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釈尊の教えは心理分析です


1 :2015/06/19 〜 最終レス :2015/09/03
「釈尊」、
つまり、詳細不明の「史実の人」が、
心理分析を得意にしていた人物で、
その教えとして語り継がれているものの本質が、
「心理分析的な考え方」であると断言出来ます。

なぜなら、私は、宗教はヨタ話だと思っていたので、
興味を持つことも無く、「仏教」など、今でも大して知りませんが、
それでさえ、「心理分析的な考え方」によって、
同様の考え方を得て来たからです。

例:
「諸法無我」−人に対する俯瞰的な考え方。人対人の考え方は相対的で、答えが無い。
「諸行無常」−俯瞰的な考え方による答えが無いのは、誰でも同じ。加えて、主観が(発端なので)説明不可能である事から、世界は説明可能にならない。
「涅槃寂静」−多分、釈尊の死と悟り体験と悟り修行と悟り後の考え方の融合、仏教的で分かりません。
「一切行苦」−人の様子を見ていると、つくづく感じる事。人それぞれで、妄念だらけ。妄念の最終的な説明は、選択する事自体。論理は一意で選択では無い。つまり、生きる事が妄念。
「因果応報」−説明可能な因果は、「主観の総体」の範囲に収まる。
「縁起」−心理的盲点の指摘。気付かなくても因果応報。
「四諦」−大よその理解のプロセス。心理的盲点に気づく事→原因究明する事→マシな考え方を模索する事→実践する事。それぞれの理解。
「八正道」−俯瞰的な考え方を実践する(し安くする)為の注意事項。


異論を聞かせて下さい。

2 :
異論を聞かせて下さい。

お願いします。

3 :
異論は無いと。

4 :
人は、サルから進化した動物であり、
精神性は全て概念です。
この理解なしに話が進むわけが有りません。

例え「概念」であっても、
それを作り出してきた背景があるのですから、
理解すべきは、本能であり、
人間社会において、人間本能がどの様に歩んでいるのか?という、
学習して行く経緯を考えて行くという事です。

ところが、生れ付き本能に依存している私たちには、
それを理解する事が、難しいのです。

この事を、最初にハッキリさせて置きたい訳です。

5 :
人にとっての現実は、結局は実生活ですから、
「人間社会における現実」になると思いますが、
普遍性のある考え方を目指すのは、
「学術」などと同じものであって、
「俗世間的なもの」ではないです。

そして、それを目指すところに「悟り」は有ります。
私は、「悟り」は「脳トレ」だと思っています。

6 :
同時に、心理分析(の様なもの)の誤解を払拭したいという主旨です。

私は、人間心理と言いながら、結局それが、
人の知的活動全般を包括してしまいかねない事柄である事が、
始めから問題であると思っていますから。

うかつに、心理を語るべきではないと思う訳です。

「釈尊」が、対機説法を用いたという事は、
それだけ、一概に語る事は無かったという事だと思います。

7 :
そして、脳科学です。

私の知るところでは、
脳を走る電気が、「心」や「意識」との見方があるようですが、
脳を走る電気は、脳を走る電気です。

それが、事実であるにもかかわらず、
何故ここで、正体不明の「心」や「意識」と見做す考え方が起こるのか、
疑問です。

その場合、先に「心」や「意識」と呼んでいるものを
明らかにしなければならないはずなのに、
まるで、「脳内の電気」は何か?と問えば、「心」であり、
「心」とは何か?と問えば、「脳内の電気」と言っている様です。

これで「科学」と言うのですか?

異常ですよ。

8 :
この世の全ての者に等しく言えることです。
生きて行く過程で、それ以外では無い「今」を形作る限り、
その者が、「選んでいる」という事が出来ます。
それは「動いている」からです。
この選択の意味を、気にせずに生きる事も出来ますが、
その場合は、「無意識に選択している」事になります。
生きていく事と選択は常に同時に有ります。

もしも、誰かが「自分の選択」つまり「生き方」に疑問を持てば、
答えを求める事になります。
これは、疑問が無くならない限りは続くことになります。
疑問を晴らす唯一の道は、「絶対に間違いのない判断」をする事なのですが、
普通は、そんな事は何処かで忘れて、妥協出来るし、常にしているはずです。
つまり、「絶対に間違いのない判断」ではない判断をしているはずです。
「絶対に間違いのない判断」の為の、「絶対の答え」を知らない限り続いています。
それは、確かに「無明」ですよ。

以前は、気にならない人は、それで良いと思っていたのです。
そんな事は、どうでも良いのですよ。

ところが、現代には、人の脳の働きを追及する「脳科学」と言うものがあり、
人の知的活動を解明出来る可能性を見始めた事に端を発して、
人の生き方に疑問を持ち始めてしまったのですよ!
ハッキリ申し上げて「知的活動=選択=生きる事」ですから。
気にしていない方々もいらっしゃるに決まってますが、
これが、問題なのです!
「脳科学の追及=知的活動の追及=選択の追及=生きる事の追及」ですから。

脳科学は、生き方に一意の答えを出そうとしているのですよ!

9 :
しかも、それは、脳科学だけにとどまらないのですよ!

脳科学がそんな事をやっているからには、
その事に、様々な疑問が出て来るに決まっているじゃないですか!

人の生き方に一意の答えを作ろうとしている人たちがいる事に、
疑問を感じない訳が無いじゃないですか!

それは、様々に言葉を変えて語られるが、
宗教だろうが心だろうが精神だろうが道徳だろうが脳だろうが、
一括りに、「人の動きの追及=知的活動の追及=選択の追及=生きる事の追及」ですから。

これら全ての考え方は、生き方に対する答えを出す行為なのですよ。
それを、誰かが勝手に作って、勝手に使い出すという事は、
「自由意思」にケチを付けるという事ですよ!

10 :
【二人の釈迦のパラドックス】
昔々ある所に、2人の釈迦がおりました。
1人は、神羅万象の理をことごとく理解して、絶対に間違いを言う事が無いと同時に、生まれた時から自然法則で動く釈迦でした。
もう1人は、ただの釈迦、生まれた時から自然法則で動く釈迦でした。
絶対に間違いを言う事のない釈迦が、「ただの釈迦よ、お前により良い道を示してあげよう」と言って、ただの釈迦に、より良い生き方を教えてあげたそうです。
自然法則が自然法則に対して、より良い道を示すことが出来ましたとさ。
めでたし、めでたし。

11 :
この世のモノが、この世のモノに対して、
間違いのない「より良い道」を示すという仮定は、
おかしいんですよ!

そんな事は、絶対に有り得ないのですよ。

12 :
人には確実に、動物的実態が有るのです。
動物です。
知識という道具と、社会と言う集団の秩序を手に入れた、
動物です。
サル目ヒト科ヒト属にとっては、
知識は、手段なんですよ。
私は「サルのイモ洗い」と言う話を聞いたことが有るんですよ。
おサルさんが、「サツマイモを海水で洗ってから食べる」んですよ。
それを、他のおサルさんも真似して覚えているんです。
あれは、何ですか?
「知識の継承」ですよ!
同じ事なんですよ。
それを、私たちは上手く使って来たんですよ。

13 :
御先祖様が、「火」を見つけて使い出してから、
人間社会は大躍進したんですよ。

森に火を放つだけで、他の動物に対して無敵だったからですよ。
勝手に燃え広がる火によって、他の動物を簡単に追い払えるんですよ。

同時にそれは、「リスク」なんですよ。
下手をすると、自分たちの住処が火にやられる可能性をも、
見つけてしまったのですよ。

14 :
御先祖様が、「農耕」を見つけてやり出してから、
人間社会は大躍進したんですよ。

種をまいて、水をかけるだけで、
食糧を大量に確保できるようになったんですから。
安全な土地に安住して、
のほほんと植物の世話をすれば良いんですよ。
川から水を引いて来れば、もっと楽ちんですよ。

同時にそれは、「リスク」なんですよ。
「洪水」ですよ!それに「日照り」ですよ!
天の神様に、祈りや供物を捧げなければならなくなったんですよ。
それに、「過食」や「略奪」などの可能性を人間社会にもたらしてしまったんですよ。
「略奪」は特に深刻ですよ。
「戦争」ですよ。

15 :
人は、神様を見つけたんですよ。

安住する人にとって、
躍動する自然界は神様なんですよ。

争う人々には、勝利や平和をもたらす希望が神様ですよ。
希望は何処からやって来るんですか!?

私は知りませんよ。

しかし、人は物質世界を見つけたんですよ。
人間社会には安住する為の秩序の前に現れる、
想定外の事態に直面した時に、
人は世界に対する疑問を持てるんですよ。

そして、世界に向けた疑問は、
自分達に跳ね返ってくるんですよ。
「人は何処から来て、何処へ行くのか?」

私は、知りませんよ。

しかし、精神世界の始まりなんですよ。

16 :
これは、主観的な話です。
この世の中心は何時も自分なんです。

「もし、自分が居なければ世界はどうなるか?」
という事から考えられます。
その場合、世界は消えてなくなるでしょう。
それは、認識主体の消失に依るのです。
きっと自分を取り巻く世界は今まで通りですよ。
それでも、消えるのですよ。
「無我」とは、そういう事です。
しかし、自分が現れれば・・・
そこに、認識主体に依存した、
「自分の見る世界」が現れます。

他の人達とは関係なく、
誰もが、自分が自身の認識する世界の中心で有り続けます。

17 :
以下、十二支縁起を一つの手掛かりに、
思う所を述べた内容です。

十二支縁起自体は仏教的なものですから、
あまり、適当で無い表現が有るかも知れません。

18 :
世界に秩序を見る人にとっては、
何時も動き続ける世界は「行」を想起させると思います。

何かは分からなくとも、とにかく「動く」のですから。

世界が動く事をして「行」です。
これが、「精神世界」では、
世界の動きを感じる自身の性質になるでしょう。

ただ、動いているのはどちらでしょうか?

