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--佛教論議の伽藍スレ-- 第一巻


1 :2018/06/26 〜 最終レス :2018/08/01
仏教に関するKeyword
「無我」と「アートマン(我)」、「輪廻」や「涅槃(ニルヴァーナ)」などについて、
原始経典(「パーリ五部聖典」や「漢訳四阿含経典」)に説かれているブッダからの教説を中心にして、
激しく議論したり、または有益な情報を互いに交換するためのスレです。
尚、自説の主張に際しては、最低限の論拠や根拠を併せて提示されますよう宜しくお願いします。
基本的に仏典(原始経典)の記述を根拠にしていることが大前提ですが、
もし、そうでない場合には明確な理由を必ずしっかりと説明して下さい。

-------------------当スレの戒律(マナーとルール) -------------------
条項 1.コピペ・アスキーアートは原則禁止(議論に使用する為の真面目な図解については可)
   2.文章、三行以下の投稿は連投を禁止します---落書き帳やメモ帳ではない
    (チャットような使い方はすぐ1000レス使い切るので辞めて下さい。もっと内容を一つに纏めてから投稿しましょう)
   3.一行明け投稿や無駄な空間を使用した投稿は遠慮願います。
   4.意味の無い無駄な投稿は完全な犯罪級の荒らしです。スレ主である私(宝珠真範)の判断で即刻、退場してもらいます。
   5.南伝仏教(または上座部仏教/南方仏教..)を「小乗仏教」と呼称することは差別用語なので使用禁止です。
    (1950年の世界仏教会議にて決議した)
   6.議論でヒートアップしても相手を不当に侮辱した言葉を使わないこと(節度ある態度で接しよう)
   7.仏教徒として当り前の話ですが、ブッダを侮辱する意味の言葉は厳禁です。即刻、退場してもらいます。
   8.次スレを立てる際は、勝手に「スレタイ」や「テンプレ」(レス番2の戒律と資料リンク含む)を変えないこと。厳守!!
 以上ですが、基本的には参加者皆さんの良識に期待します。

2 :
-----当スレッドは-----
過去の2ch『原始佛教』、『仏教議論スレッド』シリーズを継承したような良スレになることを期待します。
投稿する方はスレ主である私(宝珠真範)の指示に従い、必ず当スレの“戒律 ”を厳守のこと。
違うことをしたいという方は、どうぞ他スレでお好きにして下さい。

また、当スレは同時に『質問箱』の機能も合わせ持ちます。
質問に関しては、仏教関連ならば気軽に大乗も含めて祭祀や葬儀、等々...何でも構いません。
解答や情報をお持ちの方はどうか質問者へ親切に教えてあげて下さい。
尚、複数の異なる解答があった際には質問者の方の判断にお任せします(参考程度にどうぞ)。
-------------------------------------------------------------------------------------
過去ログ保管庫
 http://houjugusya.web.fc2.com/link.html
Wikipedia ― Category:仏教
 http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E4%BB%8F%E6%95%99
論文検索
 http://ci.nii.ac.jp/
 http://sc.chat-shuffle.net/
 http://www.inbuds.net/jpn/index.html
 http://www.totetu.org/index.php?id=523
パーリ三蔵
 http://www.tipitaka.org/cell/mainlist.html
 http://www.tipitaka.org/romn/
大正蔵経検索
 http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php

3 :
 
おじゃるは基本的には
どこかのサイトのコピペなので

コピペ禁止だと
おじゃるは
参加できないでつね?

それでも
とりあえずは

このスレの
スレ立てとかは
協力して逝きたい所存で おじゃりますので ヨロ m(_ _)m

4 :
 
それぞれが所属する
経典・論書・解説書とかを根拠にしているのなら

拝火教
ゾロアスター
六師外道
ヒンドゥー(バラモン)
クンダリニー
根本仏典
中観
唯識
密教

というように幅広くしてもOKでつよね?

たとえば
中観自立派と
中観帰謬派では立ち位置が違うので
『根拠にしている解説書とかも違う』
というような感じになる場合も
あるかもしれないので
一応、念のため

5 :
 
>『質問箱』の機能も

それでは質問させて頂きます

宝珠殿が云う

真我と云うのは↓これでつかね?

初期のウパニシャッドである
『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』では
「…でない」によってのみ、アートマンが定義されるという
その属性を「…である」と定義することはできないという
したがって、「…である」ものではない

たとえば
仏そのもの
仏性からの真如縁起というような意味で

無為法から → 有為法へ働きかけているもの

無住処涅槃から → 無明している世界へ働きかけているもの

般若の智慧と慈悲をもって
円成実性の世界から → 依他起性している世界を観照してるもの
(円成実性を見ずして依他起性を見ることはできない)


仏や涅槃の境涯は、人間本位の自我を離れ、如来我(仏性)がある

↑これのことでつかね?

6 :
>>5
このことの関して、中村元氏は、中村元選集の中で、次のように言っている。(以下、引用)
 

  『・・・・・・ここで次のような疑問が起こるかもしれない。
なるほどウパニシャッドのい哲人たちやインド一般の哲学者は、アートマンの主体を説いたかもしれない。
しかし仏教はアートマンを否認している。
仏教は無我説を主張している。
仏教のような大宗教がアートマンを否定しているのであるから、アートマンの主体性という観念はインド民俗共通のものとはいえない、―と。
しかしながら、果たして仏教はアートマンを否定したのであろうか。
 
 原始仏教経典のうちの最古層に表明されている無我説によると、仏教では何ものかを「わがもの」「われの所有なり」と考えることを排斥しているのである。
修行者はまず「わがもの」と「他人のもの」とを区別しないで、あらゆるものについて所有感をもたないことである。
「わがもの」とみなす執着を離れ、一切の所有を捨て去るという思想、ならびにその実践修行は、きわめて古い時代からバラモン教において行われていた。
(つづく)

