芸術におけるモラルと技術」より

無を、スタイルによって自分の中にうまく引き止めた人間、それが芸術家じゃないでしょうか。
一般にスタイルってものは、ある個人のいちばん深いところから出てきて、社会の
いちばん浅いところまで支配しちゃうようなものでしょうね。後世から見ると、それが
その時代のスタイルというふうになって、非常に歴史的なものになっちゃうんですね。
不思議ですね、これは。
三島由紀夫
石川淳との対談「肉体の運動 精神の運動――芸術におけるモラルと技術」より

401 :
精神分析ってのは、ついにスタイルの問題を解決しない。スタイルを解決しなきゃ、
芸術は絶対分らない。精神分析は、いつも超歴史的なモメントを持ってきて、いつも
おんなじところへ引き戻す。おんなじところへ引き戻して、どうしてミケランジェロが
いて、どうしてワットーが出てくるか、そういうスタイルの問題を、何ら解決しない。
ですからあれは、あらゆる芸術美学がそうですが、フロイトも芸術論でいちばん
失敗していますね。カントも「判断力批判」では失敗していますね。
かりにも美ってものに哲学者がタッチしたり、あるいは哲学者以外のああいう学者が
タッチしたら、全部まちがえるのはそこです。ぼくは、けっきょく、それが歴史だろうと
思うんです。芸術っていうのは、非常に個性的なあらわれ方を、自分ではしていると
信じているんだけれども、どんなことをしてもできない。それが芸術なんですね。
三島由紀夫
石川淳との対談「肉体の運動 精神の運動――芸術におけるモラルと技術」より

402 :
(西洋では)フレッシュとボディは違うのだ。キリスト教は、フレッシュは否定するが、
ボディは否定しない。それは受肉という思想があるから。インカーネーションでもって、
ボディが復活するのであって、フレッシュは復活しない。フレッシュは滅びる。
日本ではそれが、フレッシュとボディの区別がない。日本の体という場合には、
フレッシュとボディは渾然一体なんです。それで「源氏物語」の闇のなかにあらわれる
女体は、やはりフレッシュでありボディである。同時にその背後のものを暗示しているね、
一つながりのあれですね。それが日本の「色」というものだと思います。
三島由紀夫
山本健吉・佐伯彰一との対談「原型と現代小説」より

村松剛が言ったひと言を忘れないのだが、天皇制がなぜ日本に合っているかというと、
日本人が嫉妬深いからだと、うまい説明だと思ったな。つまり、一つのクッションを置いて、
権力を授受しないと、絶対に日本人は承服しない。日本人同士の互選では、権力というものは
一日も成立たんと言うのだ。
三島由紀夫
山本健吉・佐伯彰一との対談「原型と現代小説」より

403 :
鏡花を今の青年が読むと、サイケデリックの元祖だと思うに違いない。
三島由紀夫
澁澤龍彦との対談「泉鏡花の魅力」より

鏡花は、あの当時の作家全般から比べると絵空事を書いているようでいて、なにか人間の
真相を知っていた人だ、という気がしてしようがない。
三島由紀夫
澁澤龍彦との対談「泉鏡花の魅力」より

404 :
ニヒリストの文学は、地獄へ連れていくものか、天国へ連れていくものかわからんが、
鏡花はどこかへ連れていきます。日本の近代文学で、われわれを他界へ連れていって
くれる文学というのはほかにない。
…谷崎さんも、もうひとつ連れていってくれない。天国へもいかない。川端康成さんは
ある意味で、「眠れる美女」なんかでどこかへ連れていくね。地獄ですかね。
鏡花が連れていくのは天国か地獄かわからない。あれは煉獄だろうか。
スウェーデンボルグ流に言うと天使界かな。
三島由紀夫
澁澤龍彦との対談「泉鏡花の魅力」より

405 :
今の時代はますます複雑になって、新聞を読んでも、テレビを見ても、真相はつかめない。
そういうときに何があるかといえば、自分で見にいくほかないんだよ。
三島由紀夫
鶴田浩二との対談「刺客と組長――男の盟約」より

いま筋の通ったことをいえば、みんな右翼といわれる。だいたい、“右”というのは、
ヨーロッパのことばでは“正しい”という意味なんだから。(笑)
三島由紀夫
鶴田浩二との対談「刺客と組長――男の盟約」より

406 :
ヒューマニズムなんて言っていたら、みんな三国人に取られちゃいますよ。(笑)
三島由紀夫
堤清二との対談「二・二六将校と全学連学生との断絶」より

407 :
これしかないという表現を体でもって選ぼうとすればことばだね。最終的に、ことばか
身を投げることしかない。それはもっとつきつめれば焼身自殺だよ。このあいだ、
アメリカの国会議事堂で自殺した少年と同じだ。これはことばにかけると同じ重さを、
からだにかけた行為だと思う。これが表現なんで、それ以外の表現は嘘なんだ。
三島由紀夫
高橋和巳との対談「大いなる過渡期の論理―行動する作家の思弁と責任」より

テロリズムといわれようとなんといわれようとかまわない、ことばを刻むように行為を
刻むべきだよ。彼ら(全学連)はことばを信じないから行為を刻めないじゃないか。
三島由紀夫
高橋和巳との対談「大いなる過渡期の論理――行動する作家の思弁と責任」より

408 :
中国人はものを変えることが好きでね、人間を壷の中に入れて首だけ出して育ててみたり、
女の足を纏足(てんそく)にしてみたり、デフォルメーションの趣味があるんだよ。
これは伝統的なものだと思うんだ。中国というのが非常に西洋人に近いと思うのは、
自然にたいして人工というのを重んじるところね。中国人の人間主義というのは非常に
人工的なものを尊ぶ主義でしょう。作って、変えたという確信を持つことが権力意識の
獲得ですから。だから意識の変革というのをやりたくてしようがないんだよ。
三島由紀夫
高橋和巳との対談「大いなる過渡期の論理――」より

409 :
未来ということを考える暇がないほど現在の時点における自分の存在の中に、連綿たる
過去の日本の文化伝統と日本人の長い民族的蓄積とが、太古以来ずっと続いている、
その一番ラストに自分はいるんだ、自分が滅びたらもうお終いなんだ、自分は
日本というものの一番の精髄をになってここにいま立って、そこで自分は終るのだ。
そういうことがなければ、ぼくは人間の最終的な誇り、日本人としての最終的な誇りは
持てないと思います。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より

410 :
未来を所有しているのは老人の特徴で、未来を所有しないのが青年の特徴である。(中略)
青年は未来に対してあらゆる可能性があるように見えるかわりに、未来を何一つ所有しない。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より

言論自由下の社会主義なんていうものを夢見ているとあぶないんだ。
…もし美しき社会主義を夢見れば醜き社会主義にやられてしまうんだ。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より

411 :
現代は全河原乞食、一億河原乞食の時代で、政治家から、経済人から、芸術家から、
なにから、やはり河原乞食だと思うのですね、「葉隠」と較べれば。
三島由紀夫
相良享との対談「『葉隠』の魅力」より

私は人間関係は、みんな委員会になっちゃったというのです。そしてうそですね。
うそでかためれば安全、謙譲の美徳を発揮すれば安全、安全第一。そして人間関係も、
とにかく世論というものをいつも顧慮しながら、不特定多数の人間の平均的な好みに
自分を会わせれば成功だし、会わせれることができなきゃ失敗。これが現代社会ですよ。
三島由紀夫
相良享との対談「『葉隠』の魅力」より

412 :
客観的に滑稽であってもいいと思うんだ。しかし主観的に滑稽だと思ったら、人間負けだよ、
そういうことだけは絶対やっちゃいかんと思う。
三島由紀夫
いいだももとの対談「政治行為の象徴性について」より

413 :
人間の生存本能や、自己防衛本能を超越できたら、人間というものはもう少し
飛躍するのだろうと思いますけど、気違いはそれが飛躍してしまうんですね。
三島由紀夫
尾崎一雄との対談「私小説の底流」より

僕はやっぱり物体というものは、バイブレートするものだと思うんですよ。物体自体が、
一つの構成要素がバイブレートしていなければ、この宇宙は成り立たないと思うな。
ほんとうはバイブレートしているのかもしれないけれども、われわれにはその動きが
全然見えないわけですね。
三島由紀夫
尾崎一雄との対談「私小説の底流」より

414 :
戦後教育は、死ぬということを教えてないね。客観状勢がどうとかということは、
ぼくは必ずしも信じない。
…客観状勢が熟すのを待つというのは、ゲバラがいちばん嫌ったろう。革命の
客観的条件というのはないんだ、それを熟させるのが革命家だ、という考えだろう。
それを熟させるのは精神だよ。それがあれば、なにかがかもしだされてくる。
三島由紀夫
野坂昭如との対談「剣か花か」より

415 :
ニーチェの「アモール・ファティ」じゃないけれども、自分の宿命を認めることが、
人間にとって、それしか自由の道はないというのがぼくの考えだ。
三島由紀夫
石原慎太郎との対談「守るべきものの価値」より

最後に守るものは何だろうというと、三種の神器しかなくなっちゃうんだ。
…いま日本はナショナリズムがどんどん侵食されていて、いまのままでいくと
ナショナリズムの九割ぐらいまで左翼に取られてしまうよ。
三島由紀夫
石原慎太郎との対談「守るべきものの価値」より

416 :
身を守るということは卑しい思想だよ。絶対、自己放棄に達しない思想というのは卑しい思想だ。
三島由紀夫
石原慎太郎との対談「守るべきものの価値」より

男というのはまったく原理で、女は原理じゃない、女は存在だからね。男はしょっちゅう
原理を守らなくちゃならないでしょう。
三島由紀夫
石原慎太郎との対談「守るべきものの価値」より

417 :
三種の神器です。ぼくは天皇というのをパーソナルにつくっちゅったことが一番いけないと
思うんです。戦後の人間天皇制が一番いかんと思うのは、みんなが天皇をパーソナルな存在に
しちゃったからです。天皇というのはパーソナルじゃないんですよ。(中略)
それで天皇の本質というものが誤られてしまった。だから石原さんみたいな、つまり
非常に無垢ではあるけれども、天皇制廃止論者をつくっちゃった。
三島由紀夫
石原慎太郎との対談「守るべきものの価値」より

418 :
肉体の外に人間は出られないということを精神は一度でも自覚したことがあるだろうか、
これは私がいつも考えてきたことであります。なぜなら、われわれは自分の肉体の外へ
一ミリも出られない。こんな不合理なことがあるだろうか。
三島由紀夫「討論 三島由紀夫vs.東大全共闘――美と共同体と東大闘争」より

おれの作品は何万年という時間の持続との間にある一つの持続なんだ。ぼくは空間を
意図しないけれども、時間を意図している。
三島由紀夫「討論 三島由紀夫vs.東大全共闘――美と共同体と東大闘争」より

419 :
文化というものは一つの長い時間の集積でもってここにまた自分の中に続いている。
外在すると同時に内在するその中から自分がセレクトするというのが自分の現在一瞬一瞬の
行為である。
三島由紀夫「討論 三島由紀夫vs.東大全共闘――美と共同体と東大闘争」より

私にとっては、関係性というものと、自己超越性――超時間性といいましたかな、
そういうものと初めから私の中で癒着している。これを切り離すことはできない。
初めから癒着しているところで芸術作品ができているから、別の癒着の形として
行動も出てくる。
三島由紀夫「討論 三島由紀夫vs.東大全共闘――美と共同体と東大闘争」より

420 :
言葉は言葉を呼んで、翼をもってこの部屋の中を飛び廻ったんです。この言霊がどっかに
どんなふうに残るか知りませんが、私がその言葉を、言霊をとにかくここに残して
私は去っていきます。
三島由紀夫「討論 三島由紀夫vs.東大全共闘――美と共同体と東大闘争」より

421 :
時間を支配しているのは女であって、男じゃない。妊娠十ヵ月の時間、これは女の持物だからね。
だから女は時間に遅れる権利があるんだよ。(中略)
女は自分が時計なんだから、肉体がちゃんと時計の役割をして、規則正しく自分の影響を
受けている。時間内存在なんだよ。男は時間外存在になりかねないから、しょっちゅう
時計に頼らないと、こわくてこわくて。
三島由紀夫
寺山修司との対談「エロスは抵抗の拠点になり得るか」より

422 :
まあ、私も喜劇の部類で残念ですけれども、悲劇にはなりそうもない。
三島由紀夫
石川淳との対談「破裂のために集中する」より

失敗した悲劇役者というのが僕じゃないかしら。一生懸命泣かせようと思って出てきても、
みんな大笑いする。
三島由紀夫
石川淳との対談「破裂のために集中する」より

423 :
僕は、単細胞のせいかもしれないけれど、革命というものはイデオロギーの問題でも
なんでもない、ただ爆弾持って駈け出すことだと思っているんです。維新というのも、
ただ日本刀持って駈け出すことだと思っている。駈けるのには、百メートルを十六秒以下で
なければ駈けるとは言えない。そのためには、ふとっていちゃ絶対だめですよ。
アメリカとベトコンの戦争は、やせたやつがふとったやつを悩ませたというだけの話ですよ。
ベトコンはやせているから駈けられる。アメリカ人はあの体していちゃ崖やなんか駈け昇れない。
どうして日本のインテリというのは、ふとるようになっちゃったんでしょう。これは僕は
重大問題だと思っているんですよ。つまり肉体と精神との関係において。
三島由紀夫
石川淳との対談「破裂のために集中する」より

424 :
ナルシシズムというのは、自分の問題じゃないでしょうね。他人からの関心の問題ですからね。
ですから、自分へのこだわりとちょっと違うかもしれませんね。自分へのこだわりは、
ナルシシズムと反対かもしれませんね。もし、自分へのこだわりを捨てたければ、
もっとみんなナルシシストになればいいのです。
三島由紀夫
秋山駿との対談「私の文学を語る」より

自分になんかだれも興味をもってくれないというのは、まず社会の根本原則ですね。
三島由紀夫
秋山駿との対談「私の文学を語る」より

425 :
僕は、自分の本質がなにかということを考えるということはやめたのです。
…自分とはなんだという問題ですね。つまり、ほじくってほじくって、玉葱の皮をむいて
いくでしょう。だんだん孤独になって、いまの大江君の「万延元年」など見ると、
そういう感じが非常にしますがね。玉葱の皮むいている。
(芯が)あるはずかもしれないけれども、皮だけかもしれない。一番簡単な通俗的な方法は
精神分析ですね。僕が自分の精神分析をすれば、どんな精神分析学者よりもうまくやる
自信がありますよ。なんでもあります、僕の中には。
…僕の変なことをやる動機なりなんなり、精神分析で解釈すれば、なんでもつくのです。
なんでもできますね。どんな精神分析学者をつれてきても驚かない。僕のほうが
うまいでしょうね。人間というのは、やはり動機で動くものじゃないと思っています。
三島由紀夫
秋山駿との対談「私の文学を語る」より

426 :
谷崎さんにしても川端さんにしても素晴らしい芸術家だけれども、男というものは一人も
出てこないでしょう。元禄時代、元禄時代というけれども、西鶴はちゃんと書いていますよ。
男の世界を書いている。人間がデリケートな感情から発して、激しい行動に一直線に
つながるところを書いてますね。
三島由紀夫
秋山駿との対談「私の文学を語る」より

427 :
私は血すぢでは百姓とサムラヒの末裔だが、仕事の仕方はもつとも勤勉な百姓であり、
生活のモラルではサムラヒである。
三島由紀夫「フランスのテレビに初主演――文壇の若大将 三島由紀夫氏」より

何ごとにもまじめなことが私の欠点であり、また私の滑稽さの根源である。
三島由紀夫「フランスのテレビに初主演――文壇の若大将 三島由紀夫氏」より

428 :
孤独と連帯性は決して両極端ではない。孤独を知らぬ作家の連帯責任など信用できぬ。
われわれは水晶の数珠のやうにつなぎ合はされてゐるが、一粒一粒でもそれは水晶なのだ。
しかし一粒の水晶と一連の数珠との間には中庸などといふものはありえない。
バラバラだからつなげることができ、つながつてゐるからこそバラバラになりうる。
三島由紀夫「フランスのテレビに初主演――文壇の若大将 三島由紀夫氏」より

429 :
男性操縦術の最高の秘訣は、男のセンチメンタリズムをギュッとにぎることだといふことが、
どの恋愛読本にも書いてないのはふしぎなことです。
三島由紀夫「第一の性」より

愛とは、暇と心と莫大なエネルギーを要するものです。
三島由紀夫「第一の性」より

430 :
ひとたび自分の本質がロマンティークだとわかると、どうしてもハイムケール(帰郷)する
わけですね。ハイムケールすると、十代にいっちゃうのです。十代にいっちゃうと、
いろんなものが、パンドラの箱みたいに、ワーッと出てくるんです。だから、ぼくは
もし誠実というものがあるとすれば、人にどんなに笑われようと、またどんなに悪口を
言われようと、このハイムケールする自己に忠実である以外にないんじゃないか、と
思うようになりました。ぼくのこの気持ちは、思想的立場の違う人、ゼネレーションの
違う人にはきっと理解できないんだと思います。
三島由紀夫
古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」より

431 :
いまの相対主義的な世界におけるエロティシズムというのは、フリー・セックスでしょう。
なんにも抵抗がない。あんな絶対者にかかわりを持たぬセックスなど、ぼくは
エロティシズムとは呼びたくないですね。
三島由紀夫
古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」より

やっぱり穀物神だからね、天皇というのは。だから個人的な人格というのは二次的な問題で、
すべてもとの天照大神にたちかえってゆくべきなんです。今上天皇はいつでも今上天皇です。
つまり、天皇の御子様が次の天皇になるとかどうかという問題じゃなくて、大嘗会と同時に
すべては天照大神と直結しちゃうんです。そういう非個人的性格というものを天皇から
失わせた、小泉信三がそれをやったということが、戦後の天皇制のつくり方において
最大の誤謬だったと思うんです。
三島由紀夫
古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」より

432 :
明治維新のときは、次々に志士たちが死にましたよね。あのころの人間は単細胞だから、
あるいは貧乏だから、あるいは武士だから、それで死んだんだという考えは、ぼくは
嫌いなんです。どんな時代だって、どんな階級に属していたって、人間は命が惜しいですよ。
それが人間の本来の姿でしょう。命の惜しくない人間がこの世にいるとは、ぼくは思いませんね。
だけど、男にはそこをふりきって、あえて命を捨てる覚悟も必要なんです。維新にしろ、
革命にしろ、その覚悟の見せどころだとぼくは思うんだが、全共闘には、やっぱり
生命尊重主義というか、人命の価値が至上のものだという戦後教育がしみついていますね。
三島由紀夫
古林尚との対談「最後の言葉」より

(ウーマン・リブは)バカの骨頂ですね。女が女であることを否定したら損だということが
理解できないんですね。ただバカな女どもですよ。
三島由紀夫
古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」より

433 :
ぼくがウソだと思ったのは「きけわだつみのこえ」でした。あの遺稿集は、もちろん
ほんとに書かれた手記を編集したものでしょう。だが、あの時代の青年がいちばん
苦しんだのは、あの手記の内容が示しているようなものじゃなくて、ドイツ教養主義と
日本との融合だったんですよね。戦争末期の青年は、東洋と西洋といいますか、日本と
西洋の両者の思想的なギャップに身もだえして悩んだものですよ。そこを突っきって
行ったやつは、単細胞だから突っきったわけじゃない。やっぱり人間の決断だと思います。
それを、あの手記を読むと、決断したやつがバカで、迷っていたやつだけが立派だと
書いてある。そういう考えは、ぼくは許せない。
三島由紀夫
古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」より

434 :
どろ臭い、暗い精神主義――ぼくは、それが好きでしようがない。うんとファナティックな、
蒙昧主義的な、そういうものがとても好きなんです。ぼくのディオニソスは、神風連に
つながり、西南の役につながり、萩の乱その他、あのへんの暗い蒙昧ともいうべき破滅衝動につながっているんです。
三島由紀夫
古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」より

435 :
大げさな話ですが、日本語を知っている人間は、おれのジェネレーションでおしまいだろうと
思うんです。日本の古典のことばが体に入っている人間というのは、もうこれからは
出てこないでしょうね。未来にあるのは、まあ国際主義か、一種の抽象主義ですかね。
安部公房なんか、そっちへ行ってるわけですが、ぼくは行けないんです。それで世界中が、
すくなくとも資本主義国では全部が同じ問題をかかえ、言語こそ違え、まったく同じ精神、
同じ生活感情の中でやっていくことになるんでしょうね。そういう時代が来たって、
それはよいですよ。こっちは、もう最後の人間なんだから、どうしようもない。
三島由紀夫
古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」より

436 :
貞女とは、多くのばあひ、世間の評判であり、その世間をカサに着た女の鎧であります。
三島由紀夫「反貞女大学」より

トルストイがどんなに天才だらうと、暇がなければ「戦争と平和」なんて読めたものではない。
三島由紀夫「反貞女大学」より

437 :
女は抽象精神とは無縁の徒である。
三島由紀夫「女ぎらひの弁」より

余計者たるに悩むことは、人間たるに悩むことと同然である。
三島由紀夫「女ぎらひの弁」より

438 :
守る側の人間は、どんなに強力な武器を用意してゐても、いつか倒される運命にあるのだ。
三島由紀夫「若さと体力の勝利――原田・ジョフレ戦」より

守勢に立つ側の辛さ、追はれる者の辛さからは、容易ならぬ狡智が生れる。
三島由紀夫「追ふ者追はれる者――ペレス・米倉戦観戦記」より

「老巧」などといふ言葉は、スポーツの世界では不吉な言葉で、それはいつかきつと
「若さ」に敗れる日が来るのである。
三島由紀夫「追ふ者追はれる者――ペレス・米倉戦観戦記」より

439 :
人間は結局、前以て自分を選ぶものだ。

逆説はその場のがれこそなれ、本当の言ひのがれにはなりえない。逆説家は逆説で自分を
追ひつめ、どどのつまりは自分自身から言ひのがれの権利をのこらず剥奪してしまふのである。
逆説家がしばしばいちばん誠実な人間であるのはこのためだ。逆説家がいちばん神に
触れやすいのもこの地点だ。神は人間の最後の言ひのがれであり、逆説とは、もしかすると
神への捷径(しようけい)だ。
*「捷径」の意味…近道
三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より

440 :
天才(ジエニー)。才能(タラン)。誰がそれを分割することができやう。

才能とは決して不完全な天才のことではない。才能と天才は別の元素だ。それにもかかはらず、
われわれはワイルドの作品のいたるところに不完全な天才を見出だすのである。

ワイルドの哄笑は、言葉の本来の意味での悪魔的な笑ひである。悪魔の発明は神の衛生学だ。
ワイルドの悪魔主義は衛生的なものだ。この笑ひは衛生的なものだ。
三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より

441 :
苦痛は一種のドラマである。人がその欲しないものへ赴くためには、丁度子供が
歯医者へゆく御褒美に菓子をせびるやうに、虚栄心をせびらずにはゐられない。

社会はある男を葬り去らうとまで激昂する瞬間に、もつともその男を愛してゐるもので、
これは嫉妬ぶかい女と社会とがよく似てゐる点である。軽業師は観客の興味を要求することに
飽き、つひには恐怖を要求することに苦心を重ねて、死とすれすれな場所に身を挺する。
彼が死ぬ。それはもはや椿事だ。綱渡り師の墜死は、芸当から単なる事件への、
おそろしい失墜である。イギリス社会にはとりわけイギリス特産の、醜聞といふ「死」の
一つの様式があつたので、綱渡り師がこの危険に誘惑を感じない筈はないのであつた。

三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より

442 :
生活とは決して独創的でありえない何ものかだ。ホフマンスタールの忠告にもかかはらず、
しかし運命のみが独創的でありうる。キリストが独創的だつたのは、彼の生活のためではなく、
磔刑といふ運命のためだ。もうひとつ立入つた言ひ方をすると、生活に独創的な外見を
与へるのは運命といふものの排列の独創性にすぎない。

虚栄心を軽蔑してはならない。世の中には壮烈きはまる虚栄心もあるのである。
ワイルドの虚栄心は、受難劇の民衆が、血が流れるまで胸を叩きつづけるあの受苦の
虚栄に似てゐたやうに思はれる。何故さうするか。それがその男にとつての、ももかく
最高度と考へられる表現だからである。ワイルドが彼の詩に、彼の戯曲に、彼の小説に
選択する言葉は、かうした最高度の虚栄であつた。
三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より

443 :
音楽は詐術ではない。しかし俳優は最高の詐術であり、アーティフィシャルなものの最上である。
それは人間の言葉である台詞が無上の信頼の友を見出だす分野である。

ワイルドはその逆説によつて近代をとびこえて中世の悲哀に達した。イロニカルな作家は
バネをもつてゐる人形のやうに、あの世紀末の近代から跳躍することができた。
彼は十九世紀と二十世紀の二つの扇をつなぐ要の年に世を去つた。彼は今も異邦人だ。
だから今も新しい。ただワイルドの悪ふざけは一向気にならないのに、彼の生まじめは、
もう律儀でなくなつた世界からうるさがられる。誰ももう生まじめなワイルドは相手にすまい。
あんなに自分にこだはりすぎた男の生涯を見物する暇がもう世界にはない。
三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より

444 :
あらゆる芸術ジャンルは、近代後期、すなはち浪漫主義のあとでは、お互ひに気まづくなり、
別居し、離婚した。

純粋性とは、結局、宿命を自ら選ぶ決然たる意志のことだ、と定義してもよいやうに思はれる。
三島由紀夫「純粋とは」より

445 :
真の矜恃はたけだけしくない。それは若笹のやうに小心だ。そんな自信や確信のなさを、
またしてもひとびとは非難するかもしれぬ。しかしいとも高貴なものはいとも強いものから、
すなはちこの世にある限りにおいて小さく、ゆうに美しいものから生れてくる。
三島由紀夫「花ざかりの森」より

446 :
若い世代は、代々、その特有な時代病を看板にして次々と登場して来たのであつた。

退屈がなければ、心の傷痍は存在しない。戦争は決して私たちに精神の傷を与へはしなかつた。

「芸術」とは人類がその具象化された精神活動に、それに用ひられた「手」を記念するために
与へた最も素朴な観念である。
三島由紀夫「重症者の兇器」より

447 :
芸術とは私にとつて私の自我の他者である。私は人の噂をするやうに芸術の名を呼ぶ。
それといふのも、人が自分を語らうとして嘘の泥沼に踏込んでゆき、人の噂や悪口を
いふはづみに却つて赤裸々な自己を露呈することのあるあの精神の逆作用を逆用して、
自我を語らんがために他者としての芸術の名を呼びつづけるのだ。
これは、西洋中世のお伽噺で、魔法使を射Rるには彼自身の姿を狙つては甲斐なく、
彼より二三歩離れた林檎の樹を狙ふとき必ず彼の体に矢を射込むことができるといふ秘伝の
模倣でもあるのである。――端的に言へば、私はかう考へる。(きはめて素朴に考へたい。)
生活よりも高次なものとして考へられた文学のみが、生活の真の意味を明かにしてくれるのだ、と。
三島由紀夫「重症者の兇器」より

448 :
足るを知る人間なんか誰一人ゐないのが社会で、それでこそ社会は生成発展するのである。

空虚な目標であれ、目標をめざして努力する過程にしか人間の幸福が存在しない。

男はどんな職業についても、根本に膂力(りよりよく)の自信を持つてゐなくてはならない。
なぜなら世間は知的エリートだけで動いてゐるのではなく、無知な人間に対して優越性を
証明するのは、肉体的な力と勇気だけだからだ。
三島由紀夫「小説家の息子」より

449 :
世の中には完全に誤解されてゐながら、絶対に誤解されてゐないといふふうに世間に
思はれてゐる人もたくさんゐる。
三島由紀夫「作家と結婚」より

450 :
人間は精神だけがあるのではなくて、肉体がなぜあるのかといふと、神様が人間はなかば
シャイネン(ふりをする)の存在だとしてゐるといふことを暗示してゐると思ふ。
ザイン(存在)だけのものになつたら、シャイネンがほんたうに要らない人間になる。
それならもう社会生活も放棄し、人間生活も放棄したはうがいい。どんなに誠実さうな
人間でも、シャイネンの世界に生きてゐる。だから僕が一番嫌ひなのは、芸術家らしく
見えるといふことだ。芸術家といふものは、本来シャイネンの世界の人間ぢやないのだから。
芸術家らしいシャイネンといふものは意味がない。それは贋物の芸術家にきまつてゐる。
芸術家らしいシャイネンといへば、頭髪を肩まで伸ばして、コール天の背広を着て歩いてゐる
といふのだらうが、そんなのは贋物の絵描きにきまつてゐる。
三島由紀夫「作家と結婚」より

451 :
われわれのひそかな願望は、叶へられると却つて裏切られたやうに感じる傾きがある。

少女の驕慢な心は、概ね不測の脆さと隣り合はせに住んでをり、むしろ脆さの鎧である。
三島由紀夫「遠乗会」より

452 :
test

453 :
少年の最初の時期は、異性愛的なものと同性愛的なものが、非常に混在してをります。

私にもごたぶんに漏れず赤紙が来ましたが、即日帰郷になつて帰つて以来、ぱつたり
忘れたやうに、もう二度と来ませんでした。
…それはいつまで待つても来ない恋文のやうなもので、しかしいつ訪れるかわからないのでした。
来るのをおそれながら、みな何となくその赤紙を待つような気持ちにもなつてゐました。
三島由紀夫「わが思春期」より

454 :
窓の外の雨にぬれた田園の景色をながめながら、何もかも見おさめだといふ気がしてゐました。
あんな不思議な感情は、今の若い人は知るまいと思ひます。もう負けるにきまつてゐる
この戦争は、おそらく日本国民の全滅をもつて終るだらうし、目の前にあるものは
惨たんたる破局だけ、要するに死だけでありました。ですから何を見るにも見おさめ
といふ気がしたし、ある楽しみを味はつても、それは最後の味だと思ふのでした。
ですから感覚は生き生きとし、つまらない事物にも、それを見ることに喜びを感じ、
ちやうど雨季に入りかけた木々の緑のしたたりも、実に新鮮に目に映るのでした。
三島由紀夫「わが思春期」より

455 :
新人の辛さは、「待たされる」辛さである。

青春の特権といへば、一言を以てすれば、無知の特権であらう。

どんな人間にもおのおののドラマがあり、人に言へぬ秘密があり、それぞれの特殊事情がある、
と大人は考へるが、青年は自分の特殊事情を世界における唯一例のやうに考へる。
三島由紀夫「私の遍歴時代」より

456 :
小説は書いたところで完結して、それきり自分の手を離れてしまふが、芝居は書き了へた
ところからはじまるのである。

芝居の仕事の悲劇は、この世でもつとも清純なけがれのない心が、一度芝居の理想へ
向けられると、必ずひどい目に会ふのがオチだといふことである。

芝居の世界は実に魅力があるけれど、一方、おそろしい毒素を持つてゐる。
三島由紀夫「私の遍歴時代」より

457 :
大体私は「興ひたれば忽ち成る」といふやうなタイプの小説家ではないのである。
いつもさはぎが大きいから派手に見えるかもしれないが、私は大体、銀行家タイプの
小説家である。このごろの銀行が、派手なショウ・ウィンドウをくつつけたりしてゐる姿を、
想像してもらつたらよからう。

忘却の早さと、何ごとも重大視しない情感の浅さこそ、人間の最初の老ひの兆(きざし)だ。

文学では、(日本の芸能の多くがさうであるやうに)、肉体が老ひ朽ちてから、芸術の
青春がはじまるといふ恵みがある。
三島由紀夫「私の遍歴時代」より

458 :
清潔なものは必ず汚され、白いシャツは必ず鼠色になる。人々は、残酷にも、この世の中では、
新鮮、清潔、真白、などといふものが永保ちしないことを知つてゐる。

どんな浅薄な流行でも、それがをはるとき、人々は自分の青春と熱狂の一部分を、
その流行と一緒に、時間の墓穴へ埋めてしまふ。二度とかへらぬのは流行ばかりでなく、
それに熱狂した自分も二度とかへらない。
三島由紀夫「をはりの美学 流行のをはり」より

男にとつては生へぶつかつてゆくのは、死へぶつかつてゆくのと同じことだ。
三島由紀夫「をはりの美学 童貞のをはり」より

459 :
学校をでて十年たつて、その間、テレビと週刊誌しか見たことがないのに、「大学をでたから
私はインテリだ」と、いまだに思つてゐる人は、いまだに頭がヘンなのであり、したがつて
彼または彼女にとつて、学校は一向に終つてゐないのだ、といふよりほかはありません。
三島由紀夫「をはりの美学 学校のをはり」より

美女と醜女とのひどい階級差は、美男と醜男との階級差とは比べものにならない。

美女は一生に二度死ななければならない。美貌の死と肉体の死と。一度目の死のはうが
恐ろしい本当の死で、彼女だけがその日付を知つてゐるのです。
「元美貌」といふ女性には、しかし、荒れ果てた名所旧跡のやうな風情がないではありません。
三島由紀夫「をはりの美学 美貌のをはり」より

460 :
手紙は遠くからやつてきた一つの小舟です。
三島由紀夫「をはりの美学 手紙のをはり」より

人生は音楽ではない。最上のクライマックスで、巧い具合に終つてくれないのが
人生といふものである。
三島由紀夫「をはりの美学 旅行のをはり」より

個性とは何か?
弱味を知り、これを強味に転じる居直りです。

私は「私の鼻は大きくて魅力的でしよ」などと頑張つてゐる女の子より、美の規格を
外れた鼻に絶望して、人生を呪つてゐる女の子のはうを愛します。それが「生きてゐる」
といふことだからです。
三島由紀夫「をはりの美学 個性のをはり」より

461 :
自然は黙つてゐる。自然は事実を示すだけだ。自然は決して「宣言」なんかやらかさない。
三島由紀夫「をはりの美学 梅雨のをはり」より

何も形の残らないもののために、勲章と銅像の存在理由があるのです。なぜなら英雄とは、
本来行動の人物にだけつけられる名称で、文化的英雄などといふものは、言葉の誤用だからです。
三島由紀夫「をはりの美学 英雄のをはり」より

462 :
悲しみとは精神的なものであり、笑ひとは知的なものである。

肉体関係があつたあとに、おくればせに、精神的恋愛がやつてくるといふことだつてある。

日本では、恋とは肉の結合のことであり、そのあとに来るものは「もののあはれ」であつた。
三島由紀夫「をはりの美学 動物のをはり」より

463 :
「足が地につかない」ことこそ、男性の特権であり、すべての光栄のもとであります。

子惚気ばかり言ふ男は、家庭的な男といふ評判が立ち、へんなドン・ファン気取の
不潔さよりも、女性の好評を得ることが多いさうだが、かういふ男は、根本的にワイセツで、
性的羞恥心の欠如が、子惚気の形をとつて現はれてゐる。

動物になるべきときにはちやんと動物になれない人間は不潔であります。

男が女より強いのは、腕力と知性だけで、腕力も知性もない男は、女にまさるところは
一つもない。
三島由紀夫「第一の性」より

464 :
女は「きれいね」と、云はれること以外は、みんな悪口だと解釈する特権を持つてゐる。
なぜなら男が、「あいつは頭がいい」と云はれるのは、それだけのことだが、女が
「あの人は頭がいい」と云はれるのは、概してその前に美人ではないけれどといふ言葉が
略されてゐると思つてまちがひないからです。

「積極的」といふのと、「愛する」といふのとはちがふ。最初にイニシァチブをとる
といふことと、「愛する」といふこととはちがふ。

相手の気持ちをかまはぬ、しつこい愛情は、大てい劣等感の産物と見抜かれて、ますます
相手から嫌はれる羽目になる。
三島由紀夫「第一の性」より

465 :
愛とは、暇と心と莫大なエネルギーを要するものです。

小説家と外科医にはセンチメンタリズムは禁物だ。

男性操縦術の最高の秘訣は、男のセンチメンタリズムをギュッとにぎることだといふことが、
どの恋愛読本にも書いてないのはふしぎなことです。

変はり者と理想家とは、一つの貨幣の両面であることが多い。
どちらも、説明のつかないものに対して、第三者からはどう見ても無意味なものに対して、
頑固に忠実にありつづける。
三島由紀夫「第一の性」より

466 :
男には謎に耐へられない弱さがある。
…男に与へられてゐる高度の抽象能力は、この弱さの楯であつたらしい。抽象能力によつて、
現実と人生の謎を、カッチリした、キチンと名札のついた、整理棚に納めることなしには、
男は耐へられない。

