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☆ ローマ書を検証する ★
- 1 :2015/04/08 〜 最終レス :2017/11/07
- ローマ書を検証し、パウロ教の問題点を明らかにする。
- 2 :
- ロマ1.1 「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び
出され、召されて使徒となったパウロから、」
1.9 「わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に
仕えています。その神が証ししてくださることですが・・・」
1.11「あなたがたにぜひ会いたいのは、霊の賜物をいくらか
でも分け与えて、力になりたいからです。」
1.14「わたしは、ギリシヤ人にも未開の人にも、知恵の
ある人にもない人にも、果たすべき責任があります。」
これらからは、パウロが並々ならぬ自信と自負に満ち溢れていた
いたことが伝わってくる。しかし真実なのか妄想なのか。
どちらにしても、自分を特別な人間だと思っていたのだろう。
- 3 :
- ロマ3.10 「ただしい者はいない。一人もいない。」
テトス1.12 クレタ人の一人・・・が次のように言った。
「クレタ人はいつもうそつき、悪い獣、怠惰な大食漢だ。」
1.1以下では自称だが、パウロの自信・自負が述べられている。
ところが3.10では、パウロ自身も正しくないかのような
発言をしている。しかし、この文章は矛盾命題だから、
そのままでは成立しない。1.1以下の自信・自負からすれば、
「パウロは除くが」ということでないと意味が通じない。
だからパウロは、そう思って言ったのだろう。
テトス1.12も似たような矛盾命題が用いられている。
自分は違う、ということを強調するレトリックなのかもしれない。
パウロの正しさや、正直さが何となく印象に残る。
- 4 :
- ロマ1.5「すべての異邦人を信仰による従順へと導くために、
恵みを受けて使徒とされました。」
11.28「福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたの
ために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちの
お陰で神に愛されています。神の賜物と招きは取り消されないものなの
です。あなたがたは、かっては神に不従順でしたが、・・・」
1.5 異邦人には「信仰による従順」だってさ。
「救い」ではなく「従順」というところが気になるではないか。
11.28 パウロの目的はイスラエルの再興にある。
神の選びはイスラエル人である。これは永遠に不変だとも言う。
異邦人は選ばれない。従順でありさえすればいい。
そんなふうにも聞こえてくる。
- 5 :
- ロマ1.17 「福音には、神の義が啓示されていますが、
それは、 初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。
正しい者は 信仰によって生きる、と書いてあるとおりです。」
2.6−11「神はおのおのの行いに従ってお報いになります。
すべて悪を行うものには・・・苦しみと悩みが下り・・・
すべて善を行うものには・・・栄光と誉れと平和が・・・」
2.13 「律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを
実行する者が、義とされるのです。」
パウロは最初から、信仰義認と行為義認の両方を語っている。
いったいどっちなんだw 頭が混乱してしまうじゃないかとwww
- 6 :
- 人類の罪
1.20−21 「神の永遠の力と神性は被造物に現れており、
これを 通して神を知ることができます。従って、彼らには
弁解の余地がありません。なぜなら、神を知りながら・・・」
1.23 「滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や
獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。」
1.20−21には無理がある。自然だけでは、神を知ることは
不可能だ。回心前のパウロ自身がそうだったではないか。
1.23では、直前で自然から神を知れと言ったが、
その舌の根が乾かないうちに、今度は自然を拝むなと言っている。
自然を模した像は、木や石という自然に、人間という自然の一員が
思いをこめて刻んだのだから、自然以上の自然ではないかw
パウロは、読者を混乱させるために、正反対のことを同時に語る。
- 7 :
- パウロの信仰は回心の前後で変化している。
回心前はヤハウェ、回心後はイエス・キリストだから
それを区別しないとパウロが見えてこない。
回心前、パウロは自然を見ていたが、イエス神を知らなかったw
自然崇拝は、必然的に多神教や唯物論に堕落してしまう。
神そのものを知らないから、自然に依存する世界観しか築けない。
老いれば老いるほど、感性が鈍くなり堕落する。
- 8 :
- 2.23「あなた(ユダヤ人)は律法を誇りとしながら、
律法を破って神を侮っている。」
2.28「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく・・・」
2.29「内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり・・・」
3.1−2 「では、ユダヤ人の優れた点は何か。・・・いろいろ
指摘できます。まず、かれらは神の言葉をゆだねられたのです。」
3.7 「わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかに
されて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として
裁かれねばならないのでしょう。→(自分は罪人ではない)」
2.23〜29では、律法を実行することが大事だと説いている。
ところが3.1−7では、律法を実行しなくても、ユダヤ人は
罪人として裁かれないのだと主張している。異邦人の立場からすれば、
それはパウロの二枚舌じゃないかと批判したくなるw
- 9 :
- 3.8 「もしそうであれば、善が生じるために悪をしよう、
とも言えるのではないでしょうか。
わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいます・・・」
パウロの主張はそうとしか読めないw
3.8 「こういう者たちが罰を受けるのは当然です。」
どうして? 内面がユダヤ人である者こそユダヤではないのか。
ここでもパウロの二枚舌が炸裂している。この辺りは