7 :
一切の所有物を捨て去り山林に隠棲することは、一切祀という一種の祭り祀として、ヴェーダ聖典の中に規定されている。
また初期のウパニシャッドによると、アートマンを悟った真のバラモンは子孫・財宝・世間に対する欲望を捨てて行乞するものと説かれている。
またジャイナ教においても「わがものという所有の観念」を捨て去るべきことを教えている。
そうしてこういう意味の無我説であるならば、ジャイナ教徒も後世にいたるまで「無我説」の観念を持っていたということができる。
 しからば「所有」「わがもの」という観念を放棄せねばらぬのはなぜであるか。
原始仏教経典は、その理由として次の道理を説いている。
およそ自己の所有とみなされているものは、常に変滅するものである。
したがって永久に自己に属しているものではない。
また自分が死んだならば、自己の所有物、あるいは自己の所有のごとくみなされている人々(例えば家族など)は、自分から離れてしまう。
ゆえに自己の所有に執着してはならない、と。
したがって初期の仏教は、我ならざるもの(非我)を我(アートマン)とみなすことを排斥しているのである。
我ならざるもののうちでも、特に身体をアートマンであると誤り解する思想を、力を入れて排斥している。
愚昧なる凡夫はこの身体をわがものであると解している。
神々といえども、なおこのような見解にとらわれていて、そのために輪廻の範囲に流転し、なお苦脳を脱しえない。
このような見解を、初期の仏教徒は『自己の身体を執する見解』と呼び、これを捨てることを教えているのである。
したがって初期の仏教徒は「非我」とくに「身体」をアートマンあるいはわがものとみなしてはならぬということを教えているのである。
仏教哲学の述語が確定するとともに、個人存在を構成している諸要素を諸行あるいは五蘊であると解するようになったときには『五蘊を(アートマンとは異なった)他のものとして見る。
アートマンであるとは見ない。』『また諸行を(アートマンとは異なった)他のものとして見、アートマンであるとは見ない。』と説くようになった。

8 :
(つづき)
そうして経典のうちのやや遅い部分には、次の定型句がしばしば繰り返されている。
『色(受・想・行・識)は無常である。
無常であるものは苦である。
苦なるのは非我である。
非我なるものは我がものではない。
これはわれではない。
これはわがアートマンではない。』世間の凡夫ならびに哲学者たちはアートマンを想定し、アートマンを求めている。
しかしわれわれ人間の具体的存在を構成している精神的あるいは物質的な要素ないし機能のいずれをも、アートマンと解することはできない。
それらは絶えず変化するものであるから、常住不変なるアートマンに相反している。
またそれらは苦を伴うから理想的・完成的実体としてのアートマンとは異なるものである。
では、われわれの自己(アートマン)はどのようなものであるか。
それは対象的には把握されえない。
世人がアートマンなりと解するかもしれないいかなる原理あるいは機能も、実はアートマンではない、またアートマンに属するのでもない。
―これが無我説の大要である。
したがって初期の仏教は「我が存在しない」と主張したのではない。
ただ客観的・実体的あるいは機能的なアートマンは存在するか、あるいは存在しないかという問題に関しては、初期の仏教徒は沈黙を守っていた。』P96〜98

9 :
さて荒らしてやろうかな?www

10 :
(つづき)
『このようにして、まず第一に仏教の無我説があらわれた。

無我説はかならずしもアートマンが存在しないと説いたのではないということは、すでに述べたとおりであるが、それは固定的・実体的な行為主体を否認している。
無我説は仏教の中心思想として一般に認められているが、それに類似した思想は、インド思想界の諸方面に現れている。
『マイトリ・ウパニシャッド』(三・二)においては、『(個我は)「それはわれである。」「これは我がものである。」と、このように考えて、みずから自己を束縛する。
あたかも鳥が網によって(自己を縛る)ようなものである。』といい、このような束縛から離脱すべきことを教える。
『バガヴァッド・ギーター』(二・七一)は『一切の愛欲を捨てて、我欲なく、わがものの観念なく、自我の観念のない人は、寂静に到達する。』と教えている。

無我説の表現法はまたサーンキヤ派にも継承されている。
『われは存在しない。(何ものも)わがものではない。
(何ものも)われではない。』という「清浄にして完全な智」が純粋精神としてのプルシャに起こったときに解脱が成就するという。
(つづく)

11 :
(つづき)
サーンキヤ学派は、アートマンに相当するプルシャを独自の形而上学的原理として想定している点に、仏教徒はいちじるしく異なった点はあるが、文面の上では非常に仏教と類似した表現をもちいている。
またバルトリハリのことばの形而上学によると、認識の対象が語の形相であるのに対して、認識主体である「我」(アートマン)とは語である。
かれの説くことばなるものは、主体的な性格を具有している。
ことばがアートマンであり、それが究極における認識の主体であるから、認識とは主体としての語が、対象化された語を自己の中に映出することである。
あたかも人間の像が布や壁に映し出されるように、主体としての語が自己を客観的に投射して、対象化された語を認識するのである。
そうしてその認識の行われる座、すなわち布や壁にあたるものが、まさに統覚機能すなわち内官にほかならない。
統覚機能なるものは、勝義においては、絶対者の自己投機の座にすぎず、能動的活動は認められない。
つきつめて言えば認識とは、絶対者である語が、自己分裂によって、主体的側面とを対他的・相待的に成立せしめる自己展開の運動の一つの相にすぎない。
行為の問題についても、それと同様に解することができる、という。これもまた一種の無我説と解することができるであろう。』P124〜125


 『東洋人の思惟方法1』(中村元選集・第1巻)春秋社より引用

12 :
>>9
おい、コラ!^^

13 :
 
>>9
パーピマン殿、乙です m(_ _)m

荒らされた。という
因果応報による
縁起をもって
それゆえに
>荒らしてやろうかな?w

と云うことなんでつね?
  _  _  _

>>11
栄進師匠としては
アートマンは
「…である」ものではない

たとえば
有為法ではない

と云うような感じなんでつね?