人間は安楽を百パーセント好きになれない動物なのです。特に男は。

スタアといふものには、大てい化物じみたところがあるものです。

政治家の宿命は、死後も誤解を免かれないところにある。
三島由紀夫「第一の性」より

467 :
俳優といふショウ・アップ(見せつける)する職業には、本質的にナルシスムと男色が
ひそんでゐると云つても過言ではない。

宗教家ほどある意味では男くさい男はありません。

宗教家といふものには、思想家(哲学者)としての一面と、信仰者としての一面と、
指導者、組織者としての一面と、三つの面が必要なので、それには、男でなければならず、
キリストも釈迦も、男でありました。
三島由紀夫「第一の性」より

468 :
知的なものと感性的なもの、ニイチェの言つてゐるアポロン的なものとディオニソス的なものの
どちらを欠いても理想的な芸術ではない。
三島由紀夫「わが魅せられたるもの」より

金のためだつて! そんな美しい目的のためには文学なんて勿体ない。
私たちは原稿の代償として金を受取るとき、いつも不当な好遇と敬意とを居心地わるく
感じなければならないのです。蹴飛ばされる覚悟でゐたのがやさしく撫でられた狂犬のやうにして。
三島由紀夫「反時代的な芸術家」より

469 :
政治問題に関する言論を規制しようとする動きがあるときには、必ず、これを
カムフラージュするために、道徳的偽装がとられ、あはせてエロティシズムや風俗一般に
対する規制が行はれるのが通例である。
三島由紀夫「危険な芸術家」より

470 :
エレキは有害で、青少年に対して危険であり、ベートーヴェンは有益で、何ら危険がないのみか
人間性を高めるといふ考へは、近代的な文化主義の影響を受けた考へであつて、
ベートーヴェンのベの字もわからない俗物でも、かういふ議論は鵜呑みにするし、
現代の政府の文化政策もこの線を基本的に離れえないことは明白である。
しかし毒であり危険なのは音楽自体であつて、高尚なものほど毒も危険度も高いといふ考へは、
ほとんど理解されなくなつてゐる。政治と芸術の真の対立状況は実はそこにしかないのである。
してみると日本には、真の危険な芸術家は一人もゐないといふことになり、政府も
そんなに心配する必要はなし、万事めでたしめでたし。
三島由紀夫「危険な芸術家」より

471 :
現代はいかなる時代かといふのに、優雅は影も形もない。それから、血みどろな人間の
実相は、時たま起る酸鼻な事件を除いては、一般の目から隠されてゐる。病気や死は、
病院や葬儀屋の手で、手際よく片附けられる。宗教にいたつては、息もたえだえである。
……芸術のドラマは、三者の完全な欠如によつて、煙のやうに消えてしまふ。
…現代の問題は、芸術の成立の困難にはなくて、そのふしぎな容易さにあることは、
周知のとほりである。それは軽つぽい抒情やエロティシズムが優雅にとつて代はり、
人間の死と腐敗の実相は、赤い血のりをふんだんに使つたインチキの残酷さでごまかされ、
さらに宗教の代りに似非論理の未来信仰があり、といふ具合に、三者の代理の贋物が、
対立し激突するどころか、仲好く手をつなぐにいたる状況である。そこでは、この贋物の
三者のうち、少くとも二者の野合によつて、いとも容易に、表現らしきもの、芸術らしきもの、
文学らしきものが生み出される。かくてわれわれは、かくも多くのまがひものの氾濫に、
悩まされることになつたのである。
三島由紀夫「変質した優雅」より

472 :
能は、いつも劇の終つたところからはじまる。
三島由紀夫「変質した優雅」より

性と解放と牢獄との三つのパラドックスを総合するには芸術しかない。
三島由紀夫「恐ろしいほど明晰な伝記――澁澤龍彦著『サド侯爵の生涯』」より

473 :
青年の冒険を、人格的表徴とくつつけて考へる誤解ほど、ばかばかしいものはない。
三島由紀夫「堀江青年について」より

すべてのスポーツには、少量のアルコールのやうに、少量のセンチメンタリズムが含まれてゐる。
三島由紀夫「『別れもたのし』の祭典――閉会式」より

474 :
●ネトウヨ(ネット右翼)がみっともない12の理由
1.威勢が良いのはネット上だけで現実の行動は何もしない
2.2ちゃんねる発の噂を裏も取らずに事実と断定する
3.愛着を持っている日本文化が伝統文化ではなく漫画・アニメ・ゲーム程度
4.国防重視を説くくせに現実に自衛隊には入らないし入っても役に立たない
5.都合の悪いことはすべて反日勢力の自作自演ということにする
6.特亜・在日・創価・左翼以外の社会悪は平気で見過ごして批判しない
7.戦前戦中・終戦直後の今よりひどい貧困を味わった世代に敬意を表さない
8.自分は何もしてなくても過去の日本人の手柄を自分の手柄のように誇る
9.反中国のくせに高い国産商品より安い中国製品を買うことを恥じない
10.何の話題でも嫌特亜、反左翼に結びつけないと気が済まない
11.たまたま日本人に生まれただけで努力して何かになったわけではない
12.この文章を読んで「これを書いた奴はチョン」と証拠もなく勝手に断定

475 :
小説家における文体とは、世界解釈の意志であり、鍵なのである。

強大な知力は世界を再構成するが、感受性は強大になればなるほど、世界の混沌を
自分の裡に受容しなければならなくなる。

戦争がをはつたとき、氏は次のやうな意味の言葉を言はれた。
「私はこれからもう、日本の悲しみ、日本の美しさしか歌ふまい」――これは一管の
笛のなげきのやうに聴かれて、私の胸を搏つた。
三島由紀夫「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」より

476 :
お節介は人生の衛生術の一つです。

お節介焼きには、一つの長所があつて、「人をいやがらせて、自らたのしむ」ことができ、
しかも万古不易の正義感に乗つかつて、それを安全に行使することができるのです。
人をいつもいやがらせて、自分は少しも傷つかないといふ人の人生は永遠にバラ色です。
なぜならお節介や忠告は、もつとも不道徳な快楽の一つだからです。
三島由紀夫「不道徳教育講座 うんとお節介を焼くべし」より

現代では何かスキャンダルを餌にして太らない光栄といふものはほとんどありません。

世間には、外貌と内側の全然一致しない人もある。
三島由紀夫「不道徳教育講座 醜聞を利用すべし」より

477 :
友人を裏切らないと、家来にされてしまふといふ場合が往々にしてある。大へん永つづきした
美しい友情などといふやつを、よくしらべてみると、一方が主人で一方が家来のことが多い。
三島由紀夫「不道徳教育講座 友人を裏切るべし」より

世間に尽きない誤解は、
「殺人そのもの」と、
「殺つちまへと叫ぶこと」
と、この二つのものの間に、ただ程度の差しか見ないことで、そこには実は非常な質の
相違がある。
三島由紀夫「不道徳教育講座 『殺つちまへ』と叫ぶべし」より

およそ自慢のなかで、喧嘩自慢ほど罪のないものはない。
三島由紀夫「不道徳教育講座 喧嘩の自慢をすべし」より

478 :
戦争も大事件も、必ずしも高尚な動機や思想的対立から起るのではなく、ほんのちよつとした
まちがひから、十分起りうるのです。そして大思想や大哲学は、概して大した事件も
ひきおこさずに、カビが生えたまま死んでしまひます。

運命はその重大な主題を、実につまらない小さいものにおしかぶせてゐる場合があります。
そしてわれわれは、あとになつてみなければ、小さな落度が重大な結果につながつてゐたか
どうかを知ることができません。

人間の意志のはたらかないところで起る小さなまちがひが、やがては人間とその一生を
支配するといふふしぎは、本当は罪や悪や不道徳よりも、本質的におそろしい問題なのであります。
三島由紀夫「不道徳教育講座 0の恐怖」より

479 :
作家といふものは、いつもその時代と、娼婦のやうに、一緒に寝るべきであるか? 
もちろん小説には、まぬがれがたい時世粧といふものは要る。しかし反動期における
作家の孤立と禁欲のはうが、もつと大きな小説をみのらせるのではないか? 
……それにしても、作家は一度は、時代とベッドを共にした経験をもたねばならず、
その記憶に鼓舞される必要があるやうだ。
三島由紀夫「小説家の休暇」より

480 :
絶望から人はむやみに死ぬものではない。

典型的な青年は、青春の犠牲になる。十分に生きることは、生の犠牲になることなのだ。
生の犠牲にならぬためには、十分に生きず、フランス人のやうに吝嗇を学ばなければならぬ。
貯蓄せねばならぬ。卑怯な人間にならなければならぬ。
三島由紀夫「小説家の休暇」より

481 :
芸術は認識の冷たさと行為の熱さの中間に位し、この二つのものの媒介者であらうが、
芸術は中間者、媒介者であればこそ、自分の坐つてゐる場所がひろびろと、居心地の
よいことをのぞまず、むしろつねに夢みてゐるのは、認識と行為とがせめぎ合ひ、
(那須の)与市のそれのやうに、ぎりぎりの決着のところで結ばれて、芸術を押しつぶして
しまふことなのである。そして芸術がいつもかかるものから真の養分を得て、よみがへつて
来たといふ事実以上に、奇怪な不気味なことがあらうか?
三島由紀夫「小説家の休暇」より

482 :
あひかはらず忙しく往来してゐる社会の海の中に、ここだけは孤島のやうに屹立して感じられる。
自分が憂へる国は、この家のまはりに大きく雑然とひろがつてゐる。自分はそのために
身を捧げるのである。しかし自分が身を滅ぼしてまで諫めようとするその巨大な国は、
果してこの死に一顧を与へてくれるかどうかわからない。それでいいのである。
ここは華々しくない戦場、誰にも勲しを示すことのできぬ戦場であり、魂の最前線だつた。
三島由紀夫「憂国」より

483 :
少年がすることの出来る――そしてひとり少年のみがすることのできる世界的事業は、
おもふに恋愛と不良化の二つであらう。恋愛のなかへは、祖国への恋愛や、一少女への
恋愛や、臈(らふ)たけた有夫の婦人への恋愛などがはひる。また、不良化とは、
稚心を去る暴力手段である。

神が人間の悲しみに無縁であると感ずるのは若さのもつ酷薄であらう。しかし神は
拒否せぬ存在である。神は否定せぬ。
三島由紀夫「檀一雄『花筐』――覚書」より

484 :
日本近代知識人は、最初からナショナルな基盤から自分を切り離す傾向にあつたから、
根底的にデラシネ(根なし草)であり、大学アカデミズムや出版資本に寄生し、一方では
その無用性に自立の根拠を置きながら、一方では失はれた有用性に心ひそかに憧憬を寄せてゐる。

日本知識人が自己欺瞞に陥るくらゐなら、死んだはうがよからう、と嘲笑はれてゐる声を
きかなければ、知識人の資格はない。

知識人の唯一の長所は自意識であり、自分の滑稽さぐらいは弁えてゐなくてはならぬ。

三島由紀夫「新知識人論」より

485 :
命を賭けて守れぬやうな思想は思想と呼ぶに値しない。

知識人の任務は、そのデラシネ性を払拭して、日本にとつてもつとも本質的な「大義」が何かを
問ひつめてゐればよいのである。
…権力も反権力も見失つてゐる、日本にとつてもつとも大切なものを凝視してゐれば
よいのである。暗夜に一点の蝋燭の火を見詰めてゐればよいのである。断固として
動かないものを内に秘めて、動揺する日本の、中軸に端座してゐればよいのである。
私はこの端座の姿勢が、日本の近代知識人にもつとも欠けてゐたものであると思ふ。
三島由紀夫「新知識人論」より

486 :
行動といふものはそれ自体の独特の論理を持つてゐる。したがつて、行動は一度始まり出すと、
その論理が終るまでやむことがない。

目的のない行動はあり得ないから、目的のない思考、あるひは目的のない感覚に生きて
ゐる人たちは行動といふものを忌みきらひ、これをおそれて身をよける。思想や論理が
ある目的を持つて動き出すときには、最終的にはことばや言論ではなくて、肉体行動に
帰着しなければならないことは当然なのである。

行動は一瞬に火花のやうに炸裂しながら、長い人生を要約するふしぎな力を持つてゐる。

真に有効な行動とは、自分の一身を犠牲にして、最も極端な効果をねらつたテロリズム以外には
なくなるであらう。
三島由紀夫「行動学入門」より

487 :
死の向ふ側にわれわれは自分の個人の効果といふものを、あるひは個人の利得といふものを
考へることはできないのであるから、政治的効果といふものは初めから超個人的なところに
求められなければならない。

超個人的な効果をねらつて個人が自己犠牲を払ふといふところにしか、政治的効果がない。

われわれは全く無効だと覚悟した行動にしか真の政治的有効性といふものを発見しないの
かもしれない。

無効性に徹することによつてはじめて有効性が生じるといふところに、純粋行動の本質があり、
そこに正義運動の反政治性があり、「政治」との真の断絶があるべきだ、と私は考へる。
三島由紀夫「行動学入門」より

488 :
賭けとは全身全霊の行為であるが、百万円持つてゐた人間が、百万円を賭け切るときにしか、
賭けの真価はあらはれない。なしくづしに賭けてゐつたのでは、賭けではない。

行動がことばでないと同様に、待機もことばではない。それはただ濃密な平板な、人生で
最も苦しい時間なのである。

自分の美しさが決して感じられない状況においてだけ、美がその本来の純粋な形をとる。

二度と繰り返されぬところにしか行動の美がないならば、それは花火と同じである。
しかしこのはかない人生に、そもそも花火以上に永遠の瞬間を、誰が持つことができやうか。
三島由紀夫「行動学入門」より

489 :
どんな変革も、個人の心の中に初めてともつた火から広がつていくものだ。

すべてのものに始めと終りがあるやうに、行動も一度幕を開けたらば幕を閉じなければならない。
行動は、たびたび繰り返したやうに、瞬時に終るものであるから、その正否の判断は
なかなかつかない。歴史の中に埋もれたまま、長い年月がたつても正当化されない行為は
たくさんある。

行動はことばで表現できないからこそ行動なのであり、論じても論じても、論じ尽くせない
からこそ行動なのである。
三島由紀夫「行動学入門」より

490 :
国家総動員体制の確立には、極左のみならず極右も斬らねばならぬといふのは、政治的
鉄則であるやうに思はれる。そして一時的に中道政治を装つて、国民を安心させて、
一気にベルト・コンベアーに載せてしまふのである。

ヒットラーは政治的天才であつたが、英雄ではなかつた。英雄といふものに必要な、
爽やかさ、晴れやかさが、彼には徹底的に欠けてゐた。
ヒットラーは、二十世紀そのもののやうに暗い。
三島由紀夫「『わが友ヒットラー』覚書」より

491 :
どんな不キリョウな犬でも、飼ひ馴れれば、可愛くなる。

幸福といふものは、どうしてこんなに不安なのだらう!

誰も他人に忠告なんて与へられやしないよ。だから法律が、結局、人間生活のすべてなんだ。

はじめ思想や主義を作るのは男の人でせうね。何しろ男はヒマだから。
でもその思想や主義をもちつづけるのは女なねよ。女はものもちがいいんですもの。

人間には憎んだり、戦つたり、勝つたり、さういふ原始的な感情がどうしても必要なんだ。
三島由紀夫「永すぎた春」より

492 :
美しい身なりをして、美しい顔で町を歩くことは、一種の都市美化運動だ。

現実といふものは、袋小路かと思ふと、また妙な具合にひらけてくる。

他人の心のわかりすぎる人間は、小説なんか書かない。

建設よりも破壊のはうが、ずつと自分の力の証拠を目のあたり見せてくれるものだつた。

皆が等分に幸福になる解決なんて、お伽噺にしかないんですもの。
三島由紀夫「永すぎた春」より

493 :
あつちには病人がをり、こつちにはもう数週間で結婚する二人がゐる。人生つてさうしたもんさ。
さうして朝は、誰にとつても朝なんだ。

他人のことを考へることが、私たちのことを考へることでもある。

幸福つて、素直に、ありがたく、腕いつぱいにもらつていいものなのね。
三島由紀夫「永すぎた春」より

494 :
いろんな感情の中に、同時にあたくしが居ます。いろんな存在の中に、同時にあたくしが
居たつて、ふしぎではないでせう。

高飛車な物言ひをするとき、女はいちばん誇りを失くしてゐるんです。女が女王さまに
憧れるのは、失くすことのできる誇りを、女王さまはいちばん沢山持つてゐるからだわ。
三島由紀夫「葵上」より

495 :
不満といふものはね、お嬢さん、この世の掟を引つくりかへし、自分の幸福をめちやめちやに
してしまふ毒薬ですよ。

自然と戦つて、勝つことなんかできやしないのだ。
三島由紀夫「道成寺」より

496 :
ねえ、人間つて、待つたり待たせたりして生きてゆくものぢやない?

愛はみんな怖しいんですよ。愛には法則がありませんから。
三島由紀夫「班女」より

あまりに強度の愛が、実在の恋人を超えてしまふといふことはありうる。
三島由紀夫「班女について」より

497 :
太多??的?言无法??真?的梦,?望的?候又??希望的曙光,矛盾的心?在??去之后?始??

498 :
有人能看?中文??我是中国的

499 :
人間の性の世界は広大無辺であり、一筋縄では行かないものだ。
性の世界では、万人向きの幸福といふものはないのである。

音楽といふ観念が音楽自体を消すのである。

嘘つきの常習犯ほど却つて、自分の喋つてゐることが嘘か本当か知らないのではあるまいか?

一瞬の直感から、女が攻撃態勢をとるときには、男の論理なんかほとんど役に立たないと
言つていい。
三島由紀夫「音楽」より

500 :
いくら成人式をやつたつて、二十代はまだ人生や人間に対して盲らなのさ。大人が
しつかりした判断で決めてやつたはうが、結局当人の倖せになるんだ。むかしは、お婿さんの
顔も知らずに嫁入りした娘が一杯ゐるのに、それで結構愛し合つて幸福にやつて行けたもんだ。

たしかなことは、不幸が不幸を見分け、欠如が欠如を嗅ぎ分けるといふことである。
いや、いつもそのやうにして、人間同士は出会ふのだ。
三島由紀夫「音楽」より

501 :
精神分析学は、日本の伝統的文化を破壊するものである。欲求不満(フラストレーション)
などといふ陰性な仮定は、素朴なよき日本人の精神生活を冒涜するものである。人の心に
立入りすぎることを、日本文化のつつましさは忌避して来たのに、すべての人の行動に
性的原因を探し出して、それによつて抑圧を解放してやるなどといふ不潔で下品な教理は、
西洋のもつとも堕落した下賤な頭から生まれた思想である。

「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」といふ諺が、実は誤訳であつて、原典のローマ詩人
ユウェナーリスの句は、「健全なる肉体には健全なる精神よ宿れかし」といふ願望の意を
秘めたものであることは、まことに意味が深いと言はねばならない。

精神分析学者には文学に関する豊富な知識も必要だ。
三島由紀夫「音楽」より

502 :
人間は、どんなバカでも『お前を盲らにしてやるぞ』と言はれれば反撥する程度の自尊心は
あるから、テレビのコマーシャルをきらふけれど、『お前の目をさまさせてやる』と
言はれて不安にならぬほどの自尊心は持たないから、精神分析を歓迎するわけですね。

男性の不能の治療は、無意識のものを意識化するといふ作業よりも、過度に意識的なものを
除去して、正常な反射神経の機能を回復するといふ作業のはうが、より重要であり、
より効果的である。

見かけは恵まれた金持の息子でありながら、人生は貧乏人さへ知らない奇怪な不幸を
与へることがある。
三島由紀夫「音楽」より

503 :
女の肉体はいろんな点で大都会に似てゐる。とりわけ夜の、灯火燦然とした大都会に似てゐる。
私はアメリカへ行つて羽田へ夜かへつてくるたびに、この不細工な東京といふ大都会も、
夜の天空から眺めれば、ものうげに横たはる女体に他ならないことを知つた。体全体に
きらめく汗の滴を宿した……。
目の前に横たはる麗子の姿が、私にはどうしてもそんな風に見える。そこにはあらゆる美徳、
あらゆる悪徳が蔵されてゐる。そして一人一人の男はそれについて部分的に探りを入れる
ことはできるだらう。しかしつひにその全貌と、その真の秘密を知ることはできないのだ。
三島由紀夫「音楽」より

504 :
われわれは誰が何と言はうと、愛が人間の心にひらめかす稲妻と、瞥見させる夜の青空とを、
知つてをり、見てゐるのである。

どんな不まじめな嘘の裏にも、怖ろしい人間性の問題が顔をのぞかせてゐる。

神聖さと徹底的な猥雑さとは、いづれも「手をふれることができない」といふ意味で似てゐる。

強度のヒステリー性格は、受動的に潜在意識に動かされるだけではなく、無意識のうちに
識閾下の象徴を積極的に利用する。
三島由紀夫「音楽」より

505 :
精神分析を待つまでもなく、人間のつく嘘のうちで、「一度も嘘をついたことがない」
といふのは、おそらく最大の嘘である。

ひとたび実存主義的見地に立てば、「正常な」人間の実存も、異常な人間の実存も、
「愛の全体性への到達」の欲求においては等価であるから、フロイトのやうに、一方に
正常の基準を置き、一方に要治療の退行現象を置くやうな、アコギな真似はできない筈である。
つまりそれはあまりにも、科学的実証主義のものわかりのわるさを捨てすぎたのである。
三島由紀夫「音楽」より

506 :
社会構造の最下部には、あたかも個人個人の心の無意識の部分のやうに、おもてむきの
社会では決して口に出されることのない欲望が大つぴらに表明され、法律や社会規範に
とらはれない人間のもつとも奔放な夢が、あらはな顔をさし出してゐる。

神聖さとは、ヒステリー患者にとつては、多く、復讐の観念を隠してゐる。
三島由紀夫「音楽」より

507 :
むかし俗悪でなかつたものはない。時がたてば、又かはつてくる。

どんな美人も年をとると醜女になるとお思ひだらう。ふふ、大まちかひだ。美人は
いつまでも美人だよ。今の私が醜くみえたら、そりやあ醜い美人といふだけだ。

人間は死ぬために生きてるのぢやございません。

僕は又きつと君に会ふだらう、百年もすれば、おんなじところで……。
もう百年!
三島由紀夫「卒塔婆小町」より

508 :
複雑な事情などといふものは、みんなただのお化けなのですわ。本当は世界は単純で
いつもしんとしてゐる場所なのですわ。

私の白い翼が血に汚れたとて、それが何でせう。血も幻、戦ひも幻なのですもの。
私は海ぞひのお寺の美しい屋根の上を歩く鳩のやうに、争ひ事に波立つてゐるお心の上を
平気で歩いて差上げますわ……。

この世の終りが来るときには、人は言葉を失つて、泣き叫ぶばかりなんだ。たしかに僕は
一度きいたことがある。

背広といふ安全無類の制服、毎日毎日のくりかへしの生活に忠実だといふ証文。
三島由紀夫「弱法師」より

509 :
僕の魂は、まつ裸でこの世を歩き廻つてゐるんだよ。四方に放射してゐる光りが見えるでせう。
この光りは人の体も灼くけれど、僕の心にもたえず火傷をつけるんです。ああ、こんな風に
裸かで生きてゐるのは実に骨が折れますよ。実に骨が折れる。僕はあなた方の一億倍も
裸かなんだから。

われわれはみんな恐怖のなかに生きてゐるんだよ。
ただあなた方はその恐怖を意識してゐない。屍のやうに生きてゐる。

形が大切なんですよ。だつてあなたの形はあなたのものぢやなくて、世間のものですもの。
三島由紀夫「弱法師」より

510 :
年齢が何だつて言ふんです! 年齢が! 年齢といふものはね、一筋の暗闇の道なんです。
来し方も見えず、行末も見えない。だからそこには距離もないし、止つてゐるも歩いてゐるも
同じこと、進むのも退くのも同じこと、そこでは目あきも盲らになり、生きてゐる人間も
亡者になり、僕同様杖をたよりに、さぐり足でさまよつてゐるにすぎないんです。
赤ん坊も老人も青年も、つまりは同じ場所で、じつと身を寄せ合つてゐるのにすぎない。
夜の朽木の上にひつそりと群れ集まつてゐる虫のやうに。
三島由紀夫「弱法師」より

511 :
僕はたしかにこの世のをはりを見た。五つのとき、戦争の最後の年、僕の目を炎で灼いた
その最後の炎までも見た。それ以来、いつも僕の目の前には、この世のをはりの焔が
燃えさかつてゐるんです。何度か僕もあなたのやうに、それを静かな入日の景色だと
思はうとした。でもだめなんだ。僕の見たものはたしかにこの世界が火に包まれてゐる
姿なんだから。
(中略)
世界はばかに静かだつた。静かだつたけれど、お寺の鐘のうちらのやうに、一つの唸りが
反響して、四方からこだまを返した。へんな風の唸りのやうな声、みんなでいつせいに
お経を読んでゐるやうな声、あれは何だと思ふ?何だと思ふ?あれは言葉じゃない、
歌でもない、あれが人間の阿鼻叫喚といふ奴なんだ。
僕はあんななつかしい声をきいたことがない。あんな真率な声をきいたことがない。
この世のをはりの時にしか、人間はあんな正直な声をきかせないのだ。
三島由紀夫「弱法師」より

512 :
骨肉の情愛といふものは、一度その道を曲げられると、おそろしい憎悪に変はつてしまふ。
理解の通はぬ親子の間柄、兄弟の間柄は他人よりも遠くなる。

この世には人間の信頼にまさる化物はないのだ。

政治の要請はかうだ。いいかね。政治には真理といふものはない。真理のないといふことを
政治は知つてをる。だから政治は真理の模造品を作らねばならんのだ。
三島由紀夫「鹿鳴館」より

513 :
不在といふものは、存在よりももつと精妙な原料から、もつと精選された素材から成立つて
ゐるやうに思はれる。楠といざ顔をつき合はせてみると、郁子は今までの自分の不安も、
遊び友達が一人来ないので歌留多あそびをはじめることができずにゐる子供の寂しさに
すぎなかつたのではないかと疑つた。

凡庸な人間といふものは喋り方一つで哲学者に見えるものだ。

どこかひどく凡庸なところがないと哲学者にはなれない。

若さといふものは笑ひでさへ真摯な笑ひで、およそ滑稽に見せようとしても見せられない
その真摯さは、ほとんど退屈にちかいものと言つてよろしく、中年よりも老年よりも遥かに
安定度の高い頑固な年齢であつた。
三島由紀夫「純白の夜」より

514 :
明治時代にはあだし男の接吻に会つて自殺を選んだ貞淑な夫人があつた。現代ではそんな
女が見当らないのは、人が云ふやうに貞淑の観念の推移ではなくて、快感の絶対量の
推移であるやうに思はれる。ストイックな時代に人々が生れ合はせれば、一度の接吻に
死を賭けることもできるのだが、生憎今日のわれわれはそれほど無上の接吻を経験しえない
だけのことである。どつちが不感症の時代であらうか?

どんな女にも、苦悩に対する共感の趣味があるものだが、それは苦悩といふものが
本来男性的な能力だからである。

秘密は人を多忙にする。怠け者は秘密を持つこともできず、秘密と附合ふこともできない。

秘密を手なづける方法は一つしかない。すなはち膝の上で眠らせてしまふ方法である。
三島由紀夫「純白の夜」より

515 :
感情には、だまかしうる傾斜の限度がある。その限度の中では、人はなほ平衡の幻影に身を委す。
といふよりは、傾斜してみえる森や家並の外界に非を鳴らして、自分自身が傾きつつあることに
気がつかない。

粗暴な快楽が純粋でないのは、その快楽が「必要とされてゐる」からであり、別の微妙な快楽は、
不必要なだけに純粋なのだ。

貞淑といふものは、頑癬(たむし)のやうな安心感だ。彼女は手紙といいあひびきといい、
あれほどにも惑乱を露はにした一連の行動を、あとで顧みて、何一つ疾(や)ましいところはないのだと
是認するのであつた。
三島由紀夫「純白の夜」より

516 :
不安はむしろ勝利者の所有(もの)だ。連戦連勝の拳闘選手の頭からは、敗北といふ一個の
新鮮な観念が片時も離れない。彼は敗北を生活してゐるのである。羅馬(ローマ)の格闘士は、
こんな風にして、死を生活したことであらう。

恋愛とは、勿論、仏蘭西(フランス)の詩人が言つたやうに一つの拷問である。どちらが
より多く相手を苦しめることができるか試してみませう、とメリメエがその女友達へ
出した手紙のなかで書いてゐる。
三島由紀夫「純白の夜」より

517 :
ああ、誰のあとをついて行つても、愛のために命を賭けたり、死の危険を冒したりすることは
ないんだわ。男の人たちは二言目には時代がわるいの社会がわるいのとこぼしてゐるけれど、
自分の目のなかに情熱をもたないことが、いちばん悪いことだとは気づいてゐない。

退屈する人は、どこか退屈に己惚れてゐるやうなところがあるわ。

夫婦と同様に、清浄な恋人同志にも、倦怠期といふものはあるものだつた。

狩人は義士ぢやございません。狩人のねらふのは獣であつて、仇ではございません。
獲物であつて、相手の悪意ではございません。熊に悪意を想像したら、私共は容易に
射てなくなります。ただの獣だと思へばこそ、追ひもし、射てもするのです。昆虫採集家は
害虫だからといふ理由で昆虫を、つかまへはいたしますまい。
三島由紀夫「夏子の冒険」より

518 :
青年の苦悩は、隠されるときもつとも美しい。

精神的な崇高と、蛮勇を含んだ壮烈さといふこの二種のものの結合は、前者に傾けば
若々しさを失ひ、後者に傾けば気品を失ふむつかしい画材であり、現実の青年は、
目にもとまらぬ一瞬の行動のうちに、その理想的な結合を成就することがある。
三島由紀夫「青年像」より

519 :
絶望を語ることはたやすい。しかし希望を語ることは危険である。わけてもその希望が
一つ一つ裏切られてゆくやうな状況裡に、たえず希望を語ることは、後世に対して、
自尊心と羞恥心を賭けることだと云つてもよい。

決して後悔しないといふことは、何はともあれ、男性に通有の論理的特質に照らして、
男性的な美徳である。
三島由紀夫「『道義的革命』の論理――磯部一等主計の遺稿について」より

520 :
事実(ファクト)が一歩一歩われらを死へ追ひつめるとき、人間の弱さと強さの弁別は混乱する。
弱さとはそのファクトから目をそむけ、ファクトを認めまいとすることなのか? 
もしさうだとすれば、強さとはファクトを容認した諦念に他ならぬことになり、単なる
ファクトを宿命にまで持ち上げてしまふことになる。私には、事態が最悪の状況に
立ち至つたとき、人間に残されたものは想像力による抵抗だけであり、それこそは
「最後の楽天主義」の英雄的根拠だと思はれる。そのとき単なる希望も一つの行為になり、
つひには実在となる。なぜなら、悔恨を勘定に入れる余地のない希望とは、人間精神の
最後の自由の証左だからだ。
三島由紀夫「『道義的革命』の論理――磯部一等主計の遺稿について」より

521 :
常套句を口にする男は馬鹿に見えるだけだが、女の場合、それは年齢よりももつと美を損なふのだ。

われわれ男性は、男のピアニストがどんなに偉くなり、男の政治家がどんなに成功しやうと
放置つておくが、ただ同性だからといふ理由で、女の社会的進出をむやみと擁護したり
尻押ししたりする婦人たちがゐる。フランスの或る女流作家が、現代社会では、男性が、
男及び人間といふ二つの領域に采配をふるつてゐるのに、女性は、女といふ領域だけしか、
自分のものにしてゐないと云つてゐるのは正しい。

惚れない限り女には謎はないので、作為的な謎を使つて惚れさせようといふつもりなら、
原因と結果を取違へたものと言はなくてはならない。

外国にゐて日本人の男女が演ずる熱情には、何か郷愁とはちがつた場ちがひな、
いたましいものがある。
三島由紀夫「不満な女たち」より

522 :
高位の貴婦人であらうと、女である以上、愛されるといふことを抜きにしたいかなる権力も徒である。

女には、世を捨てると云つたところで、自分のもつてゐるものを捨てることなど出来はしない。
男だけが、自分の現にもつてゐるものを捨てることができるのである。
三島由紀夫「志賀寺上人の恋」より

健康で油ぎつた皮膚の人間には、みんな蠅のやうなところがある。蠅は腐敗を好むほど健康なのだ。
三島由紀夫「水音」より

523 :
他者との距離、それから彼は遁れえない。距離がまづそこにある。そこから彼は始まるから。
距離とは世にも玄妙なものである。梅の香はあやない闇のなかにひろがる。薫こそは
距離なのである。しづかな昼を熟れてゆく果実は距離である。なぜなら熟れるとは距離だから。
年少であることは何といふ厳しい恩寵であらう。まして熟し得る機能を信ずるくらい、
宇宙的な、生命の苦しみがあらうか。

一つの薔薇が花咲くことは輪廻の大きな慰めである。これのみによつて殺人者は耐へる。
彼は未知へと飛ばぬ。彼の胸のところで、いつも何かが、その跳躍をさまたげる。
その跳躍を支へてゐる。やさしくまた無情に。恰かも花のさかりにも澄み切つた青さを
すてないあの蕚(うてな)のやうに。それは支へてゐる。花々が胡蝶のやうに飛び立たぬために。

三島由紀夫「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃」より

524 :
ものを書くことと農耕とは、いかによく似てゐることであらう。嵐にも霜にも、精神は
一刻の油断もゆるさず、たえず畑を見張り、詩と夢想の果てしない耕作のあげくに、
どんな豊饒がもたらされるか、自ら占ふことができない。書かれた書物は自分の身を離れ、
もはや自分の心の糧となることはなく、未来への鞭にしかならぬ。どれだけ烈しい夜、
どれだけ絶望的な時間がこれらの書物に費やされたか、もしその記憶が累積されてゐたら、
気が狂ふにちがひない。
三島由紀夫「書物の河(三島由紀夫展)」より

525 :
にせものの血が流れる絢爛たる舞台は、もしかすると、人生の経験よりも強い深い経験で、
人々を動かし富ますかもしれない。音楽や建築に似た戯曲といふものの抽象的論理的構造の
美しさは、やはり私の心の奥底にある「芸術の理想」の雛型であることをやめないのだ。
三島由紀夫「舞台の河(三島由紀夫展)」より

私の肉体はいはば私のマイ・カーだつた。この河は、マイ・カーのドライヴへ私を誘ひ、
今まで見なかつた景色が私の体験を富ませた。しかし肉体には、機械と同じやうに、
衰亡といふ宿命がある。私はこの宿命を容認しない。
三島由紀夫「肉体の河(三島由紀夫展)」より

526 :
いくら「文武両道」などと云つてみても、本当の文武両道が成立つのは、死の瞬間にしか
ないだらう。しかし、この行動の河には、書物の河の知らぬ涙があり血があり汗がある。
言葉を介しない魂の触れ合ひがある。それだけにもつとも危険な河はこの河であり、
人々が寄つて来ないのも尤もだ。
三島由紀夫「行動の河(三島由紀夫展)」より

527 :
固さは脆さであります。

思想は多少に不拘(かかはらず)、暴力的性質を帯びるものである。

腕力こそは最初の思想である。もし腕力が最初に卵の殻を割らなかつたら、誰が卵を
食用に供しうるといふ思想を発明しえたでありませう。
三島由紀夫「卵」より

528 :
人間が或る限度以上に物事を究めようとするときに、つひにはその人間と対象とのあひだに
一種の相互転換が起り、人間は異形に化するのかもしれない。

人間の醜い慾の争ひをこえてまで顕現する美は、あるひは勝利者の側にはあらはれず、
敗北者や滅びゆく者の側にだけこつそりと姿を現はすのかもしれない。

誰の身の上にも、その人間にふさはしい事件しか起らない。
三島由紀夫「三熊野詣」より

529 :
世間といふものは、女と似てゐて案外母性的なところを持つてゐるのである。それは
自分にむけられる外々(よそよそ)しい謙遜よりも、自分を傷つけない程度に中和された
無邪気な腕白のはうを好むものである。

強欲な人間は、よくこんな愛くるしい笑ひ方をするものである。強欲といふものは
童心の一種だからであらうか。

よく眠る人間には不眠をこぼす人間はいつでも多少芝居がかつた滑稽なものに映る。
三島由紀夫「訃音」より

530 :
一部の大人が考へてゐるやうに、戦後の青年が一人残らず十代で童貞を失つてゐるなどといふ
莫迦げた憶測は、事実から遠いものだ。どんな時代だつて、青春の生きにくさは、
外部よりも内部にあるのだ。今日のやうに、青春を妨げる外部の障害の多い時代には、
内部の障害を気にしないでゐられるので、童貞を失はないまじめな青年の数は却つて
多いといふ逆の理窟だつて成立つ筈だ。

大体甘い物語には甘い考へがつきものなのは已むをえない。狂気といふものがもしこんなに
甘い物語を生むものなら、正気の僕たちは、正気では考へられない甘い空想を、それに
はなむけすべきではなからうか? それとも君は、僕の話が嘘つぱちだと云ふのぢやあるまいね。
三島由紀夫「雛の宿」より