前から理解できなかった箇所だが、パウロの二枚舌に原因があったw
- 10 :
- >>9
いやいや。
神ご自身だって
イザヤ書にて、
イスラエルに向かって
「聞け、ソドムとゴモラの首領たち。」
って言ってるほどだから。
- 11 :
- 聞け。ソドムの首領たち。主のことばを。 耳を傾けよ。ゴモラの民。私たちの神のみおしえに。 イザヤ1:10
て書いてある。
- 12 :
- >>8
この2つは
パウロが独自に言ってることじゃなく、
神ご自身が過去のイスラエルの歴史をつうじて
あつかってきたことじゃないですか。
- 13 :
- 神は、
ご自身が選び愛した、
そのイスラエルを
その2つのように
あつかってきたんです。
- 14 :
- ロマ3.23−24 「人は皆、罪を犯して神の栄光が受けられなく
なっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、
神の恵みにより無償で義とされるのです。」
ロマ3.25「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者の
ために罪を償う供え物となさいました。」
これがパウロ教だ。イエスが全人類の身代わりになって処刑され、
もはや人類の罪は贖われ、悔い改める必要がなくなった。
キリスト・イエスを信じさえすれば、自動的に救われるらしい。
現実は逆、貧病争は2000年間絶えることなく、
むしろキリスト教こそが、世界を不幸にしてきた元凶であった。
- 15 :
- >>10-13
まだ、あなたの考えがよくわかりません。
あなたのイメージがつかめたら会話できると思います。
あなたの考えをどんどん書き込んでください。
- 16 :
- 2.29 「内面がユダヤ人である者こそがユダヤ人・・・」
3.20「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義と
されないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」
3.31「わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。
決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。」
2.29で、内面のユダヤ人などと、律法を強調しておきながら、
3.20で、律法そのものを否定する。
3.31で、さらにひっくり返し、信仰で律法を確立すると宣言する。
罪の自覚が生じたら悔い改めればよい。悔い改めを避けるから、
話が二転三転してわけがわからなくなる。
- 17 :
- アブラハムの模範
4.3 聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。
それが、彼の義と認められた」とあります。
これは創15.6にある。主の言葉が幻の中でアブラムに臨み、子孫が
星の数のようになると言う。アブラムはそれを信じたという話である。
パウロはこれを信仰義認の証拠として採用する。
しかし、アブラムは神と会話(創17.1−21)までしており、
この話は記録者である祭司の作り話としか思えない。
神は食事をしない。→ 口がない。
神の住む世界には空気がない。 → 音が伝わらない。
それゆえ、聖書にある神の言葉は、祭司や預言者の言葉だと思っていい。
神の霊を内に感じたからこそ、神の言葉だと表現したのだろう。
当時は、そう表現するのが普通だったのかもしれない。
- 18 :
- 4.7−8 「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、幸いである。
主から罪があると見なされない人は、幸いである。」
詩篇32.1−2からの引用であるが、これらは信仰義認の根拠になる
ようなものではない。「悔い改め」を歌った詩である。
4.9−12 ではこの「幸い」は・・・割礼の前か後か・・・
パウロはここでウソをつく。信仰が義と認められる話は創15.6。
割礼の話は創17.9−14にある。ここで神とアブラハムが契約する。
神はアブラハムにカナンを永久の所有地として与える。
その代わり、アブラハムもその子孫の男子もすべて割礼をする。
無割礼の男がいたら、民の間から断たれる。
これが契約だから、割礼がなければ「幸い」は与えられないことになる。
パウロは、異邦人は旧約など読まないだろうと油断したのだろう。
- 19 :
- 4.14 律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや
無意味であり、約束は廃止されたことになります。
パウロがアブラハムを引用したので、パウロのウソは暴露されてしまい、
信仰義認は否定され、行為義認の正しさが明らかになった。
4.19 そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が
衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その
信仰が弱まりもしませんでした。
そんなことはなく、アブラハムはひそかに神を笑い(創17.17)、
そのため、神によってその子はイサク(彼は笑う)と命名されてしまう。
神の話にはサラもひそかに笑ってしまった(創18.12)。
二人とも死んでもいいような高齢だから、笑うのも当たり前だよね。
- 20 :
- ローマ書1章1節(ビザンチンTXT)
Πα?λος, δο?λος ?ησο? χριστο?,
パウロ(より)。
イエス・キリストのしもべ(ネストレの場合、キリスト・イエス)
κλητ?ς ?π?στολος,
使徒として召され
?φωρισμ?νος ε?ς ε?αγγ?λιον θεο?,
神の福音に選び分かたれた者。(より)
- 21 :
- あれ?文字化けしている。
- 22 :
- ローマ書1章1節(ビザンチンTXT)
パウロス ドゥロス クリストゥ、
「パウロ(より)。
イエス・キリストのしもべ(ネストレの場合、キリスト・イエス)」
イースゥ クリトス アポストロス、
「使徒として召され」
アフォリスメノス イス エヴァンゲリオン テウ。
「神の福音に選び分かたれた者。(より)」
- 23 :
- いや間違った。
以下に訂正文。
パウロス ドゥロス クリストゥ イースゥ
「パウロ(より)。
イエス・キリストのしもべ(ネストレの場合、キリスト・イエス)」
クリトス アポストロス
「使徒として召され」
アフォリスメノス イス エヴァンゲリオン テウ。
「神の福音に選び分かたれた者。(より)」
- 24 :
- 信じればOK。
ローマ書に書かれてあることを
信じればそれでOK.