勿論、両方です。
人は、世界に居ますから。

そして、人は世界の「一部」です。
少なくとも、自身と同じ様に「他の人」がいる事は、
疑いの無い根拠です。

人は世界と共に動いています。
自分の周りで世界が動く事と、自分がそれを感じる事は、
結局、「世界が動く」という事の中に一括出来ます。

それなのに、何故人は、世界の動きと自身の感じる性質を分けるのでしょうか?
ここが、自分なりの理解で選別する性質、「識」に当たると思います。
世界が動く事と自分がそれをどの様に感じるかは、
自分の考え方によって変化しますが、
本当は、常に人と世界の間を因果が繋いでいますよ。
連動しているんです。「因果応報」です。

極端に言えば、自分が世界の動き方だと思っている事が「識」で、
それと、実際の世界の動き方のズレを感じる性質が「行」だと思います。

19 :
御先祖様が、サルから進化する過程で、
未だ言葉を持っていなかった頃、
それでさえ、「鳴き声」はあったと思います。

おサルさんが「キーキー」鳴く、アレと同じものです。
おサルさんでさえコミュニケーションしているのです。
それなのに御先祖様が、
「鳴き声」使ってコミュニケーションをしてい無かった訳が無いじゃないですか。

御先祖様は、様々な道具を使っていたし、集団で狩りもしていたようですから、
きっと、仲間内で色んな対象を示すやり取りをしていたはずです。

それは、集団戦術ですよ。
「声掛け」と言うヤツです。

実際が、どういう経緯かは知りませんが、
御先祖様は、集団の機能を高める過程で、「言葉」を使うようになったはずです。

それは、対象化している「識別パターン」に対する「名」ですよ。
そして、私たちが生来備えている適応能力によって、
対象化しているモノが現象意識に浮かぶはずで、「色」でしょう。
それは、無自覚の内に形作られ、記憶の中にあるはずの「識別パターン」が、
周囲の状況を区分けした結果として現れている、現象意識の中の実体です。
回りくどかったですが、要するに、物質世界の対象物の事です。

対象物は自身の識別能力に依存して現れます。
例えば、何気なく見る草むらに、知らないパッとしない植物が有っても、
雑草の一部の様にしか見れませんが、
良く知った植物なら、比較的容易に見つける事が出来ます。

20 :
六処?
五感に「意」が入るのですね。
昔の感覚で行くと、何故かある意志の働きの様な事でしょうか?

これは、全ての前提というか、
あまり、考えない方が良いと思います。

思考が複雑なメカニズムである事は疑いないので、
自身の「意志を産み出すもの」という程の対象化出来るモノは無いでしょう。

人体の感覚器官の話は、別の解明が進んでいるでしょうし、
私は良く知りません。

ともかく、五感(六処の眼耳鼻舌身)に触れる(触)感覚刺激(受)を、
自分なりの感じ方(ここがある意味「意」)で感じる(クオリア)。

クオリアは今現在説明可能なものでは無いですよ。
私は、認識こそが、「生命が見ている世界の末端(故に実体)」だと思っていますから、
クオリアは、その一部だろうという事になります。

自分なりの感じ方と言うのは、記憶や身体ステータス依存なんですよ。
食べず嫌いみたいに、自分の先入観みたいなものが混ざって、
感覚と言うのは起こります。
これは大体「識」によると思います。
或は、体調が悪い時に、お粥が美味しく感じられたり、
喉が渇いた時に、ただの水が美味しく感じられたりします。
この当たりは、サーモスタットの様に機能する感覚でしょう。

21 :
「愛」は渇愛なのだそうですが、
これは、いささかご都合主義です。

反応の仕方には、「条件反射」と言うものもあるんですよ。
実際には、六処に触れて感じる過程は、
多分に、身体ステータスや記憶や本能に依存している事だし、
私たちの人生ではあまり気にしていませんが、
遺伝継承の歴史は、今でも続いているのですから、
本能さえ、変化する可能性を持っていますからね。
それでも、私たち「ホモサピエンス」の本能は、大体同じと言えるのでしょう。

それでも、「渇愛」と言うのなら、やはり「能動性」でしょう。
私たちの御先祖様から受け継いだ、私たちの動物的習性です。
代表は、遺伝継承の本命「性欲」で、生存の為の必然「食欲」などが、
それを誘発する状況で、湧き上って来るはずです。

これは止まりませんよ。本能ですから。
でも、「分別」の仕方は、学習で変化しますよね。

私たちには、生来の習性があって、それを学習で補っているだけですし、
そもそも、学習する過程を作り出しているモノが、生来の習性ですから、
ハッキリと、分かることは有りません。
上でも触れましたが、本能さえ、変化する可能性を持っていますからね。
ともかく、私たちの現状には、良く湧き上って来る能動性があって、
行動を特徴付けるところがあるという事です。
なので、生来の習性を対象化する事は、参考程度にとどめて、
学習の仕方が如何に有り得るかを考えるべきです。

22 :
「取」は、執着なんだそうです。

これは、正に「習慣性」ですよ。
人が、繰り返してしまう振る舞いです。

まず、最初に、「習慣性」は、気付かずとも出来ている事、
そしてそれは、何時も気付かずに出来る事です。
例えば、ご飯の食べ方ですよ。
子供のころ、お箸の使い方を覚えさせられたりするんですが、
少しだけ覚えてます。小さい頃は下手でした。
焼き魚とかを食べるのが苦手でした。

それは、繰り返しによって身に付いた慣れなんですよ。
漢字を覚えるのだって、「書き取り」を繰り返すんですよ。
「話を聞く」という事さえ慣れで、何を言っているのかを聞き取って、
自分の解釈に変える「習慣性」ですよ。
「掘ったイモいじくるな」と言うと、英語圏の人は時間を教えてくれるそうですよ。
時間を聞いていると思うのでしょう。

この「習慣性」を取り巻く事情が、本題なんですよ。
過去に学習して来た事と、それを繰り返す事です。

これが問題行動を起こすものであったなら、
正に「執着」ですよ。

23 :
「有」は、存在なんだそうです。

つまり、無相(イデア的な世界観)の世界から、
ここに来てやっと実体が出現するのだと言う事だと思います。

無相は、私たちが普段目にするものが、
私たちの感受作用によって有るものだから、
感受作用を抜くと、何か別の物のはずと考えると、
無相(イデア的世界)→<感受作用>→実相(物質世界)と想像できるんですよ。
更に、感受作用たる自分さえ、世界の一部だとすれば、
結局、
無相(イデア的世界)→→実相(物質世界)であるし、
大体、無相は感受作用以前の世界という想像上の世界なので、
実際には知らないんですよ。
だから結局、
→→実相(物質世界)になって、
無相は無くなって、正に無(無い)相(もの)ですよ。

そして、初めの考え方だけが残るんですよ。
無相(イデア的世界)→<感受作用>→実相(物質世界)という、
「見方」ですよ。

【無】《無相(知らない)→<感受作用(よく分からない)>》→【有】《実相》
こうやって現れているはずなので、「無→有」

24 :
「無」から、私たちによって「生」じて来る「有」なんですよ。
だから、私たちが「老」いて「死」ねば「無」くなるんです。

>>23 で、
> 【無】《無相(知らない)→<感受作用(よく分からない)>》→【有】《実相》
> こうやって現れているはずなので、「無→有」
と、書きましたが、
無相は自分の想像上の世界で、感受作用も自分の感じ方ですし、
実相さえもが、その結果として現れているのですから、
『【無】《無相(知らない)→<感受作用(よく分からない)>》→【有】《実相》』=『私』
となって、
結局、一通りの世界観を巡って来た『私』でした。

それは、結局「自分の認識する世界」ですよ。
つまり、『私』です。

25 :
私なりの、理解をザックリまとめてみました。

因果応報とは、1つのバタフライ効果が、同様に、全てが他の全てに発生している様なものだと理解しています。
全ての連鎖が何故か同様に有り、蠢く世界の実相が、何であるかが分からない所に、諸行無常を見るのであり。
その因果の中に、自身も含めた全ての存在がある事を思えば、諸法無我であり。
その至らない理解で考えられる実相は、無相であり。知らねーであり。
実相に近づく様に理解を作ろうとすれば、自身が因果の中の存在であることを自覚しながら、周囲に対して洞察してみるのであり。
そのような洞察における観点は、自身における無我であり。ヴァーチャルであり。
因果を流れる様な自身の姿を見つけるのであり。あるがままであり。
しかし、自身における因果とは、自身の理解に基づいたものであって、因果を流れる様な自身の姿というのは、結局は想像であり。
それでも、そうであるはずのいささかの因果関係の理解と、その因果関係によって構築した「因果を流れる様な自身の姿」の想像が、今あるはずの自身、つまり
「それでも、そうであるはずのいささかの因果関係の理解と、その因果関係によって構築した「因果を流れる様な自身の姿」の想像が、今あるはずの自身」
と考えている自身の認識に、どこか通じるものを見つけた時に、Ahるのが、所謂「悟り」であると理解しています。

26 :
それは、
「私の認識」であり、
「私の見ている世界の全て」であり、
「私自身」であった訳です。

「色即是空」→「空即是色」

始めから世界は、「私の見る世界」でしたよ。
それが、「私」だったんですよ。

「私」が私だった事に気付くという、
トリッキーなアハ体験なんですよ。

正確には、「私」が私だったらしいところを、
何らかの実感と共に見つけるんですよ。

自分が「認識そのもの」である事にですよ。

27 :
認識の中に見つけられる、自身の写像が「自分の体」だと思いますよ。

認識は個々に固有に有り。
写像は、認識(世界)の中に大体同じように映る。

そして、共有出来ない「認識」がある。
これが、固有の実体だと思います。

例えば、AさんとBさんの2人が、CさんとDさんの2人とお互いに向き合った時に、
AさんとBさんがCさんとDさんの(人体が)映る景色を共に見つけられるのは、
この時のCさんとDさんの人体が、「写像」である事の疑いの無い事実だと思います。
CさんとDさんが、AさんとBさんの人体を見つけるときにも同様です。

人体を取り巻く「環境」も人体も、共通理解に変えられるだけの背景があるんですよ。
つまり、映るものは写像であり、映る原因は潜在的共通性です。

28 :
【何時も同じ形の不思議な2つのガラスの像】
昔々ある村に、不思議な2つのガラスの像が有りました。
それぞれ、「太陽の神」「月の神」と呼ばれていて、大昔から、代々村人達によって大切に受け継がれていました。
何時の頃からか、村人達は、朝は「太陽の神」に、夕方には「月の神」に、何となく手を合わせる様になっていました。
村の言い伝えで、揃って山から掘り起こされた時に、初めから2つの像は全く同じ人型をしていて、
徐々に姿を変えながらも、2つは何時も双子の様に寸分違わぬ姿形を保ち続けていると語り継がれており、
後に、同じ地層から太古の化石が出土した事から、
一部の人達からは人類発生以前の物だと考えられていて、
ひょっとしたら、この2つの像は同じ存在なのではないかと、
言い出す研究者まで現れました。