531 :
男の天才、女の美貌、これこそは神様のさづかりもので、あだやおろそかにはできんのだよ。
天才といふやつは、自分で自分が思ふやうにならず、この世の通常ののぞみは全部
捨てなければならん宿命に生まれついてゐる。美人も同様に不自由な存在なのさ。
自分で自分の美に一生奉仕しなければならんのだ。

美に対する女性の感受性は、凡庸でなければならなかつた。機関車を美しいと思ふやうでは
女もおしまひである。女にはまた、一定数の怖ろしいものがなければならず、蛇とか毛虫とか
船酔とか怪談とか、さういふものは心底から怖がらなければならぬ。夕日とか菫の花とか
風鈴とか美しい小鳥とか、さういふ凡庸な美に対する飽くことのない傾倒が、女性を真に
魅力あるものにするのである。
三島由紀夫「女神」より

532 :
個性美は飽きの来るものである。もつとも大切なのは優雅だ。女の個性が優雅をはみ出すと
大てい化物になつてしまふ。一芸に秀でることはもつとも禁物だつた。美といふものは本来
微妙な均衡の上にしか成立たないものだから。

女をわれわれが美しいと思ふのは、欲望があるからですよ。ほんたうに欲望を去つて、
なほかつ女が美しく見えるかどうか、僕には、はなはだ疑問なんです。自然とか静物なら
美しさがよくわかるし、その美しさは多分贋物ぢやないでせう。しかし女はね。

僕はいはゆる美人を見ると、美しいなんて思つたことはありません。ただ欲望を感じるだけです。
不美人のはうが美といふ観念からすれば、純粋に美しいのかもしれません。何故つて、
醜い女なら、欲望なしに見ることができますからね。
三島由紀夫「女神」より

533 :
美といふものは第三者から見て快いのみならず、美しい者のお互にとつても快いのである。
お互が自分の美しさを知つてゐても、鏡によらずしてはそれを見ることができないといふのは
宿命的なことだ。自分が美しいといふ認識は、たえず自分から逃げてゆくあいまいな
不透明な認識であつた。結局この世では他人の美がすべてなのだ。

女の人には、自分で直感的に見た鏡が、いちばん気に入る肖像画なんです。それ以上の
ものはありませんよ。
火に対抗するのには氷といふのはまちがひですよ。火には火、もつと強い、もつと猛烈な
火になることです。相手の火を滅ぼしてしまふくらいな猛火になることですよ。
さうしなければ、あなたの方が滅びます。

一つの悪い評判といふものは、十の悪い評判とつながつてゐるものなんです。
三島由紀夫「女神」より

534 :
たとへ単なる私慾も、程度が強まり輪郭がひろがれば、人間のふしぎな本能から、
無私の要素を含まずにはいられない。同時に無私の情熱も、
ちよつと弛んだ刹那には私慾に似るのだ。

集中といふことは、夢中になるといふことぢやない。問題は持続だ……

祖父は目的を弁(わきま)へなかつたが、自分の効用はいつも自覚してゐた。箒が、
「自分は物を掃くためにある」と確信してゐるあひだは、どんなことをしたつて箒は
孤独にならない。

まだ持たないものを思ひ描くことは人を酔はせるが、現に持つてゐるものはわれわれを
酔はせない。もし酔ふとしても、それは人工的な酔ひである。

そもそも性慾とは、人間を愛することであらうか?
三島由紀夫「沈める滝」より

535 :
負と負を掛けて正になる数式のやうに、退屈した人間とのお喋りだけが、退屈した人間を、
正にその退屈から救ふのかもしれない。

誰をも愛することのできない二人がかうして会つたのだから、嘘からまことを、虚妄から
真実を作り出し、愛を合成することができるのではないか。負と負を掛け合はせて
正を生む数式のやうに。

遊び飽いた人間といふものには、一種独特の匂ひがある。遊び人同士はお互ひの嗅覚で
すぐそれを嗅ぎあてる。

信じるなら、仕方ないから、丸ごと信じなくちや。なるほど、女の真実を信じることと、
女の嘘を信じることは、まるきり同じことなんだ。

われわれを動かすのは概してありきたりな、しかし虚飾のない手紙である。

三島由紀夫「沈める滝」より

536 :
技術がもし完全に機械化される時代が来れば、人間の情熱は根絶やしにされ、精力は
無用のものになるだらうから、科学技術の進歩にそそがれる情熱や精力は、かかる
自己否定的な側面をも持つてゐる。しかし幸ひにして、事態はまだそこまでは来てゐない。
ダム建設はこのやうな意味で、一種の象徴的な事業だと思はれた。われわれが山や川の、
自然のなほ未開拓な効用をうけとる。今日では幸ひに、われわれ自身の人間的能力である
情熱や精力の発揮の代償としてうけとるのだ。そして自然の効用が発掘しつくされ、
地球が滓まで利用されて荒廃の極に達するまでは、人間の情熱や精力は根絶やしには
されまいといふ確信が昇にはあつた。
三島由紀夫「沈める滝」より

537 :
ダム建設の技術は、自然と人間との戦ひであると共に対話でもあり、自然の未知の効用を
掘り出すためにおのれの未知の人間的能力を自覚する一種の自己発見でなければならなかつた。
あの幸福な予定調和を失ひ、人間主義の下における使命感と分業の意識を失つた技術は、
孤独になりながらも、今日ではエヴェレスト征服にも似たかうした人間的な意味を
もつやうになつた。

盲目になれる才能、……内に発見するためには盲目にならなければならない。

どんな種類の愛情でも必ずエゴイズムの形をとる。

悲劇を演じるやうな見かけを持つて生れなかつた男が、悲劇を演じなければならないとは、
本当の悲劇である。

素朴な感情には本来素朴な表現形式がそなはつてゐるものである。
三島由紀夫「沈める滝」より

538 :
にせものの夜の中から、本当の夜がはじまる。電燈のあかりは、煌めきを増し、暖かみを
帯びる。時折あけられる石炭の投入口から、のぞかれるストーヴの焔は、新鮮な懐かしい
火の色をしてゐる。

公衆を前にして自分の役を演ずることは容易ではないが、却つて孤独のはうがわれわれを、
われとわが役の意識せざる俳優にしてしまふのに力がある。

女たちの纏ふものは、みんな、藻だの、鱗だの、海に似たものを思ひ出させると昇は思つた。
しかし漂つてゐるのは磯の香ではない。ものうげな、濃密な、甘くて暗い匂ひである。
夜の匂ひといふよりは、女たちの時刻、午後の匂ひである。

あなたはダムでした。感情の水を堰(せ)き、氾濫させてしまふのです。
三島由紀夫「沈める滝」より

539 :
どんな分野にも、陰惨なほど真摯な権威者といふものが居り、金魚のことなら世界的権威で
あつたり、楔形(せつけい)文字についてはその人にきかなければならないと云ふやうな
人がゐる。普遍的であるべき科学的技術の世界にもさういふ人がゐて、神秘な力で、
ほかの人たちの上に、卓越してゐるのを見るのはふしぎなことである。
こんな種類の人間を押し進めてゆく情熱には、何か最初に、最低の線でしか社会と
つながるまいとする決意があつて、結果的には心ならずも、最高の線で社会とつながつて
しまふやうになるものだ。

時として精神の解放には、巨人的なもの、威圧的なもの、精神をほとんど押しつぶすやうな
ものが必要である。
三島由紀夫「沈める滝」より

540 :
われらは最後の神風たらんと望んだ。神風とは誰が名付けたのか。それは人の世の仕組が
破局にをはり、望みはことごとく絶え、滅亡の兆はすでに軒の燕のやうに、わがもの顔に
人々のあひだをすりぬけて飛び交はし、頭上には、ただこの近づく滅尽争を見守るための
精麗な青空の目がひろがつてゐるとき、……突然、さうだ、考へられるかぎり非合理に、
人間の思考や精神、それら人間的なもの一切をさはやかに侮蔑して、吹き起つてくる
救済の風なのだ。わかるか。それこそは神風なのだ。

陛下がただ人間(ひと)と仰せ出されしとき
神のために死したる霊は名を剥脱せられ
祭らるべき社(やしろ)もなく
今もなほうつろなる胸より血潮を流し
神界にありながら安らひはあらず。
三島由紀夫「英霊の声」より

541 :
日本の敗れたるはよし
農地の改革せられたるはよし
社会主義的改革も行はるるがよし
わが祖国は敗れたれば
敗れたる負目を悉く肩に荷ふはよし
わが国民はよく負荷に耐へ
試練をくぐりてなほ力あり。
屈辱を嘗めしはよし、
抗すべからざる要求を潔く受け容れしはよし、
されど、ただ一つ、ただ一つ、
いかなる強制、いかなる弾圧、
いかなる死の脅迫ありとても、
陛下は人間(ひと)なりと仰せらるべからざりし。
世のそしり、人の侮りを受けつつ、
ただ陛下御一人(ごいちにん)、神として御身を保たせ玉ひ、
そを架空、そをいつはりとはゆめ宣はず、
(たとひみ心の裡深く、さなりと思すとも)
祭服に玉体を包み、夜昼おぼろげに
宮中賢所のなほ奥深く
皇祖皇宗のおんみたまの前にぬかづき、
神のおんために死したる者らの霊を祭りて
ただ斎き、ただ祈りてましまさば、
何ほどか尊かりしならん。
などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。
 などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。
  などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。
三島由紀夫「英霊の声」より

542 :
中世欧羅巴(ヨーロッパ)の騎士たちは戦争のみならず日常生活の随所に織り込まれる
決闘によつてたえず生命の危険にさらされてゐた。それは古今東西変はらない女たるものの
天賦の危険、即ち貞操の危険と相頡頏するものであつた。つまり男女の危険率が平等であつたのだ。
さういふ時、女は自分の貞操を、男が自分の生命を考へるやうに考へただらうと思はれる。
貞操は自分の意志では守りがたいもので、運命の力に委ねられてゐると感じたに相違ない。
また貞操は貞操なるが故に守らるべきものではなく、それ以上の目的の為には喜んで
投げ出されるべきであつた。と同時に、男がつまらない意地や賭事に生命を弄ぶことが
あるやうに、女もそれ以外に賭ける財産がないではないのに、一番見栄えのする貞操を、
軽い手慰みに賭けて悔いないこともあつたにちがひない。その勇敢、その勇気が、かくして
時には異様に荘厳な光輝を放つたことがあつたかもしれない。……

余裕は反省を絞め殺してしまふものだ。
三島由紀夫「夜の仕度」より

543 :
往時より、月を見て暮らした人、透視術に淫した人は、疲労困憊して狂気か死への途を
辿るといはれる。さやうな疲れは人間の能力を超えたものへの懲罰であり、同時に
深く人性の底に根ざした疲れである。

死すべき時は選びえずともどうして死所を選びえぬことがあらう。
三島由紀夫「中世」より

女を知らない体がどうして不幸なものですか。わたしの体を知つた男はみんな不幸になる
ばかりだわ。わたしお兄様をお可哀想になんて言へないことよ。
三島由紀夫「家族合せ」より

544 :
想像力といふものは、多くは不満から生まれるものである。あるひは、退屈から
生まれるものである。われわれが危急に際して行動に熱中し、生きることにすべての力を
注いでゐるときには、想像力の余地をほとんど持つことがない。もし、想像力がノイローゼの
原因になるとすれば、空襲にさらされた戦争中の日本は、最もノイローゼの出にくい
状況であつた。

人生といふものは、死に身をすり寄せないと、そのほんたうの力も人間の生の粘り強さも、
示すことができないといふ仕組になつてゐる。ちやうど、ダイヤモンドのかたさをためすには、
合成された硬いルビーかサファイアとすり合さなければ、ダイヤモンドであることが
証明されないやうに、生のかたさをためすには、死のかたさにぶつからなければ証明されないのかもしれない。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より

545 :
泰平無事が続くと、われわれはすぐ戦乱の思ひ出を忘れてしまひ、非常の事態のときに
男がどうあるべきかといふことを忘れてしまふ。金嬉老事件は小さな地方的な事件であるが、
日本もいつかあのやうな事件の非常に拡大された形で、われわれ全部が金嬉老の人質と
同じ身の上になるかもしれないのである。

危機を考へたくないといふことは、非常に女性的な思考である。なぜならば、女は愛し、
結婚し、子供を生み、子供を育てるために平和な巣が必要だからである。平和でありたい
といふ願いは、女の中では生活の必要なのであつて、その生活の必要のためには、何ものも
犠牲にされてよいのだ。
しかし、それは男の思考ではない。危機に備へるのが男であつて、女の平和を脅かす危機が
来るときに必要なのは男の力である。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より

546 :
約束や信儀は、実は快楽主義のためにさへ守らなければならないのである。なぜなら快楽は
鳥の影のやうなもので、一度われわれがそれをつかみそこねたら永遠に飛びさつてしまふ
からである。

私は昔から約束を守らない女性は、どんな美人であつても嫌ひである。なぜなら私の考へでは、
どんな快楽も信儀の上に成り立つといふ考へだからである。

伝統は守らなければ自然に破壊され、そして二度とまた戻つてはこない。

外国人の目には、すべて民族的な服装は美しい。しかし美しいのと、便利とは別である。

日本人は、わりに便利といふことに弱い国民である。

服装は強ひられるところに喜びがあるのである。強制されるところに美があるのである。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より

547 :
人間は、場合によつては、楽をすることのはうが苦しい場合がある。貧乏性に生まれた人間は、
一たび努力の義務をはづされると、とたんにキツネがおちたキツネつきのやうに、身の扱ひに
困つてしまふ。

人間の能力の百パーセントを出してゐるときに、むしろ、人間はいきいきとしてゐるといふ、
不思議な性格を持つてゐる。

社会全体のテンポが、早く走れる人間におそく走ることを要求し、おそく走る人間に早く
走ることを要求してゐるのである。
これが現代日本の社会のひづみの、おそらく根本原因である。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より

548 :
この世界には不可能といふ巨きな封印が貼られてゐる。

本当の危険とは、生きてゐるといふそのことの他にはありやしない。生きてゐるといふことは
存在の単なる混乱なんだけど、存在を一瞬毎にもともとの無秩序にまで解体し、その不安を
餌にして、一瞬毎に存在を造り変へようといふ本当にイカれた仕事なんだからな。こんな
危険な仕事はどこにもないよ。存在自体の不安といふものはないのに、生きることが
それを作り出すんだ。

男は大義へ赴き、女はあとに残される。

大義とは? それはただ、熱帯の太陽の別名だつたかもしれないのだ。
三島由紀夫「午後の曳航」より

549 :
ところでこの塚崎竜二といふ男は、僕たちみんなにとつては大した存在ぢやなかつたが、
三号にとつては、一かどの存在だつた。少くとも彼は三号の目に、僕がつねづね言ふ世界の
内的関聯の光輝ある証拠を見せた、といふ功績がある。だけど、そのあとで彼は三号を
手ひどく裏切つた。地上で一番わるいもの、つまり父親になつた。これはいけない。
はじめから何の役にも立たなかつたのよりもずつと悪い。
いつも言ふやうに、世界は単純な記号と決定で出来上つてゐる。竜二は自分では知らなかつた
かもしれないが、その記号の一つだつた。少くとも、三号の証言によれば、その記号の
一つだつたらしいのだ。
僕たちの義務はわかつてゐるね。ころがり落ちた歯車は、又もとのところへ、無理矢理
はめ込まなくちやいけない。さうしなくちや世界の秩序が保てない。僕たちは世界が
空つぽだといふことを知つてるんだから、大切なのは、その空つぽの秩序を何とか保つて
行くことにしかない。僕たちはそのための見張り人だし、そのための執行人なんだからね。
三島由紀夫「午後の曳航」より

550 :
血が必要なんだ! 人間の血が! さうしなくちや、この空つぽの世界は蒼ざめて枯れ果てて
しまふんだ。僕たちはあの男の生きのいい血を絞り取つて、死にかけてゐる宇宙、
死にかけてゐる空、死にかけてゐる森、死にかけてゐる大地に輸血してやらなくちやいけないんだ。

彼はもう危険な死からさへ拒まれてゐる。栄光はむろんのこと、感情の悪酔。身をつらぬく
やうな悲哀。晴れやかな別離。南の太陽の別名である大義の叫び声。女たちのけなげな涙。
いつも胸をさいなむ暗い憧れ。自分を男らしさの極致へ追ひつめてきたあの重い甘美な力。
……さういふものはすべて終つたのだ。

誰も知るやうに、栄光の味は苦い。
三島由紀夫「午後の曳航」より

551 :
世界が意味があるものに変れば、死んでも悔いないといふ気持と、世界が無意味だから、
死んでもかまはないといふ気持とは、どこで折れ合ふのだらうか。

人生も政治も案外単純浅薄なものですよ。もつとも、いつでもRる気でなくては、
さういふ心境にはなれませんがね。生きたいといふ欲が、すべて物事を複雑怪奇に見せて
しまふんです。

自殺だけは、どう考へても億劫な気がした。折角自堕落かいい気持になつてゐるときに、
つい目と鼻の先にあるタバコをとりに立つ気がどうしてもしない。十分タバコを喫みたい気は
あるのだが、ここから手をのばしても届かないことのわかつてゐるタバコをとりに立つことが、
何だか故障した自動車の後押しをたのまれるほど、しんどい仕事に思はれる。それがつまり
自殺なのだ。

人生が無意味だ、といふのはたやすいが、無意味を生きるにはずいぶん強力なエネルギーが
要るものだ。
三島由紀夫「命売ります」より

552 :
孤独な人間はお互ひの孤独を、犬のやうにすぐ嗅ぎわけるのだ。
…さういふ人間に限つて、自分の巣をきらびやかに飾る習性があるのはふしぎなことだ。

羽仁男の考へは、すべてを無意味からはじめて、その上で、意味づけの自由に生きるといふ
考へだつた。そのためには、決して決して、意味ある行動からはじめてはならなかつた。
まづ意味ある行動からはじめて、挫折したり、絶望したりして、無意味に直面するといふ人間は、
ただのセンチメンタリストだつた。命の惜しい奴らだつた。
戸棚をあければ、そこにすでに、堆い汚れ物と一緒に、無意味が鎮座してゐることが
明らかなとき、人はどうして、無意味を探究したり、無意味を生活したりする必要があるだらう。
三島由紀夫「命売ります」より

553 :
何の組織にも属さないで、しかも命を惜しまない男もゐるといふことを知らなくちやいかん。
それはごく少数だらう。少数でも必ずゐるんだ。

命を売るのは君の勝手だよ。別に刑法で禁じてはゐないからね。犯人になるのは、
命を買つて悪用しようとした人間のはうだ。命を売る奴は、犯人ぢやない。ただの人間の屑だ。
それだけだよ。
三島由紀夫「命売ります」より

554 :
経済学の学説なんぞといふものは、どつちみち如意棒のやうなもので、エイッと声をかけて、
耳へ入るだけの小ささに変へてしまへばやすやすと握りつぶせるのである。そもそも唯物論は、
『金で買へないものは何もない、どんな形の幸福も金で買へる』といふ資本主義的偏見の
私生児なのである。

感動すまいとする分析家は、感動以上の誤りを犯す場合がままある。
三島由紀夫「青の時代」より

555 :
人間的な遣り方といふものは、人に馬鹿にされまいといふ馬鹿げた用心から、完全に
免かれた一部分を生活のなかにもつことだ。

しばしば人を愛してゐることに気がつくのが遅れるやうに、われわれは憎悪の確認についても、
ともするとなほざりな態度をとる。さういふときわれわれは自分の感情の怠惰を憎らしく
思ふのである。
三島由紀夫「青の時代」より

556 :
報ひとは何だらう。そんなものがあつてよいだらうか。報ひといふ考へ方は、いま悪果を
うけてゐる者が、むかしの悪因の花々しさに思ひを通はす、殊勝らしい身振にすぎぬではないか。

値踏みといへば、五千円といふまちがへやうもない名前をつけてやる行為です。世間一般でよぶ
鷲の剥製といふ名の代りに、値踏みをする人は五千円といふ特別誂への名でよびかけます。
すると鷲の剥製は、魔法の名で呼ばれたつかはしめの鳥のやうに歩き出して彼に近づいて
くるのです。
…人形に魂を吹き入れて『立て!』といふとき、魔女たちはこれに似た感情を味はひは
しないでせうか。人は値踏みによつてのみ対象に生命を賦与(あた)へることができるのです。
これ以上打算のない行為があるでせうか。
三島由紀夫「宝石売買」より

557 :
われわれの祖先は、大らかな、怪奇そのものすらも晴れやかな、ちつともコセコセしない、
このやうな光彩陸離たる芸術を持ち、それをわが宮廷が伝へて来たといふことは、
日本の誇るべき特色である。だんだん矮小化されてきた日本文化の数百年のあひだに、
それと全くちがつた、のびやかな視点を、日本の宮廷は保つてきたのである。
三島由紀夫「舞楽礼讃」より

日本人の美のかたちは、微妙をきはめ洗煉を尽した果てに、いたづらな奇工におちいらず、
強い単純性に還元されるところに特色があるのは、いふまでもない。永遠とは、
くりかへされる夢が、そのときどきの稔りをもたらしながら、又自然へ還つてゆくことだ。
生命の短かさはかなさに抗して、けばけばしい記念碑を建設することではなく、自然の
生命、たとへば秋の虫のすだきをも、一体の壷、一個の棗(なつめ)のうちにこめることだ。
ギリシャ人は巨大をのぞまぬ民族で、その求める美にはいつも節度があつたが、日本人も
この点では同じである。
三島由紀夫「『人間国宝新作展』推薦文」より

558 :
「お腹を切ると痛い」
三島由紀夫

559 :
別離だから悲しからう、悲しければもたもたするだらう、といふのが浅薄な心理主義と
私の呼ぶところのものである。別離は、劇に於ける超人間的なモメントだといふことが、
そこでは完全に忘れ去られてゐる。それは別離を人間の常態だと説いた哲学からの、
なまぬるい離反なのであつた。

舞台の上では、裸体ほど抽象的で観念的なものはなく、セリフほど具体的なものはない。

芸術家の値打の分れ目は、死んだあとに書かれる追悼文の面白さで決ると言つてよい。

「トスカ」で、私が主要な俳優たちにしばしば忠告したのは、この種の芝居における
登場と退場の大切さであつた。
役の人物があらはれる一瞬前に、役者が登場しなければならぬ。役の人物が退場した一瞬あとに、
役者が退場しなければならぬ。

能以外の劇は、すべて、運動会のピストルみたいな幼稚な効果にたよつてゐる点で、
大きな顔はできない。
三島由紀夫「芸術断想」より

560 :
遠い花火があのやうに美しいのは、遅く来る音の前に、あざやかに無言の光りの幻が
空中に花咲き、音の来るときはもう終つてゐるからではないだらうか。光りは言葉であり、
音は音楽である。光りを花火と見るときに、音は不要なのだが、あとからゆるゆると来る音は、
もはや花火ではない、花火の追憶といふ別の現実性のイメーヂをわれわれの心に定着しつつ、
別の独立な使命を帯びて、われわれの耳に届くのである。

『真相』なんて、大ていまやかしものに決まつてゐる。いつでもすばらしいのは事件そのもので、
それだけなのだ。

「希望は過去にしかない」といふ悲観哲学は、伝統芸能の場合、一種特別な意味合ひを帯び、
「昔はよかつた」といふ言葉にたえず刺戟されないかぎり、芸術的完成はありえないことを、
特に若い歌舞伎俳優に銘記してもらいたい。
三島由紀夫「芸術断想」より

561 :
小説の文体その他形式上の模倣は、小説における形式が非本質的かつ知的なものであるから、
その模倣も、多少とも知的なものと考へられて恕される。

ワグナーとは、あらゆる純粋性に対する反措定なのだ。その点では、ワグナーは、
象徴主義にとつてさへ敵である。

「トリスタン」は、ただ単に官能的だから怖ろしいのでもなく、ただ単に形而上学的だから
崇高なのでもない。そこではバスを待つ人の行列のやうにお互ひに無関心に、官能と
形而上学とが一小節づつ平然と隣り合つて並んでゐる。こんなグロテスクな無差別の
最高原理である「綜合」や「全体」が、死神にしか似てゐないのは当然だらう。死神の鎌の
無差別が、人間精神の全体性への嗜慾の象徴になる。それだから「トリスタン」は
怖ろしいのである。
三島由紀夫「芸術断想」より

562 :
芝居とはSHOWであり、見せるもの、示すものである。すべてが観客席へ向つて
集約されてゆく作業である。それだといふのに、舞台から向ふ側に属する人たちのはうが、
観客よりもいつも幸福さうに見えるのは何故だらう。何故観客席のわれわれは、安楽な椅子を
宛はれ、薄闇の中で何もせずに坐つてゐればよく、すべての点で最上の待遇を受けて
ゐるのにもかかはらず、どうしてこのやうに疲れ果て、つねに幾分不幸なのであらう。
私は妙な理論だが、こんなことを考へる。つまり人生においても、劇場においても、
観客席に坐るといふ人間の在り方には、何かパッシヴな、不自然なものがあるのである。
示されるもの、見せられるものを見る、といふ状況には、何か忌まはしいものがある。
われわれの目、われわれの耳は、自己防衛と発見のためについてゐるので、本来、
お膳立てされたものを見且つ聴くやうにはできてゐないかもしれない。
三島由紀夫「芸術断想」より

563 :
芸術の享受者の立場といふものには、何か永遠に屈辱的なものがある。すべての芸術には、
晴朗な悪意、幸福感に充ちた悪意がひそんでをり、屈辱を喜ぶ享受者を相手にすることを
たのしむのである。そのもつとも端的なあらはれが劇場芸術だと言つてよい。

劇場の暗闇へなど入らぬかぎり、われわれはみなそれぞれの社会で固有の役割を果してをり、
決して「観客」などといふ、十把一トからげの、不名誉な呼称で呼ばれないですむのである。
三島由紀夫「芸術断想」より

564 :
ひとたび叛心を抱いた者の胸を吹き抜ける風のものさびしさは、千三百年後の今日の
われわれの胸にも直ちに通ふのだ。この凄涼たる風がひとたび胸中に起つた以上、
人は最終的実行を以てしか、つひにこれを癒やす術を知らぬ。
三島由紀夫「日本文学小史 第四章 懐風藻」より

文学は、どんなに夢にあふれ、又、読む人の心に夢を誘ひ出さうとも、第一歩は、必ず
作者の夢が破れたところに出発してゐる。
三島由紀夫「秋冬随筆」より

人間がこんなに永い間花なしに耐へてゆけるには、その心の中に、よほど巨大な荘厳な
花の幻がなければならない。
三島由紀夫「服部智恵子バレエリサイタルに寄せて」より

565 :
歴史劇などといふのは、本来言葉の矛盾である。芝居に現はれる現象としての事実は、
はじめから入念に選び出されたものであるのに、歴史では玉石混淆だからである。
三島由紀夫「歴史的題材と演劇」より

一つの時代は、時代を代表する俳優を持つべきである。

この世には情熱に似た憂鬱もあり、憂鬱に似た情熱もある。
三島由紀夫「六世中村歌右衛門序説」より

すぐれた俳優は、見事な舟板みたいなもので、自分の演じたいろんな役柄の影響によつて、
たくさんの船虫に蝕まれたあとをもつてゐるが、それがそのまま、世にも面白い舟板塀になつて、
風雅な住ひを飾るのだ。

俳優といふものは、ひまはりの花がいつも太陽のはうへ顔を向けてゐるやうに、
観客席のはうへ顔を向けてゐるものであつて、観客席から見るときに、その一等美しい、
しかも一等真実な姿がつかめるとも云へる。
三島由紀夫「俳優といふ素材」より

566 :
世の中にいつも裸な真実ばかり求めて生きてゐる人間は、概して鈍感な人間である。

親しいからと云つて、言つてはならない言葉といふものがあるものだが、お節介な人間は、
善意の仮面の下に、かういふタブーを平気で犯す。

人をきらふことが多ければ多いだけ、人からもきらはれてゐると考へてよい。
三島由紀夫「私のきらひな人」より

赤ん坊の顔は無個性だけれど、もし赤ん坊の顔のままを大人まで持ちつづけたら、
すばらしい個性になるだらう。しかし誰もそんなことはできず、大人は大人なりに、
又々十把一からげの顔になることかくの如し。
三島由紀夫「赤ちゃん時代――私のアルバム」より

567 :
どんなに平和な装ひをしてゐても「世界政策」といふことばには、ヤクザの隠語のやうな、
独特の血なまぐささがある。概括的な、概念的な世界認識の裏側には必ず水素爆弾が
くすぶつてゐるのである。
三島由紀夫「終末感と文学」より

今日のやうに泰平のつづく世の中では、人間の死の本能の欲求不満はいろいろな形であらはれ、
ある場合には、社会不安のたねにさへなる。こんな問題は、浅薄なヒューマニズムや、
平べつたい人間認識では、とても片付かない。
三島由紀夫「K・A・メニンジャー著 草野栄三良訳『おのれに背くもの』推薦文」より

剣道の、人を斬るといふ仮構は爽快なものだ。今は人殺しの風儀も地に落ちたが、
昔は礼儀正しく人を斬ることができたのだ。人とエヘラエヘラ附合ふことだけに
エチケットがあつて、人を斬ることにエチケットのない現代とは、思へば不安な時代である。
三島由紀夫「ジムから道場へ――ペンは剣に通ず」より

568 :
ブラジルは人種的偏見の少ない国だが、それでも黒人の悲願は白人に生れ変ることであり、
かういふ宿命を抱いた人たちは、当然仮装に熱中する。仮装こそ、「何かになりたい」といふ
念願の仮の実現だからである。
三島由紀夫「『黒いオルフェ』を見て」より

別に酒を飲んだりごちそうをたべたりしなくても、気の合つた人間同士の三十分か
一時間の会話の中には、人生の至福がひそむ。
三島由紀夫「社交について――世界を旅し、日本を顧みる」より

他人に場ちがひの感を起させるほどたのしげな、内輪のたのしみといふのはいいものだ。
たとへば、祭りのミコシをかついだあとで、かついだ連中だけで集まつてのむ酒のやうなものだ。
われわれに本当に興味のある話題といふものは他人にとつてはまるで興味のないことが多い。
他人に通じない話ほど、心をあたたかく、席をなごやかにするものはない。
三島由紀夫「内輪のたのしみ」より

569 :
夫婦の生活程度や教養の程度の近似といふことは、結婚生活のかなり大事な要素である。
性格の相違などといふ文句は、実は、それまでの夫婦各自の生活史のちがひにすぎぬことが多い。
三島由紀夫「見合ひ結婚のすすめ」より

私はあくまで黒い髪の女性を美しいと思ふ。洋服は髪の毛の色によつて制約されるであらうが、
女の黒い髪は最も派手な、はなやかな色であるから、かうして黒い服を着た黒い髪の女は、
世界中で一番派手な美しさと言へるだらう。
三島由紀夫「恋の殺し屋が選んだ服」より

「日本的」といふ言葉のなかには、十分、ツイスト的要素、マッシュド・ポテト的要素、
ロックンロール的要素もあるのです。
三島由紀夫「『日本的な』お正月」より

自分に似合はないものを思ひ切つて着る蛮勇といふものも、作家の持つべき美徳の一つである。
三島由紀夫「発射塔 文壇衣装論」より

570 :
風俗は滑稽に見えたときおしまひであり、美は珍奇からはじまつて滑稽で終る。つまり
新鮮な美学の発展期には、人々はグロテスクな不快な印象を与へられますが、それが次第に
一般化するにしたがつて、平均美の標準と見られ、古くなるにしたがつて古ぼけた
滑稽なものと見られて行きます。

ユーモアと冷静さと、男性的勇気とは、いつも車の両輪のやうに相伴ふもので、ユーモアとは
理知のもつともなごやかな形式なのであります。
三島由紀夫「文章読本」より

571 :
白日夢が現実よりも永く生きのこるとはどういふことなのか。人は、時代を超えるのは
作家の苦悩だけだと思ひ込んでゐはしないだらうか。
三島由紀夫「解説(日本の文学4 尾崎紅葉・泉鏡花)」より

よき私小説はよき客観小説であり、よき戯曲はよき告白なのである。
三島由紀夫「解説(日本の文学52 尾崎一雄・外村繁・上林暁)」より

「浅草花川戸」「鉄仙の蔓花」「連子窓」「花畳紙」「ボンボン」「継羅宇」「銀杏返し」
「絎台」「針坊主」「浜縮緬」などの伝統的な語彙の駆使によつて、われわれは一つの世界へ
引き入れられる。生活の細目のあらゆる事物に日本風の「名」がついてゐたこのやうな時代に
比べると、現代は完全に文化を失つた。文化とは、雑多な諸現象に統一的な美意識に
基づく「名」を与へることなのだ。
三島由紀夫「解説(現代の文学20 円地文子集)」より

572 :
右翼とは、思想ではなくて、純粋に心情の問題である。

共産主義と攘夷論とは、あたかも両極端である。しかし見かけがちがふほど本質は
ちがはないといふ仮定が、あらゆる思想に対してゆるされるときに、もはや人は思想の
相対性の世界に住んでゐるのである。そのとき林氏には、さらに辛辣なイロニイが
ゆるされる。すなはち、氏のかつてのマルクス主義への熱情、その志、その「大義」への
挺身こそ、もともと、「青年」のなかの攘夷論と同じ、もつとも古くもつとも暗く、かつ
無意識的に革新的であるところの、本質的原初的な「日本人のこころ」であつたといふ
イロニイが。

日本の作家は、生れてから死ぬまで、何千回日本へ帰つたらよいのであらうか。日本列島は
弓のやうに日本人たちをたえずはじき飛ばし、鳥もちのやうにたえず引きつける。
三島由紀夫「林房雄論」より

573 :
もし天才といふ言葉を、芸術的完成のみを基準にして定義するなら、「決して自己の資質を
見誤らず、それを信じつづけることのできる人」と定義できるであらうが、実は、この定義には
循環論法が含まれてゐる。といふのはそれは、「天才とは自ら天才なりと信じ得る人である」
といふのと同じことになつてしまふからである。コクトオが面白いことを言つてゐる。
「ヴィクトル・ユーゴオは、自分をヴィクトル・ユーゴオと信じた狂人だつた。
三島由紀夫「谷崎潤一郎について」より

天才の奇蹟は、失敗作にもまぎれもない天才の刻印が押され、むしろそのはうに作家の
諸特質や、その後発展させられずに終つた重要な主題が発見されることが多いのである。
三島由紀夫「解説(新潮日本文学6 谷崎潤一郎集)」より

574 :
「まづ身を起こせ」といふのが、生来オッチョコチョイの私の主義であつて、
「核兵器よりもまづ駆け足」といふことを、隊付をして学びえたと思つてゐる。人間の脚は、
特に国土戦において、バカにならぬ戦場機動速度を持つのである。
三島由紀夫「自衛隊と私」より

空手は武器を禁じられた沖縄島民の民族の悲願が凝つて成つた武道ときいてゐる。
日本の戦後も占領軍による武装解除がそのまま平和憲法に受けつがれ、徒手空拳で戦ひ、
徒手空拳で身を守るほかに、民族の志を維持する道をふさがれてゐる。
空手道が戦後の日本で隆盛になつたのは決して偶然ではない。
三島由紀夫「第十一回空手道大会に寄せる……」より

正しい力は崇高であり、汚れた力は醜悪であることは、あたかも、清い水は生命をよみがへらせ、
汚ない水は人を病気にさせるのに似てゐる。
三島由紀夫「『第十二回全国空手道選手権大会』推薦文」より

575 :
文学には最終的な責任といふものがないから、文学者は自殺の真のモラーリッシュな
契機を見出すことはできない。私はモラーリッシュな自殺しかみとめない。すなはち、
武士の自刃しかみとめない。
三島由紀夫「日沼氏と死」より

コンプレックスとは、作家が首吊りに使ふ踏台なのである。もう首は縄に通してある。
踏台を蹴飛ばせば万事をはりだ。あるひは親切な人がそばにゐて、踏台を引張つてやれば
おしまひだ。……作家が書きつづけるのは、生きつづけるのは、曲りなりにもこの踏台に
足が乗つかつてゐるからである。その点で、踏台が正しく彼を生かしてゐるのだが、
これはもともと自殺用の補助道具であつて、何ら生産的道具ではなく、踏台があるおかげで
彼が生きてゐるといふことは、その用途から言つて、踏台の逆説的使用に他ならない。
踏台が果してゐるのはいかにも矛盾した役割であつて、彼が踏台をまだ蹴飛ばさない
といふことは、半ばは彼の自由意志にかかはることであるが、自殺の目的に照らせば、
明らかに彼の意志に反したことである。
三島由紀夫「武田泰淳氏――僧侶であること」より

576 :
最上の逃避の方法は、相手に出来るだけ近づくことである。

風呂に入るときに腕時計を外して入るやうに、女に向ふときは精神を外してゐないと、
忽ち錆びて使ひものにならなくなりますよ。それをやらなかつたので、私は無数の時計を
失くして、一生、時計の製造に追ひ立てられる始末になつたのです。錆時計が二十個
集まつたので、今度全集といふやつを出しました。

打算は愛によつて償はれると考へるのが青年の確信ですね。計算高い男ほど自分の純粋さに
どこかでよりかかつてゐるものです。

死人の目で見たときに、現世はいかに澄明にその機構を露はすことか! 他人の恋情は
いかにあやまりなく透視できることか! この偏見のない自在の中で、世界はいかに
小さな硝子の機械に変貌することか!