- 25 :
- 矛盾点ついても意味ない。
- 26 :
- 信じればOKの書だから。
- 27 :
- ただ、二人の年齢はまともには信じられない。
アブラムがハランを出た時、アブラムは75歳だった。創12.4
ロトとの別れて後、アブラムはカナンに住む。創13.12
<アブラムはロトを救出する戦闘をする。>創14.14
ハガルを知ったのはカナンに住んでから10年後。創16.3
その翌年、86歳の時にイシュマエルが生まれた。
およそ100歳の時、イサクが生まれた。サラ91歳。創17.17
さて、ロト救出の戦闘に、80歳前後の老人が役に立つのか。
40歳前後なら考えられる。
ということは、年齢を2倍にしていることも考えていい。
かりにそうなら、イサク誕生前、100歳のアブラハムは50歳、
サラとは9歳の年齢差があるから、サラは41歳になる。
この年齢ならイサク誕生も考えられなくもない。
- 28 :
- 4.24 わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を
信じれば、わたしたちも義と認められます。
4.25 イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、
わたしたちが義とされるために復活させられたのです。
ここでパウロは、死んだ者が生きていた時と同じ身体と精神で復活する
ことを主張している。しかし現代医学は、脳死状態とか、
一時的な心肺停止などを除き、完全な死からの復活を認めていない。
イエスは3日3晩で復活したかもしれないが、
残念だがその後2000年、そういった人間はまったく現れていない。
そういった事実からすれば、イエスも復活しなかったのだろう。
しかし、霊で復活したということは考えられる。
- 29 :
- ロマ5.1 このように・・・わたしたちの主、イエスキリスト
によって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、
今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる
希望を誇りにしています。
親が子供を殺されたら怒るだろう。自分の息子イエスを殺されたら
神が喜ぶと思っているパウロはどうかしている。
マタ21.33−46 「ぶどう園と農夫」のたとえ参照。
5.8 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリスト
がわたしたちのために死んでくださった・・・
このテーマは、3.7−8、6.1、6.15と繰り返している。
素直に考えれば、罪や悪を赦す神は、神ではなく悪魔である。
- 30 :
- アダムとキリスト
5.1 一人の人(アダム)によって罪が世に入り、罪によって
死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。
すべての人が罪を犯したからです。
エデンの園は、目撃者もいないし、太古の歴史的事実ではない。
そうではなく、生きている者は全員死ぬ運命にあるから、その死を
祭司の視点で神話化したものがエデンの園である。
5.19 一人の人(アダム)の不従順によって多くの人が罪人と
されたように、一人(イエス・キリスト)の従順によって
多くの人が正しい者とされるのです。
この話はウソ。イエスの死後も、人間には相変わらず死がある。
死がある以上、人間は相変わらず罪人ということである。
- 31 :
- 5.21 こうして、罪が死によって支配していたように、
恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを
通して永遠の命に導くのです。
パウロは、この世の話を、死んだ後の天国の話にスリ替えている。
なぜなら「永遠の命」は死んだ後の話だから。
創世記1−3章は歴史的な事実ではない。
神の言葉も神の言葉ではなく、祭司の言葉だと思って正解である。
エデンの園は人間の生と死を教える神話だが、
あらゆる人間の無意識に共鳴している。
そういう意味で、今も生きている神話と言っていいだろう。
- 32 :
- 罪に死に、キリストに生きる
6.1 では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、
罪の中にとどまるべきだろうか。
6.2 決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、
どうして、罪の中に生きることができるでしょう。
えーーいつ死んだの? 信仰義認で救われたはずなのに?
6.4 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その
死にあずかるものとなりました。
なーんだw 洗礼によって死んだと、頭の中で空想するわけね。
6.11 このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、
キリスト・イエスに結ばれて、神に対して 生きているのだと
【考えなさい】
考えなさいって、やっぱし頭の中で空想することかw
- 33 :
- 義の奴隷
6.15 では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく
恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。
6.16 知らないのですか。・・・あなたがたは罪に仕える
奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷になって
義に至るか、どちらかなのです。
神に従順に仕える? それって律法の下に生きること?
6.19 ・・・聖なる生活を送りなさい。
6.22 あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、
聖なる生活の実を結んでいます。
あれれ、信仰義認だったはずなのに、行為義認を導入しているw
結局、信仰義認だけでは説明できなかったわけね。
- 34 :
- 結婚の比喩
7.1 それとも、兄弟たち、わたしは律法を知っている
人々に話しているのですが、律法とは、人を生きている間だけ
支配するものであることを知らないのですか。
7.2−3は次のような内容になる。
結婚した女 → 夫が生存中 → 他の男と関係 → 姦通の女
夫がRば → 律法から自由 → 姦通にはならない
7.4 あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては
死んだ者になっています。
7.6 ・・・律法から解放されています。
結婚した女の話が、キリスト教に改宗したユダヤ人に喩えられる。
しかし、何が何に対応しているのか不明。
ユダヤ人 → 律法に従う → キリストと結ばれる→ 姦通罪
になり、パウロ発言の逆になってしまうw
- 35 :
- 内在する罪の問題
7.9 わたしは、かっては律法とかかわりなく生きていました。
しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、わたしは死にました。
7.19 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。
7.21 それで、善をなそうという自分には、いつも悪が
付きまとっているという法則に気づきます。
7.24 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められた
この体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。
7.25 わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、
肉では罪の法則に仕えているのです。
人間は、命と物質が合体した、矛盾した存在だ。心が良心と欲望に
引き裂かれるのは仕方ない。人間は天の邪鬼なんだよね。
- 36 :
- 霊による命
8.1 従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、
罪に定められることはありません。
8.3 肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神は
してくださったのです。
これでは再び「信仰義認」に舞い戻っているw
8.3 つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿で
この世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。
贖罪説・・・パウロは肉体を罪と見なしていたことがわかる。
8.5 肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、
霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。
8.4 肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和です。
パウロは、人を肉と霊にわけ、再び「行為義認」を導入するw
- 37 :
- 8・9 神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり・・・
キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。
8.11 もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊・・・
人に宿る霊は、神なのかキリストなのか。わざと曖昧にしている。
キリストを「神」にする伏線なのかも。→ 9.5参照
8.14 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。
8.17 もし子供であれば、相続人でもあります。
神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。
贖罪説を信じれば、「神の子」になれ、天国の住人になれるw
パウロが生前のイエスに興味を持たないのは、イエスとは無関係に
贖罪説がひらめいたことを暗示しているのではないだろうか。
かれにとっては贖罪説の方が一大事、
イエスは、神のように祭り上げればいい脇役なのかもしれない。
- 38 :
- キリストが私たちの罪のために死なれ
葬られ三日目によみがえられたことは
福音書の中にも書かれてあることなので
パウロ独自の宗教というのは無理があるのでは?