14 :
>>13
うーん、よくわかんないけど、アートマンは無為法かもしれん。

15 :
 
>プルシャを独自の形而上学的原理として想定している

↓これでつね?

サーンキヤ
永遠に変化することのない『プルシャ』
プルシャの観察(観照、関心)を契機に平衡が破れると
プラクリティから様々な原理が展開(流出)してゆくことになる

16 :
携帯からなので、ID変わります。
9は、私ではありません。
なりすましです。

17 :
 
>アートマンは無為法かもしれん

↓これでつね?

宗教(religion)
人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念であり…

縁起している世界も手放して超えて逝く

↑こんな感じでつね?

18 :
 
>>16
ぱーぴまん殿、乙です

大変、失礼いたしました
訂正して、お詫び申し上げます スマソ m(_ _)m

19 :
宝珠真範さん乙です。
スレの趣旨に賛同し参加させていただきます。

因みに
 >9 名前:パーピマン[] 投稿日:2018/06/26(火) 17:17:14.08 ID:w4UkIT4K
 > さて荒らしてやろうかな?www
の正体は http://hissi.org/read.php/psy/20180626/dzRVa0lUNEs.html で確認できます。

まずはご挨拶まで。

20 :
>>17
その「宗教」の説明は、ややもすれば精神疾患の妄想で片付けられる危険があるけど^^
西洋の絶対神も、東洋のアートマン思想も同じものかもしれん。
妄想じゃないことを願う^^

21 :
犬ジャンキーが一番落書き低俗の可能性ありだな笑。

22 :
20.宗教は妄想である。

23 :
 
>精神疾患の妄想で片付けられる危険がある

↓こう云うのもあるでつよ

変性意識状態
(へんせいいしきじょうたい、altered state of consciousness, ASC)
…「宇宙」との一体感、全知全能感、強い至福感などを伴い
この体験は時に人の世界観を一変させるほどの強烈なものと言われる

トランスパーソナル心理学ではこれを
人間に肯定的な効果をもたらすものとして研究する
また精神疾患に対する有効な療法として
一時的にこの状態を患者に与える方法が活用されている
  _  _  _

導くための
対機説法としては

>西洋の絶対神も、東洋のアートマン思想も同じもの

というような場合もあるらしい

24 :
>>20

ああ。ジャンキー君の18番な。
その手法で論破らしいです。

25 :
>>19
なるほど。

心底、クズだね。 マジでどうしようもない奴だ。

26 :
涅槃の文句は俺に言え!( º言º)y-~

27 :
 
>>26
閻王師匠
久しぶりで乙です

>涅槃の文句は俺に言え

意味がわからないけど
これからも ヨロ m(_ _)m

(勝義諦と世俗諦の?)
閻王師匠と
縁起一代師匠が
議論を戦わせて
その後の経緯は
どうなったんでつか?

28 :
【芸能】千眼美子、RADの新曲を「愛国心満載のただただ、ええ曲」と評価 「日本が好きな人、嫌いな人、浮き彫りになった」
http://hayabusa9.2ch.sc/test/read.cgi/mnewsplus/1528791159/

★★幸福の科学★★
さとうふみや
景山民夫
小川知子
阿藤快
河口純之助(元THE BLUE HEARTS)
Le Couple(ル・クプル)
清水富美加
新木優子

29 :
>>27
https://i.imgur.com/zE4EcHv.jpg

30 :
 
>>29 閻王師匠へ

北斗の拳も
蒼天の拳も観たこがないので
意味が、わからないけど
とりあえず
了解でつ m(_ _)m

観たこがないけど、とりあえず↓これ?
ttp://anicobin.ldblog.jp/archives/cat_1332569.html

31 :
>>23
私も経験しましたが、その変性意識状態こそが精神病の発症なんです。
それを精神疾患の有効な治療法とするのは、いわば毒を持って毒を征すると言ったとこでしょう。
変性意識状態をよく悟りと誤解もされますねえ。
有頂天になって教祖気取りになる輩が後を絶たない。
精神科に行けって話です^^

32 :
≪ブッダ入滅後のヒンドゥー教≫

 しかし、真我が形のあるもの・ないものの二つに分かれたために、もとに戻しても、また分かれてしまう恐れがあります。
この考え方は、お釈迦さまの時代にはなかったので、経典では批判がないのです。
 お釈迦さまが亡くなった後で発展するヒンドゥー教は、かなり哲学的な宗教になり、
二元論、不二一元論など様々な思想が発展しました。二元論にせよ不二一元論にせよ、開発したのは仏教の思想家たちです。
しかし仏教は純粋なお釈迦さまの教えから離れて部派仏教や大乗仏教といったものに変わってしまい、
その思想もお釈迦さまの言葉の証拠なしに展開するようになりました。  
 そうやって大乗仏教の哲学が発展していったところで、ヒンドゥー教はそれをそのまま自分のものとして取り入れたのです。
ですから、ヒンドゥー教にはブッダの純粋な教えの立場から反論しなくてはいけないのです。  
 ヒンドゥー教の創造論によると、我ははじめは形のない、無限(英語でinfinite、サンスクリット語でanantaアナンタ)のものです。
時・空の両方で無限です。その無限の我が二つに分かれて一つは現象、つまり宇宙とか森羅万象になるのです。
そして分かれたもう半分はというと、未だに時空無限でいるのです。
 それで、個になった人が、現象世界がmaya(マーヤー 幻覚)であるとわかって「本当は自分はもともとの神様とまったく
同じなんだ、自分が違うと思っていたのは勘違い、幻覚だった」ということを修行で発見するわけです。
そして発見した人はもとのbrahmanのところに行って無限になれるのです。
空間的に無限というのはちょっと想像できませんが、時間的に無限というのは永遠ということでしょう。