決定的な瞬間といふものは、心の傷に対して医薬のやうに働らく場合がある。
三島由紀夫「禁色」より

577 :
男の目の中に欲望を見出す時ほど、女がおのれの幸福に酔ふ時はない。

ナルシスは、その並々ならぬ誇りのために、却つて不出来な鏡を愛する場合がある。
不出来な鏡は少なくとも嫉妬を免れしめる。
人間をいちばん残酷にするのは、愛されてゐるといふ意識だよ。

現代では、われわれの教養の中から、かつてあれほど精細を極めてゐた悪徳に関する教養が、
根こそぎ葬り去られてしまつた。悪徳の形而上学は死んでしまひ、その滑稽さだけが残つて
笑ひものにされてゐる。(中略)
崇高なものが現代では無力で、滑稽なものにだけ野蛮な力がある。
三島由紀夫「禁色」より

578 :
精妙な悪は、粗雑な善よりも、美しいから道徳的なのです。古代の道徳は単純で力強かつたから、
崇高さはいつも精妙の側にあり、滑稽さはいつも粗雑の側にあつた。ところが現代では、
道徳が美学と離れた。道徳は卑賎な市民的原理によつて、凡庸と最大公約数の味方をします。
美は誇張の様式になり、古めかしくなり、崇高であるか、滑稽であるか、どちらかです。
この二つは、現代では、同じものをしか意味しません。
無道徳な似非近代主義と似非人間主義が、人間的欠陥を崇拝するといふ邪教を流布した。
近代の芸術は、ドン・キホーテ以来、滑稽崇拝のはうへ傾いてゐます。

本当は、人間が人間である以上、世間でふつうさうしてゐるやうに、人間以外のもの、
神だとか、物質だとか、科学的真理だとかを援用したがるはうが、もつとずつと人間的では
ありますまいか。
三島由紀夫「禁色」より

579 :
青春の死の耐へがたさに比べれば、肉体の死が何程のことがあらうか。多くの青春が
さうであるやうに、(何故かといふと青春を生きることはたえざる烈しい死であるから)
かれらの青春もいつも新たな破滅を夢みてゐた。死に臨んで美しい若者は莞爾たる筈であつた。

思想ははじめから、肉体の何らかの誇張の様式なのだ。大きな鼻を持つた男は、大きな鼻
といふ思想の持ち主であり、ぴくぴく動く耳を持つた男は、従つてまた、どう転んでみても、
畢竟するに、ぴくぴく動く耳といふ独創的な思想の持ち主である。
生活を侮蔑することによつて生活を固執すること、この奇妙な信条は、芸術行為を無限に
非実践的なものにしてしまふ。芸術によつて解決可能な事柄は存在しない。
三島由紀夫「禁色」より

580 :
俊輔の孤独は、それがそのまま深い制作の行為になつた。彼は夢想の悠一を築いた。
生に煩はされず、生に蝕まれない鉄壁の青春。あらゆる時の侵蝕に耐へる青春。

青春の一つの滴のしたたり、それがただちに結晶して、不死の水晶にならねばならぬ。

青春が無意識に生きることの莫大な浪費。収穫(とりいれ)を思はぬその一時期。生の破壊力と
生の創造力とが無意識のうちに釣合ふ至上の均衡。かかる均衡は造型されなければならぬ。
三島由紀夫「禁色」より

581 :
ウソの友情より、本当の憎悪のはうが美しい。

女同士の喧嘩の場合は、打たれた女より、打つた女のはうが百倍も可哀想な女なのよ。

日本人のくせに髪を赤毛に染めてゐたりする女を見ると、唾を引つかけてやりたくなる。

当事者といふものは、物事の表面にごく見易くあらはれてゐる異常さに、なかなか
気がつかないものである。

思つてることが、しらない間に独り言になつて出るといふことほど、わびしい老いの兆はないな。

ドライ・マルティニの好きな顔といふのがあるのである。油断ならぬ顔つきの人間にそれが多い。
テキサスあたりの大男で、人のいい顔をした人物が、オールド・ファッションドなんかを
呑むのと対蹠的だ。

緑は顔いろをわるく見せるが、もともとわるい人の顔色はよく見せる。

とても面白いと思つて見た映画は、二度見てはいけないんです。

思ひ出といふのは、もう固まつた美術品みたいなものなんです。もう誰も手を加へることの
できない、完成品の美なんです。
三島由紀夫「複雑な彼」より

582 :
心といふものは地図に似てゐる。
高低がある。山がある。川がある。等高線がある。
山の高みに達すると、のびやかな平野の眺めがひらけ、今までの苦しい登り道を忘れさせる
やうな、愉しい下り坂がはじまる。
そこに又、湖がある。池がある。川がある。あるひは谷間がある。

縁は引力よりも偉大かもしれん。これは、もう決められてゐることで、ほとんど引力を
感じないでも、すこぶる深い縁といふものもあるんだから。

僕はアル中の女とボクシング・ファンの女は、心の底から大きらひだ。どつちも
フラストレーションの固まりの、ひどく下品な女なんだ。

戦つてもゐない女が、生意気に、ひまつぶしにスリルと興奮を求めて、ボクシングが
好きになるといふことはゆるせないんだよ。それは絶対に下品だからな。

私が恋してゐるのは、お父様が決して認めようとなさらないやうな、《複雑な彼》なのです。

いつでも歴史を動かすのは個人なんだよ。それも一人の青年の力なんだよ。『関係ナイ』と
思つてゐるのは、自ら、関係を持たうとしないだけのことで、もし一人の青年が身を挺すれば、
アジアを救ふことができるのだ。
三島由紀夫「複雑な彼」より

583 :
刀が武士の魂といはれ、筆が文士の魂といはれるのは、道具を使つた闘争や芸術表現が、
そのまま精神のあらはれになるためには、その道具と生体の一体化が企てられねばならぬ、
といふ要請から生れた言葉であらう。道具が生体の一部になればなるほど、道具はただの
道具ではなくなり、手段はただの手段ではなくなり、魂といふ幹の一本の枝になつて、
そこにまで魂の樹液が浸透して、魂の動くままに動き、いはば道具は透明になるであらう。
そのとき、手段と目的、肉体と精神、行動と思想の、乖離や二元性は完全に払拭されるであらう。
三島由紀夫「空手の秘義」より

「正義は力」だが「力は正義」ではない。その間の消息をもつともよく示してゐるのが、
空手だと思ふ。空手は正義の表現力であり、黙した力である。口舌の徒はつひに正義さへ
表現しえないのである。
三島由紀夫「『第十三回全国空手道選手権大会』推薦文」より

584 :
現代に政治を語る者は多い。政治的言説によつて世を渡る者の数は多い。厖大なデータを整理し、
情報を蒐集し、これを理論化体系化しようとする人は多い。しかもその悉くが、現実の
上つ面を撫でるだけの、究極的にはニヒリズムに陥るやうな、いはゆる現実主義的情勢論に
墜するのは何故だらうか。このごろ特に私の痛感するところであるが、この複雑多岐な、
矛盾にみちた苦悶の胎動をくりかへして、しかも何ものをも生まぬやうな不毛の現代社会に於て、
真に政治を語りうるものは信仰者だけではないのか? 日本もそこまで来てゐるやうに思はれる。
三島由紀夫「『占領憲法下の日本』に寄せる」より

電子計算機を使ふ人間が、ともすると忘れてゐることは、電子計算機の命令に従つて
動くのはよいが、人間は疲れるのに、電子計算機は決して疲れない、といふことである。
人間にとつて、疲労は又、生命力の逆の証明なのだ。
三島由紀夫「クールな日本人(桜井・ローズ戦観戦記)」より

585 :
真の東洋的なもの、東洋的神秘主義の最後の一線を、近代的立憲国家の形体に於て
留保したものが日本の天皇制である。天皇制は過去の凡ゆる東洋文化の枠であり、
帝王学と人生哲学の最後の結論である。これが失はれるとき東洋文化の現代文化へのかけはし、
その最後の理解の橋も失はれるのである。
三島由紀夫「偶感」より

日本人は何度でも自国の古典に帰り、自分の源泉について知らねばならない。その泉から
何ものかを汲まねばならない。この「源泉の感情」が涸れ果てるときこそ、一国一民族の
文化がつひに死滅するときであらう。
三島由紀夫「文化の危機の時代に時宜を得た全集(『日本古典文学全集』推薦文)」より

586 :
佃煮や煮豆の箱がいつぱい並んでゐる。福神漬のにほひがする。そぼろ、するめ、わかめ、
むかしの日本人は、粗食と倹約の道徳に気がねをして、かういふちつぽけな、あたじけない
享楽的食品を、よくもいろいろと工夫発明したものである。

正義を行へ、弱きを護れ。

自分が若いころ闊歩できなかつた街は、何だか一生よそよそしいものである。

とにかく人生は柔道のやうには行かないものである。人生といふやつは、まるで人絹の
柔道着を着てゐるやうで、ツルツルすべつて、なかなか業(わざ)がきかないのであつた。

人生つて、右か左か二つの道しかないと思ふときには、ほんの二三段石段を上つて、
その上から見渡してみると、思はぬところに、別な道がひらけてるもんなのよ。さうなのよ。

人間には、自由だけですまないものがある。古い在り来りな、束縛を愛したい気持もある。
三島由紀夫「につぽん製」より

589 :
芸術家が自分の美徳に殉ずることは、悪徳に殉ずることと同じくらいに、云ひやすくして
行ひ難いことだ。
三島由紀夫「加藤道夫氏のこと」より

「ぜいたくを言ふもんぢやない」 などと芸術家に向つて言つてはならない。ぜいたくと
無い物ねだりは芸術家の特性であつて、それだけが芸術(革命)を生むと信じられてゐる。
三島由紀夫「不満と自己満足――『もつとよこせ』運動もわが国の繁栄に一役」より

文人の倖は、凡百の批評家の讃辞を浴びることよりも、一人の友情に充ちた伝記作者を
死後に持つことである。しかもその伝記作者が詩人であれば、倖はここに極まる。
三島由紀夫「『蓮田善明とその死』序文」より

593 :
>>592
お前は三島由紀夫の偉大さを知らない
なのになぜ良い言葉に対して反抗する?そんなに荒らして何かタメになるか?

597 :
同じ人物だったりしてorz

598 :
>>596
こっちにも同じコピペ貼ってるよ。
コピペ馬鹿だよ。
三島由紀夫
http://toki.2ch.sc/test/read.cgi/cafe50/1171378957/
三島由紀夫のツイッター
http://toki.2ch.sc/test/read.cgi/cafe30/1269480885/
三島由紀夫VS太宰治
http://toki.2ch.sc/test/read.cgi/cafe30/1174282423/

599 :
いくら乱れた世の中でも、一本筋の通つたまじめな努力家の青年はゐるもんだよ。

よくこんな経験があるものだ。十年も二十年も前に、たとへばピクニックに行つて、
一人だけ群を離れて、小滝や野の花の茂みのある静かな一劃に出てしまふ。そのとき何となく、
意味もなく口をついて出た言葉が、十年後、二十年後になつて、何かの瞬間に、再び
ふつと口をついて出てくるのだ。すると永年小さな謎の蕾として眠つてゐたその言葉が、
今度は急速に花をひらき、意味を帯び、人生のその瞬間を決定する、とりかへしのつかない
重要な言葉になつてしまふのだ。

小心で優柔不断らしい女が、男を不幸にしてゐる。

結婚して一ヶ月もたてば、大した苦労を嘗めなくても、女は十分現実を知つたといふ自信を
持つやうになる。

一等怖ろしいのは人間の言葉の魔力である。証拠らしい証拠がなくても、耳に注がれる
言葉の毒は、たちまち全身に廻つてしまふ。
三島由紀夫「お嬢さん」より

600 :
玉のやうな男の児。「玉のやうな」とは何と巧い形容だらうと一太郎は思つてゐた。
明るい薔薇いろをした堅固な玉。弾む玉。野球のボールのやうに力強く飛びまはる玉。
それは飛び出して、ころころ転がつて、両親や祖父母の膝の上へ跳ね上り、笑ふ玉、
喜ぶ玉、きらきらした国旗の旗竿の玉のやうに青空に浮び上り……、それを見るだけで
みんなに幸福な気持を起させるのだ。

人の心といふものは、一定の分量しか入らない箱のやうなものである。

あなたはお嬢さんだわ。本当に困つたお嬢さん、私の妹だつたら、お尻にお灸をすえてやるわ。
どうしてあなたは叫ばないの? 泣かないの? 吼えないの? 思ひ切つて、景ちやんの顔に
オムレツでもぶつけてやらないの? 花瓶を叩き割らないの? お宅の硝子窓だつて、
ずいぶん割り甲斐があるぢやない? あなたのヤキモチは小細工ばかりで醜いわ。
そんなの、ほんとに女の滓だわ。
三島由紀夫「お嬢さん」より

601 :
娘の父親にとつては、この世に一般論などといふものはあるべきではなかつた。心の奥底で
娘を手離したくないと思つてゐる父親の気持から、オールド・ミスにならぬうちに誰かに
早く呉れてやりたいと思つてゐる父親の気持まで、無数のニュアンスの連鎖があつて、
どこからが一般論で、どこからがさうでないとは云へなかつた。又、見様によつては、
世の父親のすべての心には、右の両極端の二つの気持が、それぞれの程度の差こそあれ、
混在してゐる筈であつた。

怖ろしい巨犬には、正面から向つて行けばいいのである。

あまり完璧に見える幸福に対して、人は恐怖を抱かずにはいられないものなのであらうか?

人間の心といふ奴は、とにかく、善意だけではどうにもならん。善意だけでは、……人生を
煩はしくするばかりだとわかつてゐてもね。
三島由紀夫「夜会服」より

602 :
人間は誰でも、(殊に男は)自然にこれこれの人物になるといふものではない。目標があり、
理想像があればこそ、それに近づかうとするのである。

幸福といふものは、そんなに独創的であつてはいけないものだ。幸福といふ感情はそもそも
排他的ではないのだから、みんなと同じ制服を着ていけないといふ道理はないし、
同じ種類の他人の幸福が、こちらの幸福を映す鏡にもなるのだ。

隔意を抱くといふことは淋しいことである。しかも、愛情のために隔意を抱くといふことは、
まるで愛するために他人行儀になるやうなもので、はじめから矛盾してゐる。

結婚とは、人生の虚偽を教へる学校なのであらうか。

現代では万能の人間なんか、金と余裕の演じるフィクションにすぎないんだ。
三島由紀夫「夜会服」より

603 :
人間つて誰でも、自分の持つてゐるものは大切にしないのぢやないかしら。
…誰でも、手に入れたものは大したものだと思はなくなる傾きがあるのぢやないかしら。

あなたは女がたつた一人でコーヒーを呑む時の味を知つてゐて?
今に知るやうになるわ。お茶でもない、紅茶でもない、イギリス人はあまり呑まないけれど、
やはりそれはコーヒーでなくてはいけないの。それはね、自分を助けてくれる人は
もう誰もゐない、何とか一人で生きて行かなければ、といふ味なのよ。
黒い、甘い、味はひ、何だかムウーッとする、それでゐて香ばしい味、しつこい、
諦めの悪い味。……
三島由紀夫「夜会服」より

604 :
さびしさ、といふのはね、絢子さん、今日急にここへ顔を出すといふものではないのよ。
ずうーつと、前から用意されてゐる、きつと潜伏期の大そう長い、癌みたいな病気なんだわ。
そして一旦それが顔を出したら、もう手術ぐらゐでは片附かないの。
私、何で自分がさびしいのか、その理由を探さなくては気がちがひさうだつた。あなた方の
結婚が、はつきりその理由を与へてくれたやうに思ひ込んでしまつた。でも、私つてバカなのね。
さびしさの本当の深い根は自分の中にしかないことに気がつかなかつたの。
鳥のゐない鳥籠は、さびしいでせう。でも、それを鳥籠のせゐにするのはばかげてゐるわね。
鳥籠をゴミ箱へ捨ててもムダといふものね。鳥がゐないことには変りがないんですから。
三島由紀夫「夜会服」より

605 :
人間とはただ雑多なものが流れて通る暗渠であり、くさぐさの車が轍(わだち)を残して
すぎる四辻の甃(いしだたみ)にすぎないやうに思はれる。暗渠は朽ち、甃はすりへる。
しかし一度はそれも祭の日の四辻であつたのだ。

このごろの若い人のやつてゐることは、衣装がちがふだけで、中味はちつとも昔と
かはつてゐやしませんよ。若い人は自分にとつてはじめての経験を、世間様にもはじめての
経験だととりちがへる。どんな無軌道だつて昔とおなじで、ただ世間のやかましい目が
昔ほどぢやないから、無軌道も大がかりになつて、ますます人目につくことをしなくちや
ならなくなるんです。

今、世に時めいてゐる人たちは、無礼な冗談や狎(な)れすぎた振舞をもむしろ面白がるが、
かつて世に栄えて隠棲してゐる人たちにとつては、同じ冗談も矜りを傷つけられる種子に
なるのだ。そんな老人相手には、ひたすら聴き役にまはるに限る。そして柔らかな会話で
按摩をし、むかしの権力がふたたびその座に花やいでゐるやうな錯覚を起させるのだ。
三島由紀夫「宴のあと」より

606 :
若い男は精神的にも肉体的にもあんまり余分なものを引きずつてゐて、特に年上の女に
対しては己惚れが強くて、どこまでつけ上るかわからない。

「面倒臭い」。それは明らかに、老人の言葉だつた。

死んだやうな生活といきいきした思想とが、どうして同居してゐることができよう。

かづが今やその人たちの一族に連なり、その人たちの菩提所にいづれ葬られ、一つの流れに
融け入つて、もう二度とそこから離れないといふことは、何といふ安心なことだらう。
何といふ純粋な瞞着だらう。かづがそこへ葬られるときこそ、安心が完成され、瞞着が
完成される。それまでは世間はいかにかづが成功し、金持になり、金を撒かうと、本当に
瞞されはしないのだ。瞞着で世間を渡りはじめ、最後に永遠を瞞着する。これがかづの
世間へ投げる薔薇の花束である。……
三島由紀夫「宴のあと」より

607 :
その大仰な秘密くささも情事に似てゐて、政治と情事とは瓜二つだつた。

しかし人間は墓の中に住むことはできない。

かづが打算と考へてゐるものは一種の誠意、とりわけ民衆的な誠意であり、動機が
どうあらうとも、献身と熱中は、民衆に愛される特性だつた。

自然なものしか人の心を搏ちませんよ。

政治家の目からは選挙区の景色はどこも美しく見えなければならず、自然を美しく眺めるには
政治家でなければならない。それは収穫されるべき果物の、みずみずしさと魅惑に
充ちてゐる筈だ。

かうして展望することは政治的な行為であつた筈だ。展望し、概括し、支配するのは
政治の仕事である。

本当の権謀術数は、絹のやうな肌ざわりを持つべきである。

三島由紀夫「宴のあと」より

608 :
空虚に比べたら、充実した悲惨な境涯のはうがいい。真空に比べたら、身を引き裂く
北風のはうがずつといい。

曇り空の一角に白金のやうに輝いてゐる小さい太陽へ、たえずかづの目は惹きつけられる。
不可能といふことがその輝きの素なのである。それは輝いてゐる。美しく天空に懸つてゐる。
何度目を外らしてもその輝きへ目が行くのも、それが不可能だからなのだ。そしてちらと
そこへ目が行つたが最後、他所はすべて闇としか思はれなくなつてしまふ。

理想のちらつかせる奇蹟への期待も、現実主義の惹起する奇蹟への努力も、政治の名に於て
同一なのかもしれない。

男の目が不可能に惹きつけられて光つてゐるときには、それを愛情のしるしと考へてよかつた。

かづは自分の活力の命ずるままに、そこに向つて駈けて行かねばならぬ。何ものも、
かづ自身でさへも、この活力の命令に抗することはできない。しかもさうしてかづの活力は、
あげくの果てに、孤独な傾いた無縁塚へ導いて行くことも確実なのである。
三島由紀夫「宴のあと」より

609 :
どの国も自分の国のことだけで一杯で、日本みたいに好奇心のさかんな国はどこにもない。
…なかんづく好奇心の皆無におどろかされるのはフランスで、あの唯我独尊の文化的優越感は
支那に似てゐる。

「古橋はすばらしいですね、僕たちとても古橋を尊敬しているんです」
私は源氏物語の日本を尊敬してゐるなんぞとどこかの国のインテリに云はれるより、
他ならぬギリシアの子供にかう云はれたことのはうをよほど嬉しく感じた。競技の優勝者を
尊敬した古代ギリシアの風習が、子供たちの心に残つてをり、しかもわが日本が、
(古代ギリシアには、水泳競技はなかつたと思はれるが)、古代ギリシアの競技会に
参加して、優勝者を出したやうな気がしたのである。かういふ端的なスポーツの勝利が、
いかに世界をおほつて、世界の子供たちの心を動かすかに、私は併せて羨望を禁じえなかつた。
事実、われわれの精神の仕事も、もし人より一センチ高く飛ぶとか、一秒速く走るか
とかいふ問題をバカにすれば、殆んどその存在理由を失ふであらう。
三島由紀夫「日本の株価――通じる日本語」より

610 :
同じアメリカぎらひでも、フランスのそれと日本のそれとの間には、大きな相違がある。
フランスのアメリカぎらひは、自分の下手な似顔を描いた絵描きに対する憎悪のやうなものである。

ニュースの功罪について、僕はいろいろと考へざるをえなかつた。どこの国でも知識階級は
疑り深くて、新聞に書いてあることを一から十まで信じはしない。信じるのは民衆である。
しかし或る非常の事態にいたると、知識階級の観念性よりも、民衆の直感のはうが、
ニュースを超えて、事態の真実を見抜いてしまふ。かれらは自分の生活の場に立つて、
蟻が洪水を予感するやうに、しづかに触角をうごめかして現実を測つてゐる。真実な
デマゴオグ(煽動者)といふものが、かうして起る。敗戦間近い日本に起つたやうな
あの民衆の本能的不信は、古代にもたびたび起つた。民衆のあひだにいつのまにか
歌はれはじめる童謡が、何らかの政治的変革の前兆と考へられたのには、理由がある。
三島由紀夫「遠視眼の旅人」より

611 :
映像はいつも映画作家の意志に屈服するとは限らぬことは、言葉がいつも小説家の意志に
屈服するとは限らぬと同じである。映像も言葉も、たえず作家を裏切る。

われわれの古典文学では、紅葉(もみぢ)や桜は、血潮や死のメタフォアである。
民族の深層意識に深くしみついたこのメタフォアは、生理的恐怖に美的形式を課する訓練を
数百年に亘つてつづけて来たので、歴史の変遷は、ただこの観念聯合の秤のどちらかに、
重みをかけることでバランスを保つてきた。戦争中のやうに多すぎる血潮や死の時代には、
人々の心は紅葉や桜に傾き、伝統的な美的形象で、直接の生理的恐怖を消化した。
今日のやうに泰平の時代には、秤が逆に傾いて、血潮や死自体に、観念的美的形象を
与へがちになるのは、当然なことである。かういふことは近代輸入品のヒューマニズムなどで
解決する問題ではない。
三島由紀夫「残酷美について」より

612 :
この地上で自分の意欲を実現する方式に二つはないのではないか? 芸術も政治も、
その方式に於ては一つなのではないか? だからこそ、芸術と政治はあんなにも仲が
悪いのではないか?

ラヂウムを扱ふ学者が、多かれ少なかれ、ラヂウムに犯されるやうに、身自ら人間で
ありながら、人生を扱ふ芸術家は、多かれ少なかれ、その報いとして、人生に犯される。
…人間の心とは、本来人間自身の扱ふべからざるものである。従つてその扱ひには常に
危険が伴ひ、その結果、彼自身の心が、自分の扱ふ人間の心によつて犯される。犯された末には、
生きながら亡霊になるのである。そして、医療や有効な目的のために扱はれるラヂウムが、
それを扱ふ人間には有毒に働くやうに、それ自体美しい人生や人間の心も、それを扱ふ人間には、
いつのまにか怖ろしい毒になつてゐる。多少ともかういふ毒素に犯されてゐない人間は、
芸術家と呼ぶに値ひしない。
三島由紀夫「楽屋で書かれた演劇論」より

613 :
歌には残酷な抒情がひそんでゐることを、久しく人々は忘れてゐた。古典の桜や紅葉が、
血の比喩として使はれてゐることを忘れてゐた。月や雁や白雲や八重霞や、さういふものが
明白な肉感的世界の象徴であり、なまなましい肉の感動の代置であることを忘れてゐた。
ところで、言葉は、象徴の機能を通じて、互(かた)みに観念を交換し、互みに呼び合ふ
ものである。それならば血や肉感に属する残酷な言葉の使用は、失はれた抒情を、やさしい桜や
紅葉の抒情を逆に呼び戻す筈である。春日井氏の歌には、さういふ象徴言語の復活がふんだんに
見られるが、われわれはともあれ、少年の純潔な抒情が、かうした手続をとつてしか
現はれない時代に生きてゐる。
三島由紀夫「春日井建氏の『未青年』の序文」より

肉といふものは、私には知性のはぢらひあるひは謙抑の表現のやうに思はれる。鋭い知性は、
鋭ければ鋭いほど、肉でその身を包まなければならないのだ。ゲーテの芸術はその模範的な
ものである。精神の羞恥心が肉を身にまとはせる。それこそ完全な美しい芸術の定義である。
羞恥心のない知性は、羞恥心のない肉体よりも一そう醜い。
ロダンの彫刻「考へる人」では、肉体の力と、精神の謙抑が、見事に一致してゐる。
三島由紀夫「ボディ・ビル哲学」より

614 :
おい、いい加減しろや
著作権侵害スレだろ、これ
勝手に文章引用してんじゃねーよ
お前逮捕される恐れあるぞ、こういうことしてると

615 :
飛行機が美しく、自動車が美しいやうに、人体は美しい。女が美しければ、男も美しい。
しかしその美しさの性質がちがふのは、ひとへに機能がちがふからである。(中略)
機能に反したものが美しからう筈もなく、そこに残される手段は装飾美だけであるが、
文明社会では、男でも女でも、この機能美と装飾美の価値が巓倒してゐる。男の裸が
グロテスクなどといふ石原慎太郎の意見は、いかにも文明に毒された低級な俗見である。
三島由紀夫「機能と美」より

エロティシズムが本来、上はもつとも神聖なもの、下はもつとも卑賎なものまで、
自由につながつた生命の本質であることは、「古事記」を読めばよくわかることだが、
後世の儒教道徳が、その神聖なエロティシズムを忘れさせて、ただ卑賎なエロティシズムだけを、
日本人の心に与へつづけて来たのであつた。
三島由紀夫「バレエ『憂国』について」より

616 :
世間とは何だらう。もつとも強大な敵であると共に、いや、それなればこそ、最終的には、
どうしても味方につけなければならないもの。さういふものと相渉るには、政治学だけでは
十分ではない。何か「世間」に負けない、つひには「世間」がこちらを嫉視せずには
ゐられないやうな、内的な価値と力が要る。魅惑(シヤルム)こそ世間に対する最後の
武器である。(中略)
美しい病気を(いくら美しくても、病気である限り、もともと人に忌み避けられるものを)
世間全般に伝播伝染させ、つひには健康な人間の自信をも喪失させ、病気になりたいと
願はせるまでもつてゆくこと。すなはち、自分一個の病気を時代病にまでしてしまふこと。

人は、虚偽を以てまごころを購ふことには十中八九失敗するが、まごころを以て虚偽を
購ふことには時あつて成功する。
三島由紀夫「序(丸山明宏著『紫の履歴書』)」より

617 :
西部劇は純然たる男だけの世界であつてこそ意味がある。へんな恋愛をからませた西部劇ほど、
おかつたるいものはない。

「一難去つて又一難」といふ事態に対する人間のどうしやうもない興味は、(これは西部劇に
限つたことではないが)、どんなに平和な時代が続かうと癒やしがたいものであるらしい。
平和な市民生活に直接の身体的危険が乏しいことから、この刺戟飢餓は、危険なスポーツや、
自動車の制限速度の超過や、犯罪などに向ひ、あるひは内攻してノイローゼに向ふことになる。
西部劇はかういふ不満に対するいかにも安全な薬品である。
三島由紀夫「西部劇礼讚」より

人間性に、忘却と、それに伴ふ過去の美化がなかつたとしたら、人間はどうして生に
耐へることができるであらう。

現代の世相のすべての欠陥が、いやでも応でも、過去の諸価値の再認識を要求してゐる
のであつて、その欠陥が今や大きく露出してきたからこそ、過去の諸価値の再認識の必要も
増大してきたのであつて、それこそ未来への批評的建設なのである。
三島由紀夫「忘却と美化」より

618 :
わが国中世の隠者文学や、西洋のアベラアルとエロイーズの精神愛などは肉体から精神への
いたましい堕落と思はれる。精神が肉体の純粋を模倣しようとしてゐる。宗教に於ては
「基督のまねび」それは愛においても肉体のまねびであつた。近代以後さらにその精神の
純粋すら失はれて今日見るやうな世界の悲劇のかずかずが眼前にある。
三島由紀夫「精神の不純」より

それがたとへどのやうな黄金時代であつても、その時代に住む人間は一様に、自分の
生きてゐる時代を「悪時代」と呼ぶ権利をもつてゐると私には考へられる。

あらゆる改革者には深い絶望がつきまとふ。しかし、改革者は絶望を言はないのである。
絶望は彼らの理想主義的情熱の根源的な力であるにもかかはらず、彼らの理想はその力の
根絶に向けられてゐるからである。

「絶望する者」のみが現代を全的に生きてゐる。絶望は彼らにとつて時代を全的に
生きようとする欲求であり、しかもこの絶望は生れながらに当然の前提として賦与へられた
ものではなく、偶発的なものである。なればこそかれらは「絶望」を口叫びつづける。
しかもこのやうな何ら必然性をもたない絶望が、彼らを在るが如く必然的に生きさせるのである。
三島由紀夫「美しき時代」より

619 :
それがたとへどのやうな黄金時代であつても、その時代に住む人間は一様に、自分の
生きてゐる時代を「悪時代」と呼ぶ権利をもつてゐると私には考へられる。

あらゆる改革者には深い絶望がつきまとふ。しかし、改革者は絶望を言はないのである。
絶望は彼らの理想主義的情熱の根源的な力であるにもかかはらず、彼らの理想はその力の
根絶に向けられてゐるからである。

「絶望する者」のみが現代を全的に生きてゐる。絶望は彼らにとつて時代を全的に
生きようとする欲求であり、しかもこの絶望は生れながらに当然の前提として賦与へられた
ものではなく、偶発的なものである。なればこそかれらは「絶望」を口叫びつづける。
しかもこのやうな何ら必然性をもたない絶望が、彼らを在るが如く必然的に生きさせるのである。
三島由紀夫「美しき時代」より

620 :
わが国中世の隠者文学や、西洋のアベラアルとエロイーズの精神愛などは肉体から精神への
いたましい堕落と思はれる。精神が肉体の純粋を模倣しようとしてゐる。宗教に於ては
「基督のまねび」それは愛においても肉体のまねびであつた。近代以後さらにその精神の
純粋すら失はれて今日見るやうな世界の悲劇のかずかずが眼前にある。
三島由紀夫「精神の不純」より

われわれが住んでゐる時代は政治が歴史を風化してゆくまれな時代である。

古代には運命が、中世には信仰が、近代には懐疑が、歴史の創造力として政治以前に存在した。
ところが今では、政治以前には何ものも存在せず、政治は自然力の代弁者であり、
したがつて人間は、食あたりで床について下痢ばかりしてゐる無力な患者のやうに、
しばらく(であることを祈るが)彼自身の責任を喪失してゐる。
三島由紀夫「天の接近――八月十五日に寄す」より

621 :
人間の道徳とは、実に単純な問題、行為の二者択一の問題なのです。善悪や正不正は
選択後の問題にすぎません。道徳とはいつの場合も行為なんです。

自意識が強いから愛せないなんて子供じみた世迷ひ言で、愛さないから自意識がだぶついて
くるだけのことです。
三島由紀夫「一青年の道徳的判断」より

すぐれた芸術作品はすべて自然の一部をなし、新らしく創られた自然に他ならない。

地球上の人類は、全く未知の人同志が同じ瞬間に必ず息を引き取つてゐるといふ当然すぎるほど
当然な現象を、見て見ぬふりをしてをります。

運命的な愛こそは、人々の社会や国家や民族相互の愛の母胎をなし象徴をなすものである。
三島由紀夫「情死について」より

622 :
芸術はすべて何らかの意味で、その扱つてゐる素材に対する批評である。判断であり、
選択である。

文体をもたない批評は文体を批評する資格がなく、文体をもつた批評は(小林秀雄氏のやうに)
芸術作品になつてしまふ。

小説を総体として見るときに、批評家は読者の恣意の代表者として、それをどう解釈しようと
勝手であるが、技術を問題にしはじめたら最後、彼ははなはだ倫理的な問題をはなはだ
無道徳な立場で扱ふといふ宿命を避けがたい。

理解力は性格を分解させる。理解することは多くの場合不毛な結果をしか生まず、
愛は断じて理解ではない。

芸術家の才能には、理解力を滅Rる或る生理作用がたえず働いてゐる必要があるやうに思はれる。
三島由紀夫「批評家に小説がわかるか」より

623 :
文学に対する情熱は大抵春機発動期に生れてくるはしかのやうなものである。

われわれは人生を自分のものにしてしまふと、好奇心も恐怖もおどろきも喜びも忘れてしまふ。
思春期に於ては人生は夢みられる。われわれ生きることと夢みることと両方を同時に
やることができないのであるが、かういふ人間の不器用に思春期はまだ気づいてゐない。

思春期にある潔癖感は、多く自分を不潔だと考へることから生れてくる。かう考へることは
少年たちを安心させるが、それは自分がまだ人生から拒まれ排斥されてゐるといふ逆説的な
怠惰な安堵なのである。

思春期を殺してしまつた詩人といふものは考へられない。
三島由紀夫「文学に於ける春のめざめ」より

老夫妻の間の友情のやうなものは、友情のもつとも美しい芸術品である。

長い間続く親友同志の間には、必ず、外貌あるひは精神の、両性的対象がある。
三島由紀夫「女の友情について」より

624 :
人間は自分一人でゐるときでさへ、自分に対して気取りを忘れない。

男の虚栄心は、虚栄心がないやうに見せかけることである。

個性を超克するところにのみ生れる本当の美の領域では、虚栄心はほとんど用をなさない。
そこではただ献身だけが必要で、この美徳は芸術家と母性との共通点だ。
三島由紀夫「虚栄について」より

作家は末期の瞬間に自己自身になりきつた沈黙を味はふがために一生を語りつづけ喋りつづける。

安易に自己自身になりきれるかのやうな無数のわなからのがれるために、純粋な作家は
遠まはりを余儀なくされる。それも誰よりも遠い、一番遠い遠まはりを。――従つて
純粋な作家の方法論は、不純のかたまりでなければならぬ。さうでなければ、その純粋さは
贋ものである。一つの純粋さのために千の純粋さが犠牲にされねばならぬ。
三島由紀夫「極く短かい小説の効用」より

625 :
真の技術といふものはそれ自身一つの感動なのである。

歌舞伎とは魑魅魍魎の世界である。その美は「まじもの」の美でなければならず、
その醜さには悪魔的な蠱惑がなければならない。
三島由紀夫「中村芝翫論」より

ヨーロッパの芸術家はもつと無邪気に「私は天才です」と吹聴してゐる。自我といふものは
ナイーヴでなければ意味をなさない。

日本の新劇から教壇臭、教訓臭、優等生臭、インテリ的肝つ玉の小ささ、さういふものが
完全に払拭されないと芝居が面白くならない。そのためにはもつと歌舞伎を見習ふがよい
のである。演劇とはスキャンダルだ。
三島由紀夫「戯曲を書きたがる小説書きのノート」より