- 39 :
- キリストの十字架は
使徒の働きにも書いてある
- 40 :
- 黙示録にも書いてある
- 41 :
- 8.21 被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、
神の子供たちの栄光に輝く自由に預かれるからです。
人間は言語活動を進化させたからこそ、神を知ることができる。
パウロは言葉の役割を知らない? → パウロは真の神を知らない?
8.26 わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、
言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。
これが成立するのは、真の神とつながった場合に限られる。
パウロ教はむしろ逆、悪霊を呼び込みそうw
8.28−30 ・・・ ご計画、前もって、あらかじめ
予定説のようであり → 運命論のようであり → 人の努力を否定?
8.33−39 だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。
人を義としてくださるのは神なのです。・・・
パウロはもはや、神の代弁者になったつもりでしゃべっている。
- 42 :
- 8.38 ・・・他のどんな被造物も、わたしたちの主
キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを
引き離すことはできないのです。
9.2−5 わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない
痛みがあります。・・・肉による同胞のためならば、キリストから
離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。
ここでも正反対の文章を並べるという、パウロの混乱技がある。
9.5 ・・・肉によればキリストも彼らから出られたのです。
キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神。
アーメン。
パウロの頭の中では、イエスが【神】になっているwww
かれは聖書を研究した学者だが、真の神を知らないのかもしれない。
- 43 :
- 9.6 ところで、神の言葉は決して効力を失ったわけでは
ありません。 9.6−18 ・・・このように、神は
御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと
思う者をかたくなにされるのです。
ここでは創世記から引用し、イスラエルの選びが変更されない
ものであるという「予定説」を主張している。
9.19 ・・・「ではなぜ、神はなおも人を責められるの
だろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか。」
9.20−29 上記への反論と、再び「予定説」を展開。
9.32 彼らはつまずきの石につまずいたのです
異邦人 → 召し出だされ、キリスト信仰によって義をえる。
イスラエル人 → 律法を追い求めるが、律法に達しない。
→ 神に選ばれているから、憐れみの器であることは変更なし。
- 44 :
- >>◆ufXYPj0GAM
あなたの言う「イエス=神ではない」という
前提も崩して論じないとダメ。
あなたの言うことも単なる宗教論にすぎない。
- 45 :
- 10.1 兄弟たち、わたしは彼ら(イスラエル)が救われる
ことを、心から願い、彼らのために心から願っています。
ここまでのパウロの歩みを簡単にまとめます。
@ 信仰か律法か
A 信仰義認宣言
B その無理に気づき、信仰義認に行為義認を混ぜる
C 今までの流れをひっくり返し「予定説」を主張する
神の選びや計画は変更されない → 信仰も律法も関係ない!
10.4 キリストは律法を終わらせました。信じる者は皆、
正しい者とされるためです。〜フランシスコ会訳より
予定説を主張したのに、さっそく信仰義認を主張しているw
どこまで続くぬかるみぞ。
- 46 :
- 10.9 口でイエスは主であると公に言い表し、心で神が
イエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは
救われるからです。 10.10 実に、人は心で信じて義と
され、口で公に言い表して救われるのです。
公を強調するのは、教会など、みんなの前で言い表せば、それが
約束になって、簡単には脱け出せないからね。
信仰は本来、神との関係なのに、集団との関係にスリ替えられる。
10.13「主の名を呼び求める者はだれでも救われる。」
10.17 実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの
言葉を聴くことによって始まるのです。
こんなことを、創世記やイザヤから引用して主張する。
しかし信仰は、中身がわからない福袋を買う行為に似ている。
- 47 :
- イスラエルの残りの者
11.1−2 では、尋ねよう。神は御自分の民を退けられた
のであろうか。決してそうではない。わたしもイスラエル人で、
アブラハムの子孫であり、ベニヤミン族の者です。神は前もって
知っておられた御自分の民を退けたりなさいませんでした。
神の選びがイスラエルにあることを、創世記などから主張する。
自分が残りの者たちの一人であるとも自負している。
異邦人の救い
10.11−16 要約
ユダヤ人は律法につまずいたが、異邦人は信仰義認で救われる。
それを知れば、ユダヤ人も目が覚めるかもしれない。
神の選びはユダヤ人なのだから、異邦人は誇ってはならない。
11.17−24 オリーブの木 〜 上記内容の喩え
- 48 :
- イスラエルの復興
11.25−26 一部のイスラエル人がかたくなになったのは
異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが
救われるということです。
11.28 福音について言えば、イスラエル人は、あなたがた
のために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、
先祖たちのお陰で神に愛されています。
11.29 神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。
11.36 すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、
神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、
アーメン。 (注、教理の部1.16〜11.36終了)
パウロは予定説で終了する。イスラエルが選ばれているなら、
異邦人はその裏返し、選ばれていないことになるね。
- 49 :
- <パウロを形作ったもの> その一
1 滅び行く同胞への痛みと悲しみ
2 律法学者ガブリエルの下で聖書研究、特に「メシア」研究
3 ダマスコでの回心 〜 復活したイエスを体験する
4 エルサレム神殿で祈祷中脱魂、「第三の天」を見る
- 50 :
- <パウロを形作ったもの> その二
旧約にはメシア預言があり、早くから多くのユダヤ人がメシアに
関する研究をやっていたはずである。パウロの時代は、
研究され尽くし、後はメシアが出現するのを待つばかりだった。
そんなときパウロの前にユダヤ教ナザレ派が現れる。
パウロから見れば、律法を破っているように思われ、かれらを
弾圧する。他方で、パウロの頭は常にメシアを探している。
ナザレ派への弾圧をしようと、パウロがダマスコに近づいたとき、
突然、光に照らされて倒れ、「イエスの声」を聞く。
光で目が見えなくなるが、三日目にアナリアから「按手」を受け、
ようやく目が見えるようになり、かれから「洗礼」も受ける。
これがサウルの回心である。
- 51 :
- <パウロを形作ったもの> その三
この体験で思い浮かぶのは、幻聴という精神疾患である。
直前までパウロは、ナザレ派を大弾圧しようと意気込んでおり、
他方でメシアが出現してほしいという強い思いもあった。
同胞を助けたいという思いと、同胞を殺そうという正反対の思いが
同時にあった。この二つの思いが衝突したような印象を受ける。
こういう現象があるのかどうかわからないが、死んだイエスの霊が
パウロに語りかけたと解せなくもない。
いずれにしろ、パウロにはショックだったろうが、
内心の葛藤が一挙に解決してしまう出来事でもあったわけだ。
メシアが見つかり、ナザレ派への弾圧も回避できるから。
- 52 :
- <パウロを形作ったもの> その四
ナザレ派アナリアの「按手」で目が見えるようになるが、
これは被害者から赦されてホッとしたからであり、このことは
パウロの体験がきわめて心理的なものであることを暗示している。
結論として、パウロの体験は何だったのだろうか?