33 :
≪ヒンドゥー教で説明されていない問題≫

 ここで一つ、彼らが説明していない問題があります。そもそもなぜ、無限の真我・brahmanが分離したのかということです。
なんのためなのか、何か原因があったのか。これがはっきりしていないのです。
ですからこちらがせっかく苦しい修行をして向こうに行ったところで、分離してもう一度追い出される可能性があります。  
 だから、はっきり言うならば、無限のnirguna brahmanに「修行して分離しないようにしなさい」と教えてあげないといけないのです。
そうでないとこちらが修行して行っても、またはじき出される可能性がありますからね。
 この理屈はあまり使われていませんが、私の反論です。仏教的にはそういうふうに簡単に反論できるということなのです。
もしも二つに分かれてしまうのでしたら、こちらの親分がしっかりしてくれないと困ります。
真我がいい加減に分離したり分解したりするようでは、我々個我が困るからです。
 どういうことかというと、もし修行して真我のところに行っても、真我がいい加減だったら「あんた、あっちに行きなさい」と、
からだについている虫や蟻を追い出すようにまた輪廻転生に陥らされるからです。
ですからヒンドゥー教の説明は、仏教の立場から見たら笑ってしまうようなものなのです。

34 :
 分離するのは、真我が自己認識するためだという話もありますが、そもそも自己認識することが間違っていると、仏教では教えています。
真我が自己認識して初めて「asmi(アスミ 私が在る)」と言うことができた、という話もありますが、
お釈迦さまはこのアスミということ自体が無明という迷いの状態の始まりだとおっしゃっています。
 自己認識する人というのは、落ち着きがないのです。自分を自分と認識するために、自分でないもの、つまり現象の世界をつくって
「あれは自分でなくて、こちらは俺です」と認識します。ですから、じつは真っ先に修行しないといけないのは、その人なのです。
我々が修行するより先に、brahman(真我)が修行したほうがいいということになってしまいますし、
それとの合体を目指して修行するというのも、仏教的に見ればバカバカしい話です。
 ヒンドゥー教の方々はみんな、ややこしい哲学のことを信仰しているわけではありません。
多くの人々はとてもシンプルなのです。彼らが神話に出てくるbrahman(神)を信じています。
神は複数なので、たくさんの神々を信仰しています。神の名前と形が変わっても、本来は神は一つであるというのです。

アルボムッレ・スマナサーラ. 苦しみをなくすこと (サンガ新書) (役立つ初期仏教法話)

35 :
 
>変性意識状態をよく悟りと誤解もされます

仮設としての
我癡・我見・我慢・我愛とかが強い場合で
そして
「宇宙」との一体感、全知全能感、強い至福感など
変性意識状態とかの体験をすると
自ら覚り終ったとする独り善がりの
野狐禅(やこぜん)とかになる場合もあるらしい

ダルマキールティは野狐禅ではないと思うけど、とりあえず
ttp://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/DY/0071/DY00710L019.pdf
光が輝く
輝くこと(照明)を本性とする
(仮設としての)
自己自身を照らす
智慧と慈悲をもって自己を認識する
智慧と慈悲は光の如く
照明することを本性とし
他に依存することなく
自ら輝き現われる
照明するものと照明されるもの
(照らす側 − 照らされる側)

パオ・セヤドーも野狐禅ではないと思うけど、とりあえず
ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.anapana.htm
智慧と慈悲の光は、体を包むようなかたちで、光が現れてきます

36 :
 
>自己認識することが間違っている

たとえば
解脱智見とかの場合は

仮設としての
無明に依存している
我が知覚するのではなくて
ttp://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%92%E3%81%A0%E3%81%A4%E3%81%A1%E3%81%91%E3%82%93
解脱智見を知る
  _  _  _

仏そのもの
の智慧と慈悲をもって
無住処涅槃をもって
仏性からの真如縁起をもって
解脱を知覚する

ttps://www.yuishiki.org/category/%E5%94%AF%E8%AD%98/%E5%BF%83%E7%8E%8B/%E7%AC%AC%E4%B9%9D%E6%84%8F%E8%AD%98/
唯識学会

完全なる涅槃
第九意識
  _  _  _

第九意識をもって
解脱を知覚する
解脱智見

37 :
>>31
所謂、魔境ってやつもそれですよね?

常々独学は毒学と申しておりますが、修禅には正師や先達の指導を頂かないとおかしな方向に行く危険性は多いにあると思います。

そうした魔境に対しても、仏教では緻密に分析してますしね。

http://echo-lab.ddo.jp/Libraries/駒澤大学仏教学部論集/駒澤大学佛教学部論集%20%2043/駒澤大学佛教学部論集%20%2043%20019渡邊%20幸江「禅病%20:%20『首楞厳經』に見る五蘊」.pdf

38 :
 
>>36の続き

たとえば
大乗 1.0の世界観をもって
上座部 2.0を実践する
3.0とかの場合は

たとえば
完全なる涅槃
第九意識もって

純粋な(単純な)意欲をもって

菩提分法を実践して
無住処涅槃に戻る帰る

というような感じであるらしい

ttp://www.j-theravada.net/pali/key-pakinnaka.html
初期仏教の世界

canda
チャンダ
意欲
やる気
単純な

39 :
 