村人達はこのニュースに大いに活気づき、「太陽の神」と「月の神」を「双子の神」と謡って、村おこしをすることになったのですが、
ある時、村に泥棒が現れて、2つの像が盗まれてしまったのです。
すぐに泥棒は捕まり、無事に2つの像は取り戻しましたが、
どちらが「太陽の神」で、どちらが「月の神」か分からなくなってしまいました。
「どっちでも同じだべ」
「いんや、ちゃんと元通りに飾っておくべ」

なんということでしょう。
村人の間で2つの像について、言い争いが起こってしまったのです。

「大体、おらが子供ん頃に、既にあの像は入れ替わっていたべ。」
「なんだって!?お前、何でそんな事知っとるだ?」
「今となっては、どうでもいいべ。」
「んだんだ、もうどっちかわがんね。んだ事より、2つの像は本当に同じなんだべか?」

議論は白熱し、「2つの像を同じ存在と言えるのか?」と言う、本質的な疑問に辿り着きました。

何時までも答えを出す事が出来ないまま、数百年が経ちました。
村は、どちらが「太陽の神」で、どちらが「月の神」か分からなくなってしまった、謎めいた「双子の神」のおかげで、少しだけ名が知られるようになっていましたが、この間、2つの像は特に姿を変える事はありませんでした。

29 :
そんなある日、この村に、旅の聖者が杖を突きながらやって来ました。
偶然この聖者に出会った村人が、
「この村には、大昔から何時も同じ形をしている、「双子の神」と呼ばれている、不思議な2つのガラスの像があるだが。
この2つの像は、本当に同じなんだべか?それとも違うんだべか?」と、
何となく聞いてみました。
聖者は「よろしい、教えて差し上げよう。ここに2つの像を持ってきて下さい。」と、言いました。

数百年来の疑問に聖者が答えると言うので、大勢の村人が集まって来ました。

聖者は2つの像のすぐ近くに立ち、村人達に少し離れる様に言いました。
村人達は少し離れ、聖者の答えをじっと待ちました。

すると、聖者は手に持っていた杖で、「双子の神」の、
片方を叩き割り、像とガラス片をそれぞれ指差しながら、こう言いました。

30 :
「見ての通り、割れたのは1つだけです。
本当は有り得ない事ですが、仮に、この2つの像が、私の杖が当たる直前まで、完全に同じ状態を持っていたとします。
しかし、私の杖が当たった瞬間以降には、「杖の当たっている像」と「杖の当たっていない像」は、疑いなく同じ状態では無くなるのです。
それが、他との相対的な違い。私の杖との間にあった縁の違いです。
この世の存在である限り、全てが因果で連なっているのですから、
この世の全てと相対的に「同じ」でなければ、このような事が起こり得ます。
完全に同じ状態を持ち得る可能性は、全てと相対的に「同じ」でなければならないのです。
つまり、「完全に同じ」モノなど無いのです。
縁の違いは常に有るのです。
例えば、先ほど割った像ですが、たまたま、私の近くにあったのです。
誰かがその様に置いたのです。位置が違いましたね。それを、私が割ったのです。
位置が違うということが、周囲との相対的な違いを明確に示しています。
そもそも、私達さえこの世のモノですから、
私達の前に2つの像がある事に、初めから、縁の違いが現れています。
それぞれの像を、別々に見つける事が出来るという事実です。
ハッキリと申し上げれば、「完全に同じ」という考え方が、ナンセンスなのです。
「完全に同じ」かどうかを考えている時点で、2つが別々に有って縁が「違う」のですから、完全に同じはずがないのです。
この世は、移ろい続けています。
全ては、無常なのです。ヽ( ̄▽ ̄)ノ」

その後、聖者は村を叩き出されましたが、
「太陽の神」か「月の神」と呼んでいた像である、「双子の神」と呼んでいる像の片割れと共に、
村人達の数百年来の疑問は無くなりました。

めでたし、めでたし。

31 :
哲学的ゾンビとは何か?

「同じ」等と言うものがあるのか?

同じとは何か?

32 :
異論が欲しいですねー。

33 :
>>28
「完全に同じ」など、無いのですよ!
それを、考えることが、ナンセンスなんですよ!
類似性しか見つからないのですよ!

しかし、類似性はあるのですよ!
その類似性によって、他のモノと区別するんですよ!
その類似性を産み出す「何か」が本当に重要なんですよ!

類似と相違を分ける「何か」。

それは、一つの指向性なんですよ。

その指向性は、世界の中に何かを選り分けるんですよ。

その指向性の主は、何ですか?

34 :
>>33
私たちですよ。

私たちを出現させている指向性の一つが、
選り分けているのですよ!

私たちは、沢山の指向性が作り出しているんですよ。

その指向性とは何ですか?



因果ですよ!
私たちが、私たちなるまでに辿って来た、
過去から今に至るまでの、全ての因果なんですよ!

「因果応報」ですよ!


今も因果の指向性は続いていますよ。

未来ですよ!

未来は、「今」だけに、現前するんですよ。
指向性は、走り続けていますよ。

私たち自身がそうなんですよ!

だから、未来は分かりませんよ。

私たちが持っている「今」の状態が、
指向性の末端ですからね!

35 :
>>34
だから、「自然法則」が成立するんですよ!

過去からやって来た指向性は、
何時も今を出現させている。

そのまま、未来に向かって進んでますよ!

過去に何処かで見つけた指向性―因果は、
今もあり、そのまま、、未来に向かって進んでますからね!

自然法則ですよ!

私たちを作り出す無数の指向性が、
私たちの見つける自然法則ですよ!

そりゃそうですよ。

私たちが、その指向性で出来ているんですから!

分ける事が出来ますとも!

私たちには、その指向性に依って対象を分ける事が出来る!
私たちには、その指向性が作る法則を見つける事が出来る!

そりゃそうです。

「私たちが対象を分ける様に動く事」を、
無数の指向性の内のどれかが産み出しているんですよ!
「私たちが法則を見つける様に動く事」を、
無数の指向性の内のどれかが産み出しているんですよ!

36 :
>>35
哲学的ゾンビは、ただの仮定ですよ。

無理なんですよ。


完全に同じモノが、
因果応報の世界で、
出現する事は無いんですよ!


決定論は、因果応報なんですよ。
>>28 【何時も同じ形の不思議な2つのガラスの像】
は、その前提のお話ですよ!

私たちと同じような存在は、
生命の起源からしか出て来ませんよ!


そして、無理なんですよ。
例えば、「私」は私以外では有り得ないんですよ!

「あなた」はあなた以外では有り得ないんですよ!



絶対に無理です。

37 :
どーすんだーよー

もームリだぞ 人間社会はよー


被害者が続出・電磁波兵器による一般国民への攻撃が日常化している!
http://blog.goo.ne.jp/mokushiroku666/e/ffe95b7a29faddf5f57a72b0d50deda9
マイクロ波の危険性 法の外にいる御用学者達
https://www.youtube.com/watch?v=EJluXfJQCuk
JPSS-CS2 精神分析医キャロル・スミスさんの論文
http://www5f.biglobe.ne.jp/~terre/JPSS_gothic.htm

38 :
他に影響を及ぼすことも受けることも、決して無い「何か」があるなら、
それは、世界の法則と無縁なので、世界に無い。

因果関係は、どこまでも連環。

因果応報。



因果が連環じゃ無ければ、それを見つける事も、
そこから何かが起こる事も決してありませんよ!

必ず何処かで繋がらなくては、
真に、この世のモノでは無くなる。

39 :
一瞬前の世界を完全精度で再現出来たら無限ループ。

私たちの生きている状況には、
いつも、世界全体で同じ状態を持っている可能性は考えられない。

諸行無常。



時間が進行している世界ですよ。
時間が何かはともかく、
世界は変化しているんですよ。

何処で始まって、何時まで続くか分からないですが、
その間ループしていない事は確かですよ。
ループした時に、その意味は失われていますからね。

どの瞬間の、どの部分にも、一度も、
「完全に同じモノ」が出現する事は有りませんよ。

40 :
>>28 【何時も同じ形の不思議な2つのガラスの像】の裏設定です。
なるべく、ノンフィクションに近づけたかったので・・・

掘り起こされた時に、初めから2つの像は全く同じ人型をしていた(歪)。
人型に見えるそこそこ似てる2つの天然ガラスが見つかった(真)。
代々村人達によって大切に受け継がれていた(真)。
徐々に姿を変えながらも、2つは何時も双子の様に寸分違わぬ姿形を保ち続けていると語り継がれている(真)。
徐々に姿を変えながらも、2つは何時も双子の様に寸分違わぬ姿形を保ち続けている(偽)。
何度か村人の不注意で壊してしまったことが有り、その都度ガラス職人に同じような像を作って貰っていた(真)。
始めとは似ても似つかないながらも、徐々に洗練されたそっくりのガラスの像になって来た(真)。
同じ地層から太古の化石が見つかった(真)。
人類発生以前のものである(最初の2つは真)。
2つの像は同じ存在である(偽)。

41 :
「中道」は「消極的ニヒリズム100%(真理)」を目指していく考え方ですから。
実際には、「未知」があり、自分感覚を頼りに(自燈明)、
知る限りの事を間違えないように注意しながら(法燈明)、考えてみるしかないですし、
「間違えないように」と言うところで、やはり自身の認識が問われる(自燈明)ので、
まるで、未知を含む判断に向き合って真実の視点からズレている自分が、
因果の線をブレないように注意しながら辿っていくような事になります。
ブレる原因は多々あって、人生の中で起こり得る人間的な諸々の事柄一切ですね。
そもそも、何時でも今の判断そのものが疑えます。
「論理は一意で選択は無い」です。
本当に目指す「意志」だけです。

42 :
スレタイは、少し大げさでしたが、「釣り」です。
すみません。

タイトルは、少しだけインパクトが欲しかったという事です。

もう一つ、簡潔な方が良いと思いました。

それなら・・・ついでに、「釣り」も兼ねて・・・。

まあ、大体
「釈尊の教え(もちろん語られているモノです)は心理分析です(全部みたいになっちゃいますね)」
です。


すみませんでした。

43 :
私は、釈尊の教えに、心理分析的な「考え方」が多分に含まれている事に気付いたんですよ。

心理分析的な考え方は、
人を、客観的に説明しようとすると、
必ず、自身が「人」である故に、
自身の「説明しようとする行為」自体が、
人の行動の範疇に入りますから、
「説明しようとしている自分の行動を説明しようとする自分の行動を・・・」
と、自身「真実在」の説明を見つけるまで、
延々と続いてしまうので、
結果的に「己事究明」に陥る形になり、
そして、不明な潜在性が作る主観であったことに気付けば
「無我」を想定しますし、
そのまま、不明な潜在性で動いくので「諸行無常」の様であり、
そして、俯瞰する全てが「諸法無我」の様であって、
それでも、人の辿る因果を見つける様に考えれば「因果応報」にならざるを得ず、
「涅槃」は無いけど、目指している真理があって、
答えを出しきれないから、自問自答する「自燈明法燈明」で、
そんな調子で目指していくのが「中道」っぽくって、
傍で見ていると他の人が、「縁起」みたいな事に気付いてない気がして、
「一切行苦」は大げさだけど、「苦」は「堂々巡り」みたいなニュアンスだと知って、
なるほど、それなら、「人がいつもやっている事ですね」と思いました。