霊と言葉を交わす以上、少なくても聖霊体験ではない。
神は話さないし、聖霊も話さない。
そういうことだから、パウロには聖霊体験がないことになる。
パウロが聞いたのは、(聖書が言うように)死んだイエスの声か、
自分の声を他人の声のように聞いたかの、どちらかだろう。
- 53 :
- <パウロを形作ったもの> その五
使22.17−18 ・・・神殿で祈っていたときに、
脱魂状態になり、主を見ました。
この体験は、釈迦や空海も体験した霊魂体験に他ならない。
それも、呪文を唱えていた空海のケースに似ている。
どういうことかと言えば、パウロは、イエス体験と霊魂体験をした
ことになる。パウロがイエスを神のように思うのは、
聖霊体験ではなく、イエス体験と霊魂体験のセットだからである。
パウロが言っている聖霊体験にはイエスが密接に関係している。
それはパウロ自身がそうだったからに他ならない。
つまり、パウロには聖霊体験がない! → おもしろい結論が出てきたw
イエス体験+霊魂体験、これがパウロ教である。
- 54 :
- あげ
- 55 :
- >>53
なんと!!
(´・ω・)ノθ゙゙ ヴイィィィィン
∧ ∧
〜′ ̄ ̄( ゚Д゚)
UU ̄ ̄ U U
- 56 :
- あげ
- 57 :
- あげ
- 58 :
- あげ
- 59 :
- あげ
- 60 :
- 誰も来ないなあ (TT)
- 61 :
- 誰か来てほしいなw
- 62 :
- https://www.youtube.com/watch?v=u_voluujwRA
- 63 :
- >>52-53 <パウロを形づくったもの> その四、その五は、
性急だったかもしれない。
残念だが、パウロが何を体験したかの資料があまりに乏し過ぎる。
パウロは自分の神秘体験を宝石のように思い、
人に話すことで、それを失うことを恐れたのかもしれない。
体験を話しても体験は失われないのに、なぜだろう?
ここに、彼のロゴス信仰やら利己主義やらが漂っているような。
- 64 :
- たとえば禁煙を心に誓っても、
それを人に話してしまうと挫折する可能性が高くなる。
誰にも話さず、心にしまい込んでおくと逆に、
その誓いを実現しようという心的エネルギーが高まって行く。
それと似たようなものがあるのかもしれない。
ロゴス信仰は言霊信仰と重なっている。
言葉 = 体験 なのである。
この信仰の背後には、自己愛や利己主義があるのかもしれない。
秘すれば花・・・
肝心なことを話さなければ、人は何だろうかと興味を抱き続ける。
話してしまえば、それでわかったような気にさせてしまう。
体験は体験しないとわからないのに。
- 65 :
- 良スレあげ
- 66 :
- ☆
- 67 :
- パウロを批判的に検証すれば、大きな成果がありそうな予感がする。
しかし、なかなか難しいテーマではある。
- 68 :
- キリスト教はパウロの妄想だったのだろう。
感応精神病の一種でもある。
- 69 :
- 使徒言行録19:24
パウロがこう弁明していると、フェストゥスは大声で言った。「パウロ、
お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ。」
- 70 :
- キリスト教の成立過程を確認しよう
@ まずユダヤ教の聖書、タナハ(旧約)が存在する
A AD30年、イエスの死
B AD50〜65年、パウロの登場と布教 〜 パウロの手紙
C 福音書の成立
マルコ(65年)、ルカ(80〜85年)、マタイ(85〜90年
ヨハネ(90〜100年)
D その他
使徒言行録(85年)、黙示録(1C末)
- 71 :
- これを見れば、パウロは福音書、使徒言行録、黙示録が成立する前の
人間だったことがわかる。ということは、
パウロが主張する「贖罪説」は、パウロの作り話だということになる。
彼以前に、贖罪説を語った人間は一人もいないからである。
パウロの手紙がパウロのすべてであり、
福音書も使徒言行録も黙示録も無視してかまわないだろう。
そうすれば、後に残るものは「贖罪説」だけになる。
そしてこれがキリスト教の本質なのである。
- 72 :
- イエスの十字架で、人類の原罪が贖えたのか否か。
これがキリスト教の真偽を決める。
もちろん偽である。彼の死の前後で人間の生活は、
なーんにも変化しなかったのだから。
むしろ悪くなったw
- 73 :
- パウロの贖罪説は、イザヤ書52章から54章あたりを中心に
イメージされたのだろう。イザヤ書にオリジナルがある。
キリスト教ではそれを預言だったと言い訳する。
しかし、神が全知全能であることを考えれば、贖罪説が矛盾している
ことはすぐにわかるはずだ。神は自分の代理人を置かなくても、
自分ひとりで人類の苦悩や不幸を除去できるからである。
イエス・キリストをまったく必要としない。
- 74 :
- そんなパウロの作り話が、なぜヨーロッパを席巻できたのか。
その理由は、ローマ帝国でキリスト教が国教化されたことにある。
313年、キリスト教信仰を公認するミラノ勅令
325年、ニケーア公会議(アタナシウス派が正統、アリウス派追放)
これ以降、キリスト教以外の信仰が迫害され弾圧された。
ヨーロッパ人はキリスト教以外の信仰が許されなかったのである。
その悪影響は時代を超え、現代に到るまで連綿と継続している。
- 75 :
- 周囲の人間がすべてキリスト教に影響されているなら、
そこで生まれ育った人間は自然に、キリスト教に親しむことになる。
強制にしろ、いったんキリスト教社会ができあがれば、
前の世代から後の世代へ、親から子へとキリスト教は受け継がれる。
仏教など、ほかの宗教が入り込む余地はほとんどない。
キリスト教が問題なのは、
その聖典である聖書自体が、嘘と真理の混ぜ物だという点にある。