>>37
>常々独学は毒学と申しておりますが、修禅には正師や先達の指導を頂かないと

たとえば
「2ちゃん」とかに書き込みしている
(中国経由の)日本の禅宗系の
ナンチャッテ覚者タソとかは

シッダールタは
「独学で悟りに達して仏陀となった(成道した)!」
と勘違いしてる方々が多いでつ

実際のところは
悟りに達して仏陀となる(成道する)
その直前までは
六師外道とか
ヒンドゥー(バラモン)とかの師匠が居たかもしれないのに

六師外道だったかもしれない
ウッダカ・ラーマプッタ師匠とかに
非想非非想のようなもの?
サマタ?ヴィパッサナ?のようなものとか?
を教わっていたかもしれないのに

40 :
39.正師、か。
祖師を殺して、仏を殺して、悟るものである。
その方法論を持っていないバカである。

41 :
 
>>39の続き

サマタ?ヴィパッサナ?だけではなくて

たとえば
無住処涅槃を前提として

戒・定・慧・解脱・解脱智見
布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若(の智慧も慈悲も)

ということなので
>>39を訂正して、お詫び申し上げまつ スマソ m(_ _)m

そして、更に?
恐怖や不安から解放され、心安んじて生きていける
安心(あんじん)とかも、あった方が良いと思うので
とりあえず

準提功徳衆、寂静にして心常に誦すれば、一切諸々の大難、よくこの人を犯すこと無し
天上及び人間、福を受くること仏の如く等し、この如意珠に遇はば、定んで無等等を得ん

一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m

42 :
>>3
あくまでも自分自身の言葉で
自分で書いた文章にて相手と対論して下さい。
その論旨の根拠としての各経典・論文・文献引用はもちろん構いません。
いつもどこかのサイト文章をただ丸ごとコピペする行為を繰り返すことは止めにして下さい。

>>4
>というように幅広くしてもOKでつよね?

はい。

>>5
>宝珠殿が云う
>真我と云うのは↓これでつかね?

はい。

ただし、仏教においてはアートマンについての解説はないですから。
真我についての詳細理解については、私個人は神智学とラマナ・マハルシのジニャーナと、
偽作の多いシャンカラチャリヤの著作の中に置いてこれこそ唯一無二の真作とされる『ウパデーシャ・サーハスリー』です。
尚、ブッダの説かれた“真実の自己を求めよ”という教えと「自性清浄心」、
そして、大乗の説く「仏性」というのはアートマンの意で良いと見ています。
まず、基本前提として、ブッダは“アートマンは無い”などとは教えていないということは何よりも重要です。
この誤解を解かない限りは、どうしようもない...。

それから、
死後にも存続する意識としては大きく三つの段階レベルがあります。
 1. カーマローカ-自我意識(表層意識) で、これが異常状態で存続しているものが「餓鬼」であり、
    そして、視覚に捉えられれば幽霊と呼ばれる。健全な場合には一定期間で生滅する。
 2.「魂」(Jiva/ジーヴァ)であり、輪廻主体としての五蘊の「識」。ここに意識の焦点が置かれたときにバラモンの行う奇跡的な通力が発揮される。
    ただし、これもまだアートマンではなくて最終的には消滅する。つまり、『梵網経』によってゴータマに否定された世界のこと。
 3.「真我」-究極の自己本質「アートマン」のことで「我」と漢訳される。ここに意識の焦点が留まるときにすべてのマーヤー(幻影)は消散する。

43 :
>>37
仏教もそうなんですが、あらゆる宗教は魔境ですよ。

仏教の一切皆苦、すべては苦しみであるという見解は重度のウツ病、あるいは統合失調症の陰性症状でしょう。
しかし、釈迦は精神疾患のキチガイと斬り捨てるつもりはありません。
希望は持ってます^^

44 :
 
>>42
>死後にも存続する意識としては

↓これで良いでつよね?

仮設としての
色蘊(肉体・身体)ではなくて
霊的な。というような意味で

トゥルパ
マナス(意、心)が成した身体(マノマヤカーヤ、意成身)
意によって作られる身体

シパ・バルドゥ − 再生へ向かう迷いの中有

中有身

仮設としての
異蘊相続していくもの

45 :
43.それは心理学である。

46 :
 
>>43 栄進師匠へ
>あらゆる宗教は魔境ですよ

その魔境のようなものを
手放しするための方法は?

曹洞宗の内山興正 思い手放し

坐禅中の心構えを一口にいうならば
坐禅の姿を骨組と筋肉でねらい
そうして「思いを手放しにしている」という言葉が一番あたるかもしれません

ところが今
その何かをつかもうとする「思いの手をひろげっぱなし」にしてしまって
何ものをもつかまないでいることです
すなわち思いの手放しです
実際には何ものかの思いが浮かぶかもしれません
しかし
思いがそれをつかみさえしなければ「何もの」としても構成されることはないでしょう

道元 普勧坐禅儀
…心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて…

余念を交えず、ただひたすら座禅する只管打坐
  _  _  _

最終的には?
仏教(宗教)というよな『想い』も手放して超えて逝く
というような感じでつね?

47 :
46.内山輿正のバカ教えである。思い手放し。
それは単なる心理学である。
それは宗教ではない。

48 :
>>43
そこまで後退というかメタに視座を置くと、このスレの趣旨から逸脱しないかな?
仏教でいう魔(境)は、あくまで仏道の妨げになるを言うのでしょうから。

49 :
 
>>48 junkie- ooyama.師匠へ

栄進師匠の場合は
唯識(仏教)とかに詳しくないようなので

たぶん↓これも、わからないのかもしれないでつね?

仮設としての
阿頼耶識は
さとりに達するための修行の障害(「覆」)がない無覆無記(むぶくむき)

末那識は
我癡・我見・我慢・我愛の四つの煩悩をしたがえており、障害がある有覆無記(うぶくむき)

仮設としての
無明薫習に依存している
我癡・我見・我慢・我愛に依存している
仏道の妨げになる魔境

50 :
>>49
たしかに、栄進さんは唯識は苦手でしたね。

51 :
>>48
すいません。
釈迦(仏陀)をキチガイと侮辱してしまいました。
発言を撤回します^^

52 :
>>37
ジャンキーのエロ的下品なAAの繰り返しは確実に魔境犬だ。

53 :
 
>栄進さんは唯識は苦手でした

唯識というよりも

人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする
宗教(religion)を理解してないかもしれないでつね?