626 :
「後悔せぬこと」――これはいかなる時代にも「最後の者」たる自覚をもつ人のみが
抱きうる決心である。
三島由紀夫「跋(坊城俊民著「末裔」)」より

大学新聞にはとにかく野生がほしい。野生なき理想主義は、知性なきニヒリズムより
数倍わるくて汚ならしい。
三島由紀夫「野生を持て――新聞に望む」より

「子供らしくない部分」を除いたら「子供らしさ」もまた存在しえない。

大人が真似ることのできるのはいはゆる「子供らしさ」だけであり、子供の中の
「子供らしくない部分」は決して大人には真似られない部分である。
三島由紀夫「師弟」より

627 :
(シニスム)が大抵のものを凡庸と滑稽に墜してしまふのは、十九世紀の科学的実証主義に
もとづく自然主義以来の習慣である。私は自意識の病ひを自然主義の亡霊だと考へてゐる。
すべてを見てしまつたと思ひ込んだ人間の迷蒙だと考へてゐる。あらゆる悲哀の裏に
滑稽の要素を剔出するのはこの迷蒙の作用である。いきほひ感情は無力なものになり、
情熱は衰へ、何かしらあいまいな不透明なものになり終つた。

悲劇は強引な形式への意慾を、悲哀そのものが近代性から継子扱ひをされるにつれてますます
強められ、おのづから近代性への反抗精神を内包するにいたる。それは近代性の奥底から
生み出された古典主義である。喜劇は近代をのりこえる力がない。

偉大な感情を、情熱を、復活せねばならぬ。それなしには諷刺は冷却の作用をしかもたないだらう。
三島由紀夫「悲劇の在処」より

628 :
あらゆる芸術作品は完結されない美であるが、もし万一完結されるときそれは犯罪と
なるのである。 犯罪、殊に殺人のやうな行為には、創造のもつ本質的な超倫理性の醜さが
見られ、犯人は人間の登場すべからざる「事実」の領域へ足を踏み入れたことによつて
罰せられるのだ。だからあらゆる犯罪者の信条には、何かきはめて健康なものがある。
三島由紀夫「画家の犯罪――Pen, Pencil and Poison の再現」より

歌舞伎の近代化といふはたやすい。しかし浅墓な古典の近代的解釈にだまされるやうなお客は
却つて近代人ですらないのだ。そんなのはもう古い。イヤサ、古いわえ。

美は犠牲の上に成立ち、犠牲を踏まへた生活の必死の肯定によつて維持され育まれる。

類型的であることは、ある場合、個性的であることよりも強烈である。
三島由紀夫「歌舞伎評」より

629 :
偽悪者たることは易しく、反抗者たり否定者たることはむしろたやすいが、あらゆる
外面的内面的要求に飜弄されず、自身のもつとも蔑視するものに万全を尽くすことは、
人間として無意味なことではない。「最高の偽善者」とはさういふことであり、物事が
決して簡単につまらなくなつたりしてしまはない人のことである。

人間は自由を与へられれば与へられるほど幸福になるとは限らない。
三島由紀夫「最高の偽善者として――皇太子殿下への手紙」より

理想は狂熱に、合理主義は打算に、食慾はお腹下しに、真面目は頑迷に、遊び好きは自堕落に、
意地悪はヒステリーに紙一重の美徳でありますから、その紙一重を破らぬためには、
やはり清潔な秩序の精神が、まばゆいほど真白なエプロンが、いつもあなたがたの生活の
シンボルであつてほしいと思ひます。
三島由紀夫「女学生よ白いエプロンの如くあれ」より

630 :
作家はどんな環境とも偶然にぶつかるものではない。
三島由紀夫「面識のない大岡昇平氏」より

理想主義者はきまつてはにかみやだ。
三島由紀夫「武田泰淳の近作」より

小説のヒーローまたはヒロインは、必然的に作者自身またはその反映なのである。
三島由紀夫「世界のどこかの隅に――私の描きたい女性」より

これつぽつちの空想も叶へられない日本にゐて、「先生」なんかになりたくなし。
三島由紀夫「作家の日記」より

私の詩に伏字が入る! 何といふ光栄だらう。何といふ素晴らしい幸運だらう。
三島由紀夫「伏字」より

小説家には自分の気のつかない悪癖が一つぐらゐなければならぬ。気がついてゐては、
それは悪でも背徳でもなく、何か八百長の悪業、却つてうすぼんやりした善行に近づいてしまふ。
三島由紀夫「ジイドの『背徳者』」より

631 :
簡潔とは十語を削つて五語にすることではない。いざといふ場合の収斂作用をつねに
忘れない平静な日常が、散文の簡潔さであらう。
三島由紀夫「『元帥』について」より

伝説や神話では、説話が個人によつて導かれるよりも、むしろ説話が個人を導くのであつて、
もともとその個人は説話の主題の体現にふさはしい資格において選ばれてゐるのである。
三島由紀夫「檀一雄の悲哀」より

物語は古典となるにしたがつて、夢みられた人生の原型になり、また、人生よりももつと
確実な生の原型になるのである。
三島由紀夫「源氏物語紀行――『舟橋源氏』のことなど」より

趣味はある場合は必要不可欠のものである。しかし必要と情熱とは同じものではない。
私の酒が趣味の域にとどまつてゐる所以であらう。
三島由紀夫「趣味的の酒」より

632 :
われわれが孤独だといふ前提は何の意味もない。生れるときも一人であり、死ぬときも
一人だといふ前提は、宗教が利用するのを常とする原始的な恐怖しか惹き起さない。
ところがわれわれの生は本質的に孤独の前提をもたないのである。誕生と死の間に
はさまれる生は、かかる存在論的な孤独とは別箇のものである。
三島由紀夫「『異邦人』――カミュ作」より

君の考へが僕の考へに似てゐるから握手しようといふほど愚劣なことはない。それは
野合といふものである。われわれの考へは偶発的に、あるひは偶然の合致によつて
似、一致するのではなく、また、体系の諸部分の類似性によつて似るのではない。
われわれの考へは似るべくして似る。それは何ら連帯ではなく、共同の主義及至は理想でもない。
三島由紀夫「新古典派」より

633 :
パリ人はもともと、外国人をみんな田舎者だと思ふ中華思想をもつてゐる。

パリへのあこがれは、小説家へのあこがれのやうなもので、およそ実物に接してみて
興ざめのする人種は、小説家に及ぶものはないやうに、パリへあこがれて出かけるのは
丁度小説を読んでゐるだけで満足せずに、わざわざ小説家の御面相を拝みにゆく読者同様である。
パリはつまり、芸術の台所なのである。おもては観光客目あてに美々しく装うてゐるが、
これほど台所的都会はないことに気づくだらう。パリのみみつちさは崇高な芸術の生れる
温床であり、パリの卑しさは芸術の高貴の実体なのである。

芸術とは何かきはめていかがはしいものであり、丁度日本の家のやうに床の間のうしろに
便所があるやうな、さういふ構造を宿命的に持つてゐる。
三島由紀夫「パリにほれず」より

634 :
詩とは何か? それはむつかしい問題ですが、最も純粋であつてもつとも受動的なもの、
思考と行為との窮極の堺、むしろ行為に近いもの、と云つてよい。

言葉といふものはふしぎなもので、言葉は能動的であり、濫用されればされるほど、
行為から遠ざかる、といふ矛盾した作用をもつてゐる。

詩は言葉をもつとも行為に近づけたものである。従つて、言葉の表現機能としては極度に
受動的にならざるをえない。かういふ詩の演劇的表出は、行為を極度に受動的に表現する
ことによつて、逆に言葉による詩の表現に近づけることができる。簡単に言つてしまへば、
詩は対話では表現できぬ。詩は孤独な行為によつてしか表現できぬ。しかも、その行為は、
詩における言葉と同様に、極度に節約されたものでなければならぬ。言葉が純粋行為に
近づくに従つていや増す受動性を、最高度に帯びてゐなければならぬ。お能の動きは、
見事にこの要請に叶つてをります。
三島由紀夫「『班女』拝見」より

635 :
この世の絶頂の倖せが来たとき、その幸福の只中でなくては動かぬ思案があるのです。
その思案は波間をかすめる太刀魚の背鰭のやうに、幸福の海へ舟出をしてゐる時でなくては
見えないのです。

一つの建築が一つの夢になり、一つの夢が一つの現実になる。さうやつて巨大な石と
おぼろげな夢とは永遠の循環をくりかへすのだ。

今の王様にとつては、ただこのお寺の完成だけがお望みなのだ。そしてお寺の名も、
共に戦つて死んだ英霊たちのみ魂を迎へるバイヨンと名づけられた。バイヨン。王様は
あの目ざましい戦の間に、討死してゐればよかつたとお考へなのだらう。

この世のもつとも純粋なよろこびは、他人のよろこびを見ることだ。
三島由紀夫「癩王のテラス」より

636 :
私の前にはただ闇があるだけ。色もない。形もない。死も私にははじめて会つたやうな
気がしないだらう。なぜならそれは、この世と一トつづきの闇に他ならぬからだ。

精神は必ず形にあこがれる。

崩れたもの、形のないもの、盲ひたもの、……それは何だと思ふ。それこそは精神のすだただ。
おまへが癩にかかつたのではない。おまへの存在そのものが癩なのだ。精神よ。おまへは
生れながらの癩者だつたのだ。

何かを企てる。それがおまへの病気だつた。何かを作る。それがおまへの病気だつた。
俺の舳(みよし)のやうな胸は日にかがやき、水は青春の無慈悲な櫂でかきわけられ、
どこへも到達せず、どこをも目ざさず、空中にとまる蜂雀のやうに、五彩の羽根をそよがせて、
現在に羽搏いてゐる。俺を見習はなかつたのが、おまへの病気だつた。

青春こそ不滅、肉体こそ不死なのだ。……俺は勝つた。なぜなら俺こそがバイヨンだからだ。
三島由紀夫「癩王のテラス」より

637 :
絶望は卑怯な方法である。目前の不幸なり困難なりにぶつかつて絶望するとき、人は
もし絶望しなかつたら更にぶつかつたであらう一層大きな不幸や困難から身を守るのだ。
絶望する者は結局、不幸や困難を愛することを知らないのだ。そして絶望と妥協した範囲だけの
不幸や困難を愛するのだ。そのとき彼は、絶望そのものにだけは絶望しえない自分を
見出だすだらう。なぜなら絶望といふ前提をとり除いたら彼の現在の存在理由はなく、
また同時に絶望によつてしか現在の存在理由を失はしめえないと考へるとき、彼は新たな
第二の絶望のために何らかの行動の原理をたのまざるをえないだらう。それが他ならぬ
希望ではあるまいか。
この世のありとあらゆる不幸と困難を心から愛し、あらゆる不幸と困難に対して扉を
とざすことのないものこそ、希望と憧憬、この生への意慾の二つの美しい支柱である。

人間もまた向日葵のやうにたえず太陽のはうへ顔を向けてゐたいと希ふものだ。夜のあひだ
向日葵は夢みてゐる。それは夜になれば太陽の光が彼の内面にだけ差し入つて来るからだ。
三島由紀夫「人間喜劇」より

638 :
目前の汚れた小さな水たまりに目を奪はれて、お前も海の水の青さを疑つてはならないぞ。
どんな世の中にならうとも、女の美しさは操の高さの他にはないのだ。男の値打も、
醜く低い心の人たちに屈しない高い潔らかな精神を保つか否かにあるのだ。さういふ
磨き上げられた高い心が、結局永い目で見れば、世のため人のために何ものよりも役立つのだ。
人の心はいつかは太陽へ向ふやうに、神がお定め下すつたのだからな。

不幸や悲しみの滅びないことを信じる人だけが、幸福も滅びないことを知ることができる
わけなのね。

何もかも失くした時こそ、何もかも在りうる時なのです。

人が自分のことでない喜びをよろこんでゐる表情ほど美しいものはありませんね。
三島由紀夫「人間喜劇」より

639 :
自分の不幸だけを忘れようとするのは烏滸(をこ)のわざですよ。もしあなたが不幸に
会はれたら世界中の不幸を忘れてしまふ覚悟をなさることです。私のことなんぞ当分
お考へになるには及びません。又いつかきつとお考へになる時は来るのですから。そして
一旦世界中の不幸を忘れる必要に迫られた人だけが、世界中の不幸の慰め手になることが
できるのです。それを不幸への愛と呼びませうかね。愛するためにはまづ忘れることが必要です。
あなたは希望をお忘れにならぬ。これは若い人として美しいことです。しかし希望を
お忘れになつたときに、あなたの希望への愛も本当に生きてくるでせう。それは絶望を
忘れた人の、絶望への愛と似通つて来ます。ともかくお生きなさい。そしてお忘れなさい。
それが愛するといふことです。

どんな世の中が来ようとも誠実と愛とは貴く、情熱は美しいものだと頑固に疑はない。
そのどれもが人間にだけ出来るものなのだから。
三島由紀夫「人間喜劇」より

640 :
腹を切る前に、ちょっとは考えよう
三島由紀夫「人間喜劇」より

641 :
待つといふ感情は微妙なものです。それは人の生活に、落着かない不満足な感じと同時に、
待つことそれ自身の言ふにいはれぬ甘美な満足をもたらすからです。

明日の遠足がよいお天気であるやうにとねがふ子供は、その明日がお天気であつただけで、
もはや遠足そのものの与へる愉しみの十中八九を味はひつくしてゐるのです。よいお天気の
朝を見ただけで、彼の満足の大半は、成就されたも同じことです。

仏の花を買ひにゆくといふ殊勝な用事を彼にうちあけることが、私には何故かしら
嬉しかつたのです。私は悪戯をする子供の気持よりも、修身のお点のよいことをねがふ
子供の気持のはうが、ずつと恋心に近いことを知るのでした。まして恋といふものは、
そつのない調和よりも、むしろ情緒のある不釣合のはうを好くものです。
三島由紀夫「不実な洋傘」より

642 :
死といふ事実は、いつも目の前に突然あらはれた山壁のやうに、あとに残された人たちには
思はれる。その人たちの不安が、できる限り短時日に山壁の頂きを究めてしまはうと
その人たちをかり立てる。かれらは頂きへ、かれらの観念のなかの「死の山」の頂きへ
かけ上る。そこで人たちは山のむかうにひろがる野の景観に心くつろぎ、あの突然目の前に
そそり立つた死の影響からのがれえたことを喜ぶのだ。しかし死はほんたうはそこからこそ
はじまるものだつた。死の眺めはそこではじめて展(ひら)けて来る筈だつた。光にあふれた
野の花と野生の果樹となだらかな起伏の景観を、人々はこれこそ死の眺めとは思はず
眺めてゐるのだつた。
三島由紀夫「罪びと」より

643 :
矜りのない人間に自殺は出来ない。同様に傷つけられた自負心は人をたやすく死へ
みちびき入れるものである。

「幸福」などといふ怖るべき観念が人心に宿つて殺人罪を使嗾(しそう)する結果にならぬやう、
私は一社会人の立場に立つて衷心より切望する次第である。
三島由紀夫「幸福といふ病気の療法」より

人生といふものはまるで脈絡もない条理もない感動に充ちてゐる、感動は私たちの心の
トンネルを通過する急行列車のやうに過ぎてゐるのだ、何も残らない、永久に感動する心は
永久に純潔な心だ。

心の共有とはなんといふ容易な事柄でせう。黙つてさへゐれば人間の心は永久に一人一人の
共有物でありませう。黙つてさへゐれば思ふままに相手を創造することができます。
相手は私の中で創造られ、私に似て来ます。本当の真実は孤独なものです。愛のためなら
何故真実が要りませう。愛はいつでも真実を敵に廻すべきではないでせうか。
三島由紀夫「舞台稽古」より

644 :
夥しい薔薇は衰へた高貴な詩人の顔へ花冠を向けてゐた。彼らの本質を歌ひ、彼らの存在の
核心を透視した不朽の詩人の顔に向つてゐた。被造物のうちでも最も精妙な最も神秘な
美しい存在が、この詩人の何ものも希はない深い無為の瞳の澄明の前に、われにもあらず
嘗て己れの秘密を売つたのであつた。薔薇はリルケの美しい詩のなかで裏返された
いたましい喪失の存在に化した。それは認識の手によつてではなく、運命を共有する一つの
宇宙的な魂の手で、あばかれた羞恥と苦痛なのである。苦痛の思ひ出は、微風のやうに繁みを
ゆるがした。薔薇は詩人にその名を呼ばれたものの受苦の上に、詩人をも誘はうと試みた。
リルケの瞳は、恰かもまどろんでゐると見える見事な一輪の薔薇にとどまつた。
葉は蝕まれてゐず、咲具合も頃合である。花弁は深く包まれてゐてしかも艶やかに
倦(たゆ)げである。心もち重みにうなだれ、リルケの目に対してゐた。
三島由紀夫「薔薇」より

645 :
文学とは、青年らしくない卑怯な仕業だ、といふ意識が、いつも私の心の片隅にあつた。
本当の青年だつたら、矛盾と不正に誠実に激昂して、殺されるか、自Rるか、すべきなのだ。

青年だけがおのれの個性の劇を誠実に演じることができる。

芸術家にとつて本当に重要な時期は、少年期、それよりもさらに、幼年期であらう。

肉体の若さと精神の若さとが、或る種の植物の花と葉のやうに、決して同時にあらはれない
ものだと考へる私は、青年における精神を、形成過程に在るものとして以外は、高く
評価しないのである。肉体が衰へなくては、本当の青年は生れて来ないのだ。私はもつぱら
「知的青春」なるものにうつつを抜かしてゐる青年に抱く嫌悪はここから生じる。
三島由紀夫「空白の役割」より

646 :
今日の時代では、青年の役割はすでに死に絶え、青年の世界は廃滅し、しかも古代希臘のやうに、
老年の智恵に青年が静かに耳傾けるやうな時代も、再びやつて来ない。孤独が今日の青年の
置かれた状況であつて、青年の役割はそこにしかない。それに誠実に直面して、そこから
何ものかを掘り出して来ること以外にはない。

青年のためにだけ在り、青年に本当にふさはしい世界は、行動の世界しかない。
三島由紀夫「空白の役割」

若い女性の「芸術」かぶれには、いかにもユーモアがなく、何が困るといつて、昔の長唄や
お茶の稽古事のやうな稽古事の謙虚さを失くして、ただむやみに飛んだり跳ねたりすれば、
それが芸術だと思ひこんでゐるらしいことである。芸術とは忍耐の要る退屈な稽古事なのだ。
そしてそれ以外に、芸術への道はないのである。
三島由紀夫「芸術ばやり――風俗時評」より

647 :
女性は抽象精神とは無縁の徒である。音楽と建築は女の手によつてろくなものはできず、
透明な抽象的構造をいつもべたべたな感受性でよごしてしまふ。

実際芸術の堕落は、すべて女性の社会進出から起つてゐる。女が何かつべこべいふと、
土性骨のすわらぬ男性芸術家が、いつも妥協し屈服して来たのだ。あのフェミニストらしき
フランスが、女に選挙権を与へるのをいつまでも渋つてゐたのは、フランスが芸術の
何たるかを知つてゐたからである。

道徳の堕落も亦、女性の側から起つてゐる。男性の仕事の能力を削減し、男性を性的存在に
しばりつけるやうな道徳が、女性の側から提唱され、アメリカの如きは女のおかげで
惨澹たる被害を蒙つてゐる。悪しき人間主義はいつも女性的なものである。男性固有の
道徳、ローマ人の道徳は、キリスト教によつて普遍的か人間道徳へと曲げられた。
そのとき道徳の堕落がはじまつた。道徳の中性化が起つたのである。
三島由紀夫「女ぎらひの弁」より

648 :
一夫一婦制度のごときは、道徳の性別を無視した神話的こじつけである。女性はそれを固執する。
人間的立場から固執するのだ。女にかういふ拠点を与へたことが、男性の道徳を崩壊させ、
男はローマ人の廉潔を失つて、ウソをつくことをおぼえたのである。男はそのウソつきを
女から教はつた。キリスト教道徳は根本的に偽善を包んでゐる。それは道徳的目標を、
ありもしない普遍的人間性といふこと、神の前における人間の平等に置いてゐるからである。
これな反して、古代の異教世界においては、人間たれ、といふことは、男たれ、といふ
ことであつた。男は男性的美徳の発揚について道徳的責任があつた。なぜなら世界構造を
理解し、その構築に手を貸し、その支配を意志するのは男性の機能だからだ。男性から
かういふ誇りを失はせた結果が、道徳専門家たる地位を男性をして自ら捨てしめ、
道徳に対してつべこべ女の口を出させ、つひには今日の道徳的瓦解を招いたものと
私は考へる。一方からいふと、男は女の進出のおかげで、道徳的責任を免れたのである。
三島由紀夫「女ぎらひの弁」より

649 :
(「危険な関係」の)ヴァルモンは、女性崇拝のあらゆる言辞を最高の誠実さを以てつらね、
女の心をとろかす甘言を総動員して、さて女が一度身を任せると、敝履(へいり)の如く
捨ててかへりみない。
…女に対する最大の侮蔑は、男性の欲望の本質の中にそなはつてゐる。女ぎらひの侮蔑などに
目くじら立てる女は、そのへんがおぼこなのである。

人間の文化はこの悲しみ(omne animal post coitum triste《なべての動物は性交のあとに
悲し》)、この無力感と死の予感、この感情の剰余物から生れたのである。したがつて
芸術に限らず、文化そのものがもともと贅沢な存在である。芸術家の余計者意識の根源は
そこにあるので、余計者たるに悩むことは、人間たるに悩むことと同然である。
三島由紀夫「女ぎらひの弁」より

650 :
男は取り残される。快楽のあとに、姙娠の予感もなく、育児の希望もなく、取り残される。
この孤独が生産的な文化の母胎であつた。したがつて女性は、芸術ひろく文化の原体験を
味はふことができぬのである。

私は芸術家志望の女性に会ふと、女優か女声歌手になるのなら格別、女に天才といふものが
理論的にありえないといふことに、どうして気がつかないかと首をひねらざるをえない。
三島由紀夫「女ぎらひの弁」より

衒気(げんき)のなかでいちばんいやなものが無智を衒(てら)ふことだ。
三島由紀夫「戦後観客的随想――『ああ荒野』について」より

651 :
左翼の人は「ファッシスト」と呼ぶことを最大の悪口だと思つてゐるから、これは
世間一般の言葉に飜訳すれば「大馬鹿野郎」とか「へうろく玉」程度の意味であらう。

ファッシズムの発生はヨーロッパの十九世紀後半から今世紀初頭にかけての精神状況と
切り離せぬ関係を持つてゐる。そしてファッシズムの指導者自体がまぎれもない
ニヒリストであつた。日本の右翼の楽天主義と、ファッシズムほど程遠いものはない。

暴力と残酷さは人間に普遍的である。それは正に、人間の直下に棲息してゐる。今日店頭で
売られてゐる雑誌に、縄で縛られて苦しむ女の写真が氾濫してゐるのを見れば、いかに
いたるところにサーディストが充満し、そしらぬ顔でコーヒーを呑んだり、パチンコに
興じたりしてゐるかがわかるだらう。
三島由紀夫「新ファッシズム論」より

652 :
文士などといふ人種ほど、我慢ならぬものはない。ああいふ虫ケラどもが、愚にもつかぬ
ヨタ話を書きちらし、一方では軟派が安逸奢侈の生活を勤め、一方では左翼文士が斜視的
社会観を養つて、日本再建をマイナスすることばかり狂奔してゐる。

若造の純文学文士がしきりに呼号する「時代の不安」だの、「実存」(こんな日本語が
あるものか)だの、「カソリシズムかコミュニズムか」だの、青年を迷はすバカバカしい
お題目は、私にいはせれば悉く文士の不健康な生活の生んだ妄想だと思はれるのである。
三島由紀夫「蔵相就任の思ひ出――ボクは大蔵大臣」より

中年や老人の奇癖は滑稽で時には風趣もあるが、未熟な青年の奇癖といふものは、醜く、
わざとらしくなりがちだ。
三島由紀夫「あとがき(『若人よ蘇れ』)」より

653 :
この世で最も怖ろしい孤独は、道徳的孤独であるやうに私には思はれる。

良心といふ言葉は、あいまいな用語である。もしくは人為的な用語である。良心以前に、
人の心を苛むものがどこかにあるのだ。
三島由紀夫「道徳と孤独」より

文化の本当の肉体的浸透力とは、表現不可能の領域をしてすら、おのづから表現の形態を
とるにいたらしめる、さういふ力なのだ。世界を裏返しにしてみせ、所与の存在が、
ことごとく表現力を以て歩む出すことなのだ。爛熟した文化は、知性の化物を生むだけではない。
それは野獣をも生むのである。
三島由紀夫「ジャン・ジュネ」より

その苦悩によつて惚れられる小説家は数多いが、その青春によつて惚れられる小説家は稀有である。
三島由紀夫「『ラディゲ全集』について」より

654 :
私は自分の顔をさう好きではない。しかし大きらひだと云つては嘘になる。自分の顔を
大きらひだといふ奴は、よほど己惚れのつよい奴だ。自分の顔と折合いをつけながら、
だんだんに年をとつてゆくのは賢明な方法である。
六千か七十になれば、いい顔だと云つてくれる人も現はれるだらう。
三島由紀夫「私の顔」

恥多き思ひ出は、またたのしい思ひ出でもある。
三島由紀夫「『恥』」より

映画には青少年に与へる悪影響も数々あらうが、映画は映画なりのカタルシスの作用を
持つてゐる。それが無害なものであるためには、できるだけ空想的であることがのぞましく、
大人の中にもあり子供の中にもある冒険慾が、何の遠慮もなく充たされるやうな荒唐無稽な
環境がなければならない。

私のいちばん嫌ひな映画といへば、それはいふまでもなく、あのホーム・ドラマといふ代物である。
三島由紀夫「荒唐無稽」より

655 :
役者の好き嫌ひは、友達にも肌の合ふ人と合はない人があるやうなものです。

美しい花を咲かせるためには塵芥が要る如く、芸術は多く汚い所から生れるものです。
三島由紀夫「好きな芝居、好きな役者――歌舞伎と私」より

怒りを知らなかつたといふことは、言ひかへれば、無力感にとらはれなかつた、といふ
ことでもある。

動機のない犯罪にだけ、本当の宿命的な動機がある。
三島由紀夫「大谷崎」より

氏は人生に対して強烈な否定的な思想のうちに生きたことがないとつねに語つてゐる。
もしそれを信じれば、強烈な肯定的な思想のうちにも生きたことのない筈の氏である。
三島由紀夫「川端康成――百人百説」より

656 :
われわれが、お互ひにどんなに共感し共鳴しようと、相手の顔はわれわれの精神の外側にあり、
われわれ自身の顔はといふと、共感した精神のなかに没してしまつて、あたかも存在しないかの
やうであり、そこでこれに反して相手の顔は、いかにも存在を堂々と主張してゐる不公平な
ものに思はれる。相手の顔に対する、われわれの要請は果てしれない。
だが、要するに、私は顔といふものを信じる。明晰さを愛する人間は、顔を、肉体を、
目に見えるままの素面を信じることに落ちつくものだ。といふのも、最後の謎、最後の神秘は、
そこにしかないからだ。
三島由紀夫「福田恆存氏の顔」より

657 :
道徳的感覚といふものは、一国民が永年にわたつて作り出す自然の芸術品のやうなものであらう。
しつかりした共通の生活様式が背後にあつて、その奥に信仰があつて、一人一人がほぼ
共通の判断で、あれを善い、これを悪い、あれは正しい、これは正しくない、といふ。
それが感覚にまでしみ入つて、不正なものは直ちに不快感を与へるから「美しい」行為と
いはれるものは、直ちに善行を意味するのである。もしそれが古代ギリシャのやうな
至純の段階に達すると、美と倫理は一致し、芸術と道徳的感覚は一つものになるであらう。

日本も敗戦によつて古い神をうしなつた。どんなに逆コースがはなはだしくならうと、
覆水は盆にかへらず、たとへ神が復活しても、神が支配してゐた生活の様式感はもどつて来ない。
もつと大きな根本的な怖ろしい現象は、モラルの感覚が現にうしなはれてゐる、といふ
そのことではないのである。
三島由紀夫「モラルの感覚」より

658 :
いはゆるマス・コミュニケーションによつて、今世紀は様式の化学的合成の方法を知つた。
かういふ方法で政治が生活に介入して来ることは、政治が芸術の発生方法を模倣してきた
ことを意味する。我々は今日、自分のモラルの感覚を云々することはたやすいが、
どこまでが自分の感覚で、どこまでが他人から与へられた感覚か、明言することは
だれにもできず、しかも後者のはうが共通の様式らしきものを持つてゐるから、後者に
従ひがちになるのである。
政治的統一以前における政治的統一の幻影を与へることが、今日ほど重んぜられたことはない。

芸術家の孤独の意味が、かういふ時代ではその個人主義の劇をこえて重要なものになつて
来てをり、もしモラルの感覚といふものが要請されるならば、劣悪な芸術の形をした政治に
抗して、芸術家が己れの感覚の誠実をうしなはないことが大切になるのである。
三島由紀夫「モラルの感覚」より

659 :
われわれの死には、自然死にもあれ戦死にもあれ、個性的なところはひとつもない。
しかし死は厳密に個人的な事柄で、誰も自分以外の死をわが身に引受けることはできないのだ。

決してわれわれは他人の死を死ぬのではない。原爆で死んでも、脳溢血で死んでも、
個々人の死の分量は同じなのである。

自分の死の分量を明確に見極めた人が、これからの世界で本当に勇気を持つた人間になるだらう。
まづ個人が復活しなければならないのだ。
三島由紀夫「死の分量」より

ガスを引き、タイル張りのガス風呂を置けば、思想の一角は崩れ、あらゆる妥協が、
精神生活をも犯さずにはゐないといふことを、われわれは忘れてゐる。
…電気洗濯機を置いた禅寺とは、もはや禅寺ではないのだ。

すべての禅寺に電気洗濯機をそなへるやうになれば、禅といふものは死滅する。
三島由紀夫「電気洗濯機の問題」より

660 :
大分前に、「きけ、わだつみの声」であつたか、その種の反戦映画を見て、いはん方ない
反感を感じたおぼえがある。たしかその映画では、フランス文学研究をたよりに、
反戦傾向を示す学生や教師が、戦場へ狩り出され、戦死した彼らのかたはらには、
ボオドレエルだかヴェルレエヌだかの詩集の頁が、風にちぎれてゐるといふシーンがあつた。
甚だしくバカバカしい印象が私に残つてゐる。ボオドレエルが墓の下で泣くであらう。
日本人がボオドレエルのために死ぬことはないので、どうせ兵隊が戦死するなら、
祖国のために死んだはうが論理的であり、人間は結局個人として死ぬ以上、おのれの死を
ジャスティファイする権利をもつてゐる。

絶対的に受身の抵抗のうちに、戦死しても犬のやうに殺されたといふ実感を自ら抱いて、
死んでゆける人間は、稀に見る聖人にちがひない。
三島由紀夫「『青春監獄』の序」より

661 :
知的なものと感性的なもの、ニイチェの言つてゐるアポロン的なものとディオニソス的な
もののどちらを欠いても理想的な芸術ではない。

芸術の根本にあるものは、人を普通の市民生活における健全な思考から目覚めさせて、
ギョッとさせるといふことにかかつてゐる。

ちやうどギリシャのアドニスの祭のやうに、あらゆる穫入れの儀式がアドニスの死から
生れてくるやうに、芸術といふものは一度死を通つたよみがへりの形でしか生命を
把握することができないのではないかといふ感じがする。さういふ点では文学も古代の
秘儀のやうなものである。収穫の祝には必ず死と破滅のにほひがする。しかし死と破滅も
そのままでは置かれず、必ず春のよみがへりを予感してゐる。
三島由紀夫「わが魅せられたるもの」より

662 :
立派な芸術は積木に似た構造を持ち、積木を積みあげていくやうなバランスをもつて
組立てられてゐるけれども、それを作るときの作者の気持は、最後のひとつの木片を
積み重ねるとたんにその積木細工は壊れてしまふ、さういふところまで組立てていかなければ
満足しない。積木が完全なバランスを保つところで積木をやめるやうな作者は、私は
芸術家ぢやないと思はれる。

最後の一片を加へることによつてみすみす積木が崩れることがわかつてゐながら、最後の
木片をつけ加へる。そして積木はガラガラと崩れてしまふのであるが、さういふふうな
積木細工が芸術の建築術だと私は思ふ。
三島由紀夫「わが魅せられたるも」より

663 :
日本ではいまだに啓蒙的なインテリゲンチアが、古い日本は悪であり、アジア的なものは
後退的であると思ひ込んでゐるのは、実に簡単な理由、日本人に植民地の経験がないからである。
又、進歩主義者の民族主義が、目前の政治的事象への反撥以外に、民衆に深い共感を
与へないのも、日本人に植民地の経験がないからである。この民族主義は東南アジアでは
怖るべき力になる。

資本主義国、社会主義国いづれを問はず、結局めざましい成功を収めた経済現象の背後には、
必ず政策の成功があり、政策の基礎には民族的エネルギーに富んだ「国民的生産力」が存在する。
三島由紀夫「亀は兎に追ひつくか?――いはゆる後退国の諸問題」より

今日、伝統といふ言葉は、ほとんど一種のスキャンダルに化した。

どんな時代が来ようと、己れを高く持するといふことは、気持のよいことである。
三島由紀夫「藤島泰輔『孤独の人』序」より

664 :
この世界には美しくないものは一つもないのである。何らかの見地が、偏見ですら、
美を作り、その美が多くの眷族(けんぞく)を生み、類縁関係を形づくる。

幻想が素朴なリアリズムの足枷をはめられたままで思ふままにのさばると、かくも美に
背致したものが生れる。
三島由紀夫「美に逆らふもの」より

男性の色情が、いつも何らかの節片淫乱症(フェティシズム)にとらはれてゐるとすれば、
色情はつねに部分にかかはり、女体の「全体」の美を逸する。つまり、いかなる意味でも
「全体」を表現してゐるものは、色情を浄化して、その所有慾を放棄させ、公共的な美に
近づけるのである。

動物的であるとはまじめであることだ。笑ひを知らないことだ。一つのきはめて人工的な
環境に置かれて、女たちははじめて、自分たちの肉体が、ある不動のポーズを強ひられれば
強ひられるほど、生まじめな動物の美を開顕することを知らされる。それから突然、
彼女たちの肉体に、ある優雅が備はりはじめる。
三島由紀夫「篠山紀信論」より

665 :
風俗といふやつは、仮名遣ひなどと同様、むやみに改めぬがよろしい。
三島由紀夫「きのふけふ 羽田広場」より

母親に母の日を忘れさすこと、これ親孝行の最たるものといへようか。
三島由紀夫「きのふけふ 母の日」より

現実はいつも矛盾してゐるのだし、となりのラジオがやかましいと非難しながら、やはり
家にだつてラジオの一台は必要だといふことはありうる。
三島由紀夫「きのふける 両岸主義」より

日本はここでアジア後進国にならつて、もう少し威厳とものわかりのわるさを発揮
できないものであらうか。ものわかりのよすぎる日本人はもう沢山。
三島由紀夫「きのふけふ 威厳」より

大衆に迎合して、大衆のコムプレックスに触れぬやうにビクビクして作られた喜劇などは、
喜劇の部類に入らぬ。
三島由紀夫「八月十五夜の茶屋」より

怖くて固苦しい先生ほど、後年になつて懐かしく、いやに甘くて学生におもねるやうな先生ほど、
早く印象が薄れるのは、教育といふものの奇妙な逆説であらう。
三島由紀夫「ドイツ語の思ひ出」より

666 :
作家にとつての文体は、作家のザインを現はすものではなく、常にゾルレンを現はすものだ。

一つの作品において、作家が採用してゐる文体が、ただ彼のザインの表示であるならば、
それは彼の感性と肉体を表現するだけであつて、いかに個性的に見えようともそれは
文体とはいへない。
三島由紀夫「自己改造の試み――重い文体と鴎外への傾倒」より

はじめからをはりまで主人公が喜び通しの長編小説などといふものは、気違ひでなければ書けない。
三島由紀夫「文字通り“欣快”」より

画家と同様、作家にも純然たる模写時代模倣時代、があつてよいので、どうせ模倣するなら
外国の一流の作家の模倣と一ト目でわかるやうな、無邪気な、エネルギッシュな失敗作が
ズラリと並んでゐてほしい。

運動の基本や練習の要領については、先輩の忠告が何より実になる筈だが、文学だつて、
少なくとも初歩的な段階では、スポーツと同じ激しい日々の訓練を経なければものに
ならないのである。
三島由紀夫「学習院大学の文学」より

667 :
芸術とは物言はぬものをして物言はしめる腹話術に他ならぬ。この意味でまた、芸術とは
比喩であるのである。物言はんとして物言ひうるものは物言はしておけばよい。