44 :
「四諦―八正道」は、実践の仕方だと知ったので、
確かに、人に気付かせるべき事は、
「自分で正しく考える」事で、
それは「どのような事か」という事だと思うのですよ。

何しろ、人は、自分自身を知らないで考えていますからね。
傍で見ていて、そう思うのですよ。
心理的盲点だらけだと。

私も、人の事ばかりは言えませんから、
あまり気が進まないんですが、
「釈尊」は、自己責任で教えてあげたんだなと思ったんですよ。

私は、昔はそんな事どうでも良いと思っていたんですよ。

ところが、脳科学ですよ。
人間科学と来ましたよ。

もう、「正しく考える」しかないんですよ。
「人間とは何か?」という事をです。

今が「悲惨」な状態だからですよ。

45 :
「四諦―八正道」は、実践の仕方だと知ったので、
確かに、人に気付かせるべき事は、
「自分で正しく考える」事で、
それは「どのような事か」という事だと思うのですよ。

何しろ、人は、自分自身を知らないで考えていますからね。
傍で見ていて、そう思うのですよ。
心理的盲点だらけだと。

私も、人の事ばかりは言えませんから、
あまり気が進まないんですが、
「釈尊」は、自己責任で教えてあげたんだなと思ったんですよ。

私は、昔はそんな事どうでも良いと思っていたんですよ。

ところが、脳科学ですよ。
人間科学と来ましたよ。

もう、「正しく考える」しかないんですよ。
「人間とは何か?」という事をです。

今が「悲惨」な状態だからですよ。

46 :
連続投稿してしまいました・・・


心理分析は、とにかく「自分で正しく考える」しかないんですよ。
そうでなければ、おかしいんですよ。

「天は人の上に人を作らず」を、又使いました。

人の知的活動を、人の知的活動が説明づけるとは何か?



もう、ハッキリ言わせてください!

「それは、矛盾です」

47 :
普通に考えて下さい。

俯瞰は人間社会を対象として見るんですよ。


それは、そのまま、
人間社会の全てが「概念」なんですよ。

全部ですよ。

カラッポですよ。


俯瞰は即「諸法無我」です。

48 :
もし、違うと思うのなら、
多分、「自分」ですよ。


何で、人間社会が対象なのに、
人間社会の中の自分が抜けるんですか!


今の自分を対象に入れたら、
今の自分は何処にいますか!?




・・・「無我」なんですよ。

49 :
中道の簡単な基準は、
普遍性の期待できる因果関係ですよ。

これです。

間違いないです。


ただ、出来ないんですよ。


だから、目指し続ける「意志」なんですよ。

よちよちと真ん中を目指して、
進んでいかなきゃならないんですよ。

50 :
人が論理を扱うのだから、
自分が大自然の中に居て、自然法則を信じているなら、
論理は人の動きと直結する因果ですよ。

人を形作る無数の指向性の捨象=
無数の指向性が形作っている「今」の、
状態変化によって現れる、
まちまちさが作る相対性ですよ。

その相対性が、対象化であり、
対象化している人に注目すれば、
人が「選択する行為」です。


論理というのは、人がそれを使って何かするとか、
それは例えば、
書き残すとか、気づくとか、見つけるとか、考えるとかの行為に、
直接つながる指向性ですよ。


主体の存在に気が付けば、

「指向性⇔論理」

そういうオチです。



ひでーわー

51 :
絶対間違いの無い判断なんて、

有る訳ないわー

52 :
「輪廻」ですが、
古代の人達には、戸籍管理する文化がいい加減(もしくは無かった)でしょうから、
個人の識別は、噂や印象に多分に依存していたろうことが想像できます。

恐らく、「輪廻」≒「パーソナリティの変化」でしょう。

今でも、ある時人が変わったりすると、
「あの人は【生まれ変わった】んだ」や、
過去の著名人になぞらえて、
「あの人は○○さんの【生まれ変わり】だ」などと、
表現されます。

これが、戸籍上の「個人の特定が怪しい社会だったらどうなるか?」と、
考えると、かなりスッキリした回答が得られるのではないかと思っています。

例えば、ある王族などの権力者が、何百年も生きていたりする伝承も、
同じ特徴的な「地位」に居た人が、個人ではなく、そのパーソナリティに注目すれば、
「同じ地位を継承していた人達」が居た年数くらいの事が、
「その地位の人」という架空のキャラクターを産み出した可能性があると思います。
その間ずっと生きていた事になりますから。
世代交代で違う人になっていても、
直接の面識のない人たちにはあまり関係は無いでしょうから。

53 :
>>52
時には既知の事さえ、それを知らない人の考え方を見落とす原因になるんです。
そうなった時には、それもまた妄念ですよ。

如何にも、心理分析(の様なもの)なんですよ。

勿論未知の事は知らないから、未来を完全予測できない限り妄念の山なんですよ。
そして、何時もそうなんですよ。
そんな時にも重要なんですよ。

何時も自分が持ち続けている妄念とは何か?という事ですよ。
それは、人の「思考のクセ」に過ぎないんですよ。

自分も他人も「人」なんですよ。
如何にも、心理分析(の様なもの)なんですよ。

54 :
■悟と涅槃■

【悟くん】

人とは何なのだろうね?「涅槃」

人を見ていて、「何故こんな事をするのだろう?」と思う時が無いかな?
人のやる事が、どこからどのように起こっているのか気になるんだよ。

まあ、ハッキリ言えば「嫌な奴」だったと思うけどね。
しかし、気になるのは僕の思う事じゃ無いよ。
そんな事はどうでも良いのさ。
実際が分からなければ、意味が無いじゃないか?

「他人の事は、とやかく言ってもしょうがない」だって?
それは、そうかもしれないが・・・。
でもね。
何時も人と会うたびに、それを知らないでいる事が、
どうしても、吹っ切れないんだよ。

・・・分からないからね。

55 :
■悟と涅槃■

【一切行苦】

僕は、いつから意味を見ていたのだろうか?「涅槃」

意味と言っても何だかよく分からないな。
意味とは何か?なんて大層な事じゃないよ。

ただ、僕が思う事とずいぶん違う人が居るみたいなんだよ。
実際には良く分からないけどね。

だから、人の信じている意味が何処から来たのか、
気になったんだよ。

56 :
■悟と涅槃■

【If】

「Ifの世界」を想像したことがあるかな?「涅槃」

たまに、失敗して気まずい時が有るだろう?
そんな時、もっと違う生き方があったかも知れないと、
思う事がないかな?

勿論、実際には有り得ない事だよ。
その時に戻る事は出来ないさ。
それは、ただの願望だと思うのだけどね。

また何処かで、似たようなことが起こるかも知れないじゃないか?

そんな事を考えているうちに、
違う運命の世界を生きている、僕を想像したんだよ。
それは、僕とは違う運命を生きている人の姿を
思い浮かべる様な事だよ。

もし、違う運命の世界を生きていても、
それは、同じ「僕」なのだろうか?

57 :
■悟と涅槃■

【闇】

僕は子供のころ暗闇が怖かったんだよ。「涅槃」

何かが、隠れていて出て来るかも知れないじゃないか?
暗闇の中では、それが全く分からないからね。

しかし、闇とは何なのだろうね?
もし、初めから、全てが1色の世界が有るのなら、
どんな事になるのだろうか?

そうだな・・・つまり、こういう事さ。

例えば、全てが闇の世界でさえ、
闇は闇なのだろうか?

58 :
■悟と涅槃■

【真実の疑い@】

困ったことに気が付いたんだ、「涅槃」
「真実」とは何なのだろうか?

何?普遍の法則?
人によって、ずっと同じ意味を見つけられるものか・・・
確かにそんな意味の事かも知れない。

しかし・・・おかしいな・・・
「普遍の法則」とは何なのだろうか?

何?「人」にその答えがある?
君は、本当に分かって言っているのか?

人が普遍の法則を見つけるのであって、
その「普遍の法則」が何か?という事じゃないのか?
それを「人」に答えが有ると言うのなら、おかしいと思わないか?

「人」が何か分かれば、良いと言うのか?
その通りだと思うけど。ただ・・・

それこそ、君が言う「分かる」というのは、「普遍の法則」を見つける事では無かったのか?
それを「人」に見つけると言うのか?

それは、「普遍の法則を見つける可能性を含む人の普遍の法則を人が見つければ、
真実なる普遍の法則を人が見つける事が出来る」と、言った事になるんじゃないのか?

・・・・・・わかるか?

59 :
■悟と涅槃■

【真実の疑いA】

考え直そう・・・。
僕は、真実に「そのもの」位の意味を見ていたんだよ、「涅槃」
ある瞬間に何処かにある実際の事なんだ。

今までは、あまり気にしていなかったんだが、
「人」が、どうして「人」を分かる事が出来るんだ?
僕は、「人」が何かを知らない「人」のはずだ。
分からない答えから、分からない答えを導こうとしていたんだよ。

そしたら、他の事も同じように分からなくなってしまったんだよ。

「僕の見つける答え」は、「人の見つける答え」だ。
いつも、分かっているつもりの全ての事が、
「人」という、分からない答えから見つけていた事に、気が付いてしまったんだ。

「真実」とは、何なのだろうか?
人が「真実」と思っているモノは、一体なんなんだ。
何故、人は「真実」が分かると思うのだ?
僕も、探していたんだよ。
だけど、もう無理だ。
もし、何処かで「真実を見つけた」としても、
「人が真実を見つけた」事が、何なのか分からないのに、
そんなモノが「真実」だと言えるのか?