自分の都合がいいように拾い読みし、様々に解釈できるのだ。
そこで矛盾した内容もあるが、学ぶべき真理も数多くあり、
聖書を捨てるわけにはいかないと考える。
しかし、聖書を捨てるわけにはいかないと思った時点で、
その人はキリスト教から離れられなくなる。
聖書はなまぬるい本なのだ!
- 76 :
- 聖書はウソと真理の混ぜ物である
あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかで
あってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを
口から吐き出そうとしている。黙3:15-16
- 77 :
- なまぬるい ・・・ 妥協。正反対の物を、足して2で割ることをいう。
中道 ・・・ 霊主体従。霊と身体との間に、主従という緊張関係がある。
- 78 :
- ★ 洗礼の、真の意味とは何か ★
洗礼という言葉は、旧約になく、新約になってから登場する。
では、キリスト教の専売特許なのかと言えばそうでもない。
当時から、エッセネ派、西方ミトラ教、マンダ教などの洗礼教団が
中東地域に存在し、洗礼の儀式を行っていたという。
何も中東地域に限らない。インドでは紀元前のはるか昔から、
ガンジス河などで沐浴が行われていた。古事記にも、
イザナギが死のケガレを洗い流すために川で禊をしたとある。
こういった古くからの習慣や伝統を背景に、
洗礼は、キリスト教の秘蹟として採用されるに至ったのであろう。
- 79 :
- さて、この洗礼の意味を、新約に探そうとするとやっかいである。
イエス自身が、洗礼のヨハネから洗礼を受けているからだ。
洗礼のヨハネは、罪の赦しを得させるために、悔い改めの洗礼を
宣べ伝えている(ルカ3:3)。そのヨハネからイエスが洗礼を受けた
ということは、イエスは罪人であり罪があったということになり、
イエスは神の子というキリスト教の大前提が崩壊してしまう。
そのためか、洗礼に関する聖書の記述は混乱してわかりにくい。
そこで聖書を離れ、私的な体験からアプローチしよう。
- 80 :
- シンプルに考えよう。
わたしたちは、身体が汚れたり疲れたりすれば風呂に入る。
風呂がなければ川で水浴びをする。寒ければ暖かい風呂に入り、
暑ければ水風呂に入ることもあるだろう。
これが身体だけでなく、心や精神の問題にも役に立つ。
心や精神が疲れたり、重く沈んだり、汚れたと感じる時に風呂に入り、
川で水浴びをしたりすれば、しばしの安らぎを得ることができる。
そうなることを実際に体験して知っている。
そのため、心や精神の問題で深く悩むと、自然に、無意識に、
風呂に浸かり、川で水浴びをする。
そうすることによって、心や精神が軽くなり、癒されるからである。
これが洗礼と名づけられる以前からある、洗礼の効果である。
- 81 :
- ということは、キリスト教のように、洗礼を儀式化する必要はない
ことになる。人間は心や精神の問題で追い詰められると、
無意識に風呂や川を求め、それに浸かろうとする。そしてこの方が
自然であり、必然性があるがゆえに、キリスト教の洗礼にまさる、
真の洗礼とも言うべきものではないだろうか。
- 82 :
- わたしは30歳のころ、聖霊体験をしている。その体験の前になるが、
無意識に、毎日のように水風呂に浸かっていた。水風呂だったのは、
カネがなく、猛暑なのに電気代節約でクーラーを使わなかったからでは
あるが。。。でもそれによって、ほんのわずかな安らぎを得ることが
できた。いまではこれが、わたしの洗礼体験だったと思っている。
その体験から言えば、洗礼とは、罪や穢れの意識が熟し始めた時、
その意識が苦しくて、それを洗い流そうとする身体的な行為だと定義
できるかもしれない。罪や穢れの意識は精神的な問題だから、
身体的に解決することはできないはずである。だからそれは、精神的な
問題の身体化であって、精神病の一種に分類されるかもしれない。
それにも関わらず、多くの人間が風呂や川で罪や穢れを洗い流そう
とし、ほんのわずかだが実際に精神的な効果も得られる。
こんなところが、洗礼の効果と限界になるだろう。
- 83 :
- 現代では、精神と身体の相互依存関係は一般に認められている。
それゆえ、洗礼が精神病の一種として分類される、というのは、少し
言い過ぎだったかもしれない。しかし、日常生活に支障が出るように
なれば病的だと言わざるを得ないだろう。
たとえば、何回も繰り返し手を洗う強迫神経症のようなものである。
- 84 :
- ★ 洗礼体験と聖霊体験の違い ★
洗礼体験は、無意識にせよ、罪の意識が身体化することを言う。
罪の意識とは、自分の心や精神が汚れている、自分は罪深い存在だ
というぼんやりした思いである。それは、心が沈む、心が重い、
何となくゆううつだ、などという気分から始まり、それが深まれば、
自分の罪深さに圧倒され、生きる勇気さえ失ってしまう。
これに対して聖霊体験は、神との出会いであり、「罪の赦し」であり、
生命エネルギーの復活である。洗礼体験と聖霊体験とは真逆であり、
体験の順序も必ず、洗礼体験から聖霊体験へと展開して行く。
- 85 :
- 洗礼体験 → 罪の意識 → 聖霊体験 → 罪の赦し
これが、罪の意識から、罪の赦しまでの一連の流れになる。
イエスも例外ではない。
キリスト教が主張しているように、イエスが無原罪なら、
洗礼体験も聖霊体験も必要なくなってしまう。
しかし福音書には、イエスの洗礼体験と聖霊体験の記述がある。
そういう記述がある以上、イエスは人間だったことになる。
福音書自体が、イエスが人間だったことを証明しているわけである。
- 86 :
- キリスト教は三位一体を説くから、
全能なる神と、イエスと、聖霊とはまったく同じ尊格である。