作品を読むことによつてその内容が読者の内的経験に加はるやうに、一人の女の肉体を
知ることはまた一瞬の裡にその女の生涯を夢みその女の運命を生きることでもある。
三島由紀夫「川端康成論の一方法――『作品』」より

神を持つ人種と、神を持たぬ人種との間に横たはる深淵は、芸術を以てしては越えられぬ。
それを越えうるものは信仰だけである。
三島由紀夫「小説的色彩論――遠藤周作『白い人・黄色い人』」より

芸術家が芸術と生活をキチンと仕分けることは、想像以上の難事である。芸術家は、
その生活までも芸術に引つぱりこまれる危険にいつも直面してゐる。
三島由紀夫「谷桃子さんのこと」より

人間は好奇心だけで、人間を見に行くことだつてある。
三島由紀夫「奥野健男著『太宰治論』評」より

668 :
歴史の欠点は、起つたことは書いてあるが、起らなかつたことは書いてないことである。
そこにもろもろの小説家、劇作家、詩人など、インチキな手合のつけ込むスキがあるのだ。
三島由紀夫「『鹿鳴館』について」より

オルフェは誰であつてもよい。ただ彼は詩に恋すればいいのだ。日本語では妙なことに
詩と死は同じ仮名である。
三島由紀夫「元禄版『オルフェ』について」より

恋が障碍によつてますます募るものなら、老年こそ最大の障碍である筈だが、そもそも
恋は青春の感情と考へられてゐるのであるから、老人の恋とは、恋の逆説である。
三島由紀夫「作者の言葉(『綾の鼓』)」より

かういふ箇所(自然描写)で長所を見せる堀氏は、氏自身の志向してゐたフランス近代の
心理作家よりも、北欧の、たとへばヤコブセンのやうな作家に近づいてゐる。人は自ら
似せようと思ふものには、なかなか似ないものである。
三島由紀夫「現代小説は古典たり得るか 『菜穂子』修正意見」より

669 :
清洌な抒情といふやうなものは、人間精神のうちで、何か不快なグロテスクな怖ろしい
負ひ目として現はれるのでなければ、本当の抒情でもなく、人の心も搏たないといふ考へが
私の心を離れない。白面の、肺病の、夭折抒情詩人といふものには、私は頭から信用が
置けないのである。先生のやうに永い、暗い、怖ろしい生存の恐怖に耐へた顔、そのために
苔が生え、失礼なたとへだが化物のやうになつた顔の、抒情的な悲しみといふものを私は信じる。

古代の智者は、現代の科学者とちがつて、忌はしいものについての知識の専門家なのであつた。
かれらは人間生活をよりよくしたり、より快適により便宜にしたりするために貢献するのでは
なかつた。死に関する知識、暗黒の血みどろの母胎に関する知識、さういふ知識は本来
地上の白日の下における人間生活をおびやかすものであるから、一定の智者がそれを
統括して、管理してゐなければならなかつた。
三島由紀夫「折口信夫氏の思ひ出」より

670 :
(神輿の)リズムある懸声と力の行使と、どちらが意識の近くにゐるかと云へば、
ふしぎなことに、それはむしろ後者のはうである。懸声をあげるわれわれは、力を
行使してゐるわれわれより一そう無意識的であり、一そう盲目である。神輿の逆説は
そこにひそんでゐる。担ぎ手たちの声や動きやあらゆる身体的表現のうち、秩序に
近いものほど意識からは遠いのである。
神輿の担ぎ手たちの陶酔はそこにはじまる。彼らは一人一人、変幻する力の行使と懸声の
リズムとの間の違和感を感じてゐる。しかしこの違和感が克服され、結合されなければ、
生命は出現しないのである。そして結合は必ず到来する。われわれは生命の中に溺れる。
懸声はわれわれの力の自由を保証し、力の行使はたえずわれわれの陶酔を保証するのだ。
肩の重みこそ、われわれの今味はつてゐるものが陶酔だと、不断に教へてくれるのであるから。
三島由紀夫「陶酔について」より

671 :
人を脅かして、人のおどろく顔を見るといふたのしみは、たのしみの極致を行くものである。

小説家は厳密に言ふと、認識者ではなく表現者であり、表現を以て認識を代行する者である。

認識にとつて歓喜ほど始末に負へぬ敵はない。

人生が一人宛たつた一つしかないといふことは、全く不合理な、意味のない事実である。

行為とは、宿命と自由意志との間に生れる鬼子であつて、人は本当のところ、自分の行為が、
宿命のそそのかしによるものか、自由意志のあやまちによるものか、知ることなど決してできない。

人生では知らないことだけが役に立つので、知つてしまつたことは役にも立たない。
三島由紀夫「裸体と衣装」より

672 :
批評する側の知的満足には、創造といふまともな野暮な営為に対する、皮肉な微笑が、
いつまでもつきまとふことは避けられない。この世には理想主義的知性などといふものは
ないのだ。あらゆる理想主義には土方的なものがあり、あらゆる仕事は理想主義の影を伴ふ。
そして批評的知性には、本来土方の法被(はつぴ)は似つかはしくないものであるが、
批評の仕事がひとたびこの法被を身にまとふと、営々孜々として破壊作業に従事するか、
それとも対象から遠く隔たつて天空高く楼を建てるかしてしまふのである。

言葉の本質がディオニュソス的なら、文章の本質はアポロン的、といふ具合に、言葉は
私にとつてはひどく肉体的な、血や精液に充ちたものだ。
三島由紀夫「裸体と衣装」より

673 :
詩は精神が裸で歩くことのできる唯一の領域で、その裸形は、人が精神の名で想像するものと
あまりに似てゐないから、われわれはともするとそれを官能と見誤る。抽象概念は精神の
衣装にすぎないが、同時に精神の公明正大な伝達手段でもあるから、それに馴らされた
われわれは、衣装と本体とを同一視するのである。

トチリとか失敗とかは正に神秘的なもので、人間の努力の及ぶところではない。

外人がわれわれの国の踊りなり芝居なり美術品なりのイカモノに感心しようとしてゐるとき、
「あれはニセモノだよ」と冷水を浴びせてやるくらゐ愉快なことはない。
三島由紀夫「裸体と衣装」より

674 :
子供たちの目はまだ見ぬ世界への夢に輝いてゐる。この子供たちこそ世界を所有してゐるので、
世界旅行は世界を喪失することだ。尤も、生きるといふことがそもそも人生をなしくづしに
喪失してゆくことなのであるから、人間の行為と所有とは永遠に対立してゐる。

君候がいつかは人前にさらさなければならない唯一の裸の顔が、いつも決まつて恐怖の顔で
あるといふことは、何といふ不幸であらう。

ニヒリズムといふ精神状況は、本質的にエモーショナルなものを含んでゐる。
三島由紀夫「裸体と衣装」より

よく見てごらんなさい。「薔」といふ字は薔薇の複雑な花びらの形そのままだし、
「薇」といふ字はその葉つぱみたいに見えるではないか。
三島由紀夫「薔薇と海賊について」より

675 :
花柳界ではいまだに奇妙な迷信がある。不景気のときは黄色の着物がはやり、また矢羽根の
着物がはやりだすと戦争が近づいてゐるといふことがいはれてゐる。…かうした慣習や迷信は、
女性が無意識に流行に従ひ、無意識に美しい着物を着るときに、無意識のうちに同時に
時代の隠れた動向を体現しようとしてゐることを示すものである。女の人の髪形や、
洋服の形の変遷も馬鹿にはできない。そこには時代精神の、ある隠された要求が動いて
ゐるかもしれないのである。
三島由紀夫「私の見た日本の小社会」より

知的なものは、たえず対極的なものに身をさらしてゐないと衰弱する。自己を具体化し
肉化する力を失ふのである。
三島由紀夫「ボクシングと小説」より

知己は意外なところに居るものであります。
三島由紀夫「私の商売道具」より

退屈な人間は狂人に似てゐる。
三島由紀夫「大岡昇平著『作家の日記』」より

676 :
若い人の清純な心中が、忽ち伝説として流布され、「恋愛の永遠性」や「精神の勝利」の
証左にされるのは、少なくともこのやうな架空の幻影のために彼らが身命を賭したといふ
誠実さの証拠にはなる。といふのは、「恋愛の永遠性」や「精神の勝利」なるものは、
生きてゐようが、自殺してみようが、心中してみようが、青春といふ肉体的状態にとつては
不可能な文字なのであつて、青春のあらゆる特質と矛盾する性質のものであるから、
それゆゑに、さういふものは美しいのである。
三島由紀夫「心中論」より

女体を崇拝し、女の我儘を崇拝し、その反知性的な要素のすべてを崇拝することは、実は
微妙に侮蔑と結びついてゐる。(谷崎)氏の文学ほど、婦人解放の思想から遠いものは
ないのである。氏はもちろん婦人解放を否定する者ではない。しかし氏にとつての関心は、
婦人解放の結果、発達し、いきいきとした美をそなへるにいたつた女体だけだ。エロスの
言葉では、おそらく崇拝と侮蔑は同義語なのであらう。
三島由紀夫「谷崎潤一郎について」より

677 :
世の中には完全に誤解されてゐながら、絶対に誤解されてゐないといふふうに世間に
思はれてゐる人もたくさんゐる。

人間は精神だけがあるのではなくて、肉体がなぜあるのかといふと、神様が人間はなかば
シャイネン(ふりをする)の存在だとしてゐるといふことを暗示してゐると思ふ。
ザイン(存在)だけのものになつたら、シャイネンがほんたうに要らない人間になる。
それならもう社会生活も放棄し、人間生活も放棄したはうがいい。どんなに誠実さうな
人間でも、シャイネンの世界に生きてゐる。だから僕が一番嫌ひなのは、芸術家らしく
見えるといふことだ。芸術家といふものは、本来シャイネンの世界の人間ぢやないのだから。
芸術家らしいシャイネンといふものは意味がない。それは贋物の芸術家にきまつてゐる。
芸術家らしいシャイネンといへば、頭髪を肩まで伸ばして、コール天の背広を着て
歩いてゐるといふのだらうが、そんなのは贋物の絵描きにきまつてゐる。
三島由紀夫「作家と結婚」より

678 :
ゲエテがかつて「東洋に憧れるとはいかに西欧的なことであらう」と申しましたが、
これを逆に申しますと「西欧に憧れるとはいかに東洋的なことであらう」ともいへるのです。

他への関心、他の文化、他の芸術への関心を含めて、他者への関心ほど人間を永久に
若々しくさせるものはありません。
三島由紀夫「日本文壇の現状と西洋文学との関係――ミシガン大学における講演」より

679 :
絶望を語ることはたやすい。しかし希望を語ることは危険である。わけてもその希望が
一つ一つ裏切られてゆくやうな状況裡に、たえず希望を語ることは、後世に対して、
自尊心と羞恥心を賭けることだと云つてもよい。

決して後悔しないといふことは、何はともあれ、男性に通有の論理的特質に照らして、
男性的な美徳である。
三島由紀夫「『道義的革命』の論理――磯部一等主計の遺稿について」より

680 :
事実(ファクト)が一歩一歩われらを死へ追ひつめるとき、人間の弱さと強さの弁別は混乱する。
弱さとはそのファクトから目をそむけ、ファクトを認めまいとすることなのか? 
もしさうだとすれば、強さとはファクトを容認した諦念に他ならぬことになり、単なる
ファクトを宿命にまで持ち上げてしまふことになる。私には、事態が最悪の状況に
立ち至つたとき、人間に残されたものは想像力による抵抗だけであり、それこそは
「最後の楽天主義」の英雄的根拠だと思はれる。そのとき単なる希望も一つの行為になり、
つひには実在となる。なぜなら、悔恨を勘定に入れる余地のない希望とは、人間精神の
最後の自由の証左だからだ。
三島由紀夫「『道義的革命』の論理――磯部一等主計の遺稿について」より

681 :
切腹する前に刀をしっかり滅菌しておけ
三島由紀夫「裸体と衣装」より


682 :
政敵のない政治は必ず恐怖か汚濁を生む。
三島由紀夫「憂楽帳 政敵」より

プルターク英雄伝の昔から、少なくともウイーン会議のころにいたるまで、政治は巨大な
人間の演ずる人間劇と考へられてゐた。人間劇である以上、憎悪や嫉妬や友情などの
人間的感情が、冷徹な利害の打算と相まつて、歴史を動かし、歴史をつくり上げる。
三島由紀夫「憂楽帳 お見舞」より

チベットの反乱に対して、中共は断固鎮圧に当たるさうである。共産主義に対する
反乱といふ言葉は、何だか妙で、ひつかかる。

中共もエラクなつて、正義の剣をチベットに対してふるはうといふのだらうが、チベットに
潜行して反乱軍に参加しようといふ風雲児もあらはれないところをみるとどうも日本人は
弱い者に味方しようといふ気概を失つてしまつたやうだ。世界中で一番自分が弱い者だと
思つてゐる弱虫根性が、敗戦後日本人の心中深くひそんでしまつたらしい。
三島由紀夫「憂楽帳 反乱」より

683 :
どうも私は、民主政治家の「強い政治力」といふ表現が好きでない。(中略)
強面で通して、実は妥協すべきところでは妥協する、といふのと、表面実にたよりなく、
ナヨナヨしながら、実は抜け目なく通すべき筋はチャンと通す、といふのと、どつちが
民主主義の政治家として本当かと考へると、明らかに後者のやうに思はれる。
三島由紀夫「憂楽帳 強い政治力」より

思想といふものは、古からうが、新らしからうが、所詮は人間の持物で、その思想に
ふさはしい器となる人物は、とにかく魅力を持ちつづける。
三島由紀夫「憂楽帳 思想の容器」より

684 :
一九五九年の、月の裏側の写真は、人間の歴史の一つのメドになり、一つの宿命になつた。
それにしても、或る国の、或る人間の、単一の人間意志が、そのまま人間全体の宿命に
なつてしまふといふのは、薄気味のわるいことである。広島の原爆もまた、かうして
一人の科学者の脳裡に生れて、つひには人間全体の宿命になつた。
こんなふうに、人間の意志と宿命とは、歴史において、喰ふか喰はれるかのドラマを
いつも演じてゐる。今まで数千年つづいて来たやうに、(略)…人間のこのドラマが
つづくことだけは確実であらう。ただわれわれ一人一人は、宿命をおそれるあまり
自分の意志を捨てる必要はないので、とにかく前へ向つて歩きだせはよいに決つてゐる。

結婚の美しさなどといふものは、ある程度の幻滅を経なければわかるものではない。

子供は天使ではない。従つて十分悪の意識を持ち得る。そこに教育の根拠があるのだ。
三島由紀夫「巻頭言(『婦人公論』)」より

685 :
現実といふものは、いろんな面を持つてゐる。火口を眺め下ろした富士の像は、現実暴露
かもしれないが、麓から仰いだ秀麗な富士の姿も、あくまで現実の一面であり一部である。
夢や理想や美や楽天主義も、やはり現実の一面であり一部であるのだ。

古代ギリシャ人は、小さな国に住み、バランスある思考を持ち、真の現実主義をわがものに
してゐた。われわれは厖大な大国よりも、発狂しやすくない素質を持つてゐることを、
感謝しなければならない。世界の静かな中心であれ。
三島由紀夫「世界の静かな中心であれ」より

686 :
教育も教育だが日本人と生まれて、西鶴や近松ぐらゐが原文でスラスラ読めないで
どうするのだ。秋成の雨月物語などは、ちよつと脚注をつければ、子供でも読めるはずだし、
カブキ台本にいたつては、問題にもならぬ。それを一流の先生方が、身すぎ世すぎのために、
美しからぬ現代語訳に精出してゐるさまは、アンチョコ製造よりもつと罪が深い。
みづから進んで、日本人の語学力を弱めることに協力してゐるからである。

現代語訳などといふものはやらぬにこしたことはないので、それをやらないで滅びて
しまふ古典なら、さつさと滅びてしまふがいいのである。ただカナばかりの原本を、
漢字まじりの読みやすい版に作り直すとか、ルビを入れるとか、おもしろいたのしい
脚注を入れるとか、それで美しい本を作るとか、さういふ仕事は先生方にうんとやつて
もらひたいものである。
三島由紀夫「発射塔 古典現代語訳絶対反対」より

687 :
ユーモアや哄笑は、無力な主人公や、何らなすところなきフーテン的人物のみの
かもし出すものではないと信ずる。有為な人物はユーモリストであり、ニヒリストは
なほさら哄笑する。
三島由紀夫「発射塔 ヒロイズム」より

だれだつて年をとるのだから声変はりもしようし、いつまでもキイキイ声ばかり張り上げても
ゐられない。古くなる覚悟は腹の底にいつでも持つてゐなければならない。その時がきたら
ジタバタして、若い者に追従を言つたりせず、さつさと古くなつて、堂々とわが道をゆく
ことがのぞましい。
しかし「オレはもう古いんだぞ。古くなつたんだぞ」と、吹聴してまはるのもみつともない。
オールドミスが「私、もうおばあさんだから」と言つてまはるのと同じことだ。古くなるには、
やはり黙つて、堂々と、新しさうな顔をしたまま平然と古くなつてゆくべきだらう。
三島由紀夫「発射塔 古くなる覚悟」より

自分に似合はないものを思ひ切つて着る蛮勇といふものも、作家の持つべき美徳の一つである。
三島由紀夫「発射塔 文壇衣装論」より

688 :
サドの文学はヒューマニズムで擁護される性質のものではない。また、芸術的見地から
弁護される性質のものではない。サドはこの世のあらゆる芸術の極北に位し、芸術による
芸術の克服であり、その筆はとつくに文学の領域を踏み越えてしまつてゐた。時代を経て
徐々にその毒素を失ふのが、あらゆる芸術作品の通例だが、サドほど、何百年を経ても
その毒素を失はない作家はなからう。それはあらゆる政治形態にとつての敵であり、
サドを容認する政府は、人間性を全的に容認する政府であつて、そんなものは政府の
埒外に在るから、政府は一日も存続しまい。つまりサドは芸術のみならず、政治に対しても、
政治による政治の克服、政治が政治を踏み越えることを要求せずにゐないのだ。
三島由紀夫「受難のサド」より

胃痛のときにはじめて胃の存在が意識されると同様に、政治なんてものは、立派に動いて
ゐれば、存在を意識されるはずのものではなく、まして食卓の話題なんかになるべき
ものではない。政治家がちやんと政治をしてゐれば、カヂ屋はちやんとカヂ屋の仕事に
専念してゐられるのである。
三島由紀夫「一つの政治的意見」より

689 :
主知主義の能力の限界は、人間が生の非連続性に耐へ得る能力の限界である。この限界を
究めようとする実験は、主知主義の側から、しばしば、且つ大規模に試みられたが、
ゆきつくところは、個人的な倫理の確立といふところに落ちつかざるをえない。
三島由紀夫「『エロチシズム』――ジョルジュ・バタイユ著 室淳介訳」より

実業人と文士のちがふところは、実業人は現実に徹しなければならないのだが、小説家は
この世の現実のほかのもう一つの現実を信じなければならぬといふことにあるのだらう。
そのもう一つの現実をどうやつて作り出すかといふと、その原料になるものは、やはり
少年時代の甘美な「文学へのあこがれ」しかない。その原料自体は、お粗末で無力な
ものであるが、それを精錬し、鍛へ、徐々に厚く鞏固に織り成して、はじめはフハフハした
靄にすぎぬものから、鉄も及ばぬ強靭な織物を作り出さねばならない。「人生は夢で
織られてゐる」とシェークスピアも言ふ。
その夢の原料は、やはり少年時代に、
つまりはあの汚ない、埃だらけの文芸部室にあつたと思ふのである。
三島由紀夫「夢の原料」より

690 :
作家の思想は哲学者の思想とちがつて、皮膚の下、肉の裡、血液の流れの中に流れなければ
ならない。

あるとき野球部に入つてゐる友だちが、肺浸潤の診断をうけて学校を休みだす直前、
かへりの電車の中で、突然私にかうきいた。
「君は sterben(死)する覚悟はあるかい?」
私は目の前が暗くなるやうな気がし、人生がひとつもはじまつてゐないのに、今死ぬのは
たまらない、といふ感じが痛切にした。
それから半年ほどのちその友だちは死んだ。(中略)
「君は sterben する覚悟はあるかい?」
といふ死んだ友人の言葉が又ひびいて来る。さうまともにきかれると、覚悟はないと
答へる他はないが、死の観念はやはり私の仕事のもつとも甘美な母である。
三島由紀夫「十八歳と三十四歳の肖像画」より

691 :
簡素、単純、素朴の領域なら、西洋が逆立ちしたつて、東洋にかなふわけはないのである。
三島由紀夫「オウナーの弁――三島由紀夫邸のもめごと」より

私は球戯一般を好まない。直接に打つたりたたいたり、ぢかな手ごたへのあるものでないと
興がわかない。見るスポーツもさうである。芸術にしろスポーツにしろ、社会の一般的に
許容しないところのものが、芸術でありスポーツであるが故に許される、といふのが
私の興味の焦点だ。
三島由紀夫「余暇善用――楽しみとしての精神主義」より

犬が人間にかみつくのではニュースにならない。人間が犬にかみつけばニュースになる。
ぼくら小説家は、いつも犬が人間にかみつくことに、かみついてゐるわけだ。

映画俳優は極度にオブジェである。

映画の匂ひをかいだり、少しでもその世界に足をふみ入れた人間には、なにか毒がある。
三島由紀夫「ぼくはオブジェになりたい」より

舞台の夜空に描きこまれたキラキラする金絵具の星のやうな、安つぽいロマンスこそ
女の心を永久に惹きつけるものだ。
三島由紀夫「『からっ風野郎』の情婦論」より

692 :
作家あるひは詩人は、現代的状況について、それを分析するよりも、一つの象徴的構図の下に
理解することが多い。それは多少夢の体験にも似てゐる。ところで犯罪者もこれに似て、
かれらも作家に似た象徴的構図を心に抱き、あるひはそのオブセッションに悩まされてゐる。
ただ作家とちがふところは、かれらは、ある日突然、自分の中の象徴的構図を、何らの
媒体なしに、現実の裡に実現してしまふのである。自分でもその意味を知ることなしに。
三島由紀夫「魔――現代的状況の象徴的構図」より

決して人に欺されないことを信条にする自尊心は、十重二十重の垣を身のまはりにめぐらす。

目がいつもよく利きすぎて物事に醒めてゐる人の座興や諧謔といふものは、ふつうでは
厭味なものだ。
三島由紀夫「友情と考証」より

作家にとつて、栄光といふものは、奇妙な疥癬(かいせん)みたいなもので、その痒みは
一種の快感であり、それをかくことは一種の快楽にほかならないが、それは仕方なしに
くつついて来たものにすぎない。
三島由紀夫「川端康成氏と文化勲章」より

処女作とは、文学と人生の両方にいちばん深く足をつつこんでゐる。
三島由紀夫「『未青年』出版記念会祝辞」より

693 :
人間は、自分のこととなれば、自分が実在するかどうかは大問題であつて、もし実在しない
といふ結論が出れば大変なことになるが、他人のこととなると、他人の実在如何は大して
気にかけないといふ性質がある。

われわれはめつたに会つたことのない遠い親戚なんかよりも、好きな小説の主人公のはうに
はるかに実在感を持つてゐる。
三島由紀夫「映画『潮騒』の想ひ出」より

青年の冒険を、人格的表徴とくつつけて考へる誤解ほど、ばかばかしいものはない。
三島由紀夫「堀江青年について」より

日本の芸能界では、憎まれたら最後、せつかくもつてゐる能力も発揮できなくなるおそれがある。
三島由紀夫「現代女優論――越路吹雪」より

一度自分の味はつた陶酔を人に伝へようとする努力は、奇妙に生理に逆行する。意気沮喪
するやうな努力である。
三島由紀夫「『花影』と『恋人たちの森』」より

694 :
処女作とは、文学と人生の両方にいちばん深く足をつつこんでゐる。だから、それを
書いたあとの感想は、人生的感想によく似て来るのです。
三島由紀夫「『未青年』出版記念会祝辞」より

どんな芸術でも、根本には危機の意識があることは疑ひを容れまい。原始芸術にはこの危機が、
自然に対する畏怖の形でなまなましく現はれてゐたり、あるひはその反対に、自然を
呪伏するための極端な様式化になつて現はれてゐたりする。
三島由紀夫「危機の舞踊」より

青春が誤解の時期であるならば、自分の天性に反した文学的観念にあざむかれるほど、
典型的な青春はあるまい。またその荒廃の過程ほど典型的な荒廃はあるまい。しかも
そのあざむかれた自分を、一つの個性として全的に是認すること。……これは佐藤氏より
小さな規模で、今日われわれの周囲にくりかへされてゐる。
三島由紀夫「青春の荒廃――中村光夫『佐藤春夫論』」より

近代ヒューマニズムを完全に克服する最初の文学はSFではないか。
三島由紀夫「一S・Fファンのわがままな希望」より

695 :
マインドコントロールなければ割腹自殺などできるものではない。
三島由紀夫「危機の舞踊」より

696 :
嘘八百の裏側にきらめく真実もある。
三島由紀夫「『黒蜥蜴』について」より

二流のはうが官能的魅力にすぐれてゐる。
三島由紀夫「ギュスターヴ・モロオの『雅歌』――わが愛する女性像」より

人がやつてくれないなら、自分がやらねばならぬ。
三島由紀夫「ジャン・コクトオの遺言劇――映画『オルフェの遺言』」より

お客を怒らすことは必要だがナメることは禁物だ、といふのが、すべてのショウ・ビジネス
(古典から前衛にいたる)の鉄則だらう。
三島由紀夫「Four Rooms」より

顔と肉体は、俳優の宿命である。いつも思ふことだが、俳優といふものは、宿命を外側に
持つてゐる。一般人もある程度さうだが、文士などの場合は、その程度は殊に薄くて、
彼ははつきり宿命を内側に持つてゐる。これは職業の差などといふよりは、人間の
在り方の差で、宿命を外側に持つ人間と、内側に持つ人間との、両極端の代表的存在が、
俳優と文士といふものだらうと思はれる。

本当の芸の境地は、競争や戦ひの向うにある。
三島由紀夫「若尾文子讃」より

697 :
男らしさとは、対女性的観念ではなく、あくまで自律的な観念であつて、ここで
考へられてゐる男とは、何か青空へ向つて直立した孤独な男根のごときものである。
男らしさを企図する人間には、必ずファリック・ナルシシズムがある。

「男らしさ」といふことの価値には、一種の露出症的なものがあり、他人の賞賛が
必要なのである。

真に独創的な英雄といふものは存在しない。

あと何百万年たつても、女が男にかなはないものが二つある。それは筋肉と知性である。
三島由紀夫「私の中の“男らしさ”の告白」より

私の文学の母胎は、偉さうな西欧近代文学なんぞではなくて、もしかすると幼時に耽溺した
童話集なのかもしれない。目下SFに凝つてゐるのも、推理小説などとちがつて、それは
大人の童話だからだ。
三島由紀夫「こども部屋の三島由紀夫――ジャックと豆の木の壁画の下で」より

698 :
文学の勉強といふのは、とにかく古典を読むことに尽きるので、自国の古典に親しんだのち、
この世界文学の古典に親しめば、鬼に金棒である。

古典の面白さを一度味はつたら、現代文学なんかをかしくて読みなくなる危険がある。
三島由紀夫「小説家志望の少年に(『世界古典文学全集』推薦文)」

古典文学に親しむ機会の少なかつたことが、大正以後の日本文学にとつて、どれだけ
マイナスになつてゐるか。又、大正以後の知識人の思考の浅薄をどれだけ助長したかは、
今日、日ましに明らかになりつつある事実である。
三島由紀夫「時宜を得た大事業(『日本古典文学大系 第二期』推薦文)」より

文学だらうと、何だらうと、簡明が美徳でないやうな世界など、犬に食はれてしまふがいい。

文学が人の心を動かす度合は、享受者の些末な窄い関心事をのりこえて、文学独特の世界へ
引きずりこむだけの力を備へてゐるかどうかによつて測られる。
三島由紀夫「胸のすく林房雄氏の文芸時評」より

699 :
旅では、誰も知るやうに、思ひがけない喜びといふものは、思ひがけない蹉跌に比べると、
ほぼ百分の一、千分の一ぐらゐの比率でしか、存在しないものである。

私はいつも人間よりも風景に感動する。小説家としては困つたことかもしれないが、
人間は抽象化される要素を持つてゐるものとして私の目に映り、主としてその問題性によつて
私を惹きつけるのに、風景には何か黙つた肉体のやうなものがあつて、頑固に抽象化を
拒否してゐるやうに思はれる。自然描写は実に退屈で、かなり時代おくれの技法であるが、
私の小説ではいつも重要な部分を占めてゐる。

小説の制作の過程では、細部が、それまで眠つてゐた或る大きなものを目ざめさせ、
それ以後の構成の変更を迫ることが往々にして起る。したがつて、構成を最初に立てることは、
一種の気休めにすぎない。
三島由紀夫「わが創作方法」より

700 :
人のよい読者は、作家によつて書かれた小説作法といふものを、小説書き初心者のための
親切な入門書と思つて読むだらうが、それは概して、たいへんなまちがひである。
作家は他の現代作家の方法意識の欠如、甘つちよろさ、無知、増上慢、などに対する
限りない軽蔑から、自分の小説作法を書くであらう。
三島由紀夫「爽快な知的腕力――大岡昇平『現代小説作法』」より

自分に関するおしやべりが人を男らしくするといふことは、至難の業である。
三島由紀夫「アメリカ版大私小説―N・メイラー作 山西英一訳『ぼく自身のための広告』」より

いささかの誤解も生まないやうな芸術は、はじめから二流品である。

われわれは美の縁(へり)のところで賢明に立ちどまること以外に、美を保ち、それから
受ける快楽を保つ方法を知らないのである。
三島由紀夫「川端康成読本序説」より

701 :
大体、時代といふものは、自分のすぐ前の時代には敵意を抱き、もう一つ前の時代には
親しみを抱く傾きがある。
三島由紀夫「明治と官僚」より

日本人は、改革の情熱よりも、復興の情熱に適してゐるところがある。
三島由紀夫「幸せな革命」より

小さくても完全なものには、巨大なものには、求められない逸楽があり、必ずしも
偉大でなくても、小さく澄んだ崇高さがありうる。
三島由紀夫「宝石づくめの小密室」より

日本には妙な悪習慣がある。「何を青二才が」といふ青年蔑視と、もう一つは「若さが
最高無上の価値だ」といふ、そのアンチテーゼとである。私はそのどちらにも与しない。
小沢征爾は何も若いから偉いのではなく、いい音楽家だから偉いのである。
三島由紀夫「小沢征爾の音楽会をきいて」(昭和38年)より

702 :
猫は何を見ても猫的見地から見るでせうし、床屋さんは映画を見てもテレビを見ても、
人の頭ばかり気になるさうです。世の中に、絶対公平な、客観的な見地などといふものが
あるわけはありません。われわれはみんな色眼鏡をかけてゐます。そのおかげで、
われわれは生きてゐられるともいへるので、興味の選択ははじめから決つてをり、
一つ一つの些事に当つて選択を迫られる苦労もなく、それだけ世界はきれいに整備され、
生きるたのしみがそこに生じます。
しかし人生がそこで終ればめでたしですが、まだ先があります。同じ色眼鏡が、
ほかの人の見えない地獄や深淵をそこに発見させるやうになります。猫は猫にしか見えない
猫の地獄を見出し、床屋さんは床屋さんにしか見えない深淵を見つけ出します。
三島由紀夫「序(久富志子著『食いしんぼうママ』)」より

若い女性の多くは、能楽を、退屈に感じて見たがらない。そして、日本でしか、
日本人しか、真に味はふことのできぬ美的体験を自ら捨ててゐるのだ。
三島由紀夫「能――その心に学ぶ」より

703 :
この世は巨大な火葬場だ。それなら、地獄の火にも涼しい顔をして生きなければならないが、
現代はどうもそればかりではないらしい。地獄の焔が、つかんでも、スルスル逃げて
しまふのである。そして頬に当るのは生あたたかい風ばかりである。

幼少のころ病弱で、このごろになつてバカに健康第一になつた私などには、殊に健康の
有難味がわかる一方、生れつき健康な人の知らない、肉体的健康の云ひしれぬ不健全さも
わかるのである。
健康といふものの不気味さ、たえず健康に留意するといふことの病的な関心、各種の
運動の裡にひそむ奇怪な官能的魅力、外面と内面とのおそろしい乖離、あらゆる精神と
神経のデカダンスに青空と黄金の麦の色を与へる傲慢、……これらのものは、ヒロポンも
阿片も、マリワーナ煙草も、ハシシュも、睡眠薬も、決して与へない奇怪な症状である。
三島由紀夫「最近の川端さん」より

704 :
ボクシングのいい試合を見てゐると、私はくわうくわうたるライトに照らされたリングの
四角の空間に、一つの集約された世界を見る。行動する人間にとつては、世界はいつも
こんなふうに単純きはまる四角い空間に他ならない。世界を、こんがらかつた複雑怪奇な
場所のやうに想像してゐる人間は、行動してゐないからだ。そこへ二人の行動家が登場する。
そしてもつとも単純化された、いはば、もつとも具体的で同時にもつとも抽象的な、
疑ひやうのない一つの純粋な戦ひが戦はれる。さういふときのボクサーには、完全な
人間とは本来かういふものではないか、と思はせるだけの輝きがある。
三島由紀夫「ウソのない世界――ひきつける野生の魅力」より

狂言の「釣狐」ではないけれど、狐はある場合は、敢然と罠に飛び込むことで、彼自身が
狐であることを実証する。それは狐の宿命、プロ・ボクサーの宿命のごときものであらう。
三島由紀夫「狐の宿命(関・ラモス戦観戦記)」より

705 :
僕は空を飛ぶのに、思想と肉体と両方で飛びたかつたんだ。

足さへ折らなけりや、今ごろは派手な海軍将校さ。……自爆さ……ドドーン、キュウ……
特攻精神の権化になつてるよ、今ごろは。特攻隊といふもの、あれがわれわれの唯一の
青春なんだからな。……今の時代でいちばんアルトハイデルベルヒ的な青春は特攻隊にしか
ないんだからな。……これはまあ、俺も承認する事実だよ。時代の宿命みたいなものだもの。

どうして飛行機を作るより、飛行機に乗りたいとばかり思ふんだらう。弾丸の中をくぐる生活、
それしか安全な生活はないやうな気が僕はするんだ。かうしてただ何かを待つてゐるほど、
危険なことはないやうな気がするんだ。

動いてゐない人間の顔つて、何て醜いんだらう。動いてゐない水のおもてとおんなじなんだ。
頑固で、貧しくて、固くて。

人間、憎しみといふ感情を忘れてゐるときほど、素直になれることはない。
三島由紀夫「魔神礼拝」より

706 :
共産主義は資本主義経済内部の一現象にすぎん。資本主義に出来たおできみたいなものだな。
いづれは凹まなければならんものだ。あれは「理想」といふものぢやない。

君にはわからない。おほぜいの盲人の中で、自分一人目がさめてゐると感じることが
どんな苦しみだか。気違ひの中で自分一人が正気だと感じ、大ぜいの馬鹿の中で自分一人が
利巧だと感じること、こいつは決して永保ちのする感じ方ぢやない。もし永保ちすれば、
それは偽物だね。

理想に殉ずるといふことは美しいことだ。

人間が作つたものは、大きければ大きいほど、広ければ広いほど、高ければ高いほど、
不安定になつてしまふ。

がむしやらにうどんを呑み込むやうに時間といふ奴をつるつる呑み込んで、いつか
そのうちに顎の下に山羊みたいなまつ白な毛が生えてくるのを待てばいいのさ。
人生といふ奴は毛生え薬だ、同時に脱毛剤さ。
三島由紀夫「魔神礼拝」より

707 :
一体、赤紙の召集ぢやあるまいし、芝居の大事なお客さまを「動員」するなどといふのは、
失礼な話だ。

芝居のお客は、窓口で、個々人の判断で、切符を買つてくれる人が、あくまで本体である。
われわれ小説家の著書を、団体で売りさばくといふ話はきいたことがない。部数の大小に
かかはらず、われわれの本は、われわれの仕事に興味を持つてくれる人の手へ、直接に
流れてゆくのであつて、さういふ読者の支持によつて、はじめてわれわれの仕事も実を
結ぶのである。

芝居といふものは絵空事で、絵空事のうちに真実を描くのだ。
三島由紀夫「私がハッスルする時――『喜びの琴』上演に感じる責任」より

芝居はとにかく芝居なのであつて、それ以下のものでも、それ以上のものでもない。
芝居を「しばや」と発音するほどの年齢の人にも、楽しんでもらへるのが芝居といふものだ。
三島由紀夫「三島さんと『喜びの琴』」より

708 :
旅は古い名どころや歌枕を抜きにしては考へられない。

旅には、実景そのものの美しさに加へるに、古典の夢や伝統の幻や生活の思ひ出などの、
観念的な準備が要るのであつて、それらの観念のヴェールをとほして見たときに、
はじめて風景は完全になる。