たとえば
無住処涅槃とか、その他諸々など

>釈迦(仏陀)をキチガイと侮辱してしまいました

このスレの場合は
論拠・根拠を提示できるのなら
宗教(仏教)を批判しても良いんじゃないかしらん?

たとえば
宗教哲学(philosophy of religion)
…伝統的宗教に対する、懐疑の発生と結びついており…

宗教に対する、懐疑
哲学とかは

パーピマン殿(ID:8DWBMOr0)とかの
専門分野かもしれないでつね?

パーピマン殿は
たしか哲学から宗教板に来た
というようなことを云ってたような気がする

間違ってたら スマソ m(_ _)m

54 :
>>53
人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする .....

仏教は、そんなもん対象としてるんですか?
してないならば仏教は宗教では無いかも^^

55 :
>>54

その質問の趣旨は正しい、

さすがやな。

56 :
 
>>54 栄進師匠へ
>そんなもん対象としてるんですか?

たとえば
涅槃
無為法は

人間の力や自然の力を超えてませんか?

57 :
外道のスレでヘピーマンを呼ぶ
愚か者が居るぞ!ヽ(`Д´)y-~

58 :
>>56
いや、涅槃は人間である仏教徒が目指す目標じゃないの?
死ぬことが無為。
だからといって今すぐRって意味じゃないと思うが^^

59 :
質問は良かったが・・・・。

60 :
 
>外道のスレ

ID:GrCaiKGt っていう人が
スレ立てしたみたいでつね?

おじゃるは ID:/OecC8EM でつ
一応、念の為
  _  _  _

>涅槃は人間である仏教徒が目指す目標じゃないの?

仮設としての
縁起している世界を手放して
有為法している世界を超えて

涅槃に戻る帰る

それゆえに
仮設としての
縁起している世界を超えているでしょ?
(有為法している世界を超えているでしょ?)

61 :
ヒンズー系寄りのおじゃるらしいな。

62 :
 
>死ぬことが無為

仮設としての
色蘊(肉体・身体)が生きている
有余涅槃というのもあるそうでつ
一応、念の為

63 :
 
>ヒンズー系寄りのおじゃるらしい

眉間にある
第6のチャクラ
くすぐったい
むずむずする

とりあえず
この実践も
続けて逝きたい所存で おじゃりますので ヨロ m(_ _)m

64 :
>>60
世界を超えた人間って何なん?

スーパーマン^^

65 :
 
仮設としての
縁起に依存している

スーパーマン^^も手放して超えて逝く

ということであるらしい

おじゃるは
ヒンドゥー(バラモン)とかも肯定でつ
一応、念の為

66 :
ヘピーマン出て来るにゃん!

ひゃっひゃっひゃ!( *´艸`)

南無南無 (*^人^*)

67 :
 
>>65の続き

最終的には?

仮設としての
色蘊(肉体・身体)が生きている
有余涅槃も手放し

縁起している世界を超えて

無余涅槃

というような対機説法であるらしい

68 :
http://youtu.be/61Gj8hMehVo
http://youtu.be/gswt08hBV3A

おじゃるをキリスト教徒に?笑。

69 :
 
>>68

今その動画を見たけど

歌詞も聞こえ難いし
喋ってる声も聞こえ難いので

意味が、わからないので

ご教示願います ヨロ m(_ _)m

70 :
>>67
手放すとか超えるとか、抽象的でよくわからんなあ^^
釈迦というか仏陀って人間じゃないの?
ただのオッサンでしょ^^

71 :
>おじゃる

ここのスレ主は、宝珠なので、本来、オレがいうべきことではないんだが・・・・

お前さんが呼び込んだ、閻王 は、基地にゃん ですよ。
貴方は、荒らしを呼び込んで、このスレが荒れることに協力するつもりですか?

誰とでも安易に絡む癖は止めた方が良いと思いますよ。
少なくとも他人のスレでは。

72 :
また、言うまでもないことですが、

外道の独り言 11 は、私とは何の関係もありません。
スレタイ とテンプレをパクッテましたが、 まあ、アホ嫌がらせとして
以後、スルーです。
 

73 :
 
>ただのオッサンでしょ^^

シッダールタは
ウッダカラーマ・プッタとか
非想非非想とかがあって
そして、それから
ピッパラ樹の下に坐して瞑想に入り
悟りに達して仏陀となった(成道)

普通の通常のオッサンではなくて
すべての煩悩を断じ終って涅槃に入り
もはや再び生死を繰返すことがなくなった
阿羅漢果

有余涅槃・無余涅槃

というような対機説法であるらしい

それでも
たとえば
おじゃるの場合は
誰もが成仏するわけではない(五性各別)

74 :
 
>>71
>閻王 は、基地にゃん です

縁起一代さんと
議論していた
かつての閻魔さんと勘違いしてました

以後
IDとかも確認して
気を付けたいと思います
失礼いたしました スマソ m(_ _)m

>>72
了解でつ


>>53のところの
宗教に対する、懐疑
宗教哲学(philosophy of religion)

間違いがあるのなら、ご指摘願います

75 :
 
>誰とでも安易に絡む癖は止めた方が良いと思います

その結果として
勝義一辺倒の勝義房に叩かれたことが
しょっちゅうありました

ということで

失礼いたしました スマソ m(_ _)m

(おじゃるは
上座部 2.0の立ち位置なので
勝義一辺倒の勝義房に叩かれた
という意味でつ)

76 :
>>73
ただのオッサンは言い過ぎた。
釈迦とその辺のホームレスのオッサンと何が違うの?
悟りって何なの?
何も考えてないアホと何が違うの^^

77 :
 
>何も考えてないアホと何が違うの^^

仮設としての
無明に依存している
>何も考えてないアホ
(これは、おじゃるのことでつね?)