そう考えていたら、始めに信じていた「真実」という意味の事が、
本当に有るのかどうかさえ疑い始めてしまったのさ。

60 :
■悟と涅槃■

【感覚】

暇だ・・・。「涅槃」

風が吹いている。
これは空気が触れる感触だ。
身体から伝わるこの感覚は、自分の体を動かす時、良く意識するものだ。

この御茶。
爽やかな香りだ。
鼻から伝わるこの感覚は、匂いを放つものを見つける時、良く意識するものだ。

「ずずっ」
この渋味だ。
舌から伝わるこの感覚は、食べ物を食べる時、良く意識するものだ。

風鈴が風に煽られている。
涼やかな音色だ。
耳から伝わるこの感覚は、何かが音を立てた時、良く意識するものだ。

何時も見慣れた景色。
目から伝わるこの感覚は、何時も見ている世界を映す、当たり前のものだ。
むしろ見えないものがある事が気になるくらいだ。

見えないものと言えば、
この「見慣れた景色」という反射光を作り出している、
「見慣れた景色」の真実の姿、「イデア」とは何なのだろうね。

61 :
■悟と涅槃■

【因果応報@】

全ての事が有耶無耶だったんだよ。「涅槃」
気が付いた事以外何も無いんだ。
気が付いた事が、何かも分からない。
だから、気が付いた事とは何かを考えようとしても、
やはり、気が付いた事しかないから、
僕は、気付いた事同士の関係を考える事しか出来なくなった。

そして、バタフライ効果で気になったんだ。

蝶の羽ばたきが、何処かで竜巻を呼ぶように、
全てのものが、他の全てのものに同じように響くなら、
全てが互い違いに、他のものを呼び続けているのだろう。

今、ここに吹く風は、何処かの蝶の羽ばたきで、
僕らの吐く息は、何処かで蝶を浮かせるかも知れない。

僕が今まで生きて来た事も、
無数の連鎖の中に、あるとき何処かに現れた「人」から始まった、
因果だった訳だ。

それらの微かな繋がりが、どこまでも駆け巡る「運命」は、
何処から来て何処へ行くのだろうか?

62 :
■悟と涅槃■

【色即是空】

「僕の居ない世界」という想像をしたんだよ。「涅槃」
それは、僕にとっては虚無の世界だ。

今まで僕は、
「人」から始まる事から、何故「人」を分かる事が出来るのか?
そんな、分かりようの無い「人」の答えを、気づいた事から考えていたんだ。
それは、知っている事から、知らない事を導き出そうとするような事だった。

それは、有り得ない事だよ。
それが、やっと理解出来たんだ。

僕は、何に気付かなくとも、何処かで生まれていたんだ。
気付く全てが、知らない自分の中から現れているのさ。

何が気付かせるのか、何故気が付くのかも分からない。
それでも、何かに気が付くことがあるんだよ。

気が付けば有るだけのものを、僕は何時も見ていたんだ。

僕は、自分が生きているという事が、何なのか分からないのさ。
気が付けば、当たり前の事だったよ。

分からなくともある世界とは、とても不思議なものだ。
知らないモノが、目の前に有るのだから。
しかし、それが僕にとっての当り前の感じ方だったんだと思える。
「今までの僕」は、そんな、気ままな世界に現れていたんだ。

63 :
■悟と涅槃■

【もう一つの内観】

最近、気が付いたんだよ。「涅槃」
僕は、以前から良く人の様子を見ていて、
何を思っているのか考えていたんだけど、
それは、僕の思いでもあるんだ。

その人が思ってそうな事という想像は、
自分の中にあった、自分が過去に何処かで思い描いた事のある、
記憶の中の意味なんだよ。

実際は分からないんだけど、
何処か僕の知っている事と似ていたり、
違っていたりする処が有ると思う時があるんだ。

そんな時には、それを思わせたモノが何だったのか、
よく観察するのさ。

そして、時々、また思う事があるんだ。

その人が思ってそうな事という想像と共に、
今まで、自分が思って来た事が、何だったのか?と。

64 :
■悟と涅槃■

【真実の探求】

気が付いたんだよ。「涅槃」

間違いなく、人が「見つける答え」が有るのさ。

僕自身、初めからそうだった。
それが「何か」という事が、今、僕が「見つけるべき答え」なんだ。

すると僕は、人が「見つける答えの答えを見つけようとする」人という事になる。
まるで、答えの前の答えを探すかの様な事になったんだ。

人が見つける「答えの前の答えの前の答えの前の・・・」
すると、始まりは確かに「人」と言うより、
人を産み出した「何か」なのだろう。

それは、答え以前のきっと見つからない「何か」だけど、
今は、その事が分かっただけでも良かったんだよ。

やっと、自分が探すべきものが分かったからね。

「人が答えを見つける」のなら、その答えを見つけて見せるさ。

何処かで見かけた人の姿に、それを窺わせるモノを探し出すのさ。
それを、可能な限りやって行こうと思ったんだよ。

65 :
■悟と涅槃■

【気づきを呼ぶもの】

気づきは、どこからやってくるのだろうね、「涅槃」
ある時、ふと何かに気が付く時があるだろう。

それは、たまたま見つけたモノの中に有った、自分の望む結果であったり。
いつも期待していた事と違う結果だったり。

大体そんな時には、過去に何処かで見て来た事と、
今そこに有るものの間に、何か通じるものがあったと思うんだ。
気付かなくとも有る因果というのは、気付けば確かに何時もあるんだ。
だから、自分で分からなくても、常に因果は有ったのだろうと思うのさ。
それが不思議なんだよ。

ともすれば、気付いてもよさそうな事に気付かず、
あるいは、気付きそうも無い事に気が付く時が有る。
それらが自分の思い込み次第で変わる。
過去に造られた思い込みが、今何かに気付かせているのさ。

何時も人の見つける答えの前を、
「何から気が付いたんだろうか?」と考え続けていたら、
そこに至るまでの運命を呼んだ「何か」を想像してしまったのさ。

66 :
■悟と涅槃■

【空即是色】

不思議な世界を見たよ、「涅槃」
いや、世界が不思議に見えたんだ。
まるで全てがすぐ近くで繋がっているかの様にさ。

だが、僕には心当たりがあるんだよ。
気付と共に現れる現象だ。
Ah体験と言われているモノさ。

気付いたんだ。
変な話だが、僕は今まで自分の存在に気付いていなかった様だ。
だが、良く考えてみれば、当たり前の事だった。
僕は何処かで生まれていたんだ。
気付くのはその後になる道理だ。

全てが繋がったのも、それで納得した。
それは初めからずっと僕だったものだ。

世界を見つめる自分の世界。
それが僕にとって何時も世界だった。
その事に気が付いたんだよ。

67 :
■悟と涅槃■

【続、井の中の蛙大海を知らず】

本当の世界とはどういうものなのだろうね、「涅槃」
僕の見る世界という真実が有ったんだよ。
すると、僕の見る世界を作る真実の世界が有るはずだ。

僕の主観の存在は、因果の対流の中でさえ変わることなく一意だった。
すると世界は、この一意の主観から相対的に映るものだ。

この一意の主観と相対的な世界を繋ぐ因果は、
どんな真実の世界の中に現れているのだろうか?

僕にとって主観は「そのもの」だった訳だ。
それでも、他の人が同じように繋がっているし、
同じように世界を見ている。

何処かで主観は分岐して別れた「そのもの」のはずだ。
それが同じように世界を違う視点で見ているのさ。

違う視点を持ちながら、
何処かでは同じような世界を見つける「そのもの」とは・・・

68 :
■悟と涅槃■

【涅槃寂静】

ガッカリだよ、「涅槃」
世界に完全知なるものは無いんだよ。

そもそも無常のはずの世界に、
そんなものがあるのはおかしいと思っていたんだ。

僕たちは動く世界を相対的に見つける「そのもの」だ。
僕たちがどのように世界を映しとろうとも、
それこそが真実の世界の事なんだ。

もし完全知が有るのなら、今の世界と等しいモノを見つけなければならない。
それは今の「世界そのもの」に等しい。
一瞬一瞬のその時の世界は、常にそれを体現していると言える。
ならば、完全知とは「世界そのもの」になる事だ。

どうして人にそれが出来るんだ?
「世界そのもの」と人が違うのに。
完全知と人が同じになれる訳が無いじゃないか。

69 :
■悟と涅槃■

【自燈明法燈明@】

自分を疑うのか?「涅槃」
だとして君は何を頼りにするんだ?

僕は何時もその時の実際を考えていたよ。
何故そうなるのか?という事をだよ。
そしていつも因果がある事を知った。
それが何時も手掛かりになるんだ。
何処まで続くのかは知らないけどね・・・。

始めから答えを求める様になっていたんだよ。
人の本性なんだ、答えを探すのは。
それは自然淘汰の中に見つけるものと同じはずだ。
その選択によって形作られるものの因果だよ。
何故その様に形作られるのか分からないけどね・・・。

気にならないならそれでいいのさ。
何処かで気になれば、答えを探す事になるのさ。
何も思い当たらなくても探すしかないんだよ。
気になる限りはね。

過去からずっと因果は続いているよ。
それが永遠でなくとも、
僕らが今ここにいる事と同じだけの確かなものなんだよ。

70 :
■悟と涅槃■

【諸法無我】

まだ悩んでいたのか?「涅槃」
全ては世界の中の事さ。
僕が何かを思うことさえ、それの一部なのだろう。

そんな自分の出す答えは、
何時も世界の中に出てくる答えだ。

世界と共にしか動く事の出来ない、
この世の全てのモノに等しく言える事だ。

今の「自分」が世界の「答え」だ。
他の答えなど何もないのさ。

人は答えが欲しいのさ。
それが人の世を駆け巡る因果になって、
何処かに「有るかも知れない答え」を形作るんだ。

しかし・・・
この「有るかも知れない答え」の話は、
何処から来て何処へ行くのだろうか・・・

71 :
■悟と涅槃■

【因果応報A】

世界に完全など求める事は無いんだよ「涅槃」
その考え方は常におかしいのさ。

前にもバタフライ効果の話をしたけど、
蝶の羽ばたきさえもが、
竜巻を呼んでいるかも知れないと言うのに、
何を気にする事が有ると言うんだ。

そんなものは初めから有るはずも無いのさ。
無数の因果が何時も呼応している世界なのだから。

この世界にある災厄を全て無くせる訳でも無いだろう。
もう一度「バタフライ効果」を思い出して考えてみてくれないか?