ストリップこそわが古典芸能の源であり、女性美の根本である。

苦行の果てにはかならずすばらしい景色が待つてゐる。

観光地といへば、パチンコ屋とバーと土産物屋が蠅のやうにたかつて来てそこを真黒に
してしまふ大都市の周辺は、私に黒人共和国ハイチの不潔な市場を思ひ出させる。
いやに真黒なものばかり売つてゐるな、と思つて近づくと、それがみな食料品に隙間なく
たかつた蠅なのだ。しかしバーや土産物屋などの蠅よりも、一等始末のわるいのは、
音を出す拡声器といふ蠅である。
三島由紀夫「熊野路――新日本名所案内」より

709 :
「BL作品の氾濫は少子化の原因。児童ポルノとは別枠で小説も含めた厳しい規制が必要」
「ゲーム脳」の提唱者・森昭雄日大教授の新著「ボーイズラブ亡国論」(産経新聞社刊)
http://toki.2ch.sc/test/read.cgi/news2/1221494175/

710 :
東京のあわたゞしい生活の中で、高い精神を見失ふまいと努めることは、プールの飛込台の上で
星を眺めてゐるやうなものです。といふと妙なたとへですが、星に気をとられてゐては、
美しいフォームでとびこむことができず、足もとは乱れ、そして星なぞに目もくれない人々に
おくれをとることになるのです。夕刻のプールの周辺に集まつた観客たちは、選手の目に
映る星の光など見てくれません。たゞかれらの目に美しくみえるフォームでとびこんで
くれることを要求するのです。
『私が第一行を起すのは絶体絶命のあきらめの果てである。つまり、よいものが書きたいとの
思ひを、あきらめて棄ててかかるのである』川端康成氏にかつてこのやうな烈しい告白を
云はせたものが何であるかだんだんわかつてまゐりました。しかも川端氏のやうなこの一言が
云へる境地に、一体達することができるかしら、とたへず不安に見舞はれます。

――たゞ一意専念、あの未知の国から一条の光をこの地上へもたらせば私の仕事はすみます。
三島由紀夫
昭和23年3月23日、伊東静雄ヘの書簡より

711 :
「生きるために必要な、といふギリギリのところで已(や)むに已まれず生み出される
文学」とは何でせうか。
今までの日本の告白小説家のやうな泣きっ面を、――男子としてあるまじき泣きっ面を――
小説のなかで存分に演じてみせることが、即ち「生きるための文学」であるといふ、
さういふ滑稽なプリミティーブな考へ方に僕は耐へられません。僕にはわづかながら
遠いサムラヒの血が、それも剛直な水戸ッ子の血が流れてゐます。僕の文学は、腹を狼に
喰ひ裂かれながら声一つあげなかつたといふスパルタの少年に倣ひたいのです。その少年の
莞爾(くわんじ)とした微笑に似た長閑(のどか)な閑文学(とみえるもの)に僕は
生命を賭けます。僕は「狼来(きた)りぬ」といふあの臆病な子供になりたくありません。
もつとよい比喩がここにございます。我子の死に会つて数分後に舞台へかけつけなければ
ならなかつた喜劇俳優が、その時示した絶妙の技、さういふものにこそ僕は憧れるのです。
三島由紀夫
昭和22年11月4日、林房雄への書簡より

712 :
その喜劇俳優にとつて、喜劇といふ芸術は何ものでせうか。逃避でせうか。自嘲でせうか。
僕には彼の悲しみの唯一無二の表現形式として喜劇があるのだと考へられます。彼は
悲しみを決して涙としてあらはしてはならなかつたのです。それを笑ひとして示さねば
ならなかつたのです。
文学における永遠不朽な「情痴」の主題、僕はそれをこの「笑ひ」だと考へます。
「戯作」と云つても同じことでございませう。

あらゆる種類の仮面のなかで、「素顔」といふ仮面を僕はいちばん信用いたしません。
三島由紀夫
昭和22年11月4日、林房雄への書簡より
美しい日本語を守りたいと思ひます。日本語を土足でふみにじる新進作家諸賢に憎悪を抱きます。
三島由紀夫
昭和22年11月26日、林房雄への書簡より

713 :
「いやな感じ」といふのは、裏返せば「いい感じ」といふことである。

人間と世界に対する嫌悪の中には必ず陶酔がひそむことは、哲学者の生活体験からだけ
生れるわけではない。行為者も亦、そのやうにして世界と結びつく瞬間があるのだ。
三島由紀夫「いやな、いやな、いい感じ(高見順著『いやな感じ』)」より

異国趣味と夢幻の趣味とは、文学から力を失はせると共に、一種疲れた色香を添へるもので、
世界文学の中にも、二流の作品と目されるものの中に、かういふ逸品の数々があり、
さういふ文学は普遍的な名声を得ることはできないが、一部の人たちの渝(かは)らぬ
愛着をつなぎ、匂ひやかな忘れがたい魅力を心に残す。

学生に人気のある、甘い賑やかな感激家の先生には、却つて貧寒な、現実的な魂しか
備はつてゐないことが多い。

正確な無味乾燥な方法的知識のみが、夢へみちびく捷径(せふけい)である。
三島由紀夫「夢と人生」より

714 :
日本人は何と言つても和服を着た姿が、一等立派で一等美しい。女も男もさうである。
三島由紀夫「『恋の帆影』について」より

現在は死灰に化してゐる。「希望は過去にしかない」のである。
三島由紀夫「あとがき(『三熊野詣』)」より

男が男であるためにつまづく、といふ例は現代ではますます少なくなつてゆく。男性の
女性化とは、男性の自己保全であり、なるたけ安全に生きよう、失敗しないで生きようと
することを意味します。
三島由紀夫「『複雑な彼』のこと」より

不感症は、戦後の性知識の過度の普及に対する、皮肉な反撃のやうに思はれる。

不感症は凝つた性的技巧などで癒されるものではなく、何か「自然の発露」といふやうな形で、
人間のもつとも柔軟な心の再発見といふやうな形で、癒されてゐる。
三島由紀夫「真実の教訓――選評」より

715 :
相手を自分より無限に高いものとして憧れる気持は、半ばこちらの独り合点である場合が多い。
それがわかつて幻滅を感じても、自分の中の、高いもの美しいもの、美しいものへ憧れた
気持は残る。
三島由紀夫「愛(エロス)のすがた――愛を語る」より

憧れるとは、対象と自分との同一化を企てることである。従つて、異性に向つて憧れる、
といふのは、言葉の矛盾のやうに思はれる。
三島由紀夫「わが青春の書――ラディゲの『ドルヂェル伯の舞踏会』」より

フランス人のドイツ恐怖はむしろ民衆の感性であつて、歴史上からも、フランス人は
ドイツに対する愛好心を貴族の趣味として伝へてきた。外交官でもあり、社交界に
精通したジロオドウの中には、このやうな貴族趣味が生き永らへてゐて、彼の親独主義は、
別に現実政治と見合つたものではない。いがみ合ひは民衆のやることであつて、
ドイツだらうが、フランスだらうが、貴族はみんな親戚なのだ。
三島由紀夫「ジークフリート管見――ジロオドウの世界」より

716 :
万物は落ち、あらゆる人間的な企図は人間の手から辷り落ちる。しかし落ちることのこの
スピードと快さと自然さに、人間の本質的な存在形態があることに詩人が気づくとき、
詩人はもはや天使の目ではなく、人間の目で人間を見てゐるのである。
三島由紀夫「跋(高橋睦郎著『眠りと犯しと落下と』)」より

時は移り、青春は移る。あるひは、文学は不変で、そこに描かれた青春も不変である。
三島由紀夫「(『われらの文学』推薦文)」より

本当に危険な作品は、感覚的な作品だ。どんな危険思想であつても、論理自体は社会的
タブーを犯さぬのであつて、サドのやうな非感覚的な作家の安全性はこの点にある。

これ(言語による言語からの脱出といふ自己撞着)を突破したのはアルチュール・
ランボオ唯一人だが、われわれが言語を一つの影像として定着するときに、われわれは
すでに自ら一つの脱出口を閉鎖したのである。
三島由紀夫「現代文学の三方向」より

717 :
ものごとの表面ほど、多く語るものはない。
不安自体はすこしも病気ではないが、「不安をおそれる」といふ状態は病的である。
三島由紀夫「床の間には富士山を――私がいまおそれてゐるもの」より

すべてのスポーツには、少量のアルコールのやうに、少量のセンチメンタリズムが含まれてゐる。
三島由紀夫「『別れもたのし』の祭典――閉会式」より

美容整形も、因果物師も、紙一重のやうな気もする。因果物師とは、むかし見世物に出す
不具者ばかりを扱つた卑賎な仕事で、それだけならいいが、むかしの支那では、
子供のときから畸形をつくるために、人間を四角い箱に押しこめて、首と手足だけ出させて
育てたなどといふ奇怪な話が伝はつてゐる。美と醜とは両極端だが、実はそれほど
遠いものではない。
三島由紀夫「『美容整形』この神を怖れぬもの」より

718 :
僕たちにおそろしい妄想を見せるのは臆病といふ病気ですよ。僕たちを縛つてゐるのは
僕たち自身ぢやありませんか。みんな仮の名に、仮の姿におびえてゐるんです。

幸福な思ひ出は不幸な思ひ出よりも人を臆病にさせるものなのよ。
三島由紀夫「灯台」より

太七:船軍で攻められては
源五:たちまち雑魚の佃煮で
弥三:茶漬にして喰はるるまで
岩次:胃の腑の地獄の三丁目
玉市:鱗で涙が
一同:拭かれうか。

人は最期の一念によつて生(しやう)を引く。ふたたび波の越えざる隙に、とくとく
追ひつき奉らん。
三島由紀夫「椿説弓張月」より

719 :
緊張ばかりしてゐては疲れてしまふといふのは怠け者の考へで、弛緩こそ病気のもとで
あることはよく知られてゐる。いけないのはテレビ・プロデューサーのやうな末梢神経の
緊張の連続であつて、豹のやうに、全身的緊張を即座に用意できる生活こそ、健康な生活で
あることは言ふまでもない。

テレビによつて、いくらでも雑多な知識がひろく浅く供給されるから、暇のある人は
テレビにしがみついてゐれば、いくらでも知識が得られる代りに、「中国核実験」と
「こんにちは赤ちゃん」をつなぐことは誰にもできず、知識の綜合力は誰の手からも
失はれてゐる。無用の知識はいくらでもふえるが、有用な知識をよりわけることはますます
むづかしくなり、しかも忘却が次から次へとその知識を消し去つてゆく。
三島由紀夫「秋冬随筆」より

720 :
若いやつの死だけが、豪勢で、贅沢なのさ。だつてのこりの一生を一どきに使つちやふんだ
ものな。若いやつの死だけが美しいのさ。それはまあ一種の芸術だな。もつとも自然に
反してゐて、しかも自然の一つの状態なんだから。

デカダンばつかりですからね。それにみんな半病人ですから、自分の個体の存続にばかり
気をとられて、国の永遠の生命といふものを見失つてますからな。

喜んで国のために死ぬといふことと、真理探究とは、両立すると俺は思つてゐる。

人間つて、自分が思ひ込んだとほりのものになるものでねえ。ジャン・コクトオが面白い
ことを言つてゐる。「ヴィクトル・ユウゴオは、自らヴィクトル・ユウゴオだと信じた
狂人だつた」と。諸君はひよつとすると、自ら無気力だと信じてゐる狂人なんぢや
ありませんかね。

日本が敗けたことが何ともないのか。だから俺はインテリがきらひなんだ。きんたまの
ない男をインテリといふんだよ。きんたまがあつたら、祖国が野蛮人の前に膝を屈するのを
黙つて見てゐられるか。
三島由紀夫「若人よ蘇れ」より

721 :
・東京オリンピックの開会式は昭和39年10月10日
日本中が沸き立った民族の祭 典だった。中国はこれをボイコットし
その開会式の6日後に中国初の原爆実験を行った
・中国は昔から日本女子バレーの練習場にコンクリのコートをあてがっていた
・ 北京オリンピックでバドミントンの小椋久美子、潮田玲子組が中国ペアと
対戦した際、中国選手がスマッシュを打つたびに、会場全体で
「シャーッ!「殺せ!」という掛け声を浴びせられた。
潮田は帰り際に内容を聞いて
 「怖いです。怖いです」と何度も口にして震えていた。
平和の祭典の筈なのに、一糸乱れぬ殺せコール。 ある中国人によると
支那の公開銃殺で見物人が「殺!殺!」と騒ぐ、あのノリと全く同じだったらしい。
・北京オリンピック女子サッカーなでしこジャパン対アメリカ戦
すでに中国戦は終わっているはずなのにわざわざ会場を中国人が埋め尽くし
アメリカが日本に同点に追いつくと、スタジアムは大歓声
映像にはアメリカ人の周囲の中国人観客も喜んでいるシーンが何度も流された。
一方日本の選手がアメリカゴールへ突進すると
スタジアム内がまるで地鳴りのような猛烈なブーイング。
・北京オリンピック男子400メートルリレー、始まる前は
ジャーヨ!ジャーヨ!(加油、ガンバレ)の大合唱
レースが終わり銅メダルを獲得した日本の選手が
トラックで日の丸を羽織ったとたんに
シャーゴ!シャーゴ!(犬を殺せ、日本人を殺せ)の大合唱が始まった。

722 :
学校とか2chでも
タヒタヒいわれてんねんけど?
別に他国じゃないですお?orz

723 :
人間といふものは、おだやかな理性だけで成立つてゐる存在ではないし、それだけでは
すぐ枯渇してしまふ、ふしぎな、落着かない、活力と不安に充ちた存在である。
人間の活動は、すばらしい進歩と向上をもたらすと同時に、一歩あやまれば破滅を
もたらす危険を内包してゐる。

殺人は法律上の罪であるのに、殺人を扱つた芸術作品は、出来がよければ、立派な古典となり
文化財となる。それはともかくふつくらしてゐて、黒焦げではないのである。

それにしても芸術といふ餅のますます厄介なところは、火がおそろしくて、白くふつくら
焼けることだけを目的として、おつかなびつくりで、ろくな焦げ目もつけずに引上げて
しまつた餅は、なまぬるい世間の良識派の偽善的な喝采は博しても、つひに戦慄的な
傑作になる機会を逸してしまふといふことである。
三島由紀夫「法律と餅焼き」より

724 :
愛といふ言葉は、日本語ではなくて、多分キリスト教から来たものであらう。日本語としては
「恋」で十分であり、日本人の情緒的表現の最高のものは「恋」であつて、「愛」ではない。

日本のやうな国には、愛国心などといふ言葉はそぐはないのではないか。すつかり藤猛に
お株をとられてしまつたが、「大和魂」で十分ではないか。

恋が盲目であるやうに、国を恋ふる心は盲目であるにちがひない。しかし、さめた冷静な
目のはうが日本をより的確に見てゐるかといふと、さうも言へないところに問題がある。
さめた目が逸したところのものを、恋に盲ひた目がはつきりつかんでゐることがしばしば
あるのは、男女の仲と同じである。
一つだけたしかなことは、今の日本では、冷静に日本を見つめてゐるつもりで日本の本質を
逸した考へ方が、あまりにも支配的なことである。さういふ人たちも日本人である以上、
日本を内在的即自的に持つてゐるのであれば、彼らの考へは、いくらか自分をいつはつた
考へだと言へるであらう。
三島由紀夫「愛国心」より

725 :
ひとりひとりの胸にそんなにまで切ない憧れをのこして行つたかなしみは、その哀しみのゆゑに
はるかな、たとしへもなく美しい悔いを悼歌のやうにかなでた。だれが悔いる責を負ふ人で
あつたらう。さうした悔いのなかには、ねぎごとに似たふしぎな美しさが聳えだしたと、
そんな風に人はだれにむかつて云はう――。
三島由紀夫「世々に残さん」より

年齢はいつも橋であると同時にそれの架る谷間でもある。昔の彼は谷底を見ずに飛越す。
今のエスガイは飛越さうとする時に谷底を見る。しかし可能性の限局ではないのだ。
エスガイは可能性の輪のなかへ入つたのだ。はじめて彼は可能性を己が所有とした。
昔の彼であつたなら、それを彼が、可能性の虜になつてゐる。としか信ぜぬやうな仕方で、
エスガイは輪へ踏み入ることにより、真に輪の外へ出るのではないのか。
三島由紀夫「エスガイの狩」より

726 :
接吻をしようと決心した男が、恋文ひとつ書く勇気もないといふことほど滑稽な矛盾が
あらうかしら。事実僕は、小説を読んでも、一人の蕩児が手れん手くだを用ひて遂に女を
ものにする筋より、夢のやうな衝動に襲われた女が見も知らぬ男の頸にすがりつくやうな
場面の方に惹かれがちな年頃であつた。
小説の主人公は一度はかならずさういふ女にめぐりあつて仮の契を結ぶ。しかし実際の
人生で、男がまづめぐりあふ女は、そんな女であることは滅多にないのだ。若い女は
自分の清純をこそねがへ、相手の男の清純をそれほどねがひはしない。これは当然でもあり、
矛盾でもある。
三島由紀夫「恋と別離と」より

お嬢さん方、詩人とお附き合ひなさい。何故つて詩人ほど安全な人種はありませんから。
三島由紀夫「接吻」より

「彼女の死を選択したことは、よく考へてみると、俺自身の死を選択したことでもあつたのだ。
人生よ、さらば!」
――つまりこれが失恋自殺といふ奴である。
三島由紀夫「哲学」より

727 :
抑々(そもそも)人間性の底には或るどうにもならない清純さが存在するのであります。
古代人がこれについて深く思ひを致したならば恐らく神性と名付けるでありませう。
かゝる清純さは、本能的なもの無意志的なものと固く結びついてをるのでありまして、
或る時は社会的拘束の凡て、――就中(なかんづく)道徳的準縄の凡てをも、やすやすと
超越し逸脱し得るやうに考へらるゝのであります。さればこそそれは恒常の人間生活の
評価の前に立つ時、殆んど清純と反対の評語――邪悪、破廉恥、厚顔、淫乱、等の汚名をば
浴びせらるゝことを寡(すくな)しとしませぬ。

実に純粋とは、青春の苦役でもあるのであります。
三島由紀夫「贋ドン・ファン記」より

728 :
われらが一ト度幸福のなかへ入ると、何をしようと幸福の方でわれらを捕へて放さぬやうに
みえる。しかしわれらの意識せぬ別の力が、いつのまにかわれらを幸福から放逐して
くれるのである。

花には心がある。万象の心の中でも人の心に最も触れやすい心は之である。人が花を
愛づる時、花がなぜその愛に応へ得ぬことがあらう。花の愛は人に愛の誠を教へた。
女には婦徳を、男には平和を。光源氏が世にありし頃、女はなほ花と分ちがたい名を
持ち心を持つてゐた。恋歌は花をうたふ風体の上乗なるものであつた。しかも四時の花は
天候や季節に左右されることなく、極寒の梅も手に触るればあたゝかに、大暑の百合も
人の心に涼風を通はす。
三島由紀夫「菖蒲前」より

729 :
否、所謂(いはゆる)花の心は花にもなく人にもない。花を見、且つは触れ、且つは
そを愛でて歌詠む時、人の魂はあくがれ出で花のなかへはひつてゆく。花へはひつた人の心は
水に映れる月のやうに、漣が来れば砕けるが月が傾けば影も傾く。その間に目に見えぬ
糸があり、月と潮の満干のやうな黙契があると思ふのは、誤ち抱いた妄想にすぎぬ。
人の心が人の心のまゝになることに何の不思議があらう。鏡の影が像の儘(まま)に
動くとてなど怪しむことやある。花の心は人の心の分身である。人の心が立去るとき
花にも心は失はれる。

苦しみをはじめて得た人はなほその苦しみを味方に引入れて共に住むことを知らない。
その敵たらんと好んで力(つと)め、苦しみは益々耐へがたいものになる。
三島由紀夫「菖蒲前」より

730 :
占領とは何だ。占領とはつまり、自分の国の幻滅のありたけをその国へ持ち込んで、
そこで幻滅のない国を夢みることだよ。

しばらく物を云はないで。……その窓にあなたのきれいな横顔がある。実に贅沢で、
豪華な横顔ですよ。あれだけの戦争を、いつときのシャワーみたいにくゞり抜けてきて、
日本の古い歴史の高価で淫蕩な血を伝へて本当の東洋の貴婦人らしいあなたの横顔がある。

伊津子:あなたは小さなかはいゝ箱庭を手にお入れになつたのね。でもさうやつて、
人を命令して従はすのつて、すてきでせうね。人をだましたり、人と相談したりして、
結局自分の思ふところへ引張つてゆくといふのは……何だか卑怯みたいね。
エヴァンス:それが民主々義といふもんです。

神様を信じてゐて悪いことをするはうが、信じてゐないでするよりもすてきぢやなくて。
三島由紀夫「女は占領されない」より

731 :
私、占領された日本の男の人たちから、「占領された」つていふ悲しい顔をとつてあげたいの。
哀れな、卑屈な、不如意な男の人たちの顔を、みんな私の顔みたいに、明るくて、呑気で、
のびのびした顔にしてあげたいの。だつて女といふものは、やすやす占領なんかされて
ゐないんですもの。

日本といふ国は、占領軍がゐたつてゐなくたつて、蜘蛛の巣におつこちた蝶みたいに、
何一つ思ひ切つたことはできないやうになつてるんだ。

僕のたくさんの上官も、その上に威張り返つてゐるマッカーサーも、いや、最高政策を
刻々ワシントンから指令して来るあのオールマイティの連合国委員会も、何一つ、誰一人、
絶対の意志と絶対の権力を持つてゐるやつはゐないんだ。すべては世界の潮流のまゝに
流されてゐる木切なんだ。大きい木切も、小さい木切も。……ごらん。夜の海のまつくらな面が、
ふくらんだり退いたりしてゐる。潮の流れが沖のとほくのはうからすべてを支配してゐる。
それに従つて木切は動く。そして自分で動いたと思つてゐる。……僕も木切にすぎない。
さうして君も……。
三島由紀夫「女は占領されない」

732 :
エヴァンス:僕は一生わすれないだらう。
伊津子:私のことは忘れてもいいわ。たのしさだけはおぼえてゐてね。
エヴァンス:何もかも、僕は一生わすれないだらう。年をとると、何もかもがたのしい
夢のやうに思へてくるだらう。占領政策だの、焼趾だの、革新党内閣だのはみんな
忘れられて、広重の描いたやうな小さな可愛らしい日本だけが残るだらう。それだけが
僕の一生の夢、小さな幸福の思ひ出になるだらう。
伊津子:そのときなら私も安心して、絵の中の女になるでせう。白髪のおばあさんに
なつたときの私なら、喜んで今の私を、絵の中の女だと思ふでせう。
三島由紀夫「女は占領されない」より

不満といふものはね、お嬢さん、この世の掟を引つくりかへし、自分の幸福を
めちやめちやにしてしまふ毒薬ですよ。

自然と戦つて、勝つことなんかできやしないのだ。
三島由紀夫「道成寺」より

733 :
Q:あの戦争をどう呼ぶのが適切だと思ふか。
三島:大東亜戦争でいいぢやないか。歴史的事実なんだから。
太平洋戦争といふ人もあるが、私はゼッタイとらないね。日本の歴史にとつては大東亜戦争だよ。
戦争の名前くらゐ自分の国がつけたものを使つていいぢやないか。
Q:あの戦争をどう意味づけてゐるか。
三島:あの戦争の評価は、百年たたないとできないね。
いま侵略戦争だつたとかなんとかガチャガチャいつてもどうにもならん。
三島由紀夫「歴史的事実なんだ」より

Q:自衛隊が存在しなければ、日本は侵略されると思ひますか?
三島:もちろん侵略される。日本はこれまで、ただの一日でも、力に守られなかつた平和を持つたことがない。
侵略に対処するには力しかない。
三島由紀夫「これでいいのか日本の防衛」より

734 :
過ちといふものは、美しいものが期待に反して犯す醜行のことである。

美貌といふものは、停車場や博物館と同様に共有物であり公的な存在なのである。それを
私することは公的の福祉に反することであり、停車場を買ひ占めようとするやうなものである。

各界の名士といふ人種が一堂に会する眺めは、一種奇怪である。彼らは要するに、
カメラマンに「自然な姿態」をとられるのに馴れた人種であるから、その言はうやうない
「自然な」態度には、どうすれば見物人から餌をもらへるかをよく知つてゐる動物園の
熊に似た超然ぶりが見られるのである。見物人を意識してゐない動物が、一匹でも動物園に
ゐたらお目にかかりたい。

名士は大抵「殿下」とか「閣下」とか「先生」とかいふ源氏名のついた娼婦であつて、
莫迦に忙しい口ぶりの男は二流であり、莫迦にゆつくりした喋り方をする男は一流である。
彼らは日常の多忙のために生理的な速度に変調を来して、道を歩くやうな歩度の喋り方は
出来なくなつてゐるので、彼らのお喋りは、自動車に乗つてゐるか、それとも興に乗つて
ゐるかどちらかであつた。
三島由紀夫「家庭裁判」より

735 :
美人の定義は沢山着れば着るほどますます裸かにみえる女のことである。

女の涙といふものは世間で最もやりきれないものの一つであるが、小鳥がとまつたかと
見る間に生む美しい空いろの卵のやうに、こんな風に涙がこぼれるのをみると、右近の心は
甚だ痛んだ。

良人は大ていのことを座興と思つてゐてよい特権をもつものである。
三島由紀夫「家庭裁判」より

久一にとつて馬ほど愛すべき安全な玩具はなかつた。やさしい動物である。傷つきやすい
心を持ち、果敢な勇気を持ち、同時に怠けものの心と臆病さとを持つた動物である。
血走つた目はたまには、敵意や蔑みをあらはしこそすれ、一度忠誠を誓つた乗手のためには、
人間も及ばなぬ献身のまことを示した。
よく云はれることだが、サラブレッドの名馬は宛然一個の美術品である。
三島由紀夫「鴛鴦」より

不道徳も清潔な限り美しいものである。
三島由紀夫「修学旅行」より

736 :
よその女の美貌に同意する義務は、どこの奥さんにだつてない筈だ。

コンパスで描いたやうに丸い。口があどけなくて、目は清らかである。悪いことを何にも
知らないやうなかういふ顔ほど、男の目から見て神秘的に見えるものはない。
三島由紀夫「金魚と奥様」より

一度男の目が決して自分を見ないと決めてしまつてから、人生はどんなに生き易くなつた
ことだらう! 彼女は男の教授にでも、づけづけとものを言ふ。相手に彼女の「性」を
感じさせないのをむしろエチケットと思つてゐるからで、世間が考へるやうに、老嬢は
必ずしもわれしらず中性化してゐるのではない。
三島由紀夫「二人の老嬢」より

737 :
この世界には何かが欠けてゐる。たとしへなく大きなもので、しかも目に見えないものが
欠けてゐる。根本的な条件が欠けてゐるのだ。

銹(さ)びた鉄の水呑場は大そう高く、小さな男の児は母親に体をもちあげてもらつて、
足を宙に浮かして水を呑まねばならない。小さなとんがらかした唇が、不安定な様子で、
小まめに吹き出てゐる水に近づく。水は外れて、鼻孔に入つてしまつた。男の児は泣き出した。
こんな重大な蹉跌には、誰だつて泣くだけの値打がある。

自動車博覧会の雑沓の只中に、誰の才覚でこんな硝子の小さな箱が設けられたのだらう。
誰の才覚で、その硝子の内側に水が注がれ、金魚が放り込まれたのだらう、無意識の善意とか、
無意識の悪意とかいふものは本当にある。さういふものが考へつくのは、いつもかうしたことだ。
三島由紀夫「博覧会」より

738 :
私はテレヴィジョンでごく若い人たちと話した際、非武装平和を主張するその一人が、
日本は非武装平和に徹して、侵入する外敵に対しては一切抵抗せずに皆殺しにされてもよく、それによつて
世界史に平和憲法の理想が生かされればよいと主張するのをきいて、これがそのまま、戦場中の一億玉砕思想に
直結することに興味を抱いた。一億玉砕思想は、目に見えぬ文化、国の魂、その精神的価値を守るためなら、
保持者自身が全滅し、又、目に見える文化のすべてが破壊されてもよい、といふ思想である。
戦時中の現象は、あたかも陰画と陽画のやうに、戦後思想へ伝承されてゐる。このやうな逆文化主義は、前にも
言つたやうに、戦後の文化主義と表裏一体であり、文化といふもののパラドックスを交互に証明してゐるのである。
三島由紀夫「文化防衛論 文化主義と逆文化主義」より

739 :
【眼前百事】核議論を!三島由紀夫と村田良平の遺言
http://www.youtube.com/watch?v=t-BSyjcc2no
国家百年の大計にかかはる核停条約は、あたかもかつての五・五・三の不平等条約の再現であることが明らかで
あるにもかかはらず、抗議して腹を切るジェネラル一人、自衛隊からは出なかつた。
沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か?アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを
喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの
傭兵として終るであらう。
三島由紀夫「檄」より

740 :
左翼のいふ、日本における朝鮮人問題、少数民族問題は欺瞞である。なぜなら、われわれはいま、朝鮮の政治状況の
変化によつて、多くの韓国人をかかへてゐるが、彼らが問題にするのはこの韓国人ではなく、日本人が必ずしも
歓迎しないにもかかはらず、日本に北朝鮮大学校をつくり、都知事の認可を得て、反日教育をほどこすやうな
北朝鮮人の問題を、無理矢理少数民族の問題として規定するのである。
彼らはすでに、人間性の疎外と、民族的疎外の問題を、フィクションの上に置かざるを得なくなつてゐる。そして
彼らは、日本で一つでも疎外集団を見つけると、それに襲いかかつて、それを革命に利用しようとするほか考へない。
たとえば原爆患者の例を見るとよくわかる。原爆患者は確かに不幸な、気の毒な人たちであるが、この気の毒な、
不幸な人たちに襲ひかかり、たちまち原爆反対の政治運動を展開して、彼らの疎外された人間としての悲しみにも、
その真の問題にも、一顧も顧慮することなく、たちまち自分たちの権力闘争の場面へ連れていつてしまふ。
三島由紀夫「反革命宣言」より

741 :
他国の方々の年金は
どうなってるお!?

742 :
感じやすさといふものには、或る卑しさがある。多くの感じやすさは、自分が他人に
感じるほどのことを、他人は自分に感じないといふ認識で軽癒する。

世間の人はわれわれの肉親の死を毫も悲しまない。少なくともわれわれの悲しむやうには
悲しまない。われわれの痛みはそれがどんなに激しくても、われわれの肉体の範囲を出ない。
三島由紀夫「アポロの杯」より

743 :
「ゲルニカ」は苦痛の詩といふよりは、苦痛の不可能の領域がその画面の詩を生み出してゐる。
一定量以上の苦痛が表現不可能のものであること、どんな表情の最大限の歪みも、どんな
阿鼻叫喚も、どんな訴へも、どんな涙も、どんな狂的な笑ひも、その苦痛を表現するに
足りないこと、人間の能力には限りがあるのに、苦痛の能力ばかりは限りもしらないものに
思はれること、……かういふ苦痛の不可能な領域、つまり感覚や感情の表現としての
苦痛の不可能な領域にひろがつてゐる苦痛の静けさが「ゲルニカ」の静けさなのである。
この領域にむかつて、画面のあらゆる種類の苦痛は、その最大限の表現を試みてゐる。
その苦痛の触手を伸ばしてゐる。しかし一つとして苦痛の高みにまで達してゐない。
一人一人の苦痛は失敗してゐる。少なくとも失敗を予感してゐる。その失敗の瞬間を
ピカソは悉くとらへ、集大成し、あのやうな静けさに達したものらしい。
三島由紀夫「アポロの杯」より

744 :
或る種の瞬間の脆い純粋な美の印象は、凡庸な形容にしか身を委さないものである。
美は自分の秘密をさとられないために、力めて凡庸さと親しくする。その結果、われわれは
本当の美を凡庸だと眺めたり、たゞの凡庸さを美しいと思つたりするのである。

時がわれわれの存在のすべてであつて、空間はわれわれの観念の架空の実質といふやうな
ものにすぎないこと、そして地上の秩序は空間の秩序にすぎないこと。

時々、窓のなかは舞台に似てゐる。多分その思はせぶりな証明のせゐである。

狂気や死にちかい芸術家の作品が一そう平静なのは、そこに追ひつめられた平衡が、
破局とすれすれの状態で保たれてゐるからである。そこではむしろ、平衡がふだんよりも
一そう露はなのだ。たとへばわれわれは歩行の場合に平衡を意識しないが、綱渡りの場合には
意識せざるをえないのと同じである。
三島由紀夫「アポロの杯」より

745 :
(竜安寺の石庭の)直感の探りあてた究極の美の姿が、廃墟の美に似てゐるのはふしぎなことだ。
芸術家の抱くイメーヂは、いつも創造にかかはると同時に、破滅にかかはつてゐるのである。
芸術家は創造にだけ携はるのではない。破壊にも携はるのだ。その創造は、しばしば破滅の
予感の中に生れ、何か究極の形のなかの美を思ひゑがくときに、ゑがかれた美の完全性は、
破滅に対処した完全さ、破壊に対抗するために破壊の完全さを模したやうな完全さである
場合がある。そこでは創造はほとんど形を失ふ。

希臘人は美の不死を信じた。かれらは完全な人体の美を石に刻んだ。日本人は美の不死を
信じたかどうか疑問である。かれらは具体的な美が、肉体のやうに滅びる日を慮つて、
いつも死の空寂の形象を真似たのである。石庭の不均斉の美は、死そのものの不死を
暗示してゐるやうに思はれる。
三島由紀夫「アポロの杯」より

746 :
希臘人は外面を信じた。それは偉大な思想である。キリスト教が「精神」を発明するまで、
人間は「精神」なんぞを必要としないで、矜らしく生きてゐたのである。

真に人間的な作品とは「見られたる」自然である。

われわれの生に理由がないのに、死にどうして理由があらうか。

アンティノウスの像には、必ず青春の憂鬱がひそんでをり、その眉のあひだには必ず
不吉の翳がある。それはあの物語によつて、われわれがわれわれ自身の感情を移入して、
これらを見るためばかりではない。これらの作品が、よしアンティノウスの生前に作られた
ものであつたとしても、すぐれた芸術家が、どうして対象の運命を予感しなかつた筈があらう。

彫像が作られたとき、何ものかが終る。さうだ、たしかに何ものかが終るのだ。一刻一刻が
われらの人生の終末の時刻(とき)であり、死もその単なる一点にすぎぬとすれば、
われわれはいつか終るべきものを現前に終らせ、一旦終つたものをまた別の一点から
はじめることができる。
三島由紀夫「アポロの杯」より

747 :
上げ

748 :
日本を外国から弁別するメルクマール、日本人を他国人から弁別するメルクマールというのは
天皇しかない。他にいくらさがしてもないんだ。

ぼくは大蔵省にいた頃に、観音崎に皆で団体旅行に行ったんですよ。そしてぼくが船端にいて、
沖を見ていたんだよ。実に海がきれいだった。雲がきれいだった。しかしそれからぼくが
変わり者だという評判がたちまちたっちゃったんです。景色なんか見ちゃいけないんだよ、
本当に。景色を見るやつは、もうすでにアウトサイダーなんだ。そういう社会があるんだよ。
世の中には、見えないやつがいっぱいいるんだ。

現代というものの伝達の仕方から、天皇制というものを、純粋無垢に置こうという意識が
全然ないだろう。威厳を保つには断絶しかないという時代にわれわれは生きているんだ。
三島由紀夫
石原慎太郎との対談「天皇と現代日本の風土」より

749 :
バカなコミュニケーションが発達すればするほど、国民は分裂し孤立してくるでしょう。
伝達することによって、何らそれを統合することはできないでしょう。そうしたら、
統合するためには、伝達しない、元の方法にもどるよりほかないじゃあないですか。
明治時代にはそれが逆だと思うんだ。コンミュニティーするものの主体に天皇を置いて
バラバラになった日本が、国民的統合をやって、近代国家を成立させた。一応近代国家が成立し、
工業化が進展して、社会がこういう、左翼の言葉を使えば自己疎外というようなことが
おこってそして巨大な力で動かされているんだけれども、各人がバラバラになって、
伝達機能が容易になればなるほどバラバラがひどくなる。それを統合するには空白のもの
しかない。絶対に断絶しかない。
…祭主ということなんだよ。結局断絶ということは、時代全体が空間的伝達によって
動いている中で、時間的伝達をする人は一人しかいない、それが天皇だ。
三島由紀夫
石原慎太郎との対談「天皇と現代日本の風土」より