 − これに対して −

すべての煩悩を断じ終って涅槃に入り、もはや再び生死を繰返すことがなくなった
尊敬や施しを受けるに相応しい
阿羅漢(あらかん)
釈迦

違いまつよね?
同じようにみえまつか?

78 :
77.煩悩を断じる、バカである。
煩悩を断じる必要がない。

79 :
>>71
これからはヘピーマンと名乗るが良いぞ!

80 :
>>77
すべての煩悩を断じ終わるって何も考えないことじゃないの?
輪廻のことも考えないから再び生死を繰り返すこともなくなるんじゃないの?
何も考えないアホは、尊敬や施しを受けるに相応しくないの?

81 :
本能は煩悩にあらずじゃ。

南無南無 (-∧-)合掌・・・

82 :
 
>何も考えない

を実践する為の方法は?

83 :
A 「滅」の原語の意味

「四聖諦」は原語では、

苦しみdukkhaという真理
苦しみの成立dukkhasamudayaという真理
苦しみの消滅dukkhanirodhaという真理
苦しみの消滅に赴く道dukkhanirodhagamini patipadaという真理

 です。

この中の、「消滅」は原語ではnirodhaですが、この原語nirodhaの意味は、インド一般では「修養につとめる(人)」あるいは「(ヨーガ行者が)心や感官を制しておさめる」という意味で用いられているそうです。
チベット訳も「制する」「ととのえる」という意味の訳語にしているそうです。(何かで読んだのですが、チベット訳は比較的原語の意味に忠実であるとされていました。)

中村氏は「nirodha(心や感官を制しておさめる)」ということは、仏教の理想の境地であると考えています。
確かに、スッタニパータにも妄執に突き動かされ暴れる心を馬や馬車に譬え、馬(馬車)をうまく制御することが大切だということを説いています。

ところが、nirodhaを漢訳では「滅」としたために、仏教が虚無論を説くものという印象を与えていると言います。

本来は、四聖諦のnirodhaというのは、ほしいままの欲望を制御し、苦しみをとじこめてしまうのがもとの意味であり、
その結果、静まったやわらぎの状態をもたらすことを目指していたのが本来の四聖諦のnirodhaの意味であるといいます。
http://www.geocities.jp/avarokitei/shotenporin-kuwasiku-miru/5-sishotai.htm

84 :
>>82
止観とか。

よーわからんが^^

85 :
 
>虚無論を説くものという印象を与えている

その結果として

机というコテのナンチャッテ覚者タソとかは
「(仮設としての)縁起している、すべては無だ!」と云ってました

勝義の立場としては、これで合ってるのかもしれないけど

導くための
対機説法としては
やはり
上座部とかの
(感官を制しておさめる)
苦集滅道というような説明の方がわかりやすいでつ
  _  _  _

>止観

とかを実践して
仮設としての
縁起している世界を手放して超えて
無為法
「…である」ものではない

という感じでつよね?

86 :
>>83
「nirodha(心や感官を制しておさめる)」

これを「何も考えない」ことと解釈できん?
できんか^^

87 :
 
>>「nirodha(心や感官を制しておさめる)」

>これを「何も考えない」ことと解釈できん?

感官を制しておさめる

というような段階を踏まえて

その結果として

心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて

という感じなんでしょ?違いまつか?

88 :
>>87
「心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて」

簡単に言えば、何も考えない思わないってことでしょ。
アホと何が違いまっか^^

89 :
 
栄進師匠のスレ

>あらゆる観念、見解を手放して
>縁起している世界を手放して超えているのなら

>縁起している世界の中の
>誰とも争わない

仏そのもの
仏性からの真如縁起

平等性智というような意味なら

合ってるんじゃないでつか?

90 :
●「止滅」という言葉

「ヨーガ・スートラ」の第一章の2番
YOGAS CITTA VRTTI NIRODHAHA
ヨーガは心の作用を止滅すること
というように訳されています。

「止滅」、というと、
止める、滅する、ですから、
心が止まって、消滅する、無くなる、
そのような意味かと思っていました。

しかし正直、これがどういうことなのか、わかっていませんでした。

考えが止まって、無になるような感じなのかな、と。

今回、お話を聞いてなるほどと思ったのですが、
止滅はサンスクリット語の「二ローダ」から訳されているのですが、
「二ローダ」は、問題を回避する、という意味があります。

ここでは、
望ましくないものから避ける、問題を取り除く、気づいている、より客観的に物事を見る、
ということなのだそうです。

ヴェーダーンタでの説明ならば、
アンタッカラナ・シュッディ
マインド(内側の道具)を綺麗にすることです。

私が止滅という言葉につけていた、勝手な意味の解釈のように、
間違った見方、偏った見方、主観的すぎる見方を取り除いて、
より真実に近い見方になること、それがヨーガの目的です。
https://www.smilebody-seitai.com/?p=14906

で、ヨガとは心の働きを止滅(客観視してコントロールする)する、のあとに続くのが

そのとき、見る者は、本来の状態(スワルーパ)にとどまることになる。

で、見る者は純粋鑑賞者、サンスクリット語ではプルシャという言い方をします。

私たちが普段使っているココロという機能。
自分の意識の全てだと思っている・・・反応・知性・自我意識。

プルシャとはそれと全く別個にある、ただ見る存在。
事象に巻き込まれることなく事象を眺めている存在。
ココロの反応に巻き込まれることなくココロの反応を眺めている存在。

91 :
 
何も考えないアホと何が違いまっか^^。という『想い』を手放して

その結果として

仮設としての
縁起している世界を手放して超えて
無為法
「…である」ものではない

に成るんでつよね?違いまつか?