例えば「竜巻」だが・・・

その1つは、僕のオナラのせいだろうし、
その1つは、君のオナラのせいだろう。

72 :
【自燈明法燈明A】

人とは何なのだろうね?「涅槃」

普遍の因果と言うのは、
意外と人間本能と関係が深いんだよ。
そして、過去からやって来た今ある全てが本当の答えだ。

過去の因果は今に繋がっているからね。
結局それが人の歴史の中に受け継がれる限り、
変わらずに有り続けるんだよ。

時代と共に忘れられて行くものもあるのだろうけど、
それは今も続いているのさ。
人の事を追及して行くとね、
時に何かそれを感じさせるものを見つけるんだよ。

始めはただの人の性質だと思っていたんだけどね。

もし気のせいならそれでもいいんだ。
繰り返して行く内に普遍性がある事に
気が付いたからそれで良かったんだ。

73 :
人から始まる世界だったんだよ。

それに沿ってまた考えて行くのさ。
だから少しも困る事は無かったんだよ。
そんな事を気にしながら生きていく事は、
全く素晴らしい事だと思うよ。

普遍の因果をまた追及出来るからね。

それに、気のせいだったりした時にも、
色々なスカが有って、
それがまた笑えるんだよ。

勿論気に入らない事もあるのさ、
それは何処か自分の思い込みかも知れないけど、
時にはそこにさえ普遍性が有るのさ。

それに沿ってまた考えて行くのさ。
だから少しも困る事は無かったんだよ。
そんな事を気にしながら生きていく事は、
全く素晴らしい事だと思うよ。

普遍の因果をまた追及出来るからね。

人とは何なのだろうね?・・・

74 :
異論がナハ

75 :
【精神世界、最初の問題】

一々、概念で内面性を追認しなくて良いんです。
それは、初めから「そのもの」なんですよ。
概念以前の内面を、概念で説明した時から、
ダブルスタンダードなんですよ。

勿論、本物は実際に湧き上る方(クオリアみたいなの)で、
概念は嘘なんですよ。

せいぜい、それを、暗に示すだけの事です。

その嘘から始まる世界が、問題になるんです。

「言葉は合図に過ぎない」
それを造り語る事と、そこから紐解く事に過ぎないんですよ。

「合図」というのは、分岐構造なんですよ。
状況依存の選択なんですよ。

今、目の前にあるモノをして「これ」なんですよ。
順序通りに見て行けば、
ある状況の中で「これ」と言えば、「目の前のモノ」なんですよ。


もし、「心」を語ったかの様な言葉が独り歩きしだしたら、
それは、「嘘」を蔓延させたことになるんですよ。

本物は、何処にあるんですかっ! (;"ε")σ >>19


<「語る者」の姿ですよ。>

76 :
今更ですがね、一般的に言う「心」というのは、
実はただの迷信なんですよ。

「現象的意識」があるのは、分かるんですよ。

人が色んな事を思い浮かべるのは分かるんですよ。

しかし、それは「クオリア」ですよ。

「心」と言うと、どうもココが曖昧なんですよ。

自身の「クオリア」は、絶対に他者と共有できない造りなんですよ。


それは、「実体」ですよ。


実体は共有できないんですよ。
>>28-30 >>40 【何時も同じ形の不思議な2つのガラスの像】をヨロシク。

現象的意識の中に現れる「人」の姿は、
何時も、自分にとっての相手のイメージが現れるんですよ。

それは、チョットだけ特殊なイメージですよ。

「人」が群れを造る動物だからなんですよ。
「コロニー」なんですよ。

だから、何時も他人に対して、どうしても抜けない衝動が現れるんですよ。

77 :
例えば、「キーキー」がなり立てる人が近くに居るとですね。
何か、「イラッ」とするんですよ。

あれですよ。

野生動物の群れはですよ。

外的とか来ると、鳴き出すんですよ。

それが、何だか「山びこ」の様に伝わって行くんですよ。

もう、何が言いたいか、お分かりですね。


「伝えなければならないんですよ」

「その燃え上がる衝動を」

そして、言うんですよ。例えば・・・

「うるさいっ!」

文明社会では、五月蠅くするのは、コミュニケーションの都合上いけない事なんですよ。
会話の邪魔になりますからね。
大体、上記の事柄が有りますから、マズいんですよ。

何時から始まったか、分からないんですが。
「掟」ですよ。

78 :
そして、「うるさいっ!」と叱責しながらも、
その後、暫く「モヤモヤ」が晴れなかったりするんですよ。

なんか、こう・・・。

表現としては、大体、「叫びそうになる」んですよ。


更に今更なんですがね。

私はだいぶん前から、カルトに付け回されてまして・・・。

正直言うと、かなりマズいんですよ。


まあ・・・。

今の社会の様子は・・・。

私から見れば、まさに「カオス」ですよ。

79 :
■悟と涅槃■

【逆観】

僕たちは初めから「果」だったんだよ。「涅槃」
「人を生み出す指向性」そんな仮定は出来るけど。
今存在している事によってしかそれを証明できないのだから、
この法を覆す事は出来ないんだ。

何時も「何かがそれを生み出したはず」と考える事は出来ても、
それらは全て「果」に依存している。
これを覆す事は出来ないんだよ。

因果応報の世界は、まるで全てが一体に蠢くカオスの様だけど、
それでさえ僕たちの見つける「果」に依存した因果しか考えられない。

ある「果」の「因」は?と考えても、それはまた別の「果」によってしか示す事が出来ない。
そんな僕たちの本当の「因」は何だったかという事なんだ。

僕たちの「果」を生み出す「因」の中に常に疑わないでいられるもの。
今更言うまでもない、
先祖から受け継いできた僕たちの「性質」だ。

僕たちは生命の歴史と呼ぶべき何らかの因果で形作られている。
そして今「果」を現前させたなら。
それこそが「生命の因果」であり、僕たちが今その様に「形作られた瞬間」な訳だ。

それを遡ろうとするならば、
僕たちはまず「果」を現前させた自分を探さなければならないのさ。

80 :
「八正道」について、勝手な解釈をしていきたいんですが・・・

そもそも私は一般に語り残されているものが
どういうものなのかよく知らないんですよ。

大体伝承の信憑性なんてどれほどのものかとも思うんですよ。
いや、これは半分言い訳なんですよ。
よく知りませんから。

ネットで検索して出て来た内容くらいの理解ですから。

ただ「実践法」だと載っていますし
私もそう思うんですよ。

「正見」の内容を見たら心理分析そのものじゃないですか。

「正しく見る」という事を「人」がやるんですよ。
この時に問題になるのが「人間本能」なんですよ。

更には「人間社会のしがらみ」なんですよ。
私は嫌なんですよこういうのは。
しかし避けられないんですよ。

それを自分なりに「正しく見る」様にしていくんですよ。

そしたら「正見」になるはずなんですよ。

ところが今はどうなんですか?
ネットワーク社会ですよ。どうします?

81 :
たぶん「業」と言うのは「パーソナリティ」なんですよ。
>>52で触れた感じなんですよ。

人には「習慣性」というものがあって
所謂「クセ」を造るものですよ。

これが何時も人に付いてまわるんですよ。

これは所謂「適応能力」だと思っていいんですよ。

ただ、人間社会と言うのは複雑なんでね
今の状態に適応している事が通用しなくなる事が多いんですよ。

例えば子供の頃にですよ。
祖父母に育てられたりするとですよ。
よく甘やかされるんですよ。

きっとうまくやる人もいるんですよ。
それはご本人も考えてやっているんですから
当たり前なんですよ。

だからやっぱりあまり言いたくないんですよ。
私なんかよりも考えのある人がいるんですよ。

それでもあるんですよ。
なんか至れり尽くせりになっちゃってね
御両親の親御さんだから
子供のやってる子育てにも口出しする訳じゃないですか?

82 :
御両親に比べて暇を持て余した
隠居生活なんか送っているとね。
よく構うんですよ。

何でも買っちゃったりね。
暇だから
おねだりされ放題じゃないですか?

先も見えてるから
生涯設計も目途が立っているじゃないですか?

ともかく親御さんよりも大分ゆとりなんですよ。

大体祖父母というのはご両親よりも
子供に対してイニシアチブがある訳ですよ。

こういう所をよく分からずに子供に接したりすると
当然甘やかしますよね。
結果的にそうならざるを得ませんよ。

すると子供はその依存の中で育ち続ける訳ですよ。

そうなるとどうでしょうね?

私は知りませんよ。

83 :
人間社会の複雑さなんですよ
問題になるのは。

本当は適応しているだけなんですから。

いつも贅沢をしている人が
ある日貧しい生活をし出したら
困るんですよ

大体どうしていいかだって分からない事が多くなるんですよ
今までと違うんですから

そこをどう見ていくかという事なんですよ

だから「本来無一物」と言うんですよ

その時その時の事を見て行けばいいんですよ

84 :
「正思惟」は正しく考えるという事だそうです。

やはり心理分析ですよ。

人が正しく考える為には
人の性質を押さえて置きたい訳です。

何故なら人間社会ですからね。

ただ、この手の事柄は
古代では簡単な話で済んだかもしれませんが
現代社会では難しいですよ。

あまり額面通りに受け止めると
極端な根性論みたいな話になってしまいますから。

私としては
この辺の事を特に言いたいところもあるんですよ。

「八正道」の内容を見たら
現代人は疑問を持つべきなんですよ。

現代社会の実体は
古代とは様変わりしていますからね。

屁の突っ張りみたいな事は考えなくていいんですよ。

「あるがまま」です。

85 :
そして何より
正しい考え方ですが

所謂「科学」と同じものだと思っていいんですが

現代には別の形がもうある訳ですよ。

しかし、ここで絶対に注意しなければならない事ですよ。


これが本題でもあります。

今、「科学」は何処を彷徨っているか?という事です。

私がこのスレッドを立ち上げた動機ですよ。

前の方でも触れていますから
ぜひご一読頂きたいのですよ。

メンドクサイ話ばかりだとは思うんですよ。

それでもお願いしたいんですよ。

実は「科学的」に知能の働きを解明する事は出来ないんですよ。

完全精度では無理ですよ。

それは「世界の謎」に等しいからなですよ。

86 :
「正語」は正しい言葉ですよね。

これこそが心理分析だと思いますね。

要するに人が聞いた時にどう思うか?ですよ。

それを詰めないとかませませんよね。


と言いながらですよ。

私はもちろん知りませんよ。

そんな事が分かれば苦労するはずはないんですよ!

私が聞きたいんですよ。

しかし間違いないですよ!

人には人の考え方が有るんですよ。

それに対して何を語れそうかと言う所が
「対機説法」の所以だと思いますよ。

相手のある世界ですから大変面倒な事ですよね。
絶対に正解は無いでしょう?