そうでなければ三神教になってしまう。
ということは、全能なる神も洗礼を受けることで罪を意識、
罪を悔い改めて聖霊を受けなければならない。
そんな神は全能でもなく何でもない。
それに、聖霊こそが全能なる神の上に位置することになる。
キリスト教は、人間を神にするから論理が破綻してしまう。
こんなデタラメ宗教を強制された西欧人はほんとうに気の毒である。
- 87 :
- ★ パウロの贖罪説は作り話だ ★
パウロは贖罪説を主張するが、イエスの十字架によって、人類の原罪が
赦されたという証拠を何ひとつ示していない。それどころか、十字架の
前後で世の中は何ひとつ変わっていないではないか。
キリスト教によれば、エデンの園で暮していたアダムとエバが、
神が禁じる善悪の実を取って食べたことで原罪が生じる。〜創世記3章
食べなければ永遠に生きられたのに、それを食べた罪によって人類は
やがて死ぬべき運命に定めらる。これが原罪神話である。
パウロはこれに対して、十字架の三日後に、イエスが復活したこと
をもって、神による罪の赦しがあったのだと力説する。イエスは神から
赦された初穂なのであり、他の人間もイエスに続けというわけである。
キリスト教は、この話を信じれば救われると主張している。
- 88 :
- この主張は、詭弁家パウロの詭弁である。
この物質世界を生きているからこそ死が問題になるのに、
死後の世界には死が存在しない、という問題のすり替えをしている。
あの世が実際にあるのかどうか。
あの世に、霊として復活するのか、身体を持って復活するのか。
(福音書においては、この世の身体を持って復活する)
あの世に復活することが、この世の救いになるのか否か、などなど。
こういった議論をすべて省略している。
そもそもパウロは、あの世のことを知っていたのだろうか。
生前のイエスに会ったこともないパウロが、
イエスの声を聞いたと言って回心する件が使徒言行録にあるが、
なぜその声がイエスの声だとわかったのだろうか。
- 89 :
- 死者の復活は、古くから世界各地で語られている。
従って、イエスの霊は、死者の霊から復活した初穂ではないことになる。
かりにそうであるならば、キリスト教は成立しない。
@ パウロの所属したファリサイ派自体が、イエスの復活以前から、
復活も天使も霊も認めている。使徒23:6−8
A 旧約には、口寄せを行ったり、それを禁止する記事がある。
B 新約の中にも、霊界や死者の霊の存在を暗示する話が登場する。
C 古代エジプトでは、霊魂は不滅とされ、死者は復活するとされた。
D プラトンは、霊魂不滅説を前提に、イデア(永遠の真理)を説いた。
E ヴェーダ聖典では、肉体は滅びるが、霊魂は不滅だとされる。
F 古事記には、イザナギの霊界訪問や、神功皇后による口寄せがある。
G 現代であれば、シルバーバーチ霊の霊界通信が有名である。
- 90 :
- モーセやエリヤのように、イエスが復活する以前に復活した人がいたら、
キリスト教は完全に崩壊するだろう・・・
また、イエスと無関係に聖霊体験をし、罪の赦しを得た人が一人でも
いたら、キリスト教は完全に崩壊するだろう・・・
また、教会で洗礼を受けたのに、聖霊による罪の赦しを得られない人が
一人でもいたら、キリスト教は完全に崩壊するだろう・・・
なーんてことには絶対にならないだろう・・・
もともと聖書は、真実と作り話と混乱と矛盾をまぶしてあるから、
いくらでも言い逃れができてしまう。(^−^)w
- 91 :
- 以上を要約すれば下記のようになるだろう。
古くからの伝承・・・人間は死後、全員が霊界に復活する
イエスの十字架・・・十字架の前後で何ひとつ変わっていない
パウロの作り話・・・イエスの贖罪で、人間は天国に復活できる
キリスト教成立・・・パウロの教えが信者の免罪符になる
地理上の発見前・・・白人同士、キリスト教徒同士の殺し合い
****発見後・・・有色人種を奴隷化、大虐殺、ホロコースト
結論・・・ペテン師かキチガイ
- 92 :
- ★ クリスチャン ★
洗礼を受けると、クリスチャンを自称できる (^−^)
某サイトによれば、そのメリット・デメリットは・・・
@ クリスチャンネームがもらえる 〜 カトと聖公会ぐらい
A 月々の献金義務が生じる 〜 多い所だと年収の1割
B 教会の奉仕活動(掃除など)が生じる
C 転居の時は、転入・転出の手続きが必要である
非クリから見れば、デメリットばかり・・・
それでも洗礼を受けるのは、すっかり洗脳されてしまったから。
キリスト教徒は、疑似餌で釣られる魚みたいかも。TT
- 93 :
- 一ペト3:21 〜 (ノアの洪水から洗礼の意味を語る)
この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活に
よってあなたがたをも救うのです。洗礼は肉の汚れを取り除くことでは
なくて、神に正しい良心を願い求めることです。
☆ こういった文章にいちいち反論することはやっかいである。
なぜならウソと真実との混ぜ物だからである。
要するに彼らは、洗礼と聖霊の違いを全く理解できていない。
@ ノアの洪水が洗礼の予表であるという考えは間違っている。
A それは精神の汚れを取り除こうとする代償行為である。
B 復活や良心は洗礼ではなく、聖霊体験によって得られる。
- 94 :
- 使徒10:47−48 〜(異邦人が異言を話し、神を賛美している)
そこでペトロは、「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、
水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」と
言った。そして、イエス・キリストの名によって洗礼を受ける