92 :
 
>>90
本来の状態に戻り帰って
>本来の状態にとどまる

プルシャに戻り帰って
プルシャにとどまる

如来我(仏性)に戻り帰って
無住処涅槃

というような文脈で良いでつかね?

間違ってたら スマソ m(_ _)m

93 :
>>90
おまえら、ほんまプルシャだのアートマンだの仏性だの好きやな。
そんな人智を超えたものを相手にするんなら仏教は宗教やな^^

94 :
 
栄進師匠も

「…である」ものではない
アートマン
真我

と云ってましたよね?

>仏教は宗教やな^^

たとえば
中観自立とか
中観帰謬などのように
哲学的な?
対機説法のようなものも、あるかもしれないけど

基本的には
仏教も
人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする
宗教(religion)でしょ?

違いまっか?

95 :
>>94
違います。
仏教はあくまでも悟りを開くための実践です。
悟ったからといって人間や自然の力を超えた超能力が使えるわけではありません。

と師匠が言っとった^^

96 :
 
神通力(自在力)

四神足
観神足

般若の智慧と慈悲をもって
(仮設としての)思惟を観照する

(プルシャが → 縁起している世界を観照する)
  _  _  _

神通力(自在力)のようなものも取り扱ってる
対機説法もあるようなので

それゆえに
仏教も
人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする
宗教(religion)でしょ?

違いまっか?

97 :
>>96
原始仏教では神通力なるものを否定してます。

『〔真理を見る〕眼ある尊き師・ブッタは、他の一人のために、真理の教えを説かれた。教えが説かれているとき、〔道を〕求めるわたしは、耳をそば立てた。

私が聞いたことは空しくはなかった。わたしは、束縛をのがれ、煩悩のけがれのない者となった。
実に、わたしの誓願としたところのものは、過去世の生活を知る〔通力〕を得るためではなく、
すぐれた透視〔力〕を得るためでもなく、他人の心を読みとる〔通力〕を得るためのものでもなく、
死と生を知る〔通力〕を得るためでもなく、聴力を浄める〔通力〕を得るためでもなかった。 』
(『テーラガーター』995〜997)

98 :
 
>>97
神通力(自在力)
四神足
観神足
般若の智慧と慈悲をもって
(仮設としての)思惟を観照する
(プルシャが → (仮設としての)縁起している世界を観照する)

円成実性の世界から → (仮設としての)依他起性している世界を観照する
(円成実性を見ずして依他起性を見ることはできない)

そして、その結果として

スッタニパータ 21
わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが
激流を克服して
すでに渡りおわり、彼岸に到着している

((仮設としての)縁起している世界を手放して超えているのなら)
もはや筏の必要はない
神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ
  _  _  _

道元 普勧坐禅儀
((仮設としての)縁起している世界を手放して超えているのなら)
(仏法というものが円満に全てのものにゆきわたっているのなら)
修行したり、悟り証したりすることもない
  _  _  _

しかし、実際のところは
(仮設としての)有覆無記があるでしょ?

99 :
>>98
遊行の修行者であるスシーマは、尊者アーナンダのもとへ行き、「友アーナンダよ、わたしはこの教えと規律とのもとで清らかな行いを実践したいと望んでいます」と言った。

アーナンダはブッダにそのことを伝えたら、ブッダは快くそれを受け入れた。

そのとき、多くの比丘がブッダの面前で「生は尽きました。清らかな行いは完成しました。行われるべきことは行われました。再びこの状態にもどることはない、と知りました」と、開悟したことを明言した。

尊者スシーマは、比丘たちと挨拶を交わし、親愛と敬意に満ちた言葉を述べてから、比丘たちに質問した。

「このように知り、このように見ているあなたたち尊者は神変を体得しましたか。
あなたたちは、一〔身〕であったものが多〔身〕になり、多〔身〕であったものが一〔身〕になりますか。
〔身を〕顕し、〔身を〕隠し、あたかも空中〔を行く〕ように、壁を横切り、堀を横切り、山を横切り、障害なく行きますか。あたかも水中に〔出没する〕ように、海中に出没しますか。
あたかも地上〔を行く〕ように、水上を沈むことなく行きますか。
あたかも翼のある鳥のように、空中を結跏趺坐して進みますか。
あの大きな神力のある、大きな威力のある月と太陽とに、手で触れてなでますか。
梵天界に至るまで身体で行きますか。」

これに対して、比丘たちは、「友よ、そのようなことはありません。」と答える。

つづく^^

100 :
>>98
つづき

そして、スシーマは比丘たちに問うた。

「では、このように知り、このように見ているあなたたち尊者は、清浄で、人〔の耳〕を超えている天の耳で、天の人との両方の声を、また遠くと近くとの声を聞きますか。」と。

比丘たちは、答えた。

「友よ、そのようなことはありません。」

さらに、スシーマは比丘たちに、あなたたち尊者は、「さまざまな種類の前世の生存を追憶するのか。」
「天眼を持つのか。」「色〔界〕を超越して、寂静な無色〔界〕の解脱に身体をもって触れたのか。」という質問をする。

しかし、比丘たちは、そのいずれの質問に対しても、

「友よ、そのようなことはありません。」と答える。

さらに、スシーマは、ブッダのもとへ行き、ブッダはスシーマに、先にスシーマが比丘たちに聞いた同じ質問をし、スシーマは、そのすべての問いに対して、

「世尊(ブッダ)よ、そのようなことはありません。」と答える。

尊者スシーマは、ブッダと比丘たちの言葉に納得する。(『相応部経典』第2集・第1篇・第7章・第10節=「原始仏典 相応部経典 第2巻 P.239〜253 春秋社 参照)


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