それでもそれをやってのける事が
どれ程の事だろうかと釈尊の姿を夢想すべきだと思いますね。

87 :
ただ誤解の無いように少しだけね

釈尊は弱小国の王子様だそうですから

最初っから一部の人達から崇められていたろうからね

その点「聞き手」には恵まれていたろうと思いますけどね

まあその辺にいる人よりはという事です

普通身分の高い人に口答えは出来ないですからね

よほどの事が無いとね

あげくに王子なのに「本来無一物」のお方ですからね

よほどの事も少なそうですね

権力者同士なら色々有りそうですけどね

私としては釈尊の史実に沿った姿が知りたいですね

死人に口なしですけどね

88 :
相手に言って聞かせると言いながら

結局「何を目的として」という人生観が必要だから

ましてそれに対して言える事出来る事と言ったらね

自分が相手からどう見られているか?という事が

かなり響きますからね

これを言うと顰蹙を買い安いですけどね

そこまでの道筋ですからね

結局お付き合いですよ

だから相当響きますとだけは言いたいですね

89 :
それでも「正語」に決定打が有るとすれば
まずは自己主張でしょう

>>1 の諸法無我で書いた通りの事なんですよ
人対人の世界に答えは無いですからね

最初からここも押しておきたかったんですけどね

【人に特定の意味を見つける事は出来ません】よ!

それが出来るなら人生に答えが出たも同然ですよ
その時の事がそのままその後の人生に繋がりますからね

どうもね。この当たりがマズいんですよ。今時はね。

【人に特定の意味を見つける事は出来ません】よ!

これだけでも何とかなりませんかね?

ともかく・・・実際そういう事なんで
何かを語る上で「自己主張」であるという
ケジメをハッキリしないとマズいんですよ

何かね

今のご時世に逆行している様でね

ですよねー

90 :
「自己主張」する上で

間違えない事は重要ですよね
それが伝わりますからね
間違えたら始まりませんからね

その先に情報伝達してますから
人の理解力でキャップも掛かるんですよ
「伝言ゲーム」みたいなもんです

ここで「分かりやすさ」というものがカギになりますよね

まず普遍性が無いと嘘ですよ
どんなつまらない事でも良いんですよ
何もないなんて有り得ないんですよ
というかそんな事は有り得ないんですよ
何らかの意味は持つわけですよ

どんな意味を持つのか?というと
「それが伝わる事によって何が起こるか」と言う結果(実際)ですよ
それが普遍的な意味ですよ

これです!

「間違えない」とはそういう事です!

これですよっ!

91 :
ここで「正語」ですよ!

「間違えない」事ですっ!

どうするんですかっ!(b≧∇)


私は知りませんよ。

92 :
「正業」は正しい行為だと!?
>>81 で触れたんですよ「パーソナリティ」だと!

いやいや
一般的には「パーソナリティ」でいいんですよ

寧ろ「パーソナリティ」とは何か?という事なんですけどね

これ結局人がやらかしそうな事をして言うんですよ

だってね・・・

人間社会は人の行動から始まったんですよ
だから行為する人が造るものなんですよ

【【【全部】】】

(人が何かやる←人が見る)→人が噂話をする→「パーソナリティ」の概念

ですよ

93 :
しかし無茶言ったわーっ!

これは諦めるしかないでしょう?

この意味をどの様に解釈するかは自由意思でしょうよ

社会概念の適用は諸法無我に反します

とは言えですよ

それでも「正業」と言うなら

今度こそ心理分析ですよ!

何故なら正しく行うとは何かを追及しなければ
なりませんから

人の行動とは何か?を追及しなければ
【【【何を信じるべきかさえ、正しく考えられないんですよっ!!!!!】】】(;^ω^)アセアセ

誰が教えてくれると言うんですかっ!

行為の先に有るのは「人生」ですからねっ!

世間一般に語られている事は「参考」にしてくださいねっ!

私は当然「正しい心理分析をお勧めしますよ」 >>1

94 :
「正命」は簡単だわ

「健康管理」です!(b≧∇)

良い言葉があったわー

「正しく考える」為に無茶はしない方が良いでしょうね

こっちが本題なんですよ

自分で正しく考えなければ
【【【何を信じるべきかさえ、正しく考えられないんですよっ!!!!!】】】(;^ω^)アセアセ

それと・・・

完全に因果を追及しようとすると
まあ結局は無理なんですけどね
自分の元来の性質が残るんですよ

勿論それさえ因果を追及するんですよ
それでも「人」ですからね

結局残るんですよ

消極的ニヒリズム100%の思考を目指す + 人間本能

なんですよ。ホントは違うけど。(b≧∇)

まあ大体です。

95 :
人間本能っていうのは
生れ付き誰でも大体同じですよ
私はそう思います

先天的特性の上に後天的学習を加えて今の人ですよね

赤ん坊の時には大した差は無いですよね
普通そう考えるでしょう?

そして個人差はある意味全て後天的ですよ

先天的特性が同じでも生まれた後に
経験してきた事は常に影響しますからね
人はそれ全部を合わせて振る舞いますからね
>>28-30 >>40 【何時も同じ形の不思議な2つのガラスの像】をヨロシク。
「完全に同じものなど一つとして無いのだ!」

しかし潜在的な素養には似たような所が有りますから
もし
消極的ニヒリズム100%の思考を目指す + 人間本能
ならば多分ね
個人差の背景にある人間本能が
少しずつ浮かんでくるんですよ

「正命」のもう一つの側面は
この辺から来る自然観だと思います

96 :
世間というものは大体いい加減なんですよ

これは当たり前の事でね
自分の人生を生きる上でどの程度
社会性を気にしているだろうか?と考えれば

【社会性<自分】

に決まってるんですよ!

社会は個人の集まりですから
個人はその一部ですよ
だから全てが社会性で出来ている自分を想定してさえ

【全てが社会性の自分(仮)<社会】

ですから気にしなくて結構ですよ

個人というものは、そもそも社会性を気にしながら
生きる自分が前提でしか有り得ないですからね

実際にはどう頑張っても
【社会性<全てが社会性の自分(仮)<社会】

で、全てが社会性の自分(仮)は嘘ですから元に戻しましょうか

【社会性<自分】

絶対にこの関係は変わりませんよ

97 :
でね
いい加減な世間と言うのは
【社会性<自分】である人達の
集まりで出来ている訳ですよ

そんな世間ではですよ
恒久的な社会性なんて有り得ない訳です

これは基本的な事なんですよ
だからまず踏まえて貰ってですよ

本題なんですがね
「正命」とか言うと全ての命が尊いとか
言ってたりする時が有るんですよ

気にしなくて結構ですそれなりに決まってるんです
せいぜい食物連鎖の中を生きているという事です
「ジャングル大帝」ですよ

世間と言うのは大げさに言ってた方がウケるんですよ
しかも大して確かめないで曖昧なんですよ
【社会性<自分】である人達の集まりですからね

とても生真面目な方も中にはいますし
何でも話が歪む訳では無いんですよ

しかし全体ではね
【社会性<自分】である人達の集まりですからね

98 :
「正精進」ですよ

段々怪しさが増してきましたよ

ここまで念入りに何故?

私は知りませんよ。


大体正しく考える事を徹底出来ればいいはずなんですよ

要するに人の行いを追及して行けばいい訳ですよ

そうすると人間本能自体は普通なんですよ

それも含めて考えれば良いんですよ

強欲は学習と共に現れるんですよ

だから徹底的にニヒリズムを目指し続ければ
強欲なんてのは無いはずなんですよ

勿論徹底なんて出来ないんですよ

それはもう「人柄」の領域ですよ

どう考えてもそこそこ止まりなんですよ
【社会性<自分】ですからね

99 :
まあ古代人ですから
大体普通の事だと思いますよ

【社会性<自分】が本当ですから
無茶いう訳ないんですよ

だけど
精進とか言ってもね
何か頓珍漢な人が居るじゃないですか?

変にこだわってね

例えば「聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥」
とか言うじゃないですか?

ああいう感じの事だと思いますよ

精進すると言ってもね
中々出来ませんよ

そういう事を超えてやって行く事を
確認していくべきだとは思いますね

要するに「結果が全て」ですよ
「結果を出せ」という事では無く
それが現実だという事ですよ

そこに向かって考えるべき事が有るはずだという事ですよ
その程度の考え方は方針として色々あっていいと思います

100 :
>>92
「正業」でもう少し心当たりがあったのを忘れてました

習慣性は普段やっている事が
染みついてしまいますから
そういう面もあります

普段から気を付けてないと
今日は昨日の延長でしかないですからね

表面的に人が変わったように見える事も
出来事に注目しているからそう思うだけです
何時も人は一面しか見せませから

それと実話か知らないんですけど
アングリマーラの話ってのをネットで見たんですよ
ああいう感じの事ですよ

しがらみが有りますからね

それでも良いとは思うんですけど
要するに大変ですよね

己事究明は誰でもできますよ

でも環境は有りますよね

場合によってはそれが不可能になる程の状況
は有るでしょうね

101 :
「正念」は集中する事だそうです。

本当に怪しい。

こんな事は間違っても言ってはならない。

けども敢えて表現に変えるしかないんでしょう。

間違っても出来ているかどうかなんて
話題にしないで下さいね。

そんなぐうたらな事を話題にする暇が有ったら
もっと集中すべき事が有るはずです。

そんな感じの事でしょうか


こういう類の話が「言葉」によって語られ始めると
「語る者」によって様々にいい加減な
憶測やレッテルがまかり通るので
本来避けるべきものなんですよ。

「正念」なんてのを特異げに語るなんてナンセンスですよ。

ご本人が集中できれば良いという事です。

102 :
「正定」も「正念」と同じ様な事ですよ。

大体「八正道」全部が実践について語っているなら
もちろん「語る事」でなく
自分が実践する事ですから

良いんですよ。

それでも一応少しだけ触れるなら

これは結局「悟り」そのものに通じる話なんだと思うんですよ

ズバリ「ニヒリズム」ですね。

あれは「普遍性のある因果関係を人が考えようとすると起こります」からね。

つまり「絶対の自然法則」みたいなものです。

そして大概のお応えは「知らず」ですよ。

それでも
「諸法無我」「諸行無常」「因果応報」は言えます。

他にも何か有るかも知れないけど

私の理解ではいい加減なんで

それでも取り敢えずこれだけは上げておきたいんですよ

103 :
要するに「真理」ですよ。

世界の


絶対の答えですから

普遍的な自然法則の事ですよ。

今は科学があるから

真面目に科学している人が居れば、それです。


ところが
人間社会では「人」とは何かが盲点なんですよ。

自分がそうなんで

分からないんですよ

自分の思考を使っていますからね

自分の思考が何かは分からない造りなんですよ

その状況を理解する事が最初に必要なんですよ(b≧∇)