750 :
三島由紀夫の言葉に魂が目覚める

751 :
ディズニークリスマスソング
あたちは↑の方が魂が目覚めりゅ†;;†

752 :
昨今の中国における文化大革命は、本質的には政治革命である。百家争鳴の時代から今日にいたる変遷の間に、
時々刻々に変貌する政治権力の恣意によつて学問芸術の自律性が犯されたことは、隣邦にあつて文筆に
携はる者として、座視するに忍びざるものがある。
この政治革命の現象面にとらはれて、芸術家としての態度決定を故意に留保するが如きは、われわれの
とるところではない。われわれは左右いづれのイデオロギー的立場をも超えて、ここに学問芸術の自由の圧殺に
抗議し、中国の学問芸術が(その古典研究をも含めて)本来の自律性を恢復するためのあらゆる努力に対して、
支持を表明する者である。
われわれは、学問芸術の原理を、いかなる形態、いかなる種類の政治権力とも異範疇のものと見なすことを、
ここに改めて確認し、あらゆる「文学報国」的思想、またはこれと異形同質なるいはゆる「政治と文学」理論、
すなはち、学問芸術を終局的には政治権力の具とするが如き思考方法に一致して反対する。
三島由紀夫「文化大革命に関する声明」昭和42年3月1日
(共同執筆・川端康成、石川淳、安部公房)

753 :
ぼくが否応なしに中国問題というものにとらわれたのは、文学座なんかにいたからですね。
中国に行ったりする俳優がいてね、中国を天国のように言う。そして、それを人に強制する。
その人たちは現実に何を通して中国を知ったかというと、自分たちを接待してくれた人、
そして案内してくれた人を通じてなんですね。それがこういう状態になると、自分が
世話になった文化関係の人がひどい目にあってもこんどは知らん顔。わたしのほうは
毛派だからという顔をする。それが腹が立ってたまらないということがあるわけです。
いまひとつの問題は、この五、六年、それを考えてきたんですが、もしもう一度戦時中の
言論統制の時代がきたらどうするかということなんです。(中略)そういう事態にどう
対処するかということですね。やっぱり文学はお国の役に立たないんだということを
はっきりさせておかなきゃ非常に危険だと思うんです。
三島由紀夫
石川淳、川端康成、安部公房との座談会「われわれはなぜ声明を出したか」より

754 :
政治家には、腹を切るつもりなんか毛頭ない。そして芸術家のほうは、半分、実みたいな
気持になっちゃった。戦後はことにそうです。
それと、例の言論統制がきた場合にどうするか。ぼく自身の覚悟をいえば、ぼくは虚の
芸術家である。虚をもって、河原乞食として小説を書くんだ。その小説は絶対お国の役に立つ
わけはないし、ぼくがたとい自発的(スポンティニアス)に国粋主義的な小説を書いたって、
それは政治に頼まれて書いているんじゃない。ぼくが自然にわき起って書いているんだから
人がどう思おうと知ったこっちゃない。
しかし、それは虚にすぎない。それじゃ、虚にすぎない芸術にぼくが生きて、そしてどうなるか。
それはぼくはインターナショナリストじゃないから、どこにも亡命できると思わないし、
日本で死ぬほかないと思っていますがね。その場合に、それじゃ虚と一緒にぼくはRるか
ということを考え出したんですね。ぼくは死ぬためには虚でありたくないんですよ。
どうしても、死ぬためには実でありたいんです。
三島由紀夫
石川淳、川端康成、安部公房との座談会「われわれはなぜ声明を出したか」より

755 :
ぼくはひょっとすると芸術至上主義者なのかもしれないと思うのは、どうしても虚を
信じたいから、実のほうに頭がいっちゃうんですよ。何とかして虚を信じたいと思えば
思うほど、虚をしっかり把握するためにはどうしても実がほしい。そうすると剣ということに
なっちゃう。いま石川さんのおっしゃった、わたしは言葉を信じない、文学を信じないと
おっしゃった気持は、ぼくは痛切にわかるな。
…つまり虚を信じないということが、虚に生きる唯一の道かもしれないんですよ。
(中略)
文字を墨で書く場合、紙に墨がぽとっと一滴落ちた瞬間に、文学表現が成り立つでしょう。
それが十部刷ろうが百部刷ろうが、別の問題ですね。だけど、文学というものは、その一滴の
墨のあとから、千部刷る、一万部刷るということになっちゃったらもうおしまいだと思うんです。
…言語というのは言霊だよ。
三島由紀夫
石川淳、川端康成、安部公房との座談会「われわれはなぜ声明を出したか」より

756 :
私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。
このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、
その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が
極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。
三島由紀夫「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」より

757 :
■■■三島由紀夫の檄文■■■
http://yuzuru.2ch.sc/test/read.cgi/seiji/1294972132/

758 :
天才・三島由紀夫
http://yuzuru.2ch.sc/test/read.cgi/subcal/1294453437/

759 :
三島由紀夫のオススメ作品@30代板
(執筆時34歳以下の作品、評論)
http://toki.2ch.sc/test/read.cgi/cafe30/1294198539/

三島由紀夫のお勧め作品@40代板
(執筆時35歳以上の作品、評論)
http://toki.2ch.sc/test/read.cgi/cafe40/1296178606/

760 :
空襲のとき、自分の家だけは焼けないと思つてゐた人が沢山をり自分だけは死なないと思つてゐた人がもつと
沢山ゐた。かういふ盲目的な生存本能は、何かの事変や災害の場合、人間の最後の支へになるが、同時に、
事変や災害を防止したり、阻止したりする力としてはマイナスに働く。(中略)
また逆に、自分の家だけが焼け自分だけが死ぬといふ確信があつたとしたら、人は事変や災害を防止しようとせずに、
ますます我家と我身だけを守らうとするだらうし、自分だけは生残ると思つてゐる虫のよい傍観者のはうが、
まだしも使ひ物になることだらう。
本当に生きたいといふ意思は生命の危機に際してしか自覚されないもので、平和を守らうと言つたつて安穏無事な
市民生活を守らうといふ気にはなかなかなれるものではないのである。生命の危機感のない生活に対して人は結局
弁護の理由を失ふのである。貧窮がいつも生活の有力な弁護人として登場する所以である。
三島由紀夫「言ひがかり」より

761 :
http://beebee2see.appspot.com/i/azuYq87fAww.jpg
http://beebee2see.appspot.com/i/azuYsoHjAww.jpg
http://beebee2see.appspot.com/i/azuYsZjeAww.jpg
http://beebee2see.appspot.com/i/azuYtJjeAww.jpg

762 :
創作のよろこびと同様、批評のよろこびも、私にとつては美と真実の発見のおどろきを述べることにすぎない。
私が自分の好きな書物について、何故それが好きかといふことを綿々とのべるのは、私の快楽なのである。
三島由紀夫「戸板康二氏の『歌舞伎の周囲』」より

そもそも作品以外のどこに作者の本音があるだらう。附け加へた言葉は整形手術のやうなものである。鼻のひくい
おかめ面の作品を書いておいて、「作者の言葉」で整形手術的言辞を弄する。神の与へた容貌の一部の変改は、
自然の調和をやぶつて、もつとをかしなものにしてしまふにきまつてゐる。いきほひ舞台を見てゐても、むりに
高くした鼻ばかり目について、顔全体が見えなくなる。せつかく粋な目もとの持主が、不自然に盛り上げた鼻の
おかげで、相殺されてしまふ。かさねがさねも整形手術は施すまじきことである。
三島由紀夫「作者の言葉(『灯台』初演について)」より

763 :
作者が自分の目で人生を眺め、人生がどうしてもかういふ風にしか見えないといふ場所に立つて書くのが、
要するに小説のリアリズムと呼ばれるべきである。
三島由紀夫「解説(川端康成『舞姫』)」より

私にとつての一つの宿命は、私が、「正当な論敵」の中にしか、本当の友を見出すことができない、といふ性癖を
もつてゐることである。
三島由紀夫「黛氏のこと」より

あらゆる年齢の、腐りやすい果実のやうな真実は、たとへそのもぎ方が拙劣で、果実をこはすやうな破目になつても、
とにかくもいでみなければわかるものではない。

死に急ぎの見本は特攻隊だが、それと同じ程度に、「生き急ぎ」もパセティックで美しいのだ。
三島由紀夫「はしがき(『十代作家作品集』)」より

芝居はイデェだ。
イデェなくして、何のドラマツルギーぞや。何の舞台技巧ぞや。何の職人的作劇経験ぞや。

人間の現在の行為は、ことごとく無駄ではない。そのうちの、未来に対して有効な行為だけが有効なのではない。
三島由紀夫「ドラマに於ける未来」より

764 :
『宝田明食べたいな』

765 :
好きな食べ物はビフテキ

766 :
ああッ、森田ーッ!!!

767 :
一体文学的生活とは、伝統的に、孤独と閑暇の産物である。孤独も閑暇もないところに文学的交遊がある筈もなく、
いはゆる文学バアにおける文士の交歓なども、今ではビジネスマンのくつろぎと大差ない。

仕事の時間は要するに厳密に仕事をする時間であり「文学的」でも何でもない。これはいはば、パリの流行の
服を着るアメリカの金持女性が「流行的」であるのと、その流行を作るパリのデザイナー自身は、かくべつ
流行的でないのとの関係に似たものだ。私に終局的に必要なのは文学であつて「文学的」な事柄ではない。
三島由紀夫「わが非文学的生活」より

768 :


769 :
たえず自己から遁走しようとする傾向は、少年のものだ。自分といふものを密室の中へとぢこめておいて、
そこから不断に遁走しようとする傾向は少年のものだ。青年は自分と一緒に放浪するものである。
三島由紀夫「春日井建氏の歌」より

770 :
現代少年は、ただ抽象的な青春の論理によつて傷つき、滅亡するといふ悲劇しか知らず、かくて自分の内在的な
論理に飽きるときには、外からの具体的な滅亡の力を夢みる。
三島由紀夫「春日井建氏の歌」より

771 :
戦争中の少年たちが「聖戦」の信仰のうちに自己破壊の機会を見出したやうに、現代の少年たちは、これと逆な
操作を辿つて、「悪」の信仰のうちに自己破壊の機会を見出す。悪とは、青春そのものの構造の、どうのがれ
やうもない退屈な論理性から、少年たちを解放する力なのである。
三島由紀夫「春日井建氏の歌」より

772 :
俺が嫌いなのは三島ではなく必要以上に熱狂するファンなのだ
結局奴らは学校や仕事先でがんばれてなかったり、勝ててなかったりする奴らの
集まりで、それをひいきの三島に託し、三島が頑張れば自分も頑張った気になるし、
それで成功すれば自分も成功したような気になるのだ
俺の様に毎日2chで戦ってる人間なら人を応援する余裕なんてある訳がない

773 :
復興には時間がかかる。ところが、復興といふ奴が、又日本人の十八番なのである。どうも日本人は、改革の
情熱よりも、復興の情熱に適してゐるところがある。その点でも私は安心してゐる。
三島由紀夫「幸せな革命」より

774 :
浮世は「幻の栖(すみか)」にすぎず、自分の肉体は過客にすぎぬ。
三島由紀夫「久保田万太郎氏を悼む」より

775 :
「三島ですぅー。」
三島 由紀夫 うんこ物語

776 :
スライド動画 青黒い格言
「青黒いとはガキの青さと大人の黒さを足して2で割ったようなどっちつかずな微妙な色あいのこと」
http://www.youtube.com/watch?v=_r0LKZQaYbo


777 :
(『詩を書くのが趣味の交際相手の男性が女々しく思えて許せない』という相談者に)
 美輪明宏『文学者でも例えば三島由紀夫や中原中也なんかは男らしかった思うけれど…。
貴女ももっと本をお読みになったらどうかしら?』
 相談者『(憤然として)読んでますよ』
 美輪明宏『どんなのを読んでらっしゃるの?』
 相談者『秋元康とか』
 美輪明宏『(一瞬判らず)あきも……(ピンと来て)オホホホホホwwwww』
 相談者『?』

778 :
いくらお金を費つても費つても、貧しい気分にしかならないたいへんな時代が、現代といふものである。
三島由紀夫「鳳凰台上鳳凰遊ぶ」より

779 :
武士とは死の職業である。どんな平和な時代になつても、死が武士の行動原理であり、武士が死をおそれ死を
よけたときには、もはや武士ではなくなるのである。
三島由紀夫「葉隠入門」より

780 :
まじめで良心的なのも思想だが、不まじめで良心的といふ思想もあれば、又、一番たちのわるいのに、まじめで
非良心的といふ思想もある。

三島由紀夫「あとがき(『行動学入門』)」より

781 :


782 :
@kaneda_daiki
金田大貴
高岡は三島由紀夫が好きなようだが、切腹して死んだホモの右翼作家に心酔するのはバカのすることだ。

783 :
女の美しさといふものは一国の文化の化身に他ならず、女性は必ずしも文化の創造者ではないが、男性によつて
完成された文化を体現するのに最適の素質を備へてゐる。

三島由紀夫「映画『処女オリヴィア』」より

784 :
もし腕力が最初に卵の殻を割らなかつたら、誰が卵を…なんでしたっけ?
誰か知ってる人

785 :
>>784
>>527
腕力こそは最初の思想である。もし腕力が最初に卵の殻を割らなかつたら、誰が卵を
食用に供しうるといふ思想を発明しえたでありませう。
三島由紀夫「卵」より

786 :
>>782
ゴミ未満の歴史文化社会しか作れなかった何の取り柄もない屑民族と友好を結びたがるのよりは遙かにましだろう。

787 :
青年といふものは、少年よりはるかに素直なものである。

三島由紀夫「死せる若き天才ラディゲの文学と映画『肉体の悪魔』に対する私の観察」より

788 :
ヨーロッパの人文主義が築いた文化の根本的欠陥が、現代ヨーロッパのいたましい病患をなし「人間的なもの」の
最後の救済のために、人々は政治に狂奔してゐる。殿下が見られるあまりにも政治的なヨーロッパは、デカダンスに
陥つた西欧文化の自己表現なのである。文化といふものの最悪の表現形態が政治なのだ。ギボンのローマ帝国衰亡史を
繙かれれば、殿下は文化的創造力を失つた偉大な民族が、巨大な政治の生産者に堕した様相を読まれるであらう。

三島由紀夫「愉しき御航海を――皇太子殿下へ」より

789 :
すべての芸術家は、自分の持つて生れた資質を十全に生かすと共にそれをRところに発展がある。

三島由紀夫「歌右衛門丈へ」より

790 :
義理人情に酔ふやくざと等しく、もつとも行為の世界に適した男は、「感性的人間」なのだ。日本的感性に素直に
従ふ男は勇猛果敢になり、素直に従ふ女は貞淑な働き者になる。

三島由紀夫「宮崎清隆『憲兵』『続憲兵』」より

791 :
サン・サーンスは、作曲家としてよりも薔薇作りとして有名だつたさうだが、私も小説家としてより、人斬りとして
有名になりたいものだと思つてゐる。

三島由紀夫「『人斬り』出演の記」より

792 :
http://sonimcity.web.infoseek.co.jp//adaltn/yuukoadult001.html


793 :
ばあちゃんの予言分析スレ40
http://toki.2ch.sc/test/read.cgi/occult/1314831059/524
524 名前:本当にあった怖い名無し[sage] 投稿日:2011/09/02(金) 22:28:16.44 ID:o6ONNNyR0
>>505
防衛戦争だったんだよね
そして強制連行じゃ無く不法入国された被害者は日本人
今現在も在特で韓国人から金巻き上げられてる
韓国人は世界で嫌われてるし嘘つきですぐ被害者ズラするけど
お人よしの日本人は一番騙されやすいんだよね
日本人は韓国人中国人に対しては情を捨てて対応するのがベストだ


794 :
209 :本当にあった怖い名無し:2011/09/10(土) 16:17:29.19 ID:MRv/iClV0
悪い奴らは夜に集う。ホステスさんが九ノ一ばりの情報提供!
銀座のホステスまとめ1
http://hissi.org/read.php/news4vip/20110903/d2p1SUFOMy9P.html
銀座のホステスまとめ2
http://hissi.org/read.php/news4vip/20110904/NDJ3OU01VThP.html
銀座のホステスまとめ3
http://hissi.org/read.php/news4vip/20110907/cVppZ2NpRzlP.html
銀座のホステスまとめ4
http://hissi.org/read.php/news4vip/20110910/MWhwdWJ0Y2FP.html

795 :
ある人物と決定的な出会をして、それから終生離れられなくなるずつと以前に、むかうもこちらに気づかず、
こちらもほとんど無意識な状態で、その大切な人物にどこかでちらと出会つてゐることがあるものだ。私と太陽との
出会もさうであつた。
三島由紀夫「太陽と鉄」より

796 :
そのために我々の総監を傷つけたのはどういうわけだ・・・・・・・・・・・抵抗したからだ・・・・・・・・抵抗とは何だ

797 :
男一匹が命を賭けて諸君に訴えてるんだぞ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

798 :

【器物損壊罪】
塩木容疑者は、区長の作った柵をその日に破壊して、空き地に違法駐車をしています。

799 :
現代の教育で絶対にまちがつてゐることが一つある。それは古典主義教育の完全放棄である。古典の暗誦は、
決して捨ててはならない教育の根本であるのに、戦後の教育はそれを捨ててしまつた。ヨーロッパでもアメリカでも、
古典の暗誦だけはちやんとやつてゐる。これだけは、どうでもかうでも、即刻復活すべし。
三島由紀夫「生徒を心服させるだけの腕力を――スパルタ教育のおすすめ」より

800 :
スピーカー

801 :

●○●○●○●○●○●○【自我の世紀/BBC/2002年】●○●○●○●○●○●○●○●○●○
 ハピネスマシーン1/4 http://www.youtube.com/watch?v=sLK3C_e4mWY
 ハピネスマシーン2/4 http://www.youtube.com/watch?v=HFucNO8f0jw
 ハピネスマシーン3/4 http://www.youtube.com/watch?v=euBLPvdMHyY
 ハピネスマシーン4/4 http://www.youtube.com/watch?v=w6Fv5hmEPfE
    合意の捏造1/4 http://www.youtube.com/watch?v=ncVdjWL-plA
    合意の捏造2/4 http://www.youtube.com/watch?v=IIvc0FEB2K0
    合意の捏造3/4 http://www.youtube.com/watch?v=MiQXiKyCPsA
    合意の捏造4/4 http://www.youtube.com/watch?v=pKFCWi16U0Q
頭脳警察を粉砕せよ1/4 http://www.youtube.com/watch?v=NclcVRhupRQ
頭脳警察を粉砕せよ2/4 http://www.youtube.com/watch?v=tTrFkDGpQXk
頭脳警察を粉砕せよ3/4 http://www.youtube.com/watch?v=r_PjwFDRh44
頭脳警察を粉砕せよ4/4 http://www.youtube.com/watch?v=pO8EwiagOmk

●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○


802 :


803 :
http://www.nicovideo.jp/watch/sm12999141
これかわ!

804 :

大ニュース 日本の歴史上最高の天才
http://bian.in/artman/art.html
もし国歌を作り直すならこの人に任せれば良いのでは?
ネットで話題

805 :
武士とは死の職業である。どんな平和な時代になつても、死が武士の行動原理であり、
武士が死をおそれ死をよけたときには、もはや武士ではなくなるのである。
三島由紀夫「葉隠入門」より

806 :
Rとは何だ。R

807 :


808 :


809 :

私は日本人として生まれて日本人として死んでいく、それでいいんだよ

810 :
人類がHIVにどんどん感染して、どんどん発病して、大勢が滅びていかなければ、
人類は進化していかない。 これがダーウィンの導き出した自然の本性である。

811 :

【 おかしなものを吸引・服用・使用すると中枢神経を刺激され後遺症が残る。 】


812 :

アナボリックステロイドは耐久性の運動競技や有酸素運動における能力の向上をもたらすものとして、
1960年代の初め頃から重量挙げの選手やボディビルダーらの間で注目を集め始めた。
【副作用】
・多毛症:顔、乳首の間、背中、肩、大腿の裏、臍下、殿部などといった、本来は無毛の部分への体毛の出現。
・精神的症状:鬱病的症状、妄想、気分変動の激化、パラノイア、苛立ち。
・行動変化:攻撃性や突発的な暴力衝動の発現。


813 :

コイツ危ないぞ。
ttp://www.youtube.com/watch?v=QrlOpFP-Jk8
ttp://www.youtube.com/watch?v=jZsJQPxcA0Q
ttp://www.youtube.com/watch?v=_PYXrFh3bTk


814 :
ヒトラー名言集
・女性が権力を持った国は数年以内に滅びる
・少数の男性が大多数の女性と性交渉する時代が来る
・老人が多く自Rる国は滅ぶ
・男性は女性と比べ、生物学的にも全てにおいて能力が上。だからといって男は女性に優しくする必要はない。
 女性に優しい女性優遇国家は成長しないどころか衰退する。
・一般人までもが近代科学文明に頼るようになると性交渉の低年齢化が進み、子供が子供を産む時代が来る
・私は間違っているが世間はもっと間違っている
ホーキング名言
・女は宇宙で最も理解不能な存在

815 :
私はメキシコの食事はまづい、少くとも日本人の口には合はぬ、と断言することができる。それだつて
メキシコに永く住んだらどうかわからぬが。
三島由紀夫「紐育レストラン案内」より

816 :
芸術家といふものは、どこかに野蛮なところがなければいけないのだ。
三島由紀夫「養父の若さ」より

817 :
日本の古典芸能は、もうダメかと思はれるときに、そのあやかしの力で思ひもかけない青年の心を
とらへて、その若さに縋つて蘇へる傾きがある。
われわれは一人のこらず、何らかの地獄に落ちてゐると云つても、過言ではないのが現代といふ
時代である。
三島由紀夫「季節はづれの猟人――堂本正樹氏のこと」より

818 :
芸術家の青春は、突然、いつ、北国の春のやうに訪れるかしれないのである。
三島由紀夫「現代女優論――賀原夏子」より


819 :
a

820 :
家庭といふところはふしぎな厳密性を帯びた場所であつて、ここでは巧緻を極めたミスティフィケーションも
しばしば破られる。
三島由紀夫「どくとるマンボウ結婚記――北杜夫さんおめでたう」より

821 :


822 :
フフ■この法案は人権と言論弾圧日本乗っ取り日本総不幸化計画ですn【人権侵害救済法案】【外国人参政権】【地方分権化、道州制、TPP】民主党・公明党・小沢党・社民党・日教組・うそ価学会これらはエセ日本人で日本弱体化反日組織ですフ
国民の知らない反日の実態nYouTube検索
日本のTV、新聞マスゴミは反日組織です!!信じてはならない!!
・真実を伝えるメディア 【チャンネル桜】【頑張れ日本全国行動委員会】・YouTubeをご視聴ご支援お願い致します。

823 :
なかっち 動画
http://www.youtube.com/watch?v=z2qK2lhk9O0s

みんなで選ぶニコ生重大事件 2012
http://vote1.fc2.com/browse/16615334/2/
2012年 ニコ生MVP
http://blog.with2.net/vote/?m=va&id=103374&bm=
2012年ニコ生事件簿ベスト10
http://niconama.doorblog.jp/archives/21097592.html

生放送の配信者がFME切り忘れプライベートを晒す羽目に 放送後に取った行動とは?
http://getnews.jp/archives/227112
FME切り忘れた生主が放送終了後、驚愕の行動
http://niconama.doorblog.jp/archives/9369466.html
台湾誌
http://www.ettoday.net/news/20120625/64810.htm

824 :
ネトウヨとは・・・
人格に問題があるため社会に適応できない人種
そのため周囲に対して自分の存在を誇示するためのステータスが一切ない
唯一の拠り所が「自分は日本人」ということのみである為
ネット上で在日韓国人・朝鮮人を叩いてわずかな優越感を得ることでアイデンティティを保っている
また昨今では嫌韓流思考が顕著であり、またネトウヨ自身が社会と接する機会が少ないこともあり、
「韓流ブームは全て嘘」と本気で信じている。
その思考が右翼にも似ている為、ネトウヨと呼称される
@社会的地位:下層
A経済力:低収入、または無収入。
 高い収入を得る人間に対しては、例え在日以外にも異様なまでの敵対心を持つ。例:公務員叩き。東電叩き。ステマ叩き。障害者叩き。
B対人関係:不得意。
 匿名の掲示板以外では何も話すことは出来ない。その分ネットには莫大なエネルギーと時間を費やす。

825 :
市ヶ谷自衛隊総監部で三島由紀夫の介錯した後に
自らも切腹し果てた楯の会・森田必勝(22)の
同棲相手(許婚)は”やる気、元気”の井脇ノブ子
三島由紀夫は決行2日前に”楯の会”会員4人(森田必勝、小賀正義、
小川正洋、古賀浩靖)とパレスホテルで最終打ち合わせをした。
三島「森田、お前は生きろ。お前は恋人がいるそうじゃないか」
後の井脇ノブ子である。
今でも井脇は森田必勝の咽喉仏が入ったペンダントを
身につけている

826 :
(´∀`∩)↑age↑

827 :
            <腐女子生成公式>
怠け者+自尊心が強い+性欲過多+精神が未熟+小心者+(漫画オタク)+女=腐女子

828 :
>>827
もう放っておけ あの連中は
それに、あの連中が本当に従来のアニヲタやアニメ産業を圧倒してくれれば
世の中も変わるだろう
男性原理の社会だからなぁ 女性原理の社会が国を包めば1極化の世界が終わるから

829 :
男色に関聨した名言を
ひとつ
所望する。

830 :
30代後半で女と交際した事ない、ひきこもりのキモい童貞を発見。
自称イラストレーター。足立区に住んでいるそうだ。
http://inumenken.blog.jp/archives/7002197.html

831 :
三島「もういいよ…」

割腹直前、色紙に「武」という字を自らの血で書くということを予定していたので、側近が三島に色紙を渡そうとした時に出た言葉

832 :
酒鬼薔薇も三島に傾倒してて
絶歌にも金閣寺からの一節を引用してるってさ

833 :
金閣寺はガチで名作やね

834 :
         /___      \    _____ 
        ( (  ))  ̄ \   \. /公務員 \
     / ̄偽装 ̄\ .  \  /  最高法規 \ 9条 誠実に希求する
     /;;::   姉   ::;ヽ    / ノ     ー     \ 99条 遵守する
      ̄ ̄/|  ̄ ̄ ̄ ̄   .| (●)  (●)      |
       |/__       \ (__人__)      / 陸海空に軍の保持
        ヽ| l l│<ハーイ    / ` ⌒´       \同盟組織 武力紛争資金援助
     __┷┷┷ ___    | かいしゃく次第   ヽ 大量破壊兵器
    |;;:: ィ●ァ  ィ●ァ::;;|    . | ここまで出来る|   | 因縁つけた殺人幇助
    |;;::        ::;;|  .  | 正当化     |   | 
    |;;::   c{ っ  ::;;|    |          |   | 誠実に希求 遵守
     |;;::  __  ::;;;|   
     ヽ;;::  ー  ::;;/   業界標準
      \;;::  ::;;/     
        |;;::  ::;;|         法のもとに平等…
       かいしゃく の 違い ・・・・・・
        |;;::  ::;;|       最高法規9条 誠実 99条 遵守 公務員
 / ̄ ̄ ̄      ̄ ̄ ̄\
法のもとに死刑などもしてきた 自分の犯罪は正当化したい わからなくはない
情報の改ざん 不適切な会計 警察のように裏金でも運用してたのか…?
お前は警部補になるのに裏金運用幇助を了承したのか…?
あさひ イヒッ系の者か? 警察のように検挙状況の情報操作 交通事故の件数を誤魔化したのか?
まさか 大量破壊を保持しているなど因縁をつけて行った殺害への資金提供
集団的な大量殺害 人殺しを幇助したとかいうことか?
http://www.geocities.jp/dirty_anal_friend/P/P100.jpg
死刑もされてきた          / ̄ ̄ ̄ ̄\ 『週刊 警察』の購読者です
私に石を投げる方々         /;;::       ::;ヽ  特集号 目から鱗の法令解釈
最高法規九九条 死刑業努    |;;:: ィ●ァ  ィ●ァ::;;|   解釈で ここまで正当化できる
最高法規九九条  使命 努め  |;;::        ::;;| あなたの犯罪・違法行為も読みました
    rュ,―― 、 r":::::::::::::::ヽ、    |;;::   c{ っ  ::;;|
   ‖|   /  f::::::::::::::::::::::ヤ     .|;;::  __  ::;;;| 業界標準
  ‖ ヽ__/  !::::::::::::::::::::rイ    ヽ;;::  ー  ::;;/   情報の報告…
  ‖        ヽ::::::::::::::::/ソ        \;;::  ::;;/
 ‖     __ イ二二二ニト、_    /     \使命 職務 義務 遵守
 ||    / 最高法規九九条 /ヽ、 | |    | ::| 死刑執行でさえ行えた 遵守
 ||   ./ !  誠実 遵守  /  ハ、| |    / .::/        
 ||_ / |               〈_   ハ  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/
 __/〈  !人情派やまさん  \_  \   NHKのように第三者的に
      ヽ/  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ヽ Y   犯罪者の気持ちが よくわかる 公平
 ―――| フェアプレイ |  |――──────――
       |    正義    |  | 誠実に希求する 遵守する
まさか陸海空に軍でも保持してたのか?
`¨ − 、     __      _,. -‐' ¨´
      | `Tーて_,_` `ー<^ヽ 利害  癒着
      |  !      `ヽ   ヽ ヽ
      r /      ヽ  ヽ  _Lj 遵守
 、    /´ \     \ \_j/ヽ
  ` ー   ヽイ⌒r-、ヽ ヽ__j´   `¨´
           ̄ー┴'^´   ポダム 死刑になった方々
不正 歪の作成、蓄積 じしんの活動 ・・・・
けいべつは していない

835 :
■日本人(モンゴロイド)が差別される理由〜人種差別の本質は容姿差別〜
                              ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
皆さんはダウン症をご存知でしょうか?染色体異常が原因と思われる病気で、身体、
知能の発達が著しく低くなります。この病気は世界中で見られるのですが、とても奇妙な、
そして興味深い特徴があるのです。それはこの病気を持って産まれた人はいかなる人種でも
皆同じ顔をしていると言う事です。そして、その顔とはまさにモンゴロイドそのものなのです。
欧米でも中東でもアフリカでもモンゴロイドの顔をした人がしばしば産まれているのです。
そのため、外人はモンゴロイド顔にとても敏感なのです。
勿論、周りの人はそれが遺伝子に異常を持って産まれたであろう事を知っていますが…
これは同じモンゴロイド顔をした日本人同士が議論していても決して理解できる物ではありません。
■「ダウン症候群」=「Mongolism(蒙古人症)」または「mongolian idiocy(蒙古痴呆症)」
ダウン症は、1866年に英国の医師ジョン・ラングドン・ハイドン・ダウンが初めてその存在を発表しました。
ダウン医師は発達の遅れを持つ子供の中に両親は違っていても、兄弟のようによく似た子供達が
いることを発見しました。ダウン症の特徴は、モンゴリアン(蒙古人)の特徴とよく似ていることから、
ダウン医師はヨーロッパ人の中で能力の劣った蒙古系の人種が生まれてきたと考えました。
そしてモンゴリズム(蒙古症)という名を付けたのです。その後、1965年にWHOによって
ダウン医師の名前から「ダウン症候群」を正式な名称とすることが決定されました。
■ダウン症の特徴はモンゴロイドの特徴
ダウン症の容貌の特徴に短頭・首が太く短い・低身長・短い手足
凸凹してない平面顔・筋緊張低下・内眼角贅皮(蒙古ひだ)・厚いまぶた
平坦な鼻根・あごが未発達・エラなし・直毛…
全ての特徴が現れる訳ではありませんが、モンゴロイドはダウン症の特徴が多く集まっています。
コーカソイドでも、この病気を持って生まれてくるとモンゴロイドのような顔になります。

836 :
ダウン症白人
http://i.imgur.com/WoAGqjh.jpg
http://pds.exblog.jp/pds/1/200703/17/99/e0061699_8402712.jpg
http://farm4.static.flickr.com/3049/2898762045_3a8b25e921.jpg
http://farm3.static.flickr.com/2407/2218535223_1878359353.jpg
http://farm5.static.flickr.com/4005/4645374407_d6c1a54b79_b.jpg
http://farm8.staticflickr.com/7163/6706080901_a6fbf1c5fb_b.jpg
http://farm4.static.flickr.com/3091/2866451687_ac9f819320_o.jpg
http://farm1.static.flickr.com/209/486175518_913a9ef453_o.jpg
http://farm1.static.flickr.com/224/516519237_d27973d164_o.jpg
http://farm3.static.flickr.com/2591/3956692766_7af06fd1e5_b.jpg
http://farm3.static.flickr.com/2075/1673880491_a1f275377a.jpg
http://farm3.static.flickr.com/2488/3793291213_17384b8a19_b.jpg
http://farm3.static.flickr.com/2717/4451939494_090883dfaf.jpg
http://farm7.staticflickr.com/6110/6256180346_5d11f6e639_b.jpg

837 :
蒙古ひだの写真
http://waynesword.palomar.edu/images/epican1.jpg
http://en.wikipedia.org/wiki/Epicanthic_fold
http://www.nlm.nih.gov/medlineplus/ency/imagepages/9298.htm
http://www.se-biyou.com/html/eye4.html
ダウン症の顔は後頭部と顔面の骨格が未発達なため顔を
押しつぶした扁平な顔であり、彫が極端に浅い究極の童顔である。
そして最も童顔であるアジア人はダウン症の顔に近いと言われており、
白人のダウン症児はアジア人の最大の特徴である蒙古ひだを持っている。
これは別の言い方で蒙古症とも言われている。
モンキーライン
http://2ch.jpn21.net/Imgboard/01/data/img20130805224637.gif
http://www.biyo.2-d.jp/page/9kasyo/
百年後の日本人の顔は、いまよりもっとあごが退化した顔になると言われています。
それは、柔らかいものばかりたべているせいです。
あごの骨は硬いものをかめば咬むほど発達しますが、柔らかい食べ物では、発育不良化が進みます。
鼻が高く、あごも発達している白人は、Eラインの人が多いのですが、日本人では
美人系芸能人にまれにあるぐらいで、ほとんどがモンキーラインなのです。
骨格の違い モンゴロイドとコーカソイド
http://kxup.x0.com/img/5248d563.4856.jpg
http://kxup.x0.com/img/52057d31.10900.jpg
http://i.imgur.com/Dg5YpyN.jpg
http://i.imgur.com/x1r4HhI.jpg

838 :
どなたかご存知でしたら教えてください。
女ぎらいの弁という文章をネットで見かけたのですが、これはどの本に収録されているのでしょうか?

839 :
>>112
>>271
矛盾してるじゃねーか
偉そうにこのホモヤロー
死んじまえ

840 :
ペインブルー PSO2 豚 迷惑プレイヤー S.P.A.Ts VP  馬鹿 低学歴 コミュニケーション障害 メンヘラ 自己中 キチガイ 犯罪者

841 :
莉里子という女として生きていきます 【警告】 皆さん気を付けてくださいね
https://imgur.com/a/TXEgU

842 :
今夜19時から楽しみ

843 :
>>272
青年男女の自殺が一種のオッチョコチョイなら
45男と25男の心中は何なんだ?
前者は羨ましい面があるけど後者は死んでも嫌だな、俺は

844 :
【m9(^Д^)】  リーマン級暴落  ≪≪日 米 同 時 破 綻≫≫  沖縄にUFO  【m9(^Д^)】
http://rosie.2ch.sc/test/read.cgi/liveplus/1517884399/l50

845 :
莉里子
https://i.imgur.com/J7dZ7qo.png

https://twitter.com/copy__writing

846 :
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店舗ホームページ
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847 :
友達から教えてもらったパソコン一台でお金持ちになれるやり方
役に立つかもしれません
いいことありますよーに『金持ちになる方法 羽山のサユレイザ』とはなんですかね

TCC

848 :
これは?
http://mevius.2ch.sc/test/read.cgi/tv/1564798325/114>>1  
http://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/cinema/1581279226/

849 :
>>1
実況スレ
★1
http://himawari.2ch.sc/test/read.cgi/livetbs/1584054055/1
★2
http://himawari.2ch.sc/test/read.cgi/livetbs/1584095314/
★3
http://himawari.2ch.sc/test/read.cgi/livetbs/1584096186/

850 :
★1
http://himawari.2ch.sc/test/read.cgi/livetbs/1584054055/1>>1
★2
http://himawari.2ch.sc/test/read.cgi/livetbs/1584095314/
★3
http://himawari.2ch.sc/test/read.cgi/livetbs/1584096186/
★4
http://himawari.2ch.sc/test/read.cgi/livetbs/1584096978/

851 :2020/03/14
http://hayabusa9.2ch.sc/test/read.cgi/mnewsplus/1584106180/>>1

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