ようにと、その人たちに命じた。
☆ これも話が混乱し、矛盾している。
@ 洗礼→聖霊が順序なのに、聖霊→洗礼に話が転倒している。
A すでに聖霊を受けた人に、洗礼もイエス・キリストも不用なのに。
B ペトロには聖霊体験がなく、聖霊について何もわかっていない。
C 使徒言行録を書いたルカもわかっていないことになる。
- 95 :
- コロサイ2:12−13 〜 (これはパウロの話)
・・・洗礼によって、キリストと共に葬られ、キリストを死者の中から
復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。
肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、
神はキリストと共に生かしてくださったのです。
神は、わたしたちの一切の罪を赦し・・・
↑
☆ パウロも洗礼と聖霊を混同している。
パウロと行動を共にしていたルカに聖霊体験がなかったように、
パウロにも聖霊体験がなかったことがわかる。
☆ 詭弁家パウロの罪は、イエスの復活は死後の話なのに、
信者に対しては、洗礼を受けさせすれば、復活が生前に生じるかの
ように誤解させるところにある。生前に洗礼を受けても、
この世の人間はやがて全員が死ぬ運命にある。
- 96 :
- ローマ書6:4 〜(キリスト教の復活はあの世の話)
わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる
者になりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から
復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
ローマ書6:5 〜(信者は神の子キリストになる?)
もし、わたしたちがキリストと一体となってその死の姿にあやかる
ならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。
☆ イエスは神の子であって、神とイエスと聖霊が三位一体ならば、
イエスを信じてイエスと一体になる信者は? 神とも一体になる。
つまり人間も神になることができる。
☆ パウロはこんな話をしていることになる。はっきり言っておくが、
パウロは神を冒涜するペテン師でありキチガイだ。(^−^)w
- 97 :
- ★ 予定説のウソ ★
ローマ書5:12ー13 〜(創造の時代、神は全知全能ではなかった)
このようなわけで、一人の人(アダム)によって罪が世に入り、罪によって
死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を
犯したからです。
律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなけれ
ば、罪は罪と認められないわけです。
---------------------------------
ここでは道徳的な罪と法律的な罪の違いが問題になるが、神はアダムの道徳的
な罪に対して死罪を宣告する。律法がなければ罪にならない、という
パウロの意味不明な主張を無視した、厳しい判決を下している。
- 98 :
- ローマ書11:28−29 〜(パウロは神が全知全能だと主張する)
福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対して
いますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。
神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。
----------------------------------------------
神が全知全能なら、アダムによる原罪自体が発生しない。
アダムに約束を破られた以上、神が全知全能でないことは明らかである。
それなのに、神の全知全能を前提に、イスラエル人への賜物と招きは、
取り消されないと言っても無理がある。
- 99 :
- 神は全能である → 予定説にならざるを得ない
神は全能ではない → 予定説が成立しない
旧約の傑作、ヨブ記はどうなのか。
神はサタンに、神に対するヨブの信仰を試す許可を与える。
そこでサタンはヨブの運命に介入した。
ーーー このあたりはエデンの園を思わせる。
さて三人の友人は、因果応報を理由に悔い改めをヨブにすすめる。
納得できないヨブは、自分と友人との争いを神に訴えた。
ーーー 途中経過は省略するが、最終的に次のような結論になる。
神は、自分の罪に気づき、それを悔い改めたヨブを祝福し、
因果応報でヨブを責めた三人の友人に対して怒る。42:7
ーーー したがって、ヨブ記は予定説を認めていない。
ヨブの自由意志を認め、予定説を認めないのであれば、神は全能では
ないことになる。エデンの園と同じ立場である。
- 100 :
- ヨブ記42:2には、「あなたは全能であり、
御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。」ともある。
しかし直後の42:3では、「これは何者か。知識もないのに
神の経綸を隠そうとするとは。」と続いている。
これをどう読むかだが、ヨブの、神は全能者という発言を、
神自身が否定している言い方である。
ヨブ記の作者は、神の正体を知っていたのかもしれない。
サタンという霊的存在を認め、
サタンとレビヤタンを同一視していることも注目したい。
聖霊体験と竜神体験をしているような気がする。
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