考え違いをしないようにね

104 :
色即是空はニヒリストの言ってる「虚無」と同じですよ。
全ては幻とも、空とも、無だとも言われています。
そんな風に語っている「人たち」は昔から結構いるんですよ。
表現がまちまちで曖昧になってしまう様なんですが。

私は「無我」という表現が的を射ていると感じました。
無我は考え方です。

私の表現なら「自分に説明が付かない事」故に「自分の知っている事に説明が付かない事」を「理解する事」です。
「真実を知っている自分が居ない事を理解する事」と簡潔に表現する事も出来ます。
つまり初めにその事を理解していない人に対して、
「(真実を知っている=本当の意味では)自分(我)は居ない(無)んですよ」
という感じになると思うんですよ。

まんまじゃないですか。

理解というのは、実際には自分が納得できるだけの人生経験が
無いと起こりませんから。
それだけです。

実際には・・・
この後に起こる事なんですが・・・よく分からない訳ですよ。

根を詰めて確信を求めると、判断材料が無い事が不安になるんですよ。
要するに「優柔不断」が決定的になって来ます。
どうも本能と言うのは良く出来ている様で、
ここである種の逆転の様な事が起こります。
一般的に言う「開き直り」ですよ。
その事から起こる「知的作用」ですよ。
何しろ「判断する為の確信が実際に無い」ですからね。
まあ・・・一つの解釈ですよ。
もっといい説明が有るかも知れないんですよ。

105 :
考え方の割には大変なんですよ。
本当は科学と同じ自然法則の追及なんですよ。
だから真面目に科学していれば、それなんですよ。
しかし「科学の世界に絶対は無い」んですよ。
今は不真面目すぎるんですよ。

一つの原因は脳科学ですよ。
人間社会では「人」とは何かが盲点なんですよ。
自分がそうなんで分からないんですよ。

自分の思考を使っていますからね。
自分の思考が何かは分からない造りなんですよ。

その状況を理解する事が最初に必要なんですよ(b≧∇)
考え違いをしないようにね。

ところが、
殆どの人が【【【全然知らないんですよ!!!】】】

そんな状況の中で脳科学が登場してしまったのですよ!
もう無理なんですよ!

空即是色は>>66
の大体そのまんまですよ。

自分が分からない(無我的な)世界で、
一つの事に気が付くだけです。

少なくとも今自分が居る事は「真実」だという事です。

106 :
脳の動きと知能の働きの関連性を
どうやって見つけられると言うんですか!

知能の働きとはそもそも何か?
科学的に説明できますか?

出来ないんですよ!

だから結局、脳科学が知能の働きを説明すると
似非科学になるんですよ。

科学と言いながら、実際にはオカルトですよ。
説明が付かない事は「精神」だと言い出すんですよ。

精神とは何ですか?

迷信ですよ!

実際にはそれこそ知能の働きなんですからね!


結局説明が出来そうな事は「知能」で、
説明が出来なそうな事は「精神」なんですよ。

とんでもないんですよっ!けしからんのですよっ!(`皿´#)ケシカランッ!!

しかも、それをホイホイ使ってるし。

もう人間社会は知能障害の山なんですよ。

社会は巨大な実験室ですよ。
舐めきってるんですよっ!!!ヾ(#`Д´#)ノ"ジゴクイキダゴルァーッ!!!

107 :
■悟と涅槃■

【ニヒリズムの完成】

人の指向性に一つの答えがある事に気が付いたよ。「涅槃」
完全法則による人の未来は「滅び」だ。
いやいや、それは、気にする事じゃないんだよ。
ただの真理なんだから。

この世界に本当に永遠があると思うか?

・・・どうやら、分かったようだね。

これは、別に良いんだ。
遠い未来の事など、気に病むことも無いからね。

ただ、遠い未来における人の終焉は、今既に分かっている訳だ。
完全法則を信じるならば、そこに向かっている事も信じられるだろう。

そしてそれは、未来に向かって今を生きる人の中にも当然ある訳だ。
滅びに向かう指向性さ。

それだけだよ。

勿論、その先の答えは今まで通りさ。
偶々ある今を生きる事が、全てなんだ。

リアルが全てさ。

108 :
>>107
今更なんですけどね。

最近、人の存在に答えを出そうとしているみたいですから。
久しぶりに思い出しましたよ。
そして、この結論を今更のように再認識しました。

人に完全な答えを出すのなら、
当然、滅びに向かっている姿を見つけなければおかしい。

しかし、そんな答えですから、
人の行く先に、答えを出す事も愚かしい。

その理解を超えて、今を生きる事が悟りの世界ですよ。

あるがまま。

人に答えを出そうというのであれば、
ニヒリズムの答えが、既にある事を理解してもらいたいですね。

今がある事以外に、生きる答えは無いんですよ。

109 :
■悟と涅槃■

【心理と真理】

「心理」の追及は「真理」の追究なんだよ。
所謂「心理」と「真理」は重なるのさ。

「心理」にも本当があるに決まっているのだから、
当たり前だと言うのか?

それは、間違いだよ。「涅槃」

嘘には嘘の本当があるのさ。
本当には本当の本当があるのさ。
それは、
嘘を語る本当があり、嘘を知る本当があり、嘘を信じる本当がある様に、
本当を語る本当があり、本当を知る本当があり、本当を信じる本当がある様に、
人の本当の姿だけに、本当を見つける事が出来る。
それ以外の本当を見つける事は出来ない。

だから、人が語る世界の「真理」は、人の「真理」無しでは有り得ない。
君の言った、「心理」の「真理」だ。

だから、何時も同じなんだ。

「心理」の追及は「真理」の追究で、
「真理」の追及は「心理」の追及になる。

始めから、「真理」のみを求めれば良かったのだけどね。
人は、それを知らずに生まれて来るのさ。

110 :
>>108
ここで、、どうして存在するのかも分からない、
と言うよりも、存在とは何かさえ分からない世界に、
ともかく「今」が現前しているのですから・・・不思議なものですね〜。

と、考えると、
「今」という瞬間がある事を、
貴重なものだと思えるんですが・・・。
ある意味「奇跡」の様な事です。

ましてや、実際に「自分の今」という実在に気付くことが出来て、
Ah体験が壮絶ですからね。

その辺りが、宗教で言う「神」の様なイメージを
呼ぶのだと思いますけどね。

何故か「今」を生み出しているものとしての「世界」であり。
そして、ともかく「今」生きる事が出来ている「自分の実在」です。

そして、世界と自分は繋がっていて、
「因果応報」ですよ。

111 :
そうだそうだ
ここでもブログの宣伝しなきゃ

そして・・・悟りだけが残った・・・
http://blog.livedoor.jp/hagurenihil/

よろしくお願いします<(_ _)>

112 :
■悟と涅槃■

【縁】
人には人の分かり方があるのさ。「涅槃」
そして、その姿に簡単に「縁」の違いを見つける事が出来る。

ある子供が何処かで生まれて、
偶々花瓶に活けてあった花を見つけて花の香りを覚える。
別のある子供が何処かで生まれて、
偶々草むらで遊んでいて草の匂いを覚える。

そんな2人の子供が、
ある時同じ草むらの中に咲いている花を見つけて匂いを嗅いだなら
花の香りを知っている子供は「花の香りを草の匂いの中に」、
草の匂いを知っている子供は「草の匂いの中に花の香りを」、
見つけるだろうさ。
そして、その時嗅いだ匂いは同じものなんだ。

それぞれの見つけ方の違いが、同じ匂いから起こる。
それは、別々に生きて来た人の違いだ。
それが、同じ草むらの中で同じ花を見つけた。
これも何かの縁だろう。


これは余計かも知れないが、
だからと言って、
草の匂いを臭いと思い、花の香りなど鼻にもかけずに、
すれ違って行くだけかも知れないがね。

それも何かの縁だろう。

113 :
認識は個々に有り、共有できない。
写像は、認識(世界)の中に大体同じように映る。

例えば、AさんとBさんの2人が、CさんとDさんの2人とお互いに向き合った時に、
AさんとBさんがCさんとDさんの(人体が)映る現象世界を共に見つけられる。
CさんとDさんが、AさんとBさんの人体を見つけるときにも同様です。

AとBが共にCとDの人体を含む現象世界を
認識できるから、AとBには共通のイデア的背景がある。

しかしCとDだと思われている写像は
CとDのイデアでは有り得ない。

それは、Aが見るCとDの人体が、Bの見るCとDの人体と、同時に有るからだ。
ABの2人が見ているCDの人体が疑いなくCDの写像だと分かる。

人体を取り巻く「環境」にも人体にも、それらを同じように現象世界として認識できる
共通のイデア的背景がある事がうかがい知れる。

多少の違いを作るものとして
視点や個人差と見做される詳細不明なもの(先天的、後天的な差異)
は明らかにある。

もう少し込み入った話もあるが
私も説明がメンドクサいのでこの辺でいくつかの結論。

イデアの実体は現象世界には現れていない(もちろん)。
現象世界の人体は「人(イデア)の写像」。
現象世界を映す認識こそが人の実体(リアル (限りなく)= イデア)だが
完全に同じと言えるかは疑問。

114 :2015/09/03
>>113
分かる人には分かるかも知れませんが
意識のソフトプロブレムが
解決不能の現実を持っている事を示しています。

脳は常に写像でしかない。
(イデア的な)人の知能の働きが
脳に現れる事は絶対に無い。

脳科学は真実の知能を見つける事は出来ない。

それだけです。

似非科学ですよ。

類似性だけで、いい線行けば御の字な訳です。
他には何も考えていませんよ。

それはそうです。

知能の働きを明らかにする事は
ほとんど目的には無いんですから。

しかし類似性以外のものを決して見つける事が無いのに
未だに科学的に追及していると言って憚りませんよ。

目指すところにさえ真実が無いのだから
絶対に科学的な追及では無いですがね。

☆★『幸福の科学』統合スレッドpart875★★
浄土真宗本願寺派 36拍
詐欺集団ワールドメイトのコピペ荒らし Part.2
般若心経の真言を毎日1000回唱えています 5巡目
聖書における生物の創造以外の部分(及び生物の創造を含む科学に基づかない主張)について議論するスレ3
死ぬ15分前に読む本
■   チ ン ポ と マ ン コ   ■
+++旧・新約聖書をディープに考察するスレ+++ 第3章
脳機能】苫米地英人◎特殊音源 1曲目【夢実現